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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その三) [忘れがたき風貌・画像]

その三 宗祇・宗長・肖柏

宗祇(そうぎ、1421-1502).jpg

宗祇(そうぎ、1421-1502)(早稲田大学図書館/WEB展覧会第32回)
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/shozo/14-01.jpg
≪「宗祇法師肖像」 摸本 三条西実隆賛
 連歌の大成者として名高いが、生国は近江とも紀伊ともいわれはっきりしない。仏道修行の後、30歳で連歌に志す。応仁の乱以降、古典復興の機運に乗って連歌が流行すると、古典 風雅を尊ぶ作風で第一人者となり、牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)・三条西実隆らにそれを伝えた。≫(「早稲田大学図書館」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-28

水無瀬三吟何人百韻
   長享二年(一四八八)正月二十二日

〔初折りの表〕(初表=八句)         (式目=句材分析など)
一  雪ながら山もと霞む夕べかな    宗祇  春・降物・山類(体)
二    行く水遠く梅匂う里      肖柏  春・水辺(用)・木・居所(体)
三  川風にひとむら柳春見えて     宗長  春・水辺(体)・木
四    船さす音もしるき明け方    宗祇  雑・水辺(体用外)・夜分
五  月やなほ霧渡る夜に残るらん    肖柏  秋・光物・夜分・聳物
六    霜置く野原秋は暮れけり    宗長  秋・降物
七  鳴く虫の心ともなく草枯れて    宗祇  秋・虫・草
八    垣根をとへばあらはなる道   肖柏  雑・居所(体)

〔初折りの裏〕(初裏=十四句)
九  山深き里や嵐におくるらん     宗長  雑・山類(体)・居所(体) 
一〇   馴れぬ住まひぞ寂しさも憂き  宗祇  雑
一一 いまさらに一人ある身を思ふなよ  肖柏  雑・人倫・述懐
一二   移ろはむとはかねて知らずや  宗長  雑・述懐
一三 置きわぶる露こそ花にあはれなれ  宗祇  春・降物・植物・無常
一四   まだ残る日のうち霞むかげ   肖柏  春・光物
一五 暮れぬとや鳴きつつ鳥の帰るらん  宗長  春・鳥
一六   深山を行けばわく空もなし   宗祇  雑・山類(体)・旅
一七 晴るる間も袖は時雨の旅衣     肖柏  冬・降物・衣類・旅
一八   わが草枕月ややつさむ     宗長  秋・光物・夜分・旅
一九 いたずらに明かす夜多く秋更けて  宗祇  秋・夜分・恋
二〇   夢に恨むる荻の上風      肖柏  秋・夜分・草・恋 
二一 見しはみな故郷人の跡もなし    宗長  雑・人倫 
二二   老いの行方よ何に掛からむ   宗祇  雑・述懐

〔二の折りの表〕(二表=十四句)
二三 色もなき言の葉にだにあはれ知れ  肖柏  雑・述懐
二四   それも伴なる夕暮れの空    宗祇  雑
二五 雲にけふ花散り果つる嶺こえて   宗長  春・聳物・山類(体)
二六   きけばいまはの春のかりがね  肖柏  春・鳥
二七 おぼろげの月かは人も待てしばし  宗祇  春・光物・夜分・人倫
二八   かりねの露の秋のあけぼの   宗長  秋・降物・夜分
二九 末野のなる里ははるかに霧たちて  肖柏  秋・居所(体)・聳物
三〇   吹きくる風はころもうつこゑ  宗祇  秋・衣類
三一 冱ゆる日も身は袖うすき暮ごとに  宗長  秋・人倫・衣類
三二   頼むもはかなつま木とる山   肖柏  雑・山類(体)・述懐
三三 さりともの此世のみちは尽き果てて 宗祇  雑・述懐
三四   心細しやいづち行かまし    宗長  雑
三五 命のみ待つことにするきぬぎぬに  肖柏  雑・夜分・恋
三六   猶なになれや人の恋しき    宗祇  雑・人倫・恋

〔二の折りの裏〕(二裏=十四句)
三七 君を置きてあかずも誰を思ふらむ  宗長  雑・人倫・恋
三八   その俤に似たるだになし    肖柏  雑・恋
三九 草木さへふるき都の恨みにて    宗祇  雑・植物・述懐
四〇   身の憂きやども名残こそあれ  宗長  雑・人倫・居所(体)・述懐
四一 たらちねの遠からぬ跡に慰めよ   肖柏  雑・人倫・述懐
四二   月日の末や夢にめぐらむ    宗祇  雑
四三 この岸をもろこし舟の限りにて   宗長  雑・水辺(体)・旅
四四   又むまれこぬ法を聞かばや   肖柏  雑・釈教
四五 逢ふまでと思ひの露の消えかへり  宗祇  秋・降物
四六   身をあき風も人だのめなり   宗長  秋・人倫・恋
四七 松虫のなく音かひなき蓬生に    肖柏  秋・虫・草・恋
四八   しめゆふ山は月のみぞ住む   宗祇  秋・山類(体)・光物・夜分
四九 鐘に我ただあらましの寝覚めして  宗長  雑・夜分・述懐
五〇   戴きけりな夜な夜なの霜    肖柏  冬・夜分・降物・述懐

〔三の折りの表〕(三表=十四句)
五一 冬枯れの芦たづわびて立てる江に  宗祇  冬・鳥・水辺(体)
五ニ   夕汐かぜの沖つふ舟人     肖柏  雑・水辺(体)・人倫
五三 行方なき霞やいづく果てならむ   宗長  春・聳物 
五四   来るかた見えぬ山里の春    宗祇  春・山類(体)・居所(体)
五五 茂みよりたえだえ残る花落ちて   肖柏  春・植物
五六   木の下わくる路の露けさ    宗長  秋・木
五七 秋はなど漏らぬ岩屋も時雨るらん  宗祇   秋
五八   苔の袂に月は馴れけり     肖柏  秋・光物・夜分・衣類・釈教
五九 心ある限りぞしるき世捨人     宗長  雑・人倫・釈教
六〇   をさまる浪に舟いづる見ゆ   宗祇   雑・水辺(用)・旅
六一 朝なぎの空に跡なき夜の雲     肖柏 雑・聳物
六二   雪にさやけきよもの遠山    宗長  冬・降物・山類(体)
六三 嶺の庵木の葉の後も住みあかで   宗祇  冬・山類(体)・居所(体)・木 
六四   寂しさならふ松風の声     肖柏  雑・木

〔三の折りの裏〕(三表=十四句)        
六五 誰かこの暁起きを重ねまし     宗長  雑・人倫・夜分・釈教
六六   月は知るやの旅ぞ悲しき    宗祇  秋・光物・夜分・旅
六七 露深み霜さへしほる秋の袖     肖柏  秋・降物・衣類
六八   うす花薄散らまくもをし    宗長  秋・草
六九 鶉なくかた山くれて寒き日に    宗祇  秋・鳥・山類(体)
七〇   野となる里もわびつつぞ住む  肖柏  雑・居所(体)・述懐
七一 帰り来ば待ちし思ひを人や見ん   宗長  雑・人倫・恋
七二   疎きも誰が心なるべき     宗祇  雑・人倫・恋
七三 昔より唯あやにくの恋の道     肖柏  雑・恋
七四   忘れがたき世さへ恨めし    宗長  雑・恋
七五 山がつになど春秋の知らるらん   宗祇  雑・人倫
七六   植ゑぬ草葉のしげき柴の戸   肖柏  雑・草・居所(体)
七七 かたはらに垣ほの荒田かへし捨て  宗長  春・居所(体)
七八   行く人霞む雨の暮れ方     宗祇  春・人倫・降物

〔名残りの表〕(名表=十四句)
七九 宿りせむ野を鴬やいとふらむ    宗長  春・鳥
八〇   小夜もしづかに桜さく蔭    肖柏  春・夜分・鳥
八一 灯火をそむくる花に明けそめて   宗祇  春・夜分・植物
八二   誰が手枕に夢は見えけん    宗長  春・人倫・恋
八三 契りはや思ひ絶えつつ年も経ぬ   肖柏  雑・恋
八四   いまはのよはひ山も尋ねじ   宗祇  雑・山類(体)・述懐
八五 隠す身を人は亡きにもなしつらん  宗長  雑・人倫・述懐
八六   さても憂き世に掛かる玉のを  肖柏  雑・述懐
八七 松の葉をただ朝夕のけぶりにて   宗祇  雑・木・聳物
八八   浦わの里はいかに住むらん   宗長  雑・水辺(体)・居所(体)
八九 秋風の荒磯まくら臥しわびぬ    肖柏  秋・水辺(体)・旅
九〇   雁なく山の月ふ更くる空    宗祇  秋・鳥・山類(体)・光物・夜分
九一 小萩原うつろふ露も明日や見む   宗長  秋・草・降物
九二   阿太の大野を心なる人     肖柏  雑・人倫

〔名残りの裏〕(名裏=八句)
九三 忘るなよ限りや変る夢うつつ    宗祇  雑・述懐
九四   思へばいつを古にせむ     宗長  雑・述懐
九五 仏たち隠れては又いづる世に    肖柏  雑・釈教
九六   枯れし林も春風ぞ吹く     宗祇  春・植物・釈教
九七 山はけさ幾霜夜にか霞むらん    宗長  春・山類・降物
九八   けぶりのどかに見ゆる仮庵   肖柏  春・聳物・居所(体)
九九 卑しきも身をを修むるは有つべし  宗祇  雑・人倫
一〇〇  人をおしなべ道ぞ正しき    宗長  雑・人倫

(補注)

一 宗祇=三十四句、時に六十八歳。肖柏=四十六歳。宗長=三十三句、時に四十一歳。 

二 宗祇の発句「雪ながら山もと霞む夕べかな」は、後鳥羽院の「見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ」(『新古今集』春上)を踏まえている(後鳥羽院二五〇回忌に詠まれた後鳥羽院の鎮魂の奉納連歌とも解せられている)。

三 「連歌式目」(「式目・句材分析)の要点など

句数=続けてもよい句の数、または続けなければいけない句の数。→連続の制限
去嫌=同じ季や類似の事柄が重ならないように一定の間隔を設けた句の数。→間隔の制限

句材の分類(句材と去嫌・句数など)

(一) 季(春・夏・秋・冬)
春秋    同季五句去り、句数三句から五句まで。
夏冬    同季二句去り、句数一句から三句まで。

(二の一)事物一(句意全体に関わりのあるもの) 

恋(妹背など) 三句去り、句数二句から五句まで。
旅(草枕など) 二句去り、句数一句から三句まで。
神祇(斎垣など)・釈教(寺など) 二句去り、句数一句から三句まで。
述懐(昔など)・無常(鳥辺野など)三句去り、句数一句から三句まで。

(二の二)事物二(句意全体には関わりを持たないもの)

山類(峯など)・水辺(海など) 三句去り、句数一句から三句まで。
居所(里・庵など) 三句去り、句数一句から三句まで。異居所は打越を嫌わない。
降物(雨など)・聳物(雲など) 二句去り、句数一句から二句まで。
人倫(誰など) 原則二句去り、句数は自由。打越を嫌わない。
光物(日など)・夜分(暁など) 二句去り、句数一句から三句まで。打越を嫌わない。
植物(木類・草類) 二句去り、句数一句から二句まで。木と草は打越を嫌わない。
動物(虫・鳥など)二句去り、句数一句から二句まで。異生類は打越を嫌わない。    
衣類(衣・袖など)二句去り、句数一句から二句まで。
国名・名所(音羽山など) 二句去り、句数一句から二句まで。
※「山類・水辺・居所」については、「体」(固定的なもの=峯など)と「用」(可動的なもの=滝など)と「体用の外(例外規定=富士・浅間など)の特殊な区分がある。
※※連歌(百韻)では、各折りに「花」の句、表(面)には「月」の句を詠み、「四花八月」の決まりがある。
※※※連歌の「可隔何句物(なんくをへだつべきもの)」は、上記の「去嫌(さりきらい)」と同じ意である。

(三)一座何句物(何回以上用いてはいけないもの) → 重複の制限

一座一句物 「鶯」「鈴虫」「龍」「鬼」など「月・花(定座)」に匹敵する句材
一座二句物 「旅」「命」「老」「雁」「鶴」など「一句物」に次ぐ句材
一座三句物 「桜」「藤」「紅葉」「鹿」「都」などの「二句物」に次ぐ句材
一座四句物 「空」「天」「在明」「雪」「氷」などの「三句物」に次ぐ句材
一座五句物 「世」「梅」「橋」などの「四句物」に次ぐ句材
『源氏物語』を本説とする句は「一座三句物」と同じ。
「感動の助詞」の「かな」は、「発句」の「かな」だけ。

(その他)
(一)「たとへば歌仙は三十六歩也。一歩も後に帰る心なし」(三冊子)→俳諧はすべて前に進む事をもって一巻を成就する。同じ場所や状況に停滞したり、後へ戻ったりすることは許されない。ために類似した詞や縁の深い物が続いたり、近づいたりすることを嫌う。それを避けるために生まれたのが句数と去嫌である。
(二)「差合の事は時宜にもよるべし。まづは大かたにして宜し」(三冊子)→蕉門では外的な形式よりも、内的な余情や匂いを重んじる故に、式目上の句数や去嫌については、季、花、月を除いては余りこだわってはいない。     
四 上記のことを念頭において、この「水無瀬三吟」の百句をじっくりと見ていくと、まさしく、この「水無瀬三吟」は、「連歌」「俳諧(連句)」の、最も枢要なことを教示してくれる聖典(バイブル)のような思いがしてくる。

(参考) 水無瀬三吟 → 『日本詩人選一六 宗祇(小西甚一著)』など

宗長.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「四 柴屋宗長」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1508

肖柏.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二二 肖柏」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1491

(歌合)

歌人(左方四) 柴屋宗長
歌題 春祝言
和歌 青柳のなびくを人のこゝろにて みちある御代のはるぞのどけき
歌人概要  室町中期~戦国期の連歌師

歌人(右方二二) 肖柏
歌題 月前述懐
和歌 おもふらし桜かざししみや人の かつらををらぬ月のうらみは
歌人概要  室町中期~戦国期の歌人・連歌師(公家出身)

(歌人周辺)

宗長(そうちょう) 生年:文安5(1448) 没年:天文1.3.6(1532.4.11)

 室町時代の連歌師。初名,宗歓,号,柴屋軒。駿河国(静岡県)島田の鍛冶,五条義助の子。若くから守護今川義忠に仕えたが,文明8(1476)年義忠戦没後離郷。京都に出て一休宗純に参禅,また飯尾宗祇に連歌を学んだ。宗祇の越後や筑紫への旅行に随伴し,『水無瀬三吟』『湯山三吟』をはじめ多くの連歌に加わった。明応5(1496)年49歳のころ駿河に帰り,今川氏親の庇護を受けるようになり,以後今川氏のために連歌や古典を指導,ときには講和の使者に立つなど政治的な面にも関与した。駿河帰住後も京駿間を中心に頻繁に旅を重ねたが,その見聞を記した『宗長手記』は,戦乱の世相,地方武士の動静,また自身の俳諧や小歌に興じる洒脱な生活などが活写されており興味深い。ほかに句集『壁草』『那智籠』,連歌論に『永文』『三河下り』などがある。(沢井耐三稿・出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について)

肖柏(しょうはく) 生年:嘉吉3(1443)  没年:大永7.4.4(1527.5.4)

 室町時代の連歌師。号は夢庵,弄花老人。初めは肖柏と名乗るが,永正7(1510)年に牡丹花(読みは「ぼたんげ」とも)と改名。中院通淳 の子であったが若くして遁世し,摂津国池田に庵を結び,晩年は堺に住んだ。連歌を飯尾宗祇に学び,宗祇やその弟子宗長 と共に『水無瀬三吟百韻』『湯山三吟百韻』などのすぐれた連歌作品を残した。また宗祇,猪苗代兼載の『新撰菟玖波集』選集作業を助け,『連歌新式』を改訂増補するなどその学識で連歌界に重きをなし,古今伝授(『古今和歌集』の和歌の解釈などの学説を授けること)を堺の人々に伝えてもいる。花と香と酒を愛し(『三愛記』),風流華麗な生活をし,句風もまた艶麗であった。
(伊藤伸江稿・出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について)

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html
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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その二) [忘れがたき風貌・画像]

その二 芭蕉・蕪村・抱一・利休・宗祇

蕪村像.jpg
「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-06-23


(再掲)

 上記の「窓辺の蕪村(像)」の軸物は、上段が蕪村の書簡で、その書簡の下に、月渓(呉春)が「窓辺の宗匠頭巾の人物」を描いて、それを合作の軸物仕立てにしたものである。  
 この下段の月渓(呉春)の画の左下に、「なかばやぶれたれども夜半翁消そこ(消息=せうそこ)うたがひなし。むかしがほなるひとを写して真蹟の証とする 月渓 印 印 」と、月渓(呉春)の証文が記されている。

 上段の蕪村の書簡(天明元年か二年十月十三日、無宛名)は、次のとおりである。

   早速相達申度候(さっそくあひたっしまうしたくさうらふ)
 昨十二日は、湖柳会主にて洛東ばせを(芭蕉)菴にてはいかい(俳諧)有之候。扨
 もばせを庵山中の事故(ゆゑ)、百年も経(ふ)りたるごとく寂(さ)びまさり、殊勝な
 る事に候。どふ(う)ぞ御上京、御らん(覧)可被成(なさるべく)候。
  其日(そのひ)の句
 窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉
  探題
  初雪 納豆汁 びわ(は)の花
 雪やけさ(今朝)小野の里人腰かけよ
  納豆、びは(枇杷)はわすれ(忘れ)候
 明日は真如堂丹楓(紅葉したカエデ)、佳棠、金篁など同携いたし候。又いかなる催(も
 よほし)二(に)や、無覚束(おぼつかなく)候。金篁只今にて平九が一旦那と相見え
 候。平九も甚(はなはだ)よろこび申(まうす)事に候。平九も毎々貴子をなつかしが
 り申候。いとま(暇)もあらば、ちよと立帰りニ(に)御安否御尋(たづね)申度(ま
 うしたく)候。しほらしき男にて。かしく かしく かしく

 この蕪村書簡に出てくる「湖柳・佳棠・金篁・平九」は蕪村門あるいは蕪村と親しい俳人達である。また、この書簡の冒頭の「昨十二日は」の「十二日」は、芭蕉の命日の、「十月(陰暦)十二日」を指しており、この芭蕉の命日は、「芭蕉忌・時雨忌・翁忌・桃青忌」と呼ばれ、俳諧興行では神聖なる初冬の季題(季語)となっている。

 この書簡は、蕪村の「窓の人のむかしがほなる時雨哉」を発句として、「はいかい(俳諧)有之候」と歌仙が巻かれたのであろう。この発句の「むかしがほ(昔顔)」は、当然のことながら、俳聖芭蕉その人の面影を宿しているということになる。

 世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨 二条院讃岐 『新古今・冬』
 世にふるもさらに時雨のやどり哉           宗祇     連歌発句
 世にふるもさらに宗祇のやどり哉           芭蕉    『虚栗』

 この芭蕉の句は、天和三年(一六八三)、三十九歳の時のものである。この芭蕉の句には、宗祇の句の「時雨」が抜け落ちている。この談林俳諧の技法の「抜け」が、この句の俳諧化である。その換骨奪胎の知的操作の中に、新古今以来の「時雨の宿りの無常観」を詠出している。

 旅人と我が名呼ばれん初時雨   芭蕉 『笈の小文』

 貞享四年(一六八七)、芭蕉、四十四歳の句である。「笈の小文」の出立吟。時雨に濡れるとは詩的伝統の洗礼を受けることであり、そして、それは漂泊の詩人の系譜に自らを繋ぎとめる所作以外の何ものでもない。

 初時雨猿も小蓑を欲しげなり   芭蕉 『猿蓑』

 元禄二年(一六八九)、芭蕉、四十六歳の句。「蕉風の古今集」と称せられる、俳諧七部集の第五集『猿蓑』の巻頭の句である。この句を筆頭に、その『猿蓑』巻一の「冬」は十三句の蕉門の面々の句が続く。まさに、「猿蓑は新風の始め、時雨はこの集の眉目(美目)」なのである(『去来抄』)。

 芭蕉の「時雨」の発句は、生涯に十八句と決して多いものでないが、その殆どが芭蕉のエポック的な句であり、それが故に、「時雨忌」は「芭蕉忌」の別称の位置を占めることになる。

 楠の根を静(しづか)にぬらすしぐれ哉     蕪村 (明和五年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや蓑買(かふ)人のまことより 蕪村 (明和七年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや我も古人の夜に似たる    蕪村 (安永二年・『蕪村句集』)
 老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな   蕪村 (安永三年・大魯宛て書簡)
 半江(はんこう)の斜日片雲の時雨哉      蕪村 (天明二年・青似宛て書簡)

 蕪村の「時雨」の句は、六十七句が『蕪村全集一 発句』に収載されている。そして、それらの句の多くは、芭蕉の句に由来するものと解して差し支えなかろう。
 蕪村は、典型的な芭蕉崇拝者であり、安永三年(一七七四)八月に執筆した『芭蕉翁付合集』(序)で、「三日翁(芭蕉)の句を唱(とな)へざれば、口むばら(茨)を生ずべし」と、そのひたむきな芭蕉崇拝の念を記している。
 この蕪村の芭蕉崇拝の念は、安永五年(一七七六)、蕪村、六十一歳の時に、洛東金福寺内に芭蕉庵の再興という形で結実して来る。
 この冒頭の「「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)ですると、上段の『蕪村の書簡』の「窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉」の「昔顔」は芭蕉の面影なのだが、下段の月渓(呉春)が描く「窓の人」は、芭蕉を偲んでいる蕪村その人なのである。
 そして、その「芭蕉を偲んでいる蕪村」は窓辺にあって、外を眺めている。その眺めているのは、「時雨」なのである。この「時雨」を、芭蕉の無季の句の「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」の「抜け」(省略する・書かない・描かない)としているところに、「芭蕉→蕪村→月渓(呉春)」の、「漂泊の詩人」の系譜に連なる詩的伝統が息づいているのである。
 蕪村の俳画の大作にして傑作画は、「画・俳・書」の三位一体を見事に結実した『奥の細道屏風図』(「山形県立美術館」蔵など)・『奥の細道画巻』(「京都国立博物館」蔵など)を今に目にすることが出来るが、その蕪村俳画の伝統は、下記の「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)で、その一端を見ることが出来る。

幻住庵記.jpg

「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)=(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-08-11

(再掲)

酒井抱一の「綺麗さび」の世界(一)→ その一 風神雷神図扇(抱一筆)

風神雷神図扇.jpg

酒井抱一画「風神雷神図扇」紙本着色 各縦三四・〇cm 横五一・〇cm
(太田美術館蔵)
【 光琳画をもとにして扇に風神雷神を描いた。画面は雲の一部濃い墨を置く以外に、淡い線描で二神の体を形作り、浅い色調で爽快に表現されている。風神がのる雲は、疾走感をもたらすように筆はらって墨の処理がなされている。ここには重苦しく重厚な光琳の鬼神の姿はない。涼をもたらす道具としてこれほどふさわしい画題はないだろう。  】
(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社刊)』所収「作品解説(松嶋正人稿)」)

 この作品解説の、「ここには重苦しく重厚な光琳の鬼神の姿はない。涼をもたらす道具としてこれほどふさわしい画題はないだろう」というのは、抱一の「綺麗さび」の世界を探索する上での、一つの貴重な道標となろう。
 ここで、「綺麗さび」ということについては、下記のアドレスの「Japan Knowledge ことばjapan! 2015年11月21日 (土) きれいさび」を基本に据えたい。

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231

 そこでは、「『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、『華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう』としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。『きれいさび』と『ひめさび』という用語を関連づけたうえで、その意味を、『茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ』と説明している」を紹介している。

 ここからすると、「俳諧と美術」の世界よりも、「茶道・建築作庭(小堀遠州流)」の世界で、やや馴染みが薄い世界(用語)なのかも知れない。しかし、上記の抱一筆の「風神雷神図扇」ほど、この「綺麗さび」(小堀遠州流)から(酒井抱一流)」の、「綺麗さび」への「俳諧そして美術」との接点を示す、その象徴的な作品と見立てて、そのトップを飾るに相応しいものはなかろう。
 その理由などは概略次のとおりである。

一 「綺麗さび」というのは、例えば、何も描かれていない白紙の扇子よりも、「涼をもたらす道具」としての「扇子」に、「風神雷神図」を描いたら、そこに、白紙のときよりも、さらに、涼感が増すのではなかろうかという、極めて、人間の本性に根ざした、実用的な欲求から芽生えてくるものであろう。

二 そして、この「扇子」に限定すると、そこに装飾性を施して瀟洒な「扇面画」の世界を創出したのが宗達であり、その宗達の「扇面画」から更に華麗な「団扇画」という新生面を切り拓いて行ったのが光琳ということになる。この二人は、当時の京都の町衆の出身(「俵屋」=宗達、「雁金屋」=光琳)で、それは共に宮廷(公家)文化に根ざす「雅び(宮び)」の世界のものということになる。

三 この京都の「雅(みや)び」の町衆文化(雅=「不易」の美)に対し、江戸の武家文化に根ざす「俚(さと)び」の町人文化(俗=「流行」の美)は、大都市江戸の「吉原文化」と結びつき、京都の「雅び」の文化を圧倒することとなる。

四 これらを、近世(江戸時代初期=十七世紀、中期=十八世紀、後期=十九世紀)の三区分で大雑把に括ると、「宗達(江戸時代初期)→光琳(同中期)→抱一(同後期)」ということになる。

五 これを、「芭蕉→其角→抱一」という俳諧史の流れですると、「芭蕉・其角・蕪村(江戸時代中期)=光琳・乾山」→「抱一・一茶(同後期)=抱一・其一」という図式化になる。

六 ここに、「千利休(「利休」流)→古田織部(「織部」流」)→小堀遠州(遠州流))」の茶人の流れを加味すると、「利休・織部」(桃山時代=十六世紀)、遠州(江戸時代前期=十七世紀)となり、この織部門に、遠州と本阿弥光悦(光悦・宗達→光琳・乾山)が居り、光悦(町衆茶)と遠州(武家茶)の「遠州・光悦(江戸時代前期)」が加味されることになる。

七 そして、茶人「利休・織部・遠州・光悦」を紹介しながら、「日常生活の中にアート(作法=芸術)がある」(生活の『芸術化』)を唱えたのが、日本絵画の「近世」(江戸時代)から「近代」(明治時代)へと転回させた岡倉天心の『茶の本』(ボストン美術館での講演本)である。

八 ここで、振り出しに戻って、冒頭に掲出した「風神雷神図扇(抱一筆)」は、岡倉天心の『茶の本』に出てくる「日常生活の中にアート(作法=芸術)がある」(生活の『芸術化』)を物語る格好な一つの見本となり得るものであろう。

九 と同時に、ここに、「光悦・宗達→光琳・乾山→抱一・其一」の「琳派の流れ」、更に、「西行・宗祇・(利休)→芭蕉・其角・巴人→蕪村・抱一」の「連歌・俳諧の流れ」、そして、「利休→織部→遠州・光悦→宗達・光琳・乾山・不昧・宗雅(抱一の兄)・抱一→岡倉天心」の「茶道・茶人の流れ」の、その一端を語るものはなかろう。

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231

【「Japan Knowledge ことばJapan! 2015年11月21日 (土) きれいさび」(全文)

「きれい(綺麗)さび」とは、江戸初期の武家で、遠州流茶道の開祖である小堀遠州が形づくった、美的概念を示すことばである。小堀遠州は、日本の茶道の大成者である千利休の死後、利休の弟子として名人になった古田織部(おりべ)に師事した。そして、利休と織部のそれぞれの流儀を取捨選択しながら、自分らしい「遠州ごのみ=きれいさび」をつくりだしていった。今日において「きれいさび」は、遠州流茶道の神髄を表す名称になっている。

 では、「きれいさび」とはどのような美なのだろう。『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、「華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう」としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。「きれいさび」と「ひめさび」という用語を関連づけたうえで、その意味を、「茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ」と説明している。

 「さび」ということばは「わび(侘び)」とともに、日本で生まれた和語である。「寂しい」の意味に象徴されるように、本来は、なにかが足りないという意味を含んでいる。それが日本の古い文学の世界において、不完全な状態に価値を見いだそうとする美意識へと変化した。そして、このことばは茶の湯というかたちをとり、「わび茶」として完成されたのである。小堀遠州の求めた「きれいさび」の世界は、織部の「わび」よりも、明るく研ぎ澄まされた感じのする、落ち着いた美しさであり、現代人にとっても理解しやすいものではないだろうか。

 このことば、驚くことに大正期以降に「遠州ごのみ」の代わりとして使われるようになった、比較的新しいことばである。一般に知られるようになるには、大正から昭和にかけたモダニズム全盛期に活躍した、そうそうたる顔ぶれの芸術家が筆をふるったという。茶室設計の第一人者・江守奈比古(えもり・なひこ)や茶道・華道研究家の西堀一三(いちぞう)、建築史家の藤島亥治郎(がいじろう)、作庭家の重森三玲(しげもり・みれい)などが尽力し、小堀遠州の世界を表すことばとなったのである。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-21

宗祇.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「一九 宗祇」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1488
歌人(右方一九)宗祇
歌題 関月
和歌 清見がたまだ明けやらぬ関の戸を 誰がゆるせばか月のこゆらん
歌人概要  室町中期~戦国期の歌人・連歌作者

(再掲)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sougi.html

宗祇(そうぎ) 応永二十八~文亀二(1421-1502) 別号:自然斎・種玉庵・見外斎

 出自未詳。姓は飯尾(いのお/いいお)とされ(一説に母の筋)、父は猿楽師であったとの伝がある。生国は紀伊と伝わるが、近年、近江説も提出された。
 前半生の事蹟はほとんど不明。一時京都五山の一つ相国寺で修行し、三十余歳にして連歌の道に進んだらしい。宗砌(そうぜい)・専順・心敬らに師事し、寛正六年(1465)頃から連歌界に頭角を表わす。文明三年(1471)、東常縁より古今聞書の証明を授かる(「古今伝授」の初例とされる)。同四年には奈良で一条兼良の連歌会に参席し、同八年(1476)には足利幕府恒例の連歌初めに参席するなど、連歌師として確乎たる地歩を占めた。
 同年、宗砌・専順・心敬らの句を集めて『竹林抄』を編集する。同十九年(1487)四月、三条西実隆に古今集を伝授する。長享二年(1488)正月二十二日、肖柏・宗長と『水無瀬三吟百韻』を巻く。同年三月には足利義尚の命により北野連歌会所奉行に就く栄誉を得たが、翌年の延徳元年(1489)にはこの任を辞した。明応二年(1493)、兼載と共に准勅撰連歌集『新撰菟玖波集』を撰進、有心連歌を大成した。
 この間、連歌指導・古典講釈のため全国各地を歴遊し、地方への文化普及に果たした役割も注目される。文亀二年(1502)七月三十日、箱根湯本の旅宿で客死。八十二歳。桃園(静岡県裾野市)の定輪寺に葬られた。
 飛鳥井雅親・一条兼良・三条西実隆らと親交。弟子には肖柏・宗長・宗碩・大内政弘ほかがいる。著書には上記のほかに源氏物語研究書『種玉編次抄』、歌学書『古今和歌集両度聞書』『百人一首抄』、連歌学書『老のすさみ』『吾妻問答』、紀行『筑紫道記』などがある。家集には延徳三年(1491)以後の自撰と推測される『宗祇法師集』があり、自撰句集には『萱草(わすれぐさ)』『老葉(わくらば)』『下草』『宇良葉(うらば)』がある。
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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その一) [忘れがたき風貌・画像]

その一 松尾芭蕉

松尾芭蕉像.jpg

「松尾芭蕉(まつおばしょう、1644-94)」(早稲田大学図書館/WEB展覧会第32回)
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/shozo/index2.html
≪「松尾芭蕉肖像」 小川破笠画  1軸 
俳聖と呼ばれる芭蕉の肖像画はいくつかあるが、この肖像を描いたのは、漆細工師小川破笠(はりつ、1663-1747)。伊勢に生まれ、のち江戸に出て芭蕉に俳諧を学んだ。生前の芭蕉を知る人の描いた貴重な伝記資料である。≫(「早稲田大学図書館」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-07-25

(その一) 蕪村が描いた芭蕉翁像

 さまざまな俳人あるいは画人が芭蕉像を描いている。代表的なものは、芭蕉と面識のある門人の杉山杉風と森川許六、面識はないが芭蕉門に連なる彭城百川(各務支考門)、そして、画俳二道を究めた与謝蕪村(宝井其角・早野巴人門)などの作が上げられる。

 杉風の描いた芭蕉像は、①端座の像(褥に端座・左向き) ②脇息の像(左向き) ③火桶にあたる像(左向き) ④竹をえがく像(左向き) ⑤馬上の像(笠をかぶり右方へ進行)などで、この①のものは「すべての芭蕉像の基盤」になっており、杉風筆像は、温雅で「おもながのおだやかな面相である」と評されている(『岡田利兵衛著作集1芭蕉の書と画』所収「画かれた芭蕉」)。

 蕪村の描いた芭蕉像は、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』には十一点が収録されている。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九9作。金福寺蔵)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)

 しかし、これらは、いわゆる「画賛形式」(画と賛が一体となっている条幅・色紙等)のもののうち、芭蕉単身像の条幅もので(上記の十一点のうち、⑦は一幅半切(紙本墨画)で、他は長さに異同はあるが一幅もので、①②⑤⑥は絹本淡彩、③と⑩は紙本淡彩、④は紙本墨画である。
 これらの芭蕉単身像では無帽のものはなく、宗匠頭巾のようなものを被っているが、それぞれ制作時に関係するのか、それぞれに特徴がある。上記の①②は、円筒型(丸頭巾型)の白帽子、③④⑥が長方形型(角頭巾型)の白帽子、⑤は長方形型(角頭巾型)の黒帽子、⑥は長方形型(角頭巾型)の黒(薄墨)帽子の感じのものである。

 これらの芭蕉単身像のものではなく、「俳仙群会図」などの芭蕉像を加えると次のとおりとなる。

⑫ 座像(「俳仙群会図」=十四俳仙図、絹本着色、款「朝滄」、上・中・下の三段に刷り込んだ一幅。上段に「此俳仙群会の図ハ元文のむかし余弱冠の時写したるもの」とあり、元文元年(一七三五)から同五年(一七四〇)の頃の作とされているが、「その落款・印章によれば、やはりこの丹後時代の作」(『続芭蕉・蕪村(尾形仂著)』)と、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)の頃の作ともいわれている。とにもかくにも、蕪村最古の芭蕉像、無帽で右向き、蕪村の師の早野巴人が、芭蕉の左側の園女の次に宗匠頭巾を被り左向きで描かれている。柿衛文庫蔵)
⑬ 座像(「八俳仙」画賛、淡彩、一幅。宗匠頭巾、笠を持ち正面像。「物云へは唇寒し秋の風」。印は「長庚」「春星」。『山王荘蔵品展覧図録』)
⑭ 座像(「十一俳仙」)画賛、紙本墨画、一幅。宗匠頭巾、笠・頭陀袋の正面像。「名月や池をめくりて終夜」。印は「三菓居士」。個人蔵)
⑮ 座像(版本『其雪影』挿図、明和九年(一七七二)刊、宗匠頭巾、正面像。「古いけや蛙とひ込水の音」。)
⑯ 座像(版本『時鳥』挿図、安永二年(一七七三刊)、宗匠頭巾、正面像。「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」。)
⑰ 七分身像(版本『安永三年(一七四四)春帖)』挿図、宗匠頭巾、杖、頭陀袋、笠、正面像。)

 さらに、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、京都国立博物館蔵)、「奥の細道」屏風(安永八年=一七七九)作、山形美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永八年=一七七九作、逸翁美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、「蕪村遺芳」)、「野ざらし紀行」屏風(安永七年=一七七八作、個人蔵)などに、それぞれ特徴のある芭蕉像が描かれている。

 上記のうちで、唯一、百川筆「芭蕉翁像」と類似しているのは、「⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)」である。

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の作品解説は次のとおりである。

104 「芭蕉像」画賛  一幅  一二二・一×四〇・九cm
款 「応湖南松写庵巨州需 蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛 「はつしぐれ猿も小みのをほしけ也 はせを」(色紙貼付)
『大阪市青木嵩山堂入札』(昭和四・三)

蕪村・芭蕉像一.jpg


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-07-26

その二 蕪村と百川、そして、蕪村渇望の百川筆「芭蕉翁像」

 蕪村は、宝暦元年(一七五一)、三十六歳のときに、関東遊歴の生活を打ち切って、生まれ故郷とされている摂津(大阪市毛馬)ではなく、その隣の京都に移住して来る。以後、丹後時代と讃岐時代の数年間を除いて、死没(天明三年=一七八三=六十八歳)までの約三十年間を京都で過ごすことになる。
 この京都に移住してからの讃岐時代というのは、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)九月頃までの足掛け四年間の頃を指す(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。この丹後時代の蕪村についての百川に関する書簡が今に遺されている(『蕪村の手紙(村松友次著)』)。

[ 被仰候八僊観の翁像(オオセラレソウロウ ハッセンカンノオキナゾウ)
 少之内御見せ可被下候(スコシノウチ オミセクダサルベクソウロウ)
 其儘わすれ候得共(ソノママ ワスレソウラヘドモ)
 御払可被成思召候もの(オハライナサルベク オボシメサレソウロウモノ)
 此のものへ御見せ可被下候(コノモノヘ オミセクダサルベクソウロウ)
 他見は不仕候(タケンハ ツカマツラズソウロウ)
 おりしも吐出候発句に(オリシモハキイダシソウロウ ホックニ)
  萩の月うすきはものゝあわ(は)れなる
某(一字破損)屋嘉右衛門 様        蕪村               ]

 この八僊観こと彭城百川の描いた芭蕉像を「少しの間見せてください」と渇望した、その幻の百川筆「芭蕉像」の真蹟が、蕪村が滞在していた丹後の宮津(京都府宮津市)で、蕪村生誕三百年(平成二十八年=二〇一六)の今に引き継がれて現存している(『宮津市史通史編下巻』所収「彭城百川の芭蕉像と宮津俳壇(横谷賢一郎稿)」)。

 この経過をたどると、平成六年(一九九四)に京都府立丹後郷土資料館で特別展「与謝蕪村と丹後」が開催され、それが契機となって、宮津市在住の方から百川筆「芭蕉像」の調査依頼があり、佐々木承平京大教授らによって真筆と鑑定されたとのことである(『蕪村全集第六巻』所収「月報六・平成十年三月」)。
 これらに関して、平成九年(一九九七・九・七「朝日新聞」)に下記のような「芭蕉『幻の肖像』発見」の記事で紹介されているようである(未見)。

[ 江戸期の南画(文人画)の創始者の一人、彭城百川(さかき・ひゃくせん)(1698-1753)が描いた松尾芭蕉の肖像画の掛け軸が京都府宮津市の俳壇指導者宅に保存されていたことがわかった。この絵は、与謝蕪村(1716-1783)が「ぜひ見たい」と懇願した手紙だけが後世に伝わり、絵そのものは所在がわかっていなかった。
 掛け軸は、芭蕉の座像が水墨画で描かれ、「ものいへは 唇寒し 秋の風」の芭蕉の代表句が書き込まれている。佐々木丞平・京大教授(美術史)らが百川の真筆と鑑定した。
 百川は名古屋に生まれ、京都を拠点に活躍した。延享4年(1747年)に天橋立を詠んだ句と絵「俳画押絵貼屏風(おしえはりびようぶ)」(名古屋市立博物館蔵)があり、今度見つかったものも同時期に丹後に滞在中、描いたらしい。
 蕪村は、宝暦4年(1754年)春から3年余り宮津に滞在した間にこの掛け軸を見ることができたとみられるが、はっきりしていない。
 肖像画は宮津俳壇の宗匠(指導者)に約250年間、引き継がれてきたらしい。芭蕉の流れをくむ宗匠で同市内のはきもの商、撫松堂水波(ぶしようどう・すいは、本名・花谷光次)さん(1993年死去)の遺族から、京都府立丹後郷土資料館に問い合わせがあって存在が分かった。 ]

 この蕪村が渇望した百川筆「芭蕉翁像」が、平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」で初公開された。
 その図録に、「七〇 参考 芭蕉翁像 彭城百川筆 紙本墨画 一幅 八五・一×二五・一」と収載されている。その「作品解説」(京都府立丹後郷土資料館 伊藤太稿)は次のとおりである。

[ 賛  人の短をいふことなかれ
     己か長を説(とく)事なかれ
  ものいへは(ば)
      唇寒し
        秋の風
 款記  芭蕉翁肖像 倣杉風図  八僊真人写
 印章  「八僊逸人」(白文方印) 「字余白百川」(手文方印)

 彭(さか)城(き)百川(ひゃくせん)(一六九八~一七五二)は、名古屋に生まれ、後に京都を拠点として活躍した日本南画の創始者の一人と目される画家である。はじめ俳諧の道に入って各務支考の門にあり、俳画にも数々の傑作を残し、俳書をも手がけたその画俳両道にわたる活躍は、まさしく蕪村のプトロタイプと言えよう。蕪村が、この百川に私淑していたことは、「天(てん)橋図(きょうず)賛(さん)」はじめ丹後時代以降のいくつかの作品中に明記されており、注目されてきた。しかしながら、従来は、丹後における百川の実作が未確認のままで、両者の関係を具体的に跡づけることはできなかった。ところが最近になって、二点のきわめて興味深い作品の存在が明らかになった。一つは「天(あまの)橋立図(はしだてず)」を含む延享四年(一七四七)作の「十二ヶ月俳画押絵貼屏風」(名古屋市立博物館)であり、もう一つは初公開の本図である。本図は、宮津俳壇の守り本尊として代々の宗匠に伝えられてきたのであるが、添付された代々の譲状の写しは、百川が当地に来遊の折、真照寺で描いたという鷺(ろ)十(じゅう)の文に始まる。「三俳僧図」に描かれた鷺十は蕪村とともに歌仙を巻き、「天橋図賛」は真照寺で書されたことを想起したい。現在所在不明であるが、蕪村が本図を見せてほしいと懇望する某屋嘉右衛門宛ての書簡の存在も知られている。なお、本図と同じ構図の芭蕉翁像(名古屋市博「百川」展図録⑱)は延享三年の作と明記され、百川の来丹がその前後であることも確実となった(注=原文に「ルビ」「濁点」を付した)。  ]

幻の芭蕉像.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-07-27

その三 百川周辺と百川が描いた芭蕉像 → 略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-07-30

その四 若冲周辺と若冲の「松尾芭蕉図」 → 一部抜粋

2015年3月18日(水)~5月10日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が開催された。その出品作の一つに、若冲の「松尾芭蕉図」がある。その図と解説記事などを掲載して置きたい。

「102 松尾芭蕉図」(石田佳也「作品解説」)
伊藤若冲筆 三宅嘯山賛 紙本墨画 一幅 江戸時代 寛政十二年(一八〇〇)筆 寛政十一年(一七九九)賛 一〇九・〇×二八・〇
 若冲が描いた芭蕉像の上方に、三宅嘯山(一七一八~一八〇一)が、芭蕉の発句二句を書く。三宅嘯山は漢詩文に長じた儒学者であったが、俳人としても活躍し宝暦初年には京都で活躍していた蕪村とも交流を重ねた。彼の和漢にわたる教養は、蕪村らが推進する蕉風復興運動に影響を与え、京都俳壇革新の先駆者の一人として位置づけられている。
 なお、嘯山の賛は八十二歳の時、寛政十一年(一七九九)にあたるが、一方、若冲の署名は、芭蕉の背中側に「米斗翁八十五歳画」とあり「藤汝鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文円印)を捺す。この署名通りに、若冲八十五歳、寛政十二年(一八〇〇)の作とみなせば、「蒲庵浄英像」(作品166)と同様に、嘯山が先に賛を記し、その後に若冲が芭蕉像を描き添えたことになる。しかし改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳、寛政十年に描かれたことになり、若冲の落款を考察する上では重要な作例となっている。
  「爽吾」(白文長方印)    芭蕉
    春もやゝけしき調ふ月と梅
    初時雨猿も小蓑をほしけなり
                八十二叟
                 嘯山書
  「芳隆之印」(朱文方印) 「之元」(白文円印)

若冲・芭蕉像3.jpg
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-01

その五 呉春(月渓)の描いた芭蕉像(四画像) → 一部抜粋

『呉春(財団法人逸翁美術館)』には、四点ほど「芭蕉像」が紹介されている。

52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22
(賛) 禅法ハ仏頂和尚に 参して三国相承 験記につらなり 風雅は西行上人を 
   慕うて続扶桑隠逸 伝に載せぬ
蝶夢阿弥陀仏謹書
(解説) 呉春が芭蕉翁の正面像をクローズアップしてえがき、その上に蝶夢法師が上の賛を記している。呉春は筆意謹厳でしたため、翁の容貌はいつも彼がえがく翁の顔である。蝶夢は僧侶であるが後半は誹諧に執心し、芭蕉顕賞に多くの業績をのこした。寛政七年(一七九五)没。

53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41

54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29
(賛) 海島圓浦長汀唫 
あつみ山吹浦かけて夕すゞみ 汐こしや鶴脛ぬれて海すゞし あらうみや佐渡によこたふあまの河 早稲の香や分入右は磯海
明石夜泊
蛸壺やはかなき夢を夏の月
 このつかい這わたるほどといへば
蝸牛角ふり分よ須磨明石
 右芭蕉翁作           嘯山

55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28

呉春の芭蕉像.jpg

右上(52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22)
右下(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)
中央(54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29)
左上(55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-03

その六 金福寺の「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)と「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆) →一部抜粋

金福寺芭蕉像.jpg

金福寺「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)

 この金福寺の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)の下部には、「安永巳亥十月写於夜半亭 蕪村拝」との落款が記されている。この「安永巳亥」は、安永八年(一七七九)に当たる。この時に、蕪村は、同時に、芭蕉像を他に二点ほど描き、その二点には、芭蕉の発句が二十句加賛されているという(『図説日本の古典14芭蕉・蕪村』所収「芭蕉から蕪村へ(白石悌三稿)」)。
 この安永八年(一七七九)は、蕪村が没する四年前の、六十四歳の時で、晩年の蕪村の円熟した筆さばきで、崇拝して止まない、晩年の芭蕉の柔和な風姿を見事にとらえている。
 先に紹介した、月渓の「芭蕉像」(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)は、この蕪村の「芭蕉翁自画賛」をモデルとして描いたものであろう。そして、この両者を比べた時に、蕪村と月渓とでは、その芭蕉に対する理解の程度において、月渓は蕪村の足元にも及ばないということを実感する。
 さて、金福寺の芭蕉庵は、天明元年(一七六一)に改築再建され、この改築再建に際して、蕪村は、先に紹介した安永五年(一七七六)の『写経社集(道立編)』に収載した「洛東芭蕉庵再興記」を自筆で認めて、金福寺に奉納する。
 これらの、上記の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)と「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)とが、今に、金福寺に所蔵されている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-05

(その七)江東区立芭蕉記念館の「芭蕉翁像」(蕪村筆) → 略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-06

(その八)『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵で紹介された「芭蕉翁像」(蕪村筆)→略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-07

(その九)許六に倣った全身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)→一部抜粋

許六倣芭蕉像.jpg

『蕪村展(茨城県立歴史館 1997)』)所収「44芭蕉翁図」(蕪村筆)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-09

(その十)逸翁美術館蔵の「芭蕉翁立像図」(蕪村筆)→略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-10

(その十一)西岸寺任口上人を訪いての半身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)→略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-16

(その十二) 暒々翁に倣った「芭蕉翁像」(蕪村筆)→略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-18

(その十三) 天明二年(一七八二)の同一時作の「芭蕉翁像」(蕪村筆)→ 略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-20

(その十四)眼を閉じている「芭蕉翁像」(蕪村筆)→ 略

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-08-21

その十五 「俳仙群会図」(蕪村筆)上の「芭蕉像」 → 一部抜粋

俳仙群会図・芭蕉像.jpg
(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)「部分図」(芭蕉像)

(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)「部分図」(芭蕉像)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-08-03

その十三  鈴木其一筆「朝顔図屏風」と芭蕉の「朝顔」の句周辺 →一部抜粋

俳仙群会図・拡大.jpg

「俳仙群会図」(蕪村筆)部分図(柿衛文庫蔵)
右端・芭蕉、右手前・やちよ、中央手前・其角、中央後・園女
左端手前・任口上人、左端後・宋阿(夜半亭一世、蕪村は夜半亭二世)
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川原慶賀の世界(その三十) [川原慶賀の世界]

(その三十)川原慶賀の「屏風画・衝立画・巻物画・掛幅画など」そして「真景図(画)・記録図(画)・映像図(画)など」周辺

(川原慶賀の「屏風画」)

「長崎湾の出島の風景」(川原慶賀).jpg
https://nordot.app/830971286696869888?c=174761113988793844

https://nordot.app/830971286696869888?c=174761113988793844

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-22

【 オランダのライデン国立民族学博物館(ウェイン・モデスト館長)は、江戸後期の長崎の絵師・川原慶賀の大作びょうぶ絵「長崎湾の出島の風景」について、2年以上に及ぶ修復作業が完了したと発表した。
 同作は八曲一隻で、縦約1.7メートル、横約4メートル。慶賀が1836年ごろ制作したとされ、長崎港を俯瞰(ふかん)して出島や新地、大浦などの風景が緻密に描かれている。現存する慶賀のびょうぶ絵としては同作が唯一という。
 オランダ国内で長年個人所有されていたものを、同館が2018年に購入。特に絵の周囲を縁取る部分などの損傷が激しく、京都の宇佐見修徳堂など日本の専門家も協力して修復を続けていた。
 修復過程では、絵の下地に貼られた古紙の調査なども実施。同館東アジアコレクションのダン・コック学芸員によると、中国船主の依頼書が目立ち、当時の船主の名前や印と共に、長崎の崇福寺へ団体で参拝に行く予定が書かれていた
 慶賀とその工房の独特な「裏彩色」の技法が同作でも確認されたという。絵の本紙の裏に色を塗る技法で、「こんなに大きな面積でも裏彩色を塗ったことは驚きだった」としている。
 修復したびょうぶ絵は9月末から同館で公開している。日本での公開の予定はまだないが、同館はウェブで同作を鑑賞できるサービス「出島エクスペリエンス」を開発。日本からもスマホやパソコンなどで無料で見られる。コック学芸員は「これからも研究を進めながら、新しい発見があれば出島エクスペリエンスに追加したりして、世界中にいる興味をお持ちの方に広くシェアしたい」と述べている。

 出島エクスペリエンスのアドレスは、https://deshima.volkenkunde.nl/     】

(川原慶賀の「衝立画」)

川原慶賀「長崎港ずブロンホフ家族図」.jpg

「長崎港図・ブロンホフ家族図」≪川原慶賀筆 (1786-?)≫ 江戸時代、文政元年以降/1818年以降 絹本著色 69.0×85.5 1基2図 神戸市立博物館蔵
題記「De Opregte Aftekening van het opper hoofd f:cock BIomhoff, Zyn vrouw en kind, die in Ao1818 al hier aan gekomen Zyn,」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455049

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-07

【 衝立の両面に、19世紀に長崎の鳥瞰図と、オランダ商館長コック・ブロンホフとその家族の肖像が描かれています。この衝立は、作者の川原慶賀(1786-?)がシーボルトに贈呈したものの、文政11年(1828)のシーボルト事件に際して長崎奉行所によって没収されたという伝承があります。その後長崎奉行の侍医・北川家に伝来した。昭和6年(1931)に池長孟が購入しました。
現在のJR長崎駅付近の上空に視座を設定して、19世紀の長崎とその港の景観を俯瞰しています。画面左中央あたりに当時の長崎の中心部、唐人屋敷・出島・長崎奉行所が描かれ、それをとりまく市街地の様子も克明に描かれています。

 この衝立の片面に描かれているブロンホフ家族図には、慶賀の款印(欧文印「Toyoskij」と帽子形の印「慶賀」)が見られる。コック・ブロンホフは文化6年(1809)に荷倉役として来日。文化10年のイギリスによる出島奪還計画に際し、その折衝にバタビアへ赴き、捕らえられイギリスへ送られたました。英蘭講和後、ドゥーフ後任の商館長に任命され、文化14年に妻子らを伴って再来日。家族同伴の在留は長崎奉行から許可されず、前商館長のヘンドリック・ドゥーフに託して妻子らはオランダ本国に送還されることになりました。この話は長崎の人々の関心を呼び、本図をはじめとする多くの絵画や版画として描かれました。
来歴:(シーボルト→長崎奉行所?)→北川某→1931池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019/・神戸市立博物館特別展『日本絵画のひみつ』図録 2011/・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008/・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008/神戸市立博物館特別展『絵図と風景』図録 2000 】(「文化遺産オンライン」)

(川原慶賀の「巻物画」)

川原慶賀「阿蘭陀芝居巻」(全).png

「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻』」(「合成図」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-12

【 この「川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻』は、「巻子(巻き軸で巻いたもの)仕立ての絵(27.5㎝×36.3㎝)が七枚描かれている」。「慶賀がこの絵巻をつくった年代は定かでないが、おそらく江戸後期?芝居が上演された文政三年庚辰年(一八二○年)のことであろう。時に、慶賀は三十五歳であった。その三年後の文政六年(一八二三年)にシーボルトが来日し、かれはそのお抱え絵師となるのである」。
 「オランダ芝居を描いたこの絵巻は、アムステルダムの公文書館やネーデルラント演劇研究所にもあることから考えて、複数模写されたものであろう」。(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について(宮永孝稿)」(「法政大学学術機関リポジトリ」)】

(川原慶賀の「掛幅画」)

花鳥図.jpg

●作品名:花鳥図 ●Title:Flowers and Birds
●分類/classification:花鳥画/Still Lifes
●形状・形態/form:紙本彩色、軸/painting on paper,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-11-12

【 これらの川原慶賀の「花鳥画」は、いわゆる、「南蘋派」そして「洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎派」の系統に属する世界のものであろう。
 なかでも、石崎融思と慶賀と関係というのは、そのスタートの時点(文化八年(1811年)頃)、当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、爾来、弘化三年(一八四六)、融思(七十九歳、慶賀より十八歳年長)の、融思が亡くなる年の、その遺作ともいうべき、「観音寺天井画」(野母崎町観音寺)の、石崎一族の総力を挙げてのプロジェクト(一五〇枚の花卉図、うち四枚が慶賀画)にも、慶賀の名を遺している。

「花鳥図」石崎融思.jpg

「花鳥図」石崎融思筆/ 絹本着色(「ウィキペディア」)

≪ 洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎の洋風画家

https://yuagariart.com/uag/nagasaki12/

 長崎に入ってきた絵画の制作年代や真贋などを判定、さらにその画法を修得することを主な職務とした唐絵目利は、渡辺家、石崎家、広渡家の3家が世襲制でその職務についていた。享保19年には荒木家が加わり4家となったが、その頃には、長崎でも洋風画に対する関心が高まっており、荒木家は唐絵のほかに洋風画にも関係したようで、荒木家から洋風画の先駆的役割を果たした荒木如元と、西洋画のほか南画や浮世絵にも通じて長崎画壇の大御所的存在となる石崎融思が出た。融思の門人は300余人といわれ、のちに幕末の長崎三筆と称された鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も融思のもとで学んでいる。ほかの洋風画家としては、原南嶺斎、西苦楽、城義隣、梅香堂可敬、玉木鶴亭、川原香山、川原慶賀らがいる。

石崎融思(1768-1846)
 明和5年生まれ。唐絵目利。幼名は慶太郎、通称は融思、字は士斉。凰嶺と号し、のちに放齢と改めた。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。西洋絵画輸入に関係して増員 されたと思われる唐絵目利荒木家の二代目荒木元融の子であるが、唐絵の師・石崎元徳の跡を継いで石崎を名乗った。父元融から西洋画も学んでおり、南蘋画、文人画、浮世絵にも通じ長崎画壇の大御所的存在だった。その門人300余人と伝えている。川原慶賀やその父香山とも親しかったが、荒木家を継いだ如元との関係はあまりよくなかったようである。弘化3年、79歳で死去した。≫(「UAG美術家研究所」)  】


(石崎融思門絵師・川原慶賀が到達した世界=「山水画と風景画のあいだ-真景図の近代」=「真景図(画)の世界」)

川原慶賀「長崎港図」広島県立歴史博物館蔵.jpg

川原慶賀「長崎港図」 19世紀前半/広島県立歴史博物館蔵

(抜粋)

https://www.mainichi.co.jp/event/culture/20220726.html

【 「山水画と風景画のあいだ-真景図の近代」
 誰もがきれいな風景画を見ると心が和みます。しかし、私たちが思い浮かべるような風景画が描かれるのは近代になってからであり、長らく中国からもたらされた山水画が美術の主流でした。本展では、18世紀末から20世紀初頭の日本の風景表現の移り変わりを通して、日本人の風景を見る眼がいかに確立してきたかをたどります。
  山水画、文人画、洋風画、浮世絵、日本画、洋画などジャンル・流派を越えた約100点を三部構成で展覧。高島北海ほか、下関のゆかりのある画家の作品や下関の特徴的な景観を捉えた作品なども展示します。 】(「毎日新聞社」)

https://www.city.shimonoseki.lg.jp/site/art/71899.html#:~:text=%E7%9C%9F%E6%99%AF%E5%9B%B3%E3%81%A8%E3%81%AF,%E3%81%9F%E5%B1%B1%E6%B0%B4%E7%94%BB%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82

【「第1章 真景図のはじまり」
 第1章では、江戸時代後期、下関にも来遊した頼山陽や田能村竹田、蘭学者で洋風画を描いた司馬江漢、また浮世絵師として人気を博した歌川広重など、誰もが知る大家・名匠の面々が並びます。 
 中世から江戸時代まで日本で主流であった山水画は、中国の水墨の山水画を手本としていたため、中国の風景を描いたものが主流でした。一方、江戸時代になると、経験主義的・実証主義的なものの見方が広まり、自然主義への志向が高まります。
 浦上玉堂や谷文晁といった文人画(南画)には、日本の自然を独自の様式に昇華したり、自然をそのまま描こうとしたりしたものがありました。その中から真景図が登場します。真景図とは、日本の特定の場所の写生に基づいた山水画のことです。このような実景表現が風景表現への新たな関心と展開を促すことになりました。
 長崎では、中国清朝の写実的な花鳥画を伝えた沈南蘋(しん・なんぴん)の画風が伝わり、蘭学の影響によって西洋画の技法も注目を集めました。江戸の司馬江漢や亜欧堂田善らは西洋の遠近法に基づいて奥行きのある空間を描きます。また、江戸時代に旅行がブームになると、日本の名所を表現した風景版画が流行し、歌川広重の「東海道五十三次」のような名作が生まれました。
 このように、文人画が描いた真景図を契機として江戸時代にはさまざまな風景表現が生まれ、近代以降の日本では山水画から風景画へ移行することになります。

「第3章 近代風景画の成立」
 第3章では、明治以降の風景表現をたどります。新しい日本画の創出を目指した横山大観や菱田春草は、線を用いずに面によって空間を表現する朦朧体(もうろうたい)を試み、一方、川合玉堂や竹内栖鳳は、朦朧体のように筆線を否定することなく、西洋の写実表現を取り入れます。 
 近代洋画の開拓者、高橋由一は日本人としてはじめて本格的に油彩画の風景を描きますが、その構図やモチーフは、名所絵の伝統を引き継ぐものでした。1900年頃、西洋人からあるいは西洋で学んだ画家たちにより、「あるがままの自然」を描くことが意識されるようになり、それが日本における山水画から風景画への転機となりました。大正時代になると、岸田劉生のように、高橋由一同様、土着性が感じられる風景画を描く画家も登場します。
 浮世絵の流れを引く版画は、庶民の芸術としてずっとさかんでした。明治時代に活躍した小林清親は、明暗法を導入した「光線画」を生み出します。大正時代には吉田博や川瀬巴水の新版画による風景画が描かれます。
 日本画・洋画・版画とそれぞれの風景表現の変遷をたどると、風景画はかつての文人画以上に日本社会に広く定着していることがわかります。ここにおいて、山水画に始まり、真景図を経て風景画にいたる流れが完結したといえるでしょう。

小林清親《今戸橋月夜茶亭》.jpg

小林清親《今戸橋月夜茶亭》明治10年(1877)頃 兵庫県立美術館

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高橋由一《琴平山遠望図》明治14年(1881)金刀比羅宮    】(「下関市立美術館)

(シーボルトの眼となった「長崎出島絵師・川原慶賀」の目指した世界=「記録図(画)・映像図(画)」の世界)

(川原慶賀の「記録図(画)」)

草木花實寫真圖譜 .jpg

●作品名:草木花實寫真圖譜 三 キリ
●Title:Empress Tree, Princess Tree
●学名/Scientific name:Paulownia tomentosa
●学名(シーボルト命名)/Scientific name(by von Siebold):Paulowia imperialis
●分類/classification:植物/Plants>ゴマノハグサ科/Scrophulariaceae
●形状・形態/form:紙本彩色、木版、冊子/painting on paper,wood engraving,book
●所蔵館:長崎歴史文化博物館 Nagasaki Museum of History and Culture
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3784&cfcid=125&search_div=kglist

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-11-26

【 (抜粋)

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index1.html

◆シーボルトが見た日本画家・慶賀

 シーボルトは渡来当初から将来『日本植物誌』の出版する際に、慶賀の植物画を中心に活用しようと膨大な量の絵を描かせていたという。文政9年(1826)の2月から7月にかけての江戸参府においても慶賀はシーボルトの従者のひとりとして参加し、旅先の各地での風景や風物を写生した。慶賀はシーボルトの目に映るものを直ちに紙に写し取り、いわばカメラの役割を果たした。当時の文化、風俗、習慣、自然。特に慶賀の描写した植物画は彩色も巧妙でシーボルトを満足させていたという。実際にシーボルトは慶賀に対する評価を『江戸参府紀行』に次のように記している。
《……彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は、私の著作の中で、彼の功績が真実であることを物語っている……》

◆シーボルトが慶賀に与えた目覚め

 慶賀が残した膨大な量の作品は、その内容、作品に熱意からして、単に雇われ絵師が義務的にこなした仕事とは思えないものだという。そこまで、自然物の写生を徹底した科学的態度によっておこなうことになったのは、やはりシーボルトという偉大な存在と出逢ったためだろう。なかでも、シーボルトに同行した江戸参府の経験は大きい。おそらく、道中においてシーボルトの精力的な研究ぶり、また江戸滞在中にシーボルトを訪れた日本人学者達のシーボルトに対する尊敬ぶりと貪欲なまでの知識欲などを目の当たりにして、慶賀の眼ももっと広い世界へと開かれたものと思われている。シーボルトへの尊敬の念が慶賀に新たな意欲をかきたたせ、自分の使命はシーボルトに与えられた自然物をいかにその通りに描くか、ということにあると自覚し、しかも単に外観をそのまま写すのではなく、そのものの学問上の価値を知って描くことが自分に課せられた任務だと気づいたのだろう。『シーボルトと日本動物誌』においてはじめて公刊された慶賀の甲殻類の図53枚は、大部分が原寸で描かれているという。そして、そのほとんどの図版に種名やその他の書き込みが慶賀によってなされているというのだ。彼が単に図を描くだけでなく、日本名の調査や記入にもあたっていたということは、慶賀自身がシーボルト同様に西洋的科学研究に参加しているという意識を持って仕事をしていたということなのだ。やはりシーボルトとの出逢いと指導が慶賀を大きく成長させたということだろう。

◆慶賀とシーボルトの信頼関係

 慶賀は江戸参府の際に長崎奉行所から命じられていた“シーボルトの監視不十分”の罪で入牢している。慶賀は、シーボルトを密かに監視するようなことをしなかったのだ。シーボルトへの尊敬の念、また、シーボルトから自分に向けられた役割と期待。シーボルトと慶賀の間には、雇い主と雇われ絵師という関係以上の感情がいつしか芽生え、心の交流がなされていたのだろう。シーボルトは帰国後も日本に残った助手ビュルゲルと連絡をとり、標本、図版類を送らせていた。ビュルゲルによって送られた図版は、慶賀によるもの。慶賀は、シーボルト帰国後から長崎払いの処罰を受けるまでの約10年間、出島出入絵師として働いていたと考えられているが、ビュルゲルはシーボルト帰国後3年間、日本にとどまっていることから、慶賀は少なくともその期間はシーボルトの仕事をしていたと思われる。その際、慶賀が描いた甲殻類の図(『シーボルトと日本動物誌』に掲載)から、実物通りの写生能力に関して、シーボルトは慶賀に絶対の信頼を置いていて、また、慶賀もその信頼を裏切るようなことをしなかったということがうかがえるのだ。】(「長崎Webマガジン」所収「長崎の町絵師・川原慶賀」)

(川原慶賀の「映像図(画)」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-12-07


魯西亜整儀写真鑑(合成図).png

【 魯西亜整儀写真鑑 /川原慶賀=版下絵、大和屋版/安政元年頃/巻子7図、紙本木版色摺/各26.0×38.6-39.0
 七図からなる一連の錦絵、「魯西亜整儀写真鑑」と袋に題されている。磯野文斎(渓斎英泉の門弟)が入婿した後の長崎、大和屋から版行された。嘉永六年(一八五三)七月十八日、ロシア海軍の将官プチャーチンは、修交通商と北方の領海問題を解決するため国書を携え、軍艦四艘を率いて長崎港に入ってきた。この時、幕府は国書を受けず、十月、艦隊は長崎に再来、再び退去し、安政元年(一八五四)三月、三度長崎に入港してきた。本図は、国書を携えて西役所におもむくロシア使節の行進を活写したもの、プーチャチン像の右下に「GeteKent Door Tojosky」とあり、トヨスキィこれを描く、の意味。
 江戸後期の長崎における最もすぐれた絵師のひとり川原慶賀が下絵を描いている。トヨスキィという西洋人風の筆記は、慶賀の通称「登与助」のこと。慶賀は、シーボルトの専属画家のような形で写実性の高い記録絵を残したが、「シーボルト事件」の十四年後、天保三年(一八四二)に長崎払いとなり、弘化三年(一八四六)ごろに再び戻って磯野文斎の依頼でこの記録絵の制作にたずさわったのである。素朴な土産絵であった長崎版画が生み出した、歌川貞秀などの末期の江戸絵に拮抗し得る完成度の高い作品。(岡泰正稿) 】(『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画』所収「作品解説87」)

 「映像図(画)」という言葉は、未だ一般には定着していない言葉なのかも知れないが、上記の解説中の「慶賀は、シーボルトの専属画家のような形で写実性の高い記録絵を残したが、『シーボルト事件』の十四年後、天保三年(一八四二)に長崎払いとなり、弘化三年(一八四六)ごろに再び戻って磯野文斎の依頼でこの記録絵の制作にたずさわったのである」の、「時事・世相記録図(画・絵)」のようなニュアンスのものである。

黒船来航瓦版.gif

「黒船来航瓦版」(「石川県立歴史博物館」蔵)

https://www.ishikawa-rekihaku.jp/collection/detail.php?cd=GI00379

【 (抜粋)

「黒船来航瓦版」

 ペリーの1853(嘉永6)年6月来航、翌年の再来航によって、江戸幕府は開国を余儀なくされ、その来航に際しおびただしい数の瓦版がつくられた。江戸時代に「読売」「一枚摺」「摺物」と呼ばれた「瓦版」は、明治時代以降に定着したといわれる。
 この黒船来航瓦版は画面中央に船体を大きく配し、3本の大きいマストやアメリカ国旗、推進用の外輪、煙突などを描き、船上には船員が小さく描かれ、船体の大きさが強調されている。上部の1本目と2本目マストの間に「蒸気船」と書かれ、2本目マストの上辺りに黒船の長さ、巾、帆柱数、石火矢(大砲)の数、煙出(煙突)長さ、外輪の径、乗員数(360人)が書かれ、その左右に幕府の旗本や大名などの名が記される。 】(「石川県立歴史博物館」)

【 (瓦版)

 江戸時代に、ニュース速報のため、木版一枚摺(ずり)(ときには2、3枚の冊子)にして発行された出版物。瓦版という名称は幕末に使われ始め、それ以前は、読売(よみうり)、絵草紙(えぞうし)、一枚摺などとよばれた。土版に文章と絵を彫り、焼いて原版とした例もあったという説もあるが不明確である。最古の瓦版は大坂夏の陣を報じたもの(1615)といわれるが明確ではない。天和(てんな)年間(1681~1684)に、江戸の大火、八百屋(やおや)お七事件の読売が大流行したと文献にみえ、貞享(じょうきょう)・元禄(げんろく)年間(1684~1704)には上方(かみがた)で心中事件の絵草紙が続出したと伝えられる。これが瓦版流行の始まりである。
  江戸幕府は、情報流通の活発化を警戒してこれらを禁圧し、心中や放火事件などの瓦版は出せなくなった。江戸時代中期には、1772年(明和9)の江戸大火、1783年(天明3)の浅間山大噴火など災害瓦版が多く現れ、打毀(うちこわし)を報じたものもあったが、寛政(かんせい)の改革(1787~1793)以後、取締りがいっそう厳しくなった。しかし、文政(ぶんせい)年間(1818~1830)以後になると、大火、地震、仇討(あだうち)などの瓦版が、禁令に抗して幾種類も売られ、また、米相場一覧、祭礼行列図、琉球(りゅうきゅう)使節行列図なども刊行された。安政(あんせい)の地震(1855)の瓦版は300種以上も出回り、その後、明治維新に至る政治的事件の報道、社会風刺の瓦版が続出した。瓦版の値段は、半紙一枚摺で3~6文、冊子型は16~30文ほどであった。作者、発行者は絵草紙屋、板木屋、香具師(やし)などであろう。安政の地震の際には、仮名垣魯文(かながきろぶん)、笠亭仙果(りゅうていせんか)などの作者や錦絵(にしきえ)板元が製作販売にあたってもいる。
 明治に入って瓦版は近代新聞にとってかわられるが、その先駆的役割を果たしたといえよう。[今田洋三]
『小野秀雄著『かわら版物語』(1960・雄山閣出版)』▽『今田洋三著『江戸の災害情報』(西山松之助編『江戸町人の研究 第5巻』所収・1978・吉川弘文館)』 】(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

 「映像図(画)」(木版色摺)の「魯西亜整儀写真鑑 /川原慶賀=版下絵、大和屋版」は、
「時事・世相記録図(画・絵)」という「報道性」を帯び、いわゆる、「鎖国から開国」の、その狭間に横行した「瓦版」(「読売(よみうり)の一枚摺り」」)の一種とも解され、これが、次の時代の「横浜絵・黒船瓦版」などに連動してくるように思われる。

亜米利加人上陸ノ図 嘉永七年二月.jpg

「亜米利加人上陸ノ図 嘉永七年二月」 (「横浜市」)

使節ペリー横浜応接の図.jpg

「使節ペリー横浜応接の図」 (「横浜市」)

(参考)『横浜の歴史』(平成15年度版・中学生用)「開国」関連部分(横浜市教育委員会、2003年4月1日発行)

【 (抜粋)

https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/shiru/sakoku/kaei/yokohamabook/yokoreki.html

『横浜の歴史』

第一節 黒船の渡来
(1)ペリーの来航
 四隻の黒船
 アメリカのアジア進出
 幕府の態度
 国書の受理
(2)国内の動揺
 広がる不安
 人々の苦しみ
(3)日米和親条約
 ペリー再来
 白ペンキのいたずら書き
 応接地、横浜
 交渉の開始
 条約の内容
 アメリカからの贈呈品

(一) ペリーの来航

四隻の黒船
 1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、浦賀沖に、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが率いる4隻の軍艦が現れた。浦賀奉行の早馬は「黒船現わる」の知らせをもって江戸に走った。急ぎ駆けつけた武士によって、海岸線は警備され、夜にはかがり火をたいて、黒船の動きを監視した。今までにも、外国船は姿を見せたことはあったが、今回のように艦隊を組み、砲門を開き、いつでも戦える状態で現われたことはなかった。それに加え、黒々とした蒸気船の巨体は、見る人々を圧倒してしまった。


アメリカのアジア進出
 アメリカでは19世紀にはいって工業が発達し、機械による生産が増大した。アメリカにおける産業の発達は、海外市場を求めてアジア大陸への進出を促した。しかし、アジアの中心、中国へ進出するためには、大西洋を横断し、アフリカの南端を回り、インド洋を経由しなければならず、イギリスなどと対抗するには地理的にも不利な条件であった。当時、アメリカの太平洋岸は捕鯨漁場として開かれていたこともあって、太平洋を直接横断する航路が考えられるようになった。だが、当時の船では途中で、どうしても石炭や水などの補給をしなければならなかった。太平洋岸の中継地として、日本が最良の場所であった。使節ペリーの任務は鎖国政策をとっている日本の政治を変えさせ、港を開かせることにあった。

幕府の態度
 ペリーの来航について幕府は長崎のオランダ商館長から知らされていたが鎖国政策を変えることはしなかった。実際にペリーが浦賀沖に来航しても、交渉地である長崎へ回航することを求めた。しかし、ペリーは強い態度を示し、交渉中も江戸湾の測量を行い、金沢の小柴沖まで船を進め、交渉が進展しないとみればいつでも艦隊を江戸へ直航させる構えを示して幕府の決断を迫った。
 一方、幕府も戦争に備えて、急いで諸大名に対して江戸湾周辺の警備を命じた。本牧周辺を熊本藩、神奈川を平戸藩、金沢を地元の大名米倉昌寿の六浦(金沢)藩、横浜村を小倉、松代両藩がそれぞれ守りを固め、さらにその後、本牧御備場を鳥取藩、生麦・鶴見周辺を明石藩が警備することになった。このように諸大名を動員し、大規模な警備に当たったことは今までになかったことであった。

国書の受理
 大統領の国書を受理させようとするペリーの強い態度に押された幕府は、ついに浦賀の久里浜でそれを受けることを認めた。
 1853年7月14日(嘉永六年六月九日)、急いで設けられた応接所で、アメリカ大統領フィルモアの国書が、幕府の浦賀奉行に渡された。国書の内容はアメリカとの友好、貿易、石炭、食糧の補給と遭難者の保護を求めるものであった。幕府はあくまでも正式交渉地は長崎であり、浦賀は臨時の場であることを述べて、国書に関する回答はできないという態度をとった。ペリーも国書の受理が行われたことで初期の目的を達したと判断し、来年その回答を受け取りに来航することを伝えて日本を離れた。

(二)国内の動揺(略)

(三)日米和親条約

ペリー再来

 幕府が開国か鎖国かの判断が下せず苦しんでいた1854年2月13日(安政元年一月一六日)、再び七隻の艦隊を率いてペリーは来航し、江戸湾深く進み、金沢の小柴沖に停泊した。
 浦賀奉行は、前回の交渉地であった浦賀沖まで回航するよう要求したが、ペリーは波が荒く、船を停泊させるには適さないことなどを理由にこれを断わった。幕府はできるだけ江戸から離れた場所で交渉しようとして浦賀、鎌倉などを提案したが、ペリーは江戸に近い場所を要求して、話し合いはまとまらなかった。ペリーは艦隊をさらに進ませ、神奈川沖や羽田沖まで移動させた。江戸の近くから黒船が見えるほど接近させたことに幕府は驚き、急いで神奈川宿の対岸、横浜村の地を提案し、妥協を図った。  
 ペリーも、江戸に近く、陸地も広く、安全で便利な場所であることなど、満足できるところであることを認めて、この地を承認し艦隊を神奈川沖に移した。

白ペンキのいたずら書き

北亜墨利加人本牧鼻ニ切附タル文字ヲ写.jpg

「北亜墨利加人本牧鼻ニ切附タル文字ヲ写」

 交渉場所の話し合いが行われているときでも艦隊は神奈川沖を中心に測量を行い、海図の作成の仕事を進めていた。測量を行うボートの一隻が、本牧八王子海岸の崖(本牧市民プール付近)に接近し、白ペンキで文字を書きつけていった。このことがのちに江戸の「かわら版」に大事件として図解入りで報道された。そのため、横浜に多数の見物人が押しかけてきた。奉行は見物の禁止とともに、そのいたずら書きを消してしまった。外国人の一つ一つの行動がすべて興味と好奇心で見られていたのである。

応接地、横浜
 当時の横浜は戸部、野毛浦と入り海をはさんで向かい合い、外海に面した地形で景色のすぐれた所であった。
 応接地として決定された2月25日、アダムズ参謀長ほか三十名のアメリカ人がこの地を調査するために上陸した。畑地や海岸の様子を検分し、奉行の立ち合いの上で横浜村の北端、駒形という地(県庁付近)を応接地とし、確認のための杭を打ち込んだ。横浜の地に外国人が上陸した最初でもあった。
 外国人の上陸を知った人々の驚きは大きかった。外国との戦争は横浜からだ、といううわさが流れた。それに加え、応接地決定の3日前がアメリカのワシントン記念日に当たっていたため、七隻の軍艦から100発以上の祝砲が撃たれた。そのごう音は江戸湾にこだまし、遠く房総の村々にまで聞こえ、事前に奉行から触書が回されていたけれども、人々に恐怖心を与えた。
 応接地が決定されると、日本側も、アメリカ側も、その準備や調査のために横浜に上陸して活動を始めた。奉行も外国人との摩擦を避けるために外出禁止令を出したが、村人の生活は畑仕事や貝類の採取、漁業であったため、自然に外に出ることが多くなった。村人に対して奉行所からは外国人から物をもらってはならないという命令が出され、巡回する役人はアメリカ側が村人と仲良くするために菓子などを入れたかごを置いてあるのを見つけては焼き捨てたりしていた。やがて、外国人が危害を加えないことがわかると少しずつ恐ろしさが消え、珍しいもの見たさに人々が押しかけてくるようになった。増徳院という横浜村の寺で外国人の葬儀が行われたときは、見物人で道の両側に人垣ができたほどであった。

交渉の開始
 横浜応接所は久里浜に設けられた設備を解体し、横浜に運んで4日間で完成させたもので5棟からなるこの応接所をアメリカ側は条約館と呼んだ。
 1854年3月4日(安政元年二月六日)、ペリーが再来した日から21日目に第1回の会見が行われた。日本側の全権は神奈川宿から船で到着し、アメリカ使節ペリーと兵士500名は祝砲のとどろく中を音楽隊を先頭に上陸した。会談は前回の国書の回答から始められ、4回の会談で条約の交渉は妥結し、3月31日(三月三日)に調印が行われた。これが横浜で結ばれた日米和親条約であり、一般には神奈川条約ともいわれた。

条約の内容
 幕府は、国書に示されていた石炭、薪、水、食糧の補給、避難港の開港、遭難民の救助と人道的な取扱いについては認めたが通商に関しては認めなかった。それに関してはペリーも強く要求はしなかったが、代わりにアメリカの代表として総領事を置くことを認めさせた。条約交渉の最大の問題はどこを開港するかにあった。幕府は長崎一港を主張し、アメリカ側は長崎以外の港を要求した。交渉の結果、北海道の函館、伊豆半島の南端にある下田の2港を開くことで妥結した。幕府は、江戸から遠く離れ、しかも管理しやすい場所で日本人との接触が少ない所を選んだのである。
 これで日本が長い間続けてきた鎖国政策はくずれ、世界の中に組み入れられ、新しい時代を迎えるようになったのである。

アメリカからの贈呈品

嘉永七年二月献上〔蒸気車〕.jpg

嘉永七年二月献上〔蒸気車〕

 条約交渉が行われている際、ペリーはアメリカからの贈呈品としてたくさんの品を幕府側に贈った。武器、電信機、望遠鏡、柱時計、蒸気車模型一式、書籍、地図類であった。なかでも電信機と蒸気車は応接所付近に準備され、それぞれ実験をし、動かし方の指導が行われた。特に蒸気車は模型とはいいながら精巧に作られており、6歳程度の子どもを乗せて走るほどのものであった。蒸気車、炭水車、客車の3両は円形に敷かれたレールの上を人を乗せて蒸気の力で走った。この近代科学の成果は日本人にどれほどの驚きを与えたか、想像以上のものであった。
 日本側はそれに対して力士を呼んで、外国人に負けないくらいの力の強い大男がいることを示し、幕府からはアメリカ大統領らに日本の伝統を誇る絹織物、陶器、塗り物などを贈った。
 使節としての責任を果たしたペリーは、仕事を離れて数名の部下を連れて横浜村周辺を散策した。横浜村の名主、石川徳右衛門宅を訪れて家族の暖かい接待を受けたり、村人とも親しく交わり帰船した。 
 4月15日(三月一八日)、およそ3か月の滞在を終えてペリーは神奈川沖を出帆して、開港される下田に向かった。 】(「横浜市」)

この「条約交渉が行われている際、ペリーはアメリカからの贈呈品の『蒸気車、炭水車、客車』の返礼として、「力士を呼んで、外国人に負けないくらいの力の強い大男がいることを示し」たという記事に接して、全く異次元(慶賀=長崎、シーボルトそして露西亜のプーチャチン、黒船来航=横浜、亜米利加のペリー)の世界のものが、次の「相撲取り(力士)」(川原慶賀筆)などを通してドッキングして来ることに、妙な感慨すら湧いてくる。

相撲取り(力士).jpg

「相撲取り(力士)」(川原慶賀筆)(『「江戸時代 人物画帳( 小林淳一・編著: 朝日新聞出版 )』)

 安政五年(一八五八)、日米修交通商条約が締結され、続いて、「阿蘭陀(オランダ)・露西亜(ロシア)・英吉利(イギリス)・仏蘭西(フランス)」と、いわゆる「安政の五カ国条約」が締結され、事実上、鎖国から開国へと方向転換をすることになる。
 その翌年の安政六年(一八五九)に、シーボルトは、長男アレクサンダーを連れて再来日するが、この再来日時に、シーボルトと川原慶賀とが再会したかどうかは、杳として知られていない。
 川原慶賀が亡くなったのは文久元年(一八六一)の頃で、この年には、シーボルトは幕府の招きで横浜に向かい、幕府顧問として外交の助言やら学術教授などの役目を担っている。また、息子のアレクサンダーも英国公使館の通訳となっている。そして、シーボルトが帰国したのは、その翌年の文久二年(一八六二年)のことである。(『生誕二百年記念 シーボルト父子が見た日本(ドイツ-日本研究所刊)』『よみがえれ! シーボルトの日本博物館(監修:国立歴史博物館)』『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画(茨城県立歴史館刊)』)


(参考) 「シーボルト再来日から死亡まで」周辺

(シーボルト再来日から死亡まで) ※=川原慶賀関係(「ウィキペディア」『生誕二百年記念 シーボルト父子が見た日本(ドイツ-日本研究所刊)』など)

1858年(安政五年) - 日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除
1859年(安政六年) - オランダ貿易会社顧問として再来日
※1860年(万延元年)- 川原慶賀没か?(没年齢=76歳)(『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画(茨城県立歴史館刊)』))
1861年(文久元年) - 対外交渉のための幕府顧問に
1862年5月(文久二年) - 多数の収集品とともに長崎から帰国する。
1863年(文久三年) - オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進
1863年(同上) - オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される
1863年(同上) - 日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示
1864年(文久四年) - オランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰る。
1864年5月(同上) - パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力
1864年(同上) - ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催
※川原慶賀=一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)(『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』「ウィキペディア」)
1866年(慶応二年) - ミュンヘンで「日本博物館」を開催
1866年10月18日(同上) - ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去

≪ (再来日とその後)  
 1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。 
 貿易会社との契約が切れたため、幕府からの手当で収入を得る一方で、プロイセン遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後自らプロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い、その他フランス公使やオランダ植民大臣らなどの要請に応じて頻繁に日本の情勢についての情報を提供する[8]。並行して博物収集や自然観察なども続行し、風俗習慣や政治など日本関連のあらゆる記述を残す。
江戸・横浜にも滞在したが、幕府より江戸退去を命じられ、幕府外交顧問・学術教授の職も解任される。また、イギリス公使オールコックを通じて息子アレクサンダーをイギリス公使館の職員に就職させる[8]。1862年5月、多数の収集品とともに長崎から帰国する。
 1863年、オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進、オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される[9]。日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示し、コレクションの購入をオランダ政府に持ちかけるが高額を理由に拒否される[9]。オランダ政府には日本追放における損失についても補償を求めたが拒否される。
 1864年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰った。同年5月、パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力する一方、同行の三宅秀から父・三宅艮斉が貸した「鉱物標本」20-30箱の返却を求められ、これを渋った。その渋りようは相当なもので、僅か3箱だけを数年後にようやく返したほどだった。
 バイエルン国王のルートヴィヒ2世にコレクションの売却を提案するも叶わず。ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催、1866年にはミュンヘンでも開く。再度、日本訪問を計画していたが、10月18日、ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去した。70歳没。墓は石造りの仏塔の形で、旧ミュンヘン南墓地 (Alter Munchner Sudfriedhof) にある。≫(「ウィキペディア」)

 この、シーボルトの再来日の際の、「プロイセン遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後自らプロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い」(「ウィキペディア」)などに接すると、これまた、この「シーボルトの再来日」の前の、川原慶賀の版下絵による大和屋版の「魯西亜整儀写真鑑」とドッキングしてくる。
 そして、この時に、晩年の「川原慶賀とシーボルトの再会」があったかどうかは定かではないが、少なくとも、シーボルト父子が、この再来日の折に、この、川原慶賀の版下絵による大和屋版の「魯西亜整儀写真鑑」を目にしていることは、この「ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフ」に面会していることに関連して、事実に近いものと解したい。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト像.gif

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト像/1861(文久元)年 スケッチ画 個人蔵/横浜開港資料館 平成27 年度第4 回企画展示「日独修好150年の歴史 幕末・明治のプロイセンと日本・横浜」/横浜開港資料館、国立歴史民俗博物館
≪「絵入りロンドン・ニュース」の特派員であったイギリス人画家チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman,1832-91)が描いた肖像画。当時、シーボルトは、1861(文久元)年10 月に幕府外交顧問を解任され、江戸を退去して横浜に滞在中であった。第二次日本滞在中のシーボルトを描いた唯一の肖像画である。シーボルトの子孫の家に伝わった資料。≫(「横浜開港資料館・国立歴史民俗博物館」)

伊藤圭介.gif

(右)シーボルト(Siebold, Philipp Franz von, 1796-1866)
(左)伊藤圭介(1803年2月18日 ? 1901年1月20日)
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/shozo/index3.html
≪「伊藤圭介・シーボルト画像」 伊藤篤太郎摸 1軸 
文久2年、来日していたシーボルトの肖像を「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の特派員でイギリス人の画家チャールズ・ワーグマンがスケッチし、その摸本をさらに後年、植物学者伊藤圭介の子息篤太郎が圭介の肖像とともに模写したもの。≫(早稲田大学図書館
WEB展覧会第33回 「館蔵『肖像画』展 忘れがたき風貌」)

http://kousin242.sakura.ne.jp/nakamata/eee/%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88/

■シーボルトの日本博物館(国立民族博物館) → (略)
■シーボボルトの博物館構想(山田仁史(東北大学大学院) → (略)
■シーボルト・コレクションのデジタルアーカイブ活用(原田泰(公立はこだて未来大学)

シーボルト・コレクションのデータベース化.jpg

[>]?シーボルト・コレクションのデータベース化(一部抜粋)

<シーボルトコレクション収蔵機関>
・ナチュラリス生物多様性センターhttps://www.naturalis.nl/nl/
・シーボルトハウスhttp://www.sieboldhuis.org/en/
・国立民俗学博物館https://volkenkunde.nl/en
・シーボルト博物館ビュルツブルクhttps://siebold-museum.byseum.de/de/home
・ミュンヘン州立植物標本館http://www.botanischestaatssammlung.de

[>]?デジタル目録としてのデータベース(略)

[>]?「シーボルト父子関係資料をはじめとする前近代(19世紀)に日本で収集された資料についての基本的調査研究」プロジェクト
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川原慶賀の世界(その二十九) [川原慶賀の世界]

(その二十)九「川原慶賀の魯西亜整儀写真鑑」周辺

魯西亜整儀写真鑑.png

左図:魯西亜整儀写真鑑(袋) 右図: プチャーチン肖像
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/412235

軍艦2隻.jpg

左図:軍艦2隻 右図:軍艦2隻

椅子・靴持兵隊.jpg

左図:椅子・靴持兵隊 右図: 軍旗持兵隊

鉄砲持兵隊.jpg

左図:鉄砲持兵隊 右図: 軍楽隊
【魯西亜整儀写真鑑(ろしあせいぎしゃしんかん) 木版画 / 江戸/神戸市立博物館蔵
川原慶賀下絵/大和屋版/長崎版画/江戸時代、嘉永6年/1853年/木版色摺/ 39.0×25.8 他/ 1帖(7図・袋)
「Tojosky」のサインあり 軍楽隊/鉄砲持兵隊/軍旗持兵隊/椅子・靴持兵隊/軍艦2隻/軍艦2隻/プチャーチン肖像/袋
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】
(「文化遺産オンライン」)

【 魯西亜整儀写真鑑 /川原慶賀=版下絵、大和屋版/安政元年頃/巻子7図、紙本木版色摺/各26.0×38.6-39.0
七図からなる一連の錦絵、「魯西亜整儀写真鑑」と袋に題されている。磯野文斎(渓斎英泉の門弟)が入婿した後の長崎、大和屋から版行された。嘉永六年(一八五三)七月十八日、ロシア海軍の将官プチャーチンは、修交通商と北方の領海問題を解決するため国書を携え、軍艦四艘を率いて長崎港に入ってきた。この時、幕府は国書を受けず、十月、艦隊は長崎に再来、再び退去し、安政元年(一八五四)三月、三度長崎に入港してきた。本図は、国書を携えて西役所におもむくロシア使節の行進を活写したもの、プーチャチン像の右下に「GeteKent Door Tojosky」とあり、トヨスキィこれを描く、の意味。江戸後期の長崎における最もすぐれた絵師のひとり川原慶賀が下絵を描いている。トヨスキィという西洋人風の筆記は、慶賀の通称「登与助」のこと。慶賀は、シーボルトの専属画家のような形で写実性の高い記録絵を残したが、「シーボルト事件」の十四年後、天保三年(一八四二)に長崎払いとなり、弘化三年(一八四六)ごろに再び戻って磯野文斎の依頼でこの記録絵の制作にたずさわったのである。素朴な土産絵であった長崎版画が生み出した、歌川貞秀などの末期の江戸絵に拮抗し得る完成度の高い作品。(岡泰正稿) 】(『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画』所収「作品解説87」)

阿蘭陀舩入津ノ図.jpg

阿蘭陀舩入津ノ図(画者不詳:大和屋版/版下絵=磯野文斎?)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/378777
【 阿蘭陀舩入津ノ図(おらんだせんにゅうしんのず)/ 木版画 / 江戸/画者不詳 大和屋版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/36.3×25.0/1枚
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:・板橋区立美術館『長崎版画と異国の面影』図録 2017 】(「文化遺産オンライン」)

【 阿蘭陀船入津(にゅうしん)ノ図/大和屋版(版下絵:磯野文斎?)/江戸時代後期/1枚、紙本木版色摺/36.3×25.0
満艦飾に飾りたてた華麗な姿で長崎港内に停泊するオランダ帆船。号砲をはなちながら港内に「入津(入港)」してくる帆船を取材したこの図は、江戸時代後期の長崎版画を代表する版元、大和屋より版行された。版下絵は、大和屋の磯野文斎の筆になるものと推測され、オランダ船が舶載した文物が流入する長崎という海港の晴れやかでエキゾチックな空気を、磯野文斎独特の江戸仕込みの洗練された錦絵(多色摺木版画)のスタイルで封じ込めている。満艦飾にするのは入出港時と考えられるが、停泊中に行うのは、出島の祝祭日に限られるであろう。つまり、本図は、入津の情景と投錨(びょう)とを一画面に同時進行させる形で描いたものと思われる。曳船の描写などは省略されているが写実性と拭きぼかしを多用した装飾性が美しく混和している。(岡泰正稿) 】(『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画』所収「作品解説87」)

「魯西亜整儀写真鑑」(川原慶賀=版下絵、大和屋版)は、安政元年(一八五四)の頃の作とすると、この版下絵を描いた「川原慶賀」(天明六年(一七八六)~万延元年(一八六〇?)頃)の、六十八歳前後の頃の作で、その晩年の頃の作品の一つと解して差し支えなかろう。
 そして、これは、木版画の版下絵で、これまで見てきた、肉筆画、あるいは、シーボルトの依頼に描いた、石版画(『Nippon(日本)』など)の下絵(元絵・原画)ではなく、いわゆる、江戸の「浮世絵(錦絵)」(江戸の版元による「多色摺り木版画」)と同じく、長崎の「長崎版画」(長崎の版元による「多色摺り木版画」)の世界(版下絵師の世界)のものということになろう。
 これらの「長崎版画と版下絵師」関連については、下記のアドレスで触れてきた。そこで、その「版元」の一つの「大和屋(文彩堂)」の婿養子で、江戸後期の浮世絵師。渓斎英泉の門人の一人の「版下絵師」でもある「磯野文斎」(不明-1857)についても紹介してきた。
 上記の「魯西亜整儀写真鑑」(川原慶賀=版下絵、大和屋版)と、「阿蘭陀舩入津ノ図」(画者不詳:大和屋版/版下絵=磯野文斎?)とは、共に、磯野文斎の版元の「大和屋版」のもので、晩年の川原慶賀(田口登与助=種美)は、この版元「大和屋」所属の版下絵師の一人とも解せられる。
 そして、この「大和屋」の「磯野文斎」も歴とした「版下絵師」の一人で、上記の「阿蘭陀舩入津ノ図」(画者不詳:大和屋版/版下絵=磯野文斎?)は、上記の『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画』所収「作品解説87」では、「大和屋の磯野文斎の筆になるものと推測され」と、それを一歩進めて、「磯野文斎=版下絵」と解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-22

【  長崎版画と版下絵師
 長崎版画とは、江戸時代に長崎で制作された異国情緒あふれる版画のことで、主に旅人相手に土産物として売られた。長崎絵、長崎浮世絵などとも呼ばれている。同じころ江戸で盛んだった浮世絵が、役者、遊女、名所などを題材にしていたのに対し、当時外国への唯一の窓口だった長崎では、その特殊な土地柄を生かし、オランダ人、中国人、オランダ船、唐船など、異国情緒あふれる風物を主題とした。広義には、長崎や九州の地図も長崎版画に含まれる。
 現存する初期の長崎版画は、輪郭の部分を版木で黒摺りしてから筆で彩色したもので、その後、合羽摺といわれる型紙を用いた色彩法が用いられるようになった。長崎市内には、針屋、竹寿軒、豊嶋屋(のちに富嶋屋)、文錦堂、大和屋(文彩堂)、梅香堂など複数の版元があり、制作から販売までを一貫して手掛けていた。版画作品の多くに署名はなく、作者は定かではないものが多いが、洋風画の先駆者である荒木如元、出島を自由に出入りしていた町絵師・川原慶賀や、唐絵目利らが関わっていたと推測される。
 天保の初めころ、江戸の浮世絵師だった磯野文斎(不明-1857)が版元・大和屋に婿入りすると、長崎版画の世界は一変した。文斎は、当時の合羽摺を主とした長崎版画に、江戸錦絵風の多色摺の技術と洗練された画風をもたらし、長崎でも錦絵風の技術的にすぐれた版画が刊行されるようになった。大和屋は繁栄をみせるが、大和屋一家と文斎が連れてきた摺師の石上松五郎が幕末に相次いで死去し、大和屋は廃業に追い込まれた。
 江戸風の多色摺が流行するなか、文錦堂はそれ以降も主に合羽摺を用いて、最も多くの長崎版画を刊行した。文錦堂初代の松尾齢右衛門(不明-1809)は、ロシアのレザノフ来航の事件を題材に「ロシア船」を制作し、これは初めての報道性の高い版画と称されている。二代目の松尾俊平(1789-1859)が20歳前で文錦堂を継ぎ、父と同じ谷鵬、紫溟、紫雲、虎渓と号して自ら版下絵を手掛け、文錦堂の全盛期をつくった。三代目松尾林平(1821-1871)も早くから俊平を手伝ったが、時代の波に逆らえず、幕末に廃業したとみられる。
 幕末になって、文錦堂、大和屋が相次いで廃業に追い込まれるなか、唯一盛んに活動したのが梅香堂である。梅香堂の版元と版下絵師を兼任していた中村可敬(不明-不明)は、わずか10年ほどの活動期に約60点刊行したとされる。中村可敬は、同時代の南画家・中村陸舟(1820-1873)と同一人物ではないかという説もあるが、特定はされていない。

磯野文斎(不明-1857)〔版元・大和屋(文彩堂)〕
 江戸後期の浮世絵師。渓斎英泉の門人。江戸・長崎出身の両説がある。名は信春、通称は由平。文彩、文斎、文彩堂と号した。享和元年頃に創業した版元・大和屋の娘貞の婿養子となり、文政10年頃から安政4年まで大和屋の版下絵師兼版元としてつとめた。当時の合羽摺を主とした長崎版画の世界に、江戸錦絵風の多色摺りの技術と、洗練された画風をもたらした。また、江戸の浮世絵の画題である名所八景の長崎版である「長崎八景」を刊行した。過剰な異国情緒をおさえ、長崎の名所を情感豊かに表現し、判型も江戸の浮世絵を意識したものだった。安政4年死去した。

松尾齢右衛門(不明-1809)〔版元・文錦堂〕
 文錦堂初代版元。先祖は結城氏で、のちに松尾氏となった。寛政12年頃に文錦堂を創業し、北虎、谷鵬と号して自ら版下絵を描いた。唐蘭露船図や文化元年レザノフ使節渡来の際物絵、珍獣絵、長崎絵地図などユニークな合羽摺約130種を刊行した。文化6年、50歳くらいで死去した。

中村可敬(不明-不明)〔版元・梅香堂〕
 梅香堂の版元と版下絵師を兼務した。本名は利雄。陸舟とも号したという。梅香堂は、幕末に文錦堂、大和屋が相次いで廃業するなか、唯一盛んに活動し、わずか10年ほどの活動期に約60点刊行したとされる。中村可敬の詳細は明らかではないが、同時代の南画家・中村陸舟(1820-1873)は、諱が利雄であり、梅香の別号があることから、同一人物とする説もあるが、特定はされていない。 】(「UAG美術家研究所」)

長崎八景.png

上図(左から)「長崎八景○市瀬晴嵐」「長崎八景○神崎帰帆」「長崎八景○安禅(あんぜん)晩鐘」「長崎八景○笠頭(かざがしら)夜雨」
下図(左から)「長崎八景○大浦落雁」「長崎八景○愛宕暮雪」「長崎八景○立山(たてやま)秋月」「長崎八景○稲佐(いなせ)夕照」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/401618
【「長崎八景○市瀬晴嵐」→画者不詳(磯野文斎?)/ 文彩堂版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.2×19.5/1枚/文彩堂上梓
「長崎八景○神崎帰帆」→画者不詳(磯野文斎?)/ 文彩堂/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.2×19.6/1枚
「長崎八景○安禅(あんぜん)晩鐘」→画者不詳(磯野文斎?)/文斎版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.3×19.5/1枚/長崎文斎発販
「長崎八景○笠頭(かざがしら)夜雨」→画者不詳(磯野文斎?)/大和屋由平版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.3×19.4/1枚/長崎今鍛治ヤ町(○に大)大和屋由平板
「長崎八景○大浦落雁」→画者不詳 大和屋由平版/長崎版画(磯野文斎?)/大和屋由平版長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.2×19.6/1枚/長サキ今カジヤ町(○に大)大和屋由平板
「長崎八景○愛宕暮雪」→画者不詳(磯野文斎?)/大和屋由平版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.2×19.6/1枚/長サキ今カチヤ丁(○に大)大和屋由平板
「長崎八景○立山(たてやま)秋月」→画者不詳(磯野文斎?)/大和屋由平版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.3×19.5/1枚/長サキ今カジヤ町(○に大)大和屋由平板/「長崎八景○稲佐(いなせ)夕照」→画者不詳(磯野文斎?)/ 文彩堂/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.1×19.4/1枚
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・板橋区立美術館『長崎版画と異国の面影』図録 2017
所蔵館: 神戸市立博物館 】(「文化遺産オンライン」)

 上記図は、文彩堂(磯野文斎?)版の「長崎八景」で、磯野文斎は、上記の「長崎版画と版下絵師」で紹介されているとおり、「文政十年(一八二七)頃から安政四年(一八五七)まで大和屋の版下絵師兼版元としてつとめ」、「当時の合羽摺を主とした長崎版画の世界に、江戸錦絵風の多色摺りの技術と、洗練された画風をもたらした」。そして、「江戸の浮世絵の画題である名所八景の長崎版である『長崎八景』を刊行し」、そこでは、「過剰な異国情緒をおさえ、長崎の名所を情感豊かに表現し、判型も江戸の浮世絵」を踏襲している。
 川原慶賀(天明六年=一七八六-万延元年=一八六〇?)と磯野文斎(?―安政四年=一八五七)とは、全く同時代の人で、磯野文斎が江戸から長崎に来た文政十年(一八二七)の翌年の文政十一年(一八二八)に「シーボルト事件」が勃発して、川原慶賀は連座しお咎めを受けている。
 さらに、天保十三年(一八四二)に、オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れたということで、これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受け、その後の動静というのは、ほとんど不明というのが、その真相である。
 こういう、その真相は藪の中という川原慶賀の、その後半生の生涯において、冒頭の、安政元年(一八五四)の頃の「魯西亜整儀写真鑑」(「Tojosky」のサインあり)は、万延元年(一八六〇)記の「賛」(中島広足の賛)がある「永島キク刀自絵図」(「長崎歴史文化博物館蔵」)と共に、貴重な絵図となってくる。

(参考その一) (その二十一)「川原慶賀の肖像画」周辺

「永島キク刀自絵像」(川原慶賀筆)長崎歴史文化博物館蔵

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-10-31

(参考その二) (その五)「ドゥーフ像」と「プロムホフ家族図」周辺

「長崎港図・ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆)
「阿蘭陀加比丹並妻子之図・ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆)
「ブロンホフ家族図」石崎融思筆
「ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆?)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-07

蘭陀婦人の図.jpg

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/403021
【「蘭陀婦人の図」→画者不詳(川原慶賀?)/大和屋版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/36.3×24.8/1枚/文化14年(1817)に来日したコック・ブロンホフの妻子と乳母を描く。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・板橋区立美術館『長崎版画と異国の面影』図録 2017
所蔵館: 神戸市立博物館             】(「文化遺産オンライン」)

(参考その三)『長崎土産』(磯野信春(文斎)著・画/長崎(今鍛冶屋町) : 大和屋由平/弘化4 刊[1847])周辺

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00011733#?c=0&m=0&s=0&cv=1&r=0&xywh=-3786%2C77%2C13187%2C3744

「長崎土産― 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」(京都大学附属図書館 Main Library, Kyoto University)

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_01476/index.html

「長崎土産 / 礒野信春 著併画」(「早稲田大学図書館 (Waseda University Library)」)

長崎土産.gif

「長崎土産 / 礒野信春 著併画」(「早稲田大学図書館 (Waseda University Library)」)
(11/43)

若き日のシーボルト先生とその従僕図.jpg

●作品名:若き日のシーボルト先生とその従僕図(川原慶賀筆)
●所蔵館:長崎歴史文化博物館 Nagasaki Museum of History and Culture
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3731&cfcid=164&search_div=kglist

阿蘭陀人黒坊戯弄犬図.jpg

阿蘭陀人黒坊戯弄犬図(おらんだじんくろぼうぎろうけんず)(磯野文斎画?)
画者不詳/大和屋版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/35.6×24.2/1枚/神戸市立博物館蔵(「文化遺産オンライン」)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/378807

(参考その四)「長崎の合羽摺」周辺

【 合羽摺(かっぱずり)とは、浮世絵版画での彩色法である。
≪合羽摺前史≫
 木版画は単色摺が基本である。だが、上客からの要望もあり、彩色化が図られるようになる。最初は、摺った後に筆で着彩する方法が取られた。
 安房国の縫箔屋出身で、17世紀後半の江戸で活動した、菱川師宣の場合、版本や、「揃い物」に、着彩されている墨摺絵が現存する。その後、1741-42年(寛保元-2年)に、色版を用いた紅摺絵が、そして、1765年(明和2年)には、鈴木春信による多色摺、錦絵が登場する。
 一方、師宣以前の上方、つまり大坂と京は、「洛中洛外図屏風」や「寛文美人図」等、「近世風俗画」が盛んに描かれたが、これらが「上がりもの」として江戸に持ち込まれることによって、師宣の歌舞伎絵・美人画・春画を生むきっかけとなった。上方でも、版本から一枚摺が生まれ、墨摺絵に筆彩色する過程は同じだが、その次に登場したのが「合羽摺」であったのが、江戸との違いである。
≪合羽摺の手法と長短所≫
 「主版」(おもはん)、つまり最初に摺る輪郭線は版木を用いるが、色版は、防水加工した紙を刳り抜いて型紙とし、墨摺りした紙の上に置き、顔料をつけた刷毛を擦って彩色した。
 色数と同じだけの型紙を必要とする。防水紙を使用することから、「合羽」と呼ばれる。合羽摺の利点は、加工が容易であり、コストが安く、納期が早い、馬連を用いないので、錦絵より薄く安価な紙が使用できる点である。
 逆に欠点は、版木摺ほど細密な表現が出来ない、色むらが出やすい、重ね摺りすると、下の色は埋もれてしまう(版木の場合は、下の色を透かすことが可能。)、切り抜き箇所の縁に顔料が溜まりやすい、型紙が浮き上がり、顔料が外にはみ出すことがある、型紙を刳り抜くため、その内部に色を入れたくない部分がある場合は、「吊り」と呼ばれる、色を入れる箇所の一部を切り残す必要がある、安価な紙を用いた為、大切にされず、現存数が少なくなっただろう点である。
≪上方の合羽摺≫ (略)
≪長崎の合羽摺≫
 長崎絵でも、合羽摺が用いられた。唐人は新年を祝う為、唐寺で摺られた「年画」を家屋に貼る風習があり、それが周辺に住む日本人にも受け入れられ、江戸や上方とは異なり、版本から一枚絵に展開する過程を必要としなかった。
 現存する「長崎絵」最古のものは、寛保から寛延年間(1741-1751年)とされ、そのころから墨摺絵に手彩色することが始まり、天明年間(1781-1801年)頃に合羽摺が行われるようになる。天保年間(1830-44年)初頭、渓斎英泉の門人である、磯野文斎が版元「大和屋」に婿入りし、後に彫師・摺師を江戸から招くことにより、錦絵が齎された。但し他の版元では、合羽摺版行が続いた。
 画題は、江戸や上方と異なり、オランダ人や唐人の風貌や装束、彼らの風習、帆船や蒸気船、珍しい動物、出島図や唐人屋敷、唐寺など、長崎特有の異国情緒を催すものが描かれた。
 1858年(安政5年)の日米修好通商条約締結後、外国人居留地の中心が横浜に移ることにより、1860年(安政7・万延元年)には横浜絵が隆盛、文久年間(1861-64年)頃に、長崎絵の版行は終わったとされる。 】(「ウィキペディア」)

魯西亜船之図.jpg

「魯西亜船之図」(ろしあせんのず)/木版画 / 江戸/画者不詳 文錦堂版/長崎版画/江戸時代、文化2年/1805年/紙本木版に合羽摺/30.2×42.0/1枚/「文化元甲子年九月七日ヲロシヤ船長崎ニ初テ入津同二年三月十九日出船 其間ヲロシヤ人梅が崎ニ仮居ス」と上部にあり/
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館/参考文献:板橋区立美術館『長崎版画と異国の面影』図録 2017(「文化遺産オンライン」)

 これは、「文錦堂版」の「紙本木版に合羽摺」の作品で、「文化元甲子年九月七日ヲロシヤ船長崎ニ初テ入津同二年三月十九日出船 其間ヲロシヤ人梅が崎ニ仮居ス」との、文化元年(一八〇四)、ロシアのレザノフ使節渡来の際物絵(一時の流行・人気をあてこんで作った作品)の一つである。
 この作品の「版下絵師」は、文錦堂初代版元の「松尾齢右衛門(不明-1809/号=北虎・谷鵬)なのかも知れない。この「魯西亜船之図」が制作された頃は、川原慶賀がまだ二十歳前の、石崎融思門の絵師見習いの頃で、おそらく、磯野文斎も、江戸の渓斎英泉の門にあって、川原慶賀と同じような環境下にあったもののように思われる・
 この文錦堂の松尾齢右衛門が亡くなったのは文化六年(一八〇九)、その二代目が「松尾俊平」(1789-1859/号=谷鵬・紫溟・紫雲・虎渓)で、文錦堂の全盛期をつくった「版元兼版下絵師」である。

唐蘭風俗図屏風.jpg

「唐蘭風俗図屏風」谷鵬紫溟画/19世紀(江戸時代)/各 w270.1 x h121 cm/福岡市博物館蔵
https://artsandculture.google.com/asset/genre-screen-of-china-and-dutch-kokuho-shimei/FwGm1aFL3T4n9Q?hl=ja
≪ 赤、青、黄色の派手な色使いや、描かれた人物の素朴でキッチュな表現が強烈な輝きを放つ作品。向かって右隻は、成人の男女が見守るなか、獅子舞や凧あげなど正月の風俗を思わせる唐子遊びを中心にした中国風景が描かれる。対して左隻は、オランダの風俗を洋風表現を交えて描き出す。館の内部ではグラスを持つ女性を男性が抱き寄せているが、食卓に出されたヤギの頭まるごとの料理が見るものの度肝を抜く。屋外では音楽にあわせて子供たちが腕を広げて踊り、大人たちも気ままにたたずんでいる。両隻とも、男女のぺアと子供たちが主人公のようで、何かの祝祭を意味しているのかもしれない。
右端に描かれた虎図の衝立(ついたて)にこの屏風の作者である谷鵬紫溟(こくほうしめい)の落款がある。谷鵬紫溟の詳しい伝記は不明で、文化年間に版画を制作し、肖像画を得意とした長崎の洋風画家だったらしい。ところで、この屏風は、大縁(おおべり)、小縁(こべり)から各扇(せん)のつなぎ目まで全てが画家によって筆で描かれたいわゆる描き表装(かきひょうそう)で、そんな点にも江戸や秋田の洋風画とは異なった、谷鵬紫溟の強烈な個性が発揮されている。
【ID Number1989B00908】参考文献:『福岡市博物館名品図録』 ≫(「福岡市博物館」)

http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/295/index02.html

≪唐蘭風俗図屏風(とうらんふうぞくずびょうぶ) 六曲一双 /谷鵬紫溟(こくほうしめい)筆/ 江戸時代/紙本着色/各132.6×271.0㎝
 人を驚かせる奇妙さと、どことなくまがいものめいたキッチュさでは当館随一の作品です。どこの国かというと、作品名にあるとおり、向かって右隻は中国、左はオランダです。  
 特に奇妙なのはオランダの風景。遠景はそれなりに西洋風ですが、手前の建物は瓦葺(かわらぶき)で日本的ですし、屋内の男女はヤギの頭まるごとの料理を前にしてグラス片手によりそい、なんだか訳がわかりません。作品全体は、お正月のお祝いのような祝祭をテーマに描かれているのかもしれません。作者の谷鵬紫溟は江戸後期に活躍した長崎派の画家です。想像力豊かに見たことのない異国の風俗を描いたのでしょう。描き方も陰影をつけた洋風表現です。普通は布地が貼られる屏風の縁や、なにも描かない蝶番の内側まで筆で文様を描いているところにも注目してください。≫(「福岡市博物館」)


(参考その五)「魯西亜人初テ来朝登城之図」周辺

第一 魯西亜人道中.jpg

第一 魯西亜人道中備大波戸より西御役所江罷出候図

第二 於書院魯西亜人.jpg

第二 於書院魯西亜人初度対話之図 

第三 於書院御料理.jpg

第三 於書院御料理被下之図

第四 於書院御料理被下候後応接之図.jpg

第四 於書院御料理被下候後応接之図

第五 於書院拝領物被下候図.jpg

第五 於書院拝領物被下候図

第七 内題.jpg

第七 内題(安政二乙卯年四月江戸御城江登城之節御老中若年寄御目付役立合応接之図)
(「神戸市立博物館蔵」)
≪「魯西亜人初テ来朝登城之図」(ろしあじんはじめてらいちょうとじょうのず)/文書・書籍 / 江戸/ 未詳/ 江戸時代後期/1855年/ 紙本著色/ 30.0×423.8/ 1巻/内題に「安政二乙卯年四月江戸御城江登城之節御老中若年寄御目付役立合応接之図」とあるが、この記載は誤り。
参考文献:・神戸市立博物館『神戸開港150年記念特別展 開国への潮流―開港前夜の兵庫と神戸―』図録、2017 ≫
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/379297
【(解説)
 本図巻は、嘉永6年(1853)に長崎に来航したロシア海軍中将プチャーチン一行の応接と交渉の様子を描いたものです。同年8月19日の国書手交から、12月14日以降の日本側全権筒井政憲・川路聖謨らとの会食や会談の様子を描きます。描かれる内容が、プチャーチンの長崎来航時の応接の様子を描いた早稲田大学図書館所蔵「魯西亜使節応接之図」にほぼ一致します。またプチャーチンは安政2年3月に日本を離れていることから、内題にある「安政二乙卯年四月江戸御城江登城之節御老中若年寄御目付役立合応接之図」との記載は誤りです。

第一 魯西亜人道中備大波戸より西御役所江罷出候図
 嘉永6年(1953)8月19日に、大波戸から長崎奉行所西御役所に向かうロシア隊の行列の様子。鼓笛隊、銃隊、海軍旗に続いてプチャーチン一行が現れます。海軍旗や兵士らが被る帽子には双頭の鷲のエンブレムがあしらわれています。この日、長崎奉行大澤定宅はプチャーチンと会見し、国書を受け取っています。

第二 於書院魯西亜人初度対話之図 
 同年12月14日、長崎奉行所西御役所書院において、日本側全権として派遣された大目付筒井政憲・勘定奉行川路聖謨らと、プチャーチン一行が初めて対面した様子。同様の図が描かれる早稲田大学図書館所蔵「魯西亜使節応接之図」と比較すると、画面中央奥に立つ2 人は恐らく長崎奉行の水野忠徳と大澤定宅で、その前に座る人物は恐らくオランダ語通詞の森山栄之助、ロシア側と対面する4人が奥から筒井・川路・目付荒尾成允・儒者古賀謹一郎、手前の後ろ向きの人物が左から御勘定組頭中村為弥、勘定評定所留役菊池大助、徒目付衆となります。

第三 於書院御料理被下之図
 同日、ロシア使節との会食の様子。筒井・川路のみが会食をともにしています。

第四 於書院御料理被下候後応接之図 
 同日、会食後に行われた応接の様子。奥に長崎奉行水野・大澤が座し、ロシア使節に対面する形で筒井・川路・荒尾・古賀の順に着座します。

第五 於書院拝領物被下候図
 同月18日、ロシア側へ贈呈品として、真綿と紅白の綸子(りんず)と呼ばれる滑らかで光沢のある絹織物が贈られました。  】(「文化遺産オンライン」)

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