SSブログ

「津田青楓」管見(その九) [東洋城・豊隆・青楓]

その九「津田青楓と寺田寅彦(寅彦の美術評論)その二」周辺

「告春歌」他.jpg

左図「告春歌」(1965年/紙本墨画淡彩/133.2×65.0/個人蔵)
[昭和乙己歳初夏 青楓亀試筆]
中図「白梅丹頂鶴」(1950年/紙本墨画淡彩/131.0×66.0/笛吹市青楓美術館蔵)
[いにしへの人のえがけるけだかさを/我もためさむ鶴にやき/かな 明宣宗皇帝筆模倣/游鶴自添庭中梅花庚寅歳春日/亀青楓]
右図「寝覚の床図」(1965年/紙本墨画淡彩/131.0×65.0/笛吹市青楓美術館蔵))
[昭和乙己歳初夏 青楓亀写 下から見る寝覚の床を絵に/描けば躑躅霧島古き巌かな 昭和甲寅補筆芙蓉花盛り老聾亀九十五叟]
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』)

https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/

[「津田青楓君の画と南画の芸術的価値(寺田寅彦)」抜粋

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/43280_23766.html

「 津田君は先達て催した作画展覧会の目録の序で自白しているように「技巧一点張主義を廃し新なる眼を開いて自然を見直し無技巧無細工の自然描写に還り」たいという考えをもっている人である。
作画に対する根本の出発点が既にこういうところにあるとすれば津田君の画を論ずるに伝説的の技巧や手法を盾に取ってするのはそもそも見当違いな事である。
小笠原流の礼法を標準としてロシアの百姓《ムジーク》の動作を批評するようなものかもしれない。あるいはむしろ自分のような純粋な素人《しろうと》の評の方が却《かえ》って適切であり得るかもしれない。一体津田君の主張するように常に新たな眼で自然を見直すという事は科学者にとっても甚《はなは》だ重要な事である。」

「洋画家並びに図案家としての津田君は既に世間に知られている。
しかし自分が日本画家あるいは南画家としての津田君に接したのは比較的に新しい事である。そしてだんだんその作品に親しんで行くうちに、同君の天品が最もよく発揮し得られるのは正《まさ》しくこの方面であると信ずるようになったのである。
 津田君はかつて桃山に閑居していた事がある。そこで久しく人間から遠ざかって朝暮ただ鳥声に親しんでいた頃、音楽というものはこの鳥の声のようなものから出発すべきものではないかと考えた事があるそうである。
津田君が今日その作品に附する態度はやはりこれと同じようなものであるらしい。出来るだけ伝統的の型を離れるには一度あらゆるものを破壊し投棄して原始的の草昧時代《そうまいじだい》に帰り、原始人の眼をもって自然を見る事が必要である。こういう主張は実は単なる言詞としては決して新しいものではないだろうが、日本画家で実際にこの点に努力し実行しつつある人が幾人あるという事が問題である。」 ] 

渓六曲屏風.jpg

「渓六曲屏風」(制作年不詳/紙本墨画淡彩/136.5×271.8/個人蔵(林要旧蔵))
[歩随流水覓渓源 行/到源頭卻惘然 始悟/眞/源/行/不到
 倚笻随/處奔潺湲/懶青楓七十一 ]
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説213」)

https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/

[林要(はやしかなめ、1894年5月3日-1991年12月26日)は日本のマルクス経済学者。
 山口県出身。1920年東京帝国大学法学部卒、大原社会問題研究所助手となり『日本労働年鑑』の編集にあたる。1923年同志社大学教授。東大新人会で活動以来のマルクス主義者で、そのため1936年、同僚の野村重臣から赤化教授と糾弾されて大学を追われ、38年には執筆も禁止される。
 戦後は愛知大学教授、関東学院大学教授。1979年退職。妻は林てる。](「ウィキペディア」)

[ 林要とのつきあいは、青楓が洋画断筆をしたころから始まった。マルクス主義経済学者であった林要は、反戦思想ゆえ、一九三六年(昭和十一)に勤めていた同志社大学を追われており、青楓とは軍国主義の時代に抗する姿勢や体験をわかつ仲間でもあった。戦後は、林が師友とよぶ青楓と評論家長谷川如是閑や画家正宗得三郎を交えて、談論風発の集まりを持ち、席上で余興に筆をとることもしばしばであった。](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「交友の記念品(喜多孝臣稿)」)

長谷川如是閑(右)と津田青楓(左.jpg

『老画家の一生(津田青楓著)』所収「長谷川如是閑(右)と津田青楓(左)(昭和二十四年四月)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/296

[長谷川如是閑(はせがわにょぜかん、1875年(明治8年)11月30日 - 1969年(昭和44年)11月11日)は、日本のジャーナリスト、文明批評家、評論家、小説家。明治・大正・昭和と三代にわたり、新聞記事・評論・エッセイ・戯曲・小説・紀行と約3000本もの作品を著した。大山郁夫らとともに雑誌『我等』(後に『批判』)を創刊し、大正デモクラシー期の代表的論客の一人。「如是閑」は雅号、本名は萬次郎。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。](「ウィキペディア」)

如是閑像.jpg

「如是閑像」(制作年次不詳/紙本墨画淡彩/79.0×28.4/個人蔵(林要旧蔵)/)
[題如是閑像/ふたつなき馬つら顔/どおもえども羽仁の/五郎と瓜二つかな/青楓亀]
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説221」)

林要像如・是閑賛.jpg

「林要像如是閑賛」(制作年不詳/紙本墨画淡彩/133.5×65.24/個人蔵(林要旧蔵)/))
[あけつらふはやしのにかの/あんこうことポウズどな/れりさに教/ろ□□かも/盲亀兼題/
写林君 於韮山 青楓/
抱腹絶倒/抱膝沈思/如是閑題](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説220」)

※ 寺田寅彦が、「津田青楓君の絵と南画の芸術的」を「中央公論」に掲載した、大正七年(一九一八)、青楓、三十八歳の頃、当時、美術雑誌「研精美術」の記者で、画家志望の「酒井億尋」(1894-1983)が取材に来て、爾来、青楓が亡くなるまで、その交友関係は途切れることはなかった。
 後に、酒井億尋は、実業家の道を選び、荏原製作所の二代目社長までつとめ、その美術好きは終生変わらず、「安井曽太郎・津田青楓・川上涼花・セザンヌ・ルノワール」などの作品を蒐集する大コレクターでもあった。
 一九三〇年代には、青楓が共産党員をかくまうために、酒井億尋の別荘を提供してもらったり、戦後、青楓が疎開先(茨城県小田村=現・つくば市)から東京に戻る際の住居の世話など、全て、酒井億尋の手を煩わせた。青楓は、「酒井氏私のためには、ある時はよきパトロンとなり、ある時は心の友となり、私にとっては一日もなくてはいられぬ人であった」と記述している(津田青楓「交遊抄 酒井億尋氏のこと」『日本経済新聞』1963年7月5日。)。

「 畠山一清と酒井徳尋(「川上涼花《麦秋》と日本画制作について(田所夏子稿)」抜粋)

file:///C:/Users/user/Downloads/bulletin_2022_tadokoro_jp%20(1).pdf

荏原製作所の創業者畠山一清は金沢市の生まれで、日本最大規模の山城のひとつとされる能登国七尾城主の末裔であった。東京帝国大学機械工学科で井口在屋博士に師事し、博士
とともに1911年にゐのくち式機械事務所を創立した。畠山は事業のかたわら、茶道具をはじめとする日本や中国、朝鮮などの古美術品の蒐集をおこなっており、それらは現在公益財団法人畠山記念館に収蔵されている。
酒井は叔父である畠山の側近として事業拡大に大きく貢献し、その後畠山の長女睦(むつ)
と結婚、1962年には荏原製作所二代目社長に就任した。
 実業家として腕を振るう一方で、酒井は叔父同様芸術への造詣が深く、日本洋画や西洋絵画の蒐集を行っていた。能楽や茶の湯を嗜み日本や東洋の古美術品に親しんだ畠山に対し、酒井はむしろ洋画や西洋音楽を好んだという。自身も洋画を学び、一時期本郷洋画研究所に通っていたが、もともとかなりの近眼であったところに網膜剥離を起こし、画家になることを断念している。
洋画家の中村彝(つね)を尊敬し、彝が下宿していた中村屋裏のアトリエや、その後引き移った下落合のアトリエにも出入りしていた。彝の没後発足した中村忌会にも参加し、荏原製作所の熱海寮で会を開いたりもしている。
涼花をはじめ、安井曾太郎(1888–1955)、津田青楓(1880–1978)らとも交友があり、批
評家として数多くの文章を残した。なかでも涼花との親交は古く、1912年のフュウザン会に涼花が作品を発表した直後から交流が始まった。
また、津田青楓は「私のごく親しい友だちは、ただ一人。それは酒井億尋という人」と語っており、酒井と親しかった様子がうかがえる。そして「酒井氏は絵が好きだし、鑑賞眼もするどい。度の強い近視眼だが、それでよく絵の良し悪しがわかるのだから不思議だ。多分心眼という感性が発達しているのかもしれぬ」とし、コレクターとしての酒井の眼を賞賛し
ている。
蒐集した美術品には、交流のあった日本の画家たちだけでなく、印象派やその他20世紀フランスの代表的な画家なども含まれていた。 ]

※ 酒井億尋の兄は、良寛研究家の「酒井千尋」で、青楓が良寛の遺跡を巡る際には、その道案内などをつとめたことなどが、青楓の年譜などから読み取れる。
青楓と「酒井千尋・億尋」との関係というのは、青楓が、昭和八年(一九九三)八月十七日の日付で、「津田青楓先生、今回洋画制作ヲ廃シ専ラ日本画ニ精進スルコトヲ決意セラレタル」の、青楓の「二科会脱退」後の、「日本画(主として「南画」)と「書」(主として「良寛の遺墨」)との、青楓の後半生(昭和八年(一九九三)=五十三歳以後~)の、その大きな拠り所の、その物心両面でのサポータという位置を占めることになる。

酒井億尋.jpg

「酒井億尋」 (1894-1983)
http://www.shiro1000.jp/tau-history/murata/sakai.html

秋天敦煌.jpg

「秋天敦煌」(1941/紙本墨画/135.0×61.0/「酒井億尋コレクション」)
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説202」)

良寛和尚の像.jpg

「良寛和尚の像」(1974年頃/紙本墨画淡彩/46.5×66.4/「笛吹市青楓美術館」蔵)
https://www.asahi.com/articles/DA3S14406292.html?iref=pc_photo_gallery_bottom
[生涯立身懶 騰々/米 炉邊一束薪/誰問迷悟跡 何知/名利塵 夜雨草/菴裡雙脚等/閑伸 良寛和尚/像幷詩題/亀青楓
わびぬれど/わが菴/□なれ/ばかえ/るなり/こころや/すきを/おもひ出と/して  ](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説196」)

[「津田青楓君の画と南画の芸術的価値(寺田寅彦)」抜粋(続き)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/43280_23766.html

「 津田君が南画に精力を集注し始めた初期の作品を見ると一つの面白い現象を発見する。例えば樹の枝に鳥が止まっている。よく見ると樹の枝は鳥の胴体を貫通していて鳥はあたかも透明な物体であるように出来上がっている。
津田君は別にこれに対して何とも不都合を感じていないようである。樹枝を画く時にここへ後から鳥を止まらせる用意としてあらかじめ書き残しをしておくような細工はしないのである。
これは一見没常識のように見えるかもしれぬが、そこに津田君の出発点の特徴が最も明白に現われているのである。そういう遣り方が写真として不都合であっても絵画としてはそれほど不都合な事ではないという事が初めから明らかに理解されている証拠である。
また下書きなどをしてその上を綺麗(きれい)に塗りつぶす月並なやり方の通弊を脱し得る所以(ゆえん)であるまいか。本当の意味の書家が例えば十の字を書く時に始め「※一」を左から右へ引き通す際に後から来る「※Ⅰ」の事など考えるだろうか、それを考えれば書の魂は抜けはしまいか。たとえ胴中を枝の貫通した鳥の絵は富豪の床の間の掛物として工合が悪いかもしれぬが、そういう事を無視して絵を画く人が存在するという事実自身が一つの注目すべき啓示レヴェレーションではあるまいか。
自分は少し見ているうちにこの種の非科学的な点はもうすっかり馴れてしまって何らの不都合をも感じなくなった。おそらく誰でも同様であろう。ただ在来の月並の不合理や出来合の矛盾にのみ馴れてそれを忘れている眼にほんの一時的の反感を起させるに過ぎないであろう。」

 (中略)

「 津田君の絵には、どのような軽快な種類のものでも一種の重々しいところがある。戯れに描いた漫画風のものにまでもそういう気分が現われている。その重々しさは四条派の絵などには到底見られないところで、却って無名の古い画家の縁起絵巻物などに瞥見(べっけん)するところである。これを何と形容したら適当であるか、例えばここに饒舌(じょうぜつ)な空談者と訥弁(とつべん)な思索者とを並べた時に後者から受ける印象が多少これに類しているかもしれない。そして技巧を誇る一流の作品は前者に相応するかもしれない。饒舌の雄弁固もとより悪くはないかもしれぬが、自分は津田君の絵の訥弁な雄弁の方から遥かに多くの印象を得、また貴重な暗示を受けるものである。
このような種々な美点は勿論津田君の人格と天品とから自然に生れるものであろうが、しかし同君は全く無意識にこれを発揮しているのではないと思われる。断えざる研究と努力の結果であることはその作品の行き方が非常な目まぐるしい速度で変化しつつある事からも想像される。
近頃某氏のために揮毫(きごう)した野菜類の画帖を見ると、それには従来の絵に見るような奔放なところは少しもなくて全部が大人しい謹厳な描き方で一貫している、そして線描の落着いたしかも敏感な鋭さと没骨描法(もっこつびょうほう)の豊潤な情熱的な温かみとが巧みに織り成されて、ここにも一種の美しい交響楽シンフォニーが出来ている。
この調子で進んで行ったらあるいは近いうちに「仕上げ」のかかった、しかも魂の抜けない作品に接する日が来るかもしれない、自分はむしろそういう時のなるべく遅く来る事を望みたいと思うものである。
津田君の絵についてもう一つ云い落してはならぬ大事な点がある。それは同君の色彩に関する鋭敏な感覚である。自分は永い前から同君の油画や図案を見ながらこういう点に注意を引かれていた。なんだか人好きの悪そうな風景画や静物画に対するごとに何よりもその作者の色彩に対する独創的な感覚と表現法によって不思議な快感を促されていた。
それはあるいは伝習を固執するアカデミックな画家や鑑賞家の眼からは甚だ不都合なものであるかもしれないが、ともかくも自分だけは自然の色彩に関する新しい見方と味わい方を教えられて来たのである。
それからまた同君の図案を集めた帖などを一枚一枚見て行くうちにもそういう讃美の念がますます強められる。自分は不幸にして未来派の画やカンジンスキーのシンクロミーなどというものに対して理解を持ち兼ねるものであるが、ただ三色版などで見るこれらの絵について自分が多少でも面白味を感ずる色彩の諧調は津田君の図案帖に遺憾なく現われている。
時には甚だしく単純な明るい原色が支那人のやるような生々しいあるいは烈しい対照をして錯雑していながら、それが愉快に無理なく調和されて生気に充ちた長音階の音楽を奏している。ある時は複雑な沈鬱な混色ばかりが次から次へと排列されて一種の半音階的の旋律を表わしているのである。」

(中略)

「 津田君の日本画とセザンヌやゴーホの作品との間の交渉は種々の点で認められる。単にその技巧の上から見ても津田君の例えばある樹幹の描き方や水流の写法にはどことなくゴーホを想起させるような狂熱的な点がある。あるいは津田君の画にしばしば出現する不恰好な雀や粟の穂はセザンヌの林檎りんごや壷のような一種の象徴的の気分を喚起するものである。
君が往々用いる黄と青の配合までもまた後者を聯想(れんそう)せしめる事がある。このような共通点の存在するのは、根本の出発点において共通なところのある事から考えれば何の不思議もない事ではあるまいか。あるいはまた津田君の寡黙な温和な人格の内部に燃えている強烈な情熱の焔(ほのお)が、前記の後期印象派画家と似通ったところがあるとすれば猶更なおさらの事であろう。

(中略)

 青楓(せいふう論と題しながら遂に一種の頌辞(しょうじ)のようなものになってしまった。しかしあらを捜したり皮肉をいうばかりが批評でもあるまい。少しでも不満を感ずるような点があるくらいならば始めからこのような畑違いのものを書く気にはなり得なかったに相違ない。
 津田君の画はまだ要するにXである。何時(いつ)如何(いか)なる辺に赴くかは津田君自身にもおそらく分らないだろう。
しかしその出発原点と大体の加速度の方向とが同君として最も適切なところに嵌っている事は疑いもない事である。そして既に現在の作品が群を抜いた立派なものである事も確かである。それで自分は特別な興味と期待と同情とをもって同君の将来に嘱目している。
そして何時までも安心したりおさまったりする事なしに、何時までも迷って煩悶して進んで行く事を祈るものである。
芸術の世界に限らず科学の世界でも何か新しい事を始めようとする人に対する世間の軽侮、冷笑ないし迫害は、往々にして勇気を沮喪(そそう)させたがるものである。
しかし自分の知っている津田君にはそんな事はあるまいと思う。かつて日露戦役に従ってあらゆる痛苦と欠乏に堪えた時の話を同君の口から聞かされてから以来はこういう心配は先ずあるまいと信ずるようになったのである。 ]

薔薇鶏之図.jpg

「薔薇鶏之図」(1917年/絹本着彩/114.7×26.0/「笛吹市青楓美術館」蔵)
https://www.fashion-press.net/news/gallery/56714/982209
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説175」)

古都一休寺.jpg

津田青楓「古都一休寺」(1940年/紙本墨画淡彩/45.0×53.4/「浜松市美術館」蔵)
https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/
[ (1940年(昭和5)に開催した津田青楓個展出品作。京田辺にある酬恩一休寺の庭と塀を描いたものであろう。画賛した一休禅師の意偈のあとに「老聾亀補筆」とあり、六十一歳時の作品に後年になって讃をいれた、新旧青楓の合作である。一休の意偈は、自らがたどり着いた禅の境地は自分だけのものであるという心持ちを詠んだものである。青楓は、この一休の言葉に晩年の自らの心情を重ねたのであろうか。青楓は老いてのち、過去作ら手をいれることをしばしばおこなっており、過去との対話を楽しんで時を過ごしたようだ。

須弥南/畔誰/会我/禅虚/堂来/也/不直半銭 老聾亀/補筆  ](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品解説200」)
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「津田青楓」管見(その八) [東洋城・豊隆・青楓]

その八「津田青楓と寺田寅彦(寅彦の美術評論)その一」周辺

[「昭和二年の二科会と美術院(寺田寅彦)」(「霊山美術」1927(昭和2)年11月)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card42213.html

 二科会(カタログ順)

 有島生馬《ありしまいくま》氏。 この人の色彩が私にはあまり愉快でない。いつも色と色とがけんかをしているようで不安を感じさせられる。ことしの絵も同様である。生得の柔和な人が故意に強がっているようなわざとらしさを感じる。それかと言ってルノアルふうの風景小品にもルノアルの甘みは出ていない。無気味さがある。少し色けを殺すとこの人の美しい素質が輝いて来ると思う。
(補記)

有島生馬「鬼」.jpg

第1回展に出品された有島生馬「鬼」(1914年・東京都現代美術館蔵) - 時代彩った122点並ぶ 「伝説の洋画家たち 二科100年展」 -
https://www.nishinippon.co.jp/image/4927/

 ビッシエール。 この人の絵には落ち着いた渋みの奥にエロティックに近い甘さがある。ことしのは少し錆《さび》が勝っている。近ごろだいぶこの人のまねをする人があるが、外形であの味のまねはできない。できてもつまらない。
(補記)
ロジェ ビシエール(Roger Bissière)
[1888.9.22 - 1964.1.22 フランスの画家。ヴィルレアル(フランス)生まれ。
ボルドー美術学校で学び、1910年パリに行き雑誌記者をしながら絵を書く。’21年ブラックと出会い立体派の影響を受け、’24年ランソン画塾の教師を経て、’46年ドルアン画廊で初の個展を開く。’58年パリの国立近代美術館で回顧展を開き、’60年からメス大聖堂のステンドグラスを制作する。荘重で宗教的静けさの抽象的構図の中にフランス絵画の伝統を生かす独自の作風を確立する。](日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊))

花を持つ婦人.jpg

花を持つ婦人 Woman with Flowers (「国立西洋美術館」蔵)
https://collection.nmwa.go.jp/P.1965-0001.html

石井柏亭《いしいはくてい》。 「牡丹《ぼたん》」の絵は前景がちょっと日本画の屏風絵《びょうぶえ》のようであり遠景がいつもの石井さんの風景のような気がして、少しチグハグな変な気がする。「衛戍病院《えいじゅびょういん》」はさし絵の味が勝っている。こういう画題をさし絵でなくするのはむつかしいものであろうとは思うがなんとかそこに機微なある物が一つあるであろうとは思う。「クローデル」はよくその人が出ているところがある。私はこの画家が時々もっと気まぐれを出していろいろな「試み」をやってくれる事を常に望んでいる。
(補記)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-14

 小出楢重《こいでならしげ》。 この人の色は強烈でありながらちゃんとつりあいが取れていて自分のような弱虫でも圧迫を感じない。「裸女結髪」の女の躯体《くたい》には古瓢《こひょう》のおもしろみがある。近ごろガラス絵を研究されるそうだがことしの絵にはどこかガラス絵の味が出ている。大きな裸体も美しい。
(補記)
[ 小出楢重【ならしげ】は、大阪に生まれ、岸田劉生【りゅうせい】や中村彝【つね】らと同時代の画家であり、黒田清輝以来主流となっていた白馬会系の当時の洋画壇に飽きたらず、単なる洋画の輸入ではなく日本独自の油絵を確立しようと真摯に努めた画家の一人である。「Nの家族」は大正八年の第七回二科展に出品され、他の二点とともに有望な新人に与えられる樗牛賞を贈られ、それまで不遇であった画家が画壇に地歩を築くきっかけとなった作品である。
 小出は、「Nの家族」制作において、明らかにこのような意識のもとに、確固とした構図と技法による本格的な油絵を描こうとしていたことが推測されるが、後年、自ら「日本人の油絵の共通した欠点は、絵の心ではなく、絵の組織と古格と伝統の欠乏である」(『油絵新技法』)と記し、一方で「高橋由一、川村清雄、あるいは原田直次郎等の絵を見ても如何に西洋の古格を模しているかがわかる」(同前)と述べており、そのような信念の萌芽が看取されよう。蝋燭の光を思わせる陰影や、フランドル等の室内画を思わせる背景に描かれた鏡やカーテン、ホルバインの画集、そしてセザンヌ風の手前の静物など、雑多な要素を連想させるうえに、三人の人物は画面いっぱいの大きさに描かれているというように、ともすれば煩雑で不統一の画面になりかねない構成であるが、実際にはきわめて均衡のとれた緊密な構図と重厚な色彩をもった、密度の高い作品となっている。
 制作当時、すでに劉生や河野通勢等の画家が北欧ルネサンス風の写実的な表現を追求していたが、本図の画風はそれらの影響というよりは、小出自身の必然的な欲求に起因するものというべきであろう。画家の関心は描かれる対象自体の写生ではなく、あくまでも画面における造形的な均衡と充実にあり、そのような姿勢は大正十年の渡欧を経て晩年に至る、小出の裸婦や静物画群においても一貫しているといえよう。
 本図は小出楢重の前期の代表作であるばかりでなく、その緊密で力強い構成と表現により大正時代の洋画を代表する一作といえよう。](「文化遺産オンライン」)

Nの家族.jpg

Nの家族(小出楢重筆 一九一九/油絵 麻布)(「財団法人大原美術館」蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/135664

 熊谷守一《くまがいもりいち》。 この人の小品はいつも見る人になぞをかけて困らせて喜んでいるような気がする。人を親しませないところがある。しかしある美しさはある。
(補記)

麥畑.jpg

『麥畑(むぎばたけ)』 昭和14(1939)年 油彩/板 愛知県美術館蔵(木村定三コレクション)
https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/220967/

 黒田重太郎《くろだしげたろう》。 「湖畔の朝」でもその他でもなんだか騒がしくて落ち着きがなくて愉快でない。ロート張りの裸体の群れでも気のきいたところも鋭さもなくただ雑然として物足りない。もう少し落ち着いてほしい。
(補記)

黒田重太郎.gif

「黒田重太郎が十代のころに描いた鉛筆素描」(明治38年(1905)年4月15日に描かれた「花園村」=画像右=など)
https://hanabun.press/2018/10/06/kurodajyutarou/
[黒田は小出楢重らと大阪で信濃橋洋画研究所を開設。京都市立美術専門学校(現・京都市芸大)の教授となり後進を育成した。日本芸術院恩賜賞受賞、勲三等瑞宝章受章。1870(昭和45)年82歳で没した。昨年(2017年)が生誕150年。2020年に没後50年を迎える。]

 正宗得三郎《まさむねとくさぶろう》。 この人の絵も私にはいつもなんとなく騒がしくわずらわしい感じがあって楽しめない。もう少し物事を簡潔につかんで作者が何を表現しようとしているかをわかりやすくしてほしいと思う。その人の「世界」を創造してほしい。
(補記)

瀬戸内海.jpg

「瀬戸内海」(油彩,カンヴァス 36.0×45.0cm)
https://www.hiroshima-museum.jp/collection/jp/masamune_t.html
[戦前は二科会で、戦後は二紀会の創設会員として同展を中心に活動した洋画家です。明るく新鮮な色調で存在感のある風景画を多く描きました。富岡鉄斎の研究でも知られ、著書に『鉄斎』などがあります。また、長兄は小説家・文学者の忠夫(正宗白鳥)、次兄は国文学者の敦夫です。]

 鍋井克之《なべいかつゆき》。 この人の絵はわりに好きなほうであったが、近年少しわざとらしい強がりを見せられて困っている。ことしのにはまたこの人の持ち味の自然さが復活しかけて来たようである。しかしあの大きいほうの風景のどす黒い色彩はこの人の固有のものでないと思う。小さな家のある風景がよい。
(補記)
[大阪府出身。旧姓は田丸。東京美術学校卒。1915年「秋の連山」で二科賞。フランスなどに留学後、1923年二科会会員となり、1924年小出楢重、黒田重太郎らと大阪に信濃橋洋画研究所を設立。1947年二紀会の結成に参加。1950年「朝の勝浦港」などで芸術院賞受賞。1964年浪速芸術大学教授。宇野浩二と親しくその挿絵を多く描いた。](「ウィキペディア」)

鴨飛ぶ湖畔.jpg

「鴨飛ぶ湖畔」(昭和7年(1932)「大阪市立美術館蔵(鍋井澄江氏寄贈)」
https://www.osaka-art-museum.jp/def_evt/50thnabeikatsuyuki

 中川紀元《なかがわきげん》。 いつも、もっとずっと縮めたらいいと思われる絵を、どうしてああ大きく引き延ばさなければならないかが私にはわからない。誇張の気分を少し減らすとおもしろいところもないではないが。
(補記)

アラベスク.gif

「アラベスク」(1921年/辰野美術館蔵)
https://www.musashino.or.jp/museum/1002006/1002258/1002259/1002394/1002400.html
[中川紀元は1892(明治25)年2月11日、木曽駒ケ岳を間近に望む長野県上伊那郡朝日村(現辰野町樋口)に生まれました。
1912(明治45)年、東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科に入学しますが、旧体質の指導に失望、また制作にも自信を失い退学。その後、太平洋画会研究所、本郷研究所へ通い洋画に転向、藤島武二にデッサンの指導を受け、また、二科会の重鎮であった石井柏亭や正宗得三郎にも師事しました。1915(大正4)年、第2回二科展に初入選。1919(大正8)年には渡仏し、エコールド・パリの空気の中、マチスに師事するという幸運に恵まれました。
滞仏中の1920(大正9)年に「ロダンの家」等で樗牛賞を受賞、帰国後滞欧作7点を出品し二科賞を受賞するなど、そのフォーブな画風は当時の日本画壇に新鮮な衝撃をもたらしました。前衛傾向の画家達とグループ・アクションの結成に参加し活発な活動を展開したのもこの時期です。
1924(大正13)年にアクション解散、油彩画に倦怠を感じた中川は次第に日本画への関心を深め、1930(昭和5)年には中村岳陵ら日本画家たちと六潮会を結成します。
以後、二科会と六潮会という全く異なる展覧会を発表の場としながら制作活動を続けますが、二科会解散後は、熊谷守一らと第二紀会を結成、ここを舞台に水墨画的な油彩画という新しい境地を開拓しました。若い日にパリで学んだ自由な画風に東洋画の伝統が一体となった中川独自の表現はこうして形成されました。中川はその生涯を長野と東京に過ごしましたが、武蔵野市には1956(昭和31)年に転居して以降、1972(昭和47)年に79歳で亡くなるまで居住しました。」

 坂本繁次郎《さかもとしげじろう》。 おもしろいと言えばおもしろいがそれは白日の夢のおもしろさで絵画としてのおもしろみであるかどうか私にはわからない。この人の傾向を徹底させて行くとつまりは何もかいてないカンバスの面がいちばんいい事になりはしないか。
(補記)

坂本繁次郎.jpg

坂本繁二郎《月》1966年 油彩・カンヴァス 無量寿院蔵(福岡県立美術館寄託)
https://artexhibition.jp/topics/news/20220513-AEJ768717/
[坂本繁二郎は1882年、福岡県久留米市生まれの画家。青木繁と同世代にあたり、互いに切磋琢磨する青年期を過ごした。その後、20歳で青木を追うように上京。小山正太郎主宰の不同舎で学び、展覧会出品作が数々の賞を受賞するなど順風満帆な画業をスタートさせた。39歳のときに渡仏。3年間の留学生活を終えて久留米に帰郷し、以降、画壇の煩わしさを避けて郷里にほど近い八女にアトリエで制作に没頭した。
ヨーロッパ留学から最晩年にかけ、牛、馬、周囲の静物、そして月と、平凡な主題を選びながら厳かな静謐さを秘めた作品を描いた坂本。画壇と距離を置いていたものの、戦前と変らぬ穏やかさを湛えた作品群が評価され、74歳で文化勲章を受章した。]()

 津田青楓《つだせいふう》。「黒きマント」は脚から足のぐあいが少し変である。そのために一種サディズムのにおいのあるエロティックな深刻味があって近代ドイツ派の好きな人には喜ばれるかもしれないが、甘みのすきな私にはこれよりももう一つの「裸婦」のほうが美しく感ぜられる。やはり鋭いものの中に柔らかい甘みがある。この絵の味は主として線から来ると思う。この人の固有の線の美しさが発揮されている。「海水着少女」は見るほうでも力こぶがはいる。職業的美術批評家の目で見ると日傘《ひがさ》や帽子の赤が勝って画面の中心があまり高い所にあるとも言われる。これはおそらく壁面へずっと低く掲げればちょうどよくなると思う。静物も美しい。これはこの人の独歩の世界である。
(補記)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-17

 山下新太郎《やましたしんたろう》。 この人の絵にはかつていやな絵というものを見ない。しかし興奮もさせられない。長所であり短所である。時々は世俗のいわゆる大作を見せてくださる事を切望する。
(補記)

山下新太郎.jpg

「自画像」」(1904年(明治37年))(「東京芸術大学大学美術館」蔵)
[山下 新太郎(やました しんたろう、1881年8月29日 - 1966年4月11日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。二科会および一水会創立者のひとり。
 画風はオーギュスト・ルノワールの影響を受けた美しい色彩が特徴である[2]。また、パリ滞在中に表具師の家に生まれたことから敦煌から招来された仏画の修理を手がけたのを切っ掛けに、油彩画の修復や保存も学び、この分野の日本に於ける草分けとなった。同時に留学中から額縁を蒐集し、自作の額装にも配慮を欠かさなかった。](「ウィキペディア」)

 安井會太郎《やすいそうたろう》。 「桐《きり》の花咲くころ」はこれまでの風景に比べて黄赤色が減じて白と黒とに分化している事に気がつく。これは白日の感じを出しているものと思われる。果物《くだもの》やばらのバックは新しいと思う。「初夏」の人物は昨年のより柔らかみが付け加わっている。私は「苺《いちご》」の静物の平淡な味を好む。少しのあぶなげもない。
(補記)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-17

 横井礼市《よこいれいいち》。 この人の絵はうるさいところがなくてよい。涼しい感じがある。この人の絵の態度は行きつまらない。どこまでも延びうると思う。
(補記)

横井礼市.jpg

「横井礼以自選画集 非売品」(「横井礼以自選画集刊行委員会 編」)
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=334272812
「横井 礼以(よこい れいじ、1886年〈明治19年〉10月1日 - 1980年〈昭和55年〉6月22日)は、日本の画家。勲等は勲四等。名古屋造形芸術短期大学名誉教授、社団法人二紀会名誉会員。本名は横井 禮一(よこい れいいち)。当初は横井 禮市(よこい れいいち)との筆名を用いた。なお、本名の「禮一」、および、かつての筆名の「禮市」の「禮」は「礼」の旧字体であるため、横井 礼一(よこい れいいち)、横井 礼市(よこい れいいち)とも表記される。なお、筆名の「礼以」については新字体を用いている。
 緑ヶ丘洋画研究所主宰、二科会参与、第二紀会委員、名古屋造形芸術短期大学造形芸術科教授などを歴任した。 ](「ウィキペディア」)

 湯浅一郎《ゆあさいちろう》。 巧拙にかかわらず一人の個人の歌集がおもしろいように個人画家の一代の作品の展覧はいろいろの意味で真味が深い。湯浅氏の回顧陳列もある意味で日本洋画界の歴史の側面を示すものである。これを見ると白馬会《はくばかい》時代からの洋画界のおさらえができるような気がする。ただこの人の昔の絵と今の絵との間にある大きな谷にどういう橋がかかっているかが私にはわからない。
(補記)

湯浅一郎.jpg

「室内婦人像/Woman in Interio」(「群馬県立美術館」蔵/ 1930(昭和5)油彩・カンヴァス・130.5×97.5cm・湯浅ゆくゑ氏・湯浅太助氏寄贈)
https://mmag.pref.gunma.jp/works/yuasa
[黒田清輝の指導の下、明治30年代に《徒然》《画室》など意欲あふれる作品を残した湯浅一郎は、明治38年の暮れから4年間、油彩の本場ヨーロッパに留学した。スペインでベラスケスの模写に精を出した湯浅は、人物画こそ油彩の本道であり、日本が学ばなければならないものだという確信を持って帰国する。ところが日本の近代洋画の歴史は、湯浅が行おうとした地道な努力とは別の、性急で表面的な模倣の道を選ぶ。
湯浅の晩年の作品であるこの作品は、画面右手前から光の差し込む室内で、揺りいすにくつろいで座り、新聞を読むゆくゑ夫人をモデルにしている。骨とう屋を回るのが好きだったという湯浅は、旅先でもさまざまなものを買い集めてきたようだ。本作に描き込まれた雑多な品々を見てもそのことがうかがえる。それにしても、これだけ数多くの物を描き込んでいながら画面が決して雑然としていないのは見事だ。ゆくゑ夫人の背後には変わった形の鏡が置かれ、そこにはこの作品を描いている湯浅自身が、画架を前にした姿で写っている。自画像をほとんど残さなかった湯浅は、晩年のこの作品の中に自らの姿をとどめた。湯浅が63年の生涯を閉じるのは翌年のことである。

 新しい人にもおもしろい絵があったが人と画題を忘却した。なんと言っても私には津田、安井二氏の絵を見るのが毎年の秋の楽しみの一つである。

   美術院

 近ごろの展覧会の日本画にはほとんど興味をなくしてしまった。すべてがただ紙の表面へたんねんに墨と絵の具をすりつけ盛り上げたものとしか感じられない。先日の朝日新聞社の大展覧会でみた雅邦《がほう》でもコケオドシとしか見えなかった。春挙《しゅんきょ》でも子供だましとしか思わなかった。そんな目で展覧会を見て評をするのは気の毒のような気もする。

 近藤浩一路《こんどうこういちろう》の四五点はおもしろいと思って見た。しかし用紙を一ぺんしわくちゃにして延ばしておいてかいたらしいあの技術にどれだけ眩惑《げんわく》された結果であるかまだよくわからない。ともかくもこの人の絵にはいつもあたまが働いているだけは確かである。頭のない空疎な絵ばかりの中ではどうしても目に立つ。
(補記)

近藤浩一路.jpg

「富士山/1940-50(昭和10-20年代)/紙本墨画・65.1×72.2cm/「静岡美術館」蔵」)
https://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/collection_vote/artist.php?AD=ka---kondo_koichiro


 川端竜子《かわばたりゅうし》の絵もある意味であたまは働いているが、いつも少し見当のちがったほうへ働いていはしないか。人に見せる絵と思わないで、自分で一人でしんみり楽しめるような絵をかくつもりでそのほうに頭を使ったら、ずっといい仕事のできる人だろうにと思う。
(補記)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-14

 横山大観《よこやまたいかん》の[瀟湘八景《しょうしょうはっけい》]はどうも魂が抜けている。塗り盆に白い砂でこしらえる盆景の感じそのままである。全部がこしらえものである。金粉を振ったのは大きな失敗でこれも展覧会意識の生み出した悪い企図である。
(補記)

横山大観.jpg

横山大観「曳船」明治34年 足立美術館
https://www.museum.or.jp/event/94077
[横山大観(1868-1958)は、明治・大正・昭和の画壇を牽引した近代日本画の第一人者です。70年に迫る画業の中、常に画壇の第一線に立って活躍し、近代美術史に数多くの名作を遺しました。没後60年以上を経た現在も、その名声は色あせることなく生彩を放っています。](「足立美術館」)

 速水御舟《はやみぎょしゅう》の「家」の絵は見つけどころに共鳴する。しかしこれはむしろやはり油絵の題材でないか。とにかくこの人の絵はまじめであるがことしのは失敗だと思う。
(補記)

速水御舟.jpg

「Hayami Gyoshu作品1(新緑/大正4年(1915) 125.0×81.0 cm)
https://www.adachi-museum.or.jp/archives/collection/hayami_gyoshu
[青々とした若葉が画面いっぱいに描かれ、新緑の爽やかさとともに作者の感動がそのままに伝わってくる。御舟の作品に共通する、不思議な新しい感覚は本作でも感じられ、大正初期に描かれたものとは思えないほど瑞々しさにあふれている。
速水御舟/明治27年(1894)~ 昭和10年(1935)
東京に生まれる。松本楓湖主宰の安雅堂画塾に入門し、日本や東洋古典の粉本模写を通じて技量を磨く。その後、今村紫紅に認められ紅児会に参加。紫紅を生涯の師と仰いだ。大正3年には紫紅や小茂田青樹らと赤曜会を結成。同会解散後は院展に作品を発表。絶えず新しい表現を追求し続け、画壇に大きな足跡を遺した。](「足立美術館」)

 富田渓仙《とみたけいせん》の巻物にはいいところがあるが少し奇を弄《ろう》したところと色彩の子供らしさとが目についた。
(補記)
[冨田 溪仙(とみた けいせん、1879年12月9日 - 1936年7月6日)は、明治から昭和初期に活躍した日本画家。初め狩野派、四条派に学んだが、それに飽きたらず、仏画、禅画、南画、更には西洋の表現主義を取り入れ、デフォルメの効いた自在で奔放な作風を開いた。](「ウィキペディア」)

富田渓仙.jpg

渓仙筆 前赤壁図 1921年(「ウィキペディア」)

 あれだけおおぜいの専門的な研究家が集まってよくもあれほどまでに無意味な反古紙《ほごがみ》のようなものをこしらえ上げうるものだという気がする。
 これに反して二科会では、まだあまり名の知られてないようなたぶん若い人たちでも、中には西洋人のまねをしている人はあるとしても――ともかくも何かしら魂のはいった絵をかく人が多い。一つは材料の差異によるにしても。
 最後に一個の希望として、来年あたりから二科会で日本画も募集する事にしたらおもしろいだろうと思う。ただし従来いわゆる日本画の教養を受けた人は出品の資格がないという事にして――これはコントロールがむつかしいかもしれないが――そうして新しい日本画を募集してみたらどうであろう。その結果はおそらく沈滞した日本画界に画時代的の影響を及ぼすようなものになりはしないか。そうなったら自分も一つやってみようかなどとこのようなたわいもない夢のような事を思うのもやはり美術シーズンの空気に酔わされた影響かもしれない。
 勝手なことを書いて礼を失したところが多いと思う。しかし私の悪口は絵に対しての悪口である。名前をあげた限りの「人」に対しては好意と敬愛のほか何物も持っていない事をこの機会に明らかにしておきたい。悪言多罪。](昭和二年十一月、霊山美術)  ]

(追記) 「霊山美術」周辺

霊山美術.jpg

「霊山美術3号(津田青楓編)」(1938=昭和13年)の表紙(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「コラム・津田青楓洋画塾の七年(清水智世稿)」)

※ 寺田寅彦の美術評論「昭和二年の二科会と美術院」の初出の「霊山美術」というのは、津田青楓が開設した「津田青楓洋画塾」(大正十五年=一九二六に、京都市下京区(現・東山区))霊山町に開設した)の、その「塾報」の「霊山美術(RIYOSEN-BIJUTSU)」なのである。
 これが、昭和三年(一九二八)九月に、「鹿ケ谷桜谷町」に移住したことにより、「青楓洋画塾々報(Fusin)=(ヒューザン)」と衣替えをして行く。
 この「ヒューザン」と、「大正元年(一九一二)に斎藤与里、岸田劉生、万鉄五郎、高村光太郎ら後期印象派やフォービスムの影響を受けた青年画家が結成した美術団体の『フューザン・フュウザン会』(同年一〇月に第一回展を銀座の読売新聞社で開き、翌年三月に第二回展を開いたが、その後解散。会名は木炭を意味するフランス語「フューザン」にちなむ)」
とは、その流れを汲む「新しい美術家集団」を目指したネーミングであろうが、直接的な関係はない。
 そして、高村光太郎ら結成した、大正元年(一九一二)の第一回「フューザン会展」に、夏目漱石と寺田寅彦とが来場されて、光太郎の「ツツジ」という作品を、寅彦が購入したことなどが、光太郎の「ヒウザン会とパンの会」(下記アドレス)の中で綴られている。

https://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46380_25635.html

 それだけではなく、当時、夏目漱石が「東京朝日新聞」に、「文展と芸術」という美術評論を書いていて、その中に、「芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである」という冒頭の書き出しに、高村光太郎が、「読売新聞」上の「「西洋画所見」という文展評の中で、「芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ陳腐な言をきく」が、この、漱石の『自己の表現に始つて』という言には承服できないということの反駁文を載せ、この二人の間に確執が生じるということが、両者をよく知る「寅彦と青楓」介在して表面化するという事件らしきものが、内在している。
 これらのことについては、下記アドレスの「漱石と光太郎・・・第六回文展評をめぐる綾・・・(佐々木充稿)」に詳しい。

https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900024588/KJ00004297097.pdf

 ちなみに、当時の「青楓洋画塾」の客員には、「中川紀元・清水登之・東郷青児・安井曽太郎・鈴木信太郎・古賀春江」が名を連ね、その学芸委員に「寺田寅彦・谷川徹三」

青楓塾展のポスター.gif


「青楓塾展のポスター」
https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「津田青楓」管見(その七) [東洋城・豊隆・青楓]

その七「津田青楓の前景(その生い立ちから巴里滞在時前後の頃まで)」周辺

津田青楓が描く花の世界・生家.jpg

【笛吹市青楓美術館】ぶどう畑の中の最古の美術館(4) 「津田青楓が描く花の世界」を見に行く https://note.com/azusa183/n/n19c08a72e85e

[ 晩年になって、生家の様子を回想し描いた作品。青楓の父、西川一葉(本名・源治郎)は生け花を教えながら、花売りを商っていた。青楓は、幼少の頃より市場への花の買い出しなど家業を手伝っており、その時に使用した荷車や、店先で花売る父の姿が描き込まれている。
 青楓の津田姓は、母の生家に跡継ぎがなく、母方の祖父の養子となって継いだものである。津田家の先祖は明智光秀とか、その家来といった由緒もあったようだが、母が因襲をきらっており、祖父が亡くなった際、系図を屑屋に売り払ってしまったという。(「自撰年譜」)]
(『背く画家津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和(津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』)

[津田 青楓(つだ せいふう、1880年9月13日 - 1978年8月31日)は、京都府出身の画家、書家、随筆家、歌人。良寛研究家としても知られる。本名、津田亀治郎。旧姓、西川。津田は母方の姓。最初の妻の山脇敏子も洋画家である。](「ウィキペディア」)

[ 津田青楓の図案作品──京都の年代 (関西大学名誉教授  スコット・ジョンソン)

https://www.jissen.ac.jp/bungei/event/r28lrh0000003amq-att/eiribon9.pdf

 津田青楓(1880-1978)〔明治 13~昭和 53〕は、プロレタリア運動による彼の政治活動
だけでなく、夏目漱石や彼を慕う文人達との緊密な関係で有名です。

 彼の芸術家としての人生は京都で始まりました。それは小学校の6年を終えるとすぐの
事でした。彼は、最初に京都の呉服問屋である千切屋に奉公し、そのうち千切屋内で意匠
の仕事に携わるようになります。数年後、彼は京都市立染織学校に入り、同時に谷口香嶠
(1864-1915)の画塾にも入門、日本画を学びました。青楓が 18 才の頃には独立した図案
家となり、年長で既に高名であった神坂雪佳に対抗し始めていました。1902 年に浅井忠
が京都府立高等工芸学校でデザインを教え始めたとき、青楓は彼の影響を受けて、彼の関
西美術院で洋画を学びました。

 彼の最初の図案本は京都の本田市次郎の雲錦堂により刊行されました。後に雲錦堂は山
田直三郎の 艸堂と合併し、その後の青楓の図案本は 艸堂から発行されました。
 津田青楓の図案本は 1899 年から 1903 年〔明治 32~36〕に多く出版されました。しかし、渦中の 1900 年〔明治 33〕、20 才になったとき、彼は歩兵連隊に徴兵されて3年間の軍隊生活を送る事になります。彼は衛生兵に志願し、京都深草の師団内部にある衛戍病院で看護教育を受けました。彼は、衛生部志願によって出来た自由な時間を活用し、出版のため
の図案を作り続けることができました。

 1903 年 12 月に彼は除隊し、自由の身になったと思っていました。彼はこの頃に、精魂
を傾けて創造した図案を掲載する雑誌を作るという最も野心的なプロジェクトを始めまし
た。しかし、1904 年4月に日露戦争が起こり、彼は再び徴兵されました。彼の部隊は、
最も血なまぐさい戦闘があった 203 高地の戦いにも配属されており、彼は衛生兵の勤めを
果たしました。この戦争中、戦争前に完成させていたデザインに基づく図案本が、彼の兄
である西川一草亭(1878-1938)と彼の親友浅野古香(後の杉林古香)(1881-1913)によ
って編集されました。   
 青楓は 1906 年〔明治 39〕の春に日本に帰国しました。彼は戦争後に2冊の図案本を作
りました。しかし、2年の戦争は津田青楓を変えてしまいました。彼はもはや京都での生
活を幸せには思えませんでした。そして、1907 年〔明治 40〕に彼はフランスに渡りました。

そこで青楓はアカデミー・ジュリアンで絵画を研究しました。パリでの研究を終えた後に
青楓は京都に戻り、夏目漱石に出会うのです。漱石は彼に東京へ引っ越すよう促し、青楓
はそれを実行しました。

東京では、津田青楓は絵画の新しいスタイルを実験します。完全に急速に変化する東京
のライフスタイルを楽しみました。ですが、その前に、津田青楓は京都時代にこそ、最も
美しく最も独創的な図案本の出版で衝撃的な遺産を生み出していたのです。
 東京では、夏目漱石、与謝野晶子、鈴木三重吉やその他の作家達の本の装幀をしました。
それらの装幀図案が、後に京都の芸艸堂から『装幀図案集』という多色摺り木版本として
発行された事は、青楓がルーツである京都を忘れなかった事を示しているのでしょう。

初期の作品:1899~1903 の出版

 『青もみぢ 1~6』(30 のデザイン)

青もみぢ(第五巻).jpg

「青もみぢ(第五巻)・本田雲錦堂(一九〇〇・六月)」(『背く画家津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和(津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』)

津田青楓 図案と時代と.jpg

「津田青楓 図案と、時代と、」(2022年6月18日(土)~2022年8月14日(日/渋谷区立松濤美術館)
https://www.museum.or.jp/report/107692

 『図案集』8巻
 『染織図案』4巻

染織図案.jpg

「染織図案(一・二・三・四)」(山田芸艸堂/1904年3月)
thttps://www.pen-online.jp/article/010890.html#photo-gallery-10890-3

 『華橘』
 『華紋譜』2巻

華紋譜.jpg

右「華紋譜(花之巻)・本田雲錦堂(一八九九年六月)」
左「華紋譜(楓之巻)・本田雲錦堂(一九〇〇年四月)」
https://www.museum.or.jp/report/107692

 『うづら衣』3巻

うづら衣一.jpg

「うづら衣・山田芸艸堂(一九〇三年)」

うづら衣二.jpg

「うづら衣・山田芸艸堂(一九〇三年)」
https://note.com/azusa183/n/n19c08a72e85e

青楓の徴兵期間:1904 年の出版
 『小美術』1~6(西川一草亭、浅野古香と岡田朴亭による図版は木版多色摺りで、浅
井忠と谷口香嶠によるエッセイとコメント入り)

 『小美術図譜』

戦地図案.jpg

津田青楓「戦地図案其二(高梁中のアタアタ車)」『小美術図譜』(山田芸艸堂)より 1904年(明治37) 芸艸堂蔵
https://www.fashion-press.net/news/gallery/88330/1502044

 『ナツ草』

ナツ艸.jpg

津田青楓『ナツ艸』(山田芸艸堂)より 1904年(明治37) 個人蔵
https://www.fashion-press.net/news/gallery/88330/1502043

1906 年の出版
 『落柿』2巻(浅野古香と共著)
 『青もみぢ7~9』
1929 年の出版
 『装幀図案集』(装幀図案:夏目漱石・鈴木三重吉・森田草平・田山花袋・与謝野晶子・田村俊子・村田鳥江・松岡譲の単行本)

鈴木三重吉『櫛』.jpg

津田青楓(装幀) 鈴木三重吉『櫛』(春陽堂) 1913年(大正2) 笛吹市青楓美術館蔵
https://www.fashion-press.net/news/gallery/88330/1502045

[華道家で去風流家元の西川一葉の息子として京都市中京区押小路に生まれる。兄の西川一草亭も華道家で、去風流家元。小学校卒業後、京都の呉服問屋である千切屋に奉公し、そのうち千切屋内で意匠の仕事に携わるようになる。

はじめ四条派の升川友広に日本画を師事し、1897年、京都市立染織学校に入学。傍ら、谷口香嶠に日本画を師事[2]。同校卒業後、同校の助手を務める。1899年、関西美術院に入学し、浅井忠と鹿子木孟郎に日本画と洋画を師事。関西美術院で学びつつ京都髙島屋の図案部に勤め、1903年には図案集『うづら衣』(山田芸艸堂)を刊行した。

1904年、兄の西川一草亭らと共に小美術会を結成。

1907年から農商務省海外実業実習生として安井曾太郎と共にフランスの首都パリに留学し、アカデミー・ジュリアンにてジャン=ポール・ローランスに師事。アールヌーヴォーの影響を受ける。1909年に帰朝。在仏中に安井曽太郎、荻原守衛、高村光太郎ら画家・彫刻家と交遊した。1913年に文展を脱退し、1914年、二科会創立に参加。1929年、京都市東山区清閑寺霊山町に津田洋画塾を開く。 ](「ウィキペディア」)

青楓の肖像写真.jpg

「1908年の青楓の肖像写真」(「フランス留学時代の津田青楓」)
https://twitter.com/nerima_museum/status/1240190704569044992
「生誕140年記念 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和展」
https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/

書架の一隅.jpg

左「書架の一隅」(津田青楓画/1911年/「笛吹市青楓美術館」蔵)
右「花鳥図」(津田青楓画/制作年不詳/「笛吹市青楓美術館」蔵)
https://www.pen-online.jp/article/010890.html#photo-gallery-10890-9

ジャン=ポール・ローランス.jpg

ジャン=ポール・ローランス/Jean-Paul Laurens (「ウィキペディア」)

[ジャン=ポール・ローランス(Jean-Paul Laurens、1838年3月28日 - 1921年3月23日)は、フランスの彫刻家・画家である。エコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)や、私立美術学校アカデミー・ジュリアンで多くの画家を育てた。](「ウィキペディア」)

フランス留学時の津田青楓.jpg

「フランス留学時の津田青楓(左)と安井曽太郎(右)」(「明治四十一年(一九〇八)二月十五日」)
https://vkzg.cebagent.shop/index.php?main_page=product_info&products_id=27591

津田青楓(右)の安井曽太郎(左).jpg

「昭和十八年(一九四三)時の津田青楓(右)の安井曽太郎(左)」
『老画家の一生(津田青楓著)』所収「漱石忌/昭和三十七年(一九六二)十二月/神樂坂署/p577」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/296

(補記) 津田青楓略年譜(「年譜メモ=「津田青楓九十六年の歩み=小池唯則」抜粋メモ)

津田青楓略年譜.jpg

「津田青楓略年譜 出典 : 青楓美術館配布資料」
https://note.com/azusa183/n/n4e78d78b364a

(「年譜メモ」その一)

一八九一年(明治二十四年・十一才) 小学校卒業。三条室町「仙吉」に丁稚奉公。
一八九六年(明治二十九年・十六才) 芸艸堂から八枚の版画の図案集「宮古錦」を「青楓」の号で出版。題も雅号も兄・一草亭が付けた。
一八九七年(明治三十年・十七才) 谷口香嶠へ入門し本格的に修業する。当時、香嶠は竹内
 栖鳳らと高島屋染織部にいた。絵模様の過程が知りたくて京都市立染織学校速成染織科へ入学。
一八九九年(明治三十二年・十九才)  芸艸堂から出版した図案集が高島屋の大番頭に認められて入店。京都高等工芸学校に着任した浅井忠が、民間の関西美術院でも中心の指導者になったので高島屋の仕事のかたわら早速入学する。
一九〇〇(明治三十三年・二十才) 十二月深草歩兵三十八連隊入営。
一九〇一(明治三十四年・二十一才) この頃、兄・一草亭、浅井忠と互いに絵と生花の交換教授をする。
一九〇四(明治三十七年・二十四才) 除隊後、高島屋図案部に再就職。一草亭、浅井忠らを相談役として図案雑誌「小美術」を企画し、編集を一任される。二月、日露開戦。三月、戦時招集。「小美術」廃刊。四月、大阪港出港、乃木将軍の部隊に配属。八月旅順、次いで二〇三高地の激戦に参加。「ホトトギス(第8巻第8号/明治37年10月)」に、「戦争に関する写生文(其三「敵襲」)」(上記の「目次」のとおり)として掲載される。

(「津田青楓の従軍体験」周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-14

一九〇六(明治三十九年・二十六才) 軍隊生活の七年は終わった。永観堂の近くに住み、高島屋図案部に勤め関西美術院に通い、また香嶠塾の研究会にも出席する。

一九〇七(明治四十年・二十七才)  香嶠塾で、女子美出身の山脇敏子を知り、生家の奥座敷で胸式。高島屋の大番頭飯田新兵衛の運動で農商務省実習練習生の許可を得る。父の弟子に安井曽太郎の姉があり、その懇願で、曽太郎、当年、二十才を同伴、四月二十日、諏訪丸で大阪港を出港。同船に徳望家の本多光太郎博士がいた。マルセーユで下船、六月はじめパリ着。英語もフランス語も習っていなかったので、アカデミー・ジュリアン(戦後四年制のデザイン学校に変わった)の入学手続きは安井が一しょにしてくれる。日本人の通訳でジャン・ポール・ローランスの指導を受ける。先輩に斎藤与里、荻原碌山らがいた。当時の留学生は学校に入学する者、画塾に一人通ったり、貸アトリエでモデルに金を払って自由に練習するなどさまざまだった。この頃、湯浅一郎、藤島武二、白滝幾之助、有島生馬、山下新太郎らがいた。レストランに集まると画学生たちは漱石の『坊ちゃん』『草枕』を朗読し話題にして議論した。

山脇敏子.jpg

「山脇敏子(1848年当時)」(「ウィキペディア」)
[1887年(明治20年) 広島県呉市の医師の家庭に生まれ、竹原市で育つ。
1899年(明治32年) 竹原市立東野小学校を卒業して上京。
1905年(明治38年) 女子美術学校(現・女子美術大学)日本画科卒業。日本画の手ほどきは、殆ど河鍋暁翠から習ったという。女子美術学校の卒業生として、初の文部省留学生に選ばれ渡欧。洋画も学ぶ。
1907年(明治40年) 夏目漱石と親交のあった津田青楓と結婚。漱石を中心に集まる内田百閒や鈴木三重吉ら「木曜会」[3]の作家や、寺田寅彦やセルゲイ・エリセーエフらの学者、また文展に不満を持つ藤島武二や南薫造ら若い芸術家と親交を持った。漱石の絶筆『明暗』のモデルともされる[1]。
1918年(大正7年) 二科美術展覧会に洋画入選。
1919年(大正8年) 他の女流画家たちと日本で初めての女子洋画団体「朱葉会」[4]を結成。命名はやはり創立委員だった与謝野晶子。
1923年(大正12年) 西村伊作が創設した文化学院の講師。まもなく農商務省の委嘱で婦人副業視察に再び渡欧、フランスに1年滞在。この間青楓に愛人ができ1926年(大正15年)離婚。傷心の敏子は画家を諦め、自立への道を服飾に賭けた。三度渡欧し昼は手芸、夜は裁断を二年間必死に勉強。また経済的窮地をパリを訪れていた細川侯爵夫人に救われた。これが縁で後に学習院・常磐会で手芸や洋裁を教えた。
1929年(昭和4年) 東京麹町内幸町に「山脇洋裁学院」(現・山脇美術専門学院)を開設。また日本のオートクチュールの草分け、洋裁店「アザレ」を銀座に開店。官家や知名人の服飾を手がけ格調あるモードは高い評価を得た。
1935年(昭和10年) 陸軍被服廠嘱託。文化服装学院講師。
1947年(昭和22年) 戦後の洋裁ブームの中「山脇服飾美術学院」を設立、理事長・院長となる。
1960年(昭和35年) 脳出血で死去。小平霊園に眠る。](「ウィキペディア」)

一九〇八年(明治四十一年・二十八歳) パリから投じた「掃除女」が「ホトトギス」に掲載され、小宮豊隆が朝日の文芸欄で久保田万太郎の小説と比較して褒めてくれた。
一九一〇年(明治四十三年・三十歳) テアトルの下宿に白滝幾之助、高村光太郎、大隈為三らが寄宿。「ホトトギス」へ「グルーズの少女」他小説数篇を発表。二月、留学の期限が来たので、ふたたびマルセーユから帰る。船中で浅井忠の訃報を聞く。 
一九一一年(明治四十四年・三十一歳) 「ホトトギス」に挿絵を描く。五月、長女あやめ出生。六月、東京小石川の高田老松町へ転居。妻の敏子は近くに住む羽仁夫妻の「婦人の友」社へ出入りする。漱石の「木曜会」の常連となり、いわゆる漱石の十弟子と親しくなる。

(「夏目漱石と十弟子そして津田青楓」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-11

一九一四年(大正三年・三十四歳) 文展に反抗して二科会結成を企てたが、藤島武二、田辺至らは加わらず、開会まで残ったのは、「石井柏亭、津田青楓、梅原龍三郎、山下新太郎、有島生馬、湯浅一郎、斎藤豊作、熊谷守一、坂本繁二郎の九名。二科会第一回展を三越本店で開く。

(「二科会の沿革(津田青楓の「二科会」の歩み)」周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-01-07

一九一六年(大正五年・三十六歳) 十二月九日、漱石永眠、死面を描く。

(「漱石の死に顔のスケッチ(津田青楓画)」周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-19

一九一七年(大正六年・三十七歳) 安井曽太郎と水野はまの結婚媒酌を夫妻でつとめる。

安井曽太郎.jpg

「安井曽太郎」(「近代 日本人の肖像」)
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/4153/
[明治21年5月17日 〜 昭和30年12月14日/(1888年5月17日 〜 1955年12月14日)
洋画家。明治37(1904)年聖護院洋画研究所(後の関西美術院)に入り、浅井忠に学ぶ。40(1907)年渡仏、ジャン・ポール・ローレンスに師事、その後ピサロやセザンヌの影響を受ける。大正3(1914)年帰国。4(1915)年二科会で注目され会員になる。昭和10(1935)年帝国美術院会員。(1936)年一水会を創立。19(1944)年東京美術学校(後の東京芸術大学)教授。主観主義的な近代写実絵画を確立した。昭和27(1952)年文化勲章を受章。代表作に「婦人像」「金蓉(きんよう)」など。 ](「近代 日本人の肖像」)

一九二二年(大正十一年・四十二歳) 三月、妻敏子の外遊を送る。長女あやめ、次女ふよう、目白女子大付属小学校に通っていたが、三女ひかる(二歳)は友人の画家の懇望あり預ける。
一九二三年(大正十二年・四十三歳) 九月一日、関東大震災起こる。二科会招待日とて寺田寅彦と会場内の喫茶室にいた。途中火災の中を歩いて自宅に帰る。京都に転居を決意。二科会を閉じ、船で作品を運び、十月末大阪で再開。京都吉田町に河上肇先生を初めて訪ねる。河上を介して、京大関係者(狩野直喜・和辻哲郎・河田嗣郎ら)の画会(「翰墨会」)を作ってくれた。
一九二四年(大正十三年・四十四歳) 四月、震災の報に驚き敏子フランスから帰る。二人の子供を伴い神戸港に迎えた。二人は結局別々の生活を択ぶことに話が進んだ。
一九二六年(大正十五年・四十六歳) 晩秋、京都浄土寺去風洞で、河上肇の司会で、名古屋の人、鈴木浜子との結婚披露宴を開く。和辻哲郎、志賀直哉、九里四郎、近藤浩一路、有島生馬、浜子の兄ら列席。五月合議成立した山脇敏子との離婚を十二月届け出。

河上肇.jpg

「河上肇」(「近代 日本人の肖像」)
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/256/
[明治12年10月20日 〜 昭和21年1月30日(1879年10月20日 〜 1946年1月30日)
 経済学者。明治35(1902)年東京帝大法科大学政治学科を卒業し、翌年東京帝大農科大学実科講師となる。38年12月教職を辞して、伊藤証信の無我苑に入るが、翌年2月離脱。41年京都帝大講師、42年助教授。大正2(1913)年から4年までヨーロッパに留学。3年法学博士、翌年教授となる。5年『貧乏物語』を大阪朝日新聞に連載し反響を呼んだ。昭和3年京都帝大を辞職。7年共産党に入党。翌年検挙され入獄し、12年6月出獄。以後は漢詩などに親しみ『自叙伝』を執筆。代表的著作は『資本論入門』(1928~9)、『経済学大綱』(1929)。](「近代 日本人の肖像」)

一九二九年(昭和四年・四十九歳) 四月、山脇敏子、生母を慕うあやめ姉妹らを無断で東京へ連れ去る。河上肇、京大を去り労農党入党、東京へ転居。
一九三〇年(昭和五年・五十歳) 十二月、東京荻窪の前田寛治のアトリエが売りに出たので、京都の家を売り払って、希望の塾生(「津田洋画塾」)と共に東京へ転居。以後、京都(一草亭邸内別棟)、名古屋(弟子の画室)、東京(東京・荻窪自家アトリエと、池の端=美校生の合宿所)に画塾があり、西下は月二回にして指導した。
一九三一年(昭和六年・五十一歳) 東京第一回塾展。
一九三二年(昭和七年・五十二歳) 五月四日から八日、東京堂二階で「津田塾二回展」を開く。東京、名古屋、京都の塾生も出品。
一九三三年(昭和八年・五十三歳) この年、塾生の数、京都・名古屋・東京、合計百数十名に及び、京都のみで五十余名を数えた。一月、河上肇検挙される。七月十六日、「犠牲者」を制作中、杉並署へ連行される。翌日、神楽坂署に留置、二十一日の或る新聞は四段ぬきで社会面トップに・・・「二科会の重鎮、津田青楓氏留置」(新議会)の作者・・・という三行の大見出しで報じた。八月七日起訴保留で釈放されると、集まった新聞記者の質問に次のように答えた。「洋画がある程度の水準に達した今日、さらに発展させるには、マルキシズムの観点によって進まなければ進展が望めない。しかし、これを実行すると非合法運動になる。現状ではつまらぬことと思うので、昔描いた日本画は東洋哲学にもとづいて開拓すべき道があるから、西行や良寛のような立場から、今後は日本画に精進したい」。八月十七日の日付で、「津田青楓先生、今回洋画制作ヲ廃シ専ラ日本画ニ精進スルコトヲ決意セラレタル付」という解散声明書を塾の名でハガキに印刷して発送した。熱心な引き止めもあったが二科会を脱会した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-28

(「ブルジョア議会と民衆の生活(青楓画)」・「疾風怒涛(青楓画)」・「犠牲者(青楓画)」周辺)

青楓の転向を報じる当時の新聞.jpg

「青楓の転向を報じる当時の新聞」
https://artexhibition.jp/topics/news/20200228-AEJ184798/ ](『津田青楓デッサン集(津田青楓著・小池唯則解説)所収「津田青楓九十六年の歩み ー 解説にかえて ー (小池唯則)」)
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「津田青楓」管見(その六) [東洋城・豊隆・青楓]

その六「大正六年(一九一七)『ホトトギス』(虚子)と画家達」周辺

「ホトトギス」の表紙を飾った画家達.jpg

「『ホトトギス』の表紙を飾った画家達そして津田青楓」(「大正六年『ホトトギス発行所』の招待により参集した画家達」)(「自撰年譜(津田青楓著)」)
[「ホトトギス発行所(虚子・島田青峯ら三人)」(上段)と「招待された画家達(下段「青峯の右から時計回りに『橋口五葉→平福百穂→津田青峯→石井柏亭→斎藤與里→川端龍子』」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1905748/1/5

橋口五葉画.jpg

橋口五葉画「森」(第16巻第1号/ 大正元年(1912)10月)
http://www.hototogisu.co.jp/
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6467/

橋口五葉.jpg

[ 橋口五葉(はしぐちごよう)/ 明治14年(1881)12月21日 〜 大正10年(1921)2月24日

版画家、装幀家。日本画を橋本雅邦に学ぶが、黒田清輝の勧めで洋画に転じ、明治38(1905)年東京美術校西洋画科卒。在学中、白馬会に洋画を出品する。夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』で装幀家として注目され、以降、多数の文学作品の装幀を手掛けた。44年三越呉服店のポスター公募で当選した「此美人」が好評を博す。浮世絵研究でも知られ、歌川広重や喜多川歌麿を中心に多くの論稿を発表した。大正4(1915)年、版元渡辺版画店から「浴場の女」を発表し、以降は亡くなるまで木版画に取り組んだ。](「近代人の肖像(国立国会図書館)」)

平福百穂画「.jpg

平福百穂画「舞妓」(第16巻第4号/大正2年(1913)1月)
http://www.hototogisu.co.jp/
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E7%A6%8F%E7%99%BE%E7%A9%82-14824

[平福百穂(ひらふくひゃくすい)/1877年(明治10年)12月28日 - 1933年(昭和8年)10月30日)
日本画家。四条派の画家平福穂庵(すいあん)の四男として秋田県角館(かくのだて)(現仙北市)に生まれる。本名貞蔵。初め父について絵を習うが13歳で死別。1894年(明治27)上京して川端玉章(ぎょくしょう)の塾に入り、97年東京美術学校日本画科に編入学し、2年で卒業した。『田舎(いなか)の嫁入』は卒業制作。川端塾で結城素明(ゆうきそめい)と親しくなり、1900年(明治33)素明ら6人の同志と自然主義を唱えて无声(むせい)会を結成した。03年から翌年にかけて母校の西洋画科に通いデッサンを学んでいる。日常の情景を写実的にとらえた作品を无声会の展覧会に出品。このころ伊藤左千夫(さちお)、長塚節(たかし)、斎藤茂吉、岡麓(ふもと)らと知り合って短歌を始め、雑誌『アララギ』の表紙絵も描いた。
 1907年国民新聞社に入社。同僚に川端龍子(りゅうし)がいた。翌年石井柏亭(はくてい)の勧めで雑誌『方寸(ほうすん)』の編集同人になる。09年の第3回文展に『アイヌ』を出品、以後主として文展、帝展で活躍した。16年(大正5)素明、鏑木清方(かぶらききよかた)、吉川霊華(きっかわれいか)、松岡映丘(えいきゅう)と金鈴(きんれい)社を結成。翌年第11回文展で『予譲(よじょう)』が特選になる。自然主義から琳派(りんぱ)風の装飾的な構成への転換を示すが、晩年は南画の手法を加えて清明な画風に到達した。30年(昭和5)にヨーロッパを旅行。この年帝国美術院会員にあげられ、32年から東京美術学校教授を務めた。ほかに『七面鳥』『荒磯(ありそ)』『堅田(かたた)の一休(いっきゅう)』『小松山』などが代表作。歌集『寒竹』がある。(原田実稿)](「出典/小学館/日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)」)

津田青楓画「花かご」.jpg

津田青楓画「花かご」(第16巻第2号/大正元年(1912)11月)
http://www.hototogisu.co.jp/
https://kotobank.jp/word/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E9%9D%92%E6%A5%93-19162#goog_rewarded

[津田青楓(つだせいふう)
 画家。京都生まれ。生家西川家から母方の養子となって津田姓を嗣(つ)ぐ。竹川友広、谷口香嶠(こうきょう)に日本画を学び、京都市立染織学校を経て、1899年(明治32)に浅井忠(ちゅう)の関西美術院に入る。京都高島屋図案部勤務ののち、1907年(明治40)から10年までパリに留学し、アカデミー・ジュリアンでジャン・ポール・ローランスに学ぶ。帰国後、夏目漱石(そうせき)に油絵を教え、14年(大正3)には二科会の創立に参加。翌15年、津田洋画塾を開いて京都画壇に一勢力をなした。その後しだいに左翼運動に近づき、31年(昭和6)の第18回二科展に『ブルジョワ議会と民衆の生活』を出品したが、33年の検挙後に転向して二科会を退会。以後はふたたび日本画に転じ、また良寛(りょうかん)研究に専念した。晩年は南画風の自由な作品に独特の情趣を示し、また絵画のほかにも、詩、書、短歌、装丁を手がけるなど、幅広い活動をみせた。(二階堂充稿) ](出典/小学館/日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)」)

石井柏亭「落椿」.jpg

石井柏亭「落椿」(第16巻第5号/大正2年(1913)5月)
http://www.hototogisu.co.jp/
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6349/

[石井柏亭(いしいはくてい)/明治15年(1882)3月28日 〜 昭和33年(1958)12月29日

石井柏亭.jpg

 洋画家。父鼎湖に日本画を、浅井忠に洋画を学ぶ。明治34(1901)年自然主義を標榜する无声会、翌年太平洋画会に参加。37年東京美術学校(後の東京芸術大学)洋画科に入学するも、翌年中退した。40年森田恒友、山本鼎と雑誌『方寸』を創刊し、創作版画運動を先駆した。大正3(1914)年二科会の創立に参加。昭和10(1935)年帝国美術院会員となり、二科会を離れて同志と一水会を創立した。堅実な自然主義的な画風の作品を残し、水彩画の発達にも貢献した。代表作に「草上の小憩」等。彫刻家の石井鶴三は弟。](「近代人の肖像(国立国会図書館)」)

斎藤與里「ダリア」.jpg

斎藤與里「ダリア」(第15巻第11号/大正元年(1912)8月)
http://www.hototogisu.co.jp/
https://www.kazo-dmuseum.jp/06art/01artist/saitou.htm

[斎藤與里(さいとうより) (1885-1959)

斎藤與里.jpg

明治18年(1885)、現在の加須市下樋遣川に生まれました。同38年(1905)京都に出て、浅井忠、鹿子木孟郎に学び、同38年(1906)から2年間、鹿子木とともにパリに留学しました。帰国後は、文筆活動を積極的に行い雑誌『白樺』などでゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンなどの後期印象派を初めて日本に紹介しました。大正元年(1912)、岸田劉生、高村光太郎らと「フュウザン会」という若手画家たちのグループを結成。その後、大阪美術学校の創立に参加。また、美術団体の槐樹社結成に参加し、機関誌『美術新論』の主幹として活躍しました。同社解散後は東光会を組織し会頭となるなど画家として、評論家として明治末から大正期の近代洋画の進展に大きな役割を果たしました。大正4年(1915)第9回文展に初出品した《朝》が初入選し、同5年(1916)第10回文展に出品した「収穫」 が文展最初の特選となり、昭和2年(1927)第8回帝展でも「水郷の夏」が特選となっています。昭和34年(1959)4月に加須市の名誉市民第1号に推挙されましたが、同年5月3日、74歳で世を去りました。 ](「加須インターネット博物館 埼玉県加須市教育委員会 生涯学習部 生涯学習課」)

川端龍子画「品川の海」.jpg

川端龍子画「品川の海」(第16巻第3号/大正元年(1912)12月)
http://www.hototogisu.co.jp/

[川端龍子(かわばたりゅうし、1885年〈明治18年〉6月6日 - 1966年〈昭和41年〉4月10日)は、日本画家、俳人。弟(異母弟)は『ホトトギス』の俳人川端茅舍(ぼうしゃ)であり、龍子も『ホトトギス』同人であった。本名は川端 昇太郎。

川端龍子.jpg

(生涯)
 現在の和歌山県和歌山市で生まれる。幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。自分もこんな絵を描けるようになりたい、とこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。1895年(明治28年)、10歳の頃に家族とともに東京へ転居した。
 城東高等小学校から東京府立第一中学校入学。一中分校から発展して東京府立第三中学校が設立されたことで三中に移籍。府立三中在学中の1903年(明治36年)に読売新聞社が『明治三十年画史』を一般募集した際に龍子は30作品を応募した。このうち『西南戦争の熊本城』と『軍艦富士の廻航』の2点が入選し40円(1点20円)の賞金を得た。これが本格的に画家を志すきっかけとなった。
 画家としての龍子は、当初は白馬会絵画研究所および太平洋画会研究所に所属して洋画を描いていた。修善寺温泉で横山大観ら画家や俳人、歌人、文豪のパトロンになっていた新井旅館に籠って画作に励んで資金を蓄え、1913年(大正2年)に渡米した。西洋画を学び、それで身を立てようと思っていたが、憧れの地アメリカで待っていたのは厳しい現実であった。日本人が描いた西洋画など誰も見向きもしない。西洋画への道に行き詰まりを感じていた。失意の中、立ち寄ったボストン美術館にて鎌倉時代の絵巻物の名作『平治物語絵巻』を見て感動したことがきっかけとなり、帰国後、日本画に転向した。
 1915年(大正4年)、平福百穂らと「珊瑚会」を結成。同年、院展(再興日本美術院展)に初入選し、独学で日本画を習得した龍子は、4年という早さで1917年(大正6年)に近代日本画の巨匠横山大観率いる日本美術院同人となる。そして1921年(大正10年)に発表された作品『火生』は日本神話の英雄「ヤマトタケル」を描いた。赤い体を包むのは黄金の炎。命を宿したかのような動き、若き画家の野望がみなぎる、激しさに満ちた作品である。しかし、この絵が物議をかもした。当時の日本画壇では、個人が小さな空間で絵を鑑賞する「床の間芸術」と呼ばれるようなものが主流であった。繊細で優美な作品が持てはやされていた。龍子の激しい色使いと筆致は、粗暴で鑑賞に耐えないといわれた。
 その後、1928年(昭和3年)には院展同人を辞し、翌1929年(昭和4年)には、「床の間芸術」と一線を画した「会場芸術」としての日本画を主張して「青龍社」を旗揚げして独自の道を歩んだ。縦1m85cm・幅8m38㎝の大画面に展開する、鮮やかな群青の海と白い波との鮮烈なコンストラスト。激しくぶつかり合う水と水、波しぶき。壮大な水の世界を描いた『鳴門』は、当時の常識をくつがえす型破りな作品であった。その後も大作主義を標榜し、大画面の豪放な屏風画を得意とした。大正 - 昭和戦前の日本画壇においては異色の存在であった。
 1931年(昭和6年)に朝日文化賞受賞。 1935年(昭和10年)、帝国美術院(帝国芸術院の前身)の改革に伴い会員[2]、さらに1937年(昭和12年)には帝国芸術院会員となったが、1941年(昭和16年)に会員を辞任した。
 1937年(昭和12年)に『潮騒』を発表。幅14mの超大作で、岸壁の海岸、深い海の青が浅くなるにつれ、透明度の高い緑に変化していく様子を鮮やかに描いている。この作品で龍子の筆致は大きく変わった。岩に激しくぶつかる水、そこには輪郭線がない。想像だけで描いた『鳴門』と比較すると繊細な波の動きがよりリアルに表現されていることが分かる。新たな水の表現を獲得した龍子であった。
 1939年(昭和14年)、時世に応じて他の作家とともに陸軍美術協会に入会[3]。1941年(昭和16年)に太平洋戦争勃発。自由に絵を描くことが許されない中で、龍子は作品を発表し続けた。1944年(昭和19年)の『水雷神』で、水にすむ神々が持ち上げているのは魚雷であり、暗く深い海の底、その水は重く濁っている。龍子はこの神々に命を投げ出し、突き進む特攻隊員の姿を重ねた。
 龍子は戦前に長男と次女を亡くし、1941年(昭和16年)には弟の茅舎が病没。戦中は三男が戦地で亡くなり、1944年(昭和19年)7月17日に妻に先立たれた[1]。重々しい色使いは龍子の心情の表れかも知れない。
 終戦を翌々日に控えた1945年(昭和20年)8月13日には龍子の自宅も空襲に遭った。使用人2人が亡くなり、家屋のほか食糧難をしのぐため庭で育てていた野菜も被害を受けた。この後すぐ『爆弾散華』(2m49cm×1m88cm)を描き上げた。金箔や金色の砂子の背景にトマトが爆風でちぎれ飛ぶ様を描いたこの作品は、戦死者への追悼も込められているとみる解釈もある。また爆撃によりできた穴を「爆弾散華の池」として残した。
 第二次大戦後の1950年(昭和25年)、65歳になっていた龍子は妻と息子の供養のため、四国八十八ヵ所巡礼を始める。6年がかりで全札所を回り、各札所で淡彩のスケッチ(画家自らは「草描」と呼ぶ)を残した。これらは、札所で詠んだ俳句とともに画文集『四国遍路』として出版されている。
 1959年(昭和34年)、文化勲章受章。没年の1966年(昭和41年)には、居宅に近い東京都大田区の池上本門寺大堂天井画として奉納すべく『龍』を描いたが未完のまま死去。墓所は、弟の茅舎とともに修善寺の裏手にある。渡米前に滞在した修善寺は気に入った場所で別荘も構え、その庭を描いた『龍子垣』という作品も残るほか、修善寺で苔むさせた東京の自宅に運ぶこともした。世話になった新井旅館の改装にも協力している。
 後日、遺族の相談を受け龍子の遺作を実見した日本画家の奥村土牛は作品を激賞。奥村が画龍点睛して開眼の上、作品は大堂に奉納された。 ](「ウィキペディア」)

(補記その一)「ホトトギス」記念号の表紙を飾った画家達(創刊号~1000号)

虚子記念文学館報一.jpg

虚子記念文学館報二.jpg

「虚子記念文学館報(2021年4月第40号)
http://www.kyoshi.or.jp/j-eitopi/kanpo/040.pdf

創刊号(明治30年1月)→題字は「下村為山」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E6%9D%91%20%E7%82%BA%E5%B1%B1-1646904
[ 下村為山(しもむらいざん)
生年・慶応1年5月21日(1865年)/没年・昭和24(1949)年7月10日/出生地・伊予国松山(愛媛県)/本名・下村 純孝/別名・別号=百歩,牛伴
経歴上京して洋画を小山正太郎に学び、不同舎塾の後輩に中村不折がいる。のち日本画を久保田米遷に学び、俳画に一家をなした。明治22年内国勧業博覧会で受賞。俳句は正岡子規に師事し、洋画写生の優越姓を不折に先立って子規に説いたと伝えられる。27年松山に日本派俳句会の松風会を興し、日本派の俳人として活躍、句風は子規に「精微」と評された。30年松山版「ホトトギス」創刊時に初号の題字を書いたといわれる。その後も東京発行の「ホトトギス」や「新俳句」に表紙・挿画などを寄せ、同派に貢献した。句は「俳句二葉集」「春夏秋冬」などに見られる。](「日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)」)

100号(明治38年4月)→表紙画「橋口五葉」→ 上記に紹介
200号(大正2年5月)→ 同  「小川千甕」
https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/ogawasenyou/
[ 小川千甕(おがわせんよう/1882〜1971)
明治末期から昭和期までの長きにわたって、仏画師・洋画家・漫画家・日本画家として活躍しました。京都の書肆「柳枝軒」の家に生まれた千甕は、少年時代は仏画を描いていました。その後、浅井忠に洋画を学ぶ一方で、新感覚の日本画も発表し始めます。同じ頃、京都市立陶磁器試験場の絵付け技手となったことをきっかけに「千甕」(せんよう)の雅号を自ら名付けますが、俳画や挿絵の画家としては「ちかめ」の名でも親しまれていました。明治末、28歳で東京へ越し、『ホトトギス』などに挿絵、漫画を発表して人気を博します。さらに1913年(大正2)には渡欧し、印象派の巨匠ルノワールにも会っています。帰国後は日本美術院に出品し、本格的な日本画家として活躍しました。その後、少年時代に憧れた富岡鉄斎を思わせるダイナミックな筆遣いの南画(文人画)で愛されました。](「京都文化博物館」)

300号(大正10年9月)→表紙画「津田青楓」→ 上記と下記のアドレスで紹介
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

400号(昭和4年12月)→表紙画「石井柏亭」→ 上記に紹介
500号(昭和13年4月)→ 同 「小川芋銭」 
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E8%8A%8B%E9%8A%AD-17715
[ 小川芋銭 (おがわうせん)/生没年:1868-1938(明治1-昭和13)
日本画家。東京赤坂の牛久藩邸に生まれたが,牛久村(現,茨城県牛久市)に帰農。幼名不動太郎のち茂吉。別号牛里,草汁庵,芋銭子など。1880年ころ上京,働きながら,本多錦吉郎の画塾彰技堂で洋画を学び,のち日本画を独修した。91年,《朝野新聞》に第1回帝国議会のスケッチが掲載され,93年牛久に帰り農業に従事しながら,《茨城日報》や《いはらき》など,郷里のジャーナリズムに田園風刺漫画を掲載しはじめる。1903年ころ幸徳秋水を知り,《平民新聞》に風刺漫画を発表。08年以降《草汁漫画》の刊行,鹿島桜巷編《漫画百種》,《漫画春秋》,《ホトトギス》などに多くの漫画や挿絵を執筆し,風刺漫画家,河童(かつぱ)の画家としてしだいにその名を知られるようになった。15年,平福百穂,山村耕花,森田恒友,川端竜子らとともに珊瑚会を結成してからは,牛久沼をめぐる水魅,河童などの精霊たちを主題とする田園の幻想を水墨表現に託した作品を発表。《水虎とその眷族(けんぞく)》や《夕風》《狐の嫁入》などは,百穂,恒友,小杉放庵(未醒)などの新しい水墨表現と並んで,彼が近代文人画表現というべき新しい画境を開拓したことを示している。17年から日本美術院同人となる。晩年に《河童百図》がある。](株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)

600号(昭和21年12月)→表紙画「石井柏亭」→ 上記に紹介
700号(昭和30年4月)→ 同  「川端龍子」→ 上記に紹介  
800号(昭和38年8月)→ 同  「川端龍子」→ 上記に紹介
900号(昭和46年12月)→ 同  「小倉游亀」
https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E5%80%89%E9%81%8A%E4%BA%80-17748
[ 小倉遊亀(おぐらゆき)/(1895―2000)
本画家。旧姓溝上(みぞがみ)。滋賀県大津に生まれる。1917年(大正6)奈良女子高等師範学校国語漢文部を卒業後、しばらく教壇に立ったのち、安田靫彦(ゆきひこ)に師事する。1926年第13回院展に『胡瓜(きゅうり)』が初入選、1928年(昭和3)に日本美術院院友、1932年同人に推された。1938年小倉鉄樹と結婚したが1944年に死別した。古典を基礎に、大胆でおおらかな構成と、さわやかな情感がにじむ画風を築いて今日に至っている。初期では『浴女』、第二次世界大戦後では『O夫人坐像(ざぞう)』『月』『良夜』『越(コー)ちゃんの休日』『舞妓(まいこ)』『姉妹』などがよく知られている。1976年(昭和51)女性では上村松園(うえむらしょうえん)に次いで日本芸術院会員に推された。1980年に文化勲章を受章。1990~1996年日本美術院理事長。晩年、一時体調を崩したものの、105歳で亡くなるまで制作を続けた。](「小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)

1000号(昭和55年4月)→ 表紙画「小倉游亀」→ 上記に紹介

「補記その二」「津田青楓の従軍体験」周辺

http://www.hototogisu.co.jp/

ホトトギス目次8-8.jpg

「ホトトギス」(第8巻第8号/明治37年10月)目次

※ 明治37年(1904)2月10日、日露両国は相互に宣戦布告し、日露戦争の火ぶたが切られた。津田青楓(二十四歳)の時で、戦時招集令により後備歩兵第三十八連隊に入隊となる。八月、旅順総攻撃に参加、以後、海鼠山、東鶏冠山、二〇三高地と転戦する。この時の従軍記録の一部が、「ホトトギス(第8巻第8号/明治37年10月)」に、「戦争に関する写生文(其三「敵襲」)」(上記の「目次」のとおり)として掲載される。青楓の「ホトトギス」でのデビューである。
 この時の「ホトトギス(第8巻第8号/明治37年10月)」(目次)に登場する面々は、「内藤鳴雪(五十七歳)・夏目漱石(三十七歳)・河東碧梧桐(三十一歳)・高浜虚子(三十歳)・松根東洋城(二十六歳)」(下記の「参考」) で、「連句(漱石・阪本四方太・虚子・東洋城・小沢碧堂)」・「俳体詩(漱石・虚子・野間奇瓢)」・「蕪村遺稿講義(鳴雪・碧悟桐・虚子)」など、「ホトトギス」の、「碧(碧悟桐)・虚(虚子)対立」以前の、子規亡き後の、漱石の「吾輩は猫である」が、「ホトトギス」(明治三十八年一月連載)に登場する、その一年前のことということになる。

(参考) 「明治三十七年・日露開戦勃発時の『漱石・虚子・青楓』周辺の人物像

内藤鳴雪 847年〜1926年(弘化4年〜大正15年) 57才
浅井 忠  1856年〜1907年(安政3年〜明治40年) 48才
夏目 漱石 1867年〜1916年(慶応3年〜大正5年) 37才
河東碧梧桐 1873年~1937年(明治6年〜昭和12年) 31才
高浜 虚子 1874年~1959年(明治7年〜昭和34年) 30才
長谷川如是閑 1875年〜1969年(明治8年〜昭和44年) 29才
松根東洋城  1878年〜1964年(明治11年〜昭和39年) 26才
寺田 寅彦 1878年〜1935年(明治11年〜昭和10年) 26才

津田 青楓   1880年〜1978年(明治13年〜昭和53年) 24才

石井 柏亭 1882年〜1958年(明治15年〜昭和33年) 22才
高村光太郎 1883年〜1956年(明治16年〜昭和31年) 21才
安倍 能成 1883年~1966年(明治16年~昭和41年) 21才
小宮 豊隆  1884年~1966年(明治17年〜昭和41年) 20才 
川端 龍子  1885年~1966年(明治18年~昭和41年〉 19才
山脇 敏子 1887年〜1960年(明治20年〜昭和35年) 17才
安井曾太郎 1888年~1955年(明治21年〜昭和30年) 16才
芥川龍之介 1892年〜1927年(明治25年〜昭和2年) 12才
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「津田青楓」管見(その五) [東洋城・豊隆・青楓]

その五「夏目漱石と十弟子そして津田青楓」』周辺

口絵スケッチ「漱石先生客間.jpg

『自撰年譜(津田青楓著)』所収「口絵スケッチ「漱石先生客間」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1905748/1/4
「九竹草堂絵日記(津田青楓画)」(1917年/紙本墨画淡彩/23.2×32.0/「笛吹市青楓美術館」蔵) (『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』)

[明治四十四年(一九一一)、三十二歳
六月、東京へ移転す。茅野氏(※茅野蕭々)より小宮豊隆への紹介状もらふ。豊隆氏の紹介にて漱石先生を訪ふ。その後漱石門下の野上臼川(※野上豊一郎)、森田草平、鈴木三重吉諸氏を知りて訪ふ。
 最初の住居を小石川区高田老松町に定む。家賃六円なにがしなりき。漱石先生ある日ここを訪問さる。薩摩上布に紗の袴をはかれたり。後木曜会に集まる弟子たちへ、「津田はひどい家に住んでゐるよ。」といはる。](『自撰年譜(津田青楓著)』)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

漱石山房と其弟子達A.jpg

「漱石山房と其弟子達」(津田青楓画)(制作年不詳/紙本墨画淡彩/33.0×45.8/「日本近代文学館」蔵) (『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』)
≪「上段の左から」→則天居士(夏目漱石)・寅彦(寺田寅彦)・能成(阿部能成)・式部官(松根東洋城)・野上(野上豊一郎)・三重吉(鈴木三重吉)・岩波(岩波茂雄)・桁平(赤木桁平)・百閒(内田百閒)
「下段の左から」→豊隆(小宮豊隆)・阿部次郎・森田草平/花瓶の傍の黒猫(『吾輩は猫である』の吾輩が、「苦沙弥」先生と「其門下生」を観察している。) ≫

[※大正七年(一九一八) 三十九歳
「俳画展」に「漱石と十弟子」と題する二曲屏風半双を為す。(この作品今小山店主の主の有也。) 画中の人物、安倍能成・寺田寅彦・鈴木三重吉・阿部次郎・小宮豊隆・森田草平・野上臼川・赤木桁平・岩波茂雄・松根東洋城の十氏なり。(『自撰年譜(津田青楓著)』)

「蕉門の十哲といふ絵を見たことがある。芭蕉のお弟子十人を蕪村が俳画風にかいたものなのだ。私は大正七年ある人の主催で現代俳画展なるものの催のあつたとき、慫慂されたので、蕪村にならつて漱石と十弟子を思ひついて、二曲屏風半双を描いて出陳した。
 それはいい工合に今度の空襲で灰になつてしまつた。当時は生存中の十人を一人々々写生し張りきつて描いた。それにもかかはらず後になつてみると随分未熟で見られなかつた。機を見てかき直しませうと、当時の持主に約束してゐたが、其の後戦争が勃発して持主の家も什器も焼けてしまつた。私は安心した。(後略) 」(『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』) ]

寺田寅彦スケッチ(津田青楓画).jpg

『寅彦と三重吉(津田青楓著)』所収「寺田寅彦スケッチ(津田青楓画)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1069464

[ 漱石のすぐ隣には寺田寅彦が背広で片膝を立ててそれをかかへている。画中の寺田さんは若い。「先生、そんなにもらうことが好きなら僕はゲンナマを持つてきませうか。」と小さな声でつぶやいて、ペロリと舌のさきを出し、嬉しそうに笑ふ。寺田さんの皮肉には漱石も一寸まゐることがある。](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

[ 私(※青楓)は漱石没後しばしば寺田さんの家へ出掛けて危機に瀕した家庭のことを訴へた。そして、この危機を打開する方法はその時の家内(※山脇敏子)と離婚するより他に方法がない。対処療法はいくら繰り返しも決着がつかない。思ひ切つて大手術をした方がいい。早ければ早い方がいい。そんなことを興奮して寺田さんに訴へた。寺田さんは冷静な態度で反対され、現状維持を主張された。 ](『春秋九十な五年(津田青楓著)』)

(再掲)  https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17

渋柿(寺田寅彦追悼号の巻頭頁).jpg

「渋柿(寺田寅彦追悼号の巻頭頁)」(第262号、昭和11年2月)(『寺田寅彦全集第十二巻』)
[ありし日の寺田寅彦 /A ペンを措きて /B 心明るく /C 家居 /D 晴れたる野]

鈴木三重吉スケッチ(津田青楓画).jpg

『寅彦と三重吉(津田青楓著)』所収「鈴木三重吉スケッチ(津田青楓画)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1069464/1/4

[ 三重吉君(※鈴木三重吉)がその隣にフロックを着て、東洋城が片手をかざしてゐる火鉢の前に、両膝をかかへながら片手を火鉢の上に出してゐる。三重吉君らしい無作法さだ。三重吉とフロックは不似合のやうに思ふが、当時成田中学の先生に就任したてで、背広がないから誰かのものを借用に及んだか、或はもらつてきたものらしい。三重吉君は酔へば広島弁まるだしで、
「屁はショセン風ぢやけんの、へ理屈はヨセヤイ。」
 そんな調子で雲上人(※松根東洋城)でも貴族院議員(※安倍能成)でも誰でもやつつける。酔へば誰かに当たりちらさなきやおさまらない趣味なんだ。痛快なこともしばしば言つた。 ](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

漱石忌・昭和三十七年(一九六二).jpg

『老画家の一生(津田青楓著)』所収「漱石忌/昭和三十七年(一九六二)十二月/神樂坂署/p577」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/296
[前列向かって右から林原耕三、松岡譲、著者(※津田青楓)、安倍能成、松根東洋城、後列右から夏目純一、坂崎坦、野上彌生子・岩波雄二郎氏 ](『春秋九十五年(津田青楓著)』)

[ 昭和三十七年(一九六二) 八十三歳
十二月八日(土)、夕方漱石忌に行く。赤坂山王「山の茶屋」。参会者安倍(※安倍能成)、松根(※松根東洋城) 、松岡、松浦、坂崎、弥生子、岩波、純一君、余(※津田青楓)。松根君漱石の句碑を松山の滝のある山中に作つた話。碑面の自書の文字を見せる。
  漱石忌師走の街を横切りて
  十弟子は三弟子となり漱石忌  ]

※ この時、津田青楓、八十三歳、安倍能成、八十歳、松根東洋城、八十五歳の時で、東洋城は、この二年後に、そして、能成と小宮豊隆(この漱石忌は病床にあり欠席)は、四年後に亡くなる。

安倍能成君像.jpg

上左は、1955年(昭和30)に完成した安井曾太郎『安倍能成君像』。上右は、1953年(昭和28)7月に湯河原の旧・竹内栖鳳アトリエで制作中の安井曾太郎とモデルの安倍能成。下左は、上の写真で制作中の習作とみられる作品。下右は、同作デッサンの1枚。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2011-01-11

[ その隣の安倍君(※安倍能成)は首をうなだれて、和服で座つてゐるが、眼が落ちくぼんで陰気くさい。どう見ても貧乏な哲学者だ。三十年後の今日は、白髪童顔で福々しく、文部大臣として閣議に列席しても他の大臣諸公に比してその堂々たる貫禄は決してひけをとらない。野にある時は大きなことを言つてゐる人間でも、一度大臣となると急に人気とりのこと言つたり、大衆に媚びるやうな言葉を吐く者が多いが、同君は大臣中いつでも自説をまげずにアメリカさんに対しても教組に対しても、正々堂々と思ふところをまげずに貫ぬいてきたのは我々年配者をよろこばせてくれた。 ](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

寺田寅彦の描いたスケッチ.jpg

「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓、昭和2年9月2日、塩原塩の湯明賀屋にて) (『寺田寅彦全集第十二巻』・月報12・1997年11月)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17

松根東洋城スケッチ(寺田寅彦画).jpg

「松根東洋城スケッチ(寺田寅彦画)」(同上「寺田寅彦の描いたスケッチ」部分拡大図)

[ その隣には松根東洋城君が黒羽二重の紋付き羽織で仙台平かなんかの袴で、野人仲間には鶏群の鶴のやうにお行儀よくナマズヒゲをビンと立てて、いかにも宮内省事務官らしい。今でこそ宮内省に共産党が赤旗を立てて押しよせ、天皇にあはせろとかなんとか、だだをこねて座り込み戦術をやるやうな世の中になつたが、昔の宮内省は全くの雲の上で我々素町人が口にするさへモッタナイやうに思ひこませられてゐた。美男子で宮内省事務官といふと、まるで人種がちがふやうな気がしてゐた。話はすべた雲上人の秘事にわたることで、貧乏くさい文士や画家は半ばケイベツし半分うらやましがつた。
 今は「渋柿」といふ俳諧雑誌を主宰し十徳かなんかをきて宗匠になりきつてござる。そのころからズートと独身で押し通してゐることろ何か主義でもあるのかしらん。](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

小宮豊隆(寺田寅彦画).jpg

「小宮豊隆(寺田寅彦画)」(同上「寺田寅彦の描いたスケッチ」部分拡大図)

[ 小宮豊隆君の昔のスケッチを出してみると、つかい古しの鉈(なた)豆キセルのやうに上下にのびて筋が多い筋が多い。同君は豊後の方の旧家の坊ちやんだが、自分ではいつぱし世の中の酸いも甘いもなめつくしてゐるつもりだが、根が坊ちやんだから世間学では小学生なんだ。このごろは音楽学校校長さんで、流行の教授連のストライキで校長排斥とかなんとかフンガイしたり悩んだりしてゐることと思ふが、漱石にきいてみたら、
「豊隆は素裸体になれない男だから、知らぬ奴は反感を起すが悪気はないよ。」といふことだつた。 ](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

野上豊一郎と野上弥生子.jpg

「野上豊一郎と野上弥生子(1939年)」(「ウィキペディア」)

[ 三重吉君と東洋城との間にはさまつて、後に野上臼川君(※野上豊一郎)がゐる。野上君は額が少し禿げ上つてゐるが右横の方で綺麗に頭髪を分けてゐる。十弟子中一番癖のない温厚な紳士だ。三重吉や草平君が酔へば八重子(※弥生子)夫人のことをガヤガヤとひやかしたり、羨ましがつたりしてゐた。 ](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

漱石門下の四人.jpg

「漱石門下の森田草平(後列左)と阿部次郎(同右)、小宮豊隆(前列左)、安倍能成(同右))」
(『阿部次郎全集』第2巻、角川書店1961)
https://stoica.jp/stoica/104

[ 森田君(※森田草平)はそのころ天神鬚を生やしてゐた。他の連中にくらべて老けてゐる。雷鳥女史(※平塚らいてう)とのゴタゴタのあつたあとで『煤煙』の構想を腹の中に考へてござる最中だつた。天真爛漫で三重吉のやうに毒舌は吐かぬが、正直に肚の底を言ふ人だ。嘗て君は「大ていの書物には読みあきてしまつたが、クリスト伝だけは何度読んでも、心をうたれるものがあつてあきない」と洩らしたことがある。最近共産党へ入つたといふ新聞のニュースがあつたが、年寄のひや水といつて笑ふ人があるかも知れぬが、君は矢張り正直者で善人なんだ。信州の山の中とかで時々酒をあふつて気を吐いてござるといふことである。]
(『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

[ 阿部次郎君と小宮豊隆君が左の隅の方に一つの火鉢を囲んで、次郎君はむかうを向いてゐる後姿だ。後頭部の毛がはや少しうすくなつて地肌の赤みが出てゐる。『三太郎の日記』以後の阿部君は、東北大学の教授におさまつて以来、文学者としても学者としてもあまり発表されず、ジミな存在となってしまつた。 ](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

漱石忌.jpg

「漱石忌(12/9)と九日会」(「漱石の肉筆を後世へ!漱石文庫デジタルアーカイブプロジェクト」東北大学附属図書館) → 部分拡大図 (左=小宮豊隆、中央=岩波茂雄、右=阿部次郎)
https://readyfor.jp/projects/soseki-library/announcements/118615
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-22

茂雄と桁平.jpg

「岩波茂雄と赤木桁平(津田青楓「スケッチ画」)」(『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

[ 岩波氏(※岩波茂雄)の顔も、桁平氏(※赤木桁平)の顔も画家から言ふと捨てがたい珍品なのだ。岩波ときたら禅月大師十六羅漢像の、なかからぬけ出した一人の羅漢像のやうで、画中の白眉なんだ。線の太い大形な羅漢のとなりに、これは又貧弱な色の青白い、当時大学を出たてのほやほやの法学士、赤木桁平君は、そのころのインテリゲンチャの風采を代表してゐるかに見える。
 それが隅っこの方で岩波が本を見てゐると桁平君が首をのばして、その本をのぞき込んでゐる。その顔の対照が面白いからこの二人はやめられないのだ。岩波はそのころ女学校の先生をやめて、神田にケチくさい古本屋の店を出してゐた。それが漱石のものを手はじめに出版をぽちぽちやり出し、仲間の学者連のものをちらほら出してゐるうちに、変り種の本屋として老舗となり、こつちの知らぬまに多額納税者とやら貴族院議員とやらになつてゐた。
趣味のない男だから岩波本が世間に出るやうになつてから、本の装幀はカチカチになつてしまつた。
 桁平は、近江秋江や徳田秋声や田山花袋なぞの自然主義文学が癪だといつて、「遊蕩文学撲滅論」を書いて、文壇をさはがせた。支那戦争が段々英米戦争に発展せんとする段階に突入するころから、どこで学んだのか一ぱしの海軍通になり、
「日本の海軍は無敵だよ、イギリスとアメリカほむかうにまはしたつて毅然たるものだよ。」そんな元気で遂に「アメリカ恐るるに足らず」といふ一書を発表して軍国主義のおさき棒を勤めた。終戦後国会議員の責任が追及された時、真先きに辞任してひつ込んでしまつたのは賢明であつた。](『漱石と十弟子(津田青楓著)』)

(補記) 『漱石と十弟子(津田青楓著)』周辺

漱石と十弟子(津田青楓著)一.jpg


『漱石と十弟子(津田青楓著)』(右上から)「世界文庫・昭和24年版」/「朋文堂新社・昭和42年版」/(右下から)「芸艸堂・昭和49年版」/「芸艸堂(新装版)平成27年版)」
https://twitter.com/unsodo_hanga/status/1355015832892399617/photo/4

『漱石と十弟子(津田青楓著)』は、四種類(上図)のものがある。そして、上記に記述したものは、「芸艸堂・昭和49年版」に因るのもので、上記の「世界文庫・昭和24年版」・「朋文堂新社・昭和42年版」とは、「口絵写真」とか「挿絵(スケッチ画)」などが異なっている。

朋文堂新社・昭和42年版.jpg

『漱石と十弟子(津田青楓著)』の「朋文堂新社・昭和42年版」の口絵写真
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f450772422

漱石と十弟子C.jpg

『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊・昭和49年版)』所収「漱石と十弟子」(津田青楓画)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

(再掲)  「青楓・敏子(前妻)・あやめ(長女)」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17

千草会会報追悼号.jpg

「千草会会報追悼号」(平成21年2月発行) 
https://yamawaki.ac.jp/pdf/chigusa_tsuitou.pdf

[ この年譜に、青楓が、昭和十五年(一九四〇)九月二十五日に発刊(非売品)した、下記アドレスの「自撰年譜」を重ね合わせることによって、「青楓と敏子」との、そのドラマというのは浮かび上がってくる。
  さらに、それられに付け加えて、「青楓と敏子」との、その「敏子」が亡くなった昭和三十五年(一九六〇)以後の、昭和四十九年(一九七四)七月に刊行された『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』の、その「新序文」(昭和四十九年七月一日付け)の中の、「私の娘婿Hは丁度銀座裏の陋屋(ロウオク)で細々と出版業をやっていた」と重ね合わせると、「青楓と敏子」と、その長女(あやめ)夫妻(「原愿雄=H」と「原あやめ)」とのドラマとが重ね合わさってくる。
 その「新序文」の「私の娘婿H=原愿雄」は、上記の「千草会会報追悼号」の年譜によると、「太平洋戦争」の終戦の前年(昭和十九年=一九四四)に亡くなっている。すなわち、この『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』の新訂前の、『漱石と十弟子((津田青楓著・世界文庫刊・昭和二十四年=一九四九)』は、「私の娘婿H=原愿雄」は眼にしていないであろう。
 そして、この『漱石と十弟子(津田青楓著・世界文庫刊・昭和二十四年=一九四九)』の、その刊行前の、昭和二十二年(一九四七)に、「私の娘婿H=原愿雄」が亡き、その「長女・原あやめ」が、「母・敏子の仕事を手伝うべく、神田駿河台に山脇服飾美術学院開設、副院長に就任」にした、「亡き夫・H=原愿雄」と「実母・山脇敏子の『山脇服飾美術学院開設』の、その『副院長』就任」を祝してのものと解することも、青楓の、その「漱石と十弟子(津田青楓著・世界文庫刊)』(昭和二十四年=一九四九)と、その新訂後の「漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』(昭和四十九年(一九七四))の、その著者(「津田青楓」)に対して、その面子を汚すこともなかろう。
 さらに、この『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』(昭和四十九年(一九七四)に、「(山脇)敏子」は、「百合子」の名で、漱石在世中の「青楓と敏子(そして、その家族)」の姿が活写されている。(ちなみに、青楓の『自撰年譜』の「昭和四年(一九二九)」には、「山脇(※敏子)無断で子供等を東京へつれ去る」とあり、当時の「青楓と敏子」との関係は、相当に深刻なものがあったことであろう。)
 そして、『漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』に出てくる「百合子」(「(山脇)敏子」)とは、青楓が漱石亡き後の心の拠り所とした「河上肇」(経済学者。啓蒙的マルクス経済学者として大正,昭和初期の左翼運動に大きな影響を与えた)とも深く関与している「中條百合子・宮本百合子」(日本の左翼文学・民主主義文学、さらには日本の近代女流文学を代表する作家の一人)の、その「百合子」と解することも、これまた、その「漱石と十弟子(津田青楓著・世界文庫刊)』(昭和二十四年=一九四九)と、その新訂後の「漱石と十弟子(津田青楓著・芸艸堂刊)』(昭和四十九年(一九七四))の、その著者(「津田青楓」)に対して、その面子を汚すこともなかろう。](未定稿)
nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

「津田青楓」管見(その四) [東洋城・豊隆・青楓]

その四「河上肇と津田青楓」』そして「二科会の沿革(津田青楓の「二科会」の歩み)」周辺

河上肇博士.jpg

『老画家の一生(津田青楓著)』所収「河上肇博士との出遭ひ/p510」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/263

※『自撰年譜(津田青楓著)』の「大正十二年(一九二三) 四十四歳」の中に、「河上肇博士との出合い」について、次のように記述している。

[ (前略) この年の九月一日関東大震災があり、東京全市の三分の一は焦土と化す。実に近来になき一代変事なり。予の身辺にも生涯再びなき大異変あり、内外ともに多事の年となる。(中略)
 京都にて河上肇博士を吉田町の寓居を訪ひ、はじめて識る。余は、博士の大学卒業後読売新聞となり、千山万水楼の名にて同紙上に「社会主義評論」を発表されてよりこのかた熱心なる愛読者となる。博士別号を閉戸閑人と称し、客の来るを好まずと聞きゐしに、初対面の余を快く招じ、帰りには南禅寺附近のわが仮寓まで送られ、途々話の尽くることなかりき。(後略) ](『春秋九十五年(津田青楓著)』所収「自撰年譜」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17

青楓画伯像(河上肇写).jpg

『自撰年譜(津田青楓編集兼発行者)』所収「青楓画伯像 河上肇写」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1905748/1/3

※ この『自撰年譜(津田青楓編集兼発行者)』の冒頭に出て来る、この「青楓画伯像 河上肇写」は、漱石没後、「関東大震災」(「大正十二年=一九二三」)で京都移住後、青楓が心酔した、「河上肇」([1879~1946]経済学者・社会思想家。山口の生まれ。京大教授。マルクス(主義)経済学の研究・紹介に努め、大学を追われた。のち、日本共産党に入党、検挙されて入獄。著「資本論入門」「経済学大綱」「貧乏物語」「自叙伝」など)その人が、青楓をスケッチした当時のその青楓の実像である。
 このスケッチ画に見られる絵画を通しての二人交遊は、青楓の「研究室に於ける河上肇像」として、
大正十四年(一九二五)の「第十三回二科美術展覧会」の出品作となっている。

研究室に於ける河上肇像.jpg

津田青楓画「研究室に於ける河上肇像」(「京都国立近代美術館蔵」)
https://rakukatsu.jp/tsuda-seifu-20200323/

 そして、これらが、続く、当時の、津田青楓画の傑作、《疾風怒濤》(1932、笛吹市青楓美術館蔵)、そして、《犠牲者》(1933、東京国立近代美術館蔵)との連作を生んで行く。
 これら連作の生まれた、昭和七年(一九三二)、そして、昭和八年(一九三三)当時には、津田青楓は、京都から、再び、東京へと移住し、昭和十年(一九三五)の、寅彦が亡くなる頃は、その左翼運動から身を引いて、同時に、絵画活動の拠点であった「二科会」とも訣別し、これまでの「洋画)」から、「日本画」へと、軸足を進める時でもあった。
 なお、寺田寅彦の青楓(津田亀次郎)宛て書簡は、寅彦が亡くなる昭和十年(一九三五)三月十一日付けものが最後で、そこに、「先日は第二画集を難有う御坐いました。益々油が乗つたやうで実に見事なものであります。天下一品とは此事でありましよう」とある。(『寺田寅彦全集 文学篇 第十七巻』)


(併記)「二科会の沿革(津田青楓の「二科会」の歩み)」周辺

「二科会の沿革」(「ウィキペディア)
「戦前二科展画像データベース(「津田青楓」」)
https://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DBijutus/Nikaten/recordlist.php

1914年(大正三年)文部省美術展覧会(文展、現日展)から分離して、在野の美術団体として「二科会」が結成される。10月1日から10月31日まで、上野竹の台陳列館で第1回二科美術展覧会を開催。有島生馬「鬼」、湯浅一郎「官妓」、斎藤豊作「落葉する野辺」。
の花
※ 青楓(三十四歳)=文展に抗し、有島生馬、石井柏亭らと二科会を結成。石井等とともに最初の委員をつとめる。事務所を自宅に置く(「自撰年譜」)。第一回二科展出品作(「水車場の花」等出品)。(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など)

1915年(大正四年)10月13日から26日まで、三越で、第2回展。田辺至・柳敬助は退会、安井曾太郎・森田恒友・正宗得三郎が会員になる。山下「供物」「端午」、坂本「牛」。安井の滞欧作「孔雀と女」「足を洗ふ女」など50点余を特陳。
※ 青楓(三十五歳)=第二回二科展出品作(「梅に頬白」等出品)。(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など)

1916年(大正五年)10月12日まで、三越で、第3回展。石井「金沢の犀川」、安井「ダリア」。正宗の滞欧作「リモージュの朝」など36点を陳列。
※ 青楓(三十六歳)=第三回二科展出品作(「春」等出品)。(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など)

1917年(大正六年)9月9日から9月中、竹の台で、第4回展。立体派ふうの万鉄五郎「もたれて立つ人」、未来派ふうの東郷青児「狂ほしき自我の跳躍」、神原泰の作品などが注目される。

さくら頃(津田青楓画).jpg

「さくら頃(津田青楓画)」(第四回二科美術展覧会出品)
※「第四回二科美術展覧会」は、大正六年(一九一七)九月十日から三十二日(「上野竹の台陳列館」)、同時の出品作に「春丘(春の丘)」、青楓、三十七歳時(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など)

1918年(大正七年)9月9日から9月中、上野竹の台で、第5回展。劉生「川幡氏の像」、関根正二「信仰の悲しみ」「姉弟」など。
※ 青楓(三十八歳)=第五回二科展出品作(「一隅」等出品)。(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など)

1919年(大正八年)9月1日から9月30日まで、竹之台で、第6回展。小出楢重「Nの家族」、関根「慰められつつ悩む」など。藤川勇造が会員に推され彫刻部を新設する。
※ 青楓(三十九歳)=第六回二科展出品作(「オーベルニュの追想(羊守)」等出品)。(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など)

1920年(大正九年)9月1日から9月中、竹之台で、第7回展。柏亭「農園の一隅」、小出楢重「少女お梅の像」など。
※ 青楓(四十)=野村泊月と丹波柏原に滞在し、作品を売り歩く(「自撰年譜」)。(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など)

1921年(大正十年)9月9日から9月29日まで、竹之台で、第8回展。安井「人物」、中川一政「静物」、中川紀元「猫と女」など。

静物(津田青楓画).jpg

「静物(津田青楓画)」(第八回二科美術展覧会出品)

風景・春(津田青楓画).jpg

「風景・春(津田青楓画)」(第八回二科美術展覧会出品)
※「第八回二科美術展覧会」は、大正十年(一九二一)九月九日から二十九日(「上野竹の台陳列館」)、同時の出品作に「三つの生)」等、青楓、四十一歳時(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など)

1922年(大正十一年)9月9日から9月29日まで、竹之台で、第9回展。安井曾太郎「椅子による女」、児島善三郎「浅き春」など。

舞子の顔(其の二)(津田青楓画).jpg

「舞子の顔(其の二)(津田青楓画)」(第九回二科美術展覧会出品)
※「第九回二科美術展覧会」は、大正十一年(一九一七)九月九日から二十九日(「上野竹の台陳列館」)、同時の出品作に「紫だりや」)」等、青楓、四十二歳時(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説』など。なお、「舞子の顔(其の二)」は、下記のアドレスのとおり。

(再掲) https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

舞妓の顔.jpg

「舞子の顔(其の一)」(津田青楓画)」(第九回二科美術展覧会出品)

1923年(大正十二年)第10回展は、招待日に震災のために中止、京都・大阪でひらく。山下新太郎「金閣寺林泉」、小出楢重「帽子のある静物」、黒田重太郎「一修道僧の像」、藤川勇造「マドモアゼルS」など、ピカソ・ブラック・マチスらフランス現代画家の作品40余点を特陳。

(再掲)  https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

婦人と金絲雀鳥(津田青楓画).gif

※「婦人と金絲雀鳥(津田青楓画)/1920/油彩/116.7×73.0/(モデルは敏子)」(「東京国立近代美術館」蔵) → 1923年(大正十二年)、青楓、四十三歳(第十回二科美術展覧会出品)
https://www.momat.go.jp/collection/o00277

出雲崎の女(津田青楓画).jpg

※「出雲崎の女(津田青楓画)/ 1923/96.5×146.5(モデルは「出雲崎の宿(『くまき』の娘))」/「東京国立近代美術館」蔵)) → 1923年(大正十二年)、青楓、四十三歳(第十回二科美術展覧会出品)


1924(大正十三年)年9月2日から9月29日まで、第11回展。小出「帽子を冠れる肖像」、横山潤之助「ギターもつ男」、藤川「ブロンド」など。
※ 青楓、四十四歳、第十一回二科美術展覧会出品(「阿蘭陀水差」等)


1925年(大正十四年)9月2日から9月29日まで、第12回展。安井「柿実る頃」、曾宮一念「冬日」など。特別出品、坂本繁二郎「帽子を持てる女」「老婆」など。

蔬果図(津田青楓画).jpg

「蔬果図(津田青楓画)」(第十二回二科美術展覧会出品)
※「第十二回二科美術展覧会」は、大正十四年(一九二五)九月三日から二十九日(「上野竹の台陳列館」)、青楓、四十五歳時の作品。

1926年(大正15年)9月4日から10月4日まで第13回展を東京府美術館で開催。有島生馬「岬と海水場」、津田青楓「籐椅子の裸婦」、佐伯祐三「壁」など。

裸婦(津田青楓画).jpg

「裸婦(津田青楓画)」(第十三回二科美術展覧会出品)

藤椅子の女(津田青楓画).jpg

「藤椅子の女(津田青楓画)」(第十三回二科美術展覧会出品)

研究室に於ける河上肇像(津田青楓画).jpg

「研究室に於ける河上肇像(津田青楓画)」(第十三回二科美術展覧会出品)第十三回
※「第十三回二科美術展覧会」は、大正十四年(一九二五)九月五日から十月四日(「東京府美術館」)、青楓、四十六歳時の作品。
※※ 五月、妻敏子と合議成立し、十二月、離婚する。十一月、鈴木はま子との結婚披露を行う。河上肇が司会し、志賀直哉、和辻哲郎、有島生馬ら出席する。(「自撰年譜」)


1927年(昭和二年)9月3日から10月4日まで、府美で、第14回展。長谷川利行「麦酒室」など。以後、2006年まで同館で開催。
※ 青楓、四十七歳、第十四回二科美術展覧会(「海水着少女」等出品)。

1928年(昭和三年)9月3日から10月4日まで、府美で、第15回展。安井「花と少女」、佐伯「新聞屋」など。また中山巍・東郷青児の滞欧作を特陳。
※ 青楓、四十八歳、第十五回二科美術展覧会(「金地院蓮池」等出品)。

金地院蓮池(津田青楓画).jpg

「金地院蓮池(津田青楓画)」(第十五回二科美術展覧会出品) (「笛吹市青楓美術館」蔵)
https://note.com/azusa183/n/n19c08a72e85e

1929年(昭和四年)9月3日から10月4日まで、第16回展。古賀春江「素朴な月夜」、小山敬三「アルカンタラの橋」など。福沢一郎のシュールリアリズム的な作品を特陳。
※ 青楓、四十九歳、第十六回二科美術展覧会(「夏の日」等出品)。

1930年(昭和五年)9月4日から10月4日まで、第17回展。安井「婦人像」、有島「熊谷守一肖像」など。林重義・向井潤吉・伊藤廉の滞欧作を特陳。メカニズム・シュールリアリズムの作品も展示。
※ 青楓、五十歳、第十七回二科美術展覧会(「唐人お吉に扮する梅村容子(未完成)」等出品)。

1931年(昭和六年)9月3日から10月4日まで、第18回展。有島「震災記念」、青楓「新議会」、安井「ポーズせるモデル」「外房風景」、山下新太郎「少女立像」、鍋井「奈良の月」、小出楢重・湯浅一郎の遺作など。
※ 青楓、五十一歳、第十八回二科美術展覧会(「新議会」=「ブルジョア議会と民衆生活」等出品)。
9月3日から10月4日まで、東京府美術館
10月10日から10月22日まで、名古屋鶴舞公園美術館
10月24日から11月3日まで、大阪朝日美術館

(再掲)  https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-28

ブルジョア議会と民衆の生活.jpg

「ブルジョア議会と民衆の生活」(昭和六年、第十八回二科展出品)
『老画家の一生(津田青楓著・中央公論美術出版)』所収「關東大震災と龜吉の身邊/p415」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/214

「ブルジョワ議会と民衆生活」(下絵).jpg

「ブルジョア議会と民衆の生活(下絵)」/1931年/125.8×80.3/東京国立近代美術館蔵
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品163」)

1932年(昭和七年)9月3日から10月4日まで、第19回展。坂本「放牧三馬」、安井「薔薇」、国吉康雄「サーカスの女」など。山下新太郎・木下義謙らの滞欧作を特陳。
※ 青楓、五十二歳、第十九回二科美術展覧会(「疾風怒涛」等出品)。

(再掲)  https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-28

疾風怒涛二.jpg

「疾風怒涛」(昭和七年、第十九回二科展出品) → 笛吹市青楓美術館蔵
『老画家の一生(津田青楓著・中央公論美術出版)』所収「關東大震災と龜吉の身邊/p415」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/215


1933年(昭和八年)9月3日から10月4日まで、第20回展。安井「奥入瀬の渓流」など。併せて創立二十年を記念して、故人や会を離れた作家による43作品の展示も行われた。
※ 青楓、五十三歳、第二十回二科美術展覧会(第四回展出品作「芽出し頃」出品)。
※※ 七月十九日、杉並区天沼一三六の自宅から杉並署に連行され、取り調べを受け、二十日、神楽坂署に移送、留置される。
 八月七日、プロレタリアの一切の関係を断ち切り、洋画の世界からも訣別する転向を決意し、左翼運動関係の関係を語り、釈放される。二十六日、二科会からの脱退を声明し、正式に脱退する。(「自撰年譜」等)。 (『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「津田青楓年譜」抜粋など)


(参考一) 「河上肇記念会会報 総目次 1号~最近号 (PDFファイル付)」

http://w01.tp1.jp/~sr10697360/somokuji.html


(参考二) 津田青楓画《犠牲者》(1933、東京国立近代美術館蔵)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-28

津田青楓画《犠牲者(習作)》一.jpg

津田青楓画《犠牲者》(1933、東京国立近代美術館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/107539

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート