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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その十六) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その十六「昭和七年(一九三二)」

[東洋城・五十五歳。秋田、象潟、榛名、箱根に遊ぶ。松山俳諧道場、東京俳諧道場。十二月、母没す。]

草摘(ツム)や畔をたがへて俳門(うかれびと)
寿(いのちなが)母生(あ)れし日の弥生かな(前書「草屋春風」)
恰(アタカ)もの柿の頃なり法隆寺(前書「『柿食へば鐘が鳴るなり』の句を思ひ出づれど、柿は買はず」)
その後(ア)トや前立仏(マエダチブツ)に秋の暮(前書「夢殿秘仏」)
いや静(シ)づに御魂(オミタマ)まもれ落葉共(ドモ)(前書「母を失ふ」)

※ 東洋城の俳句の「読み」というのは、「俳門(うかれびと)」とか「寿(いのちなが)」とか、東洋城独特の「読み」があり、東洋城が期待しているとおりの「読み」をするというのは難しい。
 ちなみに、「恰(アタカ)もの」などの「読み・意味」するものは、その「前書」から類推する他はない。「後(ア)ト」は、「ト」のルビがあり、その「前立仏(マエダチブツ・マエダテブツ)」から、「五・七・五」音からすると、「その後(ア)トや」という読(詠)みになる。
 そして、前書に「母を失ふ」とある「いや静づに御魂まもれ落葉共」をどう読(詠)むかとなると、「五・七・五」音の読(詠)みから、「いや静(シ)づに御魂(オミタマ)まもれ落葉共(ドモ)」として置きたい。
『東洋城全句集(中巻)』の「昭和八年(五十六歳)」に、「亡母と西下 六十二句」が収載されているが、『東洋城全句集(上巻)』の、「明治三十七年(二十七歳)」に、母を句にした次の句がある。

瓶のものに水仙剪るや四方の春(前書「床に掛軸餅は据ゑたれど瓶に花忘れたり、けさとなりて母上庭に下り立ち水仙を剪り給ふ」)

 この東洋城の句は、東洋城が「病臥(腸チフス)」で癒えた時の「快癒句録 八句」の、そのうちの一句である。

瓶のものに水仙剪るや四方の春(前書「床に掛軸餅は据ゑたれど瓶に花忘れたり、けさとなりて母上庭に下り立ち水仙を剪り給ふ」)

いや静(シ)づに御魂(オミタマ)まもれ落葉共(ドモ)(前書「母を失ふ」)

 この二句の間に、東洋城の、その生涯の、その半世紀(五十年)に亘る、東洋城の「母と子」との歴史が刻まれているということになる。

(再掲) 「東洋城家族」(「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-08

東洋城家族.jpg

「東洋城家族」(「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/41
[左から「父・権六/伯母・初子(柳原前光(伯爵)夫人・白蓮の養母・東洋城の母の姉)/母・敏子/弟・卓四郎/弟・新八郎/親族/弟・宗一」(明治四十一年七月三十一日写)

(追記) ※上記のアドレスでは、「松根東洋城」家族として、「弟・卓四郎/弟・新八郎/親族/弟・宗一」としたのだが、『松根東洋城年譜』(『東洋城全句集中巻』)では、「明治二十年(一八八七)/十歳/弟貞吉郎生まる」とあり、「弟・新八郎(明治十八年生れ)」と「弟・卓四郎(明治二十五年生れ)」との間に、「弟貞吉郎(明治二十年生れ)」があり、それらを加味して、上記の写真を解読する必要があろう。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-12

東洋城家族一.jpg

(裏面に、「明治四十二年九月四日写之、秋風やこぼつときめてきめて撮す家」と認めてある宇和島の宏壮な郷邸で、私の推定では敷地三千坪もあつたろうか。大半を町へ売られ、跡は町立病院が建った。残った二百坪程度の敷地に七間位の邸を建てられ、私どもはそこへ通つた。それも戦火に罹つて炎上、今は唯「我が祖先(おや)は奥の最上や天の川」の句碑一基を残すのみである。徳永山冬子)
「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」)」(「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号) 』 (「松根東洋城追悼号」)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/37

※ この「宇和島の松根家の邸宅と家族」(明治四十二年九月四日写)については、右から、「父・権六と母・敏子」、中央の三人「新八郎(次弟)・東洋城(継嗣・豊次郎)・房子(妹)」、
左から「宗一(末弟)・卓四郎(四弟)・貞吉郎(三弟)」という見方もあるのかも知れない。


[寅彦(寅日子)・ 55歳。
1月12日、帝国学士院で“Cracks Produced on the Surface of Dielectrics by Gliding Spark”(with M. Hirata and R. Yamamoto)および“Deformation of the Rhombic Base Lines at Mitaka and Earthquakes in Kwanto”を発表。1月19日、地震研究所談話会で「地震と漁獲」(渡部哲と共著)を発表。3月12日、帝国学士院で“Earthquakes and Fisheries”を発表。5月12日、帝国学士院で“Change of Depth in the Bay of Tosa”を発表。5月17日、地震研究所談話会で「興津より串本に至る水準点検測成果」および「土佐沿岸海底の変化」を発表。5月25日、理化学研究所学術講習会で「椿の花の落ち方に就て」(内ヶ崎と共著)および「水晶玉の打撃像」(平田・山本と共著)を発表。6月6日、航空学談話会で「中空紡錘状流水水柱の生成」(田中・伊東彊自と共著)を発表。6月21日、地震研究所談話会で「半島の傾斜と地殻の剛性」(宮部と共著)および「地震の分布と観測所の分布」を発表。7月12日、帝国学士院で“Tilting and Strength of Earth’s Crust”(with N. Miyabe)を発表。10
月18日、地震研究所談話会で「地磁気の分布と日本の構造」を発表。11月12日、帝国学士院で“On the Result of Revision of Precise Levelling along the Pacific Coast from Okitu to Kusimoto, 1932”および“The Result of the Recent Revision of Precise Levelling on the Route from Tokyo to Huzimi via Takasaki and Suwa”(with N. Miyabe)を発表。12月17日、勲二等に叙せられ瑞宝章を授けられる。12月20日、地震研究所談話会で「北上川に就て」および「地磁気の分布と日本の構造(続報)」を発表。
「音楽的映画としてのラブ・ミ・トゥナイト」、『キネマ旬報』、1月。
「読書今昔談」、『東京日日新聞』、1月。
「物理学圏外の物理的現象」、『理学界』、1月。
談話「山火事の警戒は不連続線」、『日本消防新聞』、1月。
※「俳諧 二つ折」、『渋柿』、1月。
「郷土的味覚」、『郷土読本』、2月。
「映画の世界像」、『思想』、2月。
「『手首』縦横録」、『中央公論』、3月。
「映画「三文オペラ」その他」、『帝国大学新聞』、3月。
「Propfessor Takematu Okada」、『Geophysical Magazine』、3月。
「千本針」、『セルパン』、4月。
談話「シベリアの大山火事」、『日本消防新聞』、4月。
「俳味あるフランス映画——「自由を我等に」を見て」、『帝国大学新聞』、5月。
『続冬彦集』、岩波書店、6月。
「工学博士末広恭二君」、『科学』、6月。
「生ける人形——文楽の第一印象」、『東京朝日新聞』、6月。
談話「喫茶店に書斎を求む」、『帝国大学新聞』、6月。
「チューインガム」、『文学』、8月。
「映画芸術」、岩波講座『日本文学』、8月。
「教育映画について」、『文学』、8月。
「天文と俳句」、『俳句講座』、改造社、8月。
「烏瓜の花と蛾」、『中央公論』、10月。
「札幌まで——熊に逢はなかつた話」、『鉄塔』、11月。
「俳諧の本質的概論」、『俳句講座』第三章、改造社、11月。
「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」、『キネマ旬報』、11月。
「ステッキ」、『週刊朝日』、11月27日。
「Kasu no Simatu」、『Romazi no Nippon』、11月。
「ロプ・ノール其他」、『唯物論研究』、12月。
「夏目漱石先生の追憶」、『俳句講座』第八巻、改造社、12月。
「田丸先生の追憶」、『東京帝国大学理学部会誌』、12月。
「言葉の不思議(わらふとべらぼう)」、『鉄塔』、12月。 ]

 上記の年譜の「※「俳諧 二つ折」、『渋柿』、1月。」周辺のことに関連して、「大正十五年補遺」(『寺田寅彦全集 文学篇 第十七巻』)に、次のとおりの、寅彦から東洋城への「俳諧二つ折」離脱(?)の書簡がある。

[大正十五年(一九二六)二月十三日 土 本郷駒込曙町十三より牛込区余丁町世十一松根豊次郎氏へ(「はがき」表の署名に「寅」とあり。)
 さう一々故障を入れられては興味がぬけてしまつて困ります。壁泥は泥壁とはちがひます。又小生の二枚折のプロットは歌仙とは少しちがひます。「背景」はそんなに変化しないで、其前に一二の焦点が出来る方が「絵」としては効果があるのです。それで壁泥は撤回しない事にします。(中略)
 此の二枚折は君の独吟に願ひます。附句の内容を指図するのは連句の根本義に背くと思ひます。二枚折はいやになつたからやめます。独りでやり玉へ。失敬 

大正十五年(一九二六)二月十三日 土 本郷駒込曙町十三より牛込区余丁町世十一松根豊次郎氏へ(「はがき」表の署名に「寅」とあり。)
 連句の道の要諦は、銘々が自分の個性を主張すると同時に他者の個性を尊重し受容して御互に活かし合ひ響き合ふ處にある。此れは或意味での則天去私に外ならない、處が君はどうも自分の個性だけで一色にしてしまはうとするので困る。それでは連句にならないで独吟になつてしまう。芭蕉の頭の大きかつた証拠はあらゆる個性を異にした弟子達のちがつた世界を包容してそれぞれを発達させた点にあるかと思ふ。どんなまづいと思ふ附け方で活かす事が面白くありませんか。繰返していゝますが、内容の注文は連句の根本義に背きます。
 東洋城先生もつて如何となす?! ?!  ?!

大正十五年(一九二六)二月十五日 月 本郷駒込曙町十三より牛込区余丁町世十一松根豊次郎氏へ(「封筒なし」)
 少々過激派の端書を出し、あとで内々恐縮して居た處昨夜御手紙でいよいよ以て恐縮どうか御寛容を祈ります。
 二枚折は種々な型式が可能なうちで其の一つ第一号型式として前半を大部分「自然」特に長句を「自然」にして短句の方に一つか二つ位人事を入れ、後半に入りて逆に長句の方を人事、短句にボツボツ自然を入れ最後の一二句で又自然に点じ此れが冒頭の自然に、それとなく対立(同じ景色ではなく、しかも調和するもの)して、一幅の背景を完成するといふのよいかと思そます (以下、略)  ](『寺田寅彦全集 文学篇 第十七巻』)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-15

(再掲)

▽「俳諧 二つ折(『渋柿』、9月)」は、「六つ物」(六句形式)を「二つ折」(「表と裏」の十二句)」を基本とするもの。「俳諧 二枚折(『渋柿』、7月)」は、「俳諧 二つ折」(十二句)を二枚続けて、「(六句・六句)+(六句・六句)=二十四句」を基本とするもの。「俳諧 二枚屏風(『渋柿』、12月」)は、「俳諧 二つ折」(十二句)を二枚続けて、「(六句・六句)+(六句・六句)=二十四句」を、「二曲一双」屏風のように、「一枚目屏風(六句+六句)=右隻」と「二枚目屏風(六句+六句)=左隻」と、「対(主題)」の仕立てにする形式のもの。これは、「六曲一隻(六句+六句+六句+六句+六句+六句)」ものなど、様々なバリエーションのものがあろう。


[豊隆(蓬里雨)・昭和七年(一九三二)、三十三歳。]

 『漱石 寅彦 三重吉(小宮豊隆著・岩波書店)』(昭和十七年初版)の中に、「破門」(昭和十一年一月二十三日「渋柿(寺田寅彦追悼号)」初出)という、豊隆が寅彦より「もう君とは俳諧をやらない」と、「東洋城・寅彦・蓬里雨」の三吟俳諧(連句)の座から「破門」されたという内容のものがある。

[(前略)

―― 或時、たしか京橋の竹葉で三人(※「東洋城・寅彦・蓬里雨」)一緒に飯を喰つてゐた時だった。寺田さんは急に眞顔になつて、私に、もう君とは一緒に俳諧をやらないと言ひ出した。―― 君のやうに不熱心ではしやうがない。僕はうちの者の機嫌をとつて、うちで会をしてゐる。それなのに君は一向真面目に句を作らない。雑談計りしてゐる。それでなければ昼寝をする。君のやうな不誠実な人間は破門する。――

(中略)

―― 是が寺田さんと私との長いつき合ひの間に、寺田さんから叱られた唯一の思ひ出である。寺田さんと話をしてゐると、時々横つ面を張り飛ばされるやうに感じる事がある。然しそれは、大抵こつちが何等の点で、馬鹿になつてゐる時、いい気にゐる時である。その際寺田さんの方では、別にこつちの横つ面を張り飛ばさうと意図してゐる訳ではなく、寺田さんから言へば、ただ当り前の事を言つてゐるのが、此方では横つ面を張り飛ばされて感じるのである。然し是はさうではない。寺田さんはほんとに叱る積りで叱つたのである。然もよくよく考へて見ると、寺田さんの叱つたのは、私の俳諧のみではなかつた。私の仕事、私の学問、私の生活。

―― いつまでたつても「後見人」を必要とするやうな私の一切を、寺田さんは是で叱つたのだといふ気が、段段して来る事を、私は禁じ得ない。これは或は私の感傷主義であつたとしても、少くとも寺田さんの俳諧に対する打ち込み方、学問に対する打ち込み方、生活に対する打ち込み方、――人生の凡てののもを受けとる受けとり方を、最も鮮やかに代表してゐるものであつたとは、言ふ事が出来るのである。 ](『漱石 寅彦 三重吉(小宮豊隆著・岩波書店)p278-285』 )

 この[「東洋城・寅彦・蓬里雨」の三吟俳諧(連句)の座から「蓬里雨破門」]関連については、『寺田君と俳諧』(『東洋城全句集(下巻)』所収)で、東洋城は、次のとおり記述している。

[ 始め連句は小宮君が仙台から上京するを機会とし三人の会で作つてゐた、それで一年に二度来るか三度来るかといふ小宮君を待つてのことだから一巻が中々進行しない。其上小宮君の遅吟乃至不勉強が愈々進行を阻害する。一年経つも一巻も上がらぬ、両人で癇癪を起し、仕舞には小宮君が上京しても三人会は唯飯を食ふ雑談の会として連句のことは一切持出さないことにしてしまつた。そこで余との両吟に自ら力が入つて来、屡(シバシバ)二人会合するやうになつた。昭和四年・五年は少なく、両吟・三吟各一連に過ぎなかったが、六年に至っては俄然増加して、両吟七、三吟一歌仙を巻きあげた。](『東洋城全句集(下巻))』所収「寺田君と俳諧」)

東洋城・寅彦・豊隆一.jpg

(左から「松根東洋城・寺田寅日子・小宮蓬里雨」=「東洋城・蓬里雨」→「みやこ町役場 歴史民俗博物館・漱石快気祝い」、「寅日子」→「ウィキペディア」)

※ 「寅日子の蓬里雨破門」の頃の「東洋城・寅日子・蓬里雨」の三吟歌仙(昭和六年十月「渋柿」)

歌仙(「短夜の」巻・「東洋城・寅日子・蓬里雨」の三吟歌仙(昭和六年十月「渋柿」)」)


短夜の旅寝なりしが別れかな   蓬里雨
 蚊帳の釣手に濱の朝風     寅日子
長文に積荷の事も書きそへて   東洋城
 将棋に声のつのる辻侍       雨
色々にものなまぐさき河岸の月    子  月
あれほどの虫鳴かずなりけり    城

汽車の中夜寒の人の寄合うて     雨
 熊にとられし女うつくし      子
輿入れのその白無垢の潔く      城  恋
 障子に映る影のさまざま      雨  恋
水の国真菰の里とうたはれて     子
 人若かりし万葉の頃        城
どこまでも一筋道の夏の月      雨  月
 名物なれば鮎の早鮓        子
なまなかに塗りたる箸の處禿げ    城
 手拭掛のたたく戸袋        雨
先生を花見にさそふはかりごと    子  花(※先生=漱石のイメージ?)
 春の朝寝を起されてゐる      城
ナオ
處狭(セ)く傘干す庭の陽炎ひて    雨
 しぶきの玉を散らすカナリヤ    子
琴の手の一手々々にもゆる胸     城  恋
 肩の細りをつゝむ縮緬       雨  恋
鳴きつれし千鳥もしばし絶えて憂き  子  恋
 雲より下の雪の荒海        城
絶頂の鬼の窟(イワヤ)の夜もすがら   雨
 鸚鵡(オウム)石とはこれをいふらん  子
聞き及ぶ十八番の七(ナナ)ツ面(メン)  城
 あいた片手に尻をからげる     雨
宿まではついに一足の月の土手    子  月
 暗いところで秋の行水       城
ナウ
コスモスの姿さまざま花つけて    雨  
 日限(ヒギリ)間近き仕事もちけり   子
べたくたと口のまめなる家の老    城
 雀くはへて帰り来る猫       雨
絲桜根岸に寮をしつらひて      子  花
 網代垣とは春深き雨        城

(補記)

俳諧の本質的概論

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2471.html

夏目漱石先生の追憶

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2472.html

田丸先生の追憶

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2473.html
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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その十五) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

 その十五「昭和六年(一九三一)」

[東洋城・五十四歳。「渋柿二百号記念号」刊。改造社の『俳句講座』に執筆。能成(※安倍能成)の寄稿始まる。]

俳誌・渋柿(600号).jpg

「俳誌・渋柿(600号/昭和39・4)・『渋柿』六百号記念号」所収「六百号に思ふ / 安倍能成/p7~7」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/6
[扉(一句) / 野村喜舟
六百号に思ふ / 安倍能成/p7~7
四方の花(百句) / 野村喜舟/p8~13
Variétés 1 さよりと水母 / 松根東洋城/p49~49
Variétés 2 幼い詩情 / 松根東洋城/p55~55
Variétés 3 照葉狂言 / 松根東洋城/p61~61
Variétés 4 国語問題 / 松根東洋城/p67~67
Variétés 5 声と寺 / 松根東洋城/p73~73
Variétés 6 真珠貝供養 / 松根東洋城/p79~79
巻頭句 / 野村喜舟/p14~48
澁柿六百号を語る ≪座談会≫ / 水原秋櫻子 ; 秋元不死男 ; 安住敦 ; 楠本憲吉/p50~54,56~60,62~66,68~70
俳句における音韻的音調 / 西岡十四王/p71~72,74~78,80~82
たなごゝろを合せること / 礒部尺山子/p83~86
芭蕉覚書(2) / 渡部杜羊子/p87~92
空白の雄弁性 / 島田雅山/p93~93
もののあはれ / 三輪青舟/p94~97
寺田寅日子雑感 / 牧野寥々/p98~101
渋柿の立場 / 田中拾夢/p106~108
日曜随想 / 吉本杏里/p108~113
自然性の一考察 / 青木誠風/p113~115
五つの話 / 火野艸/p115~119
顔 / 高畠明皎々/p120~121
渋柿一号より六百号までの主要論文とその要旨 / 不破博/p122~127
巻頭句成績累計表 / 牧野寥々/p128~130
俳誌月且(1) / 不破博/p131~131
四月集 / 青舟 ; 十四王 ; 鬼子坊 ; 尺山子 ; 壺天子 ; 春雨/p102~103
新珠集 / 村上壺天子/p104~105
無題録 / 野口里井/p143~143
各地例会だより/p132~136
巻頭句添削実相/p136~136
処々のまとゐ/p137~137
栃木の伝統を語る 座談会 / 栃木同人/p138~142
選後片言 / 野村喜舟/p144~145
東洋城近詠(病院から)/p146~146    ]

※ この「俳誌・渋柿(600号/昭和39・4)・『渋柿』六百号記念号」が刊行された、その年の十二月二十七日に、松根東洋城は、その八十七年の生涯を閉じる。その最後の、「俳誌・渋柿(600号/昭和39・4)・『渋柿』六百号記念号」の、その巻頭言は、「阿部能成」(評論家、哲学者、教育家。愛媛県出身。夏目漱石門下。京城帝国大学教授。一高校長。第二次大戦後、文相、学習院院長を歴任。主著に「西洋近世哲学史」。明治一六~昭和四一年(一八八三‐一九六六)で、その「渋柿」でのデビューは、「昭和六年(一九三一)」の、「渋柿二百号記念号」ということになる。
 阿部能成は、昭和十年(一九三五)十二月に、寺田寅彦が没した時に、友人総代として弔辞を読む。そして、昭和三十九年(一九六四)十月に、松根東洋城の没した時にも、友人総代として弔辞を捧げている。
 東洋城の没後の、昭和四十一年(一九六六)に、『東洋城全句集(上・中・下巻)』の刊行に際して、編者(「安倍能成・小宮豊隆(友人代表)、野村喜舟(「渋柿」代表)、松根宗一(親族代表)」)の一人として名を連ね、その完成(昭和四十一年八・十月、昭和四十二年一月)を待たずに、その年の五月に、小宮豊隆、その一か月後の六月に、安倍能成も没している。

我影の丈高ければ冴えにけり(前書「自笑」)
読み耽る花五百首や春の夜半(前書「渋柿句集を撰む日々夜々たり 二句」)
人々やわが春睡の諫め役(同上)
付句今何の起情の霞かな
坂の渇きまこと濡らしけり汗の玉(前書「登山」)
駒形でどじようくひけり梅雨のうち(前書「俳諧消息」)
広重の絵の具の空や秋の暮(前書「墨江鐘ヶ淵にて」)
この里の人情歌へ高灯籠(前書「旅」)
初汐と或(アルイ)はいふや秋出水(前書「月明墨江下る」)
一くらみ又しきる雪に急ぎけり(前書「旅」)


[寅彦(寅日子)・五十四歳。
1月15日、幸田露伴を初めて訪問。
2月17日、地震研究所談話会で「三島町の被害に就て」(宮部と共著)を発表。2月18日、雑誌『科学』創刊号につき、編集主任石原純、相談にあずかる(寺田も編集者の中の一人)。
3月9日、航空学談話会で「パラヂウム膜の亀裂に就て(第二報)」(田中と共著)を発表。3月17日、地震研究所談話会で「島弧の曲率に就て(第二報)」および「三島町の被害に就て」を発表。
4月13日、帝国学士院で“On the Curvature of Islands Arc and Its Relation to the Latitude”および“On Heterogeneous Distribution of Houses Destroyed by Earthquake”(with N.Miyabe)を発表。4月21日、地震研究所談話会で「地震と雷雨との関係」を発表。4月、服部報公会常置委員を委嘱される。
5月28日、理化学研究所学術講演会で「火災の物理的研究(第一報)」(内ヶ崎と共著)および「固体の破壊に関する二三の考察」を発表。6月12日、帝国学士院で“Analogy of Crack and Electron”を発表。6月16日、地震研究所談話会で「ワレメに就て」を発表。
7月7日、地震研究所談話会で「地震群に就て」を発表。
8月、この頃から玉を突くようになる。
9月15日、地震研究所談話会で「深川に於けるメタン瓦斯湧出地」(宮部と共著)を発表。10月15日、アーレニウス『史的に見たる科学的宇宙観の変遷』(寺田訳、岩波文庫)が出版される。
11月12日、帝国学士院で“Relation between Frequencies of Earthquake and Thunderstorm”を発表。11月17日、地震研究所談話会で「三鷹菱形基線の変化の地震頻度」を発表。11月25日、理化学研究所学術講演会で「硝子板の割目(Ⅰ)」(平田・山本龍三と共著)および「山林火災と不連続線」(内ヶ崎と共著)を発表。
12月15日、地震研究所談話会で「三鷹菱形基線の変化と関東地方の頻度との関係(続報)」を発表。この年、しきりに連句を試みる。
「時事雑感」、『中央公論』、1月。
「火山の名に就て」、『郷土』、1月。
「女の顔」、『渋柿』、1月。
談話「地震に伴ふ光の現象」、『日本消防新聞』、1月。
「『芭蕉連句の根本解説』に就て」、『東京朝日新聞』、1月。
「曙町より」、『渋柿』、2月〜1935年11月。
「連句雑俎」、『渋柿』、3〜12月。
「日常身辺の物理的諸問題」、『科学』、4月。
「映画雑記より」、『文芸春秋』、5月。
「風呂の寒暖計」、『家庭』、6月。
「映画雑記」、『時事新報』、6月。
「青衣童女像」、『雑味』、9月。
翻訳アーレニウス『史的に見たる科学的宇宙観の変遷』、岩波書店、10月。
「量的と質的と統計的と」、『科学』、10月。
「映画雑感」、『中央公論』、10月。
「天然の芸術——「アフリカ」は語る」、『帝国大学新聞』、11月。
「カメラに掲げて」、『大阪朝日新聞』、11月。
「蓑田先生」、『東京帝国大学理学部会誌』、12月。
「こはいものの征服」、『家庭』、12月。
「ラヂオ・モンタージュ」、日本放送協会『調査時報』、12月。
「青磁のモンタージュ」、『雑味』、12月。    ]

 (十二月十八日小宮豊隆氏宛手帳の中より二句)
小春日やにげた小鳥は何処の空
霜の朝鳥は逃げたる小鳥籠

 (十二月二十六日小宮豊隆氏宛絵端書の中より)
子供等に歳聞かれけりクリスマス


小宮豊隆宛 [年賀絵はがき].jpg

明治42年(1909) 一月一日 (金) 小宮豊隆宛 [年賀絵はがき]/寺田寅彦 / 明治42年一月一日(1909)/書簡 / 書簡(みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」)
https://adeac.jp/miyako-hf-mus/viewer/mp200010-200020/061v2/

 この明治四十二年(一九〇九)の「年賀絵はがき」の全文は、『寺田寅彦全集 文学篇 第十五巻』に収載されている。

[一月一日 金 午前七時~八時 小石川区原町一〇より本郷区森川町一小吉館小宮豊隆氏へ (新年絵はがき)
思ひ切つたハイカラの御年賀申上候。此れは多分原口君のデザインになりたるものと存じ候美祢子嬢へも同様のを差出すつもり
三四郎 様   ](『寺田寅彦全集 文学篇 第十五巻』)

※ この「三四郎 様」の「三四郎」は、明治四十一年(一九〇八)、「朝日新聞」の九月から十二月にかけて連載され、翌年五月に春陽堂から刊行された、『それから』『門』へと続く前期三部作の一つ『三四郎』の主人公の名で、その「三四郎」は、小宮豊隆がモデルとされている。ちなみに、寺田寅彦は、「三四郎の先輩(三四郎より7歳ほど年上)」の「野々宮宗八」のモデルとされている。また、この文面中の「原口君」の「原口」のモデルは「黒田清輝」、「美祢子嬢」のモデルは「平塚雷鳥」とされている。(「ウィキペディア」)

平塚らいてふ.jpg

(2014.11.26朝日新聞より)
https://blog.goo.ne.jp/takimoto_2010/e/f12d9e288c77b8a84f604562b9c0e488


[豊隆(蓬里雨)・昭和六年(一九三一)、四十八歳。二月合著『続続芭蕉俳諧研究』出版。]

※寺田寅彦と小宮豊隆が、東洋城が主宰する「渋柿」に毎号執筆(「巻頭言」)するようになったのは、大正九年(一九二〇)、東洋城・寅彦(四十三歳)、豊隆(三十七歳)の頃である。
この頃の、「寺田寅彦の小宮豊隆宛書簡(はがき二葉)」に、次のような、寅彦の「変体詩」がある。

小宮豊隆宛 [はがき二葉]一.jpg

大正9年(1920) 十月八日 (金) 小宮豊隆宛 [はがき二葉]/寺田寅彦 / 大正9年十月八日(1920)/書簡 / 書簡(みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」)
https://adeac.jp/miyako-hf-mus/viewer/mp200550-200020/594/

小宮豊隆宛 [はがき二葉]二.jpg

大正9年(1920) 十月八日 (金) 小宮豊隆宛 [はがき二葉]/寺田寅彦 / 大正9年十月八日(1920)/書簡 / 書簡(みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」)
https://adeac.jp/miyako-hf-mus/viewer/mp200550-200020/594/

[  変体詩 其一
 歯ぐきが脹れて耳が鳴る
 網膜の上をデカルトの渦が躍り廻る
 冷たい物質と物質が
 熱い血の中を喰ひ合つて居る
 歯ぐきでも耳でも胃袋でも
 歯ぐきよ胃袋よさようなら
 空腹の生んだ科学も
 性慾の生んだ芸術も
 さようならさようなら
 米と塩はあるかい
 それでいゝさようなら   Alles pech! Alles pech!

   変体詩 其二
 鶏頭が倒れかゝつて居る
 起こしてくれ、おれは歯が痛い
 蜻蛉の群れが
 夥しい蜻蛉の群れが
 隊を立てゝ飛んで居る
 蜻蛉よ
 少しじつとして居てくれ
 おれは今歯が痛い
  十月八日作 フズドールスキー  (以上はがき一)

   変体詩 其三
 林檎が棚からおつこつた
 星の欠けらを一寸なめた
  オムレツカツレツガーランデン
  カントにヘーゲル、アインシュタイン
 みゝずの眼玉は見付けたが
 碧い瞳に一寸ほれた
  フアウスト、ハムレット、バーベリオン
  ドンナーウェターパラプリユイ
 ――――――――――――――――――――――――――――
 ひとりでにこんなものが出来ましたから御笑草に御目にかけます。弱陽性といふのが案外持続してとれないで居ます。もうそろそろよくなるでしやう。
   十月八日
 今計って見たら七度八分ある、多分歯齦(はぐき)の熱でしやう。
 此んな事ばかり書いて強いて憐みを乞ひたくはないがし方ない。やつぱり黙って居るのは苦しいから許してくれ玉へ  (以上はがき二)   ](『寺田寅彦全集 文学篇 第十五巻』)


(補記)

「『芭蕉連句の根本解説』に就て」、『東京朝日新聞』、1月。

『寺田寅彦全集 文学篇 第十八巻』に、寺田寅彦の「書籍批評」が収載されている。なお、『芭蕉連句の根本解説(太田水穂著)』については、次のアドレスで閲覧することが出来る。

https://lab.ndl.go.jp/dl/book/1088431?page=3

 なお、『芭蕉連句の根本解説(太田水穂著)』は、下記のアドレスで閲覧することが出来る。その目次は次のとおりである。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1880003/1/1

[目次
序/1
冬の日
狂句木枯の卷/3
はつ雪の卷/49
つゝみかねの卷/96
炭賣の卷/138
霜月の卷/182
曠野
雁がねの卷/225
ひさご
木のもとの卷/263
猿みの
鳶の羽の卷/299
市中の卷/339
灰汁桶の卷/378
炭俵
梅が香の卷/421
空豆の卷/451
振賣の卷/478
續猿みの
八九間の卷/515
猿みのの卷/549
夏の夜の卷/582
連句索引/615
内容索引/637 ](「国立国会図書館デジタルコレクション」)

「連句雑俎」、『渋柿』、3〜12月。

https://aozora.binb.jp/reader/main.html?cid=2461

『芭蕉の研究』(小宮豊隆著・岩波書店)

https://dl.ndl.go.jp/pid/1213547/1/1

[目次
芭蕉/1         → 昭和七年十一月四日(論文)
不易流行説に就いて/56  → 昭和二年四月五日(論文)
さびしをりに就いて/107 → 昭和五年八月七日(論文)
芭蕉の戀の句/139    → 昭和七年五月二十日(論文)
發句飜譯の可能性/167  → 昭和八年六月五日(論文)
『冬の日』以前/175   → 昭和三年十二月七日(論文)
『貝おほひ』/199    → 昭和四年三月三日(論文)
芭蕉の南蠻紅毛趣味/231 → 昭和二年二月(論文) 
芭蕉の「けらし」/261  → 大正十五年七月(論文)
芭蕉の眞僞/290     → 昭和六年十月十五日(論文)
二題/296        → 昭和三年九月九日(「潁原退蔵君に」)
            → 昭和七年八月二十三日(「矢数俳諧」)
『おくのほそ道』/303  → 昭和七年一月十四日(論文)
立石寺の蟬/326     → 昭和四年八月二十日(「斎藤茂吉」との論争)
芭蕉の作と言はれる『栗木庵の記』に就いて/330 →昭和六年七月七日(論文)
『おくのほそ道』畫卷/375 → 昭和七年六月十九日(論文) 
芭蕉と蕪村/379      → 昭和四年十月(論文)
附錄
蕪村書簡考證/419     → 昭和三年六月二十八日(論文)
西山宗因に就いて/452   → 昭和七年九月二十日(論文)
宗因の『飛鳥川』に就いて/489 →昭和八年二月十二日(論文)  ](「国立国会図書館デジタルコレクション」)
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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その十四) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その十四「昭和五年(一九三〇)」

[東洋城・五十三歳。毎週金曜日、寅彦と会合して連句を作る。浦賀で海上大会。]

[ 塩原両面碑に立ちて 十五句

わが句碑の端とはなるゝ寒さかな
碑の我が句最も冬を知れるかな
我が句碑の冬の句驕れ山容(スガタ)
凩の四方八方来(ク)や句碑我に
碑撮(ウツ)すや却て冬の山相(スガ)タ
あはれむや碑撮す人の指の凍(イテ)
碑の冬や塩の湯道の口をなし
あはれむや句碑のぐるりに枯るゝ葦
句碑の句の冬とはをかし温泉(ユ)に遊び
この凍(イ)てを我が句碑の上と思ふかな(前書「旅宿寒夜」)
あくまでに澄みて鋭(スル)ドや冬の水(前書「冬の塩原」)
門前も古町も鄙や古正月
此の荘のあるじの留守や冬木立
タツツケに羽子(ハネ)つく子等や古正月
山川の音こそものの冬夜かな

塩原両面碑の松根東洋城.jpg

「塩原両面碑の松根東洋城(昭和二年七月、両面碑・西面)」)(『東洋城全句集中巻』)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-17
[【碑文】
 「さまみえて土になりゐる落葉哉」表
 「すずしさやこの山水に出湯とは」裏 (塩原四季郷より)
http://hotyu.starfree.jp/historicalspots/bungakuhi/bungakuhi.html   ]


[寅日子(寅彦)・五十三歳。
1月21日、地震研究所談話会で「本邦火山活動の緯度分布に就て」および「温泉の熱に就て」を発表。2月12日、帝国学士院で“Crustal Disturbance in Kwanto Districts”(with N. Miyabe)および“On the Relation between the Disvergence of Horizontal Displacements of Trigonometrical Points and the Vertical Displacements of the Earth Crust”を発表。
2月17日、航空学談話会で「パラヂウム膜の亀裂に就て」(田中と共著)を発表。2月18日、地震研究所談話会で「三角点移動の意義に就て」を発表。
4月12日、帝国学士院で“Further Studies on Periodic Columnar Vortices Produced by Convection”(with M.Tamano)を発表。4月15日、地震研究所談話会で「山崩れに就て(第二報)」(宮部と共著)を発表。
6月12日、帝国学士院で“Preliminary Experiments on the Modes of Propagation of Surface
Combustion”を発表。6月17日、地震研究所談話会で「土地の垂直運動と地形との関係」(宮部と共著)を発表。
9月15日、正四位に叙せられる。9月16日、地震研究所談話会で「山崩れの調査(第三報)」(宮部と共著)を発表。
10月29日、理化学研究所学術講演会で「火山灰の吸着作用(Ⅱ)」(平田・内ヶ崎直郎と共著)を発表。
12月12日、帝国学士院で“On Luminous Phenomena Accompanying Earthquakes”を発表。12月16日、地震研究所談話会で「地震に伴う光の現象」を発表。

談話「火災研究の基本材料」、『日本消防新聞』、1月。
「二つの正月」、『文芸春秋』、2月。
「LIBER STUDIORUM」、『改造』、3月。
「高浜さんと私」、『現代日本文学全集』、月報、4月。
「地図をたどる」、『大阪朝日新聞』、7月。
「夏 暑さの過去帳(上)(下)」、『東京朝日新聞』、8月。
「映画時代」、『思想』、9月。
「震生湖より」、『渋柿』、10月。
「映画雑感(一)(二)」、『帝国大学新聞』、11〜12月。
「レーリー卿(Lord Rayleigh)」、岩波講座『物理学及び化学』、12月。
「研究者の対立」、『東京朝日新聞』、12月。
談話「大地震と光り物」、『報知新聞』、12月   ]


忙しや金が入る出る歳の暮(十二月二十四日松根豊次郎宛封緘端書の中より)

※ この句は、『寺田寅彦全集 文学篇 第十六巻』に、その全文が収載されている。

[ 十二月二十四日 水 午後零時~四時 神田より牛込区余丁町四一松根豊次郎氏へ(封緘はがき 速達便)
 正直へ神の恵みの落しもの    (城)(※東洋城)
  石も長閑に笑ふ狛犬
 花の山うかうか越えし此処は何処
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それから先日の「女の顔」の中へ左を加えたし
ロゼチの腺病質の女の事の次へ、音楽会見初めの件の前に
「それから又グリューズの「破瓶」の娘の顔も好きらしかつた。ヴォラプチュアスだと評して居た。先生の虞美人草かなんかの中に出て来るヴォラプチュアスな顔のモデルは即ち此れである」
 右校正の時御入れ下さい
   十二月二十四日
  忙しや金が入る出る歳の暮     ]

 この二日後の「十二月二十六日付け小宮豊隆宛寺田寅彦書簡」がある。

[十二月二十六日 金 仙台市北二番丁六八小宮豊隆氏へ
(前略)
 虚子(※高浜虚子)より大兄(※小宮豊隆)と安倍君(※安倍能成)上京の期聞合せ参り居候、御上京草ゝつかまる事と存候、一夕大にメートルをあげて昔を偲び度と楽しみ居候、御出京の日取決定の上御一報願上候
 松根大将(※松根東洋城)小生へも続々厳談、折柄震研の仕事でテンテコ舞の処を督促され、何をかいわんやら分からない程のデタラメを書送り候処、今度は又至急に連句を一巻無理やりに上げろとの事にて電車中にて呻吟、速達で送ると、すぐ電話で附句を申越し、速刻又次の二句をつづけろとの事、当日は理研・震研・文部省・丸善・三越と東奔西走の間にやつと製造途中で封緘葉書を求め速達で発送、それに大将があげ句をつければ落成するのだから、それきり受け取つとたとも何もなくしーんとしてしまつて颱風一過の後の如き有様に有之候、尤も大分奮闘して居るらしいので同情も致居候、しかし少生の如き重宝至極、何時でも即刻に金玉の名文章やダイアモンドルビーの如き句を手の平からもみ出す手品師のやうな軽便なる友人をもつ東洋城も亦仕合せ果報者かと存ぜられうたゝ羨望の感に堪えず候 (後略) ]


[豊隆(蓬里雨)・昭和五年(一九三〇)、四十七歳。二月合著『続芭蕉俳諧研究』出版。]

(追記)「自画像(寺田寅彦)」周辺

母の像(寺田寅彦画).jpg

「母の像(寺田寅彦画)」 (『寺田寅彦画集(中央公論美術出版)』)
[制作年月=大正一〇・二/種別=油彩/基材=板/大きさ=33.0×24.0㎝]

つるばら(寺田寅彦画).jpg

「つるばら(寺田寅彦画)」(『寺田寅彦画集(中央公論美術出版)』)
[制作年月=大正一〇・二/種別=油彩/基材=板/大きさ=32.8×23.8㎝]

自画像(A)(寺田寅彦画).jpg

「自画像(A)(寺田寅彦画)」(『寺田寅彦画集(中央公論美術出版)』)
[制作年月=大正一三/種別=油彩/基材=カンバスボード/大きさ=32.5×23.5㎝]

[自画像 寺田寅彦

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2438_10299.html

 四月の始めに山本鼎(やまもとかなえ)氏著「油絵のスケッチ」という本を読んで急に自分も油絵がやってみたくなった。去年の暮れに病気して以来は、ほとんど毎日朝から晩まで床の中で書物ばかり読んでいたが、だんだん暖かくなって庭の花壇の草花が芽を吹き出して来ると、いつまでも床の中ばかりにもぐっているのが急にいやになった。同時に頭のぐあいも寒い時分とは調子が違って来て、あまり長く読書している根気がなくなった。今までは内側へ内側へと向いていた心の目が急に外のほうへ向くと、そこには冬の眠りからさめて一時に活気づいた自然界が勇み立って自分を迎えてくれるような気がした。ちょうどそこへ山本氏の著書が現われて自分の手をとって引き立てるのであった。
 中学時代に少しばかり油絵をかいてみた事はある。図画の先生に頼んで東京の飯田(いいだ)とかいううちから道具や絵の具を取り寄せてもらって、先生から借りたお手本を一生懸命に模写した。カンバスなどは使わず、黄色いボール紙に自分で膠(にかわ)を引いてそれにビチューメンで下図の明暗を塗り分けてかかるというやり方であった。かなりたくさんかいたが実物写生という事はついにやらずにしまった。そして他郷に遊学すると同時にやめてしまって、今日までついぞ絵筆を握る機会はなかった。もと使った絵の具箱やパレットや画架なども、数年前国の家を引き払う時に、もうこんなものはいるまいと言って、自分の知らぬ間に、母がくず屋にやってしまったくらいである。
 その後都へ出て洋画の展覧会を見たりする時には、どうかすると中学時代の事を思い出し、同時にあの絵の具の特有な臭気と当時かきながら口癖に鼻声で歌ったある唱歌とを思い出した、そうして再びこの享楽にふけりたいという欲望がかなり強く刺激されるのであった。しかし自分の境遇は到底それだけの時間の余裕と落ち着いた気分を許してくれないので実行の見込みは少なかった。ただ展覧会を見るたびにそういう望みを起こしてみるだけでも自分の単調な生活に多少の新鮮な風を入れるという効果はあった。
 中学時代には、油絵といえば、先生のかいたもの以外には石版色刷りの複製品しか見た事はなかった。いつか英国人の宣教師の細君が旧城跡の公園でテントを張って幾日も写生していた事があった。どんなものができているかのぞいてみたくてこわごわ近づくと、十二三ぐらいの金髪の子供がやって来て「アマリ、ソバクルト犬クイツキマース」などと言った。実際そばには見た事もないような大きな犬がちゃんと番をしているのであった。
 それから二十何年の間に自分はかなり多くの油絵に目をさらした。数からいえばおそらく莫大(ばくだい)なものであろう。見ているうちに自分の目はだんだんにいろいろに変わって来た。そして芸術としての油絵というものに対する考えもいろいろにうつって行った。ただその間に不断にいだいていた希望はいつか一度は「自分のかいた絵」を見たいという事であった。世界じゅうに名画の数がどれほどあってもそれはかまわない。どんなに拙劣でもいいから、生まれてまだ見た事のない自分の油絵というものに対してみたいというのであった。
 このような望みは起こっては消え起こっては消え十数年も続いて来た。それがことしの草木の芽立つと同時に強い力で復活した。そしてその望みを満足させる事が、同時に病余の今の仕事として適当であるという事に気がついた。
 それでさっそく絵の具や筆や必要品を取りそろえて小さなスケッチ板へ生まれて始めてのダップレナチュールを試みる事になった。新しいパレットに押し出した絵の具のなまなましい光とにおいは強烈に昔の記憶を呼び起こさせた。長い筆の先に粘い絵の具をこねるときの特殊な触感もさらに強く二十余年前の印象を盛り返して、その当時の自分の室から庭の光景や、ほとんど忘れかかった人々の顔をまのあたりに見るような気がした。
 まず手近な盆栽や菓子やコップなどと手当たり次第にかいてみた。始めのうちはうまいのかまずいのかそんな事はまるで問題にならなかった。そういう比較的な言葉に意味があろうはずはなかった。画家の数は幾万人あっても自分は一人しかいないのであった。
 思うようにかけないのは事実であった。そのかわり自分の思いがけもないようなものができてくるのもおもしろくない事はなかった。とてもかけそうもないと思ったものが存外どうにか物になったと思う事もあり、わけもないと思ったものがなかなかむつかしかったりした。それよりもおもしろいのは一色の壁や布の面からありとあらゆる色彩を見つけ出したり、静止していると思った草の葉が動物のように動いているのに気がついたりするような事であった。そして絵をかいていない時でもこういう事に対して著しく敏感になって来るのに気がついた。寝ころんで本を読んでいると白いページの上に投じた指の影が、恐ろしく美しい純粋なコバルト色をして、そのかたわらに黄色い補色の隈くまを取っているのを見て驚いてしまってそれきり読書を中止した事もある。またある時花壇の金蓮花(きんれんか)の葉を見ているうちに、曇った空が破れて急に強い日光がさすと、たくさんな丸い葉は見るまにすくすくと向きを変え、間隔と配置を変えて、我れ勝ちに少しでも多く日光をむさぼろうとするように見えた。一つ一つの葉がそれぞれ意志のある動物のように思われてなんだか恐ろしいような気もした。
 手近な静物や庭の風景とやっているうちに、かく物の種がだんだんに少なくなって来た。ほんとうは同じ静物でも風景でも排列や光線や見方をちがえればいくらでも材料にならぬ事はないが、素人(しろうと)の初学者の自分としては、少なくもひとわたりはいろいろちがった物がかいてみたかった。いちばんかいてみたいのは野外の風景であるが今の病体ではそれは断念するほかはなかった。それでとうとう自画像でも始めねばならないようになって来た。いったい自分はどういうものか、従来肖像画というものにはあまり興味を感じないし、ことに人の自画像などには一種の原因不明な反感のようなものさえもっているのであるが、それにもかかわらずついに自分の顔でもかいてみる気になってしまった。
 それである日鏡の前にすわって、自分の顔をつくづく見てみると、顔色が悪くて頬(ほお)がたるんで目から眉(まゆ)のへんや口もとには名状のできない暗い不愉快な表情がただようているので、かいてみる勇気が一時になくなってしまった。そのうちにまた天気のいい気分のいいおりに小さな鏡を机の前に立てて見たら、その時は鏡の中の顔が晴れ晴れとしていて目もどことなく活気を帯びて、前とは別人のような感じがした。それでさっそくいちばん小さなボール板へ写生を始めた。鉛筆でザット下図をかいてみたがなかなか似そうもなかった、しかしかまわず絵の具を付けているうちにまもなくともかくも人の顔らしいものができた。のみならずやはりいくらかは自分に似ているような気もした。顔の長さが二寸ぐらいで塗りつぶすべき面積が狭いだけに思ったよりは雑作(ぞうさ)なく顔らしいものができた、と思ってちょっと愉快であった。それでさっそく家族に見せて回ると、似ているという者もあり、似ていないというものもあった、無論これはどちらも正しいに相違なかった。
 この始めての自画像を描く時に気のついたのは、鏡の中にある顔が自分の顔とは左右を取りちがえた別物であるという事である。これは物理学上からはきわめて明白な事であるが写生をしているうちに始めてその事実がほんとうに体験されるような気がした。衣服の左前なくらいはいいとしても、また髪の毛のなでつけ方や黒子(ほくろ)の位置が逆になっているくらいはどうでもなるとしても、もっと微細な、しかし重要な目の非対称や鼻の曲がりやそれを一々左右顛倒(てんとう)して考えるという事は非常に困難な事である。要するに一面の鏡だけでは永久に自分の顔は見られないという事に気がついたのである。二枚の鏡を使って少し斜めに向いた顔を見る事はできるだろうがそれを実行するのはおっくうであったし、また自分の技量で左右の相違をかき分ける事もできそうになかった。そんな事を考えなくてもただ鏡に映った顔をかけばいいと思ってやっているうちに着物の左衽(ひだりおくみ)のところでまたちょっと迷わされた。自分の科学と芸術とは見たままに描けと命ずる一方で、なんだか絵として見た時に不自然ではないかという気もするし、年取った母がいやがるだろうと思ったので、とうとう右衽(みぎおくみ)にごまかしてしまったが、それでもやっぱり不愉快であった。
 この自画像.「No.1」は恐ろしくしわだらけのしかみ面(づら)で上目に正面をにらみつけていて、いかにも性急なかんしゃく持ちの人間らしく見えるが、考えてみると自分にもそういう資質がないとは言われない。
 それから二三日たってまた第二号の自画像を前のと同大の板へかいてみた。今度は少し顔を斜めにしてやってみると、前とは反対にたいへん温和な、のっぺりした、若々しい顔ができてしまった。妻や子供らはみんな若すぎると言って笑ったが母だけはこのほうがよく似ていると言った。母親の目に見える自分の影像と、子供らの見た自分の印象とには、事によったら十年以上も年齢の差があるかもしれない。それで思い出したが近ごろ自分の高等小学校時代に教わったきりで会わなかった先生がたの写真を見た時にちょっとそれと気がつかなかった。写真の顔があまり若すぎて子供のような気がしたからである。よくよく見ているとありありと三十年前の記憶が呼び返された。これから考えるとわれわれの頭の中にある他人の顔は自分といっしょに、しかもちゃんときまった年齢の間隔を保存しつつだんだん年をとるのではあるまいか。
 同じ自分が同じ自分の顔をかくつもりでやっていると、その時々でこのようにいろいろな顔ができる、これはつまり写生が拙なためには相違ないがともかくもおもしろい事だと思った。No.1にもNo.2にもどこか自分に似たところがあるはずであるが、1と2を並べて比較してみると、どうしても別人のように見える。そうしてみると1と2がそれぞれ自分に似ているのは、顔の相似を決定すべき主要な本質的の点で似ているのでなくて第二義以下の枝葉の点で似ているに過ぎないだろうと思われる。
 これについて思い出す不思議な事実がある。ある時電車で子供を一人連れた夫婦の向かい側に座を占めて無心にその二人の顔をながめていたが、もとより夫婦の顔は全くちがった顔で、普通の意味で少しも似たところはなかった。そのうちに子供の顔を注意して見るとその子は非常によく両親のいずれにも似ていた。父親のどこと母親のどことを伝えているかという事は容易にわかりそうもなかったが、とにかく両親のまるでちがった顔が、この子供の顔の中で渾然こんぜんと融合してそれが一つの完全な独立なきわめて自然的な顔を構成しているのを見て非常に驚かされた。それよりも不思議な事は、子供の顔を注視して後に再び両親の顔を見比べると、始め全く違って見えた男女の顔が交互に似ているように思われて来た事である。このような現象を心理学者はどう説明するだろうか。たしかにおもしろい問題にはなるに相違ないと思った。それからまた一方では親子の関係というものの深刻な意味を今さらのように考えたりした。もう一つ、これはK君の話だが、同君の友人の二男が、父親よりも生母よりもかえって、父の先妻、しかもなくなった先妻にそっくりなので、始めて見たK君は、一種名状のできないショックを感じたそうである。K君の認めた相似が全くオブジェクティヴだとすると、現在の科学はこの説明を持てあますだろうと思われる。
 いったい二つの顔の似ると似ないを決定すべき要素のようなものはなんであろう。この要素を分析し抽出する科学的の方法はないものだろうか。自分は自画像をかきながらいろんな事を考えてみた。同じ大きさに同じ向きの像を何十枚もかいてみる。そしてそれを一枚一枚写真にとって、そのおのおのを重ね合わせて重ね撮とり写真をこしらえる。もしおのおのの絵が実物とちがう「違い方」が物理学などでいう誤差の方則に従っていろいろに分配せられるとすれば重ね撮りの結果はちょうど「平均」をとる事になってそれが実物の写真と同じになりはしまいか。もしそれが実物と違えばその相違は描き手に固有ないわゆる personal equation を示すか、あるいはその人の自分の顔に対する理想を暴露するかもしれない。それはとにかく何十枚の肖像をだいたい似ている度に応じて二つか三つぐらいの組に分類する。そうしてその一つ一つの写真を本物の写真と重ねてみてよく一致する点としない点とをいくつかの箇条に分かって統計表をこしらえる。こんな方法でやれば「顔の相似」という不思議な現象を系統的に研究する一つの段階にはなりそうである。
 自画像は「No.2」でしばらくやめてまた静物などをやっているうちに一日画家のT君が旅行から帰ったと言ってわざわざ自分の絵を見に来てくれた。ありたけの絵をみんな出して見てもらっていろいろの注意を受け、いろいろなおもしろい事を教わってたいへんに啓発されるような気がした。自画像の二枚については、あまり色が白すぎるというのと、もっと細かに見て、色や調子を研究して根気よくかかなければいけないというのであった。なるほどそう言われてみると自分のかいた顔は普通の油絵らしくなくて淡彩の日本画のように白っぽいものである。もっとも鏡が悪いために実際いくぶん顔色が白けて見えたには相違ないが、そう言われて後に鏡と絵と比べてみると画像のほうはたしかに色が薄くて透明に見えて、上簇期じょうぞくきの蚕のような肌はだをしていた。そしていかにもぞんざいで薄っぺらなものに思われて来た。それからT君はいろいろの話の内にトーンというものの大切な事を話した。目を細くしてよく見きわめをつけてから一筆ごとに新しく絵の具を交ぜては置いて行くのだそうである。ある人は六尺もある筆の先へちょっと絵の具をくっつけて、鳥でも刺すようにして一点くっつけてはまたながめて考え込むというのである。この話を聞いているうちになんだか非常に愉快になって来た。そういう仕事をしている画家と、非常にデリケートな物理の実験をやって敏感なねじをいじってはめがねをのぞいている学者と全く兄弟分のような気がしておもしろくなって来た、そしてどういうわけか急におかしくなって笑い出すとT君もいっしょに笑い出してしまった。
 それから二三日たってT君の宅へ行って同君の昔かいた自画像を二枚見せてもらった。それは小さな板へかいた習作であったがなるほど濃厚な絵の具をベタベタときたならしいように盛り付けたものであった。しかし自分ののっぺりした絵と比べて見るとこのほうが比較にならぬほどいきいきしていてまっ黒な絵の具の底に熱い血が通かよっていそうな気がした。
 もっとも考えてみるとこのくらいの事は今始めて知ったわけではない。この自分の自画像がもし他人の絵であったとしたらおそらく始めからまるで問題にならないで打っちゃってしまうほどつまらないものかもしれない。ただそれが自分のかいたのであるがためにこんなわかりきった事がわからないでいたのをT君の像をながめているうちにやっとの事で明白に実認したに過ぎない。いったい自分は、多くの人々と同様に、自分の理解し得ないものを「つまらない」と名づけたり、自分と型のちがった人を「常識がない」と思ったりするような事がかなりありそうであるが、幸いにあるいは不幸にして、自分の絵を一つの単純な絵として見て黒人くろうとのと比較する時に、自分のほうがいいと思いうるほどの自信がないと見えて、T君の絵と説とにすっかり感心してしまった。そうして頭を新しく入れ換えて第三号の自画像に取りかかる事にした。
 T君のすすめに従って今度はカンバスへやることにした。六号という大きさの画布を枠わくに張ったのを買って来た。同時に画架も買って来てこれに載せた。なんだかいよいよ本式になって来たと思うと少し気味の悪いような気もしてすぐには手をつけられなかった。居間のすみの箪笥たんすのわきにある鏡台の前へすわって左から来る光に半面を照らさせ、そして鏡に映っているものは画架でも背後の箪笥でもその上にある本や新聞でも、見えるだけのものはみんなそのままにかいてみようと思ってやり始めた。
 今度はなるべく顔を大きくするつもりで下図を始めたのであるが、どういうものか下図をかいているうちに思ったより小さくなってしまった。自分が大きくしようと思っているのに手と鉛筆とがそれを押え押えて顔を縮めて行くようにも思われた。実物に近いほどに書くつもりのがいつのまにか半分足らずぐらいのものになった。実物と思って見ているのが実は鏡の中の虚像で鏡より二倍の距離にあるから視角はかなり小さくなっている。それに画布のほうは手近にあるものだから、たとえ映像と絵と同じ視角にしても寸法は実物の半分以下になるわけだと思われる。それにしても人が鏡を見て自分の顔というものの観念をこしらえているが、左右顛倒(てんとう)の事実は別として顔の大きさというものに対しても正当な観念を得る事はおそらく非常に困難だろうと思われだした。つまりわれわれはほんとうの自分の顔というものは一生知らずに済むのだという気さえした。自分の事は顔さえわからないのだ。だれかが「自分の背中だけは一生触れられない」と言った事を思い出す。
 下図をすっかり消してかき直すのもめんどうであったし、またこのくらいの大きさのも一枚あっていいと思ってそのまま進行する事にした。妻と長女とに下図を見せて違った所を捜させるとじきにいろいろな誤りが発見された。他人が見ればそんなにたやすく見つかるような間違いが、かいている自分にはなかなかわからないのであった。
 下図はとうとうあまりよく似ないままで絵の具をつけ始めた。かいて行くうちによくなるだろうと思ったが、なかなかそう行かない事はあとでだんだんにわかって来た。
 もちろん顔から塗り始めた。始めにだいたいの肉色と影をつけてしまった時には、似てはいないがたいへん感じのいいような顔ができたのでこれは調子がいいと思って多少気乗りがして来た。そしてだんだんに細かく筆を使って似せるほうと色の調子とに気を配り始めるとそろそろむつかしくなる事が予覚されるようになって来た。まず第一に困った事は局部局部を見て忠実に写しているといつのまにか局部相互の位置や権衡が乱れてしまう。右の目の格好を一生懸命にかいてだいたいよくなったと思って少し離れて見るとその目だけが顔とは独立に横に脱線したりつり上がりねじれなどした。どうも右をかいている時と左をかいている時とで顔の傾斜が変わる癖があるらしかった。そのために左右の目は互いに自由行動をとってどうしても一つの顔の中に融和しない、しかたがないからいずれか一方をきめてから他の一方を服従させるほかはないと思ってまず比較的似ているらしい向かって右の目を標準にする事に決めた、そして左をかく時は一生懸命に右との関係を考え考えかいて行った。
 コンパスや物差しを持って来て寸法の比例を取ったりしたが、鏡が使ってあるだけにこの仕事は静物などの場合のように簡単でない。なにしろほんとうの顔と鏡の顔と、ほんとうの物差しと鏡の中の物差しとこの四つのもののうちの二つを比較するのだから時々頭の中が錯雑して比較すべき物を間違えたりする。それからもう一つ鏡のぐあいの悪い事は、静物などと同じつもりで、目を細くして握った手のひらの穴からのぞくと、鏡の中の顔もそのとおりまねをするから結局目の近辺をかく時にはこの方法は無効になるのであった。
 右の目を標準にしてだんだんに進行して行くうちにまもなく鼻から顔全体の輪郭まで大改造をやらなければならない事がわかって来たのでこれはたいへんだと思った。顔全体がだいぶ傾斜しなければならぬ事になるらしい。それでは困るから結局かんじんの右の目をもう一ぺん打ちこわして、すっかり始めからやり直すほかはないと思うとはりつめた力が一時に抜けて絵筆を投げ出してしまいたくなった。ひとまず中止としてカンバスを室のすみへ立てかけて遠方からながめて見ると顔じゅう妙に引きつりゆがんで、始めに感じのよかった目も恐ろしく険相な意地悪そうな光を放ってにらんでいるので、どうもそのままにしてあすまで置くのは堪えられないような気がした。それで、もうだいぶ肩が凝って苦しくなって来たけれども奮発して直し始めた。
 それからほとんど毎朝起きて部屋(へや)の掃除(そうじ)がすむとすぐにこの自画像「No.3」に手を入れる。あまり凝りすぎてもからだにさわるから午前だけにしたいと思ったが、午前中に一段片付けたつもりで昼飯を食いながらながめていると間違った所が目について気になりだす、もう一筆と思ううちにとうとう午後の時間が容赦なくたってしまう。
 それでも少しずつは似てくるようであった。時としては描きながら近くで見ると非常によくなって、ほとんどもう手をつける所がないような気がして愉快になる。しかし画架からはずして長押(なげし)の上に立てかけて下から見上げるとまるで見違えるような変な顔になっているのでびっくりする。どうかすると片方の小鼻が途方もなくたれ下がっているのを手近で見る時には少しも気づかなかったりする。
 不思議な事にはこのように毎日見つめている絵の中の顔がだんだんに頭の中にしみ込んで来てそれがとにかく一人の生きた人間になって来る。それは自分のようでもあるしまた他人のようでもある。時としては絵の顔のほうがほんとうの自分で鏡の中のがうそのような気がする。特に鏡と画面とから離れて空で考える時には、鏡の顔はいつでも影が薄くて絵の顔のほうが強い強い実在となって頭の中に浮かんで来るのである。これではだめだと思った。絵を見つめる時間をなるべく減じて鏡を見る時を長くしなければいけないと思った。
 絵の中にいる人間とかいている自分との間には知らず知らずの間に一種の同情のようなものが生じて来るような気がしだした。画像が口をゆがめて来ると、なんだか自分も口をゆがめなくてはいられなくなるようであった。自分が目を細くしていると画像もいつのまにかそうするように思われた。絵の顔が気持ちのいい日はなんだか愉快であるが、そうでない日は自分もきげんがよくなかった。
 調子のごくごくいい日にはいいかげんに交ぜる絵の具の色や調子がおもしろいようにうまくはまって行く。絵の具のほうですっかり合点(がてん)してよろしくやってくれるのを、自分はただそこまで運んでくっつけてやっているだけのような気がする。こんな時にはかなり無雑作むぞうさに勢いよく筆をたたきつけるとおもしろいように目が生きて来たり頬ほおの肉が盛り上がったりする。絵の具と筆が勝手気ままに絵をかいて行くのを自分はあっけに取られて見ているような気がするのである。こんな時には愉快に興奮する。庭を見ても家内の人々の顔を見ても愉快に見え、そうして不思議に腹がよくへって来る。
 これに反してぐあいの悪い日は絵の具も筆も、申し合わせて反逆を企て自分を悩ますように見える。色が濃すぎたと思って直すときっと薄すぎる。直しているうちに輪郭もくずれて来るし、一筆ごとに顔がだんだん無惨に情けなく打ちこわされて行く。その時の心持ちはずいぶんいやなものである。早く中止すればいいと思わない事はないが、そういう時に限って未練が出てやめるに忍びない。ちょうど来客でもあってやむを得ず中止する時には、困ったという感じと、ちょうどいい時に来てくれたという考えとがいっしょになる。客が帰るとできそこなった絵をすぐに見ないではいられない。
 あまり自分が熱中しているものだから、家内のものは戯れに「この絵は魂がはいっているから夜中に抜け出すかもしれない」などと言って笑っていた。ところがある晩床の中にはいって鴨居(かもい)にかけた自画像をながめていると、絵の顔が思いがけもなくまたたきをするような気がした。これはおもしろいと思って見つめるとなんともない。しかし目をほかへ転じようとする瞬間にまたすばやくまたたくように見えた。これはたぶん有りがちな幻覚かもしれない。プーシキンの短編にもカルタのスペードの女王がまたたきをする話があるが、とにかくわれわれの神経が特殊な状態に緊張されると、こんな錯覚が生じるものと見える。それよりも不思議な錯覚は、夜床の中で目をねむって闇やみの中を見つめるようにすると、そこに絵の顔が見えて来る事である。始めて気のついた時はハルシネーションのようにはっきり見えたが、その後はただぼんやり、しかしそれが画像の顔だという事がわかるくらいに現われたり消えたりした。生理光学でよく研究されている残像ナハビルドという現象はあるが、それは通例実物を見つめた後きわめて少時間だけにとどまるし、また通例陽像ポジチーフと陰像ネガチーフとが交互に起こるものである。このように長時間の後に残存してしかも陽像のみ現われるというのはまだ読んだ事も聞いた事もなかった。おそらくこれは生理的ではなくて、病理的に神経の異常から起こるハルシネーションの類だろうが、それにしても妙なものである。人殺しをしたものが長い年月の後に熱病でもわずらった時に殺した時の犠牲者の顔をありあり見るというが、それはおそらく自分の見た幻覚と類した程度のものが見えるのではあるまいかと思った。
 もう一つ不思議な錯覚のようなものがあった。ある日例のように少しずつ目をいじり口元を直ししているうちに、かいている顔が不意に亡父の顔のように見えて来た。ちょうど絵の中から思いがけもなく父の顔がのぞいているような気がして愕然がくぜんとして驚いた。しかし考えてみるとこれはあえて不思議な事はないらしい。自分はかなりに父によく似ていると言われている、自分はそうとは思わないがどこかによく似た点があるに相違ない。自分の顔のどこかを少しばかりどうか修正すれば父の顔に近よりやすい傾向があるのだろう。それで毎日いろいろに直したり変えたりしているうちには偶然その「どこか」にうまくぶつかって、主要な鍵かぎに触れると同時に父の顔が一時に出現するのであろう。
 それから考えてみるに自分が毎日筆のさきでいろいろさまざまの顔を出現させているうちには自分の見た事のない祖先のたれやそれの顔が時々そこからのぞいているのではないかという気がしだした。実際時々妙に見たような顔だという気のする事さえある。
 人間の具体的な個々の記憶や経験はそのままに遺伝するものではないだろうが、それらを煎せんじつめた機微なある物が遺伝しているので、そのためにこのような心持ちを起こさせるのではあるまいか。漱石先生の「趣味の遺伝」はまさにこういう点に触れたもののようにも思われる。ラフカディオ・ハーンの書いたものの中にもこのような考えが論じてあった。われわれの祖先を千年前にさかのぼると、今の自分というのはその昔の二千万人の血を受け継いでいる勘定だそうである。そうしてみると自分が毎日こしらえているいろいろの顔は、この二千万人のだれかの顔に相当するかもしれない。こんな事を考えておかしくも思ったが、同時に「自分」というものの成り立ちをこういう立場から、もう一度よく考えてみなければならないと思った。なんだか独立な自分というものは微塵みじんに崩壊ほうかいしてしまって、ただ無数の過去の精霊が五体の細胞と血球の中にうごめいているという事になりそうであった。
 この第三号の自画像はまずどうにか、こうにか仕上げてしまった。ほんとうの意味ではいつまでかかっても「仕上がる」見込みのない事がわかって来たから、ここらでまず一段落ついた事にしてしばらく放置してみる事にした。バックに緑色の布のかかった箪笥たんすがあって、その上に書物や新聞の雑然と置いてあるのがいかにもうるさくて絵全体を俗悪にしてしまうから、あとからすっかり塗りつぶしてそのかわりに暗緑色の幕をたれたようなぐあいに直してみた。そうしたら顔が急に引き立って浮き上がって来た。のみならずそれまでは雑誌の口絵にでもありそうな感じのあった絵が、この改造のためにいくらか落ちついた古典的といったような趣を生じた。そして色の対照の効果で顔の色の赤みが強められるのであった。しかしまた同時に着物がやはり赤っぽく見えだして気に入らなくなったが、もうそれを直すだけの根気がなくなってそのままにしてしまった。
 すぐに第四号の自画像を同大の画布にやり始める事にした。今度はずっと顔を大きくしてそして前よりも細かく調子を分析してやってみようと思った。ところが下図をかき始めにはかなり大きくかいたのが、目や鼻を直し直ししているうちに知らず知らずだんだんに顔が縮小して行くのが実に不思議であった。だいたいできたころに寸法をとってみるとやっと実物の四分の三ぐらいのものになっている事がわかった。それをもう一度すっかり消してやり直す勇気がなかったから今度もまたそのままでやり続けた。
 最初の日は影と日向ひなたとを思い切って強く区別してだいたいの見当をつけてみた。その時にできた顔は不思議に前の第三号の顔に似ていた。何かしら自分の頭の奥にこびりついた誤謬(ごびゅう)が強い力で存在を主張していると見える。
 この絵はとうとう二十日(はつか)余りいじり回したが、結局やはり物にならないで中止してしまわねばならなかった。顔の面積が大きくなっただけに困難は前よりもいっそう大きかった。局部にとらわれて全体の権衡を見失う事もいよいよ多かった。セザンヌが「わかりますか、ヴォラール君。輪郭線が見る人から逃げる」と言ったほんとうの意味はよくはわからぬが、全くそういったような気のする事がしばしばあった。右の頬ほおをつかまえたと思う間に左の頬はずるずる逃げ出した。ずっと前にいつかある画家が肖像をかいているのを見た事がある。その時に画家の挙動を注意していると素人しろうとの自分には了解のできないような事がいろいろあった、たとえば肖像の顋あごの先端をそろそろ塗っていると思うとまるで電光のように不意に筆が瞼まぶたに飛んで行ったりした。油断もすきもならないといったふうに目を光らせて筆をあちらこちらと飛ばせていた。羊の群れを守る番犬がぐるぐる駆け回って、列を離れようとする羊を追い込むような様子があった。今になって考えてみるとあれはやはり輪郭線や色彩が逃げよう逃げようとするのを見張っていたのだと思われた。こういうふうにやらなければならないとなるとなかなかたいへんだと思った。
 実際輪郭線がわずかに一ミリだけどちらかへずれても顔の格好がまるで変わってしまうのは恐ろしいようであった。ある場所につける一点の絵の具が濃すぎても薄すぎても顔がいびつに見えた。そのような効果は絵に接近して見ていてはかえってわからなくて少し離れて見ると著しく見えた。六尺の筆を使う意味が少しわかりかけたのである。
 どうにか顔らしいものができた時にはそれが奇妙にも自分の知っている某○学者によく似ていた。そうとも知らず家内のある者がこの絵を見て「大工か左官のような顔だ」といった。
 それから毎日いろいろと直して変化させている間に、いつのまにかまたこの同じ大工の顔がひょっくり復帰して来るのが不思議であった。会いたくないと思ってつとめて避けている人に偶然出くわすような気がしばしばした。ある日思い切って左の頬ほおをうんと切り落としてから後はこの不思議な幽霊に脅かされる事は二度となくなった。
 いつまでやってもついにできあがる見込みはなさそうに思われだした。ある日K君にこのごろ得たいろいろの経験を話しているうちに同君が次のような事を注意した。「いったい人間の顔は時々刻々に変化しているのをある瞬間の相だけつかまえる事は第一困難でもあるし、かりにそれを捕えて表現したとしても、それはその人の像と言われるだろうか」というような意味であった。そういうふうに考えてみると、単に早取り写真のようなものならば技巧の長い習練によって仕上げられうるものかもしれないが、ある一人の生きた人間の表現としての肖像は結局できあがるという事はないものだとも思われた。あるいはその点に行くとかえって日本画の似顔とかあるいは漫画のカリカチュアのほうが見込みがありそうに思われた。それほどではなくてもまつ毛一本も見残さずかいた、金属製の顔にエナメルを塗ったような堅い堅い肖像よりは、後期印象派以後の妙な顔のほうが少なくもねらい所だけはほんとうであるまいかと思われてくる。この考えをだんだんに推し広げて行くと自然に立体派や未来派などの主張や理論に落ちて行くのではあるまいか。
 仕上がるという事のない自然の対象を捕えて絵を仕上げるという事ができるとすれば、そこには何か手品の種がある。いったい顔ばかりでなく、静物でもなんでも、あまり輪郭をはっきりかくと絵が堅すぎてかえって実感がなくなるようである。たとえばのうぜんの葉を一枚一枚はっきりかいてみると、どうもブリキ細工にペンキを塗ったような感じがする。これは自分の技巧の拙なためかと思うが、しかし存外大家の描いたのでもそんなのがありやすい。これに反してわざと輪郭をくずして描くと生気が出て来て運動や遠近を暗示する。これはたしかに科学的にも割合簡単に説明のできる心理的現象であると思った。同時に普通の意味でのデッサンの誤謬(ごびゅう)や、不器用不細工というようなものが絵画に必要な要素だという議論にやや確かな根拠が見つかりそうな気がする。手品の種はここにかくれていそうである。
 セザンヌはやはりこの手品の種を捜した人らしい。しかしベルナールに言わせると彼の理論と目的とが矛盾していたために生涯しょうがい仕上げができなかったというのである。それにしてもセザンヌが同じ「静物」に百回も対したという心持ちがどうも自分にはわかりかねていたが、どうしてもできあがらぬ自分の自画像をかいているうちにふとこんな事を考えた。思うにセザンヌには一つ一つの「りんごの顔」がはっきり見えたに相違ない。自分の知った人の中には雀すずめの顔も見分ける人はあるが、それよりもいっそう鋭いこの画家の目には生きた個々のくだものの生きた顔が逃げて回って困ったのではあるまいか。その結果があの角ばったりんごになったのではあるまいか。
 こんなさまざまの事を考えながら、毎日熱心に顔を見つめてはかいていると、自分の顔のみならず、だれでも対している人の顔が一つの立体でなくて画布に表われた絵のように見えて来た。人と対話している時に顔の陰影と光が気になって困った。ある夜顔色の美しい女客の顔を電燈の光でしみじみ見ていると頬ほおや額の明るい所がどうしてもまだかわかぬ生の絵の具をべっとり盛り上げたような気がしてしかたがなかった、そしてその光った所が顔の運動につれていろいろに変わるのを見とれているうちに、相手の話の筋道を取りはずしそうになる事が一度ならずあった。その後に、ある日K君と青山の墓地を散歩しながら、若葉の輝く樹冠の色彩を注意して見ているうちに、この事を思い出して話すと、K君は次のような話をしてくれた。ゴンクールの小説に、ある女優が舞台を退いて某貴族と結婚したが、再びもとの生活が恋しくなるというのがある。その最後の条に、夫が病気で非常な苦悶くもんをするのを見たすぐあとで、しかも夫の眼前で鏡へ向かってその動作の復習をやる場面がある。夫がそれを見てお前は芸術家だ、恋はできないと言って突きとばすのでおしまいになっている。K君はこれを読んだ時にあまりに不自然だと思ったが、自分の今の話を聞くとそんな事もないとは限らないような気がすると言った。このような特殊な場合だけ考えると、実際世間で純粋な芸術が人倫に廃頽的はいたいてき効果を与えるといって攻撃する人たちのいう事も無理でないと思われて来る。しかしそういう不倫な芸術家の与える芸術その物は必ずしも効果の悪いものばかりとは思われない。つまり、こういう芸術家やこれとよく似た科学者らは、極端なイーゴイストであるがために結果においてはかえって多数のために自分を犠牲にする事になる場合もあるだろう。そういう時にいつでも結局いちばん得をするのは、こういう犠牲者の死屍ししにむちうつパリサイあたりの学者と僧侶(そうりょ)たちかもしれない。こんな事を考えているうちに、それなら金もうけに熱中して義理を欠く人はどうかという問題にぶつかって少しむつかしくなって来た。
 毎日同じ顔をいじり回しているうちに時々は要領にうまくぶつかる事もあった。なんだか違っているには相違ないが、どう違っているかわからないで困っていたような所が、何かの拍子にうまく直って来る時には妙な心持ちがした。楽器の弦の調子を合わせて行ってぴったりと合ったような、あるいははまりにくい器械のねじがやっとはまった時のような、なんという事なしに肩の凝りがすうっと解けるような気がするものである。
 そういうふうにうまく行った所はもう二度といじるのが恐ろしくなる。それをかまわず筆をつける時にはかなりヒロイックな気持ちになる。しかしそれをやるときっと手が堅くなっていじけて、失敗する場合が多い。進歩という事にさえかまわなければ手をつけないでそのままに安んじておくほうがいわゆる処生の方法とも暗合して安全であるかもしれない。
 それで自画像第四号もとうとう仕上げずにやめてしまった。第三号は第一号のように意地の悪い顔であったがこの第四号は第二号のように温厚らしくできた。二重人格者の甲乙の性格が交代で現われるような気がした。
 今度は横顔でもやってみようと思って鏡を二つ出して真横から輪郭を写してみたら実に意外な顔であった。第一鼻が思っていたよりもずっと高くいかにも憎々しいように突き出ていて、額がそげて顋あごがこけて、おまけに後頭部が飛び出していてなんとも言われない妙な顔であった、どこかロベスピールに似ているような気がした。とにかく正面の自分と横顔の自分を結びつけるのがちょっと困難に思われた。かつて写真屋のアルバムで知らぬ人の顔について同じような経験をした事はあったが、生まれて四十余年来自分の肩の上についている顔についてこんな経験をしようとは思わなかった。
 これから思うと刑事巡査が正面の写真によって罪人を物色するような場合には、目前にいる横顔の当人を平気で見のがすプロバビリティもかなりにありそうだと思った。場合によっては抽象的な人相書きによったほうがかえって安全かもしれない。あるいはむしろ漫画家のかいた鳥羽絵(とばえ)がいちばん有効かもしれない。上手(じょうず)なカリカチュアは実物よりも以上に実物の全体を現わしているから。
 これと連関して自分が前からいだいている疑問は、人間の顔が往々動物に似たり、反対に動物の顔がある人を思い出させる事である。実際らくだに似た人やペリカンに似た人がある。ふぐ、きす、かまきり、たつの落とし子などに似た人さえある。古いストランド雑誌にいろんな動物の色写真をうまくいろいろの人間に見立てたのがあった。ある外国人は日本の相撲すもうの顔を見ると必ず何かの動物を思い出すと言ったが、その人の顔自身がどうも何かの獣に似ているのであった。レヴィンのかいたトルストイの顔などはどうしても獅子ししの顔である。
 そうしてみるとわれわれが人の顔を見る時に頭の中へできる像は決してユークリッド幾何学的のものではないと思われる。ただある、割合に少数な項目の、多数な錯列パーミュテーションによっていろいろの顔の印象ができている。その中に若干「相似」を決定するために主要な項目の組み合わせがあってこれだけが具備すれば残りの排列などはどうでもいいのだろう。この主要の組み合わせを分析するという事はかなりおもしろいしかしむつかしい問題だろうと思ったりした。渾天(こんてん)に散布された星の位置を覚えるのに、星の間を適当に直線で連ねていろいろの星座をこしらえる。それを一度覚えてしまえばいつ見てもそれだけの星がまとまって見えるし、これとだいたいに似た点の排列を見ればそれが実際にはかなりいびつになっていてもすぐにそれと認められる。われわれの顔に対する記憶もこれと似たものではあるまいか。星座の連結法はむしろ任意的だが顔の場合にはそれが必然的ですべての人間に共通であるとすればこれも一つの不思議な問題になる。
 いろいろの「学」と名のつく学問、ことに精神的方面に関したもので、事物の真を探究するとは言うものの、よく考えてみると物の本来の面目はやはりわからないで、つまりは一種の人相書きか鳥羽絵(とばえ)をかいている場合も多いように思われるが、そのような不完全な「像」が非常に人間に役に立って今日の文明を築き上げたと思うと妙な気持ちがする。ただ甲乙二人の描いた人相書きがちがう場合にどっちも自分のかいたほうが「正しい」と言って、主張するのはいいとしてもおしまいにはにがにがしいけんかになるのはどんなものだろう。物理学では相対原理の認められた世の中であるのに。
 横顔はとにかく中止として今度はスケッチ板へ一気呵成(いっきかせい)に正面像をやってみる事にした。二十日(はつか)間苦しんだあとだから少し気を変えてみたいと思ったのである。今度は似ようが似まいがどうでもいいというくらいの心持ちで放胆にやり始めてただ二日で顔だけはものにしてしまった。ところがかえってこのほうがいちばん顔が生きていてそしていちばん芸術的に見えた。その上これが今までのうちで最もよく似ているという者もあった。なんだかあまりあっけなくて、前の絵にいつまでもかじりついていたのがばかばかしいような気がしたが、実はやはり前の絵で得た経験の効果がこのスケッチに現われたかもしれない。
 第一号から最後の五号までならべて見ると、ずいぶんいろいろな顔である。そしていずれも偶然の産物である。この偶然の行列の中から必然をつかまえるのは容易な事ではないと思った。すべてに共通なのは目が二つあるとかいうような抽象的な点ばかりかもしれない。もっとも顔自身の日々の相が偶然のものではあろうが。
 毎日変わっている顔の歴史を順々にたぐって行けば赤ん坊の時まで一つの「連続コンチニウム」を作っているが、これを間断なく見守っていない他人に向かって子供の時の顔と今の顔とを切り離して見せてそれが同人だという事を科学的理論的に証明しようとしたらずいぶん困難な事だろう。何十年来一つ家に暮らした親にでも、自分がある夜中に突然入れ換わったものでないという事を「証明」しなければならないとしたら困るだろう。第一自分自身にさえ子供の時と今との連鎖を完全に握っている人はありそうもない。こんな「証明」の必要はめったに起こらないから安心しているだけである。しかしたとえば生まれたばかりで別れて三年後に会った自分の子供を厳密な意味で確認しうる人があるだろうか。しあわせな事には世の中では論理的の証明はわりに要求されないで、オーソリティの証言が代用されそのおかげで物事が渋滞なく進捗しんちょくするのであろう。

 自画像をかきながら思うようにかけない苦しまぎれに、ずいぶんいろんな事を考えたものである。それをもう一ぺん復習するようなつもりで書いてみるとずいぶんくだらない事を考えたものだと思う事もあるが、また中にはもう少し深く立ち入って考えてみたいと思う事もないではない。(大正九年九月、中央公論)  ] 
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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その十三)  [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その十三「昭和四年(一九二九)」

[東洋城・五十二歳。松山及び宇和島にて俳諧道場、東京にて屋外早天道場、出羽荘内に訪ふ。改造社版『現代日本文学全集』に作品を寄す。]

[ 出羽荘内を訪ふ 十四句

葭切(ヨシキリ)や荘内小田のこゝを鳴く(鶴岡駅から俥にて三里余、車上口占)
月山の雪や車上の青嵐
田植女や真白き足を戻り来る
なつかしき出羽荘内の田植かな
葭切に備前守(ビゼンノカミ)の入部かな(「記」には、我祖先光広、松根の城へ移り、名字を改めて、松根備前守と申しけるなりと)
鮎川や鮎とらなくに里閑(シズ)か(途、一大急流を超ゆ、赤川といふ)
田植人黒川能の事聞かん(松根邑は今、黒川村の一字をなせり)
語り出す元和その頃の事や窓涼し(旧事に明るき一老を求め得て、語り伝へるところを聴く)
夏川の流(ナガレ)の急に見入りけり(備前守の城趾、今は河中となり了し、僅にその一部を残す)
角櫓(スミヤグラ)こゝにありしと若葉かな
濠 (ホリ・シロ) 跡といふでふ葭の茂りかな
青嵐三百年の無沙汰かな(中祖伊予に移りて二百五十年、この旧郷を訪ふものなし)
故郷(フルサト)の故郷淋し閑古鳥(帰路車上。郭公を聞く)
郭公(カッコウ)のあちらこちらはなかりけり   ]

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-10

http://sp.mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=143960

松根洋城の句碑一.jpg

[(松根備前守光広/まつねびぜんのかみあきひろ)~俳人・松根東洋城の先祖~

 義光の弟である義保の子。義保は長瀞城主。兄の片腕となって出羽南部の平定に尽力したが、天正19年(1591)に戦死。ときに光広は3歳の幼児だった。義光がこれを哀れんで、息子同然にいつくしみ育てたと、宇和島市に残る古記録は伝えている。
 光広は成人の後は山形市漆山に居住したこともあったが、西村山の名門白岩家の名跡を継いで「白岩備前守」を名乗る。
 慶長5年(1600年)の関が原合戦、長谷堂合戦のときは12、3歳だったから、まず戦陣の経験はなかっただろうと思われる。元和2年(1616)、庄内櫛引郷に居城松根城を築いて松根姓を名乗る。一1万2千石、一書に1万3千石とある。
 義光に育てられたことに対する報恩の気持ちからか、最上家を思う心が人一倍厚い人物だったようだ。
 熊野夫須美神社に、那智権現別当あて、年次無記8月20日付、光広の書状が一通ある。
 「最上出羽守義光が病につき、神馬一疋ならびに鳥目(銭)百疋を奉納いたします。御神前において御祈念くださるようお頼みします」という内容である。
 「白岩備前守光広」の署名からみて、松根移転以前であることは明らか。義光の病が重くなった慶長18年(1613)のものと推定される。出羽からははるかに遠い紀州那智に使者を遣わして、病気平癒の祈りをささげたのである。あるいは、光広はそのころ上京中だったかもしれない。
 義光が亡くなり、跡を継いだ駿河守家親も3年後の元和3年ににわかに亡くなり、その後を12歳の少年、源五郎家信が継ぐ。とかく問題行動を起こしがちな幼い主君に、家臣たちは動揺する。
 家を守りたてるべき重臣たちのなかには、義光の四男山野辺光茂こそ山形の主にふさわしいとして、鮭延越前、楯岡甲斐らの一派が公然と動きはじめる。
 かくてはならじ、お家のためになんとかせねばと、光広は「山野辺一派が策謀をめぐらし当主家親を亡きものにした」と幕府に直訴した。幕府でも一大事とばかり徹底的に究明したが、事実無根と判明。偽りの申し立てをした不届きの所業として、光広は九州柳川の立花家にあずけられてしまう。彼はここ柳川でおよそ五十年を過ごす。藩主立花宗茂との親交を保ちつつ、寛文12年(1672)84歳の生涯を終える。
 その子孫が四国宇和島の伊達家につかえ、家老職の家柄を伝えて維新を迎えた。
 高名な俳人松根東洋城(本名豊次郎1878~1964)は、この家の9代目にあたる。宮内省式部官などを勤めながら夏目漱石の門下として俳壇で活躍、のち芸術院会員となった。
 昭和4年6月、父祖の地である庄内の松根から白岩をおとずれた東洋城は、昔をしのんで次のような句を残した。
  故里の故里淋し閑古鳥
  青嵐三百年の無沙汰かな
 出羽の最上から九州柳川へ、そして更に四国の宇和島へ。先祖のたどった長い長い3百年の道程だった。宇和島市立伊達博物館の庭には、「我が祖先(おや)は奥の最上や天の川」の句碑がある。
 最上家の改易で会津・蒲生氏により接収破却された松根城の跡には、最上院がある。光広の妻が晩年に住んだという松根庵には、彼女の墓碑が寂しくたっている。(片桐繁雄稿)]
(「最上義光歴史館」)    ]

[寅日子(寅彦)・五十二歳。
3月12日、帝国学士院で“Ignition of Combustible Gases with Three-Part Spark”(with K. Yumoto and R. Yamamoto)を発表。3月19日、地震研究所で「砂層の崩壊に関する実験」(宮部と共著)を発表。
4月1日、水産講習所の嘱託を解かれ、新たに出来た水産試験場において物理学および海洋学に関する調査を嘱託される。4月16日、地震研究所談話会で「火山の形(第二報)」を発表。
5月12日、帝国学士院で“On the Effects of the Vapours of Halogen Compounds upon the Form and Structure of Long Sparks”(with U. Nakaya and R. Yamamoto)を発表。6月12日、“On the Form of Volcanos”を発表。
6月17日、航空学談話会で「金属薄膜に関する二三の実験」(田中信と共著)を発表。6月18日、地震研究所談話会で「丹後震災地付近に於ける地殻の変動」(宮部と共著)を発表。
7月3日、理化学研究所で脳貧血を起す。
10月12日、帝国学士院で“Deformation of the Earth Crust and Topographical Features”(with N. Miyabe)を発表。10月15日、地震研究所談話会で「桜島の地形変化」(宮部と共著)および「石油の生成と火山作用」を発表。
11月19日、理化学研究所学術講演会で「火山灰の接触作用」(平田森三と共著)を発表。
12月17日、地震研究所談話会で「関東地方に於ける地殻変動」(宮部と共著)を発表。この頃からしきりに映画を見るようになった。

「年賀状」、『東京朝日新聞』、1月。
「化物の進化」、『改造』、1月。
『万華鏡』、鉄塔書院、4月。
「数学と語学」、『帝国大学新聞』、4月。
「藤原博士の『雲』」、『新愛知』、6月。
「験潮旅行断片」、『大阪朝日新聞』、7月。
「デパートの夏の午後」、『東京朝日新聞』、8月。
「さまよへるユダヤ人の手記より」、『思想』、9月。
「野球時代」、『帝国大学新聞』、11月。   ]

荒海やこゝに静かな草の庵(七月二十八日)

※ この句については、『寺田寅彦全集 文学篇 第十六巻』に、その全文が収載されている。

[ 七月二十八日 千葉県安房郡千倉町より牛込区余丁町四一松根豊次郎氏へ(絵葉書)
子供を送りて昨日参り一泊致候
涼しいといふことは暑いといふことの一つの相に過ぎず
 荒海やこゝに静かな草の庵
  七月二十八日   ]

 この葉書の前に、次のような、三吟(東洋城・寅日子・蓬里雨)」の文音連句(書簡による連句の付け合い)のものがある

[ 五月二十三日 京橋区銀座不二家より牛込区余丁町四一松根豊次郎氏へ(はがき、小宮豊隆との寄せ書=小宮氏の文面省略)
今夜不二屋で左記
(ギンザフジヤ)
クリームの溶けあし見るや五月雨  豊(※蓬里雨)
苺の色を奪ふ口紅         寅(※寅日子)
あとあとよろしく
 五月二十三日   ](※仙台の豊隆が上京して、銀座の不二屋で、寅彦と、やりかけの連句の付け合いを作り、それを東洋城に回送したものであろう。)


[豊隆(蓬里雨)・昭和四年(一九二九)、四十六歳。三月合著『芭蕉俳諧研究』出版。]

みやこ町歴史民俗博物館.jpg

みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」
https://adeac.jp/miyako-hf-mus/catalog-list/200020

 上記の右端の「速達便」(大正七年十一月五日付け)は、『寺田寅彦全集 文学篇 第十六巻』に収載されている。

[十一月五日 火 午前八時~九時 本郷区駒込曙町一三より赤坂区青山南町六ノ一〇八小宮豊隆氏へ (はがき 速達便)
御端書難有う
小生も木曜の方が都合が宜しう御坐います
しかし水曜でも都合のつかぬ事はありませんが少し遅くなります、どうぞよろしく
 十一月五日    ]

※ 当時の小宮豊隆は、「漱石全集」の編纂に全力を投入していて、その資料収集に関する寅彦との書簡のやり取りが多い。そして、「木曜」は、「木曜会」(漱石生前の漱石門の面木―の集まり、漱石没後は命日の「九日会」)の、豊隆が当番の時に、寅彦は参加する場合が多かったようである。東洋城は、「渋柿」の編集に追われて「九日会」には、顔を出さなかったように、当時の書翰から窺える。

東大構内(寺田寅彦画).jpg

「東大構内(寺田寅彦画)」(『寺田寅彦画集(中央公論美術出版)』)
[制作年月=大正八・九/種別=墨に淡彩/基材=和紙/大きさ=25.0×15.0㎝]

姉妹(A) (寺田寅彦画).jpg

「姉妹(A) (寺田寅彦画)」(『寺田寅彦画集(中央公論美術出版)』)
[制作年月=大正八・九/種別=墨に淡彩/基材=和紙/大きさ=34.0×23.3㎝]

※ 「大正七年一月十四日付け小宮豊隆宛寺田寅彦書翰」に、「小生は近頃少し気が狂つて徘(原・ママ=俳)句を作つて見たり畫いて見たりして居ます しかし一向物にならないので余り永くは続くまいかと思居候 今日は青楓(※津田青楓)君と野上(※野上豊一郎)君とが来て宅の掛物を見て貰ひました」などとあり、主として、東洋城からの依頼の「渋柿」に搭載する「俳句」や、津田青楓を師として、絵画制作などに没頭するようなことが、しばしば書翰に見られてくる。しかし、この当時は、文音による「俳諧」(連句)関係の書簡は見受けられない。

(参考) 「三四郎」の遺族が漱石の書簡寄贈 福岡・みやこ町に(「日本経済新聞社」)

[夏目漱石の弟子で、小説「三四郎」のモデルとなったドイツ文学者、小宮豊隆の遺族が、漱石から受け取った手紙や写真など計477点を小宮の出身地の福岡県みやこ町に寄贈した。「吾輩は猫である」の猫の死を伝える「死亡通知」など貴重な内容。みやこ町が13日までに明らかにした。

小宮は1905年に東京帝国大に入学。身元保証人になった漱石に弟子入りして交流を深め、小説の校正も手伝った。

みやこ町によると、漱石の手紙は122点。「猫の死亡通知」は1908年9月14日付で、死んだ状況や埋葬の様子を伝え「主人(漱石)は三四郎執筆中で忙しいので、会葬には及びません」とユーモアあふれる。

幼くして父親を失った小宮は、漱石を父親のように慕っていた。1906年12月22日付の手紙で漱石は「僕をお父さんにするのはいいが、大きな息子がいると思うと落ち着いて騒げない」とつづっている。

ほかに漱石の漢文紀行「木屑録(ぼくせつろく)」や、千円札の肖像になった写真、同じく弟子だった物理学者、寺田寅彦の手紙226点もある。いずれも東京都杉並区在住で三女の里子さんが「故郷で生かしてほしい」と寄贈した。

町歴史民俗博物館の川本英紀学芸員は「小説からは見えない師弟関係が伝わってくる」と話している。同博物館で、手紙など約10点を14~26日に展示する。〔共同〕 ]
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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その十二)  [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その十二「昭和三年(一九二八)」

[東洋城・五十一歳。「東洋城百詠」刊。渋柿大会開催。新那須温泉、大平山に遊ぶ。東洋城百茶碗が作られた。]

勧進帳一.jpg

[歌舞伎十八番之内『勧進帳』 明治23年 豊原国周(1835年-1900年)筆] 
http://yagi.la.coocan.jp/image1/kanjincho_01509.gif

「歌舞伎十八番の内 勧進帳 百十一句」(東洋城作)の十句(抜粋)

歌舞伎十八番勧進帳や春茲に(前書「開幕 舞台面」)
白梅やすこし藍さす白よけれ(前書「富樫(左団次)の顔」)
桜貝義経は若うつくりけり(前書「義経(宗十郎)の出」)
どんじりに弁慶田螺ひかへけり(前書「弁慶(羽左衛門)の出」)
薄霞む安宅の関へかゝりけり(前書「いざ通らんと旅衣」)
春浅き勧進帳の白紙かな(前書「固より勧進帳のあらばこそ」)
九字の真言春郭然と説かれけり(前書「夫れ九字の真言と云つぽ」)
春見張る団十郎の眼や昔(前書「元禄見得」)
打擲(チョウチャク)す笠の音なり春霰(前書「思へば憎しや」)

勧進帳二.jpg

https://enmokudb.kabuki.ne.jp/repertoire/673/
【左】[左から]源義経(坂田藤十郎)、武蔵坊弁慶(市川團十郎)、富樫左衛門(松本幸四郎) 平成24年10月新橋演舞場
【右】[左から]駿河次郎(市川高麗蔵)、亀井六郎(大谷友右衛門)、武蔵坊弁慶(松本幸四郎)、片岡八郎(中村鴈治郎)、常陸坊海尊(松本錦吾)、富樫左衛門(市川團十郎) 平成24年10月新橋演舞場

唄の喉※伊十郎とはうらゝかな(前書「つひに泣かぬ弁慶も」、※=長唄・芳村移十郎)
寄り離れ小貝と春の浪とかな(前書「判官御手をとり給ひ」)
春淋しきさだめと人の嘆きけり(前書「いかなれば義経は」)
舞ひ舞ふや扇と数珠と皆うらゝ(前書「たえずとうたり」)
一飛び二飛びや東風に遠かる(前書「虎の尾を踏み毒蛇の口を」)
袖巻きの見得やすくりと松余寒(前書「幕切(富樫舞台真中へ)」)


[寅日子(寅彦)・五十一歳。1月17日、地震研究所談話会で「関東地震に関係せる地殻の
移動に就て」(宮部と共著)を発表。
2月12日、帝国学士院で“On the Vertical Displacement of the Sea Bottom in Sagami Bay Discovered after the Great Kwanto Earthquake of 1923”, “On the Horizontal Displacements of the Primary Trigonometrical Points Discovered after the Kwanto Earthquake”(with N. Miyabe)および“On the Geophysical Significance of the Crustal Movement Found after the Great Earthquake of 1923”を発表。
3月12日、帝国学士院で“On an Irregular Mode of Spherical Propagation of Flame”(with K. Yumoto)を発表。3月20日、地震研究所談話会で「丹後地震に於ける地殻変動に就て」(宮部と共著)および「関東地震と海面」(山口生知と共著)を発表。
3月21日、測地学委員会の用件で酒田へ向かう。4月12日、帝国学士院で“On Gustiness of Winds”を発表。4月23日、航空学談話会で「Convectionに依る渦流」を発表。
4月24日、地震研究所談話会で「丹後地震と地殻変動」(宮部との共著)を発表。
5月12日、帝国学士院で“Effect of an Irregular Sucession of Impulses upon aSimple Vibrating System—Its Bearing upon Serismometry”(with U. Nakaya), “Relation betweenHorizontal Deformation and Postseismic Vertical Displacement of Earth Crust which Accompanied the Tango Earthquake”(with N. Miyabe)および“Postseismic Slow Vertical Displacement of Earth Crust and Isostasy”(with N. Miyabe)を発表。
5月22日、地震研究所談話会で「丹後地方地殻変動」(宮部・東庄三郎と共著)および「火山の形に就て」(東と共著)を発表。5月頃から、バイオリンを水口幸麿について習うようになる。
6月12日、帝国学士院で“Vertical Displacements of Sea Bed off the Coast the Tango Earthquake District”(with S. Higasi)を発表。
6月19日、地震研究所談話会で「気圧と海水面」および「地震と海底変動」を発表。
7月3日、同談話会で「横圧に依る砂層の崩壊」(宮部と共著)および「島弧の形状に就て」を発表。7月12日、帝国学士院で“On a Characteristic Mode of Deformation of Sea Bed”(with S. Higasi)を発表。
9月25日、地震研究所談話会で「地震史料の調査(第一報)」および「地震帯に就て」を発表。10月12日、帝国学士院で“Ignition of Gas by Spark and Its Dependency on the Nature of Spark”(with K. Yumoto)および“On the Effect of Cyclone
upon Sea Level”(with S. Yamaguti)を発表。
11月26日、航空学談話会で「液体に浮遊する粉末と液との相対運動に就て」(玉野と共著)を発表。

談話「ロンドン大火と東京火」、『日本消防新聞』、1月。
「日本楽器の名称と外国との関係」、『大阪朝日新聞』、1月。
「土佐の地名」、『土佐及土佐人』、1月。
詩「三毛の墓」、『渋柿』、2月。
「比較言語学に於ける統計的研究法の可能性に就て」、『思想』、3月。
「最上川象潟以後」、『渋柿』、4月。
「夏目先生の俳句と漢詩」、『漱石全集』第13巻、月報、5月。
「羽越紀行」、『渋柿』、5月。
「子規の追憶」、『日本及日本人』、9月。
「スパーク」、『東京帝国大学理学部会誌』、9月。
「ルクレチウスと科学」、岩波講座『世界思潮』、9月。
「雑感」、『理科教育』、11月。
「二科狂想行進曲」、『霊山美術』、11月。


※[「夏目先生の俳句と漢詩」、『漱石全集』第13巻、月報、5月。]

https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/c2306351243-1

※[「子規の追憶」、『日本及日本人』、9月。]

https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card24418.html

※「小宮豊隆宛寅彦書翰」の句など(大正十一年・一九二四~昭和三年・一九二八)

(大正十一年・一九二四)

物言へど猫は答へぬ寒さ哉(「日記の中より 二句」、一月三十一日)
冰(コオ)る夜や顔に寄り来る猫の鬚(ヒゲ) (同上)

(大正十二年・一九二五)

春の江は靄(モヤ)に暮れ行く別れ哉(「小宮豊隆氏送別の句(錦水にて)」、三月)

(大正十四年)

葉がくれに秋にうなづく柘榴哉(「小宮豊隆氏宛手紙の中より」、九月三十日)

(大正十五年・昭和元年・一九二六)

狼の群に入らばや初時雨(「小宮豊隆氏宛端書の中より」、一月十四日)

(昭和二年・一九二七)

稍(ヤヤ)寒く余白の※出来し(※再案=のこりし)手紙哉(小宮豊隆氏宛手紙、九月二十五日)

(付記)「寺田寅彦年譜」の「昭和二年(一九二七)」に、「八月、小宮豊隆、松根東洋城、津田青楓と塩原温泉に行き、連句を実作する」とあるが、この時の連句は、『松根東洋城全句集(下巻)』にも『寺田寅彦全集・文学篇・第七巻』にも収載されていない。また、この年の七月に、「十八日仙台に行き、十句日小宮豊隆と松島に遊んだ。瑞巌寺、五大堂を見てパークホテルに投じ月を待つて連句を作つた」(『寺田寅彦全集・文学篇・第七巻』)とあるが、この連句も収載されていない。なお、この時の俳句は、昭和二年に、次のとおり、四句収載されている。

島は暮れて残る明りの海と空(七月十九日松島、三句)
塩釜は夕立するらん沖夕映(同上)
涼風や寝起の心よみがへる(同上)
波に飛ぶ蛍を見たり五大堂(「松島より一句」・「渋柿(九月)」)

(昭和三年・一九二八)

※ 上記の年譜に「3月21日、測地学委員会の用件で酒田へ向かう。」とあるが、これは、寅彦の「羽越紀行」(昭和三年五月「渋柿」)で、さながら、寅彦の「奥の細道」(句入りの散文)でまとめられている(『寺田寅彦全集・文学篇・第七巻』)。

「羽越紀行」(昭和三年五月「渋柿」)一部抜粋

[ 昭和三年三月二十一日
 夜の九時半上野駅を出で立つ。(中略)

駅の名の峠と呼ぶや雪の声
粉雪やいづこ隙間を漏るゝ風

 生来五十余年未だ北国の冬を知らず、(中略)

雪の国もんぺ(モンペ)の国へ参りける(「出羽の国=山形・秋田」の山形の米沢?)

 やがて赤湯を過ぐ。

温泉の町は雪に眠りて旭日哉(赤湯温泉)

 新庄にて乗換ふ。

雪の汽車北と西とへ別れ哉

 雪国の自然には暖国の人の思ひ及ばざる現象もありけり。

雪の原穴の見ゆるは川ならめ

 最上川は雪解の水を集めたり。(中略)

山の根の雪を噛む濁り哉(最上川)

 右岸既に春をきざせど、左岸は日を背にして未だ厳冬の鎖し難く。

あのやふに曲がりて風の氷柱哉

 山は左右に開けて汽車日本海岸に近づく。(中略)

荘内の野に日は照れど霰哉(荘内平野)

 酒田の町になにがしの役場をたづねて後、(中略)

しべりあ(シベリア)の雪の奥から吹く風か(坂田)
渡船は帆を巻きおろす霰哉(同上)
やふやふ(ヨウヨウ)に舟岸につく霰かな(同上)

 明くる朝まだき象潟に赴く。(中略)

象潟は陸になりける冬田哉(象潟)
しんかんと時雨るゝ松や蚶満寺(同上)
やよ鴉汝(ナレ)もしぐれて居る旅か(同上)

 有耶無耶の関の跡此のあたりかと汽車の窓より眺めて過ぐれとさだかならす、(中略)

有耶無耶の関は石山霰哉
あの島に住む人ありて吹雪哉

 終日海岸を西へ南へ越後に下る。途上温海といへる温泉の町に一汽車の暇を立ち寄る。(中略)

自動車のほこり浴びても蕗の薹(温海温泉)

 日本海は悠久の「地の悲み」を湛へて沖の彼方に遠く消え去るを見る。

雪霰帆一つ見えぬ海淋し
荒海に消え入る雲の何ともな

 (前略) 翌朝阿賀川の峡谷を遡る。

残雪や名のない山の美しう(阿賀川)

 (前略) 会津の野を過ぎて猪苗代に近づく、磐梯山は神々しく碧空に輝きてめでたく。

御山雪裾野芝原蕗の花
眠るかや湖(ウミ)をめぐらす雪の山

 旅三日雪の国々めぐりて再び武蔵野に入れば、(中略)

しばらくの留守をたづねて来た春か
飛行機と見えしは紙鳶(タコ)に入る日かな

 旅は愛し侘し、天下の広き、(中略)

三毛よ今帰つたぞ門の月朧

 三日の留守も三年の旅も「量」こそかはれ「質」は変らじ。

珍らしや風呂も我家の朧月

 さればこそ旅は楽しく面白けれ。(中略)

蝸牛の角がなければ長閑かな

又想ふ。

蝸牛の角があつても長閑かな


[豊隆(蓬里雨)・昭和三年(一九二八)、四十五歳。四月翻訳シュニツラー『アナトール』(岩波文庫)出版。]

http://karatsujuku.com/wp-content/uploads/2022/06/karatsujuku_lecture147_resume.pdf

[「寺田寅彦の俳諧と物理学(大嶋 仁)」(抜粋)

「東洋城・寅日子・蓬里雨の三吟」

雪の蓑ひとつ見ゆるや峡(かひ)の橋  東洋城
空はからりと晴れわたる朝       蓬里雨
⼊営を見送る群の旗立てて       寅日子
酒にありつく人のいやしき         城
後の月用もないのに台所          雨  
飛んで出でしは竈馬(いとど)なり     子
(「渋柿」1926 所収の歌仙の初6句)

松根東洋城は漱石に英語を習う。漱石や高浜虚子と異なり連句を目指す。
小宮豊隆は漱石に英文学を習った独文学者で蕉風復興を目指す。
寺田寅彦は上記二者と仲がよく、共に連句制作をした。

「寅彦の連句論」

連句の一句の顕在的内容は、やはりその作者の非常に多数な体験のかなめである。そうしてその多くの潜在的思想の網が部分的に前句と後句に引っかかっているのである。
もちろん前句には前句の作者の潜在思想の網目がつながっているのであるが、付け句の作者の見た前句にはまたこの付け句作者自身の潜在的な句想の網目につながるべき代表的記号が明瞭に現われているのである。
そうしてまたこの二つの句を読む第三者がこの付け合わせを理解し評価しうるためにはこの第三者の潜在思想中で二句が完全に連結しなければならないのである。しかもこの際読者の網目と前句作者の網目と付け句作者の網目とこの三つのものが最もよく必然的に重なり合い融け合う場合において、その付け合わせは最もすぐれた付け合わせとして感ぜられるのである。このような機巧によって運ばれる連句の進行はたしかにフロイドの考えたような夢の進行に似ているのである。
しかし夢の場合はそれが各個人に固有なものであって必ずしもなんらの普遍性をもたなくてもよい。しかし連句においては甲の夢と乙の夢との共通点がまた読者の多数の夢に強く共鳴する点において立派な普遍性をもっており、そこに一般的鑑賞の目的物たる芸術としての要求が満足されているのである。 (「連句雑俎」1931)

 映画と連句とが個々の二つの断片の連結のモンタージュにおいてほとんど全く同一であるにかかわらず、全体としての形態において著しい相違のあるのは、いわゆる筋が通っているのと通っていないのとの区別である。多くの映画は一通りは論理的につながったストーリーの筋道をもっているのに、連句歌仙の三十六句はなんらそうした筋をもたないのである。
(…)しかし「アンダルーシアの犬」と称する非現実映画(往来社版、映画脚本集第二巻)になるともはやそういう明白な主題はない。そのモンタージュは純然たる夢の編成法であり、しかもかなりによく夢の特性をつかんでいる。
たとえば月を断ち切る雲が、女の目を切る剃刀を呼び出したり、男の手のひらの傷口から出て来る蟻の群れが、女の脇毛にオーバーラップしたりする。そういう非現実的な幻影の連続の間に、人間というものの潜在的心理現象のおそるべき真実を描写する。この点でこの種の映画の構成原理は最も多く連句のそれに接近するものと⾔わなければならない。 (「映画芸術」1932)  ]
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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その十一) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その十一「昭和二年(一九二七)」

[東洋城・五十歳。塩原に句碑建立。伊予に遊ぶ。芥川龍之介自殺。「添削実相」掲載始まる。]

松根東洋城両面碑 塩湧橋先.jpg

〇松根東洋城両面碑 塩湧橋先
【碑文】
 「さまみえて土になりゐる落葉哉」表
 「すずしさやこの山水に出湯とは」裏 (塩原四季郷より)
http://hotyu.starfree.jp/historicalspots/bungakuhi/bungakuhi.html

 『東洋城全句集(上巻)』の「昭和二年」には、「塩原・四季郷」と題して、三十二句が収載されている。また、『東洋城全句集(中巻)』には、「昭和二年七月、塩原四季郷両面碑(西面)前にて」と題しての、当時の東洋城の肖像写真が掲載されている。この時の句に、上記の「両面句碑」の句に似た、次のような句がある。

涼しさや橋の下なる碧き山
涼しさや街道一つみえゐる灯(前書「瞰(かん) 流亭」)
径(ミチ)岐(キ)していづれか深き落葉かな

[寅彦=寅日子・五十歳

file:///C:/Users/user/Downloads/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%AF%85%E5%BD%A6%E5%B9%B4%E8%A1%A8.pdf


3月10日、前年12月に辞職希望を申し出ていたが、理学部勤務を免ぜられ、地震研究所所員専任となる。3月12日、帝国学士院で“On Thermoelectric and Electrothermal Properties of Bismuth Single Crystal”(with T. Tsutsui)を発表。3月15日、地震研究所談話会で「砂の崩れ方の話」(宮部直巳と共著)を発表。
4月2日、数学物理学会で“Some Experiments on Periodic From of Convection Currents”(with Second Year Students)を発表。4月12日、帝国学士院で“On Thermoelectric Phenomena of Thin Metallic Films”(with S. Tanaka and S. Kusaba)を発表。4月19日、地震研究所談話会で「地球の激震帯と其長周期移動」(宮部と共著)を発表。
5月11日、帝国学士院“On a Long Period Fluctuation in Latitude of the the Macroseismic Zone of the Earth”(with N. Miyabe)を発表。5月17日、地震研究所談話会で「弾性波の実験(第二報)」(坪井と共著)および「日本海沿岸の島列に就て」を発表。5月30日、航空学談話会で「風の短周期変化に就て」(玉井光男と共著)。
6月21日、地震研究談話会で「沿岸島列に就て」および「島弧の生成に関する実験」(宮部と共著)を発表。7月12日、帝国学士院で“On the Vortical Motion of Fluid Produced by Rotating Body”(with K. Hattori)を発表。
9月20日、地震研究所談話会で「土佐南海岸の汀線変化に就て」(岸上冬彦・小平孝雄と共著)および「統計地震学に於けるSchwankung の理論の応用」(岸上・河角広と共著)を発表。
10月12日、帝国学士院で“Formation of Periodic Columnar Vortices by Convection”および“Residual Thermoelectric Phenomena of Apparently Homogeneous Wire”(with T. Tsutsui and M.Tamano)を発表。10月14日、水産講習所の海洋調査担当官会議で「大気の運動に就て」を講演。
10月18日、地震研究所談話会で「弾性波の実験(第三報)」(坪井と共著)、「微動遮断に関する堀の効果」(坪井と共著)および「砂の崩壊に就て」(宮部と共著)を発表。11月15日、地震研究所談話会で「本邦に於ける近年の山崩の分布」を発表。
12月12日、帝国学士院で“On the Mechanism of Formation of Step-Faults in Sand Layers—A Possible Analogy with Slip Bands in Deformed Metallic Crystals”(with N. Miyabe)を発表。この年の秋頃よりアイヌ語、マレイ語などの辞典から土佐の地名の語源を捜すことを試みる。

「断片」、『明星』、1月。
「備忘録」、『思想』、9月。
「Odisin no Okorikata ni kwansuru hitotuno Syukisei」、『RS』、9月。
「松島より」、『渋柿』、9月。
「怪異考」、『思想』、11月。
「昭和二年の二科会と美術院」、『霊山美術』、11月。
「人の言葉—自分の言葉」、『東京帝国大学理学部会誌』、12月。 ]

「断片」、『明星』.jpg

「断片」、『明星』、1月。(抜粋)
https://aozora-dev.binb.jp/reader/main.html?cid=42221


[豊隆(蓬里雨)・昭和二年(一九二七)、四十四歳。七月翻訳ストリンドベリ『父』出版。十二月翻訳ストリンドベリ『幽霊曲』(岩波文庫)出版。]


「歌仙『みちのく人の巻』(昭和二年二月「渋柿」)」

 送別
あすよりはみちのく人や春の雨    東洋城
まだ雪のこる西側の山        蓬里雨
沈丁花こぼるゝ里に移り来て     寅日子
筧は口をつけぬならはし         城
庭の木に梟来て啼く明けの月       雨 月
納豆うれしき肌寒の朝          子

年々を脚気の癒ゆる露深み        城
あすからかゝる約束の本         雨
切貼の馴れぬ手振もうら若く       子
母子(オヤコ)小町と唄はれにけり     城
一々に値上げ煙草の詫をいひ       雨
蠅取紙に光る秋の日           子
鰡(ボラ)鰯秋刀魚のきほふ魚の棚     城
蹇(アシナエ)の子のギス飼うてゐる    雨
針程のことを兎角に言ひつのり      子
白いうなじをふるはせて泣く       城 恋
斵(キ)れて来て見付通れば花に月     雨 花・月・恋 
誰が捨てたか土手の猫の子        子
ナオ
蠶(コ)の頃の苗代の頃の忙しさ      城
家出の兄のよこす長文          雨
繰り言も浮世長屋の隣同士        子
箍(タガ)のはじけた桶提げて行く      城
大木の榎実こぼるゝ塀の前        雨
流れにまかせ葦を刈る船         子
悲しきは謡の中の秋の風         城
義理立たねばとあかで別るゝ       雨 恋
腰掛に一夜仮寝の夢覚めて        子 恋
朝のうちからわかる雷          城
先ず孫に月見団子をわけてやり      雨 月
白い紅いはおしろいの花         子
ナウ
秋の空丘の丸きに家建ちて        城
踏切越せば税関がある          雨
夜もすがら何処の鍛冶屋の鎚(ツチ)の音  子
幾日の果ての葬(ホフリ)悲しき      城
此度は花見にさとの母連れて       雨 花
小鮎の鰭(ヒレ)にいさゝかの色      子

※ この三吟歌仙で目立つのは、「二花三月」の「月・花の定座」を、脇句作者の「蓬里雨」が独占しているということである。

(オ「五句目」)
庭の木に梟来て啼く明けの月 蓬里 雨→月(「梟」=冬、冬の月、定石は秋の月。)
(ウ「十一句目」)
斵(キ)れて来て見付通れば花に月 蓬里雨→花・月・恋(「斵(キ)れる」=「女との縁を切る」、「見付」=「見付遊郭」、「花」=春で「春の月」、定石は夏の月。) 
(ナオ「十一句目」)
先ず孫に月見団子をわけてやり 蓬里雨→月(「月見団子」=秋、「人情自」の秋の月。)
(ナウ「五句目」)
此度は花見にさとの母連れて 蓬里雨→花(「花見」=春。「人情自他半」の花。)

 三吟の場合は、「A→B→C」の順を繰り返すと、「B」が「二花三月」を独占するので、宗匠・主宰(「捌き」)が、「A=発句と月、B=花と月、C=花と月」などと、「月花一句」(「月と花の句は、一人で独占しないで、他の連衆にも配分する)というルール」で、捌いていくのだが、その配慮は、ここでは完全に無視されている。
 これらを肯定的に解するると、仙台(東北帝大)に赴任する「蓬里雨(連衆=芭蕉俳諧研究家・独逸文学者・漱石門」への最大限の餞として、「東洋城・寅日子・蓬里雨」座の、「東洋城(俳諧宗匠・『渋柿』主宰・漱石門)と寅日子(連衆=俳諧研究家・物理学者・漱石門)・との二人が、意図的に、送別する「脇=蓬里雨」に、この連句の「月の座・花の座」の、いわゆる、「花を持たせる」という進行をしたと解することもできよう。


(参考)「『3、月の句の心得』・『4.花の句の心得』・『5.恋の句の心得』・『6.特別扱いの句』・『7.句の続け方』・『8.季移り』・『9.付け順』・10.『「付け」と「転じ」』周辺(抜粋)

http://hakuhyodo.my.coocan.jp/kuzu/renku.html

[3.月の句の心得

(1) 月の句は春夏秋冬いずれの月を出してもよい。

(2) ただし、発句が秋季の場合には、第五句目の定座の月を「引き上げ」て、三句目までに月の句(これは秋の月とする)を詠むのが原則。

(3) 月の定座で、「月」や「有明」という語を出すのがまずい場合には、月の異名・(「桂男」とか「玉兎」など)を用いる。どういうのがまずいのかというと、表六句のうちに、「月」を含む言葉が使われており、定座で「月」を出すと「月」がだぶる場合、たとえば発句に如月とか霜月(これを月並の月という)などが出た場合。つまり、空の月は moon で、月並の月は month というわけ。

(4) 月の定座では落月や無月の句はできるだけ慎む。

(5) 秋の句が三句~五句続く場合、その中のどこかで必ず月の句を詠む。この月がないのを素秋(すあき)といって嫌う。

(6) 「星月夜(ほしづくよ)」は秋の季語であるが、星の光が月のように明るい夜をさし、直接月を詠んだ言葉ではない。そこで、この語が発句に出たら、それに続く秋の句には月を詠み込まず素秋にする。そのかわり、他の季の句中に「有明」など月のかわりになるものを詠み込む。

(7) どうしても月を詠まねばならぬのに、前句の具合で付けにくい場合は、実際空に浮かぶ月だけではなく、想像上の月を付ける方法もあり、これを「思いあわせの月」という。
(例)
  堪忍ならぬ七夕の照り      利平
名月のまに合せ度(たき)芋畑     芭蕉
 上の例では、名月は実際の月ではなく、名月の料理に間に合せたいということで、「照り」と「月」の不調和を避けております。

(8) 月の字を一種の助字(「かな」「や」の類)として用いることがあり、これを「投げこみの月」という。
(例)
革足袋(かはたび)に地雪踏(ぢせつた)重き秋の霜  洒堂
伏見あたりの古手屋の月            芭蕉

4.花の句の心得

 花といえば、春の桜とだいたい相場が決っております。特定銘柄の老舗だけに、格式も高く、あだやおろそかには扱えません。定座に用いる花の句には、桜の花を詠んでも「桜」といってはならず、必ず「花」という言葉を用います。もちろん、「桜」という言葉を使うこともありますけれども、それは正式な「花」の句としては認められず、同様に、「豆の花」なども正式の花にはなりません。つまり、歌の世界では、桜はもはや単に植物としての存在を超えたものとしてあるわけです。

(1) 四句目には特に軽い句を出すべきだから、花の句のように大切なものは出さない。

(2) 月と花とを一句のうちに詠み込むのは、一座に一句と限る。こういう句の季は、花にひかれて春となる。
(例)
月と花比良の高ねを北にして      芭蕉

(3) 花に桜をつけることは、特別の場合には許される。
(例)
辛崎の松は花より朧(おぼろ)にて    芭蕉
 山はさくらをしをる春雨       尚白
 例の発句は松を詠んだものであり、花は実体のない「根なしの花」だから、脇に桜を出してもかまわないとする。

(4) 一句の中に花と吉野を同居させるのはかまわないが、「花」に「吉野」を、「吉野」に「花」を付けてはいけない。(同様に「宇治」に「茶」を付けてはいけ ない)

(5) 短句(七七)には、好んで「花」を持ち出さない。(五七五のほうに詠みなさいということ)

(6) 月花一句のこと、つまり俳諧ではひとりの作者が月や花の句を独占してはならない。みんなに「花」を持たせるよう、適当に按配するのである。

(7) 花前の句は、花の句が詠みやすいように配慮する。つまり、花の定座の前では、「秋」の字や、恋の句は控えて、軽い句を作る。

5.恋の句の心得

 蕉門俳諧の恋の句の特徴は、ことばそのものよりも恋の情や気持を大事にするところにあります。蕉風以前には、式目書なる便利なものを参考にして、恋のことばを選べばそれでよしとする風があり、その中には、「そひふし」「人妻」「若後家」「男狂」「長枕」などという中年好みのことばも多かったようです。しかし、芭蕉がそんなことばをむき出しで使うはずはなく、
 ものいへば扇子に顔をかくされて     芭蕉
 きぬぎぬのあまりかぼそくあてやかに   芭蕉
と、さすがに品のよい中にも強烈な印象を与える色香が漂っております。面白いのは、芭蕉俳諧ではもともと恋の句を出す回数が少なかったのですけれども、晩年にむかってその傾向は顕著となり、まず一巻中一句が普通になったことです。

(1) 初折の裏の第一句目、つまり折立(おったて)に恋句を出すことを、昔は「待兼(まちかね)の、恋」といって嫌ったが、蕉門ではそれにこだわらない。

(2) 付句に恋の句をさそうような含みのある句を「恋の呼び出し」といい、恋の句に続いて付けると恋になるが、一句独立しては恋の意を持たぬものを「恋離れ」という。また、前句が恋とも恋ともつかぬような句である時には、必ず恋の句を付けて、前句ともども恋にすべきである。
(例)
(a) 砧(きぬた)うたるゝ尼達の家     曽良
(b) あの月も恋ゆゑにこそ悲しけれ    翠桃
(c) 露とも消ね胸のいたきに       芭蕉
(d) 錦繍(きんしう)に時めく花の憎かりし 曽良
 上の例では、(a)が恋なのかどうかはっきりしない句、つまり「恋の呼び出し」にあたり、それを受けた翠桃は原則通り恋の句を付けている。また、(d)は(c)が恋句であるからはじめて恋になるという意味で「恋離れ」に相当する。

(3) 花の定座の前には恋句を出さぬこと。これは「花の句」の項で説明したとおり、花の句の前にはなるべく軽い句を出すことから。ただし、恋句自体の中に花や月を詠みこむのは自由である。

6.特別扱いの句

 歌仙三十六句のうち、最初から三番目までと最終の句とは、特別の名称でよばれ、またその取り扱いにもきまりがあります。その他の句は全部平句(ヒラク)といいます。

(1) 第一句 …… 発句または立句(たてく)。これには、歌仙興行の季節にかなった季語をもち、完全に独立した形と内容をそなえていることが要求される。ふつう、「や」とか「かな」という切字(きれじ)を用いるが、それは絶対条件ではなく、あくまでも内容が問われる。歌仙全体の気分を左右しかねないので、あまりに重々 しいものや、縁起の悪いものは嫌われる。

(2) 第二句 …… 脇句(わきく)または脇。「客発句、亭主脇」ということばがあり、一座の賓客格が発句を出し、亭主格がそれに脇を付ける慣習があった。いわば、挨拶を交す心である。脇句はぴったりと発句の調子・用語に付け、発展させすぎてはいけない。季節、題材、発句にあわせるのが原則である。体言留めが多い。
(例)
 市中(まちなか)は物のにほひや夏の月 凡兆
  あつしあつしと門々の声      芭蕉

(3) 第三句 …… 第三。脇句が発句にぴったりと付くのに対して、第三は転句にあたり、変化をもたらす。発句・脇が初春の句ならば、第三では中春か晩春というふうに、季節にも気を配るのはもちろん、内容も思い切って離れるのである。

 留め方にもきまりがあって、ふつうは「に」「て」「にて」「らん」「もなし」などで留める(例外あり)。ただし、発句・脇の腰(終りの五文字、または七文字)に「て」の字があれば、第三には「て」留めを用いず、発句が「かな」留めの場合には、第三では「にて」留めを用いない。また、発句の切字に推量・疑問の助詞・助動詞を用いた場合は、第三では「らん」留めは用いない。

(4) 第四句 …… 特別の名称はないが、四句目は軽く付けるのが昔からの習い。

(5) 第三十六句 …… 挙句(あげく)。挙句はあっさりとつけるのをよしとする。挙句は発句の作者や脇句の作者(亭主)が作らず、一座の最初の一巡に執筆の句が入っていない場合には、執筆が作る。また、ここでは季を変えない。

7.句の続け方

 連句には句数(くかず)と去嫌(さりきらい)というルールがあります。句数というのは、春なら春の句を最低何句続けねばならず、また何句以上続けてはいけないというきまりです。また、去嫌とは、たとえば同季の句が三句続いた場合、つぎに同じ季の句を出すには最低五句は隔てなければならない(これを「同季五句去り」という)というふうに、類似したものの接近を嫌うというきまりです。

(1) 春・秋は句数は三句から五句まで。同季五句去りとする。

(2) 夏・冬は句数は一句から三句まで(ふつうは二句)。同季二句去り。

(3) 神祇・釈教(神社仏閣、神道・仏教に関係するもの)は、句数一句より三句、二句去りとする。

(4) 恋は句数二句から五句まで。三句去り。

(5) 述懐・無常(懐古・遁世・老い・うき世、死・葬儀・霊魂など)は、句数一句から三句。三句去り。

(6) 山類(さんるい)・水辺(すいへん)(山・峰・岡・谷・麓、海・浦・川・池・湖・水・氷の類)は、句数は一句から三句。三句去り。ただし、異山類・異水辺(山と谷、海と川など)は打越(うちこし)、つまり一句去りでもよい。

(7) 人倫(人間生活に関すること)は二句去り。ただし、実際は句数・去嫌ともかなり自由に付けている。

(8) 国名・名所は、句数一句から二句。二句去り。

(9) 生類(生き物)は、句数一句から二句。同種なら二句去り、異種なら打越を嫌わず。

(10) 木類・草類は、句数一句から二句。二句去りだが、木と草とは打越を嫌わず。

(11) 降物(ふりもの 雨・露・雪など)・聳物(そびきもの 雲・霞・虹など)は、句数一句から二句。二句去りだが、降物と聳物とは打越を嫌わず。

(12) 時分(朝・昼・夕など)は、句数一句から二句。同時分なら三句去りだが、異時分なら打越を嫌わず。(夜分二句去り、ただし打越を嫌わぬものあり、とあるが、どれが夜分の句かということになると煩雑に過ぎるので、省略する)

8.季移り

 俳諧ではある季から他の季に移る場合、ふつうその間に雑(ゾウ)とよばれる、特定の季に属さない句を入れます。なるほど、これはうまい工夫です。中間に、どちらの季節にあってもおかしくない句を挿入しておけば、ごく自然に進行するはずですから。
(例)
 (a) 雲雀なく小田に土持比(ツチモツコロ)なれや   (春)
 (b)   しとぎ祝うて下されにけり         (雑)
 (C) 片隅に虫歯かゝへて暮の月           (秋)
 すこし脇道にそれますが、「しとぎ」というのは、水につけて軟らかくなった生米を、ペースト状の粉にしてからまるめたもので、神仏へのお供えなどに用いられるものです。
 ところが、中間に雑の句をはさまず、直接季を転じて付けることもあり、これを「季移り」といいます。これは、露のように春・夏・秋三季にわたるものや、月のように四季にわたるもの、その他特定の季の季語になってはいても一年中あっておかしくないものを巧みに利用するわけです。季移りは、秋から冬へ、冬から秋へというような二季移りが普通ですけれども、三季移り(ただし、歌仙では一箇所に限られる)もあります。
(例1)
(a) 放(ハナチ)やるうづらの跡は見えもせず   (秋)
 (b)     稲の葉延(ハノビ)の力なきかぜ    (夏)
 前句は「鶉(うづら)」で秋、付句は「稲の葉延」で夏(晩夏)。この例の場合、(a) の秋の鶉を、(a)(b)の両句でかもしだされる景色を味わう際には夏の鶉と見かえて解釈します。鶉は夏にもいるから、不自然はないとするのです。
(例2)
(a)   露とも消ね胸のいたきに     (秋)
 (b) 錦繍に時めく花の憎かりし      (春)
 「露」は秋の季語ですが、三季にわたるので春の情景としてもおかしくないというわけです。

 なお、雑すなわち無季の句は、句数・句去りの制約を受けません。ただし、むやみに雑の句ばかりを出して、歌仙一巻の調和を破壊することがあってはいけません。

9.付け順

 複数の人間が集まって歌仙を興行する際に、どういう順で句を続けていくのか、これには「出勝(でがち)」と「膝送り」というふたつのやり方があります。

 出勝は「付勝(つけがち)」ともいって、まずは発句以下ひとりひとり句を付けて、一巡したら、その後は各句ごとに連衆全員が付句を考え、早くできた人が句を執筆に言うか短冊に書いて提出します。それを宗匠が、必要なら指導を加えたうえで、次の付句を促すのです。いわば、早いもの順ですから、腕のいい人にはかなわないわけです。芭蕉の俳席では、このやり方はあまり採用されなかったようです。

 膝送りは、一定の順序によって付け進めていくやり方で、人数(芭蕉の俳席では、ふつう二人から六、七人)によって、次のように決っております。なお、カッコ内は、月花の定座を示し、「』」は初折・名残の折それぞれの表・裏の区切りを示します。なお、七吟以上では定まった順番を見いだし難く、六吟には基本的な順序はあるものの、付け順はいろいろだそうです。また、ぼくたちが真似事をするにしても、五吟くらいが関の山でしょうから、ここでは両吟から五吟までについて解説します。独吟の順序は、……わかりますね。
 
(1) 両吟(二人)
  A,B,B,A,A(月),B』
  B,A,A,B,B,A,A,B(月),B,A,A(花),B[折端]』
  B[折立],A,A,B,B,A,A,B,B,A,A(月),B』
  B,A,A,B,B(花),A』
 これは一見でたらめのように思われるかも知れないが、実は月・花、長句・短句がきわめて公平に配分されている。

(2) 三吟

  基本的には、A,B,C,A,B,Cを最後まで繰り返すのだが、それではBが月・花の句を独占してしまう。実際には、Aは発句、BとCは花を一句ずつ、月の句はひとり一句を理想とするが、一人二句のこともある。この辺は座のなりゆきと、宗匠の判断によるのだろう。

(3) 四吟
 各人が四句おき、二句おきに出るように(「二飛び四飛び」という)、
        A,B,C,D-B,A,D,C
 を繰返す。これだと、Aには発句と花・月ひとつずつ、Bには月二つ、Cには花ひとつがあたるけれども、Dには定座があたらない。そこで、月の座を引き上げたり、後半で順序を変更している例もある。

(4) 五吟   三十六句を五人で割れば一句あまるので、最初の一巡の後で執筆がその一句を担当して数を合せる。執筆をFとすれば、
  A,B,C,D,E(月),F』
  B,A,D,C,A,E,C,B(月),E,D,B(花),A』
  D,C,A,E,C,B,E,D,B,A,D(月),C』
  A,E,C,B,E(花),D』
 これではAとCには月・花の定座はあたらないので、やはり座を引き上げたりして調節しているようだ。

10.「付け」と「転じ」

 すでに見たように、俳諧ではAにBを付け、BにCを付け、しかもAとBで構成される世界は、BとCとで新たに構成される世界によって「転じ」られることになります。こうして、付けることによって転じられるという「変化」が生ずるわけです。

 「付け」については、蕉風よりはるか以前から様々の分類がなされておりますが、それを細かに検討することは即席入門の範囲を越えますので、ここでは触れません。『去来抄』にいう「物付」、「心付」、「匂い付」は、ふつうそれぞれ貞門、談林、蕉風にあてはめられております。しかし、貞門の付合(ツケアイ、寄合ともいい、付け方のこと)のすべてが物付で、蕉風ならば匂い付とするのは間違いで、貞門にも心付志向あれば、蕉風にも物付の例はあります。

 (1) 物付 …… 宇治なら茶というふうに、前句のことばや物に縁のあることばを用いて付けていくやりかた。
(例)
 歌いづれ小町をどりや伊勢踊     貞徳
  どこの盆にかおりやるつらゆき   同
上の例では、「小町」「伊勢」から「貫之」、「踊」から「盆」が出ている。

(2) 心付 …… 前句のもつ意味や心持に応じて付ける(句意付)やりかた。
(例)
子をいだきつゝのり物のうち   宗因
  度々の嫁入するは恥知らず   同
 子供を抱きながら乗り物に乗っている女を、子持ちの再婚ととらえて、からかっている。

 さて、肝心の匂い付ですが、広く言えば心付に含まれるとも考えられ、蕉門の場合は、前句の意味に即して付けるというよりも、前句の持つ気分・余情を把握した上で、それに響きあう内容の句を付けることが多い(当然句意付もあるわけです)と考えればよいでしょう。
 「付合」が付けの種類をいうことばなら、付けの手法・態度を「付心」といい、その結果得られる効果を「付味」といいます。 ]
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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その十)  [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その十「大正十五年・昭和元年(一九二六)」

[東洋城・四十九歳。月一回、寅彦と会合して連句を作る。大正天皇崩御され「大正天皇と私」連載。叡山に登る。]

大正天皇の大喪.jpg

「1927年(昭和2年)、大正天皇の大喪」(「ウィキペディア」)

(「大正天皇と私」より六句)

冬ごもり何に泣きたる涙かな
人の子におはす涙や時鳥
維武揚る微臣秋天をうたふべく
いくさ船並ぶや海の原の秋
草も木もこがらし防げ君が為め(前書「謹祷」)
神去りましゝ夜の凍る大地かな(前書「百姓相泣」)

[寅彦=寅日子・四十九歳

file:///C:/Users/user/Downloads/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%AF%85%E5%BD%A6%E5%B9%B4%E8%A1%A8.pdf

1月20日、東京帝国大学地震研究所所員に補せられる。理学部教授はそのまま。2月8日、航空学談話会で「流体の運動に関する二三の実験(第一報)」を発表。3月13日、数学物理学会で“On theEffects of Winds on Sea-Level”(with S. Yamaguti)を発表。4月3日、数学物理学会で“Reports onSome Experiments on Motions of Fluid, Made by Students”を発表。5月20日、長女森貞子に男子博芳が誕生。6月6日、母亀が本郷区曙町の家で死去(84歳)。6月12日、帝国学士院で“A Preliminary Noteon the Form and Stucture of Long Spark”(with U. Nakaya)および“Propagation of Combustion inGaseous Mixture”(with K. Yumoto)を発表。6月22日、地震研究所談話会で「砂の崩れ方の話」および「不規則な衝撃に依る振動体の振動」を発表。11月1日、航空学談話会で「水の運動に関する実験」(服部邦男と共著)を発表。12月21日、地震研究所談話会で「弾性波の実験(第一報)
」(坪井忠二と共著)を発表。談話「火災論の論議に就て」、『日本消防新聞』、1月。
「TRSO」、『潮音』、1〜5月。
「新三つ物」、『渋柿』、2〜6月。
「俳諧六つ物」、『渋柿』、2月。
「俳諧 二枚折」、『渋柿』、7月。
「俳諧 二つ折」、『渋柿』、9月。
「書簡」、『アララギ』、10月。
「俳諧 二枚屏風」、『渋柿』、12月。 ]

※「TRSO『潮音』、1〜5月」の、連句新形式の「トルソー」関連については、次のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-06

(再掲)

[▽トルソー 首および四肢を欠く胴体だけの彫像
▽「澁柿」俳誌。大正四年(一九一五)二月創刊。主宰・松根東洋城(明治十一~昭和三九)。誌名は、大正天皇が俳句につきご下問、東洋城が奉答した句「渋柿のごときものにては候へど」による。昭和二七年東洋城隠退し野村喜舟が主宰となる。平成十七年十二月号で一千百号(連句協会報一六一号)。「渋柿はその芭蕉に於いてなされし如く連句を大切にす。之により多くの俳諧を闡明(せんめい)拡充し高揚す」

TORSO(大正十四年八月『渋柿』)

シヤコンヌや国は亡びし歌の秋     寅日子
  ラディオにたかる肌寒の群       ゝ
屋根裏は月さす窓の奢りにて      蓬里雨
  古里遠し母病むといふ文        ゝ
新しきシャツのボタンのふと取れし      子
  手函の底に枯るゝ白薔薇        ゝ
忘れにしあらねど恋はもの憂くて      雨
  春雨の夜を忍び音のセロ         子
見下ろせば暗き彼方は海に似て        雨   ]

※「新三つ物(渋柿』2〜6月)」周辺

「新三つ物」(大正十五年六月「渋柿」)

 吾が前を行く傀儡(クグツ)なりけり  東洋城
木枯の吼ゆる大路の黄昏に      寅日子
 板橋通ひガタ馬車に乗る      蓬里雨

 谷の深きに紅葉見るまで      寅日子
欄干に干す手拭の蝶々や       蓬里雨
 湯治の日記(ニキ)の古い三月    東洋城

色々と娘の上のさたをして      東洋城
 祭の寄附のいやもいはれず     寅日子
移り来て紅葉の色づく門構      蓬里雨

▽「新三つ物」=東洋城考案の「三つ物」(平句の三句形式)で、「三つ物/(三句)= 発句・脇・第三句の三句をいう。江戸時代から歳旦の祝詞として詠む習わしが生じ、明暦(一 六五五~五七)ごろから大流行となり、歳旦開きという行事までもが行われた。三句のう ち、月・花また神祇・釈経・恋など何を詠んでもよい。」の、それを柔軟にしたも。「発句・脇・第三」にとらわれず、平句(四句目以下の句)の「短句・長句・短句」など、「連句」の、謂わば、「トルソー」的な展開のもの(「俳諧 三つ物」=『東洋城全句集下巻』所収「大正十三年五月「渋柿」)。

※「俳諧六つ物(『渋柿』、2月)」周辺

 臼の上には薪割(リ)の斧        東洋城
蕃椒(バンショウ)吊り干す軒さゝくれて  蓬里雨(※蕃椒=「トウガラシ」)
 繭のあがつた噂している        寅日子
霧の中静に朝の江渡(ワタシ)して       城
 朱盆の様な日を仰ぎけり          雨
画廊から画廊は遠き馬車の上に        子

(以下、五連(「折・面」を省略)

▽「俳諧六つ物=東洋城考案の「新三つ物」(平句の三句形式)の「三句形式」を「六句形式」にしたもの。上記のものは、その「六つ物」を「歌仙」の「三十六句」形式(折・面=六×六)の六連(折・面)と続けている。

※「俳諧 二つ折(『渋柿』、9月)」・「俳諧 二枚折(『渋柿』、7月)」)・「俳諧 二枚屏風(『渋柿』、12月」)周辺

▽「俳諧 二つ折(『渋柿』、9月)」は、「六つ物」(六句形式)を「二つ折」(「表と裏」の十二句)」を基本とするもの。「俳諧 二枚折(『渋柿』、7月)」は、「俳諧 二つ折」(十二句)を二枚続けて、「(六句・六句)+(六句・六句)=二十四句」を基本とするもの。「俳諧 二枚屏風(『渋柿』、12月」)は、「俳諧 二つ折」(十二句)を二枚続けて、「(六句・六句)+(六句・六句)=二十四句」を、「二曲一双」屏風のように、「一枚目屏風(六句+六句)=右隻」と「二枚目屏風(六句+六句)=左隻」と、「対(主題)」の仕立てにする形式のもの。これは、「六曲一隻(六句+六句+六句+六句+六句+六句)」ものなど、様々なバリエーションのものがあろう。

https://www.nippon.com/ja/japan-data/h01096/

二曲一双屏風.jpg

「二曲一双屏風」 (京都・建仁寺「風神雷神図」)

[豊隆(蓬里雨)・大正十三年(四十一歳)=東北大学教授となる。大正十五年(四十三歳)=芭蕉俳諧研究会を始める。五月合著『続々芭蕉俳句研究』出版。九月合訳ストリンドベリ全集『燕曲集』出版。]

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-24

(再掲)

[[豊隆=蓬里雨・三十五歳。大正9年( 1920 )海軍大学校嘱託教授となる。大正10年 (1921 )芭蕉研究会に参加。]

※大正七年(1918)当時の豊隆は、『漱石全集』に取り組んでいて、「東洋城・寅日子・蓬里雨」の三吟歌仙とかは、大正十五年(1926)の頃が初出で、この頃は、「俳句・俳諧(連句)」には食指は伸ばしていなかったように思われる。大正十年(1921)の「芭蕉研究会」に参加は、東洋城の「渋柿」などとの「芭蕉研究会」ではなく、下記のアドレスのものなどによると、「太田水穂(歌誌「潮音」主宰)・幸田露伴・沼波瓊音・安倍能成・阿部次郎・小宮豊隆・和辻哲郎」らによる研究会のようである。

https://jyunku.hatenablog.com/entry/20100925/p1

「「芭蕉研究会」は田端の太田水穂(本名・貞一)宅で行われ、当初の会員は、阿部(次郎)、太田のほか、沼波瓊音、安倍能成、幸田露伴で、大正10年に小宮豊隆や和辻哲郎が加わった。」

 この、阿部次郎・小宮豊隆らの「芭蕉研究会」の参加は、「大正15年( 1926) 芭蕉俳諧研究会を始める」と、「東北帝国大学」の「山田孝雄、村岡典嗣、岡崎義恵、太田正雄(木下杢太郎)」らの参加を得て、形を変えて継続されていくことになる。

https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/introduce.html  ]

※「東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)」の三者の中で、「芭蕉とその俳諧(連句・俳句)」周辺について最も造詣が深かったのは、大正十年(一九二一)の「芭蕉研究会」(太田水穂「歌誌『潮音』主宰)・幸田露伴・阿部次郎などの研究会)、そして、大正十五年(一九二六)の「芭蕉俳諧研究会」(東北帝大の同僚有志=阿部次郎・岡崎義恵・山田孝雄などによる研究会)で研鑽を積んでいた「蓬里雨(豊隆)」ということになろう。
 その一端は、昭和十四年(一九三九)に刊行された『芭蕉俳諧論集』(小宮豊隆・横沢三郎編 岩波文庫)などで知ることができる。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1684194/1/1

[『芭蕉俳諧論集』(小宮豊隆・横沢三郎編 岩波文庫)(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
(「芭蕉俳諧論集・目次」)

序/3  (昭和十四年三月二十一日 小宮豊隆)
凡例/7
一、 心/21
二、 「風雅」/26
三、 「不易流行」/28
四、 「虛實」/38
五、 「さび、しをり、ほそみ」/41
六、 俳諧一般/45
(イ) 本質論/45
(ロ) 「修行敎」/57
(ハ) 個人評/73
七、 發句/89
(イ) 風體論/89
(ロ) 句作論/92
(ハ) 句評/111
八、 連句/215
(イ) 附合論/215
(ロ) 附句評/225
九、 作法/255
一〇、 雜/275
索引
索引に就いて/283
語句索引/287
句索引/297       ]
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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その九)  [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その九「大正十四年(一九二五)」

[東洋城・四十八歳。東洋城・寅彦・豊隆共著の「漱石研究」岩波刊。足利にて俳諧道場。川中島、京洛、岩手、桐生、伊予に遊ぶ。古典文学の俳句諷詠を始める。就中、歌舞伎俳句を「渋柿」と雑誌「歌舞伎」に発表、歌舞伎十八番は殆ど俳句に諷詠した。連句新形式「新三つ物」「起承転結」「二枚折」創案制作を始めた。]

ふるさとへ老母を負ふや月の旅(前書「つひに母を伴ひ候」)
ふるさとのわが古家の芙蓉かな(前書「十幾年にして我家に起居して」)

「歌舞伎十八番の内 斬(新鹿島社頭の場)五十四句」のうちの五句

歌舞伎・暫.jpg

https://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/play/play11.html

[権五郎が「花道」から「本舞台(ほんぶたい)」に来て両肌を脱いでいる間、舞台上では、「アーリャー、コーリャー」という声が繰り返され、権五郎の「見得(みえ)」に合わせて最後に「デッケエ」という声が上がります。この声を「化粧声(けしょうごえ)」といい、「荒事」の登場人物に対してかけられる褒めことばです。『寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)』の曽我五郎などでも掛けられます。]

一声や草の遥かの雉子が鳴く( 前書「斬(第一声)」
又の声の却て遠き長閑かな(前書「第二声」)
つゞけざまに雉子啼き立つるきほひかな(前書「第三声」)
松の花や本家本店荒事師(前書「今暫くと声をかけつん出た奴をよく見れば」)
こゝにこれの根源歌舞伎花盛(前書「歌舞伎十八番『斬』)


[寅彦(寅日子)・四十八歳。一月、柳田国男と地名について話する。五月、チェロを習い始める。六月、帝国学士院会員となる。八月、従四位に叙せられる。十月、最初の歌仙「水団扇の巻」(東洋城との両吟))が「渋柿」に掲載される。十一月、震災予防評議会評議委員となる。十二月、勲三等に叙せられる。]

※「歌仙 水団扇の巻」(東洋城・寅日子の両吟、大正十四年十月「渋柿」)


水団扇鵜飼の絵なる篝(かがり)かな  東洋城  夏・景(外)
 旅の話の更けて涼しき       寅日子  夏・人(自・他)
縁柱すがるところに瘤ありて     城  雑・景(内)
 半分とけしあと解けぬ謎     子  雑・人(自)
吸物をあとから出した月の宴       城  月
 庭のすゝきに風渡る頃        子  秋・景(外)

山里は洗足(ソソギ)の水も秋早く     ゝ  秋・景(内)
 只だ飼ふまゝに鯉の痩せやう      城  雑・景(外)
たまさかに内に居る日は不興にて     子  雑・人(自)
 もの烹(ニタ)きながら結ひいそぐ髪   城  雑・人(「恋句」呼び出し)
君来べきしるしなればや宵の雨     子  恋
 草紙の中の世さへ悲しく     城  恋
梅の実の色づく日々の医者通ひ     子  春・人(自)
医は医なれども謡のみ説く     城 雑・人(他)
提燈の箱も長押に年古(フ)りぬ     子  雑・景(内)
 唯一軒の家囲む森         城  雑・景(外)
五加木(ウコギ)垣都の花に背を向けて   子  花
 昔の春の御厨子黒棚         城  春・景(内)
ナオ
定めとて月の朔日目刺焼く     ゝ  雑・人(自)※月=月日の月
 不孝の悴九離勘当           子  雑・人(他)
持山の奥も見知らず代々に        城  雑・人(他)
 狸を祭る大杉の蔭         子  雑・景(外)
降りすぐる一時雨に日のありて    城  冬・景(外)
 土の匂ひの侘しなつかし     子  雑・人(自)
薪小屋の薪も尽きたる黄昏れに      城  雑・景(外)
 うしろの藪の雪折の音       子  冬・景(外)
淋しさは水車の屋根の石叩     城  恋(?)
 死んだ女房の襤褸(ボロ)干しゐる     子  恋
年回に当たらぬ年の盆の月        城  月
 犬に物言ふ縁の白萩          子  秋・景(外)
ナウ
やうやうに野分の跡の片づきて     ゝ  秋・景(外)
 用はなけれどけふも出あるく      城  雑・人(自)
安本をあさり暮らすも癖のうち     子  雑・人(自)
 めかけの数に殖える別荘     城  雑・人(他)
花見の場舞台廻ればものさびて      子  花
 朧を刻む杉の四五本         城  春・景(外)


(参考その一) 「連句と寅日子(市川千年稿)」周辺

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2018_11_01.html

[ 寺田寅彦(明治一一~昭和一〇)が巻いた歌仙は四七巻(未完成その他を入れると七〇巻)であるが、最初に満尾した歌仙は松根東洋城(明治一一~昭和三九)との両吟歌仙「水団扇の巻」である。
この歌仙は、寅彦四八歳(数え年)の大正一四年八月二七日、東洋城と新宿駅のプラットホームで落合い、昼食前から十二荘梅林の離亭を借りて「連句を開筵」、午後8時半まで、場所を変えつつ九時間余りで名残のウラ2句目まで付け、九月八日に追加満尾し、同年十月東洋城主宰の『渋柿』(大正四年二月創刊)に掲載された。(中略)

 寅彦は初めて歌仙を巻いた感想を小宮豊隆に手紙で伝えている。「・・やつて見ると段々に六かしい事が分つて来るのを感じました。最初の二頁位は呑気に面白くても三頁辺からソロゝゝ単調と倦怠が目に立つて来る。それをグイゝゝ引立つて行くのは中々容易な事でないといふ事が朧気ながら分るやうな気がしました。此ういふ体験だけが一日の荒行の効果であつたかと思ひます。かういう事を考へて見ると、人の付け方が自分の気に入らぬ時でも、其れを其儘に受納して、そうして其れに附ける附け方によつて、その気に入らぬ句を自分の気に入るやうに活かす事を考へるのが、非常に張合のある事のやうに思はれて来ます。此れは勿論油臭い我の強いやり方でありますが、さういふ努力と闘争を続けることによつて、芭蕉の到達した処に近づく事が出来るのではないかという気もします。・・当日低気圧通過後の油照で恐ろしく蒸暑く、其れに一日頭を使つた為非常に疲労し、夜中非常な鼾で妻の安眠を妨害し抗議を申し込まれました・・・」 ]


[豊隆(蓬里雨)・大正十三年(四十一歳)=東北大学教授となる。大正十五年(四十三歳)=芭蕉俳諧研究会を始める。]


(参考その二)「連句とは」(「日本連句協会」)

https://renku-kyokai.net/renku/

[連句とは
連句(略)
歌仙・半歌仙(略)
歌仙式目(抜粋=「歌仙季題配置表」)

歌仙季題配置表.jpg

様々な形式(一部抜粋)

百韻=四折=百句/ 四花七月 /初の折/ 表八句/(七句目月)/ 裏十四句/(九句目月、十三句目花)/ 二の折 表十四句(月)/ 裏十四句 (月、十三句目花)/ 三の折/表十四句 (月) /裏十四句 (月、十三句目花)/ 名残の折/ 表十四句(十三句目月)/ 裏 八句 (七句目花)。 昔は百韻を五巻揃える五百韻や十巻の十百韻(とっぴゃくいん)も行われた。
八十八興(略)
七十二候(略)
易(えき)(略)
源氏(略)
五十韻=二折=五十句/二花四月 /百韻の初折と二の折を合わせたもの。
長歌行(略)
世吉(よよし)(略)
二十八宿(略)
短歌行(略)
箙(略)
半歌仙(略)
首尾吟(略)
歌仙首尾(略)
表白(略)
裏白(略)
表合(略)
三つ物/(三句)= 発句・脇・第三句の三句をいう。江戸時代から歳旦の祝詞として詠む習わしが生じ、明暦(一 六五五~五七)ごろから大流行となり、歳旦開きという行事までもが行われた。三句のう ち、月・花また神祇・釈経・恋など何を詠んでもよい。

新しい形式(一部抜粋)

胡蝶(略)
蜉蝣(かげろう)(略)
ソネット(略)
存風連句(略)
居待(略)。
十二調(略)
十八韻(略)

非懐紙形式(略)  ]

(参考その三)「 芭蕉の時代が伝授する句の付け筋」(周辺)

http://www.local.co.jp/renku/5.html

[其の一(『去来抄』には、松尾芭蕉が語ったその時代の前句への付け方の「ひとつの傾向」として「うつり・ひびき・におい・くらいを以って付けるをよしとする」と述べられている。) (中略)

「移り」は、前句の余情や気分が、次の付句に柔らかく移る付け方。
「響き」は、前句に敏感に感応した付け方。
「匂い」は、前句の行間に漂う気持ちや情況、潜在するものに添う、あるいは応じる付け方。
「位」は、前句の人物・事物・言葉などを見定めて、その品格に添う、あるいは応じる付け方

其の二(各務支考は、付け方に関して「七名八体(しちみょうはったい)」と称する付け方の方法(七名)と狙い所(八体)を提示している。) (中略)

(七名=有心・向付・起情・会釈・拍子・色立・にげ句)
一)前句の情や景、状況などを見定めて、その言外のものを捉えて付ける(有心・うしん)。
二)前句の人物の性格や職業や境涯などを見定め、その人物と対応するように別の人物をもって付ける、いわば人間の存在的な一面を向かい合って付ける(向付・むかいづけ)。
三)人情味のない景色や事柄の前句の場合、その句の表現上のあやを頼りに、人情のある句を付ける(起情・きじょう)。
四)前句の人物、事柄、状態、品物などを受けて、軽くあしらって付ける(会釈・あしらい)。
五)前句の勢いに応じてテンポを合わせて付ける(拍子・ひょうし)。
六)前句の色に呼応して色彩のとり合わせで付ける(色立・いろだて)。
七)前句の意を軽く受け流してサラリと時節や気象などの句を付け、流れや気分を変える(にげ句)。

(八体=其人・其場・時節・時分・天象・事宜・観想・面影)
一)前句から感じ取れるその人物を見定めて、これを手がかりに人物描写として付ける(其人・そのひと)。
二)前句から感じ取れるその場所を見定め、これを手がかりに風景描写として付ける(其場・そのば)。
三)前句から感じ取れるその時節を見定め、これを手がかりに時節描写として付ける(時節・じせつ)。
四)前句から感じ取れるその時刻を見定め、これを手がかりに時刻描写として付ける(時分・じぶん)。
五)前句から感じ取れるその天象・気象を見定め、これを手がかり天象・気象描写として付ける(天象・てんしょう)。
六)前句から感じ取れるその人物やその時を見定め、これを手がかりにその人物のその時の状況描写として付ける(事宜・じぎ)。
七)前句から感じ取れるその心境を見定め、これを手がかり喜怒哀楽の描写として付ける(観想・かんそう)。
八)前句から感じ取れる物語の趣(おもむき)を見定め、これを手がかりに一般に知られている物語などがイメージできるように付ける(面影・おもかげ)。

其の三(立花北枝は、歌仙一巻の句を「人情無しの句」「人情自の句」「人情他の句」の三つに分類し、付句を工夫するように『付方自他伝』を著して提言した。) (中略)

「人情自の句」は自分のことを詠んだ句、「人情他の句」は自分以外の他者を詠んだ句、「自他半の句」は、自分および他者を同時に詠んだ句、「人情無しの句」は場の句で、自分および他者を入れずに景色や世相などを詠んだ句、のこと。(後略)   ]
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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その八) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その八「大正十三年(一九二四)」

[東洋城・四十七歳。那須、妙義山、金華山に遊ぶ。東洋城百詠短冊展覧会開催。漱石全集編纂。日本アルプス登山。歌仙を始む。]

仮の世の仮の棲家や年越ゆる(前書「三畳庵」)
寝るは死ぬるとばかり安き布団かな
蒲団敷くや今宵をなゐのともかくも
※故郷の故郷鄙に暑さかな(前書「前書「今の故郷は四国なれど十数代前の故郷は、最上、わが家の城趾やいづこと見渡さるゝ。昔の楽園上ノ山温泉もむさく暑くるしきのみ」)
夏海へ大河の口やあからさま(前書「北上川」)
荒潮に流れぬ島の茂かな(前書「金華山 二句」)
涼しさや頂にして海の中(同上)
静けさはひたと大地に蜻蛉かな(前書「あゝその九月一日」)
何よりも寒きに耐ふることを知れ(前書「甥 新生 誕生賀」)
白足袋や影あり行けるうしろつき(前書「断腸花追悼」)
石が吐く毒とはをかし枯るゝ山(「那須温泉 二十句」のうち「殺生石」)

(「東洋城」メモ)

※故郷の故郷鄙に暑さかな(前書「前書「今の故郷は四国なれど十数代前の故郷は、最上、わが家の城趾やいづこと見渡さるゝ。昔の楽園上ノ山温泉もむさく暑くるしきのみ」)

http://sp.mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=143960

[(松根備前守光広/まつねびぜんのかみあきひろ)~俳人・松根東洋城の先祖~

 義光の弟である義保の子。義保は長瀞城主。兄の片腕となって出羽南部の平定に尽力したが、天正19年(1591)に戦死。ときに光広は3歳の幼児だった。義光がこれを哀れんで、息子同然にいつくしみ育てたと、宇和島市に残る古記録は伝えている。
 光広は成人の後は山形市漆山に居住したこともあったが、西村山の名門白岩家の名跡を継いで「白岩備前守」を名乗る。
 慶長5年(1600年)の関が原合戦、長谷堂合戦のときは12、3歳だったから、まず戦陣の経験はなかっただろうと思われる。元和2年(1616)、庄内櫛引郷に居城松根城を築いて松根姓を名乗る。一1万2千石、一書に1万3千石とある。
 義光に育てられたことに対する報恩の気持ちからか、最上家を思う心が人一倍厚い人物だったようだ。
 熊野夫須美神社に、那智権現別当あて、年次無記8月20日付、光広の書状が一通ある。
 「最上出羽守義光が病につき、神馬一疋ならびに鳥目(銭)百疋を奉納いたします。御神前において御祈念くださるようお頼みします」という内容である。
 「白岩備前守光広」の署名からみて、松根移転以前であることは明らか。義光の病が重くなった慶長18年(1613)のものと推定される。出羽からははるかに遠い紀州那智に使者を遣わして、病気平癒の祈りをささげたのである。あるいは、光広はそのころ上京中だったかもしれない。
 義光が亡くなり、跡を継いだ駿河守家親も3年後の元和3年ににわかに亡くなり、その後を12歳の少年、源五郎家信が継ぐ。とかく問題行動を起こしがちな幼い主君に、家臣たちは動揺する。
 家を守りたてるべき重臣たちのなかには、義光の四男山野辺光茂こそ山形の主にふさわしいとして、鮭延越前、楯岡甲斐らの一派が公然と動きはじめる。
 かくてはならじ、お家のためになんとかせねばと、光広は「山野辺一派が策謀をめぐらし当主家親を亡きものにした」と幕府に直訴した。幕府でも一大事とばかり徹底的に究明したが、事実無根と判明。偽りの申し立てをした不届きの所業として、光広は九州柳川の立花家にあずけられてしまう。彼はここ柳川でおよそ五十年を過ごす。藩主立花宗茂との親交を保ちつつ、寛文12年(1672)84歳の生涯を終える。
 その子孫が四国宇和島の伊達家につかえ、家老職の家柄を伝えて維新を迎えた。
 高名な俳人松根東洋城(本名豊次郎1878~1964)は、この家の9代目にあたる。宮内省式部官などを勤めながら夏目漱石の門下として俳壇で活躍、のち芸術院会員となった。
 昭和4年6月、父祖の地である庄内の松根から白岩をおとずれた東洋城は、昔をしのんで次のような句を残した。
  故里の故里淋し閑古鳥
  青嵐三百年の無沙汰かな
 出羽の最上から九州柳川へ、そして更に四国の宇和島へ。先祖のたどった長い長い3百年の道程だった。宇和島市立伊達博物館の庭には、「我が祖先(おや)は奥の最上や天の川」の句碑がある。
 最上家の改易で会津・蒲生氏により接収破却された松根城の跡には、最上院がある。光広の妻が晩年に住んだという松根庵には、彼女の墓碑が寂しくたっている。(片桐繁雄稿)]
(「最上義光歴史館」)

松根洋城の句碑一.jpg

「松根洋城の句碑」(最上院の南側に光広の子孫で、伊予国宇和島藩家老職にあった松根家の子孫、松根洋城の句碑が建てられている。)
https://www.hb.pei.jp/shiro/dewa/matsune-jyo/

松根洋城の句碑一・解説板.jpg

「松根洋城の句碑」(解説板) (「鶴岡市松根字中松根 松根東洋城句碑公園」)
https://www.hb.pei.jp/shiro/dewa/matsune-jyo/thumb/

※ 上記の「松根洋城の句碑」(解説板)によると、「柳川の報恩寺と宇和島の伊達博物館」に同文の句碑がある」。

松根洋城の句碑二.jpg

報恩寺(福岡県柳川市)
http://urawa0328.babymilk.jp/fukuoka/22/houonji-3.jpg

松根洋城の句碑三.jpg

伊達博物館(愛媛県宇和島市)
http://urawa0328.babymilk.jp/ehime/22/datehaku-5.jpg

[寅彦(寅日子)・四十七歳。松根東洋城と連句を実作する。五月、地質学会において「大正十二年九月一日の地震に就て」を講演する。理化学研究所研究員となる。]

※ 上記の年譜の、「松根東洋城と連句を実作する」は、「大正十四年十月『渋柿』」に掲載された「歌仙 水団扇の巻」(東洋城・寅日子の両吟)などを指しているのであろう。

「歌仙 水団扇の巻」(東洋城・寅日子の両吟)

水団扇鵜飼の絵なる篝かな  東洋城
 旅の話の更けて涼しき      寅日子
縁柱すがるところに瘤ありて    城
 半分とけしあと解けぬ謎    子
(この歌仙は「大正十四年」の項で全句掲載する。)


[豊隆(蓬里雨)・四十一歳。帰国。東北大学教授となる。]

※ 大正十二年(一九二三)三月に渡欧していた豊隆は、その翌年(大正十五年)に帰国し、「東北大学教授」となり、仙台に居を移すことになる。その時と関係すると思われる「歌仙 みちのくの人の巻」(東洋城・寅日子・蓬里雨の三吟)が、昭和二年(一九二七)二月「渋柿」に掲載されている。

「歌仙 みちのく人の巻」(東洋城・寅日子・蓬里雨の三吟)


 送別
あすよりはみちのく人や春の雨   東洋城
まだ雪のこる西側の山        蓬里雨
沈丁花こぼるゝ里に移り来て     寅日子
(この歌仙は「昭和二年」の項で全句掲載する。)
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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その七) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その七「大正十二年(一九二三)」

[東洋城・四十六歳。寅彦と連句の研究を始め、豊隆も帰朝後参加した。東北を行脚、京洛、伊予に遊ぶ。関東大震災により平河町の屋敷炎上。直ちに栃木に赴き、渋柿十月刊。(この縁により昭和二十六年まで栃木で印刷した。) 震災を機に「朝日俳壇」の選者を辞した。]

[寅彦(寅日子)・四十六歳。一月、漱石俳句研究会を開く。三月に小宮豊隆がドイツに留学したため、これが最後の研究会となる。四月、松根東洋城と古典連句の研究を始め、その内容は「渋柿」に掲載される。九月一日、関東大震災が起こり、各地の被害調査にあたる。十一月、土木学会帝都復興委員会において「旋風ら就て」を講演する。]

[豊隆(蓬里雨)・四十歳。三月、渡欧。五月にベルリンに到着し、以後欧州各国を歴訪。]

(東洋城)

春の夜のすみだ川あり君が為め(前書「小宮豊隆氏送別会「錦水」にて) 
しかも其時秋静かなることにありき(前書「大地震ふ 十四句」)
驚きや垣朝顔も沓石も(同上)
冷かもしらで地踏む裸足かな(同上)
まざまざと抱ける母や老の秋(同上)
塀はたりたり倒る野分にもあらず(同上)
なゐふるや生色ゆるゝ秋の草(同上)
その時幾十万死にしを知らず蜻蛉かな(同上)
なゐふるやありなしの命人の秋(同上)
蛼(コオロギ)よ地軸折れしと人のいふに(同上)
洛陽に劫火(ゴオカ)つゞくや秋幾日(同上)
いねもせで備ふことあり夜半の秋(同上)
ももぐれば玄米悲し人の秋(同上)
鳥渡る下の現世なる地変かな(同上)

(寅彦(寅日子))

春の江は靄に暮れ行く別れ哉化(前書「三月小宮豊隆氏送別の句(錦水にて)」)

寺田寅彦から小宮豊隆へあてた手紙.jpg

寺田寅彦から小宮豊隆へあてた手紙「大正12年10月関東大震災の被災状況を報告」
https://www.town.miyako.lg.jp/rekisiminnzoku/kankou/person/komiya_toyotaka.html

(参考) 寺田寅彦の随筆「震災日記より」(旧字・旧仮名) (抜粋)

http://sybrma.sakura.ne.jp/394torahiko.shinsainikki.html

[九月一日。(土曜)
 朝はしけ模樣で時々暴雨が襲つて來た。非常な強度で降つて居ると思ふと、まるで斷ち切つたやうにぱたりと止む、さうかと思ふと又急に降り出す實に珍らしい斷續的な降り方であつた。雜誌「文化生活」への原稿「石油ラムプ」を書き上げた。雨が收まつたので上野二科會展招待日の見物に行く。會場に入つたのが十時半頃。蒸暑かつた。フランス展の影響が著しく眼についた。T君(※津田青楓)と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品畫「I崎の女」(※津田の作品「出雲崎の女)に對する其モデルの良人からの撤囘要求問題の話を聞いて居るうちに急激な地震を感じた。椅子に腰かけて居る兩足の蹠を下から木槌で急速に亂打するやうに感じた。多分其前に來た筈の弱い初期微動を氣が付かずに直ちに主要動を感じたのだらうといふ氣がして、それにしても妙に短週期の振動だと思つて居るうちにいよいよ本當の主要動が急激に襲つて來た。同時に、此れは自分の全く經驗のない異常の大地震であると知つた。其瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされてゐた土佐の安政地震の話がありあり想出され、丁度船に乘つたやうに、ゆたりゆたり搖れると云ふ形容が適切である事を感じた。仰向いて會場の建築の搖れ工合を注意して見ると四五秒程と思はれる長い週期でみしみしみしみしと音を立てながら緩やかに搖れて居た。それを見たとき此れなら此建物は大丈夫だといふことが直感されたので恐ろしいといふ感じはすぐになくなつてしまつた。さうして、此珍らしい強震の振動の經過を出來るだけ精しく觀察しようと思つて骨を折つて居た。
 主要動が始まつてびつくりしてから數秒後に一時振動が衰へ、此分では大した事もないと思ふ頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が來て、二度目にびつくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになつた。
 同じ食卓に居た人々は大抵最初の最大主要動で吾勝に立上つて出口の方へ驅出して行つたが、自分等の筋向ひに居た中年の夫婦は其時は未だ立たなかつた。しかも其夫人がビフテキを食つて居たのが、少くも見たところ平然と肉片を口に運んで居たのがハツキリ印象に殘つて居る。併し二度目の最大動が來たときは一人殘らず出てしまつて場内はがらんとしてしまつた。油畫の額はゆがんだり、落ちたりしたのもあつたが大抵はちやんとして懸かつて居るやうであつた。此れで見ても、さう此建物の震動は激烈なものでなかつたことがわかる。あとで考へて見ると、此れは建物の自己週期が著しく長いことが有利であつたのであらうと思はれる。震動が衰へてから外の樣子を見に出ようと思つたが喫茶店のボーイも一人殘らず出てしまつて誰れも居ないので勘定をすることが出來ない。それで勘定場近くの便所の口へ出て低い木柵越しに外を見ると、其處に一團、彼處に一團といふ風に人間が寄集つて茫然として空を眺めて居る。此便所口から柵を越えて逃出した人々らしい。空はもう半ば晴れて居たが千切れ千切れの綿雲が嵐の時のやうに飛んで居た。その内にボーイの一人が歸つて來たので勘定をすませた。ボーイがひどく丁寧に禮を云つたやうに記憶する。出口へ出ると其處では下足番の婆さんが唯一人落ち散らばつた履物の整理をして居るのを見付けて、預けた蝙蝠傘を出して貰つて館の裏手の集團の中からT畫伯を捜しあてた。同君の二人の子供も一緒に居た。其時氣のついたのは附近の大木の枯枝の大きなのが折れて墜ちて居る。地震の爲に折れ落ちたのかそれとも今朝の暴風雨で折れたのか分らない。T君に別れて東照宮前の方へ歩いて來ると異樣な黴臭い匂が鼻を突いた。空を仰ぐと下谷の方面からひどい土ほこりが飛んで來るのが見える。此れは非常に多數の家屋が倒潰したのだと思つた、同時に、此れでは東京中が火になるかも知れないと直感された。東照宮前から境内を覗くと石燈籠は一つ殘らず象棋倒しに北の方へ倒れて居る。大鳥居の柱は立つて居るが上の横桁が外れかゝり、しかも落ちないで危く止つて居るのであつた。精養軒のボーイ達が大きな櫻の根元に寄集つて居た。大佛の首の落ちた事は後で知つたがその時は少しも氣が付かなかつた。池の方へ下りる坂脇の稻荷の鳥居も、柱が立つて桁が落ち碎けて居た。坂を下りて見ると不忍辨天の社務所が池の方へのめるやうに倒れかゝつて居るのを見て、なる程此れは大地震だなといふことが漸くはつきり呑込めて來た。
 無事な日の續いて居るうちに突然に起つた著しい變化を充分にリアライズするには存外手數が掛かる。此日は二科會を見てから日本橋邊へ出て晝飯を食ふつもりで出掛けたのであつたが、あの地震を體驗し下谷の方から吹上げて來る土埃りの臭を嗅いで大火を豫想し東照宮の石燈籠のあの象棋倒しを眼前に見ても、それでも未だ晝飯のプログラムは帳消しにならずそのまゝになつて居た。併し辨天社務所の倒潰を見たとき初めて此れはいけないと思つた、さうして始めて我家の事が少し氣懸りになつて來た。
 辨天の前に電車が一臺停つたまゝ動きさうもない。車掌に聞いても何時動き出すか分らないといふ。後から考へると此んなことを聞くのが如何な非常識であつたかゞよく分るのであるが、其當時自分と同樣の質問を車掌に持出した市民の數は萬を以て數へられるであらう。
 動物園裏迄來ると道路の眞中へ疊を持出して其上に病人をねかせて居るのがあつた。人通りのない町はひつそりして居た。根津を拔けて歸るつもりであつたが頻繁に襲つて來る餘震で煉瓦壁の頽れかゝつたのがあらたに倒れたりするのを見て低濕地の街路は危險だと思つたから谷中三崎町から團子坂へ向つた。谷中の狹い町の兩側に倒れかゝつた家もあつた。鹽煎餅屋の取散らされた店先に烈日の光がさして居たのが心を引いた。團子坂を上つて千駄木へ來るともう倒れかゝつた家などは一軒もなくて、所々唯瓦の一部分剝がれた家があるだけであつた。曙町へはいると、一寸見たところでは殆ど何事も起らなかつたかのやうに森閑として、春のやうに朗かな日光が門並を照して居る。宅の玄關へはいると妻は箒を持つて壁の隅々からこぼれ落ちた壁土を掃除して居るところであつた。隣の家の前の煉瓦塀はすつかり道路へ崩れ落ち、隣と宅の境の石垣も全部、此れは宅の方へ倒れて居る。若し裏庭へ出て居たら危險なわけであつた。聞いて見ると可なりひどいゆれ方で居間の唐紙がすつかり倒れ、猫が驚いて庭へ飛出したが、我家の人々は飛出さなかつた。此れは平生幾度となく家族に云ひ含めてあつたことの效果があつたのだといふやうな氣がした。ピアノが臺の下の小滑車で少しばかり歩き出して居り、花瓶臺の上の花瓶が板間にころがり落ちたのが不思議に碎けないでちやんとして居た。あとは瓦が數枚落ちたのと壁に龜裂が入つた位のものであつた。長男が中學校の始業日で本所の果迄行つて居たのだが地震のときはもう歸宅して居た。それで、時々の餘震はあつても、その餘は平日と何も變つたことがないやうな氣がして、ついさきに東京中が火になるだらうと考へたことなどは綺麗に忘れて居たのであつた。
 その内に助手の西田君が來て大學の醫化學敎室が火事だが理學部は無事だといふ。N君が來る。隣のTM敎授が來て市中所々出火だといふ。縁側から見ると南の空に珍らしい積雲が盛り上つて居る。それは普通の積雲とは全くちがつて、先年櫻島大噴火の際の噴雲を寫眞で見るのと同じやうに典型的の所謂コーリフラワー狀のものであつた。餘程盛な火災の爲に生じたものと直感された。此雲の上には實に東京ではめつたに見られない紺靑の秋の空が澄み切つて、じりじり暑い殘暑の日光が無風の庭の葉鷄頭に輝いて居るのであつた。さうして電車の音も止り近所の大工の音も止み、世間がしんとして實に靜寂な感じがしたのであつた。
 夕方藤田君が來て、圖書館と法文科も全燒、山上集會所も本部も燒け、理學部では木造の數學敎室が燒けたと云ふ。夕食後E君と白山へ行つて蠟燭を買つて來る。TM氏が來て大學の樣子を知らせてくれた。夜になつてから大學へ樣子を見に行く、圖書館の書庫の中の燃えて居るさまが窓外からよく見えた。一晩中位はかゝつて燃えさうに見えた。普通の火事ならば大勢の人が集つて居るであらうに、あたりには人影もなく唯野良犬が一匹そこいらにうろうろして居た。メートルとキログラムの副原器を收めた小屋の木造の屋根が燃えて居るのを三人掛りで消して居たが耐火構造の室内は大丈夫と思はれた。それにしても屋上に此んな燃草をわざわざ載せたのは愚な設計であつた。物理敎室の窓枠の一つに飛火が付いて燃えかけたのを秋山、小澤兩理學士が消して居た。バケツ一つだけで彌生町門外の井戸迄汲みに行つてはぶつかけて居るのであつた。此れも捨てゝ置けば建物全體が燒けてしまつたであらう。十一時頃歸る途中の電車通は露宿者で一杯であつた。火事で眞紅に染まつた雲の上には靑い月が照らして居た。

九月二日。曇
 朝大學へ行つて破損の狀況を見廻つてから、本郷通を湯島五丁目邊迄行くと、綺麗に燒拂はれた湯島臺の起伏した地形が一目に見え上野の森が思ひもかけない近くに見えた。兵燹といふ文字が頭に浮んだ。又江戸以前の此邊の景色も想像されるのであつた。電線がかたまりこんがらがつて道を塞ぎ燒けた電車の骸骨が立往生して居た。土藏もみんな燒け、所々煉瓦塀の殘骸が交つて居る。焦げた樹木の梢が其儘眞白に灰をかぶつて居るのもある。明神前の交番と自働電話だけが奇蹟のやうに燒けずに殘つて居る。松住町迄行くと淺草下谷方面はまだ一面に燃えて居て黑煙と焰の海である。煙が暑く咽つぽく眼に滲みて進めない。其煙の奧の方から本郷の方へと陸續と避難して來る人々の中には顔も兩手も癩病患者のやうに火膨れのしたのを左右二人で肩に凭らせ引きずるやうにして連れて來るのがある。さうかと思ふと又反對に向ふへ行く人々の中には寫眞機を下げて遠足にでも行くやうな呑氣さうな樣子の人もあつた。淺草の親戚を見舞ふことは斷念して松住町から御茶の水の方へ上つて行くと、女子高等師範の庭は杏雲堂病院の避難所になつて居ると立札が讀まれる。御茶の水橋は中程の兩側が少し崩れただけで殘つて居たが駿河臺は全部焦土であつた。明治大學前に黑焦の死體がころがつて居て一枚の燒けたトタン板が被せてあつた。神保町から一ッ橋迄來て見ると氣象臺も大部分は燒けたらしいが官舎が不思議に殘つて居るのが石垣越しに見える。橋に火がついて燃えて居るので巡査が張番して居て人を通さない。自轉車が一臺飛んで來て制止にかまはず突切つて渡つて行つた。堀に沿うて牛が淵迄行つて道端で憩うて居ると前を避難者が引切なしに通る。實に色んな人が通る。五十恰好の女が一人大きな犬を一匹背中におぶつて行く、風呂敷包一つ持つて居ない。浴衣が泥水でも浴びたかのやうに黄色く染まつて居る。多勢の人が見て居るのも無關心のやうにわき見もしないで急いで行く。若い男で大きな蓮の葉を頭にかぶつて上から手拭でしばつて居るのがある。それから又氷袋に水を入れたのを頭にぶら下げて歩きながら、時々その水を煽つて居るのもある。と、土方風の男が一人繩か何かガラガラ引きずりながら引つぱつて來るのを見ると、一枚の燒けトタンの上に二尺角くらゐの氷塊をのつけたのを何となく得意げに引きずつて行くのであつた。さうした行列の中を一臺立派な高級自動車が人の流れに堰かれながら居るのを見ると、車の中には多分掛物でも入つて居るらしい桐の箱が一杯に積込まれて、その中にうづまるやうに一人の男が腰をかけてあたりを見廻して居た。
 歸宅して見たら燒け出された淺草の親戚のものが十三人避難して來て居た。いづれも何一つ持出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿して居たら巡査が來て○○人の放火者が徘徊するから注意しろと云つたさうだ。井戸に毒を入れるとか、爆彈を投げるとかさまざまな浮説が聞こえて來る。こんな場末の町へまでも荒して歩く爲には一體何千キロの毒藥、何萬キロの爆彈が入るであらうか、さういふ目の子勘定だけからでも自分にはその話は信ぜられなかつた。
 夕方に駒込の通へ出て見ると、避難者の群が陸續と瀧野川の方へ流れて行く。表通の店屋などでも荷物を纏めて立退用意をして居る。歸つて見ると、近所でも家を引拂つたのがあるといふ。上野方面の火事がこの邊迄燒けて來ようとは思はれなかつたが萬一の場合の避難の心構だけはした。さて避難しようとして考へて見ると、どうしても持出さなければならないやうな物は殆ど無かつた。たゞ自分の描き集めた若干の油繪だけが一寸惜しいやうな氣がしたのと、人から預つて居たローマ字書きの書物の原稿に責任を感じたくらゐである。妻が三毛猫だけ連れてもう一匹の玉の方は置いて行かうと云つたら、子供等がどうしても連れて行くと云つてバスケットかなんかを用意して居た。

九月三日(月曜)曇後雨
 朝九時頃から長男を板橋へやり、三代吉を賴んで白米、野菜、鹽などを送らせるやうにする。自分は大學へ出かけた。追分の通の片側を田舎へ避難する人が引切なしに通つた。反對の側は未だ避難して居た人が歸つて來るのや、田舎から入込んで來るのが反對の流れをなして居る。呑氣さうな顔をして居る人もあるが見ただけで隨分悲慘な感じのする人もある。負傷した片足を引きずり引きずり杖にすがつて行く若者の顔には何處へ行くといふあてもないらしい絶望の色があつた。夫婦して小さな躄車のやうなものに病人らしい老母を載せて引いて行く、病人が塵埃で眞黑になつた顔を仰向けて居る。
 歸りに追分邊でミルクの罐やせんべいビスケットなど買つた。燒けた區域に接近した方面のあらゆる食料品店の店先はからつぽになつて居た。さうした食料品の缺乏が漸次に波及して行く樣が歴然とわかつた。歸つてから用心に鰹節、梅干、罐詰、片栗粉等を近所へ買ひにやる。何だか惡い事をするやうな氣がするが、二十餘人の口を託されて居るのだからやむを得ないと思つた。午後四時にはもう三代吉の父親の辰五郎が白米、薩摩芋、大根、茄子、醬油、砂糖など車に積んで持つて來たので少し安心する事が出來た。併し又この場合に、臺所から一車もの食料品を持込むのはかなり氣の引けることであつた。
 E君に靑山の小宮君(※小宮豊隆)の留守宅の樣子を見に行つてもらつた。歸つての話によると、地震の時長男が二階に居たら書棚が倒れて出口をふさいだので心配した、それだけで別に異狀はなかつたさうである、その後は邸前の處に避難して居たさうである。
 夜警で一緒になつた人で地震當時前橋に行つて居た人の話によると、一日の夜の東京の火事は丁度火柱のやうに見えたので大島の噴火でないかと云ふ噂があつたさうである。                               (昭和十年十月)  ]



(付記一)『寺田寅彦 妻たちの歳月(山田一郎著)』所収「関東大震災」に、関東大震災時の「寺田寅彦」一家の様子が記述されている。この翌年(大正十三)のことについて、次のように記述されている。

[ (※大正十三年)四月二十一日、「東一(※長男)始業式(※一高)、並に入寮式」、二十四日、「東一入寮」。この年はお目出が重なって、十月五日、長女の貞子が日本銀行勤務の森博道と芝公園の三縁亭で見合いをした。出席者「両方親子三人」と日記あるので志ん(再々婚の「紳」夫人)も出たのであろう。縁談は順調に進んで十五日、結納。十一月三十日、日比谷大神宮で結婚式、帝国ホテルで披露宴をした。
 貞子は寅彦の最初の妻夏子の忘れがたみで、生まれるとすぐ祖母の亀(※寅彦の母・亀子)に引き取られて高知で育ち、女学校一年の夏、初めて東京で父と暮らした(※寅彦の母・亀子も同居することになる)。寅彦の二度目妻寛子には子どもが四人いたので、彼女は義理の弟妹四人と少女時代を送った。母親譲りの美貌だったので、結婚式の写真は京美人のように綺麗だったと、森博道の妹が書いている文章を読んだことがある(※「昭和五年一月に、森博道は男児を遺して亡くなっている」=『寺田寅彦覚書(山田一郎著)』)。
 以下略   ](『寺田寅彦 妻たちの歳月(山田一郎著)』)

(再掲) 「寺田寅彦」の子どもたち

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-04

寅彦の家族.jpg

「寺田寅彦の三人の妻」
https://ameblo.jp/koketsuyuzo/image-12373883266-14185283842.html
[右→再婚の妻「寛子」
左→寅彦の子供たち(左から「長男・東一、次女・弥生、三女・雪子、長女・貞子(先妻夏子との子)、次男・正二」)]

(付記二)『渋柿の木の下で(中村英利子著)』所収「東洋城、関東大震災で焼け出される」周辺(要約抜粋)

[大正十二年九月一日。
時刻は、正午のほんのすこし前だった。麹町区平河町の自宅兼「渋柿社」で、東洋城が昼飯を一口食べたとき、突然ガタガタと家が揺れた。東洋城は箸を捨てるやいなや立ち上がり、座卓の向こうに坐っていた母の敏子を抱えて裸足で庭へ飛び出した。

「※(上記の「東洋城」の句より)
驚きや垣朝顔も沓石
冷かもしらで地踏む裸足かな
まざまざと抱ける母や老の秋   」

 避難先は紀尾井町の北白川邸と初めから心づもりをしており、万一の場合を考え、宵のうちから頼んでおいた。まず母を宮廷へ避難させ、少しばかりり荷物は何度か取りに帰ればいいと思っていた。

「※(上記の「東洋城」の句より)
塀はたりたり倒る野分にもあらず
なゐふるや生色ゆるゝ秋の草
その時幾十万死にしを知らず蜻蛉かな
なゐふるやありなしの命人の秋
蛼(コオロギ)よ地軸折れしと人のいふに 」

 今の東洋城にとって大切なものは、老いた母の命であり、「渋柿」の原稿であった。東京の半分が猛火に包まれた際、東洋城はまず母を非難させ、選半ばの巻頭句稿や編集した原稿を救助し、それを詰めた大きな行折を一人で搬出し、細引きひもで引きずって避難先までもっていった。

「※(上記の「東洋城」の句より)
洛陽に劫火(ゴオカ)つゞくや秋幾日
いねもせで備ふことあり夜半の秋
ももぐれば玄米悲し人の秋
鳥渡る下の現世なる地変かな  」

 東武鉄道が動き出すと東洋城はすぐ栃木へ行き、同人の小林晨悟(しんご)はじめ何人かの尽力で、両毛印刷という現地の印刷所で「渋柿」を発行する運びとなった。そして、帰郷すると、早速余丁町の三畳庵で次号の編集をはじめることになった。「渋柿」の刊行は一刻の渋滞も許さないと、物もなく生活も不自由ななか、筆一本、紙一帖で編集に挑んだのである、
 三畳庵というのは、卓四郎家(※東洋城の三弟)の玄関脇にあった書生部屋のことで、障子は煤け、襖は色褪せ、電灯も古びて薄暗かったが、東洋城はこの三畳ひと間だけで寝起きし、当然編集もこの部屋で行った。]

(付記三) 「俳誌・渋柿(405号/昭和23・1)」周辺

俳誌・渋柿(405号).jpg

「俳誌・渋柿(405号/昭和23・1)」(奥付/p17~17)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071536/1/10

(目次)
巻頭語 / 秋谷立石山人/p表1~
中野から / 小宮蓬里野人/p表2~
敗太郎(中) / みどり/p1~1
卷頭句 / 東洋城/p2~12
句作問答/p2~6
社告/p17~17
消息 / 諸氏/p17~17
勉強表の勉強表 / 山冬子調/p13~13
落木林森(十三)山中餅搗-雪山の薪 / 東洋城/p14~15
題詠/p16~16
雲の峯 / 喜舟/p16~16
暑さ / 括瓠/p16~16
東洋城近詠/p18~18
玉菜の外葉 / ひむがし/p18~18
奥付/p17~17

(※メモ)

一、「中野から / 小宮蓬里野人/p表2~」は、「小宮豊隆(俳号・蓬里雨)」の、当時の近況が知らされている。下記「年譜」の「※昭和21年 1946 東京音楽学校(現東京芸術大学)校長となる。教育刷新委員・国語審議会委員となる。」の頃である。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-14

二、「勉強表の勉強表 / 山冬子調/p13~13」は、昭和十四年から昭和二十二年までの「渋柿」の巻頭句(「ホトトギス」の「雑詠入選句」にあたるもの)を占めた句数の表(抜粋)である。

勉強表の勉強表.jpg

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071536/1/8

 上記のトップの「喜舟」は、昭和二十七年(1952)に東洋城の跡を引き継いで「渋柿・主宰」を務めた「野村喜舟」である。三番目の「晨悟」は、「小林晨悟(こばやししんご)/明治二十七年生れ、昭和四十三年没(1894~1968)」で、「晨悟」は、大正四年「渋柿」創刊より参加、昭和二十七年離脱。この離脱は、東洋城の誌事(主宰)より隠居(隠退)の節目の年となり、『渋柿』主宰は「野村喜舟」、その編集発行は、「勉強表の勉強表 / 山冬子調/p13~13」の、十番目の「(徳永)山冬子」と、八番目の「(徳永)夏川女」との「徳永御夫妻」に託されることになる。
 この「(徳永)山冬子」は、昭和五十一年(1976)に、喜舟の跡を継いで「渋柿・主宰(三代)」となる。

https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E6%B0%B8%20%E5%B1%B1%E5%86%AC%E5%AD%90-1650332

四、冒頭の「奥付/p17~17」中、

〇「編集兼発行人」→「東京都品川区上大崎一丁目四百七十番地/松根卓四郎」の「松根卓四郎」は、東洋城(嫡男)の弟(三男)である。この「卓四郎」は、「編集兼発行人」となっているが、実質的には「編集兼発行人」は「主宰・東洋城」で、「卓四郎」宅の一間を「渋柿本社」としており、謂わば、「卓四郎」は「社主」ということになる。

〇「印刷者」→「栃木県栃木市室町二百四十五番地・松本寅吉」/「印刷所」→「同・両毛印刷株式会社」は、大正十二年(1926)の、関東大震災により、東洋城の平河町の屋敷、並びに、発行所が炎上して、直ちに、栃木市で、その年の「渋柿十月号」を刊行し、この縁により、昭和二十六・七年(1952)まで、ここが「印刷所・印刷者」となる。「発行所・渋柿者発行部」→「栃木県栃木市倭町二百九十五番地」は「「小林晨悟」の住所と思われる。
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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その六) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その六「大正十一年(一九二二)」

[東洋城・四十五歳。鎌倉で俳諧道場。伊予を指導遍歴。「渋柿」『百号記念号』刊。奥州、伊予に遊ぶ。百号記念大会開催。]

秋山の一路なりけり天に通ず(前書「渋柿満一百号所感」)

梅に訪ひき牡丹に詩会なからめや(「鎌倉俳諧道場四十四句」の冒頭の句。前書「門内有花」)
よき声や春夜の堂のいづこより(「同上」の六句目。前書「夢窓国師)
蛙田も恋猫も遠し下の里(「同上」の十五句目。前書「燈下幾十房」)
花にして桜にして花盛りかな(「同上」の二十句目。前書「俳禅一昧」)
夜半春の石段の闇となりにけり(「同上」の末尾の句。前書「会後寂寥」)

ふるさとや土塀抽(ぬき)んず紅芙蓉(前書「家郷即事」)
初汐や浜からすぐに狭き町(前書「今治市」)
遠島に砂浜ありぬ秋晴るゝ(前書「北条より高浜へ」)
日を昏(くら)う眼持ちけり秋の蝶(前書「松山より中山へ」)
里淋しあまり垂り穂の稲の中

[寅彦=寅日子・四十五歳。連句の実作を始める。小宮豊隆の「客去って唯眺め居る炭火かな」に「麻布へ抜ける木枯の音」とつけたもの。十月、物理学第三講座担当となる。十一月、来日したアインシュタインの特別講義、歓迎レセプション等に出席する。研究のかたわらに油絵を描き、またバイオリンを習い始める。]

物云へど猫は答へぬ寒さ哉(「日記の中より二句/一月三十一日/小宮君への端書のはしに)
冰(こほ)る夜や顔に寄り来る猫の髭(同上)

[豊隆=蓬里雨・三十九歳。 四月、法政大学教授となる。東北帝国大学法文学部独文講座を引き受ける。]

(「寅彦=寅日子」と「豊隆=蓬里雨」との「付合(つけあい)」)

客去つて唯眺め居る炭火かな(「豊隆=蓬里雨」)
 麻布へ抜ける木枯の音(「寅彦=寅日子」)
 (墓地の空行く木枯の聲)(寅日子「日記・大正十一年一月三十一日」)
気になるは軍曹殿の鼻の疣(いぼ)( 「寅彦=寅日子」)
 むざと折りしく秋の色草(同上)

※ この寅日子と蓬里雨の「付合(つけあい)」は、「片々」と題して、『寺田寅彦全集の「文学篇 第七巻』の「連句」の項に収載されている。
 下記のアドレスの、「物理学者・寺田寅彦の連句」(水橋禎子稿)によると、「寅彦の連句制作の端緒は大正十一年頃の小宮との書簡の中に認められる」のとおり、これらは、寅彦と豊隆との「書簡(文音)を通して連句(「付け合い」)」の「文音連句」(参考「文音(連句)の作法)の一種のように思われる。

file:///C:/Users/user/Downloads/6%20(2).pdf

「物理学者・寺田寅彦の連句」(水橋禎子稿)

[寅彦の連句制作の端緒は大正十一年頃の小宮との書簡の中に認められる。本格的に作り始めたのは大正一四年頃からである。寅彦の詠んだ連句の数を表1に示す。

表 1 寅彦が諒んだ連句(歌仙)数
年      連句(歌仙)数
1925(T14)    1
1926 (T15/Sl) 4
1927(S2) 4
1928(S3) 5
1929 (S4) 1
1930(S5) 1
1931 (S6) 8
1932(S7) 8
1933 (S8) 6
1934 (S9) 4
1935(Slu) 5
※未完は除く      ]

(参考) 「文音(連句)の作法)」(「猫蓑通信」第38号 平成12(2000)年1月15日刊より)

http://www.neko-mino.org/renkuQA/A38.html

[Q38・文音の作法
文音をやりたいと思っていますが、文音の作法などありましたらお教え下さい。

A38
文音とは連衆と一座して一巻を満尾するのではなく、手紙・ハガキ・電話・ファックスなどによって句を付け合う方法です。

Aが発句を三句作ってBに送ると、Bはその中から一句を選んで、その句に脇を三句付けてAに返します。するとAはまたその三句の中から一句を選んで、その脇に今度は第三を三句付けてBに返すという風にして、挙句まで進み、一巻を巻き上げるのです。特別な場合には一句だけで応酬することもないではありませんが、それはお互いの選句の楽しみを奪い、あるいは選句の資格を認めぬ事にもなりかねません。要するに対吟する人に失礼にならぬよう。これが文音の作法の基本です。尤も、昔は互いに五句ずつ遣り取りする作法が守られておりましたが、現代では簡便な三句付けの方がよろこばれ、段々定着して来ました。
 それで文音を始めるには、熟知の間柄なら別ですが、そうでない場合は、お互いに、どのような形式の連句を、どの位のスピードで作る心算なのか、大体のところを決めておく方がよろしいと思います。その点の合意がないと、後でいろいろ悶着がおこる可能性があるからです。
 文音の人数は、もちろん何人でも出来るわけですが、たとえば追善百韻の付け廻しなどを除いて、せいぜい三・四人ぐらいまでが最適ではないでしょうか。あまり多いと連衆心のない人が紛れこむ恐れがあり、一巻の気分も滅茶苦茶になってしまうものです。
 文音の連句では、実際の一座の楽しい雰囲気が味わえないかわりに、前句を貰ってから付句を十分考え、それを練る時間がたっぷりあることが最大の特色であり長所であります。ただ、それに溺れてしまうと、前句を聞いて即座にそれに応ずる、いわゆる丁々発止のおもしろさがなくなり、また時間があるのにまかせて凝った句ばかりを付けると、一巻が重くなって生気を失う危険性も出て来ます。またあまり返句が遅いと、折角盛り上がっている連衆の気分に水を注す結果になりかねません。出来るだけ早く返句するよう心掛けるベきでありましょう。
 ハガキの書き方も別にきまりはありません。
 たとえば「文音歌仙 春愁の巻」と第一行に書き、「オ3 石尊掻き海猫ふり仰ぐこともなし 貴什」と次の行に書いたあとは、

「オ4 潮に濡れて光る袖口 拙次」・「乳ほしがりてぐずる背の児 拙次」等、自句を三句、余白は何を書いてもよいのです。

さらに文音が終ったら、必ず校合・清書して、一巻の反省をすることが望ましいです。] 

 これらを踏まえると、上記の「文音(書簡)連句「付合い」)は、次のとおりのものと解することも出来よう。

(発句=一句目)  客去つて唯眺め居る炭火かな(「豊隆=蓬里雨」、「炭火」=冬)

 という「豊隆→寅彦」への「文音(手紙か端書)」という提示に対して、それに応えて「寅彦→豊隆」への「文音(手紙か端書)」で、次の三句(付け句)を返信した。

(脇句=二句目)    麻布へ抜ける木枯の音(「寅彦=寅日子」、「木枯」=冬)
(第三=三句目)  気になるは軍曹殿の鼻の疣(いぼ)( 「同上」、雑)
(四=四句目)    むざと折りしく秋の色草(「同上」、「秋」=秋)

(脇句=二句目)の下に記載されている「(墓地の空行く木枯の聲)(寅日子「日記・大正十一年一月三十一日」)」は、寅彦の、この句の「初案」などのメモ書きの句なのであろう。
 『渋柿の木の下で(中村英利子著)』では、この「付合い」を、「麻布三連隊」の駐屯地近くの小宮豊隆家での作として、脇句の「麻布へ抜ける木枯の音」も、第三の「気になるは軍曹殿の鼻の疣(いぼ)」も、その「麻布三連隊」からの連想のものとして解している。
 その連想の解も捨て難いが、このメモ書きの「墓地の空行く木枯の聲」(初案?)から改案として、麻布へ抜ける木枯の音」の「麻布」は、「近衛師団監督部長」を歴任した「実父・利正」、そして、初婚(十九歳・寅彦と十五歳・夏子)の、その新妻「夏子」の父(「近衛歩兵第二旅団長」などを歴任し陸軍中将となり、後に、男爵を叙爵し華族となり、牛込区議、富士生命社長を務めた『坂井重季』(墓所は青山霊園) )」に連なるイメージとして捉えることも出来よう。
 と同時に、下記アドレスの、『東洋城全句集(下巻)』の「連句篇」の冒頭の「歌仙(大正五年)」の、次の連句に準拠しているものと解したい。

(再掲)

[ https://yahan.blog.ss-blog.jp/

(発句)何時の間に月になり居りし花野かな(東洋城)

(「脇・第三・四句目」=「三つ物」)
(脇句) 鹿かあらぬか遠山の声(霽月)
(第三)温泉冷めすと障子〆切るうそ寒み(同上)
(四)  又くりかへす旅行案内(同上)  

(以下、略)   ]
 
 そして、これらのことは、東洋城の「俳諧 新三つ物」(大正十三年五月「渋柿」所収)そして、「連句形式 起承転結―四折十二句の連句―」(大正十五年六月「渋柿」所収)の俳論などで、その実作が試みられていくものと解したい。

小宮豊隆色紙.jpg

小宮豊隆色紙『寅彦忌 柿一つ残る梢に時雨かな 蓬里雨』と松根東洋城編『渋柿』(1932年~1933年出版)(「高知県立文学館」)
https://ameblo.jp/kochi-narukochan/entry-10789029253.html


(追記一) TORSO(大正十四年八月「渋柿」)周辺

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2012_11_02.html

[「連句の魅力(連句入門Ⅰ)市川千年稿

「連句の基本は、一、前の句につける。二、鎖のようにつながる。三、同じことをしない(森羅万象を歌いあげよう)」「かつて寺田寅彦が「渋柿」に、トルソという革新的な連句を発表したことがありました。そのトルソは余分なものを切り捨て、連句の原点を求めるというものでした。」「今、ここに、私たちの連句の形式を「帰ってきたトルソ」と命名します。」
▽トルソー 首および四肢を欠く胴体だけの彫像
▽「澁柿」俳誌。大正四年(一九一五)二月創刊。主宰・松根東洋城(明治十一~昭和三九)。誌名は、大正天皇が俳句につきご下問、東洋城が奉答した句「渋柿のごときものにては候へど」による。昭和二七年東洋城隠退し野村喜舟が主宰となる。平成十七年十二月号で一千百号(連句協会報一六一号)。「渋柿はその芭蕉に於いてなされし如く連句を大切にす。之により多くの俳諧を闡明(せんめい)拡充し高揚す」

TORSO(大正十四年八月『渋柿』)

シヤコンヌや国は亡びし歌の秋     寅日子
  ラディオにたかる肌寒の群       ゝ
屋根裏は月さす窓の奢りにて      蓬里雨
  古里遠し母病むといふ文        ゝ
新しきシャツのボタンのふと取れし      子
  手函の底に枯るゝ白薔薇        ゝ
忘れにしあらねど恋はもの憂くて      雨
  春雨の夜を忍び音のセロ        子
見下ろせば暗き彼方は海に似て        雨
    
▽シャコンヌ バロック時代に始まったゆるやかな3拍子の舞曲で、一種の変奏曲。十六世紀に中南米からスペイン・イタリアに伝えられた舞曲に基づく。  
▽蓬里雨(ほうりう) 小宮豊隆(明治十七~昭和四一)の俳号。
▽「「トルソ」という題は、それに費やす時間の関係上、歌仙形式の三十六でまとめるのが困難だったので、三句でまとめたり、六句でまとめたり、十句でまとめたり、その時々の気分次第で、いろいろになったが、結局それは、歌仙の断片にすぎないという意味を、しゃれて「トルソ」と名づけたまでであると小宮は云う。」(『寺田寅彦と連句』小林惟司 勉誠出版 平成一四)

「「トルソ」頂戴、いずれも結構でありますが、・・・それからこれは僕も気がつかなかったのだが、「シャコンヌ」の巻の長句が四つ続けて「て止め」になっています。これもいかがいたしましょうか。ご相談申し上げます。・・・」(小宮豊隆宛寺田書簡・大正十四年五月十六日) ]「芭蕉会議」所収「連句の魅力(連句入門Ⅰ)市川千年稿」

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2013_10_01/06.html

[(連句を楽しむ その六 市川千年稿)

 小宮豊隆宛寺田書簡(大正十四年五月十六日)には「・・・それからこれは僕も気がつかなかったのだが、「シャコンヌ」の巻の長句が四つ続けて「て止め」になっています。これもいかがいたしましょうか。ご相談申し上げます。」とあるので、「新しきシャツのボタンのふと取れし」は最初「・・・ふと取れて」であったことが分かる。
 小宮豊隆は「「トルソ」という題は、それに費やす時間の関係上、歌仙形式の三十六でまとめるのが困難だったので、三句でまとめたり、六句でまとめたり、十句でまとめたり、その時々の気分次第で、いろいろになったが、結局それは、歌仙の断片にすぎないという意味を、しゃれて「トルソ」と名づけたまでである」と語っていたそうだ。(『寺田寅彦と連句』小林惟司 勉誠出版 平成一四)
 寺田寅彦は「徒然草から受けた影響の一つと思はるゝものに自分の俳諧に対する興味と理解の起源があるやうに思ふ。」「心の自由を得てはじめて自己を認識することができる。・・・第百三十七段の前半を見れば、心の自由から風流俳諧の生れる所以を悟ることが出来よう。」(「徒然草の鑑賞」昭和九年)と述べている。「花は盛りに、月は隈なきをのみ見る物かは・・・」。「心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつけ」られていった『徒然草』全二四四段の宇宙と連句の宇宙はどうやらつながっているようだ。(俳句雑誌『蝶』205号(2014年1・2月)]


(追記二)「TORSO―RONDO」(大正十五年十二月「潮音」)周辺

file:///C:/Users/user/Downloads/6%20(1).pdf

[「物理学者・寺田寅彦の連句」(水橋禎子稿)

RONDO №.7

塀のうちなる芝の枯色      蓬里雨
供侍の火鉢の灰も静まりて    寅日子
さざめきめきながら皿洗ふ音    雨
すれ違ふ廊下の簡の仇心       子
夢みる様に匂ふ木犀        雨
不図さめて開けば温泉を噴く谷の音  子
しんとしたのは雪が降るのか     雨
老の限に涙の光る強意見       子
詰ったまゝで煙管ころがる      雨
掃き寄せて縁の日南の塵寒く     子
塀のうちなる・・・       

興味深いのは、大正一四~一五年頃、一風変わった連句論や実作が見られることである。
寅彦(寅日子)と小宮(蓬盟雨)・東洋城との日本文学の諸断片」(大正一四年)の中で、寅彦はこのような発言をしている。(中略)

(寅日子)しかしともかくも、連句が他の詩形に比べてよほど飛び放れて変っている事はたしかである。むしろある意味で音楽と似通った点が多いように思う。(略) 音楽の旋律は順序を逆にするとまるでちがったものになってしまう。連句の順序を逆転して読んで行ったらどんなものだろうという問題が起って来る。これは六かしい問題であろうが、私のちょっと試験してみた処では逆に読んでも相当に面白い場合が少なくないようである。

(中略)

『ロンド」といふのは、発句から始めて脇・第三と十句自まで続けて行くうちに、いくらかづつ加減して、その十句自が前句に附くとともに、亦うまく第一の発句に附くやうに工夫して附ける、従って全体が環をなしてぐるぐる廻るやうにと心がけたので、『ロンド」と名づけたのである。(『寺田寅彦全集 文学篇 第七巻・岩波書店)』月報「寅彦と俳諧(小宮豊隆稿・昭和二五年一一月)」) (補記一) 「トルソー(TORSO)」と「ロンド(RONDO)」(「寅日子と蓬里雨」の「新連句」)周辺について(メモ)

 東洋城が、その主宰誌「渋柿」で、「東洋城・寅日子・蓬里雨」の三吟などで試みた「新連句」(新連句の試み)は、「俳諧六つ物」(大正十五年)」、「二枚折」(大正十五年)、「二枚屏風」(大正十五年)、「二つ折」(昭和三年・昭和七年)、「TORSO」(大正十五年)、「起承転結」(大正十五年~昭和五年)、『新三つ物』(大正十四年~昭和六年)」と、謂わば、東洋城の「俳諧(連句)・俳句(発句・巻頭句)」観(「俳論」)に基づくものは、『東洋城全句集(下巻)』に、その「俳論」を含めて、その実作が収載されている。
 しかし、その「トルソー(TORSO)」のうちの、「ロンド(RONDO)」という形式ものは、
東洋城の「俳諧(連句)・俳句(発句・巻頭句)」観に基づく、その「起承転結」(大正十五年~昭和五年)の「連句新形式起承転結」(「四折十二句の連句」)とは、異質の世界のもので、より多く、「ヴァイオリン奏者」でもある、「寅彦(寅日子)」の世界のものであろう。
 ここで、「師(芭蕉)の曰く『たとへば歌仙は三十六歩なり。一歩も後に帰る心なし。行くにしたがひ心の改まるは、ただ先へ行く心なればなり(『三冊子』土芳著)』」の、「俳諧・連句」の「歌仙(三十六句・二花三月)」の、その「一歩も後に帰る心なし」に相反することになる。
 「トルソー(TORSO)」という形式は、東洋城らの「渋柿」で実践された、「俳諧新三つ物」・「俳諧六つ物」・「俳諧起承転結(四折十二句、月花一句)」の、一形式のものとして、「一歩も戻る心なし」の、「俳諧・連句」の基本中の基本の原則を踏まえている。
 その「トルソー(TORSO)」の一形式の「ロンド(RONDO)」形式というのは、「発句のことは行きて帰る心の味はひなり。例えば、”山里は漫才遅し梅の花”といふ類なり。”山里は漫才遅し”と言ひはなして、梅は咲けりといふ心のごとくに、行きて帰るの心、発句なり(三冊子)」の、「発句のことは行きて帰る心の味はひなり」の、いわゆる、「発句はとり合物也(あわせものなり)。二つとり合わせて、よくとりはやすを上手と云うなり(森川許六著「篇突」)」の、「行きて帰る心」は、「発句」論だけではなく、一巻を成した「俳諧・連句(歌仙)」の諸形式にも、それが何らかの形で関与しているという、これまた、「物理学者(理論)・ヴァイオリン奏者(音楽)・連句・俳句・随筆作家(文芸)」の、一つの警鐘として理解したい。

トルソ・彫刻.jpg

「トルソ/彫刻 / 金属像 / 大正 / 日本/戸張孤雁 (1882-1927)/とばりこがん/1914年(大正3)年/ブロンズ/H20.0

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/43251

[ 高さ20cmの小品であるが、腰部から腹部、腹部から胸部へと、なだらかな起伏を示す量塊と、わずかにひねられた上半身の動勢など、豊かな表現を見せる、堂々とした作品である。東京。日本橋に生まれた孤雁は、もともと画家を志して渡米する。しかし、才気あふれる彫刻家、荻原守衛を通じてロダンに傾倒し、彫刻に転向した。
 この「トルソ」の根底にあるのは、人間の生命に対するロマンチックな感動であり、その作風は、デリケートな形体把握と、みずみずしい肉づけの美しさを特徴とする。孤雁はモデルを表面的に写しとる当時の文展アカデミズムに疑問を抱き、生命感にあふれる新鮮な写実主義へと向かう。その意味で彼は、写真的な真実を排し、生きた真実をめざすロダンと荻原の系譜を引き継ぐ彫刻家といってよい。荻原の臨終に際して、孤雁が「折角開かれんとした我が彫刻界が、彼の早逝によって残念にも解し得ず、旧の杢阿弥に還った」と嘆いたのも無理はない。(中谷伸生)]


(補記二)「東洋城の連句」周辺

file:///C:/Users/user/Downloads/KB21%20(2).pdf

(補記三)「漱石と東洋城との連句」周辺

[ 病院
蝙蝠の宵々梅や薄き粥   (漱石)
 団扇絵飽きし名所の月  (東洋城)
註文の鮎釣る男瀬に見えて (城)
 庄屋の門にゴム輪一台  (石)
相伝の金創膏も練らぬよし (石)
 遊女屋続き外楼
(こんな稿片が出てきた。表六句だけであとのないのも今は淋しい。大正八年 城記 )

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2013_10_01/03.html

  正岡子規が「発句は文学なり、連俳は文学に非ず。」(明治二六年「芭蕉雑談」)と評価した連句を、高浜虚子は「聯句はさまざまの宇宙の現象、それは連絡のない宇宙の現象を變化の鹽梅克く横様に配列したものである。」「聯句の面白味は半分その變化の點に在るのだ。」「蓋し聯句中の或る一句の趣味は其の句のすぐ前の句、及其の句のすぐ後の句の聯想によつて助けらるゝが為め(恰も俳句が季の者によつて助けらるゝが如く)季のものゝ助けを借らずとも充分に詩趣を運ぶことが出来る。」と「ホトトギス」第八号(明治三二年五月)で擁護している。
  一方、子規は「自分は連句といふ者余り好まねば、古俳書を見ても連句を読みし事無く、又自ら作りし例も甚だ稀である。然るに此等の集にある連句を読めばいたく興に入り感に堪ふるので、終には、これほど面白い者ならば自分も連句をやつて見たいといふ念が起つて来る」と言っている事実がある。(「ホトトギス」第三巻第三号(明治三二年十二月)「発句を連句一巻から切り離し、これに「俳句」という名を付けて、新しい芸術とし」(『連句辞典』)「短詩形として自覚を明確にし」(『俳諧大辞典』)「地発句(ぢほっく・連句を伴わない発句)を新生させた」(『俳文学大辞典』)正岡子規は明治三五年九月十九日に死去。
  その二年後の「ホトトギス」明治三七年九月号で虚子は、「俳諧といへば俳諧連歌の事である事はいふ迄も無いが、此明治の俳運復興以来文學者仲間には俳諧連歌は殆ど棄てゝ顧みられ無いで、同時に発句が俳句と呼ばるゝやうになつて、俳諧といふ二字が殆ど俳句といふ事と紛らわしくなつた。」と冒頭で述べ「連句論」を掲載。蕉門の『猿蓑』の「市中は」歌仙を「法則」「意味」「私見」と「三條」に分けて論じ、連句の文学的価値に迫った。
  同年十月、虚子は、夏目漱石、坂本四方太(ホトトギス選者)と三吟歌仙を巻いている。その平句の一節は次のように展開。人事句を楽しんでいることがよく分る。

    反吐を吐きたる乗合の僧    四方太
  意地惡き肥後侍の酒臭く     漱 石
    切つて落せし燭臺の足     虚 子

  発句にて戀する術もなかりけり  虚 子
    妹の婿に家を譲りて      四方太
  和歌山で敵に遭ひぬ年の暮    漱 石

  なお、この歌仙が巻かれた翌年の「ホトトギス」明治三八年一月号に漱石の「吾輩は猫である」が発表された。さて、「花鳥諷詠と申しますのは花鳥風月を諷詠するといふことで、一層細密に云へば、春夏秋冬四時の移り變りに依つて起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂であります。」という虚子の自序(『虚子句集』春秋社 昭和三年)対して川崎展宏は高浜虚子全集(毎日新聞社)の月報⑥(昭和四九年四月)で次のように述べている。

「このよく知られた、棒のような定義に、昭和初年代、反ホトトギスの青年たちはいらだったことだろう。いらだったのは「近代」である。俳句を一個独立の近代詩たらしめようとする者たちにとって、今更何が花鳥風月か、ということになる。新興俳句から、いわゆる前衛俳句に至る烈しい俳句近代化の、ないしは現代化の運動は、子規の俳句革新の意図を、それぞれの年代の青年たちが、彼らの生きた時代に力点を置いて推し進めた運動であって、つねに、俳句が現代詩としての問題意識を進んで担おうとした結果であった。連句の座が崩壊し、そこから発句ではなく俳句として出発した近代俳句の、一つの必然の道なのである。
  虚子の「花鳥諷詠」は、いまにして思えば、連句の座を失った近代にあって、なお人々の心に残っていた花鳥風月への思ひを拠りどころに、何とかして発句性を回復しようとしたものであった。」

  「連句の座」(もちろん芭蕉の座は失われている)が脈々とつながっているから、こうして拙文を書かせてもらっているわけで、私などはこの虚子の花鳥諷詠論はまさに連句のことを的確に表現していると感じる者である。「連句の座を失った近代」に「連句雑俎」(昭和六年)、「俳諧の本質的概論」(昭和七年)を著し、松根東洋城、小宮豊隆らと盛んに連句の実作も試みた寺田寅彦の熱い思いを紹介しよう。  
  「この芸術はまたある意味で近代の活動映画の先駆者であり、ことにいわゆるモンタージュ映画や前衛映画、そうしておそらく未来に属するいろいろの映画芸術の予想のようなものでもある。それだのに、この「俳諧」という名が多くの人には現代の日本人とは何の交渉もない過去のゆう霊の名のように響くのは何ゆえか。その少なくも一つの理由は、これが従来ただいわゆる宗匠たちのかび臭いずだ袋の奥に秘められて、生きて歩いている人々の、うかがい見るのを許しても、手に取りはだに触れることを許されなかったせいであろう。俳諧自身はかび臭いものではない。いわゆる「さび」や「しおり」は枯骨のようなものではなくて、中には生々しい肉も血もあり、近ごろのいわゆるエロもグロもすべてのものを含有している。このユニークな永久に新鮮でありうべき芸術はすべての日本人に自由に解放され享有されなければならない。そうしてすべての人は自由に各自の解釈、各自の演奏を試みてもさしつかえないものである。俳諧も音楽同様に言葉や理屈では到底説明し難いものだからである。」(昭和六年一月三十日、東京朝日新聞『芭蕉連句の根本解説』(太田水穂著)の書評より抜粋)

    通されて二階眩ゆき若葉かな 寅日子
     まゐらす茶にも夏空の雲 行 人

  これは、行人こと詩人の尾崎喜八が、生前の寅彦の句を発句として昭和二三年に連衆二人と巻いた脇起り歌仙の付合。座の成立、それは他者と共に楽しむ所から始まるのである。

(俳句雑誌『蝶』202号掲載(2013年7・8月)) ]
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「東洋城・寅彦、そして、豊隆」(漱石没後~寅彦没まで)俳句・連句管見(その五) [東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)]

その五「大正十年(一九二一)」

[東洋城・四十四歳。寅彦、豊隆と毎月一回づつ「俳句を通しての漱石研究」の会を始めて「渋柿」に連載した。京都に遊ぶ。米良にて「俳諧草庵」。]

歳旦やわが俳諧のあら尊と(前書に「渋柿新年号扉の一句より」)

※『東洋城全句集(上巻)』所収「大正十年(四十四歳)」の冒頭の一句である。この句の上五の「歳旦や」の「歳旦」は、「① (「旦」は朝の意) 一月一日の朝。元旦。元日。年頭。《季・新年》」の、「年頭」の句ということを意味しているであろう。
 これが、これに続く「わが俳諧のあら尊と」の、「わが俳諧」の「俳諧」と結びつけると、この「俳諧=連句」は、「歳旦三つ物(「歳旦開き」の「歳旦三つ物)、「歳旦開きの席で作る発句(ほっく)・脇句(わきく)・第三の、三句。→ (三句形式の連句)」と解することも出来よう。
 『東洋城全句集(下巻)』の「連句篇」の冒頭の「歌仙(大正五年)」は、次のとおりの、東洋城の句を発句として、その付け句が、霽月(村上)以下五吟(五人)の「三つ物(三句提示)」と、芭蕉俳諧(連句)などでは見られないものとなっている。

(発句)何時の間に月になり居りし花野かな(東洋城)

(「脇・第三・四句目」=「三つ物」)
(脇句) 鹿かあらぬか遠山の声(霽月)
(第三)温泉冷めすと障子〆切るうそ寒み(同上)
(四)  又くりかへす旅行案内(同上)  

(「五・六・七句目」=「三つ物」)
(五) 一昔あはぬ子なれば心せき(枯山楼)
(六)  此世の中は皆めくらなり(同上) 
(七)ウ一 物買うて消ゆ山人山人や雪の暮(同上

(「八・九・十句目」=「三つ物」)
(八)    熊が出でしと噂ありけり(喜舟)
(九)   田の中に石油の脈を掘りあてて(同上)
(十)    襖へかかす大観を呼ぶ(同上)

(「十一・十二・十三句目」=「三つ物」)
(十一)  法会済みて猶泊り居る僧二人(坪谷)
(十二)   風呂が涌いたと鳴子曳く見ゆ(同上)
(十三)  西すれば月遠ざかる俥にて(同上)

 この、『東洋城全句集(下巻)』の「連句篇」の冒頭の「歌仙(大正五年)」の、五人の連衆(東洋城・霽月・故山楼・喜舟・坪谷)の、この「霽月」は、漱石の「松山時代の愚陀佛庵」に連なる、「子規・漱石」の忘れ得ざる俳人「村上霽月」(1869(明治2)年~1946(昭和21)年)その人であろう。

村上霽月.jpg

「村上霽月=むらかみせいげつ」(1869(明治2)年~1946(昭和21)年)
https://tamutamu2020.web.fc2.com/murakamiseigetu.htm
https://www.murakamisangyo.co.jp/about/media.html

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-19
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-27
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-09-02

 さらに、「喜舟」とは、昭和二十七年(一九五二)に、東洋城の隠退後の後継者となる「野村喜舟」(1886(明治19)年~1983(昭和58)年)、その人ということになる。

野村喜舟.jpg

「野村喜舟(のむらきしゅう)」(1886(明治19)年~1983(昭和58)年)
https://www.kitakyushucity-bungakukan.jp/display/169.html
https://kotobank.jp/word/%E9%87%8E%E6%9D%91%20%E5%96%9C%E8%88%9F-1652233

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-09-28
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-06
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-16
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-24
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-26


[寅彦=寅日子・四十四歳。七月、航空研究員となる。九月、勲四等に叙せられる。この頃、写生のため散策に出かけるようになる。十二月、小宮豊隆、松根東洋城との三人で第一回の漱石俳句研究会を開く。その内容は翌年の一月から七月まで俳誌「渋柿」に掲載される。連句に関心を寄せ始める。]

[豊隆=蓬里雨・三十八歳。 芭蕉研究会に参加。]

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-24
https://jyunku.hatenablog.com/entry/20100925/p1

※大正十年(1921)の「芭蕉研究会」に参加は、東洋城の「渋柿」などとの「芭蕉研究会」ではなく、下記のアドレスのものなどによると、「太田水穂(歌誌「潮音」主宰)・幸田露伴・沼波瓊音・安倍能成・阿部次郎・小宮豊隆・和辻哲郎」らによる研究会のようである。


(追記その一)「東洋城・三允・虚子」の未完「歌仙」(表六句・明治三十七年九月「鵜川・二巻四号)周辺

発句 草の露馬も夜打の支度かな (子規)
脇   秋冷かに草摺の音     東洋城
第三 長き夜の評定の席罷り出て  三允
四   月にゐねむる奴よぶなり  虚子
五  門前にはたと躓(つまづ)く竹箒 子
六   家越車の荷は山の如     城

※ 子規の発句だが、子規は、前々年(明治三十五年)に亡くなっており、その亡き子規の俳句を発句としての、「脇(わき)起(おこ)り・(脇(わき)起(おこ)し)」歌仙である。
 明治三十七年(一九〇四)、東洋城、二十七歳の時で、新設の京都帝大(仏法科)に東京帝大から転校した年で、その年末に、東洋城が帰京した折の、虚子の句会(日盛会)での歌仙のように思われる。
 この虚子の句会(日盛会)の連衆は、「中野三允(さんいん)・岡本癖三酔(へきさんすい)」らで、この句会は、東洋城が、その翌年(七月)に京都帝大を卒業して、明治三十九年(一九〇六)に宮内省入りした当時は、碧悟桐の「俳三昧」に対抗しての「俳諧散心」(勉強会)へと様変わりをする。
 当時の東洋城は、虚子の主宰する「日盛会」・「俳諧散心」などの有力連衆の一人だったのである。そして、東洋城は、そのスタートの時点で、夏目漱石によって開眼した俳句(「松山中・一高・東大」で漱石に師事)と共に、京都の三高に在籍して京都の俳人と親交のある、子規没後の「ホトトギス」の俳句を支えている高浜虚子の「句会」・「勉強会」で、「俳諧(連句)」にも深く足を踏み入れていたのである。
 そして、それは、当時の「俳諧(連句)・俳句」で兄事していた「高浜虚子」(東洋城より四歳年長)の影響などが大であることを物語っている。事実、虚子は、子規との両吟など、「俳諧(連句)」に、東洋城以上に、精通していたのである。

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子規と虚子の両吟(明治三十一年十一月号「ほととぎす」)

オ   発句 荻吹くや崩れ初(そ)めたる雲の峰      子規
    脇句  かげたる月の出づる川上         虚子
    第三 うそ寒み里は鎖(とざ)さぬ家もなし     子規
    四   駕舁(かごかき)二人銭かりに来る     虚子
    五  洗足の湯を流したる夜の雪         子規
    折端   残りすくなに風呂吹の味噌       虚子

ウ   折立 開山忌三百年を取り越して         子規
    二    鐘楼に鐘を引き揚ぐる声        虚子
    三  うたゝ寝の馬上に覚めて駅近き       子規
    四    公事の長びく畑荒れたり        虚子
    五  水と火のたゝかふといふ占ひに       子規
    六    妻子ある身のうき名呼ばるゝ      虚子
    七  鸚鵡鳴く西の廂の月落ちて         子規
    八    石に吹き散る萩の上露         虚子
    九  捨てかねて秋の扇に日記書く        子規
    十    座つて見れば細長き膝         虚子
   十一  六十の祝ひにあたる花盛          子規
   折端   暖き日を灸据ゑに来る          虚子

ナオ 折立 まじなひに目ぼの落ちたる春の暮       虚子
    二   地虫の穴へ燈心をさす          子規
    三  しろがねの猫うちくれて去りにけり     虚子
    四   卯木も見えず小林淋しき         子規
    五  此夏は遅き富山の薬売           虚子
    六   いくさ急なり予備を集むる        子規
    七  足早に提灯曲る蔵の角           虚子
    八   使いの男路で行き逢ふ          子規
    九  亡骸は玉のごとくに美しき         虚子
    十   ひつそりとして御簾の透影        子規
   十一  桐壺の月梨壺の月の秋           虚子
   折端   葱の宿に物語読む            子規

ナウ 折立  ひゝと啼く遠音の鹿や老ならん       虚子
    二     物買ひに出る禰宜のしはぶき     子規
    三   此頃の天気定まる南風          虚子
    四     もみの張絹乾く陽炎         子規
    五   花踏んで十歩の庭を歩行きけり      虚子
   挙句     柿の古根に柿の芽をふく       子規


(参考) 「日本派」特別展4 ―虚子派と碧梧桐派の鍛錬句会稿―

http://www.kyoshi.or.jp/j-huuten/nihonha/nihonha4/03.htm

東洋城短冊.jpg
「短冊 松根東洋城(明治11~昭和39)」
「短夜や沢辺の白を田鶴となす 東洋城」

[ 東京生まれ。松山中学、一高、東大を経て京大卒。39年に宮内庁に入り、一高では漱石に師事。「俳諧散心」に参加。41年から国民俳壇を虚子から引継ぎ、この頃虚子が尤も気にとめていた門人であったが、大正期に国民新聞の俳句選者に虚子が復帰依頼を受けた問題でもめ、後「ホトトギス」を離反した。]

三允短冊.jpg
「短冊 中野三允(明治12~昭和30)」
「蚊柱をこれ見玉へや一と抱き 三允」

[ 埼玉生まれ。早稲田大学の学生であった頃子規に師事し、「早稲田俳句会」を設立。俳諧散心第一回句会には参加できず、「デンポーデ フサンヲワビル チヂツカナ」と電報で不参を詫びた。]

虚子短冊.jpg
[短冊 高浜虚子 (明治7~昭和34)」
「黄金虫擲(なげう)つ闇の深さ哉 虚子」

[軸でも展示しているが、明治41年8月11日、鍛錬句会「日盛会」第11回の作。後に虚子自選句集『五百句』に所収された。 ]


(追記その二)「虚子の連句」(松井幸子稿)

file:///C:/Users/user/Downloads/AN101977030050010.pdf
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