SSブログ
川原慶賀の世界 ブログトップ
前の20件 | -

川原慶賀の世界(その三十) [川原慶賀の世界]

(その三十)川原慶賀の「屏風画・衝立画・巻物画・掛幅画など」そして「真景図(画)・記録図(画)・映像図(画)など」周辺

(川原慶賀の「屏風画」)

「長崎湾の出島の風景」(川原慶賀).jpg
https://nordot.app/830971286696869888?c=174761113988793844

https://nordot.app/830971286696869888?c=174761113988793844

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-22

【 オランダのライデン国立民族学博物館(ウェイン・モデスト館長)は、江戸後期の長崎の絵師・川原慶賀の大作びょうぶ絵「長崎湾の出島の風景」について、2年以上に及ぶ修復作業が完了したと発表した。
 同作は八曲一隻で、縦約1.7メートル、横約4メートル。慶賀が1836年ごろ制作したとされ、長崎港を俯瞰(ふかん)して出島や新地、大浦などの風景が緻密に描かれている。現存する慶賀のびょうぶ絵としては同作が唯一という。
 オランダ国内で長年個人所有されていたものを、同館が2018年に購入。特に絵の周囲を縁取る部分などの損傷が激しく、京都の宇佐見修徳堂など日本の専門家も協力して修復を続けていた。
 修復過程では、絵の下地に貼られた古紙の調査なども実施。同館東アジアコレクションのダン・コック学芸員によると、中国船主の依頼書が目立ち、当時の船主の名前や印と共に、長崎の崇福寺へ団体で参拝に行く予定が書かれていた
 慶賀とその工房の独特な「裏彩色」の技法が同作でも確認されたという。絵の本紙の裏に色を塗る技法で、「こんなに大きな面積でも裏彩色を塗ったことは驚きだった」としている。
 修復したびょうぶ絵は9月末から同館で公開している。日本での公開の予定はまだないが、同館はウェブで同作を鑑賞できるサービス「出島エクスペリエンス」を開発。日本からもスマホやパソコンなどで無料で見られる。コック学芸員は「これからも研究を進めながら、新しい発見があれば出島エクスペリエンスに追加したりして、世界中にいる興味をお持ちの方に広くシェアしたい」と述べている。

 出島エクスペリエンスのアドレスは、https://deshima.volkenkunde.nl/     】

(川原慶賀の「衝立画」)

川原慶賀「長崎港ずブロンホフ家族図」.jpg

「長崎港図・ブロンホフ家族図」≪川原慶賀筆 (1786-?)≫ 江戸時代、文政元年以降/1818年以降 絹本著色 69.0×85.5 1基2図 神戸市立博物館蔵
題記「De Opregte Aftekening van het opper hoofd f:cock BIomhoff, Zyn vrouw en kind, die in Ao1818 al hier aan gekomen Zyn,」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455049

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-07

【 衝立の両面に、19世紀に長崎の鳥瞰図と、オランダ商館長コック・ブロンホフとその家族の肖像が描かれています。この衝立は、作者の川原慶賀(1786-?)がシーボルトに贈呈したものの、文政11年(1828)のシーボルト事件に際して長崎奉行所によって没収されたという伝承があります。その後長崎奉行の侍医・北川家に伝来した。昭和6年(1931)に池長孟が購入しました。
現在のJR長崎駅付近の上空に視座を設定して、19世紀の長崎とその港の景観を俯瞰しています。画面左中央あたりに当時の長崎の中心部、唐人屋敷・出島・長崎奉行所が描かれ、それをとりまく市街地の様子も克明に描かれています。

 この衝立の片面に描かれているブロンホフ家族図には、慶賀の款印(欧文印「Toyoskij」と帽子形の印「慶賀」)が見られる。コック・ブロンホフは文化6年(1809)に荷倉役として来日。文化10年のイギリスによる出島奪還計画に際し、その折衝にバタビアへ赴き、捕らえられイギリスへ送られたました。英蘭講和後、ドゥーフ後任の商館長に任命され、文化14年に妻子らを伴って再来日。家族同伴の在留は長崎奉行から許可されず、前商館長のヘンドリック・ドゥーフに託して妻子らはオランダ本国に送還されることになりました。この話は長崎の人々の関心を呼び、本図をはじめとする多くの絵画や版画として描かれました。
来歴:(シーボルト→長崎奉行所?)→北川某→1931池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019/・神戸市立博物館特別展『日本絵画のひみつ』図録 2011/・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008/・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008/神戸市立博物館特別展『絵図と風景』図録 2000 】(「文化遺産オンライン」)

(川原慶賀の「巻物画」)

川原慶賀「阿蘭陀芝居巻」(全).png

「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻』」(「合成図」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-12

【 この「川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻』は、「巻子(巻き軸で巻いたもの)仕立ての絵(27.5㎝×36.3㎝)が七枚描かれている」。「慶賀がこの絵巻をつくった年代は定かでないが、おそらく江戸後期?芝居が上演された文政三年庚辰年(一八二○年)のことであろう。時に、慶賀は三十五歳であった。その三年後の文政六年(一八二三年)にシーボルトが来日し、かれはそのお抱え絵師となるのである」。
 「オランダ芝居を描いたこの絵巻は、アムステルダムの公文書館やネーデルラント演劇研究所にもあることから考えて、複数模写されたものであろう」。(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について(宮永孝稿)」(「法政大学学術機関リポジトリ」)】

(川原慶賀の「掛幅画」)

花鳥図.jpg

●作品名:花鳥図 ●Title:Flowers and Birds
●分類/classification:花鳥画/Still Lifes
●形状・形態/form:紙本彩色、軸/painting on paper,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-11-12

【 これらの川原慶賀の「花鳥画」は、いわゆる、「南蘋派」そして「洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎派」の系統に属する世界のものであろう。
 なかでも、石崎融思と慶賀と関係というのは、そのスタートの時点(文化八年(1811年)頃)、当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、爾来、弘化三年(一八四六)、融思(七十九歳、慶賀より十八歳年長)の、融思が亡くなる年の、その遺作ともいうべき、「観音寺天井画」(野母崎町観音寺)の、石崎一族の総力を挙げてのプロジェクト(一五〇枚の花卉図、うち四枚が慶賀画)にも、慶賀の名を遺している。

「花鳥図」石崎融思.jpg

「花鳥図」石崎融思筆/ 絹本着色(「ウィキペディア」)

≪ 洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎の洋風画家

https://yuagariart.com/uag/nagasaki12/

 長崎に入ってきた絵画の制作年代や真贋などを判定、さらにその画法を修得することを主な職務とした唐絵目利は、渡辺家、石崎家、広渡家の3家が世襲制でその職務についていた。享保19年には荒木家が加わり4家となったが、その頃には、長崎でも洋風画に対する関心が高まっており、荒木家は唐絵のほかに洋風画にも関係したようで、荒木家から洋風画の先駆的役割を果たした荒木如元と、西洋画のほか南画や浮世絵にも通じて長崎画壇の大御所的存在となる石崎融思が出た。融思の門人は300余人といわれ、のちに幕末の長崎三筆と称された鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も融思のもとで学んでいる。ほかの洋風画家としては、原南嶺斎、西苦楽、城義隣、梅香堂可敬、玉木鶴亭、川原香山、川原慶賀らがいる。

石崎融思(1768-1846)
 明和5年生まれ。唐絵目利。幼名は慶太郎、通称は融思、字は士斉。凰嶺と号し、のちに放齢と改めた。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。西洋絵画輸入に関係して増員 されたと思われる唐絵目利荒木家の二代目荒木元融の子であるが、唐絵の師・石崎元徳の跡を継いで石崎を名乗った。父元融から西洋画も学んでおり、南蘋画、文人画、浮世絵にも通じ長崎画壇の大御所的存在だった。その門人300余人と伝えている。川原慶賀やその父香山とも親しかったが、荒木家を継いだ如元との関係はあまりよくなかったようである。弘化3年、79歳で死去した。≫(「UAG美術家研究所」)  】


(石崎融思門絵師・川原慶賀が到達した世界=「山水画と風景画のあいだ-真景図の近代」=「真景図(画)の世界」)

川原慶賀「長崎港図」広島県立歴史博物館蔵.jpg

川原慶賀「長崎港図」 19世紀前半/広島県立歴史博物館蔵

(抜粋)

https://www.mainichi.co.jp/event/culture/20220726.html

【 「山水画と風景画のあいだ-真景図の近代」
 誰もがきれいな風景画を見ると心が和みます。しかし、私たちが思い浮かべるような風景画が描かれるのは近代になってからであり、長らく中国からもたらされた山水画が美術の主流でした。本展では、18世紀末から20世紀初頭の日本の風景表現の移り変わりを通して、日本人の風景を見る眼がいかに確立してきたかをたどります。
  山水画、文人画、洋風画、浮世絵、日本画、洋画などジャンル・流派を越えた約100点を三部構成で展覧。高島北海ほか、下関のゆかりのある画家の作品や下関の特徴的な景観を捉えた作品なども展示します。 】(「毎日新聞社」)

https://www.city.shimonoseki.lg.jp/site/art/71899.html#:~:text=%E7%9C%9F%E6%99%AF%E5%9B%B3%E3%81%A8%E3%81%AF,%E3%81%9F%E5%B1%B1%E6%B0%B4%E7%94%BB%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82

【「第1章 真景図のはじまり」
 第1章では、江戸時代後期、下関にも来遊した頼山陽や田能村竹田、蘭学者で洋風画を描いた司馬江漢、また浮世絵師として人気を博した歌川広重など、誰もが知る大家・名匠の面々が並びます。 
 中世から江戸時代まで日本で主流であった山水画は、中国の水墨の山水画を手本としていたため、中国の風景を描いたものが主流でした。一方、江戸時代になると、経験主義的・実証主義的なものの見方が広まり、自然主義への志向が高まります。
 浦上玉堂や谷文晁といった文人画(南画)には、日本の自然を独自の様式に昇華したり、自然をそのまま描こうとしたりしたものがありました。その中から真景図が登場します。真景図とは、日本の特定の場所の写生に基づいた山水画のことです。このような実景表現が風景表現への新たな関心と展開を促すことになりました。
 長崎では、中国清朝の写実的な花鳥画を伝えた沈南蘋(しん・なんぴん)の画風が伝わり、蘭学の影響によって西洋画の技法も注目を集めました。江戸の司馬江漢や亜欧堂田善らは西洋の遠近法に基づいて奥行きのある空間を描きます。また、江戸時代に旅行がブームになると、日本の名所を表現した風景版画が流行し、歌川広重の「東海道五十三次」のような名作が生まれました。
 このように、文人画が描いた真景図を契機として江戸時代にはさまざまな風景表現が生まれ、近代以降の日本では山水画から風景画へ移行することになります。

「第3章 近代風景画の成立」
 第3章では、明治以降の風景表現をたどります。新しい日本画の創出を目指した横山大観や菱田春草は、線を用いずに面によって空間を表現する朦朧体(もうろうたい)を試み、一方、川合玉堂や竹内栖鳳は、朦朧体のように筆線を否定することなく、西洋の写実表現を取り入れます。 
 近代洋画の開拓者、高橋由一は日本人としてはじめて本格的に油彩画の風景を描きますが、その構図やモチーフは、名所絵の伝統を引き継ぐものでした。1900年頃、西洋人からあるいは西洋で学んだ画家たちにより、「あるがままの自然」を描くことが意識されるようになり、それが日本における山水画から風景画への転機となりました。大正時代になると、岸田劉生のように、高橋由一同様、土着性が感じられる風景画を描く画家も登場します。
 浮世絵の流れを引く版画は、庶民の芸術としてずっとさかんでした。明治時代に活躍した小林清親は、明暗法を導入した「光線画」を生み出します。大正時代には吉田博や川瀬巴水の新版画による風景画が描かれます。
 日本画・洋画・版画とそれぞれの風景表現の変遷をたどると、風景画はかつての文人画以上に日本社会に広く定着していることがわかります。ここにおいて、山水画に始まり、真景図を経て風景画にいたる流れが完結したといえるでしょう。

小林清親《今戸橋月夜茶亭》.jpg

小林清親《今戸橋月夜茶亭》明治10年(1877)頃 兵庫県立美術館

高橋由一《琴平山遠望図》.jpg

高橋由一《琴平山遠望図》明治14年(1881)金刀比羅宮    】(「下関市立美術館)

(シーボルトの眼となった「長崎出島絵師・川原慶賀」の目指した世界=「記録図(画)・映像図(画)」の世界)

(川原慶賀の「記録図(画)」)

草木花實寫真圖譜 .jpg

●作品名:草木花實寫真圖譜 三 キリ
●Title:Empress Tree, Princess Tree
●学名/Scientific name:Paulownia tomentosa
●学名(シーボルト命名)/Scientific name(by von Siebold):Paulowia imperialis
●分類/classification:植物/Plants>ゴマノハグサ科/Scrophulariaceae
●形状・形態/form:紙本彩色、木版、冊子/painting on paper,wood engraving,book
●所蔵館:長崎歴史文化博物館 Nagasaki Museum of History and Culture
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3784&cfcid=125&search_div=kglist

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-11-26

【 (抜粋)

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index1.html

◆シーボルトが見た日本画家・慶賀

 シーボルトは渡来当初から将来『日本植物誌』の出版する際に、慶賀の植物画を中心に活用しようと膨大な量の絵を描かせていたという。文政9年(1826)の2月から7月にかけての江戸参府においても慶賀はシーボルトの従者のひとりとして参加し、旅先の各地での風景や風物を写生した。慶賀はシーボルトの目に映るものを直ちに紙に写し取り、いわばカメラの役割を果たした。当時の文化、風俗、習慣、自然。特に慶賀の描写した植物画は彩色も巧妙でシーボルトを満足させていたという。実際にシーボルトは慶賀に対する評価を『江戸参府紀行』に次のように記している。
《……彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は、私の著作の中で、彼の功績が真実であることを物語っている……》

◆シーボルトが慶賀に与えた目覚め

 慶賀が残した膨大な量の作品は、その内容、作品に熱意からして、単に雇われ絵師が義務的にこなした仕事とは思えないものだという。そこまで、自然物の写生を徹底した科学的態度によっておこなうことになったのは、やはりシーボルトという偉大な存在と出逢ったためだろう。なかでも、シーボルトに同行した江戸参府の経験は大きい。おそらく、道中においてシーボルトの精力的な研究ぶり、また江戸滞在中にシーボルトを訪れた日本人学者達のシーボルトに対する尊敬ぶりと貪欲なまでの知識欲などを目の当たりにして、慶賀の眼ももっと広い世界へと開かれたものと思われている。シーボルトへの尊敬の念が慶賀に新たな意欲をかきたたせ、自分の使命はシーボルトに与えられた自然物をいかにその通りに描くか、ということにあると自覚し、しかも単に外観をそのまま写すのではなく、そのものの学問上の価値を知って描くことが自分に課せられた任務だと気づいたのだろう。『シーボルトと日本動物誌』においてはじめて公刊された慶賀の甲殻類の図53枚は、大部分が原寸で描かれているという。そして、そのほとんどの図版に種名やその他の書き込みが慶賀によってなされているというのだ。彼が単に図を描くだけでなく、日本名の調査や記入にもあたっていたということは、慶賀自身がシーボルト同様に西洋的科学研究に参加しているという意識を持って仕事をしていたということなのだ。やはりシーボルトとの出逢いと指導が慶賀を大きく成長させたということだろう。

◆慶賀とシーボルトの信頼関係

 慶賀は江戸参府の際に長崎奉行所から命じられていた“シーボルトの監視不十分”の罪で入牢している。慶賀は、シーボルトを密かに監視するようなことをしなかったのだ。シーボルトへの尊敬の念、また、シーボルトから自分に向けられた役割と期待。シーボルトと慶賀の間には、雇い主と雇われ絵師という関係以上の感情がいつしか芽生え、心の交流がなされていたのだろう。シーボルトは帰国後も日本に残った助手ビュルゲルと連絡をとり、標本、図版類を送らせていた。ビュルゲルによって送られた図版は、慶賀によるもの。慶賀は、シーボルト帰国後から長崎払いの処罰を受けるまでの約10年間、出島出入絵師として働いていたと考えられているが、ビュルゲルはシーボルト帰国後3年間、日本にとどまっていることから、慶賀は少なくともその期間はシーボルトの仕事をしていたと思われる。その際、慶賀が描いた甲殻類の図(『シーボルトと日本動物誌』に掲載)から、実物通りの写生能力に関して、シーボルトは慶賀に絶対の信頼を置いていて、また、慶賀もその信頼を裏切るようなことをしなかったということがうかがえるのだ。】(「長崎Webマガジン」所収「長崎の町絵師・川原慶賀」)

(川原慶賀の「映像図(画)」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-12-07


魯西亜整儀写真鑑(合成図).png

【 魯西亜整儀写真鑑 /川原慶賀=版下絵、大和屋版/安政元年頃/巻子7図、紙本木版色摺/各26.0×38.6-39.0
 七図からなる一連の錦絵、「魯西亜整儀写真鑑」と袋に題されている。磯野文斎(渓斎英泉の門弟)が入婿した後の長崎、大和屋から版行された。嘉永六年(一八五三)七月十八日、ロシア海軍の将官プチャーチンは、修交通商と北方の領海問題を解決するため国書を携え、軍艦四艘を率いて長崎港に入ってきた。この時、幕府は国書を受けず、十月、艦隊は長崎に再来、再び退去し、安政元年(一八五四)三月、三度長崎に入港してきた。本図は、国書を携えて西役所におもむくロシア使節の行進を活写したもの、プーチャチン像の右下に「GeteKent Door Tojosky」とあり、トヨスキィこれを描く、の意味。
 江戸後期の長崎における最もすぐれた絵師のひとり川原慶賀が下絵を描いている。トヨスキィという西洋人風の筆記は、慶賀の通称「登与助」のこと。慶賀は、シーボルトの専属画家のような形で写実性の高い記録絵を残したが、「シーボルト事件」の十四年後、天保三年(一八四二)に長崎払いとなり、弘化三年(一八四六)ごろに再び戻って磯野文斎の依頼でこの記録絵の制作にたずさわったのである。素朴な土産絵であった長崎版画が生み出した、歌川貞秀などの末期の江戸絵に拮抗し得る完成度の高い作品。(岡泰正稿) 】(『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画』所収「作品解説87」)

 「映像図(画)」という言葉は、未だ一般には定着していない言葉なのかも知れないが、上記の解説中の「慶賀は、シーボルトの専属画家のような形で写実性の高い記録絵を残したが、『シーボルト事件』の十四年後、天保三年(一八四二)に長崎払いとなり、弘化三年(一八四六)ごろに再び戻って磯野文斎の依頼でこの記録絵の制作にたずさわったのである」の、「時事・世相記録図(画・絵)」のようなニュアンスのものである。

黒船来航瓦版.gif

「黒船来航瓦版」(「石川県立歴史博物館」蔵)

https://www.ishikawa-rekihaku.jp/collection/detail.php?cd=GI00379

【 (抜粋)

「黒船来航瓦版」

 ペリーの1853(嘉永6)年6月来航、翌年の再来航によって、江戸幕府は開国を余儀なくされ、その来航に際しおびただしい数の瓦版がつくられた。江戸時代に「読売」「一枚摺」「摺物」と呼ばれた「瓦版」は、明治時代以降に定着したといわれる。
 この黒船来航瓦版は画面中央に船体を大きく配し、3本の大きいマストやアメリカ国旗、推進用の外輪、煙突などを描き、船上には船員が小さく描かれ、船体の大きさが強調されている。上部の1本目と2本目マストの間に「蒸気船」と書かれ、2本目マストの上辺りに黒船の長さ、巾、帆柱数、石火矢(大砲)の数、煙出(煙突)長さ、外輪の径、乗員数(360人)が書かれ、その左右に幕府の旗本や大名などの名が記される。 】(「石川県立歴史博物館」)

【 (瓦版)

 江戸時代に、ニュース速報のため、木版一枚摺(ずり)(ときには2、3枚の冊子)にして発行された出版物。瓦版という名称は幕末に使われ始め、それ以前は、読売(よみうり)、絵草紙(えぞうし)、一枚摺などとよばれた。土版に文章と絵を彫り、焼いて原版とした例もあったという説もあるが不明確である。最古の瓦版は大坂夏の陣を報じたもの(1615)といわれるが明確ではない。天和(てんな)年間(1681~1684)に、江戸の大火、八百屋(やおや)お七事件の読売が大流行したと文献にみえ、貞享(じょうきょう)・元禄(げんろく)年間(1684~1704)には上方(かみがた)で心中事件の絵草紙が続出したと伝えられる。これが瓦版流行の始まりである。
  江戸幕府は、情報流通の活発化を警戒してこれらを禁圧し、心中や放火事件などの瓦版は出せなくなった。江戸時代中期には、1772年(明和9)の江戸大火、1783年(天明3)の浅間山大噴火など災害瓦版が多く現れ、打毀(うちこわし)を報じたものもあったが、寛政(かんせい)の改革(1787~1793)以後、取締りがいっそう厳しくなった。しかし、文政(ぶんせい)年間(1818~1830)以後になると、大火、地震、仇討(あだうち)などの瓦版が、禁令に抗して幾種類も売られ、また、米相場一覧、祭礼行列図、琉球(りゅうきゅう)使節行列図なども刊行された。安政(あんせい)の地震(1855)の瓦版は300種以上も出回り、その後、明治維新に至る政治的事件の報道、社会風刺の瓦版が続出した。瓦版の値段は、半紙一枚摺で3~6文、冊子型は16~30文ほどであった。作者、発行者は絵草紙屋、板木屋、香具師(やし)などであろう。安政の地震の際には、仮名垣魯文(かながきろぶん)、笠亭仙果(りゅうていせんか)などの作者や錦絵(にしきえ)板元が製作販売にあたってもいる。
 明治に入って瓦版は近代新聞にとってかわられるが、その先駆的役割を果たしたといえよう。[今田洋三]
『小野秀雄著『かわら版物語』(1960・雄山閣出版)』▽『今田洋三著『江戸の災害情報』(西山松之助編『江戸町人の研究 第5巻』所収・1978・吉川弘文館)』 】(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

 「映像図(画)」(木版色摺)の「魯西亜整儀写真鑑 /川原慶賀=版下絵、大和屋版」は、
「時事・世相記録図(画・絵)」という「報道性」を帯び、いわゆる、「鎖国から開国」の、その狭間に横行した「瓦版」(「読売(よみうり)の一枚摺り」」)の一種とも解され、これが、次の時代の「横浜絵・黒船瓦版」などに連動してくるように思われる。

亜米利加人上陸ノ図 嘉永七年二月.jpg

「亜米利加人上陸ノ図 嘉永七年二月」 (「横浜市」)

使節ペリー横浜応接の図.jpg

「使節ペリー横浜応接の図」 (「横浜市」)

(参考)『横浜の歴史』(平成15年度版・中学生用)「開国」関連部分(横浜市教育委員会、2003年4月1日発行)

【 (抜粋)

https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/shiru/sakoku/kaei/yokohamabook/yokoreki.html

『横浜の歴史』

第一節 黒船の渡来
(1)ペリーの来航
 四隻の黒船
 アメリカのアジア進出
 幕府の態度
 国書の受理
(2)国内の動揺
 広がる不安
 人々の苦しみ
(3)日米和親条約
 ペリー再来
 白ペンキのいたずら書き
 応接地、横浜
 交渉の開始
 条約の内容
 アメリカからの贈呈品

(一) ペリーの来航

四隻の黒船
 1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、浦賀沖に、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが率いる4隻の軍艦が現れた。浦賀奉行の早馬は「黒船現わる」の知らせをもって江戸に走った。急ぎ駆けつけた武士によって、海岸線は警備され、夜にはかがり火をたいて、黒船の動きを監視した。今までにも、外国船は姿を見せたことはあったが、今回のように艦隊を組み、砲門を開き、いつでも戦える状態で現われたことはなかった。それに加え、黒々とした蒸気船の巨体は、見る人々を圧倒してしまった。


アメリカのアジア進出
 アメリカでは19世紀にはいって工業が発達し、機械による生産が増大した。アメリカにおける産業の発達は、海外市場を求めてアジア大陸への進出を促した。しかし、アジアの中心、中国へ進出するためには、大西洋を横断し、アフリカの南端を回り、インド洋を経由しなければならず、イギリスなどと対抗するには地理的にも不利な条件であった。当時、アメリカの太平洋岸は捕鯨漁場として開かれていたこともあって、太平洋を直接横断する航路が考えられるようになった。だが、当時の船では途中で、どうしても石炭や水などの補給をしなければならなかった。太平洋岸の中継地として、日本が最良の場所であった。使節ペリーの任務は鎖国政策をとっている日本の政治を変えさせ、港を開かせることにあった。

幕府の態度
 ペリーの来航について幕府は長崎のオランダ商館長から知らされていたが鎖国政策を変えることはしなかった。実際にペリーが浦賀沖に来航しても、交渉地である長崎へ回航することを求めた。しかし、ペリーは強い態度を示し、交渉中も江戸湾の測量を行い、金沢の小柴沖まで船を進め、交渉が進展しないとみればいつでも艦隊を江戸へ直航させる構えを示して幕府の決断を迫った。
 一方、幕府も戦争に備えて、急いで諸大名に対して江戸湾周辺の警備を命じた。本牧周辺を熊本藩、神奈川を平戸藩、金沢を地元の大名米倉昌寿の六浦(金沢)藩、横浜村を小倉、松代両藩がそれぞれ守りを固め、さらにその後、本牧御備場を鳥取藩、生麦・鶴見周辺を明石藩が警備することになった。このように諸大名を動員し、大規模な警備に当たったことは今までになかったことであった。

国書の受理
 大統領の国書を受理させようとするペリーの強い態度に押された幕府は、ついに浦賀の久里浜でそれを受けることを認めた。
 1853年7月14日(嘉永六年六月九日)、急いで設けられた応接所で、アメリカ大統領フィルモアの国書が、幕府の浦賀奉行に渡された。国書の内容はアメリカとの友好、貿易、石炭、食糧の補給と遭難者の保護を求めるものであった。幕府はあくまでも正式交渉地は長崎であり、浦賀は臨時の場であることを述べて、国書に関する回答はできないという態度をとった。ペリーも国書の受理が行われたことで初期の目的を達したと判断し、来年その回答を受け取りに来航することを伝えて日本を離れた。

(二)国内の動揺(略)

(三)日米和親条約

ペリー再来

 幕府が開国か鎖国かの判断が下せず苦しんでいた1854年2月13日(安政元年一月一六日)、再び七隻の艦隊を率いてペリーは来航し、江戸湾深く進み、金沢の小柴沖に停泊した。
 浦賀奉行は、前回の交渉地であった浦賀沖まで回航するよう要求したが、ペリーは波が荒く、船を停泊させるには適さないことなどを理由にこれを断わった。幕府はできるだけ江戸から離れた場所で交渉しようとして浦賀、鎌倉などを提案したが、ペリーは江戸に近い場所を要求して、話し合いはまとまらなかった。ペリーは艦隊をさらに進ませ、神奈川沖や羽田沖まで移動させた。江戸の近くから黒船が見えるほど接近させたことに幕府は驚き、急いで神奈川宿の対岸、横浜村の地を提案し、妥協を図った。  
 ペリーも、江戸に近く、陸地も広く、安全で便利な場所であることなど、満足できるところであることを認めて、この地を承認し艦隊を神奈川沖に移した。

白ペンキのいたずら書き

北亜墨利加人本牧鼻ニ切附タル文字ヲ写.jpg

「北亜墨利加人本牧鼻ニ切附タル文字ヲ写」

 交渉場所の話し合いが行われているときでも艦隊は神奈川沖を中心に測量を行い、海図の作成の仕事を進めていた。測量を行うボートの一隻が、本牧八王子海岸の崖(本牧市民プール付近)に接近し、白ペンキで文字を書きつけていった。このことがのちに江戸の「かわら版」に大事件として図解入りで報道された。そのため、横浜に多数の見物人が押しかけてきた。奉行は見物の禁止とともに、そのいたずら書きを消してしまった。外国人の一つ一つの行動がすべて興味と好奇心で見られていたのである。

応接地、横浜
 当時の横浜は戸部、野毛浦と入り海をはさんで向かい合い、外海に面した地形で景色のすぐれた所であった。
 応接地として決定された2月25日、アダムズ参謀長ほか三十名のアメリカ人がこの地を調査するために上陸した。畑地や海岸の様子を検分し、奉行の立ち合いの上で横浜村の北端、駒形という地(県庁付近)を応接地とし、確認のための杭を打ち込んだ。横浜の地に外国人が上陸した最初でもあった。
 外国人の上陸を知った人々の驚きは大きかった。外国との戦争は横浜からだ、といううわさが流れた。それに加え、応接地決定の3日前がアメリカのワシントン記念日に当たっていたため、七隻の軍艦から100発以上の祝砲が撃たれた。そのごう音は江戸湾にこだまし、遠く房総の村々にまで聞こえ、事前に奉行から触書が回されていたけれども、人々に恐怖心を与えた。
 応接地が決定されると、日本側も、アメリカ側も、その準備や調査のために横浜に上陸して活動を始めた。奉行も外国人との摩擦を避けるために外出禁止令を出したが、村人の生活は畑仕事や貝類の採取、漁業であったため、自然に外に出ることが多くなった。村人に対して奉行所からは外国人から物をもらってはならないという命令が出され、巡回する役人はアメリカ側が村人と仲良くするために菓子などを入れたかごを置いてあるのを見つけては焼き捨てたりしていた。やがて、外国人が危害を加えないことがわかると少しずつ恐ろしさが消え、珍しいもの見たさに人々が押しかけてくるようになった。増徳院という横浜村の寺で外国人の葬儀が行われたときは、見物人で道の両側に人垣ができたほどであった。

交渉の開始
 横浜応接所は久里浜に設けられた設備を解体し、横浜に運んで4日間で完成させたもので5棟からなるこの応接所をアメリカ側は条約館と呼んだ。
 1854年3月4日(安政元年二月六日)、ペリーが再来した日から21日目に第1回の会見が行われた。日本側の全権は神奈川宿から船で到着し、アメリカ使節ペリーと兵士500名は祝砲のとどろく中を音楽隊を先頭に上陸した。会談は前回の国書の回答から始められ、4回の会談で条約の交渉は妥結し、3月31日(三月三日)に調印が行われた。これが横浜で結ばれた日米和親条約であり、一般には神奈川条約ともいわれた。

条約の内容
 幕府は、国書に示されていた石炭、薪、水、食糧の補給、避難港の開港、遭難民の救助と人道的な取扱いについては認めたが通商に関しては認めなかった。それに関してはペリーも強く要求はしなかったが、代わりにアメリカの代表として総領事を置くことを認めさせた。条約交渉の最大の問題はどこを開港するかにあった。幕府は長崎一港を主張し、アメリカ側は長崎以外の港を要求した。交渉の結果、北海道の函館、伊豆半島の南端にある下田の2港を開くことで妥結した。幕府は、江戸から遠く離れ、しかも管理しやすい場所で日本人との接触が少ない所を選んだのである。
 これで日本が長い間続けてきた鎖国政策はくずれ、世界の中に組み入れられ、新しい時代を迎えるようになったのである。

アメリカからの贈呈品

嘉永七年二月献上〔蒸気車〕.jpg

嘉永七年二月献上〔蒸気車〕

 条約交渉が行われている際、ペリーはアメリカからの贈呈品としてたくさんの品を幕府側に贈った。武器、電信機、望遠鏡、柱時計、蒸気車模型一式、書籍、地図類であった。なかでも電信機と蒸気車は応接所付近に準備され、それぞれ実験をし、動かし方の指導が行われた。特に蒸気車は模型とはいいながら精巧に作られており、6歳程度の子どもを乗せて走るほどのものであった。蒸気車、炭水車、客車の3両は円形に敷かれたレールの上を人を乗せて蒸気の力で走った。この近代科学の成果は日本人にどれほどの驚きを与えたか、想像以上のものであった。
 日本側はそれに対して力士を呼んで、外国人に負けないくらいの力の強い大男がいることを示し、幕府からはアメリカ大統領らに日本の伝統を誇る絹織物、陶器、塗り物などを贈った。
 使節としての責任を果たしたペリーは、仕事を離れて数名の部下を連れて横浜村周辺を散策した。横浜村の名主、石川徳右衛門宅を訪れて家族の暖かい接待を受けたり、村人とも親しく交わり帰船した。 
 4月15日(三月一八日)、およそ3か月の滞在を終えてペリーは神奈川沖を出帆して、開港される下田に向かった。 】(「横浜市」)

この「条約交渉が行われている際、ペリーはアメリカからの贈呈品の『蒸気車、炭水車、客車』の返礼として、「力士を呼んで、外国人に負けないくらいの力の強い大男がいることを示し」たという記事に接して、全く異次元(慶賀=長崎、シーボルトそして露西亜のプーチャチン、黒船来航=横浜、亜米利加のペリー)の世界のものが、次の「相撲取り(力士)」(川原慶賀筆)などを通してドッキングして来ることに、妙な感慨すら湧いてくる。

相撲取り(力士).jpg

「相撲取り(力士)」(川原慶賀筆)(『「江戸時代 人物画帳( 小林淳一・編著: 朝日新聞出版 )』)

 安政五年(一八五八)、日米修交通商条約が締結され、続いて、「阿蘭陀(オランダ)・露西亜(ロシア)・英吉利(イギリス)・仏蘭西(フランス)」と、いわゆる「安政の五カ国条約」が締結され、事実上、鎖国から開国へと方向転換をすることになる。
 その翌年の安政六年(一八五九)に、シーボルトは、長男アレクサンダーを連れて再来日するが、この再来日時に、シーボルトと川原慶賀とが再会したかどうかは、杳として知られていない。
 川原慶賀が亡くなったのは文久元年(一八六一)の頃で、この年には、シーボルトは幕府の招きで横浜に向かい、幕府顧問として外交の助言やら学術教授などの役目を担っている。また、息子のアレクサンダーも英国公使館の通訳となっている。そして、シーボルトが帰国したのは、その翌年の文久二年(一八六二年)のことである。(『生誕二百年記念 シーボルト父子が見た日本(ドイツ-日本研究所刊)』『よみがえれ! シーボルトの日本博物館(監修:国立歴史博物館)』『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画(茨城県立歴史館刊)』)


(参考) 「シーボルト再来日から死亡まで」周辺

(シーボルト再来日から死亡まで) ※=川原慶賀関係(「ウィキペディア」『生誕二百年記念 シーボルト父子が見た日本(ドイツ-日本研究所刊)』など)

1858年(安政五年) - 日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除
1859年(安政六年) - オランダ貿易会社顧問として再来日
※1860年(万延元年)- 川原慶賀没か?(没年齢=76歳)(『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画(茨城県立歴史館刊)』))
1861年(文久元年) - 対外交渉のための幕府顧問に
1862年5月(文久二年) - 多数の収集品とともに長崎から帰国する。
1863年(文久三年) - オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進
1863年(同上) - オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される
1863年(同上) - 日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示
1864年(文久四年) - オランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰る。
1864年5月(同上) - パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力
1864年(同上) - ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催
※川原慶賀=一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)(『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』「ウィキペディア」)
1866年(慶応二年) - ミュンヘンで「日本博物館」を開催
1866年10月18日(同上) - ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去

≪ (再来日とその後)  
 1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。 
 貿易会社との契約が切れたため、幕府からの手当で収入を得る一方で、プロイセン遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後自らプロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い、その他フランス公使やオランダ植民大臣らなどの要請に応じて頻繁に日本の情勢についての情報を提供する[8]。並行して博物収集や自然観察なども続行し、風俗習慣や政治など日本関連のあらゆる記述を残す。
江戸・横浜にも滞在したが、幕府より江戸退去を命じられ、幕府外交顧問・学術教授の職も解任される。また、イギリス公使オールコックを通じて息子アレクサンダーをイギリス公使館の職員に就職させる[8]。1862年5月、多数の収集品とともに長崎から帰国する。
 1863年、オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進、オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される[9]。日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示し、コレクションの購入をオランダ政府に持ちかけるが高額を理由に拒否される[9]。オランダ政府には日本追放における損失についても補償を求めたが拒否される。
 1864年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰った。同年5月、パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力する一方、同行の三宅秀から父・三宅艮斉が貸した「鉱物標本」20-30箱の返却を求められ、これを渋った。その渋りようは相当なもので、僅か3箱だけを数年後にようやく返したほどだった。
 バイエルン国王のルートヴィヒ2世にコレクションの売却を提案するも叶わず。ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催、1866年にはミュンヘンでも開く。再度、日本訪問を計画していたが、10月18日、ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去した。70歳没。墓は石造りの仏塔の形で、旧ミュンヘン南墓地 (Alter Munchner Sudfriedhof) にある。≫(「ウィキペディア」)

 この、シーボルトの再来日の際の、「プロイセン遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後自らプロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い」(「ウィキペディア」)などに接すると、これまた、この「シーボルトの再来日」の前の、川原慶賀の版下絵による大和屋版の「魯西亜整儀写真鑑」とドッキングしてくる。
 そして、この時に、晩年の「川原慶賀とシーボルトの再会」があったかどうかは定かではないが、少なくとも、シーボルト父子が、この再来日の折に、この、川原慶賀の版下絵による大和屋版の「魯西亜整儀写真鑑」を目にしていることは、この「ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフ」に面会していることに関連して、事実に近いものと解したい。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト像.gif

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト像/1861(文久元)年 スケッチ画 個人蔵/横浜開港資料館 平成27 年度第4 回企画展示「日独修好150年の歴史 幕末・明治のプロイセンと日本・横浜」/横浜開港資料館、国立歴史民俗博物館
≪「絵入りロンドン・ニュース」の特派員であったイギリス人画家チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman,1832-91)が描いた肖像画。当時、シーボルトは、1861(文久元)年10 月に幕府外交顧問を解任され、江戸を退去して横浜に滞在中であった。第二次日本滞在中のシーボルトを描いた唯一の肖像画である。シーボルトの子孫の家に伝わった資料。≫(「横浜開港資料館・国立歴史民俗博物館」)

伊藤圭介.gif

(右)シーボルト(Siebold, Philipp Franz von, 1796-1866)
(左)伊藤圭介(1803年2月18日 ? 1901年1月20日)
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/shozo/index3.html
≪「伊藤圭介・シーボルト画像」 伊藤篤太郎摸 1軸 
文久2年、来日していたシーボルトの肖像を「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の特派員でイギリス人の画家チャールズ・ワーグマンがスケッチし、その摸本をさらに後年、植物学者伊藤圭介の子息篤太郎が圭介の肖像とともに模写したもの。≫(早稲田大学図書館
WEB展覧会第33回 「館蔵『肖像画』展 忘れがたき風貌」)

http://kousin242.sakura.ne.jp/nakamata/eee/%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88/

■シーボルトの日本博物館(国立民族博物館) → (略)
■シーボボルトの博物館構想(山田仁史(東北大学大学院) → (略)
■シーボルト・コレクションのデジタルアーカイブ活用(原田泰(公立はこだて未来大学)

シーボルト・コレクションのデータベース化.jpg

[>]?シーボルト・コレクションのデータベース化(一部抜粋)

<シーボルトコレクション収蔵機関>
・ナチュラリス生物多様性センターhttps://www.naturalis.nl/nl/
・シーボルトハウスhttp://www.sieboldhuis.org/en/
・国立民俗学博物館https://volkenkunde.nl/en
・シーボルト博物館ビュルツブルクhttps://siebold-museum.byseum.de/de/home
・ミュンヘン州立植物標本館http://www.botanischestaatssammlung.de

[>]?デジタル目録としてのデータベース(略)

[>]?「シーボルト父子関係資料をはじめとする前近代(19世紀)に日本で収集された資料についての基本的調査研究」プロジェクト
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その二十九) [川原慶賀の世界]

(その二十)九「川原慶賀の魯西亜整儀写真鑑」周辺

魯西亜整儀写真鑑.png

左図:魯西亜整儀写真鑑(袋) 右図: プチャーチン肖像
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/412235

軍艦2隻.jpg

左図:軍艦2隻 右図:軍艦2隻

椅子・靴持兵隊.jpg

左図:椅子・靴持兵隊 右図: 軍旗持兵隊

鉄砲持兵隊.jpg

左図:鉄砲持兵隊 右図: 軍楽隊
【魯西亜整儀写真鑑(ろしあせいぎしゃしんかん) 木版画 / 江戸/神戸市立博物館蔵
川原慶賀下絵/大和屋版/長崎版画/江戸時代、嘉永6年/1853年/木版色摺/ 39.0×25.8 他/ 1帖(7図・袋)
「Tojosky」のサインあり 軍楽隊/鉄砲持兵隊/軍旗持兵隊/椅子・靴持兵隊/軍艦2隻/軍艦2隻/プチャーチン肖像/袋
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】
(「文化遺産オンライン」)

【 魯西亜整儀写真鑑 /川原慶賀=版下絵、大和屋版/安政元年頃/巻子7図、紙本木版色摺/各26.0×38.6-39.0
七図からなる一連の錦絵、「魯西亜整儀写真鑑」と袋に題されている。磯野文斎(渓斎英泉の門弟)が入婿した後の長崎、大和屋から版行された。嘉永六年(一八五三)七月十八日、ロシア海軍の将官プチャーチンは、修交通商と北方の領海問題を解決するため国書を携え、軍艦四艘を率いて長崎港に入ってきた。この時、幕府は国書を受けず、十月、艦隊は長崎に再来、再び退去し、安政元年(一八五四)三月、三度長崎に入港してきた。本図は、国書を携えて西役所におもむくロシア使節の行進を活写したもの、プーチャチン像の右下に「GeteKent Door Tojosky」とあり、トヨスキィこれを描く、の意味。江戸後期の長崎における最もすぐれた絵師のひとり川原慶賀が下絵を描いている。トヨスキィという西洋人風の筆記は、慶賀の通称「登与助」のこと。慶賀は、シーボルトの専属画家のような形で写実性の高い記録絵を残したが、「シーボルト事件」の十四年後、天保三年(一八四二)に長崎払いとなり、弘化三年(一八四六)ごろに再び戻って磯野文斎の依頼でこの記録絵の制作にたずさわったのである。素朴な土産絵であった長崎版画が生み出した、歌川貞秀などの末期の江戸絵に拮抗し得る完成度の高い作品。(岡泰正稿) 】(『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画』所収「作品解説87」)

阿蘭陀舩入津ノ図.jpg

阿蘭陀舩入津ノ図(画者不詳:大和屋版/版下絵=磯野文斎?)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/378777
【 阿蘭陀舩入津ノ図(おらんだせんにゅうしんのず)/ 木版画 / 江戸/画者不詳 大和屋版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/36.3×25.0/1枚
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:・板橋区立美術館『長崎版画と異国の面影』図録 2017 】(「文化遺産オンライン」)

【 阿蘭陀船入津(にゅうしん)ノ図/大和屋版(版下絵:磯野文斎?)/江戸時代後期/1枚、紙本木版色摺/36.3×25.0
満艦飾に飾りたてた華麗な姿で長崎港内に停泊するオランダ帆船。号砲をはなちながら港内に「入津(入港)」してくる帆船を取材したこの図は、江戸時代後期の長崎版画を代表する版元、大和屋より版行された。版下絵は、大和屋の磯野文斎の筆になるものと推測され、オランダ船が舶載した文物が流入する長崎という海港の晴れやかでエキゾチックな空気を、磯野文斎独特の江戸仕込みの洗練された錦絵(多色摺木版画)のスタイルで封じ込めている。満艦飾にするのは入出港時と考えられるが、停泊中に行うのは、出島の祝祭日に限られるであろう。つまり、本図は、入津の情景と投錨(びょう)とを一画面に同時進行させる形で描いたものと思われる。曳船の描写などは省略されているが写実性と拭きぼかしを多用した装飾性が美しく混和している。(岡泰正稿) 】(『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画』所収「作品解説87」)

「魯西亜整儀写真鑑」(川原慶賀=版下絵、大和屋版)は、安政元年(一八五四)の頃の作とすると、この版下絵を描いた「川原慶賀」(天明六年(一七八六)~万延元年(一八六〇?)頃)の、六十八歳前後の頃の作で、その晩年の頃の作品の一つと解して差し支えなかろう。
 そして、これは、木版画の版下絵で、これまで見てきた、肉筆画、あるいは、シーボルトの依頼に描いた、石版画(『Nippon(日本)』など)の下絵(元絵・原画)ではなく、いわゆる、江戸の「浮世絵(錦絵)」(江戸の版元による「多色摺り木版画」)と同じく、長崎の「長崎版画」(長崎の版元による「多色摺り木版画」)の世界(版下絵師の世界)のものということになろう。
 これらの「長崎版画と版下絵師」関連については、下記のアドレスで触れてきた。そこで、その「版元」の一つの「大和屋(文彩堂)」の婿養子で、江戸後期の浮世絵師。渓斎英泉の門人の一人の「版下絵師」でもある「磯野文斎」(不明-1857)についても紹介してきた。
 上記の「魯西亜整儀写真鑑」(川原慶賀=版下絵、大和屋版)と、「阿蘭陀舩入津ノ図」(画者不詳:大和屋版/版下絵=磯野文斎?)とは、共に、磯野文斎の版元の「大和屋版」のもので、晩年の川原慶賀(田口登与助=種美)は、この版元「大和屋」所属の版下絵師の一人とも解せられる。
 そして、この「大和屋」の「磯野文斎」も歴とした「版下絵師」の一人で、上記の「阿蘭陀舩入津ノ図」(画者不詳:大和屋版/版下絵=磯野文斎?)は、上記の『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画』所収「作品解説87」では、「大和屋の磯野文斎の筆になるものと推測され」と、それを一歩進めて、「磯野文斎=版下絵」と解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-22

【  長崎版画と版下絵師
 長崎版画とは、江戸時代に長崎で制作された異国情緒あふれる版画のことで、主に旅人相手に土産物として売られた。長崎絵、長崎浮世絵などとも呼ばれている。同じころ江戸で盛んだった浮世絵が、役者、遊女、名所などを題材にしていたのに対し、当時外国への唯一の窓口だった長崎では、その特殊な土地柄を生かし、オランダ人、中国人、オランダ船、唐船など、異国情緒あふれる風物を主題とした。広義には、長崎や九州の地図も長崎版画に含まれる。
 現存する初期の長崎版画は、輪郭の部分を版木で黒摺りしてから筆で彩色したもので、その後、合羽摺といわれる型紙を用いた色彩法が用いられるようになった。長崎市内には、針屋、竹寿軒、豊嶋屋(のちに富嶋屋)、文錦堂、大和屋(文彩堂)、梅香堂など複数の版元があり、制作から販売までを一貫して手掛けていた。版画作品の多くに署名はなく、作者は定かではないものが多いが、洋風画の先駆者である荒木如元、出島を自由に出入りしていた町絵師・川原慶賀や、唐絵目利らが関わっていたと推測される。
 天保の初めころ、江戸の浮世絵師だった磯野文斎(不明-1857)が版元・大和屋に婿入りすると、長崎版画の世界は一変した。文斎は、当時の合羽摺を主とした長崎版画に、江戸錦絵風の多色摺の技術と洗練された画風をもたらし、長崎でも錦絵風の技術的にすぐれた版画が刊行されるようになった。大和屋は繁栄をみせるが、大和屋一家と文斎が連れてきた摺師の石上松五郎が幕末に相次いで死去し、大和屋は廃業に追い込まれた。
 江戸風の多色摺が流行するなか、文錦堂はそれ以降も主に合羽摺を用いて、最も多くの長崎版画を刊行した。文錦堂初代の松尾齢右衛門(不明-1809)は、ロシアのレザノフ来航の事件を題材に「ロシア船」を制作し、これは初めての報道性の高い版画と称されている。二代目の松尾俊平(1789-1859)が20歳前で文錦堂を継ぎ、父と同じ谷鵬、紫溟、紫雲、虎渓と号して自ら版下絵を手掛け、文錦堂の全盛期をつくった。三代目松尾林平(1821-1871)も早くから俊平を手伝ったが、時代の波に逆らえず、幕末に廃業したとみられる。
 幕末になって、文錦堂、大和屋が相次いで廃業に追い込まれるなか、唯一盛んに活動したのが梅香堂である。梅香堂の版元と版下絵師を兼任していた中村可敬(不明-不明)は、わずか10年ほどの活動期に約60点刊行したとされる。中村可敬は、同時代の南画家・中村陸舟(1820-1873)と同一人物ではないかという説もあるが、特定はされていない。

磯野文斎(不明-1857)〔版元・大和屋(文彩堂)〕
 江戸後期の浮世絵師。渓斎英泉の門人。江戸・長崎出身の両説がある。名は信春、通称は由平。文彩、文斎、文彩堂と号した。享和元年頃に創業した版元・大和屋の娘貞の婿養子となり、文政10年頃から安政4年まで大和屋の版下絵師兼版元としてつとめた。当時の合羽摺を主とした長崎版画の世界に、江戸錦絵風の多色摺りの技術と、洗練された画風をもたらした。また、江戸の浮世絵の画題である名所八景の長崎版である「長崎八景」を刊行した。過剰な異国情緒をおさえ、長崎の名所を情感豊かに表現し、判型も江戸の浮世絵を意識したものだった。安政4年死去した。

松尾齢右衛門(不明-1809)〔版元・文錦堂〕
 文錦堂初代版元。先祖は結城氏で、のちに松尾氏となった。寛政12年頃に文錦堂を創業し、北虎、谷鵬と号して自ら版下絵を描いた。唐蘭露船図や文化元年レザノフ使節渡来の際物絵、珍獣絵、長崎絵地図などユニークな合羽摺約130種を刊行した。文化6年、50歳くらいで死去した。

中村可敬(不明-不明)〔版元・梅香堂〕
 梅香堂の版元と版下絵師を兼務した。本名は利雄。陸舟とも号したという。梅香堂は、幕末に文錦堂、大和屋が相次いで廃業するなか、唯一盛んに活動し、わずか10年ほどの活動期に約60点刊行したとされる。中村可敬の詳細は明らかではないが、同時代の南画家・中村陸舟(1820-1873)は、諱が利雄であり、梅香の別号があることから、同一人物とする説もあるが、特定はされていない。 】(「UAG美術家研究所」)

長崎八景.png

上図(左から)「長崎八景○市瀬晴嵐」「長崎八景○神崎帰帆」「長崎八景○安禅(あんぜん)晩鐘」「長崎八景○笠頭(かざがしら)夜雨」
下図(左から)「長崎八景○大浦落雁」「長崎八景○愛宕暮雪」「長崎八景○立山(たてやま)秋月」「長崎八景○稲佐(いなせ)夕照」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/401618
【「長崎八景○市瀬晴嵐」→画者不詳(磯野文斎?)/ 文彩堂版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.2×19.5/1枚/文彩堂上梓
「長崎八景○神崎帰帆」→画者不詳(磯野文斎?)/ 文彩堂/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.2×19.6/1枚
「長崎八景○安禅(あんぜん)晩鐘」→画者不詳(磯野文斎?)/文斎版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.3×19.5/1枚/長崎文斎発販
「長崎八景○笠頭(かざがしら)夜雨」→画者不詳(磯野文斎?)/大和屋由平版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.3×19.4/1枚/長崎今鍛治ヤ町(○に大)大和屋由平板
「長崎八景○大浦落雁」→画者不詳 大和屋由平版/長崎版画(磯野文斎?)/大和屋由平版長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.2×19.6/1枚/長サキ今カジヤ町(○に大)大和屋由平板
「長崎八景○愛宕暮雪」→画者不詳(磯野文斎?)/大和屋由平版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.2×19.6/1枚/長サキ今カチヤ丁(○に大)大和屋由平板
「長崎八景○立山(たてやま)秋月」→画者不詳(磯野文斎?)/大和屋由平版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.3×19.5/1枚/長サキ今カジヤ町(○に大)大和屋由平板/「長崎八景○稲佐(いなせ)夕照」→画者不詳(磯野文斎?)/ 文彩堂/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.1×19.4/1枚
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・板橋区立美術館『長崎版画と異国の面影』図録 2017
所蔵館: 神戸市立博物館 】(「文化遺産オンライン」)

 上記図は、文彩堂(磯野文斎?)版の「長崎八景」で、磯野文斎は、上記の「長崎版画と版下絵師」で紹介されているとおり、「文政十年(一八二七)頃から安政四年(一八五七)まで大和屋の版下絵師兼版元としてつとめ」、「当時の合羽摺を主とした長崎版画の世界に、江戸錦絵風の多色摺りの技術と、洗練された画風をもたらした」。そして、「江戸の浮世絵の画題である名所八景の長崎版である『長崎八景』を刊行し」、そこでは、「過剰な異国情緒をおさえ、長崎の名所を情感豊かに表現し、判型も江戸の浮世絵」を踏襲している。
 川原慶賀(天明六年=一七八六-万延元年=一八六〇?)と磯野文斎(?―安政四年=一八五七)とは、全く同時代の人で、磯野文斎が江戸から長崎に来た文政十年(一八二七)の翌年の文政十一年(一八二八)に「シーボルト事件」が勃発して、川原慶賀は連座しお咎めを受けている。
 さらに、天保十三年(一八四二)に、オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れたということで、これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受け、その後の動静というのは、ほとんど不明というのが、その真相である。
 こういう、その真相は藪の中という川原慶賀の、その後半生の生涯において、冒頭の、安政元年(一八五四)の頃の「魯西亜整儀写真鑑」(「Tojosky」のサインあり)は、万延元年(一八六〇)記の「賛」(中島広足の賛)がある「永島キク刀自絵図」(「長崎歴史文化博物館蔵」)と共に、貴重な絵図となってくる。

(参考その一) (その二十一)「川原慶賀の肖像画」周辺

「永島キク刀自絵像」(川原慶賀筆)長崎歴史文化博物館蔵

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-10-31

(参考その二) (その五)「ドゥーフ像」と「プロムホフ家族図」周辺

「長崎港図・ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆)
「阿蘭陀加比丹並妻子之図・ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆)
「ブロンホフ家族図」石崎融思筆
「ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆?)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-07

蘭陀婦人の図.jpg

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/403021
【「蘭陀婦人の図」→画者不詳(川原慶賀?)/大和屋版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/36.3×24.8/1枚/文化14年(1817)に来日したコック・ブロンホフの妻子と乳母を描く。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・板橋区立美術館『長崎版画と異国の面影』図録 2017
所蔵館: 神戸市立博物館             】(「文化遺産オンライン」)

(参考その三)『長崎土産』(磯野信春(文斎)著・画/長崎(今鍛冶屋町) : 大和屋由平/弘化4 刊[1847])周辺

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00011733#?c=0&m=0&s=0&cv=1&r=0&xywh=-3786%2C77%2C13187%2C3744

「長崎土産― 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」(京都大学附属図書館 Main Library, Kyoto University)

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_01476/index.html

「長崎土産 / 礒野信春 著併画」(「早稲田大学図書館 (Waseda University Library)」)

長崎土産.gif

「長崎土産 / 礒野信春 著併画」(「早稲田大学図書館 (Waseda University Library)」)
(11/43)

若き日のシーボルト先生とその従僕図.jpg

●作品名:若き日のシーボルト先生とその従僕図(川原慶賀筆)
●所蔵館:長崎歴史文化博物館 Nagasaki Museum of History and Culture
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3731&cfcid=164&search_div=kglist

阿蘭陀人黒坊戯弄犬図.jpg

阿蘭陀人黒坊戯弄犬図(おらんだじんくろぼうぎろうけんず)(磯野文斎画?)
画者不詳/大和屋版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/35.6×24.2/1枚/神戸市立博物館蔵(「文化遺産オンライン」)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/378807

(参考その四)「長崎の合羽摺」周辺

【 合羽摺(かっぱずり)とは、浮世絵版画での彩色法である。
≪合羽摺前史≫
 木版画は単色摺が基本である。だが、上客からの要望もあり、彩色化が図られるようになる。最初は、摺った後に筆で着彩する方法が取られた。
 安房国の縫箔屋出身で、17世紀後半の江戸で活動した、菱川師宣の場合、版本や、「揃い物」に、着彩されている墨摺絵が現存する。その後、1741-42年(寛保元-2年)に、色版を用いた紅摺絵が、そして、1765年(明和2年)には、鈴木春信による多色摺、錦絵が登場する。
 一方、師宣以前の上方、つまり大坂と京は、「洛中洛外図屏風」や「寛文美人図」等、「近世風俗画」が盛んに描かれたが、これらが「上がりもの」として江戸に持ち込まれることによって、師宣の歌舞伎絵・美人画・春画を生むきっかけとなった。上方でも、版本から一枚摺が生まれ、墨摺絵に筆彩色する過程は同じだが、その次に登場したのが「合羽摺」であったのが、江戸との違いである。
≪合羽摺の手法と長短所≫
 「主版」(おもはん)、つまり最初に摺る輪郭線は版木を用いるが、色版は、防水加工した紙を刳り抜いて型紙とし、墨摺りした紙の上に置き、顔料をつけた刷毛を擦って彩色した。
 色数と同じだけの型紙を必要とする。防水紙を使用することから、「合羽」と呼ばれる。合羽摺の利点は、加工が容易であり、コストが安く、納期が早い、馬連を用いないので、錦絵より薄く安価な紙が使用できる点である。
 逆に欠点は、版木摺ほど細密な表現が出来ない、色むらが出やすい、重ね摺りすると、下の色は埋もれてしまう(版木の場合は、下の色を透かすことが可能。)、切り抜き箇所の縁に顔料が溜まりやすい、型紙が浮き上がり、顔料が外にはみ出すことがある、型紙を刳り抜くため、その内部に色を入れたくない部分がある場合は、「吊り」と呼ばれる、色を入れる箇所の一部を切り残す必要がある、安価な紙を用いた為、大切にされず、現存数が少なくなっただろう点である。
≪上方の合羽摺≫ (略)
≪長崎の合羽摺≫
 長崎絵でも、合羽摺が用いられた。唐人は新年を祝う為、唐寺で摺られた「年画」を家屋に貼る風習があり、それが周辺に住む日本人にも受け入れられ、江戸や上方とは異なり、版本から一枚絵に展開する過程を必要としなかった。
 現存する「長崎絵」最古のものは、寛保から寛延年間(1741-1751年)とされ、そのころから墨摺絵に手彩色することが始まり、天明年間(1781-1801年)頃に合羽摺が行われるようになる。天保年間(1830-44年)初頭、渓斎英泉の門人である、磯野文斎が版元「大和屋」に婿入りし、後に彫師・摺師を江戸から招くことにより、錦絵が齎された。但し他の版元では、合羽摺版行が続いた。
 画題は、江戸や上方と異なり、オランダ人や唐人の風貌や装束、彼らの風習、帆船や蒸気船、珍しい動物、出島図や唐人屋敷、唐寺など、長崎特有の異国情緒を催すものが描かれた。
 1858年(安政5年)の日米修好通商条約締結後、外国人居留地の中心が横浜に移ることにより、1860年(安政7・万延元年)には横浜絵が隆盛、文久年間(1861-64年)頃に、長崎絵の版行は終わったとされる。 】(「ウィキペディア」)

魯西亜船之図.jpg

「魯西亜船之図」(ろしあせんのず)/木版画 / 江戸/画者不詳 文錦堂版/長崎版画/江戸時代、文化2年/1805年/紙本木版に合羽摺/30.2×42.0/1枚/「文化元甲子年九月七日ヲロシヤ船長崎ニ初テ入津同二年三月十九日出船 其間ヲロシヤ人梅が崎ニ仮居ス」と上部にあり/
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館/参考文献:板橋区立美術館『長崎版画と異国の面影』図録 2017(「文化遺産オンライン」)

 これは、「文錦堂版」の「紙本木版に合羽摺」の作品で、「文化元甲子年九月七日ヲロシヤ船長崎ニ初テ入津同二年三月十九日出船 其間ヲロシヤ人梅が崎ニ仮居ス」との、文化元年(一八〇四)、ロシアのレザノフ使節渡来の際物絵(一時の流行・人気をあてこんで作った作品)の一つである。
 この作品の「版下絵師」は、文錦堂初代版元の「松尾齢右衛門(不明-1809/号=北虎・谷鵬)なのかも知れない。この「魯西亜船之図」が制作された頃は、川原慶賀がまだ二十歳前の、石崎融思門の絵師見習いの頃で、おそらく、磯野文斎も、江戸の渓斎英泉の門にあって、川原慶賀と同じような環境下にあったもののように思われる・
 この文錦堂の松尾齢右衛門が亡くなったのは文化六年(一八〇九)、その二代目が「松尾俊平」(1789-1859/号=谷鵬・紫溟・紫雲・虎渓)で、文錦堂の全盛期をつくった「版元兼版下絵師」である。

唐蘭風俗図屏風.jpg

「唐蘭風俗図屏風」谷鵬紫溟画/19世紀(江戸時代)/各 w270.1 x h121 cm/福岡市博物館蔵
https://artsandculture.google.com/asset/genre-screen-of-china-and-dutch-kokuho-shimei/FwGm1aFL3T4n9Q?hl=ja
≪ 赤、青、黄色の派手な色使いや、描かれた人物の素朴でキッチュな表現が強烈な輝きを放つ作品。向かって右隻は、成人の男女が見守るなか、獅子舞や凧あげなど正月の風俗を思わせる唐子遊びを中心にした中国風景が描かれる。対して左隻は、オランダの風俗を洋風表現を交えて描き出す。館の内部ではグラスを持つ女性を男性が抱き寄せているが、食卓に出されたヤギの頭まるごとの料理が見るものの度肝を抜く。屋外では音楽にあわせて子供たちが腕を広げて踊り、大人たちも気ままにたたずんでいる。両隻とも、男女のぺアと子供たちが主人公のようで、何かの祝祭を意味しているのかもしれない。
右端に描かれた虎図の衝立(ついたて)にこの屏風の作者である谷鵬紫溟(こくほうしめい)の落款がある。谷鵬紫溟の詳しい伝記は不明で、文化年間に版画を制作し、肖像画を得意とした長崎の洋風画家だったらしい。ところで、この屏風は、大縁(おおべり)、小縁(こべり)から各扇(せん)のつなぎ目まで全てが画家によって筆で描かれたいわゆる描き表装(かきひょうそう)で、そんな点にも江戸や秋田の洋風画とは異なった、谷鵬紫溟の強烈な個性が発揮されている。
【ID Number1989B00908】参考文献:『福岡市博物館名品図録』 ≫(「福岡市博物館」)

http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/295/index02.html

≪唐蘭風俗図屏風(とうらんふうぞくずびょうぶ) 六曲一双 /谷鵬紫溟(こくほうしめい)筆/ 江戸時代/紙本着色/各132.6×271.0㎝
 人を驚かせる奇妙さと、どことなくまがいものめいたキッチュさでは当館随一の作品です。どこの国かというと、作品名にあるとおり、向かって右隻は中国、左はオランダです。  
 特に奇妙なのはオランダの風景。遠景はそれなりに西洋風ですが、手前の建物は瓦葺(かわらぶき)で日本的ですし、屋内の男女はヤギの頭まるごとの料理を前にしてグラス片手によりそい、なんだか訳がわかりません。作品全体は、お正月のお祝いのような祝祭をテーマに描かれているのかもしれません。作者の谷鵬紫溟は江戸後期に活躍した長崎派の画家です。想像力豊かに見たことのない異国の風俗を描いたのでしょう。描き方も陰影をつけた洋風表現です。普通は布地が貼られる屏風の縁や、なにも描かない蝶番の内側まで筆で文様を描いているところにも注目してください。≫(「福岡市博物館」)


(参考その五)「魯西亜人初テ来朝登城之図」周辺

第一 魯西亜人道中.jpg

第一 魯西亜人道中備大波戸より西御役所江罷出候図

第二 於書院魯西亜人.jpg

第二 於書院魯西亜人初度対話之図 

第三 於書院御料理.jpg

第三 於書院御料理被下之図

第四 於書院御料理被下候後応接之図.jpg

第四 於書院御料理被下候後応接之図

第五 於書院拝領物被下候図.jpg

第五 於書院拝領物被下候図

第七 内題.jpg

第七 内題(安政二乙卯年四月江戸御城江登城之節御老中若年寄御目付役立合応接之図)
(「神戸市立博物館蔵」)
≪「魯西亜人初テ来朝登城之図」(ろしあじんはじめてらいちょうとじょうのず)/文書・書籍 / 江戸/ 未詳/ 江戸時代後期/1855年/ 紙本著色/ 30.0×423.8/ 1巻/内題に「安政二乙卯年四月江戸御城江登城之節御老中若年寄御目付役立合応接之図」とあるが、この記載は誤り。
参考文献:・神戸市立博物館『神戸開港150年記念特別展 開国への潮流―開港前夜の兵庫と神戸―』図録、2017 ≫
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/379297
【(解説)
 本図巻は、嘉永6年(1853)に長崎に来航したロシア海軍中将プチャーチン一行の応接と交渉の様子を描いたものです。同年8月19日の国書手交から、12月14日以降の日本側全権筒井政憲・川路聖謨らとの会食や会談の様子を描きます。描かれる内容が、プチャーチンの長崎来航時の応接の様子を描いた早稲田大学図書館所蔵「魯西亜使節応接之図」にほぼ一致します。またプチャーチンは安政2年3月に日本を離れていることから、内題にある「安政二乙卯年四月江戸御城江登城之節御老中若年寄御目付役立合応接之図」との記載は誤りです。

第一 魯西亜人道中備大波戸より西御役所江罷出候図
 嘉永6年(1953)8月19日に、大波戸から長崎奉行所西御役所に向かうロシア隊の行列の様子。鼓笛隊、銃隊、海軍旗に続いてプチャーチン一行が現れます。海軍旗や兵士らが被る帽子には双頭の鷲のエンブレムがあしらわれています。この日、長崎奉行大澤定宅はプチャーチンと会見し、国書を受け取っています。

第二 於書院魯西亜人初度対話之図 
 同年12月14日、長崎奉行所西御役所書院において、日本側全権として派遣された大目付筒井政憲・勘定奉行川路聖謨らと、プチャーチン一行が初めて対面した様子。同様の図が描かれる早稲田大学図書館所蔵「魯西亜使節応接之図」と比較すると、画面中央奥に立つ2 人は恐らく長崎奉行の水野忠徳と大澤定宅で、その前に座る人物は恐らくオランダ語通詞の森山栄之助、ロシア側と対面する4人が奥から筒井・川路・目付荒尾成允・儒者古賀謹一郎、手前の後ろ向きの人物が左から御勘定組頭中村為弥、勘定評定所留役菊池大助、徒目付衆となります。

第三 於書院御料理被下之図
 同日、ロシア使節との会食の様子。筒井・川路のみが会食をともにしています。

第四 於書院御料理被下候後応接之図 
 同日、会食後に行われた応接の様子。奥に長崎奉行水野・大澤が座し、ロシア使節に対面する形で筒井・川路・荒尾・古賀の順に着座します。

第五 於書院拝領物被下候図
 同月18日、ロシア側へ贈呈品として、真綿と紅白の綸子(りんず)と呼ばれる滑らかで光沢のある絹織物が贈られました。  】(「文化遺産オンライン」)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その二十八) [川原慶賀の世界]

(その二十八)「シーボルトと川原慶賀の江戸参府」周辺

「外国人の旅(シーボルト)」.jpg

「外国人の旅(シーボルト)」
https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/trip/html/diary/diary-edo.html

「江戸参府行程図」.gif

「江戸参府行程図」(「FLOS, 花, BLUME, FLOWER, 華,FLEUR, FLOR, ЦBETOK, FIORE」d)所収)
http://hanamoriyashiki.blogspot.com/2019/05/20-2-14ch-de-villeneuve.html

 上記の「江戸参府行程図」が紹介されているアドレスで、「オランダ商館長の江戸参府と鞆の浦」(矢田純子稿・比較日本学教育研究センター研究年報第6号)が、「シーボルトと川原慶賀の江戸参府」周辺に関して、次のように記述している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-11
(再掲)

【「オランダ商館長の江戸参府と鞆の浦」(矢田純子稿・比較日本学教育研究センター研究年報第6号)

≪ 江戸参府は、オランダ商館長が江戸へ行き将軍に拝謁し、献上品を送ることで、寛永十年(1633)以来恒例となる。寛文元年(1661)以降、旧暦正月に長崎を出発し、三月朔日前後に拝謁するよう改められ、寛政二年(1790)からは4年に1回となり、嘉永三年(1850)が最後の参府となる。
 参府の経路を述べると、当初は長崎から平戸を経由し海路下関に向かっていたが、万治二年(1659)以降、長崎から小倉までは陸路となり、小倉から下関、下関から兵庫は海路で、兵庫-大坂から陸路で江戸へ向かっていた。下関から兵庫は順風であると約8日間を要した(【第1図】=上記図の原図)。
 なお経路はその年により多少の変動がある。参府旅行全体には平均90日前後を要し、江戸には2、3週間滞在していた。旅行の最長記録は以下で取り上げる文政九年(1826)の事例で、商館長スチュルレル一行が143日間をかけて参府旅行を行った。
 また、小倉では大坂屋善五郎、下関では伊藤杢之丞、佐甲三郎右衛門(隔年交代)、大坂では長崎屋五郎兵衛、京都で海老屋余右衛門、江戸においては長崎屋源右衛門というように、5つの都市には定宿が存在していた。≫

 上記の論稿の「商館長スチュルレル一行が143日間をかけて参府旅行」の、この紀行が、「シーボルド・川原慶賀」らが参加した「文政九年(1826)」の江戸参府紀行で、その「使節(公使)」の「オランダ商館長」は「スチュルレル(大佐)」(シュトューラー)、その随行員の「医師(外科)、生物学・民俗学・地理学に造詣の深い博物学者」が「シーボルト(大尉)」(ジ~ボルド)、もう一人の「書記」が「ビュルガル(薬剤師)」(ビュルガー)で、生物学・鉱物学・化学などに造詣が深く、シーボルドの片腕として同道している(もう一人、画家の「フィルヌーヴ」(フィレネーフェ)をシーボルドは同道させようとしたが、「西洋人」枠は三人で実現せず、その代役が、出島出入りを許可されている「町絵師・川原慶賀」ということになる)。 】

 そして、この「商館長スチュルレル一行(シーボルト・川原慶賀ら)が143日間をかけて参府旅行」に関連しては、下記のアドレスで、その全行程のあらましについて見てきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10

(その一)「シーボルト江戸参府紀行日程」(「1826年(文政9年)」)周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10

(その十三)「大阪から長崎への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28

 ここで、これまでの、この(その一)から(その十三)までを踏まえて、下記の(別記)に、「シーボルトと川原慶賀」に焦点を当てて、その「全行程」などを、新しい、川原慶賀の絵図などを入れて、再掲(再現)をして置きたい。

(別記その一)「シーボルト江戸参府紀行日程(1826年(文政9年)」周辺(一部要約抜粋)
≪参考文献:「江戸参府紀行 ジーボルト著 斎藤信訳(平凡社)」「シーボルト 板沢武雄著(吉川弘文館)」≫
http://www5e.biglobe.ne.jp/~masaji/lolietravel/capitan/index.html

日数 西暦  和暦 天候  行程       日誌

(その一)「シーボルト江戸参府紀行日程」(「1826年(文政9年)」)周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10

(その四)「長崎・出島」」―「小倉・下関」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-15

1  2/15   1/9  晴 出島-諫早     威福寺での別れの宴など
2  2/16  1/10 晴 諫早-大村-彼杵  大村の真珠・天然痘の隔離など

江戸参府紀行一.jpg

●作品名:大村(千綿)付近 ●Title:A view of Omura, Chiwada
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館  National Museum of Ethnology, Leiden

3  2/17  1/11    彼杵-嬉野-塚崎(武雄)嬉野と塚崎の温泉など 
4  2/18  1/12 晴  塚崎-小田-佐賀-神崎 小田の馬頭観音・佐賀など
5  2/19  1/13 晴  神崎-山家 筑後川流域の農業・筑前藩主別荘など
6   2/20  1/14 雨 山家-木屋瀬 内陸部高地の住民など
7  2/21  1/15 雨 木屋瀬-小倉   渡り鳥の捕獲

小倉引島.jpg

●作品名:小倉引島 ●Title:Hikeshima, Kokura
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館  National Museum of Ethnology, Leiden

8  2/22  1/16 晴 小倉-下関    小倉の市場・与次兵衛瀬記念碑など

(その五)「下関」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-17

9  2/23  1/17 晴 下関滞在     門人の来訪・カニの眼
10  2/24  1/18  晴 下関 早鞆岬と阿弥陀寺・安德天皇廟など
11  2/25  1/19  晴 下関 萩の富豪熊谷五右衛門義比など
12  2/26   1/20 晴 下関 門人・知友来訪・病人診療と手術など
13  2/27  1/21 晴 下関 近郊の散策・六連島・捕鯨について
14  2/28   1/22 晴 下関 薬品応手録・コーヒーの輸入など
15  3/1    1/23 晴 下関 正午過ぎ乗船 ブロムホフの詩・下関の市街など
16  3/2    1/24 晴 下関出帆  


(その六)「下関から室津上陸」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-20

下関(竹崎付近).jpg

●作品名:下関(竹崎付近) ●Title:A view of Shimonoseki, Takesaki
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

17  3/3   1/25  晴  船中 夜風強まり屋代島の近くに舟をつなぐ
18  3/4   1/26  晴  屋代島の東南牛首崎に上陸・象の臼歯化石発見・三原沖に停泊
19  3/5   1/27  晴  船中 水島灘・阿伏兎観音・琴平山・内海の景観・日比に停泊
20  3/6   1/28  晴  早朝上陸 日比の塩田と製塩法
21  3/7   1/29  晴  日比-室津上陸  室のホテル(建築様式・家具など)
22  3/8   1/30  晴  室滞在 室の付近について・娼家・室明神・室の産物

室津長風図.jpg

作品名:室津長風図 ●Title:A view of Murotu
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

23  3/9   2/1 晴  夜雪  室-姫路 肥料・穢多・非人・大名の献上品など
24  3/10   2/2 雪 姫路-加古川 高砂の角力者の招待

雪景色一.jpg

●作品名:雪景色一 ●Title:Snowscape
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

雪景色二.jpg

●作品名:雪景色二 ●Title:Snowscape
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

25  3/11   2/3 晴   加古川-兵庫 敦盛そば・兵庫の侍医某来訪
26  3/12   2/4 晴  兵庫-西宮 楠正成の墓・生田明神
27  3/13   2/5 吹雪  西宮-大坂  

(その七)「大阪・京都の滞在」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-21

28  3/14   2/6 快晴  大坂滞在 多数の医師来訪・薬品応手録印刷できる

大阪城).gif

≪フォート大阪(※Fort Osaka=大阪城)/ 製造年:1669/ 製造場所:アムステルダム/
源/388 A 6 コニンクリケ図書館/著作権:情報: Koninklijke Bibliotheek          
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/fort-osaka?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=2&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3A388A6-NA-P-272-GRAV  ≫

29  3/15   2/7 晴   大坂 二、三の手術を行なう・動脈瘤
30  3/16   2/8 晴   大坂 鹿の畸形・飛脚便について
31  3/17   2/9 晴  大坂-伏見 淀川の灌漑など
32  3/18   2/10 晴 伏見-京都 小森玄良、新宮涼庭らと会う
33  3/19   2/11 晴 京都滞在 小森玄良、小倉中納言来訪

京都の全景.gif

≪「京都の全景」(『日本 : 日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』(雄松堂書店, 1977-1979)「図113」)
http://hdl.handle.net/2324/1000295399
復刻版『Nippon : Archiv zur Beschreibung von Japan』(講談社, 1975)
http://hdl.handle.net/2324/1000951631     ≫

34  3/20   2/12 晴 京都 多数の医師が病人を伴って来る
35  3/21   2/13 晴 京都 来訪者多数・名所見物を帰路に延ばす
36  3/22   2/14 晴 京都 二条城・京都は美術工芸の中心地
37  3/23   2/15 晴 京都 天文台・京都の人口
38  3/24   2/16 晴 京都 明日の出発準備

(その八)「京都より江戸への旅行」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-22

39  3/25   2/17 晴 京都-草津 日付はないが琵琶湖付近の風景の記述

琵琶湖の景.gif

『日本』に掲載されている「琵琶湖の景」(Nippon Atlas. 5-p30)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=29&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

瀬田川と瀬田橋の景.gif

『日本』に掲載されている「瀬田川と瀬田橋の景」(Nippon Atlas. 5-p29)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=28&r=0&xywh=288%2C799%2C3251%2C3631

40  3/26   2/18 晴  草津-土山 梅木の売薬・植物採集の依頼・三宝荒神
41  3/27   2/19 晴  土山-四日市 鈴鹿山のサンショウウオ
42  3/28   2/20    四日市-佐屋(原文 Yazu)二度の収穫・桑名の鋳物

桑名城 .jpg

●作品名:桑名城  ●Title:A view of the Kuwana Castle
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

43  3/29   2/21 晴  佐屋-宮-池鯉鮒 水谷助六・伊藤圭介・大河内存真同行
44  3/30   2/22 晴  池鯉鮒-吉田 矢矧橋

矢矧橋.jpg

●作品名:矢矧橋 ●Title:Yabiki bridge
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

45  3/31  2/23 曇・雨空  吉田-浜松 雲母の採集・白魚
46  4/1   2/24 晴   浜松-掛川 秋葉山・商館長ヘンミーの墓
47  4/2   2/25 晴・寒  掛川-大井川-藤枝 大井川の渡河・川人足
48  4/3   2/26 強雨 藤枝-府中 軟骨魚類の加工・駿府の木細工と編細工
49  4/4   2/27 晴 府中-沖津 沖津川増水・上席検使に化学実験を見せる
50  4/5   2/28 快晴 沖津-蒲原 製紙・急造の橋
51  4/6   2/29 快晴 蒲原-沼津 富士川の舟・富士山高度・原の植松氏の庭園

原の植松氏庭園.jpg

●作品名:原の植松氏庭園 ●Title:A view of Uematu's garden
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

52  4/7   3/1 晴 沼津-箱根-小田原 中津侯家臣神谷源内一行の出迎え

箱根の湖水(上図)・富士山と富士川(下図).gif

『日本』に掲載されている「箱根の湖水(上図)・富士山と富士川(下図)」(Nippon Atlas. 5-p32)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=31&r=0&xywh=564%2C895%2C2709%2C3026

53  4/8   3/2 雨  小田原-藤原 旅館満員で娼家に泊まる
54  4/9   3/3 晴  藤沢-川崎 長崎屋源右衛門出迎え
55  4/10   3/4 晴  川崎-江戸 薩摩中津両侯大森で、桂川甫賢ら品川で出迎え

(その九)「江戸滞在」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-23

56  4/11 3/5 江戸滞在 面会ゆるされず、桂川甫賢・神谷源内・大槻玄沢ら来訪

江戸の全景.gif

≪「江戸の全景」(『日本 : 日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』(雄松堂書店, 1977-1979)「図123」)
http://hdl.handle.net/2324/1000295399
復刻版『Nippon : Archiv zur Beschreibung von Japan』(講談社, 1975)
http://hdl.handle.net/2324/1000951631    ≫

永代橋より江戸の港と町を望む.gif

『日本』に掲載されている「永代橋より江戸の港と町を望む」(Nippon Atlas. 5-p33)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1906469&start=&bbinfo_disp=0#?c=0&m=0&s=0&cv=34&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

57  4/12 3/6 江戸 終日荷解き・薩摩侯より贈物・夜中津侯来訪
58  4/13 3/7 江戸 桂川甫賢、宇田川榕庵から乾腊植物をもらう
59  4/14 3/8 江戸 将軍、その世子への献上品を発送
60  4/15 3/9 江戸 中津島津両侯の正式訪問・日本の貴族
61  4/16 3/10 江戸 最上德内来訪、エゾ、カラフトの地図を借りる 

最上徳内肖像画(比較図).gif

「最上徳内肖像画(合成図)」
左図: 「最上徳内」(シーボルト『日本』図版第1冊46)(「福岡県立図書館」蔵)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html
右図:「最上徳内肖像」(SAB→「フォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン家」蔵)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-29

62  4/17  3/11  江戸 桂川甫賢・大槻玄沢来訪
63  4/18  3/12  江戸 高橋作左衛門来訪
64  4/19  3/13  江戸 桂川甫賢来訪し、シーボルトの長期滞在の見通しを伝える
65  4/20  3/14  江戸 豚の眼の解剖など手術の講義・地震など
66  4/21  3/15  江戸 最上德内とエゾ語を研究・謁見延期となる
67  4/22  3/16  江戸 付添いの検使、研究に対して好意を示す
68  4/23  3/17  江戸 幕府の医師に種痘を説明
69  4/24  3/18  江戸 天文方の人びと来訪
70  4/25  3/19  江戸 将軍家侍医にベラドンナで瞳孔を開く実験をみせる
71  4/26  3/20  江戸 兎唇の手術・種痘の方法を教える
72  4/27  3/21  江戸 再び二人の子供に種痘
73  4/28  3/22  江戸 ラッコの毛皮を売りにくる
74  4/29  3/23  江戸 天文方来訪
75  4/30  3/24  江戸 幕府の侍医らジーボルトの長期江戸滞在の幕府申請など
76  5/1  3/25  江戸 登城し将軍に拝謁・拝礼の予行と本番など
77  5/2  3/26  江戸 町奉行・寺社奉行を訪問
78  5/3  3/27  江戸 庶民階級の日本人との交際
79  5/4  3/28  江戸 将軍および世子に暇乞いのため謁見・江戸府中の巡察など
80  5/5  3/29  江戸 使節の公式の行列
81  5/6  3/30  江戸 官医来訪
82  5/7  4/1   江戸 中津侯、グロビウス(高橋作左衛門)来訪
83  5/8  4/2   江戸 漢方医がジーボルトの江戸滞在延期に反対するという
84  5/9  4/3   江戸 知友多数来訪〔10以後記事を欠く〕

「渡辺崋山の戯画に描かれたビュルゲル」.gif

「渡辺崋山の戯画に描かれたビュルゲル」抜粋(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%

85  5/10  4/4 江戸  
86  5/11  4/5 江戸  
87  5/12  4/6 江戸  
88  5/13  4/7 江戸  
89  5/14  4/8 江戸  
90  5/15  4/9 江戸 高橋作左衛門が日本地図を示し、後日これを贈ることを約す
91  5/16  4/10 江戸 滞在延期の望みなくなる
92  5/17  4/11 江戸 明日江戸出発と決まる

(その十)「江戸より京都への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-24

93  5/18  4/12 晴 江戸-川崎 江戸の富士
94  5/19  4/13 晴 川崎-藤沢 鶴見付近のナシの棚
95  5/20  4/14 晴 藤沢-小田原  
96  5/21  4/15 曇 小田原-三島 山崎で江戸から同行した最上德内と別れる
97  5/22  4/16 曇 三島-蒲原 再び植松氏の庭園をみる 

吉原付近.jpg

●作品名:吉原付近 ●Title:A view of Yoshiwara
●分類/classification:旅・江戸参府/Travering to Edo
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館  National Museum of Ethnology, Leiden

98   5/23 4/17 晴   蒲原-府中 牛車について
99  5/24 4/18 晴   府中-日坂 薬用植物のこと
100  5/25 4/19 曇  日坂-浜松 高良斎の兄弟来る
101  5/26 4/20 晴  浜松-赤坂 植物採集とその整理
102  5/27 4/21 豪雨 赤坂-宮 宮で水谷・伊藤らと会う
103  5/28 4/22 晴 宮-桑名-四日市 宮の渡し舟のこと
104  5/29 4/23 晴 四日市-関  
105  5/30 4/24 強雨 関-石部 夏目村の噴泉
106  5/31 4/25 晴 石部-大津 川辺の善性寺の庭・タケの杖・瓦の製法
107  6/1 4/26 曇 大津-京都  

(その十一)「京都滞在と大阪への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-25

108  6/2 4/27 晴 京都滞在 友人門人、小森、新宮ら来訪・京都特に宮廷など
109  6/3 4/28 晴 京都 宮廷に関する記事
110  6/4 4/29 晴 京都 小森玄良から宮廷の衣裳の話
111  6/5 4/30 晴 京都 小森の家族と過ごす
112  6/6 5/1 晴 京都 所司代・町奉行を訪問
113  6/7 5/2 晴 京都-伏見-大坂 知恩院・祗園社・清水寺・三十三間堂など

京都祇園社.jpg

●作品名:京都祇園社 ●Title:Gionshya shrine, Kyoto
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

北野天満宮.jpg

●作品名:北野天満宮 ●Title:A view of the Kitano Shrine
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

石清水八幡.jpg

●作品名:石清水八幡 ●Title:A view of the Iwashimizuhachiman Shrine
●分類/classification:旅・江戸参府/Traveling to Edo
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

(その十二)「大阪滞在」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-27

114  6/8 5/3 晴 大坂滞在 大坂についての記述
115  6/9 5/4 晴 大坂 研究用品の購入と注文
116  6/10 5/5 晴 大坂 心斎橋・天下茶屋・住吉明神・天王寺など
117  6/11 5/6 晴 大坂 町奉行および製銅家を訪問
118  6/12 5/7 晴 大坂 芝居見物・日本の劇場・妹背山の芝居
シイボルト觀劇圖并シイボルト自筆人參圖.jpg

シイボルト觀劇圖并シイボルト自筆人參圖」(「国立国会図書館デジタルコレクション)
[江戸後期] [写] 1軸(「左側の黒い服を着た人物がシーボルト」「中央の人物(足首を捻挫している)がスチュルレル」「右側の人物がビュルガー(ビュルゲル)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-24

119  6/13 5/8 晴 大坂 来訪者多数・明日は出発

(その十三)「大阪から長崎への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28

120  6/14 5/9 晴  大坂-西宮 肥料船のこと
121  6/15 5/10 晴  西宮-兵庫  
122  6/16 5/11 兵庫 向い風のため出帆延期
123  6/17 5/12 兵庫 向い風のため出帆延期
124  6/18 5/13 兵庫 向い風のため出帆延期
125  6/19 5/14 夜兵庫を出帆
126  6/20 5/15 船中 朝 室の沖合で経度観測
127  6/21 5/16 船中 朝に室の沖合-正午与島にゆく・造船所など
128  6/22 5/17 船中 夜備後の海岸に向かって進み、陸地近くに停泊
129  6/23 5/18 船中 引き船で鞆に入港・正午上陸・夜半に港外へ
130  6/24 5/19 船中 島から島へ進み、夕方御手洗沖・夜半停泊
131  6/25 5/20 船中 御手洗より患者が来て診察をもとむ・家室島の近くに停泊
132  6/26 5/21 船中 風雨強く午後出帆し、上関瀬戸を経て夜上関入港

瀬戸内海(上関・沖の家室).gif

●作品名:瀬戸内海(上関・沖の家室) ●Title:A view of Setonaikai, The Inland Sea
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

133  6/27 5/22 上陸し上関見物・室津へゆく・夜出港
134  6/28 5/23 船中 午後二時過ぎ下関入港
135  6/29 5/24 下関滞在 海峡の図を受け取る・友人来訪

下関 竹崎付近の景.gif

『日本』に掲載されている「下関 竹崎付近の景」(Nippon Atlas. 5-p15)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=14&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

136  6/30 5/25 下関-小倉  
137  7/1 5 /26  小倉-飯塚  
138  7/2 5/27  飯塚-田代  
139  7/3 5/28  田代-牛津   
140  7/4 5/29  牛津- 嬉野  
141  7/5 6/1   嬉野-大村 出島の友人みな元気との知らせを受ける
142  7/6 6/2  大村-矢上 出迎えの人その数を増す
143  7/7 6/3   矢上-出島 正、同郷人に迎えられ出島につく

(別記その二)「出島商館長江戸参府行列図」周辺

江戸参府行列図.gif

「江戸参府行列図(医師=シーボルトが乗っている駕籠)」
http://blog.livedoor.jp/toyonut/archives/1475250.html

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-12

【 この「江戸参府行列図」(第31図)などは、「シーボルト『日本』の研究と解説(講談社)」所収の「1826年の『江戸参府紀行』(斎藤信稿)」などを参考にすると、次のようである。

 この図(第31図)の、前方の「駕籠」には、「小通詞・岩崎弥十郎」が乗っている。「駕籠かき(人)」は二人、「従僕」(「公設」「私設」かは不明?)は一人である。その後ろの「両掛」(旅行用の行李の一種。また、それを担ぐこと)は、「小通詞・岩崎弥十郎」の「荷物」と「荷物を担ぐ人」(人夫?)ということになる。
 そして、その後ろの「駕籠」には、「公式使節団の一員の『医師』のシーボルト」が乗っている。その「駕籠かき(人)」は四人、「従僕」(「公設」か「私設」かは不明?)は二人、その「「両掛」(旅行用の行李の一種。また、それを担ぐこと)」は、次の図(第32図)に描かれている。)

ここで、「出島商館長江戸参府行列図」の、その「行列」順序は、凡そ次のとおりとなる・

一 「献上品」(「献上品」を担ぐ「馬」と「人夫」)
二 「宰領」(「付添検使」下の「世話人」の一人、乗馬している。「第4図」)
三 「小通詞と医師の図」(上記の「第31図」)
四 「書記の図」(第32図)
五 「使節(商館長)の図」(第33図)
六 「付添検使=」(第37図)
(他に、「総数、四十五図」から成る。) 

(別記)「一八二六年(文政9年)の江戸参府紀行の序」(抜粋)

「シーボルト 江戸参府紀行(1)」

https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/202203280000/

≪ 一八二六年(文政9年)の江戸参府紀行の序

概要

……旅行の準備
……江戸滞在の延長計画
……蘭印政庁の後援
……※日本人との深い理解・公使の不機嫌
……※和蘭使節の一行
……※日本の通詞およびその他の従者の描写
……使用人
……旅行具ならびに他の機具類の装備
……和蘭使節の特権
……ヨーロッパの使節に対する日本的格式の不適当な応用
……旅行進捗の方途・駕寵・挿箱・荷馬・荷牛・駕寵かき
……荷物運搬入についての記述
……郵便制度・運搬人および馬に対する価格の公定
……郵便および飛脚便
……狼煙打上げ式信号
……旅館および宿舎
……浴場
……茶屋など
……国境の警備
……橋
……航海および航海術・造船・造船所・港
……河の舟行
……運河
……堤防   

……※日本人との深い理解・公使の不機嫌(抜粋)
 私が公使ドゥ・スチュルレル大佐から期待したものは、そんなものではなかった。
私は悲しい思いでそのことを告白せざるをえないのであるが、この男はジャワにおいては私の使命に対してたいへん同情をよせ、非常な熱の入れ方で援助を借しまなかったのに、今この日本に来てしまってからは、みずから私の企てに関連していたすべてのことに対して、ただ無関心であったり冷淡であったばかりでなく、無遠慮にも妨害を続けて頓挫させ、困難におとしいれようとさえしたのである。このような不機嫌の原因は何にあったのか。
 政庁の指示によって私の活動範囲が拡大され、私の学問研究にこれまで以上の自主性が重んじられたことによって、よしんぱ彼自身の計画に齟齬(そご)を来たさなかったにせよ、おそらく彼の利害関係を損ったことに、その原因があったのか。
あるいは貿易改善のために彼が行なった提案に対して、政庁があまり都合のよくない決定を下し、それがもとで不満もつのり、それに病弱も加わって、こうした変化をひき起こしたのかどうか、私には判断を下すことができない。しかしいずれにせよ、彼が最初に日本研究のための私の使命と準備とに対して寄せていた功績は、何といっても忘れることができないのである。そして、私は感謝の念をこめてそれを認めるのにやぶさかではない。
(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p7)

……※和蘭使節の一行(抜粋)
 先例によると、江戸旅行のわれわれ側の人員は、公使となる商館長と書記と医師のわずか3人ということがわかっていた。私はできることならビュルガー氏とドウ・フィレネーフエ氏を同伴したかったのであるが、今度はとても無理であった。そこでいろいろ面倒な手だてを重ねて、やっとピュルガー氏を書記の肩書で連れていくことが許されるようになった。日本人随員の身分についてはなお若干の所見を加えさせていただきたい。
(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p8)

……※日本の通詞およびその他の従者の描写(抜粋)

 (大通詞)
 本来の日本人は外国人との交渉もなく、自国の風習に応じてしつけられ教育されているので……出島でわれわれと交際しているこのような日本人と通詞とが話題にのぼる場合には、こういう相違にいつも留意しなければならない。
 この旅行で重要な役割を演じ、現金の出納を担当し、給人と連帯して政治・外交の業務を行なう大通詞として末永甚左衛門がわれわれに同行した。60歳に近く、立派な教養といくらかの学問的知識をもっていた。彼はオランダ人との貿易には経験も多く、さらに貿易にかこつけて巧みにそれを利用した。
日本流の事務処理にすぐれた能力があり、賢明で悪知恵もあった。また同時に追従に近いほど頭も低く、洗練された外貌をもち非常に親切でもあった。そのうえ物惜しみはしないが倹約家で、不遜という程ではないが自信家であった。甚左衛門は、出島にいる大部分の同僚と同じように、少年時代に通詞の生活にはいり、オランダの習慣に馴れていて、通詞式のオランダ語を上手に話したり書いたりした。フォン・レザノフおよびフォン・クルーゼンシュテルンの率いるロシアの使節が来た時(1804~05年)に、特にペリュー卿の事件(1890年)の際に、彼は幕府のためにたいん役に立ったので、長崎奉行の信望もあつく、恵まれた家庭的な境遇のうちに暮らしていた。
彼は小柄で痩せていたし、少し曲がった鼻と異状な大きさの眼をし、顎(あご)は尖っていた。非常に真面目な話をする時に、彼の口は歪んで微笑しているような表情となり、普段はそういう微笑でわざとらしい親愛の情をあらわすので、鋭い輪郭をした彼の顔は、なおいっそう人目をひき、目立つのである。彼の顔色は黄色い上に土色をおびていた。剃った頭のてっぺんは禿げて光り、うえに上を向いた薄い髷(まげ)がかたく油でかためて乗っていた。

(小通詞)
 小通詞は岩瀬弥十郎といった。彼は60歳を少々越していて、体格やら身のこなし方など多くの点でわれわれの甚左衛門に似ていた。ひどいわし鼻で、両その方の眼瞼(まぶた)はたるみ顎は長く、口は左の笑筋が麻痺していたので、いつもゆがんで笑っているように見えた。大きな耳と喉頭の肥大は彼の顔つきを特徴づけていた。彼は自分の職務に通じていて精励し、旧いしきたりを固くまもった。彼は卑屈なくらい礼儀正しく、同時に賢明だったが、ずるささえ感じられた。しかしそれを彼は正直な外貌でつつんでいたし、また非常にていねいなお辞儀をし、親切で愛想もよく、駆け足と言ってよいぐらいに速く歩いた。
 彼の息子の岩瀬弥七郎はたいそう父親似であった。ただ父は病気と年齢のせいで弱かったのに対し、息子の方は気力に欠けた若者だった点が違っていた。そうはいうものの噂では彼は善良な人間で、お辞儀をすることにかけてはほとんど父に劣らず、何事によらず「ヘイヘイ」と答えた。彼は世情に通じていたし、女性を軽視しなかった。女性だちといっしょにいるとき、彼はいつでもおもしろい思いつきをもっていた。またわれわれに対してはたいへん親切で日常生活では重宝がられた。彼は今度は父の仕事を手伝うために、父の費用で旅行した。

 (公使=商館長の「私設通詞」)
 公使の私的な通訳として、野村八太郎とあるが、NAMURA(名村)の誤り〕とかいう人がわれわれに随行した。当時われわれと接していた日本人のうちで、もっとも才能に恵まれ練達した人のひとりであったことは確かである。彼は母国語のみならず支那語やオランダ語に造詣が深く、日本とその制度・風俗習慣にも明るく、たいへん話好きで、そのうえ朗らかだった。彼の父は大通詞だったが、退職していた。だから、父が存命していて国から給料をもらっている間は、息子の方は無給で勤めなければならなかったし、そのうえ息子八太郎は相当な道楽者だったから、少しでも多くの収入が必要だったのに、実際にはわずかしかなかった。信用は少なく、借金は多かった。二、三のオランダの役人と組んで投機をやり、いくばくかの生計の資を得ていた。彼自身はお金の値打ちを知らなかったが、お金のためにはなんでもやった。われわれの間で彼を雇ってやると、たいそう満足したし、それで利益があると思えば、いつもどんな仕事でもやってのけた。彼は痩せていて大きな体格をしていた。幅の広い円い顔にはアバタがいっぱいあったし、鼻はつぶれたような格好をしていたし、顎は病的に短く、大きな口の上唇はそり返り、そこから出歯が飛び出して、彼の顔の醜さには非の打ちどころがなかった。

 (付添検使=御番上使=給人)
 日本人の同伴者のうちで最も身分の高い人物は給人で、御番上使とも呼ばれ、出島ではオッペルバンジョーストという名で知られていた。彼の支配下に三人の下級武士がいて、そのうちのひとりはオランダ船が長崎湾に停泊している時には見張りに当たるので、船番と呼ばれていた。それからふたりの町使で、これは元来わが方の警察官の業務を行なう。船番の方は出島では、普通オンデルバンジョーストは「下級」の意〕と呼ばれ、町使の方は出島の住人にはバンジョーストという名でと名づている。長崎奉行の下には通常一〇名の給人がいる。大部分は江戸から来ている警察官〔役人のこと〕で、公務を執行している。彼らは国から給料を受けていない。彼らが役所からもらっている給金はごくわずかだが、彼らが……合法と非合法とによって受けとる副収入はなおいっそう多かった。貿易の期間中、彼らは出島で交替に役目についた。彼らは重要な業務において奉行の代理をつとめるから、貿易並びにわれわれ個人の自由に対し多大の影響を与えた。輸出入に関しては彼らはわれわれの国の税関吏と同様に全権を委ねられ、従って密貿易の鍵を手中におさめていた。そういうわけだから、彼らは奉行所の書記や町年寄の了解のもとで、密輸に少なからず手加減を加えた。
長崎奉行のこういう役人のひとりが例の給人で、今度の旅行でわれわれに随行することになっていた。役所は彼に厳命を下し、その実行に責任をもたせ、彼に日記をつけさせ、旅行が終わったとき提出させた。われわれに同行するそのほかの武士や通詞たちも、互いに監視し合う目的で日記帳を用意しておく責任があった。
それゆえ彼らは手本として、また旧習を重んずる意味で以前の参府旅行の日記を携えてゆき、疑わしい場合にはそれを参考にして解明していくのである。我々は我々と行をともにする給人一名をカワサキ・ゲンソウ(Kawasaki GenzO)といった……を賢明で勇気ある男として知り合っていた。
 彼の部下たちは彼を手本として行動した。上述の通詞や武士たちのほかに、四人の筆者と二人の宰領・荷物運搬人夫の監督一人・役所の小使7人・われわれのための料理人2人・日本の役人の仕事をする小者31人と料理人1人、従って随員は日本人合計57名であった。

 (従者)
 われわれの従者は誠実で信用のおける人々であった。彼らは若いころから出島に出仕していた。彼らのうちで年輩のものは、かつて上司の指揮のもとでこういう旅行に加わった経験があって、旅行中すばらしく気転がきき、職務上や礼儀作法にかかわるいっさいに通じていた。また彼らは、わかりやすいオランダ語を話したり書いたりした。

 (シーボルトの「私設従者」など)
 私の研究調査を援助してもらうために、私はなお2、3の人物を遮れて行った。彼らのうち一番初めには高良斎(注・阿波出身の医師、「鳴滝塾」出身)をあげるが、彼はこの2年来私のもっとも熱心な門人に数えられていたひとで、四国の阿波出身の若い医師であり、特に眼科の研究に熱心であった。けれども私か彼をえらぶ決心をしたのは、日本の植物学に対するかれの深くかつ広範な知識と、漢学に造詣が深くオランダ語が巧みであったこと、さらにまた彼が信頼に値し誠実であったからである。彼は私によく仕えた。私が多くの重要なレポートを得たのは、彼のおかげであるといわざるをえない。
画家としては登与助(注・「川原慶賀」)か私に随行した。彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は私の著作の中で彼の功績が真実であることを物っている。
 乾譜標本や獣皮の作製などの仕事は弁之助とコマキ〔これは熊吉の誤り〕にやらせた。私の召使のうちのふたりで、こういう仕事をよく教えこんでおいたのである。
これらの人々のほかにひとりの園丁と三人の私の門人が供に加わった。それは医師の敬作(注・「二宮敬作」=宇和島の医師、「鳴滝塾」出身)・ショウゲン(注・宗氏の家臣の古川将監?・「鳴滝塾」出身?)・ケイタロウ(通詞の西慶太郎?・「鳴滝塾」出身?=後に長崎医学校の教官)の三人で、彼らは助手として私に同行する許可がえられなかったので、上に述べた通訳たちの従者という名目で旅行に加わった。彼らは貧乏だったので、私は彼らの勤めぶりに応じて援助してやった。私は2、3人の猟師を長綺の近郊でひそかに使っていたので、できれば連れて行きたかったのだが、狩猟はわれわれの旅行中かたく禁じられていた。≫(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p12)  】
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その二十七) [川原慶賀の世界]

(その二十七)「シーボルトの三部作/『日本』/『日本動物史』/『日本植物史』」と「川原慶賀の『人物・道具・植物・動物』図譜」周辺

シーボルト『日本』.png

SIEBOLD, P. F. von Nippon 3 Bde. Leyden, 1852.
シーボルト『日本』
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/ger31.htm

『ドイツの医者・博物学者として有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)は、バイエルンのヴュルツブルクに生まれ、1820年に同地の大学を卒業して博士の称号を得た。 1822年、オランダ東インド会社の衛生官となり、翌1823(文政6)年に長崎出島商館の医師として来日。 到着後、日本の医学と博物学の研究を始めると共に日本人の診察もおこない、有名な鳴滝塾を設けて多くの日本人を教えた。
 1826(文政9)年、商館長に従って江戸に参府したが、その道中多くの医者や本草(薬学)学者に会い知見を広めた。 1828(文政11)年の帰国にあたり、我が国の国禁を犯して高橋景保より受け取った地図などを携行しようとしたことが発覚し(所謂シーボルト事件)、翌年日本を追放されて本国に帰った。 しかし、1859(安政6)年に再び来日して、1861(文久元)年には徳川幕府の外交顧問となったが、翌年ドイツに戻りミュンヒェンで没した。
 本書は1852年に出版されたドイツ語版の初版本で、テキスト1冊、図版集2冊よりなっている。 テキストの内容は7編に分けられ、1編には日本の数理及び自然地理、2編には国民と国家、3編には神話・歴史、4編には芸術と学問、5編には宗教、6編には農業・工業及び商業、7編には日本の隣国及び保護領に関しての記述がなされている。
 なお、高橋景保が寄贈した精密な日本図(伊能忠敬実測)や北海道図を折込み、地形断面図や江戸・京都のパノラマ式スケッチを掲載しているなど、当時としては優れた地誌的著作ということができる。』(「京都外国語大学・図書館」)

シーボルト編 『日本動物史』 全5巻.png

SIEBOLD, Philipp Franz von  Fauna Japonica 5 vols. Leiden, 1833-1850.
シーボルト編 『日本動物史』 全5巻
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/france17.htm

『本書の副題にもあるように、シーボルトがバタビア総督の命令を受けて在日期間中に動物を対象とした資料を収集し、ラテン語とフランス語による注記とスケッチで著したものである。全五巻からなり、「哺乳動物」、「鳥類」、「爬虫類」、「魚類」、「甲殻類」の五篇に別れ、各巻共に大型の図版を伴っている。それぞれの巻を作るにあたって、シーボルトの指揮のもとライデン博物館のコンラート・ヤコブ・テミンク他二名の専門家が分類と編纂にあたった。』(「京都外国語大学・図書館」)

シーボルト編 『日本植物史』 全2巻.png

SIEBOLD, Philipp Franz von  Flora Japonica 2 vols. Leiden, 1835-1870.
シーボルト編 『日本植物史』 全2巻
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/france18.htm

『本書もシーボルトが日本で採集し、スケッチした植物を図版化しラテン語とフランス語で解説を加えた大著である。全二冊からなり、ミュンヘン大学教授のヨーゼフ・ツッカリーニが編纂に加わっている。第一巻は観葉植物と有用植物からなり、第二巻は花木や常緑樹や針葉樹が収められ、この二つの巻を通して百五十の図版が収められている。なお、シーボルトが編纂の途中で死去したことから、ライデン国立植物園長のフリードリッヒ・ミクエルという人物が事業を引き継ぐなど、刊行計画が変更された。』(「京都外国語大学・図書館」)

 ここで、上記の「シーボルト『日本』」の周辺に関しては、下記のアドレスなどで触れてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-01

 そして、その「シーボルト『日本植物史』/『日本動物史』」の周辺に関連しては、下記のアドレスで、次の図などを紹介してきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-14

(再掲)

【 (その八)「川原慶賀の動植物画」(シーボルト・フイッセル:コレクション)周辺

川原慶賀の植物画.png

上図(左から「ムクゲ」「クチナシ」「ナノハナ」「カキツバタ」「スイカ」)
下図(左から「タンポポ」「フクジュソウ」「ケシ」「キリ」「サツキ」)
川原慶賀筆 ライデン国立民族学博物館

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=762&cfcid=115&search_div=kglist

●作品名:ムクゲ ●学名/Scientific name:Hibiscus syriacus
●分類/classification:植物/Plants>アオイ科/Malvaceae

●作品名:クチナシ ●Title:Common Gardenia
●学名/Scientific name:Gardenia augusta
●分類/classification:植物/Plants>アカネ科/Rubiaceae

●作品名:ナノハナ ●Title:Rapeseed
●学名/Scientific name:B.rapa var.nippo-oleifera
●分類/classification:植物/Plants>アブラナ科/Brassicaceae

●作品名:カキツバタ ●学名/Scientific name:Iris laevigata
●分類/classification:植物/Plants>アヤメ科/Iridaceae

●作品名:スイカ ●Title:Water melon
●学名/Scientific name:Citrullus lanatu
●分類/classification:植物/Plants>ウリ科/Cucurbitaceae

●作品名:タンポポ ●Title:Dandelion
●学名/Scientific name:Taraxacum
●分類/classification:植物/Plants>キク科/Asteraceae

●作品名:フクジュソウ ●Title:Far East Amur adonis
●学名/Scientific name:Adonis amurensis
●分類/classification:植物/Plants>キンポウゲ科/Ranunculaceae

●作品名:ケシ ●Title:Opium poppy
●学名/Scientific name:Papaver somniferum
●分類/classification:植物/Plants>ケシ科/Papaveraceae

●作品名:キリ ●Title:Empress Tree, Princess Tree, Foxglove Tree
●学名/Scientific name:Paulownia tomentosa
●分類/classification:植物/Plants>ゴマノハグサ科/Scrophulariaceae

●作品名:サツキ ●学名/Scientific name:Rhododendron indicum
●分類/classification:植物/Plants>ツツジ科/Ericaceae

 これらの「植物図譜」に関して、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』では、次のように解説している。
≪ 慶賀の植物図は5冊のアルバムに収められ、全部で340種を数えることができる。直接的には『日本植物誌』に用いられていないが、シーボルトを満足させた慶賀の植物観察図の力量をうかがうことができる。≫(『同書(主要作品解説)』)

川原慶賀の動物画.png

上図(魚介)(左から「クジラ」「ニホンアシカ」「サケ」「ギンサメ」)
中図(魚介・鳥類)(左から「モクズガニ」「カメ」「ライチョウ」「ミヤコドリ」)
下図(動物)「左から「ウマ」「ウシ」「イヌ」「ネコ」「サル」)

●作品名:クジラ ●Title:Whale
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>クジラ目/Cetacea

●作品名:ニホンアシカ●Title:Japanese Sea Lion
●学名/Scientific name:Zalophus californianus japonicus
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>アシカ科/Otariidae

●作品名:サケ ●Title:Impossibe to identify species or genus
●分類/classification:魚類/Animals, Fishes>サケ目/Cetacea

●作品名:モクズガニ ●学名/Scientific name:Eriocheir japonicus
●学名(シーボルト命名)/Scientific name(by von Siebold):Grapsus (Eriocheir)
●分類/classification:節足動物/Animals, Arthropods>エビ目/Decapoda

●作品名:カメ(イシガメ)、クサガメ ●学名/Scientific name:Chinemys reevesii
●分類/classification:は虫類/Animals, Reptiles>イシガメ科/Geoemydidae

●作品名:ライチョウ ●Title:Ptarmigan
●学名/Scientific name:Lagopus mutus
●分類/classification:鳥類/Animal,Birds>キジ目/Galliformes

●作品名:阿州産 ミヤコドリ ●Title:Eurasian Oystercatcher
●学名/Scientific name:Haematopus ostralegus
●分類/classification:鳥類/Animal,Birds>チドリ目/Charadriiformes

●作品名:オウマ ●Title:Horse
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>ウマ科/Equidae

●作品名:オウシ ●Title:Bull
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>ウシ科/Bovidae

●作品名:オイヌ ●Title:Male dog
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>イヌ科/Canidae

●作品名:オネコ ●Title:Male cat
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>ネコ科/Felidae

●作品名:サル ●Title:Monkey
●分類/classification:動物、ほ乳類/Animals, Mammals>オナガザル科/Cercopithecidae

≪ 「魚介」
 魚の図は、2冊のアルバムと1枚の紙片に四種類に描かれたものが23枚所蔵されている。このような魚図の大部分は同じライデンの国立自然科学博物館の所蔵に帰しており、これらの図の一部はすでに『シーボルトと日本動物誌』(L.B.Holthuis ・酒井恒共著、1970年、学術出版刊)で紹介されている。これらの図がいかなる事情でしかも慶賀の手で描かれたかについては、シーボルトが日本を去るにあたって、彼の助手ビュルガー(ビュルゲル)に与えた指示(『前掲書301頁)によって分かる。その手紙の文面はシーボルトが慶賀の写実力をいかに高く評価していたかを証しするものであり、本展出品の諸図(上記が一例))もその一端を示すものである。なお、魚名を墨で仮名書きした和紙が各図に貼付されているが、これも慶賀自身の手になるものと推定されている。(兼重護) ≫(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

≪ 「鳥」
 鳥の図はすべてフイッセル・コレクションに属している。絹(紙? 27.5t×42㎝)に描かれ、慶賀の朱印が押されている。鳥類は、鑑賞的傾向が強く、いわゆる花鳥画的趣を呈している。鳥籠の中の鳥図が5点含まれているが、これらは細かい線と入念な彩色により、写実的に写しており、これらが実物の観察に基づいて描かれたであろうことを示している。≫(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

≪ 「動物図譜」
 C&I Honicの透かしのあるオランダ製(ホーニック社製)の紙に著色したもの、横約110㎝、縦約64㎝ の大きな紙も二つ折にして両面(すなわち4頁分)に各頁6頭の動物を描いている(総頭48頭)、日本語めの獣名は貼りこんでものと書きこんだものと両用あるが、ローマ字は全て書きこみで、Oeso(ウソ)、Moesina(ムジナ)など表記されている。≫
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「主要作品解説」)』) 】

 ここで、「シーボルト・川原慶賀」関連年表も、下記に再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-11

(再掲)

≪「シーボルト・川原慶賀」関連年表 

https://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/828000/p009222.html
(「川原慶賀」関連=「ウィキペディア」)

※1786年(天明6)川原慶賀生まれる(長崎の今下町=現・長崎市築町)。
1796年(寛政8)2月17日、シーボルト、ドイツのヴュルツブルクに生まれる
※1811年(文化8)川原慶賀当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。
1820年(文政3)シーボルト、ヴュルツブ、ルク大学を卒業(24歳)
1822年(文政5)シーボルト、オランダの陸軍外科少佐になる(26歳)

1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳)
※慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く。
1824年(文政7)シーボルト、「鳴滝塾」をひらく(28歳)
1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳)
※慶賀はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く。
1827年(文政10)シーボルト、娘いね生まれる(31歳)
1828年(文政11)「シーボルト事件」おこる(32歳)
※シーボルト事件に際しては多数の絵図を提供した慶賀も長崎奉行所で取り調べられ、叱責される。
1829年(文政12)シーボルト国外追放になる(33歳)
※シーボルトの後任のハインリヒ・ビュルゲルの指示を受け、同様の動植物画、写生図を描く。

1832年(天保3)シーボルト、「日本」刊行はじまる(36歳)
1833年(天保4)シーボルト、「日本動物誌」刊行はじまる(37歳)
1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる(39歳)
※1836(天保7)『慶賀写真草』という植物図譜を著す。
※1842(天保13)オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れた。これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受ける。
※1846(弘化3)長崎を追放されていた慶賀は、長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである脇岬(現・長崎市脇岬町)に向かい、脇岬観音寺に残る天井絵150枚のうち5枚に慶賀の落款があり、50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる。また、この頃から別姓「田口」を使い始める。その後の消息はほとんど不明で、正確な没年や墓も判っていない。ただし嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画が残っていること、出島の日常風景を描いた唐蘭館図(出島蘭館絵巻とも)は開国後に描かれていること、慶賀の落款がある万延元年(1860年)作と推定される絵が残っていることなどから少なくとも75歳までは生きたとされている。一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)。
1859年(安政6)シーボルト再び長崎に来る(63歳)
1861年(文久元)シーボルト、幕府から江戸に招かれる(65歳)
1862年(文久2)シーボルト、日本をはなれる(66歳)
1866年(慶応2)10月18日、シーボルト、ドイツのミュンヘンで亡くなる(70歳≫

 この「シーボルト・川原慶賀」関連年表から、「1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳) ※慶賀(37歳?)は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く」のとおり、この二人の出会いは、「1823年(文政6)」に遡る。そして、そのスタートは、「精細な動植物の写生図」、特に、「植物画の写生図」を、シーボルトが、一介の、長崎の町絵師「川原(別姓・田口)登与助(通称)」に描かせたことに始まる。
 これらのことに関連して、下記のアドレスでは、この二人の関係を、次のように指摘している。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index1.html

【 (抜粋)

◆シーボルトが見た日本画家・慶賀
 シーボルトは渡来当初から将来『日本植物誌』の出版する際に、慶賀の植物画を中心に活用しようと膨大な量の絵を描かせていたという。文政9年(1826)の2月から7月にかけての江戸参府においても慶賀はシーボルトの従者のひとりとして参加し、旅先の各地での風景や風物を写生した。慶賀はシーボルトの目に映るものを直ちに紙に写し取り、いわばカメラの役割を果たした。当時の文化、風俗、習慣、自然。特に慶賀の描写した植物画は彩色も巧妙でシーボルトを満足させていたという。実際にシーボルトは慶賀に対する評価を『江戸参府紀行』に次のように記している。
《……彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は、私の著作の中で、彼の功績が真実であることを物語っている……》

◆シーボルトが慶賀に与えた目覚め
 慶賀が残した膨大な量の作品は、その内容、作品に熱意からして、単に雇われ絵師が義務的にこなした仕事とは思えないものだという。そこまで、自然物の写生を徹底した科学的態度によっておこなうことになったのは、やはりシーボルトという偉大な存在と出逢ったためだろう。なかでも、シーボルトに同行した江戸参府の経験は大きい。おそらく、道中においてシーボルトの精力的な研究ぶり、また江戸滞在中にシーボルトを訪れた日本人学者達のシーボルトに対する尊敬ぶりと貪欲なまでの知識欲などを目の当たりにして、慶賀の眼ももっと広い世界へと開かれたものと思われている。シーボルトへの尊敬の念が慶賀に新たな意欲をかきたたせ、自分の使命はシーボルトに与えられた自然物をいかにその通りに描くか、ということにあると自覚し、しかも単に外観をそのまま写すのではなく、そのものの学問上の価値を知って描くことが自分に課せられた任務だと気づいたのだろう。『シーボルトと日本動物誌』においてはじめて公刊された慶賀の甲殻類の図53枚は、大部分が原寸で描かれているという。そして、そのほとんどの図版に種名やその他の書き込みが慶賀によってなされているというのだ。彼が単に図を描くだけでなく、日本名の調査や記入にもあたっていたということは、慶賀自身がシーボルト同様に西洋的科学研究に参加しているという意識を持って仕事をしていたということなのだ。やはりシーボルトとの出逢いと指導が慶賀を大きく成長させたということだろう。

◆慶賀とシーボルトの信頼関係
 (前ページで紹介したように)、慶賀は江戸参府の際に長崎奉行所から命じられていた“シーボルトの監視不十分”の罪で入牢している。慶賀は、シーボルトを密かに監視するようなことをしなかったのだ。シーボルトへの尊敬の念、また、シーボルトから自分に向けられた役割と期待。シーボルトと慶賀の間には、雇い主と雇われ絵師という関係以上の感情がいつしか芽生え、心の交流がなされていたのだろう。シーボルトは帰国後も日本に残った助手ビュルゲルと連絡をとり、標本、図版類を送らせていた。ビュルゲルによって送られた図版は、慶賀によるもの。慶賀は、シーボルト帰国後から長崎払いの処罰を受けるまでの約10年間、出島出入絵師として働いていたと考えられているが、ビュルゲルはシーボルト帰国後3年間、日本にとどまっていることから、慶賀は少なくともその期間はシーボルトの仕事をしていたと思われる。その際、慶賀が描いた甲殻類の図(『シーボルトと日本動物誌』に掲載)から、実物通りの写生能力に関して、シーボルトは慶賀に絶対の信頼を置いていて、また、慶賀もその信頼を裏切るようなことをしなかったということがうかがえるのだ。 】(「長崎Webマガジン」所収「長崎の町絵師・川原慶賀」)

川原慶賀が、「一介の、長崎の町絵師『川原(別姓・田口)登与助(通称)』」から、「江戸時代末期の、長崎派の一角を占める『出島和蘭商館医・シーボルトのお抱え絵師』として、その「眼(まなこ)の絵師」に徹するのは、上記の「シーボルト・川原慶賀」関連年表の、「1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳) ※慶賀(40歳疑問)はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く」の、「シーボルトと川原慶賀」の、その「江戸参府」が、決定的な「節目の年」であったということになろう。
 そして、その「江戸時代末期の、長崎派の一角を占める『出島和蘭商館医・シーボルトのお抱え絵師』として、その「眼(まなこ)の絵師」に徹する」ということは、同時に、「川原慶賀の世界」というのは、「◆個性がない個性こそ慶賀の武器(「世界」)」(「長崎Webマガジン」所収「長崎の町絵師・川原慶賀」)ということになる。

(「人物画」)

作品名:皇后.jpg

●作品名:皇后 ●Title:Empress
●分類/classification:人物/Portraits

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/list/kglist.php?listNo=151

(「武器・武具図)

武器・武具.jpg

●作品名:武器・武具-13  ●Title:Arms
●分類/classification:道具・武器・武具/Tools

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/list/kglist.php?listNo=152

(「生業・道具図)

百姓の道具.jpg

●作品名:百姓の道具-1 ●Title:Farmer's tools
●分類/classification:生業と道具/Agriculture and Fishery, their tools

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/list/kglist.php?listNo=143

(「諸職・道具図)

大工道具.jpg

●作品名:大工道具-1 ●Title:Carpenter's tools
●分類/classification:諸職と道具/Craftsmen and tools

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/list/kglist.php?listNo=144

(絵師の道具)

絵師の道具.jpg

●作品名:絵師の道具 ●Title:Artist's tools
●分類/classification:諸職と道具/Craftsmen and tools

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1224&cfcid=144&search_div=kglist

(寺の道具)

寺の道具.jpg

●作品名:寺の道具 ●Title:Buddhist altar fittings
●分類/classification:道具/Tools 

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=90&cfcid=152&search_div=kglist




nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その二十六) [川原慶賀の世界]

(その二十六)「川原慶賀のアイヌ・朝鮮風俗図」周辺

「蝦夷(宗谷岬)アイヌとその住居」.jpg

NIPPON Ⅶ 第16図 「蝦夷(宗谷岬)アイヌとその住居」(下記の〔352〕)
≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

「蝦夷風俗図巻」.jpg

「蝦夷風俗図巻」(「ライデン国立民族学博物館」蔵)
≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

「ライデン民族学博物館所蔵のパノラマ(巻物)の複製」.jpg

「ライデン民族学博物館所蔵のパノラマ(巻物)の複製」(松前春里,※蝦夷風俗絵巻.1.妻を連れて熊狩りに行くアイヌ.2.二人のアイヌの男性と熊の穴の前で吠える犬)/(PL.VIII. Copiy of a panorama in the Ethn. Museum, Leiden.) ≪「日文研データベース」≫

https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/en/detail/?gid=GP008028&hid=3896&thumbp=

アイヌ人物図.jpg

左図:「※※アイヌ人物図(男)」川原慶賀画(「ライデン国立民族学博物館」蔵)
右図:「※※アイヌ人物図(男女)」川原慶賀画(「ライデン国立民族学博物館」蔵)
≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

【〔352〕「蝦夷(宗谷 岬) アイヌとその住居」は、宗谷岬のアイヌとその住居を描く。ライデン国立民族学博物館のシーボルト・コレクションに長さ16m・幅30㎝の『※蝦夷風俗図巻』の絵巻があり、後景の人物図が部分的に利用されている。『蝦夷風俗図巻』の作者は、蝦夷地松前在住の春里こと伊藤与昌。落款に「松前 春里画」とあり、「松前」は姓でなく、「松前の住人」という意味である。彼は「藤原」「与昌」「伊藤与昌」「鳳鳴与昌」などの印を用い、ときに「鳳鳴」と署名する。生没年を含め画歴など未詳である(4)。他に川原慶賀が模写したアイヌ人物図(※※)も組み込まれている。『NIPPON』の彩色については、細かい部分での違いはあるが、大きな違いはない。】≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

「蝦夷(松前)アイヌのオムシャ祭り」.jpg

[※353] NIPPON Ⅶ 第17図「蝦夷(松前)アイヌのオムシャ祭り」≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

アイヌの能まつり.jpg

●作品名:アイヌの能まつり ●Title:Aine worshipping a deified bear, Ainu
●分類/classification:蝦夷/Ezo, Hokkaidou
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館  National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=420&cfcid=156&search_div=kglist

【〔353〕「蝦夷(松前)アイヌのオムシャ祭り」は、祭壇に生贄(いけにえ)の熊を飾り、演舞している図であり、「イオマンテ」(熊祭り)である。タイトルに「オムシャ OMSIA」とあるが、誤りである。「オムシャ」は蝦夷地各場所で出先役人に対する拝謁礼のこと、松前藩主への謁見礼は「ウイマム」という。この原画はライデン国立民族学博物館にあり、「千嶋春里」の署名と「藤原」「与昌」の印があり、『蝦夷風俗図巻』と同一人物の作である。シーボルトは『NIPPON』の注記で、原画の入手経路について記している。

 松前の一日本人が描いたオムシャ祭りの絵を、われわれの友人ソシュロから手に入れ、Ⅶ第17図([※353])に模写した。蝦夷のアイヌ人はふつう、秋のある日にこの祭りをする。

「ソシュロ」とはオランダ通詞の馬場佐十郎であり、彼が文化9年(1812)に松前へ出向した際に入手したものである。同じ作者の『蝦夷風俗図巻』も馬場佐十郎を経由してシーボルトの手に渡ったと考えられる。シーボルトはこの画を川原慶賀に描き直させている。それはライデン国立民族学博物館に残っており、下部にあるタイトルにシーボルトの筆跡で「Omsia」と記されている。この時点で間違ったようである。彩色については、慶賀の画に比べて、ゴザの色合いが違うが、かなり忠実に彩色されていることがわかる。他所の『NIPPON』の彩色もほぼ同じである。】≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

「蝦夷(松前)アイヌが貢物や商品を運ぶ」.jpg

[354] NIPPON Ⅶ 第18図「蝦夷(松前)アイヌが貢物や商品を運ぶ」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)

【〔354〕「蝦夷(松前)アイヌが貢物や商品を運ぶ」は、「ウイマム」のために松前へやってきたアイヌが、後景にある船から仮設小屋に品物を運び込む図であり、原画は『蝦夷風俗図巻』のなかの一場面である。『NIPPON』の彩色は、小屋のなかの子供のイヤリングを赤色で塗る長崎歴史文化博物館本・慶応大学本と、そうないグループに分けられるが、大きな差はない。】(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)

「樺太 オロッコとスメレンクル」.jpg

[356] NIPPON Ⅶ 第20図「樺太 オロッコとスメレンクル」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)

【〔356〕「樺太 オロッコとスメレンクル」は、北カラフトに住むオロッコとスメレンクル(ギリヤーク)の風俗を、間宮林蔵の『北夷分界余話』の挿絵にもとづいて描いている。『NIPPON』によると、彼らはアイヌと異なり、言語も違うという。定住せずに群れをなして移動する彼らの習俗を描いたこの画の注記として、シーボルトは間宮林蔵のスケッチによったものだと明記している。前景のトナカイを引く2人がオロッコ人。トナカイは干した鮭と穀物、魚の皮製の覆いあるいは敷物を運んでいるという。後景の魚をもった男・揺り板に子供を乗せた婦人・獲物をもった漁師などはスメレンクル人であり、樺太のアイヌが建てるような夏の住居を遠景に描いているという。『北夷分界余話』全10巻を見ると、7・8巻にあるいくつかの挿絵を合体させていることがわかる。川原慶賀が描き直した画があったと思われるが、未だライデンでは見出していない。ただし、シーボルトが長崎奉行に提出した『樺太風俗図』のなかに、慶賀が描いた原画と見られるものが数点あるが、トナカイが描かれていなかったりしており、シーボルトは別の画を入手していたと考えられる。彩色についてはどの『NIPPON』もほぼ均質である。】(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)

「朝鮮 漁夫の一家」.jpg

「朝鮮 漁夫の一家」(「シーボルト『NIPPON』 図版編(「339・第2冊」)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/UniversalViewer/4000115100/4000115100100010/NIPPON_02#?cv=126&c=0&m=0&s=0&r=0&xywh=-449%2C-42%2C1896%2C838

シーボルトの未完の大著『NIPPON(日本)』の出版(第一分冊の出版)が開始されたのは、シーボルトがオランダに帰国してから七年後の1832年(天保三)、爾来、その十九年後の1851年(嘉永四)までに第二十分冊を刊行して中断し、1859年(安政六)、シーボルトは再来日したが、その完成を見ずに、1866年(慶応二)に、シーボルトは、その七十年の生涯を閉じることになる。
 そのシーボルトの没後も、その未完の草稿は、シーボルトの遺子(長男:アレクサンダー、次男:ハインリッヒ)が引き継ぎ、その共編で、その『NIPPON(日本)』の第二版の刊行を見たのは、1897年(明治三十)のことで、それは、次の雄松堂刊行の『日本』(全6巻・図録3巻の十巻構成)に引き継がれている。その各巻の構成のとおりとなる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-14

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

第1巻 第1編 日本の地理とその発見史
    第2編 日本への旅
第2巻 第3編 日本民族と国家
    第4編 1826年の江戸参府紀行⑴
第3巻 第4編 1826年の江戸参府紀行⑵
    第5編 日本の神話と歴史
第4巻 第6編 勾玉
    第7編 日本の度量衡と貨幣
    第8編 日本の宗教
    第9編 茶の栽培と製法
    第10編 日本の貿易と経済
第5巻 第11編 朝鮮
第6巻 第12編 蝦夷・千島・樺太および黒竜江地方
    第13編 琉球諸島
    付録
図録第1巻
図録第2巻
図録第3巻

 上記のとおり、そもそも、シーポルトが意図していた『NIPPON(日本)』というのは、その副題の、「日本とヨーロッパの文書および自己の観察による日本とその隣国、保護国―蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島―に関する記録集」で、この「第5巻・第11編 朝鮮」そして「第6巻・ 第12編・蝦夷・千島・樺太および黒竜江地方: 第13編・ 琉球諸島」というのは、今に続く、「朝鮮(竹島など)・露西亜(北方四島など)・中国(琉球諸島など)と、これらの、シーボルトの洞察した、「日本とヨーロッパの文書および自己の観察による日本とその隣国、保護国―蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島―に関する記録集」とは、その根っ子では、深く結ばれているということになる。

(参考一)シーボルト「日本」を読んでみた

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1903/index.html


(参考二)「シーボルド事件」(「事件の発端」「事件の露見」「関係者の取り調べと処分」「事件後」)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6

(参考三)間宮林蔵―「間宮海峡」の発見者で、シーボルト事件の摘発者

(抜粋)「間宮林蔵 日本人としては2番目に樺太が島であることを確認した。樺太地図を作成するが、測量知識が乏しく稚拙。 間宮林蔵の密告がきっかけでシーボルト事件が起こる。隠密。」

http://nippon.nation.jp/Naiyou/MAMIYA/index.htm

【 間宮林蔵による樺太最狭部の検分記録 夷分界余話巻之二 間宮林蔵/述 村上貞助/編 
 シラヌシを去る事凡百六、七十里なる西海岸にウヤクトウ(ワンライとノテトの中間)と称する処あり。是よりして奥地は海岸総て沙地にして、地図中に載するごとく、沼湖の多き事かぞへ得べきにあらず。 此辺より奥地は河水悉く急流のものなく、総て遅流にして濁水なり。其水悉く落葉の気味を存して、水味殊に悪し。 此辺よりして奥地海面総て平にして激浪なし。然れども其地、東韃の地方を隔る事其間僅に十里、七、八里、近き処に至ては二、三里なる迫処なれば、中流潮路ありて河水の鳴流するが如し。 迫処の内何れの処も減潮する事甚しく、其時に至ては海面凡一里の余陸地となり、其眺望の光景実に日本地の見ざる処にして、其色青黄なる水草一面に地上にしき、蒼箔として海水を見ず、其奇景図写すること難し。・・・ ・・・ シラヌシを去る事凡七十里許、西海岸にウショロと称する処あり、此処にして初て東縫地方の山を遠望す。其直径凡廿五、六里許、是より奥地漸々近く是を望み、ワゲー(ラヅカの北三里二五丁〈「里程記」による〉)よりボコベー〔地名〕(ワゲーの北三里二丁〈「里程記」〉)の間に至て、其間僅に一里半許を隔て是を望むと云。島夷東韃に趣く渡口七処あり。シラヌシを去る事凡百七十里許なる処にノテトと称する崎あり〔スメレングル夷称してテツカといふ〕、此処よりして東韃地方カムガタと称する処に渡海す。其問凡九里余を隔つといへども、海上穏にして大抵難事ある事なし。此処よりナッコに至る海路は潮候を熟察して舟を出ざれば至る事難し。前に云ごとく此辺減潮の時に至ては海上一里の余陸地となり、其陸地ならざる処も亦浅瀬多して舟をやるべからず。故に満潮の時といへども海岸に添ふて行事あたわず、能々潮時を考得て岸を去る事一里許にして舟をやると云。
 ノテトの次なる者をナッコといふ〔スメレソクル夷ラッカと称す〕。其間相去る事凡五里許、此処よりして東 カムガタに至るの海路僅に四里許を隔つ。其間大抵穏なりといへども、出崎なれば浪うけあらく、殊に減潮の候、上文のごとくにして、其時を得ざれば舟を出す事あたわず。魚類また無数にして糧を得るに乏しく、事々不便の地なれば、島夷大抵ノテトを以て渡海の処となす。然れども風順あしく又は秋末より海上怒濤多き時は、其海路の近きを便として、此崎より渡海すといふ。ナッコの次なる者をワゲーと称す。其相去る事凡六里許、通船の事亦ノテトよりナッコに至るが如く、能潮候を考得ざれば至る事あたわず。此処よりして東韃ヲッタカパーハと称する処に渡る。其海路稍に一里余許にして、海上穏なりといへども、迫処なれば中流潮路有て急河のごとく、風候に依りて逆浪舟を没する事ありと云。
 ワゲーの次なる者をボコベーと称す。此処よりして東韃ワシブニといふ処に渡海す。其海路亦僅に一里半許を隔て、中流潮路もまたワゲーの如し。ボコベーの次なる処をビロワカセイと称す。ボコベーを去る事凡四里許、此処よりして東鍵の地方に傍ひたる小興に添ふてワルゲーと称する処に渡る事ありといへども、海路凡十里許を隔、且潮時の候又波濾の激起ありて船路穏ならず。ワカセイの次なる処をイシラヲーといふ。其間相去る事凡十五、六里許、是よりして東韃地方ブイロに渡海す。船路凡四里余、中流の潮路殊に急激なるに、此処よりしては漸々北洋に向ひ、此島、韃地の間、里を追ふて相ひらく故に、波濤も激起する事多く、渡海類難なりと云。イシラヲーの次なる処をタムラヲーと云、イシラヲーを去ること凡五里許なるべし〔此処は林蔵が不至処なれば、其詳をしらず〕。此処より東韃地方ラガタなる処に渡る。海路凡八里余ありて、北海の波濤又激入すれば、猶イシラヲーよりブイロに至るが如く難事多しと云。是スメレンクル夷の演話する処なり。凡地勢を概論したらんには前の数条にしてつきぬ。他海底の浅深、泊湾の難易、詳載せずんばあるべからずといへども、共事の錯雑するが為に、此巻只其概論を出してやみぬ。後日沿海図説てふ者を編て其委曲を陳載すべしと云爾。(『東韃地方紀行』東洋文庫484(1988/5)平凡社 P18,P22~P25)  】
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その二十五) [川原慶賀の世界]

(その二十五)「川原慶賀の樺太風俗図」周辺

「樺太風俗図」全体.png

「樺太風俗図」筆者不詳/江戸時代・19世紀/1帙65枚/東京国立博物館蔵(「文化遺産オンライン」)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/430788

『樺太風俗図』の貼り紙.jpg

「樺太風俗図」(1?/65)=『樺太風俗図』の貼り紙→『東韃紀行』の挿絵の模写(川原慶賀画)【この「張り紙」には、『東韃紀行』とあるが、『北夷分界余話 巻之1~巻之8』 の挿絵の模写で、シーボルトが川原慶賀にその模写を依頼して描かせたもののようである。なお、「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)=後出。】
※「樺太風俗図」(1?/65)関連

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/430788

※『北夷分界余話 巻之1~巻之8』関連

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002130&ID=&NO=1&TYPE=large&DL_TYPE=pdf

樺太風俗図(15?65).jpg

樺太風俗図(15?/65)→「北夷分界余話 巻之3」(男夷?)

樺太風俗図(25?65).jpg

樺太風俗図(25?/65)→「北夷分界余話 巻之5」(海豹漁?)

樺太風俗図(34?65).jpg

樺太風俗図(34?/65)→「北夷分界余話 巻之6」(鍛冶?)

「樺太風俗図」(39?65).jpg

「樺太風俗図」(39?/65)→「北夷分界余話 巻之8」(女夷育子?)

樺太風俗図(59?65).jpg

樺太風俗図(59?/65)→「北夷分界余話 巻之8」(網漁?)

樺太風俗図(64?65).jpg

樺太風俗図(64?/65)→「北夷分界余話 巻之8」(児夷戯猟?)

「樺太風俗図」(65?65).jpg

「樺太風俗図」(65?/65)→「北夷分界余話 巻之5」(点火衝魚?)

これらの、いわゆる「シーボルト事件」で長崎奉行所に没収された資料の一つの「樺太風俗図(1帙65枚/東京国立博物館蔵)」(作者未詳とされているが「川原慶賀画=模写」)に関連して、「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)
で、下記のとおり詳細に紹介されている。

【蝦夷・樺太に関する『NIPPON』の本文は、間宮林蔵『東韃地方紀行』・『北夷分界余話』の翻訳である。シーボルトは本文の注記で次のように記している。

 彼(間宮林蔵)は『東韃紀行』(To-tats ki ko)すなわち東部タタリア地方への旅として書きしるし、旅した土地に関して多くの写生や地図を付し、その写本を江戸の幕府文庫に収めた。ヨーロッパの航海家もほとんど訪れたことのない樺太島やあまり知られていない黒竜江地方の土地や住民についての貴重な情報が、われわれの1826年江戸滞在のおり、幕府お抱えの天文学者高橋作左衛門によって知らされ、その後、われわれの日本の友人J.Ts〔吉雄忠次郎〕の仲介でその写本を手に入れることができた。しかし残念なことに、1829年の幕府による取調べの際、われわれに連座する日本の友人を救うために、この写本と付録の写生画を長崎奉行に渡すはめになった。幸いにも、当地の学者J.Tsのはからいで、写本の翻訳書と写生画の数枚は手放さずにすんだ。これらは、われわれの『NIPPON』に若干の写生画と注釈を付して解説する。

『北夷分界余話』は文化5年7月~8月、間宮林蔵・松田伝十郎による第1次樺太調査の記録であり、アイヌ・スメレンクルなどの習俗を記述する。『東韃地方紀行』は、間宮林蔵が文化6年(1809)1月から8月末におよぶ第2次樺太・山旦(黒竜江下流地方)調査記録であり、樺太半島説を排し、サハリンと樺太が同一であることを指摘したものである。流布本が『東韃紀行』として知られる。この両書は、文化7年に間宮林蔵が口述した内容を松前奉行配下の村上貞助が筆録したもので、翌8年に浄書して幕府に献上した。シーボルトも「幕府文庫」にあると述べており、現在は国立公文書館に所蔵されている(ともに重要文化財)。

 シーボルトは上の注記のなかで『東韃紀行』と記しているが、『NIPPON』には『東韃地方紀行』・『北夷分界余話』の両書が翻訳され、挿絵は『北夷分界余話』から採用されている。彼は、天文方兼御書物奉行の高橋作左衛門(景保)の案内で、「幕府文庫」の「紅葉山(もみじやま)文庫」を密かに訪れたとき、伊能忠敬の日本図の他にこれらの写本も要求したのである。写本を作成したのは、高橋とシーボルトの間の通訳を務め、天文方の翻訳方であった吉雄忠次郎であった。
 間宮の報告書は吉雄が翻訳を担当したが、写生図は彼でなく、川原慶賀が作成している。
上の注記にある長崎奉行に提出したという写生図は、現在、東京国立博物館に所蔵されている。それは『樺太風俗図』と題され、縦約35㎝×横約43.5㎝のオランダ紙に彩色された65枚の絵が収められている。表紙内側の貼り紙には、長崎でシーボルトから取り上げたことが記されている。慶賀は、文政9年、シーボルトとともに参府しており、シーボルトが高橋景保や最上徳内らと会う際に同席して細部にわたる描写や風俗について説明を受けたと考えられている。慶賀が描いた65枚のアイヌ習俗画は幕府へ差し出されたが、いくつかはシーボルトの手許に残っており『NIPPON』に掲載された。現在、その一部はライデン国立民族学博物館に残る。】(「The Study of Comparing Color Prints in iebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)/p46-47) 

(参考一)「北夷分界余話」周辺

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0400000000/0403030000/00


「北夷分界余話」(挿絵四図).png

「北夷分界余話」(挿絵四図)(「国立公文書館デジタルアーカイブ」)
【間宮林蔵(1775-1844)は,幕府の命により文化5、6年(1808、9)にかけて、樺太の西岸を北上し、樺太が島であることを発見する(間宮海峡の発見)とともに、黒竜江下流地域の東韃(とうだつ)地方まで調査を行いました。本書は林蔵の樺太探検について口述したものを村上貞助(1780-1846)が編集・筆録したものです。 文化7年(1810)の成立で、翌8年に幕府に献上しました。本書は、同じ間宮林蔵の樺太探検について記した「東韃地方紀行」(とうだつちほうきこう)(3帖)、「北蝦夷島地図」(きたえぞとうちず)(7鋪1帖)ともに、「間宮林蔵北蝦夷等見分関係記録」(全14帖7鋪)として、平成3年国の重要文化財に指定されています。】(「国立公文書館デジタルアーカイブ」)

(参考二)「シーボルド事件」で押収された「シーボルト関連の絵図」など

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-07

(再掲)

【 「シーボルトの所持品捜査押収(原文:内閣文庫文政雑記より翻刻→翻刻省略、一部抜粋)」

http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_siebold_main.html

文政十一年戌子 →文政11年
十一月十日出島隠密御用手続左之通→11月10日出島の穏密捜査手続(1828年)
        本多佐渡守様御家来    
         御用人   伊藤半右衛門
         目安方   遠藤  兵蔵
                古沢 内蔵助
               矢野 兵大夫
               御役小付両組
                 弐拾人
            右手付探番 小役
右之通十日正六時御役所江相揃、御内密御用之次第承り
右人数手分追々出島江繰入、加比丹部屋ニ而外科阿蘭
陀人シーボルト呼出、左之通被仰渡 →シーボルトを呼出し以下申渡す
          阿蘭陀人
              かひたん江  → 商館長へ
          阿蘭陀人
              シーホルト  → シーボルトへ 
右之者儀江府拝礼罷出候節、高橋作左衛門江度々致面会
日本地図并蝦夷地之図、其外相頼同人より差送候旨
此度於江府作左衛門御詮義ニ相成居候、依之シーホルト
所持之品者荷物ニ至迠致封印置、其方共立会之上封解明
相改、御制禁之品々取上ケ、其余之品ハ無構相渡遣ス、
其旨相心得、正路ニ改を受候様可申渡候
   子十一月            →文政11年11月
右御書付之趣通詞致和解、かひたん江申渡、シーホルト
義一通り御詮義中、同人留守部屋江出役致手分罷越、
所持之手道具并荷物ニ至迄封を付置、出役一同かひたん
召連シーホルト部屋御改ニ相成候所、改出相成候品々
左之通御取上御役所江持帰候事        → 押収品は下記の通り
    一 分間江戸絵図       完
    一 新増細見京絵図      全
    一 琉球国地図        壱枚
    一 絵            壱枚
    一 江戸名所絵        壱枚
    一 装束図式         弐冊
    一 朝鮮国図         壱枚
    一 天象儀象候儀       壱冊
    一 浪華以儀麻道撰      壱枚
    一 凡例           壱枚
    一 大日本細見指掌全図    上紙
    一 脇差           壱腰
    一 刀            壱腰
    一 丸鏡           壱面
    一 書物           壱巻
    一 長崎入口之図       壱冊
    一 絵図           九枚
    一 公家之図         壱枚
    一 古銭           七色
    一 桶狭間合戦略記      壱冊
    一 同古跡記         壱枚
    一 無間鐘由来記録      壱冊
    一 中山刃雉子        壱冊
    一 夜泣石敵討        壱冊
    〆
右之品々シーホルト部屋江有之御制禁之品々ニ而御取
上ケ相成、右之外シーホルト大蔵二軒封ヲ付いまだ御改
ハ無御座候、此内ニ具足・鎗抔も有之様風聞候得共全く
推量之儀共ニ候哉と奉存候   】
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その二十四) [川原慶賀の世界]

(その二十四)「川原慶賀の唐蘭館絵巻(蘭館図)」周辺

唐蘭館絵巻(蘭館図)蘭船入港図.jpg

「唐蘭館絵巻(蘭館図)・一 蘭船入港図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.5×35.2㎝
『(全体:一~十) 紙本 着彩 巻装 27.5×515.5㎝ 一図ごとに黒線で枠取りした枠内に独立的に『一~十図』が描かれている。この『一 蘭船入港図』は、そのトップで、屋上の展望台の上で商館長らしい男が望遠鏡ではるか遠い港の入り口を覗いている。』(『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』p170)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-26

(再掲)

http://www.nmhc.jp/collection.html

【 出島オランダ商館医シーボルトの専属絵師として活躍した川原慶賀の作品は、その多くが西洋へ伝えられ、ニッポンを海外に紹介しました。慶賀の作品は、日本の風景や生活、動植物などを写実的に描いており、当時の状況を知ることができる貴重な資料です。】(「長崎歴史文化博物館」)

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index1.html

【 蘭船を眺めるのはシーボルト?
 待ちに待った蘭船の到来! 屋上の展望台の上で入港してくる蘭船を望遠鏡で覗き込んでいるのは、商館長だろうか? 実はこの男性の背後に子どもを抱いた日本人女性がいることから、この望遠鏡を覗いているのはシーボルトで、日本人女性はお滝、子どもがお稲ではないかといわれている作品だ。慶賀が描いた作品だから、それもあり得るかもしれない?】
(「発見!長崎の歩き方」)

二 蘭船荷揚げ図.jpg

「唐蘭館絵巻(蘭館図)・二 蘭船荷揚げ図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.5×35.6㎝
『画面左端に出島の西端、船着き場と荷揚げ門が見える。出島内にはオランダ国旗、三色旗
がひるがえっている。右側港内に蘭船が停泊し、小さな舟が何艘も集まり、荷を積んで船着き場を往復している。』

三 商品入札図.jpg

「唐蘭館絵巻(蘭館図)・三 商品入札図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.5×35.6㎝
『出島内の倉前で、青白縞の布の日除けの下で、向かい合わせにに並んだ日本人商人たち(およそ四十人)が品々を手に取ったり、帳面に何やら書き込んだりしている。数人の役人と帽子を被った三人の蘭人がこれを見つめている。』

四 商品計量図.jpg

「唐蘭館絵巻(蘭館図)・四 商品計量図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.3×35.5㎝
『荷揚げ門傍らの出島内広場における商品計量の場面である。』

五 倉前図.jpg

「唐蘭館絵巻(蘭館図)・五 倉前図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.3×35.5㎝
『納められた荷を倉から出し。商館員、役人立会いの下に中身を検めている。』

六 動物園図.jpg

「唐蘭館絵巻(蘭館図)・六 動物園図」(長崎歴史文化博物館蔵) 21.9×35.5㎝
『出島内にあった動物飼育場の図である。

七 調理室図.jpg

「唐蘭館絵巻(蘭館図)・七 調理室図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.3×34.8㎝
『調理室図。豚の屠殺から肉の調整までの工程を一図にまとめている。』

八 宴会図.jpg

「唐蘭館絵巻(蘭館図)・八 宴会図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.4×35.3㎝
『蘭館内における商館員の宴会の光景である。』

九 玉突き図.jpg

「唐蘭館絵巻(蘭館図)・九 玉突き図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.3×36.2㎝
『玉突き図。三人の蘭人がプレーしている。』

十 蘭船出航図.jpg

「唐蘭館絵巻(蘭館図)・十 蘭船出航図」(長崎歴史文化博物館蔵) 24.2×35.9㎝
枠外左下隅に落款「種美」 白字半円印「田口之印」 朱字半円印「慶賀」
『十艘の引き舟に引かれて港を出て行く蘭船が描かれている。船側から別れの礼砲を撃ったのであろう。硝煙が立ち込めている。』(『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』p175)

 これらの「唐蘭館絵巻」に関連して、下記のアドレスの「出島出入絵師ならではの写実的作品」と題して、次のように紹介している。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index2.html

【 慶賀の作品で最も目にする機会が多いのが、『唐蘭館絵巻』。慶賀が生きた時代の長崎は、出島、唐人屋敷を擁したまさに長崎の貿易時代。出島や唐館(唐人屋敷)の暮らしぶり、貿易船の入港風景など、ある一瞬を捉えたスナップ写真的な写実的風景画は、出島出入絵師である慶賀しか描けなかったものだろう。
 ところで、ライデン国立民族学博物館の日本部絵画収集品は、ブロンホフ(商館長)、フィッセル(商館員)、シーボルト(商館医)によって収集されたものが中心で、なかでも慶賀の作品がその大部分を占めているという。それらを主題別に分けると“1長崎歳時記 2人の一生 3職人尽し 4生活風俗点景 5神社、仏閣 6日本の風景 7図譜”に分類することができ、全て“日本人の研究”という同一の課題に取り組んだものだという。
 時代的にいうと、ブロンホフ、フィッセル、シーボルトの順。“人の一生”を例にあげ3シリーズを比較すると、ブロンホフ・シリーズの特徴は、1つ1つの事象の描写は説明的でわかりやすいが、人物の描写などは平面的、明暗法による立体表現に欠けているなど、近代的な意味での写実とはいいがたいという。一方、フィッセルのシリーズは、他のシリーズと比べ、すべて落ち着いた色調で整えられた彩色においても、本シリーズにのみ「慶賀」の朱印が捺されていることからも、慶賀が1点1点を1つの絵画作品として描こうとした意気込みが感じられ、最も完成度が高いといわれている。
 そしてシーボルトのシリーズは、構図的にもほぼ同一のため、このフィッセルのシリーズを慶賀自身が写したものと推測されている。しかし、明暗法による立体的表現を意識した陰つけなど、彩色によって大きな違いが見られるという。このヨーロッパ的な明暗法は、おそらくシーボルトの助手兼絵師として渡来したオランダ人デ・フィレニューフェの影響だったと考えられているそうだ。ともあれ、これら同一主題の慶賀作品を比較してわかることは、慶賀の写実的描写の進展には、シーボルトの指導が大きく影響していることだ。】(「『ナガジン」発見!長崎の歩き方」)

 ここに付け加えたいことは、前回(その二十二)で紹介した「『唐館蘭館図絵巻』(Views of the Chinese and Dutch Factories in Nagasaki) /石崎融思筆/1801年(享和元年)」に、さらに、次のような、慶賀の師・石崎融思筆の、水墨画の山水画風の「長崎港図」も遺されているということである。

「長崎港図」石崎融思筆.gif

「長崎港図」/石崎融思筆 (1768-1846)/ 江戸時代/18-19世紀/巻子装,紙本着色/ 31.4×128.0/ 1巻/東京藝術大学大学美術館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/235140
『落款「嶺道人石融思」/印章「鳳嶺」朱文円印・「融思士斎」白文方印。巻末 吉邨迂斎 跋』
(「文化遺産オンライン」)

 川原慶賀にも、シーボルトの書き込みによると、「日本画家登与助が2分15秒で描いた」という、ライデン国立民族学博物館の収蔵庫から発見された「山水図」二点がある(『幕末の”日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』図録「142山水図・143山水図)」)。

川原慶賀山水図.jpg

(『幕末の”日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』図録「142山水図・143山水図)」)
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その二十三) [川原慶賀の世界]

(その二十三)「川原慶賀の唐蘭館絵巻(唐館図)」周辺

「唐蘭館絵巻(唐館図)・一 唐船入港図」.jpg
 
「唐蘭館絵巻(唐館図)・一 唐船入港図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×36.0㎝
『(全体:一~十) 紙本 着彩 27.5×569.5㎝ 一図ごとに黒線で枠取りした枠内に独立的に『一~十図』が描かれている。この『一 唐船入港図』は、そのトップで、唐船が停泊し、小舟が荷を運び出している図である。』(『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』p162-169)

「唐蘭館絵巻(唐館図)・二 荷揚水門図」.jpg

「唐蘭館絵巻(唐館図)・二 荷揚水門図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×36.0㎝
『荷揚げ水門に着いて、荷揚げをしている図。』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・三 荷揚水門内部図」.jpg

「唐蘭館絵巻(唐館図)・三 荷揚水門内部図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×36.0㎝
『唐人館の水門の荷揚げを内部から見た図。』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・四 唐人上陸道中画(一)」.jpg

「唐蘭館絵巻(唐館図)・四 唐人上陸道中画(一)」(長崎歴史文化博物館蔵) 
『荷揚げを運ぶ道中図で、この右側の二人連れが、唐人館の長とその従者である。』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・四 唐人上陸道中画(二)」.jpg

「唐蘭館絵巻(唐館図)・四 唐人上陸道中画(二)」(長崎歴史文化博物館蔵)
『唐人上陸道中画(一と二)=27.0×88.0㎝(枠取りなし)』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・五 唐館表門図」.jpg

「唐蘭館絵巻(唐館図)・五 唐館表門図」(長崎歴史文化博物館蔵)  22.8×35.5㎝
『唐館の表門の内側と外側(往来の様子)の図』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・六 唐人部屋遊女遊興図」.jpg

「唐蘭館絵巻(唐館図)・六 唐人部屋遊女遊興図」(長崎歴史文化博物館蔵) 22.8×36.0㎝
『二階の続き部屋で、遊女たちと唐人が食卓を囲み、音楽を興じている。』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・七 龍踊図」.jpg

「唐蘭館絵巻(唐館図)・七 龍踊図」(長崎歴史文化博物館蔵)  22.4×35.5㎝
『唐人屋敷内土神堂前広場の龍踊りの図』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・八 観劇図」.jpg

「唐蘭館絵巻(唐館図)・八 観劇図」(長崎歴史文化博物館蔵)  22.3×35.8㎝
『唐人屋敷内の唐人踊りの様子。二階の部屋の観客席には招待された長崎奉行の役人など』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・九 唐船出航図」.gif

「唐蘭館絵巻(唐館図)・九 唐船出航図」(長崎歴史文化博物館蔵)  21.9×35.8㎝
『唐船が引き舟によって港外に引かれてゆく図』

「唐蘭館絵巻(唐館図)・十 彩船流図」.gif

「唐蘭館絵巻(唐館図)・十 彩船流図」(長崎歴史文化博物館蔵)  22.1×35.4㎝
枠外左下隅に落款「種美」 白字半円印「慶賀」 朱字半円印「種美」
『長崎で客死した唐人の霊魂を祀る行事。長さ四間ほどの唐船を造り、唐館前の波止場から沖の白門に海上を運び焼く。その際、唐人踊りがあり、また、検使の役人が出役した。』

長崎版画「享和二年肥州長崎図」.png

長崎版画「享和二年肥州長崎図」(1802年)文錦堂版(長崎勝山町上ノ段)より
上図(黄色)→ 出島(阿蘭陀商会=蘭館)
下図(茶色)→ 唐人屋敷(唐館)

■唐人屋敷の歴史
 1635年(寛永12年)から中国貿易は長崎一港に制限されており、来航した唐人たちは長崎市中に散宿していましたが、貿易の制限に伴い密貿易の増加が問題となっていました。    
幕府はこの密貿易への対策として、 1688年(元禄元年)十善寺郷幕府御薬園の土地で唐人屋数の建設に着手し、翌16S9年(元禄2年)に完成しました。広さは約9.400坪、現在の館内町のほぼ全域に及びます。周囲を練塀で囲み、その外側に水堀あるいは空堀を、さらに外周には一定の空地を確保し、竹垣で囲いました。
 入口には門が二つあり、外側の大門の脇には番所が設けられ、無用の出入りを改めした。 二の門は役人であってもみだりに入ることは許されず、大門と二の門の間に乙名部屋、大小通事部屋などが置かれていました。内部には、長屋数十棟が建ち並んでいたといわれ、一度に2,000人前後の収容能力を持ち、それまで市中に雑居していた唐人たちはここに集め、居住させられました。
 長綺奉行所の支配下に置かれ、管理は町年寄以下の地役人によって行われていました。輸入貨物は日本側で預かり、唐人たちは厳重なチェックを受けた後、ほんの手回り品のみで入館させられ、帰港の日までここで生活していました。
 1784年(天明4年)の大火により関帝堂を残して全焼し、構造もかなり変わりましたが、この大火以後唐人自前の建築を許されるようになりました。重要文化財旧唐人屋敷門(現:興福寺境内所在)はこの大火の後に建てられた住宅門と思われます。
 鎖国期における唯―の海外貿易港であった長崎において、出島と共に海外交流の窓口と
して大きな役割を果たした唐人屋敷は、 1859年(安政6年)の開国後廃屋化じ、 1870年(明治3年)に焼失しました。。(「長崎奉行所の機能と出島(唐人屋敷)」)

■出島(阿蘭陀商館)の歴史
 出身は、ポルトガル人を管理する目的で、 1634年から21年の歳月をかけて、幕府が長崎の豪商(「出l島町人」と呼ばれる25人の町人)に命じて造らせたもので、ポルトガル人は、彼らに土地使用料として毎年80貫を支払うこととされていました。(オランダ人が借地するようになった後は55貫、現在の日本円で約二億円に引き下げられた。)
 1639年、幕府がキリスト教の布教と植民地化を避けるためにポルトガル人を固外追放したため、一時、出島は無人になりました。その後、出島築造の際に出資した人々の訴えにより、 l041年に平戸(ひらど、現在の平戸市)からオランダ東インド会社の商館が移され、武装と宗教活動を規制されたオランダ人が居住することになりました。 以後、約200年間、出島でオランダ人との交渉や監視がおこなわれました。(「長崎奉行所の機能と出島(唐人屋敷)」)

川原慶賀は、ともすると「シーボルトお抱え絵師」として、「出島(阿蘭陀商館)」関連の作品(主として「ライデン国立民族学博物館蔵」「アムステルダム市立公文書館蔵」「ファン・ストルク地図博物館蔵」「ロッテルダム海事博物館蔵」など )が強調されがちであるが、この「唐人屋敷(唐館)」関連の作品(「長崎歴史文化博物館蔵」など)は、それと並行して、「川原慶賀の世界」を知るための、重要なキィーワードの世界ということになる。
そして、この世界もまた、慶賀の師の「石崎融思」の世界とダブってくる。

「唐館蘭館図絵巻」.jpg

「唐館蘭館図絵巻」(Views of the Chinese and Dutch Factories in Nagasaki) 石崎融思筆
1801年(享和元年)
『 本絵巻は、明治時代に国外に流出したもので、唐館図の巻末にある落款「享和紀元歳融思画」から、その制作年が享和元年(1 8 0 1 )融思3 3歳のときと断定できる。その詳細な描写は、情報量の豊かさを示しており、注目に値する。全巻にわたって良質の絵の具でもって鮮やかに彩色し、少しの省略もなく細かい筆使いで丁寧に仕上げられている。なお本絵巻に描かれた出島は、寛政1 0 年(1 7 9 8 )3 月9 日大火後の間もない時期に描かれた絵図がこれまで見当たらなかっただけに、出島の変遷をたどる上で大変貴重といえる。』(「長崎歴史文化博物館」)
http://www.nmhc.jp/museumInet/prh/colArtAndHisGet.do?command=view&number=60332
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その二十二) [川原慶賀の世界]

(その二十二)「川原慶賀の花鳥図」周辺

花鳥図.jpg

●作品名:花鳥図 ●Title:Flowers and Birds
●分類/classification:花鳥画/Still Lifes
●形状・形態/form:紙本彩色、軸/painting on paper,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

石榴と果物図.jpg

●作品名:石榴と果物図 ●Title:Pomegranate and fruit
●分類/classification:花鳥画/Still lifes
●形状・形態/form:絹本彩色、軸/painting on silk,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

 これらの、川原慶賀の「花鳥画」は、いわゆる、「南蘋派」そして「洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎派」の系統に属する世界のものであろう。
 なかでも、石崎融思と慶賀と関係というのは、そのスタートの時点(文化八年(1811年)頃)、当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、爾来、弘化三年(一八四六)、融思(七十九歳、慶賀より十八歳年長)の、融思が亡くなる年の、その遺作ともいうべき、「観音寺天井画」(野母崎町観音寺)の、石崎一族の総力を挙げてのプロジェクト(一五〇枚の花卉図、うち四枚が慶賀画)にも、慶賀の名を遺している。

花鳥動物図.jpg

「花鳥動物図」沈南蘋筆/清時代・乾隆15年(1750)/北三井家旧蔵
https://www.mitsuipr.com/history/columns/046/

【 南蘋派の開祖・熊斐と南蘋派の画人 

https://yuagariart.com/uag/nagasaki10/

 南蘋派は、清から渡来した沈南蘋によって伝えられた画風で、緻密な写生と鮮やかな彩色が特徴である。沈南蘋は、享保16年に渡来して18年まで長崎に滞在しており、この間に、中国語の通訳である唐通事をしていた熊代熊斐(1712-1772)に画法が伝授された。南蘋に直接師事した日本人は熊斐ただひとりであり、熊斐の元には多くの門人が集まり、その中からは鶴亭、森蘭斎、宋紫石らが出て、南蘋の画法は全国に広まっていった。熊斐の作画活動については、唐絵目利などの本業ではなかったこともあり不明な点が多い。

熊代熊斐(1712-1772)(くましろ・ゆうひ)
 正徳2年生まれ。神代甚左衛門。長崎の人。唐通事。はじめ神代で、のちに熊代に改姓した。名は斐、字は淇瞻、通称は彦之進、のちに甚左衛門。号は繍江。はじめ唐絵目利の渡辺家に画を学び、享保17年に官許を得て清の画家・沈南蘋に師事した。享保18年の南蘋帰国後は、享保20年に来日した高乾に3年間師事したという。南蘋に師事したのは9ケ月のみだったが、南蘋に直接師事したのは熊斐だけであり、熊斐を通じて南蘋の画風は全国にひろまっていった。官職としては、元文4年に養父の神代久右衛門(白石窓雲)の跡を継ぎ内通事小頭となり、明和3年に稽古通事となった。安永元年、61歳で死去した。 

沈南蘋(1682-不明)(しん・なんぴん)
 清の浙江省呉興の人。名は銓、字は衡斎。師の胡湄は明の呂紀風の花鳥画をよくしたという。享保16年に高乾、高鈞らの門弟とともに長崎に渡来した。将軍徳川吉宗が唐絵の持込みを命じたことによるという。長崎に享保18年まで留まり、熊斐に画法を授けた。熊斐を通じて伝わった南蘋の画風はその後の日本絵画に大きな影響を与えた。帰国後は浙江・江蘇省地方を中心に活動したが、求めに応じて日本へ作品を送っていたという。

高乾(不明-不明)・鄭培(不明-不明)・高鈞(不明-不明)→ (略)

宋紫石(1715-1786)(そう・しせき)
 正徳5年生まれ。江戸の人。本名は楠本幸八郎。字は君赫、霞亭。別号に雪溪、雪湖、霞亭、宋岳などがある。長崎に遊学して熊斐に学び、また清の宋紫岩にも師事した。宋紫岩に学んだことから宋紫石と名乗った。江戸で南蘋風をひろめた。平賀源内とも交友があり、司馬江漢にも画法を伝えた。南蘋派で最も洋風画に接近した画風で、余白を多くとり軽く明るい画面を生み出した。天明6年、75歳で死去した。

鶴亭(1722-1785)(かくてい)
 享保2年生まれ。長崎の人。黄檗僧海眼浄光。名ははじめ浄博、のちに浄光、字ははじめ恵達、のちに海眼。別号に如是、五字庵、南窓翁、墨翁、壽米翁、白羊山人などがある。長崎の聖福寺で嗣法するが、延享3、4年頃還俗して上方に移住した。長崎で熊斐に学び、上方に南蘋風を伝えた。木村蒹葭堂、柳沢淇園らと交友した。明和3年頃に再び僧に戻り、黄檗僧になってからは主に水墨画を描いた。天明5年、江戸において64歳で死去した。

黒川亀玉(初代)(1732-1756)・真村蘆江(1755-1795)・大友月湖(不明-不明)・熊斐明(1752-1815)・諸葛監(1717-1790)・松林山人(不明-1792)→ 略

宋紫山(1733-1805)(そう・しざん)
 享保18年生まれ。宋紫石の子。尾張藩御用絵師。名は白奎、字は君錫、苔溪とも称した。父の画法に忠実に従った。文化2年、73歳で死去した。

藤田錦江(不明-1773)・森蘭斎(1740-1801)・董九如(1745-1802)・勝野范古(不明-1758)・宋紫崗(1781-1850)・洞楊谷(1760-1801)・福田錦江(1794-1874)・鏑木梅溪(1750-1803)→ 略  】

「花鳥図」石崎融思.jpg

「花鳥図」石崎融思筆/ 絹本着色(「ウィキペディア」)

【 洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎の洋風画家

https://yuagariart.com/uag/nagasaki12/

 長崎に入ってきた絵画の制作年代や真贋などを判定、さらにその画法を修得することを主な職務とした唐絵目利は、渡辺家、石崎家、広渡家の3家が世襲制でその職務についていた。享保19年には荒木家が加わり4家となったが、その頃には、長崎でも洋風画に対する関心が高まっており、荒木家は唐絵のほかに洋風画にも関係したようで、荒木家から洋風画の先駆的役割を果たした荒木如元と、西洋画のほか南画や浮世絵にも通じて長崎画壇の大御所的存在となる石崎融思が出た。融思の門人は300余人といわれ、のちに幕末の長崎三筆と称された鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も融思のもとで学んでいる。ほかの洋風画家としては、原南嶺斎、西苦楽、城義隣、梅香堂可敬、玉木鶴亭、川原香山、川原慶賀らがいる。

石崎融思(1768-1846)
 明和5年生まれ。唐絵目利。幼名は慶太郎、通称は融思、字は士斉。凰嶺と号し、のちに放齢と改めた。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。西洋絵画輸入に関係して増員 されたと思われる唐絵目利荒木家の二代目荒木元融の子であるが、唐絵の師・石崎元徳の跡を継いで石崎を名乗った。父元融から西洋画も学んでおり、南蘋画、文人画、浮世絵にも通じ長崎画壇の大御所的存在だった。その門人300余人と伝えている。川原慶賀やその父香山とも親しかったが、荒木家を継いだ如元との関係はあまりよくなかったようである。弘化3年、79歳で死去した。

原南嶺斎(1771-1836)
 明和8年生まれ。諱は治堅。別号に南嶺、南嶺堂などがある。河村若芝系の画人で河村姓を名乗ったこともある。唐絵の師は山本若麟あたりだと思われる。自ら蛮画師と称していたほど油彩画も得意とした。天保7年、66歳で死去した。

西苦楽(不明-不明)
 経歴は不詳。原南嶺斎らと同時代の人と思われる。作品「紅毛覗操眼鏡図」が残っており、西肥崎陽東古河町住西苦楽という落款が入っている。

城義隣(1784-不明)
 天明4年生まれ。経歴は不詳。君路と刻んだ印が残っており字と思われる。絵事を好み、唐絵、油絵、泥絵などを手掛けた。他地方で泥絵が発見されたため、泥絵作家として知られているが、泥絵の作品は必ずしも多くはない。大徳寺に天井画が残っている。

梅香堂可敬(不明-不明)
 絵事をよくし、唐人、紅毛人、丸山遊女、異国人、異国女などを描いている。肉筆も版画も残っており、長崎版画の中にも可敬の描いた画がある。『長崎系洋画』には「本名は中村利雄、陸舟とも号したと言ふ」とあるが真意は定かではない。

玉木鶴亭(1807-1879)
 文化4年生まれ。通称は官平、字は又新。別号に一源、九皐、錦江などがある。明治に入って、鶴亭を通称とした。幼いころから画を好み、北宗画にも、南宗画にも通じ、洋画も得意とした。代々西築町に住み、唐船掛宿筆者の役をつとめた。明治12年、73歳で死去した。  】
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その二十一) [川原慶賀の世界]

(その二十一)「川原慶賀の肖像画」周辺

「永島キク刀自絵像」(川原慶賀筆).jpg

「永島キク刀自絵像」(川原慶賀筆)長崎歴史文化博物館蔵(A図)
https://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/38
≪ 江戸時代後期に活躍した長崎の絵師・川原慶賀の筆による長崎の人・永島キクの肖像画。熊本藩士で国学者・歌人である中島広足(なかしまひろたり)(1792~1864)の賛。落款から慶賀75歳の時の作とわかるが、広足賛文の年記が萬延元年(1860)であるので、そこから慶賀の生年が天明6年(1786)であることも知ることができる。
慶賀の生年を知る唯一の資料とも言える。本図は長崎で「お絵像」と称される肖像画であるが、そのなかでも優品のひとつに数えられる。慶賀の絵画的特色は写実性にあるが、本図においてもそれを十分にうかがうことができる。賛文に「八十ぢにさへあまりぬるに、さらにおひおひしきけはひもなきは……」とあるが、慶賀は画像においてそれを見事に表現した。細やかな顔面描写による老女の似姿の生き生きとした表現、衣装の帯や襟の群青と襟元、袖口の朱の対比による若々しい雰囲気の描出などに、それを見ることができる。絹本着色。掛幅装。縦97.5cm、横37.3cm。≫(「長崎県の文化財」)

「荻生徂徠像」(川原慶賀筆/富田東火賛).jpg

「荻生徂徠像」(川原慶賀筆/富田東火賛)(「東京国立博物館」蔵)(B図)
材質・構造・技法:絹本着色 サイズ:108.0×39.4㎝
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0091605
https://history-g.com/jpn/images/view/568

≪ 荻生徂徠の肖像画(川原慶賀 画)
 江戸時代中期の儒学者、思想家、学者。本姓は物部氏、名は双松(なべまつ)、字は茂卿(しげのり)、通称は総右衛門、一般に知られる「徂徠」は号である。5代将軍・徳川綱吉の侍医・荻生方庵(景明)の子として江戸で誕生。幼少より学問に秀で、儒者の林春斎や林鳳岡に学んだ。14歳の時、父が将軍・綱吉の怒りを買い蟄居、一家で江戸から上総国長柄郡に移住し、徂徠はこの地で独学により学問に励んだ。のち、父の赦免にともない江戸へ戻り、5代将軍・綱吉の側用人である柳沢吉保に仕えた。吉保失脚後は日本橋茅場町に居住し、私塾「蘐園塾(けんえんじゅく)」を開き、多くの人材を育てた。8代将軍・徳川吉宗の政治的助言者としても活躍し、政治改革論『政談』を提出するなどしている。墓所は東京の港区にある長松寺。5代将軍・綱吉の時代に起きた「元禄赤穂事件」の際、徂徠が浪士たちの切腹論を主張したことは有名。また、落語や講談の演目で知られる『徂徠豆腐』は、将軍の御用学者へ出世した徂徠が、貧困時代の恩人である豆腐屋に「元禄赤穂事件」をきっかけに再会するというストーリー。≫

 下記のアドレスで、A図の「永島キク刀自絵像」(川原慶賀筆)」周辺のことについて、「個性がない個性こそ慶賀の武器」として、長崎の『お絵像さま』(肖像画の一種)の系列に連なる作品とし、次のように記述している。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index2.html

【 長崎の『お絵像さま』は、肖像画の一種で、しかも極めて私的な俗人の肖像画。平日は蔵の中に収めてあり、正月の七五三(旧暦)、2月の節分、3月の雛節句、5月の男節句、7月の盆祭、9月の諏訪祭礼(現在は10月だが長崎くんちの3ヶ日)に『お絵像さま』の掛け物をかけ、家内一同礼拝するのが通例で、その際、例えば正月であれば、膳や椀にはどれも家紋が描かれた屠蘇・雑煮・黒豆・数ノ子など、必ず行事毎にそった料理をお供えしていたという。旧家では、紋付の羽織を着け、『お絵像さま』の前で祝酒や祝膳の前に座って家族が楽しい食事をする、というように、元禄時代から明治初年頃まで長崎ではこの『お絵像さま』を中心にした先祖崇拝の形ができあがっていたという。
 慶賀の肖像画的作品は、昭和のはじめまで相当数残されていたが、戦災焼失したり、戦後の混乱で行方不明になったり、またはその性質上、個人宅に秘蔵されていたりしているため、実際に見る機会は少ないのが現状だ。町絵師であった慶賀にとって、この“お絵像”の注文が最も安定した収入源であったと考えられている。慶賀が描いた“お絵像”で最も特徴的なのは“顔面描写”。
また、慶賀の“お絵像”を含む肖像画的作品は、シーボルトのための仕事をした時期をはさんだ作品で、特徴が異なることから前期、後期に分けられている。
その特徴はというと、前期は像主に似せて描くという写実ではなく、像主の特徴を誇張して描くという点。そして後期は描線がほとんどなく、陰影のみで立体的に描出している点だ。この描法は、黄檗画からもたらされた立体表現法だそうで、慶賀の場合はそれよりもさらに一歩進んだ合理的な陰影法による真の洋画的技法なのだという。
 シーボルトの仕事を重ねることによってさらに綿密な観察眼と洋画的描写力に磨きをかけ、また、いかに像主に似せるかということに力を降り注いでいたようだ。その技法は、一定の枠にとらわれず自分が目指す写実に適したものは、新旧問わず自由に取り入れようとした姿勢に基づくもの。その作画態度と、それを可能にしたのはやはり、慶賀が“長崎”という自由の雰囲気のある土地で活動した画家だったからといわれている。唐絵目利という拘束に縛られることない町絵師・慶賀は、自由に、そして貪欲に多くの画法を取入れながら注文に応じて多様な作風の仕事をした。そして膨大な数の作品を後世に残したのだ。 】

 『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』では、「第七章 肖像画家川原慶賀」(お絵像さま/日本の肖像画/初期のお絵像/最後のお絵像/正統なお絵像様式/慶賀の肖像画/後期のお絵像/慶賀お絵像の独自性/崋山と慶賀/前期のお絵像/誇張的表現/多様な画法の試み)で、詳細に論じている。
上記の「永島キク刀自絵像(川原慶賀筆)・長崎歴史文化博物館」(A図)は、「慶賀の後期のお絵像」の代表的な作品で、その落款には、「七十五歳 種美写」(「種美」は「字(あざな)」)とあり、慶賀の万延元年(一八六〇)頃の七十五歳時の作品で、その生年が、天明六年(一七八六)と推定できる唯一の資料として貴重な作品ということになる。
 次の「荻生徂徠像(川原慶賀筆/富田東火賛・「東京国立博物館」蔵)」(B図)は、『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』では、紹介されていない。そして、「失われた慶賀作品」(P209)の中に、「9 物徂徠絵像 長崎熊本吉祥(旧蔵者)/紙本着彩・三尺一寸×一尺三寸(材質・法量)/富田東火賛・印「田口之印」「慶賀」(落款・印章)」と記述されている。
 この「法量」の「三尺一寸×一尺三寸」は、「東京国立博物館」蔵の「サイズ」の「108.0×39.4㎝」とほぼ一致し、「富田東火賛・印『田口之印』『慶賀』」も同一と思われ、
『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』所「失われた慶賀作品」の「9 物徂徠絵像」は、同一作品と解したい。
 「荻生徂徠像(川原慶賀筆/富田東火賛・「東京国立博物館」蔵)」(B図)を拡大すると、次のとおりである。

「荻生徂徠像(川原慶賀筆/富田東火賛・「東京国立博物館」蔵)(拡大図)」.jpg

「荻生徂徠像(川原慶賀筆/富田東火賛・「東京国立博物館」蔵)(拡大図)」(B-1図)
右下端の印章=「田口之印」「慶賀」(?)

 この「富田東火賛」の「富田東火」は不明であるが、「富田日岳(にちがく)=富田大鳳(たいほう)」(江戸時代中期-後期の儒者,医師。肥後熊本藩に仕え、父に医学と荻生徂徠の学をまなぶ。)に連なる一人のように思われる。

【富田大鳳(とみた たいほう)
 1762-1803 江戸時代中期-後期の儒者,医師。宝暦12年生まれ。富田春山の長男。肥後熊本藩につかえる。父に医学と荻生徂徠(おぎゅう-そらい)の学をまなぶ。寛政3年藩医学校の再春館師役。「大東敵愾(てきがい)忠義編」などをあらわし,幕末の肥後勤王党の成立に影響をあたえた。享和3年2月25日死去。42歳。字(あざな)は伯図。通称は大淵。号は日岳。 】(「デジタル版 日本人名大辞典」)

【再春館(さいしゅんかん)
 肥後の領主細川重賢は宝暦6年(1756年)に藩校時習館を創立した。すでに私塾(復陽堂)を持ち、細川重賢を治療し、信頼がある村井見朴(けんぼく)に対して、重賢は宝暦6年12月、医学寮を作ることを命令し、現在の熊本市二本木に宝暦7年(1757年)1月19日、再春館が発足した。見朴は筆頭教授。当時の校舎の図面が残されているが、多くの寮をもち、また講堂、植物園を備えている。宝暦6年12月21日付細川家文書が残っている。 】(「ウィキペディア」)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1028372?tocOpened=1

『富田大鳳 (「国立国会図書館デジタルコレクション」)
標題
・目次
・第一章 緒論/1
・第二章 先生の祖先/3
・第一節 先生の家系/3
・第二節 祖父龍門先生/10
・第三節 嚴父春山先生/17  → (メモ・「大鳳」の父の「春山」)
・第三章 幼少時代の先生/27
・第一節 菊鹿の山川/27
・第二節 先生の誕生と天下の形勢/34
・(一) 先生の誕生/34
・(二) 天下の形勢/36
・第三節 家庭及び幼時/41
・第四章 修養時代の先生/45
・第一節 熊本轉居時代の先生/45
・第二節 津袋再住時代の先生/54
・第三節 熊本再出時代の先生/56
・第五章 再春館時代の先生/69  →(メモ・「大鳳」と「再春館」)
・第一節 再春館/69
・第二節 再春館出仕時代の先生/76
・(一) 再春館句讀師時代/76
・(二) 再春館師役並醫業吟味役兼帶時代/82
・第三節 富田塾の學風/93
・(一) 塾舍/93
・(二) 學風/95
・第六章 先生の性格/99
・第一節 先生の尊皇心/99
・第二節 先生の孝心/101
・第三節 先生の逸話/112
・第七章 先生の交友/121
・第一節 大鳳先生と高山彦九郎/121 →(メモ・「大鳳と高山彦九郎」)
・第二節 熊本の知巳/139
・(一) 有馬白嶼/140
・(二) 葛西一詮/153
・(三) 齋藤芝山/155
・(四) 境野凌雲/163
・(五) 本田四明/166
・(附記)高本紫溟/168
・第三節 菊鹿の知己/178
・(一) 友人/178
・(1) 山崎文林/178
・(2) 田中清湲/182
・(3) 富田松齋/183
・(4) 西島某郷吏/184
・(5) 長野淳庵/185
・(6) 志賀親信/185
・(二) 門人/186
・(1) 池邊太璞/187
・(2) 石淵含章/189
・(3) 島克/191
・(4) 木庭君山/192
・(5) 長野仲英及大受/195
・(6) 岐部珀菴/198
・(7) 甲斐民淳/198
・(8) 其他の門人/199
・第八章 先生の山水癖/200
・第一節 旅行と詩賦/200
・第二節 東遊雜感/209
・第九章 終焉及び子孫/218 →(メモ・「大鳳の死と嫡男・文山」と「文山の継受者」
・第一節 先生の終焉/218
・第二節 先生の子孫/224
・第三節 御贈位の光榮/235
・第十章 先生の思想/237
・第一節 哲學思想/237
・第二節 勤王思想/244
・第三節 文學思想/250
・第四節 醫學思想/260
・第十一章 結論/266
・附録(1) 龍門先生詩抄/271
・附録(2) 春山先生詩抄/276
・附録(3) 日岳先生詩抄/284
・附録(4) 文山先生詩抄/299
・附録(5) 大東敵愾忠義編抄/301
・附録(6) 富田氏系圖/323
・附録(7) 大鳳先生關係年表/後表  』

 ここで、翻って、「荻生徂徠像(川原慶賀筆/富田東火賛・「東京国立博物館」蔵)」(「B図」「B-1図」)の制作時期は、「富田日岳(にちがく)=富田大鳳(たいほう)」が亡くなった「享和三年(一八〇三)」(慶賀=十七歳前後)の、いわゆる、「慶賀前期(初期)の肖像画(お絵像様)」ではなく、「永島キク刀自絵像(川原慶賀筆)・長崎歴史文化博物館」(A図)と、同時代の、「慶賀の後期のお絵像」の、その代表的な作品の「永島キク刀自絵像」に匹敵する作品と解したい。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その二十) [川原慶賀の世界]

(その二十)「川原慶賀の長崎歳時記(その十二)「掛取り」周辺

慶賀・掛取り図.jpg

作品名:掛取り(A図)  (「シーボルト・コレクション」)
●Title:Debt collection, December
●分類/classification:年中行事、12月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

『 (掛取り)

https://mainichi.jp/articles/20171226/ddm/001/070/098000c

 「元日や今年もあるぞ大晦日(おおみそか)」。当たり前の話なのに川柳になるのは江戸の昔は大みそかが借金取りとの攻防の日だったからだ。日用品も掛け売りが普通だったので、大みそかに掛け取りがどっと家に来た▲「大晦日亭主家例の如(ごと)く留守」「掛取りが来ると作兵衛うなり出し」「押入れで息を殺して大晦日」。借金取りから逃れる仮病や居留守は川柳の笑いの定番であった。井原西鶴(いはらさいかく)の「世間胸算用(せけんむねさんよう)」には手の込んだ借金取り撃退法がある▲「亭主の腹わたをくり出しても取る」。留守番を脅しつける男の勢いに、他の借金取りは「ここはだめだ」とあきらめる。だが当の亭主はどなっている男の留守宅で同じことをしていた。借金取り撃退の「大晦日の入れ替わり男」だ。』

 「画狂人・卍」こと「葛飾北斎」は、「狂句人・卍」も名乗っていた。その狂句が今に遺されている。

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2022-10-22

(再掲)

『 その一 除夜更てなが雪隠の二年越シ

除夜更(ふけ)てなが雪隠(せっちん)の二年越シ 卍 文政十年(一八二七)

●除夜(じょや)=おおみそかの夜。一年の最後の晩。除夕(じょせき)。《季・冬》
●雪隠(せっちん)=便所のこと。かわや。こうか。東司(とうす)。せっちん。せんち。せちん。また特に、茶室につけられた便所。
●掛取り=掛け売りの代金を受け取ること。また、その集金人。掛け乞い。掛け集め。《季・冬》 
※浮世草子・世間胸算用(1692)三「掛取(カケトリ)上手の五郎左衛門」
※団団珍聞‐一四三号(1880)「明日は元日〈略〉今夜は債乞(カケトリ)が来るから表戸(おもて)を叩いた人があったら留守だと云(いっ)ておいで」
https://senjiyose.com/archives/757

※昔は、日常の買い物はすべて掛け買いで、決算期を節季(せっき)といい、盆・暮れの二回でした。特に大晦日は、商家にとっては、掛売りの借金が回収できるか、また、貧乏人にとっては踏み倒せるかどうかが死活問題で、古く井原西鶴(1642-93)の「世間胸算用」でも、それこそ笑うどころではない、壮絶な攻防戦がくりひろげられています。むろん、江戸でも大坂でも掛け売り(=信用売り)するのは、同じ町内の生活必需品(酒、米、炭、魚など)に限ります。

句意=大晦日、今日は「掛取り」の「トリ」が、「カエセー・カエセー」とやってくる。ついつい、「便所」にこもって、除夜の更けるのを待って、新年を迎える羽目になってしまった。 』

 ここで、どうにも気掛かりのことがある。慶賀は、先に、一連の「長崎歳時記(年中行事)もの」として、特別仕立てのような、「かるた取り図」(下記の左図の「「B図-1」)と「菊取り図」(下記の右図の「「B図-3」)などを、「紙本彩色(著色)・軸物」で、「ライデン国立民族学博物館」(「フイッセル・コレクション」)所蔵で、今に遺している。
 これに、今回の「掛取り」を連動させると、「かるた取り」(正月)・「菊取り(九月)・「掛取り」(十二月)」の「トリ」もの三幅ということになる。
 この「掛取り」(A図)に対応する一幅ものは目にしないが、これを、先に紹介した「夫婦対幅のうち:夫」(下記中央の「B図-2」)で代用して、「トリ」もの三幅とすると、次のとおりとなる。

川原慶賀の「トリ」もの三幅対(B図).png

川原慶賀の「トリ」もの三幅対(B図)
左図「かるた取り図」(「B図-1」)
中図「掛取り図」「夫婦対幅のうち:夫」図の代用)」(「B図-2」)
右図「菊取り図」(「B図-3」)

 この「掛取り図」「夫婦対幅のうち:夫」図の代用)」(「B図-2」)を真ん中に据えると、
左図「かるた取り図」(「B図-1」)は、「花札=博打図」、そして、右図「菊取り図」(「B-3」)は「菊酒=酒合戦図」は変身(「見立て替え」)することになる。
 ここまで来ると、「川原慶賀の世界」ではなく、「井原西鶴『世間胸算用』」などの世界となって来るが、この「掛取り」(A図)と、この「「トリ」もの三幅対(B図)には、「井原西鶴『世間胸算用』」の『胸算用巻二の二「訛言(うそ)も只は聞かぬ宿」の、太宰治の『新釈諸国噺』の「粋人(すいじん)」が似つかわしい。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2269_15103.html

(参考)太宰治の『新釈諸国噺』の「粋人(すいじん)」

【 粋人

「ものには堪忍(かんにん)という事がある。この心掛けを忘れてはいけない。ちっとは、つらいだろうが我慢をするさ。夜の次には、朝が来るんだ。冬の次には春が来るさ。きまり切っているんだ。世の中は、陰陽、陰陽、陰陽と続いて行くんだ。仕合せと不仕合せとは軒続きさ。ひでえ不仕合せのすぐお隣りは一陽来復の大吉さ。ここの道理を忘れちゃいけない。来年は、これあ何としても大吉にきまった。その時にはお前も、芝居の変り目ごとに駕籠(かご)で出掛けるさ。それくらいの贅沢(ぜいたく)は、ゆるしてあげます。かまわないから出掛けなさい。」などと、朝飯を軽くすましてすぐ立ち上り、つまらぬ事をもっともらしい顔して言いながら、そそくさと羽織をひっかけ、脇差(わきざし)さし込み、きょうは、いよいよ大晦日(おおみそか)、借金だらけのわが家から一刻も早くのがれ出るふんべつ。家に一銭でも大事の日なのに、手箱の底を掻かいて一歩金(いちぶきん)二つ三つ、小粒銀三十ばかり財布に入れて懐中にねじ込み、「お金は少し残して置いた。この中から、お前の正月のお小遣いをのけて、あとは借金取りに少しずつばらまいてやって、無くなったら寝ちまえ。借金取りの顔が見えないように、あちら向きに寝ると少しは気が楽だよ。ものには堪忍という事がある。きょう一日の我慢だ。あちら向きに寝て、死んだ振りでもしているさ。世の中は、陰陽、陰陽。」と言い捨てて、小走りに走って家を出た。

 家を出ると、急にむずかしき顔して衣紋(えもん)をつくろい、そり身になってそろりそろりと歩いて、物持の大旦那(おおだんな)がしもじもの景気、世のうつりかわりなど見て(廻まわっ)ているみたいな余裕ありげな様子である。けれども内心は、天神様や観音様、南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、不動明王摩利支天(まりしてん)、べんてん大黒、仁王(におう)まで滅茶(めちゃ)苦茶にありとあらゆる神仏のお名を称となえて、あわれきょう一日の大難のがれさせ給たまえ、たすけ給えと念じて眼めのさき真暗、全身鳥肌とりはだ立って背筋から油汗がわいて出て、世界に身を置くべき場所も無く、かかる地獄の思いの借財者の行きつくところは一つ。花街である。けれどもこの男、あちこちの茶屋に借りがある。借りのある茶屋の前は、からだをななめにして蟹(かに)のように歩いて通り抜け、まだいちども行った事の無い薄汚い茶屋の台所口からぬっとはいり、
「婆はいるか。」と大きく出た。もともとこの男の人品骨柄(じんぴんこつがら)は、いやしくない。立派な顔をしている男ほど、借金を多くつくっているものである。悠然(ゆうぜん)と台所にあがり込み、「ほう、ここはまだ、みそかの支払いもすまないと見えて、あるわ、あるわ、書附(かきつけが)。ここに取りちらかしてある書附け、全部で、三、四十両くらいのものか。世はさまざま、〆(しめ)て三、四十両の支払いをすます事も出来ずに大晦日を迎える家もあり、また、わしの家のように、呉服屋の支払いだけでも百両、お金は惜しいと思わぬが、奥方のあんな衣裳(いしょう)道楽は、大勢の使用人たちの手前、しめしのつかぬ事もあり、こんどは少しひかえてもらわなくては困るです。こらしめのため、里へかえそうかなどと考えているうちに、あいにくと懐姙(かいにん)で、しかも、きょうこの大晦日のいそがしい中に、産気づいて、早朝から家中が上を下への大混雑。生れぬさきから乳母を連れて来るやら、取揚婆とりあげばばを三人も四人も集めて、ばかばかしい。だいたい、大長者から嫁をもらったのが、わしの不覚。奥方の里から、けさは大勢見舞いに駈かけつけ、それ山伏、それ祈祷(きとう)、取揚婆をこっちで三人も四人も呼んで来てあるのに、それでも足りずに医者を連れて来て次の間に控えさせ、これは何やら早め薬とかいって鍋(なべ)でぐつぐつ煮てござる。安産のまじないに要るとか言って、子安貝(こやすがい)、海馬(かいば)、松茸(まつたけ)の石づき、何の事やら、わけのわからぬものを四方八方に使いを走らせて取寄せ、つくづく金持の大袈裟(おおげさ)な騒ぎ方にあいそがつきました。旦那様は、こんな時には家にいぬものだと言われて、これさいわい、すたこらここへ逃げて来ました。

 まるでこれでは、借金取りに追われて逃げて来たような形です。きょうは大晦日だから、そんな男もあるでしょうね。気の毒なものだ。いったいどんな気持だろう。酒を飲んでも酔えないでしょうね。いやもう、人さまざま、あはははは。」と力の無い笑声を発し、「時にどうです。言うも野暮だが、もちろん大晦日の現金払いで、子供の生れるまで、ここで一日あそばせてくれませんか。たまには、こんな小さい家で、こっそり遊ぶのも悪くない。おや、正月の鯛(たい)を買いましたね。小さい。家が小さいからって遠慮しなくたっていいでしょう。何も縁起ものだ。もっと大きいのを買ったらどう?」と軽く言って、一歩金一つ、婆の膝ひざの上に投げてやった。
 婆は先刻から、にこにこ笑ってこの男の話に相槌(あいづち)を打っていたが、心の中で思うよう、さてさて馬鹿(ばかな男)だ、よくもまあそんな大嘘(おおうそ)がつけたものだ、お客の口先を真に受けて私たちの商売が出来るものか。酔狂のお旦那がわざと台所口からはいって来て、私たちをまごつかせて喜ぶという事も無いわけではないが、眼つきが違いますよ。さっき、台所口から覗(のぞ)いたお前さんの眼つきは、まるで、とがにんの眼つきだった。借金取りに追われて来たのさ。毎年、大晦日になると、こんなお客が二、三人あるんだ。世間には、似たものがたくさんある。玉虫色のお羽織に白柄(しらつか)の脇差、知らぬ人が見たらお歴々と思うかも知れないが、この婆の目から見ると無用の小細工。おおかた十五も年上の老い女房(にょうぼう)をわずかの持参金を目当てにもらい、その金もすぐ使い果し、ぶよぶよ太って白髪頭(しらがあたま)の女房が横坐(ずわ)りに坐って鼻の頭に汗を掻(かき)ながら晩酌(ばんしゃく)の相手もすさまじく、稼(かせぎ)に身がはいらず質八(しちばち)置いて、もったいなくも母親には、黒米の碓からうすをふませて、弟には煮豆売りに歩かせ、売れ残りの酸すくなった煮豆は一家のお惣菜(そうざい)、それも母御の婆ばあさまが食べすぎると言って夫婦でじろりと睨にらむやつさ。それにしても、お産の騒ぎとは考えた。取揚婆が四人もつめかけ、医者は次の間で早め薬とは、よく出来た。お互いに、そんな身分になりたいものさね。大阿呆(おおあほう)め。お金は、それでもいくらか持っているようだし、現金払いなら、こちらは客商売、まあ、ごゆるりと遊んでいらっしゃい。とにかく、この一歩金、いただいて置きましょう、贋金(にせがね)でもないようだ。

「やれうれしや、」と婆はこぼれるばかりの愛嬌(あいきょう)を示して、一歩金を押しいただき、「鯛など買わずに、この金は亭主(ていしゅ)に隠して置いて、あたしの帯でも買いましょう。おほほほ。ことしの年の暮は、貧乏神と覚悟していたのに、このような大黒様が舞い込んで、これで来年中の仕合せもきまりました。お礼を申し上げますよ、旦那。さあ、まあ、どうぞ。いやですよ、こんな汚い台所などにお坐りになっていらしては。洒落(しゃれ)すぎますよ。あんまり恐縮で冷汗が出るじゃありませんか。なんぼ何でも、お人柄にかかわりますよ。どうも、長者のお旦那に限って、台所口がお好きで、困ってしまいます。貧乏所帯の台所が、よっぽどもの珍らしいと見える。さ、粋(すい)にも程度がございます。どうぞ、奥へ。」世におそろしきものは、茶屋の婆のお世辞である。
 お旦那は、わざとはにかんで頭を掻き、いやもう婆にはかなわぬ、と言ってなよなよと座敷に上り、
「何しろたべものには、わがままな男ですから、そこは油断なく、たのむ。」と、どうにもきざな事を言った。婆は内心いよいよ呆(あき)れて、たべものの味がわかる顔かよ。借金で首がまわらず青息吐息で、火を吹く力もないような情ない顔つきをしている癖に、たべものにわがままは大笑いだ。かゆの半杯も喉(のど)には通るまい。料理などは、むだな事だ、と有合せの卵二つを銅壺(どうこ)に投げ入れ、一ばん手数のかからぬ料理、うで卵にして塩を添え、酒と一緒に差出せば、男は、へんな顔をして、
「これは、卵ですか。」
「へえ、お口に合いますか、どうですか。」と婆は平然たるものである。
 男は流石(さすが)に手をつけかね、腕組みして渋面つくり、
「この辺は卵の産地か。何か由緒(ゆいしょ)があらば、聞きたい。」
 婆は噴き出したいのを怺(こらえ)て、
「いいえ、卵に由緒も何も。これは、お産に縁があるかと思って、婆の志。それにまた、おいしい料理の食べあきたお旦那は、よく、うで卵など、酔興に召し上りますので、おほほ。」
「それで、わかった。いや、結構。卵の形は、いつ見てもよい。いっその事、これに目鼻をつけてもらいましょうか。」と極めてまずい洒落を言った。婆は察して、売れ残りの芸者ひとりを呼んで、あれは素性の悪い大馬鹿の客だけれども、お金はまだいくらか持っているようだから、大晦日の少しは稼ぎになるだろう、せいぜいおだててやるんだね、と小声で言いふくめて、その不細工の芸者を客の座敷に突き出した。男は、それとも知らず、
「よう、卵に目鼻の御入来。」とはしゃいで、うで卵をむいて、食べて、口の端に卵の黄味をくっつけ、或(あるい)はきょうは惚(ほれ)られるかも知れぬと、わが家の火の車も一時わすれて、お酒を一本飲み、二本飲みしているうちに、何だかこの芸者、見た事があるような気がして来た。馬鹿ではあるが、女に就いての記憶は悪強い男であった。女は、大晦日の諸支払いの胸算用をしながらも、うわべは春の如(ごと)く、ただ矢鱈(やたら)に笑って、客に酒をすすめ、
「ああ、いやだ。また一つ、としをとるのよ。ことしのお正月に、十九の春なんて、お客さんにからかわれ、羽根を突いてもたのしく、何かいい事もあるかと思って、うかうか暮しているうちに、あなた、一夜明けると、もう二十(はたち)じゃないの。はたちなんて、いやねえ。たのしいのは、十代かぎり。こんな派手な振袖ふりそでも、もう来年からは、おかしいわね。ああ、いやだ。」と帯をたたいて、悶(もだ)えて見せた。

「思い出した。その帯をたたく手つきで思い出した。」男は記憶力の馬鹿強いところを発揮した。「ちょうどいまから二十年前、お前さんは花屋の宴会でわしの前に坐り、いまと同じ事を言い、そんな手つきで帯をたたいたが、あの時にもたしか十九と言った。それから二十年経たっているから、お前さんは、ことし三十九だ。十代もくそもない、来年は四十代だ。四十まで振袖を着ていたら、もう振袖に名残(なごり)も無かろう。からだが小さいから若く見えるが、いまだに十九とは、ひどいじゃないか。」と粋人も、思わず野暮の高声になって攻めつけると、女は何も言わずに、伏目になって合掌した。
「わしは仏さんではないよ。縁起でもない。拝むなよ。興覚めるね。酒でも飲もう。」手をたたいて婆を呼べば、婆はいち早く座敷の不首尾に気附いて、ことさらに陽気に笑いながら座敷に駈けつけ、
「まあ、お旦那。おめでとうございます。どうしても、御男子ときまりました。」
「何が。」と客はけげんな顔。
「のんきでいらっしゃる。お宅のお産をお忘れですか。」
「あ、そうか。生れたか。」何が何やら、わけがわからなくなって来た。
「いいえ、それはわかりませんが、いまね、この婆が畳算(たたみざん)で占(うら)なってみたところ、あなた、三度やり直しても同じ事、どうしても御男子。私の占いは当りますよ。旦那、おめでとうございます。」と両手をついてお辞儀をした。
 客は、まぶしそうな顔をして、
「いやいや、そう改ってお祝いを言われても痛みいる。それ、これはお祝儀(しゅうぎ)。」と、またもや、財布から、一歩金一つ取り出して、婆の膝元に投げ出した。とても、いまいましい気持である。
 婆は一歩金を押しいただき、
「まあ、どうしましょうねえ。暮から、このような、うれしい事ばかり。思えば、きょう、あけがたの夢に、千羽の鶴(つる)が空に舞い、四海(しかい)波(なみ)押しわけて万亀(ばんき)が泳ぎ、」と、うっとりと上目使いして物語をはじめながら、お金を帯の間にしまい込んで、「あの、本当でございますよ、旦那。眼がさめてから、やれ不思議な有難い夢よ、とひどく気がかりになっていたところにあなた、いきなお旦那が、お産のすむまで宿を貸せと台所口から御入来ですものねえ、夢は、やっぱり、正夢(まさゆめ)、これも、日頃のお不動信心のおかげでございましょうか。おほほ。」と、ここを先途(せんど)と必死のお世辞。
 あまりと言えば、あまりの歯の浮くような見え透いたお世辞ゆえ、客はたすからぬ気持で、
「わかった、わかった。めでたいよ。ところで何か食うものはないか。」と、にがにがしげに言い放った。
「おや、まあ、」と婆は、大袈裟にのけぞって驚き、「どうかと心配して居(おり)ましたのに、卵はお気に召したと見え、残らずおあがりになってしまった。すいなお方は、これだから好きさ。たべものにあきたお旦那には、こんなものが、ずいぶん珍らしいと見える。さ、それでは、こんど何を差し上げましょうか。数の子など、いかが?」これも、手数がかからなくていい。
「数の子か。」客は悲痛な顔をした。
「あら、だって、お産にちなんで数の子ですよ。ねえ、つぼみさん。縁起ものですものねえ。ちょっと洒落た趣向じゃありませんか。お旦那は、そんな酔興なお料理が、いちばん好きだってさ。」と言い捨てて、素早く立ち去る。

 旦那は、いよいよ、むずかしい顔をして、
「いまあの婆は、つぼみさん、と言ったが、お前さんの名は、つぼみか。」
「ええ、そうよ。」女は、やぶれかぶれである。つんとして答える。
「あの、花の蕾(つぼみ)の、つぼみか。」
「くどいわねえ。何度言ったって同じじゃないの。あなただって、頭の毛が薄いくせに何を言ってるの。ひどいわ、ひどいわ。」と言って泣き出した。泣きながら、「あなた、お金ある?」と露骨な事を口走った。
 客はおどろき、
「すこしは、ある。」
「あたしに下さい。」色気も何もあったものでない。「こまっているのよ。本当に、ことしの暮ほど困った事は無い。上の娘をよそにかたづけて、まず一安心と思っていたら、それがあなた、一年経つか経たないうちに、乞食(こじき)のような身なりで赤子をかかえ、四、五日まえにあたしのところへ帰って来て、亭主が手拭(てぬぐい)をさげて銭湯へ出かけて、それっきり他(ほか)の女のところへ行ってしまった、と泣きながら言うけれど、馬鹿らしい話じゃありませんか。娘もぼんやりだけど、その亭主もひどいじゃありませんか。育ちがいいとかいって、のっぺりした顔の、俳諧(はいかい)だか何だかお得意なんだそうで、あたしは、はじめっから気がすすまなかったのに、娘が惚れ込んでしまっているものだから、仕方なく一緒にさせたら、銭湯へ行ってそのまま家へ帰らないとは、あんまり人を踏みつけていますよ。笑い事じゃない。娘はこれから赤子をかかえて、どうなるのです。」
「それでは、お前さんに孫もあるのだね。」
「あります。」とにこりともせず言い切って、ぐいと振り挙げた顔は、凄(すご)かった。「馬鹿にしないで下さい。あたしだって、人間のはしくれです。子も出来れば、孫も出来ます。なんの不思議も無いじゃないか。お金を下さいよ。あなた、たいへんなお金持だっていうじゃありませんか。」と言って、頬(ほお)をひきつらせて妙に笑った。
 粋人には、その笑いがこたえた。
「いや、そんなでもないが、少しなら、あるよ。」とうろたえ気味で、財布から、最後の一歩金を投げ出し、ああ、いまごろは、わが家の女房、借金取りに背を向けて寝て、死んだ振りをしているであろう、この一歩金一つでもあれば、せめて三、四人の借金取りの笑顔を見る事は出来るのに、思えば、馬鹿な事をした、と後悔やら恐怖やら焦躁(しょうそう)やらで、胸がわくわくして、生きて居られぬ気持になり、
「ああ、めでたい。婆の占いが、男の子とは、うれしいね。なかなか話せる婆ではないか。」
とかすれた声で言ってはみたが、蕾は、ふんと笑って、
「お酒でもうんと飲んで騒ぎましょうか。」と万事を察してお銚子(ちょうし)を取りに立った。
 客はひとり残されて、暗憺(あんた)ん、憂愁、やるかたなく、つい、苦しまぎれのおならなど出て、それもつまらない思いで、立ち上って障子をあけて匂(におい)を放散させ、
「あれわいさのさ。」と、つきもない小唄(こうた)を口ずさんで見たが一向に気持が浮き立たず、やがて、三十九歳の蕾を相手に、がぶがぶ茶碗酒ちゃわんざけをあおっても、ただ両人まじめになるばかりで、顔を見合せては溜息(ためいき)をつき、
「まだ日が暮れぬか。」
「冗談でしょう。おひるにもなりません。」
「さてさて、日が永い。」
 地獄の半日は、竜宮(りゅうぐう)の百年千年。うで卵のげっぷばかり出て悲しさ限りなく、
「お前さんはもう帰れ。わしはこれから一寝入りだ。眼が覚めた頃には、お産もすんでいるだろう。」と、いまは、わが嘘にみずから苦笑し、ごろりと寝ころび、
「本当にもう、帰ってくれ。その顔を二度とふたたび見せてくれるな。」と力無い声で歎願(たんがん)した。
「ええ、帰ります。」と蕾は落ちついて、客のお膳(ぜん)の数の子を二つ三つ口にほうり込み、「ついでに、おひるごはんを、ここでごちそうになりましょう。」と言った。

 客は眼をつぶっても眠られず、わが身がぐるぐる大渦巻(おおうずまき)の底にまき込まれるような気持で、ばたんばたんと寝返りを打ち、南無阿弥陀(なむあみだ)、と思わずお念仏が出た時、廊下に荒き足音がして、
「やあ、ここにいた。」と、丁稚(でっち)らしき身なりの若い衆二人、部屋に飛び込んで来て、「旦那、ひどいじゃないか。てっきり、この界隈(かいわい)と見込みをつけ、一軒一軒さがして、いやもう大骨折さ。無いものは、いただこうとは申しませんが、こうしてのんきそうに遊ぶくらいのお金があったら、少しはこっちにも廻してくれるものですよ。ええと、ことしの勘定は、」と言って、書附けを差出し、寝ているのを引起して、詰め寄って何やら小声で談判ひとしきりの後、財布の小粒銀ありったけ、それに玉虫色のお羽織、白柄(しらつか)の脇差、着物までも脱がせて、若衆二人それぞれ風呂敷(ふろしきに)包んで、
「あとのお勘定は正月五日までに。」と言い捨て、いそがしそうに立ち去った。
 粋人は、下着一枚の奇妙な恰好(かっこう)で、気味わるくにやりと笑い、
「どうもねえ、友人から泣きつかれて、判を押してやったが、その友人が破産したとやら、こちらまで、とんだ迷惑。金を貸すとも、判は押すな、とはここのところだ。とかく、大晦日には、思わぬ事がしゅったい致す。この姿では、外へも出られぬ。暗くなるまで、ここで一眠りさせていただきましょう。」と、これはまたつらい狸寝入(たぬきねいり)、陰陽、陰陽と念じて、わが家の女房と全く同様の、死んだ振りの形となった。
 台所では、婆と蕾が、「馬鹿というのは、まだ少し脈のある人の事」と話合って大笑いである。とかく昔の浪花(なにわ)あたり、このような粋人とおそろしい茶屋が多かったと、その昔にはやはり浪花の粋人のひとりであった古老の述懐。(「胸算用、巻二の二、訛言(うそ)も只は聞かぬ宿」)】
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その十八) [川原慶賀の世界]

(その十八)「川原慶賀の長崎歳時記(その十)菊見」周辺

観菊会(A図).jpg

●作品名:観菊会(A図) 「フイッセル・コレクション」
●Title:Chrysanthemum party, September
●分類/classification:年中行事・9月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

「花見・月見・雪見の朱文方印『慶賀』」.png

「花見・月見・雪見の朱文方印『慶賀』」(「フイッセル・コレクション」)(B図)

  この「フイッセル・コレクション」の「観菊会」(A図)は、一連のシリーズ(連作)ものとしては、これまでに紹介してきた「花見・月見・雪見の朱文方印『慶賀』」(「フイッセル・コレクション」)(B図)の「月見」と「雪見」との間に入るものなのであろう。
 その上で、この「観菊会」(A図)は、次の「掛物類」の「菊取り図」(C図)と連動しているようなのである。

菊取り図(C図).jpg

●作品名:菊取り図(C図) (「フイッセル・コレクション」?)  
●Title:Picking Mum flowers, Autumn
●分類/classification:年中行事 秋/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、軸/painting on paper,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite////target/kgdetail.php?id=1686&cfcid=142&search_div=kglist

 この「菊取り図」(C図)は、いわゆる「節句(五節句)」の時期に飾る掛軸の「節句掛(せっくがけ)」で、陰暦九月九日の「重陽(ちょうよう)」の、その節会(せちえ)、「菊の節供(せっく)」に掛ける掛軸であろう。
 そして、この「菊取り図」(C図)は、その「菊の節供(せっく)」に飾る掛軸に相応しい「描表装(かきひょうそう)」(絵表装・画表装)で、本絵の周囲の表装部分まで、お目出たい物をびっしりと描いている。
 その上部には、慶事用の「祝扇(いわいおうぎ)」にお祝いの「口上」(お祝いの言葉)を認め、さらに、西洋風のリボンのような白布(水引の蝶結びのような白い布)をめぐらしているという、何とも、仰々しいほどの「重陽」の「節句掛」に仕立てられている。

かるた取り図(D図).jpg

●作品名:かるた取り図(D図) (「フイッセル・コレクション」?) 
●Title:Cards game, January
●分類/classification:年中行事、1月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、軸/painting on paper,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

 この「かるた取り図」(D図)は、「正月七日」の「人日(じんじつ)」の節句などに因んでの「節句掛」ということになろう。
 「菊取り図」(C図)と「かるた取り図」(D図)と、「言葉遊び」の、この「取り」に因んでの、「双幅」の「一対」ものなのかも知れない

「夫婦対幅のうち夫」(E図).jpg

『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』の図録の表紙画
(「本絵」は「同図録」所収「出品目録№201)
「夫婦対幅のうち:夫」(E図) 絹本著色 107.0×51.0㎝ 「ブロムホフ・コレクション」か「フイッセルのコレクション」

『掛物類 191~202
慶賀の掛物類は小画面の所蔵作品に比すればその数は極めて少ないが、これまた三つのコレクションにそれぞれ含まれている。193~196、198~200 はシーボルト・コレクション、他はブロムホフ、フイッセルのコレクションに属している。これらのなかで『曲芸之図』者の作については疑問視されるが、『雛祭り』『湯治場』などのような枠飾りをもつ作品、『生花』『花鳥図』『絵師の工房』などのような作品は国内に現存する慶賀作品にはその例を見出すことはできない。作風については大和絵風、または中国写生派風などと多様であり、慶賀の作風展開をみるのに興味深い作品群である。なお、先年、沼田次郎氏が、西ドイツ・ボッフムのルール大学東亜学部に残されている慶賀の見積書か請求書を調査され、慶賀の画料を明らかにされたが(雑誌『日本歴史』第344号、1977年1月)、そのなかには、
 $20:―1vel Schilder
1. 弐百匁  画師之内 壱枚
 $20:―〃  School
 1. 〃    儒者之内 壱枚
といった例が見られる。ライデン民族学博物館には「絵師の工房」(200)と双幅をなす「儒者の書斎」も残されている。(陰里鉄郎稿)』
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 この『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」によると、この「夫婦対幅のうち:夫」(E図)は、「シーボルト・コレクション」ではなく、「ブロムホフ・コレクション」か「フイッセルのコレクション」ということになる。
 さらに、この「夫婦対幅のうち:夫」(E図)は、『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№123」)』にも、再度出品されて、その「作品解説」は、次のとおりである。

『夫婦図(123)
  楽器尽しの飾り枠が描かれている。(これと対をなす妻の図は器機尽しの飾り枠である。)
上部には白布をあしらったのは西洋様式の日本化ともいわれている。妻の方の白布は鶴がくわえている構図である。「川原氏印」「画賀在印」。」
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「主要作品解説」』)

 ここまで来て、「菊取り図」(C図)の「描表装」(「飾り枠」)は、全く、「夫婦対幅のうち:夫」(E図)の、それと同じもので、「楽器尽しの飾り枠」(「楽器尽しの描表装」)、そして、
「かるた取り図」(D図)の「飾り枠」(描表装)は、「器機尽しの飾り枠(描表装)」で、それらを基本にして仕立てているということなのである。
 その上で、これらの「菊取り図」(C図)と「かるた取り図」(D図)とは、「ブロムホフ・コレクション」のものか「フイッセル・コレクション「かるた取り図」(D図)ものかということになると、この「菊取り図」(C図)と「かるた取り図」(D図)とは、これまでの一連の「花見」「月見」「菊見」「雪見」と、同時期の「フイッセル・コレクション」のものと解して置きたい。
 さらに、ここまで来ると戯言の我田引水のこととなるが、この「夫婦対幅のうち:夫」(E図)の、この「美男子」は、嘗て記した、下記アドレスの、「酒井抱一」の若き日の「尻焼猿人」の像を想起せざるを得ない。
 と同時に、「夫婦対幅のうち:夫」(E図)の、その印章の、「川原氏印」・「画賀在印」の、「画賀(慶賀?)在印」に、「川原慶賀」という絵師は、なかなかの「洒落人」(粋人・俳諧師・言葉遊び人」等々)という印象を深くするのである。


(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-07

尻焼猿人一.jpg

『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・山東京伝画)/版元・蔦屋重三郎/版本(多色摺)/
一冊 二㈦・一×一八・〇㎝/「国文学研究資料館」蔵
【 大田南畝率いる四方側狂歌連、あたかも紳士録のような肖像集。色刷りの刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の主とみゆらん」。 】
(「別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人(仲町啓子監修)」所収「大名家に生まれて 浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」)

 上記の画中の「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」は、抱一の「狂歌」で使う号である。「尻が焼かれて赤く腫れあがった猿のような人」と、何とも、二十歳代の抱一その人を顕す号であろう。

 御簾(みす)ほどに
  なかば
   霞のかゝる時
  さくらや
   花の主(ぬし)と見ゆらん

 その「尻焼猿人」(抱一)は、尊いお方なので拝顔するのも「御簾」越しだというのである。そのお方は、「花の吉原」では、その「花(よしわら)の主(ぬし)」だというのである。これが、二十歳代の抱一その人ということになろう。
 俳諧の号は、「杜陵(綾)」を変じての「屠龍(とりょう)」、すなわち「屍(しかばね)の龍」(「荘子」に由来する「実在しない龍」)と、これまた、二十歳代の抱一その人を象徴するものであろう。この俳号の「屠龍」は、抱一の終生の号の一つなのである。
 ここに、「大名家に生まれて、浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂人」、酒井抱一の原点がある。

三味線と尺八.jpg

葛飾北斎画「三味線と尺八」(「立命館大学」蔵)
https://ja.ukiyo-e.org/source/ritsumei

 これは、抱一と同時代の葛飾北斎の「三味線と尺八」と題する作品の一つである。北斎は、宝暦十年(一七六〇)、武蔵国葛飾(現・東京都墨田区の一角)の百姓の出で、宝暦十一年(一七六一)、神田小川町の酒井雅楽頭家別邸生まれの抱一とは一歳違いだが、両者の境遇は月とスッポンである。
 抱一が、「天明の頃は浮世絵師歌川豊春の風を遊ハしけるが(後略)」(「等覚院殿御一代」)と、美人画を得意とする歌川派とすると、北斎は役者絵を得意とする勝川春章門であるが、寛政六年(一七九四)、三十五歳の頃、その勝川派から破門されている。
 上記の『吾妻曲狂歌文庫』に抱一が登場するのは、天明六年(一七八六)、抱一、二十六歳の頃で、その頃の北斎は、「群馬亭」の号で黄表紙の挿絵などを描いている。
抱一が、上記の北斎が描く「三味線と尺八」の図ですると、この右端の「御大尽」、そして、北斎は、左端の尺八を吹いている「幇間芸人」ということになろう。そして、この御大尽の風貌が、『吾妻曲狂歌文庫』のトップを飾る「尻焼猿人」(抱一)と瓜二つという風情なのである。
 この『吾妻曲狂歌文庫』で「尻焼猿人」を描いたのは、戯作者の雄・山東京伝(狂歌名=身軽折輔)こと浮世絵師・北尾政演(北尾派)その人であり、版元の蔦屋重三郎と手を組んで、黄表紙・洒落本などの世界のスーバースターだったのである。
 しかし、この蔦屋重三郎も山東京伝も、寛政二年(一七九〇)の「寛政の改革」(異学の禁・出版統制強化)により、「手鎖・身上半減の刑」を受け、寛政九年(一七九七)には蔦屋重三郎が亡くなり、山東京伝も厳しい出版統制下の中で、文化十三年(一八一六)に、その五十五年の生涯を閉じている。
 抱一もまた、この「寛政の改革」の余波に晒されることになるが、蔦屋重三郎が亡くなった年に、三十七歳の若さで出家し、西本願寺第十八世文如の弟子となり「等覚院文詮暉真」の法名を名乗ることになる。すなわち、「抱一上人」に様変わりするのである。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その十九) [川原慶賀の世界]

(その十九)「川原慶賀の長崎歳時記(その十一)「雪見」周辺

雪見(A図)(「フイッセル・コレクション」).jpg

●作品名:雪見(A図)(「フイッセル・コレクション」)
●Title:Snowscape
●分類/classification:年中行事、冬/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

『 (雪見)
 雪景色を観賞すること。大雪は豊作の前兆といわれ、積雪地帯では雪害に苦しんだが、一般には喜ばれた。そのこととの関連は明確でないが、宮廷や幕府では雪見の宴などが開かれた。延暦(えんりゃく)年間(782~806)からは初雪が降ると、群臣が参内(さんだい)して初雪見参(げんざん)が始まり、貞観(じょうがん)(859~877)のころからは雪見の宴を開く風もおこった。11世紀には白河(しらかわ)院が雪見の御幸(みゆき)をされ、後深草(ごふかくさ)帝の1251年(建長3)には後嵯峨(ごさが)上皇が船に乗って雪見をされた。鎌倉時代には幕府も雪見の宴を開き、室町、江戸に続く。芭蕉(ばしょう)の「いざ行かん雪見にころぶところまで」の句は有名で、風雅の徒が腰に瓢箪(ひょうたん)をぶら下げ、あるいは座敷の中で雪見酒の杯(さかずき)を傾ける。東京では上野、向島(むこうじま)、浅草公園などが雪見の場所とされ、隅田川には雪見船も出た。なお、障子の下半分が持ち上げられるようにつくり、ガラスをはめ込んだものなどを雪見障子、略して雪見という。[井之口章次]』
≪小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)≫

 次の「冨嶽三十六景《礫川雪の旦》」(葛飾北斎画)メトロポリタン美術館蔵(B図)は、その「初摺り」の「青」(ブルー)を基調としたもの、そして、「冨嶽三十六景《礫川雪の且(旦)》」(葛飾北斎画)東京富士美術館蔵(C図)は、「追加10図刊行以降の版」の「墨摺り」の「茶」(ダーク・ブラウン)系統の仕上がりとなっている。

「冨嶽三十六景《礫川雪の旦》」(葛飾北斎画)B図.jpg

「冨嶽三十六景《礫川雪の旦》」(葛飾北斎画)メトロポリタン美術館蔵(B図)
https://radonna.biz/blog/yukimi/

「冨嶽三十六景《礫川雪の旦》」(葛飾北斎画)C図.jpg

「冨嶽三十六景《礫川雪の且(旦)》」(葛飾北斎画)東京富士美術館蔵(C図)
(ふがくさんじゅうろっけい こいしかわゆきのあした)
木版画(木版多色刷)
葛飾北斎 (1760-1849)
天保元−天保3年(1830-32)頃
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/253089
『(解説)
礫川とは現在の文京区小石川あたりのこと。タイトルが示すように、夜半に雪の降った翌朝に、雪見、富士見を楽しむ人々の光景。富士上空には三羽の鳥が描かれている。初摺りの版は青く明けてきた朝の景が描かれるが、この版は、富士の背景が夕日に変えられているのは摺り師の趣向であろうか。主板も墨摺りで摺られており、追加10図刊行以降の版であろう。』(「文化遺産オンライン」)

 「フイッセル・コレクション」の「長崎歳時記(年中行事)」シリーズものも、この「北斎」(そして「北斎工房」)特有の「青」(ブルー)を基調とした作品が多いが、その中で、
この「青」(ブルー)を基調のものではなく、より多く、「北斎の娘・応為(お栄)」好みの
「陰影の深い」、「墨摺りの『茶』(ダーク・ブラウン)」系統のものが散りばめられている。
 それらの典型的なものが、下記のアドレスで紹介した「節分、豆まき」(D図)」ということになる。

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-27

(再掲)

「節分、豆まき」(F図).jpg

「節分、豆まき」(D図)
https://publicdomainr.net/mizue-6-0001867-llaytf/
「豆撒き(節分)」 紙本著色 30.5×39.5 ライデン国立民族学博物館蔵(「フイッセル・コレクション」)
Bean-scattering in February (to ward off evil spring)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№3」)

『 節分の行事については現在においてほとんどかわるところはないようである。長崎歳時記に、
 家内のともし火を悉く消し、いりたる豆は二合にても三合にても一升ますに入れ、年男とて、あるじ右の豆を持て恵方棚、神棚に向ひ至極小声をして福は内と三遍となへ、夫より大声にて鬼は外と唱ふ、家の一間ごとにうち廻り庭におり外をさして打出す。』(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 この「節分、豆まき」(F図)は、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』によると、「フイッセル・コレクション」所蔵のもので、「シーボルト・コレクション」所蔵の「節分、豆まき(B図)」(紙本墨画)や「節分、豆まき(C図)」(絹本着色)の先行的な作品と思われる。そして、葛飾応為の「吉原格子先之図(D図)」との関連ですると、この「フイッセル・コレクション」や「ブロムホフ・コレクション」所蔵の作品の方が、「応為と慶賀」との関係をより直接的に位置づけているもののように思われる。

葛飾応為筆「吉原格子先之図」(D図).jpg

葛飾応為筆「吉原格子先之図」(「太田記念美術館」蔵) (D図)
紙本著色一幅 26.3×39.8㎝ 文政~安政(1818~1860)頃
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/collection/list05

〖 吉原遊廓の妓楼、和泉屋の張見世の様子を描く。時はすでに夜。提灯が無くては足元もおぼつかないほどの真っ暗闇だが、格子の中の張見世は、まるで別世界のように赤々と明るく輝き、遊女たちはきらびやかな色彩に身を包まれている。馴染みの客が来たのだろうか、一人の遊女が格子のそばまで近寄って言葉を交わしているが、その姿は黒いシルエットとなり、表情を読み取ることができない。 光と影、明と暗を強調した応為の創意工夫に満ちた作品で、代表作に数えられる逸品。なお、画中の3つの提灯に、それぞれ「応」「為」「栄」の文字が隠し落款として記されており、応為の真筆と確認できる。〗(「太田記念美術館」)

川原慶賀筆「青楼」(E図).jpg

川原慶賀筆「青楼」紙本著色 25.3×49.2 ライデン国立民族学博物館蔵(「ブロムホフ・コレクション」) The Nagasaki gay quarter (E図)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№87」)

『 あかあかと明かりのついた遊郭を、通りに視点を置いて描いている。格子越しに見える内部、それを表からのぞいてひやかす客たち、二階には三味を弾かせ太鼓を叩いて陽気に騒ぐ客、提燈を持って通りを行き交う人々、そば屋、これらの人々が生き生きと描写されている。そして、本図で最も注意すべきことは、夜の人工的な光の錯綜を見事に捉えていることである。室内はろうそくの明かりで照らし出され、その室内の光は外にもれて通りの人々が持つ提燈の光とともに複雑な影を地面に作り出している。
 妓楼格子先を表した図は多く見ることができるが、本図ほど光と影を意識して描かれたものはないのではなかろうか。その点だけでも、本図を描いた慶賀を日本の近代絵画の先駆者として位置づけることができるであろう。(兼重護稿)』(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

(以下、略)

(参考)「『北斎・応為」・『抱一・其一』そして『慶賀』』の「雪・月・花」周辺

『北斎・応為」の「雪・月・花」(F図).png

『北斎・応為」の「雪・月・花」(F図)
左図(雪)=「冨嶽三十六景《礫川雪の且(旦)》」(葛飾北斎画)(東京富士美術館蔵)
中図(月)=「月下砧打ち美人図」(葛飾応為画)(東京国立博物館蔵)
右図(花)=「夜桜美人図」(葛飾応為画)(メナード美術館蔵)

「月下砧打美人図」(げっか きぬたうち びじんず) 紙本著色・一幅 113.4×31.1 款記「應為栄女筆」/「應」白文方印
『 満月に照らされ女性が砧を打つ場面。月夜に砧を打つ図は白居易の詩「聞夜砧」に由来し、夫を思いながら砧を打つ妻の情愛を象徴的に表す。後述の作品と比べて色彩が抑制的で癖が少ないことから、比較的早期の作品か。なお、本図の落款部分は後人が一度削り取ろうとして途中でやめたような痕跡があり、ある時所蔵していた人物が新たに北斎の落款を入れて売ろうと企図していたと想像される。』(「ウィキペディア」)

「春夜美人図」(しゅんや びじんず)または「夜桜美人図」(よざくら びじんず)
紙本著色・一幅 88.8x34.5 無款 
『 無款だが、北斎派風の女性描写や、明暗の付け方、灯籠などの細部の描写が他の応為作品と共通することから、応為筆だとほぼ認められている作品。元禄時代に活躍した女流歌人・秋色女を描いた作品だと考えられる。』(「ウィキペディア」)

『抱一』の「雪・月・花」.png

『抱一』の「雪・月・花」(酒井抱一画「富峯・吉野花・武蔵野月」)個人蔵(G図)
左図(月)=「武蔵野月」(絹本着色・三幅対) 各175.0×41.7㎝
中図(雪)=「富峯」(絹本着色・三幅対) 各175.0×41.7㎝
右図(花)=「吉野花」(絹本着色・三幅対)各175.0×41.7㎝

『 雪をかぶった富士を中心に、武蔵野の月と吉野の桜を脇幅に、雪月花と名所の三幅対とした江戸らしい吉祥画がある。表具部分も描いた描表装で、抱一のそれは大変珍しい。モノトーンの雪の松、桜、秋草と、画面を横切る大らかな気分の構図であると同時に、松葉の中心に金泥、萩に銀泥を添え、桜花の蕾から満開までの各様態を優しくとらえるなど細部は凝っている。其一の箱書が具わる。文晁にもこの三名所のほぼ同図様の作例がある。』(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版№116解説(松尾知子稿)」)

『其一』の「雪・月・花」.png

『其一』の「雪・月・花」(鈴木其一画「雪月花三美人図」)静嘉堂文庫美術館蔵(H図)  
左図(雪)=吉原三浦屋の名妓「薄曇」(絹本着色・三幅対) 各96.40×32.2㎝
中図(月)=吉原三浦屋の名妓「高尾」(絹本着色・三幅対) 各96.40×32.2㎝
右図(花)=吉原三浦屋の名妓「長門」(絹本着色・三幅対) 各96.40×32.2㎝

『 雪月花に、新吉原三浦屋お抱えの薄雲、高尾、長門の三名妓を見立て、寛文美人図の様式で描くという、趣向を凝らした作品である。上部の色紙型や短冊には抱一の手で俳句が記されている。高尾と薄雲の姿には、文政八年刊の『花街漫録』の挿絵に其一が写した花明国蔵の『高尾図』『薄雲図』という菱川印のある古画を参照している。背後に企画者関係者など多くの意向が感じられ、同じ頃の作とすると、其一としてかなり早い時期の大変な力作である。』(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版№300解説(松尾知子稿)」)

 この、「雪月花三美人図」(鈴木其一画)周辺については、下記のアドレスなどで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-07-30

(右図)なかれゐる身に似わしき花筏  長門
(中図)猪にたかれて萩の一夜かな  たか尾
(左図)初雪や誰か誠もひとつよき   薄雲

『慶賀』の『雪・月・花』.png

『慶賀』の「雪・月・花」(川原慶賀画「花見」「月見」「雪見」)ライデン国立民族学博物館蔵(I図)
左図「花見」(「ブロムホフ・コレクション」) 絹本著色・めくり 30.2×46.6㎝
中図「月見」(「ブロムホフ・コレクション」) 絹本著色・めくり 26.5×38.0㎝
右図「雪見」(「フイッセル・コレクション」) 絹本著色・めくり 30.2×44.7㎝

「牛若丸弁慶自画賛」.jpg

『牛若丸弁慶自画賛』(蕪村画・賛)一幅 紙本淡彩 48.6×26.0㎝ 逸翁美術館蔵
(『逸翁美術館名品展―蕪村と呉春―(サントリー美術館刊)』)


1023 雪月花つゐ(ひ)に三世のちぎりかな 紫狐庵写

 「雪月花」は「雑」(「春・夏・秋・冬」以外)の句となる。白楽天「雪月花時最憶君(雪月花ノ時最モ君ヲ憶ウ)」(白氏長慶集巻8)の詩句により四季の自然美を愛する風流をいう。
「三世のちぎり」は、主従の縁の、「過去・現在・未来」にわたること。「これ又三世の奇縁の始め、今より後は主従ぞと」(謡曲・橋弁慶)を踏まえている。句意は、「四季の風流の遊びをともにするうちに、ついに、主従の約を結ぶことになった。」(『蕪村全集一』所収「頭注・尾形仂稿」)
 この蕪村の句は、安永元年(一七二二)、蕪村(夜半亭二世)、五十七歳の頃の作である(「紫狐庵」号は、安永元年~六年)。この年、高井几董(後の「夜半亭三世」)は『其雪影』(蕪村七部集の第一)を刊行し、その「序」は蕪村が草した。
『蕪村全集一』所収「頭注・尾形仂稿」では、「几董が俳諧を解する熊三(几董の弟子)を僕にしたことを模したものか」としているが、これを「見立替え」(先に見立てたものを取りやめて、後から見立てたものと取り替えること。特に、遊客が前に選んだ遊女をやめて、後から定めた遊女と替えること。見立て直し)すると、この『牛若丸弁慶自画賛』(蕪村画・賛)の、この「牛若丸」は、「高井几董」(蕪村の後継者)で、その後ろの「弁慶」が、その師匠たる「蕪村」(夜半亭二世・紫狐庵)その人ということになる。
 これらのことを、「『北斎・応為」の「雪・月・花」(F図)』に当てはめると、「応為=牛若丸」、そして、「弁慶=北斎」ということになる。
 同様に、「『其一』の「雪・月・花」(鈴木其一画「雪月花三美人図」)静嘉堂文庫美術館蔵(H図)」は、その師筋に当たる「『抱一』の「雪・月・花」(酒井抱一画「富峯・吉野花・武蔵野月」)個人蔵(G図)」とは、「其一=牛若丸」、そして、「抱一=弁慶」という見立てになってくる。
 ここで、「『慶賀』の『雪・月・花』(川原慶賀画「花見」「月見」「雪見」)ライデン国立民族学博物館蔵(I図)」、その「牛若丸=慶賀」とすると、この「弁慶=石崎融思・シーボルト・フイッセル・ブロムホフ」と、「シーボルト・フイッセル・ブロムホフ」の、その注文主の「オランダ商館」の面々を前面に出して置きたい。
nice!(1)  コメント(2) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その十七) [川原慶賀の世界]

(その十七)「川原慶賀の長崎歳時記(その九)月見」周辺

月見宴(A図) .jpg

●作品名:月見宴(A図) 「ブロムホフ・コレクション」
●Title:Full-moom Viewing, September
●分類/classification:年中行事、9月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leide
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=4&cfcid=142&search_div=kglist
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№25」)
絹本著色 26.5×38.0

月見(B図) .jpg

●作品名:月見(B図) 「フイッセル・コレクション」
●Title:Full-moom Viewing, September
●分類/classification:年中行事、9月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=4&cfcid=142&search_div=kglist
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№10」)
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№17」)』)
絹本着色 33.4×47.2

月見(C図).jpg

●作品名:月見(C図) 「シーボルト・コレクション」
●Title:Full-moom Viewing, September
●分類/classification:年中行事、9月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=4&cfcid=142&search_div=kglist
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№18」)』)
絹本著色 26.5×36.0

 「ブロムホフ・コレクション」の「月見宴」(A図)は、これまでの「同コレクション」の「凧揚げ」「雛祭り」「花祭り」「陸(おか)ペーロン」「供琴・乞巧奠」「秋祭り(長崎くんち)」の、その一連の作品で、「川原慶賀」作ということになる。
 一つ気掛かりのことは、この作品は「絹本彩色・絹本著色」としているのだが、その他の作品は「紙本著色」で、この作品も、「紙本著色」の「まくり(めくり)=未表装の作品」ものなのかも知れない。
 次の「フイッセル・コレクション」の「月見」(B図)については、これまでの「同コレクション」の「花見」「井戸更え」「面浮立」の、その一連の作品で、この一連のものには、
印章(朱文方印「慶賀」)が捺されている。これらの一連の作品は「川原慶賀」作で、これらの作品は、「川原慶賀」作かどうかを見極める上での、一つの指標となる作品群ということになろう。

「花見・月見・雪見の朱文方印『慶賀』」.png

「花見・月見・雪見の朱文方印『慶賀』」(「フイッセル・コレクション」)(D図)

 ここで、「シーボルト・コレクション」の「月見」(C図)については、上記の「フイッセル・コレクション」の「花見・月見・雪見の朱文方印『慶賀』」(D図)の、その印章の捺されている下部右端の、その「花見(団扇を仰いでいる下僕)・月見(料理を運んでいる女性)・雪見(雪見する男と従者)」などと比較すると、やや異質な印象(同一人の作ではない?)を受けるのである。
 これらの、「ブロムホフ・コレクション」、「フイッセル・コレクション」そして「シーボルト・コレクション」の「長崎歳時記」(長崎年中行事)の作品群は、丁度、先に紹介した、下記アドレスの、別連作(シリーズ)の「人の一生」に関する、「ブロムホフ・コレクション」、「フイッセル・コレクション」そして「シーボルト・コレクション」の、それらの相互検証と同じような考証が要請されるような印象を深くする。
 これらのことに関して、下記アドレスに関して、その(参考)データを再掲して置きたい。

(参考)『「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作―野藤妙・宮崎克則(西南学院大学国際文化学部)』(九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 12, 1-20, 2014)所収「巻末図《人の一生》①(フィッセル・コレクション、その(1)のみシーボルト・コレクション、ライデン国立民族学博物館所蔵)」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-12

(再掲)

プロムホフ・シーボルトコレクション《人の一生》「誕生」.png

左図:プロムホフ・コレクション≪人の一生≫「誕生」(「人の一生画巻」・川原慶賀筆)
右図:シーボルト・コレクション≪人の一生≫「誕生」(シーボルトコレクションの《人の一生》は唯一23場面が全て揃っている。そのトップの場面。但し、「慶賀」の落款無。「川原慶賀筆?」)

フイッセル・シーボルトコレクション《人の一生》「寺院での葬式」.png

左図:フイッセル・コレクション≪人の一生≫「寺院での葬式」(「慶賀」の落款有。「川原慶賀筆」。23場面のうち「誕生」が欠落している。)
右図:シーボルト・コレクション≪人の一生≫「葬列の迎え」(シーボルトコレクションの《人の一生》23場面の22番目の場面。「慶賀」の落款無。「川原慶賀筆?」)

 上記の「左図」(プロムホフ・コレクション≪人の一生≫「誕生」)と「右図」(シーボルト・コレクション≪人の一生≫「誕生」)とを比較して鑑賞すると、「左図」は「着帯」の場面で、「右図」は「産湯と着帯」との場面で、これは、左の家では「産湯」、そして、隣の右の家では「着帯」の場面と、そのアレンジの妙が伝わってくる。
 次の「左図」(フイッセル・コレクション≪人の一生≫「寺院での葬式」)に対して、「右図」(シーボルト・コレクション≪人の一生≫「葬列の迎え」)の場面で、同じ、寺院のスナップなのだが、この「右図」の、中央の「位牌」の「戒名」が「酔酒玄吐……居士」などと書いてあり、「慶賀(慶賀工房)」の「洒落・遊びの精神」が随所に見受けられる(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「主要作品解説」)』・西武美術館刊)とか、この種の≪人の一生≫ものでは、下記の「④シーボルト・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》④)→「慶賀」の落款無」が、一番妙味があるような趣である。

 ここで、「川原慶賀・川原慶賀工房」作とされている「人の一生」と題するシリーズものは、「プロムホフ・フイッセル・シーボルト」の各コレクションが、ライデン国立民族学博物館所蔵となっている。
 そして、『「出島絵師」川原慶賀による《人の一生》の制作―野藤妙・宮崎克則(西南学院大学国際文化学部)』(九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 12, 1-20, 2014)では、さらに、「フイッセル・コレクション」は全部で三種類、蒐集者不明のもの一種類で、合計して六種類(プロムホフ・コレクションは「画巻」、その他「めくり」)のものを取り上げ(プロムホフ・コレクションの「画巻」は補足)、下記の「①フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》①)→「慶賀」の落款有」のみ、「川原慶賀筆」としている。そして、補足的に「プロムホフ・コレクションの『画巻』」を取り上げ、これも「川原慶賀筆」としている。
 その上で、唯一23場面が全て揃っている「④シーボルト・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》④)→「慶賀」の落款無」と「①フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》①)→「慶賀」の落款有」とを基準として、「人の一生」シリーズの全場面について、詳細な論及をしている。

①フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》①)→「慶賀」の落款有
②フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》②)→「慶賀」の落款無
③フィッセル・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》③)→「慶賀」の落款無
④シーボルト・コレクション《人の一生》(以下、《人の一生》④)→「慶賀」の落款無
⑤収集者不明《人の一生》(以下、《人の一生》⑤)→「慶賀」の落款無

(以下、略)
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その十六) [川原慶賀の世界]

(その十六)「川原慶賀の長崎歳時記(その八)面浮立・くんち」周辺

浮流面おどり(A図).jpg

●作品名:浮流面おどり(A図) 「フイッセル・コレクション」
●Title:Mask dance, Autum
●分類/classification:年中行事、秋/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1137&cfcid=142&search_div=kglist
「面浮立(めんふりゅう) 絹本著色 24.6×38.8㎝ 朱文方印「慶賀」
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№15」)
「 肥前地方の佐賀藩、大村藩の領内では秋祭りには面浮立が競って奉納されていた。娯楽の少なかった当時の農村にとって秋祭りの浮立興行は唯一の楽しみであり、村をあげて大いに賑わったものである。
 浮立には面浮立、ササラ、掛うち、獅子等と各種の曲目があるが、本図のように鬼の面をかぶって踊る面浮立は、その代表的なものである。」
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 この「フイッセル・コレクション」の「浮流面おどり・面浮立」(A図)には、右下端に「慶賀」の朱文方印が捺されており、「慶賀」筆として差し支えなかろう。

面浮流(B図).jpg

●作品名:面浮流(B図) 「シーボルト・コレクション」?
●Title:Mask dance, Autum
●分類/classification:年中行事・秋/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1137&cfcid=142&search_div=kglist
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№20」)』)
絹本著色 27.1×36.6㎝

 この「面浮流」(B図)は、『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№20」)の配列順序の作品(№18=「月見」、№19=「夏涼み」)からすると、「シーボルト・コレクション」の作品のように思われる。そして、この作品の一連のものの「シーボルト・コレクション」の作品は、「フイッセル・コレクション」の「浮流面おどり・面浮立」(A図)や、次の「ブロムホフ・コレクション」の「くんち」(C図)に比して、「川原慶賀作」と断定せず、「川原慶賀(又は「慶賀工房)作」と、含みを持たせて置きたい。 

くんち(C図) .jpg

●作品名:くんち(C図) 「ブロムホフ・コレクション」
●Title:Nagasaki-kunchi;Festival of Suwa-shrine, Septmber
●分類/classification:年中行事・9月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=970&cfcid=142&search_div=kglist
「秋祭り(長崎くんち)」 紙本著色 26.5×38.0㎝
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№26」)

この「くんち・秋祭り(長崎くんち)」(B図)は、「ブロムホフ・コレクション」のもので、これまでに取り上げてきた「ブロムホフ・コレクション」の「凧揚げ」「雛祭り」「花祭り」「陸(おか)ペーロン」、そして、次回に取り上げる「月見宴」と一連の、「慶賀」筆と解したい。

「くんち、万屋町、くじら」(D図).gif

●作品名:「くんち、万屋町、くじら」(D図) →「シーボルト・コレクション」(?) 
●Title:Nagasaki-kunchi;Festival of Suwa-shrine, Yorozuya-machi, Whale September
●分類/classification:年中行事、9月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

「くんち、樺島町、コッコデショ」(E図).gif

●作品名:「くんち、樺島町、コッコデショ」(E図)→「シーボルト・コレクション」(?)
●Title:Nagasaki-kunchi;Festival of Suwa-shrine, Kabashima-machi, KotKodeshyo, September
●分類/classification:年中行事、9月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

 その上で、これらの「シーボルト・コレクション」と思われる、紙本墨画の「くんち、万屋町、くじら」(C図)と「くんち、樺島町、コッコデショ」(D図)については、これらの「秋祭り(長崎くんち)」を、シーボルトの『NIPPON(日本)』の、その「石版挿絵」の一枚にとの意図を有している、その下絵のように思われる。そして、これらの下絵には、どの程度、慶賀自身が主体的に描いたものかということは、やはり「慶賀(又は慶賀工房)」作と解したい。
 そして、この「くんち、万屋町、くじら」(C図)は、下記のアドレスの、「捕鯨図」(『NIPPON』図版)や、ブランデンシュタイン城博物館蔵の「捕鯨図」に連動しているものと解すると、「慶賀工房」作というよりも、「川原慶賀」作という方向に傾いてくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-18

(再掲)

捕鯨図2.gif

九州大学付属図書館医学分館蔵
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1906477&start=&bbinfo_disp=0#?c=0&m=0&s=0&cv=15&r=0&xywh=442%2C640%2C3251%2C3631
『NIPPON』 第2冊図版(№338)「捕鯨」 福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

捕鯨図1.gif

ブランデンシュタイン城博物館蔵「捕鯨」

(参考)「長崎くんち・鯨の潮吹き・太鼓山(コッコデショ)」周辺(「ウィキペディア」)

(長崎くんち)→「諏訪神社の祭礼」

長崎くんち(ながさきくんち)、長崎おくんちは、長崎県長崎市の諏訪神社の祭礼である。10月7日から9日までの3日間催される。国の重要無形民俗文化財に指定されている(昭和54年指定、指定名称は「長崎くんちの奉納踊」)。
 「龍踊(じゃおどり)」「鯨の潮吹き」「太鼓山(コッコデショ)」「阿蘭陀万才(おらんだまんざい)」「御朱印船(ごしゅいんせん)」など、ポルトガルやオランダ、中国・ベトナムなど南蛮、紅毛文化の風合いを色濃く残した、独特でダイナミックな演し物(奉納踊)を特色としており、傘鉾、曳物(山車・壇尻)、太鼓山など、京都や堺の影響も窺える。
 「くんち」の名称は、旧暦の重陽の節句にあたる9月9日(くにち、九州北部地方の方言で「くんち」)に行ったことに由来するという説が有力である。「宮日」「供日」と表記されることもあるがこれは後年の当て字で、諏訪神社への敬意を表して「御」をつけたことから「おくんち」とも呼ばれるようになった。

(鯨の潮吹き)→「万屋町が奉納する演し物」

 万屋町が奉納する演し物で1778年(安永7年)に、たまたま町内に来ていた唐津呼子の者の勧めで奉納されたのを始まりとする。鯨の姿をした曳物と小船の曳物、納屋の形をした曳物で構成され、鯨を港に引き込み納屋で大漁を祝う様子を表現する。前日に出てくる鯨は大きく動き回るが、後日になると縛り付けるように網をかけられ、納屋にも雪や氷柱などが付き、冬の鯨の追い込みの姿を表している。


 演目の主役であり、曳き回しを行って鯨の泳ぐ姿を表現する。中には人が入っており、からくりを操作して水を4 - 5メートルの高さまで吹き上げる。
納屋
 演し物の主体となる曳物に囃子方を乗せることが出来ないため、囃子方は納屋の形をした専用の曳物の中から楽器を演奏する。
小船
 船頭衆を演じる子供が上に乗る小さな曳物で、船頭衆はこの上に立ち上がって「鯨引きうた」を歌う。

(太鼓山・コッコデショ)→「樺島町が奉納する演し物」

 樺島町が寛政11年(1799年)より、上町が平成28年(2016年)に奉納している演し物である。正式には太鼓山という名称で、コッコデショは担ぐときの掛け声から来ている。江戸時代、長崎で陸揚げされた貿易品は堺商人の廻船で全国に運ばれており、商船の船頭や水夫は樺島町の宿を定宿としていた。この船頭衆から堺壇尻や各地の踊りが伝わり、各地の要素が合わさって樺島町独自の演し物になったと考えられている。太鼓山は船、采振りは船頭、踊りは船や波の動きを表している。
 山車は担ぎ屋台となっており、4本の担ぎ棒に大太鼓を囲む櫓を組み、その上に5色の大座布団を載せて屋根としている。太鼓の四方には、赤い投げ頭巾を被った4人の男の子が座り、演技に合わせて太鼓を叩く。担ぎ棒に采振り4人を載せ、担ぎ手が足元を抑え、采振りが体を逸らし、大きく采を振って「ホーライエ」を歌いながら入場する[9]。
 踊りは太鼓山が長坂に向けて突っ込む「トバセ」、掛け声に合わせて山車を天空に投げて片手で受け止める「コッコデショ」、踊り馬場の中央で山車を回転させる「マワセ」、再び山車を投げる「コッコデショ」で1回が構成され、これが4回繰り返される。2回目の演技が終えたところで一旦退場しかけ、観客の「モッテコイ」に応えて3回目を行う。3回目の途中の「コッコデショ」で担ぎ手は一斉にに法被を投げ上げ、更に4回目の演技を終えたところで退場する。
 退場する際は再び采振り4人を担ぎ棒に乗せ、「ホーライエ」を歌いながら踊り馬場を後にする。

構成
 総指揮1名
指揮1名
長采3名
棒先(指揮が指示する方向に1〜8番棒の先端の縄を引っ張る)8名
采振り(コッコデショの周りで采を振る)4名
太鼓山(櫓の上で太鼓をたたく)2班4名ずつ
担ぎ手(山車を肩に担ぐ)36名
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その十五) [川原慶賀の世界]

(その十五)「川原慶賀の長崎歳時記(その七)精霊流し」周辺

『NIPPON』 第1冊図版(№191)「盆灯籠」(A図) .gif

『NIPPON』 第1冊図版(№191)「盆灯籠」(A図) 福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

精霊流し (B図).gif

●作品名:精霊流し (B図) (「シーボルト・コレクション」)
●Title:Sending the ancestor's ghosts afloat back to the under world after the Memorial Week, July
●分類/classification:年中行事、7月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

精霊流し(C図).jpg

●作品名:精霊流し(C図) (「シーボルト・コレクション」)
●Title:Sending the ancestor's ghosts afloat back to the under world after the Memorial Week, July
●分類/classification:年中行事・7月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1696&cfcid=142&search_div=kglist
「精霊流し」 絹本著色 28「精霊流し」 紙本著色 28.7×36.60
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№16」)』)

精霊流し(D図).jpg

●作品名:精霊流し(D図) (「フイッセル・コレクション」)
●Title:Sending the ancestor's ghosts afloat back to the under world after the Memorial Week, July
●分類/classification:年中行事 7月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館
National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1696&cfcid=142&search_div=kglist
「精霊流し」 紙本著色 30.7×40.0
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№7」)
「 石崎融思は長崎古今集覧名所図絵にすばらしい筆致で精霊船の図を描いている。それに比べてこの図を見ると歳時記に記されている盆の雑踏が少しも感じられないのである。そのことは慶賀がこの図を描くにあたってシーボルトの説明用として、長崎の精霊船がいかなる構造をしているものであるかということを主題として描いているためのような図を描くことになったのであろうか。」
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 『NIPPON』 第1冊図版(№191)「盆灯籠」(A図)は、シーボルトの大著『日本』に収載された「石版挿絵」(西洋人画家の作)、そして、その下絵と思われる「シーボルト・コレクション」の「精霊流し 」(B図)は、「川原慶賀(又は「慶賀工房)」作。そして、その本画(元絵)と思われるの「シーボルト・コレクション」の「精霊流し」(C図)は、やはり、川原慶賀(又は「慶賀工房)」作と解したい。
 その上で、この「シーボルト・コレクション」の「精霊流し」(C図)と、「フイッセル・コレクション」の「精霊流し」(D図)とを交互に鑑賞していくと、上記の後者(D図)の『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」の、「慶賀がこの図を描くにあたってシーボルトの説明用として、長崎の精霊船がいかなる構造をしているものであるかということを主題として描いている」という指摘が、一つの示唆を投げ掛けてくれる。
 これは「フイッセル・コレクション」のうちの作品の一つで、「シーボルトの説明用」というよりも、より多く、これは、注文主の「フイッセル」(1820年出島に商館員として赴任。9年間出島に滞在し、1822年にはブロンホフの江戸参府に随行し、絵画や大工道具などをコレクションした。帰国後、豊富な収集品や日本での経験に基づき『日本風俗誌』(『日本風俗備考』)を著した。1820年ブロンホフが長崎奉行や役人を招待して上演した芝居の中心人物としても知られる)の趣向を反映しているものと解したい。
 因みに、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」の、「石崎融思は長崎古今集覧名所図絵にすばらしい筆致で精霊船の図を描いている」の、その「精霊船」(挿絵図)は、次のものであろう。

「長崎古今集覧名所図絵」所収「精霊船」(石原融思画).gif

「長崎古今集覧名所図絵」所収「精霊船」(石原融思画)
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/uta/030725/index.html

「長崎古今集覧名所図絵」所収「精霊船」(部分拡大図).gif

「長崎古今集覧名所図絵」所収「精霊船」(石原融思画)→「部分拡大図」

(参考)「精霊流し」

精霊流し (しょうろうながし)
https://www.nagasaki-tabinet.com/event/51798

盆前に逝去した人の遺族が故人の霊を弔うために毎年8月15日に行われる伝統行事です。手作りした船を曳きながら街中を練り歩き、極楽浄土へ送り出すという長崎を象徴する盆風景です。
各家で造られる船は主に竹や板、ワラなどを材料とし大小さまざまで、長く突き出した船首(みよし)には家紋や家名、町名が大きく記されます。故人の趣味や趣向を盛り込んで装飾し、特徴的な船が造られます。町内合同でもやい船を出したり、8月になると細部の飾り付けにまでこだわった様々な造りかけの船が路上に多く見られるようになります。
当日は夕暮れ時になると町のあちらこちらから「チャンコンチャンコン」という鐘の音と、「ドーイドーイ」の掛け声が聞こえ、耳をつんざくほどの爆竹の音が鳴り響き、行列は夜遅くまで続きます。

精霊流し(「ウィキペディア」)

概要
 長崎市を始め、長崎県内各地でお盆に行われる伝統行事である(ただし、県内でも海から遠い波佐見町等にはこの風習はない)。隣県である佐賀県の佐賀市や、熊本県の熊本市、御船町などにも同様の風習が見られる。初盆を迎えた故人の家族らが、盆提灯や造花などで飾られた精霊船(しょうろうぶね)と呼ばれる船に故人の霊を乗せて、「流し場」と呼ばれる終着点まで運ぶ。
 毎年8月15日の夕刻から開催され、爆竹の破裂音・鉦の音・掛け声が交錯する喧騒の中で行われる。精霊船は山車(だし)を連想させる華美なものであり、見物客が集まる。「祭り」と誤解されることもあるが、あくまでも故人を追悼する仏教の行事である。
 初盆でない場合は精霊船は作らず、藁を束ねた小さな菰(こも)に花や果物などの供物を包み、流し場に持っていく。精霊船や供物は、以前は実際に海へと流されていたが、長崎市では1871年(明治4年)に禁止された。精霊船も水に浮かぶような構造にはなっていない。現在でも島原市、西海市、松浦市、五島市などでは、実際に川面や海上に浮かべることもある。
 熊本県御船町の精霊流しは、8月16日の夕刻から開催され、大小さまざまな精霊船が数人の引手と共に川の中に入り、2百メートルほど流された後、そのまま川の中で燃やされるという形が続いている。
 佐賀市では8月15日の夕刻から河港のあった今宿町などで行われ[1]100年以上の歴史があったが、2009年に地域の高齢化による担い手不足から中止となっている[2]。佐賀市久保田町の嘉瀬川や佐賀県護国神社沿いの多布施川などでも行われているが、それぞれ1989年(嘉瀬川)、2011年(多布施川)開始と歴史は浅い。
 長崎市には長崎くんちという祭りがあり、精霊船の造りはくんちの出し物の一つである曳物に似ている。曳物は山車を引き回すことがパフォーマンスで行われており、精霊流しの際もそれを真似て精霊船を引き回すことが一部で行われている。この行為は一般的には好ましい行為と見られておらず、警察も精霊船を回す行為には制止を行っている。郷土史家の越中哲也は、長崎放送の録画中継の中で「難破船になるですばい」と毎年、出演の度に「悪しき行為」と解説している。
 代表的な流し場である長崎市の大波止には、精霊船を解体する重機が置かれている。家族、親類らにより、盆提灯や遺影、位牌など、家に持ち帰る品々が取り外され、船の担ぎ(曳き)手の合掌の中、その場で解体される。

精霊船

 精霊船は大きく2つに分けることができる。個人船と、「もやい船」と呼ばれる自治会など地縁組織が合同で出す船である。個人で精霊船を流すのが一般的になったのは、戦後のことである。昭和30年代以前は「もやい船」が主流であり、個人で船を1艘造るのは、富裕層に限られた。
 もやい船、個人船に限らず、「大きな船」「立派な船」を出すことが、ステータスと考えている人もいる。現代でも「もやい船」の伝統は息づいており、自治会で流す船のほか、病院や葬祭業者が音頭を取り、流す船もある。また、人だけでなく、ペットのために流す船もある。
 流し場までの列は家紋入りの提灯を持った喪主や、町の提灯を持った責任者を先頭に、長い竿の先に趣向を凝らした灯篭をつけた「印灯篭」と呼ばれる目印を持った若者、鉦、その後に、揃いの白の法被で決めた大人が数人がかりで担ぐ精霊船が続く(「担ぐ」といっても船の下に車輪をつけたものが多く、実際には「曳く」ことが多い)。
 精霊流しは午後5時頃から10時過ぎまでかかることも珍しくないため、多くの船は明かりが灯るように制作されている。一般的な精霊船では提灯に電球を組み込み、船に積んだバッテリーで点灯させる。小型な船や一部の船ではロウソクを用いるが、振動により引火する危険があるため、電球を用いることが多い。また、数十メートルの大型な船では、発電機を搭載する大がかりな物もある。材質は木製のものが多いが、特に決まりはなく、チガヤ(西海市柳地区など[5])や強化段ボールなどが利用される場合もある。
 精霊船は「みよし」と呼ばれる舳先に家紋や苗字(○○家)、もやい船の場合は町名が書かれている。艦橋の部分には位牌と遺影、供花が飾られ、盆提灯で照らされる。仏画や「南無阿弥陀仏」の名号を書いた帆がつけられることが多い。
 印灯篭は船ごとに異なる。もやい船の場合はその町のシンボルになるものがデザインされている(例:町内に亀山社中跡がある自治会は坂本龍馬を描いている)。個人船の場合は家紋や故人の人柄を示すもの(例:将棋が好きだった人は将棋の駒、幼児の場合は好きだったアニメキャラなど)が描かれる。
 船の大きさは様々で、全長1~2メートル程度のものから、長いものでは船を何連も連ね20~50メートルに達するものまである。
 精霊船の基本形は前述の通りであるが、近年では印灯篭の「遊び心」が船本体にも影響を及ぼし、船の形をなしていない、いわゆる「変わり精霊船」も数多く見られる(例:ヨット好きの故人→ヨット型、バスの運転士→西方浄土行の方向幕を掲げたバス型など)。

精霊流しと爆竹

 爆竹が精霊流しで使われる由来には諸説あるが、中国の彩船流しの影響が色濃く出ているものとされている。また、流し場までの道行で鳴らされる爆竹は、中国が起源であるなら「魔除け」の意味であり、精霊船が通る道を清めるためとされる。近年ではその意味は薄れ、中国で問題になっている春節の爆竹と同様に、「とにかく派手に鳴らせばよい」という傾向が強まっている。数百個の爆竹を入れたダンボール箱に一度に点火して火柱が上がったりする等、危険な点火行為が問題視されている。観覧者を直撃することが多くあるため、ロケット花火の使用は禁止されている。度を過ぎた花火の使用をした場合、各船の花火取扱責任者(事前に精霊流しの花火についての講習を受けた者)に警察から指導が行く場合がある。
 伊藤一長が狙撃されて死去したとき、伊藤の精霊流しの際は、爆竹の音が銃声をイメージするとして自粛された。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その十四) [川原慶賀の世界]

(その十四)「川原慶賀の長崎歳時記(その六)七夕の節句(笹の節句)」周辺

『NIPPON』 第1冊図版(№179)「七夕」(A図).gif

『NIPPON』 第1冊図版(№179)「七夕」(A図) 福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

七夕(B図).gif

●作品名:七夕(B図) 「シーボルト・コレクション」
●Title:Tanabata (Star Festival) July
●分類/classification:年中行事、7月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

七夕(C図).jpg

●作品名:七夕(C図) 「シーボルト・コレクション」
●Title:Tanabata(Star Festival), July
●分類/classification:年中行事・7月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1258&cfcid=142&search_div=kglist
絹本着色 27.4×36.6㎝
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№12」)

七夕(D図).jpg

●作品名:七夕(D図) 「フイッセル・コレクション」
●Title:Tanabata(Star Festival), July
●分類/classification:年中行事・7月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1258&cfcid=142&search_div=kglist
紙本著色 30.5×40.0㎝
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№6」)

七夕(E図).jpg

●作品名:供琴、七夕(E図) 「ブロムホフ・コレクション」
●Title:Tanabata(Star Festival), July
●分類/classification:年中行事・7月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=969&cfcid=142&search_div=kglist
紙本著色 26.0×38.0㎝
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№24」)
『 7月6日(旧暦)は七夕様の待夜(たいや)といって、芸事を習う家ではこの夜それぞれの楽器を七夕様にお供えして芸の上達を願うという風習があった。長崎歳時記に次のように記している。
夜にいたりて机子(つくえ)に鏡餅、素麺、西瓜などを供し、燈(ともしび)を点して乞功奠(きっこうてん)とす。 』
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

「シーボルト・コレクション」の「七夕(B図)」(紙本墨画)も「七夕(C図)」(絹本彩色)も「川原慶賀(又は慶賀工房)」作のもので、大まかには「川原慶賀」筆としても違和感は抱かない。
そして、『NIPPON』 第1冊図版(№179)「七夕」(A図)は、この「七夕(B図)」(紙本墨画)と「七夕(C図)」(絹本彩色)との両者の上に成り立った「石販挿絵画」(西洋人作)という印象を抱くのである(全体の構図や風景描写は「B図」を基本として、人物の構図や描写は「C図」で修正している)。
 その上で、「シーボルト・コレクション」の「七夕(C図)」(絹本彩色)と「フイッセル・コレクション」の「七夕(D図)」(紙本本彩色)とを比較鑑賞していくと、この中景の「一階の格子戸の背景が、左図(D図)に人影があるのに対して、右図(C図)では、その人影が全く見られない。
 これは、下記のアドレスで触れた、「葛飾北斎」のゴーストライターともいわれている、北斎の三女「葛飾応為」(名は「栄」)の、川原慶賀が大きく影響を受けている、その「吉原格子先之図」の、その「光と影」(「光と影、明と暗を強調した応為の創意工夫)が、この「シーボルト・コレクション」の右図(C図)では度外視されているのである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-27

七夕(C図)と(D図).png

左図=「フイッセル・コレクション」の「七夕(D図)」(紙本本彩色)
右図=「シーボルト・コレクション」の「七夕(C図)」(絹本彩色)

 この左図の「フイッセル・コレクション」の「七夕(D図)」(紙本本彩色)は、上記のアドレスで取り上げた「節分」(豆まき)に関連しての、川原慶賀の傑作画に数えられる、「川原慶賀筆「青楼」紙本著色 25.3×49.2 ライデン国立民族学博物館蔵(「ブロムホフ・コレクション」)に連なるのと解したい。
 それを再掲して置きたい。

(再掲)

川原慶賀筆「青楼」(E図).jpg

川原慶賀筆「青楼」紙本著色 25.3×49.2 ライデン国立民族学博物館蔵(「ブロムホフ・コレクション」) The Nagasaki gay quarter (E図)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№87」)
『あかあかと明かりのついた遊郭を、通りに視点を置いて描いている。格子越しに見える内部、それを表からのぞいてひやかす客たち、二階には三味を弾かせ太鼓を叩いて陽気に騒ぐ客、提燈を持って通りを行き交う人々、そば屋、これらの人々が生き生きと描写されている。そして、本図で最も注意すべきことは、夜の人工的な光の錯綜を見事に捉えていることである。室内はろうそくの明かりで照らし出され、その室内の光は外にもれて通りの人々が持つ提燈の光とともに複雑な影を地面に作り出している。
 妓楼格子先を表した図は多く見ることができるが、本図ほど光と影を意識して描かれたものはないのではなかろうか。その点だけでも、本図を描いた慶賀を日本の近代絵画の先駆者として位置づけることができるであろう。(兼重護稿)』(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 次に、「ブロムホフ・コレクション」の「供琴、七夕(E図)」(紙本彩色)であるが、これはまた、「フイッセル・コレクション」の「七夕(D図)」(紙本本彩色)でも、「シーボルト・コレクション」の「七夕(C図)」(絹本彩色)の世界でもなく、これまた、「川原慶賀」の別な世界を垣間見せてくれる。
 そして、これもまた、「葛飾応為の美人画」の世界(下記のF図など)を、その「光と影」の世界と同じく、慶賀は、応為から、その技法を学び取ろうしている姿勢が、この「供琴、七夕(E図)」の拡大図(E-2図)などから窺えるように思えるのである。

「供琴、七夕(拡大図)」(E-2図).jpg

「供琴、七夕(拡大図)」(E-2図)川原慶賀筆(「ブロムホフ・コレクション」)

「『女重宝記』四「女ぼう香きく処」(葛飾応為筆)」(F図).gif

「『女重宝記』四「女ぼう香きく処」(葛飾応為筆)」(F図)
https://hokusai-museum.jp/taiketsu/

(参考) 酒井抱一筆「五節句図」の「乞巧奠」と川原慶賀筆の「乞巧奠」「(「供琴・七夕」)
周辺

酒井抱一筆「五節句図」.jpg

酒井抱一筆「五節句図」(「大倉集古館」蔵)→ (G図)
左より「重陽宴 - 菖蒲臺 - 小朝拝 - 曲水宴 - 乞巧奠」
五節句: 小朝拝(1月1日)・曲水宴(3月3日)・菖蒲臺(5月5日)・乞巧奠(7月7日)・「重陽宴(9月9日)それぞれを1幅ずつ描いた5幅からなる連作。」
http://kininaruart.com/wp/2013/05/%E5%A4%A7%E5%80%89%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%B2%BE%E8%8F%AF%E2%85%A0%E3%80%80%E9%85%92%E4%BA%95%E6%8A%B1%E4%B8%80%E3%81%AE%E3%80%8E-%E4%BA%94%E7%AF%80%E5%8F%A5/

「五節句より『重陽宴(ちょうようのえん)- 菖蒲臺・輿 (あやめのだい・こし)- 小朝拝(こちょうはい) - 曲水宴(ごくすいのえん) - 乞巧奠(きっこうでん)』
1827(文政10)年 絹本着色 五幅対
『小朝拝(1月1日)・曲水宴(3月3日)・菖蒲臺(5月5日)・乞巧奠(7月7日)・「重陽宴(9月9日)の五節句の宮中行事を五幅の掛軸に表した作品。端正な人物像は抱一晩年の円熟した画風を象徴する。行事の由来を抱一自身が美麗な冊子に記し、室町時代中期の公家、一条兼良(かねら)の『公事根源(くじこんげん)』を典拠とすることも付記されている。注文主鴻池儀兵衛(こうのいけぎへい)やその手代に充てた書簡もともに伝来している。(岡野智子稿)」(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』)

 酒井抱一(1761-1828)と葛飾北斎(1760?-1849)とは、全く同時代の人なのである。そして、川原慶賀(1786-1849)と葛飾応為(生没年未詳)とは、シーボルト事件(1828)前後に、その画業の制作が盛んな頃で、この二人も同時代の人と捉えることができる。
 ここで、このシーボルト事件(1828)が起きた年の十一月二十九に、抱一は雨華庵で、その六十八年の生涯を閉じている(北斎=六十九歳)。その前年(1827)に、抱一は、上記の「五節句図」(「大倉集古館」蔵)を制作している。
 この「五節句図」は、抱一の遺作ともいえるものの一つで、江戸琳派の祖と仰がれている抱一が、その琳派(尾形光琳風)の古典人物像の描写(ユニークな表情を特徴とする)ではなく、「建物も人物も細かく謹直な線描で描かれている、特に顔は、やまと絵の伝統的な「引目鉤鼻(ひきめかぎばな)」を明らかに意識した精緻な描写である」(「岡野・前稿)と、「やまと絵(土佐派・住吉派)」への回帰をも暗示している。
 この画人としてのスタートは、北斎と同じく、浮世絵(特に「美人画」)の世界なのである。
 これらのことについては、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-20

抱一 村雨図.jpg

酒井抱一「松風村雨図」(細見美術館蔵)→ (H図)
「『松風村雨図』は浮世絵師歌川豊春に数点の先行作品が知られる。本図はそれに依ったものであるが、墨の濃淡を基調とする端正な画風や、美人の繊細な線描などに、後の抱一の優れた筆致を予測させる確かな表現が見出される。兄宗雅好みの軸を包む布がともに伝来、酒井家に長く愛蔵されていた。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「二章 浮世絵制作と狂歌」)

抱一・文読む美人図.jpg

酒井抱一筆「文読む美人図」一幅 太田記念美術館蔵→ (I図)
「二十代の抱一が多数描いた美人画の中でも最初の段階を示す作らしく、手つき足首など、たどたどしく頼りなさがあるが、側面の顔立ちが柔和で、帯の文様など真摯な取り組みが初々しい。安永期に活躍し影響の大きかった浮世絵師、磯田湖龍斎による美人画の細身なスタイルの反映があることも、制作時期の早さを示す。『楓窓杜綾畫』と署名し、『杜綾』朱文印を捺す。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「二章 浮世絵制作と狂歌」)

ここでは、この「往時流行した『紅(べに)嫌い』の趣向の抱一筆「松風村雨図(H図)」が、上記の「フイッセル・コレクション」の慶賀筆「七夕(D図)に対して、「ブロムホフ・コレクション」の慶賀筆「供琴、七夕)」(E図・E-2図)は、その「紅嫌い」の「墨画」調ではなく、「紅(赤)」を効果的に活かした「彩色画」の、抱一筆「文読む美人図」(I図)の世界との印象を抱くのである。
 それと同時に、酒井抱一と川原慶賀は、その両人の生涯において、何らの直接的な接点は見出されないが、シーボルト事件(1828)の年に永眠した抱一の遺作ともいうべき、その「五節句図」の「乞巧奠」と、いわゆる「長崎歳時記」の一環の数ある「五節句」のうちの一つの、その「乞巧奠」とは、抱一のそれが「古典(やまと絵)的風俗画」の世界のものとすると、まさに、「現代(浮世絵)的風俗画」という思いに駆られてくる。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その十三) [川原慶賀の世界]

(その十三)「川原慶賀の長崎歳時記(その五)端午の節句(菖蒲の節句)」周辺

『NIPPON』 第1冊図版(№178)「端午の節句(菖蒲の節句)」(A図).gif

『NIPPON』 第1冊図版(№178)「端午の節句(菖蒲の節句)」(A図) 福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

端午の節句(B図).gif

●作品名:端午の節句(B図)
●Title:Boy's Festival, May
●分類/classification:年中行事、5月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

端午の節句(C図).jpg

●作品名:端午の節句(C図)
●Title:Boy's Festival, March
●分類/classification:年中行事・5月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=77&cfcid=142&search_div=kglist

 この「端午の節句(B図)」(紙本墨画)と「端午の節句(C図)」(絹本彩色画)とは、「シーボルト・コレクション」のものである。そして、この「端午の節句(B図)」(紙本墨画)の「人物像と鍾馗ののぼり旗」などの描写からすると、『NIPPON』 第1冊図版(№178)「端午の節句(菖蒲の節句)」(A図)の「下絵」ではなく、「端午の節句(C図)」(絹本彩色画)の「下絵」の雰囲気で、「石販挿絵画家」(西洋人)の作ではなく、「川原慶賀(又は慶賀工房)」の作のような雰囲気を有している。
 これらの「端午の節句(A図・B図・C図)」と全く別の図柄の、次の「フイッセル・コレクション」の「端午の節句(D図)」が、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』では紹介されており、その「主要作品解説」では、「慶賀の風俗画における傑作画の一つに数えてよいものであろう」との評をしている。

端午の節句(D図).jpg

●作品名:端午の節句(D図)
●Title:Boy's Festival, March
●分類/classification:年中行事・5月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

「端午の節句」 紙本著色 30.5×40.0 (フイッセル・コレクション)
Boy's Festival ( March)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№4」)
『 本図は長崎における江戸時代の男節句外かざり風景を実によく描いている。慶賀の風俗画における傑作画の一つに数えてよいものであろう。慶賀は時として風俗画の中によく犬を描いているが、その犬が画面の風景ともよくとけ合って巧みに描かれている。慶賀は犬好きな人であったのであろうか  』
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)


(参考)「花見」「ハタ揚げ」「花祭り(花の節句)」「陸ペーロン」「水祖神祭礼」「井戸替え」など

花見(E図).jpg

●作品名:花見(E図) 「ブロムホフ・コレクション」
●Title:Cherry-blossom viewing by a river in spring, March
●分類/classification:年中行事、3月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

ハタ揚げ(F図).jpg

●作品名:ハタ揚げ(F図) 「ブロムホフ・コレクション」
●Title:March kite flying, Spring
分類/classification:年中行事、春/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館
National Museum of Ethnology, Leiden

花祭り(G図).jpg

●作品名:花祭り(G図) 「ブロムホフ・コレクション」
●Title:The Buddha's birthday, April
●分類/classification:年中行事・4月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

陸ペーロン(H図).jpg

●作品名:陸ペーロン(H図) 「ブロムホフ・コレクション」
●Title:Children's boat race, May
●分類/classification:年中行事・5月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

水祖神祭礼(I図) .jpg

●作品名:水祖神祭礼(I図) 「フイッセル・コレクション」
●Title:Warter God Festival, March
●分類/classification:年中行事・5月/Annual events
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

水祖神祭礼(J図).jpg

●作品名:水祖神祭礼(J図) 「シーボルト・コレクション」
●Title:Warter God Festival, March
●分類/classification:年中行事・5月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

水祖神祭り(K図) .gif

●作品名:水祖神祭り(K図) 「シーボルト・コレクション」
●Title:Water God Festival May
●分類/classification:年中行事、5月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden


井戸替え(L図) .jpg

●作品名:井戸替え(L図) 「ブロムホフ・コレクション」
●Title:Well cleaning, May
●分類/classification:年中行事・5月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/////target/kgdetail.php?id=1064&cfcid=142&search_div=kglist
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№13」)』)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№14」)

絹本着色 24.6×38.8

井戸替え(M図).jpg

●作品名:井戸替え(M図) 「シーボルト・コレクション」
●Title:Well cleaning, May
●分類/classification:年中行事・5月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//////target/kgdetail.php?id=1136&cfcid=142&search_div=kglist
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№14」)』)

絹本着色 27.0×36.2

(特記事項)

「フイッセル・コレクション」(I図)のものは、「紙本彩色(着色)画」で、大きさ(法量)は「30.5×40.0㎝」程度のものが多いが、「ブロムホフ・コレクション」(E図~H図・L図)と「シーボルト・コレクション」(J図・K図・M図)のものは「絹本彩色(着色)画」で、大きさ(法量)は、前者が「24.6×38.8㎝」程度、後者が「27.0×36.2㎝」程度のものが多い。
 制作年次的には、「ブロムホフ・コレクション」と「フイッセル・コレクション」とは、
文政五年(一八二二)の「江戸参府」(「ブロムホフ(商館長)・フイッセル(商館員・書記・『日本風俗備考』の著者」)前後、そして、「シーボルト・コレクション」のものは、文政九年(一八二六)の「江戸参府」(「スチュルレル(商館長)・シーポルト(商館付医師)・川原慶賀(シーボルト付人)」)前後から、それ以降と大雑把に区分けすることが出来る。
 そして、「シーボルト・コレクション」のものは、「植物図譜」「動物図譜」「日本風俗風習図譜」(「長崎歳時記」・「人の一生」「生産と道具図」「職人尽し図」など)「江戸参府図譜」「中国・唐人屋敷図譜」「阿蘭陀・出島図譜」「露西亜・アイヌ・朝鮮関係図譜」など、多種多様で、その「シーボルト」の要請に応えるためには、「川原慶賀」単独作というよりも、慶賀の息子(田口蘆国)や師筋の「石崎融思」門の「助っ人」絵師による「川原慶賀工房」作というニュアンスが、「ブロムホフ・コレクション」と「フイッセル・コレクション」の作品よりも、濃厚になってくるというように、これまた、大雑把な理解をして置きたい。


長崎歳時記(メモ)

『長崎歳時記(野口文龍著)』の「現代語訳全文」については、「川原慶賀の『日本』画帳《シーボルトの絵師が描く歳時記》」(下妻みどり編)」の「巻尾の章」(p195以下)に全文掲載されている。また、下記のアドレスで、そのうちのアップされたものなどを閲覧することが出来る。

https://note.com/mitonbi/n/nd19ac15e4197

 また、その原文は、次のアドレスで閲覧することが出来る。

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1546781&start=#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=0%2C-332%2C1467%2C1642

(以下は、「参考」データ)

五節句

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E5%8F%A5

人日(じんじつ)→ 1月7日 ※七草の節句、七草粥。
上巳(じょうし)→ 3月3日 ※桃の節句・雛祭、菱餅や白酒など。
端午(たんご)→  5月5日 ※菖蒲の節句、菖蒲酒。菖蒲湯の習俗あり。関東では柏餅、中国や関西ではちまき。→ (A図)(B図)(C図)(D図)
七夕(しちせき)→ 7月7日 ※笹の節句・七夕(たなばた)、裁縫の上達を願い素麺が食される。
重陽(ちょうよう)→9月9日 ※菊の節句、菊を浮かべた酒など。

花見 → (E図)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E8%A6%8B

 花見(はなみ)は、樹木に咲いている花、主にサクラの花を鑑賞し、春の訪れを寿ぐ日本古来の風習である。副称は観桜(かんおう)である。

ハタ揚げ → (F図)

https://ja.wikiped ia.org/wiki/%E5%87%A7

 14世紀頃から交易船によって、南方系の菱形凧が長崎に持ち込まれ始めた。江戸時代の17世紀には、長崎出島で商館の使用人たち(インドネシア人と言われる)が凧揚げに興じたことから、南蛮船の旗の模様から長崎では凧を「ハタ」と呼び、菱形凧が盛んになった。 
これは、中近東やインドが発祥と言われる菱形凧が、14-15世紀の大航海時代にヨーロッパへと伝わり、オランダの東方交易により東南アジアから長崎に広まったものとされる。

花祭り(灌仏会) → (G図)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%8C%E4%BB%8F%E4%BC%9A

 灌仏会(かんぶつえ)は、釈迦の誕生を祝う仏教行事である。日本では原則として毎年4月8日に行われ、一般的には花祭・花祭り・花まつり(はなまつり)と呼ばれている。 降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、浴仏会(よくぶつえ)、龍華会(りゅうげえ)、花会式(はなえしき)の別名もある。

陸(おか)ペーロン → (H図)

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken08122/index.html

 江戸時代の旧正月には、陸(おか)ペーロン、またの名を「せーらえん」という子どもの遊びがあった、これは、いわゆる大人のペーロンの真似事。ぶらぶら節に出てくる
  ♪大井手町の橋の上で 子供の旗(はた)喧嘩
 この「旗喧嘩」もこの陸ペーロンのこと。青竹でペーロン船を真似て作り、幟旗(のほりばた)を押し立て、他の組と競走して勝った方が相手の旗を取って遊んだ。
  ♪世話町は五六町ばかりも 二三日ぶうらぶら
   ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅう
 ときたまこれに大人が加わり大騒動となって、仲裁役の世話町が入って、収まるのに二三日かかることもあったというのだ。

水祖神祭礼 → (I図)(J図)(K図)
 
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken08122/index1.html

江戸時代の旧暦五月には、川沿いの町で川祭りがさかんに行われていた。その様子はシーボルトが記した『日本』にも紹介されている。なかでも最も有名だったのが長崎の奥の入江としての機能を果たしていた大黒町の水神祭で、これは昭和初期まで盛大に行われていた。海中に祭壇を設け、それが面する道路に「奉祭礼八大龍王水神宮」と書かれたのぼりを揚げた。市中七か町を経て海へ注ぐ岩原川がこの辺りで潟地となり、川祭りの際は、町内の若者が素っ裸の全身にこの潟を塗って目だけを光らせた河童を真似、銅鑼(どら)を叩いて他町まで行き暴れたという。祭りに訪れた子ども達には、水難除けのお守りが配られ、ご馳走が振る舞われたため、この大黒町の川祭りは、市中の子ども達が心待ちにする大イベントだった。

(特記事項)

 この(K図)の「奉祭礼八大龍王水神宮」の幟旗の字が「真逆」になっている。これは「石版挿絵画家」(西洋人)の作で、その原画(I図)(J図)を描いた「川原慶賀(又は「慶賀工房)」の作ではないように思われる。

井戸替え → (L図)(M図)

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/otakara/080804/index.html

 長崎の町は開港と同時期に現在の県庁前付近、長い岬に開かれた六つの町からはじまった。ポルトガルとの貿易を機に行われたこの町建ての際、当然のごとく生活用水を用立てる手段として井戸が掘られたわけだが……実は、そんな遠い昔に掘られ、使用されていた井戸が今も現存している。
その井戸を、まずは県庁前の横断歩道脇、車道から10cm程高くなった人々が日々行き交う歩道に発見。そこに見慣れた手押し井戸ポンプがぽつねんとある。これが遥か400年余り前にさく井(せい)された【六町時代の井戸】だというから驚きだ(もちろんポンプは後付け)。
そして、メルカつきまちの裏、県庁坂より、築町の石垣の下には【下町の井戸】。長崎県警本部裏手の石垣の下には【崖の下の井戸】というように、今の長崎の町のはじまりとなった市役所から県庁にかけての旧道を含む道筋には、意外にも多くの井戸が現存している。これらの井戸のほとんどは江戸時代から使われているもので、特に【崖の下の井戸】などは、オランダ船へ積み込む飲料水として使用されていた。この辺りは、かつて岬であった開港当時、引いては寄せる波の音が響く崖だったのだ。この崖下にあったため、その名も【崖の下の井戸】。この並びには当時もっとたくさんの井戸があり、そこから引かれた水もポルトガル船やオランダ船、唐船などの乗組員の飲料水として使われていたという。
■南蛮貿易時代の井戸
いつもこの道を通っているという人の中にも、この井戸の存在、知らない人いるかも?
江戸時代、長崎の町を取り締まった地役人・町年寄のなかに高島家がある。幕末の有名な西洋砲術家、高島秋帆(しゅうはん)はこの11代にあたるが、この高島家の屋敷も旧六町の大村町にあった。現在の家庭裁判所・簡易裁判所がその高島家の屋敷跡だ。長崎の町において、大名や公家と違わない地位と権力、財力を持ち合わせていた高島家のお屋敷は広大で、造りもとても堅固なものだったということが判明している。そんな高島家の敷地内には、なんと井戸跡が11ケ所もあったのだそうだ。
そういえばこの辺りには長崎ならではの石造りの溝、エゴ端がソロソロと流れている。長い歳月のなかですっかりコンクリート化し、ビルが建ち並ぶオフィス街へと変貌した市役所~県庁界隈。基礎工事を重ねる度に地面を何度も掘削しているにも関わらず、しっかりと水脈が残っていることには感動すら覚える。
400年余り前に掘られたこれらの井戸だが、豊かな水脈のおかげで今も豊富に水が出ている。しかし、残念ながら蓋がしてあったり、トタンで囲ってあったりと使用されていない井戸の方が多いのが現状。しかたない!散策中にこれらの井戸をみつけたら、遠い昔に想いを馳せることで楽しむとしよう。

https://www.edomono.jp/blog/2017/07/02/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE7%E6%9C%887%E6%97%A5%E3%81%AB%E8%A1%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%8C%E4%BA%95%E6%88%B8%E6%9B%BF%E3%81%88%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F/

 7月7日は七夕の日として知られていますが、旧暦7月7日は江戸市中ではもう1つの大切な仕事がありました。「井戸替え(いどがえ)」です。
 夏に疫病が流行するのを防ぐため、この時期に井戸の中の掃除をしました。
井戸浚え(いどさらえ)、晒井戸(さらしいど)とも呼ばれ、「つるつる」という落語にも登場します。
 井戸の水をすべて出して井戸職人が中を掃除するのですが、深い井戸の中に入っての作業は時に危険を伴ったそうです。
 一方、水を汲む時に井戸に落としてしまった髪飾りなども見つかるので、その日を楽しみにしていた女性もいたそうです。


(追記)

水祖神祭り(K図) .gif

●作品名:水祖神祭り(K図) 「シーボルト・コレクション」
●Title:Water God Festival May
●分類/classification:年中行事、5月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album

 この「水祖神祭り(K図)」は、次の「水神神社の祭礼」(K-2図)のとおり、シーボルトの『NIPPON』に収載されている。
 全く同じものかというと、「水神神社の祭礼」(K-2図)の、左端の「子供を背負った女性」などが加わり、「水祖神祭り(K図)」を下絵としていることが窺える。
 この「水祖神祭り(K図)」(紙本墨画)は、「水神神社の祭礼」(K-2図)を描いた「石版挿絵画家(西洋人)」の作と思われる。

「水神神社の祭礼」(K-2図).gif

『NIPPON』 第1冊図版(№190)「水神神社の祭礼」(K-2図) 福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート

川原慶賀の世界(その十二) [川原慶賀の世界]

(その十二)「川原慶賀の長崎歳時記(その四)雛祭り(桃の節句)」周辺

『NIPPON』 第1冊図版(№177)「雛祭り(桃の節句)」(A図).gif

『NIPPON』 第1冊図版(№177)「雛祭り(桃の節句)」(A図) 福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

ひな祭り(B図).gif

●作品名:ひな祭り(B図)
●Title:Girl's Festival, March
●分類/classification:年中行事、3月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

ひな祭り(C図).jpg

●作品名:ひな祭り(C図)
●Title:Girls' Festival, March
●分類/classification:年中行事・3月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite//target/kgdetail.php?id=1141&cfcid=142&search_div=kglist
「雛祭り」 絹本着色 26.8×36.6
Girls' Festival( March)
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№8」)』)

「雛祭り」(D図).jpg

「雛祭り」(D図) 絹本着色 26.2×38.0 (「ブロムホフ・コレクション」)
Girls' Festival( March)
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№7」)』)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№21」)

『 この図(D図)は長崎における普通の家庭の雛祭りを写したものである。上段の天子様が紋付袴すがたであるし、現在の雛人形のように五人囃子、三人上戸などといった人形はないが、夜具や台所用具が飾られている。下段の人形は親族知音より贈られたものであろう。雛祭りの見物客に、
しるも知らぬも打むれたがひに雛ある家にいたりて見物す。其時菓子又は祝酒をだして飲しむ。よつて途中酩酊の子児輿にいりて行かふさま大ひに賑わし。
といっている。 』
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説1」)

 上記の「雛祭り(ひな祭り)」の「B図」(紙本墨画)と「C図」(絹本着色画)は「シーボルト・コレクション」、そして「D図」は「ブロムホフ・コレクション」のものである。
 『NIPPON』 第1冊図版(№177)「雛祭り(桃の節句)」(A図)の「下絵」は、「B図」(紙本墨画)で、その「原画」が「C図」(絹本着色画)ということになる。
そして、大まかには、この「B図」も「C図」も「川原慶賀」作とされるが、厳密には、
この「C図」は「川原慶賀(又は「慶賀工房」)」作、この「B図」は「川原慶賀(又は「慶賀工房」)」(又は「石販挿絵画家=西洋の画家」)作と見解は分かれることであろう。
 それに対して、「ブロムホフ・コレクション」の、この「D図」は「川原慶賀」作で、この「D図」を原画にして、「C図」そして「B図」は制作されているものと解したい。

(参考)

https://note.com/mitonbi/n/nd19ac15e4197

野口文龍「長崎歳時記」全文訳

三月

一日
 家々では草餅をついた団子を菱形にして、お重に入れてお互いに配ります。お重の蓋には桃の花を挿すのがお決まりです。女の子のいる家では、ひな人形を並べます。飾りかたは、上中下の壇をしつらえて、この上に毛氈を敷き、前には赤いちりめん、またはカラフルな幕をかけ、真っ赤な「ふき」などで絞り上げます。紫宸殿の前の闘鶏や、公卿や殿上人たちが参内する様子などを模した飾りをしますが、みな一様ではありません。かたわらには箪笥や長持、ほかひ(?)、挟箱、つづら、黒棚、書棚、皮籠など、ここに書ききれないほどの家財を、思い思いに飾り付けます。下の壇には、大きな花甕に桃や桜、山吹などの咲き乱れたものを生けておきます。

三日
 諸役人は節を拝し、親類縁者の家も回ります。

 初めて女の子が生まれた家では、初節句といってみんな集まり、お雛様の前で酒を酌み交わし、お祝いします。この日は街中の女の子がおしゃれをして、知ってる人も知らない人も連れ立って、雛飾りのある家を見物して回ります。そのとき、お菓子やお酒を出して飲ませるので、酔っぱらって興奮した子供たちが道を行き交い、とても賑やかなのです。
 初節句の家には、親戚知人たちからも、お雛様や造り花などを贈ります。

四日
 この日もまだ「ひなめぐり」をする女の子たちがいます。また、男女が何人ずつも誘いあい、瞽女や座頭などを引き連れて、大浦の浜辺あたりで潮干狩りをするものもいます。
 大浦とは、大村領で、長崎の南西にあり、詩人などは大浦を「雄浦」と書いたりします。

五日
 家々では雛飾りを片付けます。

九日
 諏訪社の合殿の森崎権現の祭礼です。以前は能などがあって参詣者が群れをなしていたのですが、いつのころよりか、このお祭りは衰え、参詣するものもまれになりました。祭礼のあとには社壇で音楽が奏され、近ごろでは舞囃子などが催されます。

 この夜、金比羅山に参詣する者がたくさんいます。

十日
 金比羅山祭礼。町中からも接待所が設けられ、参詣の老若男女が連れ立って大勢集まります。麓の広場には、それぞれが毛氈を敷き並べ、弁当を持って来ては、大人も子供もハタ合戦です。
 この日は町のハタ屋たちもやってきて店を出し、ビードロヨマやハタを売っているので、身分の上下も関係なく勝負しては、お金を使います。ま、この土地の欠点ではありますな。

十五日
 諸役人たちは佳日を拝します。

十八日
 秋葉山の祭礼。秋葉山は長崎の東、中心部より半里ほどの所にあります。
 ここに時雨桜というものがあります。晴天の日でも、梢から水気を飛ばして、細雨が降っているように、着物を濡らすことから、とある詩人が名付けたのです。思うに、山の上から一脈の渓流の清水が流れていて、その流れの音が琴の音のようでもある土地の、いちばんきれいな場所だからでしょう。かつ、この祭りのころは、春の着物になるころでもあり、市中の男女、あるいは遊女たちは、それぞれにめいっぱいおしゃれをして参詣するのです。八月十八日にも祭礼があります。この地には天神があり、亀井天神と呼ばれています。

十八日
 浦上山王祭り。浦上村は長崎の北西にあります。むかしはここに山王社はありませんでした。寛永年間の島原一揆の際、松平伊豆侯がここを通って長崎に来られた時に、「江戸の坂本という所の地形によく似ているので、山王社を勧請したらいい」というお沙汰があり、その社を建て、地名も坂本となったのです。

十九日
 鳴滝の奥の七面山の祭礼。とりわけ、日蓮宗徒の参詣が多くあります。
 鳴滝は長崎の東。村に一脈の谷川があって、詩人たちは浣花谿などと呼んでいます。中程に大きな石があって、鳴滝の文字が彫られています。これは府尹(首長の中国風な言い方)牛込侯によるものだそうです。

二十一日
 香焼山、弘法大師の祭りということで、男女が船に乗って参詣します。この日多くは風や波が大きく、参詣の者はまれなのだが、年によって快晴の日であれば、老いも若きもそれぞれ船に乗って詣でるものがたくさんいたということです。
 香焼山は肥前領で、長崎の港の西三里ほどの場所にあり、もともとは「こうやぎ島」といって、人が住んでいる島です。

二十三日
 豊前坊祭礼。豊前坊は長崎の東にあって、彦山の隣です。八月二十三日にも祭礼があります。

潮干がり(E図).jpg

●作品名:潮干がり(E図)
●Title:Shell gathering at low tide, Spring, Summer
●分類/classification:年中行事、春、夏/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

 この「潮干がり」(E図)は、上記の「野口文龍『長崎歳時記』全文訳」の、「四日 この日もまだ「ひなめぐり」をする女の子たちがいます。また、男女が何人ずつも誘いあい、瞽女や座頭などを引き連れて、大浦の浜辺あたりで潮干狩りをするものもいます。大浦とは、大村領で、長崎の南西にあり、詩人などは大浦を「雄浦」と書いたりします。」で、上記の「ひな祭り」(C図)と同じく、「シーボルト・コレクション」の一群の作品ということになる。
 これが、次のように、「年中行事」の「潮干狩り」(E図)から、「生業と道具」の「潮干狩り、ウニ採り」(F図)と、「シーボルト・コレクション」では変貌して行く。

潮干狩り、ウニ採り(F図).jpg

●作品名:潮干狩り、ウニ採り(F図)
●Title:Shell gathering at low tide
●分類/classification:生業と道具/Agriculture and Fishery, their tools
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 ational Museum of Ethnology, Leiden
nice!(0)  コメント(0) 

川原慶賀の世界(その十一) [川原慶賀の世界]

(その十一)「川原慶賀の長崎歳時記(その三)節分」周辺

『NIPPON』 第1冊図版(№180)「節分」(A図).gif

『NIPPON』 第1冊図版(№180)「節分」(A図) 福岡県立図書館/デジタルライブラリー
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

節分、豆まき(B図).gif

●作品名:節分、豆まき(B図)
●Title:Bean-scattering in February (to ward off evil spring)
●分類/classification:年中行事、2月/Annual events
●形状・形態/form:紙本墨画、冊子/drawing on paper, album
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1132&cfcid=141&search_div=kglist

節分、豆まき(C図).jpg

●作品名:節分、豆まき(C図)
●Title:Bean-scattering in February, February
●分類/classification:年中行事・2月/Annual events
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1132&cfcid=141&search_div=kglist
「豆撒き(節分)」 紙本著色 27.0×36.5
Bean-scattering in February, February (to word off evil spring )
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№5」)』)

この「節分、豆まき(C図)」は、『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「出品目録№5」)』では、「シーボルト・コレクション」の「川原慶賀筆」としている。
 これは、まぎれもなく、「葛飾北斎」のゴーストライターともいわれている、北斎の三女「葛飾応為」(名は「栄」)の、次の「吉原格子先之図」などを念頭に置いての作のように思われる。

葛飾応為筆「吉原格子先之図」(D図).jpg

葛飾応為筆「吉原格子先之図」(「太田記念美術館」蔵) (D図)
紙本著色一幅 26.3×39.8㎝ 文政~安政(1818~1860)頃
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/collection/list05
〖 吉原遊廓の妓楼、和泉屋の張見世の様子を描く。時はすでに夜。提灯が無くては足元もおぼつかないほどの真っ暗闇だが、格子の中の張見世は、まるで別世界のように赤々と明るく輝き、遊女たちはきらびやかな色彩に身を包まれている。馴染みの客が来たのだろうか、一人の遊女が格子のそばまで近寄って言葉を交わしているが、その姿は黒いシルエットとなり、表情を読み取ることができない。 光と影、明と暗を強調した応為の創意工夫に満ちた作品で、代表作に数えられる逸品。なお、画中の3つの提灯に、それぞれ「応」「為」「栄」の文字が隠し落款として記されており、応為の真筆と確認できる。〗(「太田記念美術館」)

〖 吉原遊廓の妓楼・和泉屋で、往来に面して花魁たちが室内に居並ぶ「張見世」の様子を描く。店や客が持った複数の提灯から生まれる幻想的な光と影が、観者に強い印象を与える。紙の寸法や日本人の生活に取材した画題が、カピタンの依頼により北斎工房が手がけた水彩画(ライデン国立民族学博物館およびパリ国立図書館蔵)と一致することから、本作もオランダ人からの依頼によって描かれたが、何らかの理由により日本に留まった可能性が考えられる。〗(「ウィキペディア」)

 この「吉原格子先之図」(葛飾応為筆)の「画中の3つの提灯に、それぞれ『応』『為』『栄』の文字が隠し落款として記されており」の、その「部分拡大図」は、次のとおりである。

「応・為・栄」図.png

左図(D図の右側「行燈型」の提灯)→「応」
中図(D図の左寄りの中央右側「丸型」の提灯)→「為」
右図(D図の左寄りの中央左側「細長型」の提灯)→「栄」

川原慶賀筆「青楼」(E図).jpg

川原慶賀筆「青楼」紙本著色 25.3×49.2 ライデン国立民族学博物館蔵(「ブロムホフ・コレクション」) The Nagasaki gay quarter (E図)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№87」)

『 あかあかと明かりのついた遊郭を、通りに視点を置いて描いている。格子越しに見える内部、それを表からのぞいてひやかす客たち、二階には三味を弾かせ太鼓を叩いて陽気に騒ぐ客、提燈を持って通りを行き交う人々、そば屋、これらの人々が生き生きと描写されている。そして、本図で最も注意すべきことは、夜の人工的な光の錯綜を見事に捉えていることである。室内はろうそくの明かりで照らし出され、その室内の光は外にもれて通りの人々が持つ提燈の光とともに複雑な影を地面に作り出している。
 妓楼格子先を表した図は多く見ることができるが、本図ほど光と影を意識して描かれたものはないのではなかろうか。その点だけでも、本図を描いた慶賀を日本の近代絵画の先駆者として位置づけることができるであろう。(兼重護稿)』(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 葛飾応為の「吉原格子先之図」(D図)が、江戸を象徴する遊郭地「吉原」の夜景とすると、川原慶賀の「青楼」(E図)は、長崎を象徴する遊郭地「丸山」の夜景ということになる。そして、この応為の「吉原格子先之図」(D図)は、ライデン国立民族学博物館蔵の「シーボルト・コレクション」ではなく、「ブロムホフ・コレクション」であることを、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』では指摘している。
 慶賀が、「スチュルレル(商館長)・シーポルト(商館付医師)」らに同行しての「江戸参府」で「江戸」を訪れたのは、文政九年(一八二六)のことであった。その四年前の文政五年(一八二二)の「江戸参府」は、「ブロムホフ(商館長)とフイッセル(商館員・書記・『日本風俗備考』の著者)」らで、この「ブロムホフ・フイッセル」らが「北斎(北斎工房)に発注し四年後受け取る予定」の絵画作品の一つに、この応為の「吉原格子先之図」(D図)があり、それが「何らかの理由により日本に留まった可能性が考えられる」(「ウィキペディア」)ということになる。

 これらのことについては、下記のアドレス等で触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-27

(再掲)

≪ オランダ国立民族学博物館のマティ・フォラーによると、1822年のオランダ商館長ブロムホフが、江戸参府の際日本文化の収集目的で北斎に発注し4年後受け取る予定としたが、自身の法規違反で帰国。後継の商館長ステューレルと商館医師シーボルトが1826年の参府で受け取った。現在確認できるのは、オランダ国立民族学博物館でシーボルトの収集品、フランス国立図書館にステューレルの死後寄贈された図だという。西洋の絵画をまねて陰影法を使っているが絵の具は日本製である。≫

 また、上記(再掲)の「スチュルレル・シーボルトらの江戸参府」の折、スチュルレル(カピタン=使節)が持ち帰り、後に「フランス国立図書館」に寄贈したといわれている『北斎・北斎工房』らの作品(その一)・(その二)」については、下記のアドレスで紹介している。

(その一)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-27

(その二)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28

 この「スチュルレル・シーボルトらの江戸参府」の折、シーボルトが持ち帰った作品のうちの、「北斎、検閲避け?名入れず 作者不明だった西洋風絵画の謎 シーボルト収集品目録と一致」の「北斎・北斎工房」らの作品については、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-25

 ここで、特記をして置きたいことは、これらの「ブロムホフ・コレクション」「フイッセル・コレクション」そして「スチュルレル・コレクション」「シーボルト・コレクション」の、その「ブロムホフ・コレクション」のうちに、川原慶賀筆「青楼」(E図)が収蔵されているということは、この「ブロムホフ・コレクション」のうちに収蔵されるべき作品のうち「何らかの理由により日本に留まった可能性が考えられる」、その葛飾応為筆「吉原格子先之図」(D図)は、少なくとも、慶賀にとっては、自己の「青楼」(E図)の姉妹編ともいうべき、その「姉」(目標とすべき「原画」)にも近い作品であったであろうということなのである。
 すなわち、川原慶賀にとって、この文政九年(一八二六の「スチュルレル・シーボルトらの江戸参府」に同行して、その「江戸」滞在中に、「北斎・北斎工房」の、特に、「葛飾応為」との遭遇ということは、それまでの、単なる「鎖国日本唯一の窓口・長崎出島出入りの石崎融思一門の一町絵師『登与助(慶賀の通称)」が、名実共に、「世界に『日本』を知らしめた『長崎派絵師』の一角を占めている『川原慶賀』(慶賀は号、別号に聴月楼主人。後に田口姓を名乗る)の誕生を意味する。
 ちなみに、慧眼のマルチニスト劇作家「ねじめ正一」の「『シーボルトの眼 出島絵師川原慶賀』(集英社 2004 のち文庫)」では、この「川原慶賀」と「葛飾応為」とは、夫婦関係となり、そのドラマが進行するが、そこで、シーボルトをして、「光ダケナク、影モ描クノダ。正確ニ、オ前ノ見タ通リニ」という、その絵師としての「慶賀の開眼」は、まさに、この、文政九年(一八二六の「スチュルレル・シーボルトらの江戸参府」に同行しての、慶賀の、その「北斎・北斎工房」、特に、「葛飾応為」との遭遇ということが、その根底にあることであろう。
 それらを物語る如く、この一連の、「シーボルト・コレクション」の作品群が、上記の「節分、豆まき」(B図)を下絵とする「節分、豆まき」(C図)のように思われる。
 ここに、もう一つの「節分、豆まき」(F図)も、これらの一群の作品と解したい。

「節分、豆まき」(F図).jpg

「節分、豆まき」(F図)
https://publicdomainr.net/mizue-6-0001867-llaytf/
「豆撒き(節分)」 紙本著色 30.5×39.5 ライデン国立民族学博物館蔵(「フイッセル・コレクション」)
Bean-scattering in February (to ward off evil spring)
(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「出品目録№3」)
『 節分の行事については現在においてほとんどかわるところはないようである。長崎歳時記に、
 家内のともし火を悉く消し、いりたる豆は二合にても三合にても一升ますに入れ、年男とて、あるじ右の豆を持て恵方棚、神棚に向ひ至極小声をして福は内と三遍となへ、夫より大声にて鬼は外と唱ふ、家の一間ごとにうち廻り庭におり外をさして打出す。』(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

 この「節分、豆まき」(F図)は、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』によると、「フイッセル・コレクション」所蔵のもので、「シーボルト・コレクション」所蔵の「節分、豆まき(B図)」(紙本墨画)や「節分、豆まき(C図)」(絹本着色)の先行的な作品と思われる。そして、葛飾応為の「吉原格子先之図(D図)」との関連ですると、この「フイッセル・コレクション」や「ブロムホフ・コレクション」所蔵の作品の方が、「応為と慶賀」との関係をより直接的に位置づけているもののように思われる。

(参考) 

https://note.com/mitonbi/n/n174f312ed806

「長崎歳時記」全文訳 節分 二月

節分

 節分の夜は、家々ではなますを作り、神棚、恵方棚、そのほか家財道具、浴室、トイレなどに明かりをつけておき、黄昏を過ぎるころ、「最初の暗闇」といって、灯してあった家中の明かりを全部消して、豆まきをはじめます。この豆は二合でも三合でも、量は問いません。「年男」といって、金持ちは出入りの者、普通あるいは貧乏な家は、家の主が一升枡に入れた豆を持って、まずは恵方棚、神棚に向かい、とても小さな声で「福は内」と三回唱え、それから大きな声で「鬼は外!」と唱えます。家の部屋ごとにおなじように回って、また、庭に降りて、外に向けて打ち出します。家によってやりかたは様々ですが、これが終われば、祝い酒です。俗にこの夜の大豆は、いつもより強く煎るとよいと伝えられています。このことを女たちは昔から言い伝えられているだけで、その意味を知る者はあまりいません。私見ですが、「赤くて丸いもので災厄や鬼を追う」という話が「文選六臣注(中国の詩文集とその注釈書)」に詳しく載っているのを見ると、昔から大豆を「赤くて丸いもの」に見立てて、煎り過ぎを良しとするのでは、と考えています。
 この日は紅大根という赤い大根が売られているので、家々ではこれを買ってなますに刻んだり、生のまま輪切りにして台に盛り、かたわらに塩を添えて、この夜の第一の肴とすることは、家の大小に関わらず、古来からのしきたりです。これは、退治した鬼の手に見立てた物だと伝えられています。
 年の内の立春も、そのやり方はおなじような感じです。この「年豆」を蓄えておいて、二十日正月の煮込みに入れる家もあります。
 また、初めて雷が鳴った日に食べれば、一年中、雷を避けると言い伝える人もいて、その真意はわかりません。
 この日の暮れごろには、一年使ってきた火吹き竹の口に紙を詰め、子供や使用人たちが、これを門口より外に投げ捨てるのですが、投げた先は絶対に見てはならないとされています。これがまた、昔ながらのことで、どうしてこうなのかはわかりません。ひょっとしたら、火吹き竹は一年の間、ふーふーと気を吹き入れ続けた物ですから、それを邪気にたとえて投げ捨てるという意味なのかもしれません。いずれにせよ、これを誰かが拾うということは禁じられているのですが、その多くは非人や乞食といった者どもが拾って薪にするのです。
 この夜は厄払いといって、山伏などの宗教者たちが貝を吹き、鈴を振り、あるいは錫杖を振り立てて、街中を「厄払い、厄払い」と触れ歩きます。もしおはらいを頼みたければ、小銭を包んで門先でおはらいしてもらいます。 また、三味線や太鼓、笛を囃したて、踊ったりしながら、寿ぎをする人がいたり、へぎに塩を詰み、あるいは白鼠の作り物などを持って家々を回り、お金を乞う者もいます。もっとも塩を持ってくる人たちは皆「恵方から潮が満ちて来ました~」と言いながら差し出します。このようなことは、ただ卑しい者たちの稼ぎというだけでなく、遊び人たちが戯れにその姿を真似して顔を隠し、若いお嬢さんのいる家をつぶさに回って顔かたちを確かめ、お嫁さん探しのたすけにする場合もあります。
 諏訪社では天下一統百鬼の夜行を祓って、鬼やらいをします。その百鬼が散り散りにならないように、疫神所に封じ込めておいて清祓いを行い、疫神を祭り、塚を捨てるというのです。あるいは、厄年の男女が清祓いに参拝すると、厄難を避け、疫神も除かれるといいます。拝殿では(家々の)神棚とおなじような豆まきがあるので、町の人々は上下を着たり、あるいは平服で参詣します。諏訪社の年豆は、例年、土製の八分大黒を三勺ほど入れ混ぜているので、卑しい者たちはみな争って神社に集まり、豆を拾います。この「大黒」を拾い当てた者は、その年の福を得るといわれています。

二月

一日
 諸役人は佳日を拝します。

 この月初めての午の日には、あちこちの稲荷社で祭礼があります。社殿ごとに青、黄、赤、白の旗をひるがえし、参詣者はそれぞれに赤飯を炊いて供物を献じます。たまたま家などに安置されているお稲荷さんも、おなじようにお祭りします。(とはいえ長崎では、みんながみんな稲荷を信仰しているわけでもありません。)

二日
 毎年、唐人屋敷で唐人踊りがあります。

 六日ごろより、七ヶ村の踏絵が始まります。七ヶ村は、日見村、古賀村、茂木村、河原村、椛島村、野母村、高浜村です。この中にはさらに、網場や田上、飯香浦、宮摺などの小名があります。いずれも代官所の支配地なので、代官の手代、足軽などを引き連れて回ります。

十五日
 諸役人は佳日を拝します。

 涅槃会。お寺では堂内に大きな涅槃像を掛けて香と花をお供えし、たくさんの人がお参りします。
古老が言うには、その昔、絵師が禅林禅寺(八幡町、寺町にあり)の涅槃絵を描いていたところ、毎日、猫がかたわらにやってきて立ち去りませんでした。身をひそめて、頭を下げて、なにか物を思い、感じている様子だったそうです。絵師は心動かされ、ついに涅槃絵にその猫を描き加えたところ、いつしか姿は消え、ふたたび来ることはなかったというのです。今の世になっても、みんなこの話をして、不思議だね~と言っています。というわけで、長崎にあるお寺の涅槃像の中で、この寺のものがいちばんいいということになっているのです。

 彦山祭礼。
 この山は長崎の東にあって、雅名を峨眉山といいます。中国の峨眉岳に似ているので、唐人たちが名付けたのです。以前は参詣する者が多かったのですが、いまはやや衰えているようです。

二十八日
 諸役人は佳日を拝します。

二十九日
 このころまで、酒屋町、袋町、本紺屋町、材木町の通りには雛見せが出ます。夜、見物の人が大勢です。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート
前の20件 | - 川原慶賀の世界 ブログトップ