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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その十二) [狩野内膳]

(その十二)「狩野派南蛮屏風」と「内膳・道味南蛮屏風(リスボン古美術館蔵)」周辺

南蛮屏風(神戸・リスボン).jpg

A図(上)「狩野内膳筆(落款) :南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365028
B図(中) 「狩野内膳筆(落款):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)
C図(下) 「狩野道味筆(伝):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)
http://museudearteantiga.pt/collections/art-of-the-portuguese-discoveries/namban-folding-screensA

山楽・左隻.jpg

山楽・右隻.jpg

D-1図(上)「狩野山楽筆(伝):南蛮屏風(左隻)」(サントリー美術館蔵)
D-2図(下)「狩野山楽筆(伝):南蛮屏風(右隻)」(サントリー美術館蔵)
https://www.suntory.co.jp/sma/collection/gallery/detail?id=524

 これらの(A図~D図)については、前回(下記アドレス)で紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-22

孝信・左隻.jpg

孝信・右隻.jpg
E-1図(上)「狩野孝信筆:南蛮屏風(左隻)」(九州国立博物館蔵)
E-2図(下)「狩野孝信筆:南蛮屏風(右隻)」(九州国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/538661

【 新発見の南蛮屏風の優品。日本に到着した黒い南蛮船と、南蛮寺に向かうカピタン・モールの一行を描く右隻は、いわゆる南蛮屏風の定型的な表現をとっているが、左隻に白い唐船が入港する中国の港町を描くことはとても珍しく、本図の特徴の一つとなる。
その画面は、モチーフを細部まで丁寧に描き込みながら、かつ全体を調和させる描写力が見所。描いたのは狩野派正系の画家、おそらくは狩野孝信(1571〜1618)の手により慶長年間(1596〜1614)に制作されたと考えられる。 】(「文化遺産オンライン」)

この「孝信」(1571 -1618))は、通称右近、狩野永徳の次男で狩野光信の弟。息子は狩野探幽、狩野尚信、狩野安信。時代の転換期(慶長から元和の転換期)にあって狩野派を支えた第一の功労者ということになろう。

【 この時期は政権が豊臣家から徳川家に移ろうとする過渡期に当たっていた。孝信あるいはその周辺の人物は、狩野派の本拠地で朝廷のある京都は孝信自身があたり、大阪の豊臣氏には豊臣と縁故の深い門人の狩野山楽や狩野内膳を配置、更に宗家の貞信と自身の長男探幽を江戸幕府へ売り込むという三方面作戦をとり、権力がどこに移っても狩野派が生き残れるよう万全を期した。】(「ウィキペディア」)

 下記のアドレスの「綴(TSUZURI)文化財未来継承プロジェクト(Canon Gloval)」で、この作品の細部を見ることが出来る。

https://global.canon/ja/tsuzuri/works/55.html

孝信・左隻.jpg

F-1図(上)「狩野孝信?光信?筆(伝):南蛮屏風(左隻)」(大阪城天守閣美術館蔵)

孝信・右隻.jpg

F-2図(下)「狩野孝信?光信?筆(伝):南蛮屏風(右隻)」(大阪城天守閣美術館蔵)
重要文化財
https://www.osakacastle.net/wordpress/wp-content/uploads/2019/05/70c578779e153e82a6311eef5d4d3c55.pdf

【 日本では、外国との交流が活発化した 16 世紀から 17 世紀にかけ、高まる西洋への関心を背景に「南蛮屏風」とよばれる絵画作品が、主に狩野派の絵師たちによって各種製作された。これらのほとんどは、交易のためアジア各国にやってきたヨーロッパ人、主にポルトガル人の上陸をテーマにしている。本作品はいくつかの系統のうちの一つを代表するもので、狩野孝信が描いたとする説が有力である。
右側の屏風すなわち右隻は日本の港を想定したもので、カピタンとよばれた船長一行が
様々な品物を携えて上陸し、イエズス会宣教師の出迎えを受けている。また民家から日本人
の親子が珍しげにそれを眺めている様子も描かれている。左隻も同じく南蛮人の上陸を描
いているが、こちらは人々の身なりなどから、中国の港を想定したものと考えられる。】
(「大阪城天守閣美術館」)

【 右隻に日本の港町を、左隻には中国の港町を配し、それぞれに入港した黒い南蛮船を描く。南蛮屏風というジャンルは中世の唐船図を参照して成立したと指摘されているが、日中の情景を表す本図の構成は、九州国立博物館本(註・上記の「E-1・E-2図」)とともに、この主題の成立と展開を考えるうえで大きな意義をもつ。本図には、交易品の運搬や商店の店先などで貿易に関する情景に加えて、黒と灰色の衣服をまとう聖職者やロザリオをもつ日本人、屋根に十字架をかかげる南蛮寺など、キリスト教の要素も見出せる。作者は不明だが、端正な人物表現やしなやかな樹木と金雲の描写は、狩野光信(1565?-1608)の様式に近い。本図は、狩野派の名手による南蛮屏風の最も古い現存作品のひとつとして重要である。なお左隻第五扇の二人の西洋人の衣装にはグラデーションをつけた表現があり珍しい。これは狩野派の絵師が、セミナリヨの画家が学んだ陰影法を試みた名残なのかもしれない。(鷲頭桂「作品解説62」)  】(『大航海時代の日本美術(九州国立博物館2017)』)

 この「F-1・F-2図」に関して、「大阪城天守閣美術館」の作品解説では「狩野孝信」(有力説?)、そして、「九州国立博物館」のそれは「狩野光信」(「作者不明」+「狩野光信」説?)と、その見方は異なっているようでもあるが、前者の「狩野派の絵師たちによって各種製作され、(中略)本作品はいくつかの系統のうちの一つを代表するもの=孝信説?」、そして、後者の「キリスト教の要素も見出せる、(中略)端正な人物表現やしなやかな樹木と金雲の描写は、狩野光信様式、(中略)左隻第五扇の二人の西洋人の衣装にはグラデーションをつけた表現、(中略)これは狩野派の絵師が、セミナリヨの画家が学んだ陰影法を試みた名残=光信?→内膳・道味(セミナリヨ?)?」の指摘は、一つの「南蛮屏風」の新たなる鑑賞視点を指標しているようにも思われる。

宮内庁・左隻.jpg

G-1図(上)「狩野派(筆者不明=内膳工房):南蛮屏風(左隻)」→「南蛮人渡来図屏風(左隻)」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)

宮内庁・右隻(部分).jpg
G-2図(下-1)「狩野派(筆者不明=内膳工房?):南蛮屏風(右隻第四・五・六扇)」→「南蛮人渡来図屏風(右隻第四・五・六扇)」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)

宮内庁・右隻(一・二).jpg
G-3図(下-2)「狩野派(筆者不明=内膳工房?):南蛮屏風(右隻第一・二扇)」→「南蛮人渡来図屏風(右隻第一・二扇)」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)

(『大航海時代の日本美術(九州国立博物館2017)』所収「106南蛮人渡来図屏風」 )

【 右隻には鮮やかな朱色の門に向かって行列する商人たちと、敷地内の南蛮寺(教会堂)で長衣をまとった男性たちが礼拝する様子が見える。左隻には、投錨した南蛮船から大小さまざまなかたちの陶磁器や漆器をおろす人々が描かれる。人物は比較的大ぶりで、とくに南蛮人の容貌が、狩野派による韃靼人や仙人、中国古代の説話の人物の姿形が類似する点が注目される。従来、異界の人間を表わすために用いられた表現が、新しく登場した南蛮人を描くのに転用されたと推測される。また左隻の船上では、中国から輸入されたと思しき生絲を秤にかけて商談する南蛮人と日本人とがおり、数ある南蛮風景のなかでも珍しいモチーフとなっている。(鷲頭桂「作品解説106」) 】(『大航海時代の日本美術(九州国立博物館2017)』)

 上記の、この「南蛮屏風」(「南蛮人渡来図屏風」)の「作品解説106(鷲頭桂稿)」には、
「徳川家康が寄進したいわれをもつ南蛮屏風」との見出しがついている。この「南蛮屏風」について、『近世風俗図譜13 南蛮(小学館)』P26-p35)の細部の解説について特記事項(※)を付しながら抜書きをしていくと、次のとおりとなる。

【 (全体=右隻+左隻→P26)

「もと徳川家康の開基になる静岡県浄土宗来迎院に伝えられ、明治になって御物になる。」

※来迎院=知恩院末(寺)。慶長一四年(一六〇九)徳川家康を開基、廓山(かくざん)を開
山として創建。廓山はたびたび駿府城へ行き信任厚い家康に仏教や世間のことなどを伝えた。

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%9D%A5%E8%BF%8E%E9%99%A2

「南蛮屏風のなかではもっとも図柄を大きめに描いて、人物群の動きを重んじて構図に厚みをつくる。人物は頭が小さめで、柔らかく粘りのあるデッサンによって描かれた南蛮人は、時に戯画的でグロテスクな身振りと表情を示し、高根沢氏の説の通りに、心理的な屈折を感じさせるところも魅力となっている。

(左隻=G-1図(上)→P30)

「南蛮船の甲板上に秤台が置かれ、生絲を皿秤に載せて早くも取引きが始められた。ポルトガル人がもたらす商貨の大半は生絲と絹織物であったが、金もそれに次いで重要な輸入品であった。彼らはこれを日本銀に替え、マカオに持ち帰って、二重の巨利を博した。」

(右隻=G-2図(下-1)→P32)

「カピタン・モールの地位は、国家功労者に対する恩賞として賦与されたから、たった一度の日本渡航によって五万クルザートを得るという人物さえ現れた。これは天正黄金に換算して約一一六〇枚分、この地位に、余生の安逸を願う人々の羨望が集中した所以である。」

(右隻=G-3図(下-2)→P32)

「万人に祝福を垂れる救世主イエズス・キリストの画像。その周りに集うやや戯画的な風貌の宣教師。祭壇には仏教的色彩の強い香炉や水差しが置いてあるが、聖体の礼拝に用いられる顕示台は正しく描いてある。ただこれには右三つ巴紋を加えているのは珍妙だ。

※礼拝堂の祭壇に飾られている「救世主イエズス・キリスト」の画像は、下記のアドレスの《「内膳屏風(左隻)」の「南蛮寺(デウス教会)の祭壇の天主画像(十字架と球体を持ったキリスト像)」と「内膳屏風(右隻)」の「南蛮寺(被昇天聖母の教会)の祭壇の天主画像(水色のベールを被っているキリスト像)」》に比して、これまた、「やや戯画的な風貌」で描かれているのは、この南蛮屏風の作者、そして、その制作時期・注文主などに関連して、大事な鑑賞視点となってくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-07

※さらに、その祭壇の「救世主イエズス・キリストの像」を取り巻いている「宣教師(司祭・修道士など)」の風貌(風采=身なり・容貌=顔かたち)の多様な表現もまた、これまた、この「南蛮屏風の作者、そして、その制作時期・注文主など」に関連して、やはり、大事な鑑賞視点となってくるであろう。その一例を挙げれば、この「黒い衣服」をまとった司祭などは「イエズス会」、そして、「鼠色の衣服」をまとった司祭などは「フランシスコ会」、そして、さらに、「ドミニコ会」とかと、そんな鑑賞視点の拡がりが湧いてくる。

※それよりも、この「聖体の礼拝に用いられる顕示台は正しく描いてある。ただこれには右三つ巴紋を加えているのは珍妙だ」の、この「顕示台に加えられている三つ巴紋」は何を意味するのかは不明だが、この「三つ巴紋」周辺は、下記のアドレスなどでしばしば触れてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-08

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-30

《 (再掲)

結城巴.jpg

「結城巴(「松平忠直」家紋)
https://kisetsumimiyori.com/hideyasu/

 このアドレスの「結城秀康の家紋と生涯―徳川家康の息子は父と不仲だった!?―」は、下記の項目にわたり「結城秀康・松平忠直」そして「戦国大名の家紋」を知る上で参考となる。

1 「秀康」の文字は秀吉と家康からもらった名前
1.1 秀吉に人質として送られた秀康
1.2 秀吉に実子が生まれて急変する立場
2 関ケ原では父・家康側に就く秀康
2.1 父・家康には嫌われていた?
3 結城秀康の家紋は「右三つ巴」
4 戦国武将117名の家紋一覧をまとめてチェックしよう

 「越前(北庄・福井)松平家」の「結城秀康(初代)・松平忠直(二代)」の家紋は、この「右三つ巴」が「定紋」(正式の紋。表紋)で、「松平忠直(二代)」は、この他に、徳川家の一族のみが使用できる「丸に三つ葉葵」を使用していた可能性についても、下記のアドレスで紹介されている(「松平忠昌(三代)以降は「「丸に三つ葉葵」、この「右三つ巴」は、結城秀康の五男、忠直の弟の「松平直基」が継承することになる)。

https://kisetsumimiyori.com/tadanao/        》

 もとより、この「南蛮屏風」の、この「顕示台」の、この「三つ巴紋」が、「徳川家康→結城秀康(家康二男)→松平忠直(秀康嫡男)」に直接関わりがあるというのは、やや飛躍し過ぎのきらいもあるが、これが、徳川家康の所持品の一つであったということは特記して置く必要があろう。
 と同時に、この作品が、「豊国祭礼図」や「南蛮屏風」の筆者の「狩野内膳」(元亀元年(1570)- 元和2年(1616))、そして、その工房(「内膳工房」)に関係するという見方も、これまた独断的なきらいはあるが、そういうことを踏まえて、この「三つ巴紋」などに接すると、その「内膳工房」に、後に、福井藩主・松平忠直に招聘されて福井藩に移住することになる「岩佐又兵衛」 (天正6年(1578)- 慶安3年(1650))が、その工房の一員という仮説のもとに、下記のアドレスなどで、縷々見てきたことと、オーバーラップしてくるのは、これまた、どうにも避け難い。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-19

《 (再掲)

荒木村重略年譜    https://www.touken-world.jp/tips/65407/
※高山右近略年譜   https://www.touken-world.jp/tips/65545/
※※黒田如水略年譜  https://www.touken-world.jp/tips/63241/
※※※結城秀康略年譜 https://www.touken-world.jp/tips/65778/
〇松平忠直略年譜   
https://meitou.info/index.php/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%B4
〇〇岩佐又兵衛略年譜
https://plaza.rakuten.co.jp/rvt55/diary/200906150000/
△千利休略年譜
https://www.youce.co.jp/personal/Japan/arts/rikyu-sen.html     》

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-31              】

南蛮屏風・左隻・神奈川.jpg

H-1図(上)「筆者不明=狩野派?」:南蛮屏風(左隻)」(神奈川県立歴史博物館蔵)
https://ch.kanagawa-museum.jp/exhibition/3692

南蛮屏風・右隻・神奈川.jpg

H-2図(下)「筆者不明=狩野派?」:南蛮屏風(右隻)」(神奈川県立歴史博物館蔵)
『VA ORIENTARIS 「ポルトガルと南蛮文化展」図録』(編集:セゾン美術館・静岡県立美術館、発行:日本放送協会・NHKプロモーション))

【 滋賀の大津、東本願寺別院に伝わったという伝承(寺伝によれば徳川家康より東本願寺第十二代教如上人が拝領)を持つ本図は、MOA美術館、不リア美術館(ワシントン)、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館(ロンドン)蔵本と同系の作品である。すなわち南蛮船の日本入津図と南蛮寺(教会)へ向かうカピタンの行列図を六曲一双に描いたものであるが、同系の他の屏風と違い、本図は右隻、左隻が丁度逆になる構図となっている。また同系の作品には外国人のポンバーシャ(足首で括る広いズボン)が大きく膨らみ、彼らの顔では大きな目や鼻が誇張されるなど独特の特色がある。また同系の屏風には荷揚げの場所に立ち会っている神父のが描かれ、そのことは日本とポルトガルの南蛮貿易に深く関わっていたイェズス会を想起させて、興味深い。
 南蛮屏風は同工異曲といわれるコピーも多いが、各屏風でそれぞれ違った箇所も工夫され、本図では南蛮寺(教会)の中で西洋人と日本人が囲碁、南蛮船では双六に興じている姿が描かれるなど、当時の交流の模様のほほえましい一コマが描かれている。また教会には祭壇画として聖画が描かれており、光輪があるその像の前で手を合わせる僧の姿も見える。同系の作品の中では後期に属すると考えられる。 】(『VA ORIENTARIS 「ポルトガルと南蛮文化展」図録』所収「作品解説158(Y.O)」)

 この「南蛮屏風」も、伝承ではあるが、徳川家康が所持していて、それを、東本願寺第十二代教如(東本願寺創立の上人、千利休七哲・古田織部に門下の茶人)が拝領したものということは、後に、豊臣秀吉の「禁教令」(1587・天正15 秀吉、伴天連追放令発布)以上の、徳川家康の「禁教令」(1614・慶長19 家康、全国に禁教令)を徹底した、晩年の、徳川家康の、その徹底した「禁教令」(キリシタン弾圧)前の、「慶長期(1596・慶長1~1614・慶長19)から元和期(1615・元和1~)」までの、その十年間に燦然と輝いた、謂わば、華麗な「徒花(あだはな=咲いても実を結ばずに散る花)」のような存在だったという思いを深くする。
 ここで、下記に、《「キリシタン略年表(抜粋)・周辺年譜(※)」と「狩野内膳・岩佐又兵衛(周辺=※※)」》を掲載して置きたい。
 また、この「南蛮屏風の変遷」(「豊臣秀吉の禁教令~徳川家康の禁教令」下の「南蛮屏風の変遷」)については、下記のアドレスの論稿などが参考となる。

https://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2020/10/350-352-NARUSAWA.pdf

「南蛮屏風の変遷:成澤勝嗣稿」


(別記)「キリシタン略年表(抜粋)・周辺年譜(※)」と「狩野内膳・岩佐又兵衛(周辺=※※)」=未定稿
http://www.kyoto.catholic.jp/christan/data/nenpyob.html

(~織田信長時代)

1549・天文18 フランシスコ・ザビエルら鹿児島に到着。
1559・永禄2  ヴィレラ京都に定住し、宣教を開始。
1563・永禄6 宣教師ルイス・フロイス来日。
1565・永禄8 フロイス入洛、天皇より宣教師追放令が出され、フロイスら堺に避難。
1569・永禄12 フロイス、信長から保護状を得る。
1576・天正4 京都で被昇天の聖母教会(南蛮寺)の献堂式。
1579・天正7 巡察師ヴァリニァーノ来日。
1580・天正8 有馬・安土にセミナリオ創立。
1582・天正10 天正少年遣欧使節、出発。本能寺の変、織田信長没。
※天正11年(1583)にはイタリア人宣教師で画家であったジョバンニ・ニコラオ(1560-1626)が来日し、天正18年(1590)頃から長崎のセミナリオで西洋絵画の技法を教えた。日本人が描いたと考えられるマリア像やキリスト像などの聖画は、このような施設で制作されたものと考えられる。当時絵画は布教のための重要な手段であった。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-22

(豊臣秀吉時代)

1587・天正15 秀吉、伴天連追放令発布。高山右近明石藩改易(追放)。
1588・天正16 京都・大坂の南蛮寺破却。
1590・天正18 天正の少年遣欧使節帰国。豊臣秀吉天下統一。
1591・天正19 ヴァリニァーノ、少年遣欧使節とともに秀吉に謁見。
1593・文禄2 ペドロ・バウティスタ、名護屋で秀吉に謁見。
※文禄元年(1592) 狩野内膳、狩野光信らと共に肥後国名護屋城の障壁画制作に参加、
翌年にはそのまま長崎に赴いている。この時の視覚体験が、「南蛮屏風」の細やかな風俗描
写に生かされているか?(この時に、狩野道味も参加か? 道味は長崎のセミナリオ
で西洋絵画の技法を学んだか?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E5%86%85%E8%86%B3
1594・文禄3 フランシスコ会士、京都四条堀川旧妙満寺跡地に南蛮寺(教会)、また翌年に
は聖アンナ病院、聖ヨゼフ病院を建設。
1596・慶長1 サン・フェリッペ号事件。秀吉、フランシスコ会宣教師ら捕縛。
1597・慶長2 長崎西坂で26名が殉教(日本26聖人)
1598・慶長3 豊臣秀吉没

(徳川家康時代~)

1600・慶長5 油小路通元誓願寺の地にイエズス会上京教会建立、関ヶ原の戦い。
1601・慶長6 邦人初の司祭、セバスチャン木村とルイス・ニアバラ叙階。
※※1602・慶長7 教如、東本願寺を別立。南蛮屏風(神奈川博物館本)家康→教如?
1603・慶長8 徳川家康征夷大将軍。
※※1604・慶長9 秀吉七回忌。狩野内膳→豊国祭礼図屏風? 岩佐又兵衛→豊国祭礼図屏
風?
1605・慶長10 徳川秀忠征夷大将軍。
※※1606・慶長11 狩野内膳→豊国祭礼図屏風を豊国社へ奉納((梵舜日記)。「内膳・南蛮
屏風」も、この頃の作か?
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-13
※※1608・慶長13 狩野光信没(享年44または48)。
※※1609・慶長14 南蛮屏風(宮内庁本)家康→駿府来迎院に寄進?
1612・慶長17 岡本大八事件、家康、キリシタン禁教令を天領に発布、各地の教会を破壊。
1613・慶長18 伊達政宗の遣欧使節、支倉常長ら出発。
1614・慶長19 全国に禁教令、宣教師および高山右近らマカオに追放。
※※慶長19年(1614)、狩野光信嫡男・貞信、名古屋城障壁画制作に参加。若年ながら狩野家嫡流という血統の高さゆえ、本丸御殿表書院上段之間という最も格式の高い部屋を担当したとする説が有力。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E8%B2%9E%E4%BF%A1
1615・元和1 大阪夏の陣、豊臣氏滅亡。※岩佐又兵衛→洛中洛外図屏風?
1616・元和2 秀忠、禁教を強化、徳川家康没。※※狩野内膳没。
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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その十一) [狩野内膳]

(その十一)「内膳南蛮屏風(神戸市立博物館蔵)」と「内膳・道三南蛮屏風(リスボン古美術館蔵)そして「山楽南蛮屏風(サントリー美術館蔵)」周辺

南蛮屏風(神戸・リスボン).jpg

A図(上)「狩野内膳筆(落款) :南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365028
B図(中) 「狩野内膳筆(落款):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)
C図(下) 「狩野道味筆(伝):南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)
http://museudearteantiga.pt/collections/art-of-the-portuguese-discoveries/namban-folding-screensA

 A図(上)「狩野内膳筆(落款) :南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵)は、これまで(その一~その十)見てきた「南蛮屏風」(六曲一双)である。
 そして、その下の、B図(中)とC図(下)とは、リスボン古美術館所蔵の「南蛮屏風」(何れも「六曲一双)である。このB図(中)には、「狩野内膳」の落款入りのもので、内膳筆(作)とされている(この内膳筆には異説があり、『狩野内膳考(成澤勝嗣稿)』では、「内膳筆」ではなく「内膳工房作」としている)。
 また、このC図(下)は、無落款の作品であるが、リスボン古美術館刊行の『南蛮屏風―リスボン古美術館作品へのいざない― BIMBOS NAMBAN(リスボン古美術館編) 』では、「狩野道三筆(伝)」としている。
 このA図(上)とB図(中)とは、左隻に「異国からの出航の景」、そして、右隻には「日本への来航の景」の、いわゆる、「南蛮屏風第二類型」(「出航+来航」)のもので、そして、このC図(下)は、左隻に「日本への来航の景」、右隻に「来航時の出迎えの景」の、「南蛮屏風第二類型(来航+出迎え)」の絵図ということになる。
 その他に、左隻に「異国(出航)の景」、右隻に「日本(来航)の景」の「南蛮屏風第三類型(異国+日本)」のものがある。

山楽・左隻.jpg 
山楽・右隻.jpg

D-1図(上)「狩野山楽筆(伝):南蛮屏風(左隻)」(サントリー美術館蔵)
D-2図(下)「狩野山楽筆(伝):南蛮屏風(右隻)」(サントリー美術館蔵)
https://www.suntory.co.jp/sma/collection/gallery/detail?id=524

【 大阪府下守口に伝世。昭和十一年(一九三六)高見沢氏によって狩野山楽系とされ、同二十五年土居次義氏により山楽作とされた。第三型に属する。左隻には欄干のある色タイルの露台に南蛮人の紳士たちが向かい合って座し、左の竜宮門風の脇にカピタンが座る。門の下異装の婦人たちや孔雀。楼上からものぞく。右に二人の中国宮廷人、さらに右には三人のフラシスコ会修道士、橋のところにイエズス会員、前景には調馬の情景。中国服の人物の存在から土居氏はマカオを想定されたが、中国的要素と南蛮的要素の判別は無意味に近いのではないかと考えられる。右隻の構成要素は第一型とほぼ同じであるが、構図はほとんど別もので、第一型からの展開と考えない根拠の一つとなっている。豚足のハムなども荷揚げする。とくに岩組には山楽の特徴がみられる。 】(『近世風俗図譜13 南蛮(小学館)』P96)

 ここで、これらの作者とされている「狩野内膳・狩野山楽・狩野道味」などについて、次の「狩野派(画系図)」(「ウィキペディア」)などにより見て行きたい。

「狩野派・略系図(正信から探幽まで)」(「ウィキペディア」)

狩野派系図(全).jpg

(上記図のメモ)

狩野正信(1434-1530)→狩野派初代、室町幕府の御用絵師、長男は元信。
同元信(1477?-1559)→狩野派二代、「古法眼」と称せられ、狩野派画風の大成者。
同祐雪(?-1545)→狩野派三代、元信の長男・祐雪宗信(早世で四代は元信三男の「松栄」)。
同松栄(1519-1592)→狩野派四代、元信の三男、門人に「内膳」「宗心」など。
↓→※狩野内膳(1570-1616)→「松栄」門人、「内膳・一翁」は号、名は重郷。
同永徳(1543-1590)→狩野派五代→「狩野派」を不動にした「探幽」と並ぶ二大絵師。
↓→※※狩野山楽(1559-1635)→「永徳」養子、「京狩野派」の初代、「豊臣家絵師」の雄。
同光信(1565-1608)→狩野派六代→『永徳様式』から次の『探幽様式』へ橋渡し役に徹する。
↓→※※※狩野道味(?-?)→「天正年間(1573-92)に千利休に茶事を学び,京都で茶器を焼いたキリシタン絵師の一人か?」

同貞信(1597-1623)→狩野派七代(二十七歳で夭逝、八代は「孝信三男の「安信」)。
同孝信(1571-1618)→光信の弟、息子=「探幽・尚信・安信=狩野派宗家八代」

同探幽(1602-1674)→鍛冶橋狩野家初代=江戸狩野派奥絵師、「江戸狩野派」の総帥。
同尚信(1607-1650)→木挽町狩野家初代=江戸狩野派奥絵師。
↓→狩野岑信(1662- 1709)→浜町狩野家初代=江戸狩野派奥絵師。
同安信(1613-1685)→中橋狩野家初代(狩野派宗家八代)=江戸狩野派奥絵師。

「狩野派・略系図」(日本大百科全書(ニッポニカ)・榊原悟稿)

狩野派略系図.jpg

 この二つの「狩野派・略系図」から浮き彫りになって来ることは、豊臣家から徳川家へ移行する慶長年間期には、「狩野派」は次の三つの流派に分かれて行く分岐点となっている。

狩野派宗家(初代・正信~六代・光信)→「御所・(豊臣家・徳川家)」の三方位の御用絵師
 ↓→(七代・貞信、八代・安信=中橋狩野家初代)→「徳川家御用絵師」=奥絵師」    
 ↓→※狩野内膳)→「松栄」門人→根岸御行之松狩野家=表絵師
 ↓→※※※狩野道味→「天正年間(1573-92)に千利休に茶事を学び,京都で茶器を焼いたキリシタン絵  
           師の一人か?」
江戸狩野派(探幽=鍛冶橋狩野家初代・探幽)→「徳川家」→「徳川家御用絵師」=奥絵師」
 ↓→(尚信=木挽町狩野家初代→「本家・孝信後継→「徳川家御用絵師」=奥絵師)
京狩野派(初代・山楽→「豊臣家」御用絵師、豊臣家滅亡後隠棲、後に「京狩野派」を形成)

 これらの狩野派の三つの流派に分岐される流れの中で、「狩野内膳」(1570-1616)は、「松栄・永徳」亡き後、その後継者の「光信」(1565-1608)の下で、独自の「内膳工房」などを形成し、「光信・貞信」の「狩野派宗家」を支援するような位置にある。
 また、「狩野山楽」((1559-1635))は、浅井長政(「淀・初・江」の父)の家臣・木村家の一族で、浅井家滅亡後、豊臣秀吉の小姓となり、その推挙で「永徳」門に入り、後に、永徳の養子となっている。秀吉没後は、「秀頼・淀」に仕えるべく、その工房を大阪に移しており、名実共に、豊臣家の御用絵師の筆頭格である。その豊臣家滅亡後は、一画工として恩赦を受け、狩野本家が江戸へ去った後も、京都にとどまり、「京狩野派」として幕末まで、その系統は引き継がれて行く。
 内膳も、豊臣家の御用絵師の一人であるが、それは、永徳の嫡子・光信一門の絵師という立場で、永徳の右腕としてその代役をこなしていた山楽とは、その立つ位置も画風も異なにしている。
 そして、もう一人の「狩野道味」(?-?)は、山楽や内膳に比して、狩野派に於いても全く無名に近い謎の絵師ということになる。この「狩野道味」も、『日本フランシスコ会史年
表』などに出てくる「狩野源助平渡路(ペドロ)」と同一人物かということで、そのベールが脱がされつつある(「キリシタン時代の絵師~狩野派とキリシタン~(神山道子稿)」『全国かくれキリシタン研究会第30回記念京都大会研究資料集』所収)。

狩野派系図.jpg

「日光東照宮陽明門唐油蒔絵の制作についての考察」(中右恵理子稿)

http://archives.tuad.ac.jp/wp-content/uploads/2020/08/tuad-iccp-R1bulletin-2.pdf

【 息子の狩野彌右衛門興益もキリシタンであり、父とともに三年間小日向の山屋敷に収容されていたという。さらにその後、神山道子氏によりキリシタンであった狩野興甫を取り巻く狩野派絵師についての研究成果が報告された(註11)。
神山氏によれば狩野興甫がキリシタンとして捕らえられた件は『南紀徳川史』、『徳川実記』に記載が見られるとのことである。興甫は父興以の兄弟弟子の一人である狩野道味(生没年不詳)の娘を娶っており、道味は義理の父にあたる。リスボンの国立古美術館には道味の作とされる南蛮屏風が所蔵されている。その道味に関して『日本フランシスコ会史年表』に狩野道味ペドロがフランシスコ会の財務担当者であったとの記載があり、やはりキリシタンであったことが報告されている。
また、もう一人の興以の兄弟弟子である渡辺了慶(?-1645)についても、了慶の息子の了之は興以の娘を娶りやはり姻戚関係であった。その了慶は晩年の寛永期に平戸藩の松浦家に抱えられた。平戸藩は南蛮貿易を積極的に行い、オランダ、イギリス商館を開設するなど西洋文化との関わりが深い。また了之以降は狩野姓を名乗り、孫の了海は出府して中橋
狩野家の安信の門人となった。5代目はやはり出府して永叔の門人となった(註12) 。
このように平戸藩のお抱え絵師となった了慶の家系と江戸の中橋狩野家には関わりがあった。そして陽明門の「唐油蒔絵」の下絵を描いたとされる狩野祐清英信(1717-1763)は狩野宗家である中橋狩野家の11代目である。
(註11) 神山道子 「キリシタン時代の絵師~狩野派とキリシタン~」『全国かくれキリシタン研究会 第30回記念 京都大会 研究資料集』 全国かくれキリシタン研究会京都大会実行委員会 2019年 pp.25-5
(註12)  武田恒夫 『狩野派絵画史』 吉川弘文館 1995年 pp.268-269   】

 この「狩野道味」が「狩野源助平渡路(ペドロ)」と同一人物ということになると、次のとおりとなる。

【狩野源助ペドロ  生年:生没年不詳
江戸前期のキリシタン、京都のフランシスコ会の財産管理人、狩野派絵師。イエズス会を讒言する書翰をマニラの3修道会の管区長に送付した中心人物で、のち司教セルケイラのもとでその讒言を撤回。慶長8年12月25日(1604年1月26日)付京坂キリシタンによる26殉教者(日本二十六聖人)列聖請願者の筆頭に「狩野源助平渡路」と署名。また教皇パウロ5世宛同18年8月15日(1613年9月29日)付京坂・堺の信徒書状には「へいとろかの」と署名する。元和6年12月10日(1621年1月2日)付の京坂信徒代表による教皇奉答文にみえる堺の「木屋道味平登路」は同一人物とみなされている。<参考文献>H.チースリク「ペトロ狩野事件の資料」(『キリシタン研究』14号) 】(「出典 朝日日本歴史人物事典(五野井隆史稿)」)

 そして、さらに、この「木屋道味平登路」は、織豊時代の陶工の一人の、次の「道味」と同一人物のように思われてくる。

【道味(どうみ) ?-? 織豊時代の陶工。
天正(てんしょう)年間(1573-92)に千利休に茶事をまなび、京都で茶器をやいた。 】
(出典「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

 そして、この「道味」は、「堺千家」の「千道安」の門人のように解したいのである。

【千道安 没年:慶長12.2.17(1607.3.14) 生年:天文15(1546)
安土桃山・江戸初期の茶湯者。千利休の嫡子。堺生まれ。母は阿波三好氏か。初名は紹安。眠翁、可休斎と号した。才能に恵まれたが,家を継がず数寄者としての生涯を送った。利休賜死ののち、飛騨高山(金森氏)、豊前小倉(細川氏)、阿波徳島(蜂須賀氏)と流寓先が伝えられ、義弟少庵に比して厳しい状況があったと考えられる。文禄年間(1592~96)に帰京し、豊臣秀吉の茶頭に復帰、堺に住んで茶湯者として活動、古田織部の最初の師であり、門下の桑山左近の弟子に片桐石州がいる。慶長6(1601)年、細川忠興から豊前に知行地を与えられたとされる。道安囲と称される小座敷の工夫が知られ、道安風炉などその好みを伝える道具も多い。<参考文献>『堺市史』 】(「出典 朝日日本歴史人物事典(戸田勝久稿)」)

フラシスコザビエル像.jpg

重要文化財 聖フランシスコ・ザビエル像 神戸市立博物館蔵(池長孟コレクション)
「S.P.FRÃCISCUS XAVERIUS SOCIETATISV」 墨筆にて「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」 朱文長方関防印「IHS」 朱文壺印(印文未詳) 
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365020

【 イエズス会の創立会員であり、アジアでの宣教活動、とりわけ日本に初めてキリスト教を伝えたことで知られる聖フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)を描いた礼拝画。ザビエルはローマ教皇の特使として1542年にインドのゴアに到着、南アジア各地で宣教活動を展開した後、天文18年(1549)に鹿児島に到達しました。日本での宣教活動のあと、いったんインドのゴアに戻り、中国での宣教を目指して広東沖の上川島に至りますが、病を得て1552年の12月に亡くなりました。
 ザビエルによるアジアでの宣教活動がヨーロッパで広く知れ渡るようになるのは、16世紀末のオラツィオ・トルセリーノによる『ザビエル伝』ラテン語版刊行と、その欧州多言語翻訳によるもので、これらに掲載された銅版画の肖像画が、最初期のザビエル像の典型として流布しました。当館の「聖フランシスコ・ザビエル像」もその系列に連なるものです。
 トルセリーノ『ザビエル伝』は、インドのゴアで目撃されたあるエピソードを紹介しています。ザビエルは早朝に教会の庭で祈っている際に、瞑想の中で神の愛に触れて意識を完全に失いました。その後、彼が我に返ると、熱く腫れ上がった胸から上着を開いて、何度も次の言葉を、かなり強い口調で繰り返したとのことです。「充分です、主よ、充分です(Satis est Domine, Satis est.)」と。
 祈りの際に神の愛に触れて叫んだ「充分です、主よ、充分です」という言葉は、『ザビエル伝』の流布によって、ザビエルを象徴するフレーズとして定着しました。当館のザビエル像でも「充分です、主よ、充分です(SATIS EST DÑE SATIS EST (DÑEはDomineの略語)の言葉が見られます。
 当館のザビエル像では、「燃える心臓」と「十字架」という、『ザビエル伝』所載の肖像画には見られないモチーフが見られます。前者については、『ザビエル伝』が伝える、祈りの後に彼の胸が腫れ上がったという話、後者についてはイエズス会などカトリック信徒が重視した、祈りにおける十字架の観想を視覚化したものと考えられます。本像を描いた日本人絵師とその周辺にいた西洋人宣教師が独自に追加した表象だった可能性もあります。
 下部には「聖フランシスコ・ザビエル イエズス会会員」のラテン文を記し、その下の黄色地には「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人」という万葉仮名に「IHS」の朱印と壺印が捺されています。万葉仮名文の意味は「聖フランシスコ・ザビエルのサクラメント(秘跡)」。「漁父環人」についてはローマ教皇とする説もあります。
 フランシスコ・ザビエルは1622年に、教皇グレゴリウス15世によって聖人に列せられます。このときの『列聖大勅書』によって、既述の「充分です、主よ、充分です」をめぐる逸話は権威づけられ、1620年代の禁教下の日本においても、ザビエル像制作の機運が高まりました。本像もこのような中で密かに描かれ伝えられてきたものでしょう。
 本像は、高山右近の旧領、千提寺(せんだいじ・現茨木市)の東家に「マリア十五玄義図」などととも密かに伝来し、大正9年(1920)に発見されました。禁教で破却された数多くの聖画のうち、現代まで伝世した数少ない江戸初期の洋風画としてきわめて貴重です。】(「神戸市立博物館」解説)

 上記の解説文の、《「瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都(さふらぬしすこさべろりうさからめんと) 漁父環人(ぎょふかんじん)」という万葉仮名に「「IHS」の朱印と壺印が捺されています。万葉仮名文の意味は「聖フランシスコ・ザビエルのサクラメント(秘跡)」。「漁父環人」についてはローマ教皇とする説もあります。》との、「漁夫環人」については、下記のアドレスで、次のように補足されている。

https://www.facebook.com/1553282581562002/posts/2878903612333219/

【 瑳聞落怒青周呼山別論廖瑳可羅綿都 漁父環人
  (さふらぬしすこさべろりうさからめんと ぎょふかんじん)
「瑳聞落怒青周呼山別論廖」については「聖フランシスコ・ザビエル」と推測されます。これに続く「さからめんと」は「サクラメント」を指すと思われます。サクラメント(秘跡)とは、神の恵みを人間に与えるためのカトリック教会の儀式全般を指します。そして末尾にある「漁父環人」の文字。その上に壺形の印章が押されていることから、信徒の狩野派絵師の別名とする説がありましたが、最近では「漁父」すなわち漁師出身の聖ペトロの継承者であるローマ教皇とする説が有力視されています。
1622年、ローマ教皇グレゴリウス15世によってフランシスコ・ザビエルは聖人に列せられました。これを記念して様々な「サクラメント」を挙行する指示が教皇の勅書として出されています。実際、元和9年(1623)以降にザビエル列聖の知らせは禁教下の日本にも届き、密かにザビエル像が描かれ礼拝されていた様子を伝える史料もあります。当館のザビエル像に「さからめんと」「漁父環人」という言葉が記された歴史的背景として、ザビエル列聖があったと考えられます。 】

 上記の解説文(「神戸市立博物館」)の「異説」を承知の上で、やはり、この「漁夫環人」は、「漁師出身の聖ペトロ」の「ペトロ)」の洗礼名を有する狩野派の絵師「狩野源助ペトロ=狩野道味」、そして、千利休に茶事をまなび、京都で茶器をやいたとされる「木屋道味平登路(ペドロ)」その人と解して置きたい。

 これらの、「聖フランシスコ・ザビエル像」(神戸市立博物館蔵)周辺については、下記のアドレスなどが参考となる。

http://saburo-kimura.my.coocan.jp/pdf/1998_10_kimura_kobe_xavier.pdf

「神戸市立博物館所蔵《聖フランシスコ・ザビエル像》についての一考察(木村三郎稿)」

(追記)「聖フランシスコ・ザビエル像」(神戸市立博物館蔵)の「壺形の印章」と「漁夫環人」周辺

上記の解説中の「壺形の印章が押されていることから、信徒の狩野派絵師の別名とする説がありました」の、その「壺形の印章」周辺については、下記のアドレスなどが参考となる。

https://lab.inf.shizuoka.ac.jp/takamatsu/honchogain.htm

「高松良幸研究室 静岡大学情報学部 情報社会学科」→「本朝画印」

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591624/49

「古画備考」(国立国会図書館デジタルコレクション・古画備考 50巻. [38]など)

 そして、「「漁夫環人」の「漁夫=ペドロ」は動かさないものとして、この「環人」の「環」は、上記の「千道安」(堺千家の祖)周辺の、下記のアドレスの「堺環濠都市遺跡」の、その「堺=環濠自治都市」の「環」と解して置きたい。

https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/kangotoshi.html

【 (自治都市 堺の年表)

1392 元中 9 大内義弘、和泉国の守護になる
1399 応永 6 応永の乱により一万戸焼失
1432 永享 4 一休宗純、初めて堺に来る
1469 文明 1 遣明船が初めて堺に帰着
1476 文明 8 遣明船が初めて堺から出発
1484 文明16 会合衆が初めて文献に現れる
1494 明応 3 南荘全域?焼失
1508 永正 5 南荘千余戸焼失
1526 大永 6 二千七百戸焼失
1532 享禄 5 一向一揆が三好元長を堺に攻め、元長、顕本寺で自刃
1532 天文 1 北荘全域、南荘三分の一、四千戸焼失
1546 天文15 三好長慶が堺へ入るが、撤退
1550 天文19 宣教師ザビエル堺に来る
1553 天文22 全域の三分の二程焼失
1553 天文22 前回の残りを焼失
1561 永禄 4 宣教師ビレラ、堺に来る
1564 永禄 7 千戸焼失
1568 永禄11 織田信長が二万貫の失銭(軍用金)を要求する
1570 元亀 1 信長の直轄領になる
1575 天正 3 大火事
1586 天正14 小西隆佐・石田三成が堺の代官になる
豊臣秀吉が環濠の埋め戻しを命令する
1591 天正19 千利休、秀吉の命令で自刃
1596 文禄 5 伏見の大地震で被災
1615 慶長20 大坂夏の陣の余波で二万戸焼失
この後、幕府直轄地になる            】

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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その十) [狩野内膳]

(その十)「内膳南蛮屏風」の「聖家族(豊臣秀吉家と千利休家)」周辺

内膳屏風(豊臣家・千家).jpg

「内膳南蛮屏風(左隻・右隻)」の「聖家族(豊臣秀吉家と千利休家)」(模式図)
上→左隻→「上部左(デウス寺・教会=聖=浮世)」・上部右(デウス号=海=回路)・「下部左(豊臣秀吉他)+下部右(南蛮国出航)」=俗=憂世」
下→右隻→「上部左(サンタマリア号=海=回路)」・上部右(マリア寺・教会=聖=浮世)・「下部左(日本国入港)」+「下部右(千利休他)」=俗=憂世}

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-15

 上記のアドレスで、次の絵図(a-1図)について、次のとおり紹介した。

豊臣家聖家族.jpg

「狩野内膳筆『左隻』・豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・淀君そして高台院)」(第五・六扇拡大図)→ a-1図
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

【 「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)では、その「八 おわりに」で、次のように記している。
《 慶長三年八月十八日秀吉六十三歳で没するが、その直前に本屏風は出来ていたと筆者は推定する。それは、左隻聖家族の別視点からの” 見なし“から成り立っている。文禄・慶長の役と朝鮮出兵に失敗してからも、秀吉の夢は世界制覇にあったと伝えられている。だとすると、秀吉の夢……外国に宮殿を造り、そこに秀頼と赴く……を描いたものであれば、キリシタンの関係の事象がいくつか描いてあっても咎めがその絵師には及ぶはずはない。つまり聖家族の父子は、秀吉と秀頼、脇部屋の女性は淀君(秀頼母)と見なすのである。そう言えば、左隻の老父は、高台寺蔵などの秀吉絵像に似ていないであろうか。》「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載) 】

パラキンの秀吉・象に乗る秀頼.jpg

「狩野内膳筆『左隻』・豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・淀君そして高台院)」(第五・六扇拡大図)→ a-2図
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

 また、上記の絵図(a-2図)については、下記のアドレスで次とおり紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-20

【「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)では、その「五 聖家族」で、次のように記している(なお、「追記一」と「追記二」とを参照)。

《 南蛮寺内部に描かれた人物は三人。うち、襞襟(ひだえり)をつけた老年の男性は、ヨゼフというよりデウスその人であり、膝にいだかれた緑衣・白襟袖(えり)の少年はイエズスであり、部屋を隔て、カーテンの脇に片膝をつく女性は、当然聖母マリアとなる。
(中略)
 父と子の居る図番2(注・上記図の左端上部の「父と子」の居る空間)は、《天の国(パライゾ)》でもある。
(中略)
 左隻南蛮寺内部の三人の人物を聖家族という範疇で括りうる表象の一つは、三人が共通して纏う肩掛けである。色も青……聖なる色で統一されている。脇部屋にひざまずくマリア(図番③参照《注・上記図の右端上部の「女性」》)の肩掛けは更に金糸で彩られた小豆(あずき)色の上掛けで掩(おお)われている。
 マリアの姿態に今少し注目すると、左膝を立てて右膝を床(サラセン風の文様のタイルが貼られている)についている。片膝を立てる坐り方は、中世一般に日本女性が行っていたもので、洛中洛外図・職人絵・物語絵巻の中に幾つかの事例を見出すことができる。ただ左手まで床についている所から、単に坐っているのではなく、かしこまった様子がうかがわれる。マリアのかしこまり……《受胎告知》が浮かぶ。
 (中略)
 左隻南蛮寺を余り近くで見すぎたようである。少し足を離そう。すると、デウスとおぼしき男性が小手をかざし何を見つめているかがわかるかもしれない。その対象は、目の前を通り過ぎる貴人(一人は象に乗り、一人はパランキンに乗る)達の群れではない。これらは、南蛮寺が天の宮殿とするならば、いつか捨て去らねばならない世界《Contemptus Muundi》なのである。やはり、左隻半分を占める海と黒船(デウス)であろう。》  】

 そして、それに続けて、下記の絵図(a-3図)と共に、上記の「いつか捨て去らねばならない世界《Contemptus Muundi》=《ラテン語の「コンテムツス‐ムンジ」=「世を厭う」の意=憂き世)=俗の世界》」ということを紹介した。

狩野内膳・左隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・左隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
→ a-3図
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

【 上記の「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)の「五 聖家族」の長文の引用(原典などと対比して主要部部分を省略)の、その「デウスとおぼしき男性が小手をかざして見つめている男性(「デウス→ヨゼフ→秀吉)」)は、「左隻半分を占める海と黒船(デウス)であろう」と、この上図は、その上部が、「聖なる世界《天の国(パライゾ)》=「聖」の世界)」とすると、その下部は、「俗なる世界《地の国(Contemptus Muundi=ラテン語の「コンテムツス‐ムンジ」=「世を厭う」の意=憂き世)=俗の世界》で、その「俗なる世界」を見つめているのではなく、その遠方の「聖」の世界の「左隻半分を占める海と黒船(デウス)」を見つめているとし、それは「布教の行末をはるかに見守っている」ことに他ならないと鑑賞している。】

狩野内膳・右隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
→ b-1図
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

南蛮屏風右隻の革足袋の二人.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→ 「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)→ b-2図
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-07
「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

 続けて、この右隻の二図(b-1図・b-2図)は、左隻の三図(a-1図・a-2図・a-3図)と対応し、その「左隻の小手をかざしている男性」(a-1図・a-2図)と、右隻の「小手をかざしている女性」(b-2図)とは、相互に連動していて、それらの関係は、「天なる父子」(a-1図・a-2図・a-3図)と「地なる母子」(b-1図・b-2図)との「精神的な信仰の世界の共有を意味し」、と同時に、その「幾何学的空間は、海と空を包んで均整のとれたトライアングルを成し、精神的な静寂をもたらしてくれるようである」との、「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」の、下記の指摘を紹介した。

【 左隻のデウスが小手をかざし、右隻の日本女性も同じく小手をかざしている。これは、すでに述べたように(注・「左隻のデウス」は「海と黒船(デウス)」、「右隻の女性」は「同じ足袋を履いている少年」を指す)、それぞれの場面における何かを探していると一応受け取られるが、屏風を左右連続して並べ一つの大きな視野に入れる時、それはさらに、天なる父子と地なる母子の精神的な信仰の世界の共有を意味しているように思われる。その「幾何学的空間は、海と空を包んで均整のとれたトライアングルを成し、精神的な静寂をもたらしてくれるようである。  】(「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」所収「「五 聖家族」の長文の引用(原典などと対比して主要部部分を省略)」)

 ここで、この「左隻の小手をかざしている男性」(a-1図・a-2図)が、「秀吉の夢……外国に宮殿を造り、そこに秀頼と赴く……を描いたもの」という、その「豊臣秀吉」の見立てという鑑賞は、これは賛同することはあっても、真っ向から「否(ノン)」とする方は少ないであろう。
 それに比して、「右隻の小手をかざしている女性」(b-2図)を、「千利休?」の、その娘(「お亀」?または「お吟」?)、さらに、その妻(「おりき=宗恩」?または「お稲」?)とかと特定することは、どうにも飛躍ありとして、この見立ての見方については、逆に、「否(ノン)」とする方は多いようにも思われる。
 それらのことを前提として、これらの「左隻の小手をかざしている男性」(a-1図・a-2図)=「豊臣秀吉」と、その「右隻の小手をかざしている女性」(b-2図)の、「豊臣秀吉」に対応する、その「女性」(b-2図)の関係者(その前方に描かれている老人)」を、「千利休」と見立て、下記のアドレスでは、次のとおりの「豊臣家(聖家族)」と「千家(聖家族)」との人物群像が描かれているとした。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

【 この左隻の「聖家族」(豊臣秀吉・秀頼そして淀君=秀頼生母)に「高台院」(秀吉正室・秀頼正母=お寧・寧々・北政所)を加えると、先の右隻の「千家聖家族」(千利休・宗旦・お亀そして少庵)と見事に対応することとなる。

 豊臣秀吉(1537-1598)    ⇄ 千利休(1522-1591)
 豊臣秀頼(1593-1615)    ⇄ 千宗旦(1578-1658)
 淀君(秀頼生母(1569?-1615)⇄ お亀(宗旦生母、?―1606)
 高台院(秀吉正室・秀頼正母、?―1624)⇄千少庵(宗旦の父、お亀の夫、利休の後妻の連れ子、1546-1614)
(注・上記の「淀君」の背後に「高台院」が潜み、「千利休」の背後に「少庵」が潜んでいる。)     】

 これらの「豊臣・千両家」の六人の群像の中で、その生前に、その全てと、程度の差はあれ、それぞれとのネットワークがあって、陰に陽に交流があった人物は、「高台院(秀吉正室・秀頼正母、?―1624)」その人ということになろう。
 「高台院と千利休・千少庵」とは、そもそも、「千利休の賜死」関連の背景が、「秀吉・淀君・石田三成」(朝鮮出兵などの「外征」派)に対する「秀長(秀吉の弟)・高台院・千利休」(反朝鮮出兵などの「内政」派)との軋轢などが、その一端ともいわれるほどに、同じサークル圏と解しても差し支えなかろう。
 また、「高台院と千宗旦」とは、「親と子」というよりも「親と孫」との関係という年代差はありながら、晩年の「高台院」を支え続けた「キリシタン大名の一人でもあった『木下秀俊・長嘯子・(洗礼名=ペドロ)、1569-1649』」(「高台院」の甥=兄の嫡男)は、この若き「千宗旦」(1578-1658)の門人の一人となっている。
 ここで、「豊臣・千両家」の六人の群像の周辺を、「利休七哲」「キリシタン大名など」「豊臣秀吉と高台院の『養子・養女・猶子』など」「『高台院』周辺(侍女)のキリシタン関係者」などで列挙すると別記のとおりとなる。

(別記) 「豊臣秀吉・千利休(聖家族)」周辺の人物群像

豊臣秀吉(1537-1598)    ⇄ 千利休(1522-1591)
豊臣秀頼(1593-1615)    ⇄ 千宗旦(1578-1658)
淀君(秀頼生母(1569?-1615)⇄ お亀(宗旦生母、?―1606)
高台院(秀吉正室、?―1624)⇄千少庵(宗旦の父、お亀の夫、1546-1614)
↓↑
(利休七哲)
前田利長(肥前)1562-1614→ 父(利家)=利休門(キリシタン大名高山右近を庇護)
蒲生氏郷(飛騨)1556-1595→キリシタン大名(洗礼名=レオン・レオ・レアン)
細川忠興(越中/三斎)1563-1646→正室(玉=キリシタン=洗礼名・ガラシャ)
古田重然(織部)1544-1615→(キリシタン大名高山右近と親交=書状)
牧村利貞(兵部)1546-1593→キリシタン大名(フロイス書簡)
高山長房(右近/南坊)1552-1615→キリシタン大名(洗礼名=ジュスト・ユスト)
芝山宗綱(監物)?―?→(キリシタン大名高山右近と親交=同じ「荒木村重」門=離反)
(瀬田正忠・掃部)1548-1595(キリシタン大名高山右近と親交=右近の推挙で秀吉武将)
↓↑
(キリシタン大名など)
明石全登(ジョアン、ヨハネ、ジョパンニ・ジュスト)?―1618→ 宇喜多家の客将
織田秀信(ペトロ)1580-1605→ 織田信忠の嫡男、信長の嫡孫
織田秀則(パウロ)1581 ―1625 → 織田信忠の次男、信長の孫
木下勝俊(ペテロ)1569-1649→ 若狭小浜城主。北政所(ねね)の甥
京極高吉1504-1581→ 晩年に受洗するも急死、妻は浅井久政の娘(京極マリア)
京極高次1563-1609→ 秀吉、家康に仕えて近江大津・若狭小浜藩主、正室=初姫(常高院)
京極高知1572-1622→ 秀吉、家康に仕えて信州伊奈・丹後宮津藩主、継室=毛利秀頼の娘
黒田長政(ダミアン)1568-1623→ 棄教後、迫害者に転じる。
黒田孝高(シメオン)1546-1604→ 官兵衛の通称と如水の号で知られる
小西行長(アウグスティノ)1558-1600→ 関ヶ原敗戦後、切腹を拒み刑死
小西隆佐(ジョウチン)?―1592→ 小西行長の父、堺の豪商・奉行
高山友照(ダリオ)?―1595→ 飛騨守、高山右近の父
高山右近(ドン・ジュスト)1552-1615→明石城主、追放先のマニラで客死
細川興元1566-1619→- 細川幽斎の次男、細川忠興の弟
毛利秀包(シマオ)1567-1601 → 毛利元就の子、小早川隆景の養子
↑↓
(豊臣秀吉と高台院の「養子・養女・猶子」など)
(養子)
羽柴秀勝(織田信長の四男・於次)1569-1586→墓所=秀吉建立の大徳寺・総見院など
豊臣秀勝(姉・とも(日秀)と三好吉房の次男)1569-1592→正室=江(浅井長政の三女)
豊臣秀次(姉・とも(日秀)と三好吉房の長男)1568-1595→豊臣氏の第二代関白
池田輝政(池田恒興の次男)1565-1613→継室=継室:徳川家康の娘・督姫
池田長吉(池田恒興の三男)1570-1614→因幡鳥取藩初代藩主
結城秀康(徳川家康の二男)1574-1607→下総結城藩主、越前松平家宗家初代
小早川秀秋(木下家定の五男。高台院の甥)1582-1602→備前岡山藩主
(養女)
豪姫(前田利家の娘。宇喜多秀家正室)1574-1634→洗礼名=マリア
摩阿姫(前田利家の娘。豊臣秀吉側室)1572-1605→秀吉の死後万里小路充房の側室
菊姫(前田利家の庶女。早世)1578-1584→七歳で夭逝
小姫(織田信雄の娘。徳川秀忠正室。早世)1585-1591→秀忠(十二歳)と小姫(六歳)
竹林院(大谷吉継の娘。真田信繁正室)?―1649→真田信繁=幸村の正室
大善院(豊臣秀長の娘。毛利秀元正室)?―1609→毛利秀元の正室
茶々(浅井長政の娘。豊臣秀吉側室)1569?―1615→豊臣秀頼生母
初(浅井長政の娘。京極高次正室)1570-1633→常高院、高次・初=キリシタン?
江(浅井長政の娘。佐治一成正室→豊臣秀勝正室→徳川秀忠継室)1573-1626→崇源院
糸姫(蜂須賀正勝の娘。黒田長政正室)1571―1645→黒田長政(キリシタン後に棄教)
宇喜多直家の娘(吉川広家正室)?―1591→容光院、弟に宇喜多秀家(正室=豪姫)
(猶子)
宇喜多秀家(宇喜多直家の嫡子、養女の婿で婿養子でもある)1572-1655(正室=豪姫)
智仁親王(誠仁親王第6皇子。後に八条宮を創設)1579-1629→同母兄=後陽成天皇
伊達秀宗(伊達政宗の庶子)1591-1658→伊予国宇和島藩初代藩主
近衛前子(近衛前久の娘。後陽成天皇女御)1575-1630→後水尾天皇生母、父は近衛前久
(秀吉が「偏諱(いみな)」を与えた者)
徳川秀忠(徳川家康三男)1579-1632→江戸幕府第二代征夷大将軍(在職:1605 - 1623)
結城秀康(徳川家康二男)→前掲(養子)  など
↑↓
(「高台院」周辺(侍女)のキリシタン関係者)

小西行長(洗礼名=アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)/ドム・オーギュスタン・ジヤクラン)
↑↓
父:小西隆佐(洗礼名:ジョウチン)、※母:ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)=侍女
兄弟:如清(洗礼名:ベント)、行景(洗礼名:ジョアン)、小西主殿介(洗礼名:ペドロ)、小西与七郎(洗礼名:ルイス)、伊丹屋宗付の妻(洗礼名:ルシア)
妻:正室:菊姫(洗礼名:ジュスタ)
側室:立野殿(洗礼名:カタリナ)
※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子。霊名カタリナ

高山右近(洗礼名=ジュスト・ユスト)
↑↓
父母:父:高山友照、母:高山(洗礼名=マリア)
妻:正室・高山(洗礼名=ジュスタ)
子:洗礼名・ルチヤ(横山康玄室)

内藤如安(洗礼名=洗名ジョアン)
↑↓
父母:父・松永長頼、母:・藤国貞の娘 妹・内藤ジュリア=女子修道会ベアタス会を京都に設立=豪姫の洗礼者?

不干斎ハビアン(1565-1621)の母ジョアンナ=北政所(おね、高台院)の侍女→佐久間信栄(1556-1632)=不干斎との関係は?

高台寺の聖母子像.jpg

高台寺所蔵の「聖母子像に花鳥文様刺繍壁掛」
https://www.kyotodeasobo.com/art/exhibitions/hideyoshi-woman/

 このポスターの「戦国と秀吉をめぐる女性」(高台寺「掌美術館」)は、二〇一一年秋の特別展のものであるが、この絵図は、高台寺所蔵の「聖母子像に花鳥文様刺繍壁掛」で、この「聖母子像」関連については、下記のアドレスで、「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿)p108-110」を簡単に紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

【この屏風の実質的な注文主の「京都高台寺の『高台院)」側(「高台院側近の『親キリシタン・親千利休』(「秀吉が殉教させた二十六聖人そして賜死させた親キリシタン茶人の千利休)系の面々」)の人物というのは、「高台院(北政所・お寧・寧々)の侍女、マグダレナ(洗礼名)とカタリナ(洗礼名)」(「バジェニスの『切支丹宗門史』には、彼女(北政所)はアウグスチノ(小西行長)の母マグダレナ、同じく同大名の姉妹カタリナを右筆として使っていた。此の二人の婦人は、偉大なる道徳の鏡となってゐた。妃后(北政所)は、この婦人達に感心し、自由に外出して宗教上の儀礼を果たすことを赦してゐた」と記されている)

https://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/31/031_zuisou_a.pdf

「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿))p108-110」

小西行長(洗礼名=アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)/ドム・オーギュスタン・ジヤクラン)
※母:ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)=高台院の侍女
※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子、霊名カタリナ=高台院の右筆?  】

 その「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿))p110」
では、「『梵舜日記』によれば、マグダレナは慶長十五年(一五一〇)六月頃まで高台寺にいて北政所の世話を続けていたが、その後記録には出てこない。実子行長が慶長五年(一六〇〇) に四十三歳に斬首されているので、年齢からするとこのころに世を去ったのであろうか。その折、親しくしていた北政所に聖母子像を託したのではないだろうか」と記している(「ウィキペディア」では、「慶長3年(1598年)の秀吉の死後、マグダレーナは再び北政所に召されて侍女となったが、関ヶ原の戦いの敗報と行長の死を知り、悲痛の余りほどなく亡くなった」とあるが、この『梵舜日記』の「慶長十五年(一五一〇)六月頃まで高台寺にいて北政所の世話を続けていた」と解したい)。

 ここで、この高台院の侍女をしていたといわれる小西行長の母(洗礼名・マグダレーナ)などに関して、「ハーバード大学発!『レディサムライ』」の造語を副題とする『日本史を動かした女性たち(北川智子著・ポプラ新書)』の、「レディサムライ」の元祖のような「高台院・北政所・ねね(おね)」、そして「侍女マグダレナ」と「秀吉とねねの養女・豪姫(マリア)」との関連の箇所を紹介して置きたい。

【『日本史を動かした女性たち(北川智子著・ポプラ新書)』

第一部 ねねと豊臣家の女性たち
 第一講 ねねが武力の代わりに使ったもの
 第二講 安定した暮らしを守るために

(宣教師たちが伝えたねね)
P46- そう伝える宣教師の報告書には、まぐだれな、からら、るしゃ、…… ねねの侍女なのに、日本人の名前でない者がいます。かららとはClaraのこと。るしゃはLuciaのこと。そのほかにも、Monica(もにか)、Julia(じゅりあ)、Maria(まりあ)、Catarina(かてれいな)、Vrsula(うるすら)、Martha(まるた)、Paula(はうら)に、Ana(あんあ)……。日本に来ていたイエズス会士ルイス・フロイスの記録によると、大阪城にいた貴婦人や女官の中には、五、六人のキリシタンがおり、その既婚婦人のうちの一人がマグダレナだといいます。

(侍女マグダレナから情報収集を行っていた)
P46- 彼女はねねの侍女で、とても信心深い女性でした。キリスト教の祝日になると、大阪城を出て大阪の教会のミサに行っていました。彼女のおかげで普段は城の外に出ないねねでも、キリスト教関連の情報を聞き、城下町の様子を知ることができたといいます。それだけではありません。マグダレナは秀吉をも交えて、イエズス会宣教師のことや、彼らが信じる宗教について語り合っていました。大阪城にいた侍女は、秀吉とねねの生活の補助のためだけにそばにいたのではないようです。城の中にとどまらず城外で何が起こっているのかもねねに伝えていて、城にいながら外の状況を把握するために、侍女たちの場外での活動は貴重な情報源になっていました。(以下略)

第三講 苦難の時を乗り越える
第四講 変化に対応し、何度でもやり直す
第二部 世界に広がっていった日本のレディサムライ
 第五講 女性が手紙を書くということ
 第六講 女性たちは武器を手に戦ったのか
 第七講 日本の「大阪」のイメージを屏風で伝える―ドバイにて―
 第八講 レディサムライはゲイシャ? スパイ?
 第九講 当時の日本と世界の繋がりをどう捉えるか―アフリカにて―
 第十講 クイーンとレディサムライ―イギリスにて―
 第十一講 宗教の話を抜きには語れないレディサムライへの目録
(キリスト教の日本伝来)
(信仰を貫いたガラシャ)
(キリスト教徒として生きることを選んだねねの娘)
P181- ……(高山)ジュスト(右近)の母(マリア)は、太閤様の夫人で称号で(北)政所様と呼ばれている婦人(ねね)を訪問するために赴いた。そこで他の貴婦人たちがいる中で、(ねねに)非常に寵愛されていた二人のキリシタンの婦人たちの面前で、話題が福音のことに及んだとき、(北)政所様は次のように言った。「それで私には、キリシタンのの掟は道理に基づいているから、すべての(宗教)の中で、もっとも優れており、またすべての日本国の諸宗派よりも立派であるように思われる」と。そして(ねね)は、デウスはただお一方であるが、神(カミ)や仏(ホトケ)はデウスではなく人間であったことを明らかに示した。そして(ねねは)、先のキリシタンの婦人の一人であるジョアナの方に向いて、「ジョアナよ、そうでしょう」と言った。(ジョアナは)「仰せのとおりです。神(カミ)は日本人が根拠なしに勝手に、人間たちに神的な栄誉を与えたのですから、人間とは何ら異なるものではありません」と答えた。それから(北)政所様は同じ話題を続けて次のように付言した。「私の判断では、すべてのキリシタンが何らの異論なしに同一のことを主張しているということは、それが真実であることにほかならない。(その一方、)日本の諸宗派についてはそういうことが言えない」と。これらの言葉に刺激されて、別な婦人すなわち(前田)筑前(利家)の夫人は、称賛をもって種々話し始め、あるいはむしろ我らの聖なる掟に対して始めた称賛を続けて、すべての話を次のように結んだ。「私は私の夫がキリシタンとなり、わたしが(夫の)手本にただちに倣うようになることを熱望しています」と。
 (『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第一部第二期、83-84頁) 】

 ここに出てくる人物は、「(高山)ジュスト(右近)の母(マリア)、太閤様の夫人=(北)政所=高台院=おね=ねね=秀頼正母・豪姫養母、前田)筑前(利家)の夫人=芳春院=おまつ=秀頼乳母・豪姫生母、ジョアナ=内藤ジュリアか?=豪姫の洗礼者? もう一人のキリシタン婦人=高台院侍女マグダレナか?=小西行長の母(ワクサ)」の四人と解すると、この四人は、『日本史を動かした女性たち(北川智子著・ポプラ新書)』の、その「レディサムライ」の名に相応しい。
 なお、小西行長の母(ワクサ)=マグダレナについては、『小西行長(森本繁著・学研M文庫)』では、「行長が刑死したとき、父の寿徳(隆佐)は、文禄二年(一五九三)に死亡していたので、この世になく、母のマグダレナは夫の死亡のあと間もなく病死して、次男のこの哀れな最期のことは知らなかったと思える。しかし『切支丹大名記』には『悲傷の極、行長刑死後幾何もなく、その後を追えり』とある。レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』では彼女の没年を慶長五年としている」(p297)と記述している。
 しかし、この「慶長五年(一六〇〇)死亡(説)」は、先の『『梵舜日記』の「慶長十五年(一五一〇)六月頃まで高台寺にいて北政所の世話を続けていた」との記述により、「慶長十五年(一五一〇)六月頃」まで、「高台寺にいて北政所の世話を続けていた」と解したい。
 また、『小西行長(森本繁著・学研M文庫)』の「宇津落城秘話」で、「内藤(小西)如安は、その妻子とともに加藤清正に降伏し、領内のキリシタンを統御するために方便として利用されたが、(略) 後に棄教を迫られ、嫡男好次のいる加賀金沢へ行くのである」との記述があり、「(前田)筑前(利家)」の客将となっている「高山右近」(一万五千石)と共にその客将(四千石)として仕え、慶長十八年(一六一三)、徳川家康のキリシタン追放令が出されると、慶長十九年(一六一四)九月二十四日に、高山右近・如安・その妹ジュリアらは呂宋(今のフィリピン)のマニラへ追放されることになる。

 こうして見てくると、「高台院(北政所・おね・ねね)・芳春院(おまつ)・マグダレナ(小西行長の母・高台院の侍女)・マリア(高山右近の母)・ジュリア(内藤如安の妹)・マリア(豪姫・高台院の養女・芳春院の四女)」、そして、「千宗恩(千利休の後妻・千少庵の生母・千宗旦の祖母)」などは、唯一無二の「「レディサムライ」の元祖にも喩えられる「高台院(北政所・おね・ねね)」の「文化サークル」圏内のメンバーと解しても、いささかの違和感を湧いてこない。
 そして、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」(神戸市立博物館蔵)の、その注文主も、この「高台院(北政所・おね・ねね)の『文化サークル』圏内のメンバー」より為されたものと解して置きたい。
 そして、そのことは、その「文化サークル』圏内のメンバーの、「高山右近の母・マリア、小西行長の娘・マリア(宗義智正室のマリア)、高台院と芳春院の娘・マリア(宇喜多秀家正室=豪姫)」等々の、「キリシタン・レディサムライ」の「洗礼名・マリア」を有する女性群像と、「東日本大震災」のあった「二〇一一」年に、初公開ともいえる「「聖母子像に花鳥文様刺繍壁掛」 (高台寺所蔵)の、その「聖母子像」の「マリア」像と、見事に一致してくる。
 ここで、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」(神戸市立博物館蔵)は、何時頃に制作されたのであろうか?
 このことに関しては、「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)に、その引用書きのような感じて出てくる「狩野源助平渡路(ペドロ)」の、その「南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)との関連の考察が必要となって来るが、ここでは、下記アドレスで指摘をして置いたことを、そのまま踏襲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

【 四 ここで、何故、≪「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日≫》に拘るのかというと、それは、この「お亀」と見立てられる、この右端に描かれている女性の「足首が描かれていない」という、その特異性に起因するに他ならない。
 そして、この慶長十一年(一六〇六)というのは、「周辺略年譜(抜粋「一六〇六)」)では、下記のとおり、この「南蛮屏風(紙本金地著色・六曲一双・神戸市立博物館蔵)」を描いた「狩野内膳」が、もう一つの代表作とされている「豊国祭礼図屏風」(紙本著色・六曲一双・豊国神社蔵)を神社に奉納(梵舜日記)した年なのである。

(中略)

ここまで来ると、「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日≫)に、その年に豊国神社に奉納された、先(慶長9《1604》年秀吉の7回忌臨時大祭)の公式記録ともいうべき、狩野内膳筆の「豊国祭礼図屏風」は、その豊国大明神臨時祭礼に臨席できなかった「淀殿と秀頼」よりの一方的な意向を反映しているもので、それに反駁しての、「京都高台寺の『高台院)」側(「高台院側近の『親キリシタン・親千利休』(「秀吉が殉教させた二十六聖人そして賜死させた親キリシタン茶人の千利休)系の面々」)が、同じ、狩野内膳をして描かせたのが、下記の「狩野内膳筆・南蛮屏風(六曲一双・神戸市立博物館蔵)」と解したいのである。 】

(追記)

`寧々家系図.jpg

木下家略系図.jpg


「関ケ原の戦いと『木下家』と『浅野家』・『前田家』の動向」

高台院  → 中立?
父・木下家定(播磨姫路城主)→ 中立(高台院の警護)→備中足守藩主(後継→?)
長男・勝俊(長嘯子・若狭小浜藩主・洗礼名=ペテロ)→任務放棄(東軍→中立)→《家定後継×?》
次男・利房(若狭小浜城主)→ 西軍→《後に家定後継〇?》
三男・延俊(播磨国城主) → 東軍→豊後日出領主(義兄細川忠興)
四男・俊定 →西軍(丹波国城主)→ (秀秋の庇護・備前国城主、後病死)
五男・(小早川)秀秋(備前岡山藩主)→途中寝返り(西軍→東軍)→無嗣断絶(病死)

(浅野家)
浅野長政(常陸真壁藩主・豊臣政権の五奉行) → 東軍
浅野幸長(紀伊和歌山藩主) → 東軍
浅野長晟(安芸国広島藩初代藩主) → 東軍

(前田家)
前田利家(加賀藩主・豊臣政権の五奉行) → 慶長四年(一五九九)没
前田利長(加賀前田家二代藩主・豊臣政権の五奉行・豊臣秀頼の傅役) →中立?(徳川家康に帰順)  慶長十九(一六一四)没
前田利常(加賀前田家三代藩主・利家四男・利長養子) → 大阪の陣(東軍)・ 正室:珠姫(徳川秀忠の娘)


(千利休家の略系図)

千利休家系図.jpg

千利休→ 大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日)
(家族)
宝心妙樹 生年不詳 - 天正5年7月16日(1577年8月10日 先妻。
宗恩 生年不詳 - 慶長5年3月6日(1600年4月19日 後妻。キリシタン?
千道安  長男。母は宝心妙樹。 → 堺千家
宗林   生没年不詳)
次男。  母は宗恩。夭折し、父母を悲しませたという。
宗幻   生没年不詳 三男。母は宗恩。夭折した。
田中宗慶 一説に庶長子。
清蔵主  生没年不詳 庶子。明叔寺を号。
千少庵  養嗣子。宗恩の連れ子。→ 京千家
長女。母は宝心妙樹。永禄元年(1558年)ごろ、茶人千紹二に嫁いだ。
次女。母は宝心妙樹。天正4年(1576年)ごろ、利休の弟子である万代屋宗安に嫁いだ。天正17年(1589年)、豊臣秀吉に気に入られて、奉公するように請われたが断り、のちの利休の自害の遠因になったという説がある。夫が没すると、実家に戻った。キリシタン?
三女。母は宝心妙樹。従弟にあたる石橋良叱に嫁いだ。
吟(生没年不詳) キリシタン?
四女。母は宝心妙樹。天正12年(1584年)、本能寺の僧侶円乗坊宗円(古市宗円・玉堂)に嫁ぐ。
亀(かめ、生年不詳 - 慶長11年10月29日(1606年11月29日))
末女、六女か。名は長(ちょう)とも。天正4年(1576年)ごろ、のちに利休の養子となる少庵を婿とした。少庵との間には宗旦をもうけている。利休が秀吉の怒りを買って堺に蟄居する際に、歌を亀に残している。また夫婦仲は良好ではなかったようで少庵とは別居していたが、息子・宗旦が利休に連座しようとした際には別居先から駆けつけている。キリシタン?


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千利休の本姓は田中氏で、清和源氏新田義重の庶長子で安房里見氏の祖である里見義俊の子孫を自称したが信憑性は低い。祖父の千阿弥は時宗の阿弥号を称したから遊芸民であったと考えられ、8代将軍足利義政の同朋衆を務めたというが応仁の戦乱を逃れ和泉堺に移住した。
子の田中与兵衛は魚問屋で財を成し倉庫業も兼ねて有力会合衆・納屋十人衆に数えられ、阿弥号を外して千氏を名乗った。嫡子の千利休は、三好長慶の妹とされる宝心妙樹を娶り嫡子の千道安をもうけ、宝心妙樹の死後宗恩を後妻とし二児を生したが共に夭逝、娘は高弟の千紹二・万代屋宗安らに嫁がせた。妹の宗円は久田実房に嫁ぎ子の久田宗栄は茶道久田流を開いた。
千道安は、幼少にして茶道に入り非凡な才を示すも利休に狷介な性質を嫌われ一時千家を離脱、後に赦され豊臣秀吉の茶頭八人衆に数えられた。利休死罪で千家は閉門となり豊臣家茶頭は高弟の古田織部に引継がれたが、数年後に「利休七哲」や徳川家康・前田利家の取成しで赦免された。本家堺千家を継いだ千道安は細川忠興(利休七哲で茶道三斎流の祖)の招きで細川家茶道となり豊前水崎に3百石を拝領したが後嗣が無く利休の嫡流は断絶、蒲生氏郷(利休七哲筆頭)の庇護下で蟄居していた宗恩の連子で利休娘婿の千少庵が家督を継ぎ京都に移った(実父は観世流能役者の宮王三入とされるが松永久秀説もある)。
少庵は、秀吉から下賜された京都本法寺前の土地に大徳寺門前の利休旧宅茶室を移し住居とした(表千家不審庵として現存)。嫡子の千宗旦は、家督争いを避けるため大徳寺塔頭聚光院(三好長慶の菩提寺で千利休の墓塔がある)の渇食となっていたが還俗して少庵の後を継ぎ、秀吉から利休所持の茶道具類と洛北紫野に5百石の知行を与えられ利休後継者として名誉回復が成った。
宗旦自身は生涯仕官を控えたが嫡子宗拙と四男宗室を加賀前田家・次男宗守を高松松平家・三男宗左を紀州徳川家に出仕させた。宗守は官休庵武者小路千家・宗左は不審庵表千家・宗室は今日庵裏千家を興し「三千家」として今日まで繁栄を続ける。

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狩野 光信(かのう みつのぶ、永禄8年(1565年、永禄4年(1561年)説もある) - 慶長13年6月4日(1608年7月15日))は、安土桃山時代の狩野派の絵師。狩野永徳の長男。狩野探幽は弟・孝信の子供で甥に当たる。名は四郎次郎、通称は右京進。子の貞信も右京進と称し、両者を区別のため後に古右京とも呼ばれた。
 山城国で生まれる。はじめ織田信長に仕え、父永徳とともに安土城の障壁画などを描く。その後、豊臣秀吉に仕えた。天正18年(1590年)に父永徳が没した後、山城国大原に知行100石を拝領、狩野派の指導者となる。天正20年(1592年)肥後国名護屋城を制作。その後も豊臣家の画用を務め多忙であったようだ。慶長8年(1603年)京都の徳川秀忠邸(二条城)に大内裏図を作成している[1]。慶長11年(1606年)江戸幕府の命で江戸へ赴き、江戸城殿舎に障壁画を描く[2]。しかし、慶長13年(1608年)帰京途中で桑名で客死してしまう。享年44、または48。家督は長男の狩野貞信が継いだ。
 父永徳の豪壮な大画様式とは対照的な理知的で穏やかな作風は、当時の戦国武将たちの好みとは合わなかったらしく、本朝画史では「下手右京」と酷評を受け近世を通じて評価が低かった[3]。しかし、祖父の狩野松栄や曾祖父狩野元信の画風や中世の大和絵を取り入れ、自然な奥行きのある構成や繊細な形姿の樹木・金雲などを描き、特に花鳥画に優れる[4]。また、永徳時代には排斥の対象ですらあった長谷川派との親和を図り、新たな画題である風俗画に取り組むことで、永徳様式からの自立と新たな絵画領域の開拓を目指した。こうした光信の画業を継承する狩野長信や狩野興以、狩野甚之丞のような門人もおり、光信の画風は永徳様式から甥の探幽を中心とする江戸狩野様式への橋渡しする役割を果たしたといえる。

狩野 内膳(かのう ないぜん、元亀元年(1570年) - 元和2年4月3日(1616年5月18日))は、安土桃山時代・江戸時代初期の狩野派の絵師。内膳は号、名は重郷(しげさと)。通称は久蔵、幼名は九蔵。法名は一翁、或いは一翁斎。息子は日本初の画伝『丹青若木集』を著した狩野一渓。風俗画に優れ、「豊国祭礼図」「南蛮屏風」の作者として知られる。
 荒木村重の家臣、一説に池永重元の子として生まれる。天正6年(1578年)頃、根来密厳院に入ったが、のち還俗して狩野松栄に絵を学んだ。『丹青若木集』では「我が家の画工となるは頗る本意にあらず」と述懐しており、主家が織田信長に滅ぼされて、仕方無しに絵師となった事情が窺える。天正15年(1587年)18歳で狩野氏を称することを許され、同時期豊臣秀吉に登用され、以後豊臣家の御用を務めた。文禄元年(1592年) 狩野光信らと共に肥後国名護屋城の障壁画制作に参加、翌年にはそのまま長崎に赴いている。この時の視覚体験が、「南蛮屏風」の細やかな風俗描写に生かされているのだろう。後に豊臣秀頼の命で「家原寺縁起」の模写をしている。大坂の陣の翌年、豊臣氏の後を追うように亡くなった。
 内膳の画系は江戸時代になっても、表絵師・根岸御行松狩野家として幕末まで続き、国絵図制作を得意とした。旧主の遺児岩佐又兵衛は内膳の弟子とも言われるが、確証はない。また、水墨の花鳥画・人物画などでは同時代の絵師海北友松の影響が見られる。

狩野 宗秀(かのう そうしゅう、 天文20年(1551年) - 慶長6年11月頃(1601年))は、安土桃山時代の狩野派の絵師。狩野松栄の次男で、狩野永徳の弟。名は元秀、秀(季)信。宗秀(周)は号。
 元亀2年(1572年)21歳の時、永徳と共に豊後国の大友宗麟に招かれ障壁画を描く(現存せず)。天正4年(1576年)安土城障壁画制作では、永徳から家屋敷を預けられ[1]、その留守を守った。これは、万が一障壁画制作に失敗し織田信長から不興を買った場合、咎めが狩野派全体に及ぶのを危惧しての保険と見られる。天正10年(1582年)羽柴秀吉が、姫路城殿舎の彩色のために、宗秀を播磨国に招いている(「那須家文書」)。天正18年(1590年)、天正度京都御所造営では永徳を補佐し障壁画製作に参加する。文禄3年(1594年)制作の「遊行上人絵」に「狩野法眼」とあり、この頃には法眼に叙されていたことが分かる。慶長4年(1599年)、桂宮家新御殿造営にあたり甥の光信を補佐し障壁画制作に参加する。慶長6年(1601年)11月頃、光信に息子・甚之丞の後見を依頼しつつ亡くなった[1]。
 『本朝画史』では、「画法を専ら兄永徳に学び、よく規矩を守ったが、父兄には及ばなかった」と評している。また、同書収録の「本朝画印」では、「筆法専ら永徳に似て荒らし」とその画風を記している。
 画系に、先述の実子で父と同じく「元秀」を名乗った真設甚之丞、また元和から寛政頃の作品が残る狩野重信も門人とされる。

狩野 長信(かのう ながのぶ、天正5年(1577年) - 承応3年11月18日(1654年12月26日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した狩野派の絵師。江戸幕府御用絵師の一つ表絵師・御徒町狩野家などの祖。初め源七郎、あるいは左衛門と称す。号は休伯。桃山時代の風俗画の傑作『花下遊楽図屏風』の作者として知られる。
 狩野松栄の四男として生まれる。兄に狩野永徳、宗秀など。松栄晩年に生まれたため、血縁上は甥に当たる狩野光信・孝信より年下である。幼少の頃から父松栄や兄永徳から絵を習ったと推測される。両者が相次いで亡くなると次兄宗秀についたと思われるが、宗秀も慶長6年(1601年)に没すると、光信に従いその影響を受ける。さらに、長谷川等伯ら長谷川派からの感化を指摘する意見もある。一時、本郷家に養子に出たが、後に狩野家に戻りその家系は庶子となった。
 慶長年間(1596-1615年)京都で徳川家康に拝謁、次いで駿府に下り、その御用絵師となった。狩野家で江戸幕府に奉仕したのは長信が最初だという。慶長10年(1605年)頃徳川秀忠と共に江戸へ赴き、14人扶持を受ける[1]。慶長13年(1608年)光信が亡くなると、狩野探幽の側で狩野派一門の長老格として後見した。寛永期には、二条城二の丸御殿・行幸御殿・本丸御殿の障壁画制作に参加[3]、台徳院霊廟画事に従事[4]、日光東照宮遷宮に伴う彩色にも加わる[5]など第一線で活躍し、寛永2年(1625年)法橋に叙される[2]。墓所は江戸谷中の信行寺。

狩野 山楽(かのう さんらく、永禄2年(1559年) - 寛永12年8月19日(1635年9月30日)は、安土桃山時代から江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野山雪の養父。
 浅井長政の家臣・木村永光の子光頼として[1]近江国蒲生郡に生まれる。母は伝承では益田氏。のちの林鵞峰は「佐々木氏の末裔か」と記している。父・永光は余技として狩野元信に絵を習っていた。
 15歳の時、浅井氏が織田信長によって滅ぼされてからは豊臣秀吉に仕え、秀吉の命により狩野永徳門下となる。山楽はこの時、武士の身分を捨てることを躊躇し多くの役職を務めたという。天正年間には、安土城障壁画や正親町院御所障壁画(現南禅寺本坊大方丈障壁画)の作製に加わる。永徳が東福寺法堂天井画の制作中に病で倒れると、山楽が引き継いで完成させた。このことから、永徳の後継者として期待されていたことが伺える(天井画は明治時代に焼失し現存しない)。以後、豊臣家の関係の諸作事に関わり、大阪に留まって制作に励んだ。豊臣氏には淀殿をはじめとして浅井氏旧臣が多く、山楽が重く用いられたのも、浅井氏に縁のある山楽の出自が理由だと思われる。慶長末年には大覚寺宸殿障壁画制作に腕をふるっている。
 大坂城落城後、豊臣方の残党として嫌疑をかけられるが、男山八幡宮の松花堂昭乗や九条家の尽力もあり、山楽は武士ではなく一画工であるとして、恩赦を受け助命される。ただし、豊臣家との関係が深いことや狩野家との血縁がないことなどから、徳川幕府の御用を勤めた江戸狩野派と同等の扱いは受けなかった。山楽は、狩野本家が江戸へ去った後も京都にとどまり、旧主である浅井家と縁の深い画を書き続けた。また、九条家との繋がりも代々受け継がれ、幕末まで続くことになる。
 駿府の家康に拝謁後、京都に戻り徳川秀忠の依頼で四天王寺の聖徳太子絵伝壁画などを制作した。晩年は筆力の衰えを隠せず、弟子に代作させることもしばしばであった。長男・光教(孝)が早世したため、門人・狩野山雪を後継者とした。なお、380年の間謎とされてきた山楽の息子、伊織「狩野山益」であるが、知恩院塔頭の良正院本堂(重要文化財)襖絵を描いていた事が近年判明した。大阪芸術大学の五十嵐公一教授の調査による。福岡市美術館所蔵の源氏物語屏風に狩野伊織と署名、山益の落款と画風の一致より同一人物であることが確定した。
 狩野探幽(永徳の孫)らが江戸に移って活動したのに対し、山楽・山雪の系統は京に留まったため、「京狩野」と称される[1]。永徳様式を最も良く継承しており、大画様式に優れた才能を魅せ、雄大な構図を持つ作品が多い。それらは永徳画に比べると装飾性豊かでゆったりとした構成を取る。こうした方向性は、後の絵師たちに強い影響を与えた。

狩野源助ペドロ  生年:生没年不詳
江戸前期のキリシタン、京都のフランシスコ会の財産管理人、狩野派絵師。イエズス会を讒言する書翰をマニラの3修道会の管区長に送付した中心人物で、のち司教セルケイラのもとでその讒言を撤回。慶長8年12月25日(1604年1月26日)付京坂キリシタンによる26殉教者(日本二十六聖人)列聖請願者の筆頭に「狩野源助平渡路」と署名。また教皇パウロ5世宛同18年8月15日(1613年9月29日)付京坂・堺の信徒書状には「へいとろかの」と署名する。元和6年12月10日(1621年1月2日)付の京坂信徒代表による教皇奉答文にみえる堺の「木屋道味平登路」は同一人物とみなされている。<参考文献>H.チースリク「ペトロ狩野事件の資料」(『キリシタン研究』14号)

道味 どうみ ?-? 織豊時代の陶工。 天正(てんしょう)年間(1573-92)に千利休に茶事をまなび、京都で茶器をやいた

http://m-mikio.world.coocan.jp/biombo.html

この屏風は、その高見澤氏が「狩野道味」(かのうどうみ)の1593~1600年ころの作と擬した一双。狩野道味とは、やはり南蛮屏風の画家である狩野光信(かのうみつのぶ。1560生1605没)の画風と同様な作品を生んだ者で、高見澤氏によると「キリシタンに改宗していた可能性がある」(前掲書)という。この1双のうち左のものは、日本の港に着いたポルトガル船とそこからの積み荷おろしを描いている。船の大きさに驚いた日本人は、船を誇張している。右の屏風は、港に上陸して、イエズス会の南蛮寺(教会または修道院)まで市中を行列する、日傘をさしかけさせ先頭を行くカビタン=モール(総司令官)たちを描く。黒人や、フリルの付いた襟の上着やボンバーシャといわれた膨大なふくらみが特徴のズボンも描かれている。これは東アジアのポルトガル人の特徴的な衣服だという。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/yca/6/0/6_KJ00000042427/_pdf

一 南蛮屏風 に見られる服飾表現についての一 考察一
AStydy of the Dressing
Patterns and Styles of Human
Figures Painted on NAMBAN − Byobu
(Japanese Folding Screen)
村松英子 Hideko Muramatsu 山野 美容芸 術短 期 大学 ・美容 芸 術学


http://archives.tuad.ac.jp/wp-content/uploads/2020/08/tuad-iccp-R1bulletin-2.pdf

日光東照宮陽明門唐油蒔絵の制作についての考察
中右恵理子 NAKAU, Eriko /文化財保存修復研究センター客員研究員

狩野派系図.jpg

 息子の狩野彌右衛門興益もキリシタンであり、父とともに三年間小日向の山屋敷に収容されていたという。さらにその後、神山道子氏によりキリシタンであった狩野興甫を取り巻く狩野派絵師についての研究成果が報告された11。神山氏によれば狩野興甫がキリシタンとして捕らえられた件は『南紀徳川史』、『徳川実記』に記載が見られるとのことである。興甫は父興以の兄弟弟子の一人である狩野道味(生没年不詳)の娘を娶っており、道味は義理の父にあたる。リスボンの国立古美術館には道味の作とされる南蛮屏風が所蔵されてい
る。その道味に関して『日本フランシスコ会史年表』に狩野道味ペドロがフランシスコ会の財務担当者であったとの記載があり、やはりキリシタンであったことが報告されている。また、もう一人の興以の兄弟弟子である渡辺了慶(?-1645)についても、了慶の息子の了之は興以の娘を娶りやはり姻戚関係であった。その了慶は晩年の寛永期に平戸藩の松浦家に抱えられた。平戸藩は南蛮貿易を積極的に行い、オランダ、イギリス商館を開設するなど西洋文化との関わりが深い。また了之以降は狩野姓を名乗り、孫の了海は出府して中橋
狩野家の安信の門人となった。5代目はやはり出府して永叔の門人となった12。このように平戸藩のお抱え絵師となった了慶の家系と江戸の中橋狩野家には関わりがあった。そして陽明門の「唐油蒔絵」の下絵を描いたとされる狩野祐清英信(1717-1763)は狩野宗家である中橋狩野家の11代目である。
(註11) 神山道子 「キリシタン時代の絵師~狩野派とキリシタン~」『全国かくれキリシタン研究会 第30回記念 京都大会 研究資料集』 全国かくれキリシタン研究会京都大会実行委員会 2019年 pp.25-5
(註12)  武田恒夫 『狩野派絵画史』 吉川弘文館 1995年 pp.268-269

2-4.唐油蒔絵と西洋文化との関係
 天文18年(1549)、フランシスコ・ザビエル(1506頃-1552)が鹿児島に上陸し、その後平戸を拠点に布教活動を行った。ザビエルらによりイエズス会の布教活動が広がる中で、日本人信徒の教育機関としてセミナリオが建設された。天正11年(1583)にはイタリア人宣教師で画家であったジョバンニ・ニコラオ(1560-1626)が来日し、天正18年(1590)頃から長崎のセミナリオで西洋絵画の技法を教えた。日本人が描いたと考えられるマリア像やキリスト像などの聖画は、このような施設で制作されたものと考えられる。当時絵画は布教のための重要な手段であった。

狩野派系図・道三関連.jpg

 文禄2年(1593)にはフランシスコ会の宣教師が来日し布教を開始した。狩野道味や興甫らはフランシスコ会に属していた。しかし、フランシスコ会ではイエズス会のような組織的な聖画の制作は行われなかったようである13。東照宮の造営期に「唐油」という言葉が見られるものの、油彩画が制作されなかったのは、興甫らに具体的な技法習得の機会がなかったためとも考えられる。神山氏は興甫らがイエズス会の日本人画家に接触し、西洋絵画の技法についての知識を得た可能性を示唆している。

https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12559723668.html

講演 「 キリシタン時代の絵師 ~ 狩野派と キリシタン ~ 」  神山道子

※日光東照宮「 陽明門 」の “ 平成大修理 ” ( 2013 ~ 16年 )が行われた時に、西壁面に、「 唐油蒔絵 」が確認されました。
東照宮の造営に関わった絵師は、狩野派の 探幽 他 7名ですが、その中に、弥右衛門 ( 興甫 )が加わっています。
陽明門の障壁画に、油彩画の技法を持ち込むことが出来たのは誰なのか?
※和歌山藩 御用絵師 ・ 狩野弥右衛門 ( 興甫 )と息子 興益 )が、1634年から36年まで、日光東照宮の絵師を務め、1643年、キリシタンとして摘発されて、江戸送り となり、1645年までの 3年間、小日向の 「 江戸キリシタン山屋敷 」に収容されて  いました。
● 狩野永徳の後を継いだ 光信の高弟の一人が、狩野道味で、その娘婿が 興甫、その息子が興益 になります。道味は、「 ペドロ 」という霊名を持つ キリシタンで、1600年 ( 慶長5年 )頃、京都にあった フランシスコ会の 2つの小聖堂の 財務係をしていたほどで、信徒の代表として活動していました。道味の娘婿だった興甫や息子の興益も、狩野派の優秀な先達の絵師であり、キリシタンでもあった 道味を通して、キリシタンの信仰に 導かれていったものと思われます。

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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その九) [狩野内膳]

(その九)「異国の南蛮寺」(デウスの教会)と「日本の南蛮寺」(被昇天の聖母教会)

デウス教会の祭壇のキリスト.jpg

「内膳屏風(左隻)」の「南蛮寺(デウス教会)の祭壇の天主画像(十字架と球体を持ったキリスト像)」
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

聖母教会の祭壇のキリスト.jpg

「内膳屏風(右隻)」の「南蛮寺(被昇天聖母の教会)の祭壇の天主画像(水色のペールのキリスト像)」
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

内膳屏風(右隻・左隻・全体).jpg 

「内膳屏風(右隻=日本・左隻=異国、連続=異国から日本へ)

「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)の、冒頭に出てくる「英文(要約)」の、その(1)と(2)とは、次のものである。

(1)The name of one ship painted on the right screen is Santa Maria Go (サンタ・マリア号), the other ship painted on the left screen is Deus Go (デウス号).
(右隻画面に描かれている船の名前は、「サンタマリア号」(Santa Maria Go)、左隻画面に描かれている船の名前は、「デウス号」(Deus Go)である。)

(2)The name of an Ecclesia (chapel) painted on the right screen is Assumptio Beatae Mariae Virginis (被昇天の聖母教会), another chapel name painted on the left screen Is Deus (デウス寺).
(右隻の画面に描かれている教会(南蛮寺)の名前は、「被昇天の聖母教会」(Assumptio Beatae Mariae Virginis)、左隻の画面に描かれている異国の教会(南蛮寺)の名前は、「デウス寺」(Deus)である。)

 この冒頭に出てくる「要約」の、「左隻の『デウス号』(Deus Go)と『デウス寺』(Deus)」の、その「デウス」(Deus)とは、この「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」では、「デウス パドレー」(Deus Padre)そして「デウス フィロー」(Deus Filho)=(イエズス=Jesu Christo)の、その「デウス パドレー」(DeusPadre)=『父たる神』と「デウス フィロー」(Deus Filho)=(イエズス=Jesu Christo)=「子たる神」の、その「神=Deus」=「父性的神(宗教)」の意が言外に潜んでいるように解したい。
 そして、それは、この「右隻の『サンタマリア号』(Santa Maria Go)と『被昇天の聖母教会』(Assumptio Beatae Mariae Virginis)」の、その「聖母マリア=Maria」=「母性的神(宗教)」とを対比しているように解したい。
 ここで、「父性的神(宗教)」を、「父なる神(正義に背くものは十字架を背負させ殉教を強いる『怒りの父』)とすると、「母性的神(宗教)」とは、「母なる神(その『怒りの父』の裁きを『許せり母』)との、「子なる神(Iesus)の母(Mariae)」の「御母サンタマリヤ」(『どちりいなきりしたん』)ということになる。
 そして、上記の「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」の「英文(要約)」の、その(1)と(2)との、その中核に位置するポイント(要点)は、「異国のイエズス会による日本へのキリシタン布教は、その本来の『デウス(Deus)』信仰なるものが、その『デウス(Deus)』に召された(昇天した)『被昇天の(聖母)マリア(Maria)』信仰」へと様変わりしている、その「日本的宗教土壌」(「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」)こそ、この論稿の究極の要点のように理解したい。
 そして、それらは、下記のアドレスの「遠藤周作短編集」の言葉ですると、次のようなものと軌を一にするものであろう。

https://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-bungaku2/endo-03.htm

【昔、宣教師たちは父なる神の教えを持って波濤万里、この国にやって来たが、その父なる神の教えも、宣教師たちが追い払われ、教会がこわされたあと、長い歳月の間に日本のかくれたちのなかでいつか身につかぬすべてのものを棄てさりもっとも日本の宗教の本質的なものである、母への思慕に変ってしまったのだ。私はその時、自分の母のことを考え、母はまた私のそばに灰色の翳のように立っていた。ヴァイオリンを弾いている姿でもなく、ロザリオをくっている姿でもなく、両手を前に合わせ、少し哀しげな眼をして私を見つめながら立っていた。 】(遠藤周作『母なるもの』)

【もし、宗教を大きく、父の宗教と母の宗教とにわけて考えると、日本の風土には母の宗教-つまり、裁き、罰する宗教ではなく、許す宗教しか、育たない傾向がある。多くの日本人は基督教の神をきびしい秩序の中心であり、父のように裁き、罰し怒る超越者だと考えている。だから、超越者に母のイメージを好んで与えてきた日本人には、基督教は、ただ、厳格で近寄り難いものとしか見えなかったのではないかというのを私は序論にした。】(遠藤周作『小さな町にて』)

 この遠藤周作の「父の宗教と母の宗教」とに関連して、その遠藤周作の「小西行長伝」の副題がある『鉄の首枷』の、当時の「キリシタン大名」としての「高山右近と小西行長」との、その対蹠的な「キリシタン受容」の仕方が交差して来る。
 この二人は、豊臣秀吉の配下にあって、共に、イエズス会士として、高山右近が「陸の司令長官」とすると、小西行長は「海の司令官」ともいうべき、当時のキリシタン大名の中で将来の嘱望を託された若手の屹立した位置にあった二人と言える。
 そして、天正十四年(一五八七)の豊臣秀吉の「禁教令」(バテレン追放令=伴天連追放令)により、その翌年に高山右近は棄教を迫られるが、右近は信仰を守るために、播磨国(兵庫県)明石領(六万石)の全ての領地と財産を秀吉に返上し、明石領からの追放処分を受ける。
 この時に、その最終の棄教を促す使者として、右近の茶道の師匠である「千利休」に対し、右近は「『宗門は師君の命を重んずる、師君の命というとも改めぬ事こそ武士の本意ではないか』と答えた。利休はその志に感じて異見を述べなかった(『混見摘写』)」と言われている(「ウィキペディア」)。
 この高山右近が明石領から追放処分を受けた天正十五年(一五八七)の「小西行長年譜」(『鉄の首枷(遠藤周作)』所収)には、次のとおり記されている。

【 天正十五年(一五八七)丁亥 (小西行長)三十歳
一月 秀吉自ら島津氏を討つことを決し、諸臣に布告、先鋒を送る。
三月 秀吉、大阪を発して西下する。
四月二十八日 小西行長、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆の率いる水軍は、秀吉の命で薩摩平佐城を攻撃する。
五月 秀吉は薩摩川内に入り、島津義久は降伏する。(略)
六月七日 秀吉は筑前宮崎に帰り、九州諸大名の封城を定める。(略)
同十九日 秀吉は日本副管区長コエリョを呼びつけてキリスト教の禁止、二十日以内を期して国外追放を布告する。高山右近は棄教を肯んぜず、明石の所領を棄てる。
六月下旬~七月上旬 この頃オルガンティーノ師は動揺した小西行長と室津で会う。信仰と権力の板挟みになった行長は、面従腹背に生きる。
八月~九月 (略)
十月 秀吉は北野大茶湯を催す。  】「小西行長年譜」(『鉄の首枷(遠藤周作)』p271所収)

 この「小西行長年譜」に出てくる、小西行長の「面従腹背の生き方」について、『鉄の首枷』では、次のように綴っている。

【 右近が永遠の神以外には仕えぬと室津で語った時、行長は友人とはちがった「生き方」をしようと決心した。それは堺商人がそれまで権力者にとってきたあの面従腹背(めんじゅうふくはい)の生き方である。表では従うとみせ、その裏ではおのれの心はゆずらぬという商人の生き方である。(中略)
室津で行長がオルガンティーノの決意の前に泣いたことは彼の生涯の転機となった。その正確な日付は我々にはわからぬが天正十五年(一五八七)の陰暦六月下旬から七月上旬であったことは確かである。ながい間、彼は神をあまり問題にはしていなかった。彼の受洗は幼少の時であり、その動機も功利的なものだったからだ。にもかかわらず彼はこの日から、真剣に神のことを考えはじめるようになる。そのためには高山右近という存在とその犠牲が必要だったのである。 】(『鉄の首枷』p95-98)

この「室津で行長がオルガンティーノの決意の前に泣いたことは彼の生涯の転機となった」周辺のことについては、次のアドレスのものが参考となる。

https://ameblo.jp/ukon-takayama/entry-12210752690.html

【(再掲)

● 「 ペテロは、外に出て、激しく泣いた。」( ルカの福音書 22章62節 )
イエス ・ キリストのことを、ペテロは 三度も、
「 そんな人は知らない! 」 と言って否定し、
 しかも、三度目には、呪いをかけて誓ってまでして、否定します。
 すると すぐに、鶏が鳴きます。
「 鶏が ( 二度 ) 鳴く前に 三度、あなたは、わたしを 知らないと言います。」
と言われた イエス ・ キリストの言葉を思い出して、
ペテロは 激しく泣いたのでした。

● 「 伴天連追放令 」 が出されたあと、「 御意 次第 」 と答えて、豊臣秀吉に対する恭順を示した 小西行長でしたが ・・・・・・・
「( オルガンチーノ神父の ) この言葉を聞くと、行長は 泣きはじめた。彼は 右近を思い、今、オルガンチーノ神父の不退転の決心に、おのれの勇気なさを感じたのである。」    
  ( 「 鉄の首枷 」 遠藤周作 ・ 著 )

 遠藤周作は、「 行長が泣いた 」と書かれていますが、正確に言いますと、
「 私の言葉を聞いたアゴスチーノは、ほとんど泣き出さんばかりになりました。そして、私には 何も答えずに立ち上がりますと、結城ジョルジ弥平次を、その部屋に訪ねて行き、そこに 三時間以上留まりました。」 
  ( 小豆島 発、オルガンチーノ書簡 )    】

 ここで、「高山右近」(行長より六歳上とすると三十六歳)の、「永遠の神(Deus)以外には仕えぬ」とする、その「キリシタン受容」を、「父の宗教」とすると、上記の「小西行長」の「面従(面=棄教=永遠の神(Deus)を棄てる)、腹背(心=永遠の神(Deus)に従う)」の「キリシタン受容」の仕方も、これまた、壮絶な「父の宗教(Deus)=キリスト信仰」であるという思いと同時に、ここに、「母なる宗教(Mariae)=マリア信仰」の、その萌芽の全てが宿っているように解したい。
 グレコには、上記の「 ペテロは、外に出て、激しく泣いた。」( ルカの福音書 22章62節 )を主題とした「聖ペテロの涙」の作品もあるが、そこには、「小さくマグダラのマリア」が描かれている。この「マグダラのマリア」とは、「聖母マリア」が「キリストの生母たるマリア」とするならば、「キリストの最期をみとった使徒たるマリア」ということになる。

マグダラのマリア.jpg

悔悛するマグダラのマリア エル・グレコ ウースター美術館蔵
http://www.art-library.com/el-greco/mary-magdalene.html

【 マグダラのマリアがイエスの死を見届けたゴルゴタの丘(ゴルゴダの丘)の「ゴルゴタ」とは「頭蓋骨・どくろ」を意味する。エル・グレコの作品に限らず、マグダラのマリアを主題とした宗教画ではアトリビュートとして頭蓋骨・どくろが描かれる。
 中央公論社「カンヴァス世界の大画家12 エル・グレコ」の作品解説によれば、この頭蓋骨・どくろについて次のように解釈できるという。
 「頭蓋骨の存在はこの場合、聖女(マグダラのマリア)が死を瞑想していることを示している。死を思い天上を渇仰する聖女の表情に、自分の罪を悔悟し、神への愛に生きようとする決心が読み取れる。」 】

 この上記のアドレスでは、この作品の他に、「ブダペスト国立絵画館蔵 悔悛するマグダラのマリア」と「カウ・フェラット美術館蔵 悔悛するマグダラのマリア」とが紹介されている。
 そして、下記のアドレスのグレコの「ペテロの涙」には、次のとおりの解説が施されている。

ペドロの涙.jpg

聖ペテロの涙 エル・グレコ フィリップス・コレクション蔵
https://www.marinopage.jp/%e3%80%8c%e8%81%96%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad%e3%81%ae%e6%b6%99%e3%80%8d/

【 遠く雷鳴が聞こえてきそうな空の下、ペテロはキリストを裏切り、三度否認したことを悔いて、天を仰ぎ涙を流しています。
 グレコ独特の、白眼の部分のウルウルした光がペテロの心情をよく表していて、彼をこの上なく高貴な存在として輝かせています。ペテロの背後には、蔦がからまる洞窟が描かれていますが、蔦は「不滅の愛」のシンボルとされていますから、すでにキリストが悔い悩むペテロを赦し、愛をもって包もうとしているのが感じられます。
 当時、カトリック教会は「悔悛」をテーマとした作品を称揚していましたから、宗教画家だったグレコはマグダラのマリアの悔悛とともに、この聖ペテロをテーマとして礼拝用にいくつも描いています。その中で、この作品はごく初期のもので、グレコ特有のデフォルメもまだ自然な段階にあり、非常に親しみ易い作品の一つと言えると思います。それでも、どこか地上的要素が姿を消し、超自然的な雰囲気が漂ってしまうところは、やはりグレコ・・・と思ってしまうのです。
 できれば自分もゆらゆら揺れて天に昇ってしまいたい、と願うように両手を組むペテロの左手奥には、見えにくいのですが、小さくマグダラのマリアが描かれています。これは、磔刑の三日後、マグダラのマリアが香油を持ってイエスの棺を訪れたことを暗示しています。すでにその時、主は復活した後で、石棺に白い天使が座っていました。これをペテロに知らせようとするマグダラのマリアの姿が描き込まれているのです。
 流れるようなタッチの中に劇的な雰囲気が漂い始めた時期の、グレコらしい作品です。】
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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その八) [狩野内膳]

(その八)「被昇天の聖母教会」(Assumptio Beatae Mariae Virginis)周辺

聖母被昇天の教会.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風(右隻)』(「被昇天の聖母教会」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)では、その「四 被昇天の聖母教会」で、次のように記している。

https://ci.nii.ac.jp/naid/110001149737

【 右隻日本の港、その奥まった所に十字架の立つ南蛮寺がある。その鬼瓦はマリアのレリーフである。また、南蛮寺の離れの二階では、パドレー(神父)が二人のイルマン(修道士)に教義指導をしているが、その一階アーチ形入口上部を飾っているのは、天女である。飛翔する肩巾(ひれ)も見出せる。ここで、『被昇天の聖母』(Assumptio Beatae Mariae Virginis)が浮かぶ。京都に南蛮寺が初めて建てられたのは天正五年(一五七七)、ルイス・フロイスやオルガンチノを中心に畿内のキリシタンの尽力でできあがったものであるが、この教会は『被昇天の聖母』に捧げられてられている。また、アビラ・ビロンの報告で知られるように、長崎にも聖母昇天天主堂があった。 】

鬼瓦・マリア.jpg

左下 → 鬼瓦 → 「マリアのレリーフ」
右上 → 御堂中央屋根 → 「十字架と白鳩(聖霊の象徴)」

天女・パドレー・イルマン.jpg

下(アーチ形の入口の上部) → 聖母被昇天の「天女」が描かれている。
上(南蛮寺の離れの二階) →中央のパドレー(神父)が「どちりいなーきりしたん」(ドチリナ・キリシタン=近世初期にイエズス会によって作成されたカトリック教会の教理本)を手に持ち「教義指導」をしている(?)。右にイルマン=修道士)が二人、左に信者が座している。」

 また、「その六 ミサと教会」では、下記の絵図についての詳細な紹介がなされている。

【 右隻第一扇(右端)上部には、ミサ執行中の日本の南蛮寺が描かれている。(中略)右隻日本の南蛮寺の祭壇画は、球体がデウスの青いベールと一体化して確認しがたい。福永氏は前掲書(『図説日本の歴史10 キリシタンの世紀』所収「図版特集南蛮寺(福永重樹稿)」)において、「水色のベールを被って描かれているのは画家が聖母像と混同したためか」と記されが、達磨像にイメージを重ねて禁教下を生き抜こうとする内膳の粉飾の可能性もある。(後略) 】

南蛮寺のミサ.jpg

中央 → ミサ執行中のパドレー(神父・司祭)、手に「オスチア」(聖体=ミサや聖体礼儀で拝領、礼拝するために聖別されたパン=聖餅=イエス・キリストの体の実体)を捧げている。バドレー(神父)の右脇にイルマン(修道士・助祭)が座している。
左 → ミサ参加の信者(武士)
右 → ミサ参加の信者(茶人?)
右上の祭壇 → 球体に十字架を持っているイエス・キリスト(水色のベールをしているのは、「被昇天の聖母教会」の強調か?)


(「内膳ファンタジー」その二)「内膳南蛮屏風の唯一の女性は何故『足首が描かれていないのか?』」

 下記のアドレスの「内膳ファンタジー(その一)」で、下記のとおり、内膳南蛮屏風の唯一の女性は何故『足首が描かれていないのか?』」については、「この女性が亡くなった(昇天した)」ことを意味するということに触れた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

【 (再掲)

 ここで、何故、≪「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日≫》に拘るのかというと、それは、この「お亀」と見立てられる、この右端に描かれている女性の「足首が描かれていない」という、その特異性に起因するに他ならない。
 そして、この慶長十一年(一六〇六)というのは、「周辺略年譜(抜粋「一六〇六)」)では、下記のとおり、この「南蛮屏風(紙本金地著色・六曲一双・神戸市立博物館蔵)」を描いた「狩野内膳」が、もう一つの代表作とされている「豊国祭礼図屏風」(紙本著色・六曲一双・豊国神社蔵)を神社に奉納(梵舜日記)した年なのである。  】

 これに続けて、「この女性の足首が描かれていない」は、この「女性が亡くなった(昇天した)」ということと、「この女性が『被昇天の聖母(マリア)』」を意味し、そして、「その背後に描かれている『南蛮寺』は『被昇天の聖母教会(「被昇天の聖母(マリア=Mariae)に捧げられた教会」)を暗示していると理解をいたしたい。


聖母教会の祭壇のキリスト.jpg

右隻の「南蛮寺(被昇天聖母教会)の祭壇の天主画像(水色のペールのキリスト像)」

 「足首が描かれていない女性」の「足首が描かれていない」のは、この女性が「被昇天の聖母(マリア)」を暗示していると同様に、その女性の背後に描かれている「南蛮寺」が、いわゆる、「被昇天聖母の教会」であることを強調するかのごとく、その祭壇に描かれた天主画像の「十字架と地球をかたどった球体を持っているキリスト(子たる神)」が、「聖母マリアが被る水色のベール」をして描かれているのである。

デウス教会の祭壇のキリスト.jpg

左隻の「南蛮寺(デウス教会)の祭壇の天主画像(十字架と球体を持ったキリスト像)」

 右隻の「南蛮寺」(被昇天聖母の教会)の祭壇の天主画像が、「水色のベールのマリア像」に擬したような「水色のペールのキリスト像」に対して、左隻の「南蛮寺」(デウスの教会)の祭壇の天主画像は、その本来の「十字架と球体を持ったキリスト像」の雰囲気を醸し出している。
 この「十字架と球体を持ったキリスト像」の原型は、「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」で、「(左隻の外国の南蛮寺の)天主(デウス)画像は、『ドチリナーキリシタン』(1952天草刊ローマ字本)の表紙(銅版画)や銅版油彩「救世主(サルバトール・ムンディ)像」(東京大学総合図書館蔵 IS97, Sacam Jacobusと記されているもの)にあるように、地球を型どった球体に十字架が付けられたものをいだいている」と紹介されている。
 「イエズス会(ラテン語: Societas Iesu)は、キリスト教、カトリック教会の男子修道会。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、1540年にローマ教皇パウルス3世により承認された。世界各地への宣教に務め、日本に初めてカトリックをもたらした。なおイエズスは、中世ラテン語による Iesus(イエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記である。
 (中略)
イエズス会は『神の軍隊』、イエズス会員は『教皇の精鋭部隊』とも呼ばれ、軍隊的な規律で知られる。このような軍隊的な会風は、創立者の1人で・初代総長のイグナチオ・デ・ロヨラが、修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊で過ごしたことと深い関係がある」(「ウィキペディア」)

救世主像.jpg

救世主像(東京大学総合図書館蔵)  制作年:不明 寸法(cm):縦23×横17
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/kyuseisyuzou/document/5061e0fa-b328-431f-a95e-7b417137335b#?c=0&m=0&s=0&cv=7&xywh=-1988%2C-147%2C6497%2C3875

【左手に十字架のついた珠を持ち、右手で祝福を与えるキリスト像は、礼拝用聖画として代表的な図像の一つです。この像はアントワープで刊行された銅版画をもとに、銅板に油絵具で描かれました。画面右下に「IS 97」と記されていることから、「IS」を「15」と解釈し、1597年に描かれたとする説があります。

当時の日本ではキリスト教の布教をすすめたイエズス会によって、西洋流の絵画教育が行われていました。この像も裏面に「Sacam. Iacobus」と書き込まれていることから、ヤコブ丹羽(丹羽ジャコベ)が宣教師ジョバンニ・ニコラオの指導を受けて描いたものと推測されています。 】

ドチリナーキリシタンのキリスト像.jpg

『長崎版 どちりな きりしたん』 海老沢有道 校註 (岩波文庫)
口絵: 「羅馬字綴 「ドチリナ キリシタン」 1592年(天正20年) 天草刊 標紙」
http://leonocusto.blog66.fc2.com/blog-entry-2246.html?sp

【解題
凡例
どちりな きりしたん
 第一 キリシタンといふは何事ぞといふ事
 第二 キリシタンのしるしとなる貴きクルスの事
 第三 パアテル ノステルの事
 第四 アヘ マリヤの事
 ○たつときビルゼン マリヤのロザイロとて百五十反(ぺん)のオラシヨの事
 ○御よろこびのくはんねん五かでうの事
 ○御かなしみのくはんねん五かでうの事
 ○ゴラウリヤのくはんねん五かでうの事
 ○コロハのオラシヨの事
 第五 サルベ レジイナの事
 第六 ケレドならびにヒイデスのアルチイゴの事
 第七 Dの御おきて十のマンダメントスの事
 ○御(ご)おきてのマンダメントス
 第八 たつときヱケレジヤの御(ご)おきての事
 第九 七のモルタル科の事
 第十 サンタ ヱケレジヤの七のサカラメントの事
 第十一 此ほかキリシタンにあたるかんようの條
 ○じひのしよさ
 ○テヨロガレスのビルツウデスといふ三の善あり
 ○カルヂナレスのビルツウデスといふ四の善あり
 ○スピリツサントのダウネスとて御あたへは七あり
 ○ベナベンツランサは八あり
 ○あやまりのオラシヨ 

洋語略解より:

「クルス Cruz 十字架。
モルタル Mortal 死すべき。―科、死に當る罪、重罪。
バウチズモ Baptismo 洗禮。
コンヒサン Confiçan, Confissan 告解。懺悔告白。
サカラメント Sacramento 聖典。秘蹟。
ガラサ Graça 聖寵、恩寵。」

◆本書より◆

「第二 キリシタンのしるしとなる貴きクルスの事。」より:

「弟 キリシタンのしるしとはなに事ぞや。
師 たつときクルスなり。
弟 そのゆへいかん。
師 われらが御あるじJxクルスのうへにて我等を自由になしたまへば也。かるがゆへにいつれのキリシタンもわれらがひかりとなる御あるじJxのたつとき御(み)クルスにたいし奉りて、こゝろのをよぶほどしんじんをもつべき事もつぱらなり。われらをとがよりのがしたまはんために、かのクルスにかゝりたくおぼしめしたまへばなり。
弟 じゆうになし玉ふとはなに事ぞや。
師 てんぐ(天狗、惡魔の意)のとらはれ人となりたる我等が普代の所をのがし玉ふによて也。
弟 とらはれ人となりたるいはれはいかん。
師 てんぐとわれらがとがのやつこ(奴)なり。御あるじの御辭(みことば)に科ををかす者はてんま(天魔)のやつこなりとの玉ふなり。されば人モルタルとがををかせば、てんぐすなはちそのものをしんだい(進退)するがゆへに、やつことなりたる者也。しかればクルスにかゝり玉ふみちをもてさだめ玉ふバウチズモのさづけをうけ、又コンヒサンのサカラメントをうけ奉れば御あるじJxあたへ玉ふガラサをもてその人のもろもろのとがをゆるし玉ふによて、クルスの御くりき(功力)をもて御あるじJxてんまのやつことなりたるところをうけかへし玉ふと申なり。されば人のやつことなりたるものをうけかへしてじゆうになす事は、まことにふかきぢうをん(重恩)也。なを又やつことなしたる人のつらさをふかく思ひしるにをひては、いまうけかへされたるところのをんどく(恩德)をよくわきまふべきもの也。やつこなりしときの主人なさけなくあたりたるほど、うけかへされたるをんもふかき者也。然るにわれらが御あるじJxのガラサをもててんぐのてよりとがにん(科人)をとりかへし玉ひてじゆうになし玉ふ御をんのふかき事はいかばかりの事とおもふや。」

「Jx」は「ゼス キリシト」(イエス・キリスト)、「D」は「デウス」(神)のことです。 】

(追記)「丹羽ジャコベ」周辺

【丹羽ジャコベまたはヤコブ丹羽(Jacob NIWA, 天正7年(1579年) - 崇禎11年9月19日(1638年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期(明代)のキリシタン画家。漢名は倪雅各。
 天正7年(1579年)、中国人の父、日本人の母のあいだに生まれる。肥前国有馬(現在の長崎県南島原市(旧北有馬町))のセミナリヨに入り、そこで天正11年(1583年)に来日したイタリア人修道士ジョバンニ・ニコラオに洋画(南蛮画)の技法を学んだ。
 慶長6年(1601年)、カトリック教会における明の布教長であったマテオ・リッチの要請をうけた日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノの指示によって、聖像を描くため明のマカオに派遣された。マカオでは、聖パウロ協会の被昇天の聖母像を描いている。翌万暦30年(1602年)には、北京に赴いて聖母子像を描き、その作品は万暦帝に献上された。万暦34年(1606年)には、マテオ・リッチのもとでイエズス会に入会している。
 万暦38年(1610年)、南昌にある2つの聖堂のキリスト画とマリア画を描き、翌万暦39年(1611年)には再び北京に赴いて使徒や天使らに囲まれた救世主図を描いている。
 その後も明に滞在し、崇禎11年(1638年)にマカオにて60歳で死去した。
 なお、東京大学総合図書館には丹羽の筆になる銅板油彩の救世主像が所蔵されている。 】
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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その七) [狩野内膳]

(その七)「サンタマリア号」(Santa Maria Go)と「デウス号」(Deus Go)周辺

右隻・サンタマリア号.jpg

「狩野内膳筆『右隻』・「サンタマリア号」(Santa Maria Go)(第五・六扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)では、その「三 サンタマリア号」で、次のように記している。

https://ci.nii.ac.jp/naid/110001149737

【 南蛮屏風に描かれた船の船印には、白旗・金紋入りの彩色された旗・十字およびその変形の書き入れられた旗など多種あるが、その内膳屏風は赤旗・緑旗・緑縁(ふち)の赤旗を含めて華麗精緻である。そのうち最も注目されるのが、右隻中央マストに取り付けられたベールをかぶり十字架を抱いた人物像(緑地に金線で描かれている)である。目鼻を一見しただけでは、男女の判別はしがたい。なぜなら、同じ右隻に描かれた南蛮寺(キリシタンの教会、エケレジャ)の祭壇に置かれたデウス像を被っているし、左隻に描かれた異国を出航せんとする黒船の船尾ポールにあげられた旗のデウス像もベールをかぶっているのである。しかも、このデウスは、右隻の人物と同じく十字架を抱いている。    
 しかし、注意して細部をすると観察すると、左隻のデウスは、口ひげ・あごひげ・頬ひげを持っていることが判明する。右隻祭壇のデウスにも、口ひげ、あごひげがあった。また、左隻の異国の教会における祭壇のデウス絵像も口ひげ・あごひげを有し、正面玄関のレリーフに描かれた十字架を担ったデウスも、横顔であるがあごひげをたくわえている。
 すると、ひげのない中央マストの人物は女性と考えねばならない。聖母マリアである。したがって、この船の名は、サンタ・マリア号となる。 】

右隻中央マストの旗.jpg

「狩野内膳筆『右隻』・「サンタマリア号の中央マストの旗」(第五・六扇拡大図)

 この「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」の「二 茫々たる巨海に船渡りして」には、次のような記述がある。

【 左隻は外国(ポルトガルの植民地ゴアかマラッカが想定される)の港、右隻は日本(おそらく長崎)の港が臨まれ、雲・空を象徴する金泥と土坡(陸地)を象徴する金泥に囲まれた紺碧の海は一つに繋がっており、大航海時代の感覚にふさわしい。思想的には世界図屏風と同じものを見出すことができる。左隻における出航の波もそれほど高くなく、右隻における入港の海はおだやかに凪いでいる。順風満帆の船出(左隻)、無事なる入港(右隻)、馬や人々のしぐさに軽やかな流れがあっても、両隻には静かな時が刻まれている。しかし、一双を立て並べた時存在する物理的なはざまに、作者は海難の危機に満ちた航海を暗示し、生命を賭けた宣教師の布教活動(一歩譲って、カピタンの真摯な商業活動と勇気)へのすなおな敬意を示している。 】

サンタマリア号.jpg

「狩野内膳筆『左隻』・「デウス号」(Deus Go)(第一・二扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

 「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」の「二 茫々たる巨海に船渡りして」の中に、この見出しの「茫々たる巨海に船渡りして」の原典(1592年天草刊『ヘイケ物語』不干ハビアン自序より。原文ローマ字)の一節が引用されている。

【 それIESVSのCompanhiaのPadre Irmam(注・「それイエズス会の宣教師・修道士たちは」の意?)
故郷を去って蒼波万里(そうはばんり)を遠しとし給わず、茫々たる巨海(こかい)に船渡(ふなわた)りして粟散辺地(そくさんへんち)の扶桑に跡を留め,天の御法(みのり)を広め,迷える衆生(しゆじやう)を導かんと精誠(せいぜい)を抜きん出給うこと切(せつ)なり。 】

 この『天草版平家物語』(不干ハビアン著)の「翻字本文(「国立国語研究所機関拠点型基幹研究プロジェクト」作成)が、下記のアドレスで公開されている。

https://www2.ninjal.ac.jp/textdb_dataset/amhk/

 また、この『天草版平家物語』の著者(不干ハビアン)については、下記のアドレスの「釈 徹宗 (2009) 不干斎ハビアン」が参考となる。

http://macroscope.world.coocan.jp/yukukawa/?p=2242

【 (抜粋)

Fucan Fabianのもともとの名まえはよくわかっていないので、ここではFucanと書くことにする。Fucan (1565ごろ-1621)は、1605年には他の宗教を批判しキリスト教を勧める本「妙貞問答」を書き、その後、キリスト教を捨てて、1620年にキリスト教を批判する本「破提宇子」(釈徹宗氏は「ハ・ダイウス」と読む。「提宇子」はDeusつまりキリスト教の神をさす)を書いた人なのだ。当然、両者の結論は正反対なので、どちらか一方の時期のFucanを高く評価する人の多くは、他方の時期を低く評価する。しかし、釈徹宗氏は、両者の本の共通点に注目する。前者で仏教・神道・儒教を批判したのと同じ観点をキリスト教に対しても貫いたのが後者なのだ。そのような過程を通じて、Fucanは、おそらく世界最初の、複数の宗教を相対化して論じる視点をもった人、いわば比較宗教学者になったのだ。

Fucanは京都のキリスト教会では教義問答の論客として知られ、教育活動もしていたのだが、バテレン(英語でいえばfather)ではなくイルマン(brother)にすぎなかった。釈徹宗氏は、教会内での西洋人と現地人の間の差別があったと見る。そしてそれがFucanがキリスト教を捨てた動機だったのかもしれない(いくつもの可能性のひとつ)と推測する。しかし教会幹部から見れば、Fucanは理屈はたつが信仰が深くないと見えたかもしれないし、組織をまかせるだけの信頼ができないと見えたかもしれない。その後の行動から見れば、それはあたっていたことになるだろう。

「妙貞問答」でキリスト教がすぐれているとされたのは唯一神信仰だからであって、キリストは話題になっていない。「破提宇子」では三位一体論が批判されている。キリシタンの組織にいたときからFucanはキリストへの信仰には納得していなかったのではないだろうか。もしキリストぬきの純粋な唯一神信仰の宗教があったら、納得していただろうか。 】

`左隻・デウス号の旗.jpg

「狩野内膳筆『左隻』・「デウス号の後方マストの旗」(第二扇拡大図)

 外国(ポルトガルの植民地ゴアかマラッカが想定される)の港から出航する、この「デウス号」(Deus Go)の後方マストに掲げられている旗に描かれている人物は「デウス」(Deus)である。
 この「デウス」(Deus)とは、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」が描かれた同時代の「不干ファビアン」著の、その「キリスト教を批判する本『破提宇子』(ハ・ダイウス)」では、「提宇子」との漢字表記をされる、「キリスト教の『三位一体説(論)=創造主としての父である神と、贖罪者として世にあらわれた神の子キリストと、両者の一致と交わりとしての聖霊とが、唯一の神の三つの位格(ペルソナ)として現われたものであるとする説』の、その「創造主としての父である神=「デウス」(Deus)」ということになる。
 この分かりづらい「三位一体説(論)=『創造主としての父である神と、贖罪者として世にあらわれた神の子キリストと、両者の一致と交わりとしての聖霊とが、唯一の神の三つの位格(ペルソナ)として現われたものであるとする説』(『精選版 日本国語大辞典』)「については、「不干ファビアン」著の、その『破提宇子』(ハ・ダイウス)で、痛烈な批判をしているのだが、それらについては、下記のアドレスの、「不干齋ハビアン(1)の教理理解―『妙貞問答』と『破提宇子』の神観をてがかりとして―(小室尚子稿)」が参考となる。

https://core.ac.uk/download/pdf/230558889.pdf

グレコ・聖母の戴冠式.jpg

グレコ El Greco,(1541 - 1614),クレタ島出身のギリシャ人画家(ルネサンス期)
『聖母戴冠』 (1591) スペイン,トレド,サンタ・クルス美術館
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a2/El_Greco_-_The_Coronation_of_the_Virgin_-_WGA10495.jpg/400px-El_Greco_-_The_Coronation_of_the_Virgin_-_WGA10495.jpg

 このグレコの「聖母戴冠」の絵図では、中央の「聖母マリア→マリア=(Maria)」を挟んで、左側の人物が「子なる神(イエス・キリスト)→イエズス=(Jesu Christo)=ラテン語: FILIUS est DEUS, 英語: The Son is God」、右側の人物が「父なる神(創造主)→デウス=(Deus)=ラテン語: PATER est DEUS, 英語: The Father is God」、そして、中央の鳩が「御霊なる神(聖霊)=ラテン語: SPIRITUS SANCTUS est DEUS, 英語: The Holy Spirit is God」
ということになる。

 そして、「被昇天の聖母教会」の、「被昇天の聖母」は、グレコの作品ですると、次のものなどが挙げられる。

グレコ・聖母被昇天.jpg

グレコ El Greco,『聖母被昇天』 (1577 - 1579)  USA,シカゴ,シカゴ美術館
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Domenikos_Theotok%C3%B3poulos,_called_El_Greco_-_The_Assumption_of_the_Virgin_-_Google_Art_Project.jpg

 「聖母被昇天」とは、「聖母マリアがその人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという信仰、あるいはその出来事を記念する祝日(8月15日)のこと」を指している(「ウィキペディア」)。
 そして、その「聖母被昇天の祝日」の「八月十五日」には、「キリシタン(キリスト教)の日本伝来」と密接不可分の、次の三つの事項(「ウィキペディア」)を暗示しているようなのである。

〇 イエズス会結成(1534年)
〇 フランシスコ・ザビエルら、日本到着(1549年)
〇 イエズス会が京都に建設した聖母被昇天教会、通称「都の南蛮寺」の献堂ミサが行われる(1576年)

リスボン美術館蔵・南蛮屏風 .jpg

リスボン美術館蔵 作者不詳 南蛮屏風(部分)→「ウィキペディア」(南蛮寺) 
南蛮寺址、京都市中京区蛸薬師通室町西入北側→「ウィキペディア」(南蛮寺) 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%9B%AE%E5%AF%BA#%E9%83%BD%E3%81%AE%E5%8D%97%E8%9B%AE%E5%AF%BA%EF%BC%881576%E5%B9%B4%EF%BC%89

【 都の南蛮寺(1576年)

 都の南蛮寺建設の経緯は、ルイス・フロイスが1577年9月19日付で臼杵から発信した書簡に詳述されている。

 イエズス会が以前から京に建てていた教会堂が老朽化したため、1575年宣教師たちの協議の結果再建が決定した。当初は仏教の廃寺の建材を流用することが意図されたが、価格面で折り合いがつかず、新たに建てることとなった。オルガンティノが指揮を取った教会堂の建設に当たっては、高山図書(ずしょ、洗礼名ダリオ)をはじめとする畿内のキリシタン有力者の協力と寄進が寄せられ、寄進とイエズス会の出費をあわせた総工費は約3,000クルザードに達し、当時日本に建てられた教会堂でも最大級の規模のものとなった。

 都の南蛮寺の正式名は「被昇天の聖母教会」であり、献堂ミサも会堂の落成に先立つ1576年8月15日(聖母被昇天の祝日)に行われた。教会堂の所在地は中京区姥柳町蛸薬師通室町西入ル付近と推定される。その後1587年、豊臣秀吉によるバテレン追放令後に破壊された。

 この教会堂は、狩野宗秀筆の扇面洛中洛外図六十一面中「都の南蛮寺図」によって、建物を特定した絵画資料が残る唯一の例である。同図から以下のことが推測できる。

木造瓦葺、3層楼閣風の建物である。
屋根は最上層が入母屋造、1,2層は寄棟造。
2層の周囲には見晴らし用の廊下と手すりが配されている。
同時期の南蛮屏風の描写では屋根の上に十字架と思しきものが描きこまれるが、この扇面図では省略されている。
1層の細部や内部については扇面図からは不明だが、上記フロイスの書簡には以下のような記事が見られる[11]。

キリシタンの身分ある女性が畳100畳を寄進したこと。
京の職人の水準の高さへの言及。
「イタリア人のオルガンティーノ師の建築上の工夫」への言及。
以上のことから、日本人大工・職人の手による和風を基本としながら、ヨーロッパ特にイタリアの建築様式やキリスト教に関連するモチーフが加味されたものと推測される。 】
→「ウィキペディア」(南蛮寺) 

千利休の娘・亀?.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「千利休・娘の亀・フランシスコ会員・イエズス会員)」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 ここでは、「リスボン美術館蔵 作者不詳 南蛮屏風」や「都の南蛮寺(サンタ・マリア御昇天の寺=珊太満利亜御上人の寺=伴天連寺)」などに関しては後述することにして、上記の
「狩野内膳筆『南蛮屏風』」の「右隻」に描かれた「日本人として描かれた唯一の女性(さがり藤を染め上げた暖簾脇の女性)」(『キリシタン千利休(山田無庵著・河出書房新社)』では「千利休の娘・お亀」に見立てられている女性)の、その「右足の足首が描かれていない」のは、「聖母マリアがその人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという」=「聖母の被昇天」を意味するものとして理解をいたしたい。
 そして、それは、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」の「左隻」に描かれた「外国(ポルトガルの植民地ゴアかマラッカが想定される)の港から出航する『デウス号』(Deus Go)」が、その「右隻」の日本の港(「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」では「長崎」を想定している)に入港すると、「サンタマリア号」(Santa Maria Go)に様変わりすることと大きく関係しているように理解をいたしたい。
 すなわち、外国 (「イエズス会「の創立者の一人の「フランシスコ・ザビエル」の「世界宣教」を布教せんと出航した異国の地)から、天文十八年(一五四九)八月十五日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、日本の薩摩半島の坊津(現在の鹿児島市祇園之洲町)に来着したとき、「怒れり父の神の『デウス(Deus)』、そして、「その父(Deus)の子たる神の『十字架を背負って殉教した『イエズス=(Jesu Christo)=イエス・キリスト』、そして、その『聖霊(DeusとJesu Christoとの『御霊なる神』)が、「神ではない『父たる神・子たる神・御霊なる神』ではない」、その「子たる神」の母なる「受胎告知をした『聖母マリア』」信仰へと、変身を遂げていることを象徴しているように理解をしたいのである。
 そして、それらのことを、「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」では、その冒頭に、英文で綴っている。それらを再掲して置きたい。

【 (再掲)

Kano Naizen (1570~1616) painted Namban Screens which are now in the possession of the Kobe-City Museum. In this paper I try to compare these Namban Screens with the early Christian literature and Arts in Japan. I find several religious points symbolized by Kano Naizen. The results obtained are as follows : (1)The name of one ship painted on the right screen is Santa Maria Go (サンタ・マリア号), the other ship painted on the left screen is Deus Go (デウス号).(2)The name of an Ecclesia (chapel) painted on the right screen is Assumptio Beatae Mariae Virginis (被昇天の聖母教会), another chapel name painted on the left screen Is Deus (デウス寺).(3)The three persons painted on left screen are Deus Padre Deus Filho (Jesu Christo), and Maria. In other words, the three figures in an exotic church are the Holy Family.(4)On the right screen, a woman who stands by a shop curtain (Noren) and a boy who leads the way are mother and son. They symbolize Maria and Jesu in this world. Naizen was not a Christian, but he was friendly forwards Christian religion and produced a holy work of art.

 (上記「英文」の意訳=未整理)

狩野内膳(1570〜1616)は、現在神戸市立博物館が所蔵している南蛮屏風を描いた。この論稿は、この南蛮屏風を、日本の初期のキリスト教文学や芸術との関連で鑑賞したい。
その狩野内膳の、この南蛮屏風に象徴される宗教的なポイント(宗教性の要点)は、次のとおりとなる。

(1)右隻画面に描かれている船の名前は、「サンタマリア号」(Santa Maria Go)、左隻画面に描かれている船の名前は、「デウス号」(Deus Go)である。

(2)右隻の画面に描かれている教会(南蛮寺)の名前は、「被昇天の聖母教会」(Assumptio Beatae Mariae Virginis)、左隻の画面に描かれている異国の教会(南蛮寺)の名前は、「デウス寺」(Deus)である。

(3)左隻に描かれている三人の画面は、「デウス パドレー」(DeusPadre)、「デウス フィロー」(Deus Filho)=(イエズス=Jesu Christo)と「マリア」(Maria)である。言い換えれば、エキゾチックな教会(異国の南蛮寺)の三人の人物は、「聖家族(デウス、イエズス、マリア)」ということになる。

(4)右隻の画面では、店の暖簾のそばに立つ女性と、道を先導する少年とは、母と子である。そして、その母と子との関係は、「マリアとイエズス」との関係を象徴しているということになる。 】

(追記一)「都の南蛮寺」

http://augusutinusu-t-ukon.cocolog-nifty.com/httpjusutotuko/files/e291aee382a2e383a9e382abe383abe38388e38080e58fb3e8bf91e381a8e983bde381aee58d97e89baee5afbae38080.pdf


 (父ダリオの大活躍)
・1576年、聖母被昇天の8月15日、未完成であったが、落成式を行った 被昇天の聖母教会と名付けられた。ダリオは妻子、親族、及び200名以上とともに来訪し、家族共に告白し多数の人が聖体拝領した。教会が落成すると見物しようと数えきれな人々が押し寄せ、説教が度々行われ、信仰が広まった。
・教会は大きくないが、大変技巧をこらし、丁寧にこぎれいにつくられて、洗練された熟達した石細工と木の細工が施され、教会の上には非常に美しい部屋6室からなる二階が造られた。それは全方角から市内を見渡すことができ、屋根に十字架を頂いた外観は和風の3階建で、オルガンティーノ神父が設計に関わった。
(南蛮寺の場所と都における最初の布教拠点の略図) 
(京都南蛮寺建設、オルガンティーノ神父による摂津・河内の信仰隆盛)
(都地区の布教の変遷)
・1555年 ヴィレラ神父来日
・1556年 トルレス神父ロレンソを都に派遣 比叡山の允許失敗 
・1559年 ヴィレラ神父入京 比叡山の允許失敗
・1560年 ロレンソ修道士入会  ヴィレラ神父、ロレンソ修道士による布教 都での布教許可  大  
     和国・河内国・摂津国等巡回布教 
・1561年 ヴィレラ神父布教拠点を堺に移す
・1562年 ヴィレラ神父都に戻る 姥柳町の仏僧の持家を手に入れる 以後約15年間ここが都の布
     教拠点となる 都で初めての降誕祭には約100名の信徒が集まった 
・1563年 宗論(ロレンソ修道士と結城山城守と清原外記の宗論) 結城・清原の受洗
     大和沢城にいた右近の父ダリオが受洗し、翌年その家族等も受洗 結城氏が仕える三好家の
     飯盛城下では、約70人の家臣が受洗し、続いて三箇氏とその家臣等の大勢の者が受洗し、
     いわゆる河内のキリシタンが誕生する その後順調に布教は進展していく
・1565年 ・フロイス神父豊後から堺へ上陸 上洛 都の布教責任者となる1563年 フロイス来
      日) 
・アルメイダと畿内巡回 (フロイスは、まだ、日本語が未熟で、ヴィレラがいることが必要
      ・将軍義輝弑逆(しぎゃく) 7月内裏による都から宣教師退去命令によりフロイス堺に避
      難 堺を中心に布教
  ・1566年 ヴィレラ神父堺から豊後府内へ去る 長崎へ向かい諸聖人教会を創設
  ・1568年 信長上洛        
  ・1569年 フロイス堺から都に戻る
  ・1570年 オルガンティーノ神父来日 入京        
  ・1570年~1576年:フロイス神父とオルガンティーノ神父による布教
  ・1572年 日本布教長カプラルの都巡見 岐阜で信長と会見 歓待される
  ・1573年 信長、将軍義昭を追放
  ・1574年 カプラル畿内巡見 高槻訪問 高槻に教会が建設され、布教が進展する
  ・1575年 南蛮寺建設計画 1576年完成
  ・1577年~オルガンティーノ神父による布教

(建設に至るまでの経過)
(完成までの経過)  
(キリスト教が邪教であること主張するためつくられた江戸時代の読み物、「南蛮寺興廃記」が記す南蛮寺)
【オルガンティーノ神父について】 (オルガンティーノ神父の日本人観) (日本巡察記 P291)
【日本に最初にキリスト教を伝えたザビエルの日本人観】
【巡察師ヴァリニャーノの都地区の重要性に関する記述(「日本諸事要録」で第11章)
 巡察師ヴァリニャーノの「日本諸事要録」における日本布教の原則
(追記二)空気を読む「宗教」とキリスト者:山本七平の「日本教」再考(深谷潤稿)

http://repository.seinan-gu.ac.jp/bitstream/handle/123456789/1623/hs-n14v1-p41-56-fuk.pdf?sequence=1&isAllowed=y

(追記三)母性原理と父性原理の考察 -日本の将来像を求めて(田辺祐介稿)

https://www.keiwa-c.ac.jp/wp-content/uploads/2013/01/veritas12-08.pdf

(追記四)日本文化の母性原理的な性格とその意味(石井登稿)

(追記五)日本社会における「父性原理」再考(窪龍子稿)

https://ci.nii.ac.jp/naid/120005553413
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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その六) [狩野内膳]

(その六)「豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・寧々・茶々)」周辺

`豊臣家聖家族(一).jpg

「狩野内膳筆『左隻』・豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・淀君そして高台院)」(第五・六扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

 「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)では、その「五 聖家族」で、次のように記している(なお、「追記一」と「追記二」とを参照)。

【 南蛮寺内部に描かれた人物は三人。うち、襞襟(ひだえり)をつけた老年の男性は、ヨゼフというよりデウスその人であり、膝にいだかれた緑衣・白襟袖(えり)の少年はイエズスであり、部屋を隔て、カーテンの脇に片膝をつく女性は、当然聖母マリアとなる。
(中略)
 父と子の居る図番2(注・上記図の左端上部の「父と子」の居る空間)は、《天の国(パライゾ)》でもある。
(中略)
 左隻南蛮寺内部の三人の人物を聖家族という範疇で括りうる表象の一つは、三人が共通して纏う肩掛けである。色も青……聖なる色で統一されている。脇部屋にひざまずくマリア(図番③参照《注・上記図の右端上部の「女性」》)の肩掛けは更に金糸で彩られた小豆(あずき)色の上掛けで掩(おお)われている。
 マリアの姿態に今少し注目すると、左膝を立てて右膝を床(サラセン風の文様のタイルが貼られている)についている。片膝を立てる坐り方は、中世一般に日本女性が行っていたもので、洛中洛外図・職人絵・物語絵巻の中に幾つかの事例を見出すことができる。ただ左手まで床についている所から、単に坐っているのではなく、かしこまった様子がうかがわれる。マリアのかしこまり……《受胎告知》が浮かぶ。
 (中略)
 左隻南蛮寺を余り近くで見すぎたようである。少し足を離そう。すると、デウスとおぼしき男性が小手をかざし何を見つめているかがわかるかもしれない。その対象は、目の前を通り過ぎる貴人(一人は象に乗り、一人はパランキンに乗る)達の群れではない。これらは、南蛮寺が天の宮殿とするならば、いつか捨て去らねばならない世界《Contemptus Muundi》なのである。やはり、左隻半分を占める海と黒船(デウス)であろう。 】

狩野内膳・左隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・左隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

 上記の「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)の「五 聖家族」の長文の引用(原典などと対比して主要部部分を省略)の、その「デウスとおぼしき男性が小手をかざして見つめている男性(「デウス→ヨゼフ→秀吉)」)は、「左隻半分を占める海と黒船(デウス)であろう」と、この上図は、その上部が、「聖なる世界《天の国(パライゾ)》=「聖」の世界)」とすると、その下部は、「俗なる世界《地の国(Contemptus Muundi=ラテン語の「コンテムツス‐ムンジ」=「世を厭う」の意=憂き世)=俗の世界》で、その「俗なる世界」を見つめているのではなく、その遠方の「聖」の世界の「左隻半分を占める海と黒船(デウス)」を見つめているとし、それは「布教の行末をはるかに見守っている」ことに他ならないと鑑賞している。
 そして、それは、「右隻と左隻との対比という観点で見なおすと、日本人として描かれた唯一の女……さがり藤を染め上げた暖簾脇の女性に目がとまる」とし、次のように記述している。

【 左隻のデウスが小手をかざし、右隻の日本女性も同じく小手をかざしている。これは、すでに述べたように(注・「左隻のデウス」は「海と黒船(デウス)」、「右隻の女性」は「同じ足袋を履いている少年」を指す)、それぞれの場面における何かを探していると一応受け取られるが、屏風を左右連続して並べ一つの大きな視野に入れる時、それはさらに、天なる父子と地なる母子の精神的な信仰の世界の共有を意味しているように思われる。その幾何学的空間は、海と空を包んで均整のとれたトライアングルを成し、精神的な静寂をもたらしてくれるようである。  】

南蛮屏風右隻の革足袋の二人.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→ 「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-07
「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

狩野内膳・右隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

パラキンの秀吉・象に乗る秀頼.jpg

「狩野内膳筆『左隻』・豊臣家聖家族(パランキンの秀吉・象に乗る秀頼)」(第五・六扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

 ここで冒頭の「狩野内膳筆『左隻』・豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・淀君そして高台院)」(第五・六扇拡大図)に戻って、その上部の「聖なる世界《天の国(パライゾ)》=「聖」の世界)」の前方(下部)の、「目の前を通り過ぎる貴人(一人は象に乗り、一人はパランキンに乗る)達」の、その「パランキン」(スペイン語の「palanca」=人を運ぶための籠(乗り物))に乗っている人物(老人)は、この上部の「豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・淀君そして高台院)」の、豊臣秀吉との見立てとなってくる。
 そして、もう一人の「象に乗っている人物(若者)」は、これまた、当然のことながら「豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・淀君そして高台院)」の、豊臣秀頼という見立てということになる。
 これらのことは、実際には有り得ない、架空の虚構の創作で、それは、この「南蛮屏風」(「右隻」と「左隻」)を描いた「狩野内膳」の独創的な創見に因ることに他ならない。そして、その独創的な内膳の創見の背後には、晩年の豊臣秀吉を彩る二つの事象が潜んでいる。
 その一つは、文禄三年(一五九四)春の、秀吉の生母・天瑞院の三回忌法要を執りおこなう高野山への参詣途上で催された「豊公吉野花見」(「吉野の観桜会」)であり、これには、その情景を描いた「豊公吉野花見図屏風」(六曲一双・細見美術館蔵)が、その背後に横たわっている。

吉野の花見二.jpg

重要文化財 豊公吉野花見図屛風(左隻) 桃山時代 細見美術館蔵
https://www.fashion-press.net/news/75048
https://www.fashion-press.net/news/gallery/75048/1293657

 この「豊公吉野花見図屛風」については、下記のアドレスの「豊公吉野花見図屛風の寿祝性(三宅秀和稿)」が参考となる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/bigaku/55/3/55_KJ00004585337/_pdf/-char/ja

 また、『近世風俗図譜⑬ 南蛮屏風』では、「南蛮服の日本人」という見出しで、次のように紹介している。

【 太閤秀吉は文禄三年に吉野山で観桜会を催した。南蛮人宣教師は、秀吉がこの行列に際して家臣に南蛮の服装で加わることを命じたと報じているが、事実この有名な花見図には、日本人で南蛮服をまとっている人たちが幾人も見いだせるのである。 】(『近世風俗図譜⑬ 南蛮屏風』所収「南蛮文化考え(松田毅一稿)」)

 もう一人の、「象に乗っている人物(若者)」については、慶長二年(一五九七)、秀吉、六十歳、そして、秀頼、六歳前後に、当時の「マニラの総督ドン・フランシスコ・テーリョ」より、象一頭(象名=ドン・ペドロ)が贈られ、二人が、その象に謁見した様が、『日本王国記』(スペインの貿易商アビラ・フロン著)に、下記のアドレスのとおり記されている(その抜粋を掲載して置きたい)。

http://blog.livedoor.jp/misemono/archives/51983789.html

【(アビラ・フロン『日本王国記』)抜粋

 第九章 マニラの総督ドン・フランシスコ・テーリョ、太閤に使節を送り、聖殉教者の遺骸を求める

  聖殉教に続く八月、すなわち同じ九七年のことであったが、ここから十五レグワ隔たった平戸の港ならびに市へ、マニラ市の使節として、かの地の総督(ゴベルナドール)ドン・フランシスコ・テーリョに派遣された船長(カピタン)ドン・ルイス・デ・ナバレーテ・ファハルドが到着した。(中略)彼は象一頭、前述の総督の肖像、その他貴重な品々を国王に持って来た。平戸に着くやいなや、ただちに首都(コルテ)に向けて出発し、大坂に到着したが、そのとき太閤は堺の市にして、使節の到着を知るとただちに使節のもとに赴いた。(中略)

 何はさておきマニラの使節一行は日本では見たことのない象を通りに引き出した。カンボジャの王が何年も前に豊後の殿ドン・フランシスコ[大友宗麟]に象を一頭送ったことがあるにはあったが、間もなく死んでしまったので、その地方の幾つかの村や町の物しか象を見ていないからである。そんなわけで大勢の人々が象を見ようと駆けつけて来たので、いくら棒で打ち叩いても群衆を立ち退かせることはできなかったばかりか、遂には国王の家来(クリアード)たちが多数、百人の獄卒を連れてやって来て道を開けさせなければならなかったし、幾人かの死者を出したほどであった。

 一行が城に到着すると、奉行(ゴベルナドール)の治部少輔[石田三成]と玄以法印その他の諸公(セニヨール)が、ドン・ルイスを迎えたが、そのとき彼は下痢でひどく衰弱していた。一行は中に入って、第一の座敷に着いたが、そこへ太閤が象を見ようと、当時六歳の子息秀頼の手をひいて出て来た。ドン・ルイス、ディエゴ・デ・ソーザ、それに連れて行った他の四人の者は太閤の前に進み出て、われわれの方式の挨拶、つまり三度おじぎをして、それからそのまま立っていた。国王も同じように挨拶し、非常に愛想よく使節に話しかけ、また通訳のロレンソにディエゴ・デ・ソーザはいかなる人かとたずねられた。するとロレンソはありのままに答えた。そこでディエゴ・デ・ソーザにも言葉をかけ、かたがた、よくぞ参られたといったのである。

 それから象のいるところへ近づいて行ったが、象は太閤がやって来るのを見るやいなや、象使いの命令で地面に三度ひざまずき、鼻を頭の上にもち上げて、大きな吠声を放った。国王は驚嘆して、あれは一体何事かとロレンソに訊ねられた。相手は、すでに殿下をそれと存じあげていましたので、あのようなご挨拶をいたしたのでございますと答えた。太閤はいたく感嘆して、名前はあるのかと訊ねられた。すると人々はドン・ペドロと呼んでおりますと言った。太閤は下にこそ降りなかったが座敷のはじまで近づいて行って、ドン・ペドロ、ドン・ペドロと二度呼びかけた。すると象は再び同じようなお辞儀をしたので、太閤はいたく満悦して、「さて、さて、さて」と言いながら、幾度か気ぜわしく手をたたいた。

 そこには、当時朝鮮に行っていた諸公は別として、日本のすべての大名(セニヨール)が列席していたが、立っている者はただ一人もなく、いずれも頭を低くたれて坐っていた。象は何を食うのかと太閤が訊ねられた。与えられるものなら何でも食べますると人々が言った。間もなく、まくわ瓜と桃を盛った二つの大皿が運ばれて来た。すると太閤みずからその一つをとって象に与えると、象はそれを鼻の先で取りあげ、頭の上にのせたが、これは日本人たちが行なうのと同じ儀礼である。それから象はそれを食べたが、残りの果物を前に置いてやると、瞬く間に、ものも言わずに、まくわ瓜と桃とを、種も核も出さずに、ぺろりと平げた。国王は、象を眺め、こういう醜いけものがすばらしい知恵を持っているという人々の話に耳を傾けて飽きるところがなかった。太閤は隣りの座敷へ引きあげたが、そこには果物や日本のいろんな食物、それに暖めた酒が運ばれたが、太閤はそれを使節とその一行にふるまい、彼らを手厚くもてなして、自分はこれから休息いたすつもりである、なお使節の携えた書簡は都で読みたいと思うと言って、一行にいとまを告げられた。こういう次第で、一行は宿舎へ赴いたのである。(後略)。 】

追記一 「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」周辺について

https://ci.nii.ac.jp/naid/110001149737

【 (上記論稿の最初に書かれている「英文」の要約)=未整理のままに掲載

Kano Naizen (1570~1616) painted Namban Screens which are now in the possession of the Kobe-City Museum. In this paper I try to compare these Namban Screens with the early Christian literature and Arts in Japan. I find several religious points symbolized by Kano Naizen. The results obtained are as follows : (1)The name of one ship painted on the right screen is Santa Maria Go (サンタ・マリア号), the other ship painted on the left screen is Deus Go (デウス号).(2)The name of an Ecclesia (chapel) painted on the right screen is Assumptio Beatae Mariae Virginis (被昇天の聖母教会), another chapel name painted on the left screen Is Deus (デウス寺).(3)The three persons painted on left screen are Deus Padre Deus Filho (Jesu Christo), and Maria. In other words, the three figures in an exotic church are the Holy Family.(4)On the right screen, a woman who stands by a shop curtain (Noren) and a boy who leads the way are mother and son. They symbolize Maria and Jesu in this world. Naizen was not a Christian, but he was friendly forwards Christian religion and produced a holy work of art.

 (上記「英文」の意訳)

 狩野内膳(1570〜1616)は、現在神戸市立博物館が所蔵している南蛮屏風を描いた。この論稿は、この南蛮屏風を、日本の初期のキリスト教文学や芸術との関連で鑑賞したい。
 その狩野内膳の、この南蛮屏風に象徴される宗教的なポイント(宗教性の要点)は、次のとおりとなる。

(1)右隻画面に描かれている船の名前は、「サンタマリア号」(Santa Maria Go)、左隻画面に描かれている船の名前は、「デウス号」(Deus Go)である。

(2)右隻の画面に描かれている教会(南蛮寺)の名前は、「被昇天の聖母教会」(Assumptio Beatae Mariae Virginis)、左隻の画面に描かれている異国の教会(南蛮寺)の名前は、「デウス寺」(Deus)である。

(3)左隻に描かれている三人の画面は、「デウス パドレー」(DeusPadre)、「デウス フィロー」(Deus Filho)=(イエズス=Jesu Christo)と「マリア」(Maria)である。言い換えれば、エキゾチックな教会(異国の南蛮寺)の三人の人物は、「聖家族(デウス、イエズス、マリア)」ということになる。

(4)右隻の画面では、店の暖簾のそばに立つ女性と、道を先導する少年とは、母と子である。そして、その母と子との関係は、「マリアとイエズス」との関係を象徴しているということになる。

 狩野内膳は、キリスト教徒ではないが、この内膳が描いた「南蛮屏風」は、キリスト教の本質をとらえ、前向きに且つ友好的に表現して、それを、神聖な芸術作品にまで高めている。  】

追記二 「こんてむつすむんぢ抄」周辺

「こんてむつすむんぢ抄」(底本:吉利支丹文学抄、1926年 編者:村岡典嗣 発行所:改造社)については、下記のアドレスで、その全文を見ることが出来る。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%A6%E3%82%80%E3%81%A4%E3%81%99%E3%82%80%E3%82%93%E3%81%A2%E6%8A%84
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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その五) [狩野内膳]

(その五)「豊臣家聖家族(脇室の女性は誰か?)」周辺

豊臣家聖家族.jpg

「狩野内膳筆『左隻』・豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・淀君そして高台院)」(第五・六扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

 「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)では、その「八 おわりに」で、次のように記している。

【 慶長三年八月十八日秀吉六十三歳で没するが、その直前に本屏風は出来ていたと筆者は推定する。それは、左隻聖家族の別視点からの” 見なし“から成り立っている。文禄・慶長の役と朝鮮出兵に失敗してからも、秀吉の夢は世界制覇にあったと伝えられている。だとすると、秀吉の夢……外国に宮殿を造り、そこに秀頼と赴く……を描いたものであれば、キリシタンの関係の事象がいくつか描いてあっても咎めがその絵師には及ぶはずはない。つまり聖家族の父子は、秀吉と秀頼、脇部屋の女性は淀君(秀頼母)と見なすのである。そう言えば、左隻の老父は、高台寺蔵などの秀吉絵像に似ていないであろうか。 】「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)

 この末尾記述の、「左隻の老父は、高台寺蔵などの秀吉絵像に似ていないであろうか」の、その「高台寺蔵などの秀吉絵像」は、次の絵像などを想定しているのであろう。

秀吉と寧々像二.jpg

左「豊臣秀吉像 弓箴善疆賛(慶長六年《1601》)」(高台寺蔵)
右「高台院像」(高台寺蔵) 
https://www.kodaiji.com/museum/Treasure.html

 この「豊臣秀吉像」と「高台院像」とは、高台寺所蔵のもので、別々に制作されたものだが、一対のものと解して差し支えなかろう。
 高台寺は、慶長十一年(一六〇六)に関白・豊臣秀吉正室・北政所が慶長三年(一五九八)に亡くなった豊臣秀吉の菩提を弔う為、弓箴善彊(きゅうしんぜんきょう)を開山として創建しもので、北政所は当初実母・朝日局が弔われている菩提寺・康徳寺に弔うとしたが、手狭だったことから岩栖院と敷地交換して、現在の場所に創建したと言われている。
 名称は北政所の落飾(仏門に入る)後の慶長八年(一六〇三)に後陽成天皇から賜った院号・高台院湖月尼(こうだいいんこげつに)に由来している。
 そして、江戸幕府初代将軍・徳川家康は北政所を手厚く扱い、普請奉行に京都所司代・板倉勝重、普請御用掛に酒井忠世と土井利勝、普請掛に堀直政(堀監物)とを任命している。
 この「豊臣秀吉像」には、その高台寺開山の曹洞宗の「弓箴善彊」の賛があり、慶長六年(一六〇一)の制作ということで、晩年の「豊臣秀吉像」のスタンダードとなる画像なのであろう。
 そして、この「高台院像」も、そのスタンダードな「豊臣秀吉像」と好一対の、高台寺創建の頃の「高台院像」の実像に近いものと解したい。

`秀吉と寧々像.jpg

「名古屋市秀吉清正記念館蔵《高台院(おね)画像》に関する考察ノート(池田洋子稿)」所収「参照挿図(「ⅠのⅠ」=高台院像、「2のⅠ」=関白秀吉像)」
http://www.nzu.ac.jp/lib/journal/files/2012/4.pdf

 「豊臣秀吉像」と「高台院像」は、名古屋市秀吉清正記念館蔵のものもあり、その「高台院像」については、上記の「名古屋市秀吉清正記念館蔵《高台院(おね)画像》に関する考察ノート(池田洋子稿)」で詳細に紹介されている。
 それに因ると、「高台院像」に書かれている賛から、寛文六年(一六六六)作で、高台院も、「若々しい容貌で、神格化された晩年の『豊臣家』を意識した高台院像」ではないとコメントされており、先の高台寺蔵の「高台院像」よりも、さらに高台院の実像に近いものなのかも知れない。

高台院像二.jpg

高台院画像(名古屋市秀吉清正記念館蔵)
江戸時代前期 寛文6年(1666年) 名古屋市指定文化財
https://www.city.nagoya.jp/kurashi/category/19-15-2-5-0-0-0-0-0-0.html

`寧々像(マリア像).jpg

「狩野内膳筆『左隻』・豊臣家聖家族(淀君?→高台院)」(第五扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)では、上記下図の「豊臣家聖家族」の「脇部屋の女性は淀君(秀頼母)と見なすのである」が、ここは、落飾(仏門に入る)後の「豊臣秀吉正室→北政所→高台院」の、上記上図の「高台院」のイメージに解したい。

`寧々と淀君.jpg

左「「高台院像」(高台寺蔵)の部分拡大図 
右「伝淀殿画像』(奈良県立美術館蔵)の部分拡大図(「ウィキペディア」) 

【東洋画題綜覧 (「茶々・淀君」)
豊臣秀吉の側室、姓は浅井、名は茶々、淀君又は淀殿と称へる、浅井長政の長女で、母の小谷の方は織田信長の妹である、長政戦死するや、小谷の方は子女を伴つて信長に拠つたが、柴田勝家に嫁することゝなつたので淀君も亦之に従つた、然るに勝家また秀吉に攻められて北庄の城に自刃し、小谷の方も之に殉じた、そこで淀君は叔父の織田長益に頼つたが、秀吉偶々淀君を見てその美貌を喜び容れて側室とし寵愛至らざるなく、遠征の途なほこれを伴つた、文禄二年秀頼を生むに及び勢力を加ふ、三年秀次自刃するや秀頼、秀吉の嗣となつたので、淀君は生母たる所以をもつて益々権力を振つたので、大名の中には私に心を寄するものあり、期せずして秀吉の正室杉原氏に心を寄するものと、淀君に与するものと二派に岐れて隙を生じた、慶長四年秀吉薨ずるや、秀頼を助けて大阪城に居り、権勢を恣にしたが、大野治長を近づけて乱行に及び、更に治長に勧められて秀頼をして事を起さしめ家康を図らうとしたが、戦利あらず元和元年五月八日大阪城陥り秀頼と共に自殺した、年三十九。  (野史)
北野恒富筆  『茶々』  第八回日本美術院展
市原寿一筆  『淀君』  第七回帝展出品
伊藤竜涯筆  『同』   同  (『東洋画題綜覧』金井紫雲)    】
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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その四) [狩野内膳]

(その四)「南蛮唐物屋の女性」周辺

千利休の娘・亀?.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「千利休・南蛮唐物屋の女性=千利休の娘の亀?・フランシスコ会員・イエズス会員」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 この右端の「足首のない女性」は、「赤紐で旅装用の模様の付いた革足袋」を履いている。
この女性は、『南蛮屏風の女と岩佐又兵衛(千草子著)』では、「足袋のもとである単皮(注・たんぴ=鹿などの動物の一枚革の足袋)を、冬でもないのに、なぜはいているのか。これは、遠出 ― 旅支度である。この女 ― 藤の暖簾がかかっているから、藤屋の女としておこう」(『南蛮屏風の女と岩佐又兵衛(千草子著)』所収「あとがき」)と、その二部作(「第一部 南蛮屏風の女」「第二部 ささやき竹―あるいは、洞の聖母子」)の、フィクション(小説)もので、「狩野内膳の妻・岩佐又兵衛の執心(注・思い慕った)の女性」として見立てられている。
 この『南蛮屏風の女と岩佐又兵衛(千草子著)』は、フィクション(小説)もので、その「あとがき」を見ると、別名(小林千草稿)の「内膳南蛮屏風の宗教性」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)が、このフィクション(小説)ものの、その背景となっている論稿のようなのである。
 そして、その論稿の「内膳南蛮屏風の宗教性」(小林千草稿)が、下記のアドレスで、その全容を知ることが出来る。

https://ci.nii.ac.jp/naid/110001149737

 さらに、この「内膳南蛮屏風の宗教性」(小林千草稿)を主要な参考文献としている次のアドレスの「長崎ディープ ブログ」(「南蛮屏風」を読む9)では、この「足首のない、革足袋を履いた女性」と「黒いマントの神父(ヴァリニャーノ神父)の横にいる、小綺麗な着物姿の少年(先に「天正少年使節団」の「伊東マンショ(主席正使)」と見立てた)」とは「親子なのではなかろうか」との見方をしている。

http://blog.nadeg.jp/?eid=25

南蛮屏風右隻の革足袋の二人.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→ 「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-07
「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 この右端の女性(足首が無く、旅装用の革足袋を履いている)と、左端の正装した少年(右端の女性と同じ模様の革足袋を履いている)とを「親子関係」と見立てると、中央の老人(左手に数珠を持ち、右手で杖をついている)は、「ロレンソ了斎」のイメージがから、敢然として「千利休」のイメージと豹変してくる。そして、それは、即、「千家(千利休家)の聖家族(ファミリー)」のイメージと重なってくる。

中央の老人→千利休(千家一世)・千少庵(千家二世、利休後妻の連れ子、利休娘・亀の夫)
左端の少年→千宗旦(千家三世、三千家の祖、少庵と亀の子、千家中興の祖、乞食宗旦)
右端の女性→(お)亀(利休の娘、少庵の妻、宗旦の母)

千家系図(千利休→千少庵→千宗旦)

千利休家系図.jpg

「千利休と女たち」
https://ameblo.jp/morikawa1113/entry-12258588885.html

 ここで、これまでの「宗達ファンタジー・三藐院ファンタジー・又兵衛ファンタジー」に続く「内膳ファンタジー(その一)」として、次の「内膳南蛮屏風の唯一の女性は何故『足首が描かれていないのか?』」周辺について、未整理のままにメモ的に記して置きたい。

(「内膳ファンタジー」その一)「内膳南蛮屏風の唯一の女性は何故『足首が描かれていないのか?』」

中央の老人→千利休(千家一世)・千少庵(千家二世、利休後妻の連れ子、利休娘・亀の夫)
左端の少年→千宗旦(千家三世、三千家の祖、少庵と亀の子、千家中興の祖、乞食宗旦)
右端の女性→(お)亀(利休の娘、少庵の妻)

千利休(千家一世)→大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日)
千少庵(千家二世、利休後妻の連れ子、利休娘・亀の夫)→天文15年(1546年)- 慶長19年9月7日(1614年10月10日)
千宗旦(千家三世、三千家の祖、少庵と亀の子、千家中興の祖、乞食宗旦)→天正6年1月1日(1578年2月7日)- 万治元年11月19日(1658年12月19日)
(お)亀(利休の娘、少庵の妻)→生年不詳 - 慶長11年10月29日(1606年11月29日)

 千利休の死とその死因などについては、今に至るまで、全くの謎のままである。その死の原因などについて、下記のアドレスでは、次のとおり紹介した(さらに「ウィキペディア」などにより補注・追加などを施した)。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

「千利休の賜死(切腹?)」の真相を巡る見解のあれこれ

一 売僧行為(茶道具不当売買)説→『多聞院日記』巻三十七、天正19年2月28日条(1591年4月21日)
二 大徳寺木像不敬説→勧修寺晴豊『晴豊公記』第七巻、天正19年2月26日条(1591年4月19日)、吉田兼見『兼見卿記』巻十六、天正19年2月26日条(1591年4月19日)
三 利休の娘説→『南方録』第七巻・滅後、『秀頼公御小姓古田九郎八直談、十市縫殿助物語』承応2年(1653年)
四 秀吉毒殺説→ 岡倉天心薯『茶の本』国立国会図書館、千利休薯『利休百会記』岡山大学付属図書館
五 利休専横の疑い説→平直方『夏山雑談』巻之五、寛保元年(1741年)
六 利休キリシタン説→小松茂美『利休の手紙 310頁「細川家記」』1985年・小学館
七 利休芸術至上主義の抵抗説→芳賀幸四郎『千利休』(吉川弘文館、1963年)、米原正義『天下一名人千利休』(淡交社、1993年)、児島孝『数寄の革命―利休と織部の死―』(思文閣出版、2006年)
八 利休所持茶道具の献上拒否説→竹中重門『豐鑑』国立国会図書館デジタルコレクション
(「ウィキペディア」などにより下記を追加)
九 秀吉の朝鮮出兵を批判したという説→杉本捷雄『千利休とその周辺』淡交社、1970年
十 交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれたという説→会田雄次・山崎正和対談「利休が目指し、挫折したもの」(『プレジデント』27(9) 《特集》千利休、1989年9月)
十一 秀吉は「わび茶」を陰気なものとして嫌っており、黄金の茶室にて華やかで伸びやかな茶を点てさせた事に不満を持っていた利休が信楽焼の茶碗を作成し、これを知った秀吉からその茶碗を処分するよう命じられるも、拒否したという説→笠原一男編集『学習漫画 人物日本の歴史〈12〉織田信長・豊臣秀吉・千利休―安土・桃山時代』集英社
十二 豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さからくる政治闘争に巻き込まれたという説→田孫四郎雄翟 編『武功夜話』巻十七、寛永15年(1638年)

 これまでの「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜と、「天正遣欧使使節団の豊臣秀吉謁見」・「千利休賜死(切腹?)」周辺年譜は、下記のアドレスなどにより、次のとおりである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-27

「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜と「天正遣欧使使節団の豊臣秀吉謁見」・「千利休賜死(切腹?)」周辺年譜

天正十八年(一五九〇)
七月二十一日 「天正少年使節団」、ゴア、マカオに長期逗留の後、長崎に帰帆。
(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ)
七月二十一日 長崎上陸。有馬など巡察。長崎(第一回協議会)
八月十三日~十五日 島原半島加津佐(第二回協議会)
十一月初旬 長崎→諫早→有明海を渡って佐賀→→久留米→秋月→小倉→下関、海路を辿った「天正少年使節団」と合流し、瀬戸内海を東航して播磨の室津へ。
(「フロイス」第二二章)関白(秀吉)坂東での勝利を収めて天下統一。
(「同」第二三章)巡察師(ヴァリニャーノ)秀吉謁見のため京都(聚楽第)へ旅立つ。
(「同」第二四章)巡察師、室津(播磨=兵庫の室津港)に逗留。
1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。

天正十九年(一五九一)
(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ)
一月十五日(天正十九年元旦) 秀吉より上京せよとの通告。
二月十七日 室津を出航。
二月十九日 大阪に着く(大阪に三日滞在、淀川を遡て鳥羽を経る)
二月二十三日 都(京都)に入る
(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ)
三月三日(「天正十九年閏正月八日)三月三日「天正少年使節団」、京都の聚楽第で豊臣秀吉と謁見。
(「フロイス」第二六章)関白(秀吉)、巡察師(ヴァリニャーノ)とその同伴者(「天正少年使節団」)と謁見・饗応。
(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ)
三月の末、都(京都)を離れ、大阪から海路、平戸を経て長崎に着き、さらに、二日後和津佐の学院に帰着。
1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。
《天正19年(1591年)2月13日(新暦「四月六日」か?)→利休は突然、京都を追放され堺の自宅に蟄居させられる。
同年2月25日(新暦「四月十八日」か?)→京都一条戻橋に、大徳寺山門にあった問題の利休木像が磔にされる。
同年2月28日(新暦「四月二十一日」か?)→木像の下に利休の首がさらされる。》

 ここで、この「千利休賜死(切腹?)」後の、千家(千少庵・千宗旦など)は、一時取り潰しの状態におかれ、利休の「先妻・宝心妙樹(上記家系図の「お稲」)の子である嫡男・千道安(上記家系図の「紹安」=堺千家=後に断絶)」は、飛騨高山藩主金森長近に謹慎・蟄居を命ぜられ(「ウィキペディア・千道安」)、同じく、「後妻・宗恩の連れ子で娘婿でもある千少庵=京千家」は、会津藩の蒲生氏郷のもとに謹慎・蟄居を命じられている(「ウィキペディア・千道安」)。
 その他の千利休の身内も、この「千道安(堺千家)・千少庵(京千家)」の謹慎・蟄居の処分に関連しての過酷のものであったことは想像するに難くない。そして、千少庵とお亀の子の「千宗旦」(「三千家」の祖)は、「千利休賜死(切腹?)」前の、天正十六年(一五八八)の十歳の頃に、大徳寺の仏門に入り、後に、春屋宗園のもとで禅の修行を積み、得度している(「ウィキペディア・千宗旦」)。
 これらの「千道安(堺千家)・千少庵(京千家)の謹慎・蟄居」が解かれたのは、文禄三年(一五九四)のことで、この時に、「千宗旦」(十七歳?)は「千少庵」の希望で還俗し、「この際、豊臣秀吉が利休から召し上げた茶道具を宗旦を名指しして返したことから、伯父の道安ではなく宗旦が利休の後継者と目されるようになったとも言われている。しかし、聞き書きである『茶話指月集』の情報であるため、確証があるわけではない(「ウィキペディア・千宗旦」))。
 この「千宗旦」が「千少庵」の家督を継いだのは、慶長五年(一六〇〇)の「関ケ原合戦」があった年で、ここから「豊臣時代」から「徳川時代」へと歴史の流れは大きく変動する年にあたる。この時に、「千宗旦」は、二十三歳(?)の頃で、その六年後の、慶長十一年(一六〇六)に、上図の右端の女性に見立てられる「(お)亀」(利休の娘、少庵の妻、宗旦の母)は没する。この「(お)亀」と見立てられる女性の「足首は描かれず、旅装用の足袋を履いている」ということは、この女性(「(お)亀」)は昇天して、別世界に旅立ったということを意味するのであろう。
 ここで、この「千少庵」の家督を継いだ、慶長五年(一六〇〇)の「関ケ原合戦」から、その慶長時代が終焉し、「元和元年(一六一五)」になるまでの、「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜(抜粋)は、次のとおりである。

【「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜(抜粋「一六〇〇~一六一五)

※1600年(慶長5年)高山右近49歳 関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦いでは東軍に属し、丹羽長重を撃退する。
※※1600年(慶長5年)黒田如水55歳 関ヶ原の戦いが起こる。石垣原の戦いで、大友義統軍を破る。
※※※1600年(慶長5年)結城秀康27歳 関ヶ原の戦いの直前、徳川家康と共に会津藩(現在の福島県)の上杉景勝の討伐へ出陣。道中、石田三成挙兵を知り、徳川家康は西へ引き返す。一方で結城秀康は宇都宮城に留まり、上杉景勝からの防戦に努めた。関ヶ原の戦い後に徳川家康より、越前・北の庄城(福井県福井市)68万石に加増される。
〇1603年(慶長8年)松平忠直7歳 江戸参勤のおりに江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に初対面している。秀忠は大いに気に入り、三河守と呼んで自らの脇に置いたという。
※※1604年(慶長9年)黒田如水59歳 京都の伏見藩邸で死去する。
※※※1604年(慶長9年)結城秀康31歳 結城晴朝から家督を相続し、松平に改姓。
〇〇1604年(慶長9年)岩佐又兵衛 27歳 秀吉の七回忌、京で豊国祭礼
●1604年(慶長9年)狩野内膳36歳 秀吉七回忌の豊国明神臨時祭礼の「豊国祭礼図」を描く。
〇1605年(慶長10年)松平忠直 9歳 従四位下・侍従に叙任され、三河守を兼任する。
※※※1606年(慶長11年)結城秀康33歳  徳川家から伏見城(京都府京都市伏見区)の居留守役を命じられて入城するも、病に罹り重篤化する。
●1606年(慶長11年)狩野内膳37歳 1606年、片桐且元、内膳の「豊国祭礼図」を神社に奉納(梵舜日記)。弟子に荒木村重の子岩佐又兵衛との説(追考浮世絵類考/山東京伝)もある。
※※※1607年(慶長12年)結城秀康34歳  越前国へ帰国し、のちに病没。
〇1607年(慶長12年)松平忠直 13歳 結城秀康の死に伴って越前75万石を相続する。
〇1611年(慶長16年)松平忠直 17歳 左近衛権少将に遷任(従四位上)、三河守如元。この春、家康の上京に伴い、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。9月には、秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎える。
〇1612年(慶長17年)松平忠直 18歳 重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部、盛次)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。
〇1613年(慶長18年)松平忠直 19歳 家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに本多富正が越前の国政を執ることとされ、加えて本多富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは、騒動が重なるのは、忠直がまだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである。
〇〇1613年(慶長18年) 岩佐又兵衛 37歳 この頃、舟木本「洛中洛外図屏風」
※1614年(慶長19年)高山右近63歳 キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
〇1614年(慶長19年)松平忠直 20歳 大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げている。家康は孫の活躍を喜び、「初花肩衝」(大名物)を与えている。また秀忠も「貞宗の御差添」を与えている。
※1615年(慶長20年/元和元年)高山右近64歳 前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。 】

 いみじくも、この「周辺略年譜(抜粋「一六〇〇~一六一五)」は、高山右近の「関ケ原戦い」(「東軍=徳川軍)に始まり、その「高山右近の死」(味方した「東軍=徳川家康」の「キリスト教の禁教令」での国外追放による「マニラの死」)で終わっている。

南蛮屏風右隻の革足袋の二人.jpg

(再掲)「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)→「内膳南蛮屏風・右隻・利休?」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-07

 この上図を読み解くための、その順序とその周辺のことを、箇条書きに要点のみ記して置きたい。

一 右端の女性「お亀?」(利休の娘・少庵の妻・宗旦の母)の視線は、左端の正装した少年「宗旦?」(利休の孫、少庵と亀の子、千家三世、千家中興の祖、乞食宗旦)の方に向いている。そして、その右端の少年「宗旦?」の視線は、中央に描かれている老人「千利休?」(わび茶《草庵の茶》の完成者=千家一世、この背景に、「千家二世・千少庵」のイメージが潜んでいる?)と、その脇の二人の「フランシスコ会修道士」(托鉢修道士・乞食修道士)に注がれている。

豊臣家聖家族.jpg

「狩野内膳筆『左隻』・豊臣家聖家族(秀吉・秀頼・淀君そして高台院)」(第一・二扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

 「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)では、その「八 おわりに」で、次のように記している。

【 慶長三年八月十八日秀吉六十三歳で没するが、その直前に本屏風は出来ていたと筆者は推定する。それは、左隻聖家族の別視点からの” 見なし“から成り立っている。文禄・慶長の役と朝鮮出兵に失敗してからも、秀吉の夢は世界制覇にあったと伝えられている。だとすると、秀吉の夢……外国に宮殿を造り、そこに秀頼と赴く……を描いたものであれば、キリシタンの関係の事象がいくつか描いてあっても咎めがその絵師には及ぶはずはない。つまり聖家族の父子は、秀吉と秀頼、脇部屋の女性は淀君(秀頼母)と見なすのである。そう言えば、左隻の老父は、高台寺蔵などの秀吉絵像に似ていないであろうか。 】「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)

二 この左隻の「聖家族」(豊臣秀吉・秀頼そして淀君=秀頼生母)に「高台院」(秀吉正室・秀頼正母=お寧・寧々・北政所)を加えると、先の右隻の「千家聖家族」(千利休・宗旦・お亀そして少庵)と見事に対応することとなる。

 豊臣秀吉     ⇄ 千利休
 豊臣秀頼     ⇄ 千宗旦
 淀君(秀頼生母) ⇄ お亀(宗旦生母)
 高台院(秀吉正室・秀頼正母)⇄ 千少庵(宗旦の父、お亀の夫、利休の後妻の連れ子)
(注・上記の「淀君」の背後に「高台院」が潜み、「千利休」の背後に「少庵」が潜んでいる。)

三 ここで、「千利休はキリシタンなのか? 千利休の、この『コンタス=ロザリオの鎖とT(タウ)型の杖』は何を意味するのか?」などについては、「千利休は、生前はキリシタンではなかった。そして、キリシタンの洗礼名も受けていない。しかし、豊臣秀吉より「賜死(切腹?)」させられて、その死後、その『コンタス=ロザリオの鎖とT(タウ)型の杖』を、愛弟子の「利休七哲」(前田利長《加賀の肥前》、蒲生氏郷、細川忠興《三斎》、古田織部、牧村兵部、高山南坊《右近》、芝山監物)の一人の、「高山南坊《右近》」より、利休の娘の「お亀」に託され、その「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日》)に、今は亡き、茶人として生涯を全うした「千利休」は、この「コンタス=ロザリオの鎖とT(タウ)型の杖」を継受するに至ったと理解をしたい。
 そして、その理解に至った理由の一つとして、平成二十八年(二〇一六)の「高山右近福者認定記念」に際し、バチカン教皇庁が明らかにした高山右近とその業績の一つ「教会の柱石」中で、「(高山右近が)千利休を含め、彼の多くの弟子たちにキリスト教を伝え、何人もの人をキリスト教に導き」 との記述(バナー「ユスト高山右近」、カトリック中央協議会、(https://www.cbcj.catholic.jp/2015/10/01/10440/)、2020 年 9 月 21 日閲覧)】(「キリスト教宣教としての茶の湯 ―大阪の史跡を中心に―(朴賢淑稿)」抜粋)を挙げて置きたい。

http://ir-lib.wilmina.ac.jp/dspace/bitstream/10775/3723/3/08U05.pdf

【 利休がキリスト教を積極的に排除しないものの、イエズス会宣教師による洗礼者名簿やキリシタン名簿に利休が全く言及されてないこと、利休がキリスト教では禁止されている一夫多妻制婚であったことなどから利休キリシタン説を否定している。(※増渕宗一『茶道と十字架』、角川書店、1996 年)
 しかし、2016 年の高山右近福者認定記念に際し、バチカン教皇庁が明らかにした高山右
近とその業績の一つ「教会の柱石」中で、「(高山右近が)千利休を含め、彼の多くの弟子
たちにキリスト教を伝え、何人もの人をキリスト教に導き」 との記述がある。(※バナー「ユスト高山右近」、カトリック中央協議会、(https://www.cbcj.catholic.jp/2015/10/01/10440/)、
2020 年 9 月 21 日閲覧)】(「キリスト教宣教としての茶の湯 ―大阪の史跡を中心に―(朴賢淑稿)p79、脚注36」抜粋)

四 ここで、何故、≪「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日≫》に拘るのかというと、それは、この「お亀」と見立てられる、この右端に描かれている女性の「足首が描かれていない」という、その特異性に起因するに他ならない。
 そして、この慶長十一年(一六〇六)というのは、「周辺略年譜(抜粋「一六〇六)」)では、下記のとおり、この「南蛮屏風(紙本金地著色・六曲一双・神戸市立博物館蔵)」を描いた「狩野内膳」が、もう一つの代表作とされている「豊国祭礼図屏風」(紙本著色・六曲一双・豊国神社蔵)を神社に奉納(梵舜日記)した年なのである。

【●1606年(慶長11年)狩野内膳37歳 1606年、片桐且元、内膳の「豊国祭礼図」を神社に奉納(梵舜日記)。弟子に荒木村重の子岩佐又兵衛との説(追考浮世絵類考/山東京伝)もある。】

 この「豊国祭礼図屏風」の神社への奉納が「片桐且元」ということは、慶長九年(一六〇四)の「秀吉七回忌」の「豊国祭礼」の総奉行であり、その依頼主は、時の大阪城に君臨していた「豊臣秀吉の継嗣・秀頼とその生母・淀君」の命を受けたということに他ならない。
 そして、この「豊臣秀頼・淀君」が狩野内膳に描かせたとされている「豊国祭礼図屏風」(豊国神社本)の描写中の「皺くちゃな顔の高台院」(「左隻」第三扇中部)を介在しての、当時の「大阪城の『淀君』(秀吉側室・秀頼生母=母)」と「京都高台寺の『高台院』(秀吉正室・秀頼正=母上)」との「相克・葛藤・軋轢」などについて、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』の指摘を中心にして、下記のアドレスで紹介してきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-07

高台院二・豊國神社本.jpg

「豊国祭礼図屏風(左隻)」(豊国神社蔵=豊国神社本)第三扇中部拡大図「桟敷に坐っている老尼」』

【(再掲)

《 狩野内膳は、淀殿・秀頼の注文(指示)通りに、図Ⅵ-5や図Ⅵ-7(「図Ⅵ-8」の誤記?)のような皺くちゃで怖い顔をした高台院を「豊国祭礼図屏風」のなかに描いたのである。
なお、皺だらけで怖い顔に高台院が描かれているという私の見解に対して、それは主観的判断なのではないかとこだわる人がいると思う。確かに美醜は厄介である。本章では、徳川美術館本しか比較していないが、管見の近世初期風俗画の諸作品については、老人・老女がどのように描かれているかの比較・検討は、私は悉皆的に行ってみた。その結果では、豊国神社本の老尼表現の特異性は明瞭であった。(以下、略)  》『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』(P-196)

 そして、これらの背景については、次のように記述している。

《 慶長九年八月に執り行われた豊国大明神臨時祭礼に臨席できなかった淀殿と秀頼は、狩野内膳に命じてその盛大な祭礼のありさまを屏風に描かせることにした。しかし、同十年に生じた家康と淀殿・秀頼の間の政治的緊張のなかで、家康の使者となった高台院に対して激しい怒りを抱いた淀殿・秀頼は、高台院を皺だらけの怖い顔の老尼として描いた屏風つまり豊国神社本「豊国祭礼図屏風」をつくらせ、それを同十一年八月に片桐且元の奉納ということにして、豊国社の「下陣」で公開させたのだ、と。(以下略) 》『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』(P195-196) 】

 ここまで来ると、「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日≫)に、その年に豊国神社に奉納された、先(慶長9《1604》年秀吉の7回忌臨時大祭)の公式記録ともいうべき、狩野内膳筆の「豊国祭礼図屏風」は、その豊国大明神臨時祭礼に臨席できなかった「淀殿と秀頼」よりの一方的な意向を反映しているもので、それに反駁しての、「京都高台寺の『高台院)」側(「高台院側近の『親キリシタン・親千利休』(「秀吉が殉教させた二十六聖人そして賜死させた親キリシタン茶人の千利休)系の面々」)が、同じ、狩野内膳をして描かせたのが、下記の「狩野内膳筆・南蛮屏風(六曲一双・神戸市立博物館蔵)」と解したいのである。

狩野内膳・右隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・左隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

狩野内膳・左隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 そして、この屏風の実質的な注文主の「京都高台寺の『高台院)」側(「高台院側近の『親キリシタン・親千利休』(「秀吉が殉教させた二十六聖人そして賜死させた親キリシタン茶人の千利休)系の面々」)の人物というのは、「高台院(北政所・お寧・寧々)の侍女、マグダレナ(洗礼名)とカタリナ(洗礼名)」(「バジェニスの『切支丹宗門史』には、彼女(北政所)はアウグスチノ(小西行長)の母マグダレナ、同じく同大名の姉妹カタリナを右筆として使っていた。此の二人の婦人は、偉大なる道徳の鏡となってゐた。妃后(北政所)は、この婦人達に感心し、自由に外出して宗教上の儀礼を果たすことを赦してゐた」と記されている)。

https://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/31/031_zuisou_a.pdf

「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿)p110」

(参考一)「小西行長=アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)行長周辺」(「ウィキペディア」)

祖父:小西行正
父:小西隆佐
養父:阿部善定の手代であった源六(後に岡山下之町へ出て呉服商をしていた魚屋九郎右衛門)[4]。
※母:ワクサ - 熱心なキリシタンで洗礼名はマグダレーナ。秀吉の正室・寧々に仕えたといわれるが不詳。
正室:菊姫 - 夫と同様に熱心なキリシタンで霊名はジュスタ(宇喜多家資料より)。
側室:立野殿 - のち島津忠清室。霊名カタリナ。

小西兵庫頭- 菊姫との間の子。
小西秀貞(与助) - 子孫あり。
小西兵右衛門 - 立野殿との間の子。子孫あり。
小西宇右衛門
浅山弥左衛門:末子。小西家改易後は加藤・有馬家に仕え、島原の乱の際に黒田忠之に召し抱えられる(禄高は1300石)。子孫あり。
娘:妙(たえ、宗義智正室) - 関ヶ原の戦い後直ちに離縁・対馬から追放された。追放後は長崎の修道院に匿われていたが間もなく家康によって大赦される。慶長10年(1605年)に病没。 霊名マリア。
※※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子。霊名カタリナ。
猶子:ジュリアおたあ - ジュリアは霊名、おたあは日本名。文禄の役の際に連れて帰った朝鮮人女子。
孫:マンショ小西 - 宗義智と妙の間の子。江戸時代最後の日本人司祭(殉教)。
孫:小川宗春 - 小西宇右衛門の子。江戸の医師。
このほか天草四郎が行長の次男の子という説もあるが、詳細は不明である。

(注)※母:ワクサ(マグダレーナ)と※※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子(カタリナ)が、「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿)p110」の、「バジェニスの『切支丹宗門史』の「マグダレーナとカタリナ」と思われる。

(参考二)「淀君(秀頼生母=母)と高台院(秀頼正母=母上」並びに「何故小西行長は西軍の責任者で,石田三成とともに斬首されなければならなかったのか?」周辺

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平成28年7月9日開催「よみがえる小西行長公」講演会 第11弾
第1部 基調講演「戦国大名正室の美しさ」質問および回答

【質問】 側室が生んだ男子が家を継いでも,正室の家柄がものを言うことはあるのでしょうか?
【回答】 側室が生んだ子どもの「正式な母上」は正室でした。庶子には,生母と「母上」の二人がいるわけです。
「正式な母上」の役割は,その時代に適応した一人前の人間に子どもを育てあげることでした。たとえば『源氏物語』で,明石の上が産んだ娘の入内の支度は,「母上」の紫の上が丁寧に調えています。生母明石の上は身分が低く,源氏の「妻」としても序列が低かったので,公式には母として振る舞うことができませんでした。同じように,側室に産まれた男子も,側室は生母として可愛がり育てますが,養育・教育の責任は正室が持ちます。
 正室より側室の方が身分が高かったり,正室実家と側室実家が不仲だったりすると,家庭問題が政治問題になって複雑化します。ですから夫は,だれかれかまわず好きに手をつけて側室にすることはできません。既存の側室たち,その実家同士の関係,周辺国衆のパワーバランスを見ながら,適切な位置の家の娘を側室にすることになりました。
秀吉の場合,糟糠の妻・北政所ねねが居る所に,淀君(信長の姪)を側室としたので,確かにややこしいことにはなりましたが,ねねも淀君も聡明に行動したので,「家庭」を上手に運営しました。
なぜ秀吉が淀君を側室にしたのか。「お市の方に憧れていたから」という俗説もありますが,秀吉が織田信長の後継者であることを全国に認めさせるためには,どうしても信長の DNA(血筋)が必要だったとみることができます。「出自もはっきりしない秀吉を天下人として敬え」と命じるのは,当時としても無理がありました。信長の後継者を自称するためには,信長の血統を持つ娘と結婚して「信長の婿並み」になる必要があったのでしょう。
徳川秀忠も,淀君の妹の江と結婚しています。豊臣も徳川も,織田信長の血統がなければ世間に認められなかったとも言えます。
秀吉は,人々が自分を内心馬鹿にしていることを熟知しています。秀吉本人は知略と大軍と富があるので自分の政権を維持できますが,自分が死んで子どもの時代になったら?
「秀吉の子」では人々があっさり見限りかねません。ここはどうしても,「信長 DNA」を継ぐ子どもが「豊臣政権」の次代に欲しいところです。するとライバル徳川氏も,「信長 DNA」を継ぐ家光でなければ,豊臣秀頼と対抗しきれなかったのでしょう。
「秀頼は秀吉の子ではない」という研究もありますが,当時の人々にとっては父が誰かより,
「母上はまちがいなく織田家出身」で十分だったのでしょう。
【参考文献】
田端泰子『北政所おね』(ミネルヴァ書房,2007 年)。福田千鶴『淀殿』(ミネルヴァ書房,2007 年)

【質問】 何故小西行長は西軍の責任者で,石田三成とともに斬首されなければならなかったのか?
【回答】 なぜ小西行長が「西軍の主要人物」として関ヶ原の戦場に居たかと言えば,それだけ「三成が信頼できる人材」が西軍に不足していたからか,行長が三成を見捨てきれなかったのか,家康政権での行長の将来図を描けなかったからでしょう。
筆者としても,多くの西軍大名が命どころか領地まで保全したにもかかわらず,小西行長が石田三成(西軍の実質指揮官)・安国寺恵瓊(西軍総大将毛利輝元の身代わり・この戦争の首謀者)と並んで斬首されなければいけなかったのか,それが知りたくて 30 年彷徨っているところです。だいたい伊吹山中糟賀部村で,行長がわが身を村人にゆだねた時「内府に連れて行き褒美を得よ」と言いましたが,その大物意識,自意識過剰じゃないですよね???
行長は,天正 15 年に九州で働くようになって以来,ずっと秀吉のために九州の貿易統制(日明貿易の権利を,日本側では秀吉だけが握り,秀吉が許可した者以外は貿易に参入できない体制)を目指して外交交渉を行っていました。文禄慶長の役という悲惨な戦争も,要はそれを明皇帝に認定させるための手段という側面を持っていました。
当時のアジア世界では,「国際的に通用する国王称号を使えると,対明貿易も独り占めできる」という感覚がありました。もし秀吉が明皇帝から日本国王の称号を認められれば,秀吉の船は対明貿易を許可されます。仮に徳川家康が明に船を送っても追い返されるのです。
 それで文禄 3 年に行長は明に「秀吉を日本国王として認め,秀吉の重臣たちにも『日本国王の部下』としてそれなりの称号を与えてほしい」というリストを提出しました。ここで行長は,自分と西九州の貿易大名たち,そして石田三成・増田長盛ら奉行衆のために高い位の称号を求めました。その「日本国王の臣下」の称号で明に船を出せば,それなりの接待をされて取引もできるのです。その一方で行長は,徳川家康など国内の大物大名についてはかなり下のランクの称号で良いとし,隣領加藤清正などは名前すら載せてやりませんでした。
そんな原案はあまりに露骨なので,結局,当時の政権のパワーバランスに沿った称号が,文
禄5年に明から各大名に与えられました。
 行長が考えていたことは,秀吉亡き後の政権の守り方でした。このままではナンバー2の実力を持つ徳川家康が天下を獲る。それを防ぐには,幼い秀頼を次代の「日本国王」として明皇帝にその権威を保障してもらい,有能な官僚石田三成らが行政を担当し,肥後宇土を中心とする西九州の海の勢力が活躍して,貿易立国として日本を豊かにする構想。これ以外に秀頼政権を維持する方法はないと思い詰めたのでしょう。
 小西行長や石田三成らがそんな構想を企てていると知れば,家康も許しておけません。
だいたい,九州大名が貿易で小遣い稼ぎをしている限り,徳川幕府を開いたところで権威が
保てません。豊臣秀頼を無力化し,日本中が徳川様の顔色だけを窺うようにしたいのに,小西行長とその周囲はいつも海外に目を向けています。「日本列島だけが世界じゃない」と肌身で知っている西日本大名たち。その中心が小西行長でした。
小西行長も,慶長4年には,亡き秀吉の政治秩序を守るよりも,新しい考え方をとる徳川体
制に入りそうな気配を見せましたが,結局慶長5年には,家康の下で西日本の貿易の自由は守られないと結論を出し,家康と戦う道を選びました。
それを行長は,「家康はキリシタンを禁止するから」という言い方で宣教師に伝えます。つまり行長は,貿易を仲介する外国人宣教師の国内定住,宣教師と親しくて海のかなたに友だちや取引先を持つような貿易商の居場所は今後なくなっていく,と見切ったわけです。行長は将来の「鎖国」を予想していたのでしょう。
また,行長がその貿易立国派の中心人物だと家康に思われていることも自覚していました。家康が天下を獲れば,行長は居場所がなくなります。
慶長 5 年 10 月1日,家康は京都六条河原で石田三成を斬ることにより豊臣政治の終焉を人々に見せつけました。同様に小西行長を斬ることで,権力に平伏せず,常に海外に目を見渡せる自由な思考を持つことは今後許されないことを,人々に思い知らせたのでしょう。
【参考文献】
佐島顕子「謎の海将小西行長」(『歴史群像』17 号,学研)。同「文禄役講和の裏側」(山本博文・堀新・曽根勇二編『偽りの秀吉像を打ち壊す』柏書房,2013 年)。米谷均「豊臣秀吉の『日本国王』冊封の意義」(山本博文・堀新・曽根勇二編『豊臣政権の正体』柏書房,2014 年)。

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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その三) [狩野内膳]

(その三)「イエズス会修道士」と「フランシスコ会修道士」周辺

イエズス会とフランシスコ会.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」(「右隻」第一・二扇「中央・全体拡大図」)は、色々のことが満載されている。
先の(その一、その二)で、この左端から、「天正少年使節団」の「伊東マンショ(主席正使)」、その右脇の長身の神父を「イエズス会の巡察使(司祭=神父)アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」とし、その右側の神父を「ルイス・フロイス」(膨大な「フロイス・日本史」の原著者)と見立てた。
そして、そもそもの、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」の、そのスタートの原点に位置する、この中央の日本人の老修道士(「イエズス会修道士」)は、いわゆる、「高山右近などの『キリシタン大名』」を宣教した、その中心人物の一人である「イルマン(宣教師)・ロレンソ了斎」その人なのであろうか?
 さらに、その背後に、これまでの、「光悦・宗達・素庵 → 光琳・乾山 → 抱一・其一」等々の、その背後に潜んでいるような「茶道」の、その原点に位置する「侘茶・わび茶」を樹立した「千利休」、その人をも、この「イルマン(宣教師)・ロレンソ了斎」が体現して描かれているのだろうかということの、その謎解きの一端が、ここに描かれているような、そんな雰囲気を有している。
 その謎解きの一端の一つが、この「ロレンソ了斎」の右側に描かれている、二人の「フランシスコ会修道士」ということになる。
 「フランシスコ会」(またはフランチェスコ会)は、十三世紀のイタリアで、「アッシジのフランチェスコ」によってはじめられたカトリック教会の修道会の総称で、広義には第一会(男子修道会=修道士)、第二会(女子修道会=修道女)、第三会(在俗会)を含むが、狭義には、その第一会(男子修道会)の「男子修道士(修道士)」のみを指す。
 そして、この第一会(狭義の「フランシスコ会」)は、同時代に設立されたドミニコ会とともに、居住する家屋も食物ももたず、人びとの施しにたよったところから「托鉢修道会」(ないし「乞食僧団」)とも呼ばれ、当時のポルトガル国王の支援を背景としているエリート集団の「イエズス会」とは一線を画している(「ウィキペディア」)。

フランシスコ会の二人.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「フランシスコ会(修道士)」の二人)

 この「フランシスコ会」の修道士は、無所有と清貧を主張したフランチェスコの精神にもとづき、染色を施さない修道服をまとって活動している。その上、この二人の修道士は、よく見ると「裸足(はだし)」である。これは、履物を世俗のものとみて,聖所ではそれを着けることを避けるとともに,より積極的に「裸足(はだし)」が神の前での卑下と服従を示すという意味を有し、「フランシスコ会」や「改革カルメル会」の一部で採用されていて、これらの修道会は、「托鉢修道会」の中でも「跣足(せんそく)修道会」との別名を有している(「世界大百科事典」所収「跣足修道会」)。

聖フランシスコ.jpg

タペストリー「聖フランシスが鳥に説教する」
https://ja.topwar.ru/165466-dva-lica-katolicheskoj-cerkvi-francisk-iz-assizi-chelovek-ne-ot-mira.html

聖フランシスコ2.jpg

ブロンズ「動物に説教する聖フランチェスコ」
https://ja.topwar.ru/165466-dva-lica-katolicheskoj-cerkvi-francisk-iz-assizi-chelovek-ne-ot-mira.html

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=3368

 この下図の「動物に説教する聖フランチェスコ」は、サンダル履きで、「跣足修道会」の修道士は、何処でも裸足かというと、それは「聖所」とかと限られたもので、それよりも、この下図の腰に巻いた荒縄の「三つの結び目」の、「修道誓願」(貞潔・清貧・従順)を意味するものの方が、より、「托鉢修道会」、そして、「跣足修道会」を象徴するものなのであろう(「ウィキペディア」所収「修道請願)。

貞潔 - 結婚しないこと
清貧 - 私的財産を持たないこと
従順 - 上長の正当な命令への従順

 ここで、「フランシスコ会(修道士)」の日本での活動は、文禄二年(一五九三)の「ペドロ・バブチスタの来日」を嚆矢とし、以後、「イエズス会」の活動と共に、この「フランシスコ会」の活動は、次のとおり、「日本キリシタン史」上に大きな影を宿すことになる。

【 「フランシスコ会」の日本での活動(1593~1622)

1593年(文禄2年) - フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが来日し、肥前国名護屋で豊臣秀吉に謁見。
1594年(文禄3年) - 京都に「天使の元后教会」(聖母マリア教会)を建立。
1596年(文禄5年) - サン・フェリペ号事件。ペドロ・バプチスタ、京都で捕縛される。
1597年(慶長元年)- ペドロ・バプチスタやマルチノ・デ・ラ・アセンシオンなどフランシスコ会員6名をふくむカトリック教徒26人が長崎で処刑される(日本二十六聖人の殉教)。
1603年(慶長8年) - フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロが来日して徳川家康・徳川秀忠に謁見。日本での布教に従事し伊達政宗との知遇を得て東北地方にも布教開始。
1613年(慶長18年) - ソテロ、慶長遣欧使節団の正使としてローマに派遣されたが、日本でのキリスト教弾圧にともない外交交渉成功せず。
1622年(元和8年) - ソテロ、長崎に潜入を図るが捕らえられ、1624年(寛永元年)肥前大村で殉教。 】(「ウィキペディア」)

 この年譜を見て明らかになることは、「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」)の、ここに描かれているような「「イエズス会」の修道士と「フランシスコ会」の修道士とが一緒になって、「ロケ・デ・メル(ペレイア)」のポルトガル船の入港を出迎えるような光景は有り得ないのである。
 「ロケ・デ・メル(ペレイア)」のポルトガル船の入港は、天正十九年(一五九一)七月、そして、フランシスコ会宣教師の「ペドロ・バプチスタ」が初めて来日したのは、文禄二年(一五九三)のことで、さらに、こちらは、スペインのフィリピン総督の使節としの来日で、ポルトガルの「カピタン・モール(マカオ総督を兼ねた船長)」の「ロケ・デ・メル(ペレイア)」を出迎えるということは、土台有り得ないことなのである。
 即ち、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」)は、この筆者の「狩野内膳」の、さまざまな事象を、実際に見たものに、さらに想像上のものとを加味しながら、少なくとも、天正十九年(一五九一)から文禄二年(一五九三)、さらには、文禄三年(一五九四)の「秀吉の吉野の花見」、そして、上記の年譜の、慶長元年(一五九七)の「日本二十六聖人の殉教」(フランシスコの宣教師「ペドロ・バプチスタ」を含む二十六人聖人の殉教)をも踏まえているのかも知れない。

二十六聖人.jpg

「26人の処刑を描いた1862年の版画」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%81%96%E4%BA%BA#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Calvary-of-Nagasaki-1597-by-Eustaquio-Maria-de-Nenclares-(1862).png

 この版画は、江戸時代末期の文久二年(一八六二)の版画で、日本人が中国人(当時の清人の辮髪)のように描かれているが、この「日本二十六聖人」は、右側から順に次のとおりとなる(「ウィキペディア」)。

1 フランシスコ吉(きち) → 日本人、フランシスコ会信徒、道中で捕縛。
2 コスメ竹屋 → 日本人、38歳。大坂で捕縛。
3 ペトロ助四郎(またはペドロ助四郎)→ 日本人、イエズス会信徒、道中で捕縛。
4 ミカエル小崎(またはミゲル小崎)→ 日本人、46歳、京都で捕縛、トマス小崎の父。
5 ディエゴ喜斎(時に、ヤコボ喜斎など)→ 日本人、64歳、イエズス会員。
6 パウロ三木 → 日本人、33歳、大坂で捕縛、イエズス会員。
7 パウロ茨木 → 日本人、54歳、京都で捕縛、レオ烏丸の兄。
8 五島のヨハネ草庵(またはヨハネ五島)→ 日本人、19歳、大坂で捕縛、イエズス会員。
9 ルドビコ茨木 → 日本人、12歳で最年少。京都で捕縛。パウロ茨木、レオ烏丸の甥。
10 長崎のアントニオ → 日本人、13歳、京都で捕縛、父は中国人、母は日本人。
11 ペトロ・バウチスタ(またはペドロ・バプチスタ、ペドロ・バウティスタ)→スペイン人、48歳。京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
12 マルチノ・デ・ラ・アセンシオン → スペイン人、30歳、大坂で捕縛。フランシスコ会司祭。
13 フェリペ・デ・ヘスス(またはフィリッポ・デ・ヘスス])→メキシコ人、24歳、京都で捕縛、フランシスコ会修道士。
14 ゴンザロ・ガルシア → ポルトガル人、40歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
15 フランシスコ・ブランコ → スペイン人、28歳。京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
16 フランシスコ・デ・サン・ミゲル→スペイン人、53歳、京都で捕縛、フランシスコ会修道士。
17 マチアス → 日本人、京都で捕縛。本来逮捕者のリストになかったが、洗礼名が同じというだけで捕縛。
18 レオ烏丸 → 日本人、48歳。京都で捕縛。パウロ茨木の弟。ルドビコ茨木のおじ。
19 ボナベントゥラ → 日本人、京都で捕縛。
20 トマス小崎 → 日本人、14歳。大坂で捕縛。ミカエル小崎の子。
21 ヨアキム榊原(またはホアキン榊原)→ 日本人、40歳、大坂で捕縛。
22 医者のフランシスコ(またはフランシスコ医師)→日本人、46歳、京都で捕縛。
23 トマス談義者 → 日本人、36歳、京都で捕縛。
24 絹屋のヨハネ → 日本人、28歳、京都で捕縛。
25 ガブリエル → 日本人、19歳、京都で捕縛。
26 パウロ鈴木 → → 日本人、49歳、京都で捕縛。

 これらの二十五名の内訳は、「日本人(二十名)・スペイン人(四名)・ポルトガル人(一人)・メキシコ人(一人)」、そして、「フランシスコ会員関係者(二十二人)・イエズス会関係者(四人)」で、これらの捕縛は、「ペトロ・バウチスタ(バプチスタ)」等の「フランシスコ会員関係者」が、その中心であったことが歴然としてくる。
 これらの、「日本の二十六聖人」関連については、下記アドレスの「二十六聖殉教者のメッセージ(片岡千鶴子稿)」が、参考となる。

http://theology.catholic.ne.jp/

 また、「イエズス会」と「フランシスコ会」などによる、日本の布教活動関連については、下記のアドレスの「近世長崎町におけるイエズス会と托鉢修道会の対立について(トロヌ・カルラ稿)が参考となる。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/232933/1/asia16_117.pdf

26聖人・ペドロ・パプチスタ.jpg

「26人の処刑を描いた1862年の版画」(部分拡大図)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AD%E8%81%96%E4%BA%BA#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Calvary-of-Nagasaki-1597-by-Eustaquio-Maria-de-Nenclares-(1862).png

 この「6」の殉教者が、「パウロ三木(イエズス会員)」(「聖パウロ三木と仲間たち」の異名を有する代表的殉教者)、「9」が「ルドビコ茨木」(最年少の十二歳)、「10」が 長崎のアントニオ(十三歳)、そして、この「11」の人物が、この殉教者の中心に位置する、フランシスコ会司祭の「ペトロ・バウチスタ(またはペドロ・バプチスタ、ペドロ・バウティスタ)、その脇の「12」の人物が、同じく、フランシスコ会司祭の「マルチノ・デ・ラ・アセンシオン」となる。
 ここで、冒頭の「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「フランシスコ会(修道士)」の二人)に戻って、この二人の「フランシスコ会(修道士)」は、この「二十六聖殉教者」の、二人のフランシスコの神父(キリシタン宣教師のうちの司祭=ポルトガル語padre《パードレ:「神父」》=バテレン《パードレの転訛》)の、「ペトロ・バウチスタ(またはペドロ・バプチスタ)」と「マルチノ・デ・ラ・アセンシオン」と見立てることも、許容範囲の内に入るであろう。

フランシスコ会の二人.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「フランシスコ会(修道士)」の二人)

 この二人が、スペインのフィリピン総督の使節として来日したのは、文禄二年(一五九三)のことで、この時には、この二人の「フランシスコ会員」の「パードレ・バテレン」(神父)の左脇の、「イエズス会員」の「イルマン」(宣教師)・ロレンソ了斎」は、既に、その一年前の、文禄元年(一五九二)に亡くなっており、この画面のように、これらの三人が一同に会することは土台有り得ないことなのである。
 とすれば、この「ロレンソ了斎」を、同時に、その二年前の、天正十九年(一九五一)に、豊臣秀吉によって賜死(自刃)させられた、キリシタン擁護派の「千利休」と見立てることも、これまた、許容範囲内と解しても差し支えなかろう。
 そして、「わび茶(草庵の茶)」の完成者として、そして、後に、「茶聖」として仰がれる「千利休」は、「キリシタン」(キリスト教)のうちの「イエズス会」との接触はあるが、「フランシスコ会」(「貞潔・清貧・従順」を標榜する)系統の、それらの接触とは、全くの没交渉なのである。
 ここで、「千利休」が完成した「わび茶(草庵の茶)」(「ウィキペディア」)の根源にあるものは、全く未知の世界の、イタリーの片田舎・アッシジの、「パードレ・バテレン」(神父)ではなく、一介の「イルマン」(「修道士・宣教師」)とも言い得る「聖フランシス(聖フランチェスコ)」の標榜した「貞潔・清貧・従順」の世界に、極めて近い世界のものという思いがしてくる。
特に、豊臣秀吉の「黄金の茶屋・黄金の茶器」(「富貴の茶」・「大名の茶」)に比して、「草庵の茶屋・手造りの茶器」(「清貧の茶」・「わび茶(草庵)=『市中の山居』の茶)の世界を、己の命と引き替えに秀吉と対峙したとも思える「千利休」その人と見立てることは、これぞ、この南蛮屏風を制作した筆者(「狩野内膳」とその工房)が、密かに、これらの画面の中に潜ませていたのではなかろうかという、何やら謎めいた「内膳ファンタジー(幻想)」的な思いということになる。

千利休の娘・亀?.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「千利休・娘の亀・フランシスコ会員・イエズス会員)」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 この「内膳ファンタジー(幻想)」という観点での、この画面の、何とも奇妙な描写というのは、この右端の、右手をかざして、この左端の老人(ロレンソ了斎とも千利休とも見立てられている)の背を見守っているような女性の足首が描かれていないことなのである。
 この女性の足首が描かれていないことを指摘したのは、『キリシタン千利休』(山田無庵著・河出書房新社)が嚆矢なのかも知れない。そこでは、この女性を、「千利休」の六女(末女)の「(お)亀」と特定しているが、その真相は、全くのファンタジーの謎のままである。
 なお、「千利休の賜死(切腹?)」周辺については、下記のアドレスの「千利休の切腹の状況および原因に関する一考察(福井幸男稿)」の論稿が参考となる。

https://www.andrew.ac.jp/soken/pdf_5-1/ningen40.pdf
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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その二) [狩野内膳]

(その二)「ヴァリニャーノ神父」と「天正遣欧少年使節派遣」周辺

ヴァリニャーノ神父.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風・右隻』・ヴァリニャーノ神父とイエズス会員」(第一・二扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 先の(その一)、「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」では、上図の左側の二番目の長身のイエズス会の神父を、「天正遣欧使節団」派遣を企画し、その実現の一部終始の責任者ともいえる「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(ヴァリニャーニ)」神父その人だとし、次のように記述している。

【 屏風の中に描かれているイエズス会神父達の中にひときわ背が高い神父が描かれているが、この人物こそヴァリニャーノ神父なのである。神父は長崎に天正少年使節一行と共に1590年7月21日、アントニオ・ダ・コスタの船で着いたと記録されている。
 そして、其の翌1591年にはロケ・デ・メル(ペレイア)の船が7月頃入港している。ポルトガル船は通常7月頃入港し、10月頃の風でマカオに帰っていたが、ロケの船は以下の理由で其の年に帰国することができなかった。
 その理由と言うのは、フランシスコ・ピレスの覚書によるとロケの船は朝鮮出兵のごたごたですぐに積荷の絹の貿易ができなかったので、翌1592年10月ロケ(ペレイア)の船はマカオに帰っている。そして「此の船に乗ってヴァリニャーノ神父はマカオに帰った。」と記してある。】
(「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」)

このヴァリニャーノ神父の第一回目の来日は、天正七年(一五七九)から同十年(一五八二)にかけてで、さらに、その第一回目の来日の折りに実現させた「天正遣欧使節団」の帰国時にマカオから行動をともにし、その天正十八年(一五九〇)に第二回目の来日をしている。この時の日本滞在は、その翌々年(一五九二)にかけてで、その一年前に入港した、この狩野内膳が描いた「南蛮屏風」の「ロケ・デ・メル(ペレイア)」の船で帰国の途についている。
 そして、ヴァリニャーノ神父は、慶長三年(一五九八)から慶長八年(一六〇三)にかけての第三回目の最終となる来日をし、その三年後にマカオの地に没している。
 これらの三度にわたる、その「ヴァリニャーノ神父の来日」に簡単にまとめると次のとおりとなる。

【ヴァリニャーノ神父の来日
(第一回)
《 1579年(天正7年)7月25日から1582年(天正10年)までの三年間滞在。
1580年(天正8年)に、肥前有馬(現:長崎県南島原市)と近江安土(現・滋賀県近江八幡市安土町)に小神学校(セミナリヨ)設立、1581年に豊後府内(現:大分県大分市)大神学校(コレジオ)設立、そして1580年に豊後臼杵に設置されたイエズス会入会の第1段階である修練期のための施設、修練院(ノビシャド)を設立。また、日本布教における財政システムの問題点を修正し、天正遣欧少年使節の企画を発案した。これは日本人にヨーロッパを見せることと同時に、ヨーロッパに日本を知らしめるという2つの目的があった。1582年、ヴァリニャーノはインドのゴアまで付き添ったが、そこで分かれてゴアに残った。》
(第二回)
《1590年(天正18年)の2度目の来日は、帰国する遣欧使節を伴って行われた。このときは1591年(天正19年)に聚楽第で豊臣秀吉に謁見している。また、日本で初めての活版印刷機を導入、後に「キリシタン版」とよばれる書物の印刷を行っている。》
(第三回)
《1598年(慶長3年)、最後の来日では日本布教における先発組のイエズス会と後発組のフランシスコ会などの間に起きていた対立問題の解決を目指した。1603年(慶長8年)に最後の巡察を終えて日本を去り、3年後にマカオでその生涯を終えた。聖ポール天主堂の地下聖堂に埋葬された。》】(「ウィキペディア」)

 ここで、下記のアドレスなどにより、ヴァリニャーノ神父の大きな業績に上げられている「天正遣欧使使節団」派遣周辺のことについて記して置きたい。

https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/tokubetuten/tenji/tensyou_syounen.html

【 天正少年使節渡欧年譜
1582. 2.20 少年使節、巡察師ヴァリニャーノに伴われ、長崎を出帆。
   3. 9 マカオ到着。年末まで同地逗留。
1583.11.10 ゴア(インド)到着。ヴァリニャーノと別れ、12.20同地出帆。
1584. 8.11 喜望峰をまわり、大西洋を北上し、リスボンに上陸。
  11.14 マドリードでスペイン国王フェリーペ2世に謁す。
1585. 3.23 ローマのヴァティカン宮でグレコリオ13世の謁見を賜る。
   6-8. ヴェネツィア、マントヴァ、ミラノ等、北イタリアを巡る。
1586. 4.12 リスボン出帆。
1590.[7.21] ゴア、マカオに長期逗留の後、長崎に帰帆。 】

天正少年使節肖像.jpg

「天正遣欧使節肖像画」(「京都大学附属図書館 Main Library, Kyoto University」蔵)
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00007683#?c=0&m=0&s=0&cv=2&r=0&xywh=-9334%2C-317%2C25963%2C6328

【 右上・伊東マンショ、右下・千々石ミゲル、左上・中浦ジュリアン、左下・原マルチノ。中央は案内兼通訳のメスキータ神父。
1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画です。"Newe Zeyttung auss der Insel ]aponien"(日本島からのニュース)と題されたこの肖像画には、使節団のメンバー4人と案内兼通訳のメスキータ神父が描かれています。(出典:『京都大学の学術情報基盤の未来を考える』) 】(「天正遣欧使節肖像画」(「京都大学附属図書館 Main Library, Kyoto University」蔵))

【 使節(「天正遣欧使節団」)
伊東マンショ(主席正使) - 大友義鎮(宗麟)の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。
千々石ミゲル(正使) - 大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。後に棄教。
中浦ジュリアン(副使) - 後年、司祭に叙階。1633年、長崎で穴吊るしの刑によって殉教。2007年に福者に列せられる。
原マルチノ(副使) - 後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。
随員(「天正遣欧使節団」)
ジョルジェ・ロヨラ修道士 - 使節の教育係、日本人
コンスタンチノ・ドラード - 印刷技術習得要員、日本人少年
アグスチーノ - 印刷技術習得要員、日本人少年
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父 - ローマへ随行するつもりだったが、職務によってゴアにとどまる。
ヌーノ・ロドリゲス神父 - ヴァリニャーノの後を継いで一行に従う。
ディオゴ・メスキータ神父 - 通訳、イエズス会員
ロレンソ・メシア神父
オリヴィエーロ修道士      】(「ウィキペディア」)

 これらの、「天正少年使節渡欧年譜」を、これまでの、「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜」(参考その一)に加味すると次のとおりとなる。

【※1581年(天正9年)高山右近30歳 織田信長の使者として、鳥取城(鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。

1582年(天正10年)荒木村重48歳 本能寺の変で織田信長が亡くなると、大坂の堺(現在の大阪府堺市)に移る。大坂では茶人として復帰し、千利休とも親交があったとされる。豊臣秀吉を中傷していたことが露呈し、処罰を恐れ荒木道薫と号して出家する。
※1582年(天正10年)高山右近31歳 甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒を務め、明智光秀軍を破る。
△1582年(天正10年)千利休58歳 本能寺の変、以降・豊臣秀吉に仕える。
●●1582. 2.20 少年使節、巡察師ヴァリニャーノに伴われ、長崎を出帆。
   3. 9 マカオ到着。年末まで同地逗留。

※1583年(天正11年)高山右近32歳 柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで、豊臣家の勝利に貢献する。
※※1583年(天正11年)黒田如水38歳 大坂城(大阪市中央区)の設計を担当し、豊臣政権下で普請奉行となる。キリスト教の洗礼を受けて、洗礼名「ドン=シメオン」を与えられる。
●●1583.11.10 ゴア(インド)到着。ヴァリニャーノと別れ、12.20同地出帆。

※※※1584年(天正12年)結城秀康11歳  3月、豊臣秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍による小牧・長久手の戦いが勃発。講和の条件として、戦後、結城秀康は豊臣家の養子として差し出される。このとき結城秀康は、徳川家康からの餞別として名刀「童子切安綱」を授かっている。12月、元服を迎える。
●●1584. 8.11 喜望峰をまわり、大西洋を北上し、リスボンに上陸。
  11.14 マドリードでスペイン国王フェリーペ2世に謁す。

※1585年(天正13年)高山右近34歳 歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
※※1585年(天正13年)黒田如水40歳 四国攻めで軍監として加わって長宗我部元親の策略を破り、諸城を陥落。
△1585年(天正13年)千利休64歳 正親町天皇から「利休」の居士号を与えられる。
1586年(天正14年 )荒木村重52歳 5月4日、堺にて死去。
※※1586年(天正14年)黒田如水41歳 従五位下・勘解由次官に叙任。九州征伐でも軍監を担当し、豊前国(現在の福岡県東部)の諸城を落とす。
●●1585. 3.23 ローマのヴァティカン宮でグレコリオ13世の謁見を賜る。
     6-8. ヴェネツィア、マントヴァ、ミラノ等、北イタリアを巡る。

△1586年(天正14年)千利休65歳 黄金の茶室の設計、聚楽第の築庭に関わる。
●●1586. 4.12 リスボン出帆。

※1587年(天正15年)高山右近36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
※※※1587年(天正15年)結城秀康14歳  九州征伐にて初陣を飾る。豊前国(現在の福岡県東部)の岩石城(福岡県田川郡)攻めで先鋒を務め、日向国(現在の宮崎県)の平定戦でも戦功を遂げる。
△1587年(天正15年)千利休66歳 北野大茶会を主管。
〇〇1587年(天正15年) 岩佐又兵衛10歳 秀吉主催の北野の茶会に出席?
●1587年(天正15年) 狩野内膳18歳 狩野松栄から狩野姓を名乗ることを許される。
※※1589年(天正17年)黒田如水44歳 広島城(広島市中区)の設計を担当する。黒田家の家督を黒田長政に譲る。
※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。
●●1590.[7.21] ゴア、マカオに長期逗留の後、長崎に帰帆。

△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。 】

 この「略年譜」(抜粋)の、末尾の二年次に焦点を合わせて、そこに『ヴァリニャーノ・日本巡察記(東洋文庫229)』(以下「ヴァリニャーノ」)と『フロイス・日本史2 豊臣秀吉Ⅱ(中央公論社)』(以下「フロイス」))との要点(要約など)を、時系列的に見て行くと、次のとおりとなる。

【 「天正十八年(一五九〇)~天正二十年(一五九二)」の時系列的年譜

天正十八年(一五九〇)

七月二十一日 「天正少年使節団」、ゴア、マカオに長期逗留の後、長崎に帰帆。

(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ)
七月二十一日 長崎上陸。有馬など巡察。長崎(第一回協議会)
八月十三日~十五日 島原半島加津佐(第二回協議会)
十一月初旬 長崎→諫早→有明海を渡って佐賀→→久留米→秋月→小倉→下関、海路を辿った「天正少年使節団」と合流し、瀬戸内海を東航して播磨の室津へ。

(「フロイス」第二二章)関白(秀吉)坂東での勝利を収めて天下統一。
(「同」第二三章)巡察師(ヴァリニャーノ)秀吉謁見のため京都(聚楽第)へ旅立つ。
(「同」第二四章)巡察師、室津(播磨=兵庫の室津港)に逗留。

天正十九年(一五九一)

(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ)
一月十五日(天正十九年元旦) 秀吉より上京せよとの通告。
二月十七日 室津を出航。
二月十九日 大阪に着く(大阪に三日滞在、淀川を遡て鳥羽を経る)
二月二十三日 都(京都)に入る
  
(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ)
三月三日(「天正十九年閏正月八日)三月三日「天正少年使節団」、京都の聚楽第で豊臣秀吉と謁見。

(「フロイス」第二六章)関白(秀吉)、巡察師(ヴァリニャーノ)とその同伴者(「天正少年使節団」)と謁見・饗応。

(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ)
三月の末、都(京都)を離れ、大阪から海路、平戸を経て長崎に着き、さらに、二日後和津佐の学院に帰着。

《【天正19年(1591年)2月13日(新暦「四月六日」か?) 
利休は突然、京都を追放され堺の自宅に蟄居させられる。
同年2月25日(新暦「四月十八日」か?) 
京都一条戻橋に、大徳寺山門にあった問題の利休木像が磔にされる。
同年2月28日(新暦「四月二十一日」か?) 
木像の下に利休の首がさらされる。
(「豊臣秀吉が命じた『茶人千利休切腹事件』の真相はこれ!ホント?」=旧暦での記述?)
https://rekishizuki.com/archives/1538   】 》

七月 ポルトガル船の船長(カピタン・モール=総括責任者)、「ロケ・デ・メロ・ペレイア」」の船入港(「狩野内膳筆・南蛮屏風」右隻、出迎え光景)→(「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」)

天正二十年(一五九二)

(「ヴァリニャーノ」解題Ⅱ) 
天正二十年(一五九二)十月九日 ヴァリニャーノ、ルイス・フロイスを伴って、長崎を出航し、マカオに向かった。

文禄元年?(天正二十年か)12月20日(1592年2月3日) ロレンソ了斎、長崎の修道院で没。
http://takayama-ukon.sakura.ne.jp/pdf/booklet/pdf-takata/2017-08-17-04.pdf   】
(注=和暦(旧暦)と西暦との表示など、出典文献のものを一部?を付け修正)

 なお、上記の「利休の死」関連については、上記の『ヴァリニャーノ・日本巡察記(東洋文庫229)』と『フロイス・日本史2 豊臣秀吉Ⅰ・Ⅱ(中央公論社)』には、記述されていない。

ヴァリニャーノ神父.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風・右隻』・ヴァリニャーノ神父とイエズス会員」(第一・二扇拡大図)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 この狩野内膳が描いた、この「南蛮屏風・右隻」(第一・二扇拡大図)を、上記の「天正十八年(一五九〇)・天正十九年(一五九一)」関連の時系列的な年譜と照らし合わせて見ると、この左側の二番目の長身の人物が、「イエズス会の巡察使(司祭=神父)アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」として、その左脇の正装した日本人の若者は、「天正少年使節団」の「伊東マンショ(主席正使)」、そして、ヴァリニャーノの右脇の、手に「コンタス(コンタンツ=ロザリオの鎖=下に十字架をつないだ数珠)」をもった司祭(神父)は、ルイス・フロイスと見立てても、それほどの違和感もないであろう。
 そして、この右端の、左手にコンタス、そして、右手に「タウ型十字架」(「T(タウ)」(アルファベットの『T』」に相当する)十字架)」に似せた「T(タウ)」型の杖を持った老修道士は、この一行の一人とすると、やはり、「イルマン(宣教師)・ロレンソ了斎」と解するのが自然のように思われる。
 そして、これを描いた狩野内膳が、この時の「ロレンソ了斎」を、いみじくも、その一年前に入港した「ロケ・デ・メル(ペレイア)」の船の出迎えの直前に(三か月前か?)賜死(自決)した「千利休」のイメージをもダブらせて描いたとしても、その見方は、これまたさほど唐突という印象は抱かないであろう。
 しかし、その「千利休」が、ここに描かれているように、この「コンタス=ロザリオの鎖」と「T(タウ)型の杖」と「イエズス会員の修道士の帽子」とを身に着けているということになると、これは即、「千利休=キリシタン」ということと結びつき、この見方には、やはり違和感を有する人も多いことであろう。
 これらのことに関しては、次のアドレスの論稿が参考となる。

http://ir-lib.wilmina.ac.jp/dspace/bitstream/10775/3723/3/08U05.pdf

「キリスト教宣教としての茶の湯 ―大阪の史跡を中心に―(朴賢淑稿)」

【 利休がキリスト教を積極的に排除しないものの、イエズス会宣教師による洗礼者名簿やキリシタン名簿に利休が全く言及されてないこと、利休がキリスト教では禁止されている一夫多妻制婚であったことなどから利休キリシタン説を否定している。(※増渕宗一『茶道と十字架』、角川書店、1996 年)
 しかし、2016 年の高山右近福者認定記念に際し、バチカン教皇庁が明らかにした高山右
近とその業績の一つ「教会の柱石」中で、「(高山右近が)千利休を含め、彼の多くの弟子
たちにキリスト教を伝え、何人もの人をキリスト教に導き」 との記述がある。(※バナー「ユスト高山右近」、カトリック中央協議会、(https://www.cbcj.catholic.jp/2015/10/01/10440/)、
2020 年 9 月 21 日閲覧)】(「キリスト教宣教としての茶の湯 ―大阪の史跡を中心に―(朴賢淑稿)」抜粋)

file:///C:/Users/User/Downloads/nike_062_035.pdf

「ヴァリニャーノの宣教方針と利休のわび茶(スムットニー 祐美稿)」
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狩野内膳筆「南蛮屏風」周辺(その一) [狩野内膳]

(その一)「ロレンソ了斎」か「千利休」か(?)

狩野内膳・ロレンソ了斎.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→ 「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-07

 上記のアドレスで紹介したときの、「狩野内膳筆・南蛮屏風(神戸市立博物館蔵)」は、次のものであった。

狩野内膳・左隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・左隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

狩野内膳・右隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 そして、上記のアドレスのときの、「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)の、この中央の老イルマン(修道者・修道士)は、次のアドレスの「ロレンソ了斎」とうことで、次の、「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」のみを紹介していた。

http://nagasaki-keizai.co.jp/sky/2003_06.html

【 (前略)
出迎えの人達の中に三人の神父と二人のイルマン、そして、もう一人・若者の案内人、そして、彼等の外にもう一人の老人がいることに注目したい。その老人は特別の服を着ていることに気がつかれるであろう。更に、彼等の後には服装の違った二人のフランシスコ会の修道者と街の人達が描かれている。
(中略)
この屏風に描かれているナウ(ポルトガル船の船型)は以下のことより考えて1591年7月の初め長崎に入港してきたロケ・デ・メル(ロケ・デ・メロ・ペレイア)の船であると考えた。
 其の年は秀吉の朝鮮出兵の準備として肥前名護屋(呼子)を中心にしてお城や陣屋、そのための街が建設されていたので、京都の町より狩野派の絵師達も招かれ活躍していたと神父達の記録に記してある。
 この時、長崎にポルトガル船入港の知らせが各地に伝えられた。秀吉はこの時期にはまだ関東にいたので、名護屋にいた人達は長崎に走ってポルトガル人見物に出かけた。狩野派の画家も長崎に走ったと考える。そして、画家達は長崎の風景、南蛮船、神父達をスケッチした。
 その事は屏風の中に描かれているイエズス会神父達の中にひときわ背が高い神父が描かれているが、この人物こそヴァリニャーノ神父なのである。神父は長崎に天正少年使節一行と共に1590年7月21日、アントニオ・ダ・コスタの船で着いたと記録されている。
 (中略)
 ここで今1つ神父達と共にいる老人の事について考えてみよう。その姿は他の人物に比べて顔面の細部まで陰影をつけ丁寧に描かれている。服装は他の日本人と違い元琵琶法師とよばれた老人を思わせる着物を身につけているが、被っている帽子はイエズス会員の帽子と同じものである。
 老人は右手には杖を持ち、左手にはコンタスを握っている。白い眉の下の目は遠い所をじっと見つめている。当時このような特色をもつ日本人のイエズス会員は、聖F.ザビエルより受洗した盲目の琵琶法師ロレンソりょう斎しか他にいなかった。
 ロレンソは1587年、秀吉のキリシタン追放令のとき、それまで居た京都より長崎に下り、長崎の近くの古賀の教会で2年程活躍したが老年と病気のため長崎のコレジヨに引退していた。
前述のように1590年来航したヴァリニャーノ神父とロレンソは話を交し、1592年2月3日長崎のコレジヨで昇天している。
 以上の事よりヴァリニャーノ神父とロレンソが一緒に入港したポルトガル船を出迎えることができたのは、1591年入港してきたロケの船だけであり、岬の教会も其の年までは建っていたのである。
 (中略)
 唯ここで加えておくことは、屏風に描かれているフランシスコ会の修道者のことである。この屏風は たしかに1591年の長崎の様子を描いたものであるが、その時期にはフランシスコ会士は未だ我が国に は来航していなかったので、内膳は京都に帰って屏風を仕上げるときフランシスコ会士も加えたと考える。内膳がフランシスコ会士をスケッチできた時期は、会士達が肥前名護屋を訪ねた1593年か、其の後京都の町に行った時であると考える。
 以上の事よりこの屏風の下図(構想)は1591年長崎に入港したポルトガル船と町の様子をスケッチし、それを京都に帰り、南蛮屏風として仕上げたものであると考える。 】
(「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」)

南蛮屏風(千利休?).jpg

「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図の二)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 上記の「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」は、「狩野内膳筆『南蛮屏風』を読み解くための貴重な情報を提供してくれる。
 まず、その「この屏風に描かれているナウ(ポルトガル船の船型)は以下のことより考えて1591年7月の初め長崎に入港してきたロケ・デ・メル(ロケ・デ・メロ・ペレイア)の船である」ということは、この一年後の、文禄元年(一五九二)二月に、「ロレンソ了斎」
は亡くなっている。
 すなわち、この「右手には杖を持ち、左手にはコンタスを握っている」老人(老修道士)は、亡くなる一年前の「ロレンソ了斎」(六十五歳)ということになる。

【1592 年(文禄元)(ロレンソ 66 歳) 2 月 3 日 ロレンソの死去 長崎の修道院で死去した。66 歳。

『毎週必ず修道院の小聖堂へ椅子にすわったまま運ばれて御聖体拝領する習慣があったが、この日、食事の後、あるイルマンとひとりの信者が話している時,用があるからちょっと部屋からでるようにと彼らに言い、いつも彼に仕えているひとりの小者を呼び、起き上がるのを手伝うように頼んだ。ベットにすわり小者が腕をかかえた時には、ロレンソは「イエズス」の聖なる名を呼んで、一瞬の間に静かに亡くなったので、小者さえ、彼がこの世を去ったとは気が付かなかった。その後しばらくして、ロレンソが死んでいることに気がつき、外で待っていたイルマンを呼んだ。イルマンは部屋に入ると、そのまますわって小者にかかえられて死んでいるロレンソを見つけた。亡くなったのは 1592 年 2 月 3 日のことであった。家の人もよその人もみんな非常に悲しんで彼を偲んだ。』
*Luis Frois S.I.,“Apparatos para a Histpria Ecclesiastica do Bispado de Japam”
Biblioteca de Ajuda, Lisboa Codex 49, IV, 57, cap. 35    】
(ロレンソ了斎の豊後府内滞在の記録  ロレンソ了斎の生涯に沿って)
http://takayama-ukon.sakura.ne.jp/pdf/booklet/pdf-takata/2017-08-17-04.pdf

 この「ロレンソ了斎」が亡くなる一年前の、この「ロケ・デ・メロ・ペレイア」のポルトガル船が長崎に入港した、その天正十九年(一五九一)は、豊臣秀吉が天下の茶頭「千利休」を賜死(切腹?)させた年なのである。

【天正19年(1591年)2月13日 利休は突然、京都を追放され堺の自宅に蟄居させられる。
同年2月25日 京都一条戻橋に、大徳寺山門にあった問題の利休木像が磔にされる。
同年2月28日 木像の下に利休の首がさらされる。 】
(豊臣秀吉が命じた『茶人千利休切腹事件』の真相はこれ!ホント?)
https://rekishizuki.com/archives/1538

 これらを前回(その三十五「参考その一「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜」追加「狩野内膳」)の、その「天正十九年(一五九一)」前後の「年譜(略年譜)」は、次のとおりとなる。

【※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。

△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。

※※1592年(天正20年/文禄元年)黒田如水47歳  文禄の役、及び慶長の役において築城総奉行となり、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の設計を担当する。
〇〇1592年(天正20年/文禄元年)岩佐又兵衛 15歳 この頃、織田信雄に仕える。狩野派、土佐派の画法を学ぶ。絵の師匠は狩野内膳の説があるが不明。
●1592年(天正20年/文禄元年)狩野内膳 23歳 狩野松栄没。永徳(松栄の嫡男)の嫡男・光信(探幽は甥)、文禄元年(一五九二)から二年にかけて肥前名護屋に下向、門人の狩野内膳ほか狩野派の画家同行か?(『南蛮屏風(高見沢忠雄著)』)   】(下記の「参考一」から抜粋)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-19

 この天正十八年(一五九〇)の「小田原征伐」とは、豊臣秀吉が頂点に上り詰めた「天下統一」の、その上り坂を象徴するものであろう。そして、天正二十年(一五九二)の「朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の築城」は、豊臣秀吉の野望とその後の豊臣家の滅亡を予兆する、その下り坂を象徴するものということになる。
 そして、その分岐点に位置するのが、天正十九年(一五九一)の「千利休の賜死(切腹?)」事件ということになる。そして、この真相は、上記のアドレスの「豊臣秀吉が命じた『茶人千利休切腹事件』の真相はこれ!ホント?」では、下記の八点を紹介しているが、この「六 利休キリシタン説」も、上記の「ロケ・デ・メロ・ペレイアのポルトガル船長崎入港、そしてその一年後の『ロレンソ了斎』の死」に関連させると、その「七 利休芸術至上主義の抵抗説」などと併せ、無下にすることは出来ないであろう。

https://rekishizuki.com/archives/1538

「千利休の賜死(切腹?)」の真相を巡る見解のあれこれ

一 売僧行為(茶道具不当売買)説
二 大徳寺木像不敬説
三 利休の娘説
四 秀吉毒殺説
五 利休専横の疑い説
六 利休キリシタン説
七 利休芸術至上主義の抵抗説
八 利休所持茶道具の献上拒否説

(「六 利休キリシタン説」に関連して)

【 大徳寺の説に云、諸長老を聚楽の城へ被召寄、家康公、幽斎公を以て被仰出候者、大徳寺山門の下は、上様も御通被成候に、利休が木像を山門の上に作置るゝ事、曲事に被思召候。
申分有之候はヾ可申上と有、古渓承て山門の普請外、木像置候事、我等相談仕候。一山の長老の被存儀ニ無御座候。いか様にも私壱人曲事可被仰付候と被申上候。太閤重而、利休が木像を置る、いわれを可申上由、被仰出、
古渓何共御返答無御座候と被申候。家康公、常々古渓に御懇故、夫ニ而者、埒不明候。何とぞ御機嫌直り候様ニ申上度と被仰候。其時、古渓懐中より、長谷部の小釼を抜出し、御返事ハ是ニ而、自害可仕覚悟ニ候と被申候。
家康公一段埒明候と被仰、則、其段被仰上候へハ、太閤早速御機嫌直り、古渓ハ左様ニて有と思召候。諸事御赦免被成候間、一山の諸長老も可罷歸由、被仰出候。
扨、利休か木像ハ堀川戻り橋の下にくゝりさせ、往来の人に御踏せ候。此木像二条獄所の二階に、今に有之とかやと云々。
(引用:小松茂美 『利休の手紙 310頁「細川家記」』1985年 小学館)

大意、”大徳寺の話では、長老らが聚楽第に召喚され、徳川家康、細川幽斎から尋問を受けた。それは、『大徳寺の山門は関白殿下も通られるのに、利休の像を山門の上に作り置くとは何事か。申し開きの弁があるなら申してみよ。』とあった。
 それに対して古渓和尚が受けて言うには、『山門の普請ほか木像安置の件なども相談してみましたが、一山の長老たちは知らぬことです。これはわたしひとりの罪として仰せ付け下さい。』と。
 対して、『関白殿下も重く見ておられるので、利休の木像が山門に安置してある理由を答えてください』と重ねて尋問すると。
 古渓和尚言うには、『どうとも答えようがありません。』と。
家康公は常日頃古渓和尚と親しくしているので、『それでは埒があきませんね、どうか関白殿下の機嫌が直るように申し上げたいとお話ください。』
 その時、古渓和尚は懐中より小刀の名刀長谷部を抜き出されて、『返事はこれです。自害する覚悟です。』と申し上げます。
 すると、家康公は『これで埒が明きましたよ。』と言われ、すぐに関白殿下にその事を報告になり、「古渓はそうであったか」と関白殿下の機嫌は忽ち直り、すべて御赦免になりました。大徳寺の他の長老らも帰山することが出来ました。
 さて一方、利休と木像はと言うと、一条戻橋に括り付けられ、往来に人々に踏みつけられまして、今木像は二条の獄舎の二階にあると言います。”  】

(「参考その一」)

 「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜

荒木村重略年譜    https://www.touken-world.jp/tips/65407/
※高山右近略年譜   https://www.touken-world.jp/tips/65545/
※※黒田如水略年譜  https://www.touken-world.jp/tips/63241/
※※※結城秀康略年譜 https://www.touken-world.jp/tips/65778/
〇松平忠直略年譜   
https://meitou.info/index.php/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%B4
〇〇岩佐又兵衛略年譜
https://plaza.rakuten.co.jp/rvt55/diary/200906150000/
△千利休略年譜
https://www.youce.co.jp/personal/Japan/arts/rikyu-sen.html
●狩野内膳略年譜
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/nenpu/2knnz001.html

△1522年(大永2年)千利休1歳 和泉国・堺の商家に生まれる。
1535年(天文4年)荒木村重1歳 摂津国の池田家に仕えていた荒木義村の嫡男として生まれる。幼名は十二郎(後に[弥介]へ変更)。
△1539(天文8年)千利休18歳 北向道陳、武野紹鴎に師事。
※※1546年(天文15年)黒田如水1歳 御着城(兵庫県姫路市)の城主・小寺政職の重臣・黒田職隆の嫡男として生まれる。
※1552年(天文21年)高山右近1歳 摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)にて、高山友照の嫡男として生まれる。高山氏は、59代天皇・宇多天皇を父に持つ敦実親王の子孫。また高山氏は、摂津国・高山(大阪府豊能町)の地頭を務めていた。
※1564年(永禄7年)高山右近13歳 父・高山友照が開いた、イエズス会のロレンソ了斎と、仏僧の討論会を契機に入信。妻子や高山氏の家臣、計53名が洗礼を受け、高山一族はキリシタンとなる。高山右近の洗礼名ドン・ジュストは、正義の人を意味する。父はダリヨ、母はマリアという洗礼名を授かる。
※※1567年(永禄10年)黒田如水22歳 黒田家の家督と家老職を継ぎ、志方城(兵庫県加古川市)の城主・櫛橋伊定の娘であった光姫を正室として迎え、姫路城(兵庫県姫路市)の城代となる。
※※1568年(永禄11年)黒田如水23歳 嫡男・黒田長政が生まれる。
●1570年(元亀元年)狩野内膳1歳  荒木村重の家臣(一説に池永重光)の子として生まれる。
1571年(元亀2年)荒木村重37歳 白井河原の戦いで勝利。織田信長から気に入られ、織田家の家臣になることを許される。
※1571年(元亀2年)高山右近20歳 白井河原の戦いにおいて和田惟政が、池田氏の重臣・荒木村重に討たれる。高山右近は和田惟政の跡を継いだ嫡男・和田惟長による高山親子の暗殺計画を知る。
1573年(元亀4年/天正元年)荒木村重39歳 荒木城(兵庫県丹波篠山市)の城主となる。現在の大阪府東大阪市で起こった若江城の戦いで武功を挙げる。
※1573年(元亀4年/天正元年)高山右近22歳 荒木村重の助言を受け、主君・和田惟長への返り討ちを決行。高槻城で開かれた会議の最中に、和田惟長を襲撃し致命傷を負わせた。その際、高山右近も深い傷を負う。高山親子は荒木村重の配下となり、高槻城主の地位を高山右近が譲り受ける。
1574年(天正2年)荒木村重40歳 伊丹城(有岡城)を陥落させ、同城の城主として摂津国を任される。
※※※1574年(天正2年)結城秀康1歳 徳川家康の次男として誕生。母親は徳川家康の正室・築山殿の世話係であった於万の方で、当時忌み嫌われた双子として生まれる。徳川家康とは、3歳になるまで1度も対面せず、徳川家の重臣・本多重次と交流のあった、中村家の屋敷で養育された。
1575年(天正3年)荒木村重41歳 摂津有馬氏を滅ぼし、摂津国を平定。
1576年(天正4年)荒木村重42歳 石山合戦における一連の戦いのひとつ、天王寺の戦いに参戦。
1577年(天正5年)荒木村重43歳  紀州征伐に従軍。
1578年(天正6年)荒木村重44歳  織田信長に対して謀反を起こし、三木合戦のあと伊丹城(有岡城)に籠城。織田軍と1年間交戦する。
※1578年(天正6年)高山右近27歳 主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦いへと発展。
※※1578年(天正6年)黒田如水33歳 三木合戦で兵糧攻めを提案し、三木城(兵庫県三木市)を攻略した。織田信長に対して謀反を起こした荒木村重を説得するために、有岡城(兵庫県伊丹市)に向かうが、幽閉される。
〇〇1578年(天正6年)岩佐又兵衛1歳 摂津伊丹城で荒木村重の末子として誕生。父荒木村重が織田信長に叛く
1579年(天正7年)荒木村重45歳 妻子や兵を置いて、突如単身で伊丹城(有岡城)を脱出。嫡男の荒木村次が城主を務めていた尼崎城へ移る。そのあと、織田信長からの交渉にも応じず出奔。自身の妻子を含む人質が処刑される。
※1579年(天正7年)高山右近28歳 有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣一枚で、単身織田信長のもとへ投降。その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。
※※1579年(天正7年)黒田如水34歳 有岡城が陥落し、救出される。
〇〇1579年(天正7年)岩佐又兵衛2歳 伊丹城落城。乳母に救い出され奇跡的に逃げ延びる。母ら一族、京の六条河原で処刑。
△1579年(天正7年)千利休58歳 織田信長に茶頭として雇われる。 
●1579年(天正7年)狩野内膳10歳 主家(荒木村重)が滅亡し父池永重光は諸国を流浪。重郷(内膳)は画を好み狩野松栄門人となる。
1581年(天正9年)荒木村重47歳 花隈城(神戸市中央区)に移り、花隈城の戦いが勃発。その後、毛利家へ亡命。
※1581年(天正9年)高山右近30歳 織田信長の使者として、鳥取城(鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。
1582年(天正10年)荒木村重48歳 本能寺の変で織田信長が亡くなると、大坂の堺(現在の大阪府堺市)に移る。大坂では茶人として復帰し、千利休とも親交があったとされる。豊臣秀吉を中傷していたことが露呈し、処罰を恐れ荒木道薫と号して出家する。
※1582年(天正10年)高山右近31歳 甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒を務め、明智光秀軍を破る。
△1582年(天正10年)千利休58歳 本能寺の変、以降・豊臣秀吉に仕える。
※1583年(天正11年)高山右近32歳 柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで、豊臣家の勝利に貢献する。
※※1583年(天正11年)黒田如水38歳 大坂城(大阪市中央区)の設計を担当し、豊臣政権下で普請奉行となる。キリスト教の洗礼を受けて、洗礼名「ドン=シメオン」を与えられる。
※※※1584年(天正12年)結城秀康11歳  3月、豊臣秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍による小牧・長久手の戦いが勃発。講和の条件として、戦後、結城秀康は豊臣家の養子として差し出される。このとき結城秀康は、徳川家康からの餞別として名刀「童子切安綱」を授かっている。12月、元服を迎える。
※1585年(天正13年)高山右近34歳 歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
※※1585年(天正13年)黒田如水40歳 四国攻めで軍監として加わって長宗我部元親の策略を破り、諸城を陥落。
△1585年(天正13年)千利休64歳 正親町天皇から「利休」の居士号を与えられる。
1586年(天正14年 )荒木村重52歳 5月4日、堺にて死去。
※※1586年(天正14年)黒田如水41歳 従五位下・勘解由次官に叙任。九州征伐でも軍監を担当し、豊前国(現在の福岡県東部)の諸城を落とす。
△1586年(天正14年)千利休65歳 黄金の茶室の設計、聚楽第の築庭に関わる。
※1587年(天正15年)高山右近36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
※※※1587年(天正15年)結城秀康14歳  九州征伐にて初陣を飾る。豊前国(現在の福岡県東部)の岩石城(福岡県田川郡)攻めで先鋒を務め、日向国(現在の宮崎県)の平定戦でも戦功を遂げる。
△1587年(天正15年)千利休66歳 北野大茶会を主管。
〇〇1587年(天正15年) 岩佐又兵衛10歳 秀吉主催の北野の茶会に出席?
●1587年(天正15年) 狩野内膳18歳 狩野松栄から狩野姓を名乗ることを許される。
※※1589年(天正17年)黒田如水44歳 広島城(広島市中区)の設計を担当する。黒田家の家督を黒田長政に譲る。
※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。
△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。
※※1592年(天正20年/文禄元年)黒田如水47歳  文禄の役、及び慶長の役において築城総奉行となり、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の設計を担当する。
〇〇1592年(天正20年/文禄元年)岩佐又兵衛 15歳 この頃、織田信雄に仕える。狩野派、土佐派の画法を学ぶ。絵の師匠は狩野内膳の説があるが不明。
●1592年(天正20年/文禄元年)狩野内膳 23歳 狩野松栄没。永徳(松栄の嫡男)の嫡男・光信(探幽は甥)、文禄元年(一五九二)から二年にかけて肥前名護屋に下向、門人の狩野内膳ほか狩野派の画家同行か?(『南蛮屏風(高見沢忠雄著)』)
※※1593年(文禄2年)黒田如水48歳 剃髪して出家。如水軒円清の号を名乗る。
〇1595年(文禄4年)松平忠直1歳 結城秀康の長男として摂津東成郡生魂にて生まれる。生母は秀康の側室、中川一元の娘(清涼院、岡山)。幼名は仙千代。
※1600年(慶長5年)高山右近49歳 関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦いでは東軍に属し、丹羽長重を撃退する。
※※1600年(慶長5年)黒田如水55歳 関ヶ原の戦いが起こる。石垣原の戦いで、大友義統軍を破る。
※※※1600年(慶長5年)結城秀康27歳 関ヶ原の戦いの直前、徳川家康と共に会津藩(現在の福島県)の上杉景勝の討伐へ出陣。道中、石田三成挙兵を知り、徳川家康は西へ引き返す。一方で結城秀康は宇都宮城に留まり、上杉景勝からの防戦に努めた。関ヶ原の戦い後に徳川家康より、越前・北の庄城(福井県福井市)68万石に加増される。
〇1603年(慶長8年)松平忠直7歳 江戸参勤のおりに江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に初対面している。秀忠は大いに気に入り、三河守と呼んで自らの脇に置いたという。
※※1604年(慶長9年)黒田如水59歳 京都の伏見藩邸で死去する。
※※※1604年(慶長9年)結城秀康31歳 結城晴朝から家督を相続し、松平に改姓。
〇〇1604年(慶長9年)岩佐又兵衛 27歳 秀吉の七回忌、京で豊国祭礼
●1604年(慶長9年)狩野内膳36歳 秀吉七回忌の豊国明神臨時祭礼の「豊国祭礼図」を描く。
〇1605年(慶長10年)松平忠直 9歳 従四位下・侍従に叙任され、三河守を兼任する。
※※※1606年(慶長11年)結城秀康33歳  徳川家から伏見城(京都府京都市伏見区)の居留守役を命じられて入城するも、病に罹り重篤化する。
●1606年(慶長11年)狩野内膳37歳 1606年、片桐且元、内膳の「豊国祭礼図」を神社に奉納(梵舜日記)。弟子に荒木村重の子岩佐又兵衛との説(追考浮世絵類考/山東京伝)もある。
※※※1607年(慶長12年)結城秀康34歳  越前国へ帰国し、のちに病没。
〇1607年(慶長12年)松平忠直 13歳 結城秀康の死に伴って越前75万石を相続する。
〇1611年(慶長16年)松平忠直 17歳 左近衛権少将に遷任(従四位上)、三河守如元。この春、家康の上京に伴い、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。9月には、秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎える。
〇1612年(慶長17年)松平忠直 18歳 重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部、盛次)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。
〇1613年(慶長18年)松平忠直 19歳 家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに本多富正が越前の国政を執ることとされ、加えて本多富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは、騒動が重なるのは、忠直がまだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである。
〇〇1613年(慶長18年) 岩佐又兵衛 37歳 この頃、舟木本「洛中洛外図屏風」
※1614年(慶長19年)高山右近63歳 キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
〇1614年(慶長19年)松平忠直 20歳 大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げている。家康は孫の活躍を喜び、「初花肩衝」(大名物)を与えている。また秀忠も「貞宗の御差添」を与えている。
※1615年(慶長20年/元和元年)高山右近64歳 前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。
〇1615年(慶長20年/元和元年)松平忠直 21歳 従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
〇〇1616年(元和2年)岩佐又兵衛39歳 この頃、京から北之庄に移住。徳川家康没。狩野内膳没。
●1616年(元和2年)狩野内膳47歳 京都で没。
〇〇1617年(元和3年)岩佐又兵衛40歳 狩野探幽が江戸に赴任。この間、「金谷屏風」・「山中常盤」など制作か。
〇1621年(元和7年)松平忠直 27歳 病を理由に江戸への参勤を怠り、また翌元和8年(1622年)には勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。
〇1623年(元和9年)松平忠直 29歳 将軍・秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母清涼院の説得もあって隠居に応じ、敦賀で出家して「一伯」と名乗った。5月12日に竹中重義が藩主を務める豊後府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。豊後府内藩では領内の5,000石を与えられ、はじめ海沿いの萩原に住まい、3年後の寛永3年(1626年)に内陸の津守に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原からの海路での逃走を恐れたためとも言う。竹中重義が別件で誅罰されると代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となったという。
〇〇1623年(元和9年)岩佐又兵衛46歳 松平忠直、豊後に配流。
〇〇1624(寛永元年)岩佐又兵衛 47歳 忠直を引き継ぐ松平忠昌が福井に改称。この間、「浄瑠璃物語絵巻」なと。
〇〇1637年(寛永14年)岩佐又兵衛 60歳 福井より、京都、東海道を経て江戸に赴く。
〇〇1638年(寛永15年)岩佐又兵衛61歳 川越仙波東照宮焼失。
〇〇1639年(寛永16年)岩佐又兵衛 62歳 家光の娘の千代姫、尾張徳川家に嫁ぐ
〇〇1640年(寛永17年)岩佐又兵衛 63歳 仙波東照宮に「三十六歌仙額」奉納。
〇〇1645年(正保2年)岩佐又兵衛 68歳 ・松平忠昌没。
〇1650年(慶安3年) 松平忠直死去、享年56。
〇〇1650年(慶安3年)岩佐又兵衛 江戸にて没す。享年73。
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