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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その二十 [南蛮美術]

(その二十)「高山右近旧領土・長崎奉行所キリシタン関係資料などの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その三)」周辺

主なキリシタン大名.jpg

https://sekainorekisi.com/japanese_history/%e5%8d%97%e8%9b%ae%e8%b2%bf%e6%98%93%e3%81%a8%e3%82%ad%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88%e6%95%99/#toc_index-3

【 ポルトガル船は、布教を認めた大名領の港に入港したため、大名は貿易を望んで宣教師を保護するとともに、布教に協力し、なかには洗礼を受ける大名もあった。彼らをキリシタン大名と呼ぶが、そのうち、大友義鎮(おおともよししげ)(宗麟、洗礼名フランシスコ)・有馬晴信(洗礼名プロタジオのちジョアン、1567-1612)・大村純忠(ドン゠バルトロメオ、1533〜87)の3大名は、イエズス会宣教師ヴァリニャーニ(1539〜1606)の勧めにより、1582(天正10)年、伊東マンショ(1569?〜1612)・千々石ミゲル(ちぢわみげる)(1570〜?)・中浦ジュリアン(1570?〜1633)・原マルチノ(1568?〜1629)ら4人の少年使節をロ一マ教皇のもとに派遣した(天正遣欧使節)。彼らはゴア・リスボンを経てロ一マに到着し、グレゴリウス13世(ローマ教皇)に会い、1590(天正18)年に帰国している。また大友義鎖や黒田孝高(くろだよしたか)(如水=じょすい、ドン゠シメオン、1546〜1604)·黒田長政(1568〜1623)父子のように、ロ一マ字印章を用いた大名もいるほか、明智光秀の娘で細川忠興(ほそかわただおき)(1563〜1645)夫人の細川ガラシャ(1563〜1600)も熱心な信者として知られている。 】(「世界の歴史まっぷ」所収「南蛮貿易とキリスト教」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-17

(再掲)

レパント戦闘図・世界図(全).jpg

「レパント戦闘図・世界地図屏風」(香雪美術館蔵・重要文化財・紙本着色・六曲一双・ 江戸初期) 各扇:縦153・5×横369・0
上図:「レパント戦闘図」 下図:「世界地図屏風」
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』所収
作品解説113」)
https://www.kosetsu-museum.or.jp/mikage/collection/kaiga/kaiga01/index.html4

【 レパントの戦いは、1571年、ギリシャ、コリント湾に於ける神聖ローマ同盟国軍とトルコ軍との海戦。キリスト教世界の勝利を記念する歴史的事件となった。本図では、右端に「つぅるこ」、左端に「ろうまの王」と見える。しかし、実際の戦いには陸戦は無く、しかも象隊の出場も無かった。本図は、西欧の版画や本の挿図などから様々な戦闘図の部分を採り入れ、再構成して一つの画面を形成したものである。
 世界地図は、1609年のカエリウス世界地図に基づいて描かれた、数ある地図屏風の中でも最も豪華華麗なもの。地図の下縁には各国男女人物の風俗が表され、また、中央下には南米での食人の凄惨な場面が描かれる。
 元来、主題の異なる戦闘図と世界地図とであるが、海波の表現を同じくして一双の屏風に統一感を与えている。江戸初期、日本人の画家が西洋画を学んで完成した作風を、保存良く伝えている。 】

【 宮内庁本「万国絵図」(下記に再掲)の流れをくむ世界図と、象に乗り弓を構えるターバン姿の戦士たちが、ヘルメットを被り、銃を手に騎兵とともに攻め込んでくる兵士たちと激突する戦闘図とを組み合わせた屏風。戦闘図は右端の城郭に「つぅるこ」(トルコ)、左端の武将の頭上に「ろうまの王」と題された題簽がある。1571年に、ギリシャ・パトラ湾沖でオスマン・トルコ艦隊とカトリック国の連合海軍が激突した「レパントの海戦」を描いたと考えられている。この海戦はイスラム勢力に対してカトリック教国が勝利を飾ったことで西欧世界では重要な意味を持った。本図のような陸戦ではなかったが、スキピオとハンニバルが戦ったザマの戦いを描いた銅版画などを手本に用いながら、戦闘シーンにおける群像表現が大画面に見事に描き上げられている。(鷲頭桂稿) 】
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』所収「作品解説113」)

ローマ王.拡大jpg.jpg

上図:「レパント戦闘図」第六扇部分拡大図「乗馬するローマ皇帝図」→A図
http://yugyofromhere.blog8.fc2.com/blog-entry-5098.html

 この「A図」は、次の「古代ローマ皇帝図集・扉絵」(B図)に典拠しての作品である。

ローマ王.原画.jpg

「古代ローマ皇帝図集・扉絵」 紙本銅板(十三枚揃いのうち1-1)→B図
彫版:アドリアン・コラールト(1560頃~1618)
原画:ジョバンニ・ストラダーノ(1523~1605)
刊行:アントウエルベン・フイリッブスハレ刊
https://www.artagenda.jp/exhibition/detail/3970

 ここで、あらためて、上記の「レパント戦闘図・世界地図屏風」(A図とB図)は、「誰が、何時、何処で、何のために、どのようにして、描いたのか」ということになると、この詳細はどうにも謎のままである。
 これらのことに関しては、「『レパント戦闘図・世界図屏風』と司馬江漢筆『異国風物図押絵図屏』---舶載銅版画を典拠とする二つの作品をめぐって---(勝盛典子稿)」(『特別展 交流の軌跡---初期洋風画から輸出漆器まで(中之島香雪美術館刊)』所収)の中で、次のように指摘している。

【 本屏風の制作年代については「世界地図屏風の典拠であるカエリウス版壁掛世界地図の刊行年である一六〇九年以降、高山右近や日本人画家を指導していたジョバンニ・ニコラオ(一五六〇~一六二六)など宣教師やキリスト教が国外に追放された慶長十八年十二月(一六一四年一月)までの限定される。「レパント戦闘図・世界地図屛風」など屏風形式の初期洋風画は、徳川家康(一五四二~一六一六)へと政権が移り、厳しさを増しつつあったキリスト教への弾圧を乗り越えるための手段のひとつとして、日本への権力者への贈呈を目的としたと推測される。(p8)

 屏風という伝統的な様式に日本の岩絵具を用い、日本的な金雲表現(形は特異であるが)や金の付箋などが見られる一方、西洋から学んだ陰影法や遠近法を駆使しながら西洋の主題を描き出す本作(注:「レパント戦闘図・世界図屏風」)は、東西の要素が混在しており、その表現は極めて個性的である。すでに初期洋風画の名品として評価されている本作であるが、カニバリズム(注:「呪術的信仰から、また宗教儀礼として人肉を食う慣習など」=「世界地図」の「中央下には南米での食人の凄惨な場面」などを指す)や波の表現などの典拠を解明したうえで、科学的調査を視野に、同時代の伝統的な絵画作品との比較研究をさらにすすめた議論が必要になってくる。(p10) 】(「『レパント戦闘図・世界図屏風』と司馬江漢筆『異国風物図押絵図屏』---舶載銅版画を典拠とする二つの作品をめぐって---(勝盛典子稿)」(『特別展 交流の軌跡---初期洋風画から輸出漆器まで(中之島香雪美術館刊)』所収)

ローマ王.jpg

「泰西王侯図屏風(六曲一双)」の「オーストリア・アルベール大公(右隻第四扇の玉座に座る若い王(部分拡大図)」(長崎歴史文化博物館蔵) → C図
https://www.artagenda.jp/exhibition/detail/3970

泰西王侯図屏風・右隻・長崎歴史文化博物館.jpg

泰西王侯図屏風(右隻・長崎歴史文化博物館蔵)」 六曲一双 紙本着色 各図一二三・八×五一・四  → C-1図

泰西王侯図屏風・左隻・長崎歴史文化博物館.jpg

「泰西王侯図屏風(左隻・長崎歴史文化博物館蔵)」六曲一双 紙本着色 各図一二三・八×五一・四  → C-2図
https://www.artagenda.jp/exhibition/detail/3970

【 本作(C-1図・C-2図、C図)を初めて紹介した昭和十六年(一九四一)の隈本論文(『美術研究一一九』所収「近時発見の帝王図について(隈本謙次郎稿)」)によると「帝王図十二枚の連作は、山形県鶴岡市小沢清佑氏の所蔵にかかり、古く庄内藩酒井伯爵家より下賜された遺品と伝承される。明治三十年代まで六曲一双の屏風仕立であったが、今日めくりとして保存されている」、「画面の裏に最初の表装の際に記されたと思われる日本数字が残っているが、今向かって右より逐次配列するに、屋外風景を背景にするものと建物を背景とする人物とが交互に配され」とある。なお、西村貞(『南蛮美術(西村貞著・講談社))は、酒井家以前に水戸徳川家に伝わったとする。一時期所在不明となっていたが、めくりのまま昭和六十年(一九八五)に再発見され、裏の数字の並びどおりに六曲一双の屏風に仕立てられた。なお、裏面に記された数字から、当初は十二面以上存在したと推測される。
 右隻第二扇の卓上には、イエズス会の紋章「IHS」がある楯がおかれている。このようなイエズス会を示す直接的な図像のある初期洋風画(世俗画)は他に現存例が知られない。また、他の武将図などと比較すると、動きのあるポーズとにも破綻が少なく優れた表現を見せる。
 本作は、描かれた人物が特定される稀有な例として注目される。右隻第の四扇の玉座に座る若い王(C図)は、「レパント戦闘図」(右隻:C-1図)と同じく『古代ローマ皇帝図集』の扉絵(凱旋)(B図)を典拠したうえで、その足元にオーストリア大公アルベール(一五五九~一六二一)の紋章を大きく描いていることからアルベール公と比定され、左隻第二扇の竪琴を奏でる老王図はヤン・サドレル(一五五〇~一六〇〇)版の「竪琴をひくダヴィデと楽奏の天使」が原図であることからダヴィデ王と比定される。また、「四都図」(神戸市立博物館)と「二十八都市図」(宮内庁三の丸尚蔵館)のローマ国の原図となった『福者イグナチオ・デ・ロヨラ伝』(一六一〇刊)の第五図や『古代ローマ皇帝図集』のオトー帝、ウェスバシャヌス帝なども、図像の参考にしていることが指摘されている。 】(『特別展 交流の軌跡---初期洋風画から輸出漆器まで(中之島香雪美術館刊)』所収「作品解説4」)

 この「泰西王侯図屏風(左隻・長崎歴史文化博物館蔵)」の作品解説(『特別展 交流の軌跡---初期洋風画から輸出漆器まで(中之島香雪美術館刊)』所収「作品解説4」)は、さまざまな示唆を投げ掛けてくれる。

一 まず、旧蔵者の来歴を辿っていくと、「長崎歴史文化博物館→山形県鶴岡市小沢清佑氏の所蔵→庄内藩酒井伯爵家→水戸徳川家」と、「誰が、何時、何処で、何のために、どのようにして、描いたのか」という観点に付随する、「誰に贈与したのか」ということは、「水戸徳川家」関連に贈与したものと解したい。

《 (水戸徳川家)
水戸徳川家(みととくがわけ)は、常陸国水戸にあった徳川家の一支系で、徳川御三家のひとつ。単に水戸家ともいう。江戸幕府初代将軍・徳川家康の十一男である徳川頼房を家祖とする。江戸時代には水戸藩主、維新後には華族の侯爵家に列し、のちに公爵家に陞爵した。御三家の中で公爵に列したのはこの家のみである。(「ウィキペディア」)

(酒井氏)
酒井氏(さかいし)は、武家・華族だった日本の氏族。三河国の在地領主から、江戸時代には譜代大名となった氏族である。その後の子孫は藩などで全国に広がり、本家・分家全て左衛門尉家・雅楽頭家の家紋を持っている。維新後、酒井家からは3家が伯爵、4家が子爵、2家が男爵に列している。
 松平氏、徳川氏の最古参の譜代筆頭で、松平氏と同族。徳川幕府の古記録である『柳営秘鑑』では、「三河安祥之七御普代(ふだい=譜代)、酒井左衛門尉、元来御普代上座」と、ある。また、同書物「葵之御紋来由」の項目に、「坂伊〔さかい〕ノ郷より為〔として〕加勢来りし」とある。江戸時代の徳川幕府では、大老四家の一つに数えられ、一族から大老や老中を出している。(「ウィキペディア」) 》 

二 そして、「誰が」贈与したのかということに関しては、この「右隻第二扇の卓上には、イエズス会の紋章「IHS」がある楯がおかれている」ことなどからして、当時の、「イエズス会」布教の中心人物周辺の関係者と解したい。

三 ここで、「何時」贈与したというに関しては、「豊臣時代の終焉」(豊臣秀吉が没した「慶長3年8月18日(1598年9月18日)」)から「徳川時代の始まり」(徳川家康が没した「元和2年4月17日(の1616年6月1日))の頃と解したい。

四 「何処で・何のために」ということになると、当時の「ポルトガル主導のイエズス会布教からスペイン(エスパニア)主導のイエズス会布教」と、そして、「そのイエズス会布教(旧教)からフランシスコ会布教(旧教)など、さらにオランダ(旧教=カソリックと新教=プロテスタント)の勃興など」を背景にしているものと解したい。

四 その上で、「誰が描いたのか」ということになると、例えば、前回に紹介した「王侯図・騎士図」(満福寺蔵)、そして、「達磨図」(満福寺蔵)」などの、キリシタン画家の「山田右衛門」とか、さらに遡って、「信方」(「ウィキペディア」)、そして、「狩野源助ペドロ=狩野道味?」(「重要文化財 聖フランシスコ・ザビエル像」神戸市立博物館蔵(池長孟コレクション)に「S.P.FRÃCISCUS XAVERIUS SOCIETATISV」、 墨筆にて「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」、 朱文長方関防印「IHS」、 朱文壺印(印文未詳)のある「狩野道味(?-?)、そして「天正年間(1573-92)に千利休に茶事を学び,京都で茶器を焼いたキリシタン絵師の一人か?」)とかを含めて、いわゆる、「狩野派」の一派の、その傾向の画家集団が介在したものと解して置きたい。

五 この「狩野源助ペドロ=狩野道味?」に関連して、下記アドレスなどで紹介した、
「日光東照宮陽明門唐油蒔絵の制作についての考察-中右恵理子 NAKAU, Eriko /文化財保存修復研究センター客員研究員」の関係する部分を、ここで、再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-13

(再掲)

【 http://archives.tuad.ac.jp/wp-content/uploads/2020/08/tuad-iccp-R1bulletin-2.pdf

日光東照宮陽明門唐油蒔絵の制作についての考察
中右恵理子 NAKAU, Eriko /文化財保存修復研究センター客員研究員

狩野派系図.jpg

 息子の狩野彌右衛門興益もキリシタンであり、父とともに三年間小日向の山屋敷に収容されていたという。さらにその後、神山道子氏によりキリシタンであった狩野興甫を取り巻く狩野派絵師についての研究成果が報告された11。神山氏によれば狩野興甫がキリシタンとして捕らえられた件は『南紀徳川史』、『徳川実記』に記載が見られるとのことである。興甫は父興以の兄弟弟子の一人である狩野道味(生没年不詳)の娘を娶っており、道味は義理の父にあたる。リスボンの国立古美術館には道味の作とされる南蛮屏風が所蔵されている。その道味に関して『日本フランシスコ会史年表』に狩野道味ペドロがフランシスコ会の財務担当者であったとの記載があり、やはりキリシタンであったことが報告されている。また、もう一人の興以の兄弟弟子である渡辺了慶(?-1645)についても、了慶の息子の了之は興以の娘を娶りやはり姻戚関係であった。その了慶は晩年の寛永期に平戸藩の松浦家に抱えられた。平戸藩は南蛮貿易を積極的に行い、オランダ、イギリス商館を開設するなど西洋文化との関わりが深い。また了之以降は狩野姓を名乗り、孫の了海は出府して中橋狩野家の安信の門人となった。5代目はやはり出府して永叔の門人となった12。このように平戸藩のお抱え絵師となった了慶の家系と江戸の中橋狩野家には関わりがあった。そして陽明門の「唐油蒔絵」の下絵を描いたとされる狩野祐清英信(1717-1763)は狩野宗家である中橋狩野家の11代目である。
(註11) 神山道子 「キリシタン時代の絵師~狩野派とキリシタン~」『全国かくれキリシタン研究会 第30回記念 京都大会 研究資料集』 全国かくれキリシタン研究会京都大会実行委員会 2019年 pp.25-5
(註12)  武田恒夫 『狩野派絵画史』 吉川弘文館 1995年 pp.268-269

2-4.唐油蒔絵と西洋文化との関係
 天文18年(1549)、フランシスコ・ザビエル(1506頃-1552)が鹿児島に上陸し、その後平戸を拠点に布教活動を行った。ザビエルらによりイエズス会の布教活動が広がる中で、日本人信徒の教育機関としてセミナリオが建設された。天正11年(1583)にはイタリア人宣教師で画家であったジョバンニ・ニコラオ(1560-1626)が来日し、天正18年(1590)頃から長崎のセミナリオで西洋絵画の技法を教えた。日本人が描いたと考えられるマリア像やキリスト像などの聖画は、このような施設で制作されたものと考えられる。当時絵画は布教のための重要な手段であった。

狩野派系図・道三関連.jpg

 文禄2年(1593)にはフランシスコ会の宣教師が来日し布教を開始した。狩野道味や興甫らはフランシスコ会に属していた。しかし、フランシスコ会ではイエズス会のような組織的な聖画の制作は行われなかったようである13。東照宮の造営期に「唐油」という言葉が見られるものの、油彩画が制作されなかったのは、興甫らに具体的な技法習得の機会がなかったためとも考えられる。神山氏は興甫らがイエズス会の日本人画家に接触し、西洋絵画の技法についての知識を得た可能性を示唆している。

https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12559723668.html

講演 「 キリシタン時代の絵師 ~ 狩野派と キリシタン ~ 」  神山道子

※日光東照宮「 陽明門 」の “ 平成大修理 ” (2013 ~16年)が行われた時に、西壁面に、「 唐油蒔絵 」が確認されました。
東照宮の造営に関わった絵師は、狩野派の 探幽 他 7名ですが、その中に、弥右衛門 ( 興甫 )が加わっています。
陽明門の障壁画に、油彩画の技法を持ち込むことが出来たのは誰なのか?
※和歌山藩 御用絵師 ・ 狩野弥右衛門 ( 興甫 )と息子 興益 )が、1634年から36年まで、日光東照宮の絵師を務め、1643年、キリシタンとして摘発されて、江戸送り となり、1645年までの 3年間、小日向の 「 江戸キリシタン山屋敷 」に収容されて  いました。
● 狩野永徳の後を継いだ 光信の高弟の一人が、狩野道味で、その娘婿が 興甫、その息子が興益 になります。道味は、「 ペドロ 」という霊名を持つ キリシタンで、1600年 ( 慶長5年 )頃、京都にあった フランシスコ会の 2つの小聖堂の 財務係をしていたほどで、信徒の代表として活動していました。道味の娘婿だった興甫や息子の興益も、狩野派の優秀な先達の絵師であり、キリシタンでもあった 道味を通して、キリシタンの信仰に 導かれていったものと思われます。 】

(追記)「狩野興以と狩野源助ペドロ」周辺

【 狩野興以(かのうこうい、生年不詳 - 寛永13年7月17日 (1636年8月17日)は、安土桃山時代から江戸時代の狩野派の絵師。元の姓は松屋、通称・弥左衛門、あるいは弥兵衛。
 関東に生まれる(足利、伊豆国、武蔵国などの説あり)。京都に出て狩野光信の弟子となり、その代表的門人として知られる。慶長10年(1605年)高台寺大方丈障壁画、元和5年(1619年)女御御対面御殿、寛永3年(1626年)二条城、同6年(1629年)台徳院霊廟などを、元和から寛永期の重要な障壁画制作に参加した。元和9年(1623年)、狩野貞信から狩野安信への狩野宗家相続の誓約書に血縁者に並んで末席ながら署名しており、狩野派の中枢で活躍した重要な画人だったのに間違いない。
 江戸狩野の基礎を築いた狩野探幽、狩野尚信、狩野安信ら3兄弟の養父の役割を果たし、その功績で狩野姓の世襲を許されたと後世の史料は伝える。また、「法橋」印を押す作が見られることから、正確な年は不明ながら法橋に叙されたと考えられる。晩年に紀州徳川家の御用絵師格となって長男の興甫がこれを継ぎ、次男の興也は水戸徳川家、三男の興之は尾張徳川家と御三家に仕えた。尾張藩に三男興之の文献資料はなく一時的な在藩だったようだが、他の家系は各藩で代々御用絵師として続いていく。没後は、江戸赤坂の種徳寺に葬られた。
 水墨画の遺品が多く、古典的な画法を会得した堅実で温和な表現が特色である。二条城白書院障壁画が代表作とされたが、近年の研究では作風の違いや、部屋の格と興以の狩野派内での序列が合わない事から、白書院は狩野派の長老格狩野長信作の蓋然性が高まっており、興以は老中三之間の「雪中柳鷺図」を描いた可能性が指摘されている。】(「ウィキペディア」)

【 狩野源助ペドロ(かのう・げんすけぺどろ) 生年:生没年不詳
江戸前期のキリシタン、京都のフランシスコ会の財産管理人,狩野派絵師。イエズス会を讒言する書翰をマニラの3修道会の管区長に送付した中心人物で,のち司教セルケイラのもとでその讒言を撤回。慶長8年12月25日(1604年1月26日)付京坂キリシタンによる26殉教者(日本二十六聖人)列聖請願者の筆頭に「狩野源助平渡路」と署名。また教皇パウロ5世宛同18年8月15日(1613年9月29日)付京坂・堺の信徒書状には「へいとろかの」と署名する。元和6年12月10日(1621年1月2日)付の京坂信徒代表による教皇奉答文にみえる堺の「木屋道味平登路」は同一人物とみなされている。<参考文献>H.チースリク「ペトロ狩野事件の資料」(『キリシタン研究』14号) (五野井隆史)  】(出典:朝日日本歴史人物事典)

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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十九 [南蛮美術]

(その十九)「高山右近旧領土・長崎奉行所キリシタン関係資料などの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その二)」周辺

天草四郎陣中旗.jpg
 
「聖体秘跡図指物(天草四郎時貞関係資料のうち)」 熊本・天草市立天草キリシタン館蔵
重要文化財 一旗 江戸時代 寛永十四年(1637)頃 108.5×108.6㎝
【「天草四郎陣中旗」と呼ばれ、島原の乱の折に反乱軍が立てこもる原城に掲げられていたと伝わる。卍字崩しに菊の花の地模様を織りなした中国製とみられる絹の綸子に、聖杯と十字架のしるしをもつ聖餅、それを左右から礼拝する天使が描かれる。上部には「マリア十五玄義図」と同じ「いとも尊き秘跡を讃えられよ」の欧文が記されており、本来は宗教的な儀礼に用いるためのものだったと思われる。天使の顔に顕著のように、頬の丸みや立体感を銅版画のような線で表わす。筆者にキリシタン画家の山田右衛門作の名があげられるが定かではない。(鷲頭桂稿) 】(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』)

https://www.city.amakusa.kumamoto.jp/kiji0031396/index.html

【綸子地著色聖体秘蹟図指物(りんずじちゃくしょくせいたいひせきずさしもの)(天草四郎陣中旗)
 通称「天草四郎陣中旗」は、寛永14(1637)年に起きた天草島原の乱において、
3万7千人ものキリシタン宗徒を率い、12万の幕府軍と戦った天草四郎が使用した
軍旗と伝えられています。
 縦横108.6cmの菊花文織白綸子製(きくかもんおりしろりんずせい)の指物で、中央に大聖杯、その上に聖体聖餅(せいたいせいへい)、左右に合掌している天使が描かれ、点々と残る血痕や矢弾の跡に一揆の激しさがうかがえます。我が国の初期洋画家である山田右衛門作(やまだえもさく)が原城内で描いたもの、あるいは禁教令以前のセミナリオで聖旗として描いたものとも言われ、日本におけるキリシタン史上、また洋画史上最も貴重な資料として重視されています。
■指定区分:国指定
■指定種別:歴史資料
■指定日:昭和39年1月11日
■地域:本渡
■所在地:船之尾町19-52 天草市立天草キリシタン館 】(天草市・観光文化部・文化課)

http://hdl.handle.net/2241/00125747

「陣中旗の神学 : 真理と十字架」(筑波大学地域研究: 秋山学稿)

【Ⅰ.キリシタン史概要 (抜粋)

 本文の主題に掲げた「陣中旗」が、この「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に含まれるのかどうか、2014年9月下旬の段階ではまだ確認できていないが、言うまでもなく両者は大いに関連している。「陣中旗」は、正式には「綸子地著色聖体秘蹟図指物」という名を持ち、通称の「天草四郎陣中旗」の名で知られる(図1)1。江戸時代のキリシタン農民一揆として著名な「島原の乱」(1637-1638)において一揆軍が使用し、原城に掲げられていたものである。鎮圧軍の先頭を切った佐賀の鍋島氏が戦功の証しとして代々所蔵していたが、現在では国の重要文化財に指定され、熊本県天草市の天草切支丹館が所蔵している。  
 日本国内では、この旗はもっぱら「島原の乱の生き証人」としての位置づけを得ており、国の文化財に指定されているのもその経緯による。けれども、その正式名称からも明らかなように、この旗は元来、16世紀後半から17世紀前半にかけてのキリシタン時代において、次第に圧力を増すキリシタン弾圧に抗する意味で積極的に設立された「組」、すなわちヨーロッパのカトリック教会における「信心会」あるいは「兄弟会」のうち、長崎ないし島原半島の有馬に設けられた「聖体の組」の徴として用いられていたものである。この旗が「島原の乱」の一揆軍軍旗として用いられていたということからも明らかなように、この乱の意味づけ・位置づけが歴史学・文化史学的にいかなるものとなろうとも、乱がキリシタンによる一揆であったことは動かしがたい。

2.「陣中旗」について(抜粋)

 この「陣中旗」は、現在でもなお、島原市にあるカトリック島原教会の聖堂内にそのレプリカが掲げられていて、聖体行列が行われる教会暦上の祝祭日には、その行列の先頭を導きもする。この旗の大きさは、一辺108センチメートルの正方形であり、その中央には葡萄酒に満ちた聖杯と、ラテン十字形を刻んだ聖体(ホスチア)が大きく描かれている。またその聖体と聖杯を、下方左右から一対・有翼の天使が仰ぎ見る姿勢で崇敬している。
 この旗の上部にはポルトガル語で “Louvado seja O Sanctissimo sacramento!”、すなわち「いとも聖なる秘跡は讃美されんことを」と記されている。ここで「秘跡」と呼ばれているのは、教会における7つの秘跡のうち最大のものすなわち「聖体の秘跡」のことである。この旗は元来、長崎あるいは有馬(島原半島南島原市)に組織された「聖体の組」と呼ばれるものの徴であり、それがキリシタン禁教令(1614)に伴い、秘蔵されたのちに島原の乱(1637-1638)における一揆軍の軍旗として用いられることになったものである。
 この陣中旗の図柄を描いたのは、伝承によれば山田右衛門作とされているが、定かではない。製作年代は、「聖体の組」が組織されたのが豊臣秀吉による「伴天連追放令」(1587)であるとすれば、1590年代ということになるであろうか。右衛門作は、当時セミナリウムに併設されていた聖画美術学校で画術を学んだとされる。この画術学校で画法を教授していた人物の名が明らかになっており、それはジョヴァンニ・ニコラオ・ダ・ノーラである。このニコラオとは、1560年にナポリ近郊のノーラに生まれ、長じてイエズス会に入会した修道士であり、彼は1583年に来日している。彼は「ニコラオ派」と呼ばれるような画風を伝えたとされ、「陣中旗」も、このニコラオ派の代表的な作品の一つと考えられている。ちなみにニコラオは当時イタリアにおいて隆盛を極めていたマニエリスム派の影響を強く受けたとされる(五野井 2012:198 -211)。
 右衛門作は島原の乱に参加して捕えられたものの、一揆軍の中ではただ一人許されて生きながらえた。この「陣中旗」は、上にも記したように一揆軍鎮圧の日に、原城内にいち早く突撃した鍋島氏が戦功の証として代々秘蔵していたものを、明治期になって政府が文化財に指定したものである。

3.キリシタンと日本の殉教者たち─教皇フランシスコの説教(2014)より (略)

4.キリスト教と日本人の出会い(1549) (略)

5.「伴天連追放令」以前 (1549-1587) (略)

6.「キリシタン禁教令」まで(1587-1614) (略)

7.日本の聖人たちと福者たち (全文)

 日本の殉教者たちの系譜は、1597年2月5日、長崎西坂において磔刑に処せられた26人の殉教者たちによって開始される。彼らは、教皇ピウス9世が1862年に列聖している(祝日は2月5日;「日本26聖人殉教者」)。一方1867年には、205人にのぼる日本の殉教者たちが列福されている(記念日は9月10日:「日本205福者殉教者」)。この列福は、キリスト教迫害期におけるすべての殉教者たちを記念する意味を持っている。
 これらの列聖・列福式は、日本が鎖国体制を解かず、キリスト教徒迫害をやめないことに抗して、ヴァティカンがこれを融和させる目的で行ったものである。
 1世紀余りを経て1981年、教皇ヨハネ・パウロ2世が訪日し、日本のキリスト教に対して覚醒を呼びかけた。この年ローマにおいて、聖トマス西(1634年殉教;ドミニコ会士)と15殉教者(1633年から1637年までの間の長崎における殉教者たち)の列福が行われた。その後1987年、彼らは列聖されている。彼らの祝日は9月28日である。
 また2008年11月24日には、長崎において「ペトロ岐部と187殉教者」の列福式が行われた。彼らの記念日は7月1日である。彼らを年代で総括するならば、熊本八代において1603年12月に殉教した11人から、1639年7月に江戸で殉教したペトロ岐部かすい神父までの188人の殉教者たちということになる。この列福式の特質を挙げるとすれば、一つには日本のカトリック教会がこの列福運動を主導したという点、もう一つには、今回列福された殉教者たちはすべて日本人であり、その大半は一般信徒であって、彼らの中には女性や子供たちも多く含まれているという点である。
 
8.「キリシタン禁教令」以降(1614-1644) (全文)

 1614年2月、徳川家康は「キリシタン禁教令」を発布した。当時日本に居住していた司祭の数は150人、信徒の数は約65万人であったと言われている。家康はあらゆる手段を用いてキリスト教徒たちを迫害し始めた。家康らは、外国との交易が発展し西欧人の姿が頻繁になったことが民衆に大きな影響を及ぼしていること、またキリスト教の力が多大であることに気づいていた。
 そしてそれらが、自分たちの影響力を制限しうることを危惧し始めたのである。こうして彼らは、宣教師たちを長崎に集合させ、その後彼らを追放した。それと同時に司祭養成の神学校等を閉鎖させた。キリスト教大名の一人、高山右近(1552-1615)もこの時マニラへと追放された。
 しかしながら実際のところイエズス会の首脳陣は、18名の司祭と9名の修道士を選出し、彼らを日本国内に留めることを決議した。一方右近は翌年の2月5日にマニラにて病没した。現在、彼のための列福運動が進められている。キリスト教到来以降、何人かの戦国大名が、いわゆる「キリシタン大名」となったことが知られている。その中には右近のほかに、大友宗麟(1530-1587)、 大村純忠(1533-1587)、小西行長(1558-1600)などがいる。しかしながら高山右近以外は、1614年のキリシタン禁教令以降、強いられた結果、信仰を捨てざるを得なくなった。
 1625年、長崎島原において、非常に厳しいキリスト教迫害が開始された。その2年後、1627年2月にはパウロ内堀と15人の信徒が殉教し、同年5月には雲仙地獄において10人が殉教、またそれに先立ち同年2月には内堀の3人の息子たちが有明海に沈められた。彼ら29人の信徒たちは、2008年に列福された188人の殉教者たちに含まれている。1633年には長崎西坂において、前述の中浦ジュリアンが殉教している。

9.島原の乱(1637-1638)

 1637年の10月、「島原の乱」が勃発し、翌年の2月末に鎮圧されるまで継続する。これは天草半島から島原に拠点を移しつつ生じたキリシタン一揆であると捉えることができる。すでに17世紀の前半から、度重なる重税にあえぐ農民たち、および財を持たない下級武士たちが、神の前での平等を旗印に一揆を起こしていた。大規模な飢饉と重税がこの「島原の乱」の一因だったことは確かであるが、この乱の首謀者たちが、例外なくキリシタンであったことも確実である。この「島原の乱」における一揆軍の旗となったのが、本稿で取り上げる「陣中旗」であるが、この旗は上述のように、元来は「聖体信心会」のしるしを起源とするものであった。この旗から展開しうる神学については、本稿第Ⅱ部で取り上げることにする。
 この乱の勃発と同じ1637年の11月には、アウグスチノ修道会の金鍔神父が長崎において殉教している。彼もまた、2008年に列福された一人である。
 「島原の乱」以降、キリスト教徒に対する迫害は、その激烈さを一段と増し、江戸でも多数の殉教者が出た。1639年7月には江戸でペトロ岐部かすい神父が殉教した。彼も2008年に列福されている。この年、ポルトガル船の来航が禁止され、鎖国がほぼ完結する。1644年には、最後の潜伏司祭であるマンショ小西神父が殉教を遂げ、日本に司祭は皆無となった。

10.キリシタン潜伏の時代(1644-1865) (抜粋)

 いわゆる「隠れキリシタン」は、次の各地にあったことが知られている。それは平戸、生月、外海、五島、天草、筑前、それに摂津である(チースリク1997)。この中で生月島には、現在でもなお「カトリック教会に一致しない隠れキリシタン」の人々が住んでいることが知られている。ただ、彼らの間には人類学・民俗学的に貴重な習俗が保持されており、その意味は大きい。
 (中略)
 潜伏キリシタンたちはこうして、表向きは仏教徒を装い、絵踏みをも実行した。ただし彼らは帰宅すると、「こんちりさん(ラテン語contritio)のおらしょ」と呼ばれる痛悔の祈祷文を唱えるのが常であった。教会で定められている「赦し(告解)の秘跡」は、司祭でなければ与えることができない。ただ日本のキリシタン教会にあっては、当初より司祭の数が極端に限られていた。
したがって当時の教会指導者であった宣教師たちは、「赦しの秘跡」において不可欠とされる「痛悔」の要因を強調し、日本のキリシタンにとっては「痛悔」の心情とその祈祷のみで足りる、と決議していた(正確に言えば「痛悔」の心情を抱くとともに、直近で次に告解しうる機会には、必ず司祭から「赦しの秘跡」を授かること、という条件が設けられている)(川村 2011:234-296)。このような決議と併せ、宣教師たちは上述した「こんふらりあ」(信心兄弟会)の組織づくりを進めていたのである。
 (中略)
彼らはどのようにして信仰の教義を保持したのであろうか。基本的には『どちりいな・きりしたん』(ラテン語Doctrina Christiana)という、ポルトガル人イエズス会司祭マルコス・ジョルジェ(1524-1571)による基本教理書(リスボン、1566年初版)が用いられていたことが明らかとなっている。それと併せ、上述のように1587年の伴天連追放令以降、イエズス会士たちの指導により、「組」と呼ばれる信心会の組織づくりが積極的に行われていた。信心会としては「慈悲の組」「ロザリオの組」「聖体の組」などがあった。これらの「組」にはそれぞれ、役割を帯びた3人の主導者が定められていた。それは1)「帳方」、すなわち毎年初めに、教会暦に従って祝日・記念日をいつ行うべきかを定める役、2)「水方」、すなわち生まれてきた子供に洗礼を授ける役、そして3)「聞役」、すなわち洗礼が行われる際に水方を補助する役、であった。彼らが用いていたのは1634年版の「ばすちゃん暦」であったことが知られ、また水方には各村落で最も重きをなす人物が選ばれた。
(後略)

11.「信徒発見」(1865) (略)

Ⅱ.「陣中旗」の神学

1.「陣中旗」をめぐって─われわれが「陣中旗」の十字架から学びうること (略)
2.十字架の中心性 (略)
3.十字架はこの世から隔絶しているのか? (略)
4.十字架の持つ「栄光」の意味 (略)
5.「心理はあなた方を自由にする」(ヨハネ8、32) (略)
6.ニュッサのグレゴリオスの旧約聖書理解─ローマにて (略)
7.「陣中旗」の解釈と『雅歌』の解釈の同次元性 (略)    】(「陣中旗の神学 : 真理と十字架(筑波大学地域研究: 秋山学稿)」)

出陣図・全.jpg

「武将図(出陣図)」(神戸市立美術館蔵) 筆者不詳 紙本著色 各119.2×57.5 2曲1隻
来歴:島原城→松平信綱臣西村治郎右衛門為正と伝承。西村澹氏→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
【 この2曲屏風に、西洋的な遠近法、明暗・立体表現で描かれた二人の武人です。類似作例の「泰西王侯図屏風」(ボストン美術館蔵)と同様に、城館建築を背景に、甲冑を身にまとい優雅な所作を見せる王とその廷臣を描いています。一見西洋絵画のようにも見えますが、素材は油画ではなく日本的な顔料絵具が使われています。
日本で布教活動を展開したイエズス会のセミナリオで教育を受けた日本人画家による作品と思われます。この屏風は明治か大正時代まで西村家に伝来し、その祖先は、原城を陥落させた松平信綱の家臣・西村次郎右衛門で、この屏風も次郎右衛門が原城から持ちだしたとする伝説があります。】(「文化遺産オンライン」)

【 本図については、島原の乱の折、松平信綱の家来が原城から持ち出した戦利品で、山田右衛門の描いたものだという伝承がある。その家来とは、西村次郎右衛門為正で、本図の旧蔵者であった西村家の祖先にあたる。
山田右衛門作は、キリシタン画家として名前が知られる。彼の作品であると伝えるものは多いが、いずれも確実なものでなく、本図も同じである。46図(下記の「王侯図」)と同じように奥行きの表現意識がはたらいているが、正確ではない。 】(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説48」、なお、その解説では「出陣図」の名称である。)

 上記の「松平信綱の家臣・西村次郎右衛門」周辺については、下記の論考が参考となる。

http://www.toyohashi-bihaku.jp › 2021_kusumi
吉田藩士西村治太夫家文書について - 豊橋市美術博物館

王侯図・騎士図.jpg

「王侯図・騎士図」(満福寺蔵)二幅 紙本着色 各134×57.7㎝
【(左図=王侯図)
 頭に王冠をつけ、古式の鎧を着けた王侯を正面から描いている。顔の表現や身のこなし、着衣の表現などが不自然な感じでなく、自由にのびのびとした作風である。奥行きの表現が意図されているが、必ずしも正確とはいえない。
 (右図=騎士図)   
 頭に兜をつけ、古式の鎧を着け、右手に槍を抱えて前方を見る王侯(騎士)の側面を描いている。作風と奥行きの意識は、46図(王侯図)に同じであるが、背景が46図は屋内に比して、本図は屋外となっている。  】(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説46・47」、なお、その解説では「泰西王侯図」の名称である。)

https://www.city.fujioka.gunma.jp/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/2/3/jyuyoubunkazai/1097.html
【鬼石の満福寺に伝えられた宝物で、筆者は不明、堂々たる画法は桃山時代の作と見られています。この絵はもともと屏風に貼られていたものと思われます。室町時代末よりキリシタンの布教やポルトガル貿易船などによりもたらされた西欧の風俗画を手本に、従来の日本画の材料を用いて描かれた、南蛮画と呼ばれる絵画です。
指定日 昭和49年6月8日
所在地 藤岡市譲原        】(藤岡市教育委員会文化財保護課文化財保護係)

 この群馬県藤岡市鬼石(町)の「満福寺」には、この「王侯図・騎士図」の他に、下記の「達磨図」を所蔵している。その所蔵の由来は定かではないが、これらの三作品は、「武将図(出陣図)」(神戸市立美術館蔵)と同じく、「島原の乱の折、松平信綱の家来が原城から持ち出した戦利品で、山田右衛門の描いたものだという伝承がある」ものと同じような由来があるのかも知れない。

達磨図・満福寺.jpg

「達磨図」(満福寺蔵) 軸 紙本着色 57.2×66.5㎝
【 被衣(かずき)を着し、横向の偉容で、三輪英夫氏によると第三型に属する。この第三型の特徴は、達磨の横顔を、かなり誇張して表現していることである。戯画的でさえあるといえるのかもしれない。その典型的な作品が本図である。 】(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説77」)

 この「三輪英夫氏によると第三型に属する」ということは、下記のアドレスによる「洋画法による達磨図について(三輪英夫稿)」の、その「第三型(被衣を着し、横向)」ということである。

 異国人としての達磨の顔貌に独特な誇張表現 - COREhttps://core.ac.uk › download › pdf

達磨図一覧図.png
(「異国人としての達磨の顔貌に独特な誇張表現 - COREhttps://core.ac.uk › download › pdf」)


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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十八 [南蛮美術]

(その十八)「高山右近旧領土・長崎奉行所キリシタン関係資料などの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その一)」周辺

雪のサンタマリアと救世主像.jpg

「日本のイエズス会画派と東アジア:マカオの《聖体顕示台を持つ大天使ミカエル》とマニラの《ロザリオの聖母》(児嶋由枝稿)」所収「図1《救世主像》図2≪雪のサンタマリア≫」

図1≪救世主像≫(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p11)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-26

【油彩・銅板 23.0×17.0 1597年 東京大学総合図書館蔵 茨木市千提寺のの中谷家から発見された。裏に「Sacam Iacobus」の署名がある イエズス会士イルマンのニワ(丹羽)・ヤコブの作と推定されている。(ヤコブはコレジオで学び画家として名簿に記載)】

図2≪雪のサンタマリア≫(日本二十六聖人記念館蔵)

【「雪のサンタマリア」(日本二十六聖人記念館蔵 大きさは縦約28cm 、横約 22cm )
和紙に聖母マリアが描かれ掛け軸に表装されて、長崎の外海の潜伏キリシタンの家に伝えられてきました。この絵が世に知られるようになったのは1973 年。「雪のサンタマリア」という画があると伝え聞いていた地元の歴史民俗資料館の田中用次郎氏が、持ち主の農家を説得し、結城了悟師、片岡弥吉氏ともに竹筒に入れて床下に隠されていたこの聖画を発見されたとのことです。マリアの顔と胸元に合わせた手は鮮明に残っていますが、赤い衣と青いマントのほとんどは、紺地の補修紙に覆われてしまっています。 髪が腰まで流れ、頭上には冠を頂いているのが特徴です。この絵は「西洋的なマリア絵を日本の色彩と技法によって描かれている珍しい作品」と評価されました。】

聖母子・長崎奉行所.jpg

図5≪聖母子像≫「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p57)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-26
【 (聖母子像)
厨子入 銅板油彩 32.5×23.6 16世紀後半~17世紀前半 中谷(源之助)家 (千提寺) 発見者 奥野慶治(1922年)
観音開きの扉のついた厨子の中に、幼いイエスを抱いたマリアの半身像が油絵具で銅板に描かれ、収められている。マリアは柔和な表情でイエスをやさしく抱いており、イエスもレース様の袖をとおして、その小さな手でマリアの首を抱いている。マリアの黒く長い髪や長い袖模様の着物に和様化が見られる。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p57)

(特記事項)

一 図1≪救世主像≫と図5≪聖母子像≫との旧蔵者は、高山右近の旧領土の「高槻山間部」(大阪府茨木市千提寺)の「中谷(源之助)家」のもので、この二枚の絵図の作者は同一の作者(「ニワ(丹羽)ヤコブ、ヤコブ丹羽、丹羽ジャコベ、漢名=倪(ゲイ)雅各・一誠」)なのかも知れない。

二 また、図1≪救世主像≫と図2≪雪のサンタマリア≫とは、「日本のイエズス会画派と東アジア:マカオの《聖体顕示台を持つ大天使ミカエル》とマニラの《ロザリオの聖母》(児嶋由枝稿)」によると、イタリア人修道士「ジョバンニ・ニコラオ(コーラ)」が学んだ「16世紀後半ナポリで活躍していた画家ジョヴァンニ・ベルナルド・ラーマの工房」の「様式と装飾表現」を踏まえており、同一系統の作品と解しており、この図2≪雪のサンタマリア≫も、「ニワ(丹羽)・ヤコブ」、または、その関連の作品と解しても、その「ジョヴァンニ・ベルナルド・ラーマの工房」との関連では差し支えないのかも知れない。

三 「丹羽ジャコベ」(「ウィキペディア」)
【丹羽ジャコベまたはヤコブ丹羽(Jacob NIWA、 天正7年(1579年)― 崇禎11年9月19日(1638年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期(明代)のキリシタン画家。漢名は倪雅各。
 天正7年(1579年)、中国人の父、日本人の母のあいだに生まれる。肥前国有馬(現在の長崎県南島原市(旧北有馬町))のセミナリヨに入り、そこで天正11年(1583年)に来日したイタリア人修道士ジョバンニ・ニコラオ[1]に洋画(南蛮画)の技法を学んだ。
 慶長6年(1601年)、カトリック教会における明の布教長であったマテオ・リッチの要請をうけた日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノの指示によって、聖像を描くため明のマカオに派遣された。マカオでは、聖パウロ協会の被昇天の聖母像を描いている。翌万暦30年(1602年)には、北京に赴いて聖母子像を描き、その作品は万暦帝に献上された。万暦34年(1606年)には、マテオ・リッチのもとでイエズス会に入会している。
 万暦38年(1610年)、南昌にある2つの聖堂のキリスト画とマリア画を描き、翌万暦39年(1611年)には再び北京に赴いて使徒や天使らに囲まれた救世主図を描いている。
 その後も明に滞在し、崇禎11年(1638年)にマカオにて60歳で死去した。 】

婦女弾琴図と男女逍遥図.jpg

「日本のイエズス会画派と東アジア:マカオの《聖体顕示台を持つ大天使ミカエル》とマニラの《ロザリオの聖母》(児嶋由枝稿)」所収「《婦女弾琴図》《男女逍遥図》」

図3≪婦女弾琴図≫
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-15
【「婦女弾琴図」(伝信方筆・一幅・大和文華館蔵)縦55.5 横37.3 → E図
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/43/fbb20be2bd40a863ef34d4dbf1532281.jpg
≪謎の画家「信方(のぶかた)」による初期洋風画の佳品
 手元に視線を落としながらヴィエラ・ダ・マノを弾く女性を描く。色の明暗とハイライトによって巧みに表現された緋色の衣のドレープも美しい。その姿は、小さくふっくらした唇や筋の通った鼻梁など顔貌的な特徴もふくめて「洋人奏楽図屏風」(A-1・2図)の女性像と似通う。そればかりか制昨年、制作地も隔たった「キリスト教説話図屏風」(下記・F図)にも、類型から派生したと思われる人物像が見出せる点は興味深い。本図左下にはヨーロッパの紋章に似た印章が押されている。それは信方と呼ばれる画家が用いたので、初期洋風画の作品のなかで筆者を知る手がかりのある作品として極めて希少である。信方は「日蓮上人像」(兵庫・青蓮寺)などの仏教的主題も描いており、セミナリヨで学びながら後に棄教した人物とする説もある。(鷲頭桂稿)≫(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』) 】

図4≪男女逍遥図≫
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/530800
【男女逍遥図 筆者不詳 安土桃山時代・16世紀 絹本着色 62.1×40.9 1幅
16世紀の半ば、ヨーロッパとの交流から日本人は初めて西洋の油彩画や銅版画に出会った。本作は、西洋の田園風景を背景に、恋人同士かと思われる男女を描く。西洋人修道士を通じて遠近法や陰影法などを学んだ人物が、日本の伝統的な画材を用いて描いている。】

弾琴図・長崎歴史文化博物館蔵.jpg

図6≪弾琴図≫(長崎歴史文化博物館蔵) 紙本着彩 80.0 ✕38.5 cm  
https://seikonagata.com/2019/01/03/lute-player-nagasaki-rekihaku/blog
【(制作年代について) 
 日本においては天正・文禄・慶長年間に栄え、教義を伝えるためや礼拝の対象とするための版画・絵画制作が、1583年に来日したジョヴァンニ・ニコラオらの指導で、イエズス会のセミナリオ(中等学校)の画家たちにより行われていました。
 1582年より開設されたセミナリオは、豊臣秀吉の禁教により島原半島八良尾、天草下島志岐、島原半島有馬などを転々とし、慶長4年(1599)には長崎に開設されました。その活動は、慶長19年(1614) 、徳川幕府によるキリシタン大追放によってマカオに移るまで続きました。
 本作品は、こうした歴史的背景を考慮し、さらに作品の様式比較を行った結果、セミナリオにおける末期の制作と考えられることから、製作年代を慶長年間(1596-1614)と推定いたしております。
(作品の来歴について)
本作品は、故・内田六郎氏(浜松市)旧蔵。なお内田氏所蔵以前の来歴は不明。セミナリオの画家による西洋の風俗を描いた洋風画は、大名への献上品であったと考えられており、本作品もまた、そのような性格のものであったと推測されます。】

信方・二作.jpg

図7≪師父二童子図・西洋二武人図≫(神戸市立博物館蔵)
信方?款 江戸時代/17世紀前半 紙本著色 各114.6×53.4 2面 款記「信方」(?)・朱文方形紋章印
来歴:神田乃武男爵→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/401301
【 両図とも信方?と読める落款とヨーロッパ紋章風の印章が対称的な位置にあることから、対に描かれた作品と考えられます。これと同様の印が捺される同種の作品としては、「日教上人像」(青蓮寺)「達磨図」(養竹院)「婦女弾琴図」(大和文華館)などが挙げられます。  
 この信方という画家については、文献中にも名前が見あたりません。ただ仏教的主題も描いていることから、キリスト教徒として西洋画を学びながら、後に棄教した人物であるとも考えられます。
 本図は、他の初期洋風画と同様、16世紀末葉のヨーロッパ美術の潮流であったマニエリスム様式の反映がみられ、類型化の進んだ柔和な顔立ちや、微妙なS字型にくねらせたポーズが優美な雰囲気を漂わせています。しかし本図も含めて信方筆とされる作品は、背景を無地にするなど、東洋的な構成法をとっています。これは、他の初期洋風画には見られない特徴で、この画家の素性や禁教令以降という作画時期を考えるうえで重要な問題を含んでいます。】(「文化遺産オンライン」)

(特記事項)

一 図3≪婦女弾琴図≫と図4≪男女逍遥図≫も、図1≪救世主像≫と図2≪雪のサンタマリア≫と同じく、「日本のイエズス会画派と東アジア:マカオの《聖体顕示台を持つ大天使ミカエル》とマニラの《ロザリオの聖母》(児嶋由枝稿)」によると、イタリア人修道士「ジョバンニ・ニコラオ(コーラ)」が学んだ「16世紀後半ナポリで活躍していた画家ジョヴァンニ・ベルナルド・ラーマの工房」の「様式と装飾表現」を踏まえており、同一系統の作品と解している。

二 しかし、図1≪救世主像≫と図2≪雪のサンタマリア≫と、図3≪婦女弾琴図≫と図4≪男女逍遥図≫とでは、その受ける印象が全く別世界のものという印象を強くする。
それは、前者が、当時のキリシタン信仰の中心に位置する「救世主」や「聖母マリア」の、いわゆる、「聖画」(キリスト教で宗教上の事跡、伝説、人物などを題材とした絵画。宗教画。神聖な感じを受ける絵画)の世界(「宗教画)なのに対して、後者は、その「宗教画」などを取り巻く、当時の「南蛮風俗・西洋風俗」(「日本に渡来したヨーロッパ人の絵、およびその手法を模倣した絵。また、西洋風俗を描いた絵」など)を描いた世界(「風俗画」)との相違に因るもので、そのことと、これらの絵師(前者の「絵師」と後者の「絵師」)が、先の≪イタリア人修道士「ジョバンニ・ニコラオ(コーラ)」が学んだ「16世紀後半ナポリで活躍していた画家ジョヴァンニ・ベルナルド・ラーマの工房」の「様式と装飾表現」を踏まえており、同一系統の作品と解している≫こととは、そこに、何らの齟齬はない。

三 図3≪婦女弾琴図≫と図7≪師父二童子図・西洋二武人図≫とは、共に、「信方?と読める落款とヨーロッパ紋章風の印章」とを有しており、この作者が、、「キリスト教の洗礼を受けセミナリオ等で洋画を学びながら、後に棄教した人物」の「信方」という絵師に因るものというのは、その「洗礼を受けセミナリオ等で洋画を学びながら、後に棄教した人物」などの、その由来などは別に、「信方」作という見方は、定説に近いものと解しても差し支えなかろう。

四 さらに、この図7≪師父二童子図・西洋二武人図≫は、≪両図とも信方?と読める落款とヨーロッパ紋章風の印章が対称的な位置にあることから、対に描かれた作品≫ということで、図3≪婦女弾琴図≫の「縦55.5×横37.3」の「小品の作品」に対して、図7≪師父二童子図・西洋二武人図≫は「各縦114.6×横53.4」と「対の比較的大作の作品」で、これは、さらに「六曲一隻(六面形式)・双曲(十二面形式)」の「屏風形式の大作作品」の一部とも考えられる。

五 また、図3≪婦女弾琴図≫の系統と深い関連のあると思われる図6≪弾琴図≫(無落款)
の他に、この種の「弾琴図」は他に何点か遺されており、それらは、何よりも、この種の「弾琴図」は、下記のアドレスで紹介した「洋人奏楽図屏風」(永青文庫蔵・MOA美術館蔵)と深い関わりがあるものと思われる。
 そして、それらは、≪「細川藤孝(幽斎)→忠興(三斎)=玉子(ガラシャ)・興元・幸隆・加賀( 木下延俊正室)」などに連なる「肥後細川家」伝来の「永青文庫」所蔵≫など、当時のキリシタン大名とか有力大名への「献上品」として珍重されたものという背景などが横たわっているように解せられる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-15

六 「信方」(「ウィキペディア」)
【信方(のぶかた、生没年未詳)は、安土桃山時代から江戸時代頃に活躍した初期洋風画の画家。
 16世紀ヨーロッパのマニエリスムの影響を受けたテンペラ画を描く。同時代の文献中に名前が見られず経歴の詳細は未詳である。慶長年間(1596年-1615年)頃を中心に活躍し、「獅子と鷲」の印章と「信方(または、信水、信芳)」の落款の作品が残る。日蓮宗の僧日教の像等仏教を主題をした絵も描いていることから、キリスト教の洗礼を受けセミナリオ等で洋画を学びながら、後に棄教した人物であると考える研究者もいる。 】

 これらの「イエズス会」の「キリスト教の洗礼を受けセミナリオ等で洋画を学んだ」とされる「丹羽ジャコベ」(礼拝用の「宗教画」を主軸とする)と「信方」(鑑賞用の「風俗画」の主軸とする)の他に、もう一人、やや、この二人よりも時代を後にするのかも知れないが、この二人と比肩する絵師として、下記の「聖フランシスコ・ザビエル像(神戸市立博物館蔵)」を描いた、「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」という万葉仮名を筆録している、この「漁夫環人」(「聖フランシスコ・ザビエルのサクラメント(秘跡)」を与えた「漁夫=ペドロ・教皇グレゴリウス15世」と、その背後に潜ませている「漁夫=ペドロ・狩野源助=狩野道味?」)をも、ここに、どうしても再掲をして置きたい。

フラシスコザビエル像.jpg

「重要文化財 聖フランシスコ・ザビエル像」神戸市立博物館蔵(池長孟コレクション)
「S.P.FRÃCISCUS XAVERIUS SOCIETATISV」 墨筆にて「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」 朱文長方関防印「IHS」 朱文壺印(印文未詳) 
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365020
【 イエズス会の創立会員であり、アジアでの宣教活動、とりわけ日本に初めてキリスト教を伝えたことで知られる聖フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)を描いた礼拝画。ザビエルはローマ教皇の特使として1542年にインドのゴアに到着、南アジア各地で宣教活動を展開した後、天文18年(1549)に鹿児島に到達しました。日本での宣教活動のあと、いったんインドのゴアに戻り、中国での宣教を目指して広東沖の上川島に至りますが、病を得て1552年の12月に亡くなりました。
 ザビエルによるアジアでの宣教活動がヨーロッパで広く知れ渡るようになるのは、16世紀末のオラツィオ・トルセリーノによる『ザビエル伝』ラテン語版刊行と、その欧州多言語翻訳によるもので、これらに掲載された銅版画の肖像画が、最初期のザビエル像の典型として流布しました。当館の「聖フランシスコ・ザビエル像」もその系列に連なるものです。
 トルセリーノ『ザビエル伝』は、インドのゴアで目撃されたあるエピソードを紹介しています。ザビエルは早朝に教会の庭で祈っている際に、瞑想の中で神の愛に触れて意識を完全に失いました。その後、彼が我に返ると、熱く腫れ上がった胸から上着を開いて、何度も次の言葉を、かなり強い口調で繰り返したとのことです。「充分です、主よ、充分です(Satis est Domine, Satis est.)」と。
 祈りの際に神の愛に触れて叫んだ「充分です、主よ、充分です」という言葉は、『ザビエル伝』の流布によって、ザビエルを象徴するフレーズとして定着しました。当館のザビエル像でも「充分です、主よ、充分です(SATIS EST DÑE SATIS EST (DÑEはDomineの略語)の言葉が見られます。
 当館のザビエル像では、「燃える心臓」と「十字架」という、『ザビエル伝』所載の肖像画には見られないモチーフが見られます。前者については、『ザビエル伝』が伝える、祈りの後に彼の胸が腫れ上がったという話、後者についてはイエズス会などカトリック信徒が重視した、祈りにおける十字架の観想を視覚化したものと考えられます。本像を描いた日本人絵師とその周辺にいた西洋人宣教師が独自に追加した表象だった可能性もあります。
 下部には「聖フランシスコ・ザビエル イエズス会会員」のラテン文を記し、その下の黄色地には「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」という万葉仮名に「IHS」の朱印と壺印が捺されています。万葉仮名文の意味は「聖フランシスコ・ザビエルのサクラメント(秘跡)」。「漁父環人」についてはローマ教皇とする説もあります。
 フランシスコ・ザビエルは1622年に、教皇グレゴリウス15世によって聖人に列せられます。このときの『列聖大勅書』によって、既述の「充分です、主よ、充分です」をめぐる逸話は権威づけられ、1620年代の禁教下の日本においても、ザビエル像制作の機運が高まりました。本像もこのような中で密かに描かれ伝えられてきたものでしょう。
 本像は、高山右近の旧領、千提寺(せんだいじ・現茨木市)の東家に「マリア十五玄義図」などととも密かに伝来し、大正9年(1920)に発見されました。禁教で破却された数多くの聖画のうち、現代まで伝世した数少ない江戸初期の洋風画としてきわめて貴重です。】(「神戸市立博物館」解説)

「狩野派・略系図(正信から探幽まで)」(「ウィキペディア」)

狩野派系図(全).jpg

(上記図のメモ)

狩野正信(1434-1530)→狩野派初代、室町幕府の御用絵師、長男は元信。
同元信(1477?-1559)→狩野派二代、「古法眼」と称せられ、狩野派画風の大成者。
同祐雪(?-1545)→狩野派三代、元信の長男・祐雪宗信(早世で四代は元信三男の「松栄」)。
同松栄(1519-1592)→狩野派四代、元信の三男、門人に「内膳」「宗心」など。
↓→※狩野内膳(1570-1616)→「松栄」門人、「内膳・一翁」は号、名は重郷。
同永徳(1543-1590)→狩野派五代→「狩野派」を不動にした「探幽」と並ぶ二大絵師。
↓→※※狩野山楽(1559-1635)→「永徳」養子、「京狩野派」の初代、「豊臣家絵師」の雄。
同光信(1565-1608)→狩野派六代→『永徳様式』から次の『探幽様式』へ橋渡し役に徹する。
↓→※※※狩野道味(?-?)→「天正年間(1573-92)に千利休に茶事を学び,京都で茶器を焼いたキリシタン絵師の一人か?」

同貞信(1597-1623)→狩野派七代(二十七歳で夭逝、八代は「孝信三男の「安信」)。
同孝信(1571-1618)→光信の弟、息子=「探幽・尚信・安信=狩野派宗家八代」

同探幽(1602-1674)→鍛冶橋狩野家初代=江戸狩野派奥絵師、「江戸狩野派」の総帥。
同尚信(1607-1650)→木挽町狩野家初代=江戸狩野派奥絵師。
↓→狩野岑信(1662- 1709)→浜町狩野家初代=江戸狩野派奥絵師。
同安信(1613-1685)→中橋狩野家初代(狩野派宗家八代)=江戸狩野派奥絵師。
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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十七 [南蛮美術]

(その十七)「長崎奉行所キリシタン関係資料などの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その四)」周辺

マリア観音像.jpg

「マリア観音像(東京国立博物館蔵)」( 明~清時代・17世紀 徳化窯で製作 東博で2011.4.15撮影) 」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

【「マリア観音」とは
東京国立博物館には、白磁の観音像が37点収蔵されている。いずれも、幕末と明治初期の長崎浦上のキリシタン大弾圧の際に、信徒から押収したキリシタン遺物で、聖母マリアと幼子イエスとして礼拝していた証拠と、その来歴を示すことから「マリア観音」の名称が与えられる像である。「マリア観音」という名は、キリスト教の聖母子像として礼拝対象の像のみに与えられ、その信仰や来歴が不明の場合は、「慈母観音像」「子安像」「子安観音像」と称すべきと思う。】(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

大浦天主堂マリア観音像.jpg

「大浦天主堂キリシタン資料館の展示の『マリア観音』像」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

【 鎖国になる頃、福建省から長崎の港に、白磁の慈母観音像がもたらされた。その子を抱く姿に注目したのは、当時の中国での地域文化への適応を推し進めたイエズス会宣教師マテオ・リッチであった。
その白衣は、聖母の純潔を象徴し、幼子はイエスを表すとされ、「東アジア型聖母像」として、当時の潜伏キリシタンの霊的需要を満たしたという。(若桑みどり『聖母像の到来』)
宣教師のいない閉ざされたキリシタン共同体と各家々にも、その像は聖母子像として受け入れられ、祈りの対象とされた。
「迫害の中の7世代250年、キリシタンたちは、このような慈母観音像をマリアさまとして聖母マリアに祈り続けた。それが1865年大浦天主堂における神父との出会いを実現する原動力となったのである。 】(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」

長野県内の文化財指定の観音像.jpg

「長野県内の文化財指定の観音像」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

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「千葉県内の文化財指定の観音像」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

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「白磁マリア観音半跏倚像・銅製蝋燭立」(長野市松代町旧松代藩海野家伝来)
http://bunkazai-nagano.jp/modules/dbsearch/page1125.html
【 真田家の上田以来の上級家臣である旧松代藩士海野家に伝来するものである。同家にマリア観音、蝋燭立(ろうそくたて)に関する記録はないが、海野家代々の言い伝えによると、寛文十二年(1672)、番頭(ばんがしら)役を務めた海野源左衛門の妻が小幡家から嫁したとき持参したものだという。小幡氏がキリシタン信徒だったかどうかははっきりしない。
 マリア観音は白磁(①はくじ)製で総高22.2㎝。古く唐時代から広く信仰された白衣観音で、赤子を胸の前に抱いて半跏(②はんか)し、両わきに二童子を従わせている姿は鬼子母神(きしもじん)と同じである。しかし、仏教では陶製白磁の仏像を造った例はなく、キリシタン教徒が仏像に粉飾してひそかに信仰する方便に用いたものであることは明らかで、この像がマリア観音と称されるのもそのためである。
 蝋燭立は銅製で総高25㎝。太鼓(たいこ)型基台に床机(しょうぎ)型の脚台を設けている。
 上に人が立ち、両手で旗竿を立て持っているが、その服装、旗の形状などはポルトガル風である。
 制作年代、作者は不明だが、両者とも江戸時代初期に宣教師から伝わったものと考えられ、数少ないマリア観音のひとつとして、また付随する蝋燭立も併せて貴重な歴史資料である。】

千葉・子安像塔.jpg

「千葉県袖ヶ浦市百目木の子安像塔」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

(追記)「サンクタ・マリアとしての白磁製観音像-潜伏キリシタン伝来の『マリア観音』をめぐって(宮川由衣稿)」(西南学院大学博物館 研究紀要 第8号)

【 はじめに

  1614(慶長19)年に徳川幕府による禁教令が出されたのち、1873(明治6 )年にキリシタン禁制の高札が撤去されるまで、およそ250年にわたってキリシタンの迫害と潜伏の時代が続いた。この間、キリシタンたちは表面上仏教徒であるように装い、中国または国内で作られた白磁製などの観音像を「ハンタマルヤ」と呼び、密かにこれを信仰の拠りどころとした。これらの像は一般的に「マリア観音」1と呼ばれている。
 今日、各地の博物館で「キリシタン資料」と称されるものが所蔵されている。これらの資料は、歴史学、古学、美術史学などによる成果に基づく実証性のあるものが原則であるが、確証のない真偽を疑うものも「キリシタン資料」として取り扱われていることがある。マリア観音像の場合も、後世に作られた模造品が多く出回っており、潜伏キリシタンによって
所持、崇敬されたことが確実なものはほとんどないのが現状である。こうしたなか、現在、東京国立博物館で所蔵されている長崎奉行所による没収品は確かなものとして知られている。
 東京国立博物館所蔵のマリア観音像は、1856(安政3 )年に肥前国彼杵郡浦上村(現在の長崎市の一部)で百姓の吉蔵を中心とする潜伏キリシタン15名が一斉検挙された事件、浦上三番崩れ3の際に没収されたものである。浦上三番崩れでは、白磁製の観音像を含む多くの信仰物が長崎奉行所に没収された。長崎奉行所で保管されていたこれらのキリシタン関係遺品は、明治に入ると長崎県から教部省に引き渡され、内務省社寺局を経て帝国博物館(現在の東京国立博物館)に移管された。現在、これらは国指定の重要文化財となっている。これらの没収品の中には白磁製のほかにも陶製、青磁製、土製などの観音像があるが、東京国立博物館のキリシタン関係遺品の目録では、白磁製のもののみが「マリア観音」という名称をもつ4。これらは17世紀に中国・福建省の徳化窯で作られたと考えられている。
 また、「マリア観音」とは一般的に、禁教下にキリシタンたちが表面上仏教徒を装うために信仰し、仏教の観音像に聖母マリアを見立てて拝んだものであると言われてきた。しかし、近年の研究ではこうした従来の見方が見直され、「中国から日本にもたらされた観音像は、聖母マリアとしてキリシタンたちの手に渡っていた可能性がある」という説が新たにに提出されている。
 そこで、本論でははじめに1856(安政3 )年の浦上三番崩れの記録から、この摘発事件の際に「異仏」として没収された東京国立博物館所蔵のマリア観音像の由来を確認する。これらの像は潜伏キリシタンによって「ハンタマルヤ」と呼ばれ、彼らの祈りの生活と共にあった。また、浦上三番崩れの没収品のほかにも、禁教下に没収を免れたマリア観音像が存在することに注目し、その記録を確認する。そして、いわゆる「マリア観音」、すなわち中国から伝来した外見上は観音像である白磁製の像が、どのようにして潜伏キリシタンの手に渡り、「ハンタマルヤ」として崇敬の対象となったのかについて考察したい。

1 . キリシタン摘発事件と異仏没収――東京国立博物館所蔵のマリア観音像

 東京国立博物館の『東京国立博物館図版目録 キリシタン関係遺品篇』には、白磁製マリア観音像37体と白磁製マリア観音像断片2 点、そしてマリア観音像等破片付札3 点が挙げられている。東京国立博物館所蔵のキリシタン関係遺品は、1856(安政3 )年の浦上三番崩れや1867(慶応3 )年の浦上四番崩れで浦上村のキリシタンたちが検挙された際に、長崎奉行所が没収し、保管していたものである。すでに述べたように、これらの没収品のうち白磁像のみが「マリア観音」という名称をもち、その他の陶製、青磁製、土製などの像は「観音菩薩立像」や「観音菩薩坐像」とされ、区別されている。
 田北耕也氏は『昭和時代の潜伏キリシタン』(1954年)において、潜伏キリシタンを「納戸神を中心とする(1)「平戸・生月地方」と、( 2 )「日繰帳を中心とする長崎・黒崎地方と五島地方」の二つに分けている。このうち、マリア観音像は、後者の地方に伝わるものである。片岡弥吉氏は『かくれキリシタン――歴史と民俗』(1967年)の中で、「マリア観音」について、「これらの観音像は多くシナ焼きで、純粋の仏像として日本に渡来したものが、潜伏時代のキリシタンたちに、サンタ・マリアとして祭られたものであった。[……]観音像すなわちマリア観音なのではなく、サンタ・マリアのイメージを求めて禁制時代の潜伏キリシタン、或はこんにちのかくれキリシタンたちが祭っていたという由緒があって始めてマリア観音たり得る」としている。
 ところで、「マリア観音」という呼称は、潜伏キリシタンが用いていた言葉ではなく、後世の研究者たちが呼び表したものである。「マリア観音」という呼称については、キリシタン遺品研究の先覚者である永山時英氏が『切支丹史料集』(1927年)の中で、東京帝室博物館所蔵の像を「マリア観音」と書いたのが最初であろうと言われている7。永山氏は先の『対外史料美術大観』(1918年)においては、「白磁観音」とのみ書いていることから、このあいだに呼称が変化し、これがその後定着したものと考えられている。
 それでは、潜伏キリシタンたちは、外見上は観音像であるこれらの白磁製の像をどのように称していたのであろうか。浦上三番崩れについて、長崎奉行所が作成した記録『異宗一件』には、潜伏キリシタンたちが先祖代々受け継いできた「ハンタマルヤ」と称する白焼の仏を所持し、それを信仰していたと記されている。このうち、当時の浦上村潜伏キリシタンの指導者であった吉蔵の口述には、「先祖共より持伝信仰いたし来候ハンタマルヤと申す白焼仏立像一体」とある(図1 )。また吉蔵は、「アベマルヤ天ニマシマスと申経文相唱」と述べている。
 さらに、「世界の諸物其恩愛を不受して成育いたし候もの無之、右故信心いたし候ものは現世にて田畑作物出来方宜敷、其外諸事仕合能、諸願成就、福徳延命、来世は親妻子兄弟一同パライソ江再生いたし無限歓楽を得候承伝右様恵深き事故一途にハンタマルヤを念し」とある。すなわち、「ハンタマルヤ」の恩愛によって、すべてのものが生成されているのであり、これを信仰する者は現世でも来世でも利益を与えられるという。また、同じく浦上村の龍平も、「先祖共より持伝信仰いたし来候由の白焼ハンタマルヤ座像二体」を所持すると答えている。
 この摘発事件で多くの白磁製の観音像が発見されたが、「切支丹が盛んであった土地がらなので、このような仏が残っているのを先祖が隠しておいたのであろう」という村人の申し立てが認められ、また、絵踏も年々行い、先祖の年忌や弔いなども変わったところはないという理由で、像没収の上、1860(萬延元)年までには皆釈放となった。キリシタンが所持していたこれらの像は、臨済宗春徳寺の僧侶・禎禅と曹洞宗皓台寺の僧侶・廓菴によって鑑定が行われた。その結果、「ハンタマルヤ、イナッショと申唱候仏は観音の像」と判断され、「邪宗仏(キリシタンの仏)」とは認められず、「異仏(異様の品)」として処理された。報告書には、「宗名は異宗と申伝え、本尊はハンタマルヤと申す」とある。現在、東京国立博物館に所蔵されているマリア観音像37体は、この際に没収されたものであり、「安政3 年長崎奉行所に収納」と記録されている。
 また、先に見た浦上村中野郷吉蔵の口述には、「アベマルヤ天ニマシマスと申経文相唱」とあった。これにより、キリシタンのあいだで聖母マリアを讃える天使祝詞が伝えられてきたことがわかる。さらに、彼らはキリストの降誕や受難、そして復活について伝え、指導者である惣頭の日繰りによって、それらの祝日を祝っていたという。1865(慶応元)年に浦上村で最初に発見された「天地始之事」と題される写本には、「マルヤ」についての物語が記されている。
 その内容は、天地創造、人間の堕落に関する旧約聖書と、イエスの誕生、聖母マリアの生涯、そして世界終末と審判にいたる新約聖書をつないだキリスト教の教本である。キリシタンのあいだで書き写されて流布していたというこの写本は、五島や長崎でも発見されている。そして、この中の「さんた丸屋御かん難の事」というくだりでは、「丸や」について次のように記されている。るそん10の国に「丸や」という娘がおり、一生純潔の誓いをたてるが、彼女を見染めたるそんの国の帝王により、妻となることを強制される。王は財宝のかぎりを示すが、「丸や」はこの世の宝は無意味だと言って、これを拒む。そして「丸や」は6 月であるのに雪を降らせ、王のもとから逃れて畑の麦の中に身を隠し、やがて天から迎えの花車があった。その後、地上にもどった「丸や」に受胎告知がある。この「丸や」話には、『黄金伝説』で語られる様々な聖女伝が混在している。
 そして、長い潜伏期を経て、キリシタンたちが再び西欧から日本にもたらされた聖母マリアの像にまみえる日が来た。開国後の1865(元治2 )年、プティジャン神父によって建立された長崎の大浦天主堂の祝別式が行われた一カ月後、浦上村の12名から15名ほどの老幼男女が天主堂を訪れ、一人の女性が神父に尋ねた。「サンタ・マリアの御像はどこ」と。彼女は聖母マリアの像を見て、「ほんとうにサンタ・マリアさまだ。御子ジェス様を抱いていらっしゃる」と言った。今日「信徒発見」として伝わる潜伏キリシタンの存在が顕わになった瞬間である。この出来事について、浦川和三郎氏は『切支丹の復活』(1927年)において、ローカニュ神父の書簡を引用している。そこには、「浦上の信者たちは聖母マリアの聖像を心から尊敬して、善かサンタ・マリア様と呼んでいる」と記されている。
 現在、東京国立博物館に所蔵されている白磁製のマリア観音像は、禁教下にキリシタンたちが「ハンタマルヤ」と呼び、祈りの生活と共に先祖代々受け継いできたものであった。キリシタンが用いた「ハンタマルヤ」という名は、宣教師によって伝えられた「サンタ・マリア(聖母マリア)」の呼称に由来するものである。そして、開国後に再び西欧からもたらされた聖母マリアの像を前にしたキリシタンたちは、これを「善かサンタ・マリア様」と呼び、禁教下に彼らが信仰のために用いた白磁製の観音像と同じ「マルヤ(マリア)」の名で尊んだ。
 マリア観音を「異仏」として没収された浦上村のほかにも、「マルヤ」と呼ばれる白磁製の観音像が伝わる地域があり、それぞれの呼称が伝わっている。たとえば、筑後今村地方(現在の福岡県三井郡大刀洗町)のキリシタンは、マリア観音を「マルヤ仏」と称し、取り調べ記録には漢字で「丸野仏」と記されている。そこで次節では、浦上三番崩れの際に「異仏」
として没収され、現在東京国立博物館に所蔵されているマリア観音像のほかにも「マルヤ」として伝わる白磁製の観音像が存在することに注目し、禁教下に没収を免れたマリア観音像についての記録を確認したい。

2 . 禁教下に没収を免れたマリア観音像
3 . 白磁製観音像の製造と伝播
4 . ブラン・ド・シーヌの観音像――聖母マリアと観音のあわいで――
おわりに    】(「サンクタ・マリアとしての白磁製観音像-潜伏キリシタン伝来の『マリア観音』をめぐって(宮川由衣稿)」(抜粋)

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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十六 [南蛮美術]

(その十六)「長崎奉行所キリシタン関係資料などの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その三)」周辺

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「ご聖体の連祷と黙想の図(その1)」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

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「ご聖体の連祷と黙想の図(その2)」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

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「ご聖体の連祷と黙想の図(その3)」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

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「ご聖体の連祷と黙想の図(その4)」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 2(蕨由美稿)」)

【 「ご聖体の連祷と黙想の図」(澤田美喜記念館蔵)
長さ 320 ㎝ の巻子で、墨書で右から、
①聖母子像図
②ご聖体の連祷前半(ポルトガル訛りのラテン語祈祷文をかな書き)
③ロザリオを唱える際の黙想のための十五玄義図(喜びの玄義・悲しみの玄義・栄光の玄義各 5 場面)
④ご聖体の連祷の後半
⑤奥書 「御出世以来千五百九十二年 者う路(はうろ)」すなわち西暦 1592 年「パウ
ロ」の名と花押があります 。  】

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「ご聖体の連祷と黙想の図(その5)」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 2(蕨由美稿)」)

(追記一)「キリシタン―日本的なものが生じた背景―(東京大学大学院情報学環(史料編纂所兼任)岡美穂子稿)」(令和3 年 2 月 21 日 世界文化遺産登録2 周年記念「潜伏キリシタンの祈りの世界」展 記念講演 )

≪【澤田本十五玄義図】

・特徴1 巻物の形態で、非常に日本的な描写 。ラファエロの晩年の作品「システィーナの聖母」(制作当初イタリアのピアチェンツァの修道院の祭壇画)が原画であると思われる。
・特徴2 澤田美喜氏の伝記によれば、この絵画は 195 7 年頃、 頻繁に生月島を訪れ てい た澤田氏が、戦争で息子を失った生月島のかくれキリシタン信徒から譲り受けたとの記録。
→岡は2020 年、生月島へ手掛かりを求めて調査に赴く。 生月町 島の館の中園 成生 氏に、「戦争で跡継ぎが絶えたかくれキリシタンの 一族は存在するか? 」という疑問を中心に生月島の かくれキリシタン 集落(津元 の状況を教えてもらう。 『生月町史』に戦没者名簿あり。ただし、かくれキリシタンの有力者に繋がる戦没者は見つからず。
→澤田氏の入手先に繋がるような情報は見つからないものの、生月島の壱部 に伝わる「お掛絵」=「納戸神」に、足元の描かれ方が似た ものがあることを教示いただく 。
・特徴3 付随する 祈祷文 →平仮名化したラテン語文Litaniae de Sanctissimo Sacramento
さんちいしもさからめんとのらたにやす
茨木千提寺 の ザビエルとロヨラの 有名な 聖母マリア 十五 玄義図 (東家本・原田家本 と共に発見されたもの 「至聖なる秘跡への連願」 とほぼ同文。
*聖体拝領のために唱える目的。十五玄義図 を目視し、キリストと聖母の生涯を想起しながら、悔い改める、という一連の 儀礼 に用いられたか?
→信徒が日常的に唱えるオラショではなく、「聖体拝領」の時に用いられると考えると、かくれキリシタンの「オラショ」に残っていない理由となる。
・特徴4 「 御出生以来千 五 百 九 十 二 年 」「者う路」の意味
本資料の発表当時、「1592 年に、「パウロ」という信徒が書いたもの」と報道される。オラショの原文が平仮名に書き起こされたのが、 1592 年であったと考えることも可能ではないか? 

【残る謎】

■通常、日本のキリシタン画は、16 世紀にヨーロッパで制作された銅版画のデザインを用いたものが多いと言われるが、「システィーナの聖母」の銅版画は 16 世紀に制作された ことは確認できない。
→システィーナの聖母のスケッチなどが日本に伝わった可能性?たとえば、西洋画の画家として、日本人学生も指導したイタリア人ジョバンニ・ニコラオ (本名 G iovanni Colla がラファエロの絵をピアチェンツァで見たことがあった?
■生月のキリシタンの習慣では、キリシタン集団(津元 )の 有力者が所有する「たからもの」は 津元の所有物 と考えられるため、所有者が勝手に処分できるものではない。ただし、 津元 内の人間関係が崩壊しているような場合、外部に流出した例がある (中園氏談 。
■パウロとは何者か
*養方パウロ 若狭出身の医師で、イエズス会内部でも教養の高さで一目置かれる(小林 2020 )。 コレジオで日本文学を教える →ただし、 1592 年に養方パウロは存 命中であるものの、年齢は 80 歳を超えている。「者う路」の署名と花押は比較的シンプル 。
*天草パウロ良印 日本人修道士。 1553 年頃、天草生まれ。 1577 年にイエズス会に入会。1587年、ヴェネツィア出身の司祭ジョゼッペ・フォルナレッティと共に、五島で(宇久)純玄から布教と教会建設の許可を得る (五島のキリシタン布教のパイオニア 。 1592 年から主に上方で布教。江戸時代初頭には、イエズス会の日本人修道士のトップ3に数えられ、家康とも度々 面談。高山右近の侍僧として共にマニラへ渡り、同時期に死亡。
*天草パウロではないかと考える理由 花押が明朝体(通説では家康以降、つまり江戸時代の花押スタイル)、明朝体の中の文字がアルファベットの R に見える。

1.イエズス会の布教における「絵画」の利用
○セミナリオ内の画学舎 1593 年、島原半島の 八良尾 に初めて創設される(ジョバンニ・ニコラオ 修道士が教師 )。以後、セミナリオの移動と共に、場所を変える。天草⇒長崎
○画学舎で学んだ 日本人絵師の活躍
・丹羽ヤコブ
・木村レオナルド
・謎の絵師 信方
・島原の乱陣中旗製作者 山田 右衛門作 等々

2 宣教師・ 修道士 ・同宿
■ アレッサンドロ・ ヴァリニャーノ『日本諸事要録』( 158 3
来日 ① 1579 82 年 、 ②1590 92 年、 ③1598 1603 年
◇日本人修道士について
〔1 〕 外国の宗教と思われていないキリスト教
〔2 〕 日本にキリスト教が浸透したのは日本人修道士の功績
〔3 〕 日本人修道士には十分にキリスト教を学ぶ時間がない
〔4 〕 日本人は日本人修道士の説教の方を好む
◇日本人の同宿について
〔5 〕「第 15 章―同宿とその性格、並びに日本においてこれを欠くことを得ない理由:〔同宿は〕将来僧侶になるために、僧院の中で育てられた若者であり、頭髪を剃り、僧侶とは異なってはいるが、同様に長衣を着用している。…我等の教会にも、これと同様の者が大勢いる。 すなわち、 セミナリオに住んでいる少年も、剃髪し、長衣を着て、我等の修院にいる者も日本では《同宿》という名称で呼ばれている からである。」
〔6 〕「第一、当初から今日に至るまで、日本人修道士の数は不足しており、言語や風習は我等にとって、はなはだ困難、かつ新奇であるから、これらの同宿がいなければ、我等は日本で何事もなし得なかったであろう。今まで説教を行い、教理を説き、実行された司牧の大部分は、彼等の手になるものであり、教会の世話をし、司祭たちのための交渉の文書を取り扱い、先に述べた茶の湯の世話をするのも彼等である。…彼等はまた、 埋葬やミサ聖祭、聖体行列、 および盃や肴をもって客を接待するのを手伝う。」

3 絵画の役割、ふたたび

■グレゴリウス 14 世の大赦の布告文 の翻訳が「改悛の祈り」「贖宥のオラショ」として流布→ ドソン (るそん) のオラショ/オラショの功力
長崎・外海系のキリシタンの間に伝承。

「こんた(ロザリオ)、いませ(聖画)、べろにか(キリスト像)、くるす(十字架)、あにうす・でい(アニュス・デイ)、れりきあ(聖遺物)の御くりきの次第、右のうち、いづれなりとも一しょもち、ねざめならば、おきあがる時、うやまいもて、へれちいたしい、さんたちりんたあて(三位一体)のくりきの、うへえのくりき、ちりんたあてのくりき、尊とまれとなゑ、其の ひもとにおちさる用に、年くわんし、ろそんのきりしたんたあてのうゑをてうす(神)に頼み奉らば、もと半分の御ゆるしをかうむるなり。」

*1591 年、教皇グレゴリウス 14 世(在位 1590 1591 )が発した大赦の布告文の日本語訳として知られる。先代のシクストゥス 5 世も同様の大赦を認めている 。
*特徴=ロザリオ、メダイ、聖画、アニュス・デイ(白蝋に神の子羊を模ったもの)などの祝別された聖具を所有して祈ることにより、「ルソン」地域では「贖宥」が与えられると明言される。様々な「もと半分の御ゆるし(分贖宥)」と「 いんずるせん志や・べれなれや(全贖宥)」を得る方法が記される。

おわりに

 16・ 17 世紀のキリスト教といえば、ヨーロッパ 文明のヒト、モノの影響のイメージが強いが、日本の布教現場では、そのイメージは 現代人が考えるほどには強く はなかった のではないか 。しかしながら、日本よりも圧倒的に発達していた宗教画は、日本人の心を動かす重要な布教道具であった。「 ド ソンのオラショ」に あるように、「聖なるモノ」そのものを拝むことで、「罪の赦し」が得られるという発想は、布教者の数が減少し、キリシタンが地下組織化していく中で、彼等の 信仰を維持する重要な役割を担ったと考える。≫
(「キリシタン―日本的なものが生じた背景―(東京大学大学院情報学環(史料編纂所兼任)岡美穂子稿)」抜粋)

(追記二)「澤田美喜記念館 オフィシャルサイト - エリザベス・サンダース」
https://www.elizabeth-sh.jp/memorialmuseum/

「所蔵品を見る」

横瀬浦の天主堂の鐘.jpg

「横瀬浦の天主堂の鐘」
横瀬浦は、現長崎県西海市西海町横瀬郷にある入江の港である。城主大村純忠がポルトガル人に手を差し伸べた貿易港で、ルイスフロイスが横瀬浦に上陸し、布教活動を開始した。ここにあった天主堂の鐘楼である。

筆書の図と文.jpg

「筆書の図と文」(「ご聖体の連祷と黙想の図」)
この図と文はパウロと言う霊名の信者の書いた、御出生以来1590年と年代のあるラテン語の連祷とロザリオの15玄義である。

家康像.jpg

「家康像」
三種類の木をはぎ合わせて作られている。烏帽子と、手に抱え持っている板状の物に十字があるが、禁教時代には釜炭等を塗りつけて隠したと伝えられている。足を合わせている。首を抜くと首の底面に十字が浮彫りにされているのが見られる。


(追記三)「システィーナの聖母」(「ウィキペディア」)

システィーナの聖母.jpg

『システィーナの聖母』(「ウィキペディア」)
作者 ラファエロ・サンティ
製作年 1513年 - 1514年頃
種類 カンバスに油彩
寸法 265 cm × 196 cm (104 in × 77 in)
所蔵 アルテ・マイスター絵画館、ドレスデン
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/raphael_sistina.html

【■ サン・シストの聖母(聖会話、システィーナの聖母)(Madonna Sistina (Sacra conversazione)) 1512-14年頃 265×196cm | 油彩・画布 | ドレスデン国立絵画館
 盛期ルネサンスの三大巨匠のひとりラファエロ・サンツィオ後期を代表する宗教画作品『サン・シストの聖母(聖会話、システィーナの聖母)』。本作は教皇ユリウス2世が自身の故郷ピアチェンツァのサン・シスト聖堂(システィーナの聖母)の祭壇画としてラファエロに注文し制作された作品で、画面中央上部に幼子イエスを抱く聖母マリアが、画面の左右に聖シクストゥスと聖バルバラ、画面中央下部に幼い2天使が配されており、登場人物によって菱形(又は十字)が形成されているのが大きな特徴である。
 画面中で最も偉大的に描かれる幼子イエスと聖母マリアは非常に厳粛性と威厳性に満ち溢れており、特に幼子イエスには父なる神の神々しさが、聖母マリアには貞淑的かつ慈愛的でながら、観る者へと向けられる視線にはどこか聖母としての厳しさが感じられる。画面左側には初期ローマ教会で最も崇拝されていた殉教者のひとりとして知られる聖シクストゥス2世が幼子イエスと聖母マリアの顕示に感動し信仰を示すかのような仕草を見せている。画面右側に配される十四救難聖人のひとりである処女聖人バルバラが下方へと視線を向けており、その表情はラファエロが手がけた女性像の典型的な美を見出すことができる。
 この2聖人はサン・シスト聖堂でも特に崇拝されていた聖人であるほか(聖バルバラはデラ・ローヴェレ家の守護聖女でもある)、聖シクストゥスはユリウス2世の、聖バルバロはユリウス2世の姪(ジュリア・オルシーニ又はルクレツィア・デラ・ローヴェレ)の姿が模されていると推測されている。そして画面下部には、やや退屈そうな表情を浮かべる無邪気な天使たちが上部を見上げるような仕草で配されており、本作の中に宗教的精神とは異なる面白味に溢れた趣を与えている。
また画面上部左右に描かれる半開の幕は当時の墓碑を真似たものであると推測されており、一部の研究者たちからは教皇ユリウス2世の墓碑に掲げる為に制作されたとの説も唱えられている。 】
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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十五 [南蛮美術]

(その十五)「長崎奉行所キリシタン関係資料などの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その二)」周辺

聖母子1・長崎奉行所.jpg

重要文化財「聖母子像」(※雪のサンタマリア)(東京国立博物館蔵)
(指定名称)長崎奉行所キリシタン関係資料 (長崎奉行所キリシタン関係資料 のうち) 1面
銅板油絵 額縁共長17.3×幅13.9 江戸時代・16世紀後期~17世紀初期 東京国立博物館 C-695
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100428&content_part_id=034&langId=ja&webView=
※「雪のサンタマリア」は、『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「作品解説5」に因る。

聖母子・長崎奉行所.jpg

重要文化財「聖母子像」(東京国立博物館蔵)
指定名称)長崎奉行所キリシタン関係資料 (長崎奉行所キリシタン関係資料 のうち) 1面
銅板油絵 額縁共長24.2×幅19.4 16世紀後期~17初期 東京国立博物館 C-699
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100428&content_part_id=038&langId=ja&webView=

聖母子像三体.jpg

「プロローグ1 渡りきた聖母像」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)
左 → 重要文化財「聖母子像」(※雪のサンタマリア)(東京国立博物館蔵)
中央→ 重要文化財「聖母子像」(東京国立博物館蔵)
左 → 「ロレートの聖母」茨木市中谷家蔵

「ロレートの聖母子」(中谷仙之介家発見遺物)
亜鉛板打出油彩 聖家族が戦火を避けるため、ナザレからイタリアのロレートまで天使によって空中を運ばれたという。
http://bittercup.blog.fc2.com/blog-entry-5074.html?sp

【 (作品解説8)
亜鉛版押出し油彩 龕(がん) 12.1×9.1
The Virgin and Child of Loretto oil on embossed zinc plate
大阪府三島郡清渓村(現在の茨木市)大字千堤寺で発見されたもの。うすい亜鉛版の裏側から型で押し出した図様に油彩を施したもの。図中の左側上方に、「LORETA」(ロレート)の文字がみえる。ロレートは、イタリア半島アドリア海沿岸のマルケ地方の巡礼地である。伝説によれば、イスラエルのナザレトにあった聖母子の家がサラセン軍占領下にはいったので、天使たちが、それを地中海を越えて運んだ場所がロレートであったという。本図には、天使たちが聖堂と聖母子を運ぶ情景が描かれている。 】(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』)

日本人の筆による聖母像.jpg

プロローグ2 日本人の筆による聖母像(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)
左 →「ご聖体の連祷と黙想の図」(澤田美喜記念館蔵)
中央→「マリア十五玄義図」(原田本)
左 →「雪のサンタマリア」(日本二十六聖人記念館所蔵)
雪のサンタマリア一.jpg

「雪のサンタマリア1」=ローマからシチリアへ、そして日本へ伝来した「雪の聖母」伝説
(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」

雪のサンタマリア一2.jpg

「雪のサンタマリア2」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」

雪のサンタマリア一3.jpg

「雪のサンタマリア3」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」
左 → 重要文化財「聖母子像」(※雪のサンタマリア)(東京国立博物館蔵)
中央→「聖母子像」(真っ黒で図像が定かに見えない)(東京国立博物館蔵)
右→「ローマのサンタマリア・マジョーレ聖堂の『サルス・ポプリ・ロマーニ。聖ルカに
よって描かれたという伝承から「ルカの聖母」 と、また大聖堂創設の由来伝説から 「雪の聖母」 とも称されたイコン。

(追記一)「雪の聖母」(「ウィキペディア」)

雪の聖母.jpg

【 雪の聖母 (ゆきのせいぼ:イタリア語Madonna della Neve)とは ローマ教皇リベリウスの時代の伝説に基づいたもので、この伝説によると、8月5日の夜、聖母マリアのお告げによって、現在のイタリア、ローマのエスクイリヌス丘の頂上に雪が降り、この雪で覆われていた部分を中心にして、聖母マリアに捧げる聖堂が建設されたとされる。
 この聖堂は現在ではサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂と呼ばれ、ローマではその祝日を数世紀にも渡って8月5日に祝わっている。しかしながら、この奇蹟に関する記録が歴史記録として数百年に渡り存在しない。さらにこの聖堂を献納した教皇シクストゥス3世ですら、この伝説は歴史的な基盤を持たないかも知れないとしている。これらのことにもかかわらず、14世紀にこの祝日はローマ中の教会に広まり、そして最終的にこの日は教皇ピウス5世によって世界的祝日に定められてしまった。 】

(追記二)「聖母を描く聖ルカ」(「ウィキペディア」)

聖母を描く聖ルカ.jpg

『聖母を描く聖ルカ』(「ウィキペディア」)
作者 ロヒール・ファン・デル・ウェイデン
製作年 1435年 - 1440年
種類 オーク板に油彩、テンペラ
寸法 137.5 cm × 110.8 cm (54.1 in × 43.6 in)
所蔵 ボストン美術館、ボストン
【 『聖母を描く聖ルカ』(せいぼをえがくせいルカ(英: Saint Luke Drawing the Virgin))は、初期フランドル派の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンが描いた絵画。芸術家の守護聖人ルカが幼児キリストを抱く聖母マリアを描いている場面が描かれており、ブリュッセルの芸術家ギルド聖ルカ組合のために1435年から1440年にかけて制作した作品である。  
 オーク板に油彩とテンペラで描かれた板絵で、絵画の師であるロベルト・カンピンのもとでの修行を終えた後に、ブリュッセルの公式画家に任命された当初の作品の一つと考えられている。この作品を所蔵するボストン美術館は、「アメリカ合衆国に存在する北ヨーロッパ絵画でもっとも重要な作品である」と位置づけている。
 ファン・デル・ウェイデンは、この作品に多くの宗教的寓意を内包させている。聖母マリアの座る椅子の肘掛には、アダムとイヴの堕罪 (en:Fall of Man) の彫刻が表現されているが、これはマリアとキリストが贖罪で果たす役割の象徴である。マリアはダマスク織の天蓋の下に座っているが、実際に座っている場所は玉座ではなく足を置くステップで、これはマリアの謙虚さを表している。画面最右部の小部屋には、ルカを象徴する膝を折った雄牛と、ルカが書いたとされる福音書がページを開いた状態で描かれている。背景のロッジアの「閉ざされた庭 (en:hortus conclusus)」は、聖母の純潔を意味している。また、ファン・デル・ウェイデンは聖母子を極度に理想化せずに実在の人間らしく描写している。さらに、聖人の頭上に通常描かれる光の輪である円光がない、くつろいだ雰囲気の空間として描かれているなど、当時の写実主義の影響を受けていることが見て取れる。
 『聖母を描く聖ルカ』は、同じく初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1435年ごろに描いた絵画『宰相ロランの聖母』をもとにしている。ファン・デル・ウェイデンのアプローチは正統的なものとなっており、ルカが聖母を銀筆で描いている様子など、ファン・デル・ウェイデンが専門的技量を有していたことをうかがわせる。銀筆は高度な技術が必要な道具で、ファン・デル・ウェイデン自身の技量と自信とを物語っているのである。ルネサンス美術において「聖母(子)を描く聖ルカ」というモチーフは、この作品とよく似ているロベルト・カンピンの祭壇画とともにこの『聖母を描く聖ルカ』が嚆矢となっている。
 この作品に描かれているルカはファン・デル・ウェイデンの自画像ではないかと考えられている[5]。これは芸術家がときおり用いる手法で、自身の作品の登場人物の顔として自画像を描くことによって、画業が自身の天職であることを宣言し、さらに芸術の守護聖人との一体感を示すという意味があった。
 ヤン・ファン・エイクの『宰相ロランの聖母』と同様に、『聖母を描く聖ルカ』にも橋にもたれかかる二人の人物が遠景に描かれている。この二人の人物が特定の誰かを描いているのかについては諸説あるが[6]、マリアの父母である聖ヨアキムと聖アンナとする説がある[7]。どちらの人物もモチーフに描かれている聖母子と聖ルカには背を向けており、このことは二人の人物が聖ルカとこの作品を観る者よりも超然とした立場にいることを示唆している。
 『聖母を描く聖ルカ』が絵画界に与えた影響は広範囲に及ぶものだった。一部の学者が唱えているようにこの作品がブリュッセルの聖ルカ組合の礼拝堂にあったのだとすれば、多くの芸術家たちが目にすることができ、模写をすることが可能だったと考えられる。『聖母を描く聖ルカ』には複数の複製画が存在し、長きにわたってどの作品がファン・デル・ウェイデンの真作であるのかが明確にはなっていなかった。ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク(1483年ごろ)、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館(1475年 - 1500年ごろ)、ブルッヘのグルーニング美術館(制作年不明)に『聖母を描く聖ルカ』を模写した複製画が所蔵されている。また、裁断された断片、あるいは一部を模写した複製画が、ブリュッセル、カッセル、バリャドリッド、バルセロナに残っている。
 20世紀初頭には複数の美術史家が、ファン・デル・ウェイデンが描いたオリジナルの『聖母を描く聖ルカ』はおそらく既に失われており、現存するものはすべて複製画であるとする学説を唱えていた。しかしながら、赤外線リフレクトグラムによる調査で、ボストン美術館所蔵の『聖母を描く聖ルカ』には他の作品に見られない固有の下絵が発見され、ボストン美術館の作品こそがファン・デル・ウェイデンの真作であると認定された。これら赤外線による調査で、『聖母を描く聖ルカ』にも当初はヤン・ファン・エイクの『宰相ロランの聖母』と同じく聖母に戴冠する天使の姿が描かれていたが、完成した作品からは除去されていることが明らかになっている。当初、この作品の制作年度は1450年ごろではないかと推測されていたが、現代の美術史家たちの意見はファン・デル・ウェイデンの画家としてのキャリア初期の1435年から1440年ごろだろうという見解に落ち着きつつある。
 『聖母を描く聖ルカ』は著名な作品で、多くの複製画が残っているにも関わらず、19世紀までの来歴はほとんど残っていない[11]。スペイン王カルロス3世の甥の子息にあたる、ポルトガル王子・スペイン王子セバスティアン・ガブリエルのコレクションに含まれているという1835年の記録がある。セバスティアン・ガブリエルは自身も芸術に精通した人物で、ドイツ人芸術家ルーカス・ファン・レイデン (en:Lucas van Leyden) の作品目録を制作したほか、最初期の美術品修復家ともみなされている。
 『聖母を描く聖ルカ』に大規模な洗浄修復が実施されたのは1932年のことで、これまで少なくとも4回にわたって修復作業が行われている[7]。もともとの保存状態は非常に悪く、縁部分も画肌部分もかなりの損傷を受けていた。
 『聖母を描く聖ルカ』は1889年にニューヨークで開かれたオークションで、ボストン交響楽団の創設者として知られるヘンリー・リー・ヒギンスン (en:Henry Lee Higginson) が落札し、その後1893年にボストン美術館に寄贈された。ボストン美術館は1989年に「芸術の背景 - ロヒール・ファン・デル・ウェイデン『聖母を描く聖ルカ』」という特別展覧会を開催している。 】
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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十四 [南蛮美術]

(その十四)「長崎奉行所キリシタン関係資料などの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その一)」周辺

親指のマリア・悲しみのマリア.jpg

「聖母像(親指のマリア)=左」(重要文化財・東京国立博物館蔵)と「悲しみの聖母=右」(国立西洋美術館蔵)
https://nordot.app/561745268610516065

https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100428&content_part_id=037&langId=ja&webView=

【 重要文化財「聖母像(親指のマリア)」
(指定名称)長崎奉行所キリシタン関係資料 (長崎奉行所キリシタン関係資料 のうち) 1面
銅板油絵 額縁共長26.7×幅21.5 17世紀後期 東京国立博物館 C-698
キリシタン禁圧のさなか、宝永5年(1708)に鹿児島の屋久島に着いた、イタリア人神父ジョヴァンニ・シドッチ(1667~1714)は、漂着の翌日に捕らえられて江戸に護送され、新井白石の取調べを受けた後、江戸キリシタン屋敷で没した。この聖母像は彼が携行していたものといわれる。図はイタリア・フィレンツェで活躍し、感傷的な画風で人気のあったカルロ・ドルチ(1616~1686)の作品に酷似している。聖母は天上の愛の象徴である藍色の上衣と、悲しみの象徴である紫の下衣をまとっており、頬にわずかな慈悲の涙をうかべている。また、衣の縁から親指のみをあらわすことから「親指のマリア」と呼ばれ、親しまれている。 】

親指のマリア・拡大図.jpg

「聖母像(親指のマリア)=左(部分拡大図)」 → 「頬にわずかな慈悲の涙をうかべている。」

【 「親指のマリア」=鎖国下での白石との出会い

 1708年シドッチが携えてきた「親指の聖母」 カルロ・ドルチ作、 東京国立博物館蔵。
この絵は、カルロ・ドルチが描いた神々しいほどの悲しみが表現された美しい聖母像「親指の聖母」です。
 その画像を携えて、イタリア人教区司祭だったジョバンニ・シドッチは、 1708 年鎖国下禁教百年近くになる日本に潜入し、上陸した鹿児島で捕らわれ、江戸切支丹屋敷(山屋敷)に護送されます。
この知らせをきいて幕府の重臣新井白石はシドッチの取り調べに当たりました。この逸材二人の出会いは、立場、信条の相違をふまえながらも、互いの尊敬と信頼に満ちたものでありました。】(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 2(蕨由美稿)」)

白石とシドッチ.jpg

「親指のマリア」=鎖国下での白石との出会い(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

https://collection.nmwa.go.jp/P.1998-0002.html

【「悲しみの聖母」=右 カルロ・ドルチ[フィレンツェ, 1616年 - フィレンツェ, 1687年]

制作年      1655年頃
材質・技法・形状 油彩、カンヴァス
寸法(cm)  82.5 x 67
署名・年記 カンヴァス裏面に書込み: REGINA MARTIRUM ORA PRO NOBIS
作品解説
 この作品は1655年頃、カルロ・ドルチ39歳の作です。暗い背景に淡い光背に包まれて、深みのあるラピスラズリの青のマントを身にまとった聖母マリアの美しくも悲痛な表情は観者の心に深く訴えかけるものがあります。カルロ・ドルチの詳細な伝記を最初に残したフィリッポ・バルディヌッチ(1625-1695)によれば、彼は子供の頃から敬虔な信仰の持ち主で、生涯聖ベネディクトゥス信者会に属していたといいます。両手を合わせた聖母の構図はティツィアーノの聖母像に起源をもちますが、むしろティツアーノを原型として16-17世紀にスペインで人気を博した聖母像の形式をふまえたものと考えられます。長いこと聖母のモデルは1654年に結婚した妻テレーザ・ブケレッリと考えられてきましたが、テレーザを描いた自筆デッサンとの比較により、疑問も提示されています。(出典: 展示室作品解説パネル)   】(「国立西洋美術館」解説)

カルロ・ドルチの作品.jpg

「カルロ・ドルチの作品」(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

悲しみのマリア.jpg

「悲しみのマリア画像」(南蛮文化館蔵) 麻布油彩 額 52.5×40
(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「作品解説5」)

【 大正時代の中頃に、越前北ノ庄(福井)の代々医者であった旧家の土蔵に塗りこめられた竹筒の中から発見された。わずかに顔を傾けてキリストの受難の悲しみに耐えるマリアの容貌と心情が、丁寧な肉付けと陰影によって的確に表現されている。十六世紀中頃の南欧の作品といわれるが、当時舶載された作品の中ではもっとも優れたものの一つである。 】
(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「作品解説5」)

https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12274893596.html

【●この「 悲しみのマリア 」画像は、越前・ 福井の医師の家に代々、伝来されたもので、
100年ほど前の大正時代に、奥田家の土壁から、竹筒に入った状態で発見され、→林若吉 →池長孟(はじめ)→北村芳郎(南蛮文化館)の所蔵となったのでした。
 江戸時代の初めに、福井の町に、「 奥田無清(むせい)」という 医者がいました。隠れキリシタンで、1643年に捕まって江戸に送られ、福井藩の江戸屋敷で刑死したか、拷問で亡くなりました。殉教されました。
●奥田家から見つかった物は、この悲しみのマリア」 画像だけではありません。以下の、多くの貴重な キリシタン遺物も見つかっていますが、( 仏壇の裏に 隠されていました。)
 
 それらは、池長孟コレクション→神戸市立博物館 に寄贈され、所蔵されています。

・「教会祝日暦 」フランドル( 現ベルギー)製銅版画12枚の小型銅版カレンダーを貼り合わせた、貴重な逸品。
・ 鞭打ちのキリスト図 聖牌
・ 十字架を担うキリスト図 聖牌
・ 磔刑のキリスト図 聖牌
・ 聖フランチェスコ像 聖牌
・ 蒔絵螺鈿 松字朝顔文小箱
・ 手帖
・ 金属製 箱
・ メダル 及び 聖牌 17種   】

https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=100428&content_part_id=0&content_pict_id=0

【(指定名称)長崎奉行所キリシタン関係資料 東京国立博物館 C-589ほか

東京国立博物館が所蔵するキリシタン関係資料は、絵画、彫像、メダイ、十字架、ロザリオ、踏絵などであり、その中心をなすのは、長崎奉行所による信徒からの没収品で、由緒がはっきりしている点が特徴である。
これらの資料については、明治7年(1874)、維新後に資料を引き継いだ長崎県が、踏絵を購入したいという外国人の要望に対し、その処置に困り、一括して当時の教部省に引き取ってもらったことが知られている。その後、内務省社寺局の所轄になり、同省博物局所属博物館(東京国立博物館の前身)が引き継いだものである。
 絵画のうち、「三聖人像」は、大型の布製の油絵である。キリスト教の宣教師たちはこうした絵画を携えて来日したが、長旅と保存上の理由から、大型のものは少なく、大半は小型の銅板に描かれた油彩画であったと思われる。そのなかで、「親指のマリア」は、宝永5年(1708)に屋久島に潜入して捕らえられたイタリア人宣教師ジョワンニ・シドッチ(1667~1714)が所持していた聖母像と伝え、衣服から親指が少し見えているところからこの名称がある。
 彫像には、鉛製のキリスト像や、鮑貝製の浮き彫りキリスト像などがみられるが、「白磁観音菩薩像」(マリア観音)は、中国・福建省の徳化窯(とっかかま)でつくられた白磁製の観音像で、キリシタン取締りのさなか、信徒は観音像を聖母マリアに見たてて密かに崇敬していた。ほとんどが安政3年(1855)の浦上三番崩れで、長崎奉行所によって没収されたもので、もとの所蔵者の判明するものが少なくない。
 慶応元年(1865)、開国後の長崎に来たパリ外国宣教会のプチジャン神父は、布教のために十字架・メダイ・ロザリオを携行し、浦上の信徒に与えたが、慶応3年の浦上四番崩れで、その多くが没収されている。また、京都府下の福知山で発見されたメダイやロザリオ残欠なども遺品に含まれている。
 踏絵は、信徒判別のために寛永の初め頃ら実施されたといわれており、はじめは聖画を使用したが、損耗が激しく、数も不足したので、信徒から没収した「銅牌」を厚板にはめこんで踏絵に用いたのが「板踏絵」である。長崎奉行所が寛文2年(1669)に鋳物師(いもじ)の荻原(はぎわら)祐佐らに命じて制作したという真鍮製の踏絵は19枚が現存する。 】

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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十三 [南蛮美術]

(その十三)「高山右近旧領土の南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その四)」周辺

メダイの色々.jpg

 ≪東家のメダイ≫ 東家に所蔵されているメダイは7種7個で、京大報告書の図版では8個が掲載されている。ピエタのメダイが欠落しているとされている。大半が真鍮製 大きいもので約4cm 小さいもので約2cm。(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p61)

(メダイ=メダル)

①教皇グレゴリオ14世(径3.9)、②福者フランシスコ・ザビエル(2.6×1.7)、③イエスとマリア(3.3×2.1)、④聖体秘跡(天使聖体礼拝図 2.0×1.5))⑤十字架捧持者(ロヨラとザビエル)(1.8×1.3)、⑥無原罪のマリア(2.1×1.1)、⑦聖母子と十字架上のキリスト(2.9×2.4)

① 教皇グレゴリオ14世

(表)

教皇グレゴリオ14世・表.jpg

(裏)

教皇グレゴリオ14世・裏.gif

真鍮製 4.5(環を除く)×3.8 1591年グレゴリオ14世は、在期間が一年足らず(1590.12.5-1591.10.15)。ローマ教皇庁が関与した本メダイは、世界的にも現存数が少ない貴重なメダイ。紐を通す環(高さ0.6)表は教皇の肖像、その周辺にGREGORIVS・Ⅹ1111・PONT・MAX 下にAN・IPONT・MAXとは、PONTIFEX・MAXIM
VS(最高の司教:教皇)の省略系AN・Iは教皇在位第1年の意味
 裏面に聖霊の鳩を中央に右にキリスト、左にマリア 時計回りにIN・GRAM・PHILIPPINARVM、下方にはROMAE・AN・1591ラテン語銘文が刻印され、GRAMはGRATIAM(恩顧・厚意)の省略系で、スペインの植民地であったフィリピン諸島への恩顧の意味で、このメダイがフィリピン諸島を経て日本にきたことを示している。同型のグレゴリオ14世のメダイが長崎の大浦天主堂にも所蔵されているそうです。(このグレゴリオ14世のメダイについて、チースリク神父は次のようなことを書かれている)
・キリストと聖母の像がある表面のラテン文は「フィリッピン諸島への恩恵」という意味で、フィリッピンと関係がある。
・教皇グレゴリオ14世のメダイ作成に関する当時のヴァチカンの小勅書において、・・片面に主キリストかマリア・・か、片面(裏)には教皇の像を描き、・・かの地方の信者・・に、これについてる贖宥を得るため、・・(教皇の)好意のしるしとして配布すべきと書かれている。
・そして6種類の贖宥の内容が挙げられている・・・キリスト教の伝道にリーダー的な役割を果たし功績があった人等に贖宥が与えられる・・これらは、フィリピン原住民に対するキリスト教伝道に精神的肉体的福祉を促進させる狙いがある・・贖宥の有効地域に日本も含まれていた個数は1万個相当の数・・その枠は拡げられたそう。
・重要なことは、このメダイは、一般には配布されず、伝道・・のリーダー役に当たる人々の布教心を励ます目的であった。それで、千提寺東家の場合、東家が・・組頭、庄屋・・キリシタンの頭ではなかったかと推察できる。
・日本には1595年~1600年頃に届いたのであろう 日本で現存しているのは、この千提寺と長崎の大浦天主堂にある。(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p61-p62)

② 福者フランシスコ・ザビエル

聖フランシスコザビエル・メダイ.jpg

真鍮製 2.6×1.7  1619年 ザビエルが福者であった1619年~1621年までの製造と考えられている。ザビエルの列福は1619.10.21表にはザビエルの肖像とB.FRANC.XAVERIVSの銘文 裏には神と二人の人物像が鋳出されている。BはBEATUS(祝福された)の意味聖人だとSが使用される。裏は中央はイエス、左右は聖母マリアとマグダラのマリアではないかとの説もある。(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p62)

③ イエスとマリア 真鍮製 3.3×2.1
④ 聖体秘跡    真鍮製 2.0×1.5
⑤ ロヨラとザビエル(十字架捧持者) 真鍮製 1.8×1.3
⑥ 無原罪のマリア(救世主像)真鍮製 2.1×1.1

無原罪のマリア(東家メダル).jpg

「無原罪のマリア(救世主像)」
左=「無原罪のマリア」→ 鋸歯状の光背、星の冠、足下に月
右=「救世主」→ IHS ,受難の象徴の3本の釘
(「無原罪の聖母」のメダイは東京国立博物館にもある)(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p63)

⑦ 聖母子と十字架上のキリスト 鉛・錫 2.9×2.4 (国産か?)
⑧ ピエタのメダイ(欠落) 京大 拓本 ()

(追記)

無原罪の聖母(東京国立博物館).jpg

銅牌_無原罪の聖母 (東京国立博物館蔵)
画像番号:C0084127
列品番号:C-708
指定:重文
作者:日本製か
時代:16c後期-17c初期
形状:横7.5_縦10.5_厚1.1_163.56g
数量:1個
フィルムサイズ: 4×5
撮影日: 2005-10-12

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0084127

銅牌・聖母.jpg

(指定名称)長崎奉行所キリシタン関係資料 (長崎奉行所キリシタン関係資料 のうち) 1個
青銅製 長9.5×幅6.1 安土桃山~江戸時代・16世紀後期~17世紀初期 東京国立博物館 C-707
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=100428&content_part_id=58&content_pict_id=0

【 東京国立博物館が所蔵するキリシタン関係資料は、絵画、彫像、メダイ、十字架、ロザリオ、踏絵などであり、その中心をなすのは、長崎奉行所による信徒からの没収品で、由緒がはっきりしている点が特徴である。
 これらの資料については、明治7年(1874)、維新後に資料を引き継いだ長崎県が、踏絵を購入したいという外国人の要望に対し、その処置に困り、一括して当時の教部省に引き取ってもらったことが知られている。その後、内務省社寺局の所轄になり、同省博物局所属博物館(東京国立博物館の前身)が引き継いだものである。
 絵画のうち、「三聖人像」は、大型の布製の油絵である。キリスト教の宣教師たちはこうした絵画を携えて来日したが、長旅と保存上の理由から、大型のものは少なく、大半は小型の銅板に描かれた油彩画であったと思われる。そのなかで、「親指のマリア」は、宝永5年(1708)に屋久島に潜入して捕らえられたイタリア人宣教師ジョワンニ・シドッチ(1667~1714)が所持していた聖母像と伝え、衣服から親指が少し見えているところからこの名称がある。
 彫像には、鉛製のキリスト像や、鮑貝製の浮き彫りキリスト像などがみられるが、「白磁観音菩薩像」(マリア観音)は、中国・福建省の徳化窯(とっかかま)でつくられた白磁製の観音像で、キリシタン取締りのさなか、信徒は観音像を聖母マリアに見たてて密かに崇敬していた。ほとんどが安政3年(1855)の浦上三番崩れで、長崎奉行所によって没収されたもので、もとの所蔵者の判明するものが少なくない。
 慶応元年(1865)、開国後の長崎に来たパリ外国宣教会のプチジャン神父は、布教のために十字架・メダイ・ロザリオを携行し、浦上の信徒に与えたが、慶応3年の浦上四番崩れで、その多くが没収されている。また、京都府下の福知山で発見されたメダイやロザリオ残欠なども遺品に含まれている。
 踏絵は、信徒判別のために寛永の初め頃ら実施されたといわれており、はじめは聖画を使用したが、損耗が激しく、数も不足したので、信徒から没収した「銅牌」を厚板にはめこんで踏絵に用いたのが「板踏絵」である。長崎奉行所が寛文2年(1669)に鋳物師(いもじ)の荻原(はぎわら)祐佐らに命じて制作したという真鍮製の踏絵は19枚が現存する。 】
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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十二 [南蛮美術]

(その十一)「高山右近旧領土のの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その三)」周辺

茨城市立キリシタン遺物史料館.jpg

「天使讃仰図」の三絵図入りの「茨木市立キリシタン史料館」(「案内図」の部分拡大)
http://www.osaka-doukiren.jp/guidance/guidance04/2083

【 (天使讃仰図)→(「七秘跡」=「表紙」+「七秘跡」の八枚組み)
 銅版画、千提寺の東家1枚(②)、下音羽の大神家から5枚(①③④⑤⑦)発見された。 主禱文(主の祈り)と七つの秘跡がテーマとなっている銅版画です。①主禱には、「教会の七つの秘跡と七つの徳に対応する七つの請願」言葉がラテン語で書かれている。
 木炭紙風の洋紙に製版 印刷された銅版画
 東家 32.7cm×21.9cm(東家のものが中央部に天使が合掌する姿が描かれていたので天使讃仰図と言われている。(新村氏が名付けた))→ 下記の②
 大神家 31.3(31.2)×21.6(21.5)→下記の①③④⑤⑦
 (欠落) ⑥告解と⑧終油
 制作時期=1598年フランスのリヨンでマテウス・グロイテルという銅版画家が制作した8枚組の原図があるそうです。彼は1602年からイタリアのヴェローナに移り制作活動をした。大神家所蔵のものにヴェローナの刊行地名が印刷されているので、1602年以降の作品と考えられている。】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p12)

主禮・洗礼.jpg

「①主禱=表題 ②洗礼」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p12)

【① 主禱=表題(大神家所蔵)
キリストが人間に教えられた唯一の祈りである、「主の祈り」(主祷文)が、8枚全体の
テーマとなっていますが、この讃仰図はそのことを最初に示す図柄となっていると思います。上部に御父が描かれ、その御父を御子イエス・キリストと其の弟子達が見上げ、まさに「天にましますわれらの父よ」と呼びかけている様子が描かれています。キリスト教の神である「三位一体」の中心的な概念である「御父」を観念するためのものだと思います。
「ドチリイナ」では、神は父のように人間を大切にして下さる存在であることを想起し、希望に満ちた心でお願いするために、「父」と呼ぶのだと説明しています。恐らく、宇宙万物の創造主を父のイメージで、「御父」として捉え、神は私達人間を何時も気にかけ、愛してくださる、私達は神から愛されている存在であるというということを、祈りの最初に観念させるためのものだと思います。
次に「我らの父」とは、人はみな父の子で、互いを大切にすることを考えるためであり、「天にまします」とは、人の楽しみはすべて天にあり、この世に執着しないためであり、選ばれた善人達に天でお姿を見せらることであると説明しています。

②洗礼(東家所蔵)→第一の請願「み名が聖とされますように。SANCTIFICETVR NOMEN
TVVM」
 最初に御父を観念した後には、我らの願いをどのように御父にお願いしたらよいのかということが「七カ条」にわけて書かれています。これは今と全く同じで、今は最初の三つの願いは、御父の栄光が目的で、後の四つは私達の望みを神に申し上げる願いだと説明してい  ます。
「願わくば御名の尊まれんことを」とは神の名と栄光が世界に広まり、すべての人間の主である神とその御子イエス・キリストを理解し、尊敬することが出来ますようということであると説明しています。今の教義書では、全ての人が神の計画の実現に招かれ、御名はモーゼに告げられ、イエスによって啓示され、全ての人が御名を聖とすることを求めることであると説明しています。
人が神に願う最も大事なことは、神の御心が成就することだということを示しています。人の我欲をお願するのではないのです。この願いを「第一の請願」として祈ることは、新たに神の子として生まれ変わる「洗礼」の誓いの言葉を思い起こさせます。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p71-72)

堅信・叙階.jpg

「③ 堅信 ④品級(叙階)」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p12)

【③堅信(大神家所蔵)→第二の請願「み国が来ますように。ADVENIAT REGNVM TVVM」

 第二の願い、「御国のきたらんことを」とは、「我らが悪事や罪科から逃れ、ただ神と御子 イエス・キリストが、この世においては恩寵、後世においては栄光をもって、我らを自由に  してくださるようにと願うことである」と説明しています。
今はキリストの再臨と神の国の最終的到来に注目し、生きている今の時代に神の国の成長があるように祈ることだと説明しています。この教えに心をとめ、この図柄を味わうと、次のようなことを思い起こさせます。キリストの受難と復活を目の当たりにした弟子達が、聖霊の恵みよって強められ、神の国があることを知らせ、この世が少しでも神の国近付くようにするために、死を覚悟した宣教の旅、巡礼の旅に出ました。キリシタン時代のヨーロッパの巡礼は最後の審判を思いながら、御国に招かれることを望む、死を覚悟したものであったようです。
堅信の秘跡によって信仰を強められた私達も巡礼者のように御国があること、御国に招かれるように生きることが求められるのです。堅信の秘跡では「父の賜物である聖霊のしるしを受けなさい」と唱えられ、キリストの弟子、証人として生きることを約束するのです。まさに、これらのことに相応しい図柄である事に気付かされます。

④品級(叙階)(大神家所蔵)→第三の請願「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。FIAT VOLVUNTAS TVA SICVT IN/ COELO ET IN TERRA」

 第三の願い、「御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを」とは、「天において諸々の天使が神に従い、神のみ旨を実行するように、地上においても、すべての人間が神に従い、貴いみ旨のままに仕えることができますようにと願うことである」と説明されています。
 今は、神の救いの計画が地上でも実現するために、御子のご意志に私達の意志を一致させることを祈ることだと説明しています。品級とは今でいう「叙階」です。その役務としての祭司職の任務を果たすことができるための神の恩寵が与えられる秘跡です。按手によって聖務に必要な聖霊の恵みが与えられることが祈られます。永遠に消えない秘跡で、生涯独身を貫くことが求められます。
 このようなことを想起しながら図柄を味わうと、中央の十字架を持ち、ベールを被り修道服を着た天使は、役務としての祭司職の任務を果たす修道者の姿を象徴したもののように見えてきます。聖霊に強められ、キリストの十字架を担い、神の救いの計画が地上でも実現するためにその任務を果たすことができるように、司祭・修道者のために祈ることが求められています。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p71-72)

聖体・婚姻.jpg

「⑤聖体 ⑦婚姻)」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p12)

【⑤聖体(大神家所蔵)→第四の請願「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。 PANEM NOSTRVM QVOTIDIANV / DANOBIS HODIE」

 第四の願い、「われらの日用の糧を今日われらに与え給え」とは、「我らの魂のために毎日  の糧を与えてくださいと願うことである。それは具体的には、聖体を頂くという秘跡、恩寵、  善、その他霊的な賜物を頂くことである。また、この世での肉体の息災と生命を継いでいく  ために必要なことを与えてくださいと願ことであると説明されています。今のもほぼ同じです。
また、聖体の秘跡について、ミサの聖変化の意味などについて詳しく説明され、正しく  聖体拝領するには、告解、懺悔をし、前日の夜中から、飲み物、食べ物をとらず、湯水を  使わず、当日の朝十分な心の準備をすることを求めています。
このようなことを踏まえて、中央に描かれている動きのある天使は、何を象徴しているのか、どこか疲れた悲しげな表情、解れや裂け目が見える粗末な服装、腰に円形の皿のような  ものを紐でくくりつけ、左手に杖を持ち、何を見、何のために右手を差し伸べているのか、  気になります。皿は施しを受けるためのものか 単に貧しい人なのか それとも毎日の生活の糧は天から与えられる事を信じ、この世の物質的なことに思い煩うことなく、人の憐れみを乞いながら生きる放浪者か巡礼者か。何れにしても「日用の糧」を願う切実な思いが伝わってくる。全ての人に、特に貧しい人に必要な生活の糧と霊的な賜物が与えられるように
願うことを思い起こさせるものかもしれない。

⑦婚姻(大神家所蔵)→第六の請願

 第五の願い、「我らに負い目(罪)を持つ人を我らが赦すように、我らの負い目(罪)も赦して下さい」ということが書かれた「⑥告解」の秘跡の部分は、欠落しています。
 この部分について、「人よりかけられる恥辱、又は無礼その他を赦すように、我らが神に 対して犯す罪科、すなわち過ちも赦して下さいと願う」ことで、「隣人に対する恨みを捨て なければ、天におられる父は、その人の罪科を赦すことがない」と説明しています。
 この第五の願を受けて、第六の願、「われらを試みひき給わざれ」について、「試練にさらさないでくださいということで、その心は、この世では様々の試練に責められても、それらの試練に負けないように、神の恩寵をお願するということであると説明しています。
そして婚姻の秘跡について、「この秘跡は教会が教えるように、夫ないし妻を迎えること である。これによって一生を無事に過ごし、神の教えられる自然の法則の通り、子孫繁栄 のために、神が恩寵を与えられる秘跡である」と説明しています。
 この図柄をこのようなことを踏まえてみると、中央の天使は、実にふくよかで、子どもを孕んでいるように見えます。新しい生命を宿したお母さんを思い起こさせます。
 また、悪の誘惑に陥り、楽園を追放されたアダムとイブの物語が書かれていることは、 第五の願いに相応しいと思います。罪から遠ざけてくださいという願いにぴったりの 図柄だと思います。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p75-76)

⑥ 告解[欠落]→SED LIBERA NOS A MALO (われらを悪より救い給え)=第五の請願

パリ本《第五の祈願》.jpg

図6  パリ本《第五の祈願》

⑧ 終油[欠落]→ET DIMITTE NOBIS DEBITA NOSTRA SICT (われらが人に許す如
くわれらの罪を許し給え)=第七の請願

パリ本《第七の祈願》.jpg

図8  パリ本《第七の祈願》

(注一)「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」の説明事項に、下記の「茨木市立文化財資料館蔵『七秘蹟と七美徳がある主の祈りの七祈願(いわゆる「天使讃仰図」)』について」(蜷川順子稿)の、「パリ本《第五の祈願=請願》と「パリ本《第七の祈願=請願》」を加えた。関連して、同稿の「第一の祈願(請願)~第四祈願(請願)と第六祈願(請願)」の「祈願(請願)文」も加えた。

(注二)「パリ本」とは、「パリ国立図書館蔵のマテウス・グロイター(MatthäusGreuter, 1564/66-1638)による8 枚組のリヨン版(以下、パリ本と略)」の略称である。

(追記)「茨木市立文化財資料館蔵『七秘蹟と七美徳がある主の祈りの七祈願(いわゆる「天使讃仰図」)』について」(蜷川順子稿)

パリ本『七秘蹟と七美徳がある主の祈りの七祈願』《表紙》.jpg

図1 パリ本『七秘蹟と七美徳がある主の祈りの七祈願』《表紙》

パリ本《第一の祈願》2.jpg

図2  パリ本《第一の祈願》

パリ本《第二の祈願》.jpg

図3  パリ本《第二の祈願》

パリ本《第三の祈願》.jpg

図4  パリ本《第三の祈願》

パリ本《第四の祈願》.jpg

図5  パリ本《第四の祈願》

図6 第五の祈願[図6 ] →上掲の「6パリ本《第五の祈願》」

パリ本《第六の祈願》.jpg

図7  パリ本《第六の祈願》
【(6) 第六の祈願[図7 ] SEXTA PETITIO 31.4 × 22.4 cm
 続く第六頁目には、ページの一番下に第六の祈願の文字があり、主の祈りの第六祈願「わたしたちを誘惑におちいらせず、ET NE NOS INDVCAS IN TENTATIONĒ[M]」の文字が、同じく天上から降り注ぐ光の源を弧状に囲むように浮かび上がる。ここでは、左下にも第六祈願の文字があり、右側に「賢明 婚姻の秘蹟IN PRVDENTIA / ad Sacramentum / MATRIMONI[U]」という美徳と秘蹟とが記されている。画面中央には髪を長く垂らした、無花果の葉で腰を覆った豊満な裸体の婚姻の擬人像が、両手を胸に当てて天を仰いでいる。この擬人像はエヴァでもあり、背景向かって左手で、食べることを禁じられていた知恵の木の実をヘビから受け取ってアダムに手渡すエヴァに呼応している。また向かって右手の、眠っていたアダムが目を覚まし、創造されたエヴァと引き合わされる場面は婚姻に対応する。
 擬人像はここでも、建物の入り口のようなところに立ち、左右にある角材にピンで留められた紙に、やはりやや長い銘文がある。向かって左には、「この祈願の女人の服装は、楽園で罪を犯した後のアダムとエヴァの服装を示している。楽園で最初の誘惑が生じ、その楽園でアダムとエヴァの結合が婚姻の秘蹟と認定されたのである。誘惑の初めの通常の形は
肉欲的なものであるが、それの治癒が婚姻の秘蹟なのである。Huius petitionis / habitus referthabitum / primorū[m] Parentū[m] in Pa= /radiso post com[m]ißum / peccatū[m], quia inPara= / diso fuit prima tēntatio, / et in Paradiso Sacramē[n]= / tum Matrimonij in Adæ /atque Euæ coniugio de= / signatū[m]. Tentatio= / num antē Vniuersalis= / sima carnalis,eiusque / remediū[m] sacramentū[m] / Matrimonij / Melioe~ nubereque vri.」と画面の説明が記されている。向かって右には「誘惑の手段となったのはヘビであり、ヘビは狡猾と知恵の象徴である。しかし女性は結婚の成果によってそのヘビの頭を打ち砕いたのである。「ヘビのように賢く、鳩のように素直になりなさい」18)「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(『マルコ』14 : 38 )Tentationis instru= / mē[n]tū[m] fuit Serpens qui et / calliditatis etetiam / prudentiæ simbolum / proprium est, cui[o us] caput / conterens Mulier, succes= /sione matrimoniali./ Estote prudentes vt Ser= / pentes et simplices vt / columbæ. / Vigilateet orate ne / intretis in tentatio= / nem. Marci 14」と書かれている。擬人像の下の装飾的なカルトゥーシュには、教会での婚姻の儀式の場面が描かれている。男女の結ばれた右手の上に司祭がその右手を置き、左手に広げた聖書をもっている。女性方、男性方にそれぞれ二人ずつ親族と思われる人がいる。左右に延びたカルトゥーシュの装飾には、左側にへびが、右側には賢明の象徴の鏡がある。】(「茨木市立文化財資料館蔵『七秘蹟と七美徳がある主の祈りの七祈願(いわゆる「天使讃仰図」)』について(蜷川順子稿)」p63-p64)

図8 パリ本《第七の祈願》 →「上掲の図8  パリ本《第七の祈願》」
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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十一 [南蛮美術]

(その十一)「高山右近旧領土のの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その二)」周辺

ザビエル像(東家本).jpg

「聖フランシスコ・ザビエルの画像」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p9)

【 (聖フランシスコ・ザビエルの画像)

・大正9年(1920年)9月26日、千提寺の東氏の母屋の屋根裏の梁にくくりつけてあった「あけずの櫃」の中から発見された 南蛮美術館の創始者として知られる池永孟氏の熱心な求めにより、同氏のコレクションの一つに加えられ、戦後、池永コレクションは神戸市に譲渡され、現在は神戸市市立博物館の所蔵となっています。国の重要文化財です。
・全体の構図の原型は、「フランシスコ・ザビエル伝」(オラチオ・トルセリーノ著)の巻頭を飾る肖像画に由来すると言われています。中央に黒いイエズス会の服をまとったザビエルが描かれ、その両手は十字架の突き出た赤い心臓を抱くように描かれ、その眼は磔刑のキリストを見つめ、光を放つ十字架の下の方にIHS(イエズス会の紋章)が書かれ、頂部には、INRI([Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum]ナザレのイエス ユダヤ人の王)と書かれた罪状標が付けられている。
・天上に3人の天使が描かれ、十字架上のキリストを見守っている。ザビエルの口から出ている言葉「SATISサチス ESTエスト DNEドミネ SATIS EST」(ラテン語)(十分なり、主よ十分なり、満ち足れり主よ満ち足れり)が記されている。下部には、S.P.FRACISCUS XAVERIVSSOCIETATISV (聖父イエズス会士フランシスコ・ザビエル)と記されている。ザビエルの名にはS(Sanctus 聖の略)が冠してある。さらにこの下には、「賛語」が万葉仮名で、「瑳夫 羅怒 青周 呼山 別論 悶瑳 可羅 綿都(聖フランシスコ・サべリオ サクラメント)」と書かれている。作者をあらわす落款には、「漁父環人」と記されている。このザビエルの画像は、ザビエルの列聖がイエズス会総会長から日本の管区長に伝えられ、その特別権限委任により、日本で賛語とともに描くことを許可された記念の絵画と思われる。従って、1623年以降の作品と考えられる(茨木市資料)(ザビエルの列聖式は1622年行われたが、大勅書の発布が遅れ、日本に知らされたのは、1623年であった)
・1625年、イエズス会のポロ(ポルロ)神父が、ザビエルの聖画を持って中国地方を巡回し、信徒を励まし、信徒は感激しています。恐らくこれと同じようなことが千提寺・下音羽でも行われていたのではないだろうか。
・ザビエルの名にはS(Sanctus 聖の略)が冠してあり、ザビエルの頭部の周りには、光輪が描かれ、十字架とイエズス会の紋章(IHSの中央に十字架が描かれ、その文字の周りの光とで、紋章を表現していると考えます)が光り輝いていることなどから、この絵は列聖されたザビエルの霊性とイエズス会の霊性を讃えるものであり、元和の大殉教という迫害が起こり、厳しい状況が続くなか、イエズス会士が信徒を激励するためのものであったことはほぼ間違いないと思います。
・そして、私がこの絵画から、霊的なものを感じることは、二つあります。一つは、イエズス会の「アニマ・クリスティ(キリストの魂)」の祈り、もう一つは、イエズス会の「霊操」、その中の「愛を得るための観想」です。愛を得るための観想に「SATIS EST DNE SATIS EST」が書かれています。
・恐らく、西洋画の技法を習得し、イエズス会の霊性を理解している日本人修道士が描いたのではないだろうか。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p9)

救世主像.jpg

「救世主像」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p11)

【 (救世主像)

油彩・銅板 23.0×17.0 1597年 東京大学総合図書館蔵 茨木市千提寺のの中谷家から発見された。裏に「Sacam Iacobus」の署名がある イエズス会士イルマンのニワ(丹羽)・ヤコブの作と推定されている。(ヤコブはコレジオで学び画家として名簿に記載)
左手に持っている十字架の付いた球体は、世界(地球)を象徴し、右手でその球体に祝福を与えている「救世主」としてのキリストを描いた作品。
画面下に「1597」と読める文字が記されており、これは制作年を示すと推測されている。
このような図像のキリスト像はヨーロッパのみならず、16世紀後半以降の日本でも典型的な礼拝用聖画として多く輸入・制作されました。もともとの原図となった外国の銅板画がある。
発見当時は、壁に掛けられるようになった観音開きの桐の黒塗りの厨子に納められていた。神戸の博物館で実物を見ました。小さいものですが大変神々しいものです。この図柄は日本で大変好まれたそうです。細川ガラシャや右近が祈りに潜心する時に用いたかもしれい。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p11)

聖母子・長崎奉行所.jpg

「聖母子像」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p57)

【 (聖母子像)

厨子入 銅板油彩 32.5×23.6 16世紀後半~17世紀前半 中谷(源之助)家 (千提寺) 発見者 奥野慶治(1922年)
観音開きの扉のついた厨子の中に、幼いイエスを抱いたマリアの半身像が油絵具で銅板に描かれ、収められている。マリアは柔和な表情でイエスをやさしく抱いており、イエスもレース様の袖をとおして、その小さな手でマリアの首を抱いている。マリアの黒く長い髪や長い袖模様の着物に和様化が見られる。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p57)

キリスト磔刑像.jpg

「キリスト磔刑像」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p57)

【 (キリスト磔刑像)

厨子入 象牙製 像高13.3(12.7)総高37.2 両腕の幅13 16世紀~17世紀
大神(十次郎)家(下音羽) 発見者 奥野慶治(1922年、1923年)
黒檀製の十字架に象牙製のキリスト像が付けてある。十字架の台はゴルゴダの山を思わせる半円形の黒檀製(高さ6.6、幅11.9、厚さ5.8、半円形)のもので、小さな洞窟がかたどられて、中に象牙製の頭蓋骨と肢骨2本が収められている。キリスト像は喉元や手首、足首に血痕が表されており、凄槍な感に満ちている。均整のとれた写実的で優秀な作品。
両腕と体躯は継目で結びつけられている。十字架の上にはINRI(ナザレのイエス、ユダヤの王)を刻んだ罪状札が付けてある。厨子(高さ38.6、幅18.2、奥行外7、内6)は何の装飾もほどこされていない黒漆塗で、観音開きにした扉には銀の金具が取り付けられている。納屋のニ階のあけずの櫃に、天使讃仰図とともにおさめられていた。
 本像は戦前、重要美術品に認定されていた。現在は大阪府指定有形文化財。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p57)

(追記)「発見されたキリシタン遺物と高山右近との関係」(その二)

【1.千提寺・下音羽の地区における布教の開始

  (あらまし)
 宣教師の布教の記録には、熱心に信仰が守っれている地域として「高槻の山間部」という言葉が度々登場しています。この「高槻の山間部」といった地域は、千提寺・下音羽地区だけではなく、高山右近の故郷高山、能勢等を含む広範囲なものであったと思われます。この「高槻の山間部」で布教がまず先行したのは、右近の故郷高山とその周辺でした。1563年頃から高山の布教は行われ、右近の父ダリオの親族を中心に多くの人がキリシタンに改宗しました。その後、右近が信長や秀吉から論考恩賞として忍頂寺五箇荘と能勢を領地として拝領し、忍頂寺五箇荘や能勢で、1582年頃から集中的にキリシタンの布教が行われ、多くの人が受洗したことが宣教師の記録に記されています。高槻の教会の主任神父や修道士や右近の父ダリオ等の努力によって、多くの僧侶までも改宗し、寺院が教会に転用され畿内で立派な教会の一つになったことなどが記されています。この農民を主体とする大きな信仰共同体は、宣教師がもうこれ以上教えることがないというほど熱心な共同体になり、秀吉や家康の禁教政策のなかでも維持されていきました。その証しが今、私達が目にしている千提寺・下音羽で発見されたキリシタン遺物なのです。その遺物の背景にある信仰のあゆみの詳細をこれから紹介します。

(1) 1579年忍頂寺五箇荘(千提寺・下音羽が含まれる)が高山右近の領地となる

・1578年荒木村重謀反後、その論功で、1579年頃、右近は忍頂寺五箇荘を信長から
拝領する。(イエズス会年報他)
(忍頂寺五箇荘とは)
・忍頂寺は平安時代初期建立の真言宗の大伽藍で、その周辺に集落が形成された。後に忍頂寺は京都御室の仁和寺の末寺となる。
・14世紀以来、京都御室の仁和寺領の荘園が成立し、「忍頂寺五ケ村」あるいは「忍頂寺五ケ庄」と呼ばれた。(五ケ庄:忍頂寺、音羽、銭原、泉原、佐保)この中に千提寺、下音羽も入っている。
・千提寺はこの荘園村落を母体とした後発の村の一つで、キリシタン信仰を軸として下音羽と結合していったと思われる。
・高山家の出身地高山荘とも近い位置関係にある。
・当初、各寺院には信長の安堵状があり、本格的な布教は控えられていたかもしれない。       とはいえ、全く布教が行われなかったとは思えない。フロイスの記録では、山間部では 既に20か所で礼拝所ができていたとの記述があるから。
  
(2) 1581年、巡察師ヴァリニャーノが畿内視察のため高槻に来た時、山間部を視察

・高槻で盛大な復活祭が行われる。(周辺から15000人~20000人が集まる)
・高山右近の領内の信徒は既に18000人(領民の約70%)おり、20か所に礼拝所や小聖堂が設けられていた・・本年の受洗者は2500人を超え・・受洗が絶えない。
・巡察師は視察を終える前、聖体の大祝日の日に、再び高槻を訪れ、荘厳なミサ、行列を行った。高槻での司祭の常駐を願い、これが受け入れられた。それから、巡察師を連れて山間部の知行地を廻った。・・・巡察師が数日間かけて巡ったのは・・高山領と忍頂寺五箇庄であった。そして、この山間部では、既に20か所で礼拝所ができていた。

(3) 1582年忍頂寺五箇荘、能勢での本格的な布教の開始

・1582年の本能寺の変以後、その論功で、能勢3000石を秀吉から拝領し、本格的な布教が始まった。(江州で1000石、全部で4000石)(イエズス会年報)

① 能勢の布教

・フロイスは1582年の項で、信長が・・右近に・・能勢という・・・知行地を与えたので、右近の父ダリヨは神父(高槻主任神父フォルナレティ イタリア人)修道士ヴィセンテと一緒にかの地へ出かけ、・・布教を始めることにした。(ダリオ越前から戻る) そこで2000人以上が受洗した。
・ところが、・・高槻の教会で急な用事がおこり、神父は急いで帰らなければならなくなり・・・      布教を続けることが出来なくなった。(1585年イエズス会年報)
・フォルナレティ神父、セミナリオで多忙極め、布教時間がないので神父を増加するよう報告。
・秀吉が右近に新たに与えた領地に出かけ、約3日間で2065人に洗礼を授けた。        他に1000人余り洗礼を授くべき地が数か所あるが、伝道する人がいない。
・右近の父ダリオは、これらの地に十字架及び聖堂を建てることを命じた。彼らは洗礼を受けるに先立ち、同所に在った寺院を取り壊した。彼らはずっと前から進んで教えを聞き、これを解してキリシタンになりたいと願っていたので、教会の門をくぐるに違いない。

② 忍頂寺五箇庄での布教

・1583年フォルナレティ神父、忍頂寺を根拠地にして、一ヶ月間の集中的な布教を行う。230人の受洗。
(布教の様子)
・・坊主達は、信長の生存中は・・キリシタンになることを望まなかったが、・・右近は人を遣わして、自由に説教を聞き、悟らないものは他の生活の途を求めることを命じたので皆決心して、約100人がキリシタンとなった。その領内にある神仏の殿堂は、不用になったものは焼き、適当なものは教会とした。 その中の忍頂寺という・・有名な寺院は・・・立派な聖堂の一つとなった。 ほぼ同じ時期に能勢でも同じような布教活動が行われた。
(能勢方面の布教は、恐らく1563年布教が行われた高山、余野等の地を根拠地として行われたのであろう) 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p14-p15)
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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その十 [南蛮美術]

(その十)「高山右近旧領土のの南蛮美術(キリシタン美術工芸品)」(その一)」周辺

茨城キリシタン遺物史料館地図.jpg

「千提寺・下音羽、高山、能勢の位置関係-高槻の山間部-」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p27)

【 千提寺・下音羽のキリシタン遺物を「点」で見るのではなく、「面」で見ることが必要です。現在の北摂の山間部は、能勢町・豊能町・箕面市・茨木市・高槻市と分かれていますが、右近の時代を考える時には、これらの山間部を一体的に捉える必要があるのです。
 1563年父ダリオが受洗後、高山周辺で最初の布教が行われました。その後、右近の戦の功績に対し、信長・秀吉は、父ダリオの出身地高山の周辺の山間部を、右近に与えていきます。
 この山間部では、1580年頃から集中的に布教が行われた結果、多くの僧侶を含む集団改宗が行われました。宣教師の記録で「高槻の山間部」という名前で度々登場してきます。改宗した元僧侶の強い指導のもとに団結し、農民主体の強力な信仰共同体が生まれ、江戸時代の厳しい禁教令のなかでも信仰が維持されました。このような歴史を持つ北摂の山間部から、多くの貴重なキリシタン遺物が大正時代発見されたのです。これらの遺物によって右近の時代の信仰を知ることができます。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」)

茨城キリシタン千堤寺地図.jpg

「千提寺集落案内図」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p32)

【(千提寺)

① 東藤次郎宅(現在久嗣)→聖フランシスコ・ザビエル画像、マリア15玄義図他多数
② 中谷仙之助宅(現在茂→光)→ロレータ聖母子像、どちりいなきりしたん、ぎやどぺかどる、こんてむつすむんじ他多数
③ 中谷源之助宅(現在清→孝)→聖母子像、キリスト磔刑像他
④ 中谷栄次郎宅(現在与一?→栄→さとる)→1600年聖年の教皇クレメンス8世のメダイ他    】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p33)

茨城キリシタン下音羽地図.jpg

「下音羽集落案内図」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p42)

【(下音羽)

 現在の感覚では千提寺に史料館があるので、奥まった所にある下音羽は地味な存在になりがちです。しかしここが信仰の中心地であった可能性もあるのです。その理由は、司祭的な役割をしていたと言われている大神家から天使讃仰図などが発見されたこと、高雲寺というキリシタンの旦那寺があること、原田家から保存状態が良いマリア十五玄義図が発見されていること(恐らく他にも貴重な遺物があったようですが、迫害を恐れ山中に隠した)などに求めることができます。なかでも、私が注目するのは、鎖国と禁教が完成し、司祭達が日本に留まることが不可能になる1630頃年にも、宣教師が訪れたのは「音羽村」で、「音羽村」は最後まで良き「隠れ場」で在り続けていたことです。(p42)

① 高雲寺 → キリシタン墓碑2基
② 井上与平次宅(現在政彦)→ キリシタン墓碑
③ 大神金十郎宅(現在敏治→三雪)付近の信者の世話役→天使讃仰図、ロザリオ他多数】
(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p34)

(追記一)「マリア十五玄義図(原田家本)」

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「マリア十五玄義図(原田家本)」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p10)

【 (上段の聖母子像)

・中央の上段には右手で幼いイエス(地球儀を右手で持つ)を抱き、左手で白いバラ(椿)の花をつまんでいる聖母マリア様の絵が描かれています。このバラの聖母子像は、もともとの原型があるそうで、幼いイエスが手にするのはロザリオだそうです。この15玄義図では、十字架が付いている地球儀を持った幼きイエスとして描かれています。これは、同じ千提寺で発見された「救世主像」の形に似ていると言われています。16世紀後半、公式にロザリオの祈りが認められ、教会歴で10月7日にロザリオの聖母の日と定めてから以降、ロザリオの祈りが広く普及しはじめ、よく描かれるようになった画題だそうです。  

  (下段の聖体讃美の図)

「いとも尊き秘跡、讃仰せられよ」ポルトガル語: LOVVADO SEIA
O SANCTISS (IMM)SACRAMENTO ( ) は新村氏の追補、新村氏訳

・左に聖イグナチオ・ロヨラ、右に聖フランシスコ・ザビエルが描かれ、名前の前には、いずれも、S.P(聖父)が付いているので、これらの作品は両聖人が列聖されてから制作されたと考えられている。(ザビエルの列聖式は1622年行われたが、大勅書の発布が遅れ、日本に知らされたのは1623年です。)
・12人使徒に加えられえた聖マチアス(5月14日)と、目をえぐり取られても、純潔を守った聖ルチア(12月13日)、何れも古代の殉教者ですが、両聖人が描き加えられた意味については諸説あります。この聖人を霊名とした日本の殉教者は数多くいます。

 ラテン語、左側:S.P.IGNATIVS SOCIETATISIESVS(イエズス会士聖イグナチウス S.P は 聖人の敬称
右側:S.P.FRANCISCVSXAVERIUS (聖フランシスコ ザビエル) 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p10)

(追記二)「マリア十五玄義図(原田家本と東家本)」 

マリア十五玄義(原田家本・東家本).jpg

「マリア十五玄義図(原田家本と東家本)」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p11)

【 (ロザリオの祈り)
・幼き主イエスを抱く聖母マリアを描いた聖母子像とその下の聖体を讃美する図の周りに15の絵が描かれている。15の絵は左下から時計回りに、ロザリオの祈りの「喜び」(左)、「苦しみ」(上)、「栄え」(右)の1~5 の各玄義が配置されている。ロザリオの珠はこの祈りが出来るようにつくられています。
・ロザリオの祈りは、主キリストの生涯を黙想しながら、聖母マリア様に祈るものです。キリスト教の教えの主の降誕、ご受難、ご復活という重要な要素が全て含まれており、キリストの教義の核心部分を黙想するというものです。この主キリストと聖母マリア様の黙想は「喜び(受肉)の玄義」、「苦しみ(受難)の玄義」、「栄え(復活)の玄義」の三つにわかれています。この三つの主キリストの玄義は、更に、それぞれ五つの玄義に別れています。従って、ロザリオの祈りは合計15の玄義からなりたっているのです これが、15玄義の由来で、伝統的な形です。(現在ではこれらの三つの玄義に「光(啓示)の玄義」が加えられています) 
「15ある玄義のうち該当するものを最初に唱え、次に主の祈りを一回唱え、アヴェ・マリアを10回唱え、結びに栄唱を唱える」これが、一連です。「5連唱える」ことを一環といいます。一環を続けて唱える場合には、最初に、「信徒信条、主の祈り、アヴェ・マリアの祈り3回、栄唱」を唱えます。 
・当時の公教要理、ドチリナに、「・・150編の祈りは15の奥義と言って、五カ条は喜び、五カ条は悲しみ、もう五カ条は栄光という意味合いで、祈りを唱えるのである・・」と祈りの意味が書かれています。イエズス会の霊操の当時のテキスト「スピリツアル修行」の第一の「考察」は、「ロザリオの観念」とも言われ、ロザリオの十五玄義による主イエスの生涯を深く黙想することでした。このように当時のロザリオの祈りは今と基本は同じでした。】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p11)

(追記三)「発見されたキリシタン遺物と高山右近との関係」(その一)

【1.発見されたキリシタン遺物と高山右近との関係 -“発見された場所は、右近の領地でし”-
・大阪府茨木市の山間部に、いずれも50戸足らずの、千提寺・下音羽という小さな集落があります。大正時代この場所から貴重なキリシタン遺物が数多く発見されました。一番有名なものは歴史の教科書に掲載されている「聖フランシスコ・ザビエルの画像」です。
・キリシタン遺物が発見された「千提寺・下音羽」地区とその周辺は高山右近の領地でした。右近の戦功に対し、信長、秀吉が論考恩賞として加増したものです。江戸時代、1649年
永井直清が高槻城主となった際に高槻藩の領地となり、この関係は明治まで続きます。
・右近の時代、この山間部で集中的な布教が行われた結果、多くの熱心な信徒が誕生し、秀吉・家康の禁教令後も信仰共同体が維持されていたことが宣教師の記録からわかります。この山間部は宣教師の記録のなかで、「高槻の山間部」という名前で度々登場してきます。信徒達はこれ以上教えることがないほど教えを理解し、多くの僧侶までが改宗し、大きな教会が建てられ、キリシタンの強力な信仰共同体がつくられたました。日本二十六聖人殉教の際にも、共に殉教する覚悟をし、けなげに信仰を守っていると宣教師は記しています。江戸時代の厳しい禁教令後も信仰が維持され、宣教師達の良き避難場所となったようです。キリシタン遺物はそのような宣教師が残していったものかもしれません。
・この遺物が発見された地区は高山右近の出身地である現豊能町高山地区のすぐ近くに   在り、昭和30年茨木市に合併されるまでは、高山地区と千提寺地区は「清溪村」という   同じ村に属していました。清溪村が茨木市に合併した時、高山地区のみが東能勢村   (現豊能町)に編入されました。淸溪村の村史は遺物等を知る上での貴重な資料となって
います。
・このように、キリシタン遺物が発見された場所が高山右近縁の地であったので、発見された遺物は右近の時代の信徒達の信仰を伝えるものであることは間違いないと思われます。
・宣教師や高山親子等の布教でキリシタンとなったこの山間部の信徒を思い浮かべながら、この茨木市のキリシタン遺物を味わって欲しいと思います。過酷な状況下で信仰を守り抜いた信徒の強い信仰心が伝わってくると思います。

2.発見された主なキリシタン遺物
 大正9年(1920年)~昭和5年(1930年)の間に、当時の信仰生活を偲ばせる、墓碑、教義書(ドチリイナキリシタン等)、教義図(マリア十五玄義図等)、聖像(聖フランシスコ・ザビエル画像等)、聖具(十字架・ロザリオ苦行の鞭・聖杯等)等メダイなど多岐にわたる遺物が約70点発見され、京都大学による学術調査が行われました。
(キリシタン遺物発見等にかかわる主な事項)
・大正9年(1920年)2月、千提寺のクルス山と呼ばれていた山林で、キリシタン墓碑が郷土史家藤波大超氏によって発見されました。(*以前、発見の年は、大正8年とされた)
・大正9年(1920年)9月、千提寺の東家の「あけずの櫃」から聖フランシスコ・ザビエル画像、マリア十五玄義図をはじめとする多数のキリシタン遺物が発見されました。中谷家等からも多数の遺物が発見されました。
・遺物発見の報告を受けた京都大学は直ちにこの地の調査に入り、昭和5年までの間に、かつての信者の末裔達の母屋や納屋の屋根裏などに固く秘められていた多数の遺物が発見されました。
・昭和5年(1930年)には、下音羽の原田家でマリア十五玄義図が発見されました。
・これらの発見は、千提寺を一躍有名にし、学者などの関係者の訪問が絶えなかったといわれています。
・聖フランシスコ・ザビエル画像、マリア十五玄義図(原田家・京大)は国の重要文化財に指定されています。
・マリア十五玄義図(原田家・京大)は、2004年修復され、2006年公開された。
・マリア十五玄義図(東家)は、2011年修復 公開された。
・現在、これらの貴重な遺物は東京大学、京都大学、神戸市博物館等に保存されています。一部は千提寺の「茨木市立キリシタン遺物史料館」に展示されています。中谷家、大神家などが今もなお保存されているものもあります
・これらの遺物以外に、口碑(昔からの言い伝え)として、東イマ、中谷イトさんから、キリスト教の儀式や風習、オラショ(祈祷文)等の貴重な口伝えの資料も収集されました。
・大正15年(1926年)に、ローマ政庁より教皇使節一行が千提寺を訪問され、遺物をご覧にになり、先祖の信仰を守った東家、中谷家の方に賛辞を述べられました。
・なお、東家の「あけずの櫃」は、全部で三個あったそうで、二個は発見前の明治末の火災で消失してしまったとのことです。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p3)
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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その九 [南蛮美術]

(その九)「マリア十五玄義図(その二)」周辺

椿を持つマリア.jpg

「マリア十五玄義図」(京都大学総合博物館蔵・原田家本マリア十五玄義図)→A-2図「(部分拡大図)救世主としてのキリストの幼子と白い椿の花を持つ聖母マリアの図」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Fifteen_Mysteries_of_the_Virgin_Mary_(Kyoto_University_Museum).jpg

 前回(その八)に続く、この「マリア十五玄義図」(原田家本マリア十五玄義図)の「聖母マリア」に抱かれる「キリスト」の持ち物が、「ロザリオ」ではなく「十字架をのせた球体」を持つ「救世主としてのキリスト」の図像になっていることと、その手にしている花は、「聖母マリア」を象徴する「白い薔薇の花」ではなく、「白い椿の花」との説があることなどを、上記のアドレスで、下記(再掲)のとおり紹介されている。

【 (再掲)

マリアに抱かれたキリストの持ち物が、原図ではロザリオであったものが、この絵では十字架をのせた球体に変更されていることに注意が向けられ、このキリストが、天球もしくは地球を手にした「救世主としてのキリスト」の図像とよく似ていることが明らかにされました。この図像は、キリストのもう一方の手が天球・地球に祝福を与えるポーズをとっており、キリストが現世・来世いずれに対しても全能の力を持つことを象徴する図像であるとされています。ロザリオの祈りの対象である聖母子像の中に、救世主としてのキリスト像がはめ込まれているわけですが、これは、現世利益に馴れた日本人の好みに合わせたものではなかったか、と考えられています。また、マリアの手にする花が、本来のバラではなく、日本人に馴染みのある白い椿にかえられているとする説もあります。
 このように、「マリア十五玄義図」は、マリアへの祈りのみならず、キリストの超越的な力や聖餐のサクラメントへの崇拝、聖人に対する崇敬の念などさまざまなものをとりあわせ、日本人に受け入れられやすいように工夫された、日本的な聖画であったといえます。】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-11-1

(再掲)

救世主像.jpg

救世主像(東京大学総合図書館蔵)  制作年:不明 寸法(cm):縦23×横17→C図
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/kyuseisyuzou/document/5061e0fa-b328-431f-a95e-7b417137335b#?c=0&m=0&s=0&cv=7&xywh=-1988%2C-147%2C6497%2C3875

【(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-02
 左手に十字架のついた珠を持ち、右手で祝福を与えるキリスト像は、礼拝用聖画として代表的な図像の一つです。この像はアントワープで刊行された銅版画をもとに、銅板に油絵具で描かれました。画面右下に「IS 97」と記されていることから、「IS」を「15」と解釈し、1597年に描かれたとする説があります。
 当時の日本ではキリスト教の布教をすすめたイエズス会によって、西洋流の絵画教育が行われていました。この像も裏面に「Sacam. Iacobus」と書き込まれていることから、ヤコブ丹羽(丹羽ジャコベ)が宣教師ジョバンニ・ニコラオの指導を受けて描いたものと推測されています。   】

救世主キリスト.jpg

file:///C:/Users/User/Downloads/kenkyuhokoku_076_07.pdf

【 布教用に適切と考えられた図像の一つに「救世主としてのキリスト」があったことが確認できる。他に現存品としては銅板に油彩で描かれたものが,茨木市千提寺中谷茂氏宅から1922年4月に発見されて現在は東京大学総合図書館蔵品になっている【挿図7】。
ちなみに,1597年の貴重な年記をもつこの油彩画は,その画面が多少の剥落と汚れとで手にする球体の表面に何が描かれているか判明でないが,その源泉である版画(マルテン・ド・ヴォス原画,ヒエロニムス・ヴィリクス刻,テオドール・ハレ刊行M.Mauquoy-Hendrick, op.cit.No.493)【挿図8】では,球面に太陽と月とが読みとれるので天球であることがわかる。1597年の油彩画も,そう知ってみると同じく天球を描いていると認められる。 】

マリアの白き椿.jpg

「写真15 中央上段聖母子,(撮影倍率×1.4)マリアが左手に持つ花」→A-3図
file:///C:/Users/User/Downloads/kenkyuhokoku_076_07.pdf

五島の椿.jpg

聖母マリアと関係があるとされる日本の椿
五島は椿の島。真っ赤な小さな一重の花びらのヤブツバキが自生する。
https://oratio.jp/p_column/tsubakinoshima

【 久賀島には椿の原生林がある。旧五輪教会堂に向かう山道でもヤブツバキが出迎えてくれる。椿は英語で「カメリア」。17世紀ごろ、マニラで布教していた宣教師カメルがヨーロッパに椿を持ち帰ったことに由来するという。学名は「カメリア・ジャポニカ」と名付けられ、東洋を代表する花木になった。キリスト教ではマリアの象徴はバラだが、日本のマリア十五玄義図には白い椿を持つ聖母が描かれている。 】

五輪教会堂.jpg

旧五輪教会堂
https://oratio.jp/p_resource/kyugorin-church

【 五島列島南部の久賀島にある教会堂である。【登録資産グループ/久賀島の集落】
久賀島には18世紀末から大村藩から入植があり、その中に外海地方出身の潜伏キリシタンが含まれていたことから、潜伏キリシタンの集落が形成された。
1865年の大浦天主堂における「信徒発見」の後、久賀島の潜伏キリシタンも大浦天主堂を密かに訪れて宣教師と接触した。
 久賀島で最初の教会堂は、1881年に建設された浜脇教会だが、その後この建物を引き継ぐことを切望したかつての潜伏キリシタンの集落であった五輪集落に寄贈され、1931年に現在の場所に移された。
 1985年には五輪集落に新しい教会堂が建設されたが、「旧五輪教会堂」として現在もなお維持されている。
 小規模な木造の建物で、外観に民家の形式をのこした、装飾の少ない礼拝空間をもつ初期の教会建築の代表例である。】

https://oratio.jp/p_column/sobokunakyokaido

【 内部のリブ・ヴォールト天井もまた西洋の技法だが、板張りの木の素朴さとともに日本的な匂いを漂わせる。祭壇前の柵にも丁寧で細やかな仕事ぶりと、美へのこだわりを感じる。 
側面の窓は引き戸式で壁の中に収納できるよう工夫がされ、合理的で無駄のない日本建築の良さをのぞかせる。地元の大工で仏教徒の平山亀吉が建設に関わったそうだ。
 西洋の教会堂建築の華やかさや荘厳さとは真逆にあり、日本的な独特の香りがする旧五輪教会堂。浜辺に打ち寄せる波の音が時間の流れを緩やかにする。外に植えられた桜の木々は信徒たちが大切に育てている。 】

出津の教会.jpg

長崎のキリシタンの里(「出津(しつ)」)と「マリア十五玄義図」
http://sakura-church.jp/akashi-zuiso/20150719-mk/

【 この絵(「マリア十五玄義図(浦上天主堂旧蔵)」)が伝えられたのは、現在長崎市となっている外海(そとめ)地方の「出津(しつ)」という里です。住民のほとんどが潜伏キリシタンだった所で、幕末に長崎に大浦天主堂が建ち、秘かに信徒が訪れるようになると、神父のプチジャンは出津にも招かれて、夜中に村人の漕ぐ船で渡り、そこでこのマリア十五玄義図を見ています。その後、外海地方には、ド・ロ神父が着任して、多くの教会や授産施設が作られました。世界遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の一部となっています。
 出津の教会堂は、台風にも耐えるように背が低く作られた、白塗りで素朴な、しかしがっしりとした建物で、地元の信徒の方がガイドをしてくださいました。この地方には「バスチャン」という日本人伝道師の話が伝えられており、「ジワン」という神父の弟子だったという彼は、キリスト教の年中行事を記した「日繰り」を作って教えたが、山中で潜伏中に捕らえられ、その屋敷の跡が現在も残されています。「皆を七代までわが子とする、その後は神父が大きな黒船でやってきて毎日でもコンピサン(告白)ができるようになる、どこででも大声でキリシタンの歌を歌って歩けるようになる・・」という予言を残したとされ、二百五十年の禁教の後に、それが実現したとも言えます。
 ド・ロ神父はフランスの貴族の出身で、建築、印刷、医学、農業、織物、製粉・製麺など、当時最先端の技術を伝え、施設を作っています。まさに万能の人ですが、フランス革命の後で貴族がどうなるか分からなかったから色々な技術を身につけたのだそうで、何がどう関係するか分からないものです。国家による大規模な近代化とは別に、民間の無私の奉仕で、こんな所に西洋文明が直接伝えられていたことにも驚きました。
 なお、ここは遠藤周作の『沈黙』という小説の舞台で、付近には記念文学館もあります。】

被爆の聖母マリア像.jpg

「原爆前の浦上天主堂の大祭壇に掲げられていた聖母マリア像」(原爆前)→「被爆の聖母マリア像」(大浦天主堂)=下記「被爆の聖母マリア像」(大浦天主堂)

http://tomaozaki.blogspot.com/2020/08/blog-post_96.html

被爆後の聖母マリア像.jpg

「被爆の聖母マリア像」(大浦天主堂)
https://blog.goo.ne.jp/gloriosa-jun/e/6fe7d5fa4fac3252fbe8e430fef1bed7

悲しみのマリア像(左).jpg

「原爆で被爆された大浦天主堂、爆心側の南入口に立つ聖ヨハネ像(右)と悲しみのマリア像(左)」(「ナガサキ、フイルムの記憶:朝日新聞デジタル」)
https://www.asahi.com/special/nuclear_peace/gallery/nagasaki/000.html


(追記)
「マリア十五玄義図」(原田家本)と「ロザリオの聖母子(トマ・ド・ルー版刻・刊行)」(東京国立博物館蔵)周辺

トマ・ド・ルー刻・刊行「ロザリオの聖母子.jpg
「ロザリオの聖母子(トマ・ド・ルー刻・刊行)」(東京国立博物館蔵)(「日本の歴史の中の『 聖母像 』- 1(蕨由美稿)」)

https://ryuu.blog.ss-blog.jp/2013-04-11


聖母子図 トマ・ド・ルー 版刻・刊行 フランス、パリ 福井にて発見 16~17世紀

【『キリシタン関係の遺品 イエズス会の布教と禁制下の信仰 』

 東京国立博物館(http://www.tnm.jp/

 本館16室 2013年3月19日~5月6日
 (http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1598

「ルターが宗教改革を推し進めていた1534年、スペインのバスク地方出身のイグナティウス・デ・ロヨラは、カトリックの中の改革派としてフランシスコ・ザビエルら6人の同志を集めてイエズス会を創立し、活動を始めました。イエズス会はポルトガル国王の支援を受けてヨーロッパ以外の地にカトリックを広めることでプロテスタントに対抗します。ザビエルが日本に来たのは1549年。こののち、日本には宣教師が次々に訪れ、キリスト教の信徒を増やしました。最盛期には40万人に達したといいます。キリスト教が禁止される17世紀初期までは西洋の情報・文化が日本に達し、逆に日本の様子が西洋に伝えられました。日本と西洋がつながったのです。
しかし江戸幕府がキリスト教を禁止し、追放そして厳しい弾圧によって改宗を迫ると信徒はいなくなったはずでした。ところが、長崎の一部の地域に潜伏して信仰を守り続けた人々がいました。カクレキリシタンです。彼らは組織をつくって結束し、仏教寺院の檀家を装い、仏壇の奥にマリア観音像を置き、踏み絵を踏んで帰ってから懺悔(ざんげ)のオラショ(祈祷(きとう)文)をとなえました。ここに展示した遺物のほとんどはこうしたキリシタンの人々が所持していたものです。
明治政府も禁制を続けましたが、欧米諸国の強い批判を受けて明治6年(1873)信仰の自由を認めました。(東京国立博物館HPより)」】

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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その八 [南蛮美術]

(その八)「マリア十五玄義図(その一)」周辺

マリア十五玄義図.jpg

「マリア十五玄義図」(京都大学総合博物館蔵)→A図「原田家本マリア十五玄義図」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Fifteen_Mysteries_of_the_Virgin_Mary_(Kyoto_University_Museum).jpg
「『紙本著色聖母子十五玄義・聖体秘跡図』(重要文化財、京都大学総合博物館所蔵)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%AB

【京都大学総合博物館所蔵。画面下の前列にロヨラ(左)とザビエル(右)を描く。「隠れキリシタンの里」であった大阪府茨木市の下音羽地区の民家から発見されたもので、イエズス会のセミナリヨで西洋絵画の技法を学んだ日本人画家による作品と推定される。](「ウィキペディア」)

https://www.museum.kyoto-u.ac.jp/collection/museumF/news/no21/aboutMaria.html

【 「マリア十五玄義図」について
 「マリア十五玄義図」(正式には「紙本著色聖母子十五玄義・聖体秘跡図」)は、茨木市の山間部下音羽の民家に伝えられた絵画です。昭和5年( 1930)、屋根の葺き替えの際に発見されました。屋根裏の木材にくくり付けられた竹筒を不審に思った家人が開けてみると、この絵がくるくると巻かれた状態で出てきたのです。
 下音羽は近隣の千提寺とともに、隠れキリシタンの里として知られる地域です。近代に入って家の持ち主は二回変わっており、残念ながら、この絵画についての 言い伝えは全く残っていませんが、近畿地方に残る貴重なキリシタン遺物の一つといえます。発見後、閲覧の希望に応じるうちに、絵が目にみえて劣化するのを心配された原蔵者が、本学文学部に寄贈され、現在は総合博物館に所蔵されています。
 推定製作年代は17 世 紀初頭。画面を見ると(写真)、中央上段に、幼児のキリストを抱いたマリア像、下段中央に聖杯とイエズス会のシンボル、その両側に、フランシスコ・ザビエ ル他四人の人間を配しています。そしてこれらの外側には、聖母子の生涯を描いた十五コマの絵が、左下から時計回りに配置されています。この種の絵画は、日 本では他に2点確認されていますが、本館蔵になるこの絵は、描かれた時の状態をほぼそのまま残す、もっとも良質のものとされています。
 2001年に重要文化財の指定を受けましたが、いたみがはげしく公開できる状態にはありませんでした。修復が緊急の課題であったところ、2004 年度にようやく修復をすることができました。日本に初めてキリスト教を布教したザビエルの生誕五百年にあたる2006年、美しくよみがえったこの絵を久方ぶりに公開すべく、現在準備を進めているところです。以下に、「マリア十五玄義図」の見どころをご紹介しましょう。

1 図像について
「マリア十五玄義図」は、正式名称が表すように、大きく二つの部分からなっています。
 そのひとつは、聖母子を中心として周囲に配置された十五の絵、「聖母子十五玄義」にあたる部分です。マリアへの受胎告知に始まる「喜び」の5場面、キリス トの受難を描く「苦しみ」の5場面、及び、キリストの復活とマリアの昇天までの「栄光」の5場面が順に配置されています。キリシタンの間で広く行われた祈りの中に、ロザリオと呼ばれる数珠を繰りながら、聖母マリアに祈りをささげるロザリオの祈りがあります。15の各場面に対応して 15のオラショ (祈祷文)があり、それぞれを 10回ずつ、全部で 150回唱えるものでした。つまり、聖母子像と15 の絵とが一体となって、マリアの神秘的な力への崇拝を表現しているのです。聖母マリアをめぐる15の神の教えという意味の「マリア十五玄義図」という通称は、ここから付けられました。
 本図の残りの部分を構成するのは、聖母子の下方、聖杯と四人の人物を描写する、「聖体秘跡」にあたる部分です。聖杯は、カトリックで行われる聖体の秘跡という儀礼を象徴しています。最後の晩餐でキリストがパンと葡萄酒をとり、「これ我が身体なりわが血なり」と言ったことにちなんだ儀式で、キリストの肉と血 を象徴するパンと葡萄酒-聖体-を信者にわかち、キリストとの生命の一体化を強める意味を持っています。その両側には、日本に初めてキリスト教を伝導した イエズス会宣教師のザビエル(右)と、同会の創始者であるイグナチウス・ロヨラ(左)-いずれもキリシタンが崇拝してやまない聖人でした―、そして、その背後に殉教者として知られる男女-聖ルチア(右)と聖マチアス(左)-が配置されています。
  これら4人の視線は何を見つめているのでしょうか。上段の聖母子像とする説に対して、下段の聖杯にむけられたものという説もあります。後者の説は、画面を上下に分けるポルトガル語の文章を重視したもので、日本におけるキリシタン遺物の研究に先鞭をつけた新村出博士は、かつてこの文章を「いとも貴き秘蹟讃仰せられよ」と訳しました。同じ文章を付した聖杯鑚仰の図が、日本のみならず世界的に確認されていることも踏まえて、中央の聖杯をザビエルら4人が仰ぎ見る構図とみなす解釈には、耳を傾けるべきところがあるといえるでしょう。つまり、「マリア十五玄義図」には、ロザリオのマリアへの祈りと、聖体秘跡への崇敬とが同居しているのです。
  また、近年の研究では、マリアに抱かれたキリストの持ち物が、原図ではロザリオであったものが、この絵では十字架をのせた球体に変更されていることに注意が向けられ、このキリストが、天球もしくは地球を手にした「救世主としてのキリスト」の図像とよく似ていることが明らかにされました。この図像は、キリストのもう一方の手が天球・地球に祝福を与えるポーズをとっており、キリストが現世・来世いずれに対しても全能の力を持つことを象徴する図像であるとされて います。ロザリオの祈りの対象である聖母子像の中に、救世主としてのキリスト像がはめ込まれているわけですが、これは、現世利益に馴れた日本人の好みに合わせたものではなかったか、と考えられています。また、マリアの手にする花が、本来のバラではなく、日本人に馴染みのある白い椿にかえられているとする説もあります。
 このように、「マリア十五玄義図」は、マリアへの祈りのみならず、キリストの超越的な力や聖餐のサクラメントへの崇拝、聖人に対する崇敬の念などさまざまなものをとりあわせ、日本人に受け入れられやすいように工夫された、日本的な聖画であったといえます。

2 技法について
 絵の具の重ね塗りや陰影のつけ方、遠近法など随所に見られる特徴から、「マリア十五玄義図」に対する西洋技法の影響は古くから指摘されていました。 1990年代に、国立歴史民俗博物館が最新の撮影技聖母子十五玄義術を用いて詳細な調査を行った結果、描画方法と顔料それぞれについて、これまでの見方が正しかったことが証明されています。
 描画については、背景に色を塗った後に人物に彩色される場合が多く、遠景から近景へと描き進む手順が明らかにされました。また、陰影表現では、下地の色を画面の効果に利用する方法や透明色を塗り重ねる方法が観察されています。これらはいずれも、 16~17世紀の西洋絵画に見られる一般的な技術ということです。
 顔料については、日本の顔料が多用される中、文字や光を表現する金色を意識した黄色にのみ、日本での使用例がまだ知られていない鉛錫黄顔料が使われた可能性が指摘されています。この顔料は、14世紀から18 世 紀にかけての西欧諸国では、黄色の代表的顔料として絵画に用いられていたものです。さらに、この黄色顔料の部分については、艶や亀裂などの生じ方に、油絵 具との類似性が報告されています。この研究により、日本にやってきた宣教師たちが顔料を持ち込み、一部それを用いていた可能性が新たに見いだされたのです。
 さらに、このときの調査では下図の線も観察され、 0.5ミリ前後の幅の、墨で描かれたのびやかな線が確認されています。毛筆の運びに習熟した人物による描画であろうと推定されています。
 以上の結果から、「マリア十五玄義図」を描いた候補者として、西洋画の技法を学んだ日本人画家が浮上することになり、それを傍証する資料も紹介されています。たとえば、16世紀末のイエズス会の年報は、島原のセミナリオ(修道院)の工房で、計21人の日本人が、油彩画や銅版画などの西洋絵画を学んでいると報告していますし、他にも、日本各地に建設されたセミナリオで、美術教育を行っていたことを示す記録が残っているのです。また、今回の修復に際して紙質の分析を行ったところ、日本で絵画用に広く普及した竹紙が使用されていることが明らかになり、この 絵が日本で描かれたことは確実となりました。
 このように、最近の科学的調査・分析の結果、日本人の描いた聖画であることはほぼ確定されたといえます。

3 表具について
 最後の見どころは、この絵が掛け軸として表具されているところです。写真の通り変色や痛みが激しく、修復するに際して、この部分をどうするかが問題となり ました。検討の結果、江戸時代の長期にわたる弾圧をかいくぐってこの絵画が近代に伝えられた歴史は、細く巻いて目立たないように収納できるこの掛け軸装に 凝縮されているという点を重視して、残された状態をできる限りそのまま保存することにしました。
 掛け軸とはいっても、「マリア十五玄義図」のやり方は、通常の方法とは随分違うものとなっています。布を用いる筈の部分に唐紙が用いられていたり、上下の 軸に細く削った竹軸が用いられていたり、掛け軸に表装する際の決まりごとが守られておらず、素人の手によるものであろうと推測されています。
 この掛け軸装について、これまでの研究者たちが本紙絵図の製作当初からのものと疑わなかったのに対して、先の歴史民俗博物館の研究班は、二次的な段階のものではないかという見解をだしました。最初は、祭壇画であったものが、禁教となり弾圧が強化される過程で、掛け軸の体裁に変更されたのではないか、という のです。祭壇画とは、南蛮屏風にしばしば描かれているもので、仏像を収める厨子のような扉付の箱の中に安置されている例や、カーテンの下がった祭壇の奥に 木枠の額に納められたりしている例があります。「マリア十五玄義図」に祭壇画の時代があったのかどうか、残念ながら手がかりはありませんが、今回の修復では、絵図裏側の表装部分に、修理された跡が発見されました。この事実は、掛け軸装のこの絵が、単にしまい込まれていたのではなく、使用されていたことを示 しています。弾圧下にあっても信仰を捨てなかったキリシタンが、誰にも見つからないように絵を飾り、祈りを捧げることがあったに違いありません。
 キリシタンへの弾圧が強まる中、表装の知識を持たない信者が、見よう見まねでひっそりと掛け軸に仕立て、祈りを捧げ続けた。「マリア十五玄義図」の表具からは、このような歴史を読み取ることができるのです。
 今回の修復では、「マリア十五玄義図」の持つ色や風合いが損なわれないよう、細心の注意が払われました。発見当時の姿に再生した「マリア十五玄義図」が、多くの方に観覧されることを願ってやみません。(京都大学総合博物館資料基礎調査系・助教授・岩崎奈緒子)

(参考文献)

神庭信幸他「京都大学所蔵『マリア十五玄義図』の調査」『国立歴史民俗博物館研究報告』第76集、1998 年
神庭信幸他「東家所蔵『マリア十五玄義図』の調査ー付、京都大学所蔵『マリア十五玄義図』旧蔵家屋の調査ー」『国立歴史民俗博物館研究報告』第 93集、2002 年
坂本満「マリア十五玄義図の図像について」『国立歴史民俗博物館研究報告』第 76集、1998 年
新村出「摂津高槻在東氏所蔵の切支丹遺物」『京都帝国大学文学部考古学研究報告』第七冊、1923年
武田恵理「『紙本著色 聖母子十五玄義図・聖体秘跡図』の再現模写と描画技法の研究」(東京芸術大学大学院美術研究科後期博士課程 平成 13年度博士論文)
濱田青陵「原田本マリヤ十五玄義図」『宝雲』第 13冊1935 年
比留木忠治「椿のマリア像」『椿』 44、2005 年           】

この「マリア十五玄義図」(京都大学総合博物館蔵)は、旧蔵者名から「原田家本マリア十五玄義図」と呼ばれるもので、もう一つ「東家本マリア十五玄義図」と呼ばれる、下記の
「マリア十五玄義図」(茨木市立キリシタン遺物資料館蔵)がある。

マリア十五玄義図・茨木市.jpg

「マリア十五玄義図」(茨木市立キリシタン遺物資料館蔵)→B図「東家本マリア十五玄義図」
https://www.museum.kyoto-u.ac.jp/special/content0032/

https://blog.goo.ne.jp/tasket/e/94b310db068c1ed79389cb01068877e6

【 「マリア十五玄義図」修復(25日から茨木の史料館で公開-2011-05-26-)」
茨木市北部の民家で1920年に見つかり、府有形文化財に指定されている絵画「マリア十五玄義図」(縦82センチ、横65センチ)=写真=の修復が完了した。同市が所有者から寄託を受けて保管し、昨年10月から汚れを除いたり、しわを伸ばしたりする作業を行っていた。25日から6月13日まで、同市千提寺の市立キリシタン遺物史料館で公開する。
「マリア十五玄義図」は、聖母マリアとキリストの誕生から死、復活などの15の出来事を表現している。江戸時代初期にキリスト教を信仰していた人たちが禁教令の中、隠し持っていたもので、木箱に入れて中身を知らせないまま長年、保存されていたという。
 劣化が激しく、紙の亀裂や絵の具の剥離(はくり)などがみられたため、2006年に府文化財になったことなどから、同市が専門業者に修復を依頼していた。
 同図は、国内では同市北部の別の民家からも図柄が異なるものが見つかり、京都大に寄贈されており、国の重要文化財に指定されている。
 市教委は24日、今回修復された図を報道陣に公開。所有者の東満理亜さん(61)は「きれいになってよかった。先祖が苦労して残してきた歴史を知ってほしい」と話した。(2011年5月25日 読売新聞) 】

茨城市立キリシタン遺物史料館.jpg

http://www.osaka-doukiren.jp/guidance/guidance04/2083

【 1987年10月2日、茨木市の山地部にある千提寺に市立キリシタン遺物史料館がオープンした。キリスト教は、茨木地域を含む三島地方と深い関係を持っています。
それは当時京都の西の門戸で、しかも要害の地と目されていた高槻城主(高槻市)に、高山右近が天正元年(1573年)から同13年(1585年)までいたことによる。
高山右近(教名 ジュウスト)は、旧大阪府三島郡清渓村大字高山(現在の大阪府豊能郡豊能町)の生まれだとされているが、高山父子と親交の厚かった伴天連ルイス・フロイスが著した有名な『日本史』には、右近の父である飛騨守(教名 ダリヨ)やその祖母は高山で生まれて、右近は大和の国、沢城で生まれたこと、また右近の夫人は同村「余野」(豊能郡豊能町大字余野)の城主黒田氏の娘であることなどについて記している。右近が父飛騨守のあとを受けて高槻城主となったのは天正元年で、21歳の時であった。
天正6年(1578年)に織田信長は、摂津伊丹の城主・荒木村重を攻めようと、荒木の家臣であった高山父子を牽制するため、伴天連オルガンチノ(またはウルガン伴天連)をさしむけた。さすがの高山父子もキリスト教の信仰とはかえがたく、信長の謀略にかかり、ついに信長に服従したのであった。この事件で、父のダリヨは信長の怒りに触れて死罪と決断されたが、右近の願い出によって、信長の老臣柴田勝家に託された。
信長の後継者となった豊臣秀吉は、九州平定直後の天正15年(1587年)にキリスト教の教義が、当時の封建思想と相容れないことなどから、キリスト教の布教と信仰を禁止した。
これによって右近は、天正16年(1588年)に加賀の前田侯に預けられた。さらに慶長18年(1613年)には、徳川家康がキリシタン禁教令を発布したので、右近は翌年の慶長19年、61歳のときルソン島のマニラヘ他の信徒達とともに追放されたのであった。しかし彼は、この不幸に対しては、人を恨まずひたすらに自らを深く懺悔しながら、翌元和元年(1615年)、63歳でマニラの地で没したのである。
安土桃山時代を経て、約260年間続く江戸時代に入っても、このような政策を推し進めたため、キリスト教の信者達やその縁者までも含めて、死罪、流罪、一家一類断絶の厳科に処せられた。またキリスト教に関係の深い物品やそれらしきものは、すべて取り上げられ消滅させられたのである。
この禁教政策によって、三島地方の信者達は常に探索の対象となったため、隠れて信仰を続けなければならなくなった。
今も千提寺や下音羽に残るキリシタン関係遺物も、こうした隠れキリシタン信者達の苦労によって受け継がれてきたものであり、その遺物を展示、またその地にキリシタン遺物史料館を設けたことによって、当時の様子がしのばれるのである。】

「マリア十五原義図」展 小冊子画像.jpg

「マリア 十五玄義原義図」(京大総合博物館「マリア十五原義図」展 小冊子より)→ A-1図
https://infokkkna.com/ironroad/dock/walk/5walky02.pdf

(特記事項)

file:///C:/Users/User/Downloads/kenkyuhokoku_076_07.pdf

国立歴史民俗博物館研究報告 第76集 1998年3月
(調査研究活動報告)「京都大学所蔵『マリア十五玄義図』の調査」(神庭信幸・小島道裕・横
島文夫・坂本満)

[補論]「マリア十五玄義図の図像について」 (坂本満)

「マリア十五玄義(Fifteen Mysteries of the Virgin Mary or the Virgin of the Rosary)」と呼ば
れる主題は、マリアのもつロザリオRosary(数珠)の神秘的な力を崇拝する図像であり、キリストとマリアの生涯の中から「歓び」の5景,すなわち「告知」「訪問」「生誕」「奉献」「神殿でのキリスト(ラヴィたちとの議論)」、つぎに「悲しみ」の5景、すなわち「ゲッセマネの夜」「鞭打ち」「茨の戴冠」「十字架運び」「礫刑」、最後に「栄光」の5景、「復活」「昇天」「聖霊降臨(五旬節)」「聖母被昇天」「聖母戴冠」の計15場面をロザリオを手にする聖母子像のまわりに上記の順序で配した図像である。「ロザリオの聖母」と呼ぶこともある。

 茨木市発見の二点では、左下(※「歓(喜)ぴ」)から始まり、上辺で「悲しみ」の5景、右辺で「栄光」の5景を配するが【挿図1=※東家本(+原田家本)】、長崎で原爆によって失われたもの【挿図2=※大浦天主堂本=下記C図】は、上段が「栄光」、中段が「悲しみ」、下段が「歓び」と三段に,右から左に向かって各5場面が並べられる。
(以下略。上記※は注記。)

(メモ)

※東家本と原田家本

「歓(喜)びの玄義=左下からの五景図」

第一図(受胎告知)
第二図(訪問)=マリアのエリザベトの訪問
第三図(生誕)
第四図(奉献)=長子であるイエスをエルサレムの神殿に捧げに行く(神殿奉献)
第五図(神殿でのキリスト=ラヴィたちとの議論)=学者たちの討論

「悲しみの玄義=上辺左からの五景図」
第六図(ゲッセマネの夜)=ゲッセマネの園で十字架刑に処せられる前夜に祈った祈り
第七図(鞭打ち)
第八図(茨の戴冠)
第九図(十字架運び)
第十図(礫刑)

「栄光の玄義=右上二段目からの五景図」
第十一図(復活)
第十二図(昇天)
第十三図(聖霊降臨=五旬節)
第十四図(聖母被昇天)
第十五図(聖母戴冠)

「マリア十五玄義図」全図写真のパネル.jpg

【西村貞『日本初期洋画の研究』掲載の「マリア十五玄義図」全図写真のパネル】→C図

【「マリア十五玄義図(浦上天主堂旧蔵)」を撮影したガラス乾板(国立歴史民俗博物館)

日本における「マリア十五玄義図」は次の3幅が知られている。
 1920年に現大阪府茨木市の民家で発見され、現在茨木市が所蔵する(茨木市立キリシタン遺物史料館に寄託)もの。→ ※東家本(B図)
1930年に同じく茨木市の民家で発見され、現在京都大学総合博物館が所蔵するもの。→
※(A図)
現長崎市の外海地方の一旧教徒の家に伝来し、浦上天主堂が所蔵していたが、1945年8月に戦災で焼失したもの。→ C図
最後の浦上天主堂本については、焼失直前の1945年1月刊行の書籍、西村貞『日本初期洋画の研究』(全国書房)に掲載された写真図版のみで知られる存在となっていた。また、書籍掲載の写真の原板も、1945年3月の大阪大空襲で失われたと考えられていた。
 ところが、2011年、浦上天主堂本を1図ずつ写した9枚を含む西村貞の著作に使われたモノクロのガラス乾板の所在が公になる。大阪府の美術史家が古美術店から購入し保管していた乾板のなかに9図の乾板が含まれていたのである。なお、残る6図の乾板の所在は不明。これらは、一括して国立歴史民俗博物館が収蔵する。  】

https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/maria/maria_10.html

「マリア十五玄義図(浦上天主堂旧蔵)」を撮影したガラス乾板9点

受胎告知.jpg

第一図 受胎告知
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/maria/maria_01.html

ゲッセマネの祈り.jpg

第六図 ゲッセマネの祈り
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/maria/maria_06.html

鞭打ち.jpg

第七図 鞭打ち
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十字架の道行.jpg

第九図 十字架の道行
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/maria/maria_09.html

磔刑.jpg

第十図 磔刑
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/maria/maria_10.html

キリストの復活.jpg

第十一図 キリストの復活
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/maria/maria_11.html

キリストの昇天.jpg

第十二図 キリストの昇天
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/maria/maria_12.html

マリアの昇天.jpg

第十四図 マリアの被昇天
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/maria/maria_14.html

マリアの戴冠.jpg

第十五図 マリアの戴冠
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/maria/maria_15.html
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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その七 [南蛮美術]

(その七)「花鳥蒔絵螺鈿聖聖龕」周辺

花鳥蒔絵螺鈿聖龕.jpg

「花鳥蒔絵螺鈿聖龕(かちょうまきえらでんせいがん)」 1基 高61.5 巾39.5 厚5.0 安土桃山時代 16世紀 九州国立博物館蔵
http://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=101345&content_part_id=0&content_pict_id=0

【 本品はキリスト教の聖画を収納する聖龕で、桃山時代に我が国からヨーロッパへ向けて輸出されたいわゆる南蛮漆器の一つである。
 南蛮漆器の製作は、16世紀半ば以降、主としてポルトガルから来日したキリスト教宣教師が、祭儀に用いる聖餅箱や書見台、聖龕などを京都の漆工職人に注文したことに始まる。 
 こうした日本製の祭儀具は、宣教師たちが帰国の際に持ち帰り、やがて本国からの注文を受け製作されたと考えられ、箪笥や櫃などの調度品とともにおびただしい数の漆器が交易品として海を渡った。
 本品は、近年ヨーロッパから里帰りしたもので、聖画を収める聖龕としては国内に伝存する類品の中でも、最大のものである。唐破風(からはふ)状の屋根をもち、正面の観音扉の表裏には金銀の蒔絵と螺鈿を用いて、幾何学文で縁取られた空間を隙間なく埋め尽くすように草花鳥獣文様をあらわす。内部に収められた銅板油彩画には、中央に眠れるキリストを見守る聖母マリア、左に聖ヨゼフ、右に口に人差し指を当て十字を持つ聖ヨハネが描かれ、絵の下部にはラテン語で「われは眠る、されど心は目覚めて」の一文が記されている。
 入念な漆芸技法を駆使して豪華な装飾をほどこした優品であり、大航海時代における国際交易の様相を反映した南蛮漆器の代表作として貴重である。 】

https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/shikki/nanban.html

「南蛮漆器物語(なんばんしっきものがたり)」(京都国立博物館)

花鳥蒔絵螺鈿洋櫃.jpg

「花鳥蒔絵螺鈿洋櫃(ようびつ)」 <京都国立博物館蔵>

【 ヨーロッパの人達が初めて我が国に来たのは、天文(てんもん)12年(1543)。ポルトガル人が種子島(たねがしま)に上陸した時です。その後多くの西洋人が色々な目的をもって来日しました。このときヨーロッパから日本にもたらされた二つの重要なものがありました。一つは鉄砲、もう一つはキリスト教です。
 鉄砲は戦国時代に日本統一を果たすため用いられたことはよく知っていますね。キリスト教が当時の日本に爆発的に広まったことも知られています。
 このキリスト教を日本に広めるために来たのが、ローマから派遣された宣教師達でした。
ルイス・フロイスの名前など聞いたことがあるでしょう。彼らは、日本のことを熱心に勉強して、その教えを広めることに役立てました。
 日本の美術品や工芸品にも当然興味をもちました。特に「蒔絵(まきえ)」という日本ならではの工芸品に大変魅力を感じたのです。
 「蒔絵」というのは、漆の木からとれるゴムのような液体(塗ると輝きがあり、強力な接着力がある)で文様を描き、そこに金粉をちりばめて装飾した工芸品です。黒い漆の面に金がキラキラと輝く素晴らしいものです。そして、宣教師達は、この「蒔絵」で自分達の教会の道具類を作らせるほど好きになってしまったのです。
 キリストの像や聖母マリヤの像などを入れる額、聖書をのせる台などを作ったのです。
これらの道具を作ったのは京都の蒔絵師という職人さん。宣教師にいわれたとうりの形を作り、そこに得意な「蒔絵」で装飾をしたのです。縁取りは直線や斜線、丸などを組み合わせた幾何学文様、これは彼らの注文で描き、その他の花や樹などは職人さんたちが描きなれた日本の四季の植物を自由に文様にしました。
 その頃来日したのは宣教師ばかりではありません。スペインやポルトガルなど多くの国々から商人たちが貿易をするために渡来していたのです。実は彼らも日本からの貿易品としてのこの珍しい「蒔絵」の品々に興味をもちました。ヨーロッパに持ち帰れば高値で売ることが出来ると考えたのです。西洋でも装飾品として売れる形のもの、たとえば洋風の箪笥、飾り箱などで、なんと400年も前の日本でコーヒーカップまで作らせていたのです。
 さらに彼らは、当時の日本ではあまり作られていなかった「螺鈿(らでん)」という技法(貝を磨いて貼りつける)に目をつけ、「蒔絵」の装飾にこれを加えてより高値に売ることを考えました。貝の工芸品はスペイン、ポルトガルの人々に親しみがあり、とても豪華に見えたからです。
 このような工芸品を「南蛮漆器」と呼んだのです。(中国では古くから南の人を野蛮人だとして「南蛮」と呼び、日本でもその言い方をしていました。)この「南蛮漆器」のうちで一番多く作られたのは下の写真のような洋櫃(ようびつ)でした。  】(「京都国立博物館: 工芸室・灰野」)

花鳥蒔絵螺鈿洋櫃(部分).jpg

「花鳥蒔絵螺鈿洋櫃(部分)」<京都国立博物館蔵>

【 その下に孔雀が描かれていますね。樹木や草花は日本のものですが動物や鳥などは、職人さんたちが見たこともない虎やライオン。西洋の絵で見せられて描いたのでしょう。大変だったでしょうね。
 この「南蛮漆器」と呼ばれる工芸品は、正しくは「近世初期輸出漆器」といわれています。ヨーロッパ人が好んだこの華やかな工芸品は江戸時代、日本が鎖国するともう作られなくなりました。 】(「京都国立博物館: 工芸室・灰野」)

IHS花入籠目文蒔絵螺鈿書見台.jpg

「IHS花入籠目文蒔絵螺鈿書見台(しょけんだい)」<京都国立博物館蔵>
https://artsandculture.google.com/asset/folding-lectern-with-ihs-insignia-and-linked-hexagrams-in-makie-and-mother-of-pearl-inlay-unknown/6wFvjNHVepR9Qg?hl=ja

【 キリスト教の聖書をのせる折りたたみ式の見台。イエズス会の紋章をあしらっている。IHS紋の蒔絵の見台はいくつか知られ、紋の回りの文様が異なる。本品は、螺鈿(らでん)と泥絵(でいえ)のような細かな金粉の平蒔絵(ひらまきえ)で、市松文の縁取りのなかに籠目を作り、輪違い状の装飾や花のような文様を足した幾何学文である。受け台の裏には絵梨地(えなしじ)もまじえて橘を描き、背面は「南蛮唐草」で縁取ったなかに背板では蔦唐草、脚部では朝顔をすきまなく描いている。一枚板から蝶番(ちょうつがい)を彫り出す構造は日本の木工の伝統には見られず、イスラム圏のコーランの見台の構造を模したものとされる。同じ形、同じ構造をしながらインドの銀細工で覆われた見台が存在することから、本品は、コーランの見台を目にした人々が日本に来て蒔絵や螺鈿の品の制作を指示したものと考えられる。大航海時代のアジアの海の交流史を如実に伝える品である。 】

イエズス会紋章入七宝繋蒔絵螺鈿聖餅箱(.jpg

「イエズス会紋章入七宝繋蒔絵螺鈿聖餅箱(せいへいはこ)」<南蛮文化館蔵>
http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2008/shiteibunkazai/shiteibunkazai_item.html

【 大阪府指定文化財 1合 器高9.7cm 径11.5cm 北村芳郎(南蛮文化館 大阪市北区) 桃山時代(16世紀末~17世紀初頭)

 ミサに用いるオスチャ(聖餅)を入れる円筒形の容器で、器全体が蒔絵と青貝の螺鈿技法により美しく仕上げられている。昭和41年(1966)にポルトガルのリスボンより里帰りした作品で、合口造り、懸子付きの聖餅箱である。
 蓋の表面にはイエズス会の紋章である十字架とIHSの三文字と三本釘とが美しい魚紋交じりで意匠され、周囲には放射光、また蓋と身の側面には青貝を七宝繋紋にちりばめたみごとなキリシタン工芸品のひとつである。
 上記の「イエズス会紋章入蔦蒔絵螺鈿聖餅箱」が日本の国内信者向けの聖餅箱であったのに対し、本品は外国向けの輸出用品であり、またデザイン的にも特徴のあり、貴重である。 】

花鳥蒔絵螺鈿角徳利及び櫃.jpg

「花鳥蒔絵螺鈿角徳利及び櫃(カチョウマキエラデンカクドックリオヨビヒツ)」<京都国立博物館蔵> 縦:24.2cm 横:41.5cm 高:33.5cm 6本1合 重要文化財 
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/564542

【 桃山時代、ヨーロッパ向けに輸出用として造られた「南蛮漆器」と呼ばれる角徳利。おそらく葡萄酒を入れたものであろう。6本1組で櫃に納められている。南蛮漆器の器種は教会の儀式に用いられた聖餅箱・聖龕・書見台や、装飾調度として洋櫃・洋箪笥・双六盤などが造られた。そして、技法・意匠は金平蒔絵と螺鈿でそのほとんどが花鳥を全面に配したものである。この徳利もその典型的な遺品であり、櫃に入って保存されたため製作当初の姿をとどめている。南蛮漆器中でも優品に数えられるものの1つであろう。近年イギリスから逆輸入されたものである。 】

蒔絵南蛮人文鞍.jpg

「蒔絵南蛮人文鞍(まきえなんばんじんもんくら)」(「神戸市立博物館蔵・池長孟コレクション) 越前北庄 井関作 江戸時代、慶長9年/1604年 木に漆、蒔絵 高27.5 幅35.9
(後輪)高26.5 幅40.1 1背
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455129

【 全体に黒漆をかけ、前輪、後輪(しずわ)の表側に南蛮人を金銀蒔絵の意匠を施した海有水干鞍(うみありすいかんぐら)。南蛮人やその従者をみると、両手を付いて腰掛けるような姿や、軍配を手にする姿など動的表現に富む姿態が描かれています。蛍光X線分析によって、金蒔絵部分には銀や銅を含む金を蒔き、銀色の平文部分には錫の薄板、銀の薄板を併用していることが指摘されています。また、平文の接着に用いた赤色漆はベンガラ(鉄)で着色されたもので、おきめ(下書き線)には朱(水銀)で着色された漆が使用されていると推定されています。    
 居木裏(いぎうら)に黒漆による銘「慶長九/七月/吉日/於越州北庄」「井関造之(花押)」と、力皮通穴(ちからがわとおしあな)の内側に確認できる井関の細工印「◇」から、近江国北郡出身(現滋賀県)の鞍部の家系の井関が北庄(現福井市)で製作したことがわかっています。南蛮意匠を採る漆工芸品という点に加えて、記録の残りにくい製作者、製作時期といった情報も今日まで伝来している稀有な作例です。
 来歴:山村耕花→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
 参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・サントリー美術館・神戸市立博物館『南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎』展図録 2011-12
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
・早川泰弘 「蛍光X線分析による南蛮人蒔絵鞍の材質調査」、志賀太郎 「南蛮人蒔絵鞍の復元制作について」(『福井市立郷土歴史博物館 研究紀要』 第11号) 2003  】

(特記事項)

一 この「蒔絵南蛮人文鞍(まきえなんばんじんもんくら)」は、≪居木裏(いぎうら)に黒漆による銘「慶長九/七月/吉日/於越州北庄」「井関造之(花押)」≫の記録から、製作年月が「慶長九年(一六〇四)七月」、そして、製作者は「越州北庄(現福井市)・鞍部の家系(馬具の鞍職人の家系)の井関(氏)」と特定できるということは、その他の「南蛮美術」の「製作(制作)者・製作(制作)時期」に関しても、貴重な参考事項の一つになるであろう。

二 冒頭の「花鳥蒔絵螺鈿聖龕(かちょうまきえらでんせいがん)」は、「南蛮漆器の製作は、16世紀半ば以降、主としてポルトガルから来日したキリスト教宣教師が、祭儀に用いる聖餅箱や書見台、聖龕などを京都の漆工職人に注文したことに始まる。こうした日本製の祭儀具は、宣教師たちが帰国の際に持ち帰り、やがて本国からの注文を受け製作されたと考えられ、箪笥や櫃などの調度品とともにおびただしい数の漆器が交易品として海を渡った」とあるとおり、その由来は、「京都の漆工職人」(町衆の「蒔絵屋」の漆工職人)などの手によるもので、それが「おびただしい数の漆器が交易品として海を渡った」と、当時の日本と西欧とを結ぶ交易品の代表的なものになったのであろう。

三 これらの「蒔絵」(「漆工芸」の代表的な加飾技法の一つで、漆で絵や文様を描き、漆が固まらないうちに蒔絵粉(金・銀などの金属粉)を蒔いて表面に付着させるもので、粉を蒔いて絵にするところから『 蒔絵(まきえ)』」と呼ばれる)の全体については、次のアドレスの、「蒔絵について」などが参考となる。

https://shop.urushiarthariya.com/?mode=f3

さらに、「南蛮美術と蒔絵」などに関しては、次のアドレスの「南蛮(-NAMBAN-)昇華した芸術」などが参考となる。

http://www.seinan-gu.ac.jp/museum/wp-content/uploads/2015/publish/nanban.pdf

Ⅰ 萌芽の兆し-西欧文化の訪れ
Ⅱ 創出された意匠-南蛮美術
Ⅲ 新たな文化への転機-鎖国と紅毛文化
論考 
西欧における南蛮・紅毛漆器の受容(西南学院大学博物館学芸員 内島美奈子)
出島に出入りした商人や職人たち ―オランダ商館員の文物収集(西南学院大学博物館学芸研究員 野藤妙)
用語解説
蒔絵
漆を使った装飾技法。文様を表す部分にあらかじめ漆を塗り、その漆が乾かないうちに金銀の細かい粉を蒔き付けて文様とする。技法の違いから次の3種類にわけられる。
① 研出蒔絵(塗った漆の上に金銀の粉を蒔き付け、乾燥後に表面全体に漆を塗り込み、金銀の粉が表面に出るまで炭などの研磨剤で研ぎ出す技法)
② 高蒔絵(下地や漆で文様とする部分を高く盛り上げ、蒔絵を行ったあと、さらに研出して文様とする技法)
③平蒔絵(目的とする文様を漆で描きその上に金銀粉を蒔き付ける。漆の乾燥後に粉の表面を磨いて仕上げる技法)。さらに、金属粉を蒔いた後、絵漆が乾かないうちに尖った串などで蒔絵部分を引っかくようにして線を描く針描という技法もある。
螺鈿
巻貝や二枚貝の殻を加工して漆の表面に張り付けて文様をあらわす技法。
鮫皮貼
エイの皮を器面に貼り付け、黒漆を塗り込め研ぎ出す技法。黒漆の中から白い水玉文様が浮かび上がるのが特徴である。

四 その上で、この「蒔絵南蛮人文鞍(まきえなんばんじんもんくら)」の製作された「慶長九年(一六〇四)」というのは、「秀吉七回忌に際し豊国大明神臨時祭礼が行われた」年なのである。
 この「秀吉七回忌に際し豊国大明神臨時祭礼」周辺については、下記のアドレスなどで、狩野内膳と岩佐又兵衛の、その「豊国祭礼図屏風」を種々の角度から鑑賞してきたところのものである。そして、これらの「豊国祭礼図屏風」の背後の立役者は「高台院」(豊臣秀吉の「正室・北政所・寧々=ねね・御寧=おね)ということについては、しばしば触れてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-14

【 〇桟敷の主人公は高台院、彼女が読解の焦点
※「天下人」徳川家康も、大阪の豊臣秀頼・淀殿も、豊国大明神臨時祭礼には出席していない。この秀吉七回忌に、豊臣家を代表して桟敷にいたのは高台院(北政所、秀吉の妻おね)のみである。
〇豪奢極まりない臨時祭礼(※「イエズス会宣教師報告」による)   】

 そして、いわゆる「蒔絵」というのは、≪桃山時代の傑作、京都・高台寺の霊屋( おたまや )や調度に描かれている「 高台寺蒔絵 」は平蒔絵技法で描かれている≫(上記の「蒔絵について」)が基本で、そして、ここから、「南蛮漆器(螺鈿蒔絵など)が誕生してくる」
(上記の「南蛮(-NAMBAN-)昇華した芸術」)ということなのである。

五 ここで、「高山右近」(キリシタン大名「陸の司令官」)と並び称せられる「小西行長」(キリシタン大名「海の司令官」)に由来があるとされる「梅花皮写象牙鞍(伝小西行長所用)」を紹介して置きたい。

小西行長文鞍.jpg

「梅花皮写象牙鞍(かいらぎうつしぞうげくら) 伝小西行長所用」(安土桃山時代・16世紀 個人蔵)
https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s39.html

【 梅花皮を模した象牙をふんだんに散りばめた美麗な鞍。小西行長が息女・マリアを対馬の大名・宗義智に嫁がせた際に持たせたものといいます。関ヶ原合戦で行長は斬罪に処されてしまい、徳川政権下での生き残りを図る義智は、マリアを離縁しました。行長の栄光と悲劇を伝える名品です。  】
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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その六 [南蛮美術]

(その六)「レパント戦闘図・世界地図屏風」周辺

レパント戦闘図・世界図(全).jpg

「レパント戦闘図・世界地図屏風」(香雪美術館蔵・重要文化財・紙本着色・六曲一双・ 江戸初期) 各扇:縦153・5×横369・0
上図:「レパント戦闘図」 下図:「世界地図屏風」
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』所収
作品解説113」)
https://www.kosetsu-museum.or.jp/mikage/collection/kaiga/kaiga01/index.html

【 レパントの戦いは、1571年、ギリシャ、コリント湾に於ける神聖ローマ同盟国軍とトルコ軍との海戦。キリスト教世界の勝利を記念する歴史的事件となった。本図では、右端に「つぅるこ」、左端に「ろうまの王」と見える。しかし、実際の戦いには陸戦は無く、しかも象隊の出場も無かった。本図は、西欧の版画や本の挿図などから様々な戦闘図の部分を採り入れ、再構成して一つの画面を形成したものである。
 世界地図は、1609年のカエリウス世界地図に基づいて描かれた、数ある地図屏風の中でも最も豪華華麗なもの。地図の下縁には各国男女人物の風俗が表され、また、中央下には南米での食人の凄惨な場面が描かれる。
 元来、主題の異なる戦闘図と世界地図とであるが、海波の表現を同じくして一双の屏風に統一感を与えている。江戸初期、日本人の画家が西洋画を学んで完成した作風を、保存良く伝えている。 】

【 宮内庁本「万国絵図」(下記に再掲)の流れをくむ世界図と、象に乗り弓を構えるターバン姿の戦士たちが、ヘルメットを被り、銃を手に騎兵とともに攻め込んでくる兵士たちと激突する戦闘図とを組み合わせた屏風。戦闘図は右端の城郭に「つぅるこ」(トルコ)、左端の武将の頭上に「ろうまの王」と題された題簽がある。1571年に、ギリシャ・パトラ湾沖でオスマン・トルコ艦隊とカトリック国の連合海軍が激突した「レパントの海戦」を描いたと考えられている。この海戦はイスラム勢力に対してカトリック教国が勝利を飾ったことで西欧世界では重要な意味を持った。本図のような陸戦ではなかったが、スキピオとハンニバルが戦ったザマの戦いを描いた銅版画などを手本に用いながら、戦闘シーンにおける群像表現が大画面に見事に描き上げられている。(鷲頭桂稿) 】
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』所収「作品解説113」)

(再掲)

万国図屏風.jpg

「二十八都市萬国絵図屏風(「萬国絵図屏風」)」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)八曲一双 紙本着色 各隻178.6×486.3
https://www.kunaicho.go.jp/culture/sannomaru/syuzou-10b.html

 上記の宮内庁本の「二十八都市萬国絵図屏風(「萬国絵図屏風」)」は、「明治維新の時、駿府の徳川家から皇室に献上されたと伝えられる」もので、晩年の駿府の徳川家康の旧蔵品の由来があるものとすると、「レパント戦闘図・世界地図屏風」(香雪美術館蔵)も、これもまた、晩年の徳川家康周辺の「徳川家」と何らかの接点があるような、いわゆる「戦国の三英傑(信長・秀吉・家康)」の、その頂点を登りついた者と、深い関わりがあるような雰囲気を有する作品と解したい。
この「レパント戦闘図・世界地図屏風」は、当時の世界史的にも、且つ、日本史的にも様々な示唆を投げ掛けてくれる。
 まず、世界史的には、この元亀二年(一五七一)の、この「レパントの戦い」は、「カトリック同盟軍」の「十字軍(スペイン艦隊)」と「イスラム同盟軍」を代表する「オスマン・トルコ軍」との、いわゆる「東西文明の衝突」を象徴する戦いで、この戦いは、カトリック教国の圧倒的な勝利に終わった戦いであった。
 当時の西欧の超大国は、ポルトガルとスペインとの二国で、世界を二分する領土分割線を定め、アフリカ大陸の西に南北線を引き、これより東側で発見された島や大陸側は「ポルトガル領」、西側は「スペイン領」とする、いわゆる、明応三年(一四九四)の「トルデシーリャス条約」で、まさに、「大航海時代」の真っ只中での戦いで、この年(元亀二年)に、「ポルトガル船が初めて長崎に来航し」、そして、スペインが、「ルソン島にマニラ市を建設した」年に当たる。
 この「レパントの戦い」などを前後して、「ポルトガルとスペイン」との二大超大国は、「スペイン」が優位して来て、天正八年(一五八〇)には、「スペイン国王がポルトガル国王を兼ねる」年代となって来る。しかし、その翌年の天正九年(一五九一)には、「オランダ北部七州がスペインからの独立を宣言」と、「オランダ」が登場して来る。 

天正・慶長使節主要航路.jpg

「天正・慶長遣欧使節航路」
https://www.kyuhaku.jp/exhibition/img/s_49/zu01.pdf

 上記の「天正・慶長遣欧使節航路」は、てわゆる「トルデシーリャス条約」の「東回り」(ポルトガル)、そして、「西回り」(スペイン)との、その「領土拡張競争」が、やがて地球を一回りして、東アジアで激突している様子をも語っている。
 その「天正遣欧使節(1582年)と慶長遣欧使節(1613年)」は、下記の図解が分かり易い。

天正使節と慶長使節.jpg

「天正遣欧使節(1582年)と慶長遣欧使節(1613年)」
https://kagami-nihonshi.com/tensyoukenousisetutokeityoukenousisetu/

 「天正遣欧使節」を企画したのは、「ポルトガル」の「イエズス会」の宣教師「ヴァリニャーニ(ノ)」、「慶長遣欧使節」は、「スペイン」の「フランシスコ会」の宣教師「ソテロ」、その使節を送ったのは、前者は「九州のキリシタンタ大名」の「有馬晴信」ら、後者は「奥州の覇者・仙台藩主」の「伊達政宗」である。
 そして、その「天正遣欧使節」の航路は、上記の「東回り航路」(「ポルトガル」航路)で、出発した天正十年(一五八二)は「本能寺の変」で「織田信長」が没した年、帰国したのは、天正十八年(一五九〇)で、「豊臣秀吉」が「北条氏を下し、天下統一を果たした」年で、その三年前の天正十五年(一五八九)には、秀吉が「九州を平定し、バテレン追放令を発布した」年に当る。
 一方の「慶長遣欧使節」の航路は、「西回り」(「スペイン」航路)で、出発した慶長十八年(一六一三)の翌年の、慶長十九年(一六一四)」には、と「キリシタン禁教令を全国に発布、高山右近らキリスト教徒を国外(マニラ)追放、大阪冬の陣」と大きな節目の年であった。帰国したのは、元和六年(一六二〇)で、その二年後の元和八年(一六二二)は「元和の大殉教」があった年なのである。
 まさに、ポルトガルとスペインとの「大航海時代」(1454「トルデシーリャス条約」~1639「マカオのポルトガル船来航禁止=鎖国の完成」)の真っ只中の中で実施された「「天正遣欧使節(1582年)と慶長遣欧使節(1613年)」とは、日本史的には、「1582(「本能寺の変の織田信長の没」~「1622「元和の大殉教の徳川二代将軍・秀忠のキリシタン弾圧の断行
と『織田信長→豊臣秀吉→徳川家康・秀忠の三代にわたる『のキリシタン受容とその終焉』」)との、その時代の変遷を如実に物語るものである。
 そして、ポルトガルとスペインとの「大航海時代」の夜明けを象徴する、冒頭の、名も知らない、イエズス会セミナリヨで学んで制作したと思われる傑作画「レパント戦闘図(屏風)」と、その傑作図「世界地図(屏風)」には、その日本での終焉を象徴する、次の、日本の、イエズス会セミナリヨで学んだ者(修道士?)がデッサンして、それをもとに、西洋(スペイン?)の画家(マカオ在住?)が制作した、次の、「元和大殉教図」(「イタリア・ ジェズ教会」蔵)が、最も相応しい。

元和大殉教図.jpg

「《元和8年、長崎大殉教図》(1622~32年頃、作者不詳・マカオ)イタリア内務省宗教建造物基金(ローマ・ジェズ教会)」(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%AE%89%E6%95%99#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Martyrdom-of-Nagasaki-Painting-1622.png

元和大殉教図・火炙り景.jpg

「《元和8年、長崎大殉教図》の≪火炙りの景図(拡大図)》」(「ウィキペディア」)

元和大殉教図・斬首の景.jpg

「《元和8年、長崎大殉教図》の≪斬首の景図(拡大図)》」(「ウィキペディア」)

(「追記その一」)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%AE%89%E6%95%99

(火刑された者)

村山徳安(村山等安の長男。モラレスを匿った罪。等安もキリシタンを擁護したことと大坂の陣で豊臣家に肩入れした嫌疑で処刑されている)
カルロ・スピノラ(イエズス会司祭)
セバスチャン木村(フランス語版)(イエズス会司祭)
フランシスコ・デ・モラレス(ドミニコ会。一旦国外追放後に再入国し、村山徳安に匿われていた。)
ハシント・オルファネル(ドミニコ会士。「日本キリシタン教会史」著。享年43歳)
リカルド・デ・サンタ・アナ(フランシスコ会)
パブロ永石(日本人男性)
アントニオ三箇(日本人男性。河内国三箇城主三箇頼照の孫。幼少期に安土のセミナリヨで学び、アレッサンドロ・ヴァリニャーノに「不器用で、大した人物でなく、頭を患っていた」と評され、退学処分となっている。享年55歳)
パウロ田中(日本人男性)
ルシア・デ・フレイタス(日本人女性。薩摩の武士の娘で、ポルトガル人フィリーペ・デ・フレイタスと結婚。長崎にて自宅を宣教師に提供していた。80歳位。火刑者の中の唯一の女性)
ほか総勢25名

(斬首された者)

マリア村山(村山徳安の妻。末次平蔵の姪で養女。)
イサベラ・ジョルジ(ポルトガル人女性)
イグナシオ・ジョルジ(ポルトガル人イサベラの息子。4歳)
アポロニア(日本人女性)
イグナチア(日本人女性)
マリア棚浦(日本人女性)
マリア秋雲(日本人女性)
マグダレナ三箇(アントニオ三箇の夫人。摂津国出身)
ペドロ(アントニオの息子。3歳)
カタリナ(日本人女性)
ドミニカ(日本人女性)
テクラ永石(パブロ永石の夫人)
クララ山田(日本人女性)
ダミアン多田(日本人男性)
ミゲル多田(ダミアン多田の息子。5歳)
クレメント(日本人男性)
アントニオ(クレメントの息子。3歳)
ほか総勢30名

(追記その二)「慶長元年(一五九七)の「日本二十六聖人の殉教」(フランシスコの宣教師「ペドロ・バプチスタ」を含む二十六人聖人の殉教)」

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-04

二十六聖人.jpg

「26人の処刑を描いた1862年の版画」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%81%96%E4%BA%BA#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Calvary-of-Nagasaki-1597-by-Eustaquio-Maria-de-Nenclares-(1862).png

 この版画は、江戸時代末期の文久二年(一八六二)の版画で、日本人が中国人(当時の清人の辮髪)のように描かれているが、この「日本二十六聖人」は、右側から順に次のとおりとなる(「ウィキペディア」)。

1 フランシスコ吉(きち) → 日本人、フランシスコ会信徒、道中で捕縛。
2 コスメ竹屋 → 日本人、38歳。大坂で捕縛。
3 ペトロ助四郎(またはペドロ助四郎)→ 日本人、イエズス会信徒、道中で捕縛。
4 ミカエル小崎(またはミゲル小崎)→ 日本人、46歳、京都で捕縛、トマス小崎の父。
5 ディエゴ喜斎(時に、ヤコボ喜斎など)→ 日本人、64歳、イエズス会員。
6 パウロ三木 → 日本人、33歳、大坂で捕縛、イエズス会員。
7 パウロ茨木 → 日本人、54歳、京都で捕縛、レオ烏丸の兄。
8 五島のヨハネ草庵(またはヨハネ五島)→ 日本人、19歳、大坂で捕縛、イエズス会員。
9 ルドビコ茨木 → 日本人、12歳で最年少。京都で捕縛。パウロ茨木、レオ烏丸の甥。
10 長崎のアントニオ → 日本人、13歳、京都で捕縛、父は中国人、母は日本人。
11 ペトロ・バウチスタ(またはペドロ・バプチスタ、ペドロ・バウティスタ)→スペイン人、48歳。京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
12 マルチノ・デ・ラ・アセンシオン → スペイン人、30歳、大坂で捕縛。フランシスコ会司祭。
13 フェリペ・デ・ヘスス(またはフィリッポ・デ・ヘスス])→メキシコ人、24歳、京都で捕縛、フランシスコ会修道士。
14 ゴンザロ・ガルシア → ポルトガル人、40歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
15 フランシスコ・ブランコ → スペイン人、28歳。京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
16 フランシスコ・デ・サン・ミゲル→スペイン人、53歳、京都で捕縛、フランシスコ会修道士。
17 マチアス → 日本人、京都で捕縛。本来逮捕者のリストになかったが、洗礼名が同じというだけで捕縛。
18 レオ烏丸 → 日本人、48歳。京都で捕縛。パウロ茨木の弟。ルドビコ茨木のおじ。
19 ボナベントゥラ → 日本人、京都で捕縛。
20 トマス小崎 → 日本人、14歳。大坂で捕縛。ミカエル小崎の子。
21 ヨアキム榊原(またはホアキン榊原)→ 日本人、40歳、大坂で捕縛。
22 医者のフランシスコ(またはフランシスコ医師)→日本人、46歳、京都で捕縛。
23 トマス談義者 → 日本人、36歳、京都で捕縛。
24 絹屋のヨハネ → 日本人、28歳、京都で捕縛。
25 ガブリエル → 日本人、19歳、京都で捕縛。
26 パウロ鈴木 → → 日本人、49歳、京都で捕縛。

26聖人・ペドロ・パプチスタ.jpg

「26人の処刑を描いた1862年の版画」(部分拡大図)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%81%96%E4%BA%BA#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Calvary-of-Nagasaki-1597-by-Eustaquio-Maria-de-Nenclares-(1862).png

 この「6」の殉教者が、「パウロ三木(イエズス会員)」(「聖パウロ三木と仲間たち」の異名を有する代表的殉教者)、「9」が「ルドビコ茨木」(最年少の十二歳)、「10」が 長崎のアントニオ(十三歳)、そして、この「11」の人物が、この殉教者の中心に位置する、フランシスコ会司祭の「ペトロ・バウチスタ(またはペドロ・バプチスタ、ペドロ・バウティスタ)、その脇の「12」の人物が、同じく、フランシスコ会司祭の「マルチノ・デ・ラ・アセンシオン」となる。
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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その五 [南蛮美術]

(その五)「洋人奏楽図屏風」と「泰西風俗図屏風」そして「婦女弾琴図(伝信方筆)」周辺

洋人奏楽図屏風(右隻).jpg
洋人奏楽図屏風(左隻).jpg
上図:「洋人奏楽図屏風・右隻」(六曲一双・重要文化財・永青文庫蔵)各120・5×308・3
→ A-1図
下図:「洋人奏楽図屏風・左隻」(六曲一双・重要文化財・永青文庫蔵 各120・5×308・3
→ A-2図
https://www.eiseibunko.com/end_exhibition/2014.html

【 平成23年から始まった重要文化財「洋人奏楽図屏風」の修復が完了し、初めて公開いたします。大航海時代、日本にキリスト教がもたらされ、宣教師たちが各地にセミナリオを建てました。そこで洋画教育を受けた日本人が描いたとされるこの屏風は、日本絵画史のなかでも異彩を放ち、また桃山文化を形成する作品のひとつです。その修復過程を詳しく説明し、右隻と左隻を前期・後期に分けて展示します。キリスト教に帰依した細川ガラシャや高山右近の書状、ローマ字印を用いた細川忠興の書状、さらにザビエルの著書や当時の世界地図なども併せて展示し、日本から見た西欧、西欧から見た日本をご紹介します。キリスト教以外にも、大航海時代の産物である鉄砲の名品、東南アジア各国から輸入された香木、香道具、茶道具の数々も展示します。絢爛豪華なだけではない、大名細川家の目を通した桃山の世界をお楽しみいただければ幸いです。 】

【 優美な西洋の貴族たちの語らいにこめられた教訓
 広く視界が開けた水辺の自然景のなかに美しい衣装をまとった西洋の貴族たちを描く。牧歌的な光景は金色の雲がつくりだす装飾的な効果とあいまって楽園のような雰囲気をかもし出す。右隻右側には、1588年に刊行されたマルタン・デ・フォス原画の銅版画集『孤独な生活の勝利』「隠者パテルヌス」から図像を借りた「愛の神殿」が見える。これや合奏する女性・休息する騎士たちを世俗の歓楽のシンボルとすると、デ・フォス原画の『キリストの血』から図像を借用した同左端の葡萄搾りの場面は「聖」を象徴すると読み取れ、聖俗の対比を通して教訓的なメッセージを示す手法がとられていると理解される。イエズス会セミナリヨで制作された洋風画の代表作の一つ。(鷲頭桂稿) 】
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』)

洋人奏楽図屏風(MOA美術館蔵).jpg
上図:「洋人奏楽図屏風・右隻」(六曲一双・重要文化財・MOA美術館蔵)各93・1×302・4 → B-1図
下図:「洋人奏楽図屏風・左隻」(六曲一双・重要文化財・MOA美術館蔵 各93・1×302・4 → B-2図
https://www.moaart.or.jp/collections/039/

【 桃山時代、キリスト教の伝来とともに、当時宣教師たちによって運営されたコレジオやセミナリオなどの学校では、信徒子弟への体系的な教育が行われ、セミナリオでは絵画教育も行われていた。ヨーロッパ絵画の主題や技術が、主に聖画や銅版画を中心に教授されたらしく、この屏風も、キリスト教の布教効果をあげるべく、洋画教育を施された日本人によって描かれたものであろう。港の見える丘陵で音楽を楽しみ、読書や雑談をする洋人の光景を描いたもので、羊のいる樹木、愛の神殿、城郭などは、いずれも西洋中世銅版画に描かれた題材である。しかし、日本の顔料を胡桃(くるみ)油か荏油(じんゆ)に溶いて油絵の効果を出し、以前の日本画には見られない陰影のある立体表現など、外来技法習得の跡が見られ、日本絵画史上特異な画風として注目される。 】

泰西風俗図屏風(全福岡市美術館蔵).jpg
上図:「泰西風俗図屏風・右隻」(六曲一双・重要文化財・福岡市美術館蔵)各97×255
→ C-1図
下図:「泰西風俗図屏風・左隻」(六曲一双・重要文化財・福岡市美術館蔵 各97×255
→ C-2図
https://artsandculture.google.com/asset/genre-scenes-of-westerners-important-cultural-property-unknown/aQGHULD8orlPBQ?hl=ja

【 伝統的な日本の絵画に西洋的な陰影法や遠近法を導入した「近世初期洋風画」と呼ばれる絵画は、桃山時代にイエズス会がキリスト教の普及を目的として制作させたことに始まります。本図は、一見、西洋の風俗画のようでありながら、背後にはキリスト教的主題が隠されています。同時に、日本の伝統的な四季図屏風の形式を踏襲してもいます。向かって右隻には、楽器を演奏する婦人たちや水辺で憩う人物や釣り人を表わした、春から夏にかけての場面が描かれています。左隻では、聖母子を想わせる母と子の姿や収穫する人々、雪山を背に巡礼する人々を描いた、秋から冬の場面へと展開します。右隻には、享楽的に生きる人々を、左隻には、キリストの教えに則った敬虔な生き方をする人々を対比的に描いて、キリスト教の教えを説いた近世初期洋風画の代表的作例です。 】

泰西風俗図屏風(水車のある風俗図.jpg
「泰西風俗図屏風」(六曲一隻・個人蔵) 縦101.7 横262.2  → D図
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/566872

【 田園風景のなかに西洋風の人物を描く初期洋風画。技法的には、絵具の濃淡で立体感を表わし、樹木・人物には影を付け、全体的に輪郭線に頼らず、色面とハイライトでモチーフを描写するなど、17世紀のイエズス会による西洋絵画教育の影響をうかがわせる。本作品は、10件ほどしか現存しない大画面構成の初期洋風画屏風の一例で、そのなかでも特に優れた描写と良好な保存状態をもつ優品である。なかでも本図の画風は、黒田家旧蔵本(現・福岡市美術館本、重要文化財)に描写が酷似している。近世初期に来日したヨーロッパ人との交流を通して、日本で隆盛した「南蛮美術」の大作である。下村観山旧蔵品。 】

 上記の「洋人奏楽図屏風」(A-1・2図)は、「細川藤孝(幽斎)→忠興(三斎)=玉子(ガラシャ)・興元・幸隆・加賀( 木下延俊正室)」などに連なる「肥後細川家」伝来の「永青文庫」所蔵のものである。
 そして、その「永青文庫」所蔵のものと瓜二つの「MOA美術館」所蔵の「洋人奏楽図屏風」(B-1・2図)は、「松平家旧蔵品」(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「作品解説41」)との由来のあるもので、この「松平家」は、徳川家康の六男(庶子)の「松平忠輝」(長沢松平氏・越後国高田藩主、妻の五郎八姫はキリシタであったともいわれている)などに由来があるものかも知れない。
 次の「泰西風俗図屏風(福岡市美術館蔵)」の「C-1・2図」は、「ドン・シメオン」の洗礼名を有する、戦国の三英傑(信長・秀吉・家康)に重用され、筑前国福岡藩主として君臨した「黒田孝高」(官兵衛・如水)の「黒田家」に由来があるものである。
 続く、「D図」の「泰西風俗図屏風」は、「水車のある西洋風俗図」との別名を有するもので(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「作品解説44」)、下村観山旧蔵品のものである。この作品も、「C-1・2図」の「黒田家」旧蔵品と同じく、当時の、キリシタン大名の誰かの旧蔵品の一つと解しても、許容範囲内のものと解したい。
 そして、これらの作品(「A-1・2図」「B-1・2図」「C-1・2図」「D図」)の背後には、下記の「婦女弾琴図」(伝信方筆・一幅・大和文華館蔵)などに、深い関わりのある作品群と理解をいたしたい。

婦女弾琴図・jpg.jpg

「婦女弾琴図」(伝信方筆・一幅・大和文華館蔵)縦55.5 横37.3 → E図
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/43/fbb20be2bd40a863ef34d4dbf1532281.jpg

【 謎の画家「信方(のぶかた)」による初期洋風画の佳品
 手元に視線を落としながらヴィエラ・ダ・マノを弾く女性を描く。色の明暗とハイライトによって巧みに表現された緋色の衣のドレープも美しい。その姿は、小さくふっくらした唇や筋の通った鼻梁など顔貌的な特徴もふくめて「洋人奏楽図屏風」(A-1・2図)の女性像と似通う。そればかりか制昨年、制作地も隔たった「キリスト教説話図屏風」(下記・F図)にも、類型から派生したと思われる人物像が見出せる点は興味深い。本図左下にはヨーロッパの紋章に似た印章が押されている。それは信方と呼ばれる画家が用いたねので、初期洋風画の作品のなかで筆者を知る手がかりのある作品として極めて希少である。信方は「日蓮上人像」(兵庫・青蓮寺)などの仏教的主題も描いており、セミナリヨで学びながら後に棄教した人物とする説もある。(鷲頭桂稿) 】
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』)

キリスト教説話図屛風.jpg
「キリスト教説話図屏風」(八曲一双・マカオ・ポルトガル東方基金/オリエント美術館蔵)
各扇:縦240・0×横54・5 各画:縦140・0×横454・5 → F図
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』所収「作品解説122」)
https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s49.html

 なお、この「信方」関連については、下記アドレスの「所謂信方筆西洋風俗図に就て(西村貞稿)」が参考となる。

file:///C:/Users/User/Downloads/039_23_Nishimura_Redacted.pdf
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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その四 [南蛮美術]

「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その四
(その四)「泰西王侯騎馬図屏風」周辺

泰西王侯騎馬図屏風・神戸.jpg

「泰西王侯騎馬図(左隻)」(神戸市立博物館蔵)重要文化財・紙本金地著色・166.2×460.4・4曲1隻
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365024

泰西王侯図屏風・サントリー美術館(全).jpg

「泰西王侯騎馬図(右隻)」(サントリー美術館蔵)重要文化財・紙本金地著色・(各)縦167.9 横237.0・4曲1隻
https://www.suntory.co.jp/sma/collection/gallery/detail?id=611

【 福島・会津若松の鶴ヶ城(若松城)に伝来した屏風。池長孟が購入後、現状の4曲の屏風に仕立て、金具なども新調しています。対をなす騎馬図屏風は東京・サントリー美術館に所蔵されています。本図は、画面左から神聖ローマ皇帝ルドルフ2世、トルコ皇帝、モスクワ大公、タタール王を表しており、ヨーロッパに攻め込んだアジア諸王とこれに抗うヨーロッパの帝王が対峙(たいじ)する構図になっています。騎馬像の原図は、アムステルダム刊行の1606~07年のウィレム・J・ブラウ世界地図を、1609年にカエリウスが改訂した大型の壁掛け世界地図(現存しない)の上部装飾と推測されています。地図の長崎到着時期を考慮し、早くて1611年以降、1614年の大追放までの制作が想定されています。立体感をだす陰影や遠近表現は西洋画的ですが、朱地に押された金箔、下書きに見られる墨線、彩色の顔料などは日本画の技法を用いています。
来歴:会津藩主松平家伝来。前原一誠→1932池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】

【 初期洋風画の名品。会津若松城(鶴ヶ城)に伝わり、神戸市立博物館所蔵の屛風と一対であった。描かれているのは右よりペルシア王、アビシニア王(エチオピア王)、フランス王アンリ四世とされる。左端の人物については、イギリス王、あるいはギース大公フランソワ・ド・ロラン、カール五世など、諸説ある。アムステルダムで刊行された世界地図などを参考にしているが、拡大して彩色を施し、大画面へと仕上げた画力は見事である。(『サントリー美術館プレミアム・セレクション 新たなる美を求めて』サントリー美術館、2018年)】

【(躍動する異国の王、南蛮美術の白眉)
 会津若松城(鶴ヶ城)に伝来した一双の屏風が、現在は神戸市立博物館とサントリー美術館に分蔵されている。標準的な屏風よりもひとまわり大きい画面に、西洋絵画から習得した陰影法、短縮法と遠近法を駆使して、堂々たる馬上王侯を描き上げた画家の力量に驚かされる。神戸市博本は左から神聖ローマ皇帝ルドルフ2世(1576-1612)、トルコ皇帝、モスクワ大公、タタール汗が、二人ずつペアになって白刃を交えるようなダイナミックな構成で描き出される。それに対して、サントリー本は、イギリス王(?)、フランス王アンリ4世(1553-1610)、アビシニア王(エチオピア王)、ペルシア王が勇猛な馬を鎮めて悠然と構える姿で表わされる。これらの騎馬像は、当時、印刷業の中心地であったアムステルダム(オランダ)やアントウェルペン(ベルギー)で十七世紀初頭に刊行された世界地図や『古代ローマ皇帝図集』の図像を手本にする。イエズス会のセミナリヨで西洋絵画の訓練を受けた日本人画家たちが、輸入銅版画をもとに描き上げた初期洋風画の白眉である。(鷲頭桂稿)】
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』)

 これらの「泰西王侯騎馬図(神戸市立博物館蔵・サントリー美術館蔵)」は、次の「二十八都市萬国絵図屏風(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)」などを手本にしている。

二十八都市屏風.jpg

「二十八都市萬国絵図屏風(「二十八都市図屏風)」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)八曲一双 紙本着色 各隻178.6×486.3

万国図屏風.jpg

「二十八都市萬国絵図屏風(「萬国絵図屏風」)」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)八曲一双 紙本着色 各隻178.6×486.3
https://www.kunaicho.go.jp/culture/sannomaru/syuzou-10b.html

【 右隻には,上部にペルシア王ら8人の王侯騎馬図,その下にポルトガル国とローマなどの28都市図を描き,左隻には中央4扇に世界地図,その左右に計42の諸国人物図が描かれている。南蛮貿易やイエズス会宣教師の渡来によってもたらされたと考えられる西洋の地図などをもとに制作された初期洋風画で,他の同種の作品に比べても,その描写は優れている。近年の修理の際,右隻から現状画面とは異なる下絵4図が確認された。この図様は「古代ローマ皇帝図集」の4皇帝図と考えられる。】(「三の丸尚蔵館・収蔵作品詳細/二十八都市萬国絵図屏風」)

【(二十八都市万国絵図)
紙本著色、八曲一双屏風。縦178.6cm、横486.3cmと通常の屏風絵に比べてやや大きい。17世紀初期、イエズス会宣教師の布教活動や南蛮貿易で渡来したP・カエリウスの世界地図(1609年版)を元に日本で制作されたと推定される。近年の修復で、通常の屏風絵では用いられないが、初期洋風画ではしばしば使われる竹紙が用いられていること、更に絵の具は日本画でも用いられる顔料であるが、膠着剤として膠と油を混ぜてエマルションとして使用していることが判明した。
 本作品は明治維新の時、駿府の徳川家から皇室に献上されたと伝えられる。また、明治天皇が好み、傍に置いたとも言われる。
(右隻)
 上部に左からローマ皇帝、オスマン帝国のスルタン、イスパニア国王、フランス国王、モスクワ大公、タタル大汗、アビシニア王、ペルシャのシャーの8種の王侯騎馬図、その下にはポルトガルの都市やローマなどの28都市を描く。近年の修復で、現状と異なる下絵4図が発見された。これは「古代ローマ皇帝図集」の四皇帝図(右からオトー帝、カリグラ帝、ウィテリウス帝、ウェスパシアヌス帝)を下図としたものと考えられる。
(左隻)
 中央六曲に世界地図、左右に42ヶ国の人物図が描かれる。】(「ウィキペディア」)

【(家康御覧の「南蛮世界図屏風」をしのばせる大作)
 都市図と世界地図を片隻ずつに描いた屏風である。その構想や図様のおおもとは、オランダ・アムステルダムで印刷業を営んだカエリウスが、地図製作者ウィレム・プラフの世界地図を改訂した1609年版の大型壁掛け世界地図(現存せず)だったと考えられている。
 ≪二十八都市図≫は、カエリウス版上部にある8人の王侯騎馬図と、ローマを除く27の都市図が写されている。一方、≪万国絵図≫には、世界地図と42地域の人物図が描かれる。地図中の日本列島周辺はカエリウス版にさらに改良が加えられ、江戸、京都、大阪、駿府に都市のマークがされている。近年の修理で、≪二十八都市図≫の下絵に『古代ローマ皇帝図集』を手本にした騎馬像4図のスケッチが発見された。(鷲頭桂稿) 】
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』)

(別記)「会津・南蛮扉風」の謎(駒井義昭稿)

file:///C:/Users/User/Downloads/asiabunka39_1-06.pdf

(抜粋)

3.襖絵の発注者と画中人物

 井手洋一郎はその発注者を「会津藩主キリシタン大名蒲生氏郷の子,秀行に帰し,イエズス会が秀行に改宗を促すために,アンリ四世の意義(王はプロテスタントからカトリックに改宗し,宗教戦争を終結に導いた)としてその紋章を描き入れた」との A.H.ブラム女史の解釈を紹介している。(『南蛮風俗.195 頁』)

「会津・南蛮扉風」関係年表

1384 (元中 1)年:藍名直盛,黒川(会津若松)に築城。その後,蓮名氏全盛時代を迎える。
1576 (天正 4)年:京都に南蛮寺完成 (86年に破却)。キリシタン絵が描かれ始める。
1579 (天正 7)年:オルガンテイノ,安土に教会堂を建立。
1582 (天正 10) 年:天正遣欧使節団 (~90年)。織田信長死す。
1583 (天正11)年:イタリア人画僧ジョヴァンニ・ニコラオ (1560~ 1626) が西洋画指導の
ため来日(後にマカオで死亡)。この頃,国内のキリシタン信徒が十数万人で,「五万枚の
聖画」が必要(ルイス・フロイス)とされた。
1587 (天正15)年:豊臣秀吉,パテレン追放令を出す。
1589 (天正17)年:麗名氏を打ち破った伊達政宗が米沢より黒川に入城。
1590 (天正18)年:伊達政宗,米沢城へ移る。秀吉,黒川城に入り奥州仕置きを命ずる。蒲生氏郷,伊勢から黒川に入城 (42万石)し若松と改称。これに伴いキリシタン信徒も流入。この頃,有馬領内(肥前)八良尾の神学校で西洋画の指導が行われたとの記録あり,志岐・長崎でも絵画指導が行われる。
1593 (文禄 2)年:氏郷 (95年死亡),城を大改築し, 7層の天守閣を完成。この頃から京・
畿内で南蛮趣味が大流行し,十数年続く。
1596 (慶長 1)年:長崎で26聖人殉教。
1598 (慶長 3)年:蒲生秀行,宇都宮に移り,上杉影勝が若松に入城。 120万石となる。
1600 (慶長 5) 年:関ヶ原の戦い。
1601 (慶長 6)年:蒲生秀行,再び若松に入城。この頃,キリシタン信徒30万人以上。
1605 (慶長10) 年:ニコラオ,長崎の画学舎長となる。
1608 (慶長13) 年:洋風絵師・信方(落款画を残す),このころ活躍。その他,レオナルド木
村,ヤコブ丹羽(後にマカオに逃避=中国名・悦一誠),山田右衛門作(? ~1655) ,山田藤七,野沢久右,生島三郎左,ルイス・シズオカ,ペドロ・ジョアン,オータ・マンシオ,ジョアン・マンシオなどの絵師の名が伝えられる。
1609 (慶長14)年:ブラウ「世界地図J(改訂版)刊行される(会津南蛮扉風の人物借用園)。
1612 (慶長17) 年:直轄領(幕領)にキリシタン禁止令。
1613 (慶長 1)年:この頃,フランシスコ会のソテーロが東北地方に布教を始める。慶長遣欧
使節団 (~20年)。
1614 (慶長19) 年:高山右近,内藤如安,ニコラオらキリシタン148名をマニラ,マカオに追放。
1622 (慶長 8) 年:キリシタン55名,長崎で処刑。
1627 (寛永 4) 年:加藤嘉明,若松に入城。
1637(寛永14) 年:島原の乱 (~38年)。
1639 (寛永16) 年:ポルトガル船の来航禁止。これ以後,西洋画の技法が途絶える。 (1576年にキリシタン絵が描かれ始めてから63年目にその技法が断絶する)
1643 (寛永20)年:保科正之 (1611~72) ,出羽山形より若松に入城, 23万石を領す。以後,幕末まで保科氏の代となるが,後に松平姓を名乗る。
18臼(慶応 4)年:会津戦争で白虎隊が奮戦。 9月22日に会津藩,薩長箪に降伏。降伏式出席者は薩長軍:軍監・中村半次郎(桐野利秋),寧曹・山県小太郎,使番・唯九十九。(前原一誠は不在)。会津藩:藩主・松平容保,喜徳(養子),家老・梶原平馬,軍事奉行添役・秋月悌次郎ら12名。
1874 (明治 7) 年:若松城,解体される。

 はじめに,我が国で最初に行われた西洋画の指導について述べておきたい。イエズス会の1592年の報告書に有馬領内八良尾の神学校で行われていた西洋画の指導に関する次のような記事が見られる。

 「学生のうちには,それぞれの嗜好にしたがって(正規の修学以外の)他のことも練習しております。例えば,絵画を習い,印刷もしは画像の版画を彫ることを修める者のごときであります。彼らの技は非常に有用でございます。というのは,彼らは立派な,かつ巧妙な腕をもっていて,とても容易にそれを修得するのをみますと,ただただ驚嘆するだけでございます。もし(イエズス会総長)貌下がこれら初心の少年たちの作ったものをご覧になりますならば,お悦びなさることでありましょう「(岡本良知『南蛮美術』平凡社,128頁)。
 
 さらに1593年の報告書には次のような記述がある。「この八良尾の神学校の学生の数人が,絵を描き,金属版を彫っているのは,教会のため大いに役立ちます。彼らのうち八人が水彩の,他(の八人)は油彩の画像に,五人は銅版画に修練を積んで、いますが,そのどれにもとても進歩しまして,わたくしたちを大いに驚嘆させております。といいますのは,日本人の公子たちがローマから持って来たいくつかの最もよくできた画像を,彼らのうちに彩色でも陰影でもそれに近似することで完全にちかく,原画さながらに写す者がおるからでございます。 後になって,その関係の神父(パードレ)や修士(イルマン)たちの間にも,そのどれが彼らの作ったものか,どれがローマでできたものかを識別できない人が多く,行き過ぎだと思われるほどですが,日本人の作品をローマから来たものと主張する人さえいました。(省略)」(前掲書129頁)。 

 この画学舎には1593年の時点で水彩画学生 8人,油彩画学生 8人,銅版画学生 5人がいたことが確認される。これらの画学生たちが1609頃『会津・南蛮扉風Jを描いたとすれば,その修行期間は少なくとも 17年(あるいはそれ以上)もあり,西洋画の基本はほぼマスターしているはずであり,さらに第二世代の絵師の養成もなされていた可能性もある。『会津・南蛮扉風」には不思議なことにほとんど大和絵の匂いがないのは,この学舎で初めて絵の手ほどきを受けた者たちが描いたからであろう。西洋画の技法をマスターした彼らのうちの数人が都に上り,キリシタン関係者(大名や豪商を含む)たちの注文に応じてさまざまな絵を描いたということも充分考えられる。現存する有名なフランシスコ・サピエル像の聖画もそのような絵の一枚に過ぎなかったのではなかろうか。

 前掲の年表から推測すれば『会津・南蛮扉風絵」の製作時期は,蒲生秀行の会津若松域入城の1601年から画僧ニコラオがマカオに追放される1614年までとするのが大ざっぱな見方になるが,描かれた人物像の手本となったブラウ『世界地図Jの刊行が1609年であることを考えると,その時期はさらに短く, 1609~14年の間ということになる。

 織田信長の南蛮文化愛好と宣教師の保護により,都や畿内ではポルトガル人たちの伝えた華やかな風俗が庶民の中でも人気を博し,流行し,ある種のファッションと化し,大名や豪商たちが狩野派の絵師たち(宗秀・内膳・山楽)に競って南蛮扉風を描かせた。南蛮船や宣教師が描かれていようとも,それらは華やかな南蛮風俗にすぎず,キリシタン信仰とはほとんど縁のないものと見なされた。大名たちにとっては,南蛮文化の品々をもつことが一種のステータスとなり,豪商たちは描かれた南蛮船を富を運んでくる宝船(一般に画面の左側から入港)と見なした。おそらくキリシタン大名を父にもつ蒲生秀行もその例外ではなかったろう。父がキリシタン大名であることから,彼はイエズス会の宣教師や画工房とも親しい関係があったと推測されるし, 1601年の若松城入城を機に「南蛮扉風Jを注文したとも考えられる。

 さらに推測を重ねれば,ブラウ『世界地図』の刊行された1609年から画僧ニコラオの追放の1614年までの聞に, A.H.フラム女史の解釈どおり,有力な宣教師の指示でカトリック思想を込めたあの二種類の扉風絵,戦闘図と肖像図が描かれたものと考えられる。しかし絵の発注者としての蒲生秀行は,画中に込められたキリスト教思想に想いを馳せることなく,勇壮かつ優雅な武人像,王者としての威厳と権威を象徴する武人像として鑑賞したであろう。また,あの西洋画のほぼ完壁なまでの描写はニコラオの指導なくしては描けなかったであろう。ニコラオ自身の描いた絵は現存しないが,彼はみずから描くよりも,もっぱら絵学生たちがキリシタン信者用に描く小聖画の模写・複製・改変の技術指導に専念していたと考えられる。この作業が結果的に,後年の『会津・南蛮扉風Jをはじめとする大作の修行になったものと考えられるのである。年表の1608年の箇所に信方(落款を残した絵師)ほかイエズス会の画工房で西洋画を学んだ絵師たちの名を列挙しておいたが,おそらくこれらの絵師たちの何人かを含んだ共同作業によって、 2種類の『会津・南蛮騨風』が完成したものと考えられる。描かれた場所はニコラオのいた長崎とみるのが妥当であろう。
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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その三 [南蛮美術]

(その三)「肥前名護屋城図屏風」(狩野光信筆・六曲一隻・佐賀県立名護屋城博物館蔵)

肥前名護屋城.jpg

「肥前名護屋城図屏風」(狩野光信筆・六曲一隻・佐賀県立名護屋城博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/23054/
【 本図は、狩野派の絵師狩野光信の作で、下絵あるいは写しといわれている。六曲一隻の屏風で、第三・第四扇上部にある名護屋城には、五層の天守閣を中心に多くの御殿・数奇屋・櫓・門などが描かれ、当時では大坂城に次ぐ巨大な規模を持っていた名護屋城の様子を詳細に描いている。その周囲の丘陵には各大名の陣屋がひしめき合い、城下町では全国から集まった物資や人々で大変な賑わいを見せている。
 文禄2(1593)年夏頃の描写と考えられ、名護屋城及び軍事都市名護屋を知るうえで極めて貴重な資料である。 】(「文化遺産データベース」)

肥前名護屋城・模型.jpg

(名護屋城・城下町復元模型/常設展示室)
https://saga-museum.jp/nagoya/nagoya-castle/
【 「名護屋城・陣跡の概要」
 名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城です。
1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となりました。
城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇りました。
周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったとされています。現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています。 】

「晩年の秀吉(天正15=1587=50歳)から家康没(元和2=1616=享年75)まで」(「ウィキペディア」などで作成。※「文禄の役」「慶長の役」=「肥前名護屋城」関連)

1587年(天正15年)51歳 3月、九州平定のため大坂を発つ。5月、島津義久、秀吉に降る。6月、キリスト教禁教令発布。10月、北野に大茶会を催す。
1588年(天正16年)52歳 4月、後陽成天皇、衆楽第に行幸。5月、京都東山に方広寺大仏殿建立。7月、 刀狩令発布 この年、大小判鋳造。
1589年(天正17年)53歳 5月、淀殿、鶴松(お捨)を生む。9月 秀吉、諸大名に妻子の在京を命ずる。
1590年(天正18年)54歳 6月、ポルトガルの宣教師ヴァリニャーノ、遣欧使節を伴って来日。11月、秀吉、朝鮮の使を衆楽第で引見。「小田原征伐」北条氏亡ぶ。東北地方平定、全国統一なる。
※1591年(天正19年)55歳 1月、第一次朝鮮出兵(文禄の役)。3月、秀吉、肥前名護
    屋城へ向う。関白を甥秀次に譲り、この頃千利休に自害を命じる。
※1592年(文禄元年)56歳 文禄の役」、16万の大軍で向かうも徹底抗戦にあう。
※1593年(文禄2年)57歳 明の援軍により戦況は膠着状態、ついに明と講和。 
※1593年(文禄2年)57歳 側室の淀が「お拾い(秀頼)」を産む。
※1595年(文禄4年)59歳 殺生関白「秀次」に謀反の疑いをかけ切腹を命じる。
※1596年(文禄5年)60歳 明との講和交渉決裂、再度明への侵攻を決意。
※1597年(慶長2年)61歳「慶長の役」、翌年秀吉の死により撤退。
※1598年(慶長3年)62歳 3月、秀吉、醍醐の花見。8月18日 秀吉、伏見城に病没。
1599年(慶長4年)1月、秀頼、秀吉の遺命により大坂城に入る。
1600年(慶長5年)9月、関ケ原合戦、石田三成・小西行長ら敗れる。
1605年(慶長10年)この年、京都東山に高台寺建立さる。
1614年(慶長19年)10月、大坂冬の陣。12月 和議成る。
1615年(慶長20・元和元年)4月、大坂夏の陣。大坂城落城。 淀殿・秀頼母子城内で自刃。
1616年(元和2年) 4月17日、 徳川家康没す(享年75)。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-27


狩野派系図.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-13

狩野 光信(かのう みつのぶ、永禄8年(1565年、永禄4年(1561年)説もある) - 慶長13年6月4日(1608年7月15日))は、安土桃山時代の狩野派の絵師。狩野永徳の長男。狩野探幽は弟・孝信の子供で甥に当たる。名は四郎次郎、通称は右京進。子の貞信も右京進と称し、両者を区別のため後に古右京とも呼ばれた。
 山城国で生まれる。はじめ織田信長に仕え、父永徳とともに安土城の障壁画などを描く。その後、豊臣秀吉に仕えた。天正18年(1590年)に父永徳が没した後、山城国大原に知行100石を拝領、狩野派の指導者となる。天正20年(1592年)肥後国名護屋城を制作。その後も豊臣家の画用を務め多忙であったようだ。慶長8年(1603年)京都の徳川秀忠邸(二条城)に大内裏図を作成している[1]。慶長11年(1606年)江戸幕府の命で江戸へ赴き、江戸城殿舎に障壁画を描く[2]。しかし、慶長13年(1608年)帰京途中で桑名で客死してしまう。享年44、または48。家督は長男の狩野貞信が継いだ。
 父永徳の豪壮な大画様式とは対照的な理知的で穏やかな作風は、当時の戦国武将たちの好みとは合わなかったらしく、本朝画史では「下手右京」と酷評を受け近世を通じて評価が低かった[3]。しかし、祖父の狩野松栄や曾祖父狩野元信の画風や中世の大和絵を取り入れ、自然な奥行きのある構成や繊細な形姿の樹木・金雲などを描き、特に花鳥画に優れる[4]。また、永徳時代には排斥の対象ですらあった長谷川派との親和を図り、新たな画題である風俗画に取り組むことで、永徳様式からの自立と新たな絵画領域の開拓を目指した。こうした光信の画業を継承する狩野長信や狩野興以、狩野甚之丞のような門人もおり、光信の画風は永徳様式から甥の探幽を中心とする江戸狩野様式への橋渡しする役割を果たしたといえる。

「狩野光信への『酷評』再確認」(黒田泰三稿)
http://idemitsu-museum.or.jp/research/pdf/03.idemitsu-No18_2013.pdf

セミナリオ.jpg

マルコ・アントニオ・チアッピ箸『教皇グレゴリオ13世伝」(1596年刊)にみられる有馬(上)と安土(下)の神学校の図。
https://core.ac.uk/download/pdf/223208069.pdf

file:///C:/Users/User/Downloads/8%20(1).pdf

「キリシタン時代における田本のイエズス会学校教育 (桑原直己稿)」

【 セミナリオ (ポルトガル語)seminario

 キリシタン宗門の初等教育機関。将来、聖職者を志す少年たちにのみ入学が許された事情からは「神学校」と訳される。1579年(天正7)に来日したイエズス会日本巡察師バリニャーノは、日本人聖職者を養成する必要を認め、翌年から有馬(ありま)(長崎県南島原(みなみしまばら)市)と安土(あづち)(滋賀県近江八幡(おうみはちまん)市)にセミナリオを開設し、良家のキリシタンの少年を入学させ、学則を定めた。学科目のおもなものはラテン語で、音楽、日本語も教授された。安土の学校は本能寺の変によって京都、高槻(たかつき)、大坂と転じたのち、1588年からは有馬の学校と合併したが、その学校も江戸幕府の禁教令によって1614年(慶長19)に廃されるまで九州各地を転々とした。これ以外に1601年には長崎に、教区司祭養成のためのセミナリオが開設された。[松田毅一]

  コレジヨ (英語表記)Collegio

 カトリック教会の高等教育施設の一つ。日本では天正8 (1580) 年イエズス会士 A.バリニャーノにより豊後府内 (大分市) に創設された。同 14年島津氏の侵入によって焼失し,山口に移り,さらに加津佐 (島原半島南西端) ,天草を経て長崎へ移転。聖職者の養成とヨーロッパ文化の伝達を目的として,哲学,神学,一般教養を教え,教義書や辞書,物語などの印刷出版も行なった。 】(出典:「ブリタニカ国際大百科事典」)

http://archives.tuad.ac.jp/wp-content/uploads/2020/08/tuad-iccp-R1bulletin-2.pdf

【 日光東照宮陽明門唐油蒔絵の制作についての考察(中右恵理子 NAKAU, Eriko /文化財保存修復研究センター客員研究員)

2-4.唐油蒔絵と西洋文化との関係
 天文18年(1549)、フランシスコ・ザビエル(1506頃-1552)が鹿児島に上陸し、その後平戸を拠点に布教活動を行った。ザビエルらによりイエズス会の布教活動が広がる中で、日本人信徒の教育機関としてセミナリオが建設された。天正11年(1583)にはイタリア人宣教師で画家であったジョバンニ・ニコラオ(1560-1626)が来日し、天正18年(1590)頃から長崎のセミナリオで西洋絵画の技法を教えた。日本人が描いたと考えられるマリア像やキリスト像などの聖画は、このような施設で制作されたものと考えられる。当時絵画は布教のための重要な手段であった。
 文禄2年(1593)にはフランシスコ会の宣教師が来日し布教を開始した。狩野道味や興甫らはフランシスコ会に属していた。しかし、フランシスコ会ではイエズス会のような組織的な聖画の制作は行われなかったようである。東照宮の造営期に「唐油」という言葉が見られるものの、油彩画が制作されなかったのは、興甫らに具体的な技法習得の機会がなかったためとも考えられる。神山氏は興甫らがイエズス会の日本人画家に接触し、西洋絵画の技法についての知識を得た可能性を示唆している。  】


https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12559723668.html

【「狩野派絵師とキリシタン」(講演「キリシタン時代の絵師― 狩野派とキリシタン―(神山道子)」)

●狩野永徳の後を継いだ光信の高弟の一人が、狩野道味で、その娘婿が 興甫、その息子が 興益 になります。
 道味は、「 ペドロ 」という霊名を持つ キリシタンで、1600年 ( 慶長5年 ) 頃、京都にあった フランシスコ会の 2つの小聖堂の財務係をしていたほどで、信徒の代表として 活動していました。
 道味の娘婿だった興甫や息子の興益も、狩野派の優秀な先達の絵師であり、キリシタンでもあった 道味を通して、キリシタンの信仰に導かれていったものと思われます。

●日光東照宮の造営に関わった絵師の興甫が、いつ・誰から油彩画の技法を学ぶことが出来たのでしょうか。
 義父の道味からだ、と思われますが、道味は いつ・ 誰から油彩画の技法を学ぶことが出来たのでしょうか。
 道味が京の都で、フランシスコ会の財務係をしていた同じ頃、1605年( 慶長10年 ) に、都の下京に、イエズス会の 2千人収容の 大きな教会が建てられました。
 教会内部は、祭壇を始め、多くのりっぱな油絵で飾られ、その絵画法には、陰影法が使われていて、その完璧な技巧のために、見た人々は、絵画ではなくて 彫刻だと見間違えたと記録されています。
 これらの教会内部の宗教画の制作を受け持ったのは、臼杵出身で、セミナリオの画学舎で 西洋画の技法を学んだ、「タデウ・マンショ・ ジョアン」 という、日本人でイルマンの画家でした。
 狩野派の道味にとっては、技法の違う油彩画ですが、その見事な画法を目にして、絵師であり・キリシタンであった道味が、下京教会の聖堂内を飾るタデウの作品に すっかり眼を奪われ、実際に、自分でも、西洋画の技法で 聖画を描いてみたいと思ったでしょうし、タデウに 教えを乞うたとしても、自然の流れだと思われます。
 その時、道味の婿である興甫も、舅( しゅうと )に従い、共に西洋画の技法を学び、
それが、東照宮陽明門の「 唐油蒔絵 」につながっていったのではないかと、推察することが出来るのではないでしょうか。  】

(特記事項) 「肥前名護屋城図屏風」(狩野光信筆・六曲一隻・佐賀県立名護屋城博物館蔵)
周辺

天文18年(1549)フランシスコ・ザビエル来日。
天文19年(1550)平戸にポルトガル船来航。
天正4年(1576)京都にイエズス会の教会を建立。
天正11年(1583)ジョバンニ・ニコラオ来日。

【ジョバンニ・ニコラオ(生年:1560―没年:1626.3.16)
 タリア人イエズス会宣教師、画家。ナポリ生まれ。1580年イエズス会に入会。天正11(1583)年,日本からの画家要請によって来日。最初の1年長崎と有馬の教会の祭壇画を1枚ずつ描き、同12年から同15年まで京都に滞在。同年伴天連追放令により九州に赴く。文禄1(1592)年,セミナリオ(神学校)での絵画,銅版画,工芸の教授課程設置に伴い、天草、島原半島にある志岐、八良尾、有家、有馬、長崎の各セミナリオで指導に当たり、遠近法、陰影法といった西洋画技法を日本人に伝える。その門下にキリシタン画家の丹羽ヤコブなどがいたらしい。慶長19(1614)年の禁教令によりマカオに追放され,彼の地で死去。<参考文献>坂本満『南蛮美術』
(宮崎賢太郎) (出典 朝日日本歴史人物事典) 】

天正18年(1590)ジョバンニ・ニコラオが肥前のセミナリオで絵画を教える。

※1591年(天正19年)55歳 1月、第一次朝鮮出兵(文禄の役)。3月、秀吉、肥前名護
屋城へ向う。関白を甥秀次に譲り、この頃千利休に自害を命じる。
※1592年(文禄元年)56歳 文禄の役、16万の大軍で向かうも徹底抗戦にあう。

文禄元年(1592)光信、肥前名護屋城障壁画制作。

※ この「肥前名護屋城障壁画制作」は、「狩野派宗家」を継いだ、「狩野光信」の、一門挙げての大仕事であったであったろう。先輩格の「狩野内膳」も、そして、内弟子のような「狩野道味」も参加し、その一翼を担ったものと解したい。そして、この大仕事が終了した後も、若手の「狩野道味」は、肥前(佐賀県: 有馬領内(肥前)八良尾の神学校)に残り、ジョバンニ・ニコラオの「肥前のセミナリオ」(画学舎)などで、「西洋画」の技法の一端を学ぶ機会があったものと解して置きたい。

文禄2年(1593)フランシスコ会神父が肥前名護屋城で秀吉に謁見。フランシスコ会の布教始まる。

※フランシスコ会神父(ペドロ・バブチスタ)の来日は、この文禄2年(1593)を嚆矢とする。このペドロ・バブチスタは、慶長元年(1597)に、トリック教徒26人が長崎で処刑される(日本二十六聖人の殉教)。

文禄3年(1594)京都に「天使の元后教会」(聖母マリア教会)を建立。
文禄5年(1596)サン・フェリペ号事件。ペドロ・バプチスタ、京都で捕縛される。
慶長元年(1597)ペドロ・バプチスタやマルチノ・デ・ラ・アセンシオンなどフランシスコ会員6名をふくむカトリック教徒26人が長崎で処刑される(日本二十六聖人の殉教)。

※1597年(慶長2年)61歳「慶長の役」、翌年秀吉の死により撤退。
※1598年(慶長3年)62歳 3月、秀吉、醍醐の花見。8月18日 秀吉、伏見城に病没。

慶長5年(1600)関ケ原の戦い。道味、フランシスコ会の財務を担当。

※「狩野道味」は、「ランシスコ会の財務を担当」して登場する。

慶長9年(1604)京都地区の信徒が署名した請願書に道味、興甫と思われる署名。
慶長13年(1608)光信没。
慶長19年(1614)全国に禁教令、宣教師および高山右近らマカオに追放。10月、大坂冬の陣。12月 和議成る。

※高山右近、ジョバンニ・ニコラオらマカオに追放、この時に、「狩野道味」(「狩野源助ペドロ」?)も同行か?

慶長20・元和元年(1615)4月、大坂夏の陣。大坂城落城。 淀殿・秀頼母子城内で自刃。
元和2年(1616)4月17日、 徳川家康没(享年75)。狩野内膳没(享年47)。秀忠、禁教を強化。

 ここで、「ジョバンニ・ニコラオ」に、その「セミナリオ」などで「西洋画技法」を学んだと思われる日本人画家たちは、文禄三年(1594)三月十五日付け「ゴメスの日本年報」に記された「油絵を習っているのが八名」とあり、その名は、次のとおりである(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』)。

【「ジョバンニ・ニコラオ」に「油絵を習った八名」など

ヤコブ・ニワ (Jacob Niwa) (Niwa)
レオナルド・木村 (Leonardo Kimura S.I.)
マンシオ・タイチク (Mancio Taichiku S.I.)
ルイス・シオヅカ (Luis Shiwozuka S.I.)
タドウ (Thadeu S.I.) (Thaddaus)
ペドロ・ジョアン (Pedoro Joan S.I.)
オタオ・マンシオ (Votauo Mancio)
マンシヨ・ジョアン (Maicio Joan)
 
この八名の他に、当時の洋画家として、日本側の伝承ないし作品によって知られる作家として、次の三名などが挙げられる。

山田右衛門作
生島三郎佐
信方       】(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「栄楽徹稿(P89)」)

救世主像.jpg

救世主像(東京大学総合図書館蔵)  制作年:不明 寸法(cm):縦23×横17
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/kyuseisyuzou/document/5061e0fa-b328-431f-a95e-7b417137335b#?c=0&m=0&s=0&cv=7&xywh=-1988%2C-147%2C6497%2C3875

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-02

【 再掲)
 左手に十字架のついた珠を持ち、右手で祝福を与えるキリスト像は、礼拝用聖画として代表的な図像の一つです。この像はアントワープで刊行された銅版画をもとに、銅板に油絵具で描かれました。画面右下に「IS 97」と記されていることから、「IS」を「15」と解釈し、1597年に描かれたとする説があります。
 当時の日本ではキリスト教の布教をすすめたイエズス会によって、西洋流の絵画教育が行われていました。この像も裏面に「Sacam. Iacobus」と書き込まれていることから、ヤコブ丹羽(丹羽ジャコベ)が宣教師ジョバンニ・ニコラオの指導を受けて描いたものと推測されています。  】
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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その二 [南蛮美術]

(その二)「四都図・世界図屏風」(神戸市立博物館蔵)

四都図.jpg
上図:「四都図屏風」(「四都図・世界図屏風(八曲一双)」・神戸市立博物館蔵・重要文化財・各158.7×477.7㎝・池永孟コレクション)
世界図.jpg
下図:「世界図屏風」(「四都図・世界図屏風(八曲一双)」・神戸市立博物館蔵・重要文化財・各158.7×477.7㎝・池永孟コレクション)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365023

【 四都図は、むかって左からリスボン、セビリア、ローマ、コンスタンティノープル(イスタンブール)の4都市、上部に高貴な階層の男女ならびに王侯騎馬図を配する8曲の屏風。片隻は、高い装飾性を示す世界地図の8曲屏風です。17世紀初期、日本で布教活動を展開したイエズス会のセミナリオで、西洋画の技法を習得した絵師によって描かれたと想定されます。1931年のスペイン革命時に古美術商・富田熊作が入手し、日本へ戻したことが知られていますが、それ以前の来歴は明らかではありません。都市図、世界図の原図は、1609年版カエリウス改訂の大型壁掛け世界地図にもとづくと考えられ、ローマ図は、『福音イグナティウス・ロヨラ伝』(1610年)所収の都市図に拠っていると言われています。
(来歴:スペイン某貴族家伝来?→1931京都富田熊作→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館)  

「四都図世界図(池長本)」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%83%BD%E5%9B%B3%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%9B%B3

 スペイン内戦(1937年-1938年)で市場に現れ、日本へ里帰りしたと伝わる他、伝歴は明らかでない。リスボン、セビリア、ローマ、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)の四都市図や風俗図、世界地図中の北アメリカの部分に、褐色、緑、青と色相を変えて色彩遠近法が用いられるなど、西洋画法の受容を示す。原図は泰西王侯騎馬図等と同じく、1606年版ウィレム・J・ブラウ図を元に1609年に海賊版として作成され、江戸時代初期に伝来した大型世界地図(いずれも現存しない)と考えられる。世界地図中の都市の表現の中でローマが特に大きい点、浅瀬など航海上必要な知識をとりこんだ点、日本部分の精度の高い図を元に描き変えている点など注目すべき描写が多く、地図学上も重要資料。江戸時代初期の日本で描かれキリスト教の布教用に聖画等を制作したセミナリオ工房(天正8年(1580年)-慶長19年(1614年))か、その系統を引く画家の手による可能性が指摘される。 】

リスボン.jpg
「リスボン図」(上図:「四都図屏風」第七・八扇=拡大部分図)

【 「リスボン」

http://www.y-history.net/appendix/wh0901-017.html

《ポルトガルの首都。大航海時代の15世紀末から16世紀末まで、香辛料貿易などの商業港として栄えた。》

 大航海時代にポルトガルの首都として栄えた。ポルトガルの発音ではリスボア、またはリスボアゥンとも表記する。テージョ川(タホ川)の河口に位置し、大西洋に面した良港。その始まりは、ローマが建設したオリシボにさかのぼる。イスラーム勢力のイベリア半島への侵入により、この地も後ウマイヤ朝の支配下に入ったが。レコンキスタが進行するなか、1147年にポルトガル王によって征服され、1255年からはポルトガル王国の首都となる。
 15世紀には、ポルトガル王国の皇太子エンリケによって展開された海外進出の拠点となった。1498年のヴァスコ=ダ=ガマのカリカット到達によってリスボンはインド航路の起点となり、香辛料貿易によってアジアからの香辛料が直接輸入される一大貿易港として発展した。1500年にはカブラルがブラジルに到達し、新大陸への進出も始まると、リスボンは新大陸との貿易でも繁栄した。ポルトガルと新大陸進出で競合したスペインの貿易港の拠点はセビリアであった。

《リスボンの後退》
 
 しかし、ポルトガルは、1580年にスペインに併合され、1640年に独立を回復る間、政治的な安定が得られず、また17世紀以降はオランダとイギリスという新興勢力が台頭、インド・東南アジアでも後退を余儀なくなくされ、世界貿易の中心地はオランダのアムステルダムとイギリスのロンドンなどに移ったため、リスボンはかつてのような世界経済の中心としての役割は失っていった。
 それでも18世紀のポルトガルは植民地のブラジルでの金鉱の発見、コーヒー栽培の成功などが続き、植民地大国(海洋帝国)としての威勢を保ったので、リスボンの繁栄も維持されていた。しかし、絶対王政と新興ブルジョワジーの対立という新たな問題も表面化し、フランスの影響を受けた啓蒙的な政治家ポンバル侯爵による上からの改革が始まると、リスボンにも変革の気運が起こった。そのようなときにリスボンを大地震が襲い、大きな犠牲を出したが、それをきっかけにポンバル侯爵のめざす都市改革が実行されるという事態となった。  】

https://www.w-harimaya.co.jp/?mode=f1

《 (ポルトガル)

 ポルトガルは日本から約1万3千キロ離れたユーラシア大陸の西の果て、イベリア半島に位置する国で、日本の国土の4分の1ほどの大きさ(91,985km²)です。ユーラシア大陸最西端に位置するロカ岬(北緯38度47分 西経9度30分)にはローズ大理石の石碑があり、ポルトガルを代表する詩人、ルイス・デ・カモンイスの叙事詩「ウズ・ルジアダス」の一節から「ここに地終わり海始まる」と刻まれています。  》

リスボンから日本(長崎・神戸・堺).jpg
「ポルトガル(リスボン)図と日本(長崎・神戸・堺)」図」(下図:「世界図屏風」第一~四扇=拡大部分図)
http://www7b.biglobe.ne.jp/~aki141/mokujinanbannjin.pdf
http://www7b.biglobe.ne.jp/~aki141/nanbannjin.pdf


【 イエズス会宣教師の渡来から鎖国まで(石井昭夫稿)

 はじめに (抜粋)

 大航海時代はまさに「旅と発見の時代」であった。それまでばらばらに発展してきた文明と文化が、それらを隔ててきた大洋を人類が航路に換えたことによって結ばれ、相互発見の機会がもたらされたのであった。
 日本と西欧の接触の始まりは、16 世紀半ばの鉄砲伝来、ポルトガル商人の南九州への来港、そして、イエズス会宣教師の来日であった。閉鎖的で精神の自由を抑圧してきたヨーロッパ中世は、十字軍の数次にわたる聖地派遣をきっかけに外的世界に目を開かれ、ルネサンス運動と人文主義の発展によって科学技術を発展させ、その技術をもとに大洋へ、大航海時代へと外に向かって展開してきた。その流れがユーラシア大陸東端の日本にまでたどり着いたとき、日本は戦国動乱の時代であった。
 大航海時代を主導したのはポルトガルとスペインのイベリア半島の2国家であった。地中海経由の東方貿易では脇役に過ぎなかった両国が開かれた大洋に向かったのは必然の展開だが、両国が長きにわたる先進的イスラムの支配下にあって、ヨーロッパの中でどの国よりも科学が進んでいたことが大きな理由であった。航海術やそのもとになる天文学、造船術、物理学、力学などは、イベリア半島におけるイスラム大学の水準が非常に高かった。
 他のヨーロッパ諸国では失われていたギリシャの哲学や自然科学、インドの数学や医学まで、この地が学問発展の最先端にあり、いったんアラビア語に翻訳されてからラテン語に翻訳されてヨーロッパに伝えられていた。
 イスラムを追い落とした両国は、同時期に北ヨーロッパで展開しつつあった宗教改革においてはローマ(カトリック)教会派であり、教会内改革派として新教と対峙する勢力の中核であった。また両国は、7世紀の長きにわたる国土回復運動(レコンキスタ)によって半島を支配してきたイスラム勢力を武力で追い払ったのだが、その延長線上に海外に進出して行ったのであったから、武器・武力の使用には長けていた。
 未知の海洋進出に成功した両国は、教皇承認のもとにトルデシリアス条約を結んで(1494年)、大西洋上の西経 46 度 37 分の子午線を境界線として地球を東西に分け合った。ポルトガルはアフリカ南端回りで東インド(アジア)に向かい、他方、スペインは大西洋を西に向かってアメリカ新大陸(西インド)に辿りつき、さらに太平洋航路を探索してアジアへ向かった。大西洋上の境界のみ定められただけで、地球の反対側のことはまだ知られていなかったから、スペインが太平洋経由で香料諸島に到達したとき、先着していたポルトガルとの間で境界線をめぐる勢力争いが生じるのは必然であった。
 ポルトガルとスペインが東アジアに現れて日本でもヨーロッパ人との接触が始まり、政治・経済・軍事・文化上の影響を直接間接蒙ることになる。この時期、日本は戦国時代がようやく収束に向かい、中央集権的封建制度の編成期にあり、強大に見えた外からの影響にいかに対応するかが重大な課題であった。鉄砲が普及して戦争の形態が激変し、貿易と交流によってもたらされる西洋の異質な文化を驚きの眼をもって迎える一方で、最初期の接触からカトリック教の激しい布教活動にさらされた。ポルトガル・スペイン両国の海外展開は、必然的にカトリック教会の海外布教努力に結びついており、未知の世界での布教のために、宣教師たちは命をかけて故郷を出ていった。
 宣教師たちの活動は果敢であった。その激しさがアジアやアメリカを植民地化していく勢力と密接に結びついていたことから、秀吉も家康も警戒感を強めていく。両者とも、南蛮貿易による利を望みながらキリスト教の過度の浸透を怖れ、宗教と貿易の分離に失敗してキリスト教布教の禁止に踏み切ったのだが、その勢いを止める難しさゆえに、ついに世界との人的交流を絶つ鎖国へと進んでいった。

1.ポルトガル人到来時の日本をめぐる東アジアの情勢 (略)
 勘合貿易と後期倭寇
 ポルトガル人のアジア登場
  中国との交易開始は失敗
  マカオに拠点を得る
  鉄砲伝来
2.フランシスコ・ザビエルの来日と初期の布教 (略)
 ザビエル来日まで
  イエズス会
  ザビエルのアジアへの旅
  アンジローとの出会い
  アンジローの教育
  日本に関する情報収集
  日本への苦難の航海
  鹿児島上陸
 日本におけるザビエル
  鹿児島-平戸-山口
 京都への旅
 豊後大分から帰国の旅へ
 トーレスの時代:ザビエル以後の布教活
  山口での布教
  ガスパール・ヴィレラ
 ルイス・デ・アルメイダの九州伝道の旅
  南蛮医アルメイダ
  慈善病院の創設
  開拓伝道師アルメイダ
  横瀬浦、口ノ津から長崎へ
 京都・畿内の布教事始め
  ヴィレラ京都へ向かう
  布教の許可を求めて
  ヴィレラ、堺へ:畿内への布教
 知識人ルイス・フロイス
  天性の書記官
  京都へ派遣
  信長とフロイス
 日本布教の第二世代
  トーレスの死
  トーレスからカブラルへ
  カブラルの時代(1570~82)
  都の南蛮寺
3.巡察師ヴァリニャー (略)
 布教体制の確立
 適応主義の推進
 通信制度の改革
 長崎の領有
 信長の厚遇と安土教会
 遣欧少年使節の派遣
4.伴天連追放令  (略)
 秀吉とキリシタン
  突然の伴天連追放令
  信長と秀吉のちがい
  追放令後のイエズス会の対応
  ヴァリニャーノの再訪
 スペイン系修道会の登場
  日本との接触の始まり
  秀吉の対外強硬策
  サンフェリペ号事件と 26 聖人の殉教
 リーフデ号の漂着とオランダの登場
  オランダの台頭
  リーフデ号の航海
5.家康の対外政策  (略)
 朱印船貿易の始まり
  渡航朱印状
 大名による大船所有の禁止
 外国船貿易の統制
  糸割符制度
  ポルトガルからオランダへ
  イギリスの登場と撤退
 キリシタンの絡んだ事件 マードレ・デ・デウス号事件
  ジュアン・ロドリゲス
  岡本大八事件
 禁教令の発布とキリシタン迫害の始まり
   家康の決断
   慶長 18 年の禁教令
   慶長 19 年の大追放
   伊達正宗による遣欧使節派遣
   津軽に流されたキリシタン
   蝦夷地を探検した宣教師
6.鎖国への道        (略)
 宣教師排除の政策
  伴天連宗門御禁制奉書
  宣教師の潜入と処刑
  平山常陳事件と元和の大殉教
  宣教師の密入国阻止
  フェレイラからキアラまで
 日本人キリシタンの根絶
  教皇の慰問状
  密告の奨励、踏絵、寺請制度
 国際往来の制限:外国船の制限と朱印船の縮小
  貿易地を長崎・平戸2港に限定
  初の交通貿易制限令
  奉書船制度の導入
 鎖国の完成
  日本人の海外渡航禁止
  伴天連禁止令
  貿易統制
  ポルトガルの追放
  鎖国の強化と手直し:オランダの扱い
  フランソア・カロン
  平戸から長崎出島へ
 中国貿易船の来訪状況
  明との交易再開は失敗
  明から清へ
  鄭成功
  鄭氏の日本貿易
  鎖国時代の日清貿易
7.南蛮人の来訪がもたらしたもの (略)
 鎖国:カトリック布教に対する防御
  攻撃的だったカトリックの布教
  遺された四半世紀に及ぶ鎖国体制
  もしも鎖国がなかったら
 南蛮貿易
 学術・技術
  銃砲と火薬
  天文学と地理学
  地図と測量術
 医学と薬学
 その他の学術・技術
 美術工芸と南蛮屏風 
 (抜粋) イエズス会宣教師らの来日以来、美術工芸品についても、ヨーロッパの影響を受けて、
いわゆる南蛮美術と呼ばれる工芸美術品が誕生した。南蛮美術は安土桃山時代の美術の中で大きな特色のある流れであったと推定されるが、母体となったキリスト教が禁止されたためにほとんどが姿を消し、日本美術への影響はわずかなものにとどまっている。そうした中で異彩を放つのが南蛮屏風と呼ばれる西欧を描いた屏風である。
 南蛮屏風は〈南蛮人渡来図屏風〉〈黒船屏風〉とも呼ばれ、今日まで約 60 双ほど残存している。これらは南蛮人の当時の風俗を示すもので、興味深い資料となっている。筆者ではっきりわかっているのは狩野内膳ひとりだけで、仕入絵として多量生産されたと推定されている。残存する屏風を主題別に分類すると、①左双にポルトガル船の入港・荷揚げ、右双に外国商人の日本市街での行進を描いたもの、②左双に外国港におけるポルトガル船の出港、右双に日本港への入港・荷揚げ・行列を描いたもの、③左双に外国人の舞踊・競馬などの遊楽、右双に日本港への入港・荷揚・行列を描いたもの、の3種があった。いずれも日本の港で行われる行動や事件を一定の構図内に表現するもので、表現方法や材質はすべて日本流で、西洋画の影響はほとんど受けていない。
 衣生活・服装
  毛織物と合羽
  カルサン・ジュバン・ボタン
 食生活・食品
  肉料理
  肉以外の料理・食品
 その他の生活文化
  ガラスとガラス製品
  その他の南蛮文化
8.南蛮人の見た日本   (略)
 異文化の先進国:全体的評価
  ザビエルの見た日本
  フロイスの「日欧文化比較」
 日本がヨーロッパ文化に与えた影響  
  清潔と秩序ただしさ
  児童と育児
  茶の湯
  建築と庭園と日本美
  日本画と日本刀その他の日本美
  漆器と和紙                   】

https://core.ac.uk/download/pdf/364708275.pdf

「外国人の見た日本-クール・ジャパンとその源流を求めて―」(石井昭夫稿)

リスボン・南蛮屏風・道三・右隻.jpg
「狩野道味筆(伝):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)→「右隻」(拡大「部分図」)
http://museudearteantiga.pt/collections/art-of-the-portuguese-discoveries/namban-folding-screens

 先に紹介した、この絵図の、この大きな甕の中身は、ポルトガル産の「ワイン」(葡萄酒)であろう。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~aki141/nanbannjin.pdf

【 ヨーロッパの葡萄酒はポルトガル人によって初めて紹介された。ミサに欠かせない貴重品であり、日本にも野生の葡萄はあったから、日本で生産することを考えた宣教師もいた
が、実現はしなかった。葡萄酒は珍重され、信長、秀吉、家康へも贈物として届けられ
ている。 】(「イエズス会宣教師の渡来から鎖国まで(石井昭夫稿)」所収「肉以外の料理・食品」)

https://museum.kirinholdings.com/person/wine/01.html

「布教がもたらしたブドウ酒」
 ザビエルが持参した献上品
 ブドウ酒はミサ用か"大人用の薬"
 大内義隆に贈られた品々

https://museum.kirinholdings.com/person/wine/02.html

「近世史を築いた三英傑とブドウ酒」
  信長とまぼろしのチンタ酒
  秀吉にブドウ酒2樽を献上
【1586(天正14)年、イエズス会の日本副管区長であったガスパル・コエリョやフロイスをはじめとした一行は大坂城で秀吉に謁見した。秀吉はポルトガル人の来日を歓迎し、日本での通商を保証した。1588(天正16)年、コエリョは前回会談時の答礼と秀吉の九州平定(島津征伐)の凱旋を祝うため、博多に滞在していた秀吉を海路訪れた。秀吉はコエリョの船に乗り込んで、「大いなる好奇心をもって」(『イエズス会日本年報』1588年2月20日)船内を見学したのであった。船内では洋楽器が演奏され、秀吉は糖菓とポルトガル産のブドウ酒を自ら賞味し、長時間雑談した後、レモンの糖菓漬けやブドウ酒を土産に帰っていった。】
  家康に贈られたシェリー酒
【『ドン・ロドリゴ日本見聞録』によると、1年近く日本に滞在したロドリゴが日本で造られた船で離日する際、家康は日本人の使者を派遣し、スペイン国王に贈り物を献上した。スペイン国王は、ロドリゴが厚遇を受けたことへの返礼のため、1611(慶長16)年にセバスチャン・ビスカイノを大使として日本に派遣した。ビスカイノは、時計やスペイン国王らの肖像画とともにブドウ酒2樽を家康へ献上している。このブドウ酒2樽はシェリー酒および赤ブドウ酒であったと考えられている。】
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「南蛮屏風幻想」(リスボン・ファンタジー)その一 [南蛮美術]

(その一)「狩野内膳筆(落款):南蛮屏風」と「狩野道味筆(伝):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)

リスボン・南蛮屏風.jpg

上図: 「狩野内膳筆(落款):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)
下図: 「狩野道味筆(伝):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)
紙、金箔、多色テンペラガ、シルク、ラッカー、銅金 178x 366.4 x 2 cm(1st)
出典:リスボン国立古美術館ホームページ
http://museudearteantiga.pt/collections/art-of-the-portuguese-discoveries/namban-folding-screens

https://museudearteantiga-pt.translate.goog/collections/art-of-the-portuguese-discoveries/namban-folding-screens?_x_tr_sch=http&_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc

【ポルトガルと日本の関係に関する重要な歴史的・芸術的文書は、長崎港にポルトガルの船が到着したことについて述べています。 スペースを別々のコンパートメントに分割するように設計されたスクリーンは、一般的に、紙で覆われ、薄いラッカーフレームに囲まれた可変数のヒンジ付き葉からなるペアで作られました。
 1543年に日本にポルトガル人が到着したことで、長崎港に南蛮人と呼ばれる南方の黒い船(南からの野蛮人)の到着によって生み出された好奇心とお祝いの雰囲気という2組のスクリーンに記録された商業文化交流が生まれました。
 現場の様々な参加者が描かれている偉大な詳細、船とその貴重な貨物の説明、そしてこの文脈で非常に重要なイエズス会の宣教師の存在は、これらの作品をポルトガルと日本の関係についてのユニークな歴史的、視覚的な文書にします。 】

 上記のアドレスの「リスボン国立古美術館ホームページ」の、「ハイライト」には、「南蛮の折りたたみスクリーン 第1ペア:鹿野内善のシール(1570-1616);第2ペア:カノドミ(attrib.) - 紙、金箔、多色テンペラ絵画、シルク、ラッカー、銅ギルト - 桃山(1568-1603)/江戸(1603-1868)期間」との見出しで紹介されている。

「南蛮折りたたみスクリ-ン」→「南蛮屏風」(Namban Screen) → (BIMBOS NAMBAN)
第1ペア:鹿野内善のシール(1570-1616)→「第一双(六曲一双):狩野内膳の落款(1570-1616)」入りの作品→「狩野内膳筆(落款)南蛮屏風(六曲一双)」
第2ペア:カノドミ(attrib.) → 「第二双(六曲一双):狩野道三(由来)」の作品→「狩野道三筆(生没未詳・伝)南蛮屏風」(六曲一双)

 この上図の、 「狩野内膳筆(落款):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)に関連しては、下記のアドレスで、その周辺のことについて、下記(再掲)のとおり紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-10

【 (再掲)

 「南蛮屏風(図)」(南蛮人渡来図屏風・南蛮来朝図屏風)は、下記のアドレスによると、次の三類型に分類される。

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/122/witness.html

《 南蛮屏風は通例、3つの類型に分類されるが、向かって左隻に日本の港に停泊する南蛮船とそれからの荷揚げの風景、右隻にはキリスト教の僧侶たちのいる南蛮寺とそれに向かって歩むカピタン・モール(マカオ総督を兼ねた船長)たちの一行、さらに彼らに好奇の眼を向ける日本人たちという図様で構成される第一類型のものが、全体のおよそ半数を占めている。第二類型はこの第一類型の両隻の図様を右隻にまとめ、左隻に異国の港とそこを出航する南蛮船の光景を描く。第三類型は右隻が第二類型と同じで、左隻は異国の館とそのテラスにおける南蛮人たちの姿で構成される。》(歴史系総合誌「歴博」第122号・「南蛮人来朝図屏風」)

 狩野内膳の「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵=神戸市博本)は、この分類ですると、第二類型(左隻=異国の港とそこを出航する南蛮船の光景、右隻=日本の港に上陸する一行と出迎えの光景と南蛮寺などに向かう光景)のもので、この「狩野内膳」((1570~1616)の落款を伴う南蛮屏風は以下の五点が確認されている(「ウィキペディア」)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E5%86%85%E8%86%B3

神戸市立博物館蔵→神戸市博本
文化庁の九州国立博物館委託蔵→文化庁本
リスボン国立古美術館蔵→リスボン国博本
個人蔵(日本)→川西家旧蔵本
個人蔵(アメリカ)→アメリカ人所蔵本         】

 これらの、「狩野内膳」の落款のある作品については、これまでに、さまざまな角度から、その鑑賞がされているが、この下図の、「狩野道味筆(伝):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)に関連しては、この作者が「狩野道味」なのかどうかを含めて、「狩野内膳」のそれに比すると多くの謎を秘めている「南蛮屏風」の一つといえる。
 しかし、この作品は、過去に二度ほど里帰りして、日本でも公開されており、下記のとおり、その図録で、その一端を知ることが出来る。

一 『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「作品解説85」

【85 南蛮屏風 紙本着色 屏風 六曲一双 各152×360 リスボン国立古代美術館蔵
 堺の旧家に伝来したもので、昭和初期に池永孟の所蔵となり、昭和二十七年ポルトガル大使館が購入、現在はリスボン国立古代美術館に保管されている。
 左隻に南蛮船の入港、右隻に天主堂への南蛮人行列が描かれている。左隻の南蛮船の浮かぶ海原を青海波模様で装飾的に描いた点が特徴である。一方、南蛮人は多彩に精密に描かれ、交易品の描写も正確で、天主堂の有り様も正しいキリスト教の風習をとらえている。的確で、個性豊かな、この作品は、おそらく、狩野派のなかの一流の画人の手になるものであろう。】
(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「作品解説85」)

二 『VIA ORIENTALIS 《「ポルトガルと南蛮文化(日本ポルトガル友好)」展―めざせ、東方の国々― 日本ポルトガル友好450周年記念》(「セゾン美術館・静岡県立美術館編・日本放送協会刊・1993」)』所収「作品解説156」

【 六曲一双の屏風形式、金箔を貼った和紙に南蛮屏風特有の主題や風俗が描かれる。左隻にはマカオから船荷を満載した船が日本に入港したところが描かれ、絹製品やや生糸、さまざまな品々が箱や梱に詰められたり、巻かれたりして甲板にまで溢れているのが見える。右隻には長崎の市街を通る行列が描かれ、その先頭には華美な衣装を着け、日傘を差し掛けかられたカピタンを配し、彼が特別な人であることをはっきりと示している。またポルトガル人や水夫やカフラリア(南アフリカ喜望峰の近く)人、そして大抵この一行に加わっていたクジャラート(アラビア海に面したインド北西部の一部)人もこの作者は描き分けており、屋根に十字架を置いた日本の教会やその中の様子、丈の長い黒マントを着用したイエズス会宣教師、短い日本の煙管(キセル)でたばこを吸っている在留のポルトガル人など当時の南蛮風俗の模様をよく伝えている。
本屏風は駐日ポルトガル大使であったアントニオ・カルネイロ博士が戦後リスボンに持ち帰ったもので、堺の旧家に伝世したものである。 】(『VIA ORIENTALIS 《「ポルトガルと南蛮文化(日本ポルトガル友好)」展―めざせ、東方の国々― 日本ポルトガル友好450周年記念》(「セゾン美術館・静岡県立美術館編・日本放送協会刊・1993」)』所収「作品解説156」)

 この二つの「作品解説」で、特記して置きたいことは、次のとおりである。

一 「堺の旧家に伝来したもので、昭和初期に池永孟の所蔵となり、昭和二十七年ポルトガル大使館が購入、現在はリスボン国立古代美術館に保管されている。」(『THE NANBAN ART OF JAPAN』)

(関連メモ)

 この作品は、現在の「神戸市立博物館」の「池永孟コレクション」の、その「南蛮美術のコレクター」として名高い「池永孟」旧蔵品の一つなのである。この「池永孟」関連は下記のアドレスが、そのスタートということになる。

http://www2.kobe-c.ed.jp/trh-ms/?action=common_download_main&upload_id=7116

 と同時に、この作品が、「堺の旧家に伝来したもの」ということになると、下記アドレス(再掲)の、「狩野源助ペドロ」と、何かの因縁があるようにも思えてくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-22

【 (再掲)

《 狩野源助ペドロ  生年:生没年不詳
江戸前期のキリシタン、京都のフランシスコ会の財産管理人、狩野派絵師。イエズス会を讒言する書翰をマニラの3修道会の管区長に送付した中心人物で、のち司教セルケイラのもとでその讒言を撤回。慶長8年12月25日(1604年1月26日)付京坂キリシタンによる26殉教者(日本二十六聖人)列聖請願者の筆頭に「狩野源助平渡路」と署名。また教皇パウロ5世宛同18年8月15日(1613年9月29日)付京坂・堺の信徒書状には「へいとろかの」と署名する。元和6年12月10日(1621年1月2日)付の京坂信徒代表による教皇奉答文にみえる堺の「木屋道味平登路」は同一人物とみなされている。<参考文献>H.チースリク「ペトロ狩野事件の資料」(『キリシタン研究』14号)》(「出典 朝日日本歴史人物事典(五野井隆史稿)」)

 そして、さらに、この「木屋道味平登路」は、織豊時代の陶工の一人の、次の「道味」と同一人物のように思われてくる。

《道味(どうみ) ?-? 織豊時代の陶工。
天正(てんしょう)年間(1573-92)に千利休に茶事をまなび、京都で茶器をやいた。 》
(出典「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

 そして、この「道味」は、「堺千家」の「千道安」の門人のように解したいのである。

《 千道安 没年:慶長12.2.17(1607.3.14) 生年:天文15(1546)
安土桃山・江戸初期の茶湯者。千利休の嫡子。堺生まれ。母は阿波三好氏か。初名は紹安。眠翁、可休斎と号した。才能に恵まれたが,家を継がず数寄者としての生涯を送った。利休賜死ののち、飛騨高山(金森氏)、豊前小倉(細川氏)、阿波徳島(蜂須賀氏)と流寓先が伝えられ、義弟少庵に比して厳しい状況があったと考えられる。文禄年間(1592~96)に帰京し、豊臣秀吉の茶頭に復帰、堺に住んで茶湯者として活動、古田織部の最初の師であり、門下の桑山左近の弟子に片桐石州がいる。慶長6(1601)年、細川忠興から豊前に知行地を与えられたとされる。道安囲と称される小座敷の工夫が知られ、道安風炉などその好みを伝える道具も多い。<参考文献>『堺市史』 》(「出典 朝日日本歴史人物事典(戸田勝久稿)」) 】

二 「南蛮人は多彩に精密に描かれ、交易品の描写も正確で、天主堂の有り様も正しいキリスト教の風習をとらえている。的確で、個性豊かな、この作品は、おそらく、狩野派のなかの一流の画人の手になるものであろう。」(『THE NANBAN ART OF JAPAN』)

(関連メモ)

 (追記一)の「狩野道味」周辺の「イエズス会の神学校でカトリック芸術を学んだカノ・ペドロは、おそらく日本でのフランシスコ会の絵画の制作にも貢献しました」ということと、下記アドレスの、「狩野興甫がキリシタンとして捕らえられた件は『南紀徳川史』、『徳川実記』に記載が見られるとのことである。興甫は父興以の兄弟弟子の一人である狩野道味(生没年不詳)の娘を娶っており、道味は義理の父にあたる。リスボンの国立古美術館には道味の作とされる南蛮屏風が所蔵されている。その道味に関して『日本フランシスコ会史年表』に狩野道味ペドロがフランシスコ会の財務担当者であったとの記載があり、やはりキリシタンであったことが報告されている。」は、やはり特記して置く必要があろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-13

三 「日傘を差し掛けかられたカピタンを配し、彼が特別な人であることをはっきりと示している。またポルトガル人や水夫やカフラリア(南アフリカ喜望峰の近く)人、そして大抵この一行に加わっていたクジャラート(アラビア海に面したインド北西部の一部)人もこの作者は描き分けており、屋根に十字架を置いた日本の教会やその中の様子、丈の長い黒マントを着用したイエズス会宣教師、短い日本の煙管(キセル)でたばこを吸っている在留のポルトガル人など当時の南蛮風俗の模様をよく伝えている。」(『VIA ORIENTALIS』)

(関連メモ)

リスボン・南蛮屏風・道三・右隻.jpg

「狩野道味筆(伝):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)→「右隻」(拡大「部分図」)
http://museudearteantiga.pt/collections/art-of-the-portuguese-discoveries/namban-folding-screens

 このカピタン一行の長崎市街を歩く一行の、その街中の商店街の「暖簾」や「人物」などに注目したい。この図の「暖簾」(「下り藤」紋)は、紛れもなく、下記の「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」・神戸市立博物館蔵)の、その「暖簾」(「下り藤」紋)と一致してくる。

イエズス会とフランシスコ会.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」・神戸市立博物館蔵)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 さらに、この「狩野道味」(「狩野源助ペドロ」)が、下記の(追記一)の、「イエズス会の神学校でカトリック芸術を学び」、そして、後に、「フランシスコ会の絵画の制作にも貢献した」ということと関連させると、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」の、「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」との混在した描写が活きてくる。

(追記一)「カノ・ペドロ」または「グエンスケ・ペドロ(源助ペドロ)」周辺

https://www-scielo-org-co.translate.goog/scielo.php?script=sci_arttext&pid=S0121-84172019000100021&_x_tr_sch=http&_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc

【 (カノ・ペドロ」=「狩野道味?」)

 狩野派の宣教師と画家の関係。宣教師の文書によると、狩野派の師匠である「カノ・ペドロ」または「グエンスケ・ペドロ」源助ペドロは、ジェロニモ・デ・イエス神父の時代に京都のフランシスコ会の評議員であり、3人とともに同じ都市の他の仲間の画家、兄弟たちに非常に近い。したがって、カノペドロが率いる地元の画家のグループは、日本のフランシスコ会コミュニティの需要を供給するためにカトリックの画像を作成した可能性があります。さらに、このすべての情報は、カノがおよそ40歳でルソン島に着手する前に、1603年3月6日に長崎のルイスセルケイラ司教の前にカノ自身が行った声明で提供されました。しかし、彼が実際に行ったかどうかを証明することは困難です。同年12月25日、京都・大阪地域のカトリック代表12名が署名した、26人の殉教者に敬意を表して聖化の請願書に狩野源助ペドロ狩野源助平渡路の署名が表示されたため、フィリピンに送られました。
この帰属が真実である場合、次の仮説が立てられます。イエズス会の神学校でカトリック芸術を学んだカノ・ペドロは、おそらく日本でのフランシスコ会の絵画の制作にも貢献しました。同様に、同じ作者に帰属する他の作品は、リスボンの国立古美術館に今日収容されている南蛮引き分け(1593-16000)は、間違いなく、カノ・ペドロは、日本、ヨーロッパ、南北アメリカの間の芸術交流において重要な影響力のある人物です。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-22


フラシスコザビエル像.jpg

重要文化財 聖フランシスコ・ザビエル像 神戸市立博物館蔵(池長孟コレクション)
「S.P.FRÃCISCUS XAVERIUS SOCIETATISV」 墨筆にて「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」 朱文長方関防印「IHS」 朱文壺印(印文未詳) 
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365020

(追記二) 「京都のキリシタン―戦国から江戸―(麻生将稿)」

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/673/673PDF/aso.pdf 

京都のキリシタン都市空間.jpg
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