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源氏物語画帖(その十四・澪標)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

14 澪標(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四)   源氏28歳冬-29歳

光吉・澪標.jpg

源氏物語絵色紙帖 澪標  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509147/2

信尹・澪標.jpg

源氏物語絵色紙帖 澪標  詞・近衛信尹
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509147/1

(「近衛信尹」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/15/%E6%BE%AA%E6%A8%99_%E3%81%BF%E3%81%8A%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%81%97%E3%83%BB%E3%81%BF%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%81%97%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%9B%9B

例の大臣などの参りたまふよりは、ことに世になく仕うまつりけむかし。いとはしたなければ、立ち交じり、数ならぬ身の、いささかのことせむに、神も見入れ、数まへたまふべきにもあらず。帰らむにも中空なり。

(第四章 明石の物語 住吉浜の邂逅 第二段 住吉社頭の盛儀)

4.2.7 例の大臣などの参りたまふよりは、ことに世になく仕うまつりけむかし。
(普通の大臣などが参詣なさる時よりは、格別にまたとないくらい立派に奉仕したことであろうよ。)
4.2.8 いとはしたなければ、
(とてもいたたまれない思いなので、)
4.2.9 立ち交じり、数ならぬ身の、いささかのことせむに、神も見入れ、数まへたまふべきにもあらず。帰らむにも中空なり。
(あの中に立ちまじって、とるに足らない身の上で、少しばかりの捧げ物をしても、神も御覧になり、お認めくださるはずもあるまい。帰るにしても中途半端である。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十四帖 澪標
 第一章 光る源氏の物語 光る源氏の政界領導と御世替わり
  第一段 故桐壺院の追善法華御八講
  第二段 朱雀帝と源氏の朧月夜尚侍をめぐる確執
  第三段 東宮の御元服と御世替わり
 第二章 明石の物語 明石の姫君誕生
  第一段 宿曜の予言と姫君誕生
  第二段 宣旨の娘を乳母に選定
  第三段 乳母、明石へ出発
  第四段 紫の君に姫君誕生を語る
  第五段 姫君の五十日の祝
  第六段 紫の君、嫉妬を覚える
 第三章 光る源氏の物語 新旧後宮女性の動向
  第一段 花散里訪問
  第二段 筑紫の五節と朧月夜尚侍
  第三段 旧後宮の女性たちの動向
  第四段 冷泉帝後宮の入内争い
 第四章 明石の物語 住吉浜の邂逅
  第一段 住吉詣で
  第二段 住吉社頭の盛儀
  (「近衛信尹」書の「詞」) → 4.2.7/4.2.8/4.2.9   
第三段 源氏、惟光と住吉の神徳を感ず
  第四段 源氏、明石の君に和歌を贈る
  第五段 明石の君、翌日住吉に詣でる
 第五章 光る源氏の物語 冷泉帝後宮の入内争い
  第一段 斎宮と母御息所上京
  第二段 御息所、斎宮を源氏に託す
  第三段 六条御息所、死去
  第四段 斎宮を養女とし、入内を計画
  第五段 朱雀院と源氏の斎宮をめぐる確執
  第六段 冷泉帝後宮の入内争い

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2590

源氏物語と「澪標」(川村清夫稿)

【 朧月夜との密会が弘徽殿女御の逆鱗にふれた光源氏は、都を離れて明石入道のもとに隠棲したが、弘徽殿女御の一族が政権を失ったので、都に戻り社交界に復帰した。「澪漂」の帖では、権勢を取り戻した光源氏が死の床についた六条御息所を見舞い、彼女の一人娘である斎宮の後見を依頼される場面がある。六条御息所と光源氏の台詞を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)「心細くてとまりたまはむを、かならず、ことに触れて数まへきこえたまへ。また見ゆづる人もなく、たぐひなき御ありさまになむ。かひなき身ながらも、今しばし世の中を思ひのどむるほどは、とざまかうざまにものを思し知るまで、見たてまつらむことこそ思ひたまへつれ」

(渋谷現代語訳)「心細い状況で先立たれなさるのを、きっと、何かにつけて面倒を見て上げてくださいまし。また他に後見を頼む人もなく、この上もなくお気の毒な身の上でございまして、何の力もないながらも、もうしばらく平穏に生き長らえていられるうちは、あれやこれや物の分別がおつきになるまでは、お世話申そうと存じておりましたが」

(ウェイリー英訳)I had hoped having cast the cares of the world aside, to live on quietly at any rate until this child of mine should have reached an age when she could take her life into her own hands...

(サイデンステッカー英訳)She will have no one to turn to when I am gone. Please do count her among those who are important to you. She has been the unluckiest of girls, poor dear. I am a useless person and I have done her no good, but I tell myself that if my health will only hold out a little longer I may look after her until she is better able to look after herself.

 サイデンステッカー訳は原文に忠実だが、ウェイリー訳は省略部分が目立つ。

(大島本原文)「かかる御ことなくてだに、思ひ放ちきこえさすべきにもあらぬを、まして、心の及ばむに従ひては、何ごとも後見きこえむとなむ思うたまふる。さらに、うしろめたくな思ひきこえたまひそ」

(渋谷現代語訳)「このようなお言葉がなくてでさえも、放ってお置き申すことはあるはずもないのに、ましてや、気のつく限りは、どのようなことでもご後見申そうと存じております。けっして、ご心配申されることはありません」

(ウェイリー英訳)Even if you had not mentioned it, I should always have done what I could to help her, but now that you have made this formal request to me, you may be sure that I shall make it my business to look after her and protect her in every way that lies in my power. You need have no further anxiety on that score…

(サイデンステッカー英訳)You speak as if we might become strangers. It could not have happened, it would have been quite impossible, even if you had not said this to me. I mean to do everything I can for her. You must not worry.

 ここではウェイリー訳は原文に忠実であるのに比べて、サイデンステッカー訳は前半部分を意訳している。そこで六条御息所は、プレイボーイである光源氏に、斎宮を決して愛人にしないでと注意するのである。

(大島本原文)「いとかたきこと。まことにうち頼むべき親などにして、見ゆづる人だに、女親に離れぬるは、いとあはれなることにこそはべるめれ。まして、思ほし人めかさむにつけても、あぢきなき方やうち交り、人に心も置かれたまはむ。うたてある思ひやりごとなれど、かけてさやうの世づいたる筋に思し寄るな。憂き身を抓みはべるにも、女は、思ひの外にてもの思ひを添ふるものになむはべりければ、いかでさる方をもて離れて、見たてまつらむと思ふたまふる」

(渋谷現代語訳)「とても難しいこと。本当に信頼できる父親などで、後を任せられる人がいてさえ、女親に先立たれた娘は、実にかわいそうなもののようでございます。ましてや、ご寵愛の人のようになるにつけても、つまらない嫉妬心が起こり、他の女の人からも憎まれたりなさいましょう。嫌な気のまわしようですが、けっして、そのような色めいたことはお考えくださいますな。悲しいわが身を引き比べでみましても、女というものは、思いも寄らないことで気苦労をするものでございますので、何とかしてそのようなこととは関係なく、後見していただきたく存じます」

(ウェイリー英訳)It will not be easy, even a girl whose welfare has been the sole object of devoted parents often finds herself in a very difficult position if her mother dies and she has only her father to rely upon. But your task will, I fear, be far harder than that of a widowed father. Any kindness that you show the girl will at once be misinterpreted; she will be mixed up in all sorts of unpleasant bickerings and all your own friends will be set against her. And this brings me to a matter which is really very difficult to speak about. I wish I were so sure in my own mind that you would not make love to her. Had she my experience, I should have no fear for her. But unfortunately she is utterly ignorant and indeed is just the sort of person who might easily suffer unspeakable torment through finding herself in such a position. I cannot help wishing that I could provide for her future in some way that was not fraught with this particular danger…

(サイデンステッカー英訳)It is all so difficult. Even when a girl has a father to whom she can look with complete confidence, the worst thing is to lose her mother. Life can be dreadfully complicated when her guardian is found to have thoughts not becoming a parent. Unfortunate suspicions are sure to arise, and other women will see their chance to be ugly. These are distasteful forebodings, I know. But please do not let anything of the sort come into your relations with her. My life has been an object lesson in uncertainty, and my only hope now is that she be spared it all.

 ウェイリー訳は説明的で冗長だが、サイデンステッカー訳は簡潔で情感に乏しい。

 六条御息所は一週間後に死去し、光源氏は彼女との約束を守って斎宮を引き取り、梅壺女御(秋好中宮)に成長させるのである。  】

(「三藐院ファンタジー」その五)

「近衛信尹」(プロフィール)  ( 『ウィキペディア(Wikipedia)』などにより作成)

生誕 永禄8年11月1日(1565年11月23日)
死没 慶長19年11月25日(1614年12月25日)
改名 信基(初名)→信輔→信尹
諡号 三藐院
官位 従一位、関白、准三宮、左大臣
主君 正親町天皇→後陽成天皇→後水尾天皇
父母 父:近衛前久、母:波多野惣七の娘
兄弟 信尹、尊勢、宝光院、前子、光照院
子 太郎姫、養子:信尋
(生涯)
天正5年(1577年)、元服。加冠の役を務めたのが織田信長で、信長から一字を賜り信基と名乗る。
天正8年(1580年)に内大臣、天正13年(1585年)に左大臣となる。
同年5月、関白の位をめぐり、現職の関白である二条昭実と口論(関白相論)となり、菊亭晴季の蠢動で、豊臣秀吉に関白就任の口実を与えた。その結果、7月に昭実が関白を辞し、秀吉が関白となる。一夜にして700年続いた摂関家の伝統を潰した人物として公家社会から孤立を深めた事に苦悩した信輔は、次第に「心の病」に悩まされるようになり、文禄元年(1592年)正月に左大臣を辞した。
→ 〇近衛殿さま「きやうき」(狂気=強度の神経衰弱)に御成候。「れうざん」(龍山)様の御子さまの事也。『北野社家日記』天正十八年(一五九〇)三月条(信輔=信尹=二十六歳)。
文禄元年(1592年)、秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすと、同年12月に自身も朝鮮半島に渡海するため肥前国名護屋城に赴いた。後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って信尹の渡海をくい止めようと図った。廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言したために天皇や秀吉の怒りを買い、文禄3年(1594年)4月に後陽成天皇の勅勘を蒙った。信尹は薩摩国の坊津に3年間配流となり、その間の事情を日記『三藐院記』に詳述した。
慶長元年(1596年)9月、勅許が下り京都に戻る。
慶長5年(1600年)9月、島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴い、枕崎・鹿籠7代領主・喜入忠政(忠続・一所持格)も家臣を伴って従軍したが、9月15日に敗北し、撤退を余儀なくされる。そこで京の信尹は密かに忠政・家臣らを庇護したため、一行は無事枕崎に戻ることができた。また、島津義弘譜代の家臣・押川公近も義弘に従って撤退中にはぐれてしまったが、信尹邸に逃げ込んでその庇護を得、無事薩摩に帰国した。
慶長6年(1601年)、左大臣に復職した。
慶長10年(1605年)7月23日、念願の関白となるも、翌11年11月11日に関白を鷹司信房に譲り辞する。だが、この頻繁な関白交代は、秀吉以降滞った朝廷人事を回復させるためであった。
慶長19年以降、大酒を原因とする病に罹っていたが、11月25日(1614年12月25日)に薨去、享年50。山城国(京都)東福寺に葬られる。
(書)
書、和歌、連歌、絵画、音曲諸芸に優れた才能を示した。特に書道は青蓮院流を学び、更にこれを発展させて一派を形成し、近衛流、または三藐院流と称される。薩摩に配流されてから、書流が変化した。本阿弥光悦、松花堂昭乗と共に「寛永の三筆」と後世、能書を称えられた。

檜原図屏風.jpg

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/237246

【京都府 桃山/16世紀末~17世紀初頭 紙本墨画 屏風装 縦 151.5㎝  横 345.6㎝ 1隻 大阪市立美術館 大阪市天王寺区茶臼山1番8号 京都市指定 指定年月日:20110415 宗教法人禅林寺 有形文化財(美術工芸品) 
水墨で檜林を描く6曲1隻の屏風に,寛永の三筆として知られる近衛信尹(1565~1614)が「初瀬山夕越え暮れてやどとへば(三輪の檜原に)秋かぜぞ吹く」という和歌を大書している。
本図が伝来した禅林寺(永観堂)には,信尹の書が揮毫された「いろは歌屏風」6曲1隻があり,本図と1双とされてきたが,画面の紙継や金泥引きの状態,書の下絵となる水墨画の作風などが異なっていることから,本来別々の屏風であったものが,後世になって組み合わされたと考えられる。信尹は,屏風に直に大書する作例をいくつか残しているが,下絵の水墨画と融合して,和歌の世界を表現する例は本図のみである。
 また,和歌の「三輪の檜原に」をあえて書かず,絵が代わって表現する趣向や,賛を予定してモチーフが中央に寄せられた構図など,水墨画と書との計算し尽された関係は特筆に値する。檜林は,抑制の効いた筆致と墨の階調で巧みに表現されており,絵師の優れた技量がうかがえる。落款はなく,筆者は不詳であるが,長谷川等伯(1539~1610)とする説が提出されている。 上質の絵画と書をあわせもち,近世初期の書,工芸,絵画の動向が深く絡み合う貴重な作例である。 】

はつせ山
ゆふこえ
くれて
やとゝ
へは
(三輪の檜原に)
秋風

ふく

 この「檜原図屏風」は、二〇一〇年に開催された「没後四百年 長谷川等伯展」(東京国立博物館・京都国立博物館)」(下記は『図録』の「章・出品目録」)に出品されていた。

<第1章 能登の絵仏師・長谷川信春>
<第2章 転機のとき-上洛、等伯の誕生->
<第3章 等伯をめぐる人々-肖像画->
<第4章 桃山謳歌-金碧画->
<第5章 信仰のあかし-本法寺と等伯->
<「第6章 墨の魔術師-水墨画への傾倒-」>
<「第7章 松林図の世界」>
76 国宝 松林図屏風 東京国立博物館蔵 六曲一双 各 156.8×356.0㎝ 
77 月夜松林図屏風           六曲一双 各 150.5×351.0㎝
78 檜原図屏風 京都・禅林寺      六曲一隻   151.5×345.6㎝ 

檜原・いろは歌屏風.jpg

近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上) いろは歌屏風(下) (禅林寺蔵)
(出典: 『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p235) 

【 素性法師歌屏風(六曲一隻)  禅林寺蔵 (上)
いろは歌屏風(六曲一隻)   禅林寺蔵 (下)
 紙の状態や、一対とする必然性のない二隻の書写内容から、これを一双とするには無理があるようであるが、禅林寺に納められた時には、すでに一双となっていた。
 素性法師の和歌「はつせ山ゆうこえくれてやどゝへば」「三輪の檜原(ひばら)に)「秋風ぞふく」を書く。中央の「三輪の檜原」の部分を、文字ではなく水墨画で表現する。古来の歌絵(うたえ)の趣向である。檜原の図は国宝の長谷川等伯筆の「松林図屏風 を連想させる。
 いろは歌屏風も、ダイナミックに文字を散らしていく。どのような筆を用いたのであろうか。木刀で容赦なく斬り込んでいくような激しさである。末尾の「前三々後三々(踊り文字)」というのは、『碧語録』(第三十五則、文殊前三三〇に見える公案。無著文喜が文殊菩薩に参禅する夢を見た。問答の後、無著の「ここでの修行者はどのくらいか」という問いに、文殊は「前三三、後三三―あちらに三人、こちらに四人」と答えたという。今に用いられる公案。これを信尹は最後に付け加えている。   】(出典: 『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p234-236) 

この「はつせ山ゆふこえくれてやとゝへば(三輪の檜原に=水墨画で表現)秋風ぞ吹く」は、『新古今和歌集』では、「素性法師」ではなく「禅性法師」の作として、次のとおり収載されている。

    長月のころ、初瀬に詣でける道にてよみ侍りける
966 初瀬山夕越え暮れてやどとへば三輪の檜原に秋かぜぞ吹く 禅性法師
(初瀬山を夕方越えていくうちに日が暮れて、宿をさがしていると、三輪の檜原に秋風が吹くことだ。)
(出典:『日本古典文学全集26 新古今和歌集(校注・訳:峯村文人)』 )

 「禅性法師」は、後鳥羽天皇の『新古今和歌集』時代の人で、仁和寺の僧都といわれている。それに対して、三十六歌仙の一人の「素性法師」は、桓武天皇の孫の六歌仙・三十六歌仙の一人「僧正遍照」の在俗時の子で、『古今和歌集』には、三十六首入集(入集数第四位)と、「紀貫之・凡河内躬恒・紀友則・壬生忠岑」(撰者)と並ぶ大歌人で、「屏風歌」(屏風に描かれている絵の主題に合わせてよまれた歌。屏風にはられた色紙形に書く)の名手といわれている。
 そして、『新古今和歌集』に収載されている、この「966 初瀬山夕越え暮れてやどとへば三輪の檜原に秋かぜぞ吹く(禅性法師)」は、素性法師などの、次の『古今和歌集』の歌と深く関わっているようなのである。

https://core.ac.uk/download/pdf/223207637.pdf

秋風の身にさむければつれもなき人をぞたのむ暮るる夜ごとに(古今555「素性法師」)
今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな(古今691・百人一首21「素性法師」)
来ぬ人待つ夕暮の秋風はいかに吹けばかわびしかるらむ(古今777「家持」)
三輪の山いかに待ち見む年経(ふ)ともたづぬる人もあらじと思へば(古今780)

さらに、この「966 初瀬山夕越え暮れてやどとへば三輪の檜原に秋かぜぞ吹く(禅性法師)」は、『源氏物語』第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」に登場する架空の人物浮舟を題材に制作されたとされている、謡曲「浮島」(世阿弥〈作詞:横尾元久=室町幕府管領 細川満元の被官の武家歌人〉の、そのスタートの「道行」で、下記のとおり、この本歌取りの「謡」(詞章)が使われている。

http://soxis.blog112.fc2.com/blog-entry-12.html

http://wakogenji.o.oo7.jp/nohgaku/noh-ukifune.html

(シテ詞)

これは諸国一見の僧にて候 われこのほどは初瀬に候ひが 
これより都に上らばやと思ひ候

(道行)

初瀬山 夕越えくれし(来・暮)宿もはや 夕越え暮れし宿もはや
檜原のよそにみわ(見・三輪)の山 しるしの杉もたちわかれ(立つ・立ち別れ)。
嵐とともになら(鳴る・奈良・楢)の葉の しばし(柴・暫し)休らふほどもなく
こま(狛・駒)の渡りや足早(あしはや)み
宇治の里にも着きにけり 宇治の里にも着きにけり 

 ここで、この『源氏物語画帖』(土佐光吉・長次郎筆:京博本)の、そのスタート点に戻って、下記のアドレスの、その欠落部分(源氏物語』(第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」)と、この「近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上)」の、この「966 初瀬山夕越え暮れてやどとへば三輪の檜原に秋かぜぞ吹く(禅性法師)」の、その原典となっている、謡曲「浮舟」(その原典は『源氏物語』第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」)と見事に一致することになる。
 すなわち、近衛信尹にとって、『源氏物語画帖』(土佐光吉・長次郎筆:京博本)の欠落部分の、その「第四十九帖の「宿木」から第五十四帖「夢浮橋」までの六帖は、この「近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上)」が、それに代わっているということになる。
 そして、この「近衛信尹筆 檜原図屏風 素性法師歌屏風(上)」の「素性法師歌屏風」は、より正確的には「素性法師由来歌屏風」ということになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-20

【1 桐壺(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏誕生-12歳
2 帚木(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏
3 空蝉(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏 
4 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏17歳秋-冬
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
5 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) 源氏18歳
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
6 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六)源氏18歳春-19歳春
   (長次郎筆)=(詞)西蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書) 
7 紅葉賀(光吉筆)=(詞)大覚寺空性 (一五七三~一六五〇)源氏18歳秋-19歳秋
8 花宴((光吉筆)=(詞)大覚寺空性(一五七三~一六五〇)源氏20歳春
9 葵(光吉筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) 源氏22歳-23歳春
10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)源氏23歳秋-25歳夏
   (長次郎筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) (長次郎墨書)
11 花散里(光吉筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) 源氏25歳夏 
(長次郎筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) (長次郎墨書)
12 須磨(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏26歳春-27歳春
13 明石(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏27歳春-28歳秋
14 澪標(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏28歳冬-29歳
15 蓬生(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏28歳-29歳
(長次郎筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) (長次郎墨書)
16 関屋(光吉筆)=(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏29歳秋
17 絵合(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳春
18 松風(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳秋
19 薄雲(光吉筆)=(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏31歳冬-32歳秋
20 朝顔(槿)(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏32歳秋-冬
21 少女(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏33歳-35歳
22 玉鬘(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏35歳
23 初音(光吉筆)=(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳正月
24 胡蝶(光吉筆) =(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳春-夏
25 蛍(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
26 常夏(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
27 篝火(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三)  源氏36歳秋
28 野分(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 源氏36歳秋 
29 行幸(光吉筆)=(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏36歳冬-37歳春 
30 藤袴(蘭)(光吉筆) =(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏37歳秋 
31 真木柱(光吉筆)=(詞)日野資勝(一五七七~一六三九) 源氏37歳冬-38歳冬 
32 梅枝(光吉筆) =(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)  源氏39歳春
33 藤裏葉(光吉筆)=(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)  源氏39歳春-冬
34 若菜(上・下) (光吉筆) =(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二) 源氏39歳冬-41歳春 
             =(詞)中村通村(一五八七~一六五三) 源氏41歳春-47歳冬 
35 柏木(長次郎筆) =(詞)中村通村(一五八七~一六五三)  源氏48歳正月-秋
36 横笛(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏49歳
37 鈴虫(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏50歳夏-秋
38 夕霧(長次郎筆)=(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 源氏50歳秋-冬
39 御法(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六三四) 源氏51歳
40 幻(長次郎筆)=(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)  源氏52歳の一年間
41 雲隠  (本文なし。光源氏の死を暗示)
42 匂宮(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)  薫14歳-20歳
43 紅梅(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 薫24歳春
44 竹河(長次郎筆)=(詞)四辻季継(一五八一~一六三九)  薫14,5歳-23歳
45 橋姫(長次郎筆) =(詞)四辻季継(一五八一~一六三九) 薫20歳-22歳(以下宇治十帖)
46 椎本(長次郎筆)=(詞)久我敦通(一五六五~?)    薫23歳春-24歳夏
47 総角(長次郎筆) =(詞)久我通前(一五九一~一六三四) 薫24歳秋-冬
48 早蕨(長次郎筆) =(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七) 薫25歳春
49 宿木   (欠)                薫25歳春-26歳夏
50 東屋   (欠)                薫26歳秋
51 浮舟    (欠)                薫27歳春
52 蜻蛉   (欠)                薫27歳
53 手習    (欠)                薫27歳-28歳夏
54 夢浮橋   (欠)                薫28歳         】

(追記)

【 檜原図屏風 六曲一隻 近衛信尹和歌 長谷川等伯筆 紙本墨画 京都禅林寺
 「松林図屏風」(作品76)と同じく、樹林(檜原)を主体として描いた水墨の屏風絵である。画中には、寛永の三筆のひとり、近衛信尹(一五六五~一六一四)によって素性法師の和歌「初瀬山 夕越え暮れてやどとへば、(三輪の檜原に)秋かぜぞ吹く」(『新古今集』所収)が大書されていることから、この檜林が古来、名所として有名な「初瀬(あるいは三輪)の檜原」をあらわしたものとわかる。となれば、檜林の左手奥に配された雪山は初瀬山、その背後に見える寺塔は長谷寺ということになろう。また、和歌には「三輪の檜原に」の部分は書されていないが、これは図様からそれを読み取らせるというもので、蒔絵意匠などに見受けられる洒落た趣向である。その点、本図は和歌が書されるのを想定して描かれた可能性が高く、全体がやや薄めの墨であらわされていることや余白を多く取っている点にもそうした配慮をうかがうことができるよう。
 筆遣いはきわめて秀逸である。とくに前掲の木々の描写は精緻なもので、粗放さを旨とする「松林図屏風」のそれとは相違するが、墨の濃淡を駆使することで霧がかかったような視覚効果を生んでいる点は全く同じである。
 また、画面全体に漂うしっとりした情趣感も、「松林図屏風」のそれと軌を一にするものといえよう。図に落款がないこともあって、本図を等伯真筆とみるか周辺作とは意見が分かれるが、本図の技量の高さに加え、既に指摘されるように信尹と親しかった春屋宗園を参禅とし、また等伯に天授庵障壁画(作品65・66)を描かせた細川幽斎とも昵懇の間柄であったという事実からすれば、等伯以外の長谷川派絵師も本図の筆者とするのは難しいように思われる。その作期としては、本図の画風と信尹の書風から、およそ慶長四年(一五九九)前後が想定されている。  】(「没後四百年 長谷川等伯展」(東京国立博物館・京都国立博物館)」図録)所収「作品解説78(山本英男稿)」)

 この「作品解説78(山本英男稿)」でも、《素性法師の和歌「初瀬山 夕越え暮れてやどとへば、(三輪の檜原に)秋かぜぞ吹く」(『新古今集』所収)》になっているのだが、《素性法師由来の和歌「初瀬山 夕越え暮れてやどとへば、(三輪の檜原に)秋かぜぞ吹く」(『新古今集966 (禅性法師作)』所収)》が、より正確ということになろう。
 それよりも、《画面全体に漂うしっとりした情趣感も、「松林図屏風」のそれと軌を一にするものといえよう。図に落款がないこともあって、本図を等伯真筆とみるか周辺作とは意見が分かれるが、本図の技量の高さに加え、既に指摘されるように信尹と親しかった春屋宗園を参禅とし、また等伯に天授庵障壁画(作品65・66)を描かせた細川幽斎とも昵懇の間柄であったという事実からすれば、等伯以外の長谷川派絵師も本図の筆者とするのは難しいように思われる。その作期としては、本図の画風と信尹の書風から、およそ慶長四年(一五九九)前後が想定されている。》は、やはり、特記して置く必要があろう。
 ここに、下記のアドレスの、「近衛信尹筆「檜原いろは歌屏風」に関する考察 ・ 浜野真由美稿」の知見を加味していくと、その全体像が見えてくる。

https://www.bijutsushi.jp/pdf-files/reikai-youshi/2015_11_21_01_hamano.pdf

【 「近衛信尹筆「檜原いろは歌屏風」に関する考察 ・ 浜野真由美(大阪大学)」
永観堂禅林寺に伝来する「檜原いろは歌屏風」は、「檜原図屏風」と「いろは歌屏風」の二隻からなる紙本墨画墨書の六曲一双屏風である。両隻の書はともに近衛信尹(1565~1614)筆と見做され、大字仮名の嚆矢として日本書道史上重要な位置を占めるが、そうした知名度に反し、実証的な考究はほとんど進められてはいない。近年「檜原図屏風」の画については長谷川等伯(1539~1610)筆に比定されたものの、「いろは歌屏風」の簡略な画は閑却されており、また、両隻には内容的にも関連性が見出せないとの指摘から、現在では本来別個の作であるとする見方が強い。
本発表では、まず二隻の現状と伝来を明らかにする。「檜原図屏風」は、熟考された構成と錬度の高い筆致から、慎重な制作状況が推察される。対して「いろは歌屏風」は、第一扇~第三扇は後補である可能性が高いが、当初とみられる第四扇~第六扇の墨垂れと軽妙な筆致から、むしろ即興的な制作状況が推察される。こうした相違に鑑みれば、確かに二隻は別個の作である蓋然性が高い。
ところが、『禅林寺年譜録』の元和 9 年(1623)の項、すなわち禅林寺第 37 世住持果空俊弍(?~1623)没年の項に「伊呂波屏風一双ナル」の記述が見出され、信尹と懇意であった果空上人の在世時に二隻が一双屏風として禅林寺に伝来したこと、つまり制作後ほどなくより一双屏風であったことが判明する。となれば、二隻に何らかの関係性が伏在した可能性も否めない。
そこで両隻の書画を再検討すると、画のモチーフはほぼ同じ位置に配され、書の字形や章法も近似する箇所が多いなど、意外な親近性が見出される。ことに、「いろは歌屏風」の終行「(前三々後三)々●」の踊り字にあえて用法上の誤りである「くの字点」を用い、「檜原図屏風」の終行の「(ふ)く●」と同じ形状の字で書き終えることは、「檜原図屏風」を意識しつつ「いろは歌屏風」を制作した可能性を示唆する。
こうした二隻の関係から、先行する「檜原図屏風」に即興的に制作した「いろは歌屏風」を加えて一双とした、という成立事情を想定することができよう。
さらに、「檜原図屏風」に表出された三輪地方が柿本人麻呂(660~720?)に縁深い地であることから、その主題は人麻呂の鎮魂にあるとの推察が可能であり、一方「いろは歌屏風」の主題はいろは歌の諸行無常観にあると考えられる。近年の和歌研究においては、人麻呂の歌にいろは歌と諸行無常偈を併記して解釈するといった、和歌文学における仏教的付会の傾向が指摘されており、二隻は内容的にも関連性を認めることができる。
なお、こうした書画の理解には和漢の文芸や仏教理念に関する知識が必須であろう。現段階では推察の域を出ないが、二隻の享受者が公家や五山の禅僧ら知識層、さらに言えば、当該期に盛行した和漢聯句や連歌の連衆であったという可能性も提起したい。 】
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源氏物語画帖(その十三・明石)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

13 明石(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)   源氏27歳春-28歳秋

光吉・明石.jpg

源氏物語絵色紙帖 明石  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511314/2

明石・詞.jpg

源氏物語絵色紙帖 明石  詞・飛鳥井雅胤
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511314/1


(「飛鳥井雅胤」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/14/%E6%98%8E%E7%9F%B3_%E3%81%82%E3%81%8B%E3%81%97%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%89%E5%B8%96%E3%80%91

人の上もわが御身のありさまも、思し出でられて、夢の心地したまふままに、かき鳴らしたまへる声、も心すごく聞こゆ。古人は涙もとどめあへず、岡辺に、琵琶、 箏の琴取りにやりて、入道、琵琶の法師になりて、いとをかしう珍しき手一つ二つ弾きたり。
(第二章 明石の君の物語 第五段 源氏、入道と琴を合奏)

2.5.4 人の上もわが御身のありさまも、思し出でられて、夢の心地したまふままに、かき鳴らしたまへる声も、 心すごく聞こゆ。
(他人の身の上もご自身の様子も、お思い出しになられて、夢のような気がなさるままに、掻き鳴らしなさっている琴の音も、寂寞として聞こえる。)
2.5.5  古人は涙もとどめあへず、岡辺に、琵琶、 箏の琴取りにやりて、 入道、琵琶の法師になりて、いとをかしう珍しき 手一つ二つ弾きたり。
(老人は涙も止めることができず、岡辺の家に、琵琶、箏の琴を取りにやって、入道は、琵琶法師になって、たいそう興趣ある珍しい曲を一つ二つ弾き出した。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十三帖 明石
 第一章 光る源氏の物語 須磨の嵐と神の導きの物語
  第一段 須磨の嵐続く
  第二段 光る源氏の祈り
  第三段 嵐収まる
  第四段 明石入道の迎えの舟
 第二章 明石の君の物語 明石での新生活の物語
  第一段 明石入道の浜の館
  第二段 京への手紙
  第三段 明石の入道とその娘
  第四段 夏四月となる
  第五段 源氏、入道と琴を合奏
  (「飛鳥井雅胤」書の「詞」) → 2.5.4/2.5.5
  第六段 入道の問わず語り
  第七段 明石の娘へ懸想文
  第八段 都の天変地異
 第三章 明石の君の物語 結婚の喜びと嘆きの物語
  第一段 明石の侘び住まい
  第二段 明石の君を初めて訪ねる
  第三段 紫の君に手紙
  第四段 明石の君の嘆き
 第四章 明石の君の物語 明石の浦の別れの秋の物語
  第一段 七月二十日過ぎ、帰京の宣旨下る
  第二段 明石の君の懐妊
  第三段 離別間近の日
  第四段 離別の朝
  第五段 残された明石の君の嘆き
 第五章 光る源氏の物語 帰京と政界復帰の物語
  第一段 難波の御祓い
  第二段 源氏、参内
  第三段 明石の君への手紙、他

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2201

源氏物語と「明石」(川村清夫稿)

【光源氏は、朧月夜との密会が弘徽殿女御の激怒を買い、須磨に隠棲した。そこへ明石に住む明石入道から自宅に招待されて、その娘である明石の上を紹介されるのである。

 明石入道は六十歳くらいの老人で、かつては近衛中将だったのだが播磨守(つまり受領階級)に転じ、隠居後に出家している。頑固なところもあるが、昔の事もよく知っていて、琴や琵琶などを上手に弾く趣味のよい、魅力のある人物である。明石入道の役は、初めての映像化作品である「源氏物語」(1951年、大映京都)ではかつての丹下左膳役者の大河内伝次郎が、武智鉄二が作った「源氏物語」(1966年、日活)では京都の狂言方である大蔵流の茂山七五三が、そして現代の思潮に迎合して製作された「千年の恋・ひかる源氏物語」(2001年、東映京都)では竹中直人が扮していた。

 明石入道は光源氏と琴を合奏してから、明石の上を光源氏と結婚させようとして紹介するのである。その明石入道の台詞を、大島本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。
(大島本原文)前の世の契りつたなくてこそ、かく口惜しき山賎となりはべりけめ、親、大臣の位を保ちたまへりき。みづからかく田舎の民となりにてはべり。次々、さのみ劣りまからば、何の身にかなりはべらむと、悲しく思ひはべるを、これは、生まれし時より頼むところなむはべる。いかにして都の貴き人にたてまつらむと思ふ心、深きにより、ひどほどにつけて、あまたの人の妬みを負ひ、身のためからき目を見る折々も多くはべれど、さらに苦しみと思ひはべらず。

(渋谷現代語訳)前世からの宿縁に恵まれませんもので、このようなつまらない下賤な者になってしまったのでございますが、父親は、大臣の位を保っておられました。自分からこのような田舎の民となってしまったのでございます。子子孫孫と、落ちぶれる一方では、終いにはどのようになってしまうのかと、悲しく思っておりますが、わが娘は生まれた時から頼もしく思うところがございます。何とかして都の高貴な方に差し上げたいと思う決心、固いものですから、身分が低ければ低いなりに、多数の人々の嫉妬を受け、わたしにとってもつらい目に遭う折々多くございましたが、少しも苦しみとは思っておりません。

(ウェイリー英訳)My father, as you know, was a Minister of State; while I, no doubt owing to some folly committed in a former life, am become a simple countryman, a mere yokel, dwelling obscurely among the hills. If the process continued unchecked and my daughter was to fall as far below me in estate as I am now below my illustrious father, what a wretched fate, thought I, must be in store for her! Since the day of her birth my whole object has been to save her from such a catastrophe, and I have always been determined that in the end she should marry some gentleman of good birth from the Capital. This has compelled me to discourage many local suitors, and in doing so I have earned a great deal of unpopularity. I am indeed, in consequence of my efforts on her behalf, obliged to put up with many cold looks from the neighboring gentry; but these do not upset me at all.

(サイデンステッカー英訳)I have sunk to this provincial obscurity because I brought an unhappy destiny with me into this life. My father was a minister, and you see what I have become. If my family is to follow the same road in the future, I ask myself, then where will it end? But I have had high hopes for her since she was born. I have been determined that she go to some noble gentleman in the city. I have been accused of arrogance and unworthy ambitions and subjected to some rather unpleasant treatment. I have not let it worry me.

「前の世の契りつたなくてこそ、かく口惜しき山賎となりはべりけめ」に関して、ウェイリーはI, no doubt owing to some folly committed in a former life, am become a simple countryman, a mere yokel, dwelling obscurely among the hills.と、サイデンステッカーはI sank to this provincial obscurity because I brought an unhappy destiny with me into this life.と訳している。サイデンステッカーは「前の世」をdestinyと解釈しているが、これでは運命の意味になってしまう。「前の世」をa former lifeと解釈したウェイリーの方が正確である。「次々、さのみ劣りまからば、何の身にかなりはべらむと、悲しく思ひはべる」については、ウェイリーはIf the process continued, unchecked and my daughter was to fall as far below me in estate as I am now below my illustrious father, what a wretched fate, thought I, must be in store for her!と、サイデンステッカーはIf my family is to follow the same road in the future, I ask myself, then where will it end?としている。ウェイリー訳は冗漫に過ぎるのに比べ、サイデンステッカー訳は簡潔で正確である。「ひとほどにつけて、あまたの人の妬みを負ひ、身のためからき目を見る折々も多くはべれど、さらに苦しみと思ひはべらず」をウェイリーはThis has compelled me to discourage many local suitors, and in doing so I have earned a great deal of unpopularity, I am indeed, in consequence of my efforts on her behalf, obliged to put up with many cold looks from the neighboring gentry; but these do not upset me at all.と、サイデンステッカーはI have been accused of arrogance and unworthy ambitions and subjected to some rather unpleasant treatment. I have not let it worry me.と訳している。ウェイリー訳はあまりに説明的で長ったらしいのに対して、サイデンステッカー訳はここでも簡潔で明解な良訳である。
明石入道の紹介もあって、光源氏は明石の上と交際するようになるのである。 】


(「三藐院ファンタジー」その四)

(「飛鳥井雅胤」周辺)

 この「詞書」の筆者の「飛鳥井雅胤」については、下記のアドレスの「夕顔」で紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-23

 雅胤は、天正十四年(一五八六)、の生まれ、断絶していた難波家を継ぎ再興した(難波家十三代当主)。慶長十二年(一六〇七)には左近衛少将となったが、翌同十四年(一六〇九)に猪熊教利・兄飛鳥井雅賢らと共に御所の官女と密会して乱交に及んだ事件(猪熊事件)で、後陽成天皇の勅勘を蒙り、同年に伊豆国へと配流された。
 兄・雅賢は隠岐国に配流されたまま寛永三年(一六二六)流刑地(隠岐島)で死去するが、雅胤は慶長十七年(一六一二)勅免により帰京し。翌同十八年(一六一三)名を雅胤(改名=宗勝)と改め、生家飛鳥井家の相続する(十四代当主)。難波家は子の宗種が相続した。
 「猪熊事件」に連座して配流先の伊豆から帰京して、名を「雅胤」に改名して飛鳥井家の当主になったのが慶長十八年(一六一三)とすると、雅胤が、この「源氏物語画帖」(「夕顔」と「明石」)を揮毫したのは、この土佐光吉が亡くなった、この慶長十八年(一六一三)なのか知れない。
 そして、この帰京して間もない飛鳥井雅胤に、この揮毫を依頼したのは、「猪熊事件」が白日の下にさらされた慶長十四年(一六〇九)時には関白職を辞しているが、後陽成天皇の義兄にあたる「信尹」(慶長十一年=一六〇六に関白辞職)と天皇の実弟の「八条宮智仁親王」の二人の影が見え隠れしている。
 殊に、「猪熊事件」の関与者には、「信尹」の「近衛殿(院)流」の能筆家、そして、この「源氏物語画帖」・「詞書」筆者の関係者などが散見される。

(死罪)
〇左近衛少将 猪熊教利(のりとし)
→「四辻公遠」の子、「高倉範国」の養子(「高倉範遠」と称す)、実兄の山科家を継いだ「教遠」(後に四辻季継)が、四辻家を継承し、その後の山科家を相続し、「山科教利」と改名するも、その山科家が、勅勘を蒙っていた「山科言経」が山科家に復帰し、その山科家の分家の「猪熊」家を興し、その家名は平安京の猪熊小路に由来する。教利は、天皇近臣である内々衆の一人として後陽成天皇に仕えていたが、内侍所御神楽で和琴を奏でたり、天皇主催の和歌会に詠進したりする等、芸道にも通じていた。勅命で鷲尾隆康の日記『二水記』を書写したほか、政仁親王の石山寺・三井寺参詣に供奉し、新上東門院(天皇の国母)の使者として伏見城の家康を訪ねた事もある(慶長6年(1601年)には県召除目で武蔵権介に任じられ、、家康からも200石を安堵されている)。
→ 一方、教利は在原業平や『源氏物語』の光源氏を想起させる「天下無双」の美男子として著名で、その髪型や帯の結び方が「猪熊様(いのくまよう)」と呼ばれて京都の流行になる程に評判であった。また、かねてから女癖が悪く、「公家衆乱行随一」と称されていたという。慶長12年(1607年)2月突如勅勘を蒙って大坂へ出奔したが、これは女官との密通が発覚したためと風聞された。やがて京都に戻った後も素行は収まらず、多くの公卿を自邸等に誘っては女官と不義密通を重ねた「猪熊事件」の首謀者として、慶長14年(1609年)
10月17日常禅寺で斬刑に処された。享年27。
→ この「猪熊事件」の首魁・教利は、「流儀集」(「日本書流全史」に収載されている版本)に、「近衛(院)流」の能筆家の一人として、その名が刻まれている(『前田・前掲書)。
→ 実兄の「四辻季継」(1581~1639) →「源氏物語画帖」の「詞書(竹河・橋姫)」の筆者(近衛流)。
→実妹の「四辻与津子」→後水尾天皇の典侍。父は正二位権大納言四辻公遠。女房名、出仕名は御よつ御寮人、大納言典侍、また一位局。院号は明鏡院。姉に上杉景勝側室(定勝生母)桂岩院。兄に鷲尾隆尚・四辻季継・猪熊教利ら。はじめ新上東門院に仕え綾小路と称したが、元和4年(1618年)ごろに後水尾天皇に出仕し典侍となり、賀茂宮(夭逝)、文智女王(梅宮)の1男1女を生む。東福門院徳川和子が後水尾天皇の中宮として入内するに当たり、幕府から圧力を受けて天皇から遠ざけられ内裏より追放され(およつ御寮人事件)、程なく落飾して明鏡院と称し嵯峨に隠棲したといわれる。

(恩免)
〇参議 烏丸光広(1579-1638) →「源氏物語画帖」の「詞書(蛍・常夏)」の筆者(光悦流)。
→子の「烏丸光賢」(1600~1638)→「源氏物語画帖」の「詞書(薄曇・朝顔(木槿)」の筆者(「定家流」)。
〇右近衛少将 徳大寺実久(1583-1616)→配流された「花山院忠長」の実兄。慶長17年(1612年)に正四位下右近衛中将となり、慶長18年(1613年)1月6日には従三位に叙せられ、公卿に列した。慶長19年(1614年)には権中納言となる。元和元年(1615年)には踏歌節会外弁をつとめたが、元和2年に薨去した。享年34。
→父の「花山院定熙」(1558~1634)→「源氏物語画帖」の「詞書(夕霧・匂兵部卿宮・紅梅)」の筆者(花山院流)。

(配流=男性)
〇左近衛権中将 大炊御門頼国→硫黄島配流(慶長18年(1613年)流刑地で死没)。
左近衛少将 花山院忠長→蝦夷松前配流(寛永13年(1636年)勅免)→「徳大寺実久」の弟。「近衛流」。
〇左近衛少将 飛鳥井雅賢→隠岐配流(寛永3年(1626年)流刑地で死没)→「飛鳥井雅胤」の兄。
〇左近衛少将 難波宗勝→伊豆配流(慶長17年(1612年)勅免)。
→「飛鳥井雅胤」(1586-1651)→「源氏物語画帖」の「詞書(夕顔・明石)」の筆者(栄雅流)。
〇右近衛少将 中御門宗信 → 硫黄島配流(→ 流刑地で死没)。

(配流=女性)
〇新大典侍 広橋局(広橋兼勝の娘)→伊豆新島配流(元和9年9月(1623年)勅免)
→父の「広橋兼勝」(1558-1623)は、江戸幕府初代の武家伝奏で、兼勝の妻は「烏丸光康」(光広の祖父)の娘、兼勝の兄の「日野輝資」が「日野家」を継いでいる。この「日野輝資」の嫡子が「日野資勝」(1577-1639)で、「源氏物語画帖」の「詞書(真木柱・梅枝)」の筆者(定家流)である。後陽成天皇の寵愛の深い「広橋局」の密通の相手は「花山院忠長」で、この二人の関係を軸に「朝廷と幕府」との暗躍、「公家間」相互の対立抗争とが錯綜し、以降、「公家衆法度」・「禁中並公家諸法度」制定につながっていく。
〇権典侍 中院局(中院通勝の娘)→ 伊豆新島配流(元和9年9月(1623年)勅免)
→父は「中院通勝」(1556-1610)、母は「細川幽斎」の養女、兄は「中院通村」(1588-1653)で「源氏物語画帖」の「詞書(若葉下・柏木)」の筆者(中院流)。烏丸光広との密通を疑われたといわれている(本名=仲子)。
〇中内侍 水無瀬(水無瀬氏成の娘)→ 伊豆新島配流(元和9年9月(1623年)勅免)
〇菅内侍 唐橋局(唐橋在通の娘)→ 伊豆新島配流(元和9年9月(1623年)勅免)
〇命婦 讃岐(兼康頼継=死罪)の妹 →伊豆新島配流(元和9年9月(1623年)勅免)
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「源氏物語画帖(その十二・須磨)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

12 須磨(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏26歳春-27歳春

須磨・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 須磨  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/578343/2

須磨・信尋.jpg

源氏物語絵色紙帖 須磨  詞・近衛信尋
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/578343/1

(「近衛信尋」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/13/%E9%A0%88%E7%A3%A8_%E3%81%99%E3%81%BE%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%B8%96%E3%80%91

一年の花の宴に、院の御けしき、内裏の主上のいときよらになまめいて、わが作れる句を誦じたまひしも、思ひ出できこえたまふ。

いつとなく大宮人の恋しきに桜かざしし今日も来にけり
     (第四章 光る源氏の物語 第一段 須磨で新年を迎える)

4.1.2 一年の花の宴に、院の御けしき、内裏の主上のいときよらになまめいて、わが作れる句を誦じたまひし」も、思ひ出できこえたまふ。(去る年の花の宴の折に、院の御様子、主上がたいそう美しく優美に、わたしの作った句を朗誦なさったのも、お思い出し申される。)

4.1.3 いつとなく大宮人の恋しきに桜かざしし今日も来にけり (いつと限らず大宮人が恋しく思われるのに、桜をかざして遊んだその日がまたやって来た。)

百敷の大宮人はいとまあれや桜かざして今日も暮らしつ(和漢朗詠集上-二五 山辺赤人)


(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十二帖 須磨
 第一章 光る源氏の物語 逝く春と離別の物語
  第一段 源氏、須磨退去を決意
  第二段 左大臣邸に離京の挨拶
  第三段 二条院の人々との離別
  第四段 花散里邸に離京の挨拶
  第六段 藤壺に離京の挨拶
  第七段 桐壺院の御墓に離京の挨拶
  第八段 東宮に離京の挨拶
  第九段 離京の当日
 第二章 光る源氏の物語 夏の長雨と鬱屈の物語
  第一段 須磨の住居
  第二段 京の人々へ手紙
  第三段 伊勢の御息所へぎやも手紙
  第四段 朧月夜尚侍参内する
 第三章 光る源氏の物語 須磨の秋の物語
  第一段 須磨の秋
  第二段 配所の月を眺める
  第三段 筑紫五節と和歌贈答
  第四段 都の人々の生活
  第五段 須磨の生活
  第六段 明石入道の娘
 第四章 光る源氏の物語 信仰生活と神の啓示の物語
  第一段 須磨で新年を迎える
  (「近衛信尋」書の「詞」)→4.1.2/ 4.1.3
第二段 上巳の祓と嵐

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2095

源氏物語と「須磨」(川村清夫稿)

【「賢木」の帖で朧月夜との密会の場を右大臣に押さえられた光源氏は、弘徽殿女御の激怒を買って勅勘(天皇からとがめを受けること)の身となり、一時的に京の都を退去して、須磨に隠棲せざるを得なくなった。

光源氏は白氏文集、琴など須磨に携行する物を選び、紫上に留守宅ならびに全財産を預けて家を後にするのである。この場面を大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)「わが身かくてはかなき世を別れなば、いかなるさまにさすらへたまはむ」と、うしろめたく悲しけれど、思し入りたるに、いとどしかるべければ、
「生ける世の別れを知らで契りつつ
命を人に限りけるかな
はかなし」
など、あさはかに聞こえなしたまへば、
「惜しからぬ命に代へて目の前の
 別れをしばしとどめてしがな」
「げに、さぞ思さるらむ」と、いと見捨てがたけれど、明け果てなば、はしたなかるべきにより、急ぎ出でたまひぬ。

(渋谷現代語訳)「わが身がこのようにはかない世の中を離れて行ったら、どのような状態でさすらって行かれるのであろうか」と、不安で悲しく思われるが、深いお悲しみの上に、ますます悲しませるようなので、
「生きている間に生き別れというものがあるとは知らずに
 命のある限りは一緒にと信じていたことよ、
はかないことだ」
などと、わざとあっさりと申し上げなさったので、
「惜しくもないわたしの命に代えて、
 今のこの別れを少しの間でも引きとどめて置きたいものです」
「なるほど、そのようにお思いだろう」と、たいそう見捨てて行きにくいが、
夜がすっかり明けてしまったら、きまりが悪いので、急いでお立ちになった。

(ウェイリー英訳)The thought came to him that he might die at Suma. Who would look after her? What would become of her? He was indeed on less heart-broken than she; but he knew that if he gave way to his feelings her misery would only be increased and he recited the verse:
“We who so long have sworn that death alone should part us, must suffer life for once to cancel all our vows.”
He tried to speak lightly, but when she answered:
“Could my death pay to hold you back, how gladly would I purchase a single moment of delay,”
He knew that she was not speaking idly. It was terrible to leave her, but he knew that by daylight it would be harder still, and he fled from the home.

(サイデンステッカー英訳)What sort of home would this unkind, inconstant city be for her now? But she was sad enough already, and these thoughts were best kept to himself. He said with forced lightness:
“At least for this life we might make our vows, we thought.
And so we vowed that nothing would ever part us.
How silly we were!”
This was her answer:
“I would give a life for which I have no regrets.
If it might postpone for a little the time of parting.”
They were not empty words, he knew; but he must be off, for he did not want the city to see him in broad daylight.

 紫上を心配する光源氏の台詞「わが身かくてはかなき世を別れなば、いかなるさまにさすらへたまはむ」に関して、ウェイリーはThe thought came to him that he might die at Suma. Who would look after her? What would become of her? と、冗漫だが原文に近い翻訳である。他方サイデンステッカーはWhat sort of home would this unkind, inconsistent city be for her now? と、原文からずれた翻訳をしている。

光源氏が紫上に詠んだ和歌「生ける世の別れを知らで契りつつ命を人に限りけるかな」について、ウェイリーはWe who so long have sworn that death alone should part us, must suffer life for once to cancel all our vows と訳して、台詞の「はかなし」を略している。サイデンステッカーは台詞の「はかなし」も含めてAt least for this life we might make our vows, we thought. And so we vowed that nothing would ever part us. How silly we were! と訳している。後者の方がわかりやすい訳である。

紫上から光源氏への返歌「惜しからぬ命に代へて目の前の別れをしばしとどめてしがな」には、ウェイリーはCould my death pay to hold you back, how gladly would I purchase a single moment of delay.と、サイデンステッカーはI would give a life for which I have no regrets. If it might postpone for a little the time of parting.と訳している。後者の方が素直な訳である。

末尾の「いと見捨てがたけれど、明け果てなば、はしたなかるべきにより、急ぎ出でたまひぬ」に関して、ウェイリーはIt was terrible to leave her, but he knew that by daylight it would be harder still, and he fled from home.と原文の流れに沿って訳しているが、サイデンステッカーはHe must be off, for he did not want the city to see him in broad daylight.と、ひねった訳をしている。

一度は須磨に蟄居した光源氏だが、このすぐ後の「明石」の帖で、娘を上級貴族に嫁がせようとしていた、明石入道の歓待を受けることになるのである。 】


https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila/69/5/69_5_343/_pdf/-char/ja

「後水尾院サロンと宮廷庭園の展開」(町田香稿)

後水尾院サロン.jpg

(「三藐院ファンタジー」その三)

「近衛信尋」(プロフィール)( 『ウィキペディア(Wikipedia)』などにより作成)

生誕:慶長4年5月2日(1599年6月24日)
死没:慶安2年10月11日(1649年11月15日
後陽成天皇の第四皇子。官位は従一位・関白、左大臣。近衞信尹の養子となり、近衞家19代目当主となる。これにより近衞家は皇別摂家となる。
父:後陽成天皇、母:近衞前子(信尹の妹)、養父:近衞信尹。
兄弟:承快法親王、聖興女王、覚深入道親王、龍登院宮、清子内親王・鷹司信尚室、文高女王、後水尾天皇、尊英女王、(近衞信尋)、 尊性法親王 、尭然法親王、高松宮好仁親王、・初代高松宮、良純法親王 、一条昭良、貞子内親王、尊覚法親王、永崇女王、高雲院宮、冷雲院宮、道晃法親王、尊清女王、空花院宮、尊蓮女王、道周法親王、慈胤法親王。
正室: 近衞信尹の娘=太郎(君)か?
子:尚嗣(近衞家20代当主、母=不詳)、寛俊、長君、尋子(徳川光圀の正室、通称は泰姫)、高慶尼、三時知恩寺尼。
(生涯)
慶長4年(1599年)5月2日生。幼称は四宮(しのみや)。
慶長10年(1605年)、元服し正五位下に叙せられ、昇殿を許される。
慶長11年(1606年)5月28日、従三位に叙せられ公卿に列する。
慶長12年(1607年)に権中納言。
慶長16年(1611年)に権大納言。
慶長17年(1612年)には内大臣。。
慶長19年(1614年)に右大臣。
元和6年(1620年)に左大臣。
元和9年(1623年)には関白に補せられる。
正保2年(1645年)3月11日、出家し応山(おうざん)と号する。
慶安2年(1649年)10月11日薨去、享年51。
(人物・逸話)
〇和歌に極めて優れ、叔父であり桂離宮を造営した八條宮智仁親王と非常に親しく、桂離宮における交流は有名である。自筆日記として『本源自性院記』を残している。
〇近衞前久や信尹の文化人としての資質を受け継ぎ、諸芸道に精通した。書道は養父信尹の三藐院流(別称:近衛流)を継承し、卓越した能書家だった。
〇茶道は古田重然に学び、連歌も巧みだった。実兄にあたる後水尾天皇を中心とする宮廷文化・文芸活動を智仁親王、良恕法親王、一条昭良らと共に中心的人物として担った。また、禅僧の沢庵宗彭や一糸文守、後に養父と共に寛永の三筆として名を連ねる松花堂昭乗などの文人らと交流があり、宮廷への橋渡しも行っていた。
〇六条三筋町(後に嶋原に移転)一の名妓・吉野太夫を灰屋紹益と競った逸話でも知られる。太夫が紹益に身請けされ、結婚した際には大変落胆したという話が伝わっている。

 この「源氏物語絵色紙帖 須磨」を描いた「土佐久翌光吉」は、慶長十八年(一六一三)五月五日に、その七十五歳の生涯を閉じだ。そして、その翌年の、慶長十九年(一六一四)十一月二十五日、信尋の養父の近衛信尹が没している(享年五十)。
 慶長十八年(一六一三)時は、信尋は十五歳、そして、慶長十九年(一六一四)時は十六歳で、
上記の光吉の描いた「源氏物語絵色紙帖 須磨(光吉筆)」に対応する信尋の書の「詞書」は、その信尋の十五歳から十六歳時の頃の書ということになろうか。
 さらに、この信尋が右大臣に任ぜられたのは、慶長十九年(一六一四)正月十一日、信尹が没したのは、その年の十一月二十五日、そして、この両者が、「蓬生」(後出)で、《15蓬生(光吉筆)=(詞)※※近衛信尋(一五九九~一六四九) (「久翌=光吉」印):(長次郎筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) (長次郎墨書) ※※※》で競作している。
その「紙背の墨書注記」(昭和四十九年に「二帖」から「四帖」に改訂した際に発見された墨書注記=『国華』第九九六号所載の武田恒夫氏論稿・『講座日本美術史』第一巻の松原茂氏論稿「詞書作者と執筆分担」)に書かれている「信尹・信尋・太郎(君)」の肩書などは、次のものである(『前田・前掲書』p168)。

【「賢木」・光吉画=(詞書)→八条宮智仁→八条宮一品式部卿知仁
「同」・長次郎画=(詞書→太郎(君)→近衛前関白左大臣信尹公御息女
「花散里」・光吉画=(詞書→太郎(君)→近衛前関白左大臣信尹公御息女
「同」・長次郎画=(詞書)→八条宮智仁→八条宮一品式部卿知仁
「蓬生」・光吉画=(詞書)→信尋→近衛右大臣左大将信尋
「同」・長次郎画=(詞書)→信尹→近衛前関白左大臣信尹        】
(『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)

太郎君・花散里.jpg

A図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞:近衛信尹息女太郎(君)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511324/2

須磨・信尋.jpg
B図 源氏物語絵色紙帖 須磨  詞・近衛信尋
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/578343/1

信尹・太郎・賢木.jpg

C図(右)=「源氏物語絵色紙帖 賢木  詞・太郎(君)」=京都国立博物館蔵
C図(左)=近衛信尹筆「賢木」詞書手本(陽明文庫蔵)=(右図の手本ょ
(出典: 『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』)

 「A図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞:近衛信尹息女太郎(君)」については、下記のアドレスの前回(その十一)に取り上げた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-07

 ここで、信尹の『三藐院記』の、子供にかんする記述を紹介し、その『三藐院記』に記述されている、下記の「B・C」の「子・愛娘」が、「太郎(君)」とすると、「信尋」は一歳年下
になるということに触れた。
 
【A 今夜、竹、誕ス。男子也。但、即時空。可惜、可嘆。文禄三年(一五九四)七月二十条・信尹三十歳
B 辰下刻(午前九時過ぎ)、女子生。慶長三年(一五九八)五月六日条・信尹三十四歳
C 晴、愛娘ハシカ出。慶長十一年(一六〇六)正月五日条・信尹四十二歳  】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p166)

 そして、C図(右)=「源氏物語絵色紙帖 賢木  詞・太郎(君)」については、下記のアドレスの前々回(その十)で取り上げている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-05

 ここで、信尹の遺書ともいうべき「信尹公御書置(かきおき)」を紹介し、さらに、C図(右)には、C図(左)の、信尹直筆の「C図(右)の手本」があるということに触れ、下記の記述を紹介した。

【 ところで、この太郎が揮毫した二面(「賢木」と「花散里」)のうち「賢木」の手本が、陽明文庫に伝損している。無論、手本というのは信尹の筆。源氏が野宮、斎宮とともに伊勢に下るという六条・御息所を訪ねて、二人が和歌を贈答する場面である。後半の行取り若干の違いはあるが、漢字も仮名の字母も同一で、全く同じ字形である。つまり、原本と写しの関係。しかし、手本通りに書くのはなかなか難しい。どうしても文字が大きくなる。「をとめごは……」の和歌をお手本通りに入れるスペースがなくなってしまった。また曲線がうまく運筆できない太郎は、花押に苦労した様子である(※「そもそも女性が花押むを用いること自体が珍しいのであるが」)。とまれ、信尹の手本と太郎が書いたものの図版を並べて見ていると、太郎の真剣な表情が浮かんでくるようであり、ほほえましい限りである。やはり幼さが際立つこと歪めない。 】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p170-p171)

 ここで、A図(太郎君の「花散里」の書)と、B図(信尋の「須磨」の書)とを、並列して鑑賞したい。そして、土佐光吉が生存していた慶長十八年(一六一三)時の書とすると、A図(太郎君の「花散里」の書)は、太郎(君)の十六歳、B図(信尋の「須磨」の書)は、信尋の十五歳時の作品ということになる。
 さらに、この太郎(君)のC図(左)の、信尹直筆の「C図(右)の手本(「太郎の『花押』入り)」があるということは、「愛娘」の「太郎(君)」には、「書家(近衛流=信尹流)」の一翼を期待してのもの、そして、このB図(信尋の「須磨」の書)には、信尹の跡を継いで、近衞家第十九代目当主となることと同時に、「書家(近衛流=信尹流)」の、その双璧を、「太郎(君)」共々、期待してのものなのではなかろうか。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-08

 『日本書道全史(下巻)・講談社刊』の「近衛流」は下記のとおりである(数字などは「目次」番号など)。ここに、『前田・前掲書(p244-246)』により、『本朝古今名公古筆諸流』(元禄七年=一六四四)の「近衛流の人々(信尹没年時の年齢など)」を付記《》して置きたい(※印は「信尋」と「太郎君」)。

https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000001278246-02.html

【27 近衛流 〔二五三−二八六〕
299 近衛信尹(信輔・信基・三藐院)(945〜980) 二五三 → 《信基公改信輔又信尹共 天正之比三藐院と号。五十歳》
300 和久半左衛門(981〜989) 二七二 →《近衛殿流 秀吉公之右筆。三十七歳》
301 四辻季継(990) 二七六 →《季継 近衛殿流 天正之比。三十四歳》
302 西園寺公益(991) 二七六
303 九条道房(992) 二七六 
※304 近衛信尋(応山)(993〜1007) 二七七 →《信尋公 慶長四年誕生 正保弐年出家四十七歳也、法名応山と号。十六歳》
305 大覚寺 空性親王(1008〜1010) 二八三
306 西園寺公満(1011) 二八三
307 滋野井季吉(1012〜1013) 二八四 →《季吉 近衛殿流。二十九歳》
308 鷹司信房(1014) 二八四  
309 花山院忠長(1015) 二八四   → 《忠長 近衛殿流。二十七歳》
310 鷹司教平(1016〜1017) 二八五 → 《近衛殿流 慶長十四年ニ誕生。六歳》
311 堀川康胤(1018) 二八五
312 北野禅昌(1019) 二八五  → 《近衛殿流》
313 津田辨作吉之(1020) 二八六
※314 近衛太郎君(1021) 二八六          
《後水尾院 勅筆 慶安之仙祠様。十九歳》
《高松殿 好仁 近衛殿流 初之筆。十二歳》
《徳大寺殿 実久 近衛殿流。三十二歳 》
《正親町三条実有 近衛流 又実助。二十七歳》
《北野松梅院 禅意 近衛殿流》
《連歌師 兼也 近衛殿流》
《生田六左衛門 近衛殿流》
《古川長助 近衛殿流》
《湯山 甚澄 近衛殿流 慶長之比》         】
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「源氏物語画帖(その十一・花散里)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

11 花散里(光吉筆)=(詞)近衛信尹息女太郎(君   源氏25歳夏 
  花散里(長次郎筆)=(詞) 八条宮智仁

光吉・花散里.jpg

A-1図 源氏物語絵色紙帖 花散里 画:土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511324/2

太郎君・花散里.jpg

A-2図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞:近衛信尹息女太郎(君)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511324/2

長次郎・花散里.jpg

B-1図 源氏物語絵色紙帖 花散里  画:長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580483/1

八条宮・花散里.jpg

B-2図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞:八条宮智仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580483/1


(「近衛信尹息女太郎(君)」書の「詞」=A-2図)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/12/%E8%8A%B1%E6%95%A3%E9%87%8C_%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%A1%E3%82%8B%E3%81%95%E3%81%A8%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E5%8D%81%E4%B8%80%E5%B8%96%E3%80%91

琴を、あづまに調べて、掻き合はせ、にぎははしく弾きなすなり。御耳とまりて、門近なる所なれば、すこし さし出でて見入れたまへば、(第二段 中川の女と和歌を贈答)

1.2.1 琴を、 あづまに調べて、 掻き合はせ、にぎははしく 弾きなすなり。
(琴を東の調べに合わせて、賑やかに弾いているのが聞こえる。)
1.2.2 御耳とまりて、門近なる所なれば、すこし さし出でて見入れたまへば、
(お耳にとまって、門に近い所なので、少し乗り出してお覗き込みなさると、)

(「八条宮智仁」書の「詞」=B-2図)

「をちかへりえぞ忍ばれぬほととぎす ほの語らひし宿の垣根に」
寝殿とおぼしき屋の西の妻に人びとゐたり。先々も聞きし声なれば、声づくりけしきとりて、御消息聞こゆ。若やかなるけしきどもして、おぼめくなるべし。(第二段 中川の女と和歌を贈答)

1.2.3 「をちかへりえぞ忍ばれぬほととぎす ほの語らひし宿の垣根に」
(「昔にたちかえって懐かしく思わずにはいられない、ほととぎすの声だ。かつてわずかに契りを交わしたこの家なので」)
1.2.4 寝殿とおぼしき屋の西の妻に人びとゐたり。先々も聞きし声なれば、 声づくりけしきとりて、御消息聞こゆ。若やかなるけしきどもして、 おぼめくなるべし。
(寝殿と思われる家屋の西の角に女房たちがいた。以前にも聞いた声なので、咳払いをして相手の様子を窺ってから、ご言伝を申し上げる。若々しい女房たちの気配がして、不審に思っているようである。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十一帖 花散里
第一章 花散里の物語
  第一段 花散里訪問を決意
  第二段 中川の女と和歌を贈答
(「近衛信尹息女太郎(君)」書の「詞」=B-2図)→ 1.2.1/1.2.2 
(「八条宮智仁」書の「詞」=B-4図) → 1.2.3/1.2.4 
第三段 姉麗景殿女御と昔を語る
  第四段 花散里を訪問

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2053

源氏物語と「花散里」(川村清夫稿)

【 光源氏の愛人の中で、花散里は紫上のような美女でもなければ、末摘花のような醜女でもない、普通の容貌の持主であった。ただし温和で、家庭的な性格だったので、光源氏の豪邸六条院が完成してからは、光源氏から紫上に次いで大切にされた。

 「花散里」の帖は、源氏物語の中で最も短い帖であり、最も冗長な帖である「若菜」の帖と好対照である。内容は、光源氏が麗景殿女御のもとを訪問したついでに、その妹である花散里とも会うという状況描写だけで、台詞はほとんど出てこない。ただし末尾に、光源氏の男女交際観が書かれているので、ここにあげておく。

「花散里」の帖の原文は、藤原定家の自筆本である。定家自筆本はこの帖と、「行幸」、「柏木」、「早蕨」、「野分」の5帖しか現存していない。それでは定家自筆本、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順番に見てみよう。

(定家自筆本)かりに見たまふかぎりは、おしなべての際にはあらず、さまざまにつけて、いふかひなしと思さるるはなければにや、憎げなく、我も人も情けを交はしつつ、過ぐしたまふなりけり。それをあいなしと思ふ人は、とにかくに変はるも、「ことわりの、世のさが」と、思ひなしたまふ。

(渋谷現代語訳)かりそめにもお契りになる相手は、皆並々の身分の方ではなく、それぞれにつけて、何の取柄もないとお思いになるような方はいないからだろうか、嫌と思わず、自分も相手も情愛を交わし合いながら、お過ごしになるのであった。それを、つまらないと思う人は、何やかやと心変わりしていくのも、「無理もない、人の世の習いだ」と、しいてお思いになる。

(ウェイリー英訳)Being women of character and position they had no false pride and saw that it was worthwhile to take what they could get. Thus without any ill will on either side concerning the future or the past they would enjoy the pleasure of each other’s company, and so part. However, if by chance anyone resented this kind of treatment and cooled towards him, Genji was never in the least surprised; for though, as far as feelings went, perfectly constant himself, he had long ago learnt that such constancy was very unusual.

(サイデンステッカー英訳) There were no ordinary, common women among those with whom he had had even fleeting affairs, nor were there any among them in whom he could find no merit; and so it was, perhaps, that an easy, casual relationship often proved durable. There were some who changed their minds and went on to other things, but he saw no point in lamenting what was after all the way of the world.

 第1文の前半「かりに見たまふかぎりは、おしなべての際にはあらず、さまざまにつけて、いふかひなしと思さるるはなければにや」に関しては、ウェイリーはBeing women of character and position they had no false pride and saw that it was worthwhile to take what they could get.と、サイデンステッカーはThere were no ordinary, common women among those with whom he had had even fleeting affairs, nor were there any among them in whom he could find no merit.と訳している。

「おしなべての際にはあらず」をウェイリーはwomen of character and positionと、サイデンステッカーはthere were no ordinary, common womenと解釈している。また「いふかひなしと思さるるはなければにや」については、ウェイリーはit was worthwhile to take what they could getと、サイデンステッカーはnor were there any among them in whom he could find no meritととらえている。

第1文の後半「憎げなく、我も人も情けを交はしつつ、過ぐしたまふなりけり」に関しては、ウェイリーはThus without any ill will on either side concerning the future or the past they would enjoy the pleasure of each other’s company, and so part.と、冗漫な訳をしている。他方サイデンステッカーはand so it was, perhaps, that an easy, casual relationship often proved durable.と、訳し足りない。

ウェイリーが「憎げなく」をwithout ill willと、「我も人も情けを交はしつつ」をthey would enjoy the pleasure of each other’s companyと解釈しているのに対して、サイデンステッカーはこれらの部分を訳出せず、そっけなくeasy, casual relationshipにまとめてしまっている。

第2文の前半「それをあいなしと思ふ人は、とにかくに変はるも」については、ウェイリーはif by chance anyone resented this kind of treatment and cooled towards himと、サイデンステッカーはthere were some who changed their minds and went on to other thingsと簡単に訳しているが、「あいなし」の正しい訳語はunattractiveである。

第2文の後半「ことわりの、世のさがと、思ひなしたまふ」に関しては、ウェイリーの訳文はGenji was never in the least surprised; for though, as far as feelings went, perfectly constant himself, he had long ago learnt such constancy was very unusualと冗長で、サイデンステッカーの訳文はbut he saw no point in lamenting what was after all all the way of the worldと簡潔である。キーワードである「ことわりの、世のさが」を、ウェイリーはsuch constancy was very unusual、サイデンステッカーはthe way of the worldと訳しているが、これは後者の方が的確である。

 麗景殿女御と花散里への訪問もつかの間のやすらぎであった。「賢木」の帖で朧月夜との密会の場を右大臣に押さえられた光源氏は、弘徽殿女御の激怒を買って勅勘の身となり、流罪を避けて、須磨から明石へ蟄居することになるのである。 】

(「三藐院ファンタジー」その二)

「A-2図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞:近衛信尹息女太郎(君)」について、『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』では、「力強い書風である。太郎君は、数えで九歳のときに麻疹(ましん)を患っている。容姿に恵まれない末摘花に準(なぞら)えられていたのだろうか」とコメントしている(p67)。
近衛信尹の日記『三藐院記』には、「太郎(君)」に関する記述はない。ただ、その『三藐院記』には、子供について、次の三箇所の記述がある。

【A 今夜、竹、誕ス。男子也。但、即時空。可惜、可嘆。文禄三年(一五九四)七月二十条・信尹三十歳
B 辰下刻(午前九時過ぎ)、女子生。慶長三年(一五九八)五月六日条・信尹三十四歳
C 晴、愛娘ハシカ出。慶長十一年(一六〇六)正月五日条・信尹四十二歳  】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p166)

Aは、信尹が薩摩の坊津に配流になった三か月後のことで、「竹」は信尹の身辺に仕えた侍女の一人で、後年にも、信尹の書簡などに、その名が記されているようである(『前田・前掲書)。この嬰児は、生まれると直ぐに亡くなり(即時空)、「可惜(惜シム可シ)、可嘆(嘆ク可シ)」。
Bは、生母が不明だが、女子誕生の記述。この女子が「太郎(君)」なのかも知れない。Cでは、この「愛娘(まなむすめ)」が「ハシカ」(麻疹)を患ったという記述で、「恙なく成長していれば、九歳、そして、前年の慶長十年に元服した信尋は、一歳年下の八歳」ということになる(『前田・前掲書)。『稲本・前掲書』では、この『三藐院記』の記述に基づいてのものなのであろう。
 しかし、「花散里」の「画」(B-1図・光吉筆)に対応する「詞」(B-2図・太郎書)のコメントとして、『稲本・前掲書』の、「容姿に恵まれない末摘花に準(なぞら)えられていたのだろうか」は、やや飛躍過ぎという雰囲気で無くもない。
 そして、「花散里は紫上のような美女でもなければ、末摘花のような醜女でもない、普通の容貌の持主であった。ただし温和で、家庭的な性格だった」(「川村・前掲稿」)ということに着目しての、何らかのコメントが付加されるというように解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-20

【 4 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)(「久翌=光吉」印) 
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (「長次郎」墨書)
  5 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) )(「久翌=光吉」印) 
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (「長次郎」墨書)
6 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) )(「久翌=光吉」印)
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (「長次郎」墨書) 
10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)※※※)(「久翌=光吉」印)
   (長次郎筆)=(詞)※近衛信尹息女(?~?) (「長次郎」墨書)
11 花散里(光吉筆)=※(詞)近衛信尹息女(?~?) (「久翌=光吉」印) 
(長次郎筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) (長次郎墨書) ※※※)
15 蓬生(光吉筆)=(詞)※※近衛信尋(一五九九~一六四九) (「久翌=光吉」印)
(長次郎筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) (長次郎墨書) ※※※ 】

『源氏物語画帖』(京博本)は、「絵・詞書」ともに五十四枚の画帖である。「1 桐壺(光吉筆)」から「34若菜(上・下) (光吉筆)」までが「光吉筆」で、「35柏木(長次郎筆)」から「48 早蕨(長次郎筆)」までが「長次郎筆」である。そして、「49宿木」から「54夢浮橋」までの六場面は存在しない。この六場面に代わるものとして、上記の「4夕顔・5若紫・6末摘花・10賢木・11花散里・15蓬生」が「光吉筆と長次郎筆」で重複している。
この「49宿木から54夢浮橋」の六画面を外して、代わりに、この「4夕顔・5若紫・6末摘花・10賢木・11花散里・15蓬生」を、何故に重複させて描かせたのであろうかということについて、『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』では、次のように記述している。

【 重複六場面には、光源氏が女性のもとを訪れる場面と、光源氏が女性の姿を垣間見る場面が描かれている。このような情景選択と長次郎の甘く優しい絵の表現から、「邸(やしき)の奥にいて男の訪れを待っていれば、物語のように幸せになることができる」という注文主のメッセージを読み取ることができる(注一)。 
 最後の場面である蓬生の絵(上記の「15蓬生」=後出)を見てみよう。荒れ果てた邸内にいるものの幸福そうな男女の姿を描き、光源氏の訪れによって、ようやく幸せになった末摘花のようすをあらわしている。このような場面で終わらせたのは、鑑賞者の幸せを願う注文主の思いが込められているからであろう。蓬生の詞書筆者は近衛信尹である。信尹は、薫と匂宮というふたりの男性のあいだで揺れた浮舟が、入水を果たせず倒れていたところを横川(よかわ)の僧都に助けられ、出家するという忌むべき場面を避け、娘太郎君のために制作させたのではないだろうか。
(注一)=稲本万里子「京都国立博物館保管「源氏物語画帖」に関する一考察―長次郎による重複六場面をめぐって―」『国華』一二二三、一九九七年九月。
(注二)=武田恒夫「土佐光吉と細画―京都国立博物館源氏物語図帖をめぐって―」『国華』九九六、一九七六年十二月。=この論稿が、《「1 桐壺(光吉筆)」から「34若菜(上・下) (光吉筆)」までが「光吉筆」で、「35柏木(長次郎筆)」から「48 早蕨(長次郎筆)」までが「長次郎筆」である。》ことを明らかにしたもので、(注一)などは、ここからスタートしている。 】(『源氏絵の系譜(稲本万里子著・森話社)』p66)

 ここで、『稲本・前掲書』では、「蓬生の詞書筆者は近衛信尹である。信尹は、薫と匂宮というふたりの男性のあいだで揺れた浮舟が、入水を果たせず倒れていたところを横川(よかわ)の僧都に助けられ、出家するという忌むべき場面を避け、娘太郎君のために制作させたのではないだろうか」という指摘は「是」としても、これは、「※※※信尹(養父)と※※信尋(養子=実子に近い)」との「両者の『詞書』との関係」で、「※※※信尹「実父」と※太郎(君)=実子の愛娘との関係」との「両者の『詞書』との関係」ではない。そして、これらのことから、「太郎(君)=ハシカ(麻疹)=「容姿に恵まれない末摘花に準(なぞら)えられていたのだろうか」のストレートの結び付きは、やはり否定的に解したい。
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「源氏物語画帖(その十)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)   源氏23歳秋-25歳夏
  賢木(長次郎筆)=(詞)近衛信尹息女太郎(君)

光吉・賢木.jpg

A=1図 源氏物語絵色紙帖 賢木  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580820/2

賢木・詞.png

A-2図 源氏物語絵色紙帖 賢木  詞・八条宮智仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580820/1


(A-2図「八条宮智仁」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/11/%E8%B3%A2%E6%9C%A8%E3%83%BB%E6%A6%8A_%E3%81%95%E3%81%8B%E3%81%8D%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%B8%96%E3%80%91_%E9%87%8E%E5%AE%AE_%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%BF

榊をいささか折りて持たまへりけるを、挿し入れて、「変らぬ色をしるべにてこそ、斎垣も越えはべりにけれ。さも心憂く」と、聞こえたまへば、「神垣はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」と、聞こえたまへば、「少女子があたりと思へば 榊葉の香をなつかしみとめてこそ折れ」
(第一章 六条御息所の物語 第二段 野の宮訪問と暁の別れ)

1.2.14 榊をいささか折りて持たまへりけるを、挿し入れて、(榊を少し折って持っていらしたのを、差し入れて、)
1.2.15 「変らぬ色をしるべにてこそ 斎垣も越えはべりにけれ。さも心憂く」
(「変わらない心に導かれて、禁制の垣根も越えて参ったのです。何とも薄情な」)
1.2.16 と聞こえたまへば、(と申し上げなさると、)
1.2.17 「 神垣(かみがき)はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」(「ここには人の訪ねる目印の杉もないのに、どう間違えて折って持って来た榊なのでしょう」)
1.2.18 と聞こえたまへば、(と申し上げなさると、)
1.2.19 「 少女子(おとめご)があたりと思へば 榊葉の香(か)をなつかしみとめてこそ折れ」(「少女子がいる辺りだと思うと、榊葉が慕わしくて探し求めて折ったのです」)

長次郎・賢木.jpg

B=1図 源氏物語絵色紙帖 賢木  画・長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511517/2

太郎君・賢木.jpg

B=2図 源氏物語絵色紙帖 賢木  詞・太郎(君)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511517/1


(B-2図「近衛信尹息女太郎(君)の「詞」)

神垣はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」と、聞こえたまへば、「少女子があたりと思へば 榊葉の香をなつかしみとめてこそ折れ」

1.2.17 「 神垣(かみがき)はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」(「ここには人の訪ねる目印の杉もないのに、どう間違えて折って持って来た榊なのでしょう」)
1.2.18 と聞こえたまへば、(と申し上げなさると、)
1.2.19 「 少女子(おとめご)があたりと思へば 榊葉の香(か)をなつかしみとめてこそ折れ」(「少女子がいる辺りだと思うと、榊葉が慕わしくて探し求めて折ったのです」)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十帖 賢木
 第一章 六条御息所の物語 秋の別れと伊勢下向の物語
  第一段 六条御息所、伊勢下向を決意
  第二段 野の宮訪問と暁の別れ
(A-2図「八条宮智仁」書の「詞」)→ 1.2.14/1.2.15/1.2.16/1.2.17/1.2.18/1.2.19 
(B-2図「太郎君」書の「詞」)  → 1.2.17/1.2.18/1.2.19  
  第三段 伊勢下向の日決定
  第四段 斎宮、宮中へ向かう
  第五段 斎宮、伊勢へ向かう
 第二章 光る源氏の物語 父桐壺帝の崩御
  第一段 十月、桐壺院、重体となる
  第二段 十一月一日、桐壺院、崩御
  第三段 諒闇の新年となる
  第四段 源氏朧月夜と逢瀬を重ねる
 第三章 藤壺の物語 塗籠事件
  第一段 源氏、再び藤壺に迫る
  第二段 藤壺、出家を決意
 第四章 光る源氏の物語 雲林院参籠
  第一段 秋、雲林院に参籠
  第二段 朝顔斎院と和歌を贈答
  第三段 源氏、二条院に帰邸
  第四段 朱雀帝と対面
  第五段 藤壺に挨拶
  第六段 初冬のころ、源氏朧月夜と和歌贈答
 第五章 藤壺の物語 法華八講主催と出家
  第一段 十一月一日、故桐壺院の御国忌
  第二段 十二月十日過ぎ、藤壺、法華八講主催の後、出家す
  第三段 後に残された源氏
 第六章 光る源氏の物語 寂寥の日々
  第一段 諒闇明けの新年を迎える
  第二段 源氏一派の人々の不遇
  第三段 韻塞ぎに無聊を送る
 第七章 朧月夜の物語 村雨の紛れの密会露見
  第一段 源氏、朧月夜と密会中、右大臣に発見される
  第二段 右大臣、源氏追放を画策する

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=1940

源氏物語と「賢木」(川村清夫稿)

【 源氏物語で十番目の帖になる「賢木」は「榊」とも呼ばれる。「葵」の帖で自分の生霊が葵上をとり殺してしまった六条御息所は、光源氏との関係を清算して、娘の斎宮(後の秋好中宮)と共に伊勢に下ることを決意する。

光源氏は彼らが伊勢に下向する前に滞在していた野宮(現在の野宮神社)に上がり込み、榊の小枝を御簾の下から差し入れて、別れを惜しむのだった。大島本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順番で見てみよう。

(大島本原文)月ごろのつもりを、つきづきしう聞こえたまはむも、まばゆきほどになりにければ、榊をいささか折りて持たまへりけるを、挿し入れて、
「変らぬ色をしるべにてこそ、斎垣(いがき)も越えはべりにけれ、さも心憂く」
と聞こえたまへば、
「神垣はしるしの杉もなきものを いかにまがへて折れる榊ぞ」
と聞こえたまへば、
「少女子があたりと思へば榊葉の 香をなつかしみめてこそ折れ」

(渋谷現代語訳)幾月ものご無沙汰を、もっともらしく言い訳申し上げなさるのも、面映ゆいほどになってしまったので、榊を少し折って持っていらしたのを、差し入れて、
「変わらない心に導かれて、禁制の垣根も越えて参ったのです。何とも薄情な」
と申し上げなさると、
「ここには人の訪ねる目印の杉もないのにどう間違えて折って持ってきた榊なのでしょう」
と申し上げなさると、
「少女子(をとめご)がいる辺りだと思うと榊葉が慕わしくて探し求めて折ったのです」

(ウェイリー英訳)He began trying to explain why it was that for so many months on end he had not been able to visit her; but he soon got into a tangle, and feeling suddenly embarrassed he plucked a spray from the Sacred Tree which grew outside her room and handing it to her through her blinds-of-state he said: “Take this evergreen bough in token that my love can never change. Were it not so, why should I have set foot within the boundaries of this hallowed plot? You use me very ill.” But she answered with the verse: “Thought you perchance that the Holy Tree from whose boughs you plucked a spray was as ‘the cedar by the gate’?” To this he replied: “Well knew I what priestess dwelt in this shrine, and for her sake came to pluck this offering of fragrant leaves.”

(サイデンステッカー英訳)Not wishing to apologize for all the weeks of neglect, he pushed a branch of the sacred tree in under the blinds.
“With heart unchanging as this evergreen,
This sacred tree, I enter the sacred gate.”
She replied: “You err with your sacred tree and sacred gate.
No beckoning cedars stand before my house.”
And he: “Thinking to find you here with the holy maidens,
I followed the scent of the leaf of the sacred tree.”

 ウェイリー訳が説明的で冗漫なのに対して、サイデンステッカー訳は簡潔であるものの省略も見受けられる。

まず「月ごろのつもりを、つきづきしう聞こえたまはむも、まばゆきほどになりにければ」に関しては、ウェイリーはHe began trying to explain why it was that for so many months on end he had not been able to visit her; but he soon got into a tangle, and feeling suddenly embarrassedと、長ったらしいが全て訳している。

他方サイデンステッカーはNot wishing to apologize for all the weeks of neglectと、「まばゆきほどになりにければ」を省略した訳をしている。この部分で光源氏がしているのは言い訳であり、謝罪ではない。ウェイリー訳の方が正確である。

 光源氏の次の行動である「榊をいささか折りて持たまへりけるを、挿し入れて」については、ウェイリーはhe plucked a spray from the Sacred Tree which grew outside her room and handing it to her through her blinds-of-stateと、榊が屋外で生育していると創作して、冗漫な訳をしている。

サイデンステッカーはhe pushed a branch of the sacred tree under the blindsと、榊の枝を折ったことを略して訳している。

 光源氏の台詞「変わらぬ色をしるべにてこそ、斎垣も越えはべりにけれ、さも心憂く」に関しては、ウェイリーはTake this evergreen bough in token that my love can never change. Were it not so, why should I have set foot within the boundaries of this hallowed plot? You use me very ill.と、長々と訳している。

サイデンステッカーはWith heart unchanging as this evergreen, this sacred tree, I enter the sacred gate.と簡潔な訳文であるが、「さも心憂く」を訳していない。

 六条御息所の和歌「神垣はしるしの杉もなきものをいかにまがへて折れる榊ぞ」では、ウェイリーはThought you perchance that the Holy Tree from whose boughs you plucked a spray was as ‘the cedar by the gate’?と、サイデンステッカーはYou err with your sacred tree and sacred gate. No beckoning cedars stand before my house.と訳しているが、後者の方がすっきりとして、わかりやすい。

 そして光源氏の返歌「少女子があたりと思へば榊葉の香をなつかしみてこそ折れ」では、ウェイリーはWell know I want priestess dwelt in this shrine, and for her sake came to pluck this offering of fragrant leavesと、サイデンステッカーはThinking to find you here with the holy maidens, I followed the scent of the leaf of the sacred tree.と訳しているが、原文は「思へば」なので、後者の方が正確である。

 斎宮のいる野宮の御簾に榊の枝を差し入れるとは、光源氏は図々しい人物である。  】

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila/67/5/67_5_397/_pdf/-char/ja

「八条宮智仁親王サロンの形成と展開にみる固有性と時代性」(町田香稿)

智仁親王サロン二.jpg


(「三藐院ファンタジー」その一)

信尹・太郎・賢木.jpg

C図(右)=B=2図(源氏物語絵色紙帖 賢木  詞・太郎(君))=京都国立博物館蔵
C図(左)=近衛信尹筆「賢木」詞書手本(陽明文庫蔵)=B-2図の手本
(出典: 『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』)

一 慶長十八年(一六一三)十一月十一日、近衛信尹は遺書をしたためた。「信尹公御書置(かきおき)」として、陽明文庫に所蔵されている。その書き出しは、次のとおりである。

【今宵、死に候わば、
一 葬礼は黄金(きがね)二枚にて東福寺にてごたごたと焼かせ、少しなりとも坊主どもに取らせ候ようにし候べく候。引導(いんどう)は、韓長老(文英清韓)、ただし引導に及ばず。
一 三百石は、太郎殿、信尋と仲悪くなり候わば、四百石、太郎の一世の分なり。その後は家の知行。
 御霊殿の知行は五十石ばかり候。是は家へ御返し候べく候。光様(光照院)参る。
一 物の本どもは、太郎に取らせ候外、みな、信尋の本たるべし。
一 宣旨(せんじ)事、思し召し寄り候程、信尋より合力候べく候。太郎に知行分け候内にても苦しからず候へども、人を使い候程の心持ち召され候べく候。
    (中略)
 慶長十八(年)霜月十一日             信尹(花押)
 宣旨
女御さまにて
  人々御中                             】
(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p150-p153)

この宛名の「宣旨」(もともとは天皇などの命令を伝達する公文書の一様式であるが、宣旨を取り次ぐ女官などを指し、摂関家などでは宣旨と称する女房がいた)は、「太郎と特別な関係(母子の関係?)」にある女性、そして『女御』は、「後陽成天皇の女御、信尹の同母の妹、信尹の養嗣子となっている信尋の生母」の「前子」(三十九歳)と、『前田・前掲書』と解している。
 そして、この宛名の両人(「宣旨」と「女御」)は、「いまだ成人に達していない太郎(年齢未詳)と信尋(十五歳)、二人の後見人だったのであろう」との推計に達している。

二 この信尹の遺書は、「近衛家の知行の相続、分与」と、「紙面の大半を割いて、いわゆる形見分けの指示がなされている」のだが、その「近衛家の知行の相続、分与」は、「当然ながら、それ養嗣子の信尋が継承すべきものである」が、殊に、信尹の長女とされている「太郎」に、「三百石、信尋と仲悪くなり候わば、四百石(太郎の一世の分なり=太郎一代限り)」とし、また、「宣旨」に関して別に一項を立てて、「太郎分の知行分の内で賄えば良いことなのだが、信尋の合力、力添えを得て、せめて使用人を置くだけの余裕をと、信尋の理解と寛大な思いやり」を「召され候」としてるのがポイントとなる(『前田前掲書』)。
 そして、この「太郎」に関して、この「書置」とは別に「太郎は姫か」と、ここに焦点を当て、種々の信尹と太郎との資料を駆使して、次のような見解に達している。

【 たとえ太郎が姫としても、
〇信尹が太郎のために男性向きの手紙の手本を与え、手習いさせていること。
〇せっかくの姫君なのに、近衛家で生涯を終わらせる段取りをしているのはなぜか。
 やはり、この二つの疑問は疑問のままで残ってしまう。この二つの疑問が氷解しなければ、太郎息女説に心から首肯することはできない。 】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p170)

三  これに続いて紹介されているのが、冒頭に掲げたC図(右・左)(原典では「図18-右・左」)なのである。

【 ところで、この太郎が揮毫した二面(「賢木」と「花散里」)のうち「賢木」の手本が、陽明文庫に伝損している。無論、手本というのは信尹の筆。源氏が野宮、斎宮とともに伊勢に下るという六条・御息所を訪ねて、二人が和歌を贈答する場面である。後半の行取り若干の違いはあるが、漢字も仮名の字母も同一で、全く同じ字形である。つまり、原本と写しの関係。しかし、手本通りに書くのはなかなか難しい。どうしても文字が大きくなる。「をとめごは……」の和歌をお手本通りに入れるスペースがなくなってしまった。また曲線がうまく運筆できない太郎は、花押に苦労した様子である(※「そもそも女性が花押むを用いること自体が珍しいのであるが」)。とまれ、信尹の手本と太郎が書いたものの図版を並べて見ていると、太郎の真剣な表情が浮かんでくるようであり、ほほえましい限りである。やはり幼さが際立つこと歪めない。 】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p170-p171)

四 続いて、「太郎と楊林院」(p1710-p174)のその結語で、次のように記述されている。

【 太郎には無論生母もいたが、どんな事情があったのか、父親である信尹が太郎の成長に対して心を砕いているようだ。折に付け、事に付け、楊林院を頼っているふしもある。太郎は同性の先達として楊林院に近づけてやりたい、そのような三者の関わりが思われるのである。
 姫であれば、信尹にとって太郎はまさに鍾愛の珠である。わずかのことでも傷がついてしまいそうな、はかなげで純真無垢の珠である。あるいは生来の病弱、蒲柳の質であったのだろうか。それゆえに、信尹は太郎に男子の鎧を着せて、守ってやりたいと思う。太郎という男児の名前も、花押を用いた男性的な書状も、いわゆる変成男子(へんじょうなんし=古来、女子(女性)は成仏することが非常に難しいとされ、いったん男子(男性)に成ることで、成仏することができるようになるとした思想)の願望の所産であったか、と想像力を働かせてしまうのであるが、いかがであろう。それゆえに、信尹は自分の死後も、太郎が近衛家という楽園で安寧に過ごすことを思案したのではなかろうか。 】(『三藐院 近衛信尹 残された手紙から(前田多美子著)』p174)

ここに登場する「楊林院」は、従一位・権大納言柳原淳光(一五四一~一五九七)の後室で、
先の「信尹公御書置」の形見分けでは、「赤き硯、葡萄の食籠(じきろう)、我々いつも飲み候天目一つ」と、信尹とは特別に親密な関係にあったことが伺われる。しかし、信尹との関係、また、その「書置」に出てくる「宣旨」そして「太郎」との関係などは、全くの謎のままである。
 この「楊林院」は、慶長十四年(一六〇九)の宮中で起きた「猪熊事件」(上層公家衆と女房衆との密通事件)の、幕府(駿府の徳川家康)と朝廷(後陽成天皇)との、その朝廷の折衝役の一人として登場して来る。

https://core.ac.uk/download/pdf/292913343.pdf

【(慶長十四年) 同月(八月)二十日には所司代の板倉(板倉勝重)、翌(九月)十一日には女院(後陽成天皇の生母の新上東門院=勧修寺晴子))の使者帥局と女御(後陽成天皇の女御=信尹の同母の妹=信尋の実母=近衛前子)の使者右衛門督および楊林院(柳原淳光後室)の三人が駿府に向けて出発した。(p37)

(慶長十四年)十月一日、問題の女房衆五人と御末衆五人・女嬬三人が楊林院に同行されて駿府に下り、そのまま女房衆五人と女嬬二人が伊豆の新島へ配流となった。(p38)  】(「近世初頭の朝廷における女院の役割(久保貴子稿)」)

 「楊林院」が、この「猪熊事件」の朝廷の折衝役の役割を担っていたということは、「女御(後陽成天皇の女御=信尹の同母の妹=信尋の実母=近衛前子)」の使者という立場と共に、
晩年の徳川家康を支えた側室の「阿茶局」(一五五五~一六三七)との親交が厚かったことなどが、「楊林院宛太郎書簡(信尹の太郎のために書いた手本の書簡)」などからも察知される(『前田・前掲書』p171-p172)。

 こうなると、この「三藐院ファンタジー」は、際限なく続いて行くこととなる。
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「源氏物語画帖(その九)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

9 葵(光吉筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) 源氏22歳-23歳春

葵・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 葵  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/573126/2

葵・詞.jpg

源氏物語絵色紙帖 葵 詞・八条宮智仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/573126/1

(「八条宮智仁」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/10/%E8%91%B5_%E3%81%82%E3%81%8A%E3%81%84%E3%83%BB%E3%81%82%E3%81%B5%E3%81%B2%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B9%9D%E5%B8%96%E3%80%91_%E8%BB%8A%E4%BA%89_%E3%81%8F%E3%82%8B

つひに、御車ども立て続けつれば、ひとだまひの奥におしやられて、物も見えず。心やましきをばさるものにて、かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたきこと、限りなし。
(第一章 六条御息所の物語 御禊見物の車争いの物語 第二段 新斎院御禊の見物)

1.2.16 つひに、御車ども立て続けつれば、ひとだまひの奥におしやられて、物も見えず。 心やましきをばさるものにて、 かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじうねたきこと、限りなし。(とうとう、お車を立ち並べてしまったので、副車の奥の方に押しやられて、何も見えない。悔しい気持ちはもとより、このような忍び姿を自分と知られてしまったのが、ひどく悔しいこと、この上ない。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第九帖 葵
第一章 六条御息所の物語 御禊見物の車争いの物語
  第一段 朱雀帝即位後の光る源氏
  第二段 新斎院御禊の見物
(「八条宮智仁」書の「詞」)→ 1.2.16 

葵・挿絵.jpg

  第三段 賀茂祭の当日、紫の君と見物
 第二章 葵の上の物語 六条御息所がもののけとなってとり憑く物語
  第一段 車争い後の六条御息所
  第二段 源氏、御息所を旅所に見舞う
  第三段 葵の上に御息所のもののけ出現する
  第四段 斎宮、秋に宮中の初斎院に入る
  第五段 葵の上、男子を出産
  第六段 秋の司召の夜、葵の上死去する
  第七段 葵の上の葬送とその後
  第八段 三位中将と故人を追慕する
  第九段 源氏、左大臣邸を辞去する
 第三章 紫の君の物語 新手枕の物語
  第一段 源氏、紫の君と新手枕を交わす
  第二段 結婚の儀式の夜
  第三段 新年の参賀と左大臣邸へ挨拶回り

(周辺メモ)

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=1831

源氏物語と「葵」(川村清夫稿)

【 「葵」の帖は、源氏物語の前半におけるヤマ場の1つである。葵祭の見物で、光源氏の正妻である葵上と車争いをして敗れた六条御息所の生霊が葵上にとりつく場面である。
 生霊退散のために加持祈祷の僧侶が呼ばれ、光源氏は葵上を見舞い慰めの言葉をかけるが、葵上の口から出て来る声が六条御息所の声であるのに気が付き、驚愕するのである。

(大島本原文)
「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ、かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ人の魂はげにあくがるるものになむありける」となつかしげに言ひて、
「なげきわび空に乱るるわが魂を
結びとどめよしたがひのつま」
とのたまふ声、けはひ、その人にあらず、変りたまへり。いとあやしと思しめぐらすに、ただ、かの御息所なりけり。

(渋谷現代語訳)
「いえ、そうではありません。身体がとても苦しいので、少し休めて下さいと申そうと思って、このように参上しようとはまったく思わないのに、物思いする人の魂は、なるほど抜け出るものだったのですね」と、親しげに言って、
「悲しみに堪えかねて抜け出たわたしの魂を
結び留めてください。下前の褄を結んで」
とおっしゃる声、雰囲気、この人でなく、変わっていらっしゃった。「たいそう変だ」とお考えめぐらすと、まったく、あの御息所その人なのであった。

(ウェイリー英訳)
Suddenly she interrupted him: „No, no. That is not it. But stop these prayers a while. They do me great harm,” and drawing him nearer to her she went on, “I did not think that you would come. I have waited for you till all my soul is burnt with longing.” She spoke wistfully, tenderly; and still in the same tone recited the verse,
“Bind thou, as the seam of a skirt is braided, this shred, that from my soul despair and loneliness have sundered.”
The voice in which these words were said was not Aoi’s; nor was the manner hers. He knew someone whose voice was very like that. Who was it? Why, yes; surely only she_ the Lady Rokujo.

(サイデンステッカー英訳)
„No, no. I was hurting so. I asked them to stop for a while. I had not dreamed that I would come to you like this. It is true: a troubled soul will sometimes go wandering off.” The voice was gentle and affectionate.
“Bind the hem of my robe, to keep it within,
The grieving soul that has wandered through the skies.”
It was not Aoi’s voice, nor was the manner hers. Extraordinary _ and then he knew that it was the voice of the Rokujo Lady.

 光源氏に対する、葵上にとりついた六条御息所の生霊の台詞「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむとてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを。もの思ふ人の魂はげにあくがるるものになむありける」に関しては、ウェイリーは”No, no. That is not it. But stop these prayers a while. They do me great harm.”と、台詞の内容を整理して訳したまではよいのだが、その後は”I did not think that you would come. I have waited for you till all my soul is burnt with longing.”と、明らかな誤訳をしている。
「かく参り来むともさらに思はぬを」の主語は、光源氏でなく六条御息所である。「あくがる」には魂が肉体から離れる意味の他に、心を引かれて後をしたう意味もあるのだが、その前に「もの思ふ人の魂は」とあるので、魂が遊離する意味にとる方が自然である。

 サイデンステッカーは”No, no. I was hurting so. I asked them to stop for a while. I had not dreamed that I would come to you like this. It is true; a troubled soul will sometimes go wandering off.”と、原文の語順に従って正確に訳している。

 六条御息所の生霊の和歌「なげきわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがひのつま」を見てみよう。詩歌は文章より多くの内容を限られた字数の枠に入れ込むので、詩歌の翻訳は文章の翻訳より難しい。

 ウェイリーは”Bind thou, as the seam of a skirt is braided, this shred, that from my soul despair and loneliness have sundered.”と、サイデンステッカーは”Bind the hem of my robe, to keep it within, the grieving soul that has wandered through the skies.”と訳している。「したがひ」とは、衣服の前を合わせると下になる方であり、「つま」とは、衣服の裾の左右両端部分のことである。

 「したがひのつま」をウェイリーはseam of a skirt(スカートの縫い目)と解釈しているが、これでは不正確である。サイデンステッカーがthe hem of my robeと解釈した方が正しい。ウェイリーが源氏物語を英訳した1920年代の西洋では、中世日本の服飾に関する知識が貧弱だったのである。

 葵上は光源氏の嫡子である夕霧を出産するが、この世を去ってしまうのである。 】

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila/67/5/67_5_397/_pdf/-char/ja

「八条宮智仁親王サロンの形成と展開にみる固有性と時代性」(町田香稿)

智仁親王サロン.jpg

八条宮智仁親王
没年:寛永6.4.7(1629.5.29)
生年:天正7.1.8(1579.2.3)
安土桃山・江戸初期の皇族。四親王家のひとつ桂宮の初代。誠仁親王(陽光院)の第6皇子。母は新上東門院。後陽成天皇の弟に当たる。法号桂光院。はじめ豊臣秀吉の猶子となるが、秀吉に鶴松が誕生したため宮家を創立,八条宮と称した。天正19(1591)年親王宣下を受け、元服、式部卿に任ぜられ、慶長6(1601)年一品に叙せられた。
若年より和歌・連歌を好み、文禄5(1596)年『伊勢物語』などの講釈を細川幽斎より受け、師事する。和歌の批点を受け、二条家系の歌学を学んだ。慶長5(1600)年、石田三成方の軍勢に囲まれ丹後田辺城(京都府)に籠城の幽斎より、古今伝授を受けた話は著名。
寛永2(1625)年後水尾天皇に古今伝授を授け、近世初期の宮廷社会に継承される御所伝授の基となった。自亭でしばしば和歌や連歌の会を催し、また和歌などの古典作品の集書や新写も熱心に行った。親王の筆による写本や自筆の詠草が数多く現存する。現在、日本建築美の代表とされる桂離宮は、親王が元和初期(1615~16)に創設した別邸で2代智忠親王によって完成された。(相馬万里子稿)
(出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について)
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「源氏物語画帖(その八)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

8 花宴((光吉筆)=(詞)大覚寺空性(一五七三~一六五〇)源氏20歳春

花宴・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 花宴  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/531838/2

花宴・詞.jpg

源氏物語絵色紙帖 花宴  詞・大覚寺空性
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/531838/1

(「大覚寺空性」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/09/%E8%8A%B1%E5%AE%B4%E3%83%BB%E8%8A%B1%E3%81%AE%E5%AE%B4_%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%88%E3%82%93%E3%83%BB%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%82%91%E3%82%93%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9

朧月夜に似るものぞなき、とうち誦じて、こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。女恐ろしと思へるけしきにて、あな、むくつけ。こは、誰そ、とのたまへど、何か、疎ましきとて、「深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ」
(第二段 宴の後、朧月夜の君と出逢う)

1.2.5 「 朧月夜に似るものぞなき」(「朧月夜に似るものはない」)
1.2.6  とうち誦じて、 こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。女、恐ろしと思へるけしきにて、( と口ずさんで、こちらの方に来るではないか。とても嬉しくなって、とっさに袖をお捉えになる。女、怖がっている様子で、)
1.2.7 「あな、むくつけ。こは、誰そ」とのたまへど、(「あら、嫌ですわ。これは、どなたですか」とおっしゃるが、)
1.2.8 「 何か、疎ましき」とて、(「どうして、嫌ですか」と言って、)
1.2.9 「 深き夜のあはれを知るも入る月の おぼろけならぬ契りとぞ思ふ」(「趣深い春の夜更けの情趣をご存知でいられるのも、前世からの浅からぬ御縁があったものと存じます」)

花宴・挿絵.jpg

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第八帖 花宴
 第一段 二月二十余日、紫宸殿の桜花の宴
 第二段 宴の後、朧月夜の君と出逢う
 第三段 桜宴の翌日、昨夜の女性の素性を知りたがる
 (「大覚寺空性」書の「詞」→ 1.2.5/1.2.6/ 1.2.7 /1.2.8/1.2.9 )
第四段 紫の君の理想的成長ぶり、葵の上との夫婦仲不仲
 第五段 三月二十余日、右大臣邸の藤花の宴

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=1820

源氏物語と「花宴」(川村清夫稿)

【光源氏が20歳になった年の二月に、紫宸殿にて桜花の宴が催された。その夜に彼は弘徽殿(飛香舎と共に、清涼殿のすぐ北にあった後宮の殿舎、現存しない)に入り、「照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜に似るものぞなき」という、大江千里の和歌を口ずさんでいた朧月夜と知り合った。

 後で光源氏は彼女が、彼を敵視する弘徽殿女御の妹であることを知るのである。江戸城の大奥と違い、平安宮内裏の後宮は男子禁制ではなかった。内裏の宴会の後で、酒に酔った男性貴族が後宮に入り込み、女官と睦み合うことは珍しくなかったのである。 】

https://otemae.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1018&item_no=1&page_id=33&block_id=62

「寛永文化」(中村直勝稿)

【 藤堂高虎が藤堂という名字は、藤原氏に関係があると称して、巧みに関白近衛信尹に接近し、後陽成天皇に要請して、将軍徳川秀忠の女和子(慶長十二年十月生)を後水尾天皇の中宮として、入内さすことに成功した。元和六年六月十八日のことである。
  そのときに、一つの波乱があった。
 和子の入内は、その前年秀忠が上洛した時に、殆んど、きまったのであったが、元和五年六月廿日後水尾天皇に一人の皇女が生れた。四辻公遠の妹「およつの局」が母であった。
幕府は、それを耳にした。秀忠は和子入内以前に、かかる内寵のあったことは、宮中風儀の乱れを示すものであるから、とて、和子入内を辞退すると申入れた。幸にして後水尾天皇の御母である中和門院(近衛信尹の妹)が、懇々として申披きをされ、かかる事は絶無である、ということにして、漸く和子の入内が実現したのであった。言わば、宮中は恥さらしをされたのであった。
 東福門院のためには、宮中は荊蘇の巷であったが、東福門院の婦徳は、後水尾天皇の震襟を充分になごめ奉って、宮廷の平和は、破れなかった。この複雑なる宮廷事情が、どうした文化を生み出すものだろうか。

 (中略)

 さきに豊臣秀吉が他日の万一に備えて、迎えて猶子とした後陽成天皇の皇弟桂宮知仁親王は、相当な御料地を持たれたまま、豊臣氏滅亡と共に、影を淡めて行く外はなかった。それに準じて徳川家康に迎えられた皇弟曼殊院宮良尚親王は、徳川幕府の地盤が固まるにつれて、もう無用の長物となり、幕府の関心は刻々に消え去って行った。
 後水尾上皇の消すに消せない御不満は、修学院離宮の造営ということで、真綿をかけられ、勃発すべくもない状態に押し流されてしまった。
 関白近衛信信尹とその養子信尋(後水尾天皇皇弟)との勢力は莫大であったけれども、幕府の後援があるだけに、宮廷人には、畏敬されたにしても、親愛さは持たれなかった。人望はそれよりも、同じく皇弟であって一条家を嗣がれた一条兼遐に集った。深く大きかった。
 後水尾天皇譲位。明正天皇の御宇になると兼遐は信尋に代って関白になり、摂政になり、後光明天皇の御宇にも再び摂政になり、また関白になっておる。人望の高さを示すものである。
 宮廷には、この外に大納言鳥丸光広が範を超えた横着さで構えておるし、孜々として後水尾天皇に学問を以て奉仕した中院通村がおった。就中、通村は古今伝授の把持者として有名であり、後水尾天皇にその秘伝を伝えて、今後の朝廷をして古今伝授の家元のような立場においたことは、大きな功績であろう。

(中略)

 寛永の文化を概観略述してみると、慶長元和の戦乱時代がすぎて平和の時代に到達した事が如実に示され、学問文芸の方面は百華練乱という文字が示す通りの壮観であった。
 民間学者には源氏物語の『湖月抄」を著わして源氏研究に著しい進境を与えた北村季吟がおるし、大坂には近松門左衛門の浄瑠璃や、松永貞徳の俳諧が、新分野の獲得と拡張を見せておるし、堅い方面では、伊藤仁斉の古学派的儒学が、中国儒者の悌をそのままに伝えて、漢学を民間に波及させた効果も著しい時であった。
 狩野探幽が、土佐光興の古典画や狩野永徳や山楽の装飾画から脱出して、写生画に新らしい画筆を動かせ、従来の狩野派や土佐派には見られなかった衆民住宅に適応した画境を開いた時である。
 本阿弥光悦及び俵屋宗達が、豪壮無比なる工芸的な画風をもって、富裕者の嗜好に投じたと共に、絵画工芸方面に新希望を燃え上らせ、新機軸を見せた時代であった。
 茶道にあっても、古田織部正重然が、南蛮陶器に暗示を得たのであろう"織部焼"を新たに案出し、形態から釉に及んで、一種の前衛的な作品を世に問い、極めて破格的な茶垸をもって茶道を新鮮にし、茶道に、なお、未来のある一道を宏め出した。
 江戸においては田畠の永代売を禁止したり、歌舞伎役者を追捕したりすることが目立って来た。社会層の著しき変化あるべきを、想わすることになった。これは要するに、文化の中心が上層位の公武から、中層位の町民に移って来たからである。  】
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「源氏物語画帖(その七)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

7 紅葉賀(光吉筆)=(詞)大覚寺空性 (一五七三~一六五〇)源氏18歳秋-19歳秋

紅葉賀・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 紅葉賀  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/533341/2

紅葉賀・詞.jpg

源氏物語絵色紙帖 紅葉賀  詞・大覚寺空性
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/533341/1

(「大覚寺空性」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/08/%E7%B4%85%E8%91%89%E8%B3%80%E3%83%BB%E7%B4%85%E8%91%89%E3%81%AE%E8%B3%80_%E3%82%82%E3%81%BF%E3%81%98%E3%81%AE%E3%81%8C%E3%83%BB%E3%82%82%E3%81%BF%E3%81%A2%E3%81%AE%E3%81%8C%E3%80%90%E6%BA%90

うち笑みたまへる、いとめでたう愛敬づきたまへり。いつしか、雛をし据ゑて、そそきゐたまへる。三尺の御厨子一具に、品々しつらひ据ゑて、また小さき屋ども作り集めて、たてまつりたまへるを、ところせきまで遊びひろげたまへり。 (第二章 紫の物語 源氏、紫の君に心慰める 第四段 新年を迎える)

http://www.genji-monogatari.net/

2.4.3 うち笑みたまへる、いとめでたう愛敬づきたまへり。いつしか、雛をし据ゑて、そそきゐたまへる。三尺の御厨子一具に、品々しつらひ据ゑて、また小さき屋ども作り集めて、 たてまつりたまへるを、ところせきまで遊びひろげたまへり。
(微笑んでいらっしゃる、とても素晴らしく魅力的である。早くも、お人形を並べ立てて、忙しくしていらっしゃる。三尺の御厨子一具と、お道具を色々と並べて、他に小さい御殿をたくさん作って、差し上げなさっていたのを、辺りいっぱいに広げて遊んでいらっしゃる。)

紅葉賀・挿絵.jpg

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第七帖 紅葉賀

 第一章 藤壺の物語 源氏、藤壺の御前で青海波を舞う
  第一段 御前の試楽
《1.1.2  源氏中将は、青海波をぞ舞ひたまひける。 片手には 大殿の頭中将。容貌、用意、人にはことなるを、立ち並びては、なほ花のかたはらの深山木なり。》

青海波・挿絵.jpg

  第二段 試楽の翌日、源氏藤壺と和歌を贈答
  第三段 十月十余日、朱雀院へ行幸
  第四段 葵の上、源氏の態度を不快に思う
 第二章 紫の物語 源氏、紫の君に心慰める 
  第一段 紫の君、源氏を慕う
  第二段 藤壺の三条宮邸に見舞う
  第三段 故祖母君の服喪明ける 
  第四段 新年を迎える→「大覚寺空性」書の「詞」=2.4.3(上記「挿絵図(2.4.3)」)
 第三章 藤壺の物語(二) 二月に男皇子を出産
  第一段 左大臣邸に赴く
  第二段 二月十余日、藤壺に皇子誕生
  第三段 藤壺、皇子を伴って四月に宮中に戻る
  第四段 源氏、紫の君に心を慰める
 第四章 源典侍の物語 老女との好色事件
  第一段 源典侍の風評
  第二段 源氏、源典侍と和歌を詠み交わす
  第三段 温明殿付近で密会中、頭中将に発見され脅される
  第四段 翌日、源氏と頭中将と宮中で応酬しあう
 第五章 藤壺の物語(三) 秋、藤壺は中宮、源氏は宰相となる
  第一段 七月に藤壺女御、中宮に立つ

http://www.nara-u.ac.jp/museum/publications/docs/leaflet05_genji.pdf

源氏物語屏風一.jpg

「源氏物語図屏風(右隻)」(奈良大学博物館所蔵)

源氏物語屏風二.jpg

「源氏物語図屏風(右隻)」(奈良大学博物館所蔵)=上図「解説図」

http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/AN10403791-20120300-1014.pdf?file_id=6056


(大覚寺・「大覚寺36世・空性法親王(後陽成天皇の弟)))周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

正親町天皇→陽光院 →     ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
    ↓※青蓮院尊純法親王 ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
               ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良
                          ↓良純法親王 他

https://kotobank.jp/word/%E7%A9%BA%E6%80%A7%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B-16398

空性法親王(くうしょうほうしんのう)
1573-1650 織豊-江戸時代前期,誠仁(さねひと)親王の第2王子。
天正(てんしょう)元年生まれ。16年京都の大覚寺で出家し、18年親王となる。慶長3年から四天王寺別当をつとめ、のちに還俗(げんぞく)。和歌にすぐれた。慶安3年8月25日死去。78歳。名は定輔(さだすけ)。法名は別に性舜,義性。号は瑞庵,虔真。著作に「桂光院追悼和歌並詩」。

四天王寺

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA

四天王寺(してんのうじ)は、大阪府大阪市天王寺区にある聖徳太子ゆかりの天台宗の本山寺院。和宗総本山。古代の官寺十五大寺・十大寺の一つ。中世には浄土教の聖地となり、一遍は1274年(文永11年)に遊行の最初の巡礼地として参拝している。聖徳太子建立四十六寺の一つ。

52慈円(1155-1225):藤原忠通の子。青蓮院門跡。天台座主。
53真性(1167-1230):以仁王王子。青蓮院門跡か(除歴?)。天台座主。
54慈円:再任。
55尊性法親王(1194-1239):後高倉院(守貞親王)の皇子。妙法院門跡。天台座主。
56良快(1185-1242):九条兼実の子。青蓮院門跡。天台座主。
57尊性法親王:再任。
58慈源:九条道家の子。青蓮院門跡。天台座主。
59仁助法親王(1214-1262)<1249->:土御門天皇皇子。円満院門跡。園城寺長吏。
60円助法親王(1236-1282):後嵯峨天皇皇子。円満院門跡。園城寺長吏。四ケ院の復興を計画。
61叡尊(1201-1290)<1284->:真言宗僧。真言律宗西大寺流の開祖。西大寺長老。東大寺大勧進。
62尊助法親王(1217-1290):土御門天皇皇子。青蓮院門跡。天台座主。
63慈実(1238-1300):九条道家の子。慈源の弟。青蓮院門跡。法性寺座主。天台座主。
64最助法親王(1253-1293):後嵯峨天皇皇子。三千院門跡。天台座主。
65忍性(1217-1303)<1294->:真言宗僧。真言律宗西大寺流。叡尊の弟子。極楽寺長老。東大寺大勧進。多田院別当。
66覚助法親王(1247-1336):後嵯峨天皇皇子。聖護院門跡。園城寺長吏。
67慈道法親王(1282-1341):亀山天皇皇子。青蓮院門跡。法性寺座主。天台座主
68道昭(1281-1355):一条家経の子。熊野三山検校。園城寺長吏。
69尊円法親王(1298-1356):伏見天皇皇子。青蓮院門跡。天台座主。
70尊悟法親王(1302-1359):伏見天皇皇子。円満院門跡。熊野三山検校。園城寺長吏。
71承胤法親王(1317-1377):後伏見天皇皇子。三千院門跡。天台座主。
72覚誉法親王(1320-1382):花園天皇皇子。聖護院門跡。園城寺長吏。
73尊応:二条持基の子。青蓮院門跡。
74慈運法親王(1466-1537):貞常親王王子。曼殊院門跡。法性寺座主。
75尊鎮法親王(1504-1550):後柏原天皇皇子。青蓮院門跡。
76義俊(1504-1567):真言宗僧。近衛尚通の子。大覚寺門跡。
77尊朝法親王(1552-1597):邦輔親王王子。青蓮院門跡。天台座主。
78空性法親王(1573-1650)<1598->:真言宗僧。陽光太上天皇(誠仁親王)皇子。大覚寺門跡。

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「源氏物語画帖(その六)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

6-1 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六)源氏18歳春-19歳春

末摘花・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 末摘花  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/532678/2

末摘花・詞一.jpg

源氏物語絵色紙帖 末摘花 詞・西洞院時直
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/532678/1

(「西洞院時直」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/07/%E6%9C%AB%E6%91%98%E8%8A%B1_%E3%81%99%E3%81%88%E3%81%A4%E3%82%80%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%83%BB%E3%81%99%E3%82%91%E3%81%A4%E3%82%80%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_

  もろともに大内山は出でつれど入る方見せぬいさよひの月
と恨むるもねたけれど、この君と見たまふ。すこしをかしうなりぬ。人の思ひよらぬことよと憎む憎む。
  里わかぬかげをば見れどゆく月のいるさの山を誰れか尋ぬる
(第一章 末摘花の物語 第三段 新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く)

1.3.29  もろともに大内山は出でつれど入る方見せぬいさよひの月
(ご一緒に宮中を退出しましたのに、行く先を晦ましてしまわれる十六夜の月ですね。)
1.3.30 と恨むるも ねたけれど、この君と見たまふ、すこしをかしうなりぬ。
(と恨まれるのが癪だが、この君だとお分かりになると、少しおかしくなった。)
1.3.31 「 人の思ひよらぬことよ」と憎む憎む、
(「人が驚くではないか」と憎らしがりながら、)
1.3.32  里わかぬかげをば見れどゆく月のいるさの山を誰れか尋ぬる
(どの里も遍く照らす月は空に見えても、その月が隠れる山まで尋ねる人はいませんよ)

6-2 (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書) 

末摘花・長次郎.jpg

源氏物語絵色紙帖 末摘花  画・長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/574656/2

末摘花・詞二.jpg

源氏物語絵色紙帖 末摘花  詞・青蓮院尊純
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/574656/1

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第六帖 末摘花
 第一章 末摘花の物語
  第一段 亡き夕顔追慕
  第二段 故常陸宮の姫君の噂
  第三段 新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く→「西洞院時直」書の『詞』=1.3.29/1.3.30/1.3.31/1.3.32 
「青蓮院尊純」書の詞=1.3.29/1.3.30/1.3.31/1.3.32 
  第四段 頭中将とともに左大臣邸へ行く
  第五段 秋八月二十日過ぎ常陸宮の姫君と逢う
  第六段 その後、訪問なく秋が過ぎる
  第七段 冬の雪の激しく降る日に訪問
  第八段 翌朝、姫君の醜貌を見る
  第九段 歳末に姫君から和歌と衣箱が届けられる
  第十段 正月七日夜常陸宮邸に泊まる
 第二章 若紫の物語
  第一段 紫の君と鼻を赤く塗って戯れる

(参考)

末摘花・挿絵.jpg

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(参考五) 「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

正親町天皇→陽光院 →     ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
    ↓※青蓮院尊純法親王 ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
               ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良
                          ↓良純法親王 他

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図は、上記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

※後陽成天皇(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(関屋・絵合・松風)
※八条宮智仁親王(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純法親王(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋(須磨・蓬生)
※近衛信尹(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)

① 筆者のなかで最も早く死亡しているのは、近衛信尹(一五六五~一六一四)で、その死亡する慶長十九年(一六一四)以前に、その大半は完成していたと解せられている。因みに、土佐光吉は、その一年前の、慶長十八年(一六一三)五月五日に、その七十五年の生涯を閉じている。

② 筆者のなかで最も若い者は、烏丸光広(一五七九~一六三八)の嫡子・烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)で、慶長十九年(一六一四)当時、十五歳、それに続く、近衛信尋(一五九九~一六四九)は、十六歳ということになる。なお、烏丸光賢の裏書注記は、「烏丸右中弁藤原光賢」で、その職にあったのは、元和元年(一六一五)十二月から元和五年(一六一九)の間ということになる。また、近衛信尋の裏書注記の「近衛右大臣左大将信尋」の職にあったのは、慶長一九年(一六一四)から元和六年(一六二〇)に掛けてで、両者の詞書は、後水尾天皇が即位した元和元年(一六一五)から元和五年(一六一九)に掛けての頃と推定される。

③ この近衛信尋(一五九九~一六四九)の実父は「後陽成天皇(一五七一~一六一七)」で、その養父が「近衛信尹(一五六五~一六一四)」、そして「後水尾天皇」(一五九六)~一六八〇)の実弟ということになる。この「近衛信尋」と「近衛信尹息女太郎君(?~?)」の二人だけが、上記の詞書のなかに「署名」がしてあり、本画帖の制作依頼者は「近衛信尹・近衛信尋・近衛信尹息女太郎(君)」周辺に求め得る可能性が指摘されている。(「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)
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「源氏物語画帖(その五)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

5-1 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) 源氏18歳

若紫・光吉.jpg

源氏物語絵色紙帖 若紫 画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/545045/2

若紫・詞一.jpg

源氏物語絵色紙帖 若紫 詞・西洞院時直
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/545045/1


(「西洞院時直」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/06/%E8%8B%A5%E7%B4%AB_%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%80%E3%82%89%E3%81%95%E3%81%8D%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%94%E5%B8%96%E3%80%91

雀の子を犬君が逃がしつる伏籠のうちに籠めたりつるものをとていと口惜しと思へりこのゐたる大人例の心なしのかかるわざをしてさいなまるるこそいと心づきなけれ (第一章 紫上の物語 若紫の君登場 第三段 源氏、若紫の君を発見す)

1.3.5 「 雀の子を 犬君(いぬき=紫上が召使っている女童の名)が逃がしつる。伏籠のうちに 籠めたりつるものを」(雀の子を犬君が逃がしてしまいましたの、伏籠の中に置いて逃げないようにしてあったのに)
1.3.6 とて、いと口惜しと思へり。 このゐたる大人、(たいへん残念そうである。そばにいた中年の女が、)
1.3.7 「 例の、心なしの、かかるわざをして、 さいなまるるこそ、いと心づきなけれ。 い
づ方へかまかりぬる。 いとをかしう、やうやうなりつるものを。 烏などもこそ見つくれ」
(「またいつもの粗相やさんがそんなことをしてお嬢様にしかられるのですね、困った人ですね。雀はどちらのほうへ参りました。だいぶ馴れてきてかわゆうございましたのに、外へ出ては山の鳥に見つかってどんな目にあわされますか」)

5-2 (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)

若紫・長次郎.jpg

源氏物語絵色紙帖 若紫 画・長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/545045/2

若紫・詞二.jpg

源氏物語絵色紙帖 若紫 詞・青蓮院尊純
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/545045/1

(周辺メモ)

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第五帖 若紫
 第一章 紫上の物語 若紫の君登場、三月晦日から初夏四月までの物語
  第一段 三月晦日、加持祈祷のため、北山に出向く
  第二段 山の景色や地方の話に気を紛らす
  第三段 源氏、若紫の君を発見す→「西洞院時直」書の「詞」=1.3.5/1.3.6/1.3.7 
       →「青蓮院尊純」」書の「詞」=1.3.5/1.3.6/1.3.7
  第四段 若紫の君の素性を聞く
  第五段 翌日、迎えの人々と共に帰京
  第六段 内裏と左大臣邸に参る
  第七段 北山へ手紙を贈る
 第二章 藤壺の物語 夏の密通と妊娠の苦悩物語
  第一段 夏四月の短夜の密通事件
  第二段 妊娠三月となる
  第三段 初秋七月に藤壺宮中に戻る
 第三章 紫上の物語(2) 若紫の君、源氏の二条院邸に盗み出される物語
  第一段 紫の君、六条京極の邸に戻る
  第二段 尼君死去し寂寥と孤独の日々
  第三段 源氏、紫の君を盗み取る

(参考)

若紫三.jpg

http://www.genji-monogatari.net/

「西洞院時直」周辺

西洞院時直(にしのとういん ときなお) 生誕・天正12年(1584年) 死没・寛永13年10月9日(1636年11月6日)
 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公家・歌人。参議・西洞院時慶の長男。官位は従二位・参議。西洞院家27代当主。後水尾天皇の側近。天正13年(1585年)叙位。天正20年(1592年)、元服し、従五位上侍従となる。少納言、右衛門督を経て、寛永3年(1626年)参議。寛永8年(1631年)、従二位となった。歌人としても知られ、『参議時直卿集』が現存している。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

「尊純法親王」周辺

http://kourindo.sakura.ne.jp/sonjyun.html

尊純法親王(1591-1653)は江戸前期の天台宗の僧。応胤法親王の王子。後陽成天皇の猶子。諡号は円智院。1598年天台宗青蓮院に入り良恕法親王の門に従う。25歳で大僧正に任じられ天台座主。尊朝法親王から青蓮院の書道を近衛信伊に和歌を伝授される。御家流中でも尊純流の祖として重んじられ後水尾天皇に書を指導した。門跡寺院の故事にも通じていた。狩野探幽や狩野重信、岩佐又兵衛、住吉派などとの合作も残っている。江戸初期、門跡寺院の重鎮の一人として活躍。八坂神社や多賀大社など神社仏閣の扁額を著すこともあった。

「天台座主(応胤法親王→良恕法親王→尊純法親王)」周辺(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

https://www.kyototuu.jp/Temple/TermTendaiZazu.html

※165 応胤法親王(第165世。伏見宮貞敦親王第5王子)
※170 良恕法親王(第170世。誠仁親王第3王子。後陽成天皇の弟。曼珠院門跡)
171  堯然法親王(第171、174、178世。後陽成天皇第6皇子)
※172 慈胤法親王(第172、176、180世。後陽成天皇第13皇子)
※173 尊純法親王(第173世、177世。第165世・応胤法親王王子)

「後陽成天皇(後陽成院)の系譜」周辺(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

第一皇子:覚深入道親王(良仁親王、1588-1648) - 仁和寺
第二皇子:承快法親王(1591-1609) - 仁和寺
※第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)
※第四皇子:近衛信尋(1599-1649) - 近衛信尹養子
第五皇子:尊性法親王(毎敦親王、1602-1651)
※第六皇子:尭然法親王(常嘉親王、1602-1661) - 妙法院、天台座主
第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮
第八皇子:良純法親王(直輔親王、1603-1669) - 知恩院
第九皇子:一条昭良(1605-1672) - 一条内基養子
第十皇子:尊覚法親王(庶愛親王、1608-1661) - 一乗院
第十一皇子:道晃法親王(1612-1679) - 聖護院
第十二皇子:道周法親王(1613-1634) - 照高院
※第十三皇子:慈胤法親王(幸勝親王、1617-1699) - 天台座主  
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「源氏物語画帖(その四)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

「源氏物語画帖(その四)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺
4-1 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏17歳秋-冬

夕顔.jpg

源氏物語絵色紙帖 夕顔 画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/583950/2

夕顔・詞.jpg

源氏物語絵色紙帖 夕顔 詞・飛鳥井雅胤
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/583950/1

(「飛鳥井雅胤」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/05/%E5%A4%95%E9%A1%94_%E3%82%86%E3%81%86%E3%81%8C%E3%81%8A%E3%83%BB%E3%82%86%E3%81%B5%E3%81%8C%E3%81%BB%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%B8%96%E3%80%91_%E5%8D%8A

中将の君、御供(ごくう)に参る。紫苑(しおん)色の折にあひたる、羅(ら)の裳(も)、鮮やかに引き結ひたる腰つき、たをやかになまめきたり。見返りたまひて、隅の間の高欄に、しばしひき据ゑたまへり。うちとけたらぬもてなし、髪の下がりば、めざましくもと見たまふ。
咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎ憂き今朝の朝顔 (第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語 第一段 霧深き朝帰りの物語)

3.1.7 咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎ憂き今朝の朝顔
(咲いている花に心を移したという風評は憚られますが、やはり手折らずには素通りしがたい今朝の朝顔の花です)

4-2 (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)

夕顔・長次郎.jpg

源氏物語絵色紙帖 夕顔 画・長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575436/2

夕顔・詞二.jpg

源氏物語絵色紙帖 夕顔 詞・青蓮院尊純

(「青蓮院尊純」の「詞」)

3.1.7
咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎ憂き今朝の朝顔
3.1.8/ 3.1.9 
いかがすべきとて、手をとらへたまへれば、いと馴れてとく、
3.1.10
朝霧の晴れ間も待たぬ気色にて 花に心を止めぬとぞ見る

(第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語 第一段 霧深き朝帰りの物語)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第四帖 夕顔
第一章 夕顔の物語 夏の物語
  第一段 源氏、五条の大弐乳母を見舞う
  第二段 数日後、夕顔の宿の報告
 第二章 空蝉の物語
  第一段 空蝉の夫、伊予国から上京す
 第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語
  第一段 霧深き朝帰りの物語 →「飛鳥井雅胤」書の「詞」=3.1.5/ 3.1.6/ 3.1.7
              →「青蓮院尊純」の「詞」=3.1.7/3.1.8/ 3.1.9/3.1.10          
 第四章 夕顔の物語(2) 仲秋の物語
  第一段 源氏、夕顔の宿に忍び通う
  第二段 八月十五夜の逢瀬
  第三段 なにがしの院に移る
  第四段 夜半、もののけ現われる
  第五段 源氏、二条院に帰る
  第六段 十七日夜、夕顔の葬送
  第七段 忌み明ける
 第五章 空蝉の物語(2)
  第一段 紀伊守邸の女たちと和歌の贈答
 第六章 夕顔の物語(3)
  第一段 四十九日忌の法要
 第七章 空蝉の物語(3)
  第一段 空蝉、伊予国に下る

(参考)

夕顔三.jpg

「飛鳥井雅胤」周辺

http://www.ic.daito.ac.jp/~hama/gallery/syo-tanzaku-asukaimasatane-000.html

難波宗勝・飛鳥井雅胤と同一人。飛鳥井雅庸(まさつね)の二男として天正14年12月16日に生まれ、難波家を相続する。慶長5年正月月従五位上。同年12月28日侍従。同12年正月11日左権少将。同14年(1609)7月女官との密通事件(猪熊事件)が後陽成天皇の耳に達し連座の勅勘を蒙り伊豆に配流された。同17年(1612)勅免され帰洛し、翌同18年(1613)名を雅胤と改めて飛鳥井家を相続する。難波家は子の宗種が相続した。同20年(1614)正月11日左中将。寛永3年(1626)12月3日参議。同5年正月29日左衛門督。同7年正月11日権中納言。同16年権大納言、慶安4年(1651)従一位、同年3月21日薨ず。享年66歳。
 難波家を再興して難波宗勝を名乗ったが、後名は雅宣、雅胤。法名演雅、法号潜龍院太素演雅。能書家で栄雅流。

「青蓮院尊純」周辺(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

尊純法親王(そんじゅんほっしんのう、天正19年10月16日(1591年12月1日)- 承応2年5月26日(1653年6月21日))は、江戸時代前期の天台宗の僧。父は応胤法親王。母は福正院。
1598年(慶長3年)天台宗青蓮院第48世の門跡に入る。1604年(慶長9年)権少僧都・権大僧都を歴任し、1607年(慶長12年)良恕法親王から灌頂を受けた。1615年(元和元年)大僧正に任じらる。1640年(寛永17年)に親王宣下を受け、尊純と号した。1644年(正保元年)天台座主173世となり、日光山法務を兼帯、日光東照宮の営繕をつとめた。1647年(正保3年)には二品に叙せられ、1653年(承応2年)天台座主177世に就任している。書に秀でていた。

「源氏物語画帖と土佐光吉・長次郎」周辺

https://artsandculture.google.com/asset/scenes-from-the-tale-of-genji-tosa-mitsuyoshi-and-ch%C5%8Djir%C5%8D/5AG60ggMg9LJDA?hl=ja
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「源氏物語画帖(その三)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

3 空蝉(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏 

光吉・空蝉.jpg

源氏物語絵色紙帖 空蝉 画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/512094/1

後陽成院・空蝉.jpg

源氏物語絵色紙帖 空蝉 詞・後陽成院周仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/512094/1

(「後陽成院」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/04/%E7%A9%BA%E8%9D%89_%E3%81%86%E3%81%A4%E3%81%9B%E3%81%BF%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B8%96%E3%80%91_%E7%A2%81_%E3%81%94

「なぞかう暑きにこの格子は下ろされたる」と問へば、「昼より西の御方の渡らせたまひて碁打たせたまふ」と言ふ。さて向かひゐたらむを見ばや、と思ひてやをら歩み出でて、簾のはさまに入りたまひぬ。(第二段 源氏、再度、紀伊守邸へ)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第三帖 空蝉
第一段 空蝉の物語
第二段 源氏、再度、紀伊守邸へ →この「場面 (1.2.6)・(1.2.7)・(1.2.8)」での「画と詞」(下記「参考」)
第三段 空蝉と軒端荻、碁を打つ
第四段 空蝉逃れ、源氏、軒端荻と契る
第五段 源氏、空蝉の脱ぎ捨てた衣を持って帰る

(参考)
http://www.genji-monogatari.net/

空蝉二.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-14

【 (再掲)

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

後陽成天皇画.jpg
 
後陽成天皇筆「鷹攫雉図」(国立歴史民俗博物館所蔵)

『天皇の美術史3 乱世の王権と美術戦略 室町・戦国時代 (高岸輝・黒田智著)』所収「第二章 天皇と天下人の美術戦略 p175~ 後陽成院の構図(黒田智稿)」

《 p175 国立歴史民俗博物館所蔵の高松宮家伝来禁裏本のなかに、後陽成院筆「鷹攫雉図(たかきじさらうず)」がある。背景はなく、左向きで後方をふり返る鷹とその下敷きになった雉が描かれている。鷹の鋭い右足爪はねじ曲げられた雉の鮮やかな朱色の顔と開いた灰色の嘴をつかみ、左足は雉の左翼のつけ根を押さえつけている。右下方に垂れ下がった丸みのある鷹の尾と交差するように、細長く鋭利な八枚の雉の尾羽が右上方にはね上がっている。箱表書により、この絵は、後陽成院から第四皇女文高に下賜され、近侍する女房らの手を経て有栖川宮家、さらに高松宮家へと伝えられた。後陽成天皇が絵をよく描いたことは、『隔冥記(かくめいき)や『画工便覧』によってうかがえる。

p177~p179 第一に、王朝文化のシンボルであった。鷹図を描いたり、所有したりすることは、鷹の愛玩や鷹狩への嗜好のみならず、権力の誇示であった。鷹狩は、かつて王朝文化のシンボルで、武家によって簒奪された鷹狩の文化と権威がふたたび天皇・公家に還流しつつあったことを示している。
第二に、天皇位にあった後陽成院が描いた鷹図は、中国皇帝の証たる「徽宗(きそう)の鷹」を想起させたにちがいない。(以下省略)
第三に、獲物を押さえ込む特異な構図を持つ。(以下省略)  
第四に、獲物として雉を描くのも珍しい。(以下省略)
 天皇の鷹狩は、天下人や武家によって奪取され、十七世紀に入ってふたたび後陽成院周辺へと還流する。それは、次代の後水尾天皇らによる王朝文化の復古運動の先鞭をなすものとして評価できるであろう。
 関ヶ原合戦以来、数度にわたり譲位の意向を伝えていた後陽成天皇が、江戸幕府とのたび重なる折衝の末にようやく退位したのは、慶長十六年(一六一一)三月のことであった。この絵が描かれたのは、退位から元和三年(一六一七)に死亡するまでの六年ほどの間であった。この間、江戸開府により武家政権の基礎が盤石となり、天皇・公家は禁中並公家諸法度によって統制下におかれた。他方、豊臣家の滅亡、大御所家康の死亡と、歴史の主人公たちが舞台からあいついで退場してゆくのを目の当たりにした後陽成院の胸中に去来りしたのは、天皇権威復活のあわい希望であったのだろうか。 】

 後陽成天皇(一五七一~一六一七)は、天正十四年(一五八六)に即位し、慶長十六年(一六一一)に後水尾天皇に譲位するまで、在位二十六年に及んだ。和漢の学問的教養に造詣が深く、書・画を能くし、慶長(けいちょう)勅版を刊行させた。
 この後陽成天皇の活躍時期と、本阿弥光悦(一五五八~一六三七)と俵屋宗達(?~一六四一)とのコラボレーションの「書(光悦)・画(宗達)和歌巻」の一連の制作時期(慶長五年=一六〇〇=「月の和歌巻」~元和元年=一六一五=鷹峯「大虚庵」へ移住)とはオーバーラップする。
 そして、それらを、「書・画・古活字本出版」の三分野に限定すると、「書=寛永三筆・本阿弥光悦、画=法橋宗達・俵屋宗達、古活字本出版=嵯峨本・角倉素庵」と、この後陽成天皇(後陽成院)に続く後水尾天皇の「寛永文化」(桃山文化の特徴を受け継ぎ、元禄文化への過渡的役割を担う)の担い手として飛翔していくことになる。

https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=7398  
  


後陽成天皇書.jpg

[重要美術品]「宸翰 御色紙」 桃山時代(16世紀)紙本墨書 軸装 22.0×18.2cm 東京富士美術館蔵
《後陽成天皇の筆による鎌倉時代前期の歌人・藤原家隆の和歌「秋の夜の月 やをしまの あまの原 明方ちかき おきの釣舟」(『新古今和歌集』)の書写。》       】

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 「源氏物語画帖(その二)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

2 帚木(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏

光吉・箒木.jpg

源氏物語絵色紙帖 箒木 画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/535711/1

後陽成院・箒木.jpg

源氏物語絵色紙帖 箒木 詞・後陽成院周仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/535711/1

(「後陽成院」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/03/%E5%B8%9A%E6%9C%A8_%E3%81%AF%E3%81%AF%E3%81%8D%E3%81%8E%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B8%96%E3%80%91

木枯に吹きあはすめる笛の音を ひきとどむべき言の葉ぞなき(第二章 女性体験談 第二段 左馬頭の体験談(浮気な女の物語))
《「琴の音も月もえならぬ宿ながらつれなき人をひきやとめける」(2.2.6=男の歌)への(2.2.8=女の歌=返歌) 》


(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第二帖 帚木
第一章 雨夜の品定めの物語
第一段 長雨の時節
第二段 宮中の宿直所、光る源氏と頭中将
第三段 左馬頭、藤式部丞ら女性談義に加わる
第四段 女性論、左馬頭の結論
第二章 女性体験談
第一段 女性体験談(左馬頭、嫉妬深い女の物語)
第二段 左馬頭の体験談(浮気な女の物語)→この「場面」での「画と詞」(下記「参考」)
第三段 頭中将の体験談(常夏の女の物語)
第四段 式部丞の体験談(畏れ多い女の物語)

(参考)

帚木二.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-01

【 (再掲)

土佐光吉・澪標二.jpg
  
B図(拡大図) 土佐派・『澪標図屏風』(部分)/個人。安土桃山時代の装束で描かれた人々。
http://toursakai.jp/zakki/2018/10/25_2944.html

このB図(拡大図)に関連して、上記のアドレスでは次のとおり紹介している。

《 宇野「光吉は緻密さが特徴ですが、もうひとつ貴族でない人々を生き生きと描くのも得意だったように思います。たとえば、『源氏物語』の『澪標(みをつくし)』の帖を描いた屏風を展示していますが、光源氏が住吉大社に行列を成して参拝する様子が描かれています。ここには光源氏の行列を座って見ている人々の姿が、平安時代の装束ではなく、安土桃山時代の衣装で描かれています」
――光吉の生きた時代の人々の姿が描きこまれていたんですね。
宇野「これは私の想像ですけれど、まるで源氏物語の舞台を見物しているようなこの人々は、光吉のまわりにいて絵の注文もしてくれる堺の人々の姿を写していたりしないかなと思うのです」
――ルネサンスの画家が、宗教画にパトロンや自分自身の姿を滑り込ませたのと同じような感じですかね。もっと言えば現代の漫画家や映画監督的というか......。展示された作品や資料をもとに、そういう想像の翼を広げていくのも、展覧会の楽しみの一つですよね。チヨマジックに続き、チヨファンタジー、いいですね。
(注) 宇野=堺博物館・宇野千代子学芸員=チヨマジック・チヨファンタジー  》

 この人物は、上記の対談中の「チヨマジック・チヨファンタジー」の「ルネサンスの画家が、宗教画にパトロンや自分自身の姿を滑り込ませたのと同じような感じ」ですると、「土佐派の工房」の主宰者「土佐光吉」その人と見立てることも出来るであろう。
 この土佐光吉((天文11年=一五三九~慶長十八年=一六一三)の経歴については、次の見解が、「チヨマジック・チヨファンタジー」に馴染んでくる。

《 土佐光茂の次子と言われるが、実際は門人で玄二(源二)と称した人物と考えられる。師光茂の跡取り土佐光元が木下秀吉の但馬攻めに加わり、出陣中戦没してしまう。そのため光吉は、光元に代わって光茂から遺児3人の養育を託され、土佐家累代の絵手本や知行地、証文などを譲り受けたとみられる。以後、光吉は剃髪し久翌(休翌)と号し、狩野永徳や狩野山楽らから上洛を促されつつも、終生堺で活動した。堺に移居した理由は、近くの和泉国上神谷に絵所預の所領があり、今井宗久をはじめとする町衆との繋がりがあったことなどが考えられる。光元の遺児のその後は分からないが、光元の娘を狩野光信に嫁がせている。(『ウィキペディア(Wikipedia)』) 》 

 この「光吉は、光元に代わって光茂から遺児3人の養育を託され」たということを、「チヨマジック・チヨファンタジー」流に解すると、B図(拡大図)の四人は、「光吉と、光茂(土佐派本家・宮廷繪所預)の遺児・三人」ということになる。
 そして、この三人のうちの一人(旅装した女子?)が、狩野派宗家(中橋狩野家)六代の狩野
光信(七代永徳の長男)に嫁いでいるということになると、狩野派の最大の実力者と目されている狩野探幽(光信の弟・孝信の長男=鍛冶橋狩野家)は、光吉と甥との関係になり、その甥の一人の狩野安信(孝信の三男=探幽の弟)は、狩野派宗家を継ぎ、八代目を継承している。
 さらに、江戸幕府の御用絵師を務めた住吉派の祖の住吉如慶は、光吉の子とも門人ともいわれており、「チヨマジック・チヨファンタジー」を紹介している上記のアドレスでは、光吉を「近世絵画の礎になった光吉」というネーミングを呈しているが、安土桃山時代から江戸時代の移行期の「近世絵画の礎になった」最右翼の絵師であったことは、決して過大な評価でもなかろう。
 これを宗達関連、特に、その「関屋澪標図屏風」(C図と下記D図)に絞って場合には、全面的に、光吉一門(土佐派)の「澪標図屏風」(A図)と、同じく光吉一門(土佐派)の「源氏物語澪標図屏風」(下記のE図)とを下敷きにし、それを、宗達風にアレンジして、いわゆる「宗達マジック・宗達ファンタジー」の世界を現出していると指摘することも、これまた、過大な過誤のある指摘でもなかろう。 】
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 「源氏物語画帖(その一)」(光吉・長次郎筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

1 桐壺(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏誕生-12歳

光吉・桐壺.jpg

源氏物語絵色紙帖 桐壺 画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509987/1

後陽成院・桐壺.jpg

源氏物語絵色紙帖 桐壺 詞・後陽成院周仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509987/1

(「後陽成院」書の「詞」)

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/02/%E6%A1%90%E5%A3%BA_%E3%81%8D%E3%82%8A%E3%81%A4%E3%81%BC%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B8%96%E3%80%91

そのころ高麗人(うど)の参れる中にかしこき相人(そうにん=人相を見る人)ありけるを 聞こし召して宮(内裏)の内に召さむことは宇多の帝の御誡(おんいまし)めあればいみじう忍びてこの御子を鴻臚館に遣はしたり (第三章 光る源氏の物語 第三段 高麗人の観相、源姓賜わる)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第一帖 桐壺
第一章 光る源氏前史の物語
第一段 父帝と母桐壺更衣の物語
第二段 御子誕生(一歳)
第三段 若宮の御袴着(三歳)
第四段 母御息所の死去
第五段 故御息所の葬送
第二章 父帝悲秋の物語
第一段 父帝悲しみの日々
  第二段 靫負命婦の弔問
  第三段 命婦帰参
 第三章 光る源氏の物語
  第一段 若宮参内(四歳)
  第二段 読書始め(七歳)
  第三段 高麗人の観相、源姓賜わる → この「場面」での「画と詞」(下記「参考」)
  第四段 先帝の四宮(藤壺)入内
  第五段 源氏、藤壺を思慕
  第六段 源氏元服(十二歳)
  第七段 源氏、左大臣家の娘(葵上)と結婚
  第八段 源氏、成人の後

(参考)

桐壺二.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

【(再掲)

追記一 土佐光吉・長次郎筆「源氏物語画帖」(京都国立博物館蔵)周辺
(出典:『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」『京博本『源氏物語画帖』覚書(今西祐一郎稿)』 )・『ウィキペディア(Wikipedia)』)

1 桐壺(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏誕生-12歳
2 帚木(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏
3 空蝉(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏 
4 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏17歳秋-冬
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
5 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) 源氏18歳
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
6 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六)源氏18歳春-19歳春
   (長次郎筆)=(詞)西蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書) 
7 紅葉賀(光吉筆)=(詞)大覚寺空性 (一五七三~一六五〇)源氏18歳秋-19歳秋
8 花宴((光吉筆)=(詞)大覚寺空性(一五七三~一六五〇)源氏20歳春
9 葵(光吉筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) 源氏22歳-23歳春
10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)源氏23歳秋-25歳夏
   (長次郎筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) (長次郎墨書)
11 花散里(光吉筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) 源氏25歳夏 
(長次郎筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) (長次郎墨書)
12 須磨(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏26歳春-27歳春
13 明石(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏27歳春-28歳秋
14 澪標(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏28歳冬-29歳
15 蓬生(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏28歳-29歳
(長次郎筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) (長次郎墨書)
16 関屋(光吉筆)=(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏29歳秋
17 絵合(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳春
18 松風(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳秋
19 薄雲(光吉筆)=(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏31歳冬-32歳秋
20 朝顔(槿)(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏32歳秋-冬
21 少女(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏33歳-35歳
22 玉鬘(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏35歳
23 初音(光吉筆)=(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳正月
24 胡蝶(光吉筆) =(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳春-夏
25 蛍(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
26 常夏(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
27 篝火(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三)  源氏36歳秋
28 野分(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 源氏36歳秋 
29 行幸(光吉筆)=(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏36歳冬-37歳春 
30 藤袴(蘭)(光吉筆) =(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏37歳秋 
31 真木柱(光吉筆)=(詞)日野資勝(一五七七~一六三九) 源氏37歳冬-38歳冬 
32 梅枝(光吉筆) =(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)  源氏39歳春
33 藤裏葉(光吉筆)=(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)  源氏39歳春-冬
34 若菜(上・下) (光吉筆) =(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二) 源氏39歳冬-41歳春 
             =(詞)中村通村(一五八七~一六五三) 源氏41歳春-47歳冬 
35 柏木(長次郎筆) =(詞)中村通村(一五八七~一六五三)  源氏48歳正月-秋
36 横笛(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏49歳
37 鈴虫(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏50歳夏-秋
38 夕霧(長次郎筆)=(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 源氏50歳秋-冬
39 御法(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六三四) 源氏51歳
40 幻(長次郎筆)=(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)  源氏52歳の一年間
41 雲隠  (本文なし。光源氏の死を暗示)
42 匂宮(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)  薫14歳-20歳
43 紅梅(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 薫24歳春
44 竹河(長次郎筆)=(詞)四辻季継(一五八一~一六三九)  薫14,5歳-23歳
45 橋姫(長次郎筆) =(詞)四辻季継(一五八一~一六三九) 薫20歳-22歳(以下宇治十帖)
46 椎本(長次郎筆)=(詞)久我敦通(一五六五~?)    薫23歳春-24歳夏
47 総角(長次郎筆) =(詞)久我通前(一五九一~一六三四) 薫24歳秋-冬
48 早蕨(長次郎筆) =(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七) 薫25歳春
49 宿木    (欠)                薫25歳春-26歳夏
50 東屋    (欠)                薫26歳秋
51 浮舟     (欠)                薫27歳春
52 蜻蛉   (欠)                薫27歳
53 手習    (欠)                薫27歳-28歳夏
54 夢浮橋   (欠)                薫28歳

追記二=参考五 「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)

正親町天皇→陽光院 →     ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
    ↓※青蓮院尊純法親王 ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
               ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良
                          ↓良純法親王 他

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図は、上記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

※後陽成天皇(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(関屋・絵合・松風)
※八条宮智仁親王(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純法親王(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋(須磨・蓬生)
※近衛信尹(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)    】
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醍醐寺などでの宗達(その二十・「風神雷神図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その二十「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「風神雷神図屏風 (宗達筆)」(その三)

合成図二.jpg

(上段) 俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」(国宝 紙本金地着色 二曲一双 各157.0×173・0cm 建仁寺蔵)→A図
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-11
(下段・左図) 京都博物館蔵 「蓮池水禽図」「伊年」印 国宝→B図
(下段・中央図)畠山記念館蔵 「同上」  無印     → C図
(下段・右図) 山種美術館蔵 「同上」  「伊年」印   → D図
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-19
【《宗達について大事なことは、法橋叙位以前の作品と考えられる「蓮池水禽図」(下段・左図))において、完璧に牧谿といわしめるほどに、奥深い空間表現を実現していたという事実である。また養源院障壁画(※)においてすでに独自のスタイルを見せている。ということも重要であろう。したがって、この時期、すでに宗達は相当に高いレベルで表現の自由を獲得していたと見てよい。
 私は、山川氏(山川武説)のように「若さ」を強調するのではなく、「蓮池水禽図」と養源院の「白象図」「唐獅子図」を描けた時点で、十分に「風神雷神図屏風」を描くだけの技量は成熟していたと思っている。「たらし込み」をたくみに使って「蓮池水禽図」を描いた画家が、同時期に「風神雷神図屏風」の「たらし込み」を描いたとしても不思議ではない。豊かな空間表現への進化を基準とするならば、水墨画において「蓮池水禽図」から「牛図」(※※)、「白鷺図」(※※※)という、より平面性の勝った空間表現へという逆転現象をどのように解釈すべきであろうか。後述べするが、空間表現の問題に関して、ひろがりや奥行きの追求から平面的、装飾的な画面構成へという展開は、芳崖以降の二十世紀の近代画家たちにはごく当たり前のことなのである。》(p129~p130))
《「白鷺図」(※※※)には妙心寺第百二十八世楊屋宗販の賛があり、「前(さき)」とあることから、着賛は早くても一六三三年(寛永十)頃と推定されている。宗達の制作時期もこの頃とすれば、「関屋澪標図屏風」後の最晩年作となる。
 「白鷺図」を水墨画の最晩年として見た時、屏風画のような枠の意識はさほど感じないが、そのかわり白鷺を描く速く均質に伸びる線、たらし込みをほとんどもちいない画面処理、構図の単純化、動きのない白鷺のポーズ、それらが、水墨画における宗達の絵画の純粋化を示しているように思われる。》(p145)
※養源院障壁画 → 下記のアドレスなどを参照。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07
※※「牛図」(頂妙寺蔵) → 下記のアドレスなどを参照。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-09
※※※「白鷺図」→「白鷺図」(宗達画・楊屋宗販賛)→下段の(参考三)を参照。  】
(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収「新たな宗達像―制作年代推定から」)

(「宗達ファンタジー」その三)

一 宗達作品の「制作年代の推定」について、「俵屋宗達略年譜および各説時代区分」(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収)では、次のように推定している。

①「蓮池水禽図」(上記B図) → 1614(慶長19= 47?)~1615(元和元=48?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-08
②「風神雷神図」(上記A図) → 1616(元和2= 49?)~1617(元和3= 50?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-11
③「雲龍図屏風」      → 1619(元和5= 52?)~1621(元和7= 54?)       
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-04
④「松島図屏風」      → 1619(元和5= 52?)~1621(元和7= 54?) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-30
➄「養源院障壁画」     → 1622(元和8= 55?)~1625(寛永元= 57?)  
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07
⑥「関屋澪標図屏風」    → 1631(寛永8=64?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20
⑦「舞樂図屏風」      → 1632(寛永9= 65?)~1625(寛永18= 74?) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-02-11

二 この①「蓮池水禽図」(上記B図)に関連しての、「法橋叙位以前の作品と考えられる『蓮池水禽図』)において、完璧に牧谿といわしめるほどに、奥深い空間表現を実現していたという事実である」並びに「『蓮池水禽図』を描いた画家が、同時期に『風神雷神図屏風』の『たらし込み』を描いたとしても不思議ではない」という指摘は、冒頭に掲げた「宗達モデル図」(A図とB図+C図+D図の合成図)からして、その感を大にする。

三 と同時に、宗達が①「蓮池水禽図」を制作したと推定される「1614(慶長19= 47?)~1615(元和元=48?)」と「法橋授位」の時期は、同時期の頃で、その時期は「1615(元和元=48?)~1616(元和2= 49?)」と推定し、②「風神雷神図」は、「法橋授位」後の「1616(元和2= 49?)~1617(元和3= 50?)」の頃と推定したい。

四 ③「雲龍図屏風」から⑦「舞樂図屏風」までの制作推定時期は、下記の(参考一「宗達作品の『制作年代の推定』など」) の「※古田亮説」(「標準的」な見解)に近いものと推定し、同時に、「※※林進説」(「異説的」な見解)らの「何故、それらの異説が展開されるのか」ということに関連して、常に先入観にとらわれず、下記の(参考二「宗達に関する『文献史料』)などにより、その一つ一つを随時検証することとなる。

五 その「※古田亮説」(「標準的」な見解)の、「『「白鷺図」を水墨画の最晩年として見た時、屏風画のような枠の意識はさほど感じないが、そのかわり白鷺を描く速く均質に伸びる線、たらし込みをほとんどもちいない画面処理、構図の単純化、動きのない白鷺のポーズ、それらが、水墨画における宗達の絵画の純粋化を示しているように思われる。」(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収「新たな宗達像―制作年代推定から」p145)に関連しては、
その「異説的」な見解を、(参考三)「宗達の水墨画「白鷺図」関連について」で付記して置きたい。

(参考一)  宗達作品の「制作年代の推定」など

【②「風神雷神図屏風」の制作時期
山根有三説 → 寛永一五(一六三八)~寛永一七(一六四〇) → 晩年(七一歳?以降)
水尾比呂志説→ 寛永一二(一六三五)~寛永一八(一六四一) → 晩年(六八歳?以降)
山川武説  → 元和七(一六二一) ~元和九(一六二三) → 壮年(五四~五六歳?)
源豊宗・橋本綾子説→元和五(一六一九)~元和七年(一六二一)→壮年(五二~五四歳?)
※古田亮説  → 元和二(一六一六)~元和三(一六一七)  →壮年(四九~五〇歳?)
 
  「法橋授位」の時期
山根有三説 →   寛永元(一六二四)           →五七歳?
水尾比呂志説→  慶長一九(一六一四)~元和二年(一六一六)→四七~四九歳?
山川武説  →   元和八(一六二二)           →五五歳?
源豊宗・橋本綾子説→元和七(一六二一)           →五四歳?
※古田亮説  → 元和元(一六一五)~元和四(一六一八)  →四八~五一歳?

③「雲龍図屏風」の制作時期
山根有三説 → 寛永四(一六二七)~寛永五(一六二八) →  六〇~六一歳?
水尾比呂志説→ 寛永二(一六二五)~寛永六(一六二九) →  五八~六二歳?
山川武説  → 寛永元(一六二四)~寛永四(一六二五) →  五七~六〇歳?
源豊宗・橋本綾子説→元和九(一六二三)~寛永二(一六二四)→ 五六~五八歳?
※古田亮説  → 元和五(一六一九)~元和七(一六二一) → 五二~五四歳?  

④「松島図屏風」の制作時期
山根有三説 →寛永二(一六二五)~寛永四(一六二七) →   五八~六〇歳?
水尾比呂志説→ 寛永元(一六二四)~寛永五(一六二八) →  五七~六一歳?
山川武説  → 寛永元(一六二四)~寛永四(一六二七) →  五七~六〇歳?
源豊宗・橋本綾子説→元和七(一六二一)~元和九(一六二三)→ 五四~五六歳?
※古田亮説  → 元和五(一六一九)~元和七(一六二一)  →五二~五四歳?

⑥「関屋澪標図屏風」の制作時期(寛永八(一六三一) →六四歳? )
山根有三説 → 寛永一三(一六三六)~寛永一五(一六三八) →六九~七一歳?
水尾比呂志説→ 寛永八(一六三一)~寛永一二(一六三五) → 六四~六八歳?
山川武説 →  寛永八(一六三一)~寛永一一(一六三四) → 六四~六七歳?
源豊宗・橋本綾子説→寛永四(一六二七)~寛永六(一六二九)→ 六〇~六二歳?
※古田亮説  → 寛永八(一六三一)          → 六四歳?

⑦「舞樂図屏風」の制作時期
山根有三説 → 寛永六(一六二九)~寛永八(一六三一) → 六二~六四歳?
水尾比呂志説→ 元和六(一六二〇)~元和八(一六二二)→五三~五五歳?
山川武説 → 寛永一二(一六三五)~寛永一八(一六四一) →六八~七四歳?
源豊宗・橋本綾子説→寛永四(一六二七)~寛永六(一六二九)→六八~六二歳?
※古田亮説  → 寛永九(一六三二)~寛永一八(一六四一) →六五~七四歳?  】
(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収「俵屋宗達略年譜および各説時代区分」)

制作時期・林説.jpg

http://atelierrusses.jugem.jp/?cid=22
「アトリエ・リュス」(連続講座「宗達を検証する」第9回 講師:林進)=※※林進説→『宗達絵画の解釈学―日本文化私の最新講義(林進著)』

(参考二)  宗達に関する「文献史料」など

①『中院通村日記』(元和二年=一六一六・三月十三日の条、後水尾天皇の「俵屋絵」関連)
※中院通村=権中・大納言から内大臣=細川幽斎より「古今伝授」継受
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

②一条兼遐書状
※一条兼遐=一条昭良=後陽成院の第九皇子=明正天皇・後光明天皇の摂政
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

③西行物語絵巻の烏丸光広筆奥書(寛永七年=一六三〇)
※※烏丸光広=権大納言=細川幽斎より「古今伝授」継受
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-31

④宗達自筆書状(快庵=醍醐寺和尚?宛=「むし茸」御礼)

➄光悦書状(宗徳老宛=茶会関連)

⑥千少庵書状(千少庵=千利休の次男、妙持老宛、茶会関連)

⑦仮名草子『竹斎』の一節(五条の「俵屋」関連)

⑧菅原氏松田本阿弥家図(光悦と宗達とは姻戚?)

⑨『寛永日々記』(覚定の日記) → 寛永八年(一六三一)九月十三日条
※源氏御屏風壱双<宗達筆 判金一枚也>今日出来、結構成事也、→ 「源氏御屏風」 → 「関屋澪標図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

(参考三) 宗達の水墨画「白鷺図」関連について

白鷺図・光広賛.jpg

「雪中鷺図(俵屋宗達筆、烏丸光広賛)  MIHO MUSEUM蔵 → E図
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00000024.htm
【 ?~1640頃。桃山~江戸初期の画家。琳派の様式の創始者。富裕な町衆の出身で、屋号を俵屋といった。日本の伝統的な絵巻物などの技法を消化して大胆な装飾化を加える一方、水墨画にも新生面を開き、その柔軟な筆致や明るい墨調などによって日本的な水墨画の一つの頂点をなしている。「風神雷神図」(京都・建仁寺蔵)、「蓮池水禽図」(京都国立博物館蔵)などが代表作である。】

 この「白鷺図」は、『創立百年記念特別展 琳派』所収「作品解説35」などに紹介されている「楊屋宗販賛」のものではなく、「烏丸光広賛」のものである。「楊屋宗販賛」のものは、次のものである。

白鷺・宗販賛.jpg

「白鷺図」(俵屋宗達筆、楊屋宗販賛)紙本墨画、個人蔵、一〇四・〇×四六・五㎝、落款(宗達法橋)、印章(朱文円「対青軒) → F図
「芦を背景に横向きに立つ白鷺。芦はやや濃い墨を粗く使って、冬枯れの感じを出し、鷺は淡墨の柔かい描線で、巧みに表わされている。図上の賛の筆者は、妙心寺の僧・楊屋宗販(ようおくそうはん)。寛永八年(一六三一)に同寺第128世住職となり、宗達と同時代の人。」
(『創立百年記念特別展 琳派』所収「作品解説35」)

 このF図の落款は「宗達法橋」で、印章は「対青軒」である。一方のE図の落款は下記(G図)のとおり「法橋宗達」で、印章も「対青」と、E図とF図とでは、その落款と印章とを異にしている。この相違は何を意味しているのであろうか?
 「芦を背景に横向きに立つ白鷺」像は、一見して同じものという印象を受けるのだが、仔細に見て行くと、微妙に異にしている。このE図もF図も、晩年の宗達の傑作水墨画として、どのような関係にあり、どのように鑑賞すべきなのか?
 これまた、「宗達ファンタジー」の世界ということになる。

白鷺図・法橋印.jpg

「雪中鷺図」の部分図(落款・印章) → G図

 これらの「宗達ファンタジー」に関連する基本的な考え方は、下記のアドレスの「再掲」
のものと同じで、それらを、それ以降に得た新しいデータを基にして、その細部を「精度を高めるための整序・修正」を施すことになる。
 そして、それは、宗達の水墨画「白鷺図」に関連しても、F図を中心としての「※古田亮説」とは異なり、E図とF図との、この両図との検証を経てのもので、それは、丁度、その水墨画「蓮池水禽図」の「B図(国宝・「伊年」印)とC図(無印)とD図(「伊年」印)との、その比較検証を得てのものと同じような世界のものとなってくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27

(再掲)

【 ここで、宗達の落款の「署名」と「印章」について触れたい。宗達の落款における署名は、次の二種類のみである(『日本美術絵画全集第一四巻 俵屋宗達(源豊宗・橋本綾子著)』所収「俵屋宗達(源豊宗稿))。

A 法橋宗達
B 宗達法橋

 宗達の法橋叙位は、元和七年(一六二一)、京都養源院再建に伴う、その障壁画(松図襖十二面、杉戸絵四面・八図)を制作した頃とされており(『源・橋本前掲書』所収「俵屋宗達年表」)、上記の二種類の署名は、それ以降のものということになる。
 その款印は、次の三種類のものである。

a 対青  (朱文円印 直径六・四㎝)
b 対青軒 (朱文円印 直径七・六㎝)
c 伊年  (朱文円印 直径四・九㎝)

 このcの「伊年」印は、宗達の法橋叙位以前の慶長時代にも使われており、これは、「俵屋工房(画房)」を表象する「工房(画房)」印と理解されており、その「工房(画房)」主(リーダー)たる宗達が、集団で制作した作品と、さらには、宗達個人が制作した作品とを峻別せずに、押印したものと一般的に理解されている(『源・橋本前掲書』)。
 そして、宗達が没して、その後継者の、法橋位を受け継いだ「宗雪」は、このcの「伊年」印を承継し、寛永十四年(一六三七)前後に製作した堺の養寿寺の杉戸絵の「楓に鹿」「竹に虎」図に、このcの「伊年」印が使われているという。また、宗達没後、宗雪以外の「宗達工房(画房)」の画人の何人かは、cの「伊年」印以外の「伊年」印を使用することが許容され、その種の使用例も見られるという(『源・橋本前掲書』)。
 ここで、その「伊年」印は除外しての、落款形式別の作例は、次のとおりとなる(『源・橋本前掲書』に※『宗達の水墨画(徳川義恭著)』口絵図を加える)。

一 A・a形式(法橋宗達・「対青」印)
作例「松島図屏風」(フーリア美術館蔵)
  「舞樂図屏風」(醍醐寺三宝院蔵)
  「槇図屏風」(山川美術財団旧蔵・現石川県立美術館蔵)
http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/collection/index.php?app=shiryo&mode=detail&data_id=1278
  「雙竜図屏風(雲龍図屏風)」(フーリア美術館蔵)  

二 A・b形式(法橋宗達・「対青軒」印)
作例「源氏物語澪標関屋図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵) 
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html
※「鴛鴦図一」(その四・個人蔵)

三 B・b形式(宗達法橋・「対青軒」印)
作例「関屋図屏風」(烏丸光広賛 現東京国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/459227
  「牛図」(頂妙寺蔵・烏丸光広賛)
  「鳥窠和尚像」()クリーヴランド美術館蔵 
※「牡丹図」(その三・東京国立博物館蔵)
※「鴛鴦図二」(その五・個人蔵)
※「兎」図(その六・現東京国立博物館蔵)
※「狗子」図(その七)
※「鴨」図(その九)

 ここで落款の署名の「法橋宗達」(「鴛鴦図一=その四・個人蔵」)と「宗達法橋」(「鴛鴦図二=その五・個人蔵」)との、この「法橋宗達」(肩書の一人「法橋」の用例)と「宗達法橋」(三人称的「法橋」の用例)との、その用例の使い分けなどについて触れたい。
 嘗て、下記のアドレスなどで、次のように記した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19


《 この宗達の落款は「宗達法橋」(三人称の「法橋」)で、この「宗達法橋」の「牛図」に、権大納言の公家中の公家の「光広」が、花押入りの「和歌」(狂歌)と漢詩(「謎句」仕立ての「狂詩」)の賛をしていることに鑑み、「法橋宗達」(一人称)と「宗達法橋」(三人称)との区別に何らかの示唆があるようにも思えてくる。例えば、この「宗達法橋」(三人称)の落款は「宮廷画家・宗達法橋」、「法橋宗達」(一人称)は「町絵師・法橋宗達」との使い分けなどである。 》

 この「法橋宗達」(一人称的「法橋」の用例)と「宗達法橋」(三人称的「法橋」の用例)関連については、宗達の「西行法師行状絵詞」の、次の烏丸光広の「奥書」に記されている「宗達法橋」を基準にして考察したい。

《 右西行法師行状之絵
  詞四巻本多氏伊豆守
  富正朝臣依所望申出
  禁裏御本命于宗達法橋
  令模写焉於詞書予染
  禿筆了 招胡盧者乎
  寛永第七季秋上澣
   特進光広 (花押)

 右西行法師行状の絵詞四巻、本多氏伊豆守富正朝臣の所望に依り、禁裏御本を申し出だし、宗達法橋に命じて、焉(こ)れを模写せしむ。詞書に於ては予禿筆を染め了んぬ。胡盧(コロ、瓢箪の別称で「人に笑われること。物笑い」の意)を招くものか。
  寛永第七季秋上澣(上旬) 特進光広 (花押)   》(漢文=『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』、読み下し文=『源・橋本前掲書』)

 この奥書を書いた「特進(正二位)光広」は、烏丸光広で、寛永七年(一六三〇)九月上旬には、光広、五十二歳の時である。
 この寛永七年(一六三〇)の「烏丸光広と俵屋宗達・関係略年譜」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』所収)に、「十二月、上皇、女院、新仙洞御所に移られる」とあり、この「上皇」は「後水尾上皇」で、「女院」は「中宮の『徳川和子=女院号・東福門院』か?」と思われる。
 この徳川和子(徳川家康の内孫、秀忠の五女)が入内したのは、元和六年(一六二〇)六月のことで、その翌年の元和七年(一六二一)に、東福門院(徳川和子)の実母の徳川秀忠夫人(お江・崇源院)が、焼失していた「養源院」(創建=文禄三年、焼失=元和五年、再興=元和七年)を再興した年で、「俵屋宗達年表」(『源・橋本前掲書』所収)には、「京都養源院再建、宗達障壁に画く、この頃、法橋を得る」とある。
 この養源院再建時に関連するものが、先に触れた「松図襖(松岩図襖)十二面」と「杉戸絵(霊獣図杉戸)四面八図」で、この養源院関連については、下記のアドレスで詳細に触れているので、この稿の最後に再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07

 ここで、先の宗達の「西行法師行状絵詞」に関する光広の「奥書」に戻って、その「奥書」で、光広は宗達のことについて、「宗達法橋に命じて、焉(こ)れを模写せしむ」と、「宗達法橋」と、謂わば、「西行」を「西行法師」と記す用例と同じように、「敬称的用例」の「宗達法橋」と記している。
 これらのことに関して、「(宗達の水墨画の)、多くは宗達法橋としるしている。いわば、自称の敬称である。しかしそれは長幼の差のある親しい者同士の間によくある事例である。宗達がすでに老境に及んで、人からは宗達法橋と呼びならされている自分を、自らもまた人の言うにまかせて、必ずしも自負的意識をおびないで、宗達法橋と称したのは非常に自然なことといってよい。それはまたある意味では、老境に入った者の自意識超越の姿といってもよい。彼の水墨画にこの形式の落款が多いということは、逆にいえば、それらの水墨画が多くは老境の作であり、自己を芸術的緊張から解放した、自由安楽の、いわゆる自娯の芸術であったからであるといえるのではないか」(『源・橋本前掲書』) という指摘は、肯定的に解したい。
 これを一歩進めて、「法橋宗達」の署名は、「晴(ハレ)=晴れ着=贈答的作品に冠する」用例、そして、「宗達法橋」は、「褻(ケ)=普段着=相互交流の私的作品に冠する」用例と、使い分けをしているような感じに取れ無くもない。
 例えば、前回(その四)の「法橋宗達」署名の「鴛鴦一」は、黒白の水墨画に淡彩を施しての、贈答的な「誂え品」的な作品と理解すると、今回(その五)の「宗達法橋」署名の「鴛鴦二」は、知己の者に描いた「絵手本」(画譜などの見本を示した作品)的作品との、その使い分けである。
 次に、印章の「対青」と「対青軒」については、その署名の「法橋宗達」と「宗達法橋」との使い分け以上に、難問題であろう。
これらについては、『源・橋本前掲書(p109)』では、「aの『対青』印は『対青軒』印の以前に用いたものと思われる。『対青軒』印はほとんど常に宗達法橋の署名の下に捺されている。『対青』とは、恐らく『青山に相対する』の意と思われるが、或いは彼の住居の風情を意味するのかも知れない」としている。
 また、「宗達は別号を対青(たいせい)といい、その典拠は中国元時代の李衎(りかん)著『竹譜詳録』巻第六『竹品譜四』に収載されている『対青竹』だ。『対青竹出西蜀、今處處之、其竹節間青紫各半二色相映甚可愛(略)』とあり、その図様も載せる(知不足叢書本『竹譜詳録』)。宗達は中国の書籍を読んでいた読書人であった」(『日本文化私の最新講義 宗達絵画の解釈学(林進著)』p282~p283)という見方もある。
 ここで、「対青軒」(「対青」はその略字)というのは、宗達の「庵号(「工房・画房」号)」と解したい。そして、この「青軒ニ対スル」の「青軒」とは、「青楼」(貴人の住む家。また、美人の住む高楼)の意に解したい。
即ち、宗達の「法橋の叙位を得て、朝廷の御用を勤める宮廷画人」の意を込めての、「青軒」とは、「寛永七年(一六三〇) 十二月、上皇、女院、新仙洞御所に移られる」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』所収「烏丸光広と俵屋宗達・関係略年譜」)の、その「上皇(後水尾院)と女院(東福門院)」の、その「青軒」(青楼)の意に解したい。 】
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醍醐寺などでの宗達(その十九・「風神雷神図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十九「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「風神雷神図屏風 (宗達筆)」(その二)

風神・雷神図(構図三).jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風(部分図)」(右隻=風神図、左隻=雷神図)の構図
《「放射性」=「扇子」の「矩形」の中心点(上記の二点の中心点)からする構図 と、「湾曲性」=その「放射性」の中心点から湾曲(画面を弧状に横切る) 的な構図とによる、「扇面性」の構図を基調としている。》(『琳派(水尾比呂志著)所収「扇面構図論―宗達画構図研究への序論―」「宗達屏風画構図論」)

 前回のものをアップして、その時に、「モヤモヤとしていた」ものを次のように記した。
今回は、その「モヤモヤとしていた」、その「京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだ きんのり? - 正保4年(1647年))が、寛永14年(1637年)からの臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念に妙光寺に寄贈するため製作を依頼したとされる」ということに関連に焦点を絞って、その周辺を探索したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-11

【第一ステップ → まず、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」を、宗達がモデルにしているということからスタートしたい。

第二ステップ → 続いて、宗達は、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」から得た着想を、海北友北筆の「阿吽の双龍図」(建仁寺蔵)にダブらせて、「風神像」を「右」に、「雷神図」を「左」にの、「二曲一双」の屏風スタイルを着想したと解したい。

第三ステップ → 第一と第二ステップで着想を得た「風神(右)・雷神(左)」の二曲一双の屏風形式の配色は、後陽成天皇筆「鷹攫雉図」の「金地」を背景としての、「鷹」の「白」と「雉」の「緑・青」とを基調したいというインスピレーション(閃き)が、元和改元(後陽成天皇から後水尾天皇への代替わり)、そして、宗達自身の「町絵師(町衆をバックとする絵師)」から「法橋絵師(宮廷をバックとする絵師)」への脱皮を契機として、揺るぎないものとして定着してくる。

第四ステップ → 最終的な構図は、これまでの絵屋(扇屋)の最も得意とする、その「扇面性」(放射性と湾曲性)によって仕上げている。

 これは、これで、「なかなか面白い」と思ったのだが、次の『ウィキペディア(Wikipedia)』のデータとの関連をクリアするのが、これまた、厄介である。

「宗達の最高傑作と言われ、彼の作品と言えばまずこの絵が第一に挙げられる代表作である。また、宗達の名を知らずとも風神・雷神と言えばまずこの絵がイメージされる事も多い。現在では極めて有名な絵であるが、江戸時代にはあまり知られておらず、作品についての記録や言及した文献は残されていない。京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだ きんのり? - 正保4年(1647年))が、寛永14年(1637年)からの臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念に妙光寺に寄贈するため製作を依頼したとされる。後に妙光寺住職から建仁寺住職に転任した高僧が、転任の際に建仁寺に持って行ったという。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』) 】

角倉了以別邸.jpg

「角倉了以別邸跡→高瀬川一之船入→角倉了以翁顕彰碑」周辺(「木屋町通り」)

 宗達の「風神雷神図屏風」は、「京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだきんのり)」が、「臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念」に寄贈するため製作を依頼したもの」という妙光寺伝来の、「糸屋の打它公軌(糸屋十右衛門)」とは、謎につつまれた宗達と同じように、その全体像はなかなか正体不明の人物である。
 下記のアドレスでは、「豪商・打它公軌は越前(福井県)敦賀の豪商・糸屋彦次郎の子として生まれ、家業を継がずに京都に出て、驚月庵に営み、歌を大名・歌人である木下長嘯子、俳人・歌人である松永貞徳、公卿・歌人である中院通勝に学び、木下長嘯子の「挙白集」を編集した」と、ここでも、「中院通村」の実父「中院通勝」(嵯峨本『伊勢物語』校閲者)が出てくる。

https://kyototravel.info/kenninjifuujinraijinzu

 さらに、この打它公軌の「糸屋」は、当時の俗謡に次のようにうたわれているようなのだが、この「糸屋」も、様々にうたわれており、その「糸屋」の住所などは、今一つ分からない。

「〇〇〇〇糸屋の娘/姉は十六妹は十四/諸国(諸)大名は弓矢で殺す/糸屋の娘は眼で殺す」

 この「〇〇〇〇」には、「京都三条糸屋の娘」(梁川星巌)とか「大阪本町糸屋の娘」(頼山陽)とかの、その漢詩の「起承転結」の用例で出てくるやら、その他に「三条木屋町」とか「京の五条の」とか、そして、「姉の年齢は十八だとか、妹の年齢も十五」だとか、どうにもややっこしい。
 この俗謡を、「三条木屋町糸屋の娘」とすると、上記の「角倉了以別邸跡→高瀬川一之船入→角倉了以翁顕彰碑」周辺(「木屋町通り」)が、角倉了以・素庵親子が開削した運河の「高瀬川」に添う「木屋町通り」で、ここに、打它公軌の「糸屋」があったとすると、「光悦・素庵・宗達」(「嵯峨本」や「金銀泥料紙の制作」に携わった「光悦グループ」)の「素庵」との接点が浮かび上がってくる。
 ここに、元和七年(一六二一)頃に出版された古活字版仮名草子『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)に、「あふぎ(扇)は都たわらや(俵屋)がひかるげんじ(光源氏)のゆふがほ(夕顔)のまき(巻)えぐ(絵具)をあかせ(飽かせ=贅沢に)てかいたりけり」(『竹斎・守髄憲治校訂・岩波文庫』p28)の一節を重ね合わせると、「五条は扇の俵屋」の「俵屋宗達」との接点も、これまた浮かび上がってくる。
 この『竹斎』(医師富山〈磯田〉道冶作)の「五条は扇の俵屋」関連については、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

 ここでは、この「三条木屋町」の「打它公軌」の「糸屋」(繊維問屋)の、その「絲印」(室町時代以降、当時の中国からわが国に輸入された生糸に添付されていた銅印)と、宗達の印章として使用されている「伊年」印、そして、「「対青軒」の円印などとの関連である。
 この宗達の「伊年」そして「「対青軒」の円印と、「絲印」との関連について指摘したのは、下記のアドレスでの、『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左」においてであった。それを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-14

【又、伊年に限らず、対青軒(或は劉青軒)その他の円印に就てであるが、宗達以前に、筆者の印に斯様な大きな円印を用ひた例があるかどうか、私は未ださう云ふものを見た事がない。いずれ宗達は、何かからのヒントを得て、あゝ云ふ大きな円印を画に捺す様になつたものと思はれるが、果してそれは何であつたか。…… 勿論これを簡単に知る訳には行かない。唯、私は次の様な事を想像してゐる(之は文字通りほんの想像に過ぎないのであるが)。
 即ち、絲印が本になつてゐるのではないかと云ふ事である。絲印とは、室町時代の中頃から江戸時代の初めにわたつて、織物の原料たる生絲を、明国から輸入した際に、絲荷の中に一包毎に入れて送つて来た銅印を云ふのである。その際、絲の包紙にその印を押し、又受取書にも押して、斤里を改めて受けたしるしとしたのである。その印は鋳物で、皆朱字である。そして大きさは大小色々あり、輪郭も単線、複線があつて、形も方、円、五角、八角などがあつた。而も之は文具として用ひられる様になり、秀吉や近衛三藐院らはこの絲印を用ひてゐたと云はれてゐる。即ち宗達は機屋俵屋の一族かと思はれるから、当然これに関係があるし、又、三藐院は宗達と恐らく交際があつたと想像出来るから、ここにも繋がりがあるのである。(三藐院と宗達の合作らしき一幅があるし、光悦と三藐院は明らかに交はりがあつた。)
 併し宗達のことであるから、前代の画家の小円印や、所蔵者印の大きなものからヒントを得たのかも知れず、其の点は如何とも決定し難い。】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左」p13~p15)

 宗達の「伊年」印、「対青軒」の円印、そして、「絲印」などを、参考に、掲載して置きたい。

和歌巻21.jpg

「四季草花下絵千載集和歌巻」末尾の「光悦署名(花押)」に続く「伊年」印
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-17

対青軒印.jpg

「対青軒」=典拠は模刻印(摹刻印)。典拠は「野村宗達」で立項。典拠によると「印径二寸□カ」。印文は典拠に従った。
https://dbrec.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/CsvSearch.cgi?DEF_XSL=default&SUM_KIND=CsvSummary&SUM_NUMBER=20&META_KIND=NOFRAME&IS_DB=G0038791ZSI&IS_KIND=CsvDetail&IS_SCH=CSV&IS_STYLE=default&IS_TYPE=csv&DB_ID=G0038791ZSI&GRP_ID=G0038791&IS_START=1&IS_EXTSCH=&SUM_TYPE=normal&IS_REG_S1=none&IS_TAG_S1=Identifier&IS_KEY_S1=G0038791ZSI:47531&IS_LGC_S2=AND&IS_CND_S1=ALL&IS_NUMBER=1&XPARA=&IS_DETAILTYPE=&IMAGE_XML_TYPE=&IMAGE_VIEW_DIRECTION=

絲印.jpg

<絲印の由来>
絲印とは、室町時代以降、当時の中国からわが国に輸入された生糸に添付されていた銅印のことをいい、小さな鈕(ちゅう)のついた印である。
https://ameblo.jp/mammy888/entry-11927032659.html

 ここで、最初の振り出しに戻って、【「宗達の最高傑作と言われ、彼の作品と言えばまずこの絵が第一に挙げられる代表作である。また、宗達の名を知らずとも風神・雷神と言えばまずこの絵がイメージされる事も多い。現在では極めて有名な絵であるが、江戸時代にはあまり知られておらず、作品についての記録や言及した文献は残されていない。京都の豪商で歌人でもあった糸屋の打它公軌(うだ きんのり? - 正保4年(1647年))が、寛永14年(1637年)からの臨済宗建仁寺派寺院妙光寺(糸屋菩提寺)再興の記念に妙光寺に寄贈するため製作を依頼したとされる。後に妙光寺住職から建仁寺住職に転任した高僧が、転任の際に建仁寺に持って行ったという。」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)】ということに関連しては、次のように解して置きたい。

(「宗達ファンタジー」その二)

一 宗達の最高傑作と言われる「風神雷神図」は、「家康が没(七五)した元和二年(一六一六)から後陽成院が崩御(四七)した元禄三年(一六一七)に掛けてのもので、それは、宗達の「法橋授位」の御礼の「禁裏(後水尾天皇)、仙祠御所(後陽成院)」などの御所進呈品の一つ」なのであるが、何らかの経過を経て、当時の上層町衆の一人である、当時の「三条木屋町」で「糸屋」(繊維問屋)を営む「打它公軌」(糸屋十右衛門)に下賜され、「打它公軌」(糸屋十右衛門))のものとなっている。

二 その「打它公軌」(糸屋十右衛門)の所有している「風神雷神図」は、妙光寺再興の記念に、同寺に寄贈される。この間の「寛永十四年(一六三七)~元文四年(一七三九)」までの、
下記のアドレスの「妙光寺編年表」より、主要なものを掲載して置きたい。
 これによると、「※万治3年3月11日(1660年4月20日  雲菴覚英) 後水尾院が仁和寺行幸の折,糸屋如雲の山荘である妙光寺へ山越えし,御成御見物をする。六七町あった。各々杖を携え,お供し,妙光寺の山上にて風景を御照覧された。」と、後水尾天皇は、この「妙光寺」で、御所に進呈され、それを、下賜した「風神雷神図屏風」に再会したということになる。
 また、この「風神雷神図屏風」が、建仁寺へ移管された時期は、「※※享保20年3月24日(1735年4月16日 東明覚沅) 東明覚沅へ建仁寺の公帖降下,驚月庵建物を移して居間書院とする。」の頃で、尾形光琳や乾山が、この「風神雷神図屏風」に接したのは、建仁寺ではなく、この妙光寺の方丈に於てであると思われる。

https://kyoto-bunkaisan.com/report/pdf/kiyou/02/06_mase.pdf

【寛永14年8月12日(1637年9月30日) 
打宅公軌が建仁寺霊洞院の所管の北山妙光寺屋敷並びに山薮の再興と管理をまかされる。

寛永16年10月13日(1639年11月8日 三江和尚)
妙光禅寺再建,開山法燈円明国師忌を降魔室において行う。

正保4年3月14日(1647年4月18日  三江和尚)
打宅公軌死去,驚月庵香林良亭居士と号す。

慶安元年9月13日(1648年10月29日  三江和尚)
打宅景軌が妙光寺の永代檀那となすことを常光大和尚に約定。妙光寺山のうち,西の方3分の1は,驚月庵へ永代地として除くが,それは良亭遺骨と祖父宗貞の遺骨を納めた石塔を建置く打宅一門の墓とするためである。

慶安3年8月23日(1650年9月18日  雲菴覚英)
三江和尚遷化,雲菴覚英継住

※万治3年3月11日(1660年4月20日  雲菴覚英)
後水尾院が仁和寺行幸の折,糸屋如雲の山荘である妙光寺へ山越えし,御成御見物をする。六七町あった。各々杖を携え,お供し,妙光寺の山上にて風景を御照覧された。

寛文6年(1666年  雲菴覚英)
打宅景軌により山門が再建落成される。

天和2年2月19日(1682年3月27日 乙檀西堂)
雲菴覚英遷化し,乙檀西堂が継住

元禄3年11月2日(1690年12月2日 乙檀西堂)
打宅十兵衛雲泉が驚月庵並びに山薮一式を預かるとともに,妙光寺のことも管理することを約定する。

元禄9年11月21日(1696年12月15日  東明覚沅)
乙檀西堂遷化,東明覚沅継住

享保6年8月22日(1721年10月12日 東明覚沅)
打宅十右衛門死去,實乗院観海雲泉居士と号す。

※※享保20年3月24日(1735年4月16日 東明覚沅)
東明覚沅へ建仁寺の公帖降下,驚月庵建物を移して居間書院とする。

※※元文4年10月29日(1739年11月29日 東明覚沅)
東明和尚,建仁寺へ再住開堂する。     】

(参考)  尾形乾山略年表

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/244188/1/kenzan2019.pdf

1663(寛文3) 1歳 京都の呉服商尾形宗謙の三男として誕生。幼名、権平。次兄は市丞(のちの光琳)。
1687(貞享4) 25 歳 父・宗謙没(67 歳)。家屋敷・金銀諸道具などの遺産を受け継ぐ。
1689(元禄2) 27 歳 仁和寺の門前、双ヶ岡の麓に習静堂を建てて隠棲する。
1694(元禄7) 32 歳 福王子村鳴滝泉谷にある山屋敷を二條家より拝領する。
1699(元禄 12) 37 歳 3月、仁和寺へ開窯を願い出て許可される。9月、窯を築く。
11 月、初窯。乾山焼と命名し、仁和寺門跡へ茶碗を献上する。
1700(元禄 13) 38 歳 3月、二條綱平 (1672-1732) へ乾山焼香炉を献上。その後 20 年近くにわたって、二條綱平へ乾山焼を献上する。
1712(正徳2) 50 歳 鳴滝乾山窯を廃窯する。二条丁子屋町へ移転し、「焼物商売」を継続する。
1731(享保 16) 69 歳 輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下向か。猪八(二代乾山)、聖護院門前で乾山焼を生産する(聖護院乾山窯)。
1737(元文2) 75 歳 3月、技法書『陶工必用』完成。9月、下野国佐野を訪れ、『陶磁製方』執筆。
1743(寛保3) 81 歳 6月2日、乾山没。
1744 ~ 1747(延享1~4) 二代乾山、聖護院門前で、乾山窯を継続か(「延享年製」銘の火入あり)。

(尾形光琳関連メモ)

http://www.kyoto-yakata.net/artist/2416/

1658年 万治元京都で呉服商の「雁金屋(かりがねや)」の当主、尾形宗謙の次男として生まれる。絵画、能楽、茶道などに親しむ。 30歳の時に父が死去し、財産を相続した為に40代頃まで放蕩・散財生活を送ったと考えられている。画業の始まりは画家が30代前半におこなった改名した頃と同一視されるも、本格的な活動は44歳から没する59歳までの約15年ほどであったと推測される。40歳のころ、ようやく絵師として立つことを決心します。

1701年 44歳で朝廷から優れた絵師に贈られる法橋の位を得る。もって生まれた天賊の才と公家や銀座の役人、中村内蔵助(くらのすけ)らをパトロンとして、光琳は瞬く間に絵師としての地位を確立します。順風満帆な光琳が屏風「燕子花図」を描いたのはこのころのようです。

1704年 しかし画業の成功も束の間、生来の派手好みは収まらず、やはり借金漬けの生活が続きます。そして京の経済が陰り始めたころ、光琳は江戸に出仕した中村内蔵助を追うようにして、自らも東下り、江戸に赴きます。

1709年 この時期、雪舟(せっしゅう)や雪村(せっそん)の写に没頭し、その画風を学びます。とはいえ如才のない光琳は大名家からも気に入られ、京に戻って新しい屋敷を構えるほどには成功したようです。

1711年 新町通りに新居を構え、精力的に制作を行う。「風神雷神図」「槇楓(まきかえでの図」「松島図」

1716年 逝去。また、辻惟雄が「艶隠者」と呼んだ貴族的・唯美主義的作家であり、 宮廷風に美しく立派な美学を打ち出した。
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醍醐寺などでの宗達(その十八・「風神雷神図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十八「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「風神雷神図屏風 (宗達筆)」(その一)

風神・雷神図屏風.jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」(国宝 紙本金地着色 二曲一双 各157.0×173・0cm 建仁寺蔵)→A図
【 落款・印章もないが、万人が宗達真筆と認める最高傑作。左右の両端に風神と雷神の姿を対峙させ、その間に広い金地の空間を作る。風神・雷神は仏画の一部に古くから描かれているが、ここでは一切の宗教性、説明性を排して、純粋に配色と構図の妙をもって画面を構成している。躍動、疾駆する体躯の力強い描写、たらし込みによる雲の軽やかな表現。二神の位置の確かさなど、晩年の円熟した画境を物語っている。 】(『創立百年記念特別展『琳派』目録』所収「作品解説1」)

 このスタンダードの「作品解説」の末尾の「晩年の円熟した画境を物語っている」の、この作品は、宗達の「晩年」(「寛永一九=一六四二、俵屋宗雪法橋の位にあり《隔冥記》宗達すでに没か」=『東洋美術選書宗達(村重寧著)』所収「宗達周辺年表」)の頃の作品なのであろうか?
 これらのことに関して、「俵屋宗達略年譜および各説時代区分で」は、次のとおり紹介されている。

【 「風神雷神図屏風」の制作時期
山根有三説 → 寛永一五(一六三八)~寛永一七(一六四〇) → 晩年(七一歳?以降)
水尾比呂志説→ 寛永一二(一六三五)~寛永一八(一六四一) → 晩年(六八歳?以降)
山川武説  → 元和七(一六二一) ~元和九(一六二三) → 壮年(五四~五六歳?)
源豊宗・橋本綾子説→元和五(一六一九)~元和七年(一六二一)→壮年(五二~五四歳?)
※古田亮説  → 元和二(一六一六)~元和三(一六一七)  →壮年(四九~五〇歳?)
 
  「法橋授位」の時期
山根有三説 →   寛永元(一六二四)           →五七歳?
※水尾比呂志説→  慶長一九(一六一四)~元和二年(一六一六)→四七~四九歳?
山川武説  →   元和八(一六二二)           →五五歳?
源豊宗・橋本綾子説→元和七(一六二一)           →五四歳?
古田亮説  →  元和元(一六一五)~元和四(一六一八)  →四八~五一歳?  】 
(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収俵屋宗達略年譜および各説時代区分))

 この「風神雷神図屏風」の制作時期が、宗達の晩年の「最後に到達しえた画境」(『東洋美術選書宗達(村重寧著)』)などとするのは、上記の「山根有三説」(「山根宗達学」)に由来するものなのであるが、それらの見解は、同時に、「皮肉にも落款(署名)も印もない。他の追随を許さぬこの画面をみてもらえばその必要はなしとしたのだろうか。あるいは恵まれた画歴の最後の時期において、これまでの作画の殻を破るべく、もう一度新たな忘我の境地で、名誉ある『法橋宗達』の自署をあえて捨ててかかったのであろうか」(『村重・前掲書』)となると、どうにも「贔屓の引き倒し」という感が拭えないのである。

 ここは、単純明快に、この「風神雷神図屏風」の「落款(署名)も印もない」というのは、宮廷(「御所」など)御用達(宮廷への進上品など)関連の作品と解して、より具体的に、宗達の「法橋授位」の御礼の、即ち、当時の「後水尾天皇」などへの進上品的絵画作品の一つと解したい。
 そして、その年譜(『村重・前掲書』)に、「元和二(一六一六) 俵屋の記事あり(中院通村日記三月十三日)」とあるのだが、これらのことに関連して、下記のアドレスで、「元和三年(一六一七)五月十一日の和歌会」の「中院通村日記」を紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

【 https://researchmap.jp/read0099340/published_papers/15977062

《五月十一日、今日御学問所にて和歌御当座あり。御製二首、智仁親王二、貞清親王二、三宮(聖護院御児宮)、良恕法親王二、一条兼遐、三条公広二、中御門資胤二、烏丸光広二、広橋総光一、三条実有一、通村二、白川雅朝、水無瀬氏成二、西洞院時直、滋野井季吉、白川顕成、飛鳥井雅胤、冷泉為頼、阿野公福、五辻奉仲各一。出題雅胤。申下刻了。番衆所にて小膳あり。宮々は御学問所にて、季吉、公福など陪膳。短冊を硯蓋に置き入御。読み上げなし。内々番衆所にて雅胤取り重ねしむ。入御の後、各退散(『通村日記』)。

※御製=後水尾天皇(二十二歳)=智仁親王より「古今伝授」相伝
※智仁親王=八条宮智仁親王(三十九歳)=後陽成院の弟=細川幽斎より「古今伝授」継受
※貞清親王=伏見宮貞清親王(二十二歳)
※三宮(聖護院御児宮)=聖護院門跡?=後陽成院の弟?
※良恕法親王=曼珠院門跡=後陽成院の弟
※※一条兼遐=一条昭良=後陽成院の第九皇子=明正天皇・後光明天皇の摂政
※三条公広=三条家十九代当主=権大納言
※中御門資胤=中御門家十三代当主=権大納言
※※烏丸光広(三十九歳)=権大納言=細川幽斎より「古今伝授」継受
※広橋総光=広橋家十九代当主=母は烏丸光広の娘
※三条実有=正親町三条実有=権大納言
※※通村(三十歳)=中院通村=権中・大納言から内大臣=細川幽斎より「古今伝授」継受
※白川雅朝=白川家十九代当主=神祇伯在任中は雅英王
※水無瀬氏成=水無瀬家十四代当主
※西洞院時直=西洞院家二十七代当主
※滋野井季吉=滋野井家再興=後に権大納言
※白川顕成=白川家二十代当主=神祇伯在任中は雅成王
※飛鳥井雅胤=飛鳥井家十四代当主
※冷泉為頼=上冷泉家十代当主=俊成・定家に連なる冷泉流歌道を伝承
※阿野公福=阿野家十七代当主
※五辻奉仲=滋野井季吉(滋野井家)の弟 》  

 そして、この背後には、「後陽成・後水尾天皇」の、次の系譜が繋がっている・。

(別記)

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢   ※二条綱平

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

 この「後陽成天皇」(後陽成院)の系譜というのは、単に、上記の「後水尾院」そして、「醍醐寺三宝院門跡・覚定」の醍醐寺関連だけではなく、皇子だけでも、下記のとおり、第十三皇子もおり、その皇子らの門跡寺院(天台三門跡も含む)の「仁和寺・知恩院・聖護院・妙法院・一乗院・照高院」等々と、当時の「後陽成・後水尾院宮廷文化サロン」の活動分野の裾野は広大なものである。

第一皇子:覚深入道親王(良仁親王、1588-1648) - 仁和寺
第二皇子:承快法親王(1591-1609) - 仁和寺
第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)
第四皇子:近衛信尋(1599-1649) - 近衛信尹養子
第五皇子:尊性法親王(毎敦親王、1602-1651)
第六皇子:尭然法親王(常嘉親王、1602-1661) - 妙法院、天台座主
第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮
第八皇子:良純法親王(直輔親王、1603-1669) - 知恩院
第九皇子:一条昭良(1605-1672) - 一条内基養子
第十皇子:尊覚法親王(庶愛親王、1608-1661) - 一乗院
第十一皇子:道晃法親王(1612-1679) - 聖護院
第十二皇子:道周法親王(1613-1634) - 照高院
第十三皇子:慈胤法親王(幸勝親王、1617-1699) - 天台座主     】

 これらのことに関して、ここで、宗達の「法橋授位」の時期は、「※水尾比呂志説→慶長一九(一六一四)~元和二年(一六一六)→四七~四九歳?」に近いものにして置きたい。

【 宗達への法橋授位は、かかる嵯峨本におけるすぐれた下絵や、多くの金銀泥料紙の制作といふ業績に対して、公卿や上層町衆の推挙により行われた、と私は推定する。それは一寺院の障壁画制作よりもはるかに重要な業績として宮廷に認められ得るものであり、推挙者にも最高の強力なメンバーが揃っている。絵屋俵屋の宗達は、画系上では何の格式も持たぬ一介の町絵師に過ぎなかったけれども、みづからもその一員たる上層町衆の位置から考えれば、当時の宮廷との関係は、現実的に狩野土佐その他の画人よりもいっそう親密であったとしてよい。加えるに嵯峨本というみごとな業績と強力な推挙者に恵まれていたのである。
法居叙任は、至極当然たったといえよう。 】(『琳派 水尾比呂志著』所収「俵屋宗達から法橋宗達へ」)

 この指摘のうちの「嵯峨本」については、京都嵯峨の豪商角倉家の角倉素庵(了以の嫡子)が、光悦と宗達との協力を得て出版した私刊本の総称で、「光悦本」とも「角倉本」とも呼ばれている。その代表的な『伊勢物語』の校閲者は、『中院通村日記』の通村の父通勝で、
ここにも、光悦・素庵らの上層町衆と宮廷文化人との密接な協力関係がその背景にある。
 さらに、「多くの金銀泥料紙の制作といふ業績」に関連しては、その中心をなすのは、「光悦書・宗達画」の二人のコラボレーションの、下記のものに代表される「光悦書・宗達画和歌巻」の世界ということになろう。これらの作品は、慶長十年代から元和初年にかけての制作であることが、「山根宗達学」などの先達によって考証されている。

① 「四季花卉下絵古今集和歌巻」一巻、畠山記念館蔵、重要文化財
② 「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」一巻、京都国立博物館蔵、重要文化財
③ 「鹿下絵新古今集和歌巻」一巻、MOA美術館、シアトル美術館ほか諸家分蔵
④ 「蓮下絵百人一首和歌巻」一巻、焼失を免れた断簡が東京国立博物館ほか諸家分蔵
➄ 「四季草花下絵千載集和歌巻」一巻、個人蔵

 上記の「光悦書・宗達画和歌巻」については、④の「蓮下絵百人一首和歌巻」を除いて、これまでに、下記のアドレスなどで主要な課題として取り上げてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-19

 ここで、改めて、これらの「嵯峨本」や「金銀泥料紙の制作」、そして、「光悦書・宗達画和歌巻」の世界は、「後陽成天皇(一五七一~一六一七)→第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、一五九六~一六八)・第四皇子:近衛信尋(近衛信尹養子、一五九九~一六四九)・第九皇子:一条兼遐=一条昭良、一六〇五~一六七二)→智仁親王(後陽成院の弟、一五七九~一六二九)」時代の、その中枢に位置した「後陽成天皇」(後陽成院)の、その「天皇権威復活・王朝文化回帰」への悲願ともいうべきものが、その原点にあったという思いを深くする。
 これらのことについては、下記のアドレスで触れたが、宗達の、この「風神雷神図屏風」と関連させて、再度、その周辺を探索してみたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-14

後陽成天皇画.jpg

後陽成天皇筆「鷹攫雉図」(国立歴史民俗博物館所蔵)
【『天皇の美術史3 乱世の王権と美術戦略 室町・戦国時代 (高岸輝・黒田智著)』所収「第二章 天皇と天下人の美術戦略 p175~ 後陽成院の構図(黒田智稿)」   

p175 国立歴史民俗博物館所蔵の高松宮家伝来禁裏本のなかに、後陽成院筆「鷹攫雉図(たかきじさらうず)」がある。背景はなく、左向きで後方をふり返る鷹とその下敷きになった雉が描かれている。鷹の鋭い右足爪はねじ曲げられた雉の鮮やかな朱色の顔と開いた灰色の嘴をつかみ、左足は雉の左翼のつけ根を押さえつけている。右下方に垂れ下がった丸みのある鷹の尾と交差するように、細長く鋭利な八枚の雉の尾羽が右上方にはね上がっている。箱表書により、この絵は、後陽成院から第四皇女文高に下賜され、近侍する女房らの手を経て有栖川宮家、さらに高松宮家へと伝えられた。後陽成天皇が絵をよく描いたことは、『隔冥記(かくめいき)や『画工便覧』によってうかがえる。

p177~p179 第一に、王朝文化のシンボルであった。鷹図を描いたり、所有したりすることは、鷹の愛玩や鷹狩への嗜好のみならず、権力の誇示であった。鷹狩は、かつて王朝文化のシンボルで、武家によって簒奪された鷹狩の文化と権威がふたたび天皇・公家に還流しつつあったことを示している。
第二に、天皇位にあった後陽成院が描いた鷹図は、中国皇帝の証たる「徽宗(きそう)の鷹」を想起させたにちがいない。(以下省略)
第三に、獲物を押さえ込む特異な構図を持つ。(以下省略)  
第四に、獲物として雉を描くのも珍しい。(以下省略)
 天皇の鷹狩は、天下人や武家によって奪取され、十七世紀に入ってふたたび後陽成院周辺へと還流する。それは、次代の後水尾天皇らによる王朝文化の復古運動の先鞭をなすものとして評価できるであろう。
 関ヶ原合戦以来、数度にわたり譲位の意向を伝えていた後陽成天皇が、江戸幕府とのたび重なる折衝の末にようやく退位したのは、慶長十六年(一六一一)三月のことであった。この絵が描かれたのは、退位から元和三年(一六一七)に死亡するまでの六年ほどの間であった。この間、江戸開府により武家政権の基礎が盤石となり、天皇・公家は禁中並公家諸法度によって統制下におかれた。他方、豊臣家の滅亡、大御所家康の死亡と、歴史の主人公たちが舞台からあいついで退場してゆくのを目の当たりにした後陽成院の胸中に去来りしたのは、天皇権威復活のあわい希望であったのだろうか。 】

風神・雷神図(視線の彼方).jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」国宝・二曲一双 紙本金地着色・建仁寺蔵(京都国立博物館寄託)・154.5 cm × 169.8 cm (部分拡大図)

(宗達ファンタジー その一)

慶長二十年(一六一五)五月の大坂夏の陣において江戸幕府が大坂城主の羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼしたことにより、応仁の乱(東国においてはそれ以前の享徳の乱)以来、百五十年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了し、同年七月元号は「元和」となり、ここに「元和偃武(えんぶ)」の時代が幕開けする。
 この年、近衛信尹(三藐院・没五〇)、角倉了以(没六一)、海北友松(没八三)が没し、古田織部が豊臣氏に内通した咎で切腹(没六二)している。この織部の切腹などに関連するのかどうかは謎のままだが、本阿弥光悦(五八歳)も、家康より洛北鷹が峰の地を与えられ、それまでの上京区の本阿弥辻から恰も所払いように移住することとなる。
 この翌年の元和二年(一六一六)に、徳川家康が没(七五)し、その翌年の元和三年(一六一七)に後陽成院が崩御(四七)する。この元和二年(一六一六)の「中院通村日記(三月十三日条)」に「俵屋絵の記事」が掲載された前後に、「絵屋・俵屋」の一介の町絵師から、宮廷絵師の「法橋」の授位を賜り、それは、上層公卿(「烏丸光広・中院通村」など)や上層町衆(「本阿弥光悦・角倉素庵」など)の推挙という異例のものであった。

宗達・風神雷神図一.jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風(部分図)」(右隻=風神図、左隻=雷神図)

 この宗達の最高傑作とされている、無落款(署名)・無印章の「風神雷神図」屏風は、何時頃制作されたのか?
 このことについては、家康が没(七五)した元和二年(一六一六)から後陽成院が崩御(四七)した元禄三年(一六一七)に掛けてのもので、それは、宗達の「法橋授位」の御礼の「禁裏(後水尾天皇)、仙祠御所(後陽成院)」などの御所進呈品の一つと解して置きたい。
 そして、その上で、この宗達の「風神雷神図屏風風」は何を主題したものなのかどうか?
このことについては、町絵師の「俵屋宗達」から、宮廷絵師「法橋(俵屋)宗達」へと推挙した、「町衆文化(「光悦・素庵」らの新興する「町衆文化」)と、「宮廷文化(「光広・通村」らの「宮廷文化」)との、新たなる止揚としての「元和偃武の王朝文化の復権」を目指すものであったと解したい。
 として、「法橋(俵屋)宗達」が使用することとなる「対青」そして「対青軒」の印章に照らして、右隻の「風神図」の「風神」の、この「白色」ならず有色の「緑・青色」の世界は、
「宮廷文化(「光広・通村」らの「宮廷文化」)、そして、左隻の「雷神図」の「雷神」の、この「白色」の世界こそ、当時、勃興する「町衆文化」を象徴するもと解して置きたい。
 ここで、この宗達筆の「風神雷神図屏風(部分図)」(C図)と、先の後陽成天皇筆の「鷹攫雉図」(B図)とを、じっくりと交互に鑑賞してみたい。
 とすると、この「風神雷神図屏風(部分図)」(C図)の左隻の「白色」の「雷神」図は、「鷹攫雉図」(B図)の、「白色」の胸毛を露わにした「雉ヲ攫ウ鷹」図と化し、一方の「風神雷神図屏風(部分図)」(C図)の右隻の「風神」図は、「鷹攫雉図」(B図)の、「有色」の「緑・青」の「鷹ニ襲ワレタ雉」の形相を呈してくることになる。
 後陽成天皇(後陽成院)のポジションは、常に、時の巨大な武門の覇権者(織田信長・豊臣秀吉・徳川家康)との熾烈な修羅場に身を置くことを余儀なくされた環境下にあり、好むと好まざるとに関わらず、そういう二極対立上の世界のものとして鑑賞されやすいが、この宗達の「風神雷神図屏風」の「風神」と「雷神」との見立ては、全く、これらを鑑賞する者の自由裁量に委ねられている。
 そして、これらのことと、この風神と雷神とを一双の両端上部に配置し、中央の二扇を全て金地の余白とした構図と密接不可分の関係にあり、これこそが、この「風神雷神図屏風」の、いわゆる「宗達マジック・宗達ファンタジー」の原動力があるように思われる。
 ここで、この「風神雷神図屏風」の出来上がるまでの、そのモデル(宗達が見本としたもの)の段階的な一つのイメージ化(仮想的な形象化)を提示したい。

第一ステップ → まず、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」を、宗達がモデルにしているということからスタートしたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-20

三十三間堂.jpg

「三十三間堂」=「雷神像(右)」「風神像(左)」

第二ステップ → 続いて、宗達は、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」から得た着想を、海北友北筆の「阿吽の双龍図」(建仁寺蔵)にダブらせて、「風神像」を「右」に、「雷神図」を「左」にの、「二曲一双」の屏風スタイルを着想したと解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-04

友松・龍右.png

海北友松筆「雲龍図」(襖八面)「右四幅」重要文化財 京都・建仁寺蔵 慶長四年(一五九九)

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海北友松筆「雲龍図」(襖八面)「左四幅」重要文化財 京都・建仁寺蔵 慶長四年(一五九九)

第三ステップ → 第一と第二ステップで着想を得た「風神(右)・雷神(左)」の二曲一双の屏風形式の配色は、後陽成天皇筆「鷹攫雉図」の「金地」を背景としての、「鷹」の「白」と「雉」の「緑・青」とを基調したいというインスピレーション(閃き)が、元和改元(後陽成天皇から後水尾天皇への代替わり)、そして、宗達自身の「町絵師(町衆をバックとする絵師)」から「法橋絵師(宮廷をバックとする絵師)」への脱皮を契機として、揺るぎないものとして定着してくる。

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後陽成天皇筆「鷹攫雉図」(国立歴史民俗博物館所蔵)

第四ステップ → 最終的な構図は、これまでの絵屋(扇屋)の最も得意とする、その「扇面性」(放射性と湾曲性)によって仕上げている。

風神・雷神図(構図三).jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風(部分図)」(右隻=風神図、左隻=雷神図)の構図
《「放射性」=「扇子」の「矩形」の中心点(上記の二点の中心点)からする構図 と、「湾曲性」=その「放射性」の中心点から湾曲(画面を弧状に横切る) 的な構図とによる、「扇面性」の構図を基調としている。》(『琳派(水尾比呂志著)所収「扇面構図論―宗達画構図研究への序論―」「宗達屏風画構図論」)
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醍醐寺などでの宗達(その十七・「雲龍図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十七 「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「雲龍図屏風 (宗達筆)」

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「雲龍図屏風」俵屋宗達 六曲一双 紙本墨画淡彩 各H x W: 171.5 x 374.6 cm フリーア美術館蔵
《綴プロジェクト作品(高精細複製品)「雲龍図屏風」(俵屋宗達筆) 寄贈先:東京芸術大学美術館》→ A図の一
https://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/vol-08.html

 この宗達の「雲龍図屏風」も下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-15-1

【Dragons and Clouds
Type Screen (six-panel)
Maker(s) Artist: Tawaraya Sōtatsu 俵屋宗達 (fl. ca. 1600-1643)
Historical period(s) Momoyama or Edo period, 1590-1640
Medium Ink and pink tint on paper
Dimension(s) H x W: 171.5 x 374.6 cm (67 1/2 x 147 1/2 in)

《「雲竜図屏風」俵屋宗達 六曲一双 紙本墨画淡彩 各H x W: 171.5 x 374.6 cm
六曲一双の大画面に波間から姿を現し、対峙する二頭の龍を雄渾な筆致で描く。二頭に反転したような姿態でにらみ合う。龍は周りを黒雲で囲み、塗り残しの白さで表す。左右に躍る二組の波濤の形態は、のちに光琳や抱一の「波図屏風」にそのまま受け継がれている。龍のいかめしい顔にも、どこかゆとりがあってユーモアを覚える。》(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)】

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A図の二 (「左隻」の龍図・部分拡大図)

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A図の三(「右隻」の龍図・部分拡大図)

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A図の四(「右隻」の波図・部分拡大図)

 確かに、この宗達の「波図」(A図の四) は、下記の光琳の「波図」(B図)と、抱一の「波図」(C図)とに、確りと引き継がれている。

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尾形光琳筆「波濤図屏風」二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵→B図

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酒井抱一筆「波図屏風(部分拡大図)」六曲一双 各一六九・八×三六九・〇cm 静嘉堂文庫美術館→C図

 そして、確かに、この宗達の龍は、「龍のいかめしい顔にも、どこかゆとりがあってユーモアを覚える」ということを実感する。これは、宗達その人の自画像なのかも知れない。この龍の眼を見ていると、「好奇心旺盛で、猜疑心が強く、ユーモアと優しさを秘めて、一切は語らず」の、謎の絵師・宗達その人の「眼」という思いを深くする。
そして、この「眼」は、「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の、あの何とも言えない、二頭の「牛」の表情(「眼)と、同じものという印象を深くするのである。

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「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」右隻=関屋図(部分拡大図)=D図の一

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「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」左隻=澪標図(部分拡大図)=D図の二

 この宗達の「牛」(D図の一)は、前の人物(空蝉の弟、空蝉の文を持っているか?)に近寄ろうとしている、その感情を秘めた「牛」の表情なのである。そして、次の「牛」(D図の二)は、「明石の方」が乗っている「屋形船」を見送る(再会を果たせず無念のうちに見送る)、、謂わば、「光源氏」の化身ともいうべきものなのである。
 これらのことについて、「宗達マジック・宗達ファンタジー」ということについて、下記のアドレナスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-09

 この「宗達マジック・宗達ファンタジー」というのは、決して宗達の独占的なものではなく、当時の名のある絵師なら、その大小や程度の差はあるが、何らかの「マジック」(トリック=騙し)やら「ファンタジー」(幻想・空想を呼び起こさせるもの)を、その作品の中に潜ませている。

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狩野探幽筆「八方睨みの雲龍図」(「京都・妙心寺」蔵)

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狩野探幽筆「八方睨みの雲龍図」(「京都・妙心寺」蔵)
「青矢印が太くて長いまつ毛に隠れた左目で、赤矢印は目ではなく鼻の一部にように受け止めてしまいますが、反対側に行くと、その赤矢印が大きく開いた目となり、「両目で睨まれる」となります」
http://blog.unno-kouenkai.com/?eid=1584000

 これは、狩野派の総帥、探幽の「騙し絵」である。探幽には「鳴き龍」(大徳寺「法堂」)もある。

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大徳寺・法堂 (重要文化財)寛永13年(1636年)、小田原城主稲葉正勝の遺志により、子の正則が建立した。天井に描かれている「雲龍図=蟠龍図」は狩野探幽35歳の作。→ E図
https://ja.kyoto.travel/specialopening/winter/2019/special/public01.php?special_exhibition_id=31

 この大徳寺には、等伯(等白)の天井に描かれている「雲龍図」もある。

等伯・雲龍図.jpg

大徳寺(山=三門)金毛閣〈龍の天井絵〉長谷川等白(等伯)筆=龍源院は能登の守護大名畠山氏が建立、再興し、等伯の師とされる等春が晩年を過ごした。→ F図
https://coshian.exblog.jp/17319338/ https://news.yahoo.co.jp/articles/e065c8946d9b759368deaded7a677ed046ca41f5

 探幽の「法堂」の「雲龍図」(鳴き龍)に比して、等白(等伯)の、この「金毛閣」の「雲龍図」は、それほど喧伝されていない。「永徳・等伯年譜」(『新編名宝日本の美術 永徳・等伯』所収 )の「天正十七年(一五八九、永徳・四七歳、等伯・五一歳)」の項に、「大徳寺三門の天井画・柱絵を描く。大徳寺三玄院創建。同院の襖絵(京都市円徳院他蔵)制作はこの頃か。(『大宝院鑑国師行道記』)」とある。
 この「山=三門・金毛閣」は、下記の「大徳寺境内図」の「勅使門→金毛閣→仏殿→法堂」の一直線上の中心伽藍の中にあり、「勅使門」の南側に「龍源院」、「法堂」の西側に「三玄院」、そして、「真珠庵」は「本坊・方丈」の北側に位置する。

大徳寺境内図.jpg

「大徳寺」境内図(配置図)
http://www.geisya.or.jp/~tamaruya/info/mapwide.html

 宗達(?~寛永十七=一六四〇)の時代は、等伯(天文八=一五三九~慶長十五=一六一〇)の時代から、探幽(慶長七=一六〇二~延宝二=一六七四)時代への、その橋渡しの時代ということになる。

雲龍図屏風二.jpg

A図の二 (「左隻」の龍図・部分拡大図)

 この宗達の「左隻」の龍図の視線は、「来し方」の、等伯の、F図の、「大徳寺(金毛閣」」の「雲龍図」を睨んでいる。

雲龍図屏風三.jpg

 この宗達の「右隻」の龍は、「行く末」の、探幽の、E図の「大徳寺(法堂)」の「「雲龍図=蟠龍図」を睨んでいる。

 宗達(?~寛永十七=一六四〇)時代の先鞭をつけた、等伯(天文八=一五三九~慶長十五=一六一〇)の時代に、もう一人、海北友松(天文二=一五三三~慶長二十=一六一五)の「雲龍図」(京都・建仁寺蔵)は、これは避けては通れないであろう。

友松・龍左.jpg

海北友松筆「雲龍図」(襖八面)「左四幅」重要文化財 京都・建仁寺蔵 慶長四年(一五九九)→G図の一

友松・龍右.png
海北友松筆「雲龍図」(襖八面)「右四幅」重要文化財 京都・建仁寺蔵 慶長四年(一五九九) →G図の二
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1632
【本坊方丈の玄関に最も近い位置にある「礼之間」を飾る8面の襖絵です。阿吽(あうん)の双龍が対峙するように配され、建仁寺を訪れたものを濃墨の暗雲の中から姿をあらわして出迎えます。迫力と威圧感は他の画家の追随を許しません。】

 この友松の「雲龍図」は、「阿吽(あうん)」=「阿=口を開ける・吽=口を閉じる」の「双龍図」なのである。それに比して、宗達の「双龍図」は、その口ではなく、その眼の、その「視線の先」は、一切が『語らざる』の、沈黙の「ファンタジーの世界(さまざまな幻想などを掻き立てる語らざる世界)」なのである。

風神・雷神図(視線の彼方).jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」国宝・二曲一双 紙本金地着色・建仁寺蔵(京都国立博物館寄託)・154.5 cm × 169.8 cm (部分拡大図)→H図 

宗達の最高傑作と言われている、友松筆「雲龍図」(襖八面)と同じ「建仁寺」所蔵の、「風神雷神図」(部分拡大図・H図)である。
 この宗達の、右の「風神図」の「風神」の口は「開いて」、さながら、友松の「阿の龍」(G図の二)で、その「眼」の視線も同じ方向である。
 そして、この宗達の、左の「雷神図」の「雷神」の口は「閉じて」、これもまた、友松の「吽の龍」(G図の一)さながらで、その「眼」の視線も、これまた、同じ方向である。

(これまでに、下記のアドレスで「風神雷神図」幻想(その一~二十))と題して、その周辺を探索したことがあるが、新たに「宗達ファンタジー」と題して、その続きをフォローして行きたい。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/c2306151768-1

【「風神雷神図」幻想(その一~二十)
2018-03-1  (その一)   河鍋暁斎の「風神雷神図」(一)
2018-04-24 (その二十) 光琳の「金」(風神雷神図)と抱一の「銀」(夏秋草図)、そして、其一の「金」(白椿図)と「銀」(芒野図)の世界 】

タグ:雲龍図屏風
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醍醐寺などでの宗達(その十六・「松島図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十六 「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「松島図屏風 (宗達筆)」(その三)

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俵屋宗達筆「松島図屏風」(右隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五ニ・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵 → A-1図

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俵屋宗達筆「松島図屏風」(左隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五ニ・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵 → A-2図
【 六曲一双の長大な画面を使い、右隻に海中に屹立する二つの岩、左隻には磯の浜松と波に洗われる小島を添える。左右の画面は砂浜と波によって連携する。松島は古来名所絵として描かれたが、このような大画面に展開、壮観な装飾画として成功させた宗達の手腕はみごとというべきか。千変万化の波の描写が素晴らしく、海潮音が聞こえてくるようだ。 】
(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)
(特記事項)「松島」と題されているが、名所松島の風景ではなく、依頼主である豪商谷正安が堺に祥雲寺を建てた記念に自分の道号「海岸」のイメージを絵画化させたものである、という仲町啓子氏の研究がある。(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)

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尾形光琳筆「松島図屏風」六曲一隻 一五〇・二×三六七・八cm ボストン美術館蔵
→ B図
【光琳は宗達の松島図屏風に倣った作品を何点か残している。本屏風はその一つで、宗達作品の右隻を基としている。岩山の緑青などに補彩が多いのが惜しまれるが、宗達作品と比べると、三つの岩山の安定感が増し、左斜め奥へと向かう位置関係が明瞭となり、うねりや波頭が大きくなり、波の動きがより強調されている点が特徴として挙げられる。 】
(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説」(宮崎もも稿)」)
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尾形光琳筆「松島図屏風」 紙本金地着色 二曲一隻 一四六・四×一三一・四cm 大英博物館蔵 → (C図)
【宗達の「松島図屏風」(米・フリーアギャラリー)の右隻二扇分に元に基づいた作品。光琳には同工異曲の作品を描いている。海中からそそり立つ岩には、蓬莱山にも通ずる寿福のイメージがあった。白い波濤を銀色(酸化して黒変)にし、岩や波の形も変えて、正面性の強い構図にしている。】(『もっと知りたい尾形光琳(仲町啓子著)』)

 これらの、宗達筆「松島図屏風」(A-1図・A-2図)、そして光琳筆「松島図屏風」(B図・C図)に関連しては、下記のアドレスで紹介してきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-05-09

 それから、およそ三年を経過した、下記のアドレスで、これらは、等伯の「波濤図」(京都・禅林寺蔵)と何らかの関係があるのではなかろうか? ということについて触れた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-28

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等伯筆「波涛図」(三幅・その一)  (京都・禅林寺蔵 重要文化財)→D図の一 

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等伯筆「波涛図」(三幅・その二)  (京都・禅林寺蔵 重要文化財)→D図の二

【「波涛図」六幅 長谷川等伯筆 紙本金地墨画 四幅(各)一八五・〇×一四〇・五㎝
二幅(各) 一八五・〇×八九・〇㎝ 重要文化財 京都・禅林寺蔵
 禅林寺大方丈の中之間を飾っていた襖絵(全十二面)の一部にあたるもので、現在は掛幅に改装されている。寺伝では狩野元信筆、通説では曽我派の作に擬されたこともあったが、その結晶体を想わせる鋭利な岩皺表現から、現在は長谷川派とくに等伯筆とみることが定着している。おそらく今後もその見方が揺らぐことはないだろう。
 図は、海中に屹立する岩塊と、それにぶつかつて渦を巻く波涛だけを長大な画面にほとんど墨一色をもって描き連ねたもので、波は信春時代の仏画にみるような、抑揚のない細線を駆使して丁寧にあらわされている。岩の手前と背後には金箔による雲霞が配されているが、それらは岩の存在を際立たせるとともに、ともすれば地味となりがちな水墨の画面を著しく華やいだものにしているといえよう。
 桃山時代になって大いなる盛行をみる金碧画であるが、純粋な水墨画に金雲を組み合わせた作例は本図の他に見当たらない。その点、本図は「松林図屏風」とはまた違った、等伯による斬新かつ意欲的な試みとして高く評価されるべきであろう。岩法は「四愛図襖」のそれと近似するが、筆遣いはより強く、かつ速まっており、隣華院の「山水図襖」への接近を示す。その作期としては、等伯五十代の末頃を想定しておきたい。
 なお、等伯は「波」に強い関心を抱いていたようで、唐代の詩人・杜甫が同時代の画家・王宰の描きぶりを評した「五日に一石、十日に一水」を受けて、岩よりも水を描くことの方が難しく、重要であるとの見解が『等伯画説』に披露されている。また同じ『等伯画説』には、画の名手で等春を庇護した細川成之の「波ノ画」一双屏風の写しを等伯が所持していたことも記されているが、この「波ノ画」が本図制作の参考にされた可能性は考慮される必要があろう。 】(『没後四〇〇年長谷川等伯』所収「作品解説四六・山本英男稿)」

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等伯(長谷川派)筆「波涛図屏風」(六曲一双・その一)  (出光美術館蔵)→E図の一

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等伯(長谷川派)筆「波涛図屏風」六曲一双・その二)  (出光美術館蔵)→E図の二
https://blog.goo.ne.jp/shysweeper/e/3bd58b853d741e9867d575ee16652f3b
【 「出光美術館研究紀要第十七巻《二〇一一年》」=「狩野常信筆『波涛図屏風』―探幽・長谷川派の関連をめぐって《宗像晋作稿》」
http://idemitsu-museum.or.jp/research/pdf/02.idemitsu-No17_2012.pdf  」】

 上記の「出光美術館研究紀要第十七巻《二〇一一年》」=「狩野常信筆『波涛図屏風』―探幽・長谷川派の関連をめぐって《宗像晋作稿》」を見ると、この出光美術館蔵の「波涛図屏風」(六曲一双)は、「金雲に金砂子が加えられ、また波に藍色が施され、より装飾性が高められている」とし、「法眼落款の作品であるが、等伯次世代の長谷川派の絵師による作例ではないか」としている。

 これらの、等伯筆の「波涛図」(D図の一・D図の二)、そして、等伯(長谷川派)筆の「波涛図屏風」(E図の一・E図の二)に接した時に、次のアドレスの抱一の「波図屏風」などが浮かんできたのである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-30

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酒井抱一筆「波図屏風」六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇cm
文化十二年(一八一五)頃 静嘉堂文庫美術館
【銀箔地に大きな筆で一気呵成に怒涛を描ききった力強さが抱一のイメージを一新させる大作である。光琳の「波一色の屏風」を見て「あまりに見事」だったので自分も写してみた「少々自慢心」の作であると、抱一の作品に対する肉声が伝わって貴重な手紙が付属して伝来している。宛先は姫路藩家老の本多大夫とされ、もともと草花絵の注文を受けていたらしい。光琳百回忌の目前に光琳画に出会い、本図の制作時期もその頃に位置づけうる。抱一の光琳が受容としても記念的意義のある作品である。 】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

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酒井抱一筆「波図屏風」(部分拡大図)→F図

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尾形光琳筆「波濤図屏風」二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵→G図
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】
(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

神奈川沖浪裏.jpg

北斎筆「神奈川沖浪裏」 横大判錦絵 二六・四×三八・一cm メトロポリタン美術館蔵 
天保一~五(一八三〇~三四)→H図
【房総から江戸に鮮魚を運ぶ船を押送船というが、それが荷を降ろしての帰り、神奈川沖にさしかかった時の情景と想起される。波頭の猛々しさと波の奏でる響きをこれほど見事に表現した作品を他に知らない。俗に「大波」また「浪裏」といわれている。】
(『別冊太陽 北斎 生誕二五〇年記念 決定版』所収「作品解説(浅野秀剛稿)」)

 ここに、新たに、等伯筆「波涛図」(D図の一・D図の二)と等伯(長谷川派)筆の「波涛図屏風」(E図の一・E図の二)に続けて、狩野探幽の「波涛図」(I図の一・I図の二)も付け加えたい。

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狩野探幽:1602(慶長7)-1674(延宝2)年《波濤図》:1642-44(寛永末期)年:紙本著色:六曲一双:各151.0×339.6cm: (島根美術館蔵)→I図の一

波涛図二.jpg

狩野探幽:1602(慶長7)-1674(延宝2)年《波濤図》:1642-44(寛永末期)年:紙本著色:六曲一双:各151.0×339.6cm: (島根美術館蔵)→I図の二
【 https://www.shimane-art-museum.jp/collection/
 大画面に余白を大きくとって大海原を描き、左右に岩を配した波濤図。狩野派の筆法による岩や波の描写や簡潔な構図に、探幽画の特徴が示されている。後年の作品に、この構図をもとに水鳥を配した《波濤水禽図》(静嘉堂文庫美術館蔵)があり、画様の変容が窺える。探幽の画業は、作風と落款の変遷から3期に分けられるが、この作品は34歳から59歳にかけて探幽斎と称した「斎書き時代」中頃の作と考えられる。 】

等伯筆「波涛図屏風」(D図の一・D図の二)→「金と墨との波涛図」
等伯(長谷川)筆「波涛図屏風」(E図の一・E図の二)→「金(雲)と墨と藍との波涛図」

探幽筆「波涛図屏風」(I図の一・I図の二)→「金と墨と余白との波涛図」

宗達筆「松島図屏風」(A図の一・A図の二)→「金(州浜)と緑青(岩)と金銀白(荒磯)との波涛図」

光琳筆「松島図屏風」(B図)→「金(雲)と緑青(岩)と金銀白(荒磯)との波涛図」
光琳筆「松島図屏風」(C図)→「金銀白(荒磯)と緑青(岩)との波涛図」
光琳筆「波涛図屏風」(G図)→「金箔地と墨との波涛図」

抱一筆「波図屏風」(F図)→「銀箔地と墨との波涛図」

北斎筆「神奈川沖浪裏」(H図)→「ベロ藍(プルシアンブルー)の『藍摺絵(あいずりえ)』の波涛図」 

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醍醐寺などでの宗達(その十五・「松島図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十五 「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「松島図屏風 (宗達筆)」(その二)

松島図屏風.jpg

綴プロジェクト作品(高精細複製品)「松島図屏風」(俵屋宗達筆) 寄贈先:堺・祥雲寺
(紙本金地着色 六曲一双 各一五二・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵)
https://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/vol-01.html

醍醐寺三宝院・庭.jpg

「醍醐寺 三宝院庭園」
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin

 この宗達の「松島図屏風」は、「秋は紅葉の永観堂」で知られている、京都市左京区にある浄土宗西山禅林寺派総本山「禅林寺」の、等伯の「波涛図」を意識しての作ではなかろうか。

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長谷川等伯:波濤図(制作年代不詳)重文(京・禅林寺所蔵) 紙本金地墨画 京都国立博物館寄託 各一八五・〇×一四〇・五㎝ 十二幅のうち二幅
《長谷川等伯展(2010年04月):京都国立博物館》
http://kanjinnodata.ec-net.jp/newpage768.html

 この等伯の「波涛図」(十二幅の「襖絵」)は、慶長四年(一五九九)、等伯、六十一歳前後の作とされている(『新編名宝日本の美術20永徳・等伯(鈴木広之著)』)。この頃、等伯は「自雪舟五代」を自称するように、その絶頂期の頃であろう。
 もともと、この「波涛図」は、禅林寺の「大方丈・中の間」の襖絵で、「方丈」は「一丈(約3メートル)四方の小室」(禅宗寺院における住職の居室)を意味するが、「大方丈」は、その禅宗寺院の「訪客のための接待の場」として、例えば、醍醐寺の三宝院の例ですると、「⑨表書院」のような居住空間であろう。
 この「大方丈・中の間」は、おそらく、「方丈庭園」(南側)に面した「北側」(襖四幅)・「東側(襖四幅)・西側(襖四幅)」と仮定すると、それは、丁度、宗達の「松島図屏風」(六曲一双)
を「北側」として、それらが「東側」(六曲一双)と「西側」(六曲一双)とで、庭に面して囲むような空間のイメージとなって来よう。
 そして、醍醐寺の三宝院の「⑨表書院」の「襖絵(重文)」は、等伯一門の作とされている。等伯には久蔵、宗宅、左近、宗也の四人の子がおり、そのうち久蔵は等伯に勝るほどの腕前を持っていたが、文禄二年(一五九三)、二十六歳で早世している。
等伯一門には、等伯の女婿となった等秀や伊達政宗に重用された等胤、ほか等誉、等仁、宗圜ら多数がいたが、醍醐寺三宝院表書院」の襖絵も、その子や一門の作なのであろう。

三宝院襖絵.jpg

「醍醐寺三宝院表書院」・襖絵(重文)
https://www.daigoji.or.jp/grounds/sanboin.html
【上段の間の襖絵は四季の柳を主題としています。中段の間の襖絵は山野の風景を描いており、上段・中段の間は、長谷川等伯一派の作といわれています。下段の間の襖絵は石田幽汀の作で、孔雀と蘇鉄が描かれています。】

 御所造営の障壁画制作を巡って、狩野永徳一門と長谷川等伯一門とが鋭く対立したのは、永徳が没する天正十八年(一五九〇)で、時に、等伯、五十二歳、そして、永徳は四十八歳であった。永徳没後は、永徳の長男・光信が狩野派を継承するが、その光信も慶長十三年(一六〇八)年に没し、その実弟の狩野孝信(1571 - 1618)が狩野派を率いることとなる。この孝信の三子が、「守信(探幽、1602 - 1674)、尚信(1607 - 1650)、安信(1613 - 1685)」で、その中心になったのが、狩野探幽(守信)ということになる。
 この永徳没の「天正十八年(一五九〇)」から、慶長十五年(一六一〇)の等伯没(享年七十二)までが、等伯の時代であろう。

等伯・楓図.jpg

長谷川等伯筆「楓図」(国宝 1592年頃 智積院)壁貼付四面 紙本金地著色 
各一七四・三×一三九・五㎝ 
【『ウィキペディア(Wikipedia)』 
旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)文禄2年(1593年)頃。『楓図』は日本障壁画の最高傑作と評されている。
楓図 紙本金地著色 国宝
松に秋草図 紙本金地著色 国宝
松に黄蜀葵図 紙本金地著色 国宝
松に草花図 紙本金地著色 国宝
松に梅図 紙本金地著色 重要文化財    】

等伯・知恩院壁画.jpg

旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)
左=長谷川等伯筆「楓図」(壁貼付四面)  各一七四・三×一三九・五㎝ 
右=長谷川久蔵筆「桜図」(壁貼付四面)  各一七四・三×一三九・五㎝ 

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旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)「松に黄蜀葵(とろろあおい)図」(長谷川等伯筆)
これは元々書院を飾るために描かれたため、宝物館に再現された書院にそのままの配置で展示されている。
https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/chisyakuin-temple/02-chisyakuin-tohaku.html#.YF7WtNJxfIV

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旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)『松に立葵図』「(長谷川派))
https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/chisyakuin-temple/02-chisyakuin-tohaku.html#.YF7WtNJxfIV

松に葵図.jpg

旧祥雲寺障壁画(京都・智積院)「松に立葵図」(「長谷川派」筆) 
https://www.mizuha.biz/saijiki/080909tisyakuin/index.html

【 天下人の思惑を秘めた、葵の図

https://www.kyotodeasobo.com/art/static/houmotsukan/chisyakuin-temple/02-chisyakuin-tohaku.html#.YF7WtNJxfIV

 智積院の障壁画には、秀吉が好んだという「松」が多くモチーフとされていますが、これはつまり、松は豊臣家を示すもの、と考えることが出来ます。対して、この絵に松と共に描かれている「葵」は、豊臣家とは対立する徳川家の家紋にも使われている花です。
 風に揺れる葵の花を、まるで圧迫するかのように上から松の木が枝葉を広げている―これは「豊臣家が徳川家を抑えている」、つまり「天下は豊臣のもの」という意味を暗に示している、と解釈される向きもあったのだそうです。
 結局その後秀吉が亡くなり、天下は徳川のものとなります。普通、そのような不届きな話があるものは無くしてしまってもなんらおかしくはありません。しかし一方で、この絵を見た徳川家康が、葵が勢いよく伸び松を覆いつくさんばかりに描かれており、「豊臣の天下は終わり、徳川がそれを凌駕する」という意味に解釈し、わざとそのまま残させた、という逸話も伝えられているのです。 】

松に黄蜀葵図.jpg

国宝「松に黄蜀葵及菊図」の想定復元模写
https://www.housen.or.jp/common/pdf/26_07_yasuhara.pdf

【「旧祥雲寺客殿障壁画の復元研究― 国宝「松に黄蜀葵及菊図」智積院蔵の想定復元模写を中心として ―安原 成美 (東京藝術大学大学院)」  

< 祥雲寺と智積院障壁画の変遷
本図は、智積院の前身である祥雲寺客殿の障壁画として描かれた。祥雲寺は天正 19 年(1591)愛児・鶴松(棄丸)の菩提を弔うために豊臣秀吉が創建した禅宗寺院で、その中核をなす客殿の規模は、従来の禅寺のそれをはるかに超えていたが、天和2 年(1682)7 月の護摩堂から発した火災で灰塵に帰してしまう。その際、幸いにも障壁画の主要部分は持ち出され焼失を免れる。焼失を免れた障壁画は、再建された客殿や大書院などの障壁画に転用された。その後、明治25 年(1802)の盗難や昭和 23 年(1947)の火災で、更にその一部が失われたと考えられる。

< 先行研究 >
(略)
< 作品調査及び復元配置 >
(略)

< 想定復元模写 >
 調査結果を基に想定復元模写を行った。復元された本図の右寄り3枚は、二股に別れた巨大な松が画面の天地を貫くように描かれており、廻りには、黄蜀葵、芙蓉、菊の花が咲き乱れ、芒が大きくその葉を伸ばしている。向かって左に伸びる松の奥には群青で描かれた水面が見える。水面は向かって右から左にいくほど広がっており、失われた左寄り 3 枚の下方には、この水面が更に展開しその廻りには草花が生い茂っていたと想像される。水面の手前に描かれている芒の葉のうち半分あまりは隣の画面から伸びてきているため、左寄り 3 枚目の画面には多くの芒が生えていたことがわかる。

< 祥雲寺客殿室中障壁画の構成 >
 さらに想定復元模写を制作したことで、旧祥雲寺客殿の内部構成と障壁画の配置位置について具体的な検証が可能となった。本図の配置されていた部屋の問題であるが、先行研究では 8 室形式で復元した山根案と 6 室形式で復元した小沢案があるが、両案とも本図を「松に秋草図」とともに、室中に配置することで一致している。筆者も両案に同意であるが、今一度、再確認を行う。
 室中の画題としては当時の方丈建築の多くがそうであるように松が相応しく、本図が収まる可能性は充分にあるが、松を描いた旧祥雲寺客殿障壁画は、本図以外にも「松に秋草図」「松に立葵図」「雪松図」が現存する。
 本図が室中に収まっていた根拠として注目すべきは、描かれている草花の種類である。鶴松の死去とその3回忌が旧暦8月5日に行われており新暦で8月29日にあたるこの時期に開花する草花を、主要な部屋である室中には描いていると考えるからである。本図に描かれている草花は、黄蜀葵、芙蓉、薄、菊であり、開花時期は黄蜀葵が 8 月から 9 月、芙蓉が 8 月から 10 月初め、菊が 10 月から 12 月、薄が穂をつけるのが 8 月から 10 月と、法要の時期と一致する。「松に秋草図」の草花も黄蜀葵が描かれていないこと以外は本図と共通する。
 それでは、本図と「松に秋草図」は室中にどのように配置されていたのであろうか。配置箇所の特定のために先ず注目すべきは襖の幅である。復元した祥雲寺客殿室中の平面4 をもとに割り出した襖の寸法によると、室中には幅の違う 3 種類の襖が使用されていたと推測され、そのうち本図の幅である 166.7㎝のものは室中と東西の部屋を間仕切るものであり、そこに収まっていたことは間違いない。
 それぞれが東西どちらに収まるかであるが、両者は寸法と引手の位置が全く同じであるので、図柄により判断するしかない。本図の印象的な特徴として、画面の左から右に向かって吹いている風の存在がある。本図は左から右に向かって風が吹いている。「松に秋草図」は、その逆に向かって風が吹いているので、向かい合って配置した場合には、風は一方向に吹くことになる。そこから、室中西面に本図、東面に「松に秋草図」を配置し、室中に入った人々の視線を風の表現によって仏壇の間に誘うように演出したと考える。風の方向の他に配置位置の手掛かりとなるのと考えるのが、土坡である。本図と「松に秋草図」の画面下方には、土坡が存在するが、それぞれ形の特徴が異なる。
 本図の土坡は、向かって右端が徐々に下がっていく。それに対して、「松に秋草図」の土坡は向かって右端が急激にせり上がっていく。仮に「松に秋草図」を西面に配置すると、室中北面の襖絵は土坡が不自然に高い位置にある画面構成になる。
 以上のことから本図は客殿室中の「松に秋草図」と向かい合うように西面に配されていたことが明らかである。

< 本研究を通して得られた成果 >
本研究により、失われた祥雲寺客殿の室中障壁画が視覚的に復元された。長谷川等伯が狩野永徳の巨大樹による大空間の構成に、草花の四季の変化や風などの自然現象を巧みに利用した場面の展開など、独自の表現を加え建物内部を障壁画により壮大に演出している様が示せたものと考える。ここまで詳細に、祥雲寺客殿障壁画自体の復元研究が行われたことはなく、祥雲寺客殿だけでなく桃山期の障壁画研究における大きな成果となった。 】

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醍醐寺などでの宗達(その十四・「松島図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その十四 「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「松島図屏風 (宗達筆)」(その一)

松島一.jpg

宗達筆「松島図屏風」(右隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五二・〇×三五五・七cm
フリーア美術館蔵

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宗達筆「松島図屏風」(左隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五二・〇×三五五・七cm
フリーア美術館蔵

 嘗て、下記のアドレスで「フリーア美術館逍遥」と題し、次のように紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-16-1

(再掲)

【《六曲一双の長大な画面を使い、右隻に海中に屹立する二つの岩、左隻には磯の浜松と波に洗われる小島を添える。左右の画面は砂浜と波によって連携する。松島は古来名所絵として描かれたが、このような大画面に展開、壮観な装飾画として成功させた宗達の手腕はみごとというべきか。千変万化の波の描写が素晴らしく、海潮音が聞こえてくるようだ。》 
(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)》

(特記事項)「松島」と題されているが、名所松島の風景ではなく、依頼主である豪商谷正安が堺に祥雲寺を建てた記念に自分の道号「海岸」のイメージを絵画化させたものである、という仲町啓子氏の研究がある。(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)

Waves at Matsushima 松島図屏風
Type Screens (six-panel)
Maker(s) Artist: Tawaraya Sōtatsu 俵屋宗達 (fl. ca. 1600-1643)
Historical period(s) Edo period, 17th century
Medium Ink, color, gold, and silver on paper
Dimension(s) H x W (overall [each]): 166 x 369.9 cm (65 3/8 x 145 5/8 in)

http://archive.asia.si.edu/sotatsu/about-jp.asp

Sōtatsu: Making Waves

俵屋宗達と雅の系譜

会期 2015年10月24日-2016年1月31日
開催場 アーサー M. サックラー美術館
(English version)
日本絵画とデザインに強烈なインパクトをあたえた江戸時代初期の天才絵師・俵屋宗達(1570年頃-1640年頃)。日本国外では初めてとなる大規模な宗達の展覧会が、米国首都ワシントンDCで2015年10月24日-2016年1月31日に開催されます。
世界最大の博物館群として知られるスミソニアンの一部で、アジア美術を専門とするフリーア美術館。国宝級の「松島図屏風」「雲龍図屏風」など、宗達の傑作品を所蔵しています。隣接のサックラー美術館を会場として、世界各国より70点以上の作品を集めて展示し、京都を中心に活躍した宗達の雅な世界を蘇らせます。
きらびやかな金銀泥と極色彩を用い、大胆に抽象化された絵画空間をみせる宗達作品は、日本美術史の中でも際立った存在です。しかし、宗達の生涯は生没年の記録もないほど未だ多くの謎に包まれています。京都の町衆階層の出身であり市井の紙屋の主人であった宗達が、どのような過程を経て上層貴族階級にネットワーク・交流を持ちその洗練されたセンスを取り入れ数多くの斬新なデザインを生み出すに至ったのか、まだ不明な点が多く残されています。
本展覧会では、日本を始めアメリカ・ヨーロッパの著名なコレクションより70点以上の作品を一堂に会し、屏風、扇面、色紙、和歌巻き、掛け軸などの展示を通して宗達を検証します。宗達の作風を追随した江戸時代中後期の作品も含まれ長期に渡る宗達芸術の継承が示唆されます。さらに明治時代以降の画家たちの作品も併せて展示され、時代を超える宗達スタイル伝播の理解においても画期的な企画といえます。
最大の見所である「松島図屏風」と「雲龍図屏風」は、19世紀末にフリーア美術館の創立者チャールズ・L・フリーア(1854-1919)により蒐集されました。先見あるコレクターであったフリーアは、俵屋宗達及び宗達と書画の合作を行った本阿弥光悦 (1558-1637)の名を、海外に知らしめたとされています。フリーアの遺言により所蔵品が館外貸出は禁じられました。本展覧会は門外不出となった宗達代表作品と各国に分散する宗達筆及び宗達派作品が一度に堪能できる絶好の機会です。
本展覧会はスミソニアン研究機構フリーア/サックラー美術館と国際交流基金 (Japan Foundation)の共催により開催されます。2015年秋には展覧会のフル・カラー図録出版が予定されており、執筆者は下記の通りです。
仲町啓子(実践女子大学)奥平俊六(大阪大学)古田亮(東京藝術大学美術館)
野口剛(根津美術館)大田彩(宮内庁三の丸尚三館)
ユキオ・リピット(ハーバード大学)ジェームス・ユーラック(フリーア美術館)

宗達の重要性

17世紀初頭、宗達は扇面や料紙などを手がける京中で話題の紙屋を営んでいましたが、その時期日本の社会は大きな変貌を遂げようとしていました。権力の中心が宮廷・公卿から幕府・武士階級へと移り、彼らは文化エリートの仲間入りをすべく装飾画を求めました。広がる受容層に答え、宗達は独創的な画面構成に実験的な技法を駆使し憧憬の王朝美に新しい時代の息を吹き込みました。
革新的ともいえる宗達のデザインに後世代の画業が加わり、やがて造形芸術における一つの流れとして「琳派」と呼ばれるようになりました。江戸時代後期の画家・尾形光琳(1658-1716)の名の一字に由来していますが、実は光琳よりも以前に宗達および光悦が確立した流れなのです。実際、琳派様式の要である「たらし込み」は、宗達が創案したものです。まだ水気残る地に墨や顔料を再度含ませ、にじみによる偶然の効果をねらった技法です。例えば花びらや水流などのデリケートな描写に予期せぬニュアンスをもたらします。
宗達が日本美術にもたらした影響は過小評価できません。17世紀に宗達を祖とした「琳派」は19世紀末に美術流派として定着し20世紀初頭まで引き継がれ、西洋ではある意味においては日本文化の粋そのものと認識されるようになりました。1913年に東京で初めて宗達を紹介する展覧会が開かれましたが、それは美術界に大きな波紋を投げ新世代の画家たちを深く感化しました。宗達のデザインはまたアール・デコ派、クリムトやマチスなどの西洋の巨匠らの作品にも呼応し、現代の眼にも近世的に映ります。
1615年に本阿弥光悦が徳川家康より京都洛北の鷹峰の土地を拝領し、そこに芸術村を作ったのを琳派発祥の年とすると、2015年は琳派が誕生してから四世紀ということになり、只今日本では文化人たちの間で「琳派400年記念祭」が呼びかけられています。数多くの琳派関連のイベント・シンポジウムなどが企画される中、国際的なコラボレーションにより可能となった本展覧会は、一つのハイライトとなることが期待されます。  】

 現在、フリーア美術館所蔵となっている、この「松島図屏風」(宗達筆)を、前回に紹介した、下記の「醍醐寺 三宝院庭園」(醍醐寺三宝院の「居住空間」)に展示した場合、どのようなイメージになるのか、そんな「バーチャル(架空)空間」での「松島図屏風 (宗達筆)」を鑑賞したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

醍醐寺三宝院・庭.jpg

C図「醍醐寺 三宝院庭園」
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin
【 醍醐寺 三宝院庭園の由来
醍醐寺は平安前期(874年)に創建され、平安後期(1115年)に醍醐寺の本坊的な存在として三宝院が創建される。三宝院のほぼ全ての建物が重要文化財指定である。庭園は安土桃山時代(1598年)に豊臣秀吉が基本設計を行い、小堀遠州の弟子でもある作庭家・賢庭(けんてい)らによって造園。約30年後の1624年に完成するが、秀吉は設計翌年に亡くなっている。昭和27年(1952)に特別名勝と特別史跡の指定、平成6年(1994)には「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録。
※「➄唐門」と「⑥表書院」は国宝、「①玄関 ②葵の間 ③秋草の間 ④勅使の間 ⑬純浄観 ⑭奥宸殿 ⑮本堂」は重要文化財となっている。そして、この庭園は、特別名勝と特別史跡で、全国に八つしかなく、京都では「天龍寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈恩寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院庭園」の四つだけである。 】

 上記の「⑥表書院 ②葵の間 ③秋草の間 ④勅使の間 ⑬純浄観 ⑭奥宸殿 ⑮本堂」の何処に展示するかによって、それぞれイメージが異なってくるが、「⑥表書院 ⑬純浄観
⑮本堂」に絞って、やはり、国宝の「⑥表書院」(庭に面して建っている表書院は、書院といっても縁側に勾欄をめぐらし、西南隅に泉殿が作りつけてあり、平安時代の寝殿造りの様式を取り入れたユニークな建築で、下段・中段・上段の間があります。下段の間は別名「揚舞台の間」とも呼ばれ、畳をあげると能舞台になります。中段の間、上段の間は下段の間より一段高く、能楽や狂言を高い位置から見下ろせるようになっています。)が、一番落ち着くであろう。

松島図屏風.jpg

綴プロジェクト作品(高精細複製品)「松島図屏風」(俵屋宗達筆) 寄贈先:堺・祥雲寺
(紙本金地着色 六曲一双 各一五二・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵)
https://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/vol-01.html

 この「右隻」には、「海中に屹立する二つの岩」(「荒磯の岩」=「東海の荒磯に浮かぶ蓬莱山」=「荒磯と蓬莱山を象徴する亀島・鶴島」)、そして、「左隻」には、「磯の浜松と波に洗われる小島」(「磯の浜松」=「右隻から左隻にかけての州浜と松」と「波に洗われる小島」=「祝儀の席に飾った鶴亀などの作り物を配した州浜台のような小島」)が描かれている。
 この「蓬莱山」は、中国の神仙思想にあらわれる仙人の住む霊山のことで、この「蓬莱山」は、「松に鶴,亀の島」といった古来吉慶祝儀をあらわすようになり、それが「鶴島(鶴石)と亀島(亀石)」、その両方を配置した庭園を、桃山時代から江戸時代にかけて「鶴亀の庭園」として隆盛を極めていくことになる。
 そして「州浜」も「州浜の浄土」として、「彼岸(浄土)」と「此岸(現世)」とを隔てる、「荒磯」と対局をなす海の表象としての「州浜」ということで、古来「作庭」上の重要な「玉石や五郎太石を敷き並べた護岸手法」の一つなのである。
 これらの「蓬莱山・鶴島(鶴石)・亀島(亀石)・州浜」、そして、この宗達の「松島図屏風」の「松島」(特定の名勝地を模写縮小した象徴的な庭=縮景庭)などの「作庭」上の用語が、醍醐寺座主の義円の日記(『義円准后日記』)の中に、かなり詳しく記されているようなのである。

【 醍醐寺三宝院 『義円准后日記』より。蓬莱島、松島については、慶長三年五月九日条に、「成身院庭梅門跡の泉水蓬莱島島ヘ渡之了」。慶長五年正月二十六日条に「泉水蓬莱島払除仰付了」。同年二月三日条「松島ノ末申角ノ小橋懸之」。慶長六年十二月二十七日条「彼岸 八重日 桜予続之今一本ハ蓬莱の島ニ続之」。慶長二十年九月十五日条「松島ノ松与桜ノ根痛ニ依テ島ヲ広ク作レリ」。この慶長二十年には大規模に白砂を運び入れ、石を立て直す庭普請のありさまが具体的にわかる。 】(『絵は語る9松島図屏風(太田昌子著)』p109)

芦鴨図.jpg

https://www.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NP031/NP031.html
「紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)」(重要文化財) 一基 各 一四四・五×一六九・〇㎝ (醍醐寺蔵)

【 もと醍醐寺無量寿院の床の壁に貼られてあったもので、損傷を防ぐため壁から剥がされ衝立に改装された。左右(現在は裏表)に三羽ずつの鴨が芦の間からいずれも右へ向かって今しも飛び立った瞬間をとらえて描く。広い紙面を墨一色で描き上げた簡素、素朴な画面であるが、墨色、筆致を存分に生かして味わい深い一作としている。無量寿院本坊は元和八年(一六二二)の建立、絵もその頃の制作かと思われる。  】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

 この醍醐寺蔵の宗達の水墨画「芦鴨図」(二曲衝立)については、下記のアドレスで触れているが、元和八年(一六二二)の頃の作である。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

【 「宗達周辺年表」(『宗達(村重寧著・三彩社)』所収))の「元和八年(一六二二)」の項に「醍醐寺無量寿院本坊建つ(芦鴨図この頃か)/このころ京都で俵屋の絵扇もてはやされる(竹斎)」とある。
 この時、本阿弥光悦(永禄元年=一五五八生れ)、六十五歳、俵屋宗達は生没年未詳だが、
光悦より十歳程度若いとすると(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)、五十五歳?の頃となる。
 当時、光悦は、元和元年(一六一五)に徳川家康より拝領した洛北鷹が峰の光悦町を営み、その一角の大虚庵(太虚庵とも)を主たる本拠地としている。一方の、宗達が何処に住んでいたかは、これまた全くの未詳ということで確かなことは分からない。】

関屋澪標図屏風.jpg

関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝 静嘉堂文庫美術館蔵
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html

【俵屋宗達(生没年未詳)は、慶長~寛永期(1596~1644)の京都で活躍した絵師で、尾形光琳、酒井抱一へと続く琳派の祖として知られる。宗達は京都の富裕な上層町衆や公家に支持され、当時の古典復興の気運の中で、優雅な王朝時代の美意識を見事によみがえらせていった。『源氏物語』第十四帖「澪標」と第十六帖「関屋」を題材とした本作は、宗達の作品中、国宝に指定される3点のうちの1つ。直線と曲線を見事に使いわけた大胆な画面構成、緑と白を主調とした巧みな色づかい、古絵巻の図様からの引用など、宗達画の魅力を存分に伝える傑作である。寛永8年(1631)に京都の名刹・醍醐寺に納められたと考えられ、明治29年(1896)頃、岩﨑彌之助による寄進の返礼として、同寺より岩﨑家に贈られたものである。】

 この現在、静嘉堂文庫美術館蔵の宗達の「関屋澪標図屏風」(六曲一双)は、寛永八年(一六三一)に、醍醐寺三宝院に納められたものであることなどについては、下記のアドレスで触れたところである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-02-14

【寛永八年(一六三二)時、この屏風の注文主の、醍醐寺三宝院の門跡・覚定((1607-1661))は、二十五歳の頃であった。
 その覚定の『寛永日々記』の「源氏物語屏風壱双 宗達筆 判金一枚也 今日出来、結構成事也」(九月十三日条)の、この「結構成事也」について、「第十四帖『澪標』ならば住吉、第十六帖『関屋』ならば逢坂の関という野外を舞台とした絵画化が可能となる。さらに、この二帖を一双の屏風で描いた場合、海と山で対比が作れる。また、前者は明石君、後者は空蝉に源氏が偶然出会うという共通点もある。くわえて、この二帖は不遇な時期を乗り越え、源氏が都に返り咲いた時期の話で申し分がない。源氏の年齢設定も当時の覚定の年齢に近い」と指摘している(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p54~)。】

 これらの、宗達の醍醐寺関連の作品の、元和八年(一六二二)の「芦鴨図」(二曲衝立)から、寛永八年(一六三一)の「関屋澪標図屏風」(六曲一双)までの、その十年弱の時代の、醍醐寺三宝院の門跡は、「32義演(1558-1626):醍醐寺中興。醍醐寺座主80世。関白三条晴良の子。金剛輪院を再興し、三宝院と称す。大伝法院座主。東寺長者。豊臣秀吉の帰依を受ける。後七日御修法を復興」と「33覚定(1607-1661):鷹司信房の子。醍醐寺座主81世」1607-1661):鷹司信房の子。醍醐寺座主81世」との二代にわたるということになる。
 この「松島図屏風」の右隻には、「法橋宗達」の署名と「対青」の朱文円印、左隻には「対青」印が押印してある。宗達の法橋になったのは、寛永七年(一六三〇)の「西行物語絵巻奥書」前後の頃で、寛永十六年(一六三九)には、「八月、俵屋宗雪、堺養寿寺の杉戸絵を描く(戦災で焼失)」とあり、この寛永十六年(一六三九)前後の、宗達の晩年の作品のようにも解せられる。
 いずれにしろ、宗達の、この「松島図屏風」は、堺の祥雲寺に伝存していた作品としても、醍醐寺三宝院門跡・義演(醍醐寺座主八〇世)、そして、覚定(醍醐寺座主八〇世)時代の「醍醐寺 三宝院庭園」(C図)の「蓬莱石組・鶴島・亀島・賀茂三石周辺の州浜・地水(荒磯)・須弥山石組」などから、大きな示唆を享受していることは、想像するに難くない。

三宝院庭園.jpg

「醍醐寺 三宝院庭園」(鶴島・亀島=蓬莱山=松島の縮景)
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin
【亀島の右手には鶴島を配している。松の麓には鶴の羽に見立てた鶴羽石を据えている。分かりやすいように赤色のラインで示している。そして左手に今にも折れそうな華奢な石橋がある。これが鶴の首に見立てた鶴首石(かくしゅせき)となり、全体として「躍動感」を表現している。】

松島一.jpg

宗達筆「松島図屏風」(右隻)=「右手の島=鶴島」・「左手の島=亀島」→「荒磯に浮かぶ蓬莱山」=「日本三景の景勝地・陸前の松島の縮景」

三宝院・賀茂三石.jpg

「醍醐寺 三宝院庭園」(「枯山水」=「州浜」と「賀茂の三石」(左手の石=「流れの早い様子」・中央の石=「淀んだ様子」・右手の石=「水が砕けて散る様子」)
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin

松島二.jpg

宗達筆「松島図屏風」(左隻)=「州浜の浄土」(砂州の浜松)と「州浜台(島台)の島」=「日本三景の景勝地・陸前の松島の縮景」

「醍醐寺 三宝院庭園」では、この「賀茂の三石」に続いて石張りの「州浜」が「滝石組」の方まで続いている。そして、宗達筆「松島図屏風」(右隻)の、この左手の異様な形状をした「州浜台(島台)」の島(州浜)」の、「州浜台(島台)」は下記のようなものである。

州浜台.jpg
州浜台(島台)=「州浜」の形状にならった島台(しまだい)の作りもの。蓬莱山や木石、花鳥など、その時々の景物を設けたもの。饗宴などの飾り物とする。
https://kotobank.jp/word/%E5%B7%9E%E6%B5%9C%E3%83%BB%E6%B4%B2%E6%B5%9C-300372

(参考一) 《「堺・祥雲寺」関連》

http://www.ies-group.net/shounji/yurai.html

【山号を龍谷山、俗称松の寺といい、豪商谷正安を開基、沢庵宗彭を開山とする。
 徳川時代の初め、沢庵に帰依する正安は、夭折した子供の菩提のため寺院創建を発願した。だがそのころ、新地での寺院建立は法で禁じられていた。折しも大坂夏の陣(元和元年=1615)で焼失した南宗寺の復興に尽力していた沢庵は、同じく夏の陣で焼失した海会寺を南宗寺山内に移転再建し、その跡地に新寺を建立することにした。寛永2年(1625)から同5年にかけて正安は海会寺跡地に方丈、庫裡などを造営、瑞泉寺と号して沢庵を勧請開山に迎えた。これに伴い南宗寺と法類の縁が結ばれた。その後、同9年に祥雲庵、同16年に祥雲寺と寺号を改めた。 】

(参考二) 《「谷正安・沢庵宗彭・今井宗久」そして「堺ゆかりの人々」関連》

https://www.sakai-tcb.or.jp/about-sakai/great-person/other.html

【谷正安(たにしょうあん)天正十七年~正保元年(1589~1644)
堺の商人で沢庵和尚に帰依し、寛永五年(1628)沢庵を開山にして、海会寺跡に祥雲寺を創建したのち出家し仏門に入りました。祥雲寺は戦災で焼けましたが、枯山水の庭は大阪府の指定文化財になっています。

沢庵宗彭(たくあんそうほう)天正元年~正保二年(1573~1645)
但馬出身の僧で慶長十二年(1607)南宗寺十二世、同十四年大徳寺百五十三世となりました。元名兵火後、南宗寺を復興し祥雲寺も開山しました。その後たびたび堺を訪れ教化に努めるとともに、書画・俳諧・茶道に通じていました。

武野紹鷗(たけのじょうおう)文亀二年~弘治元年(1502~1555)
大和出身の茶人・豪商で後に堺に移り住みました。上洛して三条西実隆に和歌を、宗陳・宗悟らに茶の湯を学びました。堺に帰ってからは北向道陳らと交友し、南宗寺の大林宗套に参禅して一閑居士の号を許されました。
茶道においては茶禅一味のわび茶を説き、茶道勃興期の指導者として今井宗久や千利休をはじめとする多くの門人に大きな影響を与えました。

津田宗及(つだそうぎゅう)天正十九年(1591)没
堺の茶人・豪商で堺の会合衆・天王寺屋に生まれ、父・津田宗達に茶の湯を学びました。今井宗久、千利休とともに信長に仕え、その後は秀吉の茶頭として三千石を得ました。家には多数の名器を持ち、茶会に関する逸話も多くあります。

今井宗久(いまいそうきゅう)永正十七年~文禄二年(1520~1593)
大和出身の茶人・豪商。堺に来て茶の湯を武野紹鷗に学び、女婿となりました。商才を発揮して信長に接近し摂津五ヶ庄、生野銀山の代官職などを歴任しました。千利休、津田宗及とともに信長・秀吉に仕え茶の三大宗匠といわれました

山上宗二(やまのうえそうじ)天文十三年~天正十八年(1544~1590)
堺の茶人・商人で千利休から茶の湯を学び、利休や津田宗及とともに秀吉の茶頭もつとめました。利休から学んだ茶の湯の秘伝を含む、茶の湯生活三十年の覚書を残した「山上宗二記」は、茶道研究において一、二を争う資料となっています。

高三隆達(たかさぶりゅうたつ)大永七年~慶長十六年(1527~1611)
堺顕本寺の子坊、高三坊の第一祖で、還俗して高三家に復帰しました。天性の美音で僧として学んだ声明、諷誦をはじめ各種の音曲に精通し小唄「隆達節」を創出しました。
これは室町時代の「閑吟集」の流れを汲むもので、江戸時代に登場する様々な音曲へとつながる、重要な役割を持ったものです。】

(参考三) 《 「堺・養寿寺」周辺 》

https://japan-geographic.tv/osaka/sakai-yojuji.html

【 永禄10年(1567)9月に、千利休・津田宗及とともに三宗匠の一人と言われた今井宗久の兄秀光が、当地に屋敷を建てたものを、寛永13年(1636)に、今井宗円が即明院日相上人(宗円の甥)を開山として、今井家一門の菩提を弔うため寺院に改めたものです。
 当寺の建物及び寺宝等は第二次大戦ですべて焼失しましたが、永禄10年頃に作られたものといわれる庭の石組が現存します。この庭は、室町様式を伝える桃山初期の書院式枯山水で、正面には亀島、その左には低く鶴島を設け、右の方にも集団の石組を設けた三集団の庭園であると伝えられており、当寺の庭園の様子がうかがうことができる石組が保存されています。
 境内には今井宗薫の五輪塔があり、「天外宗薫、宝永4年(1707)4月11日」と刻しています。 】

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醍醐寺などでの宗達(その十二・「光広賛の「関屋澪標図」屏風」) [宗達と光広]

その十二 「関屋澪標図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

宗達・関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)
六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝 静嘉堂文庫美術館蔵
https://www.dnp.co.jp/news/detail/1192545_1587.html

光吉・源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の右隻「御幸・浮舟図屏風」左隻「関屋図屏風」
https://global.canon/ja/ad/tsuzuri/homecoming/

 宗達の六曲一双の「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(A図)も、光吉の四曲一双の「源氏物語図屏風」(B図)とも、各隻の横の長さが(三五五・六㎝)と、B図「源氏物語図屏風」のように、両隻を右から左へと平行に並べると、七メートル強と、長大なものである。
 こういう豪華な「晴れ」(「晴」と「褻」の「晴れ」)の屏風は、どういう「所」に、どういう「時」に、どういう「人」が「集う」ときに、使用されるものなのかどうか?
 少なくとも、現在の、これらを所蔵されている「静嘉堂文庫美術館」、そして、「メトロポリタン美術館」が、これらの作品を展示するに必要な空間を有している、そういう建造物の中の一室ということになろう。
 光吉・宗達の時代、即ち、豊臣秀吉の「桃山時代」そして、それ続く、徳川家康の「徳川時代前期」ということになると、「宮廷・有力公家・門跡寺院・有力神社」、あるいは、「豊臣家・徳川家に連なる神社・仏閣」、そして、当時勃興しつつあった「有力町衆(京都町衆・堺衆・博多衆)」の、その居住空間ということになろう。
 A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」は、もともとは、醍醐寺三宝院の所蔵であった。
その三宝院の居住空間とその庭園の配置図は、次(C図)のとおりである。
そのうち、「➄唐門」と「⑥表書院」は国宝、「①玄関 ②葵の間 ③秋草の間 ④勅使の間 ⑬純浄観 ⑭奥宸殿 ⑮本堂」は重要文化財となっている。そして、この庭園は、特別名勝と特別史跡で、全国に八つしかなく、京都では「天龍寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈恩寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院庭園」の四つだけである。

醍醐寺三宝院・庭.jpg

C図「醍醐寺 三宝院庭園」
https://garden-guide.jp/spot.php?i=sanpoin
【 醍醐寺 三宝院庭園の由来
醍醐寺は平安前期(874年)に創建され、平安後期(1115年)に醍醐寺の本坊的な存在として三宝院が創建される。三宝院のほぼ全ての建物が重要文化財指定である。庭園は安土桃山時代(1598年)に豊臣秀吉が基本設計を行い、小堀遠州の弟子でもある作庭家・賢庭(けんてい)らによって造園。約30年後の1624年に完成するが、秀吉は設計翌年に亡くなっている。昭和27年(1952)に特別名勝と特別史跡の指定、平成6年(1994)には「古都京都の文化財」として世界遺産にも登録。 】

 この醍醐寺三宝院の「「⑥表書院」に、このA図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」を飾ると、このC図「三宝院庭園」の「蓬莱石組 ⑩鶴島 ⑨亀島 ⑪賀茂三石」と見事にマッ
チして来る。

宗達・関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)

 この右隻は「関屋図」は、光源氏の「逢坂の関・石山寺参詣」の場面で、「醍醐寺→上醍醐寺→岩間寺→石山寺」と、西国三十三札所巡りのルートでもある。そして、左隻は、光源氏が都へ帰還出来たお礼の「住吉大社参詣」の場面で、この第五・六扇の「鳥居と太鼓橋(反橋)」は、その住吉神社を象徴するものである。
 そして、この「太鼓橋(反橋)」は、慶長年間に淀君が奉納したものとも伝えられており、この橋のたもとまで大阪湾の入り江であったことの象徴でもある。この大阪湾に連なる一角に、土佐光吉らが根城とする、当時の自由都市「堺」の港が続いている。その大阪湾から堺に連なる「州浜」が、C図「三宝院庭園」の、「⑪賀茂三石を中心とする枯山水」と解することも出来よう。
 そのC図「三宝院庭園」の、「⑪賀茂三石を中心とする枯山水」、そして、それは、大阪湾から堺港に連なる「州浜(すはま)」(曲線を描いて州が出入りしている浜)から、「⑨亀島 ⑩鶴島 蓬莱石組」へと通ずる、「荒磯(ありそ・あらそ)」(荒波の打ち寄せる、岩石の多い海岸)の海と、蓬莱神仙思想に基づく「不老不死の仙人が住む蓬莱山・長寿の象徴である鶴島や亀島」へ至るルートを示すものであろう。
 さらに、「⑬純浄観」からは、「⑪賀茂三石を中心とする枯山水」に続く「州浜」から、阿弥陀仏信仰によって極楽浄土への往生を願う浄土思想に基づく「須弥山(しゃみさん)」(仏教の宇宙説にある想像上の霊山)」と、阿弥陀三尊を示す「⑧藤戸石」(歴代の武将に引き継がれたことに由来する「天下の名石」)、そして、その奥の「⑦豊国大明神」(醍醐寺全体の復興に尽力した太閤秀吉を祀る社)などが、一望される。
 即ち、C図「三宝院庭園」は、蓬莱神仙思想に基づいた「蓬莱式庭園」と、阿弥陀仏信仰によって極楽浄土への往生を願う浄土思想に基づいた「浄土式庭園」とを兼ね合わせ、さらに、「⑨亀島と⑩鶴島」の「蓬莱の島」は、実景の「松島」をも模しており、所謂、縮景で構成される「縮景式庭園」をも加味した、全体的として統一された三位一体の完璧且つ複合的な庭園の代表的なものなのである。
 ここに、茶室の出入り口は「にじり口」ではなく、かがまず出入りできる「貴人口」(貴人=菊の御紋の「天皇家」・葵の御紋の「徳川家」・桐の御紋の「豊臣家」の貴人)の「枕流亭」が南東に設置され、その南東の隅に「三段の滝」(各々の滝の音が、さらにこの庭園を引き立てる)、その南西の「⑬純浄観」の前と後ろに「滝石組」(「⑭奥宸殿」の舟着場・「枕流亭」の船着場)まで設置され、単なる、「観賞式庭園(鑑賞するタイプの庭園)・廻遊式庭園(庭園内を回遊するタイプの庭園)」だけではなく、「舟遊式庭園(歩かずに池に浮かべた舟から観る庭園)・露地庭園茶室まわりの庭園」も兼ねそなえているのである。
 この「⑭奥宸殿」の東北側に、茶室「松月亭」(奥宸殿の東北側、南側に竹の縁、躙り口があり、屋根は切妻柿葦の造り)がある。そして、この茶室「松月亭」の「滝石組」が「内海」(湖・池)とするならば、茶室「枕流亭」の「滝石組」は「外海」(海・荒磯・荒海)の、それをイメージすることになる。
 ことほど左様に、「醍醐寺三宝院庭園」というのは、下記のアドレスの、庭園の要素の全てを兼ね備えた、類まれなる庭園の、紛れもない、その一つということになる。

https://www.travel.co.jp/guide/howto/43/

「何を表現しているか」による分類 (浄土式庭園/蓬莱式庭園/縮景式庭園 etc.)
□ 浄土式庭園
□ 蓬莱式庭園
□ 縮景式庭園

「何で表現しているか」による分類 (枯山水庭園/池泉庭園/築山林泉庭園 etc.)
□ 枯山水庭園
□ 池泉庭園
□ 築山林泉庭園

「どのように鑑賞するか」による分類 (観賞式庭園/廻遊式庭園/舟遊式庭園/露地庭園)
□ 観賞式庭園
□ 廻遊式庭園
□ 舟遊式庭園
□ 露地庭園

 この「醍醐寺三宝院」には、A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)は、見事にマッチするのであるが、B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆)」(右隻「御幸・浮舟図屏風」左隻「関屋図屏風」)は、どうしても馴染まない。
光吉・源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆)」(右隻「御幸・浮舟図屏風」左隻「関屋図屏風」)

 これは偏に、右隻の「御幸・浮舟図屏風」の、その四扇に描かれた下記の「浮舟図」にある。

光吉・浮舟.jpg

B-1図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆)」(右隻「御幸・浮舟図屏風」の拡大図)

  この図(B-1図「御幸・浮舟図屏風」の拡大図)の「御舟」の男女二人は、あたかも恋の逃避行の感じで、真言宗醍醐派総本山の醍醐寺の一角に鎮座するのには、やや場違いという印象は拭えない。
 このB図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆)」(右隻「御幸・浮舟図屏風」左隻「関屋図屏風」)に相応しい空間として、例えば、下記のB-2図の天皇の乗る、屋形の頂に金色の鳳の形を据えた「鳳輦(ほうれん)・鸞輿(らんよ)」と同じく、「金色の鳳凰」を屋根に戴く「平等院」などは、『源氏物語』の「宇治十帖」の故郷でもあり、少なくとも、醍醐寺三宝院よりは馴染むであろう。

御幸・輿拡大.jpg

B-2図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「輿」部分拡大図)

宇治平等院.jpg

平等院「鳳凰堂」(国宝)
【京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる嵯峨源氏の左大臣源融が営んだ別荘だったものが陽成天皇、次いで宇多天皇に渡り、朱雀天皇の離宮「宇治院」となり、それが宇多天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

源氏物語図屏風・平等院.jpg

平等院ミュージアム鳳翔館に設けられた「源氏物語図屏風」(「綴プロジェクト」による「高精細複製品」)
https://global.canon/ja/tsuzuri/donation.html

 メトロポリタン美術館所蔵の、この光吉の「源氏物語図屏風」は、「綴プロジェクト」による「高精細複製品」の一つとなり、今に平等院に寄贈され、上記のとおり一般公開されているが、元々は部屋を取り囲む「襖絵」の一部であったと、上記のアドレスでは紹介されている。
 こういう金地著色の豪奢なものを襖の一部としていたのは、「後陽成天皇・後水尾天皇」周辺の居住空間として、後陽成天皇の弟の「八条宮家初代の智仁親王」(1579年 - 1629年)が、その礎を築いた「桂離宮」なども、この光吉の「源氏物語図屏風」が、その襖絵としてその一角を飾っていたということも、決して絵空事のことでもなかろう。
 この「桂離宮」は、『源氏物語』第十八帖「松風」に、「明石の君」(明石の御方・明石・御方・女君・女・君)と「明石の姫君」(若君=光源氏と明石の君の娘)が上洛し、住まいとしている「大堰(おおい)山荘」(「桂川」の上流の「嵐山」近くの山荘)から「はひわたるほど」(這ってでも行ける近距離)の所に「桂の院」(「桂の院といふ所、 にはかに造らせたまふ」=光源氏の「桂川」の別荘)との名称で出て来る。
 この『源氏物語』第十八帖「松風」の原文に照らしながら、下記の「桂離宮」の平面図などを見て行くと、この「桂離宮」が多くの点で、『源氏物語』の、殊に、この第十八帖「松風」などを参考としていることが、随所に見受けられる。
 もとより、この「桂離宮」の造営着手は、元和元年(一六一五)の頃とされ、さらに、その第一期造成完成は寛永元年(一六二四)の頃で(『新編名宝日本の美術22桂離宮』)、土佐光吉(没年=慶長十八年=一六一三)の時代は、八条宮の本邸(京都御苑内、御殿は二条城に移築)での、正親町天皇の孫にして、誠仁親王の第六皇子(後陽成天皇は同母兄)智仁親王の時代ということになる。
 そして、この八条宮智仁親王は、慶長五年(一六〇〇)に細川幽斎から「古今伝授」を受け、さらに、同十五年(一六一〇)には、「源氏物語相伝」を受けており、「書・香・茶」など各道に優れ、当代切っての代表的な文化人なのである。

源氏物語図屏風・桂離宮.jpg

「桂離宮」配置図 1.表門、2.御幸門、3.御幸道、4.外腰掛、5.蘇鉄山、6.延段、7.洲浜、8.天橋立、9.四ツ腰掛(卍亭)、10.石橋、11.流れ手水、12.松琴亭、13.賞花亭、14.園林堂、15.笑意軒、16.月波楼、17.中門、18.桂垣、19.穂垣、A.古書院、B.中書院、C.楽器の間、D.新御殿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E9%9B%A2%E5%AE%AE#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Katsura-Plan.jpg

 この「A.古書院」の二の間の東側、広縁のさらに先に月見台、その北側の茶室「16.月波楼」は、観月の名所として知られている「桂の地」に相応しい観月のための仕掛けが施され、月影を水面に映すために、中央に池面を大きくとっている。

【 『源氏物語』第十八帖「松風」第三章「明石の物語・桂院での饗宴」第三段「饗宴の最中に勅使来訪」

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined18.3.html#paragraph3.3

3.3.6  月のすむ川のをちなる里なれば/ 桂の影はのどけかるらむ (帝=冷泉帝)
(月が澄んで見える桂川の向こうの里なので、月の光をゆっくりと眺められることであろう)

3.3.12 久方の光に近き名のみして/ 朝夕霧も晴れぬ山里(大臣=光源氏)
(桂の里といえば月に近いように思われますが、それは名ばかりで朝夕霧も晴れない山里です)

3.3.14 めぐり来て手に取るばかりさやけきや/ 淡路の島のあはと見し月(大臣=光源氏)
(都に帰って来て手に取るばかり近くに見える月は、あの淡路島を臨んで遥か遠くに眺めた月と同じ月なのだろうか)

3.3.16  浮雲にしばしまがひし月影の/ すみはつる夜ぞのどけかるべき(頭中将)
(浮雲に少しの間隠れていた月の光も、今は澄みきっているようにいつまでものどかでありましょう)

3.3.18 雲の上のすみかを捨てて夜半の月/ いづれの谷にかげ隠しけむ(左大弁→右大弁)
(まだまだご健在であるはずの故院はどこの谷間に、お姿をお隠しあそばしてしまわれたのだろう)   

※「16.月波楼」=夏・(秋)向きの茶室、後水尾天皇筆か霊元天皇筆の「歌月」の額。
※「12.松琴亭」=冬・(春)向きの茶室、後陽成天皇筆の「松琴」の額。
※「13.賞花亭」=茶室、曼殊院良尚法親王(智仁親王の子)筆「賞花亭」の額。
※「15.笑意軒」=茶室・曼殊院良恕法親王(智仁親王の兄)筆「「笑意軒」の額。
※「14.園林堂」=持仏堂、楊柳観音画像と細川幽斎(智仁親王の和歌の師)の画像。
((「茶室」には、それぞれ「舟着き場」がある。)
※「9.四ツ腰掛(卍亭)」=「12.松琴亭」の「待合」。
※「4.外腰掛」=「12.松琴亭」の「待合」。
※「7.洲浜」=青黒い賀茂川石を並べて海岸に見立てたもの。
※「8.天橋立」=小島二つを石橋で結び、松を植えで丹後の天橋立に見立てたもの。
※「5.蘇鉄山」=薩摩島津家の寄進という蘇鉄、外腰掛の向いの小山。
(桂離宮の池は大小五つの島があり、入江や浜が複雑に入り組んでいる。中でも松琴亭がある池の北東部は洲浜、滝、石組、石燈籠、石橋などを用いて景色が演出されており、松琴亭に属する茶庭(露地)として整備されている。)
※「1.表門」=庭園の北端に開く行幸用の正門で、御成門ともいう。通用門は南西側にある。
※「2.御幸門」=門の手前脇にある方形の切石は「御輿石」と称し、天皇の輿を下す場所。
※「3.御幸道」=道の石敷は「霰こぼし」と称し、青黒い賀茂川石の小石を長さ四四メートルにわたって敷き並べ、粘土で固めたものである。突き当りの土橋を渡って古書院に至る。
※「17.中門」=古書院の御輿寄(玄関)前の壺庭への入口となる、切妻造茅葺の門である。
※※「A.古書院」=古書院の間取りは、大小八室からなる。南東隅に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」「縁座敷」と続く。「縁座敷」の西は前述の「御輿寄」で、その南に「鑓の間」「囲炉裏の間」があり、「鑓の間」の西は「膳組の間」、「囲炉裏の間」の西は「御役席」である。
※※「B.中書院」=間取りは、田の字形で南西に主室の「一の間」があり、その東(建物の南東側)に「二の間」、その北(建物の北東側)に「三の間」と続く。建物の北西側には「納戸」がある。「一の間」の「山水図」が狩野探幽、「二の間」の「竹林七賢図」が狩野尚信、「三の間」の「雪中禽鳥図」が狩野安信である
※※「C.楽器の間」=中書院と新御殿の取り合い部に位置する小建物で、伝承では前述の床に琵琶、琴などの楽器を置いたともいわれている。
※※「D.新御殿」=内部は九室に分かれる。南東に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」、その北(建物の北東側)に「水屋の間」と続く。建物の西側は、北列が「長六畳」と「御納戸」、中列が「御寝の間」と「御衣紋の間」、南列が「御化粧の間」と「御手水の間」である。一の間・二の間の東から南にかけて「折曲り入側縁」をめぐらす。建物南西の突出部に「御厠」「御湯殿」「御上り場」がある。(『ウィキペディア(Wikipedia)』『新編名宝日本の美術22桂離宮』など)

亀の尾の松.jpg

※※※亀の尾の住吉の松
https://earthtime-club.jp/column/history/071-2/

※※※「亀の尾の住吉の松」=月波楼横の池泉に突き出た岬(亀の尾)に一本の松が植えられている。この松は『古今和歌集』仮名序に「高砂・住江(住吉のこと)の松も相生のやうにおぼえ」とある住吉の松で、対となる高砂の松は池をはさんで対岸に植えられている。常緑の松には、古来神様が天から舞い降りるという「依代(よりしろ)信仰」があり、その信仰が庭と結びつき、日本庭園では松が貴重な存在となっている。岬(亀の尾)はちょうど池泉全体を見晴らす位置にあり、敷地のほぼ中央にある。この位置こそ、神様に降りていただくには最もふさわしい場所なのであろう。

『源氏物語』第十八帖「松風」第二章「第二章 明石の物語 上洛後、源氏との再会」第五段 嵯峨御堂に出向き大堰山荘に宿泊

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined18.2.html#paragraph2.5

2.5.3 契りしに変はらぬ琴の調べにて/ 絶えぬ心のほどは知りきや(光源氏)
(約束したとおり、琴の調べのように変わらない。わたしの心をお分かりいただけましたか)

2.5.5  変はらじと契りしことを頼みにて/ 松の響きに音を添へしかな(明石の君)
(変わらないと約束なさったことを頼みとして、松風の音に泣く声を添えていました)  】

光吉・松風.jpg

源氏物語絵色紙帖 松風 画土佐光吉 縦 25.7 cm 横 22.7 cm 重要文化財 京都国立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/587089/2

詞曼殊院良恕・松風.jpg

源氏物語絵色紙帖 松風 詞曼殊院良恕 縦 25.7 cm 横 22.7 cm 重要文化財 京都国立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/587089/2

【『源氏物語』第十八帖「松風」第三章「明石の物語・桂院での饗宴」第二段「桂院に到着、饗宴始まる」 

3.2.7 (野に泊りぬる君達、小鳥しるしばかりひき付けさせたる荻の枝など、苞(つと)にして参れり。)大御酒(おほみき)あまたたび順流れて、川のわたり危ふげなれば、酔ひに紛れておはしまし暮らしつ。
(訳:野原に夜明かしした公達(殿上役人)は、小鳥を体裁ばかり(しるしだけ)に付けた荻の枝など、土産にして参上した。お杯が何度も廻って、川の近くなので危なっかしいので、酔いに紛れて一日お過ごしになった。)

(詞曼殊院良恕: 大御酒あまたたび/順流れて川のわたり/危ふげなれば酔ひに/紛れておはしまし/暮らしつ )   】


追記一 土佐光吉・長次郎筆「源氏物語画帖」(京都国立博物館蔵)周辺
(出典:『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」『京博本『源氏物語画帖』覚書(今西祐一郎稿)』 )・『ウィキペディア(Wikipedia)』)

1 桐壺(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏誕生-12歳
2 帚木(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏
3 空蝉(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏 
4 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏17歳秋-冬
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
5 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) 源氏18歳
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
6 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六)源氏18歳春-19歳春
   (長次郎筆)=(詞)西蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書) 
7 紅葉賀(光吉筆)=(詞)大覚寺空性 (一五七三~一六五〇)源氏18歳秋-19歳秋
8 花宴((光吉筆)=(詞)大覚寺空性(一五七三~一六五〇)源氏20歳春
9 葵(光吉筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) 源氏22歳-23歳春
10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)源氏23歳秋-25歳夏
   (長次郎筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) (長次郎墨書)
11 花散里(光吉筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) 源氏25歳夏 
(長次郎筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) (長次郎墨書)
12 須磨(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏26歳春-27歳春
13 明石(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏27歳春-28歳秋
14 澪標(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏28歳冬-29歳
15 蓬生(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏28歳-29歳
(長次郎筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) (長次郎墨書)
16 関屋(光吉筆)=(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏29歳秋
17 絵合(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳春
18 松風(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳秋
19 薄雲(光吉筆)=(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏31歳冬-32歳秋
20 朝顔(槿)(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏32歳秋-冬
21 少女(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏33歳-35歳
22 玉鬘(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏35歳
23 初音(光吉筆)=(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳正月
24 胡蝶(光吉筆) =(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳春-夏
25 蛍(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
26 常夏(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
27 篝火(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三)  源氏36歳秋
28 野分(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 源氏36歳秋 
29 行幸(光吉筆)=(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏36歳冬-37歳春 
30 藤袴(蘭)(光吉筆) =(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏37歳秋 
31 真木柱(光吉筆)=(詞)日野資勝(一五七七~一六三九) 源氏37歳冬-38歳冬 
32 梅枝(光吉筆) =(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)  源氏39歳春
33 藤裏葉(光吉筆)=(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)  源氏39歳春-冬
34 若菜(上・下) (光吉筆) =(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二) 源氏39歳冬-41歳春 
             =(詞)中村通村(一五八七~一六五三) 源氏41歳春-47歳冬 
35 柏木(長次郎筆) =(詞)中村通村(一五八七~一六五三)  源氏48歳正月-秋
36 横笛(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏49歳
37 鈴虫(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏50歳夏-秋
38 夕霧(長次郎筆)=(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 源氏50歳秋-冬
39 御法(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六三四) 源氏51歳
40 幻(長次郎筆)=(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)  源氏52歳の一年間
41 雲隠  (本文なし。光源氏の死を暗示)
42 匂宮(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)  薫14歳-20歳
43 紅梅(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 薫24歳春
44 竹河(長次郎筆)=(詞)四辻季継(一五八一~一六三九)  薫14,5歳-23歳
45 橋姫(長次郎筆) =(詞)四辻季継(一五八一~一六三九) 薫20歳-22歳(以下宇治十帖)
46 椎本(長次郎筆)=(詞)久我敦通(一五六五~?)    薫23歳春-24歳夏
47 総角(長次郎筆) =(詞)久我通前(一五九一~一六三四) 薫24歳秋-冬
48 早蕨(長次郎筆) =(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七) 薫25歳春
49 宿木    (欠)                薫25歳春-26歳夏
50 東屋    (欠)                薫26歳秋
51 浮舟     (欠)                薫27歳春
52 蜻蛉   (欠)                薫27歳
53 手習    (欠)                薫27歳-28歳夏
54 夢浮橋   (欠)                薫28歳

(メモ)

一 形状は「折本型式」(現在は四帖、本来は二帖、「絵と詞書」で一対。縦 25.7 cm×横 22.7 cmの色紙が台紙に貼付されている)で、「絵五十四図、詞書五十四枚」から成っているが、内容は、上記のとおりで、『源氏物語』五十四帖の全部を載せるのではなく、「41雲隠・49 宿木・50東屋・51浮舟・52蜻蛉・53手習・54夢浮橋」は絵も詞書もない。そして、その代わりに、「4夕顔・5若紫・6末摘花・10賢木・11花散里・15蓬生」が、「48早蕨」の後に続いている。

二 絵の裏面に「印章」と「墨書」とが、「久翌」印(光吉の「印章」)のみ、「長次郎」墨書のみ、全くの「無記入」との三種類に分けられる。

① 「久翌」印(光吉の「印章」)のみ→「光吉筆」
 「1 桐壺(光吉筆)」から「34若菜(上)・(下)(光吉筆)」までの三十五図は、「光吉筆」の直筆である。
② 「無記入」のもの→「長次郎筆」
 「35柏木(長次郎筆)」から「48早蕨(長次郎筆)」までの十三図は、「光吉」門弟「長次郎筆」と解せられる。(「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」)

③ 「長次郎」墨書のみ→「長次郎筆」
 「48早蕨」の後に続く「4夕顔・5若紫・6末摘花・10賢木・11花散里・15蓬生」の六図については「長次郎」の墨書があり、「長次郎筆」である。

三 詞書の裏面にもその筆者名を示す注記がある。その注記にある官位名は、その多くが元和三年(一六一七)時点のものが多いのだが、元和五年(一六一九)時点のものもあり、その注記はて一筆でなされており、元和三年時点で作られていた筆者目録を、元和五年以降に全て
同時に書かれたものとされている。(「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)

① 筆者のなかで最も早く死亡しているのは、近衛信尹(一五六五~一六一四)で、その死亡する慶長十九年(一六一四)以前に、その大半は完成していたと解せられている。因みに、土佐光吉は、その一年前の、慶長十八年(一六一三)五月五日に、その七十五年の生涯を閉じている。

② 筆者のなかで最も若い者は、烏丸光広(一五七九~一六三八)の嫡子・烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)で、慶長十九年(一六一四)当時、十五歳、それに続く、近衛信尋(一五九九~一六四九)は、十六歳ということになる。なお、烏丸光賢の裏書注記は、「烏丸右中弁藤原光賢」で、その職にあったのは、元和元年(一六一五)十二月から元和五年(一六一九)の間ということになる。また、近衛信尋の裏書注記の「近衛右大臣左大将信尋」の職にあったのは、慶長一九年(一六一四)から元和六年(一六二〇)に掛けてで、両者の詞書は、後水尾天皇が即位した元和元年(一六一五)から元和五年(一六一九)に掛けての頃と推定される。


③ この近衛信尋(一五九九~一六四九)の実父は「後陽成天皇(一五七一~一六一七)」で、その養父が「近衛信尹(一五六五~一六一四)」、そして「後水尾天皇」(一五九六)~一六八〇)の実弟ということになる。この「近衛信尋」と「近衛信尹息女太郎君(?~?)」の二人だけが、上記の詞書のなかに「署名」がしてあり、本画帖の制作依頼者は「近衛信尹・近衛信尋・近衛信尹息女太郎(君)」周辺に求め得る可能性が指摘されている。(「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)

光吉・蓬生.jpg

A-1図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 画土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509784/2

信尋・蓬生.jpg

A-2図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞近衛信尋
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/509784/2

長次郎・蓬生.jpg

A-3図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 画長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575983/1

信尹・蓬生.jpg

A-4図 源氏物語絵色紙帖 蓬生 詞近衛信尹
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/575983/1

(参考一)
A-1図は、「画土佐光吉」で、A-3図は、「画長次郎」である。同じ「蓬生」でも、描かれている場面が異なるので、「土佐光吉」と「長次郎」との画風の相違点は歴然としないが、人物の描写などを見ても、「長次郎」よりも「光吉」の方が「緊迫感」などの鋭さが伝わって来る。また、背景の描写でも、「松」の「緑」と、建物内の「敷物」の「緑」など、「長次郎」の画は、その細部の点で工夫の跡がうかがえないが、「光吉」の画では、「松」と「藤」との「草花」の「緑」などが、実に巧みに違った味わいを見せている。

(参考二)
 A-2図は、「詞近衛信尋」で、「近衛信尋」の書である。「尋書く」と署名があり、「詞書」は、「蓬生」の「第三章 末摘花の物語久しぶりの再会の物語 第三段 源氏、邸内に入る」の「露すこし払はせて/なむ入らせたまふべきと/聞こゆれば/尋ねても我こそ訪はめ/道もなく深き蓬の/もとの心を」という一節である。この信尋の書は、養父の近衛信尹が亡くなった慶長十九年(一六一四)の十六歳から、元和六年(一六二〇)の「近衛右大臣左大将」にあった、二十歳の成人を迎えた頃の作とすると、能書家として夙に知られている信尋の、その早熟ぶりが如何ともなく伝わって来る。
 A-4図は、「近衛信尋」の養父の、慶長十九年(一六一四)に没した、「近衛前関白左大臣」の「近衛信尹」の書である。この書は、「蓬生」の「第三章 末摘花の物語久しぶりの再会の物語 第三段 源氏、邸内に入る」の、「年を経て待つしるし/なきわが宿を花のたよりに/過ぎぬばかりかと忍びやかに/うちみじろきたまへる/けはひも袖の香も昔より/はねびまさりたまへるにやと/思され」の一節である。
この信尹は、「書・和歌・連歌・絵画・音曲諸芸に通じ、特に書道は青蓮院流を学び、更にこれを発展させて一派を形成し、近衛流、または三藐院流と称される。薩摩に配流されてから、書流が変化した。本阿弥光悦、松花堂昭乗と共に『寛永の三筆』と後世、能書を称えられている」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)、その人である。その人の、亡くなる、最晩年の、慶長十九年(一六一四)当時の、その享年五十の頃の絶筆に近いものであろう。
 慶長十八年(一六一三)に、土佐光吉、そして、その一年後に近衛信尹が亡くなった後、遺された「近衛信尋・近衛信尹息女太郎(君)」の二人をサポートして、この「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」を、今の形にまとめさせた中心人物は、後陽成天皇の弟(後水尾天皇)で、「後水尾天皇」や「信尋」の後見人のような立場にあった「八条宮智仁(一五七九~一六二九)」なども、その一人に数えられるであろう。
 その推計の根拠は、「花散里」(土佐光吉筆)の詞書は「近衛信尹息女太郎(君)」で、同じ画題の「花散里」(長次郎筆)の詞書は「八条宮智仁」その人で、この「八条宮智仁」は、「葵」(土佐光吉画)と「賢木」(土佐光吉画)との詞書も草していることなどを挙げて置きたい。

光吉・花散里.jpg

B-1図 源氏物語絵色紙帖 花散里 画土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511324/2

太郎君・花散里.jpg

B-2図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞近衛信尹息女太郎(君)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/511324/2

(参考三)
 B-1図は、土佐光吉の「花散里」である。そして、B-2図は、それに対応する「詞近衛信尹息女太郎(君)」で、「信尹息女」の「太郎(「君」とも「姫」ともいわれている) の書である。その書(詞書)は、次の場面のものである。
「琴をあづまに調べて掻き/合はせにぎははしく弾きなすなり/御耳とまりて門近なる/所なればすこしさし出でて/見入れたまへば」(「花散里」第二段 「中川の女と和歌を贈答」)。

長次郎・花散里.jpg

B-3図 源氏物語絵色紙帖 花散里 画長次郎
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580483/1

八条宮・花散里.jpg

B-4図 源氏物語絵色紙帖 花散里 詞八条宮智仁
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/580483/1

(参考四)
 B-3図は、長次郎の「花散里」で、光吉の「花散里」のB-1図と同じ場面を描いたものである。このB-3図(長次郎画)とB-1図(光吉画)とを見比べていくと、B-1図(光吉画)の老成な味わい深い世界に比して、のB-3図(長次郎画)は、若書きの清澄な世界の趣が感じとられる。同様に、B-2図(詞近衛信尹息女太郎(君))の書の世界は、B-3図(長次郎画)と同じような若書きの荒削りの筆勢というのが伝わって来るのに対して、B-4図(詞八条宮智仁)の書からは、B-2図(詞近衛信尹息女太郎(君))の書の世界と真逆の老練な響きな世界という印象すら伝達されて来る。
 いずれにしろ、「A-1図(土佐光吉画・蓬生)・A-4図(近衛信尹書・蓬生)」と「B-1図(土佐光吉画・花散里)・B-4図(八条宮智仁書・花散里)」の「老成・老練」の世界に比して、「A-2図(近衛信尋書・蓬生)とA-3図(長次郎画・蓬生)」と「B-2図(近衛信尹息女太郎(君)書・花散里)とB-3図(長次郎画・花散里)」との「若書き・清澄」の世界とは好対照を成している。 
 なお、このB-4図(詞八条宮智仁)の詞書は、次の場面のものである。
「をちかへりえぞ忍ばれぬほととぎす/ ほの語らひし宿の垣根に/
寝殿とおぼしき/屋の西の/妻に/人びとゐたり/先々も/聞きし声/なれば/声づくりけしきとりて/御消息/聞こゆ/若やかなる/けしきどもして/おぼめくなる/べし」(「花散里」第二段 「中川の女と和歌を贈答」)

(参考五) 「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)

正親町天皇→陽光院 →     ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
    ↓※青蓮院尊純法親王 ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
               ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良
                          ↓良純法親王 他

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図は、上記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

※後陽成天皇(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(関屋・絵合・松風)
※八条宮智仁親王(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純法親王(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋(須磨・蓬生)
※近衛信尹(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)

 先に、「桂離宮」に関連して、【後陽成天皇の弟の「八条宮家初代の智仁親王」(1579年 - 1629年)が、その礎を築いた「桂離宮」なども、この光吉の「源氏物語図屏風」が、その襖絵としてその一角を飾っていたということも、決して絵空事のことでもなかろう】ということを記したが、その「本邸」は、京都御苑内(同志社女子大学今出川キャンパスと京都御所との間)にあって、慶長年間に屋敷替えなどがあり、度々本邸の改築などが施されており、その「本邸・桂離宮」を含めてのものとした方が、より相応しいのかも知れない。
と同時に、「宮廷絵所預」の「土佐派」(土佐光吉)と、上記の「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図の※印の「詞書」筆者などとの関連は、やはり、濃密な関係にあったことも特記をして置く必要があろう。殊に、「※近衛信尋(養父・※近衛信尹)」と「土佐光吉」との関係は、更なるフォローが必須となって来るであろう。

(参考六) 「長次郎」と「土佐光則」周辺

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「土佐光吉」が描いた三十五図(『久翌』の印章有り)の他に、「長次郎」が描いたとされる「六図」(「長次郎」の墨書名がある)と十三図(無記名・無印で「長次郎の墨書名がある六図」と同一画人とされる「長次郎」)の、その「長次郎」とは何者なのか? 
 光吉の側近中の側近とすれば、光吉の子とも弟子といわれている「土佐光則」(一五八三~一六三八)とすると、光吉が亡くなった慶長十八年(一六一三)の時、数え齢三十一歳で、年恰好からすると、光則が「長次郎」とも思われるが、その確証はない。

【土佐光則(とさみつのり、天正11年(1583年) - 寛永15年1月16日(1638年3月1日))は安土桃山時代 - 江戸時代初期、大和絵の土佐派の絵師。源左衛門尉、あるいは右近と称した。土佐光吉の子供、あるいは弟子。住吉如慶は弟とも、門人とも言われる。土佐光起の父。
光吉の時代から堺に移り活躍する一方、正月に仙洞御所へしばしば扇絵を献上したが、官位を得るまでには至らなかったようだ。寛永6年(1629年)から11年(1634年)には、狩野山楽、山雪、探幽、安信といった狩野派を代表する絵師たちに混じって「当麻寺縁起絵巻」(個人蔵)の制作に参加している。晩年の52歳頃、息子の土佐光起を伴って京都に戻った。
極めて発色の良い絵の具を用いた金地濃彩の小作品が多く、土佐派の伝統を守り、描写の繊細さ、色彩の繊細さにおいて巧みであった。こうした細密描写には、当時堺を通じて南蛮貿易でもたらされたレンズを使用していたとも言われる。】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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醍醐寺などでの宗達(その十一・「光広賛の「関屋澪標図」屏風」) [宗達と光広]

その十一 「関屋澪標図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)
六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝 静嘉堂文庫美術館蔵
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html

 この「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(六曲一双)は、右隻は「関屋図屏風」、左隻は「澪標図屏風」とするのが通例なのであるが、下記の土佐光吉の「源氏物語図屏風」(B-1図「御幸・浮舟図屏風」・B-2図「)からすると、右隻「澪標図屏風」、左隻「関屋図屏風」と入れ替えた方が、より妥当のようにも思われる。

土佐光吉・源氏物語図屏風右.jpg

B-1図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の右隻「御幸・浮舟図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

源氏物語図屏風.jpg

B-2図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の左隻「関屋図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

 この両者を比較すると、宗達のA-2図は「澪標図屏風」で、『源氏物語』第十四帖「澪標」が原典なのに対して、光吉のB-1図は「御幸・浮舟図屏風」で、『源氏物語』第二十九帖「御幸」と第五十一帖「浮舟」を原典とするもので、似ても非なるものなのである。
 また、宗達のA-2図「関屋図屏風」と、光吉のB-2図「関屋図屏風」とを比較しても、同じ『源氏物語』第十六帖「関屋」を原典としていても、一見すると、これまた、似ても非なるものとの印象を受ける。
 敢えて、両者の類似している箇所などを指摘すると、B-1図「御幸・浮舟図屏風」では、第六扇に描かれている「御舟」が、A-2図の「澪標図」では、第一・二扇に描かれている「屋形船」、そして、B-1図「御幸・浮舟図屏風」の第二扇に描かれている「牛車」とそれを牽く「牛」が、A-1図「関屋図」の第一・二扇に描かれて「牛車」と「牛」と、同じような題材を描いているということが挙げられよう。

光吉・浮舟.jpg

B-1-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「浮舟」部分拡大図)

宗達・澪標船.jpg

A-2図=澪標図(俵屋宗達筆)」(部分拡大図)

 B-1-1図「御幸・浮舟図屏風」(「浮舟」部分拡大図)の「御舟」の男女二人は、女性は「浮舟」(八の宮の三女)、そして、男性は「薫」(光源氏の子=実の父は柏木)か「匂宮」(今上帝の第三皇子。母は明石中宮=光源氏の長女。母は明石の方)のどちらかで、『源氏物語』第五十一帖「浮舟・第四章・第三段〈宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す〉」からすると「匂宮」(兵部卿宮・宮)と解せられる。
 そして、A-2図=澪標図(俵屋宗達筆)」(部分拡大図)の上部の「屋形船」に、「匂宮」の母「明石中宮」(光源氏の長女)を腹に宿している、「匂宮」の祖母に当る「明石の方」が乗っている。

【(『源氏物語』第十四帖「澪標」)=光源氏=二十八歳から二十九歳---(呼称)源氏の君・源氏の大納言・源氏の大殿・大殿・大殿の君・内大臣殿・君

http://james.3zoku.com/genji/genji14.html

14.14 住吉詣で

 その秋、住吉に詣でたまふ。願ども果たしたまふべければ、いかめしき御ありきにて、世の中ゆすりて、上達部、殿上人、我も我もと仕うまつりたまふ。
折しも、かの明石の人、年ごとの例のことにて詣づるを、去年今年は障ることありて、おこたりける、かしこまり取り重ねて、思ひ立ちけり。
 舟にて詣でたり。岸にさし着くるほど、見れば、ののしりて詣でたまふ人のけはひ、渚に満ちて、いつくしき神宝(かみだから)を持て続けたり。楽人、十列(とおずら)など、装束をととのへ、容貌を選びたり。
「誰が詣でたまへるぞ」
と問ふめれば、
「内大臣殿の御願果たしに詣でたまふを、知らぬ人もありけり」

14.15 住吉社頭の盛儀

 御車を遥かに見やれば、なかなか、心やましくて、恋しき御影をもえ見たてまつらず。河原大臣の御例をまねびて、童随身を賜りたまひける、いとをかしげに装束(そうぞ)き、みづら結ひて、 紫裾濃(むらさきすそご)の元結なまめかしう、丈姿ととのひ、うつくしげにて十人、さまことに今めかしう見ゆ。 】

【 (『源氏物語』第五十一帖「浮舟」=薫君=二十六歳十二月から二十七歳---(呼称)右大将・大将殿・大将・殿・君)

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined51.4.html#paragraph4.3

4.3.6 宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す

 いとはかなげなるものと、明け暮れ見出だす小さき舟に乗りたまひて、さし渡りたまふほど、遥かならむ岸にしも漕ぎ離れたらむやうに心細くおぼえて、つとつきて抱かれたるも、 いとらうたしと思す。

4.3.13  年経とも変はらむものか橘の/ 小島の崎に契る心は   (匂宮)
(何年たとうとも変わりません。橘の小島の崎で約束するわたしの気持ちは)

4.3.14  橘の小島の色は変はらじを/ この浮舟ぞ行方知られぬ  (浮舟)
(橘の小島の色は変わらないでも、この浮舟のようなわたしの身はどこへ行くのやら) 

※6 浮舟と薫の物語 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う

6.5.10  波越ゆるころとも知らず末の松 / 待つらむとのみ思ひけるかな (薫)
(「あなたがほかの人を待っているとも知らず、私は待たれているとばかり思っていました」=(『源氏物語巻十円地文子訳』 )

※※7 浮舟の物語 浮舟、匂宮にも逢わず、母へ告別の和歌を詠み残す

7.8.2   後にまたあひ見むことを思はなむ/ この世の夢に心惑はで (浮舟)
(来世で再びお会いすることを思いましょう。この世の夢に迷わないで)       】

御幸・輿拡大.jpg

B-1-2図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「輿」部分拡大図)

 B-1-2図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「輿」部分拡大図)は、天皇の外出(行幸(ぎょうこう))に使用する、屋形の頂に金色の鳳の形を据えた「鳳輦(ほうれん)・鸞輿(らんよ)」で、『源氏物語』第二十九帖「行幸(ぎょうこう・みゆき)」の原文に照らすと「冷泉帝」(桐壺帝の第十皇子・藤壺中宮と光源氏との不義の子)が乗っているものと解せられる。

【 (『源氏物語』第二十九一帖「行幸」=光源氏=三十六歳十二月から三十七歳---(呼称))
源氏の大臣・太政大臣・六条院・六条の大臣・六条殿・主人の大臣・大臣・大臣の君・殿)

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined29.1.html#paragraph1.1

第一章 玉鬘の物語 冷泉帝の大原野行幸
第一段 大原野行幸

1.1.3 行幸といへど、かならずかうしもあらぬを、今日は親王たち、上達部も、皆心ことに、御馬鞍をととのへ、随身、馬副の容貌丈だち、装束を飾りたまうつつ、めづらかにをかし。左右大臣、内大臣、納言より下はた、まして残らず仕うまつりたまへり。 青色の袍、葡萄染の下襲を、殿上人、五位六位まで着たり。 】

行幸・光源氏.jpg

B-1-3図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「乗馬」部分拡大図)

 B-1-2図の「冷泉帝」の乗っている「鳳輦・鸞輿」を先導するような、B-1-3図の「御馬鞍に跨った上達部(かんだちめ)=摂政、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議、及び三位以上の人の総称」は、「光源氏」なのかも知れない。この「上達部」に、B-1-1図の「匂宮」の紋様入りの白装束を着せると、下記のB-2-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(「「乗馬」部分拡大図」)の「上達部」と様変わりして、これが「光源氏」なのかも知れない。
光吉・光源氏.jpg

B-2-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(「「乗馬」部分拡大図」)

光吉・関屋図牛.jpg

B-2-2図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(「「牛車」部分拡大図」)

 乗馬している「光源氏」(B-2-1図)の前に、「牛車を牽く牛」(B-2-2図)が描かれている。
この光吉の「牛車を牽く牛」(B-2-2図)を、宗達の「関屋図」(A-1図)では、次のように転用している。

宗達・関屋図部分二.jpg

A-1図=関屋図(俵屋宗達筆)」(部分拡大図)

 この宗達の「牛」(A-1図)と、先の光吉の「牛」(B-2-2図)とを相互に見極めて行くと、両者の差異が歴然として来る。光吉の「牛」(B-2-2図)が無表情なのに対して、宗達の「牛」(A-1図)は、前の人物(空蝉の弟、空蝉の文を持っているか?)に、近寄ろうとしている、その感情を秘めた「牛」の表情なのである。
 この「牛」の表情は、その「牛車」に乗っている「光源氏」の感情の動き(「空蝉」との再会を果たしたい)を如実示している。

関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=A-1図=関屋図・左隻=A-2図=澪標図)

 このA図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「右隻=A-1図=関屋図」の主題は、紛れもなく、その第一・二・三扇に描かれている、この「牛車」(光源氏が乗っている)の「牛」(A-1図)なのである。
 そして、この「左隻=A-2図=澪標図」では、その第一扇に描かれている、下記の「明石の方」が乗っている「屋形船」を見送る(再会を果たせず無念のうちに見送る)、この「牛」こそ、謂わば、「光源氏」の化身ともいうべきものであろう。

宗達・澪標船.jpg

A-2図=澪標図(部分拡大図)

宗達・関屋図部分二.jpg

A-1図=関屋図(俵屋宗達筆)」(部分拡大図)

 「宗達マジック・宗達ファンタジー」とは、この「光源氏」を「牛」に化身させるという、「大胆」にして且つ「自由自在・融通無碍」の発想にある。
 それに比して、「光吉マジック・光吉ファンタジー」は、せいぜい、「輿・牛車に乗る光源氏」を「乗馬の光源氏」に変身させる程度の、「実直」にして且つ「変法自強・活用自在」の、その心情にある。

行幸・光源氏.jpg

B-1-3図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」右隻「御幸・浮舟図屏風」(「乗馬」部分拡大図

光吉・光源氏.jpg

B-2-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(「「乗馬」部分拡大図」)

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醍醐寺などでの宗達(その十・「光広賛の「関屋図」屏風」) [宗達と光広]

その十 「関屋図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色  九五・五×二七三・〇㎝ 東京国立博物館蔵 国宝)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100349&content_part_id=000&conten

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 上記A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の第五扇の髭を生やした人物を、これまで「あれかこれか」して、空蝉の夫の「常陸守」(伊予介)と特定したのだが、それを裏付ける
有力なものが出てきた。
 それは、現在、メトロポリタン美術館所蔵の「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝)の左隻「関屋図屏風」(B図)である。

源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の左隻「関屋図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

 この第四扇を拡大すると次のとおりである。

空蝉の夫.jpg

B-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(第五扇・部分拡大図)

 この中央の髭を生やした人物は、空蝉の夫の「常陸守」(紀伊介)その人であろう。そして、その左脇の立っている女性は「空蝉」のように思われる。「常陸守」の右脇の若き男性は、「右衛門佐(小君)」(空蝉の弟)なのかも知れない。
 ここの場面は、下記の『源氏物語』第十六帖「関屋」の「源氏、石山寺参詣」の場面で、光源氏一行が通過するのを、常陸守・空蝉一行が、「関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる」光景である。「右衛門佐(小君)」(空蝉の弟)については、次の「逢坂の関での再会」で登場する。

【(『源氏物語』第十六帖「関屋」)=光源氏=二十九歳=(呼称)---殿

http://james.3zoku.com/genji/genji16.html

16.1 空蝉、夫と常陸国下向
16.2 源氏、石山寺参詣

《 関入る日しも、この殿、石山に御願果しに詣でたまひけり。京より、かの紀伊守(きのかみ)などいひし子ども、迎へに来たる人びと、「この殿かく詣でたまふべし」と告げければ、「道のほど騒がしかりなむものぞ」とて、まだ暁より急ぎけるを、女車多く、所狭うゆるぎ来るに、日たけぬ。
打出の浜来るほどに、「殿は、粟田山越えたまひぬ」とて、御前の人びと、道もさりあへず来込みぬれば、関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。車など、かたへは後らかし、先に立てなどしたれど、なほ、類広く見ゆ。
車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる。殿も、かく世に栄え出でたまふめづらしさに、数もなき御前ども、皆目とどめたり。 》

16.3 逢坂の関での再会

《 九月晦日つごもりなれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、 色々の襖(あお)のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)なるを召し寄せて、
「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」
などのたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とりかへして、ものあはれなり。
「行くと来とせき止めがたき涙をや
絶えぬ清水と人は見るらむ
え知りたまはじかし」と思ふに、いとかひなし。》

16.4 昔の小君と紀伊守
16.5 空蝉へ手紙を贈る
16.6 夫常陸介死去
16.7 空蝉、出家す    】

関屋澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=C-1図=関屋図・左隻=C-2図=澪標図)

土佐光吉のB図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」は、宗達のC図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」においては全くの様変わりをしている。光吉の「光源氏」一行は、宗達の第一・二・三扇に描かれており、それを拡大すると次のとおりとなる。

宗達・関屋図部分二.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=C-1図=関屋図・部分拡大図一)

 この場面は、上記の『源氏物語』第十六帖「関屋」の原文では、次の記述のところである。

【 (16.2 源氏、石山寺参詣)    
九月晦日つごもりなれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、 色々の襖(あお)のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)なるを召し寄せて、
「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」
などのたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。】

 この第三扇に描かれている人物が、上記原文の「かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)」と思われる。そして、光吉のB図(第五扇・部分拡大図)では、中央の「土佐守」の右脇に座している若い人物のように思われる。
 この右衛門佐が話しかけている、C-1図=関屋図の、第二扇に描かれている高貴な童随身のような人物は誰なのか? 
それを証しするのは、C-2図=澪標図の、下記の登場人物からすると、「夕霧→大殿腹の若君→左大臣家の「葵の上」が産んだ夕霧」が以外に見当たらいのである。この人物を「夕霧」とすると、その脇の白い衣装の童は、「夕霧」の童随身で、その背後の人物は「良清と六位の蔵人と傘持ち」のような雰囲気である。

【「澪標図屏風」(「第十四帖」関連)(男性のみ)
光る源氏→ 源氏の君・源氏の大納言・大殿・内大臣殿
頭中将→ 宰相中将・権中納言(故葵の上の兄
夕霧→ 大殿腹の若君→左大臣家の「葵の上」が産んだ夕霧
良清→ 源良清(靫負佐=ゆぎえのすけ、赤袍の一人=五位の一人?
右近将監→ 右近丞→右近将監も靫負=四位の一人?=伊予介の子・紀伊守の弟?
六位の蔵人→ 六位は深緑、四位は深緋(朱色)、五位は浅緋、七位は浅緑、八位は深縹(薄藍)、初位は薄縹。

「関屋図屏風」(「第十六帖」関連)
光る源氏→ 殿 (二十九歳?)
空蝉→  帚木・女君(伊予介の後妻)
伊予介→ 常陸守・常陸(空蝉の夫)
小君→  右衛門佐・佐(空蝉の弟)
紀伊守→ 河内守・守(伊予介の子)
紀伊守の弟→右近衛尉(伊予介の子、光源氏の隋身?)   】

宗達・関屋図部分一.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=C-1図=関屋図・部分拡大図二)

 これが、C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」に宗達が描く「空蝉」一行の全体の図なのである。ここに従者のように描かれている三人の人物の視線は、「C-1図=関屋図・部分拡大図一)」の、「夕霧」(「光源氏の名代」)と「小君=右衛門佐=空蝉の弟」(「常陸守と空蝉」の名代)に注がれている。
 この三人の人物を、上記の登場人物から、「常陸守・空蝉・紀伊守=常陸守の子」と見立てることも、これまた一興であろう。この三人の人物が、同じ、土佐派(土佐光吉とその一門)の「関屋図屏風」(D図)では、その位置関係(C-1図との関係)からして、次のとおり描かれている(D図とD-1図)。

土佐光吉・澪標一.jpg

D図 土佐派『澪標図屏風』/個人蔵
http://toursakai.jp/zakki/2018/10/25_2944.html
土佐光吉・澪標二.jpg

D-1図 土佐派『澪標図屏風』/個人蔵(D図第二扇上部部分拡大)

 この右から二番目の髭の生やした人物(堺衆=光吉が密かに自己の分身を潜ませている?)が、B-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(第五扇・部分拡大図)の、中央に描かれている、髭を生やした「常陸守」と連動しているものと解したい。
空蝉の夫.jpg

B-1図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」(第五扇・部分拡大図)

 この中央の髭を生やした人物が空蝉の夫の「常陸守」で、その左脇に立っている女性が「空蝉」とすると、B図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」の中に、「光源氏」も密かに潜ませているのではなかろうか?

源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」

 「光源氏」は、『源氏物語』第十六帖「関屋」の原文からして、この「牛車」に乗っているというのが、この図柄からして常識的な見方であろう。しかし、「D-1図 土佐派『澪標図屏風』D図第二扇上部部分拡大」の、当時の「安土桃山時代の装束で描かれた堺衆の四人の人物」の一人に、「光吉が密かに自己の分身を潜ませている」とも思われる「光吉マジック・光吉ファンタジー」を考慮すると、「光源氏」は、この第二扇に描かれて「牛車」には乗っていないで、第一扇に描かれて乗馬している人物が「光源氏」なのではなかろうか?

光吉・光源氏.jpg

B図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」

 こういう高級の馬具(轡・面繋・胸繋・尻繋など)を装った白馬に乗馬出来る人物は、上記の登場人物では、「光源氏」(源氏の君・源氏の大納言・大殿・内大臣殿)が最も相応しいであろう。
 そして、B図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」に仕掛けた、土佐光吉の「光吉マジック・光吉ファンタジー」の最も顕著なものは、この第二扇の「牛車」に乗った「光源氏」ではなく、第一扇の「乗馬」の「光源氏」にあると解したい。

土佐光吉・源氏物語図屏風右.jpg

B-A図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の右隻「御幸・浮舟図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

源氏物語図屏風.jpg

B図「源氏物語図屏風」(土佐光吉筆・四曲一双・紙本金地著色・各隻 一六六・四×三五五・六㎝・メトロポリタン美術館蔵)の左隻「関屋図屏風」
https://global.canon/ja/tsuzuri/works/33.html

 ここで、このB図「源氏物語図屏風(土佐光吉筆)」左隻「関屋図屏風」は、上記のB-A図「源氏物語図屏風」右隻「御幸・浮舟図屏風」と対の「四曲一双」の屏風なのである。そして、ここにも、三頭の「乗馬」した人物が描かれている。
 ここらへんについては、次回で触れることにする。ここでは、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)の第五扇に描かれた髭を生やした人物は「常陸守」(紀伊介)であることは、少なくとも、この「関屋図」のコラボ作品に携わった「宗達と光広」との共同認識であったということは、推測というよりも事実に近いものと解したい。

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 そして、この第四扇に描かれている「童随身」の一人「(河原大臣の御例をまねびて、童随身を賜りたまひける)=『源氏物語・第十四帖・澪標・四―二―四』)は、「常陸守」が恭しく応対していることからして、「夕霧=大殿腹の若君」(大殿腹の若君、限りなくかしづき立てて、馬添ひ、童のほど、皆作りあはせて、やう変へて装束きわけたり)=『源氏物語・第十四帖・澪標・四―二―五』)と、これまた、「宗達と光広」との共同認識であったと解したい。
 ここで、下記のアドレスの、「シテ=常陸守、ワキ=童随身の一人、ツレ=光源氏の従者」は、「シテ=夕霧、ワキ=常陸守、シテツレ=光源氏の従者」と、シテとワキとの人物を逆転させることになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-02-22

【一 B図の第四扇に描かれている立姿勢の「関守?」が、A図の「第五扇」の中央に描かれて「山羊髭の公家?」(「空蝉」の夫の「常陸守」?)となり、その座している「常陸守?」が、「光源氏と空蝉」との再会を「関守」(通行を差し止める役)するように描かれていて、これまた面白い。

二 B図の第二・三扇に描かれている「光源氏」の一行は、その牛車の牛が「前へ前へ」と進む姿勢のように「動的」なのに対して、A図の「光源氏」の一行の従者は、その第一扇の「眠っている従者」のように「静的」な雰囲気で、これまた「対照的関係」で描こうとしてことを強調している。

三 B図の第二扇の「童」(勅旨により「光源氏」仕える「童随身」の一人)が、A図の第四扇に登場し、あたかも、「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」との「ワキ」を演ずるようで、極めて面白い。それを援護射撃するように、第二扇の「妻折傘」(貴人や高僧へ差し掛けるための傘)を持った従者だけが立ち姿勢で、それは、この第四扇の「童」に、その「妻折傘」をかざすためなら、これは、見事という以外にない。

四 B図の第三扇の「小君」(右衛門佐、「空蝉」の弟)が、A図の第二扇の「座して思案している公家(従者)?」と衣装が同じようで、そう解すると、上記の第四ストーリーの「第二扇の上部の公家=頭中将(故「葵上」の兄)」よりも、『源氏物語』(第十六帖「関屋」)の登場人物からすると、スムースという印象で無くもない。

五 そして、《A図では、簡素な「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」と「ツレ(「光源氏」の従者)だけの簡素且つ象徴的な「能」の世界のような雰囲気を醸し出している。》という、先の「表=C図=澪標図」とした場合(その「三」)は、いささかも変わりはない。

六 さらに、A図の第六扇一面全部が空白であることは、「第五扇」の中央に描かれて「山羊髭の公家?」(「空蝉」の夫の「常陸守」?)の背後に、B図の第五・六扇の上部に描かれている「空蝉」の牛車とその「空蝉」一行(下記「拡大図」)が待機していることを暗示していて、なおさら、「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」との、このA図の第四・五扇の場面が活きて来る。 】

 その上で、「光吉マジック・光吉ファンタジー」、そして、「宗達マジック・宗達ファンタジー」流に、この「A図の第四・五扇」に何かを潜ませているとすると、この「常陸守」には「宗達」自身のイメージを、そして、この「夕霧」には、正二位権大納言「烏丸光広」の嫡男「烏丸光賢(みつたか)」を潜ませているものと解したい。
 それは偏に、光吉の「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」に、光広の嫡男「烏丸光賢」が、その「詞」を添えているからに他ならない。

光吉・朝顔.jpg

土佐光吉画「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」紙本著色・縦 25.7 cm 横 22.7 cm
重要文化財(京都国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/534208/2

光賢・朝顔.jpg

烏丸光賢詞「源氏物語絵色紙帖 槿(朝顔)」紙本著色・縦 25.7 cm 横 22.7 cm
重要文化財(京都国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/534208/1

(参考)

遣水もいといたうむせびて池の氷もえもいはずすごきに童女下ろして雪まろばしせさせたまふ

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined20.3.html#paragraph3.2

第二十帖 朝顔
第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影
第二段 夜の庭の雪まろばし
3.2.4
月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして、雪まろばしせさせたまふ
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醍醐寺などでの宗達(その九・「光広賛の「関屋図」屏風」) [宗達と光広]

その九 「関屋図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色  九五・五×二七三・〇㎝ 東京国立博物館蔵 国宝)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100349&content_part_id=000&conten
【 『源氏物語』の「関屋」を絵画化したもの。図上に烏丸光広(1579~1638)が「関屋」の一節と自詠の和歌を書きつけている。光源氏が石山詣の途中、逢坂の関でかつての恋人空蝉(うつせみ)の一行と出会う場面で、絵は背景を一切省いた金地に、源氏らに道を譲るために牛車を止めて待つ空蝉の一行のみを描く。(以下、略) 】

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 このA図の二人の主要人物について、前回では、「【A図では、簡素な「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」と「ツレ(「光源氏」の従者)だけの簡素且つ象徴的な「能」の世界のような雰囲気を醸し出している。】という、先の「表=C図=澪標図」とした場合(その「三」)は、いささかも変わりはない」としている。そして、第五扇の人物は、「常陸守」、そして、第四扇の人物は、「童随身の一人」としたのだが、この「童随身の一人」は、『源氏物語』第十四帖「澪標」の「住吉社頭の盛儀」(14.15 住吉社頭の盛儀)の下記のところら出てくる「大殿(光源氏)腹の若君(夕霧)」の、「夕霧」(当時八歳)その人のように思えたのである。

(登場人物)

「澪標図屏風」(「第十四帖」関連)(男性のみ)

光る源氏→ 源氏の君・源氏の大納言・大殿・内大臣殿
頭中将→ 宰相中将・権中納言(故葵の上の兄)
夕霧→ 大殿腹の若君→左大臣家の「葵の上」が産んだ夕霧
良清→ 源良清(靫負佐=ゆぎえのすけ、赤袍の一人=五位の一人?
右近将監→ 右近丞→右近将監も靫負=四位の一人?=伊予介の子・紀伊守の弟?
六位の蔵人→ 六位は深緑、四位は深緋(朱色)、五位は浅緋、七位は浅緑、八位は深縹(薄藍)、初位は薄縹。

(第二段=住吉社頭の盛儀→第五節)
  大殿腹の若君、限りなくかしづき立てて、馬添ひ、童のほど、皆作りあはせて、やう変へて装束きわけたり。

(第二段=住吉社頭の盛儀→第二節)
良清も同じ佐にて、人よりことにもの思ひなきけしきにて、おどろおどろしき赤衣姿、いときよげなり。

(第二段=住吉社頭の盛儀→第一節)
六位のなかにも蔵人は青色しるく見えて、かの賀茂の瑞垣恨みし右近将監も靫負になりて、ことごとしげなる随身具したる蔵人なり。

「関屋図屏風」(「第十六帖」関連)

光る源氏→ 殿 (二十九歳?)
空蝉→  帚木・女君(伊予介の後妻)
伊予介→ 常陸守・常陸(空蝉の夫)
小君→  右衛門佐・佐(空蝉の弟)
紀伊守→ 河内守・守(伊予介の子)
紀伊守の弟→右近衛尉(伊予介の子、光源氏の隋身?) 

土佐光吉・澪標一.jpg

B図 土佐派『澪標図屏風』/個人蔵
http://toursakai.jp/zakki/2018/10/25_2944.html

 これは、上記のアドレスで紹介されている「再発見・戦国の絵師 土佐光吉」(堺市博物館特別展「土佐光吉 戦国の世を生きたやまと絵師」図録より転載)で展示された作品の一つである。

澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

 上記B図の右端の「牛車」は、このC図の第三扇に描かれている「牛車」と何処となく雰囲気が酷似している。また、このB図の「光源氏」一行は、座している姿勢が多いのだが、A図の「光源氏」一行の「牛車」周辺の人物も、ほぼ座している姿勢で、これまた、酷似している。
 このB図の「光源氏」一行の中に、「夕霧・良清・右近将監」などが居るのかも知れない。そして、この中で「夕霧」は、第二扇に描かれている傘持ちの従者の前の緑色の衣装の童のようである。その童は、B図でも傘持ちの従者の前に緑色の衣装で描かれている。これが、A図の第四扇に描かれている供人を従えた緑色の衣装の童で、この童を「大殿腹の若君」、即ち、「夕霧」と見立てることは、許容範囲のうちに入るものと解したい。
 そして、特に、このB図の左端の上部(鳥居)の上の座している四人の人物に注目したい。その図を拡大すると、次のとおりである。

土佐光吉・澪標二.jpg

B図(拡大図) 土佐派・『澪標図屏風』(部分)/個人。安土桃山時代の装束で描かれた人々。
http://toursakai.jp/zakki/2018/10/25_2944.html

 このB図(拡大図)に関連して、上記のアドレスでは次のとおり紹介している。

【宇野「光吉は緻密さが特徴ですが、もうひとつ貴族でない人々を生き生きと描くのも得意だったように思います。たとえば、『源氏物語』の『澪標(みをつくし)』の帖を描いた屏風を展示していますが、光源氏が住吉大社に行列を成して参拝する様子が描かれています。ここには光源氏の行列を座って見ている人々の姿が、平安時代の装束ではなく、安土桃山時代の衣装で描かれています」
――光吉の生きた時代の人々の姿が描きこまれていたんですね。
宇野「これは私の想像ですけれど、まるで源氏物語の舞台を見物しているようなこの人々は、光吉のまわりにいて絵の注文もしてくれる堺の人々の姿を写していたりしないかなと思うのです」
――ルネサンスの画家が、宗教画にパトロンや自分自身の姿を滑り込ませたのと同じような感じですかね。もっと言えば現代の漫画家や映画監督的というか......。展示された作品や資料をもとに、そういう想像の翼を広げていくのも、展覧会の楽しみの一つですよね。チヨマジックに続き、チヨファンタジー、いいですね。
(注) 宇野=堺博物館・宇野千代子学芸員=チヨマジック・チヨファンタジー 】

 この四人の人物の主人公と思われる右の二人目の人物(堺衆=町衆?)が、何やら鼻の下と顎に髭をたくわえているようなのである。拡大すると次のとおりである。

土佐澪標・人物一.jpg

B図(拡大図=人物拡大図)

 この人物は、上記の対談中の「チヨマジック・チヨファンタジー」の「ルネサンスの画家が、宗教画にパトロンや自分自身の姿を滑り込ませたのと同じような感じ」ですると、「土佐派の工房」の主宰者「土佐光吉」その人と見立てることも出来るであろう。
 この土佐光吉((天文11年=一五三九~慶長十八年=一六一三)の経歴については、次の見解が、「チヨマジック・チヨファンタジー」に馴染んでくる。

【 土佐光茂の次子と言われるが、実際は門人で玄二(源二)と称した人物と考えられる。師光茂の跡取り土佐光元が木下秀吉の但馬攻めに加わり、出陣中戦没してしまう。そのため光吉は、光元に代わって光茂から遺児3人の養育を託され、土佐家累代の絵手本や知行地、証文などを譲り受けたとみられる。以後、光吉は剃髪し久翌(休翌)と号し、狩野永徳や狩野山楽らから上洛を促されつつも、終生堺で活動した。堺に移居した理由は、近くの和泉国上神谷に絵所預の所領があり、今井宗久をはじめとする町衆との繋がりがあったことなどが考えられる。光元の遺児のその後は分からないが、光元の娘を狩野光信に嫁がせている。
】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 この「光吉は、光元に代わって光茂から遺児3人の養育を託され」たということを、「チヨマジック・チヨファンタジー」流に解すると、B図(拡大図)の四人は、「光吉と、光茂(土佐派本家・宮廷繪所預)の遺児・三人」ということになる。
 そして、この三人のうちの一人(旅装した女子?)が、狩野派宗家(中橋狩野家)六代の狩野
光信(七代永徳の長男)に嫁いでいるということになると、狩野派の最大の実力者と目されている狩野探幽(光信の弟・孝信の長男=鍛冶橋狩野家)は、光吉と甥との関係になり、その甥の一人の狩野安信(孝信の三男=探幽の弟)は、狩野派宗家を継ぎ、八代目を継承している。
 さらに、江戸幕府の御用絵師を務めた住吉派の祖の住吉如慶は、光吉の子とも門人ともいわれており、「チヨマジック・チヨファンタジー」を紹介している上記のアドレスでは、光吉を「近世絵画の礎になった光吉」というネーミングを呈しているが、安土桃山時代から江戸時代の移行期の「近世絵画の礎になった」最右翼の絵師であったことは、決して過大な評価でもなかろう。
 これを宗達関連、特に、その「関屋澪標図屏風」(C図と下記D図)に絞って場合には、全面的に、光吉一門(土佐派)の「澪標図屏風」(A図)と、同じく光吉一門(土佐派)の「源氏物語澪標図屏風」(下記のE図)とを下敷きにし、それを、宗達風にアレンジして、いわゆる「宗達マジック・宗達ファンタジー」の世界を現出していると指摘することも、これまた、な過誤のある指摘でもなかろう。

関屋図屏風一.jpg

D図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

 この宗達の「関屋図屏風」(D図)の第五・六扇の上部に描かれている「空蝉」一行のうち、その第五扇に描かれている三人の従者などは、その座している姿勢などからして、B図の『澪標図屏風』(土佐派)の左端の上部に描かれている四人の堺衆(そして「光吉と光吉に託された師の三人の遺児」とも解せられる)をモデルにしていることは、その描かれている位置関係などからして、そう解して差し支えなかろう。

澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

土佐派・澪標図屏風.jpg

E図 土佐派「源氏物語澪標図屏風」(大倉集古館蔵)
https://www.shukokan.org/collection/#link01

 宗達の「澪標図屏風」(C図)の第五・六扇に描かれている住吉大社の「鳥居」と「太鼓橋」は、これまた、E図の第五・六扇をモデルにしていることも明らかであろう。同様に、このE図の第一扇に描かれている「牛車」は、C図の第五扇の「牛車」、同じく、E図の第一・二扇の「屋形船」は、E図の「帆掛け船」をアレンジしたものであろう。
 それよりも、C図とE図とを比較して、最大のアレンジ(改変)は、B図の主題である「光源氏」(束帯姿の長い裾=官位の高い象徴、それを後ろで持つ童を従えっている)の姿が、宗達のC図では「牛車」の中に閉じ込められて、姿を消していることである。これは、「改変」を意味する「宗達マジック」というよりも、「改変+想像+創造」の世界の「宗達ファンタジー」の世界に近いものであろう。
 もとより、創作の世界において、「モデル(制作の対象とする人や物)」をどのように「改変(マジック)」して、自己流の世界(ファンタスティックな世界)を築くかというのは、創作家なら誰しも、その実践を日々続けていることは言うまでもない。 
 しかし、この宗達のように、この「モデル」の主人公を抹殺して、そして、この主人公を別な形で再生させるという、こういう手の込んだ操作は、なかなか目にしない。
 例えば、同じ土佐派(土佐光吉とその一門)による、「B図 土佐派『澪標図屏風』」と「E図 土佐派「源氏物語澪標図屏風」」と比較すると、これらのことは明瞭になっている。

土佐光吉・澪標一.jpg

B図 土佐派『澪標図屏風』/個人蔵

 このB図の「光源氏」の住吉社参詣という主題は、どちらも「光源氏」を中心にして、その他は、全て、それを如何に効果的に盛り上げるかという副次的な脇役ということになる。しかし、仔細に見て行くと、さまざまな「改変」が為されている。
 例えば、B図の前景(下部)の、前駆(行列の先導)の者などが乗馬した「馬」や座す姿勢の従者は、A図では全てカットされている。また、B図は、その前景(下部)から中景(中央)にかけて、「光源氏」参詣一行は動いているのに対して、A図は、第一扇の中央の「牛車」から水平に「右から横へ」と「光源氏」参詣一行は動いている。そして、第五扇の「鳥居」から上部に描けて、「光源氏」参詣一行を見物する「堺衆」などの人達が描かれている。
 E図では、これらの見物人は全てカットされ、その代わりに、「鳥居」の先に、住吉社の「太鼓橋」などが描かれている。
 ここで、注目しなければならないことは、このB図の「鳥居」の上に描かれている四人の見物人(B図(拡大図)=安土桃山時代の装束で描かれた人々)が、宗達の「D図 関屋図」
の第五・六扇の「空蝉一行」とドッキングすると、この第五・六扇の「空蝉一行」の中に、
B図(拡大図)の四人のうちの一人、髭を生やした人物(B図《(拡大図=人物拡大図)》)が居て、その「髭を生やした人物」は、空蝉の夫の「常陸守」と見立てることは、先に許容範囲の内としたが、もはや、これは動かし難いものと解したい。
 そして、この「髭を生やした人物=常陸守」(B図《(拡大図=人物拡大図)》)を「常陸守」とすると、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)の第五扇の人物も、空蝉の夫の「常陸守」ということは、動かし難いものと解したい。

土佐澪標・人物一.jpg

B図(拡大図=人物拡大図)

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 このA図の第五扇の束帯姿の座している髭を生やした人物を「常陸守」とすると、この「常陸守」が恭しく座して応対している、第四扇の「童」らしき人物は誰か?
 この第四扇の「童」らしき人物は、冒頭に戻って、《「大殿(光源氏)腹の若君(夕霧)」の「夕霧」(当時八歳)なのかも知れない》とすると、こうなると、この・「宗達ファンタジー」は、新たなるステージの上に立つということになる。

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醍醐寺などでの宗達(その八・「光広賛の「関屋図」屏風」) [宗達と光広]

その八 「関屋図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色  九五・五×二七三・〇㎝ 東京国立博物館蔵 国宝)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100349&content_part_id=000&conten
【 『源氏物語』の「関屋」を絵画化したもの。図上に烏丸光広(1579~1638)が「関屋」の一節と自詠の和歌を書きつけている。光源氏が石山詣の途中、逢坂の関でかつての恋人空蝉(うつせみ)の一行と出会う場面で、絵は背景を一切省いた金地に、源氏らに道を譲るために牛車を止めて待つ空蝉の一行のみを描く。(以下、略) 】

 この宗達と光広とのコンビの「賛」の「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色屏風)について、前回、次の三つのストーリーがイメージとして浮かび上がってきた。

(再掲)

【 (登場人物)

光る源氏→ 殿 (二十九歳?)
空蝉→  帚木・女君(伊予介の後妻)
伊予介→ 常陸守・常陸(空蝉の夫)
小君→  右衛門佐・佐(空蝉の弟)
紀伊守→ 河内守・守(伊予介の子)
紀伊守の弟→右近衛尉(伊予介の子、光源氏の従者?)         】  

(第一ストーリー=「牛車」に乗っているのは「光源氏」)

第一扇→「小君」に託した「空蝉」の対応を「光源氏」は待ちくたびれている。
第二・三扇→「空蝉」一行から従者の一人が来たようだが「あれは誰か」?
第四・五扇→「空蝉」の夫「常陸守」か? 「光源氏」の出迎えに参上したか?
第六扇→丸ごと「余白」で、後のストーリーは『源氏物語』(「関屋」)を参照されたい。

(第二ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉」)

第一・二・三扇→「空蝉」は「光源氏」との再会を逡巡している。
第四・五扇→「空蝉」は「光源氏」の従者(右近衛尉?)に「光源氏」への伝言を依頼?
第六扇→後のストーリーは『源氏物語』(「関屋」)を参照されたい。

(第三ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉と「常陸守」」、そして、第五扇の「髭の人物」は「常陸守」の次男「右近衛尉」と、その「右近近衛尉」を仮の姿とする「大納言・烏丸光広」)

第一扇→牛車の中の「空蝉と夫の常陸守」は「光源氏」一行が通過するのを待ちくたびれて
いる(眠っている従者が示唆している)。
第二扇→「空蝉」の弟の「「小君」(右衛門佐)は、「光源氏」一行が来たらどう挨拶するか、  
    あれこれ思案している(三人の人物の一番上の人物?)。
第三扇→「空蝉」を懸想している「河内守(常陸守の長子)」は、親父(常陸守)似の弟「光源
氏」の使者となっている実弟の「右近衛尉」(第五扇の人物)のを見詰めている(第二扇の「右衛門佐」の前の人物?)
第四扇→「空蝉」の使者(「空蝉」の化身?)が、「光源氏」の使者・「右近衛尉」(この賛を書
いた「大納言・烏丸光広」の化身?)に、一部終始を伝えている。
第五扇→(第三扇上部余白)から(第五扇上部)にかけて、「空蝉」の使者(「空蝉」の化身?)が、
「光源氏」の使者・「右近衛尉」(この賛を書いた(「大納言・烏丸光広」の化身?)への伝言の内容が、下記のとおり光広が賛(散らし書き)をしている。

(第三扇上部余白)
うち出
(第四扇上部余白)

はまくるほど

殿は
粟田山
こえたまひ

行と
来と
せきとめ
がたき
(第五扇上部余白)
なみだをや
関の清水と
人は
みるらん

第六扇→第六扇一面が余白で、 ここに、「光源氏」の使者・「右近衛尉」(「大納言・烏丸
光広」の化身?)が、「光源氏」に伝えること約し、その「空蝉」の贈歌に対し、「大納言・烏丸光広」が、次のとおりの賛(答歌)を散らし書きしている。

みぎのこゝろをよみて
かきつく(花押)
をぐるまのえにしは
あれなとしへつゝ
又あふみちに
ゆくも
かへるも         】

 この三つのストーリーで、何かが足りないと、どうにも不満であったのだが、それは、前回の最初の疑問の、【「牛車」に「空蝉」が乗っているにしては、この「牛車」の従者は皆男衆ばかりという感じである。】については、何ら応えていないということに気がついた。上記の第一ストーリーと第三ストーリーとをドッキングしたような、次の第四ストーリーである。

(第四ストーリー=「牛車」に乗っているのは「光源氏」、そして、第五扇の「山羊髭の人物」は、空蝉の夫の「常陸守」(その化身の「大納言・烏丸光広」との一人二役)

第一扇→「小君」(右衛門佐)に託した「空蝉」の対応を「光源氏」一行は待ちくたびれている(眠っている従者が示唆している)。

第二・三扇→「空蝉」一行から従者の一人が来たようだが「あれは誰か」?
      第二扇の上部の公家=頭中将(故「葵上」の兄)
      第三扇の上部の公家=右近衛尉(「常陸守」の次子・光源氏の従者)

第四・五扇→「空蝉」の夫「常陸守」か? 「光源氏」の出迎えに参上したか?
      第四扇の若き近仕=童随身の一人(勅旨により「光源氏」仕える童)
      第五扇の山羊髭の公家=常陸守(「空蝉」の夫)

第六扇→一面の余白に「常陸守」に扮した「大納言・烏丸光広」が「空蝉」の和歌などを
     賛(散らし書き書き)する。

関屋図屏風一.jpg

B図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」

 ここで、この三枚の屏風図(B図・C図・A図)との関係を、屏風の「右隻・左隻」と、屏風の「表・裏」との視野から、次のような関係として捉えると、宗達が、この三枚の屏風図を描いた視点の一つというのが見えて来る。
 まず、B図とC図とは、「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「B図=右隻」と「C図=左隻」という「六曲一双」形式の「屏風図」ということになる。

関屋澪標図屏風.jpg

「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(右隻=B図・左隻=C図)

 そして、A図は、この「左隻=C図」に連なるのではなく、この「左隻=C図」の背面の「裏」に描かれている、「表=C図=澪標図」と「裏=A図=関屋図」あるいは「表=B図=関屋図」と「裏=A図=関屋図」という二通りの見方である。この二通り見方のうち、「表=C図=澪標図」と「裏=A図=関屋図」とすると、次のようなことが浮かび上がってくる。

(表)

澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

(裏)

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」

一 C図の第四扇の中央に描かれている「光源氏」の「牛車」の前に伺候している「摂津国・国守?」(「住吉大社のある摂津の国守」)が「立っている」のに対して、A図の「第五扇」の中央に描かれて「山羊髭の公家?」(「空蝉」の夫の「常陸守」?)は「座っている」(A図の「摂津守?」からC図の「常陸守?」を連想させ、その両者を「立つ」と「座す」との「対照的関係」で描こうとしている。

二 C図の第二・三扇に描かれている「光源氏」一行の従者は「立ち姿勢」の者が多いのだが、それに対して、A図の「光源氏」の一行の従者は「座す姿勢」と、ここでも、同じ従者を描くにも、これまた「対照的関係」で描こうとしている。

三 何よりも、C図が『源氏物語』の「関屋澪標図屏風」として、先行する、その関連の様々な「大和絵」風の作品の図様をアレンジしながら、「人物と景物」の織り成す「絵巻」(ストーリー化)の世界を現出したのに対して、A図では、簡素な「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」と「ツレ(「光源氏」の従者)だけの簡素且つ象徴的な「能」の世界のような雰囲気を醸し出している。

 これを、「表=B図=関屋図」と「裏=A図=関屋図」とすると、次のようなことが指摘できる。

(表)

関屋図屏風一.jpg

B図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

(裏)

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」

一 B図の第四扇に描かれている立姿勢の「関守?」が、A図の「第五扇」の中央に描かれて「山羊髭の公家?」(「空蝉」の夫の「常陸守」?)となり、その座している「常陸守?」が、「光源氏と空蝉」との再会を「関守」(通行を差し止める役)するように描かれていて、これまた面白い。

二 B図の第二・三扇に描かれている「光源氏」の一行は、その牛車の牛が「前へ前へ」と進む姿勢のように「動的」なのに対して、A図の「光源氏」の一行の従者は、その第一扇の「眠っている従者」のように「静的」な雰囲気で、これまた「対照的関係」で描こうとしてことを強調している。

三 B図の第二扇の「童」(勅旨により「光源氏」仕える「童随身」の一人)が、A図の第四扇に登場し、あたかも、「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」との「ワキ」を演ずるようで、極めて面白い。それを援護射撃するように、第二扇の「妻折傘」(貴人や高僧へ差し掛けるための傘)を持った従者だけが立ち姿勢で、それは、この第四扇の「童」に、その「妻折傘」をかざすためなら、これは、見事という以外にない。

四 B図の第三扇の「小君」(右衛門佐、「空蝉」の弟)が、A図の第二扇の「座して思案している公家(従者)?」と衣装が同じようで、そう解すると、上記の第四ストーリーの「第二扇の上部の公家=頭中将(故「葵上」の兄)」よりも、『源氏物語』(第十六帖「関屋」)の登場人物からすると、スムースという印象で無くもない。

五 そして、【A図では、簡素な「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」と「ツレ(「光源氏」の従者)だけの簡素且つ象徴的な「能」の世界のような雰囲気を醸し出している。】という、先の「表=C図=澪標図」とした場合(その「三」)は、いささかも変わりはない。

六 さらに、A図の第六扇一面全部が空白であることは、「第五扇」の中央に描かれて「山羊髭の公家?」(「空蝉」の夫の「常陸守」?)の背後に、B図の第五・六扇の上部に描かれている「空蝉」の牛車とその「空蝉」一行(下記「拡大図」)が待機していることを暗示していて、なおさら、「シテ(「常陸守?」の背後に控える空白の「空蝉」)」と「ワキ(童の背後に控える「牛車の中の光源氏)」との、このA図の第四・五扇の場面が活きて来る。

関屋図屏風・空蝉一行.jpg

B図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」(第五・六扇拡大図)

 ここまで来て、下記のアドレスの、次の「各隻の並べ方については『複数の解釈が可能な屏風』として差し支えない」ということの一端が明瞭となってきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-02-14

【 この「関屋澪標図屏風」は、画面向って右に「関屋」の隻、左に「澪標」の隻を並べて鑑賞するのが一般的である。これは右隻の落款が右端、左隻の落款が左端に位置することで、「六曲一双」の屏風としては、それが自然であろうという程度の確然としたものではない。
 現に、『源氏物語』の順序からしても、「澪標」(第十四帖)、「関屋」(第十六帖)と、右隻に「澪標」、左隻に「関屋」が自然で、落款が中央に集まるのは、同じ六曲一双の「雲龍図屏風」(フリーア美術館)があり問題にならないとし、各隻の並べ方については「複数の解釈が可能な屏風」として差し支えないようである(「俵屋宗達『関屋澪標図屏風』をめぐるネットワーク」)→(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p26~)。 】

 と同時に、これまでの、「絵巻」(ストーリー化)の世界の、「第一ストーリー」から「第四ストーリー」との「右から左へ」の世界と、「裏と表」の「反転」の世界との、この二つの世界を、これらの「宗達と光広」の「コラボ(協同・共同)」的な作品が教示して呉れている思いを深くする。


(参考) 『源氏物語絵巻』「関屋」段を読み解く(倉田実稿)周辺

関屋図・錦織.jpg

「山口伊太郎遺作 源氏物語錦織絵巻」の「関屋」
http://izucul.cocolog-nifty.com/balance/2009/05/post-166d.html
【徳川美と五島美にある‘源氏物語絵巻’(19場面)を織りで表現しようと思い立ったのは西陣織作家、山口伊太郎(1901~2007)。1970年からはじめ、第4巻が08年にできあがり、37年かけてようやく完成させた。山口は07年に105歳で亡くなったので、最後の織りは見届けられなかったが、職人たちに指示をして天国へ旅立った。】

https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/emaki23

 上記のアドレスの「『源氏物語絵巻』「関屋」段を読み解く(倉田実稿)」は、「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(静嘉堂文庫美術館蔵・国宝)や「関屋図屏風(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」(東京国立博物館蔵・国宝)を理解する上で、その周辺の基調的なデータが満載している。
 その要点を、上記に関連することだけを、掲載して置きたい。

関屋図・原典.jpg

【人物:[ア]・[カ]牛飼 [イ]・[ウ]立烏帽子狩衣姿の前駆(さき・ぜんく) [エ]随身 [オ]傘持ちの従者 [キ]常陸介一行 [ク]・[ケ]・[コ]警護の供人
事物:①・⑤・⑥牛車 ②・⑧胡簶(やなぐい) ③・⑦弓 ④袋に入れた妻折傘 ⑨行縢(むかばき) ⑩荷馬
景色:Ⓐ琵琶湖 Ⓑ打出の浜(うちでのはま) Ⓒ筧(かけい) Ⓓ鳥居 Ⓔ道祖神の祠

絵巻の場面 「関屋」の段は現存する『源氏物語絵巻』で唯一の風景描写になっていますが、剥落が多く原画では細部がはっきりしません。しかし、それでも人々や牛車、あるいは関山(逢坂の関付近の山)などがそれとなく分かりますので、読み解いていきましょう。

 この場面は、願果しに石山詣でに出掛ける光源氏一行と、常陸国から上京してきた空蝉一行が、逢坂の関で偶然にすれ違ったことを描いています。画面は、北側から眺めた景色になります。画面右側が京で、やってきたのが光源氏と供人たち、左側が東になり空蝉一行が京を目指しています。空蝉は夫が常陸介として赴任した際に同行し、任期が終わって京に戻るところでした。なお、原画でははっきりしませんが、画面左角がⒶ琵琶湖で、湖岸はⒷ打出の浜になります。

 光源氏の一行 まず光源氏一行を見ることにしましょう。光源氏の姿は描かれていませんが、[ア]牛飼のいる①牛車に乗っているようです。騎乗する[イ][ウ]立烏帽子狩衣姿は前駆(行列の先導)の者、②胡簶を背負い、③弓を持つのは[エ]随身です。徒歩の者もいて、[オ]右端の者は④袋に入れた妻折傘を持っています。かなりの人数でやって来ていますね。光源氏が須磨・明石から帰京した翌年になり、内大臣になった威勢の表現にもなっています。

 空蝉の一行 空蝉の姿も描かれていませんが、やはり[カ]牛飼の付く⑤牛車に乗っています。復元画によりますと牛車に女房装束の裾先を出して飾りとする「出衣(いだしぎぬ)」があり、女車になっています。空蝉が乗車していることになります。

 常陸介・空蝉の一行も多人数になっています。物語には、「類ひろく(常陸介の親類が多く)」、「車十ばかり」であったとされています。牛車は⑥もう一両見え、[キ]徒歩の者、 [ク][ケ][コ]騎乗の者が何人も見えます。騎乗の者は⑦弓と⑧胡簶を持っていますので警護役になります。画面左上の[コ]騎乗する者には⑨行縢も認められます。また、打出の浜あたりには⑩荷を積んだ馬が三頭描かれています。これも常陸介一行でしょう。受領として任地で蓄財した富を積んでいると思われます。この地方の富は京に入り、受領たちの任官運動の一環として公卿たちに献上されることになります。光源氏の権勢も、豊かな受領の富が支えていることを暗示しているのかもしれません。

 逢坂の関の風物 続いて逢坂の関を暗示するものがあるかどうか確認してみましょう。物語にも「関屋」という語が使用されていますが、画面に関所らしいものは描かれていません。しかし、逢坂の関に付属するものが認められるようです。画面右端を見てください。

 Ⓒ筧が認められますね。これは当時あった「関の清水」の表現のようです。物語では空蝉が心ひそかに詠んだ独詠歌にこの「清水」が使用されていました。

 また、Ⓓ鳥居とⒺ祠も描かれています。これを琵琶湖寄りにある「関蝉丸神社」とする説もありますが、位置的に見て国境に置かれた道祖神の祠などでしょう。逢坂の関の存在と少なからず関係しているわけです。

 関山の景色 さらに景色を見ましょう。関山の形はどうでしょうか。峰を高く描いた山々が描かれていますね。この山容は実景ではありません。峰を高く描くのは、唐絵(からえ。中国風の絵)に多く認められますので、その様式によっているのです。雄大な山間の景色を描こうとした際に、おのずと唐絵の技法に寄り添ったということでしょう。

 画面の趣向 最後に画面の趣向と思われる点を考えておきましょう。『源氏物語絵巻』でありながら、光源氏も空蝉もその姿が描かれていないことです。それは絵師が物語の世界における二人の関係性をきちんと読み解いていたからだと思われます。物語では、光源氏の車は簾を下したまま空蝉の車とすれ違っています。顔を合わせたり、言葉を交わしたりなどはしていません。二人の関係は光源氏十七才の折に遡りますが、空蝉と強引に契りを交わしただけで終わりました。文のやり取りはその後あったものの、二人の関係は秘め事なのでした。逢坂の関で、偶然にすれ違っても、挨拶を交わすことなどできません。物語では、衛門佐(えもんのすけ)になっている空蝉の弟(小君)に、関迎えに来ましたとの伝言を託したとありますが、絵巻には描かれていないようです。秘めた二人の関係だからこそ、その姿を描かないようにしたのだと思われます。なお、空蝉はこの後出家し、光源氏の庇護を受けるようになるのは後年のことになります。  】
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醍醐寺などでの宗達(その七・「光広賛の「関屋図」屏風」) [宗達と光広]

その七 「関屋図屏風」(俵屋宗達筆・烏丸光広賛・六曲一隻)周辺

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色  九五・五×二七三・〇㎝ 東京国立博物館蔵 国宝)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100349&content_part_id=000&content_pict_id=000
【『源氏物語』の「関屋」を絵画化したもの。図上に烏丸光広(1579~1638)が「関屋」の一節と自詠の和歌を書きつけている。光源氏が石山詣の途中、逢坂の関でかつての恋人空蝉(うつせみ)の一行と出会う場面で、絵は背景を一切省いた金地に、源氏らに道を譲るために牛車を止めて待つ空蝉の一行のみを描く。さまざまな姿態に描かれる従者たちは、「西行物語絵巻」や「北野天神縁起絵巻」など、先行するやまと絵作品から図様を転用していることが指摘されている。「宗達法橋」の署名と「対青軒」の朱文円印、賛に光広最晩年の花押(かおう)がある。「住吉家古画留帳(すみよしけこがとめちょう)」(東京藝術大学蔵)には、文化12年(1815)8月13日に、住吉広尚(すみよしひろなお)(1781~1828)が「等覚院(とうがくいん)抱一」(酒井抱一)の依頼で、この屏風を「宗達筆正筆ト申遺ス」と鑑定したことが記録されている。うち出のはまくるほどに/殿は粟田山こえたまひぬ/行と来とせきとめがたき/なみだをや/関の清水と/人はみるらん/みぎのこゝろをよみて/かきつく(花押)/をぐるまのえにしは/あれなとしへつゝ/又あふみちにゆくもかへるも 】

 この牛車の中に「空蝉」が乗っていることは、ここに書かれている、烏丸光広の賛からすると一見明らかのような雰囲気である。

(『源氏物語』第十六帖「関屋16.2」の一節)

 うち出のはまくるほどに (打ち出の浜来るほどに)
 殿は粟田山こえたまひぬ (「殿」=「光源氏」は粟田山を越え給ひぬ) 

(『源氏物語』第十六帖「関屋16.3」の「空蝉」の和歌)

 行と来とせきとめがたき/なみだをや/関の清水と/人はみるらん
(行く人も来る人もせきとめることの難しい逢坂の関で/塞き止め難く途絶えぬ涙を/湧き出して途絶えぬ清水のように人は見るでしょうね/それほど涙があふれて止まりません)

(『源氏物語』第十六帖「関屋」)=光源氏=二十九歳=(呼称)---殿

http://james.3zoku.com/genji/genji16.html

16.1 空蝉、夫と常陸国下向
16.2 源氏、石山寺参詣
【関入る日しも、この殿、石山に御願果しに詣でたまひけり。京より、かの紀伊守(きのかみ)などいひし子ども、迎へに来たる人びと、「この殿かく詣でたまふべし」と告げければ、「道のほど騒がしかりなむものぞ」とて、まだ暁より急ぎけるを、女車多く、所狭うゆるぎ来るに、日たけぬ。
打出の浜来るほどに、「殿は、粟田山越えたまひぬ」とて、御前の人びと、道もさりあへず来込みぬれば、関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。車など、かたへは後らかし、先に立てなどしたれど、なほ、類広く見ゆ。
車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる。殿も、かく世に栄え出でたまふめづらしさに、数もなき御前ども、皆目とどめたり。】

16.3 逢坂の関での再会
【九月晦日つごもりなれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、 色々の襖(あお)のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)なるを召し寄せて、
「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」
などのたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とりかへして、ものあはれなり。
「行くと来とせき止めがたき涙をや
絶えぬ清水と人は見るらむ
え知りたまはじかし」と思ふに、いとかひなし。】

16.4 昔の小君と紀伊守
16.5 空蝉へ手紙を贈る
16.6 夫常陸介死去
16.7 空蝉、出家す

関屋図・牛車.jpg

B図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第一・二・三扇」(拡大図)

澪標図屏風.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」
https://twitter.com/news_pia/status/1107545393749884928/photo/2

 このB図の「牛車」に「空蝉」が乗っているにしては、この「牛車」の従者は皆男衆ばかりという感じである。そして、この従者は、C図(二・三扇)の従者と、その恰好やら仕草が瓜二つなのである。そして、このC図の「牛車」に乗っている人は「光源氏」で、この場面は、「空蝉」と「光源氏」の「関屋」の場面ではなく、「明石の上」と「光源氏」の「澪標」の場面なのである。
 ここで、「澪標図屏風」(C図)と、次の場面の「関屋図屏風」(D図)とドッキングして、
『源氏物語』第十四帖「澪標」と第十六帖「関屋」とを、「連歌・俳諧」(「創作」と「鑑賞」とを繰り返し、一連の即興的なストーリー化の世界を現出する)的な視野で見て行くと、次のとおりとなる。

関屋図屏風一.jpg

D図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」
https://twitter.com/news_pia/status/1107545393749884928/photo/1

C図「澪標図屏風」の場面

第一扇→「牛車」から解き放された「牛」が「船上」の「明石の上」を見送る。
第二・三扇→「牛車」の「光源氏」は「明石の上」の再会を断念し「住吉参詣」をする。
第四・五・六扇→「住吉大社」の関係者が「光源氏」をお迎えする。

D図「関屋図屏風」の場面

第一・二扇→「光源氏」の一行が「石山寺から逢坂の関」に差し掛かる。牛は急いでいる。
第三・四扇→「空蝉」の弟「小君」(右衛門佐)が「牛車」の「光源氏」と対面している。
第五・六扇→「空蝉」の「牛車」が「逢坂の関」の途中の路上に待機している。

 ここまでが、「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(C図とD図)との「ストーリー」(場面の流れ)である。そして、この「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」(C図とD図)は、六曲一双の屏風として完結しているのだが、次の六曲一隻屏風のA図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」
は、D図の「関屋図屏風」との関連で、どういう場面で、どういうストーリー(場面の転換)
のイメージ(「鑑賞」して自分なりの「想像・創造・創作」する)を抱くかということになる。

関屋図屏風・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」

 ここで、 『源氏物語』第十六帖「関屋」の登場する主要な人物は、次の六人ということになる。

光る源氏→ 殿 (二十九歳?)
空蝉→  帚木・女君(伊予介の後妻)
伊予介→ 常陸守・常陸(空蝉の夫)
小君→  右衛門佐・佐(空蝉の弟)
紀伊守→ 河内守・守(伊予介の子)
紀伊守の弟→右近衛尉(伊予介の子、光源氏の従者?)

関屋図・光広.jpg

A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」(拡大図)

 このA図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「第四・五扇」に描かれている、向き合っている二人の人物は誰か? 「第四扇」の若い従者は、貴人に仕える「近侍(近仕)」の一人か? 上記の登場人物の「小君」(右衛門佐)とも解せるが、D図(第二・三扇)の「小君」(右衛門佐)とは別人物のようなので、「小君」(右衛門佐)とは別人物の若い「近侍(近仕)」の一人と解して置きたい。
 もう一人の、「第五扇」の髭を生やした人物は誰か? 上記の登場人物の中ですると、「空蝉」の夫の「常陸守」(伊予介)という雰囲気である。「紀伊守」(河内君)は、「16.2 源氏、石山寺参詣」「16.3 逢坂の関での再会」には出て来ないので、除外して、一応、「「常陸守」(伊予介)として置きたい。
 さらに、前提として、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「烏丸光広賛」は書いてないということで、この場面のストーリー化を試みると次のとおりである。

(第一ストーリー=「牛車」に乗っているのは「光源氏」)

第一扇→「小君」に託した「空蝉」の対応を「光源氏」は待ちくたびれている。
第二・三扇→「空蝉」一行から従者の一人が来たようだが「あれは誰か」?
第四・五扇→「空蝉」の夫「常陸守」か? 「光源氏」の出迎えに参上したか?
第六扇→丸ごと「余白」で、後のストーリーは『源氏物語』(「関屋」)を参照されたい。

(第二ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉」)

第一・二・三扇→「空蝉」は「光源氏」との再会を逡巡している。
第四・五扇→「空蝉」は「光源氏」の従者(右近衛尉?)に「光源氏」への伝言を依頼?
第六扇→後のストーリーは『源氏物語』(「関屋」)を参照されたい。

 この二つのストーリーで、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の「烏丸光広賛」の、「殿は粟田山こえたまひぬ/行と来とせきとめがたき/なみだをや/関の清水と/人はみるらん/みぎのこゝろをよみて/かきつく(花押)/をぐるまのえにしは/あれなとしへつゝ/又あふみちにゆくもかへるも」が書いてあることを前提とすると、上記の(第一ストーリー=「牛車」に乗っているのは「光源氏」)はカットされ、(第二ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉」)の場面ということになる。
 この(第二ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉」)で行くと、このA図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の主役のような第五扇の「髭を生やした人物」(「空蝉」の夫の「常陸守」クラスの人物)が、謎の人物となるが、この謎の人物を、「常陸守」の長男の「紀伊守」の弟の「右近衛尉」(「光源氏」に仕えている)と解することも出来るのかも知れない。
 しかし、それだけでは、「宗達絵画」(「宗達屏風」「宗達絵巻」「宗達扇絵」など)の「仕掛け」(意表を突く面白み)が今一つ伝わって来ない。
 何か「仕掛け」(意表を突く面白み)があるとすると、この第五扇の「髭を生やした人物」を、「空蝉」の夫の「常陸守」の次男で「光源氏」の従者になっている「右近衛尉」と、この「賛」の書き手の「大納言・烏丸光広」とが、一人二役で登場しているとすると、A図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」の、この「絵」(筆)と「文」(賛)との「コラボレーション」(「協同・共同」創作)が活きてくる。

(第三ストーリー=「牛車」に乗っているのは「空蝉と「常陸守」」、そして、第五扇の「髭の人物」は「常陸守」の次男「右近衛尉」と、その「右近近衛尉」を仮の姿とする「大納言・烏丸光広」)

第一扇→牛車の中の「空蝉と夫の常陸守」は「光源氏」一行が通過するのを待ちくたびれている(眠っている従者が示唆している)。
第二扇→「空蝉」の弟の「「小君」(右衛門佐)は、「光源氏」一行が来たら挨拶するかどうか
    思案している(三人の人物の一番上の人物?)。
第三扇→「空蝉」を懸想している「河内守(常陸守の長子)」は、親父(常陸守)似の弟「光源氏」の使者となっている実弟の「右近衛尉」のを見詰めている(第二扇の「右衛門佐」の前の人物?)
第四扇→「空蝉」の使者(「空蝉」の化身?)が、「光源氏」の使者・「右近衛尉」(「常陸守」の次子、この賛を書いた(「大納言・烏丸光広」の化身?)に、一部終始を伝えている。
第五扇→(第三扇上部余白)から(第五扇上部)にかけて、「空蝉」の使者(「空蝉」の化身?)が、「光源氏」の使者・「右近衛尉」(「常陸守」の次子、この賛を書いた(「大納言・烏丸光広」の化身?)への伝言の内容が、下記のとおり光広が賛(散らし書き)をしている。

(第三扇上部余白)
うち出
(第四扇上部余白)

はまくるほど

殿は
粟田山
こえたまひ

行と
来と
せきとめ
がたき
(第五扇上部余白)
なみだをや
関の清水と
人は
みるらん

第六扇→第六扇一面が余白で、 ここに、「光源氏」の使者・「右近衛尉」(「大納言・烏丸光広」の化身?)が「光源氏」に伝えること約し、その「空蝉」の贈歌に対し、この賛を書いた(「大納言・烏丸光広」の化身?)が、次のとおりの賛(答歌)を散らし書きしている。

みぎのこゝろをよみて
かきつく(花押)
をぐるまのえにしは
あれなとしへつゝ
又あふみちに
ゆくも
かへるも」

 ここで、「空蝉の贈歌」を見ると、これが実に手の込んだ一首なのである。

行くと来とせき止めがたき涙をや
   絶えぬ清水と人は見るらむ   空蝉

「行くと来(く)とせき止めがたき」→「行く人も来る人も関は止めることが出来ない」の「関止め難き」と、次の「涙」を「塞き止め難き」(塞き止めることは出来ない)とを掛けている。
 そして、この「涙」が「絶えぬ」と、次の「清水」が「絶えぬ」とを掛け、さらに、この「清水」は、「関の岩清水」の歌枕「逢坂の関の石清水」で、次の「逢坂の関」の和歌などを踏まえての一首ということになる。

あふさかの関に流るる石清水言はで心に思ひこそすれ(よみ人知らず「古今集」)
これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関(蝉丸「後撰集」)
逢坂の関の清水に影見えて今やひくらむ望月の駒(紀貫之「拾遺集」)

 これに対する「光広の答歌」は、技巧的な空蝉の一首に対して、下記の『東行記』冒頭の一首(「知る知らず会ひ問ひかわす旅人の行くと帰ると逢坂の関」)など、自己の旅行体験などを踏まえ、「表」の意とか「裏」の意とか考えないで、当意即妙に、空蝉の一首に和しているような雰囲気である。

をぐるま(御車)のえにし(縁)はあれなとし(年)へ(経)つゝ
 又あふみち(近江路)にゆく(行)もかへ(帰)るも     烏丸光広

光広・逢坂の関.jpg

「東行記・烏丸光広筆」(東京国立博物館蔵・一巻・彩箋墨書)中の「逢坂の関」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/482788/2
「しるしらず 会(ひ)とひかわす 旅人の 行(く)とかへると あふ坂の関」
【烏丸光広は江戸時代初期の公卿。古今伝授を受けるほか、歌人として著名である。彼は朝廷と江戸幕府の斡旋役として度々江戸に下向したが、この1巻はその折の紀行文をもとに、和歌やスケッチを加えた旅日記である。光広独自の書風を確立した晩年の筆跡。】

 元和四年(一六一八)、光広、四十歳の時、徳川家康三回忌に江戸に下向し、その時の紀行文を『あづまの道の記』として遺している。その『あづま道の記』は、次のアドレスで見ることが出来る。

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100291419/viewer/1

 また、上記の「東行記」(東京国立博物館蔵)の草稿本(京都国立博物館蔵)の「逢坂の関・瀬田の長橋・鈴鹿山」は、下記のアドレスなどが参考となる。

https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/shoseki/59tokoki.html

 なお、光広の『あづまの道の記』は、中世三大紀行文(ほかに『海道記』、『十六夜日記』)の一つに数えられる『東関紀行』を参考にしている。『東関紀行』は下記のアドレスで見ることが出来る。その「逢坂の関・近江路」の所を抜粋して置きたい。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/tokan.htm

【 東山の邊なるすみかを出て、相坂の關うち過ぐる程に、駒ひきわたる望月の比も、漸近き空なれば、秋霧立ちわたりて、ふかき夜の月影かすかなり。木綿付鳥幽に音づれて、遊子(孟甞君之故事)猶殘月に行きけむ、幽谷の有樣思ひ合せ(いでイ)らる。むかし蝉丸といひける世捨人、此の關の邊にわらやの床をむすびて、常は琵琶をひきて心をすまし、大和歌を詠じておもひを述けり。嵐の風はげしきをわびつゝぞ過しける。ある人の云ふ「蝉丸は延喜第四の宮にておはしけるゆゑに、この關のあたりを四の宮河原と名づけたり」といへり。
  「いにしへのわらやのとこのあたりまで心をとむる相坂の關」。
 東三條院(詮子一條御母)石山に詣でゝ、還御ありけるに、關の清水を過させ給ふとて、よませ給ひける御歌、「あまたゝびゆきあふ坂の關水にけふをかぎりのかげぞかなしき」と聞こゆるこそいかなりける御心のうちにか、と哀に心ぼそけれ。關山を過ぎぬれば、打出の濱、粟津の原なんどきけども、いまだ夜のうちなれば、さだかにも見わからず。昔天智天皇の御代、大和國飛鳥の岡本の宮より、近江の志賀の郡に都うつりありて、大津の宮を造られけりときくにも、此の程はふるき皇居の跡ぞかしとおぼえて哀なり。
  「さゞ波や大津の宮のあれしより名のみ殘れるしがの故郷」。
 曙の空になりて、せたの長橋うち渡すほどに、湖はるかにあらはれて、かの滿誓沙彌が、比叡山にて此の海を望みつゝよめりけむ歌(萬葉巻三拾遺哀傷)おもひ出でられて、漕ぎゆくふねのあとの白波、まことにはかなく心ぼそし。
  「世の中をこぎゆく舟によそへつゝながめし跡を又ぞ眺むる」。 】(『東関紀行』抜粋)
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醍醐寺などでの宗達(その六・「醍醐寺の障壁画・装飾画」) [宗達と光広]

その六 「関屋澪標図屏風」(俵屋宗達筆 六曲一双)周辺

関屋澪標図屏風.jpg

A図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝 静嘉堂文庫美術館蔵
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html

【俵屋宗達(生没年未詳)は、慶長~寛永期(1596~1644)の京都で活躍した絵師で、尾形光琳、酒井抱一へと続く琳派の祖として知られる。宗達は京都の富裕な上層町衆や公家に支持され、当時の古典復興の気運の中で、優雅な王朝時代の美意識を見事によみがえらせていった。『源氏物語』第十四帖「澪標」と第十六帖「関屋」を題材とした本作は、宗達の作品中、国宝に指定される3点のうちの1つ。直線と曲線を見事に使いわけた大胆な画面構成、緑と白を主調とした巧みな色づかい、古絵巻の図様からの引用など、宗達画の魅力を存分に伝える傑作である。寛永8年(1631)に京都の名刹・醍醐寺に納められたと考えられ、明治29年(1896)頃、岩﨑彌之助による寄進の返礼として、同寺より岩﨑家に贈られたものである。】

 この国宝となっている宗達の「関屋澪標図屏風」(六曲一双)は、現在は静嘉堂文庫美術館所蔵となっているが、もともとは醍醐寺所蔵のものであった。それが、上記の紹介記事にあるように、明治二十九年(一八九六)に静嘉堂創設者の岩崎弥之助(一八五一~一九〇八)へ寄進の返礼として、同寺より岩崎家に贈られたものなのである。
 この「関屋澪標図屏風」は、画面向って右に「関屋」の隻、左に「澪標」の隻を並べて鑑賞するのが一般的である。これは右隻の落款が右端、左隻の落款が左端に位置することで、「六曲一双」の屏風としては、それが自然であろうという程度の確然としたものではない。
 現に、『源氏物語』の順序からしても、「澪標」(第十四帖)、「関屋」(第十六帖)と、右隻に「澪標」、左隻に「関屋」が自然で、落款が中央に集まるのは、同じ六曲一双の「雲龍図屏風」(フリーア美術館)があり問題にならないとし、各隻の並べ方については「複数の解釈が可能な屏風」として差し支えないようである(「俵屋宗達『関屋澪標図屏風』をめぐるネットワーク」)→(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p26~)。
 ここは、『源氏物語』の、「澪標」(第十四帖)そして「関屋」(第十六帖)の、この順序で鑑賞したい。

澪標図屏風.jpg

B図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

 この「澪標図屏風」が制作された寛永八年(一六三二)時、この屏風の注文主の、醍醐寺三宝院の門跡・覚定((1607-1661))は、二十五歳の頃であった。
 その覚定の『寛永日々記』の「源氏物語屏風壱双 宗達筆 判金一枚也 今日出来、結構成事也」(九月十三日条)の、この「結構成事也」について、「第十四帖『澪標』ならば住吉、第十六帖『関屋』ならば逢坂の関という野外を舞台とした絵画化が可能となる。さらに、この二帖を一双の屏風で描いた場合、海と山で対比が作れる。また、前者は明石君、後者は空蝉に源氏が偶然出会うという共通点もある。くわえて、この二帖は不遇な時期を乗り越え、源氏が都に返り咲いた時期の話で申し分がない。源氏の年齢設定も当時の覚定の年齢に近い」と指摘している(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p54~)。
 ここに、もう一つ、この「澪標図屏風」に描かれている、この場面は、『源氏物語』第十四帖「澪標」をベースにしている、能楽「住吉詣」の場面で、能楽に関心の深い覚定に取っては、ことさらに、このことが、「結構成事也」の、その理由の一つに挙げられるものと解したい。

http://www.nohgakuland.com/know/kyoku/text/sumiyoshimoude.htm

ロンギ「不思議やな。ありし明石の浦浪の。立ちも帰らぬ面影の。
それかあらぬか舟かげの。信夫もじずり誰やらん。
シテ「誰ぞとは。よそに調の中の緒の。其音違はず逢ひ見んの。
頼めを早く住吉の。岸に生ふてふ草ならん。
源氏「忘草。々々。生ふとだに聞く物ならば。其かね言もあらじかし。
地「実になほざりに頼めおく。その一言も今ははや。
源氏「ありし契の縁あらば。
地「やがての逢瀬も程あらじの。心は互に。変らぬ影も盃の。度重なれば惟光も。
惟光「傅御酌をとりどりの。
地「酔に引かるゝ戯の舞。面はゆながらもうつりまひ


(『源氏物語』第十四帖「澪標」)=光源氏=二十八歳から二十九歳---(呼称)源氏の君・源氏の大納言・源氏の大殿・大殿・大殿の君・内大臣殿・君

http://james.3zoku.com/genji/genji14.html

14.1 故桐壺院の追善法華御八講
14.2 雀帝と源氏の朧月夜尚侍をめぐる確執
14.3 東宮の御元服と御世替わり
14.4 宿曜の予言と姫君誕生
14.5 宣旨の娘を乳母に選定
14.6 乳母、明石へ出発
14.7 紫の君に姫君誕生を語る
14.8 姫君の五十日の祝
14.9 紫の君、嫉妬を覚える
14.10 花散里訪問
14.11 筑紫の五節と朧月夜尚侍
14.12 旧後宮の女性たちの動向
14.13 冷泉帝後宮の入内争い

14.14 住吉詣で
【その秋、住吉に詣でたまふ。願ども果たしたまふべければ、いかめしき御ありきにて、世の中ゆすりて、上達部、殿上人、我も我もと仕うまつりたまふ。
折しも、かの明石の人、年ごとの例のことにて詣づるを、去年今年は障ることありて、おこたりける、かしこまり取り重ねて、思ひ立ちけり。
舟にて詣でたり。岸にさし着くるほど、見れば、ののしりて詣でたまふ人のけはひ、渚に満ちて、いつくしき神宝(かみだから)を持て続けたり。楽人、十列(とおずら)など、装束をととのへ、容貌を選びたり。
「誰が詣でたまへるぞ」
と問ふめれば、
「内大臣殿の御願果たしに詣でたまふを、知らぬ人もありけり」
とて、はかなきほどの下衆だに、心地よげにうち笑ふ。
「げに、あさましう、月日もこそあれ。なかなか、この御ありさまを遥かに見るも、身のほど口惜しうおぼゆ。さすがに、かけ離れたてまつらぬ宿世ながら、かく口惜しき際の者だに、もの思ひなげにて、仕うまつるを色節(いろふし)に思ひたるに、何の罪深き身にて、心にかけておぼつかなう思ひきこえつつ、かかりける御響きをも知らで、立ち出でつらむ」 など思ひ続くるに、いと悲しうて、人知れずしほたれけり。】

14.15 住吉社頭の盛儀
【松原の深緑なるに、花紅葉をこき散らしたると見ゆる表(うえ)の衣の、濃き薄き、数知らず。六位のなかにも蔵人は青色しるく見えて、かの賀茂の瑞垣恨みし右近将監(うこんのじょう)も靫負(ゆげひ)になりて、ことごとしげなる随身具したる蔵人なり。
良清も同じ佐にて、人よりことにもの思ひなきけしきにて、おどろおどろしき赤衣姿、いときよげなり。
すべて見し人びと、引き変へはなやかに、何ごと思ふらむと見えて、うち散りたるに、若やかなる上達部、殿上人の、我も我もと思ひいどみ、馬鞍などまで飾りを整へ磨きたまへるは、いみじき物に、田舎人も思へり。
御車を遥かに見やれば、なかなか、心やましくて、恋しき御影をもえ見たてまつらず。河原大臣の御例をまねびて、童随身を賜りたまひける、いとをかしげに装束(そうぞ)き、みづら結ひて、 紫裾濃(むらさきすそご)の元結なまめかしう、丈姿ととのひ、うつくしげにて十人、さまことに今めかしう見ゆ。
大殿腹の若君、限りなくかしづき立てて、馬添ひ、童のほど、皆作りあはせて、やう変へて装束そうぞきわけたり。
雲居遥かにめでたく見ゆるにつけても、若君の数ならぬさまにてものしたまふを、いみじと思ふ。いよいよ御社の方を拝みきこゆ。
国の守参りて、御まうけ、例の大臣などの参りたまふよりは、ことに世になく仕うまつりけむかし。
いとはしたなければ、
「立ち交じり、数ならぬ身の、いささかのことせむに、神も見入れ、数まへたまふべきにもあらず。帰らむにも中空なり。今日は難波に舟さし止めて、祓へをだにせむ」
とて、漕ぎ渡りぬ。】

14.16 源氏、惟光と住吉の神徳を感ず
14.17 源氏、明石の君に和歌を贈る
14.18 明石の君、翌日住吉に詣でる
14.19 斎宮と母御息所上京
14.20 御息所、斎宮を源氏に託す
14.21 六条御息所、死去
14.22 斎宮を養女とし、入内を計画
14.23 朱雀院と源氏の斎宮をめぐる確執
14.24 冷泉帝後宮の入内争い

関屋図屏風一.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

(『源氏物語』第十六帖「関屋」)=光源氏=二十九歳=(呼称)---殿

http://james.3zoku.com/genji/genji16.html

16.1 空蝉、夫と常陸国下向
【伊予介といひしは、故院崩れさせたまひて、またの年、常陸になりて下りしかば、かの帚木もいざなはれにけり。須磨の御旅居も遥かに聞きて、人知れず思ひやりきこえぬにしもあらざりしかど、伝へ聞こゆべきよすがだになくて、筑波嶺の山を吹き越す風も、浮きたる心地して、いささかの伝へだになくて、年月かさなりにけり。限れることもなかりし御旅居なれど、京に帰り住みたまひて、またの年の秋ぞ、常陸は上りける。】

16.2 源氏、石山寺参詣
【関入る日しも、この殿、石山に御願果しに詣でたまひけり。京より、かの紀伊守(きのかみ)などいひし子ども、迎へに来たる人びと、「この殿かく詣でたまふべし」と告げければ、「道のほど騒がしかりなむものぞ」とて、まだ暁より急ぎけるを、女車多く、所狭うゆるぎ来るに、日たけぬ。
打出の浜来るほどに、「殿は、粟田山越えたまひぬ」とて、御前の人びと、道もさりあへず来込みぬれば、関山に皆下りゐて、ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。車など、かたへは後らかし、先に立てなどしたれど、なほ、類広く見ゆ。
車十ばかりぞ、袖口、物の色あひなども、漏り出でて見えたる、田舎びず、よしありて、斎宮の御下りなにぞやうの折の物見車思し出でらる。殿も、かく世に栄え出でたまふめづらしさに、数もなき御前ども、皆目とどめたり。】

16.3 逢坂の関での再会
【九月晦日つごもりなれば、紅葉の色々こきまぜ、霜枯れの草むらむらをかしう見えわたるに、関屋より、さとくづれ出でたる旅姿どもの、 色々の襖(あお)のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ。御車は簾下ろしたまひて、かの昔の小君、今、右衛門佐(えもんのすけ)なるを召し寄せて、
「今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ」
などのたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とりかへして、ものあはれなり。
「行くと来とせき止めがたき涙をや
絶えぬ清水と人は見るらむ
え知りたまはじかし」と思ふに、いとかひなし。】

16.4 昔の小君と紀伊守
16.5 空蝉へ手紙を贈る
16.6 夫常陸介死去
16.7 空蝉、出家す

 http://wakogenji.o.oo7.jp/nohgaku/noh-genji.html

 上記のアドレスによると「現存する謡曲235曲の中に、「源氏物語」を題材にするものは下記の10曲」のようである。

半蔀(はじとみ)   「夕 顔」 第五帖  シテは夕顔の上
夕顔(ゆうがお)   「夕 顔」 第五帖  シテは夕顔の上
葵上(あおいのうえ) 「葵」 第九帖  シテは六条御息所
野宮(ののみや)   「賢木」第十帖  シテは六条御息所
須磨源氏(すまげんじ)「須磨・明石」第十二帖、十三帖 シテは光源氏
住吉詣(すみよしもうで)「澪標」 第十四帖  シテは明石の上
玉鬘(たまかずら)  「玉鬘」第二十二帖  シテは玉鬘
落葉(おちば)    「若菜」第三十四帖  シテは落葉の宮
浮舟(うきふね)   「宇治十帖より 「浮舟」  シテは浮舟
源氏供養(げんじくよう)「源氏物語表白」  シテは紫式部

この他に「新作能」として、次のものが挙げられている。

碁(ご)        「空蝉」第三帖  シテ空蝉
夢浮橋(ゆめのうきはし)「宇治十帖・最終章」 シテ修行僧 (瀬戸内寂聴作)

 この「碁」については、次のアドレスによると、「帚木」「空蝉」の巻を典拠とし、「長い間廃曲となっていましたが、「世阿弥生誕六百年前夜祭公演」として昭和37年(1962年)11月23日に二十五世金剛巌宗家により復曲」されたとあり、宗達が描く「関屋図屏風」の「源氏の石山詣でと空蝉との再会」の場面ではない。

http://www.kotennohi.jp/?page_id=2459

 宗達には、もう一枚の「関屋図屏風」(六曲一隻・烏山光広賛・東京国立博物館蔵=国宝)がある。
次のD図である。大きさは、C図(静嘉堂文庫美術館蔵=醍醐寺三宝院旧蔵=国宝)が「一五二・二×三五五・六㎝」に対して「九五・五5×二七三・〇㎝」とやや小ぶりである。
ここで、このD図とC図と交互に、『源氏物語』第十六帖「関屋」(「16.2 源氏、石山寺参詣」「16.3 逢坂の関での再会」など)の原文などを照合して見て行くと、宗達が、この二枚の絵(C図とD図)に託した(仕掛けた)、その謎の一端が明らかになってくる。

https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=null&content_base_id=100349&content_part_id=000&content_pict_id=000

関屋図屏風・光広.jpg

D図「関屋図(俵屋宗達筆・烏丸光広賛)」( 六曲一隻 紙本金地着色  九五・五×二七三・〇㎝ 東京国立博物館蔵 国宝)
【『源氏物語』の「関屋」を絵画化したもの。図上に烏丸光広(1579~1638)が「関屋」の一節と自詠の和歌を書きつけている。光源氏が石山詣の途中、逢坂の関でかつての恋人空蝉(うつせみ)の一行と出会う場面で、絵は背景を一切省いた金地に、源氏らに道を譲るために牛車を止めて待つ空蝉の一行のみを描く。さまざまな姿態に描かれる従者たちは、「西行物語絵巻」や「北野天神縁起絵巻」など、先行するやまと絵作品から図様を転用していることが指摘されている。「宗達法橋」の署名と「対青軒」の朱文円印、賛に光広最晩年の花押(かおう)がある。「住吉家古画留帳(すみよしけこがとめちょう)」(東京藝術大学蔵)には、文化12年(1815)8月13日に、住吉広尚(すみよしひろなお)(1781~1828)が「等覚院(とうがくいん)抱一」(酒井抱一)の依頼で、この屏風を「宗達筆正筆ト申遺ス」と鑑定したことが記録されている。うち出のはまくるほどに/殿は粟田山こえたまひぬ/行と来とせきとめがたき/なみだをや/関の清水と/人はみるらん/みぎのこゝろをよみて/かきつく(花押)/をぐるまのえにしは/あれなとしへつゝ/又あふみちにゆくもかへるも  】

関屋図屏風一.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

 上記のD図の「牛車」に乗っている人は誰か?→ 空蝉
 上記のC図の「牛車」に乗っている人は誰か?→ 光源氏
 
 上記のD図の「場面」は『源氏物語』の何処か?→ 『源氏物語』第十六帖「関屋」(「16.2 源氏、  
                          石山寺参詣」)
 上記のC図の「場面」は『源氏物語』の何処か?→ 『源氏物語』第十六帖「関屋」(「「16.3 逢坂
                          の関での再会」)

上記のD図の「牛車」の「牛」は? →「牛車」から離されて休息中
上記のC図の「牛車」の「牛」は?   →光源氏の「牛車」の「牛」は必死に「関屋」へ
                   空蝉「牛車」の「牛」は休息中

澪標図屏風.jpg

B図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「澪標図屏風」

関屋図屏風一.jpg

C図「関屋澪標図屏風(俵屋宗達筆)」の「関屋図屏風」

 このB図とC図との注文主の、二十五歳の「醍醐寺三宝院門跡・覚定」は、この二枚のB図とC図に、「結構成事也」と大満足をしたのである。
 その大きな理由は、このB図とC図に描かれている「牛」が、この「牛車」に乗っている「光源氏」の、この場面での「心境」を如実に表現しているからに他ならない。
 B図の「牛」は、海の上の船中に居る「明石上」を、「光源氏」に替わって、見送っているのである。そして、C図の「牛」は、「牛車」に乗っている「光源氏」が、左端の「牛車」に居る「空蝉」に再会したい、その「心境」を察して、必死になって「関屋」に入ろうとする、それらの「牛」の表情・仕草が、二十五歳の「醍醐寺三宝院門跡・覚定」をして、「結構成事也」と言わしめた最大の原因ということになる。
タグ:障壁画
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醍醐寺などでの宗達(その五・「醍醐寺の舞楽図屏風―採桑老」) [宗達と光広]

その五 醍醐寺の「舞楽図屏風―採桑老」周辺

舞樂図屏風.jpg

「金地著色舞楽図〈宗達筆/二曲一双屏風〉」(重要文化財) 紙本金地着色 各 一九〇・〇×一五五・〇㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青」朱文円印 醍醐寺三宝院
https://www.daigoji.or.jp/about/cultural_asset.html

 この「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)」周辺については、前々回(その四)、前回(その五)に次いで、今回が三回目となる。これは、狩野永岳の、次の「採桑老」に接したからに他ならない。

採桑老・詠岳.jpg

D図「舞楽図屏風(狩野永岳筆)」中の「採桑老」(部分図) 六曲一双(左隻一~二扇)
各157.4×363.0 東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0097236

舞樂図右隻.jpg

B図「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)右隻」(右上に「法橋宗達」の落款と「対青」朱文円印、一扇の中央「採桑老」)

輪王寺右隻.jpg

C図「輪王寺・舞樂図屏風右隻」(「四扇」下段=「採桑老」)

採桑老・狩野派.jpg

A図「舞楽図・採桑老」板絵著色 170.0×88.0(cm) 醍醐寺三宝院蔵
https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/sp_vol_11.html

狩野永岳(1790-1867)は、 俵屋宗達や狩野探幽を江戸初期の画人、尾形光琳を江戸中期の画人とすると、江戸後期の画人ということになる。一口で評すると「京狩野家九代。桃山風の画風を基本に円山四条派や文人画、復古大和絵など様々な画風を取り入れ、低迷する京狩野家を再興した」(ウィキペディア(Wikipedia)』)ということになる。
 この永岳が、安政二年(一八八五)に、寛政内裏の様式をほぼ踏襲して再建された、現在の京都御所の、その「御常御殿上段の間」の「堯任賢図治図」「桐竹鳳凰図」(襖絵)を描いている。この「上段の間」を担当するのは、その当時の絵師の中で最右翼の絵師であるということを意味する。その「桐竹鳳凰図」は、下記のとおりである。

桐竹鳳凰図 狩野永岳筆.jpg

「桐竹鳳凰図 狩野永岳筆」(京都御所「御常御殿上段の間の襖絵」)
http://kyouno.com/turezure/20070126_goshosyouhekiga.htm
【鳳凰は、古来中国で想像上の瑞鳥とされ、桐の樹に宿り、竹の実を食し、徳高き天子の兆しとして現れると伝えられていました。この鳳凰図は、御常御殿上段の間正面に描かれたもので、天子を象徴する意味でも極めて重要な4面です。】

 この狩野永岳の描いたD図「舞楽図屏風(狩野永岳筆)」中の「採桑老」は、紛れもなく、宗達のB図「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)右隻」の「採桑老」をアレンジしている。

永岳・羅陵王.jpg

D図「舞楽図屏風(狩野永岳筆)」中の「羅陵王」(部分図) 六曲一双(右隻一~三扇)
各157.4×363.0 東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0097236

 ここに描かれている「握舎」(幔幕)と「大太鼓と大鉦鼓」、そして、殊に、この「松と桜」は、宗達の「崑崙八仙」の上部に描かれた「松と桜」とを拡大して描いている。そして、宗達の「舞樂図屏風」の最もユニークな「崑崙八仙」の「青装束」の「青」は、D図「舞楽図屏風(狩野永岳筆)」中の「採桑老」の上部に流れている「流水」の「青」と化している。
 さらに、その永岳の「青」は、現在の京都御所のシンボルともされる「「桐竹鳳凰図」の「流水」と「鳳凰の翼」に活かされている。
タグ:障壁画
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醍醐寺などでの宗達(その四・「醍醐寺の障壁画・装飾画」) [宗達と光広]

その四 醍醐寺の障壁画・装飾画(「舞樂図屏風〈俵屋宗達筆〉」)周辺

https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/sp_vol_11.html

醍醐寺関係絵師.jpg

 障壁画を「装飾のために障子・襖・屛風・衝立 ・土壁などに描かれた絵画の総称」(旺文社日本史事典 三訂版)と解するならば、宗達の二曲一双の「「舞樂図屏風」は、「障壁画」ということになる。
そして、その「障壁画」の中で、特に、「近世の装飾性に富む絵画。俵屋宗達・尾形光琳らが始め,酒井抱一 (ほういつ) が継承した」(旺文社日本史事典 三訂版)とすると、宗達の「舞樂図屏風」は「装飾画」ということになる。
 しかし、ここでは、「障壁画」を、「装飾画」(著色画)、「水墨画」そして「扇面画」との三区分をし、その三区分での「装飾画」程度の大雑把なものである。
 そして、「障壁画」というのは、平安時代の寝殿造に応じた「大和絵障壁画」、室町時代の書院造に応じた「漢画障壁画」そして安土・桃山時代の」城郭建築に応じての「金碧障壁画(濃絵 (だみえ)」と区分されるのが常で、この建物の一部として使用されているものは、これまた、大雑把に「障壁画」として置きたい。
 このようなことを前提として、醍醐寺座主・三宝院門跡が住む「三宝院」の現在の障壁画は、下記のとおり、七十二面があり、それらは「長谷川等伯一派と石田幽汀」の作とされている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%9D%E9%99%A2

【三宝院障壁画 72面 - 長谷川等伯一派と石田幽汀の作

表書院障壁画 40面
紙本著色松柳図 床貼付3(上段の間)
紙本著色柳草花図 違棚壁貼付6、襖貼付4、戸襖貼付6(上段の間)
紙本著色果子図 違棚天袋貼付2(上段の間)
紙本著色四季山水図 襖貼付8、戸襖貼付11(中段の間)
勅使間秋草間障壁画 32面
紙本著色竹林花鳥図 襖貼付4、戸襖貼付4(勅使の間)
紙本著色秋草図 障子腰貼付6(勅使の間)
紙本著色秋草図 襖貼付8、戸襖貼付6、障子腰貼付4(秋草の間)】

 ここで、冒頭に示した「醍醐寺に関わる絵師達とその時代 (江戸時代 部分)」には、「石田幽汀(1721-1786)」の名は出て来るが、「長谷川等伯一派」の名は出て来ない。
 これは、冒頭関連図上の絵師達は、上記の障壁画以外の、座主が日常生活を営んでいる「三宝院奥宸殿および奥居間」に関係する絵師達のもので、「長らく建物から外され、別に保管されていた」の新出の障壁画関連の、「狩野素川信正(1607-1658)・狩野寿石敦信(1639頃-1718)・山本探川(1721-1780)・石田幽汀(1721-1786)」などの「狩野派」の絵師たちが中心になっているからに他ならない。
 しかし、この「醍醐寺に関わる絵師達とその時代 (江戸時代 部分)」が紹介されている、下記のアドレスの「新出の杉戸絵― 山本探川・山口素岳を中心にして ―(田中直子稿)」は、醍醐寺の全体の障壁画を知る上で必須の貴重なデータが満載されている。

https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/sp_vol_11.html

 この「醍醐寺に関わる絵師達とその時代 (江戸時代 部分)」で、「宗達・光琳」関連と深い関係にあると思われる「醍醐寺座主(三宝院門跡)」は、次の三人ということになろう。

醍醐寺座主(三宝院門跡)八十世・義演(1558-1626)→醍醐寺中興。醍醐寺座主八十世。関白三条晴良の子。金剛輪院を再興し、三宝院と称す。大伝法院座主。東寺長者。豊臣秀吉の帰依を受ける。後七日御修法を復興。
(醍醐の花見-豊臣秀吉と義演准后-)
https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/index.html

同八十一世・覚定(1607-1661)→鷹司信房の子。
(「俵屋宗達『関屋澪標図屏風』をめぐるネットワーク」)→(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p26~)
☆「覚定」の母(岳星院)と「狩野探幽」の母(養秀院)は姉妹で、「覚定と探幽」とは従弟の関係にある。また、「覚定」の姉(孝子)は三代将軍「徳川家光」の正室である。

同八十二世・高賢(1639-1707)→鷹司教平の子。大峰山入峰。『鳳閣寺縁起』を著す。宝池院大僧正。
(「京狩野の飛躍と光琳・乾山の登場」)→(『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(五十嵐公一著・吉川弘文館)』p93~)
☆「高賢」の妹(信子)は五代将軍「徳川綱吉」の正室である。

 この三人のうちの「八十世・義演(1558-1626)」の時代は「豊太閤醍醐の花見」に象徴される「豊臣家」の時代で、この時代には「豊臣家」に関係の深い「長谷川等伯一派」の障壁画が、「狩野派」と共に、その双璧を担っていたように思われる。
 そして、次の「八十一世・覚定(1607-1661)」の時代になると、「徳川家康・秀忠・家光」の時代で「狩野派(「狩野素川系」「鶴沢深山系」「山本素軒系」)と共に、「俵屋宗達」派が登場して来る。
 その次の「八十二世・高賢(1639-1707)」の時代が、「尾形光琳」そして、次の「石田幽汀」の時代で、その「石田幽汀」を師の一人とする「円山応挙」らの「円山四条派」が「京都画壇」の主流を占めて行くことを示唆している。

採桑老・狩野派.jpg

A図「舞楽図・採桑老」板絵著色 170.0×88.0(cm)江戸時代 18-19世紀
https://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/sp_vol_11.html
【本図は通常、三宝院の表書院と、座主の宸殿の境界に置かれている。松と舞楽「採桑老」の図であり、金泥を使い濃彩で描かれた松の構図と舞人の長く引く下襲(裾)のすその曲線が特徴的である。人物は太くおおらかな墨線で描かれ、堀塗りで仕上げられている。】

舞樂図右隻.jpg

B図「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)右隻(右上に「法橋宗達」の落款と「対青」朱文円印)

輪王寺右隻.jpg

C図「輪王寺・舞樂図屏風右隻」(「四扇」下段=「採桑老」)

 これらの三枚(A図・B図・C図)の「採桑老」のうち、B図(俵屋宗達筆)は、元和八年(一六二二)の「醍醐寺無量寿院本坊建つ(芦鴨図この頃成る?)から寛永七年(一六三〇)の「宗達法橋の位にある」(「西行物語絵巻奥書」)当時の制作であることは、ほぼ許容されることであろう。
そして、C図(「輪王寺・舞樂図屏風右隻」)は、宗達がB図を制作した頃の「後水尾天皇(後水尾院)」の第六皇子「守澄法親王(1634-1680)」= 初代輪王寺宮門跡・179代天台座主」が、「初代輪王寺宮門跡」となった明暦元年(一六五五)の頃と解することも、これまた、許容されることであろう。
とすると、現在の「三宝院の表書院と、座主の宸殿の境界に置かれている」、その板戸に描かれている「採桑老」(A図)は、「狩野素川信正(1607-1658)」か「狩野寿石敦信(1639頃-1718)」の、どちらかの作と推定し、そこから、「輪王寺・舞樂図屏風右隻」(C図)は、「狩野素川信正(1607-1658)・狩野寿石敦信(1639頃-1718)」に連なる「狩野派」の絵師達の手に因るもの解することも、これまた許容されるという思いがしてくる。
 として、改めて、これらの三枚(A図・B図・C図)の「採桑老」を見て行くと、例えば、その「下襲(裾)のすその曲線」は三者三葉で、それぞれ、「一枚の板戸」(A図)、「二曲一隻の屏風」(B図)、そして「六曲一隻の屏風」(C図)という、その空間に、どのように配置するかという、その描き手の「構図上の配慮」ということが伝わってくる。
 と同時に、この「採桑老」は、「白装束」の「白」色を基調にして描くということは、これは「採桑老」を描く場合の鉄則のようなものも伝わってくる。
それに対して、下記の宗達が描く「崑崙八仙」の「青装束」というのは、これは、まさに、「宗達」その人の独壇場という思いがしてくる。
例えば、A図「舞楽図・採桑老」、C図「輪王寺・舞樂図屏風右隻」そして、宗達自身のB図「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)右隻」の、それぞれ装束の色からして、この宗達が描く「崑崙八仙」の、この「青装束」というのは、これこそ、まさに、宗達が法橋になってからの印章の「対青」「対青軒」の、その「青」の由来なのではないかという思いが彷彿としてくる。
 「採桑老」の「白」が「老・死」というイメージならば、「崑崙八仙」の、この「青」は「青・生」の、輪廻的な「再生」というイメージと重なってくる。
舞楽にも『源氏物語』(第七帖 紅葉賀)の、「源氏中将は、青海波をぞ舞ひたまひける」の、「青海波」がある。この場面での光源氏は、十八歳から十九歳時の頃である。
もし、宗達の「対青」「対青軒」の「青」が「青海波」の「青」などに由来があると仮定すると、法橋宗達は、法橋叙任に伴い、この「舞樂図屏風」の、この「青」の「崑崙八仙」などに、新しい「宮廷絵師」として再スタートの決意を込めているという推論と結びついてくることになる。

崑崙八仙部分図.jpg

「舞樂図屏風(俵屋宗達筆)左隻の「崑崙八仙」(部分拡大図)

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