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「俳誌・ホトトギス」管見(その十六) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス・壱千号」周辺

ホトトギス・壱千号.jpg

「ホトトギス・壱千号」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7973113

(目次)

ホトトギス壹千號/稻畑汀子/p19~19
千載一遇/山口靑邨/p20~23
ほとゝぎす發刊の辭/p24~25
ほとゝぎすの發刊を祝す/子規子/p25~26
ほとゝきす第二巻第一號/p26~27
ほとゝきす第二巻第一號の首に題す/獺祭書屋主人/p27~28
百號消息/虚子/p28~29
二百號記念事業/虚子/p29~35
俳句所感/虚子/p35~39
四百號回顧/虚子/p39~39
講演會雜記/秋櫻子/p40~42
子規の前に獨り言/高濱虚子/p42~48
ホトトギス六百號/高濱虚子/p48~53
ホトトギス七百號回顧/虚子/p54~54
ホトトギス七百號/高濱虚子/p54~56
ホトトギス八百號/高濱年尾/p56~58
讀者諸君へ/年尾/p59~59
表紙繪など(創刊號、第二巻第一號……) 十六葉/p3~
ノツクは三つ/稻畑汀子/p63~64
まぼろしの五百號/深川正一郎/p64~66
小千谷そば/下田實花/p66~67
濤の音/成瀨正俊/p67~69
チャンバラ小說/杉本零/p69~71
猿/柴原保佳/p71~72
寒日和/副島いみ子/p72~73
十二月三十一日/橋川かず子/p73~75
師走二題/井上兎徑子/p75~76
バスの中/木村要一郎/p76~77
雜詠/汀子/p78~170
雜詠句評/明倫 ; 柏翠 ; 播水 ; 非文 ; 小壺 ; 武之助 ; 一歩 ; 美津穗 ; 汀子/p171~175
病床百吟/年尾/p60~61
汀子句帖/汀子/p61~62
消息/汀子 ; 桃邑/p179~179
俳畫 アルプス/直原玉靑/p121~121

(管見)

一 「表紙繪など(創刊號、第二巻第一號……) 十六葉/p3~」周辺

{.jpg

上段左から「創刊号」(下村牛伴=為山)→「第二巻第一号(虚子=発行人)」「子規追悼集」(下村為山)→「百号」(橋口五葉)→「二百号」(小川千甕)→「三百号」(津田青楓)→「四百号」(石井柏亭)
下段左から「五百号」(小川芋銭)→「六百号」(石井柏亭)→「七百号」(川端龍子)→「虚子追悼号」(近藤浩一路)→「八百号」(川端龍子)→「九百号」(小倉遊亀)→「壱千号」(小倉遊亀)

ホトトギス・壱千号(表紙絵).jpg

https://dl.ndl.go.jp/pid/7973113/1/2

二 「ほとゝぎす發刊の辭/p24~25」から「讀者諸君へ/年尾/p59~59」周辺

「ほとゝぎす發刊の辭/p24~25」・「ほとゝぎすの發刊を祝す/子規子/p25~26」→「創刊号」(松山・柳原極堂=発行人)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-03-29

「ほとゝきす第二巻第一號/p26~27」・「ほとゝきす第二巻第一號の首に題す/獺祭書屋主人/p27~28」 → 「ホトトギス」(東京・高浜虚子=発行人))第一号
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-04-01

「百號消息/虚子/p28~29」→「百号」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-04-07

「二百號記念事業/虚子/p29~35」→「二百号」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-04-09

「俳句所感/虚子/p35~39」 →「三百号」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-04-11

「四百號回顧/虚子/p39~39」・「講演會雜記/秋櫻子/p40~42」→「四百号」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-04-16

子規の前に獨り言/高濱虚子/p42~48  →「五百号」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-04-21

「ホトトギス六百號/高濱虚子/p48~53」→「六百号」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-04-24

「ホトトギス七百號回顧/虚子/p54~54」→「七百号」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-04-27

「ホトトギス八百號/高濱年尾/p56~58」→「八百号」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-05-01

「讀者諸君へ/年尾/p59~59」→「九百号」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-05-05

二 「ホトトギス壹千號/稻畑汀子/p19~19」周辺

ホトトギス・壱千号・稲畑汀子.jpg

「表紙繪など(創刊號、第二巻第一號……) 十六葉/p3~」(右=末尾の「九百号」の表紙絵)と「「ホトトギス壹千號/稻畑汀子/p19~19」(左=冒頭の「抜粋」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7973113/1/10

 昭和五十四年(一九五七)十月二十六日、「ホトトギス・壱千号」の刊行を間近にして逝去した。その年尾の跡を継いで「ホトトギス」の主宰を引き継いだのは、稲畑汀子その人であった。
 これらについて、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahantei.blogspot.com/2008/01/blog-post.html

(「抜粋」再掲)

[ ホトトギス百年史
http://www.hototogisu.co.jp/昭和五十四年(1979)
一月 汀子句帖」連載。汀子、NHKラジオ「FM歳時記」放送、八年間連続。「浮寝鳥」創刊。『年尾選ホトトギス雑詠選集・秋・冬の部』刊。
二月 富安風生没。
三月 年尾『病間日誌』刊(五月書房)。
六月 「杜鵑花」創刊。
十月 年尾没、汀子ホトトギス主宰となる。「野分会」発足(戦後生まれの俳人育成)。

(汀子ホトトギス主宰となる)

(メモ)上記の年譜によると、「ホトトギス」二代目の高浜年尾主宰が没して、稲畑汀子が三代目の主宰となったのは、昭和五十四年十月(二十六日)のことであった。その主宰交代を世に問うたのは、昭和五十五年五月の「ホトトギス」壱千号祝賀会での新主宰の、「本来ならば父年尾がこの場で皆様方からお祝いの言葉を頂戴するはずであった。(中略)私が祖父虚子から贈られた言葉の一つである謙譲の心を忘れず、思い上がることなく正しい道を失わないようにホトトギスの道場で皆様と共に学んで行きたい」と、公に挨拶をしたときであろう。それから、平成の今日まで、汀子が取組んだ具体的な業績について、『よみものホトトギス百年史』(稲畑汀子編・著)では、次の四項目を記載している。この四項目の筆頭に、「若手の育成」として、「野分会」の発足並びに「ホトトギスに生徒・児童の投句欄の新設」とを掲げているのは、俳句人・愛好者の高齢化に対処するところの当を得たものといえるであろう。他の俳誌 ・協会とも、この「若手の育成」が必須の課題であり、これを怠ったところのものは早晩姿を消していくであろう。そして、この「若手の育成」の延長線上に、昭和六十二年の「編集長の交替」などもなされており、やはり、「ホトトギス」王国というのは、虚子・年尾・汀子と血脈承継されていく、それだけの必然性を垣間見る思いがするのである(ネットの世界での「ホトトギス百年史」の公開なども、この延長線上にあるものと理解できるであろう)。

※『よみものホトトギス百年史』より抜粋

一 若手の育成
イ 野分会の発足(昭和五十四年十月) かつて虚子が若手の養成のために東西の学生を中心にした「槽古会」 と呼ばれる勉強会を開き新人の育成に努めたように、汀子は若手の育成の必要を早くから考えていた。たまたま若い人を育てる会を作ってほしいという三村純也からの希望もあり、戦後生まれの俳人に呼びかけ発足した会が「野分会」であった。第一回の句会は東京の玉川という鰻屋の二階であった。昭和五十四年十月二十六日午後六時、奇しくも汀子の父年尾が永眠した同じ日、同じ時刻であった。「野分会」という名前については、逞しく育って欲しいという汀子の願いが込められている。野分会発足以来、会員たちは俳句の研鑽を重ね、平成六年八月には初めての合同句集『野分会』を上梓した。
ロ 「ホトトギス」に生徒・児童の投句欄の新設(昭和五十七年三月) 俳句の長期的展望をするとき、より若い層への指導の必要性が考えられ、誌上に生徒児童の投句欄を新設した。ホトトギス会員のなかには既に二代、三代という俳人が多くみられるのである。

二 経営の合理化
イ 投句方法の改善(昭和五十六年三月) 連綿と続いていた半紙墨書投句票添付の投句方法は、用紙を毎号「ホトトギス」に挟み込むペン書きの方法に改められた。これにより投句の書替え作業などの無駄が大幅に省かれた。
ロ ホトトギス社に定年制(昭和五十六年七月) ホトトギスはその歴史の古さもあり体質は旧態然としていた。汀子はいち早くそうした体質の近代化を図ったが、昭和五十六年四月、湯浅桃邑の逝去のあと松尾緑富が新編集長に就任したのを機にホトトギス社に定年制を設けたのもその一つである。昭和六十二年十二月には汀子の長男廣太郎がホトトギス新編集長に就任、世代の若返りと新時代への歩みも計った。

三 ホトトギス各支部の組織化と俳句大会の開催
 全国各地でのホトトギス大会の予告案内が「ホトトギス」誌上に発表されるようになり、全国の誌友が自由にどの地方の句会にも出席できるようになった。

四 伝統俳句の理論の普及
 進歩的な業務の改革の一方で、虚子の説いた俳句理念を様々な機会を捉え、汀子自身の言葉によって分かりやすく説き、その普及に努めた。  ](『よみもの/ホトトギス百年史/稲畑汀子編・著』所収「花鳥諷詠の伝道師(水田むつみ稿)」


四 「日本伝統俳句協会設立」周辺(追記・管見)

 上記のアドレスで、稲畑汀子の「日本伝統俳句協会設立」関連のことを続けている。

(「抜粋」再掲)

[※日本伝統俳句協会設立
 昭和六十二年四月八日、日本伝統俳句協会が設立された。
 「今日の混沌とした俳壇の状況を深く憂慮する私達は、日本の伝統的な文芸である俳句を正しく世に伝える と共に、芭蕉が詠い虚子が唱えた正しい俳句の精神を深め、現代に相応しい有季定型の花鳥諷詠詩を創造するためにここに日本伝統俳句協会を設立することを宣言します。日本伝統俳句協会は以上の主張に賛同する何人に対しても門戸を広く開け放つものであります。」
続けて、その設立の背景について、次のような記載がある。
※汀子の行動は先の言葉にもあるように、俳句が乱れている今日、花鳥諷詠の俳句をどうしても世に伝え、特に次の世代に伝えなければならないという使命感に促されたものであった。さらに年尾以来、俳壇と没交渉のままストイックに花鳥諷詠を深めてきたホトトギスの作家たちを世に出し、彼等の作品が大衆の目に触れる場を「ホトトギス」の他にも確保したいという強い思いからであった。しかしながら、その深層意識に、かつて俳人協会が設立された当時の年尾のルサンチマンを肌で感じていた汀子の復讐戦という側面を憶測するのは余りにも卑俗で人間的に過ぎるであろうか。](『よみもの/ホトトギス百年史/稲畑汀子編・著』所収「花鳥諷詠の伝道師(水田むつみ稿)」)

 この「かつて俳人協会が設立された当時の年尾のルサンチマンを肌で感じていた汀子の復讐戦」という見方は、この「花鳥諷詠の伝道師」の筆者(水田むつみ)が、「稲畑汀子門・ホトトギス同人・日本伝統協会参事」などの、「ホトトギス」の内部に通じている方の直截的な記述で、「現代俳句協会・俳人協会・日本伝統俳句協会」の、この三者の関係を知る上で、貴重な、そして、示唆に富んだものであろう。
 これらのことは、同時に、「年尾の苦闘(年尾のホトトギス継承・年尾の苦闘・俳人協会の設立)=千原草之・稲岡長/稿」)」と「鎖国時代(稲岡長稿)」と併せて照合して行くと、「ホトトギス」の「鎖国時代(昭和四十二年~五十一年/一九六七年~一九七六)」(「俳壇と没交渉に花鳥諷詠を深めていった時代」)からの夜明けの、新たなるスタート地点を設定したということになる。

(参考) 「現代俳句協会・俳人協会・日本伝統俳句協会」周辺

一 「現代俳句協会」

https://gendaihaiku.gr.jp/

[(抜粋)
現代俳句協会は、戦後間もない昭和22年(1947年)9月に設立された、最も歴史のある、全国的な俳句団体です。令和5年度に、一般社団法人となりました。現代俳句協会が俳句界に果たしてきた役割は前衛俳句、社会性俳句等の俳句表現史、俳壇史を含め戦後の俳句史そのものです。
 現代俳句協会には有季定型で作る人たちのほか有季・無季を問わず定型で作る人さらには口語書きや自由律で作る人までさまざまな俳句観の人たちが集まっています ](「現代俳句協会」)

https://sengohaiku.blogspot.com/2017/07/175.html

[(抜粋)
 昭和二二年九月、現俳協は俳人の生活の安定などの目的で創立された。創設時の会員(いわば原始会員)は次の三八名だった。名簿はよく知られているがこの時の会員の年齢は余り知られていない。見てみると興味深い。
 
安住敦(40)、有馬登良夫(36)、井本農一(34)、石田波郷(34)、石塚友二(41)、大野林火(43)、加藤楸邨(42)、神田秀夫(34)、川島彷徨子(37)、孝橋謙二(39)、西東三鬼(47)、志摩芳次郎(39)、篠原梵(37)、杉浦正一郎(36)、高屋窓秋(37)、滝春一(46)、富澤赤黄男(45)、中島斌雄(39)、永田耕衣(47)、※中村草田男(46)、※中村汀女(47)、西島麦南(52)、橋本多佳子(48 )、橋本夢道(44)、※日野草城(46)、東京三(46)、平畑静塔(42)、藤田初巳(42)、※松本たかし(41)、三谷昭(36)、八木絵馬(37)、※山口誓子(46)、山本健吉(40)、横山白虹(48)、渡辺白泉(34)、※池内友次郎(41)、栗林一石路(53)、石橋辰之助(38)

壮観な顔ぶれだが、このうち四〇代が21人、三〇代が15人であり、当時の俳句がいかに若かったかが分かる。都市伝説によれば、誓子と草田男の年齢(46歳)で足切りをしたとされている(『現代俳句協会五〇年史』)が、しかし一方で、麦南、一石路のような五〇代もいるし、二三年には後藤夜半(53)さえ入会している。じつは入会資格の実体は、①旧世代の虚子、蛇笏、そして(誓子以外の)4Sを排除し、新興俳句・人間探究派を中心とする、②波郷以下の戦後世代を排除する、の二基準が働いていたと思われる。当時の社会状況であるレッドパージを知れば容易にこれは想像できる。
 創設時の協会の主要な活動は、機関誌「俳句と芸術」の発行(桃蹊書房)、幹事会(代表は、波郷→不死男→登良夫→不死男と推移)、茅舎賞の設定とその選考であったが、二三年こそ活発だったが、二四年からは沈滞化する。例えば桃蹊書房の倒産で「俳句と芸術」は休刊、茅舎賞は三年間中断した。

協会を復興した世代
 こうした停滞の中で、主要幹事たちは入会資格の下限(②)を取り払うことにした。選挙の結果、二七年は16人中3人、二八年は50名中22名が三〇代会員となった(一部年齢不詳者あり)。会員総数一〇〇名のうち三〇代の会員は次の通りとなる(ぎりぎりの能村登四郎、古沢太穂を入れてもいいだろう)。

【二七年入会】角川源義(35)、伊丹三樹彦(32)、沢木欣一(33)[数字は入会時の年齢]
【二八年入会】石原八束(34)、飯田龍太(33)、小寺正三(39)、金子兜太(34)、桂信子(39)、楠本憲吉(31)、香西照雄(36)、小西甚一(38)、佐藤鬼房(34)、島崎千秋(32)、清水基吉(35)、杉山岳陽(39 )、鈴木六林男(34)、田川飛旅子(39)、高島茂(33)、高柳重信(30)、土岐錬太郎(33)、西垣脩(34)、※野見山朱鳥(36)、原子公平(34)、目迫秩父(37)、森澄雄(34) 

この名簿を見れば、戦後派世代の陣容がほぼ出揃ったことが分かる。と同時に、二四年~二七年を「沈滞の時代」と呼ぶとすれば、戦後派世代が揃う二八年は現代俳句協会の「復興の時代」といってよかった。] (<「俳句四季」8月号〉俳壇観測175/現代俳句協会の創設 ――協会の復興と分裂をたどる  筑紫磐井稿>)

 ここで、昭和二十二年(一九四七)の、虚子の在世中(小諸から東京(鎌倉)へ再帰の時代)
の、虚子の身辺にあって、次の戦後の「ホトトギス」を背負って欲しいという、虚子の愛憎はともかくとして、最も高く信頼し、そして嘱望していた俳人たちとして、次の五人が挙げられるであろう。

※池内友次郎(41)→「年尾」(「ホトトギス」継承者)の次弟(虚子の次男/作曲家・音楽教育家・俳人。)

※松本たかし(41)→(俳誌「笛」を創刊・主宰。芸術性の高い高雅な句を作り、「ホトトギス」では川端茅舎、中村草田男らと並び称された。)

※中村草田男(46)→「虚子に師事、「ホトトギス」の客観写生の俳句から、ニーチェなどの西洋思想の影響を受け、生活や人間性に根ざした句を模索。石田波郷、加藤楸邨らとともに「人間探求派」と呼ばれた。「萬緑」を創刊・主宰。」→「初代・俳人協会長」。)

※中村汀女(47)→「虚子に師事。「ホトトギス婦人句会」で活躍。俳誌「風花」を創刊、主宰する。」)

※日野草城(46)→「虚子に師事、「ホトトギス」で学んだ後、「旗艦」を創刊、昭和初期の新興俳句運動を主導。戦後は「青玄」を創刊・主宰し一転して静謐な句を作った。」)

 ここに、もう一人、「虚子の時代」ではなく、「年尾の時代」の俳人を追記し置きたい。

※野見山朱鳥(36)→「昭和17年頃から作句を始め、20年から高浜虚子に師事し、「ホトトギス」に投句、42年同人となる。この間、24年に第1著作「純粋俳句」を刊行、25年第1句集「曼珠沙華」を上梓。27年新生「菜殻火」を創刊し、主宰。33年、波多野爽波、橋本鶏二、福田蓼汀と四誌連合会を結成。他の著書に句集「天馬」「荊冠」「運命」「野見山朱鳥全句集」、評論集「忘れ得ぬ俳句」「助言抄」「川端茅舎」、小説「死の湖」、板画集「大和」がある。また、「野見山朱鳥全集」(全4巻 梅里書房)も刊行されている。」

[(現代俳人協会)

歴史

1947年(昭和22年)9月に結成。東京では石田波郷・神田秀夫、関西では西東三鬼が中心となった。代表は石田波郷。翌年、機関誌『俳句芸術』を創刊。創設時の会員は38名。

1961年(昭和36年)には、現代俳句協会賞の選考などをめぐって世代間の対立が激化。当時幹事長だった中村草田男を中心としたグループが俳人協会を設立(草田男は幹事長解任)。

1964年(昭和39年)には、第1回現代俳句全国大会を東京で開催。

現在は拡大路線をとり、俳人協会や後に「花鳥諷詠」を掲げて設立された日本伝統俳句協会に並ぶ全国的な俳人組織となる。他の2組織と比べ自由な句形式を許容し、また、結社ではなく個人ベースでの入会ができる。

2023年(令和5年)に法人化、一般社団法人になった。

歴代会長

三谷昭(1966年就任)
横山白虹(1973年就任)
金子兜太(1983年就任)
松澤昭(2000年就任)
宇多喜代子(2006年就任)
宮坂静生 (2012年就任)
中村和弘 (2018年就任)
高野ムツオ (2018年就任)

会員数
約5,000人(2020年現在)    ](「ウィキペディア」抜粋)


二 「俳人協会」

https://www.haijinkyokai.jp/

[俳人協会(はいじんきょうかい)は、日本の俳句団体。1961年、現代俳句協会から有季定型派の俳人が分離するかたちで設立。初代会長は中村草田男。俳句文芸の創造的発展とその普及を図ることを目的とし、俳句文芸に関する調査研究、俳句大会や講演会・研究会の開催、俳人・俳文学者の顕彰、会報(『俳句文学館』)の発行などの事業を行う。1971年に社団法人に改組。1976年、俳句専門の図書館である俳句文学館を設立、その運営にあたっている。代表理事二名のうち、現会長は大串章、現理事長は能村研三。会員数は15000人(2013年12月現在)。入会には所属結社からの推薦を必要とする。
歴代会長
中村草田男(1961年 - 1962年)
水原秋桜子(1962年 - 1978年)
大野林火(1978年 - 1982年)
安住敦(1982年 - 1987年)
沢木欣一(1987年 - 1993年)
松崎鉄之介(1993年 - 2002年)
鷹羽狩行(2002年 - 2017年)
大串章(2017年 - )          ](「ウィキペディア」抜粋)


三 日本伝統俳句協会

https://haiku.jp/home/first/about/#hajime

[公益社団法人日本伝統俳句協会(にほんでんとうはいくきょうかい)は、日本の俳句団体である。1987年(昭和62年)、「ホトトギス」を主宰していた稲畑汀子が中心となり任意団体として発足。1988年12月に社団法人認可、2012年に公益社団法人に移行した。会長は稲畑汀子を経て岩岡中正。

有季定型、季題遵守の立場をとり、高浜虚子の「花鳥諷詠」の理念を正しく世に伝えつつ、現代における新しい伝統俳句を創造することを目的とする。

会員数は2018年3月31日時点で正会員2,729人、賛助会員44人(機関誌『花鳥諷詠』363号による)。全国9ブロックの支部、県別の部会があり、機関誌『花鳥諷詠』の発行、日本伝統俳句協会賞など各賞の運営、俳句大会や吟行会の実施や国際俳句シンポジウムの開催や国際俳句交流団体への支援などの活動を行っている。](「ウィキペディア」抜粋)


四 「どうして三つの協会が出来たのですか」(抜粋)

https://sengohaiku.blogspot.com/2018/09/188.html

[「どうして三つの協会が出来たのですか」――現代俳句協会と俳人協会
 現在俳壇には三つの協会がある。現代俳句協会、公益社団法人俳人協会、公益社団法人日本伝統俳句協会である。このほかに国際俳句交流協会があるがこれは国際交流という機能に特化しているからここでは触れない。
     *      *
 (現代俳句協会に関しては省略)・・・昭和三〇年代の社会性俳句、造型俳句の隆盛とともに、草田男と兜太――創設グループと戦後派世代の対立が激しくなった。特に季語をめぐる論点は激しく対立した。遂に草田男は昭和三六年末、現代俳句協会幹事長を兼ねたまま俳人協会を発足させ、現俳協から幹事長不信任を受け退会している。
 発足した俳人協会は、発足当時の幹事を見ると、草田男等の人間探求派、三鬼等の新興俳句の作家(現代俳句協会の創設メンバー)に加え、元日本文学報告会俳句部会の主要幹部であった秋桜子、風生、飯田蛇笏等が復活しており(既に虚子は亡くなっていた)、一方戦後作家は角川源義ただ一人であった。現代俳句協会の創設メンバーと文学報国会幹部、角川書店の三者協同により、戦後派作家を排斥する形で発足したと見ることが出来る。
 このような経緯から、現代俳句協会は無季派と有季派が混在し(現代俳句協会の『現代俳句歳時記』では無季の部立てが存在している)、俳人協会は有季の作家が圧倒的に多い。にもかかわらず、俳人協会定款(根本規則)では無季を排斥してはおらず、むしろ無季排除はその時々の会長の政策と見るべきかも知れない(俳人協会会員の林翔、岸田稚魚らはアンケートで無季容認と回答している)。例えば、松崎鉄之介会長時代は、有志作家による形で、俳句教科書出版社に対し無季俳句を教科書に載せないように強く要請している。

「どうして三つの協会が出来たのですか」――日本伝統俳句協会
 創設時の俳人協会事務所は角川書店内に置かれた。これに伴い、角川書店と現代俳句協会の蜜月時代は終了し、対立時代に入ったのである。しかし、やがて牧羊社(総合誌「俳句とエッセイ」やシリーズ句集で一世を風靡した)という第三勢力出版社の登場等に伴い、こうした対立は輪郭がぼやけてきた。特に「俳句」の名編集長秋山みのるによる「結社の時代」キャンペーンによりこうした対立図式がほぼ崩壊したのである。
     *     *
 この時期に前後して登場したのが、日本伝統俳句協会である。稲畑汀子氏が中心となり、俳人協会よりピュアに、伝統俳句とは「有季定型の花鳥諷詠詩」であると定款(根本規則)に宣言して発足した。虚子によれば花鳥諷詠では、四季以外には社会にも関心を持ってはならないこととされるから、俳句の範囲は俳人協会のそれより一層狭く、かつ求心力を高めたものとなった。
 きっかけは朝日俳壇選者に新しく金子兜太氏が就任したことに伴い伝統俳句の未来に危機感を持った稲畑氏が協会の設立を決心したことにある。これに対し、支持を示したのが三笠宮殿下、更に協会を公益法人化することを強く勧めたのが塩川正十郎文部大臣であった。大臣の指示の下、高石文部次官(後日リクルート事件で逮捕)等の文部官僚の積極的協力により、六二年九月に審査開始、反対投書があったものの、いち早く六三年一二月二一日には認可を受けている。当時の文部省の文化普及課長は、法人化は最低三年かかるが、ホトトギスが後ろ盾にあること、大臣からの申し入れもあり、例外中の例外として早期に認可するといっている(『大久保武雄―桃青―日記』平成二三年北溟社刊)。同業種で公益法人は一つしか認めないという不文律にもかかわらず公益法人認可が行われた。ここに稲畑氏の尽力で、「有季定型」が恣意的にではなく、公の文書として初めて認められることとなったのである。(〈「俳句四季」9月号〉俳壇観測188/俳壇観測・三つの協会のおいたち――何を基準に協会は別れ、存在しているか   筑紫磐井)
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