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「俳誌・ホトトギス」管見(その十四) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス・七百号」周辺

ホトトギス・七百号.jpg
 
「ホトトギス・七百号」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972813/1/1

(目次)

回顧(俳句)/虚子/p3~3
ホトトギス七百號/高濱虚子/p4~5
『ホトトギス』と私/小宮豐隆/p6~10
大師堂の大松/高濱虚子/p11~14
鍔廣の帽子/高濱年尾/p14~15
堀田先生來書/大岡龍男/p15~18
饀パン/佐藤漾人/p18~19
雪沓/深川正一郞/p19~20
梟/京極杞陽/p21~21
十日町/池内たけし/p21~22
物干し/波野千代/p22~23
春風/下田實花/p23~24
花鳥諷詠論について/深見けん二/p26~31
ベルリン句會の時のこと/京極杞陽/p32~33
隨問・隨答/阿部小壼 ; 眞下喜太郞/p34~35
思ひ出・折々 船河原町時代の誰彼/年尾/p36~37
雜詠/年尾/p38~74
雜詠選集(豫選稿)/虚子/p75~82
句日記/虚子/p2~2
句帖/年尾/p2~2
消息/虚子/p83~83
消息/年尾/p83~83
俳畫 屋根替/植田湖畔/p25~25
俳畫 茶山/相生垣秋津/p55~55

(管見)

一 「『ホトトギス』と私/小宮豐隆/p6~10」周辺

ホトトギス 14(9).jpg

「ホトトギス 14(9)」(出版者/ホトトギス社 出版年月日/1911-04)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972296/1/1
 
[『ほととぎす 臨時増刊 五人集』」(明治44年4月18日発行)目次
寒き影 / 小宮豐隆/p1~27
長兄 / 東渡生/p28~61
狐火 / 阿部次郞/p62~71
女 / 鈴木三重吉/p82~126
御殿女中(上) / 森田草平/p127~136
表紙圖案 / 橋口五葉
土耳古のカフエー(揷畵) / 石井柏亭/p3~3
田舍者の一人(揷畵) / 石井柏亭/p6~6
落花(揷畵) / 齋藤與里/p9~9
グリーキの女(揷畵) / 齋藤與里/p12~12
フランスの女優(揷畵) / 齋藤與里/p15~15
失題(揷畵) / 齋藤與里/p18~18
失題(揷畵) / 齋藤與里/p21~21
失題(揷畵) / 齋藤與里/p24~24
失題(揷畵) / 齋藤與里/p27~27
失題(揷畵) / 齋藤與里/p30~30
失題(揷畵) / 齋藤與里/p33~33
僕トコの近邊其一(揷畵) / 渡邊與平/p36~36
其二(揷畵) / 渡邊與平/p39~39
其三(揷畵) / 渡邊與平/p42~42
其四(揷畵) / 渡邊與平/p45~45
其五(揷畵) / 渡邊與平/p48~48
其六(揷畵) / 渡邊與平/p51~51
其七(揷畵) / 渡邊與平/p54~54
其八(揷畵) / 渡邊與平/p57~57
其九(揷畵) / 渡邊與平/p60~60
其十(揷畵) / 渡邊與平/p63~63
顏(揷畵) / 津田靑楓/p66~66
うちの下女(揷畵) / 津田靑楓/p69~69
FEMME DE MÈNAGE(揷畵) / 津田靑楓/p72~72
ひふ(揷畵) / 津田靑楓/p75~75
たすき(揷畵) / 津田靑楓/p78~78
MA FEMME(揷畵) / 津田靑楓/p81~81
SINGE(揷畵) / 津田靑楓/p84~84
ひつぱり(揷畵) / 津田靑楓/p87~87
SIT PI(揷畵) / 津田靑楓/p90~90
LIS(揷畵) / 津田靑楓/p93~93
田舍人形(揷畵) / 小川芋錢/p96~96
廻り佛(揷畵) / 小川芋錢/p99~99
床(揷畵) / 小川芋錢/p102~102
寫眞(揷畵) / 小川芋錢/p105~105
船大工(揷畵) / 小川芋錢/p108~108
朽木(揷畵) / 小川芋錢/p111~111
釜城(揷畵) / 小川芋錢/p114~114
失題(揷畵) / 小川芋錢/p117~117
廢舟(揷畵) / 小川芋錢/p120~120
土筆山(揷畵) / 小川芋錢/p123~123  ](「国立国会図書館デジタルコレクション」)

※「『ホトトギス』と私/小宮豐隆/p6~10」は、昭和三十年(一九六五)の時で、「虚子(八十一歳))、「松根東洋城(七十八歳)」、そして、「小宮豊隆(七十二歳)、安倍能成(七十三歳)」、上記の、「ほととぎす 臨時増刊 五人集」に出て来る、「鈴木三重吉(昭和十一年没)」と森「田草平(昭和二十四年没)」とは他界している。
 そして、小宮豊隆を東北大へと招聘した「阿部次郎」も、その二年後(1959年〈昭和34年〉)に没している。
 ここで、「ほととぎす 臨時増刊 五人集」(明治44年4月18日発行)は、小宮豊隆が、二十八歳の時で、当時は、夏目漱石の下で、「朝日新聞文芸欄」を、「森田草平、阿部次郎・安倍能成」らとコンビを組んで、盛り立てていた頃ということになる。
 この頃の、松根東洋城は、明治四十一年(一九〇八)に、虚子より「国民俳壇」の選者を引き継ぎ、俳句より小説に専念していた、虚子の実質的な後継者として、「ホトトギス」・「国民俳壇」の俳人第一人者として、縦横に活躍していた時代ということになる。
 もう一人、寺田寅彦は、明治四十二(一九〇九)から明治四十四年(一九一一)にかけて、ヨーロッパに留学(ベルリン大学・ゲッチンゲン大学)していて、異国の地にあった。
 ここで、明治四十四年(一九一一)の、「漱石年譜」・「東洋城年譜」・「寺田寅彦年譜」などを、下記のアドレスで再掲をして置きたい。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-12

[漱石・四十四歳。明治44(1911) 2月、文学博士号を辞退。7月、「ケーベル先生」、11月、ひな子急死。]

[東洋城・三十四歳。一月、父没す。望遠館を引払つて、築地に一戸を構へた。五月二十四日の日記に「松根の宅は妾宅の様な所である云々。漱石の博士問題起る。六月、四十二年より留学中の寅彦帰朝。九月、漱石大阪に病み、東洋城は伊予より帰京の途見舞つた。]

[寅彦・三十四歳。欧米各国の地球物理学を調査するため、二月にフランス、四月にイギリス、五月にアメリカ、六月、帰国。七月、正七位に叙せられる。十一月、物理学第三講座を担任、第二講座を分担する。十一月、本郷区弥生町に転居。]

漱石夫妻.jpg

『漱石夫妻 愛のかたち』より
https://yamabato.exblog.jp/32354048/
夏目漱石の長女・筆子の次女(松岡陽子マックレイン)による著作『漱石夫妻 愛のかたち』。
『漱石の思い出』(漱石の妻・鏡子の語りを、筆子の夫で漱石の門人でもあった松岡譲が書き取ったもの)を軽く補足するような内容)。)
[漱石家族(前列左から「二女・恒子、妻・鏡子、長男・純一、四女・愛子、長女・筆子、三女・栄子」、後列、左から「松根東洋城・森成麟造医師」など) ]

※※ ここに、[『ほととぎす 臨時増刊 五人集』」(明治44年4月18日発行)の「小宮豊隆・安部能成・鈴木三重吉・森田草平(欄外の「三重吉の右脇)」の写真が遺されている。
 もう一人の「阿部次郎」周辺は、下記のアドレスなどが参考となる。

https://gbvx257.blog.fc2.com/blog-entry-2643.html

阿部次郎.jpg

阿部次郎(1883~1959)略歴(以下はWikipedia版を編集)

[1883年(明治16年)山形県飽海郡上郷村(現・酒田市)大字山寺に生まれる。荘内中学(現山形県立鶴岡南高等学校)から山形中学(現山形県立山形東高等学校)へ転校。校長の方針に反発し、ストライキを起こして退学。その後上京して京北中学校へ編入。
 1901年(明治34年)、第一高等学校入学。同級生に鳩山秀夫、岩波茂雄、荻原井泉水、一級下に斎藤茂吉がいた。1907年(明治40年)、東京帝国大学に入学後哲学科を卒業。夏目漱石に師事、森田草平、小宮豊隆、和辻哲郎らと親交を深めた。
 
1914年(大正3年)に発表した『三太郎の日記』は大正昭和期の青春のバイブルとして有名で、学生必読の書であった。慶應義塾大学、日本女子大学の講師を経て1922年(大正11年)、文部省在外研究員としてのヨーロッパ留学。同年に『人格主義』を発表。真・善・美を豊かに自由に追究する人、自己の尊厳を自覚する自由の人、そうした人格の結合による社会こそ真の理想的社会であると説く。
 
帰国後の1923年(大正12年)東北帝国大学(現東北大学)に新設の法文学部美学講座の初代教授に就任。以来23年間に渡って美学講座を担当。1941年(昭和16年)、法文学部長を経て1945年(昭和20年)、定年退官。1947年(昭和22年)帝国学士院会員となる。1954年(昭和29年)、財団法人阿部日本文化研究所の設立、理事長兼所長を務める。

大正末年から『改造』に連載した『徳川時代の藝術と社会』を著す。阿部はここで、歌舞伎、浮世絵といった徳川時代芸術を批判、抑圧された町人たちの文化と説いた。哲学者や夏目漱石門下の作家らとの交流や、山形で同郷の斎藤茂吉や土門拳との交流は有名。

1958年(昭和33年)脳軟化症のため東大附属病院に入院。1959年仙台市名誉市民の称号を贈られた同年、東大附属病院にて死去。(満76歳)現在、酒田市(旧・松山町)の生家は阿部記念館となっており、青葉区米ケ袋には阿部次郎記念館がある。](「阿部次郎昭和6年随筆『丘の上から』」)


二 「花鳥諷詠論について/深見けん二/p26~31」周辺

花鳥諷詠論.jpg

「花鳥諷詠論について/深見けん二/p26~31」周辺
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972813/1/14

[深見 けん二(ふかみ けんじ、1922年3月5日 - 2021年9月15日)は、福島県出身の俳人。本名は謙二。
 高玉鉱山(現・郡山市)に生まれる。父の転勤で東京に移り、府立第五中学校を経て東京帝国大学工学部冶金科を卒業。卒業後は東大冶金科研究室勤務を経て日本鉱業入社。日興エンジニアリング勤務。
 高校時代の1941年より高浜虚子に師事、20歳の頃に深川正一郎の指導を受ける。大学卒業後「ホトトギス新人会」を結成。1952年より山口青邨にも師事し、1953年に青邨の「夏草」同人。1959年に「ホトトギス」同人。1989年、「珊」創刊同人。1991年、「Fの会」を土台として「花鳥来」を創刊、主宰。(以下略) ](「ウィキペディア」)

[花鳥諷詠(かちょうふうえい)は、高浜虚子 の造語。虚子の俳句理論を代表する根本理念である。
 花鳥諷詠」は1928年4月21日の「大阪毎日新聞」の講演会で提唱された。「花鳥」は季題の花鳥風月のことで、「諷詠」は調子を整えて詠う意味である。
 一般に「花鳥風月」といえば「自然諷詠」の意味になるが、虚子によれば「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります」(『虚子句集』)と「人事」も含めている。この「花鳥諷詠」は「ホトトギス」(俳誌)の理念であるが、それまで主張していた「客観写生」との関係は必ずしも明らかではない。虚子は終生この主張を変えることなく繰り返したが、理論的な展開は示さなかった。
 虚子の後継者である孫・稲畑汀子は「虚子が人事界の現象をも花鳥(自然)に含めたことは重要であるが、その事は案外知られていない。それは「人間もまた造化の一つである」という日本の伝統的な思想、詩歌の伝統に基づくものであった。アンチ花鳥諷詠論の多くは、この点を理解せず、自然と人間、主観と客観などの二項対立的な西洋形而上学に基づいているため、主張が噛み合っていないように思われる」(「俳文学大辞典」)という。
つまり、「花鳥諷詠」は花鳥風月と分けて考える必要があり、人間の営みを含めた森羅万象を詠む概念であって、虚子としては「有季」という意味で「花鳥諷詠」という語を説いたと思われる。虚子自身「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」(1954年)の句を残しているように、花鳥諷詠は「表題」と考えればわかりやすい。(以下略) ](「ウィキペディア」)

(参考)

「新興俳句と花烏弧詠論」(松井利彦稿)

https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/jl/ronkyuoa/AN0025722X-023_060.pdf

「第7回 高浜虚子④ ――花鳥諷詠の功罪」(井口時男稿)

https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/textbook/kou/kokugo/document/ducu5/c01-00-007.html


三 川端龍子(「ホトトギス・七百号」表紙画)と川端茅舎(「花鳥諷詠眞骨頂漢」)周辺

(再掲)

https://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E8%8C%85%E8%88%8E

[茅舎復活(その二)(抜粋)

(『川端茅舎句集』・「序」)

茅舎句集が出るといふ話をきいた時分に、私は非常に嬉しく思つた。親しい俳友の句集が出るといふ事は誰の句集であつても喜ばしいことに思へるのであるけれども、わけても茅舎句集の出るといふことを聞いた時は最も喜びを感じたのである。それはどうしてであるかといふ事は自分でもはつきり判らない。
茅舎君は嘗ても言つたやうに、常にその病苦と闘つて居ながら少しもその病苦を人に訴へない人である。生きんが為の一念の力は、天柱地軸と共に、よく天を支へ地を支へ茅舎君の生命をも支へ得る測り知られぬ大きな力である。
茅舎君は真勇の人であると思ふ。自分の信ずるところによつて急がず騒がず行動してをる。茅舎君は雲や露や石などに生命を見出すばかりではなく、鳶や蝸牛などにも人性を見出す人である。
露の句を巻頭にして爰に収録されてゐる句は悉く飛び散る露の真玉の相触れて鳴るやうな句許りである。

昭和九年九月十一日
ホトトギス発行所     高浜虚子

(『華厳』・「序」)

花鳥諷詠真骨頂漢     高浜虚子

(『白痴』・「序」)

新婚の清を祝福して贈る  白痴茅舎     ]


[茅舎復活(その五)(抜粋)

「昭和十六年・二水夫人土筆摘図」

日天子寒のつくしのかなしさに
寒のつくしたづねて九十九谷かな
寒の野のつくしをかほどつまれたり
寒の野につくしつみますえんすがた
蜂の子の如くに寒のつくづくし
約束の寒の土筆を煮てください
寒のつくし法悦は舌頭に乗り
寒のつくしたうべて風雅菩薩かな

「二水夫人土筆摘図」の「二水夫人」とは、茅舎が俳句の指導をしていた「あおきり句会」(第一生命相互保険会社)の会長をしていた藤原二水の夫人を指している。二水夫人と茅舎の異母兄の川端竜子の夏子夫人とは親しい関係にあり、「茅舎略年譜」には、次のとおりの記述が見られる。

「 昭和九年(一九三四) 三七歳。五月、竜子の妻夏子の紹介で、第一生命相互保険会社の「あおきり句会」の指導を始める。十月、処女句集『川端茅舎句集』を玉藻社より刊行。」

茅舎と異母兄の日本画家として著名な竜子(龍子)との当時の関係は、森谷香取さんの「川端茅舎――俳人川端茅舎と思い出の中の親族」に詳しい(現在は下記のアドレスでその一部分しか目にすることはできないが、竜子関係のネット記事などでもその一端が紹介されているものが多い)。

http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha_04.html

そして、これらを見ていくと、茅舎と竜子の実父(寿山堂)とその長兄にあたる竜子との葛藤(竜子の実父に対する嫌悪感など)は深刻なものがあり、そういう葛藤の中で、晩年の茅舎と寿山堂とは、竜子の完全な庇護下にあって、病床にある茅舎にとって、その兄嫁(夏子)や甥(清)、そして、この二水夫人などが、真の理解者であったのであろう。
この掲出の八句の中で、特に、六句目の、「約束の寒の土筆を煮て下さい」は、茅舎の傑作句の一つとして、今に詠み継がれている。この句についての、山本健吉の評(『現代俳句』)は次のとおりである。

「『「二水夫人土筆摘図」と前書した「寒の野につくしつみますおんすがた」と続き、さらにもう一句「寒のつくしたうべて風雅菩薩かな」が続いている。「食事は野菜が好き」という茅舎は、ほんの小鳥の餌(え)ほどの少量で足りたらしい。とは言え美食家でなかったわけではない。寒の土筆とは贅沢な注文だ。お弟子の二水夫人の約束が忘れられなかったのであろう。食べ得ては「風雅菩薩」と打ち興じている。童心である。ただ注文の「寒の土筆」だけが、凝りに凝っている。このような食物をねだる茅舎の身体は玲瓏たる透明体のような気がする。彼は九州旅行中原鶴温泉で珍しい川茸を食べ「それを食うと身体が八面玲瓏と、透明になるような感じのするものであった」と言っている。この句棒のように一本調子だが、「約束の、寒の土筆を、煮て下さい」と呼吸切(いきぎ)れしながら、微(かす)かな声になって行くようで、読みながら思わず惹き込まれて行くような気持ちになる。いっさいの俳句らしい技巧を捨てて、病者の小さな、だが切ない執念だけが玲瓏と一句に凝ったという感じがする。 ]

(追記一) 川端茅舎と龍子

「二水夫人土筆摘図」という題名については、日本画の題名のようでもある。川端茅舎は、家族の希望で、当初、医者の道を志していたが、受験に失敗して、画家志望となり、藤島武二絵画研究所、そして、岸田劉生に師事して、洋画家になることを目指していた。  
 茅舎の異母兄の龍子は、いわずと知れた、日本画の大家である。龍子は。当初、洋画家を目指していたが、アメリカ留学中に日本画に転向した。
 茅舎は最後まで、洋画家になることを夢見ていたというが、兄の龍子が日本画ならば、自分は西洋画という思いもあったのかも知れない。しかし、この「二水夫人土筆摘図」の題名に見られるように、茅舎は、表面的には、極めて、日本画的な、あるいは、仏教的なニュアンスの雰囲気を有しているのであるが、その内実は、西洋画的な、極めて、聖書的なニュアンスが強い世界に関心が強かったという思いを深くする。と同時に、この川端龍子と茅舎という兄弟は、それぞれ目指す道は異なったが、「東洋的な感性と西洋的な感性とを見事に開花させて、それぞれの世界で、それぞれに一時代を画した」というを思いを深くする。

(追記二) 川端龍子

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E9%BE%8D%E5%AD%90

川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年(明治18年)6月6日 - 1966年(昭和41年)4月10日)は、大正 - 昭和期の日本画家。激しく流れる水の流れとほとばしる波しぶきによる龍子の描いた水は、巨大なエネルギーで観る者を圧倒した。昭和の動乱期、画壇を飛び出し、独自の芸術を切り開いた日本画家である。けたはずれの大画面、龍子は躍動する水の世界を描き続けた。その水は画家の心を写すかのように時代と共に色や形を変えていった。
 本名は昇太郎。1885年(明治18年)和歌山県和歌山市に生まれ。幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。自分もこんな絵を描けるようになりたいとこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。10歳の頃に家族とともに東京へ移転した。弟は俳人の川端茅舎(ぼうしゃ)であり、龍子自身も「ホトトギス」同人の俳人でもあった。
 画家としての龍子は、当初は白馬会絵画研究所および太平洋画会研究所に所属して洋画を描いていた。1913年(大正2年)に渡米し、西洋画を学び、それで身を立てようと思っていた。しかし、憧れの地アメリカで待っていたのは厳しい現実であった。日本人が描いた西洋画など誰も見向きもしない。西洋画への道に行き詰まりを感じていた。失意の中、立ち寄ったボストン美術館にて鎌倉期の絵巻の名作「平治物語絵巻」を見て感動したことが、日本画転向のきっかけで帰国後、日本画に転向した。1915年(大正4年)、平福百穂(ひゃくすい)らと「珊瑚会」を結成。同年、院展(再興日本美術院展)に初入選し、独学で日本画を習得した龍子は、4年という早さで1917年(大正6年)に近代日本画の巨匠横山大観率いる日本美術院同人となる。そして1921年(大正10年)に発表された作品『火生』は日本神話の英雄「ヤマトタケル」を描いた。赤い体を包むのは黄金の炎、命を宿したかのような動き、若き画家の野望がみなぎる、激しさに満ちた作品である。しかし、この絵が物議をかもした。当時の日本画壇では、故人が小さな空間で絵を鑑賞する「床の間芸術」と呼ばれるようなものが主流であった。繊細で優美な作品が持てはやされていた。龍子の激しい色使いと筆致は、粗暴で鑑賞に耐えないといわれた。
 その後、1928年(昭和3年)には院展同人を辞し、翌1929年(昭和4年)には、「床の間芸術」と一線を画した「会場芸術」としての日本画を主張して「青龍社」を旗揚げして独自の道を歩んだ。壮大な水の世界で、縦 2 メートル、横 8 メートルの大画面、鮮やかな群青の海と白い波との鮮烈なコンストラスト、激しくぶつかり合う水と水、波しぶきの動きの『鳴門』を描き、当時の常識をくつがえす型破りな作品であった。その後も大作主義を標榜し、大画面の豪放な屏風画を得意とし、大正 - 昭和戦前の日本画壇においては異色の存在であった。
 1931年(昭和6年)朝日文化賞受賞、1935年(昭和10年)帝国美術院会員、1937年(昭和12年)帝国芸術院会員、1941年(昭和16年)会員を辞任。(以下・略)

(追記三) 川端茅舎

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E8%8C%85%E8%88%8D

 川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年8月17日 - 1941年7月17日)は、東京都日本橋蛎殻町出身の日本の俳人、画家。日本画家である川端龍子とは異母兄弟。本名は川端信一(かわばた のぶかず)。別号、遊牧の民・俵屋春光。
 高浜虚子に師事し、虚子に『花鳥諷詠真骨頂漢』とまで言わしめたホトトギス・写生派の俳人。仏教用語を駆使したり、凛然とし朗々たる独特な句風は、茅舎の句を『茅舎浄土』と呼ばしめる。
1897年、東京都日本橋区蛎殻町で生まれた茅舎は、腹違いの兄である龍子とともに育てられる。父信吉は紀州藩の下級武士、母は信吉の弟が経営する病院の看護婦。父は弟の病院で手伝いとして働いていたが、その後煙草の小売商を始める。父は「寿山堂」という雅号を自分で持つほど、俳句や日本画や写経を好むような風流人であったと、ホトトギスの中で茅舎は述べている。そのことから、茅舎と龍子の兄弟が進むべき道に大きく父親が影響したと考えられている。
 6歳になった茅舎は、1903年私立有隣代用小学校へ入れられる。無事小学校を卒業した茅舎は、1909年、獨逸学協会学校(のちの獨協中学校)へ入学。叔父と母が病院に勤める関係者であったことから、周囲から(特に父から)将来は医者になることを期待されていた。その後、第一高等学校理乙を受験するも失敗。そのころには画家として独立していた兄・龍子の後を追うように、次第に茅舎自身も画家を志すようになる。藤島武二絵画研究所で絵画の勉強を始める。
 また17歳頃から、自らの俳号を「茅舎」と名乗り始め、父とともに句作するようになる。俳句雑誌『キララ』(後の『雲母』)に度々投句する。(武者小路実篤の「新しき村」の第二種会員になり、白樺派の思想に触れた茅舎は次第に西洋思想に感化されていく。それが契機で、絵画の分野で明確に西洋絵画を志すようになり、その後洋画家岸田劉生に画を師事する。京都の東福寺の正覚庵に籠もり、絵や句の制作に勤しみ、同時に仏道に参じる。自身が描いた静物画が春陽会に入選するほど絵画の腕を上げる。
 しかし虚子門や脊椎カリエスや結核といった肺患に身体が蝕まれていき、師と尊崇していた劉生も死去してしまったこともあり、俳諧の道へ本格的に専念するようになる。投句を続けていた『キララ』から『ホトトギス』に専念的に投句をし始め、雑詠の巻頭を飾るまでになる。その後、高浜虚子の愛弟子となり、俳句の実力が認められ、1934年に『ホトトギス』の同人となる。また後に「あをぎり句会」の選者となる
 1941年、肺患の悪化により44歳の若さで死去。現在は、龍子や他の家族とともに伊豆の修善寺に埋葬されている。
西洋的な感性と東洋的な感性で紡ぎ出された写生的な句は、花鳥諷詠を唱えた虚子に「花鳥諷詠真骨頂漢」と評価されるほどであった  ]
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「俳誌・ホトトギス」管見(その十三) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス・六百号」周辺

ホトトギス・六百号.jpg

「ホトトギス・六百号」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972713/1/1

(目次)

句日記 / 高濱虛子/p2~3
うれしさ / 寒川鼠骨/p4~5
蕪村句集講義雜感 / 佐藤紅綠/p6~7
謠を習ひ始めた頃 / 安倍能成/p8~9
能十八句 / 野上臼川/p10~10
日記の一節 / 野上彌生子/p10~11
死兒の齡 / 石井柏亭/p12~13
南瓜の辯 / 川端龍子/p14~15
虛子先生 / 中田みづほ/p16~17
遷喬第一號を前にして / 富安風生/p18~19
四S時代のことなど / 山口靑邨/p20~21
明達寺 / 高濱虛子/p22~24
はなれ / 富安風生/p25~26
吉田文庫 / 深川正一郞/p26~27
小諸の夜 / 高濱年尾/p27~28
ホトトギス六百號記念 新潟俳句會 / 長谷川馬刀/p29~30
ホトトギス六百號記念 秋田俳句會 / 柴田果/p30~31
ホトトギス六百號記念 能代俳句會 / 渡邊そてつ/p32~33
ホトトギス六百號記念 頸城俳句會 / 春山他石/p33~35
船河原町發行所の思ひ出 / 高崎雨城/p35~35
彌木にて / 虛子 ; 年尾 ; 立子/p36~37
藪醫者 / 松尾いはほ/p38~39
雜詠 / 虛子/p40~62
消息 / 虛子/p67~67
非無和尙の手紙/p68~
誹諧 連句の季の符號 / 虛子/p63~64
誹諧 二句の連句/p64~64
誹諧 附句練習 / 高濱年尾/p65~66
誹諧 消息 / 年尾/p66~66
玉藻消息 / 星野立子/p62~62

(管見)

一 「句日記 / 高濱虛子/p2~3」周辺

句日記( 昭和11年より昭和15年まで).jpg

『句日記( 昭和11年より昭和15年まで)』(著者・高浜虚子 著/出版者・中央出版協会/出版年月日・昭和17)所収「序」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1220675/1/5

 上記のアドレスで、『句日記( 昭和11年より昭和15年まで)』(下記の「その2」)を閲覧できる。その「序」に「私の生涯の句を纏めたものには、今までに」ということで、虚子が俳句を作り始めた「明治二十四年(十七歳)・二十五年(十八歳)から昭和十年(六十一歳)迄」の句が収載されているものを示して、それに続く、「昭和十一年(六十二歳)から昭和十五年(六十六歳)迄」の句を『句日記』(その2)として、中央出版協会より出版している。

『年代順 虚子俳句全集 第一巻 第一巻  明治時代(上)』
『同上 第二巻 明治時代(下)』
『同上 第三巻 大正時代』
『同上 第四巻 昭和時代(昭和5年4月21日迄)』
(新潮社/昭和15年2月より昭和16年3月迄の出版)
『句日記』(その1) 昭和11年出版/改造社(昭5〜10)
『句日記』(その2) 昭和17年出版/中央出版協会(昭11〜15) 

 さらに、これに続くものとして、「昭和十六年(六十七歳)から亡くなる昭和三十四年(八十五歳)迄」の句も、以下の『句日記(その3~その6)』(「創元社」版と「新樹社」版)として、『句日記』として出版されている。

『句日記』(その3) 昭和22年/創元社(昭16〜20)
『句日記』(その4) 昭和28年/創元社(昭21〜25)
『句日記』(その5) 昭和33年/新樹社(昭26〜30)
『句日記』(その6) 昭和35年/新樹社(昭31〜34)

 そして、これらの『句日記』という、虚子の句集の母胎となったものは、上記の「句日記 / 高濱虛子/p2~3」の、その「ホトトギス」の、それらの搭載されたものが基盤になっている。
 そして、それは、虚子の自選句集「『五百句』・『五百五十句』・『六百句』・『六百五十句』」と『七百五十句』(高浜年尾・星野立子選)と、連動していることになる。

(一) 虚子の自選句集「『五百句』・『五百五十句』・『六百句』・『六百五十句』」周辺

[『五百句』(昭和12年(1937年)6月、改造社)→ 『ホトトギス』500号記念の年に自選して上梓(※明治二十四・五年頃から昭和十年にいたる四十余年間から五百句選出)。
『五百五十句』(昭和18年(1943年)8月、桜井書店)→ 『ホトトギス』550号記念の年に自選して上梓(※昭和十一年から十五年までの句、五百八十八句選出)。

『六百句』(昭和22年(1947年)2月、菁柿堂)→ 『ホトトギス』600号記念の年に自選して上梓(※昭和十六年から昭和二十年までの句、六百四十四句選出)。

『六百五十句』(昭和30年(1955年)6月、角川書店)→ 『ホトトギス』650号記念の年に自選して上梓(昭和二十一年から昭和二十五年までの句、六百九十五句選出)。  ](「ウィキペディア」・「※「俳句・平成七年四月号/大特集高浜虚子とその時代」)

(二) 『七百五十句』(高浜年尾・星野立子選)周辺

[『七百五十句』(昭和39年(1964年))→ 『六百五十句』以後の句を虚子没後に上梓(昭和二十六年一月一日より虚子が倒れる前日の昭和三十四年三月三十一日までの句、七百六十三句選出)。](「ウィキペディア」・「※「俳句・平成七年四月号/大特集高浜虚子とその時代」)


二 「うれしさ / 寒川鼠骨/p4~5」周辺

寒川 鼠骨.jpg

[寒川 鼠骨(さむかわ そこつ、1875年(明治8年)11月3日 - 1954年(昭和29年)8月18日)は、正岡子規門下の俳人。病床の子規に侍り、遺族を見守り、遺墨・遺構の保存に尽くした。](「ウィキペディア」)

三 「蕪村句集講義雜感 / 佐藤紅綠/p6~7」周辺

佐藤 紅緑.jpg

[佐藤 紅緑(さとう こうろく、1874年〈明治7年〉7月6日 - 1949年〈昭和24年〉6月3日)は、日本の劇作家・小説家・俳人。本名:洽六](「ウィキペディア」))


四 「小諸の夜 / 高濱年尾/p27~28」周辺

鎌倉虚子庵に集う一家.jpg

「鎌倉虚子庵に集う一家/前列左より 晴子、糸夫人、虚子、池内たけし、年尾/後列左より 章子、宵子、立子、真砂子」
http://www.kyoshi.or.jp/j-huuten/1300/04.htm

[高浜 年尾(たかはま としお、1900年12月16日 - 1979年10月26日)は、俳人。ホトトギス代表。俳人高浜虚子の実子。「年尾」の名は正岡子規の命名による。
 東京市神田区猿楽町に虚子・いと夫妻の長男として生まれる。開成中学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に進む。小樽高商時代は同期に小林多喜二、1期下に伊藤整がおり、全員でフランス語劇に出演したこともある。卒業後、旭シルクに入社する。のち転勤により兵庫県芦屋に転居する。句作は父虚子の手ほどきを受けて中学時代から始めていたが、この時期に一時中断、1938年に『俳諧』を発行し連句をはじめる。「俳諧」は俳句、連句、俳文、俳詩、俳論などのほか俳句の英・仏・独訳を載せるなど意欲的な俳誌であった。
 1939年、旭シルクを退社し以後俳句に専念、関西の俳壇の中心として活躍する。1944年、戦時下の物資不足のため『俳諧』を『ホトトギス』に合併させる。1951年『ホトトギス』雑詠選者。1959年、朝日俳壇および愛媛俳壇選者。同年虚子より『ホトトギス』主宰を継承する。1979年10月26日死去、78歳。死後『ホトトギス』主宰は次女の稲畑汀子に引き継がれた。句集に『年尾句集』ほかに『俳諧手引』などの著書がある。](「ウィキペディア」)

五 「虚子の家族」周辺

[配偶者・高浜いと(1897年 - 1959年)

 子供(二男六女)

高浜年尾(長男) → 虚子の長男。俳人。「ホトトギス」三代主宰。
池内友次郎(次男)→ 虚子の次男。作曲家、音楽教育家、俳人。回想記を刊行。
真下真砂子(長女)→ http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm
星野立子(次女) → 虚子の次女。俳人。「玉藻」初代主宰。
新田宵子(三女) → http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm
高浜六(四女)  → http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm
高木晴子(五女)→ 虚子の五女。俳人。「晴居」主宰。
上野章子(六女)→ 虚子の六女。俳人、随筆家。「春潮」二代目主宰。
親族 坊城中子(孫) → http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm
稲畑汀子(孫) → http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm
星野椿(孫) → http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/keizu/keizu.htm ](「ウィキペディア」・「虚子一族の系図」など)


六「小諸時代(昭和19(1944)年~昭和22(1947)年)」周辺

https://www.komoro-tour.jp/spot/person/takahamakyoshi/

[ 昭和19(1944)年、太平洋戦争の戦火を逃れるため、五女の高木晴子一家と小諸へ疎開しました。小諸では五女の晴子と交流のあった小山栄一の援助のもと、精力的に俳句活動を行い、句会を開催しました。また、全国各地のホトトギス句会にも積極的に赴き、多くの俳人や門人の指導に当たりました。小諸時代はひたすら俳句に没頭できた時代でもありました。そんな中で、小諸の自然や風土を詠んだ「小諸百句」、小諸での疎開生活の様子をまとめた「小諸雑記」、小説「虹」が生み出されました。](「こもろ観光局 HOME/ みどころ/ 小諸ゆかりの文化人 /近代俳句の巨匠・高濱虚子」抜粋)

小諸三部作.png

「小諸百句」
底本:「定本高濱虚子全集 第三巻」毎日新聞社・1974(昭和49)年1月発行
底本の親本(単行本):『小諸百句』羽田書店・1946(昭和21)年発行
http://ww41.tiki.ne.jp/~haruyasumi/works/komoro100ku.txt
「序(抜粋)
昭和十九年九月四日鎌倉より小諸の野岸といふところに移り住み昭和二十一年十月の今日まで尚ほ續きをれり。鎌倉の天地戀しきこともあれど小諸亦去り難き情もあり。二年間此地にて詠みたる句百を集めたり。]

「小諸雑記」
底本:「定本高濱虚子全集 第九巻」毎日新聞社・1974(昭和49)年6月発行
底本の親本(単行本):『小諸雑記』青柿堂・1947(昭和22)年発行
「高浜虚子を歩く 其の一 小諸雑記を巡る」
https://www.youtube.com/watch?v=YPptxu6xIA4

「虹」
底本:「定本高濱虚子全集 第七巻」毎日新聞社・1975(昭和50)年1月発行
底本親本(単行本):『虹』苦楽社・1947(昭和22)年発行(「虹」「愛居」「音楽は尚ほ続きをり」)
『虹』所収「虹」
https://note.com/hujiie/n/ne5362fc3f232
『虹』所収「音楽は尚ほ続きをり」
https://haiku.jp/home/read/story-2/
[ 愛ちやんはがんばつてをります。水晶の念珠を右手首にかけて、今生の縁を楽しんでをる様です。

 と言ふ柏翠の葉書が来た。私は其手紙を受取つてから、水晶の念珠を右手首にかけてゐるといふことが頭を離れなかつた。あの病み衰へた手首に水晶の珠数をかけてゐるのかと、昨年の十月に其病床を見舞つて親しく見た其細い手首を想像するのであつた。さうして其数珠を手首にかけたまま静かに横はつてゐる様がけなげにさへ思はれるのであつた。さうして又私の夜眠れない時などは其水晶の珠数を手首にかけて静に寝てゐる愛子の容子を想像してゐると気分が落着いて来て、いつか静に眠に落つる事が出来るのであつた。

 さうしてこんな電報が来た。

 ニジ キエテスデ ニナケレド アルゴ トシ  アイコ

 生死の境を彷徨してゐることがわかつた。電話が通じれば電話をかけたいと思つたが、郵便局に聞き合すと、小諸から三國へは通じないとのことであつた。
 それから柏翠の葉書が来た。

 四月一日午後四時五十分でございました。只今納棺を致しました。 「小諸雑記」一冊と新しい句帳を入れました。その前に母達と愛子を、先生の命名して下さいましたあの九頭竜川に臨んでゐる二階の愛居に運びました。行き度いと云ひ遺しましたので。

  虹の上に立ちて見守るてふことも  愛子
  虹の上に立てば小諸も鎌倉も    同

 愛子は始終虹のことを考へながら息を引取つたものらしかつた。](「公益社団法人 日本伝統俳句協会」抜粋)
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「俳誌・ホトトギス」管見(その十二) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス・五百号」周辺

ホトトギス・五百号.jpg
 
「ホトトギス・五百号」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972618/1/1

(目次)

「成程」 / 高濱虛子/p1~4
お濠の水鳥 / 赤星水竹居/p4~5
算術ぎらひ / 富安風生/p5~8
日附 / 佐藤漾人/p9~10
寶生九郞翁(6) / 池內たけし/p11~18
牛鍋 / 大岡龍男/p19~22
おAさん / 眞下喜太郞/p22~23
句日記 / 高濱虛子/p24~26
ホトトギスに關係深かりし物故せる人々 / 高濱虛子/p26~28
復軒先生--虛子先生著「杏の落ちる音」餘談 / 林若樹/p29~38
リアリズムと最短詩型の問題 / 山路閑古/p39~68
現代徒然草 / 永田靑嵐/p68~73
現「ホトトギス」作家小觀 / 伊藤鷗二/p73~82
高濱さんと私 / 安倍能成/p82~86
廻り出す / 京極杞陽/p86~89
河風 / 山本實彥/p90~93
いみじくも小さきわが詩に / 山口靑邨/p93~100
五百號記念集 / 赤木格堂 ; 吉田絃二郞 ; 蘇峰迂人 ; 佐藤紅綠 ; 正宗白鳥 ; 村上鬼城 ; 小野蕪子 ; 杉村楚人冠 ; 吉井勇 ; 近松秋江 ; 池部釣 ; 藤井紫影 ; 宇佐美不喚洞 ; 野間奇瓢 ; 靑木月斗 ; 上司小劍 ; 村上霽月 ; 吉岡禪寺洞 ; 依田秋圃 ; 庄司瓦全 ; 島田靑峰 ; 鹿子木孟郞 ; 寒川鼠骨 ; 飯田蛇笏 ; 中野三允 ; 小川千甕 ; 西川一草亭 ; 前田普羅 ; 山路閑古 ; 目黑野鳥 ; 鍋平朝臣 ; 柳原極堂 ; 武定巨口 ; 日野草城 ; 牛田鷄村 ; 伊藤鷗二 ; 今村幸男 ; 森古泉 ; 服部嘉香 ; 齋藤茂吉 ; 野上豐一郞 ; 野上彌生子 ; 栗本木人 ; 岡本松濱 ; 齋藤香村 ; 三好達治 ; 中村星湖 ; 柴淺茅 ; 福田把栗 ; 中村吉藏 ; 籾山梓月 ; 松浦爲王 ; 臼田亞浪 ; 加茂正雄 ; プロバン一羽 ; ヂュリヤン・ヴヲカンス/p102~136
虛子の胸像製作者たる石井鶴三を圍みて / 石井鶴三 ; 赤星水竹居 ; 麻田椎花 ; 楠目橙黃子 ; 三宅淸三郞 ; 高濱虛子/p137~145
春寒の深川(武藏野探勝の九〇) / 上林白草居/p146~150
雜詠句評會(145) / 王城 ; 茅舍 ; 橙黃子 ; 花蓑 ; 泊雲 ; 素十/p151~154
發行所例會/p155~156
鳴雪翁十三囘忌小句會 / 高濱虛子/p156~158
ホトトギス 五百號史を編むついでに / 高濱虛子 ; 柴田宵曲/p158~164
子規の前に獨り言(1) / 高濱虛子/p166~170
同人集 / ホトトギス同人八十二家/p171~204
外國の俳句 芳草や黑き烏も濃紫 / 高濱虛子/p206~208
外國の俳句 ガリニエの手紙の譯 / 佐藤朔/p209~210
外國の俳句 親愛なる先生 / ヂュリヤン・ヴヲカンス/p211~211
外國の俳句 伯林より / 山口靑邨/p212~213
外國の俳句 戰地より其他/p214~218
外國の俳句 消息 / 虛子/p219~220
外國の俳句 雜詠 / 高濱虛子/p221~290

(管見)

一 「松根東洋城更迭(訣別)」・「水原秋櫻子離脱」・「『日野草城・吉岡禅寺洞・杉田久女』除名」・「ホトトギス・五百号」前後

http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/nenpu/100nensi/1002-top.htm

(「松根東洋城更迭(訣別)」)

大正四年(1915)
 二月 渋柿」創刊。
大正五年(1916)
 四月 虚子、国民新聞の「国民俳句」の選を東洋城に代わり再び担当。
 
(「水原秋櫻子離脱」・「『日野草城・吉岡禅寺洞・杉田久女』除名)

昭和二年(1927)
 十月 「秋桜子と素十」虚子。
昭和三年(1928)
 四月 大阪毎日新聞社講演で虚子「花鳥諷詠」を提唱。
 九月 山口青邨「どこか実のある話」で、誓子・青畝・秋桜子・素十を四Sと名付く。
昭和六年(1931)
 十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。
昭和七年(1932)
 三月 草城ホトトギスを批判、『青芝』刊。「花衣」創刊。
昭和八年(1933)
 一月 誓子「かつらぎ」で「花鳥風月を詠み人事現象を疎略にするのは誤り」と。
 三月 碧悟桐俳壇引退を声明。
昭和十年(1935)
 五月 誓子「馬酔木」に参加。
昭和十一年(1936)
 十月 草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名。
 
(「ホトトギス・五百号」前後)

昭和十二年(1937)
 二月 河東碧梧桐没。
 六月 虚子『五百句』刊(改造社)。帝国芸術院創設、虚子会員に推される。
昭和十三年(1938)
 四月 「ホトトギス」五百号。高浜年尾俳号を「としを」から「年尾」と改名。
昭和十四年(1939)
 八月 「俳句研究」の座談会「新しい俳句の課題」、これより人間探求派の呼称起る。
昭和十五年(1940)
 二月 京大俳句弾圧事件。日本俳句作家協会設立、虚子会長に就任。

二 「ホトトギス」内部の対立・相克・粛清

 大正五年(一九一六)四月十七日の、「国民新聞」の「社告」(明治四十一年に虚子から引き継いだ「国民俳壇(選者)」を一方的に虚子に交替させるという社告)は、虚子と東洋城との、以後の「絶交・訣別」という事態をもたらし、虚子は「ホトトギス」・「国民新聞(国民俳壇選者)」、そして、東洋城は「渋柿」と「朝日新聞(朝日俳壇選者)」(大正八年~大正十二年)と、その相克は、虚子の「韜晦」(清濁併せ吞む本心を見せない気質)と東洋城の「狷介」(気位の高い頑固一徹の気質)の、その気質が倍加されて、その深い対立・相克の溝は終生埋まることはなかった。
 このことは、それに続く、昭和六年(一九三一)の、水原秋櫻子の「ホトトギス」離脱と類似し、以後の「秋櫻子と虚子(そして素十)」との「絶交・訣別」とを意味し、秋櫻子の「主観(創作)写生」の「馬酔木」と、虚子の、客観写生の「ホトトギス」(素十の「芹」)との、その対立・相克とは、これまた、その溝は埋まることはなかった。
 これらのことは、昭和十一年(一九三六)の、「草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名」と繋がってくる。
 この「草城.禅寺洞.久女ホトトギス同人を除名」は、昭和十一年(一九三六)十月号の「ホトトギス」(第四十巻第一号/四百八十二号)には、下記のとおり搭載されている。
 そして、それは、「新興俳句運動」(反ホトトギスの俳句革新運動。水原秋桜子を先駆とし、山口誓子・日野草城らが参加。)に深く関わった「日野草城・吉岡禅寺洞」の除名は、「さもありなん」と理解出来るとしても、虚子崇拝の念が強い「杉田久女」の除名となると、これは、「松根東洋城更迭(訣別)」・「水原秋櫻子離脱」と併せ、一連の、「ホトトギス」内部態勢を固めるための、「異端子の粛清」という印象を深くする。
 この「同人変更」(「『日野草城・吉岡禅寺洞・杉田久女』除名」)の公告の次に、「俳論・俳話」として、「松本たかし・河野靜雲・淸原枴童・川端茅舎・鈴鹿野風呂~山口靑邨」の、これらの俳人こそ、「虚子」直系の、そして、「ホトトギス・五百号」の、その中心に据えられた「ホトトギス」俳人群像ということになろう。

(「同人変更」と「俳論・俳話」)

同人変更.jpg

(「同人変更」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972600/1/21
(「俳論・俳話」)
[俳論・俳話 二十六篇 縛られないといふこと / 松本たかし/p32~34
俳論・俳話 二十六篇 雜感 / 河野靜雲/p34~36
俳論・俳話 二十六篇 磊塊片々 / 淸原枴童/p37~41
俳論・俳話 二十六篇 金針銀針 / 川端茅舎/p41~47
俳論・俳話 二十六篇 ゆすらうめ / 鈴鹿野風呂/p48~52
俳論・俳話 二十六篇 去來抄を讀みつゝ / 田中王城/p53~56
俳論・俳話 二十六篇 俳句と日本刀 / 赤星水竹居/p56~58
俳論・俳話 二十六篇 さかしら言 / 上林白草居/p58~63
俳論・俳話 二十六篇 俳句に於ける古典主義 / 山路閑古/p64~82
俳論・俳話 二十六篇 此頃の話題 / 伊藤鷗二/p83~92
俳論・俳話 二十六篇 寫生といふこと / 長谷川素逝/p93~100
俳論・俳話 二十六篇 俳句修行ちか道 / 小山耕生/p100~102
俳論・俳話 二十六篇 認識 / 安藤老蕗/p103~104
俳論・俳話 二十六篇 俳句雜話 / 瀧本水鳴/p105~107
俳論・俳話 二十六篇 寫生と推敲 / 木津蕉蔭/p107~109
俳論・俳話 二十六篇 傳統と現實 / 福田蓼汀/p109~113
俳論・俳話 二十六篇 句作の思ひ出 / 宇津木未曾二/p114~118
俳論・俳話 二十六篇 如是我聞 / 小林拓水/p118~121
俳論・俳話 二十六篇 海月・其他 / 柏崎夢香/p121~124
俳論・俳話 二十六篇 俳悦 / 大橋越央子/p124~127
俳論・俳話 二十六篇 洋行俳句瞥見 / 五十嵐播水/p127~133
俳論・俳話 二十六篇 魔 / 皿井旭川/p134~136
俳論・俳話 二十六篇 その外に何もない / 鈴木花蓑/p136~137
俳論・俳話 二十六篇 境涯といふこと / 佐藤漾人/p137~139
俳論・俳話 二十六篇 玉斧 / 楠目橙黄子/p139~142
俳論・俳話 二十六篇 颯々の記 / 山口靑邨/p142~150 ]

三 「ホトトギス・五百号」に祝辞を寄稿した人たち

[ 五百號記念集 / 赤木格堂 ; 吉田絃二郞 ; 蘇峰迂人 ; 佐藤紅綠 ; 正宗白鳥 ; 村上鬼城 ; 小野蕪子 ; 杉村楚人冠 ; 吉井勇 ; 近松秋江 ; 池部釣 ; 藤井紫影 ; 宇佐美不喚洞 ; 野間奇瓢 ; 靑木月斗 ; 上司小劍 ; 村上霽月 ; 吉岡禪寺洞 ; 依田秋圃 ; 庄司瓦全 ; 島田靑峰 ; 鹿子木孟郞 ; 寒川鼠骨 ; 飯田蛇笏 ; 中野三允 ; 小川千甕 ; 西川一草亭 ; 前田普羅 ; 山路閑古 ; 目黑野鳥 ; 鍋平朝臣 ; 柳原極堂 ; 武定巨口 ; 日野草城 ; 牛田鷄村 ; 伊藤鷗二 ; 今村幸男 ; 森古泉 ; 服部嘉香 ; 齋藤茂吉 ; 野上豐一郞 ; 野上彌生子 ; 栗本木人 ; 岡本松濱 ; 齋藤香村 ; 三好達治 ; 中村星湖 ; 柴淺茅 ; 福田把栗 ; 中村吉藏 ; 籾山梓月 ; 松浦爲王 ; 臼田亞浪 ; 加茂正雄 ; プロバン一羽 ; ヂュリヤン・ヴヲカンス/p102~136 ]

五百號記念集.jpg

「五百號記念集」(抜粋)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972618/1/7

[蘇峰迂人(※「徳富蘇峰」=「国民新聞・国民俳壇」社主)→「最も古き愛読者の一人/蘇峰迂人/ホトトギスと共に虚子先生の愈々健在祈る。」

村上鬼城→「吾、二十幾つにしてホトトギスを知り、今茲七十四歳に及ぶ。五百号の跡を鑑みて感無量。」

吉岡禅寺堂(※除名された「天の川」主宰者)→「高浜虚子先生の長寿を祈り、ホトトギス五百号を遥かに祝福します。」

日野草城(※除名された「旗艦」・「青玄」主宰)→「先生に褒められた話二つ」(省略)

赤木格堂(※漱石門・漱石十哲の一人)→「回顧五十年」(省略)
野上豊一郎(※漱石門・漱石十哲の一人「野上臼川」)→(省略)
野上彌生子(※漱石門・「豊一郎」の妻)→(省略)
※安倍能成(※漱石門・漱石十哲の一人)→「高濱さんと私 / 安倍能成/p82~86」(省略)

村上霽月(※子規門・夏目漱石・内藤鳴雪の知己、「ホトトギス」選者など)→省略
柳原極堂(※子規門、「ホトトギス」創刊、「鶏頭」主宰)→省略
佐藤紅綠(※子規門、劇作家・小説家・俳人)→省略
飯田蛇笏(※東洋城・虚子門、「雲母」主宰)→省略
前田普羅(※虚子門、「辛夷」主宰)→省略
靑木月斗(※子規門、「カラタチ」主宰)→省略

小野蕪子(※虚子・石鼎門、「草汁」創刊、「鶏頭陣」主宰。「新興俳句運動・プロレタリア俳句運動などに対する新興俳句弾圧事件(京大俳句事件)の黒幕、あるいは特別高等警察への密告者とされる。」)→省略

杉村楚人冠(「朝日新聞社本社記事審査部長、取締役、監査役」、随筆家、俳人)→省略

島田靑峰(※「41年国民新聞社にはいる。高浜虚子のあとをうけ,昭和3年まで学芸部長。その間「ホトトギス」の編集にあたり,大正11年篠原温亭と俳誌「土上(どじょう)」を創刊。昭和16年新興俳句弾圧事件で検挙された)→省略

中野三允(※子規門、「アラレ」を創刊)→省略

岡本松濱(※「子規の俳句革新運動に共鳴し、和歌山の銀行に勤めながら「ホトトギス」に投句。高浜虚子に認められたことで1904年に上京し、「ホトトギス」発行所に勤めた。渡辺水巴らと交流、「趣味」誌の選も担当し久保田万太郎、野村喜舟らを育てた。1910年、「ホトトギス」を辞して大阪へ戻り消息を絶つが、1926年「寒菊」を創刊し俳壇に復帰、1933年の廃刊まで主宰。下村槐太、阿部慧月、加藤かけい、大場白水郎らを育てた)→省略

臼田亞浪(※「大正4年(1915年)大須賀乙字とともに俳誌『石楠』を創刊して、俳壇に登場し、信濃毎日新聞等で撰者を務めた。恩師高浜虚子の『ホトトギス』、河東碧梧桐の新傾向俳句を批判し、俳壇革正を目指した。松尾芭蕉、上島鬼貫を慕い、自然の中にこそ真の俳句があると唱え自然感のある民族詩としての句作を目指した。翌大正5年(1916年)やまと新聞を退社し、以後は句作に専念することとなった。)→省略

吉田絃二郞(※小説家、随筆家、「清作の妻」の映画化など。) →省略
正宗白鳥(※自然主義の代表作家として出発。評論・戯曲も知られる。) →省略
吉井勇(※歌人、脚本家。華族(伯爵)でもあった。) →省略
近松秋江 (※代表的な私小説作家の一人。)→省略
池部釣(※風刺漫画家、洋画家。岡本一平の義弟。)→省略
藤井紫影(※子規門。京大教授、近世文学の第一人者)→省略
籾山梓月(※俳号に庭後、江戸庵など。茶道では宗仁と称す。)→省略
西川一草亭(※去風流七代家元。津田青楓の実兄。)→省略
小川千甕(※仏画師・洋画家・漫画家・日本画家。「ホトトギス」の表紙絵など。)→省略
中村吉藏(※劇作家、演劇研究家。早稲田大学教授。)→省略
齋藤茂吉(※歌人・精神科医。伊藤左千夫門下。)→省略
三好達治(※詩人、翻訳家、文芸評論家。)→省略

プロバン一羽の虚子宛書簡.png

「プロバン一羽の虚子宛書簡」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972618/1/70

プロバン一羽 (※北米の「ホトトギス」系俳人)

ヂュリヤン・ヴヲカンスの虚子宛書簡.png

「ヂュリヤン・ヴヲカンスの虚子宛書簡」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972618/1/70

ヂュリヤン・ヴヲカンス(※「『虚子の句の仏語翻訳』などに関係する仏蘭西人)

四 「お濠の水鳥 / 赤星水竹居/p4~5」周辺

[赤星 水竹居(アカボシ スイチクキョ) 明治〜昭和期の俳人 三菱地所会長。
生年 明治7年1月9日(1874年)
没年 昭和17(1942)年3月28日
出生地 熊本県八代郡鏡町
本名 赤星 陸治(アカボシ ロクジ)
学歴〔年〕 東京帝大法科大学〔明治34年〕卒
経歴 
東京帝大卒業後、三菱地所部に入社し、明治40年丸の内街の開発建設に当った。学生時代は短歌を作ったが、41年内藤鳴雪に師事して俳句に転じ、のち「ホトトギス」に拠り、昭和4年同人となる。没後「水竹居句集」「虚子俳話録」が刊行された。](「20世紀日本人名事典」)

皇居界隈/東京駅・丸の内.jpg

皇居界隈/東京駅・丸の内 文:山尾かづひろ 挿絵:矢野さとし
https://gendaihaiku.blogspot.com/2010/12/blog-post_8147.html

[ 【東京駅・丸の内】

都区次(とくじ):東京駅は丸の内北口から降りていただきます。大規模なビル群が目に入りますね、この景色こそが東京駅を東京の表玄関という所以ですね。東京駅の赤レンガは象徴的で素晴らしいですが、それに引き換え屋根は味気ないですね。

江戸璃(えどり):私のような大正生れの人は知ってるけれど、味のあるドームだったのよ。それが昭和20年5月の東京大空襲で3階から上と屋根が燃えちゃったのよ。現在のは終戦直後の改修だから付焼刃なのよ。米軍も選別爆撃をしていたのだから外してくれてもよかったのよねエ。いま全面に防災の網を張ってトンカン・トンカンと改修工事をやってるわよ。来年の春には元のちゃんとした姿になるんじゃない?

都区次:江戸時代の繁華街というと日本橋なんですが、この東京駅・丸の内はどうだったのですか?東京駅は東海道本線の起点として大正3年12月の開業ですが、周りの景観に比べて駅の開業が相当に遅いようですが?

江戸璃:江戸時代は東京駅から江戸城辺りまでの大手町・丸の内・霞ヶ関などは大名の藩邸だったのよ。

都区次:維新後はそうした大名の藩邸は新政府のものになりますよねエ?

江戸璃:そのとおり新政府に接収されて陸軍用地、官庁用地になったわね。ところがギッチョンチョン、このときの新政府は財政難で麻布の兵舎の建設資金すら無く、明治23年に丸の内の十万余坪を売りにだしたのよ。

都区次:現在の状況から考えると売れたということですね。

江戸璃:そう簡単でもなかったのよ。財相の松方正義が財閥の幹部を呼び出してお願いしたのだけれど相場の数倍とあっては、そうは問屋は卸さないわよねエ。松方は次男が三菱の副社長の岩崎弥之助の長女と結婚している関係から岩崎弥之助に何度も懇願したのよ。弥之助も困っちゃうわよねエ。仕方なくロンドン出張中で経験豊富な上級番頭の荘田平五郎に電報で相談したわけよ。答えは「スミヤカニカイトラルベシ」だったのよ。

都区次:でも、それは言い値で買ったのでしょう?

江戸璃:その通りだけど荘田の考えは「情け有馬(ありま)の水天宮」というのではなくて、すでにロンドンのビル街を想定していたのね。

都区次:丸の内に三菱一号館が出来たのは明治27年ということですが、まだ東京駅は開業してませんよね。

江戸璃:東海道線も新橋まで、中央線もお茶ノ水までで、アクセスは大手町と日比谷間を走っていた路面のチンチン電車だけだったから相当不便で簡単にビルの借り手なんてなかったと思うわよ。歌人の岡本かの子が子供の頃、丸の内は三菱ヶ原と呼ばれて、草茫々の原野でところどころに武家屋敷の跡らしい変わった形の築山があったと書いていたわね。三菱側も土地の確保と政府への「貸し」をつくっておいて東京駅が出来るまで「塩漬け」にしておいたのじゃない?

都区次:さて、現在の丸の内を東京駅より眺めて、ひときわ目につくのが「丸の内ビルディング」です。このビルは二代目で平成十四年八月竣工の地上三十七階、地下四階の超高層ビルという仕様です。下層には歌謡曲『東京行進曲』などで名を残した先代の「丸の内ビルヂング(先代は表記が少し違う)」の面影を残しています。

江戸璃:私ね、二代目の「丸ビル」には悪いけど、先代の方がはるかに味があって好きだったのよ。

都区次:その先代の「丸ビル」に俳句の「ホトトギス」発行所が大正12年から入っていたそうですね。これは三菱が勧誘したのですか?

江戸璃:違うわよ。高浜虚子の方から入居希望したのよ。当時は欧州大戦が収束するか、しないかの時期で、昭和20年代の朝鮮特需のような状況でテナントの募集宣伝をしなくても入居希望があったのよ。新興成金にとって丸ビルへの入居は垂涎の的だったらしいわよ。当時、三菱地所の不動産部長だった赤星陸治(のちの赤星水竹居)が最初のテナントリストを見て、その中にホトトギスの虚子の名があってビックリ仰天したのよ。

都区次:何でビックリ仰天したのですか?

江戸璃:実業家でもないし、牛込の借家で「ホトトギス」を発行しているような虚子が本当に入るのか?家賃は支払えるのか?という疑問が当然浮かぶでしょ。後々になって家賃不払いとかになったら面倒じゃない?それで赤星は虚子に会いに行ったのよ。そしたら意気投合しちゃってね。赤星は虚子を応援する気になったのよ。応援と言ったって赤星は三菱の人だから家賃を負けてやるなんていうことは出来ないでしょう?まず自分が「ホトトギス」に入って、三菱の人達を「ホトトギス」に入れてやったのよ。

都区次:何か虚子が背伸びして丸ビルに入居したようですが、何でですか?

江戸璃:ライバルの河東碧梧桐を意識したのよ。当時、碧梧桐の方が俳句は隆盛で、おまけに浄土真宗の大谷句仏がスポンサーになって全国行脚をしたり、飛ぶ鳥を落とす勢いだったのよ。虚子も対抗意識を燃やしたのでしょうね。

(丸ビル)
梅雨傘をさげて丸ビル通り抜け  高浜虚子
丸ビルのあの窓ひとつ冬灯    山尾かづひろ   ](「現代俳句協会ブロッグ」)

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「俳誌・ホトトギス」管見(その十一) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス・四百号」()周辺

「ホトトギス・四百号」.jpg

「ホトトギス・四百号」(昭和四年・一九二九/十二月号/第三十三巻第三号)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972518

(目次)

ホトトギス四百號 / 飄亭 ; 紅緑 ; 三重吉 ; 秋聲 ; 虚吼 ; 能成 ; 千甕 ; 鼠骨 ; 癖三醉 ; 伊三郞 ; 霽月 ; 如翠 ; 靑峰 ; 宗之助 ; 寅日子 ; 均 ; 把栗 ; 泊月 ; 普羅 ; 法師 ; 格堂 ; 紫影 ; 靑楓 ; 三允 ; 鬼城 ; 繞石 ; 秋江 ; 落魄居 ; 萍雨 ; 泊雲 ; 小風 ; 月斗 ; 雪鳥/p1~20
ハルビンなど ゾーヤサン チンへの家 / 高濱虚子/p21~38
後藤夜半論 / 水原秋櫻子/p39~44
雜詠句評會(第四十六回) / 花蓑 ; 風生 ; 靑邨 ; 秋櫻子 ; たけし ; 虚子/p45~49
漫談會(第十四回)四百號漫談(再び) / 秋櫻子 ; 靑邨 ; 風生 ; たけし ; 虚子/p50~52
庭の草木 / 大岡龍男/p53~56
幟 / 水原秋櫻子/p57~57
花野 / 鈴鹿野風呂/p58~58
春十句 / 高濱虚子/p59~59
ピレネーだより / 池内友次郞/p60~61
東大俳句會 / 曾根豊水/p62~62
家庭俳句會 / 本田あふひ/p63~63
七寳會 / 佐野ゝ石/p64~64
消息 / 虚子 ; たけし/p65~65
同人、選者/p66~66
雜詠 / 高濱虚子/p67~114

(管見)

一 「虚子・秋櫻子・素十」周辺

秋櫻子と素十.png

「秋櫻子と素十(高浜虚子)」(『ホトトギス』1928年11月所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972505/1/4

 「ホトトギス・四百号」は、昭和四年(一九二九)の十二月号、それに先立つ、昭和三年(一九二八)十一月号に、「秋櫻子と素十」と題する、虚子の、「客観写生」という立場からの、「水原秋櫻子(俳句)と高野素十(俳句)」とを俎上に挙げて、「高野素十(俳句)」の世界を佳とする「平易・余韻」に加えての「客観写生」を、「ホトトギス」の目指す道筋の一つとの考えを表明した。
 この背景には、この前年(昭和三年=一九二八)の、山口青邨が、ホトトギスの講演会(「どこか実のある話」と題する講演)の中で、「東に秋素の二Sあり! 西に青誓の二Sあり!」と、いわゆる、「ホトトギス」を代表する俳人として、「四S(しいエス)」(水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子の四人)を指摘したことなどが挙げられる。

[水原秋桜子( みずはら-しゅうおうし)  1892-1981 大正-昭和時代の俳人。
明治25年10月9日生まれ。高浜虚子(きょし)に師事,「ホトトギス」で山口誓子(せいし)らと4S時代をきずく。昭和6年主宰誌「馬酔木(あしび)」で虚子の写生観を批判,新興俳句運動の口火をきった。39年芸術院賞,41年芸術院会員。産婦人科医で,昭和医専の教授もつとめた。昭和56年7月17日死去。88歳。東京出身。東京帝大卒。本名は豊。句集に「葛飾(かつしか)」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[高野素十( たかの-すじゅう) 1893-1976 大正-昭和時代の俳人,法医学者。
明治26年3月3日生まれ。新潟医大教授,同大学長,奈良医大教授を歴任。高浜虚子に師事。水原秋桜子,山口誓子,阿波野青畝(せいほ)とともに「ホトトギス」の4Sと称された。昭和32年「芹」を創刊,主宰。昭和51年10月4日死去。83歳。茨城県出身。東京帝大卒。本名は与巳(よしみ)。句集に「初鴉」「雪片」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[山口誓子( やまぐち-せいし) 1901-1994 大正-平成時代の俳人。
明治34年11月3日生まれ。山口波津女の夫。高浜虚子(きょし)に師事し,「ホトトギス」同人。水原秋桜子らとともに「4S時代」をきずき,のち秋桜子の「馬酔木(あしび)」に参加,俳句の近代化に貢献した。昭和23年「天狼」を創刊。62年芸術院賞。平成4年文化功労者。平成6年3月26日死去。92歳。京都出身。東京帝大卒。本名は新比古(ちかひこ)。句集に「凍港」「激浪」「青女」「不動」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[阿波野青畝 (あわの-せいほ) 1899-1992 大正-平成時代の俳人。
明治32年2月10日生まれ。原田浜人(ひんじん),高浜虚子に師事し,水原秋桜子,山口誓子,高野素十(すじゅう)とともに「ホトトギス派の4S」といわれる。昭和4年俳誌「かつらぎ」を創刊,主宰した。48年蛇笏(だこつ)賞,平成4年日本詩歌文学館賞。平成4年12月22日死去。93歳。奈良県出身。畝傍(うねび)中学卒。旧姓は橋本。本名は敏雄。句集に「万両」「春の鳶(とび)」「甲子園」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

二 「ホトトギス四百號 / 三重吉 ; 能成 ; 寅日子 ; 靑楓 /p1~20」周辺

[鈴木三重吉( すずき-みえきち) 1882-1936 明治-昭和時代前期の小説家,児童文学者。
明治15年9月29日生まれ。夏目漱石に師事。小説「千鳥」「桑の実」を発表。大正7年「赤い鳥」を創刊し,芸術性ゆたかな童話・童謡の創作を提唱。坪田譲治,新美南吉(にいみ-なんきち)らの童話作家をそだてた。昭和11年6月27日死去。55歳。広島県出身。東京帝大卒。童話集に「世界童話集」。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[安倍能成( あべ-よししげ) 1883-1966 明治-昭和時代の哲学者,教育者。
明治16年12月23日生まれ。夏目漱石(そうせき)の門下。岩波版「哲学叢書(そうしょ)」の編集にくわわる。昭和15年一高校長,21年幣原(しではら)内閣の文相,のち学習院院長となる。昭和41年6月7日死去。82歳。愛媛県出身。東京帝大卒。著作に「西洋近世哲学史」「カントの実践哲学」「平和への念願」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[寺田寅彦 (てらだ-とらひこ) 1878-1935 明治-昭和時代前期の物理学者,随筆家。
明治11年11月28日生まれ。ドイツに留学。大正5年東京帝大教授。理化学研究所などの所員をかね,実験物理学,応用物理学,地球物理学など幅ひろい研究を展開した。6年学士院恩賜賞。また夏目漱石(そうせき)に師事し,「藪柑子集(やぶこうじしゅう)」などの随筆をのこす。昭和10年12月31日死去。58歳。東京出身。東京帝大卒。筆名は吉村冬彦。俳号は藪柑子,寅日子など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[津田青楓 (つだ-せいふう) 1880-1978 明治-昭和時代の画家。
明治13年9月13日生まれ。西川一草亭(いっそうてい)の弟。関西美術院で浅井忠(ちゅう)らにまなぶ。大正3年二科会創立に参加,左翼運動にくわわり,昭和6年「ブルジョワ議会と民衆の生活」を出品,検挙される。のち転向して二科会を退会,日本画に転じた。昭和53年8月31日死去。97歳。京都出身。旧姓は西川。本名は亀治郎。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

三 「同人、選者/p66~66」周辺

(その一)「ホトトギス」の代表作家(「その一/虚子雑詠選・明治45~大正5)周辺

[村上鬼城 (むらかみ-きじょう) 1865-1938 明治-昭和時代前期の俳人。
慶応元年5月17日生まれ。群馬県高崎区裁判所の代書人となる。「ホトトギス」に投句して高浜虚子に激励され,大正6年大須賀乙字(おつじ)編「鬼城句集」により俳名をあげた。難聴にくるしみ,不遇の生活を境涯句として表現した。昭和13年9月17日死去。74歳。江戸出身。旧姓は小原。本名は荘太郎。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[飯田蛇笏( いいだ-だこつ) 1885-1962 明治-昭和時代の俳人。
明治18年4月26日生まれ。早大在学中に早稲田吟社で活躍。高浜虚子に師事するが,明治42年郷里山梨県境川村に隠棲(いんせい)。虚子の俳壇復帰とともに句作を再開,「ホトトギス」の中心作家となる。俳誌「雲母」を主宰,山間の地にあって格調のたかい作風を展開した。昭和37年10月3日死去。77歳。早大中退。本名は武治。別号に山廬(さんろ)。句集に「山廬集」「椿花(ちんか)集」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[前田普羅 (まえだ-ふら) 1884-1954 大正-昭和時代の俳人。
明治17年4月18日生まれ。官吏などをへて,時事新報,報知新聞の記者となる。大正はじめより「ホトトギス」に投稿し,高浜虚子(きょし)にみとめられ飯田蛇笏(だこつ)らとともに虚子門の四天王にかぞえられた。富山で「辛夷(こぶし)」を主宰。自然,山岳をよんだ句がおおい。昭和29年8月8日死去。70歳。東京出身。早大中退。本名は忠吉。句集に「普羅句集」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[原石鼎 (はら-せきてい) 1886-1951 大正-昭和時代の俳人。
明治19年3月19日生まれ。家は代々医師。高浜虚子(きょし)にみとめられ,大正4年上京してホトトギス社にはいる。10年「鹿火屋(かびや)」を創刊,主宰。飯田蛇笏(だこつ)らと大正俳壇で活躍した。昭和26年12月20日死去。65歳。島根県出身。京都医専中退。本名は鼎(かなえ)。句集に「花影(かえい)」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

「ホトトギス・同人」.jpg
 
「同人、選者/p66~66」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972518/1/36

(その二) 「ホトトギス」の代表作家(その二/「虚子雑詠選・大正6~大正15)周辺

※ (その一)での「四S(しいエス)」(水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子の四人)の時代

(その三) 「ホトトギス」の代表作家(その三/「虚子雑詠選・昭和2~昭和11)周辺

[川端茅舎 か(わばた-ぼうしゃ) 1897-1941 大正-昭和時代前期の俳人。
明治30年8月17日生まれ。川端竜子の異母弟。岸田劉生(りゅうせい)に師事して画家をこころざしたが,劉生の死と自身の病弱のため俳句に専念する。高浜虚子(きょし)にまなび,「ホトトギス」同人となる。虚子から「花鳥諷詠(ふうえい)真骨頂漢」の称をあたえられた。昭和16年7月17日死去。45歳。東京出身。独協中学卒。本名は信一。句集に「華厳(けごん)」「白痴」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[松本たかし( まつもと-たかし) 1906-1956 昭和時代の俳人。
明治39年1月5日生まれ。宝生(ほうしょう)流能役者松本長(ながし)の長男。9歳で初舞台をふんだが病弱で能を断念。高浜虚子に俳句をまなび,「ホトトギス」の同人となる。昭和21年「笛」を創刊,主宰した。昭和31年5月11日死去。50歳。東京出身。本名は孝。句集に「松本たかし句集」「石魂」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[星野立子 (ほしの-たつこ) 1903-1984 昭和時代の俳人。
明治36年11月15日生まれ。高浜虚子(きょし)の次女。父に師事し,杉田久女(ひさじょ),中村汀女(ていじょ)らとならぶ女性俳人として知られる。昭和5年俳誌「玉藻(たまも)」を創刊,主宰。「ホトトギス」同人。句集「立子句集」「笹目(ささめ)」などのほか,随筆集もおおい。昭和59年3月3日死去。80歳。東京出身。東京女子大高等学部卒。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)


(その四) 「ホトトギス」の代表作家(その四/「虚子雑詠選・「明治45~昭和11)周辺

[原 月舟(ハラ ゲッシュウ) 明治・大正期の俳人
生年 明治22(1889)年5月24日
没年 大正9(1920)年11月4日
出生地 東京市赤坂区青山南町
本名 原 清
学歴〔年〕慶応義塾大学理財科〔大正2年〕卒
経歴 明治の末年から「国民新聞」に投句し、松根東洋城の選を受けた。大正初期、虚子の俳壇復帰とともに「ホトトギス」に投句、大正3年同誌の募集俳句選者の一人となる。7年10月より同誌に「写生は俳句の大道であります」を連載し、ホトトギス流写生論を鼓吹したが、一方ではその瑣末な写生が批判された。没後「月舟俳句集」が刊行された。](「20世紀日本人名事典」)

[西山 泊雲(ニシヤマ ハクウン) 明治〜昭和期の俳人
生年 明治10(1877)年4月3日
没年 昭和19(1944)年9月15日
出生地 兵庫県氷上郡竹田村
本名 西山 亮三
経歴 家業の酒造業を継承。明治36年弟の野村泊月の紹介で高浜虚子に師事。「ホトトギス」の課題句、地方俳句欄選者で虚子に高く評価された。「ホトトギス」同人として「鬼灯」「樗」の雑詠選を担当。句集に「泊雲句集」「泊雲」がある。](「20世紀日本人名事典」)

[鈴木 花蓑(スズキ ハナミノ) 明治〜昭和期の俳人
生年 明治14(1881)年8月15日
没年 昭和17(1942)年11月6日
出生地 愛知県知多郡半田町
本名 鈴木 喜一郎
経歴 大正4年に上京、長く大審院の書記を勤めた。俳句は7年頃から高浜虚子に師事、大正末から昭和初期にかけて「ホトトギス」で活躍し花蓑時代を築く。大阪朝日地方版、新愛知新聞俳壇の選者を担当、「アヲミ」を主宰した。酒好きで有名。「鈴木花蓑句集」の遺著がある。](「20世紀日本人名事典」)

[富安風生( とみやす-ふうせい) 1885-1979 大正-昭和時代の俳人。
明治18年4月16日生まれ。逓信省にはいり,昭和11年逓信次官。在任中から高浜虚子(きょし)に師事し,「ホトトギス」同人。昭和3年「若葉」の選者となり,のち主宰。軽妙洒脱から内省的句風へとうつり,自在な境地に到達した。芸術院会員。昭和54年2月22日死去。93歳。愛知県出身。東京帝大卒。本名は謙次。句集に「草の花」「晩涼」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[山口青邨 (やまぐち-せいそん) 1892-1988 大正-昭和時代の俳人,鉱山学者。
明治25年5月10日生まれ。古河鉱業などをへて母校東京帝大の教授。高浜虚子にまなび,大正11年水原秋桜子(しゅうおうし)らと東大俳句会をおこす。「ホトトギス」同人。「夏草」を創刊,主宰。昭和63年12月15日死去。96歳。岩手県出身。本名は吉郎。句集に「雑草園」,著作に「花のある随筆」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[池内 たけし(イケノウチ タケシ) 大正・昭和期の俳人
生年 明治22(1889)年1月21日
没年 昭和49(1974)年12月25日
出生地 愛媛県松山市
本名 池内 洸(イケノウチ タケシ)
学歴〔年〕 東洋協会専門学校(現・拓殖大)中退
経歴 東洋協会専門学校を中退して宝生流の門に入り、能楽師を志したがそれを断念し、叔父高浜虚子に就いて俳句を志す。「ホトトギス」の編集にたずさわり、昭和7年「欅」を創刊し、8年「たけし句集」を刊行、以後「赤のまんま」「玉葛」「春霞」「その後」「散紅葉」などの句集や随筆集「叔父虚子」などを刊行した。](「20世紀日本人名事典」

[高浜年尾 (たかはま-としお) 1900-1979 大正-昭和時代の俳人。
明治33年12月16日生まれ。高浜虚子(きょし)の長男。中学時代から父の手ほどきをうけ,一時会社につとめたのち俳句に専念。昭和13年から「俳諧(はいかい)」を主宰。26年父より「ホトトギス」をひきついだ。昭和54年10月26日死去。78歳。東京出身。小樽高商(現小樽商大)卒。著作に「俳諧手引」,句集に「年尾句集」。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

(その五) 「ホトトギス・同人」を除名された著名俳人

[日野草城( ひの-そうじょう) 1901-1956 大正-昭和時代の俳人。
明治34年7月18日生まれ。昭和2年の句集「花氷」でみとめられ,4年「ホトトギス」同人。10年「旗艦」を創刊,無季新興俳句運動をすすめ,翌年「ホトトギス」を除名される。戦後は「青玄」を創刊,主宰した。昭和31年1月29日死去。54歳。東京出身。京都帝大卒。本名は克修(よしのぶ)。句集に「青芝」「人生の午後」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[吉岡禅寺洞 (よしおか-ぜんじどう) 1889-1961 明治-昭和時代の俳人。
明治22年7月2日生まれ。大正7年福岡で「天の川」を創刊,のち主宰。富安風生,芝不器男(ふきお)らをそだてる。昭和4年「ホトトギス」同人となるが,新興俳句運動にはいり,11年除名された。戦後,口語俳句協会会長。昭和36年3月17日死去。71歳。福岡県出身。本名は善次郎。別号に禅寺童。句集に「銀漢(ぎんかん)」「新墾(にいはり)」](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[杉田久女( すぎた-ひさじょ) 1890-1946 大正-昭和時代の俳人。
明治23年5月30日生まれ。福岡県小倉にすみ「ホトトギス」に投句し,高浜虚子に師事。昭和7年「花衣(はなごろも)」を創刊,主宰。同年「ホトトギス」同人となるが,11年除名される。昭和21年1月21日死去。57歳。鹿児島県出身。東京女高師付属高女卒。旧姓は赤堀。本名は久子。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)
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「俳誌・ホトトギス」管見(その十) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス(24巻12号)・三百号」(大正十年・一九一三/九月号)周辺

ホトトギス300号.jpg

「ホトトギス(24巻12号)・三百号」(大正十年・一九一三/九月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972419/1/1

(目次)

俳句所感/高濱虚子/p1~3
「夜もすがら神鳴聞くや」の句の辯/高濱虚子/p4~6
出征俳信/田北衣沙櫻/p7~19
渡邊南岳 『四季草花繪卷』の序/p19~23
1/正木直彦/p19~19
2/結城素明/p19~22
3/高濱虚子/p22~23
杉山一轉の句/高濱虚子/p23~25
「島」(荻田才之助著)の序/高濱虚子/p26~26
溪谷を出づる人/前田普羅/p27~33
鎌倉能樂會/内藤鳴雪/p34~34
二百號當時を顧みて/室積徂春/p34~38
新題季寄せについて/毛利碧堂/p38~41
石井柏亭先生へ/小寺葉舟/p41~42
團扇(募集俳句)/内藤鳴雪/p42~43
葉櫻(募集俳句)/原石鼎/p43~47
秋風(募集俳句)/村上鬼城/p47~48
各地俳句界/零餘子/p49~63
東京俳句界/p49~50
地方俳句界/p50~63
海外俳句界/p63~63
俳句入門欄/p64~66
高と低と/目黑野鳥/p64~65
投句/p65~66
石鹼玉十句集/p66~67
新刊紹介/p67~68
消息/p68~68
雜詠/虚子/p69~81
中學讀本中にある俳句(俳談會第四十回)/鳴雪 ; 虚子等/附1~附20
其角研究(第十九回の一)/若樹 ; 世音 ; 仙秀 ; 鳴雪 ; 鼠骨 ; 樂堂等/附1~附10
麻三斤/小川芋錢/p5~5
馬/小川芋錢/p9~9
スケッチ/石井柏亭/p13~13
スケッチ/石井柏亭/p17~17
おやつ/森田恒友/p21~21
原/森田恒友/p31~31
裸女/小川千甕/p39~39
童女/小川千甕/p45~45

(管見)

一 「ホトトギス(8巻7号)・百号」、「ホトトギス(16巻6号)・二百号」、そして、「ホトトギス(24巻12号)・三百号」周辺

 「ホトトギス(8巻7号)・百号」は、「明治三十八年・一九〇五/四月号)」、「ホトトギス(16巻6号)・二百号」は、「大正二年・一九一三/五月号」、この八年間うちの大きな出来事は、「百号」時の、夏目漱石の「吾輩は猫である」の搭載により、地方(伊予・東京)俳誌的な「ホトトギス」が、全国的な文芸誌「ホトトギス」へと飛躍的に伸長した時期であった。
 そして、「二百号」時は、漱石の「朝日新聞」に入社などにより「ホトトギス」への寄稿
が皆無となり、さらに、子規没後の、「日本俳壇」を引き継いだ「河東碧悟桐派(新傾向俳句)の革新派」と「ホトトギス」を引き継いだ「高浜虚子派(伝統俳句の守旧派)」との対立・抗争による「ホトトギス」刷新・再生の時期であった。
 その上で、「大正十年・一九一三/九月号」の「※三百号」の目次を見ると、「※二百号」時の「高札」の一つの、「毎号虚子若しくは大家の小説一篇を掲載する事」は影を潜め、「文芸誌・ホトトギス」から「俳誌・ホトトギス」へと回帰したニュアンスが読み取れる。
 すなわち、「※百号」そして「※二百号」時の「作家(小説家)・虚子」から「俳人・虚子」への再回帰というニュアンスが濃厚となってくる。
 これらのことを、「ホトトギス・百年史」で、その要点を抜粋すると、以下のとおりである。

「ホトトギス・百年史(要点抜粋)」(百号から三百号)

http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/nenpu/100nensi/1001-top.htm
http://www.hototogisu.co.jp/kiseki/nenpu/100nensi/1002-top.htm

※明治三十八年(1905) → 「ホトトギス」百号。
一月 「吾輩は猫である」漱石、明治三十九年八月まで連載。四月 「ホトトギス」百号。
明治四十年(1907)
一月 漱石朝日新聞入社、以後「ホトトギス」に投稿しなくなる。新聞「日本」廃刊、俳句欄「日本及び日本人」に移る。(三月より碧梧桐選)。四月 「風流懺法」虚子。五月 「斑鳩物語」虚子。七月 「大内旅館」虚子。
明治四十一年(1908)
二月 『稿本虚子句集』刊(俳書堂)。虚子、国民新聞に「俳諧師」連載。
十月 虚子国民新聞文芸部部長となり、東洋城を俳句欄選者にする。ホトトギス雑詠を始める。
明治四十三年(1910)
九月 虚子国民新聞退社。「ホトトギス」九月号発売禁止(一宮瀧子「をんな」掲載による)。
十二月 財政難のため「ホトトギス」発行所を芝区南佐久間町に移す。虚子鎌倉市由比が浜同朋町に移住。
明治四十五年(1912)
一月 俳句入門」連載、虚子。七月 雑詠を復活
大正元年(1912)

※大正二年(1913) → 「ホトトギス」二百号
一月 虚子「俳句入門」の中で新人原石鼎、前田晋羅を推す。碧梧桐の日本俳句分裂。
五月 「椿の花」田山花袋。「六ヶ月間俳句講議」連載、虚子。『虚子文集』出版(実業之日本社)。
大正四年(1915)
一月 蛇笏・鬼城雑詠巻頭を競う。二月 「渋柿」創刊。三月 新傾向俳句分裂相次ぐ。
四月 「進むべき俳句の道」連載、虚子。十月 水巴編『虚子句集』刊(植竹書院)。虚子編『ホトトギス雑詠集』刊(四方堂)。乙字「現俳壇の人々」で俳句界はホトトギスの制するところとなったと書く(「文章世界」)。
※※大正五年(1916)
四月 虚子、国民新聞の「国民俳句」の選を東洋城に代わり再び担当。十二月 漱石没。
大正七年(1918)
四月 虚子『俳句は欺く解し欺く味ふ』刊(新潮社)。七月 虚子『進むべき俳句の道』刊(実業之日本社)。「天の川」創刊。九月 この年新傾向運動終熄。
大正八年(1919)
九月 草城・野風呂、京都で「神陵俳句会」発足(大正九年京大三高俳句会となる)。秋桜子・風生・誓子・青邨・年尾・虚子、帝大俳句会結成。
大正九年(1920)
二月 鳴雪・虚子。草城・野風呂・王城・播水、京大三高俳句会を結成。

※大正十年(1921) → 「ホトトギス」三百号

二 「※※大正五年(1916)四月 虚子、国民新聞の「国民俳句」の選を東洋城に代わり再び担当。十二月 漱石没。」周辺

 「ホトトギス」の「百号」(明治三十八年・一九〇五))から「三百号」(大正十年・一九二一)の歩みの中で、子規没後の、その後継者の「虚(虚子)・碧(碧悟桐)」の「対立・抗争・終息」の変遷というのが、その中心の視点ということになるが、その「虚子派(守旧派)」内での、「東洋城更迭・排斥」ともいうべき、虚子の、「国民新聞の『国民俳句』の選を東洋城に代わり再び担当」するという、「虚子(「俳誌・ホトトギス」)と東洋城(「俳誌・渋柿」)」との、今に続く、その因縁のしがらみは、やはり、特筆しておくべきことなのであろう。
 これらについては、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-19

(再掲)

[(東洋城・三十九歳。虚子は大正二年、俳句に復活したが、四月、東洋城に無断で「国民俳壇」を手に入れた。爾後、虚子及び「ホトトギス」と絶縁し、「渋柿」によつて芭蕉を宗とし俳諧を道として立った。)

※怒る事知つてあれども水温む(前書「有感(大正五年四月十七日国民俳壇選者更迭発表の日)」)

[※「大正五年、虚子が俳句に復活し、四月十七日、東洋城はついに国民俳壇の選者を下りた。それというのも、国民新聞の社長・徳富蘇峰が、選者を下りてほしい旨、手紙を送ってきたためであった。東洋城はかねてより、社長からなにか言ってくるまで辞めないつもりだったが、読むと、かなり困って書いてきたものだとわかった。「仕方がない、社長は大将だ。ここまで書いてくるのは、よほどのことなのであろう」と、ついに下りることを承諾した。そして、
  有感(感有リ)
 いかること知つてあれども水温(ぬる)む
という句をつくり、以後虚子とは義絶した。九月には母の上京を促すため、帰郷した。末弟の宗一(そういち)が東京高商に入学するため上京し、以後、宇和島で独り住まいになっていた母の面倒を見るのは長男(※嫡男)の務めだと思い、同居の説得に行ったのだった。この年、東洋城にとって肉親の死にも等しい哀しいできごとがあった。十二月九日、漱石が死亡したのである。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)  ]

三 「ホトトギス・三百号」の画家周辺

石井柏亭・スケッチ画.jpg

「スケッチ/石井柏亭/p13~13」「スケッチ/石井柏亭/p17~17」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972419/1/13
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972419/1/15

石井柏亭については、下記のアドレスなどで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-14
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

森田恒友・スケッチ画.jpg

「おやつ/森恒友/p21~21」「原/森田恒友/p31~31」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972419/1/17
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972419/1/22

 森田恒友についても、下記のアドレスでも、下記アドレスで、「ホトトギス(300号記念号)の「表紙絵」と「挿絵」の画家たちで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-30

(再掲)
[※「ホトトギス(300号記念号)の「表紙絵」を担当したのは津田青風にとっては、その「挿絵」を担当した「小川芋銭・石井柏亭・森田恒友・小川千甕」ともども、一つのエポックであったことであろう。

(補記・「ウィキペディア」など)

小川芋銭(「1868年3月11日(慶応4年2月18日) - 1938年(昭和13年)12月17日)は、日本の画家。19世紀から20世紀前半にかけて活躍した日本の日本画家。」)

石井柏亭(「石井柏亭(1882-1958)は、洋画家として油彩画だけでなく、水彩画、版画、日本画と幅広いジャンルの作品を残しました。さらに、歌人、詩人、批評家、著述家、教育者としても活躍をしました。」)

森田恒友(「1881-1933(明治14-昭和8))、1906(明治39)年、東京美術学校西洋画科卒業。文展に出品。14~15(大正3~4)年に渡欧、帰国後水墨画の制作を始める。22(大正11)年、岸田劉生らと春陽会を創立、以後春陽会を中心に作品を発表。29(昭和4)年、帝国美術学校西洋画科の教授となる。セザンヌほかに学び油彩画を描いたが、一方で南画の理解と制作に励み、特に関東平野の風土をモチーフとして独自の詩情にあふれた水墨画を描いた。)」

小川千甕 (「1882年10月3日 - 1971年2月8日)は、京都市出身の仏画師・洋画家・漫画家・日本画家。本名は小川多三郎。後に、自由な表現できる日本画である「南画」を追求。多くの作品を発表し、戦後にかけて文人への憧れから「詩書画」を多く手掛けるようになる。) 

(参考) 「明治三十七年・日露開戦勃発時の『漱石・虚子・青楓』周辺の人物像

※内藤鳴雪 847年〜1926年(弘化4年〜大正15年) 57才
※浅井 忠  1856年〜1907年(安政3年〜明治40年) 48才
※夏目 漱石 1867年〜1916年(慶応3年〜大正5年) 37才
※※河東碧梧桐 1873年~1937年(明治6年〜昭和12年) 31才
※※高浜 虚子 1874年~1959年(明治7年〜昭和34年) 30才
長谷川如是閑 1875年〜1969年(明治8年〜昭和44年) 29才
※※松根東洋城  1878年〜1964年(明治11年〜昭和39年) 26才
※寺田 寅彦 1878年〜1935年(明治11年〜昭和10年) 26才

※津田 青楓   1880年〜1978年(明治13年〜昭和53年) 24才

※石井 柏亭 1882年〜1958年(明治15年〜昭和33年) 22才
高村光太郎 1883年〜1956年(明治16年〜昭和31年) 21才
※安倍 能成 1883年~1966年(明治16年~昭和41年) 21才
※小宮 豊隆  1884年~1966年(明治17年〜昭和41年) 20才 
川端 龍子  1885年~1966年(明治18年~昭和41年〉 19才
※山脇 敏子 1887年〜1960年(明治20年〜昭和35年) 17才
※安井曾太郎 1888年~1955年(明治21年〜昭和30年) 16才
芥川龍之介 1892年〜1927年(明治25年〜昭和2年) 12才      ]
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「俳誌・ホトトギス」管見(その九) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス(16巻6号)・二百号」(大正二年・一九一三/五月号)周辺

ホトトギス 16(6)(200)表紙.jpg

「ホトトギス 16(6)(200)/ 1913-05」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/1

(目次)

椿の花(小説) / 田山花袋/p1~34
病院にて / 早良平作/p35~38
藤の樹 / ろまん/p39~42
兄さんの結婚の日 / 梅橋/p43~48
牡丹臺と大同江 / 高濱虚子/p49~66
帝國劇場の三月劇 / 内藤鳴雪/p67~71
其後の句作 / 高濱虚子/p72~84
菜の花 / 石井露月/p84~85
新刊紹介 / 司馬太/p85~88
消息 / 虚子/p89~89
東京俳句界 / 高濱虚子/p89~92
地方俳句界 / 高濱虚子/p92~96
雜詠 / 高濱虚子/p97~100
六ヶ月間俳句講義(一) / 高濱虚子/p101~114
表紙畫 人道 / 小川千甕
挿畫 火中の人 / 小川芋錢/p9~9
挿畫 春雨 / 小川芋錢/p13~13
挿畫 編輯室の一隅 / 本間國雄/p17~17
挿畫 新聞社の給仕 / 本間國雄/p21~21
挿畫 或る日 / 鶴田櫟村/p25~25
挿畫 北漢山 / 鶴田櫟村/p29~29
挿畫 お化粧 / 津田靑楓/p33~33
裏畫 くじびき / 小川千甕

(管見)

一 「ホトトギス(16巻6号)・二百号」(大正二年・一九一三/五月号)周辺

 この「二百号(16巻6号/大正二年・一九一三/五月号)」に先立つ、明治四十四年(一九一一)十月号の「第十五巻第一号」で、高浜虚子は「本誌刷新に就いて」を発表して「ホトトギス」の大革新を敢行した。
 その背景は、「ホトトギス(8巻4号)」(明治三十八年・一九〇五)の、夏目漱石の「吾輩は猫である」の「ホトトギス」の搭載により、「松山(柳原極堂)・東京(正岡子規)」を中心とする読者層から、謂わば、「全国的」な読者層をシェアし、経営が好調だったのだか、その漱石の「朝日新聞入社」(明治四十年・一九〇七)、そして、「碧悟桐(「新傾向派」俳句)と虚子(「守旧派」俳句)」との「対立・抗争」などによる、読者層が激減し、経営難に陥ったことが挙げられる。
 これらのことは、その「本誌刷新に就いて」の末尾の、「主として経済上の理由に基づき、社員組織を解き、原稿料をも全廃するといふ事は四方太君(注・坂本四方太)の発意であつたが、他の諸君も皆快く賛成して呉れたのである」で明瞭なことであろう。
 この号をもって、碧悟桐の「課題句選者」は、「松根東洋城・募集句選者」と代替わりすることになる。

ホトトギス(第二十号)目次.jpg

「ホトトギス」(明治四十四年(一九一一)十月号の「第十五巻第一号」)所収「目次と本誌刷新に就いて(高浜虚子)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972302/1/2

二 「ホトトギス」(大正二年(一九一三)一月号の「ホトトギス 16(4)」)所収「高札」周辺

 明治天皇が崩御されて、明治時代から大正時代になったのは、明治四十五年(一九一二)七月三十日、明けて、大正二年(一九一三)の元旦号の、その「ホトトギス」の巻頭に、下記の「高札(こうさつ・たかふだ)」(「掟・禁制」を周知させるための掲示板)が掲げられた。

ホトトギス」(大正二年(一九一三)一月号.jpg

「ホトトギス」(大正二年(一九一三)一月号の「ホトトギス 16(4)」)所収「高札」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972317/1/2

 その「高札」の、「平明にして余韻ある俳句を鼓吹する事」(新傾向句に反対する事)は、当時の俳句界を席巻していた、河東碧悟桐の「新傾向俳句(運動)」(伝統的な俳句の礎となっている「定型」・「有季」に拘らず「非定型=自由律」・「無季」の句をも標榜する)に対する、真っ向からの対立・拒否の宣言であった。この宣言は、その後の「虚子俳諧・ホトトギス俳諧」の、バックボーンとして揺るぎないものとなった。

三 「大正二年(一九一三)当時の虚子」周辺

 「ホトトギス」(大正二年(一九一三)一月号の「ホトトギス 16(4)」)所収「高札」の、「毎号虚子若しくは大家の小説一篇を掲載する事」で示唆される如く、恰も、漱石の「吾輩は猫である」の「ホトトギス」搭載により、「作家(小説家)・夏目漱石」がデビューしたことに刺激されたのか、「俳人・高浜虚子」というよりも、「作家(小説家)・高浜虚子」を目指しての、謂わば、「俳人・虚子」の時代ではなく、「作家(小説家)・虚子」の時代であった。
 それは、その「高札」の、「虚子全力を傾注する事」の、「虚子即ホトトギスと心得る事」の、その「ホトトギス」の編集全般について、当時の信頼すべき門弟の「嶋田青峰」に委ね、そして、その「高札」の、「平明にして余韻ある俳句を鼓吹する事」も、漱石門の、そして、子規門にも通ずる、愛媛(松山中=松山東高)の後輩の、そして、愛媛宇和島藩の藩主の血筋の、宮内省の式部官を歴任している「松根東洋城」に、その任を委ね、その上での、さらに、体調不調(「腸チフス」)などが重なり、その上での、上記の「高札」、そして、その「ホトトギス・二百号」(「ホトトギス 16(6)(200)/ 1913-05」)ということになる。

四 「ホトトギス(16巻6号)・二百号」(大正二年・一九一三/五月号)の「挿絵」周辺

裏畫 くじびき ・ 小川千甕.jpg

「裏畫 くじびき / 小川千甕」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/68

[小川千甕 おがわ-せんよう/ 882-1971 明治-昭和時代の日本画家。
明治15年10月3日生まれ。仏画師北村敬重の弟子となり,浅井忠に洋画もまなぶ。大正4年川端竜子,小川芋銭(うせん)らと珊瑚(さんご)会を結成。油絵から日本画へ移行し院展に「田面の雪」「青田」などを出品。昭和7年日本南画院に参加。昭和46年2月8日死去。88歳。京都出身。本名は多三郎。代表作に「炬火乱舞」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[小川芋銭 おがわ-うせん/ 1868-1938 明治-昭和時代前期の日本画家。
慶応4年2月18日生まれ。本多錦吉郎に洋画をまなび,独学で日本画も習得。「朝野新聞」などに挿絵や漫画をかく。茨城県牛久に移り住み,院展を中心に活動。河童(かっぱ)の絵で知られる。日本美術院同人。昭和13年12月17日死去。71歳(。幼名は不動太郎。本名は茂吉。別号に牛里,草汁庵。代表作に「森羅万象」「夕凪」。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

挿畫 火中の人 ・ 小川芋錢.jpg

「挿畫 火中の人 / 小川芋錢/p9~9」(ホトトギス 16(6)(200)/ 1913-05)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/14

挿畫 春雨・ 小川芋錢.jpg

「挿畫 春雨 / 小川芋錢/p13~13」(ホトトギス 16(6)(200)/ 1913-05)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/16

 「本間国雄」(本名)は、「本間国生」(画号)であろう。

[本間 国生(ほんま くにお、本名:本間 国雄、明治24年(1891年)3月24日 - 昭和48年(1973年)12月30日)は、米沢市出身の日本画家。文学博士の本間久雄の実弟。号は逸老庵。](「ウィキペディア」抜粋)

挿畫 編輯室の一隅・ 本間國雄.jpg

「挿畫 編輯室の一隅 / 本間國雄/p17~17」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/18

挿畫 新聞社の給仕・ 本間國雄.jpg

「挿畫 新聞社の給仕 / 本間國雄/p21~21」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/20

 これに続く、「鶴田櫟村」とは、下記の「鶴田吾郎」のようである。

[鶴田 吾郎(つるた ごろう、1890年7月8日 - 1969年1月6日)は、日本の画家(洋画家)、版画家。日本美術展覧会会員。
 東京に生まれる。早稲田中学を中退したのち、まず倉田白羊の白羊洋画研究所に入り、洋画を学んでいる。その後、白馬会洋画研究所に入門し、さらに太平洋画会研究所に移って中村不折に師事して油絵を学んでいる。示現会に所属。
 1910年(明治43年)、味の素株式会社広告部に勤務した後、1912年(大正元年)には京城日報社に入社し、翌1913年(大正2年)から1920年(大正9年)まで朝鮮、満洲大連、ハルピン及びシベリアに滞在していた。その間、1915年(大正4年)に川端龍子とともにスケッチ倶楽部を創設し、1917年に版画集『スケッチクラブ画集』(高坂栄之助摺)を出版、通信教育の講義録を担当している。日本国内を始め中国、ロシア、ヨーロッパなどを旅行、風景画を多数制作した。1920年の帰国後、第2回の帝展に「盲目のエロシェンコ像」が入選する。これ以降、帝展、文展及び日展において活躍した。文展では審査員を務めた。また、1926年(大正15年)頃から加藤版画店で「九十九里の漁夫」など新版画の作品を発表している。
 1937年(昭和12年)から1940年(昭和15年)までの間、風刺版画の雑誌『カリカレ』に素描やスケッチなどのほか、文章を掲載した。1938年(昭和13年)頃、ステンシルを研究していた。
 1939年(昭和14年)、陸軍美術協会の設立に向けて発起人の一人となり[1]、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1942年(昭和17年)には、「空の神兵」と謳われた帝国陸軍落下傘部隊のパレンバン空挺作戦における活躍を描いた戦争画『神兵パレンバンに降下す』を発表[2]。大戦後は日本国内を旅行、各地国立公園の風景を描いており、日本国立公園シリーズ30点を完成させるとともに、日本山林美術協会を創設、自らその代表を務めている。](「ウィキペディア」)

挿畫 或る日 ・ 鶴田櫟村.jpg

「挿畫 或る日 / 鶴田櫟村/p25~25」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/22

挿畫 北漢山・ 鶴田櫟村.jpg

「挿畫 北漢山 / 鶴田櫟村/p29~29」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/24
 
 「挿畫 お化粧 / 津田靑楓/p33~33」周辺については、これまでに、「津田青楓管見(その一からその十)」など紹介してきた「津田青楓」の、大正二年(一九一一三)の、三十三歳の「挿絵図」ということになる。

挿畫 お化粧・ 津田靑楓.jpg

「挿畫 お化粧 / 津田靑楓/p33~33」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/26

(再掲)

津田青楓管見(その一)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

[※大正十年(一九二一) 四十二歳

ホトトギス表紙.jpg
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「俳誌・ホトトギス」管見(その八) [ホトトギス・虚子]

「俳誌・ホトトギス」管見(その八)
「ホトトギス(8巻7号)・百号」(明治三十八年・一九〇五/四月号)周辺

ホトトギス(8巻7号)・百号.jpg

「ホトトギス(8巻7号)・百号」(明治三十八年・一九〇五/四月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/1


(目次)

表紙畫 / 橋口五葉
汐干(口繪) / 淺井默語
釣魚(口繪) / 中村不折
吾輩は猫である(三) / 夏目嗽石/p1~8,10~39
ステーシヨン、スヶッチ(挿畫) / 橋口五葉/p9~9,11~11,13~13,15~15,17~17,19~19,21~21
團栗(小説) / 寺田寅彦/p39~39,42~46
歸朝雜感(挿畫) / 灰殻道人/p40~41
月給日(小説) / 野村傳四/p46~53
ほねほり(小説) / 高濱虚子/p53~61
げん(ゲン)花(小説) / 河東碧梧桐/p61~69
東京俳句界/p69~72
下士官室(挿畫) / 谷朱冠/p70~70
騎兵徒歩(挿畫) / 谷朱冠/p71~71
地方俳句界/p72~78
田舍源氏に付て(四) / 内藤鳴雪/p78~81
冬三題 / 碧梧桐 ; 露月 ; 虚子/p81~81
葉水の句解釋 / 内藤鳴雪/p81~85
消息 / 虚子記/p85~86
蒲鉾の賛 / 坂本四方太/p86~90
お伽のかるた / 子夜/p90~95
丑三時 / 小風/p95~97
月給日 / 木南人/p97~98
逃げ蛙 / 木兎/p99~100
音樂舞踏研究會 / 菊泉/p100~102
眞田細工講習會 / 夢拙/p102~103
波(春、募集俳句其一) / 鳴雪/p104~108
石(春、募集俳句其二) / 碧梧桐/p108~111
門(春、募集俳句其三) / 淺茅/p111~113
蕪村遺稿講義(秋八) / 鳴雪 ; 碧梧桐 ; 虚子/p113~117
新刊/p117~118
課題/p118~118
十二支(圖案) / 樂堂/p表紙2面~3面
野外演習(裏畫) / 谷朱冠/p表紙4面
附録 幻影の盾(扉畫) / 橋口五葉
附録 幻影の盾(小説) / 夏目嗽石/p1~35
附録 幻影の盾のうた / 野間奇瓢/p36~36

(管見)

一 「表紙畫 / 橋口五葉」・「ステーシヨン、スヶッチ(挿畫) / 橋口五葉」・「附録 幻影の盾(扉畫) / 橋口五葉」周辺

ステーシヨン、スヶッチ(挿畫.jpg

|ステーシヨン、スヶッチ(挿畫) / 橋口五葉」(/p9~9,11~11,13~13,15~15,17~17,19~19,21) https://dl.ndl.go.jp/pid/7972215/1/2  https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/12
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/13  https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/14
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/15  https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/16

附録 幻影の盾(扉畫).jpg

「附録 幻影の盾(扉畫) / 橋口五葉」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/67

[橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年(明治14年)[注 1]12月21日 - 1921年(大正10年)2月24日)は、明治末から大正期にかけて文学書の装幀作家、浮世絵研究者として活躍したが、最晩年、新版画作家として新境地を開こうとした矢先に急死した。アール・ヌーヴォー調の装幀本、「大正の歌麿」と形容された美人画を残している。(中略)
 雑誌『ホトトギス』の挿絵を描いていた事や、五葉の長兄が熊本の第五高等学校で教え子だった関係で夏目漱石と知り合い、1905年(明治38年)、『吾輩ハ猫デアル』の装幀を依頼される。以来『行人』まで漱石の著作の装幀は五葉がつとめることになる。漱石以外にも、森田草平、鈴木三重吉、森鷗外、永井荷風、谷崎潤一郎、泉鏡花の作品の装幀を手がける。また、この時期の五葉は1907年(明治40年)に東京府勧業博覧会で出品作が2等賞を受賞し、同年の第1回文展では「羽衣」が入選を果たすなどして、画家としても次第に注目されるようになっていった。1911年(明治44年)、籾山書店の企画した叢書のためのデザインは、大正2年まで24もの名作の表紙を飾ることになる。その蝶をモチーフにあしらったデザインのために胡蝶本と愛称された。その他イラストでも活躍し、1911年(明治44年)「此美人」が三越呉服店の懸賞広告図案で第1等を受賞、懸賞金1000円を獲得し有名になった。この作品は、元禄模様の着物を着た女性が美人画の版本を手に座る姿を描いており、江戸回顧及びアールヌーボーの流行を反映している。(後略) ](「ウィキペディア」)

吾輩は猫である・橋口五葉.jpg

上図左=「吾輩は猫である」上編の装丁 / 上図右=「吾輩は猫である」中編の装丁
下図左=「吾輩は猫である」下編の装丁 (『吾輩ハ猫デアル 上・中・下編』ジャケット下絵/装丁/橋口五葉(1905年)抜粋)
https://www.meijimura.com/meiji-note/post/natsumesouseki/
下図右=「此美人」石版画(橋口五葉)(「ウィキペディア」抜粋)

[ 漱石は、当初、『吾輩は猫である』の挿画を、友人の橋口貢に頼もうと考えていましたが、弟の橋口五葉が、東京美術学校(現東京芸術大学)に在学していることを知り、五葉に絵を依頼しました。
 明治38(1905)年1月18日に「猫の画をかいてくださるよし難有候。なるべく面白いやつを沢山かいて下さい」とハガキを送り、2月12日には「ホトトギスの挿画はうまいものに候。御蔭で猫も面目を施し候。バルザック、トチメンボー皆一癖ある画と存候。他の雑誌にゴロゴロ転ってはおらず候。これでなくては自分の画とは申されません。クジャクの線も一風有之候。足はことによろしく候。あれは北斎のかいた足のように存じ候。僕の文もうまいが、橋口くんの画の方がうまいようだ」と手放しで褒めています。](「漱石『吾輩は猫である』の装丁」抜粋)
https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201905100000/

※ 上記の「漱石『吾輩は猫である』の装丁」中の、橋口五葉の「バルザック、トチメン
ボー、クジャク」(「ホトトギス」挿絵)は、下記のものである。

パルザック(挿畫.jpg

「パルザック(挿畫) / 橋口五葉/p10~10」(「ホトトギス 8(5)/ 1905-02」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972215/1/8

トチメンボー(挿畫.jpg

「トチメンボー(挿畫) / 橋口五葉/p19~19」(「ホトトギス 8(5)/ 1905-02」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972215/1/12

孔雀(挿畫.jpg

「孔雀(挿畫) / 橋口五葉/p24~24」(「ホトトギス 8(5)/ 1905-02」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972215/1/15

二 「汐干(口繪) / 淺井默語」周辺

汐干(口繪.jpg

「汐干(口繪) / 淺井默語」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/4

[浅井 忠(あさい ちゅう、1856年7月22日(安政3年6月21日) - 1907年(明治40年)12月16日)は、明治期の洋画家、教育者。号は黙語(もくご)。(中略)
 1873年に上京。はじめは英語の塾で学んでいたが、1875年に彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学び、1876年に工部大学校(現在の東京大学工学部)附属の工部美術学校に入学、西洋画を学び特にアントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた。フォンタネージの帰国後、後任教師フェレッチの指導に飽き足らず、1878年11月に小山正太郎や松岡寿ら同士11人とともに退学し、十一会を結成。卒業後は、新聞画家としての中国派遣などを経て、1889年には忠が中心になって明治美術会を設立した。1894年、日清戦争に従軍。1895年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品して妙技二等賞受賞。1898年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となる。その後、1900年からフランスへ西洋画のために留学した。1902年に帰国後、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授・教頭となり、個人的にも、1903年に聖護院洋画研究所(1906年に関西美術院)を開いて後進の育成にも努力した。安井曽太郎、梅原龍三郎、石井柏亭、津田青楓、向井寛三郎を輩出しており、画家としてだけではなく教育者としても優れた人物であった。また、正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。
 『吾輩ハ猫デアル』の単行本の挿画を他の2人とともに描いている。(後略) ](「ウィキペディア」)

三 「釣魚(口繪) / 中村不折」周辺

釣魚(口繪.jpg

「釣魚(口繪) / 中村不折」周辺
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/6

[中村 不折(なかむら ふせつ、1866年8月19日(慶応2年7月10日) - 1943年(昭和18年)6月6日)は、明治・大正・昭和期に活躍した日本の洋画家・書家。正五位。太平洋美術学校校長。夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵画家として知られる。本名:中村鈼太郎(なかむら さくたろう)。(中略)
 1894年には正岡子規に出会い、日本新聞社の発行する新聞『日本』の記者となり、新聞『小日本』の挿絵を担当する。新聞『小日本』126号に俳句が掲載され、初めて「不折」の名を使用する。30歳の時、正岡子規とともに日清戦争に従軍し、中国に渡り書に興味を持つ。31歳の時、堀場いとと結婚。日本新聞社に入社し引き続き挿絵を担当する。34歳の時、第10回明治美術展覧会に「淡煙」「紅葉村」を出品。「紅葉村」は1900年のパリ万国博覧会で褒賞を受賞する。その後、下谷区中根岸31番地に画室を新築し転居した。(中略)
 また、森鷗外や夏目漱石らの作家とも親しく、挿絵や題字を手掛けることも多かった。
島崎藤村の詩集『若菜集』(1897年)、『一葉舟』(1898年)の挿絵を担当した。1905年に『吾輩は猫である』上巻が刊行され挿絵を描いた。漱石は不折に宛てて「発売の日からわずか20日で初版が売り切れ、それは不折の軽妙な挿絵のおかげであり、大いに売り上げの景気を助けてくれたことを感謝する」という旨の手紙を送っている。

吾輩ハ猫デアル.jpg   

 (後略)   ](「ウィキペディア」)

四 「團栗(小説) / 寺田寅彦/p39~39,42~46」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-01

(「再掲」抜粋)

[※寺田寅彦は、その随筆の筆名は「吉村冬彦」を用いている。この「吉村冬彦」の筆名は、「僕の家の先祖は吉村という姓だったので、それで僕が冬年生れた男だから、吉村冬彦としたわけさ。だから此の名はペンネームというより、むしろ僕は一つの本名と思っているのだ」(『寺田寅彦の追想(中谷宇吉郎稿)』)ということが、『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』に記されているが、この「吉村」は、寅彦の高知出身の「父・利正」と深い関わりのもので、そして、この「冬彦」も、寅彦(二十歳)の時の、その高知で「父・利正」の友人の娘「夏子(十五歳)」との結婚、そして、その夏子の死(明治三十五年、寅彦=二十五歳、夏子=二十歳)と深く関わるものなのであろう。
 この「吉村冬彦」という筆名は、大正九年(一九二〇)、寅彦(四十三歳)の時の、上記の「年譜」にあるとおり、「十一月、随筆「小さな出来事」を吉村冬彦の筆名で「中央公論」に発表、以後、随筆にはこの筆名を使用するようになる」の、それ以後の筆名ということになる。
 その以前に、寅彦は、「藪柑子」という、筆名を用いている。これらのことに関して、『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』では、「藪柑子の名が使われたのは、『寺田寅彦は小説を書いている』という非難が大学内部で起こったからである」と指摘している。
 この「寅彦から藪柑子」への筆名の変遷は、『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』のものに、次のアドレスのものですると、次のとおりとなる。

https://kyuurisha.com/torahiko-to-yabukohji/

[明治38年4月→「団栗」=筆名:寅彦(1月は本多光太郎博士と実験三昧)
明治38年6月→「龍舌蘭」=筆名:寅彦(8月に寛子と結婚、11月「熱海間欠泉の変動」)
明治39年10月→「嵐」=筆名:寅彦(4月「尺八に就て」)
明治40年1月→「森の絵」=筆名:寅彦(1月に長男の東一誕生)
明治40年2月→「枯菊の影」=筆名:寅彦(4月「潮汐の副振動」、7~8月に三原山調査)
明治40年10月→「やもり物語」=筆名:寅彦
明治41年1月→「障子の落書」=筆名:藪柑子
明治41年4月→「伊太利人」=筆名:藪柑子
明治41年10月→「花物語」= 筆名:藪柑子(同月に博士論文「尺八の音響学的研究」)
明治42年1月→「まじょりか皿」=筆名:藪柑子(3月から欧州留学) ]

[豊隆=蓬里雨・三十七歳。 海軍大学校嘱託教授となる。]

※『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』では、これらの「藪柑子から冬彦へ」の筆名の変遷などに関連して、「漱石・寅彦・豊隆」の三者関係について、概略、次のとおり記述している。

[小宮豊隆は夏目漱石を敬慕することが極めて厚かったが、彼がまた寺田寅彦にも兄事して深く敬愛していた。寅彦に『藪柑子集』の佳品を書かせたのは漱石であるが、『冬彦集』には豊隆の『啓示と奨励(寅彦)があった。(中略)
 小宮豊隆は「『藪柑子集』は『冬彦集』作家の昔の「顔」である」と書く。そして明治文学史における寺田寅彦の作品を次のように位置づける。すなわち「団栗」によって鈴木三重吉の「千鳥」が生まれ、「千鳥」によって夏目漱石の「草枕」が胚胎されたと見るのである。]

「ホトトギス(明治四十一年十月号).jpg

「ホトトギス(明治四十一年十月号).jpg

「花物語(藪柑子)」掲載「ホトトギス(明治四十一年十月号・表紙と目次)(「熊本県立大学図書館オンライン展示」)
https://soseki-kumamoto-anniversary.com/#mv

※ 上記の「ホトトギス(明治四十一年十月号・表紙と目次)の、その「目次」(下段)に、「文鳥(夏目漱石)」に続いて「花物語(藪柑子)」が掲載されている。その「目次」(上段)に、「地方俳句界(東洋城選)」・「消息(虚子記)」・「雑詠(虚子選)」・「表紙図案(中村不折)」の名が掲載されている。
 この当時の「ホトトギス」は、「虚子と東洋城」とが、「ホトトギス」の「俳句の部」(「雑詠(虚子選)」と「地方俳句界(東洋城選)」など)を、そして、「漱石と藪柑子=寅彦」とが「小説の部」(「文鳥(夏目漱石)」と「花物語(藪柑子=寅彦)」など)を、タッグを組んでコンビになっていたことが覗える。
 そして、この当時は、「漱石・寅彦(藪柑子)」とは、「俳句」とは疎遠になっていて「小説」の方に軸足を移していたということになる。そして、小宮豊隆は、当然のことながら、「漱石・寅彦(藪柑子)」の「小説」の『解説(評論)』に主力を投入していて、「俳句・俳諧(連句)」とは無縁であったといっても過言ではなかろう。
 これが、大正九年(一九二〇)当時になると、虚子と東洋城とが、大正五年(一九一六)の漱石が亡くなった年(十二月)の四月に、「国民新聞」の「国民俳壇」の選者交替(虚子→東洋城→虚子)を契機としての「虚子と東洋城との絶縁」状態で、この年に、東洋城が全力を傾注していた「渋柿」の主要同人(水原秋櫻子など)が、カムバックした虚子の「ホトトギス」へ移行するなど、大きく様変わりをしていた。
 これらのことと併せて、大正六年(一九一七)の、東洋城の「渋柿」の、「漱石先生追悼号」・「漱石忌記念号」、そして、『漱石俳句集(東洋城編・岩波刊)』の刊行などが、漱石最側近の「寅彦・東洋城・豊隆」とが、東洋城の「渋柿」上に、東洋城の年譜に、「寅彦、豊隆、『渋柿』に毎号執筆する」とあるとおり、その名を並べることになる。
 この時には、寅彦は、「藪柑子」時代の「小説」の世界とは絶縁していて、「小説家・藪柑子」ではなく「随筆家・冬彦」の、その「年譜」にあるとおり、「北村冬彦」という筆名が用いられることになる。
 この漱石の時代の「小説家・藪柑子」から、漱石没後の「随筆家・北村冬彦」への転換は、その寅彦の弟分にあたる「小宮豊隆」が大きく関与していたことが、次の『藪柑子集(小宮豊隆後記・岩波刊)』と『冬彦集(小宮豊隆後記・岩波刊)』との二著から覗える。

『藪柑子集(小宮豊隆後記・岩波刊)』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/978015/1/1

[標題
目次
自序
團栗/1
龍舌蘭/16
嵐/31
森の繪/45
枯菊の影/52
やもり物語/73
障子の落書/88
伊太利人/99
まじよりか皿/112
花物語/126
旅日記/160
先生への通信/242
自畫挿畫二葉
『藪柑子集』の後に 小宮豐隆/281 ]

『冬彦集(小宮豊隆後記・岩波刊)』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/969389/1/1

[標題
目次
自序
病院の夜明の物音/1
病室の花/7
電車と風呂/20
丸善と三越/30
自畫像/59
小さな出來事/93
鸚鵡のイズム/124
芝刈/130
球根/150
春寒/165
厄年とetc./173
淺草紙/193
春六題/201
蜂が團子を拵へる話/214
田園雜感/222
アインシュタイン/236
或日の經驗/262
鼠と猫/273
寫生紀行/305
笑/337
案内者/354
斷水の日/372
簔蟲と蜘蛛/385
夢/394
マルコポロから/400
蓄音機/407
亮の追憶/431
一つの思考實驗/453
文學中の科學的要素/479
漫畫と科學/490
『冬彦集』後話 小宮豐隆/499  ]
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「俳誌・ホトトギス」管見(その七) [ホトトギス・虚子]

「俳誌・ホトトギス」管見(その七)
「ホトトギス(8巻4号)」(明治三十八年・一九〇五/一月号)周辺

ホトトギス(8巻4号)表紙.jpg

「ホトトギス(8巻4号)」(明治三十八年・一九〇五/一月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972214/1/1

ホトトギス(8巻4号)目次.jpg

「ホトトギス(8巻4号)」(明治三十八年・一九〇五/一月号)目次
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972214/1/2

(目次)

素盞鳴尊(口繪) / 默語
孫叔敖(口繪) / 默語
我輩は猫である / 漱石/p1~15
新年五題(挿畫) / 默語
占領地の新年/p5~5
朝鮮の新年/p7~7
歩哨の新年/p9~9
陣中の新年/p11~11
病院の新年/p13~13
灰吹日記抄 / 四方太/p15~17
非片々文學 / 虚子/p18~23
影法師/p18~19
茶漬/p20~23
曙光(挿畫) / 朱冠/p19~19
日出(挿畫) / 朱冠/p21~21
北米雜筆 大統領選擧の夕 / 落葉/p23~24
北米雜筆 風聲録 / 逝水/p25~28
北米雜筆 公園まで / 柴舟/p28~29
俘虜の生活(挿畫二葉) / 爲山/p26~27
拾ひ猫 / 小風/p29~31
鮭漁 / 淡月/p31~32
戰死通知 / 蓙村生/p32~33
屠蘇に醉ふて / 虚子/p33~37
こがらし(挿畫二葉) / はしぐち/p34~35
俳體詩 雪 / 五城/p37~39
俳體詩 菊 / 五城/p40~40
俳體詩 童謠 / 漱石/p41~41
俳體詩 蓑虫の歌 / 蜩鳩/p41~41
寒天(挿畫) / はしぐち/p39~39
戰地雜信 戰場の握手 / 蒼苔/p41~43
戰地雜信 陣中凍夜 / 遼一/p43~44
戰地雜信 豫備兵日記抄(二) / 淡紅/p44~47
歳暮(挿畫) / はしぐち/p43~43
蕪村遺稿講義(秋六、二十) / 鳴雪 ; 碧梧桐 ; 虚子/p47~53
連句 歌仙一巻 / 小洒 ; 素泉/p54~55
田舍源氏に付て / 鳴雪/p55~59
豫言者(挿畫) / 朱冠/p57~57
東京俳句界/p60~61
地方俳句界/p61~67
文學界美術界漫言 新曲「浦島」 / 角居 ; 半壺/p67~69
新年雜咏 / 碧童/p69~70
風邪(募集俳句其一) / 鳴雪/p70~71
榾(募集俳句其二) / 碧梧桐/p72~74
征露節(挿畫) / 朱冠/p73~73
蕎麥湯(募集俳句其三) / 碧童 ; 虚子/p75~77
冬の月(挿畫) / 樂堂/p78~78
消息 / 虚子/p78~79
新刊/p79~79
課題/p79~80
淺草寺雜咏 / 四方太/p80~80
冬の朝(裏繪) / はしぐち
附録 仰臥漫録 / 子規/p1~52

(管見)

一 「我輩は猫である / 漱石/p1~15」周辺

吾輩は猫である.jpg

「我輩は猫である / 漱石/p1~15」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972214/1/5

[『吾輩は猫である』(わがはいはねこである)は、夏目漱石の長編小説であり、処女小説である。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』にて発表されたのだが、好評を博したため、翌1906年(明治39年)8月まで継続した。上、1906年10月刊、中、1906年11月刊、下、1907年5月刊。
 中学の英語教師苦沙弥先生の日常と、書斎に集まる美学者迷亭、理学者寒月、哲学者東風らといった明治の知識人たちの生活態度や思考を飼い猫の目を通して、ユーモアに満ちたエピソードとして描いた作品。
 表面的にすぎない日本の近代化に対する、漱石の痛烈な文明批評・社会批判が表れている風刺小説。なお実際、本作品執筆前に、夏目家に猫が迷い込み、飼われることになった。その猫も、ずっと名前がなかったという。](「ウィキペディア」抜粋)

[『漱石氏と私』は日本の俳人、高浜虚子が1918年1月(夏目漱石の没したのは1916年12月)に出版した回想録である。漱石から虚子への書簡を紹介し、明治30年から虚子が中心となって発行した『ホトトギス』で漱石が小説家として脚光をあびる前後の経緯などが紹介される。
 漱石の死の直後から執筆され、1917年の『ホトトギス』に7回に亘って連載されたもの他をまとめて出版したもので、後に、1915年の著書『子規居士と余』とともに岩波文庫で『回想 子規・漱石』のタイトルで刊行された。

 『吾輩は猫である』の誕生の経緯としては、ホトトギスの俳人たちの文章会「山会」に虚子の勧めで文章を書くことを求められた漱石は短期間に数十枚の原稿を書き、虚子が推敲して、山会で紹介され「とにかく変わっている。」ということで好評を得た。『ホトトギス』に掲載されると一挙に漱石の小説家の地位が確立され、『ホトトギス』の売り上げを高めた。それまで仲間うちの雑誌の色彩が濃く、殆ど原稿料を払わないで運営されていた『ホトトギス』は、漱石らの執筆者に原稿料を払うようになった。漱石は『ホトトギス』を商業雑誌として発行したほうがよいと考えていたことなども紹介される。](「ウィキペディア」抜粋)

二 「俳體詩 童謠 / 漱石/p41~41」周辺

http://www.compassion.co.jp/column/archive/bungei032

[源兵衛が 練馬村から/大根を 馬の背につけ/お歳暮に 持て来てくれた
源兵衛が 手拭でもて/股引の 埃をはたき/台どこに 腰をおろしてる
源兵衛が 烟草をふかす/遠慮なく 臭いのをふかす/すぱすぱと 平気で
ふかす
源兵衛に どうだと聞いたら/さうでがす 相変らずで/こん年も 寒いと
言った
源兵衛が 烟草のむまに/源兵衛の 馬が垣根の/白と赤の 山茶花を食った
源兵衛の 烟草あ臭いが/ 源兵衛は 好きなぢゝいだ/源兵衛の 馬は悪馬だ

これは「童謡」と題された夏目漱石の作である。明治三十八年「ホトトギス」の一月号に「吾輩は猫である」と共に掲載された。「日本童謡集」(与田準一編・岩波文庫)によれば、大正七年に鈴木三重吉が興した「赤い鳥」運動以前の、童謡らしい創作の動きの魁をなす。
「ホトトギス」は明治三十年に正岡子規の友人・柳原極堂が起こした俳句誌で、子規や高浜虚子らが選者となった。子規は連句に否定的であったが、彼の死後、虚子が連句を新体詩とする復興運動を興し、漱石もそれを支持した。雑俳好きの漱石が面白がり、また「ホトトギス」を仲間内の気楽な投稿誌とみなし、連句形式で詩を書いてみたに違いない。漱石はこれを新体詩ならぬ「俳体詩」と命名し、虚子もその名称を使用した。漱石のそれ以前、「童謡」という言葉は全く使用されておらず、子どもの唄は「童(わらべ)唄」と呼ばれていた。 ](「虹の橋文芸サロン アーカイヴ」抜粋)

童謡・夏目漱石.jpg

「童謡」と題する漱石の詩
https://blog.goo.ne.jp/np4626/e/bbc9d894945bb52d99698177a49b9533

三 「消息 / 虚子/p78~79」周辺

 「(前略) 四月十日を以て発刊すべき第八巻第七号は正に一百号に至り候。(後略)とあり、この号は、「ほとゝぎす(創刊号)」(明治三十年・1897/一月号)から数えて、第九十七号ということになる。

(再掲・抜粋)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-09-07

[「吾輩は猫である」(「初出」と「単行本」)

https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/soseki/syuyo-neko.html

吾輩は猫である・初出と単行本.jpg

(初出)『ホトトギス』 明治38年1月~明治39年8月まで10回にわたり断続的に連載
(単行本)上編 明治38年10月 中編 明治39年11月 下編 明治40年5月 大倉書店・服部書店
≪(内 容)
 猫を語り手として苦沙弥・迷亭ら太平の逸民たちに滑稽と諷刺を存分に演じさせ語らせたこの小説は「坊っちゃん」とあい通ずる特徴をもっている。それは溢れるような言語の湧出と歯切れのいい文体である。この豊かな小説言語の水脈を発見することで英文学者・漱石は小説家漱石(1867-1916)となった。(岩波文庫解説より)

(自作への言及)
 東風君、苦沙弥君、皆勝手な事を申候。それ故に太平の逸民に候。現実世界にあの主義では如何と存候。御反対御尤に候。漱石先生も反対に候。
 彼らのいふ所は皆真理に候。しかしただ一面の真理に候。決して作者の人生観の全部に無之故(これなきゆえ)その辺は御了知被下(くだされたく)候。あれは総体が諷刺に候。現代にあんな諷刺は尤も適切と存じ『猫』中に収め候。もし小生の個性論を論文としてかけば反対の方面と双方の働きかける所を議論致したくと存候。
(明治39年8月7日 畔柳芥舟あて書簡より)

 『猫』ですか、あれは最初は何もあのように長く続けて書こうという考えもなし、腹案などもありませんでしたから無論一回だけでしまうつもり。またかくまで世間の評判を受けようとは少しも思っておりませんでした。最初虚子君から「何か書いてくれ」と頼まれまして、あれを一回書いてやりました。丁度その頃文章会というものがあって、『猫』の原稿をその会へ出しますと、それをその席で寒川鼠骨君が朗読したそうですが、多分朗読の仕方でも旨かったのでしょう、甚くその席で喝采を博したそうです。(中略)
 妙なもので、書いてしまった当座は、全然胸中の文字を吐き出してしまって、もうこの次には何も書くようなことはないと思うほどですが、さて十日経ち廿日経って見ると日々の出来事を観察して、また新たに書きたいような感想も湧いて来る。材料も蒐められる。こんな風ですから『猫』などは書こうと思えば幾らでも長く続けられます。(「文学談」)≫(「東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ」)

http://neko.koyama.mond.jp/?eid=209617

≪「俳句の五十年(高浜虚子著)」抜粋

 ある時私は漱石が文章でも書いて見たならば気が紛れるだろうと思いまして、文章を書いて見ることを勧めました。私は別に気にも留めずにおったのでありまして、果して出来るか、出来んかも分らんと考えておったのでありました。ところが、その日になって立寄ってみますと、非常に長い文章が出来ておりまして、頗(すこぶ)る機嫌が良くって、ぜひこれを一つ自分の前で読んでみてくれろという話でありました。文章会は時間が定まっておりまして、その時間際に漱石の所に立寄ったのでありましたが、そういわれるものですから止むを得ず私はその文章を読んでみました。ところがなかなか面白い文章であって、私等仲間の文章とすると、分量も多くそれに頗る異色のある文章でありましたから、これは面白いから、早速今日の文章会に持出して読んでみるからといって、それを携えて文章会に臨みました。私がその漱石の家で読んだ時分に、題はまだ定めてありませんでして、「猫伝」としようかという話があったのでありますが、「猫伝」というよりも、文章の初めが「吾輩は猫である。名前はまだない」という書き出しでありますから、その「吾輩は猫である」という冒頭の一句をそのまま表題にして「吾輩は猫である」という事にしたらどうかというと、漱石は、それでも結構だ、名前はどうでもいいからして、私に勝手につけてくれろ、という話でありました。それでその原稿を持って帰って、「ホトトギス」に載せます時分に、「吾輩は猫である」という表題を私が自分で書き入れまして、それを活版所に廻したのでありました。
 それからその時分は、誰の文章でも一応私が眼を通して、多少添削するという習慣でありましたからして、この『吾輩は猫である』という文章も更に読み返してみまして、無駄だと思われる箇所の文句はそれを削ったのでありました。そうしてそれを三十八年の一月号に発表しますというと、大変な反響を起しまして、非常な評判になりました。それというのも、大学の先生である夏目漱石なる者が小説を書いたという事で、その時分は大学の先生というものは、いわゆる象牙の塔に籠もっていて、なかなか小説などは書くものではないという考えがあったのでありますが、それが小説を書いたというので、著しく世人の眼を欹(そばだ)たしめたものでありました。そればかりではなく、大変世間にある文章とは類を異にしたところからして、非常な評判となったのでありました。
 それで、漱石は、ただ私が初めて文章を書いてみてはどうかと勧めた為に書いたという事が、動機となりまして、それから漱石の生活が一転化し、気分も一転化するというような傾きになってきたのでありました。それと同時に『倫敦塔』という文章も書きまして「帝国文学」の誌上に発表しました。
 それから『吾輩は猫である』が、大変好評を博したものですから、それは一年と八ヶ月続きまして、続々と続篇を書く、而(しか)もその続篇は、この第一篇よりも遙かに長いものを書いて、「ホトトギス」は殆(ほとん)どその『吾輩は猫である』の続篇で埋ってしまうというような勢いになりました。それが為に「ホトトギス」もぐんぐんと毎号部数が増して行くというような勢いでありました。≫  ]
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「俳誌・ホトトギス」管見(その五) [ホトトギス・虚子]

「ほとゝぎす「子規追悼集(『ホトトギス』1902年12月(6巻4号))」周辺

子規追悼集・表紙.jpg

「子規追悼集(『ホトトギス』1902年12月(6巻4号))」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972187

(目次)

追懷雜記 / 内藤鳴雪/p1~11
子規の書簡 / 五百木飄亭/p11~14
思ひ出づるまゝ / 阪本四方太/p15~26
寫生文の事 / 阪本四方太/p26~30
短歌會の起り / 香取秀眞/p30~32
墓側 / 河東碧梧桐/p32~43
子規翁 / 佐藤紅縁/p43~53
故人の回想 / 寒川鼠骨/p53~58
子規子の手簡 / 高濱虚子/p58~64,81~113
子規年表/p65~73
子規肖像(寫眞版、説明は消息に在り、以下準之)/p74~75
子規病室、糸瓜棚(寫眞版)/p76~76
秋海棠(寫眞版)/p77~77
天下一品 / 倉田萩郞/p77~77
大龍寺門、子規居士墓(寫眞版)/p78~78
短册三枚(寫眞版)/p79~79
自筆碑文(寫眞版)/p80~80
子規君に關する記憶 / 村上霽月/p113~116
六年有餘 / 渡邊香墨/p116~120
子規先生 / 原抱琴/p120~121
子規先生の南岳草花畫卷を得給ひし事 / 鈴木芒生/p121~125
子規先生を追想す / 吉田月我/p125~128
子規先生追懷記 / 山口花笠/p128~133
子規先生に關する記事 / 關縹雨/p133~133
子規先生訪問につきての記 / 奈倉梧月/p133~135
子規先生十三歳の時の書簡 / 仙波花叟/p135~135
遺髪埋葬式の記 / 三山淡紅/p135~137
獺祭書屋主人 / 加藤鹿嶺/p137~140
子規先生を訪ふ / 宮崎梅塘/p141~143
書簡二通 / 松田半粹/p143~144
追悼句/p144~145
東京追悼會/p145~146
地方追悼會/p146~150,152~152
消息 / 虚子記/p152~159
子規居士弄丹靑(木版、挿畫) / 淺井默語/p151~151
八瀨風景(木版、挿畫二枚) / 淺井默語/p153~153
子規庵庭前(表紙) / 下村爲山/p155~155
嵐山風景(裏畫) / 下村爲山

(管見)

一 正岡子規が亡くなったのは、明治三十五年(一九〇二)九月十九日、この「子規追悼号」は、その百箇日に際しての臨時増刊号で、明治三十五年(一九〇二)十二月二十七日に発刊されている。
 子規が亡くなった、その日(九月十九日)の直近の号は、「ホトトギス」(明治三十五年十月十日発刊、第五巻十二号)で、その号の「消息 / 碧梧桐/p附8~附9」は、碧悟桐が記述している。

第五巻十二号.jpg

「ホトトギス」(明治三十五年十月十日発刊、第五巻十二号)所収「消息 / 碧梧桐/p附8~附9」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972183/1/22

 続いて、「ホトトギス」(明治三十五年十月二十五日発刊、第六巻一号)では、表紙なども一新して、その号の「消息 / 虚子/p66~67」は、虚子が記述している。

第六巻一号・表紙.jpg

「ホトトギス」(明治三十五年十月二十五日発刊、第六巻一号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972184/1/1

第六巻一号・消息.jpg

「ホトトギス」(明治三十五年十月二十五日発刊、第六巻一号)所収「消息 / 虚子/p66~67」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972184/1/36

二 「子規肖像(寫眞版、説明は消息に在り、以下準之)/p74~75」周辺

子規肖像(寫眞版).jpg

「子規肖像(寫眞版、説明は消息に在り、以下準之)/p74~75」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972187/1/39

 この「子規肖像(寫眞版、説明は消息に在り、以下準之)/p74~75」については、「消息 / 虚子記/p152~159」に、「子規子肖像№1~№25」の、それぞれについて、「原写真裏書」が虚子の写生文さながらに記述されている。
 「子規追悼集(『ホトトギス』1902年12月(6巻4号))」は、「子規子の手簡 / 高濱虚子/p58~64,81~113」・「子規年表/p65~73」・「子規肖像(寫眞版、説明は消息に在り、以下準之)/p74~75」・「子規病室、糸瓜棚(寫眞版)/p76~76」・「秋海棠(寫眞版)/p77~77」、そして、この「消息 / 虚子記/p152~159」と、「ホトトギス・編集発行人」の「高浜清(虚子)」による「子規追悼集」と解して差し支えなかろう。

三 河東碧梧桐の『子規言行録(政教社版)』と『子規の回想( 昭南書房版)』周辺

子規言行録.jpg

河東碧梧桐の『子規言行録(政教社版)』(標題)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172653/1/3

(目次)

一藝に秀でだる人 陸羯南/1
正岡さん 陸てつ子/7
子規と病氣 宮本仲/10
追懷雜記 内藤鳴雪/17
嗚呼子規 五百木飄亭/38
思ひ出すまゝ 佐藤肋骨/69
追懷斷片 中村不折/83
子規氏の繪 下村爲山/94
日本新聞に於ける子規君 古島一念/97
日本新聞時代餘錄 古島一念/117
余が見たる正岡子規子 末永鐵巖/126
子規の少年時代 三並良/141
子規を偲ぶ 三並良/161
子規の舊事 太田正躬/173
正岡君 大谷是空/176
正岡子規 夏目漱石/185
豫備門時代の子規 菊池仙湖/192
多くの崇拜者 藤井紫影/197
不滅の子規 得能秋虎/203
夏の日のあつもり 西芳菲/206
子親居士の古い時代の句を讀む 高濱虛子/209
思ひ出づるまゝ 阪本四方太/226
寫生文のこと 阪本四方太/250
吾家の子規居士 石井露月/257
子規翁 佐藤紅綠/287
師影六尺 佐藤紅綠/304
絲瓜棚の下にて 佐藤紅綠/315
看病番と子規庵の庭 寒川鼠骨/327
同級生時代より句を學ぶまで 柳原極堂/356
子規君に關する記憶 村上霽月/370
散策集に就て 村上霽月/377
十句集のことゞも 大谷繞石/380
先師の晚年 赤木格堂/408
升さんと食物 河東碧梧桐/454
竹の里人 伊藤左千夫/470
正岡先生の塑像 香取秀眞/500
短歌會の起り 香取秀眞/514
正岡先生の追憶 岡麓/518
追憶記 森田義郞/533
先生と自分 長塚節/545
杜工部集 福田把栗/565
卅四年の新年會 川島奇北/566
三十三年前の事 中村樂天/568
子規先生追懷記 山口花笠/572
六年有餘 渡邊香墨/583
子規先生 原抱琴/592
師長を以て居らす 阪井久良伎/595
觀月の宴 大橋約房/602
鐵意志 磯野飽翁/606
子規の印象 永田靑嵐/609
明治卅二年の頃 寺田寅日子/613
子規先生を訪ふ 宮崎梅塘/618
子規生先訪問に就きての記 奈倉梧月/623
子規先生を追想す 吉田月我/627
先生の南岳草畵卷を得給ひし事 鈴木芒生/633
雜誌「俳諧」を發刊するまで 伊藤松宇/642
思ひ出すまゝ 安江不空/646
頂い陀短册とお寫眞 原千代女/651
二番町の家 久保より江/657
幼少時 正岡八重子/663
始めて上京した當時の子規 藤野磯子/669
家庭より見たる子規 正岡律子/682
附錄
絕筆 碧梧桐/715
終焉 虛子/719
筆者列傳/725
編輯後記 河東碧梧桐/733

 この『子規言行録(政教社版)』所収の「絕筆 碧梧桐/715」と「終焉 虛子/719」とが、子規の終焉記の、その「絶筆三句」周辺の克明なる、子規その人が推奨した「写生文」(そして「山」のある「山会」の記述文)と解することも出来よう。

[ 十八日の朝の十時頃であったか、どうも様子が悪いという知らせに、胸を躍らせながら早速駆けつけた所、丁度枕辺には陸氏令閨と妹君が居られた。予は病人の左側近くへよって「どうかな」というと別に返辞もなく、左手を四五度動かした許りで静かにいつものまま仰向に寝て居る。余り騒々しくしてはわるいであろうと、予は口をつぐんで、そこに坐りながら妹君と、医者のこと薬のこと、今朝は痰が切れないでこまったこと、宮本へ痰の切れる薬をとりにやったこと、高浜を呼びにやったかどうかということなど話をして居た時に「高浜も呼びにおやりや」と病人が一言いうた。依って予は直ぐに陸氏の電話口へ往って、高浜に大急ぎで来いというて帰って見ると、妹君は病人の右側で墨を磨って居られる。やがて例の書板に唐紙の貼付けてあるのを妹君が取って病人に渡されるから、何かこの場合に書けるであろうと不審しながらも、予はいつも病人の使いなれた軸も穂も細長い筆に十分墨を含ませて右手へ渡すと、病人は左手で板の左下側を持ち添え、上は妹君に持たせて、いきなり中央へ糸瓜咲て
とすらすらと書きつけた。併し「咲て」の二字はかすれて少し書きにくそうであったので、ここで墨をついでまた筆を渡すと、こんど糸瓜咲てより少し下げて
 痰のつまりし
まで又た一息に書けた。字がかすれたのでまた墨をつぎながら、次は何と出るかと、暗に好奇心に駆られて板面を注視して居ると、同じ位の高さに
 佛かな
と書かれたので、予は覚えず胸を刺されるように感じた。書き終わって投げるように筆を捨てながら、横を向いて咳を二三度つづけざまにして痰が切れんので如何にも苦しそうに見えた。妹君は板を横へ片付けながら側に坐って居られたが、病人は何とも言わないで無言である。また咳が出る。今度は切れたらしく反故でその痰を拭きとりながら妹君に渡す。痰はこれまでどんなに苦痛の劇しい時でも必ず設けてある痰壺を自分で取って吐き込む例であったのに、きょうはもうその痰壺をとる勇気も無いと見える。その間四五分たったと思うと、無言に前の書板を取り寄せる。予も無言で墨をつける。今度は左手を書板に持ち添える元気もなかったのか、妹君に持たせたまま前句「佛かな」と書いたその横へ
 痰一斗糸瓜の水も
と「水も」を別行に認めた。ここで墨ををつぐ。すぐ次へ
 間に合わず
と書いて、矢張投捨てるように筆を置いた。咳は二三度出る。如何にもせつなそうなので、予は以前にも増して動気が打って胸がわくわくして堪らぬ。また四五分も経てから、無言で板を持たせたので、予も無言で筆を渡す。今度は板の持ち方が少し具合が悪そうであったがそのまま少し筋違いに
 を?ひのへちまの
と「へちまの」は行をかえて書く。予は墨をここでつぎながら、「?」の字の上の方が「ふ」のように、その下の方が「ら」の字を略したもののように見えるので「をふらひのへちまの」とは何の事であろうと聊か怪しみながら見て居ると、次を書く前に自分で「ひ」の上へ「と」と書いて、それが「ひ」の上へはいるもののようなしるしをした。それで始めて「をとヽひの」であると合点した。そのあとはすぐに「へちまの」の下へ
 水の
と書いて
 取らざりき
はその右側へ書き流して、例の通り筆を投げすてたが、丁度穂が先に落ちたので、白い寝床の上は少し許り墨の痕をつけた。余は筆を片付ける。妹君は板を障子にもたせかけられる。しばらくは病人自身もその字を見て居る様子であったが、予はこの場合その句に向かって何と言うべき考えも浮かばなかった。がもうこれでお仕舞いであるか、紙には書く場所はないようであるけれども、また書かれはすまいかと少し心待ちにして硯の側を去ることが出来なかったが、その後再び筆を持とうともしなかった。(明治丗五年九月) 」(「絕筆 碧梧桐/715」=「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172653/1/370

子規・絶筆三句.jpg

https://yeahscars.com/kuhi/hechimanomizu/

 これに続く、「終焉 虛子/719」は、次のようなものである。

[ 九月十八日午前十一時頃、碧梧桐の電話に曰く子規君今朝痰切れず心細き故呼べとの事なり直ぐ来い、と。来て見れば昏睡中なり。碧梧桐の話に、ろくろく談話も出来ず、陸より使来りて余の来たりし時は、母君医者を呼びに行かれたる留守なりしが、「高浜もお呼びや」と一言いわれたるまま電話をかけたるなり。帰りて後自ら筆を採り、例の板に張りたる紙に

糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をとヽひのへちまの水も取らざりき

という三句を認められたり。それより柳医来り痰の切れる薬をくれて帰りたる由。また柳医の話に、国許に親戚でもあるならば「病重し」という位の電報は打ち置く方宜しかるべしとの事なりし由なるも、碧梧桐と相談の上、嘗て加藤氏の話もありし事とて、今少し様子を見てからの事に決す。

○三並、鷹見に端書にて模様悪しき由報知す。
○秀眞来る。去る。
○鳥堂来る。去る。
○午後五時前目覚め苦痛甚だしき様子、モヒ頓服、なお安静を得ず。五時半宮本医来診、胸部に注射、それより再び昏睡。
○昨日は一度粥を食いたる由、その後はレモン水のほか殆ど飲用せず。本日は陸より貰いしおもゆ少しばかりのほか滋養物喉を通らず。
○夕刻おまきさん、加藤令閨来る。去る。

○午後六時過ぎ碧梧桐去る。「ホトトギス」の校正を了せんがため。
○午後七時過ぎ鼠骨来る。おしづさん来る。
○午後八時前目覚め、「牛乳を飲もうか」という。ゴム管にてコップに一杯を飲む。「だれだれが来てお居でるのぞな」と聞く。妹君、「寒川さんに清さんにお静さん」と答う。直ちにまた昏睡。
○大原恒徳氏に手紙を出す。(以上十八日夜虚子生記)
○鷹見令閨来る。
○母君に大原へ打電をいかがすべきか相談せしところ、昨日病人も「大原へは電報を打とうか」など申し居りたれば打ってくれとの事。直ちに「シキヤマイオモシ」と打電す。
○子規子熟睡の状なお続く。鷹見氏令閨と母君と枕頭に残り、余と妹君と臥す。
○時々常に聞き慣れたる子規君のウーンウーンという声を聞きつつうとうとと眠る。
○暫くして枕元騒がしく、妹君に呼び起さるるに驚き、目覚め見れば、母君は子規君の額に手を当て、「のぼさん、のぼさん」と連呼しつつあり。鷹見令閨も同じく「のぼさん、のぼさん」と呼びつつあり。余も如何の状に在るやを弁《わきま》えず同じく、「のぼさん、のぼさん」と連呼す。子規君はやや顔面を左に向けたるまま両手を腹部に載せ極めて安静の状にて熟睡すると異ならず。しかも手は既に冷えて冷たく、額また僅かに微温を存ずるのみ。時に十九日午前一時。
○妹君は直ちに陸氏に赴き電話にて医師に報ず。
○余は碧梧桐を呼ばんがため表に出ず。十七日の月には一点の翳も無く恐ろしきばかりに明かなり。碧梧桐を呼び起して帰り見れば陸翁枕頭に在り。母君、妹君、鷹見令閨、子規をうち囲みて坐す。
○本日医師来診の模様にては未だ今明日に迫りたる事とは覚えず、誰も斯く俄《にわか》に変事あらんとは思いよらざりし事とて、兼ねて覚悟の事ながらもうち騒ぎなげく。
○碧梧桐来る。本日校正の帰路、非常に遅くなり且つ医師の話になお四五日は大丈夫のよう申し居りし故、今夜病床に侍せず、甚だ残念なりとて悔やむ。
○母君の話に、蚊帳の外に在りて時々中を覗き見たるに別に異常なし。ただ余り静かなるままふと手を握り見たるに冷たきに驚き、額をおさえ見たれば同じくやや微温を感ずるばかりなりしに始めてうち驚きたるなりと。
○陸令閨来る。
○陸翁、碧梧桐と三人にて取敢えず左の事だけ極める。
 一、土葬の事    一、東京近郊に葬ること
 一、質素にする事  一、新聞には広告を出さぬ事
 一、国許の叔父上には打電して上京を止める事
○陸翁同令閨去る。
○碧梧桐と両人にて打電先、ハガキ通知先等調べる。
○夜明けば至急熊田へ行きホトトギスへ子規子逝去の広告を間に合わす事にする。
○陸氏令閨来る。おまきさん来る。
○おしづさん、茂枝さん来る。
○夜ほのぼのと明ける。    (以上十九日朝虚子記) ]
http://www.sakanouenokumo.com/siki_syuuen.htm

 ここに、昭和十九年(一九四四)に刊行された『子規の回想』(河東碧悟桐著)所収の「二十八 辭世/465」や「二十九 死後/471」などを重ね合わせたい。

[『子規の回想』(河東碧悟桐著)

https://dl.ndl.go.jp/pid/1069377

目次
一 木入れ/3
二 詩會/7
三 其戎宗匠/11
四 野球/14
五 處女作/17
六 七草集/25
七 寄宿舍生活/29
八 三つの會稿/44
九 小説會/54
十 廻轉期/61
十一 月の都創作前後/68
十二 痛切な體驗/88
十三 渡し守/93
十四 三津のイケス/113
十五 松山競吟集/123
十六 一家二十句/128
十七 一家移集/146
十八 運座月並/158
十九 煙草の烟/162
二十 果て知らずの記の旅/170
二十一 吉田のしぐれ/178
二十二 寫生/182
二十三 二高退學/186
二十四 暗澹たる首途/191
二十五 非風の家/201
二十六 從軍前後/206
二十七 古白の死/216
二十八 子規歸神/223
二十九 漱石と子規/227
三十 病後の焦燥/229
附録
一 母堂の談片/237
二 のぼさんと食物/242
三 家庭より觀たる子規/255
續編
一 當時の新調/283
二 厄月/297
三 古白遺稿/302
四 カリエス手術/306
五 新俳句/311
六 蕪村忌/315
七 十句集/320
八 徹夜/327
九 蕪村句集輪講/336
十 百中十首/341
十一 車上旅行/348
十二 「ほととぎす」東上/355
十三 三十一年の俳句界/364
十四 我が病/367
十五 俳句講習/375
十六 興津轉居/381
十七 山會/387
十八 神田猿樂町/393
十九 庭/396
二十 室内/405
二十一 月並論/410
二十二 人生觀/420
二十三 風板/425
二十四 最後の二事業/434
二十五 繪を描く/445
二十六 仰臥漫録/450
二十七 意外なる祕事/454
二十八 辭世/465
二十九 死後/471
餘録
一 子規自叙傳/483
二 嗜好/485
三 癖/488
四 筆跡/489
五 遊戲氣分/491
六 白眼/493
七 財布/495
八 芋阪團子/497
九 子供/498
十 選句殘稿/499    ]
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「俳誌・ホトトギス」管見(その四) [ホトトギス・虚子]

「俳誌・ホトトギス」管見(その四)
「ほとゝぎす(第二巻第一号=第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)周辺

ほとゝぎす第二巻第一号表紙.jpg

「ほとゝぎす第二巻第一号=(第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972133

ほとゝぎす第二巻第一号目次.jpg

「ほとゝぎす(第二巻第一号=第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)目次
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972133/1/2

(目次)

口繒 豊年/下村爲山
口繒 菌狩/中村不折
社告/p1~1
祝詞/内藤鳴雪/p1~1
ほとヽきす第二卷第一號の首に題/某/p1~2
古池の句の辯/獺祭書屋主人/p2~7
蕪村句集講義/鳴雪 ; 子規 ; 碧梧桐 ; 虚子 ; 墨水/p7~15
俳諧無門關/俳狐道人/p15~18
雜話/坂本四方太/p18~20
小園の記/正岡子規/p20~24
土達磨を毀つ辭/正岡子規/p24~25
淺草寺のくさ[グサ]/高濱虚子/p25~28
募集俳句 蜻蛉/子規/p28~32
募集俳句 螽/四方太/p32~34
募集俳句 きり[キリ]す/霽月/p34~37
募集俳句 蚯蚓鳴/虚子/p37~40
東京俳况/p41~41
各地俳况/p42~45
夜長の欠び/五百木飄亭/p45~47
文學美術漫評/白雲 ; 九鳥山人 ; ねずみ/p47~50
新體詩(四篇)/p50~51
和歌(十九首)/碧梧桐 ; 竹の里人/p51~52
俳句(四十句)/p52~53
秋十二時/p53~54
朝顔句合/子規判 ; 碧梧桐 ; 虚子/p54~56
附録 俳句分類/獺祭書屋主人/附の1~附の4

(管見)

一 明治三十一年(一八九八)十月十一日発行の「ほととぎす」(第二巻第一号=二十一号)こそ、発行所を東京に移して、「発行兼編輯(集)人 高浜清」と、若干二十四歳の「高浜虚子」のデビュー号ということになる。
 その「高浜虚子略年譜」には、次のように記述されている。

[明治三十一年(一八九八) 二十四歳
一月、根岸子規庵で、子規・鳴雪・碧悟桐らと蕪村輪講を始める。「萬朝報」社に入社。三月、長女眞砂子が誕生。六月、「萬朝報」社を辞職。十月、子規の協力で「ホトトギス」を東京に移して編集・発行人となる。「浅草寺のくさぐさ」を「ホトトギス」に連載、人気を博し、これより写生文の名が起こる。十一月、母柳死亡。十二月、神田猿楽町二十五番地に移転。](「現代俳句の世界一 高浜虚子」所収「高浜虚子略年譜(構成・斎藤慎爾)」)

ほとゝぎす第二巻第一号奥付.jpg

「ほとゝぎす(第二巻第一号=第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)奥付
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972133/1/38

浅草寺くさぐさ.jpg

「ほとゝぎす(第二巻第一号=第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)所収「浅草寺のくさぐさ(虚子生)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972133/1/17

二 「淺草寺のくさ[グサ]/高濱虚子/p25~28」周辺

[写生文の嚆矢は1898年10月、『ホトトギス』第2巻第1号から分載された高浜虚子の随筆「浅草寺のくさぐさ」、同号に掲載された正岡子規の随筆「小園の記」「土達磨を毀つ辞」などにあったとされている。この号は『ホトトギス』が虚子の経営となり、発行所が松山から東京に移ったのちの最初の号であり、これらの随筆は『ホトトギス』編集の中心を担っていた子規と虚子が互いに相談した上で掲載したものと見られる[2]。同年8月に松山から出た『ホトトギス』第1巻20号では、子規は発行所を東京へ移すということに触れ、今後は俳論・俳評・俳句だけでなく俳文や和歌・新体詩なども掲載すると書いており、上記の随筆は新しい俳文を作るという意識のもとで書かれたものだということが窺える。

上記の随筆のうち、「浅草寺のくさぐさ」は虚子が鉛筆と手帳を持って浅草寺に出かけ、実際の境内の情景を観察しつつ文章によって描写したもの、「小園の記」は子規が自宅の庭の様子を描出した随想である。いずれもまだ文語体で書かれているが、当時はちょうど、1890年頃から一時勢いを弱めていた言文一致運動が活気を取り戻してきた時期であり、子規も口語体が文語体よりも事物を詳しく描写するのに向いていることを認め、『ホトトギス』にも間もなく口語体によるこのような写生文が載り始めた。ただし、このような文に対し「写生文」という名称が定着するのは子規の晩年頃であり、当初は「美文」「小品文」「叙事文」などと呼ばれている。

1900年1月からは『日本』紙に子規の文章論「叙事文」が3回にわたって掲載され、「或る景色を見て面白しと思ひし時に、そを文章に直して読者をして己と同様に面白く感ぜしめんとするには、言葉を飾るべからず、誇張を加ふべからず、只ありのまゝ見たるまゝに」などとして自分の求める文章像を明らかにした。またこの前年ころより病床の子規を囲んでの文章会が始まっており、俳人や歌人が集まって互いに文章を練るようになった。この文章会は1900年に「文章には山(中心点)がなければならぬ」という子規の言葉によって「山会」と名付けられ、子規の病没(1902年)後も続けられた。この「山会」は『ホトトギス』の伝統となっており、何度かの中断を経て現代においても開催されている]。
(「ウィキペディア」抜粋)

三 「蕪村句集講義/鳴雪 ; 子規 ; 碧梧桐 ; 虚子 ; 墨水/p7~15」周辺

蕪村句集講義.jpg

「ほとゝぎす(第二巻第一号=第二十一号)」(明治三十一年・1898/十月号)所収「蕪村句集講義(九)(子規記)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972133/1/8

子規年譜・明治三十・三十一年.jpg

「正岡子規略年譜」(明治三十一年・三十二年)
http://teamsumi2007.web.fc2.com/nenpyou.htm

 ここで、正岡子規の「蕪村句集講義」そして「蕪村句集輪読会」というのは、明治三十年(一八九七)の、柳原極堂の愛媛(松山)での「ホトトギス(旧)」創刊、そして、明治三十一年(一八九八)の、高浜虚子の江戸(東京)へ発行所を移して「ホトトギス(新)」へとの、その移行と深く関わっていることが読み取れる。

四 「ほととぎす(第一巻第一号)から同(第二巻第一号)」周辺

ホトトギス記念号一.jpg

「ホトトギス」記念号の表紙絵と原画(「第一巻第一号)」から「五百号」」)
http://www.kyoshi.or.jp/j-huuten/1300/01.htm

[今年四月で、高濱虚子・年尾・汀子、三代の主宰による月刊俳句雑誌「ホトトギス」が一三〇〇号を迎えます。日本で最も古い、明治三十年一月創刊のこの雑誌は、もともと俳句革新に奮闘する子規を応援し、地元松山の郷党達の勉強の場を提供するために、柳原極堂が独力で編輯し、松山で発行したものでした。発行部数三百では経営できず、極堂は子規に助けを求めます。そして翌三十一年十月、兄から借りた三百円で出版権を極堂から買い取った虚子が発行人となり、東京から「ホトトギス」を出版しました。これが表紙絵・口絵を施された、二十一号です。千五百部刷って即日完売し、追加で五百部刷り直しています。以後「ホトトギス」の販売部数は、小説ブームによる文芸雑誌化や戦争による景気の変動、虚子の病気等の影響を受けて何度も浮沈を繰り返します。ここに陳列した記念号のみを見ても、頁数や内容が極端に異なり、各々の時代を反映させていることが窺えます。]([「ホトトギス」一三〇〇号記念展]抜粋)
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「俳誌・ホトトギス」管見(その三) [ホトトギス・虚子]

「ほとゝぎす(第二十号)」(明治三十一年・1898/八月号)周辺

ホトトギス(第二十号)表紙.jpg

「ホトトギス(第二十号)」(明治三十一年・1898/八月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972132/1/1

ホトトギス(第二十号)目次.jpg

「ホトトギス(第二十号)」(明治三十一年・1898/八月号)目次と「發行所を東京へ遷す事/
獺祭書屋主人/p1~2」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972132/1/2

(目次)

發行所を東京へ遷す事/獺祭書屋主人/p1~2
雜話/四方太/p3~5
雜感/子規/p5~7
輪講摘録(八)/子規/p7~12
大阪消息/別天樓/p12~12
松江便り/羽風/p12~13
投寄俳句(夏)/p13~14
仝(秋)/p14~15
報告/p16~16
課題俳句七夕/子規/後1~後3
課題俳句踊/碧梧桐/後3~後5
課題俳句相撲/四方太/後5~後8
購讀者諸君に告ぐ/後8~後9
課題 其他/後9~後10
俳句分類/獺祭書屋主人/付1~付4

(管見)

一 「發行所を東京へ遷す事/獺祭書屋主人/p1~2」は、「伊予(愛媛)・松山の柳原極堂の
編集・刊行する『ほとゝぎす』」から、「東京(子規の「根岸庵)の意を受けての、東京在住
の愛弟子の一人高浜虚子(東京神田錦町一丁目十二番地の「虚子宅」)=編集・発行人)」へ
と「遷(うつ)す事」の、その宣言でもあった。

「購讀者諸君に告ぐ」.jpg

「購讀者諸君に告ぐ/後8~後9」と「課題 其他/後9~後10」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972132/1/14

二 編集・発行人が「柳原極堂(正之)」の「ほとゝぎす」は、この「ホトトギス(第二十
号)」(明治三十一年・1898/八月号)をもって終刊となり、次号以下の編集・発行人は「高
浜虚子(清)」と代替わりすることになる。これらのことについては、高浜虚子の自伝の
『俳句の五十年(昭和十七年・中央公論社刊)』や『虚子自伝(昭和二十三年・青柿堂刊)』の、
「ホトトギスの創刊」に記述されている。

『俳句の五十年(昭和十七年・中央公論社刊)』所収「ホトトギスの創刊」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1128476/1/65
https://dl.ndl.go.jp/pid/1128476/1/66

『虚子自伝(昭和二十三年・青柿堂刊)』所収「ホトトギスの創刊」

ホトトギス・虚子発刊.jpg

https://dl.ndl.go.jp/pid/1128475/1/31
https://dl.ndl.go.jp/pid/1128475/1/32
https://dl.ndl.go.jp/pid/1128475/1/33

三 これらの『俳句の五十年(昭和十七年・中央公論社刊)』所収「ホトトギスの創刊」そして『虚子自伝(昭和二十三年・青柿堂刊)』所収「ホトトギスの創刊」(「国立国会図書館デジタルコレクション)は、「『定本/高浜虚子全集/毎日新聞社刊』所収「第十三巻/自伝・回想集」には、次の通りに収載されている。

http://kenkyuyoroku.blog84.fc2.com/blog-entry-619.html

[第13巻 自伝 回想集 1973.12.20
 
俳句の五十年…………………………………11
序……………………………………………13

虚子自伝…………………………………… 135
西の下…………………………………… 137
松山……………………………………… 142
京都……………………………………… 146
仙台……………………………………… 154
文芸に遊ぶ……………………………… 157
ホトトギス発行………………………… 161
子規の死………………………………… 163
文章……………………………………… 165
鎌倉……………………………………… 167
十一年間………………………………… 170
九年間…………………………………… 174
その後の十六年間……………………… 176
小諸……………………………………… 178

子規居士と余……………………………… 181
子規子終焉の記…………………………… 247
秋闌………………………………………… 251
正岡子規と秋山参謀……………………… 261

漱石氏と私………………………………… 271
序………………………………………… 273
漱氏と私……………………………… 275
京都で会つた漱石氏…………………… 366

俳談抄……………………………………… 375
中川四明・草間時福…………………… 377
私の東京に出た時分…………………… 377
鴎外……………………………………… 377
私の句日記……………………………… 378
ホトトギスの弱味が強味……………… 379
乙字……………………………………… 381
月並……………………………………… 381
島村元…………………………………… 382
女流作家………………………………… 382
坂本四方太……………………………… 383
松瀬青々………………………………… 385

虚子自伝 抄……………………………… 387
序………………………………………… 389
国民文学欄……………………………… 391
椿の苗木………………………………… 395
松山の方言……………………………… 398
太田の渡し……………………………… 400
刀刄段々壊……………………………… 402
小諸……………………………………… 404

*校異篇…………………………………… 410
本文校異……………………………… 411
初出一覧……………………………… 434
訂正一覧……………………………… 437
*解題(小瀬渺美)……………………… 441
*解説(松井利彦)……………………… 451   ]
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「俳誌・ホトトギス」管見(その二) [ホトトギス・虚子]

「ほとゝぎす(創刊号)」(明治三十年・1897/一月号)周辺

ほとゝぎす(創刊号)表紙.jpg

「ほとゝぎす(創刊号)」(明治三十年・1897/一月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972113/1/1

ほとゝぎす(創刊号)目次.jpg

「ほとゝぎす(創刊号)」(明治三十年・1897/一月号)目次
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972113/1/2

(目次)

老梅居漫筆 / 鳴雪/p1~2
菫物語 / 半壺生/p3~3
俳諧反故籠 / 獺祭書屋主人/p4~4
俳諧雑誌の發刊を祝して卑見を述ぶ / 五洲生/p5~5
ほととぎすの發刊を祝す / 子規子/p7~7
ほととぎす出づ / 碧梧桐/p8~8
子規の出世を祝す / 飄享/p8~8
極堂詞兄足下 / 空世生/p8~8
ほととぎす發刊祝句/p9~9
當地近頃の俳况 / 駿臺隱士/p9~10
ほととぎすの發刊の辭/p11~12
課題俳句(時雨、千鳥、蒲團) / 子規選/p13~13
課題俳句( 時雨、千鳥、蒲團 ) / 鳴雪選/p22~30
冬季俳句( 混題 )/p31~31
新年俳句( 混題 )/p32~32
河東碧梧桐 / 越智處之助/p33~37

(管見)

一 明治三十年(1897)、虚子、二十三歳。一月、「柳原極堂」が松山で「ほとゝぎす(ホトトギス)」を創刊。発行所は、松山市大字立花町五十番地、当時の極堂の家である。その誌名は「正岡子規」の「子規」の雅号に由来する。表紙は、「下村為山」の筆で「ほとゝき須」と書かれている。

[柳原極堂( やなぎはら-きょくどう)
 1867-1957 明治-昭和時代の俳人,新聞人。
慶応3年2月11日生まれ。正岡子規にまなび,明治30年郷里の松山で「ほとゝぎす」を創刊,翌年同誌を高浜虚子にゆだねる。伊予日日新聞社長などをつとめたのち上京,昭和7年「鶏頭」を創刊,主宰。17年帰郷し,子規の研究と顕彰に専心した。昭和32年10月7日死去。90歳。本名は正之。著作に「友人子規」,句集に「草雲雀」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[下村為山 (しもむら-いざん)
 1865-1949 明治-昭和時代の画家,俳人。
慶応元年5月21日生まれ。明治15年上京して本多錦吉郎,小山正太郎に洋画をまなび,正岡子規と知りあって俳句を研究。俳画家として知られた。昭和24年7月10日死去。85歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。名は純孝。別号に雀廬,冬邨など。作品に「慈悲者之殺生図」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

二 「俳諧反故籠 / 獺祭書屋主人/p4~4」の「獺祭書屋主人」は「正岡子規」、「老梅居漫筆 / 鳴雪/p1~2」の「老梅居」は「内藤鳴雪」、「菫物語 / 半壺生/p3~3」の「半壺生」は「高浜虚子」、「ほととぎす出づ / 碧梧桐/p8~8」の「碧梧桐」は「河東碧梧桐」、そして、「子規の出世を祝す / 飄享/p8~8」の「飄享」は「五百木飄亭」の号である。

[正岡子規( まさおか-しき)
 1867-1902 明治時代の俳人,歌人。
慶応3年9月17日生まれ。明治25年日本新聞社入社,紙上で俳句の革新運動を展開。28年以降は病床にあり,30年創刊の「ホトトギス」,31年におこした根岸短歌会に力をそそぎ,短歌の革新と写生俳句・写生文を提唱した。野球の普及にも貢献,平成14年新世紀特別表彰で野球殿堂入り。明治35年9月19日死去。36歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。帝国大学中退。本名は常規(つねのり)。別号に獺祭書屋(だっさいしょおく)主人,竹の里人。著作に句集「寒山落木」,歌集「竹乃里歌」,ほかに「獺祭書屋俳話」「歌よみに与ふる書」「病牀(びょうしょう)六尺」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[内藤鳴雪( ないとう-めいせつ)
 1847-1926 明治-大正時代の俳人。
弘化(こうか)4年4月15日生まれ。伊予(いよ)松山藩士の子。文部省参事官をへて旧藩主設立の常盤会(ときわかい)寄宿舎監督。舎生の正岡子規にまなび,子規没後も日本派の長老として活躍した。大正15年2月20日死去。80歳。江戸出身。本名は素行。別号に南塘,老梅居。句集に「鳴雪句集」,著作に「鳴雪自叙伝」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

〔高浜虚子( たかはま-きょし)
 874-1959 明治-昭和時代の俳人,小説家。
明治7年2月22日生まれ。中学時代から正岡子規に師事。明治31年「ホトトギス」をひきつぐ。一時小説や写生文をかいたが大正2年俳句に復帰。客観写生,花鳥諷詠(ふうえい)をといて俳句の伝統擁護につとめた。昭和29年文化勲章受章。芸術院会員。昭和34年4月8日死去。85歳。愛媛県出身。旧姓は池内。本名は清。句集に「虚子句集」「五百句」,小説に「俳諧師」「柿二つ」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[河東碧梧桐 (かわひがし-へきごとう)
 1873-1937 明治-昭和時代前期の俳人。
明治6年2月26日生まれ。高浜虚子とともに正岡子規にまなび,新聞「日本」の俳句欄の選者をひきつぐ。のち新傾向俳句運動をおこし,中塚一碧楼(いっぺきろう)らと「海紅」を創刊,季題と定型にとらわれない自由律俳句にすすむ。大正12年「碧(へき)」,14年「三昧(さんまい)」を創刊。昭和12年2月1日死去。65歳。愛媛県出身。本名は秉五郎(へいごろう)。作品に「碧梧桐句集」,紀行文に「三千里」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[五百木飄亭 (いおき-ひょうてい)
 1871-1937 明治-昭和時代前期のジャーナリスト,俳人。
明治3年12月14日生まれ。22年上京し,同郷の正岡子規らと句作にはげむ。28年日本新聞社にはいり,34年「日本」編集長。昭和3年政教社にうつり,「日本及日本人」を主宰。大アジア主義をとなえた。昭和12年6月14日死去。68歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。俳号は飄亭(ひょうてい)。著作に「飄亭句日記」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

ほととぎす發刊祝句.jpg

「ほととぎす發刊祝句/p9~9」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972113/1/7

三 「ほととぎす發刊祝句/p9~9」に、虚子の次の句が収載されている。

 時雨木枯のあれあれて生(あ)れ出しもの(「松山に於て「ほととぎす」を発刊。祝句(明治三十年)」) (「現代俳句の世界一 高浜虚子」所収「慶弔贈答句」)

ほとゝぎ第一号諸新聞表と奥付.jpg

「ほとゝぎ第一号諸新聞表と奥付」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972113/1/22

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「俳誌・ホトトギス」管見(その一) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)周辺

ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号.jpg

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863

[(目次)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863/1/2
弔詞/六家/p7~12
父の病床八日間/年尾/p13~17
虚子先生の御病気/田中憲二郎/p17~22
御祖父様の枕許で/坊城中子/p22~24
虚子先生のデスマスク/上村占魚/p24~26
四月九日と十一日/福田蓼汀/p26~27
壽福寺―火葬場―原ノ臺/伊藤柏翠/p27~29
本葬/深川正一郞/p29~35
御埋葬の記/京極杞陽/p36~36
虚子追憶/岩木躑躅 ; 飯田蛇笏 ; 富安風生 ; 中田みづほ ; 高野素十 ; 阿波野靑畝 ; 山口誓子 ; 柴田宵曲 ; 上林白草居 ; 齋藤俳小星 ; 酒井默禪 ; 大橋越央子 ; 佐藤漾人 ; 日原方舟 ; 鈴鹿野風呂 ; 河野靜雲 ; 奈良鹿郞 ; 田村木國 ; 丹治蕪人 ; 三木朱城 ; 三溝沙美 ; 大岡龍男 ; 江川三昧 ; 安田蚊杖 ; 加賀谷凡秋 ; 川田十雨 ; 大橋櫻坡子 ; 岡田耿陽 ; 久米幸叢 ; 五十嵐播水 ; 森川曉水 ; 皆吉爽雨 ; 柏崎夢香 ; 宇津木未曾二 ; 竹末春野人 ; 上野靑逸 ; 大橋杣男 ; 岡崎莉花女 ; 藤岡玉骨 ; 松尾靜子 ; 小山白楢 ; 矢野蓬矢 ; 木村杢來 ; 今井つる女 ; 景山筍吉 ; 京極杞陽 ; 遠藤梧逸/p37~99
句佛師の五句/高濱虚子述/p100~102
父の最後の句について/年尾/p103~103
春雷/高濱年尾/p104~105
春嵐/佐藤漾人/p105~106
壽福寺/池內たけし/p106~108
巷に拾ふ/大岡龍男/p108~110
目/眞下喜太郞/p110~111
その前後/深川正一郞/p111~112
日記/下田實花/p112~114
隨問・隨答/眞下喜太郞/p114~116
雜詠/年尾選/p117~162
雜詠句評/靜雲 ; 敏郞 ; 杞陽 ; 木國 ; けん二 ; 蓬矢 ; 風人子 ; 莫生 ; 年尾/p163~165
「句會と講演の會」選句/年尾 ; 立子/p166~166
句日記/虚子(遺稿)/p168~168
句帖/年尾/p168~168
消息/年尾 ; 東子房記/p167~167   ]

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)」所収「目次・スナップ写真一(昭和三十四年四十七日撮影・本葬祭壇)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863/1/2

ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号その二.jpg

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)」所収「目次・スナップ写真二(昭和三十四年四月一日撮影・俳小屋の虚子)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863/1/3

(管見)

一  弔詞/六家/p7~12
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863/1/4

文部大臣       橋本龍伍
日本芸術院長     高橋誠一郎
日本文芸家協会代表  山本健吉
愛媛県知事      久松定武
(※友人総代)     安倍能成
(全国弟子門代表)   岩本躑躅

 上記の「弔詞/六家/p7~12」のうち、「安倍能成」の肩書は、下記の「葬儀(本葬)通知」からして、「友人総代」としてのものであろう。安倍能成は明治十六年(一八八三)生まれ、高浜虚子は明治七年(一八七四)生まれ、そして、松根東洋城は明治十一年(一八七八)、この三人は、伊予尋常中学校(現在の愛媛県立松山東高校)の、同窓の三人ということになる。

ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号その三.jpg

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)」所収「本葬/深川正一郞/p29~35」

ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号四.jpg


虚子追悼号その五.jpg

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6066/
[高浜虚子(たかはま /きょし)
生没年 明治7年2/22日 〜 昭和34年4月8日(1874年2月22日 〜 1959年4月8日)/出身地 愛媛県/ 職業・身分文学者/ 別称 清(本名)
解説/
俳人、小説家。中学時代、同級生の河東碧梧桐を介して正岡子規を知り、後に上京して碧梧桐とともに子規の俳句革新を援ける。明治31(1898)年松山で刊行されていた『ホトトギス』を引き継いで経営、子規の写生主義を散文に生かした写生文も開拓した。38(1905)年に夏目漱石の『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に連載、その影響で自らも小説家を志し、『風流懺法』(1907)等を発表。大正元(1912)年俳壇に復帰、十七音・季題を守った写生句を説く。昭和2(1927)年からは日本回帰の特色を持つ「花鳥諷詠」論を提唱し、生涯この信条を貫いた。29(1954)年文化勲章受章。]

https://www.cosmos-network.jp/cosmos_collection/32871/

深川正一郎.jpg

https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:4/82/view/14586
[深川正一郎(1902~1987)
 俳人。宇摩郡上山村(現、四国中央市新宮町)出身。大正13(1924)年、上京して文藝春秋社に入社、その後、日本コロンビアに入るが、このとき高浜虚子の俳句朗読のレコード制作を企画実施し、その際に虚子の知遇を得て師事した。昭和21(1946)年より虚子の遺訓に従い終生俳句一筋に生き、『ホトトギス』の中心的な存在となった。温厚な人柄で句風も穏やかで巧みであった。連句実作者としても知られている。また、句作と併行して380篇にも及ぶ写生文を書いた。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より) ]

虚子追悼号その六.jpg

https://sumus.exblog.jp/13211828/
[『彷書月刊』5月号が届いた。松尾邦之助特集とはシブい。しかし松尾邦之助は面白い。ジャーナリスト流の文章はやや物足りないところもあるものの、激動の実際面を広く見聞したというところに強みがある。パラパラやっていてこの写真が目にとまった。『フランス・ジャポン』四巻二〇号(日仏同志会、一九三六年五・六月号)掲載で高浜虚子夫妻がパリを訪れたときの記念写真。
 前列左から二番目が高浜虚子。後列右から二人目が松尾邦之助。その松尾の隣、向って右端が池内友次郎(いけのうちともじろう)。虚子の次男として東京に生まれ、慶應義塾大学予科中退の後、一九二七年にフランスに渡りパリ音楽院に入学した。作曲家・音楽教育家であり俳人でもある。]


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