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夏目漱石の「俳句と書画」(その七) [「子規と漱石」の世界]

その七 漱石の「第五高等学校」時代(その二(明治三十年)周辺)

熊本・第五高等学校.jpg

「熊本・第五高等学校」(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

熊本・第五高等学校二.gif

(「同上」解説文)

(追記) 夏目漱石俳句集(その四)<制作年順> 明治30年(1039~1326)

1039 生れ得てわれ御目出度顔の春(「子規へ送りたる句稿(二十二)二十二句。一月)
1040 五斗米を餅にして喰ふ春来たり
1041 臣老いぬ白髪を染めて君が春
1042 元日や蹣跚として吾思ひ

子規へ送りたる句稿二十二.jpg

(「子規へ送りたる句稿二十二」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

子規へ送りたる句稿二十二の二.gif

(「子規へ送りたる句稿二十二(読み下し文)」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

1043 馬に乗つて元朝の人勲二等
1044 詩を書かん君墨を磨れ今朝の春
1045 元日や吾新たなる願あり
1046 春寒し印陀羅といふ画工あり
1047 聾なる僕藁を打つ冬籠
1048 親子してことりともせず冬籠
1049 医はやらず歌など撰し冬籠
1050 力なや油なくなる冬籠
1051 仏焚て僧冬籠して居るよ
1052 燭つきつ墨絵の達磨寒気なる
1053 燭きつて暁ちかし大晦日
1054 餅を切る庖丁鈍し古暦
1055 冬籠弟は無口にて候
1056 桃の花民天子の姓を知らず
1057 松立てゝ空ほのぼのと明る門
1058 ふくれしよ今年の腹の粟餅に
1059 貧といへど酒飲みやすし君が春
1060 塔五重五階を残し霞けり    (1039~「同上」)

1061 酒苦く蒲団薄くて寐られぬ夜(「子規へ送りたる句稿(二十三)四十句。二月)
1062 ひたひたと藻草刈るなり春の水
1063 岩を廻る水に浅きを恨む春
1064 散るを急ぎ桜に着んと縫ふ小袖
1065 出代の夫婦別れて来りけり

1066 人に死し鶴に生れて冴返る
≪季=冴返る。(中略) この句はのちに雑誌「ほとゝぎす」(明治32・1に掲載された。≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1067 隻手此比良目生捕る汐干よな
1068 恐らくば東風に風ひくべき薄着
1069 寒山か拾得か蜂に螫されしは
1070 ふるひ寄せて白魚崩れん許りなり
1071 落ちさまに虻を伏せたる椿哉
1072 貪りて鶯続け様に鳴く
1073 のら猫の山寺に来て恋をしつ
1074 ぶつぶつと大な田螺の不平哉
1075 菜の花や城代二万五千石
1076 明天子上にある野の長閑なる
1077 大纛や霞の中を行く車
1078 烈士剣を磨して陽炎むらむらと立つ
1079 柳あり江あり南画に似たる吾
1080 或夜夢に雛娶りけり白い酒
1081 霞みけり物見の松に熊坂が
1082 酢熟して三聖顰す桃の花
1083 川を隔て散点す牛霞みけり
1084 薫ずるは大内といふ香や春
1085 姉様に参らす桃の押絵かな
1086 よき敵ぞ梅の指物するは誰
1087 朧夜や顔に似合ぬ恋もあらん
1088 住吉の絵巻を写し了る春
1089 春は物の句になり易し古短冊
1090 山の上に敵の赤旗霞みけり

1091 木瓜咲くや漱石拙を守るべく
≪季=木瓜の花(春)。※『草枕』「十二」に「世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」とある。「守拙」の語は陶淵明の詩「園田の居に帰る」の「拙を守って園田に帰る」に由来。(後略 )≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1092 滝に乙鳥突き当らんとしては返る
1093 なある程是は大きな涅槃像
1094 春の夜を兼好緇衣に恨みあり
1095 暖に乗じ一挙虱をみなごろしにす
1096 達磨傲然として風に嘯く鳳巾
1097 疝は御大事余寒烈しく候へば

1098 菫程な小さき人に生れたし
≪季=菫(春)。※小品『文鳥』に「菫程な小さな人が、黄金の槌で瑪瑙の碁盤でもつづけ様に敲いて居るような気がする」とある。(中略) ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1099 前垂の赤きに包む土筆かな
1100  水に映る藤紫に鯉緋なり     (1061~「同上」)

1101 生き返り御覧ぜよ梅の咲く忌日(「黒木翁三周忌」)
1102 古瓦を得つ水仙のもとに硯彫む(新聞「日本」)
1103 狸化けぬ柳枯れぬと心得て(新聞「日本」)
1104 梓彫る春雨多し湖泊堂(「子規宛書簡」、「湖白堂」=「藤野古白」の別号)

1105 古往今来切つて血の出ぬ海鼠かな(「子規へ送りたる句稿(二十四)五十一句。四月)
1106 西函嶺を踰えて海鼠に眼鼻なし
1107 土筆物言はずすんすんとのびたり
1108 春寒し墓に懸けたる季子の剣
1109 抜くは長井兵助の太刀春の風
1110 剣寒し闥を排して樊かいが
1111 太刀佩て恋する雛ぞむつかしき
1112 浪人の刀錆びたり時鳥
1113 顔黒く鉢巻赤し泳ぐ人
1114 深うして渡れず余は泳がれず
1115 裸体なる先生胡坐す水泳所
1116 泳ぎ上がり河童驚く暑かな
1117 泥川に小児つどいて泳ぎけり
1118 亀なるが泳いできては背を曝す
1119 いの字よりはの字むつかし梅の花
1120 夏書する黄檗の僧名は即非
1121 客に賦あり墨磨り流す月の前
1122 巨燵にて一筆しめし参らせう
1123 金泥もて法華経写す日永哉
1124 春の夜を小謡はやる家中哉
1125 隣より謡ふて来たり夏の月
1126 肌寒み禄を離れし謡ひ声
1127 謡師の子は鼓うつ時雨かな
1128 謡ふものは誰ぞ桜に灯ともして
1129 八時の広き畑打つ一人かな
1130 角落ちて首傾けて奈良の鹿
1131 菜の花の中へ大きな入日かな
1132 木瓜咲くや筮竹の音算木の音
1133 若鮎の焦つてこそは上るらめ
1134 夥し窓春の風門春の水
1135 据風呂に傘さしかけて春の雨
1136 泥海の猶しづかなり春の暮
1137 石磴や曇る肥前の春の山
1138 松をもて囲ひし谷の桜かな
1139 雨に雲に桜濡れたり山の陰
1140 菜の花の遥かに黄なり筑後川
1141 花に濡るゝ傘なき人の雨を寒み
1142 人に逢はず雨ふる山の花盛
1143 筑後路や丸い山吹く春の風
1144 山高し動ともすれば春曇る
1145 濃かに弥生の雲の流れけり
1146 拝殿に花吹き込むや鈴の音
1147 金襴の軸懸け替て春の風
1148 留針や故郷の蝶余所の蝶
1149 しめ縄や春の水湧く水前寺
1150 上画津や青き水菜に白き蝶
1151 菜種咲く小島を抱いて浅き川
1152 棹さして舟押し出すや春の川
1153 柳ありて白き家鴨に枝垂たり
1154 就中高き桜をくるりくるり
1155 魚は皆上らんとして春の川  (1105~「同上」)

1156 青葉勝に見ゆる小村の幟かな(雑誌「めさまし草」)

1157 行く春を剃り落したる眉青し(「子規へ送りたる句稿(二十五)六十一句。五月) 
1158 行く春を沈香亭の牡丹哉
1159 春の夜や局をさがる衣の音
1160 春雨の夜すがら物を思はする
1161 埒もなく禅師肥たり更衣
1162 よき人のわざとがましや更衣
1163 更衣て弟の脛何ぞ太き
1164 埋もれて若葉の中や水の音
1165 影多き梧桐に据る床几かな
1166 郭公茶の間へまかる通夜の人
1167 蹴付たる讐の枕や子規
1168 辻君に袖牽れけり子規
1169 扛げ兼て妹が手細し鮓の石
1170 小賢しき犬吠付や更衣
1171 七筋を心利きたる鵜匠哉
1172 漢方や柑子花さく門構
1173 若葉して半簾の雨に臥したる
1174 妾宅や牡丹に会す琴の弟子
1175 世はいづれ棕櫚の花さへ穂に出でつ
1176 立て懸て蛍這ひけり草箒
1177 若葉して縁切榎切られたる
1178 でゞ虫の角ふり立てゝ井戸の端
1179 溜池に蛙闘ふ卯月かな
1180 虚無僧に犬吠えかゝる桐の花
1181 筍や思ひがけなき垣根より
1182 若竹や名も知らぬ人の墓の傍
1183 若竹の夕に入て動きけり
1184 鞭鳴す馬車の埃や麦の秋
1185 渡らんとして谷に橋なし閑古鳥
1186 折り添て文にも書かず杜若
1187 八重にして芥子の赤きぞ恨みなる
1188 傘さして後向なり杜若
1189 蘭湯に浴すと書て詩人なり
1190 すゝめたる鮓を皆迄参りたり
1191 鮓桶の乾かで臭し蝸牛
1192 生臭き鮓を食ふや佐野の人
1193 粽食ふ夜汽車や膳所の小商人
1194 蝙蝠や賊の酒呑む古館
1195 不出来なる粽と申しおこすなる
1196 五月雨や小袖をほどく酒のしみ
1197 五月雨の壁落しけり枕元
1198 五月雨や四つ手繕ふ旧士族
1199 目を病んで灯ともさぬ夜や五月雨
1200 馬の蠅牛の蠅来る宿屋かな
1201 逃がすまじき蚤の行衛や子規
1202 蚤を逸し赤き毛布に恨みあり
1203 蚊にあけて口許りなり蟇の面
1204 鳴きもせでぐさと刺す蚊や田原坂
1205 夏来ぬとまた長鋏を弾ずらく
1206 藪近し椽の下より筍が
1207 寐苦しき門を夜すがら水鶏かな
1208 若葉して手のひらほどの山の寺
1209 菜種打つ向ひ合せや夫婦同志
1210 菊地路や麦を刈るなる旧四月
1211 麦を刈るあとを頻りに燕かな
1212 文与可や筍を食ひ竹を画く
1213 五月雨の弓張らんとすればくるひたる
1214 立て見たり寐て見たり又酒を煮たり
1215 水攻の城落ちんとす五月雨
1216 大手より源氏寄せたり青嵐
1217 水涸れて城将降る雲の峰    (1157~「同上」)

1218 槽底に魚あり沈む心太 (七月四日~九月七日まで上京。子規句会。1250迄)
1219 蛭ありて黄なり水経註に曰く
1220 魚を網し蛭吸ふ足を忘れけり
1221 水打て床几を両つ并べける
1222 蚤をすてゝ虱を得たる木賃哉
1223 撫子に病閑あつて水くれぬ
1224 土用にして灸を据うべき頭痛あり
1225 楽に更けて短き夜なり公使館
1226 夕立や犇めく市の十万家
1227 音もせで水流れけり木下闇
1228 夕涼し起ち得ぬ和子を喞つらく
1229 落ちて来て露になるげな天の川
1230 来て見れば長谷は秋風ばかり也
1231 浜に住んで朝貌小さきうらみ哉
1232 冷かな鐘をつきけり円覚寺
1233 虫売の秋をさまざまに鳴かせけり
1234 案の如くこちら向いたる踊かな
1235 半月や松の間より光妙寺
1236 薬掘昔不老の願あり
1237 黄ばみたる杉葉に白き燈籠哉
1238 行燈や短かゝりし夜の影ならず
1239 徘徊す蓮あるをもて朝な夕な
1240 仏性は白き桔梗にこそあらめ
1241 山寺に湯ざめを悔る今朝の秋
1242 其許は案山子に似たる和尚かな
1243 漕ぎ入れん初汐寄する龍が窟
1244 初秋をふるひかへせしおこり哉
1245 北に向いて書院椽あり秋海棠
1246 砂山に薄許りの野分哉
1247 捨てもあへぬ団扇参れと残暑哉
1248 鳴き立てゝつくつく法師死ぬる日ぞ
1249 唐黍や兵を伏せたる気合あり
1250 夜をもれと小萩のもとに埋めけり   
1251 群雀粟の穂による乱れ哉
1252 刈り残す粟にさしたり三日の月
1253 山里や一斗の粟に貧ならず
1254 粟刈らうなれど案山子の淋しかろ
1255 船出ると罵る声す深き霧
1256 鉄砲に朝霧晴るゝ台場哉
1257 朝懸や霧の中より越後勢
1258 川霧に呼はんとして舟見えざる(1218~「同上」)

1259 南九州に入つて柿既に熟す   (九月十日熊本着。一句)
1260 今日ぞ知る秋をしきりに降りしきる(「子規宛書簡」)
1261 影二つうつる夜あらん星の井戸(新聞「日本」)

1262 樽柿の渋き昔しを忘るゝな(「子規へ送りたる句稿(二十六)三十九句。十月)
1263 渋柿やあかの他人であるからは
1264 萩に伏し薄にみだれ故里は
1265 粟折つて穂ながら呉るゝ籠の鳥
1266 蟷螂の何を以てか立腹す
1267 こおろぎのふと鳴き出しぬ鳴きやみぬ
1268 うつらうつら聞き初めしより秋の風
1269 秋風や棚に上げたる古かばん
1270 明月や無筆なれども酒は呑む
1271 明月や御楽に御座る殿御達
1272 明月に今年も旅で逢ひ申す
1273 真夜中は淋しからうに御月様
1274 明月や拙者も無事で此通り
1275 こおろぎよ秋ぢゃ鳴かうが鳴くまいが
1276 秋の暮一人旅とて嫌はるゝ
1277 梁上の君子と語る夜寒かな
1278 これ見よと云はぬ許りに月が出る
1279 朝寒の冷水浴を難んずる
1280 月に行く漱石妻を忘れたり
1281 朝寒の膳に向へば焦げし飯
1282 長き夜を平気な人と合宿す
1283 うそ寒み大めしを食ふ旅客あり
1284 吏と農と夜寒の汽車に語るらく
1285 月さして風呂場へ出たり平家蟹
1286 恐る恐る芭蕉に乗つて雨蛙
1287 某は案山子にて候雀どの
1288 鶏頭の陽気に秋を観ずらん
1289 明月に夜逃せうとて延ばしたる
1290 鳴子引くは只退窟で困る故
1291 芭蕉ならん思ひがけなく戸を打つば
1292 刺さずんば已まずと誓ふ秋の蚊や
1293 秋の蚊と夢油断ばしし給ふな
1294 嫁し去つてなれぬ砧に急がしき
1295 長き夜を煎餅につく鼠かな
1296 野分して蟷螂を窓に吹き入るゝ
1297 豆柿の小くとも数で勝つ気よな
1298 北側を稲妻焼くや黒き雲
1299 余念なくぶらさがるなり烏瓜
1300 蛛落ちて畳に音す秋の灯細し   (1262~「同上」)

1301 朝寒み夜寒みひとり行く旅ぞ(新聞「日本」)

1302 淋しくば鳴子をならし聞かせうか(「子規へ送りたる句稿(二十七)二十句。十二月)
1303 ある時は新酒に酔て悔多き
1304 菊の頃なれば帰りの急がれて
1305 傘を菊にさしたり新屋敷
1306 去りしとてはむしりもならず赤き菊
1307 一東の韻に時雨るゝ愚庵かな
1308 凩や鐘をつくなら踏む張つて
1309 二三片山茶花散りぬ床の上
1310 早鐘の恐ろしかりし木の葉哉
1311 片折戸菊押し倒し開きけり
1312 粟の後に刈り残されて菊孤也
1313 初時雨吾に持病の疝気あり
1314 柿落ちてうたゝ短かき日となりぬ
1315 提灯の根岸に帰る時雨かな
1316 暁の水仙に対し川手水
1317 蒲団着て踏張る夢の暖き
1318 塞を出てあられしたゝか降る事よ
1319 熊笹に兎飛び込む霰哉
1320 病あり二日を籠る置炬燵
1321 水仙の花鼻かぜの枕元   (1302~「同上」)

1322 寂として椽に鋏と牡丹哉    (「承露盤」より四句)
1323 白蓮にいやしからざる朱欄哉   (同上)
1324 来る秋のことわりもなく蚊帳の中 (同上)
1325 晴明の頭の上や星の恋      (同上)
1326 竿になれ鉤になれ此処へおろせ雁 (「子規」句会、上京中の句)


(参考) 「1098 菫程な小さき人に生れたし」周辺

≪ 「漱石の俳句(6)菫程な小さき人に生れたし」

http://chikata.net/?p=2883

 二〇一四年、漱石から子規へ送った手紙があらたに発見されたというニュースがありました。手紙の日付は明治三〇年八月二三日。その中に未発表の俳句が二句ありました。

禅寺や只秋立つと聞くからに
京に二日また鎌倉の秋を憶ふ

二句目は鎌倉で療養中だった妻への思いを詠んだ句です。この年の六月、漱石は実父が亡くなったため、鏡子と東京に戻ります。その長旅のせいで鏡子は流産します。鏡子はそのため鎌倉で療養しました。「また」というのは、漱石自身がその三年前である明治二七年、神経衰弱に苦しむ自身の療養のため鎌倉円覚寺に参禅しているからです。

明治二七年というと、五月に北村透谷が自殺、八月に子規も従軍した日清戦争が起った年です。西暦にすると一八九四年。この世紀末から新世紀に変わる数年間、漱石の人生はたいへんなスピードで動きます。句の背後を知る意味でも、子規との関係と一緒に少し年譜をたどってみます。

明治27年(1894年)
12月、鎌倉円覚寺に参禅。

明治28年(1895年)
 1月、根津の子規庵で句会に参加。
 4月、東京を去り、松山へ赴任。
 同月、子規の従弟で、漱石の教え子でもある藤野古白が自殺。
 同月、子規が近衛連隊の従軍記者として遼東半島を回る。
 5月、子規が帰国の船上で喀血し倒れる。神戸で入院。
 8月、子規が療養のため松山にもどり、漱石の下宿先(愚陀仏庵)に移り住む。
 10月、子規が東京に戻る。
 同月、子規へ句稿を送る(5句)
 同月、子規へ句稿を送る(46句)
 同月、子規へ句稿を送る(42句)
 11月、子規へ句稿を送る(50句)
 同月、子規へ句稿を送る(18句)
 同月、子規へ句稿を送る(47句)
 同月、子規へ句稿を送る(69句)
 12月、東京に戻り鏡子と見合い、婚約。
 同月、子規へ句稿を送る(41句)
 同月、子規へ句稿を送る(61句)

明治29年(1896年)
1月、子規へ句稿を送る(40句)
同月、子規へ句稿を送る(20句)
3月、子規へ句稿を送る(101句)
同月?、子規へ句稿を送る(27句)
同月、子規へ句稿を送る(40句)
4月、熊本に赴任。
6月、鏡子と結婚、式を挙げる。
7月、子規へ句稿を送る(40句)
8月、子規へ句稿を送る(30句)
9月、子規へ句稿を送る(40句)
10月、子規へ句稿を送る(16句)
同月、子規へ句稿を送る(15句)
11月、子規へ句稿を送る(28句)
12月、子規へ句稿を送る(62句)

明治30年(1897年)
1月、柳原極堂が松山で「ほとヽぎす」を創刊。
同月、子規へ句稿を送る(22句)
2月、子規へ句稿を送る(40句)
4月、子規へ句稿を送る(51句)
同月、子規『俳人蕪村』を発表。
5月、子規『古白遺稿』を刊行。
同月、子規へ句稿を送る(61句)
6月、実父(直克)逝去。鏡子流産。
8月、鏡子が療養する鎌倉別荘へ行く。
10月、子規へ句稿を送る(39句)
12月、子規へ句稿を送る(20句)
同月、正月まで小天温泉へ旅する。『草枕』の題材となる。

明治31年(1898年)
1月、子規へ句稿を送る(30句)
2月、子規『歌よみに与ふる書』を発表。
5月、子規へ句稿を送る(20句)
9月、子規へ句稿を送る(20句)
10月、子規へ句稿を送る(20句)
同月、熊本で漱石を主宰とした俳句結社「紫溟吟社」が興る。

明治32年(1899年)
1月、子規へ句稿を送る(75句)
1月、子規『俳諧大要』を発表。
2月、子規へ句稿を送る(105句)
5月、長女(筆子)誕生。
9月、子規へ句稿を送る(51句)
同月、阿蘇登山。
10月、子規へ句稿を送る(29句)

明治33年(1900年)
1月、子規「叙事文」にて、写生文を提唱。
7月、英国留学の準備のため帰京。
8月、子規を訪問する。
9月、子規「山会」を開催。
同月、英国へ出発。

愚陀仏庵を子規が去ってから、漱石はまるで俳句によって病を癒すかのような勢いで大量の句を作っては、子規へ送り続けています。むしろ、俳句という「病」にかかったかのようでもあります。ところが、明治三二年、長女・筆子の誕生以降、句作の量が激減し、子規への句稿もその年末でストップします。翌年は年間一九句しか遺していません。子どもの誕生が漱石の病を軽減したのか、まるで俳句を作りながら新しい命を求めていたかのようにすら思えます。

ところで明治三〇年の二月、子規へ送った句稿の中に不思議な句があります。

菫程な小さき人に生れたし

菫のような可愛さにあこがれる女性の句と思う人もいるようですが、まぎれもなく、夏目漱石の句です。

この句は有名なので、今更付け足すまでもなく、すでに解釈がなされています。やはり、熊本時代の句であるだけに、熊本を舞台にした小説『草枕』(明治三九年)の世界とつなげて、面倒な人の世を離れて、ひっそりと菫のように生きたいという気持ちと解されることが多いと思います。

また「菫程な小さき人」という表現は、明治四一年の作品『文鳥』に再び現れます。『文鳥』は小説とも随筆とも日記とも言えないような小品(写生文)です。漱石は、教え子の鈴木三重吉のすすめで、文鳥を飼います。その文鳥について、次のように書かれています。

《文鳥はつと嘴を餌壺の真中に落した。そうして二三度左右に振った。奇麗に平して入れてあった粟がはらはらと籠の底に零れた。文鳥は嘴を上げた。咽喉の所で微な音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細やかで、しかも非常に速やかである。菫ほどな小さい人が、黄金の槌で瑪瑙の碁石でもつづけ様に敲いているような気がする。》(明治四一年『文鳥』)

この一節をもとに菫の句が解釈されることもあります。例えば、詩人の清水哲男はこう評しています。《人として生まれ、しかし人々の作る仕組みには入らず、ただ自分の好きな美的な行為に熱中していればよい。そんな風な人が、漱石の理想とした「菫程な小さき人」であったのだろう》。たしかに「累々と徳孤ならずの蜜柑かな」(明治二九年)の蜜柑しかり、「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」(明治三〇年)の木瓜の花しかり、この句は菫に自己の理想を詠んでいることは、疑いようがありません。

いずれにしても、先ほどの『草枕』の隠遁詩人の世界からつながる解釈です。ただ、先ほどの年譜を見ると、この句を詠んだとき、漱石は結婚したばかりであることがわかります。このときの漱石の心を思うと、下五の「生れたし」は自分自身のことでもあると同時に、これから生まれてくるであろう誰か、つまり、未来の子どもに向かって自身の理想を投げかけているようにも聞こえてきます。

なぜなら「生れたし」と言って、生まれたいと思っているのは作者ですが、作者は既に生まれてしまっているわけです。もし、生まれるのが自分ではない他者である場合、この「生れたし」は「生まれてほしい」という意味にもなります。もちろん、もし生まれ変われるなら、という隠れた気持ちを読みとれば作者自身のことになるわけですが。五七五だけなら、どちらの読みも可能です。

もし明治三〇年に妻・鏡子が流産せずに子どもが生まれていたら、この菫の句は子どもに向かって詠んだ句として解釈されていたかもしれません。(関根千方) ≫

≪ 菫程な小さき人に生れたし(夏目漱石)

https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20060218,20060217,20060216&tit=20060218&today=20060218&tit2=2006%94N2%8C%8E18%93%FA%82%CC

季語は「菫(すみれ)」で春。大の男にしては、なんとまあ可憐な願望であることよ。そう読んでおいても一向に構わないのだけれど、私はもう少し深読みしておきたい。というのも、この句と前後して書かれていた小説が『草枕』だったからである。例の有名な書き出しを持つ作品だ。「山路を登りながら、こう考えた。/智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい」。この後につづく何行かを私なりに理解すれば、作者は人間というものは素晴らしいが、その人間が作る「世」、すなわち人間社会はわずらわしく鬱陶しいと言っている。だから、人間は止めたくないのだが、社会のしがらみには関わりたくない。そんな夢のような条件を満たすためには、掲句のような「小さき人」に生まれることくらいしかないだろうというわけだ。では、夢がかなって「菫程な」人に生まれたとすると、その人は何をするのだろうか。その答えが、小品『文鳥』にちらっと出てくる。鈴木三重吉に言われるままに文鳥を飼う話で、餌をついばむ場面にこうある。「咽喉の所で微(かすか)な音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細やかで、しかも非常に速(すみや)かである。菫ほどな小さい人が、黄金の槌(つち)で瑪瑙(めのう)の碁石でもつづけ様に敲(たた)いているような気がする」。すなわち、人として生まれ、しかし人々の作る仕組みには入らず、ただ自分の好きな美的な行為に熱中していればよい。そんなふうな人が、漱石の理想とした「菫程な小さき人」であったのだろう。すると「菫」から連想される可憐さは容姿にではなくて、むしろこの人の行為に関わるとイメージすべきなのかもしれない。『漱石俳句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)≫
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夏目漱石の「俳句と書画」(その六) [「子規と漱石」の世界]

その六 漱石の「第五高等学校」時代(「松山から熊本へ」周辺)

夏目漱石年譜(「東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ」) (抜粋)
https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/soseki/nenpu.html
【 明治29(1896)  4月 熊本県第五高等学校に赴任する。『フランスの革命』『ハムレット』『オセロ』を講義する。 6月 鏡との結婚式を挙げる。 
明治30(1897) 6月 父・直克死去。
明治31(1898) 7月頃 鏡 自殺を図る。
明治32(1899) 5月 長女・筆子誕生。
明治33(1900) 5月 文部省から英国留学を命じられる。 9月 横浜港出港。 10月 ロンドン着。クレイグ教授の個人授業を受ける。  】

熊本・第五高等学校卒業生、同僚らと一.jpg

「熊本・第五高等学校卒業生、同僚らと」(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html
(中列、右から二番目「漱石」)

熊本・第五高等学校卒業生、同僚らと二.gif

(「同上・解説文」)

「明治二十九年(一八九六)・漱石(三十歳)」の「松山より熊本移住」の頃(周辺)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-19

    松山より熊本に行く時/虚子に託して霽月に贈る(一句)
787 逢はで散る花に涙を濺(そそ)げかし (漱石・30歳「明治29年(1896)」) 
≪村上霽月の漱石追悼文「漱石君を偲ぶ」(「渋柿」大6・2)では「散る」を「去る」とする。漱石は、四月十日に松山を離れた。≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)


(追記) 夏目漱石俳句集(その三)<制作年順> 明治29年(517~1038)

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/200911article_8.html

(松山時代、517~)

517 時鳥馬追ひ込むや梺川
518 暁の夢かとぞ思ふ朧かな
519 うかうかと我門過ぎる月夜かな
520 夕立の野末にかゝる入日かな
521 橋の霜継て渡れと書き残す
522 茶煙禅榻外は師走の日影哉
523 干網に立つ陽炎の腥き
524 うつむいて膝にだきつく寒哉
525 苟くも此蓬莱を食ふ勿れ
526 半鐘とならんで高き冬木哉
527 先生や屋根に書を読む煤払
528 雨に雪霰となつて寒念仏
529 雪洞の廊下をさがる寒さ哉
530 水かれて轍のあとや冬の川
531 東風や吹く待つとし聞かば今帰り来ん


532 此土手で追ひ剥がれしか初桜(子規へ送りたる句稿十・四十句・一月)
533 凩に早鐘つくや増上寺   (「同上」~571)
534 谷の家竹法螺の音に時雨けり
535 冴返る頃を御厭ひなさるべし
536 出代りや花と答へて跛なり
537 雪霽たり竹婆娑々々と跳返る
538 水青し土橋の上に積る雪
539 若菜摘む人とは如何に音をば泣く
540 花に暮れて由ある人にはぐれけり
541 見て行くやつばらつばらに寒の梅
542 静かさは竹折る雪に寐かねたり
543 武蔵野を横に降る也冬の雨
544 太箸を抛げて笠着る別れ哉
545 いざや我虎穴に入らん雪の朝
546 絶頂に敵の城あり玉霰
547 御天守の鯱いかめしき霰かな
548 一つ家のひそかに雪に埋れけり
549 春大震塔も擬宝珠もねぢれけり
550 疝気持雪にころんで哀れなり
551 天と地の打ち解けりな初霞
552 呉竹の垣の破目や梅の花
553 御車を返させ玉ふ桜かな
554 掃溜や錯落として梅の影
555 永き日や韋駄を講ずる博士あり
556 日は永し三十三間堂長し
557 素琴あり窓に横ふ梅の影
558 永き日を順礼渡る瀬田の橋
559 鶴獲たり月夜に梅を植ん哉
560 錦帯の擬宝珠の数や春の川
561 里の子の草鞋かけ行く梅の枝
562 紅梅に青葉の笛を画かばや
563 紅梅にあはれ琴ひく妹もがな
564 源蔵の徳利をかくす吹雪哉
565 したゝかに饅頭笠の霰哉
566 冬の雨柿の合羽のわびしさよ
567 下馬札の一つ立ちけり冬の雨
568 梅の花不肖なれども梅の花
569 まさなくも後ろを見する吹雪哉
570 氷る戸を得たりや応と明け放し
571 吾庵は氷柱も歳を迎へけり   (532~「同上」)

572 元日に生れぬ先の親恋し(子規へ送りたる句稿十一・二十句・一月)
573 あたら元日を餅も食はずに紙衣哉 (「同上」~591)
574 山里は割木でわるや鏡餅
575 砕けよや玉と答へて鏡餅
576 国分寺の瓦掘出す桜かな
577 断礎一片有明桜ちりかゝる
578 堆き茶殻わびしや春の宵
579 古寺に鰯焼くなり春の宵
580 配所には干網多し春の月
581 口惜しや男と生れ春の月
582 よく聞けば田螺なくなり鍋の中
583 山吹に里の子見えぬ田螺かな
584 白梅に千鳥啼くなり浜の寺
585 梅咲きて奈良の朝こそ恋しけれ
586 消にけりあわたゞしくも春の雪
587 春の雪朱盆に載せて惜しまるゝ
588 居風呂に風ひく夜や冴返る
589 頃しもや越路に病んで冴返る
590 霞む日や巡礼親子二人なり
591 旅人の台場見て行く霞かな  (572~「同上」)

592 春の夜の琵琶聞えけり天女の祠
593 路もなし綺楼傑閣梅の花
594 家の棟や春風鳴つて白羽の矢
595 蛤や折々見ゆる海の城
596 霞たつて朱塗の橋の消にけり
597 どこやらで我名よぶなり春の山
598 大空や霞の中の鯨波の声
599 行春や瓊觴山を流れ出る
600 神の住む春山白き雲を吐く
601 催馬楽や縹渺として島一つ
602 真倒しに久米仙降るや春の雲
603 春暮るゝ月の都に帰り行
604 羽団扇や朧に見ゆる神の輿
605 つゝじ咲く岩めり込んで笑ひ声
606 春の夜や独り汗かく神の馬
607 朦朧と霞に消ゆる巨人哉
608 鳴く雲雀帝座を目懸かけ上る
609 真夜中に蹄の音や神の梅
610 春の宵神木折れて静かなり
611 白桃や瑪瑙の梭で織る錦

子規へ送りたる句稿十二.jpg


子規へ送りたる句稿十二の二.gif

(「子規へ送りたる句稿十二」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

612 つくばいに散る山茶花の氷りけり(子規へ送りたる句稿十二・一〇一句・三月)
613 烏飛んで夕日に動く冬木かな
614 船火事や数をつくして鳴く千鳥
615 檀築て北斗祭るや剣の霜

(「子規へ送りたる句稿十二(読み下し文)」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

616 龍寒し絵筆抛つ古法眼   (612~「同上」)
617 つい立の龍蟠まる寒さかな
618 廻廊に吹きこむ海の吹雪かな
619 梁に画龍のにらむ日永かな
620 奈良の春十二神将剥げ尽せり
621 乱山の尽きて原なり春の風
622 都府楼の瓦硯洗ふや春の水
623 門柳五本並んで枝垂れけり
624 若草や水の滴たる蜆籠
625 月落ちて仏灯青し梅の花
626 春の夜を辻講釈にふかしける
627 蕭郎の腕環偸むや春の月
628 護摩壇に金鈴響く春の雨
629 春の夜の御悩平癒の祈祷哉
630 鳩の糞春の夕の絵馬白し
631 伽羅焚て君を留むる朧かな (原句 伽羅焚て君を留めて朧かな)
632 辻占のもし君ならば朧月
633 蘭燈に詩をかく春の恨み哉
634 恐ろしや経を血でかく朧月
635 着衣始め紫衣を給はる僧都あり
636 物草の太郎の上や揚雲雀
637 野を焼けば焼けるなり間の抜ける程
638 涅槃像鰒に死なざる本意なさよ
639 春恋し朝妻船に流さるゝ
640 潮風に若君黒し二日灸
641 枸杞の垣田楽焼くは此奥か
642 春もうし東楼西家何歌ふ
643 猫知らず寺に飼はれて恋わたる (原句 猫知らず寺に飼はれて恋をする)
644 芹洗ふ藁家の門や温泉の流
645 陽炎に蟹の泡ふく干潟かな
646 さらさらと筮竹もむや春の雨
647 日永哉豆に眠がる神の馬
648 古瓢柱に懸けて蜂巣くふ
649 ゆく春や振分髪も肩過ぎぬ
650 御館のつらつら椿咲にけり
651 二つかと見れば一つに飛ぶや蝶
652 唐人の飴売見えぬ柳かな
653 刀うつ槌の響や春の風
654 踏はづす蛙是へと田舟哉
655 初蝶や菜の花なくて淋しかろ
656 曳船やすり切つて行く蘆の角
657 勅なれば紅梅咲て女かな
658 紅梅に通ふ築地の崩哉
659 桔槹切れて梅ちる月夜哉
660 濡燕御休みあつて然るべし
661 雉子の声大竹原を鳴り渡る
662 雨がふる浄瑠璃坂の傀儡師
663 むくむくと砂の中より春の水
664 白き砂の吹ては沈む春の水
665 金屏を幾所かきさく猫の恋
666 春に入つて近頃青し鉄行
667 朧の夜五右衛門風呂にうなる客
668 永き日や徳山の棒趙州の払
669 飯食ふてねむがる男畠打つ
670 春風や永井兵助の人だかり
671 居合抜けば燕ひらりと身をかはす
672 物言はで腹ふくれたる河豚かな
673 戛々と鼓刀の肆に時雨けり
674 枯野原汽車に化けたる狸あり
675 其中に白木の宮や梅の花
676 章魚眠る春潮落ちて岩の間
677 山伏の並ぶ関所や梅の花
678 梅ちるや月夜に廻る水車
679 兵児殿の梅見に御ぢやる朱鞘哉
680 酒醒て梅白き夜の冴返る
681 飯蛸の頭に兵と吹矢かな
682 蟹に負けて飯蛸の足五本なり
683 梓弓岩を砕けば春の水
684 山路来て梅にすくまる馬上哉
685 若党や一歩さがりて梅の花
686 青石を取り巻く庭の菫かな
687 犬去つてむつくと起る蒲公英が
688 大和路や紀の路へつゞく菫草
689 川幅の五尺に足らで菫かな
690 三日雨四日梅咲く日誌かな
691 双六や姉妹向ふ春の宵
692 生海苔のこゝは品川東海寺
693 菜の花の中に糞ひる飛脚哉
694 菜の花や門前の小僧経を読む
695 菜の花を通り抜ければ城下かな
696 海見ゆれど中々長き菜畑哉
697 海見えて行けども行けども菜畑哉
698 麦二寸あるは又四五寸の旅路哉
699 莚帆の真上に鳴くや揚雲雀
700 風船にとまりて見たる雲雀哉
701 落つるなり天に向つて揚雲雀
702 雨晴れて南山春の雲を吐く
703 むづからせ給はぬ雛の育ち哉
704 去年今年大きうなりて帰る雁
705 一群や北能州へ帰る雁
706 爪下り海に入日の菜畑哉
707 里の子の猫加へけり涅槃像
708 鶯のほうと許りで失せにけり
709 鶯や雨少し降りて衣紋坂
710 鶯の去れども貧にやつれけり
711 鶯や田圃の中の赤鳥居
712 鶯をまた聞きまする昼餉哉  (612~「同上」)

子規へ送りたる句稿十三.jpg

(「子規へ送りたる句稿十三」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

713 三日月や野は穢多村へ焼て行く(子規へ送りたる句稿十三・二十七句・三月)
714 旧道や焼野の匂ひ笠の雨
715 春日野は牛の糞まで焼てけり
716 宵々の窓ほのあかし山焼く火

子規へ送りたる句稿十三の二.jpg

(「子規へ送りたる句稿十三(読み下し文)」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

717 野に山に焼き立てられて雉の声
718 野を焼くや道標焦る官有地
719 篠竹の垣を隔てゝ焼野哉
720 村と村河を隔てゝ焼野哉
721 蝶に思ふいつ振袖で嫁ぐべき
722 老ぬるを蝶に背いて繰る糸や
723 御簾揺れて蝶御覧ずらん人の影
724 蝶舐る朱硯の水澱みたり
725 蔵つきたり紅梅の枝黒い塀
726 山三里桜に足駄穿きながら
727 花を活けて京音の寡婦なまめかし
728 鶯や隣あり主人垣を覗く
729 連立て帰うと雁皆去りぬ
730 歯ぎしりの下婢恐ろしや春の宵
731 太刀佩くと夢みて春の晨哉
732 鳴く事を鶯思ひ立つ日哉
733 吾妹子に揺り起されつ春の雨
734 普化寺に犬逃げ込むや梅の花
735 紅梅は愛せず折て人に呉れぬ
736 花に来たり瑟を鼓するに意ある人
737 禿いふわしや煩ふて花の春
738 きぬぎぬの鐘につれなく冴え返る
739 虚無僧の敵這入ぬ梅の門     (713~「同上」)

740  春の雲峰をはなれて流れけり(「漱石・虚子・霽月」句会)
741 捲き上げし御簾斜也春の月  (同上)
742 紅梅や内侍玉はる司人    (同上)

743 先達の斗巾の上や落椿(子規へ送りたる句稿十四・四十句・三月)
744 御陵や七つ下りの落椿
745 金平のくるりくるりと鳳巾
746 舟軽し水皺よつて蘆の角
747 薺摘んで母なき子なり一つ家
748 種卸し種卸し婿と舅かな
749 鶯の鳴かんともせず枝移り
750 仰向て深編笠の花見哉
751 女らしき虚無僧見たり山桜
752 奈古寺や七重山吹八重桜
753 春の江の開いて遠し寺の塔
754 柳垂れて江は南に流れけり
755 川向ひ桜咲きけり今戸焼
756 頼もうと竹庵来たり梅の花
757 雨に濡れて鶯鳴かぬ処なし
758 居士一驚を喫し得たり江南の梅一時に開く
759 手習や天地玄黄梅の花
760 霞むのは高い松なり国境
761 奈良七重菜の花つゞき五形咲く
762 草山や南をけづり麦畑
763 御簾揺れて人ありや否や飛ぶ胡蝶
764 端然と恋をして居る雛かな
765 藤の花本妻尼になりすます
766 待つ宵の夢ともならず梨の花
767 春風や吉田通れば二階から
768 風が吹く幕の御紋は下り藤
769 花売は一軒置て隣りなり
770 登りたる凌雲閣の霞かな
771 思ひ出すは古白と申す春の人
772 山城や乾にあたり春の水
773 夫子暖かに無用の肱を曲げてねる
774 家あり一つ春風春水の真中に
775 模糊として竹動きけり春の山
776 限りなき春の風なり馬の上
777 乙鳥や赤い暖簾の松坂屋
778 古ぼけた江戸錦絵や春の雨
779 蹴爪づく富士の裾野や木瓜の花
780 朧故に行衛も知らぬ恋をする
781 春の海に橋を懸けたり五大堂
782 足弱を馬に乗せたり山桜   (743~「同上」)

783 君帰らず何処の花を見にいたか
784 宗匠となりすましたる頭巾かな
785 永き日やあくびうつして分れ行く
786 わかるゝや一鳥啼て雲に入る783


(松山時代から熊本時代へ)

    松山より熊本に行く時/虚子に託して霽月に贈る(一句)
787 逢はで散る花に涙を濺(そそ)げかし (漱石・30歳「明治29年(1896)」) 
≪村上霽月の漱石追悼文「漱石君を偲ぶ」(「渋柿」大6・2)では「散る」を「去る」とする。漱石は、四月十日に松山を離れた。≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

788 花に寝ん夢になと来て遇ひたまへ
789 名乗りくる小さき春の夜舟かな
790 市中に君に飼はれて鳴く蛙
791 尾上より風かすみけり燧灘
792 窓低し菜の花明り夕曇り
793 駄馬つゞく阿蘇街道の若葉かな
794 山吹の淋しくも家の一つかな
795 月斜め筍竹にならんとす
796 ぬいで丸めて捨てゝ行くなり更衣
797 衣更へて京より嫁を貰ひけり788

798 海嘯去つて後すさまじや五月雨(子規へ送りたる句稿十五・四十句・七月)
799 かたまるや散るや蛍の川の上
800 一つすうと座敷を抜る蛍かな
801 竹四五竿をりをり光る蛍かな
802 うき世いかに坊主となりて昼寐する
803 さもあらばあれ時鳥啼て行く
804 禅定の僧を囲んで鳴く蚊かな
805 うき人の顔そむけたる蚊遣かな
806 筋違に芭蕉渡るや蝸牛
807 袖に手を入て反りたる袷かな
808 短夜の芭蕉は伸びて仕まひけり
809 もう寐ずばなるまいなそれも夏の月
810 短夜の夢思ひ出すひまもなし
811 仏壇に尻を向けたる団扇かな
812 ある画師の扇子捨てたる流かな
813 貧しさは紙帳ほどなる庵かな
814 午砲打つ地城の上や雲の峰 (原句 号砲や地城の上の雲の峰)
815 黒船の瀬戸に入りけり雲の峰
816 行軍の喇叭の音や雲の峰
817 二里下る麓の村や雲の峰
818 涼しさの闇を来るなり須磨の浦
819 涼しさの目に余りけり千松島
820 袖腕に威丈高なる暑かな
821 銭湯に客のいさかふ暑かな
822 かざすだに面はゆげなる扇子哉
823 涼しさや大釣鐘を抱て居る
824 夕立の湖に落ち込む勢かな
825 涼しさや山を登れば岩谷寺
826 吹井戸やぼこりぼこりと真桑瓜
827 涼しさや水干着たる白拍子
828 ゑいやつと蠅叩きけり書生部屋
829 吾老いぬとは申すまじ更衣
830 異人住む赤い煉瓦や棕櫚の花
831 敷石や一丁つゞく棕櫚の花
832 独居の帰ればむつと鳴く蚊哉
833 尻に敷て笠忘れたる清水哉
834 据風呂の中はしたなや柿の花
835 短夜を君と寐ようか二千石とらうか
836 祖母様の大振袖や土用干
837 玉章や袖裏返す土用干      (798~「同上」) 

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/201007article_261.html

(子規へ送りたる句稿十六・三十句・明治二十九年八月)

838 すゞしさや裏は鉦うつ光琳寺(季=涼し(夏)。「光琳寺」=漱石の家の裏手の寺)
839 涼しさや門にかけたる橋斜め(季=涼し(夏)。)
840 眠らじな蚊帳に月のさす時は(季=蚊帳(夏)。)
841 国の名を知つておぢやるか時鳥(季=時鳥(夏)。「おぢやる」=「居る」の尊敬語)
842 西の対(たい)へ渡らせ給ふ葵かな(季=葵(夏)。「西の対」=夫人の棲む建物)
843 淙々(そうそう)と筧の音のすゞしさよ(季=涼し(夏)。)
844 橘や通るは近衛大納言(季=橘の花(夏)。)
845 朝貌の黄なるが咲くと申し来ぬ(季=朝顔(秋)。)
846 紅白の蓮擂鉢に開きけり(季=蓮し(夏)。)
847 涼しさや奈良の大仏腹の中(季=涼し(夏)。)
848 淋しくもまた夕顔のさかりかな(季=夕顔(夏)。)
849 あつきものむかし大坂夏御陣(季=暑し(夏)。)
850 夕日さす裏は磧のあつさかな
851 午時の草もゆるがず照る日かな
852 琵琶の名は青山とこそ時鳥
853 就中大なるが支那の団扇にて
854 くらがりに団扇の音や古槐
855 夏痩せて日に焦けて雲水の果はいか
856 床に達磨芭蕉涼しく吹かせけり
857 百日紅浮世は熱きものと知りぬ
858 手をやらぬ朝貌のびて哀なり
859 絹団扇墨画の竹をかゝんかな
860 独身や髭を生して夏に籠る
861 夏書すとて一筆しめし参らする
862 なんのその南瓜の花も咲けばこそ
863 我も人も白きもの着る涼みかな
864 物や思ふと人の問ふまで夏痩せぬ
865 満潮や涼んで居れば月が出る
866 大慈寺の山門長き青田かな
867 唐茄子と名にうたはれて歪みけり  (838~「同上」)

(子規へ送りたる句稿十七・〔四十句・明治二十九年九月〕)

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/201007article_262.html

868 初秋の千本の松動きけり
869 鹹はゆき露にぬれたる鳥居哉
870 秋立つや千早古る世の杉ありて
871 見上げたる尾の上に秋の松高し
872 反橋の小さく見ゆる芙蓉哉
873 古りけりな道風の額秋の風
874 鴫立つや礎残る事五十
875 温泉の町や踊ると見えてさんざめく
876 碧巌を提唱す山内の夜ぞ長き
877 ひやひやと雲が来る也温泉の二階
878 玉か石か瓦かあるは秋風か
879 枕辺や星別れんとする晨
880 稲妻に行手の見えぬ広野かな
881 秋風や京の寺々鐘を撞く
882 明月や琵琶を抱へて弾きもやらず
883 廻廊の柱の影や海の月
884 明月や丸きは僧の影法師
885 酒なくて詩なくて月の静かさよ
886 明月や背戸で米搗く作右衛門
887 明月や浪華に住んで橋多し
888 引かで鳴る夜の鳴子の淋しさよ
889 無性なる案山子朽ちけり立ちながら
890 打てばひゞく百戸余りの砧哉
891 衣擣つて郎に贈らん小包で
892 鮎渋ぬ降り込められし山里に
893 鱸魚肥えたり楼に登れば風が吹く
894 白壁や北に向ひて桐一葉
895 柳ちりて長安は秋の都かな
896 垂れかゝる萩静かなり背戸の川
897 落ち延びて只一騎なり萩の原
898 蘭の香や聖教帖を習はんか (原句 蘭の香や聖教帖を習ふべし)
899 後に鳴き又先に鳴き鶉かな
900 窓をあけて君に見せうず菊の花
901 作らねど菊咲にけり折りにけり (原句 作らねど菊咲にけり活にけり)
902 世は貧し夕日破垣烏瓜
903 鶏頭や代官殿に御意得たし
904 長けれど何の糸瓜とさがりけり
905 禅寺や芭蕉葉上愁雨なし
906 無雑作に蔦這上る厠かな
907 仏には白菊をこそ参らせん  (868~「同上」)

(子規へ送りたる句稿十八・〔十六句・明治二十九年十月〕

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/201007article_263.html

910 行く秋をすうとほうけし薄哉
911 行く秋の犬の面こそけゞんなれ
912 てい袍を誰か贈ると秋暮れぬ
913 祭文や小春治兵衛に暮るゝ秋
914 僧堂で痩せたる我に秋暮れぬ
915 行秋や此頃参る京の瞽女
916 行秋を踏張て居る仁王哉
917 行秋や博多の帯の解け易き
918 機を織る孀二十で行く秋や
919 行く秋やふらりと長き草履の緒
920 日の入や五重の塔に残る秋
921 行く秋や椽にさし込む日は斜
922 山は残山水は剰水にして残る秋
923 原広し吾門前の星月夜
924 新らしき蕎麦打て食はん坊の雨
925 古白とは秋につけたる名なるべし   

(子規へ送りたる句稿十九・〔十五句・明治二十九年十月〕

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/201007article_264.html

926 今年より夏書せんとぞ思ひ立つ
927 独り顔を団扇でかくす不審なり
928 降る雪よ今宵ばかりは積れかし
929 思ひきや花にやせたる御姿
930 影法師月に並んで静かなり
931 きぬぎぬや裏の篠原露多し
932 見送るや春の潮のひたひたに
933 人に言へぬ願の糸の乱れかな
934 君が名や硯に書いては洗ひ消す
935 橋落ちて恋中絶えぬ五月雨
936 忘れしか知らぬ顔して畠打つ
937 行春を琴掻き鳴らし掻き乱す
938 五月雨や鏡曇りて恨めしき
939 生れ代るも物憂からましわすれ草
940 化石して強面なくならう朧月

(子規へ送りたる句稿に二十・〔二十八句・明治二十九年十一月〕

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/201007article_265.html

941 藻ある底に魚の影さす秋の水
942 秋の山松明かに入日かな
943 秋の日中山を越す山に松ばかり
944 一人出て粟刈る里や夕焼す
945 配達ののぞいて行くや秋の水
946 秋行くと山僮窓を排しいふ
947 秋の蠅握つて而して放したり
948 生憎や嫁瓶を破る秋の暮
949 摂待や御僧は柿をいくつ喰ふ
950 馬盥や水烟して朝寒し
951 菊咲て通る路なく逢はざりき
952 空に一片秋の雲行く見る一人
953 秋高し吾白雲に乗らんと思ふ
954 野分して一人障子を張る男
955 御名残の新酒とならば戴かん
956 菊活けて内君転た得意なり
957 見えざりき作りし菊の散るべくも
958 肌寒や膝を崩さず坐るべく
959 僧に対すうそ寒げなる払子の尾
960 善男子善女子に寺の菊黄なり
961 盛り崩す碁石の音の夜寒し
962 壁の穴風を引くべく鞘寒し
963 蟷螂のさりとては又推参な
964 此里や柿渋からず夫子住む
965 初冬や向上の一路未だ開かず
966 冬来たり袖手して書を傍観す
967 初冬を刻むや烈士喜剣の碑
968 初冬の琴面白の音じめ哉

(子規へ送りたる句稿二十一・〔六十二句・明治二十九年十二月〕

969 凩や海に夕日を吹き落す
970 吾栽し竹に時雨を聴く夜哉
971 ぱちぱちと枯葉焚くなり薬師堂
972 浪人の寒菊咲きぬ具足櫃
973 謡ふべき程は時雨つ羅生門
974 折り焚きて時雨に弾かん琵琶もなし
975 銀屏を後ろにしたり水仙花
976 水仙や主人唐めく秦の姓
977 水仙や根岸に住んで薄氷
978 村長の羽織短かき寒哉
979 革羽織古めかしたる寒かな
980 凩の松はねぢれつ岡の上
981 野を行けば寒がる吾を風が吹く
982 策つて凩の中に馬のり入るゝ
983 夕日逐ふ乗合馬車の寒かな
984 雪ながら書院あけたる牡丹哉
985 堅炭の形ちくづさぬ行衛哉
986 雑炊や古き茶碗に冬籠
987 鼓うつや能楽堂の秋の水
988 重なるは親子か雨に鳴く鶉
989 底見ゆる一枚岩や秋の水
990 行年を家賃上げたり麹町
991 行年を妻炊ぎけり粟の飯
992 器械湯の石炭臭しむら時雨
993 酔て叩く門や師走の月の影
994 貧にして住持去るなり石蕗の花
995 博徒市に闘ふあとや二更の冬の月
996 しぐれ候程の宿につきて候 (原句 しぐれ候程の宿につきて候程に)
997 累々と徳孤ならずの蜜柑哉
998 同化して黄色にならう蜜柑畠
999 日あたりや熟柿の如き心地あり
1000 大将は五枚しころの寒さかな
1001 勢の蜀につらなる小春かな
1002 かきならす灰の中より木の葉哉
1003 汽車を逐て煙這行枯野哉
1004 紡績の笛が鳴るなり冬の雨
1005 がさがさと紙衣振へば霰かな
1006 挨拶や髷の中より出る霰
1007 かたまつて野武士落行枯野哉
1008 星飛ぶや枯野に動く椎の影
1009 鳥一つ吹き返さるゝ枯野かな
1010 さらさらと栗の落葉や鶪の声
1011 空家やつくばひ氷る石蕗の花
1012 飛石に客すべる音す石蕗の花
1013 吉良殿のうたれぬ江戸は雪の中
1014 覚めて見れば客眠りけり炉のわきに
1015 面白し雪の中より出る蘇鉄
1016 寐る門を初雪ぢやとて叩きけり
1017 雪になつて用なきわれに合羽あり
1018 僧俗の差し向ひたる火桶哉
1019 六波羅へ召れて寒き火桶哉
1020 物語る手創や古りし桐火桶
1021 生垣の上より語る小春かな
1022 小春半時野川を隔て語りけり
1023 居眠るや黄雀堂に入る小春
1024 家富んで窓に小春の日陰かな
1025 白旗の源氏や木曾の冬木立
1026 立籠る上田の城や冬木立
1027 枯残るは尾花なるべし一つ家
1028 時雨るゝは平家につらし五家荘
1029 藁葺をまづ時雨けり下根岸
1030 堂下潭あり潭裏影あり冬の月   (969~「同上」)

1031 扶けられて驢背危し雪の客(雑誌「めざまし草」)
1032 戸を開けて驚く雪の晨かな(「新俳句」)
1033 薫風や銀杏三抱あまりなり(「承露版」より)
1034 茂りより二本出て来る筧哉(「承露版」より)
1035 亭寂寞薊鬼百合なんど咲く(「承露版」より)
1036 土手枯れて左右に長き筧哉(「承露版」より)
1037 はじめての鮒屋泊りをしぐれけり(この句の短冊あり・松山道後温泉)
1038 どつしりと尻を据えたる南瓜かな
≪ 季=南瓜(秋)。※『吾輩は猫である』中篇自序で、904の句とこの句を正岡子規の墓前に捧げている。(後略)≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

(参考)『吾輩は猫である』中篇自序(周辺)

904  長けれど何の糸瓜とさがりけり
1038 どつしりと尻を据えたる南瓜かな

『吾輩は猫である』中篇自序

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/2671_6498.html

≪「猫」の稿を継(つ)ぐときには、大抵初篇と同じ程な枚数に筆を擱(おい)て、上下二冊の単行本にしようと思って居た。所が何かの都合で頁(ページ)が少し延びたので書肆(しょし)は上中下にしたいと申出た。其辺は営業上の関係で、著作者たる余には何等の影響もない事だから、それも善(よかろ)うと同意して、先(まず)是丈(これだけ)を中篇として発行する事にした。
 そこで序をかくときに不図(ふと)思い出した事がある。余が倫敦(ロンドン)に居るとき、忘友子規の病を慰める為め、当時彼地かのちの模様をかいて遙々(はるばる)と二三回長い消息をした。無聊(ぶりょう)に苦んで居た子規は余の書翰(しょかん)を見て大に面白かったと見えて、多忙の所を気の毒だが、もう一度何か書いてくれまいかとの依頼をよこした。此時子規は余程(よほど)の重体で、手紙の文句も頗(すこぶる)悲酸(ひさん)であったから、情誼(じょうぎ)上何か認(したた)めてやりたいとは思ったものの、こちらも遊んで居る身分ではなし、そう面白い種をあさってあるく様な閑日月もなかったから、つい其儘(そのまま)にして居るうちに子規は死んで仕舞しまった。
 筺底(きょうてい)から出して見ると、其手紙にはこうある。

 僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテマス。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カッタ。近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー。夫(それ)ガ病人ニナッテシマッタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往(いっ)タヨウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ。若(もシ)書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)
 画ハガキモ慥(たしか)ニ受取タ。倫敦(ロンドン)ノ焼芋(やきいも)ノ味ハドンナカ聞キタイ。
 不折ハ今巴里(パリ)ニ居テコーランノ処ヘ通ッテ居ルソウジャナイカ。君ニ逢(お)ウタラ鰹節一本贈ルナドトイウテ居タガ、モーソンナ者ハ食ウテシマッテアルマイ。
 虚子ハ男子ヲ挙ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤッタ。
 錬郷死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマッタ。
 僕ハ迚(とて)モ君ニ再会スルコト、出来ヌト思ウ。万一出来タトシテモ其時ハ話モ出来ナクナッテルデアロー。実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。
 書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ。
  明治卅四年十一月六日灯下ニ書ス
東京 子規 拝

  倫敦(ロンドン)ニテ
   漱石 兄

 此手紙は美濃紙へ行書でかいてある。筆力は垂死の病人とは思えぬ程慥(たし)かである。余は此手紙を見る度(たび)に何だか故人に対して済まぬ事をしたような気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉えとある文句は露佯(つゆいつわり)のない所だが、書きたいことは書きたいが、忙がしいから許してくれ玉えと云う余の返事には少々の遁辞(とんじ)が這入(はいっ)て居る。憐(あわれな)る子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐かいもなく呼吸(いき)を引き取ったのである。
 子規はにくい男である。嘗(かつ)て墨汁一滴か何かの中に、独乙(ドイツ)では姉崎や、藤代が独乙語で演説をして大喝采(だいかっさい)を博しているのに漱石は倫敦(ロンドン)の片田舎(かたいなか)の下宿に燻(くすぶ)って、婆さんからいじめられていると云う様な事をかいた。こんな事をかくときは、にくい男だが、書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉え抔(など)と云われると気の毒で堪(たまら)ない。余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞しまった。
 子規がいきて居たら「猫」を読んで何と云うか知らぬ。或(あるい)は倫敦消息は読みたいが「猫」は御免(ごめん)だと逃げるかも分らない。然し「猫」は余を有名にした第一の作物である。有名になった事が左程(さほど)の自慢にはならぬが、墨汁一滴のうちで暗(あん)に余を激励した故人に対しては、此作を地下に寄するのが或は恰好(かっこう)かも知れぬ。季子は剣を墓にかけて、故人の意に酬(むく)いたと云うから、余も亦また「猫」を碣頭(けっとう)に献じて、往日の気の毒を五年後の今日に晴そうと思う。
 子規は死ぬ時に糸瓜(へちま)の句を咏(よん)で死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と称え、子規自身の事を糸瓜仏となづけて居る。余が十余年前子規と共に俳句を作った時に
  長けれど何の糸瓜とさがりけり
という句をふらふらと得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併あわせて地下に捧げる。
  どつしりと尻を据すえたる南瓜かぼちゃかな
と云う句も其頃作ったようだ。同じく瓜と云う字のつく所を以て見ると南瓜も糸瓜も親類の間柄(あいだがら)だろう。親類付合のある南瓜の句を糸瓜仏に奉納するのに別段の不思議もない筈(はず)だ。そこで序(ついで)ながら此句も霊前に献上する事にした。子規は今どこにどうして居るか知らない。恐らくは据(すえ)るべき尻がないので落付をとる機械に窮しているだろう。余は未(いまだ)に尻を持って居る。どうせ持っているものだから、先(まず)どっしりと、おろして、そう人の思わく通り急には動かない積(つも)りである。然し子規は又例の如く尻持たぬわが身につまされて、遠くから余の事を心配するといけないから、亡友に安心をさせる為め一言断って置く。
  明治三十九年十月  ≫
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夏目漱石の「俳句と書画」(その五) [「子規と漱石」の世界]

その五 「愚陀仏庵」での漱石と子規(周辺)

松山中学第二回卒業生紀念写真.jpg

「松山中学第二回卒業生紀念写真」(愛媛県尋常中学校卒業生と/ 1896.4(明治29)/ (「夏目漱石デジタルコレクション」)
{https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html
前から三列目の左から二人目=夏目漱石(三十歳)

松山中・解説文.jpg

「同上・解説文」
最前列右から三人目(漱石の主治医となった「真鍋嘉一郎」)
同右から二人目(三菱商事会長・三菱本社理事長を歴任した「船田一雄」)
前から二列目の右から四人目(『坊ちゃん』の「赤シャツ」のモデルとされている校長の「横地石太郎」)


夏目漱石年譜(「東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ」) (抜粋)

https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/soseki/nenpu.html

【明治28(1895)  4月 愛媛県尋常中学校嘱託教員に任命される。生徒には 真鍋嘉一郎 松根豊次郎(東洋城)ら
6月 転居し「愚陀仏庵」と名付ける
8月-10月 正岡子規が同宿しほぼ毎晩運座をおこなう
12月 中根鏡と見合いをし婚約が成立する

明治29(1896)  4月 熊本県第五高等学校に赴任する 『フランスの革命』 『ハムレット』 『オセロ』を講義する
6月 鏡との結婚式を挙げる 】

漱石の「愚陀仏庵」での句(明治二十八年・一八九五)

55 将軍の古塚あれて草の花(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=草の花(秋)。※明治二十八年八月二十七日から約五十日間、子規は松山市二番町の漱石の下宿(愚陀仏庵)に仮寓した。子規の元には地元の俳句グループ松風会の会員などが訪れ、連夜にわたる句会が開かれることになり漱石もそれに加わった。そこで詠まれた句は、松風会のリーダー柳原極堂(当時は碌堂)のかかわる『海南新聞』(中略)に発表された。(中略) 漱石の句については、この句が九月三日に掲載されたのを皮切りに、翌年五月二十四日まで一〇二句が載った。◇『海南新聞』。 ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

56 鐘つけば銀杏ちるなり建長寺(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=銀杏ちる(秋)。(中略) 子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の成立に影響した句と考えられる。(中略)  ◇『海南新聞』。 ≫(『同上』)

57 白露や芙蓉したたる音すなり(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=白露(秋)。◇『海南新聞』。 ≫(『同上』)

58 長き夜を唯蝋燭の流れけり(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=長き夜(秋)。◇『海南新聞』。 ≫(『同上』)

59 乗りながら馬の糞する野菊哉(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=野菊(秋)。◇『海南新聞』。 ≫(『同上』)

60 馬に二人霧をいでたり鈴のおと(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=霧(秋)。◇『海南新聞』。 ≫(『同上』)

(61~72=略 )

漱石の「子規へ送りたる句稿(一・三十二句)」

73 蘭の香や門を出づれば日の御旗(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=蘭の香(秋)。(中略) この句稿を送った九月二十三日は、秋季皇霊祭(旧制の祭日)。この104までの三十二句を収める句稿は、漱石が子規に送った一連の句稿のうち、今日知られる最初のもの。子規は十月中旬に愚陀仏庵を出て東京へ戻ったが、漱石は東京の子規に続々と句稿を送り、その批評を求めた。その句稿は現在「三十五」までが知られている。(後略) ≫(『同上』)

(74~108=略)

愚陀仏庵.jpg

松山・愚陀仏庵(上野家の離れ)裏二階(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

愚陀仏庵・解説文.jpg

「同上・解説文」

「子規を送る 五句」

109 疾く帰れ母一人ます菊の庵(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=菊(秋)。※「一人ます」は、一人がいらっしゃる。◇十月十二日、松山の花廼舎で開かれた子規の「留送別会」での子規送別の句。子規は上京すべく十九日に松山(三津港)を出港する。(後略) ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

110 秋の雲只むらむらと別れ哉(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=秋の雲。(後略) ≫(「同上」)

111 見つつ行け旅に病むとも秋の不二(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=秋(雑)。(後略) ≫(「同上」)

112 この夕べ野分に向て別れけり(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=野分。(後略) ≫(「同上」)

113 お立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=新酒・菊(秋)。※「お立ちやるかお立ちやれ」は、「出発なさるか、出発なさい」の意味の松山方言。 (後略) ≫(「同上」)

「漱石短冊」切手.jpg

「送子規/お立ちやるか/お立ちやれ新酒/菊の花/漱石」(「漱石短冊」切手)
https://ameblo.jp/hula-ranchan/image-11393051037-12263191894.html


(追記)夏目漱石俳句集(その二)<制作年順> 明治28年(53~516)

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/200911article_4.html

明治28年(1895年)

53 夜三更僧去つて梅の月夜かな
54 ゆく水の朝な夕なに忙しき
55 将軍の古塚あれて草の花
56 鐘つけば銀杏ちるなり建長寺
57 白露や芙蓉したたる音すなり
58 長き夜を唯蝋燭の流れけり
59 乗りながら馬の糞する野菊哉
60 馬に二人霧をいでたり鈴のおと
61 泥亀のながれ出でたり落し水
62 うてや砧これは都の詩人なり
63 明けやすき七日の夜を朝寝かな
64 秋の蝉死に度くもなき声音かな
65 柳ちるかたかは町や水のおと
66 風ふけば糸瓜をなぐるふくべ哉
67 爺と婆さびしき秋の彼岸かな
68 稲妻やをりをり見ゆる滝の底
69 親一人子一人盆のあはれなり
70 夕月や野川をわたる人はたれ
71 蓑虫のなくや長夜のあけかねて
72 便船や夜を行く雁のあとや先

73 蘭の香や門を出づれば日の御旗 (「子規へ送りたる句稿一・三十二句)
74 芭蕉破れて塀破れて旗翩々たり (同上)
75 朝寒に樒売り来る男かな    (同上)
76 朝貌や垣根に捨てし黍のから  (同上)
77 柳ちる紺屋の門の小川かな (同上)
78 見上ぐれば城屹として秋の空  (同上)
79 烏瓜塀に売家の札はりたり   (同上)
80 縄簾裏をのぞけば木槿かな   (同上)
81 崖下に紫苑咲きけり石の間   (同上)
82 独りわびて僧何占ふ秋の暮   (同上)
83 痩馬の尻こそはゆし秋の蠅   (同上)
84 鶏頭や秋田漠々家二三     (同上) 
85 秋の山南を向いて寺二つ    (同上)
86 汽車去つて稲の波うつ畑かな  (同上)
87 鶏頭の黄色は淋し常楽寺    (同上)
88 杉木立中に古りたり秋の寺   (同上)
89 尼二人梶の七葉に何を書く   (同上)
90 聨古りて山門閉ぢぬ芋の蔓   (同上)
91 渋柿や寺の後の芋畠      (同上)
92 肌寒や羅漢思ひ思ひに坐す   (同上)
93 秋の空名もなき山の愈高し   (同上)
94 曼珠沙花門前の秋風紅一点   (同上)
95 黄檗の僧今やなし千秋寺    (同上)
96 三方は竹緑なり秋の水     (同上)
97 藪影や魚も動かず秋の水    (同上)
98 山四方中を十里の稲莚<    (同上)
99 一里行けば一里吹くなり稲の風 (同上)
100 色鳥や天高くして山小なり  (同上)
101 大藪や数を尽して蜻蛉とぶ  (同上)
102 秋の山後ろは大海ならんかし (同上)
103 土佐で見ば猶近からん秋の山 (同上)
104 帰燕いづくにか帰る草茫々  (同上)
105 春三日よしのゝ桜一重なり  (同上)
106 驀地に凩ふくや鳰の湖    (同上)
107 わがやどの柿熟したり鳥来たり(同上)
108 掛稲やしぶがき垂るる門構  (同上)
109 疾く帰れ母一人ます菊の庵  (同上)
110 秋の雲只むらむらと別れ哉  (同上)
111 見つゝ行け旅に病むとも秋の不二(同上)
112 この夕野分に向て分れけり   (同上)
113 お立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花(同上)

114 凩に裸で御はす仁王哉      (「子規へ送りたる句稿二・四十六句)
115 吹き上げて塔より上の落葉かな  (同上)
116 五重の塔吹き上げられて落葉かな (同上)
117 滝壺に寄りもつかれぬ落葉かな  (同上)
118 半途より滝吹き返す落葉かな   (同上)
119 男滝女滝上よ下よと木の葉かな  (同上)
120 時雨るゝや右手なる一の台場より (同上)
121 洞門に颯と舞ひ込む木の葉かな  (同上)
122 御手洗や去ればこゝにも石蕗の花 (同上)
123 寒菊やこゝをあるけと三俵    (同上)
124 冬の山人通ふとも見えざりき   (同上)
125 此枯野あはれ出よかし狐だに   (同上)
126 閼伽桶や水仙折れて薄氷     (同上)
127 凩に鯨潮吹く平戸かな      (同上)
128 勢ひひく逆櫓は五丁鯨舟     (同上)
129 枯柳芽ばるべしども見えぬ哉   (同上)
130 茶の花や白きが故に翁の像    (同上)
131 山茶花の折らねば折らで散りに鳧 (同上)
132 時雨るゝや泥猫眠る経の上    (同上)
133 凩や弦のきれたる弓のそり    (同上)
134 飲む事一斗白菊折つて舞はん哉  (同上)
135 憂ひあらば此酒に酔へ菊の主   (同上)
136 黄菊白菊酒中の天地貧ならず   (同上)
137 菊の香や晋の高士は酒が好き   (同上)
138 兵ものに酒ふるまはん菊の花   (同上)
139 紅葉散るちりゝちりゝとちゞくれて(同上)
140 簫吹くは大納言なり月の宴    (同上)
141 紅葉をば禁裏へ参る琵琶法師   (同上)
142 紅葉ちる竹縁ぬれて五六枚    (同上)
143 麓にも秋立ちにけり滝の音    (同上)
144 うそ寒や灯火ゆるぐ滝の音    (同上)
145 宿かりて宮司が庭の紅葉かな   (同上)
146 むら紅葉是より滝へ十五丁    (同上)
147 雲処々岩に喰ひ込む紅葉哉    (同上)
148 見ゆる限り月の下なり海と山   (同上)
149 時鳥あれに見ゆるが知恩院    (同上)
150 名は桜物の見事に散る事よ    (同上)
151 巡礼と野辺につれ立つ日永哉   (同上)
152 反橋に梅の花こそ畏しこけれ   (同上)
153 初夢や金も拾はず死にもせず   (同上)
154 柿売るや隣の家は紙を漉く    (同上)
155 蘆の花夫より川は曲りけり    (同上)
156 春の川故ある人を脊負ひけり   (同上)
157 草山の重なり合へる小春哉    (同上)
158 時雨るゝや聞としもなく寺の屋根 (同上)
159 憂き事を紙衣にかこつ一人哉   (同上)

160 日の入や秋風遠く鳴て来る   
161 はらはらとせう事なしに萩の露

子規へ送りたる句稿三.jpg

(「子規へ送りたる句稿三」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
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子規へ送りたる句稿三・読み下し文一.jpg
子規へ送りたる句稿三・読み下し文二.jpg

(「子規へ送りたる句稿三(読み下し文)」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
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162 煩悩は百八減つて今朝の春  (「子規へ送りたる句稿三・四十二句)
163 ちとやすめ張子の虎も春の雨 (同上)
164 恋猫や主人は心地例ならず  (同上)
165 見返れば又一ゆるぎ柳かな  (同上)
166 不立文字白梅一木咲きにけり (同上)
167 春風や女の馬子の何歌ふ   (同上)
168 春の夜の若衆にくしや伊達小袖(同上)
169 春の川橋を渡れば柳哉    (同上)
170 うねうねと心安さよ春の水  (同上)

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171 思ふ事只一筋に乙鳥かな   (同上)
172 鶯や隣の娘何故のぞく    (同上)
173 行く春を鉄牛ひとり堅いぞや (同上)
174 春の雨鶯も来よ夜着の中   (同上)
175 春の雨晴れんとしては烟る哉 (同上)
176 咲たりな花山続き水続き   (同上)
177 桜ちる南八男児死せんのみ  (同上)
178 鵜飼名を勘作と申し哀れ也  (同上)
179 時鳥たつた一声須磨明石   (同上)
180 五反帆の真上なり初時鳥   (同上)
181 裏河岸の杉の香ひや時鳥   (同上)
182 猫も聞け杓子も是へ時鳥   (同上)
183 湖や湯元へ三里時鳥     (同上)
184 時鳥折しも月のあらはるゝ  (同上)
185 五月雨ぞ何処まで行ても時鳥 (同上)
186 時鳥名乗れ彼山此峠     (同上)
187 夏痩の此頃蚊にもせゝられず (同上)
188 棚経や若い程猶哀れ也    (同上)
189 御死にたか今少ししたら蓮の花(同上)
190 百年目にも参うず程蓮の飯  (同上)
191 蜻蛉や杭を離るゝ事二寸   (同上)
192 轡虫すはやと絶ぬ笛の音   (同上)
193 谷深し出る時秋の空小し   (同上)
194 雁ぢやとて鳴ぬものかは妻ぢやもの(同上)
195 鶏頭に太鼓敲くや本門寺   (同上)
196 朝寒の鳥居をくゞる一人哉   (同上)
197 稲刈りてあないたはしの案山子かも(同上)
198 時雨るや裏山続き薬師堂    (同上)
199 時雨るや油揚烟る縄簾     (同上)
200 海鼠哉よも一つにては候まじ  (同上)
201 淋しいな妻ありてこそ冬籠   (同上)
202 弁慶に五条の月の寒さ哉    (同上)
203 行春や候二十続きけり     (同上)

子規へ送りたる句稿四.jpg

(「子規へ送りたる句稿四」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
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子規へ送りたる句稿四・読み下し文一三.jpg
子規へ送りたる句稿四・読み下し文二.jpg

(「子規へ送りたる句稿四(読み下し文)」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
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204 誰が家ぞ白菊ばかり乱るゝは (「子規へ送りたる句稿四・五十句)
205 渋柿の下に稲こく夫婦かな (同上)
206 茸狩や鳥居の赤き小松山  (同上)
207 秋風や坂を上れば山見ゆる (同上)
208 花芒小便すれば馬逸す   (同上)
209 鎌倉堂野分の中に傾けり  (同上)
210 山四方菊ちらほらの小村哉 (同上) 
211 二三本竹の中也櫨紅葉   (同上) 
212 秋の山静かに雲の通りけり (同上)
213 谷川の左右に細き刈田哉  (同上)
214 瀬の音や渋鮎淵を出で兼る (同上) 
215 赤い哉仁右衛門が脊戸の蕃椒(同上)
216 芋洗ふ女の白き山家かな  (同上)
217 鶏鳴くや小村小村の秋の雨 (同上)
218 掛稲や塀の白きは庄屋らし (同上)
219 四里あまり野分に吹かれ参りたり(同上)
220 新酒売る家ありて茸の名所哉  (同上)
221 秋雨に行燈暗き山家かな  (同上)
222 孀の家独り宿かる夜寒かな (同上)
223 客人を書院に寐かす夜寒哉 (同上)
224 乱菊の宿わびしくも小雨ふる(同上)
225 木枕の堅きに我は夜寒哉  (同上)
226 秋雨に明日思はるゝ旅寐哉 (同上)
227 世は秋となりしにやこの蓑と笠(同上)
228 山の雨案内の恨む紅葉かな (同上)
229 鎌さして案内の出たり滝紅葉(同上)
230 朝寒や雲消て行く少しづゝ (同上) 
231 絶壁や紅葉するべき蔦もなし (同上)
232 山紅葉雨の中行く瀑見かな (同上)
233 うそ寒し瀑は間近と覚えたり(同上)
234 山鳴るや瀑とうとうと秋の風(同上)
235 満山の雨を落すや秋の滝  (同上)
236 大岩や二つとなつて秋の滝 (同上)
237 水烟る瀑の底より嵐かな (同上)
238 白滝や黒き岩間の蔦紅葉 (同上)
239 瀑五段一段毎の紅葉かな (同上)
240 荒滝や野分を斫て捲き落す(同上)
241 秋の山いでや動けと瀑の音  (同上)
242 瀑暗し上を日の照るむら紅葉 (同上)
243 むら紅葉日脚もさゝぬ瀑の色 (同上)
244 雲来り雲去る瀑の紅葉かな  (同上)
245 瀑半分半分をかくす紅葉かな (同上)
246 霧晴るゝ瀑は次第に現はるゝ (同上)
247 大滝を北へ落すや秋の山   (同上)
248 秋風や真北へ瀑を吹き落す  (同上)
249 絶頂や余り尖りて秋の滝   (同上)
250 旅の旅宿に帰れば天長節   (同上)
251 君が代や夜を長々と瀑の夢  (同上)
252 長き夜を我のみ滝の噂さ哉  (同上)
253 唐黍を干すや谷間の一軒家  (同上)

254 いたづらに菊咲きつらん故郷は (「子規へ送りたる句稿五・十八句)
255 名月や故郷遠き影法師    (同上)
256 去ん候是は名もなき菊作り  (同上)
257 野分吹く瀑砕け散る脚下より (同上)
258 滝遠近谷も尾上も野分哉   (同上)
259 凩や滝に当つて引き返す   (同上)
260 炭売の後をこゝまで参りけり (同上)
261 去ればにや男心と秋の空   (同上)
262 春王の正月蟹の軍さ哉    (同上)
263 待て座頭風呂敷かさん霰ふる (同上)
264 一木二木はや紅葉るやこの鳥居(同上)
265 三十六峰我も我もと時雨けり (同上)
266 初時雨五山の交る交る哉   (同上)
267 菊提て乳母在所より参りけり (同上)
268 酒に女御意に召さずば花に月 (同上)
269 菊の香や故郷遠き国ながら  (同上)
270 秋の暮関所へかゝる虚無僧あり (同上)
271 八寸の菊作る僧あり山の寺   (同上)

子規へ送りたる句稿六.jpg

(「子規へ送りたる句稿六」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
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子規へ送りたる句稿六・読み下し文.jpg

(「子規へ送りたる句稿六(読み下し文)」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
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272 喰積やこゝを先途と悪太郎 (「子規へ送りたる句稿六・四十七句)
273 婆様の御寺へ一人桜かな(「同上」)
274 雛に似た夫婦もあらん初桜(「同上」)
275 裏返す縞のずぼんや春暮るゝ(「同上」)
276 普陀落や憐み給へ花の旅(「同上」)
277 土筆人なき舟の流れけり(「同上」)
278 白魚に己れ恥ぢずや川蒸気(「同上」)
279 白魚や美しき子の触れて見る(「同上」)
280 女郎共推参なるぞ梅の花(「同上」)

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281 朝桜誰ぞや絽鞘の落しざし(「同上」)
282 其夜又朧なりけり須磨の巻(「同上」)
283 亡き母の思はるゝ哉衣がへ(「同上」)
284 便なしや母なき人の衣がへ(「同上」)
285 卯の花に深編笠の隠れけり(「同上」)
286 卯の花や盆に奉捨をのせて出る(「同上」)
287 細き手の卯の花ごしや豆腐売(「同上」)
288 時鳥物其物には候はず(「同上」)
289 時鳥弓杖ついて源三位(「同上」)
290 罌粟の花左様に散るは慮外なり(「同上」)
291 願かけて観音様へ紅の花(「同上」)
292 塵埃り晏子の御者の暑哉(「同上」)
293 銀燭にから紅ひの牡丹哉(「同上」)
294 旅に病んで菊恵まるゝ夕哉(「同上」)
295 行秋や消えなんとして残る雪(「同上」)
296 二十九年骨に徹する秋や此風(「同上」)
297 我病めり山茶花活けよ枕元(「同上」)
298 号外の鈴ふり立る時雨哉(「同上」)
299 病む人に鳥鳴き立る小春哉(「同上」)
300 廓燃無聖達磨の像や水仙花(「同上」)
301 大雪や壮夫羆を護て帰る(「同上」)
302 星一つ見えて寐られぬ霜夜哉(「同上」)
303 霜の朝袂時計のとまりけり(「同上」)
304 木枯の今や吹くとも散る葉なし(「同上」)
305 塵も積れ払子ふらりと冬籠り(「同上」)
306 人か魚か黙然として冬籠り(「同上」)
307 四壁立つらんぷ許りの寒哉(「同上」)
308 疝気持臀安からぬ寒哉(「同上」)
309 凩の上に物なき月夜哉(「同上」)
310 緑竹の猗々たり霏々と雪が降る(「同上」)
311 凩や真赤になつて仁王尊(「同上」)
312 初雪や庫裏は真鴨をたゝく音(「同上」)
313 我を馬に乗せて悲しき枯野哉(「同上」)
314 土佐坊の生擒れけり冬の月(「同上」)
315 ほろ武者の影や白浜月の駒(「同上」)
316 月に射ん的は栴檀弦走り(「同上」)
317 市中は人様々の師走哉(「同上」)
318 何となく寒いと我は思ふのみ(「同上」)

319 我脊戸の蜜柑も今や神無月  (「子規へ送りたる句稿七・六十九句)
320 達磨忌や達磨に似たる顔は誰(「同上」)
321 芭蕉忌や茶の花折つて奉る(「同上」)
322 本堂へ橋をかけたり石蕗の花(「同上」)
323 乳兄弟名乗り合たる榾火哉(「同上」)
324 かくて世を我から古りし紙衣哉(「同上」)
325 我死なば紙衣を誰に譲るべき(「同上」)
326 橋立の一筋長き小春かな(「同上」)
327 武蔵下総山なき国の小春哉(「同上」)
328 初雪や小路へ入る納豆売(「同上」)
329 御手洗を敲いて砕く氷かな(「同上」)
330 寒き夜や馬は頻りに羽目を蹴る(「同上」)
331 来ぬ殿に寐覚物うけ火燵かな(「同上」)
332 酒菰の泥に氷るや石蕗の花(「同上」)
333 古綿衣虱の多き小春哉(「同上」)
334 すさましや釣鐘撲つて飛ぶ霰(「同上」)
335 昨日しぐれ今日又しぐれ行く木曾路(「同上」)
336 鷹狩や時雨にあひし鷹のつら(「同上」)
337 辻の月座頭を照らす寒さ哉(「同上」)
338 枯柳緑なる頃妹逝けり(「同上」)
339 枯蓮を被むつて浮きし小鴨哉(「同上」)
340 京や如何に里は雪積む峰もあり(「同上」)
341 女の子発句を習ふ小春哉(「同上」)
342 ほのめかすその上如何に帰花(「同上」)
343 恋をする猫もあるべし帰花(「同上」)
344 一輪は命短かし帰花(「同上」)
345 吾も亦衣更へて見ん帰花(「同上」)
346 太刀一つ屑屋に売らん年の暮(「同上」)
347 志はかくあらましを年の暮(「同上」)
348 長松は蕎麦が好きなり煤払(「同上」)
349 むつかしや何もなき家の煤払(「同上」)
350 煤払承塵の槍を拭ひけり(「同上」)
351 懇ろに雑炊たくや小夜時雨(「同上」)
352 里神楽寒さにふるふ馬鹿の面(「同上」)
353 夜や更ん庭燎に寒き古社(「同上」)
354 客僧の獅噛付たる火鉢哉(「同上」)
355 冬の日や茶色の裏は紺の山(「同上」)
356 冬枯や夕陽多き黄檗寺(「同上」)
357 あまた度馬の嘶く吹雪哉(「同上」)
358 嵐して鷹のそれたる枯野哉(「同上」)
359 あら鷹の鶴蹴落すや雪の原(「同上」)
360 竹藪に雉子鳴き立つる鷹野哉(「同上」)
361 なき母の忌日と知るや網代守(「同上」)
362 静かなる殺生なるらし網代守(「同上」)
363 くさめして風引きつらん網代守(「同上」)
364 焚火して居眠りけりな網代守(「同上」)
365 賭にせん命は五文河豚汁(「同上」)
366 河豚汁や死んだ夢見る夜もあり(「同上」)
367 夕日寒く紫の雲崩れけり(「同上」)
368 亡骸に冷え尽したる煖甫哉(「同上」)
369 あんかうや孕み女の釣るし斬り(「同上」)
370 あんかうは釣るす魚なり縄簾(「同上」)
371 此頃は女にもあり薬喰(「同上」)
372 薬喰夫より餅に取りかゝる(「同上」)
373 落付や疝気も一夜薬喰(「同上」)
374 乾鮭と並ぶや壁の棕櫚箒(「同上」)
375 魚河岸や乾鮭洗ふ水の音(「同上」)
376 本来の面目如何雪達磨(「同上」)
377 仲仙道夜汽車に上る寒さ哉(「同上」)
378 西行の白状したる寒さ哉(「同上」)
379 温泉をぬるみ出るに出られぬ寒さ哉(「同上」)
380 本堂は十八間の寒さ哉(「同上」)
381 愚陀仏は主人の名なり冬籠(「同上」)
382 情けにはごと味噌贈れ冬籠(「同上」)
383 冬籠り小猫も無事で罷りある(「同上」)
384 すべりよさに頭出るなり紙衾(「同上」)
385 両肩を襦袢につゝむ衾哉(「同上」)
386 合の宿御白い臭き衾哉(「同上」)
387 水仙に緞子は晴れの衾哉(「同上」)
388 土堤一里常盤木もなしに冬木立(「同上」)

389 定に入る僧まだ死なず冬の月 (「子規へ送りたる句稿八・四十一句)
390 幼帝の御運も今や冬の月  (「同上」)

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391 寒月やから堀端のうどん売 (「同上」)
392 寒月や薙刀かざす荒法師(「同上」)
393 寒垢離や王事もろきなしと聞きつれど(「同上」)
394 絵にかくや昔男の節季候 (「同上」)
395 水仙は屋根の上なり煤払 (「同上」)
396 寐て聞くやぺたりぺたりと餅の音(「同上」)
397 餅搗や小首かたげし鶏の面(「同上」)
398 衣脱だ帝もあるに火燵哉(「同上」)
399 君が代や年々に減る厄払(「同上」)
400 勢ひやひしめく江戸の年の市(「同上」)
401 是見よと松提げ帰る年の市(「同上」)
402 行年や刹那を急ぐ水の音(「同上」)
403 行年や実盛ならぬ白髪武者(「同上」)
404 春待つや云へらく無事は是貴人(「同上」)
405 年忘れ腹は中々切りにくき(「同上」)
406 屑買に此髭売らん大晦日(「同上」)
407 穢多寺へ嫁ぐ憐れや年の暮(「同上」)
408 白馬遅々たり冬の日薄き砂堤(「同上」)
409 山陰に熊笹寒し水の音(「同上」)
410 初冬や竹切る山の鉈の音(「同上」)
411 冬枯れて山の一角竹青し(「同上」)
412 炭焼の斧振り上ぐる嵐哉(「同上」)
413 冬木立寺に蛇骨を伝へけり(「同上」)
414 碧譚に木の葉の沈む寒哉(「同上」)
415 岩にたゞ果敢なき蠣の思ひ哉(「同上」)
416 炭竈に葛這ひ上る枯れながら(「同上」)
417 炭売の鷹括し来る城下哉(「同上」)
418 一時雨此山門に偈をかゝん(「同上」)
419 五六寸去年と今年の落葉哉(「同上」)
420 水仙白く古道顔色を照らしけり(「同上」)
421 冬籠り黄表紙あるは赤表紙(「同上」)
422 禅寺や丹田からき納豆汁(「同上」)
423 東西南北より吹雪哉(「同上」)
424 家も捨て世も捨てけるに吹雪哉(「同上」)
425 つめたくも南蛮鉄の具足哉(「同上」)
426 山寺に太刀を頂く時雨哉(「同上」)
427 塚一つ大根畠の広さ哉(「同上」)
428 応永の昔しなりけり塚の霜(「同上」)
429 蛇を斬つた岩と聞けば淵寒し(「同上」)

430 飯櫃を蒲団につゝむ孀哉 (「子規へ送りたる句稿九・六十一句)
431 焼芋を頭巾に受くる和尚哉 (「同上」)
432 盗人の眼ばかり光る頭巾哉 (「同上」)
433 辻番の捕へて見たる頭巾哉 (「同上」)
434 頭巾きてゆり落しけり竹の雪 (「同上」)
435 さめやらで追手のかゝる蒲団哉(「同上」)
436 毛蒲団に君は目出度寐顔かな (「同上」)
437 薄き事十年あはれ三布蒲団 (「同上」)
438 片々や犬盗みたるわらじ足袋 (「同上」)
439 羽二重の足袋めしますや嫁が君 (「同上」)
440 雪の日や火燵をすべる土佐日記 (「同上」)
441 応々と取次に出ぬ火燵哉 (「同上」)
442 埋火や南京茶碗塩煎餅  (「同上」)
443 埋火に鼠の糞の落ちにけり (「同上」)
444 暁の埋火消ゆる寒さ哉 (「同上」)
445 門閉ぢぬ客なき寺の冬構 (「同上」)
446 冬籠米搗く音の幽かなり (「同上」)
447 砂浜や心元なき冬構  (「同上」)
448 銅瓶に菊枯るゝ夜の寒哉(「同上」)
449 五つ紋それはいかめし桐火桶(「同上」)
450 冷たくてやがて恐ろし瀬戸火鉢(「同上」)
451 親展の状燃え上る火鉢哉(「同上」)
452 黙然と火鉢の灰をならしけり(「同上」)
453 なき母の湯婆やさめて十二年(「同上」)
454 湯婆とは倅のつけし名なるべし(「同上」)
455 風吹くや下京辺のわたぼうし(「同上」)
456 清水や石段上る綿帽子(「同上」)
457 綿帽子面は成程白からず(「同上」)
458 炉開きや仏間に隣る四畳半(「同上」)
459 炉開きに道也の釜を贈りけり(「同上」)
460 口切や南天の実の赤き頃(「同上」)
461 口切にこはけしからぬ放屁哉(「同上」)
462 吾妹子を客に口切る夕哉(「同上」)
463 花嫁の喰はぬといひし亥の子哉(「同上」)
464 到来の亥の子を見れば黄な粉なり(「同上」)
465 水臭し時雨に濡れし亥の子餅(「同上」)
466 枯ながら蔦の氷れる岩哉(「同上」)
467 湖は氷の上の焚火哉(「同上」)
468 痩馬に山路危き氷哉(「同上」)
469 筆の毛の水一滴を氷りけり(「同上」)
470 井戸縄の氷りて切れし朝哉(「同上」)
471 雁の拍子ぬけたる氷哉(「同上」)
472 枯蘆の廿日流れぬ氷哉(「同上」)
473 水仙の葉はつれなくも氷哉(「同上」)
474 凩に牛怒りたる縄手哉(「同上」)
475 冬ざれや青きもの只菜大根(「同上」)
476 山路来て馬やり過す小春哉(「同上」)
477 橋朽ちて冬川枯るゝ月夜哉(「同上」)
478 蒲殿の愈悲し枯尾花(「同上」)
479 凩や冠者の墓撲つ落松葉(「同上」)
480 山寺や冬の日残る海の上(「同上」)
481 古池や首塚ありて時雨ふる(「同上」)
482 穴蛇の穴を出でたる小春哉(「同上」)
483 空木の根あらはなり冬の川(「同上」)
484 納豆を檀家へ配る師走哉(「同上」)
485 親の名に納豆売る児の憐れさよ(「同上」)
486 からつくや風に吹かれし納豆売(「同上」)
487 榾の火や昨日碓氷を越え申した(「同上」)
488 梁山泊毛脛の多き榾火哉(「同上」)
489 裏表濡れた衣干す榾火哉(「同上」)
490 積雪や血痕絶えて虎の穴 (「同上」)

491 鶯の大木に来て初音かな
492 雛殿も語らせ給へ宵の雨
493 陽炎の落ちつきかねて草の上
494 馬の息山吹散つて馬士も無し
495 辻駕籠に朱鞘の出たる柳哉
496 春の雨あるは順礼古手買
497 尼寺や彼岸桜は散りやすき
498 叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉
499 馬子歌や小夜の中山さみだるゝ
500 あら滝や満山の若葉皆震ふ
501 夕立や蟹はひ上る簀子椽
502 明け易き夜ぢやもの御前時鳥
503 尼寺や芥子ほろほろと普門品
504 影参差松三本の月夜哉
505 野分して朝鳥早く立ちけらし
506 曼珠沙花あつけらかんと道の端
507 史官啓す雀蛤とはなりにけり
508 行年や仏ももとは凡夫なり
509 大粒な霰にあひぬうつの山
510 十月のしぐれて文も参らせず
511 いそがしや霰ふる夜の鉢叩
512 十月の月ややうやう凄くなる
513 山茶花の垣一重なり法華寺
514 行く年や膝と膝とをつき合せ
515 雪深し出家を宿し参らする
    寄虚子
516 詩神とは朧夜に出る化ものか
≪ 季=朧夜(春)。※漱石は虚子の「松山的ならぬ淡泊なる処、のんきなる処、気の利かぬ処」などを愛した(子規宛書簡)。(後略)  ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)
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夏目漱石の「俳句と書画」(その四) [「子規と漱石」の世界]

その四 「夏目漱石・子規宛書簡/明治24(1891.7.9)」周辺

夏目漱石・子規宛書簡一.jpg

「夏目漱石・子規宛書簡/明治24(1891.7.9)」(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

夏目漱石・子規宛書簡三.jpg

夏目漱石・子規宛書簡二.jpg


38 鳴くならば満月になけほととぎす (漱石・26歳「明治25年(1892)」)
≪ 季=時鳥(夏)。※落第した子規に、退学しようなどという気を起さず卒業することをすすめる句。◇書簡(正岡子規宛、明治25.7.19) ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

39 病む人の巨燵離れて雪見かな (漱石・26歳「明治25年(1892)」)
≪ 季=雪見(冬)。※巨燵は炬燵に同じ。子規からの書簡で、講師として出講している
東京専門学校での漱石の評判がよくないと知らされ、その返書に記した句。漱石は「生徒が生徒なれば辞職勧告を受けてもあながち小生の名誉に関するとは思はねど学校の委託を受けながら生徒を満足せしめ能はずと有ては責任の上又良心の上より云ふも心よからずと存候間此際断然と出講を断はる決心に御座候/(巨燵から追ひ出れたる)は御免蒙りたし」と書き、この句を記している。(中略) ◇書簡(正岡子規宛、明治25.12.14) ≫(同上)

夏目漱石短冊一.jpg

「夏目漱石短冊『君を苦しむるは詩魔か病魔かはた情魔か/花に酔ふ事を許さぬ物思ひ』」
(注記・寒川鼠骨函書:「明治廿四年子規居士病む漱石慰問の尺牘に此短冊を添へて贈れり」) (「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

   君を苦しむるは詩魔か病魔かはた情魔か/寄子規
52 花に酔ふ事を許さぬ物思ひ (漱石・28歳「明治27年(1894)」)
≪ 季=花(春)。 ◇全集(大6)に明治二十七年頃として収める。(上記の「夏目漱石デジタルコレクション」では、寒川鼠骨函書により[1891(明治24).3-4]としている。)≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)


(追記)夏目漱石俳句集(その一)<制作年順> 明治22年~明治27年(1~52)

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/200911article_3.html

明治22年(1889年)

1 帰ろふと泣かずに笑へ時鳥
2 聞かふとて誰も待たぬに時鳥

明治23年(1890年)

3 西行も笠ぬいで見る富士の山
4 寐てくらす人もありけり夢の世に
5 峰の雲落ちて筧に水の音
6 東風吹くや山一ぱいの雲の影
7 白雲や山又山を這ひ回り

明治24年(1891年)

8 馬の背で船漕ぎ出すや春の旅
9 行燈にいろはかきけり秋の旅
10 親を持つ子のしたくなき秋の旅
11 さみだれに持ちあつかふや蛇目傘
12 見るうちは吾も仏の心かな
13 蛍狩われを小川に落しけり
14 藪陰に涼んで蚊にぞ喰はれける
15 世をすてゝ太古に似たり市の内
16 雀来て障子にうごく花の影
17 秋さびて霜に落けり柿一つ
18 吾恋は闇夜に似たる月夜かな
19 柿の葉や一つ一つに月の影
20 涼しさや昼寐の夢に蝉の声
21 あつ苦し昼寐の夢に蝉の声
22 とぶ蛍柳の枝で一休み
23 朝貌に好かれそうなる竹垣根
24 秋風と共に生へしか初白髪
25 朝貌や咲た許りの命哉
26 細眉を落す間もなく此世をば
27 人生を廿五年に縮めけり
28 君逝きて浮世に花はなかりけり
29 仮位牌焚く線香に黒む迄
30 こうろげの飛ぶや木魚の声の下
31 通夜僧の経の絶間やきりぎりす
32 骸骨や是も美人のなれの果
33 何事ぞ手向し花に狂ふ蝶
34 鏡台の主の行衛や塵埃
35 ますら男に染模様あるかたみかな
36 聖人の生れ代りか桐の花
37 今日よりは誰に見立ん秋の月

明治25年(1892年)

38 鳴くならば満月になけほとゝぎす
39 病む人の巨燵離れて雪見かな

明治27年(1894年)

40 何となう死に来た世の惜まるゝ
41 春雨や柳の中を濡れて行く
42 大弓やひらりひらりと梅の花
43 矢響の只聞ゆなり梅の中
44 弦音にほたりと落る椿かな
45 弦音になれて来て鳴く小鳥かな
46 春雨や寐ながら横に梅を見る
47 烏帽子着て渡る禰宜あり春の川
48 小柄杓や蝶を追ひ追ひ子順礼
49 菜の花の中に小川のうねりかな
50 風に乗って軽くのし行く燕かな
51 尼寺に有髪の僧を尋ね来よ
52 花に酔ふ事を許さぬ物思ひ
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夏目漱石の「俳句と書画」(その三) [「子規と漱石」の世界]

その三「英国留学中の夏目漱石の絵はがき」周辺

https://www.sankei.com/photo/story/news/180523/sty1805230006-n1.html

≪ 英国留学中の夏目漱石が、ドイツに留学した友人に宛てて書いたはがき3通が福井市内の古書店で見つかった。「僕ハ独リボツチデ淋イヨ」。異国での孤独な思いが細かな字でつづられており、鑑定した中島国彦・早稲田大名誉教授(日本近代文学)は「ロンドンでの生活ぶりが率直に書かれた貴重な資料」としている。福井県が23日、発表した。
 3通は、漱石がロンドンに渡った直後の1900年11月から翌年8月にかけて書かれた。寄託された県立こども歴史文化館によると、いずれも1917年から刊行された全集に掲載されているが、原本は所在不明となっていた。昨年9月、入手した古書店から同館に連絡があった。
 宛先はドイツ文学者藤代禎輔と福井県出身の国文学者芳賀矢一で、2人とも当時ドイツに留学していた。≫

英国留学中の絵葉書一.jpg

 英国留学中の夏目漱石が、ドイツに留学した友人に宛てて書いた絵はがき(福井県立こども歴史文化館提供)(その一)

英国留学中の絵葉書二.jpg

 英国留学中の夏目漱石が、ドイツに留学した友人に宛てて書いた絵はがき(福井県立こども歴史文化館提供)(その二)

英国留学中の漱石書簡.jpg

 英国留学中の夏目漱石が、ドイツに留学した友人に宛てて書いた絵はがき(福井県立こども歴史文化館提供)(その三)

    倫敦にて子規の訃を聞て(五句)
1824 筒袖や秋の棺にしたがはず (漱石・36歳「明治35年(1902)」) 
≪ 季=秋(雑)。※子規は九月十九日に他界した。虚子から要請のあった子規追悼文に代えてこれらの句を送った。その書簡では子規の死について、「かかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方或は本人の幸福かと存候」と述べている。その後で、「子規追悼の句何かと案じ煩ひ候へども、かく筒袖にてピステキのみ食ひ居候者には容易に俳想なるもの出現仕らず、昨夜ストーブの傍にて左の駄句を得申候。得たると申すよりは寧ろ無理やりに得さしめたる次第に候へば、只申訳の為め御笑草として御覧に入候。近頃の如く半ば西洋人にて半日本人にては甚だ妙ちきりんなものに候」と言い、これらの句を記した。句のあとに「皆蕪雑句をなさず。叱正」とある。筒袖は洋服姿。◇書簡(高浜虚子宛、明治35.12.1)。雑誌「ホトトギス」(明治36.2)。 ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1825 手向くべき線香もなくて暮の秋 (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=暮の秋。◇1824。≫(「同上」)

1826 霜黄なる市に動くや影法師 (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=霧(秋)。◇1824。(「同上」)≫

1827 きりぎりすの昔を忍び帰るべし (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=きりぎりす(秋)。◇1824。≫(「同上」)

1626 招かざる薄に帰り来る人ぞ (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=薄(秋)。◇1824。≫(「同上」)

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202010190000/

≪   筒袖や秋の柩にしたがはず    漱石(明治35)
   手向くべき線香もなくて暮の秋  漱石(明治35)
   霧黄なる市に動くや影法師    漱石(明治35)
   きりぎりすの昔を偲び帰るべし  漱石(明治35)
   招かざる簿に帰り来る人ぞ    漱石(明治35)
漱石のところに子規の死を知ったのは、高浜虚子と河東碧梧桐の手紙が届いた11月下旬のことでした。
 漱石は、高浜虚子への手紙に「倫敦にて子規の訃を聞きて」という詞書で読んだ5つの俳句を送っていますが、最後に「皆蕪雑句をなさず。叱正」 と描き、その悲しみを吐露しています。
 
 そして、この手紙を書いた4日後の12月5日、漱石は日本郵船会社の博多丸に乗り、印度洋を通って日本に帰ってきました。
 
 啓。子規病状は毎度御恵送のほととぎすにて承知致候処、終焉の模様逐一御報被下奉謝候。小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶い申間敷と存候。これは双方とも同じ様な心持にて別れ候事故今更驚きは不致、只々気の毒と申より外なく候。但しかかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方、あるいは本人の幸福かと存候。倫敦通信の儀は子規存生中慰籍かたがたかき送り候。筆のすさび取るに足らぬ冗言と御覧被下度、その後も何かかき送り度とは存候いしかど、御存じの通りの無精ものにて、その上時間がないとか勉強をせねばならぬなどと生意気なことばかり申し、ついつい御無沙汰をしておる中に故人は白玉楼中の人と化し去り候様の次第、誠に大兄らに対しても申し訳なく、亡友に対しても慚愧の至に候。
 同人生前のことにつき何か書けとの仰せ承知は致し候えども、何をかきてよきや一向わからず、漠然として取り纏めつかぬに閉口致候。
 さて小生来五日いよいよ倫敦発にて帰国の途に上り候えば、着の上久々にて拝顔、種々御物語可仕万事はその節まで御預りと願いたく、この手紙は米国を経て小生よりも四五日さきに到着致すことと存候。子規追悼の句何かと案じ煩い候えども、かく筒袖姿にてビステキのみ食ひ居候者には容易に俳想なるもの出現仕らず、昨夜ストーヴの傍にて左の駄句を得申候。得たると申すよりはむしろ無理やりに得さしめたる次第に候えば、ただ申訳のため御笑草として御覧に入候。近頃の如く半ば西洋人にて半ば日本人にては甚だ妙ちきりんなものに候。
 文章などかき候ても日本語でかけば西洋語が無茶苦茶に出て参候。また西洋語にて認め候えば、くるしくなりて日本語にしたくなり、何とも始末におえぬ代物と相成候。日本に帰り候えば随分の高襟党に有之べく、胸に花を挿して自転車へ乗りて御目にかける位は何でもなく候。
     倫敦にて子規の訃を聞きて
   筒袖や秋の柩にしたがはず
   手向くべき線香もなくて暮の秋
   霧黄なる市に動くや影法師
   きりぎりすの昔を偲び帰るべし
   招かざる簿に帰り来る人ぞ
 皆蕪雑句をなさず。叱正。(高浜虚子宛書簡 明治35年12月1日) ≫

https://www.jstage.jst.go.jp/article/haibun1951/1967/32/1967_32_1/_pdf/-char/ja

「漱石の俳句(熊坂敦子稿)」

≪  1789 秋風の一人をふくや海の上   明治三十三年
  1790 阿呆鳥熱き国へそ参りける    同上
      倫敦にて子規の訃を聞ぎて
  1824 筒袖や秋の柩にしたがはず   明治三+五年   ≫
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夏目漱石の「俳句と書画」(その二) [「子規と漱石」の世界]

その二「東菊自画賛(子規)」周辺

 漱石の俳句は、明治二十二年(一八八九)に、東京大学(予備門)での、正岡子規との出会いによる、次の二句から始まる。

1  帰ろふと鳴かずに笑へ時鳥  (漱石・23歳「明治22年(1889)」)
2   聞かふとて誰も待たぬに時鳥 (漱石・23歳「明治22年(1889)」)

≪ 季語=時鳥(夏)。「時鳥」の異名「不如帰」(帰るに如かず)に託して喀血した正岡子規を激励した句。子規と時鳥とは同義。正岡子規は明治二十二年五月九日に喀血した。翌日、医者に肺病と診断され、「卯の花をめがけてきたか時鳥」「卯の花の散るまで鳴くか子規」
などの句を作った。卯の花を自分になぞらえ(子規は卯年生れ)、肺病(結核)を時鳥と表現俳句。(中略) 子規はこれらの俳句を作ったことから、自ら子規と号するようになった。この年の一月頃に急速に親しくなった漱石は、五月十三日に子規を見舞い、その帰途に子規のかかっていた医師を訪ねて病状や療養の仕方を聞いている。(後略 )≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

東菊図自画賛(子規).jpg

「東菊図自画賛(子規・紙本淡彩・37.6×26.0㎝)
≪ 明治三十三年の作。漱石宛子規書翰に、近頃画を描いており、「一枚見本さしあげかとも存候へども」と記している。東菊が四月、五月頃咲くことなどを考えると、同年初夏に描かれて、六月中旬頃に漱石に送ったものかと思われる。本図の花瓶は叔父加藤拓川から贈られたもので「紫のほのかに匂ふガラスの一輪ざし」(「我家の長物」明治三十三年)で、フランス製である。
 寄漱石
コレハ萎ミカケタル処ト思ヒタマヘ 画ガマヅイノハ病人ダカラト思ヒタマヘ 嘘ダト思ハバ肱ツイテカヒテ見玉ヘ 規
 あづま菊いけて置きけり
  火の国に住みける
   君の帰りくるがね
と記したこの画について、漱石は「子規の画」(明治四十四年=一九一一)に、

 壁に懸けて眺めて見るといかにも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子ガラスの瓶とを合せてわずかに三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲って来てならない。
 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、少くとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折は、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情からいっても、明かな矛盾である。
 (中略)
 東菊によって代表された子規の画は、拙くてかつ真面目である。才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかといったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。
  (中略)
 子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得た試がない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊のうちに、確かにこの一拙字を認めることのできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。

と子規の画を漱石独特の観方で述べている。 ≫(『俳人の書画美術7 子規(集英社刊)』所収「作品解説13(和田茂樹)」)

 この子規の画中に記されている、子規の短歌の「あづま菊いけて置きけり/火の国に住みける/君の帰りくるがね」の、その「火の国」は、当時、漱石が赴任していた「第五高等学校」(明治二十九年から同三十三年の五年弱)の「熊本」を指し、「帰りくるがね」は、「帰って来るように」という意味の「万葉的」な用例ということになる。

    松山より熊本に行く時/虚子に託して霽月に贈る(一句)
787 逢はで散る花に涙を濺(そそ)げかし (漱石・30歳「明治29年(1896)」) 
≪村上霽月の漱石追悼文「漱石君を偲ぶ」(「渋柿」大6・2)では「散る」を「去る」とする。漱石は、四月十日に松山を離れた。≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

http://urawa0328.babymilk.jp/siki/siki0.html

≪ 「正岡子規ゆかりの地」の抜粋
明治22年(1889年)5月9日、喀血。初めて「子規」と号す。
明治25年(1892年)11月14日、母と妹を神戸に出迎える。17日、帰京。正岡家は一家で東京に移る。
明治25年(1892年)12月1日、日本新聞社入社。
明治27年(1894年)2月1日、上根岸町82番地(羯南宅の東隣)に転居。
明治28年(1895年)4月7日、正岡子規は近衛師団司令部と共に海城丸に乗り、宇品を発する。その帰路に喀血。
明治28年(1895年)、病気療養のため帰省52日間にわたり愚陀佛庵で夏目漱石と共同生活を送る。
明治28年(1895年)10月12日、正岡子規送別会。
明治31年(1898年)3月14日、『新俳句』発行。
明治35年(1902年)9月19日未明、正岡子規歿す。21日、大龍寺に埋葬。≫

http://urawa0328.babymilk.jp/siki/sansakusyuu.html

≪ 正岡子規「散策集」抜粋 
 明治28年(1895年)9月20日、子規は漱石の愚陀佛庵で療養していたが、いつになく体調がよく、この日はじめて散歩に出た。柳原極堂が一緒だった。

明治二十八年九月二十日午後   子規子
 今日はいつになく心地よければ折柄來合せたる碌堂を催してはじめて散歩せんとて愚陀佛庵を立ち出づる程秋の風のそゞろに背を吹てあつからず。玉川町より郊外には出でける。見るもの皆心行くさまなり。

杖によりて町を出づれは稲の花
秋高し鳶舞ひしつむ城の上
大寺の施餓鬼過ぎたる芭蕉哉
秋晴れて見かくれぬベき山もなし
秋の山松鬱として常信寺
(以下「略」)

明治28年10月6日、快晴だし日曜日だったので、子規は同居の漱石と道後へ吟行。

明治廿年九月六     子規子
 今日は日曜なり 天氣は快晴なり 病氣は輕快なり 遊志勃然漱石と共に道後に遊ぶ 三層樓中天に聳えて來浴の旅人ひきもきらず

   温泉樓上眺望
柿の木にとりまかれたる温泉哉

松枝町を過ぎて寶嚴寺に謁づ こゝは一遍上人御誕生の靈地とかや 古往今來當地出身の第一の豪傑なり 妓廊門前の楊柳往來の人をも招かで一遍上人御誕生地の古碑にしだれかゝりたるもあはれに覺えて

古塚や戀のさめたる柳散る

   寶嚴寺の山門に腰うちかけて
色里や十歩はなれて秋の風

明治28年(1895年)10月7日、子規は人力車で今出(いまず)の村上霽月を訪ねた。

明治廿八年十月七日     子規子

今出の霽月一日我をおとづれて來れといふ。われ行かんと約す。期に至れば連日霖雨濛々 我亦褥(しとね)に臥す。爾後十餘日霽月書を以て頻りに我を招く。今日七日は天氣快晴心地ひろくすがすがしければ俄かに思ひ立ちて人車をやとひ今出へと出で立つ。道に一宿を正宗寺に訪ふ 同伴を欲する也。一宿故ありて行かず

朝寒やたのもとひゞく内玄関    ≫

http://urawa0328.babymilk.jp/arekore/murakami0.html

≪ 「村上霽月ゆかりの地」抜粋

明治28年(1895年)10月7日、正岡子規は人力車で霽月邸を訪ねる。
明治28年(1895年)11月、上京中に根岸の子規庵を訪ねる。
明治29年(1896年)1月3日、高浜虚子は子規庵の初句会で村上霽月を知る。この日、夏目漱石、森鴎外も出席。
明治29年(1896年)3月1日、漱石と虚子が霽月を訪ねる。
明治29年(1896年)4月、高浜虚子は夏目漱石の第五高等校赴任を送り、宮島に遊び紅葉谷公園に泊まる。漱石は霽月に贈る句を虚子に托している。

   松山より熊本に行く時
   虚子に托して霽月に贈る〔一句〕
逢はで散る花に涙を濺(そそ)げかし     ≫
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夏目漱石の「俳句と書画」(その一) [「子規と漱石」の世界]

その一「あかざと黒猫図(漱石)」周辺

あかざと黒猫図(漱石).jpg

「あかざと黒猫図」(夏目漱石画/墨,軸/1311×323/箱書き:漱石書「あかざと黒猫」「大正三年七月漱石自題」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)

https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

 その解説文は、次のとおり。

あかざと黒猫図(漱石)解説文.gif

「漱石『猫』句五句選

https://nekohon.jp/neko-wp/bunken-natsumesouseki/

里の子の猫加えけり涅槃像    (漱石・30歳「明治29年(1896)」)
行く年や猫うづくまる膝の上    (漱石・32歳「明治31年(1898)」)
朝がおの葉影に猫の目玉かな   (漱石・39歳「明治38年(1905)」)
恋猫の眼(まなこ)ばかりに痩せにけり (漱石・41歳「明治40年(1907)」)
この下に稲妻起こる宵あらん(漱石・42歳「明治41年(1908)」)=『吾輩は猫である』のモデルとなった猫の墓に書いた句)          

「漱石『『吾輩は猫である』追善五句選」

https://nekohon.jp/neko-wp/bunken-natsumesouseki/

センセイノネコガシニタルサムサカナ  (松根東洋城)
ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ (高浜虚子)
猫の墓に手向けし水の(も)氷りけり  (鈴木三重吉)
蚯蚓(みみず)鳴くや冷たき石の枕元  (寺田寅彦)
土や寒きもぐらに夢や騒がしき     (同上)


「漱石『猫』句周辺」

(恋猫)=春

164 恋猫や主人は心地例ならず (漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 我を忘れた恋猫のふるまいにあおられた主人のさま。≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

643  猫知らず寺に飼はれて恋わたる (漱石・30歳「明治29年(1896)」)
≪ 「恋わたる」=恋して出歩くさま。子規の添削句。原句は「猫知らず寺に飼はれて恋をする」。これは寺に飼われていることを知らない猫のさま。≫(『同上』)
1928 恋猫の眼(まなこ)ばかりに痩せにけり (漱石・41歳「明治40年(1897)」)
≪ 恋猫の眼ばかりが目立つさま。≫(『同上』)

(猫の恋)=春

665  金屏を幾所(いくしよ)かきさく猫の恋 (漱石・30歳「明治29年(1896)」)
≪ 金屏風を幾か所も引き掻く恋猫のさま。≫(『同上』)

1073 のら猫の山寺に来て恋をしつ (漱石・31歳「明治30年(1897)」)
≪ 「野良猫」と「山寺」と「猫の恋」との取り合せの句。≫(『同上』)

2436 真向に坐りて見れど猫の恋 (漱石・49歳「大正4年(1915)」)
≪ 画賛の句。真向いに坐っても恋に夢中の猫は見向きもしないさま。≫(『同上』)

(涅槃像)=春

707 里の子の猫加えけり涅槃像  (漱石・30歳「明治29年(1896)」)
≪「涅槃像」に、村(里)の子が「猫」を書き加えた。≫(『同上』)

(行く年)=冬・暮

1327 行く年や猫うづくまる膝の上 (漱石・32歳「明治31年(1898)」)
≪「子規へ送りたる句稿二十八」、三十句のトップの句。≫(『同上』)

(朝貌・朝顔)=秋

1872 朝がおの葉影に猫の目玉かな (漱石・39歳「明治38年(1905)」)
≪ 「鹿間涛楼宛「書簡」の句。 ≫(『同上』)

(稲妻)=秋

2085 此の下に稲妻起る宵あらん(漱石・42歳「明治41年(1908年)」)
≪ 九月十三日に『吾輩は猫である』になった猫が死んだ。その猫の墓標の裏に書いた句(夏目鏡子『漱石の思ひ出』)。≫(『同上』)

http://yahantei.blogspot.com/2006/05/blog-post.html


(再掲)

虚子の実像と虚像(その十)

○ 君と我うそにほればや秋の暮   (明治三十九年 虚子)
○ 釣鐘のうなるばかりの野分かな  (明治三十九年 漱石)
○ 寺大破炭割る音も聞えけり    (明治三十九年 碧梧桐)

 地方新聞(「下野新聞」)のコラムに、「ことしは『坊ちゃん』の誕生から百年。夏目漱石がこの痛快な読み物をホトトギスに発表したのは、明治三十九年四月だった」との記事を載せている。漱石は子規の学友で、子規と漱石と名乗る人物が、この世に出現したのは、明治二十二年、彼等は二十三歳の第一高等中学校の学生であった。漱石は子規の生れ故郷の伊予の松山中学校の英語教師として赴任する。その伊予の松山こそ、漱石の『坊ちゃん』の舞台である。と同時に、その漱石の下宿していた家に、子規が一時里帰りをしていて、その漱石の下宿家の子規の所に出入りしていたのが、後の子規門の面々で、そこには、子規よりも五歳前後年下の碧梧桐と虚子のお二人の顔もあった。漱石も英語教師の傍ら、親友子規の俳句のお相手もし、ここに、俳人漱石の誕生となった。これらのことについて、漱石は次のような回想録を残している(「正岡子規)・明治四一」)。
 「僕(注・漱石)は二階にいる、大将(注・子規)は下にいる。そのうち松山中の俳句を遣(や)る門下生が集まって来る(注・碧梧桐・虚子など)。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来ている。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でもなかったが、とにかく自分の時間というものがないのだから、やむをえず俳句を作った」。
 そして、この漱石の回想録に出て来る俳句の大将・正岡子規が亡くなるのは、明治三十五年、当時、漱石はロンドンに留学していた。そして、ロンドンの漱石宛てに子規の訃報を伝えるのは虚子であった。さらに、俳人漱石ではなく作家漱石を誕生させたのは、虚子その人で、その「ホトトギス」に、漱石の処女作「我輩は猫である」を連載させたのが、前にも触れたが、明治三十八年のことであった。そして、『坊ちゃん』の誕生は、その翌年の明治三十九年、それから、もう百年が経過したのである。そし、その百年前の『坊ちゃん』の世界が、子規を含めて、漱石・碧梧桐・虚子等の在りし日の舞台であったのだ。そのような舞台にあって、子規は、その漱石の俳句について、「漱石は明治二十八年始めて俳句を作る。始めて作る時より既に意匠において句法において特色を見(あら)はせり」とし、「斬新なる者、奇想天外より来りし者多し」・「漱石また滑稽思想を有す」と喝破するのである。
 さて、掲出の三句は、漱石の『坊ちゃん』が世に出た明治三十句年の、虚子・漱石・碧梧桐の一句である。
 この三句を並列して鑑賞するに、やはり、「滑稽性」ということにおいては、漱石のそれが頭抜けているし、次いで、虚子、三番手が碧梧桐ということになろう。碧梧桐の掲出句は、碧梧桐には珍しく、滑稽性を内包するものであるが、この「寺大破」というのは、大袈裟な意匠を凝らした句というよりも、リアリズムを基調とする碧梧桐の目にしていた実景に近いものなのであろう。この碧梧桐の句に比して、漱石・虚子の句は、いかにも余技的な題詠的な作という感じは拭えない。そして、当時は、こと俳句の実作においては、碧梧桐のそれが筆頭に上げられることは、この三句を並列して了知され得るところのものであろう。
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その十一) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「崋山(「序」の「深省(尾形乾山)」周辺

 その『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「序」(下記)に出てくる、「元禄のころ一蝶許六などあれども風韻は深省などまさり候」の、この「深省」は、「琳派」の大成者「尾形光琳」の実弟「尾形乾山」その人ということになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-07-26

≪ 俳諧絵は唯趣を第一義とといたし候。元禄のころ一蝶許六などあれども風韻は深省などまさり候。此風流の趣は古き所には無く、滝本坊、光悦など昉(はじま)りなるべし。はいかゐには立圃見事に候。近頃蕪村一流を昉(はじ)めおもしろく覚候。かれこれを思ひ合描くべし。すべておもしろかく気あしく、なるたけあしく描くべし,これを人にたとへ候に世事かしこくぬけめなく立板舞物のいひざまよきはあしく、世の事うとく訥弁に素朴なるが風流に見へ候通、この按排を御呑込あるべし。散人 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

 この「深省(尾形乾山)」に関しては、下記のアドレスで触れてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-07-04

(再掲)
乾山花鳥図屏風㈠.jpg

尾形乾山筆「四季花鳥図屏風」六曲一双  右隻 五島美術館(大東急記念文庫)蔵

乾山花鳥図屏風二.jpg

尾形乾山筆「四季花鳥図屏風」六曲一双 左隻 五島美術館(大東急記念文庫)蔵
(各隻とも、一四三・九×三二六・二㎝)


https://core.ac.uk/download/pdf/146899461.pdf


(メモ)

一 上記のアドレスは、「美術研究」(1957-03-13)所収「図版要項 尾形乾山筆四季花鳥図屏風(神奈川 川端康成氏蔵)」(山根有三稿)のものである。当時(1957=昭和32)は、ノーベル文学賞作家となる川端康成氏蔵のものであった。現在は、五島美術館(大東急記念文庫)蔵となっているが、昭和三十四年(一九五九)、五島美術館の前身の「大東急記念文庫」の創設者、五島慶太氏が亡くなる三カ月前に、川端康成氏より購入したとされている、尾形乾山作(絵画・陶器・書など)の中でも、その最右翼を飾る乾山の遺作にして大作の一作である。

二 上記に因ると、その「左隻」の第六扇(面)に「泉州逸民紫翠深省八十一写」の落款が施されており、そして、両隻共に「傳陸」の朱文円印と「霊海」の朱文方印が押印されているとのことである。

三 この「泉州逸民紫翠深省八十一写」の「泉州」とは、中国の「泉州」に因んでの、「京都・奈良・大阪」の「畿内」(山城・大和・摂津・河内・和泉)の「西国」を意味するものであろう。「逸民」は、その「西国(畿内)」からの「逸民・逸士」で、乾山終生の、乾山の全生涯を象徴するような二字である。「紫翠」は、その「西国(畿内)」の「京都」の、そして、そこで、勉学・修練・作家活動(その六十九年の前半生)をし続けた、そのエポックとなる「御室・鳴滝」の、その「紫翠」(山紫水明)な「紫翠」であり、その「深省」とは、その家兄たる「光琳」(光り輝く一代の「法橋」たる芸術家「日向の光琳」)に対する「深省(その「光琳」の背後の「光背」のような「日陰の深省」)という、その意識の表れの号であろう。そして、「八十一写」とは、亡くなる寛保三年(一七四三)六月二日以前の作ということなる。

四 さて両隻に押印されている「傳陸」については、上記(山根有三稿)の末尾に、「因みに印の『傳陸』は自筆書状に用いた署名の『扶陸』に通ずるものである」との記載があり、この「扶陸」とは、乾山の号の一つで、例えば、「扶陸泉州(日本国近畿(京都)」の「日本国」というような意味合いのものであろう。その上で、その「扶陸」に対する「傳陸」は、「中国大陸」、主として、その中国(明)の渡来僧・隠元の「禅宗」(黄檗宗)に関わり合いのあるものと解して置きたい。そして、もう一つの印章の「霊海」は、乾山の独照禅師(独照性円)から授かった禅号なのである。

五 乾山年譜(『東洋美術選書 乾山(佐藤雅彦著)』所収)の「元禄三(一六九〇)、二十八歳」の項に、「九月直指庵の独照性円と月潭道澄を習静堂に招き、詩偈を与えられる。独照より霊海の号を贈らる」とあり、爾来、乾山は、この「霊海」の禅号を終生用いて、亡くなるその没年の最期の、この大作にも、その禅号「霊海」の印章を用いているということになる。

六 ここで、あらためて、冒頭の「右隻」の第一扇(面)から第四扇(面)に描かれた「春柳」は、「京兆紫翠深省七十七歳写」の落款のある、次のものの延長線上にあるものなのであろう。

春柳図.jpg

乾山筆「春柳図」(大和文華館蔵) 紙本墨画 二四・三×四五・三㎝

http://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/yamato/shuppan/binotayori/pdf/112/1995_112_3.pdf

ここに書かれている歌賛は、「露けさもありぬ 柳の朝ねがみ 人にもがなや 春のおもかげ」というもので、上記のアドレスの解説文によると、乾山の愛唱歌集の三条西実隆の『雪玉集』の「朝柳」の一首というのである。
 そして、これらのことから、冒頭の右隻の柳の「優美な枝葉とのびあがった太い幹」は、『源氏物語』(「宇治十帖」第七帖「浮舟」)の、「なよなよとしてしなだれかかる『浮舟の君』と、両手をひろげて抱きかかえようとする『匂宮』を思わせる」との鑑賞(小林太市郎)を紹介している。

七 それに続けて、この左隻の「蛇籠と秋の草花」は、下記のアドレスなどで紹介した乾山の「花籠図」を念頭に置いたものとする鑑賞(小林太市郎)を紹介している。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-13

 そして、それは、その「花籠図」の歌賛の、「花といへば千種ながらにあだならぬ色香にうつる野辺の露かな」(三条西実隆)から、『源氏物語』(第十帖「賢木(さかき)第二段(野の宮訪問と暁の別れ)」が、その背景にあるとする鑑賞(小林太市郎)なのである。そして、その鑑賞視点は、『源氏物語』(第十帖第二段第二節)の次のような光景のものなのであろう。
【 遥けき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり。秋の花、みな衰へつつ、 浅茅が原も枯れ枯れなる虫の音に、 松風、すごく吹きあはせて、そのこととも聞き分かれぬ ほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと 艶(えん)なり。】

乾山絵二.jpg


尾形乾山筆「花籠図」一幅 四九・二×一一二・五cm 重要文化財 福岡市美術館蔵(旧松永美術館蔵)

八 この乾山の「花籠図」について、上記のアドレスで、次のような鑑賞(山根有三)を紹介した。

【「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」と記すところから、「『源氏物語』の「野分」の段より取材したと考え、三つの花籠は王朝女性の濃艶な姿を象徴すると見る説がある。それはともかく、この籠や草花の描写には艶冶なうちにも野趣があり、ひそやかになにごとかを語りかけてくるのは確かである。「京兆逸民」という落款からみても、乾山が江戸へ下った六十九歳以後の作品となる。】
(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説114」) 

 上記の文中の(『源氏物語』の「野分」の段より取材した)の「野分」は、『源氏物語』第五十四帖の「野分」と混同されやすいので、これは、「賢木」(第十帖)の「野宮」(第二段)とすべきなのであろう。

九 さて、冒頭の「四季花鳥図屏風」左隻の、第四・五扇(面)に描かれている「楓」は、下記のアドレスで紹介した、「楓図」が、これまた念頭にあるものと解したい。


https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-08

乾山楓一.jpg

尾形乾山筆「楓図」一幅 紙本着色 一〇九・八×四〇・四cm
「京兆七十八翁 紫翠深省写・『霊海』朱文方印」 MIHO MUSEUM蔵
「幾樹瓢零秋雨/裡千般爛熳夕/陽中」

【同じ紅葉でもこちらは、縦長の画面に大きく枝とともに色づいた楓が描かれています。秋雨に濡れて葉は赤みが増し、さらに夕陽に照り映えていっそう赤々と風情は弥増しに増す。そんな詩意を受けてこの絵は描かれたのでしょう。幹にはたらし込みの技法も見られ、これぞ琳派といった絵になっています。ただし、画面上方の着賛は漢詩で、ここには乾山の文人的な部分が色濃く出ています。今にも枝につかんばかりの勢いで所狭しと記された筆づかいは、雄渾で迷いがなく、どこまでも「書の人」であった兼山らしさが滲み出ています。落款から乾山晩年、七十八歳の作と知れます。 】『乾山 琳派からモダンまで(求龍堂刊)』

十 しかし、冒頭に掲げたアドレスの「美術研究」(1957-03-13)所収「図版要項 尾形乾山筆四季花鳥図屏風(神奈川 川端康成氏蔵)」(山根有三稿)では、この「楓図」は、『源氏物語』(第五十四帖「総角(あげまき)」)の「大君と中君の姉妹を詠んだ薫中納言の次の歌が背景にある」(「小林太市郎」解)を紹介しているのである。

 秋のけしきもしらづがほに あおき枝の
 かたえはいとこく紅葉したるを
  おなじえをわきてそめける山ひめに
      いづれかふかき色ととはゞや

十一 これらの、「美術研究」(1957-03-13)所収「図版要項 尾形乾山筆四季花鳥図屏風(神奈川 川端康成氏蔵)」(山根有三稿)で紹介されている「小林太市郎」の『源氏物語』が背景にあるという鑑賞は、すべからく、「乾山の象徴論―花籠図」「乾山の象徴論―楓柳芦屏風」(『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』)などに収載されている。

十二 ここで、冒頭の「四季花鳥図屏風」(乾山筆)について、「乾山の象徴論―楓柳芦屏風」(『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』)の要点を原文のままに引用して置きたい。

㈠ 宇治の姫君たちの哀愁、夏秋の木のほとりの木草の姿を描いたもので、右方にやさしく臥しなびく柳のなよなよとしてしなだれかかる弱さは、さながら浮舟の君をおもわせる。その下に両手をひろげてそれを抱きかかえるようとする太い幹は、すなわち匂宮でなくてなんであろうか。(p180-190) ≫

 ここで、次の「泉州逸民紫翠深省八十一写」の「逸民」ということに注目したい。

≪三 この「泉州逸民紫翠深省八十一写」の「泉州」とは、中国の「泉州」に因んでの、「京都・奈良・大阪」の「畿内」(山城・大和・摂津・河内・和泉)の「西国」を意味するものであろう。「逸民」は、その「西国(畿内)」からの「逸民・逸士」で、乾山終生の、乾山の全生涯を象徴するような二字である。「紫翠」は、その「西国(畿内)」の「京都」の、そして、そこで、勉学・修練・作家活動(その六十九年の前半生)をし続けた、そのエポックとなる「御室・鳴滝」の、その「紫翠」(山紫水明)な「紫翠」であり、その「深省」とは、その家兄たる「光琳」(光り輝く一代の「法橋」たる芸術家「日向の光琳」)に対する「深省(その「光琳」の背後の「光背」のような「日陰の深省」)という、その意識の表れの号であろう。そして、「八十一写」とは、亡くなる寛保三年(一七四三)六月二日以前の作ということなる。≫

ここで、この『崋山画譜』に登場する人物群像を、凡そ、時代史的に整理すると、次のとおりとなる。

(桃山時代~徳川時代前期)

「光悦」=「本阿弥 光悦(永禄元年(1558年)~ 寛永14年2月3日(1637年2月27日))」→ 京都上層町衆・寛永三筆の一人・琳派の創始者。
「滝本坊」=「松花堂昭乗(天正10年(1582年)~ 寛永16年9月18日(1639年10月14日))→京都僧侶・寛永三筆の一人。

(徳川時代前期~中期)

「立圃」=「雛屋立圃(文禄4年〈1595年〉~ 寛文9年9月30日〈1669年10月24日〉)→ 京都俳人(貞門系俳人、非談林誹諧)・画家(「俳画」の祖?=「崋山俳画譜」)。
「一蝶」=「英 一蝶(承応元年(1652年)~ 享保9年1月13日(1724年2月7日)→江戸町人・芸人、蕉門俳人(其角の知己=其角系俳人)・画家。
「許六」=「森川 許六(明暦2(1656)~正徳5年(1715))→ 武家(彦根藩)・蕉門俳人(芭蕉十哲の一人)・画家。
「深省」=「尾形 乾山( 寛文3年(1663年)~ 寛保3年6月2日(1743年7月22日)→京都・江戸・佐野の陶芸家(尾形光琳=琳派の大成者の実弟) → 号の一つに「京兆逸民」→「逸民(艶《やさ》隠者)の系譜者」の自称者?

(徳川時代中期)

「蕪村」=「与謝 蕪村(享保元年(1716年)~天明3年12月25日(1784年1月17日))→ 江戸時代中期の俳人(「蕉門中興俳諧指導者の一人)、文人画(南画)家の大成者の一人。
「俳画」(「俳諧ものの草画」の第一人者=自称)。同時代の文献に、「逸民」との評がある。→「逸民((艶《やさ》隠者)の系譜者」の「画(文人画)・俳(俳諧中興指導者)」二道の大成者?

「蕪村は父祖の家産を破敗(ははい)し、身を洒々落洛(しゃしゃらくらく)の域に置きて、神仏聖賢の教えに遠ざかり、名を沽(う)りて俗を引く逸民なり」(『嗚呼俟草(おこたりぐさ)・田宮仲宣著』)

(徳川時代後期)

「崋山」→≪ 1793.9.16~1841.10.11
 江戸後期の三河国田原藩家老・南画家・蘭学者。名は定静(さだやす)。字は子安。通称登(のぼる)。崋山は号。田原藩士渡辺定通の子。江戸生れ。家計を助けるため画を学び,谷文晁(ぶんちょう)にみいだされて入門。沈南蘋(しんなんぴん)の影響をうけた花鳥画を描いたが,30歳頃から西洋画に心酔,西洋画の陰影表現と描線を主とした伝統的な表現を調和させ,独自の肖像画の様式を確立。「鷹見泉石像」(国宝)「市河米庵像」(重文)などを描き,洋画への傾倒や藩の海岸掛に任じられたことから蘭学研究に入り,小関三英(こせきさんえい)・高野長英(ちょうえい)らと交流しながら海外事情など新知識を摂取。これが幕府儒官林述斎(じゅつさい)とその一門の反感をかい,捕らえられて在所蟄居を命じられ(蛮社の獄),2年後自刃。≫(「出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」)→「俳画」というジャンルの命名者。

 「渡辺崋山」その人は、いささかも、「逸民」という言葉を弄していないが、「蛮社の獄」の「田原藩(故郷)蟄居」の、その晩年の最期にあたっても、「退役願書」の「至仕(ちし))」=「逸民」(隠遁者=)は許されず、自刃することとなる。


 ここで、改めて、「崋山俳画譜」の「俳画譜」の道筋というのは、その基本的なルートというのは、「立圃→深省(乾山)→蕪村→崋山」という流れということになる。
そして、この「深省(乾山)」の「俳諧」(発句=俳句・連句)というのは目にしないが、その「逸民」的な「文人画」(「大雅・蕪村」=大成者)の先駆者として、その画賛ものに、崋山は注目したというように解したい。


(参考その一) 漱石の「吾輩は猫である」(第二話・第三話)の「太平の逸民」周辺

file:///C:/Users/user/Downloads/CV_20230813_The_Basis_11_11.pdf

夏目漱石『吾輩は猫である』における「逸民」表象(斉 金英稿)

(抜粋)

≪1. はじめに
 夏目漱石『吾輩は猫である』(1905 年 1 月­1906 年 8 月『ホトトギス』に連載)が読者に提示しているのは、非凡な猫である「吾輩」が面白おかしく語り描く「太平の逸民」の世界である。この作品は日露戦争の真っ最中、激戦で多くの将兵が命を落としているという情報に接していた読者に提供され、ひと時の「太平」な時空に読者を誘い、愛読され、長期連載された。作品の凡そ半分が日露戦争中に発表された。まさに血腥い殺戮の隣で都々逸を踊る効果を持つ小説である。では、殺伐とした戦争と昂揚する戦時ナショナリズムとかけ離れた、吞気で滑稽な、「太平の逸民」の会合は、なぜそこまで読者を引きつけたのであろうか。この問題を追究するために、この作品の「逸民」について検証することが重要である。
(以下略)

2. 「逸民」とは
 中国の隠遁者の最初の列伝は『後漢書』に収められた「逸民列伝」5)である。この「逸民列伝」によると、「逸民」とは「我が道を守りとおすためには宮仕えを拒否する人物」や、
「官界、政治社会から逸脱した人々」であり、「自分の主義主張を貫くために」、「主君に仕えない」で、「政治社会から逸脱」していく知識人である。中国古来の隠遁思想の背景に政
治的抑圧や政局の不安定及び戦乱があり、生命の危険を感じ、あるいは自己の倫理的な節操
を守り抜くために本来仕官できる知識階級が仕官から身を退き、山野や田園で質素または貧乏な生活に甘んじることを志す。また、「仕官を望みながら、自分の主義主張をとおすために仕官から遠ざかる」「逸民」は、「はじめから仕官を拒否する『隠者』」7)と区別される場合もある。
つまり、「逸民」とは、明君のもとでの仕官なら望むが、政治的な暗黒時代では、節操、保身や消極的な政治的抵抗のために、政治社会の中心から物理的にまたは精神的に離れていく知識エリート階層のことを指している。このような意味で、「隠者」に比して「逸民」のほうがより一層政治に対する関心が強いと言える。「逸民」になること自体が消極的な社会批判として受け止めることができる。従って、「逸民」はより濃厚な社会性を示している。ただ、「隠者」と「逸民」は重なる部分が多く、同じ意味で解釈されている場合がほとんどである故、本稿では特にこの二つを厳密に区別しない。なお、「逸民」の形態も、山野に隠遁する、仕官せずに市井に隠遁する、仕官しながら政治社会的働きを極力減らして暮らすなどの様々なケースがある。
(以下略)かっこ

3. 日露戦争と「逸民」
3.1. 緊迫した年末年始と「逸民」
 要するに主人も寒月も迷亭も太平の逸民で、彼等は糸瓜の如く風に吹かれて超然と澄し切つて居る様なものゝ、其実は矢張り娑婆気もあり慾気もある。競争の念、勝たう勝たうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼等が平常罵倒して居る俗骨共と一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。只其言語動作が普通の半可通の如く、文切り形の厭味を帯びてないのは聊かの取り得でもあらう。(81­82 頁)
(以下略)

3.2. 苦沙弥の日記と日露戦争 (以下略)
3.3. 「不相変」の「太平の逸民の会合」(以下略)
4. 「逸民」というスタンス
4.1. 「偏屈」・「天然」 (以下略)
4.2. 「大和魂」批判 (以下略)
4.3. 「偏屈」という「隠れ蓑」(以下略)
4.4. 「天稟の奇人」たち (以下略)
5. 「吾輩」は「逸民」である
5.1.  非凡な「吾輩」  (以下略)
5.2. 「進化」する「吾輩」(以下略)
5.3. 「吾輩」の「逸民」的傾向
(前略)
 世俗的な「働き」は往々にして利己的な打算の前提で行われることが多いので、他人に害
を及ぼすことが多く、国家という共同体の利益も損なうことになる。だから、「働きのない」
ことが他人と国家に及ぼす害がかえって少なくて済む、というのが「吾輩」の論理だと思わ
れる。そこに人間世界と宇宙との調和への観照と消極的な社会批判が込められている。猫は
「逸民」が「無用な長物」だと「誹謗」されることを拒否し、「逸民」こそが「上等」だと
主張する。これは、「吾輩」がすでに「逸民」の精神的な真髄を感得する境地にまで「進化」
したことを示している。
6. 真の「太平」
(前略)
結局、「吾輩」はビールを飲んで死ぬ。「竹林の七賢」をはじめ、陶淵明、李白など、中国
の歴史上の多くの「逸民」たちが酒に生き、酒に死んでいたことを考えると、この死に方も
いかにも「逸民」らしい。水甕に沈んで藻掻いていたときも、彼の精神は働いていた。苦し
いのは、「上がれないのは知れ切つて」いながら、「甕から上へあがりたい」(567 頁)から
だと。そして、藻掻くことをあきらめた途端に感じたのは「楽」である。それは、「日月を
切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る」(568 頁)境地である。「吾輩」は死ぬこ
とで究極の「太平の逸民」になる。こうして、「吾輩」は自身の「逸民」としての精神と猫
としての身体の引き裂かれたアポリアを乗り越えるのである。≫

(参考その二) 漱石の「拙」の世界(周辺)

http://chikata.net/?p=2813

(抜粋)

≪ 木瓜咲くや漱石拙を守るべく

この句は、陶淵明の詩「帰園田居」に出てくる「守拙帰園田」(拙を守って園田に帰る)が下敷きにされています。陶淵明と異なるのは、漱石の故郷は田園ではなく、東京という都市だったということです。子規は『墨汁一滴』でこう書いています。

《 漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたつてゐない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。》(正岡子規『墨汁一滴』)

 つまり、漱石はそもそも稲の苗を見て「これは何の草だろう」という人なのです。そういう人間が、東京の高等師範学校の教師を辞職し、松山に一年、そして熊本へ赴任した自分に「拙を守るべく」と言い聞かせているわけです。この二重性に、漱石独自なユーモアが隠れているように思えます。

 この句の鑑賞は『草枕』にある次の一節が、度々引き合いに出されます。

《 木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら真直かと云うと、けっして真直でもない。ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜に構えつつ全体が出来上っている。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔らかい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守ると云う人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。》(夏目漱石『草枕』)

(以下略)  ≫
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その十) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「渡辺崋山(「序」と鈴木三岳「跋」」)」周辺

俳画譜一.jpg

(左図:「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「序」=「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」の「跋」)
(右図): (『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「跋」)

 この(左図:「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「序」は、その原本の「(題籢)游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(「俳画譜(崋山作・紙本墨画淡彩 29.0×32.3㎝)」)の「跋文」(崋山自跋)で、その「跋文」(崋山自跋)を「序」にしている。
 そして、上記の(右図): (『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「跋」)は、この編者の「鈴木三岳」の「跋文」で、その「跋文」によると、田原蟄居中の崋山に俳画の指導を受けていた三岳に、その手本として恵与したものとしるされており、それらの原本を基にして、崋山没後の、嘉永二年(一八四九)に、鈴木三岳が版行したものということになる。
 この嘉永二年(一八四九)は、崋山が自刃した、天保十二年(一八四一)の、八年後のことなのだが、崋山は罪人としての自刃であり、崋山の墓の建立は許されず、幕府が崋山の名誉回復と墓の建立とを許可したのは、幕府滅亡直前の慶応四年(一八六八)と、この「崋山俳画譜」が版行されてからも、十九年の後ということになる。

俳画譜二.jpg

(左図:「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』)=「蕪村《遊舞図》」(蕪村写意/夜半翁画ハ古澗(こかん)/ノ意ヲ取ニ似タリ)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0009.jpg
(右図): 「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」の「蕪村《相聞図》」(蕪村写意/夜半翁画ハ古澗(こかん)/ノ意ヲ取ニ似タリ) (『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」など)

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との関係などについては、下記のアドレスで触れた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-02

(再掲)

≪(補記その三) 「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との関係

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)の内容(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との相互関連

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)の内容(順序)

(題籢) 游戯三昧 小舟題
(画一) 団扇と蛍図
(画二) 田草取図
(画三) 燈下読書図 立圃画意 →『崋山画譜』(版本)の(画二)
(画四) 朝顔図 →       『崋山画譜』(版本)の(画七)
(画五) 釣瓶と鶯図 一蝶画題 →『崋山画譜』(版本)の(画四)
(画六) 狩衣人物図
(画七) 狐面図
(画八) 籠に雀図
(画九) 祈祷図
(画十) 茄子図 松花堂画法 →『崋山画譜』(版本)の(画一)
(画十一)游舞図 →『崋山画譜』(版本)の(画六)に、(画十四)の賛(蕪村写意)を用いる。
(画十二)夕立図 →『崋山画譜』(版本)の(画八)
(画十三)枯木宿鳥図 許六写意 →『崋山画譜』(版本)の(画五)
(画十四)相聞図 蕪村写意→「賛」(蕪村写意と賛文)のみ『崋山画譜』(版本)の(画六)に。
(画十五)梅樹図 光悦写生→『崋山画譜』(版本)の(画三)
(跋)  →        『崋山画譜』(版本)の(序)

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)の内容(順序)

『崋山画譜』(版本)の(序) →「游戯三昧 小舟題」(原本)の「跋」文
『同』(版本)の(画一)   →「同」(原本)の「画十」(茄子図 松花堂画法) 
『同』(版本)の(画二)   →「同」(原本)の「画三」(燈下読書図 立圃画意)
『同』(版本)の(画三)   →「同」(原本)の「画十五」(梅樹図 光悦写生)
『同』(版本)の(画四)   →「同」(原本)の「画五」(釣瓶と鶯図 一蝶画題)
『同』(版本)の(画五)   →「同」(原本)の「画十三」(枯木宿鳥図 許六写意)
『同』(版本)の(画六)→「同」(原本)の「画十一・游舞図」と「画十四・蕪村写意と賛文」
『同』(版本)の(画七)   →「同」(原本)の「画四」(朝顔図と崋山の句)
『同』(版本)の(画八)   →「同」(原本)の「画十二」(夕立図と崋山の句)
『同』(版本)の(跋=編者・鈴木三岳の「跋」文)    

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html

[出版地不明] : [出版者不明], 嘉永2[1849]跋
1帖 ; 29.0×15.5cm
書名は題簽による 扉題:崋山翁俳画/椎屋蔵板 色刷/折本   ≫

 ここで、≪「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)≫と≪渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)≫ちを、(参考)として、抜粋して置きたい。

(参考) 「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)と「渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7

http://www.bios-japan.jp/omoshiro9.html

「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)

(抜粋)

≪ 渡辺崋山は、「客坐掌記」と通称する手控冊をこまめに記しており、それが亡くなった時には背の高さまであったと言う。

用途から、自らの本画の小下絵を収録した小下絵冊、各地各所で寓目した書画を記録として写し留めた過眼録、さらに今でいう純粋な写生冊と、大きく三種類に分類できる。画家の貴重な制作記録となる小下絵冊としては、『辛己画稿』(一八二一)、『壬午図稿』(一八二二)、『辛卯稿』(一八三一)などが数点知られている。これらを除いた大半が、寓目・過眼の記録冊であり、千葉県の素封家浜口家所蔵の二十冊の『客坐縮写』もその一部である。冊中には草筆のクロッキーや俳画に通じる洒落た略筆画も数多く出てくる。浜口家の客坐掌記の内の一つに、松崎慊堂の誕生日の宴のスケッチがあるが、その経緯が『慊堂日暦』中にも記されていて、そのあまりの迫真さに驚いたとの慊堂のコメントもある。

『客参録』『全楽堂日録』は、過眼録の一種であるが、むしろ紀行画文冊(旅行記)というべきもので、片や崋山が藩主に随って国元田原まで赴いた時の、また片や日光奉行に任命された藩主に随行して日光を訪れた時の記録である。前者は、隊列の中に馬に乗った自分自身をも描き、「渡辺登」と注記している。どちらも洒脱な筆でのびのびと活写している。

さて、かつてコロタイプの複製も作られた『刀禰游記』なる紀行画巻がある。代表作『四州真景』を描かれた文政八年(一八二五)崋山三十三歳の同時期の作品で、世話になった銚子の大里桂丸に贈った一巻と自らの手元においた一巻の正副二本が知られている。前者は、崋山歿後百年祭記念の『錦心図譜』掲載の一本であり(作品番号七九)、大里家にそのまま伝えられていたが、戦災で焼失してしまったという。後者は、『藝苑叢書』中の一冊として二分の一大の複製が作られておりその詳細を窺い知ることができる。

両本とも、その書体が崋山らしくないということで、一部に否定する向きもあったが、そこで紐解くべきは、当時、文政八年の手控冊類であった。幸い浜口家の二十冊のまとまった『客坐縮写』中、その「第五」は、船の舳先の図から旅行の記録が展開され、ずばり、この『刀禰游記』はもとより、名宝『四州真景』の成立にもつながる貴重な房総旅行の紀行日誌である。

冊中、崋山が銚子の豪商豊後屋に逗留し、所蔵のコレクション等を模写する中、なんと三十九頁にも亘って情熱的に描きとめた一図に、宝井其角(一六六一~一七○七)の『一瞬行』(「舛屋源之丞持ち来たる」とある)の写しがある。これを見るかぎり、『刀禰游記』のその特徴的な書体は、「乱筆は神仏ののりうつりかきしとかヲ云」と崋山が評する其角の螺旋バネのような筆跡に似せたものと判明。しかも、後者の詞書中、「前橋風土記云刀根川出於士峯西越後界」との『翎毛虫魚冊』などの註記にも共通する崋山の見慣れた階書の註記四行が織り込まれ、正しく崋山真筆との自己アピールが添えられている。

なお、『一瞬行』そのものは、確かに其角の元禄十年秋の事蹟として『句空庵随筆』に記載があるものの、元禄十二年の江戸大火で日記・句稿が焼失し、その復元作業の中で、同十四年二月刊行された著作集『焦尾琴』(同年初版、寛保三年再版)の内に、これを再編成したものとして、「早舟の記」との名で収録されている。内容は、「一日琴風亭に遊んで二丁こぐ舟の」と、琴風亭を訪れた其角が、中国赤壁の故事にならって風雅な隅田川の舟遊びをした、その折の感興を綴った句文である。

そこで、改めて崋山の『刀禰游記』にスポットを当てると、巻末には「文政乙酉のとし仲秋、良夜たまたま雲はれて、すぎし遊びを思い出し、忘れぬうちに其あらましを記し、大里ぬしの一笑を博むといふ。わたなべのぼる」とあり、銚子逗留中の崋山は、ふとしたことから土地の富豪大里桂麿と近づきとなり、俳人蓬堂を加えた三人で利根川に舟を浮かべて十五夜の月を江上に同様な遊びを楽しんだものと判る。江戸に戻った崋山が九月十五日、仲秋の名月にこれを回想して画巻にまとめ、世話になった大里氏に旅の恩義の答礼として贈ったとの次第であろう。

カットの一は崋山が桂麿に所蔵の書画を見せてもらい美術談義に花を咲かすところ、二は崋山と桂麿が俳人蓬堂を誘い出すところ、三は利根川対岸の景色、四は小舟の中で盃片手に悦に入っているところの計四図である。 (文星芸術大学 上野 憲示)  ≫

http://www.bios-japan.jp/omoshiro7.html

渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)

≪ 崋山は、残された書簡・記録類からは、生来のまじめ人間と知れるが、少々突っぱってまじめに「不まじめ」を行うという一面があった。もちろん、文人仲間のサロンや北関東、東海地方の数寄者との遊興の集いの中で、自然と身に備わったものであるが、気の置けない後輩や弟子たちに対しては、人生の先輩カゼを吹かせての偽悪的なポーズを見せることもあった。

『校書図』は、ひいきの芸妓お竹をモデルに少々スノビッシュに描いたもので、「飲啄、牝牡之欲ノ無キ者ハ人二非ラズ也・・・因リテ予ノ愛妓ヲ写シ、顕斎二寄ス。顕斎與予ハ同好也否」と気負った戯文を画中に添えて門人平井顕斎に与えている。

そもそも崋山は、師匠の桃隣が春本を書いていたこともあってか、若い頃から生活のため春画を描くことがあったようである。『寓画堂日記』に「模春画」「画春画」「描春画」の文字が散見し、後の手控えにも「合歓図」の模写などが認められる。

関東大震災で本画が焼失した「品川清遊図」(文晁、抱一、崋山の三人連れが品川の妓楼に遊んだ時の情景)なども、今となっては真贋を論じるすべもないが、文晁、抱一の逸話の数々と照らしても十分考え得る設定ではあり、残された写真カットに見る筆力も凡庸ではない。

当時、遊里は公認の歓楽街であり、宿場に飯盛女はつきものであり、そこで遊ぶことに対しては、男振りを上げはすれども決して後ろめたい行為ではなく、何人も大仰に構えずに気楽に現世を謳歌していたのである。

崋山は、売春行為に対しては、「何分御領分風俗悪敷相成、大ニ御政事御繁多ニて御行届無之・・とその弊害を認めつつ、「大国ニハナケレバナラヌ者と奉存候。又他の金銀ヲ引よせ候一術に候」と必要悪と考えていた。「織女ハ抱女故ニ夜私ニかせき候事ハ大目ニ見」、「織屋さへ多く出来候得ばウチ置ても如此相成とのよし」との便法も崋山ならではであろう(田原藩士宛書簡『崋山書簡集』36)。

なお、重要美術品の指定を受けながらも、先学菅沼貞三氏の否定論を受け所在不明となった幻の名品、『目黒詣』については再評価の時が来ていると信じたい。同作品は、文政十二年十月十四日、渡辺崋山が田原藩の同僚、鈴木修賢、鷹見定美、上田正平と、連れ添って目黒へ物見遊山に出かけた折の挿図入り戯文画巻である。落款は、漢字で“渡辺登”とある。

初冬のある日、崋山ら四人は、藩主から、たまにはゆっくり遊山でもして来いとばかり、一日の特別休暇を許された。忙しい藩務から久々に解放ざれ、「いのちありて小春に遊ぶ牡の蝶」の崋山の句のとおり、まさに命の洗濯といったものであった。酒肴を担いで目黒方面を散策し、酒亭「ひちりき」で酒宴を張り、最後は藩主へのおみやげを担いで千鳥足で家路へ向かうといった次第、挿入の狂歌は「みなひとの酔へば臥すともひちりきやねの高きにも驚かれぬる」「枝笛によい婦もあってひちりきや人目多うて笙琴もなし」と、管楽器の「ひちりき」に懸けて、料亭「ひちりき」が値の高さと、お互いの目があってはめを外せないさまを皮肉る。帰りの道すがら、貰った柿の実を、喉が乾いたから食べてしまおうかと軽口も出る。藩公へ土産として買ったものゆえまかりならぬと押し留めると、さらに一人が、しゃあ、しぶき、すなわちおしっこでも飲もうかと、おどける。こんな楽しい戯文の画巻である。が、忠孝の士と名高い崋山にあって、主君に関することで決してこんな下品な表現はあり得ないといった批判も当然出てくるが、俳聖芭蕉にも、「蚤虱 馬の尿する枕もと」の有名な句がある。

挿画は七図で、軽妙な草筆の飄々とした味わい深い戯画である。担ぎ棒の先に弁当、後ろに酒を満たしたふくべを吊して軽快に歩む上田の図。茅屋図。薄の茂る野で足を止め、遠慮無く呑めるぞとばかりふくべの酒をがぶ呑みする上田、独り呑ませてなるかとこれを制する鈴木、弁当に箸をつける崋山、酒なぞ呑み飽きたとばかり超然としている鷹見と四人四様の光景。酔いが回って小川の前で立ち往生する上田の図。迷い出たところの草庵の娘に道を尋ねる図。目黒の酒亭「ひちりき」での宴席の光景。藩主へのみやげを上田と鷹見で軽口を言い合いながら担ぎ、鈴木の持つ提燈が燃え出して崋山がこれを急ぎ消し止めようといった帰り道での酩酊状態の四人の図。

以上の展開であるが、天保三年の『客坐掌記』に見る勧進能の場の弁当売りや茶売りの速筆写生との共通点も十分に認められ、またその書も、草書はもちろん、巻末近くの七絶の漢詩の行書風の書はまさに崋山その人の執筆と頷かせるものである。

私としては、崋山真筆の可能性が高いものとみて、さらに地道な検討を続けることに努めたい。 (文星芸術大学 上野 憲示)

品川清遊図.jpg

「品川清遊図」

「目黒詣図」


目黒詣図一.jpg

http://www.bios-japan.jp/omoshiro7.html

http://www.bios-japan.jp/omoshiro9.html


目黒詣図二.jpg


『校書図』


校書図.jpg

http://www.bios-japan.jp/omoshiro7.html            ≫
http://blog2.hix05.com/2021/03/post-5723.html

≪「校書」とは芸者のこと。中国の故事に、芸妓は余暇に文書を校正するという話があることに基づく。崋山といえば、謹厳実直な印象が強く、芸者遊びをするようには、とても思えないが、この図には、崋山らしい皮肉が込められている。
 画面左上に付された賛には、概略次のような記載がある。「髪に玉櫛金笄を去り、面に粉黛を施さず、身に軽衣を纏うて、恰も雨後の蓮を見るようだ」と。これに加えて、近頃は世が豪奢を禁じたと言う指摘あがる。つまりこの絵は、世の中が窮屈になって、芸者も質素な身なりを強いられていることを、揶揄しているとも考えられるのである。
 いわゆる天保の改革が本格化するのは天保十二年のことで、日本中に倹約精神が求められた。この絵が描かれたのは天保九年のことだから、まだ改革は本格化してはいなかったが、一般庶民への強制に先だって、芸者や河原ものへの抑圧は高まっていたようだ。そうした社会的な抑圧は、社会の底辺部にいるものから始まって、次第に一般庶民を巻き込んでいくものだ。崋山は、そうしたいやな時代の流れを敏感に受け取っていたのであろう。≫(「続壺齋話」)
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その九) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「渡辺崋山(「夕立図」)」

渡辺崋山(「夕立図」.jpg

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175.html

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0011.jpg

≪「鳶乃香もいふたつかたになまくさし」の意味は、天空を飛んでゆく鳶の香も、地上にある物の香りも、夕立が通っていく方向に、なま臭い感じをさせて移ってゆく、というような意味で、夏の夕立の湿気を感覚的に捉えたものであろう。 ≫(『渡辺崋山の神髄(平成30年度特別展・田原市博物館編)』所収「図版解説63」)

 この「夕立図」は、何とも、当時の、幽閉中の「渡辺崋山」その人を暗示しているような、そんな印象を深くさせる。これは、「夕立ち」の中の、馬上の武士(崋山その人)と、その従者の図と解してよかろう。そして、その「夕立図」に賛した、その自画賛の一句、「鳶乃香もいふた(だ)つかたになまく(ぐ)さし」の、「なまく(ぐ)さし」というのは、渡辺崋山が連座した、所謂、天保一〇年(一八三九)の、「蛮社の獄」(江戸幕府が洋学者のグループ尚歯会に加えた弾圧事件)などの、当時の江戸幕府の文教をつかさどる林家出身の目付・鳥居耀蔵などの暗躍を指しているようにも思われる。
 この「蛮社の獄」により、渡辺崋山は、「国許(田原藩)蟄居(ちつきよ)」を命ぜられ、その二年後の、天保十二年(一八四一)十月十一日、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹し、その四十九年の生涯を閉じることとなる。

「渡辺崋山(略年譜)」(「公益財団法人崋山会」など)

https://www.kazankai.jp/kazan_history.php

寛政5年(1793)1歳 9月16日、江戸麹町田原藩上屋敷に生まれる。
寛政7年(1795)3歳 妹茂登生まれる。
寛政9年(1797)5歳 この年、軽い天然痘にかかる。
寛政12年(1800)8歳 若君亀吉のお伽役(おかやく)になる。妹まき生まれる。
享和元年(1801)9歳 最初の絵の師、平山文鏡(田原藩士)亡くなる。
享和3年(1803)11歳 弟熊次郎生まれる。
文化元年(1804)12歳 日本橋で備前侯行列に当り、乱暴を受け発奮する。
文化2年(1805)13歳 鷹見星皐に入門し、儒学を学ぶ。弟喜平次生まれる。
文化3年(1806)14歳 若君元吉(後の康和)のお伽役になる。
文化4年(1807)15歳 弟助右ヱ門生まれる。
文化5年(1808)16歳 絵師白川芝山に入門する。星皐より華山の号を受ける。藩主康友に従って田原に滞在する。
文化6年(1809)17歳 金子金陵に絵を学ぶ。金陵の紹介により谷文晁に絵を学ぶ。
文化7年(1810)18歳 田原に藩校「成章館」創立。妹つぎ生まれる。
文化8年(1811)19歳 佐藤一斎から儒学を学ぶ。
文化10年(1813)21歳 妹つぎ亡くなる。
文化11年(1814)22歳 納戸役になる。絵事甲乙会を結成し、画名が世に知られる。
文化13年(1816)24歳 弟五郎生まれる。
文化14年(1817)25歳 父定通、家老となる。
文政元年(1818)26歳 正月、藩政改革の意見を発表。長崎遊学を希望したが父の反対のため断念する。「一掃百態図」を描く。 藩主康友に従って田原に滞在する。
文政2年(1819)27歳 江戸日本橋百川楼で書画会を開く。
文政6年(1823)31歳 和田たかと結婚する。「心の掟」を定める。
文政7年(1824)32歳 7月、家督する。父定通亡くなる。
文政8年(1825)33歳 この年から松崎慊堂(まつざきこうどう)に儒学を学ぶ。
文政9年(1826)34歳 江戸宿舎にてオランダ使節ビュルゲルと対談。長女可津生まれる。この頃から画号「華山」を「崋山」と改める。
文政10年(1827)35歳 10月、三宅友信に従い田原に来る。
文政11年(1828)36歳 「日省課目」を定め修養に努める。側用人となり、友信の傅を兼ねる。
文政12年(1829)37歳 三宅家家譜編集を命ぜられる。弟喜平次亡くなる。
天保元年(1830)38歳 埼玉県尻に三宅氏遺跡を調査し、のちに「訪録」を書く。弟熊次郎亡くなる。
天保2年(1831)39歳 江戸藩邸文武稽古掛指南世話役となる。妹まき亡くなる。9月から門弟高木梧庵を伴い厚木を旅し「游相日記」を書き、10月、桐生、足利、尻地方に旅し「毛武游記」を書く。
天保3年(1832)40歳 家老となる。紀州藩破船流木掠取事件、助郷免除事件あり。長男立生まれる。
天保4年(1833)41歳 1月、家譜編集などのため田原に来て、「参海雑志」を書く。
天保5年(1834)42歳 幕命の新田干拓中止の願書を上申。農学者大蔵永常を田原藩に招く。
天保6年(1835)43歳 報民倉竣工。二男諧(後の小華)生まれる。
天保7年(1836)44歳 田原地方が大飢饉になる。
天保8年(1837)45歳 真木定前を田原に遣し、飢餓を救う。年末、無人島渡航を藩主に願うが許されず。「鷹見泉石像」を描く。弟五郎亡くなる。
天保9年(1838)46歳 年初、「退役願書稿」を書く。蔵書画幅を藩主に献上する。「鴃舌或問」、「慎機論」を著す。儒者の伊藤鳳山を田原藩に招く。
天保10年(1839)47歳 江戸湾測量で伊豆の代官江川坦庵に、人材器具を援助する。5月14日、蛮社の獄により北町奉行所揚屋入りとなる。12月18日、田原蟄居の申渡しを受ける。
天保11年(1840)48歳 1月20日、田原着。2月12日、池ノ原屋敷に蟄居。
天保12年(1841)49歳 10月11日自刃する。

 ちなみに、この「崋山俳画譜」を、嘉永二年(一八四九)に版行した、「鈴木三岳」(一七九二~一八四五)は、当時の吉田藩(現豊橋市)の御用達商人で、味噌溜の醸造業を営み、田原蟄居中の崋山に俳画の指導を受けていたという、崋山没後のものなのである。(『渡辺崋山の神髄―田原市博物館 平成30年度特別展』)

 また、こ「崋山俳画譜」中の、二枚の、崋山の自賛句入りの俳画の、「渡辺崋山(朝顔図)」(朝皃は下手のかくさへあはれなり)が、「朝顔図に朝顔の句」の、所謂、「べた付け」に対して、この「渡辺崋山(「夕立図」)」(鳶乃香もいふたつかたになまくさし)の、「夕立ち図に鳶の句」は、所謂、「匂い付け」のものということになる。

(参考)「べた付け」(「物付け」)と「匂い付け」(「心付け・余情付け」)周辺

http://www5a.biglobe.ne.jp/~RENKU/nmn17.htm

【歌仙・付けの種類】

二条良基の『僻連抄』(1345 ?)による最古文献による分類は15。平付の句(ひらつけのく)、四手(よつで)、景気(けいき)、心付(こころづけ)、詞付(ことばづけ)、埋句(うづみく)、余情(よせい)、相対(あいたい)、引違(ひきちがい)、隠題(かくしだい)、本歌(ほんか)、本説(ほんぜつ)、名所、異物、狂句(きょうく)。ただしこれは付けの態度、表現、題材による分類が混在したもの。その後宗祇(-1502)の分類を経て、宗牧(-1545)が『四道九品』(しどうくほん)で、付けの態度を中心に添(てん)、随(ずい)、放(ほう)、逆(ぎゃく)の4つに大別したのが画期的だったがあまり普及しませんでした。
 蕉風の付合(つけあい)に至った過程については、『去来抄』の説、「先師曰く、発句はむかしよりさまざま替り侍れど、付句は三変也。むかしは付物を専らとす。中頃は心付を専らとす。今は、移り、響、匂ひ、位を以て付くるをよしとす。」が革命的で、今日芭蕉を讃える源泉となっています。

 つまり貞門時代が物付(ものづけ)、談林時代が心付(こころづけ)、いまの蕉門時代が余情付(よじょうづけ)または匂い付けと奥行を広げたことになります。

<物付> 歌いづれ小町をどりや伊勢踊   貞徳  
   どこの盆にはおりやるつらゆき   同 

小町+伊勢→貫之、踊→盆、というように前句のことばや物によって付ける。

<心付> 子をいだきつつのり物のうち    宗因  
       度々の嫁入りするは恥知らず    同

前句のあらわす全体の意味や心持ちに応じて付ける、すなわち句意付けです。

<余情付> 移り(うつり)、響(ひびき)、匂ひ(におい)、位(くらい)の付けは、すべて広くいえば心付に含まれるが、談林風の心付が前句の意味内容に応じたものであったのに対して、蕉風のそれは前句の気分、余情、風韻を把握し、それに応え合い、響き合うものを付ける、これが余情付です。
 付句を付けるというのは、まず付合(付けの種類)を物付にするか、句意付にするか、余情付にするかを決め、次に付心(つけごころ、付けの手法・態度)を決め、付所(付けの狙いどころと手がかり)を探してから、瞬時考えて句を作るという感覚的で、時には禅に通ずる暝想的な作業であり、その結果が付味(付けの効果)になります。
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その八) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「渡辺崋山(朝顔図)」

渡辺崋山(朝顔図).jpg

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0010.jpg
≪「渡辺崋山(朝顔図)」(朝皃は下手のかくさへあはれなり)≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。

https://www.taharamuseum.gr.jp/exhibition/2018/ex180908/index2.html

https://www.taharamuseum.gr.jp/exhibition/2006/ex060428/index2.html

≪●俳画冊 渡辺崋山
全24図で二帖からなり、俳句に俳画が添えられている。崋山は、二十代から俳諧師太白堂と親交があり、崋山自身も俳諧をよくした。弟子の鈴木三岳に与えた『俳画譜』の俳画論の中で、上手に描こうと思う心はかんばしくなく、なるべく下手に描くように指導している。精巧な表現で描くことより、省筆により単純な表現が趣や余韻を生むことが描く人の人格により見る者に訴えかけることを伝えたかったのであろう。崋山自身が日常に身の回りで眼にしたものを題材に自由奔放な精神が俳句に表現されている。落款もなく、年代を特定するのが困難だが、天保年間と考えたい。明復こと松崎慊堂(1771~1844)の題字「最楽」が添えられている。
●各図の俳句
飛込むで月日落つく花乃春
鳶乃輪の中に蠢く田打かな
青柳をしらぬ御顔や角大師
穂かきして浮世かなしや夕紅葉
板の間の釘もひかるや夜のさむみ
紙子着てねぎきる役にあたりけり
削掛重荷おろせしひとたばこ
五左衛門に明日の道問ふ董かな
夏の月駱駝の小屋のとれしあと
行秋や薪一把も庭ふさげ
襟さむしこんな夕にさへ雁ハ行
大雪や鼠ひと声ひるすぎる

鶯乃身はくれて居てなきにけり
留守とおもへばくさめする五月あめ
河鹿啼や木乃間ノ月ニ渉わたり
谷川も人は通らず渡る鷹
竹の根に水さらさらとしぐれけり
それは我師走乃句なりいそげ人
吸ものの上を渡るや春の鐘
草花やともすれば人の垣のぞき
有明や谷川渡る旅からす
枯柳乞食のくさめ聞へけり
霜乃月山樹のとげも見へに遣理(けり)
大井川に喧嘩もなくてしぐれけり    ≫(「田原市博物館」)

崋山俳画一.jpg

上図―右 飛込むで月日落つく花乃春
上図―左 留守とおもへばくさめする五月あめ
中図―右 鶯乃身はくれて居てなきにけり
中図―左 青柳をしらぬ御顔や角大師
下図―右 鳶乃輪の中に蠢く田打かな
下図―左 河鹿啼や木乃間ノ月ニ渉わたり
(『渡辺崋山の神髄(平成30年度特別展・田原市博物館編)』)

崋山俳画二.jpg

上図―右 穂かきして浮世かなしや夕紅葉
上図―左 竹の根に水さらさらとしぐれけり
中図―右 谷川も人は通らず渡る鷹
中図―左 紙子着てねぎきる役にあたりけり
下図―右 板の間の釘もひかるや夜のさむみ
下図―左 それは我師走乃句なりいそげ人
(『渡辺崋山の神髄(平成30年度特別展・田原市博物館編)』)

崋山俳画三.jpg

上図―右 削掛重荷おろせしひとたばこ
上図―左 草花やともすれば人の垣のぞき
中図―右 吸ものの上を渡るや春の鐘
中図―左 夏の月駱駝の小屋のとれしあと
下図―右 五左衛門に明日の道問ふ董かな
下図―左 有明や谷川渡る旅からす
(『渡辺崋山の神髄(平成30年度特別展・田原市博物館編)』)

崋山俳画四.jpg

上図―右 行秋や薪一把も庭ふさげ
上図―左 霜乃月山樹のとげも見へに遣理(けり)
中図―右 枯柳乞食のくさめ聞へけり
中図―左 大井川に喧嘩もなくてしぐれけり
下図―右 襟さむしこんな夕にさへ雁ハ行
下図―左 大雪や鼠ひと声ひるすぎる
(『渡辺崋山の神髄(平成30年度特別展・田原市博物館編)』)

 冒頭の、≪「渡辺崋山(朝顔図)」(朝皃は下手のかくさへあはれなり)≫の、「朝皃は下手のかくさへあはれなり」の、「下手」は、「画人」(「玄人絵師」)の「上手」(「画技」=「技」)に対する、「文人」(「素人絵師」)の「下手」(「技・巧」ではなく「心・拙」)こそ、それこそが「あはれ」(「もののあはれ」=「情趣」の世界)に通ずるというようなことを、崋山は、この一枚の「朝顔図」と「自賛句」に託しているように思われる。
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その七) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「野々口立圃(燈下読書)」

野々口立圃《燈下読書図.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「野々口立圃《燈下読書図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0005.jpg

≪「燈下読書図」立圃画意 雛屋ハ松花堂ニ/辯香スルニ似タリ ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

≪ 立圃は俳諧をよくし、俳画としての作品もかなり世に遺っている。「松花堂ニ/辯香スルニ似タリ」と評されているが、既に松花堂の風韻は著しく、洒脱に、軽妙に転化されているのである。立圃の作品に「休息三十六歌仙」がある。歌仙を休息のていたらくに描き、俳諧をそえて歌仙画巻の形式をとった俳諧的気分にあふれている。 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

野々口立圃筆兼好法師自画賛.jpg

「野々口立圃筆兼好法師自画賛」(作者:野々口(雛屋)立圃)( 「慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)」)
https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/1782
≪ 野々口立圃〈ののぐちりゅうほ・1595-1669〉は、江戸時代初期の俳諧師。名は親重(ちかしげ)、紅染めの名人としても知られ、紅屋庄右衛門という通称もある。松翁・松斎の別号がある。京都に出て雛人形の細工を業としたため、雛屋立圃(ひなやりゅうほ)の名で親しまれた。松永貞徳〈まつながていとく・1571-1654〉に俳諧を学び、貞門七俳仙に名を連ねる。中でも立圃と松江維舟〈まつえいしゅう・1602-1680〉はとくに傑出して貞門二客と称された。俳諧のほかに、連歌・和歌・書・画・和学などにも通暁、多才な人であった。和歌を烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉、画を狩野探幽〈かのうたんゆう・1602-1674〉に学んだ。書は青蓮院流(尊朝流)を学び、堂上公卿とも親交をもった。吉田兼好〈よしだけんこう・1283?-1350?〉はその著『徒然草』第13段に「ひとり灯のもとに書物をひろげて、見も知らぬ昔の人を友とすることこそ、この上なく心の慰むことである」と語る。
 この図は、その原文の部分に加えて、「その兼好法師自身でさえ、はるか遠い昔の人となってしまった。人の命は花のようにはいかないものよ」という立圃自詠の一句を添えて賛とし、灯火に読書する兼好法師の姿を描いたものである。俳画の先駆ともいうべき新境地を拓いた立圃の面目躍如たる自画賛である。軽妙洒脱な筆であらわされた兼好像は、あるいは、立圃の自画像であったのではなかろうか。

ひとりともし火のもとに文をひろげて見ぬ世の人を友とするなん、こよなうなぐさむわざなれ。といひし人も見ぬ世の人となれり。見る人も花よ見ぬ世のふる反古 ≫( 「慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)」)

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/

(抜粋)

「野々口立圃撰並画 寛文6年(1666) 自筆」(1巻 25.2×342.5cm)(「早稲田図書館蔵」)

≪ 貞門の俳人、野々口立圃(1595-1669)の自筆句合画巻。十二支の動物に装束を着せて一対ずつ左右に向かわせ、立圃自作の発句を合わせたもの。動物の組み合わせは、辰と戌、巳と亥のように、7番目同士を合わせる「七ツ目」というめでたい組み方で配列されている。最初の辰と戌の組には、辰に「夕立の水上いづこたつの口」、戌に「犬山やふるもまだらの雪の色」とある。奥書に「七十二老」とあり、寛文6年(1666)の染筆とわかる。
 立圃は松江重頼と並び称された貞門の重鎮。のち貞徳のもとをはなれ一流派をひらいた。雛人形屋を業とし、若くして連歌・和歌・書を学んだ。絵は晩年の習事と伝えるが、「書画は習はずして自由自在に書ちらし」(『立圃追悼集』)とも見える。元禄以後の俳画の盛行は立圃に端を発するともいわれている。
 本画巻の、淡彩をほどこした動物たちの飄々たる姿は、立圃晩年の円熟の境地を伝え、数多い立圃自筆資料のうちでも秀作ということができる。横山重旧蔵。

(釈文) 省略

(左一・辰、右一・戌)

左一・辰、右一・戌.jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni03h.jpg
「左一・辰」=夕立の水口いつ(づ)こたつの口
「右一・戌」=犬山の雪もまた(だ)らの雪の色

(左二・己、右(二)・亥)

左二・己、右(二)・亥.jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni04h.jpg
「左二・己」=祓する己の日や魚の毒なか(が)し
「右(二)・亥」=白黒やゐの子にしろき砂糖餅

(左三・午、右(三)・子)

(左三・午、右(三)・子).jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni05h.jpg
「左三・午」=竹馬や杖に月毛のよるの道
「右(三)・子」=小松をやけふ引(き)あそへ(べ)初鼠

(左四・未、右(四)・丑)

(左四・未、右(四)・丑).jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni06h.jpg
「左四・未」=羊をや五月つくしの花車
「右(四)・丑」=ひかりそふ露や北野の年の玉

(左五・申、右(五)・寅)

(左五・申、右(五)・寅).jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni07h.jpg
「左五・申」=猿丸の歌の紅葉や顔の色
「右(五)・寅」=虎の尾ハちるともふむな桜花

(左六・酉、右(六)・卯)

(左六・酉、右(六)・卯).jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni08h.jpg
「左六・酉」=霜夜には鐘や一番二番鳥
「右(六)・卯」=短夜に月の兎の耳もかな
     七十二翁放将
     書之乎口之号
           立圃(朱方印)      ≫

立圃肖像並賛「かくとたに.jpg

「立圃肖像並賛「かくとたに」 / 生白 [画],立圃 [賛](「早稲田図書館蔵」)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_d0153/bunko31_d0153_p0001.jpg

(野々口立圃の俳句)

あらはれて見えよ芭蕉の雪女(ゆきをんな) (『そらつぶて』)
≪季語=雪女(冬)。謡曲「芭蕉」の「芭蕉の精」と、「雪の精」の「雪女」とを背景にしている一句。≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

絵に似たる顔やヘマムシ夜半の月 (『そらつぶて』)
≪季語=月(秋)。「ヘマムシ」は、「へのへのもへじ」のような文字遊戯の一種。「へ」=頭と眉、「マ」=目、「ム」=鼻、「シ」=口。「ヘマムシヨ」の「ヨ」=耳。江戸時代には手習草子として山水天狗と共に戯書の双璧であった。≫ (『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

霧の海の底なる月はくらげかな (『誹諧発句帳』)
≪季語=月(秋)。「霧」が一面にかかっているのを「霧の海」と見立て、その「月」を「海月(くらげ))と見立て、さらに、月の光が暗いという「暗気(くらげ)」を掛けている。≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

源氏ならで上下に祝ふ若菜かな (『犬子集』)
≪季語=若菜(春・新年)。『源氏物語』の「上・下」二部にわかれている「若菜(三十四帖)」 は「若菜上・下」にまたがっていることと、「身分」の「上・下」とを掛けている。立圃は、『十帖源氏』や『稚源氏』などの「源氏物語梗概書」を有する、名うての「源氏物語通」で知らりている。 ≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

声なくて花や梢の高笑ひ (『そらつぶて』)
≪季語=「花」(春)。「花の咲く」ことを「花の笑う」という意から、「梢に高く咲く花」は「高笑い」だという、「洒落」の一句。 ≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

月影をくみこぼしけり手水鉢 (『そらつぶて』)
≪季語=月(秋)。「手水鉢(ちょうずばち)の水とともに、千々にくだけ散る月の光を「汲みこぼす」表現したのが、この句の眼目。≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

天も花に酔へるか雲の乱れ足 (『犬子集』)
≪季語=「花」(春)。『和漢朗詠集』の「天酔于花 桃李盛也(天ノ花ニ酔ヘルハ、桃李ノ盛ナルナリ)を踏まえ、雲の動きを「雲脚」と、「天・雲」を擬人化した一句。 ≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

ほころぶや尻も結ばぬ糸桜 (『犬子集』)
≪季語=糸桜(春)。「尻も結ばぬ糸」(玉どめを作らないで縫う糸)のために、「花が『ほころぶ』(咲く)との見立ての妙味。その技巧が嫌味になっていないのが立圃調。≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

花ひとつたもとにすがる童かな (『句兄弟』)
≪季語=「花」(春)。貞門誹諧に普通みられる言葉の技巧はまったくない。実際の体験からでないと作れない。実感のある句。其角の『句兄弟』で取り上げられている。≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

https://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92%E3%81%AE%E3%80%8E%E5%8F%A5%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%80%8F

(再掲)

十八番
   兄 立圃
 花ひとつたもとにすか(が)る童かな
   弟 (其角)
 花ひとつ袂に御乳の手出し哉

(兄句の句意)花一輪、その花一輪のごとき童が袂にすがっている。
(弟句の句意)花一輪、それを見ている乳母が袂に抱かれて寝ている童にそっと手をやる。
(判詞の要点)兄の句は「ひとつ(一つ)だも」と「たもと」の言い掛けの妙を狙っているが(大切な童への愛情を暗に暗示している)、弟句ではその童から「お乳」(乳母)への「至愛」というものに転回している。
(参考)一 其角の判詞(自注)には、「たもとゝいふ詞のやすらかなる所」に着眼して、「花ひとつたもと(袂)に」をそれをそのままにして、句またがりの「すか(が)る童かな」を「御乳の手出し哉」で、かくも一変させる、まさに、「誹番匠」其角の「反転の法」である。この「反転の法」は、後に、しばしば蕪村門で試みられたところのものであるという(『俳文学大辞典』)。

二 (謎解き・六十九)では、兄句の作者を其角としたが、ここは、立圃の句。野々口立圃。1595~1669。江戸前期の俳人、画家。京都の人。本名野々口親重。雛屋と称し、家業は雛人形細工。連歌を猪苗代兼与に、俳諧を貞徳に師事。『犬子集』編集に携わるが、その後貞徳から離反、一流を開く。『俳諧発句帳』『はなひ草』ほか多数著作あり。 ≫
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