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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(二十五) [抱一の「綺麗さび」]

その二十五 抱一筆「夕顔に扇図」(挿絵)など

夕顔に扇図.jpg

酒井抱一挿絵『俳諧拾二歌僊行』所収「夕顔に扇図」 → A図

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200015438/images/200015438_00034.jpg

 この抱一の挿絵(「夕顔に扇図」)は、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)所収「酒井抱一略年譜」で、抱一が亡くなる「文政十一年(一八二八)六十八歳」に「三月、『俳諧拾二歌僊行』に挿絵提供(抱一)、十一月、抱一没、築地本願寺に葬られる(等覚院文詮)」に出てくる、抱一の「最後の作品」(「第四章太平の『もののあわれ』「絶筆四句」)で紹介されているものである。
 この挿絵が収載されている『俳諧拾二歌僊行(はいかいじゅうにかせんこう)』については、上記のアドレスで、その全容を閲覧することが出来る。これは、大名茶人として名高い出雲国松江藩第七代藩主松平不昧(ふまい)の世嗣(第八代藩主)松平斉恒(なりつね・俳号=月潭)の七回忌追善の俳書である。
 大名俳人月潭(げったん)が亡くなったのは、文政五年(一八二二)、三十二歳の若さであった。この年、抱一、六十二歳で、抱一と月潭との年齢の開きは、三十歳も抱一が年長なのである。
 抱一の兄・忠以(ただざね、茶号=宗雅、俳号=銀鵞)は、抱一(忠因=ただなお)より六歳年長で、この忠以(宗雅)が、四歳年長の月潭の父・治郷(はるさと、茶号=不昧)と昵懇の間柄で、宗雅の茶道の師に当たり、この「不昧・宗雅」が、当時の代表的な茶人大名ということになる。
 この不昧の弟・桁親(のぶちか、俳号=雪川)は、宗雅より一歳年長だが、抱一は、この雪川と昵懇の間柄で、雪川と杜陵(抱一)は、米翁(べいおう、大和郡山藩隠居、柳沢信鴻=のぶとき)の俳諧ネットワークの有力メンバーなのである。
 さらに、抱一の兄・忠以(宗雅)亡き後を継いだ忠道(ただひろ・播磨姫路藩第三代藩主)の息女が、月潭(出雲国松江藩第八代藩主)の継室となっており、酒井家(宗雅・抱一・忠道)と松平家(不昧・雪川・月潭)とは二重にも三重にも深い関係にある間柄である。
 そして、実に、その月潭が亡くなった文政五年(一八二二)は、抱一の兄・忠以(宗雅)の、三十三回忌に当たるのである。さらに、この月潭の七回忌の追善俳書(上記の『俳諧拾二歌僊行』)に、抱一が、上記の「夕顔と扇面図」の挿絵を載せた(三月)、その文政十一年(一八二八)の十一月に、抱一は、その六十八年の生涯を閉じるのである(『井田・岩波新書』)所収「酒井抱一略年譜」)。
 その意味でも、上記の「夕顔と扇面図」(『俳諧拾二歌僊行』の抱一挿絵)は、「画・俳二道を究めた『酒井抱一』の生涯」の、その最期を燈明する極めて貴重なキィーポイントともいえるものであろう。
 さらに、ここに付記して置きたいことは、「画(絵画)と俳(俳諧)」の両道の世界だけではなく、それを「不昧・宗雅」の「茶道」の世界まで視点を広げると、「利休(侘び茶)→織部(武家茶)→遠州(「綺麗さび茶」)」に連なる「酒井家(宗雅・抱一・忠道・忠実)・松平家(不昧・雪川・月潭)・柳澤家(米翁・保光)の、その徳川譜代大名家の、それぞれの「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)=平和=太平」の一端を形成している、その「綺麗さび」の世界の一端が垣間見えてくる。
 それは、戦乱もなく一見すると「太平」の世であるが、その太平下にあって、それぞれの格式に応じ「家」を安穏を守旧するための壮絶なドラマが展開されており、その陰に陽にの人間模様の「もののあはれ」(『石上私淑言(本居宣長)』の、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」)こそ、抱一の「綺麗さび」の世界の究極に在るもののように思われる。
 抱一の若き日の、太平の世の一つの象徴的な江戸の遊郭街・吉原で「粋人・道楽子弟の三公子」として名を馳せていた頃のことなどについては、下記のアドレスで紹介している。 

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-25

  御供してあらぶる神も御国入(いり)  抱一(『句藻』「春鶯囀」)

 この句には、「九月三日、雲州候月潭君へまかり、「翌(あす)は国に帰(かへる)首途(かどで)なり」として、そぞめきあへりける時」との前書きがある(『井田・岩波新書』「第四章太平の『もののあはれ』」)。
 この句が収載されているのは、文化十四年(一八一七)、抱一、五十七歳の時で、この年は、抱一にとって大きな節目の年であった。その年の二月、『鶯邨画譜』を刊行、五月、巣兆の『曽波可理』に「序」を寄せ、その六月に鈴木蠣潭が亡くなる(二十六歳の夭逝である)。その鈴木家を、其一が継ぎ、また、小鶯女史が剃髪し、妙華尼を称したのも、この頃である。
 そして、その十月に「雨華庵」の額(第四姫路酒井家藩主)を掲げ、これより、抱一の「雨華庵」時代がスタートする。掲出の句は、その一カ月前の作ということになる。
 句意は、「出雲では陰暦十月を神無月(かんなづき)と呼ばず、八百万(やおよろず)の神が蝟集することから神有月(かみありづき)と唱える。神有月近いころ、『あらぶる神』が出雲の藩主月潭の国入りの『御供』をするという一句である」(『井田・岩波新書』「第四章太平の『もののあはれ』」)。
 この年、出雲の藩主月潭は、二十七歳の颯爽としたる姿であったことであろう。そして、それから十一年後の、冒頭の抱一の「夕顔に扇面図」の挿絵が掲載された『俳諧拾二歌僊行』は、その月潭の七回忌の追善俳書の中に於いてなのである。
 とすれば、抱一の、この「夕顔に扇面図」の、この「夕顔」は、『源氏物語』第四条の佳人薄命の代名詞にもなっている「夕顔」に由来し、そこに三十ニ歳の若さで夭逝した出雲の藩主月潭を重ね合わせ、その「太平の『もののあはれ』」の、 そのファクターの一つの「はかなさ」を背景に託したものと解すべきなのであろう。

  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮  藤原定家 

  I looked beyond; / Fiowers are not, / Nor tinted leaves./
On the sea beach / A solitary cottage stands /
In the waving light / Of an autumn eve. (岡倉天心・英訳)

 見渡したが / 花はない、/ 紅葉もない。/
   渚には / 淋しい小舎が一つ立っている、/ 
秋の夕べの / あせゆく光の中に。        (浅野晃・和訳)

 『茶の本 Ter Book of Tea (岡倉天心著 浅野晃訳 千宗室<序と跋>)』 で紹介されている藤原定家の一首(『新古今』)で、千利休の「侘び茶」の基本的な精神(和敬静寂)が込められているとされている。
 それに続いて、小堀遠州の「綺麗さび」の茶の精神を伝えているものとされている、次の一句が紹介されている。

   夕月夜海すこしある木の間かな (宗長作とも宗碩作とも伝えられている)

A cluster of summer trees,/
A bit of the sea,/
A pale evening moon. (岡倉天心・英訳)

  ひとむらの夏木立、
  いささかの海、
  蒼い夕月。 (浅野晃・和訳)

 抱一にも、次の一句がある。

   としせわし鶯動く木の間かな   抱一(『句藻』「春鶯囀」)

 この抱一の句は、先に紹介した月潭の「九月三日、雲州に御国入り」の際の「御供してあらぶる神も御国入(いり)」と同じ年(文化十四=一八一七)の「歳末」の一句である。
 この抱一、五十八歳時の、「雨華庵」時代がスタートした年の歳末吟の一句は、「不昧・宗雅・抱一」の、その茶の世界に通ずる、小堀遠州の「綺麗さび」の世界に通ずる一句と解したい。

(再掲)

扇面夕顔図.jpg

酒井抱一筆「扇面夕顔図」 一幅 四〇・八×五五・〇㎝ 個人蔵 → B図

【現在の箱に「拾弐幅之内」と記されるように、本来は横物ばかりの十二幅対であった。全図が『抱一上人真蹟鏡』に収載されており、本図は六月に当てられている。扇に夕顔を載せた意匠は、「源氏物語」の光源氏が夕顔に出会う場面に由来する。細い線で輪郭を括り精緻だが畏まった描きぶりは、この横物全般に通じる。模写的性質によるためか。「雨花抱一筆」と款し「抱弌」朱方印を押す。 】 (『酒井抱一と江戸琳派の全貌 求龍堂』所収「図版解説一三二(松尾知子稿)」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-05

【 酒井抱一「扇面夕顔図」
『抱一上人真蹟鏡』に縮写される抱一の共箱には、表に「横物十二幅対」とあり、蓋裏に「雨花菴抱一誌」として、「円窓福禄寿」「浪に燕」「雀児 徐崇嗣之図」「色紙 ほととぎす画賛」「競馬」「扇夕顔」「盆をとり 尚信之図」「月夜狐」「伊勢物語 河内通ひ」「時雨のふし 松花堂うつし」「寒牡丹」「雪鷹狩 □の君」の各画題が記されている。『真蹟鏡』ではこれらに十二ケ月を当てて順に全図が写されている。和漢の古典に題材をとった十二幅であったようだ。松花堂写しの富士にはも、「叡麓隠士抱一図」と款記がある。 】(じょうき所収「作品解説一三二(松尾知子稿)」)

 上記の『抱一上人真蹟鏡』の縮図は、次のアドレスで見ることができる。

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko06/bunko06_01266/bunko06_01266_0001/bunko06_01266_0001_p0010.jpg

六月・扇.jpg

『抱一上人真蹟鏡 上下』( 抱一上人 [画]・ 池田孤邨 [編])所収「上・六月」
早稲田大学図書館蔵(坪内逍遥旧蔵) → C図

 この縮図(D図)は、間違いなく、「扇面夕顔図」(B図)を模写したものに違いない。しかし、「夕顔に扇図」(A図)と「扇面夕顔図」(B図)とでは、明らかに図柄が違っている。この「夕顔に扇図」(A図)は、抱一が亡くなる八か月前に刊行された『俳諧拾二歌僊行』に収載されたもので、抱一の絶筆に近いものと解して差し支えなかろう。
 そして、図柄は違っていても、同じ主題の「A図」と「B図」とは、その制作時期は、ほぼ同じ頃のものと解したい。とすると、『抱一上人真蹟鏡 上』に収載されている「横物十二幅対」は、抱一の晩年の作を知る上で貴重な作品群ということになる。
 『酒井抱一と江戸琳派の全貌 求龍堂』の「作品解説一三二(松尾知子稿)」など基にして、そこに若干のメモ(抱一の「綺麗さび」の世界の一翼を担っているものなど)を併記して置きたい。

「横物十二幅対」(一月~十二月)(※※=上記の「B図」 ※=『酒井抱一と江戸琳派の全貌 求龍堂』に収載されているもの)

一月 → 「円窓福禄寿」→ ※抱一筆「寿老図」(個人蔵)→最晩年の作(?) 
二月 →「浪に燕」→光琳筆「波上飛燕図」(『琳派三風月・鳥獣』所収「作品一三一」)
※三月 →「雀児 徐崇嗣之図」(姫路市立美術館蔵)→「徐崇嗣」(宋初の花鳥画家)
四月 →「色紙 ほととぎす画賛」→蕪村筆「岩くらの狂女恋せよほととぎす」自画賛?
五月 →「競馬」→ 狩野昌運筆「競馬図」(?) 
※※六月 →「扇夕顔」(個人蔵)→『源氏物語』第四帖「夕顔」
七月 → 「盆をとり 尚信之図」→ 狩野尚信筆「盆踊り図」 
八月 → 「月夜狐」→ 円山応挙「白狐図」(?) 
九月 → 「伊勢物語 河内通ひ」→光琳筆「伊勢物語図 武蔵野・河内越」(?) 
十月 → 「時雨のふし 松花堂うつし」→ 抱一筆「松花堂昭乗」肖像画(?)
十一月 → 「寒牡丹」 → 宗達筆「牡丹図」(?)
十二月 → 「雪鷹狩 □の君」 → 狩野(清原)雪信筆「王昭君図」(?)

小堀遠州.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三五 小堀政一」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1505

 抱一の『集外三十六歌仙図画帖』の中に、「綺麗さび」の世界を切り拓いた、茶人大名の「小堀遠州(小堀政一)」が収載されている。上記の肖像と歌がそれである。

歌題 河邊寒月
歌  かぜさへてよせくるなみのあともなし 氷る入江の夜の月

 ここに、前掲の「茶の本」(岡倉天心著)の、小堀遠州の愛唱句を再掲して置きたい。

(再掲)

夕月夜海すこしある木の間かな (宗長作又は宗碩作)

A cluster of summer trees,/
A bit of the sea,/
A pale evening moon. (岡倉天心・英訳)

  ひとむらの夏木立、
  いささかの海、
  蒼い夕月。 (浅野晃・和訳)

 そして、岡倉天心の、この句に寄せての感慨(和訳)を、ここに記して置きたい。

【彼(小堀遠州公)の意味するところは、推察するに難くない。彼は、過去の影のような夢のさ中になおまだ徘徊しつつも、やわらかな霊の光の甘美な無意識(無我)のなかに浴しつつ、漂渺たる彼方に横たわる自由にあこがれる—―そういった魂の新しい目ざめの相を、つくり出そうと欲したのである。 】(『茶の本 Ter Book of Tea (岡倉天心著 浅野晃訳 千宗室<序と跋>)』)

 ここに、抱一の「綺麗さび」の一端が集約されている。
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(二十四) [抱一の「綺麗さび」]

その二十四 抱一筆「月に秋草鶉図屏風」など

月に秋草鶉図屏風.jpg

酒井抱一筆「月に秋草鶉図屏風」二曲一隻 紙本金地著色 一四四・七×一四四・〇㎝
落款「抱一畫於鶯邨書屋」 印章「抱弌之印」朱文重郭方印 「文詮」朱文瓢印 重要美術品 山種美術館蔵 → A図

月に秋草図屏風.jpg

酒井抱一筆「月に秋草図屏風」六曲一双 紙本金地著色 一三九・五×三〇九・〇㎝
落款「雨華菴抱一筆」 印章「文詮」朱文円印 「文詮」朱文瓢印 重要文化財
東京国立博物館寄託(ペンタックス株式会社蔵) → B図

兎に秋草図襖.jpg

酒井抱一筆「兎に秋草図襖」板絵著色 各一六二・五×八四・〇㎝ 三井記念美術館蔵 
→ C図

 この「月に秋草鶉図屏風」(A図)は、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)の口絵の冒頭に掲載されているものである。

  野路や空月の中なる女郎花  抱一(『屠龍之技』「第二かぢのおと」)

 この抱一の句は、夏目漱石の「門」の中に出てくる一句である。

【下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描いた上に、真丸な月を銀で出して、其横の空いたところへ、野路や空月の中なる女郎花、其一と題してある。
宗助は膝を突いて銀の色の黒く焦げた辺から、葛の葉の風に裏を返してゐる色の乾いた様から、大福程な大きな丸い朱の輪廓の中に、抱一と行書で書いた落款をつくづくと見て、
父の行きてゐる当時を憶ひ起さずにはゐられなかつた。 】(夏目漱石「門」より)

 これらのことに関して、次のアドレスで、次のように紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/20190108

【上記の「野路や空月の中なる女郎花」は抱一の句で、抱一の高弟・鈴木其一が、その句を書き添えているというのであろう。この抱一の句は、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「かぢのおと」に、「野路や空月の中なるおみなへし」の句形で収載されている。俳人でもある夏目漱石は、確かに、抱一の自撰句集『屠龍之技』を熟知していて、そして、上記の抱一の「月に秋草図屏風」類いのものを目にしていたのであろう。】(再掲)

 『井田・岩波新書』では、その「序章」(「画俳二つの世界」)で、その夏目漱石の「門」に出てくる、この抱一句を紹介しながら、この「月に秋草鶉図屏風」(口絵)で、次のように紹介している。

【 レモン型の月は、薄と接する低さである。薄や鶉は、藤原定家の和歌に基づく定家詠十二か月花鳥図の九月に出現する景物である。鶉の描き方は、南宋の画院画家、李安忠の筆と伝える「鶉図」(根津美術館)、それに倣った土佐派・狩野派に通ずるものがある。抱一が描いたとき、これらの要素は念頭にあったろうが、目を凝らせば、この第一扇にも実は女郎花が配されている。先述の句とは約二〇年という時期は隔ててはいるが、やはり武蔵野を舞台とする点では交響してくることになる。 】(『井田・岩波新書』「序章」)

 この「月に秋草鶉図屏風」は、落款に「抱一畫於鶯邨書屋」とあり、文化十四年(一八一七、抱一・五十七歳)以前の作と推定され、そして、この句の『屠龍之技』の章名「かぢのおと(梶の音)」(「梶の音」所収句の下限=寛政四年・一七九二・三十二歳)からすると、この画と句との制作時期の開きは「約二十年」位のスパンがあるということなのであろう。
 そして、この句の句意を理解するためには、その補助線として、「武蔵野は月の入るべき山もなし草より出でて草にこそ入れ」(俗謡・『続古今和歌集』源通方「武蔵野は月の入るべき峯もなし尾花が末にかかる白雲」)を媒介すると、「武蔵野の野道を歩いていくと視界が開け、空に続かんばかり。そこにあるわずか一メートルほどの女郎花が、低い月のなかにあるようにみえる」という句意を紹介している。
 この月(A図)は「上弦の月」で、武蔵野の地平線から空に昇っていく光景であろう。

https://weathernews.jp/s/topics/201802/220075/


上弦の月.jpg

【「月に秋草図」(B図)は、同様(A図と同様)に総金地に秋草を描きながら、一転して曲線を基調とした描写である。ここでは抱一得意の葛が主役をつとめているが、その葉は彩色に変化をもたせて下から輝く金地の効果を巧みに使っている。署名に「雨華庵抱一筆」とあり、抱一が「雨華庵」の庵号を用いた文化十四年五十七歳以降の作品とわかるが、草花が折り重なるところや芒の穂のしなだれるところなど晩年の代表作「夏秋草図屏風」(東京国立博物館蔵)の表現に近い。 】
(『琳派二 花鳥二(紫紅社)』所収「作品解説二三一(奥平俊六稿)」)

 この「月に秋草図」(B図)の月は満月である。「月に秋草図(一幅)」(MOA美術館蔵)「月に秋草図(一幅)」(山種美術館蔵)「月に葛図(一幅)」(萬野美術館蔵)「月夜楓図(一幅)」(静岡県立美術館蔵)「雪月花図(三幅)」(MOA美術館蔵)「月に秋草図扇(一本)」(東京国立博物館蔵)「秋夜月扇(一本)」(太田記念美術館蔵)「月扇(一本)」(太田記念美術館蔵)、これらは、全て満月である。

 次の「兎に秋草図襖」(C図)の月も満月である。

【全面に斜めに薄い板を貼り、重ねて地とした襖に、満月に照らし出された野分の吹き荒れる秋の野を描いている。秋草は左から風に大きく揺らぎ、驚いたように白い兎が飛び出している。草の葉は、墨にわずかに色を加えて地味に描かれ、金泥で葉脈が描き添えられる。月の光を受けたシルエットによる夜の表現がなされているためで、薄の白い穂花、葛の淡いピンクの花、山帰来の赤い実が印象的に色を加えている。斜めに貼られた木の線が強い風を表現し機知的効果をもたらしているが、新しい木地は光も反射する。襖に当たる光の加減によっては、反射した光が、月光のように画面から発せられたに違いない。抑えられた色調と、金や銀とは違った光の反射を楽しむ繊細な美意識、瀟洒な感覚が部屋を覆っていたに違いない。画面には署名は無く「文詮」朱文円印と「文詮」朱文瓢印が捺されている。 】
(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』所収「作品解説Ⅳ-18(田沢裕賀稿)」)

光悦・兎扇面図.jpg
 
本阿弥光悦筆「月に兎図扇面」紙本金地著色 一七・三×三六・八㎝ 畠山記念館蔵 
→D図

【扇面を金地と濃淡二色の緑青で分割し、萩と薄そして一羽の白兎を描く。薄い緑は土坡を表わし、金地は月に見立てられている。兎は、この月を見ているのであろうか。
扇面の上下を含んで、組み合わされた四本の孤のバランスは絶妙で、抽象的な空間に月に照らし出された秋の野の光景が呼び込まれている。箔を貼った金地の部分には『新古今和歌集』巻第十二に収められた藤原秀能の恋の歌「袖の上に誰故月はやどるぞと余所になしても人のとへかし」の一首が、萩の花を避けて、太く強調した文字と極細線を織り交ぜながら散らし書きされている。
薄は白で、萩は、葉を緑の絵具、花を白い絵具に淡く赤を重ねて描かれている。兎は、細い墨線で輪郭を取って描かれ、耳と口に朱が入れられている。
単純化された空間の抽象性は、烏山光広の賛が記され、「伊年」印の捺された「蔦の細道図屏風」(京都・相国寺蔵)に通じるものの、細部を意識して描いていく繊細な表現は、面的に量感を作り出していく宗達のたっぷりとした表現とはやや異なるものを感じる。
画面左隅に「光悦」の黒文方印が捺されており、光悦の手になる数少ない絵画作品と考えられる。  】(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』所収「作品解説Ⅰ-14(田沢裕賀稿)」)

この作品解説は、『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』の「二〇〇八年」に開催された図録によるものであるが、それより、三十六年前の「一九七二年」に開催された『創立百年記念特別展 琳派 目録 (東京国立博物館)』の作品解説は下記のとおりである。これからすると、上記の扇面画は、光悦作と解して差し支えなかろう。

【 本阿弥光悦筆「扇面月兎画賛」一幅 紙本墨書 一七・〇×三六・五㎝ 畠山記念館蔵
秋草に兎、扇面という形態の構図を十分に考慮した作品である。緑青をバックに映える白い兎、これに対して大胆にも、金箔の月が画面の三分の一以上を占める。光悦の筆になる和歌は、『新古今集』(巻一二)の藤原秀能の一首で、「袖の上に誰故月ハやどるぞとよそになしても人のとへかし」と読める。左下に、大きな「光悦」の墨方印がある。】(『創立百年記念特別展 琳派 目録 (東京国立博物館)』)

 この光悦画・賛の「月に兎図扇面」の右半分の金箔地が、下弦の月である。抱一の「兎に秋草図襖」(C図)は、「反転」というよりも「変転」(変奏)しているもののように思われる。そして、この「兎に秋草図屏風」は、「月に秋草図」(B図)と同時代の「雨華庵」時代の晩年の作のように思われる。
 そして、これらの大作に先行しての作品が、「鶯邨」時代の「月に秋草鶉図屏風」(A図)と解したい。

富士山図.jpg

酒井抱一筆「富士山図」(『絵手鑑』七十二図中の十九図)各二五・一×一九・七㎝ 
静嘉堂文庫美術館蔵

 この抱一の「富士山図」について、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)では、「富士は絹本に塗った群青色の空にシルエットで示され、眩しい朱色の太陽をそえる」(「第三章花開く文雅」「俳趣味と地域色)と、この白富士の右上の朱色の「満月」のようなものを朱色の「太陽」としている。
 ここは、上記の「月に秋草鶉図屏風」(A図)「月に秋草図屏風」(B図)「兎に秋草図襖」(C図)「月に兎図扇面」(D図)に連なる、「武蔵野の果ての雪の白富士と旭日を帯びた『朱の満月』」と解したい。
 そして、それは、抱一のスタート地点「浮世絵時代」の「紅嫌い(色彩を抑制した)」の「松村村雨図」(細見美術館蔵)の「月下の世界への興味」(『井田・岩波新書』「第一章『抱一』になるまで」「月下の世界への興味」)と連なっていると解したい。

  枯枝の梅と見へけり朧月  楓窓杜龍(抱一)(『俳諧尚歯会』)

「朧月によって、枯枝に梅花が咲いているようだと幻視したのか、それとも、朧月が枯枝に咲いた梅花のようであると見立てのか。おそらく、意識的に両方を意味するようにぼかしているのだが、この句もまた月下のモノクロームの幻の世界である。」(『井田・岩波新書』「第一章『抱一』になるまで」「月下の世界への興味」)

 抱一の「綺麗さび」の世界というのは、この両義性の世界、そして、月下の幻想世界からスタートしている。
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(二十三) [抱一の「綺麗さび」]

その二十三 「秋夜月」と「月」扇子(抱一筆)

秋夜月と月.jpg

(右)酒井抱一筆「秋夜月」扇子 一本 一七・七×五一・〇㎝ 太田記念美術館蔵
(左)酒井抱一筆・賛「月」扇子 一本 一六・五×四五・〇㎝ 太田記念美術館蔵

(右) https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-03

【 秋の夜空を紺碧で、月を金で表す。単純ながらも大胆な構図と配色が印象的な扇。印章「抱弌」(朱文方印)・「文詮」(朱文瓢印)の朱色も背景に映える。賀茂季鷹(一七五四~一八四一)による和歌は「類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月」。季鷹は京都の歌人で国学者。大田南畝らとも交流し、俗文芸にも接触をもった。抱一の画譜(文化十四年<一八一七>)に序を寄せており、抱一との交流も知られる。裏面には墨書「抱一上人此月を/□□□□/□□□□季鷹に賛をと/頗りにの給ひ/けれは/いなひ/かたくて/筆を/とれるに/なん」があり、季鷹が賛を請われた様子をうかがうことができる。  】(『鴻池コレクション扇絵名品展』所収「作品解説七(赤木美智稿)」)

(左) https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-07

【 隷書体で記された「月白風清此良夜如何」は、蘇軾(そしょく)『後赤壁賦』にある語句。宋の元豊五年(一〇八一)十月、蘇軾が流刑地の黄州で友人らとともに長江に遊覧して詠んだもの。上部には銀箔でかたどった月を、表裏でほぼ同じ位置に配する。月や月光を好んだ抱一らしい趣向である。隷書体で記された詩文とあいまって風雅なおもむきを備える。署名「雨華抱一書」、印章「(印文不明)」(白文方印)。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展』所収「作品解説八(赤木美智稿)」)

 この二本の扇子(右と左)は、大きさも題名も違う、別々の扇子なのであろうか。それとも、大きさや題名が異なっていても、二本一組の「対」の扇子と解すべきなのであろうか。
 この問については、後者の、二本一組の「対」の扇子と解したい。そして、右の扇子は、金の月の「金」、季鷹(すえたか)の和歌の賛の「和」に対して、左の扇子は、銀の月の「銀」、蘇軾(そしょく)『後赤壁賦』の漢詩の賛の「漢」との、二極相対立する「対」(取り合わせ)の扇子と解したい。
 この「金に対する銀」、「和に対する漢」などの二極対立の構造(視点)は、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)では、「唱和」(「一方の作った詩歌に答えて、他方が詩歌を作ること」)の一形態の「反転」(「表=先行詩歌」の世界を「反転」(逆転)させて、「裏=後行詩歌」の世界を、水平的に創作する「反転の法」)に他ならないとしている。
 この「反転」(主として、「蕪村の反転の法」)については、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-05-03

 そして、「金に対する銀」の「反転」の世界については、下記のアドレスなどで触れている。ここでは、一部順序を入れ替えて、さらに、補足と修正を加えつつ再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-30

(再掲)

波濤図屏風.jpg

尾形光琳筆「波濤図屏風」二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】
(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

 これは、光琳の「金」の世界(「退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品」)である。これを「反転」させたのが、次の抱一の「銀」の世界である。

抱一・波図屏風.jpg

酒井抱一筆「波図屏風」六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇cm
文化十二年(一八一五)頃 静嘉堂文庫美術館
【銀箔地に大きな筆で一気呵成に怒涛を描ききった力強さが抱一のイメージを一新させる大作である。光琳の「波一色の屏風」を見て「あまりに見事」だったので自分も写してみた「少々自慢心」の作であると、抱一の作品に対する肉声が伝わって貴重な手紙が付属して伝来している。宛先は姫路藩家老の本多大夫とされ、もともと草花絵の注文を受けていたらしい。光琳百回忌の目前に光琳画に出会い、本図の制作時期もその頃に位置づけうる。抱一の光琳が受容としても記念的意義のある作品である。 】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 と同時に、光琳の「金」世界(「退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品」)は、「群青」の世界でもあった。その「群青」の世界をも踏襲したものが、右の「秋夜月」扇子の「群青」ということになる。

秋夜月・全体.jpg

(右)酒井抱一筆「秋夜月」扇子(「金」と「群青」の世界)

 そして、この「金と群青」の世界は、次の「朱と群青と白富士」に変転(変奏)してくる。

絵手鑑・富士図.jpg

酒井抱一筆「富士山図」(『絵手鑑』七十二図中の十九図)各二五・一×一九・七㎝ 
静嘉堂文庫美術館蔵

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-10-07

 そして、この群青は、北斎の、次の「神奈川沖浪裏(北斎筆)」の「群青(ベルリン藍=ベロ藍)の波濤図」と協奏してくる。

神奈川沖浪裏.jpg

北斎筆「神奈川沖浪裏」横大判錦絵 二六・四×三八・一cm メトロポリタン美術館蔵 
天保一~五(一八三〇~三四)
【房総から江戸に鮮魚を運ぶ船を押送船というが、それが荷を降ろしての帰り、神奈川沖にさしかかった時の情景と想起される。波頭の猛々しさと波の奏でる響きをこれほど見事に表現した作品を他に知らない。俗に「大波」また「浪裏」といわれている。】
(『別冊太陽 北斎 生誕二五〇年記念 決定版』所収「作品解説(浅野秀剛稿)」)

 さらに、抱一の「朱と群青と白富士」は、次の北斎の「赤(朱)富士」と通称されている「凱風快晴」に連なっていると解したい。

凱風快晴.jpg

北斎筆「凱風快晴」(『富嶽三十六景』全四十六図中の一図)横大判錦絵 二四・一×三七・二cm 天保一~三(一八三〇~三二) 東京冨士美術館蔵

https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=3769

 次に、「和に対する漢」の「反転」については、例えば、「抱一筆十二か月花鳥図における和と漢」(『琳派 響きあう美(河野元昭著)』所収)で取り上げられている「和性と漢性の美しい均衡こそ、抱一筆十二か月花鳥図最大の美的特質である」の、「和性」(日本的イメージ)と「漢性」(中国的イメージ)との視点に立っての「反転」ということになる。
 これは、冒頭の「秋夜月」(右)の賛(賀茂季鷹の和歌「類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月」)の「和性の賛」を、「月」(左)の賛(蘇軾の漢詩「月白風清此良夜如何」)の「漢性の賛」に「反転」しているということになる。
 この抱一の「和性と漢性」との視点ということについては、下記のアドレスの「雨華庵の四季(その一~その十八)」で、その「四季花鳥図巻」(上=春夏=「春夏の花鳥」・下=秋冬=「あきふゆのはなとり」)をとおして見てきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-12

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-16

 この「四季花鳥図巻」の、抱一自身が書いた題簽(上巻=「春夏の花鳥」と下巻=「あきふゆのはなとり」)の一つをとっても、抱一が、所謂、『古今和歌集』の、「真名序=漢性の序=紀淑望の序」と「仮名序=和性の序=紀貫之の序」の「漢性(中国風=漢詩風)と「和性」(日本風=和歌風)」との両極性を内在的に有していたことが察知される。
 ここで、抱一の、この「漢性」と「和性」との両極性ということについて、尾形光琳筆「紅白梅図屏風」を媒介として、それらをクローズアップさせていきたい。

(再掲)

紅白梅図屏風.jpg

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-05-08

尾形光琳筆「紅白梅図屏風」二曲一双 各一五六・〇×一七二・二cm MOA美術館蔵

【 平安時代に入り、国風文化が徐々に強まるとともに、梅は桜にその地位を譲ることになる。十世紀に初めに編まれた『古今和歌集』になると、桜は七十三首も詠まれて堂々と首位を占め、「花」といえば、それはただちに桜を意味するようになるのである。しかし、中国を意味する梅に対する尊敬は、けつして廃れることはなかった。ただし、この場合も日本化が起こって、中国で尊ばれた白梅に代わって、紅梅に対する愛好が生まれた。菅原道真や清少納言は大の紅梅ファンであった。これを琳派についていえば、尾形光琳筆「紅白梅図屏風」(MOA美術館蔵)においても、白梅は中国を、紅梅は日本を象徴していることが指摘されている。このような梅の暗喩を、和漢の教養豊かにして、光琳に私淑した抱一が知らないはずはなかった。 】
(『琳派 響きあう美(河野元昭著)』所収)「抱一筆十二か月花鳥図における和と漢」)

 この右隻の「紅梅」(和性)に、冒頭に掲載した「秋夜月」(和性=類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月=賀茂季鷹)、そして、その左隻の「白梅」(漢性)に、冒頭の「月」(漢性=月白風清/此良夜如何=蘇軾)を重ね合わせると、この「右隻」と「左隻」の中央に、上から下へと貫通する「光琳波の水流」は、光琳を継承する抱一の「江戸琳派」の流れを意味してくる。
 そして、その「江戸琳派」の流れは、次のアドレスの、鈴木其一・池田孤邨らに継承されていく。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-10-15
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(二十二) [抱一の「綺麗さび」]

その二十二 「月」扇子(抱一筆)

抱一・月扇面.jpg

酒井抱一筆・賛「月」扇子 一本 一六・五×四五・〇㎝ 太田記念美術館蔵

【 隷書体で記された「月白風清此良夜如何」は、蘇軾(そしょく)『後赤壁賦』にある語句。宋の元豊五年(一〇八一)十月、蘇軾が流刑地の黄州で友人らとともに長江に遊覧して詠んだもの。上部には銀箔でかたどった月を、表裏でほぼ同じ位置に配する。月や月光を好んだ抱一らしい趣向である。隷書体で記された詩文とあいまって風雅なおもむきを備える。署名「雨華抱一書」、印章「(印文不明)」(白文方印)。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展』所収「作品解説八(赤木美智稿)」)

「月白風清/此良夜如何」(蘇軾『後赤壁賦』)関連(※印)の原文と訳は次のところである。

   已而嘆曰      已にし嘆じて曰く
  有客無酒      客有れども酒無し
  有酒無肴      酒有れども肴無し
※ 月白風清      月白く風清らかに
※ 如此良夜何     此の良夜如何せん
  客曰        客曰く
  今者薄暮      今薄暮
  舉網得魚      網舉げ魚得たり
  巨口細鱗      巨口細鱗
  状似松江之鱸    状松江の鱸に似たり
  顧安所得酒乎    顧ふに安くの所の酒を得ん

 蕪村に出て来る『後赤壁賦』関連は、上記に続く、次(※印)のところである。

  歸而謀諸婦     歸って諸婦に謀る
  婦曰        婦曰く
  我有鬥酒      我に鬥酒有り
  藏之久矣      之を藏すること久し
  以待子不時之需   以て子の不時の需め待てり
  於是攜酒與魚    是に於いて酒と魚とを攜へ
  復遊於赤壁之下   復た於いて赤壁の下に遊ぶ
  江流有聲      江流聲有り
  斷岸千尺      斷岸千尺
※ 山高月小      山高くし月小にし
※ 水落石出      水落ちて石出づる
  曾日月之幾何    曾ち日月の幾何ぞや
  而江山不可復識矣  而るに江山復た識るべからず


  月白風清/此良夜如何
 くれぬ間に月は懸(かか)れり冬木立  抱一「隅田川遠望図」賛)

  山高月小/水落石出
 柳散リ清水涸レ石処々(トコロドコロ) 蕪村(『反古襖』「遊行柳のもしにて」)

 この抱一と蕪村との句の背景には、「曾日月之幾何(曾ち日月の幾何ぞや)/而江山不可復識矣(而るに江山復た識るべからず)」の感慨が去来している。

 抱一の、この句が出てくる「隅田川遠望図」(池田孤邨筆・酒井抱一賛)は、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-04

 ここに、その抜粋を再掲して置きたい。また、、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)で、その補足をして置きたい。

(再掲)

孤邨・隅田川遠望図.jpg

池田孤邨筆「隅田川遠望図」(酒井抱一賛)一幅 絹本淡彩色 文政九年(一八二六)
五五・五×一〇七・六㎝ 江戸東京博物館蔵
【 抱一は、夕暮れ時の舟中で酒肴を愉しんだ孤邨らの隅田川周遊を、中国北宋の文人・蘇東坡が詠んだ「赤壁賦」に見立てた。自らは参加できなかったものの、気持ちの赴くまま、末尾に「くれぬ間に 月は懸れり 冬木立」の一句を詠じている。 】(『別冊太陽 江戸琳派の美』所収「江戸琳派における師弟の合作(久保田佐知恵稿)」)

(追記一) 抱一の「賛」の全文は次のとおりである。

 是歳丙戌冬十一月桐生の竹渓
 貞助周二の二子をともなひ墨水
 舟を泛夕日の斜ならんとするに
 猶綾瀬に逆のほり舟中使者
 有美酒有網を挙れハ巨□
 細鱗の魚を得陸を招けは
 □□葡萄の酒傍らに奉る
 嗚呼吾都会の楽ミ何そ蘇子か
 赤壁の遊ひに異ならんや
 冨士有筑波有観音精舎の
 かねの聲は漣波に響き 今戸
 の瓦やく烟水鳥の魚鱗鶴翼に
 飛廻るは草頭にも盡
 かたきを門人孤邨か
 一紙のうちに冩して予に
 此遊ひを記せよといふ予
 その日の逍遥に
 もれたるも名残なく
 其意にまかせて
 俳諧の一句を吃く
  くれぬ間に
   月は懸れり
    冬木立
 抱一漫題「雨華菴」(朱文扇印)「文詮」(朱文瓢印) 

 孤邨の落款は、「蓮葊孤邨筆」の署名と「穐信」(朱文重郭印)である。なお、抱一の「賛」中の、「竹渓」は、桐生の「書上(かきあげ)竹渓」(絹の買次商・書上家の次男)で、市川米庵にも学ぶ文化人という。桐生は佐羽淡斎を通じて抱一とは関わりの深いところで、抱一を慕う者が多かったようである。
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説115(岡野智子稿)」)

(補足)

 『井田・岩波新書』での、上記(追記一)の賛の訳文は次のとおりである。

是(この)歳(とし)丙戌(へいじゆつ)冬十一月、桐生の竹渓(ちくけい)、/
貞助・周二の二子をともなひ、墨水(ぼくすい)に/
舟を泛(うかぶ)。夕日(せきじつ)の斜(ななめ)ならんとするに、/
猶(なほ)、綾瀬(あやせ)に逆(さか)のぼり、舟中佳肴(かかう)有(あり)、/
美酒有り。網を挙(あぐ)れば巨口(きよこう)/
細鱗(さいりん)の魚(うを)を得、陸を招けば、/
蘭陵(らんりよう)葡萄の酒、傍(かたわら)に来る。/
嗚呼、吾(わが)都会の楽(たのし)み、何そ蘇子(そし)が/
赤壁の遊びに異ならんや。/
冨士(ふじ)有(あり)、筑波有(あり)。観音精舎の/
かねの聲は、漣波(れんぱ)に響き、今戸(いまど)/
の瓦やく烟(けむり)、水鳥の魚鱗(ぎよりん)鶴翼(かくよく)に/
飛(とび)廻(まは)るは筆頭にも盡(つくし)/
がたきを、門人孤邨が/
一紙のうちに冩して、予(よ)に/
「此(この)遊ひを記せよ」といふ。予、/
その日の逍遥に/
もれたるも不慢(ふまん)ながら、/
其(その)意(い)にまかせて、/
俳諧の一句を吐く。/
  くれぬ間に/
   月は懸(かか)れり/
    冬木立/

 この抱一の長文の賛は、『井田・岩波新書』では、最終章(「第四章 太平の『もののあはれ』」)の最終節(「五 追憶と回顧---最晩年」)に収載されている。この長文の賛に関連する貴重な記述について、抜粋して掲載して置きたい。

【(「隅田川遠望図」の賛)
 (前略) 
抱一はこの舟遊びに誘われなかったが、賛を求められた。その賛は、蘇東坡の「赤壁賦(せきへきのふ)」「後(こう)赤壁賦」という、東坡が長江(ちょうこう)流域の景勝地赤壁に遊んだ際になした名高い文章を踏まえていて、孤邨画に奥行きを与えている。ただし、隅田川には墨堤があるものの、かの赤壁に擬すべき切り立った断崖はなく、賛の趣向として赤壁を取り入れるのには少し無理がある。「赤壁賦」が「壬戌(じゅんじつ)の秋、七月既望(きぼう)、蘇子(そし)客と舟を泛(うか)べて赤壁の下に遊ぶ」と始まるのを考えあわせると、実はこの賛に抱一はもう一つ、個人的な感慨を点じていたと考えられる。
相見香雨によれば、溯ること二四年、壬戌(享和二年)の秋、七月既望(一六日の夜)、抱一は文晁・鵬斎と舟を泛べ、国府台(こうのだい)(千葉県市川市)の下に遊ぶ約束をしていたのである。国府台、つまり江戸川に面する切り立った河岸段丘を赤壁に見立て、七二〇年前の東坡の風雅を偲ぶこの好企画が実現したか否か、今は傍証をもたない。

(揺曳する鵬斎)
 抱一が著賛したのは文政九年、その三月九日に鵬斎は没していた。数年来、中風で薬餌に親しんでいたという。この年は月見の約束を交わした享和二年と同じ戌年であったが、愉しい時代はすでに過ぎてしまっていた。抱一は「いかにせむ賢き人もなきあとに今(こ)としもおなじ花ぞ散りける」(『句藻』「月日星」)と文政一〇年の鵬斎一周忌に際して一首捧げているが、季節は何事もなくめぐり、また日常が繰り返されてゆくという気分が濃い。
(中略)
 「赤壁賦」は七月で秋、「後赤壁賦」は一〇月で冬。隅田川でのこの舟遊びは冬であった。賛の末尾にそえた抱一句にどこか寂寥がたゆたうのは、東坡の赤壁という往古を想う漢詩、冬という季節感、あるいは画面にみられる夕方という時間帯のせいだけなのであろうか。舟遊びにおける時間の経過のほか、おそらくは人間における時間というものの経過のままならさが一句に立ち込めるからである。
(後略)

(最晩年)
 文政一〇年一一月一一日、水戸徳川家の茶会に抱一は正客として招かれた。(藩主斉修公の抱一への答礼の趣向に感激し、)「誠、関東画工の目面(面目)をほどこし、難有(ありがたかり)けり」と感激している(『句藻』「竹鶯」)。大名社会からは逸脱したが、「画工」として名を立て、再び大名社会に迎え入れられたという自己認識なのであろうか。
(後略)

(絶筆四句)
 文政一一年(一八二八)一一月二九日、抱一は雨華庵で六八年の生涯を静かに終えた。晩年の弟子田中抱二は「一一月まで稽古に通ったという」(「雨華庵図」)から、急逝とみられる。『句藻』「はつ音」には、最期に書きつけられた四句のあと、索漠たる空白が広がっている。

  寄雪述懐(ゆきによするしゆつかい)
 月出(いで)て帰(かへる)風なり雪見舟(ゆきみぶね)
 残菊(ざんぎく)や慈童(じどう)は一里酒買(かひ)に
 木の瘤(こぶ)の残りて寒き鴉(からす)かな
 鹿の来てならすや菴(いほ)の楢(なら)紅葉(もみぢ)  

(後略)   】(『井田・岩波新書』「「第四章 太平の『もののあはれ』」)
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(二十一) [抱一の「綺麗さび」]

その二十一 「秋夜月扇子」(抱一筆・季鷹賛)

秋夜月・全体.jpg

酒井抱一筆「秋夜月(あきよづき)」扇子 一本 一七・七×五一・〇㎝
太田記念美術館蔵

秋夜月.jpg

酒井抱一筆「秋夜月(あきよづき)」扇子 (拡大図)

【 秋の夜空を紺碧で、月を金で表す。単純ながらも大胆な構図と配色が印象的な扇。印章「抱弌」(朱文方印)・「文詮」(朱文瓢印)の朱色も背景に映える。加茂季鷹(一七五四~一八四一)による和歌は「類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月」。季鷹は京都の歌人で国学者。大田南畝らとも交流し、俗文芸にも接触をもった。抱一の画譜(文化十四年<一八一七>)に序を寄せており、抱一との交流も知られる。裏面には墨書「抱一上人此月を/□□□□/□□□□季鷹に賛をと/頗りにの給ひ/けれは/いなひ/かたくて/筆を/とれるに/なん」があり、季鷹が賛を請われた様子をうかがうことができる。  】(『鴻池コレクション扇絵名品展』所収「作品解説七(赤木美智稿)」)

 この賀茂季鷹(かものすえたか)について、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)で、次のように記述している。

【 季鷹は抱一より七歳年長で、抱一の自撰画譜『鶯邨画譜』に序(文化十三年九月)を寄せた国学者・歌人である。しかし、実は文政三年五月まで、抱一は季鷹(雲錦先生)に対面したことはなかった。「錦雲(ママ=雲錦が正しい)先生、江都に有し頃は廿年(はたとせ)の昔にて、予も金馬門に繋がれて、花鳥の交(まじはり)をなさず/季鷹の吾嬬(あづま)下りや初茄子(はつなすび)/ころは五月(さつき)の末にぞ有(あり)ける」(『句藻』「藪鶯」)とあるとおりである。「一富士、二鷹、三茄子」からの連想であるが、富士は「ぬけ」にしてある。季鷹は初対面後の一〇月、『屠龍之技』に新たに序を加え、「抑(そもそも)、我、はやうよりむつびかはせる雨華庵の屠龍君」と述べている。つまり、文政三年以前より両者のあいだに文通があったことがわかる。  】(『井田・新書』)

 ここで紹介されている『鶯邨画譜』の「序」(賀茂季鷹)などについて、下記のアドレスで触れている。ここに再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-03

(再掲)

ここでは、この『鶯邨画譜』の、抱一と親しく交流のあった国学者加茂季鷹と、漢詩人中井敬義の、その「序」を掲載しておくことに止めたい(なお、『鶯邨画譜』は、初版と後刷本とがあり、早稲田図書館蔵本は後刷本で、この「序」は付せられていない)。

①序文(加茂季鷹)

大方ゑかく人、くれ竹の世に其名きこえたる上手、其いと多かる中にも、百とせばかりむかし、光琳法橋ときこえしハ、倭もろこし乃おかしき所々をとり並べことそぎたる中に、力を入てみやびかなるおもむきせしもむねと書あらはし筒、其頃此道にならぶ人は多なかりけり、こゝに等覚院抱一君ハ弓を袋にをさめて画に世を乃がれたまひ、かの法橋のあとをしたひてかき出たまへるが、山乃たゝずまい、水のこゝろばへは、いふもさらなり、鳥、化物、はふむしなどハ、さながらたましひ有てうごき出ぬべき心ちなんせられける、とりたてかくこ乃み給ふ事あらたまのとし月つもらざりせば、いかでかくは物しき給ふべき、されば彼法橋もなかなかに及びかたかめりとさへ見侍るハ、藍を出しあゐの藍より青してふためしならむかし、あまりあやしきまで見めでつゝたくもえあらで、いさゝかゝきしるし侍る也、あなめでたあなめでた

②序文(中井敬義)

此一帖は抱一上人ねん翁の、いとまことに画なしぬへるものにして、いたり深くやことなきすとハ、けにたとふへきかたなしかし、上人早うより世の塵を厭ひて、おくまりたる山陰に庵し候て、ひたすら水艸のきく傳を慰めにてかき籠り給へるを、あたらしきことにおもひて、こゝろよせきこゆる人は、あなかちにまいり給はむ、くひておのかしゝ迺心やりにとてかき捨たまへる原繪なとこひ閲(み)ゆるも、あまたありぬ契のもとなり、ためしなき上手にておはすうへに、からくにのふるきおきてをまなへり、我国のミやひたる跡をとめて、ひろくまねひ、ふかく習ひとなぬへき、尤なほさりの墨かきたき世の人とはいとことなり、そもそも三乗の法をときて聖人の御果を絵かき給ふとて、かしこの傳にもありとか法の属にして画をし覚すきたまへる、さるいはれあることになん、おのれ此本をうちひらき見より、上人のらうしねんに走しらす事にならひて其侭に気韻高かりけると、かたかた尊きことおほえて世のひとゝきのやさしきも忘れて、此はしつかたをふとけかしつせるは、感すこゝろの深きよりと、人も又見ゆるしなん也

(『江戸名作画帖全集六(駸々堂)』所収「図版解説・資料」)

  類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月  (賀茂季鷹)

 抱一にとって、季鷹は、京都の「国学者・歌人」の、その書簡にあるとおり「雲錦先生」(「雲錦は庵号で抱一の七歳年長)なのである。この雲錦先生は、抱一の画賛に登場する江戸派の歌人(国学者)の双璧の、加藤(橘)千蔭(二十六歳年長)と村田春海(十五歳年長)と知己で、季鷹と抱一との関係は、抱一と親交の深い千蔭と春海とが介在していることであろう。
 また、季鷹は、狂歌にも精通して居り、抱一の狂歌の師の一人・大田南畝(狂歌名=四方赤良、十二歳年長)などの狂歌連とのネットワークも介在しているとことであろう。

  敷島のやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花 (本居宣長)

 「大和魂」の代名詞にもなっている、この歌の作者・本居宣長(国学者・歌人、抱一より三十一歳年長)は、抱一と直接的な関係は何もない。しかし、抱一と深い親交に結ばれている江戸派の歌人(国学者)の「加藤千蔭・村田春海」は、賀茂真淵(国学者・歌人)の「県門(けんもん)」であり、宣長もまた後に真淵門(県門)に入っており、京都の季鷹(真淵と関係の深い賀茂神社の祠官)共々、真淵の「県居(あがたい)派」の歌人と解して差し支えなかろう。
 
  類なき光を四方にしき島や日本嶋根の秋夜月    (賀茂季鷹)
  敷島のやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花 (本居宣長)

 この季鷹の歌は、宣長の「本歌取り」の一首と、これまた、解して差支えなかろう。

季鷹・掛幅.jpg

 月  類なき 光を四方に 敷しまや
    日本島嶋根の 秋の夜の月     季鷹

http://www.suguki-narita.com/blog/2016/09/tiyuusyunomeigetu.html

 これは上記のアドレスで紹介されている季鷹の掛幅である。これに対応する宣長の掛幅は次のものであろう。

宣長像.jpg

「本居宣長六十一歳自画自賛像」(『本居宣長(小林秀雄著・新潮社)』所収「口絵」→表)
【(右上の賛)古連(これ)は宣長六十一寛政乃(の)二登(と)せと/いふ年能(の)秋八月尓(に)手都可(づか)らう都(つ)し/多流(たる)おの可(が)ゝ(か)多(た)那(な)里(り)
(左上の賛)筆能(の)都(つ)い天(で)尓(に)/志(し)き嶋のやま登(と)許(ご)ゝ(こ)路(ろ)を人登(と)ハ(は)ゝ(ば)/朝日尓(に)ゝ(に)ほふ山佐久(ざく)ら花  】(『本居宣長(小林秀雄著・新潮社)』所収「口絵」→裏)

 この『本居宣長(小林秀雄著・新潮社)』の冒頭の章(一)に、「(駅まで見送った折口信夫が小林秀雄に)『小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら』と言われた」という一節がある。
 この折口信夫の小林秀雄への遺言のようなメッセージ「本居さんはね、やはり源氏ですよ」の「源氏」は、『源氏物語』で、折口信夫の、このメッセージは「もののあはれ」(『見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」』=『石上私淑言(いそのかみのささめごと)』)こそ、「敷島(日本)のやまと心(大和心)」ということが、そのメッセージの意であったようなのである。

 『井田・岩波新書』の最終章(第四章)のタイトルは「太平の『もののあはれ』」で、この「もののあはれ」は、抱一の最高傑作の一つ「夏秋草図屏風」(別称「風雨草花図」・国立博物館蔵・重要文化財)を主題とし、それは、表の「風神雷神図屏風」(光琳作)の「晴れやかさ」に対し、裏の「『うつろう先』の『一抹の不穏な空気』」が漂い、それは、「本居宣長が主張した『もののあはれ』にも近接した空気である」としている。
 抱一の絵画作品などで、本居宣長(上記の「本居宣長六十一歳自画自賛像」など画技にも長けている)に関するものは寡聞にして知らない。しかし、宣長が「もののあはれ」を見て取った『源氏物語』とその作者「紫式部」に関しては、下記のアドレスなどで、しばしば遭遇している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-11-18

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-04-21

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-05

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-11

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-16

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-07-21

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-07-30

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-08-06

 ここで、冒頭の「秋夜月(あきよづき)」扇子(抱一筆・季鷹賛)に戻って、その「作品解説」の「抱一上人此月を/□□□□/□□□□季鷹に賛をと/頗りにの給ひ/けれは/いなひ/かたくて/筆を/とれるに/なん」とに遭遇すると、これは、賛をした季鷹ではなく、抱一その人が、季鷹に賛を請い、そして、それを秘蔵していたものと解したい。

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(二十) [抱一の「綺麗さび」]

その二十 「其角肖像百幅」(抱一筆・賛=其角句)

(再掲)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-22

抱一・其角肖像二.jpg

酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇

「晋子とは其角のこと。抱一が文化三年の其角百回忌に描いた百幅のうちの一幅。新出作品。『夜光るうめのつぼみや貝の玉』(『類柑子』『五元集』)という其角の句に、略画体で其角の肖像を記した。左下には『晋子肖像百幅之弐』という印章が捺されている。書風はこの時期の抱一の書風と比較すると若干異なり、『光』など其角の奔放な書風に似せた気味がある。其角は先行する俳人肖像集で十徳という羽織や如意とともに表現されてきたが、本作はそれに倣いつつ、ユーモアを漂わせる。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一の俳諧(井田太郎稿)」)

 この著者(井田太郎)が、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情』(岩波新書一七九八)を刊行した(以下、『井田・岩波新書』)。
 この『井田・岩波新書』では、この「其角肖像百幅」について、現在知られている四幅について紹介している。

一 「仏とはさくらの花の月夜かな」が書かれたもの(伊藤松宇旧蔵。所在不明)
二 「お汁粉を還城楽(げんじょうらく)のたもとかな」同上(所在不明)
三 「夜光るうめのつぼみや貝の玉」同上(上記の図)
四 「乙鳥の塵をうごかす柳かな」同上(『井田・岩波新書』執筆中の新出)

 この四について、『井田・岩波新書』では、次のように記述している。

【 ここで書かれた「乙鳥の塵をうごかす柳かな」には、二つの意味がある。第一に、燕が素早い動きで、「柳」の「塵」、すなわち「柳絮(りゅうじょ)」(綿毛に包まれた柳の種子)を動かすという意味。第二、柳がそのしなやかで長い枝で、「乙鳥の塵」、すなわち燕が巣材に使う羽毛類を動かすという意味。 】『井田・岩波新書』

 この「燕が柳の塵を動かす」のか、「柳が燕の塵を動かす」のか、今回の『井田・岩波新書』では、それを「聞句(きくく)」(『去来抄』)として、その「むかし、聞句といふ物あり。それは句の切様、或はてにはのあやを以て聞ゆる句也」とし、この「聞句」(別称、「謎句」仕立て)を「其角・抱一俳諧(連句・俳句・狂句・川柳)」を読み解く「補助線」(「幾何学」の補助線)とし、その「補助線」を補強するための「唱和と反転」(これも「聞句」以上に古来喧しく論議されている)を引いたところに、この『井田・岩波新書』が、これからの「井田・抱一マニュアル(教科書)」としての一翼を担うことであろう。
 そして、次のように続ける。

【 これに対応する抱一句が、第一章で触れた「花びらの山を動かす桜哉」(『句藻』「梶の音」)である。早くに詠まれたこの句は『屠龍之技』「こがねのこま」にも採録され、『江戸続八百韻』では百韻の立句にされており、抱一自身もどうやら気に入っていたとおぼしい。句意は、大きな動きとして、桜の花びらが散れば、桜花爛漫たる山が動くようにみえるというのが第一。微細な動きとして、桜がさらに花弁を落とし、すでにうず高く積もった花弁の山を動かすというのが第二。
 燕の速度ある動きと柳の悠然たる動き、桜の大きな動きと微細な動き、両句ともに、こういった極度に相反する二重の意味をもつ「聞句」である。また、有名な和歌「見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」(『古今和歌集』巻第一)をはじめとし、柳と桜は対にされてきたから、柳を詠む其角に対し、意図的に抱一が桜を選んだと考えられる。抱一句は全く関係のないモティーフを扱いながら、其角句と見事に趣向を重ねているわけで、これは唱和のなかでも反転にほかならないと確認される。 】『井田・岩波新書』

  乙鳥の塵をうごかす柳かな  其角 (『五元集』)
  花びらの山を動かす桜哉   抱一 (『屠龍之技』)

 この両句は、其角の『句兄弟』(其角著・沾徳跋)をマニュアル(教科書)とすると、「其角句=兄句/抱一句=弟句」の「兄弟句」で、其角句の「乙鳥」が抱一句の「花びら」、その「塵」が「山」、そして「柳」が「桜」に「反転」(置き換えている)というのである。
 そして、其角句は「乙鳥が柳の塵を動かすのか/柳が乙鳥の塵を動かすのか」(句意が曖昧=両義的な解釈を許す)、いわゆる「聞句=謎句仕立て」だとし、同様に、抱一句も「花びらが桜の山を動かすのか/桜が花びらの山を動かすのか」(句意が曖昧=両義的な解釈を許す)、いわゆる「聞句=謎句仕立て」というのである。
 さらに、この両句は、「其角句=前句=問い掛け句」、そして「抱一句=後句=付句=答え句」の「唱和」(二句唱和)の関係にあり、抱一は、これらの「其角体験」(其角百回忌に其角肖像百幅制作=これらの其角体験・唱和をとおして抱一俳諧を構築する)を実践しながら、「抱一俳諧」を築き上げていったとする。
 そして、その「抱一俳諧」(抱一の「文事」)が、江戸琳派を構築していった「抱一絵画」(抱一の「絵事」)との、その絶妙な「協奏曲」(「俳諧と絵画の織りなす抒情」)の世界こそ、「『いき』の構造」(哲学者九鬼周三著)の「いき」(「イエスかノーかははっきりせず、どちらにも解釈が揺らぐ状態)の、「いき(粋)の世界」としている。
 さらに、そこに「太平の『もののあわれ』」=本居宣長の「もののあわれ」)を重奏させて、それこそが、「抱一の世界(「画・俳二道の世界」)」と喝破しているのが、今回の『井田・岩波新書』の最終章(まとめ)のようである。

桜楓図屏風・右.jpg

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)デンバー美術館蔵  六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝ 落款(右隻)「雨庵抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

 デンバー美術館所蔵となっている、この「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)は、まさしく、「桜」と「柳」とを主題としたものである。

  乙鳥の塵をうごかす柳かな    其角 (『五元集』)
  花びらの山を動かす桜哉     抱一 (『屠龍之技』)
  見渡せば柳桜をこきまぜて
       都ぞ春の錦なりける  素性法師(『新古今』巻一)   

 其角句と抱一句を「唱和」(抱一句は其角句の「本句取り」)とすると、この二句は、素性法師の「本歌取り」の句ということになる。其角はともかくとして、抱一は、この句に唱和し、それを反転させる際に、間違いなく、この素性法師の古歌が、その反転の要因になっていることは、上記のように並列してみると明瞭になってくる。
 この素性法師の歌には「 花ざかりに京を見やりてよめる」との前書きがある。抱一は、それを「江戸の太平の世を見やりてよめる」と反転しているのかも知れない。

桜楓図屏風・左.jpg

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の左隻(「楓図屏風」)デンバー美術館蔵 → D図
六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝
落款(左隻)「抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

 デンバー美術館所蔵の「桜・楓図屏風」の左隻(「楓図屏風」)である。

   北山に僧正遍照とたけがりにまかれりけるによめる
  もみぢ葉は袖にこき入れてもていでなむ秋はかぎりと見む人のため
                        素性法師(『新古今』巻五)

 素性法師の父は僧正遍照である。その父の僧正遍照と茸狩りに行ったときの歌である。
「秋はかぎりと見む人のため」の「見む人」というのは、遍照・素性父子と親しい関係にある人であろう。
 ここで、この「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)と左隻(「楓図屏風」)とが、素性法師の古歌を媒介して、見事に唱和してくる。そして、抱一にとって、この素性法師の歌にある「見む人」とは、この「桜・楓図屏風」(六曲一双)の制作を抱一に依頼した、例えば、最晩年の抱一に制作を依頼した、水戸藩主徳川斉脩などの注文主のことを脳裏に描いていることであろう。

   秋にはたへぬと良経公の御うたにも
  月の鹿ともしの弓や遁れ来て       抱一(『屠龍之技』「椎の木かげ」)

 この抱一の句について、『後鳥羽院』(日本詩人選二〇・筑摩書房)の著書を有する「小説・評論・随筆・翻訳」分野で文化勲章を受章したマルチ文人・丸谷才一の『日本文学史早わかり』(「歌道の盛り」)で、次のように記述している。

【(この抱一句)は、藤原良経ではなく藤原雅経の、「ともしせし端山しげ山しのびきて『秋には耐へぬ』さを鹿の声」を下じきにしている。歌人の名がこんがらかるといふのは、抱一がいちいち本に当たるのではなく、そらで覚えてゐることの反映で、それは同時代の俳人たちのかなり多くに共通する態度であったと見て差支えない。 】(丸谷才一著『日本文学史早わかり』所収「歌道の盛り」)

 そして、その巻末の「日本文学史早わかり(付表)」で、その「個人詩集」の項目の中に、抱一の『屠龍之技』が、『芭蕉句選』『其角「五元集」』『蕪村句集』『しら雄(白雄)句集』『一茶「おらが春」』と並んで登載されている。
 そして、恐らく、この『後鳥羽院』の執筆過程で把握したのであろうが、抱一句の「本歌取り」の句の幾つかについて、その「本歌」ともども列挙されている。
 上記の一句は、その中の一句である。その記述の中で、「抱一がいちいち本に当たるのではなく、そらで覚えてゐることの反映で、それは同時代の俳人たちのかなり多くに共通する態度であったと見て差支えない」というのは、今回の『井田・岩波新書』の「其角体験」(「抱一にとっての其角体験とは、先行作品と唱和しながら、自らの世界を構築するというスタイルを確立させたのではないか」)については、少なくとも、『後鳥羽院』と『日本文学史早わかり』の著者丸谷才一は諸手をあげて「是」とするところであろう。
 そして、今回の『井田・岩波新書』の最終章(第四章)の「太平の『もののあはれ』」の、「もののあはれ」(本居宣長の『石上私淑言』での『見る物聞く事なすわざにふれて情の深く感ずる事」の「もののあはれ」)は、丸谷才一の「歌道の盛り」(本居宣長の『宇比山踏』『拝蘆小船』での「歌道の盛り」)と、期せずして合致したものであろう。
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十九) [抱一の「綺麗さび」]

その十九 「藤図扇子」(其一筆・抱一賛・其角句)

柳図.jpg

鈴木其一筆「柳図扇」一本(柄) 酒井抱一賛 太田記念美術館蔵
一六・六×四五・五㎝
【 軽やかに風に揺れる柳が描かれる。抱一による賛は「傾城の賢なるはこれやなきかな 晋子吟 抱一書」。晋子(しんし)とは、芭蕉の門弟の一人で江戸俳座の祖である其角のこと。この句は『都名所図会』(安永九年<一七八〇>刊)などで京都の遊郭、島原を形容する際に用いられており、江戸時代後期にはよく知られていたと思われる。本扇面は、当時の吉原文化の一翼を担った抱一とその弟子其一の、粋な書画合筆による。賛のあとに抱一の印章「文詮」(朱文瓢印)が捺される。画面右に其一の署名「其一」、印章「元長」(朱文方印)がある。なお、其一の弟子入りの時期と抱一没年から制作期は文化十年(一八一三)から文政十一年(一八二八)の間と考えられる。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

 抱一の賛の其角の句「傾城の賢なるはこれやなきかな」は、『五元集(旨原編)』では「傾城の賢なるは此柳かな」の句形で収載されている。この其角の句が何時頃の作なのかは定かではない。『都名所図会』(安永九年<一七八〇>刊)で京都の遊郭、島原を形容する際に用いられているということは、其角の京都・上方行脚などの作なのかも知れない。

 闇の夜は吉原ばかり月夜哉   (天和元年=一六八一、二十一歳)
 西行の死出路を旅のはじめ哉  (貞享元年=一六八四、二十四歳、一次上方行脚)
 夜神楽や鼻息白し面の内    (元禄元年=一六八九、二十八歳、二次上方行脚)
 なきがらを笠に隠すや枯尾花  (元禄八年=一六九四、三十四歳、三次上方行脚) 

 難波の住吉神社で西鶴が催した一昼夜二万三千五百句の矢数俳諧興行の後見役をつとめた第一次上方行脚の際の、宗匠其角誕生(貞享三年=一六八六)前後の作なのかも知れない。

島原図.jpg

『都名所図会』所収「嶋原(島原)図会」
   ↑
http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_148.html

 江戸の吉原は、隅田川の堤防・日本堤から吉原遊廓(新吉原)へ下る坂「衣紋坂(えもんさか)」の「見返り柳」であるが、京都・島原は「出口の柳」である。
 この其角の句は、「柳に風」「柳に風と受け流す」などの古諺を利かせていることが、洒落風俳諧の其角らしい句で、「華やかなる事其角に及ばず」(『旅寝論』の去来の其角評)の、その萌芽のようなものを醸し出しているという雰囲気である。
 抱一の俳諧の師筋の一人・馬場存義(李井)と親交の深い小栗旨原(百万)は、蕪村の『新花摘』に其角の『五元集』の編纂関連で登場し、江戸座俳諧師・抱一は、「其角→存義・旨原・蕪村→抱一」という系譜に連なると俳人で、其角の生前に自撰していた自撰句集ともいえる『五元集』については、自家薬籠中のものであったであろう。
 そして、抱一の門弟の蠣潭や其一の扇面画などには、抱一自身の句で賛をするのが通例であるが、この其一の、この「柳図」には、即興的に其角の句が想起されてきたということなのであろう。
 それにしても、「其角=句、抱一=賛、其一=画」と、何とも「華やかなること三人揃い踏み」という魅力溢れる扇である。

柳に白鷺図.jpg

鈴木其一筆「柳に白鷺図屏風」 二曲一隻  絹本着色 一三二・五×一四一・六㎝
エツコ&ジョー・プライスコレクション
【「菁々其一」と落款を禽泥で入れているところから、画家自身にとってもおそらく快心の作であったのだろう。事実彼の芸術の美質があますところなく披瀝されている。あの傑作「夏秋渓流花木図屏風(根津美術館蔵)は、どこか芝居の書割を思わせる人工美の世界を見せているが、ここではそうしたものを受けつぎながらも、さらにいっそう研ぎ澄まし、昇華させ、画家自身の心象風景とでもいいたいような美の世界を開陳する。ここでは白鷺の羽音も、柳の枝を揺らす風の動きもない。一切が静謐なる世界に封じ込められたかのようである。緑青と胡粉の対比がまことに清新で美しい。これもまた其一円熟期の名品の一つ。 】
(『琳派二 花鳥二(紫紅社)』所収「作品解説一〇七(榊原悟稿)」)

 この落款の「菁々」の初出は、弘化元年(天保十五年・一八四四)、其一、四十九歳の時で、この「柳に白鷺図屏風」は、それ以降の作品ということになる。恐らく、安政元年(嘉永七年・一八五四)、五十九歳時の晩年の傑作「四季花鳥図屏風」(東京黎明アートルーム蔵)前後の、其一の晩年の作品と解したい。
 この「四季花鳥図屏風」(東京黎明アートルーム蔵)については、下記のアドレスで触れている。
 ここで、冒頭の「柳図扇」については、下記のアドレスで紹介した、抱一と其一の師弟合作「文読む遊女図」と同時の頃の作と解したい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-28

羽子板図.jpg

鈴木蠣潭・其一ほか筆・酒井抱一賛「正月飾り物図」一幅 紙本淡彩 九五・七×二七・五㎝ 文化十三年(一八一六)作 個人蔵(足立区立郷土博物館寄託)
【 今春新出となった、其一の最も早い作例である。新春を寿ぐ寄合描で、中央の羽子板を其一、後ろの枝は鯉隠居こと坂川屋主人山崎利右衛門、その下の雑記を長橋文桂、俵形の供え物を大西椿年、手前の鼠の玩具を蠣潭が描き、抱一の俳句を賛とする。
蠣潭が文化十四年(一八一七)に没していること、「跳んだり跳ねたり」と呼ばれた鼠の玩具が描かれていることなどから、蠣潭が亡くなる前年の文化十三年(一八一六)子年の制作と報告され、大きな反響を呼んだ。その新知見について玉蟲敏子「近世絵画を育てた土壌と地域---足立に残された酒井抱一と谷文晁の弟子の足跡---」(『美と知性の宝庫 足立---酒井抱一・谷文晁とその弟子たち』足立区立郷土博物館、二〇一六年)に詳しい。
抱一・蠣潭・其一の三人が一幅に名を連ねる貴重な作例であること、制作年から其一二十一歳の若描きと判明すること、其一が蠣潭の存命中から「其一」を名乗っていたこと、千住の鯉隠居をはじめとする文化人との交流に、蠣潭・其一が早くから関わっていたことなどが明らかになり、本図出現の意義はきわめて重要である。其一の最初期の落款スタイルも確認されよう。
(賛)
客に止む手毬の
おとや梅の縁
鶯邨題「文詮」(朱文瓢印)  】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社)』所収「作品解説一九(岡野智子稿)」)

 「金杉邑(むら)画狂其一筆」と、「紅葉狩図凧」の箱書に署名した抱一の無二の高弟・鈴木其一の出発点は、この「抱一・蠣潭・其一」の師弟合作からスタートする。
そして、それは、文人の里「下谷根岸」の「三幅対」と称せられた、儒者・漢詩人として名高い亀田鵬斎そして江戸文人画の総帥・谷文晁と江戸座の俳諧師にして江戸琳派の創始者・酒井抱一の、そのネットワークからのスタートを意味する。
 この鵬斎の義弟が、俳諧の千住連の頭領が、抱一と同年齢の無二の知友の建部巣兆である。この巣兆が没した翌年の文化十二年(一八一五)に、下記のアドレスなどで紹介した奇妙奇天烈なイベント「千住酒合戦」の、その中心人物の一人が、上記の「正月飾り物図」の其一の描いた「羽子板」(松竹梅図か?)の後ろの「枝(篠竹か?)」を描いたその人、「鯉隠居こと坂川屋主人山崎利右衛門」ということになる。

 https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-09

 其一は、ここからスタートとして、そのゴール地点に位置する作品が、上記の「柳に白鷺図屏風」であろう。ここに描かれている白鷺は、其一その人と解したい。そして、この静止した柳は、「綺麗さび」の世界に遊んでいた抱一の一瞬の静止した姿であり、その抱一の「綺麗さび」世界からの巣立ちの其一の姿こそ、この白鷺なのであろう。
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十八) [抱一の「綺麗さび」]

その十八 「藤図扇面」(蠣潭筆・抱一賛)

(再掲)

蠣潭・藤図扇面.jpg

鈴木蠣潭筆「藤図扇面」酒井抱一賛 紙本淡彩 一幅 一七・一×四五・七㎝ 個人蔵 
【 蠣潭が藤を描き、師の抱一が俳句を寄せる師弟合作。藤の花は輪郭線を用いず、筆の側面を用いた付立てという技法を活かして伸びやかに描かれる。賛は「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」。淡彩を滲ませた微妙な色彩の変化を、暮れなずむ藤棚の下の茶店になぞらえている。】(『別冊太陽 江戸琳派の美』)

 鈴木蠣潭の、この「藤図扇面」は、江戸随一の藤の名所、亀戸の天神の藤かという印象を抱いていたが、これは、抱一・蠣潭・其一らが住んでいた根岸の雨華庵の近辺の「藤寺」の別称を有していた「円光寺」の藤のようである。
 下記のアドレスで、その円光寺(藤寺)が紹介されている。

https://kogotokoub.exblog.jp/27286656/



藤寺.jpg

【▼台東区根岸一~五丁目のうち。
 かつては呉竹の根岸の里といわれた閑静な地で、音無川が流れ、鶯や水鶏(くいな)の名所だった。地内に時雨ヶ丘、御行の松、梅屋敷、藤寺などがあった。文人の住居や大商人の寮などの多かったところである。
▼光琳風の画家で、文人としてきこえた酒井抱一、町人儒者亀田鵬斎、『江戸繁盛記』の著者寺前靜軒をはじめ、文化・文政頃からこの地に住んだ有名人ははなはだ多い。
  山茶花や根岸はおなじ垣つづき 〔抱一〕
 明治期には饗庭篁村(あえばこうそん)、多田親愛、村上浪六、幸堂得知、正岡子規などがここに住んだ。有名人である点では、ここに豪壮な妾宅をかまえていた掏摸の大親分仕立屋銀次もひけはとらない。  】北村一夫著『落語地名事典』(角川文庫)
【天王寺の前の芋坂を進んで鉄道を越える。通りに出た右角にある羽二重団子の店(荒川区東日暮里五ー54-3)は、文政二年(1819)に創業し、藤棚があって藤の木茶屋といわれた。餡と醤油だれの団子を供す。圓朝人情噺にも登場し、明治以後文人にも親しまれた。
 このあたりから根岸の里(台東区根岸)になる。元は今の荒川区東日暮里四・五丁目と一緒に金杉村といったが、明治二十二年に音無川以南が下谷区に編入されて、今の根岸一~五丁目になった。呉竹の里ともいい、台東区根岸二ー19~20が輪王寺宮の隠居所御隠殿の跡である。公弁法親王が京から取り寄せた訛りのない鶯数百派を放って鶯の名所となった。 】
吉田章一著『東京落語散歩』(角川文庫)


http://arasan.saloon.jp/rekishi/images/edomeishozue1709.jpg

根岸・円光寺(藤寺)

http://arasan.saloon.jp/rekishi/edomeishozue17.html

江戸名所図会 巻之六 第十七冊 → 上野・入谷・根岸・千住

抱一「藤・蓮・楓図」.jpg

酒井抱一筆「藤・蓮・楓図」三幅 絹本著色 各幅一〇八・〇×三五・〇㎝
MOA美術館蔵 → A図

 この抱一の「藤・蓮・楓図」(三幅対)の、右幅の「藤図」は、上記で紹介した根岸の藤寺・「円光寺」の藤とすると、左幅の「楓図」は東叡山「寛永寺」近辺の楓と解したい。とすると、中幅の「蓮図」は、「不忍池」の蓮ということになる。

光甫「藤・蓮・楓図」.jpg

本阿弥光甫筆「藤・蓮・楓図」三幅 藤田美術館蔵 → B図
 これは、本阿弥光悦の孫の本阿弥光甫の「藤・蓮・楓図」(三幅対)である。抱一の「藤・蓮・楓図」(A図)は、琳派の原点の「光悦→光瑳→光甫」の、茶道・書画・陶芸・彫刻をよくした法橋・法眼に叙せられた「空中斎(くうちゅうさい)光甫(こうほ)」の、この「藤・蓮・楓図」(B図)の模写絵なのである。というのは、抱一の「藤・蓮・楓図」(A図)の中幅「蓮図」に、「倣空中斎之図 抱一暉真筆」の款記があり、空中斎こと「光甫の図に倣った」ことを明言しているからに他ならない。
 しかし、光甫には「藤・牡丹・楓図(三幅)」(東京国立博物館蔵)もあり、これも加味されているのかどうかは定かでではない。この光甫の作品は、次のアドレスで閲覧することが出来る。

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0066137

鶯蒲「藤・蓮・楓図」.jpg

酒井鶯蒲筆「藤・蓮・紅葉図」三幅 山種美術館蔵 → C図

 抱一と小鶯女史の養子で、雨華庵一世・抱一の後継者になる雨華庵二世・鶯蒲の「藤・蓮・楓図」である。これは、抱一の「藤・蓮・楓」(B図)の模写絵のような作品かというと、この鶯蒲の作品も、光甫の「白藤・紅白蓮・夕もみぢ(三幅対)」(山種美術館蔵)の模写絵のようなのである。下記のアドレスでは、その絵図は収載されていないが、『琳派一・花鳥一(紫紅社)』所収「作品六八 藤・蓮・楓図」で紹介されている。

http://dramatic-history.com/art/2008/japan/rinpa/exh-rinpakara08.html

 ここで、この光甫の「白藤・紅白蓮・夕もみぢ(三幅対)」(山種美術館蔵)を紹介すると、どうにも、謎が深まるばかりなので、それをカットして、抱一の「藤・蓮・楓図」(A図)は、冒頭に再掲した、鈴木蠣潭の「藤図扇面」を念頭に置いての、蠣潭供養の三幅対の「藤・蓮・楓図」と解したいのである。
 即ち、抱一の「藤・蓮・楓図」(A図)の「藤図」(右幅)は、冒頭の蠣潭の「藤扇面」(「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」)の、その蠣潭「藤扇面」への語り掛け、その蓮図(中幅)は、その「極楽浄土」の釈迦三尊像を踏まえ、その楓図は、その安らかな「西方浄土」を願う、抱一の蠣潭「その人」への供養の語り掛けと解したいのである。
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十七) [抱一の「綺麗さび」]

その十七「彼岸桜図(十二ヶ月図扇・二月)」(其一筆)

彼岸桜.jpg

鈴木其一筆「彼岸桜図」(十二ヶ月図扇・二月)」各一九・二×五一・五㎝ 
太田記念美術館蔵 → A図
【 彼岸桜(二月)
彼岸桜は少し寒さがやわらいでくる三月中旬、春の彼岸の頃から他の桜の品種に先がけて咲く、上部から垂れ下がる幾本もの枝には、蕾から開花したものまで無数の花が付く。(赤木美智稿) 】
【 十二ヶ月図扇 十二本
「十二ヶ月図扇」は、季節の草花や年中行事を描いた十二本で一揃の作品、骨の材料が同じですべてに署名「噲々其一」、印章「元長」(朱文方印)がある。「噲々其一」とする名乗りから、制作は天保四~十四年(一八三三~四三)頃と推定される。いずれも扇形の絵の周辺に若干の余白があるが、この余白がデザイン的な効果を考えてのものなのか、下書きから扇へ仕立てる際に生じた祖語であるのかは判然としない。なお、各月の画題は箱に附された付箋に依拠するが、付箋がいつ頃のものかは不明。箱書表には、「鈴木其一筆/□□十二ヶ月扇子 十二本入」、「箱書裏には「此扇子東京朝吹氏嘗什/大正九年四月大村梅軒氏/紹介を以て譲受之」とする墨書がある。蓋裏の墨書から、大正九年(一九二〇)四月に実業家の大村梅軒(白木屋呉服商十代目大村彦太郎)の紹介で、鴻池家が東京の朝吹氏から譲り受けたと推測される。朝吹氏とあることから、三井財閥系の実業家で古美術の蒐集家でもあった朝吹英二の旧蔵品であった可能性が考えられる。なお、英二氏はこの扇の移動に先立つ同七年に他界している。大正期の古美術を介した上流階級の人々の交流、其一作品の受容の一端をうかがうことができ興味深い。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』)

 ちなみに、この「十二ヶ月図扇」(其一筆)の、十二本の画題は次のとおりである。

【一月 若松福寿草 二月 彼岸桜 三月 曲水 四月 難波薔薇 五月 鍾馗 六月 凌霄顆(のうぜんか) 七月 花扇 八月 月宮殿 九月 菊慈童 十月 桜花帰り咲 十一月 雪中鴉 十二月 追儺式   】(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』)

 上記の「彼岸桜図」(其一筆)は、その解説にあるとおり「蕾から開花したものまで無数の花が付く」、なかなかに見応えのあるものである。この「彼岸桜」は、「枝垂れ桜・糸桜」の別称でもある。抱一の絵手本の『鶯邨画譜』に「糸桜と短冊図」が収載されている。

糸桜.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「糸桜と短冊図」(「早稲田大学図書館」蔵) → B図

(再掲)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-10

 抱一の「糸桜と短冊図」は、その短冊に書かれている「墨子悲絲 そめやすき人の心やいとざくら」の句にウェートがあるようにも思える。

【墨子は白い糸を見て泣いたという。黄にも黒にもどんな色にも染められるが、一旦染まってしまえばずっとその色になってしまう。このことを高誘は、「楊子・墨子はともに、その根本は一つでありながら、後に姿かたちが変わってしまうことを哀れんでいる」という。 】

 抱一の「糸桜」は、まだ「蕾」のままの糸桜である。それに比して、其一の「彼岸桜」は、「蕾から開花したものまでの無数の彼岸桜」である。

桜楓図屏風・右.jpg

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)デンバー美術館蔵  → C図
六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝
落款(右隻)「雨庵抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

 これも、前回に続いての、「桜・楓図屏風」(デンバー美術館蔵)の右隻(「桜図屏風」)の桜である。この桜は、「彼岸桜・糸桜・枝垂れ桜」ではない。これは、緑色の新芽とともに、薄紅色で大形の一重(又は二重)の花が開く「大島桜」か「江戸彼岸桜」(「大島桜」と「彼岸桜」の雑種)のようである。
 これを「江戸彼岸桜」(C図)とすると、其一筆「彼岸桜」(A図)と抱一筆「糸桜」(B図)は、抱一・其一の「江戸琳派」に敬意を表して、「江戸彼岸糸桜」との名称を施しても違和感はなかろう。
 その上で、この「江戸彼岸桜」(C図)を見ていくと、その背後の芽吹いている「糸柳(枝垂れ柳)」の若緑が絶妙である。ここにも、春(二月)の、江戸彼岸桜(薄紅色と白色)と江戸糸柳(新芽の若緑色)との「二極構造」(『対』の取り合わせ)の対比が感知される。
 それだけではなく、冒頭の其一筆の「彼岸桜図」(江戸彼岸糸桜図)は、この抱一の「江戸彼岸桜」と「江戸糸柳」を背景(媒介)にしての、抱一の継承者・其一の趣向を凝らした「江戸彼岸糸桜図」と解することも出来よう。
 抱一が憧憬して止まなかった宝井其角の継承者の一人である菊后亭秋色(きくごていしゅうしき)に、「江戸彼岸糸桜(枝垂れ桜)」を詠んだ一句がある。

 井戸ばたの桜あぶなし酒の酔   秋色 

 講談「秋色桜」については、次のアドレスに詳しい。

http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/03-04_shuushiki.htm

 抱一の無二の知友・大田南畝に、「詠秋色桜(秋色桜を詠む)」の詩(漢詩)がある。

  詠秋色桜(秋色桜ヲ詠ム)
曾識芳名黄四娘  曾テ芳名ヲ識ル黄四娘(コウシジョ)
猶餘千朶媚斜陽  猶千朶(センダ)ヲ餘シテ斜陽ニ媚ブ
至今春色如秋色  今ニ至ルモ春色秋色ノ如シ
佳句長傳錦繍章  佳句長ク伝フ錦繍(キンシュウ)ノ章

 さらに、東叡山寛永寺で詠んだ南畝の「東叡山看楓(東叡山に楓を看る)」の詩もある。

  東叡山看楓(東叡山ニ楓ヲ看ル)
松外霜楓玉殿陲  松外ノ霜楓玉殿ノ陲(ホトリ)
赤霞城映碧瑠璃  赤霞(セキカ)城は碧瑠璃ニ映ズ
紺園舊属梁園地  紺園舊(モト)梁園ノ地ニ屬ス
不便行人折一枝  行人ヲシテ一枝ヲ折(オラ)不(シメズ)

桜楓図屏風・左.jpg

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の左隻(「楓図屏風」)デンバー美術館蔵 → D図
六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝
落款(左隻)「抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

この「楓図」もまた、抱一・其一らの住んでいた雨華庵の近くの、東叡山寛永寺近辺の楓なのかも知れない。

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十六) [抱一の「綺麗さび」]

その十六 「紅葉図扇面」(抱一筆)

(再掲)
 https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-09-05

抱一・扇面紅葉図.jpg

酒井抱一筆「紅葉図扇面」紙本金砂子地著色 一面 三六・五×五三・五㎝ →A図

桜楓図屏風・左.jpg

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の左隻(「楓図屏風」)デンバー美術館蔵 → B図
六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝
落款(左隻)「抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

桜楓図屏風・右.jpg

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)デンバー美術館蔵 → C図
六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝
落款(右隻)「雨庵抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

【 抱一画には珍しい六曲一双の大画面に、桜と柳(右隻)、および紅葉(左隻)を中心とする、春秋の花卉草木を描いた作品。屏風の下辺に沿って土坡が連なり、その上をそれぞれ春草、秋草が覆って、木々の根元を彩っている。
 桜、柳、紅葉の幹は、濃い墨に緑青をまじえた、強い調子のたらし込みの技法を以て表される。いっぽう、桜の花や蕾、柳の細い葉、土筆、菫、竜胆といった、細部の描写においては、隅々まで神経の行きとどかせた、丁寧な筆づかいをみせる。金箔地を背景に、濃彩で明快な草花を描く琳派の伝統を強く意識しながら、余白を広くとる構図や、草花を描く細やかな筆づかいにも、抱一独特の構成力、描写力が発揮されている。
 「松藤図」屏風(アジア・ソサエティ・ロックフェラー・コレクション)や「四季花鳥図」屏風(陽明文庫・文化十三年)にも見出されるこのような表現を、本図は受け継ぐとみられ、落款の形式や特徴からも、文化年間末から文政前期の作と思われる。
 なお、本図は『酒井抱一画集』(国書刊行会)に載るほか、ブルックリン美術館で一九七五年に開かれた、Japaneese Paintings from the C.D.Center Collection 展カタログの表紙ともなっている。  】
(『琳派一・花鳥一(紫紅社刊)』所収「作品解説(大野智子稿)」)

 上記の「紅葉図扇面」(A図)については、下記のアドレスで二回に亘って触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-09-05
 ↓  ↑
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-09-02

 それは、偏に、抱一の没する一年前(文政十年=一八二七、抱一、六十七歳)の、「十一月十一日、水戸候徳川斉修の茶席に招かれる。掛物は前年に納めた抱一の《菊紅葉双幅》。その返礼のため。(句藻)」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表)の、下記の「掛物※=菊紅葉」が、どんな図柄のものかを想定してのものであった。

【 御道具御会席附 
初坐
一 掛物   ゆらのと 定家卿筆
一 窯    広口天明 蓋漢鏡紋あり
一 香合   回也 庸軒作 画土佐光起
一 三ツ羽  大鳥
一 炭斗   人形台
一 水次   方口
後坐
一 掛物※   菊紅葉 等覚院抱一筆 讃清人藩世恩石韞玉
一 花入  船 砂張(船形の見取図あり) 船大サ二尺五寸斗水一盃入紅葉      絵の影をうつさんとの思召也
(後略)        】

 この、抱一が水戸候徳川斉修に納めた「菊紅葉」はひとまずとして、上記の「紅葉図扇面」(A図)は、流出して以来本邦未公開と思われる(?)、抱一の大作中の大作、「桜・楓図屏風(デンバー美術館蔵)」(B図・C図)の、その左隻(「楓図屏風」)と、非常に親近感のある雰囲気を有している。そして、同時に、水戸候徳川斉修に納めた「菊紅葉」(双幅)も、この左隻(「楓図屏風」)と関係の深いものなのではなかろうかという、そんな予感を誘う雰囲気を醸し出している。
 この抱一の大作(六曲一双)「桜・楓図屏風(デンバー美術館蔵)」(B図・C図)が、本邦未公開(?)ということについては、下記のアドレスの「抱一の屏風絵・襖絵」に因っている。そして、抱一の大作(六曲一双)で、相互に関連しているものと思われるものは、次の三点なのである。

http://houitu.com/houitu1.htm

三部作・四季花鳥図.jpg

「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵) → D図

三部作・青朱楓.jpg

「青楓・朱楓図屏風」(個人蔵) → E図

三部作・桜楓.jpg

「桜・楓図屏風」(デンバー美術館・フレミングコレクション) → B図とC図


 この「四季花鳥図屏風」(D図)ついては、下記のアドレスで、十四回にわたり、その周辺を見てきた。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-06-21
  ↓  ↑
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-08-06

 次の「青楓・朱楓図屏風」(E図)については、「大琳派展 継承と変奏」(尾形光琳生誕三五〇周年記念、二〇〇八年一〇七日~一一月一六日・東京国立博物館)で、「四季花鳥図屏風」(E図)と同時に展示されていたことなど間接的に触れてきたが、正面からは取り上げてはいない。
 その時の図録(読売新聞社刊)によると、「この屏風の図柄は『光琳百図』に掲載された図と同じで、風神雷神図などと同様に抱一が光琳作品を目にして模写した作品ということになる。全体の色調が其一の『四季花木図屏風』とも通じ、楓の樹幹にはりつく苔のはなはだしさや形態は『夏秋渓流図屏風』でも目にすることができる」(松嶋雅人)と解説されている。
 そして、次の「桜・楓図屏風」(B図とC図)については、『琳派一・花鳥一(紫紅社刊)』で、今までに見落としていたもので、今回、これまでに何回か触れて来た「紅葉図扇面」(A図)の背後にある、抱一の大作中の大作、この「桜・楓図屏風」(B図とC図)に再会したのである。
 そして、この抱一の大作中の大作、そして、これは、抱一の晩年の作とも思われるのだが、この作品は、デンバー美術館所蔵になって以来、里帰り公開はしていないようなのである。
 と同時に、「四季花鳥図屏風」(D図)が、「四季(春・夏・秋・冬)」の花鳥(草花)図とすると、「青楓・朱楓図屏風」(E図)の「青楓(夏)」と「朱楓(秋)」と同じく「『対』の取り合わせ」(対照的な素材をひと組にとりあわせる)の花鳥(草花)図ということになる。
 もとより、この「『対』の取り合わせ」の趣向というのは、抱一の創見的なものではないが、抱一は内在的に、この「『対』の取り合わせ」の趣向というものを、己自身の中に顕著に有していたということが窺える。
 そして「綺麗さび」という世界も、「綺麗」(粋・造形性・「晴=ハレ」)と「さび」(閑寂・文芸性・「褻=ケ」)との、「『対』の取り合わせ」の世界と換言することも出来るのかもしれない。
 こうして見てくると、「四季花鳥図屏風」(D図)と「青楓・朱楓図屏風」(E図)そして「桜・楓図屏風」(B図とC図)とは、抱一の六曲一双の屏風物の三部作として位置づけすることも可能なのかもしれない。
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十五) [抱一の「綺麗さび」]

その十五「扇面雑画(三十九)・稲穂に雀図」(抱一筆)

稲穂に雀図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(三十九稲穂に雀図)」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵 → A図

https://image.tnm.jp/image/1024/C0036832.jpg

白梅雪松小禽図.jpg

酒井抱一筆「白梅雪松小禽図」絹本着色 双幅(各)一一七・二cm×四七・五cm、
板橋区立美術館蔵 → B図

http://www.itabashiartmuseum.jp/art-2013/collection/ntb001.html

【左幅では、二羽の雀が何やら楽しそうにおしゃべりをしているようです。その上を粉雪がキラキラと輝くように舞っています。俳諧に慣れ親しんだ抱一ならではの表現です。抱一の作品が文学的であるとされるゆえんでもあり、作者の自然に対する温かなまなざしが感じられます。
 一方、右幅の天高くどこまでも伸びていきそうな梅の枝は、鋭い線で描かれ、左幅の穏やかな情景とは対照的です。
 酒井抱一は、江戸淋派を大成した画家として知られていますが、意外にも尾形光琳の画風との出会いは遅く、抱一が四十歳前後のころであったといわれています。抱一の代表的な作品は、これ以降に集中しています。
 この作品に見られる梅の枝や壺(つぼ)の表現は、「たらし込み」(墨や絵具のにじみの効果をいかす技法のこと)で描かれており、光琳の影響がうかがえます。抱一の描く四季折々の情景は抒情性にあふれ、独特の静寂の世界へと、いざなうかのようです。 】

竹雀図.jpg

酒井抱一筆「竹雀図」(『絵手鑑帖・七十二図・静嘉堂文庫美術館蔵』の五十四図)
紙本墨画淡彩 「抱一筆」(墨書) 「文詮」(朱文内瓢外方印) → C図
【 このような様々な主題・技法の作品を寄せ集めた作品形式のひとつのアイディアとして、『光琳百図(後編)』所載の雑画セット全二十四図をあげておきたい。このセットの形状は画帖であったかは不明ながら、そのなかに「富士山図」「竹雀図」「寒山拾得図」「大黒天図」「梅図」「芙蓉図」などが含まれ、様式は抱一の『絵手鑑』と異なるものの、主題など共通点も多い。もちろん『絵手鑑』は江戸時代の画帖の大きな流れのなかに位置する作品であるが、光琳のこのような作品からも形式や編集の方法を学んでいるのではないかと思われる。 】
(『琳派五・総合(紫紅社刊)』所収「静嘉堂文庫美術館蔵 酒井抱一筆『絵手鑑』について(玉蟲敏子稿)」)

 この解説は、抱一の『絵手鑑』(静嘉堂文庫美術館蔵)の「形式や編集方法」に関してのもので、その一図の「竹雀図」に関するものではない。そして、確かに、『光琳百図(後編・下)』には、下記アドレスのとおり、光琳の「竹雀図」の縮図も収載されている。しかし、上記の「雀」図(A図・B図・C図)は、光琳よりも、応挙・芦雪らの「円山四条派」に近いものであろう。
 なお、上記の論考(玉蟲敏子稿)では、この『絵手鑑』の全図について、次の六点から考察されている。

一 伊藤若冲から学んだもの
二 大和絵から学んだもの
三 谷文晁および中国画から学んだもの
四 宗達・光琳から学んだもの
五 円山四条派から学んだもの
六 俳趣味のものなど

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850495


国立国会図書館デジタルコレクション 『光琳百図 後編 (下)』

光琳「竹雀図」(縮図)

下 三十二、左頁の「左・中段」
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十四) [抱一の「綺麗さび」]

その十四「扇面雑画(二十三)・烏瓜図」(抱一筆)

烏瓜図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(二十三)・烏瓜図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0095260

抱儀・葛花に烏瓜図.jpg

守村抱儀筆「葛花に烏瓜図」 絹本著色 一幅 九五・五×三二・四㎝
東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0027576

【 抱一、其一にもうたがわれるほど似たような構図である。琳派の画家たちが好んで描いた画題であるようだ。しかし烏瓜をからませている図は少ない。しかも蔦と烏瓜の蔓の描線の美はすばらしく、この図に生彩を添える原因でもある。葉の色には明らかな対照を示し、金彩の葉脈に簡略と複雑の表現を用い、花と実も紅白色分けしているのも心憎い。かなり抱一の性格に似た筆者だったようである。守村抱儀の伝は余りはっきりしていないし、抱の一字を用いているところから、かなり近い弟子の存在であったと考えられる。落款に「鷗嶼閑人筆」とあり、「抱儀」朱文角丸方印がある。 】
(『抱一派花鳥画譜一(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

【 守村抱儀(もりむらほうぎ)
1805-1862 江戸時代後期の豪商、俳人。
文化2年生まれ。鶯卿(おうけい)の兄。江戸浅草蔵前の札差。俳諧(はいかい)を成田蒼虬(そうきゅう)、絵を酒井抱一(ほういつ)、詩文を中村仏庵にまなび、天保二十四詩家のひとりにかぞえられる。小沢何丸の後援者だったが、豪華な生活で家産をかたむけた。文久二年一月十六日死去。五十八歳。名は約。通称は次郎兵衛。別号に鴎嶼など。著作に「うみみぬ旅」など。】  (デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

抱儀・紅梅図.jpg

守村抱儀筆「紅梅図」 一六・五×四三・五㎝(原「扇面画」・個人蔵)→扇子仕立て(上記「日本航空・記念品」、以下の解説は「原『扇面画(個人蔵)」のもの)
【 抱儀
江戸時代琳派の最後の人とも言うべき画家に、守村抱儀がいる。抱儀は、名は約、号を経解・鴎嶼・松篁・交翠山房・真実庵などと称した幕末の画家で、文久二年(一八六二、)に没した。書画詩俳諧をよくし、文人画的な気質で光琳風を学んだと思われる。紅梅図は、数少ない抱儀の出色の遺品である。画面中央から左右に枝を張る梅を、濃墨と淡墨で描き分け、こぼれんばかりの大きな紅い花をつけている。梅花は清々しい大気を吸い、みずみずしく輝いている。筆勢に力があり、墨も紅も美しい。このような扇絵を見ていると、形式化し衰弱して行った琳派の江戸末期にも、なお扇絵には美の余光が残っていたことを認め得る。  】
(『扇絵名品集(水尾比呂志著)』別冊「解説(水尾比呂志稿)」)

 抱儀は、抱一在世中の末弟に位置する抱一門の一人であろう。『墨林奇勝』「普陀落山房詩集」ほか多数の著作があり、明治四年(一七八一)に遺族より『抱儀句集』も刊行されている。また、先代より引き継いだ蔵書家としても知られているが、晩年は斜陽となり、火災などもあり、駒形堂のほとりささやかな「真実庵」を結んでいたという。
 抱一の「綺麗さび」の世界は、この抱儀や、同世代の、酒井鶯蒲・鶯一、鈴木守一そして田中抱二らに引き継がれていることを、抱一の扇面画などを介すると一段とはっきりとしてくる。

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十三) [抱一の「綺麗さび」]

その十三 「吹寄せ図」(抱一筆)

吹寄せ図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(二十五)・吹寄せ図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0052872

 「吹寄せ」というのは、「秋風で吹き寄せられた落ち葉」を意味する。そこから派生して、茶の湯などで使われる紅葉の葉や木の実などの愛らしい型で抜いた和菓子などの名称にもなっている。
 
 西吹けば東にたまる落葉哉  蕪村『自筆句帖』
 北吹けば南あはれむ落葉哉  蕪村『落日庵句集』

紅葉図.jpg

酒井抱一筆「紅葉図」一幅 紙本着色 四六・四×二八・七㎝
【 まことにいとも簡単につけ立て風に描いた紅葉した蔦の葉が四、五葉、真っ白い絵紙の上にかたまって散っている。その図上斜めに、「めぐる日にててらしかへける蔦もみぢ」と自作の俳句が書かれている。こうなると三行にわたった書もまさに絵になっている。これは抱一の俳画であるが、朱赤の葉だけで、しかも軽い筆致で描き上げている。わずかに葉脈に金泥を施しているあたりは、憎たらしいばかりではなかろうか。遊びのように思えるが、この彩りの強弱などは一筋縄でない画技の優れたものを感じる。まことに軽妙という字がぴったりするもので、非の打ちどころのない出来栄えである。この感覚こそ江戸風ということができようし、瀟洒だけでなく色気があって、散った葉への感情が溢れている。絵というものの偉大な力というものにも打たれるし、筆者抱一の素晴らしい感覚に驚きもする。これは宗達・光琳になかった一面である。款記は「抱一画に題す」とあり、朱文小瓢印が捺され、晩年の研ぎ澄まされた境地のようである。   】
(『抱一派花鳥画譜五(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

 めぐる日にててらしかへける蔦もみぢ    抱一

 解説中で紹介されている抱一の句である。この句が上記の画中の右上に三行にわたって書かれている。この句の「めぐる日にて」の字余りの「上五」の「めぐる」は、「紅葉が駆け巡る」と「亡き人の面影が駆け巡る」を兼ねての用例で、この「にて」の「字余り」は、その亡き人の面影を強調してのものと解せよう。そして、「てらしかへける」は「照らし返へける」の「ける」も断定・強調の下五の「蔦紅葉」に係る用例であろう。抱一の句というのは、一見無造作に見えて、その実はかなり趣向を凝らした其角風の洒落風俳諧の世界ということになる。
 それにしても、上記解説中の「遊びのように思えるが、この彩りの強弱などは一筋縄でない画技の優れたものを感じる。まことに軽妙という字がぴったりするもので、非の打ちどころのない出来栄えである。この感覚こそ江戸風ということができようし、瀟洒だけでなく色気があって、散った葉への感情が溢れている。絵というものの偉大な力というものにも打たれるし、筆者抱一の素晴らしい感覚に驚きもする」の、この鑑賞視点は、抱一の「綺麗さび」の世界の一端を物語っている。

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十二) [抱一の「綺麗さび」]

その十二 「紅葉図」(池田孤邨筆)

紅葉図・表.jpg

池田孤邨筆「紅葉図(表)」一本 一七・九×五〇・五 太田記念美術館蔵

孤邨・紅葉図・裏.jpg

池田孤邨筆「紅葉図(裏)」一本 一七・九×五〇・五 太田記念美術館蔵
【 画面を埋め尽くす赤く染まった紅葉が鮮烈な印象を与える。対する裏面は数枚を散らすのみで、表裏で対比的な構成をとる。多くが異なる形で、多様な品種が描かれていることがわかる。なお、楓は染井の植木屋・伊藤伊兵衛の五代目政武が『古歌僊楓』(宝永七年=一七一〇に稿成る、三十六種記載)をはじめ、和歌とあわせて品種を解説する書を発行し、格調高い植物として江戸の人々に紹介された。孤邨が様々な種の楓を描き得たのは、江戸時代の園芸文化のなかで紅葉が注目されていた背景が考えられる。裏面に署名「孤村三信繪」、印章「(印文不明)」(墨文重郭方印) 】
(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

 これは一本の扇子の「表」と「裏」の孤邨の「紅葉図」である。この「表」と「裏」との画面形式の代表的なものに「屏風画」があるが、大小の差はあるが、「扇子」と「屏風」は極めて類似の画面形式ということになる。
 しかし、「屏風」が建物の室内の可動性のある障壁(間仕切り)としての用途に比すると、「扇子」は「団扇」と同じく「人力で風を起こす日常用具」として、「屏風」よりも、随時、手元に置いて使用する身近なものということになろう。
 そして、「団扇」と「扇子」との違いは、「屏風」と同じく、「折り畳む」(開く・閉じる)という機能を備えている。この扇子の種類は、以下のアドレスのものを掲載して置きたい。

http://www.j-nis.com/kanaya/sensu/sen-shu.html

【 扇子には大別して、薄板を綴ったもの、紙を貼ったもの、絹等布地を貼ったものに分けられます。
 薄板を綴ったものは白檀扇(びゃくだんせん(涼を取る・装飾用))と桧扇(ひおうぎ(儀式・装飾用))。
 紙を貼ったものは、夏扇(なつせん(涼を取る・装飾用))、茶扇(ちゃせん(茶道用))、舞扇(まいおうぎ(舞踊用))、祝儀扇(しゅうぎせん(婚礼用))、豆扇(まめせん(人形・装飾用))、能扇(のうおうぎ(能・狂言用))、有職扇(ゆうそくせん(儀式用))、香扇(こうおうぎ(香道用))など。
 絹等布地を貼ったものは、絹扇(きぬせん(涼を取る・装飾用))となります。 】

 絵扇は、一般的には、夏扇の装飾用の「飾り扇子」(扇子立てに立て掛ける)で、用途的には「贈答用」に使われる場合が多いものであろう。
 上記の孤邨の「紅葉図」扇子を、この「飾り扇子」として、「屏風」のように、その「表」と「裏」とを区別して飾るという使い分けは扇子の場合は一般的にしないであろう。これは、やはり、手に取って、「裏」面の絵図と「裏」面の絵図を見比べるという、扇子の特性を十分に考慮して描かれたものなのであろう。
 上記解説中の『古歌僊楓』については、下記アドレスで閲覧することが出来る。

http://opac.ll.chiba-u.jp/da/engeisho/2622/?lang=0&mode=&opkey=&idx=

【 池田孤村(孤邨)(いけだこそん)  
没年:慶応2.2.13(1866.3.29)
生年:享和1(1801)
江戸後期の画家。名は三信、字は周二、号は蓮菴、煉心窟、旧松道人など。越後(新潟県)に生まれ、若いころに江戸に出て酒井抱一の弟子となる。画風は琳派にとどまらず広範なものを学んで変化に富む。元治1(1864)年に抱一の『光琳百図』にならって『光琳新撰百図』を、慶応1(1865)年に抱一を顕彰した『抱一上人真蹟鏡』を刊行する。琳派の伝統をやや繊弱に受け継いだマンネリ化した作品もあるが、代表作「檜林図屏風」(バークコレクション)には近代日本画を予告する新鮮な内容がみられる。<参考文献>村重寧・小林忠編『琳派』
(仲町啓子)   】
( 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について )

(再掲)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-09-02

抱一・扇面紅葉図.jpg

酒井抱一筆「紅葉図扇面」紙本金砂子地著色 一幅 三六・五×五三・五㎝
【 団扇図と同様、画面を斜めに幹が横切り、左右から色づいた楓の葉が垂れる。朱、黄口の朱、橙とその色の変化は友禅文様のようである。バックに厚く金砂子を蒔き、その装飾効果を高めている。幹には楓の樹肌の斑模様をたらし込みにして描き、そこに白線で縁取った苔をつけてアクセントをつける。この際立った明快な彩色と黒ずんた幹や枝できりっと締めるあたり、色彩画家抱一の面目躍如としたあとがうかがわれる。この図は他にやはりこのように濃彩で綴られた幾つかの扇面画組物があったであろう。その中から一枚別れたものと考えられ、しかも未使用の扇面であり、同組物中他の扇面の華麗さも想像されて惜しまれる。
落款は「抱一筆」、朱文瓢印「文詮」がある。  】
(『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

 抱一の没する一年前(文政十年=一八二七、抱一、六十七歳)に、水戸候徳川斉修の茶席に招かれた時の、抱一の「(後坐) 掛物(菊紅葉・等覚院抱一筆・讃清人藩世恩石韞玉)」がどういうものかは定かではないが、上記の「紅葉図扇面」の楓の紅葉の下に菊(白・黄など)が描かれたものと思われ、そして、抱一の、これらの「紅葉」図の多くも、やはり、『古歌僊楓』などの、当時の園芸文化の流行が、その背景にあるのかも知れない。
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十一) [抱一の「綺麗さび」]

その十一 「扇面雑画(五十三)・ごまめと水引図」(抱一筆)

ごまめと水引.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(五十三)・ごまめと水引図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://image.tnm.jp/image/1024/C0004068.jpg

 これは「赤と白」の「水引」で、祝い事全般に用いられるもの。そして「ごまめ(田作り)」は、「片口いわしの甘露煮」(お節料理の一つ)で、「子孫繁栄・健康・豊作」の縁起ものとされている。ここに、鏡餅を添えると正月の飾り物となる。
 ずばり、抱一の一番弟子の鈴木其一筆「鏡餅と鼠」の豪勢な扇面画がある。其一もまた抱一に劣らず扇面画の名手であった。この「鼠」は、「子」の年の意味が込められていて、落款の「菁々」と合わせ、嘉永五年(一八五二)の制作のものではないかとする見方もあるが、その年、其一、五十七歳の時である。
 この時には、雨華庵一世・抱一も同二世・鶯蒲も亡くなっていて、雨華庵は三世・鶯一が継承している。

鏡餅と鼠.jpg

鈴木其一筆「鏡餅と鼠図」一面 一八・二×四九・八㎝ 鴻池合資会社資料室蔵
【 鏡餅によじ登る鼠。鏡餅は正月にふさわしいモチーフだが、鼠が描かれることから、菁々落款が用いられた時期の子年、嘉永五年(一八五二)が制作年の可能性も考えられる。 】
(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

孤邨・熨斗と水引.jpg

池田孤邨筆「熨斗と水引図」一面 一九・三×五〇・八㎝ 鴻池合資会社資料室蔵
【 熨斗は、もともとアワビの肉を薄くはいで引き伸ばし乾燥した「のしあわび」のことで、紙にはさみ祝儀の進物に添えられた。延寿を象徴する吉祥文様として好まれる。扇の孤に添うように描かれる赤白の水引は、祝い事に用いられるもの。二つの祝賀のモチーフを淡彩で描き、落ち着いた画面としている。署名「孤邨写」、印章「蓮□」(朱文方印)・「参信」(朱文長方印)  】
(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

 池田孤邨もまた其一に次ぐ抱一門の俊秀ということになる。琳派の継承者を自任する孤邨は、晩年に、抱一、光琳の縮図を集めた『抱一上人真蹟鏡』(上下、慶応元年/一八六五刊)、『光琳新撰百図』(上下、慶応二年/一八六六刊)を刊行する。この「熨斗と水引図」は、抱一の「ごまめと水引図」を念頭に置いていることは一目瞭然である。
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十) [抱一の「綺麗さび」]

その十 「扇面雑画(五十八)・五徳と羽箒図」(抱一筆)

扇面雑画・五徳・羽箒図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(五十八)・五徳と羽箒図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0004069

 前回に続いて、「文化十五年(改元して文政元年=一八一八、抱一、五十八歳、其一、二十三歳、鶯蒲、十一歳)春の『四季花鳥図巻』」(東京国立博物館蔵)」、その、文政元年(一八一八)四月に、「松平不昧没(六十八歳)、天徳寺の墓前に筆塚建立、塙保己一作の碑文を抱一が書す」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表)」とある。
 抱一の兄、宗雅の茶道の師は出雲松江城主松平不昧(ふまい)で、「一徳庵宗雅」を号する石州流不昧派の大茶人の一人である。
宗雅と不昧との出会いは、ともに日光山諸社堂修理に従事した安永八年(一七七九、不昧=二十九歳、宗雅=二十五歳、抱一=十九歳)のことで、以来、江戸在府の折には屋敷を往来するなどして交遊を深め、天明六年(一七八六)、江戸大手上屋敷に新たな茶室「逾好(ゆこう)庵」を設け、その茶会記録「逾好日記」を今に遺している。
 抱一は、茶道では不昧門というよりは、兄の宗雅門で、この宗雅に連なる人脈(柳沢信鴻=米翁、柳沢保光=米翁の世子、松平雪川=不昧の弟)の俳諧にウエートを置いている「米翁・雪川」らの俳諧派ということになろう。 
 しかし、不昧と抱一との関係も、不昧の松平家(不昧の世子=月潭)と宗雅の酒井家(宗雅の世子・忠道の娘)とは姻族になるなど親しい関係が続いていたのであろう。
 上記の「五徳と羽箒図」は、茶道関係の画題で、抱一の没する一年前(文政十年=一八二七、抱一、六十七歳)と没年(文政十一年=一八二八、抱一、六十八歳)時に、水戸候徳川斉修の茶席に招かれたことが年表などに記されている。その文政十年(一八二七)の「御道具御会席附」を抱一の「軽挙館句藻」から抜粋して置こう。

【 御道具御会席附 
※=羽箒 ※※=「菊紅葉」=下記(参考) ※※※=宗雅・抱一の母方の松平家
初坐
一 掛物   ゆらのと 定家卿筆
一 窯    広口天明 蓋漢鏡紋あり
一 香合   回也 庸軒作 画土佐光起
一 三ツ羽※ 大鳥
一 炭斗   人形台
一 水次   方口
後坐
一 掛物   菊紅葉※※ 等覚院抱一筆 讃清人藩世恩石韞玉
一 花入  船 砂張(船形の見取図あり) 船大サ二尺五寸斗水一盃入紅葉
      絵の影をうつさんとの思召也
一 水指  九牛(カ) 古染付
一 茶入  菊桐大棗 利休在判 袋利休漢唐
一 茶   銘花の白 上林三入詰
一 茶碗  県井戸 書付松平左近将監※※※よし
一 茶杓  氏郷作  
一 蓋置  引切
一 酒   曲物
一 合図銅鑼 銘谷の戸
一 薄茶器 島物
一 茶杓  春冬銘 探幽斎共印あり
一 茶碗  平戸
以上
会席
向     きんこ 鰹ふしあへ
汁     白みそ しのむき大根 鴨

平     なゝもくみうは 生姜汁おとし
引もの   みそ漬鯛
口取    川しりたゝき
吸物   かふらほね
とり肴  ゆりね しそのみ むきゑひ

香せん
香もの  なつけ
菓子   大徳寺きんとん
後くはし 瓢箪せんべい 紅落雁 早わらひ
以上               】
(『相見香雨集一(日本書誌学大系四十五)』所収「抱一上人年譜稿」)

羽箒については、下記のアドレスなどが詳しい。

http://www.chazumi-club.com/03/index03.html

 五徳については、下記のアドレスなどが詳しい。

https://eishodo.net/chadogu/gotokubasis/

(参考)

抱一・扇面紅葉図.jpg

酒井抱一筆「紅葉図扇面」紙本金砂子地著色 一幅 三六・五×五三・五㎝
【 団扇図と同様、画面を斜めに幹が横切り、左右から色づいた楓の葉が垂れる。朱、黄口の朱、橙とその色の変化は友禅文様のようである。バックに厚く金砂子を蒔き、その装飾効果を高めている。幹には楓の樹肌の斑模様をたらし込みにして描き、そこに白線で縁取った苔をつけてアクセントをつける。この際立った明快な彩色と黒ずんた幹や枝できりっと締めるあたり、色彩画家抱一の面目躍如としたあとがうかがわれる。この図は他にやはりこのように濃彩で綴られた幾つかの扇面画組物があったであろう。その中から一枚別れたものと考えられ、しかも未使用の扇面であり、同組物中他の扇面の華麗さも想像されて惜しまれる。
落款は「抱一筆」、朱文瓢印「文詮」がある。  】
(『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(九) [抱一の「綺麗さび」]

その九 「扇面雑画(六)・蕨と蒲公英図」(抱一筆)

扇面雑画・蕨蒲公英.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(六)・蕨と蒲公英図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0093917

 文化十三年(一八一六)、光琳百回忌を修した翌年(抱一、五十六歳)の秋に制作した「柿図屏風」(メトロポリタン美術館蔵・二曲一隻)に続き、その冬に「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵・六曲一双)が制作される。
 その右隻(第一扇~第三扇)に、「春草のさまざま、蕨や菫や蒲公英、土筆、桜草、蓮華層などをちりばめ、雌雄の雲雀が上下に呼応する」が描かれ、そこに、上記の「蕨と蒲公英」が登場する。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18

 そして、それは、文化十五年(改元して文政元年=一八一八、抱一、五十八歳、其一、二十三歳、鶯蒲、十一歳)春の「四季花鳥図巻」(東京国立博物館蔵)の冒頭にも登場して来る。しかし、その前年(文化十四年)六月に、抱一の片腕であった鈴木蠣潭が没している。
 この蠣潭が没し、庵居に「雨華庵」の額を掲げた年が、抱一の大きな節目の年で、その前年に制作された「四季花鳥図屏風」(東京国立博物館蔵)は、「抱一・蠣潭時代」の最後の年で、蠣潭が没して一年後の「四季花鳥図巻」(陽明文庫蔵)は、「抱一・其一時代」の幕開けの年ということになる。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-12

(再掲)

花鳥巻春一.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(一)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035812
【酒井抱一 四季花鳥図巻 二巻 文化十五年(一八一八) 東京国立博物館
「春夏の花鳥」「あきふゆのはなとり」の題箋に記され、二巻にわたり、四季の花鳥に描き連ねた華麗な図巻。琳派風の平面的な草花から極めて写実的に描かれる植物まで多様な表現を試みる。横長に巻き広げる巻物の特性を利用して、季節の移ろいを流れるように展開し、蔓や細かい枝を効果的に配す。燕や蝶、鈴虫など鳥や虫も描き込まれ、以前の琳派にはない新しい画風への取り組みが顕著に示されている。
絹本著色:二巻:上巻三一・二×七一二・五:下巻三一・二×七〇九・三: 文化十五年(一八一八): 東京国立博物館 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説(一五六)(岡野智子稿)」)
上記の図は、右から「福寿草・すぎな(つくし)・薺・桜草・蕨・菫・蒲公英・木瓜」(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)のようである。

 ここに、次の「作品解説」(中村渓男稿)も併記して置きたい。

【 現存する抱一の画巻中、最も精彩があり、最も長尺の美しい四季の花木、草花を春夏秋冬の順を追って横長に描いた図巻はまず他にないと断言できる。
よく琳派のこの種の草花図巻には草花のみであるのが普通であるが、この二巻は鳥類や虫類までが描きこまれていて、はなはだ画巻としての体裁が整えられているといえよう。それに各草花との連なりが、まことに自然に展開されて、何の不自然さも感じさせないのがその特色で、抱一作品中でも屈指の傑作の一つと数えられる。
 また各草花は実に写生的に描かれていて、その実体をよく知るに充分なほどである。さらに色彩的に濃厚であるのは、この琳派の特徴とはいえ、その流れの中にあって、実に要所要所に欲しい色彩が配されていて、少しも騒がしさを感じさせない。しかも大変装飾効果をあげている技能は、まさにこの画巻のために練に練った抱一の才覚のあらわれという以外何物があろうか。
 また軽妙な筆捌きによる抑揚のある描線、枝や蔓の先、葉先きの鋭いばかりに尖った筆のきかしどころ、或いは花弁にみる特徴、葉脈や花蕚にみせた小気味よいほどの筆の冴え、これらは抱一ならではの筆触の見事さを遺憾なく発揮されていて、まことに心憎い出来栄えではなかろうか。この画巻は他の抱一画のすべてを網羅した観があり、抱一画の缶詰のようである。
 しかも全巻を通じて、緩急のリズムを持たせる流れやきかしどころに、目のさめるような鮮やかな配色には、その根底に抱一の文学的素養がにじみ出ている。それは彼が俳諧の中でも其角派の俳人であった感覚が生かされているからであろう。それに彼自身が育った酒井家という家柄から来る品格の高さによるものと思われる。
 また下巻々末に年紀を伴った落款が書かれている。つまり「文化戌寅晩春、抱一暉真写之」とあって、文化十五年(一八一八)は四月二十二日に改元されて、文化元年となるが、江戸の膝元でまだ文化十五年の改元以前の年号を書しているから、恐らくその年の二月末頃描いたものと考えられる。彼の五十八歳の作ということになり、よほど抱一芸術を理解してくれた人からの依頼であろう。またその依頼主が絵手本として練習するための豪華な抱一画の典型を求めたものに違いない。晩年ながらその精髄を示した画境を物語る作品ということができよう。

(図中動植物名)
(上巻)福寿草 すぎな(土筆) なずな 紅白桜草 蕨 菫 蒲公英 木瓜 いたどり 母子草 雉(きじ) そら豆の花 蜆蝶(しじみちょう) 大根の花 あぶらな(菜の花) 紋白蝶(もんしろちょう) 枝垂桜 燕(つばめ) 連翹 白紫藤 足長蜂(あしながばち)
蜂の巣 こぶし 姫百合 大麦 罌粟 紫陽花 草紫陽花 河原松葉 鉄線蓮 芍薬 黒揚羽(くろうげは) 河骨 鷭(ばん) 燕子花 沢瀉 流水
(下巻)紅白萩 鈴虫(すずむし) 青鵐(あおじ) 満月 がんぴ 朝顔 綿とその花 蓼 木槿 鶏頭 槍鶏頭 葡萄 水引草 紅芙蓉 菊戴(きくいただき) かまきり 白菊 苅萱 公孫樹の葉 楓 嫁菜(野菊) 赤啄木鳥(あかげら) いしみかわ 櫨の葉 枯女郎花 蟻(あり) 榛 青木 蝉の抜け殻 あすなろ 蔦 かしわ きびたき 雪に枯尾花(芒) 雪に山帰来 雪中白梅 鶯(うぐいす) 菰被り水仙 

(落款・印章)
(上巻) 「抱一暉真」 「抱一」朱文重廓角丸方印
(下巻) 「文化戌寅晩春 抱一暉真写之」
     「雨華」朱文内鼎外方印 「文詮」朱文瓢印      】
(『抱一派花鳥画譜一(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(八) [抱一の「綺麗さび」]

その八 「扇面雑画(二十四)・柿図」(抱一筆)

扇面・柿図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(二十四)・柿図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0052871

【(前略)六十面の扇面画中、特に優れているのは柿図と白梅図であるが、扇面という空間の実に巧みなとらえ方と、彩色の配り方はまことに抱一の鋭利な感覚の卓越したことを知る。しかもこれらの扇面画はほとんどが簡略な図柄で占められ、複雑なものはない。いかにも江戸人好みの図柄に徹していることだ。ただ妙に粋振ることはなく、淡々としていてさらりと描き上げている。重苦しさとか、けばけばしさが微塵もない。「山椒は小つぶでもびりっと辛い」といった諺が抱一の扇面画に符合した品評ではなかろうか。 】
(『抱一派花鳥画譜四(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

 上記解説中の「白梅図」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-08-15

 そして、この「柿図」については、下記のアドレスの「柿図」に連なっている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-08-27

酒井抱一筆「扇面貼交屏風」 扇面紙本着色 六曲一双(上=左隻 下=右隻)
同上部分拡大図(上=左隻の第五扇)上から「梔子図」「柿図」「水墨山水図」「双亀図」 

 さらに、文化十三年(一八一六)、光琳百回忌を修した翌年(抱一、五十六歳)の秋に制作した「柿図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)に連なっている。下記アドレスのものを再掲して置きたい。

(再掲)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-07-03

柿図屏風.jpg

酒井抱一筆「柿図屏風」二曲一隻 紙本着色 ニューヨーク メトロポリタン美術館蔵
一四五・一×一四六・〇cm 落款「丙子暮秋 抱一暉真」 印章「文詮」朱方印
文化十三年(一八一六)作
【 (前略) 324図(注・上記の「柿図屏風)は、そうした抱一の柿図を代表する一点。左下から右上へ対角線に沿って枝を伸ばした柿の木を描く。葉もすでに落ち、赤い実も五つばかりになった、秋の暮れのもの寂びた景であるが、どこか俳味が感じられるのは、抱一ならではの画趣といえよう。落款より文化十三年(一八一六)、彼の五十六歳の作と知れる。(後略)    】(『琳派二・花鳥二(紫紅社刊)』所収「作品解説(榊原悟稿)」)

 さらに、次の「作品解説」(中村渓男稿)も掲載して置きたい。

【 秋も深まり葉を落した柿の樹が左側から立ち、枝には五個の真赤に熟した実をつけている。左下には僅かに土坡を斜めにのぞかせ、そこに穂先も乱れ、風に葉を鳴らせる枯芒とおおばこの葉と小さな花が淋しく描かれている。
この図は抱一には珍しく、金箔や銀箔地でもなく、ただ無地の紙に楚々として、幾分うす墨を僅かにはいているようである。これは淋しげ、また荒涼とした冬枯れの感じをあらわすために、故意に冷たさをあらわすための考えから出たものであろう。いつもの抱一らしからぬ静寂で、寂寥感を感じさせるように作為したものである。
しかし柿の葉、柿の実には目のさめるような彩色を用い、この一点に視るものの眼を向けさせようとしたことは、やはり色彩画家抱一の鋭い感覚のあらわれである。すべての他の部分は打ちひしがれたような表現をとっていることが、一段とその効果をあげていることに成功している。
晩秋の清浄な気分と静寂さが漂い、季節に鋭敏な抱一の感情と軽妙な筆技があいまってこのような一画境を生んだ。これこそ抱一が見せた明らかに江戸琳派の特色であり、この方向へ進む一つの指針としてこの作品を解釈することができる。しかもこの作品の落款の前に「丙子暮秋」という制作年紀があり、これは文化十三年(一八一六)、彼五十六歳の作であることも貴重である。つまり彼の作風の変遷上、この境にまで進展していたことを物語り、光琳百回忌を行った以後一年足らずで、すでにその域にまで達していたことがわかる。落款は「抱一暉真」、印は「文詮」朱文円印である。  】
(『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(七) [抱一の「綺麗さび」]

その七 「扇面貼交屏風」(抱一筆)

扇面貼交屏風.jpg

酒井抱一筆「扇面貼交屏風」 扇面紙本着色 六曲一双(上=左隻 下=右隻)
各一五九・五×三三二・〇㎝ → A図

抱一・扇面屏風拡大.jpg

同上部分拡大図(上=左隻の第五扇)
上から「梔子図」「柿図」「水墨山水図」「双亀図」 → B図

【 金地左右両双屏風に扇面三十五面(右隻十八面、左隻十七面)を対照的に貼りつけてあるが、恐らく後代になって左右に散らして貼交ぜにしたものであろう。本来から屏風仕立てであったならば、左右双の片隅に落款と印章を捺すのが普通であるが、扇面各画面にだけ落款印章がそれぞれ捺してあるので、はじめから屏風仕立てなかったか、後に改装されたものであるという解釈が成立つ。
 またこの扇面画は一度も扇子として用いなかったと見えて、扇骨の入ったあとが認められず、注文によって多くを描き、注文主が好みによって散らしたもので、抱一自身はこの散らし方に参加していないようである。
 ここでは、右隻右上部からの扇面画から題名を記せば、桜に木戸図(勿来関図?)、紅葉に小禽図、鯰図、白梅図、竹林に田舎屋図、黒揚羽・紋白蝶図、紅立葵図、水仙図、石蕗図、菜の花図、富士図、月夜に砧図、紫式部(?)図、石燈籠に鹿図、野薔薇図、枇杷図、曲水に酒盃図、白兎図。左隻右上から蕨に蒲公英・菫図、水流に鷭図、雄鹿立つ図、白椿図、烏瓜図、小松図、夕顔図、未央(ビヨウ)柳図、陶淵明観菊図、菖蒲に蛤図、河骨に莞(フトイ)図、梔子図、柿図、水墨山水図、双亀図、雪中富士図、譲葉(ユズリハ)に羽根図である。
 四季の草花から行事、風習など純日本的な文学ものや陶淵明のような漢人物などにまで至り、画題は多岐にわたっている。抱一は扇面画をよく描いたらしく、東京国立博物館に六十面、大本教本部蔵に三十面、個人蔵俳画扇面貼交屏風に三十六面(これらは使用した扇面を貼付けたもの)等、まだまだ多く見ているので、その膨大な数に驚くほどである。とにかく各種の画題をこなし、そのレパートリーの広さを物語るものである。
 本屏風絵の全図や拡大した図を見てもわかるように洒脱した構図法とその色彩感にあふれ、いかにも江戸人の粋な気分がここに繰りひろげられている。
 各種には落款と印章をほどこしているが、落款はすべて「抱一筆」とある。但し印章は五種にのぼる。以下表にすれば
「文詮」 朱文瓢印 (右隻)十 (左隻)四 (合計)十四
「文詮」 朱文円印 (同) 四 (同) 三 (同)  七
「鶯村」 朱文壺印 (同) 三 (同) 二 (同)  五
「抱一」朱文重郭円印(同) 〇 (同) 二 (同)  二
「抱一」 朱文円印 (同) 一 (同) 六 (同)  七
となるが、この屏風に貼られた扇面画はほとんど同時期に一気に描かれたであろうと思われるし、また石蕗図、白椿図、未央(ビヨウ)柳図に捺されている朱文壺印「鶯村」の自号は「雨華庵」と同様、下根岸大塚の新築の家に名付けたとき、つまり文化十四年(一八一七)十二月以降であるから、文化中期以後の作となる。はっきりした制作年代は不明であるが、最も油の乗った折の作であろう。 】
『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

 「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収)の文化六年(一八〇九)の十二月の項に、「下根岸大塚村に転居(句藻/御一代)、以後定住し、鶯の里にちなみ『鶯邨(村)』を用いるようになる」とあり、上記の解説中の「文化十四年(一八一七)十二月以降」は、「文化六年(一八〇九)十二月以降」の方が妥当であろう。
 しかし、『鶯邨画譜』を刊行したのは、文化十四年(一八一七)二月、そして、その庵居(下根岸大塚村)に「雨華庵」の額を掲げ、以来「雨華」の号を多用するようになったのは、「文化十四年(一八一七)十月十一日以降」のことで、上記の解説中の、「朱文壺印『鶯村』の自号は『雨華庵』と同様、下根岸大塚の新築の家に名付けたとき、つまり文化十四年(一八一七)十二月以降であるから、文化中期以後の作となる。はっきりした制作年代は不明であるが、最も油の乗った折の作であろう」は、『鶯邨画譜』の刊行に関連して、その指摘は首肯されるものであろう。
 その首肯する理由の一つとして、上記の「双亀図」が、『鶯邨画譜』の最後を飾る「双亀図」そのものということなのである。そして、この『鶯邨画譜』が刊行されたのは、その年の二月、その六月(十七日)に、「小鸞女史(御付女中・春篠)剃髪し、妙華尼と名乗る(御一代)」と共に、その二十五日に、抱一の愛弟子(酒井家付人)鈴木蠣潭が二十六歳の若さで急逝し、その後継者が其一(二十二歳、蠣潭の姉と結婚)なのである。
 この「双亀図」は、その年の様々なことを暗示しているように思われる。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306169671-1

(再掲)

亀図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「亀図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(六) [抱一の「綺麗さび」]

その六 「波に鷺図扇」(鶯蒲筆)

鶯蒲・扇面白鷺 .jpg

酒井鶯蒲筆「波に鷺図扇」一柄 紙本着色 一六・四×四五・〇㎝ 太田記念美術館蔵
【 扇という小画面で、鶯蒲の伸びやかな筆致が引き出された逸品であろう。「獅子現鶯蒲筆」と署名し大きな「伴青」朱文円印を捺す。白鷺の姿は十二ヶ月花鳥図の十一月の図など様々なポーズが描かれたが、本図では、波の上を越える躍動感が生まれている。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 鶯蒲の作品は、抱一・其一らに比して遺された作品数は多くはないが、その作画領域は下記のとおり多方面にわたっている(以下の「図」とあるのは『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図録番号、「図※」は同図録番号=上記の作品)。

一 琳派図様を写したもの
 琴高仙人図、本阿弥光甫写しの三幅対(図二五五)

二 抱一図様・琳派図様の展開したもの
 牡丹蝶図(東京国立博物館)、楓図(フリア美術館)、銀杏図(ギッターコレクション)など。

三 節句画
 (図三〇四)など。

四 仏画など
 (図二六〇)(図二六一)など。

五 肖像画
 抱一上人像(現シアトル美術館蔵本)など。

六 吉祥画題、復古的な物語絵等
 旭日に波濤鶺鴒図(図二五四)、寿老図(図二五六)など

七 俳画・風俗画等
 雀踊り図(図二五九)など

八 工芸的作品
 扇(図※二五三ほか多数) 団扇(ギッターコレクション) 極小の絵巻(図二八八)など。

九 扇面散図屏風等

 扇面散図屏風(東京国立博物館)
 ↓
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-08-22

十 天井画
 草加市三覚院

十一 絵馬
 抱一と一門での合作の絵馬(縮図あり)など。

十二 版下絵
 版本挿絵(図二五二)、俳諧摺物など

 屏風絵などの大構図の作品は見られないが、天保七年(一八三六)の『広益諸家人名録』に「其一、鶯蒲、孤邨、素堂、抱儀、交山」の順に登載され、其一(四十一歳、鶯蒲、二十九歳)に次ぐ、雨華庵二世の地位にあったのであろう。
 当時、其一は酒井家家臣(九人扶持の一代絵師、抱一の「庭柏子」の号を継受)として、鶯蒲を補佐していたが、天保十二年(一八四一)に、鶯蒲が夭逝すると、その翌年に守一に家督を譲り、「菁々」の号でより自由な立場で筆を奮うことになる。

抱一・扇面白鷺.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(四十)・枯蓮に白鷺図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://image.tnm.jp/image/1024/C0093913.jpg

 これは、抱一の「扇面白鷺図」(東京国立博物館蔵)である。この白鷺図と鶯蒲の白鷺図を比べると、両者とも白鷺の躍動感が見事である。しかし、抱一の白鷺が両脚を揃えて、顔を左向きに地上の枯蓮を見下ろしているのに比して、鶯蒲のそれは、顔を右向けにし、片脚を長く伸ばし、海上の波濤を見下ろしているもので、さながら、師(抱一)弟(鶯蒲)の競演のような雰囲気を有している。
 そして、鶯蒲のそれが、金泥の霞引きを扇形に施して完成的な「晴(ハレ)の扇面画」とすると、抱一のそれは、いかにも老練な妙手の冴えを簡略な筆遣いに託した、扇骨もない、即興的な「褻(ケ)の扇面画」ということになろう。
 さらに、鶯蒲の「波に鷺図扇」の「波」は、次のアドレスの、「光琳→抱一→其一」の、それぞれの「波」(「波濤図」)などが念頭にあることはいうまでもない。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-15

(再掲)

尾形光琳筆「波濤図屏風」(二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵)
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

(再掲)

酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)
【 光琳の「波図屏風」を見て感銘を受けた抱一だが、本図で絹地に深い色あいが闇の海を切り取ったかのようで、光琳画の趣を彷彿とさせる。しぶきなどの簡単な描写にも、巧みな筆致が表れ、落款からは、文政後期、晩年の作とみられる。表の緑と裏面は銀地とし、抱一の弟子池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした。八百善伝来。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

(再掲)

鈴木其一筆「松に波濤図屏風」(二曲一隻 紙本墨画 一六八・〇×一九・五㎝ 個人蔵)
【 近年関西で発見された其一には珍しい水墨画の大作である。紙は焼けが強く全面に淡褐色に変色しているものの、墨は当初の潤いを保つかのようであり、光が当たると鈍い輝きを放つ。画面の左右のそれぞれの端に丸い引き手跡が残っているため、もとは襖であったと思われる。向かって右側の画面右上、松の生える岩礁に隠れるように、「噲々其一」の署名と「祝琳斎」(朱文大円印)が捺される。書体は「三十六歌仙・檜図屏風」(作品41)に近しく、「噲」のうち第六画以降が崩れて「専」の草書のように、「其」が「サ」と「人」を足したように見える。天保六年(一八三五)という作品41の箱書に従うなら、本作もまた同時期の制作と考えられる。
画面右上から緩やかな対角線上に、松の生える岩礁、海中に横たわる巨岩と小岩が、滲みを効かせた濃墨によって描かれる。もっとも本作の主題は、これらのモチーフの間を縫うように流れるダイナミックな波の動きそれ自体にあるだろう。複雑かつ明晰な水流表現は、其一より一世代前に京都で活躍した円山応挙によって創始された大画面の波濤図に近しい。「噲々」落款時代の壮年における積極的な応挙学習の一端を物語る貴重な作例である。 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説45(久保佐知恵稿)」)

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