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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その十一) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「崋山(「序」の「深省(尾形乾山)」周辺

 その『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「序」(下記)に出てくる、「元禄のころ一蝶許六などあれども風韻は深省などまさり候」の、この「深省」は、「琳派」の大成者「尾形光琳」の実弟「尾形乾山」その人ということになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-07-26

≪ 俳諧絵は唯趣を第一義とといたし候。元禄のころ一蝶許六などあれども風韻は深省などまさり候。此風流の趣は古き所には無く、滝本坊、光悦など昉(はじま)りなるべし。はいかゐには立圃見事に候。近頃蕪村一流を昉(はじ)めおもしろく覚候。かれこれを思ひ合描くべし。すべておもしろかく気あしく、なるたけあしく描くべし,これを人にたとへ候に世事かしこくぬけめなく立板舞物のいひざまよきはあしく、世の事うとく訥弁に素朴なるが風流に見へ候通、この按排を御呑込あるべし。散人 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

 この「深省(尾形乾山)」に関しては、下記のアドレスで触れてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-07-04

(再掲)
乾山花鳥図屏風㈠.jpg

尾形乾山筆「四季花鳥図屏風」六曲一双  右隻 五島美術館(大東急記念文庫)蔵

乾山花鳥図屏風二.jpg

尾形乾山筆「四季花鳥図屏風」六曲一双 左隻 五島美術館(大東急記念文庫)蔵
(各隻とも、一四三・九×三二六・二㎝)


https://core.ac.uk/download/pdf/146899461.pdf


(メモ)

一 上記のアドレスは、「美術研究」(1957-03-13)所収「図版要項 尾形乾山筆四季花鳥図屏風(神奈川 川端康成氏蔵)」(山根有三稿)のものである。当時(1957=昭和32)は、ノーベル文学賞作家となる川端康成氏蔵のものであった。現在は、五島美術館(大東急記念文庫)蔵となっているが、昭和三十四年(一九五九)、五島美術館の前身の「大東急記念文庫」の創設者、五島慶太氏が亡くなる三カ月前に、川端康成氏より購入したとされている、尾形乾山作(絵画・陶器・書など)の中でも、その最右翼を飾る乾山の遺作にして大作の一作である。

二 上記に因ると、その「左隻」の第六扇(面)に「泉州逸民紫翠深省八十一写」の落款が施されており、そして、両隻共に「傳陸」の朱文円印と「霊海」の朱文方印が押印されているとのことである。

三 この「泉州逸民紫翠深省八十一写」の「泉州」とは、中国の「泉州」に因んでの、「京都・奈良・大阪」の「畿内」(山城・大和・摂津・河内・和泉)の「西国」を意味するものであろう。「逸民」は、その「西国(畿内)」からの「逸民・逸士」で、乾山終生の、乾山の全生涯を象徴するような二字である。「紫翠」は、その「西国(畿内)」の「京都」の、そして、そこで、勉学・修練・作家活動(その六十九年の前半生)をし続けた、そのエポックとなる「御室・鳴滝」の、その「紫翠」(山紫水明)な「紫翠」であり、その「深省」とは、その家兄たる「光琳」(光り輝く一代の「法橋」たる芸術家「日向の光琳」)に対する「深省(その「光琳」の背後の「光背」のような「日陰の深省」)という、その意識の表れの号であろう。そして、「八十一写」とは、亡くなる寛保三年(一七四三)六月二日以前の作ということなる。

四 さて両隻に押印されている「傳陸」については、上記(山根有三稿)の末尾に、「因みに印の『傳陸』は自筆書状に用いた署名の『扶陸』に通ずるものである」との記載があり、この「扶陸」とは、乾山の号の一つで、例えば、「扶陸泉州(日本国近畿(京都)」の「日本国」というような意味合いのものであろう。その上で、その「扶陸」に対する「傳陸」は、「中国大陸」、主として、その中国(明)の渡来僧・隠元の「禅宗」(黄檗宗)に関わり合いのあるものと解して置きたい。そして、もう一つの印章の「霊海」は、乾山の独照禅師(独照性円)から授かった禅号なのである。

五 乾山年譜(『東洋美術選書 乾山(佐藤雅彦著)』所収)の「元禄三(一六九〇)、二十八歳」の項に、「九月直指庵の独照性円と月潭道澄を習静堂に招き、詩偈を与えられる。独照より霊海の号を贈らる」とあり、爾来、乾山は、この「霊海」の禅号を終生用いて、亡くなるその没年の最期の、この大作にも、その禅号「霊海」の印章を用いているということになる。

六 ここで、あらためて、冒頭の「右隻」の第一扇(面)から第四扇(面)に描かれた「春柳」は、「京兆紫翠深省七十七歳写」の落款のある、次のものの延長線上にあるものなのであろう。

春柳図.jpg

乾山筆「春柳図」(大和文華館蔵) 紙本墨画 二四・三×四五・三㎝

http://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/yamato/shuppan/binotayori/pdf/112/1995_112_3.pdf

ここに書かれている歌賛は、「露けさもありぬ 柳の朝ねがみ 人にもがなや 春のおもかげ」というもので、上記のアドレスの解説文によると、乾山の愛唱歌集の三条西実隆の『雪玉集』の「朝柳」の一首というのである。
 そして、これらのことから、冒頭の右隻の柳の「優美な枝葉とのびあがった太い幹」は、『源氏物語』(「宇治十帖」第七帖「浮舟」)の、「なよなよとしてしなだれかかる『浮舟の君』と、両手をひろげて抱きかかえようとする『匂宮』を思わせる」との鑑賞(小林太市郎)を紹介している。

七 それに続けて、この左隻の「蛇籠と秋の草花」は、下記のアドレスなどで紹介した乾山の「花籠図」を念頭に置いたものとする鑑賞(小林太市郎)を紹介している。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-13

 そして、それは、その「花籠図」の歌賛の、「花といへば千種ながらにあだならぬ色香にうつる野辺の露かな」(三条西実隆)から、『源氏物語』(第十帖「賢木(さかき)第二段(野の宮訪問と暁の別れ)」が、その背景にあるとする鑑賞(小林太市郎)なのである。そして、その鑑賞視点は、『源氏物語』(第十帖第二段第二節)の次のような光景のものなのであろう。
【 遥けき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり。秋の花、みな衰へつつ、 浅茅が原も枯れ枯れなる虫の音に、 松風、すごく吹きあはせて、そのこととも聞き分かれぬ ほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと 艶(えん)なり。】

乾山絵二.jpg


尾形乾山筆「花籠図」一幅 四九・二×一一二・五cm 重要文化財 福岡市美術館蔵(旧松永美術館蔵)

八 この乾山の「花籠図」について、上記のアドレスで、次のような鑑賞(山根有三)を紹介した。

【「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」と記すところから、「『源氏物語』の「野分」の段より取材したと考え、三つの花籠は王朝女性の濃艶な姿を象徴すると見る説がある。それはともかく、この籠や草花の描写には艶冶なうちにも野趣があり、ひそやかになにごとかを語りかけてくるのは確かである。「京兆逸民」という落款からみても、乾山が江戸へ下った六十九歳以後の作品となる。】
(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説114」) 

 上記の文中の(『源氏物語』の「野分」の段より取材した)の「野分」は、『源氏物語』第五十四帖の「野分」と混同されやすいので、これは、「賢木」(第十帖)の「野宮」(第二段)とすべきなのであろう。

九 さて、冒頭の「四季花鳥図屏風」左隻の、第四・五扇(面)に描かれている「楓」は、下記のアドレスで紹介した、「楓図」が、これまた念頭にあるものと解したい。


https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-08

乾山楓一.jpg

尾形乾山筆「楓図」一幅 紙本着色 一〇九・八×四〇・四cm
「京兆七十八翁 紫翠深省写・『霊海』朱文方印」 MIHO MUSEUM蔵
「幾樹瓢零秋雨/裡千般爛熳夕/陽中」

【同じ紅葉でもこちらは、縦長の画面に大きく枝とともに色づいた楓が描かれています。秋雨に濡れて葉は赤みが増し、さらに夕陽に照り映えていっそう赤々と風情は弥増しに増す。そんな詩意を受けてこの絵は描かれたのでしょう。幹にはたらし込みの技法も見られ、これぞ琳派といった絵になっています。ただし、画面上方の着賛は漢詩で、ここには乾山の文人的な部分が色濃く出ています。今にも枝につかんばかりの勢いで所狭しと記された筆づかいは、雄渾で迷いがなく、どこまでも「書の人」であった兼山らしさが滲み出ています。落款から乾山晩年、七十八歳の作と知れます。 】『乾山 琳派からモダンまで(求龍堂刊)』

十 しかし、冒頭に掲げたアドレスの「美術研究」(1957-03-13)所収「図版要項 尾形乾山筆四季花鳥図屏風(神奈川 川端康成氏蔵)」(山根有三稿)では、この「楓図」は、『源氏物語』(第五十四帖「総角(あげまき)」)の「大君と中君の姉妹を詠んだ薫中納言の次の歌が背景にある」(「小林太市郎」解)を紹介しているのである。

 秋のけしきもしらづがほに あおき枝の
 かたえはいとこく紅葉したるを
  おなじえをわきてそめける山ひめに
      いづれかふかき色ととはゞや

十一 これらの、「美術研究」(1957-03-13)所収「図版要項 尾形乾山筆四季花鳥図屏風(神奈川 川端康成氏蔵)」(山根有三稿)で紹介されている「小林太市郎」の『源氏物語』が背景にあるという鑑賞は、すべからく、「乾山の象徴論―花籠図」「乾山の象徴論―楓柳芦屏風」(『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』)などに収載されている。

十二 ここで、冒頭の「四季花鳥図屏風」(乾山筆)について、「乾山の象徴論―楓柳芦屏風」(『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』)の要点を原文のままに引用して置きたい。

㈠ 宇治の姫君たちの哀愁、夏秋の木のほとりの木草の姿を描いたもので、右方にやさしく臥しなびく柳のなよなよとしてしなだれかかる弱さは、さながら浮舟の君をおもわせる。その下に両手をひろげてそれを抱きかかえるようとする太い幹は、すなわち匂宮でなくてなんであろうか。(p180-190) ≫

 ここで、次の「泉州逸民紫翠深省八十一写」の「逸民」ということに注目したい。

≪三 この「泉州逸民紫翠深省八十一写」の「泉州」とは、中国の「泉州」に因んでの、「京都・奈良・大阪」の「畿内」(山城・大和・摂津・河内・和泉)の「西国」を意味するものであろう。「逸民」は、その「西国(畿内)」からの「逸民・逸士」で、乾山終生の、乾山の全生涯を象徴するような二字である。「紫翠」は、その「西国(畿内)」の「京都」の、そして、そこで、勉学・修練・作家活動(その六十九年の前半生)をし続けた、そのエポックとなる「御室・鳴滝」の、その「紫翠」(山紫水明)な「紫翠」であり、その「深省」とは、その家兄たる「光琳」(光り輝く一代の「法橋」たる芸術家「日向の光琳」)に対する「深省(その「光琳」の背後の「光背」のような「日陰の深省」)という、その意識の表れの号であろう。そして、「八十一写」とは、亡くなる寛保三年(一七四三)六月二日以前の作ということなる。≫

ここで、この『崋山画譜』に登場する人物群像を、凡そ、時代史的に整理すると、次のとおりとなる。

(桃山時代~徳川時代前期)

「光悦」=「本阿弥 光悦(永禄元年(1558年)~ 寛永14年2月3日(1637年2月27日))」→ 京都上層町衆・寛永三筆の一人・琳派の創始者。
「滝本坊」=「松花堂昭乗(天正10年(1582年)~ 寛永16年9月18日(1639年10月14日))→京都僧侶・寛永三筆の一人。

(徳川時代前期~中期)

「立圃」=「雛屋立圃(文禄4年〈1595年〉~ 寛文9年9月30日〈1669年10月24日〉)→ 京都俳人(貞門系俳人、非談林誹諧)・画家(「俳画」の祖?=「崋山俳画譜」)。
「一蝶」=「英 一蝶(承応元年(1652年)~ 享保9年1月13日(1724年2月7日)→江戸町人・芸人、蕉門俳人(其角の知己=其角系俳人)・画家。
「許六」=「森川 許六(明暦2(1656)~正徳5年(1715))→ 武家(彦根藩)・蕉門俳人(芭蕉十哲の一人)・画家。
「深省」=「尾形 乾山( 寛文3年(1663年)~ 寛保3年6月2日(1743年7月22日)→京都・江戸・佐野の陶芸家(尾形光琳=琳派の大成者の実弟) → 号の一つに「京兆逸民」→「逸民(艶《やさ》隠者)の系譜者」の自称者?

(徳川時代中期)

「蕪村」=「与謝 蕪村(享保元年(1716年)~天明3年12月25日(1784年1月17日))→ 江戸時代中期の俳人(「蕉門中興俳諧指導者の一人)、文人画(南画)家の大成者の一人。
「俳画」(「俳諧ものの草画」の第一人者=自称)。同時代の文献に、「逸民」との評がある。→「逸民((艶《やさ》隠者)の系譜者」の「画(文人画)・俳(俳諧中興指導者)」二道の大成者?

「蕪村は父祖の家産を破敗(ははい)し、身を洒々落洛(しゃしゃらくらく)の域に置きて、神仏聖賢の教えに遠ざかり、名を沽(う)りて俗を引く逸民なり」(『嗚呼俟草(おこたりぐさ)・田宮仲宣著』)

(徳川時代後期)

「崋山」→≪ 1793.9.16~1841.10.11
 江戸後期の三河国田原藩家老・南画家・蘭学者。名は定静(さだやす)。字は子安。通称登(のぼる)。崋山は号。田原藩士渡辺定通の子。江戸生れ。家計を助けるため画を学び,谷文晁(ぶんちょう)にみいだされて入門。沈南蘋(しんなんぴん)の影響をうけた花鳥画を描いたが,30歳頃から西洋画に心酔,西洋画の陰影表現と描線を主とした伝統的な表現を調和させ,独自の肖像画の様式を確立。「鷹見泉石像」(国宝)「市河米庵像」(重文)などを描き,洋画への傾倒や藩の海岸掛に任じられたことから蘭学研究に入り,小関三英(こせきさんえい)・高野長英(ちょうえい)らと交流しながら海外事情など新知識を摂取。これが幕府儒官林述斎(じゅつさい)とその一門の反感をかい,捕らえられて在所蟄居を命じられ(蛮社の獄),2年後自刃。≫(「出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」)→「俳画」というジャンルの命名者。

 「渡辺崋山」その人は、いささかも、「逸民」という言葉を弄していないが、「蛮社の獄」の「田原藩(故郷)蟄居」の、その晩年の最期にあたっても、「退役願書」の「至仕(ちし))」=「逸民」(隠遁者=)は許されず、自刃することとなる。


 ここで、改めて、「崋山俳画譜」の「俳画譜」の道筋というのは、その基本的なルートというのは、「立圃→深省(乾山)→蕪村→崋山」という流れということになる。
そして、この「深省(乾山)」の「俳諧」(発句=俳句・連句)というのは目にしないが、その「逸民」的な「文人画」(「大雅・蕪村」=大成者)の先駆者として、その画賛ものに、崋山は注目したというように解したい。


(参考その一) 漱石の「吾輩は猫である」(第二話・第三話)の「太平の逸民」周辺

file:///C:/Users/user/Downloads/CV_20230813_The_Basis_11_11.pdf

夏目漱石『吾輩は猫である』における「逸民」表象(斉 金英稿)

(抜粋)

≪1. はじめに
 夏目漱石『吾輩は猫である』(1905 年 1 月­1906 年 8 月『ホトトギス』に連載)が読者に提示しているのは、非凡な猫である「吾輩」が面白おかしく語り描く「太平の逸民」の世界である。この作品は日露戦争の真っ最中、激戦で多くの将兵が命を落としているという情報に接していた読者に提供され、ひと時の「太平」な時空に読者を誘い、愛読され、長期連載された。作品の凡そ半分が日露戦争中に発表された。まさに血腥い殺戮の隣で都々逸を踊る効果を持つ小説である。では、殺伐とした戦争と昂揚する戦時ナショナリズムとかけ離れた、吞気で滑稽な、「太平の逸民」の会合は、なぜそこまで読者を引きつけたのであろうか。この問題を追究するために、この作品の「逸民」について検証することが重要である。
(以下略)

2. 「逸民」とは
 中国の隠遁者の最初の列伝は『後漢書』に収められた「逸民列伝」5)である。この「逸民列伝」によると、「逸民」とは「我が道を守りとおすためには宮仕えを拒否する人物」や、
「官界、政治社会から逸脱した人々」であり、「自分の主義主張を貫くために」、「主君に仕えない」で、「政治社会から逸脱」していく知識人である。中国古来の隠遁思想の背景に政
治的抑圧や政局の不安定及び戦乱があり、生命の危険を感じ、あるいは自己の倫理的な節操
を守り抜くために本来仕官できる知識階級が仕官から身を退き、山野や田園で質素または貧乏な生活に甘んじることを志す。また、「仕官を望みながら、自分の主義主張をとおすために仕官から遠ざかる」「逸民」は、「はじめから仕官を拒否する『隠者』」7)と区別される場合もある。
つまり、「逸民」とは、明君のもとでの仕官なら望むが、政治的な暗黒時代では、節操、保身や消極的な政治的抵抗のために、政治社会の中心から物理的にまたは精神的に離れていく知識エリート階層のことを指している。このような意味で、「隠者」に比して「逸民」のほうがより一層政治に対する関心が強いと言える。「逸民」になること自体が消極的な社会批判として受け止めることができる。従って、「逸民」はより濃厚な社会性を示している。ただ、「隠者」と「逸民」は重なる部分が多く、同じ意味で解釈されている場合がほとんどである故、本稿では特にこの二つを厳密に区別しない。なお、「逸民」の形態も、山野に隠遁する、仕官せずに市井に隠遁する、仕官しながら政治社会的働きを極力減らして暮らすなどの様々なケースがある。
(以下略)かっこ

3. 日露戦争と「逸民」
3.1. 緊迫した年末年始と「逸民」
 要するに主人も寒月も迷亭も太平の逸民で、彼等は糸瓜の如く風に吹かれて超然と澄し切つて居る様なものゝ、其実は矢張り娑婆気もあり慾気もある。競争の念、勝たう勝たうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼等が平常罵倒して居る俗骨共と一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。只其言語動作が普通の半可通の如く、文切り形の厭味を帯びてないのは聊かの取り得でもあらう。(81­82 頁)
(以下略)

3.2. 苦沙弥の日記と日露戦争 (以下略)
3.3. 「不相変」の「太平の逸民の会合」(以下略)
4. 「逸民」というスタンス
4.1. 「偏屈」・「天然」 (以下略)
4.2. 「大和魂」批判 (以下略)
4.3. 「偏屈」という「隠れ蓑」(以下略)
4.4. 「天稟の奇人」たち (以下略)
5. 「吾輩」は「逸民」である
5.1.  非凡な「吾輩」  (以下略)
5.2. 「進化」する「吾輩」(以下略)
5.3. 「吾輩」の「逸民」的傾向
(前略)
 世俗的な「働き」は往々にして利己的な打算の前提で行われることが多いので、他人に害
を及ぼすことが多く、国家という共同体の利益も損なうことになる。だから、「働きのない」
ことが他人と国家に及ぼす害がかえって少なくて済む、というのが「吾輩」の論理だと思わ
れる。そこに人間世界と宇宙との調和への観照と消極的な社会批判が込められている。猫は
「逸民」が「無用な長物」だと「誹謗」されることを拒否し、「逸民」こそが「上等」だと
主張する。これは、「吾輩」がすでに「逸民」の精神的な真髄を感得する境地にまで「進化」
したことを示している。
6. 真の「太平」
(前略)
結局、「吾輩」はビールを飲んで死ぬ。「竹林の七賢」をはじめ、陶淵明、李白など、中国
の歴史上の多くの「逸民」たちが酒に生き、酒に死んでいたことを考えると、この死に方も
いかにも「逸民」らしい。水甕に沈んで藻掻いていたときも、彼の精神は働いていた。苦し
いのは、「上がれないのは知れ切つて」いながら、「甕から上へあがりたい」(567 頁)から
だと。そして、藻掻くことをあきらめた途端に感じたのは「楽」である。それは、「日月を
切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る」(568 頁)境地である。「吾輩」は死ぬこ
とで究極の「太平の逸民」になる。こうして、「吾輩」は自身の「逸民」としての精神と猫
としての身体の引き裂かれたアポリアを乗り越えるのである。≫

(参考その二) 漱石の「拙」の世界(周辺)

http://chikata.net/?p=2813

(抜粋)

≪ 木瓜咲くや漱石拙を守るべく

この句は、陶淵明の詩「帰園田居」に出てくる「守拙帰園田」(拙を守って園田に帰る)が下敷きにされています。陶淵明と異なるのは、漱石の故郷は田園ではなく、東京という都市だったということです。子規は『墨汁一滴』でこう書いています。

《 漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたつてゐない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。》(正岡子規『墨汁一滴』)

 つまり、漱石はそもそも稲の苗を見て「これは何の草だろう」という人なのです。そういう人間が、東京の高等師範学校の教師を辞職し、松山に一年、そして熊本へ赴任した自分に「拙を守るべく」と言い聞かせているわけです。この二重性に、漱石独自なユーモアが隠れているように思えます。

 この句の鑑賞は『草枕』にある次の一節が、度々引き合いに出されます。

《 木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら真直かと云うと、けっして真直でもない。ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜に構えつつ全体が出来上っている。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔らかい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守ると云う人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。》(夏目漱石『草枕』)

(以下略)  ≫
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その十) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「渡辺崋山(「序」と鈴木三岳「跋」」)」周辺

俳画譜一.jpg

(左図:「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「序」=「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」の「跋」)
(右図): (『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「跋」)

 この(左図:「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「序」は、その原本の「(題籢)游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(「俳画譜(崋山作・紙本墨画淡彩 29.0×32.3㎝)」)の「跋文」(崋山自跋)で、その「跋文」(崋山自跋)を「序」にしている。
 そして、上記の(右図): (『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「跋」)は、この編者の「鈴木三岳」の「跋文」で、その「跋文」によると、田原蟄居中の崋山に俳画の指導を受けていた三岳に、その手本として恵与したものとしるされており、それらの原本を基にして、崋山没後の、嘉永二年(一八四九)に、鈴木三岳が版行したものということになる。
 この嘉永二年(一八四九)は、崋山が自刃した、天保十二年(一八四一)の、八年後のことなのだが、崋山は罪人としての自刃であり、崋山の墓の建立は許されず、幕府が崋山の名誉回復と墓の建立とを許可したのは、幕府滅亡直前の慶応四年(一八六八)と、この「崋山俳画譜」が版行されてからも、十九年の後ということになる。

俳画譜二.jpg

(左図:「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』)=「蕪村《遊舞図》」(蕪村写意/夜半翁画ハ古澗(こかん)/ノ意ヲ取ニ似タリ)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0009.jpg
(右図): 「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」の「蕪村《相聞図》」(蕪村写意/夜半翁画ハ古澗(こかん)/ノ意ヲ取ニ似タリ) (『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」など)

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との関係などについては、下記のアドレスで触れた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-02

(再掲)

≪(補記その三) 「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との関係

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)の内容(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との相互関連

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)の内容(順序)

(題籢) 游戯三昧 小舟題
(画一) 団扇と蛍図
(画二) 田草取図
(画三) 燈下読書図 立圃画意 →『崋山画譜』(版本)の(画二)
(画四) 朝顔図 →       『崋山画譜』(版本)の(画七)
(画五) 釣瓶と鶯図 一蝶画題 →『崋山画譜』(版本)の(画四)
(画六) 狩衣人物図
(画七) 狐面図
(画八) 籠に雀図
(画九) 祈祷図
(画十) 茄子図 松花堂画法 →『崋山画譜』(版本)の(画一)
(画十一)游舞図 →『崋山画譜』(版本)の(画六)に、(画十四)の賛(蕪村写意)を用いる。
(画十二)夕立図 →『崋山画譜』(版本)の(画八)
(画十三)枯木宿鳥図 許六写意 →『崋山画譜』(版本)の(画五)
(画十四)相聞図 蕪村写意→「賛」(蕪村写意と賛文)のみ『崋山画譜』(版本)の(画六)に。
(画十五)梅樹図 光悦写生→『崋山画譜』(版本)の(画三)
(跋)  →        『崋山画譜』(版本)の(序)

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)の内容(順序)

『崋山画譜』(版本)の(序) →「游戯三昧 小舟題」(原本)の「跋」文
『同』(版本)の(画一)   →「同」(原本)の「画十」(茄子図 松花堂画法) 
『同』(版本)の(画二)   →「同」(原本)の「画三」(燈下読書図 立圃画意)
『同』(版本)の(画三)   →「同」(原本)の「画十五」(梅樹図 光悦写生)
『同』(版本)の(画四)   →「同」(原本)の「画五」(釣瓶と鶯図 一蝶画題)
『同』(版本)の(画五)   →「同」(原本)の「画十三」(枯木宿鳥図 許六写意)
『同』(版本)の(画六)→「同」(原本)の「画十一・游舞図」と「画十四・蕪村写意と賛文」
『同』(版本)の(画七)   →「同」(原本)の「画四」(朝顔図と崋山の句)
『同』(版本)の(画八)   →「同」(原本)の「画十二」(夕立図と崋山の句)
『同』(版本)の(跋=編者・鈴木三岳の「跋」文)    

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html

[出版地不明] : [出版者不明], 嘉永2[1849]跋
1帖 ; 29.0×15.5cm
書名は題簽による 扉題:崋山翁俳画/椎屋蔵板 色刷/折本   ≫

 ここで、≪「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)≫と≪渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)≫ちを、(参考)として、抜粋して置きたい。

(参考) 「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)と「渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7

http://www.bios-japan.jp/omoshiro9.html

「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)

(抜粋)

≪ 渡辺崋山は、「客坐掌記」と通称する手控冊をこまめに記しており、それが亡くなった時には背の高さまであったと言う。

用途から、自らの本画の小下絵を収録した小下絵冊、各地各所で寓目した書画を記録として写し留めた過眼録、さらに今でいう純粋な写生冊と、大きく三種類に分類できる。画家の貴重な制作記録となる小下絵冊としては、『辛己画稿』(一八二一)、『壬午図稿』(一八二二)、『辛卯稿』(一八三一)などが数点知られている。これらを除いた大半が、寓目・過眼の記録冊であり、千葉県の素封家浜口家所蔵の二十冊の『客坐縮写』もその一部である。冊中には草筆のクロッキーや俳画に通じる洒落た略筆画も数多く出てくる。浜口家の客坐掌記の内の一つに、松崎慊堂の誕生日の宴のスケッチがあるが、その経緯が『慊堂日暦』中にも記されていて、そのあまりの迫真さに驚いたとの慊堂のコメントもある。

『客参録』『全楽堂日録』は、過眼録の一種であるが、むしろ紀行画文冊(旅行記)というべきもので、片や崋山が藩主に随って国元田原まで赴いた時の、また片や日光奉行に任命された藩主に随行して日光を訪れた時の記録である。前者は、隊列の中に馬に乗った自分自身をも描き、「渡辺登」と注記している。どちらも洒脱な筆でのびのびと活写している。

さて、かつてコロタイプの複製も作られた『刀禰游記』なる紀行画巻がある。代表作『四州真景』を描かれた文政八年(一八二五)崋山三十三歳の同時期の作品で、世話になった銚子の大里桂丸に贈った一巻と自らの手元においた一巻の正副二本が知られている。前者は、崋山歿後百年祭記念の『錦心図譜』掲載の一本であり(作品番号七九)、大里家にそのまま伝えられていたが、戦災で焼失してしまったという。後者は、『藝苑叢書』中の一冊として二分の一大の複製が作られておりその詳細を窺い知ることができる。

両本とも、その書体が崋山らしくないということで、一部に否定する向きもあったが、そこで紐解くべきは、当時、文政八年の手控冊類であった。幸い浜口家の二十冊のまとまった『客坐縮写』中、その「第五」は、船の舳先の図から旅行の記録が展開され、ずばり、この『刀禰游記』はもとより、名宝『四州真景』の成立にもつながる貴重な房総旅行の紀行日誌である。

冊中、崋山が銚子の豪商豊後屋に逗留し、所蔵のコレクション等を模写する中、なんと三十九頁にも亘って情熱的に描きとめた一図に、宝井其角(一六六一~一七○七)の『一瞬行』(「舛屋源之丞持ち来たる」とある)の写しがある。これを見るかぎり、『刀禰游記』のその特徴的な書体は、「乱筆は神仏ののりうつりかきしとかヲ云」と崋山が評する其角の螺旋バネのような筆跡に似せたものと判明。しかも、後者の詞書中、「前橋風土記云刀根川出於士峯西越後界」との『翎毛虫魚冊』などの註記にも共通する崋山の見慣れた階書の註記四行が織り込まれ、正しく崋山真筆との自己アピールが添えられている。

なお、『一瞬行』そのものは、確かに其角の元禄十年秋の事蹟として『句空庵随筆』に記載があるものの、元禄十二年の江戸大火で日記・句稿が焼失し、その復元作業の中で、同十四年二月刊行された著作集『焦尾琴』(同年初版、寛保三年再版)の内に、これを再編成したものとして、「早舟の記」との名で収録されている。内容は、「一日琴風亭に遊んで二丁こぐ舟の」と、琴風亭を訪れた其角が、中国赤壁の故事にならって風雅な隅田川の舟遊びをした、その折の感興を綴った句文である。

そこで、改めて崋山の『刀禰游記』にスポットを当てると、巻末には「文政乙酉のとし仲秋、良夜たまたま雲はれて、すぎし遊びを思い出し、忘れぬうちに其あらましを記し、大里ぬしの一笑を博むといふ。わたなべのぼる」とあり、銚子逗留中の崋山は、ふとしたことから土地の富豪大里桂麿と近づきとなり、俳人蓬堂を加えた三人で利根川に舟を浮かべて十五夜の月を江上に同様な遊びを楽しんだものと判る。江戸に戻った崋山が九月十五日、仲秋の名月にこれを回想して画巻にまとめ、世話になった大里氏に旅の恩義の答礼として贈ったとの次第であろう。

カットの一は崋山が桂麿に所蔵の書画を見せてもらい美術談義に花を咲かすところ、二は崋山と桂麿が俳人蓬堂を誘い出すところ、三は利根川対岸の景色、四は小舟の中で盃片手に悦に入っているところの計四図である。 (文星芸術大学 上野 憲示)  ≫

http://www.bios-japan.jp/omoshiro7.html

渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)

≪ 崋山は、残された書簡・記録類からは、生来のまじめ人間と知れるが、少々突っぱってまじめに「不まじめ」を行うという一面があった。もちろん、文人仲間のサロンや北関東、東海地方の数寄者との遊興の集いの中で、自然と身に備わったものであるが、気の置けない後輩や弟子たちに対しては、人生の先輩カゼを吹かせての偽悪的なポーズを見せることもあった。

『校書図』は、ひいきの芸妓お竹をモデルに少々スノビッシュに描いたもので、「飲啄、牝牡之欲ノ無キ者ハ人二非ラズ也・・・因リテ予ノ愛妓ヲ写シ、顕斎二寄ス。顕斎與予ハ同好也否」と気負った戯文を画中に添えて門人平井顕斎に与えている。

そもそも崋山は、師匠の桃隣が春本を書いていたこともあってか、若い頃から生活のため春画を描くことがあったようである。『寓画堂日記』に「模春画」「画春画」「描春画」の文字が散見し、後の手控えにも「合歓図」の模写などが認められる。

関東大震災で本画が焼失した「品川清遊図」(文晁、抱一、崋山の三人連れが品川の妓楼に遊んだ時の情景)なども、今となっては真贋を論じるすべもないが、文晁、抱一の逸話の数々と照らしても十分考え得る設定ではあり、残された写真カットに見る筆力も凡庸ではない。

当時、遊里は公認の歓楽街であり、宿場に飯盛女はつきものであり、そこで遊ぶことに対しては、男振りを上げはすれども決して後ろめたい行為ではなく、何人も大仰に構えずに気楽に現世を謳歌していたのである。

崋山は、売春行為に対しては、「何分御領分風俗悪敷相成、大ニ御政事御繁多ニて御行届無之・・とその弊害を認めつつ、「大国ニハナケレバナラヌ者と奉存候。又他の金銀ヲ引よせ候一術に候」と必要悪と考えていた。「織女ハ抱女故ニ夜私ニかせき候事ハ大目ニ見」、「織屋さへ多く出来候得ばウチ置ても如此相成とのよし」との便法も崋山ならではであろう(田原藩士宛書簡『崋山書簡集』36)。

なお、重要美術品の指定を受けながらも、先学菅沼貞三氏の否定論を受け所在不明となった幻の名品、『目黒詣』については再評価の時が来ていると信じたい。同作品は、文政十二年十月十四日、渡辺崋山が田原藩の同僚、鈴木修賢、鷹見定美、上田正平と、連れ添って目黒へ物見遊山に出かけた折の挿図入り戯文画巻である。落款は、漢字で“渡辺登”とある。

初冬のある日、崋山ら四人は、藩主から、たまにはゆっくり遊山でもして来いとばかり、一日の特別休暇を許された。忙しい藩務から久々に解放ざれ、「いのちありて小春に遊ぶ牡の蝶」の崋山の句のとおり、まさに命の洗濯といったものであった。酒肴を担いで目黒方面を散策し、酒亭「ひちりき」で酒宴を張り、最後は藩主へのおみやげを担いで千鳥足で家路へ向かうといった次第、挿入の狂歌は「みなひとの酔へば臥すともひちりきやねの高きにも驚かれぬる」「枝笛によい婦もあってひちりきや人目多うて笙琴もなし」と、管楽器の「ひちりき」に懸けて、料亭「ひちりき」が値の高さと、お互いの目があってはめを外せないさまを皮肉る。帰りの道すがら、貰った柿の実を、喉が乾いたから食べてしまおうかと軽口も出る。藩公へ土産として買ったものゆえまかりならぬと押し留めると、さらに一人が、しゃあ、しぶき、すなわちおしっこでも飲もうかと、おどける。こんな楽しい戯文の画巻である。が、忠孝の士と名高い崋山にあって、主君に関することで決してこんな下品な表現はあり得ないといった批判も当然出てくるが、俳聖芭蕉にも、「蚤虱 馬の尿する枕もと」の有名な句がある。

挿画は七図で、軽妙な草筆の飄々とした味わい深い戯画である。担ぎ棒の先に弁当、後ろに酒を満たしたふくべを吊して軽快に歩む上田の図。茅屋図。薄の茂る野で足を止め、遠慮無く呑めるぞとばかりふくべの酒をがぶ呑みする上田、独り呑ませてなるかとこれを制する鈴木、弁当に箸をつける崋山、酒なぞ呑み飽きたとばかり超然としている鷹見と四人四様の光景。酔いが回って小川の前で立ち往生する上田の図。迷い出たところの草庵の娘に道を尋ねる図。目黒の酒亭「ひちりき」での宴席の光景。藩主へのみやげを上田と鷹見で軽口を言い合いながら担ぎ、鈴木の持つ提燈が燃え出して崋山がこれを急ぎ消し止めようといった帰り道での酩酊状態の四人の図。

以上の展開であるが、天保三年の『客坐掌記』に見る勧進能の場の弁当売りや茶売りの速筆写生との共通点も十分に認められ、またその書も、草書はもちろん、巻末近くの七絶の漢詩の行書風の書はまさに崋山その人の執筆と頷かせるものである。

私としては、崋山真筆の可能性が高いものとみて、さらに地道な検討を続けることに努めたい。 (文星芸術大学 上野 憲示)

品川清遊図.jpg

「品川清遊図」

「目黒詣図」


目黒詣図一.jpg

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目黒詣図二.jpg


『校書図』


校書図.jpg

http://www.bios-japan.jp/omoshiro7.html            ≫
http://blog2.hix05.com/2021/03/post-5723.html

≪「校書」とは芸者のこと。中国の故事に、芸妓は余暇に文書を校正するという話があることに基づく。崋山といえば、謹厳実直な印象が強く、芸者遊びをするようには、とても思えないが、この図には、崋山らしい皮肉が込められている。
 画面左上に付された賛には、概略次のような記載がある。「髪に玉櫛金笄を去り、面に粉黛を施さず、身に軽衣を纏うて、恰も雨後の蓮を見るようだ」と。これに加えて、近頃は世が豪奢を禁じたと言う指摘あがる。つまりこの絵は、世の中が窮屈になって、芸者も質素な身なりを強いられていることを、揶揄しているとも考えられるのである。
 いわゆる天保の改革が本格化するのは天保十二年のことで、日本中に倹約精神が求められた。この絵が描かれたのは天保九年のことだから、まだ改革は本格化してはいなかったが、一般庶民への強制に先だって、芸者や河原ものへの抑圧は高まっていたようだ。そうした社会的な抑圧は、社会の底辺部にいるものから始まって、次第に一般庶民を巻き込んでいくものだ。崋山は、そうしたいやな時代の流れを敏感に受け取っていたのであろう。≫(「続壺齋話」)
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その九) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「渡辺崋山(「夕立図」)」

渡辺崋山(「夕立図」.jpg

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175.html

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0011.jpg

≪「鳶乃香もいふたつかたになまくさし」の意味は、天空を飛んでゆく鳶の香も、地上にある物の香りも、夕立が通っていく方向に、なま臭い感じをさせて移ってゆく、というような意味で、夏の夕立の湿気を感覚的に捉えたものであろう。 ≫(『渡辺崋山の神髄(平成30年度特別展・田原市博物館編)』所収「図版解説63」)

 この「夕立図」は、何とも、当時の、幽閉中の「渡辺崋山」その人を暗示しているような、そんな印象を深くさせる。これは、「夕立ち」の中の、馬上の武士(崋山その人)と、その従者の図と解してよかろう。そして、その「夕立図」に賛した、その自画賛の一句、「鳶乃香もいふた(だ)つかたになまく(ぐ)さし」の、「なまく(ぐ)さし」というのは、渡辺崋山が連座した、所謂、天保一〇年(一八三九)の、「蛮社の獄」(江戸幕府が洋学者のグループ尚歯会に加えた弾圧事件)などの、当時の江戸幕府の文教をつかさどる林家出身の目付・鳥居耀蔵などの暗躍を指しているようにも思われる。
 この「蛮社の獄」により、渡辺崋山は、「国許(田原藩)蟄居(ちつきよ)」を命ぜられ、その二年後の、天保十二年(一八四一)十月十一日、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹し、その四十九年の生涯を閉じることとなる。

「渡辺崋山(略年譜)」(「公益財団法人崋山会」など)

https://www.kazankai.jp/kazan_history.php

寛政5年(1793)1歳 9月16日、江戸麹町田原藩上屋敷に生まれる。
寛政7年(1795)3歳 妹茂登生まれる。
寛政9年(1797)5歳 この年、軽い天然痘にかかる。
寛政12年(1800)8歳 若君亀吉のお伽役(おかやく)になる。妹まき生まれる。
享和元年(1801)9歳 最初の絵の師、平山文鏡(田原藩士)亡くなる。
享和3年(1803)11歳 弟熊次郎生まれる。
文化元年(1804)12歳 日本橋で備前侯行列に当り、乱暴を受け発奮する。
文化2年(1805)13歳 鷹見星皐に入門し、儒学を学ぶ。弟喜平次生まれる。
文化3年(1806)14歳 若君元吉(後の康和)のお伽役になる。
文化4年(1807)15歳 弟助右ヱ門生まれる。
文化5年(1808)16歳 絵師白川芝山に入門する。星皐より華山の号を受ける。藩主康友に従って田原に滞在する。
文化6年(1809)17歳 金子金陵に絵を学ぶ。金陵の紹介により谷文晁に絵を学ぶ。
文化7年(1810)18歳 田原に藩校「成章館」創立。妹つぎ生まれる。
文化8年(1811)19歳 佐藤一斎から儒学を学ぶ。
文化10年(1813)21歳 妹つぎ亡くなる。
文化11年(1814)22歳 納戸役になる。絵事甲乙会を結成し、画名が世に知られる。
文化13年(1816)24歳 弟五郎生まれる。
文化14年(1817)25歳 父定通、家老となる。
文政元年(1818)26歳 正月、藩政改革の意見を発表。長崎遊学を希望したが父の反対のため断念する。「一掃百態図」を描く。 藩主康友に従って田原に滞在する。
文政2年(1819)27歳 江戸日本橋百川楼で書画会を開く。
文政6年(1823)31歳 和田たかと結婚する。「心の掟」を定める。
文政7年(1824)32歳 7月、家督する。父定通亡くなる。
文政8年(1825)33歳 この年から松崎慊堂(まつざきこうどう)に儒学を学ぶ。
文政9年(1826)34歳 江戸宿舎にてオランダ使節ビュルゲルと対談。長女可津生まれる。この頃から画号「華山」を「崋山」と改める。
文政10年(1827)35歳 10月、三宅友信に従い田原に来る。
文政11年(1828)36歳 「日省課目」を定め修養に努める。側用人となり、友信の傅を兼ねる。
文政12年(1829)37歳 三宅家家譜編集を命ぜられる。弟喜平次亡くなる。
天保元年(1830)38歳 埼玉県尻に三宅氏遺跡を調査し、のちに「訪録」を書く。弟熊次郎亡くなる。
天保2年(1831)39歳 江戸藩邸文武稽古掛指南世話役となる。妹まき亡くなる。9月から門弟高木梧庵を伴い厚木を旅し「游相日記」を書き、10月、桐生、足利、尻地方に旅し「毛武游記」を書く。
天保3年(1832)40歳 家老となる。紀州藩破船流木掠取事件、助郷免除事件あり。長男立生まれる。
天保4年(1833)41歳 1月、家譜編集などのため田原に来て、「参海雑志」を書く。
天保5年(1834)42歳 幕命の新田干拓中止の願書を上申。農学者大蔵永常を田原藩に招く。
天保6年(1835)43歳 報民倉竣工。二男諧(後の小華)生まれる。
天保7年(1836)44歳 田原地方が大飢饉になる。
天保8年(1837)45歳 真木定前を田原に遣し、飢餓を救う。年末、無人島渡航を藩主に願うが許されず。「鷹見泉石像」を描く。弟五郎亡くなる。
天保9年(1838)46歳 年初、「退役願書稿」を書く。蔵書画幅を藩主に献上する。「鴃舌或問」、「慎機論」を著す。儒者の伊藤鳳山を田原藩に招く。
天保10年(1839)47歳 江戸湾測量で伊豆の代官江川坦庵に、人材器具を援助する。5月14日、蛮社の獄により北町奉行所揚屋入りとなる。12月18日、田原蟄居の申渡しを受ける。
天保11年(1840)48歳 1月20日、田原着。2月12日、池ノ原屋敷に蟄居。
天保12年(1841)49歳 10月11日自刃する。

 ちなみに、この「崋山俳画譜」を、嘉永二年(一八四九)に版行した、「鈴木三岳」(一七九二~一八四五)は、当時の吉田藩(現豊橋市)の御用達商人で、味噌溜の醸造業を営み、田原蟄居中の崋山に俳画の指導を受けていたという、崋山没後のものなのである。(『渡辺崋山の神髄―田原市博物館 平成30年度特別展』)

 また、こ「崋山俳画譜」中の、二枚の、崋山の自賛句入りの俳画の、「渡辺崋山(朝顔図)」(朝皃は下手のかくさへあはれなり)が、「朝顔図に朝顔の句」の、所謂、「べた付け」に対して、この「渡辺崋山(「夕立図」)」(鳶乃香もいふたつかたになまくさし)の、「夕立ち図に鳶の句」は、所謂、「匂い付け」のものということになる。

(参考)「べた付け」(「物付け」)と「匂い付け」(「心付け・余情付け」)周辺

http://www5a.biglobe.ne.jp/~RENKU/nmn17.htm

【歌仙・付けの種類】

二条良基の『僻連抄』(1345 ?)による最古文献による分類は15。平付の句(ひらつけのく)、四手(よつで)、景気(けいき)、心付(こころづけ)、詞付(ことばづけ)、埋句(うづみく)、余情(よせい)、相対(あいたい)、引違(ひきちがい)、隠題(かくしだい)、本歌(ほんか)、本説(ほんぜつ)、名所、異物、狂句(きょうく)。ただしこれは付けの態度、表現、題材による分類が混在したもの。その後宗祇(-1502)の分類を経て、宗牧(-1545)が『四道九品』(しどうくほん)で、付けの態度を中心に添(てん)、随(ずい)、放(ほう)、逆(ぎゃく)の4つに大別したのが画期的だったがあまり普及しませんでした。
 蕉風の付合(つけあい)に至った過程については、『去来抄』の説、「先師曰く、発句はむかしよりさまざま替り侍れど、付句は三変也。むかしは付物を専らとす。中頃は心付を専らとす。今は、移り、響、匂ひ、位を以て付くるをよしとす。」が革命的で、今日芭蕉を讃える源泉となっています。

 つまり貞門時代が物付(ものづけ)、談林時代が心付(こころづけ)、いまの蕉門時代が余情付(よじょうづけ)または匂い付けと奥行を広げたことになります。

<物付> 歌いづれ小町をどりや伊勢踊   貞徳  
   どこの盆にはおりやるつらゆき   同 

小町+伊勢→貫之、踊→盆、というように前句のことばや物によって付ける。

<心付> 子をいだきつつのり物のうち    宗因  
       度々の嫁入りするは恥知らず    同

前句のあらわす全体の意味や心持ちに応じて付ける、すなわち句意付けです。

<余情付> 移り(うつり)、響(ひびき)、匂ひ(におい)、位(くらい)の付けは、すべて広くいえば心付に含まれるが、談林風の心付が前句の意味内容に応じたものであったのに対して、蕉風のそれは前句の気分、余情、風韻を把握し、それに応え合い、響き合うものを付ける、これが余情付です。
 付句を付けるというのは、まず付合(付けの種類)を物付にするか、句意付にするか、余情付にするかを決め、次に付心(つけごころ、付けの手法・態度)を決め、付所(付けの狙いどころと手がかり)を探してから、瞬時考えて句を作るという感覚的で、時には禅に通ずる暝想的な作業であり、その結果が付味(付けの効果)になります。
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その八) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「渡辺崋山(朝顔図)」

渡辺崋山(朝顔図).jpg

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0010.jpg
≪「渡辺崋山(朝顔図)」(朝皃は下手のかくさへあはれなり)≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。

https://www.taharamuseum.gr.jp/exhibition/2018/ex180908/index2.html

https://www.taharamuseum.gr.jp/exhibition/2006/ex060428/index2.html

≪●俳画冊 渡辺崋山
全24図で二帖からなり、俳句に俳画が添えられている。崋山は、二十代から俳諧師太白堂と親交があり、崋山自身も俳諧をよくした。弟子の鈴木三岳に与えた『俳画譜』の俳画論の中で、上手に描こうと思う心はかんばしくなく、なるべく下手に描くように指導している。精巧な表現で描くことより、省筆により単純な表現が趣や余韻を生むことが描く人の人格により見る者に訴えかけることを伝えたかったのであろう。崋山自身が日常に身の回りで眼にしたものを題材に自由奔放な精神が俳句に表現されている。落款もなく、年代を特定するのが困難だが、天保年間と考えたい。明復こと松崎慊堂(1771~1844)の題字「最楽」が添えられている。
●各図の俳句
飛込むで月日落つく花乃春
鳶乃輪の中に蠢く田打かな
青柳をしらぬ御顔や角大師
穂かきして浮世かなしや夕紅葉
板の間の釘もひかるや夜のさむみ
紙子着てねぎきる役にあたりけり
削掛重荷おろせしひとたばこ
五左衛門に明日の道問ふ董かな
夏の月駱駝の小屋のとれしあと
行秋や薪一把も庭ふさげ
襟さむしこんな夕にさへ雁ハ行
大雪や鼠ひと声ひるすぎる

鶯乃身はくれて居てなきにけり
留守とおもへばくさめする五月あめ
河鹿啼や木乃間ノ月ニ渉わたり
谷川も人は通らず渡る鷹
竹の根に水さらさらとしぐれけり
それは我師走乃句なりいそげ人
吸ものの上を渡るや春の鐘
草花やともすれば人の垣のぞき
有明や谷川渡る旅からす
枯柳乞食のくさめ聞へけり
霜乃月山樹のとげも見へに遣理(けり)
大井川に喧嘩もなくてしぐれけり    ≫(「田原市博物館」)

崋山俳画一.jpg

上図―右 飛込むで月日落つく花乃春
上図―左 留守とおもへばくさめする五月あめ
中図―右 鶯乃身はくれて居てなきにけり
中図―左 青柳をしらぬ御顔や角大師
下図―右 鳶乃輪の中に蠢く田打かな
下図―左 河鹿啼や木乃間ノ月ニ渉わたり
(『渡辺崋山の神髄(平成30年度特別展・田原市博物館編)』)

崋山俳画二.jpg

上図―右 穂かきして浮世かなしや夕紅葉
上図―左 竹の根に水さらさらとしぐれけり
中図―右 谷川も人は通らず渡る鷹
中図―左 紙子着てねぎきる役にあたりけり
下図―右 板の間の釘もひかるや夜のさむみ
下図―左 それは我師走乃句なりいそげ人
(『渡辺崋山の神髄(平成30年度特別展・田原市博物館編)』)

崋山俳画三.jpg

上図―右 削掛重荷おろせしひとたばこ
上図―左 草花やともすれば人の垣のぞき
中図―右 吸ものの上を渡るや春の鐘
中図―左 夏の月駱駝の小屋のとれしあと
下図―右 五左衛門に明日の道問ふ董かな
下図―左 有明や谷川渡る旅からす
(『渡辺崋山の神髄(平成30年度特別展・田原市博物館編)』)

崋山俳画四.jpg

上図―右 行秋や薪一把も庭ふさげ
上図―左 霜乃月山樹のとげも見へに遣理(けり)
中図―右 枯柳乞食のくさめ聞へけり
中図―左 大井川に喧嘩もなくてしぐれけり
下図―右 襟さむしこんな夕にさへ雁ハ行
下図―左 大雪や鼠ひと声ひるすぎる
(『渡辺崋山の神髄(平成30年度特別展・田原市博物館編)』)

 冒頭の、≪「渡辺崋山(朝顔図)」(朝皃は下手のかくさへあはれなり)≫の、「朝皃は下手のかくさへあはれなり」の、「下手」は、「画人」(「玄人絵師」)の「上手」(「画技」=「技」)に対する、「文人」(「素人絵師」)の「下手」(「技・巧」ではなく「心・拙」)こそ、それこそが「あはれ」(「もののあはれ」=「情趣」の世界)に通ずるというようなことを、崋山は、この一枚の「朝顔図」と「自賛句」に託しているように思われる。
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その七) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「野々口立圃(燈下読書)」

野々口立圃《燈下読書図.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「野々口立圃《燈下読書図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0005.jpg

≪「燈下読書図」立圃画意 雛屋ハ松花堂ニ/辯香スルニ似タリ ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

≪ 立圃は俳諧をよくし、俳画としての作品もかなり世に遺っている。「松花堂ニ/辯香スルニ似タリ」と評されているが、既に松花堂の風韻は著しく、洒脱に、軽妙に転化されているのである。立圃の作品に「休息三十六歌仙」がある。歌仙を休息のていたらくに描き、俳諧をそえて歌仙画巻の形式をとった俳諧的気分にあふれている。 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

野々口立圃筆兼好法師自画賛.jpg

「野々口立圃筆兼好法師自画賛」(作者:野々口(雛屋)立圃)( 「慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)」)
https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/1782
≪ 野々口立圃〈ののぐちりゅうほ・1595-1669〉は、江戸時代初期の俳諧師。名は親重(ちかしげ)、紅染めの名人としても知られ、紅屋庄右衛門という通称もある。松翁・松斎の別号がある。京都に出て雛人形の細工を業としたため、雛屋立圃(ひなやりゅうほ)の名で親しまれた。松永貞徳〈まつながていとく・1571-1654〉に俳諧を学び、貞門七俳仙に名を連ねる。中でも立圃と松江維舟〈まつえいしゅう・1602-1680〉はとくに傑出して貞門二客と称された。俳諧のほかに、連歌・和歌・書・画・和学などにも通暁、多才な人であった。和歌を烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉、画を狩野探幽〈かのうたんゆう・1602-1674〉に学んだ。書は青蓮院流(尊朝流)を学び、堂上公卿とも親交をもった。吉田兼好〈よしだけんこう・1283?-1350?〉はその著『徒然草』第13段に「ひとり灯のもとに書物をひろげて、見も知らぬ昔の人を友とすることこそ、この上なく心の慰むことである」と語る。
 この図は、その原文の部分に加えて、「その兼好法師自身でさえ、はるか遠い昔の人となってしまった。人の命は花のようにはいかないものよ」という立圃自詠の一句を添えて賛とし、灯火に読書する兼好法師の姿を描いたものである。俳画の先駆ともいうべき新境地を拓いた立圃の面目躍如たる自画賛である。軽妙洒脱な筆であらわされた兼好像は、あるいは、立圃の自画像であったのではなかろうか。

ひとりともし火のもとに文をひろげて見ぬ世の人を友とするなん、こよなうなぐさむわざなれ。といひし人も見ぬ世の人となれり。見る人も花よ見ぬ世のふる反古 ≫( 「慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)」)

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/

(抜粋)

「野々口立圃撰並画 寛文6年(1666) 自筆」(1巻 25.2×342.5cm)(「早稲田図書館蔵」)

≪ 貞門の俳人、野々口立圃(1595-1669)の自筆句合画巻。十二支の動物に装束を着せて一対ずつ左右に向かわせ、立圃自作の発句を合わせたもの。動物の組み合わせは、辰と戌、巳と亥のように、7番目同士を合わせる「七ツ目」というめでたい組み方で配列されている。最初の辰と戌の組には、辰に「夕立の水上いづこたつの口」、戌に「犬山やふるもまだらの雪の色」とある。奥書に「七十二老」とあり、寛文6年(1666)の染筆とわかる。
 立圃は松江重頼と並び称された貞門の重鎮。のち貞徳のもとをはなれ一流派をひらいた。雛人形屋を業とし、若くして連歌・和歌・書を学んだ。絵は晩年の習事と伝えるが、「書画は習はずして自由自在に書ちらし」(『立圃追悼集』)とも見える。元禄以後の俳画の盛行は立圃に端を発するともいわれている。
 本画巻の、淡彩をほどこした動物たちの飄々たる姿は、立圃晩年の円熟の境地を伝え、数多い立圃自筆資料のうちでも秀作ということができる。横山重旧蔵。

(釈文) 省略

(左一・辰、右一・戌)

左一・辰、右一・戌.jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni03h.jpg
「左一・辰」=夕立の水口いつ(づ)こたつの口
「右一・戌」=犬山の雪もまた(だ)らの雪の色

(左二・己、右(二)・亥)

左二・己、右(二)・亥.jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni04h.jpg
「左二・己」=祓する己の日や魚の毒なか(が)し
「右(二)・亥」=白黒やゐの子にしろき砂糖餅

(左三・午、右(三)・子)

(左三・午、右(三)・子).jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni05h.jpg
「左三・午」=竹馬や杖に月毛のよるの道
「右(三)・子」=小松をやけふ引(き)あそへ(べ)初鼠

(左四・未、右(四)・丑)

(左四・未、右(四)・丑).jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni06h.jpg
「左四・未」=羊をや五月つくしの花車
「右(四)・丑」=ひかりそふ露や北野の年の玉

(左五・申、右(五)・寅)

(左五・申、右(五)・寅).jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni07h.jpg
「左五・申」=猿丸の歌の紅葉や顔の色
「右(五)・寅」=虎の尾ハちるともふむな桜花

(左六・酉、右(六)・卯)

(左六・酉、右(六)・卯).jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni08h.jpg
「左六・酉」=霜夜には鐘や一番二番鳥
「右(六)・卯」=短夜に月の兎の耳もかな
     七十二翁放将
     書之乎口之号
           立圃(朱方印)      ≫

立圃肖像並賛「かくとたに.jpg

「立圃肖像並賛「かくとたに」 / 生白 [画],立圃 [賛](「早稲田図書館蔵」)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_d0153/bunko31_d0153_p0001.jpg

(野々口立圃の俳句)

あらはれて見えよ芭蕉の雪女(ゆきをんな) (『そらつぶて』)
≪季語=雪女(冬)。謡曲「芭蕉」の「芭蕉の精」と、「雪の精」の「雪女」とを背景にしている一句。≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

絵に似たる顔やヘマムシ夜半の月 (『そらつぶて』)
≪季語=月(秋)。「ヘマムシ」は、「へのへのもへじ」のような文字遊戯の一種。「へ」=頭と眉、「マ」=目、「ム」=鼻、「シ」=口。「ヘマムシヨ」の「ヨ」=耳。江戸時代には手習草子として山水天狗と共に戯書の双璧であった。≫ (『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

霧の海の底なる月はくらげかな (『誹諧発句帳』)
≪季語=月(秋)。「霧」が一面にかかっているのを「霧の海」と見立て、その「月」を「海月(くらげ))と見立て、さらに、月の光が暗いという「暗気(くらげ)」を掛けている。≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

源氏ならで上下に祝ふ若菜かな (『犬子集』)
≪季語=若菜(春・新年)。『源氏物語』の「上・下」二部にわかれている「若菜(三十四帖)」 は「若菜上・下」にまたがっていることと、「身分」の「上・下」とを掛けている。立圃は、『十帖源氏』や『稚源氏』などの「源氏物語梗概書」を有する、名うての「源氏物語通」で知らりている。 ≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

声なくて花や梢の高笑ひ (『そらつぶて』)
≪季語=「花」(春)。「花の咲く」ことを「花の笑う」という意から、「梢に高く咲く花」は「高笑い」だという、「洒落」の一句。 ≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

月影をくみこぼしけり手水鉢 (『そらつぶて』)
≪季語=月(秋)。「手水鉢(ちょうずばち)の水とともに、千々にくだけ散る月の光を「汲みこぼす」表現したのが、この句の眼目。≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

天も花に酔へるか雲の乱れ足 (『犬子集』)
≪季語=「花」(春)。『和漢朗詠集』の「天酔于花 桃李盛也(天ノ花ニ酔ヘルハ、桃李ノ盛ナルナリ)を踏まえ、雲の動きを「雲脚」と、「天・雲」を擬人化した一句。 ≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

ほころぶや尻も結ばぬ糸桜 (『犬子集』)
≪季語=糸桜(春)。「尻も結ばぬ糸」(玉どめを作らないで縫う糸)のために、「花が『ほころぶ』(咲く)との見立ての妙味。その技巧が嫌味になっていないのが立圃調。≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

花ひとつたもとにすがる童かな (『句兄弟』)
≪季語=「花」(春)。貞門誹諧に普通みられる言葉の技巧はまったくない。実際の体験からでないと作れない。実感のある句。其角の『句兄弟』で取り上げられている。≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

https://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92%E3%81%AE%E3%80%8E%E5%8F%A5%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%80%8F

(再掲)

十八番
   兄 立圃
 花ひとつたもとにすか(が)る童かな
   弟 (其角)
 花ひとつ袂に御乳の手出し哉

(兄句の句意)花一輪、その花一輪のごとき童が袂にすがっている。
(弟句の句意)花一輪、それを見ている乳母が袂に抱かれて寝ている童にそっと手をやる。
(判詞の要点)兄の句は「ひとつ(一つ)だも」と「たもと」の言い掛けの妙を狙っているが(大切な童への愛情を暗に暗示している)、弟句ではその童から「お乳」(乳母)への「至愛」というものに転回している。
(参考)一 其角の判詞(自注)には、「たもとゝいふ詞のやすらかなる所」に着眼して、「花ひとつたもと(袂)に」をそれをそのままにして、句またがりの「すか(が)る童かな」を「御乳の手出し哉」で、かくも一変させる、まさに、「誹番匠」其角の「反転の法」である。この「反転の法」は、後に、しばしば蕪村門で試みられたところのものであるという(『俳文学大辞典』)。

二 (謎解き・六十九)では、兄句の作者を其角としたが、ここは、立圃の句。野々口立圃。1595~1669。江戸前期の俳人、画家。京都の人。本名野々口親重。雛屋と称し、家業は雛人形細工。連歌を猪苗代兼与に、俳諧を貞徳に師事。『犬子集』編集に携わるが、その後貞徳から離反、一流を開く。『俳諧発句帳』『はなひ草』ほか多数著作あり。 ≫
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その六) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「森川許六(枯木宿鳥図)」

森川許六《枯木宿鳥図》.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「森川許六《枯木宿鳥図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0008.jpg

≪「枯木宿鳥図》」 許六写意 五老井狩野時史/ノ風を不脱 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

≪ 許六は「狩野時史ノ風ヲ不脱」とあり、許六は狩野派を学び、芭蕉は絵を以て許六を師としたというが、狩野派の減筆体で、結局は余技の域を脱したものではなかった、≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-07-15

(再掲)

許六肖像真蹟.jpg

「許六肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05706/index.html

 この「許六」の自筆色紙の句は、「今日限(ぎり)の春の行方や帆かけ船」のようである。この崋山が描いた「許六肖像」画に、漢文で「許六伝記」を記したのは「活斎道人=活斎是網」で、その冒頭に出てくる『風俗文選(本朝文選)』編んだのが「許六」その人である。
 その『『風俗文選(本朝文選)』の「巻之一」(「辞類」)の冒頭が、「芭蕉翁」の「柴門ノ辞」(許六離別の詞/元禄6年4月末・芭蕉50歳)である。

≪ 「柴門ノ辞」(許六離別の詞/元禄6年4月末・芭蕉50歳)
 去年の秋,かりそめに面をあはせ,今年五月の初め,深切に別れを惜しむ.その別れにのぞみて,一日草扉をたたいて,終日閑談をなす.その器,画を好む.風雅を愛す.予こころみに問ふことあり.「画は何のために好むや」,「風雅のために好む」と言へり.「風雅は何のために愛すや」,「画のために愛す」と言へり.その学ぶこと二つにして,用いること一なり.まことや,「君子は多能を恥づ」といへれば,品二つにして用一なること,感ずべきにや.※画はとって予が師とし,風雅は教へて予が弟子となす.されども,師が画は精神徹に入り,筆端妙をふるふ.その幽遠なるところ,予が見るところにあらず.※予が風雅は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし.ただ,釈阿・西行の言葉のみ,かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも,あはれなるところ多し.後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも,※「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ.なほ,※「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」と,南山大師の筆の道にも見えたり.「風雅もまたこれに同じ」と言ひて,燈火をかかげて,柴門の外に送りて別るるのみ。 ≫ (「芭蕉DB」所収「許六離別の詞」)

※画(絵画)はとって予(芭蕉)が師とし,風雅(俳諧)は教へて予(芭蕉)が弟子となす=絵画は「許六」が「予(芭蕉)」の師で、「俳諧」は「予(芭蕉)」が「許六」の師とする。

※予(芭蕉)が風雅(俳諧)は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし=予(芭蕉)の俳諧は、夏の囲炉裏や冬の団扇のように役に立たないもので、一般の民衆の求めに逆らっていて、何の役にも立たないものである。

※「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ=後鳥羽上皇の御口伝の「西行上人と釈阿=藤原俊成の歌には、実(まこと)の心があり、且つ、もののあわれ=生あるものの哀感のようなものを感じさせ」、この『実の心ともののあわれ』とを基本に据えて、その(風雅と絵画の)細い一筋の道をたどって、決して見失う事がないようにしよう。

※「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」=「先人たちの、遺業の形骸(ぬけがら)を追い求めるのではなく、その古人の理想としたところを求めなさい」と解釈され、もともとは空海の『性霊集』にある「書亦古意ニ擬スルヲ以テ善シト為シ、古跡ニ似ルヲ以テ巧ト為サズ」に拠った言葉であるともいわれている。

≪ 森川許六(もりかわ きょりく)/(明暦2年(1656)8月14日~正徳5年(1715)8月26日)
本名森川百仲。別号五老井・菊阿佛など。「許六」は芭蕉が命名。一説には、許六は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じていたとして、芭蕉は「六」の字を与えたのだという。彦根藩重臣。桃隣の紹介で元禄5年8月9日に芭蕉の門を叩いて入門。画事に通じ、『柴門の辞』にあるとおり、絵画に関しては芭蕉も許六を師と仰いだ。 芭蕉最晩年の弟子でありながら、その持てる才能によって後世「蕉門十哲」の筆頭に数えられるほど芭蕉の文学を理解していた。師弟関係というよりよき芸術的理解者として相互に尊敬し合っていたのである。『韻塞<いんふさぎ>』・『篇突<へんつき>』・『風俗文選』、『俳諧問答』などの編著がある。
(許六の代表作)
寒菊の隣もあれや生け大根  (『笈日記』)
涼風や青田のうへの雲の影  (『韻塞』)
新麦や笋子時の草の庵    (『篇突』)
新藁の屋根の雫や初しぐれ  (『韻塞』)
うの花に芦毛の馬の夜明哉  (『炭俵』 『去来抄』)
麥跡の田植や遲き螢とき   (『炭俵』)
やまぶきも巴も出る田うへかな(『炭俵』)
在明となれば度々しぐれかな (『炭俵』)
はつ雪や先馬やから消そむる (『炭俵』)
禅門の革足袋おろす十夜哉  (『炭俵』)
出がはりやあはれ勸る奉加帳 (『續猿蓑』)
蚊遣火の烟にそるゝほたるかな(『續猿蓑』)
娵入の門も過けり鉢たゝき  (『續猿蓑』)
腸をさぐりて見れば納豆汁  (『續猿蓑』)
十團子も小つぶになりぬ秋の風(『續猿蓑』)
大名の寐間にもねたる夜寒哉 (『續猿蓑』)
御命講やあたまの青き新比丘尼(『去来抄』)
人先に医師の袷や衣更え   (『句兄弟』)
茶の花の香りや冬枯れの興聖寺(『草刈笛』)
夕がほや一丁残る夏豆腐   (『東華集』)
木っ端なき朝の大工の寒さ哉(『浮世の北』) ≫(「芭蕉DB」所収「森川許六」)

 もとより、抱一と許六とは直接的な関係はないが、「画俳二道」の先師として、抱一が許六を、陰に陽に私淑していたことは、これまた、想像するに難くない。

(再掲)

https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-614-62.html

4-61 あとからも旅僧は来(きた)り十団子 (抱一『屠龍之技』「) 第四 椎の木かげ」

十団子も小粒になりぬ秋の風  許六(『韻塞』)
≪「宇津の山を過」と前書きがある。
句意は「宇津谷峠の名物の十団子も小粒になったなあ。秋の風が一層しみじみと感じられることだ」
 季節の移ろいゆく淋しさを小さくなった十団子で表現している。十団子は駿河の国(静岡県)宇津谷峠の名物の団子で、十個ずつが紐や竹串に通されている。魔除けに使われるものは、元々かなり小さい。
 作者の森川許六は彦根藩の武士で芭蕉晩年の弟子。この句は許六が芭蕉に初めて会った時持参した句のうちの一句である。芭蕉はこれを見て「就中うつの山の句、大きニ出来たり(俳諧問答)」「此句しほり有(去来抄)」などと絶賛したという。ほめ上手の芭蕉のことであるから見込みありそうな人物を前に、多少大げさにほめた可能性も考えられる。俳諧について一家言あり、武芸や絵画など幅広い才能を持つ許六ではあるが、正直言って句についてはそんなにいいものがないように私は思う。ただ「十団子」の句は情感が素直に伝わってきて好きな句だ。芭蕉にも教えたという絵では、滋賀県彦根市の「龍潭寺」に許六作と伝えられる襖絵が残るがこれは一見の価値がある。(文)安居正浩 ≫

句意(その周辺)=蕉門随一の「画・俳二道」を究めた、近江国彦根藩士「森川許六」に、「十団子も小粒になりぬ秋の風」と、この「宇津谷峠の魔除けの名物の十団子」の句が喧伝されているが、「秋の風」ならず、「冬の風(木枯らし)」の中で、その蕉門の「洛の細道」を辿る、一介の「旅僧・等覚院文詮暉真」が、「小さくなって、鬼退治させられた、その化身の魔除けの『宇津谷峠の名物の十団子』を、退治するように、たいらげています。」

牡丹唐獅子図.jpg

伝・ 森川許六「牡丹唐獅子図」(部分)

https://yuagariart.com/uag/shiga04/

(抜粋)

≪ 江戸時代の早い時期に活躍した彦根の画人としては、search 森川許六(1656-1715)がいる。許六は彦根藩士の子として彦根城下に生まれ、若いころから漢詩を学び、画は江戸の中橋狩野家の狩野安信に学んだとされる。江戸詰の時に晩年の松尾芭蕉に入門し、蕉門十哲に数えられるほどになり、芭蕉に画を教え、芭蕉の肖像画も描いている。
 許六は、古代中国で士以上の者が学修すべきとされた、礼(礼節)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(文学)、数(算数)の六芸に通じた多芸の才人で、師の芭蕉から「許六」の号が授けられた。許六が江戸での勤務を終えて彦根に帰る際には、それを惜しんだ芭蕉から「許六離別の詞」と俳諧の奥伝書を贈られたという。
 許六の書画は、彦根市平田町にある明照寺に伝えられ、古沢町にある井伊家の菩提寺・龍潭寺には、許六作と伝わっている牡丹唐獅子図をはじめとした56面に及ぶ襖絵があり、彦根市の文化財に指定されている。
 許六と同時期に彦根藩の御用をつとめていた絵師としては、大形藤兵衛(不明-1675)がいる。藤兵衛は、判明している最も古い彦根藩御用絵師で、幕府の御用をつとめ、狩野探幽と同じ所にいて活躍していたといい、徳川将軍家の上洛の絵図と屏風、彦根城鐘丸御守殿の笹の間の障壁画を描いた。
 藤兵衛の養子で二代を継いだ幽心は、禁裏絵所の狩野流弥に学び、幽心の養子で三代となった養川は木挽町の狩野常信に学んだとされる。二代幽心と三代養川は6年間江戸に滞在して国絵図の制作をした。四代は養川の実子の藤十郎が継いだが、延享4年に絵師としての活動をやめている。≫(「UAG美術家研究所」)
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その五) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「英一蝶」(釣瓶と鶯図))」

英一蝶《釣瓶と鶯図》.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「英一蝶《釣瓶と鶯図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0007.jpg
≪「釣瓶と鶯図」 一蝶画趣/信香の画ハ安信ニ従ヒ新意ハ/菱川ヨリ脱化来ルニ似タリ
 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

≪ 一蝶は「安信ニ従ヒ新意ハ/菱川ヨリ脱化来ルニ似タリ」とあり、一蝶が狩野派より出て、柔軟な画態にときほぐし、しかもその画趣には、なかなか洒脱な俳諧的要素が示されている。これは当代の風俗画に表現されている。市民的感情もあり、浮世絵の菱川より脱化したものであろうというのは、この間の事情を物語るものであろう。 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

紙本著色布晒舞図〈英一蝶筆〉.jpg

「紙本著色布晒舞図〈英一蝶筆〉」(国宝・重要文化財(美術品)/ 公益財団法人遠山記念館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/210286
≪英一蝶(1652~1724)は市井のありふれた庶民の都会風俗、健全明朗な生活を、親しみやすいが洗練された絵画表現に高めて表した点で近世絵画史上に重要な画家。本作品は若衆歌舞伎の役者と思われる舞手が、布を晒す仕草や波の様を布を用いて表したさらしの舞を披露する様子を描く。小画面に一蝶の人物表現の優れた特質を凝縮した作品。画面左上に藤牛麻呂の款記がある。≫(「文化遺産オンライン」)

≪ 英一蝶(はなぶさいっちょう)(1652―1724)

江戸前期の画家。英派の祖。医師多賀伯庵(はくあん)の子として京都に生まれる。幼名猪三郎、諱(いみな)は信香(のぶか)、字(あざな)は君受(くんじゅ)、剃髪(ていはつ)して朝湖(ちょうこ)と称した。翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りんしょうあん)、北窓翁などと号し、俳号に暁雲(ぎょううん)、夕寥(せきりょう)があった。1659年(万治2)ごろ江戸へ下り、絵を狩野安信(かのうやすのぶ)に学んだが、いたずらに粉本制作を繰り返し創造性を失った当時の狩野派に飽き足らず、岩佐又兵衛(いわさまたべえ)や菱川師宣(ひしかわもろのぶ)によって開かれた新興の都市風俗画の世界に新生面を切り開いた。
機知的な主題解釈と構図、洒脱(しゃだつ)な描写を特色とする異色の風俗画家として成功。かたわら芭蕉(ばしょう)に師事して俳諧(はいかい)もよくした。1698年(元禄11)幕府の怒りに触れ三宅(みやけ)島に流されたが、1709年(宝永6)将軍代替りの大赦により江戸へ帰り、画名を多賀朝湖から英一蝶と改名した。晩年はしだいに風俗画を離れ、狩野派風の花鳥画や山水画も描いたが、終生俳諧に培われた軽妙洒脱な機知性を失うことはなかった。
代表作に、いわゆる「島(しま)一蝶」として珍重される三宅島配流時代の作品『四季日待図巻』(東京・出光(いでみつ)美術館)や『吉原風俗図巻』(東京・サントリー美術館)、『布晒舞図(ぬのざらしまいず)』(埼玉・遠山記念館)などがある。[榊原 悟] 『小林忠著『日本美術絵画全集16 守景/一蝶』(1982・集英社)』 ≫(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-345-39.html

(再掲)

    朝妻ぶねの賛
5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆 (抱一句集『屠龍之儀』所収「第五 千づかのいね」)

 前書の「朝妻ぶね)」とは、「浅妻船・朝妻船(あさつまぶね)」の「滋賀県琵琶湖畔 朝妻(米原市朝妻筑摩)と大津と間での航行された渡船。東山道の一部」(「ウィキペディア」)のことであろう。

≪ 朝妻は『和名抄』に「安佐都末」とある。朝妻川の入江に位置する。船舶がしきりに出入りしたが、慶長(1596年 - 1615年)ころから航路の便利から米原に繁栄をうばわれ、おとろえた。寿永の乱(1180年 - 1185年)の平家の都落ちにより女房たちが浮かれ女として身をやつしたものが、朝妻にもその名残をとどめ、客をもとめて入江に船をながした。

 その情景を英一蝶(1652年 - 1715年)がえがいた絵『朝妻舟図』[1] が有名である。烏帽子、水干をつけた白拍子ふうの遊女が鼓を前に置き、船に乗っている絵は、五代将軍徳川綱吉と柳沢吉保の妻との情事を諷したものであるという。一説に英が島流しされたのはこの作品が原因であるという。英が絵に讃した小唄は、「仇しあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船のあさましや、ああまたの日は誰に契りをかはして色を、枕恥かし、いつはりがちなるわがとこの山、よしそれとても世の中」。「わがとこの山」は、犬上郡鳥籠山であるのを、床の山にかけたものである。長唄などもつくられた。≫(「ウィキペディア」)≫

朝妻舟(英一蝶).jpg

「朝妻舟図 」英一蝶/江戸時代/絹本著色/37.4cm×56.9cm/板橋区立美術館蔵
https://www.city.itabashi.tokyo.jp/artmuseum/4000333/4000537/4000540.html
https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2018/12/12/174708

「英一蝶画譜」あさづまぶね(朝妻舟)

 柳の下に船を繋ぎ、烏帽子水干の白拍子が鼓を手にして座してゐる図で、元禄の頃英一蝶がこれを画いて忌諱に触れ罪を得て流罪になつたので有名であり、その由来は太田南畝の『一話一言』に精しい。

 「あさづまぶね 英一蝶作」

 隆達がやぶれ菅笠しめ緒のかつら長くつたはりぬ是から見れば近江のや。

「あだしあだ浪よせてはかへる浪、朝妻ぶねのあさましや、あゝ又の日はたれに契りをかはして色を、かはして色を。枕はづかし、偽がちなる我が床の山、よしそれとても世の中」。

 これ一蝶が小歌絵の上に書きて、あさづま舟とて世に賞翫す、一蝶其はじめ狩野古永真安信が門に入て画才絶倫一家をなす、ここにおいて師家に擯出せらる、剰事にあたりて江州に貶謫、多賀長湖といふ、元来好事のものなり、謫居のあひだくつれる小歌の中に、あだしあだ浪よせてはかへる浪、あさづま舟のあさましや云々、此絵白拍子やうの美女水干ゑぼうしを著てまへにつゞみあり、手に末広あり、江頭にうかべる船に乗りたり、浪の上に月あり、(此の月正筆にはなし、書たるもあり、数幅かきたるにや)。

 あさ妻舟といふは、近江にあさづまといふ所あるに付て、湖辺の舟を近江にはいにしへあそびものゝありしゆへ、遊女のあさあさしくあだなるを思ひよせて一蝶作れるにや、文意聞したるまゝなるを誰に契をかはして色を枕はづかしといふあり、色を枕はづかしとはつづかぬ語意なるをと、数年うたがへるに、後に正筆を見ればかはして色をかはして色をと打かへして書たり、しからばわが世わたりの浅ましきを嗟嘆するにて、句を切て枕恥かしといへるよく叶へり句を切て其次をいふ間だに、千々の思こもりておもしろきにや、又朝づま舟新造の詞にあらず、西行歌、題しらず

  おぼつかないぶきおろしの風さきに朝妻舟はあひやしぬらむ(山家集下)

 又地名を付て何舟といふ事、八雲御抄松浦船あり、もしほ草にいせ舟、つくし舟、なには舟、あはぢ舟、さほ舟あり、もろこし舟いふに不及。

(一話一言巻十四)

 一蝶の筆といふ朝妻船で有名なのは、松沢家伝来のもので、これには一蝶と親交のあつたといふ宗珉の干物の目貫、一乗作朝妻船の鍔一蝶作の如意、清乗作の小柄を添へ、更に一蝶の源氏若紫片袖切の幅と嵩谷の添状がある。浮世絵にもこれを画いたものがある。≫

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-345-39.html

「朝妻舟」(鈴木春信作)

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-345-39.html

「朝妻舟」(歌川広重作)

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-345-39.html

「近江名所図会 朝妻舟」
https://www.instagram.com/p/Bsrrf1lnxcd/

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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その四) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「蕪村《遊舞図》」周辺

画像1.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「蕪村《遊舞図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0009.jpg

≪ 「遊舞図」 蕪村写意/夜半翁画ハ古澗(こかん)/ノ意ヲ取ニ似タリ ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

(補記その一)

≪ 古澗慈稽(こかん-じけい)
 1544-1633 織豊-江戸時代前期の僧。
天文(てんぶん)13年生まれ。臨済(りんざい)宗。京都建仁寺(けんにんじ)大統院の奎文慈瑄の法をつぐ。博多の聖福寺(しょうふくじ)住持をへて,慶長10年建仁寺,13年京都南禅寺の住持。詩文,とくに聯句(れんく)にすぐれた。林羅山(らざん)も大統院で教えをうけた。寛永10年9月10日死去。90歳。信濃(しなの)(長野県)出身。俗姓は土田。≫(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

https://www.atpress.ne.jp/news/128535

大黒天図.jpg

「大黒天図」(画僧古澗研究会蔵)

(「補記その二」)

≪ 蕪村は「古澗(こかん)ノ意ヲ取ニ似タリ」とあり、蕪村の草画的技法に於ける先行的意義を画僧古澗に認めている。このような減筆的、草画的表現は、とくに人物描写に於いて見られる近世絵画史の特色的な一面ではなかろうか。足利期水墨画以降に、点景人物として一、二筆による端的な表現法を見るであろうが、これとは別に、柔らかい一種の洒脱な趣を含んだ描線による表現である。蕪村「俳諧三十六歌仙」などはこの種の典型的なタイプを示すものであろう。
 「近頃蕪村一流ヲ昉(はじ)めおもしろく覚候」とあり、崋山は、「一埽百態」の序文に於いては、風俗画家としての蕪村を非難しているが、俳画としては高く認めていたようである。≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「作品解説(鈴木進稿)」。)

※蕪村「俳諧三十六歌仙」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-07-18

『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a198

「俳諧三十六歌僊 / 夜半亭蕪村 [画・編]」(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06085/he05_06085_p0005.jp


(補記その三) 「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との関係

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)の内容(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との相互関連

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)の内容(順序)

(題籢) 游戯三昧 小舟題
(画一) 団扇と蛍図
(画二) 田草取図
(画三) 燈下読書図 立圃画意 →『崋山画譜』(版本)の(画二)
(画四) 朝顔図 →       『崋山画譜』(版本)の(画七)
(画五) 釣瓶と鶯図 一蝶画題 →『崋山画譜』(版本)の(画四)
(画六) 狩衣人物図
(画七) 狐面図
(画八) 籠に雀図
(画九) 祈祷図
(画十) 茄子図 松花堂画法 →『崋山画譜』(版本)の(画一)
(画十一)游舞図 →『崋山画譜』(版本)の(画六)に、(画十四)の賛(蕪村写意)を用いる。
(画十二)夕立図 →『崋山画譜』(版本)の(画八)
(画十三)枯木宿鳥図 許六写意 →『崋山画譜』(版本)の(画五)
(画十四)相聞図 蕪村写意→「賛」(蕪村写意と賛文)のみ『崋山画譜』(版本)の(画六)に。
(画十五)梅樹図 光悦写生→『崋山画譜』(版本)の(画三)
(跋)  →        『崋山画譜』(版本)の(序)

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)の内容(順序)

『崋山画譜』(版本)の(序) →「游戯三昧 小舟題」(原本)の「跋」文
『同』(版本)の(画一)   →「同」(原本)の「画十」(茄子図 松花堂画法) 
『同』(版本)の(画二)   →「同」(原本)の「画三」(燈下読書図 立圃画意)
『同』(版本)の(画三)   →「同」(原本)の「画十五」(梅樹図 光悦写生)
『同』(版本)の(画四)   →「同」(原本)の「画五」(釣瓶と鶯図 一蝶画題)
『同』(版本)の(画五)   →「同」(原本)の「画十三」(枯木宿鳥図 許六写意)
『同』(版本)の(画六)→「同」(原本)の「画十一・游舞図」と「画十四・蕪村写意と賛文」
『同』(版本)の(画七)   →「同」(原本)の「画四」(朝顔図と崋山の句)
『同』(版本)の(画八)   →「同」(原本)の「画十二」(夕立図と崋山の句)
『同』(版本)の(跋=編者・鈴木三岳の「跋」文)    

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html

[出版地不明] : [出版者不明], 嘉永2[1849]跋
1帖 ; 29.0×15.5cm
書名は題簽による 扉題:崋山翁俳画/椎屋蔵板 色刷/折本


(参考その四) 「俳画の流れ」(「蕪村」から「崋山」へ)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-06-21

≪ 蕪村は、この「はいかい物之草画」に関しては、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)と、画・俳両道を極めている蕪村ならではの自負に満ちた書簡を今に残している(安永五年八月十一日付け几董宛て書簡)。
 「俳画」という名称自体は、蕪村後の渡辺崋山の『俳画譜』(嘉永二年=一八一九刊)以後に用いられているようで、一般的には「俳句や俳文の賛がある絵」などを指している。≫

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-12-14

≪「浮世絵」に比して、「町物」という言葉は未だ一般には通用しない、特殊な用語の部類なのかも知れない。意味するものは、「公家文化(公家時代の書画など)」=「公家物」、「武家文化(武家時代の書画など)」=「武家物」とすると、「町人文化(浮世絵師・町絵師時代の書画など)」=「町物」というようなことである。
 そして、この「町物」の代表的なものは、江戸時代の江戸(東京)で、今に、世界に通ずる日本文化の一翼を担っている「浮世絵」の世界ということになろう。
この「浮世絵」に携わった絵師などを「浮世絵師」とすると、「浮世絵師」というジャンルではなく、「町絵師」による「公家物」「武家物」(さらに「五山文化」=「僧侶物」)などに携わった世界が、これが、いわゆる、京都の円山応挙を祖とする「円山四条派」の世界と見做して大筋差し支えなかろう。
そして、「浮世絵」が大流行した江戸(東京・関東)においても、京都の応挙に匹敵する、
「酒井抱一・谷文晁・渡辺崋山など」の、狩野派の御用絵師ではなく、当時の一般人(町人など)に支持された、その出身を問うことなく、いわゆる「町絵師」が、「浮世絵師」に匹敵する、いや、それ以上の多種多様な世界を構築していたということなのである。
 これらを、「浮世絵」に伍して、江戸(関東)と京都(関西)に二分して、それぞれ「江戸町物」「京都町物」と二分して、「浮世絵」「江戸町物」「京都町物」の三区分で、その上に、京都の、「公家文化=御所」ではなく、その「武家文化=二条城」ではなく、その「僧侶文化=相国寺」ではなく、その「町人文化=洛東遺芳館」という観点で、この「洛東遺芳館」の、これまでの展示などをフォローしていきたいのである。≫

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-25

≪上記の、『江戸流行料理通大全』の、上記の挿絵の、その中心に位置する「亀田鵬斎」とは、「鵬斎・抱一・文晃」の、いわゆる、「江戸」(東京)の「下谷」(「吉原」界隈の下谷)の、その「下谷の三幅対」と云われ、その三幅対の真ん中に位置する、その中心的な最長老の人物が、亀田鵬斎なのである。
 そして、この三人(「下谷の三幅対」)は、それぞれ、「江戸の大儒者(学者)・亀田鵬斎」、「江戸南画の大成者・谷文晁」、そして、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と、その頭に「江戸」の二字が冠するのに、最も相応しい人物のように思われるのである。
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。
 さらに換言するならば、「士農工商」の身分に拘泥することもなく、いわゆる「農工商」の庶民層が、その時代の、それを象徴する「芸術・文化」の担い手として、その第一線に登場して来たということを意味しよう。
 すなわち、「江戸(東京)時代」以前の、綿々と続いていた、京都を中心とする、「公家の芸術・文化」、それに拮抗しての全国各地で芽生えた「武家の芸術・文化」が、得体の知れない「江戸(東京)」の、得体の知れない「庶民(市民)の芸術・文化」に様変わりして行ったということを意味しょう。

谷文晁(たに・ぶんちょう)
(宝暦十三年(1763)九月九日-天保十一年(1841)十二月十四日、江戸下谷ニ長町の自宅で歿、享年七十八歳。) 江戸時代後期の画家。父は田安家の家臣で漢詩人でもあった谷麓谷。画ははじめ狩野派の加藤文麗、長崎派の渡辺玄対に学び、鈴木芙蓉から山水画を学ぶ。古画の模写と写生を基礎に南宗画・北宗画・洋風画などを加えた独自の画風を生み出した。また、松平定信に認められ、「集古十種」の編纂に携わり、その挿絵を描くなどして社会的な地位を得、江戸における文人画壇の重鎮となった。その門下からは渡辺崋山、立原杏所などのすぐれた画家を輩出した。包一、鵬斎、文晃の三人は「下谷の三幅対」と云われ、生涯の遊び仲間であった。≫

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-28

≪ その文晁の、それまでの「交友録」というのは、まさに、「下谷の三幅対」の、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」に、陰に陽に連なる「江戸(東京)」の、その後半期の「江戸」から「東京」への過度期の、その節目、節目に登場する、一大群像を目の当たりにするのである。

松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂

 その一門も、綺羅星のごとくである。

(文晁門四哲) 渡辺崋山・立原杏所・椿椿山・高久靄厓
(文晁系一門)島田元旦・谷文一・谷文二・谷幹々・谷秋香・谷紅藍・田崎草雲・金子金陵・鈴木鵞湖・亜欧堂田善・春木南湖・林十江・大岡雲峰・星野文良・岡本茲奘・蒲生羅漢・遠坂文雍・高川文筌・大西椿年・大西圭斎・目賀田介庵・依田竹谷・岡田閑林・喜多武清・金井烏洲・鍬形蕙斎・枚田水石・雲室・白雲・菅井梅関・松本交山・佐竹永海・根本愚洲・江川坦庵・鏑木雲潭・大野文泉・浅野西湖・村松以弘・滝沢琴嶺・稲田文笠・平井顕斎・遠藤田一・安田田騏・歌川芳輝・感和亭鬼武・谷口藹山・増田九木・清水曲河・森東溟・横田汝圭・佐藤正持・金井毛山・加藤文琢・山形素真・川地柯亭・石丸石泉・野村文紹・大原文林・船津文淵・村松弘道・渡辺雲岳・後藤文林・赤萩丹崖・竹山南圭・相沢石湖・飯塚竹斎・田能村竹田・建部巣兆  ≫

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-01

渡辺崋山・ヒポクラテス像.jpg

≪「ヒポクラテス像」≪渡辺崋山筆≫ 江戸時代 天保11年(1840) 絹本墨画淡彩 縦110.3 横41.7
1幅 重要美術品 九州国立博物館蔵
【 江戸時代の文人画家・渡辺崋山筆。崋山と交流のあった浅井家伝来のもの。西洋医学の祖と仰がれたヒポクラテスの胸像を、要を得た陰影法によって写実的に描いている。崋山の洋学者としての一面を伝えている。江戸時代の学問、特に洋学の普及を象徴する作品として貴重である。  】

渡辺崋山新論(1)―克己の人渡辺崋山―(「おもしろ日本美術3」No.1)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro1.html

衝撃的なその最期―杞憂を以て死した崋山先生―(「おもしろ日本美術3」No.2)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro2.html

今なお多くの信奉者を惹きつける克己の人渡辺崋山―崋山研究の糸口としての珠玉の史料の数々― (「おもしろ日本美術3」No.3)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro3.html

列強の脅威の中での日本の行く末を案じる開明派の苦悩―自叙伝の体をなす渡辺崋山の『退役願書稿』― (「おもしろ日本美術3」No.4)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro4.html

渡辺崋山の草体画(1)―崋山渾身の当世風俗活写『一掃百態』―(「おもしろ日本美術3」No.5)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro5.html

渡辺崋山の草体画(2)―崋山と洒脱なへたうま画の極み俳諧画―(「おもしろ日本美術3」No.6)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro6.html

渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro7.html

渡辺崋山の草体画(4)―紀行画『刀禰游記』と手控冊『客坐縮写第五』―(「おもしろ日本美術3」No.8)

「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro9.html

渡辺崋山の写生観―写生は“自然界からの図取り”―(「おもしろ日本美術3」No.10)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro10.html

≪ (抜粋)
 統的な東洋画は、画面作りにあたって頭の中で練りあげる「構成画」を基本としており、そのための手段として、先人の名蹟に倣う「図取り」を積極的に行なっている。「図取り」とは、画譜や舶載の中国画、日本の先人の名画等の構図や図柄などを、全体的に、あるいは部分的にと借用して自らの作品を作りあげる手だてとする行為であるが、渡辺崋山が道端の草花や小動物を愛情深く写した『翎毛虫魚冊』や『桐生付近見取図巻』等の、現代の感覚でいう写生(写真)も、正しくはこの姿勢の延長として考えるべきなのである。
 すなわち、言うならば“自然界からの「図取り」”なのであり、狩野派や住吉派などの作品に見られる「地取」(ぢどり)の語も、読んで字の如く眼前の自然景の一角を切り取り直模する行為を示している。
 江戸時代も後半期には、情報化社会の到来とともに、出版物の挿図や、絵地図、観光ガイドブック等に需用があったり、あるいは公命を受けて、各種の記録や、海防、城下の警備対策のための資料作り等と、専門画家たちが狩り出され、実景に即した実用の「真景図」を描く機会も多くなる。
 師の谷文晁は、松平定信公の沿岸巡視に同行して『公余探勝図』を描き、同胞立原杏所も公命を拝して『水府城真景図』『袋田瀑布図』を描いている。
 ただここで大切なのは、当時の習いとしては、あくまで、図取りや地取り、写真によってた素材を自らの回路を通過させる手順が前提であるということである。
 写真機の没個性的な映像ではなく、言うならば、画家の頭や心の中を経由する行程を重んじ、写意というか対象の視覚的イメージに留まらず、寒暖や香り、風といった大気のありようなど、目に見えないものや、存在そのものにまで肉迫することこそ、アーティストならではの本領として追い求めているのである。
 また、スケッチや画稿そのものは、いわば楽屋裏のノーカウントのもので、檜舞台で脚光を浴びる筋合のものでもなく、作家にとっては人目に触れるだけでも気恥かしいものなのである。
 崋山の「写生切近なれば俗套に陥り候… 乍去、風趣風韻を専に心得候得ば山水空疎の学に落」との主張は、西洋絵画の流入より受けたカルチャーショックを、自らの宿題である「写生」と「写意」、そして「気韻生動」の理念として、改めて問い直すものであり、アンチテーゼたる異質の美術概念を得て、伝統的な日本画をより高い極みに止場(アウフへーベン)しようといったその高邁な信念を示していると言える。(文星芸術大学 上野憲示稿)  ≫
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その三) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「本阿弥光悦《梅樹図》」周辺

本阿弥光悦《梅樹図》」.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「本阿弥光悦《梅樹図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0006.jpg

≪「梅樹図」 光悦ハ写生にて/趣を取る/本阿弥全ク松花/堂ヨリ来る ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

≪ 「光悦ハ写生にて趣を取る」とあり、「全ク松花堂ヨリ来る」として、ここでも松花堂よりの影響を述べている。光悦の対象に即した、しかもその要約的な情趣的な表現が、俳画の要諦として注目せられていることは、俳画というものを単なる減筆的な、略画的俳画とは峻別されなくてはならない。「写生にて趣を取る」というところに、崋山画説の一面に触れることができようと思う。 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「作品解説(鈴木進稿)」)

寛永の三筆.jpg

http://hiroshi-t.com/KOUETSU5.pdf

 「寛永の三筆」と呼ばれている、「本阿弥光悦・近衛信伊・松下堂照乗」の三人については、『本阿弥行状記・中巻(七二)』に、次のような一節がある。

≪ 青蓮院御門主の御弟子、近衛応山公、滝本坊、私三人に筆道の御伝を請候節、門主被仰候趣は、今日筆道の伝残らず済候上は、三人とも自分の流儀を立てられ可然候。(以下略) ≫(『本阿弥行状記・中巻(七二)』)

(補記)

「青蓮院流」=書道流派の一つ。青蓮院の門跡、尊円法親王のはじめたもの。小野道風・藤原行成の書法に宋の書風を取り入れた力強く豊満な書体。室町時代に起こり、江戸時代には朝廷、幕府、諸藩の公文書や制札などに用いられた。また、御家流(おいえりゅう)と呼ばれ、広く一般にも用いられた。尊円流。(「精選版 日本国語大辞典」)

「近衛応山公(近衛信伊)」=安土桃山・江戸初期の公卿。書家。近衛流(三藐院流(さんみゃくいんりゅう))の祖。前久の子。法号三藐院。左大臣、関白、氏の長者となり、准三后に任じられる。御家流の道澄流を学び、上代様を基にして一派を樹立。本阿彌光悦、松花堂昭乗とならんで、寛永の三筆と称される。画、和歌もよくした。永祿八~慶長一九年(一五六五‐一六一四)(「精選版 日本国語大辞典」)

「滝本坊(松花堂照乗)」=江戸初期の真言宗学僧。能筆家で寛永三筆のひとり。俗姓は中沼。名は式部。別号は惺々、空識。摂津国堺の人。石清水男山八幡の社僧となり、晩年は八幡宮の泉坊に松花堂を営んで移り住んだ。書道松花堂流の開祖。また、水墨画や彩色画にも長じ、茶人としても著名。天正一二~寛永一六年(一五八四‐一六三九))(「精選版 日本国語大辞典」)

「本阿弥光悦」=没年:寛永14.2.3(1637.2.27)/生年:永禄1(1558)
 桃山時代から江戸初期の能書家,工芸家。刀剣の鑑定,とぎ,浄拭を家職とする京都の本阿弥家に生まれた。父は光二,母は妙秀。光悦の書は,中国宋代の能書張即之の書風の影響を受けた筆力の強さが特徴であるが,慶長期(1596~1615)には弾力に富んだ,筆線の太細・潤渇を誇張した装飾的な書風になり,元和~寛永期(1615~44)には筆線のふるえがみられ,古淡味を持つ書風へと変遷していった。近衛信尹,松花堂昭乗 と共に「寛永の三筆」に数えられる。蒔絵や作陶にも非凡の才を発揮するほか,茶の湯もよくし,当代一流の文化人であった。
 元和1(1615)年,徳川家康から洛北鷹峰(京都市)の地を与えられ,一族,工匠と共に移住し,創作と風雅三昧の生活を送った。俵屋宗達の描いた金銀泥下絵の料紙や,木版の型文様を金銀泥ですりだした料紙に,詩歌集などを散らし書きした巻物をはじめ,多くの遺品を伝える。また典籍や謡本を,雲母ずりした料紙に光悦流の書を用いて印刷した嵯峨本の刊行なども知られ,光悦流は角倉素庵,烏丸光広など多くの追随者に受け継がれた。(島谷弘幸) (「朝日日本歴史人物事典」)

 この「寛永の三筆」の、「本阿弥光悦と松花堂(滝本坊)照乗」などについて、『本阿弥行状記・中巻(八三)』に、次のようなに記されている(その全文は下記のとおり)。

≪ 或時惺々翁予が新に建たる小室を見て、さてもあら壁に山水鳥獣あらゆる物あり。絵心なき所にてはかようの事も時々写度おもう時も遠慮せり。幸いに別魂のそこの宅中、願うてもなき事と、一宿をして終日いろいろの絵をしたため、予にも恵まれし。
 余も絵は少しはかく事を得たりといえども、中々其妙に至らざれば、あら壁の模様をよき絵の手本ともしらず。勿論古来よりあら壁に絵の姿ありと申事は聞伝うるといえども、目のあたり惺々翁のかきとられしにて疑いもはれ、何事も上達をせざれば其奥義をさとられぬ者と、今更のように思いぬ。
 しかし其道を得ぬことはおかしき物にて、陶器を作る事は余は惺々翁にまされり。然れども是を家業体にするにもあらず。只鷹が峰のよき土を見立て折々拵え侍る計りにて、強て名を陶器にてあぐる心露いささかなし。是につき惺々翁と談ぜしことあり。
 書画何芸にても天授という物ありて、いか程精を尽ても上達群を出る事凡出来ぬ物なり。けたいしては猶行ず。其外何芸にても、其法にからまされては却て成就せぬことも有ものとぞ。
 龍をとる術を習うて、取べきの龍なく、また龍の絵を至って好みし人に、まことの龍顕われ出ければ目をまわせしというが如く、軍学の七書を、宋名将岳飛は少しも用いず。
 七書の趣にさこうて毎度大軍に勝しがごとく、義経公の逆落しも、正行公の京都へ逆寄せを真似て、秀吉公の先陣となりて権現様と御取合のせつ、池田勢入父子に森武蔵守打死めされしにて考え知るべし。
 然れども軍学なくて軍は出来ねども、例えば七書は只其可勝、可負の利をせめて書し者にて、此後とても名将の胸中よりは奇代の軍慮七書より出べし。万芸みなかくのごとしとたがいに感じぬる。≫ (『本阿弥行状記・中巻(八三)』)

(補記) 「本阿弥光悦と松花堂(滝本坊)照乗」との関係

「余も絵は少しはかく事を得たりといえども、中々其妙に至らざれば、あら壁の模様をよき絵の手本ともしらず。勿論古来よりあら壁に絵の姿ありと申事は聞伝うるといえども、目のあたり惺々翁のかきとられしにて疑いもはれ、何事も上達をせざれば其奥義をさとられぬ者と、今更のように思いぬ。」

「絵画」の世界は、余(光悦)も少しはやるが、「惺々翁」(「松花堂(滝本坊)照乗」」)には及ばないし、それを一つの見本としている。

「陶器を作る事は余は惺々翁にまされり。然れども是を家業体にするにもあらず。只鷹が峰のよき土を見立て折々拵え侍る計りにて、強て名を陶器にてあぐる心露いささかなし。是につき惺々翁と談ぜしことあり。」

「陶器」の世界は、余(光悦)が、「惺々翁」(「松花堂(滝本坊)照乗」」)を上回っている。しかし、これを、家業化(集団化)することはない。

「書画何芸にても天授という物ありて、いか程精を尽ても上達群を出る事凡出来ぬ物なり。けたいしては猶行ず。其外何芸にても、其法にからまされては却て成就せぬことも有ものとぞ。」

「書・画・陶・蒔絵・茶・華・香・能・曲・舞」等々の世界で、その道の「スペシャリスト」(その「道」の「天授の才ある者」)は目にする。しかし、その「スペシャリスト」は、往々にして、その世界に、とじ込まれ、その殻を破れない者が多い。

「龍をとる術を習うて、取べきの龍なく、また龍の絵を至って好みし人に、まことの龍顕われ出ければ目をまわせしというが如く、軍学の七書を、宋名将岳飛は少しも用いず。」

この一節は、酒井抱一句集の『屠龍之技』などと深く関わっているように思われる。

「 然れども軍学なくて軍は出来ねども、例えば七書は只其可勝、可負の利をせめて書し者にて、此後とても名将の胸中よりは奇代の軍慮七書より出べし。万芸みなかくのごとしとたがいに感じぬる。」

具体的には、光悦は、「書」(「光悦様」)、「陶芸」(「光悦茶碗」)、「漆芸」(「光悦蒔絵」)、「能」(「光悦謡本」)、「書画和歌巻」(「光悦・宗達の合作」)等々の、その個の世界にあっても、「アーティスト」(一分野での芸術家)として一流であるが、それが多岐に亘っての「マルチアーテスト又はマルチクリエーター」(多岐分野に亙る芸術家・創作活動家)、それに加えて、「プロデューサー(制作責任者)兼ディレクター(指揮・監督者)」という名を冠することが、より相応しいような、「琳派の創始者」の一人の、「ゼネラル・アーテスト」(総合芸術家)ということになる。(『光悦―琳派の創始者(河野元昭編)』所収「光悦私論」など)

 ここで、「琳派の創始者」の一人の「本阿弥光悦」の「絵画」については、その『本阿弥行状記・中巻(八三)』で、「余も絵は少しはかく事を得たり」と記しているが、今に、遺されているのは、下記のアドレスで紹介した、「扇面月兎画賛(せんめんげっとがさん)」(畠山記念館蔵)程度なのである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-15

光悦・月に兎図扇面.jpg

本阿弥光悦筆「扇面月兎画賛(せんめんげっとがさん)」紙本着色 一幅
一七・三×三六・八㎝ 畠山記念館蔵
【 黒文の「光悦」印を左下に捺し、実態のあまりわかからない光悦の絵画作品のなかで、書も画も唯一、真筆として支持されている作品である。このような黒文印を捺す扇面の例は、同じく「新古今集」から撰歌した十面のセットが知られている。本図のように曲線で画面分割するデザインのもあり、それらとの関係も気になるところである。 】(『もっと知りたい 本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)

(再掲)

(追記一)光悦の絵画作品など

赤楽兎文香合.jpg

本阿弥光悦作「赤楽兎文香合(あからくうさぎもんこうごう)」出光美術館蔵
重要文化財 一合 口径八・五㎝
http://idemitsu-museum.or.jp/collection/ceramics/tea/02.php
【寛永三筆と讃えられる本阿弥光悦は、工芸にも優れた作品を残しました。徳川家康より京・鷹ヶ峯の地を拝領して陶芸を始め、楽家二代・常慶、三代・道入の助力を得て作られた楽茶碗がよく知られています。本作は蓋表に白泥と鉄絵で「兎に薄」の意匠が描かれ、文様が施された稀少な光悦作品です。光悦は古田織部から茶の湯の手ほどきを受けており、本作には織部好みといえる、自由な造形が感じられます。茶人大名の松平不昧が旧蔵し、原三渓も所蔵していました。 】

 上記の二点のみが、「光悦の絵」の絵画作品として取り上げられいる全てである(『もっと知りたい 本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)。
 この他に、本阿弥宗家に伝来されていたとの光悦筆「三十六歌仙図帖」は、現在は所在不明で、これは、整版本の『三十六歌仙』(フリア美術館ほか所蔵)とは別な肉筆画との記述がある(『玉蟲・前掲書』)。

 本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は、「永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))、江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)と紹介されるが、本業は「刀剣の鑑定・研磨・浄拭(ぬぐい)」が家業で、「書家、陶芸家、芸術家」というよりも、「書・画・陶芸(茶碗)・漆芸(蒔絵)・能楽・茶道・築庭」などに長じた「マルチタレント=多種・多彩・多芸の才能の持ち主」の文化人で、その多種・多彩・多芸の人的ネットワークを駆使して、「マルチ・クリエーター」(多方面の創作活動家)から、さらに、「ゼネラル・アーテスト」(総合芸術家)の世界を切り拓いていった人物というのが、光悦の全体像をとらえる上で適切のように感じられる。
 そして、光悦の人的なネットワークというのは、「相互互恵的・相互研鑽的」な面が濃厚で、例えば、その書は、寛永の三筆(近衛信尹・松花堂昭乗・光悦)そして洛下の三筆(昭乗・光悦・角倉素庵)、その画は、俵屋宗達 陶芸は楽家(常慶・道入)、漆芸は五十嵐家(太兵衛・孫三)、能楽(観世黒雪)、茶道(古田織部・織田有楽斎・小堀遠州)、そして、築庭(小堀遠州)、さらに、和歌(烏丸光広)、古典(角倉素庵)、儒学(角倉素庵・林羅山)等々、際限がなく広がって行く。
 そして、これらの人的なネットワークが結実したものの一つとして、近世初期における出版事業の「嵯峨本」の刊行が挙げられるであろう。この嵯峨本は、当時の日本(京都だけでなく)の三大豪商の「後藤家・茶屋家・角倉家」の一つの「角倉家」の、その角倉素庵が中心になり、そこに、「光悦・宗達」が加わり、さらに、「謡本」の「観世黒雪」そして、公家の「烏丸光広・中院通勝」等々が加わるのであろう。
 ここに、もう一つ、いわゆる、「光悦書・宗達画」の「和歌巻」の世界が展開されて行く。この「和歌巻」の一つが『鶴下絵和歌巻』で、この作品は、単に「光悦書・宗達画」の二人のコラボレーション(協同作品・合作)ではなく、広く「光悦・宗達・素庵」のネットワーク上に結実した総合的なコラボレーション(協同作品・合作)の一つと解したい。

兎桔梗図.jpg

宗達筆・烏丸光広賛「兎桔梗図」一幅 98.5×43.9㎝ 東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0013569

 この宗達筆の「兎桔梗図」の画賛(和歌)は、烏丸光広が自作の歌を賛しているようである。烏丸光広の歌(『烏丸亜相光弘卿集』)は、下記のアドレスで見ることができる。

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYU1-046-03

(中略)

慶長五年(一六〇〇)光悦(43)このころ嵯峨本「月の歌和歌巻」書くか。関が原戦い。
☆素庵(30)光悦との親交深まる(「角倉素庵年譜」)。
同六年(一六〇一)光悦(44)このころ「鹿下絵和歌巻」書くか。
同七年(一六〇二)宗達(35?)「平家納経」補修、見返し絵を描くか。
同八年(一六〇三)☆光広(24?)細川幽斎から古今伝授を受ける(『ウィキペディア(Wikipedia)』)。徳川家康征夷大将軍となる。
同九年(一六〇四)☆素庵(34)、林蘿山と出会い、惺窩に紹介する。嵯峨本の刊行始まる(「角倉素庵年譜」)。
同十年(一六〇五)宗達「隆達節小歌巻」描くか。黒雪(39?)後藤庄三郎に謡本を送る。
徳川秀忠将軍となる。
同十一年(一六〇六)光悦(49)「光悦色紙」(11月11日署名あり)。
同十三年(一六〇八)光悦(51)「嵯峨本・伊勢物語」刊行。
同十四年(一六〇九)光悦(52)「嵯峨本・伊勢物語肖聞抄」刊行。☆光広(30?)勅勘を蒙る(猪熊事件)(『ウィキペディア(Wikipedia)』)。
同十五年(一六一〇)光悦(53)「嵯峨本・方丈記」刊行。
同十七年(一六一二)光悦(55)☆光悦、軽い中風を患うか(「光悦略年譜」)。
同十九年(一六一四)近衛信尹没(50)、角倉了以没(61) 大阪冬の陣。
元和元年(一六一五)光悦(58)家康より洛北鷹が峰の地を与えられ以後に光悦町を営む。古田織部自刃(62)、海北友松没(83)。大阪夏の陣。

☆「光悦略年譜」=『光悦 琳派の創始者(河野元昭編)』。「角倉素庵年譜」=『角倉素庵(林屋辰三郎著)』。

 「光悦・宗達・素庵」らのコンビが中心になって取り組んだ「嵯峨本」の刊行や「和歌巻」の制作は、慶長五年(一六〇〇)の「関が原戦い」の頃スタートして、そして、元和元年(一六一五)の「大坂夏の陣」の頃に、そのゴールの状況を呈すると大雑把に見て置きたい。
 そして、この「光悦・宗達・素庵」の人的ネットワークの中に、「黒雪・光広」などもその名を列ね、元和元年(一六一五)の、光悦の「洛北鷹が峰(芸術の郷)」の経営のスタートと、元和五年(一六一九)の、素庵の「嵯峨への隠退」(元和七年=一六二一、病症=癩発病)の頃を境にして、「光悦・宗達・素庵」の時代は終わりを告げ、「宗達・光広」、「光悦→光甫」、そして「宗達→宗雪・相説」へと変遷していくと大雑把な時代の把握をして置きたい。
 それに加えて、烏丸光広は、堂上派(二条家の歌学派中、細川幽斎以来の古今伝授を受け継いだ公家歌人の系統)の歌人であるが、地下派(堂上派の公家に対して、武士や町人を中心にし、古今伝授や歌道伝授を継受する歌風で、細川幽斎門下の松永貞徳派の歌人が中心となっている)の貞徳(幽斎から事実上「古今伝授」を授かっているが「古今伝授」者とは名乗れない)とは昵懇の間柄で、光広自身、  
「連歌・狂歌・俳諧・紀行・古筆鑑定」などの多方面のジャンルに精通している。
 その書も寛永の三筆(信尹・昭乗・光悦)とならび称され、その書風は光悦流とされているが、「持明院流→ 定家流→ 光悦流→ 光広流」と変遷したとされている(『ウィキペディア(Wikipedia)』)。
 ここで、上記の「小倉山荘色紙形和歌」(百人一首)の、光広の筆跡は、光悦と切磋琢磨した頃の「光悦流」のもので、宗達筆の「兎桔梗図」の画賛(和歌)した光広の書は、晩年の「光広流」のものと解したい。
 と同時に、光悦の数少ない絵画作品として知られる「扇面月兎画賛」と「赤楽兎文香合」は、宗達と光広のコラボレーションの作品の「兎桔梗図」などに示唆を受けたもので、「宗達・光広」の時代の、晩年の光悦時代にも、「宗達・光広」などとの切磋琢磨は続いていたものと解したい。
 そして、「宗達・素庵・黒雪・光広」等々の、光悦の黄金時代の「嵯峨本・和歌巻」の制作に協同して当たった面々は、光悦よりも一回りも二回りも若い、光悦流の、刀剣で例えれば、「あら身(新身・新刀・新しく鍛えた刀)」(『本阿弥行状記・上巻・四八段』)で、それらを、それぞれに鍛え上げっていった、その人こそ、本阿弥光悦の、その「マルチ・クリエーター」(多方面の創作活動家)にして「ゼネラル・アーテスト」(総合芸術家)たる所以なのであろう。

(追記) 「寛永文化」と「上層町衆・本阿弥光悦」周辺

 「寛永文化」(かんえいぶんか)につては、下記アドレスのものが参考となる。

https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=863

≪ 後水尾・明正天皇の寛永年間(一六二四―四四)を中心とした近世初頭の文化をさし、桃山文化の残映と元禄文化への過渡的役割を果たした。ふつう元和偃武ののち、明暦―寛文のころまでを含めて考えられる。
 江戸幕府の封建的体制の強化される時にあたって、京都の宮廷と上層町衆を中心としては、これに反撥的な古典的文化が成立し、江戸の武家を中心としては主として体制的な儒教的文化が発展した。その特質はしばしば西の桂(離宮)に対して東の日光(東照宮)が考えられるが、両者は対蹠的に寛永文化の二つの側面を代表しているといってもよいであろう。 
 しかしこれらは東西に対比されながら相互に交渉もあって、京都における寛永文化としては、二焦点の楕円形の文化構造が考えられる。
 この事実は、西の宮廷をみても、後水尾院のもとに入内した東福門院は江戸の姫君(徳川秀忠の女和子)であって、東の武家をも含みこむことができた。女院は入内後江戸に帰ることなく、京都人になりきって戦乱に荒廃した文化財の復興に力を尽くした。
王朝寺院として知られた清水寺・仁和寺などはこの時に復興され、女院の外祖父浅井長政の菩提をとむらう養源院もこの時に創立された。
 仁和寺近くに住んで野々村仁清の作品を世に出した金森宗和、養源院に板戸絵をえがいた俵屋宗達、いずれも宮廷に出入した芸術家であった。
 それらの群像のなかで元和元年(一六一五)より鷹ヶ峰に居を構えた本阿弥光悦は、まさに代表格であって、古典的教養にささえられ、書蹟に作陶に寛永文化を代表する作品をとどめた。
 この光悦とともにはやく嵯峨本の刊行に力を尽くした角倉素庵は、清水寺にかかげる扁額が示すように、父了以いらい安南貿易に雄飛しかつ国内の河川疏通に活躍した実業家であるが、同時に儒学においても一家をなした。この光悦・素庵こそは寛永文化を創造した二つの焦点であったとみられる。
 その楕円形のなかには、近衛信尋・中院通勝・烏丸光広・俵屋宗達・灰屋紹益・千宗旦もおれば、板倉重宗・藤原惺窩・林羅山・堀正意・石川丈山・狩野探幽などもおり、ここに公武・和漢の文化の綜合が考えられるのである。
 しかし寛永文化の特徴は、やはり京都を舞台とした古典復興のなかに最も重点があり、そのにない手は上層町衆たちであった。そのあたりから京都島原の角屋の意匠なども、寛永文化にねざしたものということができるのである。なお寛永文化は江戸よりも加賀にゆかりが深く、光悦は先代いらい加賀前田家に仕えていたが、前田利常の女富姫は桂宮(八条宮)二代智忠親王のもとに輿入れし、利常の弟利政の女は角倉素庵の長男玄紀の後妻となっていて、加賀と京とを深く結びつけていた。
 また利常の生母寿命院ゆかりの能登妙成寺の伽藍は、すべて寛永文化の地方版をみるごとく新鮮である。近世初期京都への憧憬のなかで営まれた地方の文化遺産には、寛永文化の伝播の姿と見られるものは多い。
[参考文献]
林屋辰三郎『中世文化の基調』、同『寛永鎖国』(『国民の歴史』一四)、同『近世伝統文化論』
(林屋 辰三郎)≫(「ジャパンナレッジ」)

 これに、下記アドレスの、「学問(藤原惺窩・林羅山)」「建築(日光東照宮・桂離宮と修学院離宮)」「絵画(狩野派・装飾画)」「工芸(蒔絵・楽焼・有田焼)」「芸能(茶道・書道)」「文学(仮名草紙・俳諧)」の各分野毎のものが参考となる。(山川出版社版の高校日本史教科書『詳説日本史B』をベースにしている。)

http://www2.odn.ne.jp/nihonsinotobira/kanei.html

 さらに、「上層町衆・本阿弥光悦」周辺については、下記アドレスの「<論説>近世初頭における京都町衆 の法華信仰 (藤井学稿「特集 : 都市研究」)」が参考となる。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/249377/1/shirin_041_6_520.pdf

 これらの、「寛永文化」と「上層町衆・本阿弥光悦」周辺に関しては、下記のアドレスで紹介した、『光悦 琳派の創始者(河野元昭編・宮帯出版社・2015年)』が、上記のことなどを踏まえて、それぞれの専門家によってまとめられている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-19

(再掲)

Ⅰ 序論  「光悦私論」(河野元昭稿)
Ⅱ 光悦とその時代  
  「光悦と日蓮宗」(河内将芳稿)
  「近世初頭の京都と光悦村」(河内将芳稿)
  「光悦と寛永の文化サロン」(谷端昭夫稿)
  「光悦と蒔絵師五十嵐家」(内田篤呉稿)
  「光悦と能-能役者との交流」(天野文雄稿)
  「光悦と朱屋田中勝介・宗因」(岡佳子稿)
  「光悦と茶の湯」(谷端昭夫稿)
Ⅲ 光悦の芸術  
  「書画の二重奏への道-光悦書・宗達画和歌巻の展開」(玉蟲敏子稿)
  「光悦の書」(根本知稿)
  「光悦蒔絵」(内田篤呉稿)
  「光悦の陶芸(岡佳子稿)
Ⅳ 光悦その後  
  「フリーアと光悦-光悦茶碗の蒐集」(ルイーズ・A・コート稿)

 そして、この書に関して、『嵯峨野明月記(辻邦生著・新潮社・1971)』の、「一の声(光悦)」「二の声(宗達)「三の声(素庵)」などを紹介し、「光悦と嵯峨本(光悦と素庵)」そして「「和歌・書・画の三重奏の道―光悦・宗達・素庵らの和歌巻の展開」などの項目も付加して欲しいことなどを記した。

(再掲)

「一の声(光悦)」=私が角倉与一(素庵)から私の書に対する賛辞でみちた手紙を受け取ったのもその頃のことだ。私は与一とはすでに十五年ほど前、角倉了以殿と会った折、一度会っているはずだが、むろんまだ、十二、三の少年だったわけで、直接な面識はほとんどないに等しかった。

「二の声(宗達)」=本阿弥(光悦)は角倉与一(素庵)からおのれ(宗達)の四季花木の料紙を贈られ、和歌集からえらんだ歌をそれに揮毫していて、それが公家や富裕の町衆のあいだで大そうな評判をとったことは、すでにおれのところに聞こえていた。

「三の声(素庵)」=わたしは史記を上梓したあと、観世黒雪(徳川家と親しい能役者・九世観世大夫)の校閲をたのんで、華麗な謡本に熱中していた。その頃は、本阿弥(光悦)がすでに装幀、体裁、版下を引きうけ、細心な指示をあたえていた。史記で用いた雲母摺りの唐草模様を、さらに華やかにするため、表紙の色を変え、題簽をあれこれと工夫した。

鶴下絵和歌巻・全体.jpg

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」(絵・俵屋宗達筆 書・本阿弥光悦筆 紙本著色・34.0×1356.0cm・江戸時代(17世紀)・ 重要文化財・A甲364・京都国立博物館蔵)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

短冊帖・千羽鶴.jpg

参考A図「四季草花下絵和歌短冊帖(千羽鶴)」一帖(山種美術館蔵)
俵屋宗達(絵)・本阿弥光悦(書) 紙本・金銀泥絵・彩色・墨書・短冊・画帖(1冊18枚のうち1枚) 37.6×5.9㎝
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/248875
【93「短冊帖・本阿弥光悦」一帖(山種美術館蔵)
  もと6曲1双の屏風に20枚貼り交ぜであったもので、現在は18枚が短冊帖に改装され、残る2枚は散佚した。金銀泥で描く装飾下絵は、桔梗に薄・波に千羽鶴・団菊・藤・つつじ・萩・朝顔ほかさまざまあり、いずれも構図に工夫が凝らされている。中に、胡粉を引いたものや金銀の砂子を撒いたものも散見する。とくに銀泥で描いた部分は墨付きの都合で、肉眼でも判然としない箇所があるが、その下絵を縫って見え隠れする豊潤な筆致がかえって立体感を生み出している。慶長年間の筆。(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』)の「モノクロ図版」の解説 】

群鶴蒔絵硯箱.jpg

参考B図「群鶴蒔絵硯箱」一合「蓋表」(東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0048252
【258 「群鶴蒔絵硯箱」(東京国立博物館蔵)
 方形、削面、隅切の被蓋造で、身の左に水滴と硯を嵌め、右に筆置と刀子入を置いた形式は琳派特有のものである。総体を沃懸地に仕立て、蓋表から身の表にかけて、流水に5羽の鶴が飛翔する図を表している。水文は描割で簡単に表わし、その上に厚い鉛板を嵌めこんで鶴を配し、くちばしや脚には銅板を用いている。一見無造作で簡略化した表現のように見えるが、各材料の用法などには充分配慮がゆきとどいた優品の一つである。(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』) )の「モノクロ図版」の解説 】
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その二) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「松花堂画法」周辺

「松花堂照乗《茄子図》」.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「松花堂照乗《茄子図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0003.jpg

≪「茄子図」 松花堂画法 / 惺々翁ハ法ヲ遠ニ取リ/務テ時史ノ風ヲ脱ス (法ヲ縁古ニ取リテ、務テ時史ノ風ヲ脱ス) ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

(参考その一)「松花堂昭乗」周辺

https://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/hito4_syojou.html

≪ ■松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)天正12年(1584)~寛永16年(1639)9月18日

●松花堂昭乗
 松花堂昭乗は、慶長5年(1600)石清水八幡宮の社僧となり、次いで瀧本坊の住職となりました。昭乗は、書道、絵画、茶道の奥義を極め、近衛信尹、本阿弥光悦とともに寛永の三筆と称せられました。

●昭乗の出生・素性は謎
 松花堂昭乗は摂津国堺で生まれ、幼名を辰之助と言いました。兄の喜多川与作が12歳の時、その聡明さを見込まれて興福寺別当一乗院門跡の坊官であった中沼家に迎えられ、この兄に従って奈良に移りました。しかし、その昭乗の出生、素性については、実ははっきりしていません。昭乗と親しかった佐川田昌俊が記した「不二山黙々寺記」によると天正12年(1584)に生まれたとしていますが、「中沼家譜」によれば天正10年(1582)に生まれたことになります。また、昭乗が父母について語ったことがないと伝えられ、昭乗の師であった実乗は、昭乗のことを「捨て子であったものを拾い上げて育てた」と言っています。このとき、すでに昭乗は9歳。少し疑問が残ります。このため、昭乗は豊臣秀次の子であったともいわれています。

●青年期の昭乗
 慶長5年(1600)、昭乗17歳の時、石清水八幡宮瀧本坊実乗のもとで剃髪をして社僧となり、このとき名を昭乗と改めました。特に青蓮院流を学びましたが、慶長7年(1602)、昭乗20歳のとき、四天王寺に参詣して弘法大師の巻物を拝観し、いたく感動、その後大師流を学び、空海を慕って唐風をを祖述したといわれます。そして昭乗は後に松花堂流とも言うべき書風を確立しました。

昭乗の作品「茄子」

「松花堂照乗《茄子図》」2.jpg

●昭乗の交友
 昭乗は、書道のほか、歌道、絵画にもすぐれ、茶道にもその才能を発揮しました。絵画では狩野山楽、山雪について大和絵を学びました。山楽が大坂落城後、昭乗を頼って八幡に来たとき、昭乗は「山楽は絵師で会って武士にあらず」と言い張って、徳川の追求から護ったと伝えられてます。また、茶道を通じて大徳寺の玉室・沢庵・江月などの禅僧や小堀遠州・金森宗和などの大名茶人と交友を深めました。また、昭乗の茶会記には、豪商淀屋个庵の名も見えます。このときの淀屋は2代目言當でした。
 寛永3年(1626)6月11日、前将軍秀忠並びに将軍家光が入洛のため江戸を出発したという状況のなかで、伏見城内で催された茶会では、先に入洛していた尾張中納言徳川義直を席主として、当時伏見奉行の任にあった小堀遠州とともに関白近衛信尋を招待し、義直と信尋の接近を図り、公家と武士の間の斡旋に尽力しています。
 昭乗は若い頃、近衛信尹に仕えて以来、近衛家とはきわめて深い関係にありました。信尹が嗣子がなかったため、妹前子が入内して後陽成天皇との間に生まれた皇子を近衛家に迎え、これが信尋でしたが、この信尋とも昭乗は親密な関係にありました。また、尾張徳川家の祖義直は、石清水八幡宮の社務田中家の分家にあたる志水宗清の娘である亀女が徳川家康に嫁ぎ、その間にもうけた子であったから、義直とも特別な関係にあったことから両者の斡旋にあたるにはもっともふさわしい位置にあったといえます。

●晩年の昭乗
 寛永4年(1627)に師実乗の遷化にともない、瀧本坊の住職となりました。このとき昭乗45歳。数年後、火災により、瀧本坊が焼失してからは、兄元知の子で弟子の乗淳に住職を譲り、自らは「惺々」と号して風雅の境地を築きました。
昭乗が人生の晩年に幽栖するために寛永14年(1637)に男山中腹の泉坊のそばに作った草堂が「松花堂」といわれるもので、たった二畳の広さの中に茶室と水屋、く土、持仏堂を備えた珍しい建物です。ここに詩仙堂の石川丈山や小堀遠州、木下長嘯子、江月、沢庵など、多くの文人墨客が訪れ、さながら文化サロンの風だったと伝えられています。
 松花堂の軒にかかる小さな扁額には「松花堂」と隷書で彫られ、「惺惺翁」の落款が見えます。「老いてなお、心は冴え冴え」というもので、昭乗の心が偲ばれます。

●昭乗の入寂
 寛永16年(1639)、このころから昭乗の背中に腫れ物ができ、昭乗は痛みをこらえる日々が続いたようです。実は昭乗の師であった実乗、また実乗の師の乗裕も背中にはれものができて、それが原因で亡くなっています。このことから、昭乗はこのとき自分の死期を悟ったようです。伏見奉行だった小堀遠州は、昭乗を伏見に呼び、名医による治療を受けさせましたが効果はありませんでした。近衛信尋も病気見舞いに訪れるなど、多くの人たちに愛されながら同年9月18日、55歳の生涯を閉じました。本阿弥光悦の80歳など「寛永の三筆」の中では短命でした。昭乗の墓は、八幡市八幡平谷にある泰勝寺にあります。また、昭乗が晩年に過ごした「松花堂」は今は八幡女郎花の松花堂庭園内に再現されています。≫

(参考その二)「松花堂画寄合賛絵」周辺

https://h29-shokadoshojo.amebaownd.com/posts/3320620/

「松花堂照乗《茄子図》」3.jpg

「茄子図 松花堂画寄合賛絵巻のうち」(個人蔵)
≪ 松花堂昭乗が花鳥や人物を描き、そこに様々な人物が着賛した「松花堂画寄合賛絵巻」。八幡名物としても知られるこの絵巻は、昭和期に分断されて掛軸装となり、諸方に所蔵されています。この「茄子図」もその一つです。
 ぷっくりとした茄子が枝になっている様子を描いたこちらの作品。墨の濃淡と一部に青墨を用いて描かれるこの茄子は、平面にもかかわらず、その重みや円味をありありと感じることができます。茄子からその周りに目を転じると、茄子がぶら下がっている葉には少しずつ濃淡の違いがみられ、それによって奥行きが感じられるようになっています。じーっと見ていると、まるで立体図のようにも見えてきます。
 昭乗の友人で親交の深かった佐川田昌俊という人物は、昭乗の絵を評して「梅花を画くに、匂いあるがごとく」と述べています。描かれているものから五感を刺激されるような…目の前に茄子があり、そのツヤを感じ、重みを感じることができる。昭乗の絵は、どこかそんな不思議な力を持っているようです。≫

(参考その三)「『松花堂画寄合賛絵の模写本』について(田中敏雄稿)」周辺

https://www.grad.osaka-geidai.ac.jp/app/graduation-work/bulletin-paper/geibun25_tanaka.pdf

雉子図.jpg

(図一)「雉子図」(墨画淡彩/五五、六㎝(図3)/かり人の入野のききす打忍ひはるを社ゑね妻やこふらむ行章/賛者今小路行)

「竹図」.jpg

(図二)「竹図」(墨画/五七、二㎝(図2)/虚心寫出両竿竹不滅不生霜節堅「印」/「印」/賛者不詳)

鶏図.jpg

(図三) 「鶏図」(墨画淡彩/五一、五㎝(図4)/大そらにとひ立かねてうち羽ふきかけそと啼か哀れなりけり景樹/賛者・香川影樹《一七六八~一八四三・京都の歌人》)

(図四) 「夢蝶図」→ この図は切り取られていて無し。

芙蓉図.jpg

(図五)「芙蓉図」(墨画/七二、一㎝(図5)/其葉葳蕤霜照夜此花爛慢炎焼秋山口正風「印」/賛者・山口正風)

葡萄図.jpg

(図六) 「葡萄図」(墨画六一、四㎝(図6)/西域誰傳紫玉枝秋季馬乳帯霜肥不憂酒渇相如苦一嚼清/冷味最奇橘山題「印」 「印」/賛者畑柳敬(一七五六~一八二七)・京都の医者・儒)

菊図.jpg

(図七)「菊図」(着色/四八、○㎝(図7)/いろことに〇〇〇菊のうつしゑハあきなき時もかれす見るへき彦澄/賛者・小川彦澄)

梅雀図・鹿図・蕣図.jpg

(図八)「梅雀図」(着色/三七、〇㎝(図8)/〇〇猶来細禽夢乎醒暁風吹彩後梅香凝〇腥鶴橋/柚木太淳「印」 「印」/賛者・柚木太淳(一七六二~一八〇三)/京都の眼科)

(図九)「鹿図」(墨画め六二、九㎝(図9)/色ふかくにほへるはきの花つまにむつれてあそふ野辺のさをしか道覚/賛者・知足院道覚

(図十) 「蕣図」(墨画/五五、八㎝(図10)/このあきのとはなはしらし夕くれをまたてうつろう花のあさかほ重榮/賛者・山下重榮)

山梔鶯図・竹雀図・鳩図など.jpg

(図十一) 雁図」(墨画/四九、○㎝(図11)/秋風を翅にかけつつうら枯のあしの入江に落るかりかね真應/賛者・金剛院真應)

(図十二)「山梔鶯図」(着色/四〇、二㎝(図12)/自経消臘雪林苑鎖煙霞芳意殊凡卉獨/開六出花 皆川愿/題「印」「印」/賛者・皆川淇園(一七三五~一八〇七)・京都の儒学者)

(図十三)「竹雀図」(墨画/五七、一㎝(図13)/ちからなき竹のさえたにあそぶめり起居かろけにみゆるすゝめは/蒿蹊「花押」/賛者・伴蒿蹊(一七三三~一八〇六)・京都の歌人、学者)

(図十四)「鳩図」(墨画/五七、二㎝(図14)/鳩栖桑樹枝凾婦婦何之欲呼無處所縮項空相思之熙 「印」「印」/賛者・京都の儒者・村瀬栲亭(一七四四~一八一九))

(図十五) 「竹眉鳥図」(着色/四七、九㎝(図15)/長喙華毛易誤躬待人苦々含彫籠憐汝獨来阿堵裏柔梢自在喙春蟲徳方拝題「印」/賛者・中嶋泰志(一七四七~一八一六)・京都の儒
者)

叭々鳥図・水仙図.jpg

(図十六) 「叭々鳥図」(墨画五八、 三㎝(図16)/江南春樹雨濛々鸜鵒多懐語暁風莫謂羽毛設文采嗟它鸚鵡鎖重籠橘州禎「印」 印」/賛者・畑柳泰(一七六五~一八三二)・京都の医者)

(図十七)「水仙図」(着色/四七、七㎝(図17)/百草花中第一名氷肌雪骨月魂清風惜獨有寒梅似曽結芳盟為弟兄釈志岸拝題「印」「印」/賛者・菩提院志岸)

茄子図・図18.jpg

(図十八)「茄子図」(墨画/六〇、〇㎝(図18)/二月のふりにはあらぬはつなすひ多か苑生にか折えたりけん保考賛/賛者・岡本保考(一七四九~一八一八)・京都の書家)

瓜図・舟図.jpg

(図十九)「瓜図」(墨画/五八、三㎝(図19)/鵝渓寫書一蒼毬知是春門處士疇不用灌培生意勤何開納履有人例 愛親/賛者・公卿 中山愛親(一七四一~一八一四)・正二位権大納言)

(図二十)「船図」(墨画/四八、三㎝(図20)/小朶知〇處洞庭水来波渡頭縦有待千古汲人過峩眉竜 潭謹題「印」「印」/賛者・天龍寺竜潭西)

船子図・水月図他.jpg

(図二十一図) 「船子図」(墨画/五二、一㎝(図21)/上無片尾蓋霜頭下有長江可擲鈎偶遇金鱗禹碧浪山遥水闊荻蘆 秋宗弼「印」「印」/賛者・南禅寺宗弼西堂)

(図二十二)「菊図」(墨画/五八、七㎝(図 22) 秋色菊形芨一枝絹上妍不霜瓊座砕長賞入詩篇元真賢題 「印」/ 賛者・坂元鈞閑斎)

(図二十三) 「栗図」(墨画/四七、四㎝(図23)/寫真故謝寫嬋娟一種秋容宛可眸想看寒厳幽谷莫葉間山蝟座疎烟規拝題「印」/賛者・中嶋棕隠(一七七九~一八五五)・京都の儒学者、漢詩)

(図二十四) 「水月図」(墨画/七〇、六㎝(図24)/賛なし)

(参考その四)「松花堂照乗データベース」周辺

http://shoukado-shojo.net/

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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その一) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「崋山の序」周辺

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「崋山の序」.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「崋山の序」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0003.jpg

≪ 俳諧絵は唯趣を第一義とといたし候。元禄のころ一蝶許六などあれども風韻は深省などまさり候。此風流の趣は古き所には無く、滝本坊、光悦など昉(はじま)りなるべし。はいかゐには立圃見事に候。近頃蕪村一流を昉(はじ)めおもしろく覚候。かれこれを思ひ合描くべし。すべておもしろかく気あしく、なるたけあしく描くべし,これを人にたとへ候に世事かしこくぬけめなく立板舞物のいひざまよきはあしく、世の事うとく訥弁に素朴なるが風流に見へ候通、この按排を御呑込あるべし。散人 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

(補記)

一 「俳諧絵」=「俳画」=「俳画(はいが)は、俳句を賛した簡略な絵(草画)のこと。一般には俳諧師の手によるものであり、自分の句への賛としたり(自画賛)、他人の句への賛として描かれるが、先に絵がありこれを賛するために句がつけられる場合や、絵と句が同時に成るような場合もある。さらに敷衍して、句はなくとも俳趣を表した草画全般をも指す言葉としても用いられる。『俳画』という呼称は渡辺崋山の『全楽堂俳諧画譜』にはじまるとされており、それ以前の与謝蕪村などは『俳諧物の草画』と称していた。」(「ウィキペディア」)

二 「一蝶」=「英 一蝶(はなぶさ いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年1月13日(1724年2月7日))は、日本の江戸時代中期(元禄期)の画家、芸人。本姓は藤原、多賀氏、諱を安雄(やすかつ?)、後に信香(のぶか)。字は君受(くんじゅ)。幼名は猪三郎(ゐさぶらう)、次右衛門(じゑもん)、助之進(すけのしん)(もしくは助之丞(すけのじょう))。剃髪後に多賀朝湖(たがちょうこ)と名乗るようになった。俳号は「暁雲(ぎょううん)」「狂雲堂(きょううんだう)」「夕寥(せきりょう)」。
 名を英一蝶、画号を北窓翁(ほくそうおう)に改めたのは晩年になってからであるが、本項では「一蝶」で統一する。尚、画号は他に翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りょうしょうあん)、牛麻呂、一峰、旧草堂、狩林斎、六巣閑雲などがある。」(「ウィキペディア」)

三 「許六」=「森川 許六(もりかわ きょりく)は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。蕉門十哲の一人。名は百仲、字は羽官、幼名を兵助または金平と言う。五老井・無々居士・琢々庵・碌々庵・如石庵・巴東楼・横斜庵・風狂堂など多くの別号がある。近江国彦根藩の藩士で、絵師でもあった。」(「ウィキペディア」)

四 「深省」=「尾形 乾山(おがた けんざん、 寛文3年(1663年) - 寛保3年6月2日(1743年7月22日)は、江戸時代の陶工、絵師。諱は惟充。通称は権平、新三郎。号は深省、乾山、霊海、扶陸・逃禅、紫翠、尚古斎、陶隠、京兆逸民、華洛散人、習静堂など。一般には窯名として用いた「乾山」の名で知られる。)(「ウィキペディア」)

五 「滝本坊」=「松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう、天正10年(1582年) - 寛永16年9月18日(1639年10月14日))は、江戸時代初期の真言宗の僧侶、文化人。姓は喜多川、幼名は辰之助、通称は滝本坊、別号に惺々翁・南山隠士など。俗名は中沼式部。堺の出身。書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、書を近衛前久に学び、大師流や定家流も学び,独自の松花堂流(滝本流ともいう)という書風を編み出し、近衛信尹、本阿弥光悦とともに『寛永の三筆』と称せられた。なお松花堂弁当については、日本料理・吉兆の創始者が見そめ工夫を重ね茶会の点心等に出すようになった「四つ切り箱」、それを好んだ昭乗に敬意を払って『松花堂弁当』と名付けられたとする説がある。」(「ウィキペディア」)

六 「光悦」=「本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))は、江戸時代初期の書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人。通称は次郎三郎。号は徳友斎、大虚庵など[1]。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。」(「ウィキペディア」)

七 「立圃」=「雛屋 立圃(ひなや りゅうほ、文禄4年〈1595年〉 - 寛文9年9月30日〈1669年10月24日〉)は、江戸時代初期の日本の京都で活動した絵師であり、俳人でもある。姓は野々口(ののぐち)、名は親重(ちかしげ)[1]。立圃、立甫、甫、松翁、日祐、風狂子と号している。野々口 立圃としても知られる。また、俗称として、紅屋庄衛門、市兵衛、次郎左衛門、宗左衛門など諸説がある。絵師としては狩野派に属する。」 (「ウィキペディア」)

八 蕪村=「与謝 蕪村(與謝 蕪村、よさ ぶそん、よさの ぶそん 享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、文人画(南画)家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」「謝寅(しゃいん)」など複数ある。」(「ウィキペディア」)

(参考)「渡辺崋山の草体画(2)―崋山と洒脱なへたうま画の極み俳諧画―」(「おもしろ日本美術3」No.6)

http://www.bios-japan.jp/omoshiro6.html

≪ 崋山は俳句の宗匠太白堂の知己を得て、自ら俳句を詠み、俳句関係の版本『桃下春帖』『いわい茶』『華陰稿』『月下稿』等の表紙やカットの筆をとっていた(蛮社の獄後は椿山に委ねる)。また、俳画はもちろん戯画略画の洒脱でいきな味わいを好み、自ら描くことも多かった。俳画は俳句の師匠や俳句好きの旦那衆が戯れに描いたところの素人絵に発するが、稚拙ながらもほのぼのとした訥々たる味わいを持つ、今のニューペインティングにいうへたうま的なものが好まれた。
 それも、蕪村や呉春、抱一など本格的な絵師が参入するようになり、また大雅や寒葉斎らの軽いタッチのうちにシャレた雅味を封じ込める軽妙な筆が評判を得て、稚拙な持ち味そのままに高い洗練性を誇る優品が数多く生まれた。
 そもそも、崋山の俳句への関わりは一通りでなく、太白堂五世、六世それぞれと深い付き合いをしていた。太白堂一家とは父巴洲の知り合いであった五世太白堂加藤萊石(初め山口桃隣、崋山『寓絵堂日録』に肖像あり)のころから親しい間がらで、次の六世太白堂(江口孤月、崋山は「華陰兄」と呼ぶ)の代に跨って二十余年間、俳句の世界にも積極的に身を投じていた(俳号は桃三堂支石)。『桃下春帖』天保八年冊に「見に出たる事はわすれて柳かげ」との句を寄せ太白堂との交誼に関する識語を添えている。
 『桃下春帖』は各冊百丁余りで、ほぼ毎頁に崋山の絵を版下としたカットで埋め尽くされており、また、崋山が版下を任された太白堂の年始廻りの配り物の四角奉書色刷りの俳画も数多く知られている。
 崋山の俳画帖については、晩年の『俳画譜』が秀抜で、田原蟄居中に崋山の信奉者である鈴木與兵衛のために俳画の手本として描き与えたものである。崋山歿後與兵衛は、版に起こして世に公刊。明治にはコロタイプの複製も出ている。
 『俳画譜』の自序に、「俳諧絵は唯趣を第一義といたし候。・・・此風流の趣は古き所には無く、瀧本坊、光悦など昉りなるべし。はいかゐには立圃見事に候。近頃蕪村一流を昉めおもしろく覚え候。かれこれ思い合描くべし。すべておもしろくかく気あしく、なるたけあしく描くべし。これを人にたとへ候に世事かしこくぬけめなく立振舞物のいひざまよきはあしく、世の事うとく訥弁に素朴なるが風流は見え候通、この按排を御呑込あるべし。」とあり、自らの確固たる俳画論を披歴している。絵は野々口立圃、英一蝶、松下堂昭乗、森川許六、与謝蕪村、本阿弥光悦等々崋山が推挙する俳画の名手の法に従った倣画を連ねて適宜コメントを添えている。原本は尼崎のY家所蔵。(文星芸術大学 上野 憲示) ≫

(補記その一)  「近世俳人略系譜」と「太白堂(天野桃隣)俳諧系譜」
「近世俳人略系譜」→ https://www.town.kamisato.saitama.jp/1296.htm

太白堂(天野桃隣)俳諧系譜.jpg

太白堂系譜.jpg

「太白堂(天野桃隣)俳諧系譜」→ https://www.town.kamisato.saitama.jp/1295.htm

(補記その二)「 桃家春帖 / 太白堂孤月 [編] ; [渡辺崋山] [ほか画] 」周辺
著者/作者 Author: 孤月, 1789-1872・渡辺 崋山, 1793-1841
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1111/index.html


「桃家春帖・ 太白堂孤月編・渡辺崋山].jpg

「桃家春帖 / 太白堂孤月 [編] ; [渡辺崋山] [ほか画]」所収「渡辺崋山(俳号=桃三堂支石「句=「見に出たる事はわすれて柳かげ」(118/131))(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1111/index.html
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