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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十三)「鈴木春卓・蠣潭・其一-守一」(その周辺)

蠣潭・藤図扇面.jpg

鈴木蠣潭筆「藤図扇面」 酒井抱一賛 紙本淡彩 一幅 一七・一×四五・七㎝ 個人蔵 
【 蠣潭が藤を描き、師の抱一が俳句を寄せる師弟合作。藤の花は輪郭線を用いず、筆の側面を用いた付立てという技法を活かして伸びやかに描かれる。賛は「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」。淡彩を滲ませた微妙な色彩の変化を、暮れなずむ藤棚の下の茶店になぞらえている。】(『別冊太陽 江戸琳派の美』)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-24

(再掲)

 蠣潭は抱一の最初の弟子。酒井家家臣で抱一の付き人を務めた鈴木春卓の養子。幼少より抱一のもとに出入りし、文化六年(一八〇九)、十八歳の時、養父の跡を継いで十三人扶持、中小姓として正式に抱一に仕える。抱一の画業を支え、時には代作も依頼されたことが知られる。
 抱一から強く頼りにされていた蠣潭だが、文化十四年(一八一七)、犬毒(狂犬病)で二十六歳の若さで急死、鈴木家を継ぐべき蠣潭の姉(一説に妹)と縁組みしたのが弟弟子の、其一である。

 上記の「藤図扇図」は、蠣潭=画、抱一=賛(俳句)の、師弟の合作である。抱一の句の「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」、そして、その流麗な筆致が絶妙である。ここには、師弟一体の絶妙な世界が現出されている。

鈴木蠣潭(すずきれいたん)

1782-1817 江戸時代後期の武士,画家。
 天明2年生まれ。播磨(はりま)(兵庫県)姫路藩士。藩主酒井忠以(ただざね)の弟酒井抱一(ほういつ)の付き人となる。抱一に画をまなび、人物草花を得意とした。文化14年6月25日死去。36歳。名は規民。通称は藤兵衛、藤之進。(出典:講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

白薔薇図扇面.jpg

鈴木蠣潭 「白薔薇図扇面」江戸時代後期/個人蔵
http://salonofvertigo.blogspot.com/2016/09/

鈴木其一(すずききいつ)/(「ウィキペディア」)

 寛政7年(1795年) - 安政5年9月10日(1858年10月16日))は、江戸時代後期の絵師。江戸琳派の祖・酒井抱一の弟子で、その最も著名な事実上の後継者である。もと氏は西村、一説には山本。諱は元長、字は子淵。其一は号で、のちに通称にも使用した。別号に噲々、菁々、必庵、鋤雲、祝琳斎、為三堂、鶯巣など。近代に通じる都会的洗練化と理知的な装飾性が際立ち、近代日本画の先駆的な絵師とみなされている。
(生い立ち)
其一の生い立ちは不確かなことが多い。中野其明『尾形流略印譜』や『東洋美術大鑑』など近代以降、弟子の談話などの資料を根拠とした説では中橋(現在のブリヂストン美術館周辺)で、近江出身の紫染めを創始したと言われる紺屋の息子として寛政8年4月に誕生し、兄弟子鈴木蠣潭(れいたん、通称・藤之進、のち藤兵衛)の病死後、蠣潭の姉りよを妻として鈴木家の婿養子になったとされる。一方、『姫陽秘鑑』に収録される文化14年(1817年)7月付の養父蠣潭の名跡養子願には幕臣水野勝之助の家来、飯田藤右衛門厄介の甥で蠣潭母方の遠縁、西村為三郎として武士階級であるように登場し、年齢も23歳、結婚相手も妹になっている。このうち、年齢は其一自身の作品、「牡丹図」の落款と「菊慈童図」の箱書きから文化14年時点で23歳、寛政7年の誕生であることは確かとみられ、結婚相手も論理・法律上の観点から妹である可能性が高いとみられている(姉と結婚すると義兄になるため、名跡を継ぐためとは言え弟の養子にはなれない)。其一は子供のころから抱一に弟子入りし、文化10年(1813年)に内弟子になったとされている。文化14年には前述のとおり兄弟子であった蠣潭の急病死のあと、婿養子として鈴木家の家督を継いだ。『東洋美術大鑑』は其一の俸禄を150人扶持であったと記述するが、これには早くから疑問が呈せられ、松下高徐『摘古採要五編』にみえる酒井家士時代の9人扶持、養父蠣潭の13人扶持と比較しても再考が必要と指摘されている。
(画風準備期・草体落款時代)
年記がある其一の作品は少ないが、落款の変遷から画風展開を追うのが普通である。抱一在世中は、抱一から譲られた号である「庭拍子」、または「其一筆」とだけ記す草書落款が多い。この時期は、抱一の住居「雨華庵」の筋向いに住み、身の回りの世話をしながら彼に学び、個性を顕わにしていく画風準備期とされる。ミシガン大学所蔵の「抱一書状巻」によると、其一はしばしば師の代筆を担当したらしく、抱一作品の中には其一筆と酷似した物も見られる。抱一からは、茶道や俳諧も学び、「鴬巣」の俳号をもち、亀田鵬斎や大田南畝らと交わり、彼らの讃をもつ初期作品も少なくない。文政8年(1825年)西村貌庵が著し、抱一が序を寄せた『花街漫録』の挿絵を描いており、他にも10点ほどの版本挿絵が知られる。
(画風高揚期・噲々(かいかい)落款時代)
 其一は抱一の四十九日を過ぎてすぐ、文政12(1829年)2月に願い出て、それまでの家禄を返上する代わりに一代画師となった。普通なら姫路藩士として通常の勤務に戻るのが通例であるが、一代画師を選択したのに其一の特異性をみる意見もある。5人扶持・絵具料5両を受け、同時に剃髪し、天保3年(1832年)11月には絵具料を改定されて、9人扶持となる。翌年京都土佐家への絵画修業を名目に50日の休暇を申し出て、2月13日から11月にかけて西遊する。この時の日記『癸巳西遊日記』が、京都大学附属図書館谷村文庫に残されている。其一は、古い社寺を訪ね回り古書画の学習に励むなかで師の影響を脱し、独自の先鋭で近代的な画風へ転換していく。落款も「噲々其一筆」などと記す、いわゆる噲々落款に改め、この後10年程用いた。「噲々」とは『詩経』小雅が出典で、「寛く明らかなさま」「快いさま」を意味する。天保12年(1841年)から弘化3年(1846年)にかけて、抱一が出版した『光琳百図』の版木が焼けてしまったため、其一が複製して再出版している。その制作過程における、宗達や光琳作品の図様や構成法の再学習は、この後の画風に影響を与えたと見られる。天保13年(1842年)の『広益諸家人名録』には其一ではなく、息子守一の名が記されていて、その頃既に家督を譲っていたのではないかと推定されているが、当時の人名録には当主だけではなく隠居、兄弟、子女も掲載される例は多数あり、別の事情により其一は選外になったとみる向きもある。
(画風円熟期・菁々(せいせい)落款時代)
 弘化元年(1844年)頃からは、「菁々其一」と号を改めた菁々落款に変わる。「菁々」も『詩経』小雅にあり、「盛んなさま」「茂盛なさま」を指し、転じて人材を育成することを意味する。明らかに光琳の号「青々」も踏まえており、この改号には、師抱一を飛び越えて光琳を射程としつつ、次なる段階に進み、自ら後進を育てようと目論む其一の意欲が窺える。  
 その作風は再び琳派の伝統に回帰する一方で、其一の個性的造形性が更に純化する傾向が混在したまま完成度を高め、ある種の幻想的な画趣を帯びるようになった。ただし、晩年には工房作とおぼしき其一らしからぬ凡庸な作品が少なからず残り、師・抱一と同様、其一も弟子に代作させたと見られる。また、酒井忠学に嫁いだ徳川家斉の娘喜代姫の厚遇により、酒井家の医師格、つまり御用絵師となり別に30人扶持を賜ったとする説があるが[6]、信頼できる一次資料にはない。安政5年、64歳で没する。死因は当時流行したコレラともいわれる。法名は菁々院元譽其一居士。浄土宗の浅草松葉町正法寺に葬られたが、同寺は関東大震災で中野区沼袋に移転し、其一の墓もそこに現存している。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-28

其一・文読む遊女図.jpg

鈴木其一筆「文読む遊女図」酒井抱一賛/紙本淡彩/一幅 94・2×26・2㎝/細見美術館蔵
【 若き日の其一は、師の抱一に連れられて吉原遊郭に親しんだのだろうか。馴染み客からの文を読む遊女のしどけない姿に、「無有三都 一尺楊枝 只北廓女 朝々玩之」「長房の よふし涼しや 合歓花」と抱一が賛を寄せている。 】(『別冊太陽 江戸琳派の美』所収「江戸琳派における師弟の合作(久保佐知恵稿)」)
【 其一の遊女図に、抱一が漢詩と俳句を寄せた師弟の合作。其一は早くから『花街漫録』に、肉筆浮世絵写しの遊女図を掲載したり、「吉原大門図」を描くなど、吉原風俗にも優れた筆を振るう。淡彩による本図は朝方客を見送り、一息ついた風情の遊女を優しいまなざしで的確に捉えている。淡墨、淡彩で略筆に描くが、遊女の視線は手にした文にしっかりと注がれており、大切な人からの手紙であったことを示している。賛は房楊枝(歯ブラシ)を、先の広がっているその形から合歓の花になぞらえている。合歓は夜、眠るように房状の花を閉じることから古来仲の良い恋人、夫婦に例えられた。朝帰りの客を見送った後の遊女のしっとりとした心情をとらえた作品である。草書体の「其一筆」の署名と「必菴」(朱文長方印)がある。
(賛)
無有三都/一尺楊枝/只北廓女/朝々玩之/長房の/よふし涼しや/合歓花
抱一題「文詮」(朱文瓢印) 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説(岡野智子稿))」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-07-16

其一・雪中竹梅図.jpg

鈴木其一筆「雪中竹梅小禽図」双幅・絹本着色 細見美術館蔵 111・9×52・0cm
【 雪竹に雀を右幅、雪の紅白に雀を左幅に描いた双幅。いずれも枝葉、花にこんもりと雪が積もり、なお画面には雪が舞っている。降り積もった雪を薄い水墨の外隈で表し、降る雪、舞う雪はさらに胡粉を吹き付けて雪らしい感じに仕上げている。雪深い中にも早春の気配を感じさせる図である。
 右幅では雪の重みでしなる二本の竹の枝が大きく弧を描き、雀が当たって勢いよく落ちる雪のさまが雪塊とともに長く滝のように表される。墨を交えた緑の竹と、それを覆うかのような雪が鮮やかなコントラストを見せている。同様な表現は、竹に替わり檜ではあるが、其一「檜図」や「四季図」(四幅対)にも見出され、其一が得意とした画題であった。
 これに対し左幅は、一羽の雀が寒さに耐えて羽を休め、静寂な画面である。ほころび始めた紅梅の花にも蕾にも雪が積もり、複雑な余白の表出を其一は楽しんでいるかのようである。
 雪と雀を左右共通のモチーフとしながら、静と動、緑と紅などを対比させ、雪のさまざまな形の面白さをも追及した意欲的な作品である。師の抱一が情趣の表現を追求したのに対し、其一は造形的な効果にも多く関心を払った。 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社)』所収「作品解説(岡野智子稿)」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-07-23

其一・朝顔図屏風一.jpg

鈴木其一筆「朝顔図屏風」六曲一双 紙本金地著色 各一七八・〇×三七九・八㎝
メトロポリタン美術館蔵(再掲)→ (其一・金地・「綺麗さび」の「綺麗」)→ (図一)

宗達・雲龍図屏風一.jpg

俵屋宗達筆「雲龍図屏風」六曲一双 紙本墨画淡彩 各一五〇・六×三五三・六㎝
フリア美術館蔵 (宗達・墨画・「綺麗さび」の「さび」)→(図二)

宗達・風神雷神図一.jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」二曲一双 紙本金地淡彩 各一五四・五×一六九・八㎝
建仁寺蔵 → (図三)

其一・風神雷神図襖一.jpg

鈴木其一筆「風神雷神図襖」四面裏表 絹本著色 各一六九・〇×一一六・〇cm
東京冨士美術館蔵→ (図四)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-18

 其一の「朝顔図屏風」(図一)、宗達の「雲龍図屏風」(図二)・「風神雷神図屏風」(図三)は、いわゆる、移動性の「屏風絵(画)」に比して、其一の「風神雷神図襖」は、建物に付属している「襖絵」という違いがある。
 本来は、これらの障壁画(襖絵、杉戸絵、壁貼付絵、天井画、屏風絵、衝立絵などの総称)は、建物の空間と密接不可分のもので、それらを抜きにして鑑賞することは十全ではないのかも知れないが、逆に、それらの本来の空間がどういうものであったかを想像しながら、これの大画面の絵画を観賞する面白さもあるように思われる。
 例えば、この宗達の「雲龍図屏風」(図二)は、「落款が両隻を並べた場合内側となる部分にあることから、並置するのではなく、向かい合わせに置くことを意図していたと推測される」(『琳派四 風月・鳥獣(紫紅社刊)』)と、そもそもは、其一の「風神雷神図襖」(図四)と同じような意図で制作されたものなのかも知れない。
 さらに、この其一の「風神雷神図襖」(図四)も、襖四面の「裏と表」に描かれていると、上記のように、並置しての、右隻の「風神図」と左隻の「雷神図」との対比が希薄化される恐れがあるように思われる。

 ここで、改めて、上記の四図を見ていくと、この其一の「朝顔図屏風」(図一)は、宗達の「雲龍図屏風」(図二)、そして、其一の「風神雷神図襖」(図四)は、宗達の「風神雷神図」(図三)を、それぞれ念頭に置いて制作したのではないかという思いを深くする。
 と同時に、其一は、宗達の「黒と白」との「水墨画」の極致の「雲龍図屏風」(図二)を、「金地に群青と緑青等の装飾画」の極致の「朝顔図屏風」(図一)に反転させ、そして、宗達の「金地に緑青等の装飾画」の極致の「風神雷神図屏風」(図三)を、「黒と白と淡彩の水墨画」の極致の「風神雷神図襖」(図四)に、これまた、反転させているということを実感する。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-25

其一・白椿.jpg

Camellias (one of a pair with F1974.35) → 白椿(フリーア美術館蔵)
Type Screen (two-panel) → 二曲一双
Maker(s) Artist: Suzuki Kiitsu 鈴木其一 (1796-1858)
Historical period(s) Edo period, 19th century
School Rinpa School
Medium Ink, color, and gold on paper → 金地着色画
Dimension(s) H x W: 152 x 167.6 cm (59 13/16 x 66 in)

 上記の作品が、屏風の「表」の「金」(ゴールド)の世界とすると、その屏風の「裏」の「銀」(シルバー)の世界が、次のものである。

其一・芒野.jpg

Autumn Grass → 芒野(フリーア美術館蔵)
Type Screen (two-panel) → 二曲一双
Maker(s) Artist: Suzuki Kiitsu 鈴木其一 (1796-1858) → 鈴木其一
Historical period(s) Edo period, 19th century
Medium Ink and silver on paper → 銀地墨画 
Dimension(s) H x W: 152 x 167.6 cm (59 13/16 x 66 in)

其一・芒野二.jpg

鈴木其一「芒野図屏風」 二曲一隻 紙本銀地墨画 一四四・二×一六五cm
千葉市美術館蔵

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-03

守一・東下り.jpg


鈴木守一筆「不二山図」 一幅 絹本著色 一〇四・五×三九・五㎝ 個人蔵
(「『描表装(かきびょうそう)』」は省略)
出典(『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』)

 これは、江戸琳派の創始者・酒井抱一(宝暦十一年・一七六一~文政十一年・一八二八)でも、その継承者・鈴木其一(寛政八年・一七九六~安政五年)の作でもない。その其一の子・鈴木守一(文政六年・一八二三~明治二十三・一八八九)の作である。
 守一は、琳派の継承者だが、江戸時代の画家というよりも、幕末・明治時代の画家ということになる。しかし、この絵もまた、次の其一の作品の「型」を踏襲し、景物(富士山など)の配置や人物(主人公と従者)の向きなどに変化をもたらしているということになろう。

鈴木守一(すずきしゅういつ)

https://jmapps.ne.jp/spmoa/sakka_det.html?list_count=10&person_id=725

 19世紀半ばから後半に活躍した江戸琳派の画家。鈴木其一の子として江戸に生まれる。名は元重、字は子英。通称は重五郎。静々、庭柏子、露青などと号す。
 父・其一に画を学び、その模作を数多く残す。天保13(1842)年頃に其一の跡を継ぐ。明治6(1873)年のウィーン万国博覧会に《紅葉鴛鴦》を出品するなど、酒井抱一の孫世代として、幕末から明治にかけて活躍。其一の鮮やかな彩色、明快な構図などを継承しつつ、抱一の情趣を重んじる表現を受け継ぎ、多岐にわたる画題を描いた。
明治期において江戸琳派様式を展開させた点で重要な画家と言える。

鈴木春卓(すずきしゅんたく)

 鈴木春卓は、「蠣潭の養父(?)→其一の義父・養父(?)→守一の祖父(?)」の「鈴木家」の祖ということになる。この「鈴木藤兵衛春卓」の名の初出は、「鈴木藤兵衛春卓/寛政二年九月等覚院様御付」(『摘古採要』所収「等覚院殿御一代記」)のようである。(「抱一上人年譜稿(相見香雨稿)」)
 この寛政二年(一七九〇)、抱一、三十歳時の、その七月に、抱一の実兄の「忠以」が急逝し、その実子の「忠道」が十二歳の若さで、その三代目姫路藩を継承したのである。この時に、抱一は、「酒井家」の第一線から姿を消し、その七年後の寛政九年(一七九七)十月に出家して、「等覚院文詮暉真」を名乗ることになる。
 この抱一の出家関連については、同年十月十七日と十九日付けの「等覚院殿御一代記」に、次のような記述が見られる。

https://www.blogger.com/blog/post/edit/17972871/3724470630003625244

一 同月十七日(寛政九年十月十八日の「得度式」の前日)御得度被為済/京都御住居被成候ニ付/御合力・千石/五十人扶持・御蔵前ニテ/被進候事ニ被仰出
(文意=抱一の出家後は、酒井家より、「千石・五十人扶持=付人(つきびと)三人の合計扶持)で、抱一の俸禄は「知行地」でなく「蔵米で一千石」待遇となる。その前段の「京都御住居被成候ニ付」は、出家後は、京都の西本願寺の末寺に住する」ということであろう。)

 この「付人(つきびと)」三人に関して、「御一代記」に、次のとおり記述されている。(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」)

 此君大手にいませし頃は左右に伺候する諸士もあまたありしか御隠栖の後は僅に三人のみ召仕われける    

 (中略)

同月十九日等覚院様ニテ左の如く被仰付
御家老相勤候被仰付拾六人扶持被下置  福岡新三郎 (給人格)
御用人相勤候被仰付拾五人扶持被下置  村井又助 (御中小姓)
拾五人扶持被下置           鈴木春卓 (御伽席)

 かくの如く夫々被仰付京都御住居なれば御合力も姫路より京都回りにて右三人の御宛行も御合力の内より給はる事なりされは三人の面々御家の御分限に除れて他の御家来の如くなりし其内にも鈴木春卓は御貯ひの事に預りて医師にては御用弁もあしければ還俗被仰付名も藤兵衛と改しなり後々は新三郎も死亡し又助も退散して藤兵衛のみ昵近申せし也
(文意・注=「此君大手にいませし」(抱一が「酒井家」の上屋敷に居た頃)、「給人」(給人を名乗る格式の藩士は一般に「上の下」とされる家柄の者)、「中小姓」(小姓組と徒士(かち)衆の中間の身分の者、近侍役)、「御伽席」(特殊な経験、知識の所有者などで、主人の側近役)、この「鈴木春卓(藤兵衛)」は、「医師にては御用弁あ(り)し」(「医事」の知識・経験を有している意か?)、そして、この「鈴木家」が、「(鈴木春卓)→鈴木蠣潭(1782-1817)→鈴木其一(1795-1858)」と、画人「酒井抱一」をサポートすることになる。)

(参考)「抱一の出家後は、酒井家より、「千石・五十人扶持=付人(つきびと)三人の合計扶持)で、抱一の俸禄は「知行地」でなく「蔵米で一千石」待遇となる。」周辺

https://www.viva-edo.com/houroku.html

蔵米取り(くらまいとり)

支給方法 年3回に分けて支給されたため「切り米」と言った。
100俵の場合 春 2月:4分の1=25俵 (借り米)俸禄米の先渡しの意味から
夏 5月:4分の1=25俵 (借り米)
冬 10月:2分の1=50俵(大切米)

扶持米(ふちまい)

下級の侍に支給される一種の手当。戦国時代からの名残。
一人一日五合の計算で支給 一人扶持=一年=360日=一石八斗 を月割りで毎月支給。
 年収に直すとおおまかに、一人扶持=5俵と考えてよい。例:30俵2人扶持の場合 40俵

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E6%9C%AC

(旗本) (「ウィキペディア」)

1000石級
 1000石取りの軍役は侍5人、立弓1人、鉄砲1人、槍持2人、甲冑持2人、草履取2人、長刀1人、挟箱持2人、馬の口取2人、押足軽1人、沓箱持1人、小荷駄2人の計21人である。馬は主人の乗用と乗換用2頭に小荷駄用2頭を用意しておくことになっていたが、大半はせいぜい乗馬2頭だけ用意した。
 拝領する屋敷はおおむね三十間四方九百坪ぐらいで門は門番所付長屋門である。家臣の侍のうちから用人が選ばれて主人出勤中の屋敷の表を取り仕切り、奥には女中が奥様付きの老女を筆頭に5、6人いた。
 1000石取りは四公六民とすれば400石の収入であり、使用人を三十人ぐらいとして、それらへの食料を53石程度と見積もると347石が残り、使用人への給料や諸経費を賄っても生活は比較的安定していた階級だったといえる。
 またこの階級は幕府要職に就くことも多く、目付や使番などが適当な勤め場所だった。
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十二) 抱一の二人の甥(「忠道=銀鷺」と「忠実=鷺山・玉助・松柏堂・春来窓」)」(その周辺)

酒井忠道.jpg

酒井忠道(さかい ただひろ / ただみち)は、江戸時代中期から後期の大名。播磨姫路藩第3代藩主。雅楽頭系酒井家16代。

「酒井忠道」(「ウィキペディア」)
生誕 安永6年9月10日(1777年10月10日)
死没 天保8年7月23日(1837年8月23日)
別名 坂井得三郎?
墓所 群馬県前橋市紅雲町の龍海院
官位 従五位下・雅楽頭、従四位下・主計頭、備前守
幕府 江戸幕府
藩 播磨姫路藩主
氏族 雅楽頭酒井家
父母 父:酒井忠以、母:嘉代姫(松平頼恭の娘)
兄弟 忠道、忠実、以寧
妻 正室:磐(井伊直幸の娘)
子 英(松平斉恒継室)、妙(小笠原長貴正室)、夬(内藤頼寧正室)、寿久(京極高朗継室)、忠親(長男)、忠学
養子:忠実
(生涯)
 第2代藩主酒井忠以の長男。寛政2年(1790年)、12歳の時に父の死により家督を継ぐ。この頃、姫路藩では財政窮乏のため、藩政改革の必要性に迫られており、文化5年(1808年)には藩の借金累積が73万両に及んでいた。父・忠以も河合道臣(寸翁)を登用して藩政改革に臨んだが、藩内の反対派によって改革は失敗し、道臣は失脚した。しかし忠道は再度、道臣を登用して藩政改革に臨んだ。
 文化7年(1810年)には「在町被仰渡之覚」を発表して藩政改革の基本方針を定め、領民はもちろん、藩内の藩士全てに改革の重要性を知らしめた。まず、道臣は飢饉に備えて百姓に対し、社倉という食料保管制度を定めた。町民に対しては冥加銀講という貯蓄制度を定めた。さらに養蚕所や織物所を藩直轄とすることで専売制とし、サトウキビなど希少で高価な物産の栽培も奨励した。
 道臣は特に木綿の栽培を奨励していた。木綿は江戸時代、庶民にとって衣服として普及し、その存在は大変重要となっていた。幸いにして姫路は温暖な天候から木綿の特産地として最適だったが、当時は木綿の売買の大半が大坂商人に牛耳られていた。道臣ははじめ、木綿の売買権を商人から取り戻し藩直轄するのに苦慮したが、幸運にも忠道の八男・忠学の正室が第11代将軍・徳川家斉の娘・喜代姫であったため、道臣は家斉の後ろ盾を得て、売買権を藩直轄とすることができた。この木綿の専売により、姫路藩では24万両もの蓄えができ、借金を全て弁済するばかりか、新たな蓄えを築くに至った。
 文化11年(1814年)、38歳で弟の忠実に家督を譲って隠居し、天保8年(1837年)に61歳で死去した。  

酒井忠実(さかい ただみつ)は、江戸時代後期の大名。播磨国姫路藩酒井家の第4代藩主。雅楽頭系酒井家17代。
生誕 安永8年10月13日(1779年11月20日)
死没 嘉永元年5月27日(1848年6月27日)
改名 直之助(幼名)、忠実
別名 徳太郎、玉助(通称)、以翼、春来窓(号)
戒名 祗徳院殿鷺山源桓大居士
墓所 群馬県前橋市紅雲町の龍海院
官位 従五位下河内守、従四位下雅楽頭、侍従、左近衛少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
藩 播磨姫路藩主
氏族 酒井氏(雅楽頭家)
父母 父:酒井忠以、母:松平頼恭の娘・嘉代姫
養父: 酒井忠道
兄弟 忠道、忠実、以寧
妻 正室:西尾忠移の娘・隆姫
側室: 於満寿
子: 采、松平忠固、西尾忠受、東、忠讜、三宅康直、酒井忠嗣正室、桃、九条尚忠室ら
養子:忠学、万代
(生涯)
 第2代藩主・酒井忠以の次男。 文化11年(1814年)、兄・忠道の隠居後に家督を継ぎ、20年以上にわたって藩政をとった。 天保6年(1835年)、57歳で隠居する。 家督は先代忠道の八男・忠学(忠実の甥)に継がせた。 隠居後、鷺山と号した。
 叔父の酒井抱一と交流が深かった。 抱一の句集『軽挙館句藻』には、しばしば「玉助」の名で登場し、抱一の部屋住み時代の堂号「春来窓」を継承し、抱一が忠実の養嗣子就任の際に贈った号「松柏堂」を名乗っている。 正室の隆姫も抱一から「濤花」の俳号を贈られている。正室の隆姫は、戦国期の播磨姫路城主・黒田孝高や酒井重忠の血筋を引いている。

「抱一」と二人の甥(「忠道=銀鷺」と「忠実=春来窓・六花」)周辺

 文化十一年(一八一四)、抱一、五十四歳時の『軽挙館句藻』の二月の項に、次のような記述がある。

  きさらぎ廿七日、初鰹を九皐子のもとより送る
  銀鷺・六花両君に呈す
 花をまつ松のさし枝(え)や七五三
 時有(あり)て居替(いがは)る鶴や松の春

≪ 九皐子(きうかうし)は抱一の孫弟子野沢堤雨(一八三七~一九一七)の父とされ、光琳百回忌の展覧会にも一点出品している。忠道(銀鷺)・忠実に異様に早い貴重な初鰹を進呈し、藩主代替わりを暗示する祝儀句をそれぞれに贈っているから、抱一は叔父として、それなりに兄の遺児である両者に神経を遣っていたようにも感じられる。
忠実の方は抱一から春来窓の号を譲られたほか、合作の俳諧摺物を数点制作している。『句藻』をみれば、忠実にあてた句・和歌、季節の品の贈答記事や祝儀句など言及は多い。両者は同じ次男であり、兄忠道が藩主を辞めなければ、忠実は藩主にはなれなかった。抱一は出家したが、似た境遇のせいか、ことさら可愛がったようである。 ≫(『酒井抱一・井田太郎著』) 

 この前年の文化十年(一八一三)に刊行された『屠龍之技』(鵬斎序・春来窓跋・南畝跋)の、その「春来窓(忠実)跋」は、次のとおりである。

≪ 抱一上人、春秋の発句有り。草稿、五車に積(つむ)べし。其(その)十が一を挙(あげ)て一冊とす。上人、居を移(うつす)事数々也。其部(そのぶ)を別(わか)つに其処(そのところ)を以(もつて)す。これ皆、丹青図絵(たんせいづえ)のいとまなり。此(この)冊子(さつし)の跋文を予に投ず。尤(もつとも)、他に譲(ゆづる)べきにもあらず、唯、「寛文・延宝の調(しらべ)を今の世にも弄(もてあそぶ)もの有らば、其(その)判(はん)を乞(こは)ん」と。「是(これ)、上人の望(のぞみ)給(たま)ふところ也」と。春来窓、三叉江のほとりに筆を採(とり) 畢(をはんぬ)。≫(『酒井抱一・井田太郎著』) 

 ここで、「忠道=銀鷺」が、その実弟の「忠実=春来窓・六花」に、文化十一年(一八一四)九月に、三十八歳の若さで藩主の座を、二歳下の弟の忠実に譲って隠居し、忠道が亡くなったのは、天保八年(一八三七)の六十一歳の時である。
 この忠道の生存中の天保六年(一八三五)に、忠道から家督を継承した忠実は、忠道の実子の「忠学(ただのり)」に家督を譲って、これまた、五十七歳で隠居している。
 この「(忠以)→忠道→忠実→忠学」 の、播磨国姫路藩酒井家(第三代→第六代)の四代の藩主に仕え、五十年余にわたって、姫路藩の財政再建に貢献した家老が、「河合道臣」(号=寸翁)である。

河合寸翁像.jpg

姫路神社境内の河合寸翁像(「ウィキペディア」)

河合道臣(かわい ひろおみ/みちおみ)
生誕 明和4年5月24日(1767年6月20日)
死没 天保12年6月24日(1841年8月10日)
改名 道臣→寸翁(号)
別名 隼之介(通称)
墓所 兵庫県姫路市奥山仁寿山梅ケ岡の河合家墓所
主君 酒井忠以→忠道→忠実→忠学
藩 播磨国姫路藩家老
氏族 河合氏
父母 父:川合宗見、母:林田藩士長野直通の娘
妻 正室:泰子(林田藩士長野親雄の娘)
子 良臣
養子:良翰(松下高知次男)
≪ 姫路城内侍屋敷で誕生。幼少より利発で知られ、11歳の時から藩主酒井忠以の命で出仕しはじめた。天明7年(1787年)に父の宗見が病死したため家督1000石を相続、21歳で家老に就任する。茶道をたしなむなど、文人肌であった。
 江戸時代後期の諸藩の例に漏れず、姫路藩も歳入の4倍強に及ぶ73万両もの累積債務を抱えていた。酒井氏は譜代筆頭たる名家であったが、その酒井氏にして日常生活にさえ支障を来すほどの困窮振りであった。このような危機的状況のなか、道臣は忠以の信任のもと、財政改革に取りかかる。寛政2年(1790年)に忠以が急死すると反対派の巻き返しに遭い一旦失脚するが、忠以の後を継いだ忠道は文化5年(1808年)に道臣を諸方勝手向に任じ、本格的改革に当たらせた。
 道臣は質素倹約令を布いて出費を抑制させる一方、文化6年(1809年)頃から領内各地に固寧倉(義倉)を設けて農民を救済し、藩治に努めた。従来の農政では農民に倹約を説きつつ、それで浮いた米を藩が搾取していたが、道臣は領民に生活資金を低利で融資したり、米を無利息で貸すなど画期的な政策を打ち出した。この政策は藩内で反対も多かったが、疲弊した領民を再起させ、固寧倉の設置で飢饉をしのげるようになるなど、藩内の安定につながった。更に朝鮮人参やサトウキビなどの高付加価値な商品作物も栽培させることで、藩の収入増が図られた。
 姫路藩では新田開発は従来から行われていたが、道臣の時期には主に播磨灘沿岸で推進され、新田での年貢減免策もとった。海岸部では飾磨港をはじめとする港湾の整備に努め、米や特産品などの流通に備えた。加えて城下では小麦粉、菜種油、砂糖など諸国からの物産を集積させ、商業を奨励した。
 道臣の業績として特筆されるのは、特産品販売に関する改革である。藩内を流れる市川・加古川流域は木綿の産地だったが、従来は大坂商人を介して販売していたため販売値が高くなっていた。道臣は木綿を藩の専売とし、大坂商人を通さず直接江戸へ売り込むことを計画した。これは先例が無かったため事前に入念な市場調査をし、幕府役人や江戸の問屋と折衝を重ねた上、文政6年(1823年)から江戸での木綿専売に成功する。色が白く薄地で柔らかい姫路木綿は「姫玉」「玉川晒」として、江戸で好評を博した。また、木綿と同様に塩・皮革・竜山石・鉄製品なども専売とした。これによって藩は莫大な利益を得、道臣は27年かけて藩の負債完済を成し遂げた。
 天保6年(1835年)、69歳で隠居し、天保12年に没した。享年75。仁寿山校近くの河合家墓所に葬られた。≫(「ウィキペディア」)

 河合道臣は、抱一より六歳年下、道忠より十歳年上である。忠以が亡くなった寛政二年(一七九〇)には、「反対派の巻き返しに遭い一旦失脚するが、忠以の後を継いだ忠道は文化五年(一八〇八)に道臣を諸方勝手向に任じ、本格的改革に当たらせた」という。
 この記述からすると、「酒井家における嫡流体制の確立と、それによる傍流の排除(抱一の出家)」関連については、道臣は深く関わってはいない。そして、この忠以の急逝時には、「姫路藩も歳入の4倍強に及ぶ73万両もの累積債務を抱えていた。酒井氏は譜代筆頭たる名家であったが、その酒井氏にして日常生活にさえ支障を来すほどの困窮振りであった。このような危機的状況のなか、道臣は忠以の信任のもと、財政改革に取りかかる。」と、当時の酒井家の財政状況というのは、危機的状況下にあり、これらのことと、忠以の急逝時の「酒井家における嫡流体制の確立と、それによる傍流の排除(抱一の出家)」とは、深い関わりのあることは、想像する難くない。
 そして、忠以の家督を、若干十二歳にして継いだ忠道が、失脚していた河合道臣を再登用し、酒井家の財政再建の道筋を示し、自らは、三十八歳の若さで隠居し、その家督を、傍流の実弟。忠実に継がせて、文字とおり、「忠道(隠居・前藩主))・忠実(藩主)・寸翁(「忠以・忠道・忠実」の家老)」との、この「三鼎(みつがなえ)」の尽力により、「文政六年(一八二三)に、道臣は二十七年けて藩の負債完済を成し遂げた。」と、その後の「酒井家」の再興が結実することになる。
 そして、この「忠道(隠居・前藩主))・忠実(藩主)・寸翁(「忠以・忠道・忠実」の家老)」の、この「三鼎(みつがなえ)」を、陰に陽に支え続けた、その人こそ、「酒井抱一(本名=忠因、字名=暉真、ほかに、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号し、俳号=白鳧・濤花、後に杜陵(綾)。狂歌名=尻焼猿人、屠龍(とりょう)の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている)」の、今に、「江戸琳派の祖」として仰がれている」、その「酒井抱一」にほかならない。

(補記) 「無心帰大道」(無心なれば大道に帰す)

https://hatunekai.com/?seasonwords=%E7%84%A1%E5%BF%83%E5%B8%B0%E5%A4%A7%E9%81%93

≪ 無心とは・・・無事や平常心と同じような意味があり
あれこれと作為したり取捨分別する心を捨てる事、
欲のない澄んだ心の事だそうです。
あれこれと思い悩まずに、
ただ只管(ひたすら)に努力をしていれば
進むべき道、正しい道が見えてくるのだと。 ≫
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十一)抱一の兄「酒井忠以(宗雅・銀鵝)」(その周辺)

酒井宗雅公像.jpg

酒井宗雅公像(姫路神社)(「ウィキペディア」)
≪ 酒井忠以(さかい ただざね)」は、江戸時代中期から後期の播磨姫路藩第2代藩主。雅楽頭系酒井家15代。
 姫路藩世嗣・酒井忠仰の長男として江戸に生まれる。父が病弱だったため、祖父・忠恭の養嗣子となり、18歳で姫路藩の家督を継いだ。
 絵画、茶道、能に非凡な才能を示し、安永8年(1779年)、25歳の時、ともに日光東照宮修復を命じられた縁がきっかけで出雲松江藩主の松平治郷と親交を深め、江戸で、あるいは姫路藩と松江藩の参勤行列が行き交う際、治郷から石州流茶道の手ほどきを受け、のちには石州流茶道皆伝を受け将来は流派を担うとまでいわれた。大和郡山藩主の柳沢保光も茶道仲間であった。弟に江戸琳派の絵師となった忠因(酒井抱一)がいるが、忠以自身も絵に親しみ、伺候していた宋紫石・紫山親子から南蘋派を学び、『兎図』(掛軸 絹本著色、兵庫県立歴史博物館蔵)や『富士山図』(掛軸 絹本著色、姫路市立城郭研究室蔵)等、単なる殿様芸を超えた作品を残している。
 天明元年には将軍の名代として光格天皇の即位式に参賀している。一方で藩政は、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)までの4年間における天明の大飢饉で領内が大被害を受け、藩財政は逼迫した。このため、忠以は河合道臣を家老として登用し、財政改革に当たらせようとした。だが、忠以は寛政2年(1790年)に36歳の壮年で江戸の姫路藩邸上屋敷にて死去し、保守派からの猛反発もあって、道臣は失脚、改革は頓挫した。家督は長男の忠道が継いだ。
 筆まめで、趣味、日々の出来事・天候を『玄武日記』(22歳の正月から)『逾好日記』(33歳の正月から)に書き遺している。忠以の大成した茶懐石は『逾好日記』を基に2000年9月に、和食研究家の道場六三郎が「逾好懐石」という形で再現している。
(年譜)
1755年(宝暦5年) - 生まれ
1766年(明和3年) - 名を忠以と改名
1772年(安永元年)- 酒井家相続(8月27日)
1781年 (天明元年)- 光格天皇即位式のため上洛
1785年(天明5年) - 溜間詰
1790年(寛政2年) - 死去(7月17日)、享年36 ≫ (「ウィキペディア」)

 この「姫路神社」の「酒井宗雅公像」に彫られている「松風伝古今」こそ、「酒井宗雅(茶号)」その人の一面を、見事にとらえている。

≪ 松風(しょうふう)、古今(ここん)に伝える
 松がなびいている風の音は、今も昔も変わらないように、大切な教えはいつも心に響くのです。今も、弟子入りした時も、師が茶を志した時も、利休が秀吉に茶を点てた時も、茶室の松風は変わっていないのです。

https://www.instagram.com/p/CH6RbnYggjQ/

「松がなびいている風の音」=松籟(しょうらい)
「茶室の松風」=釜の湯の煮え立つ音             ≫

https://blog.goo.ne.jp/1945ys4092/e/187d966e1297be5a1320476b422458be

「酒井忠以=ただざね(宗雅)」と「酒井忠因=ただなお(抱一)」

「酒井忠以=ただざね(宗雅)」
○若くして幕府の重責(将軍名代・溜詰)を担うー将軍補佐役として 重要な地位ー
・第10代将軍 家治の日光東照宮社参に跡乗を務める 安永5年(1776) 22歳
・将軍家治の名代として、光格天皇即位式に参賀   安永10年)1781) 27歳
・将軍家治より 「溜詰」を命じられる        天明5年(1785) 31歳
・将軍家斉の名代として 日光東照宮社参       天明7年(1787) 33歳
○松江藩主 松平不昧(治郷)との交流 -茶人酒井宗雅ー
・酒井雅楽頭は 代々大名茶道・石州流
・松江藩主 松平治郷と姫路藩主 酒井忠以が 日光諸社堂修復の助役を命じられる
・松平不昧に師事し 茶道を伝授される。「弌得庵」の号を受ける
・酒井家江戸上屋敷に 茶室「逾好庵」(ゆこうあん)を設ける。
○風流大名として 様々な分野で 才能を発揮
・絵画:素人の余技に留まらぬ画才(「富士山図」、「兎図」、「山水図」など)
・俳諧:「銀鵞」(ぎんが)と号し、旅中、日常の出来事、四季折々を多くの句稿に残す。
・和歌:初就封の途に詠んだ「大比叡や小比叡の山に立つ雲は志賀辛崎の雨となるらん」
○「玄武日記」62冊の編纂
・忠以(宗雅)の公用日記(安永5年(1776)正月~寛政2年(1790)6月)

「酒井忠因=ただなお(抱一)」
○兄(忠以)の庇護のもと恵まれた青年期を過ごす
-若くして「吉原」に通い、奔放な生活を謳歌、江戸の市井文化に参加ー
・17歳のころから 馬場存儀(ぞんぎ)に入門し 俳諧を始める
・「尻焼猿人」の狂号で 狂歌を数多く発表
・20代は 浮世絵美人画を中心に描く(歌川豊春に倣う肉筆浮世絵)
○出家-武士の身分を捨てるー (寛政9年(1797) 37歳)
・西本願寺第18世 文如上人の弟子になり、得度。
「権大僧都等覚院文栓暉真」の法名を名乗る
(出家の前年、姫路藩主 酒井忠道が 弟忠実を養子にと幕府に願い出)
○江戸・新吉原の遊女を落籍。 大塚村へ転居(文化6年(1809) 49歳)
・新吉原・大文字楼の遊女香川を落籍
・内妻とするとともに、下谷金杉 大塚村へ転居
(後に、「雨華(うげ)庵」の扁額(姫路藩主 酒井忠実直筆)を掲げる(文化14年))
○尾形光琳に私淑 -琳派の美術に傾倒ー
・江戸で尾形光琳100回忌法要と光琳遺墨展を開催(文化12年(1815) 55歳)
・『光琳百図』を刊行。文化年間の60歳前後から、より洗練された花鳥図、四季の移ろい、自然の風趣を描く。-後に「江戸琳派」と言われるー 

「二人の師」(「松平不味」と「柳澤米翁」)

「松平不味(ふまい)」(「松平治郷(はるさと)」)(「ウィキペディア」)
 松平治郷(まつだいら はるさと)は、江戸時代後期の大名。出雲松江藩10代藩主。官位は従四位下・侍従、出羽守、左近衛権少将。雲州松平家7代。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。その茶風は不昧流として現代まで続いている。その収集した道具の目録帳は「雲州蔵帳」とよばれる。
生誕 寛延4年2月14日(1751年3月11日)[1]
死没 文政元年4月24日(1818年5月28日)
改名 鶴太郎(幼名)、治郷、不昧(法号)
戒名 大円庵不昧宗納大居士
墓所 東京都文京区大塚の護国寺、京都府京都市北区紫野の大徳寺塔頭孤篷庵、島根県松江市外中原町の月照寺
官位 従四位下侍従、佐渡守、出羽守、左近衛権少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治、家斉
藩 出雲松江藩主
氏族 雲州松平家
父母 松平宗衍、歌木
兄弟 治郷、衍親、蒔田定静、五百、幾百ら
妻 伊達宗村九女方子、武井氏
子 斉恒、男子、富、幾千、岡田善功

松平不眛像.jpg

松平不眛像(松江観光パンフレットより)

「柳澤米翁(ぺいおう)」(「柳沢信鴻(のぶとき)」) (「ウィキペディア」)
柳沢信鴻(やなぎさわ のぶとき)は、江戸時代中期の大名。大和国郡山藩第2代藩主。郡山藩柳沢家3代。初代藩主柳沢吉里の四男。
生誕 享保9年10月29日(1724年12月14日)
死没 寛政4年3月3日(1792年4月23日)
別名 久菊、義稠、信卿、伊信
諡号 米翁、春来、香山、月村、蘇明山、紫子庵、伯鸞
戒名 即仏心院無誉祐阿香山大居士
墓所 東京都新宿区 正覚山月桂寺
幕府 江戸幕府
藩 郡山藩主
氏族 柳沢氏
父母 父:柳沢吉里、母:森氏
兄弟 信睦、時英、信鴻、信昌、伊奈忠敬、坪内定規
妻 正室:伊達村年の娘
継室:真田信弘の娘
子 保光、信復(次男)、武田信明、六角広寿(四男)、里之、娘(米倉昌賢正室)、娘(阿部正倫正室)

六義園.jpg

水木家旧蔵六義園図 柳沢文庫所蔵『六義園 Rikugien Gardens』より
https://fujimizaka.wordpress.com/2014/05/25/hanamidera4/

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-19

歌麿・抱一.jpg

「画本虫撰(えほんむしえらみ)」宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画 版元・蔦屋重三郎 天明八年(一七八八)刊

 抱一の、初期の頃の号、「杜綾・杜陵」そして「屠龍(とりょう)」は、主として、「黄表紙」などの戯作や俳諧書などに用いられているが、狂歌作者としては、上記の「画本虫撰」に登場する「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の号が用いられている。
 『画本虫撰』は、天明狂歌の主要な作者三十人を網羅し、美人画の大家として活躍する歌麿の出生作として名高い狂歌絵本である。植物と二種の虫の歌合(うたあわせ)の形式をとり、抱一は最初の蜂と毛虫の歌合に、四方赤良(大田南畝・蜀山人)と競う狂歌人として登場する。
 その「尻焼猿人」こと、抱一の狂歌は、「こはごはに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあぢはひ」というものである。この種の狂歌本などで、「杜綾・尻焼猿人」の号で登場するもりに、次のようなものがある。

天明三年(一七八三) 『狂歌三十六人撰』 四方赤良編 丹丘画
天明四年(一七八四) 『手拭合(たなぐひあはせ)』 山東京伝画 版元・白凰堂
天明六年(一七八六) 『吾妻曲狂歌文庫』 宿屋飯盛編 山東京伝画 版元・蔦重
「御簾ほとに なかば霞のかゝる時 さくらや 花の王と 見ゆらん」(御簾越しに、「尻焼猿人」の画像が描かれている。高貴な出なので、御簾越しに描かれている。)
天明七年(一七八七) 『古今狂歌袋』 宿屋飯盛撰 山東京伝画 版元・蔦重

 天明三年(一七八三)、抱一、二十三歳、そして、天明七年(一七八七)、二十七歳、この若き日の抱一は、「俳諧・狂歌・戯作・浮世絵」などのグループ、そして、それは、「四方赤良(大田南畝・蜀山人)・宿屋飯盛(石川雅望)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・喜多川歌麿(綾丸・柴屋・石要・木燕)・山東京伝(北尾政演・身軽折輔・山東窟・山東軒・臍下逸人・菊花亭)」の、いわゆる、江戸の「狂歌・浮世絵・戯作」などの文化人グループの一人だったのである。
 そして、この文化人グループは、「亀田鵬斎・谷文晁・加藤千蔭・川上不白・大窪詩仏・鋤形蕙斎・菊池五山・市川寛斎・佐藤晋斎・渡辺南岳・宋紫丘・恋川春町・原羊遊斎」等々と、多種多彩に、その輪は拡大を遂げることになる。
 これらの、抱一を巡る、当時の江戸の文化サークル・グループの背後には、いわゆる、「吉原文化・遊郭文化」と深い関係にあり、抱一は、その青年期から没年まで、この「吉原」(台東区千束)とは陰に陽に繋がっている。その吉原の中でも、大文字楼主人村田市兵衛二世(文楼、狂歌名=加保茶元成)や五明楼主人扇屋宇右衛門などとはとりわけ昵懇の仲にあった。
抱一が、文化六年(一八〇九)に見受けした遊女香川は、大文字楼の出身であったという。その遊女香川が、抱一の傍らにあって晩年の抱一を支えていく小鸞女子で、文化十一年(一八二八)の抱一没後、出家して「妙華」(抱一の庵号「雨華」に呼応する「天雨妙華」)と称している。
 抱一(雨華庵一世)の「江戸琳派」は、酒井鶯蒲(雨華庵二世)、酒井鶯一(雨華庵三世)、酒井道一(雨華庵四世)、酒井唯一(雨華庵五世)と引き継がれ、その一門も、鈴木其一、池田孤邨、山本素道、山田抱玉、石垣抱真等々と、その水脈は引き継がれいる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-07

尻焼猿人一.jpg

『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・山東京伝画)/版元・蔦屋重三郎/版本(多色摺)/
一冊 二㈦・一×一八・〇㎝/「国文学研究資料館」蔵
【 大田南畝率いる四方側狂歌連、あたかも紳士録のような肖像集。色刷りの刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の主とみゆらん」。 】
(「別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人(仲町啓子監修)」所収「大名家に生まれて 浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」)

 上記の画中の「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」は、抱一の「狂歌」で使う号である。「尻が焼かれて赤く腫れあがった猿のような人」と、何とも、二十歳代の抱一その人を顕す号であろう。

 御簾(みす)ほどに
  なかば
   霞のかゝる時
  さくらや
   花の主(ぬし)と見ゆらん

 その「尻焼猿人」(抱一)は、尊いお方なので拝顔するのも「御簾」越しだというのである。そのお方は、「花の吉原」では、その「花(よしわら)の主(ぬし)」だというのである。これが、二十歳代の抱一その人ということになろう。
 俳諧の号は、「杜陵(綾)」を変じての「屠龍(とりょう)」、すなわち「屍(しかばね)の龍」(「荘子」に由来する「実在しない龍」)と、これまた、二十歳代の抱一その人を象徴するものであろう。この俳号の「屠龍」は、抱一の終生の号の一つなのである。
 ここに、「大名家に生まれて、浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂人」、酒井抱一の原点がある。
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