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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その三十一) [岩佐又兵衛]

(その三十一) 「舟木本」と「歴博D本」との周辺(その五)

歴博D本四条仮橋.jpg

「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」(「右隻」第三扇上部)
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_r.html

 「歴博D本」の「四条河原」の図である。歌舞伎小屋が一つ、人形浄瑠璃小屋が一つで、鴨川に架かっている橋は、板の仮橋である。この「四条の仮橋」については、下記のアドレスが参考となる。

https://rekilabo.com/shijyooohashi/

 これによると、「街道筋にあたる三条大橋と五条大橋が幕府所管の公儀橋として架橋されたのに対して、四条大橋が祇園社(八坂神社)の氏子や僧侶などのお布施によってつくられた勧進橋だった」ため、上記のような板の仮橋だったようである。

古地図・四条仮橋.jpg

「京大絵図」
https://rekilabo.com/shijyooohashi/
[京大絵図] - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286223

 この「四条の仮橋」に隣接した「芸能興行地としての四条河原」関連については、下記のアドレスの「四条河原の歴史的環境(川嶋将生稿)」が参考となる。

http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/jimu/publications/hyosho/03/hyosho-03.pdf

 そこで、寛文四年(一六六五)に刊行された、浅井了意著『京雀』(全七巻)の「五条通」の項に、上記の「京大絵図」の「五条大橋」(豊臣秀吉が大仏造営のために架橋した別名「大仏橋」)や、この「五条大橋」と「旧五条大橋」(清水寺参詣の架橋)周辺の「五条河原の芸能興行地」が「四条河原」(上記の歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」)へと強制移転されたことなどが記されている。
 この、浅井了意著『京雀』(全七巻)についても、下記のアドレスの「国立国会図書館デジタルコレクション」で、その全貌を閲覧することが出来る。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2606985

舟木本・四条河原.jpg

「舟木本(A図);四条河原の歌舞伎・人形浄瑠璃・能の小屋」(「右隻」第四・五・六扇)

舟木本・四条河原・六条三筋町.jpg

「舟木本(B図):四条河原・六条三筋町・五条大橋」(「右隻」第四・五・六扇)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 冒頭の「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」に対応するのは、「舟木本(A図);四条河原の歌舞伎・人形浄瑠璃・能の小屋」である。
 「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」では、「歌舞伎小屋」が一つ、「人形浄瑠璃小屋」が一つであったが、「舟木本(A図);四条河原の歌舞伎・人形浄瑠璃・能の小屋」では、「歌舞伎小屋」二つ、「人形浄瑠璃小屋」二つ、そして、「能の小屋」一つと、大きな「芸能スペース(空間)」として描かれている。さらに、五条河原にも「歌舞伎小屋」が一つ描かれており、「芸能興行地」が、五条河原から四条河原へと主力を移転していることが察知される。
 それ以上に、この「舟木本(A図);四条河原の歌舞伎・人形浄瑠璃・能の小屋」は、「舟木本(B図):四条河原・六条三筋町・五条大橋」のように、その下部に描かれている「六条三筋町(六条柳町)」の「遊郭・遊里」(「遊楽」スペース)と連動していて、この「芸能スペース(空間)」と「遊楽スペース(空間)」とが、あたかも、「方広寺大仏殿→五条大橋→五条通・二条通→二条城」の「横軸」のスペース(空間)に対する「縦軸」のスペース(空間)を形成し、「横軸」のスペース(空間)が「俗世(憂き世)」とすると、この「縦軸」のスペース(空間)は「浮世(浮き世)」というような、二極構造の世界を暗示しているような雰囲気を醸し出している。

舟木本・全図(浮世・俗世).jpg 

「舟木本(C図): 六曲一双(右隻・左隻=全図): 俗世・浮世」

 「舟木本(C図): 六曲一双(右隻・左隻=全図): 俗世・浮世」の、「右隻」の主題は、一見して、豊臣秀吉が建立した「方広寺大仏殿」で、それは、慶長元年(一五九六)の慶長大地震で倒壊し、秀吉の死後、秀頼による、その再建途上の慶長七年(一六〇二)に失火・焼失した後、慶長十七年(一六一二)にようやく再建された、その姿が描かれている(正面の破風が唐破風となっている)。
 さらに、その大仏殿の脇に、いわゆる、「大阪の陣」のきっかけとなった「鐘銘事件」の鐘も描かれており、「右隻」全体として、この「滅びゆく豊臣家」が、これらの背景を成しているだろうということは、容易に察知されるところのものであろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-14

1600(慶長5年) 関ヶ原の戦い。この年に、豊臣秀頼は「方広寺大仏殿」の再建を開始する。
1602(慶長7年) 鋳造中の大仏より出火。大仏殿炎上。
1604((慶長9年 ) 秀吉七回忌の「豊国大明神臨時祭礼」=岩佐又兵衛の「豊国祭礼図屏風」)
1608(慶長13年 ) 秀頼、大仏殿再建工事を着工。
1614`(慶長19年) 大仏殿ほぼ完成するが、「方広寺鐘銘事件」が起きる。
(岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」の「方広寺大仏殿・鐘楼・豊国社・豊国廟」)
1615(慶長20年) 大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。
1662(寛文2年) 地震のために大仏破損、鋳潰され銅銭に。木像仏に作り替えられる。
1798(寛政10年) 大仏殿落雷のため全焼。(芦雪筆「大仏殿炎上図」)

 そして、「左隻」の主題は、慶長五年(一六〇〇)の「関ヶ原の合戦」の翌年の、慶長六年に西国諸大名に命じて築城を着手し、慶長八年(一六〇三)に完成した「二条城」が象徴する「パクス・トクガワーナ=徳川の平和=元和偃武」が、これらの背景を成しているということも、下記のアドレスの「二条城の年譜」などに照らしても、明瞭になってくるものであろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-16

(再掲)

1601年(慶長6年)徳川家康が西国諸大名に命じて二条城の築城に着手。
1603年(慶長8年)二条城完成(現在の二の丸)。征夷大将軍となった家康が入城、拝賀の式をおこなう。
1605年(慶長10年)城内において秀忠が将軍宣下を受け、2代将軍に就任する。
1606年(慶長11年)天守が完成する。
1611年(慶長16年)家康が豊臣秀頼と会見する。
※1614年(慶長19年)大坂冬の陣の幕府本営が置かれる。城内で軍議を開き、当城より出陣(夏の陣も同様)。
※1615年(元和元年)豊臣氏滅亡後、城中で「禁中並公家諸法度」を制定する。

 これらの、この「舟木本」の「横軸」の、「右隻」から「左隻」の「豊臣家の滅亡と徳川家の台頭」いう歴史的な現実の世界を「俗世」(現世=苦難に満ちた「憂き世」)とすると、その「辛気なる『悲』の憂き世」を逆手にとって、「浮世=浮き浮きとした『楽』の浮き世」の世界を「縦軸」として、「横軸」の「豊臣期(豊臣時代)=右隻」から「徳川期(徳川時代)=左隻」の接点となる「五条大橋」(五条大橋で風流踊に興じている「高台院」)の上部(「四条河原」の芸能空間の「楽」の世界=浮世)と、その下部(「六条三筋町」の「楽」の世界=浮世)とに、その世界を、前回に記した、《賀茂川の角度を約二十五度に傾け、左隻には下京、右隻には賀茂川から東山一帯をかけて描く「下京・東山遊楽図屏風」というネーミングが相応しいような構図なのである。(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)』)》というように、現出しているということになる。

 ここで、冒頭の「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」(「右隻」第三扇上部)に戻って、この「人形浄瑠璃」小屋の、この「十」の「幔幕」(軍陣などでの周囲に張り巡らす横に長い幕)は、何を意味するのかということなのである。

(再掲)

歴博D本四条仮橋.jpg

「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」(「右隻」第三扇上部)

 一見すると、キリシタンの「十字架」の「十」と見間違うが、これは、「丸に轡(くつわ)十字」の家紋ではなく、「筆書きの十文字」の、やはり、「薩摩」の「島津家」などの家紋と解すべきなのであろう。
 その「からくり」の謎解きのヒントは、下記の「新町通・室町通」などの「店の暖簾」の表示が、「広島屋・大阪屋・えちぜん(越前)屋」などの、「国名(地方名)」のものが多いのである。この隣接した「かぶき小屋」の「幔幕」」も、「さと志ま=佐渡島」の地名の興行小屋のよう雰囲気である。

歴博D本・店の暖簾.jpg

「歴博D本: 下京(新町通・室町通など)の店舗の暖簾」(「左隻」第三・四扇下上部)

舟木本・あやつり小屋.jpg

「舟木本: あやつり(人形浄瑠璃)小屋」(「右隻」第五扇上部)

 「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」の「あやつり(人形浄瑠璃)小屋」が、「舟木本」では、「山中常盤(人形浄瑠璃)」を演じている小屋と「阿弥陀胸割(人形浄瑠璃)」を演じている小屋と二軒が、上記のように描かれている。
 そして、「山中常盤(人形浄瑠璃)」を演じている小屋には、何と「巴紋」の「幔幕」が描かれている。

結城家・家紋.jpg

「結城家(結城秀康・松平忠直)家紋」(「舟木本・「山中常盤」小屋の幔幕の紋)「右隻」第五扇上部)

結城巴.jpg

「結城巴(「松平忠直」家紋)
https://kisetsumimiyori.com/hideyasu/

 このアドレスの「結城秀康の家紋と生涯¬―徳川家康の息子は父と不仲だった!?―」は、下記の項目にわたり「結城秀康・松平忠直」そして「戦国大名の家紋」を知る上で参考となる。

1 「秀康」の文字は秀吉と家康からもらった名前
1.1 秀吉に人質として送られた秀康
1.2 秀吉に実子が生まれて急変する立場
2 関ケ原では父・家康側に就く秀康
2.1 父・家康には嫌われていた?
3 結城秀康の家紋は「右三つ巴」
4 戦国武将117名の家紋一覧をまとめてチェックしよう

 「越前(北庄・福井)松平家」の「結城秀康(初代)・松平忠直(二代)」の家紋は、この「右三つ巴」が「定紋」(正式の紋。表紋)で、「松平忠直(二代)」は、この他に、徳川家の一族のみが使用できる「丸に三つ葉葵」を使用していた可能性についても、下記のアドレスで紹介されている(「松平忠昌(三代)以降は「「丸に三つ葉葵」、この「右三つ巴」は、結城秀康の五男、忠直の弟の「松平直基」が継承することになる)。

https://kisetsumimiyori.com/tadanao/

 ここまで来ると、下記のアドレスでは、《「右三つ巴紋=結城家紋」という雰囲気を有している》に留めていた、下記(再掲)の「舟木本・母衣武者その五図の『右三つ巴紋=結城家紋』(五図の二)」は、「右三つ巴紋=結城家紋」と解し、この「母衣武者」は「松平忠直」の英姿を見立てているものと、その解を一歩進めたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-08

(再掲)

母衣武者・三つ右巴紋.jpg

「舟木本・母衣武者その五図の『右三つ巴紋=結城家紋』(五図の二)」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 この「母衣武者」の、この「能・鞍馬天狗」(「鞍馬天狗」その二図)の、その「鞍馬天狗」の持っている「団扇」の形状の、その「指物」(旗指物、背旗)の中央に描かれている、この「家紋」が、「結城巴(「松平忠直」家紋)の、「右三つ巴紋=結城家紋」と解しても、依然として、その折に触れた、下記の、《下総結城氏十七代当主・結城晴朝の肖像画(「ウィキペディア」)の右手に持っている「団扇」の紋章の「三つ盛り三つ巴」》との整合性の問題はクリアしていない。
 この整合性の問題に関連しては、「定紋」(正式の紋。表紋)は、「右三つ巴紋」で、「替紋」(定紋のかわりに用いる紋。裏紋)の一つが、下総結城氏十七代当主・結城晴朝が持っている「団扇」の「三つ盛り三つ巴」と解して置きたい。

結城晴朝肖像.jpg

「結城晴朝肖像(安穏寺所蔵・東京大学史料編纂所模本)」(「ウィキペディア」)

(追記)

file:///C:/Users/User/Downloads/201603%20kume.pdf

「『阿弥陀胸割』の成立背景―法会唱導との関わり(粂汐理稿)」

【 上演記録が集中する慶長十九(一六一四)年前年は、徳川家康によって、キリスト教禁止令が発せられた年である。この頃から元和の大殉教に日本国内でキリシタンの迫害や殉教が激しさを増していった。和辻哲郎氏が述べるように、『阿弥陀胸割』の胸を割られて血を流す阿弥陀像に、キリスト像の投影がある可能性もあろう。当時の日本では、異国の説話や芸能を取り入れる環境が十分に整えられていたことも、近年報告されている。
 加えて繰り返し登場する、一光三尊の阿弥陀像も、慶長二(一五九七)年に行われたれた信濃善光寺如来(一光三尊像)が京都の方広寺に遷座された出来事も踏まえている可能性がある。こうした社会状況を押さえることで、『阿弥陀胸割』の詳しい成立背景が見えてくるのではないか。この問題については、国文学研究資料館所蔵古活字版の特徴と併せ、稿をあらためて述べてゆきたい。】

 上記の論稿(粂汐理稿)の、「慶長二(一五九七)年に行われたれた信濃善光寺如来(一光三尊像)が京都の方広寺に遷座された出来事も踏まえている可能性がある」ということは、下記の出来事を踏まえている。

【本尊は武田氏が織田信長に滅ぼされると(甲州征伐)、その嫡男・織田信忠によって伊奈波(善光寺 (岐阜市))へ、本能寺の変の後には織田信雄により尾張国甚目寺へ、譲り受けた徳川家康の手で遠江国鴨江寺、後に甲斐善光寺へと転々とした。1597年(慶長2年)には豊臣秀吉の命令で甲斐から京都の方広寺へと移されたが、1598年(慶長3年)に秀吉の病は本尊の祟りであるという噂から、死の前日に信濃へ帰された。この間、大本願の鏡空(智淨)や智誓(誓観)、智慶という三代の尼上人らが本尊に付き従って移動したとされ、大勧進の僧集団は残って本尊不在の荒れ果てた寺地を守っていたとされる。 】(「ウィキペディア」)

 それ以上に、「上演記録が集中する慶長十九(一六一四)年前年は、徳川家康によって、キリスト教禁止令が発せられた年である」に関連しては、下記のことなどが、その背景になっている。

【 江戸幕府は慶長17年3月21日(1612年4月21日)に江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じた禁教令を布告する。これ自体はあくまで幕府直轄地に対するものであったが、諸大名についても「国々御法度」として受け止め、同様の施策を行った。これは江戸幕府による最初の公式なキリスト教禁止の法令であった。
 これは布告された教会の破壊と布教の禁止以外にも、家臣団の中にいるキリスト教徒の捜査が行われ、該当した者は場合によって改易処分に付されるなど厳しい処置が取られた。特に旗本だった原胤信は、出奔後も信仰を続けたために家康の怒りを買い、最期は処刑されている。
 その後、一連の処置を総括した「条々」が同年8月6日に出され、1612年の禁教令は一段落する。また同年5月、岡本大八事件で改易された最後のキリシタン大名・有馬晴信が切腹に処されたため、キリシタン大名は完全に姿を消した。
 そして、翌慶長18年12月19日(1614年1月28日)、幕府は直轄地へ出していた禁教令を全国に広げた。また、合わせて家康は以心崇伝に命じて「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」を起草させ、秀忠の名で12月23日に公布させた(これは崇伝が一晩で書き上げたと言われる)。以後、これが幕府のキリスト教に対する基本法となる。
 この禁教令によって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌1614年11月(慶長19年9月)には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放された。その中には著名な日本人の信徒であった高山右近もいた。
 ただし、公的にはキリスト教は禁止になったが、幕府は信徒の処刑といった徹底的な対策は行わなかった。また、依然としてキリスト教の活動は続いていた。例えば中浦ジュリアンやクリストヴァン・フェレイラのように潜伏して追放を逃れた者もいたし(この時点で約50名いたといわれる)、密かに日本へ潜入する宣教師達も後を絶たなかった。京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタン達が住む区画も残ったままであった。幕府が徹底的な対策を取れなかったのは、通説では宣教師が南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためとされる。 】(「ウィキペディア」)
 
 この当時の江戸幕府の「キリスト教禁止令」の背景を知るには、下記のアドレスが参考となる。

https://toyokeizai.net/articles/-/355272

【 家康がキリスト教を禁止したのは、慶長14(1609)年に起きたポルトガルとのトラブルが契機になっていた。日本の朱印船が、マカオでポルトガル船のマードレ・デ・デウス号とトラブルになり乗組員60名が殺されてしまったのだ。
 その報復として、日本側は長崎に入港していたデウス号を撃沈させた。この一連の出来事では、幕府の役人と肥前日野江藩(長崎県)主の有馬晴信とのあいだの贈収賄事件なども絡み、江戸幕府草創期の大不祥事となった。この事件により、慶長17(1612)年に、家康は幕府直轄領に対して、キリシタンの禁制を発令した。
 しかし、この事件は、単なるきっかけに過ぎず、家康はキリスト教禁教の機会をうかがっていたのである。
 戦国時代当時、キリスト教は、我々が思っている以上に普及していた。キリシタン大名の追放が始まった慶長19(1614)年の時点で、日本人の信徒の数は少なく見積もっても20万、多い場合は50万人ほどいたと見られている。
 当時、日本の人口は1200万人程度だったとされているので、人口の2〜4%がキリスト教徒だったことになる。長崎を中心に、博多、豊後(大分)、京都などに布教の拠点があり、ポルトガル人やスペイン人の宣教師や教会関係者は、国内に100〜200人程度いて、教会は200か所あった。長崎などは、一時、イエズス会の領地のようになっていたこともあった。】(徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情)

「舟木本: あやつり(人形浄瑠璃)小屋」(「右隻」第五扇上部)の、この「阿弥陀胸割」の方も、どうやら、この、当時の「当時の江戸幕府の「キリスト教禁止令」と深い関わりのある雰囲気が彷彿と伝わって来る。
そして、この「阿弥陀胸割(あやつり)」の謎解きも、上述してきた「山中常盤(あやつり)」と、その謎解きのキィー・ポイントの一つであった「右三つ巴紋=結城家紋」と同じように、ここに描かれている「幔幕」の、下記の「家紋」らしきものからスタートするのが肝要なことなのかも知れない。
しかし、これは、「山中常盤(あやつり)=右三つ巴紋(結城家紋)」以上に、どうにも、
まだ、そのスタートの地点にも立っていない、全くの未踏査の分野ということになる。

阿弥陀胸割・家紋?.jpg

「舟木本・「阿弥陀胸割」小屋の幔幕の紋)「右隻」第五扇上部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 この「幔幕」の「家紋」らしきもの、どうにも正体不明だが、この傍に座っている二人の人物も、下記アドレスの、「岩佐又兵衛と兄弟子(?)」(「寝そべっての観客二人)に、何処となく似通っている雰囲気である。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-31

寝そべっての観客二人.jpg

「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」(右隻第一扇中部)→B図(その八)=A-3図(その十二)
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yahantei

 「歴博D本」と「舟木本」とを交互に見ていくと、慶長期から元和期にかけての、京都の「洛中洛外図」の、その全貌の一端が、その姿を見せてくる。
「歴博D本」の類作というのは、何種類かあるらしく(『人間文化研究機構連携展示 都市を描く―京都と江戸―』P222)、岩佐又兵衛が、この「舟木本」を制作するにあたって、この「歴博D本」をモデル化したかどうかは定かではないが、この種の「洛中洛外図」の「屏風絵」あるいは「襖絵」を、常時、目にしながら、それらを絶妙にアレンジして制作していたのではないかいうことが、例えば、前回の、「二条城と京都所司代」周辺、そして、今回の「六条柳町(三筋町)」周辺を探索していて、そんな雰囲気が濃厚に伝わってくる。。
それよりも、例えば、この「歴博D本」を制作した絵師と、「舟木本」を制作した「岩佐又兵衛」とは、例えば、同じ「工房」の、例えば、岩佐又兵衛の師の一人と目せられている「狩野内膳」の、その「工房」の、いわゆる、「兄弟絵師」という関係にあったのではないかというイメージすら抱かせる雰囲気をも感ずるのである。
 それと、もう一つ、この「狩野内膳工房」いうのは、当時の「仮名草子」(「易しい仮名文字で書かれた大衆小説」の類い)の『竹斎』(江戸初期の仮名草子。二巻。烏丸光広の作とする説もあるが,伊勢松坂生れの江戸の医師磯田道冶とする説が有力)に出てくる、「五条は扇の俵屋」の、その「俵屋」と関係があると目せられている、いわゆる、「琳派」の祖師の一人と目せられている、謎に満ちみちた、「法橋」の位をも得た「俵屋宗達」という絵師と、例えば、その工房と、何らかのルートで結ばれているような、そんな雰囲気も漂わせている。


(その五) 「歴博D本」と「舟木本」との「四条河原」の「あやつり小屋」の紋章など

「舟木本」だけでは見えて来なかった部分が、「歴博D本」と交互に見て行くと、これまで全く然素通りした部分が、新しい視点で、新しい示唆を与えてくれることには、やはり、「物事いうのは、相対的に見る」ということの大切さを痛感した。

「歴博D本」の、「四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」(「右隻」第三扇上部)の、「あやつり小屋」の「十」は、やはり、「島津家」の「十」というよりも、当時の「キリシタン禁教令」を背景としている「十字架」の「十」というのが、第一印象であった。
 しかし、「舟木本」の「山中常盤(あやつり)小屋」の「幔幕」の「巴紋」は、これまで全くの素通りをしていたことに関連して、これまでの、「舟木本」と「山中常盤絵巻」との関連、即ち、「舟木本」の注文主は、「越前松平家の結城秀康(初代)・松平忠直(二代)」周辺に、依然として軸足を置いているが、これは、どうやら、それ以上に、「阿弥陀胸割」と、当時の、「キリシタン禁教令」との関連の探索も必須なのかも知れない。
 この、「阿弥陀胸割」と「キリシタン禁教令」との背景を知る上で、下記のアドレスの、「『阿弥陀胸割』の成立背景―法会唱導との関わり(粂汐理稿)」は、貴重な論稿であった。

https://ir.soken.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=5340&item_no=1&page_id=29&block_id=155

【 上演記録が集中する慶長十九(一六一四)年前年は、徳川家康によって、キリスト教禁止令が発せられた年である。この頃から元和の大殉教に日本国内でキリシタンの迫害や殉教が激しさを増していった。和辻哲郎氏が述べるように、『阿弥陀胸割』の胸を割られて血を流す阿弥陀像に、キリスト像の投影がある可能性もあろう。当時の日本では、異国の説話や芸能を取り入れる環境が十分に整えられていたことも、近年報告されている。
 加えて繰り返し登場する、一光三尊の阿弥陀像も、慶長二(一五九七)年に行われたれた信濃善光寺如来(一光三尊像)が京都の方広寺に遷座された出来事も踏まえている可能性がある。こうした社会状況を押さえることで、『阿弥陀胸割』の詳しい成立背景が見えてくるのではないか。この問題については、国文学研究資料館所蔵古活字版の特徴と併せ、稿をあらためて述べてゆきたい。】

 ここで紹介されている「国文学研究資料館所蔵古活字版」の、「阿弥陀胸割」についても、下記アドレスで、その全文が閲覧することが出来る。

https://www.nijl.ac.jp/search-find/articles/gallery/200712.html

 さらに、「阿弥陀胸割」の、「阿弥陀胸割(三光寺) - YouTube」の一部終始の全貌が、下記のアドレスで知ることが出来る。

https://www.youtube.com/watch?v=IbLLGxuhZ38

https://toyokeizai.net/articles/-/355272

【 家康がキリスト教を禁止したのは、慶長14(1609)年に起きたポルトガルとのトラブルが契機になっていた。日本の朱印船が、マカオでポルトガル船のマードレ・デ・デウス号とトラブルになり乗組員60名が殺されてしまったのだ。
 その報復として、日本側は長崎に入港していたデウス号を撃沈させた。この一連の出来事では、幕府の役人と肥前日野江藩(長崎県)主の有馬晴信とのあいだの贈収賄事件なども絡み、江戸幕府草創期の大不祥事となった。この事件により、慶長17(1612)年に、家康は幕府直轄領に対して、キリシタンの禁制を発令した。
 しかし、この事件は、単なるきっかけに過ぎず、家康はキリスト教禁教の機会をうかがっていたのである。
 戦国時代当時、キリスト教は、我々が思っている以上に普及していた。キリシタン大名の追放が始まった慶長19(1614)年の時点で、日本人の信徒の数は少なく見積もっても20万、多い場合は50万人ほどいたと見られている。
 当時、日本の人口は1200万人程度だったとされているので、人口の2〜4%がキリスト教徒だったことになる。長崎を中心に、博多、豊後(大分)、京都などに布教の拠点があり、ポルトガル人やスペイン人の宣教師や教会関係者は、国内に100〜200人程度いて、教会は200か所あった。長崎などは、一時、イエズス会の領地のようになっていたこともあった。】(徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情)


 当時の「キリシタン大名」の面々は次のとおりである。

【あ行
明石全登(ジョアン、ヨハネ、ジョパンニ・ジュスト) - 宇喜多家の客将。関ヶ原の戦い、大坂の陣で活躍後行方不明。
天草種元(ジョアン)
天草久種(ドン=ジョアン) - 天草種元の子。
天野元信 - 熊谷元直娘婿。後に殉教者として列福。
有馬義貞(アンドレ) - 肥前日野江(島原)領主。
有馬晴信(プロタジオ) - 有馬義貞の次男。岡本大八事件で刑死。
有馬直純(サンセズ) - 有馬晴信の子、棄教後は迫害者に転じる。
石橋忠義(サンチョ) - 室町幕府御一家である石橋氏当主。織田信長より追放された後、松永久秀に身を寄せた際に入信。
池田教正(シメアン) - 丹後守。
一条兼定(ドン・パウロ) - 土佐中村一条家当主。大友義鎮の甥であり娘婿。
伊東祐勝(ジェロニモ) - 伊東義賢の弟。
伊東義賢(バルトロメオ) - 伊東義祐の嫡孫。母方縁戚・大友宗麟の影響でキリシタンとなる。
宇久純尭(ドン=ルイス) - 五島島主。宇久純定の次男。
宇久純定
大友義鎮(ドン・フランシスコ) - 豊後領主。代表的なキリシタン大名の一人。宗麟の法号で知られている。
大友親家(セバスチャン) - 大友義鎮の次男。田原親貫の養子。
大友親盛(パンタレアン) - 大友義鎮の三男。田原親賢の養子。
大友義統(コンスタンチノ) - 大友義鎮の長男。棄教。
大村純忠(バルトロメオ) - 日本最初のキリシタン大名。
大村喜前(サンチョ) - 大村純忠の子。棄教。
大矢野種基(ジャコべ)
岡越前守 - 宇喜多氏家臣。
織田秀信(ペトロ) - 織田信忠の嫡男、信長の嫡孫。
織田秀則(パウロ) - 織田信忠の次男、信長の孫。

か行
加賀山興良(ディエゴ) - 通称隼人、高山右近、蒲生氏郷、細川忠興らに仕える。1619年、禁教令に叛いて殉教、斬首された。
蒲生氏郷(レオ) - 日野、会津を領す。
木下勝俊(ペテロ) - 若狭小浜城主。北政所(ねね)の甥。
岐部信泰 - 大友家臣。石垣原の戦いで戦死。
木村清久(ジョアン) - 豊臣家臣。大坂夏の陣で戦死。
京極高吉 - 晩年に受洗するも急死。
京極高次 - 秀吉、家康に仕えて近江大津、若狭小浜を領す。
京極高知 - 秀吉、家康に仕えて信州伊奈、丹後宮津を領す。
熊谷元直(メルキオール) - 安芸熊谷氏。後に主君の毛利輝元により処刑される。死後、殉教者として祭られる。

黒田直之(ミゲル) - 黒田孝高の弟。黒田二十四騎の一人。
黒田長政(ダミアン) - 棄教後、迫害者に転じる。
※黒田孝高(シメオン) - 官兵衛の通称と如水の号で知られる。豊臣秀吉の家臣。
黒田利高 - 黒田孝高の同母弟。黒田二十四騎の一人。
黒田利則 - 黒田孝高の同母弟。黒田二十四騎の一人。

籠手田安一(ジェロニモ) - 籠手田安経の子。
籠手田安経(アントニオ) - 平戸松浦氏重臣。日本キリシタンの礎石と仰がれる。1550年代に受洗。
籠手田安昌(ルイス) - 籠手田安経の父。
五島玄雅 - 宇久純定の四男。棄教。
小西如清(ベント) - 小西隆佐の長男。
小西主殿介(ペトロ) - 小西隆佐の子、小西行長の異母兄。
小西行景(ジョアン) - 小西隆佐の三男。
小西行長(アウグスティノ) - 関ヶ原敗戦後、キリシタンであるため切腹を拒み刑死。
小西隆佐(ジョウチン) - 小西行長の父。

さ行
税所敦朝(レオ) - 北郷三久家臣。薩摩の殉教者。
坂崎直盛(パウロ) - 宇喜多忠家の子。石見津和野藩主。
三箇頼照(サンチョ) - 明智光秀に味方し没落。
志賀親次(ドン=パウロ) - 大友義統家臣。島津軍の侵攻を何度も食い止めた。
志岐鎮経(麟泉)(ドン=ジョアン) - 後に棄教し、迫害側に回る。
志岐諸経 - 有馬晴純の五男。志岐麒泉の養子。親重、親弘?
斯波義銀?(サンショ?) - 尾張守護斯波義統の子。但し実際には同時期に共に追放された石橋忠義(サンチョ)と混同されたものと思われる。
宗義智(ダリオ) - 対馬領主。小西行長の娘マリアを妻に迎えたときに受洗したが、関ヶ原の合戦後すぐに棄教、マリアも離縁した。

た行
高山友照(ダリオ) - 飛騨守。高山右近の父。畿内における最初期のキリシタン大名の一人。
高山右近(ドン・ジュスト) - 代表的なキリシタン大名。一時、明石城主。追放先のマニラで客死。
田中吉政(バルトロメオ)
田原親虎(シマン) - 公卿柳原氏から田原親賢の養子。
筒井定次 - 筒井順国の長男。筒井順慶の養子。
津軽信堅 - 津軽為信の次男。
津軽信建 - 津軽為信の長男。
津軽信枚 - 津軽為信の三男。
寺沢広高(アゴスティニョ) - 棄教後は迫害者に転じる。
朝長純安(ドン=ルイス) - 大村家臣。

な行
内藤如安(ジョアン) - 追放され、マニラで客死。
長崎純景(ベルナルド)
新納久饒 - 新納康久の次男。
新納康久 - 鶴丸城主。
新納旅庵 - 新納康久の三男。

は行
支倉常長(ドン・フィリッポ・フランシスコ) - 伊達政宗の家臣。
原胤信(ジョアン) - 江戸時代初期の旗本。
福田兼次(ジョーチ) - 大村家臣。福田城主。
畠山高政 - 河内国畠山氏の当主。晩年に帰依。
林田助右衛門(レオ) - 肥前国有馬氏四天王
細川興元 - 細川幽斎の次男。細川忠興の弟。

ま行
前田秀以(パウロ) - 前田玄以の長男。
前田茂勝(コンスタンチノ) - 前田玄以の次男。
牧村利貞 - 利休七哲の一人。稲葉一鉄の孫。
松浦隆信(宗陽) - 松浦氏28代当主。松浦隆信(道可)の曽孫。江戸幕府の禁教令のため棄教。
真鍋貞成 - 第一次木津川口合戦で織田方に属して戦死した真鍋貞友(七五三兵衛)の子。ローマ法王に宛てた手紙に署名している。
毛利重政 - 豊後速水郡の内で1万石。豊後守。
毛利高政 - 豊後佐伯領主。伊勢守。
毛利秀包(シマオ) - 毛利元就の子、小早川隆景の養子。筑後国久留米城主。

や行
結城忠正(アンリケ) - 山城守。畿内における最初期のキリシタン大名の一人。
山科勝成(ロルテス) - 蒲生氏郷に召抱えられたとされるローマ人武士。架空の存在という指摘がある。

ら行
六角義賢 - 織田信長の侵攻の前に敗れ所領を失った晩年に受洗。

わ行
脇田直賢 - 李氏朝鮮出身の加賀前田氏の家臣。金沢町奉行。
高山右近 - 2017年列福(フランシスコによる) 】(「ウィキペディア」)

「武将(大名)の家紋」は、下記のアドレスが詳しい。

https://www.touken-world.jp/family-crest/

 ここで、下記の正体不明の「家紋」らしきものは、「※黒田孝高(シメオン)」の「黒田藤」のアレンジという雰囲気でなくもない。

【「舟木本・「阿弥陀胸割」小屋の幔幕の紋)「右隻」第五扇上部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 この「幔幕」の「家紋」らしきもの、どうにも正体不明だが、この傍に座っている二人の人物も、下記アドレスの、「岩佐又兵衛と兄弟子(?)」(「寝そべっての観客二人)に、何処となく似通っている雰囲気である。   】

 そして、この「黒田孝高(官兵衛・如水)」は、「越前松平家の結城秀康(初代)」と、下記の「ウィキペディア」のとおり、深い関係にある二人ということになる。

【徳川家康の庶子である結城秀康は、小牧・長久手の戦いの和睦の際に、人質として豊臣秀吉に差し出され、養子となっていた。その後、秀吉に実子・豊臣鶴松が誕生し、小田原征伐の後に家康が関東へ移封となると、孝高の執り成しにより北関東の名門で11万1千石を領していた結城晴朝の養子となり、後を継いだ。関ヶ原の戦いの後の伏見では、孝高の屋敷に3日に1度訪れるほど親交している。】(「ウィキペディア」)



by yahantei (2022-01-04 10:42) 

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