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「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その一) [光悦・宗達・素庵]

その一 「序」(その一)

鶴下絵和歌巻・全体.jpg

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」(絵・俵屋宗達筆 書・本阿弥光悦筆 紙本著色・34.0×1356.0cm・江戸時代(17世紀)・ 重要文化財・A甲364・京都国立博物館蔵)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

【本阿弥光悦の書蹟の代表作ということでも従来から著名な1巻。装飾芸術家としての俵屋宗達(活躍期、1602−1635)の真骨頂がみごとに発揮された作品である。描かれているモチーフはただ鶴のみに限られる。長大な巻物の冒頭から繰り広げられる鶴の群れは、一様に金と銀の泥で表現される。あるいは飛翔し、あるいは羽を休めて寄りつどう鶴の姿態は、単純そのものの筆使いで捉えられていながら、そのシルエットの美しさは比類がない。料紙装飾という限定された課題のなかで、ぎりぎりまで個性を表出し得た宗達の手腕を見てとることができよう。】

(周辺メモ)

一 「三十六歌仙」とは、一般的には、藤原公任(966-1041)による歌合形式の秀歌撰『三十六人撰』(以下略称「撰」)にもとづく三十六人の歌人を指す。その歌人は、「柿本人麻呂(上段①)=紀貫之(下段①)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね・上段②)=伊勢(下段②)、大伴家持(上段③)=山部赤人(下段③)、在原業平(上段④)=僧正遍昭(下段④)、素性法師(上段⑤)=紀友則(下段⑤)、猿丸大夫(上段⑥)=小野小町(下段⑥)、藤原兼輔(上段⑦)=藤原朝忠(下段⑦)、藤原敦忠(上段⑧)=藤原高光(下段⑧)、源公忠(上段⑨)=壬生忠岑(下段⑨)、斎宮女御(上段⑩)=大中臣頼基(下段⑩)、藤原敏行(上段⑪)=源重之(下段⑪)、源宗于(むねゆき・上段)=源信明(下段)、藤原清正(きよただ・上段)=源順(下段)、藤原興風(上段)=清原元輔(下段)、坂上是則(上段)=藤原元真(もとざね・下段)、小大君(上段)=藤原仲文(下段)、大中臣能宣(上段)=壬生忠見(下段)、平兼盛(上段)=中務(なかつかさ・下段)」である。 この三十六人の歌人のうち、十首六人、三首三十人の、百五十首を選出している。

二 藤原俊成(1114-1204)は、この公任の『三十六人撰』に選入された歌人三十六人について、各三首を選出した歌仙歌合形式の『俊成三十六人歌合』(以下略称「俊」)を編み、そこで公任の『三十六人撰』の歌四十三首は温存し、六十五首は自己の好みにかなう歌に入れ替えをしている。また、この『俊成三十六人歌合』では、公任の『三十六人撰』の上段の歌人は「左」に、その下段の歌人は「右」に配置されている。

三 「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」では、『俊成三十六人歌合』を基調として、その三十六人の各歌人の三首のうちの一首を選出しているが、歌人(例・柿本人麻呂)によっては、公任の『三十六人撰』から選出されているものがある。これは、下記のアドレスの「宗達を検証する : 宗達の居住地、及び宗達の社会的基盤について(林進稿)」によると、公任の『三十六人撰』や『俊成三十六人歌合』をテキストとしたのではなく、別の「三十六人歌合」(藤原俊成撰・近衛尚通増補)をテキストにしていると指摘している。
 また、その「宗達を検証する : 宗達の居住地、及び宗達の社会的基盤について(林進稿)」では、この「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」の書は、本阿弥光悦の書ではなく、「角倉素庵」の書であるとの異説を展開している。

http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/ronshu/20131.pdf

四 この「宗達を検証する : 宗達の居住地、及び宗達の社会的基盤について(林進稿)」は、『宗達絵画の解釈学(林進著・慶文舎刊・2016年)』のなかで、その全貌の一端を知ることが出来る。
その展開の口火になったものが、『没後三七〇年記念 角倉素庵---光悦・宗達・尾張徳川義直との交友関係の中で(大和文華館<林進>編・2002年)』で、これらに対し、『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編著・2004年)』で、「最近では、嵯峨本のみならず、これまで光悦と考えられてきた多くの筆跡を素庵にアトリビュート(属性を書き換える)しようとする展覧会も企画された」として、その「アトリビュート」にブレーキを掛けることを意図してものと、その『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編著・2004年)』を解することも出来よう。

五 その『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編著・2004年)』の、その末尾の「鼎談 江戸文化をコーディネートした光悦(渡辺憲司・田中優子・河野元昭)」の、この「鼎談」の「鼎」(古代中国で使われた三本足の鉄のかま)が色々な示唆を与えてくれる。その鼎の「三本足」に因んで、「光悦・宗達・素庵」(トリオ)の「鶴図下絵三十六歌仙(光悦・宗達・素庵)周辺」の探索を指向したい。
 この『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編著・2004年)』は、今に続く『光悦 琳派の創始者(河野元昭編・宮帯出版社・2015年)』と『宗達絵画の解釈学(林進著・慶文舎刊・2016年)』と相対立している。

六 ここで、上記の『光悦 琳派の創始者(河野元昭編・宮帯出版社・2015年)』の目次は次のようなものである。

Ⅰ 序論  「光悦私論」(河野元昭稿)
Ⅱ 光悦とその時代  
  「光悦と日蓮宗」(河内将芳稿)
   「近世初頭の京都と光悦村」(河内将芳稿)
    「光悦と寛永の文化サロン」(谷端昭夫稿)
    「光悦と蒔絵師五十嵐家」(内田篤呉稿)
   「光悦と能-能役者との交流」(天野文雄稿)
   「光悦と朱屋田中勝介・宗因」(岡佳子稿)
    「光悦と茶の湯」(谷端昭夫稿)
 Ⅲ 光悦の芸術  
    「書画の二重奏への道-光悦書・宗達画和歌巻の展開」(玉蟲敏子稿)
    「光悦の書」(根本知稿)
    「光悦蒔絵」(内田篤呉稿)
   「光悦の陶芸(岡佳子稿)
 Ⅳ 光悦その後  
    「フリーアと光悦-光悦茶碗の蒐集」(ルイーズ・A・コート稿)

七 この「目次」の「Ⅱ 光悦とその時代」に「光悦と嵯峨本(光悦と素庵)」の一項目を入れ、そして、この「Ⅲ 光悦の芸術」の「書画の二重奏への道-光悦書・宗達画和歌巻の展開(玉蟲敏子稿)」は、『日本美術のことばと絵((玉蟲敏子著・角川選書・2016年)』を経て、次のステップを期待しての、「和歌・書・画の三重奏の道―光悦・宗達・素庵らの和歌巻の展開」のようなネーミング、言わば「光悦・宗達・素庵」(トリオ)の「鶴図下絵三十六歌仙(光悦・宗達・素庵)周辺」の、そんな周辺探索を指向することとしたい。 

八 この「光悦・宗達・素庵」(トリオ)の組み合わせは、小説家(フランス文学者)・辻邦生著『嵯峨野明月記(新潮社・1971)』の「一の声(光悦)」「二の声(宗達)「三の声(素庵)」などが念頭にあることは言うまでもない。

「一の声(光悦)」=私が角倉与一(素庵)から私の書に対する賛辞でみちた手紙を受け取ったのもその頃のことだ。私は与一とはすでに十五年ほど前、角倉了以殿と会った折、一度会っているはずだが、むろんまだ、十二、三の少年だったわけで、直接な面識はほとんどないに等しかった。

「二の声(宗達)」=本阿弥(光悦)は角倉与一(素庵)からおのれ(宗達)の四季花木の料紙を贈られ、和歌集からえらんだ歌をそれに揮毫していて、それが公家や富裕の町衆のあいだで大そうな評判をとったことは、すでにおれのところに聞こえていた。

「三の声(素庵)」=わたしは史記を上梓したあと、観世黒雪(徳川家と親しい能役者・九世観世大夫)の校閲をたのんで、華麗な謡本に熱中していた。その頃は、本阿弥(光悦)がすでに装幀、体裁、版下を引きうけ、細心な指示をあたえていた。史記で用いた雲母摺りの唐草模様を、さらに華やかにするため、表紙の色を変え、題簽をあれこれと工夫した。

九 この辻邦生の『嵯峨野明月記(新潮社・1971)』が刊行された翌年(1972)、東京国立博物館創立100年を記念して、「創立百年記念特別展 琳派」が開催され、その図録が『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』が刊行されている。

 この図録(出品目録)には、「1風神雷神図屏風~50伊勢物語色紙」(「宗達」関係)・「51色紙(ベルリン美術館蔵)~104『光流四墨』」(「光悦・素庵・宗達・光広・嵯峨本」関係)・「105菊図屏風~120和歌巻」(「宗雪・相説・宗真」関係)・「121尾形宗謙草書巻~183乾山・芙蓉図扇面」(「宗謙・光琳・乾山」関係)・「184始興・耕作図~205宗理・禊図」(「始興・芦舟・光甫・何帛・芳中・宗理」関係)・「206抱一・夏秋草図屏風~240其一・菖蒲に蛾図」(「抱一・其一」関係)・「241光悦・舟橋蒔絵硯箱~259桜蒔絵螺鈿硯箱」(「光悦・光琳」関係)・「260光悦・黒楽茶碗~305乾山・色絵椿散文向付」(光悦・光甫・光琳・乾山)が収載され、「光悦・宗達・素庵・光琳・乾山・抱一・其一」関連のものとしては、その「琳派展関係略年表」と併せ、未だに、最もスタンダードな図録として、その意義はいささかも色褪せていない。

 しかし、ここには、「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」(絵・俵屋宗達筆 書・本阿弥光悦筆 紙本著色・34.0×1356.0cm・江戸時代(17世紀)・ 重要文化財・A甲364・京都国立博物館蔵)は収載されていない。

 この「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」が、陶芸家の文化勲章受章者・荒川豊蔵によって愛知県の旧家で発見されたのは昭和三十五年(一九六〇)の頃で(『宗達絵画の解釈学(林進著・慶文舎刊・2016年)』)、その後、京都国立博物館に寄託され、のち文化庁の所有を経て、京都国立博物館に配置換えされて、昭和五十二年(一九七七)六月に重要文化財に指定されている。

 この最初の 図版掲載は、林屋辰三郎ほか編『光悦』(第一法規出版、1964年)においてであるが、「創立百年記念特別展 琳派」が開催された昭和四十七年(一九七二)当時は、未だ展示するには時期尚早の状況であったのかも知れない。しかし、この「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」の先行作品のような下記の小品(参考A図・参考B図)が展示され、その作品解説は、次のとおりである。

短冊帖・千羽鶴.jpg

参考A図「四季草花下絵和歌短冊帖(千羽鶴)」一帖(山種美術館蔵)
俵屋宗達(絵)・本阿弥光悦(書) 紙本・金銀泥絵・彩色・墨書・短冊・画帖(1冊18枚のうち1枚) 37.6×5.9㎝
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/248875

【93「短冊帖・本阿弥光悦」一帖(山種美術館蔵)
  もと6曲1双の屏風に20枚貼り交ぜであったもので、現在は18枚が短冊帖に改装され、残る2枚は散佚した。金銀泥で描く装飾下絵は、桔梗に薄・波に千羽鶴・団菊・藤・つつじ・萩・朝顔ほかさまざまあり、いずれも構図に工夫が凝らされている。中に、胡粉を引いたものや金銀の砂子を撒いたものも散見する。とくに銀泥で描いた部分は墨付きの都合で、肉眼でも判然としない箇所があるが、その下絵を縫って見え隠れする豊潤な筆致がかえって立体感を生み出している。慶長年間の筆。(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』)の「モノクロ図版」の解説 】

群鶴蒔絵硯箱.jpg

参考B図「群鶴蒔絵硯箱」一合「蓋表」(東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0048252

【258 「群鶴蒔絵硯箱」(東京国立博物館蔵)
 方形、削面、隅切の被蓋造で、身の左に水滴と硯を嵌め、右に筆置と刀子入を置いた形式は琳派特有のものである。総体を沃懸地に仕立て、蓋表から身の表にかけて、流水に5羽の鶴が飛翔する図を表している。水文は描割で簡単に表わし、その上に厚い鉛板を嵌めこんで鶴を配し、くちばしや脚には銅板を用いている。一見無造作で簡略化した表現のように見えるが、各材料の用法などには充分配慮がゆきとどいた優品の一つである。(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』) )の「モノクロ図版」の解説 】

十 そして、平成二十年(二〇〇八)に開催された「尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展―継承と変奏(東京国立博物館他主催)」になると、その図録には、「1-03俵屋宗達下絵・本阿弥光悦筆◎(重要文化財=◎)鶴下絵三十六和歌巻 京都国立博物館」として「P56・P57・P58」の三頁見開きで、この長大な絵巻物(「34.0×1356.0cm」)の全貌が収載されることとなる。
 さらに、「1-20本阿弥光悦筆『四季草花下絵新古今集和歌色紙帖』東京・五島美術館」・「1-22観世流謡本『藍染川・慶長十一年観世黒雪奥書』奈良・大和文華館」・「1-26光悦謡謡本(上製本)『盛久』東京・法政大学能楽研究所・法政大学鴻山文庫」などが収載され、
「光悦・宗達・素庵」(トリオ)の「鶴図下絵三十六歌仙(光悦・宗達・素庵)周辺」探索の、その入り口は開放されているような、そんな思いを深くする。
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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十八) [三十六歌仙]

その十八 入道三品釈阿と西行法師

釋阿.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(入道三品釈阿)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056425

西行.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(西行法師)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056426

左方十八・皇太后宮大夫俊成
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010710000.html

 又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの

右方十八・西行法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010711000.html

 をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-05

釋阿二.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・皇太后宮大夫俊成」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009411

西行.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009429

(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

釋阿二.jpg

西行二.jpg

(周辺メモ)

藤原俊成(ふじわらのとしなり(-しゅんぜい)) 永久二年~元久元年(1114-1204) 法号:釈阿 通称:五条三位

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html

 藤原道長の系譜を引く御子左(みこひだり)家の出。権中納言俊忠の子。母は藤原敦家女。藤原親忠女(美福門院加賀)との間に成家・定家を、為忠女との間に後白河院京極局を、六条院宣旨との間に八条院坊門局をもうけた。歌人の寂蓮(実の甥)・俊成女(実の孫)は養子である。

「俊頼が後には、釈阿・西行なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり」(後鳥羽院「後鳥羽院御口伝」)。

「聞く人ぞ涙はおつる帰る雁なきて行くなる曙の空」(新古59)
【通釈】聞いている人の方こそ涙はこぼれ落ちるのだ。北へ帰る雁が鳴いて飛んでゆく曙の空よ。

「いくとせの春に心をつくし来ぬあはれと思へみ吉野の花」(新古100)
【通釈】幾年の春に心を尽くして来たのだろう。憐れと思ってくれ、吉野の桜の花よ。

「またや見む交野(かたの)の御野(みの)の桜がり花の雪ちる春の曙」(新古114)
【通釈】再び見ることができるだろうか、こんな光景を。交野の禁野に桜を求めて逍遙していたところ、雪さながら花の散る春の曙に出遭った。

「駒とめてなほ水かはむ山吹の花の露そふ井手の玉川」(新古159)

【通釈】馬を駐めて、さらに水を飲ませよう。山吹の花の露が落ち添う井手の玉川を見るために。

「昔思ふ草の庵(いほり)の夜の雨に涙な添へそ山ほととぎす(新古201)
【通釈】昔を思い出して過ごす草庵の夜――悲しげな鳴き声で、降る雨に涙を添えてくれるな、山時鳥よ。

「雨そそく花橘に風過ぎて山ほととぎす雲に鳴くなり」(新古202)
【通釈】雨の降りそそぐ橘の花に、風が吹いて過ぎる――すると、ほととぎすが雨雲の中で鳴いている。

「我が心いかにせよとて時鳥雲間の月の影に鳴くらむ」(新古210)
【通釈】私の心をどうせよというので、ほととぎすは雲間から漏れ出た月――それだけでも十分あわれ深い月影のもとで鳴くのだろう。

「誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば」(新古238)
【通釈】橘の花の香をかげば、亡き人を懐かしく思い出す――私も死んで過去の人となったならば、誰がまた橘の花に私を思い出してくれることだろうか。

「伏見山松の蔭より見わたせば明くる田の面(も)に秋風ぞ吹く」(新古291)
【通釈】伏見山の松の蔭から見渡すと、明けてゆく田の面に秋風が吹いている。

「水渋(みしぶ)つき植ゑし山田に引板(ひた)はへてまた袖ぬらす秋は来にけり」(新古301)
【通釈】夏、袖に水渋をつけて苗を植えた山田に、今や引板を張り渡して見張りをし、さらに袖を濡らす秋はやって来たのだ。

「たなばたのとわたる舟の梶の葉にいく秋書きつ露の玉づさ」(新古320)
【通釈】七夕の天の川の川門を渡る舟の梶――その梶の葉に、秋が来るたび何度書いたことだろう、葉に置いた露のように果敢ない願い文(ぶみ)を。

「いとかくや袖はしをれし野辺に出でて昔も秋の花は見しかど」(新古341)
【通釈】これほどひどく袖は涙に濡れ萎れたことがあったろうか。野辺に出て、昔も今のように秋の花々を眺めたことはあったけれど。

「心とや紅葉はすらむ立田山松は時雨にぬれぬものかは」(新古527)
【通釈】木々は自分の心から紅葉するのだろうか。立田山――その山の紅葉にまじる松はどうか、時雨に濡れなかっただろうか。そんなはずはないのだ。

「かつ氷りかつはくだくる山川の岩間にむせぶ暁の声」(新古631)
【通釈】氷っては砕け、砕けては氷る山川の水が、岩間に咽ぶような暁の声よ。

「ひとり見る池の氷にすむ月のやがて袖にもうつりぬるかな」(新古640)
【通釈】独り見ていた池の氷にくっきりと照っていた月が、そのまま、涙に濡れた袖にも映ったのであるよ。

「今日はもし君もや訪(と)ふと眺むれどまだ跡もなき庭の雪かな」(新古664)
【通釈】今日はもしやあなたが訪ねて来るかと眺めるけれど、まだ足跡もない庭の雪であるよ。

「雪ふれば嶺の真榊(まさかき)うづもれて月にみがける天の香久山」(新古677)
【通釈】雪が降ると、峰の榊の木々は埋もれてしまって、月光で以て磨いているかのように澄み切った天の香具山よ。

「夏刈りの芦のかり寝もあはれなり玉江の月の明けがたの空」(新古932)
【通釈】夏刈りの芦を刈り敷いての仮寝も興趣の深いものである。玉江に月が残る明け方の空よ。

「立ちかへり又も来てみむ松島や雄島(をじま)の苫屋波に荒らすな」(新古933)
【通釈】再び戻って来て見よう。それまで松島の雄島の苫屋を波に荒れるままにしないでくれ。

「難波人あし火たく屋に宿かりてすずろに袖のしほたるるかな」(新古973)
【通釈】難波人が蘆火を焚く小屋に宿を借りて、わけもなく袖がぐっしょり濡れてしまうことよ。

世の中は憂きふししげし篠原(しのはら)や旅にしあれば妹夢に見ゆ(新古976)
【通釈】篠竹に節が多いように、人生は辛い折節が多い。篠原で旅寝していれば、妻が夢に見えて、また辛くなる。

「うき世には今はあらしの山風にこれや馴れ行くはじめなるらむ」(新古795)
【通釈】辛い現世にはもう留まるまいと思って籠る嵐山の山風に、これが馴れてゆく始めなのだろうか。

「稀にくる夜半も悲しき松風をたえずや苔の下に聞くらむ」(新古796)
【通釈】稀に訪れる夜でも悲しく聴こえる松風を、亡き妻は絶えず墓の下で聞くのだろうか。

「山人の折る袖にほふ菊の露うちはらふにも千代は経ぬべし」(新古719)
【通釈】仙人が花を折り取る、その袖を濡らして香る菊の露――それを打ち払う一瞬にも、千年が経ってしまうだろう。

「君が代は千世ともささじ天(あま)の戸や出づる月日のかぎりなければ」(新古738)
【通釈】大君の御代は、千年とも限って言うまい。天の戸を開いて昇る太陽と月は限りなく在り続けるのだから。

「近江(あふみ)のや坂田の稲をかけ積みて道ある御代の始めにぞ舂(つ)く」(新古753)
【通釈】近江の坂田の稲を積み重ねて掛け、正しい道理の通る御代の最初に舂くのである。

「思ひあまりそなたの空をながむれば霞を分けて春雨ぞふる」(新古1107)
【通釈】思い悩むあまり、あなたの住む方の空を眺めると、霞を分けて春雨が降っている。

逢ふことはかた野の里の笹の庵(いほ)しのに露ちる夜半の床かな(新古1110)
【通釈】あの人に逢うことは難く、交野の里の笹葺きの庵の篠に散る露ではないが、しきりと涙がこぼれる夜の寝床であるよ。

「憂き身をば我だに厭ふいとへただそをだに同じ心と思はむ」(新古1143)
【通釈】辛い境遇のこの身を、自分自身さえ厭うています。あなたもひたすら厭うて下さい、せめてそれだけはあなたと心が一つだと思いましょう。

「よしさらば後の世とだに頼めおけつらさに堪へぬ身ともこそなれ」(新古1232)
【通釈】仕方ない、それなら、せめて来世だけでも約束して下さい。我が身は貴女のつらい仕打ちに堪えられず死んでしまいますから。

「あはれなりうたた寝にのみ見し夢の長き思ひに結ぼほれなむ」(新古1389)
【通釈】はかないことである。転た寝に見ただけの短い夢のような逢瀬が、長い恋となって私は鬱屈した思いを抱き続けるのだろう。

「思ひわび見し面影はさておきて恋せざりけむ折ぞ恋しき」(新古1394)
【通釈】歎き悲しむ今は、逢瀬の時に見た面影はさておいて、あの人をまだ恋していなかった頃のことが慕わしく思われるのである。

「五月雨は真屋の軒端の雨(あま)そそぎあまりなるまでぬるる袖かな」(新古1492)
【通釈】五月雨は、真屋の軒端から落ちる雨垂れが余りひどいように、ひどく涙に濡れる袖であるよ。

「嵐吹く峯の紅葉の日にそへてもろくなりゆく我が涙かな」(新古1803)
【通釈】嵐が吹き荒れる峰の紅葉が日に日に脆くなってゆくように、感じやすくなり、こぼれやすくなってゆく我が涙であるよ。

「杣山(そまやま)や梢におもる雪折れにたへぬ歎きの身をくだくらむ」(新古1582)
【通釈】杣山の木々の梢に雪が重く積もって枝が折れる――そのように、耐えられない嘆きが積もって我が身を砕くのであろう。

「暁とつげの枕をそばだてて聞くも悲しき鐘の音かな」(新古1809)
【通釈】暁であると告げるのを、黄楊の枕をそばだてて聞いていると、何とも悲しい鐘の音であるよ。

「いかにせむ賤(しづ)が園生(そのふ)の奧の竹かきこもるとも世の中ぞかし」(新古1673)
【通釈】どうしよう。賤しい我が園の奧の竹垣ではないが、深く引き籠って生きようとも、世間から逃れることはできないのだ。

「忘れじよ忘るなとだにいひてまし雲居の月の心ありせば」(新古1509)
【通釈】私も忘れまい。おまえも忘れるなとだけは言っておきたいものだ。殿上から眺める月に心があったならば。

「世の中を思ひつらねてながむればむなしき空に消ゆる白雲」(新古1846)
【通釈】世の中のことを次から次へ思い続けて、外を眺めていると、虚空にはなかく消えてゆく白雲よ。

「思ひきや別れし秋にめぐりあひて又もこの世の月を見むとは」(新古1531)
【通釈】思いもしなかった。この世と訣別した秋に巡り逢って、再び生きて月を眺めようとは。

「年暮れし涙のつららとけにけり苔の袖にも春や立つらむ」(新古1436)
【通釈】年が暮れたのを惜しんで流した涙のつららも解けてしまった。苔の袖にも春が来たのであろうか。

「今はわれ吉野の山の花をこそ宿の物とも見るべかりけれ」(新古1466)
【通釈】出家した今、私は吉野山の桜を我が家のものとして眺めることができるのだ。

「照る月も雲のよそにぞ行きめぐる花ぞこの世の光なりける」(新古1468)
【通釈】美しく輝く月も、雲の彼方という遥か遠い世界を行き巡っている。それに対して桜の花こそはこの世界を照らす光なのだ。

「老いぬとも又も逢はむと行く年に涙の玉を手向けつるかな」(新古1586)
【通釈】老いてしまったけれども、再び春に巡り逢おうと、去り行く年に涙の玉を捧げたのであった。

「春来ればなほこの世こそ偲ばるれいつかはかかる花を見るべき」(新古1467)
【通釈】春が来ると、やはりこの現世こそが素晴らしいと心惹かれるのである。来世ではいつこのような花を見ることができようか。そんなことは分かりはしないのだから。

「今日とてや磯菜つむらん伊勢島や一志(いちし)の浦のあまの乙女子」(新古1612)
【通釈】今日は正月七日というので、若菜の代りに磯菜を摘んでいるのだろうか。伊勢島の一志の浦の海人の少女は。

「昔だに昔と思ひしたらちねのなほ恋しきぞはかなかりける」(新古1815)
【通釈】まだ若かった昔でさえ、亡くなったのは昔のことだと思っていた親――その親が今もなお恋しく思われるとは、はかないことである。

「しめおきて今やと思ふ秋山の蓬がもとにまつ虫のなく」(新古1560)
【通釈】自身の墓と定めて置いて、今はもうその時かと思う秋山の、蓬(よもぎ)の繁る下で、私を待つ松虫が鳴いている。

「荒れわたる秋の庭こそ哀れなれまして消えなむ露の夕暮」(新古1561)
【通釈】一面に荒れている秋の庭は哀れなものだ。まして、今にも消えそうな露が庭の草木に置いている夕暮時は、いっそう哀れ深い。

「今はとてつま木こるべき宿の松千世をば君となほ祈るかな」(新古1637)
【通釈】今となっては、薪を伐って暮らすような隠棲の住まいにあって、その庭先に生える松に寄せて、千歳の齢を大君に実現せよと、なおも祈るのである。

「神風や五十鈴の川の宮柱いく千世すめとたてはじめけむ」(新古1882)
【通釈】五十鈴川のほとりの内宮(ないくう)の宮柱は、川の水が幾千年も澄んでいるように幾千年神が鎮座されよと思って建て始めたのであろうか。

「月さゆるみたらし川に影見えて氷にすれる山藍の袖」(新古1889)
【通釈】澄み切った月が輝く御手洗川に、小忌衣(おみごろも)を着た人の影が映っていて、その氷で摺り付けたかのような山藍の袖よ。

「春日野のおどろの道の埋れ水すゑだに神のしるしあらはせ」(新古1898)
【通釈】春日野の茨の繁る道にひっそり流れる水――そのように世間に埋もれている私ですが、せめて子孫にだけでも春日の神の霊験をあらわして下さい。

「今ぞこれ入日を見ても思ひこし弥陀(みだ)の御国(みくに)の夕暮の空」(新古1967)
【通釈】今目の当りにしているのがそれなのだ、入日を眺めては思い憧れてきた、阿弥陀如来の御国、極楽浄土の夕暮の空よ。

(参考)家長日記 俊成九十賀屏風歌 

https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/8dbad5ec177891bf86de8431bbfcdb89


(周辺メモ)西行(さいぎょう) 元永元~建久元(1118~1190) 俗名:佐藤義清 法号:円位

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html

 藤原北家魚名流と伝わる俵藤太(たわらのとうた)秀郷(ひでさと)の末裔。紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)を勤めた佐藤一族の出。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。俗名は佐藤義清(のりきよ)。弟に仲清がいる。年少にして徳大寺家の家人となり、実能(公実の子。待賢門院璋子の兄)とその子公能に仕える。保延元年(1135)、十八歳で兵衛尉に任ぜられ、その後、鳥羽院北面の武士として安楽寿院御幸に随うなどするが、保延六年、二十三歳で出家した。法名は円位。鞍馬・嵯峨など京周辺に庵を結ぶ。出家以前から親しんでいた和歌に一層打ち込み、陸奥・出羽を旅して各地の歌枕を訪ねた。久安五年(1149)、真言宗の総本山高野山に入り、以後三十年にわたり同山を本拠とする。

「岩間とぢし氷も今朝はとけそめて苔の下水みちもとむらん」(新古7)
【通釈】岩と岩の間を閉ざしていた氷も、立春の今朝は解け始めて、苔の生えた下を流れる水が通り道を探し求めていることだろう。

「ふりつみし高嶺のみ雪とけにけり清滝川の水の白波」(新古27)
【通釈】冬の間に降り積もった高嶺の雪が解けたのであるよ。清滝川の水嵩が増して白波が立っている。

「吉野山さくらが枝に雪ちりて花おそげなる年にもあるかな」(新古79)
【通釈】吉野山では桜の枝に雪が舞い散って、今年は花が遅れそうな年であるよ。

「吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ」(新古86)
【通釈】吉野山――ここで去年枝折(しおり)をして目印をつけておいた道とは道を変えて、まだ見ない方面の花をたずね入ろう。

「ながむとて花にもいたくなれぬれば散る別れこそ悲しかりけれ」(新古126)
【通釈】じっと見つめては物思いに耽るとて、花にもひどく馴染んでしまったので、散る時の別れが一層悲しいのだった。

「聞かずともここをせにせむほととぎす山田の原の杉のむら立」(新古217)
【通釈】たとえ聞こえなくとも、ここを時鳥の声を待つ場所としよう。山田の原の杉林を。

「ほととぎす深き峰より出でにけり外山のすそに声のおちくる」(新古218)
【通釈】時鳥は深い峰から今出たのだな。私が歩いている外山の山裾に、その声が落ちて来る。

「道の辺に清水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ」(新古262)
【通釈】道のほとりに清水が流れる柳の木蔭――ほんのしばらくのつもりで立ち止まったのだった。

「よられつる野もせの草のかげろひて涼しくくもる夕立の空」(新古263)
【通釈】もつれ合った野一面の草がふと陰って、見れば涼しげに曇っている夕立の空よ。

「あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風立ちぬ宮城野の原」(新古300)
【通釈】ああ、どれほど草葉の露がこぼれているだろうか。秋風が吹き始めた。宮城野の原では今頃――。

「雲かかる遠山畑(とほやまばた)の秋されば思ひやるだにかなしきものを」(新古1562)
【通釈】雲がかかっている、遠くの山の畑を眺めると、そこに暮らしている人の心が思いやられるが、ましてや秋になれば、いかばかり寂しいことだろう――思いを馳せるだけでも切なくてならないよ。

「月を見て心浮かれしいにしへの秋にもさらにめぐり逢ひぬる」(新古1532)
【通釈】月を見て心が浮かれた昔の秋に、再び巡り逢ってしまったことよ。

「夜もすがら月こそ袖にやどりけれ昔の秋を思ひ出づれば」(351)[新古1533]
【通釈】一晩中、月ばかりが涙に濡れた袖に宿っていた。昔の秋を思い出していたので。

「白雲をつばさにかけてゆく雁の門田のおもの友したふなり」(新古502)
【通釈】白雲を翼に触れ合わせて飛んでゆく雁が鳴いているのは、門田に残る友を慕っているのだ。

心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(新古362)
【通釈】心なき我が身にも、哀れ深い趣は知られるのだった。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮――。

「きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく」(新古472)
【通釈】蟋蟀は秋が深まり夜寒になるにつれて衰弱するのか、鳴き声が遠ざかってゆく。

「秋篠や外山の里やしぐるらむ伊駒(いこま)の岳(たけ)に雲のかかれる」(新古585)
【通釈】秋篠の外山の里では時雨が降っているのだろうか。生駒の山に雲がかかっている。

「津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり」(新古625)
【通釈】古歌にも詠まれた津の国の難波の春は夢であったのだろうか。今や葦の枯葉に風がわたる、その荒涼とした音が聞こえるばかりである。

「さびしさに堪(た)へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里(新古627)
【通釈】寂しさに耐えている人が私のほかにもいればよいな。庵を並べて住もう――「寂しさ増さる」と言われる冬の山里で。

「おのづから言はぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる」(新古691)
【通釈】言葉をかけない私を、ひょっとして、慕ってくれる人もあるかと、ためらっているうちに、年が暮れてしまいました。

「面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて」(新古1185)
【通釈】いつまでも面影の忘れられそうにない別れであるよ。別れたあとも、あの人がなごりを月の光のうちに留めていて…。

「くまもなき折しも人を思ひ出でて心と月をやつしつるかな」(新古1268)
【通釈】隈もなく照っている折しも、恋しい人を思い出して、自分の心からせっかくの明月をみすぼらしくしてしまったよ。

「はるかなる岩のはざまに独り居て人目思はで物思はばや」(新古1099)
【通釈】人里を遥かに離れた岩の狭間に独り居て、他人の目を気にせず物思いに耽りたいものだ。

「数ならぬ心のとがになし果てじ知らせてこそは身をも恨みめ」(新古1100)
【通釈】身分不相応の恋をしたことを、賤しい身である自分の拙い心のあやまちとして諦めはすまい。あの人にこの思いを知らせて、拒まれた上で初めて我が身を恨もうではないか。

「なにとなくさすがに惜しき命かなありへば人や思ひ知るとて」(新古1147)
【通釈】なんとはなしに、やはり惜しい命であるよ。生き永らえていたならば、あの人が私の思いを悟ってくれるかもしれないと。

「今ぞ知る思ひ出でよとちぎりしは忘れむとての情けなりけり」(新古1298)
【通釈】今になって分かった。思い出してと約束を交わしたのは、私を忘れようと思っての、せめてもの情けだったのだ。

「逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりける我が心かな」(新古1155)
【通釈】あの人と逢うまでは命を永らえたいと思ったのは、今にしてみれば浅はかで、悔やまれる我が心であったよ。

「人は来(こ)で風のけしきの更けぬるにあはれに雁のおとづれて行く」(新古1200)
【通釈】待つ人は来ないまま、風もすっかり夜が更けた気色になったところへ、しみじみと哀れな声で雁が鳴いてゆく。

「待たれつる入相の鐘のおとすなり明日もやあらば聞かむとすらむ」(新古1808)
【通釈】待たれた入相の鐘の音が聞こえる。明日も生きていたならば、またこうして聞こうというのだろうか。

「古畑のそはの立つ木にゐる鳩の友よぶ声のすごき夕暮」(新古1676)
【通釈】焼き捨てられた古畑の斜面の立木に止まっている鳩が、友を呼ぶ声――その響きが物寂しく聞こえる夕暮よ。

「吉野山やがて出でじと思ふ身を花ちりなばと人や待つらむ」(新古1619)
【通釈】吉野山に入って、そのまますぐには下山しまいと思う我が身であるのに、花が散ったなら帰って来るだろうと都の人々は待っているのだろうか。

「山里にうき世いとはむ友もがな悔しく過ぎし昔かたらむ」(新古1659)
【通釈】この山里に、現世の生活を捨てた友がいたなら。虚しく過ぎた、悔やまれる昔の日々を語り合おう。

「世の中を思へばなべて散る花の我が身をさてもいづちかもせむ」(新古1471)
【通釈】世の中というものを思えば、すべては散る花のように滅んでゆく――そのような我が身をさてまあ、どうすればよいのやら。

「世をいとふ名をだにもさはとどめおきて数ならぬ身の思ひ出(い)でにせむ」(新古1828)
【通釈】世を厭い捨てたという評判だけでも、そのままこの世に残しておいて、数にも入らないような我が身の思い出としよう。

「都にて月をあはれと思ひしは数よりほかのすさびなりけり」(新古937)
【通釈】都にあって月を哀れ深いと思ったのは、物の数にも入らないお慰みなのであった。

神路山月さやかなる誓ひありて天(あめ)の下をば照らすなりけり(新古1878)
【通釈】神路山の月がさやかに照るように、明らかな誓いがあって、慈悲の光はこの地上をあまねく照らしているのであった。

「さやかなる鷲の高嶺の雲ゐより影やはらぐる月よみの森」(新古1879)
【通釈】霊鷲山にかかる雲から現れた月は、さやかな光をやわらげて、この国に月読の神として出現し、月読の杜に祀られている。

「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」(新古987)
【通釈】年も盛りを過ぎて、再び越えることになろうと思っただろうか。命があってのことである。小夜の中山よ。

「風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬ我が心かな」(新古1613)
【通釈】風になびく富士山の煙が空に消えて、そのように行方も知れないわが心であるよ。
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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十七) [三十六歌仙]

その十七 寂蓮法師と俊恵法師

寂蓮.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(寂蓮法師)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056423

俊恵法師.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(俊恵法師)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056424

左方十六・寂蓮法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010708000.html

 かつらぎやたかまのさくらさきにけり/たつたのおくにかかるしら雲

右方十七・俊恵法師

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010709000.html

 故郷の板井の清水み草ゐて/月さへすまずなりにける哉


(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-19

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-31

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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十六・寂蓮法師)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009427

俊恵.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十七・俊恵法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009428

(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

寂蓮二.jpg

俊恵二.jpg

(周辺メモ)寂蓮( じゃくれん) 生年未詳~建仁二(1202) 俗名:藤原定長 通称:少輔入道

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jakuren.html

 生年は一説に保延五年(1139)頃とする。藤原氏北家長家流。阿闍梨俊海の息子。母は未詳。おじ俊成の猶子となる。定家は従弟。尊卑分脈によれば、在俗時にもうけた男子が四人いる。
 建仁元年(1201)には和歌所寄人となり、新古今集の撰者に任命される。しかし翌年五月の仙洞影供歌合に参加後まもなく没し、新古今の撰集作業は果せなかった。

「寂蓮は、なほざりならず歌詠みし者なり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞいたくは高くはなかりしかども、いざたけある歌詠まむとて、『龍田の奥にかかる白雲』と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき。折につけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるやうに詠みし方、真実の堪能と見えき」(後鳥羽院御口伝)。

「今はとてたのむの雁もうちわびぬ朧月夜の明けぼのの空」(新古58)
【通釈】今はもう北の国へ帰らなければならない時だというので、田んぼにいる雁も歎いて鳴いたのだ。朧ろ月の春の夜が明けようとする、曙の空を眺めて…。

「葛城(かづらき)や高間の桜咲きにけり立田の奥にかかる白雲」(新古87)
【通釈】葛城の高間山の桜が咲いたのだった。竜田山の奧の方に、白雲がかかっているのが見える。

「思ひたつ鳥はふる巣もたのむらんなれぬる花のあとの夕暮」(新古154)
【通釈】谷へ帰ろうと思い立った鶯は、昔なじみの巣をあてにできるだろう。馴れ親しんだ花が散ってしまったあとの夕暮――。しかし家を捨てた私は、花のほかに身を寄せる場所もなく、ただ途方に暮れるばかりだ。

「散りにけりあはれうらみの誰(たれ)なれば花の跡とふ春の山風」(新古155)
【通釈】桜は散ってしまったよ。ああ、この恨みを誰のせいにしようとして、花の亡き跡を訪れるのだ、山から吹く春風は。花を散らしたのは、ほかならぬお前ではないか、春風よ。

「暮れてゆく春の湊(みなと)はしらねども霞におつる宇治の柴舟」(新古169)
【通釈】過ぎ去ってゆく春という季節がどこに行き着くのか、それは知らないけれども、柴を積んだ舟は、霞のなか宇治川を下ってゆく。

「鵜かひ舟高瀬さしこすほどなれや結ぼほれゆく篝火の影」(新古252)
【通釈】鵜飼船がちょうど浅瀬を棹さして越えてゆくあたりなのか、乱れて小さくなってゆく篝火の炎よ。

「さびしさはその色としもなかりけり槙(まき)立つ山の秋の夕暮」(新古361)
【通釈】なにが寂しいと言って、目に見えてどこがどうというわけでもないのだった。杉檜が茂り立つ山の、秋の夕暮よ。

「月はなほもらぬ木(こ)の間も住吉の松をつくして秋風ぞ吹く」(新古396)
【通釈】住吉の浜の松林の下にいると、月は出たのに、繁り合う松の梢に遮られて、相変わらず光は木の間を漏れてこない。ただ、すべての松の樹を響かせて秋風が吹いてゆくだけだ。

「野分(のわき)せし小野の草ぶし荒れはてて深山(みやま)にふかきさを鹿の声」(新古439)
【通釈】私が庵を結んでいる深山に、今宵、あわれ深い鹿の声が響いてくる。先日野分が吹いて、草原の寝床が荒れ果ててしまったのだ。

「物思ふ袖より露やならひけむ秋風吹けばたへぬものとは」(新古469)
【通釈】物思いに涙を流す人の袖から学んだのだろうか、露は、秋風が吹けば堪えきれずに散るものだと。

「ひとめ見し野辺のけしきはうら枯れて露のよすがにやどる月かな」(新古488)
【通釈】このあいだ来た時は人がいて、野の花を愛でていた野辺なのだが、秋も深まった今宵来てみると、その有様といえば、草木はうら枯れて、葉の上に置いた露に身を寄せるように、月の光が宿っているばかりだ。

「むら雨(さめ)の露もまだひぬ槙の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮」(新古491)
【通釈】秋の夕暮、俄雨が通り過ぎていったあと、その露もまだ乾かない針葉樹の葉群に、霧がたちのぼってゆく。

「かささぎの雲のかけはし秋暮れて夜半(よは)には霜やさえわたるらむ」(新古522)
【通釈】カササギが列なって天の川に渡すという空の橋――秋も終り近くなった今、夜になれば霜が降りて、すっかり冷え冷えとしているだろうなあ。

「かささぎの雲のかけはし秋暮れて夜半(よは)には霜やさえわたるらむ」(新古522)
【通釈】カササギが列なって天の川に渡すという空の橋――秋も終り近くなった今、夜になれば霜が降りて、すっかり冷え冷えとしているだろうなあ。

「ふりそむる今朝だに人の待たれつる深山の里の雪の夕暮」(新古663)
【通釈】雪が降り始めた今朝でさえ、やはり人の訪問が待たれたよ。今、山奥の里の夕暮、雪は深く降り積もり、いっそう人恋しくなった。この雪では、誰も訪ねてなど来るまいけれど。

「老の波こえける身こそあはれなれ今年も今は末の松山」(新古705)
【通釈】寄る年波を越え、老いてしまった我が身があわれだ。今年も歳末になり、「末の松山波も越えなむ」と言うが、このうえまた一年を越えてゆくのだ。

「思ひあれば袖に蛍をつつみても言はばや物をとふ人はなし」(新古1032)
【通釈】昔の歌にあるように、袖に蛍を包んでも、その光は漏れてしまうもの。私の中にも恋の火が燃えているので、胸に包んだ想いを口に出して伝えたいのだ。この気持ちを尋ねてくれる人などいないのだから。

「ありとても逢はぬためしの名取川くちだにはてね瀬々の埋(むも)れ木」(新古1118)
【通釈】生きていても、思いを遂げられない例として浮き名を立てるだけだ。名取川のあちこちの瀬に沈んでいる埋れ木のように、このままひっそりと朽ち果ててしまえ。

「うらみわび待たじ今はの身なれども思ひなれにし夕暮の空」(新古1302)
【通釈】あの人のつれなさを恨み、嘆いて、今はもう待つまいと思う我が身だけれど、夕暮れになると、空を眺めて待つことに馴れきってしまった。

「里は荒れぬ空しき床のあたりまで身はならはしの秋風ぞ吹く」(新古1312)
【通釈】あの人の訪れがさっぱり絶えて、里の我が家は荒れ果ててしまった。むなしく独り寝する床のあたりまで、壁の隙間から秋風が吹き込んで来る――身体の馴れ次第では、気にもならないほどの隙間風が…。

「涙川身もうきぬべき寝覚かなはかなき夢の名残ばかりに」(新古1386)
【通釈】恋しい人を夢に見て、途中で目が覚めた。その儚い名残惜しさに、川のように涙を流し、身体は床の上に浮いてしまいそうだ。なんて辛い寝覚だろう。

「高砂の松も昔になりぬべしなほ行末は秋の夜の月」(新古740)
【通釈】高砂の老松も、いつかは枯れて昔の思い出になってしまうだろう。その後なお、将来にわたって友とすべきは、秋の夜の月だ。

「尋ねきていかにあはれと眺むらん跡なき山の嶺のしら雲」(新古836)
【通釈】遠く高野までたずねて来て、どんなに悲しい思いで山の景色を眺めておられることでしょう。亡き兄上は煙となって空に消え、ただ山の峰には白雲がかかっているばかりです。

「立ち出でてつま木折り来(こ)し片岡のふかき山路となりにけるかな」(新古1634)
【通釈】庵を立ち出ては薪を折って来た丘は、住み始めた頃に比べると、すっかり木深い山道になったものだ。「

「数ならぬ身はなき物になしはてつ誰(た)がためにかは世をも恨みむ」(新古1838)
【通釈】物の数にも入らない我が身は、この世に存在しないものとして棄て果てた。今はもう、誰のために世を恨んだりするだろうか。

「紫の雲路(くもぢ)にさそふ琴の音(ね)にうき世をはらふ嶺の松風」(新古1937)
【通釈】浮世の迷妄の雲を払う峰の松風が吹き、紫雲たなびく天上の道を極楽浄土へと誘う琴の音が響きあう。

「これや此のうき世のほかの春ならむ花のとぼそのあけぼのの空」(新古1938)
【通釈】これこそが、現世とは別世界にあると聞いていた極楽の春なのだろう。美しい浄土の扉を開くと、曙の空に蓮華の花が咲き満ちている。

(周辺メモ)俊恵(しゅんえ) 永久一(1113)~没年未詳 称:大夫公

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syune.html

 源俊頼の息子。母は木工助橘敦隆の娘。兄の伊勢守俊重、弟の叡山阿闍梨祐盛も千載集ほかに歌を載せる歌人。子には叡山僧頼円がいる(千載集に歌が入集している)。大治四年(1129)、十七歳の時、父と死別。その後、東大寺に入り僧となる。弟子の一人鴨長明の歌論書『無名抄』の随所に俊恵の歌論を窺うことができる。

「春といへば霞みにけりな昨日まで浪まに見えし淡路島山」(新古6)
【通釈】春というので、霞んでしまったなあ。昨日まで波間に見えていた淡路島山よ。

「楸(ひさき)おふる片山かげにしのびつつ吹きけるものを秋の初風」(新古274)
【通釈】楸の生える片山の陰に、人目を忍ぶようにして吹いているのだった、秋の初風は。

「立田山梢まばらになるままにふかくも鹿のそよぐなるかな」(新古451)
【通釈】立田山の山深くでは、紅葉も散り果て、梢と梢の間が広くなったので、鹿がその下を歩くと、深く積もった落葉がサヤサヤ鳴るのが聞こえてくるのであるよ。

「み吉野の山かきくもり雪ふれば麓の里はうちしぐれつつ」(新古588)
【通釈】吉野の山が霞んで見えないほど雪が降り乱れるので、麓の里には繰り返し時雨が降る。

「我が恋は今をかぎりと夕まぐれ荻ふく風の音づれて行く」(新古1308)
【通釈】私の恋は、今がもう堪え得る限度だという、そんな夕暮に、荻を吹く風が音立てて過ぎてゆく。

「神風や玉串の葉をとりかざし内外(うちと)の宮に君をこそ祈れ」(新古1883)
【通釈】伊勢神宮の内宮・外宮で、榊の葉を手に取り、また挿頭にして、大君の栄えを祈るのです。

「かりそめの別れと今日を思へどもいさやまことの旅にもあるらむ」(新古881)
【通釈】一時だけの別れであると今日の別れを思うけれども、さあどうか、まさしく二度と帰ることのない旅なのであろうか。
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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十六) [三十六歌仙]

その十六 信実朝臣と家長朝臣

藤原信実.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(信実朝臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056421

源家長.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(家長朝臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056422

左方十六・信実朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010706000.html

 あけてみぬたが玉章もいたづらに/まだ夜をこめてかえる雁がね

左方十七・家永朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010707000.html

 春雨に野沢の水はまさらねど/もえいづるくさぞふかくなり行


(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-19

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-31

信実.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十六・信実朝臣)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009409

源家永.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十七・家永朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009410


(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

藤原信実二.jpg

源家長二.jpg

(周辺メモ)藤原信実(ふじわらののぶざね)治承元~文永二(1177-1265) 法名:寂西

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nobuzane.html

 藤原北家長良流。為経(寂超)・美福門院加賀の孫。隆信の子。母は中務小輔長重女。名は初め隆実。娘の藻壁門院少将・弁内侍・少将内侍はいずれも勅撰集入集歌人。男子には従三位左京権大夫に至り画家としても名のあった為継ほかがいる。中務権大輔・備後守・左京権大夫などを務め、正四位下に至る。和歌は父の異父弟にあたる藤原定家に師事し、若くして正治二年(1200)後鳥羽院第二度百首歌の詠進歌人に加えられ、同年九月の院当座歌合にも参加するなどしたが、院歌壇では評価を得られず、新古今集入撰に洩れた。

https://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/rekisi-siryou/z0010-z9999/z0170shiode-hideo-togyuu/sanshou-shiryou/fujiwarano-nobuzane/fujiwarano-nobuzane.htm

 歌人としては、鎌倉時代初期の有力歌人が世を去った後の鎌倉時代中期歌壇において相対立する御子左派と反御子左派双方と親交を持ちうる存在であった。家集に宝治2年(1248年)ごろの編纂になると思われる『信実朝臣集』がある。勅撰集には130数種の入集を見る。その他『今物語』の作者といわれる。
 画家としての事跡は同一家系の他の画家と比べると多彩である。『古今著聞集』に記される後鳥羽院の「御幸御あらまし」を描いた絹絵3巻や、似絵を好んだ後堀河院の命により描いた北面や随身(ずいじん)の影、『高野日記』に記される「みなせ殿の四季の絵四巻」などについては伝えられる作品はない。
 しかし建保6年(1218年)8月、順徳天皇の中殿御会の様を、参列した人々の面貌に興味の中心を置きつつ描いた記録絵的な『中殿御会図』は模本が現存する。また承久の乱後、隠岐配流となる直前に信実に描かせ七条院へ進ぜられたと『吾妻鏡』などの伝える「後鳥羽院像」は水無瀬神宮に現存する画像(国宝)にあたる可能性が非常に高いし、宝治元年の院随身を描いた『随身庭騎絵巻』(大倉文化財団蔵、国宝)の一部を信実筆とする説がある。

九条大納言撰三十六歌仙絵

https://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/rekisi-siryou/z0010-z9999/z0170shiode-hideo-togyuu/sanshou-shiryou/kujyou-rokkasen/kujyou-rokkasen.htm

似絵

https://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/rekisi-siryou/z0010-z9999/z0170shiode-hideo-togyuu/sanshou-shiryou/nisee/nisee.htm

歌仙絵

https://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/rekisi-siryou/z0010-z9999/z0170shiode-hideo-togyuu/sanshou-shiryou/kasen-e/kasen-e.htm

肖像画

https://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/rekisi-siryou/z0010-z9999/z0170shiode-hideo-togyuu/sanshou-shiryou/shouzou-ga/shouzou-ga.htm

(周辺メモ)源家長( みなもとのいえなが) 生年未詳~文暦元(?-1234)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ienaga.html

 醍醐源氏。大膳大夫時長の息子。後鳥羽院下野を妻とする。子には家清・藻壁門院但馬ほかがいる。生年は嘉応二年(1170)説、承安三年(1173)説などがある。早く父に死に別れ、承仁法親王(後白河院皇子)に仕える。建久七年(1196)、非蔵人の身分で後鳥羽院に出仕。蔵人・右馬助・兵庫頭・備前守などを経て、建保六年(1218)一月、但馬守。承久三年(1221)の変後、官を辞す。安貞元年(1227)一月、従四位上に至る。文暦元年(1234)、死去。六十余歳か。
 後鳥羽院の和歌活動の実務的側面を支え、建仁元年(1201)八月には和歌所開闔となって新古今和歌集の編纂実務の中心的役割を果した。

「秋の月しのに宿かる影たけて小笹が原に露ふけにけり」(新古425)
【通釈】秋の月は、びっしりと生える篠に宿を借りて、光をとどめている。やがて夜も更け月も高くなり、小笹原に置いた露は、いっそう深くなったのだった。

「今日はまた知らぬ野原に行き暮れぬいづれの山か月は出づらむ」(新古956)
【通釈】今日は人里に辿り着けるかと期待したのだが、またも知らない野原で日が暮れてしまった。このあたりでは、いったいどの山から月が昇るのだろうか。

「藻塩草(もしほぐさ)かくともつきじ君が代の数によみおく和歌の浦波」(新古741)
【通釈】詠草はいくら集めても尽きることはないでしょう。君が代は千年も万年も続く、その数に匹敵して、ひっきりなしに詠まれる和歌――和歌の浦に打ち寄せる波のように限りなく。
【語釈】◇和歌所の開闔(かいこう) 後鳥羽院が建仁元年(1201)に復興させた和歌所の事務官。◇藻塩草 塩を採るために焼く海藻。ここでは、勅撰集撰進のため集められた和歌の詠草のこと。◇かくともつきじ 藻塩草を掻き集めても尽きないように、詠草はいくら書いても尽きないだろう。◇和歌の浦波 和歌の浦は紀伊国の歌枕。玉津島神社がある。同社の祀る玉津島姫は衣通姫と同一視され、和歌の神として尊崇されるようになった。

(家永日記)「新人女流歌人の発掘」

https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/cfeef2f371af2f10dad2e8adb571f517

【 これをうけ給つめて侍おりしも、したしき女房のもとにまきものゝ侍をとりてみれば、女の手にて歌をかきたり。これをたづぬれば、七條院に候女房越前と申人なりときゝて、このうたをとりて持て參りたれば、あしからずやおぼしめしけん、行衞たづねよとおほせらるれば、まかりいでてたづぬるに、大中臣公親が女なり。さるは重代の人なりときゝて此よしを申す。範光朝臣うけ給て、くるまむかへにつかはす。いまは候めり。その歌のおくに侍し
 さぞなげに是もよしなきすさみ哉
      だれかあはれをかけてしのばん
これを御覽じいてゝごとに御めとゞめさせ給う。この歌の心を題にておの/\歌よめとおほせられて、おまへにさぶらふ人々よみあへり。いづれをさしてしるすべうもなかりしかば、かきとゞめず。この女房を心みんとおぼしめして、めしいだして秋のをはりの事にて侍しに、此比のうたよめとおほせられたりけるに、あらしをわくるさほしかのこゑなど聞えしはそのおりのとぞ。
宮内卿殿もうちつゞき參られ侍き。師光入道のむすめなり。家かぜたえずことにすぐれたるよし聞へ侍。そのゝち三位入道のむすめ歌たてまつりなどせらる。ふたい(ば)よりよのまじらひもむもれてすぎ給ひけんに、つねに歌めされなどし給を、わかきひたるさまをあはつけしと思給らんかし。されどうちあるべきことならねば、かきけちてやまんことをあたらしとおぼしめいたることばかりなり。又八條院に高倉殿と申人をはすなり。その人の歌とぞある人のかたり申ける。
 くもれかしながむるからに悲しきは
       月におぼゆる人のおもかげ
此歌きこしめして、それも歌たてまつりなどつねに侍。又七條院にこ大納言と申女房おはす。中納言宗綱卿むすめなり。しなたかき女房ははゞかりおもはるらん。されどちうだいの人はくるしからずとて、たづねいでさせ給う。中にも母はみかはの内侍なり。かた/"\の家の風いかでかむなしからん。おとこにも女はうにも、かくわかき歌よみおほくつどひて、ひるのほどは職事辨官參りこみて、萬きのまつり事共なめれば、よるぞ御うたあはせ和歌會よごとにはべる。こゝかしこのかくれにうちうめきつゝ、おのがじゝあんあへり。 】

(家永日記)「女流歌人の衰退」

https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/36ea7ce34024a36c252431bb9e0d7b40

【此ころ世に女の歌よみすくなしなどつねになげかせ給。むかしより歌よみときこゆる女房せうせう侍。いんぶ門院の大輔も一とせうせにき。又さぬき、みかはの内侍、丹後、少将など申人々も今はみなよはひたけてひとへに後の世のいとなみしてこゝかしこの庵にすみなれて歌のこともすたれはてたればときどき歌めされなどするも念仏のさまたげなりとぞうちうちなげきあへるときゝ侍。此の人々のほかは又さらに聞こえず。心ある人のむげに思ひ捨てぬ道なればさる人も侍らむ。又みにはぢてつゝしむ人も多かればなにのたよりにかきこゆべき。されば女の歌よみはこの古人たちなからむ後は更にたえなむずる事をくちをしき事にたびたび仰せらる。
※いんぶ門院の大輔=殷富門院大輔
※さぬき=二条院讃岐。源頼政女。正治二年後鳥羽院初度百首で久しぶりに出詠し、内裏百番歌合1216年(建保4年)が最後の出詠。
※みかはの内侍=二条院三河内侍。寂念女。七条院大納言の母。
※丹後=宜秋門院丹後。源頼行女。讃岐とは従姉妹。異浦の丹後。後鳥羽院御口伝では「故攝政は、かくよろしき由仰せ下さるゝ故に、老の後にかさ上がりたる由、たびたび申されき」。正治二年後鳥羽院初度百首に出詠し、住吉社歌合1208年(承元2年)まで出詠。
※少将=小侍従ではないかと言われる。正治二年後鳥羽院初度百首出詠。 】
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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十五) [三十六歌仙]

その十五 殷富門院大輔と小侍従

殷富門.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(殷富門院大輔)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056419

小侍従.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(小侍従)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056420

左方十五・殷富門院大輔
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010704000.html

 春かぜのかすみ吹とてたえまより/みだれてなびく青柳のいと

右方十五・小侍従
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010705000.html

 いかなればその神山のあおいぐさ/としはふれども二葉なるらむ

(狩野探幽本)

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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十五・殷富門院大輔」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009408

小侍従.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十五・小侍従」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009426

(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

殷富門院大輔二.jpg

小侍従二.jpg

(周辺メモ)殷富門院大輔( いんぷもんいんのたいふ) 生没年未詳(1130頃-1200頃)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/i_taihu.html

藤原北家出身。三条右大臣定方の末裔。散位従五位下藤原信成の娘。母は菅原在良の娘。小侍従は母方の従姉にあたる。

「春風のかすみ吹きとくたえまより乱れてなびく青柳の糸」(新古73)
【通釈】春風が吹き、立ちこめた霞をほぐしてゆく。その絶え間から、風に乱れて靡く青柳の枝が見える。

「花もまたわかれん春は思ひ出でよ咲き散るたびの心づくしを」(新古143)
【通釈】桜の花も、私と死に別れた次の春は思い出してよ。咲いては散る、そのたびに私が心を使い果たしてきたことを。

「もらさばや思ふ心をさてのみはえぞ山しろの井手のしがらみ」(新古1089)
【通釈】ひそかに伝えたい、あの人を思うこの気持を。こうして堪え忍んでばかりは、とてもいられない。山城の井手のしがらみだって、水を漏らすではないか。

「あすしらぬ命をぞ思ふおのづからあらば逢ふよを待つにつけても」(新古1145)
【通釈】明日も知れない命のことを思ってしまう。生きていれば、ひょっとしたらあの人に逢う折もあるかもしれない――その時を期待するにつけても。

「何かいとふよもながらへじさのみやは憂きにたへたる命なるべき」(新古1228)
【通釈】なにをわざわざこの世を厭うことがあるだろう。万一にも生き永らえることなどできやしない。こんなふうにばかり、辛い思いに堪えていられる命のはずがあるまい。

「忘れなば生けらむものかと思ひしにそれも叶はぬこの世なりけり」(新古1296)
【通釈】あの人に忘れられ、見捨てられたなら、生きてなどいられるものか。――そう思っていたのに、死ぬことも叶わないこの世なのだ。

(周辺メモ)小侍従(こじじゅう) 生没年未詳(1121頃-1201以後) 

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/matuyoi.html

紀氏。石清水八幡別当大僧都光清の娘。母は花園左大臣家小大進。藤原伊実の妻。法橋実賢・大宮左衛門佐の母。菅原在良は母方の祖父、殷富門院大輔は母方の従妹。四十歳頃に夫と死別し、二条天皇の下に出仕する。永万元年(1165)の天皇崩後、太皇太后多子に仕え、さらに高倉天皇に出仕した。

「いかなればそのかみ山の葵草年はふれども二葉なるらむ」(新古183)
【通釈】どういうわけだろう、その昔という名の神山の葵草は、賀茂の大神が降臨された時から、多くの年を経るのに、いま生えたばかりのように双葉のままなのは。

「かきくもりあまぎる雪のふる里をつもらぬさきに訪ふ人もがな」(新古678)
【通釈】空一面曇らせて雪の降る、古びた里にいる私を、この雪が積もらないうちに、誰か訪ねて来てほしいものだ。

「待つ宵のふけゆく鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは」(新古1191)
【通釈】恋人を待つ宵の更けゆくことを知らせる鐘の音を聞けば、嫌々別れなければならない朝を告げる鳥の声も物の数に入るだろうか。この鐘の音の辛さに比べれば。

「つらきをも恨みぬ我にならふなよ憂き身を知らぬ人もこそあれ」(新古1227)
【通釈】あなたの冷淡さを恨まない私が普通だと思わない方がよい。身の上をわきまえない人も、世の中にはいるのだから。私は辛い境遇に生まれついた身だから我慢するけれど、ほかの女の人はそうはゆきませんよ。

「しきみ摘む山路の露にぬれにけり暁おきの墨染の袖」(新古1666)
【通釈】仏にお供えしようと山で樒(しきみ)の花を摘んでいると、路傍の草の露に濡れてしまった。暁に起き出て来た、私の墨染の袖が。

「色にのみ染めし心のくやしきをむなしと説ける法(のり)のうれしさ」(新古1936)
【通釈】現世の浮わついたことにばかり心を染めていたことが後悔されるけれど、「色即是空」と説く般若心経の教えに出会えて心の迷いも消えた。ああうれしい。
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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十四) [三十六歌仙]

その十四 後鳥羽院宮内卿と藤原秀能

宮内卿.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(後鳥羽院宮内卿)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056417

藤原秀能.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(藤原秀能)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056418

左方十四・宮内卿
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010702000.html

 かきくらしなをふるさとのゆきのうちに/あとこそみえね春はきにけり

右方十四・正二位秀能
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010703000.html

 足曳のやまのふる道跡たゑて/おのえのかねに月ぞのこれる

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-16

宮内卿.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十四・宮内卿」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009407

藤原秀能.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十四・正二位秀能」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009425

(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

宮内卿二.jpg

藤原秀能二.jpg

(参考)宮内卿の死

https://blog.goo.ne.jp/jikan314/e/9416c1c7186359571a42f8c7995a3e81

【明月記 建永二年五月
十日 (暁雨降)天晴
相具爲家參上未時許御神泉退出
入夜束帶參八条院一品宮御除服(入道殿下御服)
陪膳一昨日隆範催昨日輕服(宮内卿局昨日逝去常馴人也甚悲近
習奏事輙達心操甚柔和) 少納言長季參入役送
即出御(車面御車寄)ー略ー。

十日。(暁雨降る)爲家を相具して参上す。未の時許りに、神泉におはしまして退出す。
夜に入り、束帯して八条院に参ず。一品宮御除服(入道殿下御服)。
陪膳一昨日、隆範催す。昨日軽服(宮内卿の局、昨日逝去。常に馴るる人也。甚だ悲し。近
習の奏事輙く達す。心操甚だ柔和)。少納言長季、参入し役送。
即ち出でおはします。(車御車寄せに面す)ー略ー。 】

(参考)藤原秀能(「承久の乱」前後)

http://kawausotei.cocolog-nifty.com/easy/2009/05/post-b1b4.html

【「藤原秀能は、河内守秀宗の二男、藤原秀郷の後裔だといふ武の家に生まれた。通説に従へば、仁治元年五月二十一日に行年五十七歳を以て卒したといふから、それから逆算すれば、元歴元年の生まれとなる。元歴元年は即ち壽永三年である。木曾義仲が戦死し、一の谷の合戦に源氏が大勝した年である。秀能は、もと土御門通親の家人であつた。ところが、正治元年十六歳の時に、後鳥羽上皇の北面に召されたと尊卑分脈にある。彼の新しい運命はここから開けるのである。」小島吉雄「藤原秀能とその歌」 
 (中略)
正治元年は西暦で言うと1199年、後鳥羽上皇が土御門天皇に譲位された翌年にあたる。
このとき後鳥羽院は二十歳くらい、俊成は八十五歳くらい、定家は三十七歳くらいの見当であります。(俊成・定家親子のパトロンともいうべき九条家の跡目を継いだ藤原良経が政権の中央に返り咲きます。良経は三十歳くらい。)
 (中略)
「建仁元年八月三日の「影供歌合」には、武者所の平景光と組み合つて、六番のうち三番勝、二番持の成績をあげてゐるし、同年八月十五夜の「撰歌合」には、源通親、源具親、藤原隆信、藤原定家と番つて、通親、定家に負け、具親、隆信に勝つてゐる。この頃から歌人としての彼の地位は高まつて来たのであつて、以来、鴨長明と共に、歌會歌合の常連として詠進列席を許されるやうになつた。既に、この建仁元年の七月に和歌所が開かれ、十一人の寄人が補せられたのであるが、『家長日記』によれば、そののち鴨長明と藤原隆信とそしてこの秀能が更に寄人に追補せられたとある。」小島吉雄「藤原秀能とその歌」

http://kawausotei.cocolog-nifty.com/easy/2009/05/post-296f.html

「藤原秀能(「ひでよし」あるいは「ひでとう」)は、元暦元年(1184)の生まれ。藤原という苗字だが、北家などの貴族の血筋ではなくて平氏の流れをくむ北面の武家である。お兄さんである藤原秀康の方が歴史上は有名で、承久の乱(1221)で京方の総大将をつとめました。
なにしろ京方には後鳥羽上皇の院宣がありますから、執権北条義時はこれには逆らえないだろうと思いきや、例の北条政子が大演説、藤原秀康は君側の奸である、いまこそ故右大将頼朝の「海より深く山より高い恩」に報いるときぞ、ものども進撃せよ、とやったもんだから、鎌倉方は一致団結、一気に武家の世となった歴史的瞬間であります。可哀想なのは、藤原秀康で、水戸黄門の印籠のように院宣がきくと思っていたら、さんざんに討ちのめされて、あげくのはてに後鳥羽さんに見棄てられ、六波羅で斬られております。このとき、義時はもし後鳥羽院みずから出御の場合はいかにと政子に尋ね、そのときは全員弓弦を切って官軍に下るべしとの指示を受けていたといいますな。まあ、そんなことはありえない、というのが政子の読みだったのでしょう。」 】

(周辺メモ) 藤原秀能の「如願法師集」の歌

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hidetou.html

「来ぬ人をあすも待つべきさむしろに桜吹きしく夜はの山風」(如願法師集)
【通釈】来なかった人を明日も待つであろう莚の上に、桜の花を吹いては敷く、夜の山風よ。

「水な月のなかばに消えし白雪のいつしか白き富士の山風」(如願法師集)
【通釈】水無月の半ばに消えた雪が、いつのまにかまた降りだして、富士の山を吹く風は白い。

「うたた寝のうすき袂に秋たちて心の色ぞまづかはりける」(如願法師集)
【通釈】うたた寝をしていた薄い袂に秋がはっきりと現れて、真っ先に私の心の色が変わったのだった。

「葦の葉に風秋なりと聞きしより月すさまじくすむ心かな」(如願法師集)
【通釈】葦の葉のそよぐ音に、風が秋になったと聴いた――その時から、月の光は荒涼と冴えわたり、我が心も冷たく澄んでいる。

「下紅葉うつろひゆけば玉ぼこの道の山風さむく吹くらむ」(如願法師集)
【通釈】下葉の紅葉が散ってゆくので、山道を寒風が吹いているのだろう。

「ひさかたの雲井ながらも逢ひ見しをしぐれにけりな天の香久山」(如願法師集)
【通釈】遥かに雲を隔てながらも対面したが、また時雨れてきて隠れてしまったなあ、天の香具山よ。

「山里の桐の落葉にすむ月のかげさだめなく吹く嵐かな」(如願法師集)
【通釈】山里の桐の落葉に澄んだ光を宿す月――その光が不安定に揺れるほど吹く嵐であるよ。

「うちたゆむ夢を嵐にまがへても深山さびしき夜はのむらさめ」(如願法師集)
【通釈】途絶えた夢は激しい風の音に紛らせても、深山にあって寂しい夜半の叢雨よ。

「命とは契(ちぎ)らざりしを石見(いはみ)なるおきの白島(しらしま)また見つるかな」(如願法師集)
【通釈】命をかけて約束はしなかったけれども、再び石見の沖の、隠岐の白島を見たのであったよ。
【補記】承久の大乱後、すでに十年以上が経った頃、秀能は隠岐の院を慕って西国に下った。乱に際し将軍として戦った人物が島へ渡ることを、幕府がやすやすと見過ごしたはずもないと思われるが、この歌を事実として受け取れば、彼は何度か渡島を果したことになる。「白島」は院の御所とは離れているが、隠岐のさらに北隅の離れ小島に、院自身を暗喩していると思える。上句は「再びの訪問を、命をかけて白島と約束はしなかったけれども」ほどの意で、結局のところ、命をかけてまで再び此処へやって来た、と言っていることになる。前例のない、あわれ深い句である。

「憂へても泣きてもいはむ友もがなこたへぬ月にながめわびぬる」(如願法師集)
【通釈】不平でも泣き言でもいい、何か言ってくれる友がいてくれたら。夜空の月は何も答えてはくれず、眺め続ける気持も萎えてしまった。
【補記】西行を思わせる詠みぶりである。俗名秀能如願法師は、仁治元年(1240)五月二十一日、入寂。享年五十七。後鳥羽院崩御翌年のことであった。
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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十三) [三十六歌仙]

その十三 大蔵卿有家と具親朝臣

藤原有家.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(大蔵卿有家)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056415

源具親.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(具親朝臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://image.tnm.jp/image/1024/C0056416.jpg

左方十三・藤原有家朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010700000.html

 あさ日かげにほへるやまのさくら花/つれなくきえぬゆきかとぞみる

右方十三・源具親朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010701000.html

 はれくもる影をみやこにさきだてゝ/しぐるとつぐるやまのはのつき

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-13


有家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十三・藤原有家朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009406

具親.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十三・源具親朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009424


(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

藤原有家二.jpg

源具親二.jpg

(周辺メモ)

 藤原有家と源具親との番いは、前回の「家隆=定家/隆祐=為家」のものに続けると、次のようになる。

藤原家隆(保元三~嘉禎三/1158~1237)→藤原隆祐(生没年未詳/1190以前~1251以後)
藤原定家(応保二~仁治二/1162~1241)→藤原為家(建久九~建治元/1198~1275)
藤原良経(嘉応元~建永元/(1169~1206)→藤原基家(建仁三~弘安三/1203~1280)
後鳥羽院(治承四~延応元/1180~1239)→順徳院(建久八~仁治三/1197~1242)
(続き)
藤原有家(久寿二~建保四/1155~1216)
源具親(生没年未詳/宮内卿の同母兄)

 藤原有家は、藤原定家・為家の「御子左家」に対抗する「六条藤家」の出で、その六条藤家を代表する『新古今集』の撰者の一人にもなっている。
 ここで、『新古今集』の入首数の多い歌人を序列すると、「西行・九四首、慈円・九二首、良経七九首、俊成七二首、式子内親王四九首、定家四六首、家隆四三首、寂蓮三五、後鳥羽院三四首、貫之三二首、俊成卿女二九首、人麿二三首、雅経二二首、経信・有家各一九首、通具・秀能各一七首、道真・好忠・実定・讃岐各一六首、伊勢・宮内卿各一五首」の順となってくる(『現代語訳日本の古典3古今集・新古今集』所収「古今集・新古今集の世界(藤平春男稿)」)。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-13

 これを上の「家隆・定家・良経・後鳥羽院・有家・具親(関連)」と合体して、『新古今集』の入首数などを併記すると次のとおりとなる。

 藤原(九条)良経 → 七九首 (摂政太政大臣・『新古今集』「仮名序」執筆)
 藤原定家     → 四六首 (藤原定家朝臣・『新古今集』撰者) 
 藤原家隆     → 四三首 (藤原家隆朝臣・『新古今集』撰者)
 後鳥羽院    → 三四首 (太上天皇・『新古今和歌集』撰集下命・精選)
 有家      → 一九首 (藤原有家朝臣・『新古今集』撰者)
 (具親の妹・宮内卿)→ 一五首 
 具親        →  七首 (和歌所寄人)

(参考)源具親 七首

源師光の次男。母は巨勢宗成の娘 - 後白河院安芸と言われている。妻は姫の前で比企朝宗の娘。具親との再婚前は北条義時の正室。兄は泰光。官位は従四位下・左近衛少将。小野宮少将と号す。新三十六歌仙の1人。弘長二年(1262年)『三十六人大歌合』に出詠しているが、既に80余歳の高齢だったという。

   春歌上
 百首歌奉りし時
難波潟かすまぬ浪もかすみけりうつるもくもるおぼろ月夜に
正治二年後鳥羽院後度百首

   春歌下
 百首歌めしし時春の歌
時しもあれたのむの雁のわかれさへ花散るころのみ吉野の里
正治二年後鳥羽院後度百首

   秋歌上
 千五百番歌合に
しきたへの枕のうへに過ぎぬなり露を尋ぬる秋のはつかぜ
千五百番歌合

   冬歌
 千五百番歌合に冬歌
今はまた散らでもながふ時雨かなひとりふりゆく庭の松風
千五百番歌合

 千五百番歌合に
今よりは木の葉がくれもなけれども時雨に残るむら雲の月
千五百番歌合

 題知らず
晴れ曇る影をみやこにさきだててしぐると告ぐる山の端の月
千五百番歌合

   雑歌上
熊野にまうで侍りしついでに切目宿にて、海辺眺望といへる心をゝのこどもつかうまつりしに
ながめよと思はでしもやかへるらむ月待つ波の海人の釣舟
元久元年十二月三日切目王子歌会

(周辺メモ)

【『正治初度百首』からわずか一年後、後鳥羽院は建仁元年(一二〇一)七月、仙洞御所の二条殿の弘御所に、和歌所(和歌を掌る役所)を設置し、寄人(よりうど・職員)として、良経、通親、慈円、俊成、通具、有家、定家、家隆、雅経、具親、寂蓮の十一人を任命し、藤原隆信・鴨長明・藤原秀能ら三人を追加任命した。寄人には当時の歌壇の中心的なメンバーが任命され、六条家の旧派歌人たちは当然のごとく任命されていない。(中略)
(和歌所の性格)、
 設置された和歌所では、『新古今集』の編纂実務が行われるとともに、頻繁に歌合、和歌会などが催された。(中略)『名月記』に図が描かれているが、和歌所には、後鳥羽院の座まである。公卿の座は母屋に、上皇の座は母屋の上手の御簾の中に常設されていた。殿上人の座は二間の落座敷に作られており、地下の座は平板敷で、はっきり分けられていた。寄人の秀能と長明は地下であった。 】(『新古今集 後鳥羽院と定家の時代(田渕句美子著)』)
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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十三) [三十六歌仙]

その十三 右衛門為家と藤原隆祐朝臣

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狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(右衛門為家)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056413

藤原隆祐.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(藤原隆祐朝臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056414

左方十二・前大納言為家(藤原為家)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010698000.html

 たちのこす木ずゑもみえず山桜/はなのあたりにかかる白雲

右方十二・藤原隆祐朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010699000.html

 今日はなをみやこもちかし逢坂の/せきのあなたにしる人もがな

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-11


藤原為家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十二・前大納言為家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009405

藤原隆祐.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十二・藤原隆祐朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009423

(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

藤原為家二.jpg

藤原隆祐二.jpg

(周辺メモ)

 後鳥羽院を中心とする後鳥羽院歌壇の両翼は、藤原家隆と藤原定家のお二人ということになる。この家隆についての『後鳥羽院御口伝』の評は次のとおりである。

「家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。哥になりかへりたるさまに、かひがひしく、秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ」(後鳥羽院御口伝)。

 この家隆を後鳥羽院に推挙したのは、藤原(九条)良経であることが、『古今著聞集』に記されている。

「かの卿(家隆のこと)、非重代の身なれども、よみくち、世のおぼえ人にすぐれて、新古今の撰者に加はり、重代の達者定家卿につがひてその名をのこせる、いみじき事なり。まことにや、後鳥羽院はじめて歌の道御沙汰ありける比、後京極殿(良経のこと)に申し合せまゐらせられける時、かの殿奏せさせ給ひけるは、『家隆は末代の人丸にて候ふなり。彼が歌をまなばせ給ふべし』と申させ給ひける」(古今著聞集)。

 この『古今著聞集』の「重代の達者定家卿」こと、藤原定家に対する『後鳥羽院御口伝』の評は次のようなものである。

「定家は、さうなき物なり。さしも殊勝なりし父の詠をだにもあさあさと思ひたりし上は、まして餘人の哥、沙汰にも及ばず。やさしくもみもみとあるやうに見ゆる姿、まことにありがたく見ゆ。道に達したるさまなど、殊勝なりき。哥見知りたるけしき、ゆゆしげなりき。ただし引汲の心になりぬれば、鹿をもて馬とせしがごとし。傍若無人、ことわりも過ぎたりき。他人の詞を聞くに及ばす。(中略)惣じて彼の卿が哥の姿、殊勝の物なれども、人のまねぶべきものにはあらず。心あるやうなるをば庶幾せず。ただ、詞姿の艶にやさしきを本躰とする間、その骨(こつ)すぐれざらん初心の者まねばば、正躰なき事になりぬべし。定家は生得の上手にてこそ、心何となけれども、うつくしくいひつづけたれば、殊勝の物にてあれ」(『後鳥羽院御口伝』)。

 定家を「重代の達者定家卿」に仕立て上げた、その人も後鳥羽院であるが、この定家を「傍若無人、ことわりも過ぎたりき。他人の詞を聞くに及ばす」と断じ、承久の乱の起る前年の承久二年(一二二〇)の順徳天皇の内裏歌会に、次の禁忌の歌を提出したことにより、後鳥羽院の逆麟に触れ、以後、定家は「院勘」(院のお咎めを受けた)のまま、両者の不和の状態は解消することなく、その両者の生涯は閉じることになる。

 道のべの野原の柳したもえぬ あはれなげきのけぶりくらべに

 この定家の歌については、下記のアドレスなどに詳しい。

https://opac.ryukoku.ac.jp/webopac/rd-bn-ky_036_011._?key=KMCSUL

 ここで、「為家と隆祐」との番いであるが、為家は定家の嫡男、そして、隆祐も家隆の嫡男で、ここで「定家と家隆」の、嫡男同士の「為家と隆祐」との組み合わせということになる。そして、この「為家と隆祐」とを組み合わせたのは、これは、下記のアドレスで触れている、「最晩年の後鳥羽院と繋がりを持っていた一人の亡き藤原(九条)良経の三男・藤原基家」という思いを深くする。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-27

 ここで、後鳥羽院時代の「家隆・定家・良経・後鳥羽院」と、順徳院時代の「隆祐・為家・基家・順徳院」との二つの世界が切り拓かれて行く。

藤原家隆(保元三~嘉禎三/1158~1237)→藤原隆祐(生没年未詳/1190以前~1251以後)
藤原定家(応保二~仁治二/1162~1241)→藤原為家(建久九~建治元/1198~1275)
藤原良経(嘉応元~建永元/(1169~1206)→藤原基家(建仁三~弘安三/1203~1280)
後鳥羽院(治承四~延応元/1180~1239)→順徳院(建久八~仁治三/1197~1242)
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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十一) [三十六歌仙]

その十一 参議雅経と二条院讃岐

藤原雅経.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(参議雅経)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056411

二条院讃岐.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(二条院讃岐)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056412

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-10

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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十一・参議雅経」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009404


讃岐.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十一・二条院讃岐)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009422


左方十一・参議雅経(飛鳥井雅経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010696000.html

 しら雲のたえまになびく青柳の/かつらぎやまに春かぜぞふく

右方十一・二条院讃岐
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010697000.html

 やまたかみみねの嵐にちる花の/つきにあまぎるあけかたのそら


(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

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二条院讃岐二.jpg

(周辺メモ)

(「小倉百人一首92」・二条院讃岐「永冶元年?~建保5年? / 1141?~1217?」)

 わが袖は塩干に見えぬ沖の石の 人こそしらねかはくまもなし(『千載集』恋・760 )
(私の袖は引き潮になっても見えない沖の石のに、人は分からないでしょうが、何時も涙に濡れて乾く間もありません。)

(「小倉百人一首94」・参議雅経「嘉応二年~承久三(1170-1221)))

 み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり(『新古今』秋・483)
(吉野山の秋風が吹き渡ると、夜更けの故郷では衣を砧を打つで音のみが寒々と聞こえてくるるばかりです。)

 このお二人(二条院讃岐・参議雅経)は、承久三年(一二二一)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた「承久の乱」は知らない。

 二条院讃岐の父は源頼政。母は源斉頼の娘。同母兄に源仲綱があり、従姉妹に宜秋門院丹後がある。二条天皇即位と同じ頃に内裏女房として出仕、二条院崩御後、後鳥羽天皇の中宮宜秋門院任子(九条兼実の娘)に再出仕。後鳥羽院の側近の九条家を代表する女流歌人である。

 参議雅経の父は藤原頼経。母は源顕雅の娘。飛鳥井家の祖。蹴鞠(けまり)に優れる。父は源義経にくみし流罪となるが,雅経は蹴鞠を好む将軍源頼家に厚遇された。後に後鳥羽天皇の近習となり、従三位、参議。「新古今和歌集」の撰者の一人でもある。『後鳥羽院御口伝』では、「雅経は、殊に案じかへりて歌詠みしものなり(=雅経はとりわけあれこれ思いめぐらして歌を詠む者である)」と、後鳥羽院の側近中の側近の一人である。蹴鞠は、後鳥羽院の師で、後鳥羽院から「長者」の称号を与えられている。

 その後鳥羽院・雅経らの「長者鞠会(まりえ)」の鞠足(蹴鞠の名手)のメンバーに対して、承久の乱後、「院近臣として乱に処刑される藤原忠信(坊門家、遠流)・同有雅(斬罪)・同範茂(高倉家、斬罪)・同宗行(中御門家・斬罪)・医王丸(寵童、隠岐へ供奉)などがズラリと名を列ねている。この中にあって、和歌所寄人として、蹴鞠の師として院に寵愛され、しかも鎌倉とも特別に縁の深い雅経は、公武関係の緊張する晩年には、よほど去就に心を痛めたに違いない。承久三年(一二二一)三月、乱勃発の二か月前に病死したのは、せめてものの幸せであったか」との記述も見られる(『史伝後鳥羽院(目崎徳衛著)』)。

 これに続いて、後鳥羽院・雅経らの「長者鞠会」が行われていた頃について、次のような太平の世であったことが記述されている。

【 長者鞠会の二年後の承元四年(一二一〇)、後鳥羽院の第二子守成親王が十㈣歳で即位した。この順徳天皇の生母は、幼少の院を養育して帝位に即けた高倉範季の女子修明門院である。そして故摂政九条良経の女立子が新帝の中宮となった。本命の揃ったこの時あたりが後鳥羽院の院政の輝かしいクライマックスである。院を追慕する『増鏡』の著者が、

 四方の海波静かに、吹く風も枝を鳴らさず、世治まり民安くして、(中略)よろずの
 道々にあき らけくおはしませば、国に才(ざえ)ある人多く、昔に恥ぢぬ御代にぞ
 ありける。

と讃えたのは、誇張ではない。平泉の藤原氏を滅ぼして十年間の内乱を鎮めた頼朝が意気揚々と上洛した建久元年(一一九〇)から、すでに二十年間も太平が続いている。
 その太平は乱の承久三年(一二二一)まで、なお十年間も保たれる。その間に遠い鎌倉では血なまぐさい事件が次々に起ったが、京の貴族・庶民の実感は、『増鏡』の記すところに近かったと思う。三十年もの平和は中世の歴史には稀なのである。 】(『史伝後鳥羽院(目崎徳衛著)』)
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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その十) [三十六歌仙]

その十 前中納言定家と従二位家隆

藤原定家.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(前中納言定家)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056409

藤原家隆.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(従二位家隆)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056410

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-09

定家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十・前中納言定家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009403

家隆.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十・従二位家隆)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009421

左方十・前中納言定家
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010694000.html

 しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ

右方十・従二位家隆
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010695000.html

 かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる

(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

藤原定家二.jpg

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(周辺メモ)

 『小説 後鳥羽院―― 新島守よ、隠岐の海の(綱田紀美子著)』の中での、「定家家隆両卿歌合」(定家・家隆詠、後鳥羽院撰)などに関する叙述は、次のようなものである。

(第五 「無始の悪行のぞきがたく候」)

 家隆と定家はほぼ同じ年齢で、ともに俊成(定家の父)にそだてられた歌人であり、また、ともに後鳥羽の寵を得て新古今集の撰にあたった者である。家隆は、後鳥羽が隠岐に流されてからもずっと、この二十二歳年下のもと帝王を忘れることができなかった。そうすることが自分の身にとってひどく不利になるということをいささかもかえりみず、後鳥羽との手紙のやりとりを欠かさなかった。歌を通じて、いちずに後鳥羽をささえたのが家隆である。
  (中略)
 定家は後鳥羽より十八歳年長であった。ともに俊成に学んだのであるから、相弟子または兄弟子であり、かつ主君と臣下という複雑な間がらだった。
  
(第六 来ぬ人を待つほの浦の)

寛喜三年(一二三一)土佐から阿波に遷っていた第一皇子土御門院は、病いが重くなり十月六日に出家、同十二日に没した。三十七歳であった。(中略)
貞永一年(一二三二)藤原定家は七十一歳で権中納言にすすみ、また新勅撰集撰進の命を受けた。
文歴一年(一二三四)順徳院の皇子懐成親王は十七歳で亡くなった。承久三年四月から七十日間だけの皇位であり、乱の終わりとともに廃帝にされていたのである。
  (中略)
(「定家家隆両卿歌合」一番)
左 里のあまの汐焼き衣たち別れ なれしも知らぬ春の雁がね(定家)
(里の海人の塩焼きが衣になじむように馴れ親しんだのも知らずに、立ち別れていく春の帰る雁よ)
右 春もいまだ色にはいでず武蔵野や若紫の雪の下草(家隆)
(春とはいえまだそれらしき様子があらわれていない武蔵野では雪の下で紫草の芽が眠っている)
(「同」十五番)
左 ながめつつ思いし事のかずかずは空しきそらの秋の夜の月(定家)
(月をながめながら思った多くのことが、一つ一つみなむだなこととなった。空にはむなしく秋の夜の月が照らしている)
右 暮れぬまに山のは遠くなりにけり 空より出づる秋の夜の月(家隆)
(まだ日の暮れないうちに山の端が遠くなってしまったよ。空には秋の夜を遠くまで照らす月が出たので)
(「同」四十番)
左 心をばつらきものとて別れにし世々のおもかげなに慕ふらむ(定家)
(心とは無情なものだと言って別れたのであったが、幾年経ても消えることのないおもかげを、私の心はなぜ慕うのだろう)
右 せめて思ふ いまひとたびの逢ふことは渡らん川や契りなるべき(家隆)
(せめてもう一度逢う瀬を切に思うのは、三途の川の渡しを渡ることが二人の深い定めだからなのでしょうか)
(「同」四十八番)
左 明くる夜のゆふつけ鳥に立ち別れ浦波遠く出づる舟人(定家)
(夜明けを告げる鶏の声にたち別れて、岸辺の波を遠くはなれはるか沖へと出て行く舟人よ) 
右 沖つ波よする磯辺のうき枕 遠ざかるなり潮や満つらん(家隆)
(沖の波が寄せてくる磯辺に停泊していた旅の舟が遠ざかっていくようだ。潮が満ちてきたのだろう)

「定家家隆両卿歌合」については、下記のアドレスなど。

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko30/bunko30_d0089/index.html

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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その九) [三十六歌仙]

その九 権大納言基家と宣秋門院丹後

藤原基家.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(権大納言基家)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056407

宣秋門院丹後.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(宣秋門院丹後)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056408

左方九・権代納言基家
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010692000.html

 秋ふかきもみぢのそこのまつの戸は/たがすむみねのいほりなるらむ

右方九・宣秋門院丹後
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010693000.html

 吹はらふあらしの後の高根より/木の葉くもらで月やいづらん

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-07

藤原基家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方九・権代納言基家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009402

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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方九・宣秋門院丹後」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009420

(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

藤原基家二.jpg

宣秋門院丹後二.jpg

(周辺メモ)

藤原基家と宣秋門院丹後については、次のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-07

 ここでは、『遠島御歌合』のメンバーの一人の「基家(良経三男)」を紹介して置きたい。

【 嘉禎二年(註:一二三六・後鳥羽院、五十八歳)七月、後鳥羽院は隠岐・都双方の、院に近い歌人たちに和歌を詠進させたのを結審して、自ら判旨を書いた。これが『遠島御歌合』である。歌人は計十六人で、旧臣とその子女が多い。後鳥羽院ほか、家隆、通光(通親男)、小宰相(家隆女)、基家(良経男)、信忠、如願(秀能)、隆祐(家隆男)、後鳥羽院下野(家永娘)、少輔(家永女)、長綱(忠綱男)、親成(信成男)、家清(家永男)、友茂(如願猶子能茂の男)、善真法師である。詠進歌人の中には、隠岐で鳥羽院に近侍していた友茂、親成、少輔がいて、また善真法師も隠岐で近侍していた僧ではないかと思われる。最晩年の後鳥羽院に繋がりを持っていた人々が、バーチャルに一堂に会した歌合であった。】(『新古今集 後鳥羽院と定家の時代(田渕句美子著)』)。

 この最晩年の後鳥羽院と繋がりを持っていた一人の亡き藤原(九条)良経の三男・藤原基家は、「『新三十六人撰歌合』(略して『新撰歌仙』)を編み、似せ絵(肖像画)の名手である藤原信実に歌人の真影を描かせて隠岐に進献したようである」(『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文)』)との、隠岐での後鳥羽院による『遠島御歌合』や『時代不同歌合』を誕生させる切っ掛けを作った中心人物のように思われる。
 その「藤原基家」に対する「宣秋門院丹後」は、九条兼実家に出仕、後に兼実の息女任子(宜秋門院)に仕えた「九条家歌壇」の中心的な女流歌人(女房三十六歌仙の一人)で、その九条家歌壇のベテラン歌人(丹後)に対する新鋭歌人(基家)との番いということになろう。

『遠島御歌合』については、下記のアドレスなど。

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-293005

『時代不同歌合』についは、下記のアドレスなど。

https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2020-01-16

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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その八) [三十六歌仙]

その八 後徳大寺左大臣と清輔朝臣

藤原実定.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(後徳大寺左大臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056405

藤原清輔一.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(清輔朝臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056406

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-05

藤原実定.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方八・後徳大寺左大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009401

藤原清輔.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方八・藤原清輔朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009419

左方八・後徳大寺左大臣(藤原実定)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010689000.html

 なこの海の霞のまよりながむれば/入日をあらふおきつしらなみ

右方八・藤原清輔朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010691000.html

 柴の戸にいり日の影はさしながら/いかにしぐるるやまべ成らん

(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

藤原実定二.jpg

藤原清輔二.jpg

(周辺メモ)

https://blog.goo.ne.jp/erika2672-t/e/f9a8f98e225cffed5a80b21d7245cb42

☆ 藤原実定(1139~1191)
 父・藤原公能 母・藤原豪子 二人の嫡男として生まれました。姉には後白河天皇中宮の忻子、妹には近衛天皇皇后、後に二条天皇の後宮に入った多子、弟には大納言実家などがいます。
 父の公能は、徳大寺家の祖となった左大臣実能の嫡男で、最終的には右大臣にまで出世した人物です。母の豪子は藤原俊忠の女でした。つまり、歌人として有名な俊成は実定のおじ、その息子定家はいとこに当たり、この親子とは親しい交流があったようです。実定の歌才は、母方の血を受け継いだものと思われます。
 そんな両親の間に生まれた実定は官位の昇進もなかなか順調で、永治元年(1141)従五位下に叙され、左兵衛佐、左近衛権中将等を経て、保元元年(1156)、姉の忻子が後白河天皇の中宮に立てられたことから中宮権亮となり、その年のうちに従三位に叙されます。
 長寛二年(1164)26歳の実定は権大納言に任じられます。ところが、翌年にはこれを辞して正二位に叙されています。『古今著聞集』には、同じ閑院流の藤原実長(1130~1182)に同官で位階を超えられたことに悔しがり、権大納言を辞すことによって実長より上の正二位をもらったと記述されています。つまり、官職を辞めてまで、実長より上位になろうとしたわけです。実定の、実長に対するライバル心のすさまじさがうかがえる話です。
 実定が権大納言に還任するのは、それから12年後の治承元年(1177)三月のことでした。この間彼は復任運動を行っていたようですが、世は平家の全盛時代、福任はなかなか実現しませんでした。そのため彼は和歌に没頭していたようです。
 さらに、同年十二月には左大将を兼ねます。この任左大将の人事に関して、『平家物語』二は、実定が平清盛の同情を乞うために厳島神社に参詣したからだと描かれています。またこの頃、藤原兼実主催の歌合わせに出詠しています。このように、平家とも摂関家ともつかず離れず要領よくつきあっていたようです。このあたりは、平家を倒そうと謀反を企てて流罪になり、その後殺された藤原成親と対照的と言えます。
こののち、寿永二年(1183)に内大臣、文治二年(1186)に右大臣と昇進し、文治五年(1189)には左大臣に任じられました。祖父の実能が「徳大寺左大臣」と呼ばれていたため、実定は「後徳大寺左大臣」と称しました。
 しかし翌年、左大臣を辞し、建久二年(1191)六月二十日病により出家、法名を如円。同年閏十二月十六日薨去、五十三歳。源頼朝も、その死を深く嘆いたと伝えられています。家集に『林下集』があり、『千載』以下の勅撰集に七十三首入集しています。

http://www.hikarij.com/vision/hyakuninisyu/kinki4/nagaraeba.html

☆ 藤原 清輔(長治元年(1104年) - 治承元年6月20日(1177年7月17日))は、平安時代末期の公家・歌人。藤原北家魚名流、左京大夫・藤原顕輔の次男。官位は正四位下・太皇太后宮大進。初名は隆長。六条を号す。
(経歴) 天養元年(1144年)、崇徳上皇より父・顕輔が勅撰集『詞花和歌集』の撰集を命ぜられ、清輔もその補助に当たったが、顕輔と対立し、ほとんど清輔の意見は採用されなかったという。その後も父に疎まれ昇進面で支援を得られなかったためか、40歳代後半まで位階は従五位下に留まった。二条天皇に重用され『続詞花和歌集』を撰したが、奏覧前に天皇が崩御し勅撰和歌集にならなかった。久寿2年(1155年)、父から人麻呂影供(ひとまろえいぐ)を伝授され、六条藤家を継ぐ。御子左家の藤原俊成に対抗した。保元元年(1156年)従四位下。のち太皇太后宮大進に任ぜられ、藤原多子に仕えた。共に仕えた同僚平経盛とは弟・重家と共に親密な交流を持った。

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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その七) [三十六歌仙]

その七 西園寺入道前太政大臣と大納言通具

西園寺公経.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(西園寺入道前太政大臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056403

源通具.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(大納言通具)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056404

左方七・西園寺入道前太政大臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010688000.html

 桜花みねにも尾にもうへをかむ/見ぬ世のはるを人やしのぶと

右方七・右衛門督通具
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010689000.html

 磯上ふるののさくらたれうへて/はるはわすれぬかたみなるらむ

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-02

西園寺公経.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方七・西園寺入道前太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009400

源通具.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方七・右衛門督通具」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009418

(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

西園寺公経二.jpg

源通具二.jpg

(周辺メモ)

https://www.beach.jp/circleboard/af00843/topic/1100204336345


 入道前太政大臣(にゅうどうさきのだいじょうだいじん)こと藤原公経(ふじわらのきんつね)は、鎌倉時代初期に比類なき栄華(えいが=富み栄えること)をきわめた政治家である。藤原公経(ふじわらのきんつね)は、源頼朝(みなもとのよりとも)の姪(めい)を妻にするなど、鎌倉幕府と親近し、幕府よりの公家として幕府と朝廷の両方と絶妙な関係を築き上げ、太政大臣まで出世した。また外孫の藤原頼経(ふじわらのよりつね)を鎌倉幕府の第四代将軍にまで押し上げたことで権力をつける。
※※
 藤原公経(ふじわらのきんつね)が出世したきっかけとなったのが、『承久(じょうきゅう)の乱』である。このとき公経は、後鳥羽院(ごとばいん・第99番作者)らの幕府転覆の企てを知ったため幽閉されるも、承久の乱の情報を幕府に密告してしまう。そして幕府の勝利に貢献した公経は太政大臣まで上りつめることができた。 このとき敗れた朝廷側の後鳥羽院(ごとばいん・第99番作者)、順徳院(じゅんとくいん・第100番作者)はその後、配流されてしまう。政治家としてはずる賢いと言われる公経だけど、彼の生きた時代は激動期でもあり、処世術なしでは生きていけなかった。ちなみに藤原定家は公経の姉を妻にしている。
※※
 公経は財力を使って京都の北山に西園寺(さいおんじ・のちのかの有名な金閣寺〈鹿苑寺・ろくおんじ〉)という別荘を造った。(正確には公経の山荘を改装したものである)
なので西園寺公経なんて呼ばれることもあったそうだ。この西園寺は、のち足利義満に譲られる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/62/0/62_62_72/_pdf/-char/en

 通具は村上源氏の一族で、承安元年(一一七一)に生まれた。父は通親、異母兄に通宗、異母弟に通光・定通・通方らがいる。通具は和歌所寄人、さらに父の代理として『新古今集』撰者の一人となった。通具が本格的に和歌を詠み始めたのは、正治二年(一二〇〇)頃である 。通具は通親の後援を受け、後鳥羽院歌壇の中心歌人の一人として、多くの歌合・歌会に出詠する。続く順徳天皇の内裏歌壇でも、たびたび出詠していた。その後承久の乱により歌壇が完全に終息すると、通具の和歌に関連する事績は途絶え、安貞元年(一二二七)九月二日に五十七歳で生涯を終える。

https://core.ac.uk/download/pdf/144440348.pdf

 通具は村上源氏の名代としてこれから勅撰集撰集に携わる責務をよく理解していた。『新古今集』において通具は村上源氏直系の歌人を撰び、一族の存在を勅撰集の中に刻んでいる。また特に、九条家には良経がいた。漢詩に堪能であり、物語歌を取り込んだ歌も多く詠む。父通親と兼実とは違い対立意識はなかったろうが、村上源氏から出た歌人として、良経を参考にしていた可能性を考え、今後の課題とする。

https://kyotofukoh.jp/report1107.html

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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その六) [三十六歌仙]

その六 後京極摂政前太政大臣と前大僧正慈鎮

藤原義経.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(後京極摂政前太政大臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056401

慈円.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(前大僧正慈鎮)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056402

左方六・後京極摂政前太政大臣(藤原良経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010686000.html

 空はなをかすみもやらず風さえて/雪げにくもるはるの夜の月

右方六・前大僧正滋鎮(慈円)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010687000.html

 身にとまるおもひを萩のうは葉にて/このころかなし夕ぐれのそら

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-02

九条良経.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方六・後京極摂政前太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009399

慈円.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方六・前大僧正滋鎮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009417

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

藤原義経二.jpg

慈円二.jpg

(参考)

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/e434372ddc09e9456ac1cde27516a770

【 藤原良経のこと(その一)
このところ一カ月ばかり佐竹本「三十六歌仙絵巻」詞書・和歌の執筆者、藤原良経についてなぜかこだわり続けている。小倉百人一首の一人、後京極摂政前太政大臣(1169~1206・37歳で没)のことである。
 関心を持ち始めたのは昨年、秋田市建都四百年事業の一環として佐竹本「三十六歌仙絵巻」についての講演や絵巻の展示が開催されたことである。
 確か20数年前NHKで絵巻が切断されたエピソードが放映され、それを見た記憶がある。しかし大正時代のことであり、秋田にあまり関係がないこととしていつの間にか忘れていたのだ。
 それが身近に感じられたのは明治・大正時代活躍した秋田の画人土屋秀禾(1867~1929・62歳で没)が制作した模写の版画絵巻を秋田市在住の斉藤真造氏が所有されていてそれを見る機会があったことである。
 本物は鎌倉時代の制作とされ美術価値は高いとされるが色はかすれ当時の色彩ではなくなっている。秀禾の作品では制作当時を再現、八百年前の鮮やかな世界に誘ってくれて、しばし感動の時間を過ごしたことだった。
 その絵巻を眺めているうち、何ゆえ制作されたのだろう。誰が何の為に、と次第、次第に疑問が自分の心にこびりついて離れないようになってきたのである。
 まず当時の時代背景を知りたいと思った。学校時代での記憶だけでは覚束無い。図書館より「日本の歴史」網野善彦他編集シリーズより(頼朝と天下草創)(道長と宮廷社会)(武士の成長と院政)、「日本の時代史」シリーズ(京・鎌倉の王権)を借受し読破した。
 また、巻末にある鎌倉時代の年表をコピーし継ぎ張りにして分かりやすく一枚ものにしたり、手持ちの最新国語便覧(浜島書店出版)から藤原氏の系図、律令官制など関係する箇所をコピーするなど史実の基本情報を集めたりした。
 折りからNHK大河ドラマ「源義経」が放映されている。これらの史実と組み合わすと概略、次のようなことが分る。
 6月5日第22週で平家は西国へ都落ちするのが決まった。やがて平家(鶴見辰吾の宗盛等)は義経(滝沢秀明)によって追討されるがそのとき義経は27歳。良経はその時17歳で従三位となり公卿に列したとある。この時代、二人の「よしつね」がいたのだ。
 また、この年、良経の父兼実は頼朝(中井貴一)の力を背景に義経追討の宣旨後、義経与党の公卿を解官、翌年摂政の地位を獲得したこと。
 ちなみに義経は平家を壇ノ浦で攻め滅ぼしてから自分が追討されることになるのはわずか八カ月後のことである。三年後の30歳で泰衝(渡辺いっけい)に討たれることになる。この時、良経は20歳。
 良経21歳の時、頼朝の姪、京都守護一条能保の女を娶ったこと。また後年、この血縁関係から鎌倉三代将軍実朝が暗殺された後、将軍となった藤原頼経は良経の孫にあたること。また、良経24歳の時、後白河法皇(平幹二朗)崩御。これに合わせたように頼朝は将軍となった。
 良経28歳の時、頼朝は良経の父兼実の政敵、土御門通親と通じ合うようになり皇子(後の土御門帝)誕生を機会に兼実は関白の座を追われることに、一門も同様の処遇となる。などなど、めまぐるしい。
 大河ドラマ「源義経」の別の側面のドラマを知り、史実と重なり合い立体的につながって、さらに興味深くなってくる。

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/04432d5f6de5fc99653292ebd36ca6a7?fm=entry_awp_sleep

 藤原良経のこと(二) 
 良経37歳の死に様は衝撃的なものだった。それは現代の詞華集というべき講談社学術文庫「現代の短歌」(1992/6/10発行)に載っている歌人の一人、塚本邦雄氏(1922~)の評論「藤原良経」(昭和50年6月20日初出)の一節を読んでいた時だった。
 次にその一文を記す。氏の名文と共にその衝撃を味わって頂きたい。
 「良経は序(新古今集の)完成の翌日相国(摂政太政大臣)を辞していた。そうして中御門京極に壮美を極めた邸宅を造り営む。絶えて久しい曲水の宴を廷内で催すのも新築の目的の一つであった。実現を見たなら百年振りの絢爛たる晴儀となっていたことだろう。元久三年二月上旬彼はこの宴のための評定を開く。寛治の代、大江匡房の行った方式に則り、鸚鵡盃を用いること、南庭にさらに水溝を穿つことを定めた。数度評定の後当日の歌題が「羽觴随波」に決まったのは二月尽であった。
 弥生三日の予定は熊野本宮二月二十八日炎上のため十二日に延期となった。良経が死者として発見されたのは七日未明のことである。禍事を告げる家臣女房の声が廷内に飛び交い、急変言上の使いの馬車が走ったのは午の刻であったと伝える。
 尊卑分脈良経公伝の終りには「建仁二年二月二十七日内覧氏長者 同年十二月二十五日摂政元久元年正月五日従一位 同年十一月十六日辞左大臣 同年十二月十四日太政大臣 同二年四月二十七日辞太政大臣 建永元年三月七日薨 頓死但於寝所自天井被刺殺云云」と記されている。
 天井から矛で突き刺したのは誰か。その疑問に応えるものはついにいない。下手人の名は菅原為長、頼実と卿二位兼子、定家、後鳥羽院と囁き交される。否夭折の家系、頓死怪しからずとの声もある。
 良経を殺したのは誰か。神以外に知るものはいない。あるいは神であったかも知れぬ。良経は天井の孔から、春夜桃の花を挿頭に眠る今一人の良経の胸を刺した。生ける死者は死せる生者をこの暁に弑した。その時王朝は名実共に崩れ去ったのだ。」
  *()内及び段落は筆者。塚本邦雄全集第14集586頁より
 この文を読んで良経の死に様の衝撃さもさることながら、この曲水の宴に「三十六歌仙絵巻」を披露するはずではなかったか、そんな想像を膨らます。
 当時は和歌・絵巻などの文化は政治権力、権威の象徴でもあったから、政敵にとって暗殺するにたる十分な要因になると思うのである。
(*申し訳ありませんが以下追加します)
 良経の死は九条流藤原家にとって大きな痛手であった。
 良経の父、兼実の嘆きはいかばかりであったか。長男を22歳で失っているから尚更であったろう。兼実は良経の死から翌年、58歳で亡くなっている。
 その時、良経の長男道家は13歳、摂関の地位についたのは15年後のことであった。 この間、いかに摂関の地位を望んでいたか道家の日記「玉蘂(ぎょくずい)」にのこされているそうだ。
 ある女房が道家が摂関の地位につく吉夢を二度(建歴二年二月七日と承久二年五月二十三日)見たので喜び、念誦し八幡・春日・北野ならびに三宝に祈りを捧げたとある。 道家が摂関(摂政)の地位についたのは翌年、承久三年のことである。しかし間もなく退き(承久の変)、再び摂関(関白)になったのは七年後のことであった。
 これらの時期のどこかで、絵巻は下鴨神社に奉納されたのではあるまいか。

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/b02beda70188fefa63d92726744ae279

藤原良経のこと(三)

良経はどういう作品を残しているだろうか。

 小倉百人一首にある
  
  きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに
    衣かたしきひとりかも寝む

 は一般には知られているだろう。 

 しかし、余程の良経通でなければほかの歌は知られていないのではとの思い込みで前掲の塚本邦雄氏の著書「雪月花」雪の巻、良経百首の中から筆者好みの数首を選び作歌年齢と若干の註釈を氏の文章を参考にして付けてみた。

① 散る花も世を浮雲となりにけり
    むなしき空をうつす池水(「花月百首」花五十首22歳)

*「むなしき空」は「虚空」
 「世を浮雲」の「浮」は「憂き」の懸詞・「浮世」の倒置

② 明け方の深山の春の風さびて
    心くだけと散る櫻かな(「花月百首」花五十首22歳)

*「心くだけ」はさまざまに思ひ煩ふの意
 「さびて」は「寂びて」
       
③ ただ今ぞか(帰)へると告げてゆく雁を
    こころにおくる春の曙(「二夜百首」「帰雁」五首22歳)

④ 夢の世に月日はかなく明け暮れて
    または得がたき身をいかにせむ(「十題百首」「釈教」十首「人」23歳)

⑤ 見ぬ世まで思ひ残さぬながめより
    昔に霞む春の曙(「六百番歌合」春曙25歳)

*「見ぬ世」とは前世、未生以前の時間、「昔」とは生まれてから現在までの舊い日月、曙の春霞はこの昏い、不可視の空間にたなびき渡る。

⑥ 帰る雁今はの心有明に
    月と花との名こそ惜しけれ(「院初度百首」春二十首 新古今・春上32歳)
*今は限り、いざ帰る時と消えて行く雁、下には名残の桜、上には細り傾く晩春の月、見棄てられては花月の名にかかはろう。

⑦ おしなべて思ひしことのかずかずに
    なお色まさる秋の夕暮れ(「院初度百首」春二十首 新古今・秋上32歳)

*筆者寸評
 ①②③④⑤は二十歳前半での作である。それにしてはなんと憂いに充ちた歌なのであろう。すでに人生の無常観を知っている。

 ⑥⑦は三十歳前半の作である。すでに熟成の感あり。何度も口ずさみたくなる歌である。

 良経の家集「秋篠月清集」の作歌年齢をみるとは33歳までである。それ以降は摂政として政治に勤しんでいたのかもしれない。

 この原稿を書いていた日(6月10日)、朝刊を見ていたら度々引用させて頂いた塚本邦雄氏の訃報の記事が掲載されていた。
 氏と筆者の面識などは全くないのであるが藤原良経公を介して歴史の時空間での不思議な縁しを感じている。
 そこで良経公の歌一首と塚本氏の解説の一文を両者へ畏敬を込めて次に記して追悼の意を表したいと思う。

  のちの世をこの世に見るぞあはれなる
    おのが火串(ほぐし)を待つにつけても(「二夜百首」「照射(ともし)」五首)

*標題の「照射」歌中の「火串」共に夏の歌に頻出する狩猟風景である。山深く鹿を誘き寄せるために燃やす篝火や松明が「照射」であり、「火串」は松明をつけるための篝、長い柄を狩人が腰に差す。多くは五月闇の頃行はれる。鷹狩は厳冬、桜狩、紅葉狩の原義である猟は春と秋、照射を併せて四季の猟遊となる。火串待ちは出猟時の準備儀式、居並ぶ面面が順次火種を渡される光景であらう。闇の中にぼうつと浮かび上がる人の姿に、後の世すなはち黄泉の国の死者を連想するのか。煉国の景色を現世で垣間見るとならば、何と凄まじい著想だらう。しかもうつし身の人人が次に繰展げるのは殺戮である。命に関わる沈思を誘ふのも当然ではあらう。由来この題は少数の例外を除いて鹿によせる憐憫の情、あるいは単に季節感に寄せる感懐ばかり歌はれているが、この一首はそれを踏まへた上で本質的な問題に肉薄している。古歌の「照射」すべての中においても一、二を争ふ秀作だらう。 】
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第二 かぢのおと(その一) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

第二 かぢのおと(その一)

 磯の秋(抱一の「波濤図」周辺) 

    七里濱にて
  浪に立(たつ)人も馬鹿鳥磯の秋(第二 かぢのおと)

 この前書きの「七里濱」は、相模湾の鎌倉と江の島を結ぶ海岸線であろう。抱一の江の島詣では、その俳諧日誌の『軽挙観句藻』に頻繁に出て来るもので、この七里ガ浜は抱一の馴染みの海辺ということになる。
 「浪に立つ人も馬鹿鳥磯の秋」の季語は、「磯の秋」(三秋)で、「磯遊び」(磯祭/花散らし=晩春)の句ではない。「馬鹿鳥」は、「あほうどり(信天翁・阿房鳥)」のことで、「陸上での歩き方が不器用で人を恐れないことからとも、簡単に捕えられるので名づけられた」ともいわれている。
 句意は、「この漁獲最盛期の実りの秋に、波の上に立って波乗りに興じている輩がいる。ああいう輩は、まさしく馬鹿鳥(あほうどり)の名が一番似合っている」というような、シニカル(風刺的・冷笑的)なものであろう。
 このシニカルさは、相手(サーフインに興じている)に対する者と同時に、「波ばかり飽かず描いている」自分への眼差しでもあろう。

 波一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「波濤図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 尾形光琳の「波濤図屏風」(二曲一隻・メトロポリタン美術館蔵)、酒井抱一の「波図屏風」(六曲一双・静嘉堂文庫美術館蔵)、俵屋宗達の『雲龍図屏風』(六曲一双・フーリア美術館蔵)」、そして、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」(横大判錦絵・メトロポリタン美術館蔵)などについて、下記のアドレスで触れた。そのうちの抱一の「波図屏風」と光琳の「波濤図屏風」関連などを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-30

(再掲)

波二.jpg

酒井抱一筆「波図屏風」(六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇cm
文化十二年(一八一五)頃 静嘉堂文庫美術館蔵)

【銀箔地に大きな筆で一気呵成に怒涛を描ききった力強さが抱一のイメージを一新させる大作である。光琳の「波一色の屏風」を見て「あまりに見事」だったので自分も写してみた「少々自慢心」の作であると、抱一の作品に対する肉声が伝わって貴重な手紙が付属して伝来している。宛先は姫路藩家老の本多大夫とされ、もともと草花絵の注文を受けていたらしい。光琳百回忌の目前に光琳画に出会い、本図の制作時期もその頃に位置づけうる。抱一の光琳が受容としても記念的意義のある作品である。 】(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

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尾形光琳筆「波濤図屏風」(二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵)

【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

 この光琳の「波濤図屏風」の解説中の、「波濤をかたどる二本の墨線の表現」というのは、いわゆる、「二管の筆を同時に握って描く『双筆』という中国由来の伝統的な水墨技法」(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「其一の波濤図―北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの(久保佐知恵稿)」)を指しているのであろう。
 そして、「其一の波濤図―北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの(久保佐知恵稿)」のサブタイトルの「北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの」というのは、これは、其一よりも、その其一の師の「酒井抱一」に、より冠せられるものという思いを深くする。
 特に、光琳の「波濤図屏風」は、抱一の『光琳百図』に収載されており、抱一、そして、其一の「波濤図」関連のものは、すべからく、ここからスタートしていると解して差し支えなかろう。

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『光琳百図』(酒井抱一編・筆)所収「波濤図」(「ARC浮世絵データベース」)
https://ja.ukiyo-e.org/image/met/DP266705_CRD

 上記の(再掲)の最初に、抱一の「波図屏風」(紙本銀地墨画着色)を掲げたが、抱一には、「銀地」ではなく「金地」の「波図屏風」(二曲一双)もある。

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酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)

【 光琳の「波図屏風」を見て感銘を受けた抱一だが、本図でき絹地に深い色あいが闇の海を切り取ったかのようで、光琳画の趣を彷彿とさせる。しぶきなどの簡単な描写にも、巧みな筆致が表れ、落款からは、文政後期、晩年の作とみられる。表の緑と裏面は銀地とし、抱一の弟子池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした。八百善伝来。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 この「作品解説」中の裏面に「池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした」の、その孤邨の作は次のとおりである。

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池田孤邨筆「千鳥群図」(酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)裏面)

 この池田孤邨より五歳年長の、抱一の一番弟子の鈴木其一には、次の「松に波濤図屏風」がある。

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鈴木其一筆「松に波濤図屏風」(二曲一隻 紙本墨画 一六八・〇×一九・五㎝ 個人蔵)

【 近年関西で発見された其一には珍しい水墨画の大作である。紙は焼けが強く全面に淡褐色に変色しているものの、墨は当初の潤いを保つかのようであり、光が当たると鈍い輝きを放つ。画面の左右のそれぞれの端に丸い引き手跡が残っているため、もとは襖であったと思われる。向かって右側の画面右上、松の生える岩礁に隠れるように、「噲々其一」の署名と「祝琳斎」(朱文大円印)が捺される。書体は「三十六歌仙・檜図屏風」(作品41)に近しく、「噲」のうち第六画以降が崩れて「専」の草書のように、「其」が「サ」と「人」を足したように見える。天保六年(一八三五)という作品41の箱書に従うなら、本作もまた同時期の制作と考えられる。
画面右上から緩やかな対角線上に、松の生える岩礁、海中に横たわる巨岩と小岩が、滲みを効かせた濃墨によって描かれる。もっとも本作の主題は、これらのモチーフの間を縫うように流れるダイナミックな波の動きそれ自体にあるだろう。複雑かつ明晰な水流表現は、其一より一世代前に京都で活躍した円山応挙によって創始された大画面の波濤図に近しい。「噲々」落款時代の壮年における積極的な応挙学習の一端を物語る貴重な作例である。 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説45(久保佐知恵稿)」)


野路や空月の中なるおみなへし (第二 かぢのおと) 

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抱一画集『鶯邨画譜』所収「葛図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 抱一の代表作は、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描いた「夏秋草図屏風」(二曲一双)が挙げられるであろう。その左隻の「秋草図」には、「ススキ・オミナエシ・フジバカマ・クズ」が描かれている(下記の左方の「紅白」が「クズ」、その下方に「フジバカマ」、右方の「紅」は「オミナエシ」)。

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酒井抱一筆「夏秋草図屏風」の左隻の部分図

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酒井抱一筆「月に秋草図屏風」六曲一隻 東京国立博物館寄託

 この「月に秋草図屏風」は、夏目漱石の「門」に出てくる。

「下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描いた上に、真丸な月を銀で出して、其横の空いたところへ、野路や空月の中なる女郎花、其一と題してある。
宗助は膝を突いて銀の色の黒く焦げた辺から、葛の葉の風に裏を返してゐる色の乾いた様から、大福程な大きな丸い朱の輪廓の中に、抱一と行書で書いた落款をつくづくと見て、
父の行きてゐる当時を憶ひ起さずにはゐられなかつた。」(夏目漱石「門」より)

 上記の「野路や空月の中なる女郎花」は抱一の句で、抱一の高弟・鈴木其一が、その句を書き添えているというのであろう。この抱一の句は、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「かぢのおと」に、「野路や空月の中なるおみなへし」の句形で収載されている。俳人でもある夏目漱石は、確かに、抱一の自撰句集『屠龍之技』を熟知していて、そして、上記の抱一の「月に秋草図屏風」類いのものを目にしていたのであろう。
 抱一の俳諧の師筋に当たる馬場存義にも、葛の花の句がある。

  鹿野焼や手のうらかえす葛の花     馬場存義

 また、夏目漱石の俳句の師筋に当たる正岡子規や旧知の高浜虚子門下にも、葛の花の句が多い。

  山葛にわりなき花の高さかな      正岡子規
  抱一の観たるがごとく葛の花      富安風生
  堰堤に匍ひもとほれる葛の花      富安風生
  山桑をきりきり纒きて葛咲けり     富安風生
  こぼれつぐ葛の花屑雨の淵       高浜年尾
  流れ継ぐ花葛の色まぎれなし      高浜年尾
  兎跳ね犬をどり入る葛の花       水原秋櫻子
  朝霧浄土夕霧浄土葛咲ける       水原秋櫻子
  渋の湯の裏ざまかくす葛の花      水原秋櫻子
  四五人の無用の客や葛の花       高野素十
  山川や流れそめたる葛の花       高野素十
  木曽馬も花葛も見ず馬籠去る      高野素十
  大学の中に弥生ケ丘葛咲いて      山口青邨
  有耶無耶といふ関葛の花襖       阿波野青畝

名月や硯のうみも外(そと)ならず (第二 かぢのおと) 

紫式部一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「紫式部図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 この「紫式部図」は、『光琳百図』(上巻)と同じ図柄のものである。

紫式部二.jpg

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491

 光琳百回忌を記念して、抱一が『光琳百図』を刊行したのは、文化十二年(一八一五)、五十五の時、『鶯邨画譜』を刊行したのは、二年後の文化十四年(一八一七)、五十七歳の時で、両者は、同じ年代に制作されたものと解して差し支えない。
 両者の差異は、前者は、尾形光琳の作品を模写しての縮図を一冊の画集にまとめたという「光琳縮図集」に対して、後者は、抱一自身の作品を一冊の絵手本の形でまとめだ「抱一画集」ということで、決定的に異なるものなのだが、この「紫式部図」のように、その原形は、全く同じというのが随所に見られ、抱一が、常に、光琳を基本に据えていたということの一つの証しにもなろう。

紫式部三.png

尾形光琳画「紫式部図」一幅 MOA 美術館蔵

 落款は「法橋光琳」、印章は「道崇」(白文方印)。この印章の「道崇」の号は宝永元年(一七〇四)より使用されているもので、光琳の四十七歳時以降の、江戸下向後に制作したものの一つであろう。
 この掛幅ものの「紫式部図」の面白さは、上部に「寺院(石山寺)」、中央に「花頭窓の内の女性像(紫式部)」、そして、下部に「湖水に映る月」と、絵物語(横)の「石山寺参籠中の紫式部」が掛幅(縦)の絵物語に描かれていることであろう。
 この光琳の「紫式部図」は、延宝九年(一六八一)剃髪して常昭と号し、法橋に叙せられた土佐派中興の祖・土佐光起の、次の「石山寺観月の図」(MIHO MUSEUM蔵)などが背景にあるものであろう。

http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00001352.htm

写本一.jpg

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0009_m.html

 名月や硯のうみも外(そと)ならず  

 「かぢのおと(梶の音)」編の、「紫式部の畫の賛に」の前書きのある一句である。この句は、上記の『鶯邨画譜』の「紫式部図」だけで読み解くのではなく、光琳の「紫式部図」や土佐光起の「石山寺観月の図」などを背景にして鑑賞すると、この句の作者、「尻焼猿人・
屠龍・軽挙道人・雨華庵・鶯村」こと「抱一」の、その洒落が正体を出して来る。
 この句の「外ならず」は、「外(ほか)ならず」ではなく、「外(そと)ならず」の「詠みと意味」ということになろう。


吉原の狐舞い(中村芳中『光琳画譜』所収「高砂」「仕舞」「黒木売」「目隠し鬼」「七福神」周辺)

此年も狐舞せて越へにけり  (第二 かぢのおと)

 この句の前に、「青楼」と前書きがあり、これは、年越し大晦日の吉原の「狐舞い」の一句であろう。下記のアドレスで、「大晦日の吉原には獅子舞ではなく、赤熊の毛を付け、錦の衣で美しく着飾った「狐舞ひ」が現れ、笛や太鼓の囃子を引き連れて練り歩いていた」と、この狐舞いについて紹介している。

https://yoshiwara-kitsune.jimdo.com/吉原狐/

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葛飾北斎画『隅田川両岸一覧下編』「吉原の終年」

 抱一と吉原、そして、抱一と芳中などについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-19

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中村芳中画『光琳画譜』所収「高砂」「仕舞」「黒木売」「目隠し鬼」「七福神」
http://kazuhisa.eco.coocan.jp/korin_gafu.htm

  元日やさてよし原(吉原)は静かなり

 この句は、「吉原月次風俗図・正月」(酒井抱一書・画、紙本墨画 一幅 九七・三×二九・二㎝)の中に書かれている抱一の句である。
 
 これらの「吉原月次風俗図」に触れると、「酒井抱一(江戸琳派)と吉原ネットワーク(吉原文化人ネットワーク)」との密接不可分な世界が浮かび上がって来る。
 そして、その吉原では、若き日の抱一(姫路藩主の弟)は、「ときやうさん」(俳号「杜陵=とりょう」からの命名)と呼ばれ、「つまさん(正しくは駒さん)」の、松江藩主・松平不味の弟・雪川(松平桁親)、「ぶんきやうさん」(狂号=笹葉鈴成からの命名)の、松前候の公子・松前泰卿、この「粋人・道楽子弟」の「三公子」の一人として、スーパースター(著明人)の一人だったのである。
 その吉原のスーパースターの「ときやうさん」(俳号「杜陵=とりょう」からの命名)が、描く、次の、妓楼大字屋の主人二代目村田市兵衛こと「「大文字屋市兵衛像」がある。

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酒井抱一画「大文字屋市兵衛像」 一幅 絹本著色 一八・四×一五・一㎝
板橋区立美術館蔵

【 抱一がもっとも懇意にしていた吉原の友人は、妓楼大文字屋の主人二代目村田市兵衛。本図は先代の市兵衛が滑稽な風貌からカボチャむとはやされ、その姿を浮世絵師西村重長が描いた図に依る。その初代に因み、二代目は狂名を加保茶元成と称した。本図は「遊郭抱一戯墨」とあるように、大文字屋で余興に描いたのだろう。画中の「加保茶」の印は、同家に伝わるみのかもしれない。八百善旧蔵。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「抱の心の拠り所『吉原』」(岡野智子稿)」)

 それに比して、中村芳中が、享和二年(一八〇二)、大阪から江戸に出て来て刊行した『光琳画譜』の奥付に、「享和壬戌のとし 東都旅館の 爐辺にて 芳中写之 (花押)」と記載してあるとおり、江戸に出て三年を経ても、大阪からの出稼ぎ絵師の風情である。
そして、光琳風の自己の絵画の版本に、堂々と『光琳画譜』と名を付け、その「序」に、
抱一(俳号=杜陵 狂歌名=尻焼猿人・屠龍 画号=庭拍手)の「住吉太鼓橋夜景図」に賛をしている「加藤(橘)千蔭」、その「跋」に、江戸千家の祖の川上不白が草している。
 これらの千蔭も不白も、抱一を取り巻く文化人ネットワーク(そして、それは吉原ネットワークと重なる)の一人であり、さらに、当時の抱一は、享和元年(一八〇一)に、先に、下記のアドレスなどで紹介した、「燕子花図屏風」(二曲一隻、「庭拍手」の署名、四十一歳)を制作するなど、大きく琳派様式へと方向転換をしている頃と重なるのである。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/

 これらのことについて、芳中の方からすると、「江戸へ来て芳中が目にしたのは抱一の琳派様式の作品であったかもしれない。芳中にとっては大きな驚きであったと思われる。それでは、ということで対抗的な意味も込めての『光琳画譜』出版であったと解することもできよう」(『光琳を慕う 中村芳中(芸艸社)』所収「中村芳中について(木村重圭稿))という見方も成り立つであろう。
 そして、当時の、抱一と芳中とを結ぶ接点は、俳諧ネットワークの「大伴大江丸・夏目成美・鈴木道彦・馬場存義・前田春来・岡田米仲」等々の「其角・嵐雪」に連なる俳人たち、狂歌・戯作者ネットワークの「大田南畝(蜀山人・四方赤良・寝惚先生)」の率いる「四方連」と「蔦屋重三郎・山東京伝(北尾政演)」等々の「戯作・浮世絵」に連なる面々、さらに、「下谷の三幅対」とも称せられた「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」を主軸とする「詩・書・画を生業とする江戸文化人のネットワーク」の面々と、それらは、「江戸吉原サロン」と深く結びついているということになろう。
 嘗て、次のアドレスで、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」に連なる名士たちの、その一端に触れた。それらを再掲すると、次のとおりである。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-28

【 松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂 】

 ここで、大阪の中村芳中と江戸の酒井抱一とを結びつける、両者を知る人物を「加藤(橘)千蔭」と仮定すると、その背後の人物とは、やはり、大阪の「木村蒹葭堂」と、江戸の「大田南畝」の、このお二人が浮かび上がってくる。
 ずばり、芳中の『光琳画譜』が出版される一年前の、享和元年(一八〇一)の、太田南畝の年譜に、次のように記載されている。この太田南畝が、キィワードとなる人物のように思われる。

【享和元年(1801年)、大坂銅座に赴任。この頃から中国で銅山を「蜀山」といったのに因み、「蜀山人」の号で再び狂歌を細々と再開する。大坂滞在中、物産学者・木村蒹葭堂や国学者・上田秋成らと交流していた。 】

https://ja.wikipedia.org/wiki/大田南畝

 芳中が、江戸で『光琳画譜』を出版して、再び、大阪に戻ったのは、その出版した年の、享和二年(一八〇二)の年末頃と推定されている。そして、それ以後、文政二年(一八一九)に没するまでの約十八年、芳中は、扇面画を中心として、本格的な琳派作品を精力的にこなしていくこととなる。

(参考一)上記『光琳画譜』(「金華堂守黒」版)の五図(算用数字は登載番号)

14仕舞 → この「能」の「仕舞」(能を演ずる稽古)のようなものが、芳中画の基本にあるのであろう。

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16高砂 → この「能」の場面の、「爺・婆」を見ている「童」は、芳中その人かも知れない。

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18目隠し鬼 → 芳中の童心が読み取れる、次のアドレスの「象背戯童図」(芦雪)の「戯童」に近い印象を受ける。
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-09-28

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23黒木売(大原女) → 芦雪の「大原女」に比して、芳中のは「飄逸味・滑味」がある。
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-10-07

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25七福神 → 芳中の「童子」図も、芦雪の「童子」図と同じような魅力に溢れている。

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(参考二)大田南畝(おおたなんぼ)

没年:文政6.4.6(1823.5.16)
生年:寛延2.3.3(1749.4.19)

江戸時代中・後期の戯作者,文人。名を覃、字子耜、通称直次郎、七左衛門といった。四方赤良、山手馬鹿人、蜀山人、杏花園、寝惚先生など、多くの別号を使った。幕府の御徒吉左衛門正智と利世の長男、江戸牛込仲御徒町に誕生。宿債に苦しむ小身の悴南畝は、若年時から学問に立身の夢を賭け15歳で内山賀邸(椿軒)、18歳ころに松崎観海に入門した。幕臣書生らしく和学と徂徠派漢学を修める一方、平秩東作をはじめ、のちの江戸戯作界の中核をなす面々と交わった。 明和3(1766)年、処女作の作詩用語集『明詩擢材』を編み、翌年、平賀源内の序を付して戯作第一弾の狂詩集『寝惚先生文集』を出版。生涯、徂徠派風の漢詩作成にいそしむ一方、狂詩の名手として20代から30代の大半を江戸戯作の華美な舞台のただなかに過ごし、やがて領袖と仰がれた。同門の 唐衣橘洲 らと共に江戸狂歌流行の端緒を開き、『万載狂歌集』(1783)、『徳和歌後万載集』(1785)などを相次いで出版。天明期俗文芸の隆盛を築いた。洒落本,評判記,黄表紙などの戯作も多く綴ったが、天明7(1787)年,田沼政権の崩壊と松平定信による粛正政策の台頭を機に、狂歌界とは疎遠になり、幕吏本来の姿勢を俊敏に取り戻した。寛政6(1794)年、人材登用試験を見事な成績で合格、大坂銅座出役(1801)、長崎奉行所出役(1804)などの勤務をこなし、かたわら江戸文人の代表格として名声をいやましに上げていった。最晩年に『杏園詩集』(1820)など、漢詩、狂歌文などが多く出版された。<著作>浜田義一郎他編『大田南畝全集』(全20巻)<参考文献>玉林晴朗『蜀山人の研究』,浜田義一郎『大田南畝』 (ロバート・キャンベル)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

(参考三)大田南畝と「お賎」

http://www.muse.dti.ne.jp/~squat/ohtananpo.htm



安永4年の7月、南畝は「評判茶臼芸」を、安永5年に洒落本「世説新語茶」、8年(1779)に浄瑠璃の漢訳「阿姑麻」、洒落本「深川新話」「粋町甲閨」を刊行。岡場所話を書くほどだからさんざん遊んだのだろう。またこの時期に狂歌会も盛ん。この年の12月18日に51歳で平賀源内が獄中死去。安永9年、軽井沢の宿場遊女を題材にした洒落本「軽井茶話 道中粋語録」、黄表紙「虚言八百万八伝」を刊行。翌天明元年(1781)に「菊寿草」、天明2年「岡目八目」を刊行。この「岡目八目」で山東京伝「手前勝手 御存知商売物」最上位で褒め、これで京伝の名は一気に広がった。同年12月、蔦谷重三郎に招かれて恋川春町(39)、南畝(34)、京伝(22)ら8名が吉原に登楼。狂歌集「通詩選笑知」「通詩選」を刊行し、まさに一世風靡。日々、招待遊行が盛んになり、京伝も引き立てた。
 さぁ、ここからが佳境だ。もうしばらく辛抱して読んで下さいませ。天明6年(1786)、老中田沼意が罷免され、代わって老中に就いたのが松平定信で寛政の改革が始まった。その年に南畝は吉原松葉屋の遊女・三保崎(みほざき/新造の位=上妓となる見込みのない遊女)との恋情が燃え上がり、ついには身請けして妾とし、「阿賤(おしず)」と名付け、自宅の棟つづき離れに引き取った。妻妾同居で「不良」が本格化(お賤は南畝の世話を8年したが病気がちで30歳で病死)。この間び改革粛清は進み、勘定組頭(実質の勘定奉行)・土山宗次郎が死刑。南畝は土山によって遊興と享楽の味をたっぷり楽しませてもらっていた関係上、自身の首も危うくなって来た。また山東京伝も洒落本が官憲の心証を害し、版元・蔦谷重三郎が財産半分没収、京伝は手鎖50日の処罰。南畝は狂歌作りをやめた。
 童門冬二の小説「沼と河の間に」は、南畝が狂歌から遠ざかる保身の道を取って仲間からひんしゅくを買うシーンから物語をスタートさせている。寛政元年(1789)、北尾政美画で「鸚鵡返武士二道」を出した恋川春町は、松平定信に召喚され、病気を理由に出頭せず、塁が藩主に及ぶのをおそれて自決したらしい…。新宿2丁目の成覚寺の粗末な墓が胸を打ちます。そして南畝はなんと!44歳(寛政4年)にして猛勉強し、第2回学問吟味に応募したが不合格(狂歌他で文名を高め、土山の庇護にあった南畝に反感を時つ者の反対で不合格になったとも言われている。また巷に
「世の中に 蚊ほどうるさきものはなし 文武文武と夜も寝られず」
 の狂歌が南畝による作との評判がたって、これが災いしたとの説も…)。
 童門の小説では、のちに「東海道中膝栗毛」を書く十返舎十九、のにち「南総里見八犬伝」を書く勧善懲悪志向の曲亭馬琴の両青年と保身転向した南畝の三つ巴文学論争を展開させている。
 だが南畝は諦めない。病弱なお賎を文学仲間の住職(お寺)に預けて勉学に励み、寛政6年(1794)の二回目の学問吟味に再挑戦し、年少の受験者に混じって白髪まじりの46歳で見事にトップ合格。遠山の金さんの父・遠山金四郎景晋(かげみち)、後に北方探検家として有名になる近藤重蔵も合格。(※近藤重蔵は退役後に身分不相応な邸宅を建て、公家の娘を妾にしたことから不遜だとお咎めを受ける。また57歳の時に別荘の隣家との境界争いから長男・富蔵が殺傷事件を起こす。そう、八丈島流刑で有名なあの近藤重蔵である)
 この前年、寛政5年(1793)6月にお賎は亡くなった。「お賎」と卑しい名を付けた南畝だったが、身まかってから毎年その祥月命日に供養の書会を欠かさない。お賎の法名は「晴雲妙閑信女」。南畝が詠んだ狂歌は「雲となり雨となりしも夢うつつきのふはけふの水無月の空」。お賎が亡くなって10年後、南畝55歳の日記「細推日記」にもその供養書会を牛込薬王寺町の浄栄寺で催していることが書かれている。おっと、その供養書会には次ぎの妾、島田「お香」も列席している。「お香」は南畝の優しさにホロリとしたに違いない。「あたしはそんな南畝にずっと添って行こう」と…。
 またここで記すべきは、彼は学問吟味の試験から合格御礼までの詳細を記した「斜場窓稿」を刊行していること。しかし、合格はしたものの南畝の四番組徒歩の仕事は相変わらずだった。合格から2年後、母が73歳で亡くなった寛政8年にやっと支配勘定に昇進。祖父の代から続いた微禄もやっと30俵加増。そして突然の松平定信の罷免。また巷にこんな狂歌が流行った。
「白河の あまり清きに耐え(棲み)かねて 濁れるものと田沼恋しき」
 これまた南畝の作と思われた。支配勘定なら大阪の銅座詰という出世コースになかなか乗れない。翌々年、妻・里与が44歳で死去。南畝は俗っぽいと思いつつも「日本中の孝子節婦を将軍が表彰する」という案を提出し、「孝行奇特者取調御用」に任命される。寛政12年、これをまとめた「孝義録」50巻を刊行。従来の漢文による公文書ではなく、和文でかつ文学的な編集で、文人ならではの才を発揮した。これが認められて寛政13年(享和元年)、53歳でやっと大阪銅座出役になった。学問吟味の合格から7年の精励を続けて、やっと大阪出張で出世の道が広がった。大阪でてきぱきと仕事を片付ける切れ者公務員。午後2時が退庁時間で、ここからが文人タイム。見聞と人脈を広げで、ここで「銅」の異名を「蜀山居士(しょくさんこじ)」ということから「蜀山人」なる号を思いつく。この時期に20数年前に「雨月物語」を書いた上田秋成を訪問などし、1年で江戸へ呼び戻される。

(参考四)酒井抱一と「小鸞(しょうらん)」

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-19

抱一の、初期の頃の号、「杜綾・杜陵」そして「屠龍(とりょう)」は、主として、「黄表紙」などの戯作や俳諧書などに用いられているが、狂歌作者としては、上記の「画本虫撰」に登場する「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の号が用いられている。
 『画本虫撰』は、天明狂歌の主要な作者三十人を網羅し、美人画の大家として活躍する歌麿の出生作として名高い狂歌絵本である。植物と二種の虫の歌合(うたあわせ)の形式をとり、抱一は最初の蜂と毛虫の歌合に、四方赤良(大田南畝・蜀山人)と競う狂歌人として登場する。
 その「尻焼猿人」こと、抱一の狂歌は、「こはごはに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあぢはひ」というものである。この種の狂歌本などで、「杜綾・尻焼猿人」の号で登場するもりに、次のようなものがある。

天明三年(一七八三) 『狂歌三十六人撰』 四方赤良編 丹丘画
天明四年(一七八四) 『手拭合(たなぐひあはせ)』 山東京伝画 版元・白凰堂
天明六年(一七八六) 『吾妻曲狂歌文庫』 宿屋飯盛編 山東京伝画 版元・蔦重
「御簾ほとに なかば霞のかゝる時 さくらや 花の王と 見ゆらん」(御簾越しに、「尻焼猿人」の画像が描かれている。高貴な出なので、御簾越しに描かれている。)
天明七年(一七八七) 『古今狂歌袋』 宿屋飯盛撰 山東京伝画 版元・蔦重

 天明三年(一七八三)、抱一、二十三歳、そして、天明七年(一七八七)、二十七歳、この若き日の抱一は、「俳諧・狂歌・戯作・浮世絵」などのグループ、そして、それは、「四方赤良(大田南畝・蜀山人)・宿屋飯盛(石川雅望)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・喜多川歌麿(綾丸・柴屋・石要・木燕)・山東京伝(北尾政演・身軽折輔・山東窟・山東軒・臍下逸人・菊花亭)」の、いわゆる、江戸の「狂歌・浮世絵・戯作」などの文化人グループの一人だったのである。
 そして、この文化人グループは、「亀田鵬斎・谷文晁・加藤千蔭・川上不白・大窪詩仏・鋤形蕙斎・菊池五山・市川寛斎・佐藤晋斎・渡辺南岳・宋紫丘・恋川春町・原羊遊斎」等々と、多種多彩に、その輪は拡大を遂げることになる。
 これらの、抱一を巡る、当時の江戸の文化サークル・グループの背後には、いわゆる、「吉原文化・遊郭文化」と深い関係にあり、抱一は、その青年期から没年まで、この「吉原」(台東区千束)とは陰に陽に繋がっている。その吉原の中でも、大文字楼主人村田市兵衛二世(文楼、狂歌名=加保茶元成)や五明楼主人扇屋宇右衛門などとはとりわけ昵懇の仲にあった。
抱一が、文化六年(一八〇九)に見受けした遊女香川は、大文字楼の出身であったという。その遊女香川が、抱一の傍らにあって晩年の抱一を支えていく小鸞女子で、文化十一年(一八二八)の抱一没後、出家して「妙華」(抱一の庵号「雨華」に呼応する「天雨妙華」)と称している。
 抱一(雨華庵一世)の「江戸琳派」は、酒井鶯蒲(雨華庵二世)、酒井鶯一(雨華庵三世)、酒井道一(雨華庵四世)、酒井唯一(雨華庵五世)と引き継がれ、その一門も、鈴木其一、池田孤邨、山本素道、山田抱玉、石垣抱真等々と、その水脈は引き継がれいる。

補記一 『画本虫撰』(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345

補記二 『狂歌三十六人撰』

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007282688-00

http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/app/collection/detail?id=0191211331&sr=%90%EF

補記三 『手拭合』(国文学研究資料館)

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200611/

補記四 『吾妻曲狂歌文庫』(国文学研究資料館) 

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200512/

補記五  浮世絵(喜多川歌麿作「画本虫ゑらみ」)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-12-27
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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その五) [三十六歌仙]

その五 後法性寺入道前関白太政大臣と土御門内大臣

藤原兼実.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(後法性寺入道前関白太政大臣・九条兼実)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056399

源通親一.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(土御門内大臣・源通親)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056400

左方五・後法性寺入道前関白太政大臣(九条兼実)

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010684000.html

かすみしく春のしほぢをみわたせば/みどりをわくるおきつしらなみ(『千載』8)

右方五・土御門内大臣(源通親)

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010685000.html

おりしもあれ月はにしにも成りぬらん/雲のみなみにはつかりのこゑ

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-28

藤原忠道.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方五・後法性寺入道前関白太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009398

源通親.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方五・土御門内大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009416

(周辺メモ)

 九条兼実と源通親との番いというのは実に絶妙という思いを深くする。九条兼実は、五摂家の一つ、九条家の祖であり、かつその九条家から枝分かれした一条家と二条家の祖でもある。平氏滅亡後、源頼朝に支持されて摂政、太政大臣、関白となり、頼朝の征夷大将軍宣下(せんげ)をとりはからう。建久七年(一一九六)政敵の源通親(みちちか)に追われて失脚、法然に帰依して出家した。通称は月輪殿、後法性寺殿。法名は円証。和歌は初め六条家の清輔を師としたが、その死後、俊成を迎えた。承安から治承にかけてさかんに歌会・歌合を開催し、九条家歌壇の基礎をつくった。この歌壇は息子の良経に引き継がれて、慈円・定家ら新風歌人たちの活躍の場となる。
 一方の源通親は、六波羅(ろくはら)時代に、平氏との間に婚姻を通じて政治家としての地歩を築き、また高倉天皇の近臣として重んぜられた。しかし平氏の都落ちに際しては、これを離れて後白河院のもとにとどまり、その近臣としてしだいに勢力を得た。また新興の関東政権とも連携して宮廷での地歩確保に努め、関白九条兼実の執政と対立した。建久七年(一一九六)、近衛家を擁して九条家を失脚させ、事実上政権を独占する勢いを示した。やがて後鳥羽天皇が上皇として院政をみるや、院の意を迎えて、いよいよその権勢を固めた。院の別荘水無瀬殿(みなせどの)は通親の造営するところである。通親も和歌・文章に巧みで、後鳥羽院の近臣源家長の『家長日記』にはとくに歌人として高く評価されている。
 この当時の時代を二分した実力者且つ有力歌人の二人を番いさせたのは、この二人に通暁している、且つ、この二人の上に君臨した帝王・後鳥羽院その人という思いを深くする。

(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

藤原兼実二.jpg

源通親.jpg

(周辺メモ)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』については、次のとおり紹介されている。

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/lib-sin36.html

【狩野洞雲(狩野益信・1625-1694)画 絹本金銀泥彩色画 本紙  たて 31.7cm  よこ 24.6cm 折帖装  箱入

歌仙絵とは和歌に秀でた歌人の画像で、普通歌人の肖像にその歌の一首を、ときに略伝を添えたものを指す。鎌倉時代から江戸時代に非常に流行し、藤原公任 (966-1041) 撰の「三十六人撰」所収歌人を称した「三十六歌仙」をはじまりとする種々の歌仙絵が制作された。歌仙絵は和歌文学、日本美術、また、装束や色彩といった日本文化全般にわたる古典文化研究を深める上で、貴重な資料のひとつといえる。
本画帖の「新三十六歌仙」は後鳥羽院 (1180-1239) が撰んだといわれる歌仙を描き、表に絵色紙、裏に詞色紙を貼付している。「新三十六歌仙」は「三十六歌仙」との対比の上で重要な作品であり、また後鳥羽院の問題、鎌倉歌人の後代の受容など、多くの研究課題を有した作品である。
作者の狩野洞雲は本名益信、 11 歳で狩野探幽の養子となるが、探幽に実子が誕生したため離別し、駿河台狩野家を興す。徳川家光に寵遇され、功績を積んだものに贈られる位階の一つである法眼 ( ホウゲン ) に叙せられた。 】

狩野益信(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

狩野 益信(かのう ますのぶ、寛永2年(1625年) - 元禄7年1月8日(1694年2月1日))は、日本の江戸時代前期に活動した狩野派の絵師。幼名は山三郎、通称は采女、号は洞雲・宗深道人・松蔭子。別号は、松蔭斎、薄友斎。狩野探幽の養子で、江戸幕府御用絵師の中で奥絵師4家に次ぐ家格を持つ表絵師筆頭(御坊主格)駿河台狩野家の祖。後述する号から狩野洞雲とも言われる。
彫金家・後藤勘兵衛家の後藤立乗の長子として生まれる[1]。伯父に勘兵衛家を嗣いだ後藤覚乗がいる。幼少時、書を松花堂昭乗に学び、画を好んだ。その画技を見込まれて1635年(寛永12年)11歳で探幽の養子となる。後藤家と狩野家とは共に幕府の御用を務め、日蓮宗信者といった共通点を持ち、狩野元信の代に遡ると言われるほど古くから繋がりがあったようだ。狩野安信に可愛がられその娘を妻とし(『狩野五家譜』)、徳川家光に寵愛された。しかし探幽に実子・探信・探雪ができると、1659年(万治2年)35歳の時南光坊天海の紹介で別家し、1667年(寛文7年)新たに駿河台に屋敷を拝領し、駿河台狩野家を興こす。1682年(天和2年)新たに20人扶持を得て、他の表絵師の5人扶持(山下狩野家10人扶持を除く)より高い格式を得た。
承応・寛文年度の京都御所造営に伴う障壁画制作に参加。1665年(寛文5年)9月、益信の絵を見た隠元隆琦から絶賛され、「洞雲」の号を与えられる。以後の作品には、「洞雲」印または「洞雲筆」などの落款が伴うことが多い。晩年の1691年(元禄4年)には湯島聖殿に「七十二賢及先儒ノ像」を描き、住吉具慶、北村季吟らと共に法眼に叙されたが、その3年後に没した。70歳。法名は智光院法眼洞雲宗深居士、墓所は護国寺。跡は、探幽の実子で勘当されていた五右衛門(勘当の理由は不明)の子・洞春福信を養子として継がせた。弟子に小原慶山、佐久間洞巖、清水洞郁、増井貞三など
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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その四) [三十六歌仙]

その四 二品法親王道助と前大納言忠良

道助親王.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(二品法親王道助)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056397

藤原忠良.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(前大納言忠良)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056398

左方四・道助法親王(仁和寺宮)

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010681000.html


 萩のはに風の音せぬ秋もあらば/なみだのほかに月はみてまし(『新勅撰』223)

右方四・前大納言忠良(藤原忠良)

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010683000.html

 ゆふづく日さすやいほりの柴の戸に/さびしくもあるかひぐらしのこゑ(『新古』269)

(周辺メモ)

 この左方の「道助親王(どうじょしんのう)」は、後鳥羽院の第二皇子。母は内大臣坊門信清女。土御門院の異母弟。順徳院・雅成親王の異母兄。建仁元年(1201)十一月、仁和寺に入り、建永元年(1206)、十一歳で出家、光台院に住む。承元四年(1210)十一月、叙二品。建暦二年(1212)十二月、道法法親王により伝法灌頂を受ける。建保二年(1214)十一月、第八世仁和寺御室に補せられた。
 「探幽本」では、「仁和寺宮」の表記であるが、「左方一・後鳥羽院」→「左方二・土御門院」→「左方三・順徳院」からすると「左方四・二品法親王道助」の方が分かり易いであろう。

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-27

仁和寺宮.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方四・仁和寺宮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009397

藤原忠良.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方四・前大納言忠良」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009415

(探幽本と永納本周辺メモ)

京狩野のやまと絵について(日並彩乃)

https://ci.nii.ac.jp/naid/120005738266

【京狩野の 画域拡大をやまと絵作品の方へと推し進めたのは、やはり永納であろう。永納のやまと絵作品にみられる素朴さや堅さは、永納が粉本に頼らず積極的にやまと絵を自身で勉強学習したために描き慣れていないこと、また江戸狩野を学習したためと、筆者は考える。永敬になると画風 が整って、描き慣れた印象を受ける。永敬の技量の高さはさることながら、京狩野に少なくはないやまと絵の需要があったことを示していよう。永敬は、京狩野のやまと絵の伝統を保持し ながらも、琳派や江戸狩野、土佐派など同時代の他流派作品を積極的に学んだと考えられる。 そして、彼らの作品の近似性や影響関係は、九条家や二条家など主だった需要者の好みによって、必然的に引き起こされたと考えられる。永伯の代になって、二条家と疎遠になったという 事実は、永伯自身の技量に加えて、需要者の趣向と画風との一致が重要な問題となっていよう。】

上記の「九条家や二条家」の「二条家」は、五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)の二条家で、歌道と鞠道を家業とした「御子左家」の嫡流の「二条家」ではない。
 また、「永伯の代になって、二条家と疎遠になった」の、「永伯」は、「京狩野」の「山楽(初代)→山雪(二代)→永納(三代)→永敬(四代)→永伯(五代)」と続く「京狩野五代目・狩野永伯」で、「元禄15年(1702年)16歳でその父を亡くしてしまう。父の代からと関係があった二条家には、尾形光琳や山本素軒、片山尚景といったベテラン絵師たちも出入りしており、彼らに比べて若年の永伯は苦境にたたされたと推測される。しかし、宝暦5年(1708年)の御所障壁画制作では、京狩野家代々の禁裏御用での履歴を強調し、その筋目に当たる自分が参加出来ないと家筋が断絶してしまうと訴え、参加を認められた。以降、朝廷の仕事を請け負うようになったらしく、延享4年(1747年)桃園天皇即位に伴う御用でも、土佐光芳、土佐光淳、鶴澤探鯨らと共に参加している。こうした朝廷との繋がりが他の京絵師たちとの差となり、京狩野家は別格の存在となっていったと推測される。」(出典:『ウィキペディア(Wikipedia))

【個性的な永敬が永納の後を継ぎ、二条家、九条家などの公家衆や、西本願寺・仁和寺などの仕事をした。近年、永敬と光琳の影響関係が注目されている。】(『別冊太陽 江戸絵画入門(河野元昭監修)』)

ここで、「京狩野」と「仁和寺」の関係がクローズアップされてくる。

(参考)

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

道助親王.jpg

藤原忠良.jpg

仁和寺(仁和寺と道助親王)

【仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、覚法法親王など皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め(最後の皇族出身の門跡は伏見宮純仁法親王、後の小松宮彰仁親王)、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括していた。非皇族で仁和寺門跡になった人物に九条道家の子法助と足利義満の子法尊の2名がいるが、ともに当時の朝廷における絶対的な権力者の息子でかつ後に准后に叙せられるなど皇族門跡に匹敵する社会的地位を有していた。】(出典:『ウィキペディア(Wikipedia))

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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その三) [三十六歌仙]

その三 順徳院と前内大臣(源通光)

永納・順徳院.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(順徳院)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056395

源通光.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(前内大臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056396

左方三 順徳院
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010680000.html

 ほのぼのと明けゆくやまのさくらばな/かつふりまさる雪かとぞ見る

右方三 前内大臣(源通光)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010681000.html

 雲のゐるとをやまひめの花かづら/霞をかけてふく嵐かな(にほふはる風) (『雲葉集』)

右方三(源通光)の「雲のゐるとをやまひめの花かづら霞をかけてにほふはる風」の表記は、「新三十六歌仙図(土佐光成筆)」(和泉市久保惣記念美術館蔵)のもの。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mititeru.html

【補記】出典の『雲葉集』は建長五年~六年頃藤原基家によって編まれた私撰和歌集。建保四年(1216)、順徳天皇の内裏で催された歌合に出詠され、二番左勝。
(周辺メモ)
「新三十六歌仙図(土佐光成筆)」(和泉市久保惣記念美術館蔵)では、「前内大臣」ではなく、「後久我前太政大臣」の表記であるが、源通光は、「順徳天皇の建保五年(1217)正月、右大将を兼ね、同六年十月、大納言に転じ、同七年三月、内大臣に至る。しかし承久三年(1221)の承久の乱後、幕府の要求により閉居を命ぜられ、官を辞している」。その後、「安貞二年(1228)三月、朝覲行幸の際に出仕を許され、後嵯峨院院政の寛元四年(1246)十二月二十四日、辞任した西園寺実氏に代り太政大臣に任ぜられた」。これらのことから、「順徳院」(左方)に対する歌合としては、その号の「後久我太政大臣」よりも「前内大臣」(右方)の方が妥当との配慮によるものと思われる。

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-26

順徳院.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方三・順徳院)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009396

源通光.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方四・前内大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009414

(探幽本と永納本周辺メモ)

京狩野のやまと絵について(日並彩乃)

https://ci.nii.ac.jp/naid/120005738266

【たびたび永納の作品と関わっている後水尾法皇は、宮廷を中心とした文芸復興の機運のなか、近臣公家、禅僧による学問講や和歌、漢和聯句、立花の会を主催している。歌学にお いては智仁親王、三条西実条、烏丸光広、中院通村に師事し、寛永二年(1625)智仁親王から古今伝授を受けた。宮廷文化、朝儀復興に強い意欲を示していた。】

この「後水尾法王」について、『新潮日本美術文庫7狩野探幽』「年表(安村敏信)」に、次のような記述がある。
【一六六四 寛文四 六三歳(狩野探幽)
六月二日、後水尾法王に召され、堯恕(ぎょうじょ)法親王が尊顔を写した寿像の衣紋などを描く。この制作の折、法王より「筆峯大居士」の印を配慮する。(敏信補記:画家として最高位の法印に叙せられたとはいえ、所詮身分は画工であり、後水尾法王みずからのご尊顔を写すなどもつてのほかであった。『堯恕法親王日記』によると、まず堯恕が法王の尊顔を写し取り(これを紙形とよぶ)、それをもって清書して法王に持参したのがこの年の五月四日、その折法王より、衣紋などは探幽に描かせとの命が直々にあって、約一か月後探幽が召されることになった。このときも、法王は御簾のなかに顔を隠し、首から下の衣装だけを探幽に見せて写させた。)】

これらのことから、狩野探幽(当時、六十三歳)は、当時の朝廷の最大の実力者である後水尾法王から直接制作依頼などがあったことが明瞭になってくる。また、狩野永納(当時三十三歳)とも、「江戸狩野」と「京狩野」との垣根はなく、禁裏造営の関連制作などは協力関係にあったこともうかがえる。そして、天皇とか法王とかの肖像画の制作というのは、その実像を実写するということではなく、すべからく、「紙形」(側近が描いた下絵など)に基づいて行われるもので、絵師が勝手に変更を加えるなどということもタブーに属するものなのであろう。
そして、この「後水尾院と江戸幕府」との関係は、「後鳥羽院と鎌倉幕府」との関係に、その周囲の状況が酷似していて、後水尾院の「後鳥羽院四百年忌御追善」の歌も今に遺されている。これらのことと、「新三十六歌仙画帖」(探幽筆・永納筆)とは、陰に陽に結びついているような印象を深くする。

(参考)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/gomizuno.html

後水尾法王(後水尾院 ごみずのおのいん(ごみのお-) 慶長元年~延宝八(1596-1680) 諱:政仁(ことひと))

後陽成天皇の第三皇子。慶長十六年(1611)、十六歳で即位。後陽成院は弟八条宮智仁親王への譲位を望み、父子の間は不和が続いた。
元和三年(1617)、後陽成院は崩御。同六年、徳川秀忠の娘和子(まさこ)を中宮とする。幕府より多大な財政援助を受ける一方、朝廷の無力化をはかる施策には反発し、寛永四年の紫衣事件が直接の原因となって、寛永六年(1629)、皇女である興子(おきこ)内親王に譲位(明正天皇)。以後、四代五十一年にわたり院政をしいた。和歌を重んじ、廃絶しかけていた宮中の行事を復活させるなど、朝廷の風儀の建て直しに努めた。慶安四年(1651)、落飾し法皇となる。延宝八年(1680)、老衰により崩御。八十五歳。泉涌寺において葬礼が行われ、月輪陵に葬られた。
和歌約二千首を収める『後水尾院御集』(鴎巣集ともいう)がある。二十一代集以下の諸歌集から一万二千余首を類題に排列した『類題和歌集』三十一巻、後土御門天皇以後の歌人の歌を集めた『千首和歌集』などを編集した。叔父智仁親王から古今伝授を受けている。
和歌のほかにも立花・茶の湯・書道・古典研究など諸道に秀で、寛永文化の主宰者ともいうべき存在であった。『玉露藁』『当時年中行事』『和歌作法』など著作も多い。洛北に修学院離宮を造営したことは名高い。
後鳥羽院四百年忌御追善に霞
こひつつも鳴くや四かへり百千鳥霞へだてて遠きむかしを

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

順徳院.jpg

源通光.jpg
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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その二) [三十六歌仙]

その二 土御門院と俊成卿女

永納・土御門院.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(土御門院)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056393

俊成女.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(俊成卿女)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056394

左方二 土御門院
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010678000.html

 伊勢の海や(の)あまの原なる朝がすみ/空にしほやく煙とぞ見る

右方二 皇太后宮大夫俊成女
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010679000.html

 下もえにおもひ消えなん(む)煙だに/跡なき雲のはてぞかなしき(『新古』1081)

(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-24

土御門院.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方二・土御門院)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009395

俊成女.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方二・皇太后宮大夫俊成女)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009413

(探幽本と永納本周辺メモ)

京狩野のやまと絵について(日並彩乃)

https://ci.nii.ac.jp/naid/120005738266

【永納のやまと絵作品に最も多いのが、和歌に纏わるものである。《三十六歌仙扁額》 (菅原神社蔵)、《三十六歌仙図》 、《新三十六歌仙図帖》(東京国立博物館蔵)などの本展出品作以外にも、三十六歌仙を扱ったものがいくつか知られている。ちなみに、《新三十六歌仙図帖》(東京国立博物館蔵)は、詞書が九条幸家との極め書きがついている。九条幸家は、山楽・山雪を遇し、寛文五年(1665)に没するまで、永納の作画活動を支えていた。】

「京狩野派」は、「山楽(1559-1651)→山雪(1590-1651)→永納(1631-1697)」と続く、永納は、その三代目となる。「江戸狩野派」は、「探幽(守信1602-1674)・尚信(1607-1650)・安信(1613-1685)」の三兄弟が、相次いで幕府の御用絵師として江戸に呼び寄せられ、江戸を本拠地とするに対して、「京狩野派」は、京都御所を中心として、九条家や上層町衆との繋がりを緊密にして行く。なかでも、九条家との関係は深く、上記の「京狩野のやまと絵について(日並彩乃)」によると、「新三十六歌仙図帖」(東京国立博物館蔵)の「詞書」は「九条幸家」の極め書きがついているということは、特記して置く必要があろう。

(参考)

京狩野派(出典:『ウィキペディア(Wikipedia))

豊臣秀吉没後、狩野家の大部分は徳川に仕え、徳川幕府を頼って江戸に下った。狩野宗家を含めてこの一派を江戸狩野という。しかし、秀吉の寵愛を受けた狩野山楽は、そのまま秀頼に仕えた。このため豊臣氏滅亡後、幕府から嫌疑を掛けられてしまうが、松花堂昭乗、九条幸家のとりなしによって恩赦を受け、そののちは九条家や本願寺の御用絵師として京都を中心に活躍する。 2代山雪以降、装飾的な桃山の画風を代々受け継ぎ公卿衆や寺社に仕えるも、幕府の手厚い庇護を受けた江戸狩野と比べるとその勢いに大きな隔たりがあった。また宮廷の御用を得ていたものの、土佐家、鶴沢家に続く家柄でその境遇には大きな格差があった。 3代永納は山雪の遺稿を元に日本初の画伝書『本朝画史』を著したが、これは室町時代以来の狩野家の正系を主張する目的もあったようだ。 4代永敬は、近江日野の高田敬輔を指導。この高田敬輔の門下から、曽我蕭白や月岡雪鼎、島崎雲圃という近年評価の高い画家が輩出した。 流派はしだいに低迷したが幕末9代狩野永岳の代に一時的に復興する。しかしそれも長く続かず明治を迎えると急激に衰退した。

九条幸家(くじょう ゆきいえ)(出典:『ウィキペディア(Wikipedia))

正室には豊臣秀勝の娘・完子(さだこ)を娶り、武家とも良好な関係を持つ。なお、この高度に政治的な婚姻を仕立てたのは豊臣秀吉の未亡人の淀殿である[1]。さらに岳母・江が徳川秀忠の正室として再嫁したことから、徳川将軍家御台所の婿という姻戚関係となり、朝廷と幕府の仲介役としても貴重な存在となる。幕府の後援もあり、慶長13年(1608年)には藤氏長者となり関白職に任ぜられた。同18年(1613年)にいったん辞職するが、元和5年(1619年)再び関白となり、義妹・徳川和子の入内に尽力した。寛永8年(1631年)閏10月21日46歳の時に、名を幸家と改めた。また、東西両本願寺に娘を嫁がせており、両統の並立を後ろ盾とした。寛文5年(1665年)薨去。享年80。法名は惟忖院。

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

土御門院.jpg

俊成卿娘.jpg
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狩野永納筆「新三十六人歌合画帖」(その一) [三十六歌仙]

その一 後鳥羽院と式子内親王

永納・後鳥羽院.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(後鳥羽院)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056391

永納・式子内親王.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(式子内親王)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056392

左方一 後鳥羽院

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010676000.html

龍田山(姫)かぜのしらべも聲たてつ/あきや来ぬらん岡のべの松

右方一 式子内親王

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010677000.html

ながむれば衣手涼し久堅の/あまのかはらの秋のゆふ暮


(狩野探幽本)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-23

後鳥羽院.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方一・後鳥羽院)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009394

式子内親王.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方一・式子内親王)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009412

(探幽本と永納本周辺メモ)

一六四四(寛文四)探幽=六十三歳
九月十八日 鷹司信子が徳川綱吉に輿入れし、探幽、調度品として「新三十六歌仙図帖」を描くか。(『新潮日本美術文庫7狩野探幽』「年表(安村敏信)」)
※ この年、永納は三十三歳の頃で、永納は探幽の次の世代に属するが、所謂、永納(京狩野)本は、探幽(江戸狩野)本の、その「新三十六歌仙画帖」(伝本など)を基礎にしての制作と解すべきなのであろう。しかし、全面的な「模写絵」というよりも、それを基調として、所々に永納色の「新三十六歌仙」への再構成の意図というのも読み取れる。

(参考)

狩野永納(かのうえいのう) 没年:元禄10.3.7(1697.4.27) 生年:寛永8(1631)
江戸前期の画家。名は吉信、字は伯受、別号は一陽斎、、岳、素絢軒、山静など。通称は縫殿助。京都の人。狩野山雪の長男。はじめ父から画法を学び、のちに狩野安信についたと伝えられる。代表作に「賀茂競馬図屏風」(東京国立博物館蔵)、「四季花鳥図屏風」(ボストン美術館蔵)などがある。父ゆずりの学究肌で、画業のかたわら古画の研究にはげみ、また鑑識にも精通していた。元禄6(1693)年『本朝画史』5巻を刊行。これはわが国最初のまとまった画人伝の編述を企画した山雪の遺稿を受け継いで完成したもので、日本絵画史の研究上、重要な基礎資料のひとつとなっている。67歳で没し,京都の泉涌寺に葬られた。<参考文献>土居次義『近世日本絵画の研究』、榊原悟「一変狩野氏」(『古美術』96号)
(河野元昭) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

400年近く画壇を支配! 華麗なる狩野一族の大プロジェクト 

https://crea.bunshun.jp/articles/-/1942?page=2

京狩野のやまと絵について(日並彩乃)

file:///C:/Users/yahan/AppData/Local/Packages/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bbwe/TempState/Downloads/KU-1100-20131201-05%20(1).pdf

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

https://www.library.ferris.ac.jp/lib-sin36/sin36list.html

後鳥羽院.jpg

式子内親王.jpg
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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十八) [三十六歌仙]

(その十八)皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)と西行法師

釋阿二.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・皇太后宮大夫俊成」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009411

釋阿.jpg

(左方十八・皇太后宮大夫俊成)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019796

西行.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009429

(バーチャル歌合)

左方十八・皇太后宮大夫俊成
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010710000.html

 又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの

右方十八・西行法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010711000.html

 をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも

判詞周辺(宗偽)

 「新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)」による「新三十六歌仙」の「歌合」は、第一回の「後鳥羽院対式子内親王」によりスタートして、その最終回(十八回)が、この「俊成(釈阿)対西行」を以て、そのゴール地点ということになる。

「俊頼が後には、釈阿・西行なり。姿殊にあらぬ躰なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり。西行は、おもしろくて、しかも心も殊に深く、ありがたくいできがたき方も共に相兼ねて見ゆ。生得の哥人とおぼゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき哥にあらず。不可説の上手なり。」」(後鳥羽院『後鳥羽院御口伝』)

 この『後鳥羽院御口伝』の「(源)俊頼」(1055~1129)は『金葉集』の撰者で、次に出て来る「釈阿(俊成・1114~1204)・西行(1118~1190)」より、やや先の時代の歌人ということになる。この俊頼の子に、前回の「俊恵(1113~没年未詳)」が居り、この「釈阿(俊成・1114~1204)・西行(1118~1190)・俊恵(1113~没年未詳)」が、同時代の歌人という位置づけとなってくる。
 そして、この「釈阿(俊成・1114~1204)・西行(1118~1190)」が、後鳥羽院歌壇、強いては、『新古今集』の基調をなすべき歌風と解することも出来よう。この二人について、「釈阿(俊成)は優艶で、心情に満ち、憐み深いところがり、ことに私の好み理想とする歌風である。西行は機知に富み、しかも歌心が誠に深く、なかなか世にめずらしい歌風であり、余人の真似難いようにも思われ、生れつきの歌人というべきであろう。ただし、初心の人が真似して学ぶような歌ではなく、言葉に尽くし難い名手なのである」というようなことであろう。
 これは、後鳥羽院の「釈阿(俊成)・西行」観として夙に知られているものだが、もっと具体的なこととして、西行が出家をしたのは、保延六年(1140)、二十三歳の時、以降、歌僧としての七十三歳の生涯をおくる。一方の俊成が出家して釈阿になったのは、安元二年(1176)、六十三歳の時で、以降も、九十一年の宮廷歌人の生涯を全うしている。
 西行が「生得の歌人」というのは、西行が若くして北面の武士(武官)も家族をも放下し、謂わば、「自由人・西行」として、「晴(ハレ)と褻(ケ)」の「褻(ケ)=私的空間」での
「歌は禅定の修業なり」(『三五記』)の、その終生の詠歌信条と深く関わりを有するものであろう。
 それに対して、釈阿(俊成)は、藤原道長の六男・正二位権代納言・長家を祖とする「御子左家」の総帥(次男・定家、甥=猶子・寂蓮、孫娘・俊成女など)として、謂わば、時の「宮廷歌人第一人者・俊成(釈阿)」での、終始、「晴(ハレ)と褻(ケ)」の「晴(ハレ)=公的空間」で「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也」(『六百番歌合』)との、その宮廷歌人としての信条を全うした歌人ということになろう。

「 『(建久四年)六百番歌合』冬・上
十三番 枯野  左勝 女房(後鳥羽院)
見し秋を何に残さん草の原ひとつに変る野辺のけしきに
          右  隆信朝臣(藤原隆信)
霜枯の野辺のあはれを見ぬ人や秋の色には心とめけむ
右方申云、「草の原」、聞きつかず。左申云、右歌、ふるめかし。
判云、左、「何に残さん草の原」といへる、艶にこそ侍めれ。右方人「草の原」難申之條、頗るうたたあるにや。紫式部、歌詠みの程よりも物書く筆は殊勝之上、「花の宴」の巻は、殊に艶なる物也。源氏見ざる歌詠みは遺恨事也。右、心詞悪しくは見えざるにや。但、常の体なるべし。左歌己宜、尤可為勝。(判者 入道従三位皇太后大夫藤原朝臣俊成(法名・釈阿))」(『日本古典文学大系74歌合集』所収「建久四年六百番歌合(抄)」)

許六離別の辞.jpg

芭蕉筆「許六離別の詞」(柿衞文庫蔵)縦 19.1 ㎝ 横 59.1㎝

「去年(こぞ)の秋、かりそめに面(おもて)をあはせ、今年五月の初め、深切に別れを惜しむ。その別れにのぞみて、一日草扉をたたいて、終日閑談をなす。その器(許六をさす)、画(ゑ)を好む。風雅(俳諧)を愛す。予こころみに問ふことあり。『画は何のために好むや』、『風雅のために好む』と言へり。『風雅は何のために愛すや』、『画のために愛す』と言へり。その学ぶこと二つにして、用をなすこと一なり。まことや、『君子は多能を恥づ』」といへれば、品二つにして用一なること、感ずべきにや。画はとって予が師とし、風雅は教へて予が弟子となす。されども、師が画は精神徹に入り、筆端妙をふるふ。その幽遠なるところ、予が見るところにあらず。予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて、用ふるところなし。
ただ釈阿・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あはれなるところ多し。後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも『これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる』とのたまひはべりしとかや。されば、この御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ。なほ、『古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ』と、南山大師の筆の道にも見えたり、『風雅もまたこれに同じ』と言ひて、燈火をかかげて、柴門の外に送りて別るるのみ。元禄六孟夏末 風羅坊芭蕉 印 」
(芭蕉『風俗文選』所収「柴門の辞」・『韻塞』所収「許六離別の詞」)

 これは、芭蕉(1644~1694)が亡くなる一年前の元禄六年(一六九三・五十歳)に、江戸在勤の彦根藩士・森川許六が帰郷するに際して贈った「許六離別の詞」の全文である。
 ここに、芭蕉語録が満載している。

「予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて、用ふるところなし。」
「ただ、釈阿・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あはれなるところ多し。」
「後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも『これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる』とのたまひはべりしとかや。されば、この御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ。」
「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ。」
「風雅もまたこれに同じ。」

 これらの芭蕉語録の根底に、近世の放浪俳諧師・芭蕉の、中世の放浪歌人・西行への限りなく思慕が横たわっている。それは、天和三年(一六八三・四十歳)の、次の其角編『虚栗』跋文に表われている。

「侘(わび)と風雅のその生(つね)にあらぬは、西行の山家をたづねて、人の拾はぬ蝕栗(むしくひ)也。」(其角編「虚栗」跋文)

 さらに、それは、貞享四年(一六八七・四十四歳)の、次の『笈の小文』(序文)と連なっている。

「百骸九竅の中に物有り、かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝのかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好こと久し。 終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立むことをねがへども、これが為にさへられ、暫ク學で愚を曉ン事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無藝にして只此一筋に繫る。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」(『笈の小文』序)

 ここから、冒頭の「許六離別の詞」に連なり、そこに、芭蕉は「風羅坊芭蕉」と署名するのである。この「風蘿坊」とは、西行の「浮かれいづる心」、そして、宗祇の臨終の吟の「浮かるる心」と軌を一にするものであろう。

 浮かれいづる心は身にもかなはねばいかなりとてもいかにかはせむ(『山家集』)
 眺むる月に立ちぞ浮かるる(『宗祇終焉記』)

 そして、それは、「西行→宗祇→芭蕉」と連なる「漂泊の詩人」の系譜を物語るものであろう。

 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(『枯尾花』)

 この芭蕉の絶吟(病中の吟)の「枯野をかけ廻(めぐ)る」は、「枯野を廻(めぐ)る夢心」との二案が芭蕉の脳裏にあったことを、其角は書き取っている。この「夢心」は、西行、そして、宗祇の「浮かれいづる心・浮かるる心」と軌を一にするものであろう。

「ただ壁をへだてて命運を祈る声の耳に入りけるにや、心細き夢のさめたるはとて、『旅に病で夢は枯野をかけ廻る』、また、枯野を廻るゆめ心、ともせばやともうされしが、是さへ妄執ながら、風雅の上に死ん身の道を切に思ふ也」(『枯尾花』)

 そして、この芭蕉の「枯野」も、これまた、西行の、例えば、次の歌に連なっているように思われる。

 朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞ見る(『新古今集792』『山家集』)

「みちのくにへまかりける野中に、目にたつ様なる塚の侍りけるを問はせ侍りければ、『これなむ中将の塚と申す』と答へければ、『中将とはいづれの人ぞ』と問ひ侍りければ、『実方朝臣の事』となむ申しけるに、冬の事にて、霜枯の薄ほのぼの見えわたりて、折ふし物悲しう覚え侍りければ」(『新古今集792』「詞書(前書き)」)

   左 持
又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの(釈阿=俊成)
   右
をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも(西行法師)
   判詞
 左の歌の評の、「めでたし、詞めでたし、狩は、雪のちる比する物なるを、その狩をさくらがりにいひなし、其雪を花の雪にいひなせる、いとおもしろし」(本居宣長) の筆法でいくと、右の歌は、「めでたし、詞のめでたし、『やまのはごと』(山の端毎)は、「山端」と「山際」の「地と空」に、「しらくも」(「白雲」と「桜花」)が、あたかも、「大和は国のまほろば ただなづく青垣 山隠れる 大和しうるわし」を奏でているようで、いとおもしろし」と相成る。「敷島の道」の宣長が、左を「おもしろし」とするならば、右を「おもしろし」とし、「持」とす。

藤原俊成の一首
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html

  摂政太政大臣家に、五首歌よみ侍りけるに
またや見む交野(かたの)の御野(みの)の桜がり花の雪ちる春の曙(新古114)

【通釈】再び見ることができるだろうか、こんな光景を。交野の禁野に桜を求めて逍遙していたところ、雪さながら花の散る春の曙に出遭った。
【語釈】◇またや見む 再び見ることができるだろうか。ヤは反語でなく疑問。◇交野 河内国の歌枕。今の大阪府枚方市あたり。禁野があった。カタに難い意を掛ける。◇桜がり 花見。冬にする鷹狩を桜狩に置き換えた趣向。
【補記】伊勢物語八十二段を踏まえる。「今狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし云々」。建久六年(1195)二月、九条良経邸歌会での作。俊成八十二歳、最晩年の秀逸。『長秋詠藻』に文治六年(1190)女御入内御屏風和歌として以下のように掲載する歌を、改作したもの。
  野辺に鷹狩したる所
又もなほ人に見せばや御狩する交野の原の雪の朝を
【他出】慈鎮和尚自歌合、定家八代抄、近代秀歌、詠歌大概、詠歌一体、和漢兼作集、歌枕名寄、三五記、井蛙抄、六華集、耕雲口伝
【鑑賞】「めでたし、詞めでたし、狩は、雪のちる比する物なるを、その狩をさくらがりにいひなし、其雪を花の雪にいひなせる、いとおもしろし」(本居宣長『美濃の家苞(いえづと)』)。
【主な派生歌】
またや見む明石の瀬戸のうき枕波間の月のあけがたの影(藤原忠良[正治初度百首])
忘れめや片野の花もかつ見ゆる淀のわたりの春の明けぼの(千種有功)

西行の一首

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html

  花の歌あまたよみけるに(七首)
おしなべて花のさかりになりにけり山の端ごとにかかる白雲(64)[千載69]

【通釈】世はあまねく花の盛りになったのだ。どの山の端を見ても、白雲が掛かっている。
【補記】山桜を白雲になぞらえる旧来の趣向を用い、満目の花盛りの景をおおらかに謳い上げた。藤原俊成は西行より依頼された『御裳濯河歌合』の判詞に「うるはしく、丈高く見ゆ」と賞賛し、勝を付けている。
【他出】治承三十六人歌合、御裳濯河歌合、山家心中集、西行家集、定家八代抄、詠歌大概、御裳濯和歌集、詠歌一体、三百六十首和歌、井蛙抄、六華集、東野州聞書
【主な派生歌】
白雲とまがふ桜にさそはれて心ぞかかる山の端ごとに(藤原定家)
この頃は山の端ごとにゐる雲のたえぬや花のさかりなるらん(洞院公賢)

藤原俊成(ふじわらのとしなり(-しゅんぜい)) 永久二年~元久元年(1114-1204) 法号:釈阿 通称:五条三位

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html

藤原道長の系譜を引く御子左(みこひだり)家の出。権中納言俊忠の子。母は藤原敦家女。藤原親忠女(美福門院加賀)との間に成家・定家を、為忠女との間に後白河院京極局を、六条院宣旨との間に八条院坊門局をもうけた。歌人の寂蓮(実の甥)・俊成女(実の孫)は養子である。
保安四年(1123)、十歳の時、父俊忠が死去し、この頃、義兄(姉の夫)にあたる権中納言藤原(葉室)顕頼の養子となる。これに伴い顕広と改名する。大治二年(1127)正月十九日、従五位下に叙され、美作守に任ぜられる。加賀守・遠江守を経て、久安元年(1145)十一月二十三日、三十二歳で従五位上に昇叙。同年三河守に遷り、のち丹後守を経て、久安六年(1150)正月六日、正五位下。同七年正月六日、従四位下。久寿二年(1155)十月二十三日、従四位上。保元二年(1157)十月二十二日、正四位下。仁安元年(1166)八月二十七日、従三位に叙せられ、五十三歳にして公卿の地位に就く。翌年正月二十八日、正三位。また同年、本流に復し、俊成と改名した。承安二年(1172)、皇太后宮大夫となり、姪にあたる後白河皇后忻子に仕える。安元二年(1176)、六十三歳の時、重病に臥し、出家して釈阿と号す。元久元年(1204)十一月三十日、病により薨去。九十一歳。
長承二年(1133)前後、丹後守為忠朝臣家百首に出詠し、歌人としての活動を本格的に始める。保延年間(1135~41)には崇徳天皇に親近し、内裏歌壇の一員として歌会に参加した。保延四年、晩年の藤原基俊に入門。久安六年(1150)完成の『久安百首』に詠進し、また崇徳院に命ぜられて同百首和歌を部類に編集するなど、歌壇に確実な地歩を固めた。六条家の藤原清輔の勢力には圧倒されながらも、歌合判者の依頼を多く受けるようになる。治承元年(1177)、清輔が没すると、政界の実力者九条兼実に迎えられて、歌壇の重鎮としての地位を不動とする。寿永二年(1183)、後白河院の下命により七番目の勅撰和歌集『千載和歌集』の撰進に着手し、息子定家の助力も得て、文治四年(1188)に完成した。建久四年(1193)、『六百番歌合』判者。同八年、式子内親王の下命に応じ、歌論書『古来風躰抄』を献ずる。この頃歌壇は後鳥羽院の仙洞に中心を移すが、俊成は院からも厚遇され、建仁元年(1201)には『千五百番歌合』に詠進し、また判者を務めた。同三年、院より九十賀の宴を賜る。最晩年に至っても作歌活動は衰えなかった。詞花集に顕広の名で初入集、千載集には三十六首、新古今集には七十二首採られ、勅撰二十一代集には計四百二十二首を入集している。家集に自撰の『長秋詠藻』(子孫により増補)、『長秋草』(『俊成家集』とも。冷泉家に伝来した家集)、『保延のころほひ』、他撰の『続長秋詠藻』がある。歌論書には上述の『古来風躰抄』の外、『萬葉集時代考』『正治奏状』などがある。

「俊頼が後には、釈阿・西行なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり」(後鳥羽院「後鳥羽院御口伝」)。

「ただ釈阿・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あはれなるところ多し。後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも『これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる』とのたまひはべりしとかや。されば、この御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ」(芭蕉「許六別離の詞」)。

西行(さいぎょう) 元永元~建久元(1118~1190) 俗名:佐藤義清 法号:円位

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html

藤原北家魚名流と伝わる俵藤太(たわらのとうた)秀郷(ひでさと)の末裔。紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)を勤めた佐藤一族の出。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。俗名は佐藤義清(のりきよ)。弟に仲清がいる。
年少にして徳大寺家の家人となり、実能(公実の子。待賢門院璋子の兄)とその子公能に仕える。保延元年(1135)、十八歳で兵衛尉に任ぜられ、その後、鳥羽院北面の武士として安楽寿院御幸に随うなどするが、保延六年、二十三歳で出家した。法名は円位。鞍馬・嵯峨など京周辺に庵を結ぶ。出家以前から親しんでいた和歌に一層打ち込み、陸奥・出羽を旅して各地の歌枕を訪ねた。久安五年(1149)、真言宗の総本山高野山に入り、以後三十年にわたり同山を本拠とする。仁平元年(1151)藤原顕輔が崇徳院に奏上した詞花集に一首採られるが、僧としての身分は低く、歌人としても無名だったため「よみびと知らず」としての入集であった。五十歳になる仁安二年(1167)から三年頃、中国・四国を旅し、讃岐で崇徳院を慰霊する。治承四年(1180)頃、源平争乱のさなか、高野山を出て伊勢に移住、二見浦の山中に庵居する。文治二年(1186)、東大寺再建をめざす重源より砂金勧進を依頼され、再び東国へ旅立つ。途中、鎌倉で源頼朝に謁した。
七十歳になる文治三年(1187)、自歌合『御裳濯河歌合』を完成、判詞を年来の友藤原俊成に依頼し、伊勢内宮に奉納する。同じく『宮河歌合』を編み、こちらは藤原定家に判詞を依頼した(文治五年に完成、外宮に奉納される)。文治四年(1188)俊成が撰し後白河院に奏覧した『千載集』には円位法師の名で入集、十八首を採られた。最晩年は河内の弘川寺に草庵を結び、まもなく病を得て、建久元年(1190)二月十六日、同寺にて入寂した。七十三歳。かつて「願はくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」と詠んだ願望をそのまま実現するかの如き大往生であった。
生涯を通じて歌壇とは距離を置き、当時盛行した歌合に参席した記録は皆無である。大原三寂と呼ばれた寂念・寂超・寂然とは若年の頃より交流があり、のち藤原俊成や慈円とも個人的に親交を持った。また、待賢門院堀河を始め待賢門院周辺の女房たちと親しく歌をやりとりしている。家集には自撰と見られる『山家集』、同集からさらに精撰した『山家心中集』、最晩年の成立と見られる小家集『聞書集(ききがきしゅう)』及び『残集(ざんしゅう)』がある。また『異本山家集』『西行上人集』『西行法師家集』などの名で呼ばれる別系統の家集も伝存する(以下「西行家集」と総称)。勅撰集は詞花集に初出、新古今集では九十五首の最多入集歌人。二十一代集に計二百六十七首を選ばれている。歌論書に弟子の蓮阿の筆録になる『西行上人談抄』があり、また西行にまつわる伝説を集めた説話集として『撰集抄』『西行物語』などがある。

「西行はおもしろくて、しかも心もことに深くてあはれなる、有難く出来がたき方も共に相兼ねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。これによりておぼろげの人のまねびなんどすべき歌にあらず、不可説の上手なり」(『後鳥羽院御口伝』)。

「和歌はうるはしく詠むべきなり。古今集の風体を本として詠むべし。中にも雑の部を常に見るべし。但し古今にも受けられぬ体の歌少々あり。古今の歌なればとてその体をば詠ずべからず。心にも付けて優におぼえん其の風体の風理を詠むべし」「大方は、歌は数寄の深(ふかき)なり。心のすきて詠むべきなり」(「深」を「源」とする本もある)「和歌はつねに心澄むゆゑに悪念なくて、後世(ごせ)を思ふもその心をすすむるなり」(『西行上人談抄』)。
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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十七) [三十六歌仙]

(その十七)家永朝臣(源家永)と俊恵法師

源家永.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十七・家永朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009410

俊恵.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十七・俊恵法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009428

(バーチャル歌合)

左方十七・家永朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010707000.html

 春雨に野沢の水はまさらねど/もえいづるくさぞふかくなり行

右方十七・俊恵法師

http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010709000.html

 故郷の板井の清水み草ゐて/月さへすまずなりにける哉

判詞周辺(宗偽)

 「源家永」(?-1234))と「俊恵法師」(1113-?)との番いは全くの意表を突くものである。この俊恵法師は、『方丈記』の作者として名高い「鴨長明」の歌道の師として長明の歌論書『無名抄』に頻繁に登場する。
 時代史的には、「後鳥羽院・定家・家隆」時代よりも、その一昔前の「藤原俊成」(1114-1204))・「西行法師」(1118~1190)時代の歌人ということになろう。
 一方の家永は、「建仁元年(1201)八月には和歌所開闔(かいこう)となって新古今和歌集の編纂実務の中心的役割を果し」、「建久七年(1196)、非蔵人の身分で後鳥羽院に出仕。蔵人・右馬助・兵庫頭・備前守などを経て、建保六年(1218)一月、但馬守。承久三年(1221)の変後、官を辞す。安貞元年(1227)一月、従四位上に至る。文暦元年(1234)、死去」と、その生涯は、後鳥羽院の側近中の側近ということになる。
 その家永の『家永日記』に、鴨長明について、「すべて、この長明みなし子になりて、社の交じらひもせず、籠り居て侍りしが、歌の事により、北面に參り、やがて、和歌所の寄人になりて後、常の和歌の会に歌參らせなどすれば、まかり出づることもなく、夜昼奉公怠らず」と、後鳥羽院(二十二歳)に「和歌所寄人(役人)」に抜擢された当時の長明(四十七歳)のことについて好意的に記している。
 しかし、長明は地下の一社人(鴨神社の禰宜の出)で、後鳥羽院に見出された歌人であっても、宮中の歌会などでも他の寄人とは同席は出来ず、また、禰宜の途も一族の反対で叶わず、元久元年(一二〇四)、五十歳の頃、大原へ隠遁・出家(法名=蓮胤)する。
 そして、『方丈記』が成ったのは、建暦二年(一二一二)、五十八歳、そして、建保四年(一二一六)に六十四歳で没した時に、後鳥羽院は、三十七歳で、「仙洞百首和歌」をまとめた年で、長明は、後鳥羽院の承久の乱も隠岐への配流などは知らないのである。
 ここで、後鳥羽院との関係からすると、どう見ても、「新三十六歌仙」は俊恵法師よりも鴨長明がより適役かと思うのだが、この「「新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)の「新三十六歌仙」には、何故か、鴨長明の名前はない。
 しかし、『新編国歌大観』に搭載されている、一般に「新三十六歌仙」(「歌合」形式ではなく一歌仙に十首収載=「歌仙」方式)と称せられるものには、「俊恵法師」の名前はなく、「鴨長明」が、次の十首を以て、今に伝えられている。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#35

鴨長明

ながむれば千千に物思ふ月に又わが身ひとつの峰の松かぜ
ながめてもあはれとおもへ大かたの空だにかなしあきの夕ぐれ
松島やしほくむあまの秋のそで月は物思ふならひのみかは
初瀬山かねのひびきにおどろけばすみける月の有明の空
夜もすがらひとりみ山の槙のはにくもるもすめる有明の月
たのめおく人もながらの山にだにさ夜更けぬればまつ風のこゑ
袖にしも月かかれとは契りおかずなみだはしるやうつの山越
見れば又いとどなみだのもろかづらいかにちぎりてかけはなれけむ
いかにせむつひの煙のすゑならで立ちのぼるべき道しなければ
住みわびぬいざさはこえんしでの山さてだに親のあとをふむやと

 そして、その「新三十六歌仙」(「歌仙(一歌仙十首)」方式)での、「源家永」の十首は、次のとおりである。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/36sk.html#34

前但馬守源家長朝臣

春雨に野沢の水はまさらねどもえ出づる草ぞふかくなり行く
あづさ弓いそべのうらの春の月あまのたくなはよるも引くなり
秋の月しのに宿かるかげたけてをざさが原に露ふけにけり
秋の月ながめながめて老が世も山のはちかくかたぶきにけり
紅葉葉の散りかひくもる夕しぐれいづれか道とあきのゆくらむ
今日も又しらぬ野原に行暮れていづれの山か月はいづらむ
きぬぎぬのつらきためしに誰なれて袖のわかれをゆるしそめけむ
いづくにもふりさけ今やみかさやまもろこしかけて出づる月かげ
もしほ草かくともつきじ君が代の数によみおく和かの浦なみ
生駒山よそになるをの沖に出でてめにもかからぬ峰のしら雲

 ここで、家永と俊恵法師との二首を見ていきたい。

  左 勝
春雨に野沢の水はまさらねど/もえいづるくさぞふかくなり行(家永)
  右
故郷の板井の清水み草ゐて/月さへすまずなりにける哉(俊恵法師)
  判詞
 右の下の句の「月さへすまず」の「澄まず」・「住まず」の掛詞、いささか常套の感じで、左句の下の句の「もえいづるくさぞふかくなり行(く)」の「いづる」と「なりゆく」の、このリフレーン的な用言の動的な手法に一手をあげたい。

源家永の一首

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ienaga.html

   春歌の中に
春雨に野沢の水はまさらねど萌え出づる草ぞふかくなりゆく(新後拾遺61)

【通釈】しとしとと降る春雨に、野沢の水が増水したようには見えないけれども、萌え出た草は、日に日に色が深くなってゆく。
【語釈】◇ふかく 「水」または「水まさる」と縁のある語。

俊恵法師の一首

   故郷月をよめる
古郷の板井の清水みくさゐて月さへすまずなりにけるかな(千載1011)

【通釈】古びた里の板井の清水は水草が生えて、月さえ住まず、昔のような澄んだ光を宿さないようになってしまった。
【語釈】◇板井の清水 板で囲った井戸の清水。◇みくさゐて 水草が生えて。◇すまず 水面に映る月の光が「澄まず」、月の姿が水面に「住まず」、の掛詞。
【補記】『林葉集』の詞書は「故郷月」。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
我が門の板井の清水里遠み人しくまねば水草おひにけり

源家長(みなもとのいえなが) 生年未詳~文暦元(?-1234)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ienaga.html

醍醐源氏。大膳大夫時長の息子。後鳥羽院下野を妻とする。子には家清・藻壁門院但馬ほかがいる。生年は嘉応二年(1170)説、承安三年(1173)説などがある。早く父に死に別れ、承仁法親王(後白河院皇子)に仕える。建久七年(1196)、非蔵人の身分で後鳥羽院に出仕。蔵人・右馬助・兵庫頭・備前守などを経て、建保六年(1218)一月、但馬守。承久三年(1221)の変後、官を辞す。安貞元年(1227)一月、従四位上に至る。文暦元年(1234)、死去。六十余歳か。
後鳥羽院の和歌活動の実務的側面を支え、建仁元年(1201)八月には和歌所開闔となって新古今和歌集の編纂実務の中心的役割を果した。歌人としても活躍し、正治二年(1200)の「院後度百首」、建仁元年(1201)の「千五百番歌合」、元久元年(1204)の「元久詩歌合」、承久二年(1220)以前の「道助法親王五十首」などに出詠した。承久の変後は、妻の実家である近江国日吉に住むことが多く、ここでたびたび歌会を催した。また寛喜二年(1230)頃の「洞院摂政百首」、同四年の「日吉社撰歌合」などに参加。定家や家隆との親交は、晩年まで続いたようである。後鳥羽院に仕えた日々を回想し、院の威徳への賞讃を綴った日記『源家長日記』がある。新古今集初出。勅撰入集三十六首。新三十六歌仙。

俊恵(しゅんえ) 永久一(1113)~没年未詳 称:大夫公

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syune.html

源俊頼の息子。母は木工助橘敦隆の娘。兄の伊勢守俊重、弟の叡山阿闍梨祐盛も千載集ほかに歌を載せる歌人。子には叡山僧頼円がいる(千載集に歌が入集している)。大治四年(1129)、十七歳の時、父と死別。その後、東大寺に入り僧となる。
永暦元年(1160)の清輔朝臣家歌合をはじめ、仁安二年(1167)の経盛朝臣家歌合、嘉応二年(1170)の住吉社歌合、承安二年(1172)の広田社歌合、治承三年(1179)の右大臣家歌合など多くの歌合・歌会に参加。白川にあった自らの僧坊を歌林苑と名付け、保元から治承に至る二十年ほどの間、藤原清輔・源頼政・登蓮・道因・二条院讃岐ら多くの歌人が集まって月次歌会や歌合が行なわれた。ほかにも源師光・藤原俊成ら、幅広い歌人との交流が知られる。私撰集『歌苑抄』ほかがあったらしいが、伝存しない。弟子の一人鴨長明の歌論書『無名抄』の随所に俊恵の歌論を窺うことができる。家集『林葉和歌集』がある(以下「林葉集」と略)。中古六歌仙。詞花集初出。勅撰入集八十四首。千載集では二十二首を採られ、歌数第五位。
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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十六) [三十六歌仙]

(その十六)信実朝臣(藤原信実)と寂蓮法師

信実.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十六・信実朝臣)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009409

信実二.jpg

(左方十六・信実朝臣)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019795

寂蓮.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十六・寂蓮法師)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009427

(バーチャル歌合)

左方十六・信実朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010706000.html

 あけてみぬたが玉章もいたづらに/まだ夜をこめてかえる雁がね

右方十六・寂蓮法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010708000.html

 かつらぎやたかまのさくらさきにけり/たつたのおくにかかるしら雲

判詞(宗偽)

 藤原定家の日記『名月記』(天福元年(一二三三)八月十二日条)に「承久の乱後、九条大納言基家が三十六人を撰び、その『真影』を似絵の名手藤原信実に描かせ、隠岐に住まう後鳥羽院のもとに届けようとしている計画が記されている」(『歌仙絵(東京国立博物館)』所収「歌仙絵の成立について(土屋貴祐稿)」)ということは、「新三十六歌仙絵」関連に大きな示唆を投げかけている。
 そして、この記述に登場する「九条大納言基家」については、「新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)」の「左方九」(「左方帖九」で既に触れている。もう一人の「似絵の名手藤原信実」が、今回の「左方十六・信実朝臣」その人なのである。
 とすれば、上記の定家の『名月記』の記載が真実とするならば、上記の「信実朝臣像」は、信実が自らを描いた「自画像」そのものの模写絵ということになり、その模写絵は、江戸狩野派の実質的な総帥・狩野探幽が模写したということになる。
 これに対する「右方十六・寂蓮法師」は、いわゆる、藤原俊成(釈阿)の「御子左家」と深く関係し、俊成の猶子で、俊成の二男・定家とは従兄弟(兄=寂蓮、弟=定家)との間柄である。そして、「似絵の名手藤原信実」の父「隆信」は、俊成の再婚の妻(美福門院加賀)の子で、俊成家で育った定家の異父兄(兄=隆信、弟=定家)との間柄となる。
 こうして見てくると、藤原俊成(釈阿)の「御子左家」の「歌道」の家系は、「寂蓮→定家」、「画道」の家系は「隆信→信実」の家系ということになる。
 それにしても、この「真実の堪能見えき・歌詠み人」(『後鳥羽上皇御口伝』)の寂蓮と、年恰好は親子ほどもある「似絵の名手」(『名月記』)の信実との番いは、これは、隠岐に配流されている後鳥羽院が、「九条大納言基家が三十六人を撰び」(『名月記』)の、その「新三十六歌仙」(「基家」原案)を目にして、それに手入れをしての組み合わせのような思いを深くする。

   左 持
あけてみぬたが玉章(たまづさ)もいたづらに/まだ夜をこめてかえる雁がね(信実)
(『新古今』=入撰無、『名月記』加算=後鳥羽院・基家・定家・宗偽)
   右
かつらぎやたかまのさくらさきにけり/たつたのおくにかかるしら雲(寂蓮)
(『新古今』、〇=後鳥羽院、「ア」=有家撰、「イ」=家隆撰、「マ」=雅経撰)
   判詞
 右方は、後鳥羽院の「春・夏=ふとくおほきによむべし」「秋・冬=からびほそく読むべし」「恋・旅=ことに艶によむべし」(三体和歌)の注文付きの「ふとくおほきによむべし」(大胆にして長け高く詠むべし)に応答しての一首である。この一首に接して、後鳥羽院は「いざたけある歌詠まむとて、『龍田の奧にかかる白雲』と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき」(『後鳥羽院御口伝』)と記している。
 左方は、この後鳥羽院の「三体和歌」の「ことに艶によむべし」(本意に加えて優艶に詠むべし)の恋の歌として、「あけて見ぬ」「誰が」「玉章(恋文)も」「徒に」/「未だ」「夜を籠めて=まだ暗いうちに」「かえる雁がね」と「真実の堪能と見えき・恐ろしき」(『後鳥羽院御口伝』)一首と解したい。
 さらに、この歌は、「夜をこめて鳥の空音(そらね)ははかるともよに逢坂(あふさか)の関はゆるさじ」(清少納言『百人一首62』『後拾遺集雑二』)の本歌取りの一首とするならば、その「鳥の空音(そらね)」(鳥の鳴き真似)を「かえる雁がね」(帰雁の季の詞)と転換し、さらに、「秋風に初雁がねぞ聞こゆなる誰(た)が玉づさをかけて来つらむ(紀友則『古今207』))を踏まえていることも明瞭となってくる。
 とすると、後鳥羽院が定家の歌について「いささかも事により折によるといふ事なし」(『後鳥羽院御口伝』)と評した意に関連して、後鳥羽院流(場・状況などの「制作の場」と作者の置かれている「境涯」にも配慮する)の立場でも、定家流(「歌そのもの=三十一文字で毅然として屹立(きつりつ)していなければならぬ」)の立場に立っても、和歌の伝統的な手法の「本歌取り」の一首として、ここは「持」といたしたい。

寂蓮法師の一首

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jakuren.html

   和歌所にて歌つかうまつりしに、春の歌とてよめる
葛城(かづらき)や高間の桜咲きにけり立田の奥にかかる白雲(新古87)

【通釈】葛城の高間山の桜が咲いたのだった。竜田山の奧の方に、白雲がかかっているのが見える。
【語釈】◇葛城や高間の 「葛城」は奈良県と大阪府の境をなす金剛葛城連山。「高間の山」はその主峰である金剛山(標高1100メートル余)の古名とされる。◇立田 龍田山。奈良県生駒郡三郷町の龍田神社背後の山。葛城連山は龍田山の南に列なる山脈であり、京都や奈良から見ると「立田の奧」が葛城にあたるのである。◇白雲 山桜を白雲に喩える。
【補記】建仁二年(1202)三月の三体和歌六首の一。主催者の後鳥羽院より「ふとくおほきによむべし」と注文されて詠んだ春の歌。『後鳥羽院御口伝』に「寂蓮は、なほざりならず歌詠みし者なり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞいたくは高くはなかりしかども、いざたけある歌詠まむとて、『龍田の奧にかかる白雲』と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき」の評がある。
【他出】三体和歌、自讃歌、定家十体(長高様)、時代不同歌合(初撰本)、歌枕名寄、六華集、心敬私語
【参考歌】紀貫之「古今集」
桜花咲きにけらしもあしびきの山のかひより見ゆる白雲

寂蓮の「三体和歌六首」(参考)

http://k-sako.hatenablog.com/entry/20180615

『三体和歌会』は、後鳥羽院の主催で建仁2年(1202)3月20日に仙洞御所で催され、参加した歌人は、後鳥羽院・良経・慈円・定家・家隆・長明・寂連の7人で、雅経と有家も召されたが病気を理由に辞退している。

(御所に朝夕候ひし頃、常にも似ず珍しき御会ありき。「六首の歌にみな姿を詠みかへてたてまつれ」とて、「春・夏は、太くおおきに、秋・冬は細く乾らび、恋・旅は艶に優しくつかうまつれ。もし思ふやうに詠みおほせずは、そのよしをありのままに申し上げよ。歌のさま知れるほどを御覧ずべきためなり」とおほせられしかば、いみじき大事にて、かたへは辞退す。心にくからぬ人をおばまたもとより召されず。かかればまさしくその座にまいりて連なれる人、殿下・大僧正御房・定家・家隆・寂連・予と、わずかに六人ぞ侍りし。)
(『無名抄(鴨長明)』)

〔春の歌をあまた詠みて、寂連入道に見せ申し時、この高間の歌を「よし」とて、点合はれたれしかば、書きてたてまつりき、すでに講ぜらるる時に至りてこれを聞けば、かの入道の歌に、同じ高間の花をよまりたりけり。わが歌に似たらば違へむなど思ふ心もなく、ありのままにことわられける、いとありがたき心なりかし。さるは、まことの心ざまなどをば、いたく神妙なる人ともいわれざれしを、わが得つる道なれば心ばへもよくなるなり」〕
(『無名抄(鴨長明)』)

http://k-sako.hatenablog.com/entry/20180701

  春 ふとくおほきによむべし
かづらきやたかまの桜さきにけりたつたのおくにかかる白雲
(現代語訳:葛城連山の高間の山(※)の桜の花が咲いたことよ。龍田山の奥の方にかかっている白雲と見えるのは、その桜の花に相違ない)

  夏 太くおおきに読むべし
夏の夜の有明の空に郭公月よりおつる夜半の一声
(現代語訳:夏の夜の明けようとする頃の空に、郭公の月の内より出てくるかと思われる夜半の一声がする)

  秋 からびほそく読むべし
軒ちかき松をはらふか秋の風月は時雨の空もかはらで
(現代語訳:時雨の降っている音かと思って見ると、空の月は明るくて変わっていないで、軒近くの松を払っているのか秋風の音のすることよ。)

  冬 からびほそく読むべし
山人のみちのたよりもおのづから思ひたえねと雪は降りつつ
(現代語訳:山人の頼みとする道も跡絶えてしまって、いつのまにか思い切れと雪は降り続いていることよ。)

 恋 ことに艶によむべし
うきながらかくてやつひにみをつくしわたらでぬるるえにこそ有りけれ
(現代語訳:せつない嘆きのままで、こうして終わりには身をほろぼして、渡らないで濡れてしまった江であることよ。〔実際には契りを交わさない浅い縁でありながら、契りを交わしたようになってしまって、切ない嘆きのままでこうしてしまいには身を滅ぼしてしまうことよ。〕)

  旅 ことに艶によむべし
むさしのの露をば袖に分けわびぬ草のしげみに秋風ぞふく

(現代語訳:武蔵野の草葉においている露をたやすく分けることができなかったことよ。草の茂っているところに秋風が吹いて草葉の露を払ってしまうけれど、私の袖の露(涙)は払うことのできないことよ。)

〔寂連は、なほざりならず歌詠みし者なり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞいたくはたかくなりしかども、いざたけある歌詠まむとて、「龍田の奥にかかる白雲」と三躰の歌に詠みたりし、恐ろしかりき。
折りにつけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるように詠みし方、真実の堪能と見えき〕(『後鳥羽院御口伝』)

参考文献:『日本の作家100人〜人と文学 寂蓮』 半田公平 勉誠出版
『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫

藤原信実(ふじわらののぶざね) 治承元~文永二(1177-1265) 法名:寂西

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nobuzane.html

藤原北家長良流。為経(寂超)・美福門院加賀の孫。隆信の子。母は中務小輔長重女。名は初め隆実。娘の藻壁門院少将・弁内侍・少将内侍はいずれも勅撰集入集歌人。男子には従三位左京権大夫に至り画家としても名のあった為継ほかがいる。中務権大輔・備後守・左京権大夫などを務め、正四位下に至る。
和歌は父の異父弟にあたる藤原定家に師事し、若くして正治二年(1200)後鳥羽院第二度百首歌の詠進歌人に加えられ、同年九月の院当座歌合にも参加するなどしたが、院歌壇では評価を得られず、新古今集入撰に洩れた。建保期以降は順徳天皇の内裏歌壇や九条家歌壇などに迎えられ、建保五年(1217)九月の「右大臣家歌合」、同年十一月の「冬題歌合」、承久元年の「内裏百番歌合」、承久二年(1220)以前の「道助法親王家五十首」などに出詠した。承久の乱後も九条家歌壇を中心に活躍、貞永元年(1232)の「洞院摂政(教実)家百首」「光明峯寺摂政(藤原道家)家歌合」「名所月歌合」などに参加。寛元元年(1243)には自ら「河合社歌合」を主催している。また同四年(1246)、蓮性(藤原知家)勧進の「春日若宮社歌合」に出詠し、建長三年(1251)には「閑窓撰歌合」を真観(葉室光俊)と共撰するなど、反御子左家勢力とも親交があった。後嵯峨院歌壇では歌壇の長老的存在として、宝治元年(1247)の「宝治歌合」、宝治二年(1248)の「宝治百首」、建長三年(1251)の「影供歌合」などに詠進。八十歳を越えても作歌を持続し、建長八年(1256)藤原基家主催の「百首歌合」、弘長元年(1261)以降の「弘長百首」、文永二年(1265)の「八月十五夜歌合」などに出詠している。家集に『信実朝臣家集』がある(宝治初年頃の自撰と推測される)。新勅撰集初出。物語集『今物語』の作者。新三十六歌仙。
画家としては似絵の名人で、建保六年(1218)八月、順徳天皇の中殿御会の様を記録した『中殿御会図』、水無瀬神宮に現存する「後鳥羽院像」の作者と見られる。また佐竹本三十六歌仙絵の作者とする伝がある。

寂蓮(じゃくれん) 生年未詳~建仁二(1202) 俗名:藤原定長 通称:少輔入道

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jakuren.html

生年は一説に保延五年(1139)頃とする。藤原氏北家長家流。阿闍梨俊海の息子。母は未詳。おじ俊成の猶子となる。定家は従弟。尊卑分脈によれば、在俗時にもうけた男子が四人いる。
官人として従五位上中務少輔に至るが、承安二年(1172)頃、三十代半ばで出家した。その後諸国行脚の旅に出、河内・大和などの歌枕を探訪した。高野山で修行したこともあったらしい。建久元年(1190)には出雲大社に参詣、同じ頃東国にも旅した。晩年は嵯峨に住み、後鳥羽院より播磨国明石に領地を賜わって時めいたという(源家長日記)。
歌人としては出家以前から活動が見られ、仁安二年(1167)の太皇太后宮亮経盛歌合、嘉応二年(1170)の左衛門督実国歌合、同年の住吉社歌合などに出詠。出家後は治承二年(1178)の別雷社歌合、同三年の右大臣兼実歌合に参加した。また文治元年(1185)頃の無題百首、同二年西行勧進の二見浦百首、同三年の殷富門院大輔百首、同年の句題百首、建久元年(1190)の花月百首、同二年の十題百首など、多くの百首歌に参加し、定家・良経・家隆ら新風歌人と競作した。建久四年(1193)頃、良経主催の六百番歌合では六条家の顕昭と激しい論戦を展開するなど、御子左家の一員として九条家歌壇を中心に活躍を見せる。後鳥羽院歌壇でも中核的な歌人として遇され、正治二年初度百首・仙洞十人歌合・老若五十首歌合・新宮撰歌合・院三度百首(千五百番歌合)などに出詠。建仁元年(1201)には和歌所寄人となり、新古今集の撰者に任命される。しかし翌年五月の仙洞影供歌合に参加後まもなく没し、新古今の撰集作業は果せなかった。家集に『寂蓮法師集』がある。千載集初出。勅撰入集は計百十六首。

(参考)「佐竹三十六歌仙絵」周辺(その二)

三十六歌仙.jpg

鈴木其一筆「三十六歌仙図」一幅 一九〇・〇×七〇・〇㎝ 出光美術館蔵 →A図

三十六歌仙.jpg

酒井抱一筆「三十六歌仙図屏風」二曲一双 一六四・五×一八〇・〇㎝ ブライスコレクション(心遠館コレクション)→B図(下記のA図(歌仙名入り)と下記のメモ番号に一致)

三十六歌仙二.jpg

A図(歌人名入り)
http://melonpankuma.hatenablog.com/entry/2018/07/06/200000

(藤原公任撰「三十六歌仙」)・(藤原公任撰「三十六歌仙」右方・左方)・(「百人一首)
 のメモ(A図=歌人名・B図番号と一致、「左・右」は「歌合」番号、「百」=『百人一首』)

  女流歌人(5)
28 伊勢:裳だけなので袖の色数が少ない、右手を顔に   右二 → 百19
15 小野小町:裳唐衣。顔を最も隠しぎみ。額に手を当てる 右六 → 百 9
36 斎宮女御:几帳に隠れる               左一〇
6 小大君:裳唐衣で左向き               左一六
33 中務:裳唐衣で右手に扇、もしくは、顔が下向き    右一八
 
  僧侶(2) 
27 僧正遍昭:赤黄色の法衣で右上を向く         右四 → 百12
12 素性法師:画面左向き                左五 → 百21

  武官(4)
2 在原業平:青衣で矢を背負い右手を顎          左四 → 百17
19 藤原高光:赤衣で矢を背負う             右八
9 壬生忠岑:黒衣か白衣。片膝付き足裏を見せた背姿    右九 → 百30
34 藤原敏行:黒衣の武官姿、文官姿の時は右手を顔に   左一二→ 百18 

  翁(5)
7 柿本人麻呂:腕を開き、くつろいだ姿勢で画面左上を向く  左一 →百3
23 山部赤人:目尻に皺。狩衣で画面右を向き両手を膝    右三 →百4
11 猿丸太夫:黒袍か狩衣で画面左向きの横顔        左六 →百5
22 源順:白狩衣か赤袍で画面右向きの横顔        右一三
24 坂上是則:立てた笏を右手で押さえ画面右を振返る     左一五 →百31

  文官(20)
  直衣・狩衣(9)
35 源重之:正面向き。左膝を立て扇を持った左手で頬杖     右一一
30 源信明:左手で頬杖をつき画面右方向に体を横に傾けて思案顔 右一二
5 藤原清正:画面右を振返る 左一三
18 藤原興風:左膝を立て手を顎に。衣冠束帯の時は左向きの横顔 左一四 →百34
17 清原元輔:赤衣もしくは画面右上を見て右手の笏を肩にかつぐ 右一四 →百42
13 藤原元真:太め。右もしくは右上を向いた横顔で萎烏帽子が前に倒れる 右一五
20 藤原仲文:右を向いた横顔で萎烏帽子が後に倒れる          右一六
14 壬生忠見:丸顔、右手に扇 右一七 →百41
8 平兼盛:太め。㉕と比べてより丸顔で体を傾ける        左一八 →百40
  衣冠束帯(11)
21 紀貫之:立てた笏を左手で押さえる             右一 →百35
4 凡河内躬恒:笏を持つ左手を顎に左膝を立てて振返る     左二 →百29
16 大伴家持:右手に笏を持ち、画面右を振返る         左三 →百 6
32 紀友則:両手を腹の前で組んで目をつぶる          右五 →百33
3 藤原兼輔:右手笏を持ち顔の前に立てる            左七 →百27
31 藤原朝忠:瓜実顔もしくは太めで笏を持つ横顔        右七 →百44
1 藤原敦忠:手をかざして画面右を振返る          左八 →百43
10 源公忠:立てた笏を右手で押さえる              左九
25 大中臣頼基:大きく太めの体。画面右向きで持ち物なし      右一〇
29 源宗于:画面左向きで丸顔                   左一一 →百28
18 大中臣能宣:画面左向き。もしくは、笏を両手で構える     左一七 → 百49

(狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」、撰者=藤原基家原案・後鳥羽院撰? ※=下記と一致

左一 ※後鳥羽院、右一※ 式子内親王、左二※土御門院、右二※俊成卿女、左三※順徳院、右三 ※源通光、左四※ 仁和寺宮(道助法親王)、右四 前大納言忠良(粟田口忠良)、左五 後後法性寺入道前関白太政大臣(藤原兼実)、右五※ 土御門内大臣(源通親)、左六※後京極摂政太政大臣良経(九条良経)、右六 前大僧正慈鎮、左七※ 西園寺入道前太政大臣(西園寺公経) 右七※ 右衛門督通具(源通具)、左八 後徳大寺左大臣(藤原実定)、右八 藤原清輔朝臣、左九 権大納言其家(藤原基家)、右九 宜秋門院丹後、左一〇※ 前中納言定家(藤原定家)、右一〇※従二位家隆(藤原家隆)、左一一※参議雅経(藤原雅経・飛鳥井雅経)、右一一 二條院讃岐、左一二※ 前大納言為家(藤原為家)、右一二 藤原隆祐朝臣、左一三
※藤原有家朝臣、右一三※ 源具親朝臣、左一四※ 宮内卿、右一四※藤原秀能、左一五 殷冨門院大輔、右一五 小侍従、左一六※ 信実朝臣、右一六 寂蓮法師、左一七※源家長、右一七 俊恵法師、左一八 皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)、右方一八西行法師

(「新三十六歌仙」撰者?)※=上記と一致

※後鳥羽院、※土御門院、※順徳院、後嵯峨院、雅成親王、宗尊親王、※源通光、※式子内親王、※九条良経、九条道家、※西園寺公経、※道助親王、西園寺実氏、源実朝、※藤原基家、九条家良、慈円、行意、※源通具、※藤原定家、八条院高倉、※俊成卿女、藤原光俊、藻壁門院少将、※藤原為家、※飛鳥井雅経、※藤原家隆、藤原知家、※宮内卿、※藤原有家、※藤原信実、※源具親、※源家長、鴨長明、※藤原隆祐、※藤原秀能。

(「女房三十六人歌合」撰者?)※=三十六歌仙 ※※=新三十六歌仙

※小野小町、※伊勢、※中務、※斎宮女御、右近、右大将道綱母、馬内侍、赤染衛門、和泉式部、三条院女御蔵人左近、紫式部、小式部内侍、伊勢大輔、清少納言、大弐三位、高内侍、一宮紀伊、相模、※※宮内卿、周防内侍、※※俊成卿女、待賢門院堀河、※※宜秋門院丹後、嘉陽門院越前、※※二条院讃岐、※※小侍従、後鳥羽院下野、弁内侍、少将内侍、※※殷富門院大輔、土御門院小宰相、八条院高倉、後嵯峨院中納言典侍、式乾門院御匣、藻壁門院少将。

(「中古三十六歌仙」=藤原範兼撰「後六々撰」)

和泉式部、相模、恵慶法師、赤染衛門、能因法師、伊勢大輔、曾禰好忠、道命阿闍梨、藤原実方、藤原道信、平定文、清原深養父、大江嘉言、源道済、藤原道雅、増基法師、藤原公任、大江千里、在原元方、大中臣輔親、藤原高遠、馬内侍、藤原義孝、紫式部、藤原道綱母、藤原長能、兼賢王、上東門院中将、藤原定頼、在原棟梁、文屋康秀、藤原忠房、菅原輔昭、大江匡衡、安法法師、清少納言。

(集外三十六歌仙)

左方
1平常縁 2津守国豊 3浄通尼 4柴屋宗長 5月村斎宗碩 6永閑 7釈正徹 8釈正広 9耕閑斎兼載 10太田持資 11三好長慶 12宗羪 13伊達政宗 14兼与 15里見玄陳 16佐川田昌俊 17尚証 18木下長嘯子
右方
1種玉庵宗祇 2心敬 3基佐 4牡丹花肖柏 5蜷川親当 6安達冬康 7紹巴 8宗牧 9細川玄旨 10心前 11毛利元就 12北条氏康 13武田信玄 14北条氏政 15今川氏真 16昌叱 17小堀政一 18松永貞徳
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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十五) [三十六歌仙]

(その十五)殷富門院大輔と小侍従

大輔.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十五・殷富門院大輔」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009408

大輔二.jpg

(左方十五・殷富門院大輔)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019794

小侍従.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十五・小侍従」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009426

(バーチャル歌合)

左方十五・殷富門院大輔
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010704000.html

 春かぜのかすみ吹とてたえまより/みだれてなびく青柳のいと

右方十五・小侍従
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010705000.html

 いかなればその神山のあおいぐさ/としはふれども二葉なるらむ

判詞(宗偽)

 玉の緒よたえなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(式子内親王)
  (『小倉百人一首』八九・『新古今集』「恋一」一〇四三・「右方一」 )
 見せばやな雄島のあまの袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず(殷富門院大輔)
 (『小倉百人一首』九〇・『千載集』「恋四」八八六・「左方一五」 )
 きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣かたしき独りかも寝む(後京極摂政前太政大臣)
  (『小倉百人一首』九一・『新古今集』「秋下」五一八・「左方六」 )
 わが袖は汐干に見えぬ沖の石の人こそ知らぬ乾く間もなし(二条院讃岐)
  (『小倉百人一首』九二・『千載集』「恋二」七六〇・「右方一一」)

 この『新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)』は、『新古今集』の歌仙(歌人)を代表する三十六人の「肖像と和歌」とを「歌合」(左方帖・右方帖)形式に作成したものと理解して差し支えなかろう。ここに登場する「新三十六歌仙」は、『古今集』を中心としての、例えば、『佐竹本三十六歌仙(伝藤原信実筆)』の「三十六歌仙」(歌人)とはダブらない。
 そして、文暦二年(一二三五)頃に成立したとされる『小倉百人一首』(藤原定家撰)には、いわゆる「三十六歌仙」と「新三十六歌仙」とが混在しており、上記の「式子内親王から二条院讃岐」の四人は、『小倉百人一首』では、上記のとおり(八九番から九二番)に配列されている。
 しかし、その定家の撰した歌は、『古今集』(八九番・九一番)だけではなく『千載集(藤原俊成撰)』(九〇・九二)などの他の勅撰集などからも採られている。このことは、『新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)』の歌仙の歌も同様で、『新古今集』オンリーではなく、また撰歌(右方一・左方一五・左方六・右方一一)も、例えば、『小倉百人一首』(上記の四首)とはダブらない。
 その上で、例えば、上記の四人の歌人の代表歌として、上記の『小倉百人一首』の四首と、『新三十六歌仙画帖(狩野探幽筆)』収載の歌(右方一・左方一五・左方六・右方一一)とを比較して、やはり、『小倉百人一首』の方に軍配が上げられるであろう。

ながむれば衣手涼し久堅の/あまのかはらの秋のゆふ暮(右方一・式子内親王)
春かぜのかすみ吹とてたえまより/みだれてなびく青柳のいと(左方一五・殷富門院大輔)
空はなをかすみもやらず風さえて/雪げにくもるはるの夜の月(左方六・藤原良経)
やまたかみみねの嵐にちる花の/つきにあまぎるあけかたのそら(右方一一・二条院讃岐)

 ここで、今回の両首を、あらためて並列して、併せて、この両首が共に『新古今集』収載の歌なので、この両首の撰者名も『新訂新古今和歌集(佐々木信綱校訂・岩波文庫)』より併記して、その上で、最終的な判詞(判定)を書き添えたい。

   左 持
春かぜのかすみ吹とてたえまより/みだれてなびく青柳のいと(殷富門院大輔・「新古七三」)
(〇=後鳥羽院、「サ」=定家撰、「イ」=家隆撰)
   右
いかなればその神山のあおいぐさ/としはふれども二葉なるらむ(小侍従・「新古一八三」)
(〇=後鳥羽院、「ア」=有家撰、サ」=定家撰、「イ」=家隆撰、「マ」=雅経撰)
   判詞(宗偽)
 この両首は、共に『隠岐本新古今集』(隠岐本)にも収載され、さらに、『新古今集』撰者(「有家・定家・家隆・雅経」の四人)のうち、左方(殷富門院大輔)は二人(二点)、右方(小侍従)は四人(四点)で選出され、右方(小侍従)を勝とするのが順当なのかも知れないが、次のことを申し添え「持」といたしたい。
(追記)
この左方の歌の二句目は、「かすみ吹(ふく)とて」ではなく「かすみ吹(ふ)きとく」の表記が正しく、この「とく」が、次の「たえまより」の「たえ」、さらに、「より(縒り)との、結句の「青柳のいと(糸)」の、その「いと(糸)」の縁語となっており、それらの『新古今集』調の技巧的な冴えを「佳(可)」とし、二点(宗偽点一+α=表記の異同)を加え、共に、満点歌(五点)とし「持」といたしたい。

殷富門院大輔の一首

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/i_taihu.html

   百首歌よみ侍りける時、春の歌とてよめる
春風のかすみ吹きとくたえまより乱れてなびく青柳の糸(新古73)

【通釈】春風が吹き、立ちこめた霞をほぐしてゆく。その絶え間から、風に乱れて靡く青柳の枝が見える。
【補記】「とく」「たえ」「より(縒り)」は糸の縁語。
【本歌】藤原元真「後拾遺集」
浅緑みだれてなびく青柳の色にぞ春の風も見えける

小侍従の一首

   葵(あふひ)をよめる
いかなればそのかみ山の葵草年はふれども二葉なるらむ(新古183)

【通釈】どういうわけだろう、その昔という名の神山の葵草は、賀茂の大神が降臨された時から、多くの年を経るのに、いま生えたばかりのように双葉のままなのは。
【語釈】◇葵 賀茂祭の日、社前などを飾るのに用いた。葉を二枚対生するので、二葉葵とも言う。◇そのかみ山 神山は賀茂神社の背後の山。「その昔」を意味する「そのかみ」を掛ける。
【補記】葵祭の飾りに用いられた葵草に寄せて、賀茂の祭が毎年華やかに繰り返されることを讃美する心を籠めている。壮麗な賀茂祭は京の人々が待ちかねた夏の一大イベントであり、それを楽しむ弾むような心がよく出ている。
【他出】続詞花集、小侍従集、玄玉集、三百六十番歌合、歌枕名寄
【主な派生歌】
たのみこしそのかみ山の葵草思へばかけぬ年のなきかな(二条院讃岐)
生ひかはる今日のあふひや神山に千代かけて見る二葉なるらむ(霊元院)
神山のみあれののちのあふひ草いつを待つとて二葉なるらむ(香川景樹)

殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ) 生没年未詳(1130頃-1200頃)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/i_taihu.html

藤原北家出身。三条右大臣定方の末裔。散位従五位下藤原信成の娘。母は菅原在良の娘。小侍従は母方の従姉にあたる。尊卑分脈には「道尊僧正母」とある。
若くして後白河天皇の第一皇女、亮子内親王(のちの殷富門院。安徳天皇・後鳥羽天皇の准母)に仕える。建久三年(1192)、殷富門院の落飾に従い出家したらしい。
永暦元年(1160)の太皇太后宮大進清輔歌合を始め、住吉社歌合、広田社歌合、別雷社歌合、民部卿家歌合など多くの歌合に参加。また俊恵の歌林苑の会衆として、同所の歌合にも出詠している。自らもしばしば歌会を催し、文治三年(1187)には藤原定家・家隆・隆信・寂蓮らに百首歌を求めるなどした。源頼政・西行などとも親交があった。非常な多作家で、「千首大輔」の異名があったという。また柿本人麿の墓を尋ね仏事を行なった(玉葉集)。
家集『殷富門院大輔集』がある。千載集に五首入集したのを始め、代々の勅撰集に六十三首を採られている。女房三十六歌仙。小倉百人一首にも「見せばやな…」の歌が採られている。

小侍従(こじじゅう) 生没年未詳(1121頃-1201以後) 通称:待宵(まつよいの)小侍従・八幡小侍従

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/matuyoi.html

紀氏。石清水八幡別当大僧都光清の娘。母は花園左大臣家小大進。藤原伊実の妻。法橋実賢・大宮左衛門佐の母。菅原在良は母方の祖父、殷富門院大輔は母方の従妹。
四十歳頃に夫と死別し、二条天皇の下に出仕する。永万元年(1165)の天皇崩後、太皇太后多子に仕え、さらに高倉天皇に出仕した。
歌人としての活躍は宮仕え以後にみられ、永万二年(1166)の中宮亮重家歌合をはじめ、太皇太后宮亮経盛歌合、住吉社歌合、広田社歌合、右大臣兼実歌合などに参加。『無名抄』には殷富門院大輔と共に「近く女歌よみの上手」と賞されている。ことに「待つ宵の…」の歌は評判となり、「待宵の小侍従」の異名で呼ばれた。後徳大寺実定・俊成・平忠盛・西行ら多くの歌人と交遊した。歌の贈答からすると平経盛・源雅定・源頼政・藤原隆信とは特に親密だったようである。
治承三年(1179)、六十歳頃に出家。その後も後鳥羽院歌壇で活躍を続け、正治二年(1200)の院初度百首、建仁元年(1201)頃の院三度百首(千五百番歌合)などに出詠する。また三百六十番歌合にも選ばれた。家集『小侍従集』がある。千載集初出。勅撰入集は五十五首。『歌仙落書』歌仙。女房三十六歌仙。

(参考)「佐竹三十六歌仙絵」周辺(その一)

小侍従二.jpg

京都国立博物館の入り口。右の「小大君(こおおぎみ)」(奈良県・大和文華館・重要文化財は、2019年11月6~24日(最終日)に展示) →A図

https://artexhibition.jp/topics/news/20191021-AEJ110010/

小侍従.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十五・小侍従」(東京国立博物館蔵)→  B図
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009426

 上記の「小大君像」(A図)は、2019年10月12日(土)~11月24日(日)、京都国立博物館で開催された特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」の入口の看板の「小大君像」である。
この「佐竹本三十六歌仙」の肖像画を描いたのは、「新三十六歌仙」の一人・藤原信実、その和歌の書は、これまた、「新三十六歌仙」の一人(『新古今集』の「仮名序」の起草者)である、後京極摂政前太政大臣(藤原良経)とされている。
 この後京極摂政前太政大臣(藤原良経)については、「左方六」で触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-02

 また、藤原信実は、次回の「左方十六」で寂蓮法師(右方十六)との歌合が予定されている。なお、この「佐竹三十六歌仙」については、下記のアドレスなどが詳しい。

https://artexhibition.jp/topics/news/20191021-AEJ110010/

 そして、この「佐竹本三十六歌仙」の「小大君像」(A図)と、今回の「新三十六歌仙」の「小侍従像」(B図)とが、衣装の色合いなどは異なるが、その女性の顔貌などは瓜二つといっても差し支えなかろう。
 この「小大君像」(A図)と「小侍従像」(B図)との「小大君」と「小侍従」とは、全くの別人で、この「小大君(像)」(A図)は『古今集』時代(『古今集』成立=延喜五年・九〇五)、そして、「小侍従(像)」(B図)は『新古今集』時代(『新古今集』成立=元久二年・一二〇五)で、約三世紀(三百年)の時代史的スパンがある。
 さらに、この『新古今集』時代の「小侍従像」(B図)を描いたのは狩野探幽で、落款からすると、探幽の「法印」時代(寛文二年・一六六二・六一歳以降)ということになり、ここでも、約四世紀(四百年)の時代史的な隔たりがある。
 ということは、江戸時代初期の狩野探幽は鎌倉時代初期の歴史上の歌人「小侍従(像)」(B図)を描き、鎌倉時代初期の藤原信実は、平安時代初期の歴史上の歌人「小大君(像)」(A図)を描き、結果として、『古今集』時代の「小大君(像)」(A図)と『新古今集』時代の「小侍従(像)」(B図)とが、瓜二つの女性像という形相を呈してきたということになる。
 これらの「佐竹本三十六歌仙」そして「新三十六歌仙」の「歌仙絵」は、「似絵(にせえ)」(大和絵系の肖像画)として、「細い線を重ねて顔貌を描く」描法で、「新古今時代」の、藤原隆信・信実の家系によって発展を遂げた描法とされている(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』など)。
 そして、「佐竹本三十六歌仙」は、「書=後京極摂政前太政大臣(藤原良経)、画=藤原信実」の伝承が正しいと仮定するならば、藤原(九条)良経は、建永元年(一二〇六)に三十八歳で夭逝して居り、それ以前ということになろう。そして、その背後には、藤原(九条)良経の書が正しいとするならば、当時の後鳥羽院上皇の影がちらついて来るのである。
 また、「新三十六歌仙」についても、「承久の乱後、九条大納言基家が三十六人を撰び、その『真影』を似絵の名手藤原信実に描かせ、隠岐に住まう後鳥羽院のもとに届けようとしている計画が藤原定家の日記『名月記』天福元年(一二三三)八月十二日条に記されている」(『歌仙絵(東京国立博物館)』所収「歌仙絵の成立について(土屋貴祐稿)」)ということから、これまた、後鳥羽院の影がちらちらするのである。
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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十四) [三十六歌仙]

(その十四)宮内卿と正二位秀能(藤原秀能)

宮内卿.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十四・宮内卿」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009407

藤原秀能.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十四・正二位秀能」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009425

(バーチャル歌合)

左方十四・宮内卿
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010702000.html

 かきくらしなをふるさとのゆきのうちに/あとこそみえね春はきにけり

右方十四・正二位秀能
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010703000.html

 足曳のやまのふる道跡たゑて/おのえのかねに月ぞのこれる

判詞(宗偽)

 『新古今集』は、建仁元年(一二〇一)十一月三日に後鳥羽上皇の院宣がくだり、「通具・有家・定家・家隆・雅経・寂蓮(中途死没)」を撰者として撰集作業がスタートしたが、その撰者らの撰歌稿を、後鳥羽院その人が、その途次での「歌合・歌会」のもの次々に挿入しながら、元久二年(一二〇五)三月二十六日に、『新古今集』は一応の完成を見ることになる。しかし、その後、承久三年(一二二一)の「承久の乱」により後鳥羽院は隠岐に配流され、その配流地の隠岐で精選を重ね、約四百首を削除して、いわゆる『隠岐本新古今集』(隠岐本)を編み、それに院自らの跋文を添えている。
 これらの『新古今集』に関する伝本は、次の四類型に分類され、そのうちの第二分類のものが基本になっている。また、集の各歌に撰者名の注記を付した伝本もあり、それぞれの歌を誰が選出したが判明し、その注記は「撰者名注記」と呼ばれている(『現代語訳日本の古典3古今集・新古今集』所収「古今集・新古今集の世界(藤平春男稿)」、なお、下記の分類は『ウィキペディア(Wikipedia)』)。

第一類 - 元久二年三月にいったん完成したとして奏覧されたもの。「竟宴本」と呼ばれる。
第二類 - 「竟宴本」をさらに「切り継ぎ」し、和歌を取捨する途中作業の本文を伝えるもの。
第三類 - 建保四年十二月に「切り継ぎ」が終了したときの本文。
第四類 - 後鳥羽院が撰んだ「隠岐本」。仮名序の次に撰集し直した事情を語る後鳥羽院の序文(「隠岐本識語」)がある。

 ここで、上記の「隠岐本」の収載されている歌(〇印)と「撰者名注記」(「ア」=有家撰、「サ」=定家撰、「イ」=家隆撰、「マ」=雅経撰)とを『新訂新古今和歌集(佐々木信綱校訂・岩波文庫)』より、前回取り上げた、次の十四首に施して置きたい。

1 みよし野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり(良経=七九首) 
(〇・サ・イ・マ)
2 ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく(後鳥羽院=三四首) 
3 山ふかみ春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水(式子内親王=四九首)
(〇・マ)
4 かきくらし猶ふる里の雪のうちに跡こそ見えぬ春は来にけり(宮内卿=一五首)
(〇・マ)
5 今日といへば唐土までも行く春を都にのみと思ひけるかな(俊成=七二首)
(〇)
7 岩間とぢし氷も今朝は解けそめて苔のした水道もとむらむ(西行=九四首)
(〇・ア)
44  梅の花にほひうつす袖のうへに軒漏る月のかげぞあらそふ(※定家=四六首)
(〇・ア・イ・マ)
45  梅が香にむかしをとへば春の月こたへぬかげぞ袖にうつれる(※家隆=四三首)
(〇・サ)
46 梅のはな誰が袖ふれしにほひぞと春や昔の月にとはばや(※通具=一七首)
(〇・ア・サ・イ・マ)
47 梅の花あかぬ色香もむかしにておなじかたみの春の夜の月(俊成女=二九首)
(〇・ア・イ・マ)
53 散りぬればにほひばかりを梅の花ありとや袖に春風の吹く(※有家=一九首)
(〇)
57 難波潟かすまぬ浪もかすみけりうつるもくもるおぼろ月夜に(※※具親=七首)
(〇・サ・イ・マ)
58 今はとてたのむの雁もうちわびぬおぼろ月夜のあけぼのの空(※寂蓮=三五首)
(〇・ア・サ・イ・マ)
73 春風のかすみ吹きとくたえまよりみだれてなびく青柳の糸(※雅経=二二首)
(〇・ア)

 上記の十四首のうちで、満点(「〇」=後鳥羽撰・「ア」=有家撰、「サ」=定家撰、「イ」=家隆撰、「マ」=雅経撰)のものは、「46(通具作)と58(寂蓮作)」との二首ということになる。
 この『新古今集』の撰者の評点により、今回の「宮内卿対秀能」の歌合の判の基準にすると、次のとおりとなる。

   左 勝
かきくらしなをふるさとのゆきのうちに/あとこそみえね春はきにけり(宮内卿「新古四」)
(〇・マ)
   右
足曳のやまのふる道跡たゑて/おのえのかねに月ぞのこれる(秀能「新古三九八」)
(〇)
   判詞
 左(後鳥羽院と藤原雅経)と右(後鳥羽院)、左(宮内卿)」を勝とす。

宮内卿の一首

五十首歌たてまつりし時
かきくらし猶ふる里の雪のうちに跡こそ見えね春は来にけり(新古4)

【通釈】空を曇らせて古里になお降る雪――その雪のうちに、はっきりとした印は見えないけれども、春はやって来たのだった。
【語釈】◇ふる里 古い由緒のある里。王朝和歌では特に、奈良旧京・吉野などをイメージする。「(雪が)降る里」と掛詞になっている。◇跡こそみえね 春がやって来たという印しはまだ見えないが。「降りしきる雪のため足跡が見えない」というイメージを重ねている。◇春は来にけり 立春をいう。
【補記】建仁元年(1201)二月、「老若五十首歌合」三番右勝。「雪のうちに立春を迎える」という万葉以来の由緒ある趣向。だからこそ「ふる里」という語も生きてくる。構成はきわめて理知的であるが、「かきくらし」降る雪、その中で一瞬にして消えてゆく足跡、というイメージを重ねることで、ありふれた趣向に清新さを加え、また一首が理に落ちることを救っている。
【他出】自讃歌、新三十六人撰、女房三十六人歌合、六華集、題林愚抄
【主な派生歌】
旅人の朝たつ後や積るらむ跡こそ見えね野辺の白雪(小倉実教[新続古今])
しら雪の猶かきくらしふるさとの吉野のおくも春は来にけり(*嘉喜門院)
かきくらしなほふる郷のみよし野はいつの雪間に春の来ぬらむ(貞常親王)

藤原秀能の一首

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hidetou.html

   山月といふことをよみ侍りける
あしびきの山ぢの苔の露のうへに寝ざめ夜ぶかき月を見るかな(新古398)

【通釈】山中の苔に置いた露の上で、目が醒め、夜深い月を見たことよ。
【語釈】◇山ぢ 山中を漠然と指す。「山路」ではない。
【補記】家集によれば、建仁元年(1201)頃、後鳥羽院より召された歌らしい。「山ぢの苔」は高山の地面を覆う地衣類・羊歯(しだ)類を言うのであろう。それを筵代わりに旅寝するうち、ふと背に冷たさを感じ、目が覚める。と、羊歯の寝床にはいちめん露が置いていたのだ。山中の張りつめた夜の霊気、月光にきらめく露、漆黒の闇を照らす上空の月…。この上なく辛いはずの旅中の寝覚が、月によって祝福されたかのような僥倖の一瞬である。「ねざめ夜ぶかき」は、古注にあるように「粉骨」の句であろう。
【他出】自讃歌、続歌仙落書、如願法師集、新三十六人撰
【主な派生歌】
月のもるね屋の板まに露みえて寝覚夜ぶかき蓬生の宿(花山院長親)
散り初むる桐の一葉の露の上にねざめ夜深き月を見るかな(蓮月)

新古今色紙.jpg

「新古今集色紙帖」(光悦筆・宗達絵・五島美術館蔵)
967 さらぬだに秋の旅寝はかなしきに松に吹くなりとこの山風(藤原秀能)
(〇=後鳥羽院 「イ」=家隆撰)

宮内卿(くないきょう) 生没年未詳

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kunaikyo.html

後鳥羽院宮内卿とも。右京権大夫源師光の娘。泰光・具親の妹。母は後白河院女房安藝。父方の祖父は歌人としても名高い大納言師頼。母方の祖父巨勢宗茂は絵師であった。
後鳥羽院に歌才を見出されて出仕し、正治二年(1200)、院二度百首(正治後度百首)に詠進。建仁元年(1201)の「老若五十首歌合」「通親亭影供歌合」「撰歌合」「仙洞句題五十首」「千五百番歌合」、同二年(1202)の「仙洞影供歌合」「水無瀬恋十五首歌合」など、院主催の歌会・歌合を中心に活躍した。元久元年(1204)十一月の「春日社歌合」詠進を最後に、以後の活動は確認できない。鴨長明は『無名抄』で宮内卿を俊成女とともに同時代の「昔にも恥じぬ上手」と賞讃し、歌への打ち込みぶりを伝えたあと、その死の事情にふれている。「あまり歌を深く案じて病になりて」ひとたび死にかけ、父から諌められてもやめず、ついに早世した、というのである。後世の『正徹物語』には「宮内卿は廿よりうちになくなりにしかば」とあり、二十歳以前に亡くなったとの伝があったらしい。
「うすくこき…」の歌が評判を呼び、「若草の宮内卿」とも呼ばれた。後鳥羽院撰の『時代不同歌合』の百歌人に選ばれ、和泉式部と番えられている。また『女房三十六人歌合』に歌が採られている。新三十六歌仙。新古今集初出。勅撰入集計四十三首。

藤原秀能(ふじわらのひでよし(-ひでとう)) 元暦元~仁治元(1184-1240) 法号:如願

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hidetou.html

河内守秀宗の子。平氏出身の父は、藤原秀忠(魚名末流、秀郷の裔)の跡を継いで藤原氏を名乗ったという(尊卑分脈)。母は伊賀守源光基女。承久の乱の際大将軍となった秀康の弟。子には左兵衛尉秀範(承久の乱で戦死)、左衛門尉能茂(猶子。後鳥羽院の寵童)ほかがいる。
初め源通親に伺候し、十六歳の時後鳥羽院の北面の武士に召された。左兵衛尉・左衛門尉・河内守などを経て、検非違使大夫尉・出羽守に至る。建暦二年(1212)五月、西海の宝剣探索のため院宣御使として筑紫に下る。承久三年(1221)、承久の乱の際には官軍の大将となったが、敗れて熊野で出家、如願を号した。その後高野に真照法師を訪ねるなどしている。貞永元年(1232)秋、隠岐の院を慕って西国に下る(『如願法師集』)。嘉禎二年(1236)には院主催の遠島歌合に召されて歌を献上した。仁治元年(1240)五月二十一日、没。五十七歳。
歌人としても後鳥羽院の殊遇を受け、建仁元年(1201)の「八月十五夜撰歌合」「和歌所影供歌合」などに出詠。同年七月に設置された和歌所寄人に加えられる。この時十八歳、寄人中最年少であった。同二年(1202)五月の「仙洞影供歌合」、同三年(1203)の「影供歌合」「八幡若宮撰歌合」、元久元年(1204)の「春日社歌合」「元久詩歌合」、建永元年(1206)七月の「卿相侍臣歌合」、同二年の「賀茂別雷社歌合」「最勝四天王院和歌」、建保三年(1215)の「院四十五番歌合」、建保四年の院百首和歌など、後鳥羽院歌壇で活躍した。また建仁元年(1201)の「通親亭影供歌合」、建保五年(1217)の「右大将(源通光)家歌合」、承久二年(1220)の「道助法親王五十首」などにも出詠している。承久の乱後もたびたび小歌会に出て歌を詠んだり、百首歌を創作したりしている。飛鳥井雅経・家隆と親交があった。新古今集初出。以下勅撰集に七十九首入集。家集『如願法師集』は後世の編集とされる。新三十六歌仙。後鳥羽院の『時代不同歌合』にも撰入。

「秀能は身の程よりもたけありて、さまでなき歌も殊の外にいではへするやうにありき。まことによみもちたる歌どもの中にはさしのびたる物どもありき。しかあるを近年定家無下の歌のよし申すときこゆ」(後鳥羽院御口伝)。
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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十三) [三十六歌仙]

(その十三)藤原有家朝臣と源具親朝臣

有家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十三・藤原有家朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009406

具親.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十三・源具親朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009424

(バーチャル歌合)

左方十三・藤原有家朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010700000.html

 あさ日かげにほへるやまのさくら花/つれなくきえぬゆきかとぞみる

右方十三・源具親朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010701000.html

 はれくもる影をみやこにさきだてゝ/しぐるとつぐるやまのはのつき

判詞(宗偽)

 『新古今集』の入首数の多い歌人を序列すると、「西行・九四首、慈円・九二首、良経七九首、俊成七二首、式子内親王四九首、定家四六首、家隆四三首、寂蓮三五、後鳥羽院三四首、貫之三二首、俊成卿女二九首、人麿二三首、雅経二二首、経信・有家各一九首、通具・秀能各一七首、道真・好忠・実定・讃岐各一六首、伊勢・宮内卿各一五首」の順となってくる(『現代語訳日本の古典3古今集・新古今集』所収「古今集・新古今集の世界(藤平春男稿)」)。
 この「有家一九首」の「藤原有家」(左方十三)は『新古今集』の撰者の一人であるが、対する「源具親(ともちか)」は、撰者の一人の「源通具(みちとも)一七首」とは別人で、宮内卿の兄にあたる。
 ちなみに、この『新古今集』の撰者の一人の「源通具」の父は、「源通親(みちちか)」で、この通親が『新古今集』編纂に通じる新しい勅撰和歌集の計画を主導し、その半ばで亡くなったことにより、その代理として通具が『新古今集』の撰者になった意味合いが強いとされている。
 さらに、この「通具」の妻が「俊成女(としなりのむすめ)」で、この二人には一男一女をもうけながら、通具は、後鳥羽院の後宮(承明門院)の異母妹の、土御門天皇の乳母従三位典侍按察局(あぜちのつぼね・藤原信子)と結婚し、俊成女とは離縁することとなる。

1 みよし野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり(良経=七九首) 
2 ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく(後鳥羽院=三四首) 
3 山ふかみ春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水(式子内親王=四九首)
4 かきくらし猶ふる里の雪のうちに跡こそ見えぬ春は来にけり(宮内卿=一五首)
5 今日といへば唐土までも行く春を都にのみと思ひけるかな(俊成=七二首)
7 岩間とぢし氷も今朝は解けそめて苔のした水道もとむらむ(西行=九四首)
44  梅の花にほひうつす袖のうへに軒漏る月のかげぞあらそふ(※定家=四六首)
45  梅が香にむかしをとへば春の月こたへぬかげぞ袖にうつれる(※家隆=四三首)
46 梅のはな誰が袖ふれしにほひぞと春や昔の月にとはばや(※通具=一七首)
47 梅の花あかぬ色香もむかしにておなじかたみの春の夜の月(俊成女=二九首)
53 散りぬればにほひばかりを梅の花ありとや袖に春風の吹く(※有家=一九首)
57 難波潟かすまぬ浪もかすみけりうつるもくもるおぼろ月夜に(※※具親=七首)
58 今はとてたのむの雁もうちわびぬおぼろ月夜のあけぼのの空(※寂蓮=三五首)
73 春風のかすみ吹きとくたえまよりみだれてなびく青柳の糸(※雅経=二二首)

 上記(44~59)は『新古今集』「巻一・春上(1~98)」の十四首で、作家名と『新古今集』の入集歌数を記述したものである。この作家名のうち、「定家・家隆・通具・有家・雅経」は撰者(※)である(寂蓮も撰者であったが撰首前に没)。「後鳥羽上皇」は『新古今集』の撰進下命した上皇(土御門天皇の父)、「良経」は時の摂政太政大臣(撰進した翌年に三十八歳で急逝)。「俊成(釈阿)」は「後鳥羽上皇・九条(藤原)良経」の和歌の師で「御子左家」の総帥。「西行」は俊成と共に「生得の歌人」(『後鳥羽院御口伝)』」と仰がれている歌人という位置づけになる。
 この『新古今集』「巻一・春上(1~98)」の十四首は、それぞれ「良経⇔後鳥羽院、式子内親王⇔宮内卿、俊成⇔西行、定家⇔家隆、通具⇔俊成女、※有家⇔※※具親、寂蓮⇔雅経」との歌合のペアの番いしても恰好の組み合わせとなろう。
 そして、今回の「左方十三・藤原有家朝臣⇔右方十三・源具親朝臣」と見事に一致してくる。ちなみに、この具親の『新古今集』の入集歌数は、次の七首のようである。

※※源具親の『新古今集』入集歌(七首)

  「春歌上」
  百首歌奉りし時
57 難波潟かすまぬ浪もかすみけりうつるもくもるおぼろ月夜に
  「春歌下」
百首歌めしし時春の歌
121 時しもあれたのむの雁のわかれさへ花散るころのみ吉野の里
  「秋歌上」
 千五百番歌合に
295 しきたへの枕のうへに過ぎぬなり露を尋ぬる秋のはつかぜ
   千五百番歌合に
587 今はまた散らでもながふ時雨かなひとりふりゆく庭の松風
 千五百番歌合に
597 今よりは木の葉がくれもなけれども時雨に残るむら雲の月
 題知らず
598 晴れ曇る影をみやこにさきだててしぐると告ぐる山の端の月 (右方十三)
   「雑歌上」
熊野にまうで侍りしついでに切目宿にて、海辺眺望といへる心をゝのこどもつかうまつりしに
1557 ながめよと思はでしもやかへるらむ月待つ波の海人の釣舟

 ここで、「左方十三・藤原有家朝臣⇔右方十三・源具親朝臣」の判詞は次のようにしたい。

左  持
あさ日かげにほへるやまのさくら花/つれなくきえぬゆきかとぞみる(有家)

はれくもる影をみやこにさきだてゝ/しぐるとつぐるやまのはのつき(具親)
  判詞=折句歌
ひさかたの/君らのかげは/別れても/けだかきものぞ/瑠璃色に染む(宗偽)
  付言
ひ → ひさかたの 
き → 君らのかげは(※有家⇔※※具親)
わ → 別れても(六条藤家⇔村上源氏)
け → けだかきものぞ
る → 瑠璃色に染む

藤原有家の一首

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ariie.html

千五百番歌合に
あさ日かげにほへる山の桜花つれなく消えぬ雪かとぞ見る(新古98)

【通釈】朝日があたり、まばゆく照り映えている、山の桜。それを私は、平然と消えずにいる雪かと思って見るのだ。
【語釈】◇つれなく消えぬ 形容詞「つれなし」の原義は「然るべき反応がない」。雪は陽に当たれば消えるのが当然なのに、平然と消えずにいる、ということ。
【補記】「千五百番歌合」巻三、二百二十一番左持。俊成の判詞は「『あさひかげ』とおき、『つれなくきえぬ』と見ゆらむ風情いとをかしく侍るべし」。
【本歌】田部櫟子「万葉集」巻四
朝日影にほへる山に照る月の飽かざる君を山越しに置きて
【主な派生歌】
春霞はやたちぬれや朝日かげにほへる山の空ぞのどけき(伏見院)
朝日影にほへる山の春風にふもとのさとは梅が香ぞする(一条兼良)
吉野山つれなくきえぬ白雪やまだ初春のあり明の月(〃)
いとはやも花ぞまたるる朝日影にほへる山の峰の桜木(三条西実隆)
夕にも雨とはならじ朝日かげにほへる山の花のしら雲(松永貞徳)
花ならで花なるものは朝日かげにほへる山の木木のしら雪(小沢蘆庵)
朝日影にほへる山の桜花千代とことはに見ともあかめや(本居宣長)

源具親の一首

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tomotika.html

千五百番歌合に
しきたへの枕のうへにすぎぬなり露をたづぬる秋の初風(新古295)

【通釈】枕の上を吹き過ぎていったよ。露を散らそうとやって来たのだろうが、枕の下に溜まった涙には気づかなかったよ、秋の初風は。
【語釈】◇しきたへの 枕の枕詞。◇枕のうへに 下記本歌により、枕の下には涙の海があることを暗示。それには気づかずに吹き過ぎていった、ということ。◇露をたづぬる 秋風は露を吹き散らすのが習わしであるので、こう言う。
【本歌】紀友則「古今集」
しきたへの枕の下に海はあれど人をみるめは生ひずぞありける

藤原有家(ふじわらのありいえ) 久寿二~建保四(1155-1216)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ariie.html

もとの名は仲家。六条藤家従三位重家の子。母は中納言藤原家成女。清輔・顕昭・頼輔・季経らの甥。経家・顕家の弟。保季の兄。子には従五位下散位有季・僧公縁ら。
仁安二年(1167)、初叙。承安二年(1172)、相模権守。治承二年(1178)、少納言。同三年、讃岐権守を兼ねる。同四年(1180)、有家と改名。元暦元年(1184)、少納言を辞し、従四位下に叙せられる。建久三年(1192)、従四位上。同七年、中務権大輔。正治元年(1199)、大輔を辞し、正四位下。建仁二年(1202)、大蔵卿。承元二年(1208)、従三位。建保三年(1215)二月、出家。法名、寂印。翌年の四月十一日、薨ず。
文治二年(1186)の吉田経房主催の歌合、建久元年(1190)の花月百首、建久二年(1191)の若宮社歌合、建久四年(1193)頃の六百番歌合、建久九年(1198)の守覚法親王家五十首に出詠。後鳥羽院歌壇でも主要歌人の一人として遇され、建仁元年(1201)の新宮撰歌合・千五百番歌合、建仁二年(1202)の水無瀬恋十五首歌合、元久元年(1204)の春日社歌合、承元元年(1207)の最勝四天王院和歌などに出詠した。順徳天皇の建暦三年(1213)内裏歌合、建保二年(1214)の歌合などにも参加している。
建仁元年(1201)、和歌所寄人となり、新古今集撰者となる。六条家の出身ながら御子左家(みこひだりけ)に親近した。
家集があったらしいが伝存しない。千載集初出。新古今集には十九首。勅撰入集は計六十六首。新三十六歌仙。『続歌仙落書』にも歌仙として撰入され、「風体遠白く、姿おほきなるさまなり。雪つもれる富士の山をみる心地なむする」と賛辞が捧げられている。

源具親(みなもとのともちか) 生没年未詳 通称:小野宮少将

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tomotika.html

村上源氏。小野宮大納言師頼の孫。右京権大夫師光の子(二男か)。母は巨勢宗成女、後白河院安藝。宮内卿の同母兄。勅撰歌人泰光も兄弟。北条重時の娘を娶り、輔道をもうける。
能登守・左兵衛佐などを経て、従四位下左近少将に至る。出家後は如舜を称す。
後鳥羽院歌壇で活躍し、「正治後度百首」「千五百番歌合」、承元元年(1207)「最勝四天王院障子和歌」などに詠進。建仁元年(1201)、和歌所寄人となる。承久の乱後はほとんど歌を残していないが、建長五年(1253)の藤原為家主催「二十八品並九品詩歌」に如舜の名で出詠している。新古今集初出。新三十六歌仙。鴨長明『無名抄』に逸話が見え、妹の宮内卿と対照的に歌に熱心でなかったと伝える。
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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十二) [三十六歌仙]

(その十二)前大納言為家と藤原隆祐朝臣

藤原為家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十二・前大納言為家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009405

藤原隆祐.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十二・藤原隆祐朝臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009423

(バーチャル歌合)

左方十二・前大納言為家(藤原為家)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010698000.html

 たちのこす木ずゑもみえず山桜/はなのあたりにかかる白雲

右方十二・藤原隆祐朝臣
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010699000.html

 今日はなをみやこもちかし逢坂の/せきのあなたにしる人もがな

判詞(宗偽)

 『千五百番歌合』(『建仁元年千五百番歌合』)の六百一番は、次の「女房=後鳥羽院と通具」ものである。

六百一番
   左
このゆふべ風ふき立ちぬ白露にあらそふ萩を明日やかも見ん(女房=後鳥羽院)
   右 勝
ゆふまぐれ待つ人は来ぬ故郷のもとあらの小萩風ぞ訪(と)ふなる(源通具)
   判詞(御判=後鳥羽院)
各々たてまつれる百首を番(つが)ひて、廿巻(一巻に「七十五番」ずつ)の歌合として、人々判じ申すうち二巻(秋二と秋三)、よしあしを定め申すべきに侍(はべる)に、愚意の及ぶところ勝負ばかりは付くべしといへども、難に於きては如何(いか)に申すべしもおぼえ侍らず。左右の下に一文字ばかり付けば、無下に念なき様なるべし。よりて、判の詞のところに、形(かた)の様に三十一字を連ねて、その句の上(かみ)ごとに勝負の字ばかりを定(さだめ)申すべきなり。
 見せばやな君を待つ夜の野べの露にかれまく惜しく散る小萩哉(折句歌=後鳥羽院)
(註=「折句歌」)
見せばやな  → み
君を待つ夜の → ぎ
野べの露に  → の
かれまく惜しく→ か
散る小萩哉  → ち
(『日本文学大系65』所収「後鳥羽院御口伝」)と(『和歌文学講座10秀歌鑑賞Ⅰ(和歌文学会編)』)

後鳥羽院御判.jpg

『千五百番歌合』の「六百一番」(国文研究資料館(高知県立図書館蔵))
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-020705

base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-020705&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%8D%83%E4%BA%94%E7%99%BE%E7%95%AA%E6%AD%8C%E5%90%88%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=207

 この後鳥羽院の「折句歌」形式を、ここでも借用したい。

   左 勝
たちのこす木ずゑもみえず山桜/はなのあたりにかかる白雲(為家)
   右
今日はなをみやこもちかし逢坂の/せきのあなたにしる人もがな(隆祐)
   判詞=折句歌
日のあたる/為家家系/利発な三子/鐘もなるなり/千代に八千代に(宗偽)
   付言
ひ → 日のあたる
だ → 為家家系(藤原俊成→定家→為家=御子左家)
り → 利発な三子(為氏=二条家・為教=京極家・為相=冷泉家)
か → 鐘もなるなり
ち → 千代に八千代に

藤原為家の一首

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tameie.html

   西園寺入道前太政大臣家三首歌に、花下日暮といへる心を 
ながしとも思はで暮れぬ夕日かげ花にうつろふ春の心は(続千載87)

【通釈】春の日は永いと言うが、心にはそうとも思えぬうちに暮れてしまった。夕日を映す花とともに移ろってゆく我が心には。
【補記】構文はなかなか複雑で、「思はで」の主語は結句「春の心」であり、「暮れぬ」の主語は第三句「夕日かげ」であって、二重の倒置をなしている。また「花にうつろふ」は、前句との続きから「夕日が花に映る」意をあらわすと共に、下句に掛かって「花に動かされる春の心は」ほどの意になる。かくも用意周到の作であるが、一首の姿は題意にふさわしく物憂いような情緒纏綿の調べを奏でている。
西園寺家の歌会での作。続千載集では入道前太政大臣とあって公経を指すことになるが、為家集の詞書は「建長三年前太政大臣西園寺三首」とあり、正しくは西園寺実氏主催の会か。
【参考歌】藤原家隆「水無瀬恋十五首歌合」
恨みても心づからの思ひかなうつろふ花に春の夕暮
  藤原定家「拾遺愚草員外」
いかならむ絶えて桜の世なりとも曙かすむ春の心は
【主な派生歌】
咲きしより花にうつろふ山里の春のこころはちるかたもなし(本居宣長)

藤原隆祐の一首

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/takasuke.html

   題しらず
けふはなほ都もちかし逢坂の関のあなたにしる人もがな(続古今941)

【通釈】今日はまだ都も近い。逢坂の関を越えてしまえば、もはや東国だ。関の向うに親しい人がいればなあ。
【補記】東国へ向けて旅立ち、逢坂の関を間近にしての感慨。「しる人」は恋人・親友など親密な相手を言う。九条大納言家三十首御会。

藤原為家(ふじわらのためいえ)建久九~建治元(1198-1275) 通称:民部卿入道・中院禅門

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tameie.html

定家の二男。母は内大臣藤原実宗女。因子の同母弟。子には為氏(二条家の祖)・為教(京極家の祖)・為相(冷泉家の祖)・為守、為子(九条道良室)ほかがいる。宇都宮頼綱女・阿仏尼を妻とした。
建仁二年(1202)十一月十九日、叙爵(従五位下)。元久三年(1206)正月十七日、従五位上に昇る。承元元年(1207)より後鳥羽院に伺候し、同三年(1209)四月十四日、侍従に任ぜられる。同四年七月二十一日、定家の権中将辞任に伴い、左少将に任ぜられる。承元四年(1210)の順徳天皇践祚後はその近習として親しく仕えた。建暦二年(1212)十一月十一日、正五位下。建保二年(1214)正月五日、従四位下。同四年(1216)正月十三日、従四位上となり、同五年十二月十日には左中将に昇進した。
承久元年(1219)正月五日、正四位下。承久の乱後、順徳院の佐渡遷幸に際しては供奉の筆頭に名を挙げられたが、結局都に留まった。後堀河天皇の嘉禄元年(1225)十二月二十六日、蔵人頭。同二年四月十九日、参議に就任し、侍従を兼ねる。同年十一月四日、従三位に進む。寛喜三年(1231)正月六日、正三位。同年四月十四日、右兵衛督を兼ねる。
貞永元年(1232)六月二十九日、右衛門督に転ず。四条天皇の文暦二年(1235)正月二十三日、従二位。嘉禎二年(1236)二月三十日、権中納言(右衛門督を止む)。同四年七月二十日、正二位。仁治二年(1241)二月一日、権大納言に任ぜられるが、八月二十日定家が亡くなり服喪し、その後復任せず。
後深草天皇の建長二年(1250)九月十六日、民部卿を兼ねる。康元元年(1256)二月二十九日、病により出家し、嵯峨中院山荘に隠棲した。後宇多天皇の建治元年(1275)五月一日、薨。七十八歳。
建暦二年(1212)・建保元年(1213)の内裏詩歌合など、十代半ばから順徳天皇の内裏歌壇で活動を始めるが、若い頃は蹴鞠に熱中して歌道に精進せず、父定家を歎かせた。歌作に真剣に取り組むようになるのは建保末年頃からで、承久元年(1219)には内裏百番歌合に出詠し、貞応二年(1223)には慈円の勧めにより五日間で千首歌を創作した(『為家卿千首』)。やがて歌壇で幅広く活躍、寛喜元年(1229)の女御入内御屏風和歌、貞永元年(1232)の洞院摂政家百首に出詠するなどした。仁治二年(1241)、定家が亡くなると御子左家を嗣ぎ、寛元元年(1243)の河合社歌合、宝治二年(1248)の後嵯峨院御歌合などの判者を務めた。
宝治二年七月、後嵯峨院より勅撰集単独編纂を仰せ付かり、建長三年(1251)、『続後撰集』として完成奏覧。正元元年(1259)には再び勅撰集単独撰進の院宣を受けたが、その後鎌倉将軍宗尊親王の勢威を借りて葉室光俊(真観)らが介入、結局光俊ほか四人が撰者に加えられ、これを不快とした為家は選歌を放棄したとも伝わる(六年後の文永二年、『続古今集』として奏覧)。出家後も歌作りは盛んで、正嘉元年(1257)には『卒爾百首』、弘長元年(1261)には『楚忽百首』『弘長百首』を詠むなどした。晩年は側室の阿仏尼(安嘉門院四条)を溺愛し、その子為相に細川荘を与える旨の文券を書いて、後に為氏・為相の遺産相続争いの原因を作った。
新勅撰集初出。勅撰入集三百三十三首。続拾遺集では最多入集歌人。家集は『大納言為家集』『中院集』『中院詠草』『別本中院集』の四種が伝わる。歌論書に『詠歌一躰』、注釈書に『古今序抄』『後撰集正義』がある

藤原隆祐(ふじわらのたかすけ)生没年未詳(1190以前-1251以後)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/takasuke.html

従二位家隆の嫡男。母は正三位藤原雅隆女。土御門院小宰相は姉妹。津守経国女を妻とした。子に俊隆がいる。官位は侍従・従四位下に至る。
早くは正治二年(1200)十月の後鳥羽院当座歌合に名が見えるが、その後、院歌壇での活躍は見られない。承久の乱後、九条家歌壇を中心に活動する。元仁二年(1225)の藤原基家家三十首歌会、寛喜四年(1232)の石清水若宮歌合、同年三月の日吉社撰歌合、貞永元年(1232)の洞院摂政家百首、同年七月の光明峯寺入道摂政家歌合、同年八月十五夜名所月歌合、嘉禎二年(1236)の遠島御歌合、宝治二年(1248)の宝治百首、建長三年(1251)九月十三夜影供歌合などに出詠。
隠岐配流後の後鳥羽院に親近し、歌壇の主流から外れていたため、歌人としても常に不遇であった。藤原定家に評価を請い、書状で賞讃を受けたが、定家撰の新勅撰集には僅か二首しか採られず、甚だ落胆したという(家集)。以下勅撰集入集は総計四十一首。百番自歌合を主体とする家集『隆祐集』がある。新三十六歌仙。『新時代不同歌合』にも歌仙として撰入されている。
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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十一) [三十六歌仙]

(その十一)参議雅経(飛鳥井雅経)と二条院讃岐

雅経.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十一・参議雅経」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009404

雅経二.jpg

(左方十一・参議雅経)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019793

讃岐.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十一・二条院讃岐)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009422

(バーチャル歌合)

左方十一・参議雅経(飛鳥井雅経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010696000.html

 しら雲のたえまになびく青柳の/かつらぎやまに春かぜぞふく

右方十一・二条院讃岐
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010697000.html

 やまたかみみねの嵐にちる花の/つきにあまぎるあけかたのそら

判詞(宗偽)

 『千五百番歌合』(『建仁元年千五百番歌合』)の百十一番は、次の「秀能と雅経」のものである。

百十一番    
     左     季能卿
かざごしの峯には春や立たざらん麓の空に霞へだてて
     右 勝   雅経
白雲の絶へ間になびく青柳のかつらぎやまに春風ぞふく
右歌、姿よろしく侍り。(判者 権大納言忠良)

 この歌合の判者は藤原忠良で、その判詞は「右歌、姿よろしく侍り」と簡単なもので「右方の雅経の勝」となっている。
 ここで、七百十三番のもの(左=讃岐、右=定家、判者=御判=後鳥羽院で「折句歌」の判詞)を次に紹介したい。

七百十三番
      左     讃岐
あはれなる山田の庵のね覚め哉いなばの風に初かりの声
      右 勝   定家朝臣
もみぢする月の桂にさそはれてしたのなげきも色ぞうつろふ
物思へばみだれて露ぞちりまがふ夜はにね覚めをしかの声より(御判折句歌)

 この後鳥羽院の判詞は「折句歌」(各句の上に物名などを一文字ずつおいたもの)で、その「物思へばみだれて露ぞちりまがふ夜はにね覚めをしかの声より」は、次のように「もみぢよし」の折句になっていて、右方の「もみぢする月の桂にさそはれてしたのなげきも色ぞうつろふ」の「もみぢ」の定家の歌(右方)の「勝」と洒落ているのである。

物思へば    → も
みだれて露ぞ  → み
ちりまがふ   → ぢ
夜はにね覚めを → よ
しかの声より  → し

 ちなみに、この『千五百番歌合』で後鳥羽院が担当した「秋二・秋三」は、この「折句歌」が判詞に添えられているようである。いかにも、「一代の才子・和歌の帝王」の「後鳥羽院」の判詞のように思われる。
 この後鳥羽院の「折句歌」形式の判詞を借用したい。

    左
しら雲のたえまになびく青柳の/かつらぎやまに春かぜぞふく  (雅経)
    右 勝
やまたかみみねの嵐にちる花の/つきにあまぎるあけかたのそら (讃岐)
  判詞=折句歌
みね嵐/ギヤマンの月/野辺の花/かぎろひながら/散りし雅経 (宗偽) 
  付言
み → みね嵐
ぎ → ギヤマンの月
の → 野辺の花
か → かぎろひながら
ち → 散りし雅経

『後鳥羽院御口伝』余話(宗偽)

「雅経は殊(こと)に案じかへりて歌よみしものなり。いたくたけある(格調のある)歌などはむねとおほくはみえざりしかども、手だり(上手)とみえき。」(『後鳥羽院御口伝』)

 『後鳥羽院御口伝』の「歌人評」は、「近き世の上手」として平安末期の「歌道」(和歌の家=専門歌人の家系による規範化していく)の家系と深く結びついている。
具体的には、「源経信(つねのぶ)―俊頼(としより)―俊恵(しゅんえ)」と続く「六条源家(ろくじょうげんけ)」、続いて「藤原顕季(あきすえ)―顕輔(あきすけ)―清輔(きよすけ)」の「六条藤家(とうけ)」、さらに「藤原俊成(しゅんぜい)―定家(ていか)―為家(ためいえ)以下現代にまで続いている「御子左(みこひだり)家」の、それらの平安末期(院政期)から鎌倉時代にかけての歌人の評が中心になっている。この「御子左家」は、為家の子の代に生じた二条家・京極家(血統は南北朝期に絶える)と冷泉(れいぜい)家とは江戸時代にも及んで歌界に大きな影響を与えることになる。
 ここに、藤原定家らとともに『新古今和歌集』を撰した。「蹴鞠(けまり)」にもすぐれ、「歌鞠(かきく)二道」の「飛鳥井家」の祖の、「参議雅経(飛鳥井雅経)」が加わることになる。

飛鳥井雅経の一首

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masatune.html#SM

   千五百番歌合に、春歌
白雲のたえまになびく青柳のかづらき山に春風ぞ吹く(新古74)

【通釈】白雲の絶え間に靡く、若葉の美しい柳――その青柳を鬘(かずら)にするという葛城山に、今まさに春風が吹いている。
【語釈】◇白雲(しらくも)のたえまになびく 青柳の序であるとともに、「春風の吹く葛城山」を修飾するはたらきをする。◇青柳の 葛城山の枕詞。柳を鬘(髪飾り)にした風習から。下記本歌参照。◇かづらき山 大和・河内国境の連山。主峰は葛木神社のある葛木岳(通称金剛山)。桜の名所とされた。今は「かつらぎ」と訓むが、昔は「かづらき」。鬘(かづら)の意が掛かる。
【補記】「白きと青きとを取り合はせたり」(『新古今増抄』)。雲の白と柳の青(若緑)を配合して春らしい彩り。丈高い姿。
【他出】千五百番歌合、自讃歌、定家八代抄、歌枕名寄、六華集
【参考歌】「柿本人丸集」
青柳のかづらき山にゐる雲のたちてもゐても君をこそおもへ
【主な派生歌】
みふゆつぎ春しきぬれば青柳のかづらき山に霞たなびく(源実朝)
春がすみ絶間になびく青柳のめより色にはあらはれにけり(香川景樹)

二条院讃岐の一首

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/n_sanuki.html#SP

   百首歌たてまつりし時、春の歌
山たかみ嶺(みね)の嵐に散る花の月にあまぎる明け方の空(新古130)

【通釈】高い山にあるので、峰の嵐によって散る桜――その花が、月の光をさえぎり、曇らせている、明け方の空よ。
【語釈】◇嶺の嵐 嶺(山の頂)から吹き降ろす嵐。◇月にあまぎる 月に大量の落花がかぶさって光を見えにくくしているさま。この月は有明の月。「あまぎる」は「天霧る」で、天が霞む意。
【補記】正治二年(1200)、後鳥羽院に奉った百首歌。
【他出】三百六十番歌合、定家八代抄、女房三十六人歌合
【鑑賞】「落花を曙の薄明のうちに見るのは、当時愛されていた心である。また、自然を広く捉えようとするのも、当時の心である。更にまた、静的よりも動的なところに趣を感じるのも、当時の風である。この歌はそのすべてを持っている」(窪田空穂『新古今和歌集評釈』)
【主な派生歌】
み吉野の月にあまぎる花の色に空さへにほふ春の明ぼの(後鳥羽院)
春ふかみ峰のあらしに散る花のさだめなきよに恋つまぞふる(源実朝)
にほひもて我がはやをらん春霞月にあまぎる夜はの梅が枝(飛鳥井雅有)
ふりかすむ空に光はへだたりて月にあまぎる夜はの白雪(伏見院)
梅の花それにはあらでさえかへり月にあまぎる雪の山風(正広)

(参考)二条院讃岐と定家との歌合(『千五百番歌合』より)

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/yamatouta/teika/1500ban_t.html

二百六十三番
      左 勝   讃岐
0524 こぬ人をうらみやすらん喚子鳥しほたれ山の夕暮の声
      右     定家朝臣
0525 とまらぬは桜ばかりを色に出でてちりのまがひにくるる春哉
左、しほたれ山のよぶこ鳥、誠にうらみやすらんと聞え侍るを、右、「桜ばかりを色に出でて」といへる心いと心えわかず侍れば、以左まさると申すべくや。(判者釈阿)
四百八十八番
      左 勝   讃岐
0974 夏のよの月のかつらの下もみぢかつがつ秋のひかりなりけり
      右     定家朝臣
0975 夏のよはまだよひのまとながめつつぬるや川べのしののめの空
只翫桂華秋色深 夏宵不憶一夢成 (判者左大臣後京極摂政良経)
七百十三番
      左     讃岐
1424 あはれなる山田の庵のね覚め哉いなばの風に初かりの声
      右 勝   定家朝臣
1425 もみぢする月の桂にさそはれてしたのなげきも色ぞうつろふ
物思へばみだれて露ぞちりまがふ夜はにね覚めをしかの声より(御判折句歌)
九百卅八番
      左 持   讃岐
1874 露は霜水は氷にとぢられて宿かりわぶる冬のよの月
      右     定家朝臣
1875 まきのやに時雨あられは夜がれせでこほるかけひの音信ぞなき
左右ともに心をかしく侍れば、勝劣難決。(判者蓮経 季経入道)
千百六十三番
      左     讃岐
2324 蛙なく神なび河にさく花のいはぬ色をも人のとへかし
      右 勝   定家朝臣
2325 たれか又物おもふ事ををしへおきし枕ひとつをしる人にして
左の、「神なび河にさく花のいはぬ色」などは、ふるまはれて侍り。右の「枕をしる人にして」「物思ふ事を誰かをしへし」などうたがはれたるこそ、風情めづらしく見所侍れ。勝にや侍らん。(判者生蓮)
千三百八十八番
      左     讃岐
2776 心あらば行きてみるべき身なれ共音にこそきけ松がうら島
      右 勝   定家朝臣
2777 いく世へぬかざしをりけんいにしへに三輪のひばらの苔の通ひ路
すむあまの心あるべき松が浦もみわのひばらに及ぶべきかは 以右為勝。(判者前権僧正)

飛鳥井雅経(あすかいまさつね(-がけい)) 嘉応二年~承久三(1170-1221)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masatune.html#SM

関白師実の玄孫。刑部卿頼輔の孫。従四位下刑部卿頼経の二男。母は権大納言源顕雅の娘。刑部卿宗長の弟。子に教雅・教定ほかがいる。飛鳥井雅有・雅縁・雅世・雅親ほか、子孫は歌道家を継いで繁栄した。飛鳥井と号し、同流蹴鞠の祖。
少年期、蹴鞠の才を祖父頼輔に見出され、特訓を受けたという。治承四年(1180)十一月、叙爵。文治元年(1185)、父頼経は源義経との親交に責を負って安房国に流され、一度はゆるされて帰京するが、文治五年(1189)、今度は伊豆に流された。十代だった雅経は処分を免れたが、京を去って鎌倉に下向、大江広元のむすめを妻とし、蹴鞠を好んだ源頼家に厚遇された。
建久八年(1197)二月、後鳥羽院の命により上洛。同年十二月、侍従に任ぜられ、院の蹴鞠の師を務める。同九年正月、従五位上。建仁元年(1201)正月、右少将に任ぜられる(兼越前介)。同二年正月、正五位下。元久二年(1205)正月、加賀権介。建永元年(1206)正月、従四位下に昇り、左少将に還任される。承元二年(1208)十二月、左中将。同三年正月、周防権介。同四年正月、従四位上。建保二年(1214)正月、正四位下に昇り、伊予介に任ぜられる。同四年三月、右兵衛督。建保六年(1218)正月、従三位。承久二年(1220)十二月、参議。承久三年(1221)三月十一日、薨。五十二歳。
建久九年(1198)の鳥羽百首をはじめ、正治後度百首・千五百番歌合・老若五十首歌合・新宮撰歌合など多くの歌会・歌合に参加。ことに「老若五十首歌合」では大活躍し、出詠歌五十首中九首もが新古今集に採られることになる。建仁元年(1201)、和歌所寄人となり、さらに新古今集撰者の一人に加えられた。その後も後鳥羽院歌壇の中心メンバーとして活躍、建仁二年(1202)の水無瀬恋十五首歌合・八幡若宮撰歌合、元久元年(1204)の春日社歌合、承元元年(1207)の最勝四天王院障子和歌などに出詠。順徳天皇歌壇の内裏歌合にも常連として名を列ねた。たびたび京と鎌倉の間を往復し、源実朝と親交を持った。定家と実朝の仲を取り持ったのも雅経である。建暦元年(1211)には鴨長明を伴って鎌倉に下向、実朝・長明対面の機会を作るなどした。
新古今集に二十二首。以下勅撰集に計百三十四首入集。家集『明日香井和歌集』(以下「明日香井集」と略)、著書『蹴鞠略記』などがある。

二条院讃岐(にじょういんのさぬき) 生没年未詳(1141?-1217以後)

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源頼政の娘。母は源忠清女。仲綱の異母妹。宜秋門院丹後は従姉。はじめ二条天皇に仕えたが、永万元年(1165)の同天皇崩後、陸奥守などを勤めた藤原重頼(葉室流。顕能の孫)と結婚し、重光(遠江守)・有頼(宜秋門院判官代)らをもうけた。治承四年(1180)、父頼政と兄仲綱は宇治川の合戦で平氏に敗れ、自害。その後、後鳥羽天皇の中宮任子(のちの宜秋門院)に再出仕する。建久七年(1196)、宮仕えを退き、出家した。
若くして二条天皇の内裏歌会に出詠し、父と親しかった俊恵法師の歌林苑での歌会にも参加している。建久六年(1195)には藤原経房主催の民部卿家歌合に出詠。出家後も後鳥羽院歌壇で活躍し、正治二年(1200)の院初度百首、建仁元年(1201)の新宮撰歌合、同二~三年頃の千五百番歌合などに出詠した。順徳天皇の建暦三年(1213)内裏歌合、建保四年(1216)百番歌合の作者にもなった。家集『二条院讃岐集』がある。女房三十六歌仙。小倉百人一首にも歌を採られている(この歌によって「沖の石の讃岐」と称されたという)。千載集初出、勅撰入集計七十三首。
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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その十) [三十六歌仙]

(その十)前中納言定家(藤原定家)と従二位家隆(藤原家隆)

定家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十・前中納言定家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009403

定家二.jpg

(左方十・前中納言定家)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019792

家隆.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方十・従二位家隆)」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009421

家隆二.jpg

(右方十・従二位家隆)=右・和歌:左・肖像
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019787


(バーチャル歌合)

左方十・前中納言定家
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010694000.html

 しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ

右方十・従二位家隆
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010695000.html

 かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる

(判詞=宗偽)

 『新古今和歌集』は後鳥羽院の命によって編纂された勅撰和歌集である。その撰者は「源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮」の六人(寂連は撰集作業中に没しており、実質的には五人)である。この撰者のうち中心になったのが、藤原定家と藤原家隆の二人であろう。
 ここで、「新三十六人歌合」(「新三十六歌仙」とも)の撰者は「後鳥羽院(撰)」と伝えられているが(『歌仙絵(東京国立博物館)』所収「作品解説(土屋貴裕)」)、実際に撰集作業に携わったのは、後鳥羽院との関係からすると、承久三年(一二二一)の承久の変後も後鳥羽院との間で音信を絶やさず、嘉禄二年(一二二六)に、「家隆後鳥羽院撰歌合」の判者を務めている「藤原家隆」その人のように思われる。
 そして、この「新三十六人歌合」での「藤原定家と藤原家隆」との組み合わせは、これはやはり「後鳥羽院」その人という思いがどうしても捨て難い。そして、この二人の歌合の歌が、『新古今集』などの勅撰和歌集ではなく、定家の歌は私家集『拾遺愚草』所収のもので、家隆の歌は、どういう時に詠作されたのか不明なのである(藤原基家が編纂した『壬二(みに)集』、別名『玉吟集』などに収録されているのかも知れない)。
 さて、ここで、この二人の歌を並列してみたい。そして、その表記は、「和泉市久保惣記念美術館蔵」のもので、上の句(短歌の前半の五・七・五の三句)と下の句(短歌の後半の七・七の二句)の二行の表記に因っている。この二行の表記は、「連歌・連句」の「長句」(五・七・五の句)と「短句」(七・七句)に対応し、判詞の判定の分析作業などに便利という単純な理由に因る。

   左
 しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ(定家)
   右
 かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる(家隆)

 定家の歌の「緒絶のはし(橋)」は、下記の「歌枕:緒絶橋」(参考)のとおり、『万葉集』にも出て来る「歌枕」で、芭蕉の『おくの細道』にも「松島から平泉」へ向かう途中で「道を誤って辿り着けなかったこと」が記されている。そして、その「緒絶橋」は、「嵯峨天皇の皇子が東征のために陸奥国へ赴いた折り、その恋人であった白玉姫が命を絶った」という伝承に基づいており、「姫が命(玉の緒)を絶った川」の「橋」の由来で、「悲恋」や「叶わぬ恋」を暗示するものである。
 即ち、この定家の歌は「悲恋」の歌なのである。それにしては、この歌の下の句の「くだけておつる袖のなみだぞ」は、どうにも大げさな感じで無くもない。芭蕉が其角を評して、「しかり。かれ(其角)は定家の卿也。さしてもなき事を(蚤の喰ひつきたる事を)、ことごとしくいひつらね侍る」(『去来抄』)の評と同じく何とも空々しい感じを受けるのである。
 それに比して、家隆の「かぎりあれば明なむとするかねの音に」の「かぎりあれば」(命の限りがあれば)も「かねの音(夜明けを告げる時の鐘)」にも、後鳥羽院が言う「たけもあり(格調があり)、心もめづらしく見ゆ(新鮮な何とも言えない余情がある)」(下記の『後鳥羽院』余話)の感じが大である。さらに、家隆の「猶ながき夜の月ぞのこれる」の「ながき夜」の「後朝の別れ」の暗示と、「月ぞのこれる」の、この「余韻・余情」は見事の一言に尽きる。
 それに付加して、『後鳥羽院御口伝』の、赤裸々な後鳥羽院の「定家評」を目の当たりにすると(下記の『後鳥羽院』余話)、この二首は、右(家隆)の「勝」とせざるを得ない。

(追記)

 とした上で、もう一度、スタートの時点に戻って、この二首をじっくりと反芻しているうちに、この家隆の「かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる」は、定家の「しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ」に接して、それに誘発されて、丁度、その定家の歌に「唱和」(他の歌に和して生まれる歌)して生まれた一首のような印象を深くしたのである。
 それは、定家の一首が、大げさな「伊達(派手)・晴(ハレ)」風の「もみもみ(技巧を凝らした)」風の歌とするならば、家隆の一首は、抑えに抑えた「渋味(澁み)・褻(ケ)」風の「西行がふり(無技巧の技巧)」風の一首なのではないかという思いである。
 とすると、この二首は、それぞれの歌が、それぞれの歌人の、それぞれの作風を強調するが故のものと解すると、これは、等しく「持」(引き分け)なる両首と解したい。

「歌枕:緒絶橋」(参考)

https://japanmystery.com/miyagi/odae.html

緒絶橋は『万葉集』にもその名が記されている、陸奥国の歌枕である。この大崎の地は古来よりたびたび川が氾濫し、そのたびに川の流れが大きく変わった。そのために以前の川筋が切れてしまい、あたかも流れを失った川のようになることがあった。このように川としての命脈が切れたものを“緒絶川(命の絶えた川)”と呼び、その川筋に架けられた橋ということで「緒絶橋」と名付けられたとされる。
しかしそれ以外にも“緒絶”の由来とされる伝承がある。嵯峨天皇の皇子が東征のために陸奥国へ赴いたが、その恋人であった白玉姫は余りの恋しさに皇子の後を追うように陸奥へ向かった。ところがこの地に辿り着いてみたが、皇子の行方は掴めない。意気消沈した姫はそのまま川に身投げをして亡くなってしまった。土地の者は、姫の悲恋を哀れんで“姫が命(玉の緒)を絶った川”という意味で緒絶川と呼ぶようになったという。
歌枕としての緒絶橋は、白玉姫の伝承をあやかって“悲恋”や“叶わぬ恋”を暗示するものとなっている。最も有名な歌は、藤原道雅の「みちのくの をだえの橋や 是ならん ふみみふまずみ こころまどはす」という悲恋の内容である。また松尾芭蕉がこの地を訪れようとしたが、姉歯の松同様、道を誤って辿り着けなかったことが『奥の細道』に記されている。

定家の「緒絶橋」の歌(参考)

※白玉の緒絶の橋の名もつらしくだけて落つる袖の涙に (拾遺愚草)
※しるべなき緒絶の橋にゆき迷ひまたいまさらのものや思はむ(拾遺愚草)
※人心緒絶の橋にたちかへり木の葉ふりしく秋の通ひ路(拾遺愚草)
※ことの音も歎くははる契とて緒絶の橋に中もたへにき(拾遺愚草)
※かくしらば緒絶の橋のふみまよひ渡らでただにあらましものほ(拾遺愚草)

『後鳥羽院御口伝』余話(宗偽)

「家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。哥になりかへりたるさまに、かひがひしく、秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ。」(『日本文学大系65』所収「後鳥羽院御口伝」)

「定家は、※①さうなき物なり。さしも殊勝なりし父の詠をだにもあさあさと思ひたりし上は、ましてや餘人の哥、沙汰にも及ばず。やさしくもみもみとあるやうに見ゆる姿、まことにありがたく見ゆ。道にも達したるさまなど、殊勝なりき。哥見知りたるけしき、ゆゝしげなりき。たゞし、※②引汲の心になりぬれば、鹿をもて馬とせしがごとし。傍若無人、理も過ぎたりき。他人の詞を聞くに及ばず。
惣じて※③彼の卿が哥存知の趣、いさゝかも事により折によるといふ事なし。ぬしにすきたるところなきによりて、我が哥なれども、自讃哥にあらざるをよしなどいへば、腹立の氣色あり。先年に、※④大内の花の盛り、昔の春の面影思ひいでられて、忍びてかの木の下にて男共の哥つかうまつりしに、定家左近中將にて詠じていはく、

としを經てみゆきになるゝ花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ

左近次將として廿年に及びき。述懷の心もやさしく見えし上、ことがらも希代の勝事にてありき。尤も自讃すべき哥と見えき。先達どもゝ、必ず哥の善惡にはよらず、事がらやさしく面白くもあるやうなる哥をば、必ず自讃哥とす。定家がこの哥詠みたりし日、大内より硯の箱の蓋に庭の花をとり入れて中御門攝政のもとへつかはしたりしに「誘はれぬ人のためとや殘りけむ」と返哥せられたりしは、あながち哥いみじきにてはなかりしかども、新古今に申し入れて、「このたびの撰集の我が歌にはこれ詮なり」とたびたび自讃し申されけると聞き侍りき。
昔よりかくこそ思ひならはしたれ。哥いかにいみじけれども、異樣の振舞して詠みたる戀の哥などをば、勅撰うけ給はりたる人のもとへは送る事なし。これらの故實知らぬ物やはある。されども、左近の櫻の詠うけられぬ由、たびたび哥の評定の座にても申しき。家隆等も聞きし事也。諸事これらにあらはなり。
※⑤四天王院の名所の障子の哥に生田の森の歌いらずとて、所々にしてあざけりそしる、あまつさへ種々の過言、かへりて己が放逸を知らず。まことに清濁をわきまへざるは遺恨なれども、代々勅撰うけ給はりたる輩、必ずしも萬人の心に叶ふ事はなけれども、傍輩猶誹謗する事やはある。
惣じて彼の卿が哥の姿、殊勝の物なれども、人のまねぶべきものにはあらず。心あるやうなるをば庶幾せず。たゝ、詞姿の艷にやさしきを本躰とする間、その骨すぐれざらん初心の者まねばゝ、正躰なき事になりぬべし。定家は生得の上手にてこそ、心何となけれども、うつくしくいひつゝけたれば、殊勝の物にてあれ。

秋とだに吹きあへぬ風に色變る生田の森の露の下草

まことに、「秋とだにと」うちはじめたるより、「吹きあへぬ風に色變る」といへる詞つゞき、「露の下草」と置ける下の句、上下相兼ねて、優なる哥の本躰と見ゆ。かの障子の「生田の森」の哥にはまことにまさりて見ゆらん。しかれども、かくのごとくの失錯、自他今も今もあるべき事也。さればとて、長き咎になるべからず。
此の哥もよくよく見るべし。詞やさしく艷なる他、心もおもかげも、いたくはなきなり。森の下に少し枯れたる草のある他は、氣色も理もなけれども、いひながしたる詞つゞきのいみじきにてこそあれ。案内も知らぬ物などは、かやうの哥をば何とも心得ぬ間、彼の卿が秀哥とて人の口にある哥多くもなし。をのづからあるも、心から不受也。
釋阿、西行などは、最上の秀哥は、詞も優にやさしき上、心が殊に深く、いはれもある故に、人の口にある哥、勝計すべからず。凡そ顯宗なりとも、よきはよく愚意にはおぼゆる間、一筋に彼の卿がわが心に叶はぬをもて、※①左右なく哥見知らずと定むる事も、偏執の義也。すべて心には叶はぬなり。哥見知らぬは、事缺けぬ事なり。
撰集にも入りて後代にとゞまる事は、哥にてこそあれば、たとひ見知らずとも、さまでの恨みにあらず。
  秘蔵々々、尤不可有披露云。 」(『日本文学大系65』所収「後鳥羽院御口伝」)

(余話)

①「定家は、※①さうなき物(者)なり」→ 定家は「双なき者」で「並人ではなく」、また「左右(さう)なき者」で「唯我独尊」の傾向がある。

①「一筋に彼の卿がわが心に叶はぬをもて、※①左右(そう)なく哥見知らずと定むる事も、偏執の義也」→ わき目もふらず、定家卿は、己自身の好みに合わない歌を作る者を「唯我独尊」的に歌を知らないと極めつける。これは「偏執(片寄った)」な考えと言わざるを得ない。

②「※②引汲の心になりぬれば、鹿をもて馬とせしがごとし。傍若無人、理も過ぎたりき。他人の詞を聞くに及ばず」→ 自作を弁護しようと思ったときは(引汲の心になりぬれば)、「鹿を馬」にするが如く「傍若無人」で理屈が過ぎる。他人の意見などに聞く耳を持たない。

③「※③彼の卿が哥存知の趣、いさゝかも事により折によるといふ事なし。ぬしにすきたるところなきによりて、我が哥なれども、自讃哥にあらざるをよしなどいへば、腹立の氣色あり」→ 定家は、歌の批評に際して作歌周辺事情などは考慮しない。己自身に「すき(数寄)=風流心」の心がないので、自分の歌でも、気に入らない作品を褒められると立腹する。

④「※④大内の花の盛り----『としを經てみゆきになるゝ花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ』----家隆等も聞きし事也」→ 大内の花の折りの定家の作「としを經てみゆきになるゝ花のかげふりぬる身をもあはれとや思ふ」を、私(後鳥羽院)は、感情も優雅の上、詠作時の雰囲気も格別で自讃歌とすべきと思い、先達の歌人も、歌それ自体よりも詠作事情などに配慮している。『新古今集』の撰歌に、「誘われぬ人のためとや残りけむ明日よりさきの花の白雪」(摂政太政大臣藤原良経)を良経は自撰しているが、定家は詠作時の雰囲気などは考慮せず、歌の良し悪しだけで『新古今集』の撰歌を強いるなどの無理強いを、撰者の家隆などが耳にしている。

⑤「※⑤四天王院の名所の障子の哥に生田の森の歌いらずとて----※①偏執の義也」→ 最勝四天王院は名所の障子の歌に「白露のしばし袖にと思へども生田の杜に秋風ぞ吹く」(慈円作)が入れられて、定家の「秋とだに吹きあへぬ風に色かはる生田の森の露の下草」が入らなかったことを、定家が「所々にしてあざけりそしる、あまつさへ種々の過言」をなし、「かへりて己が放逸を知らず」は遺憾である。そして、その歌は、採用された「白露の」よりもまさっているかも知れないが、よくよく見れば、詞がやさしく艶なるほかには、心も余情として目に浮かぶ面影もたいしたことはない。自身の心に叶わぬから直ちに歌の本質を知らないと決めつけるのは※①「偏執の義也」。

藤原定家(ふじわらのさだいえ(-ていか)) 応保二~仁治二(1162~1241) 通称:京極中納言

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 応保二年(1162)、藤原俊成(当時の名は顕広)四十九歳の時の子として生れる。母は藤原親忠女(美福門院加賀)。同母兄に成家、姉に八条院三条(俊成卿女の生母)・高松院新大納言(祗王御前)・八条院按察(朱雀尼上)・八条院中納言(建御前)・前斎院大納言(竜寿御前)がいる。初め藤原季能女と結婚するが、のち離婚し、建久五年(1194)頃、西園寺実宗女(西園寺公経の姉)と再婚した。子に因子(民部卿典侍)・為家ほかがいる。寂蓮は従兄。
 仁安元年(1166)、叙爵し(五位)、高倉天皇の安元元年(1175)、十四歳で侍従に任ぜられ官吏の道を歩み始めた。治承三年(1179)三月、内昇殿。養和元年(1181)、二十歳の時、「初学百首」を詠む。翌年父に命ぜられて「堀河題百首」を詠み、両親は息子の歌才を確信して感涙したという。文治二年(1186)には西行勧進の「二見浦百首」、同三年には「殷富門院大輔百首」を詠むなど、争乱の世に背を向けるごとく創作に打ち込んだ。
 文治二年(1186)、家司として九条家に仕え、やがて良経・慈円ら九条家の歌人グループと盛んに交流するようになる。良経が主催した建久元年(1190)の「花月百首」、同二年の「十題百首」、同四年の「六百番歌合」などに出詠。ところが建久七年(1196)、源通親の策謀により九条兼実が失脚すると、九条家歌壇も沈滞した。建久九年、守覚法親王主催の「仁和寺宮五十首」に出詠。同年、実宗女との間に嫡男為家が誕生した。
 正治二年(1200)、後鳥羽院の院初度百首に詠進し、以後、院の愛顧を受けるようになる。後鳥羽院は活発に歌会や歌合を主催し、定家は院歌壇の中核的な歌人として「老若五十首歌合」「千五百番歌合」「水無瀬恋十五首歌合」などに詠進する。建仁元年(1201)、新古今和歌集の撰者に任命され、翌年には念願の左近衛権中将の官職を得た。承元四年(1210)には長年の猟官運動が奏効し、内蔵頭の地位を得る。建暦元年(1211)、五十歳で従三位に叙せられ、侍従となる。建保二年(1214)には参議に就任し、翌年伊予権守を兼任した。
 この頃、順徳天皇の内裏歌壇でも重鎮として活躍し、建保三年(1215)十月には同天皇主催の「名所百首歌」に出詠した。同六年、民部卿。ところが承久二年(1220)、内裏歌会に提出した歌が後鳥羽院の怒りに触れ、勅勘を被って、公の出座・出詠を禁ぜられた。
 翌年の承久三年(1221)五月、承久の乱が勃発し、後鳥羽院は隠岐に流され、定家は西園寺家・九条家の後援のもと、社会的・経済的な安定を得、歌壇の第一人者としての地位を不動のものとした。しかし、以後、作歌意欲は急速に減退する。安貞元年(1227)、正二位に叙され、貞永元年(1232)、七十一歳で権中納言に就任。同年六月、後堀河天皇より歌集撰進の命を受け、職を辞して選歌に専念。三年後の嘉禎元年、新勅撰和歌集として完成した。天福元年(1233)十月、出家。法名明静。嘉禎元年(1235)五月、宇都宮頼綱の求めにより嵯峨中院山荘の障子色紙形を書く(いわゆる「小倉色紙」)。これが小倉百人一首の原形となったと見られる。延応元年(1239)二月、後鳥羽院が隠岐で崩御し、その二年後の仁治二年八月二十日、八十歳で薨去した。
 建保四年(1216)二月、自詠二百首から撰出した歌合形式の秀歌撰『定家卿百番自歌合』を編む(以下『百番自歌合』と略)。自撰家集『拾遺愚草』は天福元年(1233)頃最終的に完成したと見られ、その後さらに『拾遺愚草員外』が編まれた。編著に『定家八代抄(二四代集)』『近代秀歌』『詠歌大概』『八代集秀逸』『毎月抄』などがある。古典研究にも多大な足跡を残した。また五十六年に及ぶ記事が残されている日記『明月記』がある。千載集初出、勅撰入集四百六十七首。続後撰集・新後撰集では最多入集歌人。勅撰二十一代集を通じ、最も多くの歌を入集している歌人である。

藤原家隆(ふじわらのいえたか(-かりゅう)) 保元三~嘉禎三(1158-1237) 号:壬生二品(みぶのにほん)・壬生二位

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 良門流正二位権中納言清隆(白河院の近臣)の孫。正二位権中納言光隆の息子。兼輔の末裔であり、紫式部の祖父雅正の八代孫にあたる。母は太皇太后宮亮藤原実兼女(公卿補任)。但し尊卑分脈は母を参議藤原信通女とする。兄に雅隆がいる。子の隆祐・土御門院小宰相も著名歌人。寂蓮の聟となり、共に俊成の門弟になったという(井蛙抄)。
 安元元年(1175)、叙爵。同二年、侍従。阿波介・越中守を兼任したのち、建久四年(1193)正月、侍従を辞し、正五位下に叙される。同九年正月、上総介に遷る。正治三年(1201)正月、従四位下に昇り、元久二年(1205)正月、さらに従四位上に進む。同三年正月、宮内卿に任ぜられる。建保四年(1216)正月、従三位。承久二年(1220)三月、宮内卿を止め、正三位。嘉禎元年(1235)九月、従二位。同二年十二月二十三日、病により出家。法号は仏性。出家後は摂津四天王寺に入る。翌年四月九日、四天王寺別院で薨去。八十歳。
 文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」、同三年「殷富門院大輔百首」「閑居百首」を詠む。同四年の千載集には四首の歌が入集した。建久二年(1191)頃の『玄玉和歌集』には二十一首が撰入されている。建久四年(1193)の「六百番歌合」、同六年の「経房卿家歌合」、同八年の「堀河題百首」、同九年頃の「守覚法親王家五十首」などに出詠した後、後鳥羽院歌壇に迎えられ、正治二年(1200)の「後鳥羽院初度百首」「仙洞十人歌合」、建仁元年(1201)の「老若五十首歌合」「新宮撰歌合」などに出詠した。同年七月、新古今集撰修のための和歌所が設置されると寄人となり、同年十一月には撰者に任ぜられる。同二年、「三体和歌」「水無瀬恋十五首歌合」「千五百番歌合」などに出詠。元久元年(1204)の「春日社歌合」「北野宮歌合」、同二年の「元久詩歌合」、建永二年(1207)の「卿相侍臣歌合」「最勝四天王院障子和歌」を詠む。建暦二年(1212)、順徳院主催の「内裏詩歌合」、同年の「五人百首」、建保二年(1214)の「秋十五首乱歌合」、同三年の「内大臣道家家百首」「内裏名所百首」、承久元年(1219)の「内裏百番歌合」、同二年の「道助法親王家五十首歌合」に出詠。承久三年(1221)の承久の変後も後鳥羽院との間で音信を絶やさず、嘉禄二年(1226)には「家隆後鳥羽院撰歌合」の判者を務めた。寛喜元年(1229)の「女御入内屏風和歌」「為家卿家百首」を詠む。貞永元年(1232)、「光明峯寺摂政家歌合」「洞院摂政家百首」「九条前関白内大臣家百首」を詠む。嘉禎二年(1236)、隠岐の後鳥羽院主催「遠島御歌合」に詠進した。
藤原俊成を師とし、藤原定家と並び称された。後鳥羽院は「秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり」と賞讃し(御口伝)、九条良経は「末代の人丸」と称揚したと伝わる(古今著聞集)。千載集初出。新勅撰集では最多入集歌人。勅撰入集計二百八十四首。自撰の『家隆卿百番自歌合』、他撰の家集『壬二集』(『玉吟集』とも)がある。新三十六歌仙。百人一首にも歌を採られている。『京極中納言相語』などに歌論が断片的に窺える。また『古今著聞集』などに多くの逸話が伝わる。
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狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖」(歌合)(その九) [三十六歌仙]

(その九)権代納言基家(藤原基家)と宣秋門院丹後

藤原基家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方九・権代納言基家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009402

藤原基家二.jpg

(左方九・権代納言基家)=右・肖像:左・和歌
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019791

丹後.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方九・宣秋門院丹後」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009420

丹後二.jpg

(右方九・宣秋門院丹後)=右・和歌:左・肖像
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0019786

(バーチャル歌合)

左方九・権代納言基家
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010692000.html

 秋ふかきもみぢのそこのまつの戸は/たがすむみねのいほりなるらむ

右方九・宣秋門院丹後
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010693000.html

 吹はらふあらしの後の高根より/木の葉くもらで月やいづらん

判詞(宗偽)

 藤原定家よりも後鳥羽院寄りの歌人二人の歌合である。『後鳥羽院御口伝』に、この丹後の歌の「木の葉くもらで」が取り上げられている。この「木の葉くもらで」(静)と初句の「吹はらふ」(動)との取り合わせを佳とし、以右為勝。

『後鳥羽院御口伝』余話(宗偽)

「女房哥詠みには、丹後、やさしき哥あまた詠めりき。
苔の袂に通ふ松風※
木の葉雲らで※※
浦漕ぐ舟は跡もなし※※※
忘れじの言の葉※※※※
殊の他なる峯の嵐に※※※※※
この他にも多くやさしき哥どもありき。人の存知よりも、愚意に殊に殊によくおぼえき。
故攝政は、かくよろしき由仰せ下さるゝ故に、老の後にかさ上がりたる由、たびたび申されき。」
※『新古今』巻第十八 雑歌下 丹後 1794  春日の社の歌合に松風といふことを
なにとなく聞けばなみだぞこぼれぬる苔の袂に通ふ松風
※※『新古今』巻第五  秋歌上 丹後 593  題しらず
吹きはらふ嵐の後の高峰より木の葉くもらで月や出づらむ
※※※『新古今』巻第十六 雑歌上 丹後 1505  和歌所の歌合に湖上月明といふことを
夜もすがら浦こぐ舟はあともなし月ぞのこれる志賀の辛崎
※※※※『新古今』巻第十四 恋歌四 丹後 1303  建仁元年三月歌合に逢不會戀のこころを
忘れじの言の葉いかになりにけむたのめし暮は秋風ぞ吹く
※※※※※『新古今』巻第十七 雑歌中 丹後 1621 鳥羽にて歌合し侍りしに山家嵐といふことを
山里は世の憂きよりも住みわびぬことのほかなる峯の嵐に

宜秋門院丹後の一首

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tango.html#AT

   題しらず
吹きはらふ嵐ののちの高嶺より木の葉くもらで月や出づらむ(新古6-593)

【通釈】激しい風が吹き、木々を揺すって葉を残らず散らした。この嵐の後にあって、あの高嶺から木の葉に遮られることなく月が昇ることだろうか。
【語釈】◇木の葉くもらで 木の葉で月の光が霞むことなく。
【補記】正治二年(1200)の後鳥羽院初度百首。
【他出】定家十体(長高様・見様)、三十六人歌合(元暦)、三五記、三百六十首和歌、六華集、題林愚抄
【主な派生歌】
ふけゆけば木の葉くもらで出でにけりたかつの山の秋の夜の月(覚助法親王)
月ぞ猶木の葉くもらで残りける秋のかたみはとめぬ嵐に(頓阿)

藤原基家(ふじわらのもといえ) 建仁三~弘安三(1203-1280) 号:鶴殿(たづどの)・後九条内大臣

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/motoie.html

 後京極摂政良経の三男(公卿補任)。母は松殿関白基房女。藤原道家・東一条院立子(順徳天皇中宮)の異母弟。子に経家・良基がいる。
 建保三年(1215)正月、叙爵。右中将・権中納言・権大納言などを歴任し、承久三年(1221)、正二位に至る(最終官位)。寛喜三年(1231)四月、西園寺実氏が権大納言から内大臣に昇進すると、家格の低い実氏に官位を超えられたことに不満を抱いて籠居。その後再出仕し、嘉禎三年(1237)十二月、内大臣に就任。翌四年六月、辞職引退。弘安三年(1280)七月十一日、薨。七十八歳。
 歌人としては、貞永元年(1232)の石清水若宮歌合・光明峯寺摂政家歌合・洞院摂政家百首に参加するなど九条家歌壇を中心に活動するが、文暦二年(1235)に完成した藤原定家撰『新勅撰集』には一首も採られなかった。嘉禎二年(1236)、後鳥羽院主催の遠島御歌合に献歌。 
 建長三年(1251)奏覧の為家撰『続後撰集』でようやく勅撰集初入撰を果たす(8首)。定家亡きあと御子左家を引き継いだ為家には反発し、知家・真観ら反御子左派を庇護して、建長八年(1256)九月十三日百首歌合を主催、真観らと共に自ら判者を務めた。弘長元年(1261)に鎌倉で催された宗尊親王百五十番歌合でも判者を務める(京に在って加判)。弘長二年(1262)、『続古今集』の撰者の一人に加えられる。後嵯峨院歌壇でも活躍し、宝治二年(1248)の宝治百首、弘長元年(1261)以後の弘長百首に出詠している。ほかに建長三年(1251)九月影供歌合、文永二年(1265)八月十五夜歌合、弘安元年(1278)頃の弘安百首などに参加。
 建長五年(1253)または翌年頃、私撰集『雲葉集』を編集。また『新撰歌仙』『新時代不同歌合』などの編者とみる説がある。続後撰集初出。勅撰集入集は計七十九首。新三十六歌仙。『新時代不同歌合』にも歌仙として撰入。

宜秋門院丹後(ぎしゅうもんいんのたんご) 生没年不詳 別称:摂政家丹後

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tango.html

 清和源氏。仲正の孫。蔵人大夫源頼行(保元の乱に連座して自殺)の娘。母は不詳。武将・歌人として名高い頼政は伯父、源仲綱は従弟、二条院讃岐は従妹にあたる。
 はじめ摂政九条兼実に仕え、摂政家丹後と呼ばれた。のち兼実の息女で後鳥羽院の中宮任子(宜秋門院)に仕えた。建仁元年(1201)、出家。安元元年(1175)七月の「兼実家百首」、建久元年(1190)の「花月百首」、正治二年(1200)の「後鳥羽院初度百首」、建仁元年(1201)頃の「千五百番歌合」、建仁元年(1201)八月の「撰歌合」、元久元年(1204)十一月の「春日社歌合」、建永元年(1206)七月の「卿相侍臣歌合」など、九条家・後鳥羽院主催の歌合の多くに出詠。 
 「後鳥羽院御口伝」に「女房歌詠みには、丹後、やさしき歌あまた詠めりき」とある。承元二年(1208)の「住吉社歌合」に参加したことが知れ(新続古今集)、以後の消息は不明。
 千載集初出。勅撰入集計四十二首。女房三十六歌仙。後鳥羽院の「時代不同歌合」にも歌仙として撰入されている。
 丹後は新古今歌風の確立を準備した歌人の一人として高い評価を得ている。歌風は上の後鳥羽院の一語「やさしき」に尽きるが、幽玄な情景に、おのれの心を染み込ませるように反映させている。そこには、自己の孤独や命のはかなさへの謙虚な凝視とともに、花鳥風月への暖かい共感が籠もる。

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