SSブログ

洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十一) [岩佐又兵衛]

(その十一)「方広寺大仏殿」の数奇な運命は何を語るか?

豊国祭礼図屏風左隻.jpg

「豊国祭礼図屏風」左隻(第一~六扇)(徳川美術館蔵)各 縦166.7 横345.0 六曲一双→A図 
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/18957/1/2

【豊国祭礼は、豊臣秀吉七回忌を記念して慶長九年(一六〇四)八月に行われた祭典である。向かって右隻には豊国神社社頭における田楽猿楽の奉納、騎馬行列が、左隻には方広寺大仏殿を背景に、上京・下京の町衆が華美ないでたちで豊国踊に熱中するさまが描かれる。一双で千人近い人物が華麗な彩色と力強い筆致で、しかも細密に描きだされており、これらの群衆が織りなすうねるような狂躁や熱気は、見る者を圧倒する。本図は岩佐又兵衛筆と伝承されるが、確証はない。高野山光明院、蜂須賀家と伝来し、昭和八年徳川美術館の所蔵となった。】

 この図の中央の上部に「方広寺大仏殿」が描かれ、その左上部に、「豊国廟」が金雲の中に描かれている。この「左隻」の主題は、この「方広寺大仏殿」ではなく、その前で演じられている「上京・下京の町衆が華美ないでたちで踊っている豊国踊(風流踊)」にある。
 この「豊国踊(風流踊)」は、次のとおり説明される。

【華やかな衣装で着飾り、または仮装を身につけて、鉦(かね)や太鼓、笛などで囃し、歌い、おもに集団で踊る踊りである。のちには、華麗な山車の行列や、その周囲で踊った踊りを含めて「風流」と称した。疫神祭や、念仏、田楽などに起源をもつ芸能と考えられている。文明9年(1477年)まで続いた応仁・文明の乱以降とくにさかんになり、踊りを中心に広まった。歴史的には、『豊国祭図屏風』に描写された慶長9年(1604年)の豊臣秀吉七回忌における豊国神社の風流踊がよく知られている。 】(「ウィキペディア」)

 この「豊臣秀吉七回忌を記念して慶長九年(一六〇四)八月に行われた『豊国大明神臨時祭礼』」は、時の「豊国社神宮寺別当・神龍院梵舜」の日記『舜旧記』に、その準備の記事が、同年五月から詳細に記述されている。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1367086

神竜院梵舜日記(国立国会図書館デジタルコレクション)

慶長九年五月二日(コマ番号 16/316)『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』P105
同  五月十六日 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』P105
同  五月十九日 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』P105
同  五月二十日 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』P106
同 五月二十四日 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』P106
同 五月二十四日 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』P106 

同 八月十四日(コマ番号 26/316)『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』P113 

舜旧記・豊国祭実施.jpg

「神竜院梵舜日記」(国立国会図書館デジタルコレクション)(コマ番号 26/316)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1367086

 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』の「Ⅳ 秀吉七回忌の豊国大明神臨時祭礼」(P104-132)の論理の展開を、その見出しだけて追うと次のとおりである。なお、大事なポイントは、要約して※印に記して置きたい。

〇梵舜日記「舜旧記」はかたる。
〇豊国臨時祭礼の準備のプロセス
〇臨時祭礼は十三日、一日で挙行の予定
〇臨時祭礼は天候次第
〇雨天順延と祭礼次第の変更
〇「仰せ」は家康、金主は秀頼
※十五日の梵舜の記述によると、費用は大阪の秀頼が出すけれども、臨時祭礼はあくまで家康の「仰せ」によって執り行われている。片桐且元の指示もあって、梵舜はしばしば伏見城の家康のもとに参上し、「御意」を得ていることなどが記されている。
〇十六日からは定例の豊国祭礼
※十六日は禁裏による神楽(勅使烏丸光広、役者藪藤園・持明院、地下十人斗)、十七日には大原巫女による湯立、十八日に、大阪から秀頼の名代として片桐且元、禁裏から神馬が立てられ、定例の祭りが執行される。その後で、諸大名参詣、十九日、舞楽(定例の四座演能は臨時祭礼で挙行され、舞楽のみ)執行。
〇演能の代わりに舞楽
〇豊国臨時祭礼の要点
〇桟敷の主人公は高台院、彼女が読解の焦点
※「天下人」徳川家康も、大阪の豊臣秀頼・淀殿も、豊国大明神臨時祭礼には出席していない。この秀吉七回忌に、豊臣家を代表して桟敷にいたのは高台院(北政所、秀吉の妻おね)のみである。
〇豪奢極まりない臨時祭礼(※「イエズス会宣教師報告」による)
〇太田牛一の「豊国大明神臨時祭礼記録」
〇騎馬を出した豊臣恩顧の大名衆(※「豊国大明神臨時祭礼記録」による)
※前田利長(羽柴肥前守)=三十疋、福島正則(羽柴侍従)=二十疋、加藤清正(賀藤肥後守)=十五疋、細川忠興(羽柴越中守)=十二疋、浅野長政(浅野紀伊守)=十疋、木下勝俊(若狭宰相)=六疋、京極高知(丹後侍従)=六疋、福嶋高晴(福嶋掃部)=壱疋
已上=百疋
※筒井定次(伊賀侍従)=弐疋、蜂須賀家政(蜂須賀阿波守)=六疋、中村一氏(中村伯耆守)=三疋、山内一豊(山内土佐守)=三疋、 生駒一正(生駒讃岐守)=五疋、鍋嶋勝重(鍋嶋信濃守)=十一疋、田中吉政(田中筑後守)=九疋、加藤嘉明(賀藤左馬助)=六疋、藤堂高虎(藤堂佐渡守)=六疋、有馬豊氏(有馬玄番頭)=弐疋、脇坂安治(脇坂淡路守)=壱疋、寺沢広高(寺沢志摩守)=三疋、加藤貞泰(賀藤左衛門尉)=壱疋、金森可重(金森出雲守)=弐疋、一柳直盛(一柳監物)=弐疋、徳永寿昌(徳永法印)=弐疋、冨田信高(冨田信濃守)=弐疋、九鬼守隆(九鬼長門守)=弐疋、古田重勝(古田兵部少)=弐疋、稲葉道通(稲葉蔵人)弐疋、関一政(関長門守)=壱疋、本田利朝(本田因幡守)=壱疋、前田茂勝(前田主膳正)=壱疋、亀井茲矩(亀井武蔵)=壱疋、高橋元種(高橋左近)=壱疋、伊藤祐慶(伊藤修理)=壱疋、秋月種長(秋月長門守)=壱疋、堀秀治(羽柴左門)=壱疋、木下重堅(羽柴因幡守)=壱疋、大野治長(大野修理)=壱疋、前田広定(前田権介)=壱疋、長谷川守知(長谷川右兵衛)=壱疋、杉原長房(杉原伯耆守)=壱疋、速水守久(速水甲斐守)=壱疋、伊藤長次(伊藤丹後守)=壱疋、堀田盛重(堀田図書)=壱疋、青木一重(青木民部少)=壱疋、竹中隆重(竹中伊豆守)=壱疋、毛利高政(毛利伊勢守)=壱疋、山崎家盛(山崎佐馬氶)=壱疋、柘植与一(柘植大炊介)=壱疋、片桐且元(片桐主膳正)=壱疋、野々村雅春(野々村次兵衛)=壱疋、真野助宗(真野蔵人)=壱疋、中嶋氏種(中嶋左兵衛)=壱疋、西尾光教(西尾豊後守)=壱疋。
已上=百疋
※徳川ゆかりの大名は一人も加わっていない。また、「関ケ原合戦」で敗れた「毛利輝元・上杉景勝」らも加わっていない。
〇臨時祭礼次第(※「豊国大明神臨時祭礼記録」による)
※「豊国踊」は、京都の上京から三組、下京から二組が出て、各組三百名構成、総計 千五百名の「京町衆」が参加し、各組ともそれぞれお揃いの⾐装を着て、⼯夫を凝らした造り物を出した。
〇「豊国大明神臨時祭礼記録」の信憑性と弱点
〇文献と絵画は同等に、相互比較しつつ読解されるべきだ
〇「豊国祭礼図屏風」から独自な歴史情報が読み取れる
〇「臨時祭礼の中心にいる
※「豊国祭礼図屏風」読解の核心となるだろう表現こそず、高台院の姿なのである。「豊国祭礼図屏風」においては、彼女の姿がどのように表現されているのかが、絵画史料読解のための要となる。

 上記のA図の「豊国祭礼図屏風」左隻(第一~六扇)は、「方広寺大仏殿」を背景として、「京都の上京から三組、下京から二組が出て、各組三百名構成、総計 千五百名の「京町衆」が参加した」と記録されている「豊国踊=風流踊」が、この図の主題となる。
 そして、下記のB図の「豊国祭礼図屏風」左隻(第四扇部分拡大図)は、その中心の一場面である。この「標識」のようなものに、「川東 上京 川西」とあり、「1571年(元亀2)の《上下京御膳方御月賄米寄帳》によると,上京の町組編成は,一条組4町,立売組14町と寄町分29町,中筋組12町,小川組10町,川ヨリ西町21町であり,下京は中組18町,牛寅組15町,川ヨリ西組17町である」(世界大百科事典 第2版「町組」の解説)などが参考になろう。

豊国踊.jpg

「豊国祭礼図屏風」左隻(第四扇部分拡大図)の「大仏殿前の豊国踊=風流踊」→B図
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-left-screen-iwasa-matabei/DQG2KSydiLG95A?hl=ja&ms=%7B%22x%22%3A0.5011565150346956%2C%22y%22%3A0.48255999999999993%2C%22z%22%3A10%2C%22size%22%3A%7B%22width%22%3A1.1711642251349268%2C%22height%22%3A1.2064%7D%7D

豊国祭礼図・右隻部分拡大図.jpg

「豊国祭礼図屏風」右隻(第二・三・四扇部分拡大図)の「豊国社前の『舞楽』と『騎馬行列』」→C図
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-right-screen-iwasa-matabei/2AFW7iv6tr1u3g?hl=ja

 このC図の「豊国社前の『舞楽』と『騎馬行列』」は、A図とB図の「豊国祭礼図屏風」左隻」の「右隻」の「第二・三・四扇部分拡大図」である。
 そして、この場面は、上記の梵舜日記「舜旧記」の次の記述と、それに続く、太田牛一の「豊国大明神臨時祭礼記録」の、次の記述のとおりとなる。

【〇十六日からは定例の豊国祭礼
※十六日は禁裏による神楽(勅使烏丸光広、役者藪藤園・持明院、地下十人斗)、十七日には大原巫女による湯立、十八日に、大阪から秀頼の名代として片桐且元、禁裏から神馬が立てられ、定例の祭りが執行される。その後で、諸大名参詣、十九日、舞楽(定例の四座演能は臨時祭礼で挙行され、舞楽のみ)執行。
〇演能の代わりに舞楽
(中略)
〇太田牛一の「豊国大明神臨時祭礼記録」
〇騎馬を出した豊臣恩顧の大名衆(※「豊国大明神臨時祭礼記録」による)
※前田利長(羽柴肥前守)=三十疋、福島正則(羽柴侍従)=二十疋、加藤清正(賀藤肥後
守)=十五疋、細川忠興(羽柴越中守)=十二疋、浅野長政(浅野紀伊守)=十疋、木下勝俊(若狭宰相)=六疋、京極高知(丹後侍従)=六疋、福嶋高晴(福嶋掃部)=壱疋
已上=百疋
※筒井定次(伊賀侍従)=弐疋、蜂須賀家政(蜂須賀阿波守)=六疋、(以下、略) 】

 「舜旧記」の十四日の条に、「騎馬二百騎(上記の豊臣恩顧の大名衆の二百疋)、豊国之神官六十二人、吉田(吉田神社)神人三十八人、合百騎、上賀茂神官八十五人、楽人十五人、合百騎、都合二百騎、建仁寺門前ヨリ二行立、馬乗也」とあり、合計四百騎の騎馬行列ということになる。
 上記(C図)の、豊国社の楼門の左右に桟敷席が設けられ、そこに、この「豊国大明神臨時御祭礼」の中心人物の「高台院(北政所、秀吉の妻おね)が、その何処かに描かれていることであろう。しかし、ここには、「天下人」の徳川家康も、大阪の豊臣秀頼・淀殿も参加していないというのである(上記の「舜旧記)。
 しかし、上記の「豊臣恩顧の大名衆」の主だった者は、「福島正則(羽柴侍従)、加藤清正(賀藤肥後守)、浅野長政(浅野紀伊守)、京極高知(丹後侍従)」など、その「舜旧記」の十四日の条に名を連ねている。
 しかし、この「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館蔵)を、阿波・淡路の二か国を有する「蜂須賀家政(蓬庵)」が、「慶長十九年(一六一四)の秀吉十七回忌に、阿波小松島に建立した豊国社に奉納するために、岩佐又兵衛に、その制作依頼をし、それが出来上がったのは、元和元年(一六一五)、もしかすると同二年まで、かかったかもしれない。そして、それは、舟木本『洛中洛外図屏風』よりも少し後に制作されたのであろう」(『豊国祭礼図祭礼図を読む(黒田日出男著)』所収「エピローグ」P274などの要約)とする、その注文主の「蜂須賀家政(蓬庵)」は、この「豊国祭礼図屏風」(A図・C図)には、臨席していない(『黒田・前掲書』P247)。
 ところが、この『豊国祭礼図祭礼図を読む(黒田日出男著)』での見解を、次のアドレスの「徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)」で、大きく軌道修正して、A図の「豊国祭礼図屏風」左隻」の「第四扇中部」に、「蜂須賀家政(蓬庵)」らしき人物を検証したという見解へと歩を一歩進めている(これらについては、末尾の「参考」で触れることにする。) 

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E

豊国大明神臨時祭礼記録.jpg

「豊国大明神臨時御祭礼記録」( 太田牛一著) (国立国会図書館デジタルコレクション)(コマ番号 23/28)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000040346&ID=&TYPE=

これは太田牛一の「豊国大明神臨時御祭礼記録」の「豊臣恩顧の大名衆」の「騎馬行列」に参加した数の、最初のページのものである。この筆頭の「羽柴肥前守(前田利長)」も、「舜旧記」には、当日、「前田利長」の名は記録されていない。「蜂須賀家政(蜂須賀阿波守)=六疋」も、このページの後に出てくるが、「舜旧記」では、当日、本人が臨席したのかどうかの記述は定かでない。
 とにもかくにも、慶長九年(一六〇四)八月の、秀吉七回忌の「豊国大明神臨時祭礼」は、その絶頂期のもので、これを挙行したのは、「徳川家康」(形式的な挙行者)でも「豊臣秀頼・淀殿」(実質的な挙行者)でもなく、この両者を、一種の高い政治力をもって、その調整役の重責をこなしていた「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」ということになろう。
 そして、この岩佐又兵衛の「豊国祭礼図屏風」は、その絶頂期の頃の「方広寺大仏殿(大仏殿炎上=再建途上)・豊国社・豊国廟・豊国祭礼」を物語るものということが出来よう。

(再掲)

方広寺大仏殿・鐘楼図.jpg

「洛中洛外図屏風・舟木本」の「方広寺大仏殿・鐘楼・豊国社・豊国廟」(右隻第一・二扇) → D図

 この岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」の「方広寺大仏殿・鐘楼・豊国社・豊国廟」は、慶長十九年(一六一四)の、「方広寺鐘銘事件」、そして、それに続く、「大阪冬の陣」の、徳川家と豊臣家とが「風雲急を告げる」頃の英姿ということになる。

方広寺略年表.jpg

「方広寺跡発掘調査広報発表資料 2021 公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所」所収「方広寺関連略年表」(これは「改訂前」のもの)
https://www.kyoto-arc.or.jp/News/houdou/20210210.pdf

 この「方広寺関連略年表」を見ると、全てが見えてくる

慶長5年 1600 関ヶ原の戦い。この年に、豊臣秀頼は「方広寺大仏殿」の再建を開始する。
慶長7年 1602 鋳造中の大仏より出火。大仏殿炎上。
(慶長9年 1604 秀吉七回忌の「豊国大明神臨時祭礼」=岩佐又兵衛の「豊国祭礼図屏風」=A・B・C図 )
慶長13年 1608 秀頼、大仏殿再建工事を着工。
慶長19年 1614 大仏殿ほぼ完成するが、「方広寺鐘銘事件」が起きる。
(岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」の「方広寺大仏殿・鐘楼・豊国社・豊国廟」=D図)
慶長20年 1615 大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。
寛文2年 1662 地震のために大仏破損、鋳潰され銅銭に。木像仏に作り替えられる。
寛政10年 1798 大仏殿落雷のため全焼。(芦雪筆「大仏殿炎上図」=下記のとおり)

芦雪・炎上.jpg

芦雪筆「大仏殿炎上図」紙本淡彩 一幅(個人蔵)
一二〇・五×五六・二cm 寛政十年(一七九八)作

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-09-11

【 「大仏殿」というと、奈良東大寺のそれが思い起こされるが、芦雪が描く「大仏殿炎上図」(個人蔵)は、京都・東山の方広寺の金堂(大仏殿)である。この方広寺の大仏は、豊臣家の滅亡の歴史を象徴するかのような、数奇な運命を辿る。
 豊臣秀吉の創建だが、慶長元年(一五九六)の畿内を襲った大地震で倒壊、それを秀頼がブロンズ製で再建に着手したが、工事中の火災などでの曲折を経て、慶長十九年(一六一四)に完成。後は開眼供養と堂供養を待つだけとなったが、有名な「方広寺鐘銘事件」が起き、落慶は中止。その後も、寛文二年(一六六二)に再び震災で倒壊、そして、寛政十年(一七九八)七月一日に、落雷により焼失してしまうのである。
 この時の炎上の様子を描いたのが、下記の「大仏殿炎上図」である。落款に「即席漫写
芦雪 印」があり、芦雪は眼前で燃え盛る大仏殿を実際に見ながら、「即席」で「漫写」(一気呵成の自在な筆遣いで写す)したのであろう。
 空高く噴き上げる紅蓮の炎と煙に「畳目」が写っている。さらに、この落款は「墨と朱とを使い分け、あたかもこれらの文字が、大仏殿から立ちのぼる炎に照らし出されていいるかのようにも見え」、「神技とでもいうべきか。毘首羯磨(ビシュカツマ=帝釈天の眷属、細工物、建築をつかさどる天神)もかくや、と思わせる筆の冴えである」(『江戸の絵を楽しむ(榊原悟著)』)と称賛されているのである。
 この作品は、芦雪が亡くなる一年前の、四十六歳の時のものである。「白象黒牛図屏風」(六曲一双)が「屏風画」とすると、こちらは「掛幅画(掛軸)」ということになる。
『江戸の絵を楽しむ(榊原悟著)』では、「縦に『ひらく』演出」と題して、この作品を取り上げ、そこで、「掛緒を掛けて軸を回転させながら下方へ下げていくことで」、「変化のドラマ」が生じ、「画面を『ひらく』にしたがって、一瞬、人魂とも、焚き火の煙とも見えたものが、じつは巨大な火の粉であり」、その最下部の二層の甍(小さく描かれた『大仏殿』と「楼門」)の炎上が、「同じ『かたち』でありながら、それが表す(意味)を劇的に変化」させているというのである。
 そして、これらを、「見事な『造形の魔術』」として、それを成し遂げた芦雪を、上述の「毘首羯磨(ビシュカツマ=帝釈天の眷属、細工物、建築をつかさどる天神)」との称賛に繋げているのである。】

 この《落款に「即席漫写芦雪 印」があり、芦雪は眼前で燃え盛る大仏殿を実際に見ながら、「即席」で「漫写」(一気呵成の自在な筆遣いで写す)した》の「即席漫《謾?》写」は、「即席傍写」で、「即興的に傍らの画仙紙に即写した」と、そして、この「畳目」は、「渇筆で、下敷きの畳目の縞を活かす表現手法は、それ以前の絵師にも、意図的に使われていた」を瞬時に、この一枚の作品に集約している、と、そう解することが、この時の「芦雪」の、この一枚の「作品」に込められて真意かと(先達の教示を得て)、ここに再掲をして置きたい。

(参考)「徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)」

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E

(再掲)

豊国祭礼図屏風左隻(全体).jpg

「豊国祭礼図屏風」左隻(第一~六扇)→A図 
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/18957/1/2
豊国踊.jpg

「豊国祭礼図屏風」左隻(第四扇部分拡大図)の「大仏殿前の豊国踊=風流踊」→B図
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-left-screen-iwasa-matabei/DQG2KSydiLG95A?hl=ja&ms=%7B%22x%22%3A0.5011565150346956%2C%22y%22%3A0.48255999999999993%2C%22z%22%3A10%2C%22size%22%3A%7B%22width%22%3A1.1711642251349268%2C%22height%22%3A1.2064%7D%7D

桟敷席の蓬庵.jpg

「豊国祭礼図屏風(A図)」(左隻)の第四扇「大仏殿前の豊国踊(B図)」の中央「桟敷席の中年武士(蜂須賀家政)(E図)」

『豊国祭礼図祭礼図を読む(黒田日出男著)』(P247)では、蜂須賀家政(蓬庵)について、次のように記している。

【 慶長五年九月に剃髪して蓬庵と号し、徳島に隠居していた彼は、慶長九年に行われた豊国大明神臨時祭礼の場には臨席できなかった。慶長十五年の臨時祭礼についても同様であった。そこで、秀吉恩顧の豊臣系大名である家政は、慶長十九年の秀吉十七回忌に際して、自ら隠居屋敷にほど近い地に豊国社を創建したのであった。その時に、すでに聞き知っていた豊国本社と同様の「豊国祭礼図屏風」の制作を思い立ったのであろう。 】

 これが、「徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)」では、次のとおり、「豊国祭礼図屏風」左隻(A図)第四扇「大仏殿前の豊国踊」(B図)の中央の「桟敷席の中年武士(蜂須賀家政)(E図)」は、この「豊国祭礼図屏風」の注文主の「蜂須賀家政(蓬庵)」であるということを検証している。

【 四 左隻の中心の桟敷とそこに坐っている武士の姿(要点を要約)

 この桟敷(E図)にいる大人は中年の武士一人だけである。あとは武士の前にいる童一人と、背後の小姓と思われる前髪姿の少年が二人いるだけである。
 この武士は、一体、何者として描かれているのだろうか。十数年前から調べ始めた。

挿図13 「太」(太閤)の標と竿頭の「卍」印 → 左隻第二扇下部

太と卍紋.jpg

挿図14 水引暖簾にびっしり描かれた「卍紋」→左隻第四扇中部→C図の上部の「水引暖簾

挿図15-1 旗の竿頭の〇のなかに描かれている「卍紋」→左隻第一扇中部(省略)

挿図16-1 旗の竿頭の〇のなかに描かれている「卍紋」→左隻第六扇下部(省略)

挿図17 「寶光」(豊公)の旗と竿頭の〇 → 左隻第六扇中部(省略)

挿図18 「卍紋」を結ぶ二本の直線 → 左隻20

挿図19 中年の武士の姿勢と左手の「かたち」→左隻第四扇中部(省略)  

挿図20 女主人公の姿勢と左手の「かたち」→左隻第四扇中部(省略)

挿図21 蜂須賀家政像トレース(トレースに替えて「下記「蜂須賀家政像」=「ウィキペディア」=左手の扇子の持ち方は相違) 

蜂須賀家政.jpg

 徳川美術館本は、「右隻」に「かぶき者」に見立てた豊臣秀頼を描き、左隻らは、注文主である蜂須賀家政(蓬庵)の姿を描いた屏風である。このような二つの重要な表現が描きこまれた徳川美術館本は、慶長十一年八月に、豊臣秀頼・淀殿によって京の豊国神社に奉納された豊国神社本にならったとかんがえる。豊国神社本と徳川美術館本、この二つの屏風があたかも親子のような表現関係なのは当然のことであった。
 徳川美術館本は、慶長十九年夏頃に蜂須賀家政が岩佐又兵衛に注文し、又兵衛は同二十(元和元)年夏頃にそれを完成させた。その後まもなく蜂須賀家政(蓬庵)は、この屏風を阿波の豊国社に奉納したのであろう。 】

 なお、豊国神社本は、下記のアドレスで見ることが出来る。

https://www.dnp.co.jp/news/detail/1190057_1587.html
nice!(1)  コメント(2) 
共通テーマ:アート

nice! 1

コメント 2

yahantei

冒頭の「豊国祭礼図屏風」左隻(第一~六扇)(徳川美術館蔵)各 縦166.7 横345.0 六曲一双→A図 と再掲の「豊国祭礼図屏風」左隻(第一~六扇)→A図 」とが、異なっているが、画像の「拡大」が出来るものと、出来ないものとがあり、これは、このままの画像のアップとしたい。冒頭のアップした画像は、左隻の「六扇」の「四扇」を拡大したもので、左隻の全体の「六扇」は、「再掲」のものが正しい。
 そして、その下のアドレスも違っているのもあるが、それは、細部まで見たいものとの関係で、本来は、それらを正してからアップすべきなのかも知れないが、先に進みたいので、その「ミス」はそのままにして置きたい。
 それにしても、「2017/9/11」にアップした「芦雪筆『大仏殿炎上図』」が、絶妙なタイミングで、久しぶりに蘇えったのは、何かしら、「浮世又平」の「瓢箪」から「駒(コマ)」が飛び出した感じで無くもない(「浮世又平」は「大先達」である)。
by yahantei (2021-09-14 16:13) 

鹿野昭勝

前略。失礼を省みず便り致します。自家家乗に羽柴因幡守の記述あり誰の事か長年不明でしたが木下重堅=羽柴因幡守との本記事に出合いました。木下は備中守で慶長5年切腹とあり慶長9年の秀吉7回忌に騎馬を出す事に合点いかず、何れかの史書に証明するもの有りやとお尋ねする次第です。なお加賀藩玉井頼母の先主が羽柴因幡守であったとの系図あり、因幡守の実在は証明されていると考えております。筋違いの便り誠に申し訳なく存じます。ご教示賜わりますよう烈願しております。草々。
by 鹿野昭勝 (2024-02-20 10:25) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。