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「俳誌・ホトトギス」管見(その七) [ホトトギス・虚子]

「俳誌・ホトトギス」管見(その七)
「ホトトギス(8巻7号)・百号」(明治三十八年・一九〇五/四月号)周辺

ホトトギス(8巻7号)・百号.jpg

「ホトトギス(8巻7号)・百号」(明治三十八年・一九〇五/四月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/1


(目次)

表紙畫 / 橋口五葉
汐干(口繪) / 淺井默語
釣魚(口繪) / 中村不折
吾輩は猫である(三) / 夏目嗽石/p1~8,10~39
ステーシヨン、スヶッチ(挿畫) / 橋口五葉/p9~9,11~11,13~13,15~15,17~17,19~19,21~21
團栗(小説) / 寺田寅彦/p39~39,42~46
歸朝雜感(挿畫) / 灰殻道人/p40~41
月給日(小説) / 野村傳四/p46~53
ほねほり(小説) / 高濱虚子/p53~61
げん(ゲン)花(小説) / 河東碧梧桐/p61~69
東京俳句界/p69~72
下士官室(挿畫) / 谷朱冠/p70~70
騎兵徒歩(挿畫) / 谷朱冠/p71~71
地方俳句界/p72~78
田舍源氏に付て(四) / 内藤鳴雪/p78~81
冬三題 / 碧梧桐 ; 露月 ; 虚子/p81~81
葉水の句解釋 / 内藤鳴雪/p81~85
消息 / 虚子記/p85~86
蒲鉾の賛 / 坂本四方太/p86~90
お伽のかるた / 子夜/p90~95
丑三時 / 小風/p95~97
月給日 / 木南人/p97~98
逃げ蛙 / 木兎/p99~100
音樂舞踏研究會 / 菊泉/p100~102
眞田細工講習會 / 夢拙/p102~103
波(春、募集俳句其一) / 鳴雪/p104~108
石(春、募集俳句其二) / 碧梧桐/p108~111
門(春、募集俳句其三) / 淺茅/p111~113
蕪村遺稿講義(秋八) / 鳴雪 ; 碧梧桐 ; 虚子/p113~117
新刊/p117~118
課題/p118~118
十二支(圖案) / 樂堂/p表紙2面~3面
野外演習(裏畫) / 谷朱冠/p表紙4面
附録 幻影の盾(扉畫) / 橋口五葉
附録 幻影の盾(小説) / 夏目嗽石/p1~35
附録 幻影の盾のうた / 野間奇瓢/p36~36

(管見)

一 「表紙畫 / 橋口五葉」・「ステーシヨン、スヶッチ(挿畫) / 橋口五葉」・「附録 幻影の盾(扉畫) / 橋口五葉」周辺

ステーシヨン、スヶッチ(挿畫.jpg

|ステーシヨン、スヶッチ(挿畫) / 橋口五葉」(/p9~9,11~11,13~13,15~15,17~17,19~19,21) https://dl.ndl.go.jp/pid/7972215/1/2  https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/12
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/13  https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/14
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/15  https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/16

附録 幻影の盾(扉畫).jpg

「附録 幻影の盾(扉畫) / 橋口五葉」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/67

[橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年(明治14年)[注 1]12月21日 - 1921年(大正10年)2月24日)は、明治末から大正期にかけて文学書の装幀作家、浮世絵研究者として活躍したが、最晩年、新版画作家として新境地を開こうとした矢先に急死した。アール・ヌーヴォー調の装幀本、「大正の歌麿」と形容された美人画を残している。(中略)
 雑誌『ホトトギス』の挿絵を描いていた事や、五葉の長兄が熊本の第五高等学校で教え子だった関係で夏目漱石と知り合い、1905年(明治38年)、『吾輩ハ猫デアル』の装幀を依頼される。以来『行人』まで漱石の著作の装幀は五葉がつとめることになる。漱石以外にも、森田草平、鈴木三重吉、森鷗外、永井荷風、谷崎潤一郎、泉鏡花の作品の装幀を手がける。また、この時期の五葉は1907年(明治40年)に東京府勧業博覧会で出品作が2等賞を受賞し、同年の第1回文展では「羽衣」が入選を果たすなどして、画家としても次第に注目されるようになっていった。1911年(明治44年)、籾山書店の企画した叢書のためのデザインは、大正2年まで24もの名作の表紙を飾ることになる。その蝶をモチーフにあしらったデザインのために胡蝶本と愛称された。その他イラストでも活躍し、1911年(明治44年)「此美人」が三越呉服店の懸賞広告図案で第1等を受賞、懸賞金1000円を獲得し有名になった。この作品は、元禄模様の着物を着た女性が美人画の版本を手に座る姿を描いており、江戸回顧及びアールヌーボーの流行を反映している。(後略) ](「ウィキペディア」)

吾輩は猫である・橋口五葉.jpg

上図左=「吾輩は猫である」上編の装丁 / 上図右=「吾輩は猫である」中編の装丁
下図左=「吾輩は猫である」下編の装丁 (『吾輩ハ猫デアル 上・中・下編』ジャケット下絵/装丁/橋口五葉(1905年)抜粋)
https://www.meijimura.com/meiji-note/post/natsumesouseki/
下図右=「此美人」石版画(橋口五葉)(「ウィキペディア」抜粋)

[ 漱石は、当初、『吾輩は猫である』の挿画を、友人の橋口貢に頼もうと考えていましたが、弟の橋口五葉が、東京美術学校(現東京芸術大学)に在学していることを知り、五葉に絵を依頼しました。
 明治38(1905)年1月18日に「猫の画をかいてくださるよし難有候。なるべく面白いやつを沢山かいて下さい」とハガキを送り、2月12日には「ホトトギスの挿画はうまいものに候。御蔭で猫も面目を施し候。バルザック、トチメンボー皆一癖ある画と存候。他の雑誌にゴロゴロ転ってはおらず候。これでなくては自分の画とは申されません。クジャクの線も一風有之候。足はことによろしく候。あれは北斎のかいた足のように存じ候。僕の文もうまいが、橋口くんの画の方がうまいようだ」と手放しで褒めています。](「漱石『吾輩は猫である』の装丁」抜粋)
https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201905100000/

※ 上記の「漱石『吾輩は猫である』の装丁」中の、橋口五葉の「バルザック、トチメン
ボー、クジャク」(「ホトトギス」挿絵)は、下記のものである。

パルザック(挿畫.jpg

「パルザック(挿畫) / 橋口五葉/p10~10」(「ホトトギス 8(5)/ 1905-02」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972215/1/8

トチメンボー(挿畫.jpg

「トチメンボー(挿畫) / 橋口五葉/p19~19」(「ホトトギス 8(5)/ 1905-02」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972215/1/12

孔雀(挿畫.jpg

「孔雀(挿畫) / 橋口五葉/p24~24」(「ホトトギス 8(5)/ 1905-02」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972215/1/15

二 「汐干(口繪) / 淺井默語」周辺

汐干(口繪.jpg

「汐干(口繪) / 淺井默語」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/4

[浅井 忠(あさい ちゅう、1856年7月22日(安政3年6月21日) - 1907年(明治40年)12月16日)は、明治期の洋画家、教育者。号は黙語(もくご)。(中略)
 1873年に上京。はじめは英語の塾で学んでいたが、1875年に彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学び、1876年に工部大学校(現在の東京大学工学部)附属の工部美術学校に入学、西洋画を学び特にアントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた。フォンタネージの帰国後、後任教師フェレッチの指導に飽き足らず、1878年11月に小山正太郎や松岡寿ら同士11人とともに退学し、十一会を結成。卒業後は、新聞画家としての中国派遣などを経て、1889年には忠が中心になって明治美術会を設立した。1894年、日清戦争に従軍。1895年、京都で開催された第4回内国勧業博覧会に出品して妙技二等賞受賞。1898年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となる。その後、1900年からフランスへ西洋画のために留学した。1902年に帰国後、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授・教頭となり、個人的にも、1903年に聖護院洋画研究所(1906年に関西美術院)を開いて後進の育成にも努力した。安井曽太郎、梅原龍三郎、石井柏亭、津田青楓、向井寛三郎を輩出しており、画家としてだけではなく教育者としても優れた人物であった。また、正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説『三四郎』の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。
 『吾輩ハ猫デアル』の単行本の挿画を他の2人とともに描いている。(後略) ](「ウィキペディア」)

三 「釣魚(口繪) / 中村不折」周辺

釣魚(口繪.jpg

「釣魚(口繪) / 中村不折」周辺
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972217/1/6

[中村 不折(なかむら ふせつ、1866年8月19日(慶応2年7月10日) - 1943年(昭和18年)6月6日)は、明治・大正・昭和期に活躍した日本の洋画家・書家。正五位。太平洋美術学校校長。夏目漱石『吾輩は猫である』の挿絵画家として知られる。本名:中村鈼太郎(なかむら さくたろう)。(中略)
 1894年には正岡子規に出会い、日本新聞社の発行する新聞『日本』の記者となり、新聞『小日本』の挿絵を担当する。新聞『小日本』126号に俳句が掲載され、初めて「不折」の名を使用する。30歳の時、正岡子規とともに日清戦争に従軍し、中国に渡り書に興味を持つ。31歳の時、堀場いとと結婚。日本新聞社に入社し引き続き挿絵を担当する。34歳の時、第10回明治美術展覧会に「淡煙」「紅葉村」を出品。「紅葉村」は1900年のパリ万国博覧会で褒賞を受賞する。その後、下谷区中根岸31番地に画室を新築し転居した。(中略)
 また、森鷗外や夏目漱石らの作家とも親しく、挿絵や題字を手掛けることも多かった。
島崎藤村の詩集『若菜集』(1897年)、『一葉舟』(1898年)の挿絵を担当した。1905年に『吾輩は猫である』上巻が刊行され挿絵を描いた。漱石は不折に宛てて「発売の日からわずか20日で初版が売り切れ、それは不折の軽妙な挿絵のおかげであり、大いに売り上げの景気を助けてくれたことを感謝する」という旨の手紙を送っている。

吾輩ハ猫デアル.jpg   

 (後略)   ](「ウィキペディア」)

四 「團栗(小説) / 寺田寅彦/p39~39,42~46」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-01

(「再掲」抜粋)

[※寺田寅彦は、その随筆の筆名は「吉村冬彦」を用いている。この「吉村冬彦」の筆名は、「僕の家の先祖は吉村という姓だったので、それで僕が冬年生れた男だから、吉村冬彦としたわけさ。だから此の名はペンネームというより、むしろ僕は一つの本名と思っているのだ」(『寺田寅彦の追想(中谷宇吉郎稿)』)ということが、『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』に記されているが、この「吉村」は、寅彦の高知出身の「父・利正」と深い関わりのもので、そして、この「冬彦」も、寅彦(二十歳)の時の、その高知で「父・利正」の友人の娘「夏子(十五歳)」との結婚、そして、その夏子の死(明治三十五年、寅彦=二十五歳、夏子=二十歳)と深く関わるものなのであろう。
 この「吉村冬彦」という筆名は、大正九年(一九二〇)、寅彦(四十三歳)の時の、上記の「年譜」にあるとおり、「十一月、随筆「小さな出来事」を吉村冬彦の筆名で「中央公論」に発表、以後、随筆にはこの筆名を使用するようになる」の、それ以後の筆名ということになる。
 その以前に、寅彦は、「藪柑子」という、筆名を用いている。これらのことに関して、『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』では、「藪柑子の名が使われたのは、『寺田寅彦は小説を書いている』という非難が大学内部で起こったからである」と指摘している。
 この「寅彦から藪柑子」への筆名の変遷は、『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』のものに、次のアドレスのものですると、次のとおりとなる。

https://kyuurisha.com/torahiko-to-yabukohji/

[明治38年4月→「団栗」=筆名:寅彦(1月は本多光太郎博士と実験三昧)
明治38年6月→「龍舌蘭」=筆名:寅彦(8月に寛子と結婚、11月「熱海間欠泉の変動」)
明治39年10月→「嵐」=筆名:寅彦(4月「尺八に就て」)
明治40年1月→「森の絵」=筆名:寅彦(1月に長男の東一誕生)
明治40年2月→「枯菊の影」=筆名:寅彦(4月「潮汐の副振動」、7~8月に三原山調査)
明治40年10月→「やもり物語」=筆名:寅彦
明治41年1月→「障子の落書」=筆名:藪柑子
明治41年4月→「伊太利人」=筆名:藪柑子
明治41年10月→「花物語」= 筆名:藪柑子(同月に博士論文「尺八の音響学的研究」)
明治42年1月→「まじょりか皿」=筆名:藪柑子(3月から欧州留学) ]

[豊隆=蓬里雨・三十七歳。 海軍大学校嘱託教授となる。]

※『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』では、これらの「藪柑子から冬彦へ」の筆名の変遷などに関連して、「漱石・寅彦・豊隆」の三者関係について、概略、次のとおり記述している。

[小宮豊隆は夏目漱石を敬慕することが極めて厚かったが、彼がまた寺田寅彦にも兄事して深く敬愛していた。寅彦に『藪柑子集』の佳品を書かせたのは漱石であるが、『冬彦集』には豊隆の『啓示と奨励(寅彦)があった。(中略)
 小宮豊隆は「『藪柑子集』は『冬彦集』作家の昔の「顔」である」と書く。そして明治文学史における寺田寅彦の作品を次のように位置づける。すなわち「団栗」によって鈴木三重吉の「千鳥」が生まれ、「千鳥」によって夏目漱石の「草枕」が胚胎されたと見るのである。]

「ホトトギス(明治四十一年十月号).jpg

「ホトトギス(明治四十一年十月号).jpg

「花物語(藪柑子)」掲載「ホトトギス(明治四十一年十月号・表紙と目次)(「熊本県立大学図書館オンライン展示」)
https://soseki-kumamoto-anniversary.com/#mv

※ 上記の「ホトトギス(明治四十一年十月号・表紙と目次)の、その「目次」(下段)に、「文鳥(夏目漱石)」に続いて「花物語(藪柑子)」が掲載されている。その「目次」(上段)に、「地方俳句界(東洋城選)」・「消息(虚子記)」・「雑詠(虚子選)」・「表紙図案(中村不折)」の名が掲載されている。
 この当時の「ホトトギス」は、「虚子と東洋城」とが、「ホトトギス」の「俳句の部」(「雑詠(虚子選)」と「地方俳句界(東洋城選)」など)を、そして、「漱石と藪柑子=寅彦」とが「小説の部」(「文鳥(夏目漱石)」と「花物語(藪柑子=寅彦)」など)を、タッグを組んでコンビになっていたことが覗える。
 そして、この当時は、「漱石・寅彦(藪柑子)」とは、「俳句」とは疎遠になっていて「小説」の方に軸足を移していたということになる。そして、小宮豊隆は、当然のことながら、「漱石・寅彦(藪柑子)」の「小説」の『解説(評論)』に主力を投入していて、「俳句・俳諧(連句)」とは無縁であったといっても過言ではなかろう。
 これが、大正九年(一九二〇)当時になると、虚子と東洋城とが、大正五年(一九一六)の漱石が亡くなった年(十二月)の四月に、「国民新聞」の「国民俳壇」の選者交替(虚子→東洋城→虚子)を契機としての「虚子と東洋城との絶縁」状態で、この年に、東洋城が全力を傾注していた「渋柿」の主要同人(水原秋櫻子など)が、カムバックした虚子の「ホトトギス」へ移行するなど、大きく様変わりをしていた。
 これらのことと併せて、大正六年(一九一七)の、東洋城の「渋柿」の、「漱石先生追悼号」・「漱石忌記念号」、そして、『漱石俳句集(東洋城編・岩波刊)』の刊行などが、漱石最側近の「寅彦・東洋城・豊隆」とが、東洋城の「渋柿」上に、東洋城の年譜に、「寅彦、豊隆、『渋柿』に毎号執筆する」とあるとおり、その名を並べることになる。
 この時には、寅彦は、「藪柑子」時代の「小説」の世界とは絶縁していて、「小説家・藪柑子」ではなく「随筆家・冬彦」の、その「年譜」にあるとおり、「北村冬彦」という筆名が用いられることになる。
 この漱石の時代の「小説家・藪柑子」から、漱石没後の「随筆家・北村冬彦」への転換は、その寅彦の弟分にあたる「小宮豊隆」が大きく関与していたことが、次の『藪柑子集(小宮豊隆後記・岩波刊)』と『冬彦集(小宮豊隆後記・岩波刊)』との二著から覗える。

『藪柑子集(小宮豊隆後記・岩波刊)』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/978015/1/1

[標題
目次
自序
團栗/1
龍舌蘭/16
嵐/31
森の繪/45
枯菊の影/52
やもり物語/73
障子の落書/88
伊太利人/99
まじよりか皿/112
花物語/126
旅日記/160
先生への通信/242
自畫挿畫二葉
『藪柑子集』の後に 小宮豐隆/281 ]

『冬彦集(小宮豊隆後記・岩波刊)』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/969389/1/1

[標題
目次
自序
病院の夜明の物音/1
病室の花/7
電車と風呂/20
丸善と三越/30
自畫像/59
小さな出來事/93
鸚鵡のイズム/124
芝刈/130
球根/150
春寒/165
厄年とetc./173
淺草紙/193
春六題/201
蜂が團子を拵へる話/214
田園雜感/222
アインシュタイン/236
或日の經驗/262
鼠と猫/273
寫生紀行/305
笑/337
案内者/354
斷水の日/372
簔蟲と蜘蛛/385
夢/394
マルコポロから/400
蓄音機/407
亮の追憶/431
一つの思考實驗/453
文學中の科學的要素/479
漫畫と科學/490
『冬彦集』後話 小宮豐隆/499  ]
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