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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その十三) [忘れがたき風貌・画像]

その十三「数奇なる二人『伊丹(有岡)城主・荒木村重(父)と岩佐又兵衛(子)』周辺

荒儀摂津守村重.jpg

「太平記英雄伝 廿七 荒儀摂津守村重」歌川国芳筆 嘉永元年-2年(1848-49年)頃(「ウィキペディア」)

【時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕  天文4年(1535年)
死没  天正14年5月4日(1586年6月20日)
改名  十二郎、弥介(弥助)、村重、道糞、道薫(号)
戒名  秋英宗薫居士、心英道薫禅定門
墓所   大阪府堺市堺区南宗寺、兵庫県伊丹市荒村寺
官位   従五位下・摂津守、信濃守(受領名)
主君  池田勝正→池田知正→織田信長→豊臣秀吉
父母   父:荒木高村
兄弟   村重、野村丹後守室、吹田村氏
妻   池田長正娘、北河原三河守娘、川那部氏娘・だし
子   村次、村基、岩佐又兵衛ほか      】(「ウィキペディア」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-24

【(「参考その一」)「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜

荒木村重略年譜    https://www.touken-world.jp/tips/65407/
※高山右近略年譜   https://www.touken-world.jp/tips/65545/
※※黒田如水略年譜  https://www.touken-world.jp/tips/63241/
※※※結城秀康略年譜 https://www.touken-world.jp/tips/65778/
〇松平忠直略年譜 
https://meitou.info/index.php/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%B4
〇〇岩佐又兵衛略年譜
https://plaza.rakuten.co.jp/rvt55/diary/200906150000/
△千利休略年譜
https://www.youce.co.jp/personal/Japan/arts/rikyu-sen.html
●狩野内膳略年譜
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/nenpu/2knnz001.html

△1522年(大永2年)千利休1歳 和泉国・堺の商家に生まれる。
1535年(天文4年)荒木村重1歳 摂津国の池田家に仕えていた荒木義村の嫡男として生まれる。幼名は十二郎(後に[弥介]へ変更)。
△1539(天文8年)千利休18歳 北向道陳、武野紹鴎に師事。
※※1546年(天文15年)黒田如水1歳 御着城(兵庫県姫路市)の城主・小寺政職の重臣・黒田職隆の嫡男として生まれる。
※1552年(天文21年)高山右近1歳 摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)にて、高山友照の嫡男として生まれる。高山氏は、59代天皇・宇多天皇を父に持つ敦実親王の子孫。また高山氏は、摂津国・高山(大阪府豊能町)の地頭を務めていた。
※1564年(永禄7年)高山右近13歳 父・高山友照が開いた、イエズス会のロレンソ了斎と、仏僧の討論会を契機に入信。妻子や高山氏の家臣、計53名が洗礼を受け、高山一族はキリシタンとなる。高山右近の洗礼名ドン・ジュストは、正義の人を意味する。父はダリヨ、母はマリアという洗礼名を授かる。
※※1567年(永禄10年)黒田如水22歳 黒田家の家督と家老職を継ぎ、志方城(兵庫県加古川市)の城主・櫛橋伊定の娘であった光姫を正室として迎え、姫路城(兵庫県姫路市)の城代となる。
※※1568年(永禄11年)黒田如水23歳 嫡男・黒田長政が生まれる。
●1570年(元亀元年)狩野内膳1歳  荒木村重の家臣(一説に池永重光)の子として生まれる。
1571年(元亀2年)荒木村重37歳 白井河原の戦いで勝利。織田信長から気に入られ、織田家の家臣になることを許される。
※1571年(元亀2年)高山右近20歳 白井河原の戦いにおいて和田惟政が、池田氏の重臣・荒木村重に討たれる。高山右近は和田惟政の跡を継いだ嫡男・和田惟長による高山親子の暗殺計画を知る。
1573年(元亀4年/天正元年)荒木村重39歳 荒木城(兵庫県丹波篠山市)の城主となる。現在の大阪府東大阪市で起こった若江城の戦いで武功を挙げる。
※1573年(元亀4年/天正元年)高山右近22歳 荒木村重の助言を受け、主君・和田惟長への返り討ちを決行。高槻城で開かれた会議の最中に、和田惟長を襲撃し致命傷を負わせた。その際、高山右近も深い傷を負う。高山親子は荒木村重の配下となり、高槻城主の地位を高山右近が譲り受ける。
1574年(天正2年)荒木村重40歳 伊丹城(有岡城)を陥落させ、同城の城主として摂津国を任される。
※※※1574年(天正2年)結城秀康1歳 徳川家康の次男として誕生。母親は徳川家康の正室・築山殿の世話係であった於万の方で、当時忌み嫌われた双子として生まれる。徳川家康とは、3歳になるまで1度も対面せず、徳川家の重臣・本多重次と交流のあった、中村家の屋敷で養育された。
1575年(天正3年)荒木村重41歳 摂津有馬氏を滅ぼし、摂津国を平定。
1576年(天正4年)荒木村重42歳 石山合戦における一連の戦いのひとつ、天王寺の戦いに参戦。
1577年(天正5年)荒木村重43歳  紀州征伐に従軍。
1578年(天正6年)荒木村重44歳  織田信長に対して謀反を起こし、三木合戦のあと伊丹城(有岡城)に籠城。織田軍と1年間交戦する。
※1578年(天正6年)高山右近27歳 主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦いへと発展。
※※1578年(天正6年)黒田如水33歳 三木合戦で兵糧攻めを提案し、三木城(兵庫県三木市)を攻略した。織田信長に対して謀反を起こした荒木村重を説得するために、有岡城(兵庫県伊丹市)に向かうが、幽閉される。
〇〇1578年(天正6年)岩佐又兵衛1歳 摂津伊丹城で荒木村重の末子として誕生。父荒木村重が織田信長に叛く。
1579年(天正7年)荒木村重45歳 妻子や兵を置いて、突如単身で伊丹城(有岡城)を脱出。嫡男の荒木村次が城主を務めていた尼崎城へ移る。そのあと、織田信長からの交渉にも応じず出奔。自身の妻子を含む人質が処刑される。
※1579年(天正7年)高山右近28歳 有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣一枚で、単身織田信長のもとへ投降。その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。
※※1579年(天正7年)黒田如水34歳 有岡城が陥落し、救出される。
〇〇1579年(天正7年)岩佐又兵衛2歳 伊丹城落城。乳母に救い出され奇跡的に逃げ延びる。母ら一族、京の六条河原で処刑。
△1579年(天正7年)千利休58歳 織田信長に茶頭として雇われる。 
●1579年(天正7年)狩野内膳10歳 主家(荒木村重)が滅亡し父池永重光は諸国を流浪。重郷(内膳)は画を好み狩野松栄門人となる。
1581年(天正9年)荒木村重47歳 花隈城(神戸市中央区)に移り、花隈城の戦いが勃発。その後、毛利家へ亡命。
※1581年(天正9年)高山右近30歳 織田信長の使者として、鳥取城(鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。
1582年(天正10年)荒木村重48歳 本能寺の変で織田信長が亡くなると、大坂の堺(現在の大阪府堺市)に移る。大坂では茶人として復帰し、千利休とも親交があったとされる。豊臣秀吉を中傷していたことが露呈し、処罰を恐れ荒木道薫と号して出家する。
※1582年(天正10年)高山右近31歳 甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒を務め、明智光秀軍を破る。
△1582年(天正10年)千利休58歳 本能寺の変、以降・豊臣秀吉に仕える。
※1583年(天正11年)高山右近32歳 柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで、豊臣家の勝利に貢献する。
※※1583年(天正11年)黒田如水38歳 大坂城(大阪市中央区)の設計を担当し、豊臣政権下で普請奉行となる。キリスト教の洗礼を受けて、洗礼名「ドン=シメオン」を与えられる。
※※※1584年(天正12年)結城秀康11歳  3月、豊臣秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍による小牧・長久手の戦いが勃発。講和の条件として、戦後、結城秀康は豊臣家の養子として差し出される。このとき結城秀康は、徳川家康からの餞別として名刀「童子切安綱」を授かっている。12月、元服を迎える。
※1585年(天正13年)高山右近34歳 歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
※※1585年(天正13年)黒田如水40歳 四国攻めで軍監として加わって長宗我部元親の策略を破り、諸城を陥落。
△1585年(天正13年)千利休64歳 正親町天皇から「利休」の居士号を与えられる。
1586年(天正14年 )荒木村重52歳 5月4日、堺にて死去。
※※1586年(天正14年)黒田如水41歳 従五位下・勘解由次官に叙任。九州征伐でも軍監を担当し、豊前国(現在の福岡県東部)の諸城を落とす。
△1586年(天正14年)千利休65歳 黄金の茶室の設計、聚楽第の築庭に関わる。
※1587年(天正15年)高山右近36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
※※※1587年(天正15年)結城秀康14歳  九州征伐にて初陣を飾る。豊前国(現在の福岡県東部)の岩石城(福岡県田川郡)攻めで先鋒を務め、日向国(現在の宮崎県)の平定戦でも戦功を遂げる。
△1587年(天正15年)千利休66歳 北野大茶会を主管。
〇〇1587年(天正15年) 岩佐又兵衛10歳 秀吉主催の北野の茶会に出席?
●1587年(天正15年) 狩野内膳18歳 狩野松栄から狩野姓を名乗ることを許される。
※※1589年(天正17年)黒田如水44歳 広島城(広島市中区)の設計を担当する。黒田家の家督を黒田長政に譲る。
※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。
△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。
※※1592年(天正20年/文禄元年)黒田如水47歳  文禄の役、及び慶長の役において築城総奉行となり、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の設計を担当する。
〇〇1592年(天正20年/文禄元年)岩佐又兵衛 15歳 この頃、織田信雄に仕える。狩野派、土佐派の画法を学ぶ。絵の師匠は狩野内膳の説があるが不明。
●1592年(天正20年/文禄元年)狩野内膳 23歳 狩野松栄没。永徳(松栄の嫡男)の嫡男・光信(探幽は甥)、文禄元年(一五九二)から二年にかけて肥前名護屋に下向、門人の狩野内膳ほか狩野派の画家同行か?(『南蛮屏風(高見沢忠雄著)』)
※※1593年(文禄2年)黒田如水48歳 剃髪して出家。如水軒円清の号を名乗る。
〇1595年(文禄4年)松平忠直1歳 結城秀康の長男として摂津東成郡生魂にて生まれる。
生母は秀康の側室、中川一元の娘(清涼院、岡山)。幼名は仙千代。
※1600年(慶長5年)高山右近49歳 関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦いでは東軍に属し、丹羽長重を撃退する。
※※1600年(慶長5年)黒田如水55歳 関ヶ原の戦いが起こる。石垣原の戦いで、大友義統軍を破る。
※※※1600年(慶長5年)結城秀康27歳 関ヶ原の戦いの直前、徳川家康と共に会津藩(現在の福島県)の上杉景勝の討伐へ出陣。道中、石田三成挙兵を知り、徳川家康は西へ引き返す。一方で結城秀康は宇都宮城に留まり、上杉景勝からの防戦に努めた。関ヶ原の戦い後に徳川家康より、越前・北の庄城(福井県福井市)68万石に加増される。
〇1603年(慶長8年)松平忠直7歳 江戸参勤のおりに江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に初対面している。秀忠は大いに気に入り、三河守と呼んで自らの脇に置いたという。
※※1604年(慶長9年)黒田如水59歳 京都の伏見藩邸で死去する。
※※※1604年(慶長9年)結城秀康31歳 結城晴朝から家督を相続し、松平に改姓。
〇〇1604年(慶長9年)岩佐又兵衛 27歳 秀吉の七回忌、京で豊国祭礼。
●1604年(慶長9年)狩野内膳36歳 秀吉七回忌の豊国明神臨時祭礼の「豊国祭礼図」を描く。
〇1605年(慶長10年)松平忠直 9歳 従四位下・侍従に叙任され、三河守を兼任する。
※※※1606年(慶長11年)結城秀康33歳  徳川家から伏見城(京都府京都市伏見区)の居留守役を命じられて入城するも、病に罹り重篤化する。
●1606年(慶長11年)狩野内膳37歳 1606年、片桐且元、内膳の「豊国祭礼図」を神社に奉納(梵舜日記)。弟子に荒木村重の子岩佐又兵衛との説(追考浮世絵類考/山東京伝)もある。
※※※1607年(慶長12年)結城秀康34歳  越前国へ帰国し、のちに病没。
〇1607年(慶長12年)松平忠直 13歳 結城秀康の死に伴って越前75万石を相続する。
〇1611年(慶長16年)松平忠直 17歳 左近衛権少将に遷任(従四位上)、三河守如元。
この春、家康の上京に伴い、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。9月には、秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎える。
〇1612年(慶長17年)松平忠直 18歳 重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部、盛次)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。
〇1613年(慶長18年)松平忠直 19歳 家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに本多富正が越前の国政を執ることとされ、加えて本多富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは、騒動が重なるのは、忠直がまだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである。
〇〇1613年(慶長18年) 岩佐又兵衛 37歳 この頃、舟木本「洛中洛外図屏風」。
※1614年(慶長19年)高山右近63歳 キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
〇1614年(慶長19年)松平忠直 20歳 大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げている。家康は孫の活躍を喜び、「初花肩衝」(大名物)を与えている。また秀忠も「貞宗の御差添」を与えている。
※1615年(慶長20年/元和元年)高山右近64歳 前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。
〇1615年(慶長20年/元和元年)松平忠直 21歳 従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
〇〇1616年(元和2年)岩佐又兵衛39歳 この頃、京から北之庄に移住。徳川家康没。狩野内膳没。
●1616年(元和2年)狩野内膳47歳 京都で没。
〇〇1617年(元和3年)岩佐又兵衛40歳 狩野探幽が江戸に赴任。この間、「金谷屏風」・「山中常盤」など制作か。
〇1621年(元和7年)松平忠直 27歳 病を理由に江戸への参勤を怠り、また翌元和8年(1622年)には勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。
〇1623年(元和9年)松平忠直 29歳 将軍・秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母清涼院の説得もあって隠居に応じ、敦賀で出家して「一伯」と名乗った。5月12日に竹中重義が藩主を務める豊後府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。豊後府内藩では領内の5,000石を与えられ、はじめ海沿いの萩原に住まい、3年後の寛永3年(1626年)に内陸の津守に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原からの海路での逃走を恐れたためとも言う。竹中重義が別件で誅罰されると代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となったという。
〇〇1623年(元和9年)岩佐又兵衛46歳 松平忠直、豊後に配流。
〇〇1624(寛永元年)岩佐又兵衛 47歳 忠直を引き継ぐ松平忠昌が福井に改称。この間、「浄瑠璃物語絵巻」なと。
〇〇1637年(寛永14年)岩佐又兵衛 60歳 福井より、京都、東海道を経て江戸に赴く。
〇〇1638年(寛永15年)岩佐又兵衛61歳 川越仙波東照宮焼失。
〇〇1639年(寛永16年)岩佐又兵衛 62歳 家光の娘の千代姫、尾張徳川家に嫁ぐ
〇〇1640年(寛永17年)岩佐又兵衛 63歳 仙波東照宮に「三十六歌仙額」奉納。
〇〇1645年(正保2年)岩佐又兵衛 68歳 ・松平忠昌没。
〇1650年(慶安3年) 松平忠直死去、享年56。
〇〇1650年(慶安3年)岩佐又兵衛 江戸にて没す。享年73。   】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-19

【 ここで、後に、「高山右近」は「利休七哲」の一人として、「前田利長・蒲生氏郷・細川忠興(三斎)・古田織部・牧村兵部・芝山監物」と共に「高山南坊(右近)」の名で、その名を連ねるが(「ウィキペディア」所収『『茶道四祖伝書』)、この当時は、「千利休」の前号の「千宗易」と親しかった「荒木村重」の部下の一人としての「千利休」とに連なる一人ということになる(織田信長の没後、荒木村重は豊臣秀吉の下で茶人として復帰し、「利休十哲」の一人として名をとどめている。)
 そして、この「高山右近」は、当時、ポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味する「ジュスト(ユストとも)」を洗礼名とするキリシタン武将の一人である。とすれば、その主家筋に当たる「荒木村重」も、いわゆる「キリシタン大名(武将)」の一人であったかというと、「一族郎党を見殺しにした」という汚名を拭い去ることも出来ずに、時代に翻弄され続けた敗残の武将の五十二年の生涯であったといえる。
 しかし、下記のアドレスのように、「荒木村重もクリスチャンであったから、有岡城籠城の際、説得に来た黒田如水を殺さずに入牢にした」のであろうと、その「自死」をしない一生と共に、己の信念を貫いた「クリスチャン」的な生涯であったという見方もあり得るであろう。

https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/005/01.html

 この荒木村重の、たった一人の遺児である「岩佐又兵衛」は、生前に、この茶人としての「道薫」(自己卑下的な「道糞」から秀吉が改名したとされる「道薫」の茶号)と、一度だけ対面したといわれているが、このときの二人は、下記のアドレスなどでは、終始ほぼ無言だったと伝えられている。

https://www.touken-world.jp/tips/46496/

 そして、この荒木村重は、天正十四年(一五八六)に堺で没し、千利休が修行したとされる「南宗寺」(臨済宗大徳寺派の寺院)に葬られたと伝えられているが、その「南宗寺」には村重の墓は現存せず、その位牌は、村重が籠城した「有岡城」のあった伊丹市の「荒村寺」にある。
 この荒木村重に関しては、次のアドレスの「荒木村重」が参考となる。

http://bunkazai.hustle.ne.jp/jinbutu/jinbutu_photo/arakimurashige.pdf

 この荒木村重が没した翌年の、天正十五年(一五八七)の「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」(京都北野天満宮境内において豊臣秀吉が催し、千利休が主管した大規模な茶会)が開催され、当時十歳であった岩佐又兵衛も誰(実父の茶人「道薫」に連なる茶人?)かの供をして出席したことが、又兵衛の回想録の『廻国道之記』に、「わらわべの時なれば夢のやうにあれど、少しおぼえ侍る」と記されている。 】

月見西行図(全体図).jpg

岩佐又兵衛筆「月見西行図(全体図)」群馬県立近代美術館蔵(戸方庵井上コレクション)
紙本墨画淡彩 一幅 101.3× 33.0 

月見西行図(部分図).jpg

岩佐又兵衛筆「月見西行図(部分図)」群馬県立近代美術館蔵(戸方庵井上コレクション)

【 手に笠と杖、背には笈を背負った西行法師が、旅の途中で月を見上げる姿を描く。上部には「月見はと 契りていてし ふる郷の 人もやこよひ 袖ぬらすらん」と西行の歌が書き込まれている。「布袋図」と同じ篆文二重円印が捺されているが外郭は狭く、制作は寛永十四(一六三七)年の江戸出府後と考えられている。一人たたずむ西行の姿が、妻子を残し江戸へ向かう又兵衛と重ね合わされ鑑賞されてきた。 】(『別冊太陽247 岩佐又兵衛』所収「作品解説・戸田浩之)」

 この「月見西行図」の全体図は、下記のとおりだが、この上部に書き込まれていたる、「月見はと 契りていてし ふる郷の 人もやこよひ 袖ぬらすらん」(西行)の歌は、『新古今和歌集』の「巻第十 羇旅歌」に、次のとおり収載されている。

939 月見ばと 契りおきてしふるさとの 人もや今宵袖ぬらすらむ

【 月を見たら思おう約束しておいた故郷の人も、ひょっとしたら、今夜は わたしと同じように月を見て、涙で袖を濡らしていることであろか。 】(『日本古典文学全集26 新古今和歌集(校注・訳 峯村文人)』)

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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その十二) [忘れがたき風貌・画像]

その十二「数奇なる二人『越前福井藩主・結城(松平)秀康(父)と松平忠直(子)』周辺

結城秀康像.jpg

「結城秀康像」(原本は舜国洞授賛、子孫所蔵。写真はそれを東京大学史料編纂所が模写したもの)(「ウィキペディア」)

【時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕  天正2年2月8日(1574年3月1日)
死没  慶長12年閏4月8日(1607年6月2日)
改名  松平於義伊(於義丸/義伊丸/義伊松)(幼名)→羽柴秀康(初名)→結城秀康→秀朝→秀康→松平秀康
別名  越前卿、越前黄門、越前宰相、結城少将、徳川三河侍従(通称)
戒名  孝顕院殿三品黄門吹毛月珊大居士、浄光院殿森岩(巌)道誉運正大居士
墓所  東京都品川区南品川の海晏寺、福井県福井市田ノ谷町の大安寺、和歌山県伊都郡高野町高野山の高野山奥の院
官位  従五位下・侍従、三河守、従四位下・左近衛権少将、従三位・権中納言、正三位、贈正二位
幕府  江戸幕府
主君  豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠
藩  下総結城藩主、越前北荘藩主
氏族  徳川氏→羽柴氏→結城氏→越前松平宗家
父母  父:徳川家康、母:於古茶(長勝院) 養父:豊臣秀吉→結城晴朝
兄弟  松平信康、亀姫、督姫、秀康、永見貞愛、徳川秀忠、松平忠吉、正清院、武田信吉、
松平忠輝、松平松千代、松平仙千代、徳川義直、徳川頼宣、徳川頼房、市姫ら
妻  結城晴朝養女鶴子(江戸鶴子 )、岡山、駒、奈和、品量院、月照院
子 治枝、松姫(早逝)、忠直、忠昌、喜佐姫、直政、吉松、直基、直良、呑栄ら 】(「ウィキペディア」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-24

馬藺指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」(左隻第二扇上部) → A-1図

【 この巨大な「指物」(鎧の受筒に立てたり部下に持たせたりした小旗や飾りの作り物。旗指物。背旗)の「馬藺」(あやめの一種である馬藺の葉をかたどった檜製の薄板を放射状に挿している飾り物)の母衣武者(A-1図)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)の「馬藺」の指物を背にした総大将「徳川家康」の見立てと解すると、「徳川家康」という見立ても許されるであろう。

 同様に、この「軍配」(武将が自軍を指揮するのに用いた指揮用具。軍配団扇 の略。)の指物を背にした母衣武者(A-2図)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)の」軍配」を手にしている武将が「徳川秀忠」の見立てとすると、これまた、「徳川家忠」と見立てることは、決して、無理筋ではなかろう。 

軍配指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の二番目の武者」(左隻第二扇上部) → A-2図

羽指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の三番目の武者」(左隻第二扇上部) → A-3図

 問題は、この三番目の母衣武者なのである。この背にある指物は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)には出て来ない。そこ(E図)での三番目の武者は、この羽色をした母衣を背にした武将で、その武将は、この(A-3図)のような、甲冑の「胴」に「日の丸」印のものは着用していない。
 そして、この「日の丸」印は、上記の「A-1図」では、「徳川家康」と見立てた母衣武者の左脇に、「日の丸」印の「陣笠」(戦陣所用の笠の称)に、「金色」のものが記されている。
 その「A-2図」では、「徳川秀忠」と見立てた母衣武者の右側で、今度は「団扇」に「日の丸」印が入っている。
 さらに、「B図」を仔細に見て行くと、「A-1図」の「徳川家康」と「A-2図」では、「徳川秀忠」周囲の「陣笠」は、「赤い日の丸」印と、「金色の日の丸」印とが、仲良く混在しているのに比して、この「A-3図」の母衣武者周囲の「陣笠」には、次の図(「A-4図」)のように、「無印」か「日の丸印」ではないもので、さらに、その左端の上部の男性の手には、「日の丸印」の「扇子」が描かれている。

日の丸胴母衣武者周囲.jpg

「三番目の母衣武者周辺」(左隻第二扇上部) → A-4図

 この「A-4図」の母衣武者(「A-3図」)集団と、「A-1図」(「徳川家康」の見立て)と「A-2図」(「徳川秀忠」の見立て)集団とは、別集団という雰囲気なのである。
 そして、この「A-3・4図」の母衣武者の甲冑の胴の「日の丸」と、「A-4図」の左端上部の「祭礼関係者?」の持つ扇子の「日の丸」は、「徳川幕府の天下統一」の「江戸幕府の公用旗」(「ウィキペディア」)に類するもののような印象なのである。
 その上で、この「A-3・4図」の母衣武者は、例えば、「徳川四天王」(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)の家臣団ではなく、「徳川親藩大名」(「徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩」)の、下記の藩主の一人という雰囲気を有している。

尾張徳川家(尾張藩)
紀州徳川家(和歌山藩)
水戸徳川家(水戸藩)
越前松平家(福井藩|松江藩|津山藩|明石藩|前橋藩 → 川越藩 → 前橋藩)
会津松平家(会津若松藩)
越智松平家(館林藩 → 棚倉藩 → 館林藩 → 浜田藩)

 このうちで、この岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」が作成された、「大阪冬の陣」(慶長十九年=一六一四)・「大阪夏の陣」(元和元年=一六一五)に、「徳川家康・同秀忠」と共に参戦した藩主は、十三歳にして越前六十七万石を継承した、越前福井藩主・松平忠直が挙げられるであろう。

(参考)「松平忠直」周辺

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao3.htm

「忠直をめぐる動き」

1595(文禄4)
 結城秀康の長男、長吉丸(忠直)誕生
1601(慶長6)
 秀康、越前入国。北庄城の改築始まる
1607 秀康、北庄で死去
忠直、越前国を相続
1611 勝姫と婚姻
1612 家臣間の争論、久世騒動起きる
1615(元和元)
 大坂夏の陣で戦功、徳川家康から初花の茶入れたまわる。
 長男仙千代(光長)北庄に誕生
1616 家康、駿府で死去
1618 鯖江・鳥羽野開発を命じる
1621 参勤のため北庄を出発も、今庄で病気となり北庄に帰る。
仙千代、忠直の名代として江戸へ
1622 参勤のため北庄たつも関ケ原で病気再発、北庄に帰る。
永見右衛門を成敗
1623 母清涼院通し豊後国へ隠居の上命受ける。3月北庄を出発、
5月豊後萩原に到着
1624(寛永元)
 仙千代、越後高田に転封。弟忠昌が高田より越前家相続。
 北庄を福井と改める
1626 忠直、豊後萩原から同国津守に移る
1650(慶安3)
 9月10日、津守で死去。56歳。10月10日、浄土寺で葬儀   】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-04

後妻打ち.jpg

「二条城堀角の『後妻(うわなり)打ち』」(「舟木本」左隻第三・四扇)→「舟木本中心軸その四図(左隻・中心軸視野外)」

【 後妻打ち(p179-182)
 慶長末~元和年間ころを中心とする江戸時代初頭の、暴力的な気風が感じられる場面は、刀や槍を取ってのチャンバラ的な乱闘シーン以外にもある。「舟木本」の左隻第三~四扇の下部、二条城の堀の角あたりでは、鬼のような形相をした女が、赤い服の女の髪を左手に巻き付けて、右手で振り上げた擂り粉木のような棒で打ちすえ、双方から止めに入ろうとする男女と老婆が駆けついてつけている(「舟木本中心軸その四図(左隻・中心軸視野外)」)。
  (中略)
 では「舟木本」で、なぜよりによって二条城のそばにこんな暴力的場面を描くのだろうか。二条城は言うまでもなく徳川家の象徴であり、それは徳川家の内部事情に由来していると考えられないだろうか。というのは、松平忠直の父で、福井藩=越前松平家の初代となった結城秀康は、秀忠の兄でありながら、妾であった母が正妻築山殿の迫害を受け冷遇されたという背景があるからである。そのような将軍家に対する複雑な感情が、先妻が後妻を打擲(ちょうちゃく)するという、後妻打ちにやつした場面として描かれているのではないだろうか。松平忠直は、大阪の陣でも活躍しながら恩賞に不満を抱いていたと伝えられ、徳川方でありながら、京都の統治者である将軍家に対しては必ずしも好意的でない。
 そのような立場と感情が、大仏近くの乱闘場面と対になる暴力場面という形でここに表現されていると考えられないであろうか。
 そのように考えたもう一つの理由は、先述のように、四条河原で興行されている舞台の一つに人形操りの「山中常盤」が描かれていることである。源義経の母である常盤が、義経を訪ねる旅の途中で強盗に惨殺され、義経が復讐する物語であり、画中の隠れた暴力場面でもある。岩佐又兵衛は、その絵巻物(凄惨な場面で有名)も後に福井で制作しているが、荒木村重の子供であった岩佐又兵衛(岩佐は母方)は、村重が信長に背いた際に母は殺されていため、「舟木本」にこの題目が描かれていることには、その思いが反映していることは疑いない。そのような画家の感情があらわれているのなら、より重要な発注者の思いが描き込まれていてもおかしくない。岩佐又兵衛を招いた松平忠直は、お互いにの境遇に相通ずるものを感じていたのではなかろうか。 】(『洛中洛外図屏風 つくられた〈京都〉を読み解く(小島道裕著)・ 歴史文化ライブラリー422 (p172-182)』の要点抜粋。一部、記述箇所の
表記と省略部分を修正・アドレスなど付記している。)
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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その十一) [忘れがたき風貌・画像]

その十一「『越前・福井での遭遇』(藩主・松平忠直と絵師・岩佐又兵衛)」周辺

岩瀬又兵衛.jpg

「伝岩佐又兵衛(自画像)・MOA美術館蔵」(ウィキペディア)
(「又兵衛の子孫に伝わった自画像。原本ではなく写し、あるいは弟子の筆と見る意見もあ
る。岩佐家では又兵衛の命日にこれを掛けて供養したという」―『別冊太陽247 岩佐又兵
衛』 所収「岩佐又兵衛の生涯(畠山浩一)」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-25

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-29

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA
美術館蔵)の「 美濃の国、山中の宿にたどり着いた常盤は、盗賊に襲われて刀で胸を突き
刺される。侍従は常盤を抱き、さめざめと泣く(第四巻)」 → B図
http://www.moaart.or.jp/?event=matabe-2019-0831-0924

山中常盤四.jpg

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA
美術館蔵)の「常盤は宿の主人夫妻に自らの身分を明かし、牛若への形見を託す」(第五巻)
→ C図

宿の老夫婦に看取られて常盤の死.jpg

【 この場面は夙に知られている。『岩佐又兵衛(辻惟雄・山下裕二著)・とんぼの本・新潮
社』の表紙を飾り、その副題は「血と笑いとエロスの絵師」である。その内容は、次の二篇
から構成されている(一部、要点記述)。

第一篇(人生篇)― その画家卑俗にして高貴なり (辻惟雄解説)
その一    乱世に生まれて 
その二    北の新天地で花ひらく
その三    江戸に死す
第二篇(作品篇)― 対談(辻惟雄+山下裕二 )
 その一 笑う又兵衛 ― 古典を茶化せ! 合戦も笑い飛ばせ!
 その二 妖しの又兵衛 ― 淫靡にして奇っ怪、流麗にしてデロリ、底知れぬカオス
 その三 秘密の又兵衛 ―「浮世又兵衛」(吃又兵衛=『傾城反魂香』)
 その四 その後の又兵衛― 又兵衛研究の総決算ここにあり!→『岩佐又兵衛―浮世絵
をつくった男の謎』(辻惟雄著・文春新書)→ 表紙=C図)

 これらに出てくる、「血と笑いとエロス」「淫靡にして奇っ怪、流麗にしてデロリ、底知れ
ぬカオス」というネーミングを有する、これらの「岩佐又兵衛風古浄瑠璃絵巻群』(辻惟雄
の命名)は、その作風を、次のように評されることになる(『岩佐又兵衛と松平忠直―パト
ロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P25-27「『又兵衛風絵巻群』についての辻仮
説」要点記述)。

一 「荒々しいサディズムが横溢している。」
二 田中喜作によって「気うとい物凄さ」と評された一種の「妖気」も、「又兵衛風絵巻群」の「モノマニアックな表出性」にそのままつながる。
三 「又兵衛風絵巻群」の「派手な原色の濫用、表出的要素の誇張、人物の怪異な表情、非
古典的な卑俗味といった要素」は、主として外的な諸要因によるものであり、それと又兵衛
自身の特異な内的素質の相乗作用によって出来上がったものである。
 
 また、「又兵衛風絵巻群」の共通点として、次の七点が列挙される(『黒田・前掲書』P25-
27「二冊の『岩佐又兵衛』」要点記述)

一 長大であること。
二 金銀泥や多様性の顔料を使った原色的色調による華やかな装飾性。
三 同じ場面の執拗な反復。
四 詞書の内容の細部にわたる忠実な絵画化。
五 劇的場面に見られる詞書の内容を越えたリアルでなまなましい表現性。
六 残虐場面の強調。
七 元和・寛永期の風俗画に共通する卑俗性。】

画像2.jpg

松平忠直像(浄土寺蔵)(「ウィキペディア」)

【時代 江戸時代前期
生誕  文禄4年6月10日(1595年7月16日)
死没  慶安3年9月10日(1650年10月5日)
改名  仙千代(幼名)→忠直→一伯(号)
別名  幼名:長吉丸(国若丸とも)
戒名  西巌院殿前越前太守源三位相公相誉蓮友大居士、西巌院殿相誉蓮友一泊大居士
墓所  大分県大分市の浄土寺、大分県大分市の朝日寺、和歌山県伊都郡高野町の金剛峯寺
東京都文京区の浄土寺、福井県鯖江市の長久寺、東京都品川区の海晏寺
官位  従四位下・侍従、三河守、右近衛権少将、従四位上・左近衛権少将、従三位・参議、
左近衛権中将、越前守
幕府  江戸幕府
主君  徳川秀忠
藩  越前北荘藩主
氏族  越前松平宗家
父母  父:結城秀康 母:清涼院(中川一元娘)
兄弟  忠直、忠昌、喜佐姫、直政、吉松、直基、直良、呑栄
妻 正室:勝姫(徳川秀忠三女) 側室:蕙林院ほか
子 光長、寧子、鶴子、女子、永見長頼、永見長良、勘子  】(「ウィキペディア」)
参内する松平忠直.jpg

「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部) → B図
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26

【この図(B図)は、「(A図)」の上部に描かれているものである。この「(B図)」の、『洛
中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の記述は、次のものである。

≪これで行列は終わらない(註・「(A図)」の行列)。金雲の上には、二騎の騎馬を中心にし
て、二十人近い白丁(註・下級武士)が駆け出している。かれらは、おそらく牛車の後に付
き従っている白丁なのだ。≫

ここで、「(A図)」(「徳川家康・義直・頼宣」麾下の「白丁」の「静」なるに対し、この騎
馬の若武者の「白丁」は、前回の「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の「取り巻き」
と同じように「動」なる姿態で、そして、その太鼓の上部の「日の丸」の扇子を持った男
性と同じように、この「(B図)」でも「扇子」を持った、「白丁」よりも身分の高いような
男性が描かれている。
 これらのことからして、その「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の「母衣武者」を
「松平忠直」と見立てたことと同じように、この騎馬の貴公子は、「松平忠直」その人と見
立てることは、極めて自然であろう。

日の丸胴母衣武者周囲.jpg

「三番目の母衣武者周辺」(左隻第二扇上部) → A-4図

 ここまでのことを整理すると、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』
では、慶長十六年(一六一一)八月(これは三月が正しいか?)に、徳川家康は、「五郎太
丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、後の紀伊の徳川義宣)」を元服させて、その
二人を伴って叙任の参内をしている。」
 この時に、「(A図)」(「牛車の参内行列(家康・義直・頼宣)」)の「牛車」に「徳川家康」、
そして、二挺の「手輿(たごし)」に、「五郎太丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、
後の紀伊の徳川義宣)」が乗っている。
 さらに、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』に
おいて、この参内の時には、十七歳の「松平忠直」(越前藩主)も、「祖父家康に連れられて
参内」しており、これは、「忠直の人生にとって最初で最後の晴れやかな出来事であった。
家康の孫、秀康の子であることを強烈に意識したことであろう。清和源氏新田氏の門葉
(子孫)であることを自覚した機会でもあったに違いない」ということになる(この書で
は、上記の抜粋の通り、慶長十六年(一六一一)三月になっており、それは、『大日本史
料』第十二巻之七の記述が「三月」で、前書の「八月」は『大日本史料』第十二巻之四に
因っており、その違いのようである)。
 そして、この時には、「(B図)」(「家康と共に参内する松平忠直」))の通り、松平忠直は
「従四位上左近衛少将」の騎馬の英姿で描かれているということになる。 】

 これが、岩佐又兵衛が、越前藩主・松平忠直の招聘により、越前北ノ庄の真言寺院、興宗
寺(本願寺派)の僧「心願」を介して、それまで住み慣れた京から越前へと移住し、その松
平忠直から依頼された、所謂、「又兵衛絵巻群」の、その絵巻の中で、次のように変貌して
結実してくることになる。

山中常盤物語絵巻.jpg

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA
美術館蔵 )の「山中常盤物語絵巻・第11巻(佐藤の館に戻った牛若は、三年三月の後、十
万余騎をひきいて都へ上がる)」→ C図
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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その十) [忘れがたき風貌・画像]

その十 「二人のキリシタン大名(勝者の将・黒田如水と敗者の将・木下長嘯子)」周辺

如水居士画像.jpg

如水居士画像(崇福寺蔵) (「ウィキベテア」)

【時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕  天文15年(1546)
死没  慶長9年3月20日(1604年4月19日)
改名   小寺万吉(幼名)、祐隆、孝隆、黒田孝高[注釈 1]、如水円清(法名)
別名   官兵衛(通称)、小官、黒官(略称)、如水軒(号)
神号   水鏡権現
戒名   龍光院殿如水円清大居士
霊名   シメオン
墓所  福岡市博多区千代の崇福寺、京都市北区の大徳寺塔頭龍光院、和歌山県伊都郡高野町の高野山奥の院
官位  従五位下、勘解由次官、贈従三位
主君   小寺政職→織田信長→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康
藩   豊前中津藩主
氏族   小寺氏、黒田氏(自称宇多源氏)
父母  父:黒田職隆
母:  小寺政職養女
兄弟  孝高、利高、香山妙春、妙円尼、利則、直之、心誉春勢、浦上清宗室
妻   正室:櫛橋光
子   長政、熊之助、一成、松寿丸   】(「ウィキベテア」)

木下長嘯子像.jpg

木下長嘯子像(模写)(「ウィキベテア」)

【時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕  永禄12年(1569年)
死没   慶安2年6月15日(1649年7月24日)
改名  大蔵(幼名)、勝俊、木下長嘯子
別名  龍野侍従、式部大輔、若狭少将、若狭宰相(通称)、長嘯、長嘯子、挙白、天哉、
    夢翁、西山樵夫、西山樵翁(俳号)
戒名   大成院殿前四品羽林天哉長嘯居士
霊名  ペテロ
墓所   京都府京都市東山区の高台寺
官位  従五位下侍従、従四位下式部大夫、参議、左近衛権少将
主君  豊臣秀吉
藩   備中足守藩主
氏族   木下氏(杉原氏)、羽柴氏(豊臣氏)、木下氏
父母  木下家定、某氏
兄弟   勝俊、利房、延俊、俊定、小早川秀秋、俊忠、秀規、周南紹叔
妻   正室:うめ(宝泉院)(森可成の娘、 側室:複数
子   天祥院(武田信吉室)、智光院(山崎家治室)、女[3](阿野公業室)、春光院万花紹
    三、勝信(橋本勝信) 】(「ウィキベテア」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-26

両脇を支えられた酔っ払い.jpg

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(右隻第四・五扇中部) → A-1図

【 この「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」の正体は何者なのか? この男は、次の「祇園林の乱痴気騒ぎ」(右隻第三扇)にも登場して来る。】

【 現在の八坂神社は、明治元年(一八六八)の神仏分離に際して改められた名称で、それ以前は「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていた。この「感神院」の扁額を掲げた鳥居は、「祇園感神院」(「祇園社」・「祇園神社」・「八坂神社」)の鳥居で、その松林(祇園林)のそこかしこで宴会(「乱痴気騒ぎの酒宴」)が行われている。
 その「感神院」の扁額の左上に、両脇を支えられた「へべれけ野郎」(A-2図)は、「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(A-1図)であることは間違い無かろう。】

祇園社.jpg

「祇園林の乱痴気騒ぎ・へべれけ野郎」(右隻第三扇上部) → A-2図

祇園社の北政所.jpg

「祇園感神院」の鳥居(扁額)の下を潜る一行(「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね一行?)」)(右隻第三扇中部) → A-3図

【 そして、この「感神院」の扁額の鳥居の下に、何やら、ここにも、「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」一行の姿らしきものが描かれている。】

【 「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」は、実子がいなかったせいもあり、一族の子女を可愛がり、特に兄・木下家定の子供(上記B-2図の「勝俊(長嘯子)・利房・延利・俊定・秀秋(小早川)」)らには溺愛と言っていいほどの愛情を注いでいる。
 家定没後、その所領を木下利房と木下勝俊(長嘯子)に分割相続させようとした家康の意向に反し、勝俊が単独相続できるように浅野長政を通じて徳川秀忠に願い出る画策をしたため、家康の逆鱗に触れ結局所領没収の事態を引き起こしている。
 これらは、高台院と家康とが、必ずしも一般的に伝えられているような相互に親密な関係ではなかったことを証明することの一端なのかも知れない。
 それに引き換え、高台院と徳川秀忠との関係は、「平姓杉原氏御系図附言纂」によると、秀忠が十二歳の時に家康から秀吉に人質として送られた際、身柄を預かった「高台院と孝蔵主」が秀忠を手厚くもてなし(原文では「誠にご実子の如く慈しみ給う」)など、その恩義からか、高台院を手厚く保護しており、上洛するたびに高台院を訪ねているなど、家康との関係以上に、相互に親しい間柄であったことが伺える。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-20

木下長嘯子.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十八 木下長嘯子」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1486

【 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html

木下長嘯子(きのしたちょうしょうし) 永禄十二~慶安二(1569~1649) 号:挙白堂・天哉翁・夢翁

 本名、勝俊。木下家定の嫡男(養子)。豊臣秀吉夫人高台院(北政所ねね)の甥。小早川秀秋の兄。秀吉の愛妾松の丸と先夫武田元明の間の子とする伝もある。歌人木下利玄は次弟利房の末裔。幼少より秀吉に仕え、天正五年(1587)龍野城主に、文禄三年(1594)若狭小浜城主となる。秀吉没後の慶長五年(1600)、石田三成が挙兵した際には伏見城を守ったが、弟の小早川秀秋らが指揮する西軍に攻められて城を脱出。
 戦後、徳川家康に封地を没収され、剃髪して京都東山の霊山(りょうぜん)に隠居した。本居を挙白堂と名づけ、高台院の庇護のもと風雅を尽くした暮らしを送る。高台院没後は経済的な苦境に陥ったようで、寛永十六年(1639)頃には東山を去り、洛西小塩山の勝持寺の傍に移る。この寺は西行出家の寺である。慶安二年六月十五日、八十一歳で没。
 歌は細川幽斎を師としたが、冷泉流を学び、京極為兼・正徹などに私淑した。寛永以後の地下歌壇では松永貞徳と並称される。中院通勝・冷泉為景・藤原惺窩らと親交があった。門弟に山本春正・打它公軌(うつだきんのり)・岡本宗好などがいる。また下河辺長流ら長嘯子に私淑した歌人は少なくなく、芭蕉ら俳諧師に与えた影響も大きい。他撰の家集『若狭少将勝俊朝臣集』(『長嘯子集』とも)、山本春正ら編の歌文集『挙白集』(校註国歌大系十四・新編国歌大観九などに所収)がある。 】

 この木下長嘯子の「辞世の歌」は、次のものであった。

【 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html#LV

 辞世

王公といへども、あさましく人間の煩をばまぬがれず何の益なし。すべて身の生まれ出でざらんには如かじ。まして卑しく貧しからんは言ふに足らず。されば死はめでたきものなり。
ふたたびかの古郷にたちかへりて、はじめもなく、をはりもなき楽しびを得る。この楽しみをふかく悟らざる輩、かへりて痛み歎く。をろかならずや。

露の身の消えてもきえぬ置き所草葉のほかにまたもありけり(挙白集)

あとまくらも知らず病み臥せりて、口に出るをふと書きつくる。人わらふべきことなりかし。

《通釈》(文)王や大臣と言えども、浅ましくも人間の煩わしさを免れず、地位などは何の益もない。大体、生まれて来ないのに越したことはあるまい。まして私のように身分卑しく貧しい者は言うまでもない。だから死はめでたいものである。生まれ出た原郷に再び帰って、始まりもなく終りもない楽しみを得る。この楽しみを深く悟らないやからは、かえって嘆き悲しむ。愚かではないだろうか。

(歌)露のようにはかない身が消えても、消えずに残る置き所。草葉のほかにもまたあるのだった。我が袖に置いた涙の露よ。

(文)前後もなく病み臥せって、口をついて出たのをふと書き付けておく。お笑い種にちがいない。

《補記》『挙白集』最終巻(巻十)の巻末に収められた歌文。長嘯子はその後まもなく死去し、遺言に基づき一本の松のもとに葬られたという。

《本歌》 殷富門院大輔「時代不同歌合」「続古今集」
きえぬべき露の憂き身のおき所いづれの野辺の草葉なるらん       】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-14


黒田藤.jpg

「筑前国福岡藩祖」の「黒田孝高」の「紋所」の一つ

【 この「筑前国福岡藩祖」の「黒田孝高」の「紋所」の一つが、「ふじどもえ」(「藤・巴」)で、この「ふじどもえ」の紋所は、信長に叛旗をひるがえして毛利方についた孝高と親交のある「荒木村重」を説得しに行き、そのまま「有岡城」の奥牢に幽閉された時の裏窓の「藤の花」に由来があることが、次のアドレスの「筑前52万石始祖の黒田如水と藩祖の長政」で紹介されている。

https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/ 】

黒餅紋.jpg

https://kisetsumimiyori.com/kurodanagamasa/

【 黒餅紋:黒田長政の家紋その1
 
 黒田家の家紋で有名なのが、この「黒餅」という家紋。白地に黒で丸を描いた、とてもシンプルな家紋です。ちなみに、黒地に白抜きで丸を描いたものを「白餅紋」と呼んでいます。
 この黒餅紋は、豊臣秀吉のもとで共に「両兵衛」と呼ばれた竹中半兵衛から譲り受けたもの。官兵衛が大層大切に使用していた家紋として知られています。

 長政は幼少期に織田家の人質だった

 実は、長政は幼いころに織田家の人質となっていた時期があります。ある時、父の官兵衛が敵軍を説得するために赴いたところ、逆に捉えられ幽閉されてしまいました。これを、信長は勘違いから「官兵衛の裏切り」と思い込んでしまい、嫡子である長政を殺そうとします。
 しかし、ここで半兵衛が素早く長政をかくまい、信長をうまくごまかしてくれたことから、長政は命をとられずに済みました。半兵衛は、官兵衛と長政を心配する手紙を遺し、若くして肺病でこの世を去ります。

 長政を信長から守り抜いた竹中半兵衛

 その後に助け出された官兵衛は、竹中半兵衛が長政を守り抜いてくれたことを知って感激し、半兵衛が使っていた家紋を使用するようになりました。その後も両家の絆は継続しており、関ヶ原の戦いでは長政と半兵衛の子・竹中重門が隣同士の陣地で闘っています。互いに偉大な父を持つ二人は、父同士が互いを思いやる姿を見て多くのことを学んだのでしょう。

藤巴紋:黒田長政の家紋その2

 そして、もう一つが「藤巴紋」です。官兵衛はこの家紋を替紋として使用しており、表門
は「黒餅」であったことが解っていますが、黒田家の家紋というとこちらの印象が強い様で
す。
 こちらの紋は、黒田家が使えていた「小寺家」から下賜されたもの。ただ、黒田家は「家
臣でありながら主君とおなじ家紋を使うのは気が引ける」という気持ちがあったようで、小
寺家よりもデザインがシンプルなものを使用しています。 】

左、黒田長政像 江月宗玩賛.jpg

左、黒田長政像 江月宗玩賛 一幅 江戸時代 寛永2年(1625) /右、黒田孝高像 黒田利則請
春屋宗園賛 一幅 江戸時代 慶長9年(1609)/ 福岡・崇福寺蔵
http://www.arthajime.com/writers/?p=12937

【京都洛北、紫野にある臨済宗の古刹、大徳寺は、茶の湯の寺としても有名です。「龍光院」は、その大徳寺の塔頭の一つです。慶長11年(1606)九州福岡藩主の黒田長政が父黒田孝高(如水・官兵衛)の菩提を弔うために春屋宗園(しゅんおくそうえん)を開祖として建てられました。(※NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」で岡田君が演じていたのが父黒田官兵衛、桃李君が演じていたのが長男黒田長政です)春屋宗園は、ほどなく江月宗玩に代を譲り、二世江月宗玩が実質的な開祖となりました。】
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