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日本画と西洋画との邂逅(その十八) [日本画と西洋画]

(その十八)「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」との協同創作管見

川原慶賀「長崎港ずブロンホフ家族図」.jpg

「長崎港図・ブロンホフ家族図」≪川原慶賀筆 (1786-?)≫ 江戸時代、文政元年以降/1818年以降 絹本著色 69.0×85.5 1基2図 神戸市立博物館蔵
題記「De Opregte Aftekening van het opper hoofd f:cock BIomhoff, Zyn vrouw en kind, die in Ao1818 al hier aan gekomen Zyn,」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455049
【 衝立の両面に、19世紀に長崎の鳥瞰図と、オランダ商館長コック・ブロンホフとその家族の肖像が描かれています。この衝立は、作者の川原慶賀(1786-?)がシーボルトに贈呈したものの、文政11年(1828)のシーボルト事件に際して長崎奉行所によって没収されたという伝承があります。その後長崎奉行の侍医・北川家に伝来した。昭和6年(1931)に池長孟が購入しました。
現在のJR長崎駅付近の上空に視座を設定して、19世紀の長崎とその港の景観を俯瞰しています。画面左中央あたりに当時の長崎の中心部、唐人屋敷・出島・長崎奉行所が描かれ、それをとりまく市街地の様子も克明に描かれています。

 この衝立の片面に描かれているブロンホフ家族図には、慶賀の款印(欧文印「Toyoskij」と帽子形の印「慶賀」)が見られる。コック・ブロンホフは文化6年(1809)に荷倉役として来日。文化10年のイギリスによる出島奪還計画に際し、その折衝にバタビアへ赴き、捕らえられイギリスへ送られたました。英蘭講和後、ドゥーフ後任の商館長に任命され、文化14年に妻子らを伴って再来日。家族同伴の在留は長崎奉行から許可されず、前商館長のヘンドリック・ドゥーフに託して妻子らはオランダ本国に送還されることになりました。この話は長崎の人々の関心を呼び、本図をはじめとする多くの絵画や版画として描かれました。

来歴:(シーボルト→長崎奉行所?)→北川某→1931池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・神戸市立博物館特別展『日本絵画のひみつ』図録 2011
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008
・神戸市立博物館特別展『絵図と風景』図録 2000 】(「文化遺産オンライン」)

「シーボルト・川原慶賀」関連年表
https://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/828000/p009222.html
(「川原慶賀」関連=「ウィキペディア」)

※1786年(天明6)川原慶賀生まれる(長崎の今下町=現・長崎市築町)。
1796年(寛政8)2月17日、シーボルト、ドイツのヴュルツブルクに生まれる
※1811年(文化8)川原慶賀当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。
1820年(文政3)シーボルト、ヴュルツブ、ルク大学を卒業(24歳)
1822年(文政5)シーボルト、オランダの陸軍外科少佐になる(26歳)
1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳)
※慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く。
1824年(文政7)シーボルト、「鳴滝塾」をひらく(28歳)
1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳)
※慶賀はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く。
1827年(文政10)シーボルト、娘いね生まれる(31歳)
1828年(文政11)「シーボルト事件」おこる(32歳)
※シーボルト事件に際しては多数の絵図を提供した慶賀も長崎奉行所で取り調べられ、叱責される。
1829年(文政12)シーボルト国外追放になる(33歳)
※シーボルトの後任となったハインリヒ・ビュルゲルの指示を受け、同様の動植物画、写生図を描く。
1832年(天保3)シーボルト、「日本」刊、行はじまる(36歳)
1833年(天保4)シーボルト、「日本動物誌」刊行はじまる(37歳)
1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる(39歳)
※1836(天保7)『慶賀写真草』という植物図譜を著す。
※1842(天保13)オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れた。これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受ける。
※1846(弘化3)長崎を追放されていた慶賀は、長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである脇岬(現・長崎市脇岬町)に向かい、脇岬観音寺に残る天井絵150枚のうち5枚に慶賀の落款があり、50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる。また、この頃から別姓「田口」を使い始める。その後の消息はほとんど不明で、正確な没年や墓も判っていない。ただし嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画が残っていること、出島の日常風景を描いた唐蘭館図(出島蘭館絵巻とも)は開国後に描かれていること、慶賀の落款がある万延元年(1860年)作と推定される絵が残っていることなどから少なくとも75歳までは生きたとされている。一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)。
1859年(安政6)シーボルト再び長崎に来る(63歳)
1861年(文久元)シーボルト、幕府から江戸に招かれる(65歳)
1862年(文久2)シーボルト、日本をはなれる(66歳)
1866年(慶応2)10月18日、シーボルト、ドイツのミュンヘンで亡くなる(70歳)

唐蘭館絵巻(蘭館図)蘭船入港図.jpg


「唐蘭館絵巻(蘭館図)(一)蘭船入港図」川原慶賀筆 19世紀 長崎歴史文化博物館蔵 
http://www.nmhc.jp/collection.html
【 出島オランダ商館医シーボルトの専属絵師として活躍した川原慶賀の作品は、その多くが西洋へ伝えられ、ニッポンを海外に紹介しました。慶賀の作品は、日本の風景や生活、動植物などを写実的に描いており、当時の状況を知ることができる貴重な資料です。】(「長崎歴史文化博物館」)

 この「唐蘭館絵巻(蘭館図)(一)蘭船入港図」は、川原慶賀の晩年の作品(嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画を描いた前後の作品)と解せられるが、ここに描かれている、望遠鏡で「蘭船を眺めるのはシーボルト」、そして、その背後の「女性と子供」は、当時の「シーボルトの日本人妻・お滝」、そして、その子は、二人の一粒種の「お稲」ではないかとされている。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index1.html
【 蘭船を眺めるのはシーボルト?
 待ちに待った蘭船の到来! 屋上の展望台の上で入港してくる蘭船を望遠鏡で覗き込んでいるのは、商館長だろうか? 実はこの男性の背後に子どもを抱いた日本人女性がいることから、この望遠鏡を覗いているのはシーボルトで、日本人女性はお滝、子どもがお稲ではないかといわれている作品だ。慶賀が描いた作品だから、それもあり得るかもしれない?】
(「発見!長崎の歩き方」)

シーボルトの家族.jpg

「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト関係資料」.jpg

「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト関係資料」(国指定重要文化財・シーボルト記念館蔵)
https://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/190001/192001/p000567.html
≪わが国近代医学の発展に多大の功績を残したシーボルトとその娘イネの関係資料19件44点で、主にシーボルトの子孫である楠本家、米山家などから寄贈されたものである。 主なものに、 シーボルト妻子像螺鈿合子(1合)、シーボルト書状(13通)、シーボルト処方箋(6通)、シーボルト名刺(1枚)、ポンペ書状(1通)、蘭語文法書(1冊)、いね和蘭文請取状(1通)、薬籠(1合)、花鳥螺鈿小箱(1合)、化粧道具小箱(1合)、革鞄(1箇)、短銃(1挺)、眼球模型(1基)、いね宮内省御用係関係書類(9通)、福沢諭吉いね推薦状(1通)、いね臍の緒書(1通)、いね遺言状(1通)、懐中紙入(1箇)などがある。≫(「長崎市」)

シーボルト嗅ぎ煙草入れ合子.jpg

「シーボルト妻子像(妻・滝と娘・イネ) 螺鈿合子(ごうす・ごうし)」(下絵:川原慶賀筆?)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/159661
≪「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト関係資料」(重要文化財、シーボルト記念館蔵)
(解説) フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796~1866)は、オランダ商館付医員、オランダ商事会社顧問として二度来日し、その間に日本の歴史、地理、風俗等の研究に努める一方、鳴滝塾を開き洋学発展に貢献した。このようなシーボルトの遺品として、書状、処方箋、名刺等が伝わるが、特に第1回の離日に際して作られた妻子像螺鈿合子は、日本に対する心情を伝えた遺品である。≫(「文化遺産オンライン」)

https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-59.html
≪ 長崎市の鳴滝2丁目に『シーボルト記念館』があり、そこに国の重要文化財に指定されている「シーボルト妻子像螺鈿合子」が常設展示されているようだ。
瀧とイネの像を蓋の表裏に青貝で細工したものなのだが、シーボルトはわが国を追放された後、30年後に再来日するまでこれを肌身離さず持っていたという。そして再来日した時に瀧と再会し、この合子を瀧に手渡したのだそうだ。
 直径11cmの小さな合子だが、よく見ると瀧とイネの着ている紫色の着物には家紋が描かれている。これはシーボルト家の家紋で「メスを持った手」を表しているのだそうだ。シーボルト家はドイツ医学界の名門で、祖父の代から貴族階級に登録されていたシーボルト家らしい図柄である。次のURLの「19世紀輸出漆器の意匠に見る文化交流の考察」という論文のp.14にこの合子の拡大写真がでている。   ≫

 上記の「19世紀輸出漆器の意匠に見る文化交流の考察」の他に、次のアドレスの論考でも、「コック・ブロムホフとシーボルトの関係資料」の、この「嗅ぎ煙草入れ(合子の表裏の蓋に描かれている青貝螺鈿細工の肖像画)」周辺について考察されている。

https://cir.nii.ac.jp/crid/1390853649781418624
「研究資料 伏彩色螺鈿再考―技法と史的資料から(勝盛典子稿)」

「シーボルトが滝に宛てた手紙」(カタカナ一).gif

「シーボルトが滝に宛てた手紙」(長崎歴史文化博物館蔵)
https://www.at-nagasaki.jp/feature/gaikokujinn/siebold/
≪ オランダ商館長の願い出により国外追放を解かれたシーボルトは、安政6年(1859)、オランダ貿易会社顧問の肩書で、再び来日を果たしました。帰国後、別の女性と結婚していたシーボルトは、その女性との間に生まれた長男・アレクサンダーを伴っていました。長崎に着いたシーボルトは、滝やイネ、そしてかつての門弟と再会。鳴滝の住宅は人手に渡っていましたが、これを買い戻して長崎における日本研究の拠点としました。文久2年(1862)、シーボルトは再び日本を離れますが、彼の日本研究は1866年にミュンヘンで70歳で死去する直前まで続けられたことから、シーボルトの日本に対する想いや情熱をうかがい知ることができます。また、国内においては、鳴滝塾門下生や、シーボルト滞在中に彼の知見にふれた学者などにより、西洋の先端科学に対する関心が大いに高まることになりました。現在、シーボルトが収集した日本コレクションの多くは、オランダのライデン国立民族学博物館など、ヨーロッパ各地の博物館に収蔵されています。≫

 この「シーボルトが滝に宛てた手紙」は、シーボルトが国外追放となり、1830年(文政13・天保元)の1月3日(文政12年12月29日)に日本を離れ、その年の「12月23日付け」の居住地とした「オランダ・ライデン」から、長崎の「妻・滝と娘・イネ」宛の「カタカナの手紙」なのである(『シーボルト父子のみた日本-生誕200年記念』)。
 これが書かれている便箋は、日本より持ち帰った「和紙」の便箋のようで、ここに描かれている着色された「草花」の図柄は、「1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる」の、その「シーボルト(下絵?)・川原慶賀(緻密画=ボタニカルアート)?」などと、深く関係しているようにも思えてくる。
 なお、「シーボルトの国外追放」後の、日本に残された「妻子(滝とイネ)」と、そして、「シーボルト」周辺については、下記のアドレスのものが参考となる。

https://ameblo.jp/aqgel/entry-10042407905.html
≪〇 お滝といねのその後。

 シーボルトは、弟子の二宮敬作や高良斎らに、お滝といねを任せていた。そしてその後、お滝といねは、彼女らの伯父の家に世話になることになった。
 お滝は此処でシーボルトからの手紙を受け取った。その翻訳は、弟子の高良斎がやったという。お滝は、天保元年(1830)11月15日付けで返信を出している。
 シーボルトは、国へ帰って直ぐにお滝宛に手紙を出している。そしてそれは長崎のオランダ商館員を通じて、いつでも自由にお滝との文通は出来たのであった。
 シーボルトは追放により帰国させられる時に、彼女たちのこれからの生活費として、銀10貫目を渡して行ったという。お滝はこれをコンプラ仲間(遊女の斡旋をしていた仲間)に預けて、利子として毎月、銀150匁を得ていたと言う。
 今の金で年間100万円以上に相当すると言う。当時ならば母子2人の生活は何とかなった。当時の長崎では、外人の女となって子も出来て、男には帰国されてしまって、後は世人の物笑いの種になっている女は随分といた。しかしお滝は、蘭学者であったシーボルトの名を辱めることも無く、母子共につつましく暮らしを立てていたのであった。

〇開国後、涙、涙の対面。

 お滝は、シーボルトに帰国された2年後に、いねを連れて再婚をした。お滝25才、いね5才のときであった。夫となった男は商人で、俵屋時次郎といい好人物で、混血児のいねにも、優しかったという。
 一方、シーボルトは、帰国後も15年間独身でいたという。(お滝の再婚は、手紙で知らされたであったろうから、学術・研究の方が忙しかったのか、それともお滝のように、心のやさしい女は自分の国の方にはいなかったのか?)
 でもその後、1845年(弘化2年、ペリー来航の8年前)に、ベルリンでヘレーネ・イダ・カロリーネ・フォン・ガーゲルンという娘と結婚をした。これで自然とお滝との、手紙のやりとりも途絶えた。
 娘のいねは成長と共に、学問を好んで、オランダ語の勉強に励んで、19才のときに、シーボルトの弟子であった二宮敬作の門下生となって、外科と産婦人科とを学んで女医となったのであった。
 1859年(安政6年、幕府は神奈川・長崎・函館を開港)の8月14日、シーボルトはなんと再び長崎の地を踏んだのであった。そしてその翌日、オランダ商館長の家で、シーボルトとお滝といねは、30年ぶりで再会を果たしたのであった。シーボルトは、涙に咽んで、言葉にならなかったと言い、お滝は、その場に泣き崩れて、これも言葉にはならなかったという。
 時にシーボルト64才、お滝53才、お稲33才であったという。 ≫

 ここで、≪「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」との協同創作≫ということについては、上記の年表(下記に再掲)の、「日本」・「「日本動物誌」・「日本植物誌」などにおける、二人の「協同創作」という視点からの管見ということに他ならない。

【(再掲)

1832年(天保3)シーボルト、「日本」刊行はじまる(36歳)
1833年(天保4)シーボルト、「日本動物誌」刊行はじまる(37歳)
1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる(39歳) 】

 この≪シーボルト『NIPPON』 図版編≫については、下記のアドレスで閲覧することが出来る。

http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/nippon/nippon-top.html
「シーボルト『NIPPON』 図版編」(福岡県立図書館ふくおか資料室)
≪『NIPPON』の副題に「日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。」とあります。ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、その生涯を賭けた日本に関する著作物の一つです。
 シーボルトは、長崎出島の商館付き医師として来日し、日本人に医学その他の科学を教えるかたわら、多くの資料を収集し、持ち帰り、整理して、国王ヴィルへルム2世の援助を受けて、1832年から51年にかけてオランダのライデンから自費出版しました。当初は、図版をカラー版と白黒版で価格差を付け、20回配本の予約出版で刊行しています。全点刊行終了後、各人が好きな細工を施した装丁で製本し、蔵書としたのですが、「NIPPON」の場合、20年をかけての分冊配本のため完全版は今以て不明で書誌学的には「天下の奇書」とも言われています。
 その内容は、日本の地理、歴史、風俗などから、人種、言語、動植物そのほか百般に渉って詳細に記述され、西欧での日本研究の基礎となった文献です。
 当館では、大正7年の創立開館記念収蔵として、初代館長伊東尾四郎が財界の援助を受けて入手した、本文3冊、カラー版を含む図版編2冊の洋皮装丁豪華製本版を所蔵しています。
 ここでは、当館所蔵の『NIPPON』図版編を第1冊、第2冊に分けて公開しています。また、図版のタイトル一覧からも画像をご覧いただけます。≫

 また、この「日本動物誌」と「日本植物誌」とについては、下記のアドレスで、その全貌を知ることが出来る。

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/classification/nat-hist
≪『日本植物誌』(シーボルト ; ツッカリーニ)1835-1870 【理学部植物学教室所蔵】
Flora Japonica, sive, Plantae quas in Imperio Japonico collegit, descripsit, ex parte in ipsis locis pingendas curavit Dr. Ph. Fr. de Siebold / Philipp Franz Balthazar von Siebold ; Joseph Gerhard Zuccarini (RB00000001)

『日本動物誌』(シーボルト)1833-1850 【理学部動物学教室所蔵】
Fauna Japonica, sive descriptio animalium, quas in itinere per japoniam,jussu et auspiciis superiorum, qui summum in India Batavia Imperium tenent suscepto, annis 1823-1830 collegit, notis observationibus et adumbrationibus illustrabit / Philipp Franz Balthazar von Siebold (RB00000002, RB00000003, RB00000004, RB00000005)≫(「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」)

 ここでは、これらのダイジェスト的な、そして、「西洋人(シーボルト)」よりも「日本人(長崎の絵師・川原慶賀)」に焦点を当てている、次のアドレスの「川原慶賀の見た江戸時代の日本」( 長崎歴史文化博物館)での管見に止めたい

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/kawaharakeiga/kawaharakeiga.html
≪「川原慶賀の見た江戸時代の日本」( 長崎歴史文化博物館)≫
≪ 川原慶賀(田口種美・登与助とも)は、1786年(天明6)頃の生まれ。父は絵師の川原香山で唐絵目利の石崎融思とかなり親密な間柄であったことが知られている。1811年(文化8)の頃には出島に自由に出入りできる「出島出入絵師」となり、出島商館長ブロンホフや商館員フィッセル、商館医シーボルトの求めに応じて日本の文物を描いている。
 商館員たちの求めに応じて何でも描ける優秀な絵師川原慶賀ではあったが、シーボルトは植物研究のための標本デッサンを正確に描くためどうしても西洋画法に精通した絵師が必要であった。そのためヴァタビア総督に画家の派遣を要請している。この要請に応えて1825年(文政8)来日したのが薬剤師のビュルガーと専門の画家ではないものの絵心のあったデ・フィレニューフェであった。慶賀は、このデ・フィレニューフェから西洋画法の手ほどきを受けることとなる。
 1826年の江戸参府においてシーボルトは、慶賀を同行させている。慶賀はシーボルトの要望や指示に従い、街道の様子や名勝、神社仏閣、京・大坂・江戸の様子、公家・武家の装束、旅の道中で観察される動・植物、風俗までありとあらゆる文物を描いた。
この江戸参府の際、シーボルトが友好を深めた最上徳内、高橋景保らの好意が後のシーボルト事件に発展してゆく。1829年(文政11年12月)、シーボルトが御禁制の地図や葵の紋付服などを国外に持ち出そうとしたことが発覚し国外追放となる「シーボルト事件」により、慶賀も連座して入牢、「叱り」という処分を受ける。その後出島出入絵師としての仕事は復活したようであるが、1842年(天保13)長崎港の風景を描いた際、警備船の幕に細川家と鍋島家の紋まで書き込んだため、長崎所払いの処分を受けている。
 ところがその4年後の1846年(弘化3)、長崎の飛鳥氏らが先祖菩提のため石崎融思一門に依頼し描かせた長崎市脇岬観音寺の天井画150枚の中の5枚に慶賀の落款が存在する。石崎融思と慶賀との関係が推測できる。1860年(万延元)に慶賀が75歳の作品であることを示す年記を持つ「永島きく刀自像」により慶賀の生年はほぼ推定されているが、残念ながら没年およびその墓所は不明である。
 川原敬賀(田口田根、豊助)は1786年生まれ。父親の川原浩三は、唐絵めきであった石崎雄志、あるいは中国からの輸入品の公式美術検査官とかなり親密な関係にあったと考えられている。1811年頃、川原敬賀は出島への立ち入りを許された出島工場の画家に任命され、ブロムホフ(オランダ東インド会社出島工場長)、フィッシャー(オランダ東インド会社社員)、シーボルト(オランダ東インド会社出島工場の医師)の依頼に応えて日本のものを描いた。
 川原敬賀は出島のオランダ人が求めるものを何でも描ける優秀な画家でしたが、シーボルトは植物学研究を進めるために標本の正確なスケッチを描くために西洋絵画の技法を熟知した芸術家を絶対に必要としていました。そのため、シーボルトはバタビアの総督にそのような画家を派遣するよう要求した。彼の要請に応えて、1825年に2人が日本に送られました:1人は薬剤師のハインリッヒ・バーガーで、もう1人は画家ではないが絵画の適性を持っていたド・ヴィルヌーヴでした。その後、慶賀はド・ヴィルヌーヴから西洋絵画の技法の基礎を教わりました。
 1826年(明治3年)に江戸への宮廷旅行の際、シーボルトは慶賀を連れて行った。シーボルトの要求と指示に従い、圭賀は、通りの風景、景勝地、神社仏閣、京都、大阪、江戸の状況、宮廷貴族や武士の服装、江戸への旅で見た動植物や民俗など、さまざまなオブジェクトを描きました。
 江戸滞在中、シーボルトは徳内茂上や高橋影康との親交を深め、その優しさが後にいわゆるシーボルト事件に発展し、1829年(明治2年)にシーボルトは日本の詳細な地図や徳川家のヒイラギの紋章が描かれた着物などを禁止したことが発覚し、日本から追放された。徳川幕府が厳しく禁じた行為でした。シーボルト事件への関与により、川原敬賀も投獄され、叱責された。処罰後、出島工場の画家としての仕事を再開したとされる。しかし、1842年(明治2年)に圭賀が長崎港の風景を描いた際、哨戒艦のスクリーンに細川家と鍋島家を屠殺した。彼は再び罰せられ、長崎から解雇された。
 それにもかかわらず、1846年、すなわち慶賀の解任から4年後に石崎祐志とその弟子によって描かれた長崎の天井画150点のうち5点に、慶賀の署名と印鑑があります。これらの絵は、長崎市の脇崎観音寺の天井に描かれ、アスカ一族や長崎のお客さんのご先祖様のご冥福をお祈りしました。これは石崎祐志と圭賀の密接な関係を暗示している。1860年に描かれた長島菊夫人の肖像画には、75歳の慶賀の作品であったことを示す記録がありますので、彼の生年を推測することができます。しかし、残念なことに、彼の死の年と彼の墓の場所は不明です。≫

アジサイ.jpg

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken15032/index.html#:~:text=%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AF%E3%80%81%E5%A6%BB%E3%81%8A%E6%BB%9D,%E3%81%AE%E5%AD%A6%E5%90%8D%E3%82%92%E4%B8%8E%E3%81%88%E3%81%9F%E3%80%82
≪資料名/Flora Japonica Vol.1
FLORA JAPONICA、和名和書名「シーボルト日本植物誌」
シーボルト*ニホン*ショクブツシ、オリジナル番号2 185-1 1の中のアジサイ/m-40_2-185-1-1-53
 毎年6月、鳴滝塾跡、シーボルトの銅像のまわりには、清楚ながらも存在感のある面持ちのアジサイの花が咲き誇る。シーボルトは、妻お滝への愛を込めて、このアジサイの花に彼女の愛称、オタクサ「Hydrangea otaksa」の学名を与えた。離ればなれになってしまった愛しい妻。清楚なアジサイの花にその妻の姿を重ね、シーボルトは生涯想いを寄せていたのかもしれない。シーボルトが日本を離れた後に発表した『日本植物誌』は、シーボルトのお抱え絵師として知られる川原慶賀ら日本人絵師の下絵をもとに、1835年より多数に分け発表。後に購入者がまとめ一冊の本にしたもの。現在、長崎市シーボルト記念館には、発表当時の現物が保管されている。 ≫

アサヒカニ.jpg

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=2927&cfcid=&search_div=
≪●作品名:アサヒガニ
●学名/Scientific name:Ranina ranina ●学名(シーボルト命名)/Scientific name(by von Siebold):Ranina ranina ●分類/classification:節足動物/Animals, Arthropods>エビ目/Decapoda ●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立自然史博物館 National Museum of Natural History

大村湾千綿.gif

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1667&cfcid=145&search_div=kglist
≪●作品名:大村湾千綿 ●Title:A view of Oomura, Chiwada
●分類/classification:旅・江戸参府/Travering to Edo
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

(追記一)「シーボルト・コレクションにおける川原慶賀の動植物画と風俗画」(「野藤妙」稿・国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」所収)

≪ はじめに(抜粋)
 川原慶賀(1786?-1860?)は江戸時代後期の長崎の絵師であり、登与助と呼ばれていた。遅くとも文化年間には出島に出入りが許可されており1、出島で勤務していたオランダ商館員の求めに応じて日本の動植物や風俗、風景などの作品を描いた。慶賀の作品を収集したオランダ商館員としては、ヤン・コック・ブロムホフ(Jan Cock Blomhoff)、ヨハン・フレデリック・ファン・オーフェルメール・フィッセル(Johan Frederik vanOvermeer Fisscher)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz vonSiebold)の3名が知られている。
 現存する慶賀の作品の中には、精密な動植物画の他、水墨画や南蘋風の掛け軸などもあり、慶賀がいろいろな技法を用いて作品を描くことができたことがわかる。町絵師である以上、依頼主の注文に応じた作品を描かなければならなかったため、さまざまな技法で描くことができる必要があった。したがって、慶賀の作品を研究する際には、まず依頼主が何を求めていたかを考察しなければならない。それゆえに、本稿ではシーボルトが何を要求したかという点から慶賀が数多く描いた動植物画と風俗画を検討していきたい。

1.シーボルトにおける絵画の重要性(略)
2.慶賀の動植物画(部分抜粋)
 シーボルトの著作の図版は、標本や、日本人の絵師の原画、カレル・ヒュベルト・ドゥ・フィレニューフェ(Carel Hubert de Villeneuve)による原画の他、和本の挿絵などを元に作成された。来日期間中にシーボルトは日本人絵師に描かせるだけでは日本研究を進めるのが難しいと考えた。そこでオランダ東インド総督へ画家の派遣を要請し、1825年にフィレニューフェが来日することとなった。またこの時に、研究の助手としてハインリッヒ・ビュルガー(Heinrich Bürger)も来日した。
シーボルトは1828年に帰国する予定であったがいわゆるシーボルト事件が起こったため、結局1830年に帰国した。シーボルトが日本を離れた後も、後任のビュルガーは標本等の発送を行い、シーボルトの日本研究に助力した。ブランデンシュタイン城に現存している1831年12月1日に書かれた書簡4は、出島にいるビュルガーからライデンにいるシーボルトへ出されたものである。
 (中略)
 慶賀やフィレニューフェの現存する絵を併せて検討すると、それぞれの描く対象が異なっており、大まかな役割分担がなされていたことが推測される。この役割分担は、シーボルトがオランダ東インド総督に行った報告に添付された「1823年から1828年の間に日本で作成された記述類一覧」中の「絵図」項目の
39 日本人の肖像12点:デ・フィレニューフェ氏制作
40 日本のもっとも注意すべき若干の哺乳動物図:デ・フィレニューフェ氏制作
41 若干の爬虫類および哺乳動物の骨格図:デ・フィレニューフェ氏
42 若干の魚類および海中棲息生物の写生:日本人絵師登与助制作
43  日本植物、あるいは約60個の注目すべき日本植物図:日本人絵師登与助制作。輸
送と荷卸しはデ・フィレニューフェ氏による
という記述とも合致する。
 (中略)
 シーボルトは、慶賀が動植物画を描く場合、その動植物が分類学上どのように分類されるのかがわかるように、正確に特徴をとらえ、生きているそのままの色を表現することを求めた。慶賀はこの要求に沿って、例えば海老などの甲殻類の殻の凹凸を表現するために細かく描くなどして、シーボルトの要求に応えるように努力した。先行研究でも言及されている通り、シーボルト・コレクションの慶賀の動物画と、シーボルト以前に来日したブロムホフ・コレクションの動物画とを比べると、死ぬと縮んでしまう魚の背びれや尾ひれがピンと張って描かれるようになり、鱗の数なども正確に描かれ、図鑑の挿絵として使えるように技術が向上していることがわかる。
慶賀の絵の上達は、植物画においても同様に見られる。シーボルト・コレクションの慶賀の植物画を、ブロムホフ・コレクションと比較すると、ブロムホフ・コレクションでは、植物が色鮮やかに描かれているが、花や葉の形を見ると正確さに欠けている。シーボルト・コレクションでは、色に濃淡があり、繊細に塗られているほか、植物の解剖図が描かれている。シーボルトがヨーロッパの植物学の分野において本を出版しようとするとき、ブロムホフ・コレクションのような絵では不十分である。植物の同定をするためには、花や葉の形が正確に描かれていることはもちろん、解剖図が描かれている必要があった。慶賀はシーボルトやフィレニューフェから指導を受け11、その結果、図鑑の挿絵として活用できるような絵を描けるようになった。

3.慶賀の風俗画(部分抜粋)
 シーボルト・コレクションの風俗画のほとんどはオランダ政府によって購入され、ライデン国立民族学博物館に所蔵されている。慶賀が描いた風俗画の画題の中でも、人が生まれ結婚し、死去するまでを23場面で描いた《人の一生》という画題の作品群に注目する。
《人の一生》について、ここでは簡潔に結果を述べたい《人の一生》は、5セット現存している。シーボルト以前に来日したフィッセルが3セット、シーボルトが1セット持ち帰っており、その他に収集者が不明のものがもう1セットある。
フィッセルが収集し、現在ライデン国立民族学博物館に所蔵されている《人の一生》を①とする。1832年にオランダ国王ウィレム1世によって購入されたフィッセル・コレクションの中にこの作品も含まれていた。絹に描かれており、サイズは、30㎝×45㎝程度である。この①の最大の特徴は慶賀の落款が押されている点である。落款は縦横1㎝×1㎝程度の大きさで、黒枠の内側や外側などに見られ、多くは右下に押されている。
  (中略)
 シーボルト・コレクションの風俗画で慶賀の落款が押されているものは、60㎝×80㎝程度の比較的大判の絵や掛け軸、さらには朝鮮の人々を描いた絵などのブロムホフやフィッセルのコレクションには含まれていない絵である。一方、慶賀の落款が押されていないものは、ブロムホフやフィッセルとの画題の重複が見られるものが多い。そのような作品の中には、《人の一生》のように、慶賀が直接描くのではなく、同じ工房で働く他の絵師たちによって作成された作品も含まれている。

おわりに
本稿では、シーボルトが収集した慶賀の動物画と風俗画を併せて検討を行った。動物画に関しては、慶賀に描かせるようにとビュルガーに指示しており、ビュルガーもシーボルトの忠告を守り慶賀に描かせている。そうさせたのは、標本にすると失われてしまう動物の色をきちんと表現させることが重要であったからである。慶賀はシーボルトの要求に、精密な絵を描くことで応えた。その一方で、風俗画に関しては、ブロムホフ、フィッセルとの画題の重複が見られ、そのような作品の中には細部の正確さに欠けるものも含まれている。
『日本植物誌』や『日本動物誌』の図版は一流の画家が作成しているのに対し『日本』の図版では費用の問題もあり、二流の画家を使っていることが先行研究によって指摘されている。このことからも、動植物画と風俗画ではシーボルトの意図が異なっていたことが推測される。注文主であるシーボルトが絵を重視していた植物、動物に慶賀も力点を置いていたと言えよう。風俗画については、シーボルトは、どう描かれているかということ以上に何が描かれているか、つまり細部の正確さよりも内容が重要で、動植物画ほどの精密さは求めていなかったと考えられる。シーボルトから大量の絵を注文された慶賀は、自分にしか描くことのできない動植物画を自ら描き、同じ画題の風俗画については、他の絵師などにトレースさせた絵を提供した。≫

(追記二)「川原慶賀考(一)」(陰里鉄郎稿)
http://id.nii.ac.jp/1440/00006427/

(追記三)「シーボルト『NIPPON』の原画・下絵・図版」(「宮崎克則」稿「九州大学総合研究博物館研究報告Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 9, 19-46, 2011」)

(追記四)「1830年3 月 帰国途中のシーボルトが其扇(そのぎ)に送った手紙」(「石山禎一・宮崎克則」稿「西南学院大学博物館 研究紀要 第8号」 )

(追記五)「シーボルト関係書翰集 : シーボルトよりシーボルトヘ」(国立国会図書館デジタルコレクション)

https://culturemk.exblog.jp/24945774/

https://culturemk.exblog.jp/24945774/

シーボルド・カタカナ・手紙(着色).jpg

「シーボルトが滝に宛てた手紙」(長崎歴史文化博物館蔵)

「シーボルト関係書翰集 : シーボルトよりシーボルトヘ」(国立国会図書館デジタルコレクション)が、上記のアドレスで全文閲覧することができる。
 その「目次」は、次のとおりである。

目次 (tableOfContents)
標題 / (0003.jp2)
目次 / (0007.jp2)
I.Siebold / (0011.jp2)
II.美馬順三 / (0028.jp2)
III.小西吉兵衛 / (0031.jp2)
IV.高良齋 / (0031.jp2)
V.石川宗謙 / (0039.jp2)
VI.戶塚靜海 / (0044.jp2)
VII.豐吉 / (0048.jp2)
VIII.吉雄權之助 / (0050.jp2)
IX.卯三郞 / (0051.jp2)
X.松村直之助 / (0051.jp2)
XI.石橋助左衞門、石橋助十郞 / (0052.jp2)
XII.傳之進 / (0052.jp2)
XIII.廣淵武七郞 / (0052.jp2)
XIV.そのぎ / (0054.jp2)
XV.おいね / (0060.jp2)
XVI.楢林榮左衞門 / (0062.jp2)
XVII.三瀨周三 / (0072.jp2)
XVIII.戶田亀之助 / (0092.jp2)
XIX.ぎすけ / (0095.jp2)
XX.町田くわんすけ / (0095.jp2)
XXI.伊藤權之助 / (0096.jp2)
XXII.中村かめかわ / (0096.jp2)
XXIII.北村元助 / (0097.jp2)
XXIV.大庭けいさい / (0097.jp2)
XXV.若菜三男三郞、星野金吾 / (0097.jp2)
XXVI.譯詞 / (0098.jp2)
XXVII.團吉 / (0098.jp2)
XXVIII.河野禎造 / (0098.jp2)
XXIX.八右衞門 / (0099.jp2)
XXX.魚住順方 / (0100.jp2)
XXXI.栗林熊次郞 / (0101.jp2)
XXXII.ポンペ / (0101.jp2)

 この「目次」の前の「口絵」に、「シーボルトが滝に宛てた手紙」(長崎歴史文化博物館蔵)が掲載されている。しかし、「XIV.そのぎ / (0054.jp2)」「XV.おいね / (0060.jp2)」関係の書翰の中には、この書翰は掲載されていない。この原図は、上記のように着色の「植物画」(「便箋」なのか不明)が描かれている。

 この冒頭の二行は、「ソノキ(ソノギ=其扇=お滝=妻)サマ マタ オイ子(オイネ=お稲=娘) カア(ワ)イ コト(ド)モノ (父) シーボルド」
次は、「一 ワタクシ ワ(ハ) 七月七日 ホ(オ)ランタ(ダ)ノ 三十ト(ミナト)ニ イカリ(碇)ヲ ヲロシタ」
 次は、「一 フ子(船=船酔い)ニ ワレ(我) スコシ ヤマイ(病)テ ヲル」
 次は、「一 タタ(ダ)イマ(只今) タイブン(大分) スコヤカ(健やか)」 

 の意に解して置きたい。

(追記) この後に、次のものが入る(全部で十五条)

一 ニチニチ ワタクシガ オマエ マタオイ子ノナヲ シバイシバイ イウ → 日日(毎日) 私は、おまえ(たき)とおいね(イネ)の名を しばしば、いう(口にする)

一 ナントキワ オマエヲマタオイ子 モツトアイスル モノヲミルナ → 何時(ナントキ)でも、おまえ(たき) また おいね(イネ)を もっと(最高に)愛する 者を見ない

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日本画と西洋画との邂逅(その十七) [日本画と西洋画]

(その十七)「日本画(草体画など)・東洋画(文人画など)・西洋画(洋風画など)」そして「渡辺崋山」周辺など 

渡辺崋山・ヒポクラテス像.jpg

「ヒポクラテス像」≪渡辺崋山筆≫ 江戸時代 天保11年(1840) 絹本墨画淡彩 縦110.3 横41.7
1幅 重要美術品 九州国立博物館蔵
【 江戸時代の文人画家・渡辺崋山筆。崋山と交流のあった浅井家伝来のもの。西洋医学の祖と仰がれたヒポクラテスの胸像を、要を得た陰影法によって写実的に描いている。崋山の洋学者としての一面を伝えている。江戸時代の学問、特に洋学の普及を象徴する作品として貴重である。  】

渡辺崋山新論(1)―克己の人渡辺崋山―(「おもしろ日本美術3」No.1)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro1.html

衝撃的なその最期―杞憂を以て死した崋山先生―(「おもしろ日本美術3」No.2)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro2.html

今なお多くの信奉者を惹きつける克己の人渡辺崋山―崋山研究の糸口としての珠玉の史料の数々― (「おもしろ日本美術3」No.3)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro3.html

列強の脅威の中での日本の行く末を案じる開明派の苦悩―自叙伝の体をなす渡辺崋山の『退役願書稿』― (「おもしろ日本美術3」No.4)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro4.html

渡辺崋山の草体画(1)―崋山渾身の当世風俗活写『一掃百態』―(「おもしろ日本美術3」No.5)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro5.html

渡辺崋山の草体画(2)―崋山と洒脱なへたうま画の極み俳諧画―(「おもしろ日本美術3」No.6)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro6.html

渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro7.html

渡辺崋山の草体画(4)―紀行画『刀禰游記』と手控冊『客坐縮写第五』―(「おもしろ日本美術3」No.8)

「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro9.html

渡辺崋山の写生観―写生は“自然界からの図取り”―(「おもしろ日本美術3」No.10)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro10.html

≪ (抜粋)
 統的な東洋画は、画面作りにあたって頭の中で練りあげる「構成画」を基本としており、そのための手段として、先人の名蹟に倣う「図取り」を積極的に行なっている。「図取り」とは、画譜や舶載の中国画、日本の先人の名画等の構図や図柄などを、全体的に、あるいは部分的にと借用して自らの作品を作りあげる手だてとする行為であるが、渡辺崋山が道端の草花や小動物を愛情深く写した『翎毛虫魚冊』や『桐生付近見取図巻』等の、現代の感覚でいう写生(写真)も、正しくはこの姿勢の延長として考えるべきなのである。
 すなわち、言うならば“自然界からの「図取り」”なのであり、狩野派や住吉派などの作品に見られる「地取」(ぢどり)の語も、読んで字の如く眼前の自然景の一角を切り取り直模する行為を示している。
 江戸時代も後半期には、情報化社会の到来とともに、出版物の挿図や、絵地図、観光ガイドブック等に需用があったり、あるいは公命を受けて、各種の記録や、海防、城下の警備対策のための資料作り等と、専門画家たちが狩り出され、実景に即した実用の「真景図」を描く機会も多くなる。
 師の谷文晁は、松平定信公の沿岸巡視に同行して『公余探勝図』を描き、同胞立原杏所も公命を拝して『水府城真景図』『袋田瀑布図』を描いている。
 ただここで大切なのは、当時の習いとしては、あくまで、図取りや地取り、写真によってた素材を自らの回路を通過させる手順が前提であるということである。
 写真機の没個性的な映像ではなく、言うならば、画家の頭や心の中を経由する行程を重んじ、写意というか対象の視覚的イメージに留まらず、寒暖や香り、風といった大気のありようなど、目に見えないものや、存在そのものにまで肉迫することこそ、アーティストならではの本領として追い求めているのである。
 また、スケッチや画稿そのものは、いわば楽屋裏のノーカウントのもので、檜舞台で脚光を浴びる筋合のものでもなく、作家にとっては人目に触れるだけでも気恥かしいものなのである。
 崋山の「写生切近なれば俗套に陥り候… 乍去、風趣風韻を専に心得候得ば山水空疎の学に落」との主張は、西洋絵画の流入より受けたカルチャーショックを、自らの宿題である「写生」と「写意」、そして「気韻生動」の理念として、改めて問い直すものであり、アンチテーゼたる異質の美術概念を得て、伝統的な日本画をより高い極みに止場(アウフへーベン)しようといったその高邁な信念を示していると言える。(文星芸術大学 上野憲示稿)  ≫

崋山の「図取り」は単なるパクリにあらず。新たな至高の芸術世界の創出!―最晩年の入魂の優作「黄粱一炊図」、「月下鳴機図」―(「おもしろ日本美術3」No.12)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro12.html

≪ (抜粋)
 前に触れたように、写山楼の画家たちは、画面作りにあたって頭の中で練りあげる「構成画」としての東洋画の伝統を堅持し、そのための手段として、先人の名蹟に倣う「図取り」を積極的に行なってみずからの滋養としている。中国古画などから継承された伝統的なパターンや、新しい舶載画、来舶の画家の作品などの好ましい図様をそのまま利用するなど、先人の名蹟を参照する(言葉を替えればパクル)ことについては、手習いの常套として、現代人が意識するほどにはこだわりがなかったようである。
 「図取り」に際し、その消化の程度によって臨模と変わらないものから、すっかりこなれてその痕跡をもとどめないものまで千差万別で、文晁、崋山などは、臨模や、写本・粉本には「写山楼画本」「全楽堂文庫」などの押印をし、類似作にも「文晁摹印」「摹古」の印を添えるなど参照を公言し、その他の作家も摂取の段階に応じて良心的にその依り所を示している。
 そこで、崋山の図取りの例であるが、まず一つ、版本類から図取り採取した、『唐土名勝図會』(文化二年刊)の挿図にとった「黄粱一炊図」を挙げたい。
 「黄粱一炊図」は、蘆生という人物が、邯鄲の駅で休んでいる間に、立身出世の夢を見るが、目覚めると店の黄粱が未だ蒸し上らないつかの間のことでしかなかったという中国の故事を描くもので、店の結構を正面描写から斜め描写に変更したり、背景に奥行のある北画風の山水を配したりと工夫こそ見られるが、当時流布した「唐土名勝図會」(文化二年刊の改訂版<初版は享和三年刊で挿図の図様も異なる>)の、巻六・直隷の第三十六丁のウラがら第三十七丁のオモテにかけて掲載された、大原民聲(東野)の縮写になる「蘆生」の挿図(原画は明の画家朱端の作品か)から図取りをしたことは明らがである。文晁作品にも、背景こそ広くとるものの、挿図の図様にほぼそのままの蘆生の図があり、それに較べて、崋山画は図取りにおいても可能な限り創意工夫を施して独自の作品を生み出そうとの熱意が知れて快い。
 また、二つ目の例として、焦秉貞の手になる『佩文耕織図』(崋山直筆の写本も伝えられる)の諸図に材料を得た「月下鳴機図」が指摘できる。
 「月下鳴機図」は、多分に貼ぎ合せ的な画面作りになっていて、その基本は、中国の版本『佩文耕織図』(三冊)によるところが多い。『佩文耕織図』は、佩文斎すなわち清の四代皇帝聖祖康煕帝が、欽天監(天文台の役人)の焦秉貞に命じて、宋の模薄の腓織の詩を基に耕織図四十六幅を描かしめ、これを版本とさせたもの(康煕三十五年)。焦秉貞は、郎世寧、文啓蒙、壬致誠といった西洋の教士たちから仕事を通して西洋流の点透視の法を学んでおり、その透視図法を盛り込んだその図様は、異色の光彩を放っている。崋山は、恐らく四十歳以前と思われるが、かつてこの版本を克明に模写しており、天保二年の三ケ尻調査の報告書である「訪瓺録」の挿図の、三ケ尻近郊の描写が明らかに遠近法において相通じるものがあり(下宿図、上宿図など)、既にこの時点において自らのものとし得ているものと判断できる。「月下鳴機図」は、建物や渡り廊下といったその舞台となる建物の結構を、「織」第四図「大起」の図に採り、これに、「織」第十七図「織」の屋内で女性が織機を操っている図柄や、「織」第十八図「絡絣」の糸つむぎの老婆の姿を引用し、自らの構想で合成編集したものと判明する。遠景の家並も「耕」の諸図をヒントに得たものと考えたい。天保十一年二月二十九日と判断する海野豫助宛書簡に、「耕織の内耕は己に相竣、織は半出来に候処…早々に出来し上納可仕」とある織の図こそが本図であろう。(文星芸術大学 上野憲示稿)


崋山花鳥画に見る日本画の革新―写生と東洋画の伝統に依拠した構想画―(「おもしろ日本美術3」No.13)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro13.html

≪ (抜粋)
 渡辺崋山が常に携帯し、絶えず拝見・調査の機会を得た書画類を記録した、いわゆる客坐縮図冊には、その土地土地で寓目した小動物や花卉のクロッキー(生き写し)や、風景の活写(地取り)や民俗学的スナップ等が少なからず含まれている。それらが思いの他、本画制作に活用されていて、まさしく、古典や大家の作品の東洋画の伝統を経承しながらも実写生を績極的に制作の骨体とする崋山なりの絵画観が見てとれ興味深い。
 現在遠山記念館が所蔵する崋山花鳥画の名品「白鵞游魚図」は、そもそもが、「臣渡辺登謹写」とあるとおり、当初公命を受けて描き二本松侯に新宅祝いとして贈られ、その居間の襖貼り付けとなっていた二図で、のちに仙台の荒井泰治氏が求め双幅に改装、さらに個人分蔵となり、左幅が記念館に収蔵されたものと知れる。(明治末年刊『日本絵画全集』8崋山の相見香雨氏解説)
 基本は東洋花鳥画の官画系正統派の黄氏体に徐氏体を加味した高貴な様式を遵守し、「客座縮写乙酉第七 全楽堂」の実写生に準拠したものである。参照各図は、文政8年(1825)崋山33歳の暮(近くに12月23日の月日の頁あり)頃のものと思われる。
 同縮図冊の3ウ~4ウを活用。左図は3ウ上部の小図を基本に下部スケッチの顔貌などで形を調え、右図は3ウ・4オの見開き大図に3ウの黒い子鵞スケッチを左右逆にして重ねている。右図は鶏頭や稗、黄蜀葵などの秋草茂る水際での鳥の母子、左図は、鶏頭や海棠、稗の秋卉に囲まれた中、鵞鳥の親鳥の水面に浮かんでの羽つくろい。水中に渾南田風の鮒の親子が泳ぐ。
 なお、挿図5、6は、『翎毛虫魚冊』の巻末付近の迫力溢れる西洋犬のスケッチに依拠したことが判かる貴重な地取写生を本画に導いたまた一つの貴重な例である。本画は黒川古文化研究所自慢の崋山最晩年「随安居士」落款の「洋犬図」である。(文星芸術大学 上野憲示稿)≫

 ここで、渡辺崋山(1793-1841)の江戸時代後期の「日本画・東洋画(主として中国画)・西洋画「主として阿蘭陀画」の三区分、あるいは、「日本画(中国風を含む)・西洋画」との二区分で、渡辺崋山の画業全体を鳥瞰視すると、上記の論考は多くの示唆を与えてくれる。
 その一として、そのスタート地点の「草体画」(「当世風俗活写画」「俳諧画」「世情画」)、その二として、そのゴール地点の「構想画」などについて、その作品の幾つかにについて見ていきたい。
 さらに、その「草体画」から「構想画」(「写意」重視の「文人画」)に至る過程での、上記で抜粋した中で、「図取り」(これは「本歌取り」などと同一趣旨に解したい)、「地取り」(「風景の活写」=「写生)、さらに「構成画」(「写生」重視の「文人画」)、それらの基礎に位置する「写生・写意・気韻生動」などの理念などにも、間接的に考察していきたい。

「一掃百態」その1.jpg

「一掃百態」その1

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「一掃百態」その2

≪ (一部抜粋)
『一掃百態』は、崋山が二十六歳の頃、僅か三日二夜で描き上げたという早描きの当世風俗スケッチ集。
 まず前段として古画から写し取ったという鎌倉期から江戸中期(元禄~元文、寛延~明和)までの典型的な風俗イメージ十頁を示し、そして後段、堰を切ったように自由闊達なストロークで同時代当世風俗を四十一頁に亙って活写する。初午灯籠絵の内職で慣らしてか下書きなしの卓抜なクロッキー・デッサンである。巧みな線画の上に淡彩が施され見栄えもよく、三通りの序文や後記のテキストも検討されていることもあり、時期を見て出版をと考えていたのであろう。狩野派が風俗画を描くことをやめ民間の俗工に委ねられて以来、世俗の風俗画を玩弄物と低くみるきらいが強く、崋山はこれに異議を唱えその効用をテキスト中に説いている。≫(渡辺崋山の草体画(1)―崋山渾身の当世風俗活写『一掃百態』―(「おもしろ日本美術3」No.5))

『俳画譜』倣蕪村俳画.jpg

左→『俳画譜』自序   右→『俳画譜』倣蕪村俳画
≪渡辺崋山の草体画(2)―崋山と洒脱なへたうま画の極み俳諧画―(「おもしろ日本美術3」No.6)≫

校書図.jpg

校書図
≪渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)≫
≪日本の美術(校書図:渡辺崋山の絵画世界)≫
https://j-art.hix05.com/32.2.kazan/kazan13.kousho.html
【 「校書」とは芸者のこと。中国の故事に、芸妓は余暇に文書を校正するという話があることに基づく。崋山といえば、謹厳実直な印象が強く、芸者遊びをするようには、とても思えないが、この図には、崋山らしい皮肉が込められている。
 画面左上に付された賛には、概略次のような記載がある。「髪に玉櫛金笄を去り、面に粉黛を施さず、身に軽衣を纏うて、恰も雨後の蓮を見るようだ」と。これに加えて、近頃は世が豪奢を禁じたと言う指摘あがる。つまりこの絵は、世の中が窮屈になって、芸者も質素な身なりを強いられていることを、揶揄しているとも考えられるのである。
 いわゆる天保の改革が本格化するのは天保十二年のことで、日本中に倹約精神が求められた。この絵が描かれたのは天保九年のことだから、まだ改革は本格化してはいなかったが、一般庶民への強制に先だって、芸者や河原ものへの抑圧は高まっていたようだ。そうした社会的な抑圧は、社会の底辺部にいるものから始まって、次第に一般庶民を巻き込んでいくものだ。崋山は、そうしたいやな時代の流れを敏感に受け取っていたのであろう。
 芸者は、腰を落として横ざまに座り、右手にもった団扇を口元にかざしている。この芸者にはモデルがいる。当時親孝行で話題となっていた品川の芸者お竹である。親孝行の芸者をモデルにするところに、崋山らしいこだわりが感じられる。
 (天保九年 絹本着色 110.2×42.5㎝ 静嘉堂文庫 重文) 】(校書図:渡辺崋山の絵画世界)

月下鳴機図.jpg

左→ 「黄梁一焚図」(『唐土名勝圖會』の「蘆生」の「図取り」)
中央→「月下鳴機図」
右→ 「月下鳴機図」の図取り(中国の版本『佩文耕織図』(三冊)の「図取り」)
≪崋山の「図取り」は単なるパクリにあらず。新たな至高の芸術世界の創出!―最晩年の入魂の優作「黄粱一炊図」、「月下鳴機図」―(「おもしろ日本美術3」No.12)≫
≪日本の美術(月下鳴機図:渡辺崋山の絵画世界)≫
https://j-art.hix05.com/32.2.kazan/kazan19.gekka.html
【 「月下鳴機図」は、崋山最晩年、天保十二年の作である。おそらく求められて描いたのであろう。タイトルの「月下鳴機図」には、英明な君主の存在が暗示されているところから、田原藩主への捧げものかもしれない。
 この絵には手本がある。清の康熙帝が焦秉貞に命じて作らせた「佩文耕織図」である。これは耕織の様子を描いた四十余の図柄を版画に仕立てたもので、日本にも出回っていた。崋山は三十台のころ、その版画シリーズを入手して、模写をしている。
 この作品は、「佩文耕織図」のシリーズから、いくつかの図柄を選び出して、再構成したもの。そのため、構成上やや不自然なところがある。全体が一つの視点で統一されておらず、別々の視点から描かれたいくつかの図柄を単に同居させているような印象を与える。
 焦秉貞は西洋画の技法に通じていたといわれ、このシリーズの個々の作品には、一点消去法にもとづく西洋風の遠近感が指摘されるのであるが、それがこのように再構成されたことで、統一的な視点からの遠近感は見られなくなった。(天保十二年 絹本着色 127.9×56.9㎝ 静嘉堂文庫 重美)  】(月下鳴機図:渡辺崋山の絵画世界)

「月下鳴機図」(部分拡大図).jpg

「月下鳴機図」(部分拡大図)

 この「月下鳴機図」の手本とされている、清の宮廷画家「焦秉貞(しようへいてい)」の「佩文耕織図(はいぶんさいこうしょくず)」は、下記のアドレスの「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧することが出来る。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851448

「佩文斎耕織図」.gif

「佩文斎耕織図」(吾妻健三郎 編・「国立国会図書館デジタルコレクション」)の「コマ番号24・第十七図」(織)

 「月下鳴機図」(部分拡大図)の一番手前の左側の家屋の「織」の図は、上記の「コマ番号24・第十七図」(織)、同様に、右側(奥)の家屋は「コマ番号25・第十八図」(絡絲)、
そして、左側の家屋と右側(奥)の家屋とを結ぶ渡り廊下の家屋の図は、「コマ番号18・第四図」(大起)などをヒントにしていると、(「おもしろ日本美術3」No.12)では指摘している。

「佩文斎耕織図」・「耕」.gif

「佩文斎耕織図」(吾妻健三郎 編・「国立国会図書館デジタルコレクション」)の「コマ番号5・第二図」(耕)

 「月下鳴機図」(部分拡大図)の近景は、「佩文耕織図」の「織」図の諸図、そして、その中景は、上記の「コマ番号5・第二図」(耕)などの、その「耕」図の諸図を参考にしているように思われる。
そして、この近景と中景に関連して、(「おもしろ日本美術3」No.12)では、≪焦秉貞は、郎世寧、文啓蒙、壬致誠といった西洋の教士たちから仕事を通して西洋流の点透視の法を学んでおり、その透視図法を盛り込んだその図様は、異色の光彩を放っている。崋山は、恐らく四十歳以前と思われるが、かつてこの版本を克明に模写しており、天保二年の三ケ尻調査の報告書である「訪瓺録(ほうちょうろく)」の挿図の、三ケ尻近郊の描写が明らかに遠近法において相通じるものがあり(下宿図、上宿図など)、既にこの時点において自らのものとし得ているものと判断できる。≫と指摘している。

 この渡辺崋山が自刃した、天保12年(1841)に制作された、この絶筆ともいわれている、この「月下鳴機図」は、天保10年(1839)の、いわゆる「蛮社の獄」で、獄中の身となり、その生涯を掛けての故郷の土地ともいうべき「三河国(愛知県)田原藩(田原市)」の「池ノ原屋敷」に蟄居中の作品の一つなのである。
 そして、この作品の背後には、≪天保元年(1830)38 埼玉県尻に三宅氏遺跡を調査し、のちに「訪録」を書く。弟熊次郎亡くなる。≫の、上記の「天保二年の三ケ尻調査の報告書である「訪瓺録(ほうちょうろく)」の挿図の、三ケ尻近郊の描写が明らかに遠近法において相通じるものがあり(下宿図、上宿図など)」が横たわっている。

『訪瓺録』.gif

『訪瓺録』の絵図中、瓺尻(みかじり)村の「上宿」の図
https://blog.goo.ne.jp/shunsuke-ayukawa/e/558ee7b31d274b32757b30207a004fbe
≪ まず題名の『訪瓺録』の「瓺」とは「瓺尻村」(みかじりむら)のことで、当時、武蔵国幡羅(はたら)郡の南隅にあった村で、現在は埼玉県熊谷市三ヶ尻(みかじり)と言われる地域をさしています。
 この村は、田原藩主三宅家の先祖(藩祖)の三宅康貞が、天正18年(1590年)に徳川家康から最初に賜った領地でした。
 その後、康貞は関ヶ原の戦いで戦功を挙げ、瓺尻から挙母(ころも・現在の愛知県豊田市)1万石の領主に取り立てられて、やがて挙母から田原に移って、田原三宅家1万2千石の大名になりました。
 「訪瓺」とは、その藩祖(上祖)三宅康貞が家康から賜った最初の領地、瓺尻村を訪ねるということであり、その村を訪ねて、その調査を行った結果をまとめた記録(調査報告書)が、『訪瓺録』であるということです。
 崋山がこの瓺尻村を訪れたのは、天保2年(1831年)11月8日ないし9日から、おそらく11月28日あたりまでの約20日間ほどでした。その間に、瓺尻村の人々の協力を得ながら、康貞公に関係する旧跡や瓺尻村の地勢・風俗・物産などについて精力的に調査し、その記録を蓄積・整理していったのです。≫

 ここで、「崋山ファンタジー(幻想)」的に鑑賞していくと、この近景の「織図」は、崋山の現世の、蟄居中の≪「三河国(愛知県)田原藩(田原市)」の「池ノ原屋敷」≫周辺の近景ということになる。
そして、その中景は、藩主後継者として、その入嗣を一時拒み、後に年寄役末席(家老職)として仕える「田原藩第11代藩主、田原藩三宅家14代当主・三宅康直」(姫路藩藩主・酒井忠実(「酒井抱一」の実兄)の六男)の藩命により実地調査した「田原藩主三宅家の先祖(藩祖)三宅康貞」が、家康から賜った最初の領地「瓺尻(みかじり)村」(現在は埼玉県熊谷市三ヶ尻(みかじり)、当時は田原藩の「飛び地」の調査で、その調査記録は『訪瓺録』にまとめられている)、その崋山の田原藩士として大きな業績の一つとなっている「忘れ得ざる土地」の、その田園風景のイメージと連なってくる。
 これらの「近景」と「中景」とは、いわゆる、西洋画の「透視図法」の「遠近法」に因って描かれている。そして、その「遠景」は、いわゆる、東洋画の「山水之変」の「上遠下近(法)」に因っている。

「月下鳴機図」(部分拡大図「近景・中景・遠景」).jpg

「月下鳴機図」(部分拡大図「近景・中景・遠景」)

 東洋画(中国の「南画」)に連なる日本画(文人画)の、「盛行期の四大作家」の一人に目せられている「渡辺崋山」(他の三人は「浦上玉堂・青木木米・田能村竹田」)の、この絶筆の一つに目せられている、この「月下鳴機図」も、それを証しするように、その上段に、東洋画の「山水之変」の「上遠下近(法)」の「遠景」の「山水」の図柄が描かれている。
 そして、この下段の「近景」(「織」と「耕」の人家)と「中景」(その人家に連なる田園風景)と、この上段の「遠景」(山水図)との間に、朦朧とした雲海のような空間が、まるで、
「幽明境」(幽明境を異にする)の「あの世(来世)」=「遠景」と「この世(現世)」=「近景・中景」との、その「幽明境」のような趣のメッセージが伝わって来る。
 これを描き上げて、その年の十一日に、自刃して、その四十九年の生涯を閉じた。この上段の「遠景」(山水図)の左上部の「賛・落款」は、次のとおりである。

「月下鳴機図」(部分拡大図「賛・落款」).gif

「月下鳴機図」(部分拡大図「賛・落款」)

 この「賛・落款」には、その「自刃」に関わることは記されていないが、この冒頭の「青燈」の二字からも、「秋風白髪三千丈、夜雨青燈五十年」(〔韋応物‐寺居独夜寄崔主簿詩〕)のメッセージが伝わってくる。
 崋山の自刃は、「己と己の家族」の故というよりも、「己が仕えた田原藩の藩主に責任が及ぶことを恐れて」のものであったことは、その数通の「遺書」から読み取れてくる。
 それらの「遺書」の、「自筆遺書(渡辺立宛)」のものは、次のとおりである。これらのことについては、下記のアドレスのものが参考となる。

https://www.kazankai.jp/kazan_lifetime.php
【  崋山の最期
 蟄居中の崋山一家の生活を助けるため、門人福田半香らは崋山の絵を売る義会を始めました。崋山は作画に専念し、「于公高門図」「千山万水図」「月下鳴機図」「虫魚帖」「黄粱一炊図」など次々と名作を描きました。しかし、その活動により、天保12年(1841)夏の頃から「罪人身を慎まず」と悪評が起こり、藩主に災いの及ぶ事をおそれた崋山は死を決意しました。「不忠不孝渡邉登」と大書し、長男立へ「餓死るとも二君に仕ふべからず」と遺書して切腹し、49年の生涯を終えました。 】(『財団法人 崋山会』(愛知県田原市)

自筆遺書(渡辺立宛).gif

自筆遺書(渡辺立宛)

≪ 悴へ
 御祖母樣御存中は何卒御機嫌能孝行を盡べし其方母不幸之もの又孝行
  盡べし
餓死るとも二君に仕ふべからず
  月  日
  不忠不孝之父
       登
 渡邊立どの
  姉弟之事は存寄次第  ≫

 この「自筆遺書(渡辺立宛)」については、下記のアドレスに因っている。

http://sybrma.sakura.ne.jp/273watanabekazan.isyo.html

 上記の「自筆遺書(渡辺立宛)」を読み解くためには、上記のアドレスの注記により、崋山が自刃したときの、家族の状況が一目瞭然となってくる。

≪渡辺立どのあて
  御祖母樣……崋山の母。70歳。
  其方母……崋山の妻、たか。35歳。
  立……長男。10歳。
  姉弟……姉かつ、16歳。弟諧(かなう)、7歳。≫

 ここで、上記のアドレスにより、一連の「渡辺崋山の遺書」を列記して置きたい。

≪遺書 渡邊崋山
一筆啓上仕候私事老母優養仕度より誤て半香義會に感三月分迄認跡は二半に相成置候處追々此節風聞無實之事多必災至り可申候然る上は主人安危にもかゝはり候間今晩自殺仕候右私御政事をも批評致しながら不愼の義と申所落可申候必竟惰慢不自顧より言行一致不仕之災無相違候是天に非自取に無相違候然ば今日の勢にては祖母始妻子非常之困苦は勿論主人定て一通には相濟申まじくや然れば右の通相定め候定て天下物笑ひ惡評も鼎沸可仕尊兄厚御交りに候とも先々御忍可被下候數年之後一變も仕候はゞ可悲人も可有之や極秘永訣如此候頓首拜具
  十月十日
  ゝ(注:ゝ…崋山の別号「主一」の「主」の点をとったもので、崋山の隠号。)
椿山老兄 御手紙等は皆仕舞申候 ≫

≪拙者事不愼ニテ上ヘ御苦勞相カケ候テハ恐入候間今晩自殺致候御母樣ヘ對シ申譯無之不忠不孝ノ名後世ニノコリ何トモ其許ニモ申譯無之サゾサゾ後ニ御困難可被成候間必死御救申上候樣頼存候茂兵衛喜太郎ナドヘモ宜敷此樣ネル書ハ涙ノタネ故略シ申候頓首
  十月十日
助右衛門樣   ≫

≪拙者今般自殺致候譯ハ半香ノ義會ヨリ事起リ御調ニモ相成可申左候時ハ主人安危ニモ相拘リ可申ト右之通相決申候定テアクゾウモクゾウ御引出シ天下ニカケ可申樣相成可申候コヽニ於テ尊兄等面ヲ汚スガ如ク相成可申御友朋中甚痛心仕候老母妻子モ一通ナラザル事ト察シ當分不被容樣ニモ相成可申哉尊兄竊ニ御憐愛願候何ニ致セ自取義致方無之永訣如此候頓首
  十月十日
金子樣(注: 金子……金子武四郎。崋山の門人で、当時水戸藩士。) ≫

≪ 定平樣ヘ
私儀多分蒙御疑ヲ候樣奉存候間今般自殺仕候何卒世中震然致老母妻子御救ハ十分御出來被成間敷候得共密々御憐愛奉願候眞木樣生田樣二郎樣其外樣ヘモ是迄ノ御禮厚奉願候永訣
 十日   ≫

(追記一)「渡辺崋山年表」(一部抜粋)
https://www.kazankai.jp/kazan_history.php

寛政5年(1793)1  9月16日、江戸麹町田原藩上屋敷に生まれる。
寛政7年(1795)3  妹茂登生まれる。
寛政9年(1797)5  この年、軽い天然痘にかかる。
寛政12年(1800)8 若君亀吉のお伽役(おかやく)になる。妹まき生まれる。
享和元年(1801)9  最初の絵の師、平山文鏡(田原藩士)亡くなる。
享和3年(1803)11 弟熊次郎生まれる。
文化元年(1804)12 日本橋で備前侯行列に当り、乱暴を受け発奮(はっぷん)する。
文化2年(1805)13 鷹見星皐に入門し、儒学を学ぶ。弟喜平次生まれる。
文化3年(1806)14 若君元吉(後の康和)のお伽役になる。
文化4年1807)15  弟助右ヱ門生まれる。
文化5年(1808)16 絵師白川芝山に入門する。星皐より華山の号を受ける。藩主康友に従って田原に滞在する。
文化6年(1809)17 金子金陵に絵を学ぶ。金陵の紹介により谷文晁に絵を学ぶ。
文化7年(1810)18 田原に藩校「成章館」創立。妹つぎ生まれる。
文化8年(1811)19 佐藤一斎から儒学を学ぶ。
文化10年(1813)21 妹つぎ亡くなる。
文化11年(1814)22 納戸役になる。絵事甲乙会を結成し、画名が世に知られる。
文化13年(1816)24 弟五郎生まれる。
文化14年(1817)25 父定通、家老となる。
文政元年(1818)26  正月、藩政改革の意見を発表。長崎遊学を希望したが父の反対のため断念する。「一掃百態図」を描く。 藩主康友に従って田原に滞在する。
文政2年(1819)27  江戸日本橋百川楼で書画会を開く。
文政6年(1823)31  和田たかと結婚する。「心の掟」を定める。
文政7年(1824)32  7月、家督する。父定通亡くなる。
文政8年(1825)33  この年から松崎慊堂に儒学を学ぶ。
文政9年(1826)34  江戸宿舎にてオランダ使節ビュルゲルと対談。長女可津生まれる。
この頃から画号「華山」を「崋山」と改める。
文政10年(1827)35 10月、三宅友信に従い田原に来る。
文政11年(1828)36「日省課目」を定め修養に努める。側用人となり、友信の傅を兼ねる。
文政12年(1829)37 三宅家家譜編集を命ぜられる。弟喜平次亡くなる。
天保元年(1830)38 埼玉県尻に三宅氏遺跡を調査し、のちに「訪録」を書く。弟熊次郎亡くなる。
天保2年(1831)39 江戸藩邸文武稽古掛指南世話役となる。妹まき亡くなる。9月から門弟高木梧庵を伴い厚木を旅し「游相日記」を書き、10月、桐生、足利、尻地方に旅し「毛武游記」を書く。
天保3年(1832)40 家老となる。紀州藩破船流木掠取事件、助郷免除事件あり。長男立生まれる。
天保4年(1833)41 1月、家譜編集などのため田原に来て、「参海雑志」を書く。
天保5年(1834)42 幕命の新田干拓中止の願書を上申。農学者大蔵永常を田原藩に招く。
天保6年(1835)43 報民倉竣工。二男諧(後の小華)生まれる。
天保7年(1836)44 田原地方が大飢饉になる。
天保8年(1837)45 真木定前を田原に遣し、飢餓を救う。年末、無人島渡航を藩主に願うが許されず。鷹見泉石像」を描く。弟五郎亡くなる。
天保9年(1838)46 年初、「退役願書稿」を書く。蔵書画幅を藩主に献上する。「鴃舌或問」、「慎機論」を著す。儒者の伊藤鳳山を田原藩に招く。
天保10年(1839)47 江戸湾測量で伊豆の代官江川坦庵に、人材器具を援助する。5月14日、蛮社の獄により北町奉行所揚屋入りとなる。12月18日、田原蟄居の申渡しを受ける。
天保11年(1840)48 1月20日、田原着。2月12日、池ノ原屋敷に蟄居。
天保12年(1841)49 10月11日自刃する。

(追記二)渡辺崋山著・鈴木清節編『崋山全集』全2巻(崋山会)
http://kenkyuyoroku.blog84.fc2.com/blog-entry-1179.html

第1巻 1910.12.30

渡辺家略系図…………1頁
慎機論…………4頁
鴃舌或問…………12頁
西洋事情御答書…………35頁
和蘭陀風説書…………46頁
江川太郎左衛門に寄せし書簡…………48頁
江川太郎左衛門へ奥山弘平を紹介せし書簡…………51頁
星巌書簡…………52頁
江川太郎左衛門へ寄せし書簡…………53頁
斉藤弥九郎へ寄せし書簡…………54頁
斉藤弥九郎へ寄せし書簡…………55頁
斉藤弥九郎へ寄せし書簡…………55頁
麹町一件日録(椿山記)…………57頁
 崋山書簡…………67頁
 崋山書簡…………72頁
 上野御声掛願書案…………76頁
 崋山書簡…………81頁
 崋山書簡…………89頁
春山より獄中の崋山へ送りし密書…………91頁
獄中より椿山に寄せし密書…………99頁
獄中より椿山に寄せし密書…………101頁
高野長英獄中より立原杏所へ寄せし密書…………104頁
獄中より江川太郎左衛門へ寄せし密書…………106頁
崋山の口書…………108頁
松崎慊堂の上書…………124頁
申渡之書(幕府の宣告)…………132頁
松崎慊堂へ寄せし書簡…………134頁
田原到着後松崎慊堂へ寄せし書簡…………136頁
使相録…………139頁
四州真景紀行之部…………147頁
守字の解…………155頁
真木重郎兵衛へ寄せし八勿の書簡…………159頁
椿山に与へし書簡(養生論)…………161頁
復統に関する真木と往復書簡…………163頁
 定前より崋山への返書…………163頁
 崋山より定前への返書…………165頁
 定前より崋山への返書…………167頁
 崋山より定前への書翰…………168頁
 同書翰…………171頁
 定前より返書…………172頁
 崋山より返書…………173頁
 定前より返書…………176頁
真木定前上書…………179頁
 其一…………179頁
 其二…………184頁
真木宛書簡…………186頁
 其一…………186頁
 其二…………191頁
 其三…………198頁
 其四…………201頁
 其五…………202頁
 其六…………203頁
 其七…………206頁
 其八…………208頁
 其九…………210頁
 其十(深考篇)…………211頁
助郷に関する書簡…………212頁
領民へ諭告…………213頁
凶荒心得書…………216頁
退役願書…………226頁
進書趣意書…………236頁
進書目録…………238頁
守困日歴…………249頁
椿山へ与へし書簡(草虫帖)…………272頁
同手翰…………275頁
同手翰…………276頁
絵事問答…………277頁
佐藤信淵より江川英竜に寄せし書簡…………299頁
村上定平に与へたる書簡…………301頁
真木重郎兵衛に寄せし書簡…………303頁
茂兵衛宛書簡…………307頁
おもと喜太郎宛書簡…………309頁
遺書
 長男立へ宛てたる遺書…………311頁
 実弟助右衛門に宛てたる遺書…………312頁
 金子武四郎に宛てたる遺書…………313頁
 椿山に宛てたる遺書…………313頁
附録
 崋山先生略伝(三宅友信記)…………314頁

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991621/4
(「国立国会図書館デジタルコレクション」) → 「崋山全集(第一巻)」

第2巻 1915.1.15

渡辺家年譜…………1頁
訪瓺録…………33頁
毛武游記…………83頁
游相日記…………142頁
参海雑志…………176頁
兇荒御取計之事…………199頁
助郷免除歎願書…………213頁
助郷一件に付同僚に寄せし書…………215頁
暴風高浪被害届書案…………216頁
巣鴨公に贈りし書簡…………217頁
岡見某に贈りし書簡…………220頁
某氏に与へし書簡…………221頁
 其一…………221頁
 其二…………224頁
 其三…………225頁
 其四…………226頁
鈴木春山に与へし書簡…………229頁
 其一…………229頁
 其二…………229頁
 其三…………230頁
村上定平に贈りし書簡…………233頁
春山より定平に送りし書簡…………235頁
真木重郎兵衛に送りし書簡…………236頁
 其一…………236頁
 其二…………240頁
 其三…………242頁
 其四…………244頁
 其五…………246頁
川登又次郎への書状…………247頁
桐生岩本氏への書状…………248頁
佐藤半助への書状…………249頁
立原杏所よりの書状…………250頁
椿山への書状…………251頁
崋山の父定通が桐生岩本氏に寄せたる書簡…………252頁
椿山田原へ墓参し帰府後の書簡…………253頁
椿山より崋山に贈りし書簡…………256頁
季弟五郎より崋山に送りし書簡…………258頁
崋山より弥太夫への書状…………262頁
立原より椿山への書状…………263頁
幽居中の書簡…………263頁
 其一…………263頁
 其二…………265頁
 其三…………266頁
 其四…………270頁
 其五…………272頁
 其六…………276頁
 其七…………287頁
詩文…………289頁
 一掃百態序文…………289頁
 江戸名所図絵跋…………290頁
 熊沢蕃山伝…………291頁
 題自画…………292頁
 題蘭竹図…………293頁
 題美人図…………293頁
 題画竹…………294頁
 題赤壁之図…………294頁
 題機女之図…………294頁
 題画山水…………295頁
 同…………295頁
 同…………295頁
 同…………295頁
 題桃之図…………295頁
 題錦鱗青蓮之図…………296頁
 題黠鼠食葡萄之図…………296頁
 題水仙之図…………296頁
 偶成…………296頁
 同…………296頁
 贈村松太夫…………297頁
 与春山…………297頁
 幽居…………297頁
 同…………298頁
 題富士山之図…………299頁
弔詞を贈りし人への礼状…………299頁
田畯年中行事序(佐藤信淵)…………302頁
客坐録…………322頁
客坐掌記(其一)…………328頁
同(其二)…………341頁
狂歌…………361頁
俳句…………362頁
和歌…………364頁
門田の栄…………366頁
つづれの錦…………386頁

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898681
(「国立国会図書館デジタルコレクション」) → 「崋山全集(第二巻)」

(追記三)「山水之変」: 中国絵画における奥行き表現の古典様式(河野道房稿)
「同志社大学人文学会」
http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015576

(追記四)「渡辺崋山とその家族」(田原市博物館:特別展目録)

(追記五)「図版要項 崋山筆所歓校書図[東京 岩崎小弥太氏蔵]
http://id.nii.ac.jp/1440/00007291/

(追記六)「構想画について」(鳥取大学 大勝恵一郎稿)

(追記七)「青木繁の構想画に見る日欧の美術潮流―壁画的性格をめぐって―」(橋沙希稿)
http://hdl.handle.net/10112/6139

(追記八)「渡辺崋山の描いたランプについて」(大谷勝治郎稿)

(追記九)「桂川甫賢筆長崎屋宴会図について」(松田清稿)
http://id.nii.ac.jp/1092/00001662/

(追記十)「川原慶賀考(一)」(陰里鉄郎稿)
http://id.nii.ac.jp/1440/00006427/

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日本画と西洋画との邂逅(その十六) [日本画と西洋画]

(その十六)「長崎派≪漢画派(北宗画派)・黄檗派・南蘋派・南宗画派(文人画派)・洋風画派・長崎版画≫」そして「酒井抱一の洋風画」周辺など 

鹿鶴図屏風・南蘋.jpg

「鹿鶴図屏風(ろくかくずびょうぶ)」≪沈銓(しんせん)・南蘋(なんぴん) (1682―?)≫
制作地:中国 清時代・乾隆4年(1739) 絹本着色 各144.2×280.4 6曲1双
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/523960
【沈銓(しんせん)・南蘋(なんぴん)は、浙江省呉興の人。享保16年(1731)に来日し数年滞在し、擬古的(ぎこてき)で華やかな画風は江戸時代の画家に大きな影響を与えました。本図はその代表作の一つで、珍しい屏風の形式であることからも、帰国後の沈銓が幕府の注文を受けて描いたものと考えられます。】(「文化遺産オンライン」)

https://yuagariart.com/uag/nagasaki10/
【 南蘋派の開祖・熊斐と南蘋派の画人
 南蘋派は、清から渡来した沈南蘋によって伝えられた画風で、緻密な写生と鮮やかな彩色が特徴である。沈南蘋は、享保16年に渡来して18年まで長崎に滞在しており、この間に、中国語の通訳である唐通事をしていた熊代熊斐(1712-1772)に画法が伝授された。南蘋に直接師事した日本人は熊斐ただひとりであり、熊斐の元には多くの門人が集まり、その中からは鶴亭、森蘭斎、宋紫石らが出て、南蘋の画法は全国に広まっていった。熊斐の作画活動については、唐絵目利などの本業ではなかったこともあり不明な点が多い。

熊代熊斐(1712-1772)(くましろ・ゆうひ)
 正徳2年生まれ。神代甚左衛門。長崎の人。唐通事。はじめ神代で、のちに熊代に改姓した。名は斐、字は淇瞻、通称は彦之進、のちに甚左衛門。号は繍江。はじめ唐絵目利の渡辺家に画を学び、享保17年に官許を得て清の画家・沈南蘋に師事した。享保18年の南蘋帰国後は、享保20年に来日した高乾に3年間師事したという。南蘋に師事したのは9ケ月のみだったが、南蘋に直接師事したのは熊斐だけであり、熊斐を通じて南蘋の画風は全国にひろまっていった。官職としては、元文4年に養父の神代久右衛門(白石窓雲)の跡を継ぎ内通事小頭となり、明和3年に稽古通事となった。安永元年、61歳で死去した。

沈南蘋(1682-不明)(しん・なんぴん)
 清の浙江省呉興の人。名は銓、字は衡斎。師の胡湄は明の呂紀風の花鳥画をよくしたという。享保16年に高乾、高鈞らの門弟とともに長崎に渡来した。将軍徳川吉宗が唐絵の持込みを命じたことによるという。長崎に享保18年まで留まり、熊斐に画法を授けた。熊斐を通じて伝わった南蘋の画風はその後の日本絵画に大きな影響を与えた。帰国後は浙江・江蘇省地方を中心に活動したが、求めに応じて日本へ作品を送っていたという。

宋紫石(1715-1786)(そう・しせき)
 正徳5年生まれ。江戸の人。本名は楠本幸八郎。字は君赫、霞亭。別号に雪溪、雪湖、霞亭、宋岳などがある。長崎に遊学して熊斐に学び、また清の宋紫岩にも師事した。宋紫岩に学んだことから宋紫石と名乗った。江戸で南蘋風をひろめた。平賀源内とも交友があり、司馬江漢にも画法を伝えた。南蘋派で最も洋風画に接近した画風で、余白を多くとり軽く明るい画面を生み出した。天明6年、75歳で死去した。

鶴亭(1722-1785)(かくてい)
 享保2年生まれ。長崎の人。黄檗僧海眼浄光。名ははじめ浄博、のちに浄光、字ははじめ恵達、のちに海眼。別号に如是、五字庵、南窓翁、墨翁、壽米翁、白羊山人などがある。長崎の聖福寺で嗣法するが、延享3、4年頃還俗して上方に移住した。長崎で熊斐に学び、上方に南蘋風を伝えた。木村蒹葭堂、柳沢淇園らと交友した。明和3年頃に再び僧に戻り、黄檗僧になってからは主に水墨画を描いた。天明5年、江戸において64歳で死去した。

黒川亀玉(初代)(1732-1756)(くろかわ・きぎょく)
 元禄15年生まれ。江戸の人。名は安定、字は子保。号は松蘿館・商山処士。はじめ狩野派を学び、のちに沈南蘋の筆意を慕った。宝暦6年、55歳で死去した。

真村蘆江(1755-1795)(まむら・ろこう)
 宝暦5年生まれ。長崎の人。名は斐瞻、通称は長之助。別号に耕雲山人がある。熊斐に画を学んだ。寛政7年、41歳で死去した。

大友月湖(不明-不明)(おおとも・げっこ)
 長崎の人。名は清、通称は内記。別号に沈静がある。熊斐に画を学び、山水を得意とした。

熊斐文(1747-1813)(ゆうひぶん)
 延享4年生まれ。熊斐の長男。通称は銭屋利左衛門、名は章。繍山と号した。文化10年、67歳で死去した。

熊斐明(1752-1815)(ゆうひめい)
 宝暦2年生まれ。熊斐の二男。名は斐明、通称は神代陽八。繍滸、竹菴と号した。父に画を学んだ。文化12年、64歳で死去した。

諸葛監(1717-1790)(しょかつ・かん)
 享保2年生まれ。江戸両国の人。通称は清水又四郎、字は子文、静齋または古画堂と号した。名は来舶清人の諸葛晋にちなんだもの。長崎に行くことなく、独学で南蘋風を学んだと思われる。寛政2年、74歳で死去した。

松林山人(不明-1792)(まつばやし・さんじん)
 長崎の人。姓ははじめ松林、のちに林、名は儼、字は雅膽。熊斐に師事した。着色に秀で花鳥を得意とした。安永年間に江戸に出て浅草に住んでいた。寛政4年、江戸で死去した。

宋紫山(1733-1805)(そう・しざん)
 享保18年生まれ。宋紫石の子。尾張藩御用絵師。名は白奎、字は君錫、苔溪とも称した。父の画法に忠実に従った。文化2年、73歳で死去した。

藤田錦江(不明-1773)(ふじた・きんこう)
 江戸の人。出羽国庄内藩酒井家藩士。名は景龍、包擧ともいった。字は瑞雲、錦江は号。通称は宇内。画を宋紫石に学んだと伝わっている。安永3年死去した。

森蘭斎(1740-1801)(もり・らんさい)
 元文5年生まれ。越後の人。名は文祥、字は九江・子禎。別号に鳴鶴がある。本姓は森田氏。長崎に出て熊斐に学んだ。熊斐没後の安永2年に大坂に移り、『蘭斎画譜』8冊を刊行、江戸に移り没後の享和2年に『蘭斎画譜続編』が刊行された。熊斐の画風を遵守し、南蘋派が受け入れられるところに移動していったと思われる。享和元年、62歳で死去した。

董九如(1745-1802)(とう・きゅうじょ)
 延享元年生まれ。名は弘梁、字は仲漁。別号に廣川居士、黄蘆園などがある。宋紫石に画を学んだ。享和2年、59歳で死去した。

勝野范古(不明-1758)(かつの・はんこ)
 長崎の人。柳溪と号し、二蔵と称した。師系は不明だが、南蘋の画法を学んだと思われる。宝暦8年死去した。

宋紫崗(1781-1850)(そう・しこう)
 天明元年生まれ。宋紫山の子。名は琳、字は玉林。別号に雪溪、聴松堂がある。嘉永3年、70歳で死去した。

洞楊谷(1760-1801)(とう・ようこく)
 宝暦10年生まれ。長崎の人。片山楊谷。名は貞雄、通称は宗馬。沈南蘋の画法を学んだ。寛政5年因州の茶道家・片山宗杷の家を継いだ。享和元年、42歳で死去した。

福田錦江(1794-1874)(ふくだ・きんこう)
 寛政6年生まれ。長崎の人。名は範、字は君常、通称は範二郎。別号に竹園がある。はじめ画を熊斐に学び、のちに南蘋の画法に倣った。明治7年、81歳で死去した。

鏑木梅溪(1750-1803)(かぶらぎ・ばいけい)
 寛延2年生まれ。長崎の人。名は世胤・世融、字は君冑・子和、通称は弥十郎。はじめ田中氏、また平氏を名乗った。江戸に出て鏑木氏の養子となった。荒木元融の門人で、沈南蘋に私淑したと思われる。享和3年、59歳で死去した。   】(「UAG美術家研究所」)

白衣観音観瀑図.jpg

「白衣観音観瀑図」(長崎歴史文化博物館) 逸然性融筆  寛文5年(1665)1幅 絹本著色 縦109.2 横43.8 〔落款〕寛文乙巳季正陽月八日 烟霞比丘逸然融焚盥敬写「釈性融印」(白文方印)「逸然氏」(朱文方印)
https://www.tobunken.go.jp/materials/nenki/815606.html

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【  長崎漢画の祖・逸然性融  
 隠元隆琦によって長崎に伝えられた黄檗宗には、黄檗肖像法によって肖像画を描いた喜多氏ら肖像画工のほか、興福寺の僧・逸然性融(1601-1668)を開祖とする漢画(唐絵)のグループがあった。漢画とは、江戸時代に中国から伝わった明清画風の影響を受けて成立した絵画様式を指すもので、そのひとつの中心として黄檗宗が機能していた。逸然は中国の浙江省抗州府の人で、貿易商として長崎に渡来し、黙子如定のもとで出家、興福寺の3代住持をつとめるかたわら、画家としても活躍した。画技は独学で習得したものと思われ、そのほとんどが仏画や高徳画だったが、背景には好んで山水などを描いている。逸然の門人には、のちに長崎を代表する画人となる渡辺秀石と河村若芝がおり、漢画は、渡辺家や石崎家といった唐絵目利の画家たちに受け継がれ、長崎画壇の主流となっていった。

逸然性融(1601-1668)(いつねん・しょうゆう)
 万暦29年明国浙江省生まれ。李氏出身。名は性融、字は逸然。号に浪雲庵主、烟霞比丘、煙霞道人がある。正保元年明末の反乱期に長崎に渡来し、翌2年から明暦元年まで興福寺3代住持をつとめた。承応3年には中国から隠元禅師を招き、日本黄檗宗発展に貢献した。また、画僧として北宗画系統の新画風を伝え、長崎漢画の祖となった。門人に、渡辺秀石、河村若芝がいる。代表作に、巌上観音菩薩像、並賢・文珠菩薩像双幅、芦葉達磨図、布袋図などがある。寛文8年、68歳で死去した。

隠元隆琦(1592-1673)(いんげん・りゅうき)
 万暦20年中国福建省生まれ。俗姓は林。29歳の時に中国の黄檗山萬福寺で出家し、その後各地を遍歴、臨済宗の高僧・密雲円悟のもとで禅の修業をかさねたのち、密雲に随従して黄檗山に帰り、住持費隠通容から法を継ぎ、黄檗山の復興発展に尽くした。隠元の名声は日本にも及び、長崎興福寺の住持・逸然性融が再三にわたって来日を招聘していたため、承応3年多数の弟子や諸種の職人を伴い来日した。はじめ3年で帰国する予定だったが、臨済宗妙心寺派の龍溪性潜、竺印祖門らの働きかけなどで帰国を断念、寛文元年山城国宇治郡に中国と同じ名前の黄檗山萬福寺を開創し、日本黄檗宗の開祖となった。寛文4年には住持を木庵に譲り、山内の松隠堂に退隠、寛文13年、82歳で死去した。 】「UAG美術家研究所」)

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【  来舶四大家、伊孚九・張秋谷・費漢源・江稼圃 
 18世紀の後半から19世紀の中頃になると、渡来の途絶えた黄檗僧に代わって清人が盛んに渡来するようになった。彼ら来舶清人によって南画の画風が伝えられると、長崎の画家のみならず、各地の文人たちに注目され、空前の中国ブームが出現した。江戸時代に長崎にやってきた清の画家のうち、伊孚九、張秋谷、費漢源、江稼圃は、来舶四大家と称され、なかでも何度も来日した伊孚九は、日本の文人たちと交流し、その詩書や南画の教養は、池大雅や田能村竹田らの南画家に大きな影響を与えた。

伊孚九(1698-1747?)い・ふきゅう
 中国呉興の人。名は海、字は孚九、莘野、莘野耕夫と号した。別号に匯川、也堂、雲水伊人、養竹軒などがある。本業は船主。享保5年から延享末頃にかけて来航した。延享4年8月付の『伊孚九書上船員名簿』には「船主伊孚九年五十歳」とあり、生年は康熙37年だと推測され、最初の来舶時は23歳だったと思われる。

張秋谷(不明-不明)(ちょう・しゅうこく)
 中国仁和の人。名は崑、字は秋谷。幼いころから画を好み、天明年間に来日。帰国後は名を莘、字を秋穀と改め、倪雲林の山水、呉鎮の蘭竹を手本とした。来舶四大家の中では、中国で最も名の通った画人であり、椿椿山や渡辺崋山らに大きな影響を与えた。天明8年に長崎遊学した春木南湖は、唐大通事清河栄左衛門の紹介で弟子となった。南湖の手記『西遊日簿』によると、秋谷は背が高く痩せ型で、静かな人物だったという。

費漢源(不明-不明)(ひ・かんげん)
 中国茗渓の人。名は瀾、字は漢源、浩然と号した。宝暦6年頃までの間に数回来舶したとみられる。南京船主としての最初の来舶は、元文2年とされるが、嘉永4年刊行の『続長崎画人伝』や寛政2年刊行の『玉洲画趣』などでは、享保19年に初めて来舶したとされている。初来日は、信牌目録に名をとどめないような立場で来航したのかもしれない。長崎では建部凌岱、楊利藤太などに画法を授けた。

江稼圃(不明-不明)(こう・かほ)
 中国臨安の人。名は泰交、字は大来、連山。張栄蒼らに書や画法を学んだ。文化元年から6年まで財副として来舶し、以後数回来舶が記録されている。長崎三画人と称される鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門らが画法を学んでおり、長崎南画の発展に貢献した。長崎遊学した菅井梅関に南画を教えた。梅関の号は江稼圃より梅の図を贈られたことに由来する。 】
(「UAG美術家研究所」)

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【  幕末の長崎三画人、鉄翁祖門・木下逸雲・三浦梧門
 来舶四大家のひとり江稼圃は、文化元年から6年頃まで来日し、弟の江芸閣とともに長崎の南画興隆の基礎をつくった。さらに続いて来日した徐雨亭、王克三らによって長崎の南画は一段と本格的なものになっていった。幕末の長崎三画人と称された、鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も江稼圃に学んでいる。江稼圃の来日前は、鉄翁祖門と木下逸雲は石崎融思に、三浦梧門は渡辺鶴洲にそれぞれ漢画の画法を学んだが、江稼圃の渡来後は彼について南画を学び、これを大成した。南画は全国に広まり、池大雅、与謝蕪村、田能村竹田、谷文晁らが活躍、江戸後期の日本画壇に主要な地位を占めた。

鉄翁祖門(1791-1872)(てつおう・そもん)
 寛政3年長崎市銀屋町生まれ。俗姓は日高。鉄翁の号は30歳代半ばから用いた。文政3年から春徳寺の第14代住持をつとめ、嘉永3年に退隠した。はじめは石崎融思に師事したが飽きたらず、28歳の頃に来日した江稼圃について南画の画法を習得、特に退隠後は画禅三昧にひたり、蘭図を得意とし、蘭の鉄翁と称された。田能村竹田らとも交友し、多くの門人を育てた。明治4年、81歳で死去した。

木下逸雲(1799-1866)(きのした・いつうん)
 寛政11年長崎市八幡町生まれ。通称は志賀之助、名は相宰、諱は隆賢。別号に養竹山人、如螺山人、物々子などがある。18歳で八幡町乙名をつとめ、文政12年退役。本業は内科外科を兼ねる医者だった。亀山焼の発展に寄与し、日中文化交流の長崎丸山花月楼清譚会の世話人もつとめた。画法は、鉄翁と同じく最初は石崎融思に学び、のちに最も影響を受けた江稼圃について南画を学び、鉄翁とともに幕末長崎南画界の大御所的存在となった。天保3年に建てられた諏訪神社の能舞台には、大和絵風に松の絵を描くなど、広く画法を学び、西洋画にも関心を寄せた。篆刻も巧みで、鉄翁にも印を贈っている。慶応2年、江戸に遊び、横浜から長崎への帰路、海上で遭難し、68歳で死去した。

三浦梧門(1808-1860)(みうら・ごもん)
 文化5年生まれ。本興善町乙名三浦惣之丞の長男。通称は惣助、諱は惟純。別号に秋声、荷梁、香雨などがある。邸内に植えていた梧桐のなめらかな美しさを愛し、梧門と号したという。長崎本興善町乙名や長崎会所目付役などをつとめた。渡辺鶴洲や石崎融思に画法を学び、さらに中国の名画を独学で研究し、南画の大家と称された。土佐派の画や肖像画も得意とした。万延元年、53歳で死去した。 】(「UAG美術家研究所」)

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【  長崎三画人後の三筆、守山湘帆・中村陸舟・伊東深江
 長崎三画人らによって大成された南画は、その後も門人たちによって引き継がれ、鉄翁祖門に学んだ守山湘帆と中村陸舟、三浦梧門に学んだ伊東深江の三人は、長崎後の三秀とも崎陽後の三筆とも称された。ほかにも、鉄翁の門からは松尾琴江、立花鉄嵒、木下逸雲の門からは、池辺蓮谿、小曽根乾堂、池島邨泉、成瀬石痴らが出て、長崎南画の画系は引き継がれた。大正、昭和に入ってからも鉄翁直系の正統を継いだ帯屋青霞が長崎南画の第一人者として活躍、伝統継承と後進の育成につとめた。

守山湘帆(1818-1901)「帆」は正式には「馬+風」(もりやま・しょうはん)
 文政元年長崎生まれ。通称は愛之助、諱は吉成、字は士順。伊東甚八義重の三男、のちに桜町の守山家の養子となった。出島組頭をつとめた。幼いころから鉄翁祖門について南画を学んだ。明清画家の作品も独習し、文久年間に徐雨亭が来舶すると、画法、書法を学んだ。明治34年、83歳で死去した。

中村陸舟(1820-1873)なかむら・りくしゅう
 文政3年生まれ。本名は利雄、通称は六之助、字は浄器。別号に梅香がある。家は代々遠見番で、家業を継ぎ長崎奉行組下遠見番役人をつとめた。高島晴城について西洋の砲術を学び、ほかにも、造船学、航海学、機関学、算術などを修めた。その一方で、鉄翁祖門について南画を学んだ。明治6年、54歳で死去した。

伊東深江(1835-不明)いとう・しんこう
 天保6年生まれ。通称は福太郎、諱は孝正、字は中甫。別号に春農がある。伊東家は代々町乙名の家系であり、深江も恵比寿町乙名の役をつとめ、幕末には居留地係となり、明治元年には長崎取締助役となった。養豚業に従事するも失敗、以後、長崎を去り神戸に移住した。三浦梧門に南画を学び、山水図と芦雁図を得意とした。

  (以下略)      】(「UAG美術家研究所」)

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【  洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎の洋風画家
 長崎に入ってきた絵画の制作年代や真贋などを判定、さらにその画法を修得することを主な職務とした唐絵目利は、渡辺家、石崎家、広渡家の3家が世襲制でその職務についていた。享保19年には荒木家が加わり4家となったが、その頃には、長崎でも洋風画に対する関心が高まっており、荒木家は唐絵のほかに洋風画にも関係したようで、荒木家から洋風画の先駆的役割を果たした荒木如元と、西洋画のほか南画や浮世絵にも通じて長崎画壇の大御所的存在となる石崎融思が出た。融思の門人は300余人といわれ、のちに幕末の長崎三筆と称された鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も融思のもとで学んでいる。ほかの洋風画家としては、原南嶺斎、西苦楽、城義隣、梅香堂可敬、玉木鶴亭、川原香山、川原慶賀らがいる。

石崎融思(1768-1846)
 明和5年生まれ。唐絵目利。幼名は慶太郎、通称は融思、字は士斉。凰嶺と号し、のちに放齢と改めた。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。西洋絵画輸入に関係して増員されたと思われる唐絵目利荒木家の二代目荒木元融の子であるが、唐絵の師・石崎元徳の跡を継いで石崎を名乗った。父元融から西洋画も学んでおり、南蘋画、文人画、浮世絵にも通じ長崎画壇の大御所的存在だった。その門人300余人と伝えている。川原慶賀やその父香山とも親しかったが、荒木家を継いだ如元との関係はあまりよくなかったようである。弘化3年、79歳で死去した。

原南嶺斎(1771-1836)
 明和8年生まれ。諱は治堅。別号に南嶺、南嶺堂などがある。河村若芝系の画人で河村姓を名乗ったこともある。唐絵の師は山本若麟あたりだと思われる。自ら蛮画師と称していたほど油彩画も得意とした。天保7年、66歳で死去した。

西苦楽(不明-不明) (略)
城義隣(1784-不明)   (略)
梅香堂可敬(不明-不明) (略)
玉木鶴亭(1807-1879)  (略)    】(「UAG美術家研究所」)

ヒポクラテス像・酒井抱一.jpg

「ヒポクラテス像」≪酒井抱一筆、ドゥーフ賛 (1761- 1829)≫ 江戸時代、文化7年/1810年 絹本著色 112.0×33.7cm 1幅 落款:「抱一暉真写」 印章:「文銓」(朱文瓢印)
賛:Hendrik Doeff,Jr.「Hippocrates Zegt, dat Ziecktens/niet geneezen worden door Welspreekenheid/maar door Geneesmiddelen/Jedo/Ao.1810/Hendrik Doeff」 神戸市立博物館蔵 来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/430902

≪ ヒポクラテスは西洋医学の祖として蘭学者が崇め、その肖像は大槻玄沢の紹介を契機として、石川大浪が蘭書コルネイキ所収の肖像を寛政十一(一七九九)年模写したものが最古とされている。以降七〇点に及ぶヒポクラス像の存在が確認されている。
 本図はオランダ商館長のドゥーフ(一七七七~一八三五)が文化七(一八一〇)年に江戸参府の折に賛を寄せたもの。本図は緒方富雄氏によっても触れられているが(『蘭学と日本文化』一九七一年 東京大学出版会)、ズーフの賛も抱一の絵も信憑性に欠けるとされてきた。しかしここではあらためて抱一画を検証したい。
 このヒポクラテス像は金輪をめぐらす楕円状の縁取りを以て表わされる。円内は薄い藍が一面に塗ってあり、ヒポクラテスの白髪を際立たせる外隈のような役割を果たしている。肖像、特に顔や手では陰影表現に苦慮した形跡が明らかである。微妙な陰影を表わすため、細かい筆致を重ねており唇の一部を濃くするなど写実的な表現に腐心している。顔と手のバランスは不釣り合いで、とりわけ目だけが極端に大きく見える。これほど戸惑ったような筆致は抱一には他になく、文化七年の抱一画として認めがたい向きもあるだろう。
 しかしそうした迷いのある筆致こそが、抱一が真摯に西洋画に向き合っている証とも言える.衣紋線には抱一の線描の特徴、しなやかな曲線が多く見出される。二重の金の輪を成す額は、輪郭を細い墨線で描いており、全体に丁寧な仕上げとなっている。また「抱一暉真写」の謹直な署名は文化中期頃とみて差し支えなく、「文銓」(朱文瓢印)は通常の「文銓」(朱文瓢印)より太めで使用例が限られるものだが、その事が真筆を否定するものではない。
 宗雅のサロンには蘭方医桂川甫周がよく名を連ねており、抱一がこうした蘭画に関心を抱くことはむしろ自然に思われる。年代は下がる、甫周の孫、甫賢は文化十三(一八一六)年以降、自ら「ヒポクラテス像」をいくつも描いている。抱一周辺で「ヒポクラテス」像に接する機会は整っていたとみて良いだろう。洋風画への抱一の関心は彼の画業全体の中で決して大きいものではないが、琳派以外にも幅広い作風を修めた抱一であれば、洋風画を試みたことも考えられよう。
(賛)→上記の「神戸市立博物館」の「賛」と同じ(「スペル」に若干の相違あり)≫
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「作品解説(岡野智子稿)」)

 この「文化七(一八一〇)年」は、酒井抱一、五十歳の時で、この年の新春に、「小鶯女史」(抱一が「吉原大文字楼」から身請けする「子鶯」女史)の「賛」がある「紅梅図」を制作した頃で、それを、ここで再掲して置こう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-01

(再掲)

紅梅図.jpg

【酒井抱一筆「紅梅図」(小鸞女史賛) 一幅 文化七年(一八一〇)作 細見美術館蔵
絹本墨画淡彩 九五・九×三五・九㎝
≪ 抱一と小鸞女史は、抱一の絵や版本に小鸞が題字を寄せるなど(『花濺涙帖』「妙音天像」)、いくつかの競演の場を楽しんでいた。小鸞は漢詩や俳句、書を得意としたらしく、その教養の高さが抱一の厚い信頼を得ていたのである。
小鸞女史は吉原大文字楼の香川と伝え、身請けの時期は明らかでないが、遅くとも文化前期には抱一と暮らしをともにしていた。酒井家では表向き御付女中の春條(はるえ)として処遇した。文化十四年(一八一七)には出家して、妙華(みょうげ)と称した。妙華とは「天雨妙華」に由来し、『大無量寿経』に基づく抱一の「雨華」と同じ出典である。翌年には彼女の願いで養子鶯蒲を迎える。小鸞は知性で抱一の期待によく応えるとともに、天保八年(一八三七)に没するまで、抱一亡きあとの雨華庵を鶯蒲を見守りながら保持し、雨華庵の存続にも尽力した。
本図は文化六年(一八〇九)末に下谷金杉大塚村に庵(後に雨華庵と称す)を構えてから初の、記念すべき新年に描かれた二人の書き初め。抱一が紅梅を、小鸞が漢詩を記している。抱一の「庚午新春写 黄鶯邨中 暉真」の署名と印章「軽擧道人」(朱文重郭方印)は文化中期に特徴的な踊るような書体である。
「黄鶯」は高麗鶯の異名。また、「黄鶯睨睆(おうこうけいかん)」では二十四節気の立春の次候で、早い春の訪れを鶯が告げる意を示す。抱一は大塚に転居し辺りに鶯が多いことから「鶯邨(村)」と号し、文化十四年(一八一七)末に「雨華庵」の扁額を甥の忠実に掲げてもらう頃までこの号を愛用した。
 梅の古木は途中で折れているが、その根元近くからは新たな若い枝が晴れ晴れと伸びている。紅梅はほんのりと赤く、蕊は金で先端には緑を点じる。老いた木の洞は墨を滲ませてまた擦筆を用いて表わし、その洞越しに見える若い枝は、小さな枝先のひとつひとつまで新たな生命力に溢れている。抱一五十歳の新春にして味わう穏やかな喜びに満ちており、老いゆく姿と新たな芽吹きの組み合わせは晩年の「白蓮図」に繋がるだろう。
 「御寶器明細簿」の「村雨松風」に続く「抱一君 梅花画賛 小堅」が本図にあたると思われ、酒井家でプライベートな作として秘蔵されてきたと思われる。
(賛)
「竹斎」(朱文楕円印)
行過野逕渡渓橋
踏雪相求不憚労
何處蔵春々不見惟 
聞風裡暗香瓢
 小鸞女史謹題「粟氏小鸞」(白文方印) ≫   】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説96(岡野智子稿)」)

石川大浪「ヒポクラテス像」.gif

「ヒポクラテス像」≪石川大浪筆、シーボルト題 (1762-1818)≫ 江戸時代/19世紀初期
絹本墨画 79.9×31.4cm 1幅  落款:「因泰西畫法/大浪写」印章:「SK」(朱文円印)題:シーボルト「Afbeeldmg/van den/vermaarden Geneesheer/Hippokrates./Dezima den15=Sioguats/Anno1825/Dr. von Shiebold.」(於長崎出島、1825年)裏面に谷文晁(文政元)、石田潜(明治12)の題記貼付
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/429362
【 石川大浪は、大槻玄沢の依頼を受けて『史的年代記』から初めてヒポクラテス像を模写しました。正しい図像を描くために選ばれた大浪は、蘭学者にとって特別の画家でした。本図は、フランソワ・ブーシェの原画をジル・ドゥマルトーが銅版画にした「男の頭像」を原本とする作品。当初よりヒポクラテス像として描かれたかどうかは不明ですが、オランダ語の題記から「ヒポクラテス像」とされています。裏には谷文晁による識語「大御番石川七左衛門号大浪善画墨然又工/写泰西画法友弟谷文晁記時文政戊寅/七月廿日」が貼られ、大浪が文晁に西洋画法を教授した際の記念の作品と思われます。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・勝盛典子「大浪から国芳へ―美術にみる蘭書需要のかたち」(『神戸市立博物館研究紀要』第16号) 2000
・陰里鉄郎「石川大浪筆ヒポクラテス像をめぐって 江戸洋風画とヨーロッパ版画」(『ミュージアム』268 1973) 】(「文化遺産オンライン」)

ドゥーフ像・川原慶賀.jpg

「ドゥーフ像」≪川原慶賀か≫ 江戸時代、享和3年〜文化14年/1803年〜1817年 紙本著色 35.0×23.0(額の外寸)1面 款記「Hendrik Doeff Junior Opperhofd van ao1803 Tot Ao」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/456559
【 ヘンドリック・ドゥーフ(1777~1835)は、享和3年(1803)に荷倉役から商館長となり、文化14年(1817)の離日まで14年間商館長を勤めました。当時の西洋人の肖像画にありがちな日本人臭を感じさせない本図は、ドゥーフの容貌をかなり正確に伝えていると思われます。諸色売込人(しょしきうりこみにん)川島家の旧蔵品です。繊細な青貝細工を施した漆器製の額には「Hendrik Doeff Junior Opperhofd van ao1803 Tot Ao」と、商館長就任期間の最後をあけて銘が記されています。制作動機は、商館長就任の記念、あるいは、文化6年に商館長居宅で催された日蘭友好200年記念パーティーと推察されますが、確定にはいたりません。池長蒐集当時より作者は川原慶賀に帰属されますが、落款がなく、制作時期と連動する問題でもあり、検討の余地があります。
来歴:長崎川島友一→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008 】(「文化遺産オンライン」)

桂川甫賢 ・ヒポクラテス像.jpg

「桂川甫賢 ヒポクラテス像」(桂川甫賢画並賛) 早稲田大学図書館
https://www.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/b08_b0158/
【 製作・刊行年等:文化13年 ; 材質:インク鵞ペン書 絹本淡彩 ; 数量:一軸 ; 大きさ:82.5×33CM ; 解説文:ヒポクラテス(Hippokrates,BC.460-375?)はギリシャのコス島出身の医師。医学を宗教や迷信から分離して「医学の父」と称された。日本の蘭方医も彼の肖像を医学の祖として掲げ芝蘭堂新元会図にもその像がみえる。法眼桂川国寧(甫賢。1797-1844)自筆の画および賛は文化13年、20才の作。蘭文の賛は、ドイツ出身の医者ヨ八ン・クルムス(Kulmus,Johann Adam. 1687-1745)の原文とその漢訳。絹本淡彩。 】

 この「ヒポクラテス像」を描いて、そして「賛」をした「桂川甫賢(桂川家七代)」(1797-1845)は、「酒井抱一」((1761-1828))、そして、その長兄の「姫路城城主・酒井忠以」(1756-1790)と親交のあった「桂川甫周(桂川家四代)」((1751-1809))の、次の世代で、それは、
「シーボルド事件」(文政一一年(一八二八)に起きた蘭学者処罰事件)や「蛮社の獄」((蛮社は「蛮学社中(洋学仲間の意)」の略) 天保一〇年(一八三九)、江戸幕府が洋学者のグループ尚歯会に加えた弾圧事件。モリソン号事件・異国船打払い令などを批判して渡辺崋山は「慎機論」、高野長英は「夢物語」を著わしたがこれに対し幕府は、政治批判の罪で崋山に国許蟄居、長英に永牢の判決を行なった)の時代、これは、その「シーボルド事件」が勃発する十年位前の、文化一三(一八一六)、甫賢の二十歳の頃の作品ということになる。

花鳥図并賛・桂川甫賢.jpg

「6.花鳥図并賛(文庫8 B160)桂川甫賢(国寧)画賛」 文政4年(1821)6月 絹本彩色 1軸 )
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/ikimono1/ikimono1.html
【桂川甫賢(国寧,1797-1844)は幕府奥医師の家、桂川家の六代として生まれ、大槻玄沢らについて蘭学を学んだ。鷹見泉石(1785-1858)、渡辺崋山(1793-1841)らとも交流があり、絵画もよくした。】

≪ 桂川甫賢(かつらがわ-ほけん) 1797-1845 江戸時代後期の医師。
寛政9年生まれ。桂川家5代桂川甫筑の長男。桂川家6代。大槻玄沢(げんたく),坪井信道(しんどう)らに蘭学をまなぶ。文政10年父の跡をついで幕府の奥医師となる。のち法眼(ほうげん)。漢方と蘭方の両方の長所活用につとめた。シーボルトとまじわり,バタビア芸術科学協会会員。弘化(こうか)元年12月6日死去。48歳。名は国寧(くにやす)。字(あざな)は清遠。号は桂嶼,翠藍。 ≫ (出典:「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plu」)


(参考その一)

「(早稲田図書館蔵)ヒポクラテス関係資料(緒方富雄稿)」(抜粋)

【或云一百九歳。真医家之宗師也。
文化十三丙子仲秋奉朝請医官桂川甫賢国寧写井題
釈文
コルムスいわく
ヒボクラテス数部を著撰す。その解剖書のごときは、我輩みな先生をもって始祖となす。先生は紀元前四百三十二年をもってギリシア中マセドニエンの地に生る。すなわち第二世ペルデカス王の時にあたる。寿一百四歳。あるいはいう一百九歳。真に医家の宗師なり。】

(参考その二)

「桂川甫賢筆長崎屋宴会図について(著者・松田清) 雑誌名・神田外語大学日本研究所紀要12 p 234-170 発行年2020-03-30」
URL http://id.nii.ac.jp/1092/00001662/

【はじめに (略)
第1 章 文政5 年以前の長崎屋図 (略)
第2 章 桂川甫賢筆長崎屋宴会図 (抜粋)

桂川甫賢筆 長崎屋宴会図.gif

図14 桂川甫賢筆 長崎屋宴会図 神田外語大学附属図書館蔵
第3 章 仮装宴会の企画と演出  (略)  
おわりに ―長崎屋宴会図の由来― (略)     】

(参考その三)

「桂川甫賢筆ヒポクラテス像の賛、新出二種の典拠について」(松田清稿)
http://id.nii.ac.jp/1092/00001728/

医聖依卜加得(イボカテ=ヒポクラテス)像.gif

図1 医聖依卜加得(イボカテ=ヒポクラテス)像 衆星堂蔵

桂国寧恭写并書(白文方印)(朱文方印
文政甲申春晩
道長生短時乎易(道は長く、生は短し。時たるや失い易し。)
失診察雖多證因(診察は證因多しと雖も、)
難皙蘊奥深徴無(蘊奥の深徴を皙(アキラ)め難く、)
窮已日夜研精無軽(窮まり無くして已む。)
忽西洋医聖依卜(西洋の医聖依卜)
加得語(加得の語なり。)

依卜加得(イボカテ=ヒポクラテス)文章一.gif

図2  依卜加得(イボカテ=ヒポクラテス)文章一 口絵と本文冒頭 神田外語大学日本研究所蔵

図3  依卜加得文章一 末尾(依卜加得肖像由来書) 神田外語大学日本研究所蔵(略)
図4 医聖依卜加得蔵 蘭文賛 衆星堂蔵 (略)
図5  ヒポクラテス箴言集 第二版 口絵 個人蔵 (略)
図6  ヒポクラテス箴言集 第二版 標題紙 個人蔵 (略)
図7  ヒポクラテス箴言集 第一箴言 個人蔵 (略)
図8  医聖依卜加得像 落款印 衆星堂蔵 (略)
図9 A. G. ルイシウス編『総合歴史地理系譜学辞典』第5 巻 標題紙 個人蔵(略)
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日本画と西洋画との邂逅(その十五) [日本画と西洋画]

(その十五)「南蛮(ポルトガル・スペイン)画」から「蘭(オランダ・阿蘭陀・紅毛)画」(「洋風画)、そして「長崎洋風画(若杉五十八・荒木如元・川原慶賀)」周辺など

リスボン・南蛮屏風.jpg

上図: 「狩野内膳筆(落款):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)
下図: 「狩野道味筆(伝):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)
紙、金箔、多色テンペラガ、シルク、ラッカー、銅金 178x 366.4 x 2 cm(1st)
出典:リスボン国立古美術館ホームページ
http://museudearteantiga.pt/collections/art-of-the-portuguese-discoveries/namban-folding-screens

https://museudearteantiga-pt.translate.goog/collections/art-of-the-portuguese-discoveries/namban-folding-screens?_x_tr_sch=http&_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-04

【 ポルトガルと日本の関係に関する重要な歴史的・芸術的文書は、長崎港にポルトガルの船が到着したことについて述べています。 スペースを別々のコンパートメントに分割するように設計されたスクリーンは、一般的に、紙で覆われ、薄いラッカーフレームに囲まれた可変数のヒンジ付き葉からなるペアで作られました。
 1543年に日本にポルトガル人が到着したことで、長崎港に南蛮人と呼ばれる南方の黒い船(南からの野蛮人)の到着によって生み出された好奇心とお祝いの雰囲気という2組のスクリーンに記録された商業文化交流が生まれました。
 現場の様々な参加者が描かれている偉大な詳細、船とその貴重な貨物の説明、そしてこの文脈で非常に重要なイエズス会の宣教師の存在は、これらの作品をポルトガルと日本の関係についてのユニークな歴史的、視覚的な文書にします。 】

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-15

洋人奏楽図屏風(右隻).jpg
洋人奏楽図屏風(左隻).jpg

上図:「洋人奏楽図屏風・右隻」(六曲一双・重要文化財・永青文庫蔵)各120・5×308・3
→ A-1図
下図:「洋人奏楽図屏風・左隻」(六曲一双・重要文化財・永青文庫蔵 各120・5×308・3
→ A-2図
https://www.eiseibunko.com/end_exhibition/2014.html

【 優美な西洋の貴族たちの語らいにこめられた教訓
 広く視界が開けた水辺の自然景のなかに美しい衣装をまとった西洋の貴族たちを描く。牧歌的な光景は金色の雲がつくりだす装飾的な効果とあいまって楽園のような雰囲気をかもし出す。右隻右側には、1588年に刊行されたマルタン・デ・フォス原画の銅版画集『孤独な生活の勝利』「隠者パテルヌス」から図像を借りた「愛の神殿」が見える。これや合奏する女性・休息する騎士たちを世俗の歓楽のシンボルとすると、デ・フォス原画の『キリストの血』から図像を借用した同左端の葡萄搾りの場面は「聖」を象徴すると読み取れ、聖俗の対比を通して教訓的なメッセージを示す手法がとられていると理解される。イエズス会セミナリヨで制作された洋風画の代表作の一つ。(鷲頭桂稿) 】
(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』)

洋人奏楽図屏風(MOA美術館蔵).jpg

上図:「洋人奏楽図屏風・右隻」(六曲一双・重要文化財・MOA美術館蔵)各93・1×302・4 → B-1図
下図:「洋人奏楽図屏風・左隻」(六曲一双・重要文化財・MOA美術館蔵 各93・1×302・4 → B-2図
https://www.moaart.or.jp/collections/039/

【 桃山時代、キリスト教の伝来とともに、当時宣教師たちによって運営されたコレジオやセミナリオなどの学校では、信徒子弟への体系的な教育が行われ、セミナリオでは絵画教育も行われていた。ヨーロッパ絵画の主題や技術が、主に聖画や銅版画を中心に教授されたらしく、この屏風も、キリスト教の布教効果をあげるべく、洋画教育を施された日本人によって描かれたものであろう。港の見える丘陵で音楽を楽しみ、読書や雑談をする洋人の光景を描いたもので、羊のいる樹木、愛の神殿、城郭などは、いずれも西洋中世銅版画に描かれた題材である。しかし、日本の顔料を胡桃(くるみ)油か荏油(じんゆ)に溶いて油絵の効果を出し、以前の日本画には見られない陰影のある立体表現など、外来技法習得の跡が見られ、日本絵画史上特異な画風として注目される。 】

泰西風俗図屏風(全福岡市美術館蔵).jpg

上図:「泰西風俗図屏風・右隻」(六曲一双・重要文化財・福岡市美術館蔵)各97×255
→ C-1図
下図:「泰西風俗図屏風・左隻」(六曲一双・重要文化財・福岡市美術館蔵 各97×255
→ C-2図
https://artsandculture.google.com/asset/genre-scenes-of-westerners-important-cultural-property-unknown/aQGHULD8orlPBQ?hl=ja

【 伝統的な日本の絵画に西洋的な陰影法や遠近法を導入した「近世初期洋風画」と呼ばれる絵画は、桃山時代にイエズス会がキリスト教の普及を目的として制作させたことに始まります。本図は、一見、西洋の風俗画のようでありながら、背後にはキリスト教的主題が隠されています。同時に、日本の伝統的な四季図屏風の形式を踏襲してもいます。向かって右隻には、楽器を演奏する婦人たちや水辺で憩う人物や釣り人を表わした、春から夏にかけての場面が描かれています。左隻では、聖母子を想わせる母と子の姿や収穫する人々、雪山を背に巡礼する人々を描いた、秋から冬の場面へと展開します。右隻には、享楽的に生きる人々を、左隻には、キリストの教えに則った敬虔な生き方をする人々を対比的に描いて、キリスト教の教えを説いた近世初期洋風画の代表的作例です。 】

泰西風俗図屏風(水車のある風俗図.jpg

「泰西風俗図屏風」(六曲一隻・個人蔵) 縦101.7 横262.2  → D図
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/566872

【 田園風景のなかに西洋風の人物を描く初期洋風画。技法的には、絵具の濃淡で立体感を表わし、樹木・人物には影を付け、全体的に輪郭線に頼らず、色面とハイライトでモチーフを描写するなど、17世紀のイエズス会による西洋絵画教育の影響をうかがわせる。本作品は、10件ほどしか現存しない大画面構成の初期洋風画屏風の一例で、そのなかでも特に優れた描写と良好な保存状態をもつ優品である。なかでも本図の画風は、黒田家旧蔵本(現・福岡市美術館本、重要文化財)に描写が酷似している。近世初期に来日したヨーロッパ人との交流を通して、日本で隆盛した「南蛮美術」の大作である。下村観山旧蔵品。 】

婦女弾琴図・jpg.jpg

「婦女弾琴図」(伝信方筆・一幅・大和文華館蔵)縦55.5 横37.3 → E図
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/43/fbb20be2bd40a863ef34d4dbf1532281.jpg

【 謎の画家「信方(のぶかた)」による初期洋風画の佳品
 手元に視線を落としながらヴィエラ・ダ・マノを弾く女性を描く。色の明暗とハイライトによって巧みに表現された緋色の衣のドレープも美しい。その姿は、小さくふっくらした唇や筋の通った鼻梁など顔貌的な特徴もふくめて「洋人奏楽図屏風」(A-1・2図)の女性像と似通う。そればかりか制昨年、制作地も隔たった「キリスト教説話図屏風」(下記・F図)にも、類型から派生したと思われる人物像が見出せる点は興味深い。本図左下にはヨーロッパの紋章に似た印章が押されている。それは信方と呼ばれる画家が用いたねので、初期洋風画の作品のなかで筆者を知る手がかりのある作品として極めて希少である。信方は「日蓮上人像」(兵庫・青蓮寺)などの仏教的主題も描いており、セミナリヨで学びながら後に棄教した人物とする説もある。(鷲頭桂稿) 】(『大航海時代の日本美術 Japanese art in the age of discoveries(九州国立博物館編)』)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-05-31

西洋婦人図(伝平賀源内筆).jpg

「西洋婦人図(伝平賀源内筆)」一面 布地油彩 41.4×30.5 款記「源内(?)」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/440276

【 平賀源内(1728~1779)は讃岐の志度に生れ、藩主松平頼恭に御薬坊主として仕えました。宝暦3年(1753)に遊学中の長崎から江戸に上り、田村元雄のもとで本草学を学ぶ。江戸でたびたび物産会や薬品会を開き、その成果を『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』に著しました。石綿、火浣布(かかんぷ)、エレキテルなどをつくり、戯作(げさく)も表すなど、多方面に才能を発揮しました。本図は、安永2年(1773)に阿仁銅山検分のため秋田に赴き、小田野直武や佐竹曙山に洋風画法を伝え、洋風画の理論的指導者と評される源内唯一の油彩画として知られていますが、他に基準作がない源内の真筆とするには慎重な検討が必要です。
来歴:鹿田静七→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館  】(「文化遺産オンライン」)

異国風景人物図(司馬江漢筆.jpg

「異国風景人物図(司馬江漢筆)」絹本油彩 各114.9×55.5 双幅 女性図 款記「江漢司馬峻写/Sibasun.」 男性図 款記「江漢司馬峻写/Eerste zonders/in Japan Ko:」 
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/448780

【 司馬江漢(1747-1818)は自らの油彩画について「蝋画(ろうが)」と呼んでいました。その絵具の材料・製法は未詳ですが、油紙や笠などに使われる荏胡麻油を媒剤としたとも言われています。このような絵具は遅くとも十八世紀の前半には知られていて、宝暦7年(1757)年には長崎の絵師が大坂天満宮に油彩画を奉納しています。
 日本の油彩画に関しては、司馬江漢はパイオニアというわけではありませんでしたが、注目すべきは、ヨーロッパの人々が様々な労働にいそしむ姿を主題として扱ったことです。そのモチーフの手本となったのは1694年にアムステルダムで初版が出された『人間の職業』という挿絵本でした。挿図で示された百の職業を譬喩とする訓戒的な詩文集で、その扉絵と、船員の仕事を描いた挿図をもとにして、江漢はこの対幅の男女図を描きました。ヨーロッパ諸国が日本や中国より長い歴史を有し、様々な学問や技術、社会制度を充実させてきたと、江漢は自らの著書などで礼賛してきました。その先進文明を支えているのが、勤勉で有能な国民で、彼らを良き方向に導いてきたのが、『人間の職業』のような訓戒本だと主張しました。男性図に朱字で記された"Eerste Zonders in Japan Ko:"というオランダ語風の記述については「日本における最初のユニークな人物」と解釈されています。
来歴:松田敦朝(二代玄々堂)→吾妻健三郎→堤清六→1932池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館   】(「文化遺産データベース」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-17

「浅間山図」(亜欧堂田善筆 ).jpg

「浅間山図」(亜欧堂田善筆 ) 6曲1隻 紙本着色 150.0×338.6 江戸時代・19世紀
東京国立博物館蔵
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=&content_base_id=101299&content_part_id=000&content_pict_id=000
【 亜欧堂田善(1748~1822)は江戸時代後期洋風画を代表する画家。遠近法や陰影表現を駆使した銅版画や、肉筆画を制作したことで知られる。
青い空を背景にして噴煙を上げる淡い褐色の浅間山。裾野には白い雲海が広がっている。画面右のなだらかな山には松が一本ぽつんと描かれ、左の斜面には木材が転がる。その奥からは、噴煙と対応するように煙があがり人の気配を感じさせるが、人物は見当たらず、静寂が画面を包む。油彩による独特の色彩や筆触によって、荒涼な浅間山の光景が描かれている。
本作品の構図は谷文晁『名山図譜』中の浅間山の図をもとに制作されたことで知られるが、さらに稿本が発見されたことにより、その制作過程も明らかとなっている。油彩によって大画面を創りあげる上での田善の創意工夫が見えるという点においても、本作品は非常に大きな意味を持つ。田善肉筆画の代表作というのみならず、江戸時代洋風画史上においても
重要な作品である。 】

谷文晁『名山図譜』・浅間山.gif

「日本名山図会. 天,地,人 / 谷文晁 画」中の「日本名山図会・人」p10「浅間山」≪早稲田大学図書館 (Waseda University Library)≫
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_e0235/bunko30_e0235_0001/bunko30_e0235_0001.html

花籠と蝶図・花鳥の阿蘭陀風景図.jpg

「花篭と蝶図・花鳥の阿蘭陀風景図」≪若杉五十八筆 (1759-1805)≫ 江戸時代/18世紀初期〜19世紀初期 紙本著色 各134.6×57.5 2面 款記:「Wakasoegi/Jsovatie Je」「Wakasoegi Jsovatie」(花籠)「WAKASOEGIE./JSOVATIE.QUA.」(花鳥)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/377127
【 18世紀末以降、長崎では江戸の洋風画家たちに少し遅れて、西洋風の表現を手がかける人たちが出てきました。海外情報が蓄積されてオランダ趣味が流行しますが、肝心のオランダ船がナポレオン席巻のあおりで日本に来航できなくなり、日蘭交易が不調に陥っていた時期でした。出島のオランダ人、あるいは長崎奉行や蘭癖大名(オランダ趣味を好んだ大名)などからの西洋絵画の注文を、かわりに長崎の画家たちが応える状況が生まれていました。
若杉五十八(わかすぎいそはち、1759~1805)は、長崎奉行のもとで地役人を勤める家系に生れ、貿易の事務にあたる会所請払役を務めました。職業画家としての経歴は不詳ですが、優れた油彩画を遺したことで知られています。画面に無数の横シワが見られるように、元は軸装でしたが、20世紀に額装に変えられました。サインの字体は初々しく、落款の一部が「je(絵)」「QUA(画)」と日本語の音を欧字で表記するにとどまっていることなどから、初期の作品と推定されます。青色は輸入顔料のプルシアンブルー、緑もプルシアンブルーと黄色顔料で着色されています。五十八が、透明感のある明度の高い青い空を表現できたのは、まだ輸入量が少なく高価であった外国製の絵具を使用できる立場にあったためでしょう。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
・神戸市立博物館特別展『西洋の青』図録 2007
・勝盛典子「若杉五十八研究」(『神戸市立博物館研究紀要』第21号) 2005
・朽津信明「若杉五十八の昨比に用いられている顔料の特徴について-特に青色顔料の同定から―」(『神戸市立博物館研究紀要』第21号) 2005  】(「文化遺産オンライン」)

瀕海都城図.jpg

「瀕海都城図(ひんかいとじょうず)」≪荒木如元 (1765-1824)≫ 江戸時代/19世紀前半 布地油彩 8.8×58.8 1面 
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/443953
【 荒木如元(あらきじょげん)(1765~1824)はもと一瀬氏、通称は善十郎のちに善四郎といいました。唐絵目利・荒木元融(げんゆう)の跡を相続して荒木と改め、のち復帰して一瀬善四郎と称しました。役目で輸入鳥獣のスケッチも描いた時期があり、阿蘭陀通詞・吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)の肖像や『蘭エン摘芳(らんえんてきほう、エンは「田」に「宛」)』の挿絵「阿郎烏烏当(オランウウタン)写真図」など、真に迫る的確な描写が同時代の長崎の画家の中では群を抜いています。『瓊浦画工伝』に「融思の硝子画法を偸み学び、専ら蛮画を巧にす」とあり、若杉五十八に少し遅れて本格的な洋風画やガラス絵を描きました。本図は、輸入のキャンバスと絵具を使用したと思われ、油彩画の技術も舶載の西洋画を思わせる完成度を示しています。落款はありませんが、基準作の「蘭人鷹狩図」(長崎歴史文化博物館)や「オランダ海港図」(大和文華館)と同質の筆致が見られ、如元の作品と認められます。
来歴:大阪青木大乗画伯→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
・勝盛典子「若杉五十八研究」(『神戸市立博物館研究紀要』第21号) 2005 】(「文化遺産オンライン」)

https://yuagariart.com/uag/nagasaki11/

【 長崎洋風画の先駆者・若杉五十八と荒木如元
 キリスト教の禁止令とともに、西洋画もその弾圧の対象とされ、さまざまな制約が加えられるようになった。唯一の開港地だった長崎では、西洋や中国の文化が流入する得意な環境のもと、オランダ人やオランダ船などの西洋の風俗が描かれていたが、それは従来の日本画の手法によるものだった。これに対し、蘭学の流行とともに西洋の絵画を理論的に研究し制作しようとする気運が高まり、江戸では司馬江漢や亜欧堂田善らによって洋風画が描かれるようになった。
 長崎で洋風画が本格的になるのは、江戸より遅れて、寛政年間の若杉五十八(1759-1805)が初めであり、ついで文化年間の荒木如元(1765-1824)がそれを完成させた。五十八と如元の作品は、その多くがカンヴァス地に油彩で描いた本格的なもので、ときには輸入の油絵具を使うこともあった。彼らは、同時代の秋田や江戸の洋風画家たちがなしえなかった本場の洋画技法を用いていたが、西洋原画の模写と構成に終始し、題材や手法も洋画に酷似していることから、独自性に欠けていたともいえる。

若杉五十八(1759-1805)
 宝暦9年長崎生まれ。父は左斎といい鍼療を営む盲人だった。母は久留米藩用達の井上政右衛門の妹。師承関係は判明していないが、直接オランダ人に画法を学んだともいわれ、麻布油彩の本格的な西洋風俗画を描いた。唐絵目利の画家たちと違い、在野の画家だったため、画業を明らかにする資料は、遺作以外ほとんど残っていない。明和8年、その前年に従兄の若杉敬十郎が没したため、その後を受けて長崎会所請払役並となり、安永9年には、敬十郎の実子登兵衛が成人したのでこれに職を譲り、さらに会所請払役の久米豊三郎の養子となって再び会所請払役見習となり、のち寛政6年養父豊三郎の隠退とともに請払役に昇進した。文化2年、47歳で死去した。

荒木如元(1765-1824)

 明和2年生まれ。通称は善十郎、のちに善四郎、字は直忠。もと一瀬氏。唐絵目利の荒木元融に絵を学び、養子となって元融の跡を継いだが、短期間で辞職し再び一瀬氏に戻った。洋風画は、その表現から長崎系洋風画の先駆者・若杉五十八に洋画法を学んだと思われる。長崎系の中でも最も西洋画に近い作品を残した。文政7年、60歳で死去した。】(「UAG美術家研究所」)

「長崎湾の出島の風景」(川原慶賀).jpg
https://nordot.app/830971286696869888?c=174761113988793844

【 オランダのライデン国立民族学博物館(ウェイン・モデスト館長)は、江戸後期の長崎の絵師・川原慶賀の大作びょうぶ絵「長崎湾の出島の風景」について、2年以上に及ぶ修復作業が完了したと発表した。
 同作は八曲一隻で、縦約1.7メートル、横約4メートル。慶賀が1836年ごろ制作したとされ、長崎港を俯瞰(ふかん)して出島や新地、大浦などの風景が緻密に描かれている。現存する慶賀のびょうぶ絵としては同作が唯一という。
 オランダ国内で長年個人所有されていたものを、同館が2018年に購入。特に絵の周囲を縁取る部分などの損傷が激しく、京都の宇佐見修徳堂など日本の専門家も協力して修復を続けていた。
 修復過程では、絵の下地に貼られた古紙の調査なども実施。同館東アジアコレクションのダン・コック学芸員によると、中国船主の依頼書が目立ち、当時の船主の名前や印と共に、長崎の崇福寺へ団体で参拝に行く予定が書かれていた
 慶賀とその工房の独特な「裏彩色」の技法が同作でも確認されたという。絵の本紙の裏に色を塗る技法で、「こんなに大きな面積でも裏彩色を塗ったことは驚きだった」としている。
 修復したびょうぶ絵は9月末から同館で公開している。日本での公開の予定はまだないが、同館はウェブで同作を鑑賞できるサービス「出島エクスペリエンス」を開発。日本からもスマホやパソコンなどで無料で見られる。コック学芸員は「これからも研究を進めながら、新しい発見があれば出島エクスペリエンスに追加したりして、世界中にいる興味をお持ちの方に広くシェアしたい」と述べている。

 出島エクスペリエンスのアドレスは、https://deshima.volkenkunde.nl/     】

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000089675.html

「海外で注目される江戸時代の天才絵師・川原慶賀の唯一現存する屏風が2年の修復作業を終え、オランダ・ライデン国立民族学博物館で公開」

川原慶賀「洋人絵画鑑賞図」.jpg

川原慶賀「洋人絵画鑑賞図」
https://yuagariart.com/uag/nagasaki13/

【 「シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀」
文政6年、オランダ東インド政庁の商館付医師として長崎出島に赴任したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)は、日本の門人に西洋医学などを教授するとともに、日本に関する総合的な調査研究を行なった。当時「出島出入絵師」の権利を得て出島に出入していた町絵師・川原慶賀は、シーボルトにその画才を見出され、シーボルトが日本に滞在していた約6年間、お抱え絵師として日本の風俗や動植物の写生画を描いた。この間、シーボルトがジャワから呼び寄せたオランダ人画家フィレネーフェに洋画法を学んでいる。また、シーボルトの江戸参府にも随行し、日本の風景、風俗、諸職、生活用具、動植物などの写生図を描くなど、シーボルトの日本調査に協力した。多量の写生図はシーボルトにより持ち帰られ、オランダのライデン国立民族学博物館に伝わっている。

  川原慶賀(1786-不明)

 天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。 
 25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日たシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。
また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。

  川原慮谷(不明-1872)

 川原慶賀の子。通称は登七郎、字は張六。のちに姓を田中に改め、通称を富作とした。写生を得意とし、西洋画風を巧みに用いた。弘化の頃、今下町で長崎版画や銅版画を作って販売していたとみられる。明治5年死去した。

  田口慮慶(不明-不明)

 絵事をよくし、特に肖像画を得意とした。慶賀、慮谷の一族とみられる。  】(「UAG美術家研究所」)

長崎版画.jpg
長崎版画
https://yuagariart.com/uag/nagasaki17/

【  長崎版画と版下絵師
 長崎版画とは、江戸時代に長崎で制作された異国情緒あふれる版画のことで、主に旅人相手に土産物として売られた。長崎絵、長崎浮世絵などとも呼ばれている。同じころ江戸で盛んだった浮世絵が、役者、遊女、名所などを題材にしていたのに対し、当時外国への唯一の窓口だった長崎では、その特殊な土地柄を生かし、オランダ人、中国人、オランダ船、唐船など、異国情緒あふれる風物を主題とした。広義には、長崎や九州の地図も長崎版画に含まれる。
 現存する初期の長崎版画は、輪郭の部分を版木で黒摺りしてから筆で彩色したもので、その後、合羽摺といわれる型紙を用いた色彩法が用いられるようになった。長崎市内には、針屋、竹寿軒、豊嶋屋(のちに富嶋屋)、文錦堂、大和屋(文彩堂)、梅香堂など複数の版元があり、制作から販売までを一貫して手掛けていた。版画作品の多くに署名はなく、作者は定かではないものが多いが、洋風画の先駆者である荒木如元、出島を自由に出入りしていた町絵師・川原慶賀や、唐絵目利らが関わっていたと推測される。
 天保の初めころ、江戸の浮世絵師だった磯野文斎(不明-1857)が版元・大和屋に婿入りすると、長崎版画の世界は一変した。文斎は、当時の合羽摺を主とした長崎版画に、江戸錦絵風の多色摺の技術と洗練された画風をもたらし、長崎でも錦絵風の技術的にすぐれた版画が刊行されるようになった。大和屋は繁栄をみせるが、大和屋一家と文斎が連れてきた摺師の石上松五郎が幕末に相次いで死去し、大和屋は廃業に追い込まれた。
 江戸風の多色摺が流行するなか、文錦堂はそれ以降も主に合羽摺を用いて、最も多くの長崎版画を刊行した。文錦堂初代の松尾齢右衛門(不明-1809)は、ロシアのレザノフ来航の事件を題材に「ロシア船」を制作し、これは初めての報道性の高い版画と称されている。二代目の松尾俊平(1789-1859)が20歳前で文錦堂を継ぎ、父と同じ谷鵬、紫溟、紫雲、虎渓と号して自ら版下絵を手掛け、文錦堂の全盛期をつくった。三代目松尾林平(1821-1871)も早くから俊平を手伝ったが、時代の波に逆らえず、幕末に廃業したとみられる。
 幕末になって、文錦堂、大和屋が相次いで廃業に追い込まれるなか、唯一盛んに活動したのが梅香堂である。梅香堂の版元と版下絵師を兼任していた中村可敬(不明-不明)は、わずか10年ほどの活動期に約60点刊行したとされる。中村可敬は、同時代の南画家・中村陸舟(1820-1873)と同一人物ではないかという説もあるが、特定はされていない。

磯野文斎(不明-1857)〔版元・大和屋(文彩堂)〕
 江戸後期の浮世絵師。渓斎英泉の門人。江戸・長崎出身の両説がある。名は信春、通称は由平。文彩、文斎、文彩堂と号した。享和元年頃に創業した版元・大和屋の娘貞の婿養子となり、文政10年頃から安政4年まで大和屋の版下絵師兼版元としてつとめた。当時の合羽摺を主とした長崎版画の世界に、江戸錦絵風の多色摺りの技術と、洗練された画風をもたらした。また、江戸の浮世絵の画題である名所八景の長崎版である「長崎八景」を刊行した。過剰な異国情緒をおさえ、長崎の名所を情感豊かに表現し、判型も江戸の浮世絵を意識したものだった。安政4年死去した。

松尾齢右衛門(不明-1809)〔版元・文錦堂〕
 文錦堂初代版元。先祖は結城氏で、のちに松尾氏となった。寛政12年頃に文錦堂を創業し、北虎、谷鵬と号して自ら版下絵を描いた。唐蘭露船図や文化元年レザノフ使節渡来の際物絵、珍獣絵、長崎絵地図などユニークな合羽摺約130種を刊行した。文化6年、50歳くらいで死去した。

中村可敬(不明-不明)〔版元・梅香堂〕
 梅香堂の版元と版下絵師を兼務した。本名は利雄。陸舟とも号したという。梅香堂は、幕末に文錦堂、大和屋が相次いで廃業するなか、唯一盛んに活動し、わずか10年ほどの活動期に約60点刊行したとされる。中村可敬の詳細は明らかではないが、同時代の南画家・中村陸舟(1820-1873)は、諱が利雄であり、梅香の別号があることから、同一人物とする説もあるが、特定はされていない。 】(「UAG美術家研究所」)


(追記) 「『「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作 - 野藤妙・宮崎克則(西南学院大学国際文化学部)』(九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. Museum
No. 12, 1-20, 2014)

【  はじめに
本稿は、川原慶賀(1786?-1860?)が描いたとされる《人の一生》に注目し、絵の制作過程について検討したものである。
川原慶賀、通称登与助は江戸時代後期の長崎の絵師である。正確な生没年は不明であるが、遺された作品から1786年生まれとされている。「出島出入絵師」または「出島絵師」として出島に出入りし、来日したオランダ商館員の求めに応じて日本の動植物や風俗、風景を描いた。出島に出入りし始めた時期や経緯については判明していないが、少なくとも文化年間には出島に出入りしていたと考えられる。慶賀の絵を収集したオランダ商館員としては、商館長ブロムホフ(Jan Cock Blomhoff: 1779-1853 来日1809-1813, 1817-1823)、商館員フィッセル(Johan Frederik van Overmeer Fisscher: 1800-1848 来日1820-1829)、商館医シーボルト(PhilippFranz von Siebold:1796-1866 来日1823-1830)が知られている。慶賀の絵とされている絵の多くは、オランダ商館員によって持ち帰られたため、海外に現存する点数は数百点にものぼり、主にオランダやドイツ、ロシアに所蔵されている。慶賀作とされている絵の中には慶賀一人で制作したとは考えがたい絵も含まれており、先行研究においても山梨絵美子氏、原田博二氏、永松実氏3によって慶賀の手によるものと他の絵師のものがあることが言及されている。特に、本稿で検討課題とした《人の一生》については、原田博二氏によってライデン国立民族学博物館と長崎歴史文化博物館所蔵、さらに個人蔵のものについて詳細な検討がなされており、複数人の分業により制作した、とされている。また、山梨絵美子氏はサンクトペテルブルクにあるクンストカーメラに所蔵されている《人の一生》について検討しており、慶賀の弟子のものではないか、と述べている。しかし、これまでの研究では、具体的にどのような方法で他の絵師と絵を制作していたのか、ということについてわかっていない。そこでフィッセルやシーボルトらによって収集された5セットの《人の一生》の作品群に注目し、慶賀がその他の絵師とどのようにして作品を制作していたのかについて検討を行う。

1. 背景          (略)
2. 5セットの《人の一生》 (略) 
3. 《人の一生》の手本   (略)
4. 《人の一生》の制作   (略)

おわりに
 本稿における《人の一生》5セットの考察により、フィッセル・コレクションで慶賀の落款を持つセット(《人の一生》①)のみが慶賀の作品であり、それ以外のセット(《人の一生》②~⑤)は慶賀以外の絵師によって描かれたことが判明した。慶賀以外の絵師の存在に関
しては、フィッセルが著書の中で「この芸術家がいかに器用で経験にとんでいるとしても、この仕事を単独でなしとげることは不可能である。そこでその目的のために、その家僕や弟子が使用される」と述べており、先行研究においてもすでに言及されている。しかし、具体的にどのようにして他の絵師と作品を制作していたのか、ということに関しては具体的に明らかではなかった。《人の一生》5セットを比較検討することで、今まで不明瞭であった慶賀とその他の絵師による制作が、雛形をトレースすることによって行われていたことが明らかとなった。さらに、それぞれのセットを別の絵師が担当していることから、少なくとも4人以上の絵師とともにこれらの作品を制作していたと言えよう。現在確認している慶賀の作品のうち、フィッセル・コレクションの作品の大半には慶賀の落款が押されている。
 一方、シーボルト・コレクションでは慶賀の落款が押されている作品のほとんどは、比較的大きい作品であり十数点程度である。またそれ以外ではコマロフ植物研究所にある植物図譜があげられる。慶賀による植物、動物図はシーボルトが出版した図鑑で活用されており、慶賀には精密に描くことが求められたと考えられる。一方、今回とりあげた《人の一生》のような風俗などを描いた作品を見ると、フィッセルのコレクションとの重複が目立ち、慶賀以外の絵師の作品と思われる作品が多い。
 シーボルトは日本の風俗を描いた作品に関して、フィッセルのコレクションを参考に慶賀に注文を行った。シーボルトより様々な作品の注文を受けた慶賀は、自分にしか描くことのできない植物や動物の絵は自分で描き、それ以外の、これまでの注文と重複する画題の絵は他の絵師に描かせたのであろう。そのようにして慶賀は、オランダ商館員の絵画需要を満たしていたのである。

(1)誕生.jpg
(1)誕生
(2)洗礼・命名(略) (3)洗礼・命名(略)
(4)子どもの衣装替え(略) 
(5)男性の宿命(略)
(6)交際(略)

(9)花嫁の贈り物.jpg
(9)花嫁の贈り物
(7)結婚の準備(略) (8)両親の同意(略)

(10)結婚の行列.jpg
(10)結婚の行列
(11)祝宴の準備(略)(12)結婚式(略) (13)両親への敬意 (14)病気と老齢

(15)死去.jpg
(15)死去
(16)湯灌(略)(17)葬式の注文(略)(18)墓掘(略)(19)忌中の家の浄化(略)

(20)葬式.jpg
(20)葬式
(21)聖職者による埋葬と祈り(略)(22)寺院での葬式(略)(23)墓参り(略) 】
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日本画と西洋画との邂逅(その十四) [日本画と西洋画]

(その十四)「司馬江漢・亜欧堂田善」そして「石川大浪・北山寒巌・鈴木南冥・安田田騏」など

石川大浪・獅子図.jpg

「獅子図」≪石川大浪筆 (1762-1818)≫ 江戸時代、文化2年/1805年 絹本淡彩
28.4×19.7cm 1面 落款: 「Leo Getekent in boenkwa2. Tafel Berg」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/379254
【 大浪はアフリカ南端の喜望峰にそびえる「大浪山」のオランダ名「Tafel Berg」を、弟・孟高も「Tafel Berg」隣の「Leeuw Berg(獅子山)」をサインに用いています。本図は弟の号にちなんで選ばれた画題と思われ、「Leo Getekent boenkwa 2. door Tafel Berg (獅子、文化2年にターフェルベルフが描く)」と記されます。原図は大浪所蔵の仏語版イソップ物語の銅版挿絵と推定されます。
来歴:1999神戸市立博物館
参考文献:
・勝盛典子「大浪から国芳へ―美術にみる蘭書需要のかたち」(『神戸市立博物館研究紀要』第16号) 2000 】(「文化遺産オンライン」)

紅毛婦女図.gif

「紅毛婦女図」≪石川大浪筆 (1762-1818)≫ 江戸時代、寛政年間/1789年から1801年
絹本淡彩 96.6×32.4cm 1幅 落款:「Tafel Berg」印章:「SK」(朱文長円印) 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/443963
【 墨の濃淡を用いてドレスの襞や女性の顔の陰影を巧みに表現し、唇などに薄い朱を効果的にさして、高い気品と妖艶さを感じさせる作品となっています。
 石川大浪は天明〜文化期の旗本で、大番の役目で6年に一度は大坂に在勤し、文人・収集家として有名な木村蒹葭堂をしばしば訪れました。享和元年(1801)の蒹葭堂宛ての大浪書翰に「先頃御頼之画染筆仕上候」とある。大ぶりの美しい蘭字サイン「Tafel Berg」は寛政末から享和年間に大浪が用いたもので、八双部に蔵書印「蒹葭堂記」が捺されることから、本図が蒹葭堂に求められて大浪が贈った作品と認められます。
 近年の研究により、本図と酷似するイギリス製銅版画が存在することがわかりました。18世紀中期に制作された「田園生活」と題するシリーズ物の版画(原作者はフィリップ・メルシエ)の中に、石川大浪による本図と同様のポーズをとる、笠形の帽子をかぶり、羊毛を巻きつけた糸巻き棒を抱え持ち、両手で糸を紡ぎ出している少女の姿を描いた作品があります。この作品は当時絵画複製技法としてイギリスを中心に流行していたメゾチントという銅版技法を駆使して、写真を思わせるような立体感と陰影が表出されています。西洋版画の最先端の階調表現に、石川大浪は東洋の伝統的な水墨技法で肉薄しようとしたのです。
来歴:木村蒹葭堂・・→1933池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
考文献:
・塚原晃「メゾチントと洋風画 ―石川大浪筆『紅毛婦女図』の原図を中心に」『國華』1498号(2020)
・塚原晃「石川大浪筆[紅毛婦女図]」(神戸新聞朝刊 2019.7.11)
・神戸市立博物館特別展『日本絵画のひみつ』図録 2011
・勝盛典子『近世異国趣味の史的研究』臨川書店 2011
・勝盛典子「大浪から国芳へ―美術にみる蘭書需要のかたち」(『神戸市立博物館研究紀要』第16号) 2000 】(「文化遺産オンライン」)

≪ 石川大浪
没年:文化14(1817)
生年:明和2(1765)
江戸後期の洋風画家。旗本で大御番組頭を勤める。名を乗加,通称甲吉,のち七左衛門。大浪は号で,別号に董松軒,董窓軒。絵は狩野派から始めたが,杉田玄白,前野良沢,大槻玄沢らと交わり,寛政年間(1789~1801)には蘭学者としても知られ,この間に舶来洋書の挿絵や銅版画を写し西洋画法を研究した。オランダ人画家ウィレム・ファン・ロイエンの油彩の静物画を弟孟高と共に模写した作品には,寛政8(1796)年の大槻玄沢の賛がある。油絵の遺作はなく,墨画か淡彩画による洋風画で,「西洋婦人図」「天地創造図」などがある。(三輪英夫)   ≫
(出典「朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版」)

 石川大浪(1765-1817)は、司馬江漢(1747-1818)や亜欧堂田善(1748-1822)よりも、一回り年少であるが、その活躍した時期は、全くの同時代の人と言って差支えないであろう。そして、大浪は、大御番組頭(江戸城警護および江戸市中の警備に当たった組頭の一人)の上級の旗本出身で、浮世絵の鈴木春信門下から出発した江漢や、陸奥(福島)須賀川の染物業出身の田善とは違って、同じ趣味をもつ白河藩主となった松平定信(1758-1829)などとの親交も厚く、その定信の部下の一人の谷文晁(1763-1840)などは、大浪を「泰西画法」の師と仰いでいるほどの、当時の「洋風画」そして「蘭学」の大立者の一人ということになる。

ハイステル像.gif

「ハイステル像」≪北山寒巌筆 (1767-1801)≫ 江戸時代/18世紀後期 絹本著色 83.6×39.9cm 1幅 落款:「door Van Dijk.」題:「LAURENS HEISTER, M.D./en Hoogleexaar In Helmstad.」 ドドネウス『本草図譜』の写し(紙本墨書)が付属 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/445483
【 墓所法源寺の碑によると、寒巌(かんがん 1767〜1801)の父は神官の馬道良(ばどうりょう)。江戸麻布(あざぶ)に生まれ、諱を孟煕(もうき)、字を文奎(ぶんけい)といいます。
 学問に精敏で、絵事に巧妙であり、父が命を受けて天文台の両天儀の修繕をした時に補佐をしました。また、西洋人の館舎に出入りし、その国の学問と書画に優れたため、フランドルの画家ファン・ダイクにちなみ「樊泥亀(はんでいき)Door van Dijk」の名を用いたといいます。
 漢画をよくし、花鳥画や洋風画にも佳作をのこします。『紅毛雑話』にはヨンストン『動物図譜』から「鰐之図」と「獅子之図」を描きます。田能村竹田(たのむらちくでん)は著書で、35歳という若さで亡くなった寒巌の才能を惜しんでいます。
来歴:大槻磐水家→1934池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・橋本寛子「北山寒巌筆《ヘイステル像》をめぐって」(『美術史』60(2) 2011) 】(「文化遺産オンライン」)

≪ 北山寒巌 
没年:享和1.1.18(1801.3.2)
生年:明和4.10.26(1767.12.16)
江戸中期の画家。姓は馬,名は孟煕。長崎に渡来し帰化した明国人馬栄宇の子孫。江戸に生まれる。浅草の橋場明神の宮司で絵をよくした父馬道良に漢画を学ぶ一方,蘭学者と交わって洋風画も描き,森島中 良の『紅毛雑話』(1787)などに挿絵がある。フランドルの画家ヴァン・ダイクにちなむ汎泥亀の号を持っていた。(佐藤康宏)  ≫(出典「朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版」)

虫合戦図・南溟.jpg

「虫合戦図」≪(春木)南溟≫ 江戸時代、嘉永4年か/1851年か 絹本著色 53.7×85.2
1幅 款記「Namumeji/tahamule ni jegacu」 朱文鼎印「南溟」 軸書裏に「嘉永辛亥暮春、応好春木南溟図之、国府津伊達家蔵」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/441826
【 一連の「虫合戦図」に「 Namumei」と記し、作者とされてきた春木南溟は開明的な大名としてられる松平春嶽 や北方探検家の松浦武四郎と交流があったと言われ、日本を取り巻く国際情勢に少なからぬ関心を抱いていたことが想定されます。ペリー来航以前に日本人は、 2つの衝撃的な海外ニュースを経験していました。ひとつは 1840 年勃発のアヘン戦争。いまひと つは、19 世紀初頭にヨーロッパの大半を支配下においたナポレオンの出現です。 江戸時代の後期、ヨーロッパでの戦闘を描いた舶来版画をベースに描かれた洋風戦闘風景 図が、肉筆・版画を問わず、しばしば現れるようになります。確かにその現存例はペリー来航以 後のものが、その絵画化の動きは遅くとも天保年間(1830-1844)には 始まっていました。欧米諸国の軍事力への関心や探求も、その制作のモチベーションになっていたはずです。「虫合戦図」はそんな多くの幕末洋風戦闘図の一変形として、まず認識しなおす必要があります。
来歴:国府津伊達家→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館  】(「文化遺産オンライン」)

≪春木南溟 1795-1878 江戸後期-明治時代の画家。
寛政7年生まれ。春木南湖の子。父の画法をついで山水・花鳥画を得意とした。明治10年第1回内国勧業博覧会に「日光霧降滝図」を出品。明治11年12月12日死去。84歳。江戸出身。名は秀煕,竜。字(あざな)は敬一,子緝。通称は卯之助。別号に耕雲漁者。≫(出典「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

三囲雪景図・安田田騏.png

「三囲雪景図」≪安田田騏筆 (1784-1827)≫ 江戸時代/19世紀前期 絹本油彩 35.2×51.2 1面 款記「三圍雪景/冀北田騏」 朱文方印「騏」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/445493
【来歴:須賀川竹内憲治氏→1932池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館】(「文化遺産オンライン」)

≪安田田騏(天明4年(1784年) - 文政10年4月11日(1827年5月6日))は、江戸時代後期の絵師、銅版画家である。
 東東洋及び亜欧堂田善の門人。名は騏。字は日千といい、東嶽田、東嶽、台方菴などと号した。東嶽田というのは、二人の師に由来するものといわれている。仙台の出身。師であった田善の画法を継いだ画家の中で、最も優れた門人が安田田騏であった。仙台の浪士であり、始め仙台藩の狩野派絵師東東洋に絵を学び、寛政(1789年-1801年)年間に須賀川に移ってから丹波屋(安田家)に入り、田善に師事している。また、白河藩主御内寺の東林寺住職に請われて、松平定信編纂の『集古十種』にも関与した須賀川の十念寺の画僧白雲や谷文晁にも学んでいる。文化12年(1815年)制作の銅版画「観魚亭」などが知られている。「観魚亭」とは、白河候御用達常松家の別邸を描いたものであった。銅版画のほか、肉筆画も残しており、白雲や田善とともに松平定信の画臣でもあった田騏は、文政10年(1827年)4月11日、病のため陸奥国磐前郡佐波古村(現・福島県いわき市常磐湯本町)において44歳で没した。墓所はいわき市常磐湯本町の惣善寺。この寺には、田騏の妹の夫、柴原太真と門人達が建立した墓碑がある。法名は田英道騏信士。 ≫(「ウィキペディア」)

青蔭集・亜欧堂田善.gif

「青蔭集」≪石井雨考編 亜欧堂田善画 (1748-1822)≫ 江戸時代、文化11年/1814年
紙本木版・銅版 22.8×16.0 1冊 神戸市立博物館蔵
序 市原多代女 跋夏目成美 「陸奥國石川郡大隈瀧芭蕉翁碑之圖文化十一年甲戊五月亜歐田善製」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455109
【 ここに描かれているのは、現在の福島県須賀川市と玉川村の境、阿武隈川が乙字型に蛇行する急流部の風景で、今日でもこの図とほぼ同じ風景を現地で見ることができます。
 本図の表題は「芭蕉翁碑」、つまり画面左方に辛うじて見出される小さな石碑です。これは、本図が掲載されている歌集『青蔭集』の編者で、須賀川の俳人・石井考雨が文化10年(1813)に建立したもの。かつてこの地を訪れた芭蕉の心境を追体験するかのような光景で、亜欧堂田善による銅版風景画の基準作です。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】(「文化遺産オンライン」)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532488

「国立国会図書館デジタルコレクション」
「青蔭集」(雨考編)

ゼルマニヤ廓中之図・亜欧堂田善.gif

「ゼルマニヤ廓中之図」≪亜欧堂田善 (1748-1822)≫ 江戸時代、文化6年/1809年
銅版筆彩 30.1×56.1 1面 落款「文化六年巳己正月 亜歐堂 田善」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/448840
【 1枚の銅版で摺られた江戸時代の観賞用銅版画としては最大級の作品です。田善の大型銅版作品としては、フランスのフォンテーヌブロウ宮を描く銅版画を手本とする、本図とほぼ同寸法の「西洋公園図」(東京国立博物館蔵)があります。前景部分の図様のルーツは、18世紀イタリアの銅版画家ピラネージが描いた空想的な古代ローマ風景図に求められますが、実際に田善が参考にしたのはその模造品でした。本図の後方には、新しい時代のフランス風の宮殿建築が描かれていて、なんらかのフランス製の銅版画を摸したとも考えられます。
 表題の「ゼルマニヤ」は、当時の蘭学者の間ではドイツ・オーストリア一帯を示す地名として使われていましたが、ここを西洋文明発祥の地とする説もありました。 この「ゼルマニヤ廓中図」とほぼ同じ法量の「大日本金龍山之図」が「大日本」の名を冠しているのは、あたかも本図と相対するかのようです。「西洋公園図」をふくめた3点をシリーズ物として仮定するなら、その制作の主眼は西洋と日本の都市風景、広大な公共空間の対比にあったと考えられます。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】(「文化遺産オンライン」)

大日本金龍山之図・亜欧堂田善.jpg

「大日本金龍山之図」≪亜欧堂田善 (1748-1822)≫ 江戸時代/19世紀初期 銅版筆彩
26.0×53.4 1面 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/401381
【 亜欧堂田善(1748〜1822)は、本名を永田善吉と称し、陸奥国岩瀬郡(今の福島県)須賀川で紺屋(もしくは商家)を営んでました。伝えるところによると、この善吉は寝食よりも絵を描くことが好きで、その才能を領主の松平定信に認められ、谷文晁の弟子として取り立てられ、「亜欧堂田善」という名前を定信から与えられたとのこと。松平定信はかねてより銅版画の国産化を願ってましたが、司馬江漢の銅版術については「細密ならず」と落胆し、かわりに田善の技量に期待し物心両面から支援したと思われます。
期待に違わず田善は、世界地図や医学書で堅実な描画力を発揮する一方、風景画では従来の浮世絵や江漢の銅版画とは異なり、「画家目線」を活かした現実感あふれる作品を多数描きました。精度の高い線描集積と、幾何学的に構築された空間の中に、デフォルメの効いたユーモラスな点景人物を配するなど、律義さと機知に富んだその表現は、歌川国芳などの浮世版画や上方の銅版画にも影響を与えました。
観音信仰で古くから信仰を集めていた浅草寺の伽藍主要部、左から仁王門・本堂・五重塔周辺のにぎわいを描いた本図は、江戸時代の鑑賞用銅版画として最大級の作品で、江戸風景を得意とした田善の銅版画のなかでも「特大型」に分類されるものです。
的確な描線で描きこまれた密度の高い画面が構成され、遠近法や陰影表現もうまく消化されており、職人的芸術家(アルチザン)ともいわれる田善の円熟した技量をよく示しています。ここに描かれている景観は、当時の実際の浅草寺のそれとは異なる部分があります。 
たとえば、実際に仁王門右前方に鎮座する勢至・観音二躯の座像は、本図では一躯の如来座像に描き換えられています。また、仁王門の左右から境内は煉塀で隔てられていて、伽藍をこのように一望することは不可能でした。
おそらく本図は「ゼルマにや廓中図」などと組の作品として制作されたもので、西洋の公共広場に匹敵する伽藍風景に仕立てるために、実景に改変を加えた描写をあえて行ったものと考えられます。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・塚原晃「田善とテンセン ―亜欧堂系銅版江戸名所図における表現技法上の諸問題―」(『神戸市立博物館研究紀要』24 2008)
・塚原晃「田善とテンセン ―亜欧堂系銅版江戸名所図における景観図像的諸問題」(『日本美術史の杜 村重寧先生・星山晋也先生 古稀記念論文集』竹林舎 200 】(「文化遺産オンライン」)


(追記)亜欧堂田善の銅版画名所図「ミメクリノツ」について(「中島由美」稿)

三囲之景.jpg
図1「三囲景図」 銅版 司馬江漢 神戸市立博物館蔵

ミメクリノツ・田善.gif

図2 「ミメクリノツ」 銅版 亜欧堂田善 神戸市立博物館蔵

「トルコの馬飾・馬の諸種」・田善.gif
図3 「トルコの馬飾・馬の諸種」 銅版 ヨハン・エリアス・リーディンガー 早稲田大学図書館蔵

三囲眺望之図・田善.png
図4 「三囲眺望之図」 銅版 亜欧堂田善 須賀川市立博物館蔵

「三囲図」・田善.gif
図5 「三囲図」 銅版 亜欧堂田善 須賀川市立博物館蔵

佃浦風景・田善.gif
図6 「佃浦風景」 銅版 亜欧堂田善 須賀川市立博物館蔵

イスパニア女帝コロンブス引見之図.gif
図7 「イスパニア女帝コロンブス引見之図」 銅版 亜欧堂田善 板橋区立美術館寄託

素描ペルラカタ城.gif
図8 「素描ペルラカタ城」 銅版 亜欧堂田善 須賀川市立博物館蔵

「洋人曳馬・地球儀」・田善.gif

図9 「洋人曳馬・地球儀」 銅版 亜欧堂田善 須賀川市立博物館蔵
「亜欧堂田善の銅版画名所図『ミメクリノツ』について(中島由美)」(抜粋)

【 亜欧堂田善(1748-1822)は, 陸奥国須賀川(現福島県須賀川市)の商家出身で, 文化年間(1804-1818)を中心に活躍した洋風画家である。寛政6年(1794) 47歳のとき, 白河藩主松平定信(1758-1829)に起用され, 定信のお抱え絵師谷文晁に師事した。定信の命で銅版画技術を修得した田善は, 江戸にいた14年間に実用銅版画として完成させた『医範提綱内象銅版画』「新訂万国全図」と, 江戸の名所を描いた大形・中形・小形の40種以上の
銅版画を制作している。それらの名所図には三囲付近の風景を描いたものが3点あり, そのなかで大形の1点が「ミメクリノツ」である。三囲付近はすでに浮絵として歌川豊春が描いており, 田善が一時的に入門の経験がある司馬江漢は天明3年(1783)と7年(1787)に二つの「三囲」の銅版画を制作している。
当時, 江戸では三囲付近が庶民の人気を集めていたことが, たびたび名所図として描かれた所以である。先行研究では, 亜欧堂田善の銅版画技術修得や西洋画法, 蘭書との関係, 油彩画, 銅版画の作品の研究などが論じられてきた。銅版画江戸名所図については, 江戸の風俗を中心に描いた風景画であり, 名所景観を捉える視点が従来とは異なっていると指摘されている。各々の三囲の名所図の描き方を比較してみると, 亜欧堂田善の作品からは先行の作例にない田善独自の景観のイメージアビリティと西洋的視線を読み取ることができる。】

「亜欧堂田善の名所図−西洋的視線で見た江戸−(中島由美)」(抜粋)

【 亜欧堂田善(1748-1822)は陸奥国須賀川(現福島県須賀川市)出身の洋風画家である。洋風画とは透視図法, 陰影法といった西洋画法を取り入れ描いた絵画である。亜欧堂田善は精密な銅版画の技術に西洋画法を用いて, 日本の風景画や風俗画を独特の趣で描いている。日本の伝統的な美意識を, 西洋の技術で描くという試みは, 亜欧堂の名前が示すように, 日本的なものと西洋的なものの融合を絵画において表わそうとした。田善はどのような改革, 新しい芸術を生み出したのだろうか。
 寛政6年(1794)亜欧堂田善は白河藩主松平定信に画才を見いだされ, 谷文晁に入門する。定信に銅版画技術の習得を命ぜられる。一時期, 司馬江漢にも師事した。田善は西洋原画への憧憬だけではない研究意欲があり, 原画を参考にしたり, 原画から離れて独自の自由な構想で描いたものなどがある。田善は西洋なものを咀嚼して, 自らのものにしようという意気込みが現れており, 田善の西洋文化への関心の高さと, 芸術家としての先取性が窺える。
 田善は寛政9年(1797)から文化9年(1812)まで, 江戸で作品を制作した。リーディンガーの馬の画集や, 銅版眼鏡絵の模写で技術をみがいた。実用銅版画として, 宇田川棒斎の依頼による「衣判定綱内象銅版図』, 幕命による『新訂万国全図』を完成させたことは, 田善に西洋的な近代精神を会得させる好機であった。軍事や医学などの実用的な必要に迫られた銅版画制作は, 西洋画法を駆使して, 精密, 正確に描くという経験により, 田善の目を, 西洋を通して近代を見る視線に変えていったのである。
田善の芸術家としての資質を表わし, 個人的な心情, 関心を表現した作品に, 江戸の風景と風俗を描いた40 種以上の銅版画名所図がある。当時, 江戸の個々の名所の景観が定型化され, 描き方のパターンが形成されていくなかで, 田善は他の画家の描く名所図とは異なる独自の視線で江戸の名所を描いている。
田善は西洋画法に関する自分の考えを書き残していないが, 作品のなかで自分の描法を明確に主張し, 画法論を展開している。田善の画才を見いだした松平定信の著書『退閑雑記』,『宇下人言』にも田善の銅版画について, 多くは記されていない。
 田善の名所図は, 単なる技術的な西洋の移入ではない。西洋のルネッサンス機を経て継承され進展され続けたものを,19 世紀の日本において田善に受け継がれ, 変容させ, 新しい可能性と融合をもたらしたのである。】
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日本画と西洋画との邂逅(その十三) [日本画と西洋画]

(その十三)「司馬江漢と亜欧堂田善」そして「松平定信と谷文晁」周辺

田善・今戸瓦焼図.jpg

「今戸瓦焼図」≪亜欧堂田善筆 (1748-1822)≫ 江戸時代/18世紀末期〜19世紀初期
絹本油彩 40.8×65.6 1幅 款記「田善」白文方印「田善之印」朱文方印「善吉氏」 
神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/377137
【 今戸は隅田川の西岸で、都鳥の名所でした。『江戸名所図会』に、「今戸には、土をこね、瓦造りならべてほしければ やかぬまは露やいとはむ下瓦 杉風」とあるように、瓦焼きは今戸の名物になっていました。

来歴:東京 大場氏→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館

参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・江戸東京博物館『隅田川 江戸が愛した風景』展図録 2010
・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008
・神戸市立博物館特別展『西洋の青』図録 2007 】(「文化遺産オンライン」)

今戸瓦焼之図(小形江戸名勝図シリーズ).gif

「今戸瓦焼之図(小形江戸名勝図シリーズ)」≪亜欧堂田善 (1748-1822)≫ 江戸時代/19世紀初期 銅版筆彩 11.8×17.3 1枚 落款「亞歐堂」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/443993
【 亜欧堂田善(またはその門人)が手がけた多くの銅版画の中で、もっとも人気を博したシリーズが、これらの小形江戸名所図です。北斎などの浮世絵風景版画の構図や上方の小型銅版画の流行に影響を与えた点でも重要な作品群です。田善の基準作『青蔭集』挿図にも通じる写実性と抽象化が同居する、緩急のメリハリの利いた表現が特徴です。現在25種類の図柄が確認されていて、そのうち神戸市立博物館は19種を所蔵しています。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】(「文化遺産オンライン」)

東都名所全図(小形江戸名勝図シリーズ).gif

「東都名所全図(小形江戸名勝図シリーズ)」≪亜欧堂田善 (1748-1822)≫ 江戸時代/19世紀初期 銅版筆彩 11.7×16.2 1枚 落款「亞歐堂」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/444003
【 この江戸鳥瞰図は、江戸の隅田川の東岸上空から俯瞰したもので、拡大するとびっしりと描きこまれた家屋の合間にカタカナの地名表記もところどころに散りばめられている。3種類ある田善の銅版画シリーズでは最小の紙形のひとつで、中型の「自隅田川望南之図」ととは視点や構図が異なる。享和年間(1801-1804)に鍬形蕙斎が木版として描いた江戸鳥瞰図を銅版画として再構成したもの。 
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】(「文化遺産オンライン」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-04

三囲之景.jpg

司馬江漢画并刻「三囲之景 MIMEGULI(みめぐりのけい)」江戸時代、天明7年/1787年 銅版筆彩 28.0×39.4 1面 落款「天明丁未冬十月/日本銅板創製/司馬江漢画并刻」反射式眼鏡絵 (神戸市立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/377197
【(解説)
司馬江漢が天明年間(1781-1789)に制作した風景銅版画のひとつ。司馬江漢は、天明8年(1788)からの長崎旅行で、大坂の木村蒹葭堂のもとに立ち寄っています。持参した銅版眼鏡絵を蒹葭堂に見せ「誠に日本創製なり」とその技法を感心しさせました。
 天明3年(1783)の「三囲景」の版が磨耗したのでしょうか、江漢は同7年にほぼ同じ構図でこの銅版眼鏡絵を製作しました。この作品では、天明3年版よりも視点を低くとり、土手を歩く人々の表現を強調するようになりました。反射式眼鏡絵として制作されたので左右反対の構図となっています。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】(「文化遺産オンライン」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-12

東都名所 浅草今戸.jpg

歌川国芳「東都名所 浅草今戸」(太田記念美術館蔵) 木版色摺 横大版
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/2011_kuniyoshi

洋風画表現にみる歌川国芳.jpg

 「洋風画表現にみる歌川国芳の試み─透視図法と陰影表現を中心に─中山創太稿」

≪ 亜欧堂田善(あおうどうでんぜん) (1748―1822)
江戸後期の洋風画家。本名永田善吉を略し田善と号した。亜欧堂はアジアとヨーロッパにちなむ堂号で、ほかに星山堂とも称した。陸奥(むつ)国(福島県)須賀川(すかがわ)に生まれる。染物業のかたわら僧月僊(げっせん)に絵を学ぶが、領主の白河城主松平定信(さだのぶ)に画才をみいだされ、自分より若い谷文晁(ぶんちょう)の弟子となった。ついで、定信から銅版術の研究を命ぜられ、初め司馬江漢の弟子になったようであるが破門、のち定信周辺の蘭学者(らんがくしゃ)の協力を得て銅版画(エッチング)や油絵の技術を習得。彼は西洋銅版画を写して画技を磨き、『ゼルマニア廓中之図』(1809)のような西洋銅版画の模刻作品もつくったが、文化(ぶんか)年間(1804~1818)を中心として大小多数の江戸名所風景図を世に出し、銅版画家として重きをなした。彼の銅版画は江漢よりも技術が進んでおり、人物を中心とした風俗画的傾向が強い。田善の肉筆洋風画でも『両国図』(奈良家蔵)、『今戸瓦(かわら)焼図』(神戸市立博物館)は風俗画の傾向が強いが、『浅間山図』(東京国立博物館)は風景画で、洋風画の写実と屏風(びょうぶ)形式の装飾性を合体させた野心作である。宇田川玄真著『医範提綱(いはんていこう)』(1808)の挿絵や『新訂万国全図』(1810)など実用銅版画もつくった。[成瀬不二雄]
 『菅野陽著『日本銅版画の研究 近世』(1974・美術出版社)』▽『成瀬不二雄著『江戸の洋風画』(1977・小学館)』▽『磯崎康彦著『亜欧堂田善の研究』(1980・雄松堂書店)』≫
(出典「小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)

「浅間山図」(亜欧堂田善筆 ).jpg

「浅間山図」(亜欧堂田善筆 ) 6曲1隻 紙本着色 150.0×338.6 江戸時代・19世紀
東京国立博物館蔵
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=&content_base_id=101299&content_part_id=000&content_pict_id=000
【 亜欧堂田善(1748~1822)は江戸時代後期洋風画を代表する画家。遠近法や陰影表現を駆使した銅版画や、肉筆画を制作したことで知られる。
青い空を背景にして噴煙を上げる淡い褐色の浅間山。裾野には白い雲海が広がっている。画面右のなだらかな山には松が一本ぽつんと描かれ、左の斜面には木材が転がる。その奥からは、噴煙と対応するように煙があがり人の気配を感じさせるが、人物は見当たらず、静寂が画面を包む。油彩による独特の色彩や筆触によって、荒涼な浅間山の光景が描かれている。
本作品の構図は谷文晁『名山図譜』中の浅間山の図をもとに制作されたことで知られるが、さらに稿本が発見されたことにより、その制作過程も明らかとなっている。油彩によって
大画面を創りあげる上での田善の創意工夫が見えるという点においても、本作品は非常に
大きな意味を持つ。田善肉筆画の代表作というのみならず、江戸時代洋風画史上においても
重要な作品である。 】

谷文晁『名山図譜』・浅間山.gif

「日本名山図会. 天,地,人 / 谷文晁 画」中の「日本名山図会・人」p10「浅間山」≪早稲田大学図書館 (Waseda University Library)≫
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_e0235/bunko30_e0235_0001/bunko30_e0235_0001.html

≪ 谷文晁(1763―1840)
江戸後期の南画家。名は正安。通称は文五郎。字(あざな)、号ともに文晁といい、別に写山楼(しゃざんろう)、画学斎(ががくさい)などと号した。田安家の家臣で詩人としても著名な麓谷(ろっこく)を父として江戸に生まれた。画(え)は初め狩野(かのう)派の加藤文麗(ぶんれい)に、ついで長崎派の渡辺玄対(げんたい)に学び、鈴木芙蓉(ふよう)にも就いた。大坂で釧雲泉(くしろうんせん)より南画の法を教授され、さらに北宗画に洋風画を加味した北山寒巌(きたやまかんがん)や円山(まるやま)派の渡辺南岳(なんがく)の影響も受けるなど、卓抜した技術で諸派を融合させた画風により一家をなした。なかでも『山水図』(東京国立博物館)のように北宗画を主に南宗画を折衷した山水に特色があり、また各地を旅行した際の写生を基に『彦山(ひこさん)真景図』や『鴻台(こうのだい)真景図』などの真景図や『名山図譜』を制作、『木村蒹葭堂(けんかどう)像』のような異色の肖像画も残している。1788年(天明8)画をもって田安家に仕官し、92年(寛政4)には松平定信(さだのぶ)に認められてその近習(きんじゅ)となり、定信の伊豆・相模(さがみ)の海岸防備の視察に随行して、西洋画の陰影法、遠近法を用いた『公余探勝(こうよたんしょう)図巻』を描き、また『集古十種』の編纂(へんさん)にも従って挿図を描いている。弟の島田元旦(げんたん)も画をもって鳥取藩に仕え、妻の幹々(かんかん)や妹秋香(しゅうこう)も画家として知られている。門人も渡辺崋山(かざん)、立原杏所(たちはらきょうしょ)、高久靄崖(たかくあいがい)らの俊才に恵まれ、当時の江戸画壇の大御所として君臨した。文晁を中心とする画派は関西以西の南画とは画風を異にし、通常、関東南画として区別されている。著書に『文晁画談』『本朝画纂(ほんちょうがさん)』などがある。[星野鈴](出典「小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)

ファン・ロイエン筆花鳥図模写.jpg

「ファン・ロイエン筆花鳥図摸写」≪谷文晁筆 (1763-1841)≫ 江戸時代/19世紀前期
紙本著色 231.8×96.5 1幅 サイン「W.Van Royen 1725」朱文方印「文晁画印」 朱文長方印「写山樓画本」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/410665
【 巨大な花瓶に多種多様な花が盛られ、下部には果物や、それをついばむ鳥がいます。よく見ると蟻がついている花もあり、この豪華な花束が、やがて朽ち果てる運命にあることを暗示しています。「ヴァニタス」を主題とする、西洋では典型的な花卉禽獣画の表現です。
8代将軍吉宗がオランダ商館長に紅毛絵(こうもうえ)の輸入を求め、享保7年(1722)に発注され、享保11年(1726)に長崎に5点の西洋画が舶載されました。そのうち「孔雀、インコ、駝鳥、アオサギの図」「あらゆる種類のオランダの花の図」の2点の油彩花鳥画が江戸本所の五百羅漢寺に下賜され本堂にかけられてました。寛政8年(1796)に石川大浪・孟高兄弟が後者を模写し、さらにこれを谷文晁が模写したのが本図となります。文晁は大浪と親交があり、大浪を西洋画法の師と仰いでいました。双方とも、西洋絵画の陰影や立体表現を、日本の伝統的な技法と素材で再現した画期的な模写作品です。当時、文晁は松平定信の命により社寺所蔵の古書画類の調査・模写を行っており、本図の存在はこうした調査の延長線上にあるのでしょう。
 なお、花瓶の下方には「W. Van Royen 1725」のサインがあり、原画作者としてアムステルダムの画家・ヘンドリック・ウィレム・ファン・ロイエンだった可能性が指摘されています。
来歴:舟津輪助氏→東京塩原又策→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館特別展『日本絵画のひみつ』図録 2011
・勝盛典子「大浪から国芳へ―美術にみる蘭書需要のかたち」(『神戸市立博物館研究紀要』第16号) 2000  】(「文化遺産オンライン」)

[医範提綱内象銅版図] .gif

[医範提綱内象銅版図]  宇田川玄真 編[他]  文化5(1808) (「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532459

https://www.minyu-net.com/serial/reimei/FM20211108-666434.php

【(黎明期の群像) 「亜欧堂田善と解剖図 国内に類なき精巧さ」

 日本医学史において、特に近世の解剖学は実証主義の台頭により一気に進展した。杉田玄白(げんぱく)らの『解体新書』(1774年)が象徴的な成果として知られるが、それに続き、近世と近代の医学をつなぐ業績として、宇田川玄真(げんしん)(1769~1834年)の『医範提綱』と日本初の腐食銅版画(エッチング)による解剖図『医範提綱内象銅版図』(1808年)、そしてその完成に貢献した須賀川の画人・亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)(1748~1822年)に注目したい。

銅版技術を習得

 亜欧堂田善(本名・永田善吉)は、江戸時代後期の洋風画家である。特に西洋画法(遠近法、陰影法)を用いて描いた江戸名所風景銅版画で知られ、葛飾北斎や歌川国芳ら同時代の絵師はもちろん、洋画家の岸田劉生など近代以降の作家たちにも強烈な印象と影響を与えた。
 「自上野望山下」(上野より山下望む)は田善の代表作となった絵葉書(はがき)大の江戸名所銅版画の中でも、その目指したところや銅版画技術の到達点がよく理解できる作品である。西洋画に倣った木の幹や葉の表現、遠景の通りを歩く一人一人も識別可能な細かい描写、正確な遠近法と陰影法による風景の奥行き。また田善はそこに必ず、寛(くつろ)ぐ人、働く人など江戸の町に暮らす人々の姿を配した。手のひら大の画面の中に広がる大きな世界は、江戸時代の人々に大きな驚きをもたらしたのである。
 同じ須賀川に生まれた特撮監督・円谷英二は、自分の母方の祖先に田善がいると聞かされており、新聞の寄稿においてその伝聞とともに「私がいま、こんな仕事ができるのも、田善という器用な先祖の余慶かな、と思うこともあります」と記している。奇(く)しき縁を感じるとともに、田善の仕事は「わかる人にはわかる」と思わされるエピソードといえよう。
 さて、宇田川玄真の訳述編集による『医範提綱』全3巻は、ブランカールツ(+)らの解剖学・生理学に関する著書をもとに編まれた『遠西医範』30巻から、人体各部の名称と解説、さらに玄真の講義と解釈を記したものである。1805(文化2)年の刊行以来、版を重ね、明治時代初期まで広く読まれた。この附編となる解剖図が1808年刊行の『医範提綱内象銅版図』である。
 これに30年ほど先立つ『解体新書』の解剖図は、小田野直武が蘭書の銅版画を写し、木版で印刷された。腐食銅版は、銅板を酸で腐食させて製版し、版の凹部に詰めたインクを高い圧力をかけて紙に写し取る凹版画技法である。一本の線を印刷するためにその通り線を引けばよい銅版に対し、線の両側を彫りくぼめる木版では、遠近法や陰影法といった西洋画法が駆使された腐食銅版画の地図や解剖図を再現できない。海外の医学を日本人が取り入れていく上で、腐食銅版技術の導入は重要な課題であった。
 田善をこの仕事に導いたのは白河藩主松平定信であった。寛政の改革を手掛けた定信は、一線を退いた後も蘭学から有用な知識を取り入れようと、学者たちに研究させる中で腐食銅版画技術の必要性を認め、何らかの機会に善吉の器用さに目を留めて、これを習得させるため、まず谷文晁(ぶんちょう)に入門させたとされる。実は、田善と定信が出会う10年前に、大槻玄沢らと交流のあった司馬江漢が日本初の腐食銅版画を成功させている。江漢はその技術を独自のものとして公にしていなかったのである。
 現在知られている約90点の田善の腐食銅版画は、定信周辺の学者の導きで技法を身に付け、習熟していく過程に制作されたものである。作品を出すたびに円熟していく技術は、科学者たちに理想実現への期待を高めさせた。

医師の悲願実現

 果たして田善の手掛けた『内象銅版図』52点の解剖図は、原典の蘭書や腑分(ふわ)け(解剖)を見たことのない者でもその正確さを直感できる仕上がりとなった。制作は蘭学者たちから示された西洋の見本によっており、田善自身が実際の腑分けを見たことがないにもかかわらず、である。跋文(ばつぶん)に「當時其人ヲ不得苦ム 天其衷ヲ誘キ 助ルニ亜欧堂ヲ以ス」、意訳すれば「当時はその人を得られず苦しんだ。天はその心を、亜欧堂をもって助けた」とある。解体新書刊行当時、日本の医師たちは海外の銅版画による解剖図の精密さに驚きながら、自分たちの手でそれを実現することができなかった。その解体新書以来の念願が、田善の手によって実現したのである。
 定信に取り立てられた時、田善は47歳。61歳で『内象銅版図』が刊行され、その2年後、銅版技術者として最大の仕事となる日本初の官製世界地図『新訂万国全図』も完成させている。
 科学者たちを大いに助け、画家としても見るべき作品を成した田善。江漢は数々の著書や逸話に旺盛な好奇心と自らの業績に対する自負をにじませるが、田善が語った言葉はほとんど知られておらず、その生涯にも不明な点が多い。その沈黙は、彼が学者たちの熱意と研究の意義、全うすべき自身の使命とを正しく理解していた証しであろう。
 『内象銅版図』凡例の「此銅版図ハ奧人亜欧堂主人ノ所鐫也 主人和蘭ノ寫眞及ヒ銅版之技ニ於ル銕筆精工於海内ニ獨歩」(この銅版図は東北の亜欧堂先生の彫ったものである。先生には、オランダの精密な描画と銅版画技術の精巧さにおいて国内に並ぶものがない)という一文は、そのような田善の人柄や技術に対する最大の賛辞であり、その偉業を私たちに伝える江戸の蘭方医たちからのメッセージなのである。(須賀川市文化交流部文化振興課主査・学芸員 管野和恵)  】(「福島民友新聞」2021年11月08日)

新訂万国全図.gif

「新訂万国全図」」≪測量所高橋景保謹識 永田善吉(亜欧堂田善)刻=亜欧堂田善 (1748-1822)≫ 江戸時代、文化7年/1810年 銅版手彩 114.8×197.7 1舗 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/444203
【 幕府天文方高橋景保が大坂の天文学者間重富や長崎通詞馬場左十郎らと協力して3年を費やし完成させたものです。ヨーロッパ製地図に基づきながらも、間宮林蔵の樺太探査の成果を取り入れて島として描くなど、当時世界最高水準の地図となっています。また、西洋製地図そのものでは右端(東端)にくる日本を中央に位置するように工夫しています。凡例に文化7年の文字が見えますが、亜欧堂田善による銅版原版が完成したのはもう少し後といわれます。
来歴:南波松太郎→1983神戸市立博物館 】(「文化遺産オンライン」)

https://yuagariart.com/uag/fukushima04/

【 第三代白河藩主・松平定信の画事

 寛政の改革で知られる松平定信(1758-1829)は、八代将軍徳川吉宗の孫として江戸城内の田安邸に生まれ、17歳で白河藩松平家の養子となった。天明3年には白河藩の家督を継いだが、天明7年に幕府老中首座に推挙され、寛政の改革を行なったのち、寛政5年に老中及び将軍補佐役を辞任して白河藩主に復帰した。
 定信が白河に入るまでの白河藩周辺の絵画状況は、資料に乏しく明確にはわかっていないが、定信が白河藩主になって以来、にわかに白河藩を取り巻く絵師たちの活動が活発になる。それは、定信が文化的な関心が高く、日本全国の古文化財を記録した『集古十種』や、古絵巻を模写して分類・集成した『古画類聚』などの編纂事業を推し進め、それに多くの絵師を登用、活用したからである。
 定信の画事については、12、3歳の頃から狩野派の絵画を学び、のちに田安家の家臣・山本又三郎(源鸞卿)について沈南蘋の画法を学んだと伝わっている。現存する定信の絵画作品には当時流行していた南蘋画の影響がみられ、源鸞卿に学んだことがうかがえる。
 しかし、後年は絵筆を絶ち、かつて諸士に与えた絵画を和歌と交換するとともに、それを自ら火中に投じて燃やしたと伝わっている。その理由を、著書のなかで述べられている絵画観から推測すると、「対象の正確な形状を伝える写実性の重視と形骸化した趣味的鑑賞態度の否定」ではなかったかと考えられている。しかし、残っている作品からこうした絵画観を明確に感じとることはできない。

松平定信「花鳥図」.jpg

松平定信「花鳥図」江戸東京博物館蔵

松平定信(1758-1829)まつだいら・さだのぶ
宝暦8年江戸城内田安邸生まれ。御三卿・徳川(田安)宗武の二男。八代将軍徳川吉宗の孫。幼名は賢丸、字を貞郷。旭峯、風月、楽翁などの号がある。学問の師は、田安家の番頭で朱子学や書に造詣の深かった大塚孝綽、儒学者の黒田右仲、側近の水野為長らで、詩歌も11歳頃からはじめたといわれる。安永3年、17歳で白河藩松平家の養子となり、安永4年田安家を出て八丁堀の白河藩邸に移った。天明3年白河藩の家督を継ぎ、翌年には藩主として白河に入った。天明7年幕府老中首座に就任し、将軍家斉を補佐し寛政の改革を断行した。寛政5年には老中職を辞任し、翌年白河に帰藩を許されて以後白河藩政に専念するかわわら多くの学者や絵師を育成・活用しながら「集古十種」「古画類聚」などの編纂事業を進め、谷文晁や亜欧堂田善など多くの画人を白河に結びつけた。また、自ら絵筆をとり、将軍家治に「柳鷺図」「関羽図」を、光格天皇に「桃鶴図」を献上したという。文政12年、72歳で死去した。 】(「UAG美術家研究所」)

司馬江漢・地球図.jpg

「地球図」≪司馬江漢写并刻 (1747-1818)≫ 江戸時代 寛政4年以降/1792年以降
銅版筆彩 東半球図55.0×45.1 西半球図55.0×44.9 2枚 落款「寛政壬子春二月/日本銅板創製東都芝門司馬江漢峻寫并刻」(東半球図) 題 岳融(東半球図) 
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/444033
【 司馬江漢(1747〜1818)は江戸時代後期の洋風画家。当時の洋風文化のキーパーソンである平賀源内や、蘭学者の前野良沢・大槻玄沢らと交遊がありました。彼らの協力のもと、日本で初めて銅版画を作成した人物として名が知られています。
 地球図は江漢の著作である『地球全図略説』に対応する世界図として作成された、日本初の銅版による世界図です。この原図は、天明7年(1787)頃に玄沢がオランダ人医師のストッツェルから入手したフランス語版の「モルティエ世界図」といわれています。玄沢が「モルティエ世界図」を手にしたとき、すでに刊行から60年以上が過ぎており、最新の世界図ではありませんでしたが、この原図では未知の領域として示されなかったユーラシア大陸の東端および日本の北方地域を描くなど、江漢独自の工夫がみられます。
 江漢の「地球図」は、これ以降次々と登場する蘭学系世界図や銅版世界図の嚆矢といえます。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019  】(「文化遺産オンライン」)

(追記その一)「司馬江漢」周辺 (「yama's note」より抜粋)

https://squatyama.blog.ss-blog.jp/archive/c2306134239-1

司馬江漢1:かくインプットされて [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢2:慈眼寺の史跡看板から [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢3:出自と絵師修行 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢4:源内と春信と紫石と~ [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢5:源内に親炙して [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢6:再び人体比率図を~ [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢7:油絵と銅版画 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢8:源内と直武はゲイ? [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢9:『蘭学事始』概略Ⅰ [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢10:『蘭学事始』概要Ⅱ [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢11:西遊旅譚と西遊日記 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢12:一九や北斎とも絡み~ [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢13:長崎日記 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢14:捕鯨体験記 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢15:地球・天体の著述へ [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢16:地動説を説明 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢17:悩ましき晩年 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢19:晩年の老荘著作群 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢20:己の「死亡通知書」配布 [北斎・広重・江漢他]≫
https://squatyama.blog.ss-blog.jp/2018-01-17


『春波楼筆記』.jpg

【 『春波楼筆記』を記した翌文化9年、江漢は新銭座の家蔵を売り、終の棲家を吉野に定めて旅立った。だが親類に預けた金子が遣われたと知って、1年ほどで江戸へ戻った(『無言道人筆記』)。『吉野紀行』を記し、今度は己の死亡通知書『辞世ノ語』(文化10年・1813年)を配布。ここは絵とくずし字お勉強。

 江漢先生老衰して、画を需(もとむ)る者ありと雖(いえども)不描、諸侯召ども不往、蘭学天文或ハ奇器を巧む事も倦ミ、啻(ただ)老荘の如きを楽しミ、厺年(去年)ハ吉野の花を見、夫よりして京に滞る事一年、今春東都に帰り、頃日(けいじつ=近頃)上方さして出られしに、相州鎌倉円覚寺誠摂禅師の弟子となり、遂に大悟して後病(わずらい)て死にけり。

 一、万物生死を同(おなじう)して無物に復帰(またきす)る者ハ、暫く聚(あつま)るの形ちなり、万物と共に尽ずして、卓然として朽ざるものハ後世の名なり、然りと雖、名千載を不過、夫天地ハ無始に起り無終(むじゅう)に至る、人(ひと)小にして天(てん)大なり、万歳を以て一瞬のごとし、小慮なる哉 嗚呼 七十六翁 司馬無言辞世ノ語 文化癸酉(十年)八月

 前述通り「七十八翁」は虚構で、正しくは「六十七歳」。「万物生死~」からの文は老荘思想だろう。この「死亡通知書」後日談に、こんな逸話もある。西脇玉峰編著『伊能忠敬言行録』(大正2年)の<交友門弟>「司馬江漢」の記述~。

 「某江漢の後背を見、追うて其の名を呼ぶ。江漢足を逸して走る。追ふもの益々呼びて接近甚だ迫る。江漢首を廻らし、目を張り叱して曰く、死人豈(あに)言を吐かんや。再び顧みずしてまた走り去れりと」(この逸話は木田寛栗編「画家逸事談」にも紹介されていた)

 さて司馬江漢は、北斎ほどに絵を極めたわけでもなく、良沢のように蘭語を極め、玄白のように医学に情熱を注いだわけでもない。その意では、やはり師匠・平賀源内にどこか似ている。知的遊民、ディレッタント的要素を受け継いだフットワークのよい反骨精神で自由に時代を走り続けた人のようにも思われる。虚無的な人生観を語って、文政元年(1818)10月21日、72歳で没。 】

司馬江漢21:定信の子飼い亜欧堂田善 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢22:参考書一覧 [北斎・広重・江漢他]
司馬江漢23:江漢へ見せたき皆既月蝕ぞ [北斎・広重・江漢他]

(追記その二)「谷文晁そして『下谷の三幅対』(亀田鵬斎・酒井抱一谷文晁→蕪村など)」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-28

文晁.jpg

谷文晁筆「人物花鳥押絵貼屏風」一双のうち「墨梅図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

天保元年(1830)、文晁六十八歳の時の作品です。文晁は、五十歳代から江戸画壇の第一人者として活躍していました。最盛期の文晁には、大胆な筆使いのものがあって、時に批判されることもありますが、この墨梅図では、梅の枝振りを表現するのに効果的に使われています。このような表現は、弟子の立原杏所(きょうしょ)の葡萄図にも通うところがあり注目されます。
 「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」の、「鵬斎」は文政九年(一八二六)に没、そして、「抱一」も文政十一年(一八二九)に没と、上記の作品を仕上げた天保元年(一八三〇)、六十八歳の文晁は、その前年に御絵師の待遇を得て剃髪し、江戸画壇というよりも、全国を席捲する日本画壇の第一人者に祀り上げられていた。
 その文晁の、それまでの「交友録」というのは、まさに、「下谷の三幅対」の、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」に、陰に陽に連なる「江戸(東京)」の、その後半期の「江戸」から「東京」への過度期の、その節目、節目に登場する、一大群像を目の当たりにするのである。

松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂

 その一門も、綺羅星のごとくである。

(文晁門四哲) 渡辺崋山・立原杏所・椿椿山・高久靄厓
(文晁系一門)島田元旦・谷文一・谷文二・谷幹々・谷秋香・谷紅藍・田崎草雲・金子金陵・鈴木鵞湖・亜欧堂田善・春木南湖・林十江・大岡雲峰・星野文良・岡本茲奘・蒲生羅漢・遠坂文雍・高川文筌・大西椿年・大西圭斎・目賀田介庵・依田竹谷・岡田閑林・喜多武清・金井烏洲・鍬形蕙斎・枚田水石・雲室・白雲・菅井梅関・松本交山・佐竹永海・根本愚洲・江川坦庵・鏑木雲潭・大野文泉・浅野西湖・村松以弘・滝沢琴嶺・稲田文笠・平井顕斎・遠藤田一・安田田騏・歌川芳輝・感和亭鬼武・谷口藹山・増田九木・清水曲河・森東溟・横田汝圭・佐藤正持・金井毛山・加藤文琢・山形素真・川地柯亭・石丸石泉・野村文紹・大原文林・船津文淵・村松弘道・渡辺雲岳・後藤文林・赤萩丹崖・竹山南圭・相沢石湖・飯塚竹斎・田能村竹田・建部巣兆

 その画域は、「山水画、花鳥画、人物画、仏画」と幅も広く、「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風(南北合体の画風)を目途としていた。
 ここで、しからば、谷文晁の傑作画となると、「公余探勝図 寛政5年(1793年)重要文化財・東京国立博物館」位しか浮かんで来ない。
 しかし、これは、いわゆる、「真景図・写生画・スケッチ画」の類いのもので、「松平定信の海岸防備の視察の、その巡視に従って写生を担当し、その八十箇所を浄写した」に過ぎない。その「公余探勝」というのは、文晁が考えたものではなく、松平定信の、「蛮図は現にくはし。天文地理又は兵器あるいは内外科の治療、ことに益少なからず」(『字下人言』)の、この貞信の「洋画実用主義理論」ともいうべきものを、方法として用いたということ以外の何物でもない。
そして、寛政八年(一七九六)に、これまた、定信に『集古十種』の編纂を命ぜられ、京都諸社寺を中心にして古美術の調査することになり、ここで、上記の「八宗兼学」という「南北合体の画風」と結びついて来ることになる(『日本の美術№257 谷文晁(河野元昭和著)。
 この寛政八年(一七九六)、文晁、三十四歳の時の、上記の門弟の一人、喜田武清を連れての関西巡遊は、大きな収穫があった。この時に、文晁は、京都で、呉春、大阪で、木村蒹葭堂などとの出会いがある(文晁筆の著名な「木村蒹葭堂肖像」は補記一のとおり)。
 この時に、谷文晁は、呉春(月渓)が描いた「蕪村肖像」を模写して、その模写絵と己の「八か条の画論」とを一緒に一幅に仕立てているのである。

蕪村肖像・月渓写.jpg

 この「於夜半亭 月渓拝写」と落款のある「蕪村肖像」が、何時描かれたのかは、「呉春略年表」(『呉春 財団逸翁美術館』)には記載されていない。
 しかし、『蕪村全集一 発句(校注者 尾形仂・森田蘭)』の、冒頭の口絵(写真)を飾ったもので、その口絵(写真)には、「蕪村像 月渓筆」の写真の上部に「蕪村自筆詠草(同右上上部貼り交ぜ)」として、次のとおりの「蕪村自筆詠草」が、紹介されている。

  兼題かへり花

 こゝろなき花屋か桶に帰花
 ひとつ枝に飛花落葉やかえり花
        右 蕪村

 この「兼題かへり花」の、蕪村の二句は、天明三年(一七八三)十月十日の「月並句会」でのものというははっきりとしている。そして、この年の、十二月二十五日に、蕪村は、その六十八年の生涯を閉じたのである。
 その蕪村が亡くなる時に、蕪村の臨終吟を書きとったのも、当時、池田に在住していた呉春(月渓)が、蕪村の枕頭に馳せ参じて看病し、そして、その臨終吟(「冬鶯むかし王維が垣根かな」「うぐひすや何ごそつかす藪の霜」「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけ」)を書きとったのである。

 呉春(月渓)は、他にも数点の蕪村像は描き、さらに、木彫りにしたものも見受けられるが、この像こそ「蕪村肖像」としては、最も、蕪村を知る最側近の、呉春(月渓)」ならではの会心の作と解して差し支えなかろう。
 そして、あろうことか、「江戸南画・関東南画の大成者」「江戸後期の日本画壇の第一人者」として、その「江戸画壇・関東画壇・日本画壇」の、その頂点に位置した「谷文晁」が、この呉春(月渓)の「蕪村肖像」を実見して、それを模写(臨写)して、それを、さらに、己の「八か条の画論」を付して、一幅に仕立てものが、今に、現存しているのである。

文晁・蕪村模写.jpg

谷文晁筆「与謝蕪村肖像」(呉春筆「蕪村を模写した作品。画面上部に文晁が門生に示した八ケ条の画論が一緒に表装されている」=『日本の美術№257 谷文晁(p23)』)

 ここまで来て分かったことは、しからば、これなる「谷文晁」が、今に残している「傑作画」というのは無数にあるし、あり続けるのであろうが、その内でも、その人物像、そして、その肖像画(その有名・無名の一人ひとり)、ここに注目をしたいのである。これは、おそらく、永遠不滅という思いがするのである。

 ということで、これまでにも、このサイトで活用したものなどを、ここに掲示をして置きたい。

補記一 蒹葭堂肖像画について(谷文晁筆) 大阪府教育委員会蔵(重要文化財)

www.mus-nh.city.osaka.jp/collection/kenkado/top_01kensho.html

補記二 近世名家肖像図巻(谷文晁筆) 東京国立博物館

円山応挙
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024597

呉春
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024598

谷文晁
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024606

大典和尚
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024595

六如(僧)と皆川淇園
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024599

田中納言
http://image.tnm.jp/image/1024/C0024600.jpg

岸駒
http://image.tnm.jp/image/1024/C0024600.jpg

木村蒹葭堂
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024604

大田南畝
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024608

頼春水(弥太郎)と村田春海
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024610
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日本画と西洋画との邂逅(その十二) [日本画と西洋画]

(その十二)「司馬江漢・葛飾北斎・歌川国貞・歌川広重」そして「歌川国芳(「奇抜・奇想浮世絵」「洋風浮世絵」)」など

国芳 猫一.jpg

歌川国芳「其のまゝ地口猫飼好五十三疋(そのままぢぐち・みゃうかいこう・ごじゅうさんびき) 上中下」(渡邊木版美術画舗蔵)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-02-14

(再掲)

猫上.jpg

「其のまま地口 猫飼好五十三疋」上
1 日本橋(にほんばし)=「二本(にほん)だし(「二本の鰹節を引っ張り出す」と「出汁」との掛け)」
2 品川(しながわ)=「白顔(しらがを)の猫」
3 川崎(かわさき)=「蒲焼(かばやき)を嗅いている」
4 神奈川(かながわ)=「(猫が)嗅ぐ皮(かぐかわ)」
5 程ヶ谷(ほどがや)=「喉かい(のどかい)=喉が痒い」
6 戸塚(とつか)=「はつか(二十日鼠)を睨んでいる猫」
7 藤沢(ふじさわ)=「ぶちさば(鯖を咥えたぶち猫)」
8 平塚(ひらつか)=(子猫が)「育(そだ)つか」
9 大磯(おおいそ)=「(獲物=蛸が)重(おも)いぞ」
10 小田原(おだわら)=「むだどら(鼠に逃げられて無駄走りのどら猫)」
11 箱根(はこね)=「へこね(鼠に餌を取られてへこ寝する)」
12 三島(みしま)=「三毛(みけ)ま(三毛猫の魔物=化け猫=猫又)」
13 沼津(ぬまづ)=「鯰(なまづ)を睨んでいる猫」 
14 原(はら)=「どら(猫)」
15 吉原(よしわら)=は「ぶち腹(はら)=(腹もぶちだ)」
16 蒲原(かんばら)=「てんぷら(を食おうとしている猫)」
17 由比(ゆい)=「鯛(たい)を口にしている猫」
18 興津(おきつ)=「(猫が)起(おき)ず」
19 江尻(えじり)=「(猫が)齧(かじ)る」

猫中.jpg

「其のまま地口 猫飼好五十三疋」中
20 府中(ふちゅう)=「(猫が)夢中(むちゅう)」
21 鞠子(まりこ)=「張り子(はりこ)の猫」
22 岡部(おかべ)=「赤毛(あかげ)の猫」
23 藤枝(ふじえだ)=「ぶち下手(へた)=(ぶち猫は鼠取が下手だ)」
24 島田(しまだ)=「(魚が)生(なま)だ」
25 金谷(かなや)=「(猫の名前が)タマや」
26 日坂(にっさか)=「食(く)ったか」
27 掛川(かけがわ)=「(猫の)化(ば)け顔(がを)」
28 袋井(ふくろい)=「袋(ふくろ)い(り)=猫が頭を袋の中に入れている」
29 見付(みつけ)=「(猫の)ねつき(寝つき)」
30 浜松(はままつ)=「鼻熱(はなあつ)=猫の鼻が炭火で熱い」
31 舞坂(まいざか)=「(猫が)抱(だ)いたか」
32 新居(あらい)=「洗(あら)い=猫の顔洗い」
33 白須賀(しらすか)=「じゃらすか=子猫をじゃらすか」
34 二川(ふたがわ)=「当(あ)てがう=乳をあてがう」
35 吉田(よしだ)=「(猫が)起(お)きた」
36 御油(ごゆ)=二匹の猫の「恋(こい)」
37 赤坂(あかさか)=「(目指しの)頭(あたま)か」
38 藤川(ふじかわ)=「ぶち籠(かご)に居る猫」
39 岡崎(おかざき)=「尾(お)が裂(さ)け=尾が裂けて化け猫か」

猫下.jpg

「其のまま地口 猫飼好五十三疋」下
40 池鯉鮒(ちりゅう)=「器量(きりょう)良しの猫」
41 鳴海(なるみ)=「軽身(かるみ)を見せる猫」
42 宮(みや)=「親(おや)猫」
43 桑名(くわな)=「(猫さん、それは)食(く)うな」
44 四日市(よっかいち)=「寄(よ)ったぶち=ぶち猫が寄り合っている」
45 石薬師(いしゃくし)=「(猫が)いちゃつき」
46 庄野(しょうの)=「(猫を)飼(か)うの」
47 亀山(かめやま)=「化(ば)け尼(あま)=猫が尼に化ける」
48 関(せき)=「牡蠣(かき)=猫が牡蠣の臭いを嗅いている」
49 坂下(さかのした)=「赤(あか)の舌(した)=猫の赤い舌」
50 土山(つちやま)=「ぶち邪魔(じゃま)=猫の恋を邪魔してる」
51 水口(みなぐち)=「皆(みな)ぶち(猫)」
52 石部(いしべ)=「みじめ(な猫)」
53 草津(くさつ)=「炬燵(こたつ)の上の猫」
54 大津(おおつ)=「上手(じょうず=鼠捕りが上手)」
55 京(きよう)=「ぎやう(猫に捕まった鼠の悲鳴)」

 この「奇抜・奇想浮世絵」とでも名付けるのが相応しい「其のまゝ地口猫飼好五十三疋(そのままぢぐち・みゃうかいこう・ごじゅうさんびき) 上中下」とは、「猫飼好(みゃうかいこう)」=「東海道(とうかいどう)の地口(「言葉遊び」の「洒落(駄洒落)」=「もじり」(滑稽化・寓意化・パロディ化))」、「五十三疋(ごじゅうさんびき)」=「五十三次(ごじゅうさんつぎ)の地口(洒落・パロディ化)」、「猫好き浮世絵師・歌川国芳」の「東海道五十三次」の「其のまゝ地口(洒落・パロディ化)」ということをを意味する。
 そして、この「猫好き浮世絵師・歌川国芳(1798-1861)」は、「富士三十六景・名所江戸百景・東海道三十六景(次)」の「北斎に次ぐ巨匠・歌川広重(1797-1858)」と、全く同時代の、「同門(「歌川豊春門)」の、「初代豊国門(嫡流)・歌川国芳」と「豊広門(傍流)・歌川広重」という、相拮抗する、この二人の先輩格の「三代目豊国」と成る「歌川国貞(1786-1864)」と併せ、「歌川派第三世代の三巨匠」と称せられる、「役者絵(似顔絵)の歌川国貞」・「名所絵(風景画)の歌川広重」・「「武者絵の歌川国芳」として切磋琢磨の活動を展開することになる。
 この「歌川派第三世代の三巨匠」の、「歌川国芳」(51図)、「歌川広重」(35図)、そして「歌川国貞=(三代目)豊国」の合作の「小倉擬(なぞらえ)百人一首」がある。

小倉擬百人一首・天智天皇.png

歌川国芳画「小倉擬百人一首・天智天皇」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1313017?tocOpened=1

≪(歌)天智天皇「01 秋(あき)の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)を荒みわがころも手は露に濡れつつ」(後撰集 秋 302)
(見立て文=説明文)「牛若丸 一年奥羽へ下り玉ふ頃 三河国矢矧の長が家に止宿し 娘浄瑠璃姫と糸竹を合曲深く契りをかハせしことハ 世の人能知る所なり 柳下亭種員筆記」
(落款)一勇斎国芳画 上に、「改(あらため)印」が「名主の単印(?)、二つか(?)」
(見立て絵題)「御曹司牛若」
(彫工名)「彫工房次郎」
(版元)「伊場仙板」(「伊場仙=伊場仙三郎) ≫

小倉擬百人一首・式子内親王.png

歌川豊国画「小倉擬百人一首・式子内親王」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1313056?tocOpened=1

≪(歌)式子内親王(しょくしないしんのう「89 玉(たま)の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする」(新古今集 恋 1034) 「歌題」の両脇下に「改(あらため)印が「名主印の二つ」押印(?)
(見立て文=説明文)「身に困しめを見勢蔵ハ あけていハねど主の慈悲 土扉も重き親の恩とハ知りながら 凡悩の闇路にまよふ大晦日 窓にあやなき二人が顔ハ しのびかねたる泪ぞはかなき  柳下亭種員筆記」 
(落款)「(応需)豊国画」
(見立て絵題)「久松」「おそめ」 
(版元)「伊場仙板」(「伊場仙=伊場仙三郎) ≫

小倉擬百人一首・後鳥羽院.png

歌川広重画「小倉擬百人一首・後鳥羽院」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1313010?tocOpened=1

≪(歌)後鳥羽院「人(ひと)も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は」
(続後撰集 雑 1202)
(見立て文=説明文)「仮令こがれて死ぬれバとて 雲井に近き御方に不及恋と嘆しハ 鮨屋の娘が凡悩の攣 仏を棍徒て 輪廻を不離はなるヽハ 今此時とハ あぢきなき世を見限し惟盛卿が菩提の首途 これや錠の種と見る 若葉内侍六代君の 物思ふをもふりすてヽ 高野の山にぞ入玉ひける  柳下亭種員筆記」
(落款)「広重画」 上に、「改(あらため)印」が「名主印が二つ」押印(?)
(見立て絵題)「三位中将惟盛」「お里」
(版元)「伊場仙板」(「伊場仙=伊場仙三郎)  ≫

 上記の「見立て文=説明文」及び、下記の「別記(「歌川国芳・51図」「歌川広重・35図」「歌川(三代)豊国=国貞・14図」)」などは、下記のアドレスを参考とした。また、「浮世絵」関連(「改印」「名主印」「版元」など)は、『浮世絵の見方事典(改印解説・落款一覧付)・吉田漱(北辰堂)』などを参考とした。

http://ukiyoe.cool.coocan.jp/100/100-thumb01.htm

(別記)「別記(「歌川国芳・51図」「歌川広重・35図」「歌川(三代)豊国=国貞・14図」)」

絵師:歌川国芳 → 51図
01:天智天皇(御曹司牛若丸) 02:持統天皇(最明寺時頼・白妙) 03:柿本人麿(加賀千代)04:山辺赤人 05:猿丸太夫 07:安部仲麿(名古屋山三郎) 08:喜撰法師(入道頼政) 10:蝉丸(濡髪長五郎) 11:参議篁(源義経・志度の蜑) 13:陽成院(鬼若丸) 14:河原左大臣(文ひろげの狂女) 16:中納言行平(松王丸妻・小太郎) 17:在原業平朝臣(花和尚魯智深) 19:伊勢(政右エ門妻お谷) 20:基良親王(晋の豫譲)22:文屋康秀(安徳天皇・典侍の局) 23:大江千里(白拍子祇王)25:三条右大臣(怪童丸・卜部季武  26:貞信公(祇園女御) 28:源宗于朝臣(金輪五郎今国) 29:凡河内躬恒(白菊丸) 31:坂上是則(佐藤忠信) 32:春道列樹(絹川与右エ門) 34:藤原興風(樋口次郎兼光) 35:紀貫之(苅萱道心・石働丸) 37:文室朝康(玉藻前) 38:右近(俊寛) 41:壬生忠見(長谷部信連) 44:中納言朝忠(遠藤武者盛遠) 47:恵慶師(平相国清盛) 49:大中臣能宣朝臣(神谷仁エ門) 50:藤原義孝(関羽) 53:右大将道綱母(藤屋伊左エ門) 55:大納言公任(雪姫) 56:和泉式部(悪七兵衛景清) 59:赤染衛門(八百屋半兵衛) 61:伊勢大輔(矢田平九重太夫) 64:権中納言定頼(こし元千鳥) 65:相模(京極内匠・おきく) 68:三条院(法界坊) 73:前中納言匡房(無官太夫敦盛) 75:藤原基俊(亀屋忠兵衛・梅川・孫右エ門) 76:法性寺入道前関白太政大臣(袴垂保輔) 82:道因法師(大星由良之助・大星力弥) 85:俊恵法師(俣野五郎・おし鳥霊) 88:皇嘉門院別当(足軽市右エ門) 90:殷富門院大輔(高野師直・かをよ御前)91:後京極摂政前太政大臣(清玄尼・松若丸) 94:参議雅経(女夫狐) 97:権中納言定家(日向勾当・娘人丸) 100:順徳院(大尾)

絵師:歌川広重 → 35図  
06:中納言家持(いばらきの化身・渡辺源二綱) 09:小野の小町(園部左衛門) 12:僧正遍昭(白拍子仏御前) 15:光孝天皇(巴御前) 18:藤原敏行朝臣(阿古屋) 21:素性法師(梅若丸・信夫惣太) 24:菅家(高雄) 27:中納言兼輔(狐葛の葉・安部童子)30:壬生忠岑(覚寿・かりや姫) 33:紀友則(三井寺狂女) 36:清原深養父(兵衛左頼朝・伊東娘辰姫) 39:参議等(宗玄) 40:平兼盛(伊賀局) 42:清原元輔(わん久)43:中納言敦忠(建礼門院) 45:謙徳公(八百屋お七) 46:曾称好忠(薄雪姫・渡し守)48:源重之(こしもとお菊) 51:藤原実方朝臣(重氏御台・千鳥の前)  54:儀同三司母(稲川治郎吉・おとわ) 57:紫式部(勇侶吉郎・鹿野苑軍太夫) 60:小式部内侍(はつ女) 63:左京大夫道雅(小まん) 66:前大僧正行尊(久我之助) 69:能因法師(宿祢太郎・立田の前) 71:大納言経信(阿古義平治・平河原二郎蔵) 72:祐子内親王家紀伊(八重垣姫) 78:源兼昌(熊谷次郎直実) 79:左京大臣顕輔(梅の由兵衛・長吉・源兵衛堀源兵衛) 81:後徳大寺左大臣(高橋弥十郎・妻さつき) 84:藤原清輔朝臣(桜丸・
八重) 87:寂蓮法師(八重桐) 93:鎌倉右大臣(義峯・おふね) 96:入道前太政大臣(不破伴左エ門) 99:後鳥羽院(三位中将惟盛・お里)

絵師:歌川(三代)豊国=国貞 → 14図
52:藤原道信朝臣(大平次・およね) 58:大弐三位(横山太郎・妻浅香) 62:清少納言(菅丞・判官代輝国) 67:周防内侍(白井権八) 70:良暹法師(石富武助・妹於花)74:源俊頼朝臣(鳴神上人・雲のたへま) 77:崇徳院(宮城阿蘇次郎・みゆき) 80:侍賢門院堀川(山崎屋与五郎・藤屋あずま) 83:皇太后宮太夫俊成(赤沢十内・大藤内)86:西行法師(弁慶・静御前)89:式子内親王(おそめ・久松) 92:二条院讃岐(矢間重太郎・妻おりえ) 95:前大僧正慈円(大伴黒・小町桜霊) 98:正三位家隆(団七九郎兵衛・一寸徳兵衛)

 これらの『小倉擬百人一首』の全体像を把握するためには、下記のアドレスの、「見立て絵を読み解くために」(?)が参考となる。

https://www.nijl.ac.jp/koten/kokubun1000/1000yamashita5.html

【 34:藤原興風(樋口次郎兼光)

藤原興風.png

「見立て」とは、ある1点だけ共通する違うものを連想すること。日本の文化や芸能に深く関わる「風流・やつし」という「古典の当世化」とは異なり、主に江戸時代中期以降に遊びの一種として流行した表現様式である。
  藤原興風(おきかぜ)の和歌「誰をかも知る人にせん高砂の松も昔の友ならなくに」は、友が皆死んでしまい、1人生き残った老人の孤独を詠んだもの。『小倉擬~』は、これを木曽義仲の家来である樋口次郎兼光が松に登る姿に見立てた。
説明文には、浄瑠璃『ひらかな盛衰記』のあらすじが記される。主君義仲が源義経に攻められて戦死し、生き残った樋口は大坂の船頭・松右衛門に身をやつす。
 松右衛門は、船を逆走させる「逆櫓(さかろ)」という漕こぎ方ができたため、海戦に備える梶原景時から義経の船の船頭に雇われ、復讐(ふくしゅう)の機会をうかがう。逆櫓の練習中、松右衛門が樋口であることを知った梶原の手下の船頭仲間に襲われる。松右衛門は手下たちを打ち据えたが、周囲の物音に気づいて松によじ登って見渡すと、既に源氏の軍に囲まれていた。
 これは、樋口の舅(しゅうと)が、預かっている義仲の息子・駒若を助けるため、「松右衛門が樋口だ」と訴えたからだった。樋口は主君に忠義を立てられると喜び、自分で首を掻かき落として死ぬ。
 一方、『平家物語』によると、樋口は義仲の四天王の1人である勇猛な武将だが、敵を攻めに行っていた時、主君は義経に亡ほろぼされてしまった。樋口は1人生き残って捕虜となるが公家たちの強い希望で殺される。生き恥をさらし、結局殺された勇者の哀れさに、『平家物語』を知る人々は深く同情した。そうした同情から浄瑠璃は創られたのである。
 『小倉擬~』は和歌の「松」を大坂の逆櫓の松に見立て、全体の意味を、主君と共に死ねなかった樋口次郎兼光の哀れさとした。 】

 さらに、これらの「歌川派第三世代の三巨匠」の、「歌川国芳・広重」、そして「歌川国貞=(三代目)豊国」の合作は、この「小倉擬(なぞらえ)百人一首」の他に、下記のアドレスなどにより、歌川広重の代名詞ともなっている『東海道五十三對(次)』の、そのシリーズの作品の一つとして、「広重写: 22点(図)」、「国芳画」と書かれた作品数が30点(図)、「(三代)豊国画」と書かれた作品8点(図)も、現存している。

http://ukiyoe.cocolog-nifty.com/blog/cat22665893/index.html

「補説1」 異版・変わり図の存在
「補説2」 複数の絵師と版元による合同制作
「補説3」 『東海道名所図会』の記事の影響

 これらのことについては、ここでは言及しないで、そもそも、これらの「「歌川派第三世代の三巨匠」の、≪「歌川国芳・広重」そして「歌川国貞=(三代目)豊国」≫の、その原流の「歌川派の開祖・歌川豊春」(1735-1814)の、下記アドレスで紹介した、「浮絵付きのぞきからくり(一・二)」(「看板は歌川豊春画「阿蘭陀(おらんだ)雪見之図」)に見られる、この「洋風浮世絵」(遠近法を駆使した「浮絵」など)を継承しているのは、「歌川国芳」ということになろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-02

(再掲)

のぞきからくり(直視式のぞき眼鏡).jpg

「浮絵付きのぞきからくり(一)」(「のぞきからくり(直視式のぞき眼鏡)」)

歌川豊春画「阿蘭陀(おらんだ)雪見之図」.jpg

「浮絵付きのぞきからくり(二)」(「看板は歌川豊春画「阿蘭陀(おらんだ)雪見之図」)

忠臣蔵十一段目夜討之図.jpg

歌川国芳「忠臣蔵十一段目夜討之図」 江戸時代、天保2年頃/1831年頃 木版色摺 横大版 25.4×37.2 神戸市立博物館蔵
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365063
【 仮名手本忠臣蔵のクライマックス、雪夜に大星由良之助をはじめとする義士たちが主人の敵である高師直の館を襲撃する場面。忠臣蔵をテーマとした浮世絵の多くが歌舞伎に取材した芝居絵で、館内部での乱闘ぶりを描くものが多いのですが、本図は、雪の街路から塀を登り、館内への侵入を試みる義士たちの姿を描いてはいます。表題がなければ忠臣蔵の場面とは認識できない光景で、雪に覆われているとは言え、当時の日本の武家屋敷としては異様な雰囲気があります。
 長崎に舶来し、石川大浪→歌川国芳と伝来したと思われる、オランダの地理書・ニューホフ『東西海陸紀行』の銅版挿図のひとつ、「バタヴィアの町の役人と職人の家」を転用しています。オランダ風とも東南アジア風とも言える異国の住宅を高師直の城館に、オランダ人を大星由良之助に描き換えています、さらに椰子を松に、南国の強い日差しにみちた空を満月の冬空に置き換え、熱帯バタヴィアの風景を、雪景色のなかの緊迫感溢れる討ち入りの瞬間に変身させています。

来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館

参考文献:
・神戸市立博物館特別展『異国絵の冒険』2001
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・勝盛典子「大浪から国芳へ―美術にみる蘭書需要のかたち」(『神戸市立博物館研究紀要』第16号) 2000   】(「神戸市立博物館」)

東西海陸紀行 オランダ語版.jpg

「東西海陸紀行 オランダ語版」(部分拡大図) ニューホフ著 アムステルダム刊 
/1682年 銅版(挿絵) 39.0×25.0 神戸市立博物館蔵
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365249
【 1640年のブラジル赴任以降、バタヴィア、北京、インドと世界各地をめぐったヨハン・ニューホフ(1618-1672)のスケッチ入りの日記をまとめ、本人の没後に出版された旅行記。江戸時代の日本にも舶載されて石川大浪が入手、大槻玄沢の『蔫録』の大浪画の挿絵に用いたり、玄沢門下の地理学者で、大浪とも親しい関係にあった山村才助(1770−1807)がその内容を翻訳するなど、当時の蘭学者らにとって最も重要な世界地理情報源のひとつでした。大浪の死後、浮世絵師歌川国芳(1797−1861)の手に渡ったらしく、「忠臣蔵十一段目夜討之図」や「二十四孝童子鑑」など、国芳の洋風版画の原図としても利用されました。

来歴:2001神戸市立博物館

参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・勝盛典子「亜欧堂田善鐫「コロンブス謁見図」をめぐって」(『神戸市立博物館研究紀要』第22号) 2006   】(「神戸市立博物館」)

近江の国の勇婦於兼.jpg

歌川国芳「近江の国の勇婦於兼」(太田記念美術館蔵) 1830年代 木版色摺 横大版 25.4×37.2 
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/2011_kuniyoshi
【 中世日本の説話を集めた13世紀に成立した『古今著聞集』巻十「相撲強力」に、近江の国に住んだという「金(かね)」という遊女の話がある。東国からやってきた武士、乗ってきた馬を琵琶湖に入らせて休ませていたところ、突然暴れだす。そこへ遊女の「金(かね)」が通りかかり、下駄を履いたまま馬の端綱(はづな)を踏みつけて馬を曳き止めたという。
 この説話に基づく本図で歌川国芳は、陰影表現を強調した洋風の背景と典型的な美人図として描かれた「金(この錦絵では「於兼」)の意表をつく組み合わせで、この豪快な一場面を幻想的な世界に仕立てている。
 特に、「金(於兼)」の怪力で急停止させられ、衝撃で後ろ足で宙を激しく蹴り上げようとする暴れ馬は、微妙な陰影表現で筋骨隆々とした立体感と重量感を示し、浮世絵らしく平板に描かれた怪力女と見事に対比をなしている。
 近年の研究により、この「暴れ馬」は『イソップ物語の銅版挿絵「馬とライオン」から着想していることが判明した。 】(『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―図録 2019』所収「作品解説126」)

イソップ物語・馬とライオン.jpg

「イソップ物語 フランス語版」(部分拡大図) フランシス・バーロウ画、パリ刊 1810年頃 銅版(挿絵) 25.5×18.5 (神戸市立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/431682
【 動物の性格や行動にことよせた、風刺と教訓からなる説話集。紀元前6世紀頃の、ギリシア・トルコあたりの奴隷であったイソップが語った物語が口伝えでのこり、15世紀頃から様々な国の言葉に訳されて出版されるようになりました。本書は、イギリスの画家で彫刻師のフランシス・バーロウ(1626?~1702)の挿絵本の模作です。記録によると石川大浪はそのフランス語版を所持していたようで、それは、このバーロウ系統の挿絵本と考えられます。大浪本イソップやがて歌川国芳の手に渡り、「近江の国の勇婦お兼」の馬のイメージに転用されました。

来歴:1999神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・勝盛典子「大浪から国芳へ―美術にみる蘭書需要のかたち」(『神戸市立博物館研究紀要』第16号) 2000  】(「文化遺産オンライン」)

東都名所 浅草今戸.jpg

歌川国芳「東都名所 浅草今戸」(太田記念美術館蔵) 木版色摺 横大版
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/2011_kuniyoshi

東都名所・浅草今戸・東西海陸紀行.jpg

「東西海陸紀行 オランダ語版」(部分拡大図)
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/2011_kuniyoshi

 上記の「歌川国芳」の「東都名所」(全10図)周辺については、下記のアドレスで紹介されている。

http://www.photo-make.jp/hm_2/kuniyoshi_kisou_2_1.html

東都三ッ股之図.jpg

歌川国芳「東都三ッ股之図」(シカゴ美術館蔵)  木版色摺 横大版
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Kuniyoshi-TotoMitsumata//
【 手前に船腹を焼く船大工が二人。この作業は船の防腐のため。貝を獲る女性や、船で荷物を運ぶ姿なども描く。画面右に大きく永代橋を描き、その向うは佃島。左の遠景には万年橋が描かれ、その近くに不思議な形状の巨大建造物が建つ。これは、この絵から約180年後に建つ「東京スカイツリー」に似た建造物が建っていると話題になった。

東京スカイツリーに似た建造物.jpg

「東京スカイツリーに似た建造物」(歌川国芳「東都三ッ股之図」の「部分拡大図)

 井戸掘りの櫓ではないかともいわれるが、それにしても高い。左に火の見櫓が見られるが、これもかなり高く描かれているので誇張があると思われる。右奥の佃島にも大きな櫓が建つ。葛飾北斎も、「冨嶽三十六景 東都浅艸本願寺」で大きな櫓を描いている。

冨嶽三十六景 東都浅艸本願寺.jpg

葛飾北斎「冨嶽三十六景 東都浅艸本願寺」

 上記のアドレスで、「シカゴ美術館・ボストン美術館・メトロポリタン美術館」が所蔵する版を見ることができる。 】(「歌川国芳『東都三ッ股之図』-『浮世絵・錦絵』などを見る ―」)

【 「洋風画表現にみる歌川国芳の試み─透視図法と陰影表現を中心に─中山創太稿」

洋風画表現にみる歌川国芳.jpg

(はじめに)

歌川国芳(寛政9 ‒文久元年・1797-1861)の作品に洋風画表現が採られていることは、従来の研究から指摘されており、『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編、天保15年・1844)、『浮世絵師歌川列伝』(飯島虚心著、明治26年・1893)などの浮世絵研究の基本文献からもそれらに関する記述を見出せる。1)後書には、国芳が実際に「西洋画」を所持していたことが記されているものの、具体的にどのような作品であったのか、という点は推測の域をでなかった。もちろん、国芳が洋風画表現を採り入れる以前から、他の浮世絵師による作品が確認されており、それらを参考にしていた可能性も仄めかされる。なかでも、延享期(1744-47)に創始された「浮絵」はその代表的な例として挙げられよう。
 諸氏の研究によって、国芳の作品と類似する洋書挿絵や銅版画の存在が示唆される中、近年勝盛典子氏2)が当時日本に輸入されていた洋書の挿絵から国芳が図様を転用していたことを提示した。これにより、国芳が実際にそれらを所持、少なくとも実見する機会を有していたことが明らかになったのである。
 ところで、これまでの研究において、国芳が典拠とした図様がいくつか提示されているものの、国芳が何故それらを採り入れたのか、という点はあまり追求されなかった。国芳は洋書挿絵の図様を自身の作品に採り入れる際、単に転用するのではなく典拠となる作品とは異なる場面を描いたり、図様に改変を加えたりするなどの工夫を加えている。とりわけ、嘉永・安政期(1848-59)頃になると、国芳は従来の武者絵にみられる人物描写を採りながらも、彩色による陰影表現を多用した折衷的な画面を形成していたといってよい。このような極端に採り入れられた洋風画表現には、何らかの意図がくまれていたのではないだろうか。
 そこで、本論では洋風画表現、つまり透視図法と彩色による陰影法が見受けられる国芳の作品を中心に考察し、その受容と改変の様相を明らかにしていきたい。また、同時代の絵師と比較することによって、個々の絵師の洋風画表現受容の差異を提示する。結論として、国芳は対象によってそれらを使い分けていたことを指摘し、「写実的」に描くことだけでなく、当時流入していた新しい情報を表現すべく用いていたことを提示していきたい。

一、国芳の作品にみる洋風画表現

国芳の洋風画表現への関心が仄めかされる作品は、文政末期に刊行された《絵本合邦辻》(文政9 年・1826、大判錦絵三枚続)、《忠臣蔵十一段目両国橋勢揃図》(文政10年・1827、大判錦絵三枚続)などの画業の早い段階からみられることが指摘されている。同時期の作品で、国芳の浮世絵師としての地位を確立したとされる《通俗水滸伝豪傑百八人之一個(一人)》(文政10‒天保7 年頃・1827-36、以下、《通俗水滸伝》に略称)においても洋装の人物や陰影表現を確認できる。この洋風画表現の探究は晩年の作品にまで見出すことができ、国芳のそれらに対する関心は一時的なものではなく、画業を通してみられるのである。《通俗水滸伝》刊行後の作品を中心に、天保期、弘化-嘉永期、安政-万延期の3 期に分けて洋風画表現が確認できる作品をみていくことにする。

1 )天保期(1830-43)
 天保初期は、葛飾北斎(宝暦10‒嘉永2 年・1760-1849)の《富嶽三十六景》(天保元‒ 5 年頃・c1830-34、横大判錦絵)や歌川広重(寛政9 ‒安政5 年・1797-1858)の《東都名所》(天保2 年頃・c1831)、《東海道五十三次》(天保4 - 6 年頃・1833-35)などの風景画(名所絵)が盛んに制作される時期にあたる。
 このような中で国芳は、天保2 - 3 年(1831-32)頃に《東都〇〇之図》、天保3 - 4 年
(1832-33)頃に《東都名所》の揃物を制作している(両揃物ともに横大判錦絵)。これらの作品は銅版画を意識したような細い線描が用いられ、空や雲、煙などの表現から彩色による陰影表現が看取される。一方で、国芳は先に挙げた絵師の作品と同趣向の《東海道五拾三駅〇宿名所》(天保前期、横大判錦絵)も制作しており、それらの作品からは極端な陰影表現や細い線描は見出せず、北斎、広重の人気にあやかった作品であることが示唆されている。
 では、洋風画表現がみられる作品をみていきたい。まず、《東都名所浅草今戸》(図1 )は、勝原良太氏によって『東西海陸紀行』から図様が転用されていたことが明らかにされている。勝原氏が指摘するように、国芳は鋤を使う人物のポーズや、くの字型に上昇する煙などを場面に合うように転用している。なお、鈴木重三氏によって亜欧堂田善(寛延元‒文政5 年・1748- 1822)の《今戸瓦焼之図》(紙本銅板)が下敷きになっていた可能性も示唆されており、国芳は周囲に存在する作品を参考に本作品を制作していたといってよい。6)しかし、国芳は、ただ図様を転用するだけでなく、いくつかの改変を加えている。描かれる煙の表現は、典拠のものに比べて線描が抑えられ、彩色の濃淡によって表された、上昇する雲の表現が見て取れる。また、最前景に一本の木、中景に人物や窯、その奥には焼き上がった瓦を整理する人物、隅田川を挟んだ遠景に山、空を配することで奥行きを持たせるといった画面構成に国芳の工夫が垣間見えよう。
 《東都三ッ股の図》(図2 )は、前景に岸で作業する船大工の姿が描かれ、中景に隅田川を挟み、さらに後景に街並を配することで、観者の視線を手前から画面奥へと導いていく。この透視図法は、先に述べた「浮絵」に採られた画法であるが、国芳はそれを上手く処理している。《東都名所かすみが関》(図3 )においては、画面中央の坂は仰視するように、両脇の屋敷の塀は画面に奥行がみられ、一つの画面に異なる視点が存在している。実際にこの作品を手にとった人が描かれた場面に入り込み、坂の途中から見上げた光景を、そのまま描き出しているかのようである。
 一方で、《東都首尾の松之図》(図4 )は、極端にクローズアップされた蟹や、画面上部に配された蒲公英、盛り上がった土のようなもの、その頂きにみられる船虫が中心に描かれている。浅野秀剛氏は石垣、松、屋根舟といった、同所の典型的な図様が描かれていないと指摘している。「首尾」という景色よりも、国芳の視線は蟹や船虫といった生物に向けられており、洋風画表現を用いるとともに、従来の型に囚われない名所絵を制作することに注がれているようにも思われる。
 このように、国芳は西洋画法を採り入れながら画面の奥行きや視点に工夫を凝らすことで新たな表現を模索していた可能性が示唆される。勝原氏が「国芳の変換術は巧みなもの」と指摘するように、自身の作品に違和感なく適合させている点からも、国芳の構成の上手さが窺い知れる。そして、国芳の関心は実景を描く「写実的」な風景を描くことよりも、むしろ「遠近法」という技法、すなわち画面構成に趣向を凝らすことだったのではないだろうか。
 (「図3《東都名所かすみが関》」と「図4《東都首尾の松之図》)」とは省略)

2 )弘化-嘉永期(1844-53)  (省略)
3 )安政-万延期(1854-1860) (省略) 

二、浮世絵にみる洋風画表現 (省略)
三、国芳の洋風画表現受容の意図(省略)
おわりに           (省略)     】

≪ 歌川国芳
没年:文久1.3.5(1861.4.14)
生年:寛政9.11.15(1798.1.1)
江戸末期の浮世絵師。江戸日本橋生まれ。はじめの姓は不明だが,のちに井草氏を継ぐ。幼名芳三郎,のちに孫三郎。一勇斎,朝桜楼などと号した。文化8(1811)年ごろに初代歌川豊国に入門したが,不遇の時期が長く続いた。文政(1818~30)末ごろ文芸界の『水滸伝』ブームに乗じて発表した「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」の錦絵シリーズが当たりを取り,「武者絵の国芳」としてようやく人気絵師の仲間入りを果たした。
以後,錦絵,読本・合巻・滑稽本の挿絵と幅広く活躍し,国貞,広重と共に歌川派の三巨匠のひとりに数えられた。武者絵の代表作は3枚続きの画面に対象を巨大に描いたものに多く,「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」「相馬の古内裏」などがあげられる。武者絵以外では,天保(1830~44)前期に「東都名所」「東都○○之図」などの風景版画シリーズで近代的な感覚を見せ,同後期の「金魚づくし」,弘化(1844~48)末ごろの「荷宝蔵壁のむだ書」などの遊び心に満ちた戯画も注目される。
門人の育成にも尽力し,門下から芳虎,芳幾,芳年らの俊才が輩出した。画業においては銅版画の作風を学ぶなど旺盛な吸収力を見せ,観る者を驚かせ喜ばせるサービス精神にも富んでいる。人間的には侠気のある親分肌で,ときに幕政を風刺する反骨精神もあったが,一方では猫をこよなく愛するなど,人間的な魅力に富んだ人物であった。<参考文献>鈴木重三『国芳』
(大久保純一)  ≫(出典「朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版」)


(追記) 「『歌川国芳』のあれこれ」

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2017-09-10


国芳人3.jpg

歌川国芳画「人をばかにした人だ」
≪人の心はさまざまなものだ 
いろいろくふうして
よふよふ一にんまへになった≫

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2017-09-18


国芳・人4.jpg

歌川国芳画「としよりのよふな若い人」
≪いろいろな人がよって
わたしのかほをたてゝおくれで
誠にうれしいよ
人さまのおかげで
よふよふ人らしい
かほになりました≫

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2017-09-22


国芳1.jpg

歌川国芳画「みかけはこはゐがとんだいゝ人だ」
≪大ぜいの人がよってたかって
とふと
いゝ人をこしらへた
とかく人のことは
人にしてもらはねば
いゝ人にはならぬ≫

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2017-09-27


国芳・人1.jpg

歌川国芳画「人かたまって人になる」
≪人おほき
人の
中にも
人ぞなき
人になれ人
人になせ人≫

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2018-03-08


朝比奈小人島遊.png

「朝比奈小人島遊(あさひなこびとじまあそび)」 大判三枚続 一勇斎国芳戯画/芳桐印
名主双印 村松・吉村 弘化末~嘉永元年(1848)

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2018-03-09


相馬の古内裏.jpg

「相馬の古内裏(そうまのふるだいり)」 大判錦絵3枚続 / 右37.1×25.5cm 中37.3×25.2cm 左37.2×24.1cm/天保(1830-44) 一勇斎国芳戯画/芳桐印 名主単印 渡

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2018-03-09-1


宮本武蔵と巨鯨.jpg

「宮本武蔵と巨鯨(みやもとむさしときょげい)」 大判三枚続 右 36.7cm×25.1cm
中 36.9cm×25.1cm 左 36.9cm×25.0cm 一勇斎国芳戯画/芳桐印 名主双印 米良・村田 弘化4年(1847)~嘉永三年(1850)

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2018-03-10

讃岐院.jpg

「讃岐院眷属をして為朝を救くふ図」 一勇斉国芳(歌川国芳)版元・鳳来堂 住吉屋政五
郎 嘉永四年(1851)東京国立博物館蔵 大判三枚続 芳桐印 名主双印  米良・渡辺
右  37.3×25.5 中 39.1×25.5 左 37.1×25.2

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2018-03-11


鬼若丸.jpg

「鬼若丸と大緋鯉」 大判三枚続  右 35.6cm×24.7cm 中 35.6cm×24.7cm 左
35.5cm×24.7cm 一勇斎国芳戯画/芳桐印 名主単印 米良 弘化元年(1844)~三年
(1846) 美濃屋忠助

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-02-13


国芳.jpg

「歌川国芳 大物浦(だいもつのうら)」 嘉永三年(1850)前後

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-02-16


たとゑ尽の内.jpg

「歌川国芳「たとゑ尽の内(たとえづくしのうち)」 大判三枚続

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-14


流光雷づくし.jpg

歌川国芳「流光雷づくし」 大判 天保13年(1842)

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日本画と西洋画との邂逅(その十一) [日本画と西洋画]

(その十一)「司馬江漢・葛飾北斎」そして「歌川広重(富士三十六景・名所江戸百景・東海道三十六景(次)」など

司馬江漢筆「駿河湾富士遠望図」.png

司馬江漢筆「駿河湾富士遠望図」 1799(寛政11)年 36.2×100.9cm 絹本油彩 平成12年度寄贈 (静岡県立博物館蔵)
https://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/_archive/collection/item/J_93_497_J.html
【 江漢は江戸で活躍した洋風画家。天明3(1783)年には日本最初の銅版画制作に成功、また油絵も手がけるなど多数の洋風画を制作。特に日本風景を題材にした油絵に力量を示した。本作は駿州矢部の補陀落山(現在の清水市・鉄舟寺)より望んだ景観を絹地に描いた油絵。同地からの富士を江漢は好み、多くの類作を残したが、本作は人物などの細かな描写も見え、充実した出来ばえを示している。日本における初期油絵の作例として貴重である。洋画家・須田国太郎旧蔵作品。 】(静岡県立博物館)

司馬江漢 《駿州薩陀山富士遠望図》.jpg

「駿州薩陀山富士遠望図」 1804(文化1)年 絹本油彩 額装 78.5×146.5cm 昭和57年度購入(静岡県立博物館蔵)
https://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/_archive/collection/item/J_93_497_J.html
【 江漢は天明8年(1788)長崎遊学のため東海道を旅し、駿河で富士山を見ている。その時のことは後の自筆本『西遊日記』や版本『西遊旅譚』に挿図入りで紹介されている。長崎の遊学から戻った江漢は、油絵の制作に精力的に取り組み、日本風景を描いた洋風の風景画を次々と発表した。富士山も格好の主題として取り上げられた。
本図は、薩 (陀)峠(清水市興津)から富士を遠望したもので、駿河湾越しの富士を描く。左手にわずかに見える浜辺の集落は、東倉沢(庵原郡由比町)と思われる。江漢はこれと類似する構図の油彩を数多く描いたが、本図はその中でも最後に描いたもので、寸法も最大である。近景から遠景への透視図法的な遠近表現や青い空の表現など、それまでにない洋画の要素を導入し、独特の雰囲気をもった日本風景画をつくりだした。なお画面右上に「駿州薩陀山 東都江漢 司馬峻描写」款記があり、さらに「Eerste Zonders in Japan Si:」とオランダ語の朱文サインがある。このサインの意味は「日本最初のユニークな人物」と解されている。】(静岡県立博物館)

神奈川沖浪裏.jpg

葛飾北斎「冨嶽三十六景「神奈川沖波裏』」天保元−天保3年(1830-32)頃 木版多色刷
24.6×36.5cm (「文化遺産オンライン」)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/246760
【 大いなる自然とそれに立ち向かう小さな人間。動と静、遠と近、そこに描かれた無限に広がる空間。「グレート・ウェーヴ」として世界的にも有名な一枚である。この版図が西洋に与えた衝撃は大きく、画家ゴッホは弟テオに与えた手紙の中で激賞し、作曲家ドビッシーは交響曲『ラ・メール(海)』を作曲したことなどでも知られている。くずれ砕け、迫る大波に、弄ばれる3隻の船。これらの船は「押送り(おしおくり)」と呼ばれ、伊豆や安房の方から江戸湾に入り、日本橋などの市場に鮮魚や野菜を運搬していた。富士を背景に左に向かうこれらの船は、おそらく荷を送り終えた帰りの船であろう。灰色に暗く沈んだ空。この版では消えてしまい、見ることができないが、保存状態の良い版には、薄い黄色の空を背景とした雲も見られる。帰りの船だとすれば、夕暮れ近い光景であろうか。あたかも同じような船に乗り、そこから波と富士を見上げるイメージを北斎は見ていたのである。この「大波」に対する着想は、これより30年ほど前に描かれた「おしおくりはとうつうせんのず」や「賀奈川沖本杢之図」にすでに見ることができる。また、ほぼ同時期に描かれた『千絵の海』「総州銚子」や『富嶽百景』「海上の不二」にも、荒れ狂う大波を描く北斎の並はずれた力量を見ることができ興味深い。 】(「文化遺産オンライン」)

(歌川広重の『冨士三十六景』 全36枚 →以下5図抜粋)
http://artmatome.com/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E5%BA%83%E9%87%8D%E3%81%AE%E3%80%8E%E5%86%A8%E5%A3%AB%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%99%AF%E3%80%8F%E3%80%80%E5%85%A836%E6%9E%9A/
【『冨士三十六景』(ふじさんじゅうろっけい)は、歌川広重により富士山を主題として描かれたシリーズ。本作より前に描かれた葛飾北斎の「富嶽三十六景」から着想していると考えられる。】

駿河薩タ之海上.jpg

歌川広重「冨士三十六景「25駿河薩タ之海上」」
【 薩タ山(さったやま)の絶壁は荒波が打ち寄せる難所として有名だった。江戸時代には峠の道が整備され命がけで崖を歩く必要はなくなったが強い波しぶきは絶景として残った。作中でも高波が富士山を飲みこむ勢いで描かれ荒々しさが伝わってくる。 】

東都一石ばし.jpg

歌川広重「冨士三十六景『1東都一石(いっこく)ばし』」
【 画面手前に描かれた一石橋は日本橋の隣に架かる橋で、両側に後藤家の屋敷があったため「五斗五斗」で一石と名付けられたと言われている。奥に見えるのが「銭瓶橋」、さらに奥に小さく描かれているのが「道三橋」である。平行に重なり合う橋と直行に流れる水路が人と船の行き交いで強調されている。】

東都両ごく.jpg

歌川広重「冨士三十六景『6東都両ごく』」
【画面中央に架かるのは両国橋。この周辺には見世物小屋や茶店が並び江戸随一の遊び場であった。作中の両国橋の周りでは舟遊びを楽しむ人たちが描かれている。橋の上では大名行列が行われており非常に賑やかな様子が伝わってくる。】

武蔵多満川.jpg

歌川広重「冨士三十六景『12武蔵多満川』」
【 現在の東京都日野市付近が描かれた図。同名の作品を制作した広重が改良を加えて本作を描いたと考えられている。多摩川では鮎釣りが名物で作中にも釣りを楽しむ人々と今から釣りに出かける親子が描かれている。】

房州保田ノ海岸.jpg

歌川広重「冨士三十六景『36房州保田ノ海岸』」
【 三十六景の最後に描かれたのは保田海岸から見える富士山。保田海岸は現在の千葉県鋸南町にある。現在では海水浴場などがありレジャーも楽しめるが作中では非常に荒々しい波が打ち寄せ旅人を脅かす。海の荒れと崖の荒々しさの背景に静かに佇む富士山は非常に象徴的である。】

(歌川広重の『名所江戸百景』 全118枚 →以下5図抜粋   )
http://artmatome.com/%e6%ad%8c%e5%b7%9d%e5%ba%83%e9%87%8d%e3%81%ae%e3%80%8e%e5%90%8d%e6%89%80%e6%b1%9f%e6%88%b8%e7%99%be%e6%99%af%e3%80%8f%e3%80%80%e5%85%a8118%e6%9e%9a/
【『名所江戸百景』(めいしょえどひゃっけい)は、浮世絵師の歌川広重が安政3年(1856年)2月から同5年(1858年)10月にかけて制作した連作浮世絵名所絵である。】

春の部

日本橋雪晴.jpg

『名所江戸百景 日本橋雪晴』
【初荷の魚介類を満載した舟が、魚河岸をめざして日本橋川を遡っている様子を情緒たっぷりに描き、両岸には問屋や倉庫が立ち並び、魚河岸の活気あふれる様子が描かれている。画面中央を横切る日本橋には大名行列の一行が見える。江戸の中心である日本橋と江戸城、そして富士山を一つの絵におさめた傑作と言える作品。】

夏の部

日本橋江戸ばし.jpg

『名所江戸百景 日本橋江戸ばし』
【 日本橋川の北岸には、江戸の台所魚河岸があり、仕入れたばかりの鰹を棒手振り(ぼてふり)が運ぶ様子を大胆な構図で描かれている。江戸時代の俳人、山口素堂が「目には青葉山ほととぎす初鰹」と詠んだように、江戸っ子は初物を好みんだ。江戸橋の奥にある白壁の蔵の遠景には朝日が見える。日本橋は「日の本(もと)の橋」から由来するとも言われている。】

秋の部

市中繁栄七夕祭.jpg

『名所江戸百景 市中繁栄七夕祭』
【7月7日の七夕祭の日の江戸の風景。江戸の空にたなびく七夕飾りが、江戸の町の平和を物語っている。西瓜、そろばん、大福帳、鯛など色とりどりの七夕飾りが風になびいている。前景の商家の白壁の蔵が映え、江戸城まで続く屋根のが、魚の鱗のように見える。はるか彼方には富士も見え、江戸の繁栄ぶりをうかがわせている。】

冬の部

浅草金龍山.jpg

『名所江戸百景 浅草金龍山』
【この図は雪の浅草寺雷門から、山門と五重塔を望んだもの。「大はしあたけの夕立」と共に広重の代表作。堂塔の赤と緑が雪に映えて美しく、雷門をくぐり、浅草寺境内まで続く参道には雪がこんもりと積もっている。この雪の部分は空摺(からずり)という絵の具を付けずに摺る技法が用いられていて、積雪の量感が巧みに表現されている。】

王子装束ゑの木大晦日の狐火.jpg

『名所江戸百景 王子装束ゑの木大晦日の狐火』
【毎年、大晦日の夜、社に近い榎の下に集まった狐は、ここで衣裳を整えて王子稲荷社に参上した。近在近郷の農家では、狐がともす狐火の量で、新年の豊凶を占った。寒空にきらめく星と榎の小枝は、雲母引き(きらびき)で表現されている。闇に包まれた森の木々の先には、わずかに緑が含ませてあり、間近に来ている春の息吹を感じさせる。】

(広重「東海道五十三次」(保永堂版)について(全55枚)→以下3図抜粋)
https://www.moaart.or.jp/?event=hiroshige2018-0316
【歌川広重(1797~1858)は、天保3年(1832)36歳の夏、徳川幕府の八朔御馬進献の一行に随行して東海道を江戸から京へと旅した。江戸へ帰った広重は、翌年、版元保永堂から55枚に及ぶ揃物「東海道五十三次」を刊行した。保永堂は小さな版元であったため、一部分を仙鶴堂(鶴屋喜右衛門)が、合梓ないし単独版行を受け持った。このシリーズは大人気を博したため、保永堂を一躍、一流の版元に押し上げるとともに、広重を浮世絵風景画家の第一人者に押し上げた。 「東海道五十三次」の魅力は、宿駅の様子はもとより、道中の風物や風景、旅人の様子などを細かく写し、版画を見る者に、その臨場感を与える点にある。また各図の風景は、実景のように見えて、必ずしもそうでない。有名な箱根や蒲原、庄野の図は、今日それらしい場所を見出すことはできない。吉田、鳴海の図は、広重が宿駅を通り過ぎながら受けた印象を実感にとらわれずに、心の中で組み立てた風景画であろう。】(MOA美術館)

東海道五十三次 日本橋.png

「東海道五十三次 日本橋」
【 日本橋は京都まで120余里(およそ490km)、東海道五十三次の起点である。橋の手前5~6人の魚屋が早朝の肴市から買い求めた魚をかつぎ、橋の上を大名行列の先頭が渡って来る。あわただしい朝の日本橋界隈の情景が描かれている。】

東海道五十三次 箱根.png

「東海道五十三次 箱根」
【 箱根越えは、東海道中の最難所として、行き交う旅人を悩ませた。この図は、箱根の名勝芦の湖畔の美しい風景で、険しい山間の坂道を、大名行列が越えて行く光景が細密に描かれている。】

東海道五十三次 京師.png

「東海道五十三次 京師」
【 加茂川にかかる三条大橋を渡れば京都である。当時、江戸・京都間を普通に歩けば十数日の行程であった。図は、三条大橋を八朔御馬献上の行列が渡っている様子で、遠くには東山三十六峰と比叡山が描かれている。】

≪ 歌川広重 (1797―1858)
 江戸後期の浮世絵師。江戸・八代洲河岸(やよすがし)定火消(じょうびけし)同心、安藤源右衛門(げんえもん)の長男として生まれた。幼名を徳太郎、俗称を重右衛門(または十右衛門)、のち徳兵衛といい、後年には鉄蔵と改めた。1809年(文化6)13歳のときに相次いで両親を失い、若くして火消同心の職を継ぐことになったが、元来の絵好きから家職を好まず、1823年(文政6)には祖父十右衛門の実子、仲次郎にこの職を譲り、浮世絵に専心している。浮世絵界に入ったのは、両親を失ったわずか2年後の15歳のときで、当時役者絵や美人画で一世を風靡した初世歌川豊国(とよくに)に入門を望んだが、すでに大ぜいの門人を擁していたので許されず、貸本屋某の紹介で、豊国とは同門の歌川豊広の門人となった。
その翌年の1812年(文化9)には早くも豊広から歌川広重の号を許されている。処女作といわれる作品は、画名を許された翌年の版行になるといわれる『鳥兜(とりかぶと)の図』の摺物(すりもの)とされるが確証はなく、これより5年遅れる1818年(文政1)に版行された錦絵(にしきえ)『中村芝翫(しかん)の平清盛(きよもり)と中村大吉の八条局(はちじょうのつぼね)』『中村芝翫の茶筌売(ちゃせんうり)と坂東三津五郎の夜そば売』の2図が年代の確実なものとされている。その後、文政(ぶんせい)年間(1818~1830)は美人画、武者絵、おもちゃ絵、役者絵や挿絵など幅広い作画活動を展開したが振るわなかった。
  しかし天保年間(1830~1844)にはその活躍は目覚ましく、天保元年には従来から用いていた一遊斎(いちゆうさい)の号を改めて一幽斎(いちゆうさい)とし、天保2年ごろには初期の風景画の名作として知られる『東都名所』(全10枚。俗に『一幽斎がき東都名所』とよばれる)を発表。さらに天保3年2月ごろには一立斎(いちりゅうさい)とふたたび改め、秋には幕府八朔(はっさく)の御馬(おうま)献上行列に加わって、東海道を京都に上った。年内には江戸へ帰り、天保4年から、このおりに実見した東海道の宿場風景を描いた保永堂版『東海道五拾三次』(全55枚)を版行し始めている。このシリーズは天保5年中には完結したとみられるが、これにより広重は、一躍風景画家としての地位を確立したのであった。このころから天保末年にかけてが広重の芸術的絶頂期とみられ、『近江(おうみ)八景』(全8枚)、『江戸近郊八景』(全8枚)、『木曽海道(きそかいどう)六拾九次』(全70枚。渓斎英泉とともに描き、広重は46図を描いた)などのシリーズを矢つぎばやに発表していった。
 弘化年間(1844~1848)以降は多少乱作気味であったが、この時期にも、優品とされる風景版画が何種か知られている。そのなかでも1842年(天保13)の刊行になる縦二枚続の『甲陽猿橋之図(こうようえんきょうのず)』や『富士川雪景』、また1856年(安政3)から没年(1858)まで版行され続けた広重最大数量の揃物(そろいもの)『名所江戸百景』(全118枚)、1857年に雪月花の3部に分けて描かれたという三枚続の『木曽路の山川(さんせん)』『武陽金沢八勝(ぶようかなざわはっしょう)夜景』『阿波鳴門(あわなると)之風景』などは広重晩年の代表作として名高い。風景画以外では、短冊形の花鳥画に『月に雁(かり)』『雪中のおしどり』などの優品が多く、また大錦(おおにしき)判の魚貝画にも佳作がみいだされる。肉筆画は意外に早い時期から描いており、初期には美人画が多く、嘉永(かえい)年間(1848~1854)にもっとも傾注して描いた天童藩(山形県)の依頼による天童広重とよばれる風景画には、金泥(きんでい)などを用いた豪華なものがある。安政5年9月6日没。 
[永田生慈]
『鈴木重三著『広重』(1970・日本経済新聞社)』▽『山口圭三郎編『浮世絵大系11 広重』(1974・集英社)』 ≫(「出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)

(追記) 「歌川広重と(司馬江漢?)」との「「東海道五十三次」周辺

≪ 天保4年(1833年)、傑作といわれる『東海道五十三次絵(広重)』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
 この連作の前年の天保3年(1832年)秋、幕臣でもあった広重は伝を頼りに幕府の一行(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)し、実際の風景を目の当たりにする機会を得た、とする伝承が伝わる。一方、実際には旅行をしていないのではないかとする説もある。 また、同作は、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したとする説もある(元伊豆高原美術館長・對中如雲が提唱した)。≫(「ウィキペディア」)

https://ameblo.jp/kikugidou21/entry-12553000296.html

東海道五十三次 日本橋.png

広重  日本橋 →「広重・五十三次のスタート」、左手前は「魚」を担ぐ人々」

江漢(?)  日本橋.png

江漢(?)  日本橋 →「江漢・五十三次のラスト」、左手前は「オランダ人」、以下メモは『広重「東海道五十三次」の秘密(對中如雲著)』などを参考にしている。

東海道五十三次 箱根.png

広重  箱根 → 共に、芦の湖畔の山間の坂道を大名行列が越えて行く。

江漢(?)  箱根.png

江漢(?)  箱根 → 広重の「錦絵」に対し、江漢の「肉筆画」が際立つ。

広重  三島.png

広重  三島 → 広重の「朝」の景に対し、江漢は「夜」の景。

江漢(?)  三島.png

江漢(?)  三島 → 両者の「鳥居と石灯籠」の位置が違う。

広重  蒲原.png

広重  蒲原 → 両者共に「雪景」。広重の右手中景の「小山」が描かれていない。

江漢(?)  蒲原 .png

江漢(?)  蒲原 → 「江漢」は、右手中景の「小山」を描く。

広重  鞠子.png

広重  鞠子 → 鞠子宿は東海道五十三次の20番目の宿場、「初版」では「丸子」の表記。芭蕉の「梅若葉丸子の宿のとろろ汁」、その「梅若葉」の景。

江漢(?)  鞠子.png

江漢(?)  鞠子→ 広重の「梅若葉」)に対し、「梅の花」の「山里は万歳遅し梅の花」(芭蕉)の雰囲気。

東海道五十三次 京師.png

広重  京師(京都・三条大橋) → 広重のゴールは「都名所図会」の「三条大橋」。

江漢(?)京師(京都・御所).png

江漢(?)京師(京都・御所)→ 江漢のスタートは、「三条大橋」「二条城」ではなく「御所」。

https://soka.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=68&item_id=37944&item_no=1

【  (創価大学教育学部論集第51号)
名画の背景 ―北斎と広重― 小山満(稿)-以下、抜粋-

はじめに(略)
葛飾北斎(略)

歌川広重

広重の場合は30代以降で,ほぼ10年単位の5期に分けることができる。

1期… … 寛政9(1797)年,江戸八代洲河岸(現在の丸の内2丁目,馬場先門手前明治生命あたり)に定火消同心安藤源右衛門の長男として生まれる。13歳の時,父と母を失い家職を継ぐ。が,浮世絵師の志を捨て切れず,歌川豊広に入門してのち15歳まで。
II期… … 師匠豊広より歌川広重の画名を与えられ,役者絵,狂歌本,美人画などを手がける。
家職を子に譲り,浮世絵師の自覚を深めて後,師匠が亡くなる33歳まで。
皿期… … 二代豊広襲名を辞退し一幽斎,一立斎と名乗り「東都名所」「東海道五十三次」保永堂版,天保4~5(1833~1834)年「近江八景」「木曽街道六十九次」「京都名所」など,次々と名作を生む42歳まで。
IV期… … 妻の死去後,後妻を迎え「狂歌東海道」「行書東海道」「隷書東海道」など多種類の東海道物を手がける。この間天保の改革があり,出版統制が強化され,町年寄や名主による検閲,訂正が必要となる。遊女,役者絵の一・枚物が禁止され,彩色も7~8刷り以下に制限される。柳亭種彦が拘引され,高齢の北斎が信州へ向かうのはこの時からである。広重54歳まで。
V期… … 養女を迎え,藩の依頼で肉筆作品の制作が増える。「江戸名所」「六十余州名所図会」などを経て還暦を迎え剃髪し「名所江戸百景」を生むが,安政5年(1858)大流行したコレラに罹り62歳で死去する。墓所は曹洞宗東岳寺(現在浅草から足立区へ移転)。

  東海道五十三次

1)本歌取り
 10年ほど前,広重の東海道五十三次には元絵があったというショッキングな出来事が起きた。文政元年(1818)72歳で亡くなった司馬江漢の『東海道五十三次画帖』の出現がそれである。(この年広重22歳)全体の順路は逆であるが,たしかに2,3の図を除いて,テーマごとほとんどこの画帖の構図と人物の情景を採ったといっていいと思う。学界での取り上げ方はクールであるが,まさしくこれが種本として使われたというべきであろう。
 近代の陶芸の世界で有名な北大路魯山人に本歌取りという手法の作品がある。収集した古陶磁を学びそれを忠実に写す方法で,古代の和歌の世界でいう本歌取りと同じということで名づけられている。一般に絵画ではこれを模写といい,書道では臨書という。学習方法としてこのような方法が古来存在する。西洋でも模写はあるが,模写した本人の署名がない場合に贋作ということで物議をかもすことになる。今日作家の独自性を重視する点で最もホットなテーマであるが,広重の場合,仕上がりで全く印象が異なる点は江漢の油絵原図をはるかに凌ぎ,むしろ見事でさえある。

2)滑稽味
 この保永堂版『東海道五十三次』のもう一つの特色は,描かれた人物の滑稽味溢れる仕草や表情である。「日本橋」の大名行列を急いで避ける魚屋,「川崎」の船中で煙草をふかす乗客,「神奈川」と「御油」の客引き,など枚挙にいとまがない。
 広重の生まれた寛政9年(1797),秋里籠島の『東海道名所図会』が出版され,享和2年(1802)6歳の時,十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の刊行が開始され,この続編を出し続けている中で広重は育っていく。広重の作画の中に両者の影響を見出すことは容易である。江戸時代後半の庶民の楽しみが,お蔭参りや名所見物などによる旅に行き着いていたことがこの背景にある。日常の封建的な束縛から解き放たれて一時の自由を享受する庶民の喜びが,おかしさ(滑稽さ)に示されていると思われる。今日も一般家庭のレジャーのトップが旅行であると報道されているのは興味深いことである。

3)統制の有無
 保永堂版「東海道五十三次」の第1「日本橋」では異版(図8)があり,そこに魚屋の左に異国の人が描かれている。江漢の「東海道五十三次画帖』巻末が「日本橋」(図9)であるが,ここに描かれている西洋人と同じである。じつはこれは長崎出島のオランダ商館長一行で,かれらの宿所がこの日本橋のたもとにある長崎屋であったという。通常我々が見る「日本橋」には,この異国の人は描かれていない。なぜこちらの図に変わったのであろうか。
 江漢の『東海道五十三次画帖』巻頭では「京都御所」と記し,御所の前で公家の通過を合掌正座して拝する庶民が描かれている。広重の末尾「京都」はこれではなく「東海道名所図会』に描く加茂川の南北逆に流れる三条大橋をそのまま模写したものである。また熱田神宮の「宮」では,江漢は参拝する公家と熱田神宮を描くが,広重は神宮を鳥居でイメージさせ馬追い祭を描く。つまり,江漢には公家社会に対する想い(尊王思想〉があり・広重にはそれがないことがわかる。したがって,二人には思想上大きな差異があったことをこれらは示している。
 もう一つ,広重はその後30種以上の「東海道五十三次」を描いていくが,不思議にあの見事な保永堂版を越える作品は見当たらない。これに次ぐ作品が,9年後の天保13年(1842)の「行書東海道」と,16年後の嘉永2年(1849)の「隷書東海道」である。この三者を「吉田」の作品で比較してみよう。
吉田は今の豊橋で,もと松平氏7万石の城下町であった。保永堂版(図13)はこの城を右手に大きく描き豊 
 川橋を左手に置く。そして城を修繕する足場と職人を入れ,職人の一人が仕事を放り足場に登り橋を遠望する。これは世間を気にせず屈託なく楽しむ光景である。しかし行書版(図14)では,手前に橋と欄干を描き,前方正面川の上に城を描き,そして城の奥に山,左に人家と帆船,橋の上に武家と商人4人を添えているが,全体に面白味を感じさせない平板な風景である。隷書版(図15)では,右上方に石垣を描き城をイメージさせ,牛頭天王の武家装束の祭りを描く。庶民はゴザを敷いて行儀よく見物している。が,これは寛政版『東海道名所図会』の,全くの模写であった。したがって,この三者の比較でも後者になるほど平板で,ありきたりなものになり,次第に自由さがなくなっていくように思われる。広重が何か武家の支配に対し距離を置いていく様子に見えるが,これはおそらく江戸幕府の庶民に対する統制が,天保の改革で一層厳しくなり,彼において幕府権力に対する畏怖の念がしだいに増大していったためとみるべきであろう。

結び(略)   】
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日本画と西洋画との邂逅(その十) [日本画と西洋画]

(その十)「洋風画の先駆者・司馬江漢」と「浮世絵の巨匠・北斎」との「富士山之景」など

司馬江漢筆「駿州柏原富士図」.jpg

司馬江漢筆「駿州柏原富士図」江戸時代、文化9年/1812年 絹本淡彩 39.6×72.3 1幅
款記「駿州柏原 文化壬申初冬写於京師 東都江漢司馬峻七十五翁」朱文円印「西洋画士」白文方印「司馬」「峻」 来歴:1957神戸市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 →A図
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/429592
【 (解説)
 その作者の名前も知らず、落款も見ないままにこの絵を目にしたなら、多くの人が近代以降の作品と見紛うでしょう。筆者・司馬江漢(1747〜1818)は江戸時代に「西洋画士」の称号をほしいままにした画家ですが、銅版画からも油彩画からも遠ざかっていた晩年の風景画でもその風景画家としての本領が発揮されています。
款記から文化9年の京都滞在中に描いた作品とわかりますが、これは江戸から関西への道中に目にした景色なのでしょう。富士の巨大な山塊と、その麓にのびやかに広がる田園が、空気遠近法的な壮大な空間を感じさせます。これとは対象的に、前景にはほのぼのとした民家が描かれ、「写実の追求」というモットーだけでは収まらない、この画家の懐の深さを感じさせます。 】(「文化遺産オンライン」)

司馬江漢 《駿州薩陀山富士遠望図》.jpg

司馬江漢 「駿州薩陀山富士遠望図」 1804(文化元) 絹本油彩 78.5×146.5cm (静岡県立美術館蔵)→B図
https://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/collection/symphony/fukei/pt1_07.php
【青い空、波の表現など、従来の日本画にはない油絵独特の新奇な表現。西洋油彩技法を独学した江漢は、富士を題材に多くの油彩画をのこしたが、本作は最後に描いたもので、寸法も最大。右上には「日本最初のユニークな人物」という意のオランダ語の表記がある。】

司馬江漢筆「相州江之嶋児淵より富嶽遠望図」.jpg

司馬江漢筆「相州江之嶋児淵より富嶽遠望図」 肉筆 双幅 文化(1810年)頃の製作 個人蔵 (紙本墨画淡彩?)→C図
https://harady.com/enoshima/ukiyoe/kohkan.html
【岩屋海岸の男性的な様相の岩場とやさしい富士を配した双幅(2枚が対になっている掛物)。富士の手前にはエボシ岩もはっきりと描かれている。エボシ岩は随分と大きく書かれているが戦後、米軍の射撃演習に使われ島の形が変わって小さくなったといわれる。】

≪ 彼(司馬江漢)は、富嶽図、七里ヶ浜、駿州八部富士、品川富士遠望、駿河湾富士遠望、富嶽遠望、富士に小鳥図、駿州薩陀山富士遠望、隅田川富士遠望、駿州薩埵山富士、駿州薩埵峠の富士、駿州原駅、駿州長沼村眺望、駿州吉原駅、駿府城、駿州柏原、駿州岩淵、駿州補陀落山、相模景鳥村、自相州大山眺望、遠州金谷、江之島富士眺望、下総利根川今井渡、下総木更津、目黒駒場、品川沖など、さまざまな場所から見た富士の姿を、油絵・墨画・淡彩・木版・泥絵などさまざまな手法で描いている。まさに「富士の江漢」と言えるだろう。≫(『司馬江漢「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生」(池内了著)』P80)

七里浜 TNPERJENOSIMA.jpg

「七里浜 TNPERJENOSIMA」 銅版画 / 江戸 司馬江漢 (1747-1818) 江戸時代、天明7年/1787年 銅版筆彩 28.4×41.5 1面 落款「丁未秋日司馬江漢刻并画」反射式眼鏡絵 来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館→D図
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/410725
【 (解説)
司馬江漢が天明年間(1781-1789)に制作した風景銅版画のひとつ。高い視点から俯瞰する表現をとっています。ここで司馬江漢の関心は富士山よりも、江之島・小動岬(こゆるぎみさき)を奇怪な岩塊として表すこと、池のように静かな太平洋に無数のさざ波を描き、ある種のリズム感を表出しようとしたのかもしれません。寛政年間(1789-1801)の油彩画「相州鎌倉七里浜図」(当館蔵)に見られるようなダイナミックな空間と動感を示すまでには至っていません。】(「文化遺産オンライン」)

 「さまざまな場所から見た富士の姿を、油絵・墨画・淡彩・木版・泥絵などさまざまな手法で描いている。まさに『富士の江漢』」の、それらの「富士の景」は、「駿州柏原富士図」(A図)は、「円山派(円山・四条派)」の「平明な写生画法」、「相州江之嶋児淵より富嶽遠望図」(C図)は、「文人画(南画)」の「水墨画基調の南宗画風」、そして、その多くは、「駿州薩陀山富士遠望図」(B図)にみられる「秋田蘭画」を基調とする「洋風画(陰影法・遠近法)」とに、大きく区分けすることが出来る。
 そして、「洋風画(陰影法・遠近法)」は、「七里浜 TNPERJENOSIMA」(D図)の、司馬江漢が自ら「日本創製司馬江漢畫」と称する「銅版画」(江漢の「春重」時代の「浮世絵」=「木版画・錦絵」を基礎に反転創製している)が、その基盤となっている。

神奈川沖浪裏.jpg

1. 神奈川沖浪裏「※北斎改為一筆」(1831年)→三大役物=「凱風快晴」「山下白雨」→大波、3隻の船、背景の富士山、と3つの要素で構成されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B6%BD%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%99%AF

凱風快晴.jpg

2. 凱風快晴「※北斎改為一筆」(1831年)→三大役物=「神奈川沖浪裏」「山下白雨」→本図は甲斐国側(三ツ峠周辺)か駿河国側(沼津周辺)か両説がある。「赤富士」と呼ばれる。

山下白雨.jpg

3. 山下白雨「※北斎改為一筆」(1831年)→三大役物=「神奈川沖浪裏」「凱風快晴」→富士に大きな稲妻、「黒富士」と呼ばれる。

深川万年橋下.jpg

4. 深川万年橋下「※北斎改為一筆」(1831年)→隅田川の太鼓橋の弧と橋桁の遠景に富士そして、一人の釣り人。

尾州不二見原.jpg

5. 尾州不二見原「※北斎改為一筆」(1831年)→愛知県名古屋市中区富士見町周辺、巨大な樽の中から田園風景の彼方に遠景の富士の姿。

相州七里浜.jpg

11. 相州七里浜「※※北斎為一笔」(1831-34年)→「七里浜 TNPERJENOSIMA(司馬江漢)」など。

東海道江尻田子の浦略図.jpg

27東海道江尻田子の浦略図「※※※前北斎為一筆」(「為」が正方形に近い、主版が藍摺)
(1831-34年)→「田子浦富嶽遠望図(宋紫石・大和文華館)と「凱風快晴」との関連。

相州江之島.jpg

28. 相州江之島「※※※前北斎為一筆」(「為」が正方形に近い、主版が藍摺)(1831-34年)
→「相州江之嶋児淵より富嶽遠望図(司馬江漢)」など

駿州片倉茶園ノ不二.jpg

39. 駿州片倉茶園ノ不二「※※※※前北斎為一筆」(「為」が正方形に近い、主版が墨摺)(1831-34年)→「駿州薩陀山富士遠望(司馬江漢)など。

諸人登山.jpg

46. 諸人登山「前北斎為一筆」(※※※※「為」が正方形に近い、主版が墨摺)(1831-34年)→静岡県富士宮市・富士山頂、富士の全体を描かず山頂の情景のみ(巻末の意を含む?)。

≪『冨嶽三十六景』は、葛飾北斎による富士図版画集である。1831-34年(天保2-5年)版行。全46図。大判錦絵、版元は西村屋与八(永寿堂)。

 個々の作品は、落款の違いによって、「北斎改為一筆」・「前北斎為一笔」・「前北斎為一筆」・「前北斎為一筆」(「為」が草書で主版が藍摺)・「前北斎為一筆」(「為」が草書で主版が墨摺)の5グループに分けられる。
この内最後の、主版が墨摺の「前北斎為一筆」10図(裏富士)が一番新しいのは明らかなので、「前北斎為一筆」でない「北斎改為一筆」が一番早いものと推測できる。
残り3タイプの内、唯一の「笔」が藍摺りものなので、『正本製』に「藍摺」と言及されていることを考慮すると、「北斎改為一筆」に次ぐと推測できる。
残り2タイプの内、最後と決まっている、主版墨摺「前北斎為一筆」と同様に、草書体「為」と同じ方が新しいと推測すると、
 
1 「北斎改為一筆」 → ※印
2 「前北斎為一笔」 → ※※印
3 「前北斎為一筆」(「為」がやや縦長)
4 「前北斎為一筆」(「為」が正方形に近い、主版が藍摺)→※※※印
5 「前北斎為一筆」(「為」が正方形に近い、主版が墨摺)→※※※※印

の順になり、それぞれの該当作品を挙げると、

1 全10図:「※1神奈川沖浪裏」・「※2凱風快晴」・「※3山下白雨」・「※4深川万年橋下」・「※5尾州不二見原」・「6甲州犬眼峠」・「7武州千住」・「8青山円座松」・「9東都駿台」・「10武州玉川」
2 全10図:「※※11相州七里浜」・「12武陽佃嶌」・「13常州牛堀」・「14甲州石班澤」・「15信州諏訪湖」・「16遠江山中」・「17甲州三嶌越」・「18駿州江尻」・「19東都浅艸本願寺」・「20相州梅沢左」
3 全5図:「21下目黒」・「22上総ノ海路」・「23登戸浦」・「24東海道吉田」・「25礫川雪ノ且」
4 全11図:「26御厩河岸より両国橋夕陽見」・「※※※27東海道江尻田子の浦略図」・「※※※28相州江の嶌」・「29江戸日本橋」・「30江都駿河町三井見世略図」・「31相州箱根用水」・「32甲州三坂水面」・「33隠田の水車」・「34東海道程ヶ谷」・「35隅田川関屋の里」・「36五百らかん寺さざゐどう」
5 全10図:「37身延川裏不二」・「38従千住花街眺望ノ不二」・「※※※※39駿州片倉茶園ノ不二」・「40東海道品川御殿山ノ不二」・「41甲州伊沢暁」・「42本所立川」・「43東海道金谷ノ不二」・「44相州仲原」・「45駿州大野新田」・「※※※※46諸人登山」 になる。

(注1)図版順(1-46)は、「日野原健司 『北斎 富嶽三十六景』岩波書店〈岩波文庫〉」による。
(注2)その46図中より、上記10図を掲げる。※印から※※※※印は、その落款の「署名」(制作年次)などによる。また、この10図の掲図は、北斎の代表作品の他に、司馬江漢などの掲図と同じ場所のものを選定してある。 ≫(「ウィキペディア」などにより作成)

≪ 「葛飾北斎年譜」

宝暦10年(1760年10月31日) 武蔵国葛飾郡本所割下水(江戸・本所割下水。現・東京都墨田区の一角)にて生を受ける。姓は川村氏、幼名は時太郎。のち、鉄蔵と称す。
明和元年(1764年) 幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となったが、のち、家を出る。貸本屋の丁稚、木版彫刻師の従弟となって労苦を重ね、実家へ戻る。画道を志す。
安永7年(1778年) 浮世絵師・勝川春章の門下となる。狩野派や唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)、役者絵を多く手がけた。また黄表紙の挿絵なども描いた。この頃用いていた号は「春朗」であるが、これは師・春章とその別号である旭朗井(きょくろうせい)から1字ずつもらい受けたものである。
安永8年(1779年) 役者絵「瀬川菊之丞 正宗娘おれん」でデビュー。
寛政6年(1794年) 勝川派を破門される。理由は、最古参の兄弟子である勝川春好との不仲とも、春章に隠れて狩野融川に出入りし、狩野派の画法を学んだからともいわれるが、真相は不明である。ただ融川以外にも、3代目堤等琳についたり、『芥子園画伝』などから中国絵画をも習得していたようである。
寛政7年(1795年) 「北斎宗理」の号を用いる。
寛政10年(1798年) 「宗理)」の号を門人琳斎宗二に譲り、自らは「北斎」「可侯(かこう)」「辰政(ときまさ)」を用いる。
享和2年(1802年) 狂歌絵本『画本東都遊』刊行開始。
文化2年(1805年) 「葛飾北斎」の号を用いる。
文化7年(1810年) 「戴斗(たいと)」の号を用いる。
文化9年(1812年) 秋頃、名古屋の牧墨僊邸に逗留、その後、関西(大坂、和州吉野、紀州、伊勢など)方面へ旅行する。
文化11年(1814年) 『北斎漫画』の初編を発刊。
文化14年(1817年) 春頃、名古屋に滞在。10月5日、名古屋西掛所(西本願寺別院)境内にて120畳大の達磨半身像を描く。年末頃、大坂、伊勢、紀州、吉野などへ旅行する。この時、春好斎北洲が大坂にて門人になったとされる。
文政3年(1820年) 「為一(いいつ)」の号を用いる。『富嶽三十六景』の初版は文政6年(1823年)に制作が始まり、天保2年(1831年)に開版、同4年(1833年)に完結する。
天保5年(1834年) 「画狂老人(がきょうろうじん)」「卍(まんじ)」の号を用いる。『富嶽百景』を手がける。
天保13年(1842年) 秋、初めて、信濃国高井郡小布施の高井鴻山邸を訪ねた。この時、鴻山は、自宅に碧漪軒(へきいけん)を建てて、北斎を厚遇した。北斎83歳、鴻山37歳であった。
弘化元年(1844年) 向島小梅村に、また浅草寺前に住む。大塚同庵の紹介により歌川国芳と出会う。信濃国は高井郡小布施に旅し、嘉永元年(1848年)まで滞在。『怒涛図』などを描く。
嘉永2年4月18日(1849年5月10日) 江戸・浅草聖天町にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で没する。享年90。墓所は台東区元浅草の誓教寺。法名は南牕院奇誉北斎居士。生誕二百年記念碑がある。 ≫(「ウィキペディア」)

 司馬江漢(1747-1818)と葛飾北斎(1760-1849)とは、江漢が一回り先輩だが、北斎は、江漢の「浮世絵の鈴木春重」時代から、常に、時代の先端を走っていた「日本創製司馬江漢畫」と称する「銅版画」、そして、「西洋畫士 東都 江漢司馬峻 描寫 S:a.Kookan Ao:18.」と署名する「洋風画」を樹立していった「司馬江漢」を、その目標の一つにしていたことは想像する難くない。
 事実、「ありとあらゆるものを描き尽くそうとした北斎は、晩年、銅版画やガラス絵も研究、試みたようである。また、油絵に対しても関心が強かったが、長いその生涯においても、遂に果たせなかった」(「ウィキペディア」)と、「晩年人付き合いが煩わしくなり、文化10年(1813年)、自分の死亡通知を知人達に送り逼塞していた」という「司馬江漢」と、晩年の号に「画狂人・画狂老人・卍・是和斎」と名乗り、「改号すること30回」「転居すること93回」の末に、「卒寿(90歳)にて臨終を迎えた」「真正の画工となるを得べしと、言吃りて死す」と伝えられている(「ウィキペディア」)「葛飾北斎(「北斎」の号も晩年に弟子に譲っている)」と、この二人を、二大巨峰(「江戸時代中期から後期の巨峰(司馬江漢)・「江戸時代後期の世界に冠たる巨峰人(葛飾北斎)」に称えることにやぶさかでははない。
 と同時に、葛飾北斎の『富嶽三十六景』(富士山を主題として描かれた大判錦絵による風景画揃物で、主板の36図、および好評により追加された10図の、計46図。初版は1831年(天保2年)頃に開版、33年頃に完結している。落款は北斎改為一筆。版元は西村屋与八(永寿堂)と、『富嶽百景』(半紙本全三冊からなり、初編1834年(天保5年)刊行、二編は1835年(天保6年)、三編は刊行年不明。版元は 、初編・二編が西村屋佑蔵ほか。三編は永楽屋東四郎。画号は、前北斎改為一改画狂老人卍)とは、文政元年(1818)の、その七十二年の生涯の、その「さまざまな場所から見た富士の姿を、油絵・墨画・淡彩・木版・泥絵などさまざまな手法で描いた、まさに『富士の江漢』」への、その餞のメッセージと解することに、これまた、やぶさかではない。

(追記一)江漢「春波楼筆記」(1811)→ 富士山論、風景画論  

http://koktok.web.fc2.com/hom_page/53Travel/index.htm

○吾国にて奇妙なるは、富士山なり。これは冷際の中、少しく入りて四時、雪,嶺に絶えずして、夏は雪頂きにのみ残りて、眺め薄し、初冬始めて雪の降りたる景、まことに奇観とす、・・それ故、予もこの山を模写し、その数多し。蘭法蝋油の具を以て、彩色する故に、彷彿として山の谷々、雪の消え残る処、あるいは雲を吐き、日輪雪を照らし、銀の如く少しく似たり。

○吾国画家あり。土佐家、狩野家、近来唐画家(南画)あり。この冨士を写すことを知らず。探幽(狩野探幽)冨士の絵多し、少しも冨士に似ず、ただ筆意勢を以てするのみ。また唐画とて、日本の名山勝景を図すること能わず、名もなき山を描きて山水と称す。・・何という景色、何という名山と云うにもあらず、筆にまかせておもしろき様に、山と水を描き足るものなり。これは夢を描きたると同じことなり。是は見る人も描く人も一向理の分からぬと言う者ならずや。

○画の妙とする処は、見ざるものを直に見る事にて、画はそのものを真に写さざれば,画の妙用とする処なし。
富士山は他国になき山なり。これを見んとするに画にあらざれば、見る事能わず。・・ただ筆意筆法のみにて冨士に似ざれば、画の妙とする事なし。
之を写真するの法は蘭画なり。蘭画というは、吾日本唐画の如く、筆法、筆意、筆勢という事なし。ただそのものを真に写し、山水はその地を踏むが如くする法にて・・写真鏡という器有り、之をもって万物を写す、故にかって不見物を描く法なし。唐画の如く。無名の山水を写す事なし。

(追記二)北斎の豪華摺物と錦絵の時代

https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-iitsu/index.html

(追記三)北斎の「画狂老人卍期の作品」

https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/life-manji/index.html

(追記四)「北斎の花鳥画にみる江戸の新『漢画』ーー南蘋風の吸収源について」『慶應義塾大学アート・センター年報/研究紀要』

https://koara.lib.keio.ac.jp › xoonips › download.phpPDF

北斎・赤富士と宋紫石・富士.jpg

(上図)→≪2. 凱風快晴「※北斎改為一筆」(1831年)→三大役物=「神奈川沖浪裏」「山下白雨」→本図は甲斐国側(三ツ峠周辺)か駿河国側(沼津周辺)か両説がある。「赤富士」と呼ばれる。≫
(下図)→「田子浦富嶽遠望図(宋紫石・大和文華館)

(追記五)「葛飾北斎」の「富嶽三十六景・富嶽百景」と「歌川広重」の「富嶽三十六景・富嶽百景」周辺
 
https://kanazawabunko.net/art/3069

葛飾北斎が1831年に『冨嶽三十六景』を出版したとき、彼は72歳でした。北斎の大胆でエネルギッシュな風景画に多くの人が驚愕し、無論、歌川広重も驚いた一人でした。当時広重は37歳。北斎は72歳。35歳も年上の北斎に圧倒され、絵を習うために、北斎の工房に通ったともいわれています。ちょっとここで二人の作品を比べてみましょう。

神奈川沖浪裏.jpg

葛飾北斎「冨嶽三十六景「神奈川沖波裏』」

駿河薩タ之海上.jpg

歌川広重「冨士三十六景「駿河薩タ之海上」
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日本画と西洋画との邂逅(その九) [日本画と西洋画]

(その九)「秋田蘭画(佐竹曙山・小野田直武)」と「洋風画(司馬江漢)」など

小野田直武・不忍池.jpg

重要文化財「不忍池図 小田野直武筆」一面 江戸時代 18世紀 秋田県立近代美術館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/151921
【 (解説)
 秋田藩士小田野直武(一七四九-一七八〇)は、安永二年(一七七三)秋田藩の招聘(しようへい)でこの地を訪れた平賀源内より、殖産奨励の指導をうけるかたわら、オランダ系洋風画の伝授を受けた。これが秋田洋画の濫觴(らんしよう)で、その後直武の指導のもとに、秋田藩士佐竹義敦(曙山)とその弟角舘城代佐竹義躬へとその技法は広まった。もとより直接西洋画の技法を学んだものではなく、主として蘭書の挿絵によったため、銅版画の技法を学んだ細かいタッチが多く、技法の熟成はみられない。  
 直武江戸在勤中の不忍池の実景をもとに、近景に草花を大写し、遠近感を強調している点に特色があり、舶来の顔料による豊麗な彩色とともに、早逝した直武画の代表作。】(「文化遺産オンライン」)

https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2016_5/display.html

【 「世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画」

第1章 蘭画前夜 (略)
第2章 解体新書の時代~未知との遭遇~(略)
第3章 大陸からのニューウェーブ~江戸と秋田の南蘋派~(略)
第4章 秋田蘭画の軌跡

≪西洋と東洋の世界に向き合い、ヨーロッパの図像や南蘋風花鳥画の表現を学んだ直武は、拡大した近景と緻密な遠景を配した構図など独特の特徴をもつ秋田蘭画の画風にたどり着いたと考えられています。
 東西美術が融合した秋田蘭画は、秋田藩主の佐竹曙山、角館城代の佐竹義躬ら直武周辺の人物たちへも波及しました。佐竹曙山は、幼少より絵を得意とし、安永7年(1778)には日本初の西洋画論である「画法綱領(がほうこうりょう)」「画図理解(がとりかい)」を著しています。また、大名の間で流行していた博物学を愛好し、蘭癖大名(らんぺきだいみょう)であった熊本藩主細川重賢(ほそかわしげかた)や薩摩藩主島津重豪(しまづしげひで)らとつながりがありました。佐竹義躬は、絵画や俳諧に通じ、角館生まれの直武とは親しい交流があったようです。直武は、安永6年(1777)に秋田に一時帰国し、翌年に曙山と再び江戸に上ることになりますが、この間に秋田藩内へ蘭画の画法が伝わったともいわれています。
 東西のリアリズムが結びついた実在感のある描写、近景を極端に拡大し細やかな遠景を配する不思議な空間表現、舶載のプルシアンブルーを用いて表された青空の色彩など、秋田蘭画は今なお見るものを魅了します。≫

第5章 秋田蘭画の行方(略)  】(サントリー美術館「世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画」)

佐竹曙山筆「湖山風景図」.jpg

佐竹曙山筆「湖山風景図」 江戸後期 紙本著色 軸装 縦16.0㎝、横24.5㎝ 1幅
秋田市中通二丁目3番8号 秋田県指定 指定年月日:20150320 秋田市 有形文化財(美術工芸品)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/278153
【(解説)
 曙山は、第8代秋田藩主である佐竹義(よし)敦(あつ)の号で、自ら博物学や西洋画法に高い関心を持ち、直武を通じて本格的に西洋画を学んだ。安永7年には、我が国初の西洋画論となる「画(が)法(ほう)綱(こう)領(りよう)」と「画(が)図(と)理(り)解(かい)」を著している。 】(「文化遺産オンライン」)

≪  佐竹曙山 (1748―1785)
江戸中期の洋風画家、第8代秋田藩主。幼名秀丸、初名義直(よしなお)、のちに次郎義敦(よしあつ)と改め、字(あざな)を大麓(だいろく)、号を曙山といった。幼くして狩野(かのう)派の絵をよくしたが、のちに南蘋(なんぴん)派の写生体も学び、1773年(安永2)平賀源内が秋田にきたとき、家臣小田野直武(なおたけ)らと西洋画法を学んだ。のち、おもに参勤のため江戸に出たとき、直武の導きにより西洋の銅版画や画法書を頼りに洋風画を描き、東洋画の題材に西洋画の視点の加わった作品を残して、秋田蘭画(らんが)の代表者となったが、短命であった。78年日本最初の西洋画論『画法綱領』と『画図理解』を書いた。
[成瀬不二雄]≫(出典「小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』」)

https://yuagariart.com/uag/akita03/

「秋田蘭画の誕生と平賀源内」

https://yuagariart.com/uag/akita04/

「秋田蘭画の中心人物・小田野直武」

https://yuagariart.com/uag/akita05/

「日本初の西洋画論を著した秋田藩藩主・佐竹曙山」

相州鎌倉七里浜図〈司馬江漢筆.jpg

「相州鎌倉七里浜図〈司馬江漢筆/二曲屏風〉」紙本油彩 95.7×178.4 二曲一隻
神戸市立博物館蔵  国宝・重要文化財(美術品)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/205989
【  (解説)
 江戸時代後期洋風画は、陰影法、遠近法といった西洋画法を用いた日本の風景図が開拓されていった点にその美術史的意義のひとつがあり、創始者とされる小田野直武(一七四六-八五)は、短い活躍期に西洋画法による日本の風景画を相当数遺している。しかし、それは墨と伝統的な絵具を用いて描かれたものであった。
 司馬江漢(しばこうかん)(一七四七-一八一八)は荏胡麻の油を用いた油彩の技法を実践して日本風景画を大量に制作した。そのうえ、西洋画法による日本風景画を各地の社寺に奉納することにより、この新奇な絵画を広く一般民衆の目に触れしめ、洋風画を啓蒙普及させるうえに大きな役割を果たした。
 寛政年間後期から文化初年にかけて、江漢は日本の風景画を中心とする大額の絵馬を神社仏閣に奉納した。しかし、そのなかで現存するのは芝愛宕山に奉納された本図と、厳島神社奉納の「木更津浦之図」のみである。「木更津浦之図」は残念ながら画面の傷みが激しいが、本図は「蘭画銅版画引札」が出た文化六年(一八〇九)までに愛宕社からはずされたため、比較的よい状態で伝えられてきた。
 江漢は富士の画家といえるほど富士山を数多く描いているが、江漢作品全体のなかでも富士を望む七里浜図の作例は多く、ことに得意とする画題であったらしい。数ある江漢の「七里浜図」作例のなかでも、本図はとりわけ描写に生彩があり、江漢の油彩日本風景画の最も代表的な作例といえる。
 本図の広大な空間表現、青い空と雲の描写、特異な波頭の表現等は、北斎をはじめとする同時代の浮世絵師等に影響を及ぼし、また、亜欧堂田善(一七四八-一八二二…】(「文化遺産オンライン」)

「相州鎌倉七里浜図」(部分拡大図).jpg

「相州鎌倉七里浜図」(部分拡大図・遠景に「富士山」が描かれている)

https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365044

【  「相州鎌倉七里浜図」
 今は二曲屏風になっていますが、本来は大画面の絵馬として、江戸・芝の愛宕神社に掲げられていました。宋紫石らに薫陶をうけて洋風画家として名声を確立しつつあった司馬江漢(1747〜1818)は、全国の社寺に12面の洋風画を奉納し展示させたが、そのうち現存しているのは本図を含めて2点しかありません。屋外に掲示されていたため、損傷や補筆が目立ちますが、躍動する海波、近景の浜辺から遥か遠くの富士山まで、ダイナミックに視点を誘うことで作り出される広大な空間と爽快な青空など、斬新な表現の数々を見て取れます。
 画面上方に貼付されているのは、大田南畝と中井(董堂)敬義の賛で、この作品がは文化6年(1809)以前に愛宕神社からはずされたあと、書肆青山堂の所有に帰した旨を記しています。

款記「西洋畫士 東都 江漢司馬峻 描写/S:a.Kookan/Ao:18./寛政丙辰夏六月二十四日」賛:大田南畝(文化8年)、中井董堂「昔掲城南愛宕廟 今帰廓北青山堂 泰西画法描江島 縮得烟波七里長」 

来歴:青山清吉(青山堂)→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館

参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008
・神戸市立博物館特別展『西洋の青』図録 2007
・神戸市立博物館特別展『司馬江漢百科事展』図録 1996
・塚原晃「社寺奉納洋風風景図における司馬江漢の制作意図」(『美術史』43(1) 1994)】
(「神戸市立博物館」)

(追記)「研究論文 司馬江漢の眼鏡絵と油彩風景図に見られる湾曲した海岸線について」
(橋本寛子稿)

第一章 江漢の洋風風景図について (略)
第二章 《三園景図》とヨンストンの『禽獣魚介轟図譜』 (略)

第三章  油彩による日本風景図《相州鎌倉七里浜図》

第一節  作品記述と絵馬奉納

 《相州鎌倉七里浜図》に関しては、成瀬不二雄氏によってその成立と影響に関する詳しい論考が発表され、現在においても《相州鎌倉七里浜図》に関する基本文献となっている。また、塚原晃氏は、洋風風景図を絵馬として奉納した江漢の意図とその後の影響について述べた。そして、その後においても成瀬氏がしばしばその革新性を述べるように、江漢のその後の洋風画家としての様式を確立する作品となった。また、塚原氏の論考にもあるとおり、《相州鎌倉七里浜図》は愛宕神社に奉納され、多くの人々の目に触れた作品であり、受容史の点からも重要な作品であるといえる。
本図は画面中央上部に「相州鎌倉七里浜図」と題し、右側に落款「西洋画士東都江漢司馬唆描写」、その下には江漢が印章の代わりによく用いた手法である朱で「S‥a.KO?kanAO‥-∞」とサインが描かれている。画面左側には「寛政丙辰夏六月二十四日」と年紀があり、寛政八年二七九六)夏の制作であることが分かる。そして画面上部・右側に大田南畝(一七四九・一八二三)、左側に中井(董堂)敬義 一七五八・一八二一)による賛が書かれている。

昔掲城南愛宕廟
縮得姻波七里長
画師百練費工者
居然身是対蓬壷
今帰郭北青山堂 泰西洋画法描江島
辛末夏日 杏花園題
写出銀沙七里図 万頃隔涛望富嶽
董堂敬義

 南畝の詩題によると、本図はもともと懸額として江戸・芝の愛宕山繭に掲げられていたが、後に外され江戸の書店・青山堂に帰したことが分かる。そして本図は西洋画法で江ノ島を描き、姻波七里の長さに縮めていると述べている。また、その左に位置する中井敬義の賛は広い海を隔てて富士を望み、居ながらにして理想郷に相対するようだと感嘆を表している。黒田源次氏は、本図は文化八年(一八二)頃に愛宕神社から外され、そのころに江漢自身の手で修理されたと推測している。本図は従来絹本に油彩であったが、修理とともに紙に裏打ちされ掛幅となり、画面上部の費もその頃に書かれたとされる。その後、現・神戸市立博物館の池長孟コレクションに収集され、本国は二曲一双の屏風に改装された。
 江ノ島は、厳島、竹生島と並び日本三大弁財天の一つと称され、江戸時代に流行した名所周遊のコースにも含まれ参拝客を集めた。古くは《一遍上人絵伝》の一部に描かれ、江戸時代にも浮世絵が盛んに制作されたが、それらは参拝者とともに江ノ島入り口正面から措かれる社寺参詣図の伝統を踏襲するものがほとんどであった。また小田野直武も正面から参拝者とともに描いた《江ノ島図》(図30)を制作する一方、山口泰弘氏によって江の島の真景図であることが明らかとなった《日本風景図》(右幅)(図31)、江漢に先立ちその因習から解き放たれた作といえる。しかし、縦長の画面であるが故に空の面積が異様に広く、単幅で見るとどこか不安定さを感じさせる。
 一方、江漢は直武同様に江の島の東に位置する七里ケ浜からの視点をとるが、横長の画面を用い従来の縦長の狭視野から急激に視界を開けさせた。そして、この大きく湾曲した半円弧によって、観者の視点は手前の浜辺から遥か先の富士山を望むように誘導される。
 実際に七里ケ浜から見た富士山の位置は、成瀬不二雄氏によると江漢の作品よりも右側に見えるという。同主題の江漢の作品には、富士山を右側の実景どおりに描いた作品も数点あり、江漢は本国を措く際に意識的に左に寄せたと考えられる。このことについて成瀬氏は「画者は実景の写生を傍らにおき、七里ケ浜の海が広く見え、近景から遠景に至る壮大な距離感が十分に表現されるように、画室内で構想を練ったのである」としている。つまり、成瀬氏によると江漢は実景よりも、絵画としての構図を優先させたということであり、同氏の近年の著書においても繰り返され三〇年来定説となっている。このように、江漢は消失点の先に富士山を描くことにより、観者の全ての視点を富士山に集約されるように再構成したのである。そうすることによって、大画面(縦九五・六センチ、横一七八・五センチ) であることも関係し、中井敬義が居ながらにして理想郷が体現できると述べたように、人々は描かれた風景その場に居合せているかのような臨場感を体感したようである。
 次に、本図が愛宕神社に奉納された絵馬であることを裏付ける資料が二点存在する。それらによって、江漢が奉納した絵馬の画題と、それを奉納した社寺の名が分かる。まず、第一に各地に奉納した六面の洋風絵馬が箇条書きに記されている寛政二年(一七九九)の江漢自身の著書『西洋画談』 の奥付部分である。そして、第二に文化六年(一八〇九) に江漢が自らの油彩画と銅版画の宣伝の為に配布した「蘭画銅板画引札」である。これも各地の社寺に奉納した絵馬を箇条書きしたものであり、同時に浅草寺に油彩の錦帯橋図を掲げ、これを洋風風景画の描きおさめすると宣言した引札である。以上、これらの資料から江漢は寛政八年(一七九六)から文化一三年(一八一六)の三一年の間に、一二面の洋風画絵馬を神社仏閣に奉納したことが分かる。そのうち、現存しているのは二面であり、《相州鎌倉七里浜図》と広島の厳島神社に懸けられた《木更津浦之図》(図18)である。
 塚原晃氏によると、特性上公共の場である社寺に、絵馬として作品を懸けるという行為は、不特定多数の人々の目に触れる機会が多いため知名度を上げるには効果的であったという。江漢が自らの作品を宣伝するために各地の社寺を積極的に利用したと考えるならば、塚原氏も指摘するように、絵馬奉納という行為は自らを風景画家として世間に表明するための手段であったと考えられる。そして、《相川鎌倉七里浜図》が江漢にとって最初期の油彩日本風景図であり、以後の様式を確立することになった作品であったことを考えると、江漢は《相州鎌倉七里浜図》を利用し洋風風景の専門画家として世間に認識してもらうことを目的としていたと考えられる。
 また、江漢以前に社寺に懸けられた洋風画といえば、五百羅漢寺に奉納されたファン・ロイエン (WiEem冒ederick昌nROyen〉監早-這い)筆《花鳥図》である。これは江戸時代を通じて一般公開された唯一の西洋油彩画であったため、大きな反応を引き起こしたといわれる。原図は現存していないが、寛政八年(一七九六)一一月になされた石川大浪 (一七六二・一八一七) と弟の孟高(一七六三・一八二六)の精微な模写によって、その様子を伺い知ることができる。また、石川兄弟の模写をさらに模写した谷文晃二七六三・一八四一) の作も有名であるが、石川兄弟以前にも多くの模写がなされた。江漢の《相州鎌倉七里浜図》を始めとする絵馬奉納活動の一端には、この五百羅漢寺に奉納されたファン・ロイエンの《花鳥図》を意識していたとも考えられる。江漢もファン・ロイエンのように同じく自身の油彩画を不特定多数の人々の目にれさせ、称賛される機会を狙っていたのではないだろうか。

第二節眼鏡絵との関係 (略)
結びに代えて     (以下「略」)  

https://cir.nii.ac.jp/crid/1390572174910110464

「司馬江漢筆《驟雨待晴図》について : 自然科学に関する描写を中心に」

https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-20J40221/

「日本近世における浮絵と眼鏡絵の研究ー司馬江漢と円山応挙の関連を中心に」

「司馬江漢作《天球図》の図像源泉について」(橋本寛子稿)

 18 世紀、長崎は鎖国下にありながら、日本で唯一外国船を受け入れる開港都市であった。長崎を通じて多くの和蘭文物が日本にもたらされ、同時に西洋の地理学や天文学も長崎に伝来した。司馬江漢は天明8 年(1788)の長崎旅行を契機に和蘭通詞本木良永と知り合い、
 地動説をはじめとする地理天文の知識を教わった。江戸に戻った江漢は、その後一連の自然科学関連の銅版画作品を制作し、その中で最初の純粋な天文関連作品が寛政8 年(1796)の《天球図》(神戸市立博物館)である。これは中国の伝統的な天文図の上に、西洋の星座絵を重ねて描いており、当時としては斬新な表現であった。本発表では、この作品の新たな図像源泉を明らかにしたい。
 先行研究において江漢の《天球図》の図像は、イエズス会指導による中国最新の天文書『天経或問』中の図像と、日本に伝来した和蘭製の星座図像を取り入れたものであるとされてきた。さらに、初代幕府天文方渋川春海の実測による新たな日本の星座名も加えられ、当時としては、東西最先端の知識が詰め込まれた作品であったと言える。江漢が写した和蘭製の天球図は、《ブラウ世界図》(東京国立博物館)に描かれた両天球図を写したフレデリック・デ・ウィットの《天球図》(個人蔵)が原図と言われてきた。しかしこの作品は来歴等が明らかにされていない。
 そこで、江漢が寛政5 年(1793)に《地球全図》を制作した際、彼に助言をした馬道良との関係に注目する。馬道良は寛政3 年(1791)幕命により、幕府所蔵ブラウの天地球儀補修を任され、一時天文方に勤務した人物である。馬道良による天地球儀補修の記録書『阿蘭陀天地両球修補製造記』の内容から、《天球十二宮象配賦二十八宿図説》(寛政7 年)がその幅物として、現在国立国会図書館に所蔵されている事が判明した。これは黄道12 宮の星座像が一直線上に描かれた作品であり、江漢の《天球図》に描かれた12 宮像と28 宿とを重ね合わせた図像様式が酷似していた。つまり、江漢同様に宇宙の外側から見て描く西洋の12 宮像に合わせて、中国の28 宿を反転させた作品だったのである。
また、馬道良の息子北山寒巌は、八代将軍吉宗の時代に伝来したと思われる和蘭製《フィッセル改訂ブラウ世界図》(東京国立博物館)の模写《和蘭考成万国地理全図照写》(寛政4~6 年頃、天理大学付属天理図書館)を制作している。江漢の星座図像は、馬道良のものよりもデ・ウィットに近い事を考慮すると、同じくブラウの系譜である《フィッセル改訂》を模写した寒巌の影響力も大きかったのではないかと考えられる。
 しかし、西洋の天球図という主題は、北山晋陽・寒厳父子(馬道良・馬孟煕)と江漢以降において制作例は見られない。それは江戸後期から幕末にかけて、急速に発展する蘭学と近代天文学の導入により、後世においてこの主題が省みられることが無かったからであると言えるだろう。
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日本画と西洋画との邂逅(その八) [日本画と西洋画]

(その八)「『浮世絵木版画(鈴木春信・鈴木春重=司馬江漢)』から『洋風銅版画(司馬江漢)』への脱皮」など

鈴木春信・夜の梅.jpg

鈴木春信「夜の梅」 明和3(1766)年頃 32.4×21㎝ メトロポリタン美術館蔵
(「日本 絵ものがたり 夜景の誕生(読売新聞 YOMI HOT 2021/12/26)」)
【 浮世絵師、鈴木春信は黒ベタで闇夜を表現した。「夜の梅」は白梅に燭台を差し向ける若い女性の図で、黒一色の背景から女性の顔や手、梅の花が白く浮かぶ。陰影がないので、どこか不思議な世界となっている。(森恭彦稿) 】

悔恨のマグダレン.jpg

ラ・トゥール「悔恨のマグダレン」 1640年頃 133.4×102.2㎝ メトロポリタン美術館蔵 (「日本 絵ものがたり 夜景の誕生(読売新聞 YOMI HOT 2021/12/26)」)
【 17世紀半ばのラ・トゥールの「悔恨のマグダレン」はマグダラのマリアが主人公だ。周囲は漆黒の闇。ロウソクを映す鏡は虚栄心、膝の上の頭蓋骨は人生のはかなさ、ロウソクの灯が彼女の悟りを表しているという。(森恭彦稿) 】

≪ 鈴木春信 (?―1770)

江戸中期の浮世絵師。錦絵(にしきえ)の創始者。本姓は穂積(ほづみ)、通称は次郎兵衛、号は思古人。江戸神田(かんだ)白壁町に住み、西村重長(しげなが)の門人と伝えられるが明らかでなく、奥村政信(まさのぶ)、石川豊信(とよのぶ)、鳥居清満(とりいきよみつ)ら江戸の浮世絵師のほか、京都の西川祐信(すけのぶ)の影響も受けて独自の優美可憐(かれん)な美人画様式を確立。生年は1725年(享保10)と推定されているが、その伝記はほとんど不明。活躍期間は1760年(宝暦10)以降の10年間で、ことに最晩年の5年間は人気随一の流行絵師として画壇に君臨した。
 1765年(明和2)江戸の好事家(こうずか)の間で流行した絵暦(えごよみ)の競作は、木版多色摺(ずり)の技術を急速に発展・洗練させたが、それを浮世絵の版元が活用するところとなり、錦絵が誕生した。春信はこのおりの絵暦制作に中心的な役割を果たし、錦絵の商品化にも大きく貢献した。好んで扱った主題は、吉原の遊里風俗のほか、青年男女の清純な恋愛や親子兄弟の和やかな情愛など、市井に繰り広げられる日常生活の場景が目だつ。しかもそれらを古典和歌の歌意などと通わせた見立絵(みたてえ)として表すなど、浪漫(ろうまん)的な情趣濃い造形を得意とし、王朝的美意識を追慕するみやびな絵画世界を確立させた。また最晩年には、江戸の風景を絵の背景に写し込み、あるいは笠森稲荷(かさもりいなり)境内の水茶屋の娘かぎ屋お仙など評判の町娘や吉原遊廓(ゆうかく)における全盛の遊女らを実名で扱うなど、実感的な描写にも意欲を示して次代の方向を明確に予告した。
錦絵の判式はほとんど中判(約28センチメートル×20センチメートル)に限られ、代表作に『座敷八景』(八枚揃(ぞろい)、1765ころ)、『縁先物語』『雪中相合傘』(いずれも1760年代後半)がある。また『絵本花葛羅(はなかつら)』(1764)、『青楼美人合(あわせ)』(1770)などの絵本にも秀作を残したが、肉筆画は少ない。門人に鈴木春重(はるしげ)(司馬江漢(こうかん))、駒井美信(よしのぶ)らがおり、礒田湖竜斎(いそだこりゅうさい)に強い影響を与えた。平賀源内、大田南畝(なんぽ)、大久保巨川らとの交友も注目される。法名は法性真覚居士(こじ)と伝えられるが、菩提寺(ぼだいじ)は不明。[小林 忠]

『小林忠編著『浮世絵大系2 春信』(1973・集英社)』▽『楢崎宗重編『在外秘宝 鈴木春信』(1972・学習研究社)』    ≫(出典 小学館「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

≪ ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour, 1593年3月19日 - 1652年1月30日)は、現フランス領のロレーヌ地方で17世紀前半に活動し、キアロスクーロを用いた「夜の画家」と呼ばれる。
 ラ・トゥールは生前にはフランス王ルイ13世の「国王付画家」の称号を得るなど、著名な画家であったが、次第に忘却され、20世紀初頭に「再発見」された画家である。残された作品は少なく、生涯についてもあまり詳しいことはわかっていない。作風は明暗の対比を強調する点にカラヴァッジョの影響がうかがえるが、単純化・平面化された構図や画面にただよう静寂で神秘的な雰囲気はラ・トゥール独自のものである。≫(「ウィキペディア」)

https://plaza.rakuten.co.jp/rvt55/diary/201008210000/

【 絵師:鈴木春重(司馬江漢)
司馬江漢(しばこうかん)(鈴木春重(はるしげ))(1747~1818年)は、江戸時代中期の洋風画の先駆者である。 彼は、まず狩野派に学び、その後、鈴木春信(はるのぶ)の画風を習熟して、春信様式の美人画を描く。
春信の死後(明和期)は、宋紫石(そうしせき)に南蘋派(なんぴんは)の花鳥画を学んだ。その後、洋風画に転向する。そして、日本初の腐蝕(ふしょく)銅版画(エッチング)の創製に成功し、「三囲景」(みめぐりのけい)を制作する。また、油絵の研究も行い、幅広い分野で活躍し、日本の洋風画の先駆者となる。
 鈴木春重(はるしげ)は、春信門下と言われ、明和後期から安永初期に春信様式の美人画を描き、一見して春信作品と見分けがつかない程(或いはそれ以上)に、習熟して描いた。
春信落款の美人画で春信本人が描いたとは考えにくい一連の作品群があり、今日では春重の作品とみなされている。
それらの絵画は、春信様式を踏襲しながらも、遠近法を加味した創意を見せた作品群である。なお、春重が春信の門下であったとする説には異論もある。 】

楼上縁先美人.jpg

鈴木春重筆「楼上縁先美人」江戸時代・18世紀 中判 錦絵 (東京国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/554303
【 鈴木春重とは、蘭学者司馬江漢(しばこうかん)のこと。江漢は春信に浮世絵を学び、春信の贋作まで制作したという。一見、春信と見紛う愛らしい美人図だが、大胆な遠近法を用いた縁の構図などに、江漢らしい機知がうかがえる。 】(「文化遺産オンライン」)

https://mag.japaaan.com/archives/47380

【 錦絵と浮世絵の違いとは?
浮世絵を語る上で欠かすことのできないキーワードが「錦絵」です。錦絵とは多色摺りの浮世絵木版画のことを指します。浮世絵と錦絵の違いというよりも、錦絵は浮世絵の手法のひとつ…ということです。
 錦絵(多色摺り)の手法が使われる以前は、墨一色で摺られた墨摺絵(すみずりえ)であったり、墨摺絵に紅色などを加えた紅摺絵(べにずりえ)であったりが主流で、錦絵のような華やかな色合いではありませんでした。
 錦絵は、浮世絵の版元が浮世絵師・鈴木春信(すずきはるのぶ)らに、これまで以上に華やかな摺物をと依頼したことからはじまり、瞬く間に浮世絵の定番の手法となりました。そんなことから、鈴木春信は錦絵を大成させた人物とされています。錦絵は摺師、彫師の技術向上が無くては大成しなかったのも確かでしょう。

  浮世絵で描かれた色々なテーマ(抜粋)
旅行気分で眺めていた「名所絵」→「歌川広重」・「葛飾北斎」など。
遊女や看板娘を描いた「美人画」→「鈴木春信」・「喜多川歌麿」・「歌川国貞」(三代目 歌川豊国)など。
歌舞伎役者は人気の的「役者絵」→」東洲斎写楽」・「歌川国芳」など。
笑わせる気満々のオモシロ「戯画」→「歌川国芳」など。
そのほかにも「芝居絵」・「花鳥画」・「春画」など様々な種類の浮世絵が描かれている。  】

https://www.kumon-ukiyoe.jp/history.html

【 浮世絵の判型 (抜粋)
大判→縦39cm×横26.5cm→ 大奉書の縦二つ切(江戸後期の浮世絵の 最も一般的なサイズ)。特に縦2枚続きの 浮世絵のことを「掛物絵」と呼んだ。
中判→縦19.5cm×横26.5cm→大判の横二つ切
小判→縦19.5cm×横13cm→大判の4分の1
大短冊判→縦39cm×横18cm→大奉書の縦三つ切
中短冊判→縦39cm×横13cm →大奉書の縦四つ切
小短冊判→縦39cm×横9cm→大奉書の縦六つ切
色紙判→縦20.5cm×横18.5cm→大奉書の6分の1
長判→縦19.5cm×横53.5cm 大奉書の横二つ切
柱絵→縦72~77cm×横52.5cm→丈長奉書の縦三つ切
→縦72~77cm×横13cm →丈長奉書の縦四つ切
細判→縦33cm×横15cm→小奉書縦三つ切
→縦16cm×横47cm→小奉書横二つ切     】

三囲之景.jpg

司馬江漢画并刻「三囲之景 MIMEGULI(みめぐりのけい)」江戸時代、天明7年/1787年 銅版筆彩 28.0×39.4 1面 落款「天明丁未冬十月/日本銅板創製/司馬江漢画并刻」反射式眼鏡絵 (神戸市立博物館蔵)
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/377197
【(解説)
司馬江漢が天明年間(1781-1789)に制作した風景銅版画のひとつ。司馬江漢は、天明8年(1788)からの長崎旅行で、大坂の木村蒹葭堂のもとに立ち寄っています。持参した銅版眼鏡絵を蒹葭堂に見せ「誠に日本創製なり」とその技法を感心しさせました。
 天明3年(1783)の「三囲景」の版が磨耗したのでしょうか、江漢は同7年にほぼ同じ構図でこの銅版眼鏡絵を製作しました。この作品では、天明3年版よりも視点を低くとり、土手を歩く人々の表現を強調するようになりました。反射式眼鏡絵として制作されたので左右反対の構図となっています。】(「文化遺産オンライン」)

獅子のいる異国風景図.jpg

司馬江漢画并刻「獅子のいる異国風景図」江戸時代 天明3年頃/1783年頃 銅版筆彩
25.4×38.5 1面 (神戸市立博物館蔵)
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/401391
【(解説)
江漢による一連の銅版日本風景図と同じく、反射式のぞき眼鏡で鑑賞するための眼鏡絵のひとつとして描かれたものです。天明3年(1783)に江漢が初めて銅版画として創作した「三囲景」に前後する時期の制作とされています。右方に見える威嚇するライオンは、平賀源内などが所有していた『ヨンストン動物図譜』からとられたものです。全体の構図は同じく江漢による天明4年(1784)の銅版眼鏡絵「広尾親父茶屋」を左右反転したものに近いのですが、全くの異国風景にアレンジしています。】(「文化遺産オンライン」)

広尾親父茶屋図.jpg

司馬江漢画并刻「広尾親父茶屋図」 江戸時代 天明4年/1784年 銅版筆彩 28.2×41.4
1面 落款「日本創製司馬江漢畫/天明甲辰四月」(神戸市立博物館蔵)
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/376994
【(解説)
司馬江漢が天明年間(1781-1789)に制作した風景銅版画のひとつ。現在の喧騒ぶりからは想像がつきませんが、描かれているのは今の東京の広尾あたりで、広々とした武蔵野の田園に茶屋が一軒という、のどかな風景です。江漢は蘭学者の桂川甫周らをともなって広尾台の「老爺茶屋」で酒宴を開いたことがあり、画中の茶屋がそれに当たると思われます。この版画は反射式眼鏡絵として制作されたので左右反対の構図となっています。】(「文化遺産オンライン」)

江漢画室図.jpg

司馬江漢画并刻「江漢画室図」 江戸時代 寛政6年/1794年 銅版墨摺 26.4×13.7
1面 落款「天明癸/卯九月/初為此/工/日本創製司馬江漢/寛政甲/寅八月」(神戸市立博物館蔵)
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/457159
【(解説)
親しい仲間内に配るための「摺物」として描かれた銅版画だったのかもしれません。地球儀やコンパス、書籍が雑然と置かれた机の向こうには、キャンバスに絵を描く画家と、銅版画用のプレス機で作業する職人が見えます。窓の外は明らかに西洋の風景なので、実際の江漢のアトリエとは思われませんが、自らの画家として、窮理学者としての活動を象徴するような図柄となっています。】(「文化遺産オンライン」)

https://www.ccma-net.jp/wp-content/uploads/2021/09/vol23.pdf

(追記)「鈴木春信の白」(「千葉市立美術館館長 小林忠」)周辺

【 日本は春夏秋冬の季節が順ぐりにめぐってくる、実にありがたい国柄です。常夏のどことやらも、たまの観光には良いものの、いざそこに暮らすことになれば、私などは単調な気候の連続に耐えられなくなりそうです。夏は暑くて当たり前、それも峠を越えて、いつの間にか朝夕には秋風の訪れを感じられる頃とはなりました。
今朝、近くの公園を散歩していましたら、白い芙蓉の花がいくつか咲いていて、かすかな風を涼しげに受けて、揺れていました。その清らかでさわやかな白い花の姿に、おのずと鈴木春信の錦絵が思い出されてきました。そう、待望の「鈴木春信」展が、当館で開催されているのです。
鈴木春信は、私にとって初めて真剣に美というもの、あるいは美のありかについて、しみじみと考えさせてくれた、なつかしい画家なのです。それは二十歳(はたち)の時でしたからもう40年ほど前のことです。そして、卒業論文のテーマに取り上げ、美術の歴史を専門と
する道筋を選ぶ結果となったのも、この画家のせいでした。
それ以来、ずっとその版画の魅力にとらわれつづけてきたものでした。そういう私が自信
を持っておすすめできるのが、今回、山口県立萩美術館・浦上記念館と共同で開催にこぎつけた、この、空前絶後といって良い質と規模の春信展です。シカゴ美術館や大英博物館な
ど欧米の主要な美術館・博物館8館から好意的なご協力が得られ、国内からも公的な機関のみならず多くの個人の方々から貴重な逸品を拝借することができました。総計265点の春信画が一堂に会するのですから、まさに圧巻というほかありません。
春信は、浮世絵の歴史の中間点、それも劇的な転換点に位置する、歴史的にも重要な浮世絵師です。明和2年(1765)、初めて多色刷りの木版画を実現し、これに「吾妻錦絵(あずまにしきえ)」と名付けて、以後の浮世絵黄金期を迎えるきっかけを作ったのでした。「吾妻」は「東」とも書き、京都の西に対して東の江戸で生まれた、錦織物のように色美しい版画だというわけです。春信によって江戸の浮世絵は、本当の意味でのカラー時代に入ったのでした。
何色も色を重ね刷ることが可能になったとき、春信はその天性すぐれた色彩感覚を存分に発揮したものでした。その辺りは、今回会場にお借りできた保存状態の格別に良い錦絵によって、皆様ご自身で実感していただきたいのですが、実は春信版画の魅力は、何も色を刷っていない、紙の地を活かした白にこそあるように、私は思っています。
春信は、版画の料紙に、上質で厚手の和紙、奉書紙を使用しています。ふっくらとして白いその紙の地を、そのままに残して、女性や子供の肌、梅や桜の花、降り積もる雪などの表現に活用しているのです。黒も含めた様々な色に囲まれて、その純白の紙の地の美しく、きよらかに映えていること、驚くばかりです。
私がこの文章を書いている今の時点ではまだ展覧会は始まっていないのですが、すでに予告の段階で、春信展のポスターやチラシが大変好評のようです。それらは、ニューヨークのメトロポリタン美術館からお借りする「夜の梅」という作品をもとに、実に魅力的にデザインされたものですが、このデザイナーは春信版画の魅力を実によく理解してくれたものと、ひそかに感服しているところです。白い梅の花の枝、廊下に立つ乙女の顔と手と下着の白、差し出す手燭のあかりの白、そして、展覧会を案内するすべての文字までもが、本来は夜の闇をあらわす黒のバックに白抜きで浮き出されているのです。
色彩の自由が許されたその時点で、春信は、白の豊かな表現力に気づかされたのでしょう。何も色を与えない「虚」の紙面に、色以上の「実」をそなえさせたその鮮やかな手腕に、つくづく感服させられます。私は以前、春信を「絵筆をもつ詩人」と称したことがありますが、新たに「白の魔術師」という称号を授けたいくらいです。
鈴木春信について語り出すと、ついつい気分が高揚してしまい、ふだんの饒舌がますますつのってしまうようです。この辺りで控えさせていただきましょう。ともかく、これまでになかった、そして少なくともこれから数十年の間この規模では世界中のどこでも開催が不可能と思われる春信展なのです。どうかくれぐれもお見逃しのないようにと、願わずにいられません。
千葉でご覧いただけなかった節には、どうか次の山口県萩市の会場までお出かけになるよう、おすすめいたします。それくらいの時間と旅費を費やしても、十分にお釣りがくるほどの値打ちものだからです。(小林忠稿) 】

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日本画と西洋画との邂逅(その七) [日本画と西洋画]

(その七)「江戸のダ・ヴィンチ=司馬江漢」」)と「京都の巨匠『円山応挙・与謝蕪村』」など

中洲夕涼図」司馬江漢.jpg

「中洲夕涼図」司馬江漢(無款) (1747-1818) 江戸時代、天明年間中期/1781年~1789年
銅版筆彩 24.0×36.0 1面 反射式眼鏡絵 神戸市立博物館蔵
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/448850

【 司馬江漢が天明年間(1781-1789)に制作した風景銅版画のひとつ。中洲とは、隅田川の西岸、新大橋の南方につくられた埋立地で、寛政年間(1789-1801)に撤去されるまで納涼地・岡場所として栄えました。俗に三叉とも言われ、浮世絵版画では夕涼みの夜景として描かれた場所でした。江漢の銅版画は眼鏡絵として描かれたので、隅田川上流からの眺めということになります。遠くに見えるのは永代橋です。】(「文化遺産オンライン」)

 司馬江漢の、この種の「銅版画《三囲景(みめぐりのけい)図》」(「銅版筆採」)ものは、その落款からすると、「天明丁未(天明七年=一七八七))秋九月/日本銅盤創製/司馬江漢画并刻」(27.1×40.7)、「天明丁未(天明七年=一七八七)冬十月/日本銅板創製/司馬江漢画并刻」(28.0×39.4)の「天明七年=一七八七」のものと、「日本創製司馬江漢畫/天明甲辰(一七八四)四月」(28.2×41.4)、「甲辰(一七八四)四月彫/日本創製司馬江漢」(28.4×41.4)の「天明三・四年(一七八三・一七八四)」などと、大きく、「天明三・四年(一七八三・一七八四)」と「天明七年=一七八七」ものとに区分けすることが出来るようである。

円山応挙筆『夜景浮絵眼鏡絵京洛風景 堀川.jpg 

「円山応挙筆『夜景浮絵眼鏡絵京洛風景 堀川』」 紙本着色 各10.8×17.3㎝ 京都国立博物館蔵 (「日本 絵ものがたり 夜景の誕生(読売新聞(YOMI HOT 2021/12/26)」)
【 1760年頃、若い頃の応挙は京都・四条の玩具商に勤め、眼鏡絵と呼ばれるからくりの制作に携わっていた。それは凸レンズの眼鏡を通して見る玩具絵の一種で、オランダや中国から輸入、後に日本でも日本の風景を題材に制作された。
応挙の『夜景浮絵眼鏡絵京洛風景 堀川』は絵の裏にロウソクの灯を近付けることで提灯に灯がともり、星が輝き始める仕掛け。提灯と星のところが薄紙にしてあるので、透けて明るく見えるのだ。場所は二条前を通る堀川通。(森恭彦稿) 】

夜色楼台図・蕪村.jpg

「国宝 夜色楼台図」/与謝蕪村 江戸時代 個人所蔵」 紙本墨画淡彩 28cm×129.5cm
(「日本 絵ものがたり 夜景の誕生(読売新聞 YOMI HOT 2021/12/26)」)
【 蕪村晩年の代表作、紙本墨画淡彩「夜色楼台図」(1780年前後)はより現代の感覚に近い夜景といえそうだ。
 墨の濃淡で闇の深さを表現した夜空から、家々の屋根に降る雪、窓からこぼれる灯火をごく淡い朱で描いている。後方には雪をかぶった山。(中略)
 場所は京都で、デフォルメされている。山は稜線の傾きから東山であり、「蕪村が三本木の茶屋の二階でこたつにあたりながら見ていた冬の景色」という。
 三本木とはかつて鴨川の西にあった花街で、蕪村は足しげく通い、句会も毎月のように開いていた。二階に上がれば鴨川越しに岡崎、祇園 、清水のあたりが一望できる。(森恭彦稿) 】

中州夕涼図(本間美術館蔵).jpg

「司馬江漢《中洲夕涼図》」 天明年間(1781~89) 紙本墨彩 24×36㎝ 本間美術館蔵
(「日本 絵ものがたり 夜景の誕生(読売新聞 YOMI HOT 2021/12/26)」)
【 同じ頃、江戸では司馬江漢が銅版筆彩で眼鏡絵「中洲夕涼図」を制作している。中洲は隅田川の西岸、新大橋の南にかつて存在した埋めた立て地で、岡場所という非公認の遊郭があり、納涼地としても栄えた。
 提灯の下の道を人々が行き交い、明るい屋内に男女の姿。川に浮かぶ屋形船でも宴会が開かれている。
 この時代、都市の光が闇とのコントラストを作り始める。ただ、その光はまだはかなげだ。(森恭彦稿) 】

 応挙の「夜景浮絵眼鏡絵京洛風景 堀川」は、「1760年頃、若い頃の応挙が、京都・四条の玩具商に勤め、眼鏡絵と呼ばれるからくりの制作に携わっていた」頃のもの、そして、蕪村の「夜色楼台図」は、「1780年前後の蕪村晩年の、足しげく通った、鴨川沿いの「三本樹の茶屋」(京都市上京区の地名=三本木、その南北に走る東三本木通りは、江戸時代花街として栄えた茶屋)や、「京都祇園社境内の二軒茶屋」などで制作した、ややデフォルメされた、蕪村の心象風景ともいうべきものなのであろう。
 それに続く、司馬江漢の「中洲夕涼図」は、天明七年(一七八年)の頃よりも、天明三・四年(一七八三~四)の頃の、「西洋画」の「腐食銅版技法」の「銅版画(着彩)」を、「甲辰(一七八四)四月彫/日本創製司馬江漢」と落款した頃の作品と解したい。

(追記その一)「中洲夕涼図(ボストン美術館蔵)」周辺

https://collections.mfa.org/objects/226574

中州夕涼図(ボストン美術館蔵).jpg

「中洲夕涼図(ボストン美術館蔵)」A図

中洲夕涼図(ボストン美術館蔵)」B図.jpg

「中洲夕涼図(ボストン美術館蔵)」B図

「中洲夕涼図(ボストン美術館蔵)」C図.jpg

「中洲夕涼図(ボストン美術館蔵)」C図

「中洲夕涼図(ボストン美術館蔵)」D図.jpg

「中洲夕涼図(ボストン美術館蔵)」D図
司馬江漢(鈴木春重) (1747年 - 1818年)
日本・江戸1784年頃(天明4年)
ミディアム/テクニック 銅板エッチング;紙にインクを塗る, 手で塗ったカラー
寸法 水平オーバン;27.2 x 38.4 cm (10 11/16 x 15 1/8 インチ)

(メモ)

一 A図とC図とは、「反射式のぞき眼鏡」の一対(正・反)か?
二 B図とD図とは、「反射式のぞき眼鏡」の一対(正・反)か?
三 A図は、(A図+C図)の「A図」を着彩して、一つの「完成品」に仕上げたものか?

(追記その二) 「司馬江漢《中洲夕涼図》」(本間美術館蔵)周辺

https://www.homma-museum.or.jp/2017/08/17/?post_type=column

【 「江戸絵画史の流れ Part②」

■  文人画(南画)
 文人画は、職業として絵を描かない文人と呼ばれる人たちが描いた絵のことです。文人とは、もとは中国の士大夫と呼ばれる政治に関わった人たちのことを指します。文人たちの中には中国で山水画を描く様式の一つである南宗画の画風を用いるものが多く、その南宗画に影響を受けて日本で描かれた絵画を、日本の文人画または南画(南宗画の略称)と呼ばれています。その文人画の大成者として並び称されたのが、京都で活躍していた池大雅と与謝蕪村でした。その後、関西で広まった文人画は、中山高陽によって江戸へ伝えられることになります。

■  円山派(円山・四条派)
 18世紀後半の京都画壇を代表する画家・円山応挙。その応挙を祖とした流派は「円山派」と呼ばれています。応挙が創造した平明な写生画法は、それまでの京都に根付く伝統的な絵画観を一変させるほどの衝撃で、応挙の写生画が京都を席巻しました。応挙の弟子の中には、応挙の代理として数々の障壁画を制作し、ひときわ個性的で異彩を放った長沢芦雪(1754~99)がいます。また、門下の呉春(1752~1811)が「四条派」と呼ばれる一大流派を確立したことから、この流派は「円山・四条派」とも呼ばれています。

■  奇想の画家
 池大雅や与謝蕪村、円山応挙の出現した同時期の京都で、ひときわ異彩を放ち、個性を打ち出した作品を描いたのが、伊藤若冲と曾我蕭白でした。京都画壇に旋風を巻き起こした若冲と蕭白は、奇想の画家としても知られています。 伊藤若冲は、身近な動植物を対象とし、特に鶏を描いた画家として知られています。もとは京都の青物問屋「枡屋」の主人でしたが、四十歳で弟に家業を譲り、絵画制作に没頭します。写実と装飾性をあわせもつ独自の画風を確立し、「筋目描き」や「枡目描き」といった技法を生み出しました。《動植綵絵》(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)のような色彩豊かな着色画が知られている一方で、略筆の水墨画も数多く描き残しています。

■  洋風画
 西洋画に影響を受け、西洋風に描かれたのが洋風画です。18世紀に入ると、八代将軍・徳川吉宗の洋書の解禁によって西洋文物をはじめ、銅版画や油彩画が民間にも広まります。西洋画の技法に関心を持った秋田藩主の佐竹曙山(1748~85)と藩士の小田野直武(1749~80)の2人によって「秋田蘭画」と呼ばれる洋風画が創造されると、さらに、司馬江漢(1747~1818)が日本初の銅版画制作に成功し、独自の油彩画も完成させました。 】

(追記三) 「円山応挙」と「与謝蕪村」周辺

≪ 円山応挙(1733―1795)

 江戸中期の画家。丹波(たんば)国桑田郡穴太(あのお)村(京都府亀岡(かめおか)市)の農家に、円山藤左衛門の次男として生まれる。幼名を岩次郎、のち名をてい、字(あざな)を仲均といった。仙嶺(せんれい)・夏雲などと号したが、1766年(明和3)34歳のとき、諱(いみな)を応挙、字を仲選、号を遷斎と改め、以後一貫して応挙の諱を用いた。幼いころより絵を好み、早くから京都に出て狩野探幽(かのうたんゆう)の流れをくむ鶴沢(つるさわ)派の画家石田幽汀(いしだゆうてい)(1721―86)に入門し、本格的に絵を学んだ。幽汀は狩野派に土佐派を折衷した装飾的な画風をみせ、禁裏絵師となって法眼(ほうげん)に叙せられている。しかし応挙はその保守的な性格に飽き足らず、しだいに写生を基本とした写実的な画風に傾いていった。生活のための「眼鏡絵(めがねえ)」の制作で知った西洋画との出合いが、応挙の転換を促したと考えられる。
 眼鏡絵とは、当時舶載されていた覗機械(のぞきからくり)に使用される絵のことで、反射鏡に凸レンズを組み合わせた装置にセットして覗(のぞ)かれる。その画法は、18世紀オランダ銅版画の画法に基づき、科学的な透視遠近法と写実的な陰影法を用いたものであったため、従来の画法を学んできた応挙には、ひときわ強烈な刺激であった。さらに、中国の宋元(そうげん)院体画の精緻(せいち)な描写や、清(しん)朝画家沈南蘋(しんなんぴん)の最新の写生画法にも多くの影響を受けたが、西洋画の徹底した写実技法や南蘋様式の濃密な彩色法をそのまま日本画の画面に転用せず、それぞれの絵画のもつ現実的な空間表現への関心や、モチーフの細密画法を自らの写生の重要な基本としながらも、より平明で穏やかな感覚の画面を追求した結果、独自の「付立(つけた)て」筆法を完成させた。こうした彼の画風は、大津の円満院(えんまんいん)門主祐常(ゆうじょう)の支持を受けるところとなり、30歳代には多くの作品の注文を受け、その庇護(ひご)のもとに画家として大きな成長を遂げることができた。祐常は1773年(安永2)に没したが、応挙は40歳代に入った安永(あんえい)年間(1772~81)にもっとも充実した時代を迎え、以降独自の様式による作品を数多く制作している。代表作には『雨竹風竹図屏風(うちくふうちくずびょうぶ)』(京都・円光寺・重文)、『藤花図屏風』(東京・根津美術館・重文)、『雪松図』(国宝)、『四季草花図』(袋中庵)などがあり、これらの作品を通しても、個々のモチーフの写生的表現と、それらを包み込む背後の空間との知的な均衡関係を、応挙が長年にわたって研究し、築き上げてきたことが理解される。
 応挙のもとにはすでに息子の応瑞(おうずい)(1766―1829)や長沢蘆雪(ながさわろせつ)、松村月渓(げっけい)(呉春(ごしゅん))、吉村孝敬(こうけい)(1769―1836)、駒井源琦(こまいげんき)(1747―97)、山口素絢(そけん)(1759―1818)らの弟子が集まり一派を形成していたが、師のこうした緊密な画面はかならずしも十分な形では継承されなかった。だがその画派は円山派として、明治までの長い間、美術史上の重要な存在としてその地位を保ち、近代日本画の展開の基盤となった点で大いに注目評価されている。[玉蟲玲子]

『佐々木丞平著『応挙写生画集』(1981・講談社)』▽『佐々木丞平編『花鳥画の世界6 江戸中期の花鳥1(京派の意匠)』(1981・学習研究社)』▽『山川武著『日本美術絵画全集22 応挙/呉春』(1977・集英社)』▽『河野元昭著『名宝日本の美術24 大雅・応挙』(1981・小学館)』  ≫(出典 小学館「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

≪ 与謝蕪村 没年:天明3.12.25(1784.1.17) 生年:享保1(1716)

 江戸中期の俳人,画家。俳号として別に夜半亭,落日庵,紫狐庵など。画号は長庚,春星,謝寅など。摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区)生まれ。本姓は谷口氏と伝えられるが,丹後(京都府)の与謝地方に客遊したのち,与謝の姓を名乗る。20歳ごろ江戸に出て夜半亭(早野)巴人の門人となるが,巴人没後,結城の砂岡雁宕ら巴人門下の縁故を頼り,約10年にわたり常総地方を歴遊する。宝暦1(1751)年,36歳のとき上京,その後丹後や讃岐に数年ずつ客遊するが,京都を定住の地と定めてこの地で没した。
 この間,明和7(1770)年,55歳のときには巴人の後継者に押されて夜半亭2世を継いだが,画業においても,53歳のときには『平安人物志』の画家の部に登録されており,画俳いずれにおいても当時一流の存在であった。池大雅と蕪村について,田能村竹田が『山中人饒舌』の中で「一代,覇を作すの好敵手」と述べている通り,早くから文人画の大家として大雅と並び称せられていた。
 俳諧はいわば余技であり,俳壇において一門の拡大を図ろうとする野心はなく,趣味や教養を同じくする者同士の高雅な遊びに終始した。 死後松尾芭蕉碑のある金福寺に葬るように遺言したほど芭蕉を慕ったが,生き方にならおうとはしなかった。芝居好きで,役者や作者とも個人的な付き合いがあり,自分の家で人に知られないようにこっそりと役者の真似をして楽しんでいたという逸話がある。小糸という芸妓とは深い関係があったらしく,門人の樋口道立 から意見をされて「よしなき風流,老の面目をうしなひ申候」とみずから記している。
 彼が故郷を出たのは何か特殊な事情があるらしく,郷愁の思いを吐露しながらも京都移住後も故郷に帰った形跡はまったくない。

<参考文献>森本哲郎『詩人与謝蕪村の世界』,尾形仂『蕪村自筆句帳』,清水孝之『与謝蕪村の鑑賞と批評』,山下一海『戯遊の詩人与謝蕪村』 (田中善信) ≫(出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版)
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日本画と西洋画との邂逅(その六) [日本画と西洋画]

(その六)「江戸のダ・ヴィンチ=司馬江漢」」)と「江戸の『浮絵付きのぞきからくり=歌川豊春・北川政美』」など)

不忍池・江漢.jpg

「不忍之池(司馬江漢作)」 銅版筆彩 1面 28.4×41.4 反射式眼鏡絵 落款「甲辰四月彫/日本創製司馬江漢」(「甲辰=天明四年) (神戸市立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/444023

【 司馬江漢が天明年間(1781-1789)に制作した風景銅版画のひとつ。上野の不忍池を、その南岸から北方を望んだ構図となります。司馬江漢が描いた本図とほとんど同じ景観を今でも眺めることができます。浮世絵版画や秋田蘭画の画家たちがその景観を描く中、江漢は自身が開発した腐食銅版技法で、眼鏡絵(レンズと鏡を組み合わせた覗き眼鏡で鑑賞するための小型絵画で、左右を反転して描かれる)に仕上げました。なお、当時は多色刷り銅版の技法はなかったため、筆彩による彩色が施されています。なお、江漢はこれらの銅版眼鏡絵を鑑賞させるための反射式のぞき眼鏡も自製しており、その現物とされるものも神戸市立博物館に伝えられています。

来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】
(「文化遺産オンライン」)

不忍之池図(司馬江漢・秋田千秋美術館蔵」).jpg

「不忍之池図(司馬江漢作)」 銅版着色・紙 H24.7×W36.7 1784(天明4) (「秋田千秋美術館蔵」)
https://www.city.akita.akita.jp/city/ed/ss/senshu-art/collection/search/detail/1569/1

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/da/detailauthor?authorid=6500

(「司馬江漢」年譜)

1747(延享 4)年  江戸に生まれる。
1761(宝暦11)年  この頃までに、江戸狩野に入門。
1768(明和 5)年  この頃までに宋紫石から南蘋派を学ぶ。
1770(明和 7)年  鈴木春信の死に乗じて、その偽作をつくる
1773(安永 2)年  この頃から、平賀源内に接近。
1779(安永 8)年  この頃までに小田野直武の教えを受ける。
1783(天明 3)年  大槻玄沢の協力によりボイス『科学技術新辞典』とショメール
『日用家庭百科辞典』の関係項目を訳して銅版画制作に成功。《三囲景図》
1784(天明 4)年  「覗眼鏡器具」『銅版覗眼鏡鏡説明書』を作る。
1788(天明 8)年  4月23日、江戸をたち、九州へ旅行。
1789(寛政 元)年  1月10日、平戸をたち、京阪をへて、4月13日江戸に帰る。
《富獄図》 《長崎港図》。
1792(寛政 4)年  『興地略説』刊。
1793(寛政 5)年  『地球全図略説』刊。
1794(寛政 6)年  『西遊旅譚』刊。《捕鯨図》。
1796(寛政 8)年  『和蘭天説』刊。《相州鎌倉七里浜図》。
1798(寛政10)年  『和蘭国談・おらんだ俗話』成る。《品川冨士遠望図》。
1799(寛政11)年  近畿地方を旅行。『西洋画談』刊。《駿河湾冨士遠望図》。
1800(寛政12)年  《木更津浦之図絵額》。
1803(享和 3)年  『画図西遊譚』刊。
1805(文化 2)年  『和蘭通舶』刊。
1807(文化 4)年  4月8日江戸柳橋万八楼で退隠書画会を開く。《江之島冨士遠望図》。             
1808(文化 5)年  文化戊辰大小暦を作り、年令を71歳と記以後9歳加算年令を称する。
1809(文化 6)年  『蘭画銅版画引札』刊。
1810(文化 7)年  『独笑妄言』を著す。
1811(文化 8)年  『春波楼筆記』成立。
1812(文化 9)年  2月20日江戸をたち京阪へ旅行。《金谷台富獄遠望図》 《駿州柏原冨士図》。
1814(文化11)年 『無言道人筆記』成る。『訓蒙画解集』成る。
1815(文化12)年  『西遊日記』ほぼ成立。
1816(文化13)年  『天地理譚』成る。
1818(文政 元)年  10月21日 歿。


のぞきからくり(直視式のぞき眼鏡).jpg

「浮絵付きのぞきからくり(一)」(「のぞきからくり(直視式のぞき眼鏡)」)

歌川豊春画「阿蘭陀(おらんだ)雪見之図」.jpg

「浮絵付きのぞきからくり(二)」(「看板は歌川豊春画「阿蘭陀(おらんだ)雪見之図」)

歌川豊春画「阿蘭陀(おらんだ)雪見之図」.jpg

「浮絵付きのぞきからくり(三)」(「看板は北尾政美画「東都両国橋夕涼之図」)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/401481

【「浮絵付きのぞきからくり」
江戸時代/18世紀後期 本体:木、紙、ガラス/看板絵・中ネタ:紙本木版色摺 本体高さ26.7cm 39.7×39.2cm 1基 6枚 看板は歌川豊春画「阿蘭陀(おらんだ)雪見之図」、中ネタに新吉原の内外景、忠臣蔵七段目、四条河原夕涼、大名屋敷の5図と、北尾政美「東都両国橋夕涼之図」直視式のぞき眼鏡

来歴:1984神戸市立博物館
参考文献:
・岡泰正『めがね絵新考 ―浮世絵師たちがのぞいた西洋』筑摩書房 1992
・神戸市立博物館特別展『眼鏡絵と東海道五拾三次』図録 1982

解説

 箱の内側の1面にとりつけた絵画を、その反対側の面に装着したレンズから覗き込んで鑑賞する「のぞきからくり」(直視式のぞき眼鏡)の起源は、17世紀末期のヨーロッパで生まれた、映画の前身というべき娯楽で用いられた器具にありました。レンズの付いたカメラのような箱で、レンズを通して中に仕込まれた絵画を鑑賞します。その絵画は、わざわざレンズから覗き見るという行為によって「絵」を「現実の風景」として鑑賞者に「錯視」させる効果があり、さらに、その箱への外光の入れ方を変えることで、のぞき見る同じ絵を昼景・夜景に切り替えることもできました。18世紀前半までには、この器具は中国に伝わり、特に蘇州で線遠近法で描かれた風景画を鑑賞させる「西湖景」が登場したと考えられます。
 日本では「唐繰」「からくり」と呼ばれることになるこの種の器具は、文献上には17世紀から登場しますが、これらは大津絵や六道絵、あるいは人形芝居を鑑賞させるものでした。西洋的な線遠近法を導入した「浮絵」をのぞかせる「からくり」については、1750年代の京都にまず現れますが、これには線遠近法による中国風景画(おそらく蘇州版画)を組み込んだ中国製「西湖景」からの影響が想定されます。江戸では、1763年の文献に、からくりで浮絵を見せる興行が行われていたことが確認できます。本資料はこのような屋外の興業用のものではなく、屋内で鑑賞する縮小版ですが、18世紀後半の江戸製浮絵付きからくりとしては唯一の現存例です。
黒漆塗りの箱に凸レンズをはめこんだのぞき穴、絵看板、日覆い、「大からくり」と記された袖看板などが装着されています。部品を使用の際に組み立てる仕組みで、6枚の絵が仕込まれた上部の箱を乗せて完成させます。それらの絵は、提灯や花火の部分を切り抜いて薄紙を貼り、背後から光をあてると夜景となる趣向の風景版画で。側面のひもを上下させ箱の中に1枚ずつ絵を落として鑑賞します。看板は歌川豊春画「阿蘭陀雪見之図」、中ネタに新吉原の内外景、忠臣蔵七段目、四条河原夕涼、大名屋敷の5図と、北尾政美の「東都両国橋夕涼之図」を加えています。諸図から考証して、からくりの制作は1770年代と推測されます。これらの「浮絵」は、1740年代の奥村政信らによる浮絵とは異なり、線遠近法の露骨な導入は見られなくなり、より自然な遠近表現で京都と江戸の名所風景が描かれています。】
(「文化遺産オンライン」)


≪ 歌川豊春 うたがわ-とよはる 1735-1814 江戸時代中期-後期の浮世絵師。
享保(きょうほう)20年生まれ。歌川派の祖。京都で鶴沢探鯨(たんげい)に,江戸で鳥山石燕(せきえん)にまなんだという。浮絵に西洋風の遠近法をくわえ,風景画を一新させた。肉筆美人画も数おおくかく。弟子に初代歌川豊国,歌川豊広らがいる。文化11年1月12日死去。80歳。名は昌樹,通称は但馬屋庄次郎,のち新右衛門。別号に一竜斎,潜竜斎など。≫(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

≪ 北尾政美 きたお-まさよし 1764-1824 江戸時代中期-後期の浮世絵師。
明和元年生まれ。初代北尾重政に浮世絵をまなび,光琳(こうりん)風,西洋画風もとりいれ,挿絵,錦絵,武者絵などを制作。寛政6年美作(みまさか)津山藩の御用絵師となる。9年鍬形蕙斎(くわがた-けいさい)と改名して狩野惟信(かのう-これのぶ)の門人となり,肉筆画に力をそそいだ。文政7年3月22日死去。61歳。江戸出身。本姓は赤羽。名は紹真(つぐざね)。代表作に「近世職人尽絵詞(えことば)」。≫(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

反射式のぞき眼鏡」 司馬江漢.jpg

「反射式のぞき眼鏡」 司馬江漢 (1747-1818) 江戸時代、天明年間か/1781年~1789年
木、金属、ガラス 高63.5 縦横32.2×45.0 レンズ径4.0 1基
来歴:東京天金(池田氏名代の天ぷら料理屋)→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/429432

【 江漢による一連の銅板眼鏡絵のために作られたと考えられます。絵を水平に置き、支柱の上端につけた鏡とレンズで覗き見る仕組みです。分解して、台になる箱の中に部品を収納して持ち運ぶこともできます。箱の蓋裏には、眼鏡絵の鑑賞の仕方などを説明した引札が貼り付けてありあます。】(「文化遺産オンライン」)

(追記)「近代中日銅版画美術の出現、発展と衝突」(安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 講師)

https://spc.jst.go.jp/experiences/change/change_1904.html

2.日本の江戸時代の銅版画(エッチング) (抜粋)

 中国の明清時代の銅版画美術と同様に、近代日本における銅版画および銅版印刷技術もイエズス会の宣教師によって伝えられた。それは、永禄年間(1558-1570年)にヨーロッパの銅板彫刻技術が日本に紹介されたことに始まるが、徳川幕府が慶長19年(1614年)に禁教令を発すると銅版画技術も強制的に途絶えることとなる。しかし、後の19世紀後半の「蘭学」の新興に伴って新たな腐食銅版技術(エッチング)が日本に伝わり、民間の蘭学家の間で人気の印刷方式となる。折しも、ルネサンス期のヨーロッパにおけるエッチング技術の中心はオランダにあり、まさにそのオランダこそが当時の日本が西洋文化を学ぶにあたって、直接参考にした相手であった。司馬江漢(1747-1818)や亜欧堂田善(1748-1822年)の努力によって日本の銅版画および銅版印刷技術は江戸時代から明治時代に伝えられ、19世紀後半には中国との衝突も生じた。
 司馬江漢はこの時代の日本の腐食銅版画(エッチング)の代表的人物である。宝歴11年(1761年)、当時15歳の江漢は浮世絵の巨匠、狩野美信(洞春)に絵画を学んだ。25歳の時には平賀源内の紹介で南蘋画派の巨匠、宋紫石の門に入り、人物画や風景画などを系統的に学ぶ。青年期の司馬江漢は画家の平賀源内や小野田直武らの影響を受け、西洋美術と蘭学に強い関心を持つようになった。36歳のころ、彼は蘭学著の手による『新選科学工芸総合大辞典』に出会い、その中に「銅刻を作るの技法」の章があった。そこから試みに銅版技術を絵画に使用し始め、翌年の天明3年(1783年)には日本最初の銅版画『三囲景』(みめぐりけい)を完成させた。こうして、江漢は腐食銅版画(エッチング)技術に熟達し「西洋画家」としての名声を得た。
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日本画と西洋画との邂逅(その五) [日本画と西洋画]

(その五)「二人の能登・堺の等伯」(「長谷川信春=等白=等伯」と「高山右近=南坊等伯」)と「二人の江戸のダ・ヴィンチ」(「平賀源内」と「司馬江漢」)など

大徳寺三門天井画(等伯).jpg

「大徳寺三門天井画・『蟠龍図』(長谷川等白(等伯)筆)」 天正十七年(一五八九) 京都・大徳寺
https://media.thisisgallery.com/20229664

「蟠龍(ばんりゅう)」図とは、「とぐろを巻いた龍のこと。地面にうずくまって、まだ天に昇らない龍」図で、長谷川等白(等伯)筆に成る「大徳寺三門天井画」には、この他に、その北側に「雲龍」図(「蟠龍」図の北側)、それら続けて「昇龍」図(西側天井図)と「降龍」図(東側天井図)、それらの脇に、「天人像」「迦陵頗伽像」(東側天井図)と「天人像」「迦陵頗伽像」(西側天井図)とが描かれている。
それらに付け加えて、「降龍」図(東側天井図)と「天人像」「迦陵頗伽像」(東側天井図)との間の「柱」に「阿形仁王像」、そして、「昇龍」図(西側天井図)と「天人像」「迦陵頗伽像」(西側天井図)との間の「柱」に「吽形仁王像」とが描かれている。
これらの全容は、『没後400年 特別展「長谷川等伯」展図録(「毎日新聞社・NHK・NHKプロモーション刊」)』 の、「参考図版解説 大徳寺三門壁画」の解説に詳しい。これらの大徳寺三門壁画」周辺と「長谷川等伯・年表」を、「ウィキペディア」で抜粋すると、次のとおりとなる。

【  大徳寺三門天井画・柱絵(京都・大徳寺)
 天正17年(1589年)板絵著色。内訳は、中央に「雲龍図」と「蟠竜図」、その外側にそれぞれ「昇竜図」と「降竜図」、柱に阿吽の「仁王像」、さらに両サイドに「天人像」と「迦 陵頻伽像」を一体ずつ描く。等伯が大絵師への道を辿る契機となった記念碑的作品。この絵でのみ「等白」と署名しており、等伯と名乗る前の画号とみなされている。なおこれらの絵画は、温湿度の影響を非常に受けやすいため、作品保護の観点から一切の拝観が禁止されている。 

   中央画壇での活躍
 天正17年(1589年)、利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる大徳寺山門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りを果たす。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである。 
 天正18年(1590年)、前田玄以と山口宗永に働きかけて、秀吉が造営した仙洞御所対屋障壁画の注文を獲得しようとするが、これを知った狩野永徳が狩野光信と勧修寺晴豊に申し出たことで取り消された。この対屋事件は、当時の等伯と永徳の力関係を明確に物語る事例であるが、一方で長谷川派の台頭を予感させる事件でもあり、永徳の強い警戒心が窺える。この1か月後に永徳が急死すると、その危惧は現実のものとなり、天正19年(1591年)に秀吉の嫡子・鶴松の菩提寺である祥雲寺(現智積院)の障壁画制作を長谷川派が引き受けることに成功した。
 この豪華絢爛な金碧障壁画は秀吉にも気に入られて知行200石を授けられ、長谷川派も狩野派と並ぶ存在となった。しかし、この年に利休が切腹し、文禄2年(1593年)には画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた久蔵に先立たれるという不幸に見舞われた。この不幸を乗り越えて、文禄2年から4年(1593年 - 1595年)頃に代表作である『松林図屏風』(東京国立博物館蔵)が描かれた。

   年表
天文8年(1539年) - 能登国七尾に生まれる。
永禄6年(1563年) -『日乗上人像』(羽咋・妙成寺蔵)を描く。
永禄11年(1568年  - 長男・久蔵生まれる。
元亀2年(1571年) - 養父・宗清、養母・妙相没。この年に上洛か。
天正7年(1579年) - 妻・妙浄没。
天正17年(1589年) -『大徳寺山門天井画・柱絵』『山水図襖』(大徳寺蔵)を描く。妙清を後妻に迎える。
文禄2年(1593年) - 『祥雲寺障壁画』(智積院蔵)を完成する。長男・久蔵没。
慶長4年(1599年) -『仏涅槃図』(本法寺蔵)を描く。この頃「自雪舟五代」を自称する。
慶長9年(1604年) - 法橋に叙せられる。後妻・妙清没。
慶長10年(1605年) - 法眼に叙せられる。
慶長11年(1606年) - 『龍虎図屏風』(アメリカ・ボストン美術館蔵)を描く。
慶長15年(1610年) - 江戸下向到着後、没。享年72。  】

 長谷川等伯が、この「大徳寺三門天井画・柱絵」を制作した「天正十七(一五八九)」は、等伯、五十一歳の時で、この年は、大きな節目の年であった。等伯の生涯は、大きく、次の五期に区分することが出来る。

https://www.nanao-cci.or.jp/tohaku/life.htm

能登の時代(33歳頃まで) →  能登の絵仏師「信春」の時代
京都・堺の時代(33歳~50歳頃)→ 上洛・雌伏・転機「信春から等白」の時代  
京都の時代(50歳代)→「狩野派」と二分する「長谷川派」誕生「等白から等伯」の時代
京都の時代(60歳代)→「桃山謳歌」の「等伯・法橋」の時代
京都の時代(70歳~72歳)→「江戸狩野派・探幽の時代」の「等伯・晩年」の時代

「天正17年(1589年)、利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる大徳寺山(三)門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りを果たす。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである」(「ウィキペディア」)のとおり、「能登の絵仏師・長谷川信春」が、後の「天下の大絵師・長谷川等伯」に脱皮するのは、「京都・堺」を本拠とする「天下の大茶人・千利休」が大きく介在していることが、これらの「長谷川等伯年表」などから浮かび上がってくる。

高山右近自筆書状(石川県立美術館蔵).jpg

「高山右近自筆書状(石川県立美術館蔵)」 金沢市有形文化財
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaihogoka/gyomuannai/3/1/1/siteibunkazai/2/5972.html

【 キリシタン大名高山長房(通称右近)は、茶人で利休七哲の一人としても知られ、南坊・等伯などと号しました。豊臣秀吉の伴天連追放令により領地を失いましたが、前田利家の招きで天正16年(1588年)秋頃金沢に移り住んでいます。
 利家没後、利長に仕え、築城技術の経験をかわれて、金沢城の修築さらに高岡築城に采配を振るい、大聖寺城(山口玄蕃)攻略にも参加しました。その間、娘を前田家重臣横山長知の子康玄に嫁がせましたが、老母と長男を失ってからは、徳川家康のキリシタン禁教で、慶長19年(1614年)正月17日に金沢を去るまでの間、信仰と茶湯三昧の生活を送ったと伝えられています。
 本書状は右近の金沢滞在中の足跡を示すもので、姪の嫁ぎ先でもある特権商人片岡孫兵衛(休庵)に、茶の湯に用いる鶴の羽ほうきが出来たので招待したいと申し入れたものです。

(釈文)
一両日不縣御目
御床布候、仍先日之
鶴之羽はうき御ゆ
い候はゝ、少見申度候
ゆわせ候者今晩参候間
ほんに見せ申度候
かしく
十一月廿六日 等伯(花押)
(封紙ウワ書)
「休庵公御床下 南坊」       】(「金沢市文化財保護課」)

 この「高山右近自筆書状(石川県立美術館蔵)」の解説のとおり、「豊臣秀吉の伴天連追放令により領地を失いましたが、前田利家の招きで天正16年(1588年)秋頃金沢に移り住んでいます」と、「茶人で利休七哲の一人・キリシタン大名高山長房(通称右近)」は、この当時、「長谷川等伯」の生まれ故郷の「金沢・能登」に移住していて、「南坊(みなみのぽう)等伯(とうはく)」の、「金沢・能登」出身の、「長谷川等白」ではなく、「等伯(「天下の大絵師・長谷川等伯」)の、その「等伯」を名乗っている。
 ということは、「高山右近」が「南坊・等伯」を名乗るのは、天正十七年(一五八九)後の、「等白」から「等伯」へと移行した、その翌年(天正十八年=一五九〇)の「狩野永徳」が没した(九月十四日没)年以降の当たりが、一つの目安になるのかも知れない。
 その翌年(天正十九年=一五九一)の二月二十八日に、「千利休」≪大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日)≫は、豊臣秀吉の命により自刃させられている。
 これらに関連して、天正十七年(一五八九)に、長谷川等伯は、「千利休・高山右近・小西行長」らに関係の深い「堺」出身の「妙清」を後妻に迎えている(先妻の妙浄は、天正七年=一五七九、等伯四十一歳の時に没している)ことなどから、等伯の「京都・堺の時代(33歳~50歳頃)」に、「千利休」(「高山右近」の「利休七哲」と関連の「キリシタン大名」など)との親交が深くなっていったのかも知れない。

西洋婦人図(伝平賀源内筆).jpg

「西洋婦人図(伝平賀源内筆)」一面 布地油彩 41.4×30.5 款記「源内(?)」 神戸市立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/440276

【 平賀源内(1728~1779)は讃岐の志度に生れ、藩主松平頼恭に御薬坊主として仕えました。宝暦3年(1753)に遊学中の長崎から江戸に上り、田村元雄のもとで本草学を学ぶ。江戸でたびたび物産会や薬品会を開き、その成果を『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』に著しました。石綿、火浣布(かかんぷ)、エレキテルなどをつくり、戯作(げさく)も表すなど、多方面に才能を発揮しました。本図は、安永2年(1773)に阿仁銅山検分のため秋田に赴き、小田野直武や佐竹曙山に洋風画法を伝え、洋風画の理論的指導者と評される源内唯一の油彩画として知られていますが、他に基準作がない源内の真筆とするには慎重な検討が必要です。

来歴:鹿田静七→池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
・勝盛典子「若杉五十八研究」(『神戸市立博物館研究紀要』第21号)2005 】(「文化遺産オンライン」)

【 「平賀源内の世界」

https://hiragagennai.com/hiragagennai/

平賀源内の一生(抜粋)

享保13(1728)0才  高松藩の小吏白石茂左衛門の3男として讃岐志度浦に生れる。
宝暦2(1752)24才  このころ長崎へ遊学。
宝暦3(1753)25才  備後鞆之津で陶土を見つけ製陶を勧める。(源内生祠)
宝暦5(1755)27才  1月に量程器を、3月には藩の重臣木村季明の求めで磁針器を作製。
宝暦6(1756)28才 3月、大坂を経て江戸へ。渡辺桃源らと有馬温泉に遊び、句集を編む。江戸の本草家田村元雄に入門。
宝暦13(1763)35才  7月『物類品隲』刊。9月、賀茂真淵に入門。11月、平線儀製作。同月、『根南志具佐』『風流志道軒伝』をあいついで刊行。
※明和8(1771)43才  5月、源内『陶器工夫書』を天草代官に提出。このころ「西洋婦人図」を描く?長崎からの帰途小豆島に寄り、大坂に滞在。7月松平頼恭没。郷里志度で、源内焼の陶法を伝える。
※安永2(1773)45才 春、中津川鉄山事業着手。6月、秋田藩に招かれ、鉱山再開発のため秋田へ。秋田藩主佐竹曙山と藩士小田野直武に洋画を伝える。司馬江漢らと親交。
安永3(1774)46才 7月、『里のをだ巻評』『放屁論』刊行。8月、玄白ら『解体新書』刊。
安永8(1779)51才 11月21日ふとしたことから人を傷つけ、同年12月18日、小伝馬町の獄中で死す。友人らの手で浅草総泉寺に埋葬された。

平賀源内とは何者か(「発明家・文芸家・陶芸家・画家・本草家・起業・家鉱山家」)

発明家(略)
文芸家(略)

陶芸家
 1 3才の頃、三好喜右衛門に本草学を学んだが、喜右衛門は漢学に造詣が深いのみならず農地開墾・池の造築改修を為し、陶磁器(小原焼)も造ったと言い、それゆえ源内も製陶の知識は早くから備わっていた。
 宝暦3年(1753)長崎遊学の帰途、備後鞆之津(福山市鞆)で陶土を見つけ製陶を勧めた話は今も「源内生祠」(広島県史跡)として残っている。志度村では1738年より製陶(志度焼)が始まっており、製陶に適する土を産する富田村(さぬき市大川町富田)でも理兵衛焼が藩窯を移してきていた。
 源内は長崎で中国・オランダから高価な陶磁器が輸入されるのを見て、また天草深江村の土が製陶に適しているのに気づき、時の幕府天草代官に『陶器工夫書』を提出する。それは優れた天草の陶土を使って、意匠や色釉を工夫すれば立派な陶器が出来、大いに輸出することも可能であり、国益になると進言している。これは取り上げられなかったので、次は郷里の志度で窯を築き天草の土を取り寄せる製陶計画を立てるが、これも実現できなかった。
 しかし今日源内焼と呼ばれる作風を志度の陶工達に指導伝授したと思われる。甥の堺屋源吾(=脇田舜民)、志度焼を始めた赤松弥右衛門の孫の赤松松山、広瀬民山たちである。松山の子の清山、魯仙、孫の陶浜、源吾に指導を受けた三谷林叟(屋島焼)、その子孫などと讃岐の焼物の流れに大きな影響を与えた。
 源内の陶法指導は讃岐にとどまらず、秋田県の阿仁焼、白岩焼、山形県の倉嶋焼にも足跡が残っている。思うに源内は秀でた陶工として一家を成したのではなく、優れた発想と実現させる手法を惜しみなく与えて、自らはもう次のことを考え、挑戦しているようである。

※画家
 『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』巻之六に「蔗(しょ=さとうきび)ヲ軋(きしり)テ漿ヲ取ル図」があり鳩渓山人自画としている。本草学においては真実に近い描写が必要で、『物類品隲』においては 南蘋(なんぴん)派の宋紫石に絵を描かせている。写実的な西洋画に強く惹かれたことは間違い無く、第2回目の長崎遊学の時自らが西洋画を描き、実技を身につけたと思う。それが神戸市博物館蔵の「西洋婦人図」である。 その西洋婦人の襟の青色は西洋の合成顔料=プルシアンブルーで、源内は『物類品隲』の中でベレインブラーウと言って取り上げ、自らも使用し、それが秋田蘭画、更には北斎の富嶽三十六景に使われる青色の先鞭をつけたのである。
 その2年後秋田へ鉱山指導に招かれた折、角館の宿で小田野直武に西洋画の陰影法・遠近法を教える。それがきっかけで小田野直武は江戸に出て『解体新書』の挿絵を描き、西洋画法を身につけ、秋田の地に蘭画が広まるのである。
 秋田藩主佐竹曙山の『画法綱領』と司馬江漢の『西洋画談』が共に源内の弟子であるところの画論から源内のそれも類推される。
 南蘋画→秋田蘭画→司馬江漢の銅版画・油絵と続く日本西洋画の流れの源流に源内は居たのである。

本草家(略)
起業家(略)
鉱山家(略)

平賀源内ゆかりの史跡(略)  】

異国風景人物図(司馬江漢筆.jpg

「異国風景人物図(司馬江漢筆)」絹本油彩 各114.9×55.5 双幅 女性図 款記「江漢司馬峻写/Sibasun.」 男性図 款記「江漢司馬峻写/Eerste zonders/in Japan Ko:」 
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/448780

【 司馬江漢(1747-1818)は自らの油彩画について「蝋画(ろうが)」と呼んでいました。その絵具の材料・製法は未詳ですが、油紙や笠などに使われる荏胡麻油を媒剤としたとも言われています。このような絵具は遅くとも十八世紀の前半には知られていて、宝暦7年(1757)年には長崎の絵師が大坂天満宮に油彩画を奉納しています。
 日本の油彩画に関しては、司馬江漢はパイオニアというわけではありませんでしたが、注目すべきは、ヨーロッパの人々が様々な労働にいそしむ姿を主題として扱ったことです。そのモチーフの手本となったのは1694年にアムステルダムで初版が出された『人間の職業』という挿絵本でした。挿図で示された百の職業を譬喩とする訓戒的な詩文集で、その扉絵と、船員の仕事を描いた挿図をもとにして、江漢はこの対幅の男女図を描きました。ヨーロッパ諸国が日本や中国より長い歴史を有し、様々な学問や技術、社会制度を充実させてきたと、江漢は自らの著書などで礼賛してきました。その先進文明を支えているのが、勤勉で有能な国民で、彼らを良き方向に導いてきたのが、『人間の職業』のような訓戒本だと主張しました。男性図に朱字で記された"Eerste Zonders in Japan Ko:"というオランダ語風の記述については「日本における最初のユニークな人物」と解釈されています。

来歴:松田敦朝(二代玄々堂)→吾妻健三郎→堤清六→1932池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008
・神戸市立博物館特別展『西洋の青』図録 2007
・神戸市立博物館特別展『異国絵の冒険』図録 2001
・神戸市立博物館特別展『司馬江漢百科事展』図録 1996  】(「文化遺産データベース」)

≪司馬江漢 没年:文政1.10.21(1818.11.19) 生年:延享4(1747)
 江戸後期の洋風画家。江戸生まれ。本名安藤吉次郎,のち土田姓。司馬姓は早くから芝新銭座に居住したことに由来。名を峻,字を君岳といい,江漢のほか,春波楼,桃言,不言などと号した。才能は多岐にわたり,画業のほか,西洋自然科学の啓蒙的紹介者,思想家,文筆家でもあった。
 画業は狩野派から出発し,浮世絵(鈴木春重と称した),南蘋派を学んだのち,安永年間(1772~81)に平賀源内を知り洋風画,窮理学に関心を持ち,小田野直武に洋風画法を学ぶ。天明3(1783)年,大槻玄沢の助力を得て腐蝕銅版画の創製に成功,「三囲景図」を出した。秋田蘭画を展開し,西洋画法による日本風景図を確立した。
 寛政年間(1789~1801)には油彩画を制作,また,『地球全図略説』『和蘭天説』など著述を相次いで刊行し,寛政11年『西洋画談』を出版した。文化年間(1804~18)から隠遁の心境を示し,画業でも油絵から墨画淡彩の日本風景図をよくした。奇行が多く,文化5年から年齢に9歳加算して自称するようになった。晩年の著述に『春波楼筆記』など。洋風画に「七里浜図」(大和文華館蔵)ほか。(三輪英夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について ≫

 この「司馬江漢」を、『司馬江漢「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生( 池内了著)』と、「江戸のダヴィンチ」と称するならば、その源流、そして、「南蘋画→秋田蘭画→司馬江漢の銅版画・油絵と続く日本西洋画の流れの源流に源内は居たのである」(上記アドレスの「平賀源内の世界」)との、「日本西洋画の流れのパイオニア」は、江戸中期の、「与謝蕪村・円山応挙」らと同時代の、≪「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常 」(ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)(大意)「ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか」(「平賀源内 碑銘(杉田玄白 撰文)」)≫の、その、そして、これこそ、「型破り人生『江戸のダヴィンチ・平賀源内』」その人に求めるべきなのかも知れない。
 そして、それは同時に、その「日本西洋画の流れのパイオニア」は、その「源流の源流」を辿って行くと、「二人の等伯(「キリシタン大名・高山右近=南坊等伯」と「長谷川派の総帥・長谷川等伯」)を発掘した、「利休七哲の師・千利休(宗易)」が浮かび上がってくる。
 その最期の辞の「利休遺偈(ゆいげ)」は、「天下人・豊臣秀吉」に対峙する「天下人・千利休(宗易)」の挑戦状(非常時の宣言)のようなイメージが伝わってくる。

人世七十 (じんせい しちじゅう)
力圍希咄 (りきいき とつ) 
吾這宝剣祖仏共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)
携ル我得具足の一太刀(ひっさぐる わがえぐそくのひとたち)
今此時そ天に抛(いまこのときぞ てんになげうつ)

(追記一)「二人の等伯」周辺

https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-11240218960.html

【Q.画家の長谷川等伯と高山右近は関係があったのですか?
A.高山右近は、金沢時代は「右近」ではなく、「南坊等伯」(みなみのぼう・とうはく)と名のっていました。残されている加賀藩の文書には、「右近」では出てきません。

 同時代を生きた長谷川等伯は、13歳年上。能登の七尾の出身で、右近の知行地も能登にありました。
 当時、御用絵師だった狩野永徳・狩野一門とは、基本的な生き方、自然観・世界観を異にし、千利休ほか、茶人たちと交友関係を持っていました。利休没後5年目(1595年)に描かれた「利休居士像」も、等伯57歳の作品です。
 右近が名乗った「南坊等伯」については、ともに、茶の湯そして千利休との関係で親しく交流のあった堺・南宗寺の南坊(なんぼう)宗啓や、狩野派に対抗した(しかも能登出身)長谷川等伯に敬意を表して自らの号として用いさせていただいた、ということではないか。「南坊」の呼び方については、キリシタンとしての意味もこめて「みなみのぼう」にしたのだろう。――と思っております。
 おそらく、無断で借用・名乗ったとは考えにくく、領主でもなくなった身であれば、いつまでも「右近」でもあるまいと思っていたでしょうし、1588年、加賀に向かう直前あたりに、お二人にも話して了解をもらっていたのだろうと思います。このあたりの史料が出てくるとうれしいのですが・・・・。】

https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12280159412.html

(追記)「マルチ人間 平賀源内の発想」(砂山長三郎稿)

https://cir.nii.ac.jp/crid/1390567172574999424

【 12. 源内焼と西洋婦人図 (抜粋)

「西洋婦人図」は源内が長崎遊学中に描いた現存する唯一の油彩画です.この絵を所蔵する神戸市立博物館の勝盛学芸員によって,襟の模様に使用されている藍色が西洋の青(プルシアンブルー)で,日本で初期の使用例であることが判明しました.源内は宝暦13 年刊の『物類品隲』の中で色に関係する石類を多く採り上げ,この青も既に「ベレインブラーウ」として注目していました.自らも会得した西洋画法を,秋田で若い武士に教え,それがきっかけで秋田藩主佐竹曙山を巻き込み秋田蘭画と呼ばれる日本洋画初期の大きなうねりが起こるのです.その若い武士は小田野直武と言い,江戸で源内宅に身を寄せ,杉田玄白の『解体新書』の挿図を描くことになります.玄白と源内は無二の親友で,その扉絵のアイデアも源内と考えられています.また浮世絵を東錦絵と称して一世を風靡した鈴木春信の多色刷のアイデアも源内と言われます. 】
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日本画と西洋画との邂逅(その四) [日本画と西洋画]

(その四)水墨画(可翁・仙崖・等伯など)と洋風画(司馬江漢など)の蜆子図など

紙本墨画蜆子和尚図 可翁仁賀筆.jpg

「蜆子(けんす)和尚図(可翁筆)」 1幅 紙本墨画 縦87.0 横34.5 南北朝時代 14世紀 重文 (東京国立博物館蔵)
https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10931
【 蜆子和尚は唐末の禅僧。居所を定めず,常に一衲(ボロ袈裟)をまとい,河辺で蝦(えび)や蜆(しじみ)をとって食べ,夜は神祠の紙銭中に寝たという。可翁は十四世紀前半に活躍したと推測され,初期水墨画の代表的画人であるが,詳しい伝記は分からない。中国禅余画の手法に倣い,背景と衣文はおおまかに,肉身と面部はやや細緻に描いている。また人体を真横からとらえる点は梁楷画を想起させ,図様の祖本を梁楷周辺に求められるかもしれない。 】

≪可翁(かおう、生没年不詳)は、鎌倉時代末期~南北朝時代にかけて活躍した画人。 黙庵らと共に日本の初期水墨画を代表する存在として名高い。
 彼の作品に押捺されている二つの印章の解釈に従い、二通りの説がある。一つは、「可翁」の朱文方印の下に「仁賀」と判読される小さな朱文方印が押されることから、「可翁仁賀」という「賀」の字が付く事が多い詫磨派の絵仏師であるとする説。もう一つは「可翁」の方を重視し、可翁宗然という禅僧とする説である。この可翁は、筑後国出身で建長寺の南浦紹明に参じた後、元応2年(1320年)に元に渡り中峰明本、古林清茂などに参学、嘉暦元年(1326年)帰国後、博多崇福寺や京都万寿寺、建長寺、南禅寺に入寺、貞和元/興国6(1345年)に示寂した、当時の禅宗界の大立者である。宗然については同時代の記録も多いが、禅余の絵事に触れた史料はない。≫(「ウィキペディア」)

仙厓・蜆子画.jpg

蜆子和尚図(けんすおしょうず: Kensu-oshō (Xianzi heshang; Clam Priest)) 仙厓義梵(1750-1837)Sengai Gibon (1750-1837) 紙本墨画Ink on paper 49.7×54.9㎝ 江戸時代Edo period (Aizu Museum 早稲田大学 會津八一記念博物館)
https://www.waseda.jp/culture/aizu-museum/other/2019/07/10/2673/
【蜆子和尚は中国唐末~五代頃の僧で、一年中着の身着のまま、昼は川辺で蜆(しじみ)や蝦(えび)を採って食べ、夜は神祠の紙銭(神を祀ったり死者に供えたりする時に用いられる紙で作った銭)中にもぐって露をしのいだという奇行の持ち主。本図は思わず笑いを誘う蜆子の姿に「毎日殺生戒を犯す破戒僧の内面に、諸仏を吞み込んでしまうような力量を持つ」という意味の賛を施す。作者の仙厓は博多の臨済宗の禅僧で、軽妙でユーモアに富んだ禅画で知られる。
Kensu-oshō was a Chinese priest of the end of the Tang dynasty to the Five Dynasties period. He was known for his eccentric behavior. With little more than the clothes on his back, he spent his days at riverbanks, digging for clams and catching shrimp as food, while at night he took shelter from the dew by burying himself under the paper money dedicated to small shrines as offerings to the gods and the dead. The design depicts the priest almost comically and is accompanied by words of praise to the effect that although he is an apostate priest who kills living creatures every day, his inner self contains a power that could overtake various Buddha. The artist, Sengai, was a Zen priest of the Rinzai sect, living in Hakata, Kyushu. He is known for his witty and humorous Zen drawings.】

≪ 仙厓義梵(せんがい ぎぼん、寛延3年(1750年)4月 - 天保8年10月7日(1837年11月4日))は江戸時代の臨済宗古月派の禅僧、画家。禅味溢れる絵画で知られる。
 ≫(「ウィキペディア」)

等伯・達磨と蜆子.jpg

「十六羅漢図(長谷川等伯(信春)筆」 8幅の内 紙本墨画淡彩 各縦93.9・横43.3 室町時代末期~桃山時代初期(16世紀)制作 七尾市・霊泉寺所蔵
https://www.nanao-cci.or.jp/tohaku/big/2.html
【 羅漢とは釈迦の弟子にあたる。本図は1幅に2人ずつの羅漢が描かれた8幅の作品で、水墨を基調として部分に淡彩を施し、衣装は太線で豪快に、顔の線猫は細密に表現されている。等伯若年時の作品とされる。 】

 これは、長谷川等伯の、能登の絵仏師の「信春」時代の、「十六羅漢図」の一幅もので、「達磨図」や「蜆子図」ではない。しかし、この二人の「羅漢」(「阿羅漢=高い悟りを開いた人たち)は、「十六羅漢」(『阿弥陀経』に説かれる十六羅漢と『法住記』に見える十六羅漢)のうちの、「達磨大師」や「蜆子和尚」に連なる「「頭陀第一」「頭陀とは、衣食住に対する欲望をなくすための托鉢を中心とした、質素な修行の方法を第一とする」の「釈迦三大弟子」(「釈迦三大阿修羅」)の「①舎利弗(「知恵第一」) ②目連(「神通第一」) ③大迦葉(「頭陀第一」の「大迦葉(だいかしょう)」が、当時の等伯(信春)のイメージ下にあったようにも思われる。
 その上で、この「羅漢」を鑑賞すると、この後方の「羅漢」は、先に見てきた「達磨」(J図)の諧謔化、そして、この「布袋」や「大黒天」のような、前方の「羅漢」は、「仙厓」の描く「蜆子」というイメージで無くもない。

蜆子和尚図.jpg

「蜆子和尚図(司馬江漢筆)」(神戸市立博物館蔵)1幅 紙本油彩 60.9×27.9 江戸時代、天明年間/1781年〜1789年 款記「Kookan geschilder」題記「Kens Paap」
来歴:1934池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365041
【 司馬江漢による初期の油彩作品。画面上方に「Kens Paap」と記されているように、この絵の表面的な主題は、古来より禅宗系の水墨画などで描かれてきた蜆子和尚(中国宋代の奇僧でエビを食べて暮していた)です。
 しかしその容貌は西洋人のそれであり、仏像のような印を両手で結ばせている点は、禁教後に描かれたキリシタンの聖人像に極めて似通っています。これら聖人像は像主に仏教的な持物や衣装をもたせることによって、本来の画題を隠蔽させていることが多く、江漢の「蜆子和尚図」でもその手法がそっくり継承されているようです。
一方で江漢は聖パウロとおぼしき画像を所持していたことがあり(『江漢西遊日記』天明8年6月24日)、これも日本のキリシタンによる聖人像(当館蔵の「老師父像」の可能性あり)だったと推測されます。江漢はキリスト教そのものに対して深く共感したことはありませんが、天明年間(1781-89)末に油彩画を手掛け始めたころには、聖人像に見る前世紀の洋風表現には強い関心を抱き、これらを参考として作品を描いたのでしょう。】(神戸市立博物館「解説」)

老師父図.jpg

「老師父図(筆者不詳)」(神戸市立博物館蔵)1面 紙本油彩 78.7×36.8 江戸時代初期/17世紀初期
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=367505
【 禁教により江戸時代の日本でかつてのように洋風画が描かれることはなくなりましたが、その技術を受け継いだ絵師が密かに制作したことをうかがわせる作品です。
その写実的な立体・陰影表現から、本来キリスト教の聖人像として描かれつつ、両手を仏像のように印を結んだ形で表現することで仏教的な主題を偽装していると考えられます。表現の類似性から、「蜆子和尚図」との関連性が取り沙汰されてきました。 】(神戸市立博物館「解説」)

「聖ペテロ像(筆者不詳)」(南蛮美術館蔵).jpg

「聖ペテロ像(筆者不詳)」(南蛮美術館蔵) 布・油彩 119×69
【 イェズス会所属画家が描いた現存洋画のうちではまず無難な作品であろう。完全な油彩にして、しかも保存も比較的よい方である。千葉県船橋市にある覚王寺へこの作品がどうして納まったかわからないが、元禄ごろに今の表装がおこなわれたということである。使徒ペトロ画像としては、イェズス会の画学舎で別に、挿図69(「諸聖人の御作業」の扉絵)、71(「クルスの物語」の挿絵)の銅版画が早く作られた。それらの版画に見えるペトロの立像とこの画像とを対照すれば、細部では多くの違いがあるけれども、大体には類似するところが多い。多分同じ原画によったのかと思われる。もしそうだとしても、画学生かそれとも彼らの教師の制作にかかわるのか確かめられないが、銅刻画のときより少し後に、多分一五九三年ないし五年ごろに画技に習塾した人が、原画にあまり拘泥せずに描いたものであろう。 】(『日本の美術19 南蛮美術(岡本良知著)』所収「作品(口絵)解説22」)

 司馬江漢の『江漢西遊日記(天明8年6月24日))』には、この種の「聖パウロとおぼしき画像」を所持していて、それらの画像から、上記の「蜆子和尚図(司馬江漢筆)」(神戸市立博物館蔵)などの、油彩の「洋風画」を制作していったのかなどに関連して、この「聖ペテロ像(筆者不詳)」(南蛮美術館蔵)などは、多くの示唆を投げ掛けてくれる。

「聖ペテロと聖パウロ」.jpg

「聖ペテロと聖パウロ」 エル・グレコ 年代:1614年 製法:油彩、カンヴァス 収蔵美術館:エルミタージュ美術館
https://artoftheworld.jp/hermitage-museum/535/
【 この作品はエル・グレコが名作『オルガス伯の埋葬』を描いたあとのものとされていたが、今はその死の年に描いたと考えられている。
 『オルガス伯の埋葬』の人物の服装に見る精密な描写は、エル・グレコ晩年の幻覚的ビジョンとは全く違っているが、この絵の聖者の主観的な衣服の描き方はむしろ晩年の作品と共通している。
 右側、厳しい態度で聖書に手をおろしているのは聖パウロ、左側は聖ペテロが手に天国の鍵を持ち、門番としてつつましく立っている。 】

 [マニエリスム](16世紀中頃から末にかけて見られる後期イタリア・ルネサンスの美術様式)絵画の、「最後にして最大の画家」と仰がれているスペインの画家「エル・グレコ El Greco」(1541-1614)と、当時の日本の桃山時代の「狩野派」(狩野永徳)と画壇を二分する「長谷川派」の祖と仰がれている「長谷川等伯」((1539-1610)とは、全くの同時代の画家ということになる。
 そして、「エル・グレコ El Greco」(1541-1614)が、当時の「西洋画」の「宗教的人物画」(「キリスト教」に関する「宗教画・肖像画」)の第一人者とするならば、「長谷川等伯」((1539-1610)は、当時の「日本画」の「宗教的人物画」(「釈迦の仏教」に関する「宗教画・肖像画」)の第一人者ということになる。
 この「西洋画」の「宗教的人物画」(「キリスト教」に関する「宗教画・肖像画」)と、そして、当時の「日本画」の「宗教画人物画」(「釈迦の仏教」に関する「宗教画・肖像画」)とを理解するためには、そこに描かれている「人物」が、それぞれ特有の意味合いを有していることを理解して、始めて、それらの「描かれている背景」などがイメージとして伝わってくる。
 例えば、「エル・グレコ El Greco」(1541-1614)の「聖ペテロと聖パウロ」の、その「聖ペテロ」は、「キリストの最後の晩餐」に出てくる、キリスト直弟子の「十二使徒の一人・初代ローマ教皇」その人であるが、「聖パウロ」は、「元々キリスト教を攻撃するパリサイ派ユダヤ教徒だったが、後にイエスの声を聞いて「回心」し、『新約聖書』を完成し、イエスの教えを広く宣(の)べ伝えた宣教者の第一人者」ということになる。
 そして、「長谷川等伯」((1539-1610)の、先の「十六羅漢図(長谷川等伯(信春)筆」
は、一見すると、「達磨・布袋(あるいは大黒天)」の図のように見えるが、これは「十六羅漢」(釈迦の命により、この世に長くいて正法を守り、衆生(しゅじょう)を導く十六人の大阿羅漢=賓度羅跋羅堕闍(ひんどらばらだじゃ)・迦諾迦伐蹉(かなかばしゃ)・迦諾迦跋釐堕闍(かなかばりだしゃ)・蘇頻陀(そびんだ)・諾矩羅(なくら)・跋陀羅(ばだら)・迦理迦(かりか)・伐闍羅弗多羅(ばじゃらふつたら)・戍博迦(じゅはか)・半托迦(はんだか)・羅怙羅(らこら)・那伽犀那(なかさいな)・因掲陀(いんかだ)・伐那婆斯(ばなばし)・阿氏多(あした・注:荼半吒迦)」のうちの二人で、五世紀後半から六世紀前半に中国に「禅宗」を伝えた「達磨(「禅宗」の祖)や「蜆子(「禅宗」の「頭陀第一」の修行僧)」とは、時代を異にする。
 謂わば、「十二使徒の一人・聖ペテロ」は、「釈迦十大弟子」≪(1)舎利弗(しゃりほつ)(智慧(ちえ)第一)、(2)目犍連(もくけんれん)(神通力(じんずうりき)第一)、(3)摩訶迦葉(まかかしょう)(頭陀(ずだ)―苦行による清貧の実践―第一)、(4)須菩提(しゅぼだい)(解空(げくう)―すべて空であると理解する―第一)、(5)富楼那(ふるな)(説法第一)、(6)迦旃延(かせんねん)(論議第一)、(7)阿那律(あなりつ)(天眼(てんげん)―超自然的眼力―第一)、(8)優婆(波)離(うばり)(持律(じりつ)―戒律の実践―第一)、(9)羅睺羅(らごら)(密行―戒の微細なものまで守ること―第一)、(10)阿難(あなん)(多聞(たもん)≫の、「(3)摩訶迦葉(まかかしょう)(頭陀(ずだ)―苦行による清貧の実践―第一)」と解して、それに通ずる「聖パウロ」は、「達磨(「禅宗」の祖)や「蜆子(「禅宗」の「頭陀第一」の修行僧)」という位置づけになってくる。

 これらのことに関しては、下記のアドレスなどが参考となる。

https://true-buddhism.com/founder/disciples/

 それらのことを前提として、「キリスト十二使徒の一人・聖ペテロ」は、「ガリラヤ湖の湖畔ベツサイダの漁師でバプテスマ(洗礼者)のヨハネの弟子になった」、「漁師」出身なのである。
そして、「釈迦十大弟子の一人・摩訶迦葉(まかかしょう)に連なる『禅宗』の修行僧=常に江岸に蝦や蜆を採つて腹を満たして『頭陀第一』の禅宗の修行に励んだ中国の僧」の「蜆子」は、禅宗の祖の「天竺(インド)出身の達磨」の教えを実践する「禅宗」(仏教の一流派)を象徴する、即ち、「漁師」出身の「「キリスト十二使徒の一人・聖ペテロ」になぞらえる、「釈迦→摩訶迦葉(まかかしょう)→達磨大師」に連なる「漁師」もどきの、「羅漢(聖者・修行僧)」というイメージになってくる。

フラシスコザビエル像.jpg

「重要文化財 聖フランシスコ・ザビエル像」神戸市立博物館蔵(池長孟コレクション)
「S.P.FRÃCISCUS XAVERIUS SOCIETATISV」 墨筆にて「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」 朱文長方関防印「IHS」 朱文壺印(印文未詳) 
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365020

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-22

【 狩野源助ペドロ  生年:生没年不詳
江戸前期のキリシタン、京都のフランシスコ会の財産管理人、狩野派絵師。イエズス会を讒言する書翰をマニラの3修道会の管区長に送付した中心人物で、のち司教セルケイラのもとでその讒言を撤回。慶長8年12月25日(1604年1月26日)付京坂キリシタンによる26殉教者(日本二十六聖人)列聖請願者の筆頭に「狩野源助平渡路」と署名。また教皇パウロ5世宛同18年8月15日(1613年9月29日)付京坂・堺の信徒書状には「へいとろかの」と署名する。元和6年12月10日(1621年1月2日)付の京坂信徒代表による教皇奉答文にみえる堺の「木屋道味平登路」は同一人物とみなされている。<参考文献>H.チースリク「ペトロ狩野事件の資料」(『キリシタン研究』14号) 】(「出典 朝日日本歴史人物事典(五野井隆史稿)」)

そして、さらに、この「木屋道味平登路」は、織豊時代の陶工の一人の、次の「道味」と同一人物のように思われてくる。

道味(どうみ) ?-? 織豊時代の陶工。
天正(てんしょう)年間(1573-92)に千利休に茶事をまなび、京都で茶器をやいた。(出典「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

 そして、この「道味」は、「堺千家」の「千道安」の門人のように解したいのである。

千道安 没年:慶長12.2.17(1607.3.14) 生年:天文15(1546)
安土桃山・江戸初期の茶湯者。千利休の嫡子。堺生まれ。母は阿波三好氏か。初名は紹安。眠翁、可休斎と号した。才能に恵まれたが,家を継がず数寄者としての生涯を送った。利休賜死ののち、飛騨高山(金森氏)、豊前小倉(細川氏)、阿波徳島(蜂須賀氏)と流寓先が伝えられ、義弟少庵に比して厳しい状況があったと考えられる。文禄年間(1592~96)に帰京し、豊臣秀吉の茶頭に復帰、堺に住んで茶湯者として活動、古田織部の最初の師であり、門下の桑山左近の弟子に片桐石州がいる。慶長6(1601)年、細川忠興から豊前に知行地を与えられたとされる。道安囲と称される小座敷の工夫が知られ、道安風炉などその好みを伝える道具も多い。<参考文献>『堺市史』 (「出典 朝日日本歴史人物事典(戸田勝久稿)」) 】

 「達磨大師」が「禅宗」の開祖とすると、「蜆子和尚」はその「禅宗五家」の一つの「曹洞宗」に連なる和尚のようで(『東洋画題綜覧』)、「達磨大師」に比すると、一般的には馴染みが薄い。
それに加えて、その「禅宗」と何ら接点がないと思われる、「洋風画」を大成させた、江戸時代後期を主とする「司馬江漢」(1747-1818)の「蜆子和尚図(司馬江漢筆)」(神戸市立博物館蔵)も、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した水墨画の巨匠「可翁」や、「司馬江漢」と同時代の画僧「仙厓」(1750-1837)の「蜆子和尚図」とは、どうにも、イメージが、同一の「蜆子和尚図」とは結び着いて来ない。
 しかし、その「蜆子和尚図(司馬江漢筆)」(神戸市立博物館蔵)を、その淵源を辿って、
「老師父図(筆者不詳)」(神戸市立博物館蔵)、そして、「聖ペテロ像(筆者不詳)」(南蛮美術館蔵)を経て行くと、「重要文化財 聖フランシスコ・ザビエル像」(神戸市立博物館蔵)に結び着いて行く。そして、それは、取りも直さず、「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都
漁父環人(さふらぬしすこさべろりうさからめんと ぎょふかんじん)」の「漁夫環人(漁夫肝心)」に連なる「狩野源助ペドロ=木屋道味平登路?=織豊時代の陶工・道味?」の、その「ペドロ」(十二使徒の一人・ガリラヤの漁師の出身・カトリック教会ではイエスの後継者,初代のローマ司教(教皇))に、辿り着いてくる。
 司馬江漢は、もとより、キリシタン的な背景は察知されないが、「洋風画家・蘭学者」として、「西洋事情にも深い関心と憧憬をもち,鎖国や封建的身分制度にも批判的」な立場であったことは、その、寛政六年(一七九四)刊の長崎旅行紀『西遊族譜』(『江漢正遊日記(芳賀徹・太田理恵子校注)』)などを管見しただけでも察知される。
 なお、下記のアドレスで「司馬江漢の眼鏡絵と油彩風景図に見られる湾曲した海岸線について(橋本寛子稿)」を閲覧することができる。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000003kernel_81010410
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日本画と西洋画との邂逅(その三) [日本画と西洋画]

(その三)水墨画(若冲など)と洋風画(信方?・司馬江漢など)の達磨図

若冲・達磨図.jpg

「達磨図(伊藤若冲筆・MIHO MUSEUM蔵)  絹本着色 一幅 → K図
https://www.miho.jp/booth/html/artcon/00008826.htm
【 藪にらみ風の大きな三白眼、瞼の両端から垂れ下がる眉、キノコのような鼻、M形の口ひげ、ウェーブがかった髪。とにかく一度見たら忘れられない顔である。薄墨の背景を塗り残した中に人物が描かれ、衣紋の墨線は鮮やかな朱色を塗った後に引かれる。目と耳には裏彩色が施され、青や黄色の混ざった白目が異様な雰囲気を放つ。若冲の達磨図は曽我蕭白の描いたそれを意識し、蕭白は白隠の達磨図から影響を受けたことが指摘されているが、本図は達磨の異形性を誇張し、迫力とともに滑稽味を含んでいる。詳しくは、本書・辻論文を参照されたい。
 署名はなく、「藤女鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文方印)を捺す。】

http://event.kyoto-np.co.jp/feature/1531096638.0024/1531197649.2179.html?page=7
【~赤と青のひ・み・つ 聖なる色のミステリー~特集vol.1 修復後初公開の伊藤若冲筆『達磨図』
 吸い込まれそうな赤い衣のこの方は“達磨大師”です。9年間も壁の前に座り続けて悟りを開いたお坊さまで、幸運のだるまさんのモデルです。
今回の修理によって、達磨大師の衣には、裏彩色という技法でかなりの量の赤色顔料が塗られているということが分かりました。
 誰の目にも印象的な、強烈な赤色の衣です。絹地の裏からも色を塗る「裏彩色技法」は平安時代や鎌倉時代の仏画に多用された技法ですが、若冲の最高傑作とされる「動植綵絵」でも多用されていることが知られています。
 禅宗の深い信仰者でもあった若冲が、禅宗の祖である達磨大師の像を描いた時の思いを彷彿とする、この赤い僧衣は必見です。 】

≪伊藤若冲(いとう じゃくちゅう、1716年3月1日(正徳6年2月8日) - 1800年10月27日(寛政12年9月10日))は、江戸時代の画家。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。初めは春教(しゅんきょう)と号したという記事があるが、その使用例は見出されていない。斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)、心遠館(しんえんかん)、錦街居士とも号す。≫(「ウィキペディア」)

 ここで、初期洋風画の「信方」(慶長年間(1596年-1615年)頃に作画活動)と「山田右衛門」(天正3年(1575)? - 明暦3年(1657)寛永14年(1637)の「島原・天草の乱」の唯一の生存者、その前後の作画活動)を、「江戸時代初期」(1600年代)の画家とすると、上記の「奇想派の日本画の大家・伊藤若冲」(1716-1800)は、「江戸時代中期」(1700年代)の画家ということになる。そして、後期洋風画の「司馬江漢」(1747 - 1818年)は、その若冲に続く「江戸時代後期」(1800年代)の画家ということになる。
 そして、この「伊藤若冲」(1716-1800)と「「司馬江漢」(1747 - 1818年)とは、同時代に生きた、若冲の次の世代の絵師ということになる。
そして、その経歴を見ると、「司馬江漢」は、「宝暦11年(1761年)15歳の時父の死を切っ掛けに、表絵師の駿河台狩野派の狩野美信(洞春)に学ぶ。しかし次第に狩野派の画法に飽きたらなくなり、19歳の頃に紫石と交流のあった鈴木春信にも学んで浮世絵師となり、錦絵の版下を描いた。明和半ばの25歳頃、おそらく平賀源内の紹介で西洋画法にも通じた宋紫石の門に入る(源内が書い『「物類品隲』の中で宋紫石のヨーロッパ的リアリズムにいたく感嘆する)。ここで南蘋派の画法を吸収し漢画家となった(当時、写実的な漢画の表現は流行の先端を行くものだった)。」(「ウィキペディア」)と、「狩野派→浮世絵師→南蘋派画法を吸収した漢画家→平賀源内の紹介で西洋画法の洋風画家」と多面的な世界を垣間見せる画家で、若冲の「南蘋派画法を吸収した漢画家」としての技法(「裏彩色という技法でかなりの量の赤色顔料が塗られている」)に対する、「平賀源内の紹介で西洋画法の洋風画家」としての技法を加味しての作品として、司馬江漢の「達磨図(G図)」(神戸市立美術館蔵・司馬江漢筆?)を鑑賞したい。 

達磨図」(養竹院蔵).jpg

「達磨図」(養竹院蔵・信方筆?)→ 紙本着色 60×28㎝ → D図
https://www.town.kawajima.saitama.jp/1358.htm

達磨図・満福寺.jpg

「達磨図」(満福寺蔵・山田右衛門作筆?) 紙本着色 57.2×66.5㎝ → H図

 この「信方筆?」「山田右衛門作筆?」とも伝承されている「達磨図」(D図・H図)は、初期(第一期)洋風画に属するもので、次の後期(第二期)洋風画に位置する「司馬江漢筆?」ともいわれている「達磨図」(G図)とは、時代史的には時限を異にするが、これは、紛れもなく、「信方筆?」(D図)「山田右衛門作筆?」(H図)の「西洋画法」の手法を継承してのものということになろう。

司馬江漢・達磨図.jpg

「達磨図」(神戸市立美術館蔵・司馬江漢筆?) 紙本油彩 42.9×48.1㎝ → G図

 上記の「信方筆?」(D図)「山田右衛門作筆?」(H図)は「紙本着色」で、「司馬江漢筆?」(G図)は「紙本油彩」であるが、両者とも「日本在来の絵の具」(「岩絵の具」が主)を使って、それを「水彩」(水で絵の具を溶ぐ)で彩色するか、「油彩」(油で絵の具を溶ぐ、司馬江漢は「荏胡麻の油を使用した油彩画を描いている=「ウィキペディア」)で彩色するかの違いであろう。
 そして、共に、「西洋画法」(「遠近法=遠景と近景のコントラストを強調する」と「明暗法=明暗のコントラストを強調する」が「日本画法(その基本にある「水墨画」)」との主たる相違点)を駆使しての作品ということになる。
 それらのことを前提として、冒頭の「若冲筆」(K図)と、これらの「信方筆?」(D図)「山田右衛門作筆?」(H図)そして「司馬江漢筆?」(G図)とを、比較鑑賞して行くと、
 この「若冲筆」(K図)は、「絹本着色」で、「紙」ではなく「絹地」に、しかも、その「絹地」の裏からも色を塗る「裏彩色技法」(平安時代や鎌倉時代の仏画に多用された日本画技法)を駆使して、「誰の目にも印象的な、強烈な赤色の衣」を表現しているところが、一つのポイントということになる。
 

(追記一)「洋風画」「南蛮美術」周辺

【 「洋風画」

西洋画法により描かれた近代以前の日本絵画。洋人や洋船を主題としていても、東洋画法によるものは含まない。逆に東洋的主題や日本風景、風俗を扱い、紙、絹や日本絵の具を用いても、西洋画法の視点に基づく絵画は洋風画である。洋風画は前期(桃山~江戸前期)、後期(江戸後期)の二期に分けられる。そして、かつては第一期洋風画を南蛮絵(なんばんえ)、第二期洋風画を紅毛画(こうもうが)、オランダ絵(阿蘭陀絵、和蘭陀絵、和蘭絵)、および蘭画(らんが)などといった。
  第一期洋風画の母胎は、近世初期におけるキリスト教の伝播(でんぱ)である。当時日本布教にあたっていたイエズス会では、輸入キリスト教聖画の不足を補うために、その宗教教育施設において、信者の日本人学生に西洋銅版画などを模写させ、聖画を制作させた。このため、1590年代の初めには多くの日本製聖画が世に出るようになったが、その後のキリスト教厳禁と鎖国のため、第一期洋風画は17世紀末までに衰滅した。それは日本で生まれたが、教会の布教政策の一環として形成され、外人聖職者の指導もあったから、西欧絵画の直系に属する。近世初期に描かれた聖画は、ほとんど破壊焼却されてしまったが、わずかの現存遺品をみると、肉筆画、銅版画とも、輸入原画をかなり巧みに模写したことがわかる。一方、聖画以外に世俗画も当時の南蛮趣味にこたえるため、あるいはヨーロッパの勢威と文化を示すために制作された。これらはキリスト教絵画でないため、相当数の遺品があり、西洋王侯の像、キリスト教国軍とイスラム軍の戦闘、世界の都市と風俗、洋人郊外遊楽の情景などの主題がある。これらもやはり輸入原画を写しているが、宗教画ほど図像上の制約がないため、画家たちは作品ごとに原画をすこしずつ変えて変化をつけている。また、第一期洋風画の世俗画は、他の近世初期の鑑賞画と同様に、多く屏風(びょうぶ)絵であるため、原画を横に伸ばしたり、つないだりしている例がある。しかし、世俗画も基本的には模写画であり、西洋画特有の視点に関心が薄く、制作期間も短かったため、同時代の画壇に刺激を与えずに終わった。第一期洋風画の衰滅後の江戸中期にも、多少の洋風表現の試みはあったが、それらについては省略する。
 第二期洋風画は、江戸中期以後の蘭学の発達に基づいて生まれた。初期の蘭学者は洋書の精密な挿絵をみて、西洋自然科学研究の必要性を痛感したが、同時期の洋風画家も、洋書の挿絵の迫真的表現に魅せられ、西洋画が写実性に勝ることを知り、陰影法や遠近法のような合理的視点を体得しようとした。この期の洋風画は鎖国体制下に生まれたから、まず、外人の指導は得られなかったし、18、9世紀の西欧絵画の主流とも無関係であった。また、西洋画法を学ぶにも、輸入の銅版画や図書の挿絵を写すという前近代的手段をとった。しかし、この期の洋風画家は、なによりも西洋画の写実性に関心を寄せ、西洋画法を伝統的画法に対立するものとして摂取しようとした。そのため、西洋原画の模写は彼らにとりおもに画法習得のためであって、第一期洋風画家のように目的自体ではなかった。当時、西洋画研究に用いる図書や銅版画はもちろん長崎を通じて輸入された。しかし、長崎の洋風画は、文化の中心である江戸より遅く生まれ、しかも技術は優れていても西洋の模写画が多かった。一方、知識階級の多い江戸では洋風画は大いに発達し、1770年代に秋田蘭画、ついで司馬江漢(しばこうかん)や亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)らが出た。江戸系洋風画は西洋原画の模写ばかりでなく、在来の伝統的画題の洋風画化、日本の風景や風俗の描写に相当の業績をあげた。それが明治以後の近代洋画の直接の祖先ではなかったとしても、同時代の一部の南画や写生画、北斎(ほくさい)や広重(ひろしげ)の風景版画にかなりの影響を及ぼしたのは、なんといってもそれが西洋画法そのものの摂取に熱心であり、東洋的あるいは日本的題材を開拓したからである。[成瀬不二雄]
『坂本満他著『原色日本の美術25 南蛮美術と洋風画』(1970・小学館)』
[参照項目] | 秋田蘭画 | 南蛮美術

「南蛮美術」

 桃山時代から江戸時代初頭にかけて流行した西洋風美術の総称。当時ポルトガル人やスペイン人らの西洋人は、東南アジアにもつ植民地を経由して日本に来航したため、南方の外国人という意味で「南蛮人」とよばれた。これら南蛮人によってもたらされた西洋の文物や風俗に触発・影響されてできた異国的な絵画や工芸品を、一般に「南蛮美術」とよんでいる。その最盛期は、キリスト教の教勢が頂点に達し南蛮風俗が流行した16世紀末から17世紀初頭に求められ、寛永(かんえい)年間(1624~44)に整えられた禁教と鎖国の政策に阻まれて、急速な退潮を迎えるに至る。
 1549年(天文18)フランシスコ・ザビエルが来日のおりに聖母マリアの画像をもたらして以来、布教のために来日した宣教師たちによって多くの宗教画が将来された。やがてキリスト教の流布とともに宗教画の需要は急増していき、輸入洋画だけに頼ることが不可能になったため、83年(天正11)西洋画法の教授としてジョバンニ・ニコラオGiovanni Nicolaoが来日、教会内のセミナリオ(修学寮)において日本人画家の育成が進められた。セミナリオでは油絵、フレスコ、テンペラ、銅版画などの本格的な西洋画の諸技術が伝授されたが、現在残る作品をみると、紙に日本在来の絵の具で描かれたものが多い。日本人画家の制作になる宗教画の遺品としては、『マリア十五玄義図』(京都大学および個人蔵)、『三聖者像』(東京国立博物館)、『フランシスコ・ザビエル像』(神戸市立博物館)などが知られている。
 こうした布教の手段としての宗教画制作に始まった洋風画は、やがて鑑賞本位の非宗教画にも筆を染めるようになる。その多くは日本の伝統的な装飾画形式である障屏画(しょうへいが)に描かれ、一連の「南蛮人渡来図屏風(びょうぶ)」(通称「南蛮屏風」)をはじめ『泰西王侯騎馬図』(神戸市立博物館および東京・サントリー美術館)、『レパント沖戦闘・万国図』(兵庫・香雪美術館)、『洋人奏楽図』(東京・永青文庫および静岡・MOA美術館)などの西欧的な題材を扱った大作がある。小品としては、この時期の洋画家のうちで例外的にその名を画面に記し印を押す信方(のぶかた)(生没年不詳)の作『婦女弾琴図』(奈良・大和(やまと)文華館)、『日教聖人像』(兵庫・青蓮寺)が名高い。このように、キリスト教の伝来とともに開花した日本の初期洋画であったが、江戸初期のキリスト教禁制によって制作を停止され、中央画壇にほとんど影響を及ぼすことなく、中絶してしまう。
 工芸の分野では、南蛮趣味の流行に促されて、西洋風な意匠による漆器、陶器、金工品などがつくられた。ことに漆芸においては、「南蛮漆芸」とよばれる異国的な作風をもつ一群が現れ、キリスト教関係の器具のほか、南蛮人の風俗や葡萄唐草(ぶどうからくさ)などの洋風文様を装飾意匠として用いた新鮮な作例が遺存している。「葡萄蒔絵聖餅箱(まきえせいへいばこ)」(鎌倉・東慶寺)や「洋人蒔絵鞍(くら)」(東京国立博物館)などがその代表例である。また、西洋人の趣味と用途にあわせた輸出品も多く制作され、「秋草蒔絵宝石箱」(東京国立博物館)などの例が知られている。陶芸では、織部焼(おりべやき)が西洋の事物や文様を好んで絵付(えつけ)に用い、南蛮人燭台(しょくだい)ほか異色の作品を生んでいる。さらに、ローマ字を透かしたり象眼(ぞうがん)したりした刀の鐔(つば)(法安(ほうあん)鐔)、キリスト教の紋章と1577の西暦が陽刻された西洋風の鐘「南蛮鐘」(京都・春光院)など、金工方面にも南蛮趣味の反映が認められる。[小林 忠]

『岡本良知著『日本の美術 19 南蛮美術』(1965・平凡社)』▽『坂本満・菅瀬正・成瀬不二雄著『原色日本の美術 25 南蛮美術と洋風画』(1970・小学館)』▽『坂本満・村元雄著『日本の美術 34 南蛮美術』(1974・小学館) 】(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

(追記二)「西洋古典画技法と日本近代の美術教育」(和歌山大学 長谷川哲哉稿)
https://www.jstage.jst.go.jp › article › aej › _pd

【 はじめに(略)

(1) 西洋古典画技法の定義
 西洋古典画技法の概念が明確に定まっている訳ではない。「西洋吉典画」という部分からしてその定義は容易に下されえない。けれども、ここで西洋古典画技法と呼んでいるものが、通称古典技法と略されて呼ばれている点に着目するならば、この用語の意味範囲は明らかになってくる。っまり、「西洋」という限定をしなくても、それが西洋画の或る種の技法を指しているところに、定義付けの糸口がある。
一般に西洋画が油絵を意味し、逆に油絵といえば西洋画を指している事態を思い浮べれば区別されうるように、それは油絵でない絵画の技法を指している。ただし厳密には、油絵具のみを使うのでない絵画技法を、具体的には油絵具とテンペラ絵具を併用する混合技法をも含んでいる。技法史的にみれば、油彩画技法の確立する以前と以後に分けられるので、占典技法とは一応以前の技法、即ちテンペラ画やフレスコ画やデトランプ(膠画)などの技法を指している。つまり、油性絵具を主に使用する以前の、水性絵具を主に使用した使用した時代の技法を指している。
 様式史的な区切りは容易でないが、こうした技法を駆使して制作している画家たちの大多数が、後期ゴシックないし初期ルネッサンスの絵画様式に注目している点と、先の技法史上の区切りとほぱ一致しているので、ひとまずこのあたりの技法であると仮定しておくことができる。このように、古典技法の概念は、様式史と技法史の双方から厳密に規定されてから用いられるようになったのではなく、共通する問題意識をもつ或る一群の作家たちの中から自然発生的に用いられるようになり、次第にその語義の範囲が最近の美術界に定着してきた、というのが実情であろう。
 西欧では、19 世紀になってもなおテンペラ画は制作され続けていたのであるから、テンペラ画技法イコール古典技法という等式は成り立たないであろう。西欧人にとっては、我々日本人が「古典技法」と呼ぶものは、「昔の画匠の技術」であり、あるいは単に14 世紀のテンペラ画の技法なのである。それ故、前述の画家たちが、自分たちの制作の方針として、油彩画確立以前の技法へと逆行・回帰しようとするところに、古典技法を唱える重要な意味があるのであろう。なお、この逆行・回帰の過程でバロックの画家の技法に着目する場合もあるので、必ずしも上述の如くに範囲が限定される訳でない。古典技法とはかなりふくらみのある用語である。

(Ⅱ) フアン・アイクの技法(略)
(皿) フオンタネージの油彩画(略)
(Ⅳ)図画科と古典画技法(略)
(V ) 今後の美術教育と古典画技法(略)  】
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日本画と西洋画との邂逅(その二) [日本画と西洋画]

(その二)水墨画(墨渓・祥啓・等伯)と洋風画(信方?・司馬江漢など)の達磨図

達磨図 墨渓筆.jpg

「達磨図(京都・真珠庵蔵)」墨渓筆 紙本墨画 148.5×58.0㎝ 重文 → H図
https://j-art.hix05.com/14.1.muromachi/muro13.darma.html

達磨図 祥啓筆.jpg

「達磨図(京都・南禅寺蔵)」祥啓筆 紙本墨画 93.5×46.0㎝ 重文 → I図
https://j-art.hix05.com/14.1.muromachi/muro13.darma.html

【 (達磨像:室町時代の水墨画)
 達磨は禅宗の開祖であるから、禅僧たちによってその像が描かれてきた。達磨像のポーズにはいろいろのものがあるが、もっとも多いのは、上の絵のような半身像であり、大きな目をぎょろりと向いている姿である。この絵は、こうした構図の達磨像の最も初期のもの。作者は墨渓である。
(上図:墨渓筆) → H図
 墨渓は高名な僧一休の弟子で、この絵にも一休の賛がある。それに寛正六年(1465)の年紀が記されている。墨渓はまた、周文から水墨画を学んだらしい。兵部という通称のほか、桃林安栄とも号した。→ 
 この絵は、刷毛筆を用いた減筆体で髭を描く一方、衣の輪郭は一筆でざくっと描くなど、禅の雰囲気を感じさせるものがある。
(下図:祥啓筆) → I図
 これは、祥啓作の達磨像。祥啓は十五世紀末から十六世紀初めにかけて活躍した禅僧で、鎌倉建長寺の書記役などをつとめた。絵は芸阿弥について学んだ。
 この達磨像は、墨渓の達磨像と比べると、表情に禅的な厳しさがうすれて、その分近づきやすい雰囲気を感じさせる。署名に貧楽斎とあるのは、かれの号である。 】(「日本の美 術」)

達磨図(等伯筆).jpg

「紙本墨画達磨図」長谷川信春(等伯)筆 一幅 桃山時代 龍門寺蔵 七尾市小島町リ-15 → J図
https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kaiga/k-18.html
【 やや右斜め向きの達磨の上半身像を画面に大きく配し、法衣の輪郭は太い裂け筆で大胆に描いて、達磨の烈しい個性にふさわしい堂々とした作品である。画面右下部に、長谷川等伯の信春時代の作品にみられる、
 袋形朱文「信春」印が認められるが信春時代の仏画を描いた綿密な筆法とは全く異なった本格的な水墨画である。この作品から、信春時代にすでに、それまでの密なる作風を基本としながらも、表現を簡略した粗なる作風への進展があったことがわかる。頭部の輪郭や、眼・鼻・口は明確に描き、髪や髭などの毛描きを細筆を用いて克明に描いているところなどに、これまでの密なる作風が見られ、それが衣の裂け筆の粗なる筆法と良く調和している。
 この裂け筆による烈しい線描は、後年の等伯時代に多く用いられた描法であり、信春と等伯を結びつける様式上の根拠の1つを示している。このように満ち溢れる迫力と強烈な筆致があらわれていることから推して、信春が京都へ出た後に制作されたとみるべきであろう。】(昭和60年「石川の文化財」より)

 これらの「達磨図」(H図=墨渓筆、I図=祥啓筆、 J図=信春(等伯)筆)は、「被衣(かずき)=頭から被った布」無しの、「耳輪」(天竺=インド出身に由来する「耳輪」?)をしている「達磨図」(「「右向き」と「左向き」)である。
 J図=信春(等伯)筆は、I図=祥啓筆よりも、H図=墨渓筆を、下敷にしてのものであろう。

≪墨渓(ぼっけい) 没年:文明5(1473) 生年:生年不詳
 室町中期の禅僧,画家。曾我派の始祖とされる。横川景三の『補庵京華続集』によれば名は安栄,字は桃林という。諱は采誉,酔墨斎と号し,通称は兵部。希世霊彦の『村庵小稿』には周文に師事し,周文の肖像画を描いたとある。大徳寺と関係が深く,一休宗純のもとに参禅した。自賛「一休和尚像」(1452,少林寺蔵),「一休和尚像」(1453,梅沢記念館蔵),一休賛「達磨像」(真珠庵蔵)などの作品がある。一休の肖像画中もっとも著名な東京国立博物館本は,従来墨渓より後年の墨斎の筆といわれてきたが,近年墨渓説が唱えられている。<参考文献>『日本美術絵画全集』3巻 (山下裕二) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版    ≫

≪祥啓(しょうけい) 生没年不詳
 室町後期の画僧。鎌倉建長寺の書記を勤め,啓書記と通称される。別号貧楽斎。相模(神奈川県)出身とする説が有力だが,下野(栃木県)宇都宮の画家丸良氏の子とする後世の史料(『本朝画史』)もある。文明10(1478)年に画事の修業のため京都に上り,同朋の芸阿弥に師事。その間,室町幕府所蔵の中国絵画の名品に直接ふれて研鑽を積んだ。芸阿弥の唯一の現存作品「観瀑図」(根津美術館蔵)は,横川景三の賛文によれば文明13年祥啓の帰郷の際に,はなむけとして芸阿弥から贈られたものである。また,明応2(1493)年にも上洛したことが景徐周麟 の『翰林葫蘆集』によって確認される。作品はかなりの数が残っており,山水,人物,花鳥とそのレパートリーも幅広い。代表作「山水図」(根津美術館蔵)は,師芸阿弥の作風を忠実に反映したものだが,その後,「瀟湘八景図帖」(白鶴美術館蔵)にみられるような,より平明で淡泊な画風に移行した。また「巣雪斎図」(静嘉堂文庫美術館蔵)のような,古い形式の書斎図の作品も数点伝わる。「馬図」(根津美術館蔵),「花鳥図」(神奈川県立博物館蔵)は,おそらく第一級の中国絵画を模写した着色画であるが,その技量はきわめて高度である。東国に中央の最新の様式を伝え,室町後期の関東画壇に圧倒的な影響力を持った。弟子と推測される画家に啓孫,啓牧,啓拙斎らがいる。<参考文献>『日本美術絵画全集』6巻,東京都庭園美術館『室町美術と戦国画壇』 (山下裕二) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版   ≫

≪長谷川等伯(信春)没年:慶長15.2.24(1610.3.19) 生年:天文8(1539)
 桃山時代の画家。長谷川派の祖。能登(石川県)七尾城主畠山氏の家臣奥村文之丞宗道の子。のち染物業を営む長谷川宗清(道浄)の養子になったと伝えられる。画は,雪舟門弟の等春に師事したという宗清から学んだらしい。養家が日蓮宗の熱心な信徒であったため,又四郎信春と名乗った七尾時代は,「涅槃図」(妙成寺蔵),「十二天図」(正覚寺蔵),「日蓮上人像」(大法寺蔵)など,おもに日蓮宗関係の仏画や肖像画を制作。元亀2(1571)年養父母の他界を機に,菩提寺(本延寺)の本寺に当たる本法寺を頼って上洛。翌年には同寺8世の「日尭上人像」(本法寺蔵)を描いたが,その落款により信春を等伯の子久蔵とみなしてきた江戸時代の画伝類の誤りが正された(土居次義著『長谷川等伯・信春同人説』)。
 上洛後,等伯の号を用いる50歳ごろまでの動向には不明な点が多いが,千利休や本法寺10世日通を介して,堺の数奇者達と交わって数多くの宋元名画に触れ,また大徳寺の春屋宗園と親交を結んで同寺の牧谿筆「観音猿鶴図」や真珠庵の曾我蛇足の障壁画などを細見する機会を得た。旧大徳寺三玄院「山水図襖絵」(円徳院,楽美術館現蔵),「枯木猿猴図屏風」(竜泉院蔵),「竹林猿猴図屏風」(相国寺蔵)などは,そうした中国や日本の古画の観照体験を経て生まれた作品で,「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)はわが国水墨画の最高傑作と評される。文禄2(1593)年ごろ,一門の弟子を率いて行った祥雲寺(豊臣秀吉建立)の障壁画(智積院現蔵)制作では,信春時代から手がけていた着色画に,当時流行の金地極彩色の手法や大画面構図方式を採り入れて,狩野派以上に生新で躍動的な金碧装飾画を作った。
 聚落第(1587)に揮毫したという記録もあり,長谷川派はこのころには狩野派に拮抗する画派に成長していた。同派の障壁画は妙蓮寺,禅林寺など法華寺院にも多く残っている。慶長4(1599)年本法寺寄進の「涅槃図」(現存)以降,「自雪舟五代」を落款に冠して雪舟正系を標榜,雲谷等顔と雪舟の正系を争ったとも伝えられる。9年法橋,翌年法眼叙任,15年徳川家康に召されて江戸に赴いたが,道中病を得,到着後まもなく没した。
 等伯の談を日通が綴った『等伯画説』は,等伯の絵画観を示す資料として貴重である。<参考文献>土居次義『長谷川等伯』,山根有三「等伯研究序説」(『美術史』1号),源豊宗考註『等伯画説』 (川本桂子) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版  ≫

達磨図」(養竹院蔵).jpg

「達磨図」(養竹院蔵・信方筆?)→ 紙本着色 60×28㎝ → D図
https://www.town.kawajima.saitama.jp/1358.htm

達磨図(南蛮文化館蔵・天理大学蔵).jpg
 
左図:「達磨図(南蛮文化館蔵)       紙本油彩 32.4×28.4㎝ → E図
右図:「達磨図(天理大学付属天理図書館蔵) 紙本油彩 89.7×29.5㎝ → F図

 これらの「洋風画」スタイルの「達磨図」(D図・E図・F図)は、「墨渓=H図、等伯(信春=J図)を基調にしたものであろう。

司馬江漢・達磨図.jpg

「達磨図」(神戸市立美術館蔵・司馬江漢筆?) 紙本油彩 42.9×48.1㎝ → G図

 この「司馬江漢筆」ともいわれている「達磨図」(G図)は、次の「達磨図」(満福寺蔵・山田右衛門作?)(H図)と「朱色の被衣の達磨図」とは雰囲気は同じなのだが、大きな福耳に「耳輪」をしているところが、大きく異なっている。

達磨図・満福寺.jpg

「達磨図」(満福寺蔵・山田右衛門作筆?) 紙本着色 57.2×66.5㎝ → H図
【 被衣(かずき)を着し、横向の偉容で、三輪英夫氏によると第三型に属する。この第三型の特徴は、達磨の横顔を、かなり誇張して表現していることである。戯画的でさえあるといえるのかもしれない。その典型的な作品が本図である。 】(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説77」)

 ここで、「洋画法による達磨図について(三輪英夫稿)」(「異国人としての達磨の顔貌に独特な誇張表現 - COREhttps://core.ac.uk › download › pdf」)に、※印を付して「耳輪」の「有無」を表記して置きたい。

達磨図一覧図.png

第一型(被衣を着せず、正面向。※「耳輪」あり) → 「達磨図(南蛮文化館蔵)」(E図)

第二型(被衣せず、正面向。朱衣中に両手を組む。※「耳輪」あり」→「達磨図(天理大学付属天理図書館蔵)」(F図)→「達磨図(養竹院蔵・信方筆?)」(D図)

第三型(被衣を着し、横向。※「耳輪」なし)→「達磨図(満福寺蔵・山田右衛門作筆?)」(H図)

第四型(被衣を着し、正面向。※「耳輪」あり)→「達磨図(神戸市立美術館蔵・司馬江漢筆?)」(G図)

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日本画と西洋画との邂逅(その一) [日本画と西洋画]

(その一)水墨画(雪舟・白隠)と洋風画(信方?・司馬江漢など)の達磨図

雪舟筆「慧可断臂図」.jpg

雪舟筆「慧可断臂図」。畳1畳ほどの大きさで、見る者を圧倒する。雪舟晩年の明応5年(1496)作。室町時代、愛知・齊年寺蔵 → A図
https://serai.jp/hobby/109385

白隠慧鶴筆「慧可断臂図」.jpg

白隠慧鶴筆「慧可断臂図」。今回の調査で白隠の真筆と断定された。江戸時代、大分・見星寺蔵 B図
https://serai.jp/hobby/109385

【慧可断臂図(えかだんぴず) → A図
 雪舟筆 紙本墨画淡彩 199.9×113.6 室町時代(1496) 愛知 斎年寺 国宝
禅宗の初祖・達磨が少林寺において面壁座禅中、慧可という僧が彼に参禅を請うたが許されず、自ら左腕を切り落として決意のほどを示したところ、ようやく入門を許されたという有名な禅機の一場面である。リアルにあらわされた面貌と一点を凝視する鋭いまなざし、そして動きの少ない構図が画面全体に息苦しいまでの緊張感を生み出している。77歳の老禅僧雪舟のたどりついた境地がここにあらわれているとみるべきであろうか。
 なお本図は、幅裏の墨書から、雪舟没後まもない天文元年(1532)、尾張国知多郡宮山城主・佐治為貞によって斎年寺に寄進されたことが知られる。 】(京都国立博物館)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/suibokuga/item06.html

≪雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年)[2] - 文亀2年(1502年)または永正3年(1506年)8月8日(諸説あり)[2])は、日本の室町時代に活躍した水墨画家・禅僧(画僧)。「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。
 備中国に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護を受け周防国に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。
 現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点での功績が大きい。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。
 作品のうち『天橋立図』『秋冬山水画』『四季山水図巻』『破墨山水図』『慧可断臂図』『山水図』の6点が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高評価を受けているといえる。この他に『花鳥図屏風』など「伝雪舟筆」とされる作品は多く、真筆であるか否か、専門家の間でも意見の分かれる作品も多い。弟子に周徳、等悦、秋月、宗淵、等春らがいる。≫(「ウィキペディア」)

【慧可断臂図(えかだんぴず) → B図
 白隠慧鶴「慧可断臂図」一幅 紙本墨画 江戸時代(18世紀)112.0×49.0㎝ 大分・見星寺蔵
「慧可断臂図」は禅にとって重要な画題。少林寺で坐禅を続ける達磨大師のもとを訪ねた神光(しんこう)は、弟子入りを何度も願い出るも返答はなし。大師がその難しさを説くと、みずからの左腕を切り落として捧たげ神光の心に応えた大師は弟子入りを許し、神光は後に慧可と名をかえ達磨大師の二祖を継ぐ。白隠は達磨大師を円の中に描くことでその崇高さを象徴的に表現し、歯を食いしばって左腕を差し出す神光の姿がリアルだ。 】(和樂web編集部)
https://intojapanwaraku.com/art/1081/

≪白隠慧鶴(はくいん えかく、1686年1月19日(貞享2年12月25日) - 1769年1月18日(明和5年12月11日))は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧。諡は神機独妙禅師、正宗国師。≫(「ウィキペディア」)

白隠慧鶴「半身達磨図」.jpg

白隠慧鶴「半身達磨図」1幅 紙本着色 192.0×112.0㎝ 萬壽寺蔵 → C図
https://intojapanwaraku.com/art/1081/

【白隠慧鶴筆「半身達磨図」 → C図
インドから中国へ禅を伝えた達磨も繰り返し描かれてきました。江戸時代に臨済宗を復興した白隠慧鶴が描いた「達磨像」、通称「朱達磨」は縦2メートルもある大きな絵。ぎょろりと睨みを効かせる目、赤い袈裟と黒く塗り込められた背景のコントラストが目に飛び込んできます。明治学院大学教授の山下裕二さんは次のように説明します。
「 頭のてっぺんの輪郭線の下に、薄いあたりの線が何本もあります。これは、下書きの線なんですね。つまり、下書きの線から大きくずれているのです。これだけずれるのだったら下書きの意味がないじゃないかと言いたくなりますが、白隠の絵は、力がこもればこもるほど、下書きの線からずれてしまいます。そういう白隠の身振りが見えてくるところが、好きですね。
 背景には達磨図に賛をするときの定番“直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)”と書かれています。これは、禅の教えの根幹をなす文言です。どういう意味かごく簡単に言えば、“まっすぐに自分の心を見つめ、自分の心の中に既にある仏の心に目覚めなさい”ということになります。」

雪舟筆「慧可断臂図」 → A図
 雪舟が77歳の時に描いた大作「慧可断臂図(えかだんぴず)」。岩に向かって坐禅をする達磨に、慧可(えか)という僧が弟子入りを懇願しましたが、なかなか許可が下りません。そこで、慧可は自らの腕を切り落として、熱意を達磨に示しました。図版ではわかりませんが、慧可の腕の付け根には、血を表すためにうっすらと朱がさしてあります。
「達磨の衣を表すマジックインキで引いたような太い輪郭線は、背中のところで息切れして、墨を注いでいます。落款(サイン)の最後も、へろへろの情けない字になっています。77歳で畳、一畳分もある巨大な絵を描いたら、こうもなりますよね。雪舟の人間ぽいところが見えてきます。そして、この絵はマンガっぽいところがあって、吹き出しを付けてみると面白いです。慧可は『腕まで切ったんですけれども、入門させてくれませんかね~』と、達磨が『そんなことされてもね~』と言っているようにも見えてきます」(山下さん)】(和樂web編集部)

達磨図」(養竹院蔵).jpg

紙本着色達磨図 信方印(養竹院蔵)→ D図
https://www.town.kawajima.saitama.jp/1358.htm

【近世初期洋風画家の信方作とみなされる達磨図です。信方については詳しい経歴等は不明ですが、キリスト教絵画の影響を受けた洋風画を残しているほか、達磨図も数点描いています。
 従来の達磨像に、瞳孔の白点や全体に施された陰影など洋画の画風を取り入れ、しかも違和感なく描かれています。左下隅やや上に、欧風紋章のような落款があります。】(「川島町生涯学習課 生涯学習グループ」)

【「達磨図」(養竹院蔵) 紙本着色 60×28㎝
 達磨が朱衣中に、信方(方は四角の朱文)という画家が用いた朱文方印の鷲と獅子を彫り出した洋風の印が捺されているが、信方(四角印内の「方」) の墨書はない。本図は、74図(「天理大学蔵・達磨図」)とほぽ共通した容貌や技法を示している。また、信方(四角印内の「方」)なる画家の制作時期は、少なくとも慶長末年までは下るらしい。とすれば、73(南蛮文化館蔵・達磨図)-74図の比較も勘案して、本図の制作時期は、早くとも慶長末年頃であろう。 】(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説75」)

達磨図(南蛮文化館蔵・天理大学蔵).jpg

左図:「達磨図(南蛮文化館蔵) 紙本油彩 32.4×28.4㎝ → E図
(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説73」) 
右図:「達磨図(天理大学付属天理図書館蔵) 紙本油彩 89.7×29.5㎝ → F図
(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説74」)

E図の「達磨図(南蛮文化館蔵)の、画面右上に「壱休」の朱方印と左上端に判読不詳の半円状朱印が捺されている。
 F図の「達磨図(天理大学付属天理図書館蔵)の、画面右端のなかほどに「羅と四角に叟」の朱文方印と判読不明の白文長方印が捺印されている。
 これらの「洋風画法による達磨図」関連については、下記のアドレスの「洋風画法による達磨図について(三輪英夫稿)」が基本的な論考となる・

https://tobunken.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6469&item_no=1&page_id=13&block_id=21

司馬江漢・達磨図.jpg

「達磨図(神戸市立美術館蔵)」 司馬江漢筆? 紙本油彩 42.9×48.1㎝ → G図
(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説83」)

【 画面右端中間の上方よりに、S.a Kookanのサインがある。本図は司馬江漢(1747-1818)の作品とすれば、江漢が洋風画へ転向した天明中期以降の制作となる。しかし、署名や作風の点から、これは江漢の作品ではなく、それ以前の作例であるとする説もある。 】(『THE NANBAN ART OF JAPAN《西洋との出会い・キリシタン絵画と南蛮屏風》(国立国際美術館・1986)』所収「出品目録解説83」)

《 信方(のぶかた、生没年未詳)は、安土桃山時代から江戸時代頃に活躍した初期洋風画の画家。
 16世紀ヨーロッパのマニエリスムの影響を受けたテンペラ画を描く。同時代の文献中に名前が見られず経歴の詳細は未詳である。慶長年間(1596年-1615年)頃を中心に活躍し、「獅子と鷲」の印章と「信方(または、信水、信芳)」の落款の作品が残る。日蓮宗の僧日教の像等仏教を主題をした絵も描いていることから、キリスト教の洗礼を受けセミナリオ等で洋画を学びながら、後に棄教した人物であると考える研究者もいる。 》(「ウィキペディア」)

《 司馬 江漢(しば こうかん、延享4年(1747年) - 文政元年10月21日(1818年11月19日)は、江戸時代の絵師、蘭学者。青年時代は浮世絵師の鈴木春信門下で鈴木春重(すずき はるしげ)を名乗り、中国(清)より伝わった南蘋派の写生画法や西洋絵画も学んで作品として発表し、日本で初めて腐蝕銅版画を制作した。さらに版画を生かした刊行物で、世界地図や地動説など西洋の自然科学を紹介した。本名は安藤吉次郎、安藤峻。俗称は勝三郎、後に孫太夫。字は君嶽、君岡、司馬氏を称した。また、春波楼(しゅんぱろう)、桃言、無言道人、西洋道人と号す。
(業績=洋画)  
日本における洋風画の開拓者としては、秋田蘭画の小田野直武とともに重要な画家。直武の作品が、遠近法、明暗法などの西洋画法をとりいれつつ、画材は伝統的な絵具と墨とを使用していたのに対し、江漢は荏胡麻の油を使用した油彩画を描いたことで特筆される。江漢は、西洋画法と油彩の技法を駆使して富士などの日本的な風景を描き、それを各地の社寺に奉納することによって、洋風画の普及に貢献した。現存の代表作の『相州鎌倉七里浜図』」は元々、江戸の芝・愛宕山に奉納したもの。社寺の壁などに掲げられる絵馬は傷みやすいものだが、この図は早い時期に社殿から取り外して保存されていたため、保存状態がよい。蝋油を使った蝋画の工夫などもしている。
 日本最初の銅版画(エッチング)家でもあり、天明3年(1783年)の『三囲景図(みめぐりけいず)』にて、その制作に成功した。桃言、無言道人、西洋道人と号す。》(「ウィキペディア」)

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