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川原慶賀の世界(その二十一) [川原慶賀の世界]

(その二十一)「川原慶賀の肖像画」周辺

「永島キク刀自絵像」(川原慶賀筆).jpg

「永島キク刀自絵像」(川原慶賀筆)長崎歴史文化博物館蔵(A図)
https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/38
≪ 江戸時代後期に活躍した長崎の絵師・川原慶賀の筆による長崎の人・永島キクの肖像画。熊本藩士で国学者・歌人である中島広足(なかしまひろたり)(1792~1864)の賛。落款から慶賀75歳の時の作とわかるが、広足賛文の年記が萬延元年(1860)であるので、そこから慶賀の生年が天明6年(1786)であることも知ることができる。
慶賀の生年を知る唯一の資料とも言える。本図は長崎で「お絵像」と称される肖像画であるが、そのなかでも優品のひとつに数えられる。慶賀の絵画的特色は写実性にあるが、本図においてもそれを十分にうかがうことができる。賛文に「八十ぢにさへあまりぬるに、さらにおひおひしきけはひもなきは……」とあるが、慶賀は画像においてそれを見事に表現した。細やかな顔面描写による老女の似姿の生き生きとした表現、衣装の帯や襟の群青と襟元、袖口の朱の対比による若々しい雰囲気の描出などに、それを見ることができる。絹本着色。掛幅装。縦97.5cm、横37.3cm。≫(「長崎県の文化財」)

「荻生徂徠像」(川原慶賀筆/富田東火賛).jpg

「荻生徂徠像」(川原慶賀筆/富田東火賛)(「東京国立博物館」蔵)(B図)
材質・構造・技法:絹本着色 サイズ:108.0×39.4㎝
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0091605
https://history-g.com/jpn/images/view/568

≪ 荻生徂徠の肖像画(川原慶賀 画)
 江戸時代中期の儒学者、思想家、学者。本姓は物部氏、名は双松(なべまつ)、字は茂卿(しげのり)、通称は総右衛門、一般に知られる「徂徠」は号である。5代将軍・徳川綱吉の侍医・荻生方庵(景明)の子として江戸で誕生。幼少より学問に秀で、儒者の林春斎や林鳳岡に学んだ。14歳の時、父が将軍・綱吉の怒りを買い蟄居、一家で江戸から上総国長柄郡に移住し、徂徠はこの地で独学により学問に励んだ。のち、父の赦免にともない江戸へ戻り、5代将軍・綱吉の側用人である柳沢吉保に仕えた。吉保失脚後は日本橋茅場町に居住し、私塾「蘐園塾(けんえんじゅく)」を開き、多くの人材を育てた。8代将軍・徳川吉宗の政治的助言者としても活躍し、政治改革論『政談』を提出するなどしている。墓所は東京の港区にある長松寺。5代将軍・綱吉の時代に起きた「元禄赤穂事件」の際、徂徠が浪士たちの切腹論を主張したことは有名。また、落語や講談の演目で知られる『徂徠豆腐』は、将軍の御用学者へ出世した徂徠が、貧困時代の恩人である豆腐屋に「元禄赤穂事件」をきっかけに再会するというストーリー。≫

 下記のアドレスで、A図の「永島キク刀自絵像」(川原慶賀筆)」周辺のことについて、「個性がない個性こそ慶賀の武器」として、長崎の『お絵像さま』(肖像画の一種)の系列に連なる作品とし、次のように記述している。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index2.html

【 長崎の『お絵像さま』は、肖像画の一種で、しかも極めて私的な俗人の肖像画。平日は蔵の中に収めてあり、正月の七五三(旧暦)、2月の節分、3月の雛節句、5月の男節句、7月の盆祭、9月の諏訪祭礼(現在は10月だが長崎くんちの3ヶ日)に『お絵像さま』の掛け物をかけ、家内一同礼拝するのが通例で、その際、例えば正月であれば、膳や椀にはどれも家紋が描かれた屠蘇・雑煮・黒豆・数ノ子など、必ず行事毎にそった料理をお供えしていたという。旧家では、紋付の羽織を着け、『お絵像さま』の前で祝酒や祝膳の前に座って家族が楽しい食事をする、というように、元禄時代から明治初年頃まで長崎ではこの『お絵像さま』を中心にした先祖崇拝の形ができあがっていたという。
 慶賀の肖像画的作品は、昭和のはじめまで相当数残されていたが、戦災焼失したり、戦後の混乱で行方不明になったり、またはその性質上、個人宅に秘蔵されていたりしているため、実際に見る機会は少ないのが現状だ。町絵師であった慶賀にとって、この“お絵像”の注文が最も安定した収入源であったと考えられている。慶賀が描いた“お絵像”で最も特徴的なのは“顔面描写”。
また、慶賀の“お絵像”を含む肖像画的作品は、シーボルトのための仕事をした時期をはさんだ作品で、特徴が異なることから前期、後期に分けられている。
その特徴はというと、前期は像主に似せて描くという写実ではなく、像主の特徴を誇張して描くという点。そして後期は描線がほとんどなく、陰影のみで立体的に描出している点だ。この描法は、黄檗画からもたらされた立体表現法だそうで、慶賀の場合はそれよりもさらに一歩進んだ合理的な陰影法による真の洋画的技法なのだという。
 シーボルトの仕事を重ねることによってさらに綿密な観察眼と洋画的描写力に磨きをかけ、また、いかに像主に似せるかということに力を降り注いでいたようだ。その技法は、一定の枠にとらわれず自分が目指す写実に適したものは、新旧問わず自由に取り入れようとした姿勢に基づくもの。その作画態度と、それを可能にしたのはやはり、慶賀が“長崎”という自由の雰囲気のある土地で活動した画家だったからといわれている。唐絵目利という拘束に縛られることない町絵師・慶賀は、自由に、そして貪欲に多くの画法を取入れながら注文に応じて多様な作風の仕事をした。そして膨大な数の作品を後世に残したのだ。 】

 『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』では、「第七章 肖像画家川原慶賀」(お絵像さま/日本の肖像画/初期のお絵像/最後のお絵像/正統なお絵像様式/慶賀の肖像画/後期のお絵像/慶賀お絵像の独自性/崋山と慶賀/前期のお絵像/誇張的表現/多様な画法の試み)で、詳細に論じている。
上記の「永島キク刀自絵像(川原慶賀筆)・長崎歴史文化博物館」(A図)は、「慶賀の後期のお絵像」の代表的な作品で、その落款には、「七十五歳 種美写」(「種美」は「字(あざな)」)とあり、慶賀の万延元年(一八六〇)頃の七十五歳時の作品で、その生年が、天明六年(一七八六)と推定できる唯一の資料として貴重な作品ということになる。
 次の「荻生徂徠像(川原慶賀筆/富田東火賛・「東京国立博物館」蔵)」(B図)は、『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』では、紹介されていない。そして、「失われた慶賀作品」(P209)の中に、「9 物徂徠絵像 長崎熊本吉祥(旧蔵者)/紙本着彩・三尺一寸×一尺三寸(材質・法量)/富田東火賛・印「田口之印」「慶賀」(落款・印章)」と記述されている。
 この「法量」の「三尺一寸×一尺三寸」は、「東京国立博物館」蔵の「サイズ」の「108.0×39.4㎝」とほぼ一致し、「富田東火賛・印『田口之印』『慶賀』」も同一と思われ、
『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』所「失われた慶賀作品」の「9 物徂徠絵像」は、同一作品と解したい。
 「荻生徂徠像(川原慶賀筆/富田東火賛・「東京国立博物館」蔵)」(B図)を拡大すると、次のとおりである。

「荻生徂徠像(川原慶賀筆/富田東火賛・「東京国立博物館」蔵)(拡大図)」.jpg

「荻生徂徠像(川原慶賀筆/富田東火賛・「東京国立博物館」蔵)(拡大図)」(B-1図)
右下端の印章=「田口之印」「慶賀」(?)

 この「富田東火賛」の「富田東火」は不明であるが、「富田日岳(にちがく)=富田大鳳(たいほう)」(江戸時代中期-後期の儒者,医師。肥後熊本藩に仕え、父に医学と荻生徂徠の学をまなぶ。)に連なる一人のように思われる。

【富田大鳳(とみた たいほう)
 1762-1803 江戸時代中期-後期の儒者,医師。宝暦12年生まれ。富田春山の長男。肥後熊本藩につかえる。父に医学と荻生徂徠(おぎゅう-そらい)の学をまなぶ。寛政3年藩医学校の再春館師役。「大東敵愾(てきがい)忠義編」などをあらわし,幕末の肥後勤王党の成立に影響をあたえた。享和3年2月25日死去。42歳。字(あざな)は伯図。通称は大淵。号は日岳。 】(「デジタル版 日本人名大辞典」)

【再春館(さいしゅんかん)
 肥後の領主細川重賢は宝暦6年(1756年)に藩校時習館を創立した。すでに私塾(復陽堂)を持ち、細川重賢を治療し、信頼がある村井見朴(けんぼく)に対して、重賢は宝暦6年12月、医学寮を作ることを命令し、現在の熊本市二本木に宝暦7年(1757年)1月19日、再春館が発足した。見朴は筆頭教授。当時の校舎の図面が残されているが、多くの寮をもち、また講堂、植物園を備えている。宝暦6年12月21日付細川家文書が残っている。 】(「ウィキペディア」)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1028372?tocOpened=1

『富田大鳳 (「国立国会図書館デジタルコレクション」)
標題
・目次
・第一章 緒論/1
・第二章 先生の祖先/3
・第一節 先生の家系/3
・第二節 祖父龍門先生/10
・第三節 嚴父春山先生/17  → (メモ・「大鳳」の父の「春山」)
・第三章 幼少時代の先生/27
・第一節 菊鹿の山川/27
・第二節 先生の誕生と天下の形勢/34
・(一) 先生の誕生/34
・(二) 天下の形勢/36
・第三節 家庭及び幼時/41
・第四章 修養時代の先生/45
・第一節 熊本轉居時代の先生/45
・第二節 津袋再住時代の先生/54
・第三節 熊本再出時代の先生/56
・第五章 再春館時代の先生/69  →(メモ・「大鳳」と「再春館」)
・第一節 再春館/69
・第二節 再春館出仕時代の先生/76
・(一) 再春館句讀師時代/76
・(二) 再春館師役並醫業吟味役兼帶時代/82
・第三節 富田塾の學風/93
・(一) 塾舍/93
・(二) 學風/95
・第六章 先生の性格/99
・第一節 先生の尊皇心/99
・第二節 先生の孝心/101
・第三節 先生の逸話/112
・第七章 先生の交友/121
・第一節 大鳳先生と高山彦九郎/121 →(メモ・「大鳳と高山彦九郎」)
・第二節 熊本の知巳/139
・(一) 有馬白嶼/140
・(二) 葛西一詮/153
・(三) 齋藤芝山/155
・(四) 境野凌雲/163
・(五) 本田四明/166
・(附記)高本紫溟/168
・第三節 菊鹿の知己/178
・(一) 友人/178
・(1) 山崎文林/178
・(2) 田中清湲/182
・(3) 富田松齋/183
・(4) 西島某郷吏/184
・(5) 長野淳庵/185
・(6) 志賀親信/185
・(二) 門人/186
・(1) 池邊太璞/187
・(2) 石淵含章/189
・(3) 島克/191
・(4) 木庭君山/192
・(5) 長野仲英及大受/195
・(6) 岐部珀菴/198
・(7) 甲斐民淳/198
・(8) 其他の門人/199
・第八章 先生の山水癖/200
・第一節 旅行と詩賦/200
・第二節 東遊雜感/209
・第九章 終焉及び子孫/218 →(メモ・「大鳳の死と嫡男・文山」と「文山の継受者」
・第一節 先生の終焉/218
・第二節 先生の子孫/224
・第三節 御贈位の光榮/235
・第十章 先生の思想/237
・第一節 哲學思想/237
・第二節 勤王思想/244
・第三節 文學思想/250
・第四節 醫學思想/260
・第十一章 結論/266
・附録(1) 龍門先生詩抄/271
・附録(2) 春山先生詩抄/276
・附録(3) 日岳先生詩抄/284
・附録(4) 文山先生詩抄/299
・附録(5) 大東敵愾忠義編抄/301
・附録(6) 富田氏系圖/323
・附録(7) 大鳳先生關係年表/後表  』

 ここで、翻って、「荻生徂徠像(川原慶賀筆/富田東火賛・「東京国立博物館」蔵)」(「B図」「B-1図」)の制作時期は、「富田日岳(にちがく)=富田大鳳(たいほう)」が亡くなった「享和三年(一八〇三)」(慶賀=十七歳前後)の、いわゆる、「慶賀前期(初期)の肖像画(お絵像様)」ではなく、「永島キク刀自絵像(川原慶賀筆)・長崎歴史文化博物館」(A図)と、同時代の、「慶賀の後期のお絵像」の、その代表的な作品の「永島キク刀自絵像」に匹敵する作品と解したい。
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川原慶賀の世界(その二十) [川原慶賀の世界]

(その二十)「川原慶賀の長崎歳時記(その十二)「掛取り」周辺

慶賀・掛取り図.jpg

作品名:掛取り(A図)  (「シーボルト・コレクション」)
●Title:Debt collection, December
●分類/classification:年中行事、12月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

『 (掛取り)

https://mainichi.jp/articles/20171226/ddm/001/070/098000c

 「元日や今年もあるぞ大晦日(おおみそか)」。当たり前の話なのに川柳になるのは江戸の昔は大みそかが借金取りとの攻防の日だったからだ。日用品も掛け売りが普通だったので、大みそかに掛け取りがどっと家に来た▲「大晦日亭主家例の如(ごと)く留守」「掛取りが来ると作兵衛うなり出し」「押入れで息を殺して大晦日」。借金取りから逃れる仮病や居留守は川柳の笑いの定番であった。井原西鶴(いはらさいかく)の「世間胸算用(せけんむねさんよう)」には手の込んだ借金取り撃退法がある▲「亭主の腹わたをくり出しても取る」。留守番を脅しつける男の勢いに、他の借金取りは「ここはだめだ」とあきらめる。だが当の亭主はどなっている男の留守宅で同じことをしていた。借金取り撃退の「大晦日の入れ替わり男」だ。』

 「画狂人・卍」こと「葛飾北斎」は、「狂句人・卍」も名乗っていた。その狂句が今に遺されている。

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2022-10-22

(再掲)

『 その一 除夜更てなが雪隠の二年越シ

除夜更(ふけ)てなが雪隠(せっちん)の二年越シ 卍 文政十年(一八二七)

●除夜(じょや)=おおみそかの夜。一年の最後の晩。除夕(じょせき)。《季・冬》
●雪隠(せっちん)=便所のこと。かわや。こうか。東司(とうす)。せっちん。せんち。せちん。また特に、茶室につけられた便所。
●掛取り=掛け売りの代金を受け取ること。また、その集金人。掛け乞い。掛け集め。《季・冬》 
※浮世草子・世間胸算用(1692)三「掛取(カケトリ)上手の五郎左衛門」
※団団珍聞‐一四三号(1880)「明日は元日〈略〉今夜は債乞(カケトリ)が来るから表戸(おもて)を叩いた人があったら留守だと云(いっ)ておいで」
https://senjiyose.com/archives/757

※昔は、日常の買い物はすべて掛け買いで、決算期を節季(せっき)といい、盆・暮れの二回でした。特に大晦日は、商家にとっては、掛売りの借金が回収できるか、また、貧乏人にとっては踏み倒せるかどうかが死活問題で、古く井原西鶴(1642-93)の「世間胸算用」でも、それこそ笑うどころではない、壮絶な攻防戦がくりひろげられています。むろん、江戸でも大坂でも掛け売り(=信用売り)するのは、同じ町内の生活必需品(酒、米、炭、魚など)に限ります。

句意=大晦日、今日は「掛取り」の「トリ」が、「カエセー・カエセー」とやってくる。ついつい、「便所」にこもって、除夜の更けるのを待って、新年を迎える羽目になってしまった。 』

 ここで、どうにも気掛かりのことがある。慶賀は、先に、一連の「長崎歳時記(年中行事)もの」として、特別仕立てのような、「かるた取り図」(下記の左図の「「B図-1」)と「菊取り図」(下記の右図の「「B図-3」)などを、「紙本彩色(著色)・軸物」で、「ライデン国立民族学博物館」(「フイッセル・コレクション」)所蔵で、今に遺している。
 これに、今回の「掛取り」を連動させると、「かるた取り」(正月)・「菊取り(九月)・「掛取り」(十二月)」の「トリ」もの三幅ということになる。
 この「掛取り」(A図)に対応する一幅ものは目にしないが、これを、先に紹介した「夫婦対幅のうち:夫」(下記中央の「B図-2」)で代用して、「トリ」もの三幅とすると、次のとおりとなる。

川原慶賀の「トリ」もの三幅対(B図).png

川原慶賀の「トリ」もの三幅対(B図)
左図「かるた取り図」(「B図-1」)
中図「掛取り図」「夫婦対幅のうち:夫」図の代用)」(「B図-2」)
右図「菊取り図」(「B図-3」)

 この「掛取り図」「夫婦対幅のうち:夫」図の代用)」(「B図-2」)を真ん中に据えると、
左図「かるた取り図」(「B図-1」)は、「花札=博打図」、そして、右図「菊取り図」(「B-3」)は「菊酒=酒合戦図」は変身(「見立て替え」)することになる。
 ここまで来ると、「川原慶賀の世界」ではなく、「井原西鶴『世間胸算用』」などの世界となって来るが、この「掛取り」(A図)と、この「「トリ」もの三幅対(B図)には、「井原西鶴『世間胸算用』」の『胸算用巻二の二「訛言(うそ)も只は聞かぬ宿」の、太宰治の『新釈諸国噺』の「粋人(すいじん)」が似つかわしい。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2269_15103.html

(参考)太宰治の『新釈諸国噺』の「粋人(すいじん)」

【 粋人

「ものには堪忍(かんにん)という事がある。この心掛けを忘れてはいけない。ちっとは、つらいだろうが我慢をするさ。夜の次には、朝が来るんだ。冬の次には春が来るさ。きまり切っているんだ。世の中は、陰陽、陰陽、陰陽と続いて行くんだ。仕合せと不仕合せとは軒続きさ。ひでえ不仕合せのすぐお隣りは一陽来復の大吉さ。ここの道理を忘れちゃいけない。来年は、これあ何としても大吉にきまった。その時にはお前も、芝居の変り目ごとに駕籠(かご)で出掛けるさ。それくらいの贅沢(ぜいたく)は、ゆるしてあげます。かまわないから出掛けなさい。」などと、朝飯を軽くすましてすぐ立ち上り、つまらぬ事をもっともらしい顔して言いながら、そそくさと羽織をひっかけ、脇差(わきざし)さし込み、きょうは、いよいよ大晦日(おおみそか)、借金だらけのわが家から一刻も早くのがれ出るふんべつ。家に一銭でも大事の日なのに、手箱の底を掻かいて一歩金(いちぶきん)二つ三つ、小粒銀三十ばかり財布に入れて懐中にねじ込み、「お金は少し残して置いた。この中から、お前の正月のお小遣いをのけて、あとは借金取りに少しずつばらまいてやって、無くなったら寝ちまえ。借金取りの顔が見えないように、あちら向きに寝ると少しは気が楽だよ。ものには堪忍という事がある。きょう一日の我慢だ。あちら向きに寝て、死んだ振りでもしているさ。世の中は、陰陽、陰陽。」と言い捨てて、小走りに走って家を出た。

 家を出ると、急にむずかしき顔して衣紋(えもん)をつくろい、そり身になってそろりそろりと歩いて、物持の大旦那(おおだんな)がしもじもの景気、世のうつりかわりなど見て(廻まわっ)ているみたいな余裕ありげな様子である。けれども内心は、天神様や観音様、南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、不動明王摩利支天(まりしてん)、べんてん大黒、仁王(におう)まで滅茶(めちゃ)苦茶にありとあらゆる神仏のお名を称となえて、あわれきょう一日の大難のがれさせ給たまえ、たすけ給えと念じて眼めのさき真暗、全身鳥肌とりはだ立って背筋から油汗がわいて出て、世界に身を置くべき場所も無く、かかる地獄の思いの借財者の行きつくところは一つ。花街である。けれどもこの男、あちこちの茶屋に借りがある。借りのある茶屋の前は、からだをななめにして蟹(かに)のように歩いて通り抜け、まだいちども行った事の無い薄汚い茶屋の台所口からぬっとはいり、
「婆はいるか。」と大きく出た。もともとこの男の人品骨柄(じんぴんこつがら)は、いやしくない。立派な顔をしている男ほど、借金を多くつくっているものである。悠然(ゆうぜん)と台所にあがり込み、「ほう、ここはまだ、みそかの支払いもすまないと見えて、あるわ、あるわ、書附(かきつけが)。ここに取りちらかしてある書附け、全部で、三、四十両くらいのものか。世はさまざま、〆(しめ)て三、四十両の支払いをすます事も出来ずに大晦日を迎える家もあり、また、わしの家のように、呉服屋の支払いだけでも百両、お金は惜しいと思わぬが、奥方のあんな衣裳(いしょう)道楽は、大勢の使用人たちの手前、しめしのつかぬ事もあり、こんどは少しひかえてもらわなくては困るです。こらしめのため、里へかえそうかなどと考えているうちに、あいにくと懐姙(かいにん)で、しかも、きょうこの大晦日のいそがしい中に、産気づいて、早朝から家中が上を下への大混雑。生れぬさきから乳母を連れて来るやら、取揚婆とりあげばばを三人も四人も集めて、ばかばかしい。だいたい、大長者から嫁をもらったのが、わしの不覚。奥方の里から、けさは大勢見舞いに駈かけつけ、それ山伏、それ祈祷(きとう)、取揚婆をこっちで三人も四人も呼んで来てあるのに、それでも足りずに医者を連れて来て次の間に控えさせ、これは何やら早め薬とかいって鍋(なべ)でぐつぐつ煮てござる。安産のまじないに要るとか言って、子安貝(こやすがい)、海馬(かいば)、松茸(まつたけ)の石づき、何の事やら、わけのわからぬものを四方八方に使いを走らせて取寄せ、つくづく金持の大袈裟(おおげさ)な騒ぎ方にあいそがつきました。旦那様は、こんな時には家にいぬものだと言われて、これさいわい、すたこらここへ逃げて来ました。

 まるでこれでは、借金取りに追われて逃げて来たような形です。きょうは大晦日だから、そんな男もあるでしょうね。気の毒なものだ。いったいどんな気持だろう。酒を飲んでも酔えないでしょうね。いやもう、人さまざま、あはははは。」と力の無い笑声を発し、「時にどうです。言うも野暮だが、もちろん大晦日の現金払いで、子供の生れるまで、ここで一日あそばせてくれませんか。たまには、こんな小さい家で、こっそり遊ぶのも悪くない。おや、正月の鯛(たい)を買いましたね。小さい。家が小さいからって遠慮しなくたっていいでしょう。何も縁起ものだ。もっと大きいのを買ったらどう?」と軽く言って、一歩金一つ、婆の膝ひざの上に投げてやった。
 婆は先刻から、にこにこ笑ってこの男の話に相槌(あいづち)を打っていたが、心の中で思うよう、さてさて馬鹿(ばかな男)だ、よくもまあそんな大嘘(おおうそ)がつけたものだ、お客の口先を真に受けて私たちの商売が出来るものか。酔狂のお旦那がわざと台所口からはいって来て、私たちをまごつかせて喜ぶという事も無いわけではないが、眼つきが違いますよ。さっき、台所口から覗(のぞ)いたお前さんの眼つきは、まるで、とがにんの眼つきだった。借金取りに追われて来たのさ。毎年、大晦日になると、こんなお客が二、三人あるんだ。世間には、似たものがたくさんある。玉虫色のお羽織に白柄(しらつか)の脇差、知らぬ人が見たらお歴々と思うかも知れないが、この婆の目から見ると無用の小細工。おおかた十五も年上の老い女房(にょうぼう)をわずかの持参金を目当てにもらい、その金もすぐ使い果し、ぶよぶよ太って白髪頭(しらがあたま)の女房が横坐(ずわ)りに坐って鼻の頭に汗を掻(かき)ながら晩酌(ばんしゃく)の相手もすさまじく、稼(かせぎ)に身がはいらず質八(しちばち)置いて、もったいなくも母親には、黒米の碓からうすをふませて、弟には煮豆売りに歩かせ、売れ残りの酸すくなった煮豆は一家のお惣菜(そうざい)、それも母御の婆ばあさまが食べすぎると言って夫婦でじろりと睨にらむやつさ。それにしても、お産の騒ぎとは考えた。取揚婆が四人もつめかけ、医者は次の間で早め薬とは、よく出来た。お互いに、そんな身分になりたいものさね。大阿呆(おおあほう)め。お金は、それでもいくらか持っているようだし、現金払いなら、こちらは客商売、まあ、ごゆるりと遊んでいらっしゃい。とにかく、この一歩金、いただいて置きましょう、贋金(にせがね)でもないようだ。

「やれうれしや、」と婆はこぼれるばかりの愛嬌(あいきょう)を示して、一歩金を押しいただき、「鯛など買わずに、この金は亭主(ていしゅ)に隠して置いて、あたしの帯でも買いましょう。おほほほ。ことしの年の暮は、貧乏神と覚悟していたのに、このような大黒様が舞い込んで、これで来年中の仕合せもきまりました。お礼を申し上げますよ、旦那。さあ、まあ、どうぞ。いやですよ、こんな汚い台所などにお坐りになっていらしては。洒落(しゃれ)すぎますよ。あんまり恐縮で冷汗が出るじゃありませんか。なんぼ何でも、お人柄にかかわりますよ。どうも、長者のお旦那に限って、台所口がお好きで、困ってしまいます。貧乏所帯の台所が、よっぽどもの珍らしいと見える。さ、粋(すい)にも程度がございます。どうぞ、奥へ。」世におそろしきものは、茶屋の婆のお世辞である。
 お旦那は、わざとはにかんで頭を掻き、いやもう婆にはかなわぬ、と言ってなよなよと座敷に上り、
「何しろたべものには、わがままな男ですから、そこは油断なく、たのむ。」と、どうにもきざな事を言った。婆は内心いよいよ呆(あき)れて、たべものの味がわかる顔かよ。借金で首がまわらず青息吐息で、火を吹く力もないような情ない顔つきをしている癖に、たべものにわがままは大笑いだ。かゆの半杯も喉(のど)には通るまい。料理などは、むだな事だ、と有合せの卵二つを銅壺(どうこ)に投げ入れ、一ばん手数のかからぬ料理、うで卵にして塩を添え、酒と一緒に差出せば、男は、へんな顔をして、
「これは、卵ですか。」
「へえ、お口に合いますか、どうですか。」と婆は平然たるものである。
 男は流石(さすが)に手をつけかね、腕組みして渋面つくり、
「この辺は卵の産地か。何か由緒(ゆいしょ)があらば、聞きたい。」
 婆は噴き出したいのを怺(こらえ)て、
「いいえ、卵に由緒も何も。これは、お産に縁があるかと思って、婆の志。それにまた、おいしい料理の食べあきたお旦那は、よく、うで卵など、酔興に召し上りますので、おほほ。」
「それで、わかった。いや、結構。卵の形は、いつ見てもよい。いっその事、これに目鼻をつけてもらいましょうか。」と極めてまずい洒落を言った。婆は察して、売れ残りの芸者ひとりを呼んで、あれは素性の悪い大馬鹿の客だけれども、お金はまだいくらか持っているようだから、大晦日の少しは稼ぎになるだろう、せいぜいおだててやるんだね、と小声で言いふくめて、その不細工の芸者を客の座敷に突き出した。男は、それとも知らず、
「よう、卵に目鼻の御入来。」とはしゃいで、うで卵をむいて、食べて、口の端に卵の黄味をくっつけ、或(あるい)はきょうは惚(ほれ)られるかも知れぬと、わが家の火の車も一時わすれて、お酒を一本飲み、二本飲みしているうちに、何だかこの芸者、見た事があるような気がして来た。馬鹿ではあるが、女に就いての記憶は悪強い男であった。女は、大晦日の諸支払いの胸算用をしながらも、うわべは春の如(ごと)く、ただ矢鱈(やたら)に笑って、客に酒をすすめ、
「ああ、いやだ。また一つ、としをとるのよ。ことしのお正月に、十九の春なんて、お客さんにからかわれ、羽根を突いてもたのしく、何かいい事もあるかと思って、うかうか暮しているうちに、あなた、一夜明けると、もう二十(はたち)じゃないの。はたちなんて、いやねえ。たのしいのは、十代かぎり。こんな派手な振袖ふりそでも、もう来年からは、おかしいわね。ああ、いやだ。」と帯をたたいて、悶(もだ)えて見せた。

「思い出した。その帯をたたく手つきで思い出した。」男は記憶力の馬鹿強いところを発揮した。「ちょうどいまから二十年前、お前さんは花屋の宴会でわしの前に坐り、いまと同じ事を言い、そんな手つきで帯をたたいたが、あの時にもたしか十九と言った。それから二十年経たっているから、お前さんは、ことし三十九だ。十代もくそもない、来年は四十代だ。四十まで振袖を着ていたら、もう振袖に名残(なごり)も無かろう。からだが小さいから若く見えるが、いまだに十九とは、ひどいじゃないか。」と粋人も、思わず野暮の高声になって攻めつけると、女は何も言わずに、伏目になって合掌した。
「わしは仏さんではないよ。縁起でもない。拝むなよ。興覚めるね。酒でも飲もう。」手をたたいて婆を呼べば、婆はいち早く座敷の不首尾に気附いて、ことさらに陽気に笑いながら座敷に駈けつけ、
「まあ、お旦那。おめでとうございます。どうしても、御男子ときまりました。」
「何が。」と客はけげんな顔。
「のんきでいらっしゃる。お宅のお産をお忘れですか。」
「あ、そうか。生れたか。」何が何やら、わけがわからなくなって来た。
「いいえ、それはわかりませんが、いまね、この婆が畳算(たたみざん)で占(うら)なってみたところ、あなた、三度やり直しても同じ事、どうしても御男子。私の占いは当りますよ。旦那、おめでとうございます。」と両手をついてお辞儀をした。
 客は、まぶしそうな顔をして、
「いやいや、そう改ってお祝いを言われても痛みいる。それ、これはお祝儀(しゅうぎ)。」と、またもや、財布から、一歩金一つ取り出して、婆の膝元に投げ出した。とても、いまいましい気持である。
 婆は一歩金を押しいただき、
「まあ、どうしましょうねえ。暮から、このような、うれしい事ばかり。思えば、きょう、あけがたの夢に、千羽の鶴(つる)が空に舞い、四海(しかい)波(なみ)押しわけて万亀(ばんき)が泳ぎ、」と、うっとりと上目使いして物語をはじめながら、お金を帯の間にしまい込んで、「あの、本当でございますよ、旦那。眼がさめてから、やれ不思議な有難い夢よ、とひどく気がかりになっていたところにあなた、いきなお旦那が、お産のすむまで宿を貸せと台所口から御入来ですものねえ、夢は、やっぱり、正夢(まさゆめ)、これも、日頃のお不動信心のおかげでございましょうか。おほほ。」と、ここを先途(せんど)と必死のお世辞。
 あまりと言えば、あまりの歯の浮くような見え透いたお世辞ゆえ、客はたすからぬ気持で、
「わかった、わかった。めでたいよ。ところで何か食うものはないか。」と、にがにがしげに言い放った。
「おや、まあ、」と婆は、大袈裟にのけぞって驚き、「どうかと心配して居(おり)ましたのに、卵はお気に召したと見え、残らずおあがりになってしまった。すいなお方は、これだから好きさ。たべものにあきたお旦那には、こんなものが、ずいぶん珍らしいと見える。さ、それでは、こんど何を差し上げましょうか。数の子など、いかが?」これも、手数がかからなくていい。
「数の子か。」客は悲痛な顔をした。
「あら、だって、お産にちなんで数の子ですよ。ねえ、つぼみさん。縁起ものですものねえ。ちょっと洒落た趣向じゃありませんか。お旦那は、そんな酔興なお料理が、いちばん好きだってさ。」と言い捨てて、素早く立ち去る。

 旦那は、いよいよ、むずかしい顔をして、
「いまあの婆は、つぼみさん、と言ったが、お前さんの名は、つぼみか。」
「ええ、そうよ。」女は、やぶれかぶれである。つんとして答える。
「あの、花の蕾(つぼみ)の、つぼみか。」
「くどいわねえ。何度言ったって同じじゃないの。あなただって、頭の毛が薄いくせに何を言ってるの。ひどいわ、ひどいわ。」と言って泣き出した。泣きながら、「あなた、お金ある?」と露骨な事を口走った。
 客はおどろき、
「すこしは、ある。」
「あたしに下さい。」色気も何もあったものでない。「こまっているのよ。本当に、ことしの暮ほど困った事は無い。上の娘をよそにかたづけて、まず一安心と思っていたら、それがあなた、一年経つか経たないうちに、乞食(こじき)のような身なりで赤子をかかえ、四、五日まえにあたしのところへ帰って来て、亭主が手拭(てぬぐい)をさげて銭湯へ出かけて、それっきり他(ほか)の女のところへ行ってしまった、と泣きながら言うけれど、馬鹿らしい話じゃありませんか。娘もぼんやりだけど、その亭主もひどいじゃありませんか。育ちがいいとかいって、のっぺりした顔の、俳諧(はいかい)だか何だかお得意なんだそうで、あたしは、はじめっから気がすすまなかったのに、娘が惚れ込んでしまっているものだから、仕方なく一緒にさせたら、銭湯へ行ってそのまま家へ帰らないとは、あんまり人を踏みつけていますよ。笑い事じゃない。娘はこれから赤子をかかえて、どうなるのです。」
「それでは、お前さんに孫もあるのだね。」
「あります。」とにこりともせず言い切って、ぐいと振り挙げた顔は、凄(すご)かった。「馬鹿にしないで下さい。あたしだって、人間のはしくれです。子も出来れば、孫も出来ます。なんの不思議も無いじゃないか。お金を下さいよ。あなた、たいへんなお金持だっていうじゃありませんか。」と言って、頬(ほお)をひきつらせて妙に笑った。
 粋人には、その笑いがこたえた。
「いや、そんなでもないが、少しなら、あるよ。」とうろたえ気味で、財布から、最後の一歩金を投げ出し、ああ、いまごろは、わが家の女房、借金取りに背を向けて寝て、死んだ振りをしているであろう、この一歩金一つでもあれば、せめて三、四人の借金取りの笑顔を見る事は出来るのに、思えば、馬鹿な事をした、と後悔やら恐怖やら焦躁(しょうそう)やらで、胸がわくわくして、生きて居られぬ気持になり、
「ああ、めでたい。婆の占いが、男の子とは、うれしいね。なかなか話せる婆ではないか。」
とかすれた声で言ってはみたが、蕾は、ふんと笑って、
「お酒でもうんと飲んで騒ぎましょうか。」と万事を察してお銚子(ちょうし)を取りに立った。
 客はひとり残されて、暗憺(あんた)ん、憂愁、やるかたなく、つい、苦しまぎれのおならなど出て、それもつまらない思いで、立ち上って障子をあけて匂(におい)を放散させ、
「あれわいさのさ。」と、つきもない小唄(こうた)を口ずさんで見たが一向に気持が浮き立たず、やがて、三十九歳の蕾を相手に、がぶがぶ茶碗酒ちゃわんざけをあおっても、ただ両人まじめになるばかりで、顔を見合せては溜息(ためいき)をつき、
「まだ日が暮れぬか。」
「冗談でしょう。おひるにもなりません。」
「さてさて、日が永い。」
 地獄の半日は、竜宮(りゅうぐう)の百年千年。うで卵のげっぷばかり出て悲しさ限りなく、
「お前さんはもう帰れ。わしはこれから一寝入りだ。眼が覚めた頃には、お産もすんでいるだろう。」と、いまは、わが嘘にみずから苦笑し、ごろりと寝ころび、
「本当にもう、帰ってくれ。その顔を二度とふたたび見せてくれるな。」と力無い声で歎願(たんがん)した。
「ええ、帰ります。」と蕾は落ちついて、客のお膳(ぜん)の数の子を二つ三つ口にほうり込み、「ついでに、おひるごはんを、ここでごちそうになりましょう。」と言った。

 客は眼をつぶっても眠られず、わが身がぐるぐる大渦巻(おおうずまき)の底にまき込まれるような気持で、ばたんばたんと寝返りを打ち、南無阿弥陀(なむあみだ)、と思わずお念仏が出た時、廊下に荒き足音がして、
「やあ、ここにいた。」と、丁稚(でっち)らしき身なりの若い衆二人、部屋に飛び込んで来て、「旦那、ひどいじゃないか。てっきり、この界隈(かいわい)と見込みをつけ、一軒一軒さがして、いやもう大骨折さ。無いものは、いただこうとは申しませんが、こうしてのんきそうに遊ぶくらいのお金があったら、少しはこっちにも廻してくれるものですよ。ええと、ことしの勘定は、」と言って、書附けを差出し、寝ているのを引起して、詰め寄って何やら小声で談判ひとしきりの後、財布の小粒銀ありったけ、それに玉虫色のお羽織、白柄(しらつか)の脇差、着物までも脱がせて、若衆二人それぞれ風呂敷(ふろしきに)包んで、
「あとのお勘定は正月五日までに。」と言い捨て、いそがしそうに立ち去った。
 粋人は、下着一枚の奇妙な恰好(かっこう)で、気味わるくにやりと笑い、
「どうもねえ、友人から泣きつかれて、判を押してやったが、その友人が破産したとやら、こちらまで、とんだ迷惑。金を貸すとも、判は押すな、とはここのところだ。とかく、大晦日には、思わぬ事がしゅったい致す。この姿では、外へも出られぬ。暗くなるまで、ここで一眠りさせていただきましょう。」と、これはまたつらい狸寝入(たぬきねいり)、陰陽、陰陽と念じて、わが家の女房と全く同様の、死んだ振りの形となった。
 台所では、婆と蕾が、「馬鹿というのは、まだ少し脈のある人の事」と話合って大笑いである。とかく昔の浪花(なにわ)あたり、このような粋人とおそろしい茶屋が多かったと、その昔にはやはり浪花の粋人のひとりであった古老の述懐。(「胸算用、巻二の二、訛言(うそ)も只は聞かぬ宿」)】
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川原慶賀の世界(その十八) [川原慶賀の世界]

(その十八)「川原慶賀の長崎歳時記(その十)菊見」周辺

観菊会(A図).jpg

●作品名:観菊会(A図) 「フイッセル・コレクション」
●Title:Chrysanthemum party, September
●分類/classification:年中行事・9月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

「花見・月見・雪見の朱文方印『慶賀』」.png

「花見・月見・雪見の朱文方印『慶賀』」(「フイッセル・コレクション」)(B図)

  この「フイッセル・コレクション」の「観菊会」(A図)は、一連のシリーズ(連作)ものとしては、これまでに紹介してきた「花見・月見・雪見の朱文方印『慶賀』」(「フイッセル・コレクション」)(B図)の「月見」と「雪見」との間に入るものなのであろう。
 その上で、この「観菊会」(A図)は、次の「掛物類」の「菊取り図」(C図)と連動しているようなのである。

菊取り図(C図).jpg

●作品名:菊取り図(C図) (「フイッセル・コレクション」?)  
●Title:Picking Mum flowers, Autumn
●分類/classification:年中行事 秋/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、軸/painting on paper,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite////target/kgdetail.php?id=1686&cfcid=142&search_div=kglist

 この「菊取り図」(C図)は、いわゆる「節句(五節句)」の時期に飾る掛軸の「節句掛(せっくがけ)」で、陰暦九月九日の「重陽(ちょうよう)」の、その節会(せちえ)、「菊の節供(せっく)」に掛ける掛軸であろう。
 そして、この「菊取り図」(C図)は、その「菊の節供(せっく)」に飾る掛軸に相応しい「描表装(かきひょうそう)」(絵表装・画表装)で、本絵の周囲の表装部分まで、お目出たい物をびっしりと描いている。
 その上部には、慶事用の「祝扇(いわいおうぎ)」にお祝いの「口上」(お祝いの言葉)を認め、さらに、西洋風のリボンのような白布(水引の蝶結びのような白い布)をめぐらしているという、何とも、仰々しいほどの「重陽」の「節句掛」に仕立てられている。

かるた取り図(D図).jpg

●作品名:かるた取り図(D図) (「フイッセル・コレクション」?) 
●Title:Cards game, January
●分類/classification:年中行事、1月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、軸/painting on paper,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

 この「かるた取り図」(D図)は、「正月七日」の「人日(じんじつ)」の節句などに因んでの「節句掛」ということになろう。
 「菊取り図」(C図)と「かるた取り図」(D図)と、「言葉遊び」の、この「取り」に因んでの、「双幅」の「一対」ものなのかも知れない

「夫婦対幅のうち夫」(E図).jpg

『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』の図録の表紙画
(「本絵」は「同図録」所収「出品目録№201)
「夫婦対幅のうち:夫」(E図) 絹本著色 107.0×51.0㎝ 「ブロムホフ・コレクション」か「フイッセルのコレクション」

『掛物類 191~202
慶賀の掛物類は小画面の所蔵作品に比すればその数は極めて少ないが、これまた三つのコレクションにそれぞれ含まれている。193~196、198~200 はシーボルト・コレクション、他はブロムホフ、フイッセルのコレクションに属している。これらのなかで『曲芸之図』者の作については疑問視されるが、『雛祭り』『湯治場』などのような枠飾りをもつ作品、『生花』『花鳥図』『絵師の工房』などのような作品は国内に現存する慶賀作品にはその例を見出すことはできない。作風については大和絵風、または中国写生派風などと多様であり、慶賀の作風展開をみるのに興味深い作品群である。なお、先年、沼田次郎氏が、西ドイツ・ボッフムのルール大学東亜学部に残されている慶賀の見積書か請求書を調査され、慶賀の画料を明らかにされたが(雑誌『日本歴史』第344号、1977年1月)、そのなかには、
 $20:―1vel Schilder
1. 弐百匁  画師之内 壱枚
 $20:―〃  School
 1. 〃    儒者之内 壱枚
といった例が見られる。ライデン民族学博物館には「絵師の工房」(200)と双幅をなす「儒者の書斎」も残されている。(陰里鉄郎稿)』
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 この『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」によると、この「夫婦対幅のうち:夫」(E図)は、「シーボルト・コレクション」ではなく、「ブロムホフ・コレクション」か「フイッセルのコレクション」ということになる。
 さらに、この「夫婦対幅のうち:夫」(E図)は、『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№123」)』にも、再度出品されて、その「作品解説」は、次のとおりである。

『夫婦図(123)
  楽器尽しの飾り枠が描かれている。(これと対をなす妻の図は器機尽しの飾り枠である。)
上部には白布をあしらったのは西洋様式の日本化ともいわれている。妻の方の白布は鶴がくわえている構図である。「川原氏印」「画賀在印」。」
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「主要作品解説」』)

 ここまで来て、「菊取り図」(C図)の「描表装」(「飾り枠」)は、全く、「夫婦対幅のうち:夫」(E図)の、それと同じもので、「楽器尽しの飾り枠」(「楽器尽しの描表装」)、そして、
「かるた取り図」(D図)の「飾り枠」(描表装)は、「器機尽しの飾り枠(描表装)」で、それらを基本にして仕立てているということなのである。
 その上で、これらの「菊取り図」(C図)と「かるた取り図」(D図)とは、「ブロムホフ・コレクション」のものか「フイッセル・コレクション「かるた取り図」(D図)ものかということになると、この「菊取り図」(C図)と「かるた取り図」(D図)とは、これまでの一連の「花見」「月見」「菊見」「雪見」と、同時期の「フイッセル・コレクション」のものと解して置きたい。
 さらに、ここまで来ると戯言の我田引水のこととなるが、この「夫婦対幅のうち:夫」(E図)の、この「美男子」は、嘗て記した、下記アドレスの、「酒井抱一」の若き日の「尻焼猿人」の像を想起せざるを得ない。
 と同時に、「夫婦対幅のうち:夫」(E図)の、その印章の、「川原氏印」・「画賀在印」の、「画賀(慶賀?)在印」に、「川原慶賀」という絵師は、なかなかの「洒落人」(粋人・俳諧師・言葉遊び人」等々)という印象を深くするのである。


(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-07

尻焼猿人一.jpg

『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・山東京伝画)/版元・蔦屋重三郎/版本(多色摺)/
一冊 二㈦・一×一八・〇㎝/「国文学研究資料館」蔵
【 大田南畝率いる四方側狂歌連、あたかも紳士録のような肖像集。色刷りの刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の主とみゆらん」。 】
(「別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人(仲町啓子監修)」所収「大名家に生まれて 浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」)

 上記の画中の「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」は、抱一の「狂歌」で使う号である。「尻が焼かれて赤く腫れあがった猿のような人」と、何とも、二十歳代の抱一その人を顕す号であろう。

 御簾(みす)ほどに
  なかば
   霞のかゝる時
  さくらや
   花の主(ぬし)と見ゆらん

 その「尻焼猿人」(抱一)は、尊いお方なので拝顔するのも「御簾」越しだというのである。そのお方は、「花の吉原」では、その「花(よしわら)の主(ぬし)」だというのである。これが、二十歳代の抱一その人ということになろう。
 俳諧の号は、「杜陵(綾)」を変じての「屠龍(とりょう)」、すなわち「屍(しかばね)の龍」(「荘子」に由来する「実在しない龍」)と、これまた、二十歳代の抱一その人を象徴するものであろう。この俳号の「屠龍」は、抱一の終生の号の一つなのである。
 ここに、「大名家に生まれて、浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂人」、酒井抱一の原点がある。

三味線と尺八.jpg

葛飾北斎画「三味線と尺八」(「立命館大学」蔵)
https://ja.ukiyo-e.org/source/ritsumei

 これは、抱一と同時代の葛飾北斎の「三味線と尺八」と題する作品の一つである。北斎は、宝暦十年(一七六〇)、武蔵国葛飾(現・東京都墨田区の一角)の百姓の出で、宝暦十一年(一七六一)、神田小川町の酒井雅楽頭家別邸生まれの抱一とは一歳違いだが、両者の境遇は月とスッポンである。
 抱一が、「天明の頃は浮世絵師歌川豊春の風を遊ハしけるが(後略)」(「等覚院殿御一代」)と、美人画を得意とする歌川派とすると、北斎は役者絵を得意とする勝川春章門であるが、寛政六年(一七九四)、三十五歳の頃、その勝川派から破門されている。
 上記の『吾妻曲狂歌文庫』に抱一が登場するのは、天明六年(一七八六)、抱一、二十六歳の頃で、その頃の北斎は、「群馬亭」の号で黄表紙の挿絵などを描いている。
抱一が、上記の北斎が描く「三味線と尺八」の図ですると、この右端の「御大尽」、そして、北斎は、左端の尺八を吹いている「幇間芸人」ということになろう。そして、この御大尽の風貌が、『吾妻曲狂歌文庫』のトップを飾る「尻焼猿人」(抱一)と瓜二つという風情なのである。
 この『吾妻曲狂歌文庫』で「尻焼猿人」を描いたのは、戯作者の雄・山東京伝(狂歌名=身軽折輔)こと浮世絵師・北尾政演(北尾派)その人であり、版元の蔦屋重三郎と手を組んで、黄表紙・洒落本などの世界のスーバースターだったのである。
 しかし、この蔦屋重三郎も山東京伝も、寛政二年(一七九〇)の「寛政の改革」(異学の禁・出版統制強化)により、「手鎖・身上半減の刑」を受け、寛政九年(一七九七)には蔦屋重三郎が亡くなり、山東京伝も厳しい出版統制下の中で、文化十三年(一八一六)に、その五十五年の生涯を閉じている。
 抱一もまた、この「寛政の改革」の余波に晒されることになるが、蔦屋重三郎が亡くなった年に、三十七歳の若さで出家し、西本願寺第十八世文如の弟子となり「等覚院文詮暉真」の法名を名乗ることになる。すなわち、「抱一上人」に様変わりするのである。
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川原慶賀の世界(その十九) [川原慶賀の世界]

(その十九)「川原慶賀の長崎歳時記(その十一)「雪見」周辺

雪見(A図)(「フイッセル・コレクション」).jpg

●作品名:雪見(A図)(「フイッセル・コレクション」)
●Title:Snowscape
●分類/classification:年中行事、冬/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

『 (雪見)
 雪景色を観賞すること。大雪は豊作の前兆といわれ、積雪地帯では雪害に苦しんだが、一般には喜ばれた。そのこととの関連は明確でないが、宮廷や幕府では雪見の宴などが開かれた。延暦(えんりゃく)年間(782~806)からは初雪が降ると、群臣が参内(さんだい)して初雪見参(げんざん)が始まり、貞観(じょうがん)(859~877)のころからは雪見の宴を開く風もおこった。11世紀には白河(しらかわ)院が雪見の御幸(みゆき)をされ、後深草(ごふかくさ)帝の1251年(建長3)には後嵯峨(ごさが)上皇が船に乗って雪見をされた。鎌倉時代には幕府も雪見の宴を開き、室町、江戸に続く。芭蕉(ばしょう)の「いざ行かん雪見にころぶところまで」の句は有名で、風雅の徒が腰に瓢箪(ひょうたん)をぶら下げ、あるいは座敷の中で雪見酒の杯(さかずき)を傾ける。東京では上野、向島(むこうじま)、浅草公園などが雪見の場所とされ、隅田川には雪見船も出た。なお、障子の下半分が持ち上げられるようにつくり、ガラスをはめ込んだものなどを雪見障子、略して雪見という。[井之口章次]』
≪小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)≫

 次の「冨嶽三十六景《礫川雪の旦》」(葛飾北斎画)メトロポリタン美術館蔵(B図)は、その「初摺り」の「青」(ブルー)を基調としたもの、そして、「冨嶽三十六景《礫川雪の且(旦)》」(葛飾北斎画)東京富士美術館蔵(C図)は、「追加10図刊行以降の版」の「墨摺り」の「茶」(ダーク・ブラウン)系統の仕上がりとなっている。

「冨嶽三十六景《礫川雪の旦》」(葛飾北斎画)B図.jpg

「冨嶽三十六景《礫川雪の旦》」(葛飾北斎画)メトロポリタン美術館蔵(B図)
https://radonna.biz/blog/yukimi/

「冨嶽三十六景《礫川雪の旦》」(葛飾北斎画)C図.jpg

「冨嶽三十六景《礫川雪の且(旦)》」(葛飾北斎画)東京富士美術館蔵(C図)
(ふがくさんじゅうろっけい こいしかわゆきのあした)
木版画(木版多色刷)
葛飾北斎 (1760-1849)
天保元−天保3年(1830-32)頃
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/253089
『(解説)
礫川とは現在の文京区小石川あたりのこと。タイトルが示すように、夜半に雪の降った翌朝に、雪見、富士見を楽しむ人々の光景。富士上空には三羽の鳥が描かれている。初摺りの版は青く明けてきた朝の景が描かれるが、この版は、富士の背景が夕日に変えられているのは摺り師の趣向であろうか。主板も墨摺りで摺られており、追加10図刊行以降の版であろう。』(「文化遺産オンライン」)

 「フイッセル・コレクション」の「長崎歳時記(年中行事)」シリーズものも、この「北斎」(そして「北斎工房」)特有の「青」(ブルー)を基調とした作品が多いが、その中で、
この「青」(ブルー)を基調のものではなく、より多く、「北斎の娘・応為(お栄)」好みの
「陰影の深い」、「墨摺りの『茶』(ダーク・ブラウン)」系統のものが散りばめられている。
 それらの典型的なものが、下記のアドレスで紹介した「節分、豆まき」(D図)」ということになる。

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-27

(再掲)

「節分、豆まき」(F図).jpg

「節分、豆まき」(D図)
https://publicdomainr.net/mizue-6-0001867-llaytf/
「豆撒き(節分)」 紙本著色 30.5×39.5 ライデン国立民族学博物館蔵(「フイッセル・コレクション」)
Bean-scattering in February (to ward off evil spring)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№3」)

『 節分の行事については現在においてほとんどかわるところはないようである。長崎歳時記に、
 家内のともし火を悉く消し、いりたる豆は二合にても三合にても一升ますに入れ、年男とて、あるじ右の豆を持て恵方棚、神棚に向ひ至極小声をして福は内と三遍となへ、夫より大声にて鬼は外と唱ふ、家の一間ごとにうち廻り庭におり外をさして打出す。』(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 この「節分、豆まき」(F図)は、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』によると、「フイッセル・コレクション」所蔵のもので、「シーボルト・コレクション」所蔵の「節分、豆まき(B図)」(紙本墨画)や「節分、豆まき(C図)」(絹本着色)の先行的な作品と思われる。そして、葛飾応為の「吉原格子先之図(D図)」との関連ですると、この「フイッセル・コレクション」や「ブロムホフ・コレクション」所蔵の作品の方が、「応為と慶賀」との関係をより直接的に位置づけているもののように思われる。

葛飾応為筆「吉原格子先之図」(D図).jpg

葛飾応為筆「吉原格子先之図」(「太田記念美術館」蔵) (D図)
紙本著色一幅 26.3×39.8㎝ 文政~安政(1818~1860)頃
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/collection/list05

〖 吉原遊廓の妓楼、和泉屋の張見世の様子を描く。時はすでに夜。提灯が無くては足元もおぼつかないほどの真っ暗闇だが、格子の中の張見世は、まるで別世界のように赤々と明るく輝き、遊女たちはきらびやかな色彩に身を包まれている。馴染みの客が来たのだろうか、一人の遊女が格子のそばまで近寄って言葉を交わしているが、その姿は黒いシルエットとなり、表情を読み取ることができない。 光と影、明と暗を強調した応為の創意工夫に満ちた作品で、代表作に数えられる逸品。なお、画中の3つの提灯に、それぞれ「応」「為」「栄」の文字が隠し落款として記されており、応為の真筆と確認できる。〗(「太田記念美術館」)

川原慶賀筆「青楼」(E図).jpg

川原慶賀筆「青楼」紙本著色 25.3×49.2 ライデン国立民族学博物館蔵(「ブロムホフ・コレクション」) The Nagasaki gay quarter (E図)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№87」)

『 あかあかと明かりのついた遊郭を、通りに視点を置いて描いている。格子越しに見える内部、それを表からのぞいてひやかす客たち、二階には三味を弾かせ太鼓を叩いて陽気に騒ぐ客、提燈を持って通りを行き交う人々、そば屋、これらの人々が生き生きと描写されている。そして、本図で最も注意すべきことは、夜の人工的な光の錯綜を見事に捉えていることである。室内はろうそくの明かりで照らし出され、その室内の光は外にもれて通りの人々が持つ提燈の光とともに複雑な影を地面に作り出している。
 妓楼格子先を表した図は多く見ることができるが、本図ほど光と影を意識して描かれたものはないのではなかろうか。その点だけでも、本図を描いた慶賀を日本の近代絵画の先駆者として位置づけることができるであろう。(兼重護稿)』(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

(以下、略)

(参考)「『北斎・応為」・『抱一・其一』そして『慶賀』』の「雪・月・花」周辺

『北斎・応為」の「雪・月・花」(F図).png

『北斎・応為」の「雪・月・花」(F図)
左図(雪)=「冨嶽三十六景《礫川雪の且(旦)》」(葛飾北斎画)(東京富士美術館蔵)
中図(月)=「月下砧打ち美人図」(葛飾応為画)(東京国立博物館蔵)
右図(花)=「夜桜美人図」(葛飾応為画)(メナード美術館蔵)

「月下砧打美人図」(げっか きぬたうち びじんず) 紙本著色・一幅 113.4×31.1 款記「應為栄女筆」/「應」白文方印
『 満月に照らされ女性が砧を打つ場面。月夜に砧を打つ図は白居易の詩「聞夜砧」に由来し、夫を思いながら砧を打つ妻の情愛を象徴的に表す。後述の作品と比べて色彩が抑制的で癖が少ないことから、比較的早期の作品か。なお、本図の落款部分は後人が一度削り取ろうとして途中でやめたような痕跡があり、ある時所蔵していた人物が新たに北斎の落款を入れて売ろうと企図していたと想像される。』(「ウィキペディア」)

「春夜美人図」(しゅんや びじんず)または「夜桜美人図」(よざくら びじんず)
紙本著色・一幅 88.8x34.5 無款 
『 無款だが、北斎派風の女性描写や、明暗の付け方、灯籠などの細部の描写が他の応為作品と共通することから、応為筆だとほぼ認められている作品。元禄時代に活躍した女流歌人・秋色女を描いた作品だと考えられる。』(「ウィキペディア」)

『抱一』の「雪・月・花」.png

『抱一』の「雪・月・花」(酒井抱一画「富峯・吉野花・武蔵野月」)個人蔵(G図)
左図(月)=「武蔵野月」(絹本着色・三幅対) 各175.0×41.7㎝
中図(雪)=「富峯」(絹本着色・三幅対) 各175.0×41.7㎝
右図(花)=「吉野花」(絹本着色・三幅対)各175.0×41.7㎝

『 雪をかぶった富士を中心に、武蔵野の月と吉野の桜を脇幅に、雪月花と名所の三幅対とした江戸らしい吉祥画がある。表具部分も描いた描表装で、抱一のそれは大変珍しい。モノトーンの雪の松、桜、秋草と、画面を横切る大らかな気分の構図であると同時に、松葉の中心に金泥、萩に銀泥を添え、桜花の蕾から満開までの各様態を優しくとらえるなど細部は凝っている。其一の箱書が具わる。文晁にもこの三名所のほぼ同図様の作例がある。』(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版№116解説(松尾知子稿)」)

『其一』の「雪・月・花」.png

『其一』の「雪・月・花」(鈴木其一画「雪月花三美人図」)静嘉堂文庫美術館蔵(H図)  
左図(雪)=吉原三浦屋の名妓「薄曇」(絹本着色・三幅対) 各96.40×32.2㎝
中図(月)=吉原三浦屋の名妓「高尾」(絹本着色・三幅対) 各96.40×32.2㎝
右図(花)=吉原三浦屋の名妓「長門」(絹本着色・三幅対) 各96.40×32.2㎝

『 雪月花に、新吉原三浦屋お抱えの薄雲、高尾、長門の三名妓を見立て、寛文美人図の様式で描くという、趣向を凝らした作品である。上部の色紙型や短冊には抱一の手で俳句が記されている。高尾と薄雲の姿には、文政八年刊の『花街漫録』の挿絵に其一が写した花明国蔵の『高尾図』『薄雲図』という菱川印のある古画を参照している。背後に企画者関係者など多くの意向が感じられ、同じ頃の作とすると、其一としてかなり早い時期の大変な力作である。』(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版№300解説(松尾知子稿)」)

 この、「雪月花三美人図」(鈴木其一画)周辺については、下記のアドレスなどで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-07-30

(右図)なかれゐる身に似わしき花筏  長門
(中図)猪にたかれて萩の一夜かな  たか尾
(左図)初雪や誰か誠もひとつよき   薄雲

『慶賀』の『雪・月・花』.png

『慶賀』の「雪・月・花」(川原慶賀画「花見」「月見」「雪見」)ライデン国立民族学博物館蔵(I図)
左図「花見」(「ブロムホフ・コレクション」) 絹本著色・めくり 30.2×46.6㎝
中図「月見」(「ブロムホフ・コレクション」) 絹本著色・めくり 26.5×38.0㎝
右図「雪見」(「フイッセル・コレクション」) 絹本著色・めくり 30.2×44.7㎝

「牛若丸弁慶自画賛」.jpg

『牛若丸弁慶自画賛』(蕪村画・賛)一幅 紙本淡彩 48.6×26.0㎝ 逸翁美術館蔵
(『逸翁美術館名品展―蕪村と呉春―(サントリー美術館刊)』)


1023 雪月花つゐ(ひ)に三世のちぎりかな 紫狐庵写

 「雪月花」は「雑」(「春・夏・秋・冬」以外)の句となる。白楽天「雪月花時最憶君(雪月花ノ時最モ君ヲ憶ウ)」(白氏長慶集巻8)の詩句により四季の自然美を愛する風流をいう。
「三世のちぎり」は、主従の縁の、「過去・現在・未来」にわたること。「これ又三世の奇縁の始め、今より後は主従ぞと」(謡曲・橋弁慶)を踏まえている。句意は、「四季の風流の遊びをともにするうちに、ついに、主従の約を結ぶことになった。」(『蕪村全集一』所収「頭注・尾形仂稿」)
 この蕪村の句は、安永元年(一七二二)、蕪村(夜半亭二世)、五十七歳の頃の作である(「紫狐庵」号は、安永元年~六年)。この年、高井几董(後の「夜半亭三世」)は『其雪影』(蕪村七部集の第一)を刊行し、その「序」は蕪村が草した。
『蕪村全集一』所収「頭注・尾形仂稿」では、「几董が俳諧を解する熊三(几董の弟子)を僕にしたことを模したものか」としているが、これを「見立替え」(先に見立てたものを取りやめて、後から見立てたものと取り替えること。特に、遊客が前に選んだ遊女をやめて、後から定めた遊女と替えること。見立て直し)すると、この『牛若丸弁慶自画賛』(蕪村画・賛)の、この「牛若丸」は、「高井几董」(蕪村の後継者)で、その後ろの「弁慶」が、その師匠たる「蕪村」(夜半亭二世・紫狐庵)その人ということになる。
 これらのことを、「『北斎・応為」の「雪・月・花」(F図)』に当てはめると、「応為=牛若丸」、そして、「弁慶=北斎」ということになる。
 同様に、「『其一』の「雪・月・花」(鈴木其一画「雪月花三美人図」)静嘉堂文庫美術館蔵(H図)」は、その師筋に当たる「『抱一』の「雪・月・花」(酒井抱一画「富峯・吉野花・武蔵野月」)個人蔵(G図)」とは、「其一=牛若丸」、そして、「抱一=弁慶」という見立てになってくる。
 ここで、「『慶賀』の『雪・月・花』(川原慶賀画「花見」「月見」「雪見」)ライデン国立民族学博物館蔵(I図)」、その「牛若丸=慶賀」とすると、この「弁慶=石崎融思・シーボルト・フイッセル・ブロムホフ」と、「シーボルト・フイッセル・ブロムホフ」の、その注文主の「オランダ商館」の面々を前面に出して置きたい。
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川原慶賀の世界(その十七) [川原慶賀の世界]

(その十七)「川原慶賀の長崎歳時記(その九)月見」周辺

月見宴(A図) .jpg

●作品名:月見宴(A図) 「ブロムホフ・コレクション」
●Title:Full-moom Viewing, September
●分類/classification:年中行事、9月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leide
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=4&cfcid=142&search_div=kglist
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№25」)
絹本著色 26.5×38.0

月見(B図) .jpg

●作品名:月見(B図) 「フイッセル・コレクション」
●Title:Full-moom Viewing, September
●分類/classification:年中行事、9月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=4&cfcid=142&search_div=kglist
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№10」)
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№17」)』)
絹本着色 33.4×47.2

月見(C図).jpg

●作品名:月見(C図) 「シーボルト・コレクション」
●Title:Full-moom Viewing, September
●分類/classification:年中行事、9月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=4&cfcid=142&search_div=kglist
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№18」)』)
絹本著色 26.5×36.0

 「ブロムホフ・コレクション」の「月見宴」(A図)は、これまでの「同コレクション」の「凧揚げ」「雛祭り」「花祭り」「陸(おか)ペーロン」「供琴・乞巧奠」「秋祭り(長崎くんち)」の、その一連の作品で、「川原慶賀」作ということになる。
 一つ気掛かりのことは、この作品は「絹本彩色・絹本著色」としているのだが、その他の作品は「紙本著色」で、この作品も、「紙本著色」の「まくり(めくり)=未表装の作品」ものなのかも知れない。
 次の「フイッセル・コレクション」の「月見」(B図)については、これまでの「同コレクション」の「花見」「井戸更え」「面浮立」の、その一連の作品で、この一連のものには、
印章(朱文方印「慶賀」)が捺されている。これらの一連の作品は「川原慶賀」作で、これらの作品は、「川原慶賀」作かどうかを見極める上での、一つの指標となる作品群ということになろう。

「花見・月見・雪見の朱文方印『慶賀』」.png

「花見・月見・雪見の朱文方印『慶賀』」(「フイッセル・コレクション」)(D図)

 ここで、「シーボルト・コレクション」の「月見」(C図)については、上記の「フイッセル・コレクション」の「花見・月見・雪見の朱文方印『慶賀』」(D図)の、その印章の捺されている下部右端の、その「花見(団扇を仰いでいる下僕)・月見(料理を運んでいる女性)・雪見(雪見する男と従者)」などと比較すると、やや異質な印象(同一人の作ではない?)を受けるのである。
 これらの、「ブロムホフ・コレクション」、「フイッセル・コレクション」そして「シーボルト・コレクション」の「長崎歳時記」(長崎年中行事)の作品群は、丁度、先に紹介した、下記アドレスの、別連作(シリーズ)の「人の一生」に関する、「ブロムホフ・コレクション」、「フイッセル・コレクション」そして「シーボルト・コレクション」の、それらの相互検証と同じような考証が要請されるような印象を深くする。
 これらのことに関して、下記アドレスに関して、その(参考)データを再掲して置きたい。

(参考)『「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作―野藤妙・宮崎克則(西南学院大学国際文化学部)』(九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 12, 1-20, 2014)所収「巻末図《人の一生》①(フィッセル・コレクション、その(1)のみシーボルト・コレクション、ライデン国立民族学博物館所蔵)」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-12

(再掲)

プロムホフ・シーボルトコレクション《人の一生》「誕生」.png

左図:プロムホフ・コレクション≪人の一生≫「誕生」(「人の一生画巻」・川原慶賀筆)
右図:シーボルト・コレクション≪人の一生≫「誕生」(シーボルトコレクションの《人の一生》は唯一23場面が全て揃っている。そのトップの場面。但し、「慶賀」の落款無。「川原慶賀筆?」)

フイッセル・シーボルトコレクション《人の一生》「寺院での葬式」.png

左図:フイッセル・コレクション≪人の一生≫「寺院での葬式」(「慶賀」の落款有。「川原慶賀筆」。23場面のうち「誕生」が欠落している。)
右図:シーボルト・コレクション≪人の一生≫「葬列の迎え」(シーボルトコレクションの《人の一生》23場面の22番目の場面。「慶賀」の落款無。「川原慶賀筆?」)

 上記の「左図」(プロムホフ・コレクション≪人の一生≫「誕生」)と「右図」(シーボルト・コレクション≪人の一生≫「誕生」)とを比較して鑑賞すると、「左図」は「着帯」の場面で、「右図」は「産湯と着帯」との場面で、これは、左の家では「産湯」、そして、隣の右の家では「着帯」の場面と、そのアレンジの妙が伝わってくる。
 次の「左図」(フイッセル・コレクション≪人の一生≫「寺院での葬式」)に対して、「右図」(シーボルト・コレクション≪人の一生≫「葬列の迎え」)の場面で、同じ、寺院のスナップなのだが、この「右図」の、中央の「位牌」の「戒名」が「酔酒玄吐……居士」などと書いてあり、「慶賀(慶賀工房)」の「洒落・遊びの精神」が随所に見受けられる(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「主要作品解説」)』・西武美術館刊)とか、この種の≪人の一生≫ものでは、下記の「④シーボルト・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》④)→「慶賀」の落款無」が、一番妙味があるような趣である。

 ここで、「川原慶賀・川原慶賀工房」作とされている「人の一生」と題するシリーズものは、「プロムホフ・フイッセル・シーボルト」の各コレクションが、ライデン国立民族学博物館所蔵となっている。
 そして、『「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作―野藤妙・宮崎克則(西南学院大学国際文化学部)』(九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 12, 1-20, 2014)では、さらに、「フイッセル・コレクション」は全部で三種類、蒐集者不明のもの一種類で、合計して六種類(プロムホフ・コレクションは「画巻」、その他「めくり」)のものを取り上げ(プロムホフ・コレクションの「画巻」は補足)、下記の「①フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》①)→「慶賀」の落款有」のみ、「川原慶賀筆」としている。そして、補足的に「プロムホフ・コレクションの『画巻』」を取り上げ、これも「川原慶賀筆」としている。
 その上で、唯一23場面が全て揃っている「④シーボルト・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》④)→「慶賀」の落款無」と「①フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》①)→「慶賀」の落款有」とを基準として、「人の一生」シリーズの全場面について、詳細な論及をしている。

①フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》①)→「慶賀」の落款有
②フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》②)→「慶賀」の落款無
③フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》③)→「慶賀」の落款無
④シーボルト・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》④)→「慶賀」の落款無
⑤収集者不明《人の一生》(以下、《人の一生》⑤)→「慶賀」の落款無

(以下、略)
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川原慶賀の世界(その十六) [川原慶賀の世界]

(その十六)「川原慶賀の長崎歳時記(その八)面浮立・くんち」周辺

浮流面おどり(A図).jpg

●作品名:浮流面おどり(A図) 「フイッセル・コレクション」
●Title:Mask dance, Autum
●分類/classification:年中行事、秋/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1137&cfcid=142&search_div=kglist
「面浮立(めんふりゅう) 絹本著色 24.6×38.8㎝ 朱文方印「慶賀」
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№15」)
「 肥前地方の佐賀藩、大村藩の領内では秋祭りには面浮立が競って奉納されていた。娯楽の少なかった当時の農村にとって秋祭りの浮立興行は唯一の楽しみであり、村をあげて大いに賑わったものである。
 浮立には面浮立、ササラ、掛うち、獅子等と各種の曲目があるが、本図のように鬼の面をかぶって踊る面浮立は、その代表的なものである。」
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 この「フイッセル・コレクション」の「浮流面おどり・面浮立」(A図)には、右下端に「慶賀」の朱文方印が捺されており、「慶賀」筆として差し支えなかろう。

面浮流(B図).jpg

●作品名:面浮流(B図) 「シーボルト・コレクション」?
●Title:Mask dance, Autum
●分類/classification:年中行事・秋/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1137&cfcid=142&search_div=kglist
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№20」)』)
絹本著色 27.1×36.6㎝

 この「面浮流」(B図)は、『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№20」)の配列順序の作品(№18=「月見」、№19=「夏涼み」)からすると、「シーボルト・コレクション」の作品のように思われる。そして、この作品の一連のものの「シーボルト・コレクション」の作品は、「フイッセル・コレクション」の「浮流面おどり・面浮立」(A図)や、次の「ブロムホフ・コレクション」の「くんち」(C図)に比して、「川原慶賀作」と断定せず、「川原慶賀(又は「慶賀工房)作」と、含みを持たせて置きたい。 

くんち(C図) .jpg

●作品名:くんち(C図) 「ブロムホフ・コレクション」
●Title:Nagasaki-kunchi;Festival of Suwa-shrine, Septmber
●分類/classification:年中行事・9月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=970&cfcid=142&search_div=kglist
「秋祭り(長崎くんち)」 紙本著色 26.5×38.0㎝
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№26」)

この「くんち・秋祭り(長崎くんち)」(B図)は、「ブロムホフ・コレクション」のもので、これまでに取り上げてきた「ブロムホフ・コレクション」の「凧揚げ」「雛祭り」「花祭り」「陸(おか)ペーロン」、そして、次回に取り上げる「月見宴」と一連の、「慶賀」筆と解したい。

「くんち、万屋町、くじら」(D図).gif

●作品名:「くんち、万屋町、くじら」(D図) →「シーボルト・コレクション」(?) 
●Title:Nagasaki-kunchi;Festival of Suwa-shrine, Yorozuya-machi, Whale September
●分類/classification:年中行事、9月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

「くんち、樺島町、コッコデショ」(E図).gif

●作品名:「くんち、樺島町、コッコデショ」(E図)→「シーボルト・コレクション」(?)
●Title:Nagasaki-kunchi;Festival of Suwa-shrine, Kabashima-machi, KotKodeshyo, September
●分類/classification:年中行事、9月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

 その上で、これらの「シーボルト・コレクション」と思われる、紙本墨画の「くんち、万屋町、くじら」(C図)と「くんち、樺島町、コッコデショ」(D図)については、これらの「秋祭り(長崎くんち)」を、シーボルトの『NIPPON(日本)』の、その「石版挿絵」の一枚にとの意図を有している、その下絵のように思われる。そして、これらの下絵には、どの程度、慶賀自身が主体的に描いたものかということは、やはり「慶賀(又は慶賀工房)」作と解したい。
 そして、この「くんち、万屋町、くじら」(C図)は、下記のアドレスの、「捕鯨図」(『NIPPON』図版)や、ブランデンシュタイン城博物館蔵の「捕鯨図」に連動しているものと解すると、「慶賀工房」作というよりも、「川原慶賀」作という方向に傾いてくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-18

(再掲)

捕鯨図2.gif

九州大学付属図書館医学分館蔵
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1906477&start=&bbinfo_disp=0#?c=0&m=0&s=0&cv=15&r=0&xywh=442%2C640%2C3251%2C3631
『NIPPON』 第2冊図版(№338)「捕鯨」 福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

捕鯨図1.gif

ブランデンシュタイン城博物館蔵「捕鯨」

(参考)「長崎くんち・鯨の潮吹き・太鼓山(コッコデショ)」周辺(「ウィキペディア」)

(長崎くんち)→「諏訪神社の祭礼」

長崎くんち(ながさきくんち)、長崎おくんちは、長崎県長崎市の諏訪神社の祭礼である。10月7日から9日までの3日間催される。国の重要無形民俗文化財に指定されている(昭和54年指定、指定名称は「長崎くんちの奉納踊」)。
 「龍踊(じゃおどり)」「鯨の潮吹き」「太鼓山(コッコデショ)」「阿蘭陀万才(おらんだまんざい)」「御朱印船(ごしゅいんせん)」など、ポルトガルやオランダ、中国・ベトナムなど南蛮、紅毛文化の風合いを色濃く残した、独特でダイナミックな演し物(奉納踊)を特色としており、傘鉾、曳物(山車・壇尻)、太鼓山など、京都や堺の影響も窺える。
 「くんち」の名称は、旧暦の重陽の節句にあたる9月9日(くにち、九州北部地方の方言で「くんち」)に行ったことに由来するという説が有力である。「宮日」「供日」と表記されることもあるがこれは後年の当て字で、諏訪神社への敬意を表して「御」をつけたことから「おくんち」とも呼ばれるようになった。

(鯨の潮吹き)→「万屋町が奉納する演し物」

 万屋町が奉納する演し物で1778年(安永7年)に、たまたま町内に来ていた唐津呼子の者の勧めで奉納されたのを始まりとする。鯨の姿をした曳物と小船の曳物、納屋の形をした曳物で構成され、鯨を港に引き込み納屋で大漁を祝う様子を表現する。前日に出てくる鯨は大きく動き回るが、後日になると縛り付けるように網をかけられ、納屋にも雪や氷柱などが付き、冬の鯨の追い込みの姿を表している。


 演目の主役であり、曳き回しを行って鯨の泳ぐ姿を表現する。中には人が入っており、からくりを操作して水を4 - 5メートルの高さまで吹き上げる。
納屋
 演し物の主体となる曳物に囃子方を乗せることが出来ないため、囃子方は納屋の形をした専用の曳物の中から楽器を演奏する。
小船
 船頭衆を演じる子供が上に乗る小さな曳物で、船頭衆はこの上に立ち上がって「鯨引きうた」を歌う。

(太鼓山・コッコデショ)→「樺島町が奉納する演し物」

 樺島町が寛政11年(1799年)より、上町が平成28年(2016年)に奉納している演し物である。正式には太鼓山という名称で、コッコデショは担ぐときの掛け声から来ている。江戸時代、長崎で陸揚げされた貿易品は堺商人の廻船で全国に運ばれており、商船の船頭や水夫は樺島町の宿を定宿としていた。この船頭衆から堺壇尻や各地の踊りが伝わり、各地の要素が合わさって樺島町独自の演し物になったと考えられている。太鼓山は船、采振りは船頭、踊りは船や波の動きを表している。
 山車は担ぎ屋台となっており、4本の担ぎ棒に大太鼓を囲む櫓を組み、その上に5色の大座布団を載せて屋根としている。太鼓の四方には、赤い投げ頭巾を被った4人の男の子が座り、演技に合わせて太鼓を叩く。担ぎ棒に采振り4人を載せ、担ぎ手が足元を抑え、采振りが体を逸らし、大きく采を振って「ホーライエ」を歌いながら入場する[9]。
 踊りは太鼓山が長坂に向けて突っ込む「トバセ」、掛け声に合わせて山車を天空に投げて片手で受け止める「コッコデショ」、踊り馬場の中央で山車を回転させる「マワセ」、再び山車を投げる「コッコデショ」で1回が構成され、これが4回繰り返される。2回目の演技が終えたところで一旦退場しかけ、観客の「モッテコイ」に応えて3回目を行う。3回目の途中の「コッコデショ」で担ぎ手は一斉にに法被を投げ上げ、更に4回目の演技を終えたところで退場する。
 退場する際は再び采振り4人を担ぎ棒に乗せ、「ホーライエ」を歌いながら踊り馬場を後にする。

構成
 総指揮1名
指揮1名
長采3名
棒先(指揮が指示する方向に1〜8番棒の先端の縄を引っ張る)8名
采振り(コッコデショの周りで采を振る)4名
太鼓山(櫓の上で太鼓をたたく)2班4名ずつ
担ぎ手(山車を肩に担ぐ)36名
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川原慶賀の世界(その十五) [川原慶賀の世界]

(その十五)「川原慶賀の長崎歳時記(その七)精霊流し」周辺

『NIPPON』 第1冊図版(№191)「盆灯籠」(A図) .gif

『NIPPON』 第1冊図版(№191)「盆灯籠」(A図) 福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

精霊流し (B図).gif

●作品名:精霊流し (B図) (「シーボルト・コレクション」)
●Title:Sending the ancestor's ghosts afloat back to the under world after the Memorial Week, July
●分類/classification:年中行事、7月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

精霊流し(C図).jpg

●作品名:精霊流し(C図) (「シーボルト・コレクション」)
●Title:Sending the ancestor's ghosts afloat back to the under world after the Memorial Week, July
●分類/classification:年中行事・7月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1696&cfcid=142&search_div=kglist
「精霊流し」 絹本著色 28「精霊流し」 紙本著色 28.7×36.60
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№16」)』)

精霊流し(D図).jpg

●作品名:精霊流し(D図) (「フイッセル・コレクション」)
●Title:Sending the ancestor's ghosts afloat back to the under world after the Memorial Week, July
●分類/classification:年中行事 7月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館
National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1696&cfcid=142&search_div=kglist
「精霊流し」 紙本著色 30.7×40.0
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№7」)
「 石崎融思は長崎古今集覧名所図絵にすばらしい筆致で精霊船の図を描いている。それに比べてこの図を見ると歳時記に記されている盆の雑踏が少しも感じられないのである。そのことは慶賀がこの図を描くにあたってシーボルトの説明用として、長崎の精霊船がいかなる構造をしているものであるかということを主題として描いているためのような図を描くことになったのであろうか。」
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 『NIPPON』 第1冊図版(№191)「盆灯籠」(A図)は、シーボルトの大著『日本』に収載された「石版挿絵」(西洋人画家の作)、そして、その下絵と思われる「シーボルト・コレクション」の「精霊流し 」(B図)は、「川原慶賀(又は「慶賀工房)」作。そして、その本画(元絵)と思われるの「シーボルト・コレクション」の「精霊流し」(C図)は、やはり、川原慶賀(又は「慶賀工房)」作と解したい。
 その上で、この「シーボルト・コレクション」の「精霊流し」(C図)と、「フイッセル・コレクション」の「精霊流し」(D図)とを交互に鑑賞していくと、上記の後者(D図)の『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」の、「慶賀がこの図を描くにあたってシーボルトの説明用として、長崎の精霊船がいかなる構造をしているものであるかということを主題として描いている」という指摘が、一つの示唆を投げ掛けてくれる。
 これは「フイッセル・コレクション」のうちの作品の一つで、「シーボルトの説明用」というよりも、より多く、これは、注文主の「フイッセル」(1820年出島に商館員として赴任。9年間出島に滞在し、1822年にはブロンホフの江戸参府に随行し、絵画や大工道具などをコレクションした。帰国後、豊富な収集品や日本での経験に基づき『日本風俗誌』(『日本風俗備考』)を著した。1820年ブロンホフが長崎奉行や役人を招待して上演した芝居の中心人物としても知られる)の趣向を反映しているものと解したい。
 因みに、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」の、「石崎融思は長崎古今集覧名所図絵にすばらしい筆致で精霊船の図を描いている」の、その「精霊船」(挿絵図)は、次のものであろう。

「長崎古今集覧名所図絵」所収「精霊船」(石原融思画).gif

「長崎古今集覧名所図絵」所収「精霊船」(石原融思画)
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/uta/030725/index.html

「長崎古今集覧名所図絵」所収「精霊船」(部分拡大図).gif

「長崎古今集覧名所図絵」所収「精霊船」(石原融思画)→「部分拡大図」

(参考)「精霊流し」

精霊流し (しょうろうながし)
https://www.nagasaki-tabinet.com/event/51798

盆前に逝去した人の遺族が故人の霊を弔うために毎年8月15日に行われる伝統行事です。手作りした船を曳きながら街中を練り歩き、極楽浄土へ送り出すという長崎を象徴する盆風景です。
各家で造られる船は主に竹や板、ワラなどを材料とし大小さまざまで、長く突き出した船首(みよし)には家紋や家名、町名が大きく記されます。故人の趣味や趣向を盛り込んで装飾し、特徴的な船が造られます。町内合同でもやい船を出したり、8月になると細部の飾り付けにまでこだわった様々な造りかけの船が路上に多く見られるようになります。
当日は夕暮れ時になると町のあちらこちらから「チャンコンチャンコン」という鐘の音と、「ドーイドーイ」の掛け声が聞こえ、耳をつんざくほどの爆竹の音が鳴り響き、行列は夜遅くまで続きます。

精霊流し(「ウィキペディア」)

概要
 長崎市を始め、長崎県内各地でお盆に行われる伝統行事である(ただし、県内でも海から遠い波佐見町等にはこの風習はない)。隣県である佐賀県の佐賀市や、熊本県の熊本市、御船町などにも同様の風習が見られる。初盆を迎えた故人の家族らが、盆提灯や造花などで飾られた精霊船(しょうろうぶね)と呼ばれる船に故人の霊を乗せて、「流し場」と呼ばれる終着点まで運ぶ。
 毎年8月15日の夕刻から開催され、爆竹の破裂音・鉦の音・掛け声が交錯する喧騒の中で行われる。精霊船は山車(だし)を連想させる華美なものであり、見物客が集まる。「祭り」と誤解されることもあるが、あくまでも故人を追悼する仏教の行事である。
 初盆でない場合は精霊船は作らず、藁を束ねた小さな菰(こも)に花や果物などの供物を包み、流し場に持っていく。精霊船や供物は、以前は実際に海へと流されていたが、長崎市では1871年(明治4年)に禁止された。精霊船も水に浮かぶような構造にはなっていない。現在でも島原市、西海市、松浦市、五島市などでは、実際に川面や海上に浮かべることもある。
 熊本県御船町の精霊流しは、8月16日の夕刻から開催され、大小さまざまな精霊船が数人の引手と共に川の中に入り、2百メートルほど流された後、そのまま川の中で燃やされるという形が続いている。
 佐賀市では8月15日の夕刻から河港のあった今宿町などで行われ[1]100年以上の歴史があったが、2009年に地域の高齢化による担い手不足から中止となっている[2]。佐賀市久保田町の嘉瀬川や佐賀県護国神社沿いの多布施川などでも行われているが、それぞれ1989年(嘉瀬川)、2011年(多布施川)開始と歴史は浅い。
 長崎市には長崎くんちという祭りがあり、精霊船の造りはくんちの出し物の一つである曳物に似ている。曳物は山車を引き回すことがパフォーマンスで行われており、精霊流しの際もそれを真似て精霊船を引き回すことが一部で行われている。この行為は一般的には好ましい行為と見られておらず、警察も精霊船を回す行為には制止を行っている。郷土史家の越中哲也は、長崎放送の録画中継の中で「難破船になるですばい」と毎年、出演の度に「悪しき行為」と解説している。
 代表的な流し場である長崎市の大波止には、精霊船を解体する重機が置かれている。家族、親類らにより、盆提灯や遺影、位牌など、家に持ち帰る品々が取り外され、船の担ぎ(曳き)手の合掌の中、その場で解体される。

精霊船

 精霊船は大きく2つに分けることができる。個人船と、「もやい船」と呼ばれる自治会など地縁組織が合同で出す船である。個人で精霊船を流すのが一般的になったのは、戦後のことである。昭和30年代以前は「もやい船」が主流であり、個人で船を1艘造るのは、富裕層に限られた。
 もやい船、個人船に限らず、「大きな船」「立派な船」を出すことが、ステータスと考えている人もいる。現代でも「もやい船」の伝統は息づいており、自治会で流す船のほか、病院や葬祭業者が音頭を取り、流す船もある。また、人だけでなく、ペットのために流す船もある。
 流し場までの列は家紋入りの提灯を持った喪主や、町の提灯を持った責任者を先頭に、長い竿の先に趣向を凝らした灯篭をつけた「印灯篭」と呼ばれる目印を持った若者、鉦、その後に、揃いの白の法被で決めた大人が数人がかりで担ぐ精霊船が続く(「担ぐ」といっても船の下に車輪をつけたものが多く、実際には「曳く」ことが多い)。
 精霊流しは午後5時頃から10時過ぎまでかかることも珍しくないため、多くの船は明かりが灯るように制作されている。一般的な精霊船では提灯に電球を組み込み、船に積んだバッテリーで点灯させる。小型な船や一部の船ではロウソクを用いるが、振動により引火する危険があるため、電球を用いることが多い。また、数十メートルの大型な船では、発電機を搭載する大がかりな物もある。材質は木製のものが多いが、特に決まりはなく、チガヤ(西海市柳地区など[5])や強化段ボールなどが利用される場合もある。
 精霊船は「みよし」と呼ばれる舳先に家紋や苗字(○○家)、もやい船の場合は町名が書かれている。艦橋の部分には位牌と遺影、供花が飾られ、盆提灯で照らされる。仏画や「南無阿弥陀仏」の名号を書いた帆がつけられることが多い。
 印灯篭は船ごとに異なる。もやい船の場合はその町のシンボルになるものがデザインされている(例:町内に亀山社中跡がある自治会は坂本龍馬を描いている)。個人船の場合は家紋や故人の人柄を示すもの(例:将棋が好きだった人は将棋の駒、幼児の場合は好きだったアニメキャラなど)が描かれる。
 船の大きさは様々で、全長1~2メートル程度のものから、長いものでは船を何連も連ね20~50メートルに達するものまである。
 精霊船の基本形は前述の通りであるが、近年では印灯篭の「遊び心」が船本体にも影響を及ぼし、船の形をなしていない、いわゆる「変わり精霊船」も数多く見られる(例:ヨット好きの故人→ヨット型、バスの運転士→西方浄土行の方向幕を掲げたバス型など)。

精霊流しと爆竹

 爆竹が精霊流しで使われる由来には諸説あるが、中国の彩船流しの影響が色濃く出ているものとされている。また、流し場までの道行で鳴らされる爆竹は、中国が起源であるなら「魔除け」の意味であり、精霊船が通る道を清めるためとされる。近年ではその意味は薄れ、中国で問題になっている春節の爆竹と同様に、「とにかく派手に鳴らせばよい」という傾向が強まっている。数百個の爆竹を入れたダンボール箱に一度に点火して火柱が上がったりする等、危険な点火行為が問題視されている。観覧者を直撃することが多くあるため、ロケット花火の使用は禁止されている。度を過ぎた花火の使用をした場合、各船の花火取扱責任者(事前に精霊流しの花火についての講習を受けた者)に警察から指導が行く場合がある。
 伊藤一長が狙撃されて死去したとき、伊藤の精霊流しの際は、爆竹の音が銃声をイメージするとして自粛された。
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川原慶賀の世界(その十四) [川原慶賀の世界]

(その十四)「川原慶賀の長崎歳時記(その六)七夕の節句(笹の節句)」周辺

『NIPPON』 第1冊図版(№179)「七夕」(A図).gif

『NIPPON』 第1冊図版(№179)「七夕」(A図) 福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

七夕(B図).gif

●作品名:七夕(B図) 「シーボルト・コレクション」
●Title:Tanabata (Star Festival) July
●分類/classification:年中行事、7月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

七夕(C図).jpg

●作品名:七夕(C図) 「シーボルト・コレクション」
●Title:Tanabata(Star Festival), July
●分類/classification:年中行事・7月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1258&cfcid=142&search_div=kglist
絹本着色 27.4×36.6㎝
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№12」)

七夕(D図).jpg

●作品名:七夕(D図) 「フイッセル・コレクション」
●Title:Tanabata(Star Festival), July
●分類/classification:年中行事・7月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1258&cfcid=142&search_div=kglist
紙本著色 30.5×40.0㎝
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№6」)

七夕(E図).jpg

●作品名:供琴、七夕(E図) 「ブロムホフ・コレクション」
●Title:Tanabata(Star Festival), July
●分類/classification:年中行事・7月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=969&cfcid=142&search_div=kglist
紙本著色 26.0×38.0㎝
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№24」)
『 7月6日(旧暦)は七夕様の待夜(たいや)といって、芸事を習う家ではこの夜それぞれの楽器を七夕様にお供えして芸の上達を願うという風習があった。長崎歳時記に次のように記している。
夜にいたりて机子(つくえ)に鏡餅、素麺、西瓜などを供し、燈(ともしび)を点して乞功奠(きっこうてん)とす。 』
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

「シーボルト・コレクション」の「七夕(B図)」(紙本墨画)も「七夕(C図)」(絹本彩色)も「川原慶賀(又は慶賀工房)」作のもので、大まかには「川原慶賀」筆としても違和感は抱かない。
そして、『NIPPON』 第1冊図版(№179)「七夕」(A図)は、この「七夕(B図)」(紙本墨画)と「七夕(C図)」(絹本彩色)との両者の上に成り立った「石販挿絵画」(西洋人作)という印象を抱くのである(全体の構図や風景描写は「B図」を基本として、人物の構図や描写は「C図」で修正している)。
 その上で、「シーボルト・コレクション」の「七夕(C図)」(絹本彩色)と「フイッセル・コレクション」の「七夕(D図)」(紙本本彩色)とを比較鑑賞していくと、この中景の「一階の格子戸の背景が、左図(D図)に人影があるのに対して、右図(C図)では、その人影が全く見られない。
 これは、下記のアドレスで触れた、「葛飾北斎」のゴーストライターともいわれている、北斎の三女「葛飾応為」(名は「栄」)の、川原慶賀が大きく影響を受けている、その「吉原格子先之図」の、その「光と影」(「光と影、明と暗を強調した応為の創意工夫)が、この「シーボルト・コレクション」の右図(C図)では度外視されているのである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-27

七夕(C図)と(D図).png

左図=「フイッセル・コレクション」の「七夕(D図)」(紙本本彩色)
右図=「シーボルト・コレクション」の「七夕(C図)」(絹本彩色)

 この左図の「フイッセル・コレクション」の「七夕(D図)」(紙本本彩色)は、上記のアドレスで取り上げた「節分」(豆まき)に関連しての、川原慶賀の傑作画に数えられる、「川原慶賀筆「青楼」紙本著色 25.3×49.2 ライデン国立民族学博物館蔵(「ブロムホフ・コレクション」)に連なるのと解したい。
 それを再掲して置きたい。

(再掲)

川原慶賀筆「青楼」(E図).jpg

川原慶賀筆「青楼」紙本著色 25.3×49.2 ライデン国立民族学博物館蔵(「ブロムホフ・コレクション」) The Nagasaki gay quarter (E図)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№87」)
『あかあかと明かりのついた遊郭を、通りに視点を置いて描いている。格子越しに見える内部、それを表からのぞいてひやかす客たち、二階には三味を弾かせ太鼓を叩いて陽気に騒ぐ客、提燈を持って通りを行き交う人々、そば屋、これらの人々が生き生きと描写されている。そして、本図で最も注意すべきことは、夜の人工的な光の錯綜を見事に捉えていることである。室内はろうそくの明かりで照らし出され、その室内の光は外にもれて通りの人々が持つ提燈の光とともに複雑な影を地面に作り出している。
 妓楼格子先を表した図は多く見ることができるが、本図ほど光と影を意識して描かれたものはないのではなかろうか。その点だけでも、本図を描いた慶賀を日本の近代絵画の先駆者として位置づけることができるであろう。(兼重護稿)』(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 次に、「ブロムホフ・コレクション」の「供琴、七夕(E図)」(紙本彩色)であるが、これはまた、「フイッセル・コレクション」の「七夕(D図)」(紙本本彩色)でも、「シーボルト・コレクション」の「七夕(C図)」(絹本彩色)の世界でもなく、これまた、「川原慶賀」の別な世界を垣間見せてくれる。
 そして、これもまた、「葛飾応為の美人画」の世界(下記のF図など)を、その「光と影」の世界と同じく、慶賀は、応為から、その技法を学び取ろうしている姿勢が、この「供琴、七夕(E図)」の拡大図(E-2図)などから窺えるように思えるのである。

「供琴、七夕(拡大図)」(E-2図).jpg

「供琴、七夕(拡大図)」(E-2図)川原慶賀筆(「ブロムホフ・コレクション」)

「『女重宝記』四「女ぼう香きく処」(葛飾応為筆)」(F図).gif

「『女重宝記』四「女ぼう香きく処」(葛飾応為筆)」(F図)
https://hokusai-museum.jp/taiketsu/

(参考) 酒井抱一筆「五節句図」の「乞巧奠」と川原慶賀筆の「乞巧奠」「(「供琴・七夕」)
周辺

酒井抱一筆「五節句図」.jpg

酒井抱一筆「五節句図」(「大倉集古館」蔵)→ (G図)
左より「重陽宴 - 菖蒲臺 - 小朝拝 - 曲水宴 - 乞巧奠」
五節句: 小朝拝(1月1日)・曲水宴(3月3日)・菖蒲臺(5月5日)・乞巧奠(7月7日)・「重陽宴(9月9日)それぞれを1幅ずつ描いた5幅からなる連作。」
http://kininaruart.com/wp/2013/05/%E5%A4%A7%E5%80%89%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%B2%BE%E8%8F%AF%E2%85%A0%E3%80%80%E9%85%92%E4%BA%95%E6%8A%B1%E4%B8%80%E3%81%AE%E3%80%8E-%E4%BA%94%E7%AF%80%E5%8F%A5/

「五節句より『重陽宴(ちょうようのえん)- 菖蒲臺・輿 (あやめのだい・こし)- 小朝拝(こちょうはい) - 曲水宴(ごくすいのえん) - 乞巧奠(きっこうでん)』
1827(文政10)年 絹本着色 五幅対
『小朝拝(1月1日)・曲水宴(3月3日)・菖蒲臺(5月5日)・乞巧奠(7月7日)・「重陽宴(9月9日)の五節句の宮中行事を五幅の掛軸に表した作品。端正な人物像は抱一晩年の円熟した画風を象徴する。行事の由来を抱一自身が美麗な冊子に記し、室町時代中期の公家、一条兼良(かねら)の『公事根源(くじこんげん)』を典拠とすることも付記されている。注文主鴻池儀兵衛(こうのいけぎへい)やその手代に充てた書簡もともに伝来している。(岡野智子稿)」(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』)

 酒井抱一(1761-1828)と葛飾北斎(1760?-1849)とは、全く同時代の人なのである。そして、川原慶賀(1786-1849)と葛飾応為(生没年未詳)とは、シーボルト事件(1828)前後に、その画業の制作が盛んな頃で、この二人も同時代の人と捉えることができる。
 ここで、このシーボルト事件(1828)が起きた年の十一月二十九に、抱一は雨華庵で、その六十八年の生涯を閉じている(北斎=六十九歳)。その前年(1827)に、抱一は、上記の「五節句図」(「大倉集古館」蔵)を制作している。
 この「五節句図」は、抱一の遺作ともいえるものの一つで、江戸琳派の祖と仰がれている抱一が、その琳派(尾形光琳風)の古典人物像の描写(ユニークな表情を特徴とする)ではなく、「建物も人物も細かく謹直な線描で描かれている、特に顔は、やまと絵の伝統的な「引目鉤鼻(ひきめかぎばな)」を明らかに意識した精緻な描写である」(「岡野・前稿)と、「やまと絵(土佐派・住吉派)」への回帰をも暗示している。
 この画人としてのスタートは、北斎と同じく、浮世絵(特に「美人画」)の世界なのである。
 これらのことについては、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-20

抱一 村雨図.jpg

酒井抱一「松風村雨図」(細見美術館蔵)→ (H図)
「『松風村雨図』は浮世絵師歌川豊春に数点の先行作品が知られる。本図はそれに依ったものであるが、墨の濃淡を基調とする端正な画風や、美人の繊細な線描などに、後の抱一の優れた筆致を予測させる確かな表現が見出される。兄宗雅好みの軸を包む布がともに伝来、酒井家に長く愛蔵されていた。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「二章 浮世絵制作と狂歌」)

抱一・文読む美人図.jpg

酒井抱一筆「文読む美人図」一幅 太田記念美術館蔵→ (I図)
「二十代の抱一が多数描いた美人画の中でも最初の段階を示す作らしく、手つき足首など、たどたどしく頼りなさがあるが、側面の顔立ちが柔和で、帯の文様など真摯な取り組みが初々しい。安永期に活躍し影響の大きかった浮世絵師、磯田湖龍斎による美人画の細身なスタイルの反映があることも、制作時期の早さを示す。『楓窓杜綾畫』と署名し、『杜綾』朱文印を捺す。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「二章 浮世絵制作と狂歌」)

ここでは、この「往時流行した『紅(べに)嫌い』の趣向の抱一筆「松風村雨図(H図)」が、上記の「フイッセル・コレクション」の慶賀筆「七夕(D図)に対して、「ブロムホフ・コレクション」の慶賀筆「供琴、七夕)」(E図・E-2図)は、その「紅嫌い」の「墨画」調ではなく、「紅(赤)」を効果的に活かした「彩色画」の、抱一筆「文読む美人図」(I図)の世界との印象を抱くのである。
 それと同時に、酒井抱一と川原慶賀は、その両人の生涯において、何らの直接的な接点は見出されないが、シーボルト事件(1828)の年に永眠した抱一の遺作ともいうべき、その「五節句図」の「乞巧奠」と、いわゆる「長崎歳時記」の一環の数ある「五節句」のうちの一つの、その「乞巧奠」とは、抱一のそれが「古典(やまと絵)的風俗画」の世界のものとすると、まさに、「現代(浮世絵)的風俗画」という思いに駆られてくる。
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川原慶賀の世界(その十三) [川原慶賀の世界]

(その十三)「川原慶賀の長崎歳時記(その五)端午の節句(菖蒲の節句)」周辺

『NIPPON』 第1冊図版(№178)「端午の節句(菖蒲の節句)」(A図).gif

『NIPPON』 第1冊図版(№178)「端午の節句(菖蒲の節句)」(A図) 福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

端午の節句(B図).gif

●作品名:端午の節句(B図)
●Title:Boy's Festival, May
●分類/classification:年中行事、5月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

端午の節句(C図).jpg

●作品名:端午の節句(C図)
●Title:Boy's Festival, March
●分類/classification:年中行事・5月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=77&cfcid=142&search_div=kglist

 この「端午の節句(B図)」(紙本墨画)と「端午の節句(C図)」(絹本彩色画)とは、「シーボルト・コレクション」のものである。そして、この「端午の節句(B図)」(紙本墨画)の「人物像と鍾馗ののぼり旗」などの描写からすると、『NIPPON』 第1冊図版(№178)「端午の節句(菖蒲の節句)」(A図)の「下絵」ではなく、「端午の節句(C図)」(絹本彩色画)の「下絵」の雰囲気で、「石販挿絵画家」(西洋人)の作ではなく、「川原慶賀(又は慶賀工房)」の作のような雰囲気を有している。
 これらの「端午の節句(A図・B図・C図)」と全く別の図柄の、次の「フイッセル・コレクション」の「端午の節句(D図)」が、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』では紹介されており、その「主要作品解説」では、「慶賀の風俗画における傑作画の一つに数えてよいものであろう」との評をしている。

端午の節句(D図).jpg

●作品名:端午の節句(D図)
●Title:Boy's Festival, March
●分類/classification:年中行事・5月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

「端午の節句」 紙本著色 30.5×40.0 (フイッセル・コレクション)
Boy's Festival ( March)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№4」)
『 本図は長崎における江戸時代の男節句外かざり風景を実によく描いている。慶賀の風俗画における傑作画の一つに数えてよいものであろう。慶賀は時として風俗画の中によく犬を描いているが、その犬が画面の風景ともよくとけ合って巧みに描かれている。慶賀は犬好きな人であったのであろうか  』
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)


(参考)「花見」「ハタ揚げ」「花祭り(花の節句)」「陸ペーロン」「水祖神祭礼」「井戸替え」など

花見(E図).jpg

●作品名:花見(E図) 「ブロムホフ・コレクション」
●Title:Cherry-blossom viewing by a river in spring, March
●分類/classification:年中行事、3月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

ハタ揚げ(F図).jpg

●作品名:ハタ揚げ(F図) 「ブロムホフ・コレクション」
●Title:March kite flying, Spring
分類/classification:年中行事、春/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館
National Museum of Ethnology, Leiden

花祭り(G図).jpg

●作品名:花祭り(G図) 「ブロムホフ・コレクション」
●Title:The Buddha's birthday, April
●分類/classification:年中行事・4月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

陸ペーロン(H図).jpg

●作品名:陸ペーロン(H図) 「ブロムホフ・コレクション」
●Title:Children's boat race, May
●分類/classification:年中行事・5月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

水祖神祭礼(I図) .jpg

●作品名:水祖神祭礼(I図) 「フイッセル・コレクション」
●Title:Warter God Festival, March
●分類/classification:年中行事・5月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

水祖神祭礼(J図).jpg

●作品名:水祖神祭礼(J図) 「シーボルト・コレクション」
●Title:Warter God Festival, March
●分類/classification:年中行事・5月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

水祖神祭り(K図) .gif

●作品名:水祖神祭り(K図) 「シーボルト・コレクション」
●Title:Water God Festival May
●分類/classification:年中行事、5月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden


井戸替え(L図) .jpg

●作品名:井戸替え(L図) 「ブロムホフ・コレクション」
●Title:Well cleaning, May
●分類/classification:年中行事・5月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/////target/kgdetail.php?id=1064&cfcid=142&search_div=kglist
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№13」)』)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№14」)

絹本着色 24.6×38.8

井戸替え(M図).jpg

●作品名:井戸替え(M図) 「シーボルト・コレクション」
●Title:Well cleaning, May
●分類/classification:年中行事・5月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//////target/kgdetail.php?id=1136&cfcid=142&search_div=kglist
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№14」)』)

絹本着色 27.0×36.2

(特記事項)

「フイッセル・コレクション」(I図)のものは、「紙本彩色(着色)画」で、大きさ(法量)は「30.5×40.0㎝」程度のものが多いが、「ブロムホフ・コレクション」(E図~H図・L図)と「シーボルト・コレクション」(J図・K図・M図)のものは「絹本彩色(着色)画」で、大きさ(法量)は、前者が「24.6×38.8㎝」程度、後者が「27.0×36.2㎝」程度のものが多い。
 制作年次的には、「ブロムホフ・コレクション」と「フイッセル・コレクション」とは、
文政五年(一八二二)の「江戸参府」(「ブロムホフ(商館長)・フイッセル(商館員・書記・『日本風俗備考』の著者」)前後、そして、「シーボルト・コレクション」のものは、文政九年(一八二六)の「江戸参府」(「スチュルレル(商館長)・シーポルト(商館付医師)・川原慶賀(シーボルト付人)」)前後から、それ以降と大雑把に区分けすることが出来る。
 そして、「シーボルト・コレクション」のものは、「植物図譜」「動物図譜」「日本風俗風習図譜」(「長崎歳時記」・「人の一生」「生産と道具図」「職人尽し図」など)「江戸参府図譜」「中国・唐人屋敷図譜」「阿蘭陀・出島図譜」「露西亜・アイヌ・朝鮮関係図譜」など、多種多様で、その「シーボルト」の要請に応えるためには、「川原慶賀」単独作というよりも、慶賀の息子(田口蘆国)や師筋の「石崎融思」門の「助っ人」絵師による「川原慶賀工房」作というニュアンスが、「ブロムホフ・コレクション」と「フイッセル・コレクション」の作品よりも、濃厚になってくるというように、これまた、大雑把な理解をして置きたい。


長崎歳時記(メモ)

『長崎歳時記(野口文龍著)』の「現代語訳全文」については、「川原慶賀の『日本』画帳《シーボルトの絵師が描く歳時記》」(下妻みどり編)」の「巻尾の章」(p195以下)に全文掲載されている。また、下記のアドレスで、そのうちのアップされたものなどを閲覧することが出来る。

https://note.com/mitonbi/n/nd19ac15e4197

 また、その原文は、次のアドレスで閲覧することが出来る。

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1546781&start=#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=0%2C-332%2C1467%2C1642

(以下は、「参考」データ)

五節句

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%8F%A5

人日(じんじつ)→ 1月7日 ※七草の節句、七草粥。
上巳(じょうし)→ 3月3日 ※桃の節句・雛祭、菱餅や白酒など。
端午(たんご)→  5月5日 ※菖蒲の節句、菖蒲酒。菖蒲湯の習俗あり。関東では柏餅、中国や関西ではちまき。→ (A図)(B図)(C図)(D図)
七夕(しちせき)→ 7月7日 ※笹の節句・七夕(たなばた)、裁縫の上達を願い素麺が食される。
重陽(ちょうよう)→9月9日 ※菊の節句、菊を浮かべた酒など。

花見 → (E図)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E8%A6%8B

 花見(はなみ)は、樹木に咲いている花、主にサクラの花を鑑賞し、春の訪れを寿ぐ日本古来の風習である。副称は観桜(かんおう)である。

ハタ揚げ → (F図)

https://ja.wikiped ia.org/wiki/%E5%87%A7

 14世紀頃から交易船によって、南方系の菱形凧が長崎に持ち込まれ始めた。江戸時代の17世紀には、長崎出島で商館の使用人たち(インドネシア人と言われる)が凧揚げに興じたことから、南蛮船の旗の模様から長崎では凧を「ハタ」と呼び、菱形凧が盛んになった。 
これは、中近東やインドが発祥と言われる菱形凧が、14-15世紀の大航海時代にヨーロッパへと伝わり、オランダの東方交易により東南アジアから長崎に広まったものとされる。

花祭り(灌仏会) → (G図)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%8C%E4%BB%8F%E4%BC%9A

 灌仏会(かんぶつえ)は、釈迦の誕生を祝う仏教行事である。日本では原則として毎年4月8日に行われ、一般的には花祭・花祭り・花まつり(はなまつり)と呼ばれている。 降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、浴仏会(よくぶつえ)、龍華会(りゅうげえ)、花会式(はなえしき)の別名もある。

陸(おか)ペーロン → (H図)

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken08122/index.html

 江戸時代の旧正月には、陸(おか)ペーロン、またの名を「せーらえん」という子どもの遊びがあった、これは、いわゆる大人のペーロンの真似事。ぶらぶら節に出てくる
  ♪大井手町の橋の上で 子供の旗(はた)喧嘩
 この「旗喧嘩」もこの陸ペーロンのこと。青竹でペーロン船を真似て作り、幟旗(のほりばた)を押し立て、他の組と競走して勝った方が相手の旗を取って遊んだ。
  ♪世話町は五六町ばかりも 二三日ぶうらぶら
   ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅう
 ときたまこれに大人が加わり大騒動となって、仲裁役の世話町が入って、収まるのに二三日かかることもあったというのだ。

水祖神祭礼 → (I図)(J図)(K図)
 
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken08122/index1.html

江戸時代の旧暦五月には、川沿いの町で川祭りがさかんに行われていた。その様子はシーボルトが記した『日本』にも紹介されている。なかでも最も有名だったのが長崎の奥の入江としての機能を果たしていた大黒町の水神祭で、これは昭和初期まで盛大に行われていた。海中に祭壇を設け、それが面する道路に「奉祭礼八大龍王水神宮」と書かれたのぼりを揚げた。市中七か町を経て海へ注ぐ岩原川がこの辺りで潟地となり、川祭りの際は、町内の若者が素っ裸の全身にこの潟を塗って目だけを光らせた河童を真似、銅鑼(どら)を叩いて他町まで行き暴れたという。祭りに訪れた子ども達には、水難除けのお守りが配られ、ご馳走が振る舞われたため、この大黒町の川祭りは、市中の子ども達が心待ちにする大イベントだった。

(特記事項)

 この(K図)の「奉祭礼八大龍王水神宮」の幟旗の字が「真逆」になっている。これは「石版挿絵画家」(西洋人)の作で、その原画(I図)(J図)を描いた「川原慶賀(又は「慶賀工房)」の作ではないように思われる。

井戸替え → (L図)(M図)

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/otakara/080804/index.html

 長崎の町は開港と同時期に現在の県庁前付近、長い岬に開かれた六つの町からはじまった。ポルトガルとの貿易を機に行われたこの町建ての際、当然のごとく生活用水を用立てる手段として井戸が掘られたわけだが……実は、そんな遠い昔に掘られ、使用されていた井戸が今も現存している。
その井戸を、まずは県庁前の横断歩道脇、車道から10cm程高くなった人々が日々行き交う歩道に発見。そこに見慣れた手押し井戸ポンプがぽつねんとある。これが遥か400年余り前にさく井(せい)された【六町時代の井戸】だというから驚きだ(もちろんポンプは後付け)。
そして、メルカつきまちの裏、県庁坂より、築町の石垣の下には【下町の井戸】。長崎県警本部裏手の石垣の下には【崖の下の井戸】というように、今の長崎の町のはじまりとなった市役所から県庁にかけての旧道を含む道筋には、意外にも多くの井戸が現存している。これらの井戸のほとんどは江戸時代から使われているもので、特に【崖の下の井戸】などは、オランダ船へ積み込む飲料水として使用されていた。この辺りは、かつて岬であった開港当時、引いては寄せる波の音が響く崖だったのだ。この崖下にあったため、その名も【崖の下の井戸】。この並びには当時もっとたくさんの井戸があり、そこから引かれた水もポルトガル船やオランダ船、唐船などの乗組員の飲料水として使われていたという。
■南蛮貿易時代の井戸
いつもこの道を通っているという人の中にも、この井戸の存在、知らない人いるかも?
江戸時代、長崎の町を取り締まった地役人・町年寄のなかに高島家がある。幕末の有名な西洋砲術家、高島秋帆(しゅうはん)はこの11代にあたるが、この高島家の屋敷も旧六町の大村町にあった。現在の家庭裁判所・簡易裁判所がその高島家の屋敷跡だ。長崎の町において、大名や公家と違わない地位と権力、財力を持ち合わせていた高島家のお屋敷は広大で、造りもとても堅固なものだったということが判明している。そんな高島家の敷地内には、なんと井戸跡が11ケ所もあったのだそうだ。
そういえばこの辺りには長崎ならではの石造りの溝、エゴ端がソロソロと流れている。長い歳月のなかですっかりコンクリート化し、ビルが建ち並ぶオフィス街へと変貌した市役所~県庁界隈。基礎工事を重ねる度に地面を何度も掘削しているにも関わらず、しっかりと水脈が残っていることには感動すら覚える。
400年余り前に掘られたこれらの井戸だが、豊かな水脈のおかげで今も豊富に水が出ている。しかし、残念ながら蓋がしてあったり、トタンで囲ってあったりと使用されていない井戸の方が多いのが現状。しかたない!散策中にこれらの井戸をみつけたら、遠い昔に想いを馳せることで楽しむとしよう。

https://www.edomono.jp/blog/2017/07/02/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE7%E6%9C%887%E6%97%A5%E3%81%AB%E8%A1%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%8C%E4%BA%95%E6%88%B8%E6%9B%BF%E3%81%88%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F/

 7月7日は七夕の日として知られていますが、旧暦7月7日は江戸市中ではもう1つの大切な仕事がありました。「井戸替え(いどがえ)」です。
 夏に疫病が流行するのを防ぐため、この時期に井戸の中の掃除をしました。
井戸浚え(いどさらえ)、晒井戸(さらしいど)とも呼ばれ、「つるつる」という落語にも登場します。
 井戸の水をすべて出して井戸職人が中を掃除するのですが、深い井戸の中に入っての作業は時に危険を伴ったそうです。
 一方、水を汲む時に井戸に落としてしまった髪飾りなども見つかるので、その日を楽しみにしていた女性もいたそうです。


(追記)

水祖神祭り(K図) .gif

●作品名:水祖神祭り(K図) 「シーボルト・コレクション」
●Title:Water God Festival May
●分類/classification:年中行事、5月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album

 この「水祖神祭り(K図)」は、次の「水神神社の祭礼」(K-2図)のとおり、シーボルトの『NIPPON』に収載されている。
 全く同じものかというと、「水神神社の祭礼」(K-2図)の、左端の「子供を背負った女性」などが加わり、「水祖神祭り(K図)」を下絵としていることが窺える。
 この「水祖神祭り(K図)」(紙本墨画)は、「水神神社の祭礼」(K-2図)を描いた「石版挿絵画家(西洋人)」の作と思われる。

「水神神社の祭礼」(K-2図).gif

『NIPPON』 第1冊図版(№190)「水神神社の祭礼」(K-2図) 福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

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