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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その五)「藤原定家」(「戸奈瀬」周辺)

住吉の名月.jpg

『住吉の名月』(月岡芳年『月百姿』)住吉明神の神託を受ける藤原定家(「ウィキペディア」)

となせ河玉ちる瀬々の月をみて心ぞ秋にうつりはてぬる(藤原定家「続千載集」)
鵜飼舟下す戸無瀬の水馴棹さしも程なく明るよは哉(藤原良経「秋篠月清集」)
あらし山花よりおくに月は入りて戸無瀬の水に春のみのこれり(橘千蔭「)
築山の戸奈瀬にをつる柳哉 (抱一「屠龍之技・第一こがねのこま」)
 戸奈瀬の雪を
山の名はあらしに六の花見哉(抱一「屠龍之技・第四椎の木かげ」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-18

夕顔に扇図.jpg

酒井抱一挿絵『俳諧拾二歌僊行』所収「夕顔に扇図」 → A図

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200015438/images/200015438_00034.jpg

 この抱一の挿絵(「夕顔に扇図」)は、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)所収「酒井抱一略年譜」で、抱一が亡くなる「文政十一年(一八二八)六十八歳」に「三月、『俳諧拾二歌僊行』に挿絵提供(抱一)、十一月、抱一没、築地本願寺に葬られる(等覚院文詮)」に出てくる、抱一の「最後の作品」(「第四章太平の『もののあわれ』「絶筆四句」)で紹介されているものである。
 この挿絵が収載されている『俳諧拾二歌僊行(はいかいじゅうにかせんこう)』については、上記のアドレスで、その全容を閲覧することが出来る。これは、大名茶人として名高い出雲国松江藩第七代藩主松平不昧(ふまい)の世嗣(第八代藩主)松平斉恒(なりつね・俳号=月潭)の七回忌追善の俳書である。
 大名俳人月潭(げったん)が亡くなったのは、文政五年(一八二二)、三十二歳の若さであった。この年、抱一、六十二歳で、抱一と月潭との年齢の開きは、三十歳も抱一が年長なのである。
 抱一の兄・忠以(ただざね、茶号=宗雅、俳号=銀鵞)は、抱一(忠因=ただなお)より六歳年長で、この忠以(宗雅)が、四歳年長の月潭の父・治郷(はるさと、茶号=不昧)と昵懇の間柄で、宗雅の茶道の師に当たり、この「不昧・宗雅」が、当時の代表的な茶人大名ということになる。
 この不昧の弟・桁親(のぶちか、俳号=雪川)は、宗雅より一歳年長だが、抱一は、この雪川と昵懇の間柄で、雪川と杜陵(抱一)は、米翁(べいおう、大和郡山藩隠居、柳沢信鴻=のぶとき)の俳諧ネットワークの有力メンバーなのである。
 さらに、抱一の兄・忠以(宗雅)亡き後を継いだ忠道(ただひろ・播磨姫路藩第三代藩主)の息女が、月潭(出雲国松江藩第八代藩主)の継室となっており、酒井家(宗雅・抱一・忠道)と松平家(不昧・雪川・月潭)とは二重にも三重にも深い関係にある間柄である。
 そして、実に、その月潭が亡くなった文政五年(一八二二)は、抱一の兄・忠以(宗雅)の、三十三回忌に当たるのである。さらに、この月潭の七回忌の追善俳書(上記の『俳諧拾二歌僊行』)に、抱一が、上記の「夕顔と扇面図」の挿絵を載せた(三月)、その文政十一年(一八二八)の十一月に、抱一は、その六十八年の生涯を閉じるのである(『井田・岩波新書』)所収「酒井抱一略年譜」)。
 その意味でも、上記の「夕顔と扇面図」(『俳諧拾二歌僊行』の抱一挿絵)は、「画・俳二道を究めた『酒井抱一』の生涯」の、その最期を燈明する極めて貴重なキィーポイントともいえるものであろう。
 さらに、ここに付記して置きたいことは、「画(絵画)と俳(俳諧)」の両道の世界だけではなく、それを「不昧・宗雅」の「茶道」の世界まで視点を広げると、「利休(侘び茶)→織部(武家茶)→遠州(「綺麗さび茶」)」に連なる「酒井家(宗雅・抱一・忠道・忠実)・松平家(不昧・雪川・月潭)・柳澤家(米翁・保光)の、その徳川譜代大名家の、それぞれの「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)=平和=太平」の一端を形成している、その「綺麗さび」の世界の一端が垣間見えてくる。
 それは、戦乱もなく一見すると「太平」の世であるが、その太平下にあって、それぞれの格式に応じ「家」を安穏を守旧するための壮絶なドラマが展開されており、その陰に陽にの人間模様の「もののあはれ」(『石上私淑言(本居宣長)』の、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」)こそ、抱一の「綺麗さび」の世界の究極に在るもののように思われる。
 抱一の若き日の、太平の世の一つの象徴的な江戸の遊郭街・吉原で「粋人・道楽子弟の三公子」として名を馳せていた頃のことなどについては、下記のアドレスで紹介している。 

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-25

  御供してあらぶる神も御国入(いり)  抱一(『句藻』「春鶯囀」)

 この句には、「九月三日、雲州候月潭君へまかり、「翌(あす)は国に帰(かへる)首途(かどで)なり」として、そぞめきあへりける時」との前書きがある(『井田・岩波新書』「第四章太平の『もののあはれ』」)。
 この句が収載されているのは、文化十四年(一八一七)、抱一、五十七歳の時で、この年は、抱一にとって大きな節目の年であった。その年の二月、『鶯邨画譜』を刊行、五月、巣兆の『曽波可理』に「序」を寄せ、その六月に鈴木蠣潭が亡くなる(二十六歳の夭逝である)。その鈴木家を、其一が継ぎ、また、小鶯女史が剃髪し、妙華尼を称したのも、この頃である。
 そして、その十月に「雨華庵」の額(第四姫路酒井家藩主)を掲げ、これより、抱一の「雨華庵」時代がスタートする。掲出の句は、その一カ月前の作ということになる。
 句意は、「出雲では陰暦十月を神無月(かんなづき)と呼ばず、八百万(やおよろず)の神が蝟集することから神有月(かみありづき)と唱える。神有月近いころ、『あらぶる神』が出雲の藩主月潭の国入りの『御供』をするという一句である」(『井田・岩波新書』「第四章太平の『もののあはれ』」)。
 この年、出雲の藩主月潭は、二十七歳の颯爽としたる姿であったことであろう。そして、それから十一年後の、冒頭の抱一の「夕顔に扇面図」の挿絵が掲載された『俳諧拾二歌僊行』は、その月潭の七回忌の追善俳書の中に於いてなのである。
 とすれば、抱一の、この「夕顔に扇面図」の、この「夕顔」は、『源氏物語』第四条の佳人薄命の代名詞にもなっている「夕顔」に由来し、そこに三十ニ歳の若さで夭逝した出雲の藩主月潭を重ね合わせ、その「太平の『もののあはれ』」の、 そのファクターの一つの「はかなさ」を背景に託したものと解すべきなのであろう。

  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮  藤原定家 

  I looked beyond; / Fiowers are not, / Nor tinted leaves./
On the sea beach / A solitary cottage stands /
In the waving light / Of an autumn eve. (岡倉天心・英訳)

 見渡したが / 花はない、/ 紅葉もない。/
   渚には / 淋しい小舎が一つ立っている、/ 
 秋の夕べの / あせゆく光の中に。        (浅野晃・和訳)

 『茶の本 Ter Book of Tea (岡倉天心著 浅野晃訳 千宗室<序と跋>)』 で紹介されている藤原定家の一首(『新古今』)で、千利休の「侘び茶」の基本的な精神(和敬静寂)が込められているとされている。
 それに続いて、小堀遠州の「綺麗さび」の茶の精神を伝えているものとされている、次の一句が紹介されている。

   夕月夜海すこしある木の間かな (宗長作とも宗碩作とも伝えられている)

A cluster of summer trees,/
A bit of the sea,/
A pale evening moon. (岡倉天心・英訳)

  ひとむらの夏木立、
  いささかの海、
  蒼い夕月。 (浅野晃・和訳)

 抱一にも、次の一句がある。

 としせわし鶯動く木の間かな   抱一(『句藻』「春鶯囀」)


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-09

(再掲)

定家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十・前中納言定家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009403

左方十・前中納言定家
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010694000.html

 しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ

右方十・従二位家隆
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010695000.html

 かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-31

(再掲)

藤原定家.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(前中納言定家)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056409

周辺メモ)

 『小説 後鳥羽院―― 新島守よ、隠岐の海の(綱田紀美子著)』の中での、「定家家隆両卿歌合」(定家・家隆詠、後鳥羽院撰)などに関する叙述は、次のようなものである。

(第五 「無始の悪行のぞきがたく候」)

 家隆と定家はほぼ同じ年齢で、ともに俊成(定家の父)にそだてられた歌人であり、また、ともに後鳥羽の寵を得て新古今集の撰にあたった者である。家隆は、後鳥羽が隠岐に流されてからもずっと、この二十二歳年下のもと帝王を忘れることができなかった。そうすることが自分の身にとってひどく不利になるということをいささかもかえりみず、後鳥羽との手紙のやりとりを欠かさなかった。歌を通じて、いちずに後鳥羽をささえたのが家隆である。
  (中略)
 定家は後鳥羽より十八歳年長であった。ともに俊成に学んだのであるから、相弟子または兄弟子であり、かつ主君と臣下という複雑な間がらだった。
  
(第六 来ぬ人を待つほの浦の)

寛喜三年(一二三一)土佐から阿波に遷っていた第一皇子土御門院は、病いが重くなり十月六日に出家、同十二日に没した。三十七歳であった。(中略)
貞永一年(一二三二)藤原定家は七十一歳で権中納言にすすみ、また新勅撰集撰進の命を受けた。
文歴一年(一二三四)順徳院の皇子懐成親王は十七歳で亡くなった。承久三年四月から七十日間だけの皇位であり、乱の終わりとともに廃帝にされていたのである。
  (中略)
(「定家家隆両卿歌合」一番)
左 里のあまの汐焼き衣たち別れ なれしも知らぬ春の雁がね(定家)
(里の海人の塩焼きが衣になじむように馴れ親しんだのも知らずに、立ち別れていく春の帰る雁よ)
右 春もいまだ色にはいでず武蔵野や若紫の雪の下草(家隆)
(春とはいえまだそれらしき様子があらわれていない武蔵野では雪の下で紫草の芽が眠っている)
(「同」十五番)
左 ながめつつ思いし事のかずかずは空しきそらの秋の夜の月(定家)
(月をながめながら思った多くのことが、一つ一つみなむだなこととなった。空にはむなしく秋の夜の月が照らしている)
右 暮れぬまに山のは遠くなりにけり 空より出づる秋の夜の月(家隆)
(まだ日の暮れないうちに山の端が遠くなってしまったよ。空には秋の夜を遠くまで照らす月が出たので)
(「同」四十番)
左 心をばつらきものとて別れにし世々のおもかげなに慕ふらむ(定家)
(心とは無情なものだと言って別れたのであったが、幾年経ても消えることのないおもかげを、私の心はなぜ慕うのだろう)
右 せめて思ふ いまひとたびの逢ふことは渡らん川や契りなるべき(家隆)
(せめてもう一度逢う瀬を切に思うのは、三途の川の渡しを渡ることが二人の深い定めだからなのでしょうか)
(「同」四十八番)
左 明くる夜のゆふつけ鳥に立ち別れ浦波遠く出づる舟人(定家)
(夜明けを告げる鶏の声にたち別れて、岸辺の波を遠くはなれはるか沖へと出て行く舟人よ) 
右 沖つ波よする磯辺のうき枕 遠ざかるなり潮や満つらん(家隆)
(沖の波が寄せてくる磯辺に停泊していた旅の舟が遠ざかっていくようだ。潮が満ちてきたのだろう)

「定家家隆両卿歌合」については、下記のアドレスなど。

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko30/bunko30_d0089/index.html


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-06

(再掲)

鹿下絵和歌巻・藤原定家.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(藤原定家)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(個人蔵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-13



(追記)「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その五)(再掲)

(「藤原定家」周辺メモ)

   西行法師すすめて、百首歌よませ侍りけるに
2 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(新古363)
(釈文)西行法師須々めて百首哥よま世侍介る尓
見王多世盤華も紅葉もな可利け里浦濃とまや乃阿支乃遊ふ久連

【通釈】あたりを見渡してみると、花も紅葉もないのだった。海辺の苫屋があるばかりの秋の夕暮よ。
【語釈】◇花も紅葉も 美しい色彩の代表として列挙する。◇苫屋(とまや) 菅や萱などの草で編んだ薦で葺いた小屋。ここは漁師小屋。
【補記】文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」。今ここには現前しないもの(花と紅葉)を言うことで、今ここにあるもの(浦の苫屋の秋の夕暮)の趣意を深めるといった作歌法はしばしば定家の試みたところで、同じ頃の作では「み吉野も花見し春のけしきかは時雨るる秋の夕暮の空」(閑居百首)などがある。新古今集秋に「秋の夕暮」の結句が共通する寂蓮の「さびしさはその色としも…」、西行の「心なき身にもあはれは…」と並べられ、合せて「三夕の歌」と称する。

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「闇を暗示する銀泥」 「鶴下絵和歌巻」において雲や霞はもっぱら金泥で表されていたが、この和歌巻では銀泥が主要な役割を果たすようになっている。これは夕闇を暗示するものなるべく、中間の明るく金泥のみの部分を月光と解えるならば、夕暮から夜の景と見なすとも充分可能であろう。なぜなら、有名な崗本天皇の一首「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも」(『万葉集』巻八)に象徴されるように、鹿は夕暮から夜に妻を求めて鳴くものとされていたからである。朝から夕暮までの一日の情景とみることも可能だが、私は鹿の伝統的なシンボリズムを尊重したいのだ。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jomei.html

   崗本天皇の御製歌一首
夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寝(い)ねにけらしも(万8-1511)

【通釈】夕方になると、いつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かないぞ。もう寝てしまったらしいなあ。
【語釈】◇小倉の山 不詳。奈良県桜井市あたりの山かと言う。平安期以後の歌枕小倉山(京都市右京区)とは別。雄略御製とする巻九巻頭歌では原文「小椋山」。◇寝(い)ねにけらしも 原文は「寐宿家良思母」。「寐(い)」は睡眠を意味する名詞。これに下二段動詞「寝」をつけたのが「いね」である。
【補記】「崗本天皇」は飛鳥の崗本宮に即位した天皇を意味し、舒明天皇(高市崗本天皇)・斉明天皇(後崗本天皇)いずれかを指す。万葉集巻九に小異歌が載り、題詞は「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首」すなわち雄略天皇の作とし、第三句「臥鹿之(ふすしかは)」とある。
【他出】古今和歌六帖、五代集歌枕、古来風躰抄、雲葉集、続古今集、夫木和歌抄
【参考歌】雄略天皇「万葉集」巻九
夕されば小椋の山に臥す鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも
【主な派生歌】
夕づく夜をぐらの山に鳴く鹿のこゑの内にや秋は暮るらむ(*紀貫之[古今])
鹿のねは近くすれども山田守おどろかさぬはいねにけらしも(藤原行家)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥メモ(その二)

https://japanese.hix05.com/Saigyo/saigyo3/saigyo306.miyakawa.html

「宮河歌合」(九番)

左:勝(玉津嶋海人)
 世中を思へばなべて散る花の我身をさてもいづちかもせん
右:(三輪山老翁)
 花さへに世をうき草に成りにけり散るを惜しめばさそふ山水
判詞(定家)
 右歌、心詞にあらはれて、姿もをかしう見え侍れば、山水の花の色、心もさそはれ侍れど、左歌、世中を思へばなべてといへるより終りの区の末まで、句ごとに思ひ入て、作者の心深く悩ませる所侍れば、いかにも勝侍らん。
参考:「この御判の中にとりて、九番の左の、わが身をさてもといふ歌の判の御詞に、作者の心深くなやませる所侍ればと書かれ候。かへすがへすもおもしろく候かな。なやませるといふ御詞に、よろづ皆こもりめでたく覚え候。これ新しく出でき候ぬる判の御詞にてこそ候らめ。古はいと覚え候はねば、歌の姿に似て云ひくだされたるやうに覚え候。一々に申しあげて見参に承らまほしく候ものかな」。こう書いた上で西行は、「若し命生きて候はば、必ずわざと急ぎ参り候べし」と付け加えている。西行の感激がいかに大きかったか、よく伺われるところである。


「定家の歌一首 ―「踏迷ふ山なしの花」の歌の解釈をめぐって(赤羽淑「清心語文」)」
周辺

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utaawase/minase15_7.html

水無瀬恋十五首歌合 ―羇中の恋―

踏迷ふ山なしの花道たえて行さきふかきやへのしら雲 藤原定家『定家卿百番自歌合』
あしびきの山なしの花ちりしきて身をかくすべき道やたえぬる 藤原定家(拾遺愚草員外・一句百首・春三十首・一二七)
よの中をうしといひてもいづくにかみをばかくさむ山なしの花 (近江御息所歌合・一五、古今和歌六帖・山なし・四二六八)

うつのやまうつつかなしきみちたえてゆめにみやこの人はわすれず 九条良経『秋篠月集・一四一一』『水無瀬殿恋十五首歌合・轟中恋・四八七』

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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その四)「藤原(九条)良経」(後京極摂政前太政大臣(藤原良経))

九条良経.jpg

≪小倉百人一首(91) 歌人/九条良経(後京極摂政前太政大臣・藤原良経)
〈上の句〉きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 〈下の句〉衣片敷き ひとりかも寝む   きりぎりすなくやしもよのさむしろに ころもかたしきひとりかもねむ定まり字(決まり字):歌を特定する字(音)/きり九条良経(後京極摂政前太政大臣・藤原良経)菱川師宣画[他]『小倉百人一首』 1680年(延宝8)国立国会図書館所蔵≫(「日本大百科全書(ニッポニカ)」

https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-514-53.html

(再掲「抱一の一句」)

4-51 月の鹿ともしの弓や遁(れ)来て 

季語=月の鹿=鹿(しか)/三秋
https://kigosai.sub.jp/001/archives/2217
【子季語】すずか、すがる、しし、かのしし、紅葉鳥、小鹿、牡鹿、小牡鹿、鹿鳴く、鹿の声
【関連季語】春の鹿、鹿の子、鹿の袋角、鹿の角切、鹿垣
【解説】鹿は秋、妻を求めて鳴く声が哀愁を帯びているので、秋の季語になった。公園などでも飼われるが、野生の鹿は、畑を荒らすので、わなを仕掛けたり、鹿垣を設えたりして、人里に近づけないようにする。
【例句】
ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿       芭蕉「笈日記」
女をと鹿や毛に毛がそろうて毛むつかし 芭蕉「貝おほひ」
武蔵野や一寸ほどな鹿の声       芭蕉「俳諧当世男」
ひれふりてめじかもよるや男鹿島    芭蕉「五十四郡」
(参考)「月」(三秋)、そして、「ともし(照射)」(三夏)も季語だが、ここは、この句の前書の「秋にはたへぬと良経公の御うたにも」で、この句の主題(狙い)と季語(主たる季語)は「鹿」ということになる。そして、この「秋にはたへぬと良経公の御うたにも」は、「九条良経(藤原良経)」の「たぐへくる松の嵐やたゆむらん峯(を)のへにかへるさを鹿の声(新古444)」などを指しているように思われる。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/0yositune_t.html#SM

句意(その周辺)=この句を前書抜きにして、字面だけで句意を探ると、「夏の『ともし(照射))の矢(仕掛け罠)を『遁(れ)来て』、今や、『月の秋の雌鹿を求めて鳴く牡鹿の声が谺(こだま)する季節』となったよ。」ということになる。

 ここに、前書の「良経公の御うたにも」の、「たぐへくる松の嵐やたゆむらん峯(を)のへにかへるさを鹿の声(新古444)」を加味すると、「たぐへくる」(「連れ添ってくる」)、「たゆむらん」(弱まっている)の用例で、「秋にはたへぬ」の「たへぬ」(「耐へぬ」と「絶へぬ」の両義がある)の用例ではない。

 しかし、これらの「たぐへくる」・「たゆむらん」・「たへぬ」という用例は、相互に親近感のある用例で、その底流には「哀感・哀愁・悲哀」」などを漂わせているような雰囲気を有している。

 すなわち、この前書の「秋にはたへぬと良経公の御うたにも」は、具体的に、特定の一首を指しているのではなく、例えば、次のように、数首から成る「多重性」のある前書のようにも思えるのである。

「鹿」
たぐへくる松の嵐やたゆむらん峯(を)のへにかへるさを鹿の声(良経「新古444」)
ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿       芭蕉「笈日記」

「月」
ゆくすゑは空もひとつの武蔵野に草の原よりいづる月かげ(良経「新古422」)
武蔵野や一寸ほどな鹿の声       芭蕉「俳諧当世男」

「たへぬ」
のちも憂ししのぶにたへぬ身とならばそのけぶりをも雲にかすめよ(良経「月清集」)
俤や姨ひとりなく月の友        芭蕉「更科紀行」

 これらの作業を通して、抱一の掲出句の句意を探ると次のようになる。

句意=「良経公の御うた」にも、数々の「秋にはたへぬ」、その「月の鹿」を詠んでいるものがあるが、「月の友」を求めて、かぼそく鳴いている「鹿」の声を聴いていると、あの「鹿」は、「ともしの弓を遁れ来て」、武蔵野の奥へ奥へと、唯々、「こころの友」を求めて、「月」に向かって泣いているように聞こえてくる。

(再掲)
(その六)後京極摂政前太政大臣(藤原良経)と前大僧正慈鎮(慈円)

九条良経.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方六・後京極摂政前太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009399

(画像) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-02

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方六・前大僧正滋鎮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009417

左方六・後京極摂政前太政大臣(藤原良経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010686000.html

 空はなをかすみもやらず風さえて/雪げにくもるはるの夜の月

右方六・前大僧正滋鎮(慈円)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010687000.html

 身にとまるおもひを萩のうは葉にて/このころかなし夕ぐれのそら

判詞(宗偽) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-02

(『後鳥羽院御口伝』余話=宗偽)→ 抜粋

「近き世になりては、大炊御門前斎院(式子)、故中御門の摂政(良経)、吉水前大僧正(慈円)、これら殊勝なり(特に優れている)。斎院(式子)は、殊に『もみもみ(※)』とあるやうに詠まれき。故摂政(良経)は、『たけ(※※)』をむねとして、諸方を兼ねたりき。いかにぞや見ゆる詞のなさ、哥ごとに由ある(由緒ある)さま、不可思議なりき。百首などのあまりに地哥(平凡な歌)もなく見えしこそ、かへりては難ともいひつべかりしか。秀歌のあまり多くて、両三首などは書きのせがたし。大僧正(慈円)は、おほやう『西行がふり※※※』なり。」(『後鳥羽院御口伝』)。

九一 きりぎりす鳴くや/霜夜のさむしろに/衣片敷きひとりかも寝む(藤原良経)

「故摂政(良経)は、『たけ(※※)』をむねとし」と、「長(たけ)を旨とし=風格を旨とし」の代表的な歌人と後鳥羽院は指摘している。これは、この「きりぎりす(五)・鳴くや/霜夜の(七)・さむしろに(五)」の、この破調のような上の句が、実に流暢に、「もみもみと」せずに詠まれているところに、これまた、後鳥羽院の「『たけ(※※)』をむねとし」の一端が詠み取れる。

(藤原義経=九条義経の一首)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/0yositune_t.html

https://open.mixi.jp/user/17423779/diary/1959884598

    家に百首歌合に、余寒の心を
空はなほかすみもやらず風さえて雪げにくもる春の夜の月(新古23)

【通釈】「空は春というのにまだ霞みきらずに風は寒く、雪げの雲がかかってそのため朧な春の夜の月よ。」『新日本古典文学大系 11』p.26
【語釈】余寒=立春後の寒さ。「なほさえて」は余寒を表わす常套句。雪げにくもる=雪催いに曇る意。 
【補記】建久三年(1192)、自ら企画・主催した六百番歌合、十二番左勝。
【他出】六百番歌合、自歌合、三十六番相撲立詩歌、三百六十番歌合、定家八代抄、新三十六人撰、三五記、愚見抄、桐火桶、題林愚抄

後京極摂政前太政大臣(藤原良経)=九条良経(くじょうよしつね) 嘉応元~建永元(1169-1206)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/0yositune_t.html

 法性寺摂政太政大臣忠通の孫。後法性寺関白兼実の二男。母は従三位中宮亮藤原季行の娘。慈円は叔父。妹任子は後鳥羽院后宜秋門院。兄に良通(内大臣)、弟に良輔(左大臣)・良平(太政大臣)がいる。一条能保(源頼朝の妹婿)の息女、松殿基房(兼実の兄)の息女などを妻とした。子には藤原道家(摂政)・教家(大納言)・基家(内大臣)・東一条院立子(順徳院后)ほかがいる。
 治承三年(1179)、十一歳で元服し、禁色昇殿。侍従・右少将・左中将を経て、元暦二年(1185)、従三位に叙され公卿に列す。その後も急速に昇進し、文治四年(1188)、正二位。この年、兄良通が死去し、九条家の跡取りとなる。同五年七月、権大納言となり、十二月、左大将を兼ねる。建久六年(1195)十一月、二十七歳にして内大臣(兼左大将)となるが、翌年父兼実が土御門通親の策謀により関白を辞し、良経も籠居を余儀なくされた。同九年正月、左大将罷免。しかし同十年六月には左大臣に昇進し、建仁二年(1202)以後は後鳥羽院の信任を得て、同年十二月、摂政に任ぜられる。同四年、従一位摂政太政大臣。元久二年(1205)四月、大臣を辞す。同三年三月、中御門京極の自邸で久しく絶えていた曲水の宴を再興する計画を立て、準備を進めていた最中の同月七日、急死した。三十八歳。
 幼少期から学才をあらわし、漢詩文にすぐれたが、和歌の創作も早熟で、千載集には十代の作が七首収められた。藤原俊成を師とし、従者の定家からも大きな影響を受ける。叔父慈円の後援のもと、建久初年頃から歌壇を統率、建久元年(1190)の『花月百首』、同二年の『十題百首』、同四年の『六百番歌合』などを主催した。やがて歌壇の中心は後鳥羽院に移るが、良経はそこでも御子左家の歌人らと共に中核的な位置を占めた。建仁元年(1201)七月、和歌所設置に際しては寄人筆頭となり、『新古今和歌集』撰進に深く関与、仮名序を執筆するなどした。建仁元年の『老若五十首』、同二年の『水無瀬殿恋十五首歌合』、元久元年の『春日社歌合』『北野宮歌合』など院主催の和歌行事に参加し、『千五百番歌合』では判者もつとめた。
 後京極摂政・中御門殿と称され、式部史生・秋篠月清・南海漁夫・西洞隠士などと号した。自撰の家集『式部史生秋篠月清集』があり(以下「秋篠月清集」あるいは「月清集」と略)、歌合形式の自撰歌集『後京極摂政御自歌合』がある(以下「自歌合」と略)。千載集初出。新古今集では西行・慈円に次ぎ第三位の収録歌数七十九首。勅撰入集計三百二十首。漢文の日記『殿記』は若干の遺文が存する。書も能くし、後世後京極様の名で伝わる。

前大僧正滋鎮(慈円)=慈円(じえん) 久寿二~嘉禄一(1155~1225) 諡号:慈鎮和尚 通称:吉水僧正

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-21-1

(再掲)

その六 後京極摂政前太政大臣と前大僧正慈鎮

藤原義経.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(後京極摂政前太政大臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056401

(画像) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-21-1

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(前大僧正慈鎮)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056402

左方六・後京極摂政前太政大臣(藤原良経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010686000.html

 空はなをかすみもやらず風さえて/雪げにくもるはるの夜の月

右方六・前大僧正滋鎮(慈円)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010687000.html

 身にとまるおもひを萩のうは葉にて/このころかなし夕ぐれのそら

(狩野探幽本)

(画像) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-21-

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方六・後京極摂政前太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009399

(画像) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-21-

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方六・前大僧正滋鎮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009417

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

(画像) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-21-

(参考)

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/e434372ddc09e9456ac1cde27516a770

【 藤原良経のこと(その一)
このところ一カ月ばかり佐竹本「三十六歌仙絵巻」詞書・和歌の執筆者、藤原良経についてなぜかこだわり続けている。小倉百人一首の一人、後京極摂政前太政大臣(1169~1206・37歳で没)のことである。
 関心を持ち始めたのは昨年、秋田市建都四百年事業の一環として佐竹本「三十六歌仙絵巻」についての講演や絵巻の展示が開催されたことである。
 確か20数年前NHKで絵巻が切断されたエピソードが放映され、それを見た記憶がある。しかし大正時代のことであり、秋田にあまり関係がないこととしていつの間にか忘れていたのだ。
 それが身近に感じられたのは明治・大正時代活躍した秋田の画人土屋秀禾(1867~1929・62歳で没)が制作した模写の版画絵巻を秋田市在住の斉藤真造氏が所有されていてそれを見る機会があったことである。
 本物は鎌倉時代の制作とされ美術価値は高いとされるが色はかすれ当時の色彩ではなくなっている。秀禾の作品では制作当時を再現、八百年前の鮮やかな世界に誘ってくれて、しばし感動の時間を過ごしたことだった。
 その絵巻を眺めているうち、何ゆえ制作されたのだろう。誰が何の為に、と次第、次第に疑問が自分の心にこびりついて離れないようになってきたのである。
 まず当時の時代背景を知りたいと思った。学校時代での記憶だけでは覚束無い。図書館より「日本の歴史」網野善彦他編集シリーズより(頼朝と天下草創)(道長と宮廷社会)(武士の成長と院政)、「日本の時代史」シリーズ(京・鎌倉の王権)を借受し読破した。
 また、巻末にある鎌倉時代の年表をコピーし継ぎ張りにして分かりやすく一枚ものにしたり、手持ちの最新国語便覧(浜島書店出版)から藤原氏の系図、律令官制など関係する箇所をコピーするなど史実の基本情報を集めたりした。
 折りからNHK大河ドラマ「源義経」が放映されている。これらの史実と組み合わすと概略、次のようなことが分る。
 6月5日第22週で平家は西国へ都落ちするのが決まった。やがて平家(鶴見辰吾の宗盛等)は義経(滝沢秀明)によって追討されるがそのとき義経は27歳。良経はその時17歳で従三位となり公卿に列したとある。この時代、二人の「よしつね」がいたのだ。
 また、この年、良経の父兼実は頼朝(中井貴一)の力を背景に義経追討の宣旨後、義経与党の公卿を解官、翌年摂政の地位を獲得したこと。
 ちなみに義経は平家を壇ノ浦で攻め滅ぼしてから自分が追討されることになるのはわずか八カ月後のことである。三年後の30歳で泰衝(渡辺いっけい)に討たれることになる。この時、良経は20歳。
 良経21歳の時、頼朝の姪、京都守護一条能保の女を娶ったこと。また後年、この血縁関係から鎌倉三代将軍実朝が暗殺された後、将軍となった藤原頼経は良経の孫にあたること。また、良経24歳の時、後白河法皇(平幹二朗)崩御。これに合わせたように頼朝は将軍となった。
 良経28歳の時、頼朝は良経の父兼実の政敵、土御門通親と通じ合うようになり皇子(後の土御門帝)誕生を機会に兼実は関白の座を追われることに、一門も同様の処遇となる。などなど、めまぐるしい。
 大河ドラマ「源義経」の別の側面のドラマを知り、史実と重なり合い立体的につながって、さらに興味深くなってくる。

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/04432d5f6de5fc99653292ebd36ca6a7?fm=entry_awp_sleep

 藤原良経のこと(二) 
 良経37歳の死に様は衝撃的なものだった。それは現代の詞華集というべき講談社学術文庫「現代の短歌」(1992/6/10発行)に載っている歌人の一人、塚本邦雄氏(1922~)の評論「藤原良経」(昭和50年6月20日初出)の一節を読んでいた時だった。
 次にその一文を記す。氏の名文と共にその衝撃を味わって頂きたい。
 「良経は序(新古今集の)完成の翌日相国(摂政太政大臣)を辞していた。そうして中御門京極に壮美を極めた邸宅を造り営む。絶えて久しい曲水の宴を廷内で催すのも新築の目的の一つであった。実現を見たなら百年振りの絢爛たる晴儀となっていたことだろう。元久三年二月上旬彼はこの宴のための評定を開く。寛治の代、大江匡房の行った方式に則り、鸚鵡盃を用いること、南庭にさらに水溝を穿つことを定めた。数度評定の後当日の歌題が「羽觴随波」に決まったのは二月尽であった。
 弥生三日の予定は熊野本宮二月二十八日炎上のため十二日に延期となった。良経が死者として発見されたのは七日未明のことである。禍事を告げる家臣女房の声が廷内に飛び交い、急変言上の使いの馬車が走ったのは午の刻であったと伝える。
 尊卑分脈良経公伝の終りには「建仁二年二月二十七日内覧氏長者 同年十二月二十五日摂政元久元年正月五日従一位 同年十一月十六日辞左大臣 同年十二月十四日太政大臣 同二年四月二十七日辞太政大臣 建永元年三月七日薨 頓死但於寝所自天井被刺殺云云」と記されている。
 天井から矛で突き刺したのは誰か。その疑問に応えるものはついにいない。下手人の名は菅原為長、頼実と卿二位兼子、定家、後鳥羽院と囁き交される。否夭折の家系、頓死怪しからずとの声もある。
 良経を殺したのは誰か。神以外に知るものはいない。あるいは神であったかも知れぬ。良経は天井の孔から、春夜桃の花を挿頭に眠る今一人の良経の胸を刺した。生ける死者は死せる生者をこの暁に弑した。その時王朝は名実共に崩れ去ったのだ。」
  *()内及び段落は筆者。塚本邦雄全集第14集586頁より
 この文を読んで良経の死に様の衝撃さもさることながら、この曲水の宴に「三十六歌仙絵巻」を披露するはずではなかったか、そんな想像を膨らます。
 当時は和歌・絵巻などの文化は政治権力、権威の象徴でもあったから、政敵にとって暗殺するにたる十分な要因になると思うのである。
(*申し訳ありませんが以下追加します)
 良経の死は九条流藤原家にとって大きな痛手であった。
 良経の父、兼実の嘆きはいかばかりであったか。長男を22歳で失っているから尚更であったろう。兼実は良経の死から翌年、58歳で亡くなっている。
 その時、良経の長男道家は13歳、摂関の地位についたのは15年後のことであった。 この間、いかに摂関の地位を望んでいたか道家の日記「玉蘂(ぎょくずい)」にのこされているそうだ。
 ある女房が道家が摂関の地位につく吉夢を二度(建歴二年二月七日と承久二年五月二十三日)見たので喜び、念誦し八幡・春日・北野ならびに三宝に祈りを捧げたとある。 道家が摂関(摂政)の地位についたのは翌年、承久三年のことである。しかし間もなく退き(承久の変)、再び摂関(関白)になったのは七年後のことであった。
 これらの時期のどこかで、絵巻は下鴨神社に奉納されたのではあるまいか。

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/b02beda70188fefa63d92726744ae279

藤原良経のこと(三)

良経はどういう作品を残しているだろうか。

 小倉百人一首にある
  
  きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに
    衣かたしきひとりかも寝む

 は一般には知られているだろう。 

 しかし、余程の良経通でなければほかの歌は知られていないのではとの思い込みで前掲の塚本邦雄氏の著書「雪月花」雪の巻、良経百首の中から筆者好みの数首を選び作歌年齢と若干の註釈を氏の文章を参考にして付けてみた。

① 散る花も世を浮雲となりにけり
    むなしき空をうつす池水(「花月百首」花五十首22歳)

*「むなしき空」は「虚空」
 「世を浮雲」の「浮」は「憂き」の懸詞・「浮世」の倒置

② 明け方の深山の春の風さびて
    心くだけと散る櫻かな(「花月百首」花五十首22歳)

*「心くだけ」はさまざまに思ひ煩ふの意
 「さびて」は「寂びて」
       
③ ただ今ぞか(帰)へると告げてゆく雁を
    こころにおくる春の曙(「二夜百首」「帰雁」五首22歳)

④ 夢の世に月日はかなく明け暮れて
    または得がたき身をいかにせむ(「十題百首」「釈教」十首「人」23歳)

⑤ 見ぬ世まで思ひ残さぬながめより
    昔に霞む春の曙(「六百番歌合」春曙25歳)

*「見ぬ世」とは前世、未生以前の時間、「昔」とは生まれてから現在までの舊い日月、曙の春霞はこの昏い、不可視の空間にたなびき渡る。

⑥ 帰る雁今はの心有明に
    月と花との名こそ惜しけれ(「院初度百首」春二十首 新古今・春上32歳)
*今は限り、いざ帰る時と消えて行く雁、下には名残の桜、上には細り傾く晩春の月、見棄てられては花月の名にかかはろう。

⑦ おしなべて思ひしことのかずかずに
    なお色まさる秋の夕暮れ(「院初度百首」春二十首 新古今・秋上32歳)

*筆者寸評
 ①②③④⑤は二十歳前半での作である。それにしてはなんと憂いに充ちた歌なのであろう。すでに人生の無常観を知っている。

 ⑥⑦は三十歳前半の作である。すでに熟成の感あり。何度も口ずさみたくなる歌である。

 良経の家集「秋篠月清集」の作歌年齢をみるとは33歳までである。それ以降は摂政として政治に勤しんでいたのかもしれない。

 この原稿を書いていた日(6月10日)、朝刊を見ていたら度々引用させて頂いた塚本邦雄氏の訃報の記事が掲載されていた。
 氏と筆者の面識などは全くないのであるが藤原良経公を介して歴史の時空間での不思議な縁しを感じている。
 そこで良経公の歌一首と塚本氏の解説の一文を両者へ畏敬を込めて次に記して追悼の意を表したいと思う。

  のちの世をこの世に見るぞあはれなる
    おのが火串(ほぐし)を待つにつけても(「二夜百首」「照射(ともし)」五首)

*標題の「照射」歌中の「火串」共に夏の歌に頻出する狩猟風景である。山深く鹿を誘き寄せるために燃やす篝火や松明が「照射」であり、「火串」は松明をつけるための篝、長い柄を狩人が腰に差す。多くは五月闇の頃行はれる。鷹狩は厳冬、桜狩、紅葉狩の原義である猟は春と秋、照射を併せて四季の猟遊となる。火串待ちは出猟時の準備儀式、居並ぶ面面が順次火種を渡される光景であらう。闇の中にぼうつと浮かび上がる人の姿に、後の世すなはち黄泉の国の死者を連想するのか。煉国の景色を現世で垣間見るとならば、何と凄まじい著想だらう。しかもうつし身の人人が次に繰展げるのは殺戮である。命に関わる沈思を誘ふのも当然ではあらう。由来この題は少数の例外を除いて鹿によせる憐憫の情、あるいは単に季節感に寄せる感懐ばかり歌はれているが、この一首はそれを踏まへた上で本質的な問題に肉薄している。古歌の「照射」すべての中においても一、二を争ふ秀作だらう。 】
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その三)「紫式部」(「空蝉と竹河」・「石山寺」など)

紫式部.jpg

紫式部(菊池容斎・画、明治時代)『前賢故実(菊池容斎著)』「国立国会図書館デジタルコレクション」
https://dl.ndl.go.jp/pid/778219/1/58

「たけがはもうつ蝉も碁や五月雨」(「抱一句集(「屠龍之技」)・第四/椎の木かげ」4-48)

https://yahantei.blogspot.com/

季語=五月雨=五月雨(さみだれ)/仲夏

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2042

【子季語】さつき雨、さみだる、五月雨雲
【解説】陰暦五月に降る雨。梅雨期に降り続く雨のこと。梅雨は時候を表し、五月雨は雨を表す。「さつきあめ」または「さみだるる」と詠まれる。農作物の生育には大事な雨も、長雨は続くと交通を遮断させたり水害を起こすこともある。  
【例句】
五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉「奥のほそ道」
五月雨の降残してや光堂 芭蕉「奥のほそ道」
さみだれの空吹おとせ大井川 芭蕉「真蹟懐紙」
五月雨に御物遠や月の顔 芭蕉「続山の井」
五月雨も瀬ぶみ尋ぬ見馴河 芭蕉「大和巡礼」
五月の雨岩ひばの緑いつまでぞ 芭蕉「向之岡」
五月雨や龍頭揚る番太郎 芭蕉「江戸新道」
五月雨に鶴の足みじかくなれり 芭蕉「東日記」
髪はえて容顔蒼し五月雨   芭蕉「続虚栗」
五月雨や桶の輪切る夜の声   芭蕉「一字幽蘭集」
五月雨にかくれぬものや瀬田の橋 芭蕉「曠野」
五月雨は滝降うづむみかさ哉 芭蕉「荵摺」
五月雨や色紙へぎたる壁の跡 芭蕉「嵯峨日記」
日の道や葵傾くさ月あめ   芭蕉「猿蓑」
五月雨や蠶(かいこ)煩ふ桑の畑 芭蕉「続猿蓑」

(参考)

「空蝉」(下記「源氏物語図・巻3)」)

源氏物語図・空蝉).jpg

源氏物語図 空蝉(巻3)/部分図/狩野派/桃山時代/17世紀/紙本金地着色/縦32.3×57.6㎝/1面/大分市歴史資料館蔵
≪源氏は心を許さない空蝉に業をにやして紀伊守邸を訪れる。部屋を覗きみると、空蝉と義理の娘で紀伊守の妹、軒端荻が碁を打っていた。≫

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/46118

「たけがは・竹河」(下記「源氏物語図・巻44)」)

源氏物語図・竹河.jpg

源氏物語図 竹河(巻44)/部分図/狩野派/桃山時代/17世紀/紙本金地着色/縦48.8×横57.9㎝/1面/大分市歴史資料館蔵
≪夕霧の子息蔵人少将は、玉鬘邸に忍び込み、庭の桜を賭けて碁を打つ二人の姫君の姿を垣間見て、大君への思いをつのらせる。≫

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/86586

句意(その周辺)=この句の上五の「たけがはも」の「たけがは」は、『源氏物語』の「第四十四帖 :竹河」の「竹河」、そして、中七の「うつ蝉も・碁や」の「うつ蝉」は、「第三帖:空蝉」の「空蝉」を指していて、その「碁や」は、その「竹河(第七段:「蔵人少将、姫君たちを垣間見る」)」と「空蝉(「第三段:空蝉と軒端荻、碁を打つ」)」との「囲碁」の場面を指している。

 句意は、「この五月雨で、『源氏物語』を紐解いていたら、「第四十四帖 :竹河」と「第三帖:空蝉」で、「姫君たちが囲碁に夢中になっている」場面が出てきましたよ。」ということになる。すなわち、この句の「からくり」(仕掛け)は、上記の、「源氏物語図巻」の「絵解き」の一句ということになる。(蛇足=抱一の「からくり(仕掛け)」は、「源氏物語図巻」の「絵解き」の一句ということだけではなく、上記の芭蕉の「五月雨」の例句、十一句の全てが、「さみだれ・さつきあめ」で、「さみだるる」の「用言止め」の句は一句もない。この句の、下五の「五月雨」は、「さつきあめ」の体言止めの詠みではなく、「さみだるる」の用言止めの詠みで、この句の眼中には、「姫君たちが囲碁に夢中になっているが、まさに、五月雨(さみだれ)のように、さみだれて、混戦中の形相を呈している」ということになる。この蛇足が正解に近いのかも? )

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-21

名月や硯のうみも外ならず (第二 かぢのおと) 

紫式部一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「紫式部図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 この「紫式部図」は、『光琳百図』(上巻)と同じ図柄のものである。

紫式部二.jpg

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491

 光琳百回忌を記念して、抱一が『光琳百図』を刊行したのは、文化十二年(一八一五)、五十五の時、『鶯邨画譜』を刊行したのは、二年後の文化十四年(一八一七)、五十七歳の時で、両者は、同じ年代に制作されたものと解して差し支えない。
 両者の差異は、前者は、尾形光琳の作品を模写しての縮図を一冊の画集にまとめたという「光琳縮図集」に対して、後者は、抱一自身の作品を一冊の絵手本の形でまとめだ「抱一画集」ということで、決定的に異なるものなのだが、この「紫式部図」のように、その原形は、全く同じというのが随所に見られ、抱一が、常に、光琳を基本に据えていたということの一つの証しにもなろう。

紫式部三.png

尾形光琳画「紫式部図」一幅 MOA 美術館蔵

 落款は「法橋光琳」、印章は「道崇」(白文方印)。この印章の「道崇」の号は宝永元年(一七〇四)より使用されているもので、光琳の四十七歳時以降の、江戸下向後に制作したものの一つであろう。
 この掛幅ものの「紫式部図」の面白さは、上部に「寺院(石山寺)」、中央に「花頭窓の内の女性像(紫式部)」、そして、下部に「湖水に映る月」と、絵物語(横)の「石山寺参籠中の紫式部」が掛幅(縦)の絵物語に描かれていることであろう。
 この光琳の「紫式部図」は、延宝九年(一六八一)剃髪して常昭と号し、法橋に叙せられた土佐派中興の祖・土佐光起の、次の「石山寺観月の図」(MIHO MUSEUM蔵)などが背景にあるものであろう。

石山寺観月図(土佐光起筆).jpg

石山寺観月図(土佐光起筆)/江戸時代/絹本著色/H-122.3 W-55.6/(MIHO MUSEUM蔵)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00001352.htm
≪土佐光起(1617~1691)は江戸時代前期の画家で、堺の生まれ。のちに京都に移り住み、承応3年(1654)、永禄12年(1569)以来失われていた宮廷の絵所預(えどころあずかり)となって土佐家を再興した。延宝9年(1681)剃髪して常昭と号し、法橋に叙せられている。滋賀県大津市にある石山寺には、源氏物語の筆者・紫式部が一室でその構想を練ったという伝承がある。また「石山の秋月」と近江八景のひとつに挙げられているように、古くから石山寺あたりの秋月の眺めは格別であることがよく知られている。光起は、そうした画材をもとにこの絵を描いたようである。夜空に浮かぶ秋の名月、その月が石山寺の眼下を流れる瀬田川の川面に映えている。源氏物語の構想に思いを巡らす紫式部とともに、内裏造営に参加した光起らしい雅な筆致で描かれている。≫

 名月や硯のうみも外(そと)ならず  

 「かぢのおと(梶の音)」編の、「紫式部の畫の賛に」の前書きのある一句である。この句は、上記の『鶯邨画譜』の「紫式部図」だけで読み解くのではなく、光琳の「紫式部図」や土佐光起の「石山寺観月の図」などを背景にして鑑賞すると、この句の作者、「尻焼猿人・
屠龍・軽挙道人・雨華庵・鶯村」こと「抱一」の、その洒落が正体を出して来る。
 この句の「外ならず」も、先の「たけがはもうつ蝉も碁や五月雨」(「第四 椎の木かげ」)の「五月雨(さつきあめ)」と「五月雨(さみだるる)」との、二様の視点があるように、外(ほか)ならず」と「外(そと)ならず」との、二様の視点がある。
そして、この句もまた、一般的な詠み方の「外(ほか)ならず」ではなく、「外(そと)ならず」の、「詠みと意味」とで鑑賞したい。
 句意は、「『石山寺に名月』がかかっている。この『名月』は、『外(そと)ではあらず』、さりとて、『外(ほか)ではあらず』、この『内(うち)』なる『石山寺』の、この『花頭窓の『内』の女性像(紫式部)=『石山寺参籠中の紫式部』=『源氏物語構想中の紫式部』の、その傍らの、『硯のうみ』=『硯海』(『硯の墨汁を溜める所』=『書画に優れた人』=「紫式部」=『源氏物語』)の、その『硯のうみ』に宿りしている(映っている)』。
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その二)「清少納言」

清少納言.jpg

清少納言(菊池容斎・画、明治時代)(「ウィキペディア」)
「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ(「百人一首62」「後拾遺集」)
『前賢故実(菊池容斎著)』「国立国会図書館デジタルコレクション」
https://dl.ndl.go.jp/pid/778219/1/59

「いくたびも清少納言はつがすみ」(「抱一句集(「屠龍之技」)・第四/椎の木かげ」4-33)

http://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-334-42.html

季語=はつがすみ=初霞(新年)

「丁巳春興」(前書)=「丁巳(ていみ)」(丁巳=寛政九年=一七九七)の「春興」(三春の季語の『春興(春ののどかさを楽しむ心)』の他に、新年句会の一門の『春興』と題する刷物の意もある。」

「清少納言」=平安時代中期の女流歌人。『枕草子』の作者。ここは、『枕草子』の、「春はあけぼの」(夜明け)、「夏は夜」、「秋は夕暮れ」そして「冬はつとめて、雪の降りたる」などの、「春はあけぼの」(夜明け)の一句。

句意(その周辺)=「丁巳春興」の前書がある九句のうちの一番目の句である。抱一、三十九歳の時で、その前年の秋頃から、「第四 椎の木かげ」がスタートとする。
句意=「四十にして惑わず」の、その前年の「新年の夜明け」である。この「新年の夜明け」は、まさに、「いくたびも、清少納言(「春はあけぼの」)」の、その新春の夜明けを、いくたびも経て、そのたびに、感慨を新たにするが、それもそれ、今日の初霞のように、だんだんと、その一つひとつがおぼろになっていく。 

(参考その一)「枕草子」(一段)と(一三九段)

https://origamijapan.net/origami/2018/01/19/makurano-sousi/

(一段)

春は曙(あけぼの)。やうやう白くなりゆく山際(やまぎわ)、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ、螢(ほたる)飛びちがひたる。雨など降るも、をかし。

秋は夕暮(ゆうぐれ)。夕日のさして山端(やまぎわ)いと近くなりたるに、烏(からす)の寝所(ねどころ)へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁(かり)などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入(ひい)りはてて、風の音(おと)、蟲の音(ね)など。(いとあはれなり。)

冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜などのいと白きも、またさらでも いと寒きに、火など急ぎおこして、炭(すみ)持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃(すびつ)・火桶(ひおけ)の火も、白き灰がちになりぬるは わろし。

https://origamijapan.net/origami/2019/06/20/makurano-sousi-2/

(一三九段)

頭辨の職にまゐり給ひて、物語などし給ふに、夜いと更けぬ。「明日御物忌なるにこもるべければ、丑になりなば惡しかりなん」とてまゐり給ひぬ。

つとめて、藏人所の紙屋紙ひきかさねて、「後のあしたは殘り多かる心地なんする。夜を通して昔物語も聞え明さんとせしを、鷄の聲に催されて」と、いといみじう清げに、裏表に事多く書き給へる、いとめでたし。御返に、「いと夜深く侍りける鷄のこゑは、孟嘗君のにや」ときこえたれば、たちかへり、「孟嘗君の鷄は、函谷關を開きて、三千の客僅にされりといふは、逢阪の關の事なり」とあれば、

夜をこめて鳥のそらねははかるとも世にあふ阪の關はゆるさじ

心かしこき關守侍るめりと聞ゆ。立ちかへり、

逢阪は人こえやすき關なればとりも鳴かねどあけてまつとか

とありし文どもを、はじめのは、僧都の君の額をさへつきて取り給ひてき。後々のは御前にて、

「さて逢阪の歌はよみへされて、返しもせずなりにたる、いとわろし」と笑はせ給ふ。「さてその文は、殿上人皆見てしは」との給へば、實に覺しけりとは、これにてこそ知りぬれ。「めでたき事など人のいひ傳へぬは、かひなき業ぞかし。また見苦しければ、御文はいみじく隱して、人につゆ見せ侍らぬ志のほどをくらぶるに、ひとしうこそは」といへば、「かう物思ひしりていふこそ、なほ人々には似ず思へど、思ひ隈なくあしうしたりなど、例の女のやうにいはんとこそ思ひつるに」とて、いみじう笑ひ給ふ。「こはなぞ、よろこびをこそ聞えめ」などいふ。「まろが文をかくし給ひける、又猶うれしきことなりいかに心憂くつらからまし。今よりもなほ頼み聞えん」などの給ひて、後に經房の中將「頭辨はいみじう譽め給ふとは知りたりや。一日の文のついでに、ありし事など語り給ふ。思ふ人々の譽めらるるは、いみじく嬉しく」など、まめやかにの給ふもをかし。「うれしきことも二つにてこそ。かの譽めたまふなるに、また思ふ人の中に侍りけるを」などいへば、「それはめづらしう、今の事のやうにもよろこび給ふかな」との給ふ。

(参考その二) 菊池容斎 -『前賢故実』を著した超大器晩成型絵師と逸話-

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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その一)「釈阿」(「藤原俊成」卿)

藤原俊成.jpg

藤原俊成(菊池容斎・画、明治時代)(「ウィキペディア」)

「おもふ事言はでたゞにや桐火桶」(「抱一句集(「屠龍之技」)・第四/椎の木かげ」4-26)

https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-264-28.html

句意(その周辺)=この句には、「俊成卿の畫(画)に」との前書があり、「藤原俊成(釈阿)が桐火桶を抱えている肖像画」を見ての一句なのであろう。
句意=俊成卿は、歌を作るときに、「「おもふ事」(心にあること)を、何一つ、「言はで」(言葉には出さず)、「たゞにや」(ただ、ひたすらに、「ウーン・ウーン」と苦吟しながら)、「桐火桶」(桐火鉢)を、抱え込んでいたんだと、そんなことを、この俊成卿の肖像画を見て、実感したわい。

(参考) 藤原俊成(「桐火桶」)(「ウィキペディア」)
 定家は為家をいさめて、「そのように衣服や夜具を取り巻き、火を明るく灯し、酒や食事・果物等を食い散らかしている様では良い歌は生まれない。亡父卿(俊成)が歌を作られた様子こそ誠に秀逸な歌も生まれて当然だと思われる。深夜、細くあるかないかの灯火に向かい、煤けた直衣をさっと掛けて古い烏帽子を耳まで引き入れ、脇息に寄りかかって桐火桶をいだき声忍びやかに詠吟され、夜が更け人が寝静まるにつれ少し首を傾け夜毎泣かれていたという。誠に思慮深く打ち込まれる姿は伝え聞くだけでもその情緒に心が動かされ涙が出るのをおさえ難い」と言った。(心敬『ささめごと』)

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釋阿.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・皇太后宮大夫俊成」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009411
左方十八・皇太后宮大夫俊成
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010710000.html
 又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの

右方十八・西行法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010711000.html
 をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009429


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-17

釋阿.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(入道三品釈阿)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056425
左方十八・皇太后宮大夫俊成
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010710000.html
 又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの

西行.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(西行法師)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056426
右方十八・西行法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010711000.html
 をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-10

和歌巻4.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)
      十首歌人によませ侍ける時、花のうたとてよめる
76 み吉野の花のさかりけふ見れば越(こし)の白根に春風ぞ吹く(皇太后大夫俊成)
(吉野山の花盛りを今日眺めると、白雲を頂いた越の白山に春風が吹いているようだよ。)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html
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