SSブログ

「俳誌・ホトトギス」管見(その三) [ホトトギス・虚子]

「ほとゝぎす(第二十号)」(明治三十一年・1898/八月号)周辺

ホトトギス(第二十号)表紙.jpg

「ホトトギス(第二十号)」(明治三十一年・1898/八月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972132/1/1

ホトトギス(第二十号)目次.jpg

「ホトトギス(第二十号)」(明治三十一年・1898/八月号)目次と「發行所を東京へ遷す事/
獺祭書屋主人/p1~2」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972132/1/2

(目次)

發行所を東京へ遷す事/獺祭書屋主人/p1~2
雜話/四方太/p3~5
雜感/子規/p5~7
輪講摘録(八)/子規/p7~12
大阪消息/別天樓/p12~12
松江便り/羽風/p12~13
投寄俳句(夏)/p13~14
仝(秋)/p14~15
報告/p16~16
課題俳句七夕/子規/後1~後3
課題俳句踊/碧梧桐/後3~後5
課題俳句相撲/四方太/後5~後8
購讀者諸君に告ぐ/後8~後9
課題 其他/後9~後10
俳句分類/獺祭書屋主人/付1~付4

(管見)

一 「發行所を東京へ遷す事/獺祭書屋主人/p1~2」は、「伊予(愛媛)・松山の柳原極堂の
編集・刊行する『ほとゝぎす』」から、「東京(子規の「根岸庵)の意を受けての、東京在住
の愛弟子の一人高浜虚子(東京神田錦町一丁目十二番地の「虚子宅」)=編集・発行人)」へ
と「遷(うつ)す事」の、その宣言でもあった。

「購讀者諸君に告ぐ」.jpg

「購讀者諸君に告ぐ/後8~後9」と「課題 其他/後9~後10」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972132/1/14

二 編集・発行人が「柳原極堂(正之)」の「ほとゝぎす」は、この「ホトトギス(第二十
号)」(明治三十一年・1898/八月号)をもって終刊となり、次号以下の編集・発行人は「高
浜虚子(清)」と代替わりすることになる。これらのことについては、高浜虚子の自伝の
『俳句の五十年(昭和十七年・中央公論社刊)』や『虚子自伝(昭和二十三年・青柿堂刊)』の、
「ホトトギスの創刊」に記述されている。

『俳句の五十年(昭和十七年・中央公論社刊)』所収「ホトトギスの創刊」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1128476/1/65
https://dl.ndl.go.jp/pid/1128476/1/66

『虚子自伝(昭和二十三年・青柿堂刊)』所収「ホトトギスの創刊」

ホトトギス・虚子発刊.jpg

https://dl.ndl.go.jp/pid/1128475/1/31
https://dl.ndl.go.jp/pid/1128475/1/32
https://dl.ndl.go.jp/pid/1128475/1/33

三 これらの『俳句の五十年(昭和十七年・中央公論社刊)』所収「ホトトギスの創刊」そして『虚子自伝(昭和二十三年・青柿堂刊)』所収「ホトトギスの創刊」(「国立国会図書館デジタルコレクション)は、「『定本/高浜虚子全集/毎日新聞社刊』所収「第十三巻/自伝・回想集」には、次の通りに収載されている。

http://kenkyuyoroku.blog84.fc2.com/blog-entry-619.html

[第13巻 自伝 回想集 1973.12.20
 
俳句の五十年…………………………………11
序……………………………………………13

虚子自伝…………………………………… 135
西の下…………………………………… 137
松山……………………………………… 142
京都……………………………………… 146
仙台……………………………………… 154
文芸に遊ぶ……………………………… 157
ホトトギス発行………………………… 161
子規の死………………………………… 163
文章……………………………………… 165
鎌倉……………………………………… 167
十一年間………………………………… 170
九年間…………………………………… 174
その後の十六年間……………………… 176
小諸……………………………………… 178

子規居士と余……………………………… 181
子規子終焉の記…………………………… 247
秋闌………………………………………… 251
正岡子規と秋山参謀……………………… 261

漱石氏と私………………………………… 271
序………………………………………… 273
漱氏と私……………………………… 275
京都で会つた漱石氏…………………… 366

俳談抄……………………………………… 375
中川四明・草間時福…………………… 377
私の東京に出た時分…………………… 377
鴎外……………………………………… 377
私の句日記……………………………… 378
ホトトギスの弱味が強味……………… 379
乙字……………………………………… 381
月並……………………………………… 381
島村元…………………………………… 382
女流作家………………………………… 382
坂本四方太……………………………… 383
松瀬青々………………………………… 385

虚子自伝 抄……………………………… 387
序………………………………………… 389
国民文学欄……………………………… 391
椿の苗木………………………………… 395
松山の方言……………………………… 398
太田の渡し……………………………… 400
刀刄段々壊……………………………… 402
小諸……………………………………… 404

*校異篇…………………………………… 410
本文校異……………………………… 411
初出一覧……………………………… 434
訂正一覧……………………………… 437
*解題(小瀬渺美)……………………… 441
*解説(松井利彦)……………………… 451   ]
nice!(1)  コメント(0) 

「俳誌・ホトトギス」管見(その二) [ホトトギス・虚子]

「ほとゝぎす(創刊号)」(明治三十年・1897/一月号)周辺

ほとゝぎす(創刊号)表紙.jpg

「ほとゝぎす(創刊号)」(明治三十年・1897/一月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972113/1/1

ほとゝぎす(創刊号)目次.jpg

「ほとゝぎす(創刊号)」(明治三十年・1897/一月号)目次
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972113/1/2

(目次)

老梅居漫筆 / 鳴雪/p1~2
菫物語 / 半壺生/p3~3
俳諧反故籠 / 獺祭書屋主人/p4~4
俳諧雑誌の發刊を祝して卑見を述ぶ / 五洲生/p5~5
ほととぎすの發刊を祝す / 子規子/p7~7
ほととぎす出づ / 碧梧桐/p8~8
子規の出世を祝す / 飄享/p8~8
極堂詞兄足下 / 空世生/p8~8
ほととぎす發刊祝句/p9~9
當地近頃の俳况 / 駿臺隱士/p9~10
ほととぎすの發刊の辭/p11~12
課題俳句(時雨、千鳥、蒲團) / 子規選/p13~13
課題俳句( 時雨、千鳥、蒲團 ) / 鳴雪選/p22~30
冬季俳句( 混題 )/p31~31
新年俳句( 混題 )/p32~32
河東碧梧桐 / 越智處之助/p33~37

(管見)

一 明治三十年(1897)、虚子、二十三歳。一月、「柳原極堂」が松山で「ほとゝぎす(ホトトギス)」を創刊。発行所は、松山市大字立花町五十番地、当時の極堂の家である。その誌名は「正岡子規」の「子規」の雅号に由来する。表紙は、「下村為山」の筆で「ほとゝき須」と書かれている。

[柳原極堂( やなぎはら-きょくどう)
 1867-1957 明治-昭和時代の俳人,新聞人。
慶応3年2月11日生まれ。正岡子規にまなび,明治30年郷里の松山で「ほとゝぎす」を創刊,翌年同誌を高浜虚子にゆだねる。伊予日日新聞社長などをつとめたのち上京,昭和7年「鶏頭」を創刊,主宰。17年帰郷し,子規の研究と顕彰に専心した。昭和32年10月7日死去。90歳。本名は正之。著作に「友人子規」,句集に「草雲雀」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[下村為山 (しもむら-いざん)
 1865-1949 明治-昭和時代の画家,俳人。
慶応元年5月21日生まれ。明治15年上京して本多錦吉郎,小山正太郎に洋画をまなび,正岡子規と知りあって俳句を研究。俳画家として知られた。昭和24年7月10日死去。85歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。名は純孝。別号に雀廬,冬邨など。作品に「慈悲者之殺生図」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

二 「俳諧反故籠 / 獺祭書屋主人/p4~4」の「獺祭書屋主人」は「正岡子規」、「老梅居漫筆 / 鳴雪/p1~2」の「老梅居」は「内藤鳴雪」、「菫物語 / 半壺生/p3~3」の「半壺生」は「高浜虚子」、「ほととぎす出づ / 碧梧桐/p8~8」の「碧梧桐」は「河東碧梧桐」、そして、「子規の出世を祝す / 飄享/p8~8」の「飄享」は「五百木飄亭」の号である。

[正岡子規( まさおか-しき)
 1867-1902 明治時代の俳人,歌人。
慶応3年9月17日生まれ。明治25年日本新聞社入社,紙上で俳句の革新運動を展開。28年以降は病床にあり,30年創刊の「ホトトギス」,31年におこした根岸短歌会に力をそそぎ,短歌の革新と写生俳句・写生文を提唱した。野球の普及にも貢献,平成14年新世紀特別表彰で野球殿堂入り。明治35年9月19日死去。36歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。帝国大学中退。本名は常規(つねのり)。別号に獺祭書屋(だっさいしょおく)主人,竹の里人。著作に句集「寒山落木」,歌集「竹乃里歌」,ほかに「獺祭書屋俳話」「歌よみに与ふる書」「病牀(びょうしょう)六尺」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[内藤鳴雪( ないとう-めいせつ)
 1847-1926 明治-大正時代の俳人。
弘化(こうか)4年4月15日生まれ。伊予(いよ)松山藩士の子。文部省参事官をへて旧藩主設立の常盤会(ときわかい)寄宿舎監督。舎生の正岡子規にまなび,子規没後も日本派の長老として活躍した。大正15年2月20日死去。80歳。江戸出身。本名は素行。別号に南塘,老梅居。句集に「鳴雪句集」,著作に「鳴雪自叙伝」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

〔高浜虚子( たかはま-きょし)
 874-1959 明治-昭和時代の俳人,小説家。
明治7年2月22日生まれ。中学時代から正岡子規に師事。明治31年「ホトトギス」をひきつぐ。一時小説や写生文をかいたが大正2年俳句に復帰。客観写生,花鳥諷詠(ふうえい)をといて俳句の伝統擁護につとめた。昭和29年文化勲章受章。芸術院会員。昭和34年4月8日死去。85歳。愛媛県出身。旧姓は池内。本名は清。句集に「虚子句集」「五百句」,小説に「俳諧師」「柿二つ」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[河東碧梧桐 (かわひがし-へきごとう)
 1873-1937 明治-昭和時代前期の俳人。
明治6年2月26日生まれ。高浜虚子とともに正岡子規にまなび,新聞「日本」の俳句欄の選者をひきつぐ。のち新傾向俳句運動をおこし,中塚一碧楼(いっぺきろう)らと「海紅」を創刊,季題と定型にとらわれない自由律俳句にすすむ。大正12年「碧(へき)」,14年「三昧(さんまい)」を創刊。昭和12年2月1日死去。65歳。愛媛県出身。本名は秉五郎(へいごろう)。作品に「碧梧桐句集」,紀行文に「三千里」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[五百木飄亭 (いおき-ひょうてい)
 1871-1937 明治-昭和時代前期のジャーナリスト,俳人。
明治3年12月14日生まれ。22年上京し,同郷の正岡子規らと句作にはげむ。28年日本新聞社にはいり,34年「日本」編集長。昭和3年政教社にうつり,「日本及日本人」を主宰。大アジア主義をとなえた。昭和12年6月14日死去。68歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。俳号は飄亭(ひょうてい)。著作に「飄亭句日記」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

ほととぎす發刊祝句.jpg

「ほととぎす發刊祝句/p9~9」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972113/1/7

三 「ほととぎす發刊祝句/p9~9」に、虚子の次の句が収載されている。

 時雨木枯のあれあれて生(あ)れ出しもの(「松山に於て「ほととぎす」を発刊。祝句(明治三十年)」) (「現代俳句の世界一 高浜虚子」所収「慶弔贈答句」)

ほとゝぎ第一号諸新聞表と奥付.jpg

「ほとゝぎ第一号諸新聞表と奥付」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972113/1/22

nice!(1)  コメント(0) 

「俳誌・ホトトギス」管見(その一) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)周辺

ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号.jpg

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863

[(目次)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863/1/2
弔詞/六家/p7~12
父の病床八日間/年尾/p13~17
虚子先生の御病気/田中憲二郎/p17~22
御祖父様の枕許で/坊城中子/p22~24
虚子先生のデスマスク/上村占魚/p24~26
四月九日と十一日/福田蓼汀/p26~27
壽福寺―火葬場―原ノ臺/伊藤柏翠/p27~29
本葬/深川正一郞/p29~35
御埋葬の記/京極杞陽/p36~36
虚子追憶/岩木躑躅 ; 飯田蛇笏 ; 富安風生 ; 中田みづほ ; 高野素十 ; 阿波野靑畝 ; 山口誓子 ; 柴田宵曲 ; 上林白草居 ; 齋藤俳小星 ; 酒井默禪 ; 大橋越央子 ; 佐藤漾人 ; 日原方舟 ; 鈴鹿野風呂 ; 河野靜雲 ; 奈良鹿郞 ; 田村木國 ; 丹治蕪人 ; 三木朱城 ; 三溝沙美 ; 大岡龍男 ; 江川三昧 ; 安田蚊杖 ; 加賀谷凡秋 ; 川田十雨 ; 大橋櫻坡子 ; 岡田耿陽 ; 久米幸叢 ; 五十嵐播水 ; 森川曉水 ; 皆吉爽雨 ; 柏崎夢香 ; 宇津木未曾二 ; 竹末春野人 ; 上野靑逸 ; 大橋杣男 ; 岡崎莉花女 ; 藤岡玉骨 ; 松尾靜子 ; 小山白楢 ; 矢野蓬矢 ; 木村杢來 ; 今井つる女 ; 景山筍吉 ; 京極杞陽 ; 遠藤梧逸/p37~99
句佛師の五句/高濱虚子述/p100~102
父の最後の句について/年尾/p103~103
春雷/高濱年尾/p104~105
春嵐/佐藤漾人/p105~106
壽福寺/池內たけし/p106~108
巷に拾ふ/大岡龍男/p108~110
目/眞下喜太郞/p110~111
その前後/深川正一郞/p111~112
日記/下田實花/p112~114
隨問・隨答/眞下喜太郞/p114~116
雜詠/年尾選/p117~162
雜詠句評/靜雲 ; 敏郞 ; 杞陽 ; 木國 ; けん二 ; 蓬矢 ; 風人子 ; 莫生 ; 年尾/p163~165
「句會と講演の會」選句/年尾 ; 立子/p166~166
句日記/虚子(遺稿)/p168~168
句帖/年尾/p168~168
消息/年尾 ; 東子房記/p167~167   ]

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)」所収「目次・スナップ写真一(昭和三十四年四十七日撮影・本葬祭壇)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863/1/2

ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号その二.jpg

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)」所収「目次・スナップ写真二(昭和三十四年四月一日撮影・俳小屋の虚子)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863/1/3

(管見)

一  弔詞/六家/p7~12
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972863/1/4

文部大臣       橋本龍伍
日本芸術院長     高橋誠一郎
日本文芸家協会代表  山本健吉
愛媛県知事      久松定武
(※友人総代)     安倍能成
(全国弟子門代表)   岩本躑躅

 上記の「弔詞/六家/p7~12」のうち、「安倍能成」の肩書は、下記の「葬儀(本葬)通知」からして、「友人総代」としてのものであろう。安倍能成は明治十六年(一八八三)生まれ、高浜虚子は明治七年(一八七四)生まれ、そして、松根東洋城は明治十一年(一八七八)、この三人は、伊予尋常中学校(現在の愛媛県立松山東高校)の、同窓の三人ということになる。

ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号その三.jpg

「ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号)」/昭和三十四1959)・七月号)」所収「本葬/深川正一郞/p29~35」

ホトトギス(七百五十号・虚子追悼号四.jpg


虚子追悼号その五.jpg

https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6066/
[高浜虚子(たかはま /きょし)
生没年 明治7年2/22日 〜 昭和34年4月8日(1874年2月22日 〜 1959年4月8日)/出身地 愛媛県/ 職業・身分文学者/ 別称 清(本名)
解説/
俳人、小説家。中学時代、同級生の河東碧梧桐を介して正岡子規を知り、後に上京して碧梧桐とともに子規の俳句革新を援ける。明治31(1898)年松山で刊行されていた『ホトトギス』を引き継いで経営、子規の写生主義を散文に生かした写生文も開拓した。38(1905)年に夏目漱石の『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に連載、その影響で自らも小説家を志し、『風流懺法』(1907)等を発表。大正元(1912)年俳壇に復帰、十七音・季題を守った写生句を説く。昭和2(1927)年からは日本回帰の特色を持つ「花鳥諷詠」論を提唱し、生涯この信条を貫いた。29(1954)年文化勲章受章。]

https://www.cosmos-network.jp/cosmos_collection/32871/

深川正一郎.jpg

https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:4/82/view/14586
[深川正一郎(1902~1987)
 俳人。宇摩郡上山村(現、四国中央市新宮町)出身。大正13(1924)年、上京して文藝春秋社に入社、その後、日本コロンビアに入るが、このとき高浜虚子の俳句朗読のレコード制作を企画実施し、その際に虚子の知遇を得て師事した。昭和21(1946)年より虚子の遺訓に従い終生俳句一筋に生き、『ホトトギス』の中心的な存在となった。温厚な人柄で句風も穏やかで巧みであった。連句実作者としても知られている。また、句作と併行して380篇にも及ぶ写生文を書いた。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より) ]

虚子追悼号その六.jpg

https://sumus.exblog.jp/13211828/
[『彷書月刊』5月号が届いた。松尾邦之助特集とはシブい。しかし松尾邦之助は面白い。ジャーナリスト流の文章はやや物足りないところもあるものの、激動の実際面を広く見聞したというところに強みがある。パラパラやっていてこの写真が目にとまった。『フランス・ジャポン』四巻二〇号(日仏同志会、一九三六年五・六月号)掲載で高浜虚子夫妻がパリを訪れたときの記念写真。
 前列左から二番目が高浜虚子。後列右から二人目が松尾邦之助。その松尾の隣、向って右端が池内友次郎(いけのうちともじろう)。虚子の次男として東京に生まれ、慶應義塾大学予科中退の後、一九二七年にフランスに渡りパリ音楽院に入学した。作曲家・音楽教育家であり俳人でもある。]


nice!(1)  コメント(0) 

東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その十 [東洋城・豊隆・青楓]

その十「俳誌・渋柿(1000号/平成9・8)・一千号記念号」

俳誌・渋柿(1000号)表紙.jpg

「俳誌・渋柿(1000号/平成9・8)・一千号記念号」表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076

東洋城のスナップ五.jpg

「晩年の東洋城先生・於鶴翼楼」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/3

(目次)

渋柿一千号を祝す / 米田双葉子/p10~10
渋柿創刊一千号を迎えて / 松岡潔/p11~11
初夏 / 米田双葉子/p12~12
巻頭句 / 米田双葉子/p13~51
選後寸言 / 米田双葉子/p52~53
六月号巻頭句鑑賞 / 赤松彌介/p54~55
<特集>先人の思い出/p56~56
孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67
七人の侍 / 野口里井/p68~72
巨星塔の俳句指導 / 池川蜩谷/p72~73
俳諧道場回顧 / 渡部抱朴子/p73~76
小林晨悟先生のこと / 富田昌宏/p76~78
忘れ得ぬ人々 / 中須賀玉翠女/p78~79
修道士竹田哲の渋柿俳句 / 安江眞砂女/p79~80
伊香保の東洋城先生 / 大島麦邨/p81~82
喜舟先生と千鳥句会 / 田原玉蓮/p82~83
松岡凡草さんを懐う / 中小路梅支/p83~84
佐伯松花先生の思い出 / 豊竹春野/p84~85
一千号記念論文・随筆/p86~101
渋柿俳句の本質と写生について / 石丸信義/p86~88
第一渋柿句集その他より / 小島夕哉/p88~91
随想 / 武智虚華/p92~92
心境俳句について / 松岡潔/p93~99
城師の遺言 / 須山健二/p100~101
渋柿一千号記念全国大会/p102~111
渋柿一千号記念全国大会の記 / 栃木光歩/p102~106
一千号大会に参加して / 豊竹春野/p106~107
えにし / 竹下須磨/p107~107
所感 / 牧野寥々/p108~108
一千号大会祝宴にて / 小島夕哉/p109~111
渋柿年譜 / 米田双葉子/p112~112
記念号一覧表 / 中須賀玉翠女/p113~113
<参考資料>城師百詠絵短冊の意義由来/p113~114
句碑のある風景--渋柿関係者句碑一覧/p115~127
尾崎迷堂句碑 / 小島夕哉/p127~128
塩原にある東洋城の句碑 / 池澤永付/p128~128
句碑のある風景 / 大島麦邨/p128~130
自句自註 最高顧問・代表同人・課題句選者/p131~142
作句あれこれ(八十四) / 米田双葉子/p143~143
課題句<夏野> / 石丸信義/p144~148
各地例会/p149~159
巻頭句添削実相抄/p160~160
歌仙/p161~161
明易き / 徳永山冬子/p162~162

(「渋柿年譜」)

東洋城近詠(叟愁十句).jpg

「渋柿年譜 / 米田双葉子/p112~112」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/58

(「渋柿」記念号一覧)

渋柿(六〇二号.jpg

「記念号一覧表 / 中須賀玉翠女/p113~113」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/58


※「渋柿年譜」周辺

大正四年(一九一五) 二月、「渋柿」(東洋城主宰)創刊。東洋城、三十八歳。
同十一年(一九二二)九月、「渋柿」(東洋城主宰)百号。東洋城、四十五歳。
昭和六年(一九三一)一月、「渋柿」(東洋城主宰)二百号。東洋城、五十四歳。
昭和十四年(一九三九)四月、「渋柿」(東洋城主宰)三百号。東洋城、六十二歳。
昭和二十二年(一九四七)八月、「渋柿」(東洋城主宰)四百号。東洋城、七十歳。
※※昭和二十七年(一九五二)一月、東洋城「渋柿」隠退。七十五歳。
昭和三十一年(一九五六)一月、「渋柿」五百号(野村喜舟主宰)。東洋城、七十九歳。
昭和三十九年(一九六四)四月、「渋柿」六百号(野村喜舟主宰)。東洋城、八十七歳。
※※※同年十月二十八日、東洋城没。
昭和四十七年(一九七二)八月、「渋柿」七百号(野村喜舟主宰)。
昭和五十五年(一九八〇)十二月、「渋柿」八百号(徳永山冬子主宰)。
平成元年(一九八九)四月、「渋柿」九百号(徳永山冬子主宰)。
平成九年(一九八九)八月、「渋柿」一千号(米田双葉子主宰・松岡潔社主)。

「孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67」所収「カイゼル髭の東洋城先生」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/30

カイゼル髭の東洋城.jpg

「孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67」所収「カイゼル髭の東洋城先生」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/30

晩年の東洋城.jpg

「孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67」所収「晩年の東洋城先生」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/33

(追記その一) 「俳誌『渋柿・210』( 昭和6年10月号)周辺

渋柿(210号・表紙).jpg

「俳誌『渋柿(210号・表紙)』」( 昭和6年10月号)表紙
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/n1009762791

渋柿(210号・目次).jpg

「俳誌『渋柿(210号・目次)』」( 昭和6年10月号)
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/n1009762791

※ 上記の「渋柿(目次)」の「巻頭語(秋谷立石山人)・表紙」の「秋谷立石山人」は、「松根東洋城」の別号である。(「ウィキペディア」)
 そして、それに続く「仙台より(小宮蓬里野人))」は、「小宮豊隆(蓬里雨))、その後に、「映画原則と俳諧(下「モンタァジュより俳諧根本義へ」)」という、東洋城の論考と、「連句雑俎((五)連句の心理の諸現象))」(寺田寅彦)」の論稿が続いている。
 この「昭和六年(一九三一)十月号」は、「昭和六年(一九三一)一月、「渋柿」(東洋城主宰)二百号。東洋城、五十四歳。」のものである。

渋柿・184号・表紙.jpg

「俳誌『渋柿・184号』表紙」( 昭和4年8月号)
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h1009760164

渋柿・184号・目次.jpg

「俳誌『渋柿・184号』目次」( 昭和4年8月号)
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h1009760164

※ この号の「巻頭言(「無題」)」の「寺田ᮌ木螺(ぼくら)山人」は、「寺田寅彦」の号の一つの「木螺(ぼくら)」(ミノムシ)を用いている。

渋柿・192号・表紙.jpg

「俳誌『渋柿・192号(表紙)』」( 昭和5年4月号)
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/j1009763514

渋柿・192号・目次.jpg

「俳誌『渋柿・192号(目次)』」( 昭和5年4月号)
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/j1009763514

※ この号の「妹背山婦女庭訓『吉野川』の舞台機構(附・俳諧の精妙)」(東洋城)の、東洋城の「歌舞伎と俳諧」との稿は、「東洋城の俳諧(俳句と連句)」の一端を探る上で貴重なものであろう。


(追記その二)  「俳句」(昭和三十九年十二月号)周辺
https://dl.ndl.go.jp/pid/7962712

「俳句」(昭和三十九年十二月号)

「俳句」(昭和三十九年十二月号).jpg

アート口絵 野ざらしの歴史(十二) / 若杉慧/p6~6
Color 十二月の歳時記/p7~7
Color エトセトラー・ロビー/p8~12
Color 読者サロン/p13~13
Color 今月の推薦作家/p14~14
松根東洋城追悼特集/16~59
東洋城を囲んで(座談会) / 吉田洋一 ; 楠本憲吉/p16~23
思い出片々 / 水原秋桜子/p24~25
遠い思い出 / 秋元不死男/p26~27
軽井沢の松根東洋城 / 吉田洋一/p28~33
人としての松根東洋城先生 / 三輪青舟/p34~37
東洋城翁の京都時代 / 亀田小蛄/p52~55
東洋城俳句鑑賞 / 不破博/p38~43
はぎ女への手紙--東洋城先生書簡 / 池上浩山人/p44~51
松根東洋城年譜 / 徳永山冬子/p56~59
作品 ≪8句≫ 野分あと / 山内美津男/p106~106
作品 ≪8句≫ 秋の風 / 橋場元紀/p107~107
作品 ≪8句≫ 寡居 / 中村初枝/p108~108
作品 ≪8句≫ 聖火ランナー / 加川憲一/p109~109
作品 ≪8句≫ 雪の構内 / 金丸鉄蕉/p110~110
作品 ≪8句≫ 峽田 / 阿部ひろし/p111~111
作品 ≪8句≫ 寒暁の鳩 / 金子晋/p112~112
作品 ≪8句≫ 海の昏 / 田吉明/p113~113
四季新鋭 長い日夜 / 酒井弘司/p146~149
方法と実験の跡--酒井弘司の淡さ / 金子兜太/p150~153
ブライスさんの俳句研究 / 麻生磯次/p80~84
俳句への回帰--安東次男著「鑑賞歳時記」について / 中村稔/p85~88
大須賀乙字年譜-下- / 村山古郷/p114~122
三冊子評釈(八) / 尾形仂/p123~127
ぼうふら草紙(十一)夏の半えり / 高橋忠弥/p96~99
地獄変相への発想--野ざらしの歴史-12- / 若杉慧/p100~105
日本の抒情的エピグラム(俳諧)--真珠の発見-12- / 松尾邦之助/p89~95
作品 ≪15句≫ 荒磯ぐらし / 阿部思水/p60~61
作品 ≪15句≫ 信濃石仏抄 / 藤岡筑邨/p62~63
作品 ≪15句≫ 東京オリンピック / 富田直治/p64~65
作品 ≪15句≫ 秋炎 / 野呂春眠/p66~67
作品 ≪15句≫ 木彫り熊 / 和地清/p68~69
作品 ≪15句≫ 初鴨 / 依田由基人/p70~71
作品 ≪15句≫ 美ヶ原 / 沢田緑生/p72~73
作品 ≪15句≫ 鯷干場 / 加藤かけい/p74~75
作品 ≪15句≫ 秘仏 / 加藤知世子/p76~77
作品 ≪15句≫ 青春地下 / 上月章/p78~79
俳誌月評 / 堀葦男/p134~137
二つの不満--評論月報 / 飴山実/p128~133
新刊紹介 木村三男句集『蕎木』 / 平畑静塔/p138~139
新刊紹介 依田由基人句集『遠富士』 / 中村行一郎/p139~140
新刊紹介 飯泉樹三子遺句集『冬樹』 / 安孫子荻声/p140~141
新刊紹介 皆川白陀句集『露ぶすま』 / 岸田租魚/p141~142
新刊紹介 喜多村慶女句集『慶女句集』 / 森田峠/p142~143
新刊紹介 森総彦句集『贋福耳』 / 星野麦丘人/p143~144
新刊紹介 鈴木豆柿子句集『谷戸の朝』 / 木下夕敬/p144~145
雑詠 十二月集 / 池内たけし ; 秋元不死男/p154~159
nice!(1)  コメント(0) 

東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その九

その九「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」周辺

「俳誌・渋柿(609号)」表紙.jpg

「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」所収「表紙」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/1

(目次)

松根東洋城君のこと / 安倍能成/p2~3
巻頭句 / 野村喜舟/p4~23
句境表現の境 / 松根東洋城/p24~27
庭の別れ / 野村喜舟/p27~29
弔辞 / 愛知揆一/p30~30
弔辞 / 高橋誠一郎/p30~30
弔辞 / 水原秋桜子/p31~31
Sの話 / 秋元不死男/p32~34
東洋城を憶ふ / 新野良隆/p34~35
朴落葉 / 楠本憲吉/p36~37
追憶 / 黒川清之/p29~29
松中時代 / 松根東洋城/p38~39
東洋城百詠 / 三輪青舟/p124~126
東洋城先生の連句について / 小笠原樹々/p44~48
青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73
兄東洋城と私 / 松根新八郎/p74~90
老兄弟会合 / 松根東洋城/p91~91
東洋城先生とその俳句 / 尺山子 ; 山冬子 ; 博/p92~102
しみじみとした先生 / 沢田はぎ女/p103~105
歌仙(あぢきなやの巻) / 松根東洋城/p106~107
東洋城先生の人と芸術 / 渡部杜羊子/p116~120
東洋城先生を語る(座談会) / 伊予同人/p146~164
偉跡 / 西岡十四王/p40~44
東洋城年譜 / 徳永山冬子/p165~169
特別作品/p176~179
選後片言 / 野村喜舟/p188~189
懐炉 / 野村喜舟/p192~192
人生は短く芸術は長し / 島田雅山/p48~51
三畳庵の頃 / 石川笠浦/p52~53
師をめぐる人々 / 高畠明皎々/p108~110
想ひ出 / 池松禾川/p110~112
先生の遺言 / 不破博/p112~116
春雪の半日 / 野口里井/p120~121
先生病床記 / 松岡六花女/p121~122
梅旅行 / 金田無患子/p123~123
永のえにし / 堀端蔦花/p127~128
追想記 / 三原沙土/p128~129
表札と句碑 / 城野としを/p129~131
先生と私 / 井下猴々/p131~132
城先生の思ひ出 / 榊原薗人/p132~133
下駄 / 石井花紅/p133~134
二人の女弟子 / 牧野寥々/p170~174
終焉記 / 松岡凡草/p135~136
先生は生きてゐる / 田中拾夢/p136~138
葬送記 / 野口里井/p139~139
追悼会/p139~141
西山追悼渋柿大会/p142~145
新珠集 / 松永鬼子坊/p174~175
各地例会/p184~186
提案箱 / 阿片瓢郎/p187~187
誌上年賀欠礼挨拶 / 諸家/p193~197
会員名簿 / 渋柿後援会/p191~191

「俳誌・渋柿(609号)」スナップ.jpg

「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」所収「目次(その一)・東洋城葬儀の遺影と祭壇(上部)のスナップ」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/2

「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」所収「目次(その二)・晩年の東洋城スナップ」(※この「東洋城スナップ」は「鶴翼楼」でのものと思われる。)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/4

「俳誌・渋柿(609号)」内扉一.jpg


「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」所収「内扉(上図=東洋城=寺田寅彦スケッチ画、下図寅彦像=津田青楓スケッチ画)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/2

 この「内扉(上図東洋城像=寺田寅彦スケッチ画、下図寅彦像=津田青楓スケッチ画)」の、上図(東洋城像)については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17

(再掲)

寺田寅彦の描いたスケッチ.jpg

「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓、昭和2年9月2日、塩原塩の湯明賀屋にて) (『寺田寅彦全集第十二巻』・月報12・1997年11月)

[※ 次の「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓、昭和2年9月2日、塩原塩の湯明賀屋にて)は、『寺田寅彦全集第十二巻』(月報12・1997年11月)に、「資料」(「渋柿(寺田寅彦追悼号・昭和十一年二月)」)の「寺田博士(西岡十四王稿)」の中に所収されているもので、この「寺田寅彦の描いたスケッチ」もまた、「渋柿」主宰者の「松根東洋城」が、この「寺田博士(西岡十四王稿)」の中に、掲載をしたように思われる。
 そして、何よりも、この「寺田寅彦の描いたスケッチ」(上=松根東洋城、下右=小宮豊隆、下左=津田青楓)は、下記のアドレスで紹介した、[「昭和二年(一九二七)八月、小宮豊隆、松根東洋城、津田青楓と塩原温泉に行き、連句を実作する」(「寺田寅彦年譜」)の、その塩原温泉でのものと思われる。]と合致する。

(再掲)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-04
[※ 歌仙(昭和十一年十一月「渋柿(未完の歌仙)」)

(八月十八日雲仙を下る)
霧雨に奈良漬食ふも別れ哉    蓬里雨
 馬追とまる額の字の上      青楓
ひとり鳴る鳴子に出れば月夜にて 寅日子  月
 けふは二度目の棒つかふ人   東洋城
ぼそぼそと人話しゐる辻堂に     雨
 煙るとも見れば時雨来にけり    子

皹(アカギレ)を業するうちは忘れゐて 城
 炭打くだく七輪の角        雨(一・一七)
胴(ドウ)の間に蚊帳透き見ゆる朝ぼらけ 子 (※茶の「胴炭」からの附け?) 恋
葭吹く風に廓の後朝(キヌギヌ)    城 恋
細帯に腰の形を落付けて        雨(六・四・一四) 恋
 簾の風に薫る掛香          子(八・二八) 恋
庭ながら深き林の夏の月       城(七・四・一三) 月  ](『寺田寅彦全集 文学篇 第七巻』)    

「俳誌・渋柿(609号)」内扉二.jpg

「内扉(下図寅彦像=津田青楓スケッチ画)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/2

 ※この「内扉(下図寅彦像=津田青楓スケッチ画)」の、「津田君筆/寺田像/鳴雪翁に/似たるの/評あり」を筆記したのは、東洋城その人のように思われる。
 因みに、津田青楓は、高浜虚子の関係する「ホトトギス」には、「表紙・カット画」などと関係が深いが、松根東洋城の関係する「渋柿」には、その類のものは見いだせない。

「俳誌・渋柿(609号)」安倍能成.jpg

「松根東洋城君のこと / 安倍能成/p2~3」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/6

 ※この安倍能成の「松根東洋城君のこと」は、「松根東洋城の、その人とその生涯、その作品」の全体像を証しするものとして、最も枢要なものと解して差し支えなかろう。

「君は性格が狷介で、人を容れる雅量に乏しかつたやうである。」
「正岡子規にも殆ど目もくれなかった。」
「高浜虚子とも、国民新聞俳壇担当の頃は親しかつたやうだが、間もなく絶交の姿になつて居た。」
「故人では芭蕉、今人では漱石、寅彦に止まつて居たやうである。」

 この追悼号には、安倍能成と共に、「渋柿」の「巻頭文」を飾っていた「小宮豊隆(蓬里雨)の名は見いだされない。この頃には、亡き東洋城と同じく、病床にあったのであろう。 
 因みに、「小宮豊隆(蓬里雨)」に関することは、下記のアドレスでフォローすることが出来る。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/search/?keyword=%E5%B0%8F%E5%AE%AE%E8%B1%8A%E9%9A%86

「俳誌・渋柿(609号)」老兄弟会合.jpg

「老兄弟会合 / 松根東洋城/p91~91」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/50

 ※ これらについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-06

(再掲)

[ その記事中の「老兄弟会合 / 松根東洋城/p91~91」に、「東洋城兄弟(四人の男兄弟)」の写真が掲載されている。

東洋城兄弟(四人の男兄弟).jpg


「兄東洋城と私(松根新八郎稿)」所収の「「東洋城兄弟(四人の男兄弟)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/50

[前列左から「宗一(六十四歳)・卓四郎(七十三歳)・東洋城(豊次郎)(八十六歳)・新八郎(八十一歳)」と思われる。後列の二人は東洋城の甥。中央に「松根家家宝の旗印(三畳敷の麻に朱墨の生首図=「「伊達の生首」)」が掲げられている。「伊達の生首」については、次のアドレスで紹介している。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-02   ]

※「松根東洋城年譜」(『東洋城全句集・中巻』所収)での「東洋城兄弟(妹)」の生誕は次のとおりである。

明治十一年(一八七八) 東洋城(本名・豊次郎)、二月二十八日東京築地で生まれた。
明治十三年(一八八〇) 三歳(東洋城)、妹房子生る。(※明治三十四年、東洋城、八十二歳時の、上記「老兄弟会合」時の翌年に没。)
明治十六年(一八八三) 六歳(東洋城)、弟新八郎生る。
明治二十年(一八八七) 十歳(東洋城)、弟貞吉郎生る。(※上記「老兄弟会合」前に没?)
明治二十五年(一八九二) 十五歳(東洋城)、弟卓四郎生る。
明治三十年(一八九七 ) 二十歳(東洋城)、弟宗一生る。

 上記の東洋城の兄弟で、「俳誌・渋柿(609号/昭和64・1)・東洋城先生追悼号」では、東洋城の次弟の「松根新八郎」が、「兄東洋城と私 / 松根新八郎/p74~90」を寄稿している。なお、「葬送記 / 野口里井/p139~139」を見ると、この葬儀の「松根家代表挨拶」も、松根新八郎がしている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/74

 この次弟の「松根新八郎」は、「老兄弟会合 / 松根東洋城/p91~91」の頃は、「白内障」を病んでいて、視力が衰えていたことが、『松根東洋城全句集(中巻)・昭和三十七年(八十五歳)』の、東洋城の句から察せられる。

[ 秋晴れまなこの霧視(かすみ)瞬けど(「松本の弟、白内障症漸進」)
 眼を捨てし弟いかに今日の月(「松本の弟へ」)
 名月や限(り)とおもふ眼の力(「弟の返信欄外」)    ](『松根東洋城全句集(中巻)・昭和三十七年(八十五歳)』)

「松根新八郎」は、「松本高校(現・信州大学)」の教職(「数学」担当)などを携わっていた。そして、東京の「松根東洋城・その母(敏子)」をサポートし続けたのは、「四弟・松根卓四郎」で、東洋城の創刊・主宰した「渋柿」の、その「社主」(「渋柿」発行人の住所「東京都品川区上大崎町一丁目四百七拾番地」と「編集発行人・松根卓四郎」とは、四弟の「松根卓四郎」と、その住所ということになる。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-02-06

俳誌・渋柿(405号).jpg

「俳誌・渋柿(405号/昭和23・1)」(奥付/p17~17)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071536/1/10

 さらに、その末弟の「松根宗一」は、『東洋城全句集(上・中・下巻)』の「編者」(安倍能成・小宮豊隆・野村喜舟・松根宗一)の一人として、「松根家」の親族を代表して、その名をとどめている。
 この「松根宗一」周辺については、下記のアドレスで紹介している。
 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-08

(再掲)

松根宗一夫妻.jpg

「原子力産業新聞(第157号=昭和35年10月5日)=日本代表ら:コール事務総長と交歓=(左から)松根宗一氏夫人・松根原産代表(松根宗一)」
https://www.jaif.or.jp/data_archives/n-paper/sinbun1960-10.pdf

東洋城家族.jpg

「東洋城家族」(「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/41
[左から「父・権六/伯母・初子(柳原前光(伯爵)夫人・白蓮の養母・東洋城の母の姉)/母・敏子/弟・卓四郎/弟・新八郎/親族/弟・宗一」(明治四十一年七月三十一日写)

[(参考その一)「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」周辺

「この青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」の「洋一」とは、漱石門下にも連なる「日本の数学者。元北海道帝国大学教授。立教大学名誉教授。随筆家、俳人」の「吉田洋一(1898年 - 1989年)」その人である(「ウィキペディア」)。
 ちなみに、「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)』で、「兄東洋城と私(松根新八郎稿)」を寄稿した「松根新八郎」も、「吉田洋一」と同じく「数学者」の世界の人のようである。

https://cir.nii.ac.jp/crid/1140563741724347776

 上記の「松根東洋城家族」で、一般に、「俳人・東洋城」より以上に知られているのは、「日本の昭和時代に活動した実業家。後楽園スタヂアムおよび新理研工業会長、電気事業連合会副会長を歴任し「電力界のフィクサー」「ミスター・エネルギーマン」の異名で呼ばれた」(「ウィキペディア」)、末弟の「松根宗一」(1897年4月3日 - 1987年8月7日)であろう。  ]

(参考その二)「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号(「松根東洋城追悼号」)」所収「松中時代 / 松根東洋城/p38~39」周辺

松中時代の東洋城.jpg

「松中時代 / 松根東洋城/p38~39」所収の「東洋城」(明治二十八年当時、十八歳)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/24

最晩年の東洋城.jpg

「松中時代 / 松根東洋城/p38~39」所収の「最晩年の東洋城」(昭和三十九年当時、八十七歳)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/24

「俳誌・渋柿(453号)」の奥付.jpg

「俳誌・渋柿(609号/昭和40・1)・東洋城先生追悼号」(「奥付」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/105

※「俳誌・渋柿(609号/昭和40・1)・東洋城先生追悼号」(「奥付」)周辺

編集長  徳永山冬子
編集委員 阿片瓢郎・野口里井・不破博・牧野寥々・松岡凡草
nice!(1)  コメント(0) 

東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その八 [東洋城・豊隆・青楓]

その八「俳誌・渋柿(600号/昭和39・4)・『渋柿』六百号記念号」など

俳誌・渋柿(600号)表紙.jpg

「俳誌・渋柿(600号/昭和39・4)・『渋柿』六百号記念号」所収「表紙」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/1

(目次)

扉(一句) / 野村喜舟
六百号に思ふ / 安倍能成/p7~7
四方の花(百句) / 野村喜舟/p8~13
Variétés 1 さよりと水母 / 松根東洋城/p49~49
Variétés 2 幼い詩情 / 松根東洋城/p55~55
Variétés 3 照葉狂言 / 松根東洋城/p61~61
Variétés 4 国語問題 / 松根東洋城/p67~67
Variétés 5 声と寺 / 松根東洋城/p73~73
Variétés 6 真珠貝供養 / 松根東洋城/p79~79
巻頭句 / 野村喜舟/p14~48
澁柿六百号を語る ≪座談会≫ / 水原秋櫻子 ; 秋元不死男 ; 安住敦 ; 楠本憲吉/p50~54,56~60,62~66,68~70
俳句における音韻的音調 / 西岡十四王/p71~72,74~78,80~82
たなごゝろを合せること / 礒部尺山子/p83~86
芭蕉覚書(2) / 渡部杜羊子/p87~92
空白の雄弁性 / 島田雅山/p93~93
もののあはれ / 三輪青舟/p94~97
寺田寅日子雑感 / 牧野寥々/p98~101
渋柿の立場 / 田中拾夢/p106~108
日曜随想 / 吉本杏里/p108~113
自然性の一考察 / 青木誠風/p113~115
五つの話 / 火野艸/p115~119
顔 / 高畠明皎々/p120~121
渋柿一号より六百号までの主要論文とその要旨 / 不破博/p122~127
巻頭句成績累計表 / 牧野寥々/p128~130
俳誌月且(1) / 不破博/p131~131
四月集 / 青舟 ; 十四王 ; 鬼子坊 ; 尺山子 ; 壺天子 ; 春雨/p102~103
新珠集 / 村上壺天子/p104~105
無題録 / 野口里井/p143~143
各地例会だより/p132~136
巻頭句添削実相/p136~136
処々のまとゐ/p137~137
栃木の伝統を語る 座談会 / 栃木同人/p138~142
選後片言 / 野村喜舟/p144~145
東洋城近詠(病院から)/p146~146

俳誌・渋柿(600号)東洋城近影.jpg

「俳誌・渋柿(600号/昭和39・4)・『渋柿』六百号記念号」所収「東洋城」近影(八十七歳)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/33

(東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和十九年(1944) 六十七歳
 空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る。『続山を喰ふ』『不衣の句を講ず』を連載。紙の配給減り十六頁の「渋柿」となる。
昭和二十年(1945) 六十八歳
 宇和島の邸宅土蔵戦火に会ひ、始祖伝来の家宝を失ふ。信州より焦土の都往復、「渋柿」の刊行続く。『楽木林森』『八月十四日以降』連載。能成文部大臣に親任。
昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。露伴没。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。伊予を遍歴。
昭和二十四年(1949) 七十二歳
 浅間山麓より帰京。「山籠解脱記」「流浪記」連載。伊予を遍歴指導。伊予小野小学校に、句碑建つ。十二月、森田草平没。
昭和二十五年(1950) 七十三歳
 伊予の山峡に一畳庵を結び、滞留五か月に及ぶ。松山太山に句碑、宇和島の邸宅に句碑建つ。寺田寅彦全集編纂。二月、野上臼川没。
昭和二十六年(1951) 七十四歳
 伊予に避暑、引つづき一畳庵にて越年。松山にて子規五十年忌を修し「子規没後五十年」執筆。皇太后大喪。
昭和二十七年(1952) 七十五歳
 一月、誌事より隠居、巻頭句選を(野村)喜舟に、編集発行を(徳永)山冬子・夏川女に託す。久米正雄没。伊香保に避暑。「俳句」創刊さる。
昭和二十八年(1953)七十六歳
 伊香保に避暑。伊香保に句碑建つ。
昭和二十九年(1954)七十七歳
 一月、芸術院会員に任命さる。宮中に召され、陛下より賜餐。「昭和文学全集」昭和俳句集、角川書店刊。
昭和三十年(1955)七十八歳
 「五百号記念号」観、筆跡写真多数掲載。
昭和三十一年(1956)七十九歳
 伊予川内町、総河内神社に句碑建つ。三十年末、関西に遊び、翌一月中旬帰京。松本、新潟、別府、小倉、山陰等を訪ふ。伊香保に避暑。冬、又中国を訪ふ。
昭和三十二年(1957)八十歳
 北陸、伊勢、山口に遊ぶ。軽井沢に避暑。パラチフスの疑いで、逓信病院に隔離入院。程なく退院。万太郎文化勲章を受く。大晦日に西した。『現代日本文学全集』現代俳句集、筑摩書房刊。
昭和三十三年(1958)八十一歳
 京阪に遊び、長州の妹を訪ふ。蔵王に遊ぶ。軽井沢に避暑。港区芝高輪南町二十九、渋沢家へ移転。伊東にて越年。
昭和三十四年(1959)八十二歳
 関西に遊ぶ。萩の妹敏子没。軽井沢に避暑。伊東にて越年。十月、阿部次郎没。
昭和三十五年(1960)八十三歳
 京洛に遊ぶ。軽井沢に避暑。和辻哲郎没。
昭和三十六年(1961)八十四歳
 伊豆山滞留。山陽に遊び、箱根湯本に籠る。軽井沢に避暑。秋、京を訪ふ。
昭和三十七年(1962)八十五歳
 冬から腰痛治療。安芸に遊ぶ。軽井沢に避暑。柳田国男没。炎天句集『片雲』序文執筆。漱石の句を揮毫して伊予河内町に句碑建立。
昭和三十八年(1963)八十六歳
 腰、脚の疼痛あれど、小旅行続く。久保田万太郎没。七月十日軽井沢に避暑、十月一日下山。
昭和三十九年(1964)八十七歳
 新春早々関西に遊ぶ。宇和島の真珠碑揮毫。二月十八日、肺炎となり、二十八日玉川病院へ入院。四月六日退院。在院中『渋柿六百号記念号』のため照葉狂言等六篇執筆。「六百号記念号」刊行。
 六月二十一日、心臓の具合い悪しく国立大蔵病院に入院。一週間にて退院。水原秋櫻子芸術院賞受賞。 七月十九日、軽井沢へ避暑、九月十八日帰京。
 九月二十七日、三越の草丘個展に赴き心臓苦しくなり、九月三十日国立大蔵病院に入院。
 十月二十七日、勲三等瑞宝章を受く。同日夕危篤。翌二十八日午前二時三十分心不全のため逝く。二十九日夜、新宿区戸塚町三ノ九〇一の弟宗一方において通夜。従四位に叙せられる。
 葬儀は三十日午後一時より芝青松寺にて行われ、戒名は松月院殿東洋城。午後二時より同寺にて告別式。午後四時より八芳園において東洋城先生追悼会。遺骨は宇和島の金剛山大隆禅寺に葬る。墓碑は安倍能成の筆。(『東洋城全句集・中巻』所収「松根東洋城年譜」)

(管見)

一 「渋柿一号より六百号までの主要論文とその要旨 / 不破博/p122~127」周辺

渋柿一号より六百号までの主要論文その一.jpg

「渋柿一号より六百号までの主要論文とその要旨 / 不破博/p122~127」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/65

渋柿一号より六百号までの主要論文その二.jpg

渋柿一号より六百号までの主要論文とその要旨 / 不破博/p122~127
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/66

渋柿一号より六百号までの主要論文その三.jpg

渋柿一号より六百号までの主要論文とその要旨 / 不破博/p122~127
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/67

二 「昭和三十九年(1964)八十七歳/ 新春早々関西に遊ぶ。宇和島の真珠碑揮毫。二月十八日、肺炎となり、二十八日玉川病院へ入院。四月六日退院。在院中『渋柿六百号記念号』のため照葉狂言等六篇執筆。「六百号記念号」刊行。」の「照葉狂言等六篇執筆」は、下記の六篇のように思われる。この「Variétés」は、フランス語の「雑録=余白に」のような意なのかも知れない。

Variétés 1 さよりと水母 / 松根東洋城/p49~49
Variétés 2 幼い詩情 / 松根東洋城/p55~55
Variétés 3 照葉狂言 / 松根東洋城/p61~61
Variétés 4 国語問題 / 松根東洋城/p67~67
Variétés 5 声と寺 / 松根東洋城/p73~73
Variétés 6 真珠貝供養 / 松根東洋城/p79~79

Variétés 1 さよりと水母 / 松根東洋城/p49~49 → (「明治十一年=一八七八」の出生前のこと)

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/27

 ここには、東洋城の誕生した「東京築地木挽町河岸の堀割川の一角」の原風景が「さより(鱵)と水母(くらげ)」の題で活写されている。

東洋城のスナップ一.jpg

(港区高輪の渋沢家の借家での晩年の東洋城のスナップ一)

Variétés 2 幼い詩情 / 松根東洋城/p55~55 →(「明治十五(一八二二・五歳)・十六年(一八八三・六歳)の頃のこと)

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/30

東洋城のスナップ二.jpg

(港区高輪の渋沢家の借家での晩年の東洋城のスナップ二)

Variétés 3 照葉狂言 / 松根東洋城/p61~61→(「明治二十二(一八八九・十二歳)・二十三(一八九〇・十三歳)の頃のこと)

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/34

[『照葉狂言』は、泉鏡花の小説。 照葉狂言とは、能狂言に歌舞伎などの要素を加えた芸能である。19世紀中頃大坂に始まり、江戸でも上演された。照葉能狂言、今様能とも呼ばれる。 小説『照葉狂言』は1896年11月14日-12月23日『読売新聞』に連載され、1900年4月に春陽堂から単行本が刊行された。](「ウィキペディア」)

Variétés 4 国語問題 / 松根東洋城/p67~67 →(※敗戦直後の「国語国字問題」と芭蕉語録(「俳諧の益は俗語を正すなり」)など) 

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/37

東洋城のスナップ三.jpg

(港区高輪の渋沢家の借家での晩年の東洋城のスナップ三)

Variétés 5 声と寺 / 松根東洋城/p73~73→(※「鳥の何〇騒がしく渡るかな」の〇は「寺」か「声」か?)

東洋城のスナップ四.jpg 

(「信州小諸千曲川河岸川魚料理亭での食事・隣は吉田洋一氏」)

Variétés 6 真珠貝供養 / 松根東洋城/p79~79→(※能「海士」の「真珠貝」供養)

東洋城のスナップ五.jpg

(港区高輪の渋沢家の借家での晩年の東洋城のスナップ四)

三 「澁柿六百号を語る ≪座談会≫ / 水原秋櫻子 ; 秋元不死男 ; 安住敦 ; 楠本憲吉/p50~54,56~60,62~66,68~70」周辺

澁柿六百号を語る.jpg

「澁柿六百号を語る ≪座談会≫ / 水原秋櫻子 ; 秋元不死男 ; 安住敦 ; 楠本憲吉/p50~54,56~60,62~66,68~70」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/28

[(出席者)

水原秋櫻子(みずはら‐しゅうおうし)
1892-1981 大正-昭和時代の俳人。
明治25年10月9日生まれ。高浜虚子(きょし)に師事,「ホトトギス」で山口誓子(せいし)らと4S時代をきずく。昭和6年主宰誌「馬酔木(あしび)」で虚子の写生観を批判,新興俳句運動の口火をきった。39年芸術院賞,41年芸術院会員。産婦人科医で,昭和医専の教授もつとめた。昭和56年7月17日死去。88歳。東京出身。東京帝大卒。本名は豊。句集に「葛飾(かつしか)」など。
【格言など】わがいのち菊にむかひてしづかなる
(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

秋元不死男(あきもと-ふじお)
 1901-1977 昭和時代の俳人。明治34年11月3日生まれ。秋元松代の兄。昭和15年西東三鬼らと「天香」を創刊。翌年,新興俳句弾圧事件で投獄される。のち獄中句集「瘤(こぶ)」を刊行。24年「氷海」を創刊,主宰。43年「万座」ほかで蛇笏(だこつ)賞。昭和52年7月25日死去。75歳。神奈川県出身。本名は不二雄。別号に東(ひがし)京三,地平線。
(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

安住敦(あずみ-あつし)
 1907-1988 昭和時代の俳人。
明治40年7月1日生まれ。逓信省に勤務,局長の富安風生(とみやす-ふうせい)にまなぶ。昭和10年日野草城の「旗艦」に参加,戦後は久保田万太郎の「春灯」の創刊にくわわり,万太郎の死後は主宰。46年俳人協会理事長,57年会長。47年「午前午後」で蛇笏(だこつ)賞。昭和63年7月8日死去。81歳。東京出身。立教中学卒。著作はほかに随筆「春夏秋冬帖」など。
【格言など】花鳥とともに人生があり,風景のうしろに人生がなければつまらない(句作のモットー)
(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

楠本憲吉(くすもと-けんきち)
 1922-1988 昭和時代の俳人。
大正11年12月19日生まれ。大阪北浜の料亭「灘万」の長男。日野草城主宰の「青玄」に所属し,昭和44年「野の会」を創刊・主宰するなど,前衛作家のひとりとして活躍。評論,エッセイでも知られた。昭和63年12月17日死去。65歳。慶大卒。句集に「隠花植物」「孤客」など。
【格言など】失いしことば失いしまま師走(辞世)
(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)         ]

四 「東洋城近詠(病院から)/p146~146」周辺

東洋城近詠(叟愁十句).jpg

東洋城近詠(病院から)/p146~146
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/77

如月や肺炎まがひひた臥しに(病名仮称)
如月や臥すし居に一日雪景色
如月や厨の無沙汰厚衾
梅二月あいなめ味を加へけり(家主釣魚恵贈)
如月や抗生物室熱捉らえ(四時間毎分服)
丸裸縦横そびら余寒かな(二月二八日入院 レントゲン室)
如月や粥一片のつかえさへ
如月や吸ひ飲みほしく葡萄液
如月のよき句むかしや歳満つ(病中誕辰)
如月や大鯛さしみ誕生日(同妄想)
如月や一分刻みに下がる熱(旬日静養)
松の葉に手伸べんまでの春日かな(雪の富士)
枝越しや春の小鳥の羽づくろひ(松林清風)

 これらに、上記の年譜(下記に再掲)で見て行くと、「二月十八日、肺炎となり、二十八日玉川病院へ入院。四月六日退院。在院中『渋柿六百号記念号』のため照葉狂言等六篇執筆」と、この世田谷の「玉川病院」での作ということになる。
 一旦、ここを退院して、今度は、「六月二十一日、心臓の具合い悪しく国立大蔵病院に入院。一週間にて退院。水原秋櫻子芸術院賞受賞。七月十九日、軽井沢へ避暑、九月十八日帰京。九月二十七日、三越の草丘個展に赴き心臓苦しくなり、九月三十日国立大蔵病院に入院。十月二十七日、勲三等瑞宝章を受く。同日夕危篤。翌二十八日午前二時三十分心不全のため逝く」と。東洋城がなくなったのは、「国立大蔵病院」ということになる。

[(再掲)
昭和三十九年(1964)八十七歳
 新春早々関西に遊ぶ。宇和島の真珠碑揮毫。二月十八日、肺炎となり、二十八日玉川病院へ入院。四月六日退院。在院中『渋柿六百号記念号』のため照葉狂言等六篇執筆。「六百号記念号」刊行。
 六月二十一日、心臓の具合い悪しく国立大蔵病院に入院。一週間にて退院。水原秋櫻子芸術院賞受賞。 七月十九日、軽井沢へ避暑、九月十八日帰京。
 九月二十七日、三越の草丘個展に赴き心臓苦しくなり、九月三十日国立大蔵病院に入院。
 十月二十七日、勲三等瑞宝章を受く。同日夕危篤。翌二十八日午前二時三十分心不全のため逝く。二十九日夜、新宿区戸塚町三ノ九〇一の弟宗一方において通夜。従四位に叙せられる。 ]

五 徳永夏川女(「渋柿発行(社主))・編集人の徳川山冬子・夏川女」の「夏川女」)が三月九日に亡くなる。
 その追悼号が、「渋柿(六〇二号/昭和三十九年六月号)」で編まれている。

渋柿(六〇二号.jpg

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071679/1/2

「渋柿(六〇二号/昭和三十九年六月号)」

 そこに収載されている「松根東洋城・野村喜舟・石田波郷・宇田零雨」の弔句は次のとおりである。

絶えしとや松の葉末の春嵐(東洋城「弔 夏川女氏 三の九朝 病室にて」)
うめの花ちりつくしたるうつろかな(喜舟「三月八日 夏川女さん永眠す 憶」)
境涯の辛夷ひらくを待たざりき(波郷「謹んで夏川女夫人のご逝去を悼みて」)
君を悼む無韻の楽を聴く春ぞ(零雨「『無字の書をよむ孤り』といひし作者をしのびつつ」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

[(再掲)

「徳永山冬子と夏川女」

 徳永山冬子(明四〇~) 宇和島市生まれ。昭和四年、家業(織物製造・度量衡器販売)に従事、同業(織物)の大塚刀魚に勧められて「滑床会」に入会して「渋柿」に投句、翌年、「水馬よくさかのぼる一つかな」が初入選、以来一回も休まず勉強して今日に至る。昭和二七~四一年の間、「渋柿」の編集・発行に従い、その間、妻・夏川女(~昭三九・59歳)もよくこれを助けた。昭和五二年以来「渋柿」主宰。なお、「水馬」は「あめんぼう」・「みずすまし」のこと。

  月からの冷えの及びし浴衣かな   徳永山冬子
  夢も凍る春寒の夜ありにけり    夏川女(手帳最後の句)  ]
nice!(1)  コメント(0) 

東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その七 [東洋城・豊隆・青楓]

その七「俳誌・渋柿(454号/昭和27・2)・『本社移転』など」

城主御隠退後に処する覚悟.jpg

「俳誌・渋柿(454号/昭和27・2)」所収「城主御隠退後に処する覚悟・北雪南花(山冬子宛)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071585/1/10

東洋城・幕.jpg

「俳誌・渋柿(454号/昭和27=1952・2)」所収「幕(松根東洋城)・奥付」(C図)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071585/1/11

(目次)

東洋城近詠/表2
卷頭句 / 東洋城/p1~12
句作問答/p1~7
卷頭句選引繼の挨拶 / 喜舟/p13~13
課題句/p14~15
御隱退後に處する覺悟 / 同人代表/p16~17
松山例會/p11~11
諸處のまとゐ/p11~12
本社移轉/p7~10
添削應求/p19~19
幕 / 東洋城/p18~18
古稀遺言/p20~20
奥付/表紙の3
題僉 / 夏目漱石

(東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和十九年(1944) 六十七歳
 空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る。『続山を喰ふ』『不衣の句を講ず』を連載。紙の配給減り十六頁の「渋柿」となる。
昭和二十年(1945) 六十八歳
 宇和島の邸宅土蔵戦火に会ひ、始祖伝来の家宝を失ふ。信州より焦土の都往復、「渋柿」の刊行続く。『楽木林森』『八月十四日以降』連載。能成文部大臣に親任。
昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。露伴没。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。伊予を遍歴。
昭和二十四年(1949) 七十二歳
 浅間山麓より帰京。「山籠解脱記」「流浪記」連載。伊予を遍歴指導。伊予小野小学校に、句碑建つ。十二月、森田草平没。
昭和二十五年(1950) 七十三歳
 伊予の山峡に一畳庵を結び、滞留五か月に及ぶ。松山太山に句碑、宇和島の邸宅に句碑建つ。寺田寅彦全集編纂。二月、野上臼川没。
昭和二十六年(1951) 七十四歳
 伊予に避暑、引つづき一畳庵にて越年。松山にて子規五十年忌を修し「子規没後五十年」執筆。皇太后大喪。
昭和二十七年(1952) 七十五歳
 一月、誌事より隠居、巻頭句選を(野村)喜舟に、編集発行を(徳永)山冬子・夏川女に託す。久米正雄没。伊香保に避暑。「俳句」創刊さる。
昭和二十八年(1953)七十六歳
 伊香保に避暑。伊香保に句碑建つ。
昭和二十九年(1954)七十七歳
 一月、芸術院会員に任命さる。宮中に召され、陛下より賜餐。「昭和文学全集」昭和俳句集、角川書店刊。
昭和三十年(1955)七十八歳
 「五百号記念号」観、筆跡写真多数掲載。
昭和三十一年(1956)七十九歳
 伊予川内町、総河内神社に句碑建つ。三十年末、関西に遊び、翌一月中旬帰京。松本、新潟、別府、小倉、山陰等を訪ふ。伊香保に避暑。冬、又中国を訪ふ。
昭和三十二年(1957)八十歳
 北陸、伊勢、山口に遊ぶ。軽井沢に避暑。パラチフスの疑いで、逓信病院に隔離入院。程なく退院。万太郎文化勲章を受く。大晦日に西した。『現代日本文学全集』現代俳句集、筑摩書房刊。
昭和三十三年(1958)八十一歳
 京阪に遊び、長州の妹を訪ふ。蔵王に遊ぶ。軽井沢に避暑。港区芝高輪南町二十九、渋沢家へ移転。伊東にて越年。


(管見)

一 「俳誌・渋柿(453号/昭和27・1)」(「東洋城『隠居之辞)』)に続く、その「俳誌・渋柿(454号/昭和27・2)」は、それまでの「渋柿本社=「東京都品川区上大崎町一丁目四百七番地(編集発行人:松根卓四郎=松根東洋城主宰)、印刷者・印刷所:松本寅吉(両毛印刷所)=小林晨悟(発行所=渋柿社発行部=栃木市倭町二百九十五番地)」が、「渋柿本社=「東京都杉並区堀之内一ノ二二六・徳永智方=「徳永山冬子・夏川女」編集発行人、野村喜舟主宰(福岡県市小倉在住)と代替わりすることとなる。

本社移転その一.jpg

「渋柿(431号/昭和25年1950・3月号)」の「奥付」(A図)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071562/1/10

本社移転その二.jpg

「渋柿(431号/昭和27年1952・1月号)」の「奥付」(B図)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071585/1/11

二 「渋柿(431号/昭和27年=1952・1月号)」の後、国立国会図書館デジタルコレクション所収のものでは、『渋柿』(496号/昭和30年=1955年8月号)」と飛び、その間は欠号となる。さらに、それに続くのが、その後でも、『渋柿』(510号/昭和31年=1956年10月号)」と、欠号が続き、昭和二十七年(一九五二)から、昭和三十一年(一九五六)までの、
その管見を見て行くのは、甚だ難儀のことになる。
 これらのことについて、『東洋城全句集(中・下巻)』と『渋柿の木の下で(中村英利子著)』との、この間の記述を見て行くと、「俳誌・渋柿」にとって、この間の特筆して置くことは、以下のようなことになる。

三 「徳永山冬子が引き受けた『渋柿』の昭和二十七年二月号には、「城主御隠退後に処する覚悟」という一文が同人代表名で掲載された。執筆者は西岡十四王である。同人代表というのは会社の役員のようなもので、合議制で編集・運営をしていく。最初、東洋城が指名したのは九名であったが、山冬子は全国的な視野に立つと伊予に地域がかたよっているように思えたので、京阪代表、湘南横浜代表、栃木代表のほか、東京地方にもう一名加え、バランスを取った。また新企画として、有力作家を次々に課題句選者にすることを独断で決め、同人代表会に対して事後承認を得た。(中略)
 それを受け、六月には文芸評論家の山本健吉が、
『今年になって渋柿は七五翁の松根東洋城が退いて高弟野村喜舟が選者となった。同誌はこれまで、全く紙のカーテンを下ろされた王国で、同人は他誌への出句も禁じられていたが、喜舟の代になってから旧友の万太郎・秋櫻子・蛇笏なども祝辞を寄せているところを見ると、鎖国主義を廃止して風通しをよくするらしい。四十年の眠りをやっと覚ますわけである。』」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)

四 「昭和二十七年の六月号に、この年「芸術院賞」を受けた山鹿清華が次の一文を寄せた。(中略)
『東洋城先生は京大時代から宣伝嫌いは有名で、もとより名誉とか表彰とかを考えてはおられますまいが、今度の渋柿継承という先生畢生の事業を受け継がれた諸彦(皆様方)は、全責任と義務があると思います。まず東洋城先生を現在の日本に再認識させ、芸術院会員にせねばならぬと思います。たとえそれが先生の意志に反することであっても、明治大正昭和の俳句界に尽くされた功績に対して、芸術院会員にするのが当然であります。それは先生のためなるのみらず、日本の文学史上に誤られざる正しき記録をするという点からも必要なことであります。』 
 この願いは、東洋城が隠退して二年後の昭和二十九年に現実のものとなり、東洋城は日本芸術院会員に任命された。俳人としては高浜虚子に次いで二人目である。(中略)
 この受賞に対し、友人の小宮豊隆は、こんな文章を寄せた。
『私の従兄で、昔砲兵工廠に勤めていた工学士の技師が、俳句の先生を紹介してくれというので、私は東洋城に頼んで行ってもらうことにしたが、しかししばらくすると従兄は、東洋城先生はどうもやかましくて困ると言い出した。東洋城は自分のいいと信じるところを人に説くのはいいが、その説くところから一寸でも一分でも、ちょっとでもそれると、黙って見ていることができない。つまり自分があるくとおりに、弟子をあるかせないと気がすまないのである。これは東洋城が「殿様」で、従って自分はこれを正しいと信じているが、しかしその正しいと信じているところがはたして正しいかどうかと、自分で疑ってみたことが、これまで一度もなかったせいかではないかと思う。東洋城は俳句においては、自分は子規の弟子ではなく、漱石の弟子であると公言している。また東洋城は、芭蕉を尊敬し、自分は芭蕉の道を歩いているのだと、自認している。しかし漱石は無論のこと、芭蕉でも東洋城のような「殿様」ではない。さんざ迷い、疑い、悶え、悩みしたあとで、ようやく自分の道を築き上げているのである。その点で東洋城はもっともっと苦労する必要、苦労人になる必要があったと思う。今度、東洋城はが芸術院の会員に選ばれたのは、その点で友人としてありがたい気がする。』
 すこしばかり「やれやれ」という想いと、「まあ良かった」という想いが混じり合っている。東洋城が芸術院賞を受けるにあたって尽力したのは、久保田万太郎という説もあるが。漱石門下の後輩で、戦後すぐ文部大臣になった安倍能成によると、それは小宮豊隆だという。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)

 この東洋城と寺田寅彦と、そして、もう一人の「渋柿俳諧(連句)」の連衆の、その畏友の、この「小宮豊隆」の、この東洋城の、その日本芸術院会員に任命された際の、その評は、これこそ、「俳誌・渋柿(号/昭和27・)・東洋城『隠居之辞』」の、それまでの、「東洋城による、東洋城のための、東洋城による」、その「東洋城主宰・東洋城(松根卓四郎)社主・東洋城編集・東洋城発行」の「俳誌・渋柿」から、「『野村喜舟主宰(他主要同人)』」による、『徳永(智=山冬子)社主による、そして、『徳永山冬子・夏川女(「山冬子・夏川女御夫妻」、そして、それをサポートする、『松永凡草・六花女』)の、その新生の、「俳誌・渋柿」へと移行ということになる。

五 「徳永山冬子・夏川女」と「松岡凡草・六花女」

https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/52/view/6918

「徳永山冬子と夏川女」

 徳永山冬子(明四〇~) 宇和島市生まれ。昭和四年、家業(織物製造・度量衡器販売)に従事、同業(織物)の大塚刀魚に勧められて「滑床会」に入会して「渋柿」に投句、翌年、「水馬よくさかのぼる一つかな」が初入選、以来一回も休まず勉強して今日に至る。昭和二七~四一年の間、「渋柿」の編集・発行に従い、その間、妻・夏川女(~昭三九・59歳)もよくこれを助けた。昭和五二年以来「渋柿」主宰。なお、「水馬」は「あめんぼう」・「みずすまし」のこと。

  月からの冷えの及びし浴衣かな   徳永山冬子
  夢も凍る春寒の夜ありにけり    夏川女(手帳最後の句) 」

「 松岡凡草と六花女

 松岡凡草(~昭五八・84歳) 北条市生まれ。大正一三年、日本勧業銀行に入行、初代松山支店次長 本社「宝くじ」部長など勤務。大正一四年病気帰省中、仙波花叟に師事して渋柿風早句会に入会、昭和三年上京してより東洋城に師事、妻・六花女(明三七~。松山市生まれ。凡草の母と六花女の母とは姉妹)と二人で、東京・戸塚の邸内に、晩年の東洋城のために一庵を提供し、『東洋城全句集』の刊行に努力し、昭和四四年からは渋柿社の運営を総括し、編集・発行人(社主)となったが、凡草没(昭五八・万一四)後の三月からは六花女が、松岡キミエの本名で編集・発行人となった。同年五月号は凡草追悼号となった。

  瓢重う老仙冬を構へたり     凡草(昭和五八年元旦試筆句)
  夫急逝 亡き夫の咳響き来る座敷かな   六花女           」


六 昭和二十九年(一九五四)、東洋城、七十七歳時の「芸術院賞」を受賞し参内した折の句は、次のとおりである。

 吾が車大内山へ霞かな
 階(きざはし)や下駄を草履に春の風
 春空し宮居の疇昔(きのふ)杉戸の絵
 龍顔(※りょうがん)の霞もまさず咫尺(※しせき)かな(※龍顔=帝王の顔。※咫尺=貴人の前近くに出て拝謁すること。)
 春床し御頸飾(ネクタイ)の縞色目
 羹(あつもの)や銀匙うららかに舌青春
  春海の伊勢鰕(えび)やトロリ葡萄酒煮
 焙(あぶり)肉に鮮菜雪(せんさいゆき)や春宴
 春昼やお物語の席のお茶
 御下問に春吟朗す一句かな
  (『東洋全句集・中巻』所収「昭和二十九年」)

七 昭和三十年(一九五五)十二月号の「渋柿」が、「五百号記念号」なのだが、「国立国会図書館デジタルコレクション」では、これらは欠号となっている。この「五百号記念号」周辺については、下記アドレスの、昭和三十一年(一九五六)十二月号「渋柿」(五百十二号)所収「渋柿五百号史(5) / 徳永山冬子/p47~51」に記述されている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071589/1/25

八 昭和三十二年(一九五七)、東洋城、八十歳時の、「渋柿」(五百十九号)には、下記のアドレスによる「故山の俳句 / 石田波郷/p34~36」などが収載されている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071596/1/19

九 昭和三十三年(一九五八)、東洋城は、昭和九年(一九三四)、五十七歳時から移り住んでいる、実弟の松根卓四郎宅(品川区上大崎一丁目四七〇)の「鶴翼楼」から、港区芝高輪南町二十九(渋沢方)の借家に移住することになった。
 この東洋城の移住など、晩年の東洋城の身辺にあって、サポートし続けたのは、「松岡凡草・六花女」一家であった。
松岡凡草(明治三十二年・一八九九生れ)は、東洋城の末弟・松根宗一(明治三十年・一八九七)と同窓の東京商科大(一橋大)で、同行の日本興業銀行勤務と、親しい関係にあり、この当時、松根宗一は、原子力産業会議や副会長などをつとめ、財界の顔役の一人であったので、その宗一の長兄の東洋城は、当時の「渋柿」の同人の中にあって、一番心許せる門弟の一家(「凡草・六花女=編集・発行人(社主)と潔(「渋柿」六代主宰)」)であったということになる。

(「渋柿」沿革)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%9F%BF

1914年(大正3年)松根東洋城が宮内省式部官のとき、大正天皇から俳句について聞かれ「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことが有名となった。
1915年(大正4年)松根東洋城が俳誌『渋柿』を創刊主宰。
1916年(大正5年)正岡子規没後『ホトトギス』を継承した高浜虚子が、東洋城を『国民新聞』俳壇の選者から下ろし、代わって虚子自身が選者になったことを契機に東洋城は『ホトトギス』を離脱した。
1952年(昭和27年)東洋城は隠居を表明し、主宰を創刊時から選者として参加し、「国民新聞」の俳句欄で活躍していた門下の野村喜舟に譲る。24年間主宰を務める。句集『小石川』「紫川」などを発刊し、小倉北区の篠崎八幡神社には「鶯や紫川にひびく声」の句碑がある。
1976年(昭和51年)徳永山冬子主宰。4年間主宰を務める。
1990年(平成2年)米田双葉子主宰。8年間主宰を務める。
1998年(平成10年)渡部抱朴子主宰。12年間主宰を務める。俳人協会評議員、子規顕彰全国短歌大会選者などを歴任。愛媛県西条市石鎚山ハイウェイオアシスには「山石鎚 海瀬戸内や 秋晴るる」、愛媛県中山町永田三島神社には「神苑の 木洩日蒼き 五月かな」の句碑がある。
2010年(平成22年)松岡潔主宰。
2015年(平成27年)渡邊孤鷲主宰。
2022年(令和4年)安原谿游主宰代行。
2023年(令和5年)安原谿游主宰。

十 「渋柿(536)」(昭和三十三年=一九五八/十二月号)」の「東洋城近詠(叟愁十句)」は、次のとおりである。

 菊活けて鶴翼楼の別(わかれ)かな
 覚めて又惜む名残や月の楼
 かの銀杏黄ばみもうへず別かな(楼景万感四句)
 秋日射丘辺の墓も別かな(同上)
 散りのこる柳と去(ゐ)ぬる我とかな(同上)
 初冬の桜今咲け吾(あ)去ぬるに(同上)
 塵寒やキルクの床(ゆか)も藁草履(虚堂無物)
 家寒や冥路(よみぢ)の旅の一宿(やど)リ(三界無家)
憔悴を顔寒き鏡かな(煩忙三句神身損耗)
 冬陽炎鶴翼楼は亡かりけり   (『東洋城全句集・中巻』所収「昭和三十二年」)

東洋城近詠(叟愁十句).jpg

「渋柿(536)」(昭和三十三年=一九五八/十二月号)」所収「東洋城近詠(叟愁十句)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071613/1/33
nice!(1)  コメント(0) 

東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その六 [東洋城・豊隆・青楓]

その六「俳誌・渋柿(号/昭和27・)・東洋城『隠居之辞』」など

「俳誌・渋柿(453号)」の表紙.jpg

「俳誌・渋柿(453号/昭和27・1)」の表紙
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071584

(目次)

卷頭語 / 秋谷立石山人/p表1
荻窪から / 小宮蓬里野人/p表2
卷頭句 / 東洋城/p1~15
句作問答/p1~2
卷頭句用語解/p19~19
本社移轉/p2~15
“隱居に就て” / 東洋城/p19~19
東洋城近詠 安藝・長門/p20~20
俳諧勸進帳 / ひむがし/p20~20
奥付/p表紙の3

(東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和十九年(1944) 六十七歳
 空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る。『続山を喰ふ』『不衣の句を講ず』を連載。紙の配給減り十六頁の「渋柿」となる。
昭和二十年(1945) 六十八歳
 宇和島の邸宅土蔵戦火に会ひ、始祖伝来の家宝を失ふ。信州より焦土の都往復、「渋柿」の刊行続く。『楽木林森』『八月十四日以降』連載。能成文部大臣に親任。
昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。露伴没。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。伊予を遍歴。
昭和二十四年(1949) 七十二歳
 浅間山麓より帰京。「山籠解脱記」「流浪記」連載。伊予を遍歴指導。伊予小野小学校に、句碑建つ。十二月、森田草平没。
昭和二十五年(1950) 七十三歳
 伊予の山峡に一畳庵を結び、滞留五か月に及ぶ。松山太山に句碑、宇和島の邸宅に句碑建つ。寺田寅彦全集編纂。二月、野上臼川没。
昭和二十六年(1951) 七十四歳
 伊予に避暑、引つづき一畳庵にて越年。松山にて子規五十年忌を修し「子規没後五十年」執筆。皇太后大喪。
昭和二十七年(1952) 七十五歳
 一月、誌事より隠居、巻頭句選を(野村)喜舟に、編集発行を(徳永)山冬子・夏川女に託す。久米正雄没。伊香保に避暑。「俳句」創刊さる。

(管見)

一、「隠居之辭 / 東洋城/p16~17」・「感謝(社告)--晨悟・龍氏へ/p17~17」・「/御隱退事情 / 十四王/p18~18」・「本社移轉/p2~15」・「“隱居に就て” / 東洋城/p19~19」

 「隠居之辭 / 東洋城/p16~17」・「感謝(社告)--晨悟・龍氏へ/p17~17」については、下記図(写真)のとおりである。

隠居之辞.jpg

「隠居之辭 / 東洋城/p16~17」・「感謝(社告)--晨悟・龍氏へ/p17~17」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071584/1/10

 「感謝(社告)--晨悟・龍氏へ/p17~17」は、
「小林晨悟氏へ 大正十二年来、昨年末まで、校正、発送、その他対印刷所関係など担当。長年渋柿への格別なる尽瘁(じんすい)の段。なお、氏は生活上の都合により栃木県下各派総合誌発行の由にて渋柿脱退、仕事の多幸を祈る。
安東龍氏へ 多年本社雑務ことに発送用帯紙作製、記入、誌費精密勘定、また在京時は秘書用また市内書店配本並びに集金などに関し、渋柿および社主助力の段。
 右小生より鳴謝(めいしゃ)、”色々長々有難う”  隠居と共に小生も編集経営面から離れたので、三人三つ巴(どもえ)の発行経営の輪も自然ほどけたわけ。
この環、東京、栃木、津山と三遠隔地に分かれわかれで 、幾度かの危難に切れそうになつたのが、ともかくもつながつてきたのも奇跡。長かったな、色々だつたな、などと、これはいつか会うた時に語り合うだろう三人の内輪話。
・・・渋柿幾十年継続の功が、想像できぬほどこの両氏にかかることとは誰も知るまい、が、これだけは是非とも人々に知らされねばならぬ。玄関で郵便夫から受け取るだけで月々渋柿を手にする人達へ、”これこそ徹底的犠牲心故(ゆえ)”と。御両人へは”無理言うて済まなかった”と。(東洋城) 」

 この「隠居之辞」については、『東洋城全句集(下巻)』に全文が収載されている。その末尾に、次のように、何とも、漢文書下ろし調の、当時(七十五歳)の東洋城の、その生涯を掛けて取り組んだ、「俳誌・渋柿」の、その「隠居之辞」(「隠退之辞」)が綴られている。

[ 渋柿遂に渋柿、渋柿こそ九鼎大呂(※キュウテイタイロ=「九鼎」は夏・殷・周の三代に伝わった鼎(かなえ)。「大呂」は周の大廟に供えた大鐘。ともに周の宝物とされた) 貴重な宝、重要な地位、名声などのたとえ。)より重けれ。さればその渋柿を組成する同人諸氏、今や卿等は隠棲の柴門(※サイモン=柴で編んだ門。草庵の門。柴扉(さいひ)。また転じて、粗末な庵(いおり)。)の前に確と個々に芭蕉に直結し、万人一丸渋柿は盤石、寒叟(※カンソウ=老翁・東洋城)微笑、合掌して瞑目す。芭蕉―俳諧―天、道天へ通ず。人々自奮自重、いよいよ渋柿を渋柿に。『栄光俳諧』、『栄光渋柿』。
 さて、余(※東洋城)の今後は、とりあへず隠棲休養。休余余命若し天の籍さば、自他永年の作品の撰定と俳諧深奥突入と、・・・夢はあやなし(※アヤナシ=文ナシ)。」(『東洋城全句集(下巻)』所収「隠居之辞」)

 ここに引用されている「柴門(※サイモン=柴で編んだ門。草庵の門。柴扉(さいひ)。また転じて、粗末な庵(いおり)。)」は、これは、芭蕉の「柴門辞(柴門之辞)」(※江戸前期の俳文。松尾芭蕉作。元祿六年(一六九三)成立。同年五月、門人森川許六が江戸から彦根に帰るときに贈った離別の詞。許六の絵と芭蕉自身の俳諧とについて述べ、「後鳥羽院御口伝」を典拠として「まことありて、しかも悲しびをそふる」風雅について論じたもの。「其細き一筋」につながる晩年の芭蕉の俳諧観が知られる。別名「許六離別詞」。「韻塞(いんふたぎ)」「風俗文選」に収録。)

許六離別詞.jpg

芭蕉筆「許六(きょりく)離別詞(りべつのことば)」
本紙 縦 19.1 ㎝ 横 59.1㎝
[芭蕉(ばしょう)(1644~1694)はわが国の文学史上に傑出する俳人で、代表作「奥の細道」は今も多くの人々に愛読されている。本点は芭蕉晩年の芸術論を知る上で貴重な資料であるばかりでなく、美術品としても評価が高い。元禄6年(1693)、江戸を離れて彦根に帰藩する彦根藩士で門人の森川許六(もりかわきょりく)に贈った芭蕉の餞別(せんべつ)文。許六が芭蕉の絵の師であったことや、「予が風雅(ふうが)は夏炉冬扇(かろとうせん)のごとし」「古人の跡をもとめず、古人の求めたる所を求めよ」といった芭蕉の名言としてしられる言葉も本点に基づく。芭蕉画の落日(らくじつ)・萩(はぎ)・薄(すすき)の図が下絵として描かれており興味深い。(以下略) ]

https://www.sumitomo.or.jp/html/culja/jp0905.htm

[去年の秋,かりそめに面をあはせ,今年五月の初め,深切に別れを惜しむ.その別れにのぞみて,一日草扉をたたいて*,終日閑談をなす.その器,画を好む.風雅を愛す.予こころみに問ふことあり.「画は何のために好むや」,「風雅のために好む」と言へり.「風雅は何のために愛すや」,「画のために愛す」と言へり.その学ぶこと二つにして,用いること一なり.まことや,「君子は多能を恥づ」といへれば,品二つにして用一なること,感ずべきにや.画はとって予が師とし,風雅は教へて予が弟子となす.されども,師が画は精神徹に入り,筆端妙をふるふ.その幽遠なるところ,予が見るところにあらず.予が風雅は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし.ただ,釈阿・西行の言葉のみ,かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも,あはれなるところ多し.後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも,「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ.なほ,「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」と,南山大師の筆の道にも見えたり.「風雅もまたこれに同じ」と言ひて,燈火をかかげて,柴門の外に送りて別るるのみ.
元禄六孟夏末             風羅坊芭蕉 印 印   ]

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/saimon/saimonji.htm

二、この芭蕉の「柴門辞(柴門之辞)」は、別名は「許六離別詞」である。ここで、「東洋城」を「芭蕉」とすると、「許六」は、東洋城の「感謝(謝辞)」の「大正十二年(※一九二三=関東大震災による「渋柿」印刷所の「栃木(小林晨吾))」への移転」来、昨年末(※昭和二十六年=一九五一)まで、校正、発送、その他対印刷所関係など担当。長年渋柿への格別なる尽瘁(じんすい)」した、「小林晨悟」その人ということになろう。
 この「小林晨悟」については、「俳誌・渋柿」以外は、殆ど知られていない、「松根東洋城直系の愛弟子の筆頭の一人」ということになろう。

渋柿(昭和三十九年四月号)スナップ写真.jpg

「渋柿(昭和三十九年四月号/六百号記念号/東洋城・八十七歳時)」所収「栃木の伝統を語る 座談会 / 栃木同人/p138~142」のスナップ写真」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071677/1/73

 上記の「スナップ写真」は、昭和十一年(一九三六=東洋城・五十九歳)四月十二日に行われた、「栃木大平山の東洋城句碑建立」の時のものである。
 この「スナップ写真」の前列の左側一番目の人物こそ、昭和十一年(一九三六=東洋城・五十九歳)当時の、その「松根東洋城」の実像であろう。この年の前年(昭和十年=一九三五)の、十二月三十一日に、寺田寅彦が没している。
 その、東洋城と同年齢の、「東洋城・寅彦・(小宮)豊隆(豊里雨)」の、その「漱石三側近」の、その中心人物ともいうべき、「寺田寅彦(寅日子)」が没した当時の、「松根東洋城」その人の近影ということになろう。
 そして、その「東洋城」(両手は「袴」に隠している)の、その右に、紋付き袴の正装の、緊張して、そして両手を露わに組みながら鎮座しているのは、当時の「小林晨悟」(東洋城より十四歳年下)、その人のように思われる」
 と同時に、この「スナップ写真」の、これら「人物像(群)」というのは、当時の「栃木(下野)」での、その「俳誌・渋柿」関係者が勢ぞろいしている趣きである。
 この時の、「大平山の東洋城句碑」は、下記のアドレスなどで紹介されている。

https://sayama64.blog.ss-blog.jp/2020-04-24

大平山の東洋城句碑.jpg

「大平山の東洋城句碑」
[(松根東洋城句碑)
この句碑は、碑陰に「昭和11年(1936)4月、栃木渋柿会」と、建立時期と建立者が刻まれています。松根東洋城は大正4年(1915)に、俳誌「渋柿」を創刊。関東大震災により印刷所が被災した為、栃木市内に移ってきました。「目で見る栃木市史」には、≪東洋城はしばらく岡田嘉右衛門邸内に在住、その住居を無暦庵と号していた。≫と、記しています。「渋柿」は昭和27年(1952)まで、栃木市内にて発行されていました。石碑に刻まれた句は、「白栄(※シロハエ)や/雲と見をれば/赤痲沼」です。
ここ謙信平からは、南方に広がる関東平野の奥に、かつては赤麻沼が白雲の如く、望まれた様です。現在は渡良瀬遊水地の葦原が広がっています。地平線には東京スカイツリーや新宿副都心のビル群を望むことが出来ます。 ]

三 ここで、「渋柿(平成九年=一九九七・八月号/一千号記念号)」を見て置きたい。

渋柿(平成九年=一千号記念号)」の「内扉」一.jpg

「渋柿(平成九年=一九九七・八月号/一千号記念号)」の「内扉」(A図)

渋柿(平成九年=一千号記念号)」の「内扉」二.jpg

https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/5

「渋柿(平成九年=一九九七・八月号/一千号記念号)」の「内扉」の解説文(B図)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6072076/1/5

 「内扉」(A図)の「渋柿」は、夏目漱石書「題籢」の二字である。その下の筆文字のものは、東洋城書の「渋柿命名由来」(B図)の色紙のもので、この色紙のものは、「小林晨悟所蔵」ものということになる。
 これらのことは、下記(目次)の「小林晨悟先生のこと / 富田昌宏/p76~78」(※印)に記述されている。

[(目次)
渋柿一千号を祝す / 米田双葉子/p10~10
渋柿創刊一千号を迎えて / 松岡潔/p11~11
初夏 / 米田双葉子/p12~12
巻頭句 / 米田双葉子/p13~51
選後寸言 / 米田双葉子/p52~53
六月号巻頭句鑑賞 / 赤松彌介/p54~55
<特集>先人の思い出/p56~56
※※ 孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67
七人の侍 / 野口里井/p68~72
巨星塔の俳句指導 / 池川蜩谷/p72~73
俳諧道場回顧 / 渡部抱朴子/p73~76
※ 小林晨悟先生のこと / 富田昌宏/p76~78
忘れ得ぬ人々 / 中須賀玉翠女/p78~79
修道士竹田哲の渋柿俳句 / 安江眞砂女/p79~80
伊香保の東洋城先生 / 大島麦邨/p81~82
喜舟先生と千鳥句会 / 田原玉蓮/p82~83
松岡凡草さんを懐う / 中小路梅支/p83~84
佐伯松花先生の思い出 / 豊竹春野/p84~85
一千号記念論文・随筆/p86~101
渋柿俳句の本質と写生について / 石丸信義/p86~88
第一渋柿句集その他より / 小島夕哉/p88~91
随想 / 武智虚華/p92~92
心境俳句について / 松岡潔/p93~99
城師の遺言 / 須山健二/p100~101
渋柿一千号記念全国大会/p102~111
渋柿一千号記念全国大会の記 / 栃木光歩/p102~106
一千号大会に参加して / 豊竹春野/p106~107
えにし / 竹下須磨/p107~107
所感 / 牧野寥々/p108~108
一千号大会祝宴にて / 小島夕哉/p109~111
渋柿年譜 / 米田双葉子/p112~112
記念号一覧表 / 中須賀玉翠女/p113~113
<参考資料>城師百詠絵短冊の意義由来/p113~114
句碑のある風景--渋柿関係者句碑一覧/p115~127
尾崎迷堂句碑 / 小島夕哉/p127~128
塩原にある東洋城の句碑 / 池澤永付/p128~128
句碑のある風景 / 大島麦邨/p128~130
自句自註 最高顧問・代表同人・課題句選者/p131~142
作句あれこれ(八十四) / 米田双葉子/p143~143
課題句<夏野> / 石丸信義/p144~148
各地例会/p149~159
巻頭句添削実相抄/p160~160
歌仙/p161~161
明易き / 徳永山冬子/p162~162     ]

四 「※小林晨悟先生のこと / 富田昌宏/p76~78」は、「東洋城と小林晨悟」との、その「三十七間、渋柿編集発行に携わった」、その「小林晨悟」について、そして、この小林晨悟の、戦時中の教え子(「栃木中=栃木高校」の教鞭に立った「小林晨悟」の生徒の一人)で、且つ、「渋柿(主要同人)」・「渋柿(栃木俳壇の中枢を担った俳人)」、且つ、「日本(且つ、栃木)連句協会に携わった連句人」の一人であった「富田昌宏」の、その恩師である「小林晨悟」追慕の記でもある。

五 さらに、「※※孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67」については、「松根東洋城」の、その全貌の一端を語るものとして、「小林晨悟と富田昌宏」と同じように「松根東洋城と米田双葉子」との、その「終生の師・東洋城」への、その追慕の記でもあろう。
 そして、「※※孤高の俳人松根東洋城 / 米田双葉子/p57~67」の記で、その後半部分の「妻持たぬ我と定め(ぬ秋の暮れ)」見出しで、「東洋城と柳澤白蓮」の、その、若き日の「叶わぬ恋愛」関係(聞き書き)について、詳細に触れている。
 そこで、この「白蓮女史が、七十四歳のとき、栃木市の大平山の、東洋城句碑「白栄(※シロハエ)や/雲と見をれば/赤痲沼」を訪れて、その案内人(渋柿の女流俳人「榊原春女」)に、次の二首を色紙に認めて、栃木を去ったことが記されている。
 その白蓮の二首とは、次のものである。

 夢うつつ(※現実)/うつつ(※現実)を夢と/見る人に/思ひ出の日よ/うつくしくあれ
 ながれゆく/水の如しと/みづからを/思ひさだめて/見る夏の雲

 この白蓮の七十四歳の時とは、昭和三十五年(一九六〇)の頃で、東洋城は在世中(八十三歳)で、東洋城が亡くなったのは、その四年後の、昭和三十九年(一九六四)、そして、白蓮女史が没したのは、昭和四十二年(一九六七)のことである。

晩年の白蓮女史.jpg

「晩年の白蓮女史(※「緑内障で徐々に両眼の視力を失う」=昭和三十六年=一九六一前後の白蓮女史)(「ウィキペディア」)

 なお、「東洋城と柳澤白蓮」の、この「叶わぬ恋愛」寒冷については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-10-06

(再掲)

桜散るや木蓮もありて見ゆる堂
木蓮は亭より上に映りけり
君水打てば妾事弾かん夕涼し
[※これらの句が、東洋城と白蓮(柳原燁子)との「叶わぬ恋愛」関係の背景を物語るものかどうかは定かではないが、三十歳になっても独身(白蓮は東洋城よりも九歳前後年下)で、その前年(明治三十九年)に、「妻もたぬ我と定めぬ秋の暮れ」の句を遺している、当時の東洋城の心境の一端を物語るものと解することも、許容範囲内のことのように思われる。「明治四十三年、東洋城は三十二歳のとき北白川成久王殿下の御用掛兼職となったが、あるとき殿下から、「松根の俳句に、妻もたぬ我と定めぬ秋の暮れ、というのがあると聞くが、妻持たぬというのは本当なのか」と聞かれた。それに対して、東洋城は、「俳句は小説に近いものです」と答えた。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)と言う。この「俳句は小説に近いものです」というのは、「事実は小説よりも奇なり」の、俳人・東洋城の洒落たる言い回しであろう。]

(追記)

大平山の東洋城句碑.jpg

「大平山の東洋城句碑」
二○二四年四月十三日(土)/令和六年四月十三日
※ 大平山の謙信平(頂上)の茶店兼蕎麦店の前、案内板は無く、「山本有三文学碑」の近傍に、富士山・東京スカイツリーがかすかに望める時もある方向に面している。山本有三文学碑」は、下記のアドレスで紹介されている。

https://www.tochigi-kankou.or.jp/spot/yamamotoyuzou-bungakuh
nice!(1)  コメント(0)