洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十八) [岩佐又兵衛]
(その二十八) 「舟木本」と「歴博D本」との周辺(その二)
「二条城前の母衣武者と仮装行列」」(「歴博D本」左隻第二・三扇中部)→「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html
この「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」は、「舟木本」(左隻・第一・二扇)の「母衣武者と仮装行列図」のモデル図のような雰囲気を有している。
「舟木本の中心軸と『九か所の若松』周辺」(左隻)→「舟木本中心軸その三図(左隻)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-24
【 (その三) 「舟木本)」の「祇園会で神輿の前座の母衣武者は何を意味するのか?」
「傘鉾・三人の母衣武者」(左隻第二扇上部)→「舟木本・母衣武者その一図」
祇園会の「神輿」集団の前に、この「傘鉾・三人の母衣武者」集団が描かれている。この先頭集団は、拡大すると次の図のとおりである。
「傘鉾・三人の母衣武者(拡大図)」→「舟木本・母衣武者その二図」
↓
《 四条通りを行く傘鉾、大きな朱傘を押し立てて、鬼面の者が団扇を振り仰ぎ、赤熊(赤毛のかぶり物)の者が笛や太鼓で囃す。先頭で踊るのは棒振り。みな異形の出で立ち、激しく踊り、囃す。見物も興味津々と見ている。『御霊会細記』によるとスサオノミコトが巨旦(こたん)を退治したときに、鬼たちが北天竺まで送っていった姿という。鉾というと巨大な山鉾を思い浮かべるが、この傘ひとつが鉾である。もともと祭礼の作り物や出で立ちは、過差風流(かさふうりゅう)、すなわち、日常とかけ離れたほどに工夫し、飾り立てる趣向を競うものであった。この傘鉾には風流の伝統が横溢している。長く途絶えていたが近年復活した。ところで、祇園祭礼の山鉾巡行は、洛中洛外図の主要モティ-フであり、室町期の作例にも江戸期の作例にも必ず描かれるが、本図にはこの傘鉾以外描かれない。これはどうしてだろうか。洛中をクロ-ズアップした本図に大きな山鉾を描き込むと周りの人々も含めて尺度感が微妙にずれる。その代わりに傘鉾を描き、母衣武者をやや誇張気味に大きく描いている。画家の構図や尺度感に対する慎重な配慮に感嘆せざるを得ない。》(『洛中洛外図舟木本―町のにぎわいが聞こえる(奥平俊六著)』所収「祭りは異形の風流にみちている」)
「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」→「舟木本・母衣武者その三図」
「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」→「舟木本・母衣武者その四図」
「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」→「舟木本・母衣武者その五図」
↓
《 「舟木本・母衣武者その三図」
この巨大な「指物」(鎧の受筒に立てたり部下に持たせたりした小旗や飾りの作り物=旗指物=背旗)の「馬藺」(あやめの一種である馬藺の葉をかたどった檜製の薄板を放射状に挿している飾り物)の母衣武者(「舟木本・母衣武者その三図」)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」)の「馬藺」の指物を背にした総大将「徳川家康」の見立てと解すると、「徳川家康」という見立てになってくる。
「舟木本・母衣武者その四図」
同様に、この「軍配」(武将が自軍を指揮するのに用いた指揮用具=軍配団扇 の略)の指物を背にした母衣武者(「舟木本・母衣武者その四図」)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」)の」軍配」を手にしている武将が「徳川秀忠」の見立てとすると、これまた、「徳川秀忠」という見立てになってくる。
「舟木本・母衣武者その五図」
問題は、この三番目の母衣武者なのである。この背にある指物は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」)には出て来ない。
そこ(「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」)での三番目の武者は、この羽色をした母衣を背にした武将で、その武将は、この(「舟木本・母衣武者その五図」)のような、甲冑の「胴」に「日の丸」印のものは着用していない。
そして、この「日の丸」印は、上記の「舟木本・母衣武者その三図」では、「徳川家康」と見立てた母衣武者の左脇に、「日の丸」印の「陣笠」(戦陣所用の笠の称)に、「金色」のものが記されている。
その「舟木本・母衣武者その四図」では、「徳川秀忠」と見立てた母衣武者の右側で、今度は「団扇」に「日の丸」印が入っている。
さらに、「舟木本・母衣武者その一図」を仔細に見て行くと、「舟木本・母衣武者その三図」の「徳川家康」と「舟木本・母衣武者その四図」では、「徳川秀忠」周囲の「陣笠」は、「赤い日の丸」印と、「金色の日の丸」印とが、仲良く混在しているのに比して、この「舟木本・母衣武者その五図」の母衣武者周囲の「陣笠」には、次の図(「(「舟木本・母衣武者その六図」)のように、「無印」か「日の丸印」ではないもので、さらに、その左端の上部の男性の手には、「日の丸印」の「扇子」が描かれている。
(中略)
「三人の母衣武者の三番目の武者」((「舟木本・母衣武者その五・六図」)の、この「母衣武者」は、「大阪冬の陣・夏の陣」の頃の、「徳川家康」(一番手の母衣武者=大御所・家康)と「徳川秀忠」(二番手の母衣武者=徳川二代目将軍・秀忠)に続く、三番手の徳川親藩・越前福井藩主「松平忠直」(「徳川家康」の孫、「秀忠」の「兄・結城秀康の嫡子、娘・勝姫の婿)の「見立て」(あるものを他になぞらえてイメージすること)と解したい。
「傘鉾・三人の母衣武者」→「舟木本・母衣武者その六図」 》 】
(「舟木本・右隻」)
「舟木本の中心軸と『九か所の若松』周辺」(右隻)→「舟木本中心軸その二図(右隻)」
↓
「右隻」のメインの人物が、下記の「五条橋で踊る老後家尼」とすると、「左隻」のメインの人物は、この「舟木本・母衣武者その六図」の、「越前松平家藩主・松平忠直」ということになる。
「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第四・五扇中部部分拡大図その二」(五条橋で踊る老後家尼)→「舟木本・『五条橋で踊る老後家尼』その二」
(「舟木本・左隻」)
「舟木本の中心軸と『九か所の若松』周辺」(左隻)→「舟木本中心軸その三図(左隻)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-01
↓
「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」→「舟木本・母衣武者その五図」
そして、この図の「松平忠直」の見立ては、次のアドレスの、「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部)と連動していることとなる。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26
「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部)→「舟木本・参内する松平忠直図」
さらに、「舟木本・母衣武者その五図」(松平忠直の見立て)の、その「母衣武者」の背の「指物」(旗指物・背旗)の、その羽根状のものは、次の「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」と連動している。
「四条河原の『能』の小屋」(右隻第五扇中部)→「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」
「能・鞍馬天狗」(「鞍馬天狗」その二図)
https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_025.html
この「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」関連については、下記のアドレスで触れている。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-30
そして、この「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」は、「舟木本」第一扇のスタートの、次の「豊国定舞台の能舞台(烏帽子折)その一図」に連結してくる。
「豊国定舞台の能舞台(烏帽子折)」(右隻第一扇中部)→「豊国定舞台の能舞台(烏帽子折)その一図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&
「豊国定舞台の能舞台(烏帽子折)その一図」関連などについては、下記のアドレスなどで幾度となく触れている。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06
そして、この「豊国定舞台の能舞台(烏帽子折)その一図」の、「牛若・判官(良経)」が被っている「金の風折烏帽子」は、下記アドレスで紹介している次の「山中常盤物語絵巻第11巻・金の烏帽子姿の牛若・判官図」と連動していることを紹介した。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26
「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA美術館蔵 )の「山中常盤物語絵巻・第11巻(佐藤の館に戻った牛若は、三年三月の後、十万余騎をひきいて都へ上がる)」→「山中常盤物語絵巻第11巻・金の烏帽子姿の牛若・判官図」
http://www.moaart.or.jp/?event=matabe-2019-0831-0924
そこで、この「山中常盤物語絵巻第11巻・金の烏帽子姿の牛若・判官図」関連について、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』の、次の記述を紹介した。
【《 第一に、金色の烏帽子は能装束の冠り物であり、牛若・判官(義経)の姿に特徴的な記号表現であった。忠直と又兵衛は、この金色の烏帽子の記号表現を共有しており、クライマックスにおける主人公としたのである。(略)
第二に、主人公の金色の烏帽子姿の大半は、能の風折烏帽子ではなくて、梨子打烏帽子に鉢巻をした姿で描かれている。軍勢と戦闘の中心にいる主人公は鎧姿であるから、それにふさわして梨子打烏帽子とし、それを金色に表現したのであった。(略)
そして、第三に、金色の梨子打烏帽子という主人公の姿は、能の牛若の物語を好み、源氏(新田氏)の後裔という強烈な自覚をもった注文主、すなわち松平忠直にふさわしい記号表現だったのである。また、金色の梨子打烏帽子は、忠直が又兵衛ら画工集団とのコラボレーションによって「又兵衛風絵巻群」をつくっていたことを端的に物語っている。》(P260-262)
ここで、「又兵衛風絵巻群」というのは、次の七種類のもので、『岩佐又兵衛風古浄瑠璃絵巻群』(辻惟雄の命名)の一群の絵巻を指す。「質量ともに物凄い絵巻群で、現存分を繋ぐと全長一・二キロメート近くになる」という(『黒田・前掲書)。
一 残欠本「堀江物語絵巻」(香雪本上巻・香雪本中巻・三重県立美術館本・京都国立博物館本・香雪本下巻・長国寺本など)
二 「山中常盤物語絵巻」(全十二巻)(重要文化財・MOA美術館蔵)
三 「上瑠璃(浄瑠璃物語絵巻)」(全十二巻)(重要文化財・MOA美術館蔵)
四 「をぐり(小栗判官絵巻)」(全十五巻)(宮内庁三の丸尚蔵館蔵・総長約三二四メートル)
五 「堀江巻双紙」(全十二巻)(MOA美術館蔵)
六 「村松物語(村松物語絵巻)」(全十八巻)(このうち、十二巻=海の見える美術館蔵、三巻=アイルランドのチェスター・ビーティ・ライブラリー蔵、三巻=所在不明)
七 「熊野権現縁起絵巻」(全十三巻)(津守熊野神社蔵、大分市歴史資料館寄託)
これらの「又兵衛風絵巻群」の全資料を読み解きながら、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』では、次のような結論に達している。
《「又兵衛風絵巻群」の注文主は、越前藩主の松平忠直であった。元和二年(一六一六)に、忠直は、岩佐又兵衛を中心とする画工(絵師)集団に命じて「又兵衛風絵巻群」つくらせ始めた。ところが、忠直は、同七・八年に参勤途中で関ケ原に滞留し、越前に引き返す行動を繰り返し、同九年二月に、将軍秀忠の命によって「隠居」とされ、豊後国に流されてしまう。絵巻の制作は、そこで一旦終わった。したがって「又兵衛風絵巻群」は、元和年間に集中的に制作された作品群であった。》(P242) 】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』)
ここで、冒頭に戻って、上記の、「舟木本・母衣武者その五図」、「舟木本・参内する松平忠直図」、「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」、そして、「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」と、次の「舟木本・山中常盤操り図」と「舟木本・母衣武者その五図の『右三つ巴紋=結城家紋』(五図の二)」を添えて、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主は、
「越前藩主・松平忠直」周辺と解したい。
「舟木本・山中常盤操り図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null
「舟木本・母衣武者その五図の『右三つ巴紋=結城家紋』(五図の二)」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null
さらに付け加えるならば、この「舟木本・山中常盤操り図」で、「泣いている貴女」は、「二条城堀角の『後妻(うわなり)打ち』」(「舟木本」左隻第三・四扇)の背景に見え隠れしている、「徳川家康の側室・結城秀康の実母・松平忠直の実祖母」の長勝院」(通称、おこちゃ、於万の方、小督局)と見立てると、またまた、一つのドラマ仕立てということになる。
そして、「舟木本・母衣武者その五図の『右三つ巴紋=結城家紋』(五図の二)」については、下記のアドレスの「右三つ巴紋=結城家紋」という雰囲気を有している。
https://www.touken-world.jp/tips/30591/
しかし、下総結城氏十七代当主・結城晴朝の肖像画(下記「ウィキペディア」)の右手に持っている「団扇」の紋章は、下記のアドレスの「三つ盛り三つ巴」のようで、「舟木本・母衣武者その五図の『右三つ巴紋=結城家紋』(五図の二)」をもって、即、「越前藩主・松平忠直」と独断することは、これらの紋章が、往々にして、この「舟木本」では「目眩まし」に描かれている場合もあるので危険なことなのであろう。
https://irohakamon.com/kamon/tomoe/migimitsutomoe.html
「結城晴朝肖像(安穏寺所蔵・東京大学史料編纂所模本)」(「ウィキペディア」))
この「結城晴朝」も、松平忠直の実祖母の「長勝院」共々、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主の、「越前藩主・松平忠直」周辺の一人ということになろう。
しかし、この「結城晴朝」は、この「舟木本」の完成前の、慶長十九年(一六一四)に、その氾濫に満ちた八十年の生涯を閉じている。この晴朝の死をもって、結城氏の血脈は断絶したが、結城氏の祭祀は、結城秀康の五男、忠直の弟の「松平直基」が継嗣となり、以降、歴代の「前橋松平家」が継承し続けた。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-26
(参考)「源氏物語画帖」「猪熊事件」と「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」との主要人物一覧(※=「源氏物語画帖」「猪熊事件」、※※=「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」、※※※=「結城秀康・松平忠直」周辺)
※※※結城晴朝(1534-1614)→下総結城氏17代当主・結城秀康の養父・「舟木本」
※※豊臣秀吉(1537-1598) →「豊臣政権樹立・天下統一」・「豊国祭礼図屏風」
※※土佐光吉(1539-1613)→「源氏物語画帖」(又兵衛=「土佐光信末流」?)
※※徳川家康(1543-1616) →「徳川政権樹立・パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」
※※※板倉勝重(1545-1624-)→京都所司代・板倉家宗家初代・「舟木本」
※※※長勝院(1548 – 1619) →徳川家康側室・結城秀康生母・「舟木本」
※※※曲直瀬玄朔(1549- 1632) →豊臣家・徳川家・結城家」等典医・「舟木本」
※※※神龍院梵舜(1553- 1632) →豊国廟の社僧(別当)・高台院姻族」・「舟木本」
※花山院定煕(一五五八~一六三九)→「夕霧」「匂宮」「紅梅」
※※※本因坊算砂(1559 – 161623)→「家元本因坊家の始祖」・「竹斎」「舟木本」
※※※本阿弥光悦(1558 – 1637) →「琳派」の祖師・「勝重・光広」の書の師(「光悦流」)
※※高台院 (1561? - 1598) → 「豊国祭礼図屏風」・「舟木本」
※※※石村検校1562 – 1642) →「筝曲作曲家・三味線奏者・琵琶法師」・「舟木本」
※近衛信尹(一五六五~一六一四) →「澪標」「乙女」「玉鬘」「蓬生」
※久我敦通(一五六五~?) →「椎本」
※※淀殿(1569?-1615) → 「大阪冬の陣」「大阪夏の陣 」・「豊国祭礼図屏風」
※後陽成院周仁(一五七一~一六一七) →「桐壺」「帚木」「空蝉」
※※※狩野内膳(1570-1616) →「豊国祭礼図屏風」筆者・岩佐又兵衛の師(?)・「舟木本」
※※※角倉素庵(1571-1632) →「角倉家」の嫡子・「光悦流」から「角倉流」を創始。
※※※本多富正(1572-1649) →「結城秀康・松平忠直・忠昌」三代の御附家老・「舟木本」
※※※結城秀康(1574-1607)→ 徳川家康次男・松平忠直実父
※日野資勝(一五七七~一六三九) →「真木柱」「梅枝」
※※興意法親王(照高院)(一五七六~一六二〇) →「方広寺鐘銘事件」・「舟木本」
※大炊御門頼国(1577-1613) →「猪熊事件」
↑
※※※俵屋宗達(?~1643?)→「光悦と並んで琳派の祖」「舟木本」
※※岩佐又兵衛(1578-1650)→「豊国祭礼図屏風」「舟木本」の筆者
↓
※※徳川秀忠(1579-1632)→「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」・「豊国祭礼図屏風」「舟木本」
※烏丸光広(一五七九~一六三八) →「猪熊事件」→「蛍」「常夏」・「舟木本」
※※※鶴姫(?~1621)→ 結城晴朝の養女、結城秀康・烏丸光広の正室・「舟木本」
※八条宮智仁(一五七九~一六二九) →「葵」「賢木」「花散里」
※四辻季継(一五八一~一六三九) →「竹河」「橋姫」
↑
※織田左門頼長(道八)(1582-1620) →「猪熊事件」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※猪熊教利(1583-1609) →「猪熊事件」
※徳大寺実久(1583-1617) →「猪熊事件」
↓
※飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) →「夕顔」「明石」
※※※板倉重宗(1586-1657) → 京都所司代・板倉家宗家二代・「舟木本」
※中院通村(一五八七~一六五三) → 「若菜下」「柏木」
※花山院忠長(1588-1662) →「猪熊事件」
※※※板倉重昌(1588-1638)→ 徳川家康の近習出頭人・三河深溝藩主・「舟木本」
※久我通前(一五九一~一六三四) →「総角」
※冷泉為頼(一五九二~一六二七) → 「幻」「早蕨」
※※豊臣秀頼(1593-1615) → 「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」・「豊国祭礼図屏風」
※菊亭季宣(一五九四~一六五二) →「藤裏葉」「若菜上」
※※※松平忠直(1595-1650) → 「結城秀康長男」(越前福井藩主)・「舟木本」
※※※松平忠昌(1598-1645) →「結城秀康次男」(越後高田藩・越前福井藩主)・「舟木本」
※近衛信尋(一五九九~一六四九) →「須磨」「蓬生」
※※※松平直政(1601-1666) →「結城秀康三男」(信濃松本藩・松江藩主)・「舟木本」
※烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)→「薄雲」「槿」
※西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) →「横笛」「鈴虫」「御法」
※※※五男:松平直基(1604-1648)→「結城秀康五男」(越前大野藩・姫路藩主)・「舟木本」
※※※松平直良(1605-1678)→「結城秀康六男」(越前大野藩主)・「舟木本」
「二条城前の母衣武者と仮装行列」」(「歴博D本」左隻第二・三扇中部)→「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html
この「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」は、「舟木本」(左隻・第一・二扇)の「母衣武者と仮装行列図」のモデル図のような雰囲気を有している。
「舟木本の中心軸と『九か所の若松』周辺」(左隻)→「舟木本中心軸その三図(左隻)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-24
【 (その三) 「舟木本)」の「祇園会で神輿の前座の母衣武者は何を意味するのか?」
「傘鉾・三人の母衣武者」(左隻第二扇上部)→「舟木本・母衣武者その一図」
祇園会の「神輿」集団の前に、この「傘鉾・三人の母衣武者」集団が描かれている。この先頭集団は、拡大すると次の図のとおりである。
「傘鉾・三人の母衣武者(拡大図)」→「舟木本・母衣武者その二図」
↓
《 四条通りを行く傘鉾、大きな朱傘を押し立てて、鬼面の者が団扇を振り仰ぎ、赤熊(赤毛のかぶり物)の者が笛や太鼓で囃す。先頭で踊るのは棒振り。みな異形の出で立ち、激しく踊り、囃す。見物も興味津々と見ている。『御霊会細記』によるとスサオノミコトが巨旦(こたん)を退治したときに、鬼たちが北天竺まで送っていった姿という。鉾というと巨大な山鉾を思い浮かべるが、この傘ひとつが鉾である。もともと祭礼の作り物や出で立ちは、過差風流(かさふうりゅう)、すなわち、日常とかけ離れたほどに工夫し、飾り立てる趣向を競うものであった。この傘鉾には風流の伝統が横溢している。長く途絶えていたが近年復活した。ところで、祇園祭礼の山鉾巡行は、洛中洛外図の主要モティ-フであり、室町期の作例にも江戸期の作例にも必ず描かれるが、本図にはこの傘鉾以外描かれない。これはどうしてだろうか。洛中をクロ-ズアップした本図に大きな山鉾を描き込むと周りの人々も含めて尺度感が微妙にずれる。その代わりに傘鉾を描き、母衣武者をやや誇張気味に大きく描いている。画家の構図や尺度感に対する慎重な配慮に感嘆せざるを得ない。》(『洛中洛外図舟木本―町のにぎわいが聞こえる(奥平俊六著)』所収「祭りは異形の風流にみちている」)
「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」→「舟木本・母衣武者その三図」
「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」→「舟木本・母衣武者その四図」
「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」→「舟木本・母衣武者その五図」
↓
《 「舟木本・母衣武者その三図」
この巨大な「指物」(鎧の受筒に立てたり部下に持たせたりした小旗や飾りの作り物=旗指物=背旗)の「馬藺」(あやめの一種である馬藺の葉をかたどった檜製の薄板を放射状に挿している飾り物)の母衣武者(「舟木本・母衣武者その三図」)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」)の「馬藺」の指物を背にした総大将「徳川家康」の見立てと解すると、「徳川家康」という見立てになってくる。
「舟木本・母衣武者その四図」
同様に、この「軍配」(武将が自軍を指揮するのに用いた指揮用具=軍配団扇 の略)の指物を背にした母衣武者(「舟木本・母衣武者その四図」)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」)の」軍配」を手にしている武将が「徳川秀忠」の見立てとすると、これまた、「徳川秀忠」という見立てになってくる。
「舟木本・母衣武者その五図」
問題は、この三番目の母衣武者なのである。この背にある指物は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」)には出て来ない。
そこ(「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」)での三番目の武者は、この羽色をした母衣を背にした武将で、その武将は、この(「舟木本・母衣武者その五図」)のような、甲冑の「胴」に「日の丸」印のものは着用していない。
そして、この「日の丸」印は、上記の「舟木本・母衣武者その三図」では、「徳川家康」と見立てた母衣武者の左脇に、「日の丸」印の「陣笠」(戦陣所用の笠の称)に、「金色」のものが記されている。
その「舟木本・母衣武者その四図」では、「徳川秀忠」と見立てた母衣武者の右側で、今度は「団扇」に「日の丸」印が入っている。
さらに、「舟木本・母衣武者その一図」を仔細に見て行くと、「舟木本・母衣武者その三図」の「徳川家康」と「舟木本・母衣武者その四図」では、「徳川秀忠」周囲の「陣笠」は、「赤い日の丸」印と、「金色の日の丸」印とが、仲良く混在しているのに比して、この「舟木本・母衣武者その五図」の母衣武者周囲の「陣笠」には、次の図(「(「舟木本・母衣武者その六図」)のように、「無印」か「日の丸印」ではないもので、さらに、その左端の上部の男性の手には、「日の丸印」の「扇子」が描かれている。
(中略)
「三人の母衣武者の三番目の武者」((「舟木本・母衣武者その五・六図」)の、この「母衣武者」は、「大阪冬の陣・夏の陣」の頃の、「徳川家康」(一番手の母衣武者=大御所・家康)と「徳川秀忠」(二番手の母衣武者=徳川二代目将軍・秀忠)に続く、三番手の徳川親藩・越前福井藩主「松平忠直」(「徳川家康」の孫、「秀忠」の「兄・結城秀康の嫡子、娘・勝姫の婿)の「見立て」(あるものを他になぞらえてイメージすること)と解したい。
「傘鉾・三人の母衣武者」→「舟木本・母衣武者その六図」 》 】
(「舟木本・右隻」)
「舟木本の中心軸と『九か所の若松』周辺」(右隻)→「舟木本中心軸その二図(右隻)」
↓
「右隻」のメインの人物が、下記の「五条橋で踊る老後家尼」とすると、「左隻」のメインの人物は、この「舟木本・母衣武者その六図」の、「越前松平家藩主・松平忠直」ということになる。
「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第四・五扇中部部分拡大図その二」(五条橋で踊る老後家尼)→「舟木本・『五条橋で踊る老後家尼』その二」
(「舟木本・左隻」)
「舟木本の中心軸と『九か所の若松』周辺」(左隻)→「舟木本中心軸その三図(左隻)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-01
↓
「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」→「舟木本・母衣武者その五図」
そして、この図の「松平忠直」の見立ては、次のアドレスの、「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部)と連動していることとなる。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26
「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部)→「舟木本・参内する松平忠直図」
さらに、「舟木本・母衣武者その五図」(松平忠直の見立て)の、その「母衣武者」の背の「指物」(旗指物・背旗)の、その羽根状のものは、次の「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」と連動している。
「四条河原の『能』の小屋」(右隻第五扇中部)→「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」
「能・鞍馬天狗」(「鞍馬天狗」その二図)
https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_025.html
この「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」関連については、下記のアドレスで触れている。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-30
そして、この「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」は、「舟木本」第一扇のスタートの、次の「豊国定舞台の能舞台(烏帽子折)その一図」に連結してくる。
「豊国定舞台の能舞台(烏帽子折)」(右隻第一扇中部)→「豊国定舞台の能舞台(烏帽子折)その一図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&
「豊国定舞台の能舞台(烏帽子折)その一図」関連などについては、下記のアドレスなどで幾度となく触れている。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06
そして、この「豊国定舞台の能舞台(烏帽子折)その一図」の、「牛若・判官(良経)」が被っている「金の風折烏帽子」は、下記アドレスで紹介している次の「山中常盤物語絵巻第11巻・金の烏帽子姿の牛若・判官図」と連動していることを紹介した。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26
「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA美術館蔵 )の「山中常盤物語絵巻・第11巻(佐藤の館に戻った牛若は、三年三月の後、十万余騎をひきいて都へ上がる)」→「山中常盤物語絵巻第11巻・金の烏帽子姿の牛若・判官図」
http://www.moaart.or.jp/?event=matabe-2019-0831-0924
そこで、この「山中常盤物語絵巻第11巻・金の烏帽子姿の牛若・判官図」関連について、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』の、次の記述を紹介した。
【《 第一に、金色の烏帽子は能装束の冠り物であり、牛若・判官(義経)の姿に特徴的な記号表現であった。忠直と又兵衛は、この金色の烏帽子の記号表現を共有しており、クライマックスにおける主人公としたのである。(略)
第二に、主人公の金色の烏帽子姿の大半は、能の風折烏帽子ではなくて、梨子打烏帽子に鉢巻をした姿で描かれている。軍勢と戦闘の中心にいる主人公は鎧姿であるから、それにふさわして梨子打烏帽子とし、それを金色に表現したのであった。(略)
そして、第三に、金色の梨子打烏帽子という主人公の姿は、能の牛若の物語を好み、源氏(新田氏)の後裔という強烈な自覚をもった注文主、すなわち松平忠直にふさわしい記号表現だったのである。また、金色の梨子打烏帽子は、忠直が又兵衛ら画工集団とのコラボレーションによって「又兵衛風絵巻群」をつくっていたことを端的に物語っている。》(P260-262)
ここで、「又兵衛風絵巻群」というのは、次の七種類のもので、『岩佐又兵衛風古浄瑠璃絵巻群』(辻惟雄の命名)の一群の絵巻を指す。「質量ともに物凄い絵巻群で、現存分を繋ぐと全長一・二キロメート近くになる」という(『黒田・前掲書)。
一 残欠本「堀江物語絵巻」(香雪本上巻・香雪本中巻・三重県立美術館本・京都国立博物館本・香雪本下巻・長国寺本など)
二 「山中常盤物語絵巻」(全十二巻)(重要文化財・MOA美術館蔵)
三 「上瑠璃(浄瑠璃物語絵巻)」(全十二巻)(重要文化財・MOA美術館蔵)
四 「をぐり(小栗判官絵巻)」(全十五巻)(宮内庁三の丸尚蔵館蔵・総長約三二四メートル)
五 「堀江巻双紙」(全十二巻)(MOA美術館蔵)
六 「村松物語(村松物語絵巻)」(全十八巻)(このうち、十二巻=海の見える美術館蔵、三巻=アイルランドのチェスター・ビーティ・ライブラリー蔵、三巻=所在不明)
七 「熊野権現縁起絵巻」(全十三巻)(津守熊野神社蔵、大分市歴史資料館寄託)
これらの「又兵衛風絵巻群」の全資料を読み解きながら、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』では、次のような結論に達している。
《「又兵衛風絵巻群」の注文主は、越前藩主の松平忠直であった。元和二年(一六一六)に、忠直は、岩佐又兵衛を中心とする画工(絵師)集団に命じて「又兵衛風絵巻群」つくらせ始めた。ところが、忠直は、同七・八年に参勤途中で関ケ原に滞留し、越前に引き返す行動を繰り返し、同九年二月に、将軍秀忠の命によって「隠居」とされ、豊後国に流されてしまう。絵巻の制作は、そこで一旦終わった。したがって「又兵衛風絵巻群」は、元和年間に集中的に制作された作品群であった。》(P242) 】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』)
ここで、冒頭に戻って、上記の、「舟木本・母衣武者その五図」、「舟木本・参内する松平忠直図」、「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」、そして、「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」と、次の「舟木本・山中常盤操り図」と「舟木本・母衣武者その五図の『右三つ巴紋=結城家紋』(五図の二)」を添えて、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主は、
「越前藩主・松平忠直」周辺と解したい。
「舟木本・山中常盤操り図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null
「舟木本・母衣武者その五図の『右三つ巴紋=結城家紋』(五図の二)」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null
さらに付け加えるならば、この「舟木本・山中常盤操り図」で、「泣いている貴女」は、「二条城堀角の『後妻(うわなり)打ち』」(「舟木本」左隻第三・四扇)の背景に見え隠れしている、「徳川家康の側室・結城秀康の実母・松平忠直の実祖母」の長勝院」(通称、おこちゃ、於万の方、小督局)と見立てると、またまた、一つのドラマ仕立てということになる。
そして、「舟木本・母衣武者その五図の『右三つ巴紋=結城家紋』(五図の二)」については、下記のアドレスの「右三つ巴紋=結城家紋」という雰囲気を有している。
https://www.touken-world.jp/tips/30591/
しかし、下総結城氏十七代当主・結城晴朝の肖像画(下記「ウィキペディア」)の右手に持っている「団扇」の紋章は、下記のアドレスの「三つ盛り三つ巴」のようで、「舟木本・母衣武者その五図の『右三つ巴紋=結城家紋』(五図の二)」をもって、即、「越前藩主・松平忠直」と独断することは、これらの紋章が、往々にして、この「舟木本」では「目眩まし」に描かれている場合もあるので危険なことなのであろう。
https://irohakamon.com/kamon/tomoe/migimitsutomoe.html
「結城晴朝肖像(安穏寺所蔵・東京大学史料編纂所模本)」(「ウィキペディア」))
この「結城晴朝」も、松平忠直の実祖母の「長勝院」共々、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主の、「越前藩主・松平忠直」周辺の一人ということになろう。
しかし、この「結城晴朝」は、この「舟木本」の完成前の、慶長十九年(一六一四)に、その氾濫に満ちた八十年の生涯を閉じている。この晴朝の死をもって、結城氏の血脈は断絶したが、結城氏の祭祀は、結城秀康の五男、忠直の弟の「松平直基」が継嗣となり、以降、歴代の「前橋松平家」が継承し続けた。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-26
(参考)「源氏物語画帖」「猪熊事件」と「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」との主要人物一覧(※=「源氏物語画帖」「猪熊事件」、※※=「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」、※※※=「結城秀康・松平忠直」周辺)
※※※結城晴朝(1534-1614)→下総結城氏17代当主・結城秀康の養父・「舟木本」
※※豊臣秀吉(1537-1598) →「豊臣政権樹立・天下統一」・「豊国祭礼図屏風」
※※土佐光吉(1539-1613)→「源氏物語画帖」(又兵衛=「土佐光信末流」?)
※※徳川家康(1543-1616) →「徳川政権樹立・パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」
※※※板倉勝重(1545-1624-)→京都所司代・板倉家宗家初代・「舟木本」
※※※長勝院(1548 – 1619) →徳川家康側室・結城秀康生母・「舟木本」
※※※曲直瀬玄朔(1549- 1632) →豊臣家・徳川家・結城家」等典医・「舟木本」
※※※神龍院梵舜(1553- 1632) →豊国廟の社僧(別当)・高台院姻族」・「舟木本」
※花山院定煕(一五五八~一六三九)→「夕霧」「匂宮」「紅梅」
※※※本因坊算砂(1559 – 161623)→「家元本因坊家の始祖」・「竹斎」「舟木本」
※※※本阿弥光悦(1558 – 1637) →「琳派」の祖師・「勝重・光広」の書の師(「光悦流」)
※※高台院 (1561? - 1598) → 「豊国祭礼図屏風」・「舟木本」
※※※石村検校1562 – 1642) →「筝曲作曲家・三味線奏者・琵琶法師」・「舟木本」
※近衛信尹(一五六五~一六一四) →「澪標」「乙女」「玉鬘」「蓬生」
※久我敦通(一五六五~?) →「椎本」
※※淀殿(1569?-1615) → 「大阪冬の陣」「大阪夏の陣 」・「豊国祭礼図屏風」
※後陽成院周仁(一五七一~一六一七) →「桐壺」「帚木」「空蝉」
※※※狩野内膳(1570-1616) →「豊国祭礼図屏風」筆者・岩佐又兵衛の師(?)・「舟木本」
※※※角倉素庵(1571-1632) →「角倉家」の嫡子・「光悦流」から「角倉流」を創始。
※※※本多富正(1572-1649) →「結城秀康・松平忠直・忠昌」三代の御附家老・「舟木本」
※※※結城秀康(1574-1607)→ 徳川家康次男・松平忠直実父
※日野資勝(一五七七~一六三九) →「真木柱」「梅枝」
※※興意法親王(照高院)(一五七六~一六二〇) →「方広寺鐘銘事件」・「舟木本」
※大炊御門頼国(1577-1613) →「猪熊事件」
↑
※※※俵屋宗達(?~1643?)→「光悦と並んで琳派の祖」「舟木本」
※※岩佐又兵衛(1578-1650)→「豊国祭礼図屏風」「舟木本」の筆者
↓
※※徳川秀忠(1579-1632)→「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」・「豊国祭礼図屏風」「舟木本」
※烏丸光広(一五七九~一六三八) →「猪熊事件」→「蛍」「常夏」・「舟木本」
※※※鶴姫(?~1621)→ 結城晴朝の養女、結城秀康・烏丸光広の正室・「舟木本」
※八条宮智仁(一五七九~一六二九) →「葵」「賢木」「花散里」
※四辻季継(一五八一~一六三九) →「竹河」「橋姫」
↑
※織田左門頼長(道八)(1582-1620) →「猪熊事件」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※猪熊教利(1583-1609) →「猪熊事件」
※徳大寺実久(1583-1617) →「猪熊事件」
↓
※飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) →「夕顔」「明石」
※※※板倉重宗(1586-1657) → 京都所司代・板倉家宗家二代・「舟木本」
※中院通村(一五八七~一六五三) → 「若菜下」「柏木」
※花山院忠長(1588-1662) →「猪熊事件」
※※※板倉重昌(1588-1638)→ 徳川家康の近習出頭人・三河深溝藩主・「舟木本」
※久我通前(一五九一~一六三四) →「総角」
※冷泉為頼(一五九二~一六二七) → 「幻」「早蕨」
※※豊臣秀頼(1593-1615) → 「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」・「豊国祭礼図屏風」
※菊亭季宣(一五九四~一六五二) →「藤裏葉」「若菜上」
※※※松平忠直(1595-1650) → 「結城秀康長男」(越前福井藩主)・「舟木本」
※※※松平忠昌(1598-1645) →「結城秀康次男」(越後高田藩・越前福井藩主)・「舟木本」
※近衛信尋(一五九九~一六四九) →「須磨」「蓬生」
※※※松平直政(1601-1666) →「結城秀康三男」(信濃松本藩・松江藩主)・「舟木本」
※烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)→「薄雲」「槿」
※西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) →「横笛」「鈴虫」「御法」
※※※五男:松平直基(1604-1648)→「結城秀康五男」(越前大野藩・姫路藩主)・「舟木本」
※※※松平直良(1605-1678)→「結城秀康六男」(越前大野藩主)・「舟木本」
「源氏物語画帖」(京都国立博物館蔵)と「洛中洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館蔵)との成立時期などについて
「源氏物語画帖」(京都国立博物館蔵)と「洛中洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館蔵)との成立時期については、両者とも、慶長末期から元和初期にかけてのものということで、殆ど同一時期の頃の作品ということになる。
この「源氏物語画帖」は、慶長末期の「慶長十九年」(一六一四)に亡くなった「近衛信尹」(一五六五~一六一四)周辺が、その制作以来者とされており、そこに、娘婿の後陽成天皇の皇子の「近衛信尋」(一五九九~一六四九)と息女「太郎君」(?~?)との親子三人が、主要な部分な「詞書」を執筆している。
その成立の時期は、「慶長十九年」(一六一四)以前より始まって、元和三年(一六一七)の頃に一応の完成を見て、「近衛信尋」より一歳年下の、烏丸光広の嫡男「烏丸光賢」(一六〇〇~一六三八)が「右中弁」になった「元和元年」(一六一五)から「元和五年」(一六一九)までの、「元和五年」(一六一九)頃に完成したとされている(『源氏物語画帖・勉誠社』所収「源氏物語画帖の詞書・下坂守稿」)。
一方の「洛中洛外図屏風・舟木本」については、「慶長十八年の後半に構想され、慶長十九年の夏頃には制作が始まり、八月十九日以降、同年の年末(どんなに遅くとも、翌年の元和元=一六一五)年七月の「禁中幷公家中諸法度の制定」までに完成されたと思われる(『洛中洛外図屏風・舟木本を読む』黒田日出男著「エピローグ」p256)とされている。
この「元和元年(一六一五)」の「大阪夏の陣」で「豊臣家」が滅亡した年の、「源氏物語画帖」と「洛中洛外図屏風・舟木本」などの周辺の主要人物とその年齢(数え年)は、次のとおりとなる。
(参考一)「源氏物語画帖」と「洛中洛外図屏風・舟木本」などの周辺の主要人物
結城晴朝(1534-1614)→「舟木本」→ 慶長十九年没(八十一歳)
※近衛信尹(一五六五~一六一四) →「源氏物語画帖」→慶長十九年没(五十歳)
※土佐光吉(1539-1613)→「源氏物語画帖」→慶長十八年没(七十五歳)
徳川家康(1543-1616)→「舟木本」→七十三歳(翌元和二年没)
板倉勝重(1545-1624)→「舟木本」→七十一歳
※※長勝院(1548 – 1619) →「舟木本」→六十八歳
曲直瀬玄朔(1549- 1632) →「舟木本」→六十七歳
神龍院梵舜(1553- 1632) →「舟木本」→六十三歳
本阿弥光悦(1558 – 1637) →「舟木本?」→五十八歳
※※高台院 (1561? - 1598) →「舟木本」→五十五歳(?)
淀殿(1569?-1615) →「舟木本」→四十七歳(?)
※※狩野内膳(1570-1616) →「舟木本」→四十六歳(翌元和二年没)
角倉素庵(1571-1632) →「舟木本?」→四十五歳。
※※本多富正(1572-1649) →「舟木本」→四十四歳
※※結城秀康(1574-1607)→「舟木本」→慶長十二年没(三十四歳)
↑
俵屋宗達(?~1643?)→「舟木本」(光悦より十歳程度年下と推定すると四十八歳?)
※※岩佐又兵衛(1578-1650)→「舟木本」の筆者→三十八歳
徳川秀忠(1579-1632)→「舟木本」→三十七歳
※※※烏丸光広(一五七九~一六三八)→「源氏物語画帖」「舟木本」→三十七歳
※※(江戸・結城・烏丸)鶴姫(?~1621)→「舟木本」
↓
板倉重宗(1586-1657) →「舟木本」→三十歳
板倉重昌(1588-1638)→「舟木本」→二十八歳
豊臣秀頼(1593-1615)→「舟木本」→二十三歳
※※松平忠直(1595-1650) →「舟木本」→二十一歳(「結城秀康」長男)
※※天崇院(勝姫・秀忠三女・忠直正室・東福門院=和子の姉)(1601-1672)→十五歳
松平忠昌(1598-1645) →「舟木本」→十八歳(「結城秀康」次男)
※近衛信尋(一五九九~一六四九) →「源氏物語画帖」→十七歳
※信尹息女・太郎君(?~?)→「源氏物語画帖」
烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)→「源氏物語画帖」」→十六歳
松平直政(1601-1666) →「舟木本」→十五歳(「結城秀康」三男)
松平直基(1604-1648)→「舟木本」→十二歳(「結城秀康」五男)
松平直良(1605-1678)→「舟木本」→十一歳(「結城秀康」六男)
ここで、初代越前松平家藩主「結城秀康」と二代越前松平家藩主「松平忠直」の「略年譜」を、下記のアドレスなどを参考にして作成すると次のとおりである。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-04
https://www.saizou.net/rekisi/tadanao3.htm
(参考二) 初代越前松平家藩主「結城秀康」と二代藩主「松平忠直」の「略年譜」
(結城秀康 略年譜) → 初代越前松平家藩主
天正2年(1574) 1歳 徳川家康の次男として、遠江国敷智(ふち)郡宇布見(有富美)村(現静岡県雄踏町)の中村源左衛門家で誕生する。
天正7年(1579) 6歳 兄信康(家康の長男)が自害する。
天正12年(1584) 11歳 小牧・長久手の戦いの講和後に羽柴秀吉の養子となり、羽柴秀康と称して河内国に所領を与えられる。
天正13年(1585) 12歳 元服して従四位下・三河守に叙任される。
天正15年(1587) 14歳 秀吉の九州征伐に従い初陣を果たす。
天正18年(1590) 17歳 秀吉の命を受けて結城晴朝の養子となる。晴朝の養女鶴姫と婚姻し、下総国結城10万1千石を相続する。
↑
※文禄4年(1595)22歳 嫡男国丸(2代藩主松平忠直)が誕生する。母は側室・中川氏。
慶長2年(1597) 24歳 次男虎松(3代藩主松平忠昌)が誕生する。母は側室・中川氏。
慶長5年(1600) 27歳 家康の命により下野国小山に滞陣して上杉景勝の動きを押える。
関ヶ原の戦いの後、戦功として越前68万石を拝領する。
↓
慶長6年(1601) 28歳 越前の地へ初入封し、養父晴朝も越前へ移住する。 北庄城(福井城)の修築普請を開始する。
慶長8年(1603) 30歳 家康が征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開く。
慶長10年(1605) 32歳 権中納言に任じられる。弟秀忠が2代将軍となる。
慶長11年(1606) 33歳 禁裏・仙洞御所普請の総督を命じられる。伏見城の留守在城を命じられる。
※慶長12年(1607)34歳 伏見より帰国し、北庄城において没する。
(松平忠直 略年譜)→ 二代越前松平家藩主
※文禄四年(1595) 1歳 結城秀康の長男、国丸(松平忠直)誕生。母は側室・中川氏。
慶長十年(1605) 11歳 従四位下に叙位。侍従に任官し、三河守を兼任。
慶長十一年(1606)12歳 右近衛権少将に転任。三河守如元。
※慶長十二(1607) 13歳 秀康、北庄で死去。忠直、越前75万石を相続。
↑
※※慶長十六(1611)17歳 左近衛権少将に遷任(従四位上)。三河守如元、この春、家康の上京に伴われ、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。 勝姫と婚姻。
↓
慶長十七(1612)18歳 家臣間の争論、久世騒動起きる。
元和元(1615) 21歳 大坂夏の陣で戦功、長男仙千代(光長)北庄に誕生。従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
↑
元和二(1616) 22歳 家康、駿府で死去。
元和四(1618) 24 歳 鯖江・鳥羽野開発を命じる。
↓
元和七(1621) 27歳 参勤のため北庄を出発も、今庄で病気となり北庄に帰る。
元和八(1622) 28歳 参勤のため北庄たつも関ケ原で病気再発、北庄に帰る。
元和九(1623) 29歳 母清涼院通し豊後国へ隠居の上命受ける。
↓
寛永元(1624) 30歳 仙千代(光長)、越後高田に転封。弟忠昌が高田より越前家相続。北庄を福井と改める。
寛永三(1626) 32歳 忠直、豊後萩原から同国津守に移る。
慶安三(1650) 56歳 9月10日、津守で死去。
この(参考一)と(参考二)から、「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主は、「松平忠直」周辺と解して、その制作意図というのは、《※※慶長十六(1611)17歳 左近衛権少将に遷任(従四位上)。三河守如元、この春、家康の上京に伴われ、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。 勝姫と婚姻。》に関連する、「忠直の『叙位・任官・参内』と『勝姫との婚姻』」祝いのように解したい。
そして、それは、下記のアドレスの(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P116-117)の記述が、その背景を物語っているように解したい。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26
【 慶長十六年(一六一一)は、十七歳になった忠直にとって重大な出来事が次々に起こった。越前藩主としての忠直にとって大きな節目となった年である。第一に京都で叙位・任官があり、忠直は祖父家康に連れられて参内した。
慶長十六年三月六日に駿府を出発した大御所家康は、同月十七日に京着して二条城に入った。同月二十日には、家康の子義利(義直)・頼将(頼宣)が右近衛権中将・参議に、鶴松(頼房)が従四位下右近衛少将に、そして、孫の松平忠直が従四位上左近衛少将に叙任された。その御礼のために、同月二十三日、家康は子の義利・頼将と孫の松平忠直を従えて参内したのである。
のちに御三家となる徳川義利(尾張徳川家)と同頼将(紀伊徳川家)と共に参内した忠直は、天下人家康の孫として振る舞ったのである。忠直の人生にとって最初で最後の晴れやかな出来事であった。家康の孫、秀康の子であることを強烈に意識したことであろう。清和源氏新田氏の門葉(子孫)であることを自覚した機会でもあったに違いない。 】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P116-117)
として、では、「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主の、「松平忠直」周辺の、「誰」が、作者の「岩佐又兵衛」とコンタクト(接点・接触・情報交換・実現の道筋を付けた人物)をしたのかということについては、次回以降、この「コメント」欄などで言及して行きたい。
by yahantei (2021-12-11 10:16)