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「俳誌・ホトトギス」管見(その五) [ホトトギス・虚子]

「ほとゝぎす「子規追悼集(『ホトトギス』1902年12月(6巻4号))」周辺

子規追悼集・表紙.jpg

「子規追悼集(『ホトトギス』1902年12月(6巻4号))」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972187

(目次)

追懷雜記 / 内藤鳴雪/p1~11
子規の書簡 / 五百木飄亭/p11~14
思ひ出づるまゝ / 阪本四方太/p15~26
寫生文の事 / 阪本四方太/p26~30
短歌會の起り / 香取秀眞/p30~32
墓側 / 河東碧梧桐/p32~43
子規翁 / 佐藤紅縁/p43~53
故人の回想 / 寒川鼠骨/p53~58
子規子の手簡 / 高濱虚子/p58~64,81~113
子規年表/p65~73
子規肖像(寫眞版、説明は消息に在り、以下準之)/p74~75
子規病室、糸瓜棚(寫眞版)/p76~76
秋海棠(寫眞版)/p77~77
天下一品 / 倉田萩郞/p77~77
大龍寺門、子規居士墓(寫眞版)/p78~78
短册三枚(寫眞版)/p79~79
自筆碑文(寫眞版)/p80~80
子規君に關する記憶 / 村上霽月/p113~116
六年有餘 / 渡邊香墨/p116~120
子規先生 / 原抱琴/p120~121
子規先生の南岳草花畫卷を得給ひし事 / 鈴木芒生/p121~125
子規先生を追想す / 吉田月我/p125~128
子規先生追懷記 / 山口花笠/p128~133
子規先生に關する記事 / 關縹雨/p133~133
子規先生訪問につきての記 / 奈倉梧月/p133~135
子規先生十三歳の時の書簡 / 仙波花叟/p135~135
遺髪埋葬式の記 / 三山淡紅/p135~137
獺祭書屋主人 / 加藤鹿嶺/p137~140
子規先生を訪ふ / 宮崎梅塘/p141~143
書簡二通 / 松田半粹/p143~144
追悼句/p144~145
東京追悼會/p145~146
地方追悼會/p146~150,152~152
消息 / 虚子記/p152~159
子規居士弄丹靑(木版、挿畫) / 淺井默語/p151~151
八瀨風景(木版、挿畫二枚) / 淺井默語/p153~153
子規庵庭前(表紙) / 下村爲山/p155~155
嵐山風景(裏畫) / 下村爲山

(管見)

一 正岡子規が亡くなったのは、明治三十五年(一九〇二)九月十九日、この「子規追悼号」は、その百箇日に際しての臨時増刊号で、明治三十五年(一九〇二)十二月二十七日に発刊されている。
 子規が亡くなった、その日(九月十九日)の直近の号は、「ホトトギス」(明治三十五年十月十日発刊、第五巻十二号)で、その号の「消息 / 碧梧桐/p附8~附9」は、碧悟桐が記述している。

第五巻十二号.jpg

「ホトトギス」(明治三十五年十月十日発刊、第五巻十二号)所収「消息 / 碧梧桐/p附8~附9」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972183/1/22

 続いて、「ホトトギス」(明治三十五年十月二十五日発刊、第六巻一号)では、表紙なども一新して、その号の「消息 / 虚子/p66~67」は、虚子が記述している。

第六巻一号・表紙.jpg

「ホトトギス」(明治三十五年十月二十五日発刊、第六巻一号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972184/1/1

第六巻一号・消息.jpg

「ホトトギス」(明治三十五年十月二十五日発刊、第六巻一号)所収「消息 / 虚子/p66~67」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972184/1/36

二 「子規肖像(寫眞版、説明は消息に在り、以下準之)/p74~75」周辺

子規肖像(寫眞版).jpg

「子規肖像(寫眞版、説明は消息に在り、以下準之)/p74~75」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972187/1/39

 この「子規肖像(寫眞版、説明は消息に在り、以下準之)/p74~75」については、「消息 / 虚子記/p152~159」に、「子規子肖像№1~№25」の、それぞれについて、「原写真裏書」が虚子の写生文さながらに記述されている。
 「子規追悼集(『ホトトギス』1902年12月(6巻4号))」は、「子規子の手簡 / 高濱虚子/p58~64,81~113」・「子規年表/p65~73」・「子規肖像(寫眞版、説明は消息に在り、以下準之)/p74~75」・「子規病室、糸瓜棚(寫眞版)/p76~76」・「秋海棠(寫眞版)/p77~77」、そして、この「消息 / 虚子記/p152~159」と、「ホトトギス・編集発行人」の「高浜清(虚子)」による「子規追悼集」と解して差し支えなかろう。

三 河東碧梧桐の『子規言行録(政教社版)』と『子規の回想( 昭南書房版)』周辺

子規言行録.jpg

河東碧梧桐の『子規言行録(政教社版)』(標題)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172653/1/3

(目次)

一藝に秀でだる人 陸羯南/1
正岡さん 陸てつ子/7
子規と病氣 宮本仲/10
追懷雜記 内藤鳴雪/17
嗚呼子規 五百木飄亭/38
思ひ出すまゝ 佐藤肋骨/69
追懷斷片 中村不折/83
子規氏の繪 下村爲山/94
日本新聞に於ける子規君 古島一念/97
日本新聞時代餘錄 古島一念/117
余が見たる正岡子規子 末永鐵巖/126
子規の少年時代 三並良/141
子規を偲ぶ 三並良/161
子規の舊事 太田正躬/173
正岡君 大谷是空/176
正岡子規 夏目漱石/185
豫備門時代の子規 菊池仙湖/192
多くの崇拜者 藤井紫影/197
不滅の子規 得能秋虎/203
夏の日のあつもり 西芳菲/206
子親居士の古い時代の句を讀む 高濱虛子/209
思ひ出づるまゝ 阪本四方太/226
寫生文のこと 阪本四方太/250
吾家の子規居士 石井露月/257
子規翁 佐藤紅綠/287
師影六尺 佐藤紅綠/304
絲瓜棚の下にて 佐藤紅綠/315
看病番と子規庵の庭 寒川鼠骨/327
同級生時代より句を學ぶまで 柳原極堂/356
子規君に關する記憶 村上霽月/370
散策集に就て 村上霽月/377
十句集のことゞも 大谷繞石/380
先師の晚年 赤木格堂/408
升さんと食物 河東碧梧桐/454
竹の里人 伊藤左千夫/470
正岡先生の塑像 香取秀眞/500
短歌會の起り 香取秀眞/514
正岡先生の追憶 岡麓/518
追憶記 森田義郞/533
先生と自分 長塚節/545
杜工部集 福田把栗/565
卅四年の新年會 川島奇北/566
三十三年前の事 中村樂天/568
子規先生追懷記 山口花笠/572
六年有餘 渡邊香墨/583
子規先生 原抱琴/592
師長を以て居らす 阪井久良伎/595
觀月の宴 大橋約房/602
鐵意志 磯野飽翁/606
子規の印象 永田靑嵐/609
明治卅二年の頃 寺田寅日子/613
子規先生を訪ふ 宮崎梅塘/618
子規生先訪問に就きての記 奈倉梧月/623
子規先生を追想す 吉田月我/627
先生の南岳草畵卷を得給ひし事 鈴木芒生/633
雜誌「俳諧」を發刊するまで 伊藤松宇/642
思ひ出すまゝ 安江不空/646
頂い陀短册とお寫眞 原千代女/651
二番町の家 久保より江/657
幼少時 正岡八重子/663
始めて上京した當時の子規 藤野磯子/669
家庭より見たる子規 正岡律子/682
附錄
絕筆 碧梧桐/715
終焉 虛子/719
筆者列傳/725
編輯後記 河東碧梧桐/733

 この『子規言行録(政教社版)』所収の「絕筆 碧梧桐/715」と「終焉 虛子/719」とが、子規の終焉記の、その「絶筆三句」周辺の克明なる、子規その人が推奨した「写生文」(そして「山」のある「山会」の記述文)と解することも出来よう。

[ 十八日の朝の十時頃であったか、どうも様子が悪いという知らせに、胸を躍らせながら早速駆けつけた所、丁度枕辺には陸氏令閨と妹君が居られた。予は病人の左側近くへよって「どうかな」というと別に返辞もなく、左手を四五度動かした許りで静かにいつものまま仰向に寝て居る。余り騒々しくしてはわるいであろうと、予は口をつぐんで、そこに坐りながら妹君と、医者のこと薬のこと、今朝は痰が切れないでこまったこと、宮本へ痰の切れる薬をとりにやったこと、高浜を呼びにやったかどうかということなど話をして居た時に「高浜も呼びにおやりや」と病人が一言いうた。依って予は直ぐに陸氏の電話口へ往って、高浜に大急ぎで来いというて帰って見ると、妹君は病人の右側で墨を磨って居られる。やがて例の書板に唐紙の貼付けてあるのを妹君が取って病人に渡されるから、何かこの場合に書けるであろうと不審しながらも、予はいつも病人の使いなれた軸も穂も細長い筆に十分墨を含ませて右手へ渡すと、病人は左手で板の左下側を持ち添え、上は妹君に持たせて、いきなり中央へ糸瓜咲て
とすらすらと書きつけた。併し「咲て」の二字はかすれて少し書きにくそうであったので、ここで墨をついでまた筆を渡すと、こんど糸瓜咲てより少し下げて
 痰のつまりし
まで又た一息に書けた。字がかすれたのでまた墨をつぎながら、次は何と出るかと、暗に好奇心に駆られて板面を注視して居ると、同じ位の高さに
 佛かな
と書かれたので、予は覚えず胸を刺されるように感じた。書き終わって投げるように筆を捨てながら、横を向いて咳を二三度つづけざまにして痰が切れんので如何にも苦しそうに見えた。妹君は板を横へ片付けながら側に坐って居られたが、病人は何とも言わないで無言である。また咳が出る。今度は切れたらしく反故でその痰を拭きとりながら妹君に渡す。痰はこれまでどんなに苦痛の劇しい時でも必ず設けてある痰壺を自分で取って吐き込む例であったのに、きょうはもうその痰壺をとる勇気も無いと見える。その間四五分たったと思うと、無言に前の書板を取り寄せる。予も無言で墨をつける。今度は左手を書板に持ち添える元気もなかったのか、妹君に持たせたまま前句「佛かな」と書いたその横へ
 痰一斗糸瓜の水も
と「水も」を別行に認めた。ここで墨ををつぐ。すぐ次へ
 間に合わず
と書いて、矢張投捨てるように筆を置いた。咳は二三度出る。如何にもせつなそうなので、予は以前にも増して動気が打って胸がわくわくして堪らぬ。また四五分も経てから、無言で板を持たせたので、予も無言で筆を渡す。今度は板の持ち方が少し具合が悪そうであったがそのまま少し筋違いに
 を?ひのへちまの
と「へちまの」は行をかえて書く。予は墨をここでつぎながら、「?」の字の上の方が「ふ」のように、その下の方が「ら」の字を略したもののように見えるので「をふらひのへちまの」とは何の事であろうと聊か怪しみながら見て居ると、次を書く前に自分で「ひ」の上へ「と」と書いて、それが「ひ」の上へはいるもののようなしるしをした。それで始めて「をとヽひの」であると合点した。そのあとはすぐに「へちまの」の下へ
 水の
と書いて
 取らざりき
はその右側へ書き流して、例の通り筆を投げすてたが、丁度穂が先に落ちたので、白い寝床の上は少し許り墨の痕をつけた。余は筆を片付ける。妹君は板を障子にもたせかけられる。しばらくは病人自身もその字を見て居る様子であったが、予はこの場合その句に向かって何と言うべき考えも浮かばなかった。がもうこれでお仕舞いであるか、紙には書く場所はないようであるけれども、また書かれはすまいかと少し心待ちにして硯の側を去ることが出来なかったが、その後再び筆を持とうともしなかった。(明治丗五年九月) 」(「絕筆 碧梧桐/715」=「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172653/1/370

子規・絶筆三句.jpg

https://yeahscars.com/kuhi/hechimanomizu/

 これに続く、「終焉 虛子/719」は、次のようなものである。

[ 九月十八日午前十一時頃、碧梧桐の電話に曰く子規君今朝痰切れず心細き故呼べとの事なり直ぐ来い、と。来て見れば昏睡中なり。碧梧桐の話に、ろくろく談話も出来ず、陸より使来りて余の来たりし時は、母君医者を呼びに行かれたる留守なりしが、「高浜もお呼びや」と一言いわれたるまま電話をかけたるなり。帰りて後自ら筆を採り、例の板に張りたる紙に

糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をとヽひのへちまの水も取らざりき

という三句を認められたり。それより柳医来り痰の切れる薬をくれて帰りたる由。また柳医の話に、国許に親戚でもあるならば「病重し」という位の電報は打ち置く方宜しかるべしとの事なりし由なるも、碧梧桐と相談の上、嘗て加藤氏の話もありし事とて、今少し様子を見てからの事に決す。

○三並、鷹見に端書にて模様悪しき由報知す。
○秀眞来る。去る。
○鳥堂来る。去る。
○午後五時前目覚め苦痛甚だしき様子、モヒ頓服、なお安静を得ず。五時半宮本医来診、胸部に注射、それより再び昏睡。
○昨日は一度粥を食いたる由、その後はレモン水のほか殆ど飲用せず。本日は陸より貰いしおもゆ少しばかりのほか滋養物喉を通らず。
○夕刻おまきさん、加藤令閨来る。去る。

○午後六時過ぎ碧梧桐去る。「ホトトギス」の校正を了せんがため。
○午後七時過ぎ鼠骨来る。おしづさん来る。
○午後八時前目覚め、「牛乳を飲もうか」という。ゴム管にてコップに一杯を飲む。「だれだれが来てお居でるのぞな」と聞く。妹君、「寒川さんに清さんにお静さん」と答う。直ちにまた昏睡。
○大原恒徳氏に手紙を出す。(以上十八日夜虚子生記)
○鷹見令閨来る。
○母君に大原へ打電をいかがすべきか相談せしところ、昨日病人も「大原へは電報を打とうか」など申し居りたれば打ってくれとの事。直ちに「シキヤマイオモシ」と打電す。
○子規子熟睡の状なお続く。鷹見氏令閨と母君と枕頭に残り、余と妹君と臥す。
○時々常に聞き慣れたる子規君のウーンウーンという声を聞きつつうとうとと眠る。
○暫くして枕元騒がしく、妹君に呼び起さるるに驚き、目覚め見れば、母君は子規君の額に手を当て、「のぼさん、のぼさん」と連呼しつつあり。鷹見令閨も同じく「のぼさん、のぼさん」と呼びつつあり。余も如何の状に在るやを弁《わきま》えず同じく、「のぼさん、のぼさん」と連呼す。子規君はやや顔面を左に向けたるまま両手を腹部に載せ極めて安静の状にて熟睡すると異ならず。しかも手は既に冷えて冷たく、額また僅かに微温を存ずるのみ。時に十九日午前一時。
○妹君は直ちに陸氏に赴き電話にて医師に報ず。
○余は碧梧桐を呼ばんがため表に出ず。十七日の月には一点の翳も無く恐ろしきばかりに明かなり。碧梧桐を呼び起して帰り見れば陸翁枕頭に在り。母君、妹君、鷹見令閨、子規をうち囲みて坐す。
○本日医師来診の模様にては未だ今明日に迫りたる事とは覚えず、誰も斯く俄《にわか》に変事あらんとは思いよらざりし事とて、兼ねて覚悟の事ながらもうち騒ぎなげく。
○碧梧桐来る。本日校正の帰路、非常に遅くなり且つ医師の話になお四五日は大丈夫のよう申し居りし故、今夜病床に侍せず、甚だ残念なりとて悔やむ。
○母君の話に、蚊帳の外に在りて時々中を覗き見たるに別に異常なし。ただ余り静かなるままふと手を握り見たるに冷たきに驚き、額をおさえ見たれば同じくやや微温を感ずるばかりなりしに始めてうち驚きたるなりと。
○陸令閨来る。
○陸翁、碧梧桐と三人にて取敢えず左の事だけ極める。
 一、土葬の事    一、東京近郊に葬ること
 一、質素にする事  一、新聞には広告を出さぬ事
 一、国許の叔父上には打電して上京を止める事
○陸翁同令閨去る。
○碧梧桐と両人にて打電先、ハガキ通知先等調べる。
○夜明けば至急熊田へ行きホトトギスへ子規子逝去の広告を間に合わす事にする。
○陸氏令閨来る。おまきさん来る。
○おしづさん、茂枝さん来る。
○夜ほのぼのと明ける。    (以上十九日朝虚子記) ]
http://www.sakanouenokumo.com/siki_syuuen.htm

 ここに、昭和十九年(一九四四)に刊行された『子規の回想』(河東碧悟桐著)所収の「二十八 辭世/465」や「二十九 死後/471」などを重ね合わせたい。

[『子規の回想』(河東碧悟桐著)

https://dl.ndl.go.jp/pid/1069377

目次
一 木入れ/3
二 詩會/7
三 其戎宗匠/11
四 野球/14
五 處女作/17
六 七草集/25
七 寄宿舍生活/29
八 三つの會稿/44
九 小説會/54
十 廻轉期/61
十一 月の都創作前後/68
十二 痛切な體驗/88
十三 渡し守/93
十四 三津のイケス/113
十五 松山競吟集/123
十六 一家二十句/128
十七 一家移集/146
十八 運座月並/158
十九 煙草の烟/162
二十 果て知らずの記の旅/170
二十一 吉田のしぐれ/178
二十二 寫生/182
二十三 二高退學/186
二十四 暗澹たる首途/191
二十五 非風の家/201
二十六 從軍前後/206
二十七 古白の死/216
二十八 子規歸神/223
二十九 漱石と子規/227
三十 病後の焦燥/229
附録
一 母堂の談片/237
二 のぼさんと食物/242
三 家庭より觀たる子規/255
續編
一 當時の新調/283
二 厄月/297
三 古白遺稿/302
四 カリエス手術/306
五 新俳句/311
六 蕪村忌/315
七 十句集/320
八 徹夜/327
九 蕪村句集輪講/336
十 百中十首/341
十一 車上旅行/348
十二 「ほととぎす」東上/355
十三 三十一年の俳句界/364
十四 我が病/367
十五 俳句講習/375
十六 興津轉居/381
十七 山會/387
十八 神田猿樂町/393
十九 庭/396
二十 室内/405
二十一 月並論/410
二十二 人生觀/420
二十三 風板/425
二十四 最後の二事業/434
二十五 繪を描く/445
二十六 仰臥漫録/450
二十七 意外なる祕事/454
二十八 辭世/465
二十九 死後/471
餘録
一 子規自叙傳/483
二 嗜好/485
三 癖/488
四 筆跡/489
五 遊戲氣分/491
六 白眼/493
七 財布/495
八 芋阪團子/497
九 子供/498
十 選句殘稿/499    ]
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