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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その三十五) [岩佐又兵衛]

(その三十五) 「舟木本」と「歴博D本」そして「南蛮屏風」との周辺(その四)

舟木本・あやつり小屋.jpg

「舟木本・四条河原のあやつり小屋(山中常盤・阿弥陀胸割)」(「右隻」第五扇上部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

歴博D本四条仮橋.jpg

「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」(「右隻」第三扇上部)
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_r.html

 「舟木本・四条河原のあやつり小屋(山中常盤・阿弥陀胸割)」の、「山中常盤」を演じている「あやつり(人形浄瑠璃)」小屋の、下記の「幔幕の紋」は、「越前(北庄・福井)松平家」の「結城秀康(初代)・松平忠直(二代)」が使用していた「定紋」(正式の紋。表紋)であることは、これまでに、しばしば触れてきた。

結城家・家紋.jpg

「結城家(結城秀康・松平忠直)家紋」(「舟木本・「山中常盤」小屋の幔幕の紋)

 そして、その「山中常盤」を演じている「あやつり(人形浄瑠璃)」小屋の脇の、下記の「阿弥陀胸割」小屋の「幔幕の紋」については、前回(その三十四)で、「筑前国福岡藩祖」の「黒田孝高」の「紋所」の一つが、「ふじどもえ」(「藤・巴」)で、この「ふじどもえ」の紋所は、信長に叛旗をひるがえして毛利方についた孝高と親交のある「荒木村重」を説得しに行き、そのまま「有岡城」の奥牢に幽閉された時の裏窓の「藤の花」に由来があることなどについて触れた。

阿弥陀胸割・家紋?.jpg

「舟木本・「阿弥陀胸割」小屋の幔幕の紋)「右隻」第五扇上部)

 ここで、上記の「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」の、下記の「十」の「幔幕」の小屋は、下記のアドレスで、「一見すると、キリシタンの『十字架』の『十』と見間違うが、これは、『丸に轡(くつわ)十字』の家紋ではなく、『筆書きの十文字』の、やはり、『薩摩』の『島津家』などの家紋と解すべきなのであろう」としたが、これは、ここまでの、
「黒田孝高」(官兵衛・如水)、そして、「結城秀康」などとの関連ですると、ここは、どうしても、この「黒田孝高」(官兵衛・如水)を受洗させた、いわゆる、「キリシタン大名」として、その生涯を貫いた、「高山右近」の、その「家紋」の一つの「十」と解する方が、より馴染み深いのかも知れない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-30

歴博D本「十」の小屋.jpg

「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」(「右隻」第三扇上部)拡大図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_r.html

 下記のアドレスなどによると、「高山右近」の家紋は、次の「七曜紋」が「定紋」で、「十字架紋」は、天正十五年(一五八七)の、豊臣秀吉の「バテレン追放令」後の、加賀国(現在の石川県南部)の「前田利家」家に謹慎の身となり加賀へ移住後の、非公式な「替紋」なのかも知れない。

https://kisetsumimiyori.com/takayamaukon/#117

高山右近・七曜紋.jpg

高山右近の「七曜紋」

高山右近・十字架紋.jpg

高山右近の「十字架紋」

 これらの「高山右近」の「七曜紋」や「十字架紋」について、下記のアドレスでは、「フィリピンで宣教に従事したコリン著『フィリピン諸島におけるイエズス会の布教史』の第28章が『高山右近伝』」の「太閤様が全領主を率いて関東の戦いに行ったとき、その中には筑前殿(前田利家)がいたが、彼の武将としてドン・ジュスト(高山右近)は、・・・前の紋章の七つ星を用いないで、十字の印をかかげていた。」との記述に由来があるようである。

https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-11240219453.html

 ここで、「荒木村重・黒田如水(官兵衛)・高山右近・岩佐又兵衛」が、それぞれの「略年譜」(下記「)に揃って登場するのは、天正六年(一五七八)の、荒木村重が織田信長に反旗を翻し、伊丹城(有岡城)に籠城、織田軍と約一年間に及ぶ交戦状態に入った時である。  
 すなわち、この「洛中洛外図屛風・舟木本」の筆者の「岩佐又兵衛」が生まれた年に、全てのドラマがスタートとするということになる。

【 1578年(天正6年)荒木村重44歳 織田信長に対して謀反を起こし、三木合戦のあと伊丹城(有岡城)に籠城。織田軍と1年間交戦する。

〇〇1578年(天正6年)岩佐又兵衛1歳 摂津伊丹城で荒木村重の末子として誕生。父荒木村重が織田信長に叛く

※1578年(天正6年)高山右近27歳 主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦いへと発展。

※※1578年(天正6年)黒田如水33歳 三木合戦で兵糧攻めを提案し、三木城(兵庫県三木市)を攻略した。織田信長に対して謀反を起こした荒木村重を説得するために、有岡城(兵庫県伊丹市)に向かうが、幽閉される。   】(「参考その一」抜粋)

 そして、その翌年の天正七年(一五七九)には、「千利休」が、織田信長より「茶頭」(茶の湯の師匠)として「今井宗久・津田宗及」と共に重用されて登場してくる。

【 1579年(天正7年)荒木村重45歳 妻子や兵を置いて、突如単身で伊丹城(有岡城)を脱出。嫡男の荒木村次が城主を務めていた尼崎城へ移る。そのあと、織田信長からの交渉にも応じず出奔。自身の妻子を含む人質が処刑される。

〇〇1579年(天正7年)岩佐又兵衛2歳 伊丹城落城。乳母に救い出され奇跡的に逃げ延びる。母ら一族、京の六条河原で処刑。

※1579年(天正7年)高山右近28歳 有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣一枚で、単身織田信長のもとへ投降。その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。

※※1579年(天正7年)黒田如水34歳 有岡城が陥落し、救出される。

△1579年(天正7年)千利休58歳 織田信長に茶頭として雇われる。  】(「参考その一」抜粋)

 ここで、後に、「高山右近」は「利休七哲」の一人として、「前田利長・蒲生氏郷・細川忠興(三斎)・古田織部・牧村兵部・芝山監物」と共に「高山南坊(右近)」の名で、その名を連ねるが(「ウィキペディア」所収『『茶道四祖伝書』)、この当時は、「千利休」の前号の「千宗易」と親しかった「荒木村重」の部下の一人としての「千利休」とに連なる一人ということになる(織田信長の没後、荒木村重は豊臣秀吉の下で茶人として復帰し、「利休十哲」の一人として名をとどめている。)
 そして、この「高山右近」は、当時、ポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味する「ジュスト(ユストとも)」を洗礼名とするキリシタン武将の一人である。とすれば、その主家筋に当たる「荒木村重」も、いわゆる「キリシタン大名(武将)」の一人であったかというと、「一族郎党を見殺しにした」という汚名を拭い去ることも出来ずに、時代に翻弄され続けた敗残の武将の五十二年の生涯であったといえる。
 しかし、下記のアドレスのように、「荒木村重もクリスチャンであったから、有岡城籠城
の際、説得に来た黒田如水を殺さずに入牢にした」のであろうと、その「自死」をしない一生と共に、己の信念を貫いた「クリスチャン」的な生涯であったという見方もあり得るであろう。

https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/005/01.html

 この荒木村重の、たった一人の遺児である「岩佐又兵衛」は、生前に、この茶人としての「道薫」(自己卑下的な「道糞」から秀吉が改名したとされる「道薫」の茶号)と、一度だけ対面したといわれているが、このときの二人は、下記のアドレスなどでは、終始ほぼ無言だったと伝えられている。

https://www.touken-world.jp/tips/46496/

 そして、この荒木村重は、天正十四年(一五八六)に堺で没し、千利休が修行したとされる「南宗寺」(臨済宗大徳寺派の寺院)に葬られたと伝えられているが、その「南宗寺」には村重の墓は現存せず、その位牌は、村重が籠城した「有岡城」のあった伊丹市の「荒村寺」にある。
 この荒木村重に関しては、次のアドレスの「荒木村重」が参考となる。

http://bunkazai.hustle.ne.jp/jinbutu/jinbutu_photo/arakimurashige.pdf

 この荒木村重が没した翌年の、天正十五年(一五八七)の「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」(京都北野天満宮境内において豊臣秀吉が催し、千利休が主管した大規模な茶会)が開催され、当時十歳であった岩佐又兵衛も誰(実父の茶人「道薫」に連なる茶人?)かの供をして出席したことが、又兵衛の回想録の『廻国道之記』に、「わらわべの時なれば夢のやうにあれど、少しおぼえ侍る」と記されている。

【 1586年(天正14年 )荒木村重52歳 5月4日、堺にて死去。

※※1586年(天正14年)黒田如水41歳 従五位下・勘解由次官に叙任。九州征伐でも軍監を担当し、豊前国(現在の福岡県東部)の諸城を落とす。

△1586年(天正14年)千利休65歳 黄金の茶室の設計、聚楽第の築庭に関わる。

※1587年(天正15年)高山右近36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。

※※※1587年(天正15年)結城秀康14歳  九州征伐にて初陣を飾る。豊前国(現在の福岡県東部)の岩石城(福岡県田川郡)攻めで先鋒を務め、日向国(現在の宮崎県)の平定戦でも戦功を遂げる。

△1587年(天正15年)千利休66歳 北野大茶会を主管。

〇〇1587年(天正15年) 岩佐又兵衛10歳 秀吉主催の北野の茶会に出席?  】
(「参考その一」抜粋)

舟木本・市中の山居.jpg

「『雪輪笹紋』のある店舗のウラ庭の『剃頭の人物』」(左隻第四・五扇)」(拡大図)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 この「長暖簾の『雪輪笹紋』のある店舗のウラ庭」に居る人物は、下記のアドレスでは、次のように紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-25

【 (再掲)
『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p230-232』では、次のように記述している。

雪輪笹紋の暖簾の町家

 雪輪笹の暖簾が戸口にかかり、水引暖簾に笹紋が三つ描かれて印象的な町家の笹屋は、③の桟瓦葺であった。店内に描かれている箱は呉服を入れる箱のように見えるので、たぶん呉服屋であろう。それはともかく、富裕な商人であることは明瞭だ。しかも、重要な表現が集中している中心軸の二条通に面して描かれている。(以下略)
  杉森哲也の仕事  (省略)
  「呉服所」の笹屋 (省略)
  室町二条上ル町の笹屋半四郎 
(前略) 舟木屏風左隻第四扇の二条通に面している雪輪笹紋の笹屋は、『京羽二重』の笹屋半四郎であると推測したい。(以下略)
  笹屋半四郎と京都所司代板倉勝重
(前略) 「呉服商」笹屋半四郎の祖父か父が、板倉勝重の御用をつとめていたのではないかと推測したい。暖簾の雪輪笹紋や水引暖簾の笹紋は、笹屋半四郎の屋号と合致し、この二条通に描かれた雪輪笹紋の町家は、板倉隠岐守殿の「呉服商」笹谷半四郎の店に「近い」からである。もしも雪輪笹紋の町家が笹屋半四郎の祖父か父の店であり、京都所司代板倉勝重の御用をつとめていた商人なら、舟木屏風における京都所司代板倉勝重や大御所家康の近習筆頭人板倉重昌の描かれ方は、極めて自然に解釈することができる。
(中略) この屏風は、統治する側の視線や関心によって描かれてはいない。この屏風の表現から読み取れるのは、下京に生きる町人たちの姿であり、視線であり、関心対象である。舟木屏風には、町人たちが日々生活し、働いている下京の町と、彼らが出掛けるのを楽しみにしている六条柳町・四条河原・東山の歓楽・遊楽地が描き出されている。左隻に、民事裁判をする勝重、禁裏と公家を統制する勝重、そして近習出頭人となった勝重の次男重昌が、大御所の意思を体現して描かれているとしても、下京はあくまで町人にとって町々として描かれているのである。京都所司代板倉勝重は、下京の法と秩序を維持してくれる存在として描かれているし、大御所家康の近習出頭人板倉重昌も同様である。
 美術史家たちが異口同音に述べているように、この屏風は浮世絵の出発点に位置付けられる作品だ。この屏風の注文主は、やはり、下京の上層町人の一人であろう。

庭にいる主の姿

(前略) この笹屋のウラ庭には建物の一角が描かれ、そこには坊主頭の人物が座っている。かれは何をしているのだろうか。小袖の着流し姿で、縁に後ろ手を突いて、静かに木々を見上げている。このような閑居もしくは休息している姿の人物表現は、ここだけである。前述したように、このような姿は、他の洛中洛外図屏風では見たことがない。

「市中の山居」

 (前略)  雪輪笹紋が描かれた暖簾の掛かっている立派な町家は、中心軸となる二条通に面しており、ウラ庭には樹木が茂り、しずかに座って、それを見上げている上層町人の主の姿がある。このようなウラ庭は、特別である。この剃頭の人物は、注文主その人を描いているのではあるまいか。 (『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p230-232』の要点抜粋。)  

(中略)

しかも、気になるのはその筆致である。この人物は抑揚のある(ないしは肥痩のある)線で、ササっと描かれている。この筆致の違いがとても気になる。左右両隻で、この人物の筆致だけが特別なのだ。もしかすると、この剃頭の人物を描くにあたっては、注文主と岩佐又兵衛との間に何らかのやりとりがあったのではあるまいか。これ以上は書かないが、この剃頭の人物が注文主さの人なのではないかと思う理由の一つである。 (『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』所収「気になる筆致p231-232」

この「雪輪笹紋の町家周辺その一図」の「剃頭の人物」と、天正十四年(一五八六)に法眼から法印に進み延命院の号を賜り、のちに慶長二年(一五九七)に延寿院と改号している「曲直瀬玄朔」(上記の「曲直瀬玄朔像」)とを相互に見比べていると、「雪輪笹紋の町家周辺その一図」の「剃頭の人物」は、この「豊臣秀吉・関白秀次・徳川家康・秀忠そして後陽成天皇の診療に当った『日本医学中興の祖』の曲直瀬玄朔」その人、若しくは、その周辺ということは、「三藐院ファンタジー」の謎解きとしては、徐々に動かし難いものとなってきている。  】

 そして、ここに至るまでの前段階として、次のアドレスで紹介したものであった。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

【 (再掲)

「雪輪笹」の暖簾は、呉服商・笹屋(笹谷半四郎)のもので、その「笹屋」の奥庭(この図の左上)の人物が、笹谷半四郎(その父か祖父)、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主ではないかと『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では推定している。

(中略)

「数寄者(茶人)・隠遁者」風の人物は、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、この「洛中洛外図・舟木本」の注文主の、「『雪輪笹』の暖簾主の、呉服商・笹屋(笹谷半四郎)」の、京の有力町衆「笹谷半四郎」と推測しているのだが、それを「是」としても、この「数寄者(茶人)・隠遁者(市中の山居人)」風の人物は、限りなく、この大作「洛中洛外図・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」その人 の、その当時のイメージが、これまた、ダブルイメージとしてオ―バラップしてくるのである。

(中略)

数寄者(茶人)・隠遁者(市中の山居人)」風の人物が、この大作「洛中洛外図・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」その人 のイメージをも宿しているとすると、この「岩佐又兵衛」と同時代に生きた、「狩野派」に匹敵する大きな画壇を形成してくる「琳派の創始者」と目されている「本阿弥宗達・俵屋宗達」、そして、この二人に深い関係にある、当時の三大豪商の一人の「角倉素庵」なども、この「洛中洛外図・舟木本」の中に、何らかの形で描かれているのではなかろうか?

(中略)

この京の有力町衆「笹谷半四郎」(「数寄者(茶人)・隠遁者」風の人物)は、「三藐院ファンタジー」風の見方では、この「洛中洛外図・舟木本」を描いた張本人の「岩佐又兵衛」のイメージと重なるとしたのだが、何やら、この、五条通りの数寄者「俵屋宗達・本阿弥光悦」と、この二条通りの数寄者(「市中の山居人」)「岩佐又兵衛」とは、相互に、何かしらの因縁を有しているような雰囲気を醸し出している。  】

 上記の、これまでの記述では、この「剃頭の人物」は、「豊臣秀吉・関白秀次・徳川家康・秀忠そして後陽成天皇」等々の診療に当った「日本医学中興の祖』の「曲直瀬玄朔」その人、若しくは、その周辺などと解してきたのだが、この人物は、この「洛中洛外図屛風・舟木本」の筆者の「岩佐又兵衛」の実父にあたる、戦国時代の摂津国の大名の一人である「荒木村重」の、その「市中の山居(人)=数奇(人)=茶道(芸道の一つ)の人=茶人」の、晩年の「道薫」(その前号は「道糞」)その人なのではなかろうか(?)

月見西行図(部分図).jpg

岩佐又兵衛筆「月見西行図(部分図)」群馬県立近代美術館蔵(戸方庵井上コレクション)

【 手に笠と杖、背には笈を背負った西行法師が、旅の途中で月を見上げる姿を描く。上部には「月見はと 契りていてし ふる郷の 人もやこよひ 袖ぬらすらん」と西行の歌が書き込まれている。「布袋図」と同じ篆文二重円印が捺されているが外郭は狭く、制作は寛永十四(一六三七)年の江戸出府後と考えられている。一人たたずむ西行の姿が、妻子を残し江戸へ向かう又兵衛と重ね合わされ鑑賞されてきた。 】(『別冊太陽247 岩佐又兵衛』所収「作品解説・戸田浩之)」

 この「月見西行図」の全体図は、下記のとおりだが、この上部に書き込まれていたる、「月見はと 契りていてし ふる郷の 人もやこよひ 袖ぬらすらん」(西行)の歌は、『新古今和歌集』の「巻第十 羇旅歌」に、次のとおり収載されている。

939 月見ばと 契りおきてしふるさとの 人もや今宵袖ぬらすらむ

【 月を見たら思おう約束しておいた故郷の人も、ひょっとしたら、今夜は わたしと同じように月を見て、涙で袖を濡らしていることであろか。 】(『日本古典文学全集26 新古今和歌集(校注・訳 峯村文人)』)

月見西行図(全体図).jpg

岩佐又兵衛筆「月見西行図(全体図)」群馬県立近代美術館蔵(戸方庵井上コレクション)
紙本墨画淡彩 一幅 101.3× 33.0  


(参考その一)

 「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜

荒木村重略年譜    https://www.touken-world.jp/tips/65407/
※高山右近略年譜   https://www.touken-world.jp/tips/65545/
※※黒田如水略年譜  https://www.touken-world.jp/tips/63241/
※※※結城秀康略年譜 https://www.touken-world.jp/tips/65778/
〇松平忠直略年譜   
https://meitou.info/index.php/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%B4
〇〇岩佐又兵衛略年譜
https://plaza.rakuten.co.jp/rvt55/diary/200906150000/
△千利休略年譜
https://www.youce.co.jp/personal/Japan/arts/rikyu-sen.html

△1522年(大永2年)千利休1歳 和泉国・堺の商家に生まれる。
1535年(天文4年)荒木村重1歳 摂津国の池田家に仕えていた荒木義村の嫡男として生まれる。幼名は十二郎(後に[弥介]へ変更)。
△1539(天文8年)千利休18歳 北向道陳、武野紹鴎に師事。
※※1546年(天文15年)黒田如水1歳 御着城(兵庫県姫路市)の城主・小寺政職の重臣・黒田職隆の嫡男として生まれる。
※1552年(天文21年)高山右近1歳 摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)にて、高山友照の嫡男として生まれる。高山氏は、59代天皇・宇多天皇を父に持つ敦実親王の子孫。また高山氏は、摂津国・高山(大阪府豊能町)の地頭を務めていた。
※1564年(永禄7年)高山右近13歳 父・高山友照が開いた、イエズス会のロレンソ了斎と、仏僧の討論会を契機に入信。妻子や高山氏の家臣、計53名が洗礼を受け、高山一族はキリシタンとなる。高山右近の洗礼名ドン・ジュストは、正義の人を意味する。父はダリヨ、母はマリアという洗礼名を授かる。
※※1567年(永禄10年)黒田如水22歳 黒田家の家督と家老職を継ぎ、志方城(兵庫県加古川市)の城主・櫛橋伊定の娘であった光姫を正室として迎え、姫路城(兵庫県姫路市)の城代となる。
※※1568年(永禄11年)黒田如水23歳 嫡男・黒田長政が生まれる。
1571年(元亀2年)荒木村重37歳 白井河原の戦いで勝利。織田信長から気に入られ、織田家の家臣になることを許される。
※1571年(元亀2年)高山右近20歳 白井河原の戦いにおいて和田惟政が、池田氏の重臣・荒木村重に討たれる。高山右近は和田惟政の跡を継いだ嫡男・和田惟長による高山親子の暗殺計画を知る。
1573年(元亀4年/天正元年)荒木村重39歳 荒木城(兵庫県丹波篠山市)の城主となる。現在の大阪府東大阪市で起こった若江城の戦いで武功を挙げる。
※1573年(元亀4年/天正元年)高山右近22歳 荒木村重の助言を受け、主君・和田惟長への返り討ちを決行。高槻城で開かれた会議の最中に、和田惟長を襲撃し致命傷を負わせた。その際、高山右近も深い傷を負う。高山親子は荒木村重の配下となり、高槻城主の地位を高山右近が譲り受ける。
1574年(天正2年)荒木村重40歳 伊丹城(有岡城)を陥落させ、同城の城主として摂津国を任される。
※※※1574年(天正2年)結城秀康1歳 徳川家康の次男として誕生。母親は徳川家康の正室・築山殿の世話係であった於万の方で、当時忌み嫌われた双子として生まれる。徳川家康とは、3歳になるまで1度も対面せず、徳川家の重臣・本多重次と交流のあった、中村家の屋敷で養育された。
1575年(天正3年)荒木村重41歳 摂津有馬氏を滅ぼし、摂津国を平定。
1576年(天正4年)荒木村重42歳 石山合戦における一連の戦いのひとつ、天王寺の戦いに参戦。
1577年(天正5年)荒木村重43歳  紀州征伐に従軍。
1578年(天正6年)荒木村重44歳  織田信長に対して謀反を起こし、三木合戦のあと伊丹城(有岡城)に籠城。織田軍と1年間交戦する。
※1578年(天正6年)高山右近27歳 主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦いへと発展。
※※1578年(天正6年)黒田如水33歳 三木合戦で兵糧攻めを提案し、三木城(兵庫県三木市)を攻略した。織田信長に対して謀反を起こした荒木村重を説得するために、有岡城(兵庫県伊丹市)に向かうが、幽閉される。
〇〇1578年(天正6年)岩佐又兵衛1歳 摂津伊丹城で荒木村重の末子として誕生。父荒木村重が織田信長に叛く
1579年(天正7年)荒木村重45歳 妻子や兵を置いて、突如単身で伊丹城(有岡城)を脱出。嫡男の荒木村次が城主を務めていた尼崎城へ移る。そのあと、織田信長からの交渉にも応じず出奔。自身の妻子を含む人質が処刑される。
※1579年(天正7年)高山右近28歳 有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣一枚で、単身織田信長のもとへ投降。その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。
※※1579年(天正7年)黒田如水34歳 有岡城が陥落し、救出される。
〇〇1579年(天正7年)岩佐又兵衛2歳 伊丹城落城。乳母に救い出され奇跡的に逃げ延びる。母ら一族、京の六条河原で処刑。
△1579年(天正7年)千利休58歳 織田信長に茶頭として雇われる。 
1581年(天正9年)荒木村重47歳 花隈城(神戸市中央区)に移り、花隈城の戦いが勃発。その後、毛利家へ亡命。
※1581年(天正9年)高山右近30歳 織田信長の使者として、鳥取城(鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。
1582年(天正10年)荒木村重48歳 本能寺の変で織田信長が亡くなると、大坂の堺(現在の大阪府堺市)に移る。大坂では茶人として復帰し、千利休とも親交があったとされる。豊臣秀吉を中傷していたことが露呈し、処罰を恐れ荒木道薫と号して出家する。
※1582年(天正10年)高山右近31歳 甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒を務め、明智光秀軍を破る。
△1582年(天正10年)千利休58歳 本能寺の変、以降・豊臣秀吉に仕える。
※1583年(天正11年)高山右近32歳 柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで、豊臣家の勝利に貢献する。
※※1583年(天正11年)黒田如水38歳 大坂城(大阪市中央区)の設計を担当し、豊臣政権下で普請奉行となる。キリスト教の洗礼を受けて、洗礼名「ドン=シメオン」を与えられる。
※※※1584年(天正12年)結城秀康11歳  3月、豊臣秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍による小牧・長久手の戦いが勃発。講和の条件として、戦後、結城秀康は豊臣家の養子として差し出される。このとき結城秀康は、徳川家康からの餞別として名刀「童子切安綱」を授かっている。12月、元服を迎える。
※1585年(天正13年)高山右近34歳 歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
※※1585年(天正13年)黒田如水40歳 四国攻めで軍監として加わって長宗我部元親の策略を破り、諸城を陥落。
△1585年(天正13年)千利休64歳 正親町天皇から「利休」の居士号を与えられる。
1586年(天正14年 )荒木村重52歳 5月4日、堺にて死去。
※※1586年(天正14年)黒田如水41歳 従五位下・勘解由次官に叙任。九州征伐でも軍監を担当し、豊前国(現在の福岡県東部)の諸城を落とす。
△1586年(天正14年)千利休65歳 黄金の茶室の設計、聚楽第の築庭に関わる。
※1587年(天正15年)高山右近36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
※※※1587年(天正15年)結城秀康14歳  九州征伐にて初陣を飾る。豊前国(現在の福岡県東部)の岩石城(福岡県田川郡)攻めで先鋒を務め、日向国(現在の宮崎県)の平定戦でも戦功を遂げる。
△1587年(天正15年)千利休66歳 北野大茶会を主管。
〇〇1587年(天正15年) 岩佐又兵衛10歳 秀吉主催の北野の茶会に出席?
※※1589年(天正17年)黒田如水44歳 広島城(広島市中区)の設計を担当する。黒田家の家督を黒田長政に譲る。
※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。
※※1592年(天正20年/文禄元年)黒田如水47歳  文禄の役、及び慶長の役において築城総奉行となり、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の設計を担当する。
〇〇1592年(天正20年/文禄元年)岩佐又兵衛 15歳 この頃、織田信雄に仕える。狩野派、土佐派の画法を学ぶ。絵の師匠は狩野内膳の説があるが不明。
※※1593年(文禄2年)黒田如水48歳 剃髪して出家。如水軒円清の号を名乗る。
〇1595年(文禄4年)松平忠直1歳 結城秀康の長男として摂津東成郡生魂にて生まれる。生母は秀康の側室、中川一元の娘(清涼院、岡山)。幼名は仙千代。
※1600年(慶長5年)高山右近49歳 関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦いでは東軍に属し、丹羽長重を撃退する。
※※1600年(慶長5年)黒田如水55歳 関ヶ原の戦いが起こる。石垣原の戦いで、大友義統軍を破る。
※※※1600年(慶長5年)結城秀康27歳 関ヶ原の戦いの直前、徳川家康と共に会津藩(現在の福島県)の上杉景勝の討伐へ出陣。道中、石田三成挙兵を知り、徳川家康は西へ引き返す。一方で結城秀康は宇都宮城に留まり、上杉景勝からの防戦に努めた。関ヶ原の戦い後に徳川家康より、越前・北の庄城(福井県福井市)68万石に加増される。
〇1603年(慶長8年)松平忠直7歳 江戸参勤のおりに江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に初対面している。秀忠は大いに気に入り、三河守と呼んで自らの脇に置いたという。
※※1604年(慶長9年)黒田如水59歳 京都の伏見藩邸で死去する。
※※※1604年(慶長9年)結城秀康31歳 結城晴朝から家督を相続し、松平に改姓。
〇〇1604年(慶長9年)岩佐又兵衛 27歳 ・秀吉の七回忌、京で豊国祭礼
〇1605年(慶長10年)松平忠直 9歳 従四位下・侍従に叙任され、三河守を兼任する。
※※※1606年(慶長11年)結城秀康33歳  徳川家から伏見城(京都府京都市伏見区)の居留守役を命じられて入城するも、病に罹り重篤化する。
※※※1607年(慶長12年)結城秀康34歳  越前国へ帰国し、のちに病没。
〇1607年(慶長12年)松平忠直 13歳 結城秀康の死に伴って越前75万石を相続する。
〇1611年(慶長16年)松平忠直 17歳 左近衛権少将に遷任(従四位上)、三河守如元。この春、家康の上京に伴い、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。9月には、秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎える。
〇1612年(慶長17年)松平忠直 18歳 重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部、盛次)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。
〇1613年(慶長18年)松平忠直 19歳 家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに本多富正が越前の国政を執ることとされ、加えて本多富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは、騒動が重なるのは、忠直がまだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである。
〇〇1613年(慶長18年) 岩佐又兵衛 37歳 この頃、舟木本「洛中洛外図屏風」
※1614年(慶長19年)高山右近63歳 キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
〇1614年(慶長19年)松平忠直 20歳 大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げている。家康は孫の活躍を喜び、「初花肩衝」(大名物)を与えている。また秀忠も「貞宗の御差添」を与えている。
※1615年(慶長20年/元和元年)高山右近64歳 前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。
〇1615年(慶長20年/元和元年)松平忠直 21歳 従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
〇〇1616年(元和2年)岩佐又兵衛39歳 この頃、京から北之庄に移住。徳川家康没。狩野内膳没。
〇〇1617年(元和3年)岩佐又兵衛40歳 狩野探幽が江戸に赴任。この間、「金谷屏風」・「山中常盤」など制作か。
〇1621年(元和7年)松平忠直 27歳 病を理由に江戸への参勤を怠り、また翌元和8年(1622年)には勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。
〇1623年(元和9年)松平忠直 29歳 将軍・秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母清涼院の説得もあって隠居に応じ、敦賀で出家して「一伯」と名乗った。5月12日に竹中重義が藩主を務める豊後府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。豊後府内藩では領内の5,000石を与えられ、はじめ海沿いの萩原に住まい、3年後の寛永3年(1626年)に内陸の津守に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原からの海路での逃走を恐れたためとも言う。竹中重義が別件で誅罰されると代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となったという。
〇〇1623年(元和9年)岩佐又兵衛46歳 松平忠直、豊後に配流。
〇〇1624(寛永元年)岩佐又兵衛 47歳 忠直を引き継ぐ松平忠昌が福井に改称。この間、「浄瑠璃物語絵巻」なと。
〇〇1637年(寛永14年)岩佐又兵衛 60歳 福井より、京都、東海道を経て江戸に赴く。
〇〇1638年(寛永15年)岩佐又兵衛61歳 川越仙波東照宮焼失。
〇〇1639年(寛永16年)岩佐又兵衛 62歳 家光の娘の千代姫、尾張徳川家に嫁ぐ
〇〇1640年(寛永17年)岩佐又兵衛 63歳 仙波東照宮に「三十六歌仙額」奉納。
〇〇1645年(正保2年)岩佐又兵衛 68歳 ・松平忠昌没。
〇1650年(慶安3年) 松平忠直死去、享年56。
〇〇1650年(慶安3年)岩佐又兵衛 江戸にて没す。享年73。


(参考その二) 「市中の山居(しちゅうのさんきょ)」周辺

http://augusutinusu-t-ukon.cocolog-nifty.com/httpjusutotuko/files/tyanoyu.pdf

高山右近と茶道について(「抜粋」)

・右近は千利休とは親友であること、茶道は心の潜心には最適であるとして、その道に励んだことが宣教師の記録に記されている 日本側の資料にも右近は利休七哲のひとりであることや加賀では第一人者であることなどが記されている このようなことから、茶道と右近の信仰との関係について色々なことが書かれてきている 右近の茶道にキリシタン右近の霊性そのものがあるかのように考える人もおられるようです 茶道の主要な精神的要素である市中の山居や 和敬静寂や一座建立などは、人間本来の心のありように立ち返らせ、相手を心から大切にするという人間の普遍的な価値観に繋がるものです 右近の茶の湯の師匠であった千利休が目指した侘び茶の世界はまさにそのようなものであったので、右近も共感し、そのような精神的なカタルシスを味わうために、茶の湯三昧の日々を送った事もあったのではないかと思います 右近のことを知らない人、誤解を持っている人などに対する導入として紹介することは大切なことです しかし、茶道はキリストの教えではありません 茶道に宗教的な要素がるとすれば、それは禅宗であり、道教であろうと思います 殉教者右近の霊性の本質的な要素ではないことを十分意識しておくことが大切であると考えます
 そこで、私は次のような観点から考えてみたいと思っています
・右近にとって、茶室は神と自己の霊魂が交わる、深い祈りの場所であった 茶室での祈りは右近独特の「確固たる形ある祈り」であり、「日常を断つ祈り」であり、常に神と一体であるための念祷であり、信仰を深め継続するために右近が考えだしたもので、そのスタイルは禅的な要素を多く取り入れたものであったと想像します 右近は日常の生活感を断ち切り、神と語り合うことが出来る、確固たる自分の祈りの形を持っていた人であったと想像します 現在行われている茶道とは全く異なるもので、霊性に満ちた右近の霊操の場所であったことは間違いないと思います 加賀の前田家家臣であった時代、彼の信仰は、この形ある断つ祈りで深められ、継続されていったのだと思います なぜ、そう思うのかというと、右近はイエズス会の「霊操」を身に付けた人であり、霊操は禅宗の摂心(接心)と似ている(門脇神父)と言われており、右近は何時も神と同行二人の祈りのうちに生きていた人だと思うからです そして、このような神聖な場所での右近のおもてなしは、多くの人に感動を与えたのではないかと想像します 茶道は当時の武士階級の人々では必要な社交術であり、右近も茶道を通して、友を得るとともに、茶道の場を、福音宣教の契機として大いに活用し、有力な武将を受洗に導きました このような観点から、右近と茶道について次のようにまとめました
 まず、注目すべき次のような資料があります ここには右近が生きた当時の茶道の状況を知る上で最も重要とされている宣教師が記した資料のなかに右近と茶道との-関係が 極めて判り易く記されています この資料は現在茶道に関わる人が利休の時代の茶道を 知る上で極めて貴重な資料とされているものです

 【宣教師が書いた資料】

①日本教会史 未刊 岩波書店・大航海時代叢書Ⅳ(4) 日本教会史上巻
・著者:ロドリゲス神父 (1561~1634 イエズス会士、日本語に長け、第2次巡察使秀吉通訳を努める 伴天連追放令下秀吉に気に入られ貴重な存在となる 会計責任者で生糸貿易に関わる)
・イエズス会より「日本教会史」を編纂するよう命令され作成するも未刊・一部原稿有、
写本 1610年頃最初の命令、ロドリゲス1620年~1622年編纂

・茶道の辞典にもでてくる資料で、宣教の報告書であるが、特に堺の数寄者の茶事に招かれて体験した事柄が詳細に記されており、この時代の茶道の様式知る上で貴重な資料

②  完訳日本史

③  巡察使バリニアーノの「イエズス会士の礼節に関する規則書」及び巡察記≪規則書≫

【高山」右近史話】 (チースリク神父著)
【キリシタンの心】 (チースリク神父著) (「史話」のベースになるもので、より詳しい記述)

 侘び茶の精神性の高さを高く評価し、それとキリシタンの教えの共通性に着目し、    右近が茶の道に邁進した意味を論じている

(論 旨) 

・茶道には三つの要素がある-①市中の山居 ②和敬静寂 ③一座建立

① 市中の山居(しちゅうのさんきょ)-ロドリゲス日本教会史にもある言葉-世間の多忙雑多な生活から逃れ静けさを求めること(自省神と語り合う)
② 和敬静寂 侘びの精神(心正しく慎み深く奢らぬ様(武野紹鴎))(家は漏らぬ程、食事は餓えぬ
  程にてたること、これ仏の教、茶の湯の本意也(僧宋啓))
  和敬静寂の精神は、キリシタン茶人にとって、最高の目的ではなく、むしろ完全な        清貧に達し心を清めながら、神との出会いを準備するための手段となった
③一座建立
  主客一体、同じ杯を交わす・同じ釜の飯を食といった感覚、    
 
この三つの要素は、キリスト教の修養の道(①内面の浄化の道②キリストに照ら      されて修得に努める照明の道③キリストとの一致の道)に相応している(「霊操」の三段階)

・キリシタンにとって、

和敬静寂は、・・・神の恵みのために自由な心を開く恵みであり、
 市中の山居は、・・・静けさの中で神との出会いに達するであり、
一座建立は、・・・神との一致への導きそして、神においてこそ友人との神秘的な交流ま
        で達す

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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その三十四) [岩佐又兵衛]

(その三十四) 「舟木本」と「歴博D本」そして「南蛮屏風」との周辺(その三)

舟木本・大仏殿を見学する南蛮人.jpg

「舟木本・方広寺大仏殿を見学する南蛮人」(舟木本・右隻第一扇中部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」では、「南蛮人」の姿影というのは、先の「祇園会の仮装行列(南蛮人)」(「左隻」第一扇中部)の他には、この「方広寺大仏殿を見学する南蛮人」の三人(左端の三人)程度しか見かけない。
 この「方広寺大仏殿を見学する南蛮人」に関連して、元和二年(一六一六)九月に、平戸から江戸へ出て、時の二代将軍・徳川秀忠に謁見して、その帰りに京都市中の「方広寺・大仏殿」などを見学した、英国商館長の「リチャード・コックス」(1566 - 1624)に関するものの記述が目にするが、ここに描かれているのは、その一・二年前の、慶長末期から元和元年にかけてのもので、 これは、「リチャード・コックス」(1566 - 1624)の姿影ではない。

大仏殿を見学する南蛮人.jpg

「舟木本・方広寺大仏殿を見学する南蛮人」(舟木本・右隻第一扇中部)→「南蛮人拡大図」

 しかし、この「南蛮人」一行を、この「舟木本・方広寺大仏殿を見学する南蛮人」が描かれた直後(一年後?)の、英国商館長の「リチャード・コックス」の、その「イギリス商館長日記」の、その元和二年(一六一六)十一月二日の条に、「方広寺大仏殿・三十三間堂・豊国廟」などの見学した感慨が詳細に記録されているのは、まさに驚嘆に値する。。

(その一 P554) 方広寺大仏殿

コックス日記一.jpg

`(注)「堺の定宿のトーザイェモン」=長谷川藤広、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本。江戸幕府の長崎奉行(堺奉行兼任など)を勤めた。通称は左兵衛。「チョービオ殿」=長谷川忠兵衛、藤広の弟。多田銀山(兵庫県)を奉行し,大坂の陣には家康の側近に仕えた

(その二 P555)方広寺大仏殿

コックス日記二.jpg

(その三 P556)三十三間堂

コックス日記三.jpg

(その四 P557)三十三間堂と豊国廟

コックス日記四.jpg

(注)「タイクツ様」=太閤様、豊臣秀吉太閤様。「クッムベコン殿」=関白殿、豊臣秀吉関白殿。

(その五 P557)豊国廟

コックス日記五.jpg

(注)「ボス・ボウズ」=坊主。 異教の聖教者=仏教の聖職者、僧侶。

 これらの、英国商館長の「リチャード・コックス」の、その「イギリス商館長日記」は、下記のアドレスで、その全貌を知ることができる。

【 イギリス商館長日記

イギリスの在日本商館は1613(慶長18)年から1623(元和9)年まで、平戸に置かれました。商館長リチャード・コックスの日記は、取引や贈物等の記述も詳細で、帳簿等の残っていないイギリス商館の活動を知る、根本史料です。(1972~1982年刊行)

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kaigai

https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/58/0401/0554?m=all&n=20

『日本関係海外史料』

オランダ商館長日記

イギリス商館長日記

1 原文編之上 元和1年5月~2年11月
2 原文編之中 元和2年12月~4年12月
3 原文編之下 元和6年11月~8年2月
4 訳文編之上 元和1年5月~3年6月

P554-p557
京都 方広寺大仏殿 三十三間堂 豊国廟

5 訳文編之下 元和3年6月~8年2月
6 訳文編付録(上)元和5年1月~9年11月
7 訳文編付録(下)総索引                      】

 この「イギリス商館長日記」(『コックス日記』)を見て行くと、「1615年6月5日の日記に、『豊臣秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず。皇帝(徳川家康)は、日本全国に命を発して、大坂焼亡の際に城を脱出せし輩を捜索せしめたり。因って平戸の家は、すべて内偵せられ、各戸に宿泊する他郷人調査の実際の報告は、法官に呈せられたり。』」(「ウィキペディア」)など、その他にも、「伊達政宗謀反・黒田長政暗殺などの風聞」や「松平忠輝の改易処分」など、慶長末期の「豊臣家の滅亡」から元和元年以降の「パクス・トクガワーナ」(徳川の平和=徳川政権にによる元和偃武以降の戦乱のない時代)の、その裏面史の一端が浮き彫りになってくる。
 そして、それは同時に、「ポルトガル・スペイン」の「カソリック布教と南蛮貿易」から、非カソリック=プロテスタント国の「オランダ・イギリス」による「布教なしの南蛮貿易」への激動の大転換の時代でもあった。
 そして、「パクス・トクガワーナ」(徳川の平和=徳川政権による元和偃武以降の戦乱のない時代)の、その「鎖国」の「異国(南蛮))との門戸は、スペインから独立した「オランダ」が握るということになる。
 これらについては、下記のアドレスの「日蘭交流の歴史」が参考となる。

https://www.orandatowatashi.nl/about/nichiran-kouryuu

舟木本・あやつり小屋.jpg

「舟木本・「あやつり小屋・山中常盤・阿弥陀胸割」(「右隻」第五扇上部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 岩佐又兵衛の「洛中洛外図・舟木本」には、何一つ、当時の「カソリック=キリシタン=キリスト教」を背景とする欠片も、その表面上には描かれていない。
 その中で、「右隻」(第五扇上部)の「四条河原」の「あやつり小屋」で演じられている「阿弥陀胸割」(「阿弥陀の胸が割かれ真っ赤な血が染まる」=「十字架上の血みどろの救世主の姿」=当時の「禁教令」による「キリシタン追放・受難」)、そして、その「左隻」(第五・六扇中部)の「一条(二条)戻橋」(日本二十六聖人耳削ぎの場)などが、その背景に潜んでいるのかも知れない。
 下記のアドレスで、「一条(二条)戻橋」については触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-06

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-16

舟木本・戻り橋.jpg

「舟木本・「一条(二条)戻橋」」(「左隻」第五・六扇中部)

 ここでは、「舟木本・「あやつり小屋・山中常盤・阿弥陀胸割」の、これまで手付かずの、次の「阿弥陀胸割」小屋の、この「幔幕の紋」にメスを入れたい。

阿弥陀胸割・家紋?.jpg

「舟木本・「阿弥陀胸割」小屋の幔幕の紋)「右隻」第五扇上部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

 この「阿弥陀胸割」小屋の右脇の「山中常盤」小屋の「幔幕の紋」は、「越前(北庄・福井)松平家」の「結城秀康(初代)・松平忠直(二代)」が使用していた「定紋」(正式の紋。表紋)であることは、下記のアドレスで触れた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-30

結城巴.jpg

「結城巴(「松平忠直」家紋)
https://kisetsumimiyori.com/hideyasu/

 この「越前(北庄・福井)松平家」の「結城秀康(初代)」と、昵懇の「キリシタン大名」の一人に、戦国の三英傑(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)に重用され続けた、「筑前国福岡藩祖」の「黒田孝高・官兵衛(通称)・如水(剃髪後の号)・シメオン(洗礼名・霊名)」
の名を挙げることが出来る。

【 徳川家康の庶子である結城秀康は、小牧・長久手の戦いの和睦の際に、人質として豊臣秀吉に差し出され、養子となっていた。その後、秀吉に実子・豊臣鶴松が誕生し、小田原征伐の後に家康が関東へ移封となると、孝高の執り成しにより北関東の名門で11万1千石を領していた結城晴朝の養子となり、後を継いだ。関ヶ原の戦いの後の伏見では、孝高の屋敷に3日に1度訪れるほど親交している。】(「ウィキペディア」)

 そして、この「筑前国福岡藩祖」の「黒田孝高」の「紋所」の一つが、「ふじどもえ」(「藤・巴」)で、この「ふじどもえ」の紋所は、信長に叛旗をひるがえして毛利方についた孝高と親交のある「荒木村重」を説得しに行き、そのまま「有岡城」の奥牢に幽閉された時の裏窓の「藤の花」に由来があることが、次のアドレスの「筑前52万石始祖の黒田如水と藩祖の長政」で紹介されている。

https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/005/01.html

黒田藤.jpg

https://kisetsumimiyori.com/kurodakanbe/

 「黒田孝高・黒田長政」の「黒田」家の「定紋」は、もう一つの、「竹中半兵衛」から譲り受けたといわれる、次の「黒餅」紋で、「藤巴」の紋は「替紋」という見方が、下記のアドレスのものである。

黒餅紋.jpg

https://kisetsumimiyori.com/kurodanagamasa/

【 黒餅紋:黒田長政の家紋その1
 
黒田家の家紋で有名なのが、この「黒餅」という家紋。白地に黒で丸を描いた、とてもシンプルな家紋です。ちなみに、黒地に白抜きで丸を描いたものを「白餅紋」と呼んでいます。この黒餅紋は、豊臣秀吉のもとで共に「両兵衛」と呼ばれた竹中半兵衛から譲り受けたもの。官兵衛が大層大切に使用していた家紋として知られています。

 長政は幼少期に織田家の人質だった

 実は、長政は幼いころに織田家の人質となっていた時期があります。ある時、父の官兵衛が敵軍を説得するために赴いたところ、逆に捉えられ幽閉されてしまいました。これを、信長は勘違いから「官兵衛の裏切り」と思い込んでしまい、嫡子である長政を殺そうとします。しかし、ここで半兵衛が素早く長政をかくまい、信長をうまくごまかしてくれたことから、長政は命をとられずに済みました。半兵衛は、官兵衛と長政を心配する手紙を遺し、若くして肺病でこの世を去ります。

 長政を信長から守り抜いた竹中半兵衛

 その後に助け出された官兵衛は、竹中半兵衛が長政を守り抜いてくれたことを知って感激し、半兵衛が使っていた家紋を使用するようになりました。その後も両家の絆は継続しており、関ヶ原の戦いでは長政と半兵衛の子・竹中重門が隣同士の陣地で闘っています。互いに偉大な父を持つ二人は、父同士が互いを思いやる姿を見て多くのことを学んだのでしょう。

藤巴紋:黒田長政の家紋その2

 そして、もう一つが「藤巴紋」です。官兵衛はこの家紋を替紋として使用しており、表門は「黒餅」であったことが解っていますが、黒田家の家紋というとこちらの印象が強い様です。
 こちらの紋は、黒田家が使えていた「小寺家」から下賜されたもの。ただ、黒田家は「家臣でありながら主君とおなじ家紋を使うのは気が引ける」という気持ちがあったようで、小寺家よりもデザインがシンプルなものを使用しています。 】

黒餅・白餅紋.jpg

「餅紋の意味・由来を解説!竹中半兵衛が使用した器物紋の一種の家紋」
https://kisetsumimiyori.com/mochi/

【、黒い丸をしたものは「黒餅」、白抜きした白いものは「白餅」と呼ばれていましたが、黒田氏が餅紋を使用していたことで、黒餅の方がメジャーなものになっていました。 】

九枚笹紋.jpg

https://kisetsumimiyori.com/takenaahanbe/

【 九枚笹:竹中半兵衛の家紋その1
 竹中半兵衛の家紋は2つが確認されています。ひとつは「九枚笹」。笹と竹は同じ植物で、大きいものを「竹」、小さいものを「笹」と呼んでいます。竹はとても高く伸びることもあり、「猛々しい」の意味に通じるとも言われ、神さまと人間をつないでくれる植物でもあると言われてきました。このため、竹と笹は多くの武将たちが使っている家紋のひとつです。笹は、縁起が良く神事に使われることの多い植物でした。地鎮祭や七夕がその例です。文様としては源氏物語の絵巻物などで古くから用いられてきましたが、家紋として用いられるようになったのは室町時代以降です。はじめは公家の家紋となり、積雪にも耐える強い植物の象徴として家紋に採用する家が増えました。中でも有名なのは上杉家の「竹に雀」や上杉家から贈られた紋を少し変化させた「仙台笹」です。今でも馴染みあるものとして、笹型をした仙台名物の笹かまぼこは、この家紋を由来に誕生しました。他の使用家には、武家では伊達氏、鳥居氏、竹中半兵衛、公家では冷泉家などがあります。

 黒餅:竹中半兵衛の家紋その2

 そして、もう一つがこちらですね。「黒餅」という家紋です。この家紋は、黒田官兵衛から譲り受けた家紋です。
 「餅」には「おめでたい」という意味があるため、そこから家紋に使用されるようになりました。また、簡単に描くことができる形であること、「黒餅」が「石持」と似たような呼び方であることから、武将にとって非常に重要な「石高が増える」という意味もあると言われるようになったのです。半兵衛も、それにあやかってかこちらの家紋を使用していました。 】

阿弥陀胸割・家紋?.jpg

「舟木本・「阿弥陀胸割」小屋の幔幕の紋)「右隻」第五扇上部)

 この「舟木本・「阿弥陀胸割」小屋の幔幕の紋」は、「越前松平家(結城秀康・松平忠直)」の「結城巴」の「黒地」を「白地」に反転し、「筑前福岡藩(黒田孝高・長政)」の「「黒田藤巴」の「白地」を「黒地」に反転して、それらを合成したところの、「岩佐又兵衛」その人の「創作紋」ということになる。
 そして、これらの、「結城巴」そして「黒田(巴)藤紋」と、深い関わりのある「九枚笹紋」は、下記のアドレスの「雪輪笹紋・笹の水引暖簾の店と薬種の店舗」(左隻第四・五扇中部)と連動しているように思われるのである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-25

二条通・裏庭の男周辺.jpg

「雪輪笹紋の町家の裏庭の男周辺」(左隻第四・五扇中部)→「雪輪笹紋の町家周辺その二図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その三十三) [岩佐又兵衛]

(その三十三) 「舟木本」と「歴博D本」そして「南蛮屏風」との周辺(その二)

舟木本の南蛮人(仮装行列).jpg

「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」(「左隻」第一扇中部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 この、岩佐又兵衛の「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」の、このモデル図を、前回(その三十二)では、岩佐又兵衛の師と目せられている、狩野内膳の「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵=神戸市博本)の、その「右隻」の「カピタン図」とストレートに結びつけたままだが、その周辺のことを、ここで記して置きたい。
 「南蛮屏風(図)」(南蛮人渡来図屏風・南蛮来朝図屏風)は、下記のアドレスによると、次の三類型に分類される。

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/122/witness.html

【南蛮屏風は通例、3つの類型に分類されるが、向かって左隻に日本の港に停泊する南蛮船とそれからの荷揚げの風景、右隻にはキリスト教の僧侶たちのいる南蛮寺とそれに向かって歩むカピタン・モール(マカオ総督を兼ねた船長)たちの一行、さらに彼らに好奇の眼を向ける日本人たちという図様で構成される第一類型のものが、全体のおよそ半数を占めている。第二類型はこの第一類型の両隻の図様を右隻にまとめ、左隻に異国の港とそこを出航する南蛮船の光景を描く。第三類型は右隻が第二類型と同じで、左隻は異国の館とそのテラスにおける南蛮人たちの姿で構成される。】(歴史系総合誌「歴博」第122号・「南蛮人来朝図屏風」)

 狩野内膳の「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵=神戸市博本)は、この分類ですると、第二類型(左隻=異国の港とそこを出航する南蛮船の光景、右隻=日本の港に上陸する一行と出迎えの光景と南蛮寺などに向かう光景)のもので、この「狩野内膳」((1570~1616)の落款を伴う南蛮屏風は以下の五点が確認されている(「ウィキペディア」)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E5%86%85%E8%86%B3

神戸市立博物館蔵→神戸市博本
文化庁の九州国立博物館委託蔵→文化庁本
リスボン国立古美術館蔵→リスボン国博本
個人蔵(日本)→川西家旧蔵本
個人蔵(アメリカ)→アメリカ人所蔵本

 これらの全作品に関して、次のアドレスで、詳細な解説とともに、その全容を明らかにしている。

https://www.bimikyushin.com/chapter_4/04_ref/nanban.html

【 「南蛮屏風図(2021年7月21日 河田容英稿) ※ 項目など以下抜粋

南蛮屏風図とは?
神戸市立博物館蔵「南蛮人渡来図」
 狩野内膳
① いつ描かれたのか?
 描き終えられた年代
文化庁「南蛮人渡来図」
 世界地図
② いつ頃の様子が描かれているのか?
 「南蛮屏風図」制作への仮説
③ 発注主は誰だったのか? 
 狩野派とは?
 豊国祭礼図屏風
 狩野派の内部関係
 狩野内膳と南蛮屏風図
  署名と落款
  内膳という名前
リスボン国立博物館所蔵「南蛮人渡来図」
アメリカ人所蔵本「南蛮人渡来図」
川西家旧蔵本「南蛮人渡来図」
 混乱する狩野内膳
 南蛮屏風図を狩野内膳筆とした理由
  1586年 秀吉、宣教師を追放
  1596年 秀吉、禁教令を出し26人が長崎で殉死
  1597年 インド象(ドン・ペドロ)が到着
  1605年 キリシタンが75万人になる
  1606年 豊国祭礼図屏風奉納
  1612年 幕府直轄地での禁教令
  1614年 キリシタン国外追放(高山右近)
  1616年 狩野内膳死去
  1619年 禁教令(京都大殉教)
  1622年 元和の大殉教
  1633年 フェレイラ棄教、中浦ジュリアン殉死
  1637年 島原の乱
 狩野内膳は南蛮屏風を描いたか?
  初代:狩野内膳(重郷)
  二代目:狩野内膳(重良)
  三代目:狩野内膳(重信)
  名前混濁の理由
 狩野派と長谷川派
 量産される「柳橋水車図屏風」
 量産される「南蛮屏風図」
 長谷川派と狩野内膳が直面した危機感
 狩野内膳一族のブランディング
 狩野内膳一族のマーケティング
 狩野内膳没後の狩野一渓
「南蛮屏風図」の結論
追記:南蛮屏風図の登場人物
 結城了悟の説
 山田無庵の説
 自説の前に
 「リスボン国立博物館本」
 「アメリカ人個人所蔵本」
 異なる老人の位置
 老人は誰だったのか?
 後藤宗印
 最後に
参考資料(略)       】「南蛮屏風図(2021年7月21日 河田容英稿)

`歴博本・南蛮屏風.jpg

(歴史系総合誌「歴博」第122号・「南蛮人来朝図屏風」)→「歴博本・南蛮屏風」
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/122/witness.html

【 当館所蔵の「南蛮人来朝図屏風」は第一類型に分類されるが、来航する南蛮船が2隻であることがきわめて珍しい。近世初期風俗画の主題の多くが、本格的な画技を有する狩野派の絵師たちによってつくりだされたのと同様に、南蛮屏風の各類型の創始にも、狩野光信(かのうみつのぶ)、内膳(ないぜん)、山楽(さんらく)といった一級の絵師たちの関与が示唆されている。当館の屏風も作者こそ不明だが、安定感のある構図と格調高い筆致や上質の絵の具などから、本格的な漢画を学んだ相当の腕前を持つ絵師の作と思われるが、近年、長谷川等伯門人の等学の作とする見解も出されている ( 山根有三 「長谷川派の南蛮屏風について」 『國華』1258号、2000年)。

 南蛮屏風を見るおもしろさのひとつに、当時の日本人の西欧理解が垣間見えることがあげられる。本図にも見られるような長身で鼻の大きい西欧人イメージは現代にもつながるものであるが、先に'異国の港''異国の館'と記し、西欧と書かなかったのは、南蛮風俗や建築の描写には、多分に中国的な要素が混じりこんでいるからである。本図でも、船上のカピタンが水墨画の屏風を背に座す光景には漢画人物の定型が踏襲されているし、港の突端の館で船を眺める異国婦人の風俗も、きわめて中国的なものである。

 ところで、前述のように南蛮屏風が人気を得た理由は、宝船のような'招福'の縁起物とみなされていたからだと考えられている。旧所蔵者には堺や日本海側の回船問屋などの商家が多いことも、それを物語っている。本図もまた、日本海海運の拠点であった越前国三国港近くの旧家のもとにあったと伝えられる。鎖国により南蛮貿易が終息した後でも、南蛮屏風の制作が減少はすれど、完全には途絶えることがなかったのも、この主題がキリスト教とは関係なく、あくまでも縁起物として認識されていたからであろう。 】(歴史系総合誌「歴博」第122号・「南蛮人来朝図屏風」大久保純一稿)

`歴博本・南蛮屏風・左隻.jpg

「歴博本・南蛮屏風」(左隻)→第一類型(南蛮屏風・入港)
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/122/img/byobu2.jpg

`歴博本・南蛮屏風・右隻.jpg

「歴博本・南蛮屏風」(右隻)→第一類型(南蛮屏風・上陸)
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/122/img/byobu1.jpg

狩野内膳・左隻.jpg

「神戸市博本・南蛮屏風(狩野内膳筆)」(左隻)→第二類型(南蛮屏風・出航))
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

狩野内膳・右隻.jpg

「神戸市博本・南蛮屏風(狩野内膳筆)」(右隻)→第二類型(南蛮屏風・入港と上陸))
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 第一類型(入港→上陸)の「歴博本・南蛮屏風」(右隻・左隻)と、第二類型(出航→入港と上陸)の「神戸市博本・南蛮屏風(狩野内膳筆)」(右隻・左隻)とでは、一見すると同じような光景に見えるが、じっくりと細部まで見て行くと、そのイメージの差は顕著となってくる。
 そのイメージの差は、具体的な例示ですると、第一類型(入港→上陸)のイメージは、京都に近い「堺港」に入港し、そして、その「堺」から摂津の「淀川」を上り、京の「南蛮寺」(四条坊門姥柳(うばやなぎ)町)などに向かう一行と解しても、それほどの違和感を覚えない。
 それに対して、第二類型(出航→入港と上陸)のイメージは、やはり、ポルトガル船が初めて日本の地を踏んだ「長崎港」のイメージが抜きがたく、そして、その上陸した一行が向かう「南蛮寺」(教会)も、「開港とともに岬には新しく六つの町(大村町・島原町・平戸町・横瀬浦町・外浦町・分知(文知)町)がつくられ、岬の先端(現在は長崎県庁)には教会(南蛮寺)が建てられた」、その「長崎港」のイメージを除外して、例えば、京の「南蛮寺」などをイメージすることは、これは違和感というよりも許されないであろう。
 この「長崎港と消えた教会群」関連などは、下記のアドレスに詳しい。

http://tabinaga.jp/history/view.php?category=3&hid=186

歴博・南蛮屏風.jpg

「歴博本・南蛮屏風」(右隻)→第一類型(南蛮屏風・上陸)→拡大図

 これが「歴博本・南蛮屏風」(右隻)の、その上陸して「南蛮寺」(教会)に向かう「カピタン図」である。
 これが、冒頭に戻って、岩佐又兵衛が描いた、「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」(「左隻」第一扇中部)の、そのモデル図なのではなかろうか(?)
 そして、この図の右端の上部の「十」(「十」が三つある)と、この「南蛮寺」(?)の門の左側にある「紋章」(?)などが、どうにも、「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」(「右隻」第三扇上部)の「十」の「紋章」と、「舟木本・「阿弥陀胸割」小屋の幔幕の紋)「右隻」第五扇上部)とが、何処となく似通っているイメージを受けるのである。

歴博D本四条仮橋.jpg

「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」(「右隻」第三扇上部)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-30

阿弥陀胸割・家紋?.jpg

「舟木本・「阿弥陀胸割」小屋の幔幕の紋)「右隻」第五扇上部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その三十二) [岩佐又兵衛]

(その三十二) 「舟木本」と「歴博D本」そして「南蛮屏風」との周辺(その一)

歴博D本の南蛮人(仮装行列).jpg

「歴博D本: 二条城前の仮装行列(南蛮人)」(「右隻」第一・二扇中部)
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html

舟木本の南蛮人(仮装行列).jpg

「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」(「左隻」第一扇中部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 「歴博D本: 二条城前の仮装行列(南蛮人)」は、堀川通の二条城前の祇園会の仮装行列の光景である。「二条城」前の行列というと「行幸行列」が描かれるのが通例であるが、この「歴博D本」では、その「右隻」に「山鉾巡行」、そして、「左隻」に「神輿巡行と仮装行列」とを別建てにして描いている。
 そして、「舟木本」では、この「歴博D本: 二条城前の仮装行列(南蛮人)」の、二条城の前に座している「二条城の武将」達と、その前を行く「母衣武者」達とを、「祇園会」の主要なモティーフである「山鉾」に見立てて描き、その「母衣武者」は、この「舟木本」の注文主の一端が覗える「越前松平家」の三人の「結城秀康(「越前松平家」初代)・本田富正(伊豆守・「越前松平家三代に亘る御附家老」・松平忠直(「越前松平家二代)」の見立てであるということなどを、下記のアドレスで言及してきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-16

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-08

三人の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者」(左隻第二扇上部)→「舟木本・母衣武者その一図」

 この「傘鉾・三人の母衣武者」と一体となっていて、その右側の「寺町通」(「南北」の通り)に、上記の「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」が描かれている。
 この「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」の「南蛮人」は、この「歴博D本」を一つの足掛かりにはしているが、この「南蛮人」のモデルは、岩佐又兵衛の師と目せられている狩野内膳の「南蛮屏風」の「カピタン」(「甲比丹・甲必丹・加比旦」=商館長、日本は初めにポルトガルとの貿易(南蛮貿易)を開始したため、西洋の商館長をポルトガル語の「Capitão(カピタン)」で呼ぶようになった。その後ポルトガルに代わりオランダが貿易の主役になったが、この呼び名は変わらなかった)一行などのものを参考にしているものと解せられる。

狩野内膳・左隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・左隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

狩野内膳・右隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 この「狩野内膳筆・南蛮屏風(神戸市立博物館蔵)」については、下記アドレスの紹介記事は次のとおりである。

https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365028

【 スペイン、ポルトガルとの交易の様子を描いた南蛮屏風は16世紀末期から17世紀半ばを中心に制作され、90件以上が確認されています。なかでも、当館が所蔵する狩野内膳(1570~1616)の作品は、緻密な描写と鮮やかな色彩から南蛮屏風の代表的作品として広く知られています。

 左隻には帆を広げ、異国の港を出港する南蛮船と見送りの人々が描かれています。色鮮やかな建物は中国風をベースとしながらも、随所に瑞雲や龍、宝珠が配されたり、ドーム状の建物もあるなど、まだ見ぬ南蛮の地を想像して描いたのでしょう。第5・6扇の霊鷲山のごとき岩、ドーム状の建物に描かれた磨羯魚(まかつぎょ)のような魚も異国の表象。内膳は先行するさまざまな異国のイメージを組み合わせて、はるかなる港を描いたと考えられます。

 右隻には異国からの航海を経て日本の港へ到着した南蛮船、貿易品の荷揚げ、上陸したカピタン一行、彼らを出迎えるイエズス会宣教師やフランシスコ会修道士、日本人信者たちが描かれています。唐物屋には虎や豹の毛皮、絹織物、陶磁器などの貿易品が扱われています。唐物屋の奥には南蛮寺があり、内部では救世主像の掲げられた祭壇の前で儀式が執り行われています。仲介貿易が主体で、貿易と布教が一体となっていた南蛮貿易の実状をよく表されています。象、アラビア馬、グレイハウンド種の洋犬など、南蛮渡来の珍獣が多く描かれているのも特徴です。執拗なまでに緻密な描写、活き活きとした人物表現、鮮やかな色彩など、南蛮屏風のなかでも突出した存在です。

 内膳は摂津伊丹城主・荒木村重の家臣の子。主家が織田信長に滅ぼされたため、狩野松栄に仕えて画家となり、狩野姓を許されました。のち、豊臣家のお抱え絵師として活躍し、「豊国祭礼図屏風」(重要文化財、京都・豊国神社蔵)も手がけました。内膳の落款を伴う南蛮屏風は5件確認されており、神戸市博本には各隻内側に「狩野内膳筆」の款記、白文方郭壺印「内膳」を捺しています。 】(神戸市立博物館)

 この「狩野内膳筆・南蛮屏風(神戸市立博物館蔵)」については、下記のアドレスで、その「左隻」(第五・六扇)に描かれている、「慶長二年(1597)の、「象の来日」(スペインのマニラ総督から秀吉に象が献上される。)」に関連し、次のとおり紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-31

【 (再掲)

南蛮屏風の秀吉と秀頼.jpg

狩野内膳筆「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵・六曲一双)所収「左隻第五・六扇」の「象に乗る人(秀頼?)」と「椅子式駕籠(パランキン)に乗る人(秀吉?)」
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365028

 これらの、狩野内膳の「南蛮屏風」に関しては、下記のアドレスのものが参考となる。

http://blog.nadeg.jp/?eid=18

 それに因ると、この内膳の「南蛮屏風」には、次の事項が盛り込まれているという。

① 天正十九年(1591)の、「長崎にポルトガル船が入港」
② 文禄二年(1593)の、「フランシスコ会修道士が初めて来日」(名護屋で秀吉に謁見、後に一行は畿内へ向かう。)
③ 文禄三年(1594年の、「秀吉の吉野の花見」(秀吉は、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗などの錚々たる武将をはじめ、茶人、連歌師など総勢五千人の供を連れて吉野山で花見を催す。)
④ 慶長二年(1597)の、「象の来日」(スペインのマニラ総督から秀吉に象が献上される。)

 この慶長二年(1597)の「象の来日」が描かれているとすると、内膳の、二十七歳の頃で、この翌年(慶長三年)に、豊臣秀吉は、その波乱に満ちた生涯を閉じている。この頃、内膳は「内膳工房」(内膳と内膳の弟子筋の絵師による工房)で、豊臣家の御用絵師の一人というような位置を占めていたのであろう。
 その「内膳工房」の「内膳の弟子筋の絵師」の一人として、内膳より七歳か八歳年下の二十歳前後の「岩佐又兵衛」も働いていたと、これもまた、その真偽はともかくとして、そのように解して置きたい。 】

ここで、冒頭の「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」に戻って、この南蛮人の「カピタン」(商館長)は、上記の「天正十九年(1591)の、『長崎にポルトガル船が入港』」の時の、当時の居留地マカオから入港したポルトガル船の船長(カピタン・モール)、「ロケ・デ・メロ・ペレイア」なのか、それとも、「慶長二年(1597)の、『象の来日』(スペインのマニラ総督から秀吉に象が献上される。)」時の、イスパニア(スペイン)のマニラ総督「ドン・フランシスコ・テーリョ」が派遣した使節団の「カピタン」(商館長=船長)なのかについて触れたい。

 上記の「狩野内膳筆・南蛮屏風(神戸市立博物館蔵)」は、その真相の背景は、実は、その「左隻」は、《「慶長二年(1597)の、『象の来日』(スペインのマニラ総督から秀吉に象が献上される。)」時の、イスパニア(スペイン)のマニラ総督「ドン・フランシスコ・テーリョ」が派遣した使節団の「カピタン」(商館長=船長)》関連のもので、その「右隻」は、《「天正十九年(1591)の、『長崎にポルトガル船が入港』」の時の、当時の居留地マカオから入港したポルトガル船の船長(カピタン・モール)、「ロケ・デ・メロ・ペレイア」》関連のものと、両者を明瞭に使い分けしているように解したい。
 その上で、冒頭の「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」の「カピタン」は、その「右隻」の、《「天正十九年(1591)の、『長崎にポルトガル船が入港』」の時の、当時の居留地・マカオから入港したポルトガル船の船長(カピタン・モール)、「ロケ・デ・メロ・ペレイア」》関連のものと解したい。

狩野内膳・カピタン.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→ 「狩野内膳筆『右隻』・カピタン図」(第三扇拡大図)

 これが、天正十九年(1591)の、『長崎にポルトガル船が入港』」の時の、当時の居留地・マカオから入港したポルトガル船の船長(カピタン・モール=総括責任者)、「ロケ・デ・メロ・ペレイア」》の威容なのである。
 この、ポルトガル船の船長(カピタン・モール)、「ロケ・デ・メロ・ペレイア」などに関しては、次のアドレスのものは参考となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%93%AE%E5%AF%BA_(%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%B8%82)

舟木本の南蛮人(仮装行列).jpg

「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」(「左隻」第一扇中部)→(再掲)

 上記の、「狩野内膳筆『右隻』・カピタン図」(拡大図)に対する、この上記の「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」=「舟木本・カピタン図」の、この「怯えた様のカピタン図」は、これは、祇園会の仮装行列のものとしても、この「舟木本」が描かれた、慶長十九年(1614)から元和元年(1615)の頃は、丁度、徳川幕府(徳川家康)が直轄地へ出していた禁教令を全国に広げていた時期で、慶長十八年(1613)には、「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」が公布され、その翌年(慶長十九年)に、長崎と京都にあった教会は破壊され、修道会士や主だったキリスト教徒(キリシタン大名・高山右近ら)がマカオやマニラに国外追放されたという時代史的な背景が横たわっている。
 ただし、公的にはキリスト教は禁止になったが、幕府は信徒の処刑といった徹底的な対策は行わず、依然としてキリスト教の活動は続いていた。京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタン達が住む区画も残ったままであったし、幕府が徹底的な対策を取れなかったのは、通説では宣教師が南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためとされる(「ウィキペディア」)。
 これらの、「徳川家康とキリシタン・禁教への道」などの、その時代史的な背景については、下記のアドレスのものが参考となる。

https://www.pauline.or.jp/historyofchurches/history04.php

狩野内膳・ロレンソ了斎.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→ 「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)

 「狩野内膳筆『右隻』・カピタン図」(「右隻」第三扇)の、その右に描かれているのが、この「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(「右隻」第一・二扇)で、この図は、いろいろのことを教示してくれる。
 この図を読み解くためには、次のアドレスの、「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)が参考となる。

http://nagasaki-keizai.co.jp/sky/2003_06.html

【 (前略)
出迎えの人達の中に三人の神父と二人のイルマン、そして、もう一人・若者の案内人、そして、彼等の外にもう一人の老人がいることに注目したい。その老人は特別の服を着ていることに気がつかれるであろう。更に、彼等の後には服装の違った二人のフランシスコ会の修道者と街の人達が描かれている。
(中略)
この屏風に描かれているナウ(ポルトガル船の船型)は以下のことより考えて1591年7月の初め長崎に入港してきたロケ・デ・メル(ロケ・デ・メロ・ペレイア)の船であると考えた。
 其の年は秀吉の朝鮮出兵の準備として肥前名護屋(呼子)を中心にしてお城や陣屋、そのための街が建設されていたので、京都の町より狩野派の絵師達も招かれ活躍していたと神父達の記録に記してある。
 この時、長崎にポルトガル船入港の知らせが各地に伝えられた。秀吉はこの時期にはまだ関東にいたので、名護屋にいた人達は長崎に走ってポルトガル人見物に出かけた。狩野派の画家も長崎に走ったと考える。そして、画家達は長崎の風景、南蛮船、神父達をスケッチした。
 その事は屏風の中に描かれているイエズス会神父達の中にひときわ背が高い神父が描かれているが、この人物こそヴァリニャーノ神父なのである。神父は長崎に天正少年使節一行と共に1590年7月21日、アントニオ・ダ・コスタの船で着いたと記録されている。
 (中略)
 ここで今1つ神父達と共にいる老人の事について考えてみよう。その姿は他の人物に比べて顔面の細部まで陰影をつけ丁寧に描かれている。服装は他の日本人と違い元琵琶法師とよばれた老人を思わせる着物を身につけているが、被っている帽子はイエズス会員の帽子と同じものである。
 老人は右手には杖を持ち、左手にはコンタスを握っている。白い眉の下の目は遠い所をじっと見つめている。当時このような特色をもつ日本人のイエズス会員は、聖F.ザビエルより受洗した盲目の琵琶法師ロレンソりょう斎しか他にいなかった。
 ロレンソは1587年、秀吉のキリシタン追放令のとき、それまで居た京都より長崎に下り、長崎の近くの古賀の教会で2年程活躍したが老年と病気のため長崎のコレジヨに引退していた。
前述のように1590年来航したヴァリニャーノ神父とロレンソは話を交し、1592年2月3日長崎のコレジヨで昇天している。
 以上の事よりヴァリニャーノ神父とロレンソが一緒に入港したポルトガル船を出迎えることができたのは、1591年入港してきたロケの船だけであり、岬の教会も其の年までは建っていたのである。
 (中略)
 唯ここで加えておくことは、屏風に描かれているフランシスコ会の修道者のことである。この屏風は たしかに1591年の長崎の様子を描いたものであるが、その時期にはフランシスコ会士は未だ我が国に は来航していなかったので、内膳は京都に帰って屏風を仕上げるときフランシスコ会士も加えたと考える。内膳がフランシスコ会士をスケッチできた時期は、会士達が肥前名護屋を訪ねた1593年か、其の後京都の町に行った時であると考える。
 以上の事よりこの屏風の下図(構想)は1591年長崎に入港したポルトガル船と町の様子をスケッチし、それを京都に帰り、南蛮屏風として仕上げたものであると考える。 】
(「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」)
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その三十一) [岩佐又兵衛]

(その三十一) 「舟木本」と「歴博D本」との周辺(その五)

歴博D本四条仮橋.jpg

「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」(「右隻」第三扇上部)
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_r.html

 「歴博D本」の「四条河原」の図である。歌舞伎小屋が一つ、人形浄瑠璃小屋が一つで、鴨川に架かっている橋は、板の仮橋である。この「四条の仮橋」については、下記のアドレスが参考となる。

https://rekilabo.com/shijyooohashi/

 これによると、「街道筋にあたる三条大橋と五条大橋が幕府所管の公儀橋として架橋されたのに対して、四条大橋が祇園社(八坂神社)の氏子や僧侶などのお布施によってつくられた勧進橋だった」ため、上記のような板の仮橋だったようである。

古地図・四条仮橋.jpg

「京大絵図」
https://rekilabo.com/shijyooohashi/
[京大絵図] - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286223

 この「四条の仮橋」に隣接した「芸能興行地としての四条河原」関連については、下記のアドレスの「四条河原の歴史的環境(川嶋将生稿)」が参考となる。

http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/jimu/publications/hyosho/03/hyosho-03.pdf

 そこで、寛文四年(一六六五)に刊行された、浅井了意著『京雀』(全七巻)の「五条通」の項に、上記の「京大絵図」の「五条大橋」(豊臣秀吉が大仏造営のために架橋した別名「大仏橋」)や、この「五条大橋」と「旧五条大橋」(清水寺参詣の架橋)周辺の「五条河原の芸能興行地」が「四条河原」(上記の歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」)へと強制移転されたことなどが記されている。
 この、浅井了意著『京雀』(全七巻)についても、下記のアドレスの「国立国会図書館デジタルコレクション」で、その全貌を閲覧することが出来る。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2606985

舟木本・四条河原.jpg

「舟木本(A図);四条河原の歌舞伎・人形浄瑠璃・能の小屋」(「右隻」第四・五・六扇)

舟木本・四条河原・六条三筋町.jpg

「舟木本(B図):四条河原・六条三筋町・五条大橋」(「右隻」第四・五・六扇)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 冒頭の「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」に対応するのは、「舟木本(A図);四条河原の歌舞伎・人形浄瑠璃・能の小屋」である。
 「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」では、「歌舞伎小屋」が一つ、「人形浄瑠璃小屋」が一つであったが、「舟木本(A図);四条河原の歌舞伎・人形浄瑠璃・能の小屋」では、「歌舞伎小屋」二つ、「人形浄瑠璃小屋」二つ、そして、「能の小屋」一つと、大きな「芸能スペース(空間)」として描かれている。さらに、五条河原にも「歌舞伎小屋」が一つ描かれており、「芸能興行地」が、五条河原から四条河原へと主力を移転していることが察知される。
 それ以上に、この「舟木本(A図);四条河原の歌舞伎・人形浄瑠璃・能の小屋」は、「舟木本(B図):四条河原・六条三筋町・五条大橋」のように、その下部に描かれている「六条三筋町(六条柳町)」の「遊郭・遊里」(「遊楽」スペース)と連動していて、この「芸能スペース(空間)」と「遊楽スペース(空間)」とが、あたかも、「方広寺大仏殿→五条大橋→五条通・二条通→二条城」の「横軸」のスペース(空間)に対する「縦軸」のスペース(空間)を形成し、「横軸」のスペース(空間)が「俗世(憂き世)」とすると、この「縦軸」のスペース(空間)は「浮世(浮き世)」というような、二極構造の世界を暗示しているような雰囲気を醸し出している。

舟木本・全図(浮世・俗世).jpg 

「舟木本(C図): 六曲一双(右隻・左隻=全図): 俗世・浮世」

 「舟木本(C図): 六曲一双(右隻・左隻=全図): 俗世・浮世」の、「右隻」の主題は、一見して、豊臣秀吉が建立した「方広寺大仏殿」で、それは、慶長元年(一五九六)の慶長大地震で倒壊し、秀吉の死後、秀頼による、その再建途上の慶長七年(一六〇二)に失火・焼失した後、慶長十七年(一六一二)にようやく再建された、その姿が描かれている(正面の破風が唐破風となっている)。
 さらに、その大仏殿の脇に、いわゆる、「大阪の陣」のきっかけとなった「鐘銘事件」の鐘も描かれており、「右隻」全体として、この「滅びゆく豊臣家」が、これらの背景を成しているだろうということは、容易に察知されるところのものであろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-14

1600(慶長5年) 関ヶ原の戦い。この年に、豊臣秀頼は「方広寺大仏殿」の再建を開始する。
1602(慶長7年) 鋳造中の大仏より出火。大仏殿炎上。
1604((慶長9年 ) 秀吉七回忌の「豊国大明神臨時祭礼」=岩佐又兵衛の「豊国祭礼図屏風」)
1608(慶長13年 ) 秀頼、大仏殿再建工事を着工。
1614`(慶長19年) 大仏殿ほぼ完成するが、「方広寺鐘銘事件」が起きる。
(岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」の「方広寺大仏殿・鐘楼・豊国社・豊国廟」)
1615(慶長20年) 大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。
1662(寛文2年) 地震のために大仏破損、鋳潰され銅銭に。木像仏に作り替えられる。
1798(寛政10年) 大仏殿落雷のため全焼。(芦雪筆「大仏殿炎上図」)

 そして、「左隻」の主題は、慶長五年(一六〇〇)の「関ヶ原の合戦」の翌年の、慶長六年に西国諸大名に命じて築城を着手し、慶長八年(一六〇三)に完成した「二条城」が象徴する「パクス・トクガワーナ=徳川の平和=元和偃武」が、これらの背景を成しているということも、下記のアドレスの「二条城の年譜」などに照らしても、明瞭になってくるものであろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-16

(再掲)

1601年(慶長6年)徳川家康が西国諸大名に命じて二条城の築城に着手。
1603年(慶長8年)二条城完成(現在の二の丸)。征夷大将軍となった家康が入城、拝賀の式をおこなう。
1605年(慶長10年)城内において秀忠が将軍宣下を受け、2代将軍に就任する。
1606年(慶長11年)天守が完成する。
1611年(慶長16年)家康が豊臣秀頼と会見する。
※1614年(慶長19年)大坂冬の陣の幕府本営が置かれる。城内で軍議を開き、当城より出陣(夏の陣も同様)。
※1615年(元和元年)豊臣氏滅亡後、城中で「禁中並公家諸法度」を制定する。

 これらの、この「舟木本」の「横軸」の、「右隻」から「左隻」の「豊臣家の滅亡と徳川家の台頭」いう歴史的な現実の世界を「俗世」(現世=苦難に満ちた「憂き世」)とすると、その「辛気なる『悲』の憂き世」を逆手にとって、「浮世=浮き浮きとした『楽』の浮き世」の世界を「縦軸」として、「横軸」の「豊臣期(豊臣時代)=右隻」から「徳川期(徳川時代)=左隻」の接点となる「五条大橋」(五条大橋で風流踊に興じている「高台院」)の上部(「四条河原」の芸能空間の「楽」の世界=浮世)と、その下部(「六条三筋町」の「楽」の世界=浮世)とに、その世界を、前回に記した、《賀茂川の角度を約二十五度に傾け、左隻には下京、右隻には賀茂川から東山一帯をかけて描く「下京・東山遊楽図屏風」というネーミングが相応しいような構図なのである。(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』)》というように、現出しているということになる。

 ここで、冒頭の「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」(「右隻」第三扇上部)に戻って、この「人形浄瑠璃」小屋の、この「十」の「幔幕」(軍陣などでの周囲に張り巡らす横に長い幕)は、何を意味するのかということなのである。

(再掲)

歴博D本四条仮橋.jpg

「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」(「右隻」第三扇上部)

 一見すると、キリシタンの「十字架」の「十」と見間違うが、これは、「丸に轡(くつわ)十字」の家紋ではなく、「筆書きの十文字」の、やはり、「薩摩」の「島津家」などの家紋と解すべきなのであろう。
 その「からくり」の謎解きのヒントは、下記の「新町通・室町通」などの「店の暖簾」の表示が、「広島屋・大阪屋・えちぜん(越前)屋」などの、「国名(地方名)」のものが多いのである。この隣接した「かぶき小屋」の「幔幕」」も、「さと志ま=佐渡島」の地名の興行小屋のよう雰囲気である。

歴博D本・店の暖簾.jpg

「歴博D本: 下京(新町通・室町通など)の店舗の暖簾」(「左隻」第三・四扇下上部)

舟木本・あやつり小屋.jpg

「舟木本: あやつり(人形浄瑠璃)小屋」(「右隻」第五扇上部)

 「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」の「あやつり(人形浄瑠璃)小屋」が、「舟木本」では、「山中常盤(人形浄瑠璃)」を演じている小屋と「阿弥陀胸割(人形浄瑠璃)」を演じている小屋と二軒が、上記のように描かれている。
 そして、「山中常盤(人形浄瑠璃)」を演じている小屋には、何と「巴紋」の「幔幕」が描かれている。

結城家・家紋.jpg

「結城家(結城秀康・松平忠直)家紋」(「舟木本・「山中常盤」小屋の幔幕の紋)「右隻」第五扇上部)

結城巴.jpg

「結城巴(「松平忠直」家紋)
https://kisetsumimiyori.com/hideyasu/

 このアドレスの「結城秀康の家紋と生涯¬―徳川家康の息子は父と不仲だった!?―」は、下記の項目にわたり「結城秀康・松平忠直」そして「戦国大名の家紋」を知る上で参考となる。

1 「秀康」の文字は秀吉と家康からもらった名前
1.1 秀吉に人質として送られた秀康
1.2 秀吉に実子が生まれて急変する立場
2 関ケ原では父・家康側に就く秀康
2.1 父・家康には嫌われていた?
3 結城秀康の家紋は「右三つ巴」
4 戦国武将117名の家紋一覧をまとめてチェックしよう

 「越前(北庄・福井)松平家」の「結城秀康(初代)・松平忠直(二代)」の家紋は、この「右三つ巴」が「定紋」(正式の紋。表紋)で、「松平忠直(二代)」は、この他に、徳川家の一族のみが使用できる「丸に三つ葉葵」を使用していた可能性についても、下記のアドレスで紹介されている(「松平忠昌(三代)以降は「「丸に三つ葉葵」、この「右三つ巴」は、結城秀康の五男、忠直の弟の「松平直基」が継承することになる)。

https://kisetsumimiyori.com/tadanao/

 ここまで来ると、下記のアドレスでは、《「右三つ巴紋=結城家紋」という雰囲気を有している》に留めていた、下記(再掲)の「舟木本・母衣武者その五図の『右三つ巴紋=結城家紋』(五図の二)」は、「右三つ巴紋=結城家紋」と解し、この「母衣武者」は「松平忠直」の英姿を見立てているものと、その解を一歩進めたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-08

(再掲)

母衣武者・三つ右巴紋.jpg

「舟木本・母衣武者その五図の『右三つ巴紋=結城家紋』(五図の二)」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 この「母衣武者」の、この「能・鞍馬天狗」(「鞍馬天狗」その二図)の、その「鞍馬天狗」の持っている「団扇」の形状の、その「指物」(旗指物、背旗)の中央に描かれている、この「家紋」が、「結城巴(「松平忠直」家紋)の、「右三つ巴紋=結城家紋」と解しても、依然として、その折に触れた、下記の、《下総結城氏十七代当主・結城晴朝の肖像画(「ウィキペディア」)の右手に持っている「団扇」の紋章の「三つ盛り三つ巴」》との整合性の問題はクリアしていない。
 この整合性の問題に関連しては、「定紋」(正式の紋。表紋)は、「右三つ巴紋」で、「替紋」(定紋のかわりに用いる紋。裏紋)の一つが、下総結城氏十七代当主・結城晴朝が持っている「団扇」の「三つ盛り三つ巴」と解して置きたい。

結城晴朝肖像.jpg

「結城晴朝肖像(安穏寺所蔵・東京大学史料編纂所模本)」(「ウィキペディア」)

(追記)

file:///C:/Users/User/Downloads/201603%20kume.pdf

「『阿弥陀胸割』の成立背景―法会唱導との関わり(粂汐理稿)」

【 上演記録が集中する慶長十九(一六一四)年前年は、徳川家康によって、キリスト教禁止令が発せられた年である。この頃から元和の大殉教に日本国内でキリシタンの迫害や殉教が激しさを増していった。和辻哲郎氏が述べるように、『阿弥陀胸割』の胸を割られて血を流す阿弥陀像に、キリスト像の投影がある可能性もあろう。当時の日本では、異国の説話や芸能を取り入れる環境が十分に整えられていたことも、近年報告されている。
 加えて繰り返し登場する、一光三尊の阿弥陀像も、慶長二(一五九七)年に行われたれた信濃善光寺如来(一光三尊像)が京都の方広寺に遷座された出来事も踏まえている可能性がある。こうした社会状況を押さえることで、『阿弥陀胸割』の詳しい成立背景が見えてくるのではないか。この問題については、国文学研究資料館所蔵古活字版の特徴と併せ、稿をあらためて述べてゆきたい。】

 上記の論稿(粂汐理稿)の、「慶長二(一五九七)年に行われたれた信濃善光寺如来(一光三尊像)が京都の方広寺に遷座された出来事も踏まえている可能性がある」ということは、下記の出来事を踏まえている。

【本尊は武田氏が織田信長に滅ぼされると(甲州征伐)、その嫡男・織田信忠によって伊奈波(善光寺 (岐阜市))へ、本能寺の変の後には織田信雄により尾張国甚目寺へ、譲り受けた徳川家康の手で遠江国鴨江寺、後に甲斐善光寺へと転々とした。1597年(慶長2年)には豊臣秀吉の命令で甲斐から京都の方広寺へと移されたが、1598年(慶長3年)に秀吉の病は本尊の祟りであるという噂から、死の前日に信濃へ帰された。この間、大本願の鏡空(智淨)や智誓(誓観)、智慶という三代の尼上人らが本尊に付き従って移動したとされ、大勧進の僧集団は残って本尊不在の荒れ果てた寺地を守っていたとされる。 】(「ウィキペディア」)

 それ以上に、「上演記録が集中する慶長十九(一六一四)年前年は、徳川家康によって、キリスト教禁止令が発せられた年である」に関連しては、下記のことなどが、その背景になっている。

【 江戸幕府は慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告する。これ自体はあくまで幕府直轄地に対するものであったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め、同様の施策を行った。これは江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令であった。
 これは布告された教会の破壊と布教の禁止以外にも、家臣団の中にいるキリスト教徒の捜査が行われ、該当した者は場合によって改易処分に付されるなど厳しい処置が取られた。特に旗本だった原胤信は、出奔後も信仰を続けたために家康の怒りを買い、最期は処刑されている。
 その後、一連の処置を総括した「条々」が同年8月6日に出され、1612年の禁教令は一段落する。また同年5月、岡本大八事件で改易された最後のキリシタン大名・有馬晴信が切腹に処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消した。
 そして、翌慶長18年12月19日(1614年1月28日)、幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げた。また、合わせて家康は以心崇伝に命じて「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」を起草させ、秀忠の名で12月23日に公布させた(これは崇伝が一晩で書き上げたと言われる)。以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法となる。
 この禁教令によって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌1614年11月(慶長19年9月)には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放された。その中には著名な日本人の信徒であった高山右近もいた。
 ただし、公的にはキリスト教は禁止になったが、幕府は信徒の処刑といった徹底的な対策は行わなかった。また、依然としてキリスト教の活動は続いていた。例えば中浦ジュリアンやクリストヴァン・フェレイラのように潜伏して追放を逃れた者もいたし(この時点で約50名いたといわれる)、密かに日本へ潜入する宣教師達も後を絶たなかった。京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタン達が住む区画も残ったままであった。幕府が徹底的な対策を取れなかったのは、通説では宣教師が南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためとされる。 】(「ウィキペディア」)
 
 この当時の江戸幕府の「キリスト教禁止令」の背景を知るには、下記のアドレスが参考となる。

https://toyokeizai.net/articles/-/355272

【 家康がキリスト教を禁止したのは、慶長14(1609)年に起きたポルトガルとのトラブルが契機になっていた。日本の朱印船が、マカオでポルトガル船のマードレ・デ・デウス号とトラブルになり乗組員60名が殺されてしまったのだ。
 その報復として、日本側は長崎に入港していたデウス号を撃沈させた。この一連の出来事では、幕府の役人と肥前日野江藩(長崎県)主の有馬晴信とのあいだの贈収賄事件なども絡み、江戸幕府草創期の大不祥事となった。この事件により、慶長17(1612)年に、家康は幕府直轄領に対して、キリシタンの禁制を発令した。
 しかし、この事件は、単なるきっかけに過ぎず、家康はキリスト教禁教の機会をうかがっていたのである。
 戦国時代当時、キリスト教は、我々が思っている以上に普及していた。キリシタン大名の追放が始まった慶長19(1614)年の時点で、日本人の信徒の数は少なく見積もっても20万、多い場合は50万人ほどいたと見られている。
 当時、日本の人口は1200万人程度だったとされているので、人口の2〜4%がキリスト教徒だったことになる。長崎を中心に、博多、豊後(大分)、京都などに布教の拠点があり、ポルトガル人やスペイン人の宣教師や教会関係者は、国内に100〜200人程度いて、教会は200か所あった。長崎などは、一時、イエズス会の領地のようになっていたこともあった。】(徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情)

「舟木本: あやつり(人形浄瑠璃)小屋」(「右隻」第五扇上部)の、この「阿弥陀胸割」の方も、どうやら、この、当時の「当時の江戸幕府の「キリスト教禁止令」と深い関わりのある雰囲気が彷彿と伝わって来る。
そして、この「阿弥陀胸割(あやつり)」の謎解きも、上述してきた「山中常盤(あやつり)」と、その謎解きのキィー・ポイントの一つであった「右三つ巴紋=結城家紋」と同じように、ここに描かれている「幔幕」の、下記の「家紋」らしきものからスタートするのが肝要なことなのかも知れない。
しかし、これは、「山中常盤(あやつり)=右三つ巴紋(結城家紋)」以上に、どうにも、
まだ、そのスタートの地点にも立っていない、全くの未踏査の分野ということになる。

阿弥陀胸割・家紋?.jpg

「舟木本・「阿弥陀胸割」小屋の幔幕の紋)「右隻」第五扇上部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 この「幔幕」の「家紋」らしきもの、どうにも正体不明だが、この傍に座っている二人の人物も、下記アドレスの、「岩佐又兵衛と兄弟子(?)」(「寝そべっての観客二人)に、何処となく似通っている雰囲気である。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-31

寝そべっての観客二人.jpg

「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」(右隻第一扇中部)→B図(その八)=A-3図(その十二)
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その三十) [岩佐又兵衛]

(その三十) 「舟木本」と「歴博D本」との周辺(その四)

歴博D本・六条三筋町jpg.jpg

「歴博D本:六条三筋町・東寺・西本願寺・東本願寺」図(「左隻・説明入り画像版」第五・六扇下部)→「歴博D本:六条三筋町」図


六条三筋町舟木本・.jpg

「舟木本: 六条三筋町・東寺・西本願寺・東本願寺」図(「右隻」第一・二・三扇下部)→「舟木本:六条三筋町」図

 「洛中洛外図屏風」の、「歴博D本」と「舟木本」とは、上記のとおり、方位的に比較すると、全く、似ても非なるものであるが(「歴博D本」は右=北、「舟木本」は「上」=北で、それぞれ「距離間」を異にする)、その細部を見て行くと、これは、紛れもなく、「舟木本」が、その先行的な作品の「歴博D本」を換骨奪胎して、そして、そのエキスのようなポイントを実に巧みにアレンジしていることが、この両図(「歴博D本:六条三筋町」図と「舟木本:六条三筋町」図)を見比べただけでも、その一端が見え隠れしてくる。
 実際の「京都市街図」と「舟木本」との関係とは、下記の「京都市街図と洛中洛外図(舟木本)」(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』所収P80)のように、「舟木屏風の構図」は、賀茂川の角度を約二十五度に傾け、左隻には下京、右隻には賀茂川から東山一帯をかけて描く「下京・東山遊楽図屏風」というネーミングが相応しいような構図なのである(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』)。

京都市街図と舟木本.jpg 

「京都市街図と洛中洛外図(舟木本)」(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』所収P80)→「京都市街図と舟木本」図

 「歴博D本:六条三筋町」図と「舟木本:六条三筋町」図とを交互に見ていて、つくづく度肝を抜かれるのは、「歴博D本:六条三筋町」図の、左端の最上部の「東寺」が、何と、「舟木本:六条三筋町」図では、『東本願寺』と「西本願寺」との間におさめるという、これぞ、この筆者の「岩佐又兵衛」の「離れ業」の妙手であろう。
 その「岩佐又兵衛」の「離れ業」の妙手の種明かしは、上記の「京都市街図と舟木本」図
(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』所収P80)に要約されている。
 この「京都市街図と舟木本」図の、実際の「京都市街図」の、京都駅の左(西)の下(南)に表示されているのが「東寺」で、その「東寺」が、上部(北)の「京都御所」と「二条城」の下部(南)まで引き上げられており、その「東寺」は、「西本願寺」と「東本願寺」とに挟まれて描かれている。
 そして、その「東寺」と「東本願寺」の右(東)の下部(北)に、本来、「東本願寺」の上部(北)に位置する「六条柳町(六条三筋町)」が、実に、その「舟木本」の「左隻」(下京)と「右隻」(東山一体)とをドッキングするように、その両隻の結合する下部に描かれている。

舟木本・六条柳町(右隻・左隻)=合成図.jpg

「舟木本・六条柳町(「右隻」第五・六扇と「左隻」第一扇の合成図)」→「舟木本・六条柳町(右隻・左隻合成図)」

 この「舟木本・六条柳町(右隻・左隻合成図)」の、「舟木本・六条柳町(「右隻」第五・六扇図)」は、下記のとおりである。

舟木本・六条柳町(右隻).jpg

「舟木本・六条柳町(「右隻」第五・六扇図)」

 この「六条柳町(六条三筋町)」は、「北は五条から南は六条、東は室町から西は西洞院にあった遊里、六条柳町ともいわれ、慶長七年(一六〇二)、二条万里小路(二条柳町)から、この地に移され、上・中・下の三筋町と西洞院から成り、寛永七年(一六四〇)、島原に移されるまで、この地にあった。」(『近世風俗地譜四・洛中洛外二』P96)

この「舟木本・六条柳町(「左隻」第一扇図)」は、次のとおりである。


舟木本・六条柳町(左隻).jpg


「舟木本・六条柳町(「左隻」第一扇図)」

 この「六条柳町(六条三筋町)」については、下記のアドレスの「消えた六条三筋町」が参考となる。

http://xymtex.com/kyomeguri/kyomeguri-jintan6.pdf

 この岩佐又兵衛が描いた「舟木本」の「六条柳町(六条三筋町)」の原型(モデル図)は、下記の「歴博D本:六条三筋町」図(拡大図)にある。

歴博D本・六条三筋町.jpg

「歴博D本・六条柳町(「左隻」第五扇図)」(拡大図)

 この「歴博D本・六条柳町(「左隻」第五扇図)」(拡大図)は、「舟木本・六条柳町(「左隻」第一扇図)」に比して、単なる、洛中(下京)の一角に、慶長七年(一六〇二)の、二条城の整備、或いは、御所に近いなどという理由で、二条柳町にあった遊郭地を六条柳町(六条三筋町)へ強制移転させられた頃の、その街角の一角という雰囲気である。
 これが、「舟木本・六条柳町(「左隻」第一扇図)」になると、その左に描かれている「東本願寺」の「『憂き世からの救いの祈りの世界』=信仰=『聖』なる世界」から、「『浮き世を肯定する享楽の世界』=遊里=『遊』の世界」の、「浮世の世界」(『浮世物語(浅井了意著)』の「当座にやらして、月、雪、花、紅葉にうちむかひ、歌をうたひ、酒のみ、浮きに浮いてなぐさみ、手前のすり切り(無一文)も苦にならず、沈み入らぬこころだての、水に流るる瓢箪(ひょうたん)のごとくなる」)の世界が現出してくることになる。
 岩佐又兵衛が「浮世絵の元祖」といわれる所以は、実に、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の、この「舟木本」の「右隻」と「左隻」と、その下部(底辺)でドッキング(結合)して支えている、この「舟木本・六条柳町(右隻・左隻合成図)」・「舟木本・六条柳町(「右隻」第五・六扇図)」・「舟木本・六条柳町(「左隻」第一扇図)」の、ここに描かれている、様々な「男女の交歓図」の、その生き生きとした活写の中に由来している。
 これらのことに関しては、下記のアドレスの「浮世絵の構造(小林忠稿)」が参考となる。

https://www.gakushuin.ac.jp/univ/g-hum/art/web_library/author/kobayashi/structure_of_ukiyoe/index.html

 さらに、「舟木本・六条柳町(「左隻」第一扇図)の「東本願寺(聖)=憂き世」と「六条柳町(遊)=浮き世」とが、その上部(北側)に描かれている「五条通と往来する人々(俗)=現世」が、ここに、「憂き世(聖)=浮き世(楽)=現世(俗)」の、ここでも、三位一体の世界が現出してくる。
 これらの「舟木本・六条柳町(六条三筋町)」関連については、下記のアドレスで、その一端を触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-11

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-17

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-24

 ここでは、その中の、下記のアドレスの、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』で紹介している次の論稿などを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-17

(再掲)

【 「佐藤康宏『改訂版 日本美術史』の舟木屏風」
 岩佐又兵衛によって風俗画の性格は大きく変わり、浮世絵に直結する表現を見せる。旧蔵者の名前によって舟木本と呼ばれる「洛中洛外図」は、彼の初期の作品と考えられる。舟木本は一六一四年ころの京都の景観を描き、二条城と方広寺大仏殿とを左右隻に対峙させ、当時の微妙な政治状況を示唆する。洛中洛外図という室町時代以来の主題で表現を一新した舟木本は、日本の風俗画の歴史において分水嶺というべき位置にある。どの部分を取っても現実感に富む描写の中で興味深いのは、都市生活の享楽面に取材の力点を置いていることである。四条河原の芸能や六条柳町の遊里には特に溌剌とした描写を見せ、踊る遊女たち、往来で人目をはべからず抱き合う侍と遊女に、客や通行人の視線がじっと注がれているのが印象的である。表現のレヴェルでは、人が人を見つめる行為が作る熱気を都市の生命力の表現に生かした画だといえるとともに、女歌舞伎の流行と娼婦を一定の地域に集めて公許の遊里とする公娼制度の成立とが、現実にも絵画の中にも〈見世物としての女〉を生み出したことを、舟木本は鋭く報告してもいるのである。又兵衛が江戸時代に「浮世又兵衛」とか浮世絵の祖と呼ばれたのは、確かに理由のあることであった。

「佐藤康宏『岩佐又兵衛行状記《『岩佐又兵衛全集・研究偏』》』所収の「右隻と左隻の違い」
……右隻と左隻とで人物の描写を比較すると、右隻のシャープで明確な描写に対して左隻にゆるんだ描写が目立つ。左隻に描かれる人物が右隻のそれよりも頭が大きめに描かれ、表情など、よりわかりやすいけれども単調な描写になる傾向を持つ。右隻の方がよりすぐれた腕前の画家の手で一貫して仕上げられ、左隻には助手の手が多く入っていると見える。すなわち、右隻の方は主として又兵衛が描いたと考えられるが、彼がこの時点で工房制作を実践していたこともわかる。 】(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P36-45)

東寺の老僧・若い女.jpg

「東寺の表(読経と信者)と裏窓(老僧と女)」(左隻第一・二扇の下部)→A-9図)

 「右隻」と「左隻」とをドッキングする場面の「六条三筋遊郭」(A-7図・A-8図)に続けて、「左隻」(第一・二扇)に「東寺・東本願寺」が描かれていて、その『東寺』の図の一部に、上記の「東寺の表(読経と信者)と裏窓(老僧と女)」(A-9図)が描かれている。この図の左上には、「読経している僧たち」で、その前方に「男女の信者たち」、そして、この左端の宿坊の一室で「老僧が若い女を背後から抱きしめている」。
 これは、「六条三筋町遊郭の裏窓」の「化粧中の女たち」(A-5図)と「湯浴みする女」(A-6図)と同じ筆法の「聖(聖なる東寺=信仰)」と「俗(聖者=老僧の本性剥き出しの若き女とのスナップ)」との、その対比の世界の描出ということになる。
 そして、この「聖と俗」との対比の世界は、次の「右隻」の「六条三筋遊郭」に続く東側の鴨川沿岸の次の図と連なっている。

六条三筋・東・田園・僧と尼.jpg

「六条三筋町東側の鴨川沿岸(農夫・薪を運ぶ牛車・僧と尼の密会)(右隻第四扇下部)→B-1図

 この図(B-1図)の下段の「僧と尼」とは、この図だけでは、「僧と尼との密会」というイメージは浮かんでこないが、これが、先の「東寺の表(読経と信者)と裏窓(老僧と女)」(A-9図)と併せ見て行くと、途端に、「聖と俗(聖職者たちの密会)」とのドラマの一コマというイメージが浮かんでくる。
 そして、それはまた、新たなる「聖と俗(聖職者と民衆(働く人々))」との対比というイメージに連なってくる。

六条三筋・東・聖と俗とのドラマ.jpg

「六条三筋町東側の鴨川沿岸(自然と人とのドラマ)(右隻第三・四扇下部)→B-2図

 この図(B-2図)の左端は、前図(B-1図)、そして、この右端は「鴨川を渡る牛車や人の群れ」、それに続く鴨川沿岸は『田打ち』など耕作図」、そして、「洛外(東山)から洛中(下京)へと向う道中図」ということになる。
 これらを全体(A-3図~A-9図、B-1図~B-2図)として、総括的に見て行くと、「自然と人そして歴史とのドラマ」という、壮大なイメージが湧いてくる。

(追記) 仮名草子『露殿物語』と「六条柳町(六条三筋町)」などについて

【 仮名草子『露殿物語』には、江戸時代初頭の三筋町風景が活写されている。三筋町の両端には木戸門が設けられ、左の木戸門の傍らには髪結床(かみゆいどこ)が見られる。また中央の三階蔵が描かれているのは、象徴的である。(『洛中洛外図屏風』岡山美術館蔵) 】
(『近世風俗図譜四 洛中洛外二』P100)

 この仮名草子『露殿物語』関連については、下記のアドレスの「露殿物語をめぐって(青山忠一稿)」が参考となる。
 
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kinseibungei/14/0/14_2/_pdf

 そこで、この『露殿物語』の作者について、「烏丸光広・中院通村・近衛信尋」の三人について言及している。この「烏丸光広」は、仮名草子『竹斎』・『仁勢物語』の作者にも擬せられており、『めざまし草』の「跋文」に署名を残しているなど、この「仮名草子」の世界でも、主要な人物の一人で、その「仮名草子」と、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の関連については、これは素通りすることは出来ないであろう。


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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十九) [岩佐又兵衛]

(その二十九) 「舟木本」と「歴博D本」との周辺(その三)

歴博D本・京都所司代.jpg

「歴博D本・京都所司代の裁判風景」(左隻第二・三扇上部)→「歴博D本・京都所司代図」
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html

舟木本・二条城の裁判.jpg

「舟木本・二条城の裁判・料理風景」(左隻第五・六扇)→「舟木本・二条城図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 「歴博D本・京都所司代図」の方位は、右側(北)、左側(南)、上部(西)、下部(西)で、「二条城」の北側の堀に「京都所司代(屋敷)」がある。
 それに対して、「舟木本・二条城図」の方位は、右側(東)、左側(西)、上部(北)、下部(南)で、「二条城」の北側の「京都所司代(屋敷)」は描かれていない(省略されている)。

二条城と京都所司代.jpg

「二条城と京都所司代(屋敷)図」(「寛永後萬治前洛中絵図」)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=5&xywh=4481%2C7231%2C5767%2C11691&r=270

 この「二条城と京都所司代(屋敷)図」は、右側(東)、左側(西)、上部(北)、下部(南)で、「二条城」と「京都所司代」(「板倉周防守」屋敷)とは、明確に区別されていて、実際の絵図としては、「歴博D本・京都所司代図」が、この「二条城と京都所司代(屋敷)図」(「寛永後萬治前洛中絵図」)とに合致する。
 即ち、「舟木本・二条城図」の、「二条城内での京都所司代・板倉勝重の民事裁判」の図は、この舟木本の筆者・岩佐又兵衛のフィクションで、実際の民事裁判の風景は、「歴博D本・京都所司代図」の方が実景に近いものなのであろう。
 では、何故、岩佐又兵衛は、この図のようなフィクションを施したのかというと、次のアドレスの「二条城の歴史・沿革」を見ていくと、その一端が浮かび上がってくる。

https://kojodan.jp/castle/13/memo/3491.html

1601年(慶長6年)徳川家康が西国諸大名に命じて二条城の築城に着手。
1603年(慶長8年)二条城完成(現在の二の丸)。征夷大将軍となった家康が入城、拝賀の式をおこなう。
1605年(慶長10年)城内において秀忠が将軍宣下を受け、2代将軍に就任する。
1606年(慶長11年)天守が完成する。
1611年(慶長16年)家康が豊臣秀頼と会見する。
※1614年(慶長19年)大坂冬の陣の幕府本営が置かれる。城内で軍議を開き、当城より出陣(夏の陣も同様)。
※1615年(元和元年)豊臣氏滅亡後、城中で「禁中並公家諸法度」を制定する。
1620年(元和6年)2代秀忠の娘、和子が後水尾天皇の女御として二条城より入内する。
1624年(寛永元年)3代家光が行幸に向けて城の拡張、殿舎の整備に着手する。
1625年(寛永2年)二条城を守衛する役として二条城代を設置。渡辺山城守が初代。
1626年(寛永3年)本丸、二の丸、天守の増改築が完了する。9月に後水尾天皇が中宮和子とともに行幸(5日間)。
1634年(寛永11年)家光が30万人と称する大軍を率いて上洛し、入城する。

 岩佐又兵衛が、この「舟木本」を制作したのは、慶長十九年(一六一四)から元和二年(一六一五)にかけての頃と推定すると、上記の年表の「1615年(元和元年)豊臣氏滅亡後、城中で『禁中並公家諸法度』を制定する」ことと関連し、それを示唆するための、「二条城内での『裁判風景』と『接待料理風景』」というのが、このフィクションの背景ということなのかも知れない。
 これらのことを明確に指摘したのは、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の、下記アドレスのものの中においてであった。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

【第六章 二条城へ向かう武家行列と五条橋上の乱舞―中心軸の読解
 第一段 牛馬の数
 第二段 物資や人を運ぶ牛馬
 第三段 二条通が五条通につながる
 第四段 舟木屏風を座って見る
 第五段 中心軸上に描かれた二つの印象的な集団
 第六段 ドグマからの脱却
 第七段 表現上の焦点となっている二つの集団
 第八段 二条城に向かう武家の行列
 第九段 読解の手がかりはないか?
 第十段 駕籠舁きの鞠挟紋
第十一段 近習出頭人
第十二段 鞠挟紋は重昌の家紋
第十三段 板倉重昌の上洛とその政治的役割
第十四段 方広寺鐘銘事件での上洛ではない
第十五段 猪熊事件の際の上洛
第十六段 大御所家康の政治意思
第十七段 板倉重昌は乗馬しているのでは?
第十八段 注文主は板倉氏か?
第十九段 五条橋上で踊る一行
第二十段 老後家尼
第二一段 花見踊りの一行の姿
第二二段 傘の文様は?
第二三段 豊国祭礼図屏風の老後家尼
第二四段 高台院の屋敷が左隻第四扇に描かれている
第二五段 どこで花見をしたのか?
第二六段 豊国社の枝垂れ桜は物語る
第二七段 右隻の中心で踊る高台院
第二八段 両隻にある「寶」「光」と豊公贔屓
第二九段 徳川美術館本豊国祭礼図屏風の「豊光」の旗
第三十段 暖簾に豊公敬意の心情を描く
第三一段 右隻は物語る
第三二段 近世風俗画誕生の「坩堝」  】(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P179-213)

 その前章の「第五章 猪熊事件・公家の放鷹禁止そして公家衆法度―左隻の読解」(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P140-178))の、次の事項と大きく関係する。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-11

【《駿府の広橋兼勝と板倉勝重》《公家衆法度の制定》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P170-172)

「武家伝奉が広橋兼勝一人だけであった、この時期は、丁度、公家衆法度の作成プロセスと合致する時期であった。慶長十八年(一六一三)四月九日、武家伝奉広橋兼勝は駿府に下った。駿府の大御所徳川家康の下で、京都所司代板倉勝重と武家伝奉広橋兼勝とは、この任に当たったのである。そして、同年六月十六日に、大御所徳川家康は公家衆法度を制定した。

 諸公家(公家衆)法度

一、公家衆家々之学問(以下略)=要約( 公家は各家の代々の学問に油断無く励むべきこと)
一、不寄老若背行儀法度(略)=要約( 行儀・法の違反老若問わず流罪に処すべきこと)
一、昼夜之御番老若背行為(略)=要約( 昼夜懈怠なく老若共に仕事を相勤むべきこと)
一、夜昼共ニ無指用所ニ(略)=要約(昼夜用無き所に徘徊することを堅く禁ずること)
一、公宴之外私ニテ不似合勝負(略)=要約(賭事・不行儀の公家近侍も先条に因ること)

 この「公家衆法度五ヵ条」は、慶長十四年(一六〇九)の「猪熊事件」を踏まえての、公家衆の風儀の矯正を狙いとしたもので、特に、その二条の「行儀・法の違反老若問わず流罪に処すべきこと(但し、罪の軽重に依る「年序」別に定るべきこと)」は、公家衆の予期せぬものであったことが、『時慶卿日記』(慶長十八七月十二・十三日条)から読み取れる。」 】
(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P171-178の要約)

民事裁判する市倉勝重.jpg

「二条城の民事裁判」(左隻第六扇下部)

《二条城と所司代屋敷》《舟木屏風の制作は元和元年の禁中並公家諸法度制定以前である》《二条城の民事裁判》《民事訴訟を裁く京都所司代板倉勝重》《京の秩序を守る所司代》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P174-178)

「実際の『武家伝奉広橋兼勝の招宴』や、『民事訴訟の裁判』をする所は、二条城に隣接した所司代屋敷であろうが、この舟木屏風では、それらを一体のものとして、二条城の一角での図として描かれている。」

左六下・板倉勝重の九曜紋.jpg

「板倉勝重の九曜紋」(左隻第六扇下部=拡大図)

「この中央の武士の羽織には、かすかに九曜紋が読み取れる。板倉(勝重)家の家紋は、『左巴・九曜巴・菊巴・花菱』などである(『寛政重修諸家譜』)。これは「九曜巴」で、この中央の武士こそ、板倉勝重なのである。」
 (メモ) 板倉勝重は、徳川家康の信任が厚く、慶長六年(一六〇一)に京都所司代となり、十八年に及び市政に尽力し、『板倉政要』(判例集)は彼と子重宗の京都市政の記録で、その名奉行ぶりは夙に知られている。その書は本阿弥光悦に学び、元和元年(一六一五)の、光悦の「鷹峯」(芸術の村)移住なども、家康との仲介をとり、板倉勝重の配慮として伝えられている。」

 ここで、「歴博D本・京都所司代図」をモデルとした「舟木本」が、その図を「舟木本・二条城図」のように、「二条城と京都所司代(屋敷)とを一体化」してのフィクション化しているということになると、先に、「歴博D本・京都所司代図」をモデル化としての、下記アドレスの、「舟木本・母衣武者その三図」の見立て(徳川家康)と「舟木本・母衣武者その四図」の見立て(徳川秀忠)とは、別人をもって見立替をした方が、より、この「舟木本」の筆者・岩佐又兵衛とその周辺の人物の制作意図の意に叶うのではないかという見方も成り立つであろう。
 即ち、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の、その「右隻」(主として「慶長十九年前後の豊臣家の滅亡」関連)と、その「左隻」(主として「元和元年の徳川家の元和偃武」関連)の両隻とも、先の見立ての「大御所・徳川家康」と「将軍・徳川家忠」とは、具体的に前面に出さずに、例えば、この「舟木本」の注文主とも考えられる「松平忠直」などの「越前松平家」周辺の見立ての方が、より、この「左隻」の「三人の母衣武者」に相応しいのではないかと見方である。
 この見方からすると、この「三人の母衣武者」の見立ては、次のとおりに解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-08

馬藺指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」(左隻第二扇上部)→「舟木本・母衣武者その三図」

 先の見立ての「徳川家康」を、「初代越前松平家藩主・結城秀康」と見立替え(先に見立てたものを取りやめて、後から見立てたものと取り替えること)をしたい。
 下記の「結城秀康 略年譜」のとおり、「徳川(松平)家康の次男(三男・秀忠)」として誕生、そして、豊臣(羽柴)秀吉の養子となり「羽柴秀康」、さらに、関東の守護大名の結城晴朝の養子となり「結城秀康」と、三度、その「姓」を替えて、「慶長5年(1600) 27歳 家康の命により下野国小山に滞陣して上杉景勝の動きを押える。関ヶ原の戦いの後、戦功として越前68万石を拝領する」と、「関ヶ原の戦い」の後、「越前68万石を拝領」した、この「初代越前松平家藩主・結城秀康」こそ、この「舟木本・母衣武者その三図」の一番手に相応しいであろう。

【(結城秀康 略年譜) → 初代越前松平家藩主(※印は「本田富正」関連)

天正2年(1574) 1歳 徳川家康の次男として、遠江国敷智(ふち)郡宇布見(有富美)村(現静岡県雄踏町)の中村源左衛門家で誕生する。
天正7年(1579) 6歳 兄信康(家康の長男)が自害する。
天正12年(1584) 11歳 小牧・長久手の戦いの講和後に羽柴秀吉の養子となり、羽柴秀康と称して河内国に所領を与えられる。

※天正13年(1585)12歳 「本田富正(14歳)、本家筋の甥・本田成重に替わり『秀康』の附属同行・側近(側仕え)として仕える。〔ウィキペディア〕」

天正13年(1585) 12歳 元服して従四位下・三河守に叙任される。
天正15年(1587) 14歳 秀吉の九州征伐に従い初陣を果たす。
天正18年(1590) 17歳 秀吉の命を受けて結城晴朝の養子となる。晴朝の養女鶴姫と婚姻し、下総国結城10万1千石を相続する。

文禄4年(1595)22歳 嫡男国丸(2代藩主松平忠直)が誕生する。母は側室・中川氏。
慶長2年(1597) 24歳 次男虎松(3代藩主松平忠昌)が誕生する。母は側室・中川氏。
慶長5年(1600) 27歳 家康の命により下野国小山に滞陣して上杉景勝の動きを押える。
関ヶ原の戦いの後、戦功として越前68万石を拝領する。
※「本田富正(29歳)、越前府中(武生)3万9千石の領主(大名格)として、また、『越前藩主・秀康』の御附家老として仕える。〔ウィキペディア〕」

慶長6年(1601) 28歳 越前の地へ初入封し、養父晴朝も越前へ移住する。 北庄城(福井城)の修築普請を開始する。
※「本田富正(30歳)、)結城秀康,北庄城受取りのために本多富正を先発させる。〔福井県史・家譜〕」
慶長8年(1603) 30歳 家康が征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開く。
慶長10年(1605) 32歳 権中納言に任じられる。弟秀忠が2代将軍となる。
慶長11年(1606) 33歳 禁裏・仙洞御所普請の総督を命じられる。伏見城の留守在城を命じられる。
慶長12年(1607)34歳 伏見より帰国し、北庄城において没する。    
※「本田富正(36歳)、『主君の秀康が死去すると、家中では追腹を行う者が出る中、富正は病気の秀康の名代という形式で駿府城改築の指揮を執っていたため追腹が行えずにいた。追腹が続く状況を危惧した江戸幕府により、2代将軍・徳川秀忠から特使の近藤季用が派遣された。近藤により大御所・家康や幕閣である本多正純署名の書状がもたらされ、これにより今村盛次、片山吉次らその他複数の福井藩の重臣、特に富正の殉死(追腹)は固く禁じられたため、富正は剃髪するにとどまった。また幕府の直命により富正は引き続き福井藩の執政、秀康の子の松平忠直の補佐を勤めることとなった。慶長12年(1607年)、本多家は本藩とは別に、直々に江戸に上屋敷と下屋敷を賜ったが『上屋敷だけで充分』として下屋敷を返上している。』〔ウィキペディア〕 】

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「傘鉾・三人の母衣武者の二番手の武者」(左隻第二扇上部)→「舟木本・母衣武者その四図」

 先の見立ての「徳川秀忠」は、上記の「結城秀康(略年譜)」の「(※印は『本田富正』関連)」の、「結城秀康の越前入府に御附家老そして越前府中城主の『本田富正(伊豆守)』」
が、その一番手(「初代越前松平家藩主・結城秀康」)の、その終生の「御側用人・万端の用人」として、その二番手として登場させても格別の違和感は抱かないであろう。
 そして、下記の「松平忠直 略年譜」の「慶長十六(1611)」、「越前松平家二代藩主・松平忠直(17歳)の『左近衛権少将に遷任(従四位上)。三河守如元』、そして、「越前松平家の御附家老・越前府中城主の『本田富正(伊豆守)=40歳』の『従五位下に叙任』に際しての『徳川家康の参内時に同行』」、さらに、「烏丸光広(33歳)  宮廷に復職。後水尾帝即位」の、いわゆる「『「慶長十四(1609) 烏丸光広(31歳)」時に発覚した『猪熊事件』からの復職』」が、この岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」の、その「制作意図」、そして、その注文主の、主たる人物群像は、この三者という図が浮かび上がって来る。
 即ち、この岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」の、その「制作意図」は、「松平忠直と本田富正の叙任・徳川家康の参内に合わせての入内」と、さらに、「猪熊事件からの復職し、翌年、権中納言となる烏丸光広(33歳)』との、この三位一体の中から誕生したものとして解したい。

《※※慶長十六(1611)17歳  左近衛権少将に遷任(従四位上)。三河守如元、この春、家康の上京に伴われ、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。 勝姫と婚姻。
※「本田富正(40歳)、本多富正,従五位下に叙される〔福井県史・家譜〕。志摩守から伊豆守と名乗りを変更。忠直に秀忠の娘の勝姫が嫁ぐが、幼少の勝姫の福井への道中、富正の越前府中城で休憩および化粧(鉄漿の式。女子の成人式)を行ってのち、福井へ向かった[ウィキペディア]。」
※「烏丸光広(33歳) 宮廷に復職。後水尾帝即位。」(『松永貞徳と烏丸光広』所収「略年譜」)》

羽指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の三番手の武者」(左隻第二扇上部)→「舟木本・母衣武者その五図」

 この、先の見立ての、「越前松平家二代藩主・松平忠直」については、これは、頑として不動のままである。
 そして、この図は、下記の年譜の、「※※慶長十六(1611)17歳  左近衛権少将に遷任(従四位上)。三河守如元、この春、家康の上京に伴われ、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。 勝姫と婚姻。」と関係する、次のアドレスの「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部)→舟木本・参内する松平忠直図」と連動していることも、先の見立てと同様に不動のままである。
 さらに、その「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部)→舟木本・参内する松平忠直図」は、下記の年譜の、「※慶長十六(1611)本田富正(40歳)、本多富正,従五位下に叙される。」を加味して、「家康と共に参内する松平忠直・本田富正」(左隻第四扇上部)→舟木本・参内する松平忠直・本田富正図」と修正したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26

参内する松平忠直.jpg

「家康と共に参内する松平忠直・本田富正」(左隻第四扇上部)→「舟木本・参内する松平忠直・本田富正図」

 上記の図の、中央が「松平忠直」で、左端が「本田忠正」である。そして、先の、《この岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」の、その「制作意図」は、「松平忠直と本田富正の叙任・徳川家康の参内に合わせての入内」と、さらに、「猪熊事件からの復職し、翌年、権中納言となる烏丸光広』との、この三位一体の中から誕生したものとして解したい。》も、これまた、不動のままである。
 そして、この「本田富正と烏丸光広」との連携コンビの証左の一つとして、下記の年譜の、次の事項を挙げて置きたい。

※「寛永七(1630) 烏丸光広(52歳) 九月、光広、禁裏御本の『西行物語絵巻』を借出し、本田富正(59歳)のため、俵屋宗達(62歳?)に下命して、『西行物語絵巻』(四巻)を描かせ、みずから詞書を書く。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)

 これらの「西行物語絵巻」関連については、さらに、下記の「松平忠直 略年譜」の後に、「追記」を付記して置きたい。

【(松平忠直 略年譜)→ 二代越前松平家藩主(※印は「本田富正」と「烏丸光広」、※※印は「特記事項」と「岩佐又兵衛」関連) 

文禄四年(1595) 1歳 結城秀康の長男、国丸(松平忠直)誕生。母は側室・中川氏。
慶長十年(1605) 11歳 従四位下に叙位。侍従に任官し、三河守を兼任。
慶長十一年(1606)12歳 右近衛権少将に転任。三河守如元。
慶長十二(1607) 13歳 秀康(34歳)、北庄で死去。忠直、越前75万石を相続。
※「烏丸光広(29歳) 結城秀康未亡人(鶴姫)と結婚。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「慶長十四(1609) 烏丸光広(31歳) 一月、左大弁に任ず。七月、典侍広橋氏・権典侍中院氏・掌侍水無瀬氏・命婦讃岐らと参議光広、左近衛権中将大炊御門頼国らとの姦淫事件発覚す。この日、勅使により広橋氏以下をその家に禁固し、光広以下の官位を停む。十一月、徳川家康、前記姦淫事件の花山院忠長を蝦夷に、飛鳥井雅賢を隠岐に、大炊御門頼国・中御門宗信を薩摩に、難波宗勝を伊豆にそれぞれ流罪とし、光広および徳大寺実久の罪をゆるす。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)

※※慶長十六(1611)17歳  左近衛権少将に遷任(従四位上)。三河守如元、この春、家康の上京に伴われ、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。 勝姫と婚姻。
※「本田富正(40歳)、本多富正,従五位下に叙される〔福井県史・家譜〕。志摩守から伊豆守と名乗りを変更。忠直に秀忠の娘の勝姫が嫁ぐが、幼少の勝姫の福井への道中、富正の越前府中城で休憩および化粧(鉄漿の式。女子の成人式)を行ってのち、福井へ向かった[ウィキペディア]。」
※「烏丸光広(33歳) 宮廷に復職。後水尾帝即位。」(『松永貞徳と烏丸光広』所収「略年譜」)

慶長十七(1612)18歳 家臣間の争論、久世騒動起きる。
※「本田重正(41歳)、秀康死後、藩内ではおおよそ「富正を筆頭とする徳川系家臣」と「今村盛次を頭とする、秀康召抱えの諸国出身の新参家臣」の対立が表面化する。徳川本家に複雑な感情を抱く忠直は、故にどちらかというと今村派であったといわれている。慶長17年の久世但馬上意討ち、いわゆる「久世騒動」(越前騒動とも)と呼ばれる事件であるが、18歳の当主忠直ではもはや処理し切れないこの家中紛糾した難件は、幕府の後の大老土井利勝や本多正信、さらには家康秀忠らの直接裁定が入った上で処理された[ウィキペディア]。」

元和元(1615) 21歳 大坂夏の陣で戦功、長男仙千代(光長)北庄に誕生。従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
※「本田富正(44歳)、大坂の陣が起こった際は、親豊臣的であった越前家をまとめ上げて幕府方として参戦させる。大坂夏の陣の最終決戦の際、家康の陣営に呼びつけられ、越前軍の働きの悪さを直接叱責されたのは家老である富正らである。大坂城突入の際は越前軍の最先頭に配置され、真田幸村勢と激突。後世に語り継がれる越前兵の精強さを見せつけた上で「大坂城一番乗り」の武功を立てて家康から黄金五十枚を拝領している[ウィキペディア]。」

元和二(1616) 22歳 家康、駿府で死去。
※「烏丸光広(38歳) 二月、権大納言に任ず。四月、徳川家康没。光悦、鷹峰に光悦町を開く。『中院通村日記』三月十三日条に『俵屋絵』のこと見える。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※※「岩佐又兵衛(39歳),北庄に移住〔廻国道中記〕。松平忠直(22歳),弟直政(19歳)に大野郡木本で1万石を分知〔松平文庫〕」(福井県史)

元和四(1618) 24 歳  鯖江・鳥羽野開発を命じる。
元和七(1621) 27歳  参勤のため北庄を出発も、今庄で病気となり北庄に帰る。
※「烏丸光広(43歳) 正室(鶴姫)没。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
元和八(1622) 28歳 参勤のため北庄たつも関ケ原で病気再発、北庄に帰る。
※※元和九(1623) 29歳 母清涼院通し豊後国へ隠居の上命受ける。
※「本田富正(52歳)、 越前二代藩主忠直に対し幕府は、『振る舞いに難有り』として強制隠居という処分を下す。
 福井藩主の地位は、忠直弟の忠昌に継承されるが、反忠直派であった筆頭家老の富正やその他百人余の家臣らは『幕命により残留(隠居、致仕、豊後に移送される忠直への付属、忠直の子息松平光長との同行(忠昌と入れ替えで転封)などの禁止)』を命じられている。この継承による内外の混乱をも富正は、政治的手腕で乗り切っている。
 この忠昌への相続の際、忠直・忠昌兄弟の弟たちにもそれぞれ分地が行われ、越前家の領地は削減されたが、富正の府中領に変化はなかった。さらに富正に対しては、幕府より「この際に独立大名へ」という打診があったが『秀康への恩があるので』と断っている。なお、本田成重(本田富正と同じ附家老)の丸岡本多氏は、この騒動の際に福井藩より独立。一大名としてそのまま丸岡藩を興している[ウィキペディア]。」

寛永元(1624) 30歳 仙千代(光長)、越後高田に転封。弟忠昌(27歳)が高田より越前家相続。北庄を福井と改める。
※※寛永三(1626) 32歳  忠直、豊後萩原から同国津守に移る。
※「寛永七(1630) 烏丸光広(52歳) 九月、光広、禁裏御本の『西行物語絵巻』を借出し、本田富正(59歳)のため、俵屋宗達(62歳?)に下命して、『西行物語絵巻』(四巻)を描かせ、みずから詞書を書く。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「寛永十三(1636) 「 烏丸光広(58歳) 四月、後水尾院の院使として、光広、日光東照宮宝前に太刀を奉納す。十一月、光広、江戸に下向す。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「寛永十四(1637) 「 烏丸光広(59歳) 二月三日、光悦没(八十歳)。板倉重郷、伊勢物語九段『隅田川図』(宗達画)に詞を書く。七月、光広の帰京に際し、将軍徳川家光、時服、白銀を餞別す。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「寛永十五(1638) 「 烏丸光広(60歳) 七月二十三日、光広、夜半に没す。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)
※「慶安二(1649) 本田富正(78歳)で死亡。富正が死んだ際、藩主の光通(忠昌次男)は深く悲しみ、領内の歌舞音楽を7日間禁止させた。『国中、父母を失ったが如し』と伝わる。」(「ウィキペディア」)
※※慶安三(1650) 56歳 9月10日、津守で死去。         】
※※「岩佐又兵衛(73歳) 六月二十二日、又兵衛江戸で没す。福井の興宗寺に葬られる。」
(『文春新書 岩佐又兵衛』所収「関係年譜」)

(追記その一)

※「寛永七(1630) 烏丸光広(52歳) 九月、光広、禁裏御本の『西行物語絵巻』を借出し、本田富正(59歳)のため、俵屋宗達(62歳?)に下命して、『西行物語絵巻』(四巻)を描かせ、みずから詞書を書く。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)



https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-31

西行絵物語三.jpg

俵屋宗達画・烏丸光広賛『西行物語絵巻』(「第四巻」の『奥書き』)

  右西行法師行状之絵
  詞四巻 本多氏伊豆守
  富正朝臣依所望 申出
  禁裏御本 命于宗達法橋
  令模写焉 於詞書予染
  禿筆了 招胡盧者乎
   寛永第七季秋上澣
           特進光広(花押)
[右、西行法師行状乃絵詞四巻は、本多伊豆守富正朝臣、
所望に依って、禁裏御本を申し出で、宗達法橋に命じて模写せしむ。
詞書に於いては、予(光広)禿筆を染め了(おわ)んぬ。
胡慮(嘲笑)を招くか。
寛永第七(一六三〇)季秋上幹(九月上旬)。
特進(正二位の唐名) 光広(花押)]
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著)』など)

一 作画年代→「寛永第七(一六三〇)季秋上幹(九月上旬)」光広(52)、宗達(63?)
二 原本は「禁裏御本」→「後水尾上皇」の依頼により「揚梅図」を描く(宗達)
三 烏丸光広との交友関係→「特進 光広」(元和6年・一六二〇、正二位)、光悦(73)
四 法橋叙位(宗達)→「宗達法橋」(このとき既に「法橋」の地位にある)
五 古典的題材→宗達の模写したものは「室町時代の海田采女(うねめ)本」
六 模写の態度→大和絵系列の宗達好みの模写の姿勢が顕著である。
七 技法上の特色→「没骨法」「たらし込み法」「ほりぬり(彫り塗り)=最初にひいた描線を塗りつぶさずにこれを生かして彩色する技法」の線の上に墨の「くゝり」の線を加える技法などが随所に見られる。
八 部分転写活用→個々の「人物・樹木・土坡・下草」などを部分的に借用して創作する姿勢が顕著である。
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著)』など)

(追記その二)

※「寛永十四(1637) 「 烏丸光広(59歳) 二月三日、光悦没(八十歳)。板倉重郷、伊勢物語九段『隅田川図』(宗達画)に詞を書く。七月、光広の帰京に際し、将軍徳川家光、時服、白銀を餞別す。」(『烏丸光広と俵屋宗達』所収「関係略年譜」)

ここに出てくる「板倉重郷」は、「元和5年(1619年)、京都所司代である初代藩主・板倉重宗の長男として生まれる。寛永13年(1636年)12月29日に従五位下・長門守に叙位・任官し、寛永14年(1637年)に阿波守に遷任する。寛文元年(1661年)12月17日没。

「後水尾院サロン」の一員と思われ、このことからも、「板倉勝重・板倉重宗」も、「後陽成院・後水尾院」サロンとの交遊関係が浮かんでくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-03

 ちなみに、その「益田家本『伊勢物語図色紙』詞書揮毫者一覧」の主だった段とその揮毫者などは次のとおりである。

第六段   芥川    里村昌程(二二歳)    連歌師・里村昌琢庄の継嗣(子)
同上    雷神    同上
第九段   宇津の山  曼殊院良尚法親王(一二歳) 親王(後水尾天皇の猶子)
同上    富士の山  烏丸資慶(一二歳)     公家・大納言光広の継嗣(孫)
同上    隅田川   板倉重郷(一八歳)     京都所司代重宗の継嗣(子)
第三九段  女車の蛍  高松宮好仁親王(三一歳) 親王(後陽成天皇の第七皇子)
第四九段  若草の妹  近衛信尋(三五歳)  親王(後陽成天皇の第四皇子)        
第五六段  臥して思ひ 聖衛院道晃法親王(二二歳)親王後陽成天皇の第一一皇子?) 
第五八段  田刈らむ  烏丸光広(五五歳)    公家(大納言)

 これらの「詞書揮毫者一覧」を見ていくと、『伊勢物語図色紙』」は角倉素庵追善というよりも、第九段(東下り)の詞書揮毫者の「曼殊院良尚法親王(一二歳)・烏丸資慶(一二歳)」などの「初冠(ういこうぶり)」(元服=十一歳から十七歳の間におこなわれる成人儀礼)関連のお祝いものという見方も成り立つであろう。
 ちなみに、烏丸光広(五五歳)の後継子(光広嫡子・光賢の長子)、烏丸資慶(一二歳)は、寛永八年(一六三一)、十歳の時に、後水尾上皇の御所で催された若年のための稽古歌会に出席を許され、その時の探題(「連夜照射」)の歌、「つらしとも知らでや鹿の照射さす端山によらぬ一夜だになき」が記録に遺されている(『松永貞徳と烏丸光広(高梨素子著)』)。
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十八) [岩佐又兵衛]

(その二十八) 「舟木本」と「歴博D本」との周辺(その二)

歴博D本・二条城前.jpg

「二条城前の母衣武者と仮装行列」」(「歴博D本」左隻第二・三扇中部)→「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html

 この「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」は、「舟木本」(左隻・第一・二扇)の「母衣武者と仮装行列図」のモデル図のような雰囲気を有している。

舟木本中心軸・左隻.jpg

「舟木本の中心軸と『九か所の若松』周辺」(左隻)→「舟木本中心軸その三図(左隻)」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-24

【 (その三) 「舟木本)」の「祇園会で神輿の前座の母衣武者は何を意味するのか?」

三人の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者」(左隻第二扇上部)→「舟木本・母衣武者その一図」

 祇園会の「神輿」集団の前に、この「傘鉾・三人の母衣武者」集団が描かれている。この先頭集団は、拡大すると次の図のとおりである。

三人の母衣武者の先頭集団.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者(拡大図)」→「舟木本・母衣武者その二図」

《 四条通りを行く傘鉾、大きな朱傘を押し立てて、鬼面の者が団扇を振り仰ぎ、赤熊(赤毛のかぶり物)の者が笛や太鼓で囃す。先頭で踊るのは棒振り。みな異形の出で立ち、激しく踊り、囃す。見物も興味津々と見ている。『御霊会細記』によるとスサオノミコトが巨旦(こたん)を退治したときに、鬼たちが北天竺まで送っていった姿という。鉾というと巨大な山鉾を思い浮かべるが、この傘ひとつが鉾である。もともと祭礼の作り物や出で立ちは、過差風流(かさふうりゅう)、すなわち、日常とかけ離れたほどに工夫し、飾り立てる趣向を競うものであった。この傘鉾には風流の伝統が横溢している。長く途絶えていたが近年復活した。ところで、祇園祭礼の山鉾巡行は、洛中洛外図の主要モティ-フであり、室町期の作例にも江戸期の作例にも必ず描かれるが、本図にはこの傘鉾以外描かれない。これはどうしてだろうか。洛中をクロ-ズアップした本図に大きな山鉾を描き込むと周りの人々も含めて尺度感が微妙にずれる。その代わりに傘鉾を描き、母衣武者をやや誇張気味に大きく描いている。画家の構図や尺度感に対する慎重な配慮に感嘆せざるを得ない。》(『洛中洛外図舟木本―町のにぎわいが聞こえる(奥平俊六著)』所収「祭りは異形の風流にみちている」)

馬藺指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」→「舟木本・母衣武者その三図」

軍配指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」→「舟木本・母衣武者その四図」

羽指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」→「舟木本・母衣武者その五図」



《 「舟木本・母衣武者その三図」
 この巨大な「指物」(鎧の受筒に立てたり部下に持たせたりした小旗や飾りの作り物=旗指物=背旗)の「馬藺」(あやめの一種である馬藺の葉をかたどった檜製の薄板を放射状に挿している飾り物)の母衣武者(「舟木本・母衣武者その三図」)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」)の「馬藺」の指物を背にした総大将「徳川家康」の見立てと解すると、「徳川家康」という見立てになってくる。

  「舟木本・母衣武者その四図」
 同様に、この「軍配」(武将が自軍を指揮するのに用いた指揮用具=軍配団扇 の略)の指物を背にした母衣武者(「舟木本・母衣武者その四図」)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」)の」軍配」を手にしている武将が「徳川秀忠」の見立てとすると、これまた、「徳川秀忠」という見立てになってくる。

  「舟木本・母衣武者その五図」
 問題は、この三番目の母衣武者なのである。この背にある指物は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」)には出て来ない。 
 そこ(「歴博D本・母衣武者と仮装行列図」)での三番目の武者は、この羽色をした母衣を背にした武将で、その武将は、この(「舟木本・母衣武者その五図」)のような、甲冑の「胴」に「日の丸」印のものは着用していない。
 そして、この「日の丸」印は、上記の「舟木本・母衣武者その三図」では、「徳川家康」と見立てた母衣武者の左脇に、「日の丸」印の「陣笠」(戦陣所用の笠の称)に、「金色」のものが記されている。
 その「舟木本・母衣武者その四図」では、「徳川秀忠」と見立てた母衣武者の右側で、今度は「団扇」に「日の丸」印が入っている。
 さらに、「舟木本・母衣武者その一図」を仔細に見て行くと、「舟木本・母衣武者その三図」の「徳川家康」と「舟木本・母衣武者その四図」では、「徳川秀忠」周囲の「陣笠」は、「赤い日の丸」印と、「金色の日の丸」印とが、仲良く混在しているのに比して、この「舟木本・母衣武者その五図」の母衣武者周囲の「陣笠」には、次の図(「(「舟木本・母衣武者その六図」)のように、「無印」か「日の丸印」ではないもので、さらに、その左端の上部の男性の手には、「日の丸印」の「扇子」が描かれている。
 (中略)
「三人の母衣武者の三番目の武者」((「舟木本・母衣武者その五・六図」)の、この「母衣武者」は、「大阪冬の陣・夏の陣」の頃の、「徳川家康」(一番手の母衣武者=大御所・家康)と「徳川秀忠」(二番手の母衣武者=徳川二代目将軍・秀忠)に続く、三番手の徳川親藩・越前福井藩主「松平忠直」(「徳川家康」の孫、「秀忠」の「兄・結城秀康の嫡子、娘・勝姫の婿)の「見立て」(あるものを他になぞらえてイメージすること)と解したい。

日の丸胴母衣武者周囲.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者」→「舟木本・母衣武者その六図」     》  】

(「舟木本・右隻」)

舟木本中心軸(右隻).jpg

「舟木本の中心軸と『九か所の若松』周辺」(右隻)→「舟木本中心軸その二図(右隻)」
 ↓
 「右隻」のメインの人物が、下記の「五条橋で踊る老後家尼」とすると、「左隻」のメインの人物は、この「舟木本・母衣武者その六図」の、「越前松平家藩主・松平忠直」ということになる。

右四中・高台院アップ.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第四・五扇中部部分拡大図その二」(五条橋で踊る老後家尼)→「舟木本・『五条橋で踊る老後家尼』その二」

(「舟木本・左隻」)

舟木本中心軸・左隻.jpg

「舟木本の中心軸と『九か所の若松』周辺」(左隻)→「舟木本中心軸その三図(左隻)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-01


羽指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」→「舟木本・母衣武者その五図」

 そして、この図の「松平忠直」の見立ては、次のアドレスの、「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部)と連動していることとなる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26

参内する松平忠直.jpg

「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部)→「舟木本・参内する松平忠直図」

 さらに、「舟木本・母衣武者その五図」(松平忠直の見立て)の、その「母衣武者」の背の「指物」(旗指物・背旗)の、その羽根状のものは、次の「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」と連動している。
四条河原の「能」舞台.jpg

「四条河原の『能』の小屋」(右隻第五扇中部)→「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」

「能」舞台・鞍馬天狗.jpg

「能・鞍馬天狗」(「鞍馬天狗」その二図)
https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_025.html

 この「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」関連については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-30

 そして、この「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」は、「舟木本」第一扇のスタートの、次の「豊国定舞台の能舞台(烏帽子折)その一図」に連結してくる。

豊国定舞台・烏帽子折・作り物の若松.jpg

「豊国定舞台の能舞台(烏帽子折)」(右隻第一扇中部)→「豊国定舞台の能舞台(烏帽子折)その一図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

 「豊国定舞台の能舞台(烏帽子折)その一図」関連などについては、下記のアドレスなどで幾度となく触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06

 そして、この「豊国定舞台の能舞台(烏帽子折)その一図」の、「牛若・判官(良経)」が被っている「金の風折烏帽子」は、下記アドレスで紹介している次の「山中常盤物語絵巻第11巻・金の烏帽子姿の牛若・判官図」と連動していることを紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26

山中常盤物語絵巻.jpg

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA美術館蔵 )の「山中常盤物語絵巻・第11巻(佐藤の館に戻った牛若は、三年三月の後、十万余騎をひきいて都へ上がる)」→「山中常盤物語絵巻第11巻・金の烏帽子姿の牛若・判官図」
http://www.moaart.or.jp/?event=matabe-2019-0831-0924

 そこで、この「山中常盤物語絵巻第11巻・金の烏帽子姿の牛若・判官図」関連について、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』の、次の記述を紹介した。

【《 第一に、金色の烏帽子は能装束の冠り物であり、牛若・判官(義経)の姿に特徴的な記号表現であった。忠直と又兵衛は、この金色の烏帽子の記号表現を共有しており、クライマックスにおける主人公としたのである。(略)
第二に、主人公の金色の烏帽子姿の大半は、能の風折烏帽子ではなくて、梨子打烏帽子に鉢巻をした姿で描かれている。軍勢と戦闘の中心にいる主人公は鎧姿であるから、それにふさわして梨子打烏帽子とし、それを金色に表現したのであった。(略)
そして、第三に、金色の梨子打烏帽子という主人公の姿は、能の牛若の物語を好み、源氏(新田氏)の後裔という強烈な自覚をもった注文主、すなわち松平忠直にふさわしい記号表現だったのである。また、金色の梨子打烏帽子は、忠直が又兵衛ら画工集団とのコラボレーションによって「又兵衛風絵巻群」をつくっていたことを端的に物語っている。》(P260-262)

 ここで、「又兵衛風絵巻群」というのは、次の七種類のもので、『岩佐又兵衛風古浄瑠璃絵巻群』(辻惟雄の命名)の一群の絵巻を指す。「質量ともに物凄い絵巻群で、現存分を繋ぐと全長一・二キロメート近くになる」という(『黒田・前掲書)。

一 残欠本「堀江物語絵巻」(香雪本上巻・香雪本中巻・三重県立美術館本・京都国立博物館本・香雪本下巻・長国寺本など) 
二 「山中常盤物語絵巻」(全十二巻)(重要文化財・MOA美術館蔵) 
三 「上瑠璃(浄瑠璃物語絵巻)」(全十二巻)(重要文化財・MOA美術館蔵) 
四 「をぐり(小栗判官絵巻)」(全十五巻)(宮内庁三の丸尚蔵館蔵・総長約三二四メートル)
五 「堀江巻双紙」(全十二巻)(MOA美術館蔵)
六 「村松物語(村松物語絵巻)」(全十八巻)(このうち、十二巻=海の見える美術館蔵、三巻=アイルランドのチェスター・ビーティ・ライブラリー蔵、三巻=所在不明)
七 「熊野権現縁起絵巻」(全十三巻)(津守熊野神社蔵、大分市歴史資料館寄託)

 これらの「又兵衛風絵巻群」の全資料を読み解きながら、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』では、次のような結論に達している。

《「又兵衛風絵巻群」の注文主は、越前藩主の松平忠直であった。元和二年(一六一六)に、忠直は、岩佐又兵衛を中心とする画工(絵師)集団に命じて「又兵衛風絵巻群」つくらせ始めた。ところが、忠直は、同七・八年に参勤途中で関ケ原に滞留し、越前に引き返す行動を繰り返し、同九年二月に、将軍秀忠の命によって「隠居」とされ、豊後国に流されてしまう。絵巻の制作は、そこで一旦終わった。したがって「又兵衛風絵巻群」は、元和年間に集中的に制作された作品群であった。》(P242)   】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』)

 ここで、冒頭に戻って、上記の、「舟木本・母衣武者その五図」、「舟木本・参内する松平忠直図」、「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」、そして、「四条河原の能舞台(鞍馬天狗)その一図」と、次の「舟木本・山中常盤操り図」と「舟木本・母衣武者その五図の『右三つ巴紋=結城家紋』(五図の二)」を添えて、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主は、
「越前藩主・松平忠直」周辺と解したい。

山中常盤操り.jpg

「舟木本・山中常盤操り図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

母衣武者・三つ右巴紋.jpg

「舟木本・母衣武者その五図の『右三つ巴紋=結城家紋』(五図の二)」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 さらに付け加えるならば、この「舟木本・山中常盤操り図」で、「泣いている貴女」は、「二条城堀角の『後妻(うわなり)打ち』」(「舟木本」左隻第三・四扇)の背景に見え隠れしている、「徳川家康の側室・結城秀康の実母・松平忠直の実祖母」の長勝院」(通称、おこちゃ、於万の方、小督局)と見立てると、またまた、一つのドラマ仕立てということになる。
 そして、「舟木本・母衣武者その五図の『右三つ巴紋=結城家紋』(五図の二)」については、下記のアドレスの「右三つ巴紋=結城家紋」という雰囲気を有している。

https://www.touken-world.jp/tips/30591/

 しかし、下総結城氏十七代当主・結城晴朝の肖像画(下記「ウィキペディア」)の右手に持っている「団扇」の紋章は、下記のアドレスの「三つ盛り三つ巴」のようで、「舟木本・母衣武者その五図の『右三つ巴紋=結城家紋』(五図の二)」をもって、即、「越前藩主・松平忠直」と独断することは、これらの紋章が、往々にして、この「舟木本」では「目眩まし」に描かれている場合もあるので危険なことなのであろう。

https://irohakamon.com/kamon/tomoe/migimitsutomoe.html

結城晴朝肖像.jpg

「結城晴朝肖像(安穏寺所蔵・東京大学史料編纂所模本)」(「ウィキペディア」))

 この「結城晴朝」も、松平忠直の実祖母の「長勝院」共々、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主の、「越前藩主・松平忠直」周辺の一人ということになろう。
しかし、この「結城晴朝」は、この「舟木本」の完成前の、慶長十九年(一六一四)に、その氾濫に満ちた八十年の生涯を閉じている。この晴朝の死をもって、結城氏の血脈は断絶したが、結城氏の祭祀は、結城秀康の五男、忠直の弟の「松平直基」が継嗣となり、以降、歴代の「前橋松平家」が継承し続けた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-26

(参考)「源氏物語画帖」「猪熊事件」と「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」との主要人物一覧(※=「源氏物語画帖」「猪熊事件」、※※=「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」、※※※=「結城秀康・松平忠直」周辺)

※※※結城晴朝(1534-1614)→下総結城氏17代当主・結城秀康の養父・「舟木本」
※※豊臣秀吉(1537-1598) →「豊臣政権樹立・天下統一」・「豊国祭礼図屏風」
※※土佐光吉(1539-1613)→「源氏物語画帖」(又兵衛=「土佐光信末流」?)
※※徳川家康(1543-1616) →「徳川政権樹立・パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」
※※※板倉勝重(1545-1624-)→京都所司代・板倉家宗家初代・「舟木本」
※※※長勝院(1548 – 1619) →徳川家康側室・結城秀康生母・「舟木本」
※※※曲直瀬玄朔(1549- 1632) →豊臣家・徳川家・結城家」等典医・「舟木本」
※※※神龍院梵舜(1553- 1632) →豊国廟の社僧(別当)・高台院姻族」・「舟木本」
※花山院定煕(一五五八~一六三九)→「夕霧」「匂宮」「紅梅」
※※※本因坊算砂(1559 – 161623)→「家元本因坊家の始祖」・「竹斎」「舟木本」
※※※本阿弥光悦(1558 – 1637) →「琳派」の祖師・「勝重・光広」の書の師(「光悦流」) 
※※高台院 (1561? - 1598) → 「豊国祭礼図屏風」・「舟木本」
※※※石村検校1562 – 1642) →「筝曲作曲家・三味線奏者・琵琶法師」・「舟木本」
※近衛信尹(一五六五~一六一四)  →「澪標」「乙女」「玉鬘」「蓬生」
※久我敦通(一五六五~?)     →「椎本」
※※淀殿(1569?-1615) → 「大阪冬の陣」「大阪夏の陣 」・「豊国祭礼図屏風」
※後陽成院周仁(一五七一~一六一七) →「桐壺」「帚木」「空蝉」
※※※狩野内膳(1570-1616) →「豊国祭礼図屏風」筆者・岩佐又兵衛の師(?)・「舟木本」
※※※角倉素庵(1571-1632) →「角倉家」の嫡子・「光悦流」から「角倉流」を創始。
※※※本多富正(1572-1649) →「結城秀康・松平忠直・忠昌」三代の御附家老・「舟木本」 
※※※結城秀康(1574-1607)→ 徳川家康次男・松平忠直実父
※日野資勝(一五七七~一六三九) →「真木柱」「梅枝」
※※興意法親王(照高院)(一五七六~一六二〇) →「方広寺鐘銘事件」・「舟木本」
※大炊御門頼国(1577-1613) →「猪熊事件」

※※※俵屋宗達(?~1643?)→「光悦と並んで琳派の祖」「舟木本」 
※※岩佐又兵衛(1578-1650)→「豊国祭礼図屏風」「舟木本」の筆者

※※徳川秀忠(1579-1632)→「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」・「豊国祭礼図屏風」「舟木本」
※烏丸光広(一五七九~一六三八) →「猪熊事件」→「蛍」「常夏」・「舟木本」 
※※※鶴姫(?~1621)→ 結城晴朝の養女、結城秀康・烏丸光広の正室・「舟木本」
※八条宮智仁(一五七九~一六二九) →「葵」「賢木」「花散里」
※四辻季継(一五八一~一六三九)  →「竹河」「橋姫」

※織田左門頼長(道八)(1582-1620) →「猪熊事件」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※猪熊教利(1583-1609)      →「猪熊事件」
※徳大寺実久(1583-1617)     →「猪熊事件」

※飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)   →「夕顔」「明石」
※※※板倉重宗(1586-1657) → 京都所司代・板倉家宗家二代・「舟木本」
※中院通村(一五八七~一六五三) → 「若菜下」「柏木」 
※花山院忠長(1588-1662) →「猪熊事件」
※※※板倉重昌(1588-1638)→ 徳川家康の近習出頭人・三河深溝藩主・「舟木本」
※久我通前(一五九一~一六三四) →「総角」    
※冷泉為頼(一五九二~一六二七) → 「幻」「早蕨」
※※豊臣秀頼(1593-1615) → 「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」・「豊国祭礼図屏風」
※菊亭季宣(一五九四~一六五二) →「藤裏葉」「若菜上」
※※※松平忠直(1595-1650) → 「結城秀康長男」(越前福井藩主)・「舟木本」
※※※松平忠昌(1598-1645) →「結城秀康次男」(越後高田藩・越前福井藩主)・「舟木本」
※近衛信尋(一五九九~一六四九) →「須磨」「蓬生」
※※※松平直政(1601-1666) →「結城秀康三男」(信濃松本藩・松江藩主)・「舟木本」
※烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)→「薄雲」「槿」
※西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) →「横笛」「鈴虫」「御法」
※※※五男:松平直基(1604-1648)→「結城秀康五男」(越前大野藩・姫路藩主)・「舟木本」
※※※松平直良(1605-1678)→「結城秀康六男」(越前大野藩主)・「舟木本」
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十七) [岩佐又兵衛]

(その二十七) 「舟木本」と「歴博D本」との周辺(その一)

耳塚の前の喧嘩図.jpg

「豊国社(耳塚)前の喧嘩図」(「歴博D本」右隻第一・二扇上部)→「歴博D本・豊国社(耳塚)前の喧嘩図」
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_r.html

 この「歴博D本・豊国社(耳塚)前の喧嘩図」について、下記のアドレスで、次のように記述した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-09

【 この(「D図」)の左上部に「耳塚(鼻塚)」(戦死者の耳や鼻を弔ったとされる塚。文禄・慶長の役の戦功の証として討取った朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを葬った塚として知られている)があり、その前で「かぶき者」の喧嘩が始まっている。
 このD図の喧嘩は、「大阪冬の陣・夏の陣」の見立てではない。というのは、これは「豊国社」の「耳塚」の前の喧嘩で、「豊国社」に隣接した「方広寺の前の喧嘩」(C図)ではない。
 「大阪冬の陣・夏の陣」の端緒を切ったのは、「方広寺鐘銘事件」(慶長一九年(一六一四)豊臣秀頼が京都方広寺大仏再興に際して鋳造した鐘の銘文中、「国家安康」の文に対して、徳川家康の名前が分割されて使われていることから、家康の身首両断を意図したものとして、家康が秀頼を論難した事件。大坂冬の陣のきっかけとなった)に由来する。
 これらの「方広寺の前の喧嘩」(C図)が、「大阪冬の陣・夏の陣」の見立てて解することについては、下記のアドレスなどで触れているので、末尾に、その要点となるところを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-02           】

方広寺前の喧嘩.jpg

「方広寺前の喧嘩図」(「舟木本」右隻第一・二扇上・中部) →「舟木本『方広寺前の喧嘩図』」

 この「舟木本『方広寺前の喧嘩図』が、先の「歴博D本・豊国社(耳塚)前の喧嘩図」を意識化(モデル化)していることは一目瞭然である。そして、下記のアドレスで、この「舟木本『方広寺前の喧嘩図』について、次のように記述した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-09

【 「方広寺」の前で「かぶき者」の喧嘩が始まっている。その右側は「豊国社」(豊国神社)である。その「方広寺」と「豊国社」の後方に「妙法院」と「豊国廟」に至る参道が描かれ、この「方広寺」と「豊国社」の門前に、「方広寺大仏殿」の屋根の一角見える。この図の下方に「方広寺大仏殿」が大きく描かれ、その下に、「三十三間堂」が描かれている。そして、その「方広寺大仏殿」の右手に「豊国定舞台」が描かれ、そこで「烏帽子折」の「能」が演じられている(「その八」)。
 この「洛中洛外図屏風・舟木本」の「右隻第一・二扇」は、この「舟木本」が出来た「大阪冬の陣・夏の陣」の前後の、「豊臣家」滅亡の頃の、「慶長十九年(一六一四)・元和元年(一六一五)」を背景としたもので、当時の豊国神社は社領が一万石、境内の敷地は三十万坪の誇大な敷地を有した頃の遺影ともいうべきものであろう。
 この後、「豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康の意向により後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、秀吉の霊は『国泰院俊山雲龍大居士』と仏式の戒名を与えられることになる。神社も徳川幕府により廃絶され、秀吉の霊は方広寺大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔(現:馬塚、当時の史料では「墳墓」とされる)に遷された。
 そして、秀吉の室北政所のたっての願いで社殿は残されたものの、以後一切修理をすることは禁止され、慶応四年(一八六八)閏四月、明治天皇の御沙汰書により、秀吉の社壇が再興されるまで朽ち果てるままに放置され、明治八年(一八七五)、大明神号は復されて、方広寺大仏殿跡に、現在の豊国神社が再建されるという経過を踏んでいる。」(「ウィキペディア」)   】

舟木本・大阪冬の陣.jpg

「方広寺前の喧嘩図・拡大図」(「舟木本」右隻第一・二扇上・中部) →「舟木本『方広寺前の喧嘩図』・拡大図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&


【 徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主
―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E

《二年前に出した拙著『豊国祭礼図を読む』では、徳川美術館本の右隻第五・第六扇の喧嘩の場面に、「かぶき者」に見立てられた豊臣秀頼の姿を見出したというに、この舟木本の喧嘩の場面については、肝心のディテールを「見落とし」てしまったのである。家紋を見落としたのだ。》

《妙法院と照高院の門前で喧嘩が始まっている。双方六人ずつ、武器は鑓・薙刀と刀である。》

《この妙法院と照高院の門前の喧嘩は何を意味しているのか? それを物語るのが、右側の男の背中に描かれている家紋であったのだ。この男の茶色の短い羽織の背中には、「丸に卍紋」が大きく描かれている。この「丸に卍紋」は阿波の蜂須賀氏の家紋である。妙法院・照高院の門前に描かれているのは下郎ないし「かぶき者」の喧嘩であるが、この家紋は、それが大きな戦いの「見立て」であることを示唆している。》

《慶長十九年(一六一四)十月からの「大阪冬の陣」において、とくに目立った軍勢は阿波の蜂須賀家勢(蜂須賀隊)であった。十一月十九日、大阪方の木津川の砦を、蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄の三者で攻めることになったが、蜂須賀至鎮は抜け駆して、砦を陥落させたのであった。次に蜂須賀勢が著しい成果を挙げたのは、同月二十九日の未明に、薄田隼人の守っていた博労ケ淵の砦を攻撃し、砦を奪取した。また逆に、十二月十六日の深更に、蜂須賀勢の陣地は、大阪方の塙団右衛門らによって夜襲をかけられてもいる。》

《すなわち、大阪冬の陣における蜂須賀勢の攻防・活躍はとくに顕著であり、世間によく知られたことであった。他方、「大阪夏の陣」での蜂須賀軍はどうだったか。蜂須賀軍は、荒れた海と紀伊の一揆のために、夏の陣の決戦には間に合わず、夜通し進軍して、五月八日(大阪城の落城は五月七日)に住吉に着陣し、茶臼山と岡山の陣営に行って家康と秀忠に拝謁したのであった。》

《したがって、「かぶき者」の背中に描かれた「丸に卍紋」は、大阪冬の陣における蜂須賀勢を意味する。この場面は、大阪冬の陣における戦いを「かぶき者」たちの喧嘩に見立てたものだったのである。以上のように読むと、舟木本の右隻第二扇の喧嘩は、徳川美術館本の右隻第五・六扇上部に描かれた「かぶき者」の喧嘩の場面と繋がってくる。》 】(「一 舟木本「洛中洛外図屏風」読解の「補遺」」の要点要約)

方広寺前の冬の陣・夏の陣.jpg

「『舟木本・方広寺前の喧嘩図』と『豊国祭礼図屏風(徳川美術館本)・方広寺前の喧嘩図』」→「方広寺前の喧嘩図(舟木本・徳川美術館本)」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-09

 続けて、この「方広寺前の喧嘩図(舟木本・徳川美術館本)」を提示して、上段の「舟木本・方広寺前の喧嘩図」は「大阪の陣・冬の陣」、そして、下段の「徳川美術館本・方広寺」は「大阪の陣・夏の陣」を見立てたものとして、次の三図を掲示した。

豊国祭礼図・秀頼.jpg

「『豊国祭礼図屏風(徳川美術館本)・方広寺前の喧嘩図』拡大図その一」→「徳川美術家本・方広寺の前の喧嘩図その一」

かぶき者の鞘の銘.jpg

「『豊国祭礼図屏風(徳川美術館本)・方広寺前の喧嘩図』拡大図その二」→「徳川美術家本・方広寺の前の喧嘩図その二」

豊国祭礼図・秀頼周辺.jpg

「『豊国祭礼図屏風(徳川美術館本)・方広寺前の喧嘩図』拡大図その三」→「徳川美術家本・方広寺の前の喧嘩図その三」

 そして、上記の「徳川美術家本・方広寺の前の喧嘩図その一」と「徳川美術家本・方広寺の前の喧嘩図その二」については、次の記述で紹介している。

【《「廿三」は秀頼の死没年齢》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P263-264)

「《いきすぎたるや廿三 八まん ひけはとるまい》は、 近世史家杉森哲也氏の見事な着眼による、《豊臣秀頼の死没年齢なのである。》 これまでの多くの論者は「かぶき者」大島一兵衛にだけ惹きつけられていて、豊臣秀頼と大阪夏の陣のことに思いもおよばなかったのである。すなわち、画家岩佐又兵衛は、大阪夏の陣を「かぶき者」たちの喧嘩に「見立て」て、このもろ肌脱ぎの「かぶき者」を「豊臣秀頼」に「見立て」ているのである。この「八まん ひけはとるまい」とは「戦(いくさ)」のこと、大阪夏の陣で、決死の覚悟で「徳川方」に挑んでいる、その決死の銘文なのである。」(メモ=「八まん」は、「戦の神様の『八幡太郎義家(源義家)』の「比喩」的用例と解したい。) 】

 また、その「徳川美術家本・方広寺の前の喧嘩図その一」については、次の記述で解説している。

【《後家尼姿の高台院》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P265-266)

「この倒れかかった乗物の上部に、破れ傘を持ってあわてて飛び退いている後家尼の老女が描かれている。この老後家尼こそ、秀吉の妻おね(北政所)つまりは高台院の姿なのである。」

これらは、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』での著者の考察なのであるが、これらの考察は、次の論稿により、さらに、深化を深めて行く。



徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主
―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E



「倒れ掛かった乗物(駕籠)から、女の手が突き出ている。この乗物に鏤められているさまざまな家紋の殆どは「目くらまし」であり、豊臣氏の「桐紋」がある。乗っているのは淀殿なのだ。そして、この乗物を担いでいる揃いの短衣を着た駕籠かき二人は、大野治長・治房兄弟であろう。
 乗物の向こう側、すぐ脇に後家尼の老女がいて、破れ傘をもったまま慌てて飛び退いている。後家尼の姿だから、これは高台院(秀吉の妻おね、北政所)である。背後の首に赤布を巻いている女は、高台院に仕えていた女性(孝蔵主?)などではあるまいか。
 さらに上の方には、侍女に傘をさしかけられた、被衣姿の貴女がいる。喧嘩の騒ぎを眺めているようだ。今のところ確かな論拠は示せないのだけれども、大阪城から脱出した千姫の姿が描かれているように思われる。
 こうして徳川美術館本の右隻の一角には、大阪夏の陣の豊臣秀頼と徳川秀忠の戦いが「かぶき者」たちの喧嘩に見立てて描かれていたのであった。それは、この屏風の注文主にとって必須(あるいは必要)な表現であり、しかも、徳川方の者が見ても気付かれにくい「見立て」の表現だったのである。」(「二 徳川美術館本の「かぶき者」の喧嘩と大阪夏の陣」の要点要約) 】

 続いて、下記のアドレスで、この「徳川美術家本・方広寺の前の喧嘩図その三」は、次の「舟木本・五条橋で踊る老後家尼一行図」と連動していることについて触れた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-02

右四・五中・五条大橋で踊る高台院.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第四・五扇中部部分拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)→「舟木本・『五条橋で踊る老後家尼』その一」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

右四中・高台院アップ.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第四・五扇中部部分拡大図その二」(五条橋で踊る老後家尼)→「舟木本・『五条橋で踊る老後家尼』その二」

【《老後家尼》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P204)

「この桜の枝を右手に持って肩に担ぎ、左足を高くあげて楽しげに踊っている、この老後家尼は、ただの老女ではありえない。又兵衛は、いったい誰を描いているのだろう。」

《花見帰りの一行の姿』((『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』)P204-205)

「この老後家尼の一行は、笠を被った男二人、それに続き、女たち十二人と男たち十人余りが踊っており、六本の傘が差しかけられている。乗掛馬に乗った武士二人と馬轡持ち二人、荷物を担いでいる男四人、そして、五人の男が振り返っている視線の先に、酔いつぶれた男が両脇から抱きかかえられ、その後ろには、宴の食器や道具を担いだ二人の男がいる。総勢四十五人以上の集団である。」

《傘の文様は?》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P205-206)

「六本の傘を見ると、先頭の白い傘には日の丸(日輪)、次の赤い傘には桐紋、三本目の赤い傘は鶴と亀の文様である。四本目は不明、五本目は日・月の文様のようであり、六本目は花か南蛮の樹木の葉のようである。この先頭の日輪と二本目の桐紋が決定的に重要だ。このような後家尼の姿で描かれる人物は、秀吉の後家、高台院(北政所おね)以外にあり得ない。」

《豊国祭礼図屏風の老後家尼》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P206-207)

「ここで、拙著『豊国祭礼図を読む』の記述を想い起こしたい(二六六頁)。そこで、淀殿の乗物の脇にいて、慌てて飛び退いている老後家尼の高台院がかかれていると指摘しておいた。この高台院も、舟木屏風の老後家尼と同様の姿で描いている。つまり舟木屏風は、徳川美術館本豊国祭礼図屏風に先行して、高台院を五条橋の上で踊る老後家尼として描いていたのである。」 】

舟木本中心軸(右隻).jpg

「舟木本の中心軸と『九か所の若松』周辺」(右隻)→「舟木本中心軸その二図(右隻)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-01

 ここまで来ると、「舟木本中心軸その二図(右隻)」のメインの画面は、この「右隻」の「第四・五扇」に描かれている「五条橋で踊る老後家尼(高台院)」ということになろう。
 そして、これに対応する次の「舟木本中心軸その三図(左隻)」の、そのメインの画面のどれかという周辺のことを探りたい。

舟木本中心軸・左隻.jpg

「舟木本の中心軸と『九か所の若松』周辺」(左隻)→「舟木本中心軸その三図(左隻)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-01
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十六) [岩佐又兵衛]

(その二十六) 「舟木本の『後妻(うわなり)打ち』」周辺など

後妻打ち.jpg

「二条城堀角の『後妻(うわなり)打ち』」(「舟木本」左隻第三・四扇)→「舟木本中心軸その四図(左隻・中心軸視野外)」

【 制作の目的(p172-173)
 京都の絵としては、右隻の五条と左隻の二条がいつの間にかつながるなど、地理的な正確さは無視されているし、描かれた範囲は京都東南部と二条城および内裏程度で、登場する名所もごく一部に過ぎないから、求められたのは京都の全景や名所尽しの情報ではない。その代わり、都市に生活する人々の新しい風俗、特に都市的な遊興の場面が詳しく描かれ、また、政治的な事象に関しても、豊臣・徳川・公家のそれぞれについて、慶長十九年(一六一四)から元和元年(一六一五)に関わるものが意識して描かれており、この意味でも同時代性が強く、「最近」の京都を描こうとする姿勢が見られる。
 (中略)
 他の洛中洛外図屏風と同じように、この「舟木本」もまた、京都の外部にいる人間が「見たい京都」を手元に置くために作られた、と考えるがよいのではないか。

  発注者と作者(p173-174)
発注者についてあえて言えば、やはり地方の大名クラスがまず考えられるのではないだろうか。豊臣の時代に大きく変貌して都市的な繁栄を謳歌し、さらに大阪の陣を経て政治の舞台としても注目を浴びている京都、最先端の建築と風俗が集中している京都に、各地で自らの領国経営と城下町形成を進めている大名たちが関心を持たなかったはずはないから、そのような関心から描かれた京都の絵があってもおかしくない。徳川家でありながら徳川政権そのものではなく、京都を外部の目として享受しようとする、そのような存在の需要である。
 (中略)
 この絵を描いた直後に又兵衛が福井へ移住しており、それが藩主松平忠直(一五九五~一六五〇)の招きによると考えられることから、忠直を候補の一人としてもよいのではないだろうか。

  江戸図との比較(p174-176)
 「江戸名所図屏風」(出光美術館蔵)の発注者としては、画中に唯一描かれた大名屋敷が福井藩のものであることから、福井藩の関与も想定されている(『江戸名所図屏風―大江戸劇場の幕が開く―(内藤正人著)』)。そうだとすれば、時期的には松平忠直は改易されて弟の忠昌の代になるのだが、統治者ではない立場から同時代の首都の絵を求めるという点で、共通性を見てとることはできよう。つまり、「江戸名所図屏風」は「舟木本」の江戸版と考えられるわけで、こうした点から、逆に「舟木本」の発注者を福井藩主松平忠直に擬することは合理性があると思うのだが、どうだろうか。

  暴力場面の意味(p176-179)
 都市の治安を維持することは権力者の本質的な任務であり、またその正当性を証しするものだから、権力者・統治者の立場で描かれた洛中洛外図屏風には、暴力的な場面はまず描かれない。(中略)
 しかし、暴力的な気分は時代そのものの風潮であったために、特定の立場を示すものでなくても、風俗を中心に描く屏風には、その時代の都市を象徴する光景の一つとして描かれたのであろう。それが好んで描かれるようになったという所に、戦乱が過去のものとなりつつある。しかしまだ収まってはいない世の、その時代の気分を感じ取ることができる。

  後妻打ち(p179-182)
 慶長末~元和年間ころを中心とする江戸時代初頭の、暴力的な気風が感じられる場面は、刀や槍を取ってのチャンバラ的な乱闘シーン以外にもある。「舟木本」の左隻第三~四扇の下部、二条城の堀の角あたりでは、鬼のような形相をした女が、赤い服の女の髪を左手に巻き付けて、右手で振り上げた擂り粉木のような棒で打ちすえ、双方から止めに入ろうとする男女と老婆が駆けついてつけている(「舟木本中心軸その四図(左隻・中心軸視野外)」)。
 (中略)
 これは何の描写かというと、男の寵愛を失った女が鬼となって復讐するという内容の謡曲「鉄輪(かなわ)」の場面に基づいたものではないかと思われる。

《 「悪しかれと思わぬ山の.峰にだに。思わぬ山の峰にだに。人の嘆きは生うなるに。いわんや年月。思いに沈む怨みの数。つもって執心の。鬼となるもことわりや。いでいで命を取らん。『いでいで命を取らんと.しもっを振り上げうわなりの。髪を手にから巻いて。打つや宇都の山の。夢うつつとも分かざる浮き世に』。因果はめぐりあいたり。今さらさこそ.悔しかるらめ。さて懲りよ思い知れ。ことさら怨めしき。ことさら怨めしき。あだし男を取って行かんと。臥したる枕に立ち寄り見れば。恐ろしやみてぐらに。三十番神ましまして。魍魎鬼神はけがらわしや。出でよ出でよと責めたもうぞや。腹立ちや思う夫をば。取らであまさえ神々の。責めを蒙る悪鬼の神通通力自在の勢い絶えて。力もたよたよと。足弱車のめぐり逢うべき。時節を待つべしや。まずこの度は帰るべしと。いう声ばかりはさだかに聞こえ。いう声ばかり.聞こえて姿は。目に見えぬ鬼とぞ.なりにける。」

 上記の「後シテ登場以降の抜粋の仕舞の部分」の(『』)の箇所が紹介されている。上記は次のアドレスによる。

http://www.syuneikai.net/kanawa.htm    》

 (中略)
 「舟木本」は同時代の京都に基づいて描かれているが、もちろんすべてが現実ではなく、この後妻打ちの場面は、文学作品を絵画化して挿入することで、暴力的な場面を意図的に盛り込んだものと思われる。絵を受容する側にも、それを好む気分が確かにあったはずである。
  (中略)
 では「舟木本」で、なぜよりによって二条城のそばにこんな暴力的場面を描くのだろうか。二条城は言うまでもなく徳川家の象徴であり、それは徳川家の内部事情に由来していると考えられないだろうか。というのは、松平忠直の父で、福井藩=越前松平家の初代となった結城秀康は、秀忠の兄でありながら、妾であった母が正妻築山殿の迫害を受け冷遇されたという背景があるからである。そのような将軍家に対する複雑な感情が、先妻が後妻を打擲(ちょうちゃく)するという、後妻打ちにやつした場面として描かれているのではないだろうか。松平忠直は、大阪の陣でも活躍しながら恩賞に不満を抱いていたと伝えられ、徳川方でありながら、京都の統治者である将軍家に対しては必ずしも好意的でない。そのような立場と感情が、大仏近くの乱闘場面と対になる暴力場面という形でここに表現されていると考えられないであろうか。
 そのように考えたもう一つの理由は、先述のように、四条河原で興行されている舞台の一つに人形操りの「山中常盤」が描かれていることである。源義経の母である常盤が、義経を訪ねる旅の途中で強盗に惨殺され、義経が復讐する物語であり、画中の隠れた暴力場面でもある。岩佐又兵衛は、その絵巻物(凄惨な場面で有名)も後に福井で制作しているが、荒木村重の子供であった岩佐又兵衛(岩佐は母方)は、村重が信長に背いた際に母は殺されているため、「舟木本」にこの題目が描かれていることには、その思いが反映していることは疑いない。そのような画家の感情があらわれているのなら、より重要な発注者の思いが描き込まれていてもおかしくない。岩佐又兵衛を招いた松平忠直は、お互いにの境遇に相通ずるものを感じていたのではなかろうか。 】
(『洛中洛外図屏風 つくられた〈京都〉を読み解く(小島道裕著)・ 歴史文化ライブラリー422 (p172-182)』の要点抜粋。一部、記述箇所の表記と省略部分を修正・アドレスなど付記している。)

 上記の「要点抜粋」をした『洛中洛外図屏風 つくられた〈京都〉を読み解く(小島道裕著)・ 歴史文化ライブラリー422 』は、『人間文化研究機構 二〇一二『都市を描く―京都と江戸―』特別図録(※著者は第一部『洛中洛外図屏風と風俗画』の展示プロジェクトの代表)』を基礎として、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』などの参考文献を十分に配慮しての、スタンダード(教科書)的な見解と解しても差し支えないのかも知れない。
 しかし、上記の「要点抜粋」だけでは説明不足と感じられるところもあり、その周辺のことなどを付記して置きたい。

一 福井藩=越前松平家の初代・結城秀康の「実母・長勝院」(徳川家康の側室「通称:おこちゃ、於万の方、小督局」)と「養母・高徳院」(豊臣秀吉の正室「通称「北政所・ねね・おね=御寧など」)そして「結城秀康」の周辺

 長勝院(ちょうしょういん、天文17年(1548年) - 元和5年12月6日(1619年1月10日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。江戸幕府の初代将軍・徳川家康の側室。物部姓永見氏の娘。通称おこちゃ、於万の方、小督局とも。結城秀康の生母。
天正12年(1584年)、11歳の於義丸が豊臣秀吉の養子となり、のちに元服し秀康と改名した。秀康は結城晴朝の養女・江戸鶴子と結婚し、婿養子として結城氏を継いだ。関ヶ原の戦い後は秀康が北ノ庄城の城主となったため、万もこれに同行する。慶長12年(1607年)に秀康が北ノ庄にて急死すると、家康の許可なしに出家するが、咎めはなかった。
(「ウィキペディア」)

 高台院(こうだいいん、生年不詳 - 寛永元年9月6日(1624年10月17日))は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。杉原(木下)家定の実妹であるが浅野家に養女として入る。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。(「ウィキペディア」)

 結城 秀康(ゆうき ひでやす)/ 松平 秀康(まつだいら ひでやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越前国北ノ庄藩初代藩主。越前松平家宗家初代。
   出生
 天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村で生まれた。母は三河国池鯉鮒明神の社人・永見吉英(永見氏)の娘で、家康の側室の於万の方(長勝院、通称おこちゃ、小督局)。誕生地は、今川氏の時代より代官や浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務める源範頼の系譜である領主・中村正吉の屋敷であった。現存する同屋敷(建築物は江戸初期)内には、家康お手植えの松「秀康の胞衣塚」が残る。この縁により、のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続いた。
あくまで伝承ではあるが秀康は双子で誕生し、もう一人はすぐに亡くなったとする言い伝えがある。その後、家康が正室・築山殿の悋気を恐れたために、秀康を妊娠した於万は重臣の本多重次のもとに預けられたという。
  少年期
幼名を於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた秀康は、父・家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。その対面も、あまりの冷遇を受ける異母弟を不憫に思った兄・信康による取りなしで実現したものであったという。
冷遇の理由は、築山殿を憚ったためとも、双子で生まれてきたことにあるともされるが、寛永11年(1634年)に書かれた『中村家御由緒書』には「本多作左衛門が家康に委細を言上に及んだところ、家康には何か考えることがあり、お取り上げが難しいということになり」とだけ書かれており、研究者の小楠和正は武田勝頼との戦いに直面していたために家康は秀康を浜松城に引き取る機会も、対面する機会も持てなかったのではないかと推定している。
天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から織田信長の命令により、兄・信康が切腹させられる(近年では信康が家康と対立したために切腹させられた、ともされる)。このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずであった。しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和睦の条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。母親の身分は秀忠の方が上であり、信康切腹前に生まれた秀忠が当初から後継者だったと考えられる。
  豊臣家の養子
大坂へは、傅役の小栗大六(小栗重国)と小姓の石川勝千代(石川康勝)・本多仙千代(本多成重[注釈 3])がつき従う。家康より「童子切」の刀と采配を餞別として授けられた。天正12年(1584年)12月12日、羽柴秀吉の養子として「羽柴三河守秀康」と名乗る。
天正15年(1587年)の九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めで先鋒を務めた。続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げた。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。天正18年(1590年)の小田原平定、天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも参加した。
天正17年(1589年)、秀吉に実子の鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名。そのため他の養子同様に、再び他家に出される。
   結城家の養子
 天正18年(1590年)、実父の家康が駿遠三甲信から、関東一円(旧北条領)に国替えになり240万石を得た。秀吉は、関東平定の功労者である家康へ更なる加増として、秀康を北関東の大名結城氏の婿養子とすることを考えついた。結城氏は下野国の守護に任命されたこともある名家であった。秀康は関東に下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督および結城領11万1,000石を継いだ[注釈 4]。また改めて羽柴姓を賜り、官位から羽柴結城少将と呼ばれた。
   越前移封とその後
 死後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である会津征伐に参戦する。上杉景勝に呼応する形で石田三成が挙兵すると、家康は小山評定を開いて諸将とともに西上を決める。このとき家康によって、本隊は家康自らが率いて東海道から、そして別働隊を秀忠が率いて中山道(東山道)を進軍することが決められ、秀康は宇都宮に留まり上杉景勝の抑えを命じられた。慶長5年9月7日、徳川家康が伊達政宗にあてた手紙には秀康と相談して上杉に備えるよう指示していることから、家康は秀康の武将としての器量を評価しており、父子がそれぞれの立場をわきまえて生涯認めあっていたことは確かである。
関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万1,000石から越前北庄68万石に加増移封された。結城旧来の家臣の中には越前への移転を拒否するものが少なくなく、それ故この越前移封は最終的な在地離脱の強制として機能したもので、その結果秀康は自らの権力における旧族結城氏よりの継承面をほぼ払拭することができた。慶長9年(1604年)には松平氏に復することも赦されているとする史料も存在する。
慶長10年(1605年)、権中納言へ昇進。越前宰相から越前中納言によばれかたが変わった。
慶長11年(1606年)9月21日には伏見城の留守居を命じられる。だが病を得て職務を全うできなくなったため、慶長12年3月1日に越前へ帰国し、そのまま閏4月8日に死去。享年34。死因は『当代記』に「日来唐瘡相煩、其上虚成」とあるから、梅毒ではなかったかとされる。また梅毒が直接の死因ではなく、梅毒による衰弱症が死因とする指摘もある。なお曲直瀬玄朔の『医学天正記』には、「越前宰相殿、瀉利・発熱・咽渇・五令ニ加滑」とあり、他の難病にもとりつかれていたようである。始めは結城家の菩提寺である曹洞宗孝顕寺で火葬され、孝顕寺殿前三品黄門吹毛月珊大居士と追号されたが、徳川家・松平家が帰依していた浄土宗による葬儀でなかったことを家康が嘆いたため、知恩院の満誉上人を招いて新たに運正寺を作り、ここに改葬して戒名も浄光院殿前森巖道慰運正大居士と浄土宗での戒名も新たに授与された。越前68万石は、嫡男・松平忠直が継いだ。(「ウィキペディア」)

父:徳川家康(1543-1616)
母:長勝院(1548-1620) - おこちゃ、於万の方、小督局、物部姓(永見氏)永見貞英の娘
養父:豊臣秀吉(1537-1598)、結城晴朝(1534-1614)
正室:鶴子 - 結城晴朝養女、江戸重通の娘 → ※秀康没後、烏丸光広正室
側室:岡山 - 清涼院、中川一元(出雲守)の娘
長男:松平忠直(1595-1650) → 下記の「松平忠直のプロフィール」
次男:松平忠昌(1598-1645)
側室:駒 - 小田氏治の娘
側室:奈和(?-1609) - 長寿院、津田信益の長女
六男:松平直良(1605-1678)
側室:品量院 - 三好長虎の娘
五男:松平直基(1604-1648) → ※結城家の社稷を継承。
室:月照院 - 三谷長基の娘
次女:喜佐姫(1598-1655) - 龍照院長誉光山秋英大禅定尼、徳川秀忠の養女、毛利秀就正室
三男:松平直政(1601-1666)
生母不明の子女
男子:呑栄 - 西福寺21世住職

※曲直瀬玄朔の『医学天正記』には、「越前宰相殿、瀉利・発熱・咽渇・五令ニ加滑」とあり、→ 「曲直瀬玄朔と越前松平家」との関係 → 特記事項

※曲直瀬道三の『医学天正記』
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ya09/ya09_00655/index.html

※曲直瀬玄朔の『医学天正記』
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000895#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-1424%2C-224%2C8863%2C4462

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000173#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-1324%2C-208%2C8263%2C4159

二 「築山殿」(徳川家康:正室、長男:松平信康=自害)と「長勝院」(徳川家康:側室、次男:結城秀康=越前松平家祖)そして「西郷局」(徳川家康:側室、三男:徳川秀忠=第二代征夷大将軍)周辺

https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/feature/history/%20wives

築山殿/つきやまどの
今川氏の一族関口義広の女。母は今川義元の妹。家康が駿府で人質であったときに正室となった。永禄2年(1559)に長男信康、3年に長女亀姫を生む。同5年、人質交換によって岡崎に迎えられ、 城の東方にある総持寺の築山に住んだという。天正7年(1579)遠江国富塚(浜松市)で家康の命によって殺され、同所の西来院に葬られた。

於万の方/おまんのかた(小督の局、長勝院)
三河鯉鮒の祠官永井志摩守吉英の女というが定かでない。築山殿に侍女として仕え、天正2年(1574)に家康2男の於義丸(のちに秀康)を生んだ。於万の懐妊を知った築山殿は、嫉妬 して於万を浜松城内の木に縛り折檻したという。元和5年(1619)、越前北庄にて没し、同所考顕寺に葬られた。72歳。

※「於万の懐妊を知った築山殿は、嫉妬 して於万を浜松城内の木に縛り折檻したという」→「後妻(うわなり)打ち」説の根拠とされている。

於愛の方/おあいのかた(西郷の局、宝台院)
戸塚忠春の女。母は三河八名郡の西郷正勝の女。西郷義勝の後妻に入ったが、義勝戦死後は浜松城に召しだされて家康に仕え、西郷清員の養女とされたために西郷に局と呼ばれる。天正7年(1579)に家康3男秀忠を生む。 同17年、駿府に没し、同所の龍泉寺に葬られた。28歳。寛永5年(1628)に従一位と宝台院の号を追贈された。

三 「舟木本」の「後妻(うわなり)打ち」図と「歴博D本」の「夫婦喧嘩」図の周辺

暦博D本・夫婦喧嘩図.jpg

「相国寺門前の夫婦喧嘩図」(「歴博D本」左隻第一扇下部)→「歴博D本・夫婦喧嘩図」
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html

 「舟木本」の「後妻(うわなり)打ち図」(「舟木本中心軸その四図(左隻・中心軸視野外)」)の原型は、この「歴博D本・夫婦喧嘩図」にある。この「歴博D図」については、下記アドレスの、この《「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その一)》のスタート地点で記述している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-18

《●四 洛中洛外図屏風(歴博D本) [江戸時代前期]
※祇園会の祭礼行列や遊楽の場面が特色。第二定型(右隻=内裏、左隻=二条城)の構図だが、二条城は比較的小さい。統治者の視点で描かれていない。大仏の前での乱闘場面や六条三筋町の遊郭が描かれているなど「舟木本」との共通点が多い。町並みは簡略化され、現実の京都というよりも、抽象化された町になっている。》

 そして、それに続いて、《「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その三)》で、下記のアドレスの、そのスタート地点での謎解きの「松平忠直」周辺について記述した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-24

《 ここでは、その「謎解き」の、そのスタートに相応しいものを記して置きたい。

【 忠直は、元和元年前後には岩佐又兵衛とその作品を知っており、翌二年に越前に呼び寄せた。そして、又兵衛を中心とした画工集団に、自分の選んだ『堀江物語』以下の物語を次々に絵巻に作らせたのであった。したがって、「又兵衛風絵巻群」の絵巻としての諸特徴には、忠直の好みがよく現れており、忠直が進んで絵巻化した五つの物語には、彼の倫理や願望が色濃く映しだされている。「又兵衛風絵巻群」は、越前藩主松平忠直の斑紋と彼の趣味が生み出した稀有の作品群であり、「忠直絵巻群」だったのだ。】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』p242-243)

ここに、簡略な「松平忠直のプロフィール」も併記して置きたい。

【 松平忠直(まつだいらただなお) (1595―1650)
江戸前期の大名。2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の兄結城秀康(ゆうきひでやす)の長男。母は中川一茂(かずしげ)の娘。1607年(慶長12)父秀康の領地越前(えちぜん)国福井城(67万石といわれる)を相続し、11年将軍秀忠の三女を娶(めと)る。
15年(元和1)の大坂夏の陣では真田幸村(さなだゆきむら)らを討ち取り大功をたてた。その結果同年参議従三位(じゅさんみ)に進むが領地の加増はなく、恩賞の少なさに不満を抱き、その後酒色にふけり、領内で残忍な行為があるとの評判がたった。
また江戸へ参勤する途中、無断で国へ帰ったりして江戸へ出府しないことが数年続いたりしたので、藩政の乱れを理由に23年豊後萩原(ぶんごはぎわら)(大分市)に流され、幕府の豊後目付(めつけ)の監視下に置かれた(越前騒動)。豊後では5000石を生活のために支給され、当地で死んだ。いわば将軍秀忠の兄の子という優越した家の抑圧の結果とみられる。なお処罰前の乱行について菊池寛が小説『忠直卿(きょう)行状記』を著したので有名となるが、かならずしも史実ではない。[上野秀治]
『金井圓著「松平忠直」(『大名列伝 3』所収・1967・人物往来社)』 】(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

(参考) 「松平忠直」周辺

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao3.htm

「忠直をめぐる動き」

1595(文禄4)結城秀康の長男、長吉丸(忠直)誕生。
1601(慶長6)秀康、越前入国。北庄城の改築始まる。
1607 秀康、北庄で死去。忠直、越前国を相続。
1611 勝姫と婚姻。
1612 家臣間の争論、久世騒動起きる。
1615(元和元) 大坂夏の陣で戦功、徳川家康から初花の茶入れたまわる。長男仙千代(光長)北庄に誕生。
1616 家康、駿府で死去。
1618 鯖江・鳥羽野開発を命じる。
1621 参勤のため北庄を出発も、今庄で病気となり北庄に帰る。仙千代、忠直の名代と
して江戸へ参勤する。
1622 参勤のため北庄たつも関ケ原で病気再発、北庄に帰る。永見右衛門を成敗。
1623 母清涼院通し豊後国へ隠居の上命受ける。3月北庄を出発、5月豊後萩原に到着。
1624(寛永元) 仙千代、越後高田に転封。弟忠昌が高田より越前家相続。北庄を福井と改める。
1626 忠直、豊後萩原から同国津守に移る。
1650(慶安3)9月10日、津守で死去。56歳。10月10日、浄土寺で葬儀。 》

 これらに続いて、次回以降も、そのスタート地点に戻って、この「舟木本」と「歴博D本」周辺の幾つかの事項の探索を付記して置きたい。
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十五) [岩佐又兵衛]

(その二十五) 「舟木本の中心軸と『九か所の若松』」周辺など

舟木本中心軸と九か所の若松.jpg

「舟木本の中心軸と『九箇所の若松』」→ 「舟木本中心軸その一図(右隻・左隻)」

【 舟木屏風を座って見る  
 ところで、屏風は座って見るものだ。ちょうど視線の高さに、横の中心軸はある。見る者の視線の位置は、屏風の真ん中より少し下にあり、そこに描かれている事物が、屏風の中心的な表現になる。また、屏風の真ん中より↑に描かれている事物は顔を上に向けて見上げることになる。画家は、当然、それを意識して構図を考えている。
 そう思って、左右両隻を眺めと、この二条=五条通は、舟木屏風の真ん中より少し下を横に延びていることがわかるだろう。つまり、二条=五条通が、舟木屏風の横方向の中心軸をなしており、一双の表現を横につないでいるのである。
 すなわち、二条城から東に延びる二条通が、二つの小さな屈折を経て五条通となり、五条大橋を渡って方広寺大仏殿へと至る。二条通と五条通がつながるという現実にはありえない線が、舟木屏風の中心軸をなしている。この中心軸線上に描かれた事物に、舟木屏風の一番重要な表現がある可能性が高い。 】(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p182-183』)

この舟木屏風の「中心軸線上に描かれた事物」は、上記の「舟木本中心軸その一図(右隻・左隻)」ですると次のとおりとなる。

(右隻)第一扇から第六扇

第一扇(豊国定舞台)→第二扇(方広寺大仏殿)→第三扇~第五扇(五条大橋)→第六扇(五条大橋西詰・五条寺町「扇屋」)

(左隻)第一扇から第六扇

第一扇(五条通)→第二扇(五条通「扇屋」)→第三扇(「五条通」と「二条通との連結地点)→第四扇(二条通)→第五扇(二条通「雪輪笹竹紋」屋敷)→第六扇(二条城と京都所司代)

そして、「九か所の若松』は、次のとおりとなる。

(右隻)第一扇から第六扇

第一扇(豊国定舞台)→ 九 豊国定舞台の作り物の若松(右隻第一扇) 
第六扇(五条大橋西詰・五条寺町「扇屋」)
   → 七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)
八 五条橋西詰の暖簾に「寶」と「光」とある店舗の若松(右隻第六扇)
第五・六扇(六条三筋町)→ 
→ 五 六条柳町(三筋町)遊里の若松(左隻第一扇~右隻第五・六扇) 

(左隻)第一扇から第六扇

第一扇(五条通)
→ 五 六条柳町(三筋町)遊里の若松(右隻第一扇)
      四 祇園御旅所の右側、当麻寺の隣にある遊女屋の若松(左隻第一扇)
第二扇(五条通「扇屋」)
    → 三 平家琵琶の検校の屋敷の若松(左隻第二扇)
第三扇(「五条通」と「二条通との連結地点)
    → 二 六角堂と唐崎神社の若松(左隻第三扇) 
第四・五扇(二条通「雪輪笹竹紋」屋敷)
    → 一 長暖簾に「雪輪笹紋」のある店舗のウラ庭の若松(左隻第四・五扇) 

 これらの「舟木本の中心軸と『九か所の若松』周辺」を、「舟木屏風を座って見る」という視点で図示すると次のとおりとなる。

(右隻)

舟木本中心軸(右隻).jpg

「舟木本の中心軸と『九か所の若松』周辺」(右隻)→「舟木本中心軸その二図(右隻)」

(左隻)

舟木本中心軸・左隻.jpg

「舟木本の中心軸と『九か所の若松』周辺」(左隻)→「舟木本中心軸その三図(左隻)」

 この「舟木本中心軸その二図(右隻)」と「舟木本中心軸その三図(左隻)」との、「赤色」の表示は、上記の「九か所の若松」の表示である。そして、「黄色」の表示の、中心を「右隻」から「左隻」の両隻を貫通する線上の事物とその周辺の事物の説明図である。(↑と↓)の表示は、「舟木屏風を座って見る」の視点からすると「視野外」ということになる。
 そして、「空色」表示の「後妻(うわなり)打ち」は、これまでに取り上げていなくて、「舟木本」を読み解くための、重要なキィポイントの一つと思われるので、次回以降に詳説して行きたい。

後妻打ち.jpg

「二条城堀角の『後妻(うわなり)打ち』」(「舟木本」左隻第三・四扇)→「舟木本中心軸その四図(左隻・中心軸視野外)」

【 後妻(うわなり)打ち   
 主として平安時代の末から戦国時代頃まで行われた習俗で,離縁になった前妻 (こなみ) が後妻 (うわなり) にいやがらせをする行動をいう。女性が別れた夫の寵愛をほしいままにしている新しい妻をねたむあまり,憤慨してその同志的な婦人らとともに後妻のところへ押寄せていくこと。一方,後妻のほうでも,その仲間の女性たちを集めて応戦した。武器としてはほうきやすりこぎなどの家庭用の道具が用いられた。(出典 ブリタニカ国際大百科事典)

1 本妻が後妻(うわなり)を嫉妬して打ちたたくこと。
「あらあさましや六条御息所(ろくでうのみやすどころ)ほどの御身にて、—の御振る舞ひ」〈謡・葵上〉
2 室町時代、離縁になった先妻が後妻をねたんで、親しい女たちと隊を組み、後妻の家に行って乱暴を働く風習。相当打ち。騒動打ち。
(出典 小学館デジタル大辞泉)   】

https://www.nohgaku.or.jp/guide/commentary_aoinoue

「葵上(あおいのうえ)」

前場
 六条御息所の生霊の登場
 六条御息所の生霊が激高する枕の段 → 後妻打ち
 間狂言〜従者が横川の小聖を迎えにいく

後場
 鬼女と小聖が争う見どころ・祈り → 下の場面(この場面に「若松」が背景となる)

葵上・後妻打ち.jpg

https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_026.html

鉄輪・後妻打ち.jpg

「鉄輪(かなわ)」

http://www.syuneikai.net/kanawa.htm

【詞章】(後シテ登場以降の抜粋の仕舞の部分。)

「悪しかれと思わぬ山の.峰にだに。思わぬ山の峰にだに。人の嘆きは生うなるに。いわんや年月。思いに沈む怨みの数。つもって執心の。鬼となるもことわりや。いでいで命を取らん。いでいで命を取らんと.しもっを振り上げうわなりの。髪を手にから巻いて。打つや宇都の山の。夢うつつとも分かざる浮き世に。因果はめぐりあいたり。今さらさこそ.悔しかるらめ。さて懲りよ思い知れ。ことさら怨めしき。ことさら怨めしき。あだし男を取って行かんと。臥したる枕に立ち寄り見れば。恐ろしやみてぐらに。三十番神ましまして。魍魎鬼神はけがらわしや。出でよ出でよと責めたもうぞや。腹立ちや思う夫をば。取らであまさえ神々の。責めを蒙る悪鬼の神通通力自在の勢い絶えて。力もたよたよと。足弱車のめぐり逢うべき。時節を待つべしや。まずこの度は帰るべしと。いう声ばかりはさだかに聞こえ。いう声ばかり.聞こえて姿は。目に見えぬ鬼とぞ.なりにける。」
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十四) [岩佐又兵衛]

(その二十四) 「九か所の若松:その六: 長暖簾に「雪輪笹紋」のある店舗のウラ庭の若松(左隻第四・五扇)」周辺など

 『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p215-252』の最終章「舟木屏風の注文主と岩佐又兵衛」で取り上げているのが、次の「九か所の『若松』」の、そのトップの「長暖簾に「雪輪笹紋」のある店舗のウラ庭の若松(左隻第四・五扇)」である。 

【 九か所の「若松」

一 長暖簾に「雪輪笹紋」のある店舗のウラ庭の若松(左隻第四・五扇) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

二 六角堂と唐崎神社の若松(左隻第三扇) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-31

三 平家琵琶の高山丹一検校の屋敷の若松(左隻第二扇) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

四 祇園御旅所の右側、当麻寺の隣にある遊女屋の若松(左隻第一扇) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-24

五 六条柳町(三筋町)遊里の若松(左隻第一扇~右隻第五・六扇) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-17

六 四条河原の能の小屋の若松(※右隻第六扇) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-30

七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)
八 五条橋※※西詰の暖簾に「寶」と「光」とある店舗の若松(右隻第六扇)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-16

九 豊国定舞台の作り物の若松(右隻第一扇) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-21
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-06               】

(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)・P236-246』、それに触れたアドレスを付記する。※の「左隻」と※※「東詰」の箇所は誤植?→P236)

「雪輪笹紋の町家の裏庭の男」(左隻第五扇中部)→「雪輪笹紋の町家周辺その一図」

二条通・裏庭の男周辺.jpg

「雪輪笹紋の町家の裏庭の男周辺」(左隻第四・五扇中部)→「雪輪笹紋の町家周辺その二図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 この「雪輪笹紋の町家周辺その一図」と「雪輪笹紋の町家周辺その二図」とに関して、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p230-232』では、次のように記述している。

【 雪輪笹紋の暖簾の町家
 雪輪笹の暖簾が戸口にかかり、水引暖簾に笹紋が三つ描かれて印象的な町家の笹屋は、③の桟瓦葺であった。店内に描かれている箱は呉服を入れる箱のように見えるので、たぶん呉服屋であろう。それはともかく、富裕な商人であることは明瞭だ。しかも、重要な表現が集中している中心軸の二条通に面して描かれている。(以下略)
  杉森哲也の仕事  (省略)
  「呉服所」の笹屋 (省略)
  室町二条上ル町の笹屋半四郎 
(前略) 舟木屏風左隻第四扇の二条通に面している雪輪笹紋の笹屋は、『京羽二重』の笹屋半四郎であると推測したい。(以下略)
  笹屋半四郎と京都所司代板倉勝重
(前略) 「呉服商」笹屋半四郎の祖父か父が、板倉勝重の御用をつとめていたのではないかと推測したい。暖簾の雪輪笹紋や水引暖簾の笹紋は、笹屋半四郎の屋号と合致し、この二条通に描かれた雪輪笹紋の町家は、板倉隠岐守殿の「呉服商」笹谷半四郎の店に「近い」からである。もしも雪輪笹紋の町家が笹屋半四郎の祖父か父の店であり、京都所司代板倉勝重の御用をつとめていた商人なら、舟木屏風における京都所司代板倉勝重や大御所家康の近習筆頭人板倉重昌の描かれ方は、極めて自然に解釈することができる。
(中略) この屏風は、統治する側の視線や関心によって描かれてはいない。この屏風の表現から読み取れるのは、下京に生きる町人たちの姿であり、視線であり、関心対象である。舟木屏風には、町人たちが日々生活し、働いている下京の町と、彼らが出掛けるのを楽しみにしている六条柳町・四条河原・東山の歓楽・遊楽地が描き出されている。左隻に、民事裁判をする勝重、禁裏と公家を統制する勝重、そして近習出頭人となった勝重の次男重昌が、大御所の意思を体現して描かれているとしても、下京はあくまで町人にとって町々として描かれているのである。京都所司代板倉勝重は、下京の法と秩序を維持してくれる存在として描かれているし、大御所家康の近習出頭人板倉重昌も同様である。
 美術史家たちが異口同音に述べているように、この屏風は浮世絵の出発点に位置付けられる作品だ。この屏風の注文主は、やはり、下京の上層町人の一人であろう。
  庭にいる主の姿
 (前略) この笹屋のウラ庭には建物の一角が描かれ、そこには坊主頭の人物が座っている。かれは何をしているのだろうか。小袖の着流し姿で、縁に後ろ手を突いて、静かに木々を見上げている。このような閑居もしくは休息している姿の人物表現は、ここだけである。前述したように、このような姿は、他の洛中洛外図屏風では見たことがない。
  「市中の山居」
 (前略)  雪輪笹紋が描かれた暖簾の掛かっている立派な町家は、中心軸となる二条通に面しており、ウラ庭には樹木が茂り、しずかに座って、それを見上げている上層町人の主の姿がある。このようなウラ庭は、特別である。この剃頭の人物は、注文主その人を描いているのではあるまいか。   】(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p230-232』の要点抜粋。)

 この『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』の難点は、そのスタートの「雪輪笹の暖簾が戸口にかかり、水引暖簾に笹紋が三つ描かれて印象的な町家の笹屋は、③の桟瓦葺であった。店内に描かれている箱は呉服を入れる箱のように見えるので、たぶん呉服屋であろう」と、「呉服屋」と特定したところにある。

雪輪笹紋と薬種.jpg

「雪輪笹紋・笹の水引暖簾の店と薬種の店舗」(左隻第四・五扇中部)→「雪輪笹紋の町家周辺その三図」

 この「雪輪笹紋の町家周辺その三図」は、上記の「雪輪笹紋の町家周辺その二図」の拡大した部分図である。左端が「雪輪笹紋」の暖簾であるが、よく見ると、下に「竹」の節が描かれていて、「雪輪笹竹紋」という感じの暖簾である。
 その右側に「五枚笹紋(下に竹が描かれているかは不明)」が三葉描かれている「水引暖簾」が垂れ下がっていて、その下に、「紙(?)の箱が三個と木(?)の箱が一つと筒(?)」が描かれている(これらは「呉服を入れる箱」なのであろうか?)
 その右側に「薬種(薬屋)の剃髪した男性が一人」と「薬の整理棚」、そして「薬種」と書かれた袋状の看板がぶら下っている。
 これらからすると、この「雪輪笹紋・笹の水引暖簾の店」は、隣りの「薬屋」と一体となっていて、丁度、「医薬業」が、明確に分化される以前の、「医業」が「雪輪笹紋・笹の水引暖簾の店=邸宅」、そして、「薬業」が、隣りの「薬種の看板の店=薬屋」と理解することも可能であろう。
 これらのことに関して、『洛中洛外図屏風 つくられた〈京都〉を読み解く(小島道裕著)・ 歴史文化ライブラリー422 』の、次の記述は参考となる。

【 諸国の名物などを記した寛永十五年(一六三八)序の俳諧書『毛吹草』には、「二条薬種 諸国ヨリ集ルヲ此所ニテ繕出ス」とあり、この付近に薬屋が集まっていたことが知られる。「舟木本」の時に、すでに実態があったのだろう。
 初期洛中洛外図屏風に見られる医薬業として「上杉本」に「竹田ずいちく(端竹)」の屋敷が描かれていたが、門前で待つ人々であらわされているだけで、看板が出ているわけではない。中世の医薬業とは別の、看板を掲げた開かれた薬屋という存在は、新たな近世都市のあり方を象徴しているのかも知れない。 】(『洛中洛外図屏風 つくられた〈京都〉を読み解く(小島道裕著)・ 歴史文化ライブラリー422 』P170)

ここに紹介されている「上杉本」周辺については、下記のアドレスが参考となる。

https://artscape.jp/study/art-achive/1207045_1982.html

 そして、その「上杉本」を読み解くためには、次のアドレスの「洛中洛外図の中の京都-都市図としての視点から(鋤柄俊夫稿)」が参考となる。それによると、「※竹田瑞竹(上杉本)三条北室町東」と「※竹田法印(上杉本)錦小路北東洞院東」とは、著名な医師(医薬業)で、「雪輪笹紋の町家周辺その三図」を読み解くための一つの足掛かりとなる。

https://sitereports.nabunken.go.jp/80063

妙覚寺(歴博甲本・上杉本)二条南室町西
二条殿(歴博甲本・上杉本)押小路南室町東
妙顕寺(上杉本)二条南西洞院東
曇華院(歴博甲本・上杉本)三条北東洞院東
※竹田瑞竹(上杉本)三条北室町東
頂法寺(歴博甲本・上杉本)六角北烏丸東
※竹田法印(上杉本)錦小路北東洞院東
萬寿寺(歴博甲本・上杉本)五条南東洞院東
本圀寺(上杉本)六条坊門(現在の五条)南堀川西

 さらに、この「雪輪笹紋の暖簾と笹の水引暖簾」周辺に関しても、下記のアドレスのとおり、「竹・笹紋」の一つで、「竹」は「松竹梅」の「竹」と瑞祥的な「君子の植物」(中国)でもある。そして、「清和源氏義家流の竹谷松平家、深沢松平家、能見松平家、長沢松平家」等々と、この「竹・笹紋」の「松平家」も多い。

https://folklore2017.com/kamon/025.htm

 しかし、この「三藐院ファンタジー」では、「舟木本」の注文主は「松平忠直」周辺としており、その徳川家康の次男「結城秀康」の嫡男「松平忠直」は、下記のアドレスによると、父・結城秀康からはじまる「越前松平家」の「結城巴」で、さらに、徳川家の一族のみが使用できる「丸に三つ葉葵」も許容されていたようで、この「竹・笹紋」ではない。

https://kisetsumimiyori.com/tadanao/#i-6

 ここで、冒頭の「雪輪笹紋の町家周辺その一図」の、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』では、「雪輪笹紋の笹屋の、『京羽二重』の笹屋半四郎」周辺とする、この人物を、これまでの「三藐院ファンタジー」の視点から、どのように解するかについては、ずばり、仮名草子『竹斎』のモデルの一人と目せられている、その『竹斎』の作者「磯田道冶(別に富山道冶=野間光辰説)」の、医薬業の師の「曲直瀬玄朔」(下記のとおり)周辺と解したい。(『仮名草子集(日本古典文学大系90)』所収の「竹斎」(前田金五郎校注)p15-17)

【曲直瀬玄朔(まなせ・げんさく)
没年:寛永8.12.10(1632.1.31)
生年:天文18(1549)
安土桃山時代,江戸前期の医者。幼名は大力之助,名は正紹、号は東井、通称は玄朔のち道三(2代)を襲名、院号は延命院、延寿院。初代道三の妹の子として京都に生まれる。幼くして両親を失い道三に養育され、天正9(1581)年にその孫娘を娶って養嗣子となり道三流医学を皆伝された。法眼から法印に進み、豊臣秀吉の番医制に組み込まれて関白秀次の診療にも当たった。文禄4(1595)年の秀次切腹に連座して常陸国(茨城県)に流され、のち赦免されて帰京し朝廷への再出仕も許された。徳川家康・秀忠に仕え江戸邸と麻生(港区)に薬園地を与えられた。江戸で没し、薬園地に生前建てていた瑞泉山祥雲寺(のち渋谷へ移転)に葬られた。初代道三の選した著作を校訂増補して道三流医学の普及をはかり、野間玄琢、井上玄徹、饗庭東庵らのすぐれた門弟を輩出させて初代道三とともに日本医学中興の祖と称せられる。<著作>『済民記』『延寿撮要』『薬性能毒』<参考文献>宮本義己「豊臣政権の番医」(『国史学』133号) (宗田一)  】(出典 朝日日本歴史人物事典)

そして、この「雪輪笹紋の暖簾と笹の水引暖簾」の邸宅は、その「曲直瀬玄朔」の義父の「曲直瀬道三」の、その院号の「翠竹院」に因み「翠竹庵」ということになる。因みに、その院号は、「1574年(天正2)『啓迪集』8巻を撰述(せんじゅつ)して正親町(おおぎまち)天皇に献上し、翠竹院の院号を賜った」との、由緒のあるものなのである。

【 曲直瀬道三(まなせ・どうさん (1507―1594)
戦国時代の医師。永正(えいしょう)4年京都に生まれる。名は正盛(まさもり)また正慶(まさよし)とも称し、字(あざな)は一渓(いっけい)、号は雖知苦斎(すいちくさい)、盍静翁(こうせいおう)、寧固(ねいこ)、院号は翠竹院(すいちくいん)のちに亨徳院(こうとくいん)。1528年(享禄1)足利(あしかが)学校に学び、田代三喜(たしろさんき)について李朱(りしゅ)医学を修め、1545年(天文14)京都に帰り、将軍足利義輝(よしてる)、細川晴元、三好長慶(みよしながよし)、松永久秀(ひさひで)らの厚遇を受け、学舎啓迪院(けいてきいん)を創立して門人を養成、1574年(天正2)『啓迪集』8巻を撰述(せんじゅつ)して正親町(おおぎまち)天皇に献上し、翠竹院の院号を賜った。道三の名は全国に知れ渡り、織田信長、豊臣秀吉(とよとみひでよし)、徳川家康らにも重んじられ、日本医学中興の祖と称されるようになった。文禄(ぶんろく)3年没。享年88。著書には前述の『啓迪集』をはじめ、『雲陣夜話』『薬性能毒』『切紙』『診脈口伝集』『百腹図説』などがある。なお、2代曲直瀬道三は甥(おい)の玄朔(げんさく)(1549―1631)が継いで活躍、『医学天正記(いがくてんしょうき)』はその著である。[矢数道明]  】(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

曲直瀬道朔.jpg

「曲直瀬玄朔像」元和九年(一六二三)/自賛/紙本着色/一幅
http://ikr031.i-kyushu.or.jp/sp/exhibition/542/
【江戸初期に将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)に侍医として仕えた曲直瀬玄朔(まなせげんさく)(1549~1631)の肖像(12)には、門下生の玄春(げんしゅん)の求めに応じて書いたという自賛があり、師弟関係の中で作られたことがわかります。画中には寛(くつろ)いだ様子で長椅子に坐る老医師の姿が描かれていますが、同様の構図は禅僧の肖像(頂相(ちんそう))にも類例があることから、この作品は卒業の証(あかし)として師から弟子へ渡す印可状(いんがじょう)のような意味を持っていたと言えそうです。】(解説「福岡市博物館」)

 上記の「『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p230-232』の要点抜粋」の「市中の山居」の、その「雪輪笹紋が描かれた暖簾の掛かっている立派な町家は、中心軸となる二条通に面しており、ウラ庭には樹木が茂り、しずかに座って、それを見上げている上層町人の主の姿がある。このようなウラ庭は、特別である。この剃頭の人物は、注文主その人を描いているのではあるまいか」の、「ウラ庭には樹木が茂り」に関して、下記の「参考」に出てくる、烏山光広とも親交の深い公家(「医薬業」に明るい)の「西洞院時慶」の庭には、主に薬用に使われる樹木・草花の類など六十余種以上も、その「時慶卿記」に記されていることが、下記のアドレスの「近世初頭における都市貴族の生活(村山修一稿)」で紹介されている。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/249507/1/shirin_043_4_627.pdf

「松・杉・樫・※梅(鶯宿梅)・桃・椿(白椿)・柿・桜・梨・楊梅・久年母(橘)・※蜜柑・※柚・金柑・躑躅(紅と白)・木瓜・木蓮・※山椒・石榴・白芷(はなうど)・漆・南天・藤(白と紫)・葡萄・孟宗竹・蘇鉄・芭蕉・葵(白)・※芍薬(紅と白)・牡丹・山吹・芙蓉(白)・※薄荷・白玉草・竜胆・紫蘭・蘭・石竹・撫子・疑冬(ふき)・白萩・百合・※薤(にら)・菊・夏菊・南蛮菊・桜草・※香需(こうじゅ)・木槿(白)・紫陽花・益母草(めはじき)・鉄線花(白)・罌麦(おうばく)・金銭草・鳳輦草(ほうれんそう)・慈姑(くわい)・水仙・赤蒲公草・桔梗(白)・鳳仙花・仙翁花(せんのうけ)・鴛鴦花・鶏冠花・茄子・紫蘇・※括楼根(からすうり)」(※印は薬用:出典「近世初頭における都市貴族の生活(村山修一稿)」)

 「雪輪笹紋の町家周辺その一図」の、「雪輪笹紋が描かれた暖簾の掛かっている立派な町家のウラ庭」には、これらの樹木・草花が植えられていたのであろう。そして、そのウラ庭の、桟瓦葺の立派な蔵は、「薬品・薬草」などの貯蔵庫のように思われる。
 そして、「『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p230-232』の「市中の山居」に続いて、「気になる筆致」という見出しで、次のように記述されている。

【 しかも、気になるのはその筆致である。この人物は抑揚のある(ないしは肥痩のある)線で、ササっと描かれている。この筆致の違いがとても気になる。左右両隻で、この人物の筆致だけが特別なのだ。もしかすると、この剃頭の人物を描くにあたっては、注文主と岩佐又兵衛との間に何らかのやりとりがあったのではあるまいか。これ以上は書かないが、この剃頭の人物が注文主さの人なのではないかと思う理由の一つである。 】(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』所収「気になる筆致p231-232」)

この「雪輪笹紋の町家周辺その一図」の「剃頭の人物」と、天正十四年(一五八六)に法眼から法印に進み延命院の号を賜り、のちに慶長二年(一五九七)に延寿院と改号している「曲直瀬玄朔」(上記の「曲直瀬玄朔像」)とを相互に見比べていると、「雪輪笹紋の町家周辺その一図」の「剃頭の人物」は、この「豊臣秀吉・関白秀次・徳川家康・秀忠そして後陽成天皇の診療に当った『日本医学中興の祖』の曲直瀬玄朔」その人、若しくは、その周辺ということは、「三藐院ファンタジー」の謎解きとしては、徐々に動かし難いものとなってきている。さらに、この「曲直瀬玄朔」(上記の「曲直瀬玄朔像」)と、下記の「伝岩佐又兵衛(自画像)・MOA美術館蔵」とも、極めて親近感のある二枚の肖像画という思いが去来する。

岩瀬又兵衛.jpg

「伝岩佐又兵衛(自画像)・MOA美術館蔵」(ウィキペディア)
(「又兵衛の子孫に伝わった自画像。原本ではなく写し、あるいは弟子の筆と見る意見もある。岩佐家では又兵衛の命日にこれを掛けて供養したという」―『別冊太陽247 岩佐又兵衛』 所収「岩佐又兵衛の生涯(畠山浩一)」)

(参考)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-06-18

夢想(之連歌)  来(慶長九年=一六〇四・一月?)二十三日

(夢想句) みどりあらそふ友鶴のこゑ   空白(「御」の「後陽成院」作かは不明?)
発句  霜をふる年もいく木の庭の松   瑞久=前久(龍山=山=瑞久?)」
脇    冬より梅の日かげそふ宿    杉=「信尹(杉=三木)」 
第三  朝附日軒のつま/\うつろひて  時慶=「時慶(西洞院)」
四    月かすかなるおくの谷かげ   冬隆=(滋野井冬隆)
五   うき霧をはらひははてぬ山颪   禅昌=「松梅院禅昌」
六    あたりの原はふかき夕露    時直=「時直(西洞院)」
七   村草の中にうづらの入臥て    昌琢=(里村昌啄)
八    田づらのつゞき人かよふらし  宗全=(施薬院全宗か?)

 前回、上記の「夢想連歌」を、「(慶長九年=一六〇四・一月)二十三日」の作と推定したのだが(『安土桃山時代の公家と京都―西洞院時慶の日記にみる世相(村山修一著・塙書房)』)、
その推定年次よりも、この書状は三年前のものということになる。
 そして、この両者(「書状」と「夢想連歌」)を相互に見て行くと、「前久・信尹」親子と「時慶・時直」親子とは、「前久」の時代から「側近」の関係というよりも、「主従」関係に近いような深い関係にあったことが伺われる。
 この書状の文中の「源氏(『源氏物語』)」に関連して、下記のアドレスの「近世初頭における都市貴族の生活(村山修一稿)」(p131-132)に、「慶長七年(一六〇二)より近衛家では源氏の講義が始められた。時慶始め小寺如水・神光院・松梅院・妙法院・曲直瀬正彬の顔ぶれで、始めの頃は昌叱が読み役になっていた」との記述がある。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/249507

 この記述中の「時慶=西洞院時慶、松梅院=松梅院禅昌、昌叱=里村昌琢の義父」と、「夢想連歌」の連衆と同一メンバーの顔ぶれが似通っていることが伺える。
 ここに出てくる「妙法院」は「妙法院常胤法親王」、「小寺如水」は「黒田如水=黒田官兵衛」、「曲直瀬正彬=曲直瀬道三に連なる医師=道三の孫娘が妻」、「神光院=醍醐寺三宝院・
義演に連なる住職?)などで、「近衛家」と関係の深い面々のように思われる。
 また、「夢想連歌」の連衆のうちの「宗全」については、「宗祇・宗長に連なる連歌師か?」と前回記述したが、「玄朔(曲直瀬道三)には秦宗巴・施薬院全宗・曲直瀬正彬・同正純など多士済々」(『安土桃山時代の公家と京都―西洞院時慶の日記にみる世相(村山修一著・塙書房) 』(P30))との記述の「施薬院全宗か?」と疑問符を付したものを、一応の解として置きたい。

【施薬院全宗(せやくいん-ぜんそう)
没年:慶長4.12.10(1600.1.25)
生年:大永6(1526)
戦国・安土桃山時代の医者。本姓は丹波、号は徳運軒、近江国(滋賀県)甲賀郡に生まれ、幼くして父を失い比叡山薬樹院の住持となる。織田信長の叡山攻め後に還俗して曲直瀬道三の門に入り、医を学んで豊臣秀吉の侍医となり、施薬院の旧制を復興、京都御所の一画(烏丸一条通下ル中立売御門北側)に施薬院を建て、施薬院使に任ぜられて、庶民の救療に当たった。子孫は施薬院を家姓とした。秀吉の側衆としても重用され政治にも参画した。京都で没し比叡山に葬られたが、現在は施薬院家代々の葬地十念寺(京都市上京区)に墓がある。<参考文献>京都府医師会編『京都の医学史』(宗田一) 】(出典 朝日日本歴史人物事典)

 因みに、「西洞院時慶」自身が、「医者としては曲直瀬道三と親交があり」((『安土桃山時代の公家と京都―西洞院時慶の日記にみる世相(村山修一著・塙書房) 』(P28)))と、近衛家周辺としては、医師としての「医療的活動」もしていたようである(村山『前掲書』p26-28)。

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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十三) [岩佐又兵衛]

(その二十三) 「九か所の若松:その五: 五条通・扇屋」周辺など

五条通・扇屋周辺.jpg

「五条通・扇屋:裏手『検校邸の三人』周辺」(左隻第二扇)→「五条通・扇屋周辺その一図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 前回(その二十二:「九か所の若松:その三と四・五条寺町」)の「五条大橋西詰・扇屋周辺その一図」を二条城の方へと西進すると、この賑やかな「五条通」の「扇屋」の場面となる。
 こちらの「五条通の扇屋」が、前回の「五条寺町の扇屋」の本店ということで、仮名草子の『竹斎』に出てくる「五条は扇の俵屋」の、前回に詳説した「俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉」を描いた絵師「俵屋宗達」の本拠地の「絵屋・扇屋」なのかも知れない。
 その右の店舗は「漆器・塗師」の「五十嵐家」の出店、そして、その左の角地の「反物屋・呉服屋」は、「本阿弥光悦・俵屋宗達」グループの、後の「琳派」の中心人物となる「尾形光琳」の生家「雁金屋(尾形道柏=祖父・宗謙=実父)」の出店なのかも知れない。
 この「五条は扇の俵屋」の前(五条通)を往来する編み笠を被った三人の女性は、「熊野比丘尼」(絵解き比丘尼)で、小脇にかかえている箱は、その絵解き箱で、中には「熊野参詣曼荼羅」や「観心十界図」などが入っている。この三人の「熊野比丘尼」の後ろに、「熊野比丘尼」姿の、袋を背負い、手に柄杓を持った少女が描かれている。この柄杓は、その祈祷の「喜捨の小銭」を受け取るものなのであろう。
 この「五条通」、「室町通」そして「五条新町通」などには、「歩き巫女、鉦叩き、鉢叩き、山伏、鐘鋳(かねい)勧進、琵琶法師、猿曳」などの多様な「遊行者・芸能者」が描かれている。この図の右端の男も、「山伏」の「遊行者」で、その左脇の三人の武家の一人が、何やら、小銭を喜捨する仕草をしているようである。

五条通・琵琶法師.jpg

「五条通・裏手『検校邸の三人』周辺」(左隻第二扇)→「五条通・扇屋周辺その二図」

 この「五条通・扇屋周辺その二図」は、先の「五条通・扇屋周辺その一図」の上部を拡大した部分図である。
「琵琶法師が一人、それを聞き入っている数寄者が二人」という図で、ここに「若松」が生えっている。「名札」(貼紙)には、「〇〇やくけんきよう」(『近世風俗譜四)洛中洛外(二)p142』とあり、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p238-241』では、「高山検校」(高山丹一検校)とし、慶長十八年(一六一四)の「大久保長安事件」(江戸初期の金山奉行で、死後、不正があったとされ、遺子全員が粛清され一家断絶となった事件。その事件の際、出入りしていた高山丹一検校などの座頭も連行され、当時の勘定奉行の松平正綱、金座主宰者の後藤庄三郎などの尽力により赦免された事件。この事件の背後には、時の老中の大久保忠隣と本多正信の激烈な派閥争いがあったとされている)、その高山丹一検校が赦免され心置きなく琵琶を奏でている姿として説明している。
 これらのことに関しては、下記のアドレスでは、下記のとおり記述した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

【この扇屋は、元和七年(一六二一)頃に出版された古活字版仮名草子『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)に出てくる「五条は扇の俵屋」と一致する感じで無くもない。とすると、その裏手に描かれている、俳諧師のような数寄者風情の一人は、「俵屋宗達」、そして、もう一人の人物は、「本阿弥宗達」と解しても、「三藐院ファンタジー」的な「謎解き」としては、許容範囲の内ということになろう。】

 ここに、その『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)に出てくる「石村検校参られて、歌の調子を上げにけり」(『仮名草子集(日本古典文学大系90)』所収の「竹斎」(前田金五郎校注)P97)の、その「石村検校」を、この「五条通・扇屋周辺その二図」の三人のうちの一人に付け加えたいのである。

【石村検校(いしむらけんぎょう)
生没年不詳。室町末期(16世紀後半)に琵琶法師(びわほうし)から三味線演奏家に転じ活動したといわれる。盲人。石村検校を三絃(さんげん)の最初の取扱い者としたものに次の諸記録がある。
 文禄(ぶんろく)年間(1592~96)琉球(りゅうきゅう)(沖縄)に渡り、京都へ帰ってから三味線をつくりだしたという『糸竹初心集』の記述。琉球へ漂着した梅津少将が月琴を学び、1562年(永禄5)帰国後、その子石麻呂(のち盲官を得て石村検校)が月琴を改良して三味線をつくったとする『琉球年代記』の説。そして文禄のころ堺(さかい)中小路に住む石村検校が琉球から渡来した二絃の蛇皮線を改良して三線と名づけたとする『野河検校流三線統系序』の記述。ほかに『海録』などの諸書にもみえる。
 また、三味線組歌の本手の最初の作曲者といわれる。[林喜代弘]『藤田徳太郎著『三絃の免許状』(『東亜音楽論叢』所収・1943・山一書房)』▽『吉川英史著『三絃伝来考』(『三味線とその音楽』所収・1978・音楽之友社)』】(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

 ずばり、「三藐院ファンタジー」的な「謎解き」は、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p238-241』の、その「高山検校」(高山丹一検校)を、この「石村検校」に置き換えて、俳諧師のような数寄者風情の二人は、『俵屋宗達』と『本阿弥光悦』とする」は、敢えて、そのままにして置きたい。
 この「高山検校」を「石村検校」に置き換えることは、仮名草子『竹斎』に、「五条の俵屋」「本因坊(算砂)」そして「石村検校」の三点セットで登場してくることの他に、この「石村検校」が、この「舟木本」で、「座頭と瞽女(ごぜ)」あるいは「遊女かぶき」などで数多く描かれている「三味線」を作った琵琶法師として夙に知られているからにこと他ならない。
 このことに関しては、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p61-65』でも、「三味線の流行」という一項目を起こし、詳細に記述されているのだが、「この楽器を最初に手にしたのは、それまで琵琶を弾いていた『当道(とうどう)』の盲人の音楽家たち」(『国史大辞典』と『日本史大事典』の『三味線』の記述の合成・要約)と、この「石村検校」は出て来ない。
 さらに、上記の「石村検校」に関する「琉球へ漂着した梅津少将が月琴を学び、1562年(永禄5)帰国後、その子石麻呂(のち盲官を得て石村検校)が月琴を改良して三味線をつくったとする『琉球年代記』の説」の「梅津少将」は、「大納言久我敦通の子の通世を父に持つ梅津少将(梅渓中将とも)」のことで、この説からすると、中世以後「当道座(男性盲人の自治的互助組織)の本所」としている村上源氏(中院流)の総本家「久我家」に連なる人物で、この「舟木本」と深い関わりがあると思われる「烏丸光広」とも近い関係にある人物ということになる。

祇園・竹の坊.jpg

「祇園・竹の坊」(「右隻」第四扇上部)→「祇園周辺その一図」

 この「祇園周辺その一図」は、「舟木本」の「右隻」第四扇の上部に描かれている「祇園竹の坊」(祇園三院五坊の一つ)で、「柵の中では男たちが蹴鞠(けまり)を、奥の部屋では、僧侶を相手に囲碁を楽しんでいる」図である。
 『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)の、「石村検校」関連のものは、この「蹴鞠」に関する記述の中が出だしで、そこに、狂歌師・俳諧師の藪医師「竹斎」の、次の狂歌が記されている。

 下手の蹴る 鞠はぜんしゆう(禅宗)の生悟(なまさとり)
               ありといへども 当(あた)らざりけり

 この狂歌の「ぜんしゅう」は、「禅宗」と「禅衆」とが掛けられており、この「あり」は、掛け声の「あり」と、禅宗の「有見」(あり=うけん)とを掛け、「有見」とは、「すべて存在するものには実体(我)があって、その実体は常住不変であると執着する考え」(『精選版 日本国語大辞典』)の意、「当(あた)らざりけり」(「ちんぷんかんぷん」)との、禅問答を揶揄している一首と解したい。
 この「蹴鞠」の「蹴鞠道家元」としての地位を、徳川家康から与えられているのが、藤原北家師実流(花山院家)の「飛鳥井家」で、これまた、「烏丸光広」とは極めて近い関係にある。

祇園・梅の坊.jpg

「祇園・梅の坊」(「右隻」第四扇上部)→「祇園周辺その二図」

 先の「祇園竹の坊」の前方(南側)に、この「祇園梅の坊」が描かれている。もともと「坊」とは、僧侶が生活する建物のことであるが、「祇園竹の坊」と同じく、単なる参拝の場所ではなく、「囲碁・連歌・蹴鞠」、そして、「酒食をもてなす遊興・娯楽施設」の場所として利用されているということであろう。
 『竹斎』の中で、「石村検校」が登場するのは、先の「蹴鞠」の場の後、「遊女遊君集りて、若き人々打交り、三味線胡弓に綾竹や、調べ添へたるその中に、石村検校参れて、歌の調子を上にけり」の、上記の「祇園梅の坊」では、その前座の「三味線」だけ見えるが、この後に繰り広げられる、「石村検校」の「三味線」に合わせての「地唄・端唄・小唄」の場面と続くのであろう。

「情(なさけ)は、今の思ひの種よ。辛きは後の深き情(なさけ)よ」

 これは、この「竹斎」の先行的な仮名草子の『恨の介』(『仮名草子集(日本古典文学大系90)』所収)に「当世流行(はや)る小唄共」に出てくる「福助本阿国歌舞伎草子」の一節のようである。
 これらの、三味線音楽の「地唄・長唄・浄瑠璃・端唄・小唄」などは、下記のアドレスなどが参考となる。

http://hectopascal.c.ooco.jp/note_3-5.htm

 ここで、冒頭の「五条通・扇屋周辺その一図」に戻って、この「五条は扇の俵屋」の建物は、町家の建物としは最上級の「桟瓦葺」(本瓦葺きの弱点である重量対策として、平瓦と丸瓦を一体化させた波型の桟瓦を使用した屋根の葺き方)で、トップクラスの建物である。
 これらのことに関して、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)p218-220』で、「舟木本」に描かれている建物の屋根を、次の六分類で考察している。

① 檜皮葺 → 内裏・二条城の御殿、清水寺・豊国社・祇園社などの建物
② 本瓦葺 → 二条城の天守・内裏の築地塀、方広寺大仏殿・東寺・東西本願寺など
③ 桟瓦葺 → 町家(右隻=一軒、左隻=十軒)
④ 柿葺(こけらぶき) → 町家
➄ 板葺  → 町家
⑥ 藁葺  → 例外的(祇園社の茶屋、四条河原の小屋など)

 町家は、この分類の「③~➄」で、上記の「五条通・扇屋周辺その二図」ですると、一番手前の「扇屋(俵屋)」の屋根が「③桟瓦葺」、「(石村)検校」が琵琶を弾いている家は「④ 柿葺」、そして、その右側の町家は「➄板葺」で、この図は、その三種類の「屋根」が見事に使い分けされている。
 この「③桟瓦葺」の「扇屋(俵屋)=俵屋宗達の店舗」の建物は、前回(その二十二)の(参考その二)の、《宗達の俗姓は蓮池氏、或いは喜多川氏。俵屋という屋号を持つ京都の富裕な町衆の系譜にある絵師で先祖には蓮池平右衛門尉秀明、喜多川宗利などがあった。同人は1539(天文8)年には狩野一門の総帥である狩野元信とともに当時の扇座を代表する座衆であった。また36(天文5)年に生起した天文法乱の敗北によって京都を追われた日蓮法華宗本山が京都に還住が許された際、頂妙寺旧境内地の全てを買い戻して50(天文19)年、亡妻の供養のために頂妙寺に寄進した富裕な日蓮法華衆としても知られる。つまり俵屋は代々絵屋を家職とした一門の屋号であり、宗達はその工房を継承した絵師である。》というイメージが濃厚となってくる。
 同時に、その(参考その一)の、「烏丸光広と仮名草子『竹斎』そして仮名草子作者としての『烏山光広』」(下記「再掲」)に、先の(その二十一)、「二条城前・戻り橋の橋占と家族など」で触れた「一条戻り橋」が、当時「二条戻り橋」で紹介されている仮名草子『仁勢物語』(第二十五段)の、その『仁勢物語』の作者も「烏丸光広とする説」(柳亭種彦「好色本目録」等)があり(明白な誤伝とされているが)、やはり、『竹斎』そして『仁勢物語』などの仮名草子と烏丸光広とは何らかの深い関わりがあることを特に付記して置きたい。

(再掲)

(参考その一)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

(関連参考メモ)

【 そして、この「俵屋」は、その文章の前の所に出てくる、「帯は天下にかくれなき二条どおり(通り)のむかで屋(百足屋)」「づきん(頭巾)は三でう(三条)から物や(唐物屋)甚吉殿」「じゆず(数珠)は四条の寺町えびや(恵比寿屋)」、そして、「五条は扇の俵屋」というのである。 
 これは、『源氏物語』(夕顔巻)の、二条に住んでいる光源氏が五条に住んでいる夕顔を訪れる、その道行きを下敷にして、当時の京都の人気のブランド品を売る店(二条は帯の百足屋、三条は頭巾の唐物屋、四条は数珠の恵比寿屋、五条は扇の俵屋)を紹介しているだけの文章の一節なのである。
 この「五条の扇の俵屋」の主宰たる棟梁格の人物が、後に「法橋宗達(または「宗達法橋)」となる、即ち、上記の醍醐寺の「紙本墨画芦鴨図」を描いた人物なのかどうかは、全くの未詳ということで確かなことは分からない。
 と同様に、この『竹斎』という仮名草子(平易なかな書きの娯楽小説)の作者は、「富山道冶」(「精選版 日本国語大辞典」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「デジタル大辞泉」「ブリタニカ国際大百科事典」)=「磯田道冶」(『宗達(村重寧著)』『宗達絵画の解釈学(林進著)』)の「富山」と「磯田」(同一人物?)と大変に紛らわしい。
 さらに、「作者は烏丸光広(1579‐1638)ともされたが,伊勢松坂生れ,江戸住みの医者磯田道冶(どうや)(1585‐1634)説が有力」(「世界大百科事典 第2版」「百科事典マイペディア」)と、宗達と関係の深い「烏丸光広」の名も登場する。
 そもそも『竹斎・守髄憲治校訂・岩波文庫』の、その「凡例」に「辨疑書目録に『烏丸光広公書作 竹斎二巻』とあつて以来作者光広説が伝えられてゐる」とし、校訂者(守髄憲治)自身は、光広説を全面的に否定はしてない記述になっている。
 そして、この烏丸光広は、「歌集に『黄葉和歌集』、著書に『耳底記』・『あづまの道の記』・『日光山紀行』・『春のあけぼのの記』、仮名草子に『目覚草』などがある。また、俵屋宗達筆による『細道屏風』に画賛を記しているが、この他にも宗達作品への賛をしばしば書いている。公卿で宗達絵に賛をしている人は珍しい。書作品として著名なものに、『東行記』などがある」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)と、「仮名草子」の代表作家の一人として遇せられている(「百科事典マイペディア」)。
 当時(元和八年=一六二二)の光広は四十四歳で、御所に隣接した「中立売門」(御所西門)の烏丸殿を本拠地にしていたのであろう。下記の「寛永後萬治前洛中絵図」(部分図・京都大学附属図書館蔵)」の左(西)上部の「中山殿」と「日野殿」の左側に図示されている。
 「烏山殿」は、その御所(禁中御位御所)の下部(南)の右の「院御所」の左に隣接した「二条殿」と「九条殿」(その下は「頂妙寺」)の間にもあるが、「中立売門」(御所西門)の「烏丸殿」が本拠地だったように思われる。 】
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十二) [岩佐又兵衛]

(その二十二) 「九か所の若松:その三と四・五条寺町」周辺など

五条大橋西詰・五条寺町.jpg

「五条大橋西詰・五条寺町の扇屋・両替屋など」(「右隻」第五・六扇中部)→「五条大橋西詰・扇屋周辺その一図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 この右端(第五扇)が五条大橋である(五条大橋にも堀川戻橋と同じように『橋占』のような姿もあるが、こちらは、その脇が乞食で、こちらは単なる「物売り」のようでもある)。     
 この五条大橋西詰(西側の袂)に、これもまた、堀川戻橋と同じように「床屋」が店を構えている。この「床屋」について、『洛中洛外図舟木本—町のにぎわいが聞こえる(奥平俊六著)』では、次のように解説している。

【 五条大橋西詰には、ほとんど橋に接するように床屋がある。客の月代を剃っているのだが、客が毛髪が着物に落ちないように手拭いを袋状にして持っているところがおもしろい。
櫛、剃刀、鋏の絵を描く、軒から下げた看板も綿密である。本図には堀川の戻り橋の橋詰にももう一軒床屋があり、手鏡を持ち、髪形を指図する若衆が描かれている。
床屋がなぜ橋のたもとで営業するのだろうか。ひとつには、洛中へ入る人々が長旅で乱れた髪を結い直し、身ぎれいにして所用先を訪れるためだが、もうひとつ理由がある。
床屋は往来を向いて仕事をしている。これは頭が陰にならないようにするためでもあるが、これによって常に往来に目配りできる。橋は多くの人が往来する、ミヤコの出入口でもあった。
やがて江戸期には床屋の橋のたもとや町の木戸口で営業し、町方の手伝いをすることになる。治安機関の一翼を担うことになるのである。
本図に描かれた床屋の情景は、数ある洛中洛外図の中でももっとも精密に描かれている。  】(『洛中洛外図舟木本—町のにぎわいが聞こえる(奥平俊六著)』P61)

  ここでは、この「床屋」ではなく、それに隣接した「寶」と「光」の「両替屋・銭屋=銭店=銭見世)と、その間に挟まった「扇屋」とを土俵に据えたい。

五条橋西詰・寶・光・扇屋.jpg

「五条大橋西詰・扇屋・『寶・光』の銭屋」→「五条大橋西詰・扇屋周辺その二図」

 この図(「五条大橋西詰・扇屋周辺その二図」)の左端上の「貼紙」(名札)は「五条てらまちとをり(五条寺町通)」のようである(『近世風俗図譜四』P142-143)。中央は「扇屋」で、この「扇屋」の両脇の「寶」と「光」の店は「両替屋(小口)・銭屋=銭見世」のようである。

銭屋(日本国語大辞典).jpg

《ぜに‐や【銭屋】》→「銭屋(日本国語大辞典)・舟木本『左隻』第六扇上部」→「祇園御旅所周辺 C-2図」
https://kotobank.jp/word/%E9%8A%AD%E5%B1%8B-548649
【〘名〙 近世、もっぱら小額の銭貨の両替を行なった店。正規の両替商の下請的な業務を行なった。ぜにみせ。銭両替。※仮名草子・竹斎はなし(1672頃)上「竹斎銭の入事ありて、銭屋へさうばを書にやられけるに」】(出典『精選版 日本国語大辞典』)

 ここに出てくる「仮名草子・竹斎はなし」は、いわゆる『竹斎』(「岩波文庫258-1 守髄憲治校注」)の亜流作で、一連の「竹斎物(もの)」の一つである。
 この「竹斎物(もの)」の中心に位置する『『竹斎』(「岩波文庫258-1 守髄憲治校注」)関連で、下記の「参考その一」の、《「帯は天下にかくれなき二条どおり(通り)のむかで屋(百足屋)」「づきん(頭巾)は三でう(三条)から物や(唐物屋)甚吉殿」「じゆず(数珠)は四条の寺町えびや(恵比寿屋)」、そして、「五条は扇の俵屋」というのである。これは、『源氏物語』(夕顔巻)の、二条に住んでいる光源氏が五条に住んでいる夕顔を訪れる、その道行きを下敷にして、当時の京都の人気のブランド品を売る店(二条は帯の百足屋、三条は頭巾の唐物屋、四条は数珠の恵比寿屋、五条は扇の俵屋)を紹介しているだけの文章の一節なのである。》を先に紹介した。
 この『竹斎』(「岩波文庫・前掲書」p28)に出てくる「五条は扇の俵屋」の、当時、名を馳せていた「俵屋宗達」(?~1643?)の「扇屋」(「絵屋」兼「扇屋」?)の一つとも解せられる。
 また、その「扇屋」の両脇の「銭店」(?)の暖簾・「寶と光」に関して、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』では、「両脇にある『寶』と『光』とは『寶光=豊公』であり、『暖簾に豊公(豊臣秀吉公)敬慕の心情』を託している」(p209-211の「要点メモ」)との謎解きをしている。
 この「五条寺町」の「五条通」に面した「扇屋と銭屋」と「寺町通」に面した「茶道具屋」との裏手の庭に、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』(P236-237)で指摘している「九か所の『若松』」の、「八 五条橋東(「西」が正しい?)詰の暖簾に『寶』と『光』とある店舗の若松(右隻第六扇)」が、確かに描かれている。
 しかし、この「八 五条橋東(「西」が正しい?)詰の暖簾に『寶』と『光』とある店舗の若松(右隻第六扇)」の「若松」は、その「七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)」の「若松」と、その「五条通」(「面」)の「裏手」(裏庭)と「寺町通」(「面」)の「裏手」(裏庭)とは、そこに住む「町衆」の「共同的空間」として地続きの一体のものと理解すべきものなのかも知れない。
 これらのことに関しては、『近世風俗図譜四(小学館)』所収の「町衆の生活と文化(吉村享稿))の、次の記述が参考となる。

【 京都の町は、通りを挟んで向かい合う町家の裏としての共同空間が表の町を相互に結合させ、そうした構造が町組を形成する重要な絆として作用した。 】(「前掲書・小学館」P124)

五条寺町「若松」周辺.jpg

「扇屋の若松と小袖屋の若松(「五条寺町」周辺)」→「五条大橋西詰・扇屋周辺その三図」

 この「五条大橋西詰・扇屋周辺その三図」の下段の右端の図は、上記の「五条大橋西詰・扇屋周辺その二図」に該当する。この裏手の「松と若松」、それは、この図の「茶道具屋」と「足袋屋」の裏手の「松と若松」とを共有し、それらが、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』で指摘する「八 五条橋東(「西」が正しい?)詰の暖簾に『寶』と『光』とある店舗の若松(右隻第六扇)」の正体なのである。
 そして、この「五条大橋西詰・扇屋周辺その三図」の「足袋屋」に「金雲」が描かれていて、その上(北側)の「鶴屋(縫物屋→小袖屋)」の裏手に、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』で指摘する「七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)」が描かれている。

鶴屋裏手・本因坊.jpg

「『鶴屋』裏手の『本因坊』周辺」→「五条大橋西詰・扇屋周辺その四図」

 この「五条大橋西詰・扇屋周辺その四図」が、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』で指摘する「七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)」なのである。

【 この坊主頭の人物は誰であろうか。ここは名所はないけれども、当時の京都では、本因坊算砂の姿と見ることができるだろう。そう判断してよければ、囲碁史の一頁を飾る姿となる。このように本因坊算砂の囲碁対局を描いているのであるから、注文主は囲碁好きであったのであろう。舟木屏風は、そこ以外に、右隻第四扇上部の祇園竹の坊にも囲碁をしている僧侶と俗人を描き、また、左隻第一扇上部には、碁盤・碁笥・碁石などを販売する店を描いている。 】(『黒田・前掲書』p242)

この本因坊算砂と武家二人とが描かれているのは、四条寺町に近い寺町通に面した「双鶴紋」のある「小袖屋」(『近世風俗図譜四(小学館)』では「縫物屋」)の裏手である。この裏手は、五条寺町の寺町通に面した「扇屋」の裏手と繋がっている《「町衆」の「共同的空間」》
と解して、この『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』で指摘する「七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)」と「八 五条橋東(「西」が正しい?)詰の暖簾に『寶』と『光』とある店舗の若松(右隻第六扇)」とは、一体のものとして捉えたい。
 そして、この「本因坊算砂」(1612~1623)は、下記の「参考その二」の「広範で強固な日蓮法華衆のネットワーク」の一人(本因坊日海(寂光寺第2世)で、日蓮宗の本山(由緒寺院)の一つの「頂妙寺」の信徒(「参考その二」)である「俵屋宗達」(?~1643?)とは、同じネットワークの同志ということになろう。
 さらに、「五条は扇の俵屋」(俵屋宗達?)と紹介している、その同じ『竹斎』(「岩波文庫・前掲書」p19)の中で、「天下の碁うちのほんに(ゐ)ん坊(本因坊)」と、「里村紹巴」(戦国時代の連歌の巨匠、『竹斎』では「宗匠紹巴法眼」)との逸事の中に登場して来る。この「里村紹巴」は「頂妙寺」の信徒で、その知友の将棋の家元として知られている「大橋宗桂」も頂妙寺の信徒である(「参考その二」)。
 そして、この「頂妙寺」と「烏丸光広・俵屋宗達」などの関連については、これまで、次のアドレスなどで、幾度となく触れてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-17

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

烏丸殿.jpg

「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」(A図:烏丸殿と頂妙寺)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=24215%2C13535%2C3305%2C6435&r=270

【(再掲)
烏丸光広が大納言に叙せられたのは、元和二年(一六一六)、三十八歳の時で、この年に、徳川家康(七十五歳)、その翌年に後陽成院(四十七歳)が没している。
 そして、宗達関連では、後水尾天皇の側近で歌人としても知られている「中院通村(なかのいんみちむら)」の日記(元和二年三月十三日の条)に、「松屋興以(狩野派の絵師狩野興以)来候由也、則申附夜之事、御貝十令出絵書給(貝合わせの絵を描かせることを命じ)、本二被見下、一、俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉(その参考の絵として「鹿と紅葉の俵屋絵」を見せた) (省略)」と、後水尾天皇は「俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉」を持っていて、これを参考にして「貝合わせの絵」を描くように、「松屋興以(狩野派の絵師狩野興以)」に命じたということが記されている。
 この「俵屋絵〈鹿一疋 紅葉二三枚無枝〉」を描いた絵師は、「俵屋宗達」という有力資料の一つなのであるが、これとて、確証のあるものではない。 】

 上記の「A図:烏丸殿と頂妙寺」の、中央の上段が「御所(後水尾天皇)」、そして、右(東)側の下段が「院御所(後陽成院)」である。「院御所」の左(西)側(下段)」が「頂妙寺」、その二軒上が「烏丸殿」(『烏丸光広かその関係者』の邸宅)、その上が「二条殿(邸宅)」、一本道を挟んで、その上段に「御所」がある。その御所の右(西)側の道を挟んで、「中山殿(邸)」・「日野殿(邸)=烏丸家の本家」があり、その左(西)側に隣接して、ここにも「烏丸殿(邸)」がある。
 この地理関係から見ても、「頂妙寺」(「里村家=連歌、本因坊家=囲碁、大橋家=将棋、大黒屋=銀座、俵屋家=絵・扇屋」などの「日蓮法華衆のネットワーク」)と「烏丸家=歌・書・『後陽成・後水尾文化ネットワーク』など」とは自然な形で結びついて行き、そして、それは、必然的に、「本阿弥宗光悦・角倉素庵・俵屋宗達ネットワーク」と重奏的に結合して行くと解したい。  
 「狩野派」もまた、下記の「参考その二」のとおり「日蓮法華衆のネットワーク」の「妙覚寺信徒」で、「妙覚寺信徒」は、彫金の「後藤家」、陶器(茶碗)の「楽家」と日蓮宗の本山(由緒寺院)である。
 岩佐又兵衛の師と目せられている狩野内膳(1570-1616)も、狩野派三代目・狩野松栄(1519-1592)の高弟の一人で、 「日蓮法華衆のネットワーク」の一人と思われるが、岩佐又兵衛は、その一族の殆どが織田信長より斬殺されるのを免れ、石山本願寺に保護された経緯などからして「本願寺(浄土真宗)」門徒なのかも知れない。
 ここで、内膳の師の「松栄」は、父の狩野派二代目の元信(1477?-1559)の下、石山本願寺の障壁画制作に参加し(作品は現存せず)、門主・証如より酒杯を賜っている記録が遺されており(「ウィキペディア」)、その折り、「内膳」も参加して、そこで、岩佐又兵衛との出遭いがあったのかも知れない。
 いずれにしろ、狩野派の「狩野内膳」、そして、その門下の「岩佐又兵衛」と、「絵屋・扇屋」、そして、後に、「琳派」のの創始者の一人と目せられる「俵屋宗達」、そのグループの「本阿弥宗達・角倉素庵・俵屋宗達・烏丸光広」のグループとは、疎遠というよりも、親炙の関係にあったであろうことは、それほど違和感なく受容できるものと解したい。
 そして、それら中枢に居る人物ということになると、「本阿弥宗達・角倉素庵・俵屋宗達・烏丸光広」のグループからすると、公家の大御所の「烏丸光広」ということも、これも、ごく自然のことと解したい。
 その上で、この「烏丸光広」と、この「岩佐又兵衛」の、この「舟木本」に登場して来る「五条は扇の俵屋(八 )」(右隻第六扇)、そして、「七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)」(『黒田・前掲書』)、さらに、その「三 平家琵琶の高山丹一検校の屋敷の若松(左隻第二扇)」(次回に詳説)と、その三点セットとの、この「烏山光広」と、仮名草子の『竹斎』との関係などは、次回以降で詳説したい。

(参考その一)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

(関連参考メモ)

【 そして、この「俵屋」は、その文章の前の所に出てくる、「帯は天下にかくれなき二条どおり(通り)のむかで屋(百足屋)」「づきん(頭巾)は三でう(三条)から物や(唐物屋)甚吉殿」「じゆず(数珠)は四条の寺町えびや(恵比寿屋)」、そして、「五条は扇の俵屋」というのである。 
 これは、『源氏物語』(夕顔巻)の、二条に住んでいる光源氏が五条に住んでいる夕顔を訪れる、その道行きを下敷にして、当時の京都の人気のブランド品を売る店(二条は帯の百足屋、三条は頭巾の唐物屋、四条は数珠の恵比寿屋、五条は扇の俵屋)を紹介しているだけの文章の一節なのである。
 この「五条の扇の俵屋」の主宰たる棟梁格の人物が、後に「法橋宗達(または「宗達法橋)」となる、即ち、上記の醍醐寺の「紙本墨画芦鴨図」を描いた人物なのかどうかは、全くの未詳ということで確かなことは分からない。
 と同様に、この『竹斎』という仮名草子(平易なかな書きの娯楽小説)の作者は、「富山道冶」(「精選版 日本国語大辞典」「日本大百科全書(ニッポニカ)」「デジタル大辞泉」「ブリタニカ国際大百科事典」)=「磯田道冶」(『宗達(村重寧著)』『宗達絵画の解釈学(林進著)』)の「富山」と「磯田」(同一人物?)と大変に紛らわしい。
 さらに、「作者は烏丸光広(1579‐1638)ともされたが,伊勢松坂生れ,江戸住みの医者磯田道冶(どうや)(1585‐1634)説が有力」(「世界大百科事典 第2版」「百科事典マイペディア」)と、宗達と関係の深い「烏丸光広」の名も登場する。
 そもそも『竹斎・守髄憲治校訂・岩波文庫』の、その「凡例」に「辨疑書目録に『烏丸光広公書作 竹斎二巻』とあつて以来作者光広説が伝えられてゐる」とし、校訂者(守髄憲治)自身は、光広説を全面的に否定はしてない記述になっている。
 そして、この烏丸光広は、「歌集に『黄葉和歌集』、著書に『耳底記』・『あづまの道の記』・『日光山紀行』・『春のあけぼのの記』、仮名草子に『目覚草』などがある。また、俵屋宗達筆による『細道屏風』に画賛を記しているが、この他にも宗達作品への賛をしばしば書いている。公卿で宗達絵に賛をしている人は珍しい。書作品として著名なものに、『東行記』などがある」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)と、「仮名草子」の代表作家の一人として遇せられている(「百科事典マイペディア」)。
当時(元和八年=一六二二)の光広は四十四歳で、御所に隣接した「中立売門」(御所西門)の烏丸殿を本拠地にしていたのであろう。下記の「寛永後萬治前洛中絵図」(部分図・京都大学附属図書館蔵)」の左(西)上部の「中山殿」と「日野殿」の左側に図示されている。
 「烏山殿」は、その御所(禁中御位御所)の下部(南)の右の「院御所」の左に隣接した「二条殿」と「九条殿」(その下は「頂妙寺」)の間にもあるが、「中立売門」(御所西門)の「烏丸殿」が本拠地だったように思われる。 】

(参考その二)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-17

【 (メモ: 「蓮池平右衛門尉秀明に始まる俵屋喜多川宗家の系譜」関連のことで、その概略に基づいての、下記のアドレスの記事を、参考までに再掲して置きたい。)

https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20200612-001.html

(再掲)

 宗達の俗姓は蓮池氏、或いは喜多川氏。俵屋という屋号を持つ京都の富裕な町衆の系譜にある絵師で先祖には蓮池平右衛門尉秀明、喜多川宗利などがあった。同人は1539(天文8)年には狩野一門の総帥である狩野元信とともに当時の扇座を代表する座衆であった。また36(天文5)年に生起した天文法乱の敗北によって京都を追われた日蓮法華宗本山が京都に還住が許された際、頂妙寺旧境内地の全てを買い戻して50(天文19)年、亡妻の供養のために頂妙寺に寄進した富裕な日蓮法華衆としても知られる。つまり俵屋は代々絵屋を家職とした一門の屋号であり、宗達はその工房を継承した絵師である。
 
 そして俵屋の商品は宗達の時代、元和年間(1615~24)には俵屋絵、俵屋扇として評判を得ていた。また俵屋一門には絵屋に加えて織屋としての家職もあったようで、西陣の織師たちによって結ばれていた「大舎人座」の座衆として蓮池平右衛門、北川八左衛門などの名が見えるに加えて、彼らの系譜に連なると思われる蓮池平右衛門宗和なる織師の存在も明らかにされている。また01(慶長6)年に立本寺に大灯籠を寄進するとともに鷹ヶ峯光悦町に屋敷を所有した蓮池常有という人物などの記録がみられるも、彼ら相互の関係は不明である。
 
 1946(昭和21)年、美術研究者の徳川義恭氏は当時、俵屋蓮池・喜多川第17代当主である喜多川平朗氏の協力を得て喜多川家伝来の歴代譜、頂妙寺墓所にある俵屋喜多川一門の供養塔の碑銘を調査し、蓮池平右衛門尉秀明に始まる俵屋喜多川宗家の系譜を明らかにされた。自著『宗達の水墨画』においてその調査結果を公表された中で「蓮池俵屋についてはそれを系統的に知り得ず、之が引いては宗達との関係を不明瞭にしているものと思われる」と述べられている。ちなみに現当主、第18代喜多川俵二氏は師父と同様に人間国宝として俵屋の家職を継承し頂妙寺大乗院と結縁されている。

 俵屋宗達と本阿弥光悦は義理の兄弟の関係にあり多くの作品を共作していた。加えて宗達が紋屋井関妙持や千家第2代小庵とも茶の湯を介して交流があり、このことからも俵屋一門と本阿弥一門、紋屋一門相互の深い関わりが見てとれる。彼らはいずれも西陣、小川今出川上ル界隈に居住して其々に家職を営んでいた。(「日蓮宗大法寺住職 栗原啓允氏」の見解   )

 広範で強固な日蓮法華衆のネットワーク

絵画制作の狩野(妙覚寺信徒)、※俵屋(頂妙寺信徒)、※長谷川(本法寺信徒)、
彫金の名門※後藤(妙覚寺信徒)、
蒔絵師の※五十嵐(本法寺信徒)、
西陣織の紋屋井関(妙蓮寺信徒)、
銀座支配の大黒屋湯浅(頂妙寺信徒)、
茶碗屋の※楽(妙覚寺信徒)、
呉服商の雁金屋※尾形(妙顕寺信徒)、
海外交易の※茶屋(本能寺信徒)

能楽の謡曲本を広く刊行した本阿弥光悦(本法寺信徒)、
連歌界を主導した里村紹巴(頂妙寺信徒)、
俳諧の祖ともされる松永貞徳(本圀寺信徒)、
囲碁の家元である本因坊日海(寂光寺第2世)、
将棋の家元としての大橋宗桂(頂妙寺信徒)

「一家一門皆法華」という信仰規範が要請され、信仰、血縁のみならず自身の家職もまた相互に重ね合わせていた。

 例えば彫金の後藤一門が制作する三所物などの刀装具の下絵は狩野一門が手掛けていました。京都国立博物館所蔵、重要文化財「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」に至っては、和紙を京唐紙の祖とされる紙屋宗二が漉上げ、その上に俵屋宗達が絵を描き、寛永の三筆を謳われた本阿弥光悦が三十六歌仙の和歌を書き流して制作された作品です。ちなみに紙屋宗二は蓮池常有らとともに鷹ヶ峯、光悦町に移住した熱心な日蓮法華衆であったことが分かっている。

 1615(元和元)年に本阿弥光悦が徳川家康から拝領した洛北鷹ヶ峯の地に4カ寺の寺院を中心として、本阿弥始め蓮池、紙屋、尾形、茶屋などの著名な日蓮法華衆の一門が集い、共に信仰生活を送った光悦町は「広範で強固な日蓮法華衆のネットワーク」の具現した姿といえる。 

※ 俵屋(頂妙寺信徒)=俵屋宗達(生没年不詳)
※ 長谷川(本法寺信徒)=長谷川等伯(一五三九~一六一〇)
※ 後藤(妙覚寺信徒)=後藤徳乗(一五五〇~一六三一=京都三長者の一人)
※ 五十嵐(本法寺信徒)=五十嵐久栄(一五九二~一六六〇=光悦の孫妙久の夫)
※ 茶屋(本能寺信徒)=茶屋四郎次郎(?~一六二二)=二代目=京都三長者の一人)
※ 尾形(妙顕寺信徒=尾形宗伯(一五七一~一六三一=「光琳・乾山」の祖父、宗伯の父・道伯の妻は光悦の姉)
※ 楽(妙覚寺信徒)=楽常慶(一五六一~一六三五)=二代目、三代目は道入(のんこう)
  】 (同上のアドレスの記事の「要点メモ」など) 

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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十一) [岩佐又兵衛]

(その二十一) 「九か所の若松:その二・豊国定舞台」周辺など

豊国定舞台・烏帽子折・作り物の若松.jpg

「豊国定舞台・烏帽子折・手作りの若松・寝そべって見物する二人」→A図(その八)-1
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

豊国定舞台.jpg

「豊国定舞台」(右隻第一扇中部)→ A図(その八)

豊国定舞台桟敷席.jpg


「豊国定舞台」での「桟敷席」(右隻第一扇中部)→ C図(その八)

 前回(その二十)の「六角堂(頂法寺)」が、京都(下京)のど真中とすると、今回の「方広寺大仏殿」に隣接した常設の能舞台の「豊国定舞台」は、この「洛中洛外図屏風・舟木本」(六曲一双)の、鴨川左岸の洛外の、そのスタート地点ということになる。
 この「豊国定舞台」では、晩年に熱烈な能愛好者となった豊臣秀吉の報恩にむくいるために、秀吉没後の慶長四年(一五九九)以降、同十九年(一六一四)に至るまで、豊国廟に遷宮があった四月と秀吉の命日の翌日にあたる八月の十八日に法楽能が上演されていた。
 豊国社の神宮寺別当の「神龍院梵舜」(1553-1631)の『舜旧記』の、慶長十九年(一六一四)八月十九日の条に、この最後の「豊国定舞台」の最後の演目に、この「烏帽子折」が上演されていたことが記録され、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男))では、この時の桟敷席の見物客は、「豊国社社務・萩原兼従(萩原家当主)、吉田社祠官・吉田兼治(兼従の実父・吉田家当主・吉田兼見の子)、神龍院梵舜(吉田兼見の弟)」の、「神道」の「吉田家」(卜部氏の流れをくむ公家)の一族であるとしている(p103-139「豊国定舞台の『烏帽子折』と桟敷―右隻の読解」)。
 これらのことについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06

 ここで、改めて、この「豊国定舞台」の最後の法楽能の、最後の演目の「烏帽子折」が上演された、その「慶長十九年(一六一四)八月十九日」に焦点を絞ると、この「烏帽子折」が上演された日は、いわゆる、「方広寺鐘銘事件」の、真っ只中での上演で、これらのことに関しても、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-12

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-14

 上記のアドレスでは、次の「方広寺略年表」を紹介した。

方広寺略年表.jpg

ここで、上記の「方広寺略年表」の、慶長十九年(1614)と元和元(1615)との二か年に絞り、
上記の〈「豊国定舞台」の最後の法楽能の、最後の演目の「烏帽子折」が上演された、その「慶長十九年(一六一四)八月十九日」以降の、「方広寺鐘銘事件・大阪冬の陣・大阪夏の陣・豊臣家の滅亡・禁中並公家諸法度の制定」までの、「洛中洛外図屏風・舟木本」「豊国祭礼図屏風」(岩佐又兵衛作)などに、より多く関係するものを、下記アドレスの年表などを参考にすると、次のとおりとなる。
 なお、下記の年表中の「※」印は、それぞれ、節目となる重要事項で、「洛中洛外図屏風・舟木本」「豊国祭礼図屏風」(岩佐又兵衛作)の中でも、何らかの形で、描かれているような事項である。

https://www.touken-world.jp/battle_history/

https://www.merkmark.com/sengoku/nenpyo/ksnx_15.html

http://www.m-network.com/sengoku/digest/osakanojin.html

慶長十九年(1614)

※07/21 徳川家康が方広寺の鐘銘文(「国家安康」、「君臣豊楽」)に難癖をつける。
07/26 徳川家康が方広寺大仏殿の開眼供養を延期するよう命じる。
08/20 片桐且元が駿府の徳川家康に使者に立ち、方広寺大仏殿鐘銘文の釈明をする。
09/18 片桐且元が大坂城に戻り、豊臣秀頼・淀殿へ徳川家康との和平を勧める。
09/21 京都仙洞御所でこの頃流行の操人形・三味線などが催される。
10/01 片桐且元が弟貞隆と共に武装の上大坂城を退去、茨木城に立て籠もる。
10/05 本願寺第十二世門跡教如が歿す。享年五十七歳。
10/06 豊臣秀頼が大阪城を修理、戦備を整える。
10/19 徳川家康が西国・四国の大名に大坂への参陣命令を発す。
10/22 徳川家康が二条城に到着する。
11/10 徳川秀忠が伏見城に到着する。
※11/15 〈大坂冬の陣開始〉 徳川家康・秀忠父子が京都を発ち、大坂冬の陣が始まる。
12/04 越前松平勢と前田勢が真田丸を襲うが、逆に真田幸村・大助父子に撃退される。
12/18 大坂方の使者常高院と徳川方阿茶局・本多正純が京極忠高の陣で和睦交渉をする。
12/19 〈大坂冬の陣終結〉 徳川・豊臣家の間に一旦和睦が成立する。
12/23 徳川方が大坂城の濠の埋め立てを開始する。

元和元(1615)
02/14 徳川家康が京都から駿府に戻る。
03/12 徳川家康が京都所司代板倉勝重から大坂方再挙の報を受ける。
03/27 京都市四条河原で、流行中の操り人形芝居が興行される。
04/04 徳川家康が駿府を発ち、大坂方討伐のため京都に向かう。
04/07 徳川家康が西国の諸大名に大坂方討伐への出陣準備を命じる。
04/13 大坂城内で軍議が開かれ、真田幸村が豊臣秀頼の出馬を求め伏見城攻めを献策する。
04/19 江戸幕府が諸大名に大坂進撃を命ず。
※04/23 〈大坂夏の陣開始〉 大坂方の軍勢が大和方面へ進撃、大坂夏の陣が始まる。
04/26 大坂方の軍勢が大和郡山城を攻略する。
05/05 徳川家康・秀忠父子が十二万余の軍を率いて京都を出陣し河内星田に着陣する。
05/07 真田幸村が奮戦するも、越前松平勢に討ち取られる。享年四十九歳。
※05/08 〈夏の陣終結〉 徳川軍により大坂城落城。豊臣秀頼・淀君はじめ生き残りの諸将は炎上する城内で自害。秀頼享年二十三歳、淀君享年四十九歳。
※05/12 豊臣秀頼の七歳の娘(千姫養女、後の天秀尼)が徳川方に捕らえられる。
※05/23 豊臣秀頼の遺児国松丸が京都六条河原で斬首される。享年八歳。
05/28 片桐且元(貞盛)が茨木城で自刃。享年六十歳。
06/11 家臣らが家康暗殺を企てた罪により、古田織部が切腹する。享年七十三歳。
07/07 江戸幕府が『武家諸法度』を制定する。
※07/09 徳川家康が板倉勝重・金地院崇伝・南光坊天海に豊国社の破却を命じる。
※07/17 江戸幕府が『禁中並公家諸法度』を制定する。

 この年表の「方広寺鐘銘事件」(※)に関する事柄については、「洛中洛外図屏風・舟木本」の「右隻第一・二扇」の「方広寺大仏殿・方広寺鐘楼・豊国定舞台・豊国廟」に、その背景が描かれている。
 そして、「大阪冬の陣」(※)関連については、下記のアドレスなどの、同じく「右隻第二扇」に描かれている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-09

 上記のアドレスでも紹介されているが、「大阪夏の陣」(※)関連については、「洛中洛外図屏風・舟木本」よりも、下記のアドレスの「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館蔵)の「右隻第五・六扇」に描かれている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-02

 また、「豊国社の破却」(※)関連については、次のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-21

 そして、上記年表の「『禁中並公家諸法度』(※)関連については、その全文と背景などについて、下記アドレスで詳説した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-11

 ここで、上記の年表の豊臣秀頼の遺児の「国松(丸)斬首・天秀尼出家」関連について、下記のアドレスで簡単に触れているが、慶長末期(慶長十九年)と元和偃武(元和元年)とを象徴するものとして、「洛中洛外図屏風・舟木本」の最末尾(「左隻第六扇」)の「二条城」の前方に描かれている「戻り橋の橋占と家族など」の場面を掲げて置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-12

二条戻橋のスナップ.jpg

「二条城前・戻り橋の橋占と家族など」(「左隻」第六扇中部)→「戻り橋その一図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 この図の左端の図は二条城である。中央に描かれているのは「橋占・辻占・八卦見」をする少女の図である。この右端の橋は、古来橋占いなどで有名な「一条戻り橋」(当時は「堀川二条」に架かっていた?)である。その橋の上で堀川の流れを見ている「武士夫婦と二人の息女」が描かれている。その背後に「傾奇者親子(子供は金太郎ような「大童」スタイル)」と三人の「橋占」が描かれている。そして、橋の「鳥居(?)」の天辺に少年が乘っているという、どうにも、奇妙奇天烈(高低差・遠近差のちぐはぐ)な鳥観図なのである。
 これはまず、「戻り橋・戻り橋の橋占」などの、その正体を解明していかなければならない。

【「戻り橋」
「戻橋」という名前の由来については『撰集抄』巻七で、延喜18年(918年)12月に漢学者三善清行の葬列がこの橋を通った際、父の死を聞いて急ぎ帰ってきた熊野で修行中の子浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返り、父子が抱き合ったという。(以下略)
「戻橋の橋占」
戻橋は橋占の名所でもあった。『源平盛衰記』巻十によれば、高倉天皇の中宮建礼門院の出産のときに、その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行った。このとき、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったという。その童子は、陰陽師・安倍晴明が一条戻橋の下に隠していた十二神将の化身であろうと書かれている。安倍晴明は十二神将を式神として使役し家の中に置いていたが、彼の妻がその顔を怖がったので、晴明は十二神将を戻橋の下に置き、必要なときに召喚していたという。
「千利休の梟首・キリスト教殉教者などの受難刑場」
戦国時代には細川晴元により三好長慶の家臣和田新五郎がここで鋸挽きにされ、安土桃山時代には豊臣秀吉により島津歳久と千利休が梟首された。また秀吉のキリスト教禁教令のもと、1597年には、日本二十六聖人と呼ばれるキリスト教殉教者は、ここで見せしめに耳たぶを切り落とされ、殉教地長崎へと向かわされた。ただし、利休の首は「聚楽大橋」のたもとに曝されたとの記録もあり、この頃戻り橋の名は聚楽大橋すなわち現在の中立売橋に移転されていたと考えられている。徳川和子の入内行列が中立売橋を渡る際、幕府は戻り橋の名を嫌って「万年橋」と改名したが、京童の間には定着しなかった。 】(「ウィキペディア」)

占いをする少女.jpg

「八卦見をする少女」)→「戻り橋その二図」

 この何とも、何かに憑かれたような少女は、「八卦見をする少女」というよりも、数奇な運命を辿る、豊臣秀吉の遺児とされている息女(千姫の養女として生き永らえた、後の「天秀尼」)との見立ても可能であろう。

戻り橋の傾奇親子.jpg

「戻り橋の傾奇者親子」→「戻り橋その三図」

 この戻り橋の親子連れのような大人と子供の二人連れの風体も、当時の異様異体の「傾奇者」の「親子連れ」という雰囲気である。この傾奇者スタイルの大人は、「豊国祭礼図屏風」の「大阪夏の陣」に描かれている、次の半身裸の傾奇者スタイルの「豊臣秀頼」と瓜二つの感じなのである。

豊国祭礼図・秀頼.jpg


「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-09

 とすると、この傾奇者スタイルの子供は、六条河原で長宗我部盛親らと共に斬首されたとされている秀頼の庶子(母は秀頼の側室・伊茶)、「国松(丸)」ということになる。
 すなわち、慶長十九年(一六一四)五月八日に大阪城で自害した秀頼(享年二十三歳)と同年五月二十三日に六条河原で斬首された遺児の「国松(丸)」とが、この戻り橋で再会したということになる。

戻り橋の四人家族.jpg

「戻り橋の四人の家族」→「戻り橋その四図」

 「戻り橋の傾奇者親子」(戻り橋その三図)の前方に、この「戻り橋の四人の家族」連れが描かれている。この堀川の流れを見やっている「四人の家族」連れも、「戻り橋の傾奇者親子」の、その見立ての「亡き秀頼・国松(丸)」親子のように、この「戻り橋」で、それぞれ離れ離れになった家族四人が、再会した姿なのであろうか。
 それとも、生きながられた四人の家族連れが、身内の誰かを、この「戻り橋」で待ちわびっている姿なのであろうか。それとも、それぞれの家族が、この「戻り橋」で、来し方(慶長の動乱の日々)を振り返り、そして、これからの行く末(元和偃武の安寧の日々)を希求している姿なのであろうか? ……  それらは全て、この絵図に接する者の胸中にあり、もはや、これ以上の詮索は無用であろう。
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二十) [岩佐又兵衛]

(その二十) 「九か所の若松:その一・六角堂」周辺など

六角堂の二人連.jpg

「六角堂(頂法寺)の二人連れ(少年三態)」」(「左隻」第三扇上部)) → D-1図

 前回(その十九)でふれた、この六角堂(頂法寺)の「D-1図」(左隻)は、どうにも、ここで描かれている「二人連れ」の「少年三態」が気にかかるのである。
 この中央上部の、年上の少年が年下の少年の頭の毛虱を取っている「二人連れ」は、「右隻」の八坂神社の「祇園門前の兄弟」(C-2-3図)と連動していることは、この仕草から見て明瞭であろう。
 として、この右端下部の「唐崎社」(唐崎明神)の「二人連れ」は、この背後に自生している「若松」が一つの目印(ヒント)とすると、次のアドレスの「豊国定舞台の作り物の若松(右隻第一扇)」と連動し、そして、そこに描かれている「寝そべっての観客二人」と、この六角堂の「唐崎社前の二人連れ」とが連動しているという雰囲気で無くもない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06

豊国定舞台.jpg

「豊国定舞台」(右隻第一扇中部)→ A図(その八)
「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」(右隻第一扇中部)→B図(その八)

 そして、これは、下記のアドレスの「豊国廟(桜の下)の地べたに坐っている二人」「(その十二)のA-4図)と連動してくることになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-21

豊国廟の二人.jpg

「豊国廟(桜の下)の地べたに坐っている二人」(右隻第一扇上部)→ A-4図(その十二)
「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」(右隻第一扇中部)→B図(その八)=A-3図(その十二)

豊国定舞台・横になっている男.jpg

「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」(右隻第一扇中部)→B図(その八)=A-3図(その十二)

豊国廟の二人.jpg

「豊国廟(桜の下)の地べたに坐っている二人」(右隻第一扇上部)→ A-4図(その十二)

 そして、その時(その八・その十二)には、その「二人連れ」について、次のように記した。

【《さて、A-3図の「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」に戻って、この「寝そべって、頬杖で見物している二人の男性」の、その右側の柄物の衣服をまとった男性は、蕪村の俳画に出てくる「花見又平=浮世又平=浮世又兵衛=岩佐又兵衛」その人のようなイメージを受けるのである。
 とすると、もう一人の、白衣のような着物の、何か怒っているような顔つきの男は、「又兵衛工房の謎の一番弟子」(「小栗判官絵巻」の「細長い顔かたちの人物像などを描いた有力な画家A」=『岩佐又兵衛―血と笑いとエロスの絵師(辻惟雄・山下裕二著)・とんぼの本・新潮社』P104-105)での「辻惟雄説」)ということになる。》→ (その八) 

《この「岩佐又兵衛と謎の一番弟子A」が現れると、その周辺の人物は「要注意」ということになる。さしずめ、この「豊国廟(桜の下)の地べたに坐っている二人」(A-4図)の傍らの、この二人の貴婦人のうちの一人は、「高台院(北政所)」を暗示しているのかも知れない。》 → (その十)    】 

 今回、冒頭の「六角堂(頂法寺)の二人連れ(少年三態)」」(D-1図)の「右端下部の二人連れ」に接して、これまでの「岩佐又兵衛(年長者)と謎の一番弟子A(年少者)」を、より、ドラマチック(且つ、ファンタスティック)的に、「狩野内膳(八歳程度年上の又兵衛の師筋に目せられている人物)と岩佐又兵衛(謎の一番弟子Aと解していた人物)」と、仮説的に一歩、これまで出てきたイメージを進めたい。
 その上で、この「六角堂(頂法寺)の二人連れ(少年三態)」」(D-1図)の、この左端中部の「本堂欄干側の二人の若衆」は、これまた、下記アドレス(その八)の「豊国定舞台」(右隻第一扇中部・その八「A図」)、そして、「桟敷席」(右隻第一扇中部・その八「C図」)から、具体的に、「松平忠直・忠昌」(越前松平家「岩佐又兵衛」の二人のパトロン)と、仮説的に一歩進めて置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06

豊国定舞台.jpg

「豊国定舞台」(右隻第一扇中部)→ A図(その八)

豊国定舞台桟敷席.jpg

「豊国定舞台」での「桟敷席」(右隻第一扇中部)→ C図(その八)

 この時(その八)の「松平忠直・忠昌」関連については、次のようなものであった。

【 ここで、これまた「ファンタジー」的な見方と受け取られることを承知の上で、上記の「兼治・兼従・兼英」を、当時の「松平忠直」(「結城秀康」の遺族)の一族に、見立て替えをすると、次のプロフィールのようになる。 

〇吉田兼治→松平忠直(まつだいらただなお)=江戸時代前期の大名。越前国北ノ庄(福井)藩主。官位は従三位・参議、左近衛権中将、越前守。徳川家康の孫、徳川家光や徳川光圀などの従兄にあたる。結城秀康の長男。生没年:1595-1650
〇萩原兼従→松平忠昌(まつだいらただまさ)=江戸時代前期の大名。越前国福井藩(北ノ庄藩)3代藩主。官位は正四位下・参議、伊予守。結城秀康の次男。生没年:1598-1645
〇萩原兼従→松平直政(まつだいらなおまさ)=江戸時代前期の大名。上総国姉ヶ崎藩主、越前国大野藩主、信濃国松本藩主を経て出雲国松江藩初代藩主。官位は従四位上・左近衛権少将、贈従三位(1907年)。直政系越前松平家宗家初代。結城秀康の三男。生没年:1601-1666  】

 ここでの記述(その八)から、冒頭の「本堂欄干側の二人の若衆」(D-1図)は、年恰好からして、「松平忠直・忠昌」の「長兄・次兄」の二人ということになろう。
 同様に、上記の、「狩野内膳(八歳程度年上の又兵衛の師筋に目せられている人物)と岩佐又兵衛(謎の一番弟子Aと解していた人物)」の二人としたのも、この「狩野内膳」と「岩佐又兵衛」とは、やはり、岩佐又兵衛の実父の「荒木村重」とに深い係わりのある人物なのである。

【狩野内膳 没年:元和2.4.3(1616.5.18)生年:元亀1(1570)
安土桃山・江戸初期の画家。名は重郷、号は一翁。荒木村重の家臣池永重元の子として生まれる。天正6(1578)年ごろ、根来密厳院に入ったが、のち還俗して狩野松栄に絵を学んだ。15年には狩野氏を称することを許され、またそのころ、天下人秀吉の支持を得て、以後、豊臣家の絵事を勤めた。秀頼の命で「家原寺縁起」の模写をしている。「豊国祭礼図屏風」(豊国神社蔵)は,慶長9(1604)年秀吉の7回忌臨時大祭の公式記録ともいうべきもので、内膳の代表作である。同11年秀頼によって奉納された。その他内膳の作としては「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵)が著名である。<参考文献>成沢勝嗣「狩野内膳考」(『神戸市立博物館研究紀要』2号) (榊原悟) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について  】

 ここで、あらためて、「六角堂(頂法寺)の二人連れ(少年三態)」」(D-1図)の全体図(D1-2図)を見ると次の通りとなり、「「唐崎社」(唐崎明神)の「二人連れ」の右後方に「六」の暖簾と「占い屋」の看板が掛かっている屋敷がある。

六角堂・占い屋・三人連れ.jpg

「六角堂(頂法寺)少年三態・占い屋」(「左隻」第三扇上部)) → D-1-2図

 この右上の「占い屋」の看板について、次のアドレスで紹介されている。

 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssd/54/0/54_0_B03/_pdf

六角堂・占い看板.jpg

左上の「暖簾『六』と占い屋の看板」(「舟木本」左隻第一扇上部)
左下の「占い屋」の看板(上記の拡大図)
右上の「暖簾『六』と占い屋の看板」(「舟木本」左隻第三扇上部)→D1-2図
下中央の「占い屋」の看板(上記・D1-2図の拡大図)
右下の「占い屋」の看板(板「上杉本洛中洛外図」(米沢市上杉博物館所蔵)右隻第六扇下部)

 この(D1--2図)、六角堂(頂法寺)・唐崎社(唐崎明神)の右側の屋敷の「暖簾『六』」は、「六角堂」に隣接していた近江(滋賀)の守護・戦国大名として名高い「六角氏」の屋敷を示し、その「六角氏」に連なる一族の者が、その一角で「御判占い」(武士が使用する書判(花押)の吉凶を見ることであるが同時にその作り方や書き方も指南する)などの「占い屋」(算置・占屋算)などを業としていたのかも知れない。
これらが「六角氏」と関係があるとすると、その隣の「唐崎社」(唐崎明神)の「若松」が、近江の「唐崎の松」で知られている「唐崎神社」(唐崎明神)から勧請されたもので、一本の線上に繋がってくる。さらに、この「舟木本」の旧蔵者は、近江彦根の旧家(舟木家)から発見されたこととも地縁的には結びついてくる。
 それ以上に、この「六角氏(一族)」は、分家の「京極家」を除いて、織田信長との戦いに敗れ、大名としての「六角氏」は滅亡を余儀なくされる。その末期の頃の第十六代当主が「六角義治」(1545~1612)は、織田信長の死後、豊臣秀吉に、その御伽衆(相談役・話し相手)として仕え、秀吉の死後は、豊臣秀頼の弓矢の師範を務めるなどし、慶長十七年(1612)に没している(「ウィキペディア」)。
 この「六角義治」の子息は女子で、「六角氏」は弟の「六角義定」(1547~1620)が継受したとも伝えられているが定かではない。また、この「六角義定」は、豊臣秀頼の家臣になったとか、一族の「六角義郷」が豊臣秀頼の家臣であったとか、その真相は定かではないが、「六角義定」は、元和六年(1620)に没し、その子息が「六角氏」を継ぎ、その後、その「宗家」は断絶とか、その詳細は定かではない(「ウィキペディア」など)。
 ここで特記して置きたいことは、この「義治・義定」の父の、第十五代当主の「六角義賢」(1521~1598)が、剃髪後は承禎と号し、キリシタンの洗礼を受けていることである。
 これらに関しては、下記のアドレスが参考となる。

https://sengoku-his.com/308

 岩佐又兵衛の師と目されている「狩野内膳」(1570~1616)は、又兵衛の父の荒木村重の家臣の出とされ、幼くして仏門(根来密厳院)に入り、後に還俗して狩野松栄に絵を学んだという経歴の持ち主で(「ウィキペディア」)、岩佐又兵衛とは、その出自の頃から因縁の深い人物の一人なのである。
そして、天正十五年(1587)、十八歳の頃に狩野氏を称することを許され、以後豊臣家の御用絵師を務め、文禄元年(1592)の頃、狩野光信らと共に肥後国名護屋城の障壁画制作に参加、翌年にはそのまま長崎に赴いている。この時の視覚体験が、内膳の傑作画とされている「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵)が生み出される。ここに、「像に乗った豊臣秀頼」と「椅子式駕籠(パランキン)に乗った豊臣秀吉」が描かれているようなのである。

南蛮屏風の秀吉と秀頼.jpg

狩野内膳筆「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵・六曲一双)所収「左隻第五・六扇」の「象に乗る人(秀頼?)」と「椅子式駕籠(パランキン)に乗る人(秀吉?)」
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365028

 これらの、狩野内膳の「南蛮屏風」に関しては、下記のアドレスのものが参考となる。

http://blog.nadeg.jp/?eid=18

 それに因ると、この内膳の「南蛮屏風」には、次の事項が盛り込まれているという。

① 天正十九年(1591)の、「長崎にポルトガル船が入港」
② 文禄二年(1593)の、「フランシスコ会修道士が初めて来日」(名護屋で秀吉に謁見、後に行は畿内へ向かう。)
③ 文禄三年(1594年の、「秀吉の吉野の花見」(秀吉は、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗などの錚々たる武将をはじめ、茶人、連歌師など総勢五千人の供を連れて吉野山で花見を催す。)
④ 慶長二年(1597)の、「象の来日」(スペインのマニラ総督から秀吉に象が献上される。)

 この慶長二年(1597)の「象の来日」が描かれているとすると、内膳の、二十七歳の頃で、この翌年(慶長三年)に、豊臣秀吉は、その波乱に満ちた生涯を閉じている。この頃、内膳は「内膳工房」(内膳と内膳の弟子筋の絵師による工房)で、豊臣家の御用絵師の一人というような位置を占めていたのであろう。
 その「内膳工房」の「内膳の弟子筋の絵師」の一人として、内膳より七歳か八歳年下の二十歳前後の「岩佐又兵衛」も働いていたと、これもまた、その真偽はともかくとして、そのように解して置きたい。
 そして、この秀吉が没する最晩年の頃に、「六角家」第十五代当主「六角義賢」(1521~1598)と、その嫡男の第十六代当主「六角義治」(1545~1612)は、秀吉の「御伽衆((相談役・話し相手))」となっている(「ウィキペディア」)。
 この「六角義賢」は、秀吉と同じ年(慶長三年)に没しており、その「秀吉七回忌」の慶長九年(一六〇四)の、「豊国大明神臨時祭礼」を公式記録の一つとして、狩野内膳による「豊国祭礼図屏風」(「豊国社蔵本」)が制作され、それは、慶長十一年(一六〇六)、秀吉の命日八月十八日に行われる例大祭に先立つ十三日に、大阪方の「豊臣秀頼・淀殿」の名代として「片桐且元」が豊国社へ奉納されたとされている(『別冊太陽 桃山絵画の美』所収「桃山風俗画の誕生と展開(奥平俊六稿)」)。
 これらのことについては、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-07

 この慶長十一年(一六〇六)の時に、内膳、三十六歳、そして、又兵衛、二十八歳の頃で、この頃が「狩野内膳とその工房」は絶頂期の頃と解したい。
 ここに、慶長十九年(一六一四)の秀吉十七回忌にあわせて、秀吉恩顧の大名である蜂須賀家政(蓬庵)が阿波小松島の豊國社に奉納するための、岩佐又兵衛作とされている「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館本)が加わる。
 これらのことに関しても、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-14

 岩佐又兵衛作とされている「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館本)についても、「狩野内膳工房」のグループの一つの「岩佐又兵衛と内膳工房の絵師」による「岩佐又兵衛工房」作というのが、その実態なのかも知れない。
 そして、「狩野内膳」は、元和二年(一六一六)に、その四十六歳の生涯を閉じる。その「狩野内膳工房」は、その継嗣の「狩野一渓」(1599~1662)が引き継ぎ、岩佐又兵衛は、その「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館本)と同一時期の頃に制作された「洛中洛外図屏風・舟木本」を一つの契機として、越前藩主・松平忠直(1595~1650)の招聘により、福井へと移住する。時に、岩佐又兵衛、三十九歳の頃である。
 このように解すると、狩野内膳と岩佐又兵衛、岩佐又兵衛の福井への移住などが、一つのストーリーとして、そのイメージ化が明瞭になってくる。
 ここで、冒頭の「D-1図」の「六角堂(頂法寺)の二人連れ(少年三態)」」と「D-1-2図 「六角堂(頂法寺)少年三態・占い屋」に戻って、この六角堂の若松が自生している「唐崎社(唐崎明神)」の前の二人連れを「狩野内膳と岩佐又兵衛」と見立てると、それに隣接した「六」の暖簾と「占い屋」の看板のある屋敷の「六角氏」(「六角義賢と義治・義定」の親子の一族)とは、例えば、「狩野内膳工房(内膳と又兵衛などの工房)」のパトロン(支援者)の一人のような関係があったのかも知れない。
 そして、この「六角氏」と「狩野内膳工房」とを結びつける接点は、やはり、豊臣秀吉の北政所(寧々=御寧)の「高台院」その人ということになろう。そして、この「狩野内膳工房」と「松平忠直・忠昌」兄弟との接点も「高台院」(「忠直・忠昌」兄弟の実父の「結城秀康=徳川家康の次男」は「秀吉・北政所」の養子)ということになる。
 ここに、「結城秀康」の未亡人の「鶴姫」(院号は蓮乗院(? - 1621年) - 江戸重通の娘、結城晴朝の養女、結城秀康・烏丸光広の正室)が再婚した「公家(正二位権大納言)・歌人(細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ歌道の第一人者)そして能書家(寛永三筆の一人・本阿弥光悦門且つ自ら「烏丸流」を築き上げた第一人者)の『烏丸光広』との接点とが加わってくる。
 さらに、この「六角堂」というのは、華道会の「池坊家」発祥の寺院でもあり、その初代の「池坊専好(初代)」(1536? ~1621)との接点も、この「六角堂」とを接点として加わり、それらの輪は、「烏丸家」・「高台院」・「越前松平家」・「京都所司代・板倉家」・「六角家」等々と連鎖反応の状況を呈して来るものと解したい。
 ここに、もう一つ、付け加えて置きたいことは、この「六角堂」(頂法寺)は、京都(下京)のど真中の、そして、そこに住む人々(町衆)の、宗派を問わない「町堂(町組・町衆の拠点)」ともいえる所で、当時(「大阪冬の陣・夏の陣)の頃とすると、その「大阪冬の陣・夏の陣」の「難民救済所」的な拠点の一つだったようにも思われる。

六角堂のスナップ一.jpg

「六角堂(頂法寺)の石灯篭の少年周辺」(「左隻」第三扇上部)) → D-1-3図

 この図(D-1-3図)の中央の、石灯篭に坐り頬杖して思案気な少年は何者なのだろうか?
この少年は、大阪冬の陣・夏の陣で、身内の者を見失ったホームレスの少年のような雰囲気である。そして、この左側の女性は、その少年の両親ではないが、やはり、その戦災で行方不明になった身内の者を探している女性で、何やら、その石灯篭に坐っている少年が、「ぼっとすると、探していた身内の者か?」というような雰囲気でなくもない。
 さらに、この少年の右側の三人の男性は、浪人の風情で、この右端の羽織を着た武士に、何か仕官の頼み事をしているような感じでなくもない。
 とすると、上記で紹介した「六」の暖簾と「占い屋」の看板のある屋敷の「六角氏」も、単なる「占い屋」ではなく、「口入れ屋・周旋屋・手配師・請負師」的な「よろず相談所」という面も有しているのかも知れない。
 これらの「六角堂(頂法寺)の町堂(町組の拠点)」関連は、次のアドレスのものなどが参考となる。

https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi16.html
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十九) [岩佐又兵衛]

(その十九) 京の遊里(「六条三筋遊郭・祇園花街・四条河原の遊里」周辺など)

祇園 旅所周辺.jpg

「祇園御旅所の芸妓・娼妓」周辺(舟木本「左隻」第一扇上部) → C-1図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 この図(C-1図)は、前回に紹介した次の「六条三筋町・中の町遊郭街(A-7図)」(「舟木本」左隻第一扇下部) の上部に描かれているものである。

左隻・六条三筋中の町続き.jpg

「六条三筋町・中の町遊郭街」(「舟木本」左隻第一扇下部)→A-7図

 これは、「舟木本」の「左隻」の「六条三筋町・中の町遊郭街」の「男と女」の図である。

六条三筋・下の町.jpg

「六条三筋町・下の町遊郭街の往来」(「舟木本」右隻第六扇下部)→A-4図

 これは、「舟木本」の「右隻」の「六条三筋町・下の町遊郭街」の「男と女」の図である。

 この(A-7図・A-4図)の遊女は、「娼妓・女郎・遊君(近世)、傀儡女・白拍子・傾城・上臈(中世)」などで呼ばれる「性的サービスをする女性」と解して差し支えなかろう。
 しかし、冒頭(C-1図)の「祇園御旅所の芸妓・娼妓」は、その「娼妓」(「性的サービスをする女性」)だけでなく、その室内の「三味線をしている女性」などは、「芸妓」(舞踊や音曲・鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす女性)と解して、そして、往来には、その「芸妓」や「娼妓」なとが入り混じっていると解して置きたい。
 そして、この「芸妓」は、祇園などでは、「芸妓・芸姑(げいこ)」、そして、その見習を「舞妓(まいこ)」と呼ばれ、そして、それらが、「六条三筋(柳町)」の「遊郭街」とは別に、「花街(かがい・はなまち))」という色分けをしているということになる。
 そして、その「芸妓・芸姑(げいこ)・舞妓(まいこ」の源流は、祇園などの「お茶や団子を提供する水茶屋で働く『茶立女(ちゃたておんな)』」で、その「茶立女」が、当時の「おんな歌舞伎(阿国歌舞伎)」などを真似て、その三味線や踊りなどの「芸(芸能)」を披露することなどに由来があるようである(「ウィキペディア」)。

祇園 門前.jpg

「祇園門前のスナップ」(門前の兄弟)・「門前の茶屋」)( 右隻第五扇上部)→C-2図)

 この図(C-2図)の短冊形の名札に「ぎおんもんぜん(祇園門前)」とあり、四条河原の「おんな歌舞伎・あやつり浄瑠璃・能舞台」、そして、鴨川右岸(西側)の「祇園御旅所」(C-1図)に至る、「祇園街」のメインストリートである。
 ここに、当時の「茶屋」が並んでいる。立派な風炉で「茶立女」が茶を点てて、門前客の休憩所として接待している。この「茶屋」が「御茶屋」(花街で芸妓を呼んで客に飲食をさせる店)の源流で、この「芸妓」などを抱えている家が「置屋」、そして、料理を用意する店が「料理屋」ということになる。
 この「御茶屋」などが集積している地域は、京都では「五花街(ごかがい)」「祇園甲部・宮川町・先斗町・上七軒・祇園東」と呼ばれ、「六条三筋(柳町)遊郭街」(この「遊郭街」は「島原遊郭街」へ移転される)と、一応の区分けをされている。
 ここで、下記のアドレスで紹介した、次の元和三年(一六一七)の「元和五ヶ条」と、それに違反する無免許の「遊女稼業」を巡る「訴訟」などによって、その実態の一部が判明してくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-11

【 元和三年(1617)三月、元和五ヶ条が幕府より出されるのですが、それは

一、 傾城町は三筋に限り、その区域を越えて遊女稼業は禁止である。
一、 客は一晩しか泊まっていけない。
一、 傾城の衣類は紺屋染を用い質素に、金銀などはもっての外
一、 廓内の建築も質素に、町役は厳正に
一、 不審者は奉行所に通報せよ

(訴えられた無免許の地域の業者など)

四条河原町 又市
同ていあんのうしろ 一町(貞安前之町は今の高島屋の西部分)
同こりき町 一町(現先斗町の一画)
同中島 一町(三条河原町東)
同ますや町 一町(上京、中京、下京に十箇所ほどもあり特定できません)
とひ小路 しつか太夫(富小路がとびのかうし通と『京雀』あるも分からず)
同たかみや町 一町(富小路蛸薬師下ルに現存します。)
たこやくし通 ゑいらくや
二条たわら町 たなかつら(かつて夷川新町西入ルに俵町あり)
こうしんのうしろ (庚申?荒神?どこを指したものか・・・)
北野 六軒町(上七軒の近くと思われる)
同 れいしょう(同上)
大仏この町(五条~七条間の山和大路辺り?)     】

 ここで、冒頭の「祇園御旅所の芸妓・娼妓」(C-1図)に戻って、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、「出合茶屋」(「出合屋」「出合宿」「待合」『引出茶屋』=男女が密会に使う貸席屋)でなく、「傾城屋」(「遊女屋」「女郎屋」=遊女を抱えて客の相手をさせる家)としている。すなわち、上記の無免許の遊女屋ということになる。

【 祇園御旅所のすぐ右側に、「傾城屋」が描かれている。三味線の稽古をしている遊女たちや鏡台を前におき化粧に余念のない遊女がいる。屋外に目をやると、通りにいる女たちは、明らかに艶めいた姿で客を誘っている。足元まである長羽織を着た、振分け前髪の若衆は、遊女に手を取られていて、傾城屋へ入るつもりだ。この若衆は振り返って、右端の仲間を呼んでいる。その男は遊女の誘いに対して、それを拒否するような手のしぐさをしている。どうなることやら。
 同じく第二扇の中程右端の建物には、遊女が茶筅髷の男の相手をしている。その下の離れのような建物には、横になっている総髪の男がいるが、その傍らには頭髪と赤い小袖の一部が見えるから、遊女が侍っていたはずである。これも傾城屋か出合屋なのであろう。
 右隻にも、第三扇中央に描かれた茶屋では、客の手や袖を引く女たちがおり、女に背後から抱き付いている好色な目つきの男がいる。  】『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』(P61-62)

左扇・出合茶屋・遊女.jpg

「室町通東・出合茶屋の男女」(左隻第二扇中部)→C-3図

この図(C-3図)は、上記の『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の「第二扇の中程右端の建物の遊女と男」の図で、「傾城屋か出合屋なのであろう」としているが、「出合茶屋(出合屋)の男女」として置きたい。
 さらに、それに続く、「右隻にも、第三扇中央に描かれた茶屋では、客の手や袖を引く女たちがおり、女に背後から抱き付いている好色な目つきの男がいる」は、次の図で、「五条大橋・東岸(大仏通)茶屋の遊女」として置きたい。

右扇・飯・煮売茶屋・遊女.jpg

「五条大橋・東岸(大仏通)茶屋の遊女」(右隻第三扇中部)→C-4図

 この図(C-4図)の「茶屋女」は、先の「祇園門前のスナップ」(門前の兄弟)・「門前の茶屋」C-2図)の「茶屋女」(「茶立女」)とはイメージが異なり、「飯屋の女・煮売屋の女・料亭の女」というイメージとなってくる。
茶屋.jpg

「祇園門前茶屋女(茶立女)」→ C-2-2図

 この図(C-2-2図)のイメージが、現在に至る京都の「五花街」の「御茶屋」(「一見客=初めての客」お断り)と連なり、上記の(C-4図)のイメージから、「料理茶屋・料亭など」(一見客歓迎)のイメージと繋がってくる。
 ここで、「遊郭・花街/遊女・芸妓・娼妓・女郎・遊君・傀儡女・白拍子・傾城・上臈・芸姑・舞妓/待合屋・傾城屋/水茶屋・掛茶屋・立場茶屋・葉茶屋・引手茶屋・待合茶屋・出合茶屋・料理茶屋」等々には深入りしないで、次の「祇園門前のスナップ」(門前の兄弟)・「門前の茶屋」C-2図)の、その「門前の兄弟」に移りたい。

祇園 門前の兄弟.jpg

「祇園門前の兄弟」→ C-2-3図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 この祇園門前の二人の少年は兄弟であろうか? 兄貴分のような年上の少年が年下の弟分のような少年の頭の毛虱を取っているような図である。これは、「関ヶ原の戦い」以降の打ち続く動乱の慶長期にあって、ホームレスになった『戦災孤児の兄弟』という設定も可能であろう。
 と同時に、この少年のどちらかが、織田信長と石山本願寺との闘争に起因して、信長に反旗した戦国大名の荒木村重の、たった一人の遺児と伝えられている、この舟木本の筆者の「岩佐又兵衛」の、その少年時代のような雰囲気も伝わってくる。
 岩佐又兵衛(1578-1650)の前半生は、全くの未知のままだが、石山本願寺(西本願寺)に保護され、成人して母方の「岩佐」姓を名乗り、信長の子息の織田信雄小姓役として仕えたというが、確かなことは分からない。
 絵の師匠は、村重の家臣を父に持つ「狩野内膳」(1570-1616)という説があるが、これまた確かなことは分からない。又兵衛は後年「三十六歌仙扁額」(川越・仙波東照宮蔵)の額裏に「土佐光信末流」とも記し、「土佐光信」(1434-1525?)の「土佐派」の絵師にも学んだのかも知れない。
この「祇園門前の兄弟」(C-2-3図)らしき二人の少年が、「左隻」(第三扇上部)の「六角堂(頂法寺)の「親鸞堂(?)」前に、そして、やや成人した二人の若者が「唐崎社(唐崎明神」前に登場してくる。

六角堂の二人連.jpg

「六角堂(頂法寺)の二人連れ(少年三態)」」(「左隻」第三扇上部)) → D-1図

  この図(D-1図)の中央上部の二人の少年は、先の「祇園門前の兄弟」(C-2-3図)をモデルにしていると解して差し支えないであろう。ここが、「「六角堂(頂法寺)」の「親鸞堂」の前かどうかは定かではない。もし、この二人の少年のうちのどちらかが、「西本願寺」などに保護された「岩佐又兵衛」の自画像らしきものと解すると、この「親鸞堂」が意味ありげになってくるという、ただそれだけのことである。
 それよりも、この図(D-1図)の右端の下部に描かれている、後方の「祇園門前の兄弟」らしき少年が、やや成人になってきたような若者二人の方が、これまた意味ありげなのである。
これは、「唐崎社(唐崎明神」の前と解して差し支えなかろう。
 この「唐崎社(唐崎明神」の前に「若松」が自生している。この「若松」は、この舟木本の中に九か所出てくるようなのである((『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』)。

【 九か所の「若松」

一 長暖簾に「雪輪笹紋」のある店舗のウラ庭の若松(左隻第四・五扇) →「鞠挟紋の駕籠舁き」図(左扇第五扇中部)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

二 六角堂と唐崎神社の若松(左隻第三扇) → D-1図

三 平家琵琶の高山丹一検校の屋敷の若松(左隻第二扇) → 「扇屋(扇屋の店内風景と裏手で琵琶を聞く数寄者二人)」図(左隻第二扇中部)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

四 祇園御旅所の右側、当麻寺の隣にある遊女屋の若松(左隻第一扇) → C-1図

五 六条柳町(三筋町)遊里の若松(左隻第一扇~右隻第五・六扇) → A-8図(その十八)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-17

六 四条河原の能の小屋の若松(左隻第六扇) → A図(その六)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-30

七 本因坊算砂が囲碁の対極をしている若松(右隻第六扇)
八 五条橋東詰の暖簾に「寶」と「光」とある店舗の若松(右隻第六扇)

九 豊国定舞台の作り物の若松(右隻第一扇) → A-3図(その十二)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-21
→「その九・その八」A図=下記アドレス
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06                】
(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)・P236-246』、アドレス、そして、図番号などを付記する)

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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十八) [岩佐又兵衛]

(その十八) 京の遊里(「六条三筋町遊郭」と「三筋町遊郭に連なる鴨川沿岸」など)

三筋中の町の風流踊り.jpg

「六条三筋町・中の町遊郭街で踊る『風流踊り』一行」(「舟木本」右隻第六扇下部)→A-3図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

 前回(その十七)の「六条三筋町・中の町遊郭街で踊る『風流踊り』一行」(A-3図)の下段に、次の「下の町遊郭街」が描かれている。

六条三筋・下の町.jpg

「六条三筋町・下の町遊郭街の往来」→A-4図

 左端の男女は、「男が女を背後から抱きしめている」。中央の男女は、「男が女の手を引いての道行きである」。その右後ろでは、「男と女とが抱擁している」。その前方の男三人は「遊女評判記」を読んでいる。
 この図(A-4図)の下段に、次の図(A-5図)が描かれている。

六条三筋・下の町・裏窓.jpg

「六条三筋町・下の町遊郭街の裏窓」→A-5図

 右端の三人の女性は、左側の女性は鏡に向かって「化粧中」である。真ん中の女性は「着替え中」の感じである。そして、この右端の女性は、柄杓で水を汲んで「口・歯の清掃中」という雰囲気である。いずれにしろ、「六条三筋・下の町遊郭(廓)」の「遊妓・娼妓」の、表街(A-4図)の裏窓(楽屋の内輪)のスナップである。
 そして、この左端の下の、「湯浴みする女性」は、右側の、本番前の「化粧する女性」像に
に比して、謂わば、戦いが終わっての、あたかも「穢れを拭っている女性」というイメージなのかも知れない。

入浴する女.jpg

「六条三筋町・下の町遊郭街の裏窓・湯浴みする女」→A-6図

【 この屏風の風俗描写の眼目は……都市生活の享楽面に向けられた画家あるいは顧客の強い関心のほどであり、そこに演じられているさまざまな人間の滑稽劇に対する共感と揶揄のまなざしである。
三筋街遊郭を見よう。……洛中洛外図の画中の画中に遊郭の光景がこれほどあからさまに描かれたのは、おそらくこの「舟木屏風」を嚆矢とするだろう。往来で遊女と嫖客(ひょうきゃく) の侍たちが抱きあい、ふざけあっている。中ノ町では遊女たちが、花を手に手に風流踊りの最中である。扇や袖で顔を隠して、男たちがそれを見物する。……路上で髪を無造作に束ね、裾に風を入れる女たちの姿態は野太くたくましく、汗とほこりの臭いがそこから漂ってくるようなのは、画面の保存がいくぶん悪いせいでもあるまい。室内での遊女の化粧や行水姿ものぞき見できるようになっている。余談だが、この裸の行水姿は、改装のときの不注意にも下半身が切りとられてしまっている。《あぶな絵》の元祖となるところだったのに、残念だ。 】((『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』所収「奇想の図譜・辻惟雄著・ちくま学芸文庫・P86-89」)

左隻・六条三筋中の町続き.jpg

「六条三筋町・中の町遊郭街」(「舟木本」左隻第一扇下部)→A-7図

この「六条三筋町・中の町遊郭街(左隻第一扇)」(A-7図)は、「右扇」の「六条三筋町・下の町遊郭街の往来」(A-4図)などに連なる「六条三筋町遊郭街(左扇)「左扇」に描かれているものなのである。
 すなわち、この「洛中洛外図舟木本屏風」は、この「六条三筋町遊郭街」で、その「右扇」(A-3図・A-4図・A-5図・A-6図)と「左扇」(A-7図)とがドッキングして描かれていることが、この男女の抱擁の姿態などから明瞭になってくる。
 この六条柳町(通称は六条三筋町)遊郭は、慶長七年(一六〇二)に、二条万里小路にあった「二条柳町遊郭」が、二条城の整備に伴って移転を強制されたもので、三筋町という呼称は、東西に走る「上の町」(楊梅通)、「中の町」(鍵屋町通)、下の町(的場通)の三筋であったことに由来している。
 東本願寺の北側に位置し、北は「北は五条、南は六条、東が室町通り、西が新町通り」の一角ということになる。
 この「右隻」と「左隻」とを合成すると、次の図のようになる。

六条三筋・右扇・左扇.jpg

「六条三筋町遊郭(右隻第六扇・左隻第一扇) →A-8図

この図(A-8図)の上段が「上の町」、中段が「中の町」、下段が「下の町」で、この「左隻第一扇」の「男女が抱擁している図」(A-7図)と「右隻第六扇」の「男女が抱擁している図」(A-4図)とがドッキングして「下の町」(的場通)の図と解したい。
 そして、その「上の町」・「中の町」・「下の町」のドッキングの目安は、ここに描かれている「金雲」の表現などに因って、それらを暗示的に表現しているものと解したい。
 その上で、この「右隻」(A-4図)と「左隻」(A-7図)との描写が、何処となく別人が描いているような雰囲気の印象を受けるのである。「右隻」(A-4図)が動的な手慣れた筆使いとすると、「左隻」(A-7図)は静的なやや生硬な筆使いというような感じなのである。
 これは、やはり、岩佐又兵衛一人の「個人的な作品」というよりも、何人かしての「岩佐又兵衛工房」的な「協同(共同)的な作品」と解したい。
 これらのことに関して、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』で紹介している次の論稿を紹介して置きたい。

【 「佐藤康宏『改訂版 日本美術史』の舟木屏風」
 岩佐又兵衛によって風俗画の性格は大きく変わり、浮世絵に直結する表現を見せる。旧蔵者の名前によって舟木本と呼ばれる「洛中洛外図」は、彼の初期の作品と考えられる。舟木本は一六一四年ころの京都の景観を描き、二条城と方広寺大仏殿とを左右隻に対峙させ、当時の微妙な政治状況を示唆する。洛中洛外図という室町時代以来の主題で表現を一新した舟木本は、日本の風俗画の歴史において分水嶺というべき位置にある。どの部分を取っても現実感に富む描写の中で興味深いのは、都市生活の享楽面に取材の力点を置いていることである。四条河原の芸能や六条柳町の遊里には特に溌剌とした描写を見せ、踊る遊女たち、往来で人目をはべからず抱き合う侍と遊女に、客や通行人の視線がじっと注がれているのが印象的である。表現のレヴェルでは、人が人を見つめる行為が作る熱気を都市の生命力の表現に生かした画だといえるとともに、女歌舞伎の流行と娼婦を一定の地域に集めて公許の遊里とする公娼制度の成立とが、現実にも絵画の中にも〈見世物としての女〉を生み出したことを、舟木本は鋭く報告してもいるのである。又兵衛が江戸時代に「浮世又兵衛」とか浮世絵の祖と呼ばれたのは、確かに理由のあることであった。

「佐藤康宏『岩佐又兵衛行状記《『岩佐又兵衛全集・研究偏』》』所収の「右隻と左隻の違い」
……右隻と左隻とで人物の描写を比較すると、右隻のシャープで明確な描写に対して左隻にゆるんだ描写が目立つ。左隻に描かれる人物が右隻のそれよりも頭が大きめに描かれ、表情など、よりわかりやすいけれども単調な描写になる傾向を持つ。右隻の方がよりすぐれた腕前の画家の手で一貫して仕上げられ、左隻には助手の手が多く入っていると見える。すなわち、右隻の方は主として又兵衛が描いたと考えられるが、彼がこの時点で工房制作を実践していたこともわかる。 】(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P36-45)

東寺の老僧・若い女.jpg

「東寺の表(読経と信者)と裏窓(老僧と女)」(左隻第一・二扇の下部)→A-9図)

 「右隻」と「左隻」とをドッキングする場面の「六条三筋遊郭」(A-7図・A-8図)に続けて、「左隻」(第一・二扇)に「東寺・東本願寺」が描かれていて、その『東寺』の図の一部に、上記の「東寺の表(読経と信者)と裏窓(老僧と女)」(A-9図)が描かれている。この図の左上には、「読経している僧たち」で、その前方に「男女の信者たち」、そして、この左端の宿坊の一室で「老僧が若い女を背後から抱きしめている」。
 これは、「六条三筋町遊郭の裏窓」の「化粧中の女たち」(A-5図)と「湯浴みする女」(A-6図)と同じ筆法の「聖(聖なる東寺=信仰)」と「俗(聖者=老僧の本性剥き出しの若き女とのスナップ)」との、その対比の世界の描出ということになる。
 そして、この「聖と俗」との対比の世界は、次の「右隻」の「六条三筋遊郭」に続く東側の鴨川沿岸の次の図と連なっている。

六条三筋・東・田園・僧と尼.jpg

「六条三筋町東側の鴨川沿岸(農夫・薪を運ぶ牛車・僧と尼の密会)(右隻第四扇下部)→B-1図

 この図(B-1図)の下段の「僧と尼」とは、この図だけでは、「僧と尼との密会」というイメージは浮かんでこないが、これが、先の「東寺の表(読経と信者)と裏窓(老僧と女)」(A-9図)と併せ見て行くと、途端に、「聖と俗(聖職者たちの密会)」とのドラマの一コマというイメージが浮かんでくる。
 そして、それはまた、新たなる「聖と俗(聖職者と民衆(働く人々))」との対比というイメージに連なってくる。

六条三筋・東・聖と俗とのドラマ.jpg

「六条三筋町東側の鴨川沿岸(自然と人とのドラマ)(右隻第三・四扇下部)→B-2図

 この図(B-2図)の左端は、前図(B-1図)、そして、この右端は「鴨川を渡る牛車や人の群れ」、それに続く鴨川沿岸は『田打ち』など耕作図」、そして、「洛外(東山)から洛中(下京)へと向う道中図」ということになる。
 これらを全体(A-3図~A-9図、B-1図~B-2図)として、総括的に見て行くと、「自然と人そして歴史とのドラマ」という、壮大なイメージが湧いてくる。
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十六) [岩佐又兵衛]

(その十六) 「六条三筋町・中の町遊郭街で踊る『風流踊り』一行」は何を物語っているのか?

風流踊.jpg

「六条三筋町・中の町遊郭街で踊る『風流踊り』一行」(「舟木本」右隻第六扇下部)→A-3図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

「六条三筋町(上の町・中の町・下の町)」は、幕府(京都所司代)公認の「遊郭街」である。

【 室町時代に足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりといわれる。桃山時代(1589年)には豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条万里小路(までのこうじ)に「二条柳町」を開設した。江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓が輩出した。ところが、1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後「島原」と呼ばれた。「島原」の名称は、この移転騒動が島原の乱時の乱れた様子に似ていたためについたという説や、周りが田原であったため、島にたとえて呼ばれたという説など、諸説がある。 】(ウィキペディア)

 https://gionchoubu.exblog.jp/23030606/

【 二条柳町の廓は僅か十三年後の慶長七年(1602)に東本願寺の北、六条三筋(ろくじょうみすじ)に移転を命じられます。最初は東半分が開かれ、北は五条、南は六条、東が室町通り、西が新町通りで今の下京中学校あたりになり、北から柳町上の町、柳町中の町、柳町下の町と名付けられました。
三筋の由来は楊梅通り、鍵屋町通り、的場通りにあります。この区画に今も上柳町があるのは、その時の名残といえます。
 一般に移転の理由は御所に近いからとか、周辺に家が建ち都市化したとか云われていますが、御所の近くは始めから分かっていたことですし、十余年でそう都市化するのも考えにくいので、多分、最初の選定がそもそも間違っており、これを定めた当局の面目を保つための方便だったと私は考えます。
 明田鉄男氏は造営中の二条城から遠ざけたかったから、さらに広大な傾城を作り、税制の増収をもくろんだ可能性にも言及されています。
元和三年(1617)三月、元和五ヶ条が幕府より出されるのですが、それは

一、 傾城町は三筋に限り、その区域を越えて遊女稼業は禁止である。
一、 客は一晩しか泊まっていけない。
一、 傾城の衣類は紺屋染を用い質素に、金銀などはもっての外
一、 廓内の建築も質素に、町役は厳正に
一、 不審者は奉行所に通報せよ

移転当初から市内に散らばる無免許の遊女渡世は公許の三筋の人達にとって悩みの種で、六条三筋に住吉神社を勧請した同年六月、上記元和五か条を受け、六条三筋の総中は無免許業者をお恐れ乍らと訴えでました。
 訴えられたのは、二条柳町の開発者の一人であった林又一郎を中心に市内広くに及びます。又一(市)は二条柳町にも六条三筋にも属すのを拒んだようです。

四条河原町 又市
同ていあんのうしろ 一町(貞安前之町は今の高島屋の西部分)
同こりき町 一町(現先斗町の一画)
同中島 一町(三条河原町東)
同ますや町 一町(上京、中京、下京に十箇所ほどもあり特定できません)
とひ小路 しつか太夫(富小路がとびのかうし通と『京雀』あるも分からず)
同たかみや町 一町(富小路蛸薬師下ルに現存します。)
たこやくし通 ゑいらくや
二条たわら町 たなかつら(かつて夷川新町西入ルに俵町あり)
こうしんのうしろ (庚申?荒神?どこを指したものか・・・)
北野 六軒町(上七軒の近くと思われる)
同 れいしょう(同上)
大仏この町(五条~七条間の山和大路辺り?)

以上が告訴された無免許にて営業していた所です。       】

右四中・高台院アップ.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」の「右隻第四・五扇拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)→A-2図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

 この「五条橋で踊る老後家尼」は、「六本の傘を見ると、先頭の白い傘には日の丸(日輪)、次の赤い傘には桐紋、三本目の赤い傘は鶴と亀の文様である。四本目は不明、五本目は日・月の文様のようであり、六本目は花か南蛮の樹木の葉のようである。この先頭の日輪と二本目の桐紋が決定的に重要だ。このような後家尼の姿で描かれる人物は、秀吉の後家、高台院(北政所おね)以外にあり得ない」『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P205-206)というのは、肯定的に解したい。
 として、この赤い小袖の桜の小枝を手にかざして踊っている『老後家尼』(B図)が、何と、六条三筋町の中の町遊郭街の一角で、笹や菖蒲、あるいは牡丹を手にして踊っている遊女一行(C図)の主人公(赤い小袖の紋様が同じ)のように描かれている。
 よもや、高台院が、幕府(京都所司代)公認の遊郭街で、このような踊りをしているということは、どう見ても考えなれない。この「C図」と「B図」との、この赤い小袖を着た女性をどのように解すべきなのか? 

 ここで、「豊国大明神臨時祭礼」時の、「風流・風流踊・豊国踊」」関連などについて、下記のアドレスのものを抜粋して紹介して置きたい。

https://www.gakushuin.ac.jp/univ/g-hum/art/web_library/author/arakawa/shino_and_oribe/02.html

【 「風流」はいまでは世俗を離れた趣味的な生活態度をさしているが、当時はもっと積極的で具体的な意味をもった、すなわち邸宅や庭、服装、調度、絵画から玩具のようなものにまでいたる生活のさまざまな用具に、金銀や多色で意匠をこらすことを意味したのである。風流の意匠がその効果を発揮するのは歌合わせや物合わせ、あるいは賀茂祭、宮詣で、踊りといった、日常生活のなかでの「ハレ」の場においてであった。それらの折には、造り物といって、自然景や人物、牛車さらには破子、厨子、炭櫃(火鉢)、折櫃にもった菓子などの美しい模型が人目を引いたが、風流はそれらの造り物もさしている。 (辻惟雄「飾る喜び」『日本美術の見方』岩波書店 1992年)

芸能史研究の小笠原恭子氏は、桃山時代の風流に関して興味深い指摘をする。
 この国の芸能は、風流という事象を措いて語ることはできない。風流の歴史はそのまま、平安後期から近世初頭にかけての、激動の時代の芸能の歴史であった。この間風流はじつに複雑多岐に変貌しつつ、芸能のみならず多方面にわたって文化を彩り、新しい芸能を生み、また押し流しさえして大河のように流れながら、自らはついに完結することなく、江戸幕府の体制確立とともに静かに七百年を超える生命を終える。そのもっとも華やかな時期が、風流踊として展開した中世後期であった。
 …豊国神社祭礼の風流は、その最後の華、いわば生命の燃え尽きる直前の炎に似ているといえるだろう。(小笠原恭子「風流盛衰」『近世風俗図譜9 祭礼(二)』小学館1982年)

 豊臣秀吉の七回忌を記念して慶長9年(1604)8月に催された豊国大明神臨時祭礼は、志野と織部を生んだ慶長年間を象徴する最大のイベントであった。8月15日の上京・下京の町衆の人々による「風流踊」は京の都を興奮のるつぼと化した。その様子は「豊国祭礼図屏風」の画面に群集の織りなす熱気として見事に描き出されている。
 この慶長期とは、「今が弥勒の世なるべし」(『慶長見聞集』)という活況に満ちた時代であったが、慶長末年(1615)の大坂の陣(豊臣氏滅亡)を控えて、平和ななかにも不穏な空気が漂う混沌とした時代でもあった。
 「豊国祭礼図屏風」においてひときわ目立つ存在が、華美をこらした異様な姿で港を横行する無頼の徒、いわゆる「かぶき者」たちである。華美異装を好んだかぶき者は、南蛮風俗をはじめとする奇抜なファッションを身にまとった。その風姿のなかに、小笠原氏がいうところの生命の燃え尽きる直前の炎に似たような「風流」の精神が発露していたのである。

 ところで、芸能史においては主に踊りを指す言葉として使われてきた風流であるが、同時に祭礼において神霊が降臨する依代(よりしろ)の飾りをも意味していたようである。神を招き、寄りつかせるために頭や冠に挿した花や木の枝、あるいは神の遠来を象徴する傘や杖などの派手やかな飾りを風流といったのである。つまり風流とは単に人間の目を楽しませるものではなく、まずは神霊が招き寄せられて乗り移る依代を装飾したものであり、神を大いに喜ばすということを第一の目的としていた。そこで志野と織部の装飾にも、本来神を寄りつかせたり、喜ばすようなモチーフが選ばれたと考えることができるのではないだろうか。その意味では、聖性を帯びたうつわという側面もあったことを指摘してみたい。 】(「志野と織部―風流なるうつわ―(荒川正明稿)」 )

醍醐の花見.jpg

「醍醐花見図屏風(六曲一隻・国立歴史民俗博物館蔵)」所収「秀吉と北政所」(部分拡大図)→ A-1図

 慶長三年(一五九八)、豊臣秀吉が亡くなる半年前に、京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴での「秀吉と北政所(寧々・お嚀)」の肖像である。この年の八月に秀吉は瞑目する。
 その二年後の慶長五年(一六〇〇)、「関ヶ原の戦い」で、勝者の徳川家康が、幕藩体制確立への道筋を開き、豊臣政権は統一政権の地位を失うこととなる。
 その四年後の慶長九年(一六〇四)の「豊臣秀吉七回忌」に、「高台院(北政所・寧々・お嚀)」は、「徳川家康」(家康の「御意」を得ての実施)と「徳川秀頼・淀殿」(「祭礼」の費用負担は「豊臣氏」)との両方の手綱を巧みに捌いて、「豊国大明神臨時祭礼」の実質的な「企画・実施」の重責を担ったのである。

豊国祭礼図屏風左隻.jpg

「豊国祭礼図屏風」左隻(第一~六扇)(徳川美術館蔵)各 縦166.7 横345.0 六曲一双→B図  https://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/18957/1/2 0

豊国踊.jpg

「豊国祭礼図屏風」左隻(第四扇部分拡大図)の「大仏殿前の豊国踊=風流踊」→B-1図
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-left-screen-iwasa-matabei/DQG2KSydiLG95A?hl=ja&ms=%7B%22x%22%3A0.5011565150346956%2C%22y%22%3A0.48255

 この「豊国大明神臨時祭礼」に関連ついては、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-14

 そこに、次の図を追加して置きたい。

風流踊・太閤踊.jpg

「豊国祭礼図屏風」左隻(第四扇部分拡大図)の「大仏殿前の豊国踊=風流踊・太閤踊」→B-2図
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/18957/1/4

さらに、この「B-1図」と「B-2図」を読み解くために、次のアドレスの、「伝又兵衛筆豊国祭礼図―風俗画における主題と変奏(鈴木廣之稿)」を、その背景をより正確に知るためののものとして紹介して置きたい。

https://tobunken.repo.nii.ac.jp/?action=repository_view_common_usagestatistics&itemId=6504&itemNo=1&page_id=13&block_id=21&nc_session=h04uusv31275es4ofoju0rror4

そして、この「豊国大明神臨時祭礼」時の、このB-1図」と「B-2図」の、「京都の上京から三組、下京から二組が出て、各組三百名構成、総計 千五百名の「京町衆」が参加した」と記録されている「豊国踊・太閤踊=風流踊」の、実質的な「企画・実施」の重責を担った
「高台院」のイメージは、次の「誓願寺門前の二人の尼僧」(左手前の尼僧)のようなものとしてとらえて置きたい。
誓願寺前屏風・誓願寺前の二人の老尼.jpg

岩佐又兵衛筆 誓願寺門前図屏風 17世紀 江戸時代 (京都文化博物館蔵)の「誓願寺門前の二人の尼僧」→ B-3図
https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/machishubunka/

 ここまで来ると、慶長九年(一六〇四)の「豊臣秀吉七回忌」に、「高台院(北政所・寧々・お嚀)」が、「徳川家康」(家康の「御意」を得ての実施)と「徳川秀頼・淀殿」(「祭礼」の費用負担は「豊臣氏」)との両方の手綱を巧みに捌いて、挙行した「豊国大明神臨時祭礼」の「風流踊=豊国踊・太閤踊」は、次の二系統に分化して、それが、それぞれに継承発展していくものとして理解をしたい。

 その一つ目は、「高台院」の「誓願寺門前の二人の尼僧」(B-3図)をイメージとしての、次の系統のもので、ネーミング的には、「風流踊=豊国踊=太閤踊」ということにして置きたい。

「誓願寺門前の二人の尼僧」  →B-3図
「大仏殿前の豊国踊=風流踊」 → B-1図
「大仏殿前の豊国踊=風流踊・太閤踊」→B-2図(大集団の踊・傾奇志向) 

 そして、その二つ目は、「北政所」の「秀吉と北政所」(醍醐の花見・A-1図)をイメージがとしての、次の系統のもので、ネーミング的には、「風流踊=豊国踊=寧々・お寧踊」ということになる。

「秀吉と北政所」(醍醐の花見) →A-1図
「五条橋で踊る老後家尼」   → A-2図
「六条三筋町遊郭街で踊る一行」→A-3図(小集団の踊・数寄志向)

風流踊.jpg

「六条三筋町・中の町遊郭街で踊る『風流踊り』一行」(「舟木本」右隻第六扇下部)→A-3図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

 この「遊女の踊」は、「風流踊=豊国踊=寧々・お寧踊」の「北政所(寧々・お寧)=高台院」をイメージ化してもので、「風流踊=豊国踊=太閤踊」の「太閤秀吉」をイメージ化したものではない。
そして、この「風流踊=豊国踊=寧々・お寧踊」を、左端で、編み笠を被り、口を袖や扇で隠して見守っている「武士」らしき集団は、これまた、当時の「京都所司代・板倉勝重」の率いる一行と解したい。
 これらの「京都所司代・板倉勝重」の率いる一行が、何を看守しているかというと、先に紹介した、下記アドレスの、次のようなことなどが浮かび上がってくる。

https://gionchoubu.exblog.jp/23030606/

【 一、 傾城町は三筋に限り、その区域を越えて遊女稼業は禁止である。
  一、 客は一晩しか泊まっていけない。
  一、 傾城の衣類は紺屋染を用い質素に、金銀などはもっての外
  一、 廓内の建築も質素に、町役は厳正に
  一、 不審者は奉行所に通報せよ。                     】
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十五) [岩佐又兵衛]

(その十五)「五条橋で踊る老後家尼」は「高台院」なのか?

右四中・高台院アップ.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」の「右隻第四・五扇拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)→B図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

【《老後家尼》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P204)

「この桜の枝を右手に持って肩に担ぎ、左足を高くあげて楽しげに踊っている、この老後家尼は、ただの老女ではありえない。又兵衛は、いったい誰を描いているのだろう。」

《花見帰りの一行の姿』((『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』)P204-205)

「この老後家尼の一行は、笠を被った男二人、それに続き、女たち十二人と男たち十人余りが踊っており、六本の傘が差しかけられている。乗掛馬に乗った武士二人と馬轡持ち二人、荷物を担いでいる男四人、そして、五人の男が振り返っている視線の先に、酔いつぶれた男が両脇から抱きかかえられ、その後ろには、宴の食器や道具を担いだ二人の男がいる。総勢四十五人以上の集団である。」

《傘の文様は?》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P205-206)

「六本の傘を見ると、先頭の白い傘には日の丸(日輪)、次の赤い傘には桐紋、三本目の赤い傘は鶴と亀の文様である。四本目は不明、五本目は日・月の文様のようであり、六本目は花か南蛮の樹木の葉のようである。この先頭の日輪と二本目の桐紋が決定的に重要だ。このような後家尼の姿で描かれる人物は、秀吉の後家、高台院(北政所おね)以外にあり得ない。」】


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-21


 上記の『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の論理の展開に、肯定的に解しても、「気がかり」のことは、これは「五条橋で踊る老後家尼」というよりは、「五条橋で踊る若後家尼」という、そんな風情で、その周辺のことについて、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』と『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』とを足掛かりにして触れて置きたい。

醍醐の花見.jpg

「醍醐花見図屏風(六曲一隻・国立歴史民俗博物館蔵)」所収「秀吉と北政所」(部分拡大図)
→ A-1図

 この花見図は、「慶長三年(一五九八)三月十五日に秀吉が催した醍醐寺における花見の宴」のもので、最晩年の秀吉と当時の北政所を描いたものである。
 北政所が落飾して、朝廷(後陽成天皇)から院号を賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称したのは、慶長八年(一六〇三)、そして、家康の全面的な支援のもとに高台寺を建立したのは、慶長十年(一六〇五)のことである。
 この醍醐の花見の時には、北政所は白系統の頭巾を被っているが落飾はしていない。そして、この時の小袖は赤系統のもので、B図の「五条橋で踊る老後家尼」は、慶長八年(一六〇三)前の「北政所」の花見時の風流踊りの一スナップを描いたものという見方もあり得るであろう。

誓願寺前屏風・誓願寺前の二人の老尼.jpg

岩佐又兵衛筆 誓願寺門前図屏風 17世紀 江戸時代 (京都文化博物館蔵)
「誓願寺門前の二人の尼僧」→ A-2図
https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/machishubunka/

 この「誓願寺門前図屏風」については、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-12

 そこで描かれている「誓願寺門前の二人の尼僧」(A-2図)のうちの一人(右脇の老尼僧)が、慶長十年(一六〇五)時、高台寺を創建して頃以降の高台院のような雰囲気を有している。
 この老尼僧(A-2図)に近い、老尼僧姿の高台院が、慶長十一年(一六〇六)八月十三日に、豊臣秀頼とその母の淀殿が豊国神社に奉納した「豊国祭礼図屏風」(豊国神社本、狩野内膳=重郷筆、六曲一双)の中の何か所かに描かれている。
 この「豊国祭礼図屏風」(豊国神社本)については、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』では、次のような項目で詳細に吟味しながら、それらの絵解き(絵の背景の謎解き)をしている。

Ⅵ 豊国神社本「豊国祭礼図屏風」と淀殿—慶長十年
〇 狩野内膳に制作を命じ、奉納したのは誰か(p167-168)
〇 臨時祭礼図屏風(p168)
〇 片桐且元の奉納とあるのはなぜか(p169)
〇 諸人の見物に供された(p169-170)
〇 不都合な表現?(p170-171)
〇 豊国神社本の構図(p171-174)
〇 祭礼次第の表現(p174-175)
〇 東山の遊楽空間と豊国廟(p176-178)
〇 豊国躍の集団(p178-179)
〇 それぞれの輪の特徴(p179-181)
〇 桟敷の描かれ方(p181-182)
〇 高台院は描かれているか(p182)
〇 高台院の桟敷(p182-184)
〇 ここに高台院の姿があった(p184)
〇 皺くちゃな顔の高台院(p184-185)
〇 豊国躍を見物する高台院も怖い顔(p185-187)
〇 豊国神社本の老人表現(p187-188)
〇 徳川美術館本の老人表現(p188-189)
〇 狩野内膳が描いたおだやかな表情の老女(p189-192)
〇 高台院とその周囲の者たちは見た(p192-193)
〇 慶長十年の政治的緊張(p193-194)
〇 敵対か連繋か?(p194-195)
〇 淀殿・秀頼の「豊国祭礼図屏風」(p195-197)

ここで、狩野内膳について紹介をして置きたい(この狩野内膳は、岩佐又兵衛の師の一人とされている)。

【狩野内膳 没年:元和2.4.3(1616.5.18) 生年:元亀1(1570)
安土桃山・江戸初期の画家。名は重郷、号は一翁。荒木村重の家臣池永重元の子として生まれる。天正6(1578)年ごろ、根来密厳院に入ったが、のち還俗して狩野松栄に絵を学んだ。15年には狩野氏を称することを許され、またそのころ、天下人秀吉の支持を得て、以後、豊臣家の絵事を勤めた。秀頼の命で「家原寺縁起」の模写をしている。「豊国祭礼図屏風」(豊国神社蔵)は、慶長9(1604)年秀吉の7回忌臨時大祭の公式記録ともいうべきもので、内膳の代表作である。同11年秀頼によって奉納された。その他内膳の作としては「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵)が著名である。<参考文献>成沢勝嗣「狩野内膳考」(『神戸市立博物館研究紀要』2号) (榊原悟) 】(朝日日本歴史人物事典)

豊國神社本・右隻.jpg

「豊国祭礼図屏風(右隻)」(豊国神社蔵=豊国神社本)
https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/img/saireizu-right2.jpg

豊國神社本・左隻.jpg

「豊国祭礼図屏風(左隻)」(豊国神社蔵=豊国神社本)
https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/img/saireizu_left2.jpg

https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/toyokuni-shrine/01-toyokuni-byoubu.html#.YVv5iDHP3IU


【《右隻》当時の神社の広大さに驚き。今の京都へ繋がる要素も満載。
右隻には、当時の広大な豊国神社を中心に、8月14日(旧暦)に行われた祭礼の様子が描かれています。画面上部にあるのが当時の豊国神社の建物。画面の右側には三十三間堂の建物も見えます。当時、神社は現在秀吉のお墓「豊国廟」がある阿弥陀ヶ峯の中腹に建てられていたということですが、これだけ巨大な建物が山の上にあったのかと思うと驚くばかりです。
 画面手前は大和大路、門の辺りが東大路と七条通の交差点付近にあたるとのこと。当時豊国神社は社領が1万石、境内の敷地は30万坪の誇大な敷地を有していましたが、具体的に現在の京都の町並みと照らし合わせながら見ると、とても実感が沸いてきます。
 門の前に設けられた舞台では秀吉に奉納する「新作能」が舞われ、周りの客席から豊臣家をはじめとした大名や公家などの人々が見物しています。秀吉は大のお能ファンだったといいますから、その趣味も反映しているのでしょう。この能は大和猿楽四座、現在の観世・宝生・金剛・金春(こんぱる)の流派が合同で行われたそうで、現在から考えてもとても贅沢な内容だったようです。
 築地塀を挟んで手前には、馬に乗った人々の行列が左端からずっと続いています。これは「神官馬揃え」といい、着飾った神官たち200名が、それぞれ諸大名から提供された馬に乗って建仁寺から豊国神社までを行進したのだとか。
「馬揃え」といえば織田信長が京都で行ったものが特に豪華なものとして知られていますが、この祭礼の時の馬揃えはそれを凌駕するほどの規模だったといいます。
 因みに、行列が神社の敷地へ入っていくときに通っている門。実はこれ、現在の東寺の南大門。元々は方広寺の西門だったのですが、後に東寺に移築されたのだそうです。
絵の中には、今の京都へと繋がる色々な要素が詰まっていることが、よくわかります。

《左隻》祭りの最高潮を彩る「風流踊り」の図は、細部にご注目。
左隻には、右隻の翌日、8月15日(旧暦)に行われた祭礼の様子が描かれています。中心にどん、と構えるのは巨大な方広寺の大仏殿。ちょうど、現在豊国神社が建っている位置です。(門の辺りが現在神社の鳥居がある位置)画面左上の方には清水寺が見えます。清水寺名物の舞台や、「音羽の滝」もきちんと描かれています。
 大仏殿の前では、幾重にも輪になって踊る人々の姿が目をひきます。彼らは主に京都の上京・下京に住んでいた町衆たち。この踊りは「風流踊り」といい、大きな「風流傘」と呼ばれる飾りを押し立てて、それを中心に花笠を被った人々がエネルギッシュに乱舞するその様子は、まさに祭のクライマックスを感じさせます。
ちょうど祭礼の前の年に出雲阿国の舞が京都では評判になっていたようで、恐らく「かぶき者」の影響もあるのでしょう。人々の衣装はどれも派手で鮮やかです。
 大仏殿の門の周辺には、桟敷席で見物している人々も見られます。(門の正面で傘を差しかけてもらっている尼さんは北政所。秀吉の妻、お寧です)
この桟敷席の背景部分には屏風が立てかけられているのですが、実はこの中には長谷川等伯の作品と思われる絵が描きこまれているのだそうです。
この作品が描かれた当時は、ちょうど画檀の覇権を巡って狩野派と長谷川派がしのぎを削っていた時期。狩野派の絵師がライバル長谷川派の絵が描かれている。相手の作品を否定するどころか逆に肯定して取り入れてしまっているというのは、非常に面白いポイントではないでしょうか。
 他にも注目しておきたいのは、人々の服装。おそろいの衣装をまとった踊り手たちに混じって、よく見るとヨーロッパ風の格好をしている人もいます。要するに南蛮人の仮装、所謂コスプレです。また、打ち出の小槌のようなものを持った人もいます。これは七福神でしょうか。今でこそよく知られるようになった「コスプレ」ですが、もうこの時代に既にあったのですね。
そして極めつけは「たけのこ」。なんとたけのこの被り物をした人がいるのです。一体どうしてこの人はこんな格好をしてしまったのでしょうか?何か特別な理由でもあったのでしょうか?筍の季節のお祭でもないのに…
「本当に?」と思う方もいらっしゃるかと思いますが、ちゃんと絵の中にいますので、ご覧になる際は是非、探してみて下さい。 】

 この「豊国祭礼図屏風」(狩野内膳筆・豊国神社本)が、下記のアドレスで触れている「豊国祭礼図屏風」(岩佐又兵衛筆・徳川美術館本)と連動しているというよりも、そのモデルとなっている先行的な作品であることは、先にも簡単に触れてはいるが、以後も関係するところで触れて行きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-14

高台院豊國神社本・.jpg

「豊国祭礼図屏風(左隻)」(豊国神社蔵=豊国神社本)第二扇中部拡大図(「石段で豊国躍を見る『老尼』たち」) → A-3図
https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/img/saireizu_left2.jpg

 上記の解説(左隻)の「大仏殿の門の周辺には、桟敷席で見物している人々も見られます。(門の正面で傘を差しかけてもらっている尼さんは北政所。秀吉の妻、お寧です)」というのが、上記の図(A-3図)で、ここに中心に位置する老尼が「高台院」なのだが、その老尼は、その「第三扇中部の桟敷に坐っている老尼」(A-4図)と同一老尼のようである。

高台院二・豊國神社本.jpg

「豊国祭礼図屏風(左隻)」(豊国神社蔵=豊国神社本)第三扇中部拡大図「桟敷に坐っている老尼」』 → A-4図 

この図(A-4図=左隻第三扇)は、「石段で豊国躍を見る『老尼』たち」(A-3図=左隻第二扇)の、左側(第三扇)に描かれている「桟敷に坐っている老尼」』で、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』の「図Ⅵ-8」(p188)のものである。
 この「皺くちゃな顔の高台院」は、「右隻第四扇(上部)」にも、「品玉(田楽)を見ている『老尼』」(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』の「図Ⅵ-5=p185」)で、やはり「皺くちゃな顔の高台院」で、同じような顔つきで描かれている。
 そして、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』(P196-197)で、次のような見解を記述している。

【 狩野内膳は、淀殿・秀頼の注文(指示)通りに、図Ⅵ-5や図Ⅵ-7(「図Ⅵ-8」の誤記?)のような皺くちゃで怖い顔をした高台院を「豊国祭礼図屏風」のなかに描いたのである。
なお、皺だらけで怖い顔に高台院が描かれているという私の見解に対して、それは主観的判断なのではないかとこだわる人がいると思う。確かに美醜は厄介である。本章では、徳川美術館本しか比較していないが、管見の近世初期風俗画の諸作品については、老人・老女がどのように描かれているかの比較・検討は、私は悉皆的に行ってみた。その結果では、豊国神社本の老尼表現の特異性は明瞭であった。(以下、略)  】『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』(P-196)

 そして、これらの背景については、次のように記述している。

【 慶長九年八月に執り行われた豊国大明神臨時祭礼に臨席できなかった淀殿と秀頼は、狩野内膳に命じてその盛大な祭礼のありさまを屏風に描かせることにした。しかし、同十年に生じた家康と淀殿・秀頼の間の政治的緊張のなかで、家康の使者となった高台院に対して激しい怒りを抱いた淀殿・秀頼は、高台院を皺だらけの怖い顔の老尼として描いた屏風つまり豊国神社本「豊国祭礼図屏風」をつくらせ、それを同十一年八月に片桐且元の奉納ということにして、豊国社の「下陣」で公開させたのだ、と。(以下略)  】『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』(P195-196)

続いて、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』では、「Ⅶ 妙法院模本「豊国祭礼図屏風」と高台院—慶長十七年」(P198-229)の「妙法院模本」(原本が紛失し、「メクリ十枚」の写本が現存)の「高台院」が、どのように描かれているのかを、これまた、「豊国神社本」の検討視点と同じような角度で考察している。

妙法院も本の高台院.jpg

「妙法院模本右隻第二扇(中部)」所収「図Ⅶ-3楼門北側の桟敷に坐っている高台院」・「図Ⅶ-4桟敷で騎馬行列を見物している高台院」 → A-5図

【 神龍院梵舜と高台院は、慶長十五年八月の秀吉十三回忌にちなんだ豊国大明神臨時祭礼と、その翌年三月の二条城における家康と秀頼の対面という二つの大きな出来事を契機にして、「豊國祭礼図屏風」(妙法院模本の原本屏風)を新調することにしたのであった。そして、狩野孝信とされている画家に制作させた新調屏風は、慶長十七年四月に「下陣」に立てられ、諸人の見物に供せられたのである。
この新調屏風には、高台院の姿が右隻に三か所、左隻に一か所描かれ、豊国神社本の皺だらけで怖い男顔に描かれていた高台院の姿を、豊国社の宝庫へと追いやったのであった。(中略)
淀殿や高台院の制作意図は、明らかに慶長期政治史の緊張関係のなかで生まれた。一方のおそらく慶長十年に制作が開始され、同十一年八月に奉納された豊国神社本は、同十年の政治的危機に関する貴重な絵画史料なのである。他方の、たぶん同十六年に制作が開始され、同十七年四月に「下陣」に立てられた妙法院模本の原本屏風は、同十六年前後の政治的危機を物語る重要な絵画史料なのであった。 】『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』(P227-228)

 これに続いて、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』では、「Ⅷ 徳川美術館本豊国祭礼図屏風」と岩佐又兵衛—元和元・同二年」(P230-270)の、論理の展開と見解の一端を記述している。

【〇 祭礼の場面に高台院はいない(P268)  
 われわれの視線を徳川美術館本の画面に戻して、改めて左右両隻に描かれた臨時祭礼の場面を見ると、桟敷にも、そして見物する人びとのなかにも、どこにも高台院とおぼしき老尼や後家尼の姿は見当たらない。これは画家の姿勢だけではあるまい。発注者である蓬庵・蜂須賀家政は、桟敷などにいる高台院を描くようにといった細かい指示・指定はしなかったのであろう。つまり、蓬庵は、岩佐又兵衛に豊国神社本と同様の「豊國祭礼図屏風」を注文しただけであり、徳川美術館本の表現は岩佐又兵衛に任されていたと思われるのである。

〇 蓬庵と岩佐又兵衛、そして元和元年かその翌年(P269-270)
徳川美術館本の制作を思い立ったのは、蓬庵・蜂須賀家政であった。慶長十九年頃に、岩佐又兵衛工房に発注され、元和元年四―五月の大阪夏の陣後のある時期(元和元年後半から翌年)に完成した。それは阿波小松島の豊国社か蓬庵・蜂須賀家政の手元(中田村の隠居屋敷など)に置かれていたが、寛永六年の蓬庵の死に際して、彼の遺品として遺骨とともに高野山光明院へ奉納されたのであった。
(中略)
 すなわち、徳川美術館本「豊國祭礼図屏風」は、慶長十九年の方広寺銘事件に始まり、元和元年四―五月の大阪夏の陣で終わった生々しい政治史のなかで生み出された作品だったのである。
 また、朱鞘の若者の姿は、大阪夏の陣直後の画家・岩佐又兵衛が、豊臣秀頼の死と豊臣氏の滅亡を解釈して「かぶき者」に見立てた姿なのであった。元和元年における戦争の終結を、このように見立て、橋向こうに「うき世」の到来を描くところに、私は、慶長十九年・元和元年の岩佐又兵衛を見たい。  】『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』(P268-270)

これらの周辺については、下記のアドレスで、幾度となく、触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-14

 ここで、改めて、これらの「豊國祭礼図屏風」(豊国神社本・妙法院模本・徳川美術館本)と冒頭のB図の「洛中・洛外図屏風・舟木本」の「右隻第四・五扇拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)との関連はどうかということになると、やはり、さらにクリアすべき様々な疑問点が浮かび上がってくる。

徳川美術館本右隻貴賓席二.jpg

「豊国祭礼図屏風(徳川美術館本)」右隻(第二・三・四扇部分拡大図)の「豊国社前の『舞楽』と『騎馬行列』」→C図→C-1図の「貴賓桟敷席(その一)」
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-right-screen-iwasa-matabei/2AFW7iv6tr1u3g?hl=ja

 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』の「Ⅷ 徳川美術館本豊国祭礼図屏風」と岩佐又兵衛—元和元・同二年」(P230-270)では、「祭礼の場面に高台院はいない(P268)」というのだが、この「C-1図の「貴賓桟敷席(その一)」に高台院が描かれているのではなかろうか(この画像からは判定できない)。

徳川美術館本右隻貴賓席.jpg

「豊国祭礼図屏風(徳川美術館本)」右隻(第二・三・四扇部分拡大図)の「豊国社前の『舞楽』と『騎馬行列』」→C図→C-2図の「貴賓桟敷席(その二)」
https://images.dnpartcom.jp/ia/workDetail?id=TAM000411

 この「C-1図」と「C-2図」は、同じものなのだが、この画面(上記のアドレスの画像の拡大図)の左端の尼僧らしき女性が高台院の雰囲気なのである。この女性の右後ろと、この画像の右端の女性が尼僧(白い頭巾=被きをかぶっている。しかし、墨染の僧衣ではない)らしき雰囲気である。
 この「C-1図」と「C-2図」とは、下記の「C図」の「豊国社の『舞楽』と『騎馬行列』」の拡大図なのだが、下記アドレスのものと、さらに検討を要する点が多々あるという課題提起にして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-14

豊国祭礼図・右隻部分拡大図.jpg

「豊国祭礼図屏風」右隻(第二・三・四扇部分拡大図)の「豊国社前の『舞楽』と『騎馬行列』」→C図
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-right-screen-iwasa-matabei/2AFW7iv6tr1u3g?hl=ja


 ここで冒頭の「五条橋で踊る老後家尼」(B図)に戻って、この「老後家尼」(B図)は、
「豊国神社本」の「高台院」(A-3図とA-4図)、そして、「妙法院模本」の「高台院」(A-5図)から、それを「高台院」(老後家尼=高台院)とイメージするには、余りにも乖離が甚だしいということを指摘して置きたい。
 さらに、同じ、岩佐又兵衛筆と伝承されている「誓願寺門前の二人の尼僧」(A-2図)からも、「老後家尼」(B図)をイメージ化することが困難であることは、「豊国神社本」(A-3図とA-4図)と「妙法院模本」(A-5図)と全く同じ印象を受ける。
 そして、この岩佐又兵衛筆の「老後家尼」(B図)は、唯一、「醍醐花見図屏風(六曲一隻・国立歴史民俗博物館蔵)」所収「秀吉と北政所」(A-1図)の「北政所」の「老後家尼」のイメージと合致してくる。
 さらに、検討を要する点が多々あるという課題提起に留めている「徳川美術館本」の「貴賓桟敷席(その二)」(C-2図)の「老後家尼」は、「舟木本」の、この岩佐又兵衛筆の「老後家尼」(B図)と連動している思いを深くする。
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