川原慶賀の世界(その二十八) [川原慶賀の世界]
(その二十八)「シーボルトと川原慶賀の江戸参府」周辺
「外国人の旅(シーボルト)」
https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/trip/html/diary/diary-edo.html
「江戸参府行程図」(「FLOS, 花, BLUME, FLOWER, 華,FLEUR, FLOR, ЦBETOK, FIORE」d)所収)
http://hanamoriyashiki.blogspot.com/2019/05/20-2-14ch-de-villeneuve.html
上記の「江戸参府行程図」が紹介されているアドレスで、「オランダ商館長の江戸参府と鞆の浦」(矢田純子稿・比較日本学教育研究センター研究年報第6号)が、「シーボルトと川原慶賀の江戸参府」周辺に関して、次のように記述している。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-11
(再掲)
【「オランダ商館長の江戸参府と鞆の浦」(矢田純子稿・比較日本学教育研究センター研究年報第6号)
≪ 江戸参府は、オランダ商館長が江戸へ行き将軍に拝謁し、献上品を送ることで、寛永十年(1633)以来恒例となる。寛文元年(1661)以降、旧暦正月に長崎を出発し、三月朔日前後に拝謁するよう改められ、寛政二年(1790)からは4年に1回となり、嘉永三年(1850)が最後の参府となる。
参府の経路を述べると、当初は長崎から平戸を経由し海路下関に向かっていたが、万治二年(1659)以降、長崎から小倉までは陸路となり、小倉から下関、下関から兵庫は海路で、兵庫-大坂から陸路で江戸へ向かっていた。下関から兵庫は順風であると約8日間を要した(【第1図】=上記図の原図)。
なお経路はその年により多少の変動がある。参府旅行全体には平均90日前後を要し、江戸には2、3週間滞在していた。旅行の最長記録は以下で取り上げる文政九年(1826)の事例で、商館長スチュルレル一行が143日間をかけて参府旅行を行った。
また、小倉では大坂屋善五郎、下関では伊藤杢之丞、佐甲三郎右衛門(隔年交代)、大坂では長崎屋五郎兵衛、京都で海老屋余右衛門、江戸においては長崎屋源右衛門というように、5つの都市には定宿が存在していた。≫
上記の論稿の「商館長スチュルレル一行が143日間をかけて参府旅行」の、この紀行が、「シーボルド・川原慶賀」らが参加した「文政九年(1826)」の江戸参府紀行で、その「使節(公使)」の「オランダ商館長」は「スチュルレル(大佐)」(シュトューラー)、その随行員の「医師(外科)、生物学・民俗学・地理学に造詣の深い博物学者」が「シーボルト(大尉)」(ジ~ボルド)、もう一人の「書記」が「ビュルガル(薬剤師)」(ビュルガー)で、生物学・鉱物学・化学などに造詣が深く、シーボルドの片腕として同道している(もう一人、画家の「フィルヌーヴ」(フィレネーフェ)をシーボルドは同道させようとしたが、「西洋人」枠は三人で実現せず、その代役が、出島出入りを許可されている「町絵師・川原慶賀」ということになる)。 】
そして、この「商館長スチュルレル一行(シーボルト・川原慶賀ら)が143日間をかけて参府旅行」に関連しては、下記のアドレスで、その全行程のあらましについて見てきた。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10
↓
(その一)「シーボルト江戸参府紀行日程」(「1826年(文政9年)」)周辺
↓
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10
↓
(その十三)「大阪から長崎への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28
ここで、これまでの、この(その一)から(その十三)までを踏まえて、下記の(別記)に、「シーボルトと川原慶賀」に焦点を当てて、その「全行程」などを、新しい、川原慶賀の絵図などを入れて、再掲(再現)をして置きたい。
(別記その一)「シーボルト江戸参府紀行日程(1826年(文政9年)」周辺(一部要約抜粋)
≪参考文献:「江戸参府紀行 ジーボルト著 斎藤信訳(平凡社)」「シーボルト 板沢武雄著(吉川弘文館)」≫
http://www5e.biglobe.ne.jp/~masaji/lolietravel/capitan/index.html
日数 西暦 和暦 天候 行程 日誌
(その一)「シーボルト江戸参府紀行日程」(「1826年(文政9年)」)周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10
↓
(その四)「長崎・出島」」―「小倉・下関」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-15
1 2/15 1/9 晴 出島-諫早 威福寺での別れの宴など
2 2/16 1/10 晴 諫早-大村-彼杵 大村の真珠・天然痘の隔離など
●作品名:大村(千綿)付近 ●Title:A view of Omura, Chiwada
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
3 2/17 1/11 彼杵-嬉野-塚崎(武雄)嬉野と塚崎の温泉など
4 2/18 1/12 晴 塚崎-小田-佐賀-神崎 小田の馬頭観音・佐賀など
5 2/19 1/13 晴 神崎-山家 筑後川流域の農業・筑前藩主別荘など
6 2/20 1/14 雨 山家-木屋瀬 内陸部高地の住民など
7 2/21 1/15 雨 木屋瀬-小倉 渡り鳥の捕獲
●作品名:小倉引島 ●Title:Hikeshima, Kokura
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
8 2/22 1/16 晴 小倉-下関 小倉の市場・与次兵衛瀬記念碑など
(その五)「下関」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-17
9 2/23 1/17 晴 下関滞在 門人の来訪・カニの眼
10 2/24 1/18 晴 下関 早鞆岬と阿弥陀寺・安德天皇廟など
11 2/25 1/19 晴 下関 萩の富豪熊谷五右衛門義比など
12 2/26 1/20 晴 下関 門人・知友来訪・病人診療と手術など
13 2/27 1/21 晴 下関 近郊の散策・六連島・捕鯨について
14 2/28 1/22 晴 下関 薬品応手録・コーヒーの輸入など
15 3/1 1/23 晴 下関 正午過ぎ乗船 ブロムホフの詩・下関の市街など
16 3/2 1/24 晴 下関出帆
(その六)「下関から室津上陸」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-20
●作品名:下関(竹崎付近) ●Title:A view of Shimonoseki, Takesaki
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
17 3/3 1/25 晴 船中 夜風強まり屋代島の近くに舟をつなぐ
18 3/4 1/26 晴 屋代島の東南牛首崎に上陸・象の臼歯化石発見・三原沖に停泊
19 3/5 1/27 晴 船中 水島灘・阿伏兎観音・琴平山・内海の景観・日比に停泊
20 3/6 1/28 晴 早朝上陸 日比の塩田と製塩法
21 3/7 1/29 晴 日比-室津上陸 室のホテル(建築様式・家具など)
22 3/8 1/30 晴 室滞在 室の付近について・娼家・室明神・室の産物
作品名:室津長風図 ●Title:A view of Murotu
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
23 3/9 2/1 晴 夜雪 室-姫路 肥料・穢多・非人・大名の献上品など
24 3/10 2/2 雪 姫路-加古川 高砂の角力者の招待
●作品名:雪景色一 ●Title:Snowscape
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
●作品名:雪景色二 ●Title:Snowscape
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
25 3/11 2/3 晴 加古川-兵庫 敦盛そば・兵庫の侍医某来訪
26 3/12 2/4 晴 兵庫-西宮 楠正成の墓・生田明神
27 3/13 2/5 吹雪 西宮-大坂
(その七)「大阪・京都の滞在」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-21
28 3/14 2/6 快晴 大坂滞在 多数の医師来訪・薬品応手録印刷できる
≪フォート大阪(※Fort Osaka=大阪城)/ 製造年:1669/ 製造場所:アムステルダム/
源/388 A 6 コニンクリケ図書館/著作権:情報: Koninklijke Bibliotheek
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/fort-osaka?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=2&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3A388A6-NA-P-272-GRAV ≫
29 3/15 2/7 晴 大坂 二、三の手術を行なう・動脈瘤
30 3/16 2/8 晴 大坂 鹿の畸形・飛脚便について
31 3/17 2/9 晴 大坂-伏見 淀川の灌漑など
32 3/18 2/10 晴 伏見-京都 小森玄良、新宮涼庭らと会う
33 3/19 2/11 晴 京都滞在 小森玄良、小倉中納言来訪
≪「京都の全景」(『日本 : 日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』(雄松堂書店, 1977-1979)「図113」)
http://hdl.handle.net/2324/1000295399
復刻版『Nippon : Archiv zur Beschreibung von Japan』(講談社, 1975)
http://hdl.handle.net/2324/1000951631 ≫
34 3/20 2/12 晴 京都 多数の医師が病人を伴って来る
35 3/21 2/13 晴 京都 来訪者多数・名所見物を帰路に延ばす
36 3/22 2/14 晴 京都 二条城・京都は美術工芸の中心地
37 3/23 2/15 晴 京都 天文台・京都の人口
38 3/24 2/16 晴 京都 明日の出発準備
(その八)「京都より江戸への旅行」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-22
39 3/25 2/17 晴 京都-草津 日付はないが琵琶湖付近の風景の記述
『日本』に掲載されている「琵琶湖の景」(Nippon Atlas. 5-p30)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=29&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229
『日本』に掲載されている「瀬田川と瀬田橋の景」(Nippon Atlas. 5-p29)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=28&r=0&xywh=288%2C799%2C3251%2C3631
40 3/26 2/18 晴 草津-土山 梅木の売薬・植物採集の依頼・三宝荒神
41 3/27 2/19 晴 土山-四日市 鈴鹿山のサンショウウオ
42 3/28 2/20 四日市-佐屋(原文 Yazu)二度の収穫・桑名の鋳物
●作品名:桑名城 ●Title:A view of the Kuwana Castle
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
43 3/29 2/21 晴 佐屋-宮-池鯉鮒 水谷助六・伊藤圭介・大河内存真同行
44 3/30 2/22 晴 池鯉鮒-吉田 矢矧橋
●作品名:矢矧橋 ●Title:Yabiki bridge
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
45 3/31 2/23 曇・雨空 吉田-浜松 雲母の採集・白魚
46 4/1 2/24 晴 浜松-掛川 秋葉山・商館長ヘンミーの墓
47 4/2 2/25 晴・寒 掛川-大井川-藤枝 大井川の渡河・川人足
48 4/3 2/26 強雨 藤枝-府中 軟骨魚類の加工・駿府の木細工と編細工
49 4/4 2/27 晴 府中-沖津 沖津川増水・上席検使に化学実験を見せる
50 4/5 2/28 快晴 沖津-蒲原 製紙・急造の橋
51 4/6 2/29 快晴 蒲原-沼津 富士川の舟・富士山高度・原の植松氏の庭園
●作品名:原の植松氏庭園 ●Title:A view of Uematu's garden
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
52 4/7 3/1 晴 沼津-箱根-小田原 中津侯家臣神谷源内一行の出迎え
『日本』に掲載されている「箱根の湖水(上図)・富士山と富士川(下図)」(Nippon Atlas. 5-p32)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=31&r=0&xywh=564%2C895%2C2709%2C3026
53 4/8 3/2 雨 小田原-藤原 旅館満員で娼家に泊まる
54 4/9 3/3 晴 藤沢-川崎 長崎屋源右衛門出迎え
55 4/10 3/4 晴 川崎-江戸 薩摩中津両侯大森で、桂川甫賢ら品川で出迎え
(その九)「江戸滞在」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-23
56 4/11 3/5 江戸滞在 面会ゆるされず、桂川甫賢・神谷源内・大槻玄沢ら来訪
≪「江戸の全景」(『日本 : 日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』(雄松堂書店, 1977-1979)「図123」)
http://hdl.handle.net/2324/1000295399
復刻版『Nippon : Archiv zur Beschreibung von Japan』(講談社, 1975)
http://hdl.handle.net/2324/1000951631 ≫
『日本』に掲載されている「永代橋より江戸の港と町を望む」(Nippon Atlas. 5-p33)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1906469&start=&bbinfo_disp=0#?c=0&m=0&s=0&cv=34&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229
57 4/12 3/6 江戸 終日荷解き・薩摩侯より贈物・夜中津侯来訪
58 4/13 3/7 江戸 桂川甫賢、宇田川榕庵から乾腊植物をもらう
59 4/14 3/8 江戸 将軍、その世子への献上品を発送
60 4/15 3/9 江戸 中津島津両侯の正式訪問・日本の貴族
61 4/16 3/10 江戸 最上德内来訪、エゾ、カラフトの地図を借りる
「最上徳内肖像画(合成図)」
左図: 「最上徳内」(シーボルト『日本』図版第1冊46)(「福岡県立図書館」蔵)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html
右図:「最上徳内肖像」(SAB→「フォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン家」蔵)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-29
62 4/17 3/11 江戸 桂川甫賢・大槻玄沢来訪
63 4/18 3/12 江戸 高橋作左衛門来訪
64 4/19 3/13 江戸 桂川甫賢来訪し、シーボルトの長期滞在の見通しを伝える
65 4/20 3/14 江戸 豚の眼の解剖など手術の講義・地震など
66 4/21 3/15 江戸 最上德内とエゾ語を研究・謁見延期となる
67 4/22 3/16 江戸 付添いの検使、研究に対して好意を示す
68 4/23 3/17 江戸 幕府の医師に種痘を説明
69 4/24 3/18 江戸 天文方の人びと来訪
70 4/25 3/19 江戸 将軍家侍医にベラドンナで瞳孔を開く実験をみせる
71 4/26 3/20 江戸 兎唇の手術・種痘の方法を教える
72 4/27 3/21 江戸 再び二人の子供に種痘
73 4/28 3/22 江戸 ラッコの毛皮を売りにくる
74 4/29 3/23 江戸 天文方来訪
75 4/30 3/24 江戸 幕府の侍医らジーボルトの長期江戸滞在の幕府申請など
76 5/1 3/25 江戸 登城し将軍に拝謁・拝礼の予行と本番など
77 5/2 3/26 江戸 町奉行・寺社奉行を訪問
78 5/3 3/27 江戸 庶民階級の日本人との交際
79 5/4 3/28 江戸 将軍および世子に暇乞いのため謁見・江戸府中の巡察など
80 5/5 3/29 江戸 使節の公式の行列
81 5/6 3/30 江戸 官医来訪
82 5/7 4/1 江戸 中津侯、グロビウス(高橋作左衛門)来訪
83 5/8 4/2 江戸 漢方医がジーボルトの江戸滞在延期に反対するという
84 5/9 4/3 江戸 知友多数来訪〔10以後記事を欠く〕
「渡辺崋山の戯画に描かれたビュルゲル」抜粋(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%
85 5/10 4/4 江戸
86 5/11 4/5 江戸
87 5/12 4/6 江戸
88 5/13 4/7 江戸
89 5/14 4/8 江戸
90 5/15 4/9 江戸 高橋作左衛門が日本地図を示し、後日これを贈ることを約す
91 5/16 4/10 江戸 滞在延期の望みなくなる
92 5/17 4/11 江戸 明日江戸出発と決まる
(その十)「江戸より京都への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-24
93 5/18 4/12 晴 江戸-川崎 江戸の富士
94 5/19 4/13 晴 川崎-藤沢 鶴見付近のナシの棚
95 5/20 4/14 晴 藤沢-小田原
96 5/21 4/15 曇 小田原-三島 山崎で江戸から同行した最上德内と別れる
97 5/22 4/16 曇 三島-蒲原 再び植松氏の庭園をみる
●作品名:吉原付近 ●Title:A view of Yoshiwara
●分類/classification:旅・江戸参府/Travering to Edo
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
98 5/23 4/17 晴 蒲原-府中 牛車について
99 5/24 4/18 晴 府中-日坂 薬用植物のこと
100 5/25 4/19 曇 日坂-浜松 高良斎の兄弟来る
101 5/26 4/20 晴 浜松-赤坂 植物採集とその整理
102 5/27 4/21 豪雨 赤坂-宮 宮で水谷・伊藤らと会う
103 5/28 4/22 晴 宮-桑名-四日市 宮の渡し舟のこと
104 5/29 4/23 晴 四日市-関
105 5/30 4/24 強雨 関-石部 夏目村の噴泉
106 5/31 4/25 晴 石部-大津 川辺の善性寺の庭・タケの杖・瓦の製法
107 6/1 4/26 曇 大津-京都
(その十一)「京都滞在と大阪への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-25
108 6/2 4/27 晴 京都滞在 友人門人、小森、新宮ら来訪・京都特に宮廷など
109 6/3 4/28 晴 京都 宮廷に関する記事
110 6/4 4/29 晴 京都 小森玄良から宮廷の衣裳の話
111 6/5 4/30 晴 京都 小森の家族と過ごす
112 6/6 5/1 晴 京都 所司代・町奉行を訪問
113 6/7 5/2 晴 京都-伏見-大坂 知恩院・祗園社・清水寺・三十三間堂など
●作品名:京都祇園社 ●Title:Gionshya shrine, Kyoto
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
●作品名:北野天満宮 ●Title:A view of the Kitano Shrine
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
●作品名:石清水八幡 ●Title:A view of the Iwashimizuhachiman Shrine
●分類/classification:旅・江戸参府/Traveling to Edo
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
(その十二)「大阪滞在」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-27
114 6/8 5/3 晴 大坂滞在 大坂についての記述
115 6/9 5/4 晴 大坂 研究用品の購入と注文
116 6/10 5/5 晴 大坂 心斎橋・天下茶屋・住吉明神・天王寺など
117 6/11 5/6 晴 大坂 町奉行および製銅家を訪問
118 6/12 5/7 晴 大坂 芝居見物・日本の劇場・妹背山の芝居
シイボルト觀劇圖并シイボルト自筆人參圖」(「国立国会図書館デジタルコレクション)
[江戸後期] [写] 1軸(「左側の黒い服を着た人物がシーボルト」「中央の人物(足首を捻挫している)がスチュルレル」「右側の人物がビュルガー(ビュルゲル)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-24
119 6/13 5/8 晴 大坂 来訪者多数・明日は出発
(その十三)「大阪から長崎への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28
120 6/14 5/9 晴 大坂-西宮 肥料船のこと
121 6/15 5/10 晴 西宮-兵庫
122 6/16 5/11 兵庫 向い風のため出帆延期
123 6/17 5/12 兵庫 向い風のため出帆延期
124 6/18 5/13 兵庫 向い風のため出帆延期
125 6/19 5/14 夜兵庫を出帆
126 6/20 5/15 船中 朝 室の沖合で経度観測
127 6/21 5/16 船中 朝に室の沖合-正午与島にゆく・造船所など
128 6/22 5/17 船中 夜備後の海岸に向かって進み、陸地近くに停泊
129 6/23 5/18 船中 引き船で鞆に入港・正午上陸・夜半に港外へ
130 6/24 5/19 船中 島から島へ進み、夕方御手洗沖・夜半停泊
131 6/25 5/20 船中 御手洗より患者が来て診察をもとむ・家室島の近くに停泊
132 6/26 5/21 船中 風雨強く午後出帆し、上関瀬戸を経て夜上関入港
●作品名:瀬戸内海(上関・沖の家室) ●Title:A view of Setonaikai, The Inland Sea
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
133 6/27 5/22 上陸し上関見物・室津へゆく・夜出港
134 6/28 5/23 船中 午後二時過ぎ下関入港
135 6/29 5/24 下関滞在 海峡の図を受け取る・友人来訪
『日本』に掲載されている「下関 竹崎付近の景」(Nippon Atlas. 5-p15)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=14&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229
136 6/30 5/25 下関-小倉
137 7/1 5 /26 小倉-飯塚
138 7/2 5/27 飯塚-田代
139 7/3 5/28 田代-牛津
140 7/4 5/29 牛津- 嬉野
141 7/5 6/1 嬉野-大村 出島の友人みな元気との知らせを受ける
142 7/6 6/2 大村-矢上 出迎えの人その数を増す
143 7/7 6/3 矢上-出島 正、同郷人に迎えられ出島につく
(別記その二)「出島商館長江戸参府行列図」周辺
「江戸参府行列図(医師=シーボルトが乗っている駕籠)」
http://blog.livedoor.jp/toyonut/archives/1475250.html
(再掲)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-12
【 この「江戸参府行列図」(第31図)などは、「シーボルト『日本』の研究と解説(講談社)」所収の「1826年の『江戸参府紀行』(斎藤信稿)」などを参考にすると、次のようである。
この図(第31図)の、前方の「駕籠」には、「小通詞・岩崎弥十郎」が乗っている。「駕籠かき(人)」は二人、「従僕」(「公設」「私設」かは不明?)は一人である。その後ろの「両掛」(旅行用の行李の一種。また、それを担ぐこと)は、「小通詞・岩崎弥十郎」の「荷物」と「荷物を担ぐ人」(人夫?)ということになる。
そして、その後ろの「駕籠」には、「公式使節団の一員の『医師』のシーボルト」が乗っている。その「駕籠かき(人)」は四人、「従僕」(「公設」か「私設」かは不明?)は二人、その「「両掛」(旅行用の行李の一種。また、それを担ぐこと)」は、次の図(第32図)に描かれている。)
ここで、「出島商館長江戸参府行列図」の、その「行列」順序は、凡そ次のとおりとなる・
一 「献上品」(「献上品」を担ぐ「馬」と「人夫」)
二 「宰領」(「付添検使」下の「世話人」の一人、乗馬している。「第4図」)
三 「小通詞と医師の図」(上記の「第31図」)
四 「書記の図」(第32図)
五 「使節(商館長)の図」(第33図)
六 「付添検使=」(第37図)
(他に、「総数、四十五図」から成る。)
(別記)「一八二六年(文政9年)の江戸参府紀行の序」(抜粋)
「シーボルト 江戸参府紀行(1)」
https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/202203280000/
≪ 一八二六年(文政9年)の江戸参府紀行の序
概要
……旅行の準備
……江戸滞在の延長計画
……蘭印政庁の後援
……※日本人との深い理解・公使の不機嫌
……※和蘭使節の一行
……※日本の通詞およびその他の従者の描写
……使用人
……旅行具ならびに他の機具類の装備
……和蘭使節の特権
……ヨーロッパの使節に対する日本的格式の不適当な応用
……旅行進捗の方途・駕寵・挿箱・荷馬・荷牛・駕寵かき
……荷物運搬入についての記述
……郵便制度・運搬人および馬に対する価格の公定
……郵便および飛脚便
……狼煙打上げ式信号
……旅館および宿舎
……浴場
……茶屋など
……国境の警備
……橋
……航海および航海術・造船・造船所・港
……河の舟行
……運河
……堤防
……※日本人との深い理解・公使の不機嫌(抜粋)
私が公使ドゥ・スチュルレル大佐から期待したものは、そんなものではなかった。
私は悲しい思いでそのことを告白せざるをえないのであるが、この男はジャワにおいては私の使命に対してたいへん同情をよせ、非常な熱の入れ方で援助を借しまなかったのに、今この日本に来てしまってからは、みずから私の企てに関連していたすべてのことに対して、ただ無関心であったり冷淡であったばかりでなく、無遠慮にも妨害を続けて頓挫させ、困難におとしいれようとさえしたのである。このような不機嫌の原因は何にあったのか。
政庁の指示によって私の活動範囲が拡大され、私の学問研究にこれまで以上の自主性が重んじられたことによって、よしんぱ彼自身の計画に齟齬(そご)を来たさなかったにせよ、おそらく彼の利害関係を損ったことに、その原因があったのか。
あるいは貿易改善のために彼が行なった提案に対して、政庁があまり都合のよくない決定を下し、それがもとで不満もつのり、それに病弱も加わって、こうした変化をひき起こしたのかどうか、私には判断を下すことができない。しかしいずれにせよ、彼が最初に日本研究のための私の使命と準備とに対して寄せていた功績は、何といっても忘れることができないのである。そして、私は感謝の念をこめてそれを認めるのにやぶさかではない。
(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p7)
……※和蘭使節の一行(抜粋)
先例によると、江戸旅行のわれわれ側の人員は、公使となる商館長と書記と医師のわずか3人ということがわかっていた。私はできることならビュルガー氏とドウ・フィレネーフエ氏を同伴したかったのであるが、今度はとても無理であった。そこでいろいろ面倒な手だてを重ねて、やっとピュルガー氏を書記の肩書で連れていくことが許されるようになった。日本人随員の身分についてはなお若干の所見を加えさせていただきたい。
(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p8)
……※日本の通詞およびその他の従者の描写(抜粋)
(大通詞)
本来の日本人は外国人との交渉もなく、自国の風習に応じてしつけられ教育されているので……出島でわれわれと交際しているこのような日本人と通詞とが話題にのぼる場合には、こういう相違にいつも留意しなければならない。
この旅行で重要な役割を演じ、現金の出納を担当し、給人と連帯して政治・外交の業務を行なう大通詞として末永甚左衛門がわれわれに同行した。60歳に近く、立派な教養といくらかの学問的知識をもっていた。彼はオランダ人との貿易には経験も多く、さらに貿易にかこつけて巧みにそれを利用した。
日本流の事務処理にすぐれた能力があり、賢明で悪知恵もあった。また同時に追従に近いほど頭も低く、洗練された外貌をもち非常に親切でもあった。そのうえ物惜しみはしないが倹約家で、不遜という程ではないが自信家であった。甚左衛門は、出島にいる大部分の同僚と同じように、少年時代に通詞の生活にはいり、オランダの習慣に馴れていて、通詞式のオランダ語を上手に話したり書いたりした。フォン・レザノフおよびフォン・クルーゼンシュテルンの率いるロシアの使節が来た時(1804~05年)に、特にペリュー卿の事件(1890年)の際に、彼は幕府のためにたいん役に立ったので、長崎奉行の信望もあつく、恵まれた家庭的な境遇のうちに暮らしていた。
彼は小柄で痩せていたし、少し曲がった鼻と異状な大きさの眼をし、顎(あご)は尖っていた。非常に真面目な話をする時に、彼の口は歪んで微笑しているような表情となり、普段はそういう微笑でわざとらしい親愛の情をあらわすので、鋭い輪郭をした彼の顔は、なおいっそう人目をひき、目立つのである。彼の顔色は黄色い上に土色をおびていた。剃った頭のてっぺんは禿げて光り、うえに上を向いた薄い髷(まげ)がかたく油でかためて乗っていた。
(小通詞)
小通詞は岩瀬弥十郎といった。彼は60歳を少々越していて、体格やら身のこなし方など多くの点でわれわれの甚左衛門に似ていた。ひどいわし鼻で、両その方の眼瞼(まぶた)はたるみ顎は長く、口は左の笑筋が麻痺していたので、いつもゆがんで笑っているように見えた。大きな耳と喉頭の肥大は彼の顔つきを特徴づけていた。彼は自分の職務に通じていて精励し、旧いしきたりを固くまもった。彼は卑屈なくらい礼儀正しく、同時に賢明だったが、ずるささえ感じられた。しかしそれを彼は正直な外貌でつつんでいたし、また非常にていねいなお辞儀をし、親切で愛想もよく、駆け足と言ってよいぐらいに速く歩いた。
彼の息子の岩瀬弥七郎はたいそう父親似であった。ただ父は病気と年齢のせいで弱かったのに対し、息子の方は気力に欠けた若者だった点が違っていた。そうはいうものの噂では彼は善良な人間で、お辞儀をすることにかけてはほとんど父に劣らず、何事によらず「ヘイヘイ」と答えた。彼は世情に通じていたし、女性を軽視しなかった。女性だちといっしょにいるとき、彼はいつでもおもしろい思いつきをもっていた。またわれわれに対してはたいへん親切で日常生活では重宝がられた。彼は今度は父の仕事を手伝うために、父の費用で旅行した。
(公使=商館長の「私設通詞」)
公使の私的な通訳として、野村八太郎とあるが、NAMURA(名村)の誤り〕とかいう人がわれわれに随行した。当時われわれと接していた日本人のうちで、もっとも才能に恵まれ練達した人のひとりであったことは確かである。彼は母国語のみならず支那語やオランダ語に造詣が深く、日本とその制度・風俗習慣にも明るく、たいへん話好きで、そのうえ朗らかだった。彼の父は大通詞だったが、退職していた。だから、父が存命していて国から給料をもらっている間は、息子の方は無給で勤めなければならなかったし、そのうえ息子八太郎は相当な道楽者だったから、少しでも多くの収入が必要だったのに、実際にはわずかしかなかった。信用は少なく、借金は多かった。二、三のオランダの役人と組んで投機をやり、いくばくかの生計の資を得ていた。彼自身はお金の値打ちを知らなかったが、お金のためにはなんでもやった。われわれの間で彼を雇ってやると、たいそう満足したし、それで利益があると思えば、いつもどんな仕事でもやってのけた。彼は痩せていて大きな体格をしていた。幅の広い円い顔にはアバタがいっぱいあったし、鼻はつぶれたような格好をしていたし、顎は病的に短く、大きな口の上唇はそり返り、そこから出歯が飛び出して、彼の顔の醜さには非の打ちどころがなかった。
(付添検使=御番上使=給人)
日本人の同伴者のうちで最も身分の高い人物は給人で、御番上使とも呼ばれ、出島ではオッペルバンジョーストという名で知られていた。彼の支配下に三人の下級武士がいて、そのうちのひとりはオランダ船が長崎湾に停泊している時には見張りに当たるので、船番と呼ばれていた。それからふたりの町使で、これは元来わが方の警察官の業務を行なう。船番の方は出島では、普通オンデルバンジョーストは「下級」の意〕と呼ばれ、町使の方は出島の住人にはバンジョーストという名でと名づている。長崎奉行の下には通常一〇名の給人がいる。大部分は江戸から来ている警察官〔役人のこと〕で、公務を執行している。彼らは国から給料を受けていない。彼らが役所からもらっている給金はごくわずかだが、彼らが……合法と非合法とによって受けとる副収入はなおいっそう多かった。貿易の期間中、彼らは出島で交替に役目についた。彼らは重要な業務において奉行の代理をつとめるから、貿易並びにわれわれ個人の自由に対し多大の影響を与えた。輸出入に関しては彼らはわれわれの国の税関吏と同様に全権を委ねられ、従って密貿易の鍵を手中におさめていた。そういうわけだから、彼らは奉行所の書記や町年寄の了解のもとで、密輸に少なからず手加減を加えた。
長崎奉行のこういう役人のひとりが例の給人で、今度の旅行でわれわれに随行することになっていた。役所は彼に厳命を下し、その実行に責任をもたせ、彼に日記をつけさせ、旅行が終わったとき提出させた。われわれに同行するそのほかの武士や通詞たちも、互いに監視し合う目的で日記帳を用意しておく責任があった。
それゆえ彼らは手本として、また旧習を重んずる意味で以前の参府旅行の日記を携えてゆき、疑わしい場合にはそれを参考にして解明していくのである。我々は我々と行をともにする給人一名をカワサキ・ゲンソウ(Kawasaki GenzO)といった……を賢明で勇気ある男として知り合っていた。
彼の部下たちは彼を手本として行動した。上述の通詞や武士たちのほかに、四人の筆者と二人の宰領・荷物運搬人夫の監督一人・役所の小使7人・われわれのための料理人2人・日本の役人の仕事をする小者31人と料理人1人、従って随員は日本人合計57名であった。
(従者)
われわれの従者は誠実で信用のおける人々であった。彼らは若いころから出島に出仕していた。彼らのうちで年輩のものは、かつて上司の指揮のもとでこういう旅行に加わった経験があって、旅行中すばらしく気転がきき、職務上や礼儀作法にかかわるいっさいに通じていた。また彼らは、わかりやすいオランダ語を話したり書いたりした。
(シーボルトの「私設従者」など)
私の研究調査を援助してもらうために、私はなお2、3の人物を遮れて行った。彼らのうち一番初めには高良斎(注・阿波出身の医師、「鳴滝塾」出身)をあげるが、彼はこの2年来私のもっとも熱心な門人に数えられていたひとで、四国の阿波出身の若い医師であり、特に眼科の研究に熱心であった。けれども私か彼をえらぶ決心をしたのは、日本の植物学に対するかれの深くかつ広範な知識と、漢学に造詣が深くオランダ語が巧みであったこと、さらにまた彼が信頼に値し誠実であったからである。彼は私によく仕えた。私が多くの重要なレポートを得たのは、彼のおかげであるといわざるをえない。
画家としては登与助(注・「川原慶賀」)か私に随行した。彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は私の著作の中で彼の功績が真実であることを物っている。
乾譜標本や獣皮の作製などの仕事は弁之助とコマキ〔これは熊吉の誤り〕にやらせた。私の召使のうちのふたりで、こういう仕事をよく教えこんでおいたのである。
これらの人々のほかにひとりの園丁と三人の私の門人が供に加わった。それは医師の敬作(注・「二宮敬作」=宇和島の医師、「鳴滝塾」出身)・ショウゲン(注・宗氏の家臣の古川将監?・「鳴滝塾」出身?)・ケイタロウ(通詞の西慶太郎?・「鳴滝塾」出身?=後に長崎医学校の教官)の三人で、彼らは助手として私に同行する許可がえられなかったので、上に述べた通訳たちの従者という名目で旅行に加わった。彼らは貧乏だったので、私は彼らの勤めぶりに応じて援助してやった。私は2、3人の猟師を長綺の近郊でひそかに使っていたので、できれば連れて行きたかったのだが、狩猟はわれわれの旅行中かたく禁じられていた。≫(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p12) 】
「外国人の旅(シーボルト)」
https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/trip/html/diary/diary-edo.html
「江戸参府行程図」(「FLOS, 花, BLUME, FLOWER, 華,FLEUR, FLOR, ЦBETOK, FIORE」d)所収)
http://hanamoriyashiki.blogspot.com/2019/05/20-2-14ch-de-villeneuve.html
上記の「江戸参府行程図」が紹介されているアドレスで、「オランダ商館長の江戸参府と鞆の浦」(矢田純子稿・比較日本学教育研究センター研究年報第6号)が、「シーボルトと川原慶賀の江戸参府」周辺に関して、次のように記述している。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-11
(再掲)
【「オランダ商館長の江戸参府と鞆の浦」(矢田純子稿・比較日本学教育研究センター研究年報第6号)
≪ 江戸参府は、オランダ商館長が江戸へ行き将軍に拝謁し、献上品を送ることで、寛永十年(1633)以来恒例となる。寛文元年(1661)以降、旧暦正月に長崎を出発し、三月朔日前後に拝謁するよう改められ、寛政二年(1790)からは4年に1回となり、嘉永三年(1850)が最後の参府となる。
参府の経路を述べると、当初は長崎から平戸を経由し海路下関に向かっていたが、万治二年(1659)以降、長崎から小倉までは陸路となり、小倉から下関、下関から兵庫は海路で、兵庫-大坂から陸路で江戸へ向かっていた。下関から兵庫は順風であると約8日間を要した(【第1図】=上記図の原図)。
なお経路はその年により多少の変動がある。参府旅行全体には平均90日前後を要し、江戸には2、3週間滞在していた。旅行の最長記録は以下で取り上げる文政九年(1826)の事例で、商館長スチュルレル一行が143日間をかけて参府旅行を行った。
また、小倉では大坂屋善五郎、下関では伊藤杢之丞、佐甲三郎右衛門(隔年交代)、大坂では長崎屋五郎兵衛、京都で海老屋余右衛門、江戸においては長崎屋源右衛門というように、5つの都市には定宿が存在していた。≫
上記の論稿の「商館長スチュルレル一行が143日間をかけて参府旅行」の、この紀行が、「シーボルド・川原慶賀」らが参加した「文政九年(1826)」の江戸参府紀行で、その「使節(公使)」の「オランダ商館長」は「スチュルレル(大佐)」(シュトューラー)、その随行員の「医師(外科)、生物学・民俗学・地理学に造詣の深い博物学者」が「シーボルト(大尉)」(ジ~ボルド)、もう一人の「書記」が「ビュルガル(薬剤師)」(ビュルガー)で、生物学・鉱物学・化学などに造詣が深く、シーボルドの片腕として同道している(もう一人、画家の「フィルヌーヴ」(フィレネーフェ)をシーボルドは同道させようとしたが、「西洋人」枠は三人で実現せず、その代役が、出島出入りを許可されている「町絵師・川原慶賀」ということになる)。 】
そして、この「商館長スチュルレル一行(シーボルト・川原慶賀ら)が143日間をかけて参府旅行」に関連しては、下記のアドレスで、その全行程のあらましについて見てきた。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10
↓
(その一)「シーボルト江戸参府紀行日程」(「1826年(文政9年)」)周辺
↓
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10
↓
(その十三)「大阪から長崎への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28
ここで、これまでの、この(その一)から(その十三)までを踏まえて、下記の(別記)に、「シーボルトと川原慶賀」に焦点を当てて、その「全行程」などを、新しい、川原慶賀の絵図などを入れて、再掲(再現)をして置きたい。
(別記その一)「シーボルト江戸参府紀行日程(1826年(文政9年)」周辺(一部要約抜粋)
≪参考文献:「江戸参府紀行 ジーボルト著 斎藤信訳(平凡社)」「シーボルト 板沢武雄著(吉川弘文館)」≫
http://www5e.biglobe.ne.jp/~masaji/lolietravel/capitan/index.html
日数 西暦 和暦 天候 行程 日誌
(その一)「シーボルト江戸参府紀行日程」(「1826年(文政9年)」)周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10
↓
(その四)「長崎・出島」」―「小倉・下関」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-15
1 2/15 1/9 晴 出島-諫早 威福寺での別れの宴など
2 2/16 1/10 晴 諫早-大村-彼杵 大村の真珠・天然痘の隔離など
●作品名:大村(千綿)付近 ●Title:A view of Omura, Chiwada
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
3 2/17 1/11 彼杵-嬉野-塚崎(武雄)嬉野と塚崎の温泉など
4 2/18 1/12 晴 塚崎-小田-佐賀-神崎 小田の馬頭観音・佐賀など
5 2/19 1/13 晴 神崎-山家 筑後川流域の農業・筑前藩主別荘など
6 2/20 1/14 雨 山家-木屋瀬 内陸部高地の住民など
7 2/21 1/15 雨 木屋瀬-小倉 渡り鳥の捕獲
●作品名:小倉引島 ●Title:Hikeshima, Kokura
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
8 2/22 1/16 晴 小倉-下関 小倉の市場・与次兵衛瀬記念碑など
(その五)「下関」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-17
9 2/23 1/17 晴 下関滞在 門人の来訪・カニの眼
10 2/24 1/18 晴 下関 早鞆岬と阿弥陀寺・安德天皇廟など
11 2/25 1/19 晴 下関 萩の富豪熊谷五右衛門義比など
12 2/26 1/20 晴 下関 門人・知友来訪・病人診療と手術など
13 2/27 1/21 晴 下関 近郊の散策・六連島・捕鯨について
14 2/28 1/22 晴 下関 薬品応手録・コーヒーの輸入など
15 3/1 1/23 晴 下関 正午過ぎ乗船 ブロムホフの詩・下関の市街など
16 3/2 1/24 晴 下関出帆
(その六)「下関から室津上陸」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-20
●作品名:下関(竹崎付近) ●Title:A view of Shimonoseki, Takesaki
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
17 3/3 1/25 晴 船中 夜風強まり屋代島の近くに舟をつなぐ
18 3/4 1/26 晴 屋代島の東南牛首崎に上陸・象の臼歯化石発見・三原沖に停泊
19 3/5 1/27 晴 船中 水島灘・阿伏兎観音・琴平山・内海の景観・日比に停泊
20 3/6 1/28 晴 早朝上陸 日比の塩田と製塩法
21 3/7 1/29 晴 日比-室津上陸 室のホテル(建築様式・家具など)
22 3/8 1/30 晴 室滞在 室の付近について・娼家・室明神・室の産物
作品名:室津長風図 ●Title:A view of Murotu
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
23 3/9 2/1 晴 夜雪 室-姫路 肥料・穢多・非人・大名の献上品など
24 3/10 2/2 雪 姫路-加古川 高砂の角力者の招待
●作品名:雪景色一 ●Title:Snowscape
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
●作品名:雪景色二 ●Title:Snowscape
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
25 3/11 2/3 晴 加古川-兵庫 敦盛そば・兵庫の侍医某来訪
26 3/12 2/4 晴 兵庫-西宮 楠正成の墓・生田明神
27 3/13 2/5 吹雪 西宮-大坂
(その七)「大阪・京都の滞在」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-21
28 3/14 2/6 快晴 大坂滞在 多数の医師来訪・薬品応手録印刷できる
≪フォート大阪(※Fort Osaka=大阪城)/ 製造年:1669/ 製造場所:アムステルダム/
源/388 A 6 コニンクリケ図書館/著作権:情報: Koninklijke Bibliotheek
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/fort-osaka?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=2&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3A388A6-NA-P-272-GRAV ≫
29 3/15 2/7 晴 大坂 二、三の手術を行なう・動脈瘤
30 3/16 2/8 晴 大坂 鹿の畸形・飛脚便について
31 3/17 2/9 晴 大坂-伏見 淀川の灌漑など
32 3/18 2/10 晴 伏見-京都 小森玄良、新宮涼庭らと会う
33 3/19 2/11 晴 京都滞在 小森玄良、小倉中納言来訪
≪「京都の全景」(『日本 : 日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』(雄松堂書店, 1977-1979)「図113」)
http://hdl.handle.net/2324/1000295399
復刻版『Nippon : Archiv zur Beschreibung von Japan』(講談社, 1975)
http://hdl.handle.net/2324/1000951631 ≫
34 3/20 2/12 晴 京都 多数の医師が病人を伴って来る
35 3/21 2/13 晴 京都 来訪者多数・名所見物を帰路に延ばす
36 3/22 2/14 晴 京都 二条城・京都は美術工芸の中心地
37 3/23 2/15 晴 京都 天文台・京都の人口
38 3/24 2/16 晴 京都 明日の出発準備
(その八)「京都より江戸への旅行」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-22
39 3/25 2/17 晴 京都-草津 日付はないが琵琶湖付近の風景の記述
『日本』に掲載されている「琵琶湖の景」(Nippon Atlas. 5-p30)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=29&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229
『日本』に掲載されている「瀬田川と瀬田橋の景」(Nippon Atlas. 5-p29)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=28&r=0&xywh=288%2C799%2C3251%2C3631
40 3/26 2/18 晴 草津-土山 梅木の売薬・植物採集の依頼・三宝荒神
41 3/27 2/19 晴 土山-四日市 鈴鹿山のサンショウウオ
42 3/28 2/20 四日市-佐屋(原文 Yazu)二度の収穫・桑名の鋳物
●作品名:桑名城 ●Title:A view of the Kuwana Castle
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
43 3/29 2/21 晴 佐屋-宮-池鯉鮒 水谷助六・伊藤圭介・大河内存真同行
44 3/30 2/22 晴 池鯉鮒-吉田 矢矧橋
●作品名:矢矧橋 ●Title:Yabiki bridge
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
45 3/31 2/23 曇・雨空 吉田-浜松 雲母の採集・白魚
46 4/1 2/24 晴 浜松-掛川 秋葉山・商館長ヘンミーの墓
47 4/2 2/25 晴・寒 掛川-大井川-藤枝 大井川の渡河・川人足
48 4/3 2/26 強雨 藤枝-府中 軟骨魚類の加工・駿府の木細工と編細工
49 4/4 2/27 晴 府中-沖津 沖津川増水・上席検使に化学実験を見せる
50 4/5 2/28 快晴 沖津-蒲原 製紙・急造の橋
51 4/6 2/29 快晴 蒲原-沼津 富士川の舟・富士山高度・原の植松氏の庭園
●作品名:原の植松氏庭園 ●Title:A view of Uematu's garden
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
52 4/7 3/1 晴 沼津-箱根-小田原 中津侯家臣神谷源内一行の出迎え
『日本』に掲載されている「箱根の湖水(上図)・富士山と富士川(下図)」(Nippon Atlas. 5-p32)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=31&r=0&xywh=564%2C895%2C2709%2C3026
53 4/8 3/2 雨 小田原-藤原 旅館満員で娼家に泊まる
54 4/9 3/3 晴 藤沢-川崎 長崎屋源右衛門出迎え
55 4/10 3/4 晴 川崎-江戸 薩摩中津両侯大森で、桂川甫賢ら品川で出迎え
(その九)「江戸滞在」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-23
56 4/11 3/5 江戸滞在 面会ゆるされず、桂川甫賢・神谷源内・大槻玄沢ら来訪
≪「江戸の全景」(『日本 : 日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』(雄松堂書店, 1977-1979)「図123」)
http://hdl.handle.net/2324/1000295399
復刻版『Nippon : Archiv zur Beschreibung von Japan』(講談社, 1975)
http://hdl.handle.net/2324/1000951631 ≫
『日本』に掲載されている「永代橋より江戸の港と町を望む」(Nippon Atlas. 5-p33)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1906469&start=&bbinfo_disp=0#?c=0&m=0&s=0&cv=34&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229
57 4/12 3/6 江戸 終日荷解き・薩摩侯より贈物・夜中津侯来訪
58 4/13 3/7 江戸 桂川甫賢、宇田川榕庵から乾腊植物をもらう
59 4/14 3/8 江戸 将軍、その世子への献上品を発送
60 4/15 3/9 江戸 中津島津両侯の正式訪問・日本の貴族
61 4/16 3/10 江戸 最上德内来訪、エゾ、カラフトの地図を借りる
「最上徳内肖像画(合成図)」
左図: 「最上徳内」(シーボルト『日本』図版第1冊46)(「福岡県立図書館」蔵)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html
右図:「最上徳内肖像」(SAB→「フォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン家」蔵)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-29
62 4/17 3/11 江戸 桂川甫賢・大槻玄沢来訪
63 4/18 3/12 江戸 高橋作左衛門来訪
64 4/19 3/13 江戸 桂川甫賢来訪し、シーボルトの長期滞在の見通しを伝える
65 4/20 3/14 江戸 豚の眼の解剖など手術の講義・地震など
66 4/21 3/15 江戸 最上德内とエゾ語を研究・謁見延期となる
67 4/22 3/16 江戸 付添いの検使、研究に対して好意を示す
68 4/23 3/17 江戸 幕府の医師に種痘を説明
69 4/24 3/18 江戸 天文方の人びと来訪
70 4/25 3/19 江戸 将軍家侍医にベラドンナで瞳孔を開く実験をみせる
71 4/26 3/20 江戸 兎唇の手術・種痘の方法を教える
72 4/27 3/21 江戸 再び二人の子供に種痘
73 4/28 3/22 江戸 ラッコの毛皮を売りにくる
74 4/29 3/23 江戸 天文方来訪
75 4/30 3/24 江戸 幕府の侍医らジーボルトの長期江戸滞在の幕府申請など
76 5/1 3/25 江戸 登城し将軍に拝謁・拝礼の予行と本番など
77 5/2 3/26 江戸 町奉行・寺社奉行を訪問
78 5/3 3/27 江戸 庶民階級の日本人との交際
79 5/4 3/28 江戸 将軍および世子に暇乞いのため謁見・江戸府中の巡察など
80 5/5 3/29 江戸 使節の公式の行列
81 5/6 3/30 江戸 官医来訪
82 5/7 4/1 江戸 中津侯、グロビウス(高橋作左衛門)来訪
83 5/8 4/2 江戸 漢方医がジーボルトの江戸滞在延期に反対するという
84 5/9 4/3 江戸 知友多数来訪〔10以後記事を欠く〕
「渡辺崋山の戯画に描かれたビュルゲル」抜粋(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%
85 5/10 4/4 江戸
86 5/11 4/5 江戸
87 5/12 4/6 江戸
88 5/13 4/7 江戸
89 5/14 4/8 江戸
90 5/15 4/9 江戸 高橋作左衛門が日本地図を示し、後日これを贈ることを約す
91 5/16 4/10 江戸 滞在延期の望みなくなる
92 5/17 4/11 江戸 明日江戸出発と決まる
(その十)「江戸より京都への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-24
93 5/18 4/12 晴 江戸-川崎 江戸の富士
94 5/19 4/13 晴 川崎-藤沢 鶴見付近のナシの棚
95 5/20 4/14 晴 藤沢-小田原
96 5/21 4/15 曇 小田原-三島 山崎で江戸から同行した最上德内と別れる
97 5/22 4/16 曇 三島-蒲原 再び植松氏の庭園をみる
●作品名:吉原付近 ●Title:A view of Yoshiwara
●分類/classification:旅・江戸参府/Travering to Edo
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
98 5/23 4/17 晴 蒲原-府中 牛車について
99 5/24 4/18 晴 府中-日坂 薬用植物のこと
100 5/25 4/19 曇 日坂-浜松 高良斎の兄弟来る
101 5/26 4/20 晴 浜松-赤坂 植物採集とその整理
102 5/27 4/21 豪雨 赤坂-宮 宮で水谷・伊藤らと会う
103 5/28 4/22 晴 宮-桑名-四日市 宮の渡し舟のこと
104 5/29 4/23 晴 四日市-関
105 5/30 4/24 強雨 関-石部 夏目村の噴泉
106 5/31 4/25 晴 石部-大津 川辺の善性寺の庭・タケの杖・瓦の製法
107 6/1 4/26 曇 大津-京都
(その十一)「京都滞在と大阪への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-25
108 6/2 4/27 晴 京都滞在 友人門人、小森、新宮ら来訪・京都特に宮廷など
109 6/3 4/28 晴 京都 宮廷に関する記事
110 6/4 4/29 晴 京都 小森玄良から宮廷の衣裳の話
111 6/5 4/30 晴 京都 小森の家族と過ごす
112 6/6 5/1 晴 京都 所司代・町奉行を訪問
113 6/7 5/2 晴 京都-伏見-大坂 知恩院・祗園社・清水寺・三十三間堂など
●作品名:京都祇園社 ●Title:Gionshya shrine, Kyoto
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
●作品名:北野天満宮 ●Title:A view of the Kitano Shrine
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
●作品名:石清水八幡 ●Title:A view of the Iwashimizuhachiman Shrine
●分類/classification:旅・江戸参府/Traveling to Edo
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
(その十二)「大阪滞在」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-27
114 6/8 5/3 晴 大坂滞在 大坂についての記述
115 6/9 5/4 晴 大坂 研究用品の購入と注文
116 6/10 5/5 晴 大坂 心斎橋・天下茶屋・住吉明神・天王寺など
117 6/11 5/6 晴 大坂 町奉行および製銅家を訪問
118 6/12 5/7 晴 大坂 芝居見物・日本の劇場・妹背山の芝居
シイボルト觀劇圖并シイボルト自筆人參圖」(「国立国会図書館デジタルコレクション)
[江戸後期] [写] 1軸(「左側の黒い服を着た人物がシーボルト」「中央の人物(足首を捻挫している)がスチュルレル」「右側の人物がビュルガー(ビュルゲル)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-24
119 6/13 5/8 晴 大坂 来訪者多数・明日は出発
(その十三)「大阪から長崎への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28
120 6/14 5/9 晴 大坂-西宮 肥料船のこと
121 6/15 5/10 晴 西宮-兵庫
122 6/16 5/11 兵庫 向い風のため出帆延期
123 6/17 5/12 兵庫 向い風のため出帆延期
124 6/18 5/13 兵庫 向い風のため出帆延期
125 6/19 5/14 夜兵庫を出帆
126 6/20 5/15 船中 朝 室の沖合で経度観測
127 6/21 5/16 船中 朝に室の沖合-正午与島にゆく・造船所など
128 6/22 5/17 船中 夜備後の海岸に向かって進み、陸地近くに停泊
129 6/23 5/18 船中 引き船で鞆に入港・正午上陸・夜半に港外へ
130 6/24 5/19 船中 島から島へ進み、夕方御手洗沖・夜半停泊
131 6/25 5/20 船中 御手洗より患者が来て診察をもとむ・家室島の近くに停泊
132 6/26 5/21 船中 風雨強く午後出帆し、上関瀬戸を経て夜上関入港
●作品名:瀬戸内海(上関・沖の家室) ●Title:A view of Setonaikai, The Inland Sea
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
133 6/27 5/22 上陸し上関見物・室津へゆく・夜出港
134 6/28 5/23 船中 午後二時過ぎ下関入港
135 6/29 5/24 下関滞在 海峡の図を受け取る・友人来訪
『日本』に掲載されている「下関 竹崎付近の景」(Nippon Atlas. 5-p15)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=14&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229
136 6/30 5/25 下関-小倉
137 7/1 5 /26 小倉-飯塚
138 7/2 5/27 飯塚-田代
139 7/3 5/28 田代-牛津
140 7/4 5/29 牛津- 嬉野
141 7/5 6/1 嬉野-大村 出島の友人みな元気との知らせを受ける
142 7/6 6/2 大村-矢上 出迎えの人その数を増す
143 7/7 6/3 矢上-出島 正、同郷人に迎えられ出島につく
(別記その二)「出島商館長江戸参府行列図」周辺
「江戸参府行列図(医師=シーボルトが乗っている駕籠)」
http://blog.livedoor.jp/toyonut/archives/1475250.html
(再掲)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-12
【 この「江戸参府行列図」(第31図)などは、「シーボルト『日本』の研究と解説(講談社)」所収の「1826年の『江戸参府紀行』(斎藤信稿)」などを参考にすると、次のようである。
この図(第31図)の、前方の「駕籠」には、「小通詞・岩崎弥十郎」が乗っている。「駕籠かき(人)」は二人、「従僕」(「公設」「私設」かは不明?)は一人である。その後ろの「両掛」(旅行用の行李の一種。また、それを担ぐこと)は、「小通詞・岩崎弥十郎」の「荷物」と「荷物を担ぐ人」(人夫?)ということになる。
そして、その後ろの「駕籠」には、「公式使節団の一員の『医師』のシーボルト」が乗っている。その「駕籠かき(人)」は四人、「従僕」(「公設」か「私設」かは不明?)は二人、その「「両掛」(旅行用の行李の一種。また、それを担ぐこと)」は、次の図(第32図)に描かれている。)
ここで、「出島商館長江戸参府行列図」の、その「行列」順序は、凡そ次のとおりとなる・
一 「献上品」(「献上品」を担ぐ「馬」と「人夫」)
二 「宰領」(「付添検使」下の「世話人」の一人、乗馬している。「第4図」)
三 「小通詞と医師の図」(上記の「第31図」)
四 「書記の図」(第32図)
五 「使節(商館長)の図」(第33図)
六 「付添検使=」(第37図)
(他に、「総数、四十五図」から成る。)
(別記)「一八二六年(文政9年)の江戸参府紀行の序」(抜粋)
「シーボルト 江戸参府紀行(1)」
https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/202203280000/
≪ 一八二六年(文政9年)の江戸参府紀行の序
概要
……旅行の準備
……江戸滞在の延長計画
……蘭印政庁の後援
……※日本人との深い理解・公使の不機嫌
……※和蘭使節の一行
……※日本の通詞およびその他の従者の描写
……使用人
……旅行具ならびに他の機具類の装備
……和蘭使節の特権
……ヨーロッパの使節に対する日本的格式の不適当な応用
……旅行進捗の方途・駕寵・挿箱・荷馬・荷牛・駕寵かき
……荷物運搬入についての記述
……郵便制度・運搬人および馬に対する価格の公定
……郵便および飛脚便
……狼煙打上げ式信号
……旅館および宿舎
……浴場
……茶屋など
……国境の警備
……橋
……航海および航海術・造船・造船所・港
……河の舟行
……運河
……堤防
……※日本人との深い理解・公使の不機嫌(抜粋)
私が公使ドゥ・スチュルレル大佐から期待したものは、そんなものではなかった。
私は悲しい思いでそのことを告白せざるをえないのであるが、この男はジャワにおいては私の使命に対してたいへん同情をよせ、非常な熱の入れ方で援助を借しまなかったのに、今この日本に来てしまってからは、みずから私の企てに関連していたすべてのことに対して、ただ無関心であったり冷淡であったばかりでなく、無遠慮にも妨害を続けて頓挫させ、困難におとしいれようとさえしたのである。このような不機嫌の原因は何にあったのか。
政庁の指示によって私の活動範囲が拡大され、私の学問研究にこれまで以上の自主性が重んじられたことによって、よしんぱ彼自身の計画に齟齬(そご)を来たさなかったにせよ、おそらく彼の利害関係を損ったことに、その原因があったのか。
あるいは貿易改善のために彼が行なった提案に対して、政庁があまり都合のよくない決定を下し、それがもとで不満もつのり、それに病弱も加わって、こうした変化をひき起こしたのかどうか、私には判断を下すことができない。しかしいずれにせよ、彼が最初に日本研究のための私の使命と準備とに対して寄せていた功績は、何といっても忘れることができないのである。そして、私は感謝の念をこめてそれを認めるのにやぶさかではない。
(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p7)
……※和蘭使節の一行(抜粋)
先例によると、江戸旅行のわれわれ側の人員は、公使となる商館長と書記と医師のわずか3人ということがわかっていた。私はできることならビュルガー氏とドウ・フィレネーフエ氏を同伴したかったのであるが、今度はとても無理であった。そこでいろいろ面倒な手だてを重ねて、やっとピュルガー氏を書記の肩書で連れていくことが許されるようになった。日本人随員の身分についてはなお若干の所見を加えさせていただきたい。
(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p8)
……※日本の通詞およびその他の従者の描写(抜粋)
(大通詞)
本来の日本人は外国人との交渉もなく、自国の風習に応じてしつけられ教育されているので……出島でわれわれと交際しているこのような日本人と通詞とが話題にのぼる場合には、こういう相違にいつも留意しなければならない。
この旅行で重要な役割を演じ、現金の出納を担当し、給人と連帯して政治・外交の業務を行なう大通詞として末永甚左衛門がわれわれに同行した。60歳に近く、立派な教養といくらかの学問的知識をもっていた。彼はオランダ人との貿易には経験も多く、さらに貿易にかこつけて巧みにそれを利用した。
日本流の事務処理にすぐれた能力があり、賢明で悪知恵もあった。また同時に追従に近いほど頭も低く、洗練された外貌をもち非常に親切でもあった。そのうえ物惜しみはしないが倹約家で、不遜という程ではないが自信家であった。甚左衛門は、出島にいる大部分の同僚と同じように、少年時代に通詞の生活にはいり、オランダの習慣に馴れていて、通詞式のオランダ語を上手に話したり書いたりした。フォン・レザノフおよびフォン・クルーゼンシュテルンの率いるロシアの使節が来た時(1804~05年)に、特にペリュー卿の事件(1890年)の際に、彼は幕府のためにたいん役に立ったので、長崎奉行の信望もあつく、恵まれた家庭的な境遇のうちに暮らしていた。
彼は小柄で痩せていたし、少し曲がった鼻と異状な大きさの眼をし、顎(あご)は尖っていた。非常に真面目な話をする時に、彼の口は歪んで微笑しているような表情となり、普段はそういう微笑でわざとらしい親愛の情をあらわすので、鋭い輪郭をした彼の顔は、なおいっそう人目をひき、目立つのである。彼の顔色は黄色い上に土色をおびていた。剃った頭のてっぺんは禿げて光り、うえに上を向いた薄い髷(まげ)がかたく油でかためて乗っていた。
(小通詞)
小通詞は岩瀬弥十郎といった。彼は60歳を少々越していて、体格やら身のこなし方など多くの点でわれわれの甚左衛門に似ていた。ひどいわし鼻で、両その方の眼瞼(まぶた)はたるみ顎は長く、口は左の笑筋が麻痺していたので、いつもゆがんで笑っているように見えた。大きな耳と喉頭の肥大は彼の顔つきを特徴づけていた。彼は自分の職務に通じていて精励し、旧いしきたりを固くまもった。彼は卑屈なくらい礼儀正しく、同時に賢明だったが、ずるささえ感じられた。しかしそれを彼は正直な外貌でつつんでいたし、また非常にていねいなお辞儀をし、親切で愛想もよく、駆け足と言ってよいぐらいに速く歩いた。
彼の息子の岩瀬弥七郎はたいそう父親似であった。ただ父は病気と年齢のせいで弱かったのに対し、息子の方は気力に欠けた若者だった点が違っていた。そうはいうものの噂では彼は善良な人間で、お辞儀をすることにかけてはほとんど父に劣らず、何事によらず「ヘイヘイ」と答えた。彼は世情に通じていたし、女性を軽視しなかった。女性だちといっしょにいるとき、彼はいつでもおもしろい思いつきをもっていた。またわれわれに対してはたいへん親切で日常生活では重宝がられた。彼は今度は父の仕事を手伝うために、父の費用で旅行した。
(公使=商館長の「私設通詞」)
公使の私的な通訳として、野村八太郎とあるが、NAMURA(名村)の誤り〕とかいう人がわれわれに随行した。当時われわれと接していた日本人のうちで、もっとも才能に恵まれ練達した人のひとりであったことは確かである。彼は母国語のみならず支那語やオランダ語に造詣が深く、日本とその制度・風俗習慣にも明るく、たいへん話好きで、そのうえ朗らかだった。彼の父は大通詞だったが、退職していた。だから、父が存命していて国から給料をもらっている間は、息子の方は無給で勤めなければならなかったし、そのうえ息子八太郎は相当な道楽者だったから、少しでも多くの収入が必要だったのに、実際にはわずかしかなかった。信用は少なく、借金は多かった。二、三のオランダの役人と組んで投機をやり、いくばくかの生計の資を得ていた。彼自身はお金の値打ちを知らなかったが、お金のためにはなんでもやった。われわれの間で彼を雇ってやると、たいそう満足したし、それで利益があると思えば、いつもどんな仕事でもやってのけた。彼は痩せていて大きな体格をしていた。幅の広い円い顔にはアバタがいっぱいあったし、鼻はつぶれたような格好をしていたし、顎は病的に短く、大きな口の上唇はそり返り、そこから出歯が飛び出して、彼の顔の醜さには非の打ちどころがなかった。
(付添検使=御番上使=給人)
日本人の同伴者のうちで最も身分の高い人物は給人で、御番上使とも呼ばれ、出島ではオッペルバンジョーストという名で知られていた。彼の支配下に三人の下級武士がいて、そのうちのひとりはオランダ船が長崎湾に停泊している時には見張りに当たるので、船番と呼ばれていた。それからふたりの町使で、これは元来わが方の警察官の業務を行なう。船番の方は出島では、普通オンデルバンジョーストは「下級」の意〕と呼ばれ、町使の方は出島の住人にはバンジョーストという名でと名づている。長崎奉行の下には通常一〇名の給人がいる。大部分は江戸から来ている警察官〔役人のこと〕で、公務を執行している。彼らは国から給料を受けていない。彼らが役所からもらっている給金はごくわずかだが、彼らが……合法と非合法とによって受けとる副収入はなおいっそう多かった。貿易の期間中、彼らは出島で交替に役目についた。彼らは重要な業務において奉行の代理をつとめるから、貿易並びにわれわれ個人の自由に対し多大の影響を与えた。輸出入に関しては彼らはわれわれの国の税関吏と同様に全権を委ねられ、従って密貿易の鍵を手中におさめていた。そういうわけだから、彼らは奉行所の書記や町年寄の了解のもとで、密輸に少なからず手加減を加えた。
長崎奉行のこういう役人のひとりが例の給人で、今度の旅行でわれわれに随行することになっていた。役所は彼に厳命を下し、その実行に責任をもたせ、彼に日記をつけさせ、旅行が終わったとき提出させた。われわれに同行するそのほかの武士や通詞たちも、互いに監視し合う目的で日記帳を用意しておく責任があった。
それゆえ彼らは手本として、また旧習を重んずる意味で以前の参府旅行の日記を携えてゆき、疑わしい場合にはそれを参考にして解明していくのである。我々は我々と行をともにする給人一名をカワサキ・ゲンソウ(Kawasaki GenzO)といった……を賢明で勇気ある男として知り合っていた。
彼の部下たちは彼を手本として行動した。上述の通詞や武士たちのほかに、四人の筆者と二人の宰領・荷物運搬人夫の監督一人・役所の小使7人・われわれのための料理人2人・日本の役人の仕事をする小者31人と料理人1人、従って随員は日本人合計57名であった。
(従者)
われわれの従者は誠実で信用のおける人々であった。彼らは若いころから出島に出仕していた。彼らのうちで年輩のものは、かつて上司の指揮のもとでこういう旅行に加わった経験があって、旅行中すばらしく気転がきき、職務上や礼儀作法にかかわるいっさいに通じていた。また彼らは、わかりやすいオランダ語を話したり書いたりした。
(シーボルトの「私設従者」など)
私の研究調査を援助してもらうために、私はなお2、3の人物を遮れて行った。彼らのうち一番初めには高良斎(注・阿波出身の医師、「鳴滝塾」出身)をあげるが、彼はこの2年来私のもっとも熱心な門人に数えられていたひとで、四国の阿波出身の若い医師であり、特に眼科の研究に熱心であった。けれども私か彼をえらぶ決心をしたのは、日本の植物学に対するかれの深くかつ広範な知識と、漢学に造詣が深くオランダ語が巧みであったこと、さらにまた彼が信頼に値し誠実であったからである。彼は私によく仕えた。私が多くの重要なレポートを得たのは、彼のおかげであるといわざるをえない。
画家としては登与助(注・「川原慶賀」)か私に随行した。彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は私の著作の中で彼の功績が真実であることを物っている。
乾譜標本や獣皮の作製などの仕事は弁之助とコマキ〔これは熊吉の誤り〕にやらせた。私の召使のうちのふたりで、こういう仕事をよく教えこんでおいたのである。
これらの人々のほかにひとりの園丁と三人の私の門人が供に加わった。それは医師の敬作(注・「二宮敬作」=宇和島の医師、「鳴滝塾」出身)・ショウゲン(注・宗氏の家臣の古川将監?・「鳴滝塾」出身?)・ケイタロウ(通詞の西慶太郎?・「鳴滝塾」出身?=後に長崎医学校の教官)の三人で、彼らは助手として私に同行する許可がえられなかったので、上に述べた通訳たちの従者という名目で旅行に加わった。彼らは貧乏だったので、私は彼らの勤めぶりに応じて援助してやった。私は2、3人の猟師を長綺の近郊でひそかに使っていたので、できれば連れて行きたかったのだが、狩猟はわれわれの旅行中かたく禁じられていた。≫(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p12) 】
川原慶賀の世界(その二十七) [川原慶賀の世界]
(その二十七)「シーボルトの三部作/『日本』/『日本動物史』/『日本植物史』」と「川原慶賀の『人物・道具・植物・動物』図譜」周辺
SIEBOLD, P. F. von Nippon 3 Bde. Leyden, 1852.
シーボルト『日本』
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/ger31.htm
『ドイツの医者・博物学者として有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)は、バイエルンのヴュルツブルクに生まれ、1820年に同地の大学を卒業して博士の称号を得た。 1822年、オランダ東インド会社の衛生官となり、翌1823(文政6)年に長崎出島商館の医師として来日。 到着後、日本の医学と博物学の研究を始めると共に日本人の診察もおこない、有名な鳴滝塾を設けて多くの日本人を教えた。
1826(文政9)年、商館長に従って江戸に参府したが、その道中多くの医者や本草(薬学)学者に会い知見を広めた。 1828(文政11)年の帰国にあたり、我が国の国禁を犯して高橋景保より受け取った地図などを携行しようとしたことが発覚し(所謂シーボルト事件)、翌年日本を追放されて本国に帰った。 しかし、1859(安政6)年に再び来日して、1861(文久元)年には徳川幕府の外交顧問となったが、翌年ドイツに戻りミュンヒェンで没した。
本書は1852年に出版されたドイツ語版の初版本で、テキスト1冊、図版集2冊よりなっている。 テキストの内容は7編に分けられ、1編には日本の数理及び自然地理、2編には国民と国家、3編には神話・歴史、4編には芸術と学問、5編には宗教、6編には農業・工業及び商業、7編には日本の隣国及び保護領に関しての記述がなされている。
なお、高橋景保が寄贈した精密な日本図(伊能忠敬実測)や北海道図を折込み、地形断面図や江戸・京都のパノラマ式スケッチを掲載しているなど、当時としては優れた地誌的著作ということができる。』(「京都外国語大学・図書館」)
SIEBOLD, Philipp Franz von Fauna Japonica 5 vols. Leiden, 1833-1850.
シーボルト編 『日本動物史』 全5巻
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/france17.htm
『本書の副題にもあるように、シーボルトがバタビア総督の命令を受けて在日期間中に動物を対象とした資料を収集し、ラテン語とフランス語による注記とスケッチで著したものである。全五巻からなり、「哺乳動物」、「鳥類」、「爬虫類」、「魚類」、「甲殻類」の五篇に別れ、各巻共に大型の図版を伴っている。それぞれの巻を作るにあたって、シーボルトの指揮のもとライデン博物館のコンラート・ヤコブ・テミンク他二名の専門家が分類と編纂にあたった。』(「京都外国語大学・図書館」)
SIEBOLD, Philipp Franz von Flora Japonica 2 vols. Leiden, 1835-1870.
シーボルト編 『日本植物史』 全2巻
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/france18.htm
『本書もシーボルトが日本で採集し、スケッチした植物を図版化しラテン語とフランス語で解説を加えた大著である。全二冊からなり、ミュンヘン大学教授のヨーゼフ・ツッカリーニが編纂に加わっている。第一巻は観葉植物と有用植物からなり、第二巻は花木や常緑樹や針葉樹が収められ、この二つの巻を通して百五十の図版が収められている。なお、シーボルトが編纂の途中で死去したことから、ライデン国立植物園長のフリードリッヒ・ミクエルという人物が事業を引き継ぐなど、刊行計画が変更された。』(「京都外国語大学・図書館」)
ここで、上記の「シーボルト『日本』」の周辺に関しては、下記のアドレスなどで触れてきた。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-01
そして、その「シーボルト『日本植物史』/『日本動物史』」の周辺に関連しては、下記のアドレスで、次の図などを紹介してきた。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-14
(再掲)
【 (その八)「川原慶賀の動植物画」(シーボルト・フイッセル:コレクション)周辺
上図(左から「ムクゲ」「クチナシ」「ナノハナ」「カキツバタ」「スイカ」)
下図(左から「タンポポ」「フクジュソウ」「ケシ」「キリ」「サツキ」)
川原慶賀筆 ライデン国立民族学博物館
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=762&cfcid=115&search_div=kglist
●作品名:ムクゲ ●学名/Scientific name:Hibiscus syriacus
●分類/classification:植物/Plants>アオイ科/Malvaceae
●作品名:クチナシ ●Title:Common Gardenia
●学名/Scientific name:Gardenia augusta
●分類/classification:植物/Plants>アカネ科/Rubiaceae
●作品名:ナノハナ ●Title:Rapeseed
●学名/Scientific name:B.rapa var.nippo-oleifera
●分類/classification:植物/Plants>アブラナ科/Brassicaceae
●作品名:カキツバタ ●学名/Scientific name:Iris laevigata
●分類/classification:植物/Plants>アヤメ科/Iridaceae
●作品名:スイカ ●Title:Water melon
●学名/Scientific name:Citrullus lanatu
●分類/classification:植物/Plants>ウリ科/Cucurbitaceae
●作品名:タンポポ ●Title:Dandelion
●学名/Scientific name:Taraxacum
●分類/classification:植物/Plants>キク科/Asteraceae
●作品名:フクジュソウ ●Title:Far East Amur adonis
●学名/Scientific name:Adonis amurensis
●分類/classification:植物/Plants>キンポウゲ科/Ranunculaceae
●作品名:ケシ ●Title:Opium poppy
●学名/Scientific name:Papaver somniferum
●分類/classification:植物/Plants>ケシ科/Papaveraceae
●作品名:キリ ●Title:Empress Tree, Princess Tree, Foxglove Tree
●学名/Scientific name:Paulownia tomentosa
●分類/classification:植物/Plants>ゴマノハグサ科/Scrophulariaceae
●作品名:サツキ ●学名/Scientific name:Rhododendron indicum
●分類/classification:植物/Plants>ツツジ科/Ericaceae
これらの「植物図譜」に関して、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』では、次のように解説している。
≪ 慶賀の植物図は5冊のアルバムに収められ、全部で340種を数えることができる。直接的には『日本植物誌』に用いられていないが、シーボルトを満足させた慶賀の植物観察図の力量をうかがうことができる。≫(『同書(主要作品解説)』)
上図(魚介)(左から「クジラ」「ニホンアシカ」「サケ」「ギンサメ」)
中図(魚介・鳥類)(左から「モクズガニ」「カメ」「ライチョウ」「ミヤコドリ」)
下図(動物)「左から「ウマ」「ウシ」「イヌ」「ネコ」「サル」)
●作品名:クジラ ●Title:Whale
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>クジラ目/Cetacea
●作品名:ニホンアシカ●Title:Japanese Sea Lion
●学名/Scientific name:Zalophus californianus japonicus
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>アシカ科/Otariidae
●作品名:サケ ●Title:Impossibe to identify species or genus
●分類/classification:魚類/Animals, Fishes>サケ目/Cetacea
●作品名:モクズガニ ●学名/Scientific name:Eriocheir japonicus
●学名(シーボルト命名)/Scientific name(by von Siebold):Grapsus (Eriocheir)
●分類/classification:節足動物/Animals, Arthropods>エビ目/Decapoda
●作品名:カメ(イシガメ)、クサガメ ●学名/Scientific name:Chinemys reevesii
●分類/classification:は虫類/Animals, Reptiles>イシガメ科/Geoemydidae
●作品名:ライチョウ ●Title:Ptarmigan
●学名/Scientific name:Lagopus mutus
●分類/classification:鳥類/Animal,Birds>キジ目/Galliformes
●作品名:阿州産 ミヤコドリ ●Title:Eurasian Oystercatcher
●学名/Scientific name:Haematopus ostralegus
●分類/classification:鳥類/Animal,Birds>チドリ目/Charadriiformes
●作品名:オウマ ●Title:Horse
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>ウマ科/Equidae
●作品名:オウシ ●Title:Bull
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>ウシ科/Bovidae
●作品名:オイヌ ●Title:Male dog
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>イヌ科/Canidae
●作品名:オネコ ●Title:Male cat
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>ネコ科/Felidae
●作品名:サル ●Title:Monkey
●分類/classification:動物、ほ乳類/Animals, Mammals>オナガザル科/Cercopithecidae
≪ 「魚介」
魚の図は、2冊のアルバムと1枚の紙片に四種類に描かれたものが23枚所蔵されている。このような魚図の大部分は同じライデンの国立自然科学博物館の所蔵に帰しており、これらの図の一部はすでに『シーボルトと日本動物誌』(L.B.Holthuis ・酒井恒共著、1970年、学術出版刊)で紹介されている。これらの図がいかなる事情でしかも慶賀の手で描かれたかについては、シーボルトが日本を去るにあたって、彼の助手ビュルガー(ビュルゲル)に与えた指示(『前掲書301頁)によって分かる。その手紙の文面はシーボルトが慶賀の写実力をいかに高く評価していたかを証しするものであり、本展出品の諸図(上記が一例))もその一端を示すものである。なお、魚名を墨で仮名書きした和紙が各図に貼付されているが、これも慶賀自身の手になるものと推定されている。(兼重護) ≫(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)
≪ 「鳥」
鳥の図はすべてフイッセル・コレクションに属している。絹(紙? 27.5t×42㎝)に描かれ、慶賀の朱印が押されている。鳥類は、鑑賞的傾向が強く、いわゆる花鳥画的趣を呈している。鳥籠の中の鳥図が5点含まれているが、これらは細かい線と入念な彩色により、写実的に写しており、これらが実物の観察に基づいて描かれたであろうことを示している。≫(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)
≪ 「動物図譜」
C&I Honicの透かしのあるオランダ製(ホーニック社製)の紙に著色したもの、横約110㎝、縦約64㎝ の大きな紙も二つ折にして両面(すなわち4頁分)に各頁6頭の動物を描いている(総頭48頭)、日本語めの獣名は貼りこんでものと書きこんだものと両用あるが、ローマ字は全て書きこみで、Oeso(ウソ)、Moesina(ムジナ)など表記されている。≫
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「主要作品解説」)』) 】
ここで、「シーボルト・川原慶賀」関連年表も、下記に再掲をして置きたい。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-11
(再掲)
≪「シーボルト・川原慶賀」関連年表
https://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/828000/p009222.html
(「川原慶賀」関連=「ウィキペディア」)
※1786年(天明6)川原慶賀生まれる(長崎の今下町=現・長崎市築町)。
1796年(寛政8)2月17日、シーボルト、ドイツのヴュルツブルクに生まれる
※1811年(文化8)川原慶賀当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。
1820年(文政3)シーボルト、ヴュルツブ、ルク大学を卒業(24歳)
1822年(文政5)シーボルト、オランダの陸軍外科少佐になる(26歳)
1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳)
※慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く。
1824年(文政7)シーボルト、「鳴滝塾」をひらく(28歳)
1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳)
※慶賀はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く。
1827年(文政10)シーボルト、娘いね生まれる(31歳)
1828年(文政11)「シーボルト事件」おこる(32歳)
※シーボルト事件に際しては多数の絵図を提供した慶賀も長崎奉行所で取り調べられ、叱責される。
1829年(文政12)シーボルト国外追放になる(33歳)
※シーボルトの後任のハインリヒ・ビュルゲルの指示を受け、同様の動植物画、写生図を描く。
1832年(天保3)シーボルト、「日本」刊行はじまる(36歳)
1833年(天保4)シーボルト、「日本動物誌」刊行はじまる(37歳)
1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる(39歳)
※1836(天保7)『慶賀写真草』という植物図譜を著す。
※1842(天保13)オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れた。これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受ける。
※1846(弘化3)長崎を追放されていた慶賀は、長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである脇岬(現・長崎市脇岬町)に向かい、脇岬観音寺に残る天井絵150枚のうち5枚に慶賀の落款があり、50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる。また、この頃から別姓「田口」を使い始める。その後の消息はほとんど不明で、正確な没年や墓も判っていない。ただし嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画が残っていること、出島の日常風景を描いた唐蘭館図(出島蘭館絵巻とも)は開国後に描かれていること、慶賀の落款がある万延元年(1860年)作と推定される絵が残っていることなどから少なくとも75歳までは生きたとされている。一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)。
1859年(安政6)シーボルト再び長崎に来る(63歳)
1861年(文久元)シーボルト、幕府から江戸に招かれる(65歳)
1862年(文久2)シーボルト、日本をはなれる(66歳)
1866年(慶応2)10月18日、シーボルト、ドイツのミュンヘンで亡くなる(70歳≫
この「シーボルト・川原慶賀」関連年表から、「1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳) ※慶賀(37歳?)は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く」のとおり、この二人の出会いは、「1823年(文政6)」に遡る。そして、そのスタートは、「精細な動植物の写生図」、特に、「植物画の写生図」を、シーボルトが、一介の、長崎の町絵師「川原(別姓・田口)登与助(通称)」に描かせたことに始まる。
これらのことに関連して、下記のアドレスでは、この二人の関係を、次のように指摘している。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index1.html
【 (抜粋)
◆シーボルトが見た日本画家・慶賀
シーボルトは渡来当初から将来『日本植物誌』の出版する際に、慶賀の植物画を中心に活用しようと膨大な量の絵を描かせていたという。文政9年(1826)の2月から7月にかけての江戸参府においても慶賀はシーボルトの従者のひとりとして参加し、旅先の各地での風景や風物を写生した。慶賀はシーボルトの目に映るものを直ちに紙に写し取り、いわばカメラの役割を果たした。当時の文化、風俗、習慣、自然。特に慶賀の描写した植物画は彩色も巧妙でシーボルトを満足させていたという。実際にシーボルトは慶賀に対する評価を『江戸参府紀行』に次のように記している。
《……彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は、私の著作の中で、彼の功績が真実であることを物語っている……》
◆シーボルトが慶賀に与えた目覚め
慶賀が残した膨大な量の作品は、その内容、作品に熱意からして、単に雇われ絵師が義務的にこなした仕事とは思えないものだという。そこまで、自然物の写生を徹底した科学的態度によっておこなうことになったのは、やはりシーボルトという偉大な存在と出逢ったためだろう。なかでも、シーボルトに同行した江戸参府の経験は大きい。おそらく、道中においてシーボルトの精力的な研究ぶり、また江戸滞在中にシーボルトを訪れた日本人学者達のシーボルトに対する尊敬ぶりと貪欲なまでの知識欲などを目の当たりにして、慶賀の眼ももっと広い世界へと開かれたものと思われている。シーボルトへの尊敬の念が慶賀に新たな意欲をかきたたせ、自分の使命はシーボルトに与えられた自然物をいかにその通りに描くか、ということにあると自覚し、しかも単に外観をそのまま写すのではなく、そのものの学問上の価値を知って描くことが自分に課せられた任務だと気づいたのだろう。『シーボルトと日本動物誌』においてはじめて公刊された慶賀の甲殻類の図53枚は、大部分が原寸で描かれているという。そして、そのほとんどの図版に種名やその他の書き込みが慶賀によってなされているというのだ。彼が単に図を描くだけでなく、日本名の調査や記入にもあたっていたということは、慶賀自身がシーボルト同様に西洋的科学研究に参加しているという意識を持って仕事をしていたということなのだ。やはりシーボルトとの出逢いと指導が慶賀を大きく成長させたということだろう。
◆慶賀とシーボルトの信頼関係
(前ページで紹介したように)、慶賀は江戸参府の際に長崎奉行所から命じられていた“シーボルトの監視不十分”の罪で入牢している。慶賀は、シーボルトを密かに監視するようなことをしなかったのだ。シーボルトへの尊敬の念、また、シーボルトから自分に向けられた役割と期待。シーボルトと慶賀の間には、雇い主と雇われ絵師という関係以上の感情がいつしか芽生え、心の交流がなされていたのだろう。シーボルトは帰国後も日本に残った助手ビュルゲルと連絡をとり、標本、図版類を送らせていた。ビュルゲルによって送られた図版は、慶賀によるもの。慶賀は、シーボルト帰国後から長崎払いの処罰を受けるまでの約10年間、出島出入絵師として働いていたと考えられているが、ビュルゲルはシーボルト帰国後3年間、日本にとどまっていることから、慶賀は少なくともその期間はシーボルトの仕事をしていたと思われる。その際、慶賀が描いた甲殻類の図(『シーボルトと日本動物誌』に掲載)から、実物通りの写生能力に関して、シーボルトは慶賀に絶対の信頼を置いていて、また、慶賀もその信頼を裏切るようなことをしなかったということがうかがえるのだ。 】(「長崎Webマガジン」所収「長崎の町絵師・川原慶賀」)
川原慶賀が、「一介の、長崎の町絵師『川原(別姓・田口)登与助(通称)』」から、「江戸時代末期の、長崎派の一角を占める『出島和蘭商館医・シーボルトのお抱え絵師』として、その「眼(まなこ)の絵師」に徹するのは、上記の「シーボルト・川原慶賀」関連年表の、「1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳) ※慶賀(40歳疑問)はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く」の、「シーボルトと川原慶賀」の、その「江戸参府」が、決定的な「節目の年」であったということになろう。
そして、その「江戸時代末期の、長崎派の一角を占める『出島和蘭商館医・シーボルトのお抱え絵師』として、その「眼(まなこ)の絵師」に徹する」ということは、同時に、「川原慶賀の世界」というのは、「◆個性がない個性こそ慶賀の武器(「世界」)」(「長崎Webマガジン」所収「長崎の町絵師・川原慶賀」)ということになる。
(「人物画」)
●作品名:皇后 ●Title:Empress
●分類/classification:人物/Portraits
↓
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/list/kglist.php?listNo=151
(「武器・武具図)
●作品名:武器・武具-13 ●Title:Arms
●分類/classification:道具・武器・武具/Tools
↓
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/list/kglist.php?listNo=152
(「生業・道具図)
●作品名:百姓の道具-1 ●Title:Farmer's tools
●分類/classification:生業と道具/Agriculture and Fishery, their tools
↓
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/list/kglist.php?listNo=143
(「諸職・道具図)
●作品名:大工道具-1 ●Title:Carpenter's tools
●分類/classification:諸職と道具/Craftsmen and tools
↓
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/list/kglist.php?listNo=144
(絵師の道具)
●作品名:絵師の道具 ●Title:Artist's tools
●分類/classification:諸職と道具/Craftsmen and tools
↓
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1224&cfcid=144&search_div=kglist
(寺の道具)
●作品名:寺の道具 ●Title:Buddhist altar fittings
●分類/classification:道具/Tools
↓
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=90&cfcid=152&search_div=kglist
SIEBOLD, P. F. von Nippon 3 Bde. Leyden, 1852.
シーボルト『日本』
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/ger31.htm
『ドイツの医者・博物学者として有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)は、バイエルンのヴュルツブルクに生まれ、1820年に同地の大学を卒業して博士の称号を得た。 1822年、オランダ東インド会社の衛生官となり、翌1823(文政6)年に長崎出島商館の医師として来日。 到着後、日本の医学と博物学の研究を始めると共に日本人の診察もおこない、有名な鳴滝塾を設けて多くの日本人を教えた。
1826(文政9)年、商館長に従って江戸に参府したが、その道中多くの医者や本草(薬学)学者に会い知見を広めた。 1828(文政11)年の帰国にあたり、我が国の国禁を犯して高橋景保より受け取った地図などを携行しようとしたことが発覚し(所謂シーボルト事件)、翌年日本を追放されて本国に帰った。 しかし、1859(安政6)年に再び来日して、1861(文久元)年には徳川幕府の外交顧問となったが、翌年ドイツに戻りミュンヒェンで没した。
本書は1852年に出版されたドイツ語版の初版本で、テキスト1冊、図版集2冊よりなっている。 テキストの内容は7編に分けられ、1編には日本の数理及び自然地理、2編には国民と国家、3編には神話・歴史、4編には芸術と学問、5編には宗教、6編には農業・工業及び商業、7編には日本の隣国及び保護領に関しての記述がなされている。
なお、高橋景保が寄贈した精密な日本図(伊能忠敬実測)や北海道図を折込み、地形断面図や江戸・京都のパノラマ式スケッチを掲載しているなど、当時としては優れた地誌的著作ということができる。』(「京都外国語大学・図書館」)
SIEBOLD, Philipp Franz von Fauna Japonica 5 vols. Leiden, 1833-1850.
シーボルト編 『日本動物史』 全5巻
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/france17.htm
『本書の副題にもあるように、シーボルトがバタビア総督の命令を受けて在日期間中に動物を対象とした資料を収集し、ラテン語とフランス語による注記とスケッチで著したものである。全五巻からなり、「哺乳動物」、「鳥類」、「爬虫類」、「魚類」、「甲殻類」の五篇に別れ、各巻共に大型の図版を伴っている。それぞれの巻を作るにあたって、シーボルトの指揮のもとライデン博物館のコンラート・ヤコブ・テミンク他二名の専門家が分類と編纂にあたった。』(「京都外国語大学・図書館」)
SIEBOLD, Philipp Franz von Flora Japonica 2 vols. Leiden, 1835-1870.
シーボルト編 『日本植物史』 全2巻
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/france18.htm
『本書もシーボルトが日本で採集し、スケッチした植物を図版化しラテン語とフランス語で解説を加えた大著である。全二冊からなり、ミュンヘン大学教授のヨーゼフ・ツッカリーニが編纂に加わっている。第一巻は観葉植物と有用植物からなり、第二巻は花木や常緑樹や針葉樹が収められ、この二つの巻を通して百五十の図版が収められている。なお、シーボルトが編纂の途中で死去したことから、ライデン国立植物園長のフリードリッヒ・ミクエルという人物が事業を引き継ぐなど、刊行計画が変更された。』(「京都外国語大学・図書館」)
ここで、上記の「シーボルト『日本』」の周辺に関しては、下記のアドレスなどで触れてきた。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-01
そして、その「シーボルト『日本植物史』/『日本動物史』」の周辺に関連しては、下記のアドレスで、次の図などを紹介してきた。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-14
(再掲)
【 (その八)「川原慶賀の動植物画」(シーボルト・フイッセル:コレクション)周辺
上図(左から「ムクゲ」「クチナシ」「ナノハナ」「カキツバタ」「スイカ」)
下図(左から「タンポポ」「フクジュソウ」「ケシ」「キリ」「サツキ」)
川原慶賀筆 ライデン国立民族学博物館
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=762&cfcid=115&search_div=kglist
●作品名:ムクゲ ●学名/Scientific name:Hibiscus syriacus
●分類/classification:植物/Plants>アオイ科/Malvaceae
●作品名:クチナシ ●Title:Common Gardenia
●学名/Scientific name:Gardenia augusta
●分類/classification:植物/Plants>アカネ科/Rubiaceae
●作品名:ナノハナ ●Title:Rapeseed
●学名/Scientific name:B.rapa var.nippo-oleifera
●分類/classification:植物/Plants>アブラナ科/Brassicaceae
●作品名:カキツバタ ●学名/Scientific name:Iris laevigata
●分類/classification:植物/Plants>アヤメ科/Iridaceae
●作品名:スイカ ●Title:Water melon
●学名/Scientific name:Citrullus lanatu
●分類/classification:植物/Plants>ウリ科/Cucurbitaceae
●作品名:タンポポ ●Title:Dandelion
●学名/Scientific name:Taraxacum
●分類/classification:植物/Plants>キク科/Asteraceae
●作品名:フクジュソウ ●Title:Far East Amur adonis
●学名/Scientific name:Adonis amurensis
●分類/classification:植物/Plants>キンポウゲ科/Ranunculaceae
●作品名:ケシ ●Title:Opium poppy
●学名/Scientific name:Papaver somniferum
●分類/classification:植物/Plants>ケシ科/Papaveraceae
●作品名:キリ ●Title:Empress Tree, Princess Tree, Foxglove Tree
●学名/Scientific name:Paulownia tomentosa
●分類/classification:植物/Plants>ゴマノハグサ科/Scrophulariaceae
●作品名:サツキ ●学名/Scientific name:Rhododendron indicum
●分類/classification:植物/Plants>ツツジ科/Ericaceae
これらの「植物図譜」に関して、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』では、次のように解説している。
≪ 慶賀の植物図は5冊のアルバムに収められ、全部で340種を数えることができる。直接的には『日本植物誌』に用いられていないが、シーボルトを満足させた慶賀の植物観察図の力量をうかがうことができる。≫(『同書(主要作品解説)』)
上図(魚介)(左から「クジラ」「ニホンアシカ」「サケ」「ギンサメ」)
中図(魚介・鳥類)(左から「モクズガニ」「カメ」「ライチョウ」「ミヤコドリ」)
下図(動物)「左から「ウマ」「ウシ」「イヌ」「ネコ」「サル」)
●作品名:クジラ ●Title:Whale
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>クジラ目/Cetacea
●作品名:ニホンアシカ●Title:Japanese Sea Lion
●学名/Scientific name:Zalophus californianus japonicus
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>アシカ科/Otariidae
●作品名:サケ ●Title:Impossibe to identify species or genus
●分類/classification:魚類/Animals, Fishes>サケ目/Cetacea
●作品名:モクズガニ ●学名/Scientific name:Eriocheir japonicus
●学名(シーボルト命名)/Scientific name(by von Siebold):Grapsus (Eriocheir)
●分類/classification:節足動物/Animals, Arthropods>エビ目/Decapoda
●作品名:カメ(イシガメ)、クサガメ ●学名/Scientific name:Chinemys reevesii
●分類/classification:は虫類/Animals, Reptiles>イシガメ科/Geoemydidae
●作品名:ライチョウ ●Title:Ptarmigan
●学名/Scientific name:Lagopus mutus
●分類/classification:鳥類/Animal,Birds>キジ目/Galliformes
●作品名:阿州産 ミヤコドリ ●Title:Eurasian Oystercatcher
●学名/Scientific name:Haematopus ostralegus
●分類/classification:鳥類/Animal,Birds>チドリ目/Charadriiformes
●作品名:オウマ ●Title:Horse
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>ウマ科/Equidae
●作品名:オウシ ●Title:Bull
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>ウシ科/Bovidae
●作品名:オイヌ ●Title:Male dog
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>イヌ科/Canidae
●作品名:オネコ ●Title:Male cat
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>ネコ科/Felidae
●作品名:サル ●Title:Monkey
●分類/classification:動物、ほ乳類/Animals, Mammals>オナガザル科/Cercopithecidae
≪ 「魚介」
魚の図は、2冊のアルバムと1枚の紙片に四種類に描かれたものが23枚所蔵されている。このような魚図の大部分は同じライデンの国立自然科学博物館の所蔵に帰しており、これらの図の一部はすでに『シーボルトと日本動物誌』(L.B.Holthuis ・酒井恒共著、1970年、学術出版刊)で紹介されている。これらの図がいかなる事情でしかも慶賀の手で描かれたかについては、シーボルトが日本を去るにあたって、彼の助手ビュルガー(ビュルゲル)に与えた指示(『前掲書301頁)によって分かる。その手紙の文面はシーボルトが慶賀の写実力をいかに高く評価していたかを証しするものであり、本展出品の諸図(上記が一例))もその一端を示すものである。なお、魚名を墨で仮名書きした和紙が各図に貼付されているが、これも慶賀自身の手になるものと推定されている。(兼重護) ≫(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)
≪ 「鳥」
鳥の図はすべてフイッセル・コレクションに属している。絹(紙? 27.5t×42㎝)に描かれ、慶賀の朱印が押されている。鳥類は、鑑賞的傾向が強く、いわゆる花鳥画的趣を呈している。鳥籠の中の鳥図が5点含まれているが、これらは細かい線と入念な彩色により、写実的に写しており、これらが実物の観察に基づいて描かれたであろうことを示している。≫(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)
≪ 「動物図譜」
C&I Honicの透かしのあるオランダ製(ホーニック社製)の紙に著色したもの、横約110㎝、縦約64㎝ の大きな紙も二つ折にして両面(すなわち4頁分)に各頁6頭の動物を描いている(総頭48頭)、日本語めの獣名は貼りこんでものと書きこんだものと両用あるが、ローマ字は全て書きこみで、Oeso(ウソ)、Moesina(ムジナ)など表記されている。≫
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「主要作品解説」)』) 】
ここで、「シーボルト・川原慶賀」関連年表も、下記に再掲をして置きたい。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-11
(再掲)
≪「シーボルト・川原慶賀」関連年表
https://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/828000/p009222.html
(「川原慶賀」関連=「ウィキペディア」)
※1786年(天明6)川原慶賀生まれる(長崎の今下町=現・長崎市築町)。
1796年(寛政8)2月17日、シーボルト、ドイツのヴュルツブルクに生まれる
※1811年(文化8)川原慶賀当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。
1820年(文政3)シーボルト、ヴュルツブ、ルク大学を卒業(24歳)
1822年(文政5)シーボルト、オランダの陸軍外科少佐になる(26歳)
1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳)
※慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く。
1824年(文政7)シーボルト、「鳴滝塾」をひらく(28歳)
1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳)
※慶賀はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く。
1827年(文政10)シーボルト、娘いね生まれる(31歳)
1828年(文政11)「シーボルト事件」おこる(32歳)
※シーボルト事件に際しては多数の絵図を提供した慶賀も長崎奉行所で取り調べられ、叱責される。
1829年(文政12)シーボルト国外追放になる(33歳)
※シーボルトの後任のハインリヒ・ビュルゲルの指示を受け、同様の動植物画、写生図を描く。
1832年(天保3)シーボルト、「日本」刊行はじまる(36歳)
1833年(天保4)シーボルト、「日本動物誌」刊行はじまる(37歳)
1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる(39歳)
※1836(天保7)『慶賀写真草』という植物図譜を著す。
※1842(天保13)オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れた。これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受ける。
※1846(弘化3)長崎を追放されていた慶賀は、長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである脇岬(現・長崎市脇岬町)に向かい、脇岬観音寺に残る天井絵150枚のうち5枚に慶賀の落款があり、50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる。また、この頃から別姓「田口」を使い始める。その後の消息はほとんど不明で、正確な没年や墓も判っていない。ただし嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画が残っていること、出島の日常風景を描いた唐蘭館図(出島蘭館絵巻とも)は開国後に描かれていること、慶賀の落款がある万延元年(1860年)作と推定される絵が残っていることなどから少なくとも75歳までは生きたとされている。一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)。
1859年(安政6)シーボルト再び長崎に来る(63歳)
1861年(文久元)シーボルト、幕府から江戸に招かれる(65歳)
1862年(文久2)シーボルト、日本をはなれる(66歳)
1866年(慶応2)10月18日、シーボルト、ドイツのミュンヘンで亡くなる(70歳≫
この「シーボルト・川原慶賀」関連年表から、「1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳) ※慶賀(37歳?)は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く」のとおり、この二人の出会いは、「1823年(文政6)」に遡る。そして、そのスタートは、「精細な動植物の写生図」、特に、「植物画の写生図」を、シーボルトが、一介の、長崎の町絵師「川原(別姓・田口)登与助(通称)」に描かせたことに始まる。
これらのことに関連して、下記のアドレスでは、この二人の関係を、次のように指摘している。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index1.html
【 (抜粋)
◆シーボルトが見た日本画家・慶賀
シーボルトは渡来当初から将来『日本植物誌』の出版する際に、慶賀の植物画を中心に活用しようと膨大な量の絵を描かせていたという。文政9年(1826)の2月から7月にかけての江戸参府においても慶賀はシーボルトの従者のひとりとして参加し、旅先の各地での風景や風物を写生した。慶賀はシーボルトの目に映るものを直ちに紙に写し取り、いわばカメラの役割を果たした。当時の文化、風俗、習慣、自然。特に慶賀の描写した植物画は彩色も巧妙でシーボルトを満足させていたという。実際にシーボルトは慶賀に対する評価を『江戸参府紀行』に次のように記している。
《……彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は、私の著作の中で、彼の功績が真実であることを物語っている……》
◆シーボルトが慶賀に与えた目覚め
慶賀が残した膨大な量の作品は、その内容、作品に熱意からして、単に雇われ絵師が義務的にこなした仕事とは思えないものだという。そこまで、自然物の写生を徹底した科学的態度によっておこなうことになったのは、やはりシーボルトという偉大な存在と出逢ったためだろう。なかでも、シーボルトに同行した江戸参府の経験は大きい。おそらく、道中においてシーボルトの精力的な研究ぶり、また江戸滞在中にシーボルトを訪れた日本人学者達のシーボルトに対する尊敬ぶりと貪欲なまでの知識欲などを目の当たりにして、慶賀の眼ももっと広い世界へと開かれたものと思われている。シーボルトへの尊敬の念が慶賀に新たな意欲をかきたたせ、自分の使命はシーボルトに与えられた自然物をいかにその通りに描くか、ということにあると自覚し、しかも単に外観をそのまま写すのではなく、そのものの学問上の価値を知って描くことが自分に課せられた任務だと気づいたのだろう。『シーボルトと日本動物誌』においてはじめて公刊された慶賀の甲殻類の図53枚は、大部分が原寸で描かれているという。そして、そのほとんどの図版に種名やその他の書き込みが慶賀によってなされているというのだ。彼が単に図を描くだけでなく、日本名の調査や記入にもあたっていたということは、慶賀自身がシーボルト同様に西洋的科学研究に参加しているという意識を持って仕事をしていたということなのだ。やはりシーボルトとの出逢いと指導が慶賀を大きく成長させたということだろう。
◆慶賀とシーボルトの信頼関係
(前ページで紹介したように)、慶賀は江戸参府の際に長崎奉行所から命じられていた“シーボルトの監視不十分”の罪で入牢している。慶賀は、シーボルトを密かに監視するようなことをしなかったのだ。シーボルトへの尊敬の念、また、シーボルトから自分に向けられた役割と期待。シーボルトと慶賀の間には、雇い主と雇われ絵師という関係以上の感情がいつしか芽生え、心の交流がなされていたのだろう。シーボルトは帰国後も日本に残った助手ビュルゲルと連絡をとり、標本、図版類を送らせていた。ビュルゲルによって送られた図版は、慶賀によるもの。慶賀は、シーボルト帰国後から長崎払いの処罰を受けるまでの約10年間、出島出入絵師として働いていたと考えられているが、ビュルゲルはシーボルト帰国後3年間、日本にとどまっていることから、慶賀は少なくともその期間はシーボルトの仕事をしていたと思われる。その際、慶賀が描いた甲殻類の図(『シーボルトと日本動物誌』に掲載)から、実物通りの写生能力に関して、シーボルトは慶賀に絶対の信頼を置いていて、また、慶賀もその信頼を裏切るようなことをしなかったということがうかがえるのだ。 】(「長崎Webマガジン」所収「長崎の町絵師・川原慶賀」)
川原慶賀が、「一介の、長崎の町絵師『川原(別姓・田口)登与助(通称)』」から、「江戸時代末期の、長崎派の一角を占める『出島和蘭商館医・シーボルトのお抱え絵師』として、その「眼(まなこ)の絵師」に徹するのは、上記の「シーボルト・川原慶賀」関連年表の、「1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳) ※慶賀(40歳疑問)はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く」の、「シーボルトと川原慶賀」の、その「江戸参府」が、決定的な「節目の年」であったということになろう。
そして、その「江戸時代末期の、長崎派の一角を占める『出島和蘭商館医・シーボルトのお抱え絵師』として、その「眼(まなこ)の絵師」に徹する」ということは、同時に、「川原慶賀の世界」というのは、「◆個性がない個性こそ慶賀の武器(「世界」)」(「長崎Webマガジン」所収「長崎の町絵師・川原慶賀」)ということになる。
(「人物画」)
●作品名:皇后 ●Title:Empress
●分類/classification:人物/Portraits
↓
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/list/kglist.php?listNo=151
(「武器・武具図)
●作品名:武器・武具-13 ●Title:Arms
●分類/classification:道具・武器・武具/Tools
↓
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/list/kglist.php?listNo=152
(「生業・道具図)
●作品名:百姓の道具-1 ●Title:Farmer's tools
●分類/classification:生業と道具/Agriculture and Fishery, their tools
↓
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/list/kglist.php?listNo=143
(「諸職・道具図)
●作品名:大工道具-1 ●Title:Carpenter's tools
●分類/classification:諸職と道具/Craftsmen and tools
↓
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/list/kglist.php?listNo=144
(絵師の道具)
●作品名:絵師の道具 ●Title:Artist's tools
●分類/classification:諸職と道具/Craftsmen and tools
↓
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1224&cfcid=144&search_div=kglist
(寺の道具)
●作品名:寺の道具 ●Title:Buddhist altar fittings
●分類/classification:道具/Tools
↓
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=90&cfcid=152&search_div=kglist
川原慶賀の世界(その二十六) [川原慶賀の世界]
(その二十六)「川原慶賀のアイヌ・朝鮮風俗図」周辺
NIPPON Ⅶ 第16図 「蝦夷(宗谷岬)アイヌとその住居」(下記の〔352〕)
≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫
「蝦夷風俗図巻」(「ライデン国立民族学博物館」蔵)
≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫
「ライデン民族学博物館所蔵のパノラマ(巻物)の複製」(松前春里,※蝦夷風俗絵巻.1.妻を連れて熊狩りに行くアイヌ.2.二人のアイヌの男性と熊の穴の前で吠える犬)/(PL.VIII. Copiy of a panorama in the Ethn. Museum, Leiden.) ≪「日文研データベース」≫
↓
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/en/detail/?gid=GP008028&hid=3896&thumbp=
左図:「※※アイヌ人物図(男)」川原慶賀画(「ライデン国立民族学博物館」蔵)
右図:「※※アイヌ人物図(男女)」川原慶賀画(「ライデン国立民族学博物館」蔵)
≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫
【〔352〕「蝦夷(宗谷 岬) アイヌとその住居」は、宗谷岬のアイヌとその住居を描く。ライデン国立民族学博物館のシーボルト・コレクションに長さ16m・幅30㎝の『※蝦夷風俗図巻』の絵巻があり、後景の人物図が部分的に利用されている。『蝦夷風俗図巻』の作者は、蝦夷地松前在住の春里こと伊藤与昌。落款に「松前 春里画」とあり、「松前」は姓でなく、「松前の住人」という意味である。彼は「藤原」「与昌」「伊藤与昌」「鳳鳴与昌」などの印を用い、ときに「鳳鳴」と署名する。生没年を含め画歴など未詳である(4)。他に川原慶賀が模写したアイヌ人物図(※※)も組み込まれている。『NIPPON』の彩色については、細かい部分での違いはあるが、大きな違いはない。】≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫
[※353] NIPPON Ⅶ 第17図「蝦夷(松前)アイヌのオムシャ祭り」≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫
●作品名:アイヌの能まつり ●Title:Aine worshipping a deified bear, Ainu
●分類/classification:蝦夷/Ezo, Hokkaidou
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=420&cfcid=156&search_div=kglist
【〔353〕「蝦夷(松前)アイヌのオムシャ祭り」は、祭壇に生贄(いけにえ)の熊を飾り、演舞している図であり、「イオマンテ」(熊祭り)である。タイトルに「オムシャ OMSIA」とあるが、誤りである。「オムシャ」は蝦夷地各場所で出先役人に対する拝謁礼のこと、松前藩主への謁見礼は「ウイマム」という。この原画はライデン国立民族学博物館にあり、「千嶋春里」の署名と「藤原」「与昌」の印があり、『蝦夷風俗図巻』と同一人物の作である。シーボルトは『NIPPON』の注記で、原画の入手経路について記している。
松前の一日本人が描いたオムシャ祭りの絵を、われわれの友人ソシュロから手に入れ、Ⅶ第17図([※353])に模写した。蝦夷のアイヌ人はふつう、秋のある日にこの祭りをする。
「ソシュロ」とはオランダ通詞の馬場佐十郎であり、彼が文化9年(1812)に松前へ出向した際に入手したものである。同じ作者の『蝦夷風俗図巻』も馬場佐十郎を経由してシーボルトの手に渡ったと考えられる。シーボルトはこの画を川原慶賀に描き直させている。それはライデン国立民族学博物館に残っており、下部にあるタイトルにシーボルトの筆跡で「Omsia」と記されている。この時点で間違ったようである。彩色については、慶賀の画に比べて、ゴザの色合いが違うが、かなり忠実に彩色されていることがわかる。他所の『NIPPON』の彩色もほぼ同じである。】≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫
[354] NIPPON Ⅶ 第18図「蝦夷(松前)アイヌが貢物や商品を運ぶ」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)
【〔354〕「蝦夷(松前)アイヌが貢物や商品を運ぶ」は、「ウイマム」のために松前へやってきたアイヌが、後景にある船から仮設小屋に品物を運び込む図であり、原画は『蝦夷風俗図巻』のなかの一場面である。『NIPPON』の彩色は、小屋のなかの子供のイヤリングを赤色で塗る長崎歴史文化博物館本・慶応大学本と、そうないグループに分けられるが、大きな差はない。】(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)
[356] NIPPON Ⅶ 第20図「樺太 オロッコとスメレンクル」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)
【〔356〕「樺太 オロッコとスメレンクル」は、北カラフトに住むオロッコとスメレンクル(ギリヤーク)の風俗を、間宮林蔵の『北夷分界余話』の挿絵にもとづいて描いている。『NIPPON』によると、彼らはアイヌと異なり、言語も違うという。定住せずに群れをなして移動する彼らの習俗を描いたこの画の注記として、シーボルトは間宮林蔵のスケッチによったものだと明記している。前景のトナカイを引く2人がオロッコ人。トナカイは干した鮭と穀物、魚の皮製の覆いあるいは敷物を運んでいるという。後景の魚をもった男・揺り板に子供を乗せた婦人・獲物をもった漁師などはスメレンクル人であり、樺太のアイヌが建てるような夏の住居を遠景に描いているという。『北夷分界余話』全10巻を見ると、7・8巻にあるいくつかの挿絵を合体させていることがわかる。川原慶賀が描き直した画があったと思われるが、未だライデンでは見出していない。ただし、シーボルトが長崎奉行に提出した『樺太風俗図』のなかに、慶賀が描いた原画と見られるものが数点あるが、トナカイが描かれていなかったりしており、シーボルトは別の画を入手していたと考えられる。彩色についてはどの『NIPPON』もほぼ均質である。】(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)
「朝鮮 漁夫の一家」(「シーボルト『NIPPON』 図版編(「339・第2冊」)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/UniversalViewer/4000115100/4000115100100010/NIPPON_02#?cv=126&c=0&m=0&s=0&r=0&xywh=-449%2C-42%2C1896%2C838
シーボルトの未完の大著『NIPPON(日本)』の出版(第一分冊の出版)が開始されたのは、シーボルトがオランダに帰国してから七年後の1832年(天保三)、爾来、その十九年後の1851年(嘉永四)までに第二十分冊を刊行して中断し、1859年(安政六)、シーボルトは再来日したが、その完成を見ずに、1866年(慶応二)に、シーボルトは、その七十年の生涯を閉じることになる。
そのシーボルトの没後も、その未完の草稿は、シーボルトの遺子(長男:アレクサンダー、次男:ハインリッヒ)が引き継ぎ、その共編で、その『NIPPON(日本)』の第二版の刊行を見たのは、1897年(明治三十)のことで、それは、次の雄松堂刊行の『日本』(全6巻・図録3巻の十巻構成)に引き継がれている。その各巻の構成のとおりとなる。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-14
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html
第1巻 第1編 日本の地理とその発見史
第2編 日本への旅
第2巻 第3編 日本民族と国家
第4編 1826年の江戸参府紀行⑴
第3巻 第4編 1826年の江戸参府紀行⑵
第5編 日本の神話と歴史
第4巻 第6編 勾玉
第7編 日本の度量衡と貨幣
第8編 日本の宗教
第9編 茶の栽培と製法
第10編 日本の貿易と経済
第5巻 第11編 朝鮮
第6巻 第12編 蝦夷・千島・樺太および黒竜江地方
第13編 琉球諸島
付録
図録第1巻
図録第2巻
図録第3巻
上記のとおり、そもそも、シーポルトが意図していた『NIPPON(日本)』というのは、その副題の、「日本とヨーロッパの文書および自己の観察による日本とその隣国、保護国―蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島―に関する記録集」で、この「第5巻・第11編 朝鮮」そして「第6巻・ 第12編・蝦夷・千島・樺太および黒竜江地方: 第13編・ 琉球諸島」というのは、今に続く、「朝鮮(竹島など)・露西亜(北方四島など)・中国(琉球諸島など)と、これらの、シーボルトの洞察した、「日本とヨーロッパの文書および自己の観察による日本とその隣国、保護国―蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島―に関する記録集」とは、その根っ子では、深く結ばれているということになる。
(参考一)シーボルト「日本」を読んでみた
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1903/index.html
(参考二)「シーボルド事件」(「事件の発端」「事件の露見」「関係者の取り調べと処分」「事件後」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(参考三)間宮林蔵―「間宮海峡」の発見者で、シーボルト事件の摘発者
(抜粋)「間宮林蔵 日本人としては2番目に樺太が島であることを確認した。樺太地図を作成するが、測量知識が乏しく稚拙。 間宮林蔵の密告がきっかけでシーボルト事件が起こる。隠密。」
http://nippon.nation.jp/Naiyou/MAMIYA/index.htm
【 間宮林蔵による樺太最狭部の検分記録 夷分界余話巻之二 間宮林蔵/述 村上貞助/編
シラヌシを去る事凡百六、七十里なる西海岸にウヤクトウ(ワンライとノテトの中間)と称する処あり。是よりして奥地は海岸総て沙地にして、地図中に載するごとく、沼湖の多き事かぞへ得べきにあらず。 此辺より奥地は河水悉く急流のものなく、総て遅流にして濁水なり。其水悉く落葉の気味を存して、水味殊に悪し。 此辺よりして奥地海面総て平にして激浪なし。然れども其地、東韃の地方を隔る事其間僅に十里、七、八里、近き処に至ては二、三里なる迫処なれば、中流潮路ありて河水の鳴流するが如し。 迫処の内何れの処も減潮する事甚しく、其時に至ては海面凡一里の余陸地となり、其眺望の光景実に日本地の見ざる処にして、其色青黄なる水草一面に地上にしき、蒼箔として海水を見ず、其奇景図写すること難し。・・・ ・・・ シラヌシを去る事凡七十里許、西海岸にウショロと称する処あり、此処にして初て東縫地方の山を遠望す。其直径凡廿五、六里許、是より奥地漸々近く是を望み、ワゲー(ラヅカの北三里二五丁〈「里程記」による〉)よりボコベー〔地名〕(ワゲーの北三里二丁〈「里程記」〉)の間に至て、其間僅に一里半許を隔て是を望むと云。島夷東韃に趣く渡口七処あり。シラヌシを去る事凡百七十里許なる処にノテトと称する崎あり〔スメレングル夷称してテツカといふ〕、此処よりして東韃地方カムガタと称する処に渡海す。其問凡九里余を隔つといへども、海上穏にして大抵難事ある事なし。此処よりナッコに至る海路は潮候を熟察して舟を出ざれば至る事難し。前に云ごとく此辺減潮の時に至ては海上一里の余陸地となり、其陸地ならざる処も亦浅瀬多して舟をやるべからず。故に満潮の時といへども海岸に添ふて行事あたわず、能々潮時を考得て岸を去る事一里許にして舟をやると云。
ノテトの次なる者をナッコといふ〔スメレソクル夷ラッカと称す〕。其間相去る事凡五里許、此処よりして東 カムガタに至るの海路僅に四里許を隔つ。其間大抵穏なりといへども、出崎なれば浪うけあらく、殊に減潮の候、上文のごとくにして、其時を得ざれば舟を出す事あたわず。魚類また無数にして糧を得るに乏しく、事々不便の地なれば、島夷大抵ノテトを以て渡海の処となす。然れども風順あしく又は秋末より海上怒濤多き時は、其海路の近きを便として、此崎より渡海すといふ。ナッコの次なる者をワゲーと称す。其相去る事凡六里許、通船の事亦ノテトよりナッコに至るが如く、能潮候を考得ざれば至る事あたわず。此処よりして東韃ヲッタカパーハと称する処に渡る。其海路稍に一里余許にして、海上穏なりといへども、迫処なれば中流潮路有て急河のごとく、風候に依りて逆浪舟を没する事ありと云。
ワゲーの次なる者をボコベーと称す。此処よりして東韃ワシブニといふ処に渡海す。其海路亦僅に一里半許を隔て、中流潮路もまたワゲーの如し。ボコベーの次なる処をビロワカセイと称す。ボコベーを去る事凡四里許、此処よりして東鍵の地方に傍ひたる小興に添ふてワルゲーと称する処に渡る事ありといへども、海路凡十里許を隔、且潮時の候又波濾の激起ありて船路穏ならず。ワカセイの次なる処をイシラヲーといふ。其間相去る事凡十五、六里許、是よりして東韃地方ブイロに渡海す。船路凡四里余、中流の潮路殊に急激なるに、此処よりしては漸々北洋に向ひ、此島、韃地の間、里を追ふて相ひらく故に、波濤も激起する事多く、渡海類難なりと云。イシラヲーの次なる処をタムラヲーと云、イシラヲーを去ること凡五里許なるべし〔此処は林蔵が不至処なれば、其詳をしらず〕。此処より東韃地方ラガタなる処に渡る。海路凡八里余ありて、北海の波濤又激入すれば、猶イシラヲーよりブイロに至るが如く難事多しと云。是スメレンクル夷の演話する処なり。凡地勢を概論したらんには前の数条にしてつきぬ。他海底の浅深、泊湾の難易、詳載せずんばあるべからずといへども、共事の錯雑するが為に、此巻只其概論を出してやみぬ。後日沿海図説てふ者を編て其委曲を陳載すべしと云爾。(『東韃地方紀行』東洋文庫484(1988/5)平凡社 P18,P22~P25) 】
NIPPON Ⅶ 第16図 「蝦夷(宗谷岬)アイヌとその住居」(下記の〔352〕)
≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫
「蝦夷風俗図巻」(「ライデン国立民族学博物館」蔵)
≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫
「ライデン民族学博物館所蔵のパノラマ(巻物)の複製」(松前春里,※蝦夷風俗絵巻.1.妻を連れて熊狩りに行くアイヌ.2.二人のアイヌの男性と熊の穴の前で吠える犬)/(PL.VIII. Copiy of a panorama in the Ethn. Museum, Leiden.) ≪「日文研データベース」≫
↓
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/en/detail/?gid=GP008028&hid=3896&thumbp=
左図:「※※アイヌ人物図(男)」川原慶賀画(「ライデン国立民族学博物館」蔵)
右図:「※※アイヌ人物図(男女)」川原慶賀画(「ライデン国立民族学博物館」蔵)
≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫
【〔352〕「蝦夷(宗谷 岬) アイヌとその住居」は、宗谷岬のアイヌとその住居を描く。ライデン国立民族学博物館のシーボルト・コレクションに長さ16m・幅30㎝の『※蝦夷風俗図巻』の絵巻があり、後景の人物図が部分的に利用されている。『蝦夷風俗図巻』の作者は、蝦夷地松前在住の春里こと伊藤与昌。落款に「松前 春里画」とあり、「松前」は姓でなく、「松前の住人」という意味である。彼は「藤原」「与昌」「伊藤与昌」「鳳鳴与昌」などの印を用い、ときに「鳳鳴」と署名する。生没年を含め画歴など未詳である(4)。他に川原慶賀が模写したアイヌ人物図(※※)も組み込まれている。『NIPPON』の彩色については、細かい部分での違いはあるが、大きな違いはない。】≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫
[※353] NIPPON Ⅶ 第17図「蝦夷(松前)アイヌのオムシャ祭り」≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫
●作品名:アイヌの能まつり ●Title:Aine worshipping a deified bear, Ainu
●分類/classification:蝦夷/Ezo, Hokkaidou
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=420&cfcid=156&search_div=kglist
【〔353〕「蝦夷(松前)アイヌのオムシャ祭り」は、祭壇に生贄(いけにえ)の熊を飾り、演舞している図であり、「イオマンテ」(熊祭り)である。タイトルに「オムシャ OMSIA」とあるが、誤りである。「オムシャ」は蝦夷地各場所で出先役人に対する拝謁礼のこと、松前藩主への謁見礼は「ウイマム」という。この原画はライデン国立民族学博物館にあり、「千嶋春里」の署名と「藤原」「与昌」の印があり、『蝦夷風俗図巻』と同一人物の作である。シーボルトは『NIPPON』の注記で、原画の入手経路について記している。
松前の一日本人が描いたオムシャ祭りの絵を、われわれの友人ソシュロから手に入れ、Ⅶ第17図([※353])に模写した。蝦夷のアイヌ人はふつう、秋のある日にこの祭りをする。
「ソシュロ」とはオランダ通詞の馬場佐十郎であり、彼が文化9年(1812)に松前へ出向した際に入手したものである。同じ作者の『蝦夷風俗図巻』も馬場佐十郎を経由してシーボルトの手に渡ったと考えられる。シーボルトはこの画を川原慶賀に描き直させている。それはライデン国立民族学博物館に残っており、下部にあるタイトルにシーボルトの筆跡で「Omsia」と記されている。この時点で間違ったようである。彩色については、慶賀の画に比べて、ゴザの色合いが違うが、かなり忠実に彩色されていることがわかる。他所の『NIPPON』の彩色もほぼ同じである。】≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫
[354] NIPPON Ⅶ 第18図「蝦夷(松前)アイヌが貢物や商品を運ぶ」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)
【〔354〕「蝦夷(松前)アイヌが貢物や商品を運ぶ」は、「ウイマム」のために松前へやってきたアイヌが、後景にある船から仮設小屋に品物を運び込む図であり、原画は『蝦夷風俗図巻』のなかの一場面である。『NIPPON』の彩色は、小屋のなかの子供のイヤリングを赤色で塗る長崎歴史文化博物館本・慶応大学本と、そうないグループに分けられるが、大きな差はない。】(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)
[356] NIPPON Ⅶ 第20図「樺太 オロッコとスメレンクル」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)
【〔356〕「樺太 オロッコとスメレンクル」は、北カラフトに住むオロッコとスメレンクル(ギリヤーク)の風俗を、間宮林蔵の『北夷分界余話』の挿絵にもとづいて描いている。『NIPPON』によると、彼らはアイヌと異なり、言語も違うという。定住せずに群れをなして移動する彼らの習俗を描いたこの画の注記として、シーボルトは間宮林蔵のスケッチによったものだと明記している。前景のトナカイを引く2人がオロッコ人。トナカイは干した鮭と穀物、魚の皮製の覆いあるいは敷物を運んでいるという。後景の魚をもった男・揺り板に子供を乗せた婦人・獲物をもった漁師などはスメレンクル人であり、樺太のアイヌが建てるような夏の住居を遠景に描いているという。『北夷分界余話』全10巻を見ると、7・8巻にあるいくつかの挿絵を合体させていることがわかる。川原慶賀が描き直した画があったと思われるが、未だライデンでは見出していない。ただし、シーボルトが長崎奉行に提出した『樺太風俗図』のなかに、慶賀が描いた原画と見られるものが数点あるが、トナカイが描かれていなかったりしており、シーボルトは別の画を入手していたと考えられる。彩色についてはどの『NIPPON』もほぼ均質である。】(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)
「朝鮮 漁夫の一家」(「シーボルト『NIPPON』 図版編(「339・第2冊」)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/UniversalViewer/4000115100/4000115100100010/NIPPON_02#?cv=126&c=0&m=0&s=0&r=0&xywh=-449%2C-42%2C1896%2C838
シーボルトの未完の大著『NIPPON(日本)』の出版(第一分冊の出版)が開始されたのは、シーボルトがオランダに帰国してから七年後の1832年(天保三)、爾来、その十九年後の1851年(嘉永四)までに第二十分冊を刊行して中断し、1859年(安政六)、シーボルトは再来日したが、その完成を見ずに、1866年(慶応二)に、シーボルトは、その七十年の生涯を閉じることになる。
そのシーボルトの没後も、その未完の草稿は、シーボルトの遺子(長男:アレクサンダー、次男:ハインリッヒ)が引き継ぎ、その共編で、その『NIPPON(日本)』の第二版の刊行を見たのは、1897年(明治三十)のことで、それは、次の雄松堂刊行の『日本』(全6巻・図録3巻の十巻構成)に引き継がれている。その各巻の構成のとおりとなる。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-14
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html
第1巻 第1編 日本の地理とその発見史
第2編 日本への旅
第2巻 第3編 日本民族と国家
第4編 1826年の江戸参府紀行⑴
第3巻 第4編 1826年の江戸参府紀行⑵
第5編 日本の神話と歴史
第4巻 第6編 勾玉
第7編 日本の度量衡と貨幣
第8編 日本の宗教
第9編 茶の栽培と製法
第10編 日本の貿易と経済
第5巻 第11編 朝鮮
第6巻 第12編 蝦夷・千島・樺太および黒竜江地方
第13編 琉球諸島
付録
図録第1巻
図録第2巻
図録第3巻
上記のとおり、そもそも、シーポルトが意図していた『NIPPON(日本)』というのは、その副題の、「日本とヨーロッパの文書および自己の観察による日本とその隣国、保護国―蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島―に関する記録集」で、この「第5巻・第11編 朝鮮」そして「第6巻・ 第12編・蝦夷・千島・樺太および黒竜江地方: 第13編・ 琉球諸島」というのは、今に続く、「朝鮮(竹島など)・露西亜(北方四島など)・中国(琉球諸島など)と、これらの、シーボルトの洞察した、「日本とヨーロッパの文書および自己の観察による日本とその隣国、保護国―蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島―に関する記録集」とは、その根っ子では、深く結ばれているということになる。
(参考一)シーボルト「日本」を読んでみた
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1903/index.html
(参考二)「シーボルド事件」(「事件の発端」「事件の露見」「関係者の取り調べと処分」「事件後」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(参考三)間宮林蔵―「間宮海峡」の発見者で、シーボルト事件の摘発者
(抜粋)「間宮林蔵 日本人としては2番目に樺太が島であることを確認した。樺太地図を作成するが、測量知識が乏しく稚拙。 間宮林蔵の密告がきっかけでシーボルト事件が起こる。隠密。」
http://nippon.nation.jp/Naiyou/MAMIYA/index.htm
【 間宮林蔵による樺太最狭部の検分記録 夷分界余話巻之二 間宮林蔵/述 村上貞助/編
シラヌシを去る事凡百六、七十里なる西海岸にウヤクトウ(ワンライとノテトの中間)と称する処あり。是よりして奥地は海岸総て沙地にして、地図中に載するごとく、沼湖の多き事かぞへ得べきにあらず。 此辺より奥地は河水悉く急流のものなく、総て遅流にして濁水なり。其水悉く落葉の気味を存して、水味殊に悪し。 此辺よりして奥地海面総て平にして激浪なし。然れども其地、東韃の地方を隔る事其間僅に十里、七、八里、近き処に至ては二、三里なる迫処なれば、中流潮路ありて河水の鳴流するが如し。 迫処の内何れの処も減潮する事甚しく、其時に至ては海面凡一里の余陸地となり、其眺望の光景実に日本地の見ざる処にして、其色青黄なる水草一面に地上にしき、蒼箔として海水を見ず、其奇景図写すること難し。・・・ ・・・ シラヌシを去る事凡七十里許、西海岸にウショロと称する処あり、此処にして初て東縫地方の山を遠望す。其直径凡廿五、六里許、是より奥地漸々近く是を望み、ワゲー(ラヅカの北三里二五丁〈「里程記」による〉)よりボコベー〔地名〕(ワゲーの北三里二丁〈「里程記」〉)の間に至て、其間僅に一里半許を隔て是を望むと云。島夷東韃に趣く渡口七処あり。シラヌシを去る事凡百七十里許なる処にノテトと称する崎あり〔スメレングル夷称してテツカといふ〕、此処よりして東韃地方カムガタと称する処に渡海す。其問凡九里余を隔つといへども、海上穏にして大抵難事ある事なし。此処よりナッコに至る海路は潮候を熟察して舟を出ざれば至る事難し。前に云ごとく此辺減潮の時に至ては海上一里の余陸地となり、其陸地ならざる処も亦浅瀬多して舟をやるべからず。故に満潮の時といへども海岸に添ふて行事あたわず、能々潮時を考得て岸を去る事一里許にして舟をやると云。
ノテトの次なる者をナッコといふ〔スメレソクル夷ラッカと称す〕。其間相去る事凡五里許、此処よりして東 カムガタに至るの海路僅に四里許を隔つ。其間大抵穏なりといへども、出崎なれば浪うけあらく、殊に減潮の候、上文のごとくにして、其時を得ざれば舟を出す事あたわず。魚類また無数にして糧を得るに乏しく、事々不便の地なれば、島夷大抵ノテトを以て渡海の処となす。然れども風順あしく又は秋末より海上怒濤多き時は、其海路の近きを便として、此崎より渡海すといふ。ナッコの次なる者をワゲーと称す。其相去る事凡六里許、通船の事亦ノテトよりナッコに至るが如く、能潮候を考得ざれば至る事あたわず。此処よりして東韃ヲッタカパーハと称する処に渡る。其海路稍に一里余許にして、海上穏なりといへども、迫処なれば中流潮路有て急河のごとく、風候に依りて逆浪舟を没する事ありと云。
ワゲーの次なる者をボコベーと称す。此処よりして東韃ワシブニといふ処に渡海す。其海路亦僅に一里半許を隔て、中流潮路もまたワゲーの如し。ボコベーの次なる処をビロワカセイと称す。ボコベーを去る事凡四里許、此処よりして東鍵の地方に傍ひたる小興に添ふてワルゲーと称する処に渡る事ありといへども、海路凡十里許を隔、且潮時の候又波濾の激起ありて船路穏ならず。ワカセイの次なる処をイシラヲーといふ。其間相去る事凡十五、六里許、是よりして東韃地方ブイロに渡海す。船路凡四里余、中流の潮路殊に急激なるに、此処よりしては漸々北洋に向ひ、此島、韃地の間、里を追ふて相ひらく故に、波濤も激起する事多く、渡海類難なりと云。イシラヲーの次なる処をタムラヲーと云、イシラヲーを去ること凡五里許なるべし〔此処は林蔵が不至処なれば、其詳をしらず〕。此処より東韃地方ラガタなる処に渡る。海路凡八里余ありて、北海の波濤又激入すれば、猶イシラヲーよりブイロに至るが如く難事多しと云。是スメレンクル夷の演話する処なり。凡地勢を概論したらんには前の数条にしてつきぬ。他海底の浅深、泊湾の難易、詳載せずんばあるべからずといへども、共事の錯雑するが為に、此巻只其概論を出してやみぬ。後日沿海図説てふ者を編て其委曲を陳載すべしと云爾。(『東韃地方紀行』東洋文庫484(1988/5)平凡社 P18,P22~P25) 】
川原慶賀の世界(その二十五) [川原慶賀の世界]
(その二十五)「川原慶賀の樺太風俗図」周辺
「樺太風俗図」筆者不詳/江戸時代・19世紀/1帙65枚/東京国立博物館蔵(「文化遺産オンライン」)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/430788
「樺太風俗図」(1?/65)=『樺太風俗図』の貼り紙→『東韃紀行』の挿絵の模写(川原慶賀画)【この「張り紙」には、『東韃紀行』とあるが、『北夷分界余話 巻之1~巻之8』 の挿絵の模写で、シーボルトが川原慶賀にその模写を依頼して描かせたもののようである。なお、「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)=後出。】
※「樺太風俗図」(1?/65)関連
↓
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/430788
※『北夷分界余話 巻之1~巻之8』関連
↓
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002130&ID=&NO=1&TYPE=large&DL_TYPE=pdf
樺太風俗図(15?/65)→「北夷分界余話 巻之3」(男夷?)
樺太風俗図(25?/65)→「北夷分界余話 巻之5」(海豹漁?)
樺太風俗図(34?/65)→「北夷分界余話 巻之6」(鍛冶?)
「樺太風俗図」(39?/65)→「北夷分界余話 巻之8」(女夷育子?)
樺太風俗図(59?/65)→「北夷分界余話 巻之8」(網漁?)
樺太風俗図(64?/65)→「北夷分界余話 巻之8」(児夷戯猟?)
「樺太風俗図」(65?/65)→「北夷分界余話 巻之5」(点火衝魚?)
これらの、いわゆる「シーボルト事件」で長崎奉行所に没収された資料の一つの「樺太風俗図(1帙65枚/東京国立博物館蔵)」(作者未詳とされているが「川原慶賀画=模写」)に関連して、「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)
で、下記のとおり詳細に紹介されている。
【蝦夷・樺太に関する『NIPPON』の本文は、間宮林蔵『東韃地方紀行』・『北夷分界余話』の翻訳である。シーボルトは本文の注記で次のように記している。
彼(間宮林蔵)は『東韃紀行』(To-tats ki ko)すなわち東部タタリア地方への旅として書きしるし、旅した土地に関して多くの写生や地図を付し、その写本を江戸の幕府文庫に収めた。ヨーロッパの航海家もほとんど訪れたことのない樺太島やあまり知られていない黒竜江地方の土地や住民についての貴重な情報が、われわれの1826年江戸滞在のおり、幕府お抱えの天文学者高橋作左衛門によって知らされ、その後、われわれの日本の友人J.Ts〔吉雄忠次郎〕の仲介でその写本を手に入れることができた。しかし残念なことに、1829年の幕府による取調べの際、われわれに連座する日本の友人を救うために、この写本と付録の写生画を長崎奉行に渡すはめになった。幸いにも、当地の学者J.Tsのはからいで、写本の翻訳書と写生画の数枚は手放さずにすんだ。これらは、われわれの『NIPPON』に若干の写生画と注釈を付して解説する。
『北夷分界余話』は文化5年7月~8月、間宮林蔵・松田伝十郎による第1次樺太調査の記録であり、アイヌ・スメレンクルなどの習俗を記述する。『東韃地方紀行』は、間宮林蔵が文化6年(1809)1月から8月末におよぶ第2次樺太・山旦(黒竜江下流地方)調査記録であり、樺太半島説を排し、サハリンと樺太が同一であることを指摘したものである。流布本が『東韃紀行』として知られる。この両書は、文化7年に間宮林蔵が口述した内容を松前奉行配下の村上貞助が筆録したもので、翌8年に浄書して幕府に献上した。シーボルトも「幕府文庫」にあると述べており、現在は国立公文書館に所蔵されている(ともに重要文化財)。
シーボルトは上の注記のなかで『東韃紀行』と記しているが、『NIPPON』には『東韃地方紀行』・『北夷分界余話』の両書が翻訳され、挿絵は『北夷分界余話』から採用されている。彼は、天文方兼御書物奉行の高橋作左衛門(景保)の案内で、「幕府文庫」の「紅葉山(もみじやま)文庫」を密かに訪れたとき、伊能忠敬の日本図の他にこれらの写本も要求したのである。写本を作成したのは、高橋とシーボルトの間の通訳を務め、天文方の翻訳方であった吉雄忠次郎であった。
間宮の報告書は吉雄が翻訳を担当したが、写生図は彼でなく、川原慶賀が作成している。
上の注記にある長崎奉行に提出したという写生図は、現在、東京国立博物館に所蔵されている。それは『樺太風俗図』と題され、縦約35㎝×横約43.5㎝のオランダ紙に彩色された65枚の絵が収められている。表紙内側の貼り紙には、長崎でシーボルトから取り上げたことが記されている。慶賀は、文政9年、シーボルトとともに参府しており、シーボルトが高橋景保や最上徳内らと会う際に同席して細部にわたる描写や風俗について説明を受けたと考えられている。慶賀が描いた65枚のアイヌ習俗画は幕府へ差し出されたが、いくつかはシーボルトの手許に残っており『NIPPON』に掲載された。現在、その一部はライデン国立民族学博物館に残る。】(「The Study of Comparing Color Prints in iebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)/p46-47)
(参考一)「北夷分界余話」周辺
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0400000000/0403030000/00
「北夷分界余話」(挿絵四図)(「国立公文書館デジタルアーカイブ」)
【間宮林蔵(1775-1844)は,幕府の命により文化5、6年(1808、9)にかけて、樺太の西岸を北上し、樺太が島であることを発見する(間宮海峡の発見)とともに、黒竜江下流地域の東韃(とうだつ)地方まで調査を行いました。本書は林蔵の樺太探検について口述したものを村上貞助(1780-1846)が編集・筆録したものです。 文化7年(1810)の成立で、翌8年に幕府に献上しました。本書は、同じ間宮林蔵の樺太探検について記した「東韃地方紀行」(とうだつちほうきこう)(3帖)、「北蝦夷島地図」(きたえぞとうちず)(7鋪1帖)ともに、「間宮林蔵北蝦夷等見分関係記録」(全14帖7鋪)として、平成3年国の重要文化財に指定されています。】(「国立公文書館デジタルアーカイブ」)
(参考二)「シーボルド事件」で押収された「シーボルト関連の絵図」など
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-07
(再掲)
【 「シーボルトの所持品捜査押収(原文:内閣文庫文政雑記より翻刻→翻刻省略、一部抜粋)」
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_siebold_main.html
文政十一年戌子 →文政11年
十一月十日出島隠密御用手続左之通→11月10日出島の穏密捜査手続(1828年)
本多佐渡守様御家来
御用人 伊藤半右衛門
目安方 遠藤 兵蔵
古沢 内蔵助
矢野 兵大夫
御役小付両組
弐拾人
右手付探番 小役
右之通十日正六時御役所江相揃、御内密御用之次第承り
右人数手分追々出島江繰入、加比丹部屋ニ而外科阿蘭
陀人シーボルト呼出、左之通被仰渡 →シーボルトを呼出し以下申渡す
阿蘭陀人
かひたん江 → 商館長へ
阿蘭陀人
シーホルト → シーボルトへ
右之者儀江府拝礼罷出候節、高橋作左衛門江度々致面会
日本地図并蝦夷地之図、其外相頼同人より差送候旨
此度於江府作左衛門御詮義ニ相成居候、依之シーホルト
所持之品者荷物ニ至迠致封印置、其方共立会之上封解明
相改、御制禁之品々取上ケ、其余之品ハ無構相渡遣ス、
其旨相心得、正路ニ改を受候様可申渡候
子十一月 →文政11年11月
右御書付之趣通詞致和解、かひたん江申渡、シーホルト
義一通り御詮義中、同人留守部屋江出役致手分罷越、
所持之手道具并荷物ニ至迄封を付置、出役一同かひたん
召連シーホルト部屋御改ニ相成候所、改出相成候品々
左之通御取上御役所江持帰候事 → 押収品は下記の通り
一 分間江戸絵図 完
一 新増細見京絵図 全
一 琉球国地図 壱枚
一 絵 壱枚
一 江戸名所絵 壱枚
一 装束図式 弐冊
一 朝鮮国図 壱枚
一 天象儀象候儀 壱冊
一 浪華以儀麻道撰 壱枚
一 凡例 壱枚
一 大日本細見指掌全図 上紙
一 脇差 壱腰
一 刀 壱腰
一 丸鏡 壱面
一 書物 壱巻
一 長崎入口之図 壱冊
一 絵図 九枚
一 公家之図 壱枚
一 古銭 七色
一 桶狭間合戦略記 壱冊
一 同古跡記 壱枚
一 無間鐘由来記録 壱冊
一 中山刃雉子 壱冊
一 夜泣石敵討 壱冊
〆
右之品々シーホルト部屋江有之御制禁之品々ニ而御取
上ケ相成、右之外シーホルト大蔵二軒封ヲ付いまだ御改
ハ無御座候、此内ニ具足・鎗抔も有之様風聞候得共全く
推量之儀共ニ候哉と奉存候 】
「樺太風俗図」筆者不詳/江戸時代・19世紀/1帙65枚/東京国立博物館蔵(「文化遺産オンライン」)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/430788
「樺太風俗図」(1?/65)=『樺太風俗図』の貼り紙→『東韃紀行』の挿絵の模写(川原慶賀画)【この「張り紙」には、『東韃紀行』とあるが、『北夷分界余話 巻之1~巻之8』 の挿絵の模写で、シーボルトが川原慶賀にその模写を依頼して描かせたもののようである。なお、「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)=後出。】
※「樺太風俗図」(1?/65)関連
↓
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/430788
※『北夷分界余話 巻之1~巻之8』関連
↓
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002130&ID=&NO=1&TYPE=large&DL_TYPE=pdf
樺太風俗図(15?/65)→「北夷分界余話 巻之3」(男夷?)
樺太風俗図(25?/65)→「北夷分界余話 巻之5」(海豹漁?)
樺太風俗図(34?/65)→「北夷分界余話 巻之6」(鍛冶?)
「樺太風俗図」(39?/65)→「北夷分界余話 巻之8」(女夷育子?)
樺太風俗図(59?/65)→「北夷分界余話 巻之8」(網漁?)
樺太風俗図(64?/65)→「北夷分界余話 巻之8」(児夷戯猟?)
「樺太風俗図」(65?/65)→「北夷分界余話 巻之5」(点火衝魚?)
これらの、いわゆる「シーボルト事件」で長崎奉行所に没収された資料の一つの「樺太風俗図(1帙65枚/東京国立博物館蔵)」(作者未詳とされているが「川原慶賀画=模写」)に関連して、「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)
で、下記のとおり詳細に紹介されている。
【蝦夷・樺太に関する『NIPPON』の本文は、間宮林蔵『東韃地方紀行』・『北夷分界余話』の翻訳である。シーボルトは本文の注記で次のように記している。
彼(間宮林蔵)は『東韃紀行』(To-tats ki ko)すなわち東部タタリア地方への旅として書きしるし、旅した土地に関して多くの写生や地図を付し、その写本を江戸の幕府文庫に収めた。ヨーロッパの航海家もほとんど訪れたことのない樺太島やあまり知られていない黒竜江地方の土地や住民についての貴重な情報が、われわれの1826年江戸滞在のおり、幕府お抱えの天文学者高橋作左衛門によって知らされ、その後、われわれの日本の友人J.Ts〔吉雄忠次郎〕の仲介でその写本を手に入れることができた。しかし残念なことに、1829年の幕府による取調べの際、われわれに連座する日本の友人を救うために、この写本と付録の写生画を長崎奉行に渡すはめになった。幸いにも、当地の学者J.Tsのはからいで、写本の翻訳書と写生画の数枚は手放さずにすんだ。これらは、われわれの『NIPPON』に若干の写生画と注釈を付して解説する。
『北夷分界余話』は文化5年7月~8月、間宮林蔵・松田伝十郎による第1次樺太調査の記録であり、アイヌ・スメレンクルなどの習俗を記述する。『東韃地方紀行』は、間宮林蔵が文化6年(1809)1月から8月末におよぶ第2次樺太・山旦(黒竜江下流地方)調査記録であり、樺太半島説を排し、サハリンと樺太が同一であることを指摘したものである。流布本が『東韃紀行』として知られる。この両書は、文化7年に間宮林蔵が口述した内容を松前奉行配下の村上貞助が筆録したもので、翌8年に浄書して幕府に献上した。シーボルトも「幕府文庫」にあると述べており、現在は国立公文書館に所蔵されている(ともに重要文化財)。
シーボルトは上の注記のなかで『東韃紀行』と記しているが、『NIPPON』には『東韃地方紀行』・『北夷分界余話』の両書が翻訳され、挿絵は『北夷分界余話』から採用されている。彼は、天文方兼御書物奉行の高橋作左衛門(景保)の案内で、「幕府文庫」の「紅葉山(もみじやま)文庫」を密かに訪れたとき、伊能忠敬の日本図の他にこれらの写本も要求したのである。写本を作成したのは、高橋とシーボルトの間の通訳を務め、天文方の翻訳方であった吉雄忠次郎であった。
間宮の報告書は吉雄が翻訳を担当したが、写生図は彼でなく、川原慶賀が作成している。
上の注記にある長崎奉行に提出したという写生図は、現在、東京国立博物館に所蔵されている。それは『樺太風俗図』と題され、縦約35㎝×横約43.5㎝のオランダ紙に彩色された65枚の絵が収められている。表紙内側の貼り紙には、長崎でシーボルトから取り上げたことが記されている。慶賀は、文政9年、シーボルトとともに参府しており、シーボルトが高橋景保や最上徳内らと会う際に同席して細部にわたる描写や風俗について説明を受けたと考えられている。慶賀が描いた65枚のアイヌ習俗画は幕府へ差し出されたが、いくつかはシーボルトの手許に残っており『NIPPON』に掲載された。現在、その一部はライデン国立民族学博物館に残る。】(「The Study of Comparing Color Prints in iebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)/p46-47)
(参考一)「北夷分界余話」周辺
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0400000000/0403030000/00
「北夷分界余話」(挿絵四図)(「国立公文書館デジタルアーカイブ」)
【間宮林蔵(1775-1844)は,幕府の命により文化5、6年(1808、9)にかけて、樺太の西岸を北上し、樺太が島であることを発見する(間宮海峡の発見)とともに、黒竜江下流地域の東韃(とうだつ)地方まで調査を行いました。本書は林蔵の樺太探検について口述したものを村上貞助(1780-1846)が編集・筆録したものです。 文化7年(1810)の成立で、翌8年に幕府に献上しました。本書は、同じ間宮林蔵の樺太探検について記した「東韃地方紀行」(とうだつちほうきこう)(3帖)、「北蝦夷島地図」(きたえぞとうちず)(7鋪1帖)ともに、「間宮林蔵北蝦夷等見分関係記録」(全14帖7鋪)として、平成3年国の重要文化財に指定されています。】(「国立公文書館デジタルアーカイブ」)
(参考二)「シーボルド事件」で押収された「シーボルト関連の絵図」など
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-07
(再掲)
【 「シーボルトの所持品捜査押収(原文:内閣文庫文政雑記より翻刻→翻刻省略、一部抜粋)」
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_siebold_main.html
文政十一年戌子 →文政11年
十一月十日出島隠密御用手続左之通→11月10日出島の穏密捜査手続(1828年)
本多佐渡守様御家来
御用人 伊藤半右衛門
目安方 遠藤 兵蔵
古沢 内蔵助
矢野 兵大夫
御役小付両組
弐拾人
右手付探番 小役
右之通十日正六時御役所江相揃、御内密御用之次第承り
右人数手分追々出島江繰入、加比丹部屋ニ而外科阿蘭
陀人シーボルト呼出、左之通被仰渡 →シーボルトを呼出し以下申渡す
阿蘭陀人
かひたん江 → 商館長へ
阿蘭陀人
シーホルト → シーボルトへ
右之者儀江府拝礼罷出候節、高橋作左衛門江度々致面会
日本地図并蝦夷地之図、其外相頼同人より差送候旨
此度於江府作左衛門御詮義ニ相成居候、依之シーホルト
所持之品者荷物ニ至迠致封印置、其方共立会之上封解明
相改、御制禁之品々取上ケ、其余之品ハ無構相渡遣ス、
其旨相心得、正路ニ改を受候様可申渡候
子十一月 →文政11年11月
右御書付之趣通詞致和解、かひたん江申渡、シーホルト
義一通り御詮義中、同人留守部屋江出役致手分罷越、
所持之手道具并荷物ニ至迄封を付置、出役一同かひたん
召連シーホルト部屋御改ニ相成候所、改出相成候品々
左之通御取上御役所江持帰候事 → 押収品は下記の通り
一 分間江戸絵図 完
一 新増細見京絵図 全
一 琉球国地図 壱枚
一 絵 壱枚
一 江戸名所絵 壱枚
一 装束図式 弐冊
一 朝鮮国図 壱枚
一 天象儀象候儀 壱冊
一 浪華以儀麻道撰 壱枚
一 凡例 壱枚
一 大日本細見指掌全図 上紙
一 脇差 壱腰
一 刀 壱腰
一 丸鏡 壱面
一 書物 壱巻
一 長崎入口之図 壱冊
一 絵図 九枚
一 公家之図 壱枚
一 古銭 七色
一 桶狭間合戦略記 壱冊
一 同古跡記 壱枚
一 無間鐘由来記録 壱冊
一 中山刃雉子 壱冊
一 夜泣石敵討 壱冊
〆
右之品々シーホルト部屋江有之御制禁之品々ニ而御取
上ケ相成、右之外シーホルト大蔵二軒封ヲ付いまだ御改
ハ無御座候、此内ニ具足・鎗抔も有之様風聞候得共全く
推量之儀共ニ候哉と奉存候 】
川原慶賀の世界(その二十四) [川原慶賀の世界]
(その二十四)「川原慶賀の唐蘭館絵巻(蘭館図)」周辺
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・一 蘭船入港図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.5×35.2㎝
『(全体:一~十) 紙本 着彩 巻装 27.5×515.5㎝ 一図ごとに黒線で枠取りした枠内に独立的に『一~十図』が描かれている。この『一 蘭船入港図』は、そのトップで、屋上の展望台の上で商館長らしい男が望遠鏡ではるか遠い港の入り口を覗いている。』(『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』p170)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-26
(再掲)
http://www.nmhc.jp/collection.html
【 出島オランダ商館医シーボルトの専属絵師として活躍した川原慶賀の作品は、その多くが西洋へ伝えられ、ニッポンを海外に紹介しました。慶賀の作品は、日本の風景や生活、動植物などを写実的に描いており、当時の状況を知ることができる貴重な資料です。】(「長崎歴史文化博物館」)
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index1.html
【 蘭船を眺めるのはシーボルト?
待ちに待った蘭船の到来! 屋上の展望台の上で入港してくる蘭船を望遠鏡で覗き込んでいるのは、商館長だろうか? 実はこの男性の背後に子どもを抱いた日本人女性がいることから、この望遠鏡を覗いているのはシーボルトで、日本人女性はお滝、子どもがお稲ではないかといわれている作品だ。慶賀が描いた作品だから、それもあり得るかもしれない?】
(「発見!長崎の歩き方」)
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・二 蘭船荷揚げ図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.5×35.6㎝
『画面左端に出島の西端、船着き場と荷揚げ門が見える。出島内にはオランダ国旗、三色旗
がひるがえっている。右側港内に蘭船が停泊し、小さな舟が何艘も集まり、荷を積んで船着き場を往復している。』
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・三 商品入札図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.5×35.6㎝
『出島内の倉前で、青白縞の布の日除けの下で、向かい合わせにに並んだ日本人商人たち(およそ四十人)が品々を手に取ったり、帳面に何やら書き込んだりしている。数人の役人と帽子を被った三人の蘭人がこれを見つめている。』
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・四 商品計量図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.3×35.5㎝
『荷揚げ門傍らの出島内広場における商品計量の場面である。』
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・五 倉前図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.3×35.5㎝
『納められた荷を倉から出し。商館員、役人立会いの下に中身を検めている。』
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・六 動物園図」(長崎歴史文化博物館蔵) 21.9×35.5㎝
『出島内にあった動物飼育場の図である。
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・七 調理室図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.3×34.8㎝
『調理室図。豚の屠殺から肉の調整までの工程を一図にまとめている。』
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・八 宴会図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.4×35.3㎝
『蘭館内における商館員の宴会の光景である。』
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・九 玉突き図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.3×36.2㎝
『玉突き図。三人の蘭人がプレーしている。』
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・十 蘭船出航図」(長崎歴史文化博物館蔵) 24.2×35.9㎝
枠外左下隅に落款「種美」 白字半円印「田口之印」 朱字半円印「慶賀」
『十艘の引き舟に引かれて港を出て行く蘭船が描かれている。船側から別れの礼砲を撃ったのであろう。硝煙が立ち込めている。』(『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』p175)
これらの「唐蘭館絵巻」に関連して、下記のアドレスの「出島出入絵師ならではの写実的作品」と題して、次のように紹介している。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index2.html
【 慶賀の作品で最も目にする機会が多いのが、『唐蘭館絵巻』。慶賀が生きた時代の長崎は、出島、唐人屋敷を擁したまさに長崎の貿易時代。出島や唐館(唐人屋敷)の暮らしぶり、貿易船の入港風景など、ある一瞬を捉えたスナップ写真的な写実的風景画は、出島出入絵師である慶賀しか描けなかったものだろう。
ところで、ライデン国立民族学博物館の日本部絵画収集品は、ブロンホフ(商館長)、フィッセル(商館員)、シーボルト(商館医)によって収集されたものが中心で、なかでも慶賀の作品がその大部分を占めているという。それらを主題別に分けると“1長崎歳時記 2人の一生 3職人尽し 4生活風俗点景 5神社、仏閣 6日本の風景 7図譜”に分類することができ、全て“日本人の研究”という同一の課題に取り組んだものだという。
時代的にいうと、ブロンホフ、フィッセル、シーボルトの順。“人の一生”を例にあげ3シリーズを比較すると、ブロンホフ・シリーズの特徴は、1つ1つの事象の描写は説明的でわかりやすいが、人物の描写などは平面的、明暗法による立体表現に欠けているなど、近代的な意味での写実とはいいがたいという。一方、フィッセルのシリーズは、他のシリーズと比べ、すべて落ち着いた色調で整えられた彩色においても、本シリーズにのみ「慶賀」の朱印が捺されていることからも、慶賀が1点1点を1つの絵画作品として描こうとした意気込みが感じられ、最も完成度が高いといわれている。
そしてシーボルトのシリーズは、構図的にもほぼ同一のため、このフィッセルのシリーズを慶賀自身が写したものと推測されている。しかし、明暗法による立体的表現を意識した陰つけなど、彩色によって大きな違いが見られるという。このヨーロッパ的な明暗法は、おそらくシーボルトの助手兼絵師として渡来したオランダ人デ・フィレニューフェの影響だったと考えられているそうだ。ともあれ、これら同一主題の慶賀作品を比較してわかることは、慶賀の写実的描写の進展には、シーボルトの指導が大きく影響していることだ。】(「『ナガジン」発見!長崎の歩き方」)
ここに付け加えたいことは、前回(その二十二)で紹介した「『唐館蘭館図絵巻』(Views of the Chinese and Dutch Factories in Nagasaki) /石崎融思筆/1801年(享和元年)」に、さらに、次のような、慶賀の師・石崎融思筆の、水墨画の山水画風の「長崎港図」も遺されているということである。
「長崎港図」/石崎融思筆 (1768-1846)/ 江戸時代/18-19世紀/巻子装,紙本着色/ 31.4×128.0/ 1巻/東京藝術大学大学美術館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/235140
『落款「嶺道人石融思」/印章「鳳嶺」朱文円印・「融思士斎」白文方印。巻末 吉邨迂斎 跋』
(「文化遺産オンライン」)
川原慶賀にも、シーボルトの書き込みによると、「日本画家登与助が2分15秒で描いた」という、ライデン国立民族学博物館の収蔵庫から発見された「山水図」二点がある(『幕末の”日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』図録「142山水図・143山水図)」)。
(『幕末の”日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』図録「142山水図・143山水図)」)
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・一 蘭船入港図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.5×35.2㎝
『(全体:一~十) 紙本 着彩 巻装 27.5×515.5㎝ 一図ごとに黒線で枠取りした枠内に独立的に『一~十図』が描かれている。この『一 蘭船入港図』は、そのトップで、屋上の展望台の上で商館長らしい男が望遠鏡ではるか遠い港の入り口を覗いている。』(『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』p170)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-26
(再掲)
http://www.nmhc.jp/collection.html
【 出島オランダ商館医シーボルトの専属絵師として活躍した川原慶賀の作品は、その多くが西洋へ伝えられ、ニッポンを海外に紹介しました。慶賀の作品は、日本の風景や生活、動植物などを写実的に描いており、当時の状況を知ることができる貴重な資料です。】(「長崎歴史文化博物館」)
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index1.html
【 蘭船を眺めるのはシーボルト?
待ちに待った蘭船の到来! 屋上の展望台の上で入港してくる蘭船を望遠鏡で覗き込んでいるのは、商館長だろうか? 実はこの男性の背後に子どもを抱いた日本人女性がいることから、この望遠鏡を覗いているのはシーボルトで、日本人女性はお滝、子どもがお稲ではないかといわれている作品だ。慶賀が描いた作品だから、それもあり得るかもしれない?】
(「発見!長崎の歩き方」)
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・二 蘭船荷揚げ図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.5×35.6㎝
『画面左端に出島の西端、船着き場と荷揚げ門が見える。出島内にはオランダ国旗、三色旗
がひるがえっている。右側港内に蘭船が停泊し、小さな舟が何艘も集まり、荷を積んで船着き場を往復している。』
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・三 商品入札図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.5×35.6㎝
『出島内の倉前で、青白縞の布の日除けの下で、向かい合わせにに並んだ日本人商人たち(およそ四十人)が品々を手に取ったり、帳面に何やら書き込んだりしている。数人の役人と帽子を被った三人の蘭人がこれを見つめている。』
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・四 商品計量図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.3×35.5㎝
『荷揚げ門傍らの出島内広場における商品計量の場面である。』
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・五 倉前図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.3×35.5㎝
『納められた荷を倉から出し。商館員、役人立会いの下に中身を検めている。』
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・六 動物園図」(長崎歴史文化博物館蔵) 21.9×35.5㎝
『出島内にあった動物飼育場の図である。
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・七 調理室図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.3×34.8㎝
『調理室図。豚の屠殺から肉の調整までの工程を一図にまとめている。』
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・八 宴会図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.4×35.3㎝
『蘭館内における商館員の宴会の光景である。』
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・九 玉突き図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.3×36.2㎝
『玉突き図。三人の蘭人がプレーしている。』
「唐蘭館絵巻(蘭館図)・十 蘭船出航図」(長崎歴史文化博物館蔵) 24.2×35.9㎝
枠外左下隅に落款「種美」 白字半円印「田口之印」 朱字半円印「慶賀」
『十艘の引き舟に引かれて港を出て行く蘭船が描かれている。船側から別れの礼砲を撃ったのであろう。硝煙が立ち込めている。』(『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』p175)
これらの「唐蘭館絵巻」に関連して、下記のアドレスの「出島出入絵師ならではの写実的作品」と題して、次のように紹介している。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index2.html
【 慶賀の作品で最も目にする機会が多いのが、『唐蘭館絵巻』。慶賀が生きた時代の長崎は、出島、唐人屋敷を擁したまさに長崎の貿易時代。出島や唐館(唐人屋敷)の暮らしぶり、貿易船の入港風景など、ある一瞬を捉えたスナップ写真的な写実的風景画は、出島出入絵師である慶賀しか描けなかったものだろう。
ところで、ライデン国立民族学博物館の日本部絵画収集品は、ブロンホフ(商館長)、フィッセル(商館員)、シーボルト(商館医)によって収集されたものが中心で、なかでも慶賀の作品がその大部分を占めているという。それらを主題別に分けると“1長崎歳時記 2人の一生 3職人尽し 4生活風俗点景 5神社、仏閣 6日本の風景 7図譜”に分類することができ、全て“日本人の研究”という同一の課題に取り組んだものだという。
時代的にいうと、ブロンホフ、フィッセル、シーボルトの順。“人の一生”を例にあげ3シリーズを比較すると、ブロンホフ・シリーズの特徴は、1つ1つの事象の描写は説明的でわかりやすいが、人物の描写などは平面的、明暗法による立体表現に欠けているなど、近代的な意味での写実とはいいがたいという。一方、フィッセルのシリーズは、他のシリーズと比べ、すべて落ち着いた色調で整えられた彩色においても、本シリーズにのみ「慶賀」の朱印が捺されていることからも、慶賀が1点1点を1つの絵画作品として描こうとした意気込みが感じられ、最も完成度が高いといわれている。
そしてシーボルトのシリーズは、構図的にもほぼ同一のため、このフィッセルのシリーズを慶賀自身が写したものと推測されている。しかし、明暗法による立体的表現を意識した陰つけなど、彩色によって大きな違いが見られるという。このヨーロッパ的な明暗法は、おそらくシーボルトの助手兼絵師として渡来したオランダ人デ・フィレニューフェの影響だったと考えられているそうだ。ともあれ、これら同一主題の慶賀作品を比較してわかることは、慶賀の写実的描写の進展には、シーボルトの指導が大きく影響していることだ。】(「『ナガジン」発見!長崎の歩き方」)
ここに付け加えたいことは、前回(その二十二)で紹介した「『唐館蘭館図絵巻』(Views of the Chinese and Dutch Factories in Nagasaki) /石崎融思筆/1801年(享和元年)」に、さらに、次のような、慶賀の師・石崎融思筆の、水墨画の山水画風の「長崎港図」も遺されているということである。
「長崎港図」/石崎融思筆 (1768-1846)/ 江戸時代/18-19世紀/巻子装,紙本着色/ 31.4×128.0/ 1巻/東京藝術大学大学美術館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/235140
『落款「嶺道人石融思」/印章「鳳嶺」朱文円印・「融思士斎」白文方印。巻末 吉邨迂斎 跋』
(「文化遺産オンライン」)
川原慶賀にも、シーボルトの書き込みによると、「日本画家登与助が2分15秒で描いた」という、ライデン国立民族学博物館の収蔵庫から発見された「山水図」二点がある(『幕末の”日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』図録「142山水図・143山水図)」)。
(『幕末の”日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』図録「142山水図・143山水図)」)
川原慶賀の世界(その二十三) [川原慶賀の世界]
(その二十三)「川原慶賀の唐蘭館絵巻(唐館図)」周辺
「唐蘭館絵巻(唐館図)・一 唐船入港図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×36.0㎝
『(全体:一~十) 紙本 着彩 27.5×569.5㎝ 一図ごとに黒線で枠取りした枠内に独立的に『一~十図』が描かれている。この『一 唐船入港図』は、そのトップで、唐船が停泊し、小舟が荷を運び出している図である。』(『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』p162-169)
「唐蘭館絵巻(唐館図)・二 荷揚水門図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×36.0㎝
『荷揚げ水門に着いて、荷揚げをしている図。』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・三 荷揚水門内部図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×36.0㎝
『唐人館の水門の荷揚げを内部から見た図。』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・四 唐人上陸道中画(一)」(長崎歴史文化博物館蔵)
『荷揚げを運ぶ道中図で、この右側の二人連れが、唐人館の長とその従者である。』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・四 唐人上陸道中画(二)」(長崎歴史文化博物館蔵)
『唐人上陸道中画(一と二)=27.0×88.0㎝(枠取りなし)』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・五 唐館表門図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×35.5㎝
『唐館の表門の内側と外側(往来の様子)の図』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・六 唐人部屋遊女遊興図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×36.0㎝
『二階の続き部屋で、遊女たちと唐人が食卓を囲み、音楽を興じている。』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・七 龍踊図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.4×35.5㎝
『唐人屋敷内土神堂前広場の龍踊りの図』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・八 観劇図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.3×35.8㎝
『唐人屋敷内の唐人踊りの様子。二階の部屋の観客席には招待された長崎奉行の役人など』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・九 唐船出航図」(長崎歴史文化博物館蔵) 21.9×35.8㎝
『唐船が引き舟によって港外に引かれてゆく図』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・十 彩船流図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.1×35.4㎝
枠外左下隅に落款「種美」 白字半円印「慶賀」 朱字半円印「種美」
『長崎で客死した唐人の霊魂を祀る行事。長さ四間ほどの唐船を造り、唐館前の波止場から沖の白門に海上を運び焼く。その際、唐人踊りがあり、また、検使の役人が出役した。』
長崎版画「享和二年肥州長崎図」(1802年)文錦堂版(長崎勝山町上ノ段)より
上図(黄色)→ 出島(阿蘭陀商会=蘭館)
下図(茶色)→ 唐人屋敷(唐館)
■唐人屋敷の歴史
1635年(寛永12年)から中国貿易は長崎一港に制限されており、来航した唐人たちは長崎市中に散宿していましたが、貿易の制限に伴い密貿易の増加が問題となっていました。
幕府はこの密貿易への対策として、 1688年(元禄元年)十善寺郷幕府御薬園の土地で唐人屋数の建設に着手し、翌16S9年(元禄2年)に完成しました。広さは約9.400坪、現在の館内町のほぼ全域に及びます。周囲を練塀で囲み、その外側に水堀あるいは空堀を、さらに外周には一定の空地を確保し、竹垣で囲いました。
入口には門が二つあり、外側の大門の脇には番所が設けられ、無用の出入りを改めした。 二の門は役人であってもみだりに入ることは許されず、大門と二の門の間に乙名部屋、大小通事部屋などが置かれていました。内部には、長屋数十棟が建ち並んでいたといわれ、一度に2,000人前後の収容能力を持ち、それまで市中に雑居していた唐人たちはここに集め、居住させられました。
長綺奉行所の支配下に置かれ、管理は町年寄以下の地役人によって行われていました。輸入貨物は日本側で預かり、唐人たちは厳重なチェックを受けた後、ほんの手回り品のみで入館させられ、帰港の日までここで生活していました。
1784年(天明4年)の大火により関帝堂を残して全焼し、構造もかなり変わりましたが、この大火以後唐人自前の建築を許されるようになりました。重要文化財旧唐人屋敷門(現:興福寺境内所在)はこの大火の後に建てられた住宅門と思われます。
鎖国期における唯―の海外貿易港であった長崎において、出島と共に海外交流の窓口と
して大きな役割を果たした唐人屋敷は、 1859年(安政6年)の開国後廃屋化じ、 1870年(明治3年)に焼失しました。。(「長崎奉行所の機能と出島(唐人屋敷)」)
■出島(阿蘭陀商館)の歴史
出身は、ポルトガル人を管理する目的で、 1634年から21年の歳月をかけて、幕府が長崎の豪商(「出l島町人」と呼ばれる25人の町人)に命じて造らせたもので、ポルトガル人は、彼らに土地使用料として毎年80貫を支払うこととされていました。(オランダ人が借地するようになった後は55貫、現在の日本円で約二億円に引き下げられた。)
1639年、幕府がキリスト教の布教と植民地化を避けるためにポルトガル人を固外追放したため、一時、出島は無人になりました。その後、出島築造の際に出資した人々の訴えにより、 l041年に平戸(ひらど、現在の平戸市)からオランダ東インド会社の商館が移され、武装と宗教活動を規制されたオランダ人が居住することになりました。 以後、約200年間、出島でオランダ人との交渉や監視がおこなわれました。(「長崎奉行所の機能と出島(唐人屋敷)」)
川原慶賀は、ともすると「シーボルトお抱え絵師」として、「出島(阿蘭陀商館)」関連の作品(主として「ライデン国立民族学博物館蔵」「アムステルダム市立公文書館蔵」「ファン・ストルク地図博物館蔵」「ロッテルダム海事博物館蔵」など )が強調されがちであるが、この「唐人屋敷(唐館)」関連の作品(「長崎歴史文化博物館蔵」など)は、それと並行して、「川原慶賀の世界」を知るための、重要なキィーワードの世界ということになる。
そして、この世界もまた、慶賀の師の「石崎融思」の世界とダブってくる。
「唐館蘭館図絵巻」(Views of the Chinese and Dutch Factories in Nagasaki) 石崎融思筆
1801年(享和元年)
『 本絵巻は、明治時代に国外に流出したもので、唐館図の巻末にある落款「享和紀元歳融思画」から、その制作年が享和元年(1 8 0 1 )融思3 3歳のときと断定できる。その詳細な描写は、情報量の豊かさを示しており、注目に値する。全巻にわたって良質の絵の具でもって鮮やかに彩色し、少しの省略もなく細かい筆使いで丁寧に仕上げられている。なお本絵巻に描かれた出島は、寛政1 0 年(1 7 9 8 )3 月9 日大火後の間もない時期に描かれた絵図がこれまで見当たらなかっただけに、出島の変遷をたどる上で大変貴重といえる。』(「長崎歴史文化博物館」)
http://www.nmhc.jp/museumInet/prh/colArtAndHisGet.do?command=view&number=60332
「唐蘭館絵巻(唐館図)・一 唐船入港図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×36.0㎝
『(全体:一~十) 紙本 着彩 27.5×569.5㎝ 一図ごとに黒線で枠取りした枠内に独立的に『一~十図』が描かれている。この『一 唐船入港図』は、そのトップで、唐船が停泊し、小舟が荷を運び出している図である。』(『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』p162-169)
「唐蘭館絵巻(唐館図)・二 荷揚水門図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×36.0㎝
『荷揚げ水門に着いて、荷揚げをしている図。』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・三 荷揚水門内部図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×36.0㎝
『唐人館の水門の荷揚げを内部から見た図。』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・四 唐人上陸道中画(一)」(長崎歴史文化博物館蔵)
『荷揚げを運ぶ道中図で、この右側の二人連れが、唐人館の長とその従者である。』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・四 唐人上陸道中画(二)」(長崎歴史文化博物館蔵)
『唐人上陸道中画(一と二)=27.0×88.0㎝(枠取りなし)』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・五 唐館表門図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×35.5㎝
『唐館の表門の内側と外側(往来の様子)の図』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・六 唐人部屋遊女遊興図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×36.0㎝
『二階の続き部屋で、遊女たちと唐人が食卓を囲み、音楽を興じている。』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・七 龍踊図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.4×35.5㎝
『唐人屋敷内土神堂前広場の龍踊りの図』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・八 観劇図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.3×35.8㎝
『唐人屋敷内の唐人踊りの様子。二階の部屋の観客席には招待された長崎奉行の役人など』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・九 唐船出航図」(長崎歴史文化博物館蔵) 21.9×35.8㎝
『唐船が引き舟によって港外に引かれてゆく図』
「唐蘭館絵巻(唐館図)・十 彩船流図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.1×35.4㎝
枠外左下隅に落款「種美」 白字半円印「慶賀」 朱字半円印「種美」
『長崎で客死した唐人の霊魂を祀る行事。長さ四間ほどの唐船を造り、唐館前の波止場から沖の白門に海上を運び焼く。その際、唐人踊りがあり、また、検使の役人が出役した。』
長崎版画「享和二年肥州長崎図」(1802年)文錦堂版(長崎勝山町上ノ段)より
上図(黄色)→ 出島(阿蘭陀商会=蘭館)
下図(茶色)→ 唐人屋敷(唐館)
■唐人屋敷の歴史
1635年(寛永12年)から中国貿易は長崎一港に制限されており、来航した唐人たちは長崎市中に散宿していましたが、貿易の制限に伴い密貿易の増加が問題となっていました。
幕府はこの密貿易への対策として、 1688年(元禄元年)十善寺郷幕府御薬園の土地で唐人屋数の建設に着手し、翌16S9年(元禄2年)に完成しました。広さは約9.400坪、現在の館内町のほぼ全域に及びます。周囲を練塀で囲み、その外側に水堀あるいは空堀を、さらに外周には一定の空地を確保し、竹垣で囲いました。
入口には門が二つあり、外側の大門の脇には番所が設けられ、無用の出入りを改めした。 二の門は役人であってもみだりに入ることは許されず、大門と二の門の間に乙名部屋、大小通事部屋などが置かれていました。内部には、長屋数十棟が建ち並んでいたといわれ、一度に2,000人前後の収容能力を持ち、それまで市中に雑居していた唐人たちはここに集め、居住させられました。
長綺奉行所の支配下に置かれ、管理は町年寄以下の地役人によって行われていました。輸入貨物は日本側で預かり、唐人たちは厳重なチェックを受けた後、ほんの手回り品のみで入館させられ、帰港の日までここで生活していました。
1784年(天明4年)の大火により関帝堂を残して全焼し、構造もかなり変わりましたが、この大火以後唐人自前の建築を許されるようになりました。重要文化財旧唐人屋敷門(現:興福寺境内所在)はこの大火の後に建てられた住宅門と思われます。
鎖国期における唯―の海外貿易港であった長崎において、出島と共に海外交流の窓口と
して大きな役割を果たした唐人屋敷は、 1859年(安政6年)の開国後廃屋化じ、 1870年(明治3年)に焼失しました。。(「長崎奉行所の機能と出島(唐人屋敷)」)
■出島(阿蘭陀商館)の歴史
出身は、ポルトガル人を管理する目的で、 1634年から21年の歳月をかけて、幕府が長崎の豪商(「出l島町人」と呼ばれる25人の町人)に命じて造らせたもので、ポルトガル人は、彼らに土地使用料として毎年80貫を支払うこととされていました。(オランダ人が借地するようになった後は55貫、現在の日本円で約二億円に引き下げられた。)
1639年、幕府がキリスト教の布教と植民地化を避けるためにポルトガル人を固外追放したため、一時、出島は無人になりました。その後、出島築造の際に出資した人々の訴えにより、 l041年に平戸(ひらど、現在の平戸市)からオランダ東インド会社の商館が移され、武装と宗教活動を規制されたオランダ人が居住することになりました。 以後、約200年間、出島でオランダ人との交渉や監視がおこなわれました。(「長崎奉行所の機能と出島(唐人屋敷)」)
川原慶賀は、ともすると「シーボルトお抱え絵師」として、「出島(阿蘭陀商館)」関連の作品(主として「ライデン国立民族学博物館蔵」「アムステルダム市立公文書館蔵」「ファン・ストルク地図博物館蔵」「ロッテルダム海事博物館蔵」など )が強調されがちであるが、この「唐人屋敷(唐館)」関連の作品(「長崎歴史文化博物館蔵」など)は、それと並行して、「川原慶賀の世界」を知るための、重要なキィーワードの世界ということになる。
そして、この世界もまた、慶賀の師の「石崎融思」の世界とダブってくる。
「唐館蘭館図絵巻」(Views of the Chinese and Dutch Factories in Nagasaki) 石崎融思筆
1801年(享和元年)
『 本絵巻は、明治時代に国外に流出したもので、唐館図の巻末にある落款「享和紀元歳融思画」から、その制作年が享和元年(1 8 0 1 )融思3 3歳のときと断定できる。その詳細な描写は、情報量の豊かさを示しており、注目に値する。全巻にわたって良質の絵の具でもって鮮やかに彩色し、少しの省略もなく細かい筆使いで丁寧に仕上げられている。なお本絵巻に描かれた出島は、寛政1 0 年(1 7 9 8 )3 月9 日大火後の間もない時期に描かれた絵図がこれまで見当たらなかっただけに、出島の変遷をたどる上で大変貴重といえる。』(「長崎歴史文化博物館」)
http://www.nmhc.jp/museumInet/prh/colArtAndHisGet.do?command=view&number=60332
川原慶賀の世界(その二十二) [川原慶賀の世界]
(その二十二)「川原慶賀の花鳥図」周辺
●作品名:花鳥図 ●Title:Flowers and Birds
●分類/classification:花鳥画/Still Lifes
●形状・形態/form:紙本彩色、軸/painting on paper,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
●作品名:石榴と果物図 ●Title:Pomegranate and fruit
●分類/classification:花鳥画/Still lifes
●形状・形態/form:絹本彩色、軸/painting on silk,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
これらの、川原慶賀の「花鳥画」は、いわゆる、「南蘋派」そして「洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎派」の系統に属する世界のものであろう。
なかでも、石崎融思と慶賀と関係というのは、そのスタートの時点(文化八年(1811年)頃)、当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、爾来、弘化三年(一八四六)、融思(七十九歳、慶賀より十八歳年長)の、融思が亡くなる年の、その遺作ともいうべき、「観音寺天井画」(野母崎町観音寺)の、石崎一族の総力を挙げてのプロジェクト(一五〇枚の花卉図、うち四枚が慶賀画)にも、慶賀の名を遺している。
「花鳥動物図」沈南蘋筆/清時代・乾隆15年(1750)/北三井家旧蔵
https://www.mitsuipr.com/history/columns/046/
【 南蘋派の開祖・熊斐と南蘋派の画人
https://yuagariart.com/uag/nagasaki10/
南蘋派は、清から渡来した沈南蘋によって伝えられた画風で、緻密な写生と鮮やかな彩色が特徴である。沈南蘋は、享保16年に渡来して18年まで長崎に滞在しており、この間に、中国語の通訳である唐通事をしていた熊代熊斐(1712-1772)に画法が伝授された。南蘋に直接師事した日本人は熊斐ただひとりであり、熊斐の元には多くの門人が集まり、その中からは鶴亭、森蘭斎、宋紫石らが出て、南蘋の画法は全国に広まっていった。熊斐の作画活動については、唐絵目利などの本業ではなかったこともあり不明な点が多い。
熊代熊斐(1712-1772)(くましろ・ゆうひ)
正徳2年生まれ。神代甚左衛門。長崎の人。唐通事。はじめ神代で、のちに熊代に改姓した。名は斐、字は淇瞻、通称は彦之進、のちに甚左衛門。号は繍江。はじめ唐絵目利の渡辺家に画を学び、享保17年に官許を得て清の画家・沈南蘋に師事した。享保18年の南蘋帰国後は、享保20年に来日した高乾に3年間師事したという。南蘋に師事したのは9ケ月のみだったが、南蘋に直接師事したのは熊斐だけであり、熊斐を通じて南蘋の画風は全国にひろまっていった。官職としては、元文4年に養父の神代久右衛門(白石窓雲)の跡を継ぎ内通事小頭となり、明和3年に稽古通事となった。安永元年、61歳で死去した。
沈南蘋(1682-不明)(しん・なんぴん)
清の浙江省呉興の人。名は銓、字は衡斎。師の胡湄は明の呂紀風の花鳥画をよくしたという。享保16年に高乾、高鈞らの門弟とともに長崎に渡来した。将軍徳川吉宗が唐絵の持込みを命じたことによるという。長崎に享保18年まで留まり、熊斐に画法を授けた。熊斐を通じて伝わった南蘋の画風はその後の日本絵画に大きな影響を与えた。帰国後は浙江・江蘇省地方を中心に活動したが、求めに応じて日本へ作品を送っていたという。
高乾(不明-不明)・鄭培(不明-不明)・高鈞(不明-不明)→ (略)
宋紫石(1715-1786)(そう・しせき)
正徳5年生まれ。江戸の人。本名は楠本幸八郎。字は君赫、霞亭。別号に雪溪、雪湖、霞亭、宋岳などがある。長崎に遊学して熊斐に学び、また清の宋紫岩にも師事した。宋紫岩に学んだことから宋紫石と名乗った。江戸で南蘋風をひろめた。平賀源内とも交友があり、司馬江漢にも画法を伝えた。南蘋派で最も洋風画に接近した画風で、余白を多くとり軽く明るい画面を生み出した。天明6年、75歳で死去した。
鶴亭(1722-1785)(かくてい)
享保2年生まれ。長崎の人。黄檗僧海眼浄光。名ははじめ浄博、のちに浄光、字ははじめ恵達、のちに海眼。別号に如是、五字庵、南窓翁、墨翁、壽米翁、白羊山人などがある。長崎の聖福寺で嗣法するが、延享3、4年頃還俗して上方に移住した。長崎で熊斐に学び、上方に南蘋風を伝えた。木村蒹葭堂、柳沢淇園らと交友した。明和3年頃に再び僧に戻り、黄檗僧になってからは主に水墨画を描いた。天明5年、江戸において64歳で死去した。
黒川亀玉(初代)(1732-1756)・真村蘆江(1755-1795)・大友月湖(不明-不明)・熊斐明(1752-1815)・諸葛監(1717-1790)・松林山人(不明-1792)→ 略
宋紫山(1733-1805)(そう・しざん)
享保18年生まれ。宋紫石の子。尾張藩御用絵師。名は白奎、字は君錫、苔溪とも称した。父の画法に忠実に従った。文化2年、73歳で死去した。
藤田錦江(不明-1773)・森蘭斎(1740-1801)・董九如(1745-1802)・勝野范古(不明-1758)・宋紫崗(1781-1850)・洞楊谷(1760-1801)・福田錦江(1794-1874)・鏑木梅溪(1750-1803)→ 略 】
「花鳥図」石崎融思筆/ 絹本着色(「ウィキペディア」)
【 洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎の洋風画家
https://yuagariart.com/uag/nagasaki12/
長崎に入ってきた絵画の制作年代や真贋などを判定、さらにその画法を修得することを主な職務とした唐絵目利は、渡辺家、石崎家、広渡家の3家が世襲制でその職務についていた。享保19年には荒木家が加わり4家となったが、その頃には、長崎でも洋風画に対する関心が高まっており、荒木家は唐絵のほかに洋風画にも関係したようで、荒木家から洋風画の先駆的役割を果たした荒木如元と、西洋画のほか南画や浮世絵にも通じて長崎画壇の大御所的存在となる石崎融思が出た。融思の門人は300余人といわれ、のちに幕末の長崎三筆と称された鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も融思のもとで学んでいる。ほかの洋風画家としては、原南嶺斎、西苦楽、城義隣、梅香堂可敬、玉木鶴亭、川原香山、川原慶賀らがいる。
石崎融思(1768-1846)
明和5年生まれ。唐絵目利。幼名は慶太郎、通称は融思、字は士斉。凰嶺と号し、のちに放齢と改めた。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。西洋絵画輸入に関係して増員 されたと思われる唐絵目利荒木家の二代目荒木元融の子であるが、唐絵の師・石崎元徳の跡を継いで石崎を名乗った。父元融から西洋画も学んでおり、南蘋画、文人画、浮世絵にも通じ長崎画壇の大御所的存在だった。その門人300余人と伝えている。川原慶賀やその父香山とも親しかったが、荒木家を継いだ如元との関係はあまりよくなかったようである。弘化3年、79歳で死去した。
原南嶺斎(1771-1836)
明和8年生まれ。諱は治堅。別号に南嶺、南嶺堂などがある。河村若芝系の画人で河村姓を名乗ったこともある。唐絵の師は山本若麟あたりだと思われる。自ら蛮画師と称していたほど油彩画も得意とした。天保7年、66歳で死去した。
西苦楽(不明-不明)
経歴は不詳。原南嶺斎らと同時代の人と思われる。作品「紅毛覗操眼鏡図」が残っており、西肥崎陽東古河町住西苦楽という落款が入っている。
城義隣(1784-不明)
天明4年生まれ。経歴は不詳。君路と刻んだ印が残っており字と思われる。絵事を好み、唐絵、油絵、泥絵などを手掛けた。他地方で泥絵が発見されたため、泥絵作家として知られているが、泥絵の作品は必ずしも多くはない。大徳寺に天井画が残っている。
梅香堂可敬(不明-不明)
絵事をよくし、唐人、紅毛人、丸山遊女、異国人、異国女などを描いている。肉筆も版画も残っており、長崎版画の中にも可敬の描いた画がある。『長崎系洋画』には「本名は中村利雄、陸舟とも号したと言ふ」とあるが真意は定かではない。
玉木鶴亭(1807-1879)
文化4年生まれ。通称は官平、字は又新。別号に一源、九皐、錦江などがある。明治に入って、鶴亭を通称とした。幼いころから画を好み、北宗画にも、南宗画にも通じ、洋画も得意とした。代々西築町に住み、唐船掛宿筆者の役をつとめた。明治12年、73歳で死去した。 】
●作品名:花鳥図 ●Title:Flowers and Birds
●分類/classification:花鳥画/Still Lifes
●形状・形態/form:紙本彩色、軸/painting on paper,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
●作品名:石榴と果物図 ●Title:Pomegranate and fruit
●分類/classification:花鳥画/Still lifes
●形状・形態/form:絹本彩色、軸/painting on silk,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
これらの、川原慶賀の「花鳥画」は、いわゆる、「南蘋派」そして「洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎派」の系統に属する世界のものであろう。
なかでも、石崎融思と慶賀と関係というのは、そのスタートの時点(文化八年(1811年)頃)、当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、爾来、弘化三年(一八四六)、融思(七十九歳、慶賀より十八歳年長)の、融思が亡くなる年の、その遺作ともいうべき、「観音寺天井画」(野母崎町観音寺)の、石崎一族の総力を挙げてのプロジェクト(一五〇枚の花卉図、うち四枚が慶賀画)にも、慶賀の名を遺している。
「花鳥動物図」沈南蘋筆/清時代・乾隆15年(1750)/北三井家旧蔵
https://www.mitsuipr.com/history/columns/046/
【 南蘋派の開祖・熊斐と南蘋派の画人
https://yuagariart.com/uag/nagasaki10/
南蘋派は、清から渡来した沈南蘋によって伝えられた画風で、緻密な写生と鮮やかな彩色が特徴である。沈南蘋は、享保16年に渡来して18年まで長崎に滞在しており、この間に、中国語の通訳である唐通事をしていた熊代熊斐(1712-1772)に画法が伝授された。南蘋に直接師事した日本人は熊斐ただひとりであり、熊斐の元には多くの門人が集まり、その中からは鶴亭、森蘭斎、宋紫石らが出て、南蘋の画法は全国に広まっていった。熊斐の作画活動については、唐絵目利などの本業ではなかったこともあり不明な点が多い。
熊代熊斐(1712-1772)(くましろ・ゆうひ)
正徳2年生まれ。神代甚左衛門。長崎の人。唐通事。はじめ神代で、のちに熊代に改姓した。名は斐、字は淇瞻、通称は彦之進、のちに甚左衛門。号は繍江。はじめ唐絵目利の渡辺家に画を学び、享保17年に官許を得て清の画家・沈南蘋に師事した。享保18年の南蘋帰国後は、享保20年に来日した高乾に3年間師事したという。南蘋に師事したのは9ケ月のみだったが、南蘋に直接師事したのは熊斐だけであり、熊斐を通じて南蘋の画風は全国にひろまっていった。官職としては、元文4年に養父の神代久右衛門(白石窓雲)の跡を継ぎ内通事小頭となり、明和3年に稽古通事となった。安永元年、61歳で死去した。
沈南蘋(1682-不明)(しん・なんぴん)
清の浙江省呉興の人。名は銓、字は衡斎。師の胡湄は明の呂紀風の花鳥画をよくしたという。享保16年に高乾、高鈞らの門弟とともに長崎に渡来した。将軍徳川吉宗が唐絵の持込みを命じたことによるという。長崎に享保18年まで留まり、熊斐に画法を授けた。熊斐を通じて伝わった南蘋の画風はその後の日本絵画に大きな影響を与えた。帰国後は浙江・江蘇省地方を中心に活動したが、求めに応じて日本へ作品を送っていたという。
高乾(不明-不明)・鄭培(不明-不明)・高鈞(不明-不明)→ (略)
宋紫石(1715-1786)(そう・しせき)
正徳5年生まれ。江戸の人。本名は楠本幸八郎。字は君赫、霞亭。別号に雪溪、雪湖、霞亭、宋岳などがある。長崎に遊学して熊斐に学び、また清の宋紫岩にも師事した。宋紫岩に学んだことから宋紫石と名乗った。江戸で南蘋風をひろめた。平賀源内とも交友があり、司馬江漢にも画法を伝えた。南蘋派で最も洋風画に接近した画風で、余白を多くとり軽く明るい画面を生み出した。天明6年、75歳で死去した。
鶴亭(1722-1785)(かくてい)
享保2年生まれ。長崎の人。黄檗僧海眼浄光。名ははじめ浄博、のちに浄光、字ははじめ恵達、のちに海眼。別号に如是、五字庵、南窓翁、墨翁、壽米翁、白羊山人などがある。長崎の聖福寺で嗣法するが、延享3、4年頃還俗して上方に移住した。長崎で熊斐に学び、上方に南蘋風を伝えた。木村蒹葭堂、柳沢淇園らと交友した。明和3年頃に再び僧に戻り、黄檗僧になってからは主に水墨画を描いた。天明5年、江戸において64歳で死去した。
黒川亀玉(初代)(1732-1756)・真村蘆江(1755-1795)・大友月湖(不明-不明)・熊斐明(1752-1815)・諸葛監(1717-1790)・松林山人(不明-1792)→ 略
宋紫山(1733-1805)(そう・しざん)
享保18年生まれ。宋紫石の子。尾張藩御用絵師。名は白奎、字は君錫、苔溪とも称した。父の画法に忠実に従った。文化2年、73歳で死去した。
藤田錦江(不明-1773)・森蘭斎(1740-1801)・董九如(1745-1802)・勝野范古(不明-1758)・宋紫崗(1781-1850)・洞楊谷(1760-1801)・福田錦江(1794-1874)・鏑木梅溪(1750-1803)→ 略 】
「花鳥図」石崎融思筆/ 絹本着色(「ウィキペディア」)
【 洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎の洋風画家
https://yuagariart.com/uag/nagasaki12/
長崎に入ってきた絵画の制作年代や真贋などを判定、さらにその画法を修得することを主な職務とした唐絵目利は、渡辺家、石崎家、広渡家の3家が世襲制でその職務についていた。享保19年には荒木家が加わり4家となったが、その頃には、長崎でも洋風画に対する関心が高まっており、荒木家は唐絵のほかに洋風画にも関係したようで、荒木家から洋風画の先駆的役割を果たした荒木如元と、西洋画のほか南画や浮世絵にも通じて長崎画壇の大御所的存在となる石崎融思が出た。融思の門人は300余人といわれ、のちに幕末の長崎三筆と称された鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も融思のもとで学んでいる。ほかの洋風画家としては、原南嶺斎、西苦楽、城義隣、梅香堂可敬、玉木鶴亭、川原香山、川原慶賀らがいる。
石崎融思(1768-1846)
明和5年生まれ。唐絵目利。幼名は慶太郎、通称は融思、字は士斉。凰嶺と号し、のちに放齢と改めた。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。西洋絵画輸入に関係して増員 されたと思われる唐絵目利荒木家の二代目荒木元融の子であるが、唐絵の師・石崎元徳の跡を継いで石崎を名乗った。父元融から西洋画も学んでおり、南蘋画、文人画、浮世絵にも通じ長崎画壇の大御所的存在だった。その門人300余人と伝えている。川原慶賀やその父香山とも親しかったが、荒木家を継いだ如元との関係はあまりよくなかったようである。弘化3年、79歳で死去した。
原南嶺斎(1771-1836)
明和8年生まれ。諱は治堅。別号に南嶺、南嶺堂などがある。河村若芝系の画人で河村姓を名乗ったこともある。唐絵の師は山本若麟あたりだと思われる。自ら蛮画師と称していたほど油彩画も得意とした。天保7年、66歳で死去した。
西苦楽(不明-不明)
経歴は不詳。原南嶺斎らと同時代の人と思われる。作品「紅毛覗操眼鏡図」が残っており、西肥崎陽東古河町住西苦楽という落款が入っている。
城義隣(1784-不明)
天明4年生まれ。経歴は不詳。君路と刻んだ印が残っており字と思われる。絵事を好み、唐絵、油絵、泥絵などを手掛けた。他地方で泥絵が発見されたため、泥絵作家として知られているが、泥絵の作品は必ずしも多くはない。大徳寺に天井画が残っている。
梅香堂可敬(不明-不明)
絵事をよくし、唐人、紅毛人、丸山遊女、異国人、異国女などを描いている。肉筆も版画も残っており、長崎版画の中にも可敬の描いた画がある。『長崎系洋画』には「本名は中村利雄、陸舟とも号したと言ふ」とあるが真意は定かではない。
玉木鶴亭(1807-1879)
文化4年生まれ。通称は官平、字は又新。別号に一源、九皐、錦江などがある。明治に入って、鶴亭を通称とした。幼いころから画を好み、北宗画にも、南宗画にも通じ、洋画も得意とした。代々西築町に住み、唐船掛宿筆者の役をつとめた。明治12年、73歳で死去した。 】