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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十七) [岩佐又兵衛]

(その二十七) 「舟木本」と「歴博D本」との周辺(その一)

耳塚の前の喧嘩図.jpg

「豊国社(耳塚)前の喧嘩図」(「歴博D本」右隻第一・二扇上部)→「歴博D本・豊国社(耳塚)前の喧嘩図」
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_r.html

 この「歴博D本・豊国社(耳塚)前の喧嘩図」について、下記のアドレスで、次のように記述した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-09

【 この(「D図」)の左上部に「耳塚(鼻塚)」(戦死者の耳や鼻を弔ったとされる塚。文禄・慶長の役の戦功の証として討取った朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを葬った塚として知られている)があり、その前で「かぶき者」の喧嘩が始まっている。
 このD図の喧嘩は、「大阪冬の陣・夏の陣」の見立てではない。というのは、これは「豊国社」の「耳塚」の前の喧嘩で、「豊国社」に隣接した「方広寺の前の喧嘩」(C図)ではない。
 「大阪冬の陣・夏の陣」の端緒を切ったのは、「方広寺鐘銘事件」(慶長一九年(一六一四)豊臣秀頼が京都方広寺大仏再興に際して鋳造した鐘の銘文中、「国家安康」の文に対して、徳川家康の名前が分割されて使われていることから、家康の身首両断を意図したものとして、家康が秀頼を論難した事件。大坂冬の陣のきっかけとなった)に由来する。
 これらの「方広寺の前の喧嘩」(C図)が、「大阪冬の陣・夏の陣」の見立てて解することについては、下記のアドレスなどで触れているので、末尾に、その要点となるところを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-02           】

方広寺前の喧嘩.jpg

「方広寺前の喧嘩図」(「舟木本」右隻第一・二扇上・中部) →「舟木本『方広寺前の喧嘩図』」

 この「舟木本『方広寺前の喧嘩図』が、先の「歴博D本・豊国社(耳塚)前の喧嘩図」を意識化(モデル化)していることは一目瞭然である。そして、下記のアドレスで、この「舟木本『方広寺前の喧嘩図』について、次のように記述した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-09

【 「方広寺」の前で「かぶき者」の喧嘩が始まっている。その右側は「豊国社」(豊国神社)である。その「方広寺」と「豊国社」の後方に「妙法院」と「豊国廟」に至る参道が描かれ、この「方広寺」と「豊国社」の門前に、「方広寺大仏殿」の屋根の一角見える。この図の下方に「方広寺大仏殿」が大きく描かれ、その下に、「三十三間堂」が描かれている。そして、その「方広寺大仏殿」の右手に「豊国定舞台」が描かれ、そこで「烏帽子折」の「能」が演じられている(「その八」)。
 この「洛中洛外図屏風・舟木本」の「右隻第一・二扇」は、この「舟木本」が出来た「大阪冬の陣・夏の陣」の前後の、「豊臣家」滅亡の頃の、「慶長十九年(一六一四)・元和元年(一六一五)」を背景としたもので、当時の豊国神社は社領が一万石、境内の敷地は三十万坪の誇大な敷地を有した頃の遺影ともいうべきものであろう。
 この後、「豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康の意向により後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、秀吉の霊は『国泰院俊山雲龍大居士』と仏式の戒名を与えられることになる。神社も徳川幕府により廃絶され、秀吉の霊は方広寺大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔(現:馬塚、当時の史料では「墳墓」とされる)に遷された。
 そして、秀吉の室北政所のたっての願いで社殿は残されたものの、以後一切修理をすることは禁止され、慶応四年(一八六八)閏四月、明治天皇の御沙汰書により、秀吉の社壇が再興されるまで朽ち果てるままに放置され、明治八年(一八七五)、大明神号は復されて、方広寺大仏殿跡に、現在の豊国神社が再建されるという経過を踏んでいる。」(「ウィキペディア」)   】

舟木本・大阪冬の陣.jpg

「方広寺前の喧嘩図・拡大図」(「舟木本」右隻第一・二扇上・中部) →「舟木本『方広寺前の喧嘩図』・拡大図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&


【 徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主
―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E

《二年前に出した拙著『豊国祭礼図を読む』では、徳川美術館本の右隻第五・第六扇の喧嘩の場面に、「かぶき者」に見立てられた豊臣秀頼の姿を見出したというに、この舟木本の喧嘩の場面については、肝心のディテールを「見落とし」てしまったのである。家紋を見落としたのだ。》

《妙法院と照高院の門前で喧嘩が始まっている。双方六人ずつ、武器は鑓・薙刀と刀である。》

《この妙法院と照高院の門前の喧嘩は何を意味しているのか? それを物語るのが、右側の男の背中に描かれている家紋であったのだ。この男の茶色の短い羽織の背中には、「丸に卍紋」が大きく描かれている。この「丸に卍紋」は阿波の蜂須賀氏の家紋である。妙法院・照高院の門前に描かれているのは下郎ないし「かぶき者」の喧嘩であるが、この家紋は、それが大きな戦いの「見立て」であることを示唆している。》

《慶長十九年(一六一四)十月からの「大阪冬の陣」において、とくに目立った軍勢は阿波の蜂須賀家勢(蜂須賀隊)であった。十一月十九日、大阪方の木津川の砦を、蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄の三者で攻めることになったが、蜂須賀至鎮は抜け駆して、砦を陥落させたのであった。次に蜂須賀勢が著しい成果を挙げたのは、同月二十九日の未明に、薄田隼人の守っていた博労ケ淵の砦を攻撃し、砦を奪取した。また逆に、十二月十六日の深更に、蜂須賀勢の陣地は、大阪方の塙団右衛門らによって夜襲をかけられてもいる。》

《すなわち、大阪冬の陣における蜂須賀勢の攻防・活躍はとくに顕著であり、世間によく知られたことであった。他方、「大阪夏の陣」での蜂須賀軍はどうだったか。蜂須賀軍は、荒れた海と紀伊の一揆のために、夏の陣の決戦には間に合わず、夜通し進軍して、五月八日(大阪城の落城は五月七日)に住吉に着陣し、茶臼山と岡山の陣営に行って家康と秀忠に拝謁したのであった。》

《したがって、「かぶき者」の背中に描かれた「丸に卍紋」は、大阪冬の陣における蜂須賀勢を意味する。この場面は、大阪冬の陣における戦いを「かぶき者」たちの喧嘩に見立てたものだったのである。以上のように読むと、舟木本の右隻第二扇の喧嘩は、徳川美術館本の右隻第五・六扇上部に描かれた「かぶき者」の喧嘩の場面と繋がってくる。》 】(「一 舟木本「洛中洛外図屏風」読解の「補遺」」の要点要約)

方広寺前の冬の陣・夏の陣.jpg

「『舟木本・方広寺前の喧嘩図』と『豊国祭礼図屏風(徳川美術館本)・方広寺前の喧嘩図』」→「方広寺前の喧嘩図(舟木本・徳川美術館本)」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-09

 続けて、この「方広寺前の喧嘩図(舟木本・徳川美術館本)」を提示して、上段の「舟木本・方広寺前の喧嘩図」は「大阪の陣・冬の陣」、そして、下段の「徳川美術館本・方広寺」は「大阪の陣・夏の陣」を見立てたものとして、次の三図を掲示した。

豊国祭礼図・秀頼.jpg

「『豊国祭礼図屏風(徳川美術館本)・方広寺前の喧嘩図』拡大図その一」→「徳川美術家本・方広寺の前の喧嘩図その一」

かぶき者の鞘の銘.jpg

「『豊国祭礼図屏風(徳川美術館本)・方広寺前の喧嘩図』拡大図その二」→「徳川美術家本・方広寺の前の喧嘩図その二」

豊国祭礼図・秀頼周辺.jpg

「『豊国祭礼図屏風(徳川美術館本)・方広寺前の喧嘩図』拡大図その三」→「徳川美術家本・方広寺の前の喧嘩図その三」

 そして、上記の「徳川美術家本・方広寺の前の喧嘩図その一」と「徳川美術家本・方広寺の前の喧嘩図その二」については、次の記述で紹介している。

【《「廿三」は秀頼の死没年齢》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P263-264)

「《いきすぎたるや廿三 八まん ひけはとるまい》は、 近世史家杉森哲也氏の見事な着眼による、《豊臣秀頼の死没年齢なのである。》 これまでの多くの論者は「かぶき者」大島一兵衛にだけ惹きつけられていて、豊臣秀頼と大阪夏の陣のことに思いもおよばなかったのである。すなわち、画家岩佐又兵衛は、大阪夏の陣を「かぶき者」たちの喧嘩に「見立て」て、このもろ肌脱ぎの「かぶき者」を「豊臣秀頼」に「見立て」ているのである。この「八まん ひけはとるまい」とは「戦(いくさ)」のこと、大阪夏の陣で、決死の覚悟で「徳川方」に挑んでいる、その決死の銘文なのである。」(メモ=「八まん」は、「戦の神様の『八幡太郎義家(源義家)』の「比喩」的用例と解したい。) 】

 また、その「徳川美術家本・方広寺の前の喧嘩図その一」については、次の記述で解説している。

【《後家尼姿の高台院》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P265-266)

「この倒れかかった乗物の上部に、破れ傘を持ってあわてて飛び退いている後家尼の老女が描かれている。この老後家尼こそ、秀吉の妻おね(北政所)つまりは高台院の姿なのである。」

これらは、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』での著者の考察なのであるが、これらの考察は、次の論稿により、さらに、深化を深めて行く。



徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主
―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E



「倒れ掛かった乗物(駕籠)から、女の手が突き出ている。この乗物に鏤められているさまざまな家紋の殆どは「目くらまし」であり、豊臣氏の「桐紋」がある。乗っているのは淀殿なのだ。そして、この乗物を担いでいる揃いの短衣を着た駕籠かき二人は、大野治長・治房兄弟であろう。
 乗物の向こう側、すぐ脇に後家尼の老女がいて、破れ傘をもったまま慌てて飛び退いている。後家尼の姿だから、これは高台院(秀吉の妻おね、北政所)である。背後の首に赤布を巻いている女は、高台院に仕えていた女性(孝蔵主?)などではあるまいか。
 さらに上の方には、侍女に傘をさしかけられた、被衣姿の貴女がいる。喧嘩の騒ぎを眺めているようだ。今のところ確かな論拠は示せないのだけれども、大阪城から脱出した千姫の姿が描かれているように思われる。
 こうして徳川美術館本の右隻の一角には、大阪夏の陣の豊臣秀頼と徳川秀忠の戦いが「かぶき者」たちの喧嘩に見立てて描かれていたのであった。それは、この屏風の注文主にとって必須(あるいは必要)な表現であり、しかも、徳川方の者が見ても気付かれにくい「見立て」の表現だったのである。」(「二 徳川美術館本の「かぶき者」の喧嘩と大阪夏の陣」の要点要約) 】

 続いて、下記のアドレスで、この「徳川美術家本・方広寺の前の喧嘩図その三」は、次の「舟木本・五条橋で踊る老後家尼一行図」と連動していることについて触れた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-02

右四・五中・五条大橋で踊る高台院.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第四・五扇中部部分拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)→「舟木本・『五条橋で踊る老後家尼』その一」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

右四中・高台院アップ.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第四・五扇中部部分拡大図その二」(五条橋で踊る老後家尼)→「舟木本・『五条橋で踊る老後家尼』その二」

【《老後家尼》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P204)

「この桜の枝を右手に持って肩に担ぎ、左足を高くあげて楽しげに踊っている、この老後家尼は、ただの老女ではありえない。又兵衛は、いったい誰を描いているのだろう。」

《花見帰りの一行の姿』((『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』)P204-205)

「この老後家尼の一行は、笠を被った男二人、それに続き、女たち十二人と男たち十人余りが踊っており、六本の傘が差しかけられている。乗掛馬に乗った武士二人と馬轡持ち二人、荷物を担いでいる男四人、そして、五人の男が振り返っている視線の先に、酔いつぶれた男が両脇から抱きかかえられ、その後ろには、宴の食器や道具を担いだ二人の男がいる。総勢四十五人以上の集団である。」

《傘の文様は?》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P205-206)

「六本の傘を見ると、先頭の白い傘には日の丸(日輪)、次の赤い傘には桐紋、三本目の赤い傘は鶴と亀の文様である。四本目は不明、五本目は日・月の文様のようであり、六本目は花か南蛮の樹木の葉のようである。この先頭の日輪と二本目の桐紋が決定的に重要だ。このような後家尼の姿で描かれる人物は、秀吉の後家、高台院(北政所おね)以外にあり得ない。」

《豊国祭礼図屏風の老後家尼》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P206-207)

「ここで、拙著『豊国祭礼図を読む』の記述を想い起こしたい(二六六頁)。そこで、淀殿の乗物の脇にいて、慌てて飛び退いている老後家尼の高台院がかかれていると指摘しておいた。この高台院も、舟木屏風の老後家尼と同様の姿で描いている。つまり舟木屏風は、徳川美術館本豊国祭礼図屏風に先行して、高台院を五条橋の上で踊る老後家尼として描いていたのである。」 】

舟木本中心軸(右隻).jpg

「舟木本の中心軸と『九か所の若松』周辺」(右隻)→「舟木本中心軸その二図(右隻)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-01

 ここまで来ると、「舟木本中心軸その二図(右隻)」のメインの画面は、この「右隻」の「第四・五扇」に描かれている「五条橋で踊る老後家尼(高台院)」ということになろう。
 そして、これに対応する次の「舟木本中心軸その三図(左隻)」の、そのメインの画面のどれかという周辺のことを探りたい。

舟木本中心軸・左隻.jpg

「舟木本の中心軸と『九か所の若松』周辺」(左隻)→「舟木本中心軸その三図(左隻)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-01
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yahantei

 「洛中洛外図屏風・舟木本」(岩佐又兵衛筆)を意識し始めた最初の「三藐院ファンタジー」は、下記のアドレスの「その四十二」の「かぶき公家供揃図」(古田織部美術館蔵)が、そのスタートであった。



https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/202107-1



【 (再掲)

http://sengokudama.jugem.jp/?eid=4895

【 江戸初期の慶長年間(1596-1615)、京ではかぶき(傾き)者(いたずら者)の文化が一世を風靡していました。なかでも、「かぶき手の第一」(『当代記』)といわれたのが、織田信長の甥・織田左門頼長(道八)です。また、公家の世界では、「天下無双」の美男と称され、ファッションリーダーでもあった猪熊少将教利、彼と親しかった烏丸光広などの若い公家たちの行動が「猪熊事件」へと発展します。さらに、「天下一」の茶人だった古田織部が好んだ、奇抜で大胆な意匠の茶器や斬新な取り合わせも、数寄の世界でかぶきの精神を表現したものといえるでしょう。本展では、織部好みの茶器や刀、織田頼長の書状、猪熊事件に連座した公家衆の直筆短冊などの品を通して、かぶいた武士・公家衆の人物像を探ります。 

※「光源氏」になぞらえた京のファッションリーダー猪熊少将の「猪熊様」と言われた髪型をついに解明! → 「かぶき公家供揃図」には、月代(さかやき)を大きく剃った大額(おおひたい)に茶筅髷(まげ)、襟足を伸ばして立てるという異風の髪型の公家が描かれているが、これが「猪熊様(よう)」と推定されます。

※猪熊教利の父・兄弟
□ 38 和歌懐紙 「春日同詠遐齢如松」 四辻季満(1566~1608)筆 江戸時代初期
○ 39 和歌小色紙 「おくやまの」 四辻季継(1581~1639)筆 川勝宗久極札 江戸時代前期
□ 40 和歌短冊 「早梅」 高倉(薮)嗣良(1593~1653)筆 江戸時代前期
○ 41 表八句 断簡 「賦山何連歌」 曼殊院宮良恕法親王(東)・高倉(薮)嗣良・甘露寺時長・勧修寺経広・岩倉具起・覚阿上人他

※猪熊事件連座の若公家衆
□ 45 和歌懐紙 「春日詠花色映月」 烏丸光広(1579~1638)筆 江戸時代初期
○ 46 和歌懐紙 「林葉漸紅」「雲浮野水」 烏丸光広 筆 江戸時代初期
47 烏丸光広好 吉野絵 錫棗 江戸時代前期
□ 48 和歌短冊 「明暮に」 花山院忠長(1588~1662)筆 古筆了栄極札 江戸時代初期
□ 49 和歌短冊 「ぬれてほす」 花山院忠長 筆 朝倉茂入極札 江戸時代初期
○ 50 書 状 (年未詳)七月二十九日付・津軽信義宛 花山院忠長 筆 江戸時代前期
○ 51 和歌短冊 「湖上花」 飛鳥井雅賢(1585~1626)筆 江戸時代初期
□ 52 和歌短冊 「暁神祇」 難波宗勝(1587~1651)筆 江戸時代初期
□ 53 和歌短冊 「花を散さぬ風」 難波宗勝 筆 藤本了因極札 江戸時代初期
○ 54 和歌短冊 「聞恋」 飛鳥井雅胤(難波宗勝)筆 京古筆家極札 江戸時代前期
○ 55 和歌短冊 「玉嶋河」 飛鳥井雅宣(難波宗勝)筆 江戸時代前期

猪熊事件連座の女官の父
□ 56 和歌懐紙 「春日同詠鶯是万春友」 広橋兼勝(1558~1623)筆 江戸時代初期
○ 57 和歌短冊 「梅留客」 広橋兼勝 筆 京古筆家極札 江戸時代初期
□ 58 和歌短冊 「開路雪」 中院通勝(1556~1610)筆 江戸時代初期
○ 59 和歌短冊 「初冬暁」 水無瀬氏成(1571~1644)筆 江戸時代前期    】
(「かぶき者―織田頼長と猪熊教利―(古田織部美術館蔵・宮帯出版社 )」「後期展は(2017)5月14日(日)まで。春季展『古田織部と慶長年間のかぶき者』(古田織部美術館様)」 )

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-23

【猪熊事件(いのくまじけん)は、江戸時代初期の慶長14年(1609年)に起きた、複数の朝廷の高官が絡んだ醜聞事件。公家の乱脈ぶりが白日の下にさらされただけでなく、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇の退位のきっかけともなった。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

公家衆への処分
慶長14年(1609年)9月23日(新暦10月20日)、駿府から戻った所司代・板倉勝重より、事件に関わった公卿8人、女官5人、地下1人に対して以下の処分案が発表された。

死罪    
左近衛少将 猪熊教利(二十六歳)
牙医 兼康備後(頼継)(二十四歳)

配流《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》
左近衛権中将 大炊御門頼国《三十三歳》→ 硫黄島配流(→ 慶長18年(1613年)流刑地で死没)
左近衛少将 花山院忠長《二十二歳》→ 蝦夷松前配流(→ 寛永13年(1636年)勅免)
左近衛少将 飛鳥井雅賢《二十五歳》→ 隠岐配流(→ 寛永3年(1626年)流刑地で死没)
左近衛少将 難波宗勝《二十三歳》→ 伊豆配流(→ 慶長17年(1612年)勅免)
右近衛少将 中御門(松木)宗信《三十二歳》→ 硫黄島配流(→ 流刑地で死没)

配流(年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時=下記のアドレスの<女房一覧 桃山時代 106代正親町天皇―107代後陽成天皇>)
新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)<二十歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
権典侍 中院局(中院通勝の娘)<十七歳?>→伊豆新島配流(→ 元和9年9月(1623年)勅免)
中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘)<?>→ 伊豆新島配流(→元和9年9月(1623年)勅免)
命婦 讃岐(兼康頼継の妹)<?>→ 伊豆新島配流→ 元和9年9月(1623年)勅免)

恩免《年齢=発覚時=慶長十四年(一六〇九)時(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』》
参議 烏丸光広《三十一歳》
右近衛少将 徳大寺実久《二十七歳》       】

https://ameblo.jp/kochikameaikouka/entry-11269980485.html

【※広橋局と逢瀬を重ねていた公家は花山院忠長です。
※中院仲子については烏丸光広との密通を疑われた、と言われています。  】

https://toshihiroide.wordpress.com/2014/09/18/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85%EF%BC%881%EF%BC%89/

【権典侍中院局の兄で正二位内大臣まで上り詰めた中院通村(なかのいん・みちむら)が、後水尾帝の武家伝奏となって朝幕間の斡旋に慌ただしく往復していたころ、小田原の海を眺めつつ妹の身を案じて詠んだ歌がある。
  ひく人のあらでや終にあら磯の波に朽ちなん海女のすて舟
 一首は「私の瞼には、捨てられた海女を載せて波間を漂う孤舟が浮かぶ。いつの日か舟をひいて救ってくれる人が現れるであろうか。それとも荒磯に打ちあげられて朽ちてしまうのか。かわいそうに可憐な妹よ、私はいつもお前のことを憂いているのだよ」と。】

https://tracethehistory.web.fc2.com/nyoubou_itiran91utf.html

<女房一覧 桃山時代 106代正親町天皇―107代後陽成天皇>) 】
by yahantei (2021-12-06 15:34) 

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