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蕪村の花押(六の二) [蕪村]

蕪村の花押(六の二)

蕪村・筏師・出光美術館.jpg
 蕪村筆「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)

[【筏師画賛】一幅 与謝蕪村筆 紙本墨画淡彩 江戸時代 二七・二×六六・八㎝
嵐山の桜を愛でている最中に、急に風雨が激しくなって、筏師の蓑が風に吹かれた一瞬を花に見立てた俳画。蓑の部分は、紙を揉んで皺をつけ、その上から渇筆を擦りつけることで、蓑のごわごわとした質感をあらわしている。蓑笠だけで表された筏師のポーズは遊び心にあふれ、ほのぼのとしていながら印象的である。遊歴の俳人画家、蕪村は五十歳になってから京都に安住の地に選び、身も心も京都の人になりきって庶民の風習を楽しんだ。自己を語ることをせずに、筏師一人だけを慎み深く捉えているところに、かえって都会的な香りや郷愁を感じさせる。(出光)
(釈文)
嵐山の花にまかりけるに俄に風雨しけれは
いかたしの みのや あらしの 花衣  蕪村 (花押) ]
「大雅・蕪村・玉堂と仙崖―『笑《わらい》』のこころ」(作品解説38)

 上記の「作品解説」の中で、「蓑の部分は、紙を揉んで皺をつけ、その上から渇筆を擦りつけることで、蓑のごわごわとした質感をあらわしている」の、いわゆる、水墨画の「乾筆(かっぴつ)=墨の使用を抑え,半乾きの筆を紙に擦りつけるように描く」の技法を、この「ミの(蓑)」に駆使しているのが、この俳画のポイントのようである。
 その「蓑」に比して、「笠」の方は、「潤筆(じゅんぴつ)=十分に墨を含ませて描く」の技法の一筆描きで、この「蓑と笠」だけで「筏師のポーズ」を表現するというのは、「遊歴の俳人画家」たる蕪村の「遊び心」で、「ほのぼのとしていながら印象的である」と鑑賞している(上記の解説)。
 ここで、この「筏師画賛=B」は、何時頃制作されたのかということについては、この賛に書かれている発句「いかたしの/ミのや/あらしの/花衣」の成立時期との関連で、凡その見当はついてくるであろう。

 『蕪村句集(几董編)』の収載の順序に、成立年時を付した『蕪村俳句集(尾形仂校注・岩波文庫)』では、次のようになっている。

     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し ※安永九年(※は推定)
一八五 花の香や嵯峨のともし火消(きゆ)る時   安永六年
     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          天明三年

 この「一八六 筏士の蓑やあらしの花衣」は、「筏士自画賛」の百池「箱書き」の内容に照らして、天明三年(一七八三)の作ではなく、「一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し」と同時の、安永九年(一七八〇)作なのではなかろうかということについては、先に触れた。ここで、この両句を、その前書きから、「一八六 → 一八四」の順にすると次のとおりとなる。

     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣 
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し

 この順序ですると、「雨日嵐山にあそぶ」、そして、「筏士」の句などを作り、「日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る」、その帰途中で、知人と出会い、「嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し」の句を作ったということになる。
 さらに、『蕪村句集』を見て行くと、「嵯峨の雅因亭」での、次の句が収載されている。

     嵯峨の雅因が閑を訪(とひ)て
三一一 うは風に音なき麦を枕もと       ※(安永三年四月)

 この「嵯峨の雅因」は、京都島原の妓楼吉文字屋の主人で、嵐山の宛在楼に閑居し、蕪村らと親しく交遊関係を結んでいる、山口蘿人門の俳人である。しかし、この雅因は、安永六年(一七七七)十一月二十六日に没しているので、ここで、上記の「一八五 花の香や嵯峨のともし火消(きゆ)る時」(安永六年作)が、雅因への追悼句の雰囲気を伝えて来る。 いずれにしろ、上記の『蕪村句集』に収載されている、「一八四・一八五・一八六」は、相互に響き合った、何かしらの因果関係にある句と解したい。

 さらに、ここに付け加えることとして、大雅が、安永五年(一七七六)四月十三日に没していることである。
 蕪村と大雅とは、京都の近い所に住んでいながら、ほとんど没交渉のような、この二人の生前の交渉の足跡はどうにも未知数の謎のままである。
大雅が没したときの、蕪村の書簡は、「大雅堂も一作(昨)十三日古人(故人)と相成候。平安(京都)の一奇物、をしき事に候」(安永五年四月十五日付け霞夫宛て書簡)と、関心は持っていて、その才能は高く評価していたのであろうが、生粋の京都(平安)人である大雅を、潜在的に余所者意識(大阪近郊の田舎生まれ且つ江戸育ちの放浪者意識)の強い蕪村が敬遠していたという印象を拭えない。

これは、蕪村と若冲との関係にも言えることであって、丹波(京都郊外)の田舎出身の応挙とは気が合うのも、そういった蕪村の潜在的な意識と大きく関係しているのかも知れない。
ともあれ、「諸家寄合膳」の大雅筆の「梅図=二」は、安永五年(一七七六)以前のものであろうということと、蕪村筆の「翁自画賛=三」は、安永九年(一七八〇)以降のものということで、この両者は、大雅と蕪村との唯一の交叉を象徴する「十便十宣図」(二十枚)のような関係にはないということは間違いなかろう。 また、寛政十二年(一八〇〇)の若冲筆・四方真顔賛の「雀鳴子図=八」とは、全く制作年次を異にするということも、これまた指摘して置く必要があろう。

 唯一、蕪村との関連ですると、当時(安永=一七七二~天明=一七八一に掛けて)、蕪村と応挙との親密な交遊は散見され、例えば、蕪村と応挙との合筆の「『ちいもはゝも』画賛」(「広島・海の見える杜美術館」蔵)などからして、「諸家寄合膳」の蕪村筆の「翁自画賛=三」と応挙筆の「折枝図=一」とは、同時の頃の作と解しても、それほど違和感が無いのである。

 それよりも、蕪村・応挙合筆の「『ちいもはゝも』画賛」に、「猫は応挙子か(が)戯墨也/しやくし(杓子)ハ蕪村か(が)戯画也」と、画面の右に墨書し、中央の下に、「蕪村賛」と署名し、その下に、花押が書かれている。
 この花押が、何と「諸家寄合膳」の蕪村筆「「翁自画賛=三」の花押と同じものと思われるのである(下記の蕪村筆「「翁自画賛=三」)。
 ここで、蕪村の花押について、一つの仮説のようなもの提示して置きたい(詳細は、折りに触れて関連する所で後述することとしたい)。

一 蕪村の花押は、常用の花押(上記の「筏師画賛=B」などに見られる花押)と諸家(例えば、応挙など)との合筆画(それに類するもの)などに見られる花押(下記の「翁自画賛=三」)との二種類のものがある。
二 その常用の花押も、また、合筆画用の花押も、その由来となっているものは、蕪村が関東歴行時代に見切りをつけ、宝暦初年(一七五一)に上洛して間もない頃に草した「木の葉経句文」に因っているものと解したい。
三 すなわち、その「木の葉経句文」中の、末尾の「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の句に草した署名、「洛東間人(かんじん)嚢道人釈蕪村」の、この「嚢道人(釈)蕪村」の、その姓号と思われる「嚢道人」を象徴する「嚢」(雲水僧が携帯している経巻用の「嚢=袋」)の図案化と解したい。

諸家寄合膳(四枚).jpg
「諸家寄合膳」(二十枚)のうち「蕪村・若冲・大雅・応挙」(四枚)
上段(左)=蕪村筆「翁自画賛=三」 上段(右)若冲筆・四方真顔賛「雀鳴子図=八」
下段(左)=大雅筆「梅図=二」 下段(右)=応挙筆「折枝図=一」


補記一

     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          (『蕪村句集』)
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し  (『蕪村句集)

 この二句について、『蕪村書簡集(岩波文庫)』所収の「二四〇 無宛名(二月二十一日付)」の中に、「愚老(蕪村)生涯嵐山の句也とつぶやくことに候」と認められており、蕪村の自信作でもあり、また、蕪村の夜半亭社中でも、話題になっていた句のようである。なお、嵐山を流れる大堰川(桂川・保津川)は、当時の蕪村は、「大井(ゐ)川」と表記しているようである。

補記二 

 同じく、『蕪村書簡集(岩波文庫)』所収の「一一五 几董宛(安永九年三月七日付)」の中に、「筏士が蓑もあらしの花衣」の句形で、この句が出て来て、「帰路は杉月楼(さんげつろう)」に寄ったとの文言が見られる。先に紹介した、「三本樹(木)」の、「井筒楼」・「富永楼(雪楼)」の他に、この「杉月楼」も、蕪村行きつけの茶屋なのであろう。

補記三

 先に、「月渓筆画賛=C」(未見)の付記の「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」(『蕪村全集一 発句』所収「2377=P515)に関連して、「『三本樹(木)』」の『井筒楼』」や『富永楼』ではなく、京都祇園社境内の二軒茶屋などのものと解したい」と記したが、この『月渓筆画賛=C』を、『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収「100月渓筆筏師画賛」で確認することが出来た。それに因ると、「これは先師夜半翁、三軒茶やにての句也」と、祇園 の二軒茶屋ではなく、嵐山の三軒茶屋での作句というのが正解のようである。
 そして、その図柄は、先の蕪村筆の「筏士自画賛=A」に近いもので、冒頭の「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)のものではないことも確認出来た(これらのことは、また別稿といたしたい)。

補記四

 さらに、『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「95『筏士の』の付言(天明三年)」(真蹟=月渓筆の蕪村画像に貼付。『蕪村名画譜』<昭和八年一月刊>所収)で、この句に関連しての、「『袋草紙』に伝える公任の歌よりも勝っていると、(蕪村が)俳諧自在を自負したもの」というものも確認出来た(これも、また、別稿で出来れば取り上げたい)。

補記五

「筏士自画賛=A」については、『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「110『いかだしの』自画賛」で確認できた。しかし、肝心の、この画賛に付随する、百池の「箱書き」などには、当然のことながら(編集方針・スペースなど)、一言も触れられてはいない。

補記六

 しかし、『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「『風蘿念仏』序(天明元年十月)」で、その「筏士自画賛=A」に関連する、「『大来堂発句集』(百池の発句集)』の天明三年(一七八三)三月二十三日に、『金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座』」の、この「風蘿念仏」に関する、蕪村の「序」が全文収載されている(中興俳諧の二巨頭の京都の蕪村と名古屋の暁台との交遊などを背景にしたもの)。
 これらのことを背景とすると、次の二句とそれに関する「画賛」などは、兄弟句(姉妹編)と解して差し支えなかろう。

     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          (『蕪村句集』)
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し  (『蕪村句集』)


蕪村の花押(六の一) [蕪村]

蕪村の花押(六の一)

蕪村花衣.jpg
蕪村筆「筏士自画賛」(百池の箱書きあり・蕪村の署名はなく花押のみ)=A

 寺村百池の「箱書き」(括弧書き=読みと注)は次のとおりである。

[ これは是、老師夜半翁(蕪村)世に在(ま)す頃、四明山下金福寺に諸子会しける日、帰路三本樹(京都市上京区の地名=三本木、その南北に走る東三本木通りは、江戸時代花街として栄えた)なる井筒楼に膝ゆるめて、各三盃を傾く。時に越(こし=北陸道の古名)の桃睡(とうすい)、酔に乗じて衣を脱ぎ師に筆を乞ふ。とみに肯(うべな)ひ、麁墨(そぼく)禿筆(とくひつ)を採(とり)てかいつけ給ふものなり。余(百池)も其(その)傍に有りて燭をとり立廻(たちめぐ)りたりしが、日月梭(ひ)の如く三十年を経て、さらに軸をつけ壁上の観となし、其(その)よしをしるせよと責(せめ)けるこそ、そゞろ懐古の情に堪へず、たゞ老師の磊落(らいらく)なる事を述(のべ)て今のぬしにあたへ侍りぬ。 ]
(『蕪村全集一 発句)』所収「2377 左注・頭注・脚注」)

 さらに、『大来堂発句集』(百池の発句集)』の天明三年(一七八三)三月二十三日に、「金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座」として、「雨日嵐山
に春を惜しむ」との前書きのある「み尽して雨もつ春の山のかひ」という句が所出されている。
 すなわち、蕪村が亡くなる天明三年(一七八三)の三月二十三日、上記の百池の「箱書き」に記載されている句会が、金福寺芭蕉庵で開かれて、その帰途に、三本樹の井筒楼で宴会があり、その宴席での、即興的な「席画」(宴席や会合の席上で、求めに応じて即興的に絵を描かくこと。また、その絵)が、上記の「筏士自画賛=A」なのである。
 これは、百池の「箱書き」によって、桃睡の「衣」に描いた、すなわち、「絹本墨画」の「筏士自画賛」ということになる。ところが、「紙本墨画淡彩」の「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)も現存するのである。これは、後述することとして、その前に、上記の「筏士自画賛=A」の賛の発句や落款について触れて置きたい。
 この画中の右の冒頭に、「嵐山の花見に/まかりけるに/俄(にわか)に風雨しければ」として、「いかだしの/みのや/あらしの/花衣」の句が中央に書かれている。それに続いて、画面の左に、「酔蕪村/三本樹/井筒屋に/おいて写」と落款し、その最後に、蕪村常用の「花押」が捺されている。
 このことから、蕪村は、亡くなる最晩年にも、この独特の花押を常用していたことが明瞭となって来る。
 ここで、蕪村が最晩年の立場に立って、生涯の発句の中から後世に残すに足るものとして自撰した『自筆句帳』の内容を伝える『蕪村句集(几董編)』の「巻之上・春之部」では、「雨日嵐山にあそぶ」として「筏士(いかだし)の蓑(みの)やあらしの花衣(はなごろも)」の句形で採られている。
 この句形からすると、出光美術館所蔵の「筏師画賛=B」(「大雅・蕪村・玉堂と仙崖―『笑《わらい》のこころ』」図録中「作品38」)も「筏士画賛」のネーミングも当然に想定されたものであろう。おそらく、「筏士自画賛=A」と区別したいという意図があるのかも知れない。
 これらの、「筏士自画賛=A」と「筏師画賛=B」との比較鑑賞(考察)は、後述・別稿ですることにして、この他に、「月渓筆画賛=C」(「資料と考証六」=未見)もあるようで、そこに、
「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」と付記してあるという(『蕪村全集一 発句』)。
 これは、恐らく「筏師画賛=B」に近いもので、この「筏師画賛=B」に近いものが、他に何点か、その真偽はともかくとして出回っているようである。
 ここでは、冒頭の「筏士自画賛=A」の百池「箱書き」中の、「三本樹の井筒楼」と「月渓筆画賛=C」中の「二軒茶や」と、蕪村の傑作画として名高い「夜色楼台雪万家図」と関連しての、「晩年の蕪村が足繁く通った『雪楼』」」(『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「夜色楼台図(早川聞多稿)」)などについて触れて置きたい。
 この「雪楼」は、百池宛て蕪村書簡(天明二年・一七八二、七月十一日付け)で、「祇園 富永楼のこと。蕪村行き付けの茶屋」(『蕪村書簡集《大谷篤蔵・藤田真一校注》』)なのである。すなわち、晩年の蕪村が足繁く通った、蕪村自身の「拙(雪)老」の捩りの「雪楼」のようである。

蕪村 夜色楼台図.jpg

 (図1 蕪村筆 「 夜色楼台図」)

 この蕪村の「夜色楼台図」の左の画面外に、百池「箱書き」の「四明山(比叡山・四明岳)下金福寺」がある。そこで、天明三年(一七八三)三月二十三日に、「金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座」と、句会を開いている。その「帰路三本樹なる井筒楼に膝ゆるめて、各三盃を傾く」と、宴会があった。
 当時の「三本樹」の花街の様子が、次の『拾遺都名所図会』で紹介されている。ここに、「井筒楼」や「富永楼(雪楼)」の茶屋があった。

三本樹.png
 (図2 「 三本樹(木)」『拾遺都名所図会』 ) 

 この『拾遺都名所図会』に描かれている川は「かも川(鴨川)」である。この「かも川」付近の「井筒楼」で、冒頭の「筏士自画賛=A」が「席画」され、その主題は、「嵐山の花見に/まかりけるに/俄(にわか)に風雨しければ」と「嵐山」であり、その「嵐山」の「桂川(保津川)」の「いかだしの/みのや/あらしの/花衣」と、「筏士」ということになる。
 すなわち、この「筏士自画賛=A」は、「嵐山」の「桂川(保津川)」の「筏士」を、「鴨川」の近くの「三本樹(木)の井筒屋」で、かつて画賛にしたもの(「筏師画賛=B」)を思い出しながら、「酔蕪村」(酔っている蕪村)が、即興的に、「桃睡、百池一座」の見ている前で描いたということになろう。

 その前に描いた画賛(「筏師画賛=B」)は、次のものであろう。

蕪村・筏師・出光美術館.jpg
 蕪村筆「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)

 この「筏師画賛=B」に簡単に触れて置くと、「筏士自画賛=A」の左に記載されている
「酔蕪村/三本樹/井筒屋に/おいて写」のような記述はない。そして、その下にあった「花押」(「蕪村」の署名はない)は、「筏師画賛=B」では、右端に「蕪村・花押」とあり、
それに続く、前書きの文言も発句の句形も、微妙に異なっている。
 そして、「筏士自画賛=A」は、棹の位置からして、右の方向に進むのだが、この「筏師画賛=B」では、左の方向に進む図柄なのである。それ以上に、種々、大きな相違点などについては、別稿で詳しく見て行くことにしたい。
 ここで、付記して置きたいことは、この「筏師画賛=B」は、「諸家寄合膳」の「蕪村筆・翁自画賛」に書かれている「嵯峨へ帰る人はいずこの花にくれし」(安永九年・一七八〇作)と同時の頃の作と思われるのである。
 さらに、この「筏師画賛=B」も「席画」で、それは、恐らく、「月渓筆画賛=C」(未見)の付記の「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」の、「三本樹(木)」の「井筒楼」や「富永楼」ではなく、京都祇園社境内の二軒茶屋などのものと解したい。

補記 

『蕪村全集一 発句』の「嵯峨へ帰る人はいづこの花にくれし」の、「脚注」に「自画賛<潁原ノート>」とあり、その「左注」に「自画賛に2377(筏士のみのやあらしの花筏)と併記」とある。この「脚注」と「左注」とからすると、「嵯峨へ帰る人はいづこの花にくれし」と「筏士のみのやあらしの花筏」を併記している、蕪村筆「自画賛」(未見)もあるのかも知れない。

蕪村の花押(その五) [蕪村]

蕪村の花押(その五)

膳.jpg
「諸家寄合膳」(二十枚)のうちの「蕪村筆・翁自画賛」=A

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』所収「作品解説(3)」では、「画面左に杖を持った二人の人物を簡単な筆づかいで描く。右上に三行で『嵯峨へ帰る 人はいつこの 花にくれし』という発句を書く。『蕪村』という署名花押を書く」とある。

 この花押は、蕪村が、宝暦六年(一七五六)の丹後時代から常用している花押と明らかに相違している。
 蕪村の常用の花押については、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著)』では、「嘯山宛の手紙に、蕪村常用の、独特の形をした花押が書かれている(挿図の『花鳥篇』序参照)。かつてこの花押は、矢を半分にしたもので矢半(夜半)の洒落だといわれていたが、岡田利兵衛氏のように、夜半亭を継承する以前にこの花押が用いられているから、従来の説は誤りである(『俳画の美』)。岡田氏は『村』から作った花押だというが、私には槌の形に見える。花押の作り方としては異例だが、これは槌を図案化したものではなかろうか」と記されている。
 同書では、『花鳥篇』序(天理大学付属天理図書館蔵)のものの花押を例示し、別の「蕪村の大黒天図」に関連して、俵の上に乗り木槌を持った「大黒天図(中村家像)」を挿図として掲載している。

 この蕪村常用の花押について、これまでに掲載したものを、ここに併載して置きたい。

書簡A.png
蕪村書簡(三宅嘯山宛て、宝暦七年(一七五七))=B

絵図A.png
蕪村挿絵図(『はなしあいて』所収「蕪村山水略図」)=C

蕪村静御前.jpg
蕪村筆 静御前図自画賛(「生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村」作品21) =D

 上記(B・C・D)の花押は、拡大すると、凡そ次のようなものである。

蕪村花押 .jpg
「蕪村の署名・花押」=E

冒頭の「蕪村筆・翁自画賛」=Aと、この「蕪村の署名・花押」=Eとを比較すると、署名はともかくとして、花押は似ても非なるものの印象が拭えないのである。
ここで、いわゆる「真贋」とかを話題にするというよりは、この二様の違う、蕪村の花押を、鑑識や鑑定の世界での、「これならとおる」(「見解は分かれるが、多くの人を納得させられる」)のようなものが見いだせないかという、そんな難問題への、無謀な謎解きをしたいというのが、その真相なのである。
 しかし、この謎解きに入る前に、「蕪村筆・翁自画賛」=Aに、「三行で書かれている発句」の「嵯峨へ帰る 人はいつこの 花にくれし」(安永九年・一七八〇作)に併記して、「筏士(いかだし)のみのやあらしの花衣」の「自画賛」があり、そこに、「酔蕪村 三本樹井筒屋楼上において写」と落款して、そこに花押(Eと同種の花押)が押されている。
 すなわち、「蕪村筆・翁自画賛」=Aと、極めて関連の深い「自画賛」が別に現存し、そこに花押(Eと同種)があり、さらに、この謎解きは複雑な形相を呈して来るのである。
そして、あろうことか、こちらの「筏士(いかだし)のみのやあらしの花衣」の「自画賛」には、寺村百池の詳細な箱書きがあり、それに加えて、月渓(呉春)筆の「自画賛」もあるようで、どうにも整理の仕様がないような複雑な問題が内在しているのである。
 今回は、百池の箱書きのある「自画賛」を、『蕪村全集一 発句』の、その頭注より拡大して掲載をして置きたい。

蕪村花衣.jpg
 蕪村筆「筏士自画賛」(百池の箱書きあり、花押=Eと同種)

蕪村の花押(その四) [蕪村]

蕪村の花押(その四)

蕪村 天橋立図.png
(絵図H=蕪村筆「天橋立図」)

 『若冲と蕪村展図録』のの「天橋立図」の「作品解説(27)」は、次のとおりである。

[ 与謝蕪村筆 紙本墨画 一幅 江戸時代 宝暦七年(一七五七) 八五・八×二七・八

画面上部に記された長文の賛によって、蕪村が宝暦四年(一七五四)に訪れ滞在していた丹後を、宝暦七年(一七五七)九月にいよいよ離れるにあたり、宮津の閑雲山真照寺で制作したことが判明する。真照寺には丹後滞在中に蕪村と親しく交流していた鷺十(一七一五~九〇)がおり、俳友でもあった彼のために揮毫されたのであろう。絵は、砂洲の上に松林が並ぶ簡略なもので、幅の広い刷毛を用いて一気に描かれた淡墨の砂洲の上に、淡墨で松林の幹を並べ、淡墨でリズミカルに松の葉叢を描いている。あたかも天橋立の一部を切り取って拡大したかのような風情である。
 上記の賛では、文人画家として俳諧師としても蕪村の先達であり、丹後にも滞在したことのある彭城百川と自らを対比させている。とくに百川の画風を「明風を慕ふ」と評するのに対し、自らの画風を「漢流に擬す」と位置づけている点が注目されよう。

  八僊観百川丹青をこのむで明風を慕ふ。嚢道人蕪村、画図をもてあそんで漢流に擬す。はた俳諧に遊むでともに蕉翁より糸ひきて、彼ハ蓮ニに出て蓮ニによらず。我は晋子にくミして晋子にならハず、されや竿頭に一歩すゝめて、落る処ハまゝの川なるべし。又俳諧に名あらむことをもとめざるも、同じおもむきなり鳧(けり)。されば百川いにしころ、この地にあそべる帰京の吟に、
はしだてを先にふらせて行秋ぞ
 わが今留別の句に、
せきれいの尾やはしだてをあと荷物
 かれは橋立を前駈して、六里の松の肩を揃へて平安の西にふりこみ、われははしだてを殿騎として洛城の東にかへる。ともに此道の酋長にして、花やかなりし行過ならずや。
  丁丑九月嚢道人蕪村書於閑雲洞中 印章「馬孛(バハイ)」(白文方印)、「四明山人」(白文方印)]

 長文の賛の簡単な訳と語注を付して置きたい。

(訳)八僊観こと彭城百川は彩色画を好んで、明代の中国画を模範としている。嚢道人こと与謝蕪村は、特定の流派にこだわらず広く絵画を愛して中国画全般から学んでいる。また、共に俳諧を嗜み、芭蕉門に連なるが、百川は支考門から出て美濃派に止まっていない。
同様に、私こと蕪村も其角門であるが其角に全面的に加担はしていない。だから、二人ともさらに前向きに向上工夫を重ねること旨とし、その結末がどうなろうとかの頓着はしていない。また、その俳諧の世界で名を上げようとも思ってはいないことも、二人は全く同じ趣なのである。
 ということで、百川がだいぶ前のことだが、この丹後の地に遊歴して帰京する時に、次の一句を残している。
 はしだてを先にふられて行秋ぞ(海中に長く突き出ている天の橋立を先触れとして、秋闌ける丹後を後にして京に帰っていくことよ)
 この百川の句を踏まえて私の留別の句は次のとおりである。
 せきれいの尾やはしだてをあと荷物(天の橋立名物の鶺鴒が長い尾を振って別れを惜しんでいる。この地を今去るに当たって、振り分けた荷物のように天の橋立の鶺鴒を名残り惜しみつつ、京に帰って行くことよ)
 これらの句のように、百川は、天の橋立を先駆けとして、その六里の松に肩を並べ馬で
京の西へと向かうが、蕪村は、その天の橋立を後にしながら、京の東へと向かう。共に、
これからの中国画、即ち、文人画の先頭に立ちたく、さながら、百川と蕪村との華やかな
の道行き道中ということではなかろうか。
 丁丑(宝暦七年)九月 嚢道人蕪村書ス於閑雲洞中
  
(語注) ○「蓮二」は支考、「晋子」は其角の別号。
○「丹青」は赤と青で彩色画。「画図」は図柄。
○「漢流」は和画に対しての中国画。
○「竿頭に一歩」は禅語でさらに向上工夫して前進すること。
○「まゝの川」は儘の川で自然の流れ。
○「留別」は旅立つ人が残る人に告げる別れ。
○「前駈」は前に駈けること。
○「殿騎」は殿(しんがり)を駆けること。
○「此道の酋長」は未開地扱いの文人画の首領の意。

 この長文の賛は、蕪村が百川について記した文献的にも貴重なもので、蕪村が深く百川に傾倒していたことが如実に示されている。また、この落款の年月日から、蕪村が丹後を去ったのが、宝暦七年(一七五二)、四十二歳の時であったことが明らかとなって来る。
 蕪村が、江戸から京都に上洛したのは宝暦元年(一七五一)、そして、百川が没したのは翌年の宝暦二年(一七五二)八月十五日のことで、両者の出会いがあったのかどうかは、その一年間という短い期間に於いてである。
 そして、その百川が亡くなると、嘗て百川が遊歴した丹後の宮津へと赴くのが、宝暦四年(一七五四)のことで、蕪村の丹後時代というのは、足掛け四年ということになる。
 ここで、この賛文中の、百川が「平安の西にふりこみ」は、百川が、京の「賀茂川以西に住んでいた晩年の八僊観の住居」を指し、蕪村の「洛城の東」は、京の「東山の僧房住まいであったと覚しい」住居を指し、蕪村は百川の住所を知っていて、生前の百川と蕪村とは面識があったという見解がある(『蕪村の遠近法(清水孝之著)所収「百川から蕪村へ」)。
 確かに、蕪村が関東での十五年余に及ぶ歴行の生活に終止符を打って上洛した大きな理由の一つに、蕪村が理想としていた画と俳との二道に於いて、その頂点に位置しているとも思われる百川への思慕があったことは厳然たる事実であろう。
 そして、蕪村の親しき交遊関係にある、亡き師の夜半亭宋阿(早野巴人)に連なる、京都俳壇の一角を担っている、宋屋・几圭等との関係に於いて、さらに、百川(前号=松角・昇角)と支考門を同じくする渡辺雲裡坊(前号=杉夫、蕪村が上洛する前年に義仲寺に無名庵の五世となり、芭蕉の幻住庵を再興している)との関係からして、蕪村と百川との出会いというのは、それが、直接的な裏付けるものがないとしても、それを否定的に解する見解よりも、上記の「生前に百川と蕪村との面識があった」という見解(清水・前掲書)を是といたしたい。
 しかし、この賛における「平安の西」そて「洛城の東」というのは、単に、平安・洛城(京都)の「西と東」とを意味するのではなく、この百川の「平安の西にふりこみ」というのは、「「平安(京都)に『西せり』(「西方浄土」に赴く)」の意と、そして、この蕪村の「洛城の東にかへる」の「洛城」は、蕪村が私淑して止まない唐詩人の李白「春夜洛城聞笛(春夜洛城ニ笛ヲ聞ク)」の、次の七言絶句が背景にあると解したい。

 誰家玉笛暗飛声 (誰ガ家ノ玉笛ゾ 暗ニ声ヲ飛バス)
 散入春風満洛城 (散ジテ春風ニ入リテ 洛城ニ満ツ)
 此夜曲中聞折柳 (此ノ夜曲中 折柳ヲ聞ク)
 何人不起故園情 (何人カ 故園ノ情ヲ起コサザラン)

 この四句目の「折柳」とは、別離の曲であり、この五句目の「故園」とは生まれ故郷を指す。この一句目の「誰家」は、落款にある「於閑雲洞中」を指し、そして、その二句目の「洛城」は、李白の詩では「洛陽の街」を指すが、ここでは「京都の街」を指すのであろう。そして、その背後には、五句目の「故園」(生まれ故郷)を利かしているように解したい。
 その上で、この「天橋立」の落款の下に押印されている印章(款印)、「馬孛(バハイ」(白文方印)、「四明山人(シメイサンジン)」(白文方印)に注目したい。この「四明山人」の「四明」は、「四明朝滄」とか、しばしば用いられるもので、比叡山の二峰の一つ四明岳に由来があるとされている。そして、安永六年(一七七六)の蕪村の傑作俳詩「春風馬堤曲」に関連させて、蕪村の生まれ故郷の「大阪も淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」からは「遠く比叡山(四明山)の姿を仰ぎ見られたことだろう」(『蕪村の世界(尾形仂著)所収「蕪村の自画像」)とされている、その「比叡山(四明山)」ということになろう。
 とすると、「馬孛(バハイ)」の「馬」は、蕪村の生まれ故郷の「毛馬村」の「馬」に由来するものなのではなかろうか。事実、先に紹介した、宝暦八年(一七五八)の几圭薙髪記念集『はなしあいて』に、挿絵一葉、発句二句、三吟百韻(鈳丈・几圭・蕪村)が収録されている頃(その前年)、「馬塘趙居」の落款が用いられ、この「馬塘」は、毛馬堤に由来がある(『田中・前掲書』)。
なお、この「馬孛(バハイ)」の款印を「馬秊(バネン)」としているものがあるが(『田中・前掲書』)、下記の「印譜2」(『特別展没後二百年記念与謝蕪村名作展(大和文華館編集)などからして、「馬孛(バハイ)」と解すべきであろう。
 そして、この「馬孛(バハイ)」の「孛」は、「孛星(ハイセイ)=ほうきぼし、この星があらわれるのは、乱のおこる前兆とされた」に由来があり、「草木の茂る」の意味があるという(『漢字源』など)。
 とすると、「馬孛(バハイ)」とは、「摂津東成毛馬」の出身の「孛星(ほうき星)=乱を起こす画人」の意や、生まれ故郷の「摂津東成毛馬」は「草木が茂る」、荒れ果てた「蕪村」と同意義の「馬孛」のようにも解せられる。しかし、この号(款印)は、この「天橋立図」以外に、その例を見ない。
 そして、この「孛星(ほうき星)」に代わって、宝暦十年(一七六〇)の頃から「長庚(チョウコウ・ゆうづつ=宵の明星=金星)」という落款が用いられる。この「長庚(金星)」は、しばしば「春星」と併用して用いられ、「長庚・春星」時代を現出する。ちなみに、「蕪村忌」のことを「春星忌」(冬の季語、陰暦十二月二十五日の蕪村忌と同じ)とも言う。
 この「春星」は、「長庚」の縁語との見解があるが(『俳文学と漢文学(仁枝忠著)』所収「蕪村雅号考」)、春の「長庚(金星)」を含め、春の「孛星(ほうき星)」「子漢(蕪村の号=子の刻の天漢・長漢・銀漢=天の川)等の、季題の「星月夜」の「秋星(シュンセイ)=秋の星」ならず「春星(シュンセイ)=春の星」のもじりとも解せられる。
 と同時に、この「春星」は、上記の李白の「春夜洛城聞笛(春夜洛城に笛を聞く)」の「春夜」に輝いている「星」(太白星=長庚=金星)と響き合っているようにも思えるのである。
というのは、この七言絶句(四行詩)の作者・李白の生母は、太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ(「草堂集序」)、その字名(通称)は「太白=金星」で、蕪村の号(款印名)の「長庚=金星」と同じなのである。そして、その「春の長庚(金星)」を「春星」と縁語的に解しても差し支えなかろう。

 ここで、「謝長庚」「謝春星」、その「長庚・春星」に次いで、安永七年(一七七八)、蕪村、六十三歳の最晩年に近い頃から用いられる「謝寅」の「謝」は、「与謝」という姓の一字を省略したものとみて間違いあるまい(『田中・前掲書)。
 すなわち、上掲の「天橋立」を創作して丹後を後にした宝暦七年(一七五七)、その翌年(宝暦八年=一七五八、几圭薙髪賀集『はなしあいて』を刊行)の、その翌々年(宝暦十年=一七三〇、雲裡坊に筑紫行きを誘われるが、同行せず、この頃結婚し還俗したと思われる)の頃までに、蕪村は、出家していた「釈蕪村」から、以後の姓名となる「与謝蕪村」を称したということになろう。
その上で、この「与謝」の一字の姓の中国風の「謝」は、中国の文人(詩人・画人等)に多く見られる「謝」の姓だが、これまた、蕪村の脳裏には、李白の、「秋登宣城謝脁北楼(秋宣城ノ謝脁北楼ニ登ル)」や「宣州謝脁楼餞別校書叔雲(宣州ノ謝脁楼ニテ校書叔雲ニ餞別ス)」の詩に出て来る六朝時代の山水詩人として名高い「謝脁(元暉))や謝脁と共に「三謝」と称せられている「謝霊雲・謝恵連」などが当然にあったことであろう。
 続けて、蕪村の最晩年の傑作絵画中に必ず見られる落款の署名、「謝寅」の「寅」は、明時代の画家「唐寅(号=伯虎)」に由来していることは定説となっている(『田中・前掲書』)。  
この唐寅は「江南第一風流子」と署した人物で、書画文章は何れも当時高名であったという(『仁枝・前掲書』)。
 ここで、上掲李白の「春夜洛城聞笛(春夜洛城ニ笛ヲ聞ク)」中の「春風」(二句中)、「折柳」(三句中)、「故園」(四句中)と、この唐寅の「江南第一風流子」の「江南」の語句は、これまた、関東遊歴・丹後時代に用いられた比叡山の別称の「四明」が、蕪村の俳詩「春風馬堤曲」と関係していると解せられるように、これらの李白・唐寅の語句は、その「春風馬堤曲」(十八首)を読み解く重要なキーワードでもある。

○ 春風や堤長うして家遠し     (二首目の「春風」)
○ 店中二客有リ。能ク解ス江南ノ語 (七首目の「江南」)
○ 揚柳長堤漸くくだれり      (十六首目の「揚柳」=楽府の「折揚柳」=「折柳」)
○ 矯首はじめて見る故園の家    (十七首目の「故園」) 

この発句体(六句、『夜半楽』の表記の「十八首」の表記では六首)、擬漢詩体(四首)そして漢文訓読調の自由詩(八首)の、日本文学史上他に例を見ない独特のスタイルの「春風馬堤曲」に関して、蕪村自身が「馬堤は毛馬塘なり。即ち余が故園なり」と記し、この作品(「春風馬堤曲」)は「愚老、懐旧のやるかたなきよりうめき出でたる実情」と認めている書簡が今に残されている(安永六年=一七七六、柳女・賀瑞宛書簡)。
 蕪村が自分の故郷を明記したのは、この書簡のみであり、望郷の思いを表出したのも、この時だけである。しかし、その萌芽の一端は、蕪村が丹後を後にして再帰洛する宝暦七年(一七五七)の、上掲の「天橋立図」の長文の賛の背景となっていると思量される、李白の「春夜洛城聞笛(春夜洛城ニ笛ヲ聞ク)」の、「何人不起故園情(何人カ故園ノ情ヲ起コサザラン)」の中に、明瞭にその痕跡を残しているように思えるのである。
 ここで、下記印譜中、「四明・馬孛・長庚・春星・謝」については触れたので、触れていないものについて若干の付記をして置きたい。
 「朝滄」については、先に、「蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものであろう」と記したが、別に、「漢滄溟」という号も使用しており、『唐詩選』の著者の李
于鱗の『滄溟集』などの関連もあるのかも知れない(『仁枝・前掲書』)。
 「囊道(人)」についても、先に間接的に触れているが、「囊=袋」の意であることは、字義的に間違いなかろう。「道・道人」は、「儒教・道教・神仙を修めた人」というよりも、「俗事を捨てた人」のような用例なのかも知れない(『仁枝・前掲書)。しかし、「仏道の修業する人」の意もあり、当時、蕪村は「嚢道人釈蕪村」と俗性を捨てて「釈」姓を名乗っていたことに関連するものなのかも知れない。とすると、この「嚢」は「頭陀袋」の意なのかも知れない(『与謝蕪村集(清水孝之校注)』)。
 そして、『春泥句集(維駒編)』の「序」(安永六年=一七七六)の、「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」の「一嚢」などと深く関わるものなのかも知れない。

(蕪村印譜)

蕪村印譜.jpg

一段目  左  1 四明山人
   中  2  馬孛 
右 3 朝滄
二段目  左 4 朝滄
   中 5 朝滄
右 6 嚢道
三段目  左 7 趙   
  中 8  東成 
  右 9  謝長庚印 
四段目 左 10 春星
  中 11  春星氏 
  右 12  謝長庚

 「趙」は、宝暦七年(一七五七)に京都に戻り、その翌年の「戌寅(宝暦八年)秋、平安城南朱瓜楼中ニ於イテ写ス 馬塘趙居」の落款のある「山水図」(東京国立博物館蔵)などから見られるものである。この時期から、「馬塘」の他に「淀南」(淀川南)、「河南」(淀南と同意)と蕪村の生まれ故郷(淀川河口の毛馬)と関係ある文字が用いられる。「趙居」とは、「趙李」(実を結ばないの意)の「居」で、「蕪村の居常借家住まい」に由来するとか、山水画を善くした南宋から元の時代の書画詩文で名高い「趙孟頫」に因っているとかとされている(『仁枝・前掲書』)。
 この「趙孟頫」は、「秋耕飲馬図」「浴馬図」「調良図」など、馬を描いた屈指の画家としても知られているが、蕪村もまた「近世南画家にあって彼程多くの馬を描いてゐる画家は他に例を見ない」(『蕪村の芸術(清水孝之著)』)ほどの馬の傑作画を残している。しかし、その馬の絵でも、蕪村は「馬ハ南蘋ニ擬シ人ハ自家ヲ用ユ」(牧馬図))など、清時代の画家で長崎に滞在したこともある、円山応挙や伊藤若冲などに多大な影響を及ぼした「沈南蘋」の、いわゆる、長崎派の写実画の影響を匂わせている。
 しかし、中国の宮廷画家の院体画に対して、士大夫層出身の儒教の学問と文学の教養を備えた文人(知識人)の、「詩・書・画」が一体としての「文人画」を復興した中心人物の「趙孟頫」の蕪村に与えた影響は、専門画家としての「沈南蘋」の影響よりも、より全般的且つ深いものがあったことであろう。
 この「趙孟頫」の別号は「甲寅人」で、蕪村の晩年の号「謝寅」は、先にふれた「唐寅」だけではなく、この「趙孟頫」の「甲寅人」の「寅」なども含まれているような雰囲気でなくもない。
 「東成」は、蕪村の生まれ故郷の「淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」の「東成」の意と、晩年の「謝寅」時代に見られる「日本東成謝寅」「日東東成謝寅」の落款からして、「西(中国)」に対する「東(日本)」の意をも包含してのものなのであろう。

 その他に、上記の款印の以外の蕪村の、未だ触れていない号(号・印)などについて簡単に触れて置きたい。

「蕪村」は、陶淵明の「帰去来兮辞」の「田園將ニ蕪レナントス/胡ゾ帰ら去ル」に基づくものであろう。
「宰町」は、蕪村の師の夜半亭宋阿(早野巴人)が江戸に戻って、日本橋本石町に夜半亭と庵を号した、その「町を主宰する」の意で、その巴人の「夜半亭」は、時の鐘を衝く鐘楼があり、張継の「楓橋夜泊」の「夜半ノ鐘声客船ニ到ル」に由来している。

「宰鳥」は、「宰町」の次の号だが、この「鳥」は、若き日の李白が、峨眉山に棲む隠者(巴人の見立て)の下で鳥を飼育しながら修業し、その鳥が李白になついだとの逸話などに関係するものか、また、巴人が没した時、「遺稿を探りて一羽烏といふ文作らん」とした「烏」(其角の「それよりして夜明け烏や不如帰」の「烏」に通ずる)などに関係するものなのかも知れない。そして、これらの号が、師の巴人が命名したものであるならば、この「宰(町)・宰(鳥)」の「宰(主宰する)」から、若き蕪村に期待するものが大きかったような印象を深くする。

「三果軒(三果園・三果居士)」は、その前身の「朱瓜楼又は朱果楼」からして、蕪村の画室の庵号なのであろう。後に、蕪村を中心として俳諧愛好家のグループが出来て、蕪村夜半亭俳諧を継承後の中心メンバーになっていく。「朱瓜」は烏瓜(唐朱瓜)の別なであるが、やはり、其角・巴人に連なる「三果樹」などに由来するものなのであろうか。
「紫狐庵」の「紫狐」は、野狐のこと(『仁枝・前掲書』)。やはり、俗世間より遁れての隠者的姿勢に由来するものであろう。

 さて、冒頭の「天橋立図」((絵図H)に戻って、この蕪村の百川と自らを対比させている、この長文の賛のある貴重な作品は、百川の「石橋白鷺図」(絵図I)と構図的に類似志向にあるように思われる。

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(絵図I=百川筆「石橋白鷺図)

(絵図H=蕪村「天橋立図」、紙本墨画、八五・八×二七・八)に対し、(絵図I=百川「石橋白鷺図、紙本墨画、一〇四・五×二八・四)と、百川の「石橋白鷺図」の方が、縦の長さが大きいが、同一趣向の作品である。蕪村の作品は、丹後の天橋立での作で、その松原が下段に、実に簡略に描かれている。そして、百川の作品は、能登の島山(越中万葉の故地)での作で、その石橋が下段に、上記の蕪村が見本にしたように簡略に描かれている。
 この百川の石橋の下に書かれている賛・款印などは次のとおりである。

「 一とせ能登の島山に雪を/詠んと松間の橋に船を繋ぐ/雪片大さ鷺のごとしいへる/王世貞が詩膓を得たり/しら鷺のまよひ子もあり雪のくれ 八僊法橋/八僊逸人(白文方印)/「字余日百川(朱文方印)/得意一千画(関防印・朱文長方印) 」

 この「得意一千画」は、遊印(好みの文句を印文したもの)だが、賛の冒頭の右側に押印する「関防印」(引首印)に当り、落款の後など押印する「遊印」(押脚印・圧角印)と区別される場合がある。
 この百川の「石橋白鷺図」(絵図I)で注目される点は、この賛にある「雪片大さ鷺のごとしいへる/王世貞が詩膓を得たり」の、明の文人(明代の作詩用の辞書『円機活法』の校正者として知られる)王世貞の「雪片は鷺のごとく大きい」の詩句(文)の一節で、画面の三分の二近い上部のスペースを使い、それを象徴する「白鷺」(画)を描き、「文を画に反転」している点である。
 そして、蕪村の「天橋立図」(絵図H)は、この百川の「石橋白鷺図」(絵図I)の「文(明の王世貞の詩句)を画(能登の白鷺)に反転」しているのを、さらに、「百川の画(能登の白鷺)を文(蕪村の丹後・天橋立への留別吟と百川との交遊関係)に反転」させているのである。
 すなわち、百川の「石橋白鷺図」(絵図I)と蕪村の「天橋立図」(絵図H)とは、蕪村の師筋に当たる其角の「句兄弟」との視点で見るならば、「画兄弟」ということになる。
ここで特記して置きたいことは、百川の賛に出てくる王世貞は、蕪村が常時活用していたとされている詩作等の辞書『円機活法』の校訂者として知られ、この百川の「石橋白鷺図」(絵図I)と蕪村の「天橋立図」(絵図H)とは、この王世貞を介在しても、両者の間には深い絆で結ばれていることが察知されるということである。

 すなわち、蕪村の「天橋立図」の長文の賛の、「俳諧に名あらむことをもとめざる」とは、単に、「画道が主で、俳諧で名を立てようとは思っていない」というだけではなく、「こと俳諧においても、狭い俳人意識よりも、広く、中国の漢詩に通ずる文人意識を優先している」という、百川と蕪村との共通意識を強調しているように思われる。

 なお、この蕪村「天橋立図」(絵図H)には、「馬孛(バハイ)」(白文方印)と「四明山人」(白文方印)の款印が押印されていて、花押はないが、当時蕪村は、「嚢道人釈蕪村」と出家しての僧体で、俗姓を捨てていたことと関連し、蕪村の特異な、槌を図案化したような花押は、「嚢道人」の「嚢」(頭陀袋の「嚢」と詩嚢・画嚢)の「嚢」)の図案化のようにも思える。

蕪村の花押(その三) [蕪村]

蕪村の花押(その三)

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       (絵図G=蕪村筆「静御前図自画賛」)

 2015年3月18日~5月10日までサントリー美術館で開催された「生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村」(以下『若冲と蕪村展図録』)で出品されたものの一つである。その「作品解説(21)」は次のとおりである。

「 与謝蕪村筆 紙本墨画 一幅 江戸時代 十八世紀 三二・一×四一・一
 立烏帽子を被って、からだの前にもつ女性を簡単な筆づかいで描く。この女性は、兄頼朝と対立した源義経とともに雪の舞う吉野を旅した静御前の旅姿でる。画面上の空白に三行にわたって大きな字で「雪の日やしづかといへる白拍子」と書かれている。静御前を暗示する「しづか」を発句のなかに詠むことで、この女性が静御前であることを暗示しているところは、蕪村の俳画としては説明的である。しかし、「白拍子」と体言止めにすることで、この後義経と別れたあと捕えられ、頼朝の前で踊ることになる静の運命を暗示させる点は、晩年の俳画の名品に通底している。画面左に花押があり、印章は押されていない。丹後地方の旧家に伝わっており、確認できる蕪村の俳画ではもっとも早い肉筆の作品。 」

 蕪村の丹後滞在は、宝暦四年(一七五四)の三十九歳から宝暦七年(一七五七)の四十一歳の、凡そ三年間ということになる。この丹後時代は、蕪村は多くの絵を残しているが、特に注目すべきは屏風絵で、六曲一双・六曲半双などの大作が十点以上も今に遺っている。
このうち、和画系統のものは、「静舞図」(六曲半双、落款「洛東閑人朝滄子描)、「田楽茶屋図」(六曲半双、落款「囊道人蕪村」)などで、漢画系統のものが圧倒的に多い。
 この「静舞図」は、画面の右に、静と侍者、左に、鼓を打つ工藤祐経、笛を吹く僧形の男、大拍子を扇子で打つ畠山重忠の、五人の人物が向かい合う構図である。小川破笠など大和絵に接近した江戸狩野派の影響を色濃く宿しているという(『蕪村 その二つ旅図録(朝日新聞社)』)。この静の緋袴など、関東歴行時代(結城時代)に下館で描いた「追羽根図」(杉戸絵四面、無落款)と同一傾向の作品であろう。
 冒頭に掲げた「静御前自画賛」(絵図G)は、立烏帽子を被っての旅姿の静御前で、同じ丹後時代の作でも、「静舞図」とは異質の世界のものである。どちらかというと、蕪村最初期(宰町時代)の、刊本の挿絵「宰町(蕪村)自画賛・鎌倉誂物」(絵図G)の女性像(目・鼻・口等)と驚くほど類似している。
 この「静御前自画賛」(絵図G)は、淡彩による丁寧の描写など、「静舞図」よりも、英一蝶の影響が指摘されている、次の「田楽茶屋図屏風」(絵図F)などと同一系統のものと思われる。

田楽茶屋図屏風A.jpg
        (絵図F=蕪村筆「田楽茶屋図屏風」)

 『若冲と蕪村展図録』の「田楽茶屋図屏風」・「作品解説(23)」は、次のとおりである。

「与謝蕪村筆 紙本墨画淡彩 六曲一双 江戸時代 十八世紀 一二八・〇×二八八・六
蕪村の丹後時代を代表する作品。茶屋の店先と、その前を往来する人々を描く。本図の人物描写については、元禄時代を中心に活躍した絵師・英一蝶(一六五二~一七二四)や大津絵からの影響が指摘されてきたが、具体的には、英一蝶筆「故事人物図巻」のうち「田楽を買い食いする奴たち」(リンデン民族博物館)のなかに、本図の田楽を焼く女、および床几に座り田楽を頬張る男と同じポーズをとる人物が認められる。「故事人物図巻」は一蝶が弟子の教育のために制作した絵手本であり、蕪村がこのような絵手本のひとつか、あるいは英派の弟子が描いた模本などを目にし、図様に取り入れたと考えられる。また、画面右端で扇を振る男については、一蝶筆「田園風俗図屏風」(フリーア美術館)に似た人物が描かれており、この一蝶の屏風を参考にした彭城百川の「田植図」(東京国立博物館)が残っている。蕪村は「天橋立図」(作品27)の賛において、自らを「嚢道人蕪村」と称し、絵画・俳諧の先達である百川について言及しており、同じ「嚢道人蕪村」の署名を記す本屏風の制作過程においても「田植図」のような百川画を意識された可能性がある。一方、本図の図様については、大岡春卜(1680~1763)『和漢名画苑』(寛延三年=一七五〇刊)の「土佐光純筆 ぎおん会」図を参照としたとする分析があり(尾形仂『蕪村の世界』岩波書店、一九九三年)、烏帽子や鎧など、仮装的な扮装の人物が見られることから、祭礼後の場面を描いたとも推測されている。樹木や人物を描く線はまだ初々しいが、淡彩による丁寧な施彩や、人々の豊かな表情など、蕪村が作品と真摯に向き合っている様子が見て取れる。なお、「蕪村」の署名は主に俳画に用いられたもので、本図に蕪村の俳画の萌芽を見る見解がある。印章は「朝滄」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)。」

 この「作品解説(23)」で注目すべきことは、蕪村のみならず百川もまた、英一蝶の影響を色濃く受けているということである。ここで紹介されている、百川の「田植図」(東京国立博物館)は、次のとおりである。

百川・田植図b.jpg
          (絵図G=百川筆「田植図(部分図)」)

 この百川の「田植図」は、蕪村に大きな影響を与えた作品のように思われる。それは、先に紹介した、高井几圭(前号=宋是)の文台開きと薙髪を兼ねて祝した記念集『はなしあいて』(宋是=几圭編集)に、蕪村は挿絵一葉(絵図A)と発句を二句寄せている。
その挿絵(絵図A)は、百川の省筆画(草画)の影響を大きく受けていることについては、先に触れた。ここで、その発句の二句について触れて置きたい。

 離(さ)別(られ)れたる身を踏(ふん)込(ごん)で田植哉    蕪村(『はなしあいて(下)』)
 とかくして一(いち)把(は)に折(おり)ぬ女郎花        ゝ (同) 

 この蕪村の発句二句の前に「夏秋」とあり、一句目夏の句、二句目は秋の句ということになろう。しかし、この二句とも、嘱目の叙景句ではなく、挨拶性と虚構性の強い人事句ということになろう。
 挨拶性と虚構性の強い人事句というのは、生涯に亘って蕪村が最も得意とした領域でもあった。挨拶性というのは、他(人・所・物等)に対する問い掛けであり、虚構性というのは、現実の体験でないものを、あたかも自分の実体験の如くに表現するということを意味する。
上記の二句ですると、一句目の「田植」の句は、当時の蕪村の最も多くの関心事であった、画・俳二道の先達者、百川とその傑作画「田植図」に寄せる蕪村の思い入れの表明である。そして、その思い入れ(挨拶性)が、「田植」(季題)・「田植え女」・「離(さ)別(られ)れたる身」(夫に離縁された身)・それをさらに「踏(ふん)込(ごん)で」という口語的な表現で具象化して、全体として一篇のドラマ(物語=虚構性の創作)として結実することになる。
 二句目の「女郎花」の句は、能楽の太鼓方几圭と能楽の演目「女郎花」に対する挨拶(問い掛け)と、几圭・蕪村の共通の俳諧の師である夜半亭宋阿(巴人)の「女郎花折や観世が駕のうち」(『夜半亭発句帖』)の延長線上のドラマ(物語=虚構性の創作)化ということになろう。
 ここでは、百川の「田植図」が、その背景となっているような一句目に注目をしたいのである。
この百川の「田植図」に触発されたような、この一句は、その「実」と「虚」との「虚構性」の彼方に、蕪村の「実」たる原風景の一端(丹後の生まれとの口碑のある薄幸な亡母のイメージなど)を物語っているような、そんな雰囲気が、後の、蕪村六十二歳の時の回想録『新花つみ』(安永六年=一七七六刊)の、異常なまでの、次の「田植」の句に関連させると、浮かび上がって来る・

 さみだれの田ごとの闇に成(なり)にけり         (『新花つみ』発句一〇五)
 水深き深田に苗(なえ)のみどりかな           (『同』同一二六)
 けふはとて娵(よめ)も出(いで)たつ田植哉        (『同』同一二七)
 泊りがけの伯母(おば)もむれつゝ田うゑ哉        (『同』同一二八)
 をそ(獺)の住む水も田に引ク早苗(さなえ)哉      (『同』同一二九)
 参(み)河(かわ)(三河)なる八橋(やばし)もちかき田植かな(『同』同一三〇)
 午(うま)の貝田うた音なく成(なり)にけり        (『同』同一三二)
 をそ(獺)を打(うち)し翁(おきな)を誘ふ田うゑかな   (『同』同一三三)
 鯰(なまず)得てもどる田植の男哉            (『同』同一三五)
葉ざくらの下陰(したかげ)たどる田草取(とり)     (『同』同一三六)
早乙女やつげのをぐしはさゝで来(こ)し       (『同』同一三七)

 もとより、これらの、安永六年(一七七六)、蕪村六十二歳時の『新花つみ』所収の句は、其角の亡母追善集『花摘』を念頭においての、蕪村の亡母五十回忌追善のために発起されたものとされている(『大磯・前掲書』)。
 そもそも、蕪村の母の丹後出身説は、次の二つの説に由来されている。その一は、京都金福寺に建立されている「蕪村翁碑」の「幼養於母氏生家(幼クシテ母氏の生家ニ養ワル)、生家在丹後国与謝邨(生家ハ丹後国与謝邨ニ在リ)、因更謝(因ッテ謝と更タム)」の記述に因るものである。
 その二は、現在の京都府与謝郡加悦町地方の口碑に因るもので、その口碑は、「蕪村の母は丹後国与謝郡加悦の人で、名はげんといい、摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)に奉公に出たが、主人の子を孕んで帰郷し蕪村を出産。その後蕪村を連れて宮津で再婚したが、蕪村は養父と衝突し、与謝村の真言宗の古刹、施薬寺の小僧となった。その母の墓が加悦町に現存している」というものである(『蕪村の丹後時代(谷口謙著)』)。
 この二つの説ともこれを裏付ける確証に乏しく、蕪村自身固く口を閉ざしているので、
どうにも謎のままであるというのが実状であろう。
しかし、上記の『新花つみ』に収載されている、蕪村の吐息のような、「田植」「早乙女」に関する句に接すると、その出生地は、蕪村自身が書簡に認めている「馬堤は毛馬塘(づつみ)也。即余が故園也」(安永六年二月二十三日付柳女・賀瑞宛書簡)の、大阪の淀川近郊の毛馬村としても、その母のイメージは丹後の与謝地方の口碑などと深い関わりがあるように思われて来る。
 そして、これらの『新花つみ』に収載されている「田植」「早乙女」の句の、はるか以前の、丹後宮津から帰洛した翌年の宝暦八年(一七五八)に出版された『はなしあいて』所収の上掲の句、「離別れたる身を踏込で田植哉」は、蕪村の心中に、この薄幸な亡母のイメージが深く宿っていたということを、どうしても拭い去ることが出来ないのである。
 ここで、改めて、冒頭の「静御前図自画賛」(絵図G)を見てみると、この「静御前」は、『平家物語』・『義経記』などに登場する悲劇のヒロインで、義経の子を宿しつつ、その義経討伐の令を下す兄・頼朝の面前で、鶴岡八幡宮の舞を奉ずるという伝承が、同時の頃に描かれた「静舞図」(紙本着色・六曲屏風一隻)である。
 この「静御前図自画賛」(絵図G)は、立烏帽子の旅姿で、その左端に、署名もなく、蕪村独特の「槌」又は「経巻」のような花押が描かれ、その花押の方に、静御前の視線が注がれているのは、静御前の将来を暗示しているような、そんな趣で無くもない。
 と同時に、この悲劇のヒロインの静御前に関する伝承は、上記の蕪村の母に関する口承と、これまた二重写しになることは、どうにも、避けられないような、そんなことも暗示しているように思えるのである。

蕪村と月渓が描いた陶淵明像 [蕪村]

蕪村と月渓が描いた陶淵明像

 蕪村は、延享元年(一七四二、寛保四年二月二十一日に延享と改元)に、野州(栃木県)宇都宮において、『寛保四年宇都宮歳旦帖』(紙数九枚・十七頁、中村家蔵)という小冊子の歳旦帖を出し、俳諧宗匠として名乗りを上げる。そこに「巻軸」と前書きを付して、「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の自句で締めくくり、それまでの「宰鳥」の号に代わり、初めて「蕪村」の号を用いる。すなわち、この初歳旦帖は、蕪村の改号披露を兼ねてのものということになる(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。

 この「蕪村」の号は、陶淵明の「帰去来兮辞(ききょらいのじ)」の「田園将(まさ)ニ蕪(あ)レナントトス胡(なん)ゾ帰ラザル」に由来し、「蕪は荒れるの意味であり、『蕪村』は荒れ果てた村」の意ということになろう。すなわち、蕪村にとって、生まれ故郷は「帰るに帰れない」、その脳裏にのみ存在するものであった(田中・前掲書)。

 蕪村没後、蕪村の画俳二道の後継者の一人に目せられていた月渓(呉春)が、亡き師の机上にあった『陶靖(せい)節(せつ)(淵明)詩集』に挟まれていた、師自筆の「桐火桶無弦の琴(きん)の撫でごころ」の栞を見付けて、これに画(陶淵明像)と賛(蕪村自筆であることの証文など)を付した「嫁入手(よめいりて)蕪村筆栞・月渓筆陶淵明図」(逸翁美術館蔵)が今に伝存されている。

 この「嫁入手」とは、蕪村の遺児の「婚資捻出のために」、蕪村の「自筆句稿・冊子・巻物・色紙・栞」などに、月渓等の直弟子が画賛などを付して、蕪村の落款(サイン)に代えた作品の題名に便宜上付せられているものである。

呉春・陶淵明図1.jpg

 この月渓の賛(括弧書きは注)は次のとおりである。

[ 師翁(蕪村)物故の後、余(月渓)ひさしく夜半亭(京都の蕪村が没した住居=夜半亭)にありて、机上なる陶靖節(陶淵明)の詩集を閲(えっす)るに、半(なかば)過るころ此(この)しほり(栞)を得たり。これ全(すべて)淵明(陶淵明)のひとゝなりをしたひてなせる句なるべし。 
 天明甲辰(三年=一七八三)春二月(蕪村=二月二十五日未明没)写於夜半亭 月渓(松村月渓=呉春) ]

 この月渓(呉春)の描く陶淵明像は、蕪村の数ある陶淵明像の中で、おそらく、蕪村門の直弟子にあっては、一番身近な「陶淵明像」(『安永三年(一七七四)春帖』中の直弟子の一人「馬圃(まほ)」(芦田霞夫(かふ)/醸造業/俳人) →の「我(あ)とヽもに琴(きん)かき撫(なで)る柳かな」に付した蕪村画の「陶淵明像」)を参考にしていると思われる。

陶淵明像.jpg

 そして、この一筆書きのような略画の「草絵」(俳画)の「陶淵明像」は、実に、安永三年(一七七四)の、蕪村、六十三歳時、師の夜半亭二世宋阿こと早野巴人の三十三回忌に当たる年の作である。

 その巴人が没した寛保二年(一七四二)、そして、初歳旦帖を編み「蕪村」の号を使い始めた延享元年(寛保四年=一七四四)の翌年の頃、すなわち、結城・下館在住の頃の、「子漢」と款する「陶淵明山水図」(絹本淡彩三幅対)中の「陶淵明図」がある。これが、まさしく、
無弦琴を奏でている陶淵明図なのである。

 そして、これが文人画家・蕪村のスタートを飾った作品ともいえるものであろう(この「陶淵明山水図・中村美術サロン蔵」が『蕪村全集六絵画・遺墨』の第一番目に登載されている)。

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 この他の蕪村の陶淵明像などを『蕪村全集六』より記しておきたい。

一 絵画・模索期(宝暦八~明和六年)

48 陶淵明図 紙本淡彩 一幅 款「河南超居写」 国立博物館蔵
80 陶淵明聴松風図 双幅 款「東成謝長庚写」「辛巳冬写於三菓軒中謝長庚」 宝暦十
一年 「当市西陣平尾氏、上京井上氏旧蔵品入札」(大正六・四)
163 陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「倉家並某旧家什器入札」(昭四・六)
164  陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「大阪市某氏入札」(大十五・三)

二 絵画・完成期(明和七~安永六)

220 五柳先生図 一幅 款「写於夜半亭謝春星」 「第五回東美入札」(昭五四・三)
221 五柳先生図 絹本着色 一幅 款「謝春星写於三菓堂中」 「題不明入札(大阪)」(昭二十九・十) 
437 後赤壁賦・帰去来辞図 紙本淡彩 双幅 款「日東謝寅画幷書」「日東々成謝寅画且 
   書」 逸翁美術館蔵
556 柳下陶淵明図 絹本淡彩 一幅 款「謝寅」 「七葉軒、不老庵入札」(昭四・四)
557 陶靖節図 絹本着色 一幅 款「倣張平山筆意 日東謝寅」 「松坂屋逸品古書籍書画幅大即売会目録」(昭和五十二・六)

その他

山水図(出光美術館)六曲一双 重要文化財 1763年
十便十宜図(川端康成記念会)画帖 国宝 1771年 池大雅との競作。蕪村は十宜図を描く。
紅白梅図(角屋もてなしの文化美術館)襖4面、四曲屏風一隻 重要文化財
蘇鉄図(香川・妙法寺)四曲屏風一双(もと襖) 重要文化財
山野行楽図(東京国立博物館)六曲一双 重要文化財
竹溪訪隠図(個人蔵)掛幅 重要文化財
奥の細道図巻(京都国立博物館)巻子本2巻 重要文化財 1778年
野ざらし紀行図(個人蔵)六曲一隻 重要文化財
奥の細道図屏風(山形美術館)六曲一隻 重要文化財 1779年
奥の細道画巻(逸翁美術館)巻子本2巻 重要文化財 1779年
新緑杜鵑図(文化庁)掛幅 重要文化財
竹林茅屋・柳蔭騎路図(個人蔵)六曲一双 重要文化財
春光晴雨図(個人蔵)掛幅 重要文化財
鳶烏図(北村美術館)掛幅(双幅) 重要文化財
峨嵋露頂図(法人蔵)巻子 重要文化財
夜色楼台図(個人蔵)掛幅 国宝
富嶽列松図(愛知県美術館)掛幅 重要文化財
柳堤渡水・丘辺行楽図(ボストン美術館)六曲一双 紙本墨画淡彩
蜀桟道図(シンガポールの会社) 1778年

(追記)

 平成二十八年十月二十九日(土)~十二月二十一日(日)まで、佐野市立吉沢記念美術館で、「特別企画展 東と西の蕪村―伊藤若冲『菜蟲譜』期間限定公開」が開催された。
 そこで、「陶淵明・山水図」(蕪村筆)が公開されていた。その作品解説は次のとおりである。

[ 最初期の彩色作品で、下館に伝来。「子漢」の款記は本作が唯一。印は捺されない。陶淵明は中国・六朝の詩人で、「帰去来辞」「桃花源記」などが知られる。「蕪村」号は「帰去来辞」の「田園将蕪(マサニアレナントス)」に由来することが有力視されるほか、詩画ともに桃源郷を投影した作品が晩年まで頻出するなど、蕪村にとって重要な詩人。
中幅の陶淵明は、酒に酔う毎に「無弦の琴」を撫でたという故事による。左右幅は「帰去来辞」の「舟は遙々として以て軽くあがり、風は飄々として衣を吹く」「雲は無心に以て峰を出で、鳥は飛ぶに倦きて還るを知る」を描く、明るい光を含んでかすむ海、藍と淡墨の葉を重ねて描かれた風に騒ぐ竹林など、後半の蕪村画の要素が見える。]
(『東と西の蕪村(佐野市立吉沢記念美術館遍)』)

(特記事項)

※ この「陶淵明」図中、左下に、花押のように、小さな「鈴」のようなものが描かれていた。これは、陶淵明の「無弦琴」に関連して、「琴の爪」のようなのである。この「琴の爪」と蕪村の花押(「槌」・「経巻」・「頭陀袋(嚢)」のような、蕪村の謎めいた花押)は、この「琴爪」に、その由来があるような、そんな示唆を受けたことを特記して置きたい。

蕪村の「夜色楼台図」の「雅俗と聖俗」 [蕪村]

 蕪村の「夜色楼台図」の「雅俗と聖俗」

蕪村 夜色楼台図.jpg    
    (図1 「 夜色楼台図」 蕪村筆)

 蕪村の水墨画の二大傑作画は、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図」が、その双璧を為すことであろう。「夜色楼台図」(紙本墨画淡彩、一幅、二八・〇×一二九・五cm)が、蕪村の、その生涯の実生活を背景としている「実」たる「俗」の「京都の東山」をモチーフとしているならば、「峨嵋露頂図」(紙本墨画淡彩、一巻、二八.九×二四〇.三cm)は、蕪村が、その生涯にわたって憧憬して止まなかった中国の詩人中の一人・李白の「峨嵋山月歌」に、その想を得ての、脳裡に去来する「虚」たる「雅」の「中国四川省の峨眉山」をイメージしてのものということになろう。

 この「夜色楼台図」について、「左に登りゆく山稜は比叡山に連なり、右に下る山並みは伏見に至るものであり、麓の家並みは祇園から岡崎にかけての町並みと見ればいい。(略)
 三本樹の水楼にのぼりて斜景に対す
   雲の端に大津の凧や東山
   大文字の谿間のつつじ燃えんとす
 よすがらの三本樹の水楼に宴して
   明けやすき夜をかくしてや東山
 詞書にある三本樹とは、賀茂川西岸の丸太町と荒神口の間の地名で、『烏丸仏光寺西入ル町』の蕪村の家から歩いて三十分という所である。当時、この界隈に多くの料亭が立ちならび、晩年の蕪村が足繁く通った「雪楼」もこの地にあった」と『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「夜色楼台図(早川聞多稿)」)では記されている。

 続けて、それは「見えるがままに描いた実景」ではなく、絵画的にデフォルメした世界で、「本図が一見水墨画のように見えて、実はその原則を密かに破っている」とし、「画法における『雅俗』の混在」(胡粉や代赭による即物的描写や、胡粉の下塗り、墨のたらし込みといった技法は、『水墨画』の本来かにすると邪道)と「都会の雪景色」(「一見山水画のように見せながら、『俗気』の象徴である都会を主題としての『山水画』の原則からの逸脱)との二点を挙げている。

三本樹.png    
       (図2 「 三本樹(木)」 『拾遺都名所図会』 )

 ここで取り上げられている「雅・俗」というのは、絵画表現上の「雅・俗」ということで、その根底には、永遠性に連なる「雅」(「完成」の「既に存在する表現」などに美意識を求める理念=「不易流行」の「不易」に近い理念)と日常性に連なる「俗」(「無限」の「未開拓の未知の表現」などに美意識を求める理念=「不易流行」の「流行」に近い理念)との二元論的な把握を基調としている(『日本文学史・小西甚一著・講談社学術文庫』『俳句の世界・小西甚一著・講談社学術文庫』)。

 蕪村の俳諧・絵画の基本的姿勢を述べたものとして、門人、黒柳召波の『春泥句集』の「序」に寄せた、いわゆる「離俗論」が夙に知られている。

[ 俳諧は、俗語を用ひて俗を離るヽを尚ぶ、俗を離れて俗を用ゆ、離俗ノ法最かたし。
(略)  却ッテ問フ、「叟(注・蕪村)が示すところの離俗の説、その旨玄なりといへども、なほ是工案をこらして、我よりして求むるものにあらずや。しかじ彼もしらず、我もしらず、自然に化して俗を離るるの捷径ありや。答ヘテ曰ク、「あり、詩を語るべし。子(注・召波)もとより詩を能す、他に求むべからず」。彼(注・召波)疑ヒ敢ヘテ問フ。「夫、詩と俳諧といささか其の致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云。迂遠なるにあらずや。
夫詩と俳諧といささか其の致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云ふ。迂遠なるにあらずや」。答ヘテ曰ク、「画家に去俗論あり、曰ク、『画去俗無他法子(画ノ俗ヲ去ルニ他ノ法ナシ)、多読書則書巻之気上升(多クノ書ヲ読メバ即チ書巻ノ気上昇シ)市俗之気下降矣(市俗ノ気下降ス)、学者其慎旃哉(学者其レ旃(これ)オ慎シマンカナ)』。それ、画の俗を去るだも、筆を投じて書を読ましむ、況んや、詩と俳諧と何の遠しとする事あらんや」。波(召波)、すなはち悟す。]
 (『与謝蕪村集(清水孝之著)』新潮日本古典集成)

 この蕪村の「離俗論」について、『俳句の世界(小西甚一著)』では、次のように解説している。

[ 蕪村が有名な離俗論を提唱したのも、この頃(注:明和五年(一七六八)・五十三歳)だったらしい。蕪村によると、俳諧は、俗語によって表現しながら、しかも俗を離れるところが大切なのである。この離俗論は、画道から啓発されたもので、当時著名だった『芥子園畫傳』初集の去俗説を承け、俳諧を修行することは、結局、その人の心位を高めることによって完成されるのだと主張する。その実際的方法としては、古典をたくさんよむことが第一である。古典のなかにこもる精神の高さを自分のなかに生かすこと、それが俳諧修行の基礎でなくてはならない。古典といっても、何も俳諧表現に関係のあるものだけに限らない。むしろ表現とは関係がなくても、人格をみがき識見をふかめるための「心の糧」こそ俳諧にとっていちばん大切なのである―。(略) この離俗の立場からは、単なる俗っぽさは、手ぎびしく排斥されなくてはならない。俗なるものを詠んでも、その俗をぬけ出たおもむきがなくてはならない。]
  (『俳句の世界・小西甚一著・講談社学術文庫』)

 蕪村の「離俗論」については、一般的には、上記のようなことなのであるが、蕪村の「離俗論」の大事な要諦は、その『春泥集』(序)の、先の引用文に続く、次のところにあるように思われる。

[ 俳諧に門戸なし。只是れ俳諧門といふを以テ門とす。(略) 諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ、みずから其のよきものを撰び用に随ひて出す。唯自己ノ胸中いかんと顧みるの外、他の方なし。 ] 
   (『与謝蕪村集(清水孝之著)』新潮日本古典集成)

 この「みずから其のよきものを撰び用に随ひて出す」という蕪村の姿勢は、若き日の蕪村を育んだ、蕪村の俳諧の師、夜半亭一世早野巴人(宋阿)の、その三十三回忌に編んだ『むかしを今』の「序」の、「『夫、俳諧のみちや、かならず師の句法に泥(なづ)むべからず、時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとし』とぞ。予(注・蕪村)、此の一棒下に頓悟して、やゝはいかい(注・俳諧)の自在を知れり」の、この「俳諧自在」(自由自在の心)と、その「俳諧自在」の因って立つ地盤は、「唯自己の胸中」(己が心)に在るという、
これが、蕪村の「離俗の法」の本態なのであろう。

 また、この「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」に関連して、蕪村自身が、画や画人を題材にして詠んだ句は、次のようなものが挙げられる(『蕪村全集六 絵画・遺墨』「栞「女雪信と蕪村(滝沢栗郎稿)」)。

1 時鳥絵に啼け東四郎次郎  宝暦二(一七五二・三十七歳)  狩野光信
2 手すさびの団(うちは)画ん草の汁 明和五(一七六八・五十三歳) 草画、絵具
3 新右衛門蛇足を誘ふ冬至かな   同上 曽我蛇足 
4 守信と瓢に書けよ鉢たゝき    同上 狩野探幽
5 雪信が蠅打払ふ硯かな      明和六(一七六九・五十四歳) 清原雪信
6 呂記が目の届かぬ枝に閑古鳥   明和八(一七七一・五十六歳) 明人、花鳥画
7 絵団扇のそれも清十郎にお夏哉  同上 浮世絵
8 雪舟の不二雪信が佐野いずれ歟(か)寒き 同上 漢画と大和絵
9 御勝手に春正が妻か梅の月  明和年間  蒔絵師
10 不動画く宅摩が庭の牡丹かな  安永六(一七七七 六十二歳) 古画、仏画
11 南蘋を牡丹の客や福済寺    同上 清人、長崎派
12 茗長が机のうへのざくろかな  同上 染物師
13 相阿弥の宵寐おこすや大もんじ 同上 室町水墨画
14 鬼灯や清原の女が生写し    同上 写生画
15 大津絵に糞落しゆく燕かな   安永七(一七七八 六十三歳) 大津絵
16 筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉     安永九(一七八〇 六十五歳) 円山派
17 又平に逢ふや御室の花ざかり  年不詳  土佐派、俳画

 蕪村は、俳諧の世界においては、江戸と京都で、宝井其角の江戸座の宗匠の一人として名を馳せていた夜半亭宋阿(巴人)の内弟子として仕え、生涯に亘って師と仰いでいたが、画業の世界においては、「われに師なし、古今の名画をもって師とす」(「書画戯之記」)との伝聞があるとおり、生涯にわたって仰ぐべき師を持たなかった。

 ただ、宋阿(巴人)が寛保二年(一七四二)に病死した後、いわゆる「関東・奥羽遊歴時代」(寛保二十年《一七三五・二十歳》から寛延三年《一七五〇・三十五歳》)に見切りをつけて、宝暦元年(一七五一)の初冬に京都に上ってきた、その大きな理由の一つに、当時、京都に在住して画(文人画の先駆者・絵師として法橋に叙せられている)・俳(各務支考門の美濃派後に中川乙由の伊勢派系の宗匠の一人)の二道の世界で最右翼を極めていた彭城百川が念頭にあったことであろう。

 百川は、元禄十年(一六九八)、尾張名古屋の生まれ(支考書簡による入婿説もある)、姓は榊原、名は真淵、字が百川、号に蓬洲、僊観、八僊、八仙堂。中国風に彭百川と称した(その祖は帰化人と伝えられ、『元明画人考』を編しているほどに漢学の素養があった。また、自称の「彭城」の姓は、中国江蘇省彭城の出身と伝えられている)。

 俳諧では蕉門の各務支考に師事し、松角、次いで昇角と号した。後に、師の美濃派の支考との間に亀裂を生じ、反旗を翻して伊勢派の乙由門に転じている。三十二歳の頃から京都を拠点として北陸や長崎に遊び、四十八歳の頃からは「売画自給」と称して絵を職業とする生活に入り、元文年間には法橋位を得るに至っている。

 百川の多芸振りは、「詩・文・書・画・俳諧」(『本朝八仙集』「序」)に亘る「和漢に多芸の優人」(『和漢文操』「序」)と、晩年の支考に重宝がられ格別の厚遇を受けていたことからも推察される。

 この他に、百川は、「俳書のデザイン(扉や題字等)」「挿絵」「俳画(俳趣のある簡略な画《草画》)」「実景図」「地図」など、その多種・多様な多才振りは、画・俳の両道を目途としている蕪村を、魅了して止まないものがあったことは想像に難くない。
 蕪村が江戸から上洛したのは、宝暦元年(一七五一)、そして、百川が没したのは、その翌年の宝暦二年(一七五二)の八月であった。蕪村と百川との出会いがあったとしたら、宝暦元年から二年にかけての一年足らずの期間に於いてということになる。

これらのことについて、蕪村は何ら記してはいないが、蕪村は、宝暦七年(一七五七)九月に、丹後宮津から京都に再帰する時に、「天の橋立画賛」の残し、その賛文に次のように百川のことについて記している。

[ 八僊観百川丹青をこのむで明風を慕ふ。嚢道人蕪村、画図をもてあそんで漢流に擬す。はた俳諧に遊むでともに蕉翁より糸ひきて、彼ハ蓮二に出て蓮二によらず。我は晋子にくミして晋子にならハず、されや竿頭に一歩すゝめて、落る処ハまゝの川なるべし。又俳諧に名あらむことをもとめざるも、同じおもむきなり鳧。されば百川いにしころ、この地にあそべる帰京の吟に、はしだてを先にふらせて行秋ぞ わが今留別の句に、せきれいの尾やはしだてをあと荷物。かれは橋立を前駈して、六里の松の肩を揃へて平安の西にふりこみ、われははしだてを殿騎として洛城の東にかへる。ともに此道の酋長にして、花やかなりし行過ならずや。
  丁丑九月嚢道人蕪村書於閑雲洞中  ]

 この百川の「明風に慕ふ」の「明風」は、『元明画人考』の著を有する百川への「明画」風に対して、蕪村は「漢流」(「狩野派」の意とする見解もあるが、中国画全般の「漢流」の意)で、特定の画風にこだわらないというようなことなのであろう。

 また、俳諧の方では、百川は蕉門の「蓮二(支考)」の流れに比して、蕪村は同じ蕉門でも、「晋子(其角)」の流れ(其角門の巴人の系譜)であるが、共に、その流派にこだわらない点が共通しているし、また、俳人として名声を求めない姿勢も共通しているというようなことであろう。
 蕪村と百川との出会いの確たる形跡は見当たらないが、「当時中国画研究の第一人者であり、伊勢風の俳人としても有名であった百川を八僊観に訪問しないとすれば、それこそ不可解である」(『蕪村の遠近法(清水孝之著)』「百川から蕪村へ」)という指摘を拒否する理由も定かではないであろう。

 これらのことに関して、蕪村の江戸時代の知己で、延享四年(一七四七)に近江の義仲寺の無名庵五世となっている渡辺雲裡坊(前号・杉夫)は、名古屋時代の百川(昇角)と共に支考門で、両者は旧知の関係にある。

 そして、その雲裡坊は、宝暦五年(一七五五)に、京都から丹後へ移住している蕪村を訪ね、さらに、宝暦十年(一七六〇)に、京都に再帰した蕪村に筑紫行脚の同行を勧誘するなど、年下の蕪村への配慮は格別なものがあり、京都での蕪村と百川との出会いや、百川亡き後の蕪村の丹後移住などに関して、何らかの関係があるように思われることも特記して置く必要があろう。

 さらに、蕪村の晩年の絵画に署名される栄光の雅号「謝寅」は、中国明代の画家唐寅に倣ったものとされているが(『俳画の美(岡田利兵衛著)』)、百川の「春秋江山図屏風」の左隻に、この唐寅(伯虎)に倣ったことが書かれており(『知られざる南画家 百川(名古屋博物館)』「百川と初期南画(河野元昭稿)」)、これらのことを加味すると、百川の画・俳その他全般に亘る生涯は、蕪村の生涯を先取りした趣すらして来る。

 この百川について、『知られざる南画家 百川(名古屋博物館)』「百川と初期南画(河野元昭稿)」では、「自己の創造に必要なものを何でも画嚢に取り入れてしまう性質」を「雑食性」と名付け、この「雑食性」のほかに、「町人出身の専門画家」であったこと、「俳画と真景図に新生面を開いた」ことを、百川の特質ととらえて、それらが、次の時代の大雅と蕪村の日本南画(文人画)の大成に大きく寄与しているとしている。

 百川が文人画家の先駆者として、その文人画を大成したとされる大雅と蕪村への与えた影響ということの他に、「売画自給」を標榜した百川の、その姿勢は、異色の花鳥画家とされている伊藤若冲の精神的支柱であった「売茶翁」(黄檗宗の僧、法名は月海、還俗後は高遊外)に連なるものなのであろう。

 江戸時代を、前期(十七世紀)・中期(十八世紀)・後期(十九世紀)の三区分ですると、売茶翁は、延宝五年(一六七五)の生まれ、蕪村の師巴人(延宝四年=一六七六)と同年齢時代の、前期に生を享けたことになる。

 若冲(正徳六年=一七一六)・蕪村(享保元年=一七一六)・大雅(享保八年=一七二三)は、中期、そして、百川は元禄十年(一六九七)の生まれで、十七世紀の後半に生を享けたが、その活躍したのは十八世紀の中期ということになろう。

 この百川は、延享二年(一七四五)、四十九歳のときに、「売茶翁煎茶図・売茶翁題偈」という作品を残しており、売茶翁に連なる京都文化人の一人と数えて差し支えなかろう。この売茶翁に連なる京都文化人の面々は、売茶翁と共に若冲の支援者であり続けた、相国寺第百十三世の詩僧・大典顕常、数多くの儒学者を育てた大儒・宇野明霞、書家の亀田窮楽、画壇では、池大雅、伊藤若冲、そして、蕪村もまた、「小鼎煎茶画賛」を残しており、直接的な繋がりはないが、やはり売茶翁に共鳴した一人と解して、これまた差し支えなかろう。

 宝暦十三年(一七六三)、売茶翁は、その八十八年の生涯を閉じるが、その年に刊行された『売茶翁偈語』の伝記は、大典顕常、その売茶翁の自題は大雅、口絵の売茶翁の半身像は若冲と、売茶翁と親しかった、三人の名が肩を並べている。

 若冲の別号の「米斗翁」(「絵代は米一斗」に由来する)は、売茶翁の「茶銭は黄金百鎰(注・小判二千両)より半文銭までくれしだい。 ただにて飲むも勝手なり。ただよりほかはまけ申さず」に由来があるものなのであろう。そして、「大雅」の別号の「待賈」は「賈(価)を待つ=商人」の、これまた、売茶翁が「茶を売る翁」に因んでの「絵を売る」、百川の「売画自給」と同じ意なのであろう。
 この売茶翁の、「仏弟子の世に居るや、その命の正邪は心に在り。事跡には在らず。そも、袈裟の仏徳を誇って、世人の喜捨を煩わせるのは、私の持する志とは異なる」(大典顕常の「売茶翁伝」の遺語)に由来するところの、その売茶翁の「売茶」という、その実践に由来するもの、それが、百川の「売画自給」の意味するものなのであろう。

 そして、その百川に続く、京都の画人達(大雅・若冲・蕪村等々)は、「雅」の「非日常性・不易なもの・虚なるもの」と「俗」の「日常性・刻々変化するもの・実なるもの」との、その「雅と俗」との、その葛藤こそ、それぞれの「売画自給」の日々の実践の証しということになろう。

 ここまで来ると、蕪村の「夜色楼台図」の全てが見えて来る。この「夜色楼台図」の根底には、上半分の「雅」たる「夜空と山並み(東山)」、そして、下半分の「俗」たる「積雪の楼台と家並み(京の街並み)」との、その「二極対比」と、その「雅俗混交」の「鬩(せめ)ぎあい」での末の、安らぎにも似た「雅俗融合」の極致の世界が、見事に浮き彫りにされている。

 さらに、細かく見ていけば、「黒(闇)と白(明かり)」、「代赭(華やぎと温もりの灯影)と胡粉(寂として消えて行く雪片)」、全体の「横長の広大なパノラマの『水平視(平遠法)』的視点」、下半分の人家の景を「見下ろす『俯瞰視(深遠法)』的視点」、そして上半分の山並みと空とを「仰ぎ見る『仰角視(高遠法)』的視点」、それらは、「画(「無声の詩」=「画中に詩有り」)」と「詩(「有声の画」=「詩中に画有り」)」との、見事な「画・俳」、そして、「画・俳・書」の、その合致の到達点を物語っている。

 この横長の絵巻風の「夜色楼台図」の、その冒頭の「夜色楼/臺(台)雪萬(万)/家」の、この「夜色楼台雪万家」の画題なるものは、『水墨画の巨匠(第十二巻)蕪村』の「図版解説(早川聞多稿)」では、若き日の蕪村が私淑した服部南郭に連なる詩僧の万庵原資の、「遊東山詠落花(東山ニ遊ビテ落花ヲ詠ズ)」の「湖上楼台雪万家」と「中秋含虚亭ノ作」での「夜色楼台諸仏座」の一節に由来があることなどが紹介されている(さらに、『生誕三百年同いの天才画家 若冲と蕪村』では、『皇明七才詩集註解』の明代の李攀龍による「宗子を懐う」に「夜色楼台雪万家」の一節があることも新説として挙げられている)。

 何れにしろ、この「夜色楼台雪万家」の主題は、「夜・楼台・雪・万家」の「夜(闇)・楼台(「華やぎ=灯影」)・雪(「無常=雪の切片)・万家(「「人家」の「無数の『生』の営み」)、その中でも、上半分の「雅」たる「山と空」と下半分の「俗」たる「人家」とを融合させている「雪」こそ、この「夜色楼台図」の主要なテーマなのではなかろうか。

 蕪村には、目白押しの「雪」の句の中から「二極対比」の句を抽出して見たい。

1 宿かさぬ灯影や雪の家つゞき  明和五年(一七六八・五十三歳) 灯影と雪
2 雪国や粮(かて)たのもしき小家がち  同上          小家と雪
3 宿かせと刀投出す吹雪哉       同上         武士と吹雪
4 初雪や上京は人のよかりけり  明和六年(一七六九・五十四歳) 上京(洛)と初雪
5 物書(かい)て鴨に換けり夜の雪    同上        王義之(前書き)と雪
6 祐成をいなすや雪のかくれ蓑  明和七年(一七七〇・五十五歳) 曽我十郎祐成と雪
7 繋馬雪一双の鐙(あぶみ)かな     同上          馬の鐙と雪
8 雪の河豚鮟鱇の上にたゝんとす 明和八年(一七七一・五十六歳) 河豚と雪
9 雪の松折るるや琴の裂る音      同上          松と雪
10 としひとつ積るや雪の小町寺  安永三年(一七七四・五十九歳) 小町寺(洛北)と雪
11 雪の旦母屋のけぶりのめでたさよ   同上          母屋の煙と雪
12 鍋さげて淀の小橋を雪の人      同上          淀の小橋と雪
13 愚に耐(たへ)よと窓暗(くらう)す雪の竹  同上     貧窮老懶の自画像と雪
14 初雪や草の戸を訪(と)ふわら草履  安永六年(一七七七・六十ニ歳) 風狂の友と雪
15 木屋町の旅人訪ん雪の朝       同上    木屋町(旅館・料亭が多い)と雪
16 住吉の雪にぬかづく遊女哉    同上  住吉大社(浪花・遊女の信仰が厚い)と雪
17 雪白し加茂の氏人馬でうて 安永七年(一七七八・六十三歳)  加茂神社の社人と雪
18 雪折やよしのゝゆめのさむる時  同上          吉野(奈良吉野山)と雪
19 雪折も聞えてくらき夜なる哉   同上          闇夜と雪(白居易の詩)
20 登蓮が雪に蓑たく竈(かま)の下 天明二年(一七八二・六十七歳)  登蓮(歌僧)と雪
21 雪を踏で熊野詣の乳母かな    同上              熊野詣と雪
22 風呂入に谷へ下るや雪の笠   年次未詳             湯治場と雪
23 水と鳥のむかし語りや雪の友   同上         「酒」(水偏の鳥)と雪
24 雪の暮鴫はもどつて居るような  同上           鴫(西行の鴫)と雪
25 雪消ていよいよ高し雪の亭    同上            雪亭(庵号)と雪

 蕪村の二大水墨画の、もう一つの「峨嵋露頂図巻」(二八・九×二四〇・三cm、紙本墨画淡彩一巻)は、「夜色楼台図」(二七・三×一二九・三cm、紙本墨画淡彩一幅)の、横長に倍の長さ(条幅紙一枚分)で、こちらは図巻(一巻)で、それを横長の掛幅とするならば、これは、一大のパノラマ仕立てになる。

 「夜色楼台図」が、日本の詩僧・万庵原資の詩と『唐詩選』を編纂したとも言われている明代の詩人・李攀龍の詩に由来があるとすれば、「峨嵋露頂図巻」は、李白の七言絶句の「峨嵋山月歌」とこれまた李攀龍(号=滄溟)の「滄溟ガ詩ヲ評ス『峨嵋天外雪中ニ看ル』」(『唐詩選国字解(服部南郭解)』「跋(荻生徂徠)」)に由来があるとされている(『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「図版解説(早川聞多稿)」) 。

 ここまで来ると、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図」とは、同時期に書かれた、「雪」を主題とする蕪村の連作であったということを実感する。

 そして、この二大傑作水墨画は、蕪村が六十八年の生涯を閉じた、天明三年(一七八三)の作とされており、「蕪村絵画年譜」(『日本の美術六 与謝蕪村(佐々木丞平編)』)では、その順序は、「夜色楼台図」が先で、その年の「謝寅落款のあるもの」の最後に、「峨嵋露図」が掲載されている。

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   (図3-1 「峨嵋露頂図」(右半分) 蕪村筆「落款・謝寅」)

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  (図3-2 「峨嵋露頂図」(左半分) 蕪村筆)


 ここに、冒頭の「夜色楼台図」(図1)を掲載して置きたい。

蕪村 夜色楼台図.jpg
 (図1・再掲 「夜色楼台図」 蕪村筆「落款・謝寅書」 )

 これらの「夜色楼台図」と「峨嵋露頂巻」との落款は、主に、蕪村の漢画系統のものの落款「謝寅」で、「夜色楼台図」は「謝寅書」、そして、「峨嵋露頂図」は「謝寅」と署名されている。

 それに対して、蕪村の和画系統のものの落款「蕪村」の署名で、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図巻」と共に、横長の三大水墨画の一つに数えられている「富岳列松図」(二九・六×一三八・〇cm、紙本墨画多彩一幅)が、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図巻」と同年(蕪村が没する天明三年=一七八三)に制作されている。

 そして、この「富岳列松図」もまた、「雪」が主題のもので、真っ白な「富士」が赤松並木の上に浮かび上がっている。そして、墨の濃度の違いによって、その墨色で、あたかも、松の緑と空の青とを描いているかのようなのである。

富岳列松図.png
  ( 図4 富岳列松図  蕪村筆「落款・蕪村」 )

 ここで、「峨嵋露頂図」で紹介した、李攀龍(号=滄溟)の「滄溟ガ詩ヲ評ス『峨嵋天外雪中ニ看ル』」(『唐詩選国字解(服部南郭解)』「跋(荻生徂徠)」)に関連して、徂徠の『蘐園随筆』「序(安藤東野)」に触れながら、蕪村の、「峨嵋露頂図」「富岳列松図」、そして、「夜色楼台図」を三部作として、次のように、その関連を考察したものを紹介して置きたい。

[「峨嵋を天半の雪中に看る」とは、王世貞(注・明時代の学者・政治家、号は弇州山人《えんしゅうさんじん》)が李攀龍(注・明時代の詩人・文人、号は滄溟)の詩風を、峨嵋山の雪にたとえてたたえる句である。(略) あわれむべし彼等は、峨嵋山を知るだけで、わが富士山を知らない。先生(注・荻生徂徠)は実に富士の白雪である。(吉川幸次郎著『仁斎・徂徠・宣長』より)

 この一節は徂徠の愛弟子、安藤東野(注・徂徠門の儒学者)が、師(注・徂徠)の学問のすばらしさを讃えたものである。ここで注目すべきことは、「天半の峨嵋山」と李攀龍(注・蕪村が生涯に亘って愛した詩人)、「白雪の富士山」を荻生徂徠(注・蕪村の漢詩理解の源となっている服部南郭の師、「夜色楼台図」の由来となっている詩を作った万庵原資も徂徠門)というイメージの提示である。(略)
 両図(注・「峨嵋露頂図巻」「富岳列松図」)とも本図(注・「夜色楼台図」)と同様、横長の画面形式をとっており、その熟練した筆致から制作時期も本図と同時期のものと推定される。また、これら三図はいずれも山と雪を主要なモチーフとしている。

 このようにその共通性に注目するならば、これら三図は三部作として描かれた可能性があるといえる。もし、「峨嵋露頂図巻」の「天半の峨嵋」が李攀龍を、「富岳列松図」の「白雪富士」が荻生徂徠(注・徂徠と徂徠の古文辞学派=蘐園学派の服部南郭《儒者・詩人・画家》等の一門)を象徴としているならば、では一体、「夜色楼台図」の東山は誰を象徴しているのであろうか。(略)
 画(注・「夜色楼台図」)左の山稜をたどれば、そこは法然・親鸞が修行した比叡山であり、その山下の一乗寺村には親鸞が六角堂に通った百日別行の旧跡がある。そして、正面の山麓には法然ゆかりの法然院、金戒光明寺、知恩院が建ち並び、画面右端には親鸞の遺骨を納めた大谷の廟所がある。(略)
 さらに付け加えるならば、親鸞百日別行跡の隣の金福寺には、蕪村がその再興に関与した芭蕉庵があり、その記念碑が立っており、蕪村は、
   我も死して碑にほとりせん枯尾花
の一句を手向けたのである。そしてその願い通り、天明三年(一七八三)の暮に亡くなった蕪村の遺骨は、翌四年一月には、まさしく「祖翁之碑」の隣に納められ、同十月には「与謝蕪村墓」と刻まれた墓碑が、門人たちによって建てられたのであった。  
 このように見てくると、晩年の蕪村が眺める東山連峰は、まことに複雑なイメージを帯びていたといえよう。
 そこは自らが四季折おりを楽しむところである同時に、雪が降れば徂徠の学恩を、山麓の楼閣を見れば法然の法恩を思い、その山陰は己が人生を決定づけた親鸞と芭蕉の俤を宿す場所であった。
 そして、そこはまた、蕪村自らが「終(つい)の住処(すみか)」と思い定めた場所であった。すなわち、この一枚の画(注・「夜色楼台図」)によって、「聖」と「俗」の狭間に生きた蕪村の人生そのものが象徴されているといえよう。 ]
 (『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「《この一枚》夜色楼台図《早川聞多稿》)」) 。


 蕪村の、横長のパノラマ的眺望を描出している、「峨嵋露頂図巻」「富岳列松図」「夜色楼台図」を、同時期に制作された三部作として、「峨嵋露頂図巻」と李攀龍(号・滄溟)、「富岳列松図」と荻生徂徠(徂徠門服部南郭等)とを、南郭の『『唐詩選国字解』等を通して探り当てた点は卓見であろう。

 それに続けて、「夜色楼台図」は、別稿「「水墨画の俳諧化―雅俗融合の生涯《早川聞多稿》」に於いて、「僧に非ず俗にゐて俗にも非ず」(親鸞の『教行信証』)等を引用し、併せ、上掲の蕪村自身の「我も死して碑にほとりせん枯尾花」(「枯尾花」は其角の芭蕉追善集の名)句をも引きながら、「芭蕉・親鸞・法然上人」の俤を重ねたのは、やはり、この評者(早川聞多)の、この「夜色楼台図」に寄せる思い入れの深さの証左であろう。

 この親鸞の「僧に非ず俗にゐて俗に非ず」は、「俗中に生きてこそ、『聖俗』を超える契機を見出し得る」とし、そして、この親鸞の「聖俗」論は、即、蕪村の「俗を用いて俗を離れ、俗を離れて俗を用いる」(離俗論)と表裏一体を為すものなのであろう。

 即ち、親鸞は「聖俗」の人であり、蕪村は「雅俗」の人であり、親鸞の生涯が「聖俗融合」の生涯であったとするならば、蕪村の生涯は、市井に生きた「雅俗融合」の生涯だったということになろう。

 そして、この「夜色楼台図」は、まさしく、その蕪村の「雅俗融合」の生涯を、象徴的に物語っている「この一枚」ということになろう。


蕪村の花押(その二) [蕪村]

(その二)


絵図A.png

(絵図A=『はなしあいて』所収「蕪村山水略図」)

 この「蕪村山水略図」は、『はなしあいて(宋是編)』下巻の冒頭の宋是(高井几圭)の「序」の次に掲載されているもので、「山が三つ中央にあり、その麓に木立と人家、その手前に一本の線による川が描かれている」、何とも単純な俳画の見本のような省筆画の極致という趣である。そして、真ん中の山の右端に、蕪村と署名し、その下に、蕪村の花押が書かれている。
 この『はなしあいて(噺相手)』は、宝暦七年(一七五七)、宋是(几圭)が六十九歳で行った文台開きと薙髪をかねて祝した記念の賀集で、几圭は京都の夜半亭門(巴人門)の宋屋と双璧をなす重鎮で、後に夜半亭二世となる蕪村の承継者、夜半亭三世几董の父である。
 宝暦元年(一七五一)、三十六歳の時に、蕪村は関東・東北歴行の生活に終止符を打ち上洛した。上洛した理由などについての直接的な記述はないが、寛保二年(一七四二)六月六日の宋阿(巴人)が没して、江戸の夜半亭一門は消滅し、その大半は馬場存義一門に吸収された(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)ことと大きく関係して来よう。
 そういう環境下にあって、京都の夜半亭一門は、望月宋屋と高井几圭を両翼として、宋阿(巴人)が京都に移住して当時そのままに健在であった。また、一時江戸に住んでいた「莫逆の友」の毛越(江戸在住時代の号は雪尾)など知友の多くが京都とその周辺を活動の拠点としていた。
 これらの京都の夜半亭一門並びにその影響下にある知友達のもとにあって、心機一転の再スタートを切りたいということが、蕪村上洛の大きな理由であったことであろう。これらのことについて、宝暦五年(一七五五)に刊行された、宋阿(巴人)十三回忌追善俳諧遺句集『夜半亭発句帖(雁宕ら編)』に寄せた蕪村の「跋」は次のとおりである。

「阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探て一羽烏といふ文作らんとせしもいたづらにして歴行十年の后、飄々として西に去んとする時、雁宕が離別の辞に曰、再会興宴の月に芋を喰事を期せず、倶に乾坤を吸べきと。(以下略)」
(訳「師の夜半亭宋阿(巴人)が亡くなった時、その夜半亭の空屋で、師の遺稿をまとめて一羽烏という遺稿集を作ろうとしたが、何もすることが出来ずに、ついつい関東・東北を歴行すること十年の後に、あてどなく西帰の上洛をしようとした際の、兄事する雁宕の離別の言葉は、「今度再開して宴を共にする時には、月を見て芋を喰らうような風雅のことではなく、お互いに、天地を賭しての勝負をしたことなどを話題にしたい」ということでした。)

 この蕪村の「跋」に出て来る、「雁宕が離別の辞」は、東西の夜半亭一門の実質上のまとめ役の、当時の雁宕の姿を如実に著わしている。雁宕は、後に、東日本に於ける俳壇の大勢を動かしている雪中庵(嵐雪系)三世を継いでいる大島蓼太に対し、江戸の夜半亭一門の、其角・巴人・存義に連なる江戸座(其角・沾徳系)の一角を代表して、延享二年(一七四五)に刊行された『江戸廿歌仙(延享二十歌仙)』)に端を発した長年に亘っての論争を展開する。
 こういう雁宕の俳諧一筋の精進に比して、蕪村の関心事は画(文人画・俳画等)と俳(俳諧)との二道で、その二道のうち、主たる関心事は画道にあり、俳諧はあくまでも余技的な従たるものというのが真相であろう。
 そして、蕪村が上洛をした真の狙いは、当時、京都に居を構え、文人画の先駆者の一人で、且つ、中国古典の教養を幅広く持ち、さらに、各務支考系の俳人としても名を馳せている彭城百川の膝下で、画人としての再スタートを期したいということにあったように理解できるのである。
 しかし、百川は、蕪村が上洛した宝暦元年(一七五一)に、当時舶載された中国画人を集大成した『元明画人考』を刊行し、さらに、多武峰談山神社の慈門院に一群の障壁画(国の重要文化財)を描き、それが最期の頂点のままにして、その翌年の八月二十五日に、その五十六年の生涯を閉じるのである。
 即ち、蕪村と百川とが、この宝暦元年(蕪村上洛=秋)から同二年八月(百川没)の間に、この両者の対面があったのかどうかは、甚だ曖昧模糊として居り、未だに謎のまた謎という状態である(否定的見解=『潁原退蔵著作集第十三巻』所収「蕪村と百川)」、肯定的見解=『蕪村の遠近法(清水孝之著)』所収「百川から蕪村へ」)。
 百川は、元禄十年(一六九七)、名古屋本町の薬種商八仙堂の生まれとされているが(婿養子ともいわれている)、その前半生は明らかではない。本姓は榊原、通称を土佐屋平八郎というが、自ら彭城を名乗った。名は真淵、字が百川、号に蓬洲、僊観、八僊、八仙堂。中国風に彭百川と称した。
 俳諧では各務支考に就き、俳号は、始め松角、後に昇角と号した。京都に出て活動を始めたのは、享保十三年(一七二八)、三十二歳の頃からで、その生涯は、伊勢・大坂・金沢・岡山・高知・長崎・大和など、画業を主とし、俳諧を従としての旅を重ね、その晩年は京都で過ごすものであった。
 百川は町人出身の職業画家で、自ら「売画自給」と称しており、同じく文人画の先駆者とされる祇園南海(紀州藩儒)や柳澤淇園(大和郡山藩士)の、語学・文学・学術・諸芸に長け、中国趣味の風雅の中で画道に精進するという、所謂、本来の士大夫による「文人画」の世界ではなく、その「文人画」を職業として描く「文人画派の絵画」の世界での創作活動であったということも言えよう(『文人画の鑑賞基礎知識(佐々木丞平・佐々木正子著)』)。
 日本文人画を大成したとされる池大雅も与謝蕪村も、その出身からすると町人出身の百川と同じような環境下にあっての「文人画派の画家」であり、この二人のうち、大雅は、文人画の筆法や画面構成のスタイルを独自なものとして大成したとするならば、蕪村は詩画一体を目指すという文人画の精神を実現した、まさに画俳二道を究めた達人ということになろう。
 そして、その蕪村が目指した画俳二道を先駆的に歩んでいる、その人こそ百川ということになる。そして、蕪村が上洛した宝暦元年(一七五一)には、百川は京都に在住しており、当時、蕪村より七歳年下の大雅は、『池大雅家譜(蒹葭堂竹居編)』によると百川と面識があり、延享二年(一七四五)には、蕪村よりも三歳年下の建部綾足(当時の号・葛鼠)が、百川を訪ねて上洛し、「百川に俳諧ばかりでなく生きる姿勢の上でも大きく影響」を受け、俳諧を百川の指導により、野坡門から伊勢派に転向したという(『彩の人建部彩足(玉城司著)』)。
 綾足も、俳人・絵師・小説家・国学者等々多才の人であったが、百川は、「詩・文・書・画・俳諧」(『本朝八仙集』獅子房=支考序)に亘る「和漢に多芸の優人」(『和漢文操』二見文台絵序)と、そのマルチニストぶりは、蕉門随一の論客家の獅子房こと支考が、後に、両者は諍いを起こすことになるが、絶賛している。
 その本業である絵画のレパートリーも、漢画(中国の「宋・元・明」の山水・花鳥・人物等多彩に亘る絵画の摂取)、和画(狩野派・土佐派・英派等)、和洋化(長崎風=黄檗派・南蘋派・長崎版画等の摂取、その和洋化)、俳画(詩書画一体の俳画の先駆的な創作)、挿絵(俳書・絵俳書に描かれた絵)、俳書の装画などのデザイン(絵文字・扉絵など俳書のデザインと編纂)など多岐にわたっている。
 この百川の多岐・多様な世界について、「自己の創造に必要なものは何でも画嚢に取り入れてしまう」、その「雑食性」こそ、百川の大きな特色であるとしている(『知られざる南画家百川(名古屋市博物館編)』所収「百川と初期南画(河野元昭稿)」)。
 まさに、この百川の「雑食性」とその絵画のレパートリーの多岐性の世界は、まさに、蕪村の世界と軌を一にするものと言って差し支えなかろう。そして、百川の先駆的な土台の上に立って、その未完・未消化の世界を完成した人こそ、それが蕪村であったという思いを深くする。
 
さて、冒頭に掲げた『はなしあいて』所収の「蕪村山水略図」(絵図A)は、これは上記のレパートリーの「挿絵」の世界のものなのであるが、このシンプル化の極致のような省筆画の世界の先駆的な試みは、百川が既に様々に実践して居り、蕪村は、その百川の省筆の挿絵から多大な示唆を受けて、それをアレンジしていると言っても過言でなかろう(清水『前掲書』・「国文学(1996/12 41巻14号)」所収「挿絵画家蕪村(雲末末雄稿)」、この「挿絵画家蕪村」の中で、次の絵図B・Cとの類似性を指摘している)。

絵図B.png

(絵図B=「百川・杜鵑図)        

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(絵図C=「百川・旭日雪景図」)

 この絵図B=「百川・杜鵑図」と絵図C=「百川・旭日雪景図」は『俳諧節文集(何尾亭童平編・享保十八年=一七三五)』所収で百川の署名はなされていないが、その扉文字や「花鳥風月」のデザイン文字が百川のものであり、この絵図(A・B)は、百川作であることは間違いないとされている(雲英『前掲書』・田中『前掲書』)。
 ここで、改めて、上記絵図Aの「蕪村山水図」は、宝暦七年(一七五七)の、蕪村、四十二歳の時の作で、百川の作とされている、上記B「杜鵑図」と上記C「旭日雪景図」は、享保十八年(一七三三)、百川、三十七歳の作である。
 百川は、享保十四年(一七二九)に、『俳諧ながら川(嘯鳥舎有琴編)』に、「四季鵜飼図」の四枚の挿絵を載せているが、その「春図」(絵図D)と「秋図」(絵図E)は次のとおりで、
いかに、「杜鵑図」(絵図B)・「旭日雪景図」(絵図C)が、単純化・省筆化されているかが、感知される。

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(絵図D=百川・春図)      

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(絵図E=百川・秋図)

 先に触れた、蕪村が俳人そして画人(挿絵画家)として初めて世に登場する、元文三年(一七三八)、二十三歳時の絵俳書『卯月庭訓(豊島露月他編)』に掲載されている、「鎌倉誂物」(絵図F)と冒頭に掲げた、宝暦七年(一七五七)の、蕪村四十二歳の時の「蕪村山水図」(絵図A)とを比較すると、いかに、蕪村が百川から多くのものを摂取して行ったかの、その一端が明らかとなって来る。
 そして、この冒頭の「蕪村山水図」(絵図A)の署名と花押が、この山水図の絵柄の一部を構成していて、その署名は木立、そして、花押は人家のような趣を呈しているかが明瞭となって来る。

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   (絵図F=宰町(蕪村)自画賛・鎌倉誂物)

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蕪村の花押(その一) [蕪村]

蕪村の花押

(その一)

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(書簡A)

 上記の書簡は、宝暦七年(一七五七)、蕪村、四十二歳時の、丹後の宮津(現・京都府宮津市)から京都の知友・三宅嘯山宛てに、丹後滞在中の近況を報じたものの後半の部分で、その文面は次のとおりである。

「俳諧も折々仕候。当地は東花坊が遺風に化し候て、みの・おはりなどの俳風にておもしろからず候。一両人巧者も在之候。(瓢箪図)先生、嘸老衰いたされ候半存候。宜被仰達可被下候。詩は折々仕候。帰京之節可及面談候。御家内宜奉願候。頓首 卯月六日 蕪村(花押) 嘯山公 」
(訳「俳諧も折々やっています。当地は各務支考の影響に染まっていて、美濃・尾張の俳風で面白くありません。一・二人巧者もおります。瓢箪先生(望月宋屋)、さぞかし、御齢を召されたことと思います。宜しくお伝え下さい。漢詩も時折作っています。京に帰りましたら早速お邪魔したいと思います。奥様によろしく。頓首 四月七日 蕪村 三宅嘯山公」)

 この書簡の宛名の三宅嘯山は、京で質商を営み、仁和寺や青蓮院宮の侍講をしていた。漢詩と中国白話(現代中国語)に通じた多才の人で、享保三年(一七一八)の生まれ、蕪村よりも二歳年下である。
蕉門俳人木節の子孫を娶ったのを機に俳諧を学び、蕪村の早野巴人門の兄弟子に当たる宋屋門に入り、後に点者(宗匠・指導者)の一人となっている。別号に葎亭など、その『俳諧古選』『俳諧新選』などの編著によって、京俳壇等に大きく貢献した一人である。
 蕪村と嘯山との出会いは、宝暦元年(一七五一)に蕪村が上京し、その秋の頃、宋屋と歌仙を巻いており(『杖の土(宋屋編)』)、その上京して間もない頃と思われる。爾来、この二人は、「錦繍の交はりにて常に席を同じうす」(『四季発句集(百池自筆)』)と肝胆相照らす知友の関係を結ぶこととなる。
 この書簡中の、(瓢箪図)先生こと、望月宋屋は、師(早野巴人)を同じくする画俳二道を歩む蕪村を高く評価しており、巴人没後の延享二年(一七四五)の奥羽行脚の際、その途次で結城に立ち寄り蕪村に会おうとしたが、蕪村が不在で出会いは叶わなかった。翌年の帰途に再び結城に立ち寄ったが、またしても、蕪村は不在で、江戸の増上寺辺りに居るということで、江戸でも探したが、そこでも二人の出会いはなかった。
 それから五年の後の二人の初めての出会いである。宝暦元年(一七五一)の蕪村上洛の大きな理由の一つは、この巴人門の最右翼の俳人宋屋を頼ってのものであったのであろう。
 宋屋は、蕪村(前号・宰鳥)について、その『杖の土』で次のように記している。

「宰鳥が日頃の文通ゆかしきに、結城・下館にてもたづね遭はず、赤鯉に聞くに、住所は増上寺の裏門とかや。馬に鞭して僕どもここかしこ求むるに終に尋ねず。甲斐なく芝明神を拝して品川へ出る。後に蕪村と変名し予が草庵へ尋ね登りて対顔年を重ねて花洛に遊ぶも因縁なりけらし。」
(訳「宰鳥(蕪村)の日頃の便りに心引かれるものがあり、結城・下館に行ったおり訪ねたが遭えず、赤鯉に聞いたところ、住所は増上寺の裏門とか。馬を走らせて下僕に捜させたが終に遭えなかった。止む無く、芝の大神宮に参拝し品川を後にした。後に、蕪村と名を改めて、私の草庵を訪ねて来て初めて対顔した。そのまま年を重ねて京都に遊歴しているのも何かの縁であろう。」)

 この宋屋の文面の「日頃の文通ゆかしきに」からして、巴人が在世中の頃から巴人と京都の巴人門との連絡役を蕪村が勤めていて、そんなことが、この両者を取り持つ機縁となっていたのであろう。また、「年を重ねて花洛に遊ぶ」ということは、当時の蕪村が京都に永住するのかどうかは不確かなことで、事実、上洛して三年足らずの、宝暦四年(一七五四)には丹後に赴き、この書簡を送る頃までの三年余を丹後に滞在している。  
 ここで、上記の嘯山宛ての書簡で注目すべき一つとして、蕪村と署名して、その後に、
蕪村の終生の花押となる、何やら、槌のような形をしたものが書かれていることである。
 この花押は、蕪村の十年余に及ぶ関東放浪時代には見られない。おそらく、この書簡が出された丹後時代から使い始めたもののように思われる。
蕪村の落款は、関東放浪時代は無款のものが多いが、「子漢・浪華四明・浪華長堤四明山人・霜蕪村」、印章は「四明山人・朝滄・渓漢仲」などで、これが丹後時代になると、落款は、主として、「朝滄(朝滄子・四明朝滄・洛東閑人朝滄子)」が用いられ、その他に、「嚢道人(囊道人蕪村)・魚君・孟冥」、印章は「朝滄・四明山人・囊道・馬秊」などが用いられている。
これらの落款・印章の「四明」は、比叡山の四明ヶ岳に因んでのもので、当時は蕪村の故郷の摂津(大阪)の毛馬の堤から比叡山が望めたということで、「浪華長堤」(毛馬長堤)と共に望郷の思いを託したものなのであろう。
 そして、この「朝滄」は、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。
 宝暦元年(一七五一)に上洛して間もなく、蕪村は「嚢道人」という号を使い始める。丹後時代の大画面の屏風絵(十三点)中、六曲半双「田楽茶屋図」は、英一蝶流の町狩野系統の近世的な軽妙な風俗画として知られているが、落款は「嚢道人蕪村」、印章は「朝滄・四明山人」である。
 上記書簡中の花押は、「囊道人蕪村」の「蕪村」の「村」から作った花押という見解(『俳画の美(岡田利兵衛)』があり、この「囊」は、蕪村が上洛して「東山麓に卜居」していた「洛東東山の知恩院袋町」(池大雅の生家の所在地)の「袋」に因んでのものと、その見解に続けられている。
 この「蕪村」の「村」から作った花押という見解(岡田利兵衛)に対して、「槌」を図案化したものという見解(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)がある。この「槌」を図案化したという見解を裏付ける記述は見られないが、上洛前の寛延年間(一七四八~一七五一)、江戸在住の頃の無宛名(結城の早見桃彦か下館の中村風篁宛て)の書簡(書簡B)に、「槌」を描いたものがあり、それらと関係のある花押という理解なのかも知れない。
そもそも、蕪村が俳人そして画人(挿絵画家)として初めて世に登場するのは、元文三年(一七三八)、二十三歳時の絵俳書『卯月庭訓(豊島露月他編)』に於いてで、そこに「鎌倉誂物」と前書きのある「尼寺や十夜に届く鬢葛」の発句を記した自画賛が収められている。それは立て膝で手紙を読む洗い髪姿の女性像で、そこに「宰町自画」と、蕪村の最初期の号「宰町」で登場する。
この『卯月庭訓』の編者・豊島露月は、蕪村の師・早野巴人と親交のあった俳人の一人で、観世流謡師匠でもあり、その絵俳書の刊行は、享保七年(一七二二)の『俳度曲(はいどぶり)』から延享二年(一七四五)の『宝の槌』まで十一点に及んでいる。
その露月編の絵俳書シリーズの一番目を飾る『俳度曲』は、謡曲名を題として、それに画と句を配したもので、そのトップを飾るのは、今に浮世絵師として名高い鳥居清倍(きよすえ)の画に、蕉風俳諧復興運動の先駆けとなる『五色墨』のメンバーの一人・松木珪琳(けいりん)の蓮之(れんし)の号での句が添えられている。それに続く二番目の画は、英一蝶(二世か?一世英一蝶は蕪村の師筋に当たる其角の無二の知友)のもので、この一蝶画に、『続江戸筏』の編者の石川壺月の句が添えられている。
これらの画人の画には、落款又は花押が施されており、おそらく、蕪村の、槌を図案化したような花押は、この露月の絵俳書のシリーズと深く関係しているように思われる。  
ちなみに、蕪村が宰町の号で登場する『卯月庭訓』は、このシリーズの九番目にあたるもので、この蕪村の自画賛には花押は押されていない。この頃の蕪村(宰町)は全くのアマチュア画家で、落款や花押を施すような存在ではなかったのであろう。

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(書簡B)

ここで、上記の、寛延年間(一七四八~一七五一)、蕪村が江戸在住の頃の無宛名(結城の早見桃彦か下館の中村風篁宛て)の書簡(書簡B)の文面と訳を添えて置きたい。

「快晴に相成候。弥御壮栄奉祝候。誠に先夜はいろいろ相願候処、御深重之思辱仕合奉存候。何分宜敷奉候。然ば其節御約束之(槌の図)幷大黒天、旧年甲子夜子刻に相認候内、槌は多認候得共、大黒天は三四枚計御座候。御笑留可被下候。伊勢御下向は未に候哉。定て御用多と奉存候得共、御寸暇も御座候はば御光栄奉待候。今日大安日に候得ば、右之画為福差上候。楠公も一両日に出来仕候。先は右申上度、余は拝眉万々可申上候。早々結尾
二月廿二日  蕪村  二白 御存之義奉存候得共、先刻岡田兄御帰□□□ 」
(訳「快晴に相成りました。いよいよ御壮栄のこととお祝い申し上げます。誠に先夜は色々お願いをいたしましたところ、御深重なおぼしめしを頂き、かたじけなく有難うございました。今日は大安日ですので、右の画(槌)を福があるということで差し上げます。先ずは左様なことを申し上げ、その他お会いした時重々申し上げたいと存じます。では早々 二月廿二日 蕪村 追伸 御存知のこととは存じますが、先刻岡田兄御帰□□□)