SSブログ
忘れがたき風貌・画像 ブログトップ

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その十三) [忘れがたき風貌・画像]

その十三「数奇なる二人『伊丹(有岡)城主・荒木村重(父)と岩佐又兵衛(子)』周辺

荒儀摂津守村重.jpg

「太平記英雄伝 廿七 荒儀摂津守村重」歌川国芳筆 嘉永元年-2年(1848-49年)頃(「ウィキペディア」)

【時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕  天文4年(1535年)
死没  天正14年5月4日(1586年6月20日)
改名  十二郎、弥介(弥助)、村重、道糞、道薫(号)
戒名  秋英宗薫居士、心英道薫禅定門
墓所   大阪府堺市堺区南宗寺、兵庫県伊丹市荒村寺
官位   従五位下・摂津守、信濃守(受領名)
主君  池田勝正→池田知正→織田信長→豊臣秀吉
父母   父:荒木高村
兄弟   村重、野村丹後守室、吹田村氏
妻   池田長正娘、北河原三河守娘、川那部氏娘・だし
子   村次、村基、岩佐又兵衛ほか      】(「ウィキペディア」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-24

【(「参考その一」)「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜

荒木村重略年譜    https://www.touken-world.jp/tips/65407/
※高山右近略年譜   https://www.touken-world.jp/tips/65545/
※※黒田如水略年譜  https://www.touken-world.jp/tips/63241/
※※※結城秀康略年譜 https://www.touken-world.jp/tips/65778/
〇松平忠直略年譜 
https://meitou.info/index.php/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%B4
〇〇岩佐又兵衛略年譜
https://plaza.rakuten.co.jp/rvt55/diary/200906150000/
△千利休略年譜
https://www.youce.co.jp/personal/Japan/arts/rikyu-sen.html
●狩野内膳略年譜
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/nenpu/2knnz001.html

△1522年(大永2年)千利休1歳 和泉国・堺の商家に生まれる。
1535年(天文4年)荒木村重1歳 摂津国の池田家に仕えていた荒木義村の嫡男として生まれる。幼名は十二郎(後に[弥介]へ変更)。
△1539(天文8年)千利休18歳 北向道陳、武野紹鴎に師事。
※※1546年(天文15年)黒田如水1歳 御着城(兵庫県姫路市)の城主・小寺政職の重臣・黒田職隆の嫡男として生まれる。
※1552年(天文21年)高山右近1歳 摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)にて、高山友照の嫡男として生まれる。高山氏は、59代天皇・宇多天皇を父に持つ敦実親王の子孫。また高山氏は、摂津国・高山(大阪府豊能町)の地頭を務めていた。
※1564年(永禄7年)高山右近13歳 父・高山友照が開いた、イエズス会のロレンソ了斎と、仏僧の討論会を契機に入信。妻子や高山氏の家臣、計53名が洗礼を受け、高山一族はキリシタンとなる。高山右近の洗礼名ドン・ジュストは、正義の人を意味する。父はダリヨ、母はマリアという洗礼名を授かる。
※※1567年(永禄10年)黒田如水22歳 黒田家の家督と家老職を継ぎ、志方城(兵庫県加古川市)の城主・櫛橋伊定の娘であった光姫を正室として迎え、姫路城(兵庫県姫路市)の城代となる。
※※1568年(永禄11年)黒田如水23歳 嫡男・黒田長政が生まれる。
●1570年(元亀元年)狩野内膳1歳  荒木村重の家臣(一説に池永重光)の子として生まれる。
1571年(元亀2年)荒木村重37歳 白井河原の戦いで勝利。織田信長から気に入られ、織田家の家臣になることを許される。
※1571年(元亀2年)高山右近20歳 白井河原の戦いにおいて和田惟政が、池田氏の重臣・荒木村重に討たれる。高山右近は和田惟政の跡を継いだ嫡男・和田惟長による高山親子の暗殺計画を知る。
1573年(元亀4年/天正元年)荒木村重39歳 荒木城(兵庫県丹波篠山市)の城主となる。現在の大阪府東大阪市で起こった若江城の戦いで武功を挙げる。
※1573年(元亀4年/天正元年)高山右近22歳 荒木村重の助言を受け、主君・和田惟長への返り討ちを決行。高槻城で開かれた会議の最中に、和田惟長を襲撃し致命傷を負わせた。その際、高山右近も深い傷を負う。高山親子は荒木村重の配下となり、高槻城主の地位を高山右近が譲り受ける。
1574年(天正2年)荒木村重40歳 伊丹城(有岡城)を陥落させ、同城の城主として摂津国を任される。
※※※1574年(天正2年)結城秀康1歳 徳川家康の次男として誕生。母親は徳川家康の正室・築山殿の世話係であった於万の方で、当時忌み嫌われた双子として生まれる。徳川家康とは、3歳になるまで1度も対面せず、徳川家の重臣・本多重次と交流のあった、中村家の屋敷で養育された。
1575年(天正3年)荒木村重41歳 摂津有馬氏を滅ぼし、摂津国を平定。
1576年(天正4年)荒木村重42歳 石山合戦における一連の戦いのひとつ、天王寺の戦いに参戦。
1577年(天正5年)荒木村重43歳  紀州征伐に従軍。
1578年(天正6年)荒木村重44歳  織田信長に対して謀反を起こし、三木合戦のあと伊丹城(有岡城)に籠城。織田軍と1年間交戦する。
※1578年(天正6年)高山右近27歳 主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦いへと発展。
※※1578年(天正6年)黒田如水33歳 三木合戦で兵糧攻めを提案し、三木城(兵庫県三木市)を攻略した。織田信長に対して謀反を起こした荒木村重を説得するために、有岡城(兵庫県伊丹市)に向かうが、幽閉される。
〇〇1578年(天正6年)岩佐又兵衛1歳 摂津伊丹城で荒木村重の末子として誕生。父荒木村重が織田信長に叛く。
1579年(天正7年)荒木村重45歳 妻子や兵を置いて、突如単身で伊丹城(有岡城)を脱出。嫡男の荒木村次が城主を務めていた尼崎城へ移る。そのあと、織田信長からの交渉にも応じず出奔。自身の妻子を含む人質が処刑される。
※1579年(天正7年)高山右近28歳 有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣一枚で、単身織田信長のもとへ投降。その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。
※※1579年(天正7年)黒田如水34歳 有岡城が陥落し、救出される。
〇〇1579年(天正7年)岩佐又兵衛2歳 伊丹城落城。乳母に救い出され奇跡的に逃げ延びる。母ら一族、京の六条河原で処刑。
△1579年(天正7年)千利休58歳 織田信長に茶頭として雇われる。 
●1579年(天正7年)狩野内膳10歳 主家(荒木村重)が滅亡し父池永重光は諸国を流浪。重郷(内膳)は画を好み狩野松栄門人となる。
1581年(天正9年)荒木村重47歳 花隈城(神戸市中央区)に移り、花隈城の戦いが勃発。その後、毛利家へ亡命。
※1581年(天正9年)高山右近30歳 織田信長の使者として、鳥取城(鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。
1582年(天正10年)荒木村重48歳 本能寺の変で織田信長が亡くなると、大坂の堺(現在の大阪府堺市)に移る。大坂では茶人として復帰し、千利休とも親交があったとされる。豊臣秀吉を中傷していたことが露呈し、処罰を恐れ荒木道薫と号して出家する。
※1582年(天正10年)高山右近31歳 甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒を務め、明智光秀軍を破る。
△1582年(天正10年)千利休58歳 本能寺の変、以降・豊臣秀吉に仕える。
※1583年(天正11年)高山右近32歳 柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで、豊臣家の勝利に貢献する。
※※1583年(天正11年)黒田如水38歳 大坂城(大阪市中央区)の設計を担当し、豊臣政権下で普請奉行となる。キリスト教の洗礼を受けて、洗礼名「ドン=シメオン」を与えられる。
※※※1584年(天正12年)結城秀康11歳  3月、豊臣秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍による小牧・長久手の戦いが勃発。講和の条件として、戦後、結城秀康は豊臣家の養子として差し出される。このとき結城秀康は、徳川家康からの餞別として名刀「童子切安綱」を授かっている。12月、元服を迎える。
※1585年(天正13年)高山右近34歳 歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
※※1585年(天正13年)黒田如水40歳 四国攻めで軍監として加わって長宗我部元親の策略を破り、諸城を陥落。
△1585年(天正13年)千利休64歳 正親町天皇から「利休」の居士号を与えられる。
1586年(天正14年 )荒木村重52歳 5月4日、堺にて死去。
※※1586年(天正14年)黒田如水41歳 従五位下・勘解由次官に叙任。九州征伐でも軍監を担当し、豊前国(現在の福岡県東部)の諸城を落とす。
△1586年(天正14年)千利休65歳 黄金の茶室の設計、聚楽第の築庭に関わる。
※1587年(天正15年)高山右近36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
※※※1587年(天正15年)結城秀康14歳  九州征伐にて初陣を飾る。豊前国(現在の福岡県東部)の岩石城(福岡県田川郡)攻めで先鋒を務め、日向国(現在の宮崎県)の平定戦でも戦功を遂げる。
△1587年(天正15年)千利休66歳 北野大茶会を主管。
〇〇1587年(天正15年) 岩佐又兵衛10歳 秀吉主催の北野の茶会に出席?
●1587年(天正15年) 狩野内膳18歳 狩野松栄から狩野姓を名乗ることを許される。
※※1589年(天正17年)黒田如水44歳 広島城(広島市中区)の設計を担当する。黒田家の家督を黒田長政に譲る。
※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。
△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。
※※1592年(天正20年/文禄元年)黒田如水47歳  文禄の役、及び慶長の役において築城総奉行となり、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の設計を担当する。
〇〇1592年(天正20年/文禄元年)岩佐又兵衛 15歳 この頃、織田信雄に仕える。狩野派、土佐派の画法を学ぶ。絵の師匠は狩野内膳の説があるが不明。
●1592年(天正20年/文禄元年)狩野内膳 23歳 狩野松栄没。永徳(松栄の嫡男)の嫡男・光信(探幽は甥)、文禄元年(一五九二)から二年にかけて肥前名護屋に下向、門人の狩野内膳ほか狩野派の画家同行か?(『南蛮屏風(高見沢忠雄著)』)
※※1593年(文禄2年)黒田如水48歳 剃髪して出家。如水軒円清の号を名乗る。
〇1595年(文禄4年)松平忠直1歳 結城秀康の長男として摂津東成郡生魂にて生まれる。
生母は秀康の側室、中川一元の娘(清涼院、岡山)。幼名は仙千代。
※1600年(慶長5年)高山右近49歳 関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦いでは東軍に属し、丹羽長重を撃退する。
※※1600年(慶長5年)黒田如水55歳 関ヶ原の戦いが起こる。石垣原の戦いで、大友義統軍を破る。
※※※1600年(慶長5年)結城秀康27歳 関ヶ原の戦いの直前、徳川家康と共に会津藩(現在の福島県)の上杉景勝の討伐へ出陣。道中、石田三成挙兵を知り、徳川家康は西へ引き返す。一方で結城秀康は宇都宮城に留まり、上杉景勝からの防戦に努めた。関ヶ原の戦い後に徳川家康より、越前・北の庄城(福井県福井市)68万石に加増される。
〇1603年(慶長8年)松平忠直7歳 江戸参勤のおりに江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に初対面している。秀忠は大いに気に入り、三河守と呼んで自らの脇に置いたという。
※※1604年(慶長9年)黒田如水59歳 京都の伏見藩邸で死去する。
※※※1604年(慶長9年)結城秀康31歳 結城晴朝から家督を相続し、松平に改姓。
〇〇1604年(慶長9年)岩佐又兵衛 27歳 秀吉の七回忌、京で豊国祭礼。
●1604年(慶長9年)狩野内膳36歳 秀吉七回忌の豊国明神臨時祭礼の「豊国祭礼図」を描く。
〇1605年(慶長10年)松平忠直 9歳 従四位下・侍従に叙任され、三河守を兼任する。
※※※1606年(慶長11年)結城秀康33歳  徳川家から伏見城(京都府京都市伏見区)の居留守役を命じられて入城するも、病に罹り重篤化する。
●1606年(慶長11年)狩野内膳37歳 1606年、片桐且元、内膳の「豊国祭礼図」を神社に奉納(梵舜日記)。弟子に荒木村重の子岩佐又兵衛との説(追考浮世絵類考/山東京伝)もある。
※※※1607年(慶長12年)結城秀康34歳  越前国へ帰国し、のちに病没。
〇1607年(慶長12年)松平忠直 13歳 結城秀康の死に伴って越前75万石を相続する。
〇1611年(慶長16年)松平忠直 17歳 左近衛権少将に遷任(従四位上)、三河守如元。
この春、家康の上京に伴い、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。9月には、秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎える。
〇1612年(慶長17年)松平忠直 18歳 重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部、盛次)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。
〇1613年(慶長18年)松平忠直 19歳 家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに本多富正が越前の国政を執ることとされ、加えて本多富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは、騒動が重なるのは、忠直がまだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである。
〇〇1613年(慶長18年) 岩佐又兵衛 37歳 この頃、舟木本「洛中洛外図屏風」。
※1614年(慶長19年)高山右近63歳 キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
〇1614年(慶長19年)松平忠直 20歳 大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げている。家康は孫の活躍を喜び、「初花肩衝」(大名物)を与えている。また秀忠も「貞宗の御差添」を与えている。
※1615年(慶長20年/元和元年)高山右近64歳 前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。
〇1615年(慶長20年/元和元年)松平忠直 21歳 従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
〇〇1616年(元和2年)岩佐又兵衛39歳 この頃、京から北之庄に移住。徳川家康没。狩野内膳没。
●1616年(元和2年)狩野内膳47歳 京都で没。
〇〇1617年(元和3年)岩佐又兵衛40歳 狩野探幽が江戸に赴任。この間、「金谷屏風」・「山中常盤」など制作か。
〇1621年(元和7年)松平忠直 27歳 病を理由に江戸への参勤を怠り、また翌元和8年(1622年)には勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。
〇1623年(元和9年)松平忠直 29歳 将軍・秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母清涼院の説得もあって隠居に応じ、敦賀で出家して「一伯」と名乗った。5月12日に竹中重義が藩主を務める豊後府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。豊後府内藩では領内の5,000石を与えられ、はじめ海沿いの萩原に住まい、3年後の寛永3年(1626年)に内陸の津守に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原からの海路での逃走を恐れたためとも言う。竹中重義が別件で誅罰されると代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となったという。
〇〇1623年(元和9年)岩佐又兵衛46歳 松平忠直、豊後に配流。
〇〇1624(寛永元年)岩佐又兵衛 47歳 忠直を引き継ぐ松平忠昌が福井に改称。この間、「浄瑠璃物語絵巻」なと。
〇〇1637年(寛永14年)岩佐又兵衛 60歳 福井より、京都、東海道を経て江戸に赴く。
〇〇1638年(寛永15年)岩佐又兵衛61歳 川越仙波東照宮焼失。
〇〇1639年(寛永16年)岩佐又兵衛 62歳 家光の娘の千代姫、尾張徳川家に嫁ぐ
〇〇1640年(寛永17年)岩佐又兵衛 63歳 仙波東照宮に「三十六歌仙額」奉納。
〇〇1645年(正保2年)岩佐又兵衛 68歳 ・松平忠昌没。
〇1650年(慶安3年) 松平忠直死去、享年56。
〇〇1650年(慶安3年)岩佐又兵衛 江戸にて没す。享年73。   】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-19

【 ここで、後に、「高山右近」は「利休七哲」の一人として、「前田利長・蒲生氏郷・細川忠興(三斎)・古田織部・牧村兵部・芝山監物」と共に「高山南坊(右近)」の名で、その名を連ねるが(「ウィキペディア」所収『『茶道四祖伝書』)、この当時は、「千利休」の前号の「千宗易」と親しかった「荒木村重」の部下の一人としての「千利休」とに連なる一人ということになる(織田信長の没後、荒木村重は豊臣秀吉の下で茶人として復帰し、「利休十哲」の一人として名をとどめている。)
 そして、この「高山右近」は、当時、ポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味する「ジュスト(ユストとも)」を洗礼名とするキリシタン武将の一人である。とすれば、その主家筋に当たる「荒木村重」も、いわゆる「キリシタン大名(武将)」の一人であったかというと、「一族郎党を見殺しにした」という汚名を拭い去ることも出来ずに、時代に翻弄され続けた敗残の武将の五十二年の生涯であったといえる。
 しかし、下記のアドレスのように、「荒木村重もクリスチャンであったから、有岡城籠城の際、説得に来た黒田如水を殺さずに入牢にした」のであろうと、その「自死」をしない一生と共に、己の信念を貫いた「クリスチャン」的な生涯であったという見方もあり得るであろう。

https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/005/01.html

 この荒木村重の、たった一人の遺児である「岩佐又兵衛」は、生前に、この茶人としての「道薫」(自己卑下的な「道糞」から秀吉が改名したとされる「道薫」の茶号)と、一度だけ対面したといわれているが、このときの二人は、下記のアドレスなどでは、終始ほぼ無言だったと伝えられている。

https://www.touken-world.jp/tips/46496/

 そして、この荒木村重は、天正十四年(一五八六)に堺で没し、千利休が修行したとされる「南宗寺」(臨済宗大徳寺派の寺院)に葬られたと伝えられているが、その「南宗寺」には村重の墓は現存せず、その位牌は、村重が籠城した「有岡城」のあった伊丹市の「荒村寺」にある。
 この荒木村重に関しては、次のアドレスの「荒木村重」が参考となる。

http://bunkazai.hustle.ne.jp/jinbutu/jinbutu_photo/arakimurashige.pdf

 この荒木村重が没した翌年の、天正十五年(一五八七)の「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」(京都北野天満宮境内において豊臣秀吉が催し、千利休が主管した大規模な茶会)が開催され、当時十歳であった岩佐又兵衛も誰(実父の茶人「道薫」に連なる茶人?)かの供をして出席したことが、又兵衛の回想録の『廻国道之記』に、「わらわべの時なれば夢のやうにあれど、少しおぼえ侍る」と記されている。 】

月見西行図(全体図).jpg

岩佐又兵衛筆「月見西行図(全体図)」群馬県立近代美術館蔵(戸方庵井上コレクション)
紙本墨画淡彩 一幅 101.3× 33.0 

月見西行図(部分図).jpg

岩佐又兵衛筆「月見西行図(部分図)」群馬県立近代美術館蔵(戸方庵井上コレクション)

【 手に笠と杖、背には笈を背負った西行法師が、旅の途中で月を見上げる姿を描く。上部には「月見はと 契りていてし ふる郷の 人もやこよひ 袖ぬらすらん」と西行の歌が書き込まれている。「布袋図」と同じ篆文二重円印が捺されているが外郭は狭く、制作は寛永十四(一六三七)年の江戸出府後と考えられている。一人たたずむ西行の姿が、妻子を残し江戸へ向かう又兵衛と重ね合わされ鑑賞されてきた。 】(『別冊太陽247 岩佐又兵衛』所収「作品解説・戸田浩之)」

 この「月見西行図」の全体図は、下記のとおりだが、この上部に書き込まれていたる、「月見はと 契りていてし ふる郷の 人もやこよひ 袖ぬらすらん」(西行)の歌は、『新古今和歌集』の「巻第十 羇旅歌」に、次のとおり収載されている。

939 月見ばと 契りおきてしふるさとの 人もや今宵袖ぬらすらむ

【 月を見たら思おう約束しておいた故郷の人も、ひょっとしたら、今夜は わたしと同じように月を見て、涙で袖を濡らしていることであろか。 】(『日本古典文学全集26 新古今和歌集(校注・訳 峯村文人)』)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その十二) [忘れがたき風貌・画像]

その十二「数奇なる二人『越前福井藩主・結城(松平)秀康(父)と松平忠直(子)』周辺

結城秀康像.jpg

「結城秀康像」(原本は舜国洞授賛、子孫所蔵。写真はそれを東京大学史料編纂所が模写したもの)(「ウィキペディア」)

【時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕  天正2年2月8日(1574年3月1日)
死没  慶長12年閏4月8日(1607年6月2日)
改名  松平於義伊(於義丸/義伊丸/義伊松)(幼名)→羽柴秀康(初名)→結城秀康→秀朝→秀康→松平秀康
別名  越前卿、越前黄門、越前宰相、結城少将、徳川三河侍従(通称)
戒名  孝顕院殿三品黄門吹毛月珊大居士、浄光院殿森岩(巌)道誉運正大居士
墓所  東京都品川区南品川の海晏寺、福井県福井市田ノ谷町の大安寺、和歌山県伊都郡高野町高野山の高野山奥の院
官位  従五位下・侍従、三河守、従四位下・左近衛権少将、従三位・権中納言、正三位、贈正二位
幕府  江戸幕府
主君  豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠
藩  下総結城藩主、越前北荘藩主
氏族  徳川氏→羽柴氏→結城氏→越前松平宗家
父母  父:徳川家康、母:於古茶(長勝院) 養父:豊臣秀吉→結城晴朝
兄弟  松平信康、亀姫、督姫、秀康、永見貞愛、徳川秀忠、松平忠吉、正清院、武田信吉、
松平忠輝、松平松千代、松平仙千代、徳川義直、徳川頼宣、徳川頼房、市姫ら
妻  結城晴朝養女鶴子(江戸鶴子 )、岡山、駒、奈和、品量院、月照院
子 治枝、松姫(早逝)、忠直、忠昌、喜佐姫、直政、吉松、直基、直良、呑栄ら 】(「ウィキペディア」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-24

馬藺指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」(左隻第二扇上部) → A-1図

【 この巨大な「指物」(鎧の受筒に立てたり部下に持たせたりした小旗や飾りの作り物。旗指物。背旗)の「馬藺」(あやめの一種である馬藺の葉をかたどった檜製の薄板を放射状に挿している飾り物)の母衣武者(A-1図)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)の「馬藺」の指物を背にした総大将「徳川家康」の見立てと解すると、「徳川家康」という見立ても許されるであろう。

 同様に、この「軍配」(武将が自軍を指揮するのに用いた指揮用具。軍配団扇 の略。)の指物を背にした母衣武者(A-2図)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)の」軍配」を手にしている武将が「徳川秀忠」の見立てとすると、これまた、「徳川家忠」と見立てることは、決して、無理筋ではなかろう。 

軍配指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の二番目の武者」(左隻第二扇上部) → A-2図

羽指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の三番目の武者」(左隻第二扇上部) → A-3図

 問題は、この三番目の母衣武者なのである。この背にある指物は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)には出て来ない。そこ(E図)での三番目の武者は、この羽色をした母衣を背にした武将で、その武将は、この(A-3図)のような、甲冑の「胴」に「日の丸」印のものは着用していない。
 そして、この「日の丸」印は、上記の「A-1図」では、「徳川家康」と見立てた母衣武者の左脇に、「日の丸」印の「陣笠」(戦陣所用の笠の称)に、「金色」のものが記されている。
 その「A-2図」では、「徳川秀忠」と見立てた母衣武者の右側で、今度は「団扇」に「日の丸」印が入っている。
 さらに、「B図」を仔細に見て行くと、「A-1図」の「徳川家康」と「A-2図」では、「徳川秀忠」周囲の「陣笠」は、「赤い日の丸」印と、「金色の日の丸」印とが、仲良く混在しているのに比して、この「A-3図」の母衣武者周囲の「陣笠」には、次の図(「A-4図」)のように、「無印」か「日の丸印」ではないもので、さらに、その左端の上部の男性の手には、「日の丸印」の「扇子」が描かれている。

日の丸胴母衣武者周囲.jpg

「三番目の母衣武者周辺」(左隻第二扇上部) → A-4図

 この「A-4図」の母衣武者(「A-3図」)集団と、「A-1図」(「徳川家康」の見立て)と「A-2図」(「徳川秀忠」の見立て)集団とは、別集団という雰囲気なのである。
 そして、この「A-3・4図」の母衣武者の甲冑の胴の「日の丸」と、「A-4図」の左端上部の「祭礼関係者?」の持つ扇子の「日の丸」は、「徳川幕府の天下統一」の「江戸幕府の公用旗」(「ウィキペディア」)に類するもののような印象なのである。
 その上で、この「A-3・4図」の母衣武者は、例えば、「徳川四天王」(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)の家臣団ではなく、「徳川親藩大名」(「徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩」)の、下記の藩主の一人という雰囲気を有している。

尾張徳川家(尾張藩)
紀州徳川家(和歌山藩)
水戸徳川家(水戸藩)
越前松平家(福井藩|松江藩|津山藩|明石藩|前橋藩 → 川越藩 → 前橋藩)
会津松平家(会津若松藩)
越智松平家(館林藩 → 棚倉藩 → 館林藩 → 浜田藩)

 このうちで、この岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」が作成された、「大阪冬の陣」(慶長十九年=一六一四)・「大阪夏の陣」(元和元年=一六一五)に、「徳川家康・同秀忠」と共に参戦した藩主は、十三歳にして越前六十七万石を継承した、越前福井藩主・松平忠直が挙げられるであろう。

(参考)「松平忠直」周辺

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao3.htm

「忠直をめぐる動き」

1595(文禄4)
 結城秀康の長男、長吉丸(忠直)誕生
1601(慶長6)
 秀康、越前入国。北庄城の改築始まる
1607 秀康、北庄で死去
忠直、越前国を相続
1611 勝姫と婚姻
1612 家臣間の争論、久世騒動起きる
1615(元和元)
 大坂夏の陣で戦功、徳川家康から初花の茶入れたまわる。
 長男仙千代(光長)北庄に誕生
1616 家康、駿府で死去
1618 鯖江・鳥羽野開発を命じる
1621 参勤のため北庄を出発も、今庄で病気となり北庄に帰る。
仙千代、忠直の名代として江戸へ
1622 参勤のため北庄たつも関ケ原で病気再発、北庄に帰る。
永見右衛門を成敗
1623 母清涼院通し豊後国へ隠居の上命受ける。3月北庄を出発、
5月豊後萩原に到着
1624(寛永元)
 仙千代、越後高田に転封。弟忠昌が高田より越前家相続。
 北庄を福井と改める
1626 忠直、豊後萩原から同国津守に移る
1650(慶安3)
 9月10日、津守で死去。56歳。10月10日、浄土寺で葬儀   】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-04

後妻打ち.jpg

「二条城堀角の『後妻(うわなり)打ち』」(「舟木本」左隻第三・四扇)→「舟木本中心軸その四図(左隻・中心軸視野外)」

【 後妻打ち(p179-182)
 慶長末~元和年間ころを中心とする江戸時代初頭の、暴力的な気風が感じられる場面は、刀や槍を取ってのチャンバラ的な乱闘シーン以外にもある。「舟木本」の左隻第三~四扇の下部、二条城の堀の角あたりでは、鬼のような形相をした女が、赤い服の女の髪を左手に巻き付けて、右手で振り上げた擂り粉木のような棒で打ちすえ、双方から止めに入ろうとする男女と老婆が駆けついてつけている(「舟木本中心軸その四図(左隻・中心軸視野外)」)。
  (中略)
 では「舟木本」で、なぜよりによって二条城のそばにこんな暴力的場面を描くのだろうか。二条城は言うまでもなく徳川家の象徴であり、それは徳川家の内部事情に由来していると考えられないだろうか。というのは、松平忠直の父で、福井藩=越前松平家の初代となった結城秀康は、秀忠の兄でありながら、妾であった母が正妻築山殿の迫害を受け冷遇されたという背景があるからである。そのような将軍家に対する複雑な感情が、先妻が後妻を打擲(ちょうちゃく)するという、後妻打ちにやつした場面として描かれているのではないだろうか。松平忠直は、大阪の陣でも活躍しながら恩賞に不満を抱いていたと伝えられ、徳川方でありながら、京都の統治者である将軍家に対しては必ずしも好意的でない。
 そのような立場と感情が、大仏近くの乱闘場面と対になる暴力場面という形でここに表現されていると考えられないであろうか。
 そのように考えたもう一つの理由は、先述のように、四条河原で興行されている舞台の一つに人形操りの「山中常盤」が描かれていることである。源義経の母である常盤が、義経を訪ねる旅の途中で強盗に惨殺され、義経が復讐する物語であり、画中の隠れた暴力場面でもある。岩佐又兵衛は、その絵巻物(凄惨な場面で有名)も後に福井で制作しているが、荒木村重の子供であった岩佐又兵衛(岩佐は母方)は、村重が信長に背いた際に母は殺されていため、「舟木本」にこの題目が描かれていることには、その思いが反映していることは疑いない。そのような画家の感情があらわれているのなら、より重要な発注者の思いが描き込まれていてもおかしくない。岩佐又兵衛を招いた松平忠直は、お互いにの境遇に相通ずるものを感じていたのではなかろうか。 】(『洛中洛外図屏風 つくられた〈京都〉を読み解く(小島道裕著)・ 歴史文化ライブラリー422 (p172-182)』の要点抜粋。一部、記述箇所の
表記と省略部分を修正・アドレスなど付記している。)
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その十一) [忘れがたき風貌・画像]

その十一「『越前・福井での遭遇』(藩主・松平忠直と絵師・岩佐又兵衛)」周辺

岩瀬又兵衛.jpg

「伝岩佐又兵衛(自画像)・MOA美術館蔵」(ウィキペディア)
(「又兵衛の子孫に伝わった自画像。原本ではなく写し、あるいは弟子の筆と見る意見もあ
る。岩佐家では又兵衛の命日にこれを掛けて供養したという」―『別冊太陽247 岩佐又兵
衛』 所収「岩佐又兵衛の生涯(畠山浩一)」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-25

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-29

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA
美術館蔵)の「 美濃の国、山中の宿にたどり着いた常盤は、盗賊に襲われて刀で胸を突き
刺される。侍従は常盤を抱き、さめざめと泣く(第四巻)」 → B図
http://www.moaart.or.jp/?event=matabe-2019-0831-0924

山中常盤四.jpg

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA
美術館蔵)の「常盤は宿の主人夫妻に自らの身分を明かし、牛若への形見を託す」(第五巻)
→ C図

宿の老夫婦に看取られて常盤の死.jpg

【 この場面は夙に知られている。『岩佐又兵衛(辻惟雄・山下裕二著)・とんぼの本・新潮
社』の表紙を飾り、その副題は「血と笑いとエロスの絵師」である。その内容は、次の二篇
から構成されている(一部、要点記述)。

第一篇(人生篇)― その画家卑俗にして高貴なり (辻惟雄解説)
その一    乱世に生まれて 
その二    北の新天地で花ひらく
その三    江戸に死す
第二篇(作品篇)― 対談(辻惟雄+山下裕二 )
 その一 笑う又兵衛 ― 古典を茶化せ! 合戦も笑い飛ばせ!
 その二 妖しの又兵衛 ― 淫靡にして奇っ怪、流麗にしてデロリ、底知れぬカオス
 その三 秘密の又兵衛 ―「浮世又兵衛」(吃又兵衛=『傾城反魂香』)
 その四 その後の又兵衛― 又兵衛研究の総決算ここにあり!→『岩佐又兵衛―浮世絵
をつくった男の謎』(辻惟雄著・文春新書)→ 表紙=C図)

 これらに出てくる、「血と笑いとエロス」「淫靡にして奇っ怪、流麗にしてデロリ、底知れ
ぬカオス」というネーミングを有する、これらの「岩佐又兵衛風古浄瑠璃絵巻群』(辻惟雄
の命名)は、その作風を、次のように評されることになる(『岩佐又兵衛と松平忠直―パト
ロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P25-27「『又兵衛風絵巻群』についての辻仮
説」要点記述)。

一 「荒々しいサディズムが横溢している。」
二 田中喜作によって「気うとい物凄さ」と評された一種の「妖気」も、「又兵衛風絵巻群」の「モノマニアックな表出性」にそのままつながる。
三 「又兵衛風絵巻群」の「派手な原色の濫用、表出的要素の誇張、人物の怪異な表情、非
古典的な卑俗味といった要素」は、主として外的な諸要因によるものであり、それと又兵衛
自身の特異な内的素質の相乗作用によって出来上がったものである。
 
 また、「又兵衛風絵巻群」の共通点として、次の七点が列挙される(『黒田・前掲書』P25-
27「二冊の『岩佐又兵衛』」要点記述)

一 長大であること。
二 金銀泥や多様性の顔料を使った原色的色調による華やかな装飾性。
三 同じ場面の執拗な反復。
四 詞書の内容の細部にわたる忠実な絵画化。
五 劇的場面に見られる詞書の内容を越えたリアルでなまなましい表現性。
六 残虐場面の強調。
七 元和・寛永期の風俗画に共通する卑俗性。】

画像2.jpg

松平忠直像(浄土寺蔵)(「ウィキペディア」)

【時代 江戸時代前期
生誕  文禄4年6月10日(1595年7月16日)
死没  慶安3年9月10日(1650年10月5日)
改名  仙千代(幼名)→忠直→一伯(号)
別名  幼名:長吉丸(国若丸とも)
戒名  西巌院殿前越前太守源三位相公相誉蓮友大居士、西巌院殿相誉蓮友一泊大居士
墓所  大分県大分市の浄土寺、大分県大分市の朝日寺、和歌山県伊都郡高野町の金剛峯寺
東京都文京区の浄土寺、福井県鯖江市の長久寺、東京都品川区の海晏寺
官位  従四位下・侍従、三河守、右近衛権少将、従四位上・左近衛権少将、従三位・参議、
左近衛権中将、越前守
幕府  江戸幕府
主君  徳川秀忠
藩  越前北荘藩主
氏族  越前松平宗家
父母  父:結城秀康 母:清涼院(中川一元娘)
兄弟  忠直、忠昌、喜佐姫、直政、吉松、直基、直良、呑栄
妻 正室:勝姫(徳川秀忠三女) 側室:蕙林院ほか
子 光長、寧子、鶴子、女子、永見長頼、永見長良、勘子  】(「ウィキペディア」)
参内する松平忠直.jpg

「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部) → B図
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26

【この図(B図)は、「(A図)」の上部に描かれているものである。この「(B図)」の、『洛
中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の記述は、次のものである。

≪これで行列は終わらない(註・「(A図)」の行列)。金雲の上には、二騎の騎馬を中心にし
て、二十人近い白丁(註・下級武士)が駆け出している。かれらは、おそらく牛車の後に付
き従っている白丁なのだ。≫

ここで、「(A図)」(「徳川家康・義直・頼宣」麾下の「白丁」の「静」なるに対し、この騎
馬の若武者の「白丁」は、前回の「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の「取り巻き」
と同じように「動」なる姿態で、そして、その太鼓の上部の「日の丸」の扇子を持った男
性と同じように、この「(B図)」でも「扇子」を持った、「白丁」よりも身分の高いような
男性が描かれている。
 これらのことからして、その「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の「母衣武者」を
「松平忠直」と見立てたことと同じように、この騎馬の貴公子は、「松平忠直」その人と見
立てることは、極めて自然であろう。

日の丸胴母衣武者周囲.jpg

「三番目の母衣武者周辺」(左隻第二扇上部) → A-4図

 ここまでのことを整理すると、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』
では、慶長十六年(一六一一)八月(これは三月が正しいか?)に、徳川家康は、「五郎太
丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、後の紀伊の徳川義宣)」を元服させて、その
二人を伴って叙任の参内をしている。」
 この時に、「(A図)」(「牛車の参内行列(家康・義直・頼宣)」)の「牛車」に「徳川家康」、
そして、二挺の「手輿(たごし)」に、「五郎太丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、
後の紀伊の徳川義宣)」が乗っている。
 さらに、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』に
おいて、この参内の時には、十七歳の「松平忠直」(越前藩主)も、「祖父家康に連れられて
参内」しており、これは、「忠直の人生にとって最初で最後の晴れやかな出来事であった。
家康の孫、秀康の子であることを強烈に意識したことであろう。清和源氏新田氏の門葉
(子孫)であることを自覚した機会でもあったに違いない」ということになる(この書で
は、上記の抜粋の通り、慶長十六年(一六一一)三月になっており、それは、『大日本史
料』第十二巻之七の記述が「三月」で、前書の「八月」は『大日本史料』第十二巻之四に
因っており、その違いのようである)。
 そして、この時には、「(B図)」(「家康と共に参内する松平忠直」))の通り、松平忠直は
「従四位上左近衛少将」の騎馬の英姿で描かれているということになる。 】

 これが、岩佐又兵衛が、越前藩主・松平忠直の招聘により、越前北ノ庄の真言寺院、興宗
寺(本願寺派)の僧「心願」を介して、それまで住み慣れた京から越前へと移住し、その松
平忠直から依頼された、所謂、「又兵衛絵巻群」の、その絵巻の中で、次のように変貌して
結実してくることになる。

山中常盤物語絵巻.jpg

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA
美術館蔵 )の「山中常盤物語絵巻・第11巻(佐藤の館に戻った牛若は、三年三月の後、十
万余騎をひきいて都へ上がる)」→ C図
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その十) [忘れがたき風貌・画像]

その十 「二人のキリシタン大名(勝者の将・黒田如水と敗者の将・木下長嘯子)」周辺

如水居士画像.jpg

如水居士画像(崇福寺蔵) (「ウィキベテア」)

【時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕  天文15年(1546)
死没  慶長9年3月20日(1604年4月19日)
改名   小寺万吉(幼名)、祐隆、孝隆、黒田孝高[注釈 1]、如水円清(法名)
別名   官兵衛(通称)、小官、黒官(略称)、如水軒(号)
神号   水鏡権現
戒名   龍光院殿如水円清大居士
霊名   シメオン
墓所  福岡市博多区千代の崇福寺、京都市北区の大徳寺塔頭龍光院、和歌山県伊都郡高野町の高野山奥の院
官位  従五位下、勘解由次官、贈従三位
主君   小寺政職→織田信長→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康
藩   豊前中津藩主
氏族   小寺氏、黒田氏(自称宇多源氏)
父母  父:黒田職隆
母:  小寺政職養女
兄弟  孝高、利高、香山妙春、妙円尼、利則、直之、心誉春勢、浦上清宗室
妻   正室:櫛橋光
子   長政、熊之助、一成、松寿丸   】(「ウィキベテア」)

木下長嘯子像.jpg

木下長嘯子像(模写)(「ウィキベテア」)

【時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕  永禄12年(1569年)
死没   慶安2年6月15日(1649年7月24日)
改名  大蔵(幼名)、勝俊、木下長嘯子
別名  龍野侍従、式部大輔、若狭少将、若狭宰相(通称)、長嘯、長嘯子、挙白、天哉、
    夢翁、西山樵夫、西山樵翁(俳号)
戒名   大成院殿前四品羽林天哉長嘯居士
霊名  ペテロ
墓所   京都府京都市東山区の高台寺
官位  従五位下侍従、従四位下式部大夫、参議、左近衛権少将
主君  豊臣秀吉
藩   備中足守藩主
氏族   木下氏(杉原氏)、羽柴氏(豊臣氏)、木下氏
父母  木下家定、某氏
兄弟   勝俊、利房、延俊、俊定、小早川秀秋、俊忠、秀規、周南紹叔
妻   正室:うめ(宝泉院)(森可成の娘、 側室:複数
子   天祥院(武田信吉室)、智光院(山崎家治室)、女[3](阿野公業室)、春光院万花紹
    三、勝信(橋本勝信) 】(「ウィキベテア」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-26

両脇を支えられた酔っ払い.jpg

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(右隻第四・五扇中部) → A-1図

【 この「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」の正体は何者なのか? この男は、次の「祇園林の乱痴気騒ぎ」(右隻第三扇)にも登場して来る。】

【 現在の八坂神社は、明治元年(一八六八)の神仏分離に際して改められた名称で、それ以前は「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていた。この「感神院」の扁額を掲げた鳥居は、「祇園感神院」(「祇園社」・「祇園神社」・「八坂神社」)の鳥居で、その松林(祇園林)のそこかしこで宴会(「乱痴気騒ぎの酒宴」)が行われている。
 その「感神院」の扁額の左上に、両脇を支えられた「へべれけ野郎」(A-2図)は、「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(A-1図)であることは間違い無かろう。】

祇園社.jpg

「祇園林の乱痴気騒ぎ・へべれけ野郎」(右隻第三扇上部) → A-2図

祇園社の北政所.jpg

「祇園感神院」の鳥居(扁額)の下を潜る一行(「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね一行?)」)(右隻第三扇中部) → A-3図

【 そして、この「感神院」の扁額の鳥居の下に、何やら、ここにも、「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」一行の姿らしきものが描かれている。】

【 「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」は、実子がいなかったせいもあり、一族の子女を可愛がり、特に兄・木下家定の子供(上記B-2図の「勝俊(長嘯子)・利房・延利・俊定・秀秋(小早川)」)らには溺愛と言っていいほどの愛情を注いでいる。
 家定没後、その所領を木下利房と木下勝俊(長嘯子)に分割相続させようとした家康の意向に反し、勝俊が単独相続できるように浅野長政を通じて徳川秀忠に願い出る画策をしたため、家康の逆鱗に触れ結局所領没収の事態を引き起こしている。
 これらは、高台院と家康とが、必ずしも一般的に伝えられているような相互に親密な関係ではなかったことを証明することの一端なのかも知れない。
 それに引き換え、高台院と徳川秀忠との関係は、「平姓杉原氏御系図附言纂」によると、秀忠が十二歳の時に家康から秀吉に人質として送られた際、身柄を預かった「高台院と孝蔵主」が秀忠を手厚くもてなし(原文では「誠にご実子の如く慈しみ給う」)など、その恩義からか、高台院を手厚く保護しており、上洛するたびに高台院を訪ねているなど、家康との関係以上に、相互に親しい間柄であったことが伺える。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-20

木下長嘯子.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十八 木下長嘯子」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1486

【 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html

木下長嘯子(きのしたちょうしょうし) 永禄十二~慶安二(1569~1649) 号:挙白堂・天哉翁・夢翁

 本名、勝俊。木下家定の嫡男(養子)。豊臣秀吉夫人高台院(北政所ねね)の甥。小早川秀秋の兄。秀吉の愛妾松の丸と先夫武田元明の間の子とする伝もある。歌人木下利玄は次弟利房の末裔。幼少より秀吉に仕え、天正五年(1587)龍野城主に、文禄三年(1594)若狭小浜城主となる。秀吉没後の慶長五年(1600)、石田三成が挙兵した際には伏見城を守ったが、弟の小早川秀秋らが指揮する西軍に攻められて城を脱出。
 戦後、徳川家康に封地を没収され、剃髪して京都東山の霊山(りょうぜん)に隠居した。本居を挙白堂と名づけ、高台院の庇護のもと風雅を尽くした暮らしを送る。高台院没後は経済的な苦境に陥ったようで、寛永十六年(1639)頃には東山を去り、洛西小塩山の勝持寺の傍に移る。この寺は西行出家の寺である。慶安二年六月十五日、八十一歳で没。
 歌は細川幽斎を師としたが、冷泉流を学び、京極為兼・正徹などに私淑した。寛永以後の地下歌壇では松永貞徳と並称される。中院通勝・冷泉為景・藤原惺窩らと親交があった。門弟に山本春正・打它公軌(うつだきんのり)・岡本宗好などがいる。また下河辺長流ら長嘯子に私淑した歌人は少なくなく、芭蕉ら俳諧師に与えた影響も大きい。他撰の家集『若狭少将勝俊朝臣集』(『長嘯子集』とも)、山本春正ら編の歌文集『挙白集』(校註国歌大系十四・新編国歌大観九などに所収)がある。 】

 この木下長嘯子の「辞世の歌」は、次のものであった。

【 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html#LV

 辞世

王公といへども、あさましく人間の煩をばまぬがれず何の益なし。すべて身の生まれ出でざらんには如かじ。まして卑しく貧しからんは言ふに足らず。されば死はめでたきものなり。
ふたたびかの古郷にたちかへりて、はじめもなく、をはりもなき楽しびを得る。この楽しみをふかく悟らざる輩、かへりて痛み歎く。をろかならずや。

露の身の消えてもきえぬ置き所草葉のほかにまたもありけり(挙白集)

あとまくらも知らず病み臥せりて、口に出るをふと書きつくる。人わらふべきことなりかし。

《通釈》(文)王や大臣と言えども、浅ましくも人間の煩わしさを免れず、地位などは何の益もない。大体、生まれて来ないのに越したことはあるまい。まして私のように身分卑しく貧しい者は言うまでもない。だから死はめでたいものである。生まれ出た原郷に再び帰って、始まりもなく終りもない楽しみを得る。この楽しみを深く悟らないやからは、かえって嘆き悲しむ。愚かではないだろうか。

(歌)露のようにはかない身が消えても、消えずに残る置き所。草葉のほかにもまたあるのだった。我が袖に置いた涙の露よ。

(文)前後もなく病み臥せって、口をついて出たのをふと書き付けておく。お笑い種にちがいない。

《補記》『挙白集』最終巻(巻十)の巻末に収められた歌文。長嘯子はその後まもなく死去し、遺言に基づき一本の松のもとに葬られたという。

《本歌》 殷富門院大輔「時代不同歌合」「続古今集」
きえぬべき露の憂き身のおき所いづれの野辺の草葉なるらん       】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-14


黒田藤.jpg

「筑前国福岡藩祖」の「黒田孝高」の「紋所」の一つ

【 この「筑前国福岡藩祖」の「黒田孝高」の「紋所」の一つが、「ふじどもえ」(「藤・巴」)で、この「ふじどもえ」の紋所は、信長に叛旗をひるがえして毛利方についた孝高と親交のある「荒木村重」を説得しに行き、そのまま「有岡城」の奥牢に幽閉された時の裏窓の「藤の花」に由来があることが、次のアドレスの「筑前52万石始祖の黒田如水と藩祖の長政」で紹介されている。

https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/ 】

黒餅紋.jpg

https://kisetsumimiyori.com/kurodanagamasa/

【 黒餅紋:黒田長政の家紋その1
 
 黒田家の家紋で有名なのが、この「黒餅」という家紋。白地に黒で丸を描いた、とてもシンプルな家紋です。ちなみに、黒地に白抜きで丸を描いたものを「白餅紋」と呼んでいます。
 この黒餅紋は、豊臣秀吉のもとで共に「両兵衛」と呼ばれた竹中半兵衛から譲り受けたもの。官兵衛が大層大切に使用していた家紋として知られています。

 長政は幼少期に織田家の人質だった

 実は、長政は幼いころに織田家の人質となっていた時期があります。ある時、父の官兵衛が敵軍を説得するために赴いたところ、逆に捉えられ幽閉されてしまいました。これを、信長は勘違いから「官兵衛の裏切り」と思い込んでしまい、嫡子である長政を殺そうとします。
 しかし、ここで半兵衛が素早く長政をかくまい、信長をうまくごまかしてくれたことから、長政は命をとられずに済みました。半兵衛は、官兵衛と長政を心配する手紙を遺し、若くして肺病でこの世を去ります。

 長政を信長から守り抜いた竹中半兵衛

 その後に助け出された官兵衛は、竹中半兵衛が長政を守り抜いてくれたことを知って感激し、半兵衛が使っていた家紋を使用するようになりました。その後も両家の絆は継続しており、関ヶ原の戦いでは長政と半兵衛の子・竹中重門が隣同士の陣地で闘っています。互いに偉大な父を持つ二人は、父同士が互いを思いやる姿を見て多くのことを学んだのでしょう。

藤巴紋:黒田長政の家紋その2

 そして、もう一つが「藤巴紋」です。官兵衛はこの家紋を替紋として使用しており、表門
は「黒餅」であったことが解っていますが、黒田家の家紋というとこちらの印象が強い様で
す。
 こちらの紋は、黒田家が使えていた「小寺家」から下賜されたもの。ただ、黒田家は「家
臣でありながら主君とおなじ家紋を使うのは気が引ける」という気持ちがあったようで、小
寺家よりもデザインがシンプルなものを使用しています。 】

左、黒田長政像 江月宗玩賛.jpg

左、黒田長政像 江月宗玩賛 一幅 江戸時代 寛永2年(1625) /右、黒田孝高像 黒田利則請
春屋宗園賛 一幅 江戸時代 慶長9年(1609)/ 福岡・崇福寺蔵
http://www.arthajime.com/writers/?p=12937

【京都洛北、紫野にある臨済宗の古刹、大徳寺は、茶の湯の寺としても有名です。「龍光院」は、その大徳寺の塔頭の一つです。慶長11年(1606)九州福岡藩主の黒田長政が父黒田孝高(如水・官兵衛)の菩提を弔うために春屋宗園(しゅんおくそうえん)を開祖として建てられました。(※NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」で岡田君が演じていたのが父黒田官兵衛、桃李君が演じていたのが長男黒田長政です)春屋宗園は、ほどなく江月宗玩に代を譲り、二世江月宗玩が実質的な開祖となりました。】
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その九) [忘れがたき風貌・画像]

その九 「二人のキリシタン大名(陸将・高山右近と海将・小西行長)」周辺

小西行長の銅像.jpg

「宇土城の本丸にある小西行長の銅像」
https://senjp.com/konishi/

【 小西行長は、1558年、和泉・堺の商人である小西隆佐(小西立佐、洗礼名ジョウチン)の次男として京都で生まれた。母の名は、小西ワクサと呼ばれる女性で、洗礼名はマグダレーナ。 
父・小西隆佐(小西立佐)は薬種商で、1562年前後に、ルイス・フロイスの師事を受けてキリシタンとなり、宣教師の使者として織田信長に拝謁もした人物であった。
小西家の出自は薬種商ではなく、父・小西隆佐(小西立佐)と小西行長は、元々宇喜多家の家臣とする説や、羽柴秀吉が宇喜多家調略の為、小西行長を送り込んだとする説が近年は有力視されている。
 1572年、18歳の小西行長は、岡山にある商家・魚屋九郎衛門の養子として入ると、商売で宇喜多直家の元を何度か訪ねており、その際に才能を見出されて、宇喜多家の家臣に御船組員として加わり武士となった。正室の名は菊姫。同様に熱心なキリシタンで洗礼名はジュスタ。
 織田信長の家臣・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、別所長治の三木城攻めを行った際には、宇喜多直家の使者として羽柴秀吉に降伏したと言われている。織田家に人質として出された宇喜多直家の嫡男・八郎(宇喜多秀家)に付き添い、羽柴秀吉からその才知を気に入られ、1580年より父・小西隆佐(小西立佐)と共に羽柴家で重用されるようになり、父は1585年頃から河内・和泉両国の蔵入分代官となり、1581年には石田三成とともに堺政所に任じらた。
 小西行長は、豊臣政権において当初、播磨(兵庫県)の網干に近い室津で所領を与えられ、やがて、瀬戸内海の塩飽(香川県丸亀市)から堺にかけての船舶を監督する水軍の大将である「舟奉行」に任命され水軍を率いた。また、羽柴秀吉と諸大名との「取次役」としての働きも見受けられ、1584年に高山右近の後押しもあって洗礼を受けてキリシタンとなったとされるが、父親がもっと古くからキリシタンである為、以前からキリシタンであった可能性もある。
1585年には摂津守に任ぜられ、豊臣姓を名乗ることを許されているが、この頃、母・小西ワクサは豊臣秀吉の正室・おねの侍女として大阪城に上がった。
1585年の紀州征伐では、水軍を率いて参戦したが、雑賀衆の抵抗を受けて敗退したと言われている。太田城の水攻めでは、安宅船や大砲も運用して攻撃し、開城のきっかけを作ったともいわれている。
 それらの功で、1585年には小豆島10000石となり、小豆島ではセスペデス司祭を招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発を積極的に行った。
1586年の九州攻め準備の為、赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後、平戸(長崎県)に向かって松浦氏の警固船出動を監督した。
 1587年の九州征伐では、薩摩・平佐城攻略の搦手口の大将として参加。父・小西隆佐(小西立佐)は兵糧を担当したようで、他にも豊臣秀吉の代理人として南蛮船が輸入した生糸の優先買い付けのため、長崎に赴いている。
 1587年、豊臣秀吉がバテレン追放令を出し、改易となった高山右近や、オルガンティーノ宣教師を一時、小豆島に隠した。
 1588年、一揆制圧に失敗した佐々成政の肥後国人一揆討伐で功をあげ、改易された佐々成政の肥後南半国の宇土、益城、八代の約20万石と大出世し、宇土古城に入った。
豊臣秀吉は熊本城を中心に北半分は武功派の加藤清正に、南半分を頭脳派の小西行長に与えたのだ。肥後で小西行長は新たに宇土城を築城開始して本拠を移した。
 しかし、その際に宇土城普請に従わなかった天草五人衆が蜂起(天草国人一揆)。天草五人衆は豊臣秀吉から直接領地安堵されており、小西行長とは対等な立場と考えていたようだ。  
 キリシタンの多い天草衆に対して、同じキリシタンの小西行長は事態を穏便に済ませようとしたが、加藤清正が強固に軍勢を派遣した為、小西行長は加藤清正らとともに平定し、天草10000石も加増された。
宇土城は水城として優れた能力を持った城で、豊臣秀吉は、のちに計画していた朝鮮出兵を考えて、水軍統率に長けた小西行長を肥後に封じたと考えられる。また、豊臣秀吉は八代に麦島城を築城し、小西家三家老の一人で古麓城代ある小西行重(小西美作守行重)に麦島城代を命じた。天草はご承知の通り、70%以上の人々が熱心なキリシタンの地であり、イエズス会の活動を小西行長は支援し、領内に多くの宣教師を招いて教会や聖学校を建て、パイプオルガンや時計も作った。
隈庄城、木山城、矢部城、愛藤寺城を支城として、隈庄城に弟・小西主殿介、愛籐寺城には結城弥平次ら一族重臣を城代に任じ、バテレン討伐令で失脚した高山右近の旧臣を多数家臣に取り立てている。しかし、残りの肥後北半国を領していた加藤清正とは境界線をめぐって次第に確執を深めて行った。
小西行長の名が広く知られるようになったのは明の沈惟敬(しんいけい)との講和交渉を小西行長が日本代表として交渉を進めたからである。しかし、朝鮮攻めが決定すると、1592年からの文禄の役では、娘・妙の婿でもある対馬領主の宗義智と共に第一軍として6000を率いて朝鮮へ渡航。小西行長と加藤清正の両名が先鋒となることを希望していたが、豊臣秀吉は小西行長に大黒の馬を贈って先鋒として、加藤清正を2番手とした。
 小西行長らは漢城(現ソウル)を陥落させるなど進撃したが、その後はこう着状態となり、小西行長・石田三成らが中心となって和平交渉を進めた。この時、父・小西隆佐(小西立佐)は、兵糧の後方支援を担当していたようだが、肥前国名護屋で発病すると帰国したが、1592年京都で亡くなっている。
 小西行長は、1597年の慶長の役でも加藤清正と共に先鋒を任命されて、南原城攻略などで活躍したが、1598年8月、豊臣秀吉が亡くなり戦いは終結し、島津義弘らの救援も受けて殿軍(しんがり)を務め、12月に無事帰国した。その後は、徳川家康の指示で動くようになり、1599年に薩摩で起こった島津家の内紛では、徳川家康から派遣されている。
1600年、上杉景勝の会津征伐では、徳川家康より上方残留を命じられ、関ヶ原の戦いでは、石田三成に協力して西軍として布陣した。徳川家康寄りだったにも拘わらず、小西行長が西軍に与したのには、朝鮮出兵で強く結びついていた石田三成や、以前仕えた宇喜多家への義理、東軍の加藤清正との対立などが考えられる。小西行長の兵力は、朝鮮出兵での消耗からまだ立ち直っておらず、意外なほど小規模だったようで、4000と言う布陣は石田三成らが貸した兵が多かったとされる。
 小西行長は天満山に布陣して東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦したが、小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継が壊滅すると、続いて小西行長・宇喜多秀家も崩れ、小西行長は伊吹山中に逃亡した。9月19日、関ヶ原の庄屋・林蔵主に匿われていたが、観念した小西行長は自らを捕縛して褒美をもらうように林蔵主に薦めたと言う。(キリシタンだった為、自害はしなかったとされる。)
 しかし、林蔵主はこれを受けず、竹中重門の家臣・伊藤源左衛門と山田杢之丞の両名に事情を説明して、共々小西行長を護衛して草津にあった村越直吉の陣まで連れて行ったと言う。その2日後には石田三成が捕まり、その翌日には安国寺恵瓊が捕縛された。
 3人は9月29日に大坂と堺で引き廻されて、10月1日、京都の六条河原にて処刑された。その後、首は三条河原で晒されたと言う。享年46。 】

カトリック高槻教会にある右近像.jpg

カトリック高槻教会にある右近像(イタリア人の彫刻家ニコラ・アルギイニの作)
http://www.catholic-takatsuki.jp/ukon_takayama/


https://www.touken-world.jp/tips/65545/

【 西暦(和暦)  年齢 出来事
1552年(天文21年)1歳  摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)にて、高山友照(たかやまともてる)の嫡男として生まれる。高山氏は、59代天皇・宇多天皇(うだてんのう)を父に持つ敦実親王(あつみしんのう)の子孫。また高山氏は、摂津国・高山(大阪府豊能町)の地頭を務めていた。
1564年(永禄7年)13歳  父・高山友照が開いた、イエズス会のロレンソ了斎(ろれんそりょうさい)と、仏僧の討論会を契機に入信。妻子や高山氏の家臣、計53名が洗礼を受け、高山一族はキリシタンとなる。高山右近の洗礼名ドン・ジュストは、正義の人を意味する。父はダリヨ、母はマリアという洗礼名を授かる。
1568年(永禄11年)17歳 織田信長の強力な軍事力による庇護のもと、室町幕府15代将軍となった足利義昭(あしかがよしあき)の命により、高槻城(たかつきじょう:大阪府高槻市)に和田惟政(わだこれまさ)が派遣される。これに伴い、高山友照・高山右近親子は、和田氏に仕えることとなる。
1571年(元亀2年)20歳  白井河原の戦い(しらいかわらのたたかい)において和田惟政が、池田氏の重臣・荒木村重(あらきむらしげ)に討たれる。高山右近は和田惟政の跡を継いだ嫡男・和田惟長(わだこれなが)による高山親子の暗殺計画を知る。
1573年(元亀4年/天正元年)22歳 荒木村重の助言を受け、主君・和田惟長への返り討ちを決行。高槻城で開かれた会議の最中に、和田惟長を襲撃し致命傷を負わせた。その際、高山右近も深い傷を負う。高山親子は荒木村重の配下となり、高槻城主の地位を高山右近が譲り受ける。
1578年(天正6年)27歳  主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(ありおかじょう:兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)へと発展。
1579年(天正7年)28歳  有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔(はりつけ)にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣(かみこ)一枚で、単身織田信長のもとへ投降。その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡(あくたがわぐん)を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。
1580年(天正8年)29歳  織田信長が、安土城城下に諸将のための邸宅を建築。高山右近にも授与される。
1581年(天正9年)30歳  織田信長の使者として、鳥取城(鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。
1582年(天正10年)31歳 甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒(せんぽう)を務め、明智光秀軍を破る。
1583年(天正11年)32歳 柴田勝家との賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で、豊臣家の勝利に貢献する。
1584年(天正12年)33歳 徳川家康・織田信雄(おだのぶかつ)連合軍と、豊臣軍が対峙した小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)に参戦。
1585年(天正13年)34歳 歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城(ふなげじょう)を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
1587年(天正15年)36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長(こにしゆきなが)にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家(まえだとしいえ)に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
1600年(慶長5年)49歳  関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)では東軍に属し、丹羽長重(にわながしげ)を撃退する。
1609年(慶長14年)58歳 高岡城(現在の富山県高岡市)の縄張設計を担当。
1614年(慶長19年)63歳 キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
1615年(慶長20年/元和元年)64歳 前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。
2016年(平成28年) バチカン市国にあるローマ教皇庁から、福者(ふくしゃ:没後、その聖性と徳を認められた信者に与えられる称号)に認定される。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-13

【(「高台院」周辺(侍女)のキリシタン関係者)

小西行長(洗礼名=アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)/ドム・オーギュスタン・ジヤクラン)
↑↓
父:小西隆佐(洗礼名:ジョウチン)、※母:ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)=侍女
兄弟:如清(洗礼名:ベント)、行景(洗礼名:ジョアン)、小西主殿介(洗礼名:ペドロ)、小西与七郎(洗礼名:ルイス)、伊丹屋宗付の妻(洗礼名:ルシア)
妻:正室:菊姫(洗礼名:ジュスタ)
側室:立野殿(洗礼名:カタリナ)
※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子。霊名カタリナ

高山右近(洗礼名=ジュスト・ユスト)
↑↓
父母:父:高山友照、母:高山(洗礼名=マリア)
妻:正室・高山(洗礼名=ジュスタ)
子:洗礼名・ルチヤ(横山康玄室)

内藤如安(洗礼名=洗名ジョアン)
↑↓
父母:父・松永長頼、母:・藤国貞の娘 妹・内藤ジュリア=女子修道会ベアタス会を京都に設立=豪姫の洗礼者?

不干斎ハビアン(1565-1621)の母ジョアンナ=北政所(おね、高台院)の侍女→佐久間信栄(1556-1632)=不干斎との関係は? 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-19

小西行長文鞍.jpg

「梅花皮写象牙鞍(かいらぎうつしぞうげくら) 伝小西行長所用」(安土桃山時代・16世紀 個人蔵)
https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s39.html

【 梅花皮を模した象牙をふんだんに散りばめた美麗な鞍。小西行長が息女・マリアを対馬の大名・宗義智に嫁がせた際に持たせたものといいます。関ヶ原合戦で行長は斬罪に処されてしまい、徳川政権下での生き残りを図る義智は、マリアを離縁しました。行長の栄光と悲劇を伝える名品です。  】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-07

【≪ もし、宗教を大きく、父の宗教と母の宗教とにわけて考えると、日本の風土には母の宗教-つまり、裁き、罰する宗教ではなく、許す宗教しか、育たない傾向がある。多くの日本人は基督教の神をきびしい秩序の中心であり、父のように裁き、罰し怒る超越者だと考えている。だから、超越者に母のイメージを好んで与えてきた日本人には、基督教は、ただ、厳格で近寄り難いものとしか見えなかったのではないかというのを私は序論にした。≫
(遠藤周作『小さな町にて』)

 この遠藤周作の「父の宗教と母の宗教」とに関連して、その遠藤周作の「小西行長伝」の副題がある『鉄の首枷』の、当時の「キリシタン大名」としての「高山右近と小西行長」との、その対蹠的な「キリシタン受容」の仕方が交差して来る。
 この二人は、豊臣秀吉の配下にあって、共に、イエズス会士として、高山右近が「陸の司令長官」とすると、小西行長は「海の司令官」ともいうべき、当時のキリシタン大名の中で将来の嘱望を託された若手の屹立した位置にあった二人と言える。
 そして、天正十四年(一五八七)の豊臣秀吉の「禁教令」(バテレン追放令=伴天連追放令)により、その翌年に高山右近は棄教を迫られるが、右近は信仰を守るために、播磨国(兵庫県)明石領(六万石)の全ての領地と財産を秀吉に返上し、明石領からの追放処分を受ける。
 この時に、その最終の棄教を促す使者として、右近の茶道の師匠である「千利休」に対し、右近は「『宗門は師君の命を重んずる、師君の命というとも改めぬ事こそ武士の本意ではないか』と答えた。利休はその志に感じて異見を述べなかった(『混見摘写』)」と言われている(「ウィキペディア」)。
 この高山右近が明石領から追放処分を受けた天正十五年(一五八七)の「小西行長年譜」(『鉄の首枷(遠藤周作)』所収)には、次のとおり記されている。

≪天正十五年(一五八七)丁亥 (小西行長)三十歳
一月 秀吉自ら島津氏を討つことを決し、諸臣に布告、先鋒を送る。
三月 秀吉、大阪を発して西下する。
四月二十八日 小西行長、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆の率いる水軍は、秀吉の命で薩摩平佐城を攻撃する。
五月 秀吉は薩摩川内に入り、島津義久は降伏する。(略)
六月七日 秀吉は筑前宮崎に帰り、九州諸大名の封城を定める。(略)
同十九日 秀吉は日本副管区長コエリョを呼びつけてキリスト教の禁止、二十日以内を期して国外追放を布告する。高山右近は棄教を肯んぜず、明石の所領を棄てる。
六月下旬~七月上旬 この頃オルガンティーノ師は動揺した小西行長と室津で会う。信仰と権力の板挟みになった行長は、面従腹背に生きる。
八月~九月 (略)
十月 秀吉は北野大茶湯を催す。 ≫(「小西行長年譜」(『鉄の首枷(遠藤周作)』p271所収)

この「小西行長年譜」に出てくる、小西行長の「面従腹背の生き方」について、『鉄の首枷』では、次のように綴っている。

≪ 右近が永遠の神以外には仕えぬと室津で語った時、行長は友人とはちがった「生き方」をしようと決心した。それは堺商人がそれまで権力者にとってきたあの面従腹背(めんじゅうふくはい)の生き方である。表では従うとみせ、その裏ではおのれの心はゆずらぬという商人の生き方である。(中略)
室津で行長がオルガンティーノの決意の前に泣いたことは彼の生涯の転機となった。その正確な日付は我々にはわからぬが天正十五年(一五八七)の陰暦六月下旬から七月上旬であったことは確かである。ながい間、彼は神をあまり問題にはしていなかった。彼の受洗は幼少の時であり、その動機も功利的なものだったからだ。にもかかわらず彼はこの日から、真剣に神のことを考えはじめるようになる。そのためには高山右近という存在とその犠牲が必要だったのである。≫(『鉄の首枷』p95-98)

 ここで、「高山右近」(行長より六歳上とすると三十六歳)の、「永遠の神(Deus)以外には仕えぬ」とする、その「キリシタン受容」を、「父の宗教」とすると、上記の「小西行長」の「面従(面=棄教=永遠の神(Deus)を棄てる)、腹背(心=永遠の神(Deus)に従う)」の「キリシタン受容」の仕方も、これまた、壮絶な「父の宗教(Deus)=キリスト信仰」であるという思いと同時に、ここに、「母なる宗教(Mariae)=マリア信仰」の、その萌芽の全てが宿っているように解したい。
 グレコには、上記の「 ペテロは、外に出て、激しく泣いた。」( ルカの福音書 22章62節 )を主題とした「聖ペテロの涙」の作品もあるが、そこには、「小さくマグダラのマリア」が描かれている。この「マグダラのマリア」とは、「聖母マリア」が「キリストの生母たるマリア」とするならば、「キリストの最期をみとった使徒たるマリア」ということになる。

ペドロの涙.jpg

聖ペテロの涙 エル・グレコ フィリップス・コレクション蔵
https://www.marinopage.jp/%e3%80%8c%e8%81%96%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad%e3%81%ae%e6%b6%99%e3%80%8d/

≪ 遠く雷鳴が聞こえてきそうな空の下、ペテロはキリストを裏切り、三度否認したことを悔いて、天を仰ぎ涙を流しています。
 グレコ独特の、白眼の部分のウルウルした光がペテロの心情をよく表していて、彼をこの上なく高貴な存在として輝かせています。ペテロの背後には、蔦がからまる洞窟が描かれていますが、蔦は「不滅の愛」のシンボルとされていますから、すでにキリストが悔い悩むペテロを赦し、愛をもって包もうとしているのが感じられます。
 当時、カトリック教会は「悔悛」をテーマとした作品を称揚していましたから、宗教画家だったグレコはマグダラのマリアの悔悛とともに、この聖ペテロをテーマとして礼拝用にいくつも描いています。その中で、この作品はごく初期のもので、グレコ特有のデフォルメもまだ自然な段階にあり、非常に親しみ易い作品の一つと言えると思います。それでも、どこか地上的要素が姿を消し、超自然的な雰囲気が漂ってしまうところは、やはりグレコ・・・と思ってしまうのです。
 できれば自分もゆらゆら揺れて天に昇ってしまいたい、と願うように両手を組むペテロの左手奥には、見えにくいのですが、小さくマグダラのマリアが描かれています。これは、磔刑の三日後、マグダラのマリアが香油を持ってイエスの棺を訪れたことを暗示しています。すでにその時、主は復活した後で、石棺に白い天使が座っていました。これをペテロに知らせようとするマグダラのマリアの姿が描き込まれているのです。
 流れるようなタッチの中に劇的な雰囲気が漂い始めた時期の、グレコらしい作品です。≫  】

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その八) [忘れがたき風貌・画像]

その八 「二人の能登・堺の等伯」(「長谷川信春=等白=等伯」と「高山右近=南坊等伯」)周辺

大徳寺三門天井画(等伯).jpg

「大徳寺三門天井画・『蟠龍図』(長谷川等白(等伯)筆)」 天正十七年(一五八九) 京都・大徳寺
https://media.thisisgallery.com/20229664

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-05-31

【 「蟠龍(ばんりゅう)」図とは、「とぐろを巻いた龍のこと。地面にうずくまって、まだ天に昇らない龍」図で、長谷川等白(等伯)筆に成る「大徳寺三門天井画」には、この他に、その北側に「雲龍」図(「蟠龍」図の北側)、それら続けて「昇龍」図(西側天井図)と「降龍」図(東側天井図)、それらの脇に、「天人像」「迦陵頗伽像」(東側天井図)と「天人像」「迦陵頗伽像」(西側天井図)とが描かれている。
 それらに付け加えて、「降龍」図(東側天井図)と「天人像」「迦陵頗伽像」(東側天井図)との間の「柱」に「阿形仁王像」、そして、「昇龍」図(西側天井図)と「天人像」「迦陵頗伽像」(西側天井図)との間の「柱」に「吽形仁王像」とが描かれている。
 これらの全容は、『没後400年 特別展「長谷川等伯」展図録(「毎日新聞社・NHK・NHKプロモーション刊」)』 の、「参考図版解説 大徳寺三門壁画」の解説に詳しい。これらの大徳寺三門壁画」周辺と「長谷川等伯・年表」を、「ウィキペディア」で抜粋すると、次のとおりとなる。 】

【  大徳寺三門天井画・柱絵(京都・大徳寺)
 天正17年(1589年)板絵著色。内訳は、中央に「雲龍図」と「蟠竜図」、その外側にそれぞれ「昇竜図」と「降竜図」、柱に阿吽の「仁王像」、さらに両サイドに「天人像」と「迦 陵頻伽像」を一体ずつ描く。等伯が大絵師への道を辿る契機となった記念碑的作品。この絵でのみ「等白」と署名しており、等伯と名乗る前の画号とみなされている。なおこれらの絵画は、温湿度の影響を非常に受けやすいため、作品保護の観点から一切の拝観が禁止されている。 

   中央画壇での活躍
 天正17年(1589年)、利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる大徳寺山門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りを果たす。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである。 
 天正18年(1590年)、前田玄以と山口宗永に働きかけて、秀吉が造営した仙洞御所対屋障壁画の注文を獲得しようとするが、これを知った狩野永徳が狩野光信と勧修寺晴豊に申し出たことで取り消された。この対屋事件は、当時の等伯と永徳の力関係を明確に物語る事例であるが、一方で長谷川派の台頭を予感させる事件でもあり、永徳の強い警戒心が窺える。この1か月後に永徳が急死すると、その危惧は現実のものとなり、天正19年(1591年)に秀吉の嫡子・鶴松の菩提寺である祥雲寺(現智積院)の障壁画制作を長谷川派が引き受けることに成功した。
 この豪華絢爛な金碧障壁画は秀吉にも気に入られて知行200石を授けられ、長谷川派も狩野派と並ぶ存在となった。しかし、この年に利休が切腹し、文禄2年(1593年)には画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた久蔵に先立たれるという不幸に見舞われた。この不幸を乗り越えて、文禄2年から4年(1593年 - 1595年)頃に代表作である『松林図屏風』(東京国立博物館蔵)が描かれた。

   年表
天文8年(1539年) - 能登国七尾に生まれる。
永禄6年(1563年) -『日乗上人像』(羽咋・妙成寺蔵)を描く。
永禄11年(1568年  - 長男・久蔵生まれる。
元亀2年(1571年) - 養父・宗清、養母・妙相没。この年に上洛か。
天正7年(1579年) - 妻・妙浄没。
天正17年(1589年) -『大徳寺山門天井画・柱絵』『山水図襖』(大徳寺蔵)を描く。妙清を後妻に迎える。
文禄2年(1593年) - 『祥雲寺障壁画』(智積院蔵)を完成する。長男・久蔵没。
慶長4年(1599年) -『仏涅槃図』(本法寺蔵)を描く。この頃「自雪舟五代」を自称する。
慶長9年(1604年) - 法橋に叙せられる。後妻・妙清没。
慶長10年(1605年) - 法眼に叙せられる。
慶長11年(1606年) - 『龍虎図屏風』(アメリカ・ボストン美術館蔵)を描く。
慶長15年(1610年) - 江戸下向到着後、没。享年72。  】

【 長谷川等伯が、この「大徳寺三門天井画・柱絵」を制作した「天正十七(一五八九)」は、等伯、五十一歳の時で、この年は、大きな節目の年であった。等伯の生涯は、大きく、次の五期に区分することが出来る。

https://www.nanao-cci.or.jp/tohaku/life.htm

能登の時代(33歳頃まで) →  能登の絵仏師「信春」の時代
京都・堺の時代(33歳~50歳頃)→ 上洛・雌伏・転機「信春から等白」の時代  
京都の時代(50歳代)→「狩野派」と二分する「長谷川派」誕生「等白から等伯」の時代
京都の時代(60歳代)→「桃山謳歌」の「等伯・法橋」の時代
京都の時代(70歳~72歳)→「江戸狩野派・探幽の時代」の「等伯・晩年」の時代

「天正17年(1589年)、利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる大徳寺山(三)門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りを果たす。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである」(「ウィキペディア」)のとおり、「能登の絵仏師・長谷川信春」が、後の「天下の大絵師・長谷川等伯」に脱皮するのは、「京都・堺」を本拠とする「天下の大茶人・千利休」が大きく介在していることが、これらの「長谷川等伯年表」などから浮かび上がってくる。】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-05-31

高山右近自筆書状(石川県立美術館蔵).jpg

「高山右近自筆書状(石川県立美術館蔵)」 金沢市有形文化財
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaihogoka/gyomuannai/3

【 キリシタン大名高山長房(通称右近)は、茶人で利休七哲の一人としても知られ、南坊・等伯などと号しました。豊臣秀吉の伴天連追放令により領地を失いましたが、前田利家の招きで天正16年(1588年)秋頃金沢に移り住んでいます。
 利家没後、利長に仕え、築城技術の経験をかわれて、金沢城の修築さらに高岡築城に采配を振るい、大聖寺城(山口玄蕃)攻略にも参加しました。その間、娘を前田家重臣横山長知の子康玄に嫁がせましたが、老母と長男を失ってからは、徳川家康のキリシタン禁教で、慶長19年(1614年)正月17日に金沢を去るまでの間、信仰と茶湯三昧の生活を送ったと伝えられています。
 本書状は右近の金沢滞在中の足跡を示すもので、姪の嫁ぎ先でもある特権商人片岡孫兵衛(休庵)に、茶の湯に用いる鶴の羽ほうきが出来たので招待したいと申し入れたものです。

(釈文)
一両日不縣御目
御床布候、仍先日之
鶴之羽はうき御ゆ
い候はゝ、少見申度候
ゆわせ候者今晩参候間
ほんに見せ申度候
かしく
十一月廿六日 等伯(花押)
(封紙ウワ書)
「休庵公御床下 南坊」       】(「金沢市文化財保護課」)

【 この「高山右近自筆書状(石川県立美術館蔵)」の解説のとおり、「豊臣秀吉の伴天連追放令により領地を失いましたが、前田利家の招きで天正16年(1588年)秋頃金沢に移り住んでいます」と、「茶人で利休七哲の一人・キリシタン大名高山長房(通称右近)」は、この当時、「長谷川等伯」の生まれ故郷の「金沢・能登」に移住していて、「南坊(みなみのぽう)等伯(とうはく)」の、「金沢・能登」出身の、「長谷川等白」ではなく、「等伯(「天下の大絵師・長谷川等伯」)の、その「等伯」を名乗っている。
 ということは、「高山右近」が「南坊・等伯」を名乗るのは、天正十七年(一五八九)後の、「等白」から「等伯」へと移行した、その翌年(天正十八年=一五九〇)の「狩野永徳」が没した(九月十四日没)年以降の当たりが、一つの目安になるのかも知れない。
 その翌年(天正十九年=一五九一)の二月二十八日に、「千利休」≪大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日)≫は、豊臣秀吉の命により自刃させられている。
 これらに関連して、天正十七年(一五八九)に、長谷川等伯は、「千利休・高山右近・小西行長」らに関係の深い「堺」出身の「妙清」を後妻に迎えている(先妻の妙浄は、天正七年=一五七九、等伯四十一歳の時に没している)ことなどから、等伯の「京都・堺の時代(33歳~50歳頃)」に、「千利休」(「高山右近」の「利休七哲」と関連の「キリシタン大名」など)との親交が深くなっていったのかも知れない。 】

等伯像.jpg

「本法寺境内に建つ等伯の銅像」(メモ:後方の松は「本阿弥光悦手植えの松」か?)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-11

【 長谷川等伯は1571(元亀2)年頃、故郷の七尾の菩提寺の本山だった本法寺を頼り、京都に出てきました。七尾ですでに画業で名を挙げていましたが、京都で絵の腕にさらに磨きをかけようとしたのでしょうか。現在も本法寺に隣接する塔頭の教行院(きょうぎょういん)に生活の拠点を得て、当時の最先端都市だった京や堺で絵を学びます。並行して千利休ら有力者とのパイプを築いていったと考えられています。

https://media.thisisgallery.com/works/hasegawatohaku_06      】

仏涅槃図.jpg

仏涅槃図(長谷川等伯筆)・本法寺蔵(メモ:光悦の寄進した「法華題目抄: 三九・七㎝×一四八八㎝」と「如説修行抄: 三九・七㎝×一四七二㎝」とも、長大な一巻である。)

【作品解説 
 東福寺、大徳寺所蔵のものと並び、京都の三大涅槃図に数えられる作品です。縦約10メートル、横約6メートルという巨大な作品で、首を上下左右に動かさなければ全体を見ることができません。この作品は完成後に宮中に披露された後、等伯が深く信頼を寄せていた本法寺に寄進されました。釈迦の入滅と、その死を嘆く弟子や動物たちが集まっている様子が、鮮やかな色合いで表情豊かに描かれています。裏面には、等伯が信仰していた日蓮宗の祖師たちの名、本法寺の歴代住職、等伯の親族、そして長谷川一門を担う存在として期待を寄せていた長男・久蔵たちの供養名が記されています。等伯の信仰の深さと、一族への祈りが込められた作品といえるでしょう。】

(本法寺の重要文化財) 『ウィキペディア(Wikipedia)』

重要文化財(国指定)
長谷川等伯関係資料
絹本著色日堯像(長谷川信春(等伯)筆)
絹本著色日通像(長谷川等伯筆)
紙本墨画妙法尼像(長谷川等伯筆)
紙本著色仏涅槃図(長谷川等伯筆)
等伯画説(日通筆)
附:日通書状
附:法華論要文(日蓮筆)
附:本尊曼荼羅(日親筆)
絹本著色日親像 伝狩野正信筆 - 2017年度指定[4][5]。
紙本金地著色唐獅子図 四曲屏風一隻[6][7]
金銅宝塔 応安三年(1370年)銘
紙本墨画文殊寒山拾得像[8] 3幅(文殊:啓牧筆、寒山拾得:啓孫筆)
絹本著色蓮花図(伝・銭舜挙筆)
絹本著色群介図
紫紙金字法華経(開結共)10巻
附:花唐草文螺鈿経箱
附:正月十三日本阿弥光悦寄進状
※法華題目抄(本阿弥光悦筆)
※如説修行抄(本阿弥光悦筆)

(周辺メモ)

※法華題目抄(本阿弥光悦筆)→『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』作品解説138
 紙本 一巻 三九・七㎝×一四八八㎝ 

※如説修行抄(本阿弥光悦筆)→『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』作品解説139
紙本 一巻 三九・七㎝×一四七二㎝ 

カトリック高槻教会にある右近像.jpg

カトリック高槻教会にある右近像(イタリア人の彫刻家ニコラ・アルギイニの作)
http://www.catholic-takatsuki.jp/ukon_takayama/

【 高山右近は、1552年、摂津の国高山(現在の大阪府豊能郡)に生まれました。6歳から大和の国 沢城(現在の奈良県宇陀郡榛原町)に住み、12歳のときに父飛騨守(洗礼名ダリオ)の影響で洗礼を受け(洗礼名ユスト)、その後高山親子は芥川城を経て、1570年頃高槻城に入り、1573年父飛騨守が城主となり、同年続いて右近が21歳で高槻城主となりました。
 「高山右近の領内におけるキリシタン宗門は、かってなきほど盛況を呈し、十字架や教会が、それまでにはなかった場所に次々と建立された・・・五畿内では最大の収容力を持つ教会が造られた」(フロイス「日本史」)。1576年、オルガンティーノ神父を招いて、荘厳、盛大に復活祭が祝われ、1577年には一年間に4,000人の領民が洗礼を受け、1581年には巡察師ヴァリニャーノを高槻に迎え、盛大に復活祭が行なわれた。同年、高槻の領民25,000人のうち、18,000人(72%)がキリシタンでした。
 ところが、1578年に右近の主君である荒木村重が信長に謀反、右近は荒木への忠誠を示すために妹と長男を人質に出してこれを翻意させようとするが失敗、一方信長は右近が自分に降らなければ、宣教師とキリシタンを皆殺しにして教会を破却すると脅した。右近は城内にあった聖堂にこもり、祈り、ついに武士を捨てる決心をし、着物の下に着込んでいた紙の衣一枚で信長のところへ向かった。結果的には右近の家臣によって高槻城は無血開城、信長に投降したので、信長は右近に再び高槻城主として仕えるように命じ、人質も解放され、この難局はぎりぎりのところで解決したのでした。】(「カトリック 高槻教会」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-05-12

主なキリシタン大名.jpg

「主なキリシタン大名」((「世界の歴史まっぷ」)
https://sekainorekisi.com/japanese_history/%e5%8d%97%e8%9b%ae%e8%b2%bf%e6%98%93%e3%81%a8%e3%82%ad%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88%e6%95%99/#toc_index-3

【 ポルトガル船は、布教を認めた大名領の港に入港したため、大名は貿易を望んで宣教師を保護するとともに、布教に協力し、なかには洗礼を受ける大名もあった。彼らをキリシタン大名と呼ぶが、そのうち、大友義鎮(おおともよししげ)(宗麟、洗礼名フランシスコ)・有馬晴信(洗礼名プロタジオのちジョアン、1567-1612)・大村純忠(ドン゠バルトロメオ、1533〜87)の3大名は、イエズス会宣教師ヴァリニャーニ(1539〜1606)の勧めにより、1582(天正10)年、伊東マンショ(1569?〜1612)・千々石ミゲル(ちぢわみげる)(1570〜?)・中浦ジュリアン(1570?〜1633)・原マルチノ(1568?〜1629)ら4人の少年使節をロ一マ教皇のもとに派遣した(天正遣欧使節)。彼らはゴア・リスボンを経てロ一マに到着し、グレゴリウス13世(ローマ教皇)に会い、1590(天正18)年に帰国している。また大友義鎖や黒田孝高(くろだよしたか)(如水=じょすい、ドン゠シメオン、1546〜1604)·黒田長政(1568〜1623)父子のように、ロ一マ字印章を用いた大名もいるほか、明智光秀の娘で細川忠興(ほそかわただおき)(1563〜1645)夫人の細川ガラシャ(1563〜1600)も熱心な信者として知られている。 】(「世界の歴史まっぷ」所収「南蛮貿易とキリスト教」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-25

茨城キリシタン遺物史料館地図.jpg

「千提寺・下音羽、高山、能勢の位置関係-高槻の山間部-」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p27)

【 千提寺・下音羽のキリシタン遺物を「点」で見るのではなく、「面」で見ることが必要です。現在の北摂の山間部は、能勢町・豊能町・箕面市・茨木市・高槻市と分かれていますが、右近の時代を考える時には、これらの山間部を一体的に捉える必要があるのです。
 1563年父ダリオが受洗後、高山周辺で最初の布教が行われました。その後、右近の戦の功績に対し、信長・秀吉は、父ダリオの出身地高山の周辺の山間部を、右近に与えていきます。
 この山間部では、1580年頃から集中的に布教が行われた結果、多くの僧侶を含む集団改宗が行われました。宣教師の記録で「高槻の山間部」という名前で度々登場してきます。改宗した元僧侶の強い指導のもとに団結し、農民主体の強力な信仰共同体が生まれ、江戸時代の厳しい禁教令のなかでも信仰が維持されました。このような歴史を持つ北摂の山間部から、多くの貴重なキリシタン遺物が大正時代発見されたのです。これらの遺物によって右近の時代の信仰を知ることができます。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」)

原田家本・追記.jpg

「マリア十五玄義図(原田家本)」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p10)

【 (上段の聖母子像)

・中央の上段には右手で幼いイエス(地球儀を右手で持つ)を抱き、左手で白いバラ(椿)の花をつまんでいる聖母マリア様の絵が描かれています。このバラの聖母子像は、もともとの原型があるそうで、幼いイエスが手にするのはロザリオだそうです。この15玄義図では、十字架が付いている地球儀を持った幼きイエスとして描かれています。これは、同じ千提寺で発見された「救世主像」の形に似ていると言われています。16世紀後半、公式にロザリオの祈りが認められ、教会歴で10月7日にロザリオの聖母の日と定めてから以降、ロザリオの祈りが広く普及しはじめ、よく描かれるようになった画題だそうです。  

  (下段の聖体讃美の図)

「いとも尊き秘跡、讃仰せられよ」ポルトガル語: LOVVADO SEIA
O SANCTISS (IMM)SACRAMENTO ( ) は新村氏の追補、新村氏訳

・左に聖イグナチオ・ロヨラ、右に聖フランシスコ・ザビエルが描かれ、名前の前には、いずれも、S.P(聖父)が付いているので、これらの作品は両聖人が列聖されてから制作されたと考えられている。(ザビエルの列聖式は1622年行われたが、大勅書の発布が遅れ、日本に知らされたのは1623年です。)
・12人使徒に加えられえた聖マチアス(5月14日)と、目をえぐり取られても、純潔を守った聖ルチア(12月13日)、何れも古代の殉教者ですが、両聖人が描き加えられた意味については諸説あります。この聖人を霊名とした日本の殉教者は数多くいます。

 ラテン語、左側:S.P.IGNATIVS SOCIETATISIESVS(イエズス会士聖イグナチウス S.P は 聖人の敬称
右側:S.P.FRANCISCVSXAVERIUS (聖フランシスコ ザビエル) 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p10)
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その七) [忘れがたき風貌・画像]

その七 「豊臣秀吉・千利休(聖家族)」周辺の人物群像

高台寺の聖母子像.jpg

高台寺所蔵の「聖母子像に花鳥文様刺繍壁掛」
https://www.kyotodeasobo.com/art/exhibitions/hideyoshi-woman/

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-13

 このポスターの「戦国と秀吉をめぐる女性」(高台寺「掌美術館」)は、二〇一一年秋の特別展のものであるが、この絵図は、高台寺所蔵の「聖母子像に花鳥文様刺繍壁掛」で、この「聖母子像」関連については、下記のアドレスで、「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿)p108-110」を簡単に紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

【この屏風の実質的な注文主の「京都高台寺の『高台院)」側(「高台院側近の『親キリシタン・親千利休』(「秀吉が殉教させた二十六聖人そして賜死させた親キリシタン茶人の千利休)系の面々」)の人物というのは、「高台院(北政所・お寧・寧々)の侍女、マグダレナ(洗礼名)とカタリナ(洗礼名)」(「バジェニスの『切支丹宗門史』には、彼女(北政所)はアウグスチノ(小西行長)の母マグダレナ、同じく同大名の姉妹カタリナを右筆として使っていた。此の二人の婦人は、偉大なる道徳の鏡となってゐた。妃后(北政所)は、この婦人達に感心し、自由に外出して宗教上の儀礼を果たすことを赦してゐた」と記されている)

https://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/31/031_zuisou_a.pdf

「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿))p108-110」

小西行長(洗礼名=アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)/ドム・オーギュスタン・ジヤクラン)
※母:ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)=高台院の侍女
※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子、霊名カタリナ=高台院の右筆?  】

 その「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿))p110」
では、「『梵舜日記』によれば、マグダレナは慶長十五年(一五一〇)六月頃まで高台寺にいて北政所の世話を続けていたが、その後記録には出てこない。実子行長が慶長五年(一六〇〇) に四十三歳に斬首されているので、年齢からするとこのころに世を去ったのであろうか。その折、親しくしていた北政所に聖母子像を託したのではないだろうか」と記している(「ウィキペディア」では、「慶長3年(1598年)の秀吉の死後、マグダレーナは再び北政所に召されて侍女となったが、関ヶ原の戦いの敗報と行長の死を知り、悲痛の余りほどなく亡くなった」とあるが、この『梵舜日記』の「慶長十五年(一五一〇)六月頃まで高台寺にいて北政所の世話を続けていた」と解したい)。

 ここで、この高台院の侍女をしていたといわれる小西行長の母(洗礼名・マグダレーナ)などに関して、「ハーバード大学発!『レディサムライ』」の造語を副題とする『日本史を動かした女性たち(北川智子著・ポプラ新書)』の、「レディサムライ」の元祖のような「高台院・北政所・ねね(おね)」、そして「侍女マグダレナ」と「秀吉とねねの養女・豪姫(マリア)」との関連の箇所を紹介して置きたい。

【『日本史を動かした女性たち(北川智子著・ポプラ新書)』

第一部 ねねと豊臣家の女性たち
 第一講 ねねが武力の代わりに使ったもの
 第二講 安定した暮らしを守るために

(宣教師たちが伝えたねね)
P46- そう伝える宣教師の報告書には、まぐだれな、からら、るしゃ、…… ねねの侍女なのに、日本人の名前でない者がいます。かららとはClaraのこと。るしゃはLuciaのこと。そのほかにも、Monica(もにか)、Julia(じゅりあ)、Maria(まりあ)、Catarina(かてれいな)、Vrsula(うるすら)、Martha(まるた)、Paula(はうら)に、Ana(あんあ)……。日本に来ていたイエズス会士ルイス・フロイスの記録によると、大阪城にいた貴婦人や女官の中には、五、六人のキリシタンがおり、その既婚婦人のうちの一人がマグダレナだといいます。

(侍女マグダレナから情報収集を行っていた)
P46- 彼女はねねの侍女で、とても信心深い女性でした。キリスト教の祝日になると、大阪城を出て大阪の教会のミサに行っていました。彼女のおかげで普段は城の外に出ないねねでも、キリスト教関連の情報を聞き、城下町の様子を知ることができたといいます。それだけではありません。マグダレナは秀吉をも交えて、イエズス会宣教師のことや、彼らが信じる宗教について語り合っていました。大阪城にいた侍女は、秀吉とねねの生活の補助のためだけにそばにいたのではないようです。城の中にとどまらず城外で何が起こっているのかもねねに伝えていて、城にいながら外の状況を把握するために、侍女たちの場外での活動は貴重な情報源になっていました。(以下略)

第三講 苦難の時を乗り越える
第四講 変化に対応し、何度でもやり直す
第二部 世界に広がっていった日本のレディサムライ
 第五講 女性が手紙を書くということ
 第六講 女性たちは武器を手に戦ったのか
 第七講 日本の「大阪」のイメージを屏風で伝える―ドバイにて―
 第八講 レディサムライはゲイシャ? スパイ?
 第九講 当時の日本と世界の繋がりをどう捉えるか―アフリカにて―
 第十講 クイーンとレディサムライ―イギリスにて―
 第十一講 宗教の話を抜きには語れないレディサムライへの目録
(キリスト教の日本伝来)
(信仰を貫いたガラシャ)
(キリスト教徒として生きることを選んだねねの娘)
P181- ……(高山)ジュスト(右近)の母(マリア)は、太閤様の夫人で称号で(北)政所様と呼ばれている婦人(ねね)を訪問するために赴いた。そこで他の貴婦人たちがいる中で、(ねねに)非常に寵愛されていた二人のキリシタンの婦人たちの面前で、話題が福音のことに及んだとき、(北)政所様は次のように言った。「それで私には、キリシタンのの掟は道理に基づいているから、すべての(宗教)の中で、もっとも優れており、またすべての日本国の諸宗派よりも立派であるように思われる」と。そして(ねね)は、デウスはただお一方であるが、神(カミ)や仏(ホトケ)はデウスではなく人間であったことを明らかに示した。そして(ねねは)、先のキリシタンの婦人の一人であるジョアナの方に向いて、「ジョアナよ、そうでしょう」と言った。(ジョアナは)「仰せのとおりです。神(カミ)は日本人が根拠なしに勝手に、人間たちに神的な栄誉を与えたのですから、人間とは何ら異なるものではありません」と答えた。それから(北)政所様は同じ話題を続けて次のように付言した。「私の判断では、すべてのキリシタンが何らの異論なしに同一のことを主張しているということは、それが真実であることにほかならない。(その一方、)日本の諸宗派についてはそういうことが言えない」と。これらの言葉に刺激されて、別な婦人すなわち(前田)筑前(利家)の夫人は、称賛をもって種々話し始め、あるいはむしろ我らの聖なる掟に対して始めた称賛を続けて、すべての話を次のように結んだ。「私は私の夫がキリシタンとなり、わたしが(夫の)手本にただちに倣うようになることを熱望しています」と。
 (『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第一部第二期、83-84頁) 】

 ここに出てくる人物は、「(高山)ジュスト(右近)の母(マリア)、太閤様の夫人=(北)政所=高台院=おね=ねね=秀頼正母・豪姫養母、前田)筑前(利家)の夫人=芳春院=おまつ=秀頼乳母・豪姫生母、ジョアナ=内藤ジュリアか?=豪姫の洗礼者? もう一人のキリシタン婦人=高台院侍女マグダレナか?=小西行長の母(ワクサ)」の四人と解すると、この四人は、『日本史を動かした女性たち(北川智子著・ポプラ新書)』の、その「レディサムライ」の名に相応しい。
 なお、小西行長の母(ワクサ)=マグダレナについては、『小西行長(森本繁著・学研M文庫)』では、「行長が刑死したとき、父の寿徳(隆佐)は、文禄二年(一五九三)に死亡していたので、この世になく、母のマグダレナは夫の死亡のあと間もなく病死して、次男のこの哀れな最期のことは知らなかったと思える。しかし『切支丹大名記』には『悲傷の極、行長刑死後幾何もなく、その後を追えり』とある。レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』では彼女の没年を慶長五年としている」(p297)と記述している。
 しかし、この「慶長五年(一六〇〇)死亡(説)」は、先の『『梵舜日記』の「慶長十五年(一五一〇)六月頃まで高台寺にいて北政所の世話を続けていた」との記述により、「慶長十五年(一五一〇)六月頃」まで、「高台寺にいて北政所の世話を続けていた」と解したい。
 また、『小西行長(森本繁著・学研M文庫)』の「宇津落城秘話」で、「内藤(小西)如安は、その妻子とともに加藤清正に降伏し、領内のキリシタンを統御するために方便として利用されたが、(略) 後に棄教を迫られ、嫡男好次のいる加賀金沢へ行くのである」との記述があり、「(前田)筑前(利家)」の客将となっている「高山右近」(一万五千石)と共にその客将(四千石)として仕え、慶長十八年(一六一三)、徳川家康のキリシタン追放令が出されると、慶長十九年(一六一四)九月二十四日に、高山右近・如安・その妹ジュリアらは呂宋(今のフィリピン)のマニラへ追放されることになる。

 こうして見てくると、「高台院(北政所・おね・ねね)・芳春院(おまつ)・マグダレナ(小西行長の母・高台院の侍女)・マリア(高山右近の母)・ジュリア(内藤如安の妹)・マリア(豪姫・高台院の養女・芳春院の四女)」、そして、「千宗恩(千利休の後妻・千少庵の生母・千宗旦の祖母)」などは、唯一無二の「「レディサムライ」の元祖にも喩えられる「高台院(北政所・おね・ねね)」の「文化サークル」圏内のメンバーと解しても、いささかの違和感を湧いてこない。
 そして、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」(神戸市立博物館蔵)の、その注文主も、この「高台院(北政所・おね・ねね)の『文化サークル』圏内のメンバー」より為されたものと解して置きたい。
 そして、そのことは、その「文化サークル』圏内のメンバーの、「高山右近の母・マリア、小西行長の娘・マリア(宗義智正室のマリア)、高台院と芳春院の娘・マリア(宇喜多秀家正室=豪姫)」等々の、「キリシタン・レディサムライ」の「洗礼名・マリア」を有する女性群像と、「東日本大震災」のあった「二〇一一」年に、初公開ともいえる「「聖母子像に花鳥文様刺繍壁掛」 (高台寺所蔵)の、その「聖母子像」の「マリア」像と、見事に一致してくる。
 ここで、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」(神戸市立博物館蔵)は、何時頃に制作されたのであろうか?
 このことに関しては、「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)に、その引用書きのような感じて出てくる「狩野源助平渡路(ペドロ)」の、その「南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)との関連の考察が必要となって来るが、ここでは、下記アドレスで指摘をして置いたことを、そのまま踏襲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

【 四 ここで、何故、≪「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日≫》に拘るのかというと、それは、この「お亀」と見立てられる、この右端に描かれている女性の「足首が描かれていない」という、その特異性に起因するに他ならない。
 そして、この慶長十一年(一六〇六)というのは、「周辺略年譜(抜粋「一六〇六)」)では、下記のとおり、この「南蛮屏風(紙本金地著色・六曲一双・神戸市立博物館蔵)」を描いた「狩野内膳」が、もう一つの代表作とされている「豊国祭礼図屏風」(紙本著色・六曲一双・豊国神社蔵)を神社に奉納(梵舜日記)した年なのである。

(中略)

 ここまで来ると、「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日≫)に、その年に豊国神社に奉納された、先(慶長9《1604》年秀吉の7回忌臨時大祭)の公式記録ともいうべき、狩野内膳筆の「豊国祭礼図屏風」は、その豊国大明神臨時祭礼に臨席できなかった「淀殿と秀頼」よりの一方的な意向を反映しているもので、それに反駁しての、「京都高台寺の『高台院)」側(「高台院側近の『親キリシタン・親千利休』(「秀吉が殉教させた二十六聖人そして賜死させた親キリシタン茶人の千利休)系の面々」)が、同じ、狩野内膳をして描かせたのが、下記の「狩野内膳筆・南蛮屏風(六曲一双・神戸市立博物館蔵)」と解したいのである。 】

(追記)

`寧々家系図.jpg

「関ケ原の戦いと『木下家』と『浅野家』・『前田家』の動向」

高台院  → 中立?
父・木下家定(播磨姫路城主)→ 中立(高台院の警護)→備中足守藩主(後継→?)
長男・勝俊(長嘯子・若狭小浜藩主・洗礼名=ペテロ)→任務放棄(東軍→中立)→《家定後継×?》
次男・利房(若狭小浜城主)→ 西軍→《後に家定後継〇?》
三男・延俊(播磨国城主) → 東軍→豊後日出領主(義兄細川忠興)
四男・俊定 →西軍(丹波国城主)→ (秀秋の庇護・備前国城主、後病死)
五男・(小早川)秀秋(備前岡山藩主)→途中寝返り(西軍→東軍)→無嗣断絶(病死)

(浅野家)
浅野長政(常陸真壁藩主・豊臣政権の五奉行) → 東軍
浅野幸長(紀伊和歌山藩主) → 東軍
浅野長晟(安芸国広島藩初代藩主) → 東軍

(前田家)
前田利家(加賀藩主・豊臣政権の五奉行) → 慶長四年(一五九九)没
前田利長(加賀前田家二代藩主・豊臣政権の五奉行・豊臣秀頼の傅役) →中立?(徳川家康に帰順)  慶長十九(一六一四)没
前田利常(加賀前田家三代藩主・利家四男・利長養子) → 大阪の陣(東軍)・ 正室:珠姫(徳川秀忠の娘)

木下家略系図.jpg


(別記) 「豊臣秀吉・千利休(聖家族)」周辺の人物群像

豊臣秀吉(1537-1598)    ⇄ 千利休(1522-1591)
豊臣秀頼(1593-1615)    ⇄ 千宗旦(1578-1658)
淀君(秀頼生母(1569?-1615)⇄ お亀(宗旦生母、?―1606)
高台院(秀吉正室、?―1624)⇄千少庵(宗旦の父、お亀の夫、1546-1614)
↓↑
(利休七哲)
前田利長(肥前)1562-1614→ 父(利家)=利休門(キリシタン大名高山右近を庇護)
蒲生氏郷(飛騨)1556-1595→キリシタン大名(洗礼名=レオン・レオ・レアン)
細川忠興(越中/三斎)1563-1646→正室(玉=キリシタン=洗礼名・ガラシャ)
古田重然(織部)1544-1615→(キリシタン大名高山右近と親交=書状)
牧村利貞(兵部)1546-1593→キリシタン大名(フロイス書簡)
高山長房(右近/南坊)1552-1615→キリシタン大名(洗礼名=ジュスト・ユスト)
芝山宗綱(監物)?―?→(キリシタン大名高山右近と親交=同じ「荒木村重」門=離反)
(瀬田正忠・掃部)1548-1595(キリシタン大名高山右近と親交=右近の推挙で秀吉武将)
↓↑
(キリシタン大名など)
明石全登(ジョアン、ヨハネ、ジョパンニ・ジュスト)?―1618→ 宇喜多家の客将
織田秀信(ペトロ)1580-1605→ 織田信忠の嫡男、信長の嫡孫
織田秀則(パウロ)1581 ―1625 → 織田信忠の次男、信長の孫
木下勝俊(ペテロ)1569-1649→ 若狭小浜城主。北政所(ねね)の甥
京極高吉1504-1581→ 晩年に受洗するも急死、妻は浅井久政の娘(京極マリア)
京極高次1563-1609→ 秀吉、家康に仕えて近江大津・若狭小浜藩主、正室=初姫(常高院)
京極高知1572-1622→ 秀吉、家康に仕えて信州伊奈・丹後宮津藩主、継室=毛利秀頼の娘
黒田長政(ダミアン)1568-1623→ 棄教後、迫害者に転じる。
黒田孝高(シメオン)1546-1604→ 官兵衛の通称と如水の号で知られる
小西行長(アウグスティノ)1558-1600→ 関ヶ原敗戦後、切腹を拒み刑死
小西隆佐(ジョウチン)?―1592→ 小西行長の父、堺の豪商・奉行
高山友照(ダリオ)?―1595→ 飛騨守、高山右近の父
高山右近(ドン・ジュスト)1552-1615→明石城主、追放先のマニラで客死
細川興元1566-1619→- 細川幽斎の次男、細川忠興の弟
毛利秀包(シマオ)1567-1601 → 毛利元就の子、小早川隆景の養子
↑↓
(豊臣秀吉と高台院の「養子・養女・猶子」など)
(養子)
羽柴秀勝(織田信長の四男・於次)1569-1586→墓所=秀吉建立の大徳寺・総見院など
豊臣秀勝(姉・とも(日秀)と三好吉房の次男)1569-1592→正室=江(浅井長政の三女)
豊臣秀次(姉・とも(日秀)と三好吉房の長男)1568-1595→豊臣氏の第二代関白
池田輝政(池田恒興の次男)1565-1613→継室=継室:徳川家康の娘・督姫
池田長吉(池田恒興の三男)1570-1614→因幡鳥取藩初代藩主
結城秀康(徳川家康の二男)1574-1607→下総結城藩主、越前松平家宗家初代
小早川秀秋(木下家定の五男。高台院の甥)1582-1602→備前岡山藩主
(養女)
豪姫(前田利家の娘。宇喜多秀家正室)1574-1634→洗礼名=マリア
摩阿姫(前田利家の娘。豊臣秀吉側室)1572-1605→秀吉の死後万里小路充房の側室
菊姫(前田利家の庶女。早世)1578-1584→七歳で夭逝
小姫(織田信雄の娘。徳川秀忠正室。早世)1585-1591→秀忠(十二歳)と小姫(六歳)
竹林院(大谷吉継の娘。真田信繁正室)?―1649→真田信繁=幸村の正室
大善院(豊臣秀長の娘。毛利秀元正室)?―1609→毛利秀元の正室
茶々(浅井長政の娘。豊臣秀吉側室)1569?―1615→豊臣秀頼生母
初(浅井長政の娘。京極高次正室)1570-1633→常高院、高次・初=キリシタン?
江(浅井長政の娘。佐治一成正室→豊臣秀勝正室→徳川秀忠継室)1573-1626→崇源院
糸姫(蜂須賀正勝の娘。黒田長政正室)1571―1645→黒田長政(キリシタン後に棄教)
宇喜多直家の娘(吉川広家正室)?―1591→容光院、弟に宇喜多秀家(正室=豪姫)
(猶子)
宇喜多秀家(宇喜多直家の嫡子、養女の婿で婿養子でもある)1572-1655(正室=豪姫)
智仁親王(誠仁親王第6皇子。後に八条宮を創設)1579-1629→同母兄=後陽成天皇
伊達秀宗(伊達政宗の庶子)1591-1658→伊予国宇和島藩初代藩主
近衛前子(近衛前久の娘。後陽成天皇女御)1575-1630→後水尾天皇生母、父は近衛前久
(秀吉が「偏諱(いみな)」を与えた者)
徳川秀忠(徳川家康三男)1579-1632→江戸幕府第二代征夷大将軍(在職:1605 - 1623)
結城秀康(徳川家康二男)→前掲(養子)  など
↑↓
(「高台院」周辺(侍女)のキリシタン関係者)

小西行長(洗礼名=アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)/ドム・オーギュスタン・ジヤクラン)
↑↓
父:小西隆佐(洗礼名:ジョウチン)、※母:ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)=侍女
兄弟:如清(洗礼名:ベント)、行景(洗礼名:ジョアン)、小西主殿介(洗礼名:ペドロ)、小西与七郎(洗礼名:ルイス)、伊丹屋宗付の妻(洗礼名:ルシア)
妻:正室:菊姫(洗礼名:ジュスタ)
側室:立野殿(洗礼名:カタリナ)
※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子。霊名カタリナ

高山右近(洗礼名=ジュスト・ユスト)
↑↓
父母:父:高山友照、母:高山(洗礼名=マリア)
妻:正室・高山(洗礼名=ジュスタ)
子:洗礼名・ルチヤ(横山康玄室)

内藤如安(洗礼名=洗名ジョアン)
↑↓
父母:父・松永長頼、母:・藤国貞の娘 妹・内藤ジュリア=女子修道会ベアタス会を京都に設立=豪姫の洗礼者?

不干斎ハビアン(1565-1621)の母ジョアンナ=北政所(おね、高台院)の侍女→佐久間信栄(1556-1632)=不干斎との関係は?
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その六) [忘れがたき風貌・画像]

その六 利休・「狩野内膳筆・南蛮屏風」」周辺

「千利休(せんのりきゅう、1522-91)」.jpg

千利休(せんのりきゅう、1522-91)(早稲田大学図書館/WEB展覧会第32回)
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/shozo/16-01.jpg
≪「利休宗易居士肖像」 春屋宗園賛 藤原惟友摸 東海大徹書 1軸 ヌ6-5123
堺の会合衆(えごうしゅう)の家に生まれる。武野紹鴎に茶を学び、大徳寺に参禅、信長、ついで秀吉の茶頭(さどう)となる。63歳のとき秀吉の北野大茶会を主宰、天下一の茶匠の地位を確立した。秀吉の側近として政治に深く関わり、石田三成と確執、切腹に至る。≫
(「早稲田大学図書館」)

狩野内膳・ロレンソ了斎.jpg

「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図の二)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-24

 上記の「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」は、「狩野内膳筆『南蛮屏風』を読み解くための貴重な情報を提供してくれる。
 まず、その「この屏風に描かれているナウ(ポルトガル船の船型)は以下のことより考えて1591年7月の初め長崎に入港してきたロケ・デ・メル(ロケ・デ・メロ・ペレイア)の船である」ということは、この一年後の、文禄元年(一五九二)二月に、「ロレンソ了斎」
は亡くなっている。
 すなわち、この「右手には杖を持ち、左手にはコンタスを握っている」老人(老修道士)は、亡くなる一年前の「ロレンソ了斎」(六十五歳)ということになる。

【1592 年(文禄元)(ロレンソ 66 歳) 2 月 3 日 ロレンソの死去 長崎の修道院で死去した。66 歳。

『毎週必ず修道院の小聖堂へ椅子にすわったまま運ばれて御聖体拝領する習慣があったが、この日、食事の後、あるイルマンとひとりの信者が話している時,用があるからちょっと部屋からでるようにと彼らに言い、いつも彼に仕えているひとりの小者を呼び、起き上がるのを手伝うように頼んだ。ベットにすわり小者が腕をかかえた時には、ロレンソは「イエズス」の聖なる名を呼んで、一瞬の間に静かに亡くなったので、小者さえ、彼がこの世を去ったとは気が付かなかった。その後しばらくして、ロレンソが死んでいることに気がつき、外で待っていたイルマンを呼んだ。イルマンは部屋に入ると、そのまますわって小者にかかえられて死んでいるロレンソを見つけた。亡くなったのは 1592 年 2 月 3 日のことであった。家の人もよその人もみんな非常に悲しんで彼を偲んだ。』
*Luis Frois S.I.,“Apparatos para a Histpria Ecclesiastica do Bispado de Japam”
Biblioteca de Ajuda, Lisboa Codex 49, IV, 57, cap. 35    】
(ロレンソ了斎の豊後府内滞在の記録  ロレンソ了斎の生涯に沿って)
http://takayama-ukon.sakura.ne.jp/pdf/booklet/pdf-takata/2017-08-17-04.pdf

 この「ロレンソ了斎」が亡くなる一年前の、この「ロケ・デ・メロ・ペレイア」のポルトガル船が長崎に入港した、その天正十九年(一五九一)は、豊臣秀吉が天下の茶頭「千利休」を賜死(切腹?)させた年なのである。

【天正19年(1591年)2月13日 利休は突然、京都を追放され堺の自宅に蟄居させられる。
同年2月25日 京都一条戻橋に、大徳寺山門にあった問題の利休木像が磔にされる。
同年2月28日 木像の下に利休の首がさらされる。 】
(豊臣秀吉が命じた『茶人千利休切腹事件』の真相はこれ!ホント?)
https://rekishizuki.com/archives/1538

 これらを前回(その三十五「参考その一「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜」追加「狩野内膳」)の、その「天正十九年(一五九一)」前後の「年譜(略年譜)」は、次のとおりとなる。

【※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。

△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。

※※1592年(天正20年/文禄元年)黒田如水47歳  文禄の役、及び慶長の役において築城総奉行となり、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の設計を担当する。
〇〇1592年(天正20年/文禄元年)岩佐又兵衛 15歳 この頃、織田信雄に仕える。狩野派、土佐派の画法を学ぶ。絵の師匠は狩野内膳の説があるが不明。
●1592年(天正20年/文禄元年)狩野内膳 23歳 狩野松栄没。永徳(松栄の嫡男)の嫡男・光信(探幽は甥)、文禄元年(一五九二)から二年にかけて肥前名護屋に下向、門人の狩野内膳ほか狩野派の画家同行か?(『南蛮屏風(高見沢忠雄著)』)   】(下記の「参考一」から抜粋)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-19

 この天正十八年(一五九〇)の「小田原征伐」とは、豊臣秀吉が頂点に上り詰めた「天下統一」の、その上り坂を象徴するものであろう。そして、天正二十年(一五九二)の「朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の築城」は、豊臣秀吉の野望とその後の豊臣家の滅亡を予兆する、その下り坂を象徴するものということになる。
 そして、その分岐点に位置するのが、天正十九年(一五九一)の「千利休の賜死(切腹?)」事件ということになる。そして、この真相は、上記のアドレスの「豊臣秀吉が命じた『茶人千利休切腹事件』の真相はこれ!ホント?」では、下記の八点を紹介しているが、この「六 利休キリシタン説」も、上記の「ロケ・デ・メロ・ペレイアのポルトガル船長崎入港、そしてその一年後の『ロレンソ了斎』の死」に関連させると、その「七 利休芸術至上主義の抵抗説」などと併せ、無下にすることは出来ないであろう。

https://rekishizuki.com/archives/1538

「千利休の賜死(切腹?)」の真相を巡る見解のあれこれ

一 売僧行為(茶道具不当売買)説
二 大徳寺木像不敬説
三 利休の娘説
四 秀吉毒殺説
五 利休専横の疑い説
六 利休キリシタン説
七 利休芸術至上主義の抵抗説
八 利休所持茶道具の献上拒否説

(「六 利休キリシタン説」に関連して)

【 大徳寺の説に云、諸長老を聚楽の城へ被召寄、家康公、幽斎公を以て被仰出候者、大徳寺山門の下は、上様も御通被成候に、利休が木像を山門の上に作置るゝ事、曲事に被思召候。
申分有之候はヾ可申上と有、古渓承て山門の普請外、木像置候事、我等相談仕候。一山の長老の被存儀ニ無御座候。いか様にも私壱人曲事可被仰付候と被申上候。太閤重而、利休が木像を置る、いわれを可申上由、被仰出、
古渓何共御返答無御座候と被申候。家康公、常々古渓に御懇故、夫ニ而者、埒不明候。何とぞ御機嫌直り候様ニ申上度と被仰候。其時、古渓懐中より、長谷部の小釼を抜出し、御返事ハ是ニ而、自害可仕覚悟ニ候と被申候。
家康公一段埒明候と被仰、則、其段被仰上候へハ、太閤早速御機嫌直り、古渓ハ左様ニて有と思召候。諸事御赦免被成候間、一山の諸長老も可罷歸由、被仰出候。
扨、利休か木像ハ堀川戻り橋の下にくゝりさせ、往来の人に御踏せ候。此木像二条獄所の二階に、今に有之とかやと云々。
(引用:小松茂美 『利休の手紙 310頁「細川家記」』1985年 小学館)

大意、”大徳寺の話では、長老らが聚楽第に召喚され、徳川家康、細川幽斎から尋問を受けた。それは、『大徳寺の山門は関白殿下も通られるのに、利休の像を山門の上に作り置くとは何事か。申し開きの弁があるなら申してみよ。』とあった。
 それに対して古渓和尚が受けて言うには、『山門の普請ほか木像安置の件なども相談してみましたが、一山の長老たちは知らぬことです。これはわたしひとりの罪として仰せ付け下さい。』と。
 対して、『関白殿下も重く見ておられるので、利休の木像が山門に安置してある理由を答えてください』と重ねて尋問すると。
 古渓和尚言うには、『どうとも答えようがありません。』と。
家康公は常日頃古渓和尚と親しくしているので、『それでは埒があきませんね、どうか関白殿下の機嫌が直るように申し上げたいとお話ください。』
 その時、古渓和尚は懐中より小刀の名刀長谷部を抜き出されて、『返事はこれです。自害する覚悟です。』と申し上げます。
 すると、家康公は『これで埒が明きましたよ。』と言われ、すぐに関白殿下にその事を報告になり、「古渓はそうであったか」と関白殿下の機嫌は忽ち直り、すべて御赦免になりました。大徳寺の他の長老らも帰山することが出来ました。
 さて一方、利休と木像はと言うと、一条戻橋に括り付けられ、往来に人々に踏みつけられまして、今木像は二条の獄舎の二階にあると言います。”  】

(「参考その一」)

 「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜

荒木村重略年譜    https://www.touken-world.jp/tips/65407/
※高山右近略年譜   https://www.touken-world.jp/tips/65545/
※※黒田如水略年譜  https://www.touken-world.jp/tips/63241/
※※※結城秀康略年譜 https://www.touken-world.jp/tips/65778/
〇松平忠直略年譜   
https://meitou.info/index.php/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%B4
〇〇岩佐又兵衛略年譜
https://plaza.rakuten.co.jp/rvt55/diary/200906150000/
△千利休略年譜
https://www.youce.co.jp/personal/Japan/arts/rikyu-sen.html
●狩野内膳略年譜
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/nenpu/2knnz001.html

△1522年(大永2年)千利休1歳 和泉国・堺の商家に生まれる。
1535年(天文4年)荒木村重1歳 摂津国の池田家に仕えていた荒木義村の嫡男として生まれる。幼名は十二郎(後に[弥介]へ変更)。
△1539(天文8年)千利休18歳 北向道陳、武野紹鴎に師事。
※※1546年(天文15年)黒田如水1歳 御着城(兵庫県姫路市)の城主・小寺政職の重臣・黒田職隆の嫡男として生まれる。
※1552年(天文21年)高山右近1歳 摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)にて、高山友照の嫡男として生まれる。高山氏は、59代天皇・宇多天皇を父に持つ敦実親王の子孫。また高山氏は、摂津国・高山(大阪府豊能町)の地頭を務めていた。
※1564年(永禄7年)高山右近13歳 父・高山友照が開いた、イエズス会のロレンソ了斎と、仏僧の討論会を契機に入信。妻子や高山氏の家臣、計53名が洗礼を受け、高山一族はキリシタンとなる。高山右近の洗礼名ドン・ジュストは、正義の人を意味する。父はダリヨ、母はマリアという洗礼名を授かる。
※※1567年(永禄10年)黒田如水22歳 黒田家の家督と家老職を継ぎ、志方城(兵庫県加古川市)の城主・櫛橋伊定の娘であった光姫を正室として迎え、姫路城(兵庫県姫路市)の城代となる。
※※1568年(永禄11年)黒田如水23歳 嫡男・黒田長政が生まれる。
●1570年(元亀元年)狩野内膳1歳  荒木村重の家臣(一説に池永重光)の子として生まれる。
1571年(元亀2年)荒木村重37歳 白井河原の戦いで勝利。織田信長から気に入られ、織田家の家臣になることを許される。
※1571年(元亀2年)高山右近20歳 白井河原の戦いにおいて和田惟政が、池田氏の重臣・荒木村重に討たれる。高山右近は和田惟政の跡を継いだ嫡男・和田惟長による高山親子の暗殺計画を知る。
1573年(元亀4年/天正元年)荒木村重39歳 荒木城(兵庫県丹波篠山市)の城主となる。現在の大阪府東大阪市で起こった若江城の戦いで武功を挙げる。
※1573年(元亀4年/天正元年)高山右近22歳 荒木村重の助言を受け、主君・和田惟長への返り討ちを決行。高槻城で開かれた会議の最中に、和田惟長を襲撃し致命傷を負わせた。その際、高山右近も深い傷を負う。高山親子は荒木村重の配下となり、高槻城主の地位を高山右近が譲り受ける。
1574年(天正2年)荒木村重40歳 伊丹城(有岡城)を陥落させ、同城の城主として摂津国を任される。
※※※1574年(天正2年)結城秀康1歳 徳川家康の次男として誕生。母親は徳川家康の正室・築山殿の世話係であった於万の方で、当時忌み嫌われた双子として生まれる。徳川家康とは、3歳になるまで1度も対面せず、徳川家の重臣・本多重次と交流のあった、中村家の屋敷で養育された。
1575年(天正3年)荒木村重41歳 摂津有馬氏を滅ぼし、摂津国を平定。
1576年(天正4年)荒木村重42歳 石山合戦における一連の戦いのひとつ、天王寺の戦いに参戦。
1577年(天正5年)荒木村重43歳  紀州征伐に従軍。
1578年(天正6年)荒木村重44歳  織田信長に対して謀反を起こし、三木合戦のあと伊丹城(有岡城)に籠城。織田軍と1年間交戦する。
※1578年(天正6年)高山右近27歳 主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦いへと発展。
※※1578年(天正6年)黒田如水33歳 三木合戦で兵糧攻めを提案し、三木城(兵庫県三木市)を攻略した。織田信長に対して謀反を起こした荒木村重を説得するために、有岡城(兵庫県伊丹市)に向かうが、幽閉される。
〇〇1578年(天正6年)岩佐又兵衛1歳 摂津伊丹城で荒木村重の末子として誕生。父荒木村重が織田信長に叛く
1579年(天正7年)荒木村重45歳 妻子や兵を置いて、突如単身で伊丹城(有岡城)を脱出。嫡男の荒木村次が城主を務めていた尼崎城へ移る。そのあと、織田信長からの交渉にも応じず出奔。自身の妻子を含む人質が処刑される。
※1579年(天正7年)高山右近28歳 有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣一枚で、単身織田信長のもとへ投降。その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。
※※1579年(天正7年)黒田如水34歳 有岡城が陥落し、救出される。
〇〇1579年(天正7年)岩佐又兵衛2歳 伊丹城落城。乳母に救い出され奇跡的に逃げ延びる。母ら一族、京の六条河原で処刑。
△1579年(天正7年)千利休58歳 織田信長に茶頭として雇われる。 
●1579年(天正7年)狩野内膳10歳 主家(荒木村重)が滅亡し父池永重光は諸国を流浪。重郷(内膳)は画を好み狩野松栄門人となる。
1581年(天正9年)荒木村重47歳 花隈城(神戸市中央区)に移り、花隈城の戦いが勃発。その後、毛利家へ亡命。
※1581年(天正9年)高山右近30歳 織田信長の使者として、鳥取城(鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。
1582年(天正10年)荒木村重48歳 本能寺の変で織田信長が亡くなると、大坂の堺(現在の大阪府堺市)に移る。大坂では茶人として復帰し、千利休とも親交があったとされる。豊臣秀吉を中傷していたことが露呈し、処罰を恐れ荒木道薫と号して出家する。
※1582年(天正10年)高山右近31歳 甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒を務め、明智光秀軍を破る。
△1582年(天正10年)千利休58歳 本能寺の変、以降・豊臣秀吉に仕える。
※1583年(天正11年)高山右近32歳 柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで、豊臣家の勝利に貢献する。
※※1583年(天正11年)黒田如水38歳 大坂城(大阪市中央区)の設計を担当し、豊臣政権下で普請奉行となる。キリスト教の洗礼を受けて、洗礼名「ドン=シメオン」を与えられる。
※※※1584年(天正12年)結城秀康11歳  3月、豊臣秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍による小牧・長久手の戦いが勃発。講和の条件として、戦後、結城秀康は豊臣家の養子として差し出される。このとき結城秀康は、徳川家康からの餞別として名刀「童子切安綱」を授かっている。12月、元服を迎える。
※1585年(天正13年)高山右近34歳 歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
※※1585年(天正13年)黒田如水40歳 四国攻めで軍監として加わって長宗我部元親の策略を破り、諸城を陥落。
△1585年(天正13年)千利休64歳 正親町天皇から「利休」の居士号を与えられる。
1586年(天正14年 )荒木村重52歳 5月4日、堺にて死去。
※※1586年(天正14年)黒田如水41歳 従五位下・勘解由次官に叙任。九州征伐でも軍監を担当し、豊前国(現在の福岡県東部)の諸城を落とす。
△1586年(天正14年)千利休65歳 黄金の茶室の設計、聚楽第の築庭に関わる。
※1587年(天正15年)高山右近36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
※※※1587年(天正15年)結城秀康14歳  九州征伐にて初陣を飾る。豊前国(現在の福岡県東部)の岩石城(福岡県田川郡)攻めで先鋒を務め、日向国(現在の宮崎県)の平定戦でも戦功を遂げる。
△1587年(天正15年)千利休66歳 北野大茶会を主管。
〇〇1587年(天正15年) 岩佐又兵衛10歳 秀吉主催の北野の茶会に出席?
●1587年(天正15年) 狩野内膳18歳 狩野松栄から狩野姓を名乗ることを許される。
※※1589年(天正17年)黒田如水44歳 広島城(広島市中区)の設計を担当する。黒田家の家督を黒田長政に譲る。
※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。
△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。
※※1592年(天正20年/文禄元年)黒田如水47歳  文禄の役、及び慶長の役において築城総奉行となり、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の設計を担当する。
〇〇1592年(天正20年/文禄元年)岩佐又兵衛 15歳 この頃、織田信雄に仕える。狩野派、土佐派の画法を学ぶ。絵の師匠は狩野内膳の説があるが不明。
●1592年(天正20年/文禄元年)狩野内膳 23歳 狩野松栄没。永徳(松栄の嫡男)の嫡男・光信(探幽は甥)、文禄元年(一五九二)から二年にかけて肥前名護屋に下向、門人の狩野内膳ほか狩野派の画家同行か?(『南蛮屏風(高見沢忠雄著)』)
※※1593年(文禄2年)黒田如水48歳 剃髪して出家。如水軒円清の号を名乗る。
〇1595年(文禄4年)松平忠直1歳 結城秀康の長男として摂津東成郡生魂にて生まれる。生母は秀康の側室、中川一元の娘(清涼院、岡山)。幼名は仙千代。
※1600年(慶長5年)高山右近49歳 関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦いでは東軍に属し、丹羽長重を撃退する。
※※1600年(慶長5年)黒田如水55歳 関ヶ原の戦いが起こる。石垣原の戦いで、大友義統軍を破る。
※※※1600年(慶長5年)結城秀康27歳 関ヶ原の戦いの直前、徳川家康と共に会津藩(現在の福島県)の上杉景勝の討伐へ出陣。道中、石田三成挙兵を知り、徳川家康は西へ引き返す。一方で結城秀康は宇都宮城に留まり、上杉景勝からの防戦に努めた。関ヶ原の戦い後に徳川家康より、越前・北の庄城(福井県福井市)68万石に加増される。
〇1603年(慶長8年)松平忠直7歳 江戸参勤のおりに江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に初対面している。秀忠は大いに気に入り、三河守と呼んで自らの脇に置いたという。
※※1604年(慶長9年)黒田如水59歳 京都の伏見藩邸で死去する。
※※※1604年(慶長9年)結城秀康31歳 結城晴朝から家督を相続し、松平に改姓。
〇〇1604年(慶長9年)岩佐又兵衛 27歳 秀吉の七回忌、京で豊国祭礼
●1604年(慶長9年)狩野内膳36歳 秀吉七回忌の豊国明神臨時祭礼の「豊国祭礼図」を描く。
〇1605年(慶長10年)松平忠直 9歳 従四位下・侍従に叙任され、三河守を兼任する。
※※※1606年(慶長11年)結城秀康33歳  徳川家から伏見城(京都府京都市伏見区)の居留守役を命じられて入城するも、病に罹り重篤化する。
●1606年(慶長11年)狩野内膳37歳 1606年、片桐且元、内膳の「豊国祭礼図」を神社に奉納(梵舜日記)。弟子に荒木村重の子岩佐又兵衛との説(追考浮世絵類考/山東京伝)もある。
※※※1607年(慶長12年)結城秀康34歳  越前国へ帰国し、のちに病没。
〇1607年(慶長12年)松平忠直 13歳 結城秀康の死に伴って越前75万石を相続する。
〇1611年(慶長16年)松平忠直 17歳 左近衛権少将に遷任(従四位上)、三河守如元。この春、家康の上京に伴い、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。9月には、秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎える。
〇1612年(慶長17年)松平忠直 18歳 重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部、盛次)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。
〇1613年(慶長18年)松平忠直 19歳 家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに本多富正が越前の国政を執ることとされ、加えて本多富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは、騒動が重なるのは、忠直がまだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである。
〇〇1613年(慶長18年) 岩佐又兵衛 37歳 この頃、舟木本「洛中洛外図屏風」
※1614年(慶長19年)高山右近63歳 キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
〇1614年(慶長19年)松平忠直 20歳 大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げている。家康は孫の活躍を喜び、「初花肩衝」(大名物)を与えている。また秀忠も「貞宗の御差添」を与えている。
※1615年(慶長20年/元和元年)高山右近64歳 前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。
〇1615年(慶長20年/元和元年)松平忠直 21歳 従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
〇〇1616年(元和2年)岩佐又兵衛39歳 この頃、京から北之庄に移住。徳川家康没。狩野内膳没。
●1616年(元和2年)狩野内膳47歳 京都で没。
〇〇1617年(元和3年)岩佐又兵衛40歳 狩野探幽が江戸に赴任。この間、「金谷屏風」・「山中常盤」など制作か。
〇1621年(元和7年)松平忠直 27歳 病を理由に江戸への参勤を怠り、また翌元和8年(1622年)には勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。
〇1623年(元和9年)松平忠直 29歳 将軍・秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母清涼院の説得もあって隠居に応じ、敦賀で出家して「一伯」と名乗った。5月12日に竹中重義が藩主を務める豊後府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。豊後府内藩では領内の5,000石を与えられ、はじめ海沿いの萩原に住まい、3年後の寛永3年(1626年)に内陸の津守に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原からの海路での逃走を恐れたためとも言う。竹中重義が別件で誅罰されると代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となったという。
〇〇1623年(元和9年)岩佐又兵衛46歳 松平忠直、豊後に配流。
〇〇1624(寛永元年)岩佐又兵衛 47歳 忠直を引き継ぐ松平忠昌が福井に改称。この間、「浄瑠璃物語絵巻」なと。
〇〇1637年(寛永14年)岩佐又兵衛 60歳 福井より、京都、東海道を経て江戸に赴く。
〇〇1638年(寛永15年)岩佐又兵衛61歳 川越仙波東照宮焼失。
〇〇1639年(寛永16年)岩佐又兵衛 62歳 家光の娘の千代姫、尾張徳川家に嫁ぐ
〇〇1640年(寛永17年)岩佐又兵衛 63歳 仙波東照宮に「三十六歌仙額」奉納。
〇〇1645年(正保2年)岩佐又兵衛 68歳 ・松平忠昌没。
〇1650年(慶安3年) 松平忠直死去、享年56。
〇〇1650年(慶安3年)岩佐又兵衛 江戸にて没す。享年73。

千利休の娘・亀?.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「千利休・南蛮唐物屋の女性=千利休の娘の亀?・フランシスコ会員・イエズス会員」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

 こ の右端の「足首のない女性」は、「赤紐で旅装用の模様の付いた革足袋」を履いている。
 この女性は、『南蛮屏風の女と岩佐又兵衛(千草子著)』では、「足袋のもとである単皮(注・たんぴ=鹿などの動物の一枚革の足袋)を、冬でもないのに、なぜはいているのか。これは、遠出 ― 旅支度である。この女 ― 藤の暖簾がかかっているから、藤屋の女としておこう」(『南蛮屏風の女と岩佐又兵衛(千草子著)』所収「あとがき」)と、その二部作(「第一部 南蛮屏風の女」「第二部 ささやき竹―あるいは、洞の聖母子」)の、フィクション(小説)もので、「狩野内膳の妻・岩佐又兵衛の執心(注・思い慕った)の女性」として見立てられている。
 この『南蛮屏風の女と岩佐又兵衛(千草子著)』は、フィクション(小説)もので、その「あとがき」を見ると、別名(小林千草稿)の「内膳南蛮屏風の宗教性」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)が、このフィクション(小説)ものの、その背景となっている論稿のようなのである。
 そして、その論稿の「内膳南蛮屏風の宗教性」(小林千草稿)が、下記のアドレスで、その全容を知ることが出来る。

https://ci.nii.ac.jp/naid/110001149737

 さらに、この「内膳南蛮屏風の宗教性」(小林千草稿)を主要な参考文献としている次のアドレスの「長崎ディープ ブログ」(「南蛮屏風」を読む9)では、この「足首のない、革足袋を履いた女性」と「黒いマントの神父(ヴァリニャーノ神父)の横にいる、小綺麗な着物姿の少年(先に「天正少年使節団」の「伊東マンショ(主席正使)」と見立てた)」とは「親子なのではなかろうか」との見方をしている。

http://blog.nadeg.jp/?eid=25

南蛮屏風右隻の革足袋の二人.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→ 「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-07
「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 この右端の女性(足首が無く、旅装用の革足袋を履いている)と、左端の正装した少年(右端の女性と同じ模様の革足袋を履いている)とを「親子関係」と見立てると、中央の老人(左手に数珠を持ち、右手で杖をついている)は、「ロレンソ了斎」のイメージがから、敢然として「千利休」のイメージと豹変してくる。そして、それは、即、「千家(千利休家)の聖家族(ファミリー)」のイメージと重なってくる。

中央の老人→千利休(千家一世)・千少庵(千家二世、利休後妻の連れ子、利休娘・亀の夫)
左端の少年→千宗旦(千家三世、三千家の祖、少庵と亀の子、千家中興の祖、乞食宗旦)
右端の女性→(お)亀(利休の娘、少庵の妻、宗旦の母)

千家系図(千利休→千少庵→千宗旦)

千利休家系図.jpg

「千利休と女たち」
https://ameblo.jp/morikawa1113/entry-12258588885.html

 ここで、これまでの「宗達ファンタジー・三藐院ファンタジー・又兵衛ファンタジー」に続く「内膳ファンタジー(その一)」として、次の「内膳南蛮屏風の唯一の女性は何故『足首が描かれていないのか?』」周辺について、未整理のままにメモ的に記して置きたい。

(「内膳ファンタジー」その一)「内膳南蛮屏風の唯一の女性は何故『足首が描かれていないのか?』」

中央の老人→千利休(千家一世)・千少庵(千家二世、利休後妻の連れ子、利休娘・亀の夫)
左端の少年→千宗旦(千家三世、三千家の祖、少庵と亀の子、千家中興の祖、乞食宗旦)
右端の女性→(お)亀(利休の娘、少庵の妻)

千利休(千家一世)→大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日)
千少庵(千家二世、利休後妻の連れ子、利休娘・亀の夫)→天文15年(1546年)- 慶長19年9月7日(1614年10月10日)
千宗旦(千家三世、三千家の祖、少庵と亀の子、千家中興の祖、乞食宗旦)→天正6年1月1日(1578年2月7日)- 万治元年11月19日(1658年12月19日)
(お)亀(利休の娘、少庵の妻)→生年不詳 - 慶長11年10月29日(1606年11月29日)

 千利休の死とその死因などについては、今に至るまで、全くの謎のままである。その死の原因などについて、下記のアドレスでは、次のとおり紹介した(さらに「ウィキペディア」などにより補注・追加などを施した)。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

「千利休の賜死(切腹?)」の真相を巡る見解のあれこれ

一 売僧行為(茶道具不当売買)説→『多聞院日記』巻三十七、天正19年2月28日条(1591年4月21日)
二 大徳寺木像不敬説→勧修寺晴豊『晴豊公記』第七巻、天正19年2月26日条(1591年4月19日)、吉田兼見『兼見卿記』巻十六、天正19年2月26日条(1591年4月19日)
三 利休の娘説→『南方録』第七巻・滅後、『秀頼公御小姓古田九郎八直談、十市縫殿助物語』承応2年(1653年)
四 秀吉毒殺説→ 岡倉天心薯『茶の本』国立国会図書館、千利休薯『利休百会記』岡山大学付属図書館
五 利休専横の疑い説→平直方『夏山雑談』巻之五、寛保元年(1741年)
六 利休キリシタン説→小松茂美『利休の手紙 310頁「細川家記」』1985年・小学館
七 利休芸術至上主義の抵抗説→芳賀幸四郎『千利休』(吉川弘文館、1963年)、米原正義『天下一名人千利休』(淡交社、1993年)、児島孝『数寄の革命―利休と織部の死―』(思文閣出版、2006年)
八 利休所持茶道具の献上拒否説→竹中重門『豐鑑』国立国会図書館デジタルコレクション
(「ウィキペディア」などにより下記を追加)
九 秀吉の朝鮮出兵を批判したという説→杉本捷雄『千利休とその周辺』淡交社、1970年
十 交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれたという説→会田雄次・山崎正和対談「利休が目指し、挫折したもの」(『プレジデント』27(9) 《特集》千利休、1989年9月)
十一 秀吉は「わび茶」を陰気なものとして嫌っており、黄金の茶室にて華やかで伸びやかな茶を点てさせた事に不満を持っていた利休が信楽焼の茶碗を作成し、これを知った秀吉からその茶碗を処分するよう命じられるも、拒否したという説→笠原一男編集『学習漫画 人物日本の歴史〈12〉織田信長・豊臣秀吉・千利休―安土・桃山時代』集英社
十二 豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さからくる政治闘争に巻き込まれたという説→田孫四郎雄翟 編『武功夜話』巻十七、寛永15年(1638年)
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:旅行

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その五) [忘れがたき風貌・画像]

その五 「西行法師行状絵詞(西行物語絵巻)」(俵屋宗達画・烏丸光広書)周辺

西行絵物語一.jpg

「西行法師行状絵詞」(俵屋宗達画・烏丸光広書)第三巻 紙本著色 7幅
第一段断簡 32.8cm×98.0cm 第四段断簡 詞 32.4cm×47.8cm 絵 32.7cm×48.9cm 
第六段断簡 詞32.8cm×48.5cm 絵32.9cm×98.0cm 第一四段断簡 詞 33.1cm×48.5cm 絵 33.1cm×96.5cm 国(文化庁)
文化庁分室 東京都台東区上野公園13-9 平成17・21年度 文化庁購入文化財
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/145397

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-31

【 本作品は、烏丸光広(1579~1638)が禁裏御本を俵屋宗達に写させ、寛永七年(1630)に成立した紙本著色西行法師行状絵詞のうち第三巻の断簡である。
 全一七段で構成される第三巻のうち、本作は第一段、第四段、第六段、第一四段の絵と詞、七幅から成る(第一段は絵と詞併せて一幅)。巻第三は、西行が西国への歌行脚の末に、戻った都で娘に再会するまでを描いた巻であり、第一段は、草深い伏見の里を訪れる旅姿の西行、第四段は、北白川にて秋を詠むところ、第六段は、天王寺に参詣にむかう西行が交野の天の川にいたり、業平の歌を思い出して涙が袖に落ちかかったと詠んだ場面、第一四段は、猿沢の池に映る月に昔を偲ぶところを描く。
 絵は、美しい色彩を賦した景物をゆったりと布置して、詩情漂う名所をあらわしている。宗達らしいおおらかな雰囲気を保持しており、また現在知られている宗達作品中、製作時期の確実な唯一の遺品として貴重である。 】

西行絵物語二.jpg

「西行物語絵巻」(出光美術館蔵)第一巻・第二巻・第四巻
http://idemitsu-museum.or.jp/collection/painting/rimpa/01.php

https://www.tobunken.go.jp/materials/nenki/814581.html

(「西行物語絵巻」第一巻・部分図)(出光美術館蔵)
画/俵屋宗達(生没年不詳) 詞書/烏丸光広(1579 - 1638)
江戸時代 寛永7年(1630)第一巻 第二巻 第四巻 紙本着色
第一巻 33.4×1785.0cm
第二巻 33.5×1855.7cm
第四巻 33.6×1821.0cm
【 宗達作品のなかで、年紀が明らかな唯一の作品です。能書家の公家・烏丸光広の奥書によれば、本多伊豆守富正の命を受けた光広が、「禁裏御本」を「宗達法橋」に模写させ、詞は光広自身が書いたこと、また「寛永第七季秋上澣」という年紀が判明します。宗達が写した禁裏御本は失われていますが、時代の異なる同じ系統の模写類本がいくつか存在し、宗達が古絵巻をどのように写し、創意を加えているかを間接的ながら考察することができます。"たらし込み"をもちいた軽快な筆致や、鮮麗な色彩は宗達ならではのものです。 】

西行絵物語三.jpg

(「第四巻」の『奥書き』)
  右西行法師行状之絵
  詞四巻 本多氏伊豆守
  富正朝臣依所望 申出
  禁裏御本 命于宗達法橋
  令模写焉 於詞書予染
  禿筆了 招胡盧者乎
   寛永第七季秋上澣
           特進光広(花押)
[右、西行法師行状乃絵詞四巻は、本多伊豆守富正朝臣、
所望に依って、禁裏御本を申し出で、宗達法橋に命じて模写せしむ。
詞書に於いては、予(光広)禿筆を染め了(おわ)んぬ。
胡慮(嘲笑)を招くか。
寛永第七(一六三〇)季秋上幹(九月上旬)。
特進(正二位の唐名) 光広(花押)]
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著)』など)

一 作画年代→「寛永第七(一六三〇)季秋上幹(九月上旬)」光広(52)、宗達(63?)
二 原本は「禁裏御本」→「後水尾上皇」の依頼により「揚梅図」を描く(宗達)
三 烏丸光広との交友関係→「特進 光広」(元和6年・一六二〇、正二位)、光悦(73)
四 法橋叙位(宗達)→「宗達法橋」(このとき既に「法橋」の地位にある)
五 古典的題材→宗達の模写したものは「室町時代の海田采女(うねめ)本」
六 模写の態度→大和絵系列の宗達好みの模写の姿勢が顕著である。
七 技法上の特色→「没骨法」「たらし込み法」「ほりぬり(彫り塗り)=最初にひいた描線を塗りつぶさずにこれを生かして彩色する技法」の線の上に墨の「くゝり」の線を加える技法などが随所に見られる。
八 部分転写活用→個々の「人物・樹木・土坡・下草」などを部分的に借用して創作する姿勢が顕著である。
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著)』など)


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-08-11


最晩年の光悦書画巻(その九)

(その九)草木摺絵新古集和歌巻(その九・西行)

花卉四の二.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-2) (源正清朝臣)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

花卉四-三.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分図) 本阿弥光悦筆 (4-3) (西行)

 上記の上の図(4-2)の左側の三行が西行の歌である。それを拡大して、西行の歌の全体が見られるものが、上記の下の図(4-3)である。

 逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりけるわが心かな(西行『新古今1155』)

(釈文)あふま天濃い乃知も可なとおも日しハ久やし可利介る我心可那(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

『新古今和歌集』では、次の詞書のある一首である。

  題知らず
逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりけるわが心かな(西行法師『新古今1155』)
(逢うまでの命がほしいものだと思ったのは、まことにくやしかったわたしの心であることよ。)

 この西行の一首は、『山家集』・「恋歌」の部の「恋歌百十首」に、「あふまでの命もがな
と思ひしは悔しかりける我がこころかな」の歌形で収載されている。この『山家集』には西行の連歌は収載されていない。
 西行の数少ない連歌が収載されているのは、「聞書集」と「聞書残集」(『岩波文庫山家集』収載「聞書集」「残集」)とである。
 その「聞書集」に、「藤原俊成」宅に「西行・西住・寂然(藤原頼業)」等が集い、次のような「俊成と西行」との連歌(付け合い)を遺している。

【    五条の三位入道、そのかみ大宮の家に住まれける折、
     寂然・西住なんどまかりあひて、後世の物語申しける
     ついでに、向花念浄世と申すことを詠みけるに
心をぞやがてはちすに咲かせつる今見る花の散るにたぐへて (西行)
     かくて物語中しつつ連歌しけるに、扇に桜をおきて、
     さしやりたりけるを見て         家主 顕広(俊成)
梓弓はるのまとゐに花ぞ見る              (俊成)
     とりわき附くべき由ありければ
やさししことに猶ひかれつつ              (西行)      】
                       (「聞書集」(『岩波文庫山家集』)

 上記の記述中の「五条の三位入道」は、「藤原俊成のこと。五条は五条東京極に住んでいたことに因る。三位は最終の官位を指している」。「家主 顕広」も俊成のことで、「仁安二年(一一六七)十二月二十四日に顕広という名を俊成と改めているので(時に俊成五十四歳、西行五十歳、それ以前の作)ということになる。
 この仁安二年(一一六七)というのは、西行にとって大きな節目の年で、「平清盛が太政大臣となった」年である。その三年前に、西行の『山家集』にしばしば登場する「新院」こと「崇徳上皇」が讃岐で崩御し、西行は、その慰霊のため、仁安三年(一一六八)に、「中国・四国への旅、崇徳院慰霊、善通寺庵居」を決行する。
 すなわち、釈阿(俊成)と西行(円位)とは、保元元年(一一五六)の「保元の乱」(崇徳上皇讃岐に配流)、そして、「平治の乱」(京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし、平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。以後、平氏の政権が成立した。)という、大動乱時代に、その絆を深め合った「真の同志」(歌友)だったのである。

 ここで、これらの「聞書残集」(『岩波文庫山家集』の連歌)を理解するためには、次の
アドレスの、「西行の連歌(窪田章一郎稿)」が、その足掛かりとなってくれる。

file:///C:/Users/yahan/Downloads/KokubungakuKenkyu_9-10_Kubota%20(6).pdf

 そこで、「顕広(俊成)の句(「梓弓はるのまとゐに花ぞ見る」)は眼前に即して作った、唱和をもとめる短連歌で、それを西行に名ざしで求めたのである。長連歌の発句にもなりうるもので、穏やかな、明るい、整った句である。寂然、西住たちも同座している楽しげな席であったから、二句のみに終らずに長く連らねられたことも想像されるが、これも何ともいえない」としている。
 さらに、「西行の附句は、『やさししこと』は、矢を挿して負う意で、前句の『梓弓』『まと』と縁を持ち、また『ひかれつつ』は弓を可く意で縁を持っているのは、連歌の常道である。もう一つ『やさししこと』」、語として無理であるが、優しいことの意をもっていると採っていいだろう。この方が一句の意としては表立っている。諸友とともに春のたのしい集いに花を見て、出家の身ではあるが在俗のころとかわらずに風雅の境地に猶心ひかれているという意になろう」と続けている。
 また、「俊成と西行との交際は御裳濯川歌合に俊成によって記されたように『天承の頃ほひ西行(十四歳)より同じ道にたづさはり、仙洞の花下、雲井の月に見なれし友)であったので、西行の附句は俊成の胸にひびいてゆくものをもっていた筈で、二人のみに交流する個人的な感情のあったことがわかる」と記している。

大原三寂・御子左家系図.jpg

「大原三寂・御子左家系図」(『岩波新書西行(高橋貞夫著)』)

 『古今著聞集(巻十五、宿執第二十三)』に、「西行法師、出家よりさきは、徳大寺左大臣の家人にて侍る」と記されている。西行の出家は、保延六年(一一四一)、二十三歳のときであるが、それ以前は「徳大寺家の家人」で、鳥羽院の北面武士として奉仕していたことも記録に遺されている。
 この徳大寺家と俊成の「御子左家は、上記の系図のように近い姻族関係にあり、そして、この御子左家と「常盤三寂(大原三寂)」(「寂念・寂然・寂超」の三兄弟)で知られている「常盤家」と、寂超(藤原為経)の出家で離縁した妻の「美福門院加賀」が俊成の後妻に入り、「藤原定家」の生母となっているという、これまた、両家は因縁浅からぬ関係にある。
 さらに、この美福門院加賀と寂超の子が「藤原隆信」(歌人で「肖像画=「似せ絵」の名手)なのである。この美福門院加賀は、天才歌人・藤原定家と天才画人・藤原隆信の生母で、御子左家の継嗣・定家は、隆信の異父弟ということになる。
 上記の「大原三寂・御子左家系図」の左端の「徳大寺家」の「実能(さねよし)」に、西行は、佐藤義清時代は仕え、この実能の同母妹が「待賢門院璋子(しょうし)」(鳥羽天皇の皇后(中宮)、崇徳・後白河両天皇の母)なのである。
 この待賢門院は、幼女の頃から白河上皇の鍾愛の下に育てられ、鳥羽天皇の中宮になって生まれた子の「崇徳天皇」は、鳥羽天皇に「叔父子(祖父の白河上皇の子)として忌避されていた。大治四年(一一二九)に、「治天の君」として院政を敷いた白河上皇が崩御すると、待賢門院は立場は弱くなり、鳥羽天皇は、長承二年(一一三三)に、藤原長実(六条藤家の顕季の長子)の女「美福門院得子(とくし)」を後宮に迎え入れ、西行が出家した翌々年(永治二年=一一四二)に、待賢門院は出家する。
 待賢門院は、西行より十七歳も年長であり、西行の出家の一つの「悲恋(高貴なる女人)」
説の相手方と目する見方もあるが、それは「西行伝説」の域内に留めるべきものなのかも知れない。しかし、西行が、「美福門院派、近衛天皇(美福門院の子・夭折)・後白河院(待賢門院)派」ではなく、「待賢門院派、崇徳院派」であることは、それは動かし難い事実に属することであろう。
 そして、上記の系図の右端の「常盤家」の為忠は、白河院の側近の一人であり、その子の「常盤(大原)三寂」の「寂念・寂然=唯心房・寂超」の三兄弟も、西行と同じく、「待賢門院派、崇徳院派」と解するのが自然であろう。
 同様に、上記の「御子左家」の俊成も、「六条藤家」出の「美福門院」派よりも「待賢門院」派と解するのが、これまた自然であろう。
 ここで、先の「聞書残集」(『岩波文庫山家集』)の「俊成と西行」との連歌(付け合い)に戻って、「寂然・西住なんどまかりあひて」の「西住(さいじゅう)法師」は、俗名は「
源季正(すえまさ)」という武士で、これまた、西行の出家前からの友人なのである。西行は、その『山家集』では「同行(どうぎょう)に侍りける上人」と「同行」(いっしょに修行する人)という詞書を呈している。この西住については、次のアドレスに詳しい。

http://www.eonet.ne.jp/~yammu/saiju.html

【 為忠が常磐に為業侍りけるに、西住・寂然侍りて、
  太秦に籠りたりけるに、かくと申したりければ、
  罷りたりけり。有明と申す題を詠みけるに
今宵こそ心の隈は知られぬれ入らで明けぬる月を眺めて (西行)

  かくて静空・寂昭なんど侍りければ、物語り申しつつ、
  連歌しけり。秋のことにて肌寒かりければ、
  寂然まで来て背中を合せてゐて連歌しにけり。
思ふにも後合せになりにけり             (寂然)                  
  この連歌異人つくべからずと申しければ
裏返りたる人の心は                 (西行)

  後の世の物語おのおの申しけるに、人なみなみに
  その道には入りながら、思ふやうならぬ由申して
人まねの熊野詣でのわが身かな             静空

  と申しけるに
そりといはるる名ばかりはして            (西行)

  雨の降りければ、檜笠、蓑を着てまで来たりけるを、
  高欄に掛けたりけるを見て                
檜笠着る身のありさまぞあはれなる           西住

  むごに人つけざりければ、興なく覚えて
雨しづくとも泣きぬばかりに             (西行)        
   
  さて明けにければ各々山寺へ帰りけるに、
  後会いつとしらずと申す題、寂然いだして詠みけるに
帰りゆくもとどまる人も思ふらむ又逢ふことのさだめなの世や(西行)  】
 (「聞書残集」(『岩波文庫山家集』)

 この「西行・西住・寂然らの連句」は、『聞書残集』に収載されているものである。この「為忠が常磐に為業侍りけるに」の「為忠が常盤に」は、「藤原為忠の太秦の常盤邸に」の意で、「為業侍りけるに」の「為業」は「常盤(大原)三寂」の「二男・為業=寂念」で、まだ、出家前のことを意味するのであろう。そして、「西住・寂然」の「西住・寂然(四男・頼業)」は、「西行の刎頸の親友」ということになる。
 この「静空」については、「静空は誰れともわからぬが、尾山氏(尾山篤二郎氏)は為忠の長男為盛かといっている。出家後の西行の文学のグループのおもだった人々がこの日は集っている」と、「西行の連歌」(窪田章一郎稿)では、記述されている。
 また、そこで、この「西行・西住・寂然らの連句」について、「この日の西行は心の深さよりはユーモラスな軽妙な味わいを中心として居る。『そり』は剃りで剃髪した僧形のことをいっていると思われ、言葉そのものに無理のあることが興趣を呼んでいるといえよう。西住の句は『身の』に蓑を詠みこんで居り、勾欄にかけられている檜笠と蓑からしたたる雨の雫を、人間化して泣く涙としているところにューモアがある。『あはれなる』を『泣きぬばかり』と受けとめて人間の姿にしたのは、超俗の人がこの一時だけ俗界にかえって心を遊ばせていることが思いあわされて、ユーモアも軽くないものとして味わわれる。夜が明けて別れぎわに『帰りゆくもとどまる人も』と詠んだ時は、ふたたび山寺の生活気分にたちもどっていたのである」との、この評の一端を示されている。

(追記メモ一) 『菟玖波集』における「西行の連歌」関連

「西行の連歌」(窪田章一郎稿)では、「西行の連歌は菟玖波集にも一句も採りいれられず、従来の連歌研究もいまだ扱っていない」というのである。

file:///C:/Users/yahan/Downloads/KokubungakuKenkyu_9-10_Kubota%20(6).pdf
 ↓
 しかし、これは、戦前の昭和五年(一九三〇)の「校本つくば集新釈上巻」(福井久蔵著・早稲田大学出版)当時に基づく論孜なのかも知れない。
 戦後の昭和二十六年(一九五一)に刊行された『日本古典全集 筑波集(上・下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』の、その下巻の「巻十二」と「巻十九」に、次のような、西行の連歌が収載されている。

   空にぞ冬の月は澄みける
    と侍るに
1187 舎(やど)るぺき水は氷にとぢらへて  西行法師 (『菟玖波集・下・巻十二』)
(月が映えるべき水は氷ってしまったので、冬月は空に澄わたっていると前後して見る句)
   (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十二」)

  ひろき空にすばる星かな
1948 深き海にかがまる蝦(えび)の有るからに 西行法師 (『菟玖波集・下・巻十九』)
(深い海に身体を十分伸ばしてよいのに、海老はなぜあのように腰をかがめるかと禅の問答のような付けである。参考: 「すばる星」=昴(すばる)=統(す)ばる=集まって一つになる。すまる=すぼまる=窄まる=すぼむ→すばる星。 「深き海」と「広い空」、「すばる星」と「すぼむ蝦」との対比。)
    (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十九」)


https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_02110/he05_02110_0007/he05_02110_0007_p0027.jpg

     修行し侍るりけるに、奈良路をゆくとて、
     尾もなき山のまろきを見て
   世の中にまんまろにこそ見えにけれ  西住法師
     と侍るとて
1956 あそこもここもすみもつかねば    西行法師 (『菟玖波集・下・巻十九』)
(奈良路の山の形がまんまるなのを見て、円に対して四角のものはないということを利かせようとして設けた付合。参考: 「まんまろ」→まんまろ頭→坊主頭→僧=西住法師と西行法師。西行の別号の「円位法師」を掛けているか。「まんまろ」と「四角の四隅」→融通無碍と四角四面との対比。 )
    (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十九」)


(追記メモ二)『千載和歌集』の「西住・寂然」の歌(『新日本古典文学大系10 千載集』)

(西住法師)

    行路ノ雪といへる心をよめる
463 駒のあとはかつふる雪にうづもれてをくるヽ人やみちまどふらん
(駒の足跡は次から次へと降る雪に埋もれて、後から遅れて来る人は、道に迷うのではなかろうか。)

     夏のころ越の国へまかりける人の、秋はかならず
     上りなん、待てといひけれど、冬になるまで上り
     まうでこざりければ、つかはしける
493 待てといひて頼めし秋もすぎぬればかへる山路の名ぞかひもなき
(待っていて下さいと、私をあてにさせた約束の秋も過ぎてしまったので、帰って来る山路という帰山の名もそのかいがありませんよ。)

     乍臥無実恋といへる心をよめる
753 手枕のうゑに乱るゝ朝寝髪したに解けずと人は知らじな
(私の手枕の上に乱れている恋人の朝寝髪、それなのに実は打ち解けていないということを他人は知らないだろうな。参考: 乍臥無実恋=臥シ乍ラ実ノ無キ恋=共に臥しながら男女の関係に至らなかった恋。)

1140 まどろみてさてもやみなばいかゞせむ寝覚めぞあらぬ命なりける
(睡眠中にそのまま死を迎えたらどうしたらよかろう。寝覚めというものにこそ無いはずの命なのであったよ。)

(寂然法師)

230 秋はきぬ年もなかばにすぎぬとや荻吹く風のおどろかすらむ
(秋が来た。一年も半ばまで過ぎたと言ってであろうか。荻に吹く風が目を覚まさせるようだ。)

     西住法師みまかりける時、終り正念なりけるよしを聞きて、
     円位(西行)法師のもとへつかはしける
604 乱れずと終りを聞くこそうれしけれさても別れはなぐさまねども
(乱れるところがなかった、とその臨終の様を聞けるのは嬉しいことです。そうとはいっても、死別の悲しみは慰められないのですが。)

664 みちのくの信夫もぢずり忍びつヽ色には出でじ乱れもぞする。
(みちのくの信夫もじずりではないが、忍び忍びしてわが恋心を表にあらわすまい。)

      世を背(そむ)きて又の年の春、花を見てよめる
1068  この春ぞ思ひはかへすさくら花空(むな)しき色に染めし心を
(この春にこそ、桜花の空しい色に染めて執着していた心を翻して、色即是空と悟ることだ。参考: 思ひかへす悟りや今日はなからまし花にそめおく色なかりせば/西行)

      題不知
1069  世の中を常なきものと思はずはいかでか花の散るに堪へまし
(この世を無常と思わなかったら、どうして花の散ることに堪えられるだろうか。無常の認識に立つからこそ散華のあわれに堪えられるのだ。)

      火盛久不燃
1251  煙(けぶり)だにしばしたなびけ鳥辺山たち別れにし形見とも見ん
(荼毘の煙だけでもしばらくの間たなびいていて欲しい。鳥辺山よ、せめてそれを死別したあの人の形見と見ようと思うから。参考: 「火盛久不燃」=罪業応報経の偈の一節。栄枯盛衰の無常をいう。)

(追記メモ三) 「美福門院加賀と待賢門院加賀」・「待賢門院とその女房たち」そして「上西門院と堀川の局・兵衛の局」

(美福門院加賀)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kaga_b.html

1232 よしさらばのちの世とだにたのめおけつらさにたへぬ身ともこそなれ(『新古今・藤原俊成』)
       返し
1233 たのめおかむたださばかりを契りにて憂き世の中を夢になしてよ(『新古今・藤原定家朝臣母=美福門院加賀)

(待賢門院加賀)→ 大宮の女房加賀

https://sakuramitih31.blog.fc2.com/blog-entry-4412.html?sp

799 かねてより思ひし事ぞ伏柴のこるばかりなる歎きせむとは(『千載集・待賢門院加賀)

(待賢門院とそのの女房たち)

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu3/42.html

〇中納言の局
〇堀川の局
〇兵衛の局
堀川の局の妹。待賢門院のあとに上西門院に仕えています。西行との贈答歌が山家集の中に三首あります。
〇帥の局
〇加賀の局→大宮の加賀 
西行より13歳の年長ということです。母は新肥前と言うことですが、詳しくは不明です。千載集に一首採録されています。この人は待賢門院の後に近衛院の皇后だった藤原多子に仕えて、大宮の女房加賀となります。有馬温泉での贈答歌が135Pに二首あります。ただし、  西行の歌は他の人の代作としてのものです。寂超長門入道の妻、藤原俊成の妻、藤原隆信や藤原定家の母も加賀の局と言いますが、年齢的にみて、この美福門院加賀とは別人とみられています。 ○紀伊の局
〇安芸の局
〇尾張の局
〇新少将
源俊頼の娘。新古今集・新拾遺集に作品があります。

(上西門院と堀川の局・兵衛の局)

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu3/42.html

〇上西門院
〇堀川の局・兵衛の局
二人ともに生没年不詳です。村上源氏の流れをくむ神祇伯、源顕仲の娘といわれています。姉が堀河、妹が兵衛です。二人の年齢差は不明ですが、ともに待賢門院璋子(鳥羽天皇皇后)に仕えました。堀川はそれ以前に、白河天皇の令子内親王に仕えて、前斎院六条と称していました。1145年に待賢門院が死亡すると、堀川は落飾出家、一年間の喪に服したあとに、仁和寺などで過ごしていた事が山家集からも分かります。兵衛は待賢門院のあとに上西門院に仕えてました。1160年、上西門院の落飾に伴い出家したという説があります。それから20年以上は生存していたと考えられています。上西門院は1189年の死亡ですが、兵衛はそれより数年早く亡くなったようです。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その四) [忘れがたき風貌・画像]

その四 西行・「釈阿(藤原俊成)・藤原定家」周辺

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009429


(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-05

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その一)
その一 西行法師

鹿下絵一.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の一「西行・定家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)
鹿下絵和歌巻・西行.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(西行法師)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(山種美術館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/215347

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-12

(「西行法師」周辺メモ)

1 西行法師:こころなき身にもあはしられけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ(山種美術館蔵)

(釈文)
西行法師
こ々路那幾身尓も哀盤しら禮介利
鴫多徒澤濃秋乃夕暮

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html

   秋 ものへまかりける道にて
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(山家集470)[新古362]

【通釈】心なき我が身にも、哀れ深い趣は知られるのだった。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮――。
【語釈】◇心なき身 種々の解釈があるが、「物の情趣を解さない身」「煩悩を去った無心の身」の二通りの解釈に大別できよう。前者と解すれば出家の身にかかわりなく謙辞の意が強くなる。下に掲げた【鑑賞】は、後者の解に立った中世歌学者による評釈である。◇鴫たつ沢 鴫が飛び立つ沢。鴫はチドリ目シギ科に分類される鳥。多種あるが、多くは秋に渡来し、沼沢や海浜などに棲む。非繁殖期には単独で行動することが多く、掲出歌の「鴫」も唯一羽である。飛び立つ時にあげる鳴き声や羽音は趣深いものとされた。例、「暁になりにけらしな我が門のかり田の鴫も鳴きて立つなり」(堀河百首、隆源)、「をしねほす伏見のくろにたつ鴫の羽音さびしき朝霜の空」(後鳥羽院)
【補記】秋の夕暮の沢、その静寂を一瞬破って飛び立つ鴫。『西行物語』では東国旅行の際、相模国で詠まれた歌としているが、制作年も精しい制作事情なども不明である。『御裳濯河歌合』で前掲の「おほかたの露にはなにの」と合わされ、判者俊成は「鴫立つ沢のといへる、心幽玄にすがたおよびがたし」と賞賛しつつも負を付けた。また俊成は千載集にこの歌を採らず、そのことを人づてに聞いた西行はいたく失望したという(『今物語』)。『西行法師家集』は題「鴫」、新古今集は「題しらず」。

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「鹿下絵新古今集和歌巻」は戦後小刀を入れて諸家に分藏されることになったが、もちろん本来は一巻の巻物であった。しかも全長二〇mを超える大巻であったらしい。この下絵も鹿という単一のモチーフで構成されている。鹿はたたずみ、群れる。雌雄でじゃれ合い、戯れる。跳びはね、走る。そして山の端に姿を消していく。鹿の視線や動きのベクトルは、画面内でさまざまに変化する。先に指摘した「鶴下絵和歌巻」の特異な構成は、この和歌巻と比較することによって一層はっきりするであろう。】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

【「西行への傾倒」 光悦が選んだのは『新古今和歌集』巻四「秋歌 上」、岩波文庫版でいえば三六二番から三八九番までにあたる。つまり西行法師の「こころなき身にもあはしられけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ」から藤原家隆の「鳰のうみや月のひかりにうつろへば浪の花にも秋は見えけり」まで連続する二八首である。西行法師の前後には、寂連法師の「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮」と藤原定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ」がある。有名な三夕の和歌、これをもって秋歌の和歌巻を始めようとするのはだれでも思いつく着想であろう。
 しかし光悦は寂連をカットし、いきなり西行から書きだした。それは光悦が西行を高く評価し、西行に対する特別の感情をもっていたからである。『本阿弥行状記』には西行に関することが数条見出されるが、とくに「心なき」の一首は一七二条に取り上げられている。この一首にならって、飛鳥井雅章は「あはれさは秋ならねどもしられけり鴫立沢のあとを尋ねて」と詠んだ。ところがこの鴫立沢というのは、西行の和歌によって後人が作り出した名所であったので、このような詠吟は不埒であると勅勘を蒙ったという話である。雅章の恥となるような逸話を持ち出しつつ、西行の素晴らしさを際立たせたわけである。それにしても、並の書家であれば三夕の和歌の一つをカットすることなど、絶対にしなかったであろう。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

【『本阿弥行状記』一七二段
  心なき身にも哀れは知られけり鴫立沢の秋の夕暮 西行法師
 これを秀吟は西行東国行脚の時なり。その旧跡、相模国に鴫立沢と申て庵なども有之候由。然るに飛鳥井雅章卿
  あはれさは秋ならねともしられけり鴫立沢のあとを尋ねて
と申歌を詠給ふ事、右鴫立沢と申は後人の拵へし所なるを、かく詠吟の事不埒也と勅勘を蒙り給ひしとぞ。道を大切になし給ふ事難有御事也。 】(『本阿弥行状記と光悦(正木篤三著)』)


「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥メモ(その一)

http://sakurasayori.web.fc2.com/hyaku88.html

「御裳濯河歌合」(十八番)

左:勝(山家客人)
大かたの霧にはなにの成るならん袂(たもと)に置くは涙なりけり(千載集)                           
右:(野径亭主)
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(新古今集)
判詞(俊成)
右歌の「鴫立つ沢の」と詠んでいるのは、心が幽玄で姿は及び難いものがある。ただし左の歌で「霧はなにの」と云っているのは、言葉は浅いようだが心はまことに深い。勝ると申すべきであろう。
参考: 右歌は西行の代表作の一つで、いわゆる「三夕(さんせき)の歌」でもある。俊成はこの寂寥感溢れる歌を「心幽玄」として認めているが、左歌の「霧にはなにの」というのを心の深さとして高く評価している。わが袂に置く涙なのだが、あたり一面に置く一粒一粒の露はいったい何がなったのか。この世に存在する、そのものの悲傷であろうか、余情の深い歌である。右の歌は、上句が説明的で下句はその材となっている、というように俊成は見たのであろうか。左歌は「千載集」に採り、右歌は外している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-17

その十八 入道三品釈阿と西行法師
釋阿.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(入道三品釈阿)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056425

西行.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(西行法師)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056426

左方十八・皇太后宮大夫俊成
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010710000.html

 又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの

右方十八・西行法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010711000.html

 をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも

(周辺メモ)西行(さいぎょう) 元永元~建久元(1118~1190) 俗名:佐藤義清 法号:円位

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html

 藤原北家魚名流と伝わる俵藤太(たわらのとうた)秀郷(ひでさと)の末裔。紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)を勤めた佐藤一族の出。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。俗名は佐藤義清(のりきよ)。弟に仲清がいる。年少にして徳大寺家の家人となり、実能(公実の子。待賢門院璋子の兄)とその子公能に仕える。保延元年(1135)、十八歳で兵衛尉に任ぜられ、その後、鳥羽院北面の武士として安楽寿院御幸に随うなどするが、保延六年、二十三歳で出家した。法名は円位。鞍馬・嵯峨など京周辺に庵を結ぶ。出家以前から親しんでいた和歌に一層打ち込み、陸奥・出羽を旅して各地の歌枕を訪ねた。久安五年(1149)、真言宗の総本山高野山に入り、以後三十年にわたり同山を本拠とする。

「岩間とぢし氷も今朝はとけそめて苔の下水みちもとむらん」(新古7)
【通釈】岩と岩の間を閉ざしていた氷も、立春の今朝は解け始めて、苔の生えた下を流れる水が通り道を探し求めていることだろう。

「ふりつみし高嶺のみ雪とけにけり清滝川の水の白波」(新古27)
【通釈】冬の間に降り積もった高嶺の雪が解けたのであるよ。清滝川の水嵩が増して白波が立っている。

「吉野山さくらが枝に雪ちりて花おそげなる年にもあるかな」(新古79)
【通釈】吉野山では桜の枝に雪が舞い散って、今年は花が遅れそうな年であるよ。

「吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ」(新古86)
【通釈】吉野山――ここで去年枝折(しおり)をして目印をつけておいた道とは道を変えて、まだ見ない方面の花をたずね入ろう。

「ながむとて花にもいたくなれぬれば散る別れこそ悲しかりけれ」(新古126)
【通釈】じっと見つめては物思いに耽るとて、花にもひどく馴染んでしまったので、散る時の別れが一層悲しいのだった。

「聞かずともここをせにせむほととぎす山田の原の杉のむら立」(新古217)
【通釈】たとえ聞こえなくとも、ここを時鳥の声を待つ場所としよう。山田の原の杉林を。

「ほととぎす深き峰より出でにけり外山のすそに声のおちくる」(新古218)
【通釈】時鳥は深い峰から今出たのだな。私が歩いている外山の山裾に、その声が落ちて来る。

「道の辺に清水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ」(新古262)
【通釈】道のほとりに清水が流れる柳の木蔭――ほんのしばらくのつもりで立ち止まったのだった。

「よられつる野もせの草のかげろひて涼しくくもる夕立の空」(新古263)
【通釈】もつれ合った野一面の草がふと陰って、見れば涼しげに曇っている夕立の空よ。

「あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風立ちぬ宮城野の原」(新古300)
【通釈】ああ、どれほど草葉の露がこぼれているだろうか。秋風が吹き始めた。宮城野の原では今頃――。

「雲かかる遠山畑(とほやまばた)の秋されば思ひやるだにかなしきものを」(新古1562)
【通釈】雲がかかっている、遠くの山の畑を眺めると、そこに暮らしている人の心が思いやられるが、ましてや秋になれば、いかばかり寂しいことだろう――思いを馳せるだけでも切なくてならないよ。

「月を見て心浮かれしいにしへの秋にもさらにめぐり逢ひぬる」(新古1532)
【通釈】月を見て心が浮かれた昔の秋に、再び巡り逢ってしまったことよ。

「夜もすがら月こそ袖にやどりけれ昔の秋を思ひ出づれば」(351)[新古1533]
【通釈】一晩中、月ばかりが涙に濡れた袖に宿っていた。昔の秋を思い出していたので。

「白雲をつばさにかけてゆく雁の門田のおもの友したふなり」(新古502)
【通釈】白雲を翼に触れ合わせて飛んでゆく雁が鳴いているのは、門田に残る友を慕っているのだ。

心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(新古362)
【通釈】心なき我が身にも、哀れ深い趣は知られるのだった。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮――。

「きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく」(新古472)
【通釈】蟋蟀は秋が深まり夜寒になるにつれて衰弱するのか、鳴き声が遠ざかってゆく。

「秋篠や外山の里やしぐるらむ伊駒(いこま)の岳(たけ)に雲のかかれる」(新古585)
【通釈】秋篠の外山の里では時雨が降っているのだろうか。生駒の山に雲がかかっている。

「津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり」(新古625)
【通釈】古歌にも詠まれた津の国の難波の春は夢であったのだろうか。今や葦の枯葉に風がわたる、その荒涼とした音が聞こえるばかりである。

「さびしさに堪(た)へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里(新古627)
【通釈】寂しさに耐えている人が私のほかにもいればよいな。庵を並べて住もう――「寂しさ増さる」と言われる冬の山里で。

「おのづから言はぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる」(新古691)
【通釈】言葉をかけない私を、ひょっとして、慕ってくれる人もあるかと、ためらっているうちに、年が暮れてしまいました。

「面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて」(新古1185)
【通釈】いつまでも面影の忘れられそうにない別れであるよ。別れたあとも、あの人がなごりを月の光のうちに留めていて…。

「くまもなき折しも人を思ひ出でて心と月をやつしつるかな」(新古1268)
【通釈】隈もなく照っている折しも、恋しい人を思い出して、自分の心からせっかくの明月をみすぼらしくしてしまったよ。

「はるかなる岩のはざまに独り居て人目思はで物思はばや」(新古1099)
【通釈】人里を遥かに離れた岩の狭間に独り居て、他人の目を気にせず物思いに耽りたいものだ。

「数ならぬ心のとがになし果てじ知らせてこそは身をも恨みめ」(新古1100)
【通釈】身分不相応の恋をしたことを、賤しい身である自分の拙い心のあやまちとして諦めはすまい。あの人にこの思いを知らせて、拒まれた上で初めて我が身を恨もうではないか。

「なにとなくさすがに惜しき命かなありへば人や思ひ知るとて」(新古1147)
【通釈】なんとはなしに、やはり惜しい命であるよ。生き永らえていたならば、あの人が私の思いを悟ってくれるかもしれないと。

「今ぞ知る思ひ出でよとちぎりしは忘れむとての情けなりけり」(新古1298)
【通釈】今になって分かった。思い出してと約束を交わしたのは、私を忘れようと思っての、せめてもの情けだったのだ。

「逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりける我が心かな」(新古1155)
【通釈】あの人と逢うまでは命を永らえたいと思ったのは、今にしてみれば浅はかで、悔やまれる我が心であったよ。

「人は来(こ)で風のけしきの更けぬるにあはれに雁のおとづれて行く」(新古1200)
【通釈】待つ人は来ないまま、風もすっかり夜が更けた気色になったところへ、しみじみと哀れな声で雁が鳴いてゆく。

「待たれつる入相の鐘のおとすなり明日もやあらば聞かむとすらむ」(新古1808)
【通釈】待たれた入相の鐘の音が聞こえる。明日も生きていたならば、またこうして聞こうというのだろうか。

「古畑のそはの立つ木にゐる鳩の友よぶ声のすごき夕暮」(新古1676)
【通釈】焼き捨てられた古畑の斜面の立木に止まっている鳩が、友を呼ぶ声――その響きが物寂しく聞こえる夕暮よ。

「吉野山やがて出でじと思ふ身を花ちりなばと人や待つらむ」(新古1619)
【通釈】吉野山に入って、そのまますぐには下山しまいと思う我が身であるのに、花が散ったなら帰って来るだろうと都の人々は待っているのだろうか。

「山里にうき世いとはむ友もがな悔しく過ぎし昔かたらむ」(新古1659)
【通釈】この山里に、現世の生活を捨てた友がいたなら。虚しく過ぎた、悔やまれる昔の日々を語り合おう。

「世の中を思へばなべて散る花の我が身をさてもいづちかもせむ」(新古1471)
【通釈】世の中というものを思えば、すべては散る花のように滅んでゆく――そのような我が身をさてまあ、どうすればよいのやら。

「世をいとふ名をだにもさはとどめおきて数ならぬ身の思ひ出(い)でにせむ」(新古1828)
【通釈】世を厭い捨てたという評判だけでも、そのままこの世に残しておいて、数にも入らないような我が身の思い出としよう。

「都にて月をあはれと思ひしは数よりほかのすさびなりけり」(新古937)
【通釈】都にあって月を哀れ深いと思ったのは、物の数にも入らないお慰みなのであった。

神路山月さやかなる誓ひありて天(あめ)の下をば照らすなりけり(新古1878)
【通釈】神路山の月がさやかに照るように、明らかな誓いがあって、慈悲の光はこの地上をあまねく照らしているのであった。

「さやかなる鷲の高嶺の雲ゐより影やはらぐる月よみの森」(新古1879)
【通釈】霊鷲山にかかる雲から現れた月は、さやかな光をやわらげて、この国に月読の神として出現し、月読の杜に祀られている。

「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」(新古987)
【通釈】年も盛りを過ぎて、再び越えることになろうと思っただろうか。命があってのことである。小夜の中山よ。

「風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬ我が心かな」(新古1613)
【通釈】風になびく富士山の煙が空に消えて、そのように行方も知れないわが心であるよ。


(周辺メモ)藤原俊成(ふじわらのとしなり(-しゅんぜい)) 永久二年~元久元年(1114-1204) 法号:釈阿 通称:五条三位

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html

 藤原道長の系譜を引く御子左(みこひだり)家の出。権中納言俊忠の子。母は藤原敦家女。藤原親忠女(美福門院加賀)との間に成家・定家を、為忠女との間に後白河院京極局を、六条院宣旨との間に八条院坊門局をもうけた。歌人の寂蓮(実の甥)・俊成女(実の孫)は養子である。

「俊頼が後には、釈阿・西行なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり」(後鳥羽院「後鳥羽院御口伝」)。

「聞く人ぞ涙はおつる帰る雁なきて行くなる曙の空」(新古59)
【通釈】聞いている人の方こそ涙はこぼれ落ちるのだ。北へ帰る雁が鳴いて飛んでゆく曙の空よ。

「いくとせの春に心をつくし来ぬあはれと思へみ吉野の花」(新古100)
【通釈】幾年の春に心を尽くして来たのだろう。憐れと思ってくれ、吉野の桜の花よ。

「またや見む交野(かたの)の御野(みの)の桜がり花の雪ちる春の曙」(新古114)
【通釈】再び見ることができるだろうか、こんな光景を。交野の禁野に桜を求めて逍遙していたところ、雪さながら花の散る春の曙に出遭った。

「駒とめてなほ水かはむ山吹の花の露そふ井手の玉川」(新古159)

【通釈】馬を駐めて、さらに水を飲ませよう。山吹の花の露が落ち添う井手の玉川を見るために。

「昔思ふ草の庵(いほり)の夜の雨に涙な添へそ山ほととぎす(新古201)
【通釈】昔を思い出して過ごす草庵の夜――悲しげな鳴き声で、降る雨に涙を添えてくれるな、山時鳥よ。

「雨そそく花橘に風過ぎて山ほととぎす雲に鳴くなり」(新古202)
【通釈】雨の降りそそぐ橘の花に、風が吹いて過ぎる――すると、ほととぎすが雨雲の中で鳴いている。

「我が心いかにせよとて時鳥雲間の月の影に鳴くらむ」(新古210)
【通釈】私の心をどうせよというので、ほととぎすは雲間から漏れ出た月――それだけでも十分あわれ深い月影のもとで鳴くのだろう。

「誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば」(新古238)
【通釈】橘の花の香をかげば、亡き人を懐かしく思い出す――私も死んで過去の人となったならば、誰がまた橘の花に私を思い出してくれることだろうか。

「伏見山松の蔭より見わたせば明くる田の面(も)に秋風ぞ吹く」(新古291)
【通釈】伏見山の松の蔭から見渡すと、明けてゆく田の面に秋風が吹いている。

「水渋(みしぶ)つき植ゑし山田に引板(ひた)はへてまた袖ぬらす秋は来にけり」(新古301)
【通釈】夏、袖に水渋をつけて苗を植えた山田に、今や引板を張り渡して見張りをし、さらに袖を濡らす秋はやって来たのだ。

「たなばたのとわたる舟の梶の葉にいく秋書きつ露の玉づさ」(新古320)
【通釈】七夕の天の川の川門を渡る舟の梶――その梶の葉に、秋が来るたび何度書いたことだろう、葉に置いた露のように果敢ない願い文(ぶみ)を。

「いとかくや袖はしをれし野辺に出でて昔も秋の花は見しかど」(新古341)
【通釈】これほどひどく袖は涙に濡れ萎れたことがあったろうか。野辺に出て、昔も今のように秋の花々を眺めたことはあったけれど。

「心とや紅葉はすらむ立田山松は時雨にぬれぬものかは」(新古527)
【通釈】木々は自分の心から紅葉するのだろうか。立田山――その山の紅葉にまじる松はどうか、時雨に濡れなかっただろうか。そんなはずはないのだ。

「かつ氷りかつはくだくる山川の岩間にむせぶ暁の声」(新古631)
【通釈】氷っては砕け、砕けては氷る山川の水が、岩間に咽ぶような暁の声よ。

「ひとり見る池の氷にすむ月のやがて袖にもうつりぬるかな」(新古640)
【通釈】独り見ていた池の氷にくっきりと照っていた月が、そのまま、涙に濡れた袖にも映ったのであるよ。

「今日はもし君もや訪(と)ふと眺むれどまだ跡もなき庭の雪かな」(新古664)
【通釈】今日はもしやあなたが訪ねて来るかと眺めるけれど、まだ足跡もない庭の雪であるよ。

「雪ふれば嶺の真榊(まさかき)うづもれて月にみがける天の香久山」(新古677)
【通釈】雪が降ると、峰の榊の木々は埋もれてしまって、月光で以て磨いているかのように澄み切った天の香具山よ。

「夏刈りの芦のかり寝もあはれなり玉江の月の明けがたの空」(新古932)
【通釈】夏刈りの芦を刈り敷いての仮寝も興趣の深いものである。玉江に月が残る明け方の空よ。

「立ちかへり又も来てみむ松島や雄島(をじま)の苫屋波に荒らすな」(新古933)
【通釈】再び戻って来て見よう。それまで松島の雄島の苫屋を波に荒れるままにしないでくれ。

「難波人あし火たく屋に宿かりてすずろに袖のしほたるるかな」(新古973)
【通釈】難波人が蘆火を焚く小屋に宿を借りて、わけもなく袖がぐっしょり濡れてしまうことよ。

世の中は憂きふししげし篠原(しのはら)や旅にしあれば妹夢に見ゆ(新古976)
【通釈】篠竹に節が多いように、人生は辛い折節が多い。篠原で旅寝していれば、妻が夢に見えて、また辛くなる。

「うき世には今はあらしの山風にこれや馴れ行くはじめなるらむ」(新古795)
【通釈】辛い現世にはもう留まるまいと思って籠る嵐山の山風に、これが馴れてゆく始めなのだろうか。

「稀にくる夜半も悲しき松風をたえずや苔の下に聞くらむ」(新古796)
【通釈】稀に訪れる夜でも悲しく聴こえる松風を、亡き妻は絶えず墓の下で聞くのだろうか。

「山人の折る袖にほふ菊の露うちはらふにも千代は経ぬべし」(新古719)
【通釈】仙人が花を折り取る、その袖を濡らして香る菊の露――それを打ち払う一瞬にも、千年が経ってしまうだろう。

「君が代は千世ともささじ天(あま)の戸や出づる月日のかぎりなければ」(新古738)
【通釈】大君の御代は、千年とも限って言うまい。天の戸を開いて昇る太陽と月は限りなく在り続けるのだから。

「近江(あふみ)のや坂田の稲をかけ積みて道ある御代の始めにぞ舂(つ)く」(新古753)
【通釈】近江の坂田の稲を積み重ねて掛け、正しい道理の通る御代の最初に舂くのである。

「思ひあまりそなたの空をながむれば霞を分けて春雨ぞふる」(新古1107)
【通釈】思い悩むあまり、あなたの住む方の空を眺めると、霞を分けて春雨が降っている。

逢ふことはかた野の里の笹の庵(いほ)しのに露ちる夜半の床かな(新古1110)
【通釈】あの人に逢うことは難く、交野の里の笹葺きの庵の篠に散る露ではないが、しきりと涙がこぼれる夜の寝床であるよ。

「憂き身をば我だに厭ふいとへただそをだに同じ心と思はむ」(新古1143)
【通釈】辛い境遇のこの身を、自分自身さえ厭うています。あなたもひたすら厭うて下さい、せめてそれだけはあなたと心が一つだと思いましょう。

「よしさらば後の世とだに頼めおけつらさに堪へぬ身ともこそなれ」(新古1232)
【通釈】仕方ない、それなら、せめて来世だけでも約束して下さい。我が身は貴女のつらい仕打ちに堪えられず死んでしまいますから。

「あはれなりうたた寝にのみ見し夢の長き思ひに結ぼほれなむ」(新古1389)
【通釈】はかないことである。転た寝に見ただけの短い夢のような逢瀬が、長い恋となって私は鬱屈した思いを抱き続けるのだろう。

「思ひわび見し面影はさておきて恋せざりけむ折ぞ恋しき」(新古1394)
【通釈】歎き悲しむ今は、逢瀬の時に見た面影はさておいて、あの人をまだ恋していなかった頃のことが慕わしく思われるのである。

「五月雨は真屋の軒端の雨(あま)そそぎあまりなるまでぬるる袖かな」(新古1492)
【通釈】五月雨は、真屋の軒端から落ちる雨垂れが余りひどいように、ひどく涙に濡れる袖であるよ。

「嵐吹く峯の紅葉の日にそへてもろくなりゆく我が涙かな」(新古1803)
【通釈】嵐が吹き荒れる峰の紅葉が日に日に脆くなってゆくように、感じやすくなり、こぼれやすくなってゆく我が涙であるよ。

「杣山(そまやま)や梢におもる雪折れにたへぬ歎きの身をくだくらむ」(新古1582)
【通釈】杣山の木々の梢に雪が重く積もって枝が折れる――そのように、耐えられない嘆きが積もって我が身を砕くのであろう。

「暁とつげの枕をそばだてて聞くも悲しき鐘の音かな」(新古1809)
【通釈】暁であると告げるのを、黄楊の枕をそばだてて聞いていると、何とも悲しい鐘の音であるよ。

「いかにせむ賤(しづ)が園生(そのふ)の奧の竹かきこもるとも世の中ぞかし」(新古1673)
【通釈】どうしよう。賤しい我が園の奧の竹垣ではないが、深く引き籠って生きようとも、世間から逃れることはできないのだ。

「忘れじよ忘るなとだにいひてまし雲居の月の心ありせば」(新古1509)
【通釈】私も忘れまい。おまえも忘れるなとだけは言っておきたいものだ。殿上から眺める月に心があったならば。

「世の中を思ひつらねてながむればむなしき空に消ゆる白雲」(新古1846)
【通釈】世の中のことを次から次へ思い続けて、外を眺めていると、虚空にはなかく消えてゆく白雲よ。

「思ひきや別れし秋にめぐりあひて又もこの世の月を見むとは」(新古1531)
【通釈】思いもしなかった。この世と訣別した秋に巡り逢って、再び生きて月を眺めようとは。

「年暮れし涙のつららとけにけり苔の袖にも春や立つらむ」(新古1436)
【通釈】年が暮れたのを惜しんで流した涙のつららも解けてしまった。苔の袖にも春が来たのであろうか。

「今はわれ吉野の山の花をこそ宿の物とも見るべかりけれ」(新古1466)
【通釈】出家した今、私は吉野山の桜を我が家のものとして眺めることができるのだ。

「照る月も雲のよそにぞ行きめぐる花ぞこの世の光なりける」(新古1468)
【通釈】美しく輝く月も、雲の彼方という遥か遠い世界を行き巡っている。それに対して桜の花こそはこの世界を照らす光なのだ。

「老いぬとも又も逢はむと行く年に涙の玉を手向けつるかな」(新古1586)
【通釈】老いてしまったけれども、再び春に巡り逢おうと、去り行く年に涙の玉を捧げたのであった。

「春来ればなほこの世こそ偲ばるれいつかはかかる花を見るべき」(新古1467)
【通釈】春が来ると、やはりこの現世こそが素晴らしいと心惹かれるのである。来世ではいつこのような花を見ることができようか。そんなことは分かりはしないのだから。

「今日とてや磯菜つむらん伊勢島や一志(いちし)の浦のあまの乙女子」(新古1612)
【通釈】今日は正月七日というので、若菜の代りに磯菜を摘んでいるのだろうか。伊勢島の一志の浦の海人の少女は。

「昔だに昔と思ひしたらちねのなほ恋しきぞはかなかりける」(新古1815)
【通釈】まだ若かった昔でさえ、亡くなったのは昔のことだと思っていた親――その親が今もなお恋しく思われるとは、はかないことである。

「しめおきて今やと思ふ秋山の蓬がもとにまつ虫のなく」(新古1560)
【通釈】自身の墓と定めて置いて、今はもうその時かと思う秋山の、蓬(よもぎ)の繁る下で、私を待つ松虫が鳴いている。

「荒れわたる秋の庭こそ哀れなれまして消えなむ露の夕暮」(新古1561)
【通釈】一面に荒れている秋の庭は哀れなものだ。まして、今にも消えそうな露が庭の草木に置いている夕暮時は、いっそう哀れ深い。

「今はとてつま木こるべき宿の松千世をば君となほ祈るかな」(新古1637)
【通釈】今となっては、薪を伐って暮らすような隠棲の住まいにあって、その庭先に生える松に寄せて、千歳の齢を大君に実現せよと、なおも祈るのである。

「神風や五十鈴の川の宮柱いく千世すめとたてはじめけむ」(新古1882)
【通釈】五十鈴川のほとりの内宮(ないくう)の宮柱は、川の水が幾千年も澄んでいるように幾千年神が鎮座されよと思って建て始めたのであろうか。

「月さゆるみたらし川に影見えて氷にすれる山藍の袖」(新古1889)
【通釈】澄み切った月が輝く御手洗川に、小忌衣(おみごろも)を着た人の影が映っていて、その氷で摺り付けたかのような山藍の袖よ。

「春日野のおどろの道の埋れ水すゑだに神のしるしあらはせ」(新古1898)
【通釈】春日野の茨の繁る道にひっそり流れる水――そのように世間に埋もれている私ですが、せめて子孫にだけでも春日の神の霊験をあらわして下さい。

「今ぞこれ入日を見ても思ひこし弥陀(みだ)の御国(みくに)の夕暮の空」(新古1967)
【通釈】今目の当りにしているのがそれなのだ、入日を眺めては思い憧れてきた、阿弥陀如来の御国、極楽浄土の夕暮の空よ。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-06

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その二

鹿下絵一.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の一「西行・定家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵和歌巻・藤原定家.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(藤原定家)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(個人蔵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-13

「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その五)(再掲)

(「藤原定家」周辺メモ)

   西行法師すすめて、百首歌よませ侍りけるに
2 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(新古363)
(釈文)西行法師須々めて百首哥よま世侍介る尓
見王多世盤華も紅葉もな可利け里浦濃とまや乃阿支乃遊ふ久連

【通釈】あたりを見渡してみると、花も紅葉もないのだった。海辺の苫屋があるばかりの秋の夕暮よ。
【通釈】あたりを見渡してみると、花も紅葉もないのだった。海辺の苫屋があるばかりの秋の夕暮よ。
【語釈】◇花も紅葉も 美しい色彩の代表として列挙する。◇苫屋(とまや) 菅や萱などの草で編んだ薦で葺いた小屋。ここは漁師小屋。
【補記】文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」。今ここには現前しないもの(花と紅葉)を言うことで、今ここにあるもの(浦の苫屋の秋の夕暮)の趣意を深めるといった作歌法はしばしば定家の試みたところで、同じ頃の作では「み吉野も花見し春のけしきかは時雨るる秋の夕暮の空」(閑居百首)などがある。新古今集秋に「秋の夕暮」の結句が共通する寂蓮の「さびしさはその色としも…」、西行の「心なき身にもあはれは…」と並べられ、合せて「三夕の歌」と称する。

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「闇を暗示する銀泥」 「鶴下絵和歌巻」において雲や霞はもっぱら金泥で表されていたが、この和歌巻では銀泥が主要な役割を果たすようになっている。これは夕闇を暗示するものなるべく、中間の明るく金泥のみの部分を月光と解えるならば、夕暮から夜の景と見なすとも充分可能であろう。なぜなら、有名な崗本天皇の一首「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも」(『万葉集』巻八)に象徴されるように、鹿は夕暮から夜に妻を求めて鳴くものとされていたからである。朝から夕暮までの一日の情景とみることも可能だが、私は鹿の伝統的なシンボリズムを尊重したいのだ。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jomei.html

   崗本天皇の御製歌一首
夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寝(い)ねにけらしも(万8-1511)

【通釈】夕方になると、いつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かないぞ。もう寝てしまったらしいなあ。
【語釈】◇小倉の山 不詳。奈良県桜井市あたりの山かと言う。平安期以後の歌枕小倉山(京都市右京区)とは別。雄略御製とする巻九巻頭歌では原文「小椋山」。◇寝(い)ねにけらしも 原文は「寐宿家良思母」。「寐(い)」は睡眠を意味する名詞。これに下二段動詞「寝」をつけたのが「いね」である。
【補記】「崗本天皇」は飛鳥の崗本宮に即位した天皇を意味し、舒明天皇(高市崗本天皇)・斉明天皇(後崗本天皇)いずれかを指す。万葉集巻九に小異歌が載り、題詞は「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首」すなわち雄略天皇の作とし、第三句「臥鹿之(ふすしかは)」とある。
【他出】古今和歌六帖、五代集歌枕、古来風躰抄、雲葉集、続古今集、夫木和歌抄
【参考歌】雄略天皇「万葉集」巻九
夕されば小椋の山に臥す鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも
【主な派生歌】
夕づく夜をぐらの山に鳴く鹿のこゑの内にや秋は暮るらむ(*紀貫之[古今])
鹿のねは近くすれども山田守おどろかさぬはいねにけらしも(藤原行家)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥メモ(その二)

https://japanese.hix05.com/Saigyo/saigyo3/saigyo306.miyakawa.html

「宮河歌合」(九番)

左:勝(玉津嶋海人)
 世中を思へばなべて散る花の我身をさてもいづちかもせん
右:(三輪山老翁)
 花さへに世をうき草に成りにけり散るを惜しめばさそふ山水
判詞(定家)
 右歌、心詞にあらはれて、姿もをかしう見え侍れば、山水の花の色、心もさそはれ侍れど、左歌、世中を思へばなべてといへるより終りの区の末まで、句ごとに思ひ入て、作者の心深く悩ませる所侍れば、いかにも勝侍らん。
参考:「この御判の中にとりて、九番の左の、わが身をさてもといふ歌の判の御詞に、作者の心深くなやませる所侍ればと書かれ候。かへすがへすもおもしろく候かな。なやませるといふ御詞に、よろづ皆こもりめでたく覚え候。これ新しく出でき候ぬる判の御詞にてこそ候らめ。古はいと覚え候はねば、歌の姿に似て云ひくだされたるやうに覚え候。一々に申しあげて見参に承らまほしく候ものかな」。こう書いた上で西行は、「若し命生きて候はば、必ずわざと急ぎ参り候べし」と付け加えている。西行の感激がいかに大きかったか、よく伺われるところである。

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その三) [忘れがたき風貌・画像]

その三 宗祇・宗長・肖柏

宗祇(そうぎ、1421-1502).jpg

宗祇(そうぎ、1421-1502)(早稲田大学図書館/WEB展覧会第32回)
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/shozo/14-01.jpg
≪「宗祇法師肖像」 摸本 三条西実隆賛
 連歌の大成者として名高いが、生国は近江とも紀伊ともいわれはっきりしない。仏道修行の後、30歳で連歌に志す。応仁の乱以降、古典復興の機運に乗って連歌が流行すると、古典 風雅を尊ぶ作風で第一人者となり、牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)・三条西実隆らにそれを伝えた。≫(「早稲田大学図書館」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-28

水無瀬三吟何人百韻
   長享二年(一四八八)正月二十二日

〔初折りの表〕(初表=八句)         (式目=句材分析など)
一  雪ながら山もと霞む夕べかな    宗祇  春・降物・山類(体)
二    行く水遠く梅匂う里      肖柏  春・水辺(用)・木・居所(体)
三  川風にひとむら柳春見えて     宗長  春・水辺(体)・木
四    船さす音もしるき明け方    宗祇  雑・水辺(体用外)・夜分
五  月やなほ霧渡る夜に残るらん    肖柏  秋・光物・夜分・聳物
六    霜置く野原秋は暮れけり    宗長  秋・降物
七  鳴く虫の心ともなく草枯れて    宗祇  秋・虫・草
八    垣根をとへばあらはなる道   肖柏  雑・居所(体)

〔初折りの裏〕(初裏=十四句)
九  山深き里や嵐におくるらん     宗長  雑・山類(体)・居所(体) 
一〇   馴れぬ住まひぞ寂しさも憂き  宗祇  雑
一一 いまさらに一人ある身を思ふなよ  肖柏  雑・人倫・述懐
一二   移ろはむとはかねて知らずや  宗長  雑・述懐
一三 置きわぶる露こそ花にあはれなれ  宗祇  春・降物・植物・無常
一四   まだ残る日のうち霞むかげ   肖柏  春・光物
一五 暮れぬとや鳴きつつ鳥の帰るらん  宗長  春・鳥
一六   深山を行けばわく空もなし   宗祇  雑・山類(体)・旅
一七 晴るる間も袖は時雨の旅衣     肖柏  冬・降物・衣類・旅
一八   わが草枕月ややつさむ     宗長  秋・光物・夜分・旅
一九 いたずらに明かす夜多く秋更けて  宗祇  秋・夜分・恋
二〇   夢に恨むる荻の上風      肖柏  秋・夜分・草・恋 
二一 見しはみな故郷人の跡もなし    宗長  雑・人倫 
二二   老いの行方よ何に掛からむ   宗祇  雑・述懐

〔二の折りの表〕(二表=十四句)
二三 色もなき言の葉にだにあはれ知れ  肖柏  雑・述懐
二四   それも伴なる夕暮れの空    宗祇  雑
二五 雲にけふ花散り果つる嶺こえて   宗長  春・聳物・山類(体)
二六   きけばいまはの春のかりがね  肖柏  春・鳥
二七 おぼろげの月かは人も待てしばし  宗祇  春・光物・夜分・人倫
二八   かりねの露の秋のあけぼの   宗長  秋・降物・夜分
二九 末野のなる里ははるかに霧たちて  肖柏  秋・居所(体)・聳物
三〇   吹きくる風はころもうつこゑ  宗祇  秋・衣類
三一 冱ゆる日も身は袖うすき暮ごとに  宗長  秋・人倫・衣類
三二   頼むもはかなつま木とる山   肖柏  雑・山類(体)・述懐
三三 さりともの此世のみちは尽き果てて 宗祇  雑・述懐
三四   心細しやいづち行かまし    宗長  雑
三五 命のみ待つことにするきぬぎぬに  肖柏  雑・夜分・恋
三六   猶なになれや人の恋しき    宗祇  雑・人倫・恋

〔二の折りの裏〕(二裏=十四句)
三七 君を置きてあかずも誰を思ふらむ  宗長  雑・人倫・恋
三八   その俤に似たるだになし    肖柏  雑・恋
三九 草木さへふるき都の恨みにて    宗祇  雑・植物・述懐
四〇   身の憂きやども名残こそあれ  宗長  雑・人倫・居所(体)・述懐
四一 たらちねの遠からぬ跡に慰めよ   肖柏  雑・人倫・述懐
四二   月日の末や夢にめぐらむ    宗祇  雑
四三 この岸をもろこし舟の限りにて   宗長  雑・水辺(体)・旅
四四   又むまれこぬ法を聞かばや   肖柏  雑・釈教
四五 逢ふまでと思ひの露の消えかへり  宗祇  秋・降物
四六   身をあき風も人だのめなり   宗長  秋・人倫・恋
四七 松虫のなく音かひなき蓬生に    肖柏  秋・虫・草・恋
四八   しめゆふ山は月のみぞ住む   宗祇  秋・山類(体)・光物・夜分
四九 鐘に我ただあらましの寝覚めして  宗長  雑・夜分・述懐
五〇   戴きけりな夜な夜なの霜    肖柏  冬・夜分・降物・述懐

〔三の折りの表〕(三表=十四句)
五一 冬枯れの芦たづわびて立てる江に  宗祇  冬・鳥・水辺(体)
五ニ   夕汐かぜの沖つふ舟人     肖柏  雑・水辺(体)・人倫
五三 行方なき霞やいづく果てならむ   宗長  春・聳物 
五四   来るかた見えぬ山里の春    宗祇  春・山類(体)・居所(体)
五五 茂みよりたえだえ残る花落ちて   肖柏  春・植物
五六   木の下わくる路の露けさ    宗長  秋・木
五七 秋はなど漏らぬ岩屋も時雨るらん  宗祇   秋
五八   苔の袂に月は馴れけり     肖柏  秋・光物・夜分・衣類・釈教
五九 心ある限りぞしるき世捨人     宗長  雑・人倫・釈教
六〇   をさまる浪に舟いづる見ゆ   宗祇   雑・水辺(用)・旅
六一 朝なぎの空に跡なき夜の雲     肖柏 雑・聳物
六二   雪にさやけきよもの遠山    宗長  冬・降物・山類(体)
六三 嶺の庵木の葉の後も住みあかで   宗祇  冬・山類(体)・居所(体)・木 
六四   寂しさならふ松風の声     肖柏  雑・木

〔三の折りの裏〕(三表=十四句)        
六五 誰かこの暁起きを重ねまし     宗長  雑・人倫・夜分・釈教
六六   月は知るやの旅ぞ悲しき    宗祇  秋・光物・夜分・旅
六七 露深み霜さへしほる秋の袖     肖柏  秋・降物・衣類
六八   うす花薄散らまくもをし    宗長  秋・草
六九 鶉なくかた山くれて寒き日に    宗祇  秋・鳥・山類(体)
七〇   野となる里もわびつつぞ住む  肖柏  雑・居所(体)・述懐
七一 帰り来ば待ちし思ひを人や見ん   宗長  雑・人倫・恋
七二   疎きも誰が心なるべき     宗祇  雑・人倫・恋
七三 昔より唯あやにくの恋の道     肖柏  雑・恋
七四   忘れがたき世さへ恨めし    宗長  雑・恋
七五 山がつになど春秋の知らるらん   宗祇  雑・人倫
七六   植ゑぬ草葉のしげき柴の戸   肖柏  雑・草・居所(体)
七七 かたはらに垣ほの荒田かへし捨て  宗長  春・居所(体)
七八   行く人霞む雨の暮れ方     宗祇  春・人倫・降物

〔名残りの表〕(名表=十四句)
七九 宿りせむ野を鴬やいとふらむ    宗長  春・鳥
八〇   小夜もしづかに桜さく蔭    肖柏  春・夜分・鳥
八一 灯火をそむくる花に明けそめて   宗祇  春・夜分・植物
八二   誰が手枕に夢は見えけん    宗長  春・人倫・恋
八三 契りはや思ひ絶えつつ年も経ぬ   肖柏  雑・恋
八四   いまはのよはひ山も尋ねじ   宗祇  雑・山類(体)・述懐
八五 隠す身を人は亡きにもなしつらん  宗長  雑・人倫・述懐
八六   さても憂き世に掛かる玉のを  肖柏  雑・述懐
八七 松の葉をただ朝夕のけぶりにて   宗祇  雑・木・聳物
八八   浦わの里はいかに住むらん   宗長  雑・水辺(体)・居所(体)
八九 秋風の荒磯まくら臥しわびぬ    肖柏  秋・水辺(体)・旅
九〇   雁なく山の月ふ更くる空    宗祇  秋・鳥・山類(体)・光物・夜分
九一 小萩原うつろふ露も明日や見む   宗長  秋・草・降物
九二   阿太の大野を心なる人     肖柏  雑・人倫

〔名残りの裏〕(名裏=八句)
九三 忘るなよ限りや変る夢うつつ    宗祇  雑・述懐
九四   思へばいつを古にせむ     宗長  雑・述懐
九五 仏たち隠れては又いづる世に    肖柏  雑・釈教
九六   枯れし林も春風ぞ吹く     宗祇  春・植物・釈教
九七 山はけさ幾霜夜にか霞むらん    宗長  春・山類・降物
九八   けぶりのどかに見ゆる仮庵   肖柏  春・聳物・居所(体)
九九 卑しきも身をを修むるは有つべし  宗祇  雑・人倫
一〇〇  人をおしなべ道ぞ正しき    宗長  雑・人倫

(補注)

一 宗祇=三十四句、時に六十八歳。肖柏=四十六歳。宗長=三十三句、時に四十一歳。 

二 宗祇の発句「雪ながら山もと霞む夕べかな」は、後鳥羽院の「見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ」(『新古今集』春上)を踏まえている(後鳥羽院二五〇回忌に詠まれた後鳥羽院の鎮魂の奉納連歌とも解せられている)。

三 「連歌式目」(「式目・句材分析)の要点など

句数=続けてもよい句の数、または続けなければいけない句の数。→連続の制限
去嫌=同じ季や類似の事柄が重ならないように一定の間隔を設けた句の数。→間隔の制限

句材の分類(句材と去嫌・句数など)

(一) 季(春・夏・秋・冬)
春秋    同季五句去り、句数三句から五句まで。
夏冬    同季二句去り、句数一句から三句まで。

(二の一)事物一(句意全体に関わりのあるもの) 

恋(妹背など) 三句去り、句数二句から五句まで。
旅(草枕など) 二句去り、句数一句から三句まで。
神祇(斎垣など)・釈教(寺など) 二句去り、句数一句から三句まで。
述懐(昔など)・無常(鳥辺野など)三句去り、句数一句から三句まで。

(二の二)事物二(句意全体には関わりを持たないもの)

山類(峯など)・水辺(海など) 三句去り、句数一句から三句まで。
居所(里・庵など) 三句去り、句数一句から三句まで。異居所は打越を嫌わない。
降物(雨など)・聳物(雲など) 二句去り、句数一句から二句まで。
人倫(誰など) 原則二句去り、句数は自由。打越を嫌わない。
光物(日など)・夜分(暁など) 二句去り、句数一句から三句まで。打越を嫌わない。
植物(木類・草類) 二句去り、句数一句から二句まで。木と草は打越を嫌わない。
動物(虫・鳥など)二句去り、句数一句から二句まで。異生類は打越を嫌わない。    
衣類(衣・袖など)二句去り、句数一句から二句まで。
国名・名所(音羽山など) 二句去り、句数一句から二句まで。
※「山類・水辺・居所」については、「体」(固定的なもの=峯など)と「用」(可動的なもの=滝など)と「体用の外(例外規定=富士・浅間など)の特殊な区分がある。
※※連歌(百韻)では、各折りに「花」の句、表(面)には「月」の句を詠み、「四花八月」の決まりがある。
※※※連歌の「可隔何句物(なんくをへだつべきもの)」は、上記の「去嫌(さりきらい)」と同じ意である。

(三)一座何句物(何回以上用いてはいけないもの) → 重複の制限

一座一句物 「鶯」「鈴虫」「龍」「鬼」など「月・花(定座)」に匹敵する句材
一座二句物 「旅」「命」「老」「雁」「鶴」など「一句物」に次ぐ句材
一座三句物 「桜」「藤」「紅葉」「鹿」「都」などの「二句物」に次ぐ句材
一座四句物 「空」「天」「在明」「雪」「氷」などの「三句物」に次ぐ句材
一座五句物 「世」「梅」「橋」などの「四句物」に次ぐ句材
『源氏物語』を本説とする句は「一座三句物」と同じ。
「感動の助詞」の「かな」は、「発句」の「かな」だけ。

(その他)
(一)「たとへば歌仙は三十六歩也。一歩も後に帰る心なし」(三冊子)→俳諧はすべて前に進む事をもって一巻を成就する。同じ場所や状況に停滞したり、後へ戻ったりすることは許されない。ために類似した詞や縁の深い物が続いたり、近づいたりすることを嫌う。それを避けるために生まれたのが句数と去嫌である。
(二)「差合の事は時宜にもよるべし。まづは大かたにして宜し」(三冊子)→蕉門では外的な形式よりも、内的な余情や匂いを重んじる故に、式目上の句数や去嫌については、季、花、月を除いては余りこだわってはいない。     
四 上記のことを念頭において、この「水無瀬三吟」の百句をじっくりと見ていくと、まさしく、この「水無瀬三吟」は、「連歌」「俳諧(連句)」の、最も枢要なことを教示してくれる聖典(バイブル)のような思いがしてくる。

(参考) 水無瀬三吟 → 『日本詩人選一六 宗祇(小西甚一著)』など

宗長.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「四 柴屋宗長」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1508

肖柏.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二二 肖柏」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1491

(歌合)

歌人(左方四) 柴屋宗長
歌題 春祝言
和歌 青柳のなびくを人のこゝろにて みちある御代のはるぞのどけき
歌人概要  室町中期~戦国期の連歌師

歌人(右方二二) 肖柏
歌題 月前述懐
和歌 おもふらし桜かざししみや人の かつらををらぬ月のうらみは
歌人概要  室町中期~戦国期の歌人・連歌師(公家出身)

(歌人周辺)

宗長(そうちょう) 生年:文安5(1448) 没年:天文1.3.6(1532.4.11)

 室町時代の連歌師。初名,宗歓,号,柴屋軒。駿河国(静岡県)島田の鍛冶,五条義助の子。若くから守護今川義忠に仕えたが,文明8(1476)年義忠戦没後離郷。京都に出て一休宗純に参禅,また飯尾宗祇に連歌を学んだ。宗祇の越後や筑紫への旅行に随伴し,『水無瀬三吟』『湯山三吟』をはじめ多くの連歌に加わった。明応5(1496)年49歳のころ駿河に帰り,今川氏親の庇護を受けるようになり,以後今川氏のために連歌や古典を指導,ときには講和の使者に立つなど政治的な面にも関与した。駿河帰住後も京駿間を中心に頻繁に旅を重ねたが,その見聞を記した『宗長手記』は,戦乱の世相,地方武士の動静,また自身の俳諧や小歌に興じる洒脱な生活などが活写されており興味深い。ほかに句集『壁草』『那智籠』,連歌論に『永文』『三河下り』などがある。(沢井耐三稿・出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について)

肖柏(しょうはく) 生年:嘉吉3(1443)  没年:大永7.4.4(1527.5.4)

 室町時代の連歌師。号は夢庵,弄花老人。初めは肖柏と名乗るが,永正7(1510)年に牡丹花(読みは「ぼたんげ」とも)と改名。中院通淳 の子であったが若くして遁世し,摂津国池田に庵を結び,晩年は堺に住んだ。連歌を飯尾宗祇に学び,宗祇やその弟子宗長 と共に『水無瀬三吟百韻』『湯山三吟百韻』などのすぐれた連歌作品を残した。また宗祇,猪苗代兼載の『新撰菟玖波集』選集作業を助け,『連歌新式』を改訂増補するなどその学識で連歌界に重きをなし,古今伝授(『古今和歌集』の和歌の解釈などの学説を授けること)を堺の人々に伝えてもいる。花と香と酒を愛し(『三愛記』),風流華麗な生活をし,句風もまた艶麗であった。
(伊藤伸江稿・出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について)

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その二) [忘れがたき風貌・画像]

その二 芭蕉・蕪村・抱一・利休・宗祇

蕪村像.jpg
「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-06-23


(再掲)

 上記の「窓辺の蕪村(像)」の軸物は、上段が蕪村の書簡で、その書簡の下に、月渓(呉春)が「窓辺の宗匠頭巾の人物」を描いて、それを合作の軸物仕立てにしたものである。  
 この下段の月渓(呉春)の画の左下に、「なかばやぶれたれども夜半翁消そこ(消息=せうそこ)うたがひなし。むかしがほなるひとを写して真蹟の証とする 月渓 印 印 」と、月渓(呉春)の証文が記されている。

 上段の蕪村の書簡(天明元年か二年十月十三日、無宛名)は、次のとおりである。

   早速相達申度候(さっそくあひたっしまうしたくさうらふ)
 昨十二日は、湖柳会主にて洛東ばせを(芭蕉)菴にてはいかい(俳諧)有之候。扨
 もばせを庵山中の事故(ゆゑ)、百年も経(ふ)りたるごとく寂(さ)びまさり、殊勝な
 る事に候。どふ(う)ぞ御上京、御らん(覧)可被成(なさるべく)候。
  其日(そのひ)の句
 窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉
  探題
  初雪 納豆汁 びわ(は)の花
 雪やけさ(今朝)小野の里人腰かけよ
  納豆、びは(枇杷)はわすれ(忘れ)候
 明日は真如堂丹楓(紅葉したカエデ)、佳棠、金篁など同携いたし候。又いかなる催(も
 よほし)二(に)や、無覚束(おぼつかなく)候。金篁只今にて平九が一旦那と相見え
 候。平九も甚(はなはだ)よろこび申(まうす)事に候。平九も毎々貴子をなつかしが
 り申候。いとま(暇)もあらば、ちよと立帰りニ(に)御安否御尋(たづね)申度(ま
 うしたく)候。しほらしき男にて。かしく かしく かしく

 この蕪村書簡に出てくる「湖柳・佳棠・金篁・平九」は蕪村門あるいは蕪村と親しい俳人達である。また、この書簡の冒頭の「昨十二日は」の「十二日」は、芭蕉の命日の、「十月(陰暦)十二日」を指しており、この芭蕉の命日は、「芭蕉忌・時雨忌・翁忌・桃青忌」と呼ばれ、俳諧興行では神聖なる初冬の季題(季語)となっている。

 この書簡は、蕪村の「窓の人のむかしがほなる時雨哉」を発句として、「はいかい(俳諧)有之候」と歌仙が巻かれたのであろう。この発句の「むかしがほ(昔顔)」は、当然のことながら、俳聖芭蕉その人の面影を宿しているということになる。

 世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨 二条院讃岐 『新古今・冬』
 世にふるもさらに時雨のやどり哉           宗祇     連歌発句
 世にふるもさらに宗祇のやどり哉           芭蕉    『虚栗』

 この芭蕉の句は、天和三年(一六八三)、三十九歳の時のものである。この芭蕉の句には、宗祇の句の「時雨」が抜け落ちている。この談林俳諧の技法の「抜け」が、この句の俳諧化である。その換骨奪胎の知的操作の中に、新古今以来の「時雨の宿りの無常観」を詠出している。

 旅人と我が名呼ばれん初時雨   芭蕉 『笈の小文』

 貞享四年(一六八七)、芭蕉、四十四歳の句である。「笈の小文」の出立吟。時雨に濡れるとは詩的伝統の洗礼を受けることであり、そして、それは漂泊の詩人の系譜に自らを繋ぎとめる所作以外の何ものでもない。

 初時雨猿も小蓑を欲しげなり   芭蕉 『猿蓑』

 元禄二年(一六八九)、芭蕉、四十六歳の句。「蕉風の古今集」と称せられる、俳諧七部集の第五集『猿蓑』の巻頭の句である。この句を筆頭に、その『猿蓑』巻一の「冬」は十三句の蕉門の面々の句が続く。まさに、「猿蓑は新風の始め、時雨はこの集の眉目(美目)」なのである(『去来抄』)。

 芭蕉の「時雨」の発句は、生涯に十八句と決して多いものでないが、その殆どが芭蕉のエポック的な句であり、それが故に、「時雨忌」は「芭蕉忌」の別称の位置を占めることになる。

 楠の根を静(しづか)にぬらすしぐれ哉     蕪村 (明和五年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや蓑買(かふ)人のまことより 蕪村 (明和七年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや我も古人の夜に似たる    蕪村 (安永二年・『蕪村句集』)
 老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな   蕪村 (安永三年・大魯宛て書簡)
 半江(はんこう)の斜日片雲の時雨哉      蕪村 (天明二年・青似宛て書簡)

 蕪村の「時雨」の句は、六十七句が『蕪村全集一 発句』に収載されている。そして、それらの句の多くは、芭蕉の句に由来するものと解して差し支えなかろう。
 蕪村は、典型的な芭蕉崇拝者であり、安永三年(一七七四)八月に執筆した『芭蕉翁付合集』(序)で、「三日翁(芭蕉)の句を唱(とな)へざれば、口むばら(茨)を生ずべし」と、そのひたむきな芭蕉崇拝の念を記している。
 この蕪村の芭蕉崇拝の念は、安永五年(一七七六)、蕪村、六十一歳の時に、洛東金福寺内に芭蕉庵の再興という形で結実して来る。
 この冒頭の「「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)ですると、上段の『蕪村の書簡』の「窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉」の「昔顔」は芭蕉の面影なのだが、下段の月渓(呉春)が描く「窓の人」は、芭蕉を偲んでいる蕪村その人なのである。
 そして、その「芭蕉を偲んでいる蕪村」は窓辺にあって、外を眺めている。その眺めているのは、「時雨」なのである。この「時雨」を、芭蕉の無季の句の「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」の「抜け」(省略する・書かない・描かない)としているところに、「芭蕉→蕪村→月渓(呉春)」の、「漂泊の詩人」の系譜に連なる詩的伝統が息づいているのである。
 蕪村の俳画の大作にして傑作画は、「画・俳・書」の三位一体を見事に結実した『奥の細道屏風図』(「山形県立美術館」蔵など)・『奥の細道画巻』(「京都国立博物館」蔵など)を今に目にすることが出来るが、その蕪村俳画の伝統は、下記の「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)で、その一端を見ることが出来る。

幻住庵記.jpg

「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)=(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-08-11

(再掲)

酒井抱一の「綺麗さび」の世界(一)→ その一 風神雷神図扇(抱一筆)

風神雷神図扇.jpg

酒井抱一画「風神雷神図扇」紙本着色 各縦三四・〇cm 横五一・〇cm
(太田美術館蔵)
【 光琳画をもとにして扇に風神雷神を描いた。画面は雲の一部濃い墨を置く以外に、淡い線描で二神の体を形作り、浅い色調で爽快に表現されている。風神がのる雲は、疾走感をもたらすように筆はらって墨の処理がなされている。ここには重苦しく重厚な光琳の鬼神の姿はない。涼をもたらす道具としてこれほどふさわしい画題はないだろう。  】
(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社刊)』所収「作品解説(松嶋正人稿)」)

 この作品解説の、「ここには重苦しく重厚な光琳の鬼神の姿はない。涼をもたらす道具としてこれほどふさわしい画題はないだろう」というのは、抱一の「綺麗さび」の世界を探索する上での、一つの貴重な道標となろう。
 ここで、「綺麗さび」ということについては、下記のアドレスの「Japan Knowledge ことばjapan! 2015年11月21日 (土) きれいさび」を基本に据えたい。

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231

 そこでは、「『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、『華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう』としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。『きれいさび』と『ひめさび』という用語を関連づけたうえで、その意味を、『茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ』と説明している」を紹介している。

 ここからすると、「俳諧と美術」の世界よりも、「茶道・建築作庭(小堀遠州流)」の世界で、やや馴染みが薄い世界(用語)なのかも知れない。しかし、上記の抱一筆の「風神雷神図扇」ほど、この「綺麗さび」(小堀遠州流)から(酒井抱一流)」の、「綺麗さび」への「俳諧そして美術」との接点を示す、その象徴的な作品と見立てて、そのトップを飾るに相応しいものはなかろう。
 その理由などは概略次のとおりである。

一 「綺麗さび」というのは、例えば、何も描かれていない白紙の扇子よりも、「涼をもたらす道具」としての「扇子」に、「風神雷神図」を描いたら、そこに、白紙のときよりも、さらに、涼感が増すのではなかろうかという、極めて、人間の本性に根ざした、実用的な欲求から芽生えてくるものであろう。

二 そして、この「扇子」に限定すると、そこに装飾性を施して瀟洒な「扇面画」の世界を創出したのが宗達であり、その宗達の「扇面画」から更に華麗な「団扇画」という新生面を切り拓いて行ったのが光琳ということになる。この二人は、当時の京都の町衆の出身(「俵屋」=宗達、「雁金屋」=光琳)で、それは共に宮廷(公家)文化に根ざす「雅び(宮び)」の世界のものということになる。

三 この京都の「雅(みや)び」の町衆文化(雅=「不易」の美)に対し、江戸の武家文化に根ざす「俚(さと)び」の町人文化(俗=「流行」の美)は、大都市江戸の「吉原文化」と結びつき、京都の「雅び」の文化を圧倒することとなる。

四 これらを、近世(江戸時代初期=十七世紀、中期=十八世紀、後期=十九世紀)の三区分で大雑把に括ると、「宗達(江戸時代初期)→光琳(同中期)→抱一(同後期)」ということになる。

五 これを、「芭蕉→其角→抱一」という俳諧史の流れですると、「芭蕉・其角・蕪村(江戸時代中期)=光琳・乾山」→「抱一・一茶(同後期)=抱一・其一」という図式化になる。

六 ここに、「千利休(「利休」流)→古田織部(「織部」流」)→小堀遠州(遠州流))」の茶人の流れを加味すると、「利休・織部」(桃山時代=十六世紀)、遠州(江戸時代前期=十七世紀)となり、この織部門に、遠州と本阿弥光悦(光悦・宗達→光琳・乾山)が居り、光悦(町衆茶)と遠州(武家茶)の「遠州・光悦(江戸時代前期)」が加味されることになる。

七 そして、茶人「利休・織部・遠州・光悦」を紹介しながら、「日常生活の中にアート(作法=芸術)がある」(生活の『芸術化』)を唱えたのが、日本絵画の「近世」(江戸時代)から「近代」(明治時代)へと転回させた岡倉天心の『茶の本』(ボストン美術館での講演本)である。

八 ここで、振り出しに戻って、冒頭に掲出した「風神雷神図扇(抱一筆)」は、岡倉天心の『茶の本』に出てくる「日常生活の中にアート(作法=芸術)がある」(生活の『芸術化』)を物語る格好な一つの見本となり得るものであろう。

九 と同時に、ここに、「光悦・宗達→光琳・乾山→抱一・其一」の「琳派の流れ」、更に、「西行・宗祇・(利休)→芭蕉・其角・巴人→蕪村・抱一」の「連歌・俳諧の流れ」、そして、「利休→織部→遠州・光悦→宗達・光琳・乾山・不昧・宗雅(抱一の兄)・抱一→岡倉天心」の「茶道・茶人の流れ」の、その一端を語るものはなかろう。

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231

【「Japan Knowledge ことばJapan! 2015年11月21日 (土) きれいさび」(全文)

「きれい(綺麗)さび」とは、江戸初期の武家で、遠州流茶道の開祖である小堀遠州が形づくった、美的概念を示すことばである。小堀遠州は、日本の茶道の大成者である千利休の死後、利休の弟子として名人になった古田織部(おりべ)に師事した。そして、利休と織部のそれぞれの流儀を取捨選択しながら、自分らしい「遠州ごのみ=きれいさび」をつくりだしていった。今日において「きれいさび」は、遠州流茶道の神髄を表す名称になっている。

 では、「きれいさび」とはどのような美なのだろう。『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、「華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう」としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。「きれいさび」と「ひめさび」という用語を関連づけたうえで、その意味を、「茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ」と説明している。

 「さび」ということばは「わび(侘び)」とともに、日本で生まれた和語である。「寂しい」の意味に象徴されるように、本来は、なにかが足りないという意味を含んでいる。それが日本の古い文学の世界において、不完全な状態に価値を見いだそうとする美意識へと変化した。そして、このことばは茶の湯というかたちをとり、「わび茶」として完成されたのである。小堀遠州の求めた「きれいさび」の世界は、織部の「わび」よりも、明るく研ぎ澄まされた感じのする、落ち着いた美しさであり、現代人にとっても理解しやすいものではないだろうか。

 このことば、驚くことに大正期以降に「遠州ごのみ」の代わりとして使われるようになった、比較的新しいことばである。一般に知られるようになるには、大正から昭和にかけたモダニズム全盛期に活躍した、そうそうたる顔ぶれの芸術家が筆をふるったという。茶室設計の第一人者・江守奈比古(えもり・なひこ)や茶道・華道研究家の西堀一三(いちぞう)、建築史家の藤島亥治郎(がいじろう)、作庭家の重森三玲(しげもり・みれい)などが尽力し、小堀遠州の世界を表すことばとなったのである。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-21

宗祇.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「一九 宗祇」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1488
歌人(右方一九)宗祇
歌題 関月
和歌 清見がたまだ明けやらぬ関の戸を 誰がゆるせばか月のこゆらん
歌人概要  室町中期~戦国期の歌人・連歌作者

(再掲)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sougi.html

宗祇(そうぎ) 応永二十八~文亀二(1421-1502) 別号:自然斎・種玉庵・見外斎

 出自未詳。姓は飯尾(いのお/いいお)とされ(一説に母の筋)、父は猿楽師であったとの伝がある。生国は紀伊と伝わるが、近年、近江説も提出された。
 前半生の事蹟はほとんど不明。一時京都五山の一つ相国寺で修行し、三十余歳にして連歌の道に進んだらしい。宗砌(そうぜい)・専順・心敬らに師事し、寛正六年(1465)頃から連歌界に頭角を表わす。文明三年(1471)、東常縁より古今聞書の証明を授かる(「古今伝授」の初例とされる)。同四年には奈良で一条兼良の連歌会に参席し、同八年(1476)には足利幕府恒例の連歌初めに参席するなど、連歌師として確乎たる地歩を占めた。
 同年、宗砌・専順・心敬らの句を集めて『竹林抄』を編集する。同十九年(1487)四月、三条西実隆に古今集を伝授する。長享二年(1488)正月二十二日、肖柏・宗長と『水無瀬三吟百韻』を巻く。同年三月には足利義尚の命により北野連歌会所奉行に就く栄誉を得たが、翌年の延徳元年(1489)にはこの任を辞した。明応二年(1493)、兼載と共に准勅撰連歌集『新撰菟玖波集』を撰進、有心連歌を大成した。
 この間、連歌指導・古典講釈のため全国各地を歴遊し、地方への文化普及に果たした役割も注目される。文亀二年(1502)七月三十日、箱根湯本の旅宿で客死。八十二歳。桃園(静岡県裾野市)の定輪寺に葬られた。
 飛鳥井雅親・一条兼良・三条西実隆らと親交。弟子には肖柏・宗長・宗碩・大内政弘ほかがいる。著書には上記のほかに源氏物語研究書『種玉編次抄』、歌学書『古今和歌集両度聞書』『百人一首抄』、連歌学書『老のすさみ』『吾妻問答』、紀行『筑紫道記』などがある。家集には延徳三年(1491)以後の自撰と推測される『宗祇法師集』があり、自撰句集には『萱草(わすれぐさ)』『老葉(わくらば)』『下草』『宇良葉(うらば)』がある。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その一) [忘れがたき風貌・画像]

その一 松尾芭蕉

松尾芭蕉像.jpg

「松尾芭蕉(まつおばしょう、1644-94)」(早稲田大学図書館/WEB展覧会第32回)
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/shozo/index2.html
≪「松尾芭蕉肖像」 小川破笠画  1軸 
俳聖と呼ばれる芭蕉の肖像画はいくつかあるが、この肖像を描いたのは、漆細工師小川破笠(はりつ、1663-1747)。伊勢に生まれ、のち江戸に出て芭蕉に俳諧を学んだ。生前の芭蕉を知る人の描いた貴重な伝記資料である。≫(「早稲田大学図書館」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-07-25

(その一) 蕪村が描いた芭蕉翁像

 さまざまな俳人あるいは画人が芭蕉像を描いている。代表的なものは、芭蕉と面識のある門人の杉山杉風と森川許六、面識はないが芭蕉門に連なる彭城百川(各務支考門)、そして、画俳二道を究めた与謝蕪村(宝井其角・早野巴人門)などの作が上げられる。

 杉風の描いた芭蕉像は、①端座の像(褥に端座・左向き) ②脇息の像(左向き) ③火桶にあたる像(左向き) ④竹をえがく像(左向き) ⑤馬上の像(笠をかぶり右方へ進行)などで、この①のものは「すべての芭蕉像の基盤」になっており、杉風筆像は、温雅で「おもながのおだやかな面相である」と評されている(『岡田利兵衛著作集1芭蕉の書と画』所収「画かれた芭蕉」)。

 蕪村の描いた芭蕉像は、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』には十一点が収録されている。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九9作。金福寺蔵)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)

 しかし、これらは、いわゆる「画賛形式」(画と賛が一体となっている条幅・色紙等)のもののうち、芭蕉単身像の条幅もので(上記の十一点のうち、⑦は一幅半切(紙本墨画)で、他は長さに異同はあるが一幅もので、①②⑤⑥は絹本淡彩、③と⑩は紙本淡彩、④は紙本墨画である。
 これらの芭蕉単身像では無帽のものはなく、宗匠頭巾のようなものを被っているが、それぞれ制作時に関係するのか、それぞれに特徴がある。上記の①②は、円筒型(丸頭巾型)の白帽子、③④⑥が長方形型(角頭巾型)の白帽子、⑤は長方形型(角頭巾型)の黒帽子、⑥は長方形型(角頭巾型)の黒(薄墨)帽子の感じのものである。

 これらの芭蕉単身像のものではなく、「俳仙群会図」などの芭蕉像を加えると次のとおりとなる。

⑫ 座像(「俳仙群会図」=十四俳仙図、絹本着色、款「朝滄」、上・中・下の三段に刷り込んだ一幅。上段に「此俳仙群会の図ハ元文のむかし余弱冠の時写したるもの」とあり、元文元年(一七三五)から同五年(一七四〇)の頃の作とされているが、「その落款・印章によれば、やはりこの丹後時代の作」(『続芭蕉・蕪村(尾形仂著)』)と、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)の頃の作ともいわれている。とにもかくにも、蕪村最古の芭蕉像、無帽で右向き、蕪村の師の早野巴人が、芭蕉の左側の園女の次に宗匠頭巾を被り左向きで描かれている。柿衛文庫蔵)
⑬ 座像(「八俳仙」画賛、淡彩、一幅。宗匠頭巾、笠を持ち正面像。「物云へは唇寒し秋の風」。印は「長庚」「春星」。『山王荘蔵品展覧図録』)
⑭ 座像(「十一俳仙」)画賛、紙本墨画、一幅。宗匠頭巾、笠・頭陀袋の正面像。「名月や池をめくりて終夜」。印は「三菓居士」。個人蔵)
⑮ 座像(版本『其雪影』挿図、明和九年(一七七二)刊、宗匠頭巾、正面像。「古いけや蛙とひ込水の音」。)
⑯ 座像(版本『時鳥』挿図、安永二年(一七七三刊)、宗匠頭巾、正面像。「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」。)
⑰ 七分身像(版本『安永三年(一七四四)春帖)』挿図、宗匠頭巾、杖、頭陀袋、笠、正面像。)

 さらに、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、京都国立博物館蔵)、「奥の細道」屏風(安永八年=一七七九)作、山形美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永八年=一七七九作、逸翁美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、「蕪村遺芳」)、「野ざらし紀行」屏風(安永七年=一七七八作、個人蔵)などに、それぞれ特徴のある芭蕉像が描かれている。

 上記のうちで、唯一、百川筆「芭蕉翁像」と類似しているのは、「⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)」である。

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の作品解説は次のとおりである。

104 「芭蕉像」画賛  一幅  一二二・一×四〇・九cm
款 「応湖南松写庵巨州需 蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛 「はつしぐれ猿も小みのをほしけ也 はせを」(色紙貼付)
『大阪市青木嵩山堂入札』(昭和四・三)

蕪村・芭蕉像一.jpg


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-07-26

その二 蕪村と百川、そして、蕪村渇望の百川筆「芭蕉翁像」

 蕪村は、宝暦元年(一七五一)、三十六歳のときに、関東遊歴の生活を打ち切って、生まれ故郷とされている摂津(大阪市毛馬)ではなく、その隣の京都に移住して来る。以後、丹後時代と讃岐時代の数年間を除いて、死没(天明三年=一七八三=六十八歳)までの約三十年間を京都で過ごすことになる。
 この京都に移住してからの讃岐時代というのは、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)九月頃までの足掛け四年間の頃を指す(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。この丹後時代の蕪村についての百川に関する書簡が今に遺されている(『蕪村の手紙(村松友次著)』)。

[ 被仰候八僊観の翁像(オオセラレソウロウ ハッセンカンノオキナゾウ)
 少之内御見せ可被下候(スコシノウチ オミセクダサルベクソウロウ)
 其儘わすれ候得共(ソノママ ワスレソウラヘドモ)
 御払可被成思召候もの(オハライナサルベク オボシメサレソウロウモノ)
 此のものへ御見せ可被下候(コノモノヘ オミセクダサルベクソウロウ)
 他見は不仕候(タケンハ ツカマツラズソウロウ)
 おりしも吐出候発句に(オリシモハキイダシソウロウ ホックニ)
  萩の月うすきはものゝあわ(は)れなる
某(一字破損)屋嘉右衛門 様        蕪村               ]

 この八僊観こと彭城百川の描いた芭蕉像を「少しの間見せてください」と渇望した、その幻の百川筆「芭蕉像」の真蹟が、蕪村が滞在していた丹後の宮津(京都府宮津市)で、蕪村生誕三百年(平成二十八年=二〇一六)の今に引き継がれて現存している(『宮津市史通史編下巻』所収「彭城百川の芭蕉像と宮津俳壇(横谷賢一郎稿)」)。

 この経過をたどると、平成六年(一九九四)に京都府立丹後郷土資料館で特別展「与謝蕪村と丹後」が開催され、それが契機となって、宮津市在住の方から百川筆「芭蕉像」の調査依頼があり、佐々木承平京大教授らによって真筆と鑑定されたとのことである(『蕪村全集第六巻』所収「月報六・平成十年三月」)。
 これらに関して、平成九年(一九九七・九・七「朝日新聞」)に下記のような「芭蕉『幻の肖像』発見」の記事で紹介されているようである(未見)。

[ 江戸期の南画(文人画)の創始者の一人、彭城百川(さかき・ひゃくせん)(1698-1753)が描いた松尾芭蕉の肖像画の掛け軸が京都府宮津市の俳壇指導者宅に保存されていたことがわかった。この絵は、与謝蕪村(1716-1783)が「ぜひ見たい」と懇願した手紙だけが後世に伝わり、絵そのものは所在がわかっていなかった。
 掛け軸は、芭蕉の座像が水墨画で描かれ、「ものいへは 唇寒し 秋の風」の芭蕉の代表句が書き込まれている。佐々木丞平・京大教授(美術史)らが百川の真筆と鑑定した。
 百川は名古屋に生まれ、京都を拠点に活躍した。延享4年(1747年)に天橋立を詠んだ句と絵「俳画押絵貼屏風(おしえはりびようぶ)」(名古屋市立博物館蔵)があり、今度見つかったものも同時期に丹後に滞在中、描いたらしい。
 蕪村は、宝暦4年(1754年)春から3年余り宮津に滞在した間にこの掛け軸を見ることができたとみられるが、はっきりしていない。
 肖像画は宮津俳壇の宗匠(指導者)に約250年間、引き継がれてきたらしい。芭蕉の流れをくむ宗匠で同市内のはきもの商、撫松堂水波(ぶしようどう・すいは、本名・花谷光次)さん(1993年死去)の遺族から、京都府立丹後郷土資料館に問い合わせがあって存在が分かった。 ]

 この蕪村が渇望した百川筆「芭蕉翁像」が、平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」で初公開された。
 その図録に、「七〇 参考 芭蕉翁像 彭城百川筆 紙本墨画 一幅 八五・一×二五・一」と収載されている。その「作品解説」(京都府立丹後郷土資料館 伊藤太稿)は次のとおりである。

[ 賛  人の短をいふことなかれ
     己か長を説(とく)事なかれ
  ものいへは(ば)
      唇寒し
        秋の風
 款記  芭蕉翁肖像 倣杉風図  八僊真人写
 印章  「八僊逸人」(白文方印) 「字余白百川」(手文方印)

 彭(さか)城(き)百川(ひゃくせん)(一六九八~一七五二)は、名古屋に生まれ、後に京都を拠点として活躍した日本南画の創始者の一人と目される画家である。はじめ俳諧の道に入って各務支考の門にあり、俳画にも数々の傑作を残し、俳書をも手がけたその画俳両道にわたる活躍は、まさしく蕪村のプトロタイプと言えよう。蕪村が、この百川に私淑していたことは、「天(てん)橋図(きょうず)賛(さん)」はじめ丹後時代以降のいくつかの作品中に明記されており、注目されてきた。しかしながら、従来は、丹後における百川の実作が未確認のままで、両者の関係を具体的に跡づけることはできなかった。ところが最近になって、二点のきわめて興味深い作品の存在が明らかになった。一つは「天(あまの)橋立図(はしだてず)」を含む延享四年(一七四七)作の「十二ヶ月俳画押絵貼屏風」(名古屋市立博物館)であり、もう一つは初公開の本図である。本図は、宮津俳壇の守り本尊として代々の宗匠に伝えられてきたのであるが、添付された代々の譲状の写しは、百川が当地に来遊の折、真照寺で描いたという鷺(ろ)十(じゅう)の文に始まる。「三俳僧図」に描かれた鷺十は蕪村とともに歌仙を巻き、「天橋図賛」は真照寺で書されたことを想起したい。現在所在不明であるが、蕪村が本図を見せてほしいと懇望する某屋嘉右衛門宛ての書簡の存在も知られている。なお、本図と同じ構図の芭蕉翁像(名古屋市博「百川」展図録⑱)は延享三年の作と明記され、百川の来丹がその前後であることも確実となった(注=原文に「ルビ」「濁点」を付した)。  ]

幻の芭蕉像.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-07-27

その三 百川周辺と百川が描いた芭蕉像 → 略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-07-30

その四 若冲周辺と若冲の「松尾芭蕉図」 → 一部抜粋

2015年3月18日(水)~5月10日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が開催された。その出品作の一つに、若冲の「松尾芭蕉図」がある。その図と解説記事などを掲載して置きたい。

「102 松尾芭蕉図」(石田佳也「作品解説」)
伊藤若冲筆 三宅嘯山賛 紙本墨画 一幅 江戸時代 寛政十二年(一八〇〇)筆 寛政十一年(一七九九)賛 一〇九・〇×二八・〇
 若冲が描いた芭蕉像の上方に、三宅嘯山(一七一八~一八〇一)が、芭蕉の発句二句を書く。三宅嘯山は漢詩文に長じた儒学者であったが、俳人としても活躍し宝暦初年には京都で活躍していた蕪村とも交流を重ねた。彼の和漢にわたる教養は、蕪村らが推進する蕉風復興運動に影響を与え、京都俳壇革新の先駆者の一人として位置づけられている。
 なお、嘯山の賛は八十二歳の時、寛政十一年(一七九九)にあたるが、一方、若冲の署名は、芭蕉の背中側に「米斗翁八十五歳画」とあり「藤汝鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文円印)を捺す。この署名通りに、若冲八十五歳、寛政十二年(一八〇〇)の作とみなせば、「蒲庵浄英像」(作品166)と同様に、嘯山が先に賛を記し、その後に若冲が芭蕉像を描き添えたことになる。しかし改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳、寛政十年に描かれたことになり、若冲の落款を考察する上では重要な作例となっている。
  「爽吾」(白文長方印)    芭蕉
    春もやゝけしき調ふ月と梅
    初時雨猿も小蓑をほしけなり
                八十二叟
                 嘯山書
  「芳隆之印」(朱文方印) 「之元」(白文円印)

若冲・芭蕉像3.jpg
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-01

その五 呉春(月渓)の描いた芭蕉像(四画像) → 一部抜粋

『呉春(財団法人逸翁美術館)』には、四点ほど「芭蕉像」が紹介されている。

52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22
(賛) 禅法ハ仏頂和尚に 参して三国相承 験記につらなり 風雅は西行上人を 
   慕うて続扶桑隠逸 伝に載せぬ
蝶夢阿弥陀仏謹書
(解説) 呉春が芭蕉翁の正面像をクローズアップしてえがき、その上に蝶夢法師が上の賛を記している。呉春は筆意謹厳でしたため、翁の容貌はいつも彼がえがく翁の顔である。蝶夢は僧侶であるが後半は誹諧に執心し、芭蕉顕賞に多くの業績をのこした。寛政七年(一七九五)没。

53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41

54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29
(賛) 海島圓浦長汀唫 
あつみ山吹浦かけて夕すゞみ 汐こしや鶴脛ぬれて海すゞし あらうみや佐渡によこたふあまの河 早稲の香や分入右は磯海
明石夜泊
蛸壺やはかなき夢を夏の月
 このつかい這わたるほどといへば
蝸牛角ふり分よ須磨明石
 右芭蕉翁作           嘯山

55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28

呉春の芭蕉像.jpg

右上(52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22)
右下(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)
中央(54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29)
左上(55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-03

その六 金福寺の「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)と「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆) →一部抜粋

金福寺芭蕉像.jpg

金福寺「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)

 この金福寺の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)の下部には、「安永巳亥十月写於夜半亭 蕪村拝」との落款が記されている。この「安永巳亥」は、安永八年(一七七九)に当たる。この時に、蕪村は、同時に、芭蕉像を他に二点ほど描き、その二点には、芭蕉の発句が二十句加賛されているという(『図説日本の古典14芭蕉・蕪村』所収「芭蕉から蕪村へ(白石悌三稿)」)。
 この安永八年(一七七九)は、蕪村が没する四年前の、六十四歳の時で、晩年の蕪村の円熟した筆さばきで、崇拝して止まない、晩年の芭蕉の柔和な風姿を見事にとらえている。
 先に紹介した、月渓の「芭蕉像」(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)は、この蕪村の「芭蕉翁自画賛」をモデルとして描いたものであろう。そして、この両者を比べた時に、蕪村と月渓とでは、その芭蕉に対する理解の程度において、月渓は蕪村の足元にも及ばないということを実感する。
 さて、金福寺の芭蕉庵は、天明元年(一七六一)に改築再建され、この改築再建に際して、蕪村は、先に紹介した安永五年(一七七六)の『写経社集(道立編)』に収載した「洛東芭蕉庵再興記」を自筆で認めて、金福寺に奉納する。
 これらの、上記の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)と「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)とが、今に、金福寺に所蔵されている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-05

(その七)江東区立芭蕉記念館の「芭蕉翁像」(蕪村筆) → 略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-06

(その八)『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵で紹介された「芭蕉翁像」(蕪村筆)→略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-07

(その九)許六に倣った全身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)→一部抜粋

許六倣芭蕉像.jpg

『蕪村展(茨城県立歴史館 1997)』)所収「44芭蕉翁図」(蕪村筆)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-09

(その十)逸翁美術館蔵の「芭蕉翁立像図」(蕪村筆)→略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-10

(その十一)西岸寺任口上人を訪いての半身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)→略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-16

(その十二) 暒々翁に倣った「芭蕉翁像」(蕪村筆)→略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-18

(その十三) 天明二年(一七八二)の同一時作の「芭蕉翁像」(蕪村筆)→ 略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-20

(その十四)眼を閉じている「芭蕉翁像」(蕪村筆)→ 略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-21

その十五 「俳仙群会図」(蕪村筆)上の「芭蕉像」 → 一部抜粋

俳仙群会図・芭蕉像.jpg
(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)「部分図」(芭蕉像)

(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)「部分図」(芭蕉像)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-08-03

その十三  鈴木其一筆「朝顔図屏風」と芭蕉の「朝顔」の句周辺 →一部抜粋

俳仙群会図・拡大.jpg

「俳仙群会図」(蕪村筆)部分図(柿衛文庫蔵)
右端・芭蕉、右手前・やちよ、中央手前・其角、中央後・園女
左端手前・任口上人、左端後・宋阿(夜半亭一世、蕪村は夜半亭二世)
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート
忘れがたき風貌・画像 ブログトップ