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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その三) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「本阿弥光悦《梅樹図》」周辺

本阿弥光悦《梅樹図》」.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「本阿弥光悦《梅樹図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0006.jpg

≪「梅樹図」 光悦ハ写生にて/趣を取る/本阿弥全ク松花/堂ヨリ来る ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

≪ 「光悦ハ写生にて趣を取る」とあり、「全ク松花堂ヨリ来る」として、ここでも松花堂よりの影響を述べている。光悦の対象に即した、しかもその要約的な情趣的な表現が、俳画の要諦として注目せられていることは、俳画というものを単なる減筆的な、略画的俳画とは峻別されなくてはならない。「写生にて趣を取る」というところに、崋山画説の一面に触れることができようと思う。 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「作品解説(鈴木進稿)」)

寛永の三筆.jpg

http://hiroshi-t.com/KOUETSU5.pdf

 「寛永の三筆」と呼ばれている、「本阿弥光悦・近衛信伊・松下堂照乗」の三人については、『本阿弥行状記・中巻(七二)』に、次のような一節がある。

≪ 青蓮院御門主の御弟子、近衛応山公、滝本坊、私三人に筆道の御伝を請候節、門主被仰候趣は、今日筆道の伝残らず済候上は、三人とも自分の流儀を立てられ可然候。(以下略) ≫(『本阿弥行状記・中巻(七二)』)

(補記)

「青蓮院流」=書道流派の一つ。青蓮院の門跡、尊円法親王のはじめたもの。小野道風・藤原行成の書法に宋の書風を取り入れた力強く豊満な書体。室町時代に起こり、江戸時代には朝廷、幕府、諸藩の公文書や制札などに用いられた。また、御家流(おいえりゅう)と呼ばれ、広く一般にも用いられた。尊円流。(「精選版 日本国語大辞典」)

「近衛応山公(近衛信伊)」=安土桃山・江戸初期の公卿。書家。近衛流(三藐院流(さんみゃくいんりゅう))の祖。前久の子。法号三藐院。左大臣、関白、氏の長者となり、准三后に任じられる。御家流の道澄流を学び、上代様を基にして一派を樹立。本阿彌光悦、松花堂昭乗とならんで、寛永の三筆と称される。画、和歌もよくした。永祿八~慶長一九年(一五六五‐一六一四)(「精選版 日本国語大辞典」)

「滝本坊(松花堂照乗)」=江戸初期の真言宗学僧。能筆家で寛永三筆のひとり。俗姓は中沼。名は式部。別号は惺々、空識。摂津国堺の人。石清水男山八幡の社僧となり、晩年は八幡宮の泉坊に松花堂を営んで移り住んだ。書道松花堂流の開祖。また、水墨画や彩色画にも長じ、茶人としても著名。天正一二~寛永一六年(一五八四‐一六三九))(「精選版 日本国語大辞典」)

「本阿弥光悦」=没年:寛永14.2.3(1637.2.27)/生年:永禄1(1558)
 桃山時代から江戸初期の能書家,工芸家。刀剣の鑑定,とぎ,浄拭を家職とする京都の本阿弥家に生まれた。父は光二,母は妙秀。光悦の書は,中国宋代の能書張即之の書風の影響を受けた筆力の強さが特徴であるが,慶長期(1596~1615)には弾力に富んだ,筆線の太細・潤渇を誇張した装飾的な書風になり,元和~寛永期(1615~44)には筆線のふるえがみられ,古淡味を持つ書風へと変遷していった。近衛信尹,松花堂昭乗 と共に「寛永の三筆」に数えられる。蒔絵や作陶にも非凡の才を発揮するほか,茶の湯もよくし,当代一流の文化人であった。
 元和1(1615)年,徳川家康から洛北鷹峰(京都市)の地を与えられ,一族,工匠と共に移住し,創作と風雅三昧の生活を送った。俵屋宗達の描いた金銀泥下絵の料紙や,木版の型文様を金銀泥ですりだした料紙に,詩歌集などを散らし書きした巻物をはじめ,多くの遺品を伝える。また典籍や謡本を,雲母ずりした料紙に光悦流の書を用いて印刷した嵯峨本の刊行なども知られ,光悦流は角倉素庵,烏丸光広など多くの追随者に受け継がれた。(島谷弘幸) (「朝日日本歴史人物事典」)

 この「寛永の三筆」の、「本阿弥光悦と松花堂(滝本坊)照乗」などについて、『本阿弥行状記・中巻(八三)』に、次のようなに記されている(その全文は下記のとおり)。

≪ 或時惺々翁予が新に建たる小室を見て、さてもあら壁に山水鳥獣あらゆる物あり。絵心なき所にてはかようの事も時々写度おもう時も遠慮せり。幸いに別魂のそこの宅中、願うてもなき事と、一宿をして終日いろいろの絵をしたため、予にも恵まれし。
 余も絵は少しはかく事を得たりといえども、中々其妙に至らざれば、あら壁の模様をよき絵の手本ともしらず。勿論古来よりあら壁に絵の姿ありと申事は聞伝うるといえども、目のあたり惺々翁のかきとられしにて疑いもはれ、何事も上達をせざれば其奥義をさとられぬ者と、今更のように思いぬ。
 しかし其道を得ぬことはおかしき物にて、陶器を作る事は余は惺々翁にまされり。然れども是を家業体にするにもあらず。只鷹が峰のよき土を見立て折々拵え侍る計りにて、強て名を陶器にてあぐる心露いささかなし。是につき惺々翁と談ぜしことあり。
 書画何芸にても天授という物ありて、いか程精を尽ても上達群を出る事凡出来ぬ物なり。けたいしては猶行ず。其外何芸にても、其法にからまされては却て成就せぬことも有ものとぞ。
 龍をとる術を習うて、取べきの龍なく、また龍の絵を至って好みし人に、まことの龍顕われ出ければ目をまわせしというが如く、軍学の七書を、宋名将岳飛は少しも用いず。
 七書の趣にさこうて毎度大軍に勝しがごとく、義経公の逆落しも、正行公の京都へ逆寄せを真似て、秀吉公の先陣となりて権現様と御取合のせつ、池田勢入父子に森武蔵守打死めされしにて考え知るべし。
 然れども軍学なくて軍は出来ねども、例えば七書は只其可勝、可負の利をせめて書し者にて、此後とても名将の胸中よりは奇代の軍慮七書より出べし。万芸みなかくのごとしとたがいに感じぬる。≫ (『本阿弥行状記・中巻(八三)』)

(補記) 「本阿弥光悦と松花堂(滝本坊)照乗」との関係

「余も絵は少しはかく事を得たりといえども、中々其妙に至らざれば、あら壁の模様をよき絵の手本ともしらず。勿論古来よりあら壁に絵の姿ありと申事は聞伝うるといえども、目のあたり惺々翁のかきとられしにて疑いもはれ、何事も上達をせざれば其奥義をさとられぬ者と、今更のように思いぬ。」

「絵画」の世界は、余(光悦)も少しはやるが、「惺々翁」(「松花堂(滝本坊)照乗」」)には及ばないし、それを一つの見本としている。

「陶器を作る事は余は惺々翁にまされり。然れども是を家業体にするにもあらず。只鷹が峰のよき土を見立て折々拵え侍る計りにて、強て名を陶器にてあぐる心露いささかなし。是につき惺々翁と談ぜしことあり。」

「陶器」の世界は、余(光悦)が、「惺々翁」(「松花堂(滝本坊)照乗」」)を上回っている。しかし、これを、家業化(集団化)することはない。

「書画何芸にても天授という物ありて、いか程精を尽ても上達群を出る事凡出来ぬ物なり。けたいしては猶行ず。其外何芸にても、其法にからまされては却て成就せぬことも有ものとぞ。」

「書・画・陶・蒔絵・茶・華・香・能・曲・舞」等々の世界で、その道の「スペシャリスト」(その「道」の「天授の才ある者」)は目にする。しかし、その「スペシャリスト」は、往々にして、その世界に、とじ込まれ、その殻を破れない者が多い。

「龍をとる術を習うて、取べきの龍なく、また龍の絵を至って好みし人に、まことの龍顕われ出ければ目をまわせしというが如く、軍学の七書を、宋名将岳飛は少しも用いず。」

この一節は、酒井抱一句集の『屠龍之技』などと深く関わっているように思われる。

「 然れども軍学なくて軍は出来ねども、例えば七書は只其可勝、可負の利をせめて書し者にて、此後とても名将の胸中よりは奇代の軍慮七書より出べし。万芸みなかくのごとしとたがいに感じぬる。」

具体的には、光悦は、「書」(「光悦様」)、「陶芸」(「光悦茶碗」)、「漆芸」(「光悦蒔絵」)、「能」(「光悦謡本」)、「書画和歌巻」(「光悦・宗達の合作」)等々の、その個の世界にあっても、「アーティスト」(一分野での芸術家)として一流であるが、それが多岐に亘っての「マルチアーテスト又はマルチクリエーター」(多岐分野に亙る芸術家・創作活動家)、それに加えて、「プロデューサー(制作責任者)兼ディレクター(指揮・監督者)」という名を冠することが、より相応しいような、「琳派の創始者」の一人の、「ゼネラル・アーテスト」(総合芸術家)ということになる。(『光悦―琳派の創始者(河野元昭編)』所収「光悦私論」など)

 ここで、「琳派の創始者」の一人の「本阿弥光悦」の「絵画」については、その『本阿弥行状記・中巻(八三)』で、「余も絵は少しはかく事を得たり」と記しているが、今に、遺されているのは、下記のアドレスで紹介した、「扇面月兎画賛(せんめんげっとがさん)」(畠山記念館蔵)程度なのである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-15

光悦・月に兎図扇面.jpg

本阿弥光悦筆「扇面月兎画賛(せんめんげっとがさん)」紙本着色 一幅
一七・三×三六・八㎝ 畠山記念館蔵
【 黒文の「光悦」印を左下に捺し、実態のあまりわかからない光悦の絵画作品のなかで、書も画も唯一、真筆として支持されている作品である。このような黒文印を捺す扇面の例は、同じく「新古今集」から撰歌した十面のセットが知られている。本図のように曲線で画面分割するデザインのもあり、それらとの関係も気になるところである。 】(『もっと知りたい 本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)

(再掲)

(追記一)光悦の絵画作品など

赤楽兎文香合.jpg

本阿弥光悦作「赤楽兎文香合(あからくうさぎもんこうごう)」出光美術館蔵
重要文化財 一合 口径八・五㎝
http://idemitsu-museum.or.jp/collection/ceramics/tea/02.php
【寛永三筆と讃えられる本阿弥光悦は、工芸にも優れた作品を残しました。徳川家康より京・鷹ヶ峯の地を拝領して陶芸を始め、楽家二代・常慶、三代・道入の助力を得て作られた楽茶碗がよく知られています。本作は蓋表に白泥と鉄絵で「兎に薄」の意匠が描かれ、文様が施された稀少な光悦作品です。光悦は古田織部から茶の湯の手ほどきを受けており、本作には織部好みといえる、自由な造形が感じられます。茶人大名の松平不昧が旧蔵し、原三渓も所蔵していました。 】

 上記の二点のみが、「光悦の絵」の絵画作品として取り上げられいる全てである(『もっと知りたい 本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)。
 この他に、本阿弥宗家に伝来されていたとの光悦筆「三十六歌仙図帖」は、現在は所在不明で、これは、整版本の『三十六歌仙』(フリア美術館ほか所蔵)とは別な肉筆画との記述がある(『玉蟲・前掲書』)。

 本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は、「永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))、江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)と紹介されるが、本業は「刀剣の鑑定・研磨・浄拭(ぬぐい)」が家業で、「書家、陶芸家、芸術家」というよりも、「書・画・陶芸(茶碗)・漆芸(蒔絵)・能楽・茶道・築庭」などに長じた「マルチタレント=多種・多彩・多芸の才能の持ち主」の文化人で、その多種・多彩・多芸の人的ネットワークを駆使して、「マルチ・クリエーター」(多方面の創作活動家)から、さらに、「ゼネラル・アーテスト」(総合芸術家)の世界を切り拓いていった人物というのが、光悦の全体像をとらえる上で適切のように感じられる。
 そして、光悦の人的なネットワークというのは、「相互互恵的・相互研鑽的」な面が濃厚で、例えば、その書は、寛永の三筆(近衛信尹・松花堂昭乗・光悦)そして洛下の三筆(昭乗・光悦・角倉素庵)、その画は、俵屋宗達 陶芸は楽家(常慶・道入)、漆芸は五十嵐家(太兵衛・孫三)、能楽(観世黒雪)、茶道(古田織部・織田有楽斎・小堀遠州)、そして、築庭(小堀遠州)、さらに、和歌(烏丸光広)、古典(角倉素庵)、儒学(角倉素庵・林羅山)等々、際限がなく広がって行く。
 そして、これらの人的なネットワークが結実したものの一つとして、近世初期における出版事業の「嵯峨本」の刊行が挙げられるであろう。この嵯峨本は、当時の日本(京都だけでなく)の三大豪商の「後藤家・茶屋家・角倉家」の一つの「角倉家」の、その角倉素庵が中心になり、そこに、「光悦・宗達」が加わり、さらに、「謡本」の「観世黒雪」そして、公家の「烏丸光広・中院通勝」等々が加わるのであろう。
 ここに、もう一つ、いわゆる、「光悦書・宗達画」の「和歌巻」の世界が展開されて行く。この「和歌巻」の一つが『鶴下絵和歌巻』で、この作品は、単に「光悦書・宗達画」の二人のコラボレーション(協同作品・合作)ではなく、広く「光悦・宗達・素庵」のネットワーク上に結実した総合的なコラボレーション(協同作品・合作)の一つと解したい。

兎桔梗図.jpg

宗達筆・烏丸光広賛「兎桔梗図」一幅 98.5×43.9㎝ 東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0013569

 この宗達筆の「兎桔梗図」の画賛(和歌)は、烏丸光広が自作の歌を賛しているようである。烏丸光広の歌(『烏丸亜相光弘卿集』)は、下記のアドレスで見ることができる。

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYU1-046-03

(中略)

慶長五年(一六〇〇)光悦(43)このころ嵯峨本「月の歌和歌巻」書くか。関が原戦い。
☆素庵(30)光悦との親交深まる(「角倉素庵年譜」)。
同六年(一六〇一)光悦(44)このころ「鹿下絵和歌巻」書くか。
同七年(一六〇二)宗達(35?)「平家納経」補修、見返し絵を描くか。
同八年(一六〇三)☆光広(24?)細川幽斎から古今伝授を受ける(『ウィキペディア(Wikipedia)』)。徳川家康征夷大将軍となる。
同九年(一六〇四)☆素庵(34)、林蘿山と出会い、惺窩に紹介する。嵯峨本の刊行始まる(「角倉素庵年譜」)。
同十年(一六〇五)宗達「隆達節小歌巻」描くか。黒雪(39?)後藤庄三郎に謡本を送る。
徳川秀忠将軍となる。
同十一年(一六〇六)光悦(49)「光悦色紙」(11月11日署名あり)。
同十三年(一六〇八)光悦(51)「嵯峨本・伊勢物語」刊行。
同十四年(一六〇九)光悦(52)「嵯峨本・伊勢物語肖聞抄」刊行。☆光広(30?)勅勘を蒙る(猪熊事件)(『ウィキペディア(Wikipedia)』)。
同十五年(一六一〇)光悦(53)「嵯峨本・方丈記」刊行。
同十七年(一六一二)光悦(55)☆光悦、軽い中風を患うか(「光悦略年譜」)。
同十九年(一六一四)近衛信尹没(50)、角倉了以没(61) 大阪冬の陣。
元和元年(一六一五)光悦(58)家康より洛北鷹が峰の地を与えられ以後に光悦町を営む。古田織部自刃(62)、海北友松没(83)。大阪夏の陣。

☆「光悦略年譜」=『光悦 琳派の創始者(河野元昭編)』。「角倉素庵年譜」=『角倉素庵(林屋辰三郎著)』。

 「光悦・宗達・素庵」らのコンビが中心になって取り組んだ「嵯峨本」の刊行や「和歌巻」の制作は、慶長五年(一六〇〇)の「関が原戦い」の頃スタートして、そして、元和元年(一六一五)の「大坂夏の陣」の頃に、そのゴールの状況を呈すると大雑把に見て置きたい。
 そして、この「光悦・宗達・素庵」の人的ネットワークの中に、「黒雪・光広」などもその名を列ね、元和元年(一六一五)の、光悦の「洛北鷹が峰(芸術の郷)」の経営のスタートと、元和五年(一六一九)の、素庵の「嵯峨への隠退」(元和七年=一六二一、病症=癩発病)の頃を境にして、「光悦・宗達・素庵」の時代は終わりを告げ、「宗達・光広」、「光悦→光甫」、そして「宗達→宗雪・相説」へと変遷していくと大雑把な時代の把握をして置きたい。
 それに加えて、烏丸光広は、堂上派(二条家の歌学派中、細川幽斎以来の古今伝授を受け継いだ公家歌人の系統)の歌人であるが、地下派(堂上派の公家に対して、武士や町人を中心にし、古今伝授や歌道伝授を継受する歌風で、細川幽斎門下の松永貞徳派の歌人が中心となっている)の貞徳(幽斎から事実上「古今伝授」を授かっているが「古今伝授」者とは名乗れない)とは昵懇の間柄で、光広自身、  
「連歌・狂歌・俳諧・紀行・古筆鑑定」などの多方面のジャンルに精通している。
 その書も寛永の三筆(信尹・昭乗・光悦)とならび称され、その書風は光悦流とされているが、「持明院流→ 定家流→ 光悦流→ 光広流」と変遷したとされている(『ウィキペディア(Wikipedia)』)。
 ここで、上記の「小倉山荘色紙形和歌」(百人一首)の、光広の筆跡は、光悦と切磋琢磨した頃の「光悦流」のもので、宗達筆の「兎桔梗図」の画賛(和歌)した光広の書は、晩年の「光広流」のものと解したい。
 と同時に、光悦の数少ない絵画作品として知られる「扇面月兎画賛」と「赤楽兎文香合」は、宗達と光広のコラボレーションの作品の「兎桔梗図」などに示唆を受けたもので、「宗達・光広」の時代の、晩年の光悦時代にも、「宗達・光広」などとの切磋琢磨は続いていたものと解したい。
 そして、「宗達・素庵・黒雪・光広」等々の、光悦の黄金時代の「嵯峨本・和歌巻」の制作に協同して当たった面々は、光悦よりも一回りも二回りも若い、光悦流の、刀剣で例えれば、「あら身(新身・新刀・新しく鍛えた刀)」(『本阿弥行状記・上巻・四八段』)で、それらを、それぞれに鍛え上げっていった、その人こそ、本阿弥光悦の、その「マルチ・クリエーター」(多方面の創作活動家)にして「ゼネラル・アーテスト」(総合芸術家)たる所以なのであろう。

(追記) 「寛永文化」と「上層町衆・本阿弥光悦」周辺

 「寛永文化」(かんえいぶんか)につては、下記アドレスのものが参考となる。

https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=863

≪ 後水尾・明正天皇の寛永年間(一六二四―四四)を中心とした近世初頭の文化をさし、桃山文化の残映と元禄文化への過渡的役割を果たした。ふつう元和偃武ののち、明暦―寛文のころまでを含めて考えられる。
 江戸幕府の封建的体制の強化される時にあたって、京都の宮廷と上層町衆を中心としては、これに反撥的な古典的文化が成立し、江戸の武家を中心としては主として体制的な儒教的文化が発展した。その特質はしばしば西の桂(離宮)に対して東の日光(東照宮)が考えられるが、両者は対蹠的に寛永文化の二つの側面を代表しているといってもよいであろう。 
 しかしこれらは東西に対比されながら相互に交渉もあって、京都における寛永文化としては、二焦点の楕円形の文化構造が考えられる。
 この事実は、西の宮廷をみても、後水尾院のもとに入内した東福門院は江戸の姫君(徳川秀忠の女和子)であって、東の武家をも含みこむことができた。女院は入内後江戸に帰ることなく、京都人になりきって戦乱に荒廃した文化財の復興に力を尽くした。
王朝寺院として知られた清水寺・仁和寺などはこの時に復興され、女院の外祖父浅井長政の菩提をとむらう養源院もこの時に創立された。
 仁和寺近くに住んで野々村仁清の作品を世に出した金森宗和、養源院に板戸絵をえがいた俵屋宗達、いずれも宮廷に出入した芸術家であった。
 それらの群像のなかで元和元年(一六一五)より鷹ヶ峰に居を構えた本阿弥光悦は、まさに代表格であって、古典的教養にささえられ、書蹟に作陶に寛永文化を代表する作品をとどめた。
 この光悦とともにはやく嵯峨本の刊行に力を尽くした角倉素庵は、清水寺にかかげる扁額が示すように、父了以いらい安南貿易に雄飛しかつ国内の河川疏通に活躍した実業家であるが、同時に儒学においても一家をなした。この光悦・素庵こそは寛永文化を創造した二つの焦点であったとみられる。
 その楕円形のなかには、近衛信尋・中院通勝・烏丸光広・俵屋宗達・灰屋紹益・千宗旦もおれば、板倉重宗・藤原惺窩・林羅山・堀正意・石川丈山・狩野探幽などもおり、ここに公武・和漢の文化の綜合が考えられるのである。
 しかし寛永文化の特徴は、やはり京都を舞台とした古典復興のなかに最も重点があり、そのにない手は上層町衆たちであった。そのあたりから京都島原の角屋の意匠なども、寛永文化にねざしたものということができるのである。なお寛永文化は江戸よりも加賀にゆかりが深く、光悦は先代いらい加賀前田家に仕えていたが、前田利常の女富姫は桂宮(八条宮)二代智忠親王のもとに輿入れし、利常の弟利政の女は角倉素庵の長男玄紀の後妻となっていて、加賀と京とを深く結びつけていた。
 また利常の生母寿命院ゆかりの能登妙成寺の伽藍は、すべて寛永文化の地方版をみるごとく新鮮である。近世初期京都への憧憬のなかで営まれた地方の文化遺産には、寛永文化の伝播の姿と見られるものは多い。
[参考文献]
林屋辰三郎『中世文化の基調』、同『寛永鎖国』(『国民の歴史』一四)、同『近世伝統文化論』
(林屋 辰三郎)≫(「ジャパンナレッジ」)

 これに、下記アドレスの、「学問(藤原惺窩・林羅山)」「建築(日光東照宮・桂離宮と修学院離宮)」「絵画(狩野派・装飾画)」「工芸(蒔絵・楽焼・有田焼)」「芸能(茶道・書道)」「文学(仮名草紙・俳諧)」の各分野毎のものが参考となる。(山川出版社版の高校日本史教科書『詳説日本史B』をベースにしている。)

http://www2.odn.ne.jp/nihonsinotobira/kanei.html

 さらに、「上層町衆・本阿弥光悦」周辺については、下記アドレスの「<論説>近世初頭における京都町衆 の法華信仰 (藤井学稿「特集 : 都市研究」)」が参考となる。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/249377/1/shirin_041_6_520.pdf

 これらの、「寛永文化」と「上層町衆・本阿弥光悦」周辺に関しては、下記のアドレスで紹介した、『光悦 琳派の創始者(河野元昭編・宮帯出版社・2015年)』が、上記のことなどを踏まえて、それぞれの専門家によってまとめられている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-19

(再掲)

Ⅰ 序論  「光悦私論」(河野元昭稿)
Ⅱ 光悦とその時代  
  「光悦と日蓮宗」(河内将芳稿)
  「近世初頭の京都と光悦村」(河内将芳稿)
  「光悦と寛永の文化サロン」(谷端昭夫稿)
  「光悦と蒔絵師五十嵐家」(内田篤呉稿)
  「光悦と能-能役者との交流」(天野文雄稿)
  「光悦と朱屋田中勝介・宗因」(岡佳子稿)
  「光悦と茶の湯」(谷端昭夫稿)
Ⅲ 光悦の芸術  
  「書画の二重奏への道-光悦書・宗達画和歌巻の展開」(玉蟲敏子稿)
  「光悦の書」(根本知稿)
  「光悦蒔絵」(内田篤呉稿)
  「光悦の陶芸(岡佳子稿)
Ⅳ 光悦その後  
  「フリーアと光悦-光悦茶碗の蒐集」(ルイーズ・A・コート稿)

 そして、この書に関して、『嵯峨野明月記(辻邦生著・新潮社・1971)』の、「一の声(光悦)」「二の声(宗達)「三の声(素庵)」などを紹介し、「光悦と嵯峨本(光悦と素庵)」そして「「和歌・書・画の三重奏の道―光悦・宗達・素庵らの和歌巻の展開」などの項目も付加して欲しいことなどを記した。

(再掲)

「一の声(光悦)」=私が角倉与一(素庵)から私の書に対する賛辞でみちた手紙を受け取ったのもその頃のことだ。私は与一とはすでに十五年ほど前、角倉了以殿と会った折、一度会っているはずだが、むろんまだ、十二、三の少年だったわけで、直接な面識はほとんどないに等しかった。

「二の声(宗達)」=本阿弥(光悦)は角倉与一(素庵)からおのれ(宗達)の四季花木の料紙を贈られ、和歌集からえらんだ歌をそれに揮毫していて、それが公家や富裕の町衆のあいだで大そうな評判をとったことは、すでにおれのところに聞こえていた。

「三の声(素庵)」=わたしは史記を上梓したあと、観世黒雪(徳川家と親しい能役者・九世観世大夫)の校閲をたのんで、華麗な謡本に熱中していた。その頃は、本阿弥(光悦)がすでに装幀、体裁、版下を引きうけ、細心な指示をあたえていた。史記で用いた雲母摺りの唐草模様を、さらに華やかにするため、表紙の色を変え、題簽をあれこれと工夫した。

鶴下絵和歌巻・全体.jpg

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」(絵・俵屋宗達筆 書・本阿弥光悦筆 紙本著色・34.0×1356.0cm・江戸時代(17世紀)・ 重要文化財・A甲364・京都国立博物館蔵)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

短冊帖・千羽鶴.jpg

参考A図「四季草花下絵和歌短冊帖(千羽鶴)」一帖(山種美術館蔵)
俵屋宗達(絵)・本阿弥光悦(書) 紙本・金銀泥絵・彩色・墨書・短冊・画帖(1冊18枚のうち1枚) 37.6×5.9㎝
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/248875
【93「短冊帖・本阿弥光悦」一帖(山種美術館蔵)
  もと6曲1双の屏風に20枚貼り交ぜであったもので、現在は18枚が短冊帖に改装され、残る2枚は散佚した。金銀泥で描く装飾下絵は、桔梗に薄・波に千羽鶴・団菊・藤・つつじ・萩・朝顔ほかさまざまあり、いずれも構図に工夫が凝らされている。中に、胡粉を引いたものや金銀の砂子を撒いたものも散見する。とくに銀泥で描いた部分は墨付きの都合で、肉眼でも判然としない箇所があるが、その下絵を縫って見え隠れする豊潤な筆致がかえって立体感を生み出している。慶長年間の筆。(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』)の「モノクロ図版」の解説 】

群鶴蒔絵硯箱.jpg

参考B図「群鶴蒔絵硯箱」一合「蓋表」(東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0048252
【258 「群鶴蒔絵硯箱」(東京国立博物館蔵)
 方形、削面、隅切の被蓋造で、身の左に水滴と硯を嵌め、右に筆置と刀子入を置いた形式は琳派特有のものである。総体を沃懸地に仕立て、蓋表から身の表にかけて、流水に5羽の鶴が飛翔する図を表している。水文は描割で簡単に表わし、その上に厚い鉛板を嵌めこんで鶴を配し、くちばしや脚には銅板を用いている。一見無造作で簡略化した表現のように見えるが、各材料の用法などには充分配慮がゆきとどいた優品の一つである。(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』) )の「モノクロ図版」の解説 】
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その二) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「松花堂画法」周辺

「松花堂照乗《茄子図》」.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「松花堂照乗《茄子図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0003.jpg

≪「茄子図」 松花堂画法 / 惺々翁ハ法ヲ遠ニ取リ/務テ時史ノ風ヲ脱ス (法ヲ縁古ニ取リテ、務テ時史ノ風ヲ脱ス) ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

(参考その一)「松花堂昭乗」周辺

https://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/hito4_syojou.html

≪ ■松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)天正12年(1584)~寛永16年(1639)9月18日

●松花堂昭乗
 松花堂昭乗は、慶長5年(1600)石清水八幡宮の社僧となり、次いで瀧本坊の住職となりました。昭乗は、書道、絵画、茶道の奥義を極め、近衛信尹、本阿弥光悦とともに寛永の三筆と称せられました。

●昭乗の出生・素性は謎
 松花堂昭乗は摂津国堺で生まれ、幼名を辰之助と言いました。兄の喜多川与作が12歳の時、その聡明さを見込まれて興福寺別当一乗院門跡の坊官であった中沼家に迎えられ、この兄に従って奈良に移りました。しかし、その昭乗の出生、素性については、実ははっきりしていません。昭乗と親しかった佐川田昌俊が記した「不二山黙々寺記」によると天正12年(1584)に生まれたとしていますが、「中沼家譜」によれば天正10年(1582)に生まれたことになります。また、昭乗が父母について語ったことがないと伝えられ、昭乗の師であった実乗は、昭乗のことを「捨て子であったものを拾い上げて育てた」と言っています。このとき、すでに昭乗は9歳。少し疑問が残ります。このため、昭乗は豊臣秀次の子であったともいわれています。

●青年期の昭乗
 慶長5年(1600)、昭乗17歳の時、石清水八幡宮瀧本坊実乗のもとで剃髪をして社僧となり、このとき名を昭乗と改めました。特に青蓮院流を学びましたが、慶長7年(1602)、昭乗20歳のとき、四天王寺に参詣して弘法大師の巻物を拝観し、いたく感動、その後大師流を学び、空海を慕って唐風をを祖述したといわれます。そして昭乗は後に松花堂流とも言うべき書風を確立しました。

昭乗の作品「茄子」

「松花堂照乗《茄子図》」2.jpg

●昭乗の交友
 昭乗は、書道のほか、歌道、絵画にもすぐれ、茶道にもその才能を発揮しました。絵画では狩野山楽、山雪について大和絵を学びました。山楽が大坂落城後、昭乗を頼って八幡に来たとき、昭乗は「山楽は絵師で会って武士にあらず」と言い張って、徳川の追求から護ったと伝えられてます。また、茶道を通じて大徳寺の玉室・沢庵・江月などの禅僧や小堀遠州・金森宗和などの大名茶人と交友を深めました。また、昭乗の茶会記には、豪商淀屋个庵の名も見えます。このときの淀屋は2代目言當でした。
 寛永3年(1626)6月11日、前将軍秀忠並びに将軍家光が入洛のため江戸を出発したという状況のなかで、伏見城内で催された茶会では、先に入洛していた尾張中納言徳川義直を席主として、当時伏見奉行の任にあった小堀遠州とともに関白近衛信尋を招待し、義直と信尋の接近を図り、公家と武士の間の斡旋に尽力しています。
 昭乗は若い頃、近衛信尹に仕えて以来、近衛家とはきわめて深い関係にありました。信尹が嗣子がなかったため、妹前子が入内して後陽成天皇との間に生まれた皇子を近衛家に迎え、これが信尋でしたが、この信尋とも昭乗は親密な関係にありました。また、尾張徳川家の祖義直は、石清水八幡宮の社務田中家の分家にあたる志水宗清の娘である亀女が徳川家康に嫁ぎ、その間にもうけた子であったから、義直とも特別な関係にあったことから両者の斡旋にあたるにはもっともふさわしい位置にあったといえます。

●晩年の昭乗
 寛永4年(1627)に師実乗の遷化にともない、瀧本坊の住職となりました。このとき昭乗45歳。数年後、火災により、瀧本坊が焼失してからは、兄元知の子で弟子の乗淳に住職を譲り、自らは「惺々」と号して風雅の境地を築きました。
昭乗が人生の晩年に幽栖するために寛永14年(1637)に男山中腹の泉坊のそばに作った草堂が「松花堂」といわれるもので、たった二畳の広さの中に茶室と水屋、く土、持仏堂を備えた珍しい建物です。ここに詩仙堂の石川丈山や小堀遠州、木下長嘯子、江月、沢庵など、多くの文人墨客が訪れ、さながら文化サロンの風だったと伝えられています。
 松花堂の軒にかかる小さな扁額には「松花堂」と隷書で彫られ、「惺惺翁」の落款が見えます。「老いてなお、心は冴え冴え」というもので、昭乗の心が偲ばれます。

●昭乗の入寂
 寛永16年(1639)、このころから昭乗の背中に腫れ物ができ、昭乗は痛みをこらえる日々が続いたようです。実は昭乗の師であった実乗、また実乗の師の乗裕も背中にはれものができて、それが原因で亡くなっています。このことから、昭乗はこのとき自分の死期を悟ったようです。伏見奉行だった小堀遠州は、昭乗を伏見に呼び、名医による治療を受けさせましたが効果はありませんでした。近衛信尋も病気見舞いに訪れるなど、多くの人たちに愛されながら同年9月18日、55歳の生涯を閉じました。本阿弥光悦の80歳など「寛永の三筆」の中では短命でした。昭乗の墓は、八幡市八幡平谷にある泰勝寺にあります。また、昭乗が晩年に過ごした「松花堂」は今は八幡女郎花の松花堂庭園内に再現されています。≫

(参考その二)「松花堂画寄合賛絵」周辺

https://h29-shokadoshojo.amebaownd.com/posts/3320620/

「松花堂照乗《茄子図》」3.jpg

「茄子図 松花堂画寄合賛絵巻のうち」(個人蔵)
≪ 松花堂昭乗が花鳥や人物を描き、そこに様々な人物が着賛した「松花堂画寄合賛絵巻」。八幡名物としても知られるこの絵巻は、昭和期に分断されて掛軸装となり、諸方に所蔵されています。この「茄子図」もその一つです。
 ぷっくりとした茄子が枝になっている様子を描いたこちらの作品。墨の濃淡と一部に青墨を用いて描かれるこの茄子は、平面にもかかわらず、その重みや円味をありありと感じることができます。茄子からその周りに目を転じると、茄子がぶら下がっている葉には少しずつ濃淡の違いがみられ、それによって奥行きが感じられるようになっています。じーっと見ていると、まるで立体図のようにも見えてきます。
 昭乗の友人で親交の深かった佐川田昌俊という人物は、昭乗の絵を評して「梅花を画くに、匂いあるがごとく」と述べています。描かれているものから五感を刺激されるような…目の前に茄子があり、そのツヤを感じ、重みを感じることができる。昭乗の絵は、どこかそんな不思議な力を持っているようです。≫

(参考その三)「『松花堂画寄合賛絵の模写本』について(田中敏雄稿)」周辺

https://www.grad.osaka-geidai.ac.jp/app/graduation-work/bulletin-paper/geibun25_tanaka.pdf

雉子図.jpg

(図一)「雉子図」(墨画淡彩/五五、六㎝(図3)/かり人の入野のききす打忍ひはるを社ゑね妻やこふらむ行章/賛者今小路行)

「竹図」.jpg

(図二)「竹図」(墨画/五七、二㎝(図2)/虚心寫出両竿竹不滅不生霜節堅「印」/「印」/賛者不詳)

鶏図.jpg

(図三) 「鶏図」(墨画淡彩/五一、五㎝(図4)/大そらにとひ立かねてうち羽ふきかけそと啼か哀れなりけり景樹/賛者・香川影樹《一七六八~一八四三・京都の歌人》)

(図四) 「夢蝶図」→ この図は切り取られていて無し。

芙蓉図.jpg

(図五)「芙蓉図」(墨画/七二、一㎝(図5)/其葉葳蕤霜照夜此花爛慢炎焼秋山口正風「印」/賛者・山口正風)

葡萄図.jpg

(図六) 「葡萄図」(墨画六一、四㎝(図6)/西域誰傳紫玉枝秋季馬乳帯霜肥不憂酒渇相如苦一嚼清/冷味最奇橘山題「印」 「印」/賛者畑柳敬(一七五六~一八二七)・京都の医者・儒)

菊図.jpg

(図七)「菊図」(着色/四八、○㎝(図7)/いろことに〇〇〇菊のうつしゑハあきなき時もかれす見るへき彦澄/賛者・小川彦澄)

梅雀図・鹿図・蕣図.jpg

(図八)「梅雀図」(着色/三七、〇㎝(図8)/〇〇猶来細禽夢乎醒暁風吹彩後梅香凝〇腥鶴橋/柚木太淳「印」 「印」/賛者・柚木太淳(一七六二~一八〇三)/京都の眼科)

(図九)「鹿図」(墨画め六二、九㎝(図9)/色ふかくにほへるはきの花つまにむつれてあそふ野辺のさをしか道覚/賛者・知足院道覚

(図十) 「蕣図」(墨画/五五、八㎝(図10)/このあきのとはなはしらし夕くれをまたてうつろう花のあさかほ重榮/賛者・山下重榮)

山梔鶯図・竹雀図・鳩図など.jpg

(図十一) 雁図」(墨画/四九、○㎝(図11)/秋風を翅にかけつつうら枯のあしの入江に落るかりかね真應/賛者・金剛院真應)

(図十二)「山梔鶯図」(着色/四〇、二㎝(図12)/自経消臘雪林苑鎖煙霞芳意殊凡卉獨/開六出花 皆川愿/題「印」「印」/賛者・皆川淇園(一七三五~一八〇七)・京都の儒学者)

(図十三)「竹雀図」(墨画/五七、一㎝(図13)/ちからなき竹のさえたにあそぶめり起居かろけにみゆるすゝめは/蒿蹊「花押」/賛者・伴蒿蹊(一七三三~一八〇六)・京都の歌人、学者)

(図十四)「鳩図」(墨画/五七、二㎝(図14)/鳩栖桑樹枝凾婦婦何之欲呼無處所縮項空相思之熙 「印」「印」/賛者・京都の儒者・村瀬栲亭(一七四四~一八一九))

(図十五) 「竹眉鳥図」(着色/四七、九㎝(図15)/長喙華毛易誤躬待人苦々含彫籠憐汝獨来阿堵裏柔梢自在喙春蟲徳方拝題「印」/賛者・中嶋泰志(一七四七~一八一六)・京都の儒
者)

叭々鳥図・水仙図.jpg

(図十六) 「叭々鳥図」(墨画五八、 三㎝(図16)/江南春樹雨濛々鸜鵒多懐語暁風莫謂羽毛設文采嗟它鸚鵡鎖重籠橘州禎「印」 印」/賛者・畑柳泰(一七六五~一八三二)・京都の医者)

(図十七)「水仙図」(着色/四七、七㎝(図17)/百草花中第一名氷肌雪骨月魂清風惜獨有寒梅似曽結芳盟為弟兄釈志岸拝題「印」「印」/賛者・菩提院志岸)

茄子図・図18.jpg

(図十八)「茄子図」(墨画/六〇、〇㎝(図18)/二月のふりにはあらぬはつなすひ多か苑生にか折えたりけん保考賛/賛者・岡本保考(一七四九~一八一八)・京都の書家)

瓜図・舟図.jpg

(図十九)「瓜図」(墨画/五八、三㎝(図19)/鵝渓寫書一蒼毬知是春門處士疇不用灌培生意勤何開納履有人例 愛親/賛者・公卿 中山愛親(一七四一~一八一四)・正二位権大納言)

(図二十)「船図」(墨画/四八、三㎝(図20)/小朶知〇處洞庭水来波渡頭縦有待千古汲人過峩眉竜 潭謹題「印」「印」/賛者・天龍寺竜潭西)

船子図・水月図他.jpg

(図二十一図) 「船子図」(墨画/五二、一㎝(図21)/上無片尾蓋霜頭下有長江可擲鈎偶遇金鱗禹碧浪山遥水闊荻蘆 秋宗弼「印」「印」/賛者・南禅寺宗弼西堂)

(図二十二)「菊図」(墨画/五八、七㎝(図 22) 秋色菊形芨一枝絹上妍不霜瓊座砕長賞入詩篇元真賢題 「印」/ 賛者・坂元鈞閑斎)

(図二十三) 「栗図」(墨画/四七、四㎝(図23)/寫真故謝寫嬋娟一種秋容宛可眸想看寒厳幽谷莫葉間山蝟座疎烟規拝題「印」/賛者・中嶋棕隠(一七七九~一八五五)・京都の儒学者、漢詩)

(図二十四) 「水月図」(墨画/七〇、六㎝(図24)/賛なし)

(参考その四)「松花堂照乗データベース」周辺

http://shoukado-shojo.net/

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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その一) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「崋山の序」周辺

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「崋山の序」.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「崋山の序」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0003.jpg

≪ 俳諧絵は唯趣を第一義とといたし候。元禄のころ一蝶許六などあれども風韻は深省などまさり候。此風流の趣は古き所には無く、滝本坊、光悦など昉(はじま)りなるべし。はいかゐには立圃見事に候。近頃蕪村一流を昉(はじ)めおもしろく覚候。かれこれを思ひ合描くべし。すべておもしろかく気あしく、なるたけあしく描くべし,これを人にたとへ候に世事かしこくぬけめなく立板舞物のいひざまよきはあしく、世の事うとく訥弁に素朴なるが風流に見へ候通、この按排を御呑込あるべし。散人 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

(補記)

一 「俳諧絵」=「俳画」=「俳画(はいが)は、俳句を賛した簡略な絵(草画)のこと。一般には俳諧師の手によるものであり、自分の句への賛としたり(自画賛)、他人の句への賛として描かれるが、先に絵がありこれを賛するために句がつけられる場合や、絵と句が同時に成るような場合もある。さらに敷衍して、句はなくとも俳趣を表した草画全般をも指す言葉としても用いられる。『俳画』という呼称は渡辺崋山の『全楽堂俳諧画譜』にはじまるとされており、それ以前の与謝蕪村などは『俳諧物の草画』と称していた。」(「ウィキペディア」)

二 「一蝶」=「英 一蝶(はなぶさ いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年1月13日(1724年2月7日))は、日本の江戸時代中期(元禄期)の画家、芸人。本姓は藤原、多賀氏、諱を安雄(やすかつ?)、後に信香(のぶか)。字は君受(くんじゅ)。幼名は猪三郎(ゐさぶらう)、次右衛門(じゑもん)、助之進(すけのしん)(もしくは助之丞(すけのじょう))。剃髪後に多賀朝湖(たがちょうこ)と名乗るようになった。俳号は「暁雲(ぎょううん)」「狂雲堂(きょううんだう)」「夕寥(せきりょう)」。
 名を英一蝶、画号を北窓翁(ほくそうおう)に改めたのは晩年になってからであるが、本項では「一蝶」で統一する。尚、画号は他に翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りょうしょうあん)、牛麻呂、一峰、旧草堂、狩林斎、六巣閑雲などがある。」(「ウィキペディア」)

三 「許六」=「森川 許六(もりかわ きょりく)は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。蕉門十哲の一人。名は百仲、字は羽官、幼名を兵助または金平と言う。五老井・無々居士・琢々庵・碌々庵・如石庵・巴東楼・横斜庵・風狂堂など多くの別号がある。近江国彦根藩の藩士で、絵師でもあった。」(「ウィキペディア」)

四 「深省」=「尾形 乾山(おがた けんざん、 寛文3年(1663年) - 寛保3年6月2日(1743年7月22日)は、江戸時代の陶工、絵師。諱は惟充。通称は権平、新三郎。号は深省、乾山、霊海、扶陸・逃禅、紫翠、尚古斎、陶隠、京兆逸民、華洛散人、習静堂など。一般には窯名として用いた「乾山」の名で知られる。)(「ウィキペディア」)

五 「滝本坊」=「松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう、天正10年(1582年) - 寛永16年9月18日(1639年10月14日))は、江戸時代初期の真言宗の僧侶、文化人。姓は喜多川、幼名は辰之助、通称は滝本坊、別号に惺々翁・南山隠士など。俗名は中沼式部。堺の出身。書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、書を近衛前久に学び、大師流や定家流も学び,独自の松花堂流(滝本流ともいう)という書風を編み出し、近衛信尹、本阿弥光悦とともに『寛永の三筆』と称せられた。なお松花堂弁当については、日本料理・吉兆の創始者が見そめ工夫を重ね茶会の点心等に出すようになった「四つ切り箱」、それを好んだ昭乗に敬意を払って『松花堂弁当』と名付けられたとする説がある。」(「ウィキペディア」)

六 「光悦」=「本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))は、江戸時代初期の書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人。通称は次郎三郎。号は徳友斎、大虚庵など[1]。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。」(「ウィキペディア」)

七 「立圃」=「雛屋 立圃(ひなや りゅうほ、文禄4年〈1595年〉 - 寛文9年9月30日〈1669年10月24日〉)は、江戸時代初期の日本の京都で活動した絵師であり、俳人でもある。姓は野々口(ののぐち)、名は親重(ちかしげ)[1]。立圃、立甫、甫、松翁、日祐、風狂子と号している。野々口 立圃としても知られる。また、俗称として、紅屋庄衛門、市兵衛、次郎左衛門、宗左衛門など諸説がある。絵師としては狩野派に属する。」 (「ウィキペディア」)

八 蕪村=「与謝 蕪村(與謝 蕪村、よさ ぶそん、よさの ぶそん 享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、文人画(南画)家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」「謝寅(しゃいん)」など複数ある。」(「ウィキペディア」)

(参考)「渡辺崋山の草体画(2)―崋山と洒脱なへたうま画の極み俳諧画―」(「おもしろ日本美術3」No.6)

http://www.bios-japan.jp/omoshiro6.html

≪ 崋山は俳句の宗匠太白堂の知己を得て、自ら俳句を詠み、俳句関係の版本『桃下春帖』『いわい茶』『華陰稿』『月下稿』等の表紙やカットの筆をとっていた(蛮社の獄後は椿山に委ねる)。また、俳画はもちろん戯画略画の洒脱でいきな味わいを好み、自ら描くことも多かった。俳画は俳句の師匠や俳句好きの旦那衆が戯れに描いたところの素人絵に発するが、稚拙ながらもほのぼのとした訥々たる味わいを持つ、今のニューペインティングにいうへたうま的なものが好まれた。
 それも、蕪村や呉春、抱一など本格的な絵師が参入するようになり、また大雅や寒葉斎らの軽いタッチのうちにシャレた雅味を封じ込める軽妙な筆が評判を得て、稚拙な持ち味そのままに高い洗練性を誇る優品が数多く生まれた。
 そもそも、崋山の俳句への関わりは一通りでなく、太白堂五世、六世それぞれと深い付き合いをしていた。太白堂一家とは父巴洲の知り合いであった五世太白堂加藤萊石(初め山口桃隣、崋山『寓絵堂日録』に肖像あり)のころから親しい間がらで、次の六世太白堂(江口孤月、崋山は「華陰兄」と呼ぶ)の代に跨って二十余年間、俳句の世界にも積極的に身を投じていた(俳号は桃三堂支石)。『桃下春帖』天保八年冊に「見に出たる事はわすれて柳かげ」との句を寄せ太白堂との交誼に関する識語を添えている。
 『桃下春帖』は各冊百丁余りで、ほぼ毎頁に崋山の絵を版下としたカットで埋め尽くされており、また、崋山が版下を任された太白堂の年始廻りの配り物の四角奉書色刷りの俳画も数多く知られている。
 崋山の俳画帖については、晩年の『俳画譜』が秀抜で、田原蟄居中に崋山の信奉者である鈴木與兵衛のために俳画の手本として描き与えたものである。崋山歿後與兵衛は、版に起こして世に公刊。明治にはコロタイプの複製も出ている。
 『俳画譜』の自序に、「俳諧絵は唯趣を第一義といたし候。・・・此風流の趣は古き所には無く、瀧本坊、光悦など昉りなるべし。はいかゐには立圃見事に候。近頃蕪村一流を昉めおもしろく覚え候。かれこれ思い合描くべし。すべておもしろくかく気あしく、なるたけあしく描くべし。これを人にたとへ候に世事かしこくぬけめなく立振舞物のいひざまよきはあしく、世の事うとく訥弁に素朴なるが風流は見え候通、この按排を御呑込あるべし。」とあり、自らの確固たる俳画論を披歴している。絵は野々口立圃、英一蝶、松下堂昭乗、森川許六、与謝蕪村、本阿弥光悦等々崋山が推挙する俳画の名手の法に従った倣画を連ねて適宜コメントを添えている。原本は尼崎のY家所蔵。(文星芸術大学 上野 憲示) ≫

(補記その一)  「近世俳人略系譜」と「太白堂(天野桃隣)俳諧系譜」
「近世俳人略系譜」→ https://www.town.kamisato.saitama.jp/1296.htm

太白堂(天野桃隣)俳諧系譜.jpg

太白堂系譜.jpg

「太白堂(天野桃隣)俳諧系譜」→ https://www.town.kamisato.saitama.jp/1295.htm

(補記その二)「 桃家春帖 / 太白堂孤月 [編] ; [渡辺崋山] [ほか画] 」周辺
著者/作者 Author: 孤月, 1789-1872・渡辺 崋山, 1793-1841
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1111/index.html


「桃家春帖・ 太白堂孤月編・渡辺崋山].jpg

「桃家春帖 / 太白堂孤月 [編] ; [渡辺崋山] [ほか画]」所収「渡辺崋山(俳号=桃三堂支石「句=「見に出たる事はわすれて柳かげ」(118/131))(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1111/index.html
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抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その二十)「抱一の『猫図(抱一画・鵬斎賛)」(その周辺)

猫図(酒井抱一画・亀田鵬斎賛).jpg

「猫図(酒井抱一画・亀田鵬斎賛)」(一幅・個人蔵))

≪ 図版解説119  
 一風変わったこの猫の絵には、「壬戌之春正月十四日」と年紀のある亀田鵬斎(一七五二~一八二六)の賛がある。「抱弌」の印のみが捺された新出作品。壬戌は享和二年(一八〇二)で、抱一画としても早期の、また鵬斎との交流の証としては最初期のものとなる。この年、抱一と鵬斎とは、文晁らとともに常州金龍寺に取材旅行に出かけている。≫(『酒井抱一と江戸琳派の全貌・求龍堂』所収「図版解説119 (松尾知子稿)」)

≪ 作品解説119  
 亀田鵬斎の賛は、ある美しい猫のさまを詠う。
  本是豪家玳瑁(たいまい)兒
  眞紅纏頸金鈴垂
  沈香火底座氈睡
  芍薬花辺趁蝶戯
  磨爪潜條鼠敖者
  拂眉常卜客来時
  平生為受王姫愛
  認得情人出翠愇
   壬戌之春正月十四日
      鵬斎閑人題
 猫の絵は、細い線で輪郭はとるが、ヒゲは白、目は黄色の色彩を少し加え、瞳孔は細く、ほとんど開いていない。
 この猫の姿に対し「寝ための猫」(あるいは寝ざめ)と題した箱は、池田孤邨によるもの。その蓋裏には、「孤邨三信題函」と署名した孤邨のほか、一門の松嶺、緑堂昌信、野沢堤雨が揃って、猫が蝶と戯れることにちなんだものか、蝶の絵の寄せ書きをしているのも珍しい。(挿図=p423、挿図119) 抱一の画譜のために丹念な描写をしている彼らにとっても、珍重な一図であったことであろう。≫(『酒井抱一と江戸琳派の全貌・求龍堂』所収「作品解説119 (松尾知子稿)」)

 この「享和二年(一八〇二)」は、抱一、四十二歳の時で、この「猫図」に関連した句が、『屠龍之技』(「千ずかのいね」)に収載されている。

5-23 から貓(猫)や蝶噛む時の獅子奮進 (『屠龍之技』(「千ずかのいね」)

https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-195-24.html

(再掲)

≪ 季語は「蝶」(三春)。しかし、この句の主題は、上五の「から貓(猫)や」の「唐猫」にある。そして、「猫の恋」は「初春」の季語となる。
  その「猫の恋」は、「恋に憂き身をやつす猫のこと。春の夜となく昼となく、ときには毛を逆立て、ときには奇声を発して、恋の狂態を演じる。雄猫は雌を求めて、二月ごろからそわそわし始め、雌をめぐってときに雄同士が喧嘩したりする。」(「きごさい歳時記」)

(例句)
猫の恋やむとき閨の朧月    芭蕉 「をのが光」
猫の妻竃の崩れより通ひけり 芭蕉 「江戸広小路」
まとふどな犬ふみつけて猫の恋 芭蕉 「茶のさうし」
羽二重の膝に飽きてや猫の恋 支考 「東華集」
おそろしや石垣崩す猫の恋   正岡子規 「子規句集」
恋猫の眼ばかりに痩せにけり 夏目漱石 「漱石全集」

 掲出の抱一の「から貓(猫)や蝶噛む時の獅子奮進」は、上記の「例句」の「まとふどな犬ふみつけて猫の恋(芭蕉)」の、その本句取りのような一句である。

 まとふどな犬ふみつけて猫の恋(芭蕉「茶のさうし」)

http://www.basho.jp/senjin/s1704-1/index.html

「句意は『恋に狂った猫が、ぼおっと横になっている犬を踏みつけて、やみくもに走って行ったよ。』
 私がこの句を知ったのは朝日新聞の天声人語(2017.2.22朝刊)に「猫の恋」の話の中で、「情熱的な躍動を詠んだ名句の一つ」として載っていたからである。「またうどな」と新聞では表記されていた上五の意味がわからないことで興味をもった。
「またうど」は『全人』でもとは正直、真面目、実直などの意であるが、愚直なことや馬鹿者の異称として用いられたこともあるという(『江戸時代語辞典』)。
 そこで私は上記のように解釈したのだが、確かに恋に夢中になった猫が普段怖がっている犬を踏みつけて走っていく状況は面白い。猫の気合とのんびりした犬の対比の面白さとして取り上げた評釈もあるが、私は猫の夢中さを描いた句ととりたい。
 この句の成立時期ははっきりしていないものの、芭蕉にしては即物的な珍しい句という感じがする。(文・ 安居正浩)」(「芭蕉会議」)

喜多川歌麿『青樓仁和嘉・通ひけり恋路の猫又』.jpg

喜多川歌麿『青樓仁和嘉・通ひけり恋路の猫又』(ColBase)/(https://colbase.nich.go.jp/
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/193858/

 この抱一の句の「句意」は、この珍しい舶来の「唐猫」が、「蝶」を捕って、それを「噛(かじ)っている」、その「獅子奮進」(獅子が荒れ狂ったように、すばらしい勢いで奮闘する様子の)の姿は、これぞ、まさしく、「万国共通」の、歌麿の描く「通ひけり恋路の猫又」の世界のものであろう。(補記) この句もまた、抱一好みの「浄瑠璃」の「大経師昔暦(1715)」上「から猫が牡猫(おねこ)よぶとてうすげしゃうするはしをらしや」とを背景にしている一句なのかも知れない。 ≫

(追記)

「下谷の三幅対(三人組):『鵬斎・抱一・文晁』」と「建部巣兆」(「千住連」宗匠)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-09

「太田南畝・四方赤良・蜀山人」(その周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-04-10

「亀田鵬斎」(その周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-04-13

「谷文晁」(その周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-04-21

「すごろく的 亀田鵬斎と仲間たち」

http://sugoroku.kir.jp/suisen-gakuya/suisen-soukanzu.htm

『抜粋』

*酒井抱一(さかい ほういつ)
宝暦11年7月1日(1761年8月1日)~文政11年11月29日(1829年1月4日)
江戸時代後期の絵師、俳人。 権大僧都(ごんのだいそうず)。本名は忠因(ただなお)

*亀田 鵬斎(かめだ ほうさい)
宝暦2年9月15日(1752年10月21日)~文政9年3月9日(1826年4月15日)
江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。

*谷文晁(たに ぶんちょう)
宝暦13年9月9日(1763年10月15日)~天保11年12月14日(1841年1月6日)
江戸時代後期の日本の画家。江戸下谷根岸生まれ。松平定信に認められ、定信が隠居するまで定信に仕えた。

*大田南畝(おおた なんぽ)
寛延2年3月3日(1749年4月19日)~文政6年4月6日(1823年5月16日)
天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。蜀山人。

*7代目・市川團十郎(いちかわ だんじゅうろう)(1791年~1859年)
歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋。五代目の孫で六代目の養子。

*佐原鞠塢(さはら きくう)
仙台出身の骨董商。向島百花園を開園する。百花園に360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸(現・江東区)に あった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも、「花屋敷」とも呼ばれていたが、1809年(文化6 年)頃より「百花園」と呼ばれるようになった。江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、 著名な利用者には「百花園」の命名者である絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らがいた。

*駐春亭宇左衛門(しゅうしゅんてい うざえもん)
江戸時代後期の遊女屋,料理店の主人。伯母の家をついで江戸深川新地に茶屋をひらき,のち新吉原に遊女屋をひらく。下谷竜泉寺町にもとめた別荘地から清水がでたため、田川屋という風呂付きの料理店をはじめた。

*八百屋善四郎(やおや ぜんしろうょ) 1768~1839年
江戸浅草山谷(さんや)で八百屋兼仕出屋をいとなんだ八百善(やおぜん) の4代目。
文政の始め頃には馬鹿げたほど高価な料理屋として大評判となる。
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十九)「芭蕉・蕉門十哲像」(その周辺)

 「崋山先生図画」(色刷/表装:仮綴/[佐野屋喜兵衛], [出版年不明]/6枚 ; 38×26cm/早稲田大学図書館蔵)は、「支考肖像真蹟. 嵐雪肖像真蹟. 芭蕉肖像真蹟. 其角肖像真蹟. 龝色肖像真蹟. 許六肖像真蹟」の六枚ものである。

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/nu05/nu05_04916/index.html

 これまでに、「其角肖像真蹟・嵐雪肖像真蹟」と「龝(秋)色肖像真蹟・ 許六肖像真蹟・支考肖像真蹟」とを見てきたが、それらは、「[和泉屋市兵衛, [出版年不明]]もので、これらの原画を描いたのが「崋山先生図画 / [渡辺崋山] [画]」ということになる。
 もう一枚の「芭蕉肖像真蹟」は、次のものである。

芭蕉肖像真蹟.jpg

「芭蕉肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05703/index.html

≪     神前
 この松のみばへせし代や神の秋  桃青

 貞享四年(一六八七)、芭蕉、四十四歳時の「鹿島詣」の一句である。この前書の「神前」は、「鹿島神宮の神前」、上五の「この松」は、鹿島七不思議の一つに数えられる境内の名物「根あがりの松」、中七の「みばへ」は「実生え」のことである。句意は、「鹿島神宮の松の下に立つと、この松が実生から目を出した頃の神代の秋の気が感じられる。」 ≫(「芭蕉DB」所収「鹿島詣(鹿島紀行/かしま紀行)」   

 渡辺崋山には、俳画風の「蕉門十哲像(渡辺崋山筆)」もある。

蕉門十哲像(渡辺崋山筆).jpg

「蕉門十哲像(渡辺崋山筆)」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi03/chi03_03816_0025/index.html

 この「蕉門十哲像」は、上から「桃隣・杉風・園女・丈草・許六・支考・正秀・嵐雪・去来・其角」の十人である。この「蕉門十哲像」は、『鮫洲抄(さめずしゅう)』(春秋楼編)所収「左右十哲肖像額・ 讃」と同じで、崋山は、この書によって、この、俳画風の「蕉門十哲像」を描いたように思われる。
 『芭蕉の門人(堀切実著・岩波新書)』では、次の十人を、『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』などの画像入りで、紹介している。

一 東西の俳諧奉行

去来(慶安4年(1651)~宝永元年(1704.9.10)
去来.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0018.jpg
湖の水まさりけり五月雨 (『あら野』)

杉風(1647~1732)
杉風.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0003.jpg
あさがほや其日その日の花の出来  (「杉風句集」)

二 武門の出…二筋の道

許六(明暦2年(1656)8月14日~正徳5年(1715)8月26日)
許六.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0002.jpg
十團子も小つぶになりぬ秋の風   (『續猿蓑』)

丈草(寛文2年(1662)~元禄17年(1704.2.24))
丈草.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0019.jpg
ほとゝぎす啼や湖水のさゝ濁    (『續猿蓑』)

三 江戸蕉門のリーダー

其角(寛文元年(1661)7月17日~宝永2年(1705)2月29日)
其角.jpg
「俳諧三十六歌僊 / 夜半亭蕪村 [画・編]」(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06085/he05_06085_p0005.jpg
鶯の身を逆にはつね哉    (『去来抄』)

嵐雪(承応3(1654)~宝永4年(1707.10.13))
嵐雪.jpg
「俳諧三十六歌僊 / 夜半亭蕪村 [画・編]」(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06085/he05_06085_p0005.jpg
布団着て寝たる姿や東山    (『枕屏風』)

四 行脚俳諧師

支考(寛文5年~享保16年(1731.2.7))
支考.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0017.jpg
野に咲て野に名を得たり梅の花  (『蓮二吟集』)

野坡(寛文2年(1662.1.3)~元文5年(1740.1.3))
野坡.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0020.jpg
ほのぼのと鴉くろむや窓の春  (『野波吟草』)

五 個性の作者

凡兆(1640?~正徳4年(1714)春)
凡兆.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0016.jpg
市中のものゝにほひや夏の月  (『猿蓑』)

惟然(~正徳1年(1711)2月9日、60余歳)
惟然.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0010.jpg
世の中を這入りかねてや蛇の穴  (『惟然坊句集』)

 ここで、芭蕉から夏目漱石までの「俳諧『猫』句十選」などを下記に掲げたい。

「俳諧『猫』句十選」

猫の恋やむとき閨の朧月      芭蕉「をのが光」
京町の猫通ひけり揚屋町      其角「焦尾琴」
なれも恋猫に伽羅焼いてうかれけり 嵐雪「虚栗」
竹原や二匹あれ込む猫の恋     去来「喪の名残」
羽二重の膝に飽きてや猫の恋  支考「東華集」
順礼の宿とる軒や猫の恋      蕪村「夜半叟句集」
うかれ猫奇妙に焦げて参りけり   一茶「七番日記」
から猫や蝶嚙む時の獅子奮迅    抱一「屠龍之技」
おそろしや石垣崩す猫の恋     子規「子規句集」
恋猫の眼ばかりに痩せにけり   漱石「漱石全集」

「漱石『猫』句五句選

https://nekohon.jp/neko-wp/bunken-natsumesouseki/

里の子の猫加えけり涅槃象    (漱石「明治29年(1896年)」)
行く年や猫うづくまる膝の上    (漱石「明治31年(1898年)」)
朝がおの葉影に猫の目玉かな (漱石「明治38年(1905年)」)
恋猫の眼(まなこ)ばかりに痩せにけり (漱石「明治40年(1907年)」)
この下に稲妻起こる宵あらん(漱石「明治41年(1908年)」)=『吾輩は猫である』のモデルとなった猫の墓に書いた句)          

「漱石『『吾輩は猫である』追善五句選」

https://nekohon.jp/neko-wp/bunken-natsumesouseki/

センセイノネコガシニタルサムサカナ  (松根東洋城)
ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ (高浜虚子)
猫の墓に手向けし水の(も)氷りけり  (鈴木三重吉)
蚯蚓(みみず)鳴くや冷たき石の枕元  (寺田寅彦)
土や寒きもぐらに夢や騒がしき     (同上)


(追記)

 渡辺崋山の「猫図」と夏目漱石の「猫図」を下記に掲げて置きたい。

猫図(渡辺崋山画.jpg

「猫図(渡辺崋山画・部分図)」(「出光美術館蔵」)
https://kumareon.wordpress.com/2007/03/27/%E7%B7%8A%E8%BF%AB%E3%81%AE%E7%9E%AC%E9%96%93%E3%80%80%E7%8C%AB%E5%9B%B3%E3%80%80%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%B4%8B%E5%B1%B1/

あかざと黒猫図.jpg

「あかざと黒猫図(夏目漱石画・部分図)」(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html



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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十八)「秋色・許六・支考」(その周辺)

秋色肖像真蹟.jpg

「秋色(穐色)肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05709/index.html

 「秋色」の自筆短冊の句は、「武士(もののふ)の紅葉にこりず女とは」で、その意は、下記のアドレスによると、「冠里公の屋敷で酒宴となり家来たちがからかったのに対して詠んだと記録にある。『紅葉にこりず』は謡曲『紅葉狩』の鬼女を踏んでいて、また酔って赤い顔の侍を諷してもいるのであろう」ということである。

https://enokidoblog.net/talk/2015/12/14881

 上記のアドレスで紹介されている「冠里公」は、其角門の大名俳人「安藤信友(俳号=冠里)」(備中国松山藩二代藩主)を指している。
《 安藤 信友(あんどう のぶとも)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。備中国松山藩2代藩主、美濃国加納藩初代藩主。官位は従四そして、位下・対馬守、侍従。対馬守系安藤家4代。6万5000石。享保7年(1722年)徳川吉宗の治世で老中に任ぜられる。文化人としても名高く、特に俳諧では冠里(かんり)の号で知られ、茶道では御家流の創始者となった。俳諧よくし、宝井其角の門下、号は冠里。》(「ウイキペディア」)
 そして、この「秋色」は、「其角の没後、点印を継承し、遺稿集『類柑子』を共編し、七回忌集『石などり』を刊行した」、其角の後継者の一人である「秋色女(しゅうしきじょ)」その人である。

≪ 秋色女(しゅうしきじょ、寛文9年(1669年)[要出典] - 享保10年4月19日(1725年5月30日)は江戸時代の俳人。通称おあき]、号は菊后亭。氏は小川氏か。江戸小網町の菓子屋に生まれる(現在東京都港区にある秋色庵大坂家という和菓子店である)。  
 五世市川團十郎の大叔母にあたる。夫の寒玉とともに宝井其角に師事して俳諧を学ぶ[1]。1690年(元禄3年)初入集[1]。其角の没後、点印を継承し、遺稿集『類柑子』を共編し、七回忌集『石などり』を刊行した。
 13歳の時、上野寛永寺で「井戸端の桜あぶなし酒の酔」の句を詠んだという秋色桜伝説]や、武家の酒宴に召されて「武士の紅葉にこりず女とは」と詠んだという女丈夫伝説[1]など、川柳・錦絵・講談・歌舞伎の題材として扱われた。≫《「ウイキペディア」》

 抱一にとって、「秋色女」に連なる「「五世市川團十郎」とは昵懇の間柄である。「其角好き」の抱一が、「秋色女贔屓」については、想像するに難くない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-23

許六肖像真蹟.jpg

「許六肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05706/index.html

 この「許六」の自筆色紙の句は、「今日限(ぎり)の春の行方や帆かけ船」のようである。この崋山が描いた「許六肖像」画に、漢文で「許六伝記」を記したのは「活斎道人=活斎是網」で、その冒頭に出てくる『風俗文選(本朝文選)』編んだのが「許六」その人である。
 その『『風俗文選(本朝文選)』の「巻之一」(「辞類」)の冒頭が、「芭蕉翁」の「柴門ノ辞」(許六離別の詞/元禄6年4月末・芭蕉50歳)である。

≪ 「柴門ノ辞」(許六離別の詞/元禄6年4月末・芭蕉50歳)
 去年の秋,かりそめに面をあはせ,今年五月の初め,深切に別れを惜しむ.その別れにのぞみて,一日草扉をたたいて,終日閑談をなす.その器,画を好む.風雅を愛す.予こころみに問ふことあり.「画は何のために好むや」,「風雅のために好む」と言へり.「風雅は何のために愛すや」,「画のために愛す」と言へり.その学ぶこと二つにして,用いること一なり.まことや,「君子は多能を恥づ」といへれば,品二つにして用一なること,感ずべきにや.※画はとって予が師とし,風雅は教へて予が弟子となす.されども,師が画は精神徹に入り,筆端妙をふるふ.その幽遠なるところ,予が見るところにあらず.※予が風雅は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし.ただ,釈阿・西行の言葉のみ,かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも,あはれなるところ多し.後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも,※「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ.なほ,※「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」と,南山大師の筆の道にも見えたり.「風雅もまたこれに同じ」と言ひて,燈火をかかげて,柴門の外に送りて別るるのみ。 ≫ (「芭蕉DB」所収「許六離別の詞」)

※画(絵画)はとって予(芭蕉)が師とし,風雅(俳諧)は教へて予(芭蕉)が弟子となす=絵画は「許六」が「予(芭蕉)」の師で、「俳諧」は「予(芭蕉)」が「許六」の師とする。

※予(芭蕉)が風雅(俳諧)は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし=予(芭蕉)の俳諧は、夏の囲炉裏や冬の団扇のように役に立たないもので、一般の民衆の求めに逆らっていて、何の役にも立たないものである。

※「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ=後鳥羽上皇の御口伝の「西行上人と釈阿=藤原俊成の歌には、実(まこと)の心があり、且つ、もののあわれ=生あるものの哀感のようなものを感じさせ」、この『実の心ともののあわれ』とを基本に据えて、その(風雅と絵画の)細い一筋の道をたどって、決して見失う事がないようにしよう。

※「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」=「先人たちの、遺業の形骸(ぬけがら)を追い求めるのではなく、その古人の理想としたところを求めなさい」と解釈され、もともとは空海の『性霊集』にある「書亦古意ニ擬スルヲ以テ善シト為シ、古跡ニ似ルヲ以テ巧ト為サズ」に拠った言葉であるともいわれている。

≪ 森川許六(もりかわ きょりく)/(明暦2年(1656)8月14日~正徳5年(1715)8月26日)
本名森川百仲。別号五老井・菊阿佛など。「許六」は芭蕉が命名。一説には、許六は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じていたとして、芭蕉は「六」の字を与えたのだという。彦根藩重臣。桃隣の紹介で元禄5年8月9日に芭蕉の門を叩いて入門。画事に通じ、『柴門の辞』にあるとおり、絵画に関しては芭蕉も許六を師と仰いだ。 芭蕉最晩年の弟子でありながら、その持てる才能によって後世「蕉門十哲」の筆頭に数えられるほど芭蕉の文学を理解していた。師弟関係というよりよき芸術的理解者として相互に尊敬し合っていたのである。『韻塞<いんふさぎ>』・『篇突<へんつき>』・『風俗文選』、『俳諧問答』などの編著がある。
(許六の代表作)
寒菊の隣もあれや生け大根  (『笈日記』)
涼風や青田のうへの雲の影  (『韻塞』)
新麦や笋子時の草の庵    (『篇突』)
新藁の屋根の雫や初しぐれ  (『韻塞』)
うの花に芦毛の馬の夜明哉  (『炭俵』 『去来抄』)
麥跡の田植や遲き螢とき   (『炭俵』)
やまぶきも巴も出る田うへかな(『炭俵』)
在明となれば度々しぐれかな (『炭俵』)
はつ雪や先馬やから消そむる (『炭俵』)
禅門の革足袋おろす十夜哉  (『炭俵』)
出がはりやあはれ勸る奉加帳 (『續猿蓑』)
蚊遣火の烟にそるゝほたるかな(『續猿蓑』)
娵入の門も過けり鉢たゝき  (『續猿蓑』)
腸をさぐりて見れば納豆汁  (『續猿蓑』)
十團子も小つぶになりぬ秋の風(『續猿蓑』)
大名の寐間にもねたる夜寒哉 (『續猿蓑』)
御命講やあたまの青き新比丘尼(『去来抄』)
人先に医師の袷や衣更え   (『句兄弟』)
茶の花の香りや冬枯れの興聖寺(『草刈笛』)
夕がほや一丁残る夏豆腐   (『東華集』)
木っ端なき朝の大工の寒さ哉(『浮世の北』) ≫(「芭蕉DB」所収「森川許六」)

 もとより、抱一と許六とは直接的な関係はないが、「画俳二道」の先師として、抱一が許六を、陰に陽に私淑していたことは、これまた、想像するに難くない。

(再掲)

https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-614-62.html

4-61 あとからも旅僧は来(きた)り十団子 (『屠龍之技』「) 第四 椎の木かげ」

十団子も小粒になりぬ秋の風  許六(『韻塞』)
≪「宇津の山を過」と前書きがある。
句意は「宇津谷峠の名物の十団子も小粒になったなあ。秋の風が一層しみじみと感じられることだ」
 季節の移ろいゆく淋しさを小さくなった十団子で表現している。十団子は駿河の国(静岡県)宇津谷峠の名物の団子で、十個ずつが紐や竹串に通されている。魔除けに使われるものは、元々かなり小さい。
 作者の森川許六は彦根藩の武士で芭蕉晩年の弟子。この句は許六が芭蕉に初めて会った時持参した句のうちの一句である。芭蕉はこれを見て「就中うつの山の句、大きニ出来たり(俳諧問答)」「此句しほり有(去来抄)」などと絶賛したという。ほめ上手の芭蕉のことであるから見込みありそうな人物を前に、多少大げさにほめた可能性も考えられる。俳諧について一家言あり、武芸や絵画など幅広い才能を持つ許六ではあるが、正直言って句についてはそんなにいいものがないように私は思う。ただ「十団子」の句は情感が素直に伝わってきて好きな句だ。芭蕉にも教えたという絵では、滋賀県彦根市の「龍潭寺」に許六作と伝えられる襖絵が残るがこれは一見の価値がある。(文)安居正浩 ≫

句意(その周辺)=蕉門随一の「画・俳二道」を究めた、近江国彦根藩士「森川許六」に、「十団子も小粒になりぬ秋の風」と、この「宇津谷峠の魔除けの名物の十団子」の句が喧伝されているが、「秋の風」ならず、「冬の風(木枯らし)」の中で、その蕉門の「洛の細道」を辿る、一介の「旅僧・等覚院文詮暉真」が、「小さくなって、鬼退治させられた、その化身の魔除けの『宇津谷峠の名物の十団子』を、退治するように、たいらげています。」

支考肖像真蹟.jpg

「支考肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05707/index.html

 支考の自筆短冊の句は、「線香に眠るも猫のふとん哉」のようである。しかし、その前書
が不分明で、「愛猫との分かれ」の句のように解して置きたい。
その上で、この句は、『風俗文選(許六編)』所収の「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」(『風俗文選・巻七』・「歌類=挽歌・鄙歌、文類=発願文・剃頭文・祭文」)の「祭文(さいもん・さいぶん)=祭りの時、神の霊に告げる文。また、神式葬儀の時、死者の霊に告げる文」と、どことなく、イメージが連なっているような感じがする。

≪  祭猫文 小序   支考

(漢文→省略)

※A(俳文=俳諧文)

李四が草庵に、ひとつの猫児(めうじ)ありて、これをいつくしみ思ふ事、人の子をそだつるに殊ならず。ことし長月廿日ばかり、隣家の井にまとひ入て身まかりぬ。其墓を庵のほとりに作りて、釈ノ自圓とぞ改名しける。彼レをまつる事、人をまつるに殊ならぬは。此たび爪牙(そうげ)の罪をまぬがれて、変成男子の人果にいたらむとなり。其文曰。

※B(俳詩=俳諧詩=仮名詩+真名詩)

秋の蝉の露に忘れては。鳥部山を四時に噪(さは)ぎ。
秋の花の霜にほこるも。馬嵬(かい)が原の一夜に衰(をとろ)ふ。
 きのふは錦茵(きんいん)に千金の娘たりしも(之毛)。
 けふは墨染(すみぞめ)の一重の尼となれり(連梨)。
されば  柏木衛門の夢。
     虚堂和尚の詩。
恋にはまよ(迷)う。欄干に水流れて。梅花の朧(をぼろ)なる夜。
貧にはぬす(盗)む。障子に雨そゝひで。燈火の幽(かすか)なる時。
 鼠は可捕(とら)とつく(作)りて。褒美は杜工部。
 蛙は無用といまし(誠)めて。異見は白蔵司
昔は女三の宮の中、牡丹簾(すだれ)にかゞ(輝)きて。花はまさ(正)にはや(速)く。。
今は李四が庵の辺、天蓼(またたび)垣あれ(荒)て。実(み)はすで(已)におそ(遅)し
前世は誰が膝枕にちぎり(契)りてか。さらに傾城の身仕舞。
後世はかならず音楽にあそ(遊)ばむ。ともに菩薩の物数奇。
玉の林の鳥も啼らむ(良無)。
蓮の臺(うてな)の花も降らし(良之)。
 涅槃の鐘の声冴(さえ)て。囲炉裏の眠(ねむり)たちま(忽)ちにおどろ(驚)き。
 菩提の月の影晴(はれ)て。卒塔婆の心(こころ)なに(なに)ゝかうたが(疑)う。
    如 是 畜 生  
    南 無 阿 弥
    弔 古 戦 場 文 ≫((『風俗文選・巻七』・「歌類=挽歌・鄙歌、文類=発願文・剃頭文・祭文」・「佐々醒雪解題・国民文庫刊行会刊・『俳諧俳文集(全)』)

 『俳聖芭蕉と俳魔支考(堀切実著・角川選書)』では、「俳文・俳詩の創造―江戸の詩文改革」の一章を設け、「俳詩の創始者支考―仮名詩と真名詩」の中で、『風俗文選(本朝文選)・許六編』に続く、『風俗文鑑(本朝文鑑)・支考編』と『和漢文藻・支考編』の三部作で、所謂、「俳詩=俳文+仮名詩+真名詩=本朝(日本)自由詩」を体系化、そして、その実践化して行くこの一旦を紹介している。
 ここでは、これらの「俳詩=俳文+仮名詩+真名詩=本朝(日本)自由詩」には立ち入らないで、この「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」の「祭文」(「俳詩=俳文+仮名詩+真名詩=本朝(日本)自由詩」)と、支考の「猫」の句の関係について見ていきたい。

うき恋にたえてや猫の盗喰 (支考(『續猿蓑』))
(句意=恋の季節の猫は食事などにかまってはいられない。さりながら、食わなくては死んでしまうので時ならぬ時刻に盗み食いをしているのであろう。我が家のおいしい食べ物を盗んだ奴がいるが、そういう事情と思って許してやろう。=「芭蕉DB」)

 この支考の『続猿蓑』所収の句は、上記の「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」の、次の「二行詩」と大きく関係しているであろう。

≪ 恋にはまよ(迷)う。欄干に水流れて。梅花の朧(をぼろ)なる夜。
貧にはぬす(盗)む。障子に雨そゝひで。燈火の幽(かすか)なる時。  ≫

羽二重(はぶたえ)の膝に飽きてや猫の恋 (各務支考)
https://suzielily.exblog.jp/22758128/

 この支考の句もまた、上記の「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」の、次の「二行詩」と大きく関係しているように思われる。

≪  きのふは錦茵(きんいん)に千金の娘たりしも(之毛)。
   けふは墨染(すみぞめ)の一重の尼となれり(連梨)。  
   前世は誰が膝枕にちぎり(契)りてか。さらに傾城の身仕舞。
後世はかならず音楽にあそ(遊)ばむ。ともに菩薩の物数奇。  ≫
   
 ここまで来ると、冒頭の、渡辺崋山が描いた「支考肖像画」に付せられている、支考の句の「線香に眠るも猫のふとん哉」の一句が、上記の「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」の「四行詩」と一体化してくる。

≪ きのふは錦茵(きんいん)に千金の娘たりしも(之毛)。
  けふは墨染(すみぞめ)の一重の尼となれり(連梨)。  
  前世は誰が膝枕にちぎり(契)りてか。さらに傾城の身仕舞。
  後世はかならず音楽にあそ(遊)ばむ。ともに菩薩の物数奇。
  線香に眠るも猫のふとん哉  (東花坊=支考)         ≫

 ここに、抱一の一句を添えたいのである。

https://jozetsukancho.blogspot.com/2017/11/blog-post_18.html

≪ きのふは錦茵(きんいん)に千金の娘たりしも(之毛)。
  けふは墨染(すみぞめ)の一重の尼となれり(連梨)。  
  前世は誰が膝枕にちぎり(契)りてか。さらに傾城の身仕舞。
  後世はかならず音楽にあそ(遊)ばむ。ともに菩薩の物数奇。
  線香に眠るも猫のふとん哉  (東花坊=支考) 
  から猫や蝶噛む時の獅子奮迅 (屠龍=抱一)        ≫

 この「屠龍=抱一」の「から(唐)猫」の一句は、「都市蕉門」の「江戸座」の一角を占める「東風派俳諧」を自負している「屠龍=抱一」の、「田舎蕉門」の「美濃派の総帥」の、「盤子・野盤子・見龍・東華坊・西華坊・蓮二・蓮二坊・十一庵・獅子庵・獅子房・獅子老人・渡辺ノ狂・白狂・羚羊子・是仏房・瑟々庵・万寸・饅丁・華表人・羶乙子・表蝶子・博望士・烏有仙・黄山老人・坊主仁平・佐渡入道・霊乙・橘尼子・桃花仙・松尊者竹羅漢・卉名連」の号(又は変名)を有する、「蕉門十哲」の一人に数えられる「支考」への、痛切な揶揄とも激励とも思われるものと解したい。

≪ 各務支考(かがみ・しこう)(寛文5年~享保16年(1731.2.7)
美濃の国山県郡北野村(現岐阜市)出身。各務は、姉の婚家の姓でここに入籍したため。はじめ、僧侶を志すが禅にあきたらず下山して、乞食僧となって諸国を行脚する。この間に神学や儒学を修めたといわれている。後に伊勢山田 からはじめて美濃に蕉門俳諧を広めて蕉門美濃派を創始するなど政治的手腕も並々ならぬものがあったようである。
 芭蕉との出会いは元禄3年、芭蕉が幻住庵に入った頃と、蕉門では許六と並んで遅い入門であったが、芭蕉の臨終を看取るなど、密度の濃い付き合いがあった。
 蕉門随一の理論家といわれる反面、正徳1年(1711)8月15日には、自分の葬儀を主催するなど風狂の風があり、毀誉褒貶もまた激しい。芭蕉も、其角や去来のような信頼を支考に寄せることはなかったが、気の置けない弟子として許していたようであることは、書簡などに見える。 死の床における支考の活躍は獅子奮迅のそれであって、芭蕉の遺書を代筆するなど、その師弟関係は見事に有終の美を飾ったのである。 上の図のように、生涯坊主姿でとおした。 盤子<ばんし>、隠桂<いんけい>は支考の別号。
(支考の代表作)
野に死なば野を見て思へ草の花  『越の名残』)
鶯の肝つぶしたる寒さかな
腹立てる人にぬめくるなまこ哉
気みじかし夜ながし老いの物狂ひ
賭にして降出されけりさくら狩 (『続猿蓑』)
むめが香の筋に立よるはつ日哉 (『炭俵』)
鳥のねも絶ず家陰の赤椿    (『炭俵』)
卯の花に扣ありくやかづらかけ (『炭俵』)
夕貌の汁は秋しる夜寒かな   (『炭俵』)
杉のはの雪朧なり夜の鶴    (『炭俵』)
うき恋にたえてや猫の盗喰   (『續猿蓑』)
春雨や枕くづるゝうたひ本   (『續猿蓑』)
朧夜を白酒賣の名殘かな    (『續猿蓑』)
蜀魄啼ぬ夜しろし朝熊山    (『續猿蓑』)
しら雲やかきねを渡る百合花  (『續猿蓑』)
里の子が燕握る早苗かな    (『續猿蓑』)
凉しさや縁より足をぶらさげる (『續猿蓑』)
帷子のねがひはやすし錢五百  (『續猿蓑』)
二見まで庵地たづぬる月見哉  (『續猿蓑』)
粟の穂を見あぐる時や啼鶉   (『續猿蓑』)
何なりとからめかし行秋の風  (『續猿蓑』)
居りよさに河原鶸來る小菜畠  (『續猿蓑』)
一霜の寒や芋のずんど刈    (『續猿蓑』)
煮木綿の雫に寒し菊の花    (『續猿蓑』)
ひとつばや一葉一葉の今朝の霜 (『續猿蓑』)
野は枯てのばす物なし鶴の首  (『續猿蓑』)
水仙や門を出れば江の月夜   (『續猿蓑』
ふたつ子も草鞋を出すやけふの雪(『續猿蓑』)
余所に寐てどんすの夜着のとし忘(『續猿蓑』)
その親をしりぬその子は秋の風 (『續猿蓑』)
食堂に雀啼なり夕時雨     (『續猿蓑』)
縁に寐る情や梅に小豆粥    (『續猿蓑』)
はつ瓜や道にわづらふ枕もと  (『續猿蓑』)
馬の耳すぼめて寒し梨子の花  (『 去来抄』)
花書よりも軍書にかなし吉野山 (『俳諧古今抄』)
いま一俵買おうか春の雪    (『烏の道』)
馬の耳すぼめて寒し梨の花   (『葛の松原』)
出女の口紅をしむ西瓜哉    (『東華集』)
船頭の耳の遠さよ桃の花    (『夜話狂』)  ≫(「芭蕉DB」所収「各務支考」)
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十七)「服部嵐雪」(その周辺)

嵐雪肖像一.jpg

「服部嵐雪/小栗寛令筆」(『國文学名家肖像集』)(「ウィキペディア」)
『国文学名家肖像集(48/101)』(書誌情報:著者・永井如雲 編/出版者・博美社/出版年月日・昭14)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1120068/1/48
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/ransetu.htm
≪ 生年月日不詳。下級武士服部喜太夫高治の長男として江戸湯島に生まれる。新左衛門。下級武士として一時は禄を食んだが貞亨3年仕官の道を諦めて俳諧師に転身。貞亨4年春宗匠として立机。若いころは相当な不良青年で悪所通いは日常茶飯事であったようである。
 蕉門入門は古く、嵐雪21歳頃、蕉門では最古参の一人。芭蕉は、嵐雪の才能を高く評価し元禄5年3月3日の桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称え、「両の手に桃と桜や草の餅」と詠んだりした程であった。しかし、それより以前から師弟間には軋みが発生していたらしく、芭蕉の奥州行脚にも嵐雪は送別吟を贈っていないなど風波は激しかったようである。
 元禄7年10月22日、嵐雪は江戸にあってはじめて師の訃報を聞いた。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開いたばかりでなく、桃隣と一緒に膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下にかくねむるらん雪仏」であった。いずれ才能ある人々の師弟関係であったために、暗闘や角逐もあったのだが、相互に強い信頼関係もまたあったのである。
(嵐雪の代表作)
布団着て寝たる姿や東山 (『枕屏風』)
梅一輪いちりんほどの暖かさ (『遠のく』)
名月や煙はひ行く水の上 (『萩の露』)
庵の夜もみじかくなりぬすこしづゝ (『あら野』)
かくれ家やよめ菜の中に残る菊 (『あら野』)
我もらじ新酒は人の醒やすき (『あら野』)
濡縁や薺こぼるる土ながら (『続虚栗』)
木枯らしの吹き行くうしろすがた哉 (『続虚栗』)
我や来ぬひと夜よし原天の川 (『虚栗』)
雪は申さず先ず紫の筑波かな (『猿蓑』)
狗背の塵に選らるる蕨かな (『猿蓑』)
出替りや稚ごころに物哀れ (『猿蓑』)
下闇や地虫ながらの蝉の聲 (『猿蓑』)
花すゝき大名衆をまつり哉 (『猿蓑』)
裾折て菜をつみしらん草枕 (『猿蓑』)
出替や幼ごゝろに物あはれ (『猿蓑』)
狗脊の塵にゑらるゝわらびかな (『猿蓑』)
兼好も莚織けり花ざかり (『炭俵』)
うぐひすにほうと息する朝哉 (『炭俵』)
鋸にからきめみせて花つばき (『炭俵』)
花はよも毛虫にならじ家櫻 (『炭俵』)
塩うをの裏ほす日也衣がへ (『炭俵』)
行燈を月の夜にせんほとゝぎす (『炭俵』)
文もなく口上もなし粽五把 (『炭俵』)
早乙女にかへてとりたる菜飯哉 (『炭俵』)
竹の子や兒の歯ぐきのうつくしき (『炭俵』)
七夕やふりかへりたるあまの川 (『炭俵』)
相撲取ならぶや秋のからにしき (『炭俵』)
山臥の見事に出立師走哉  (『炭俵』)
濡縁や薺こぼるゝ土ながら  (『續猿蓑』)
楪の世阿彌まつりや靑かづら (『續猿蓑』)
喰物もみな水くさし魂まつり (『續猿蓑』)
魂まつりここがねがひのみやこなり (『杜撰集』)
一葉散る咄ひとはちる風の上 (辞世句) ≫(「芭蕉DB」所収「服部嵐雪」)

嵐雪肖像二.jpg

「嵐雪肖像真蹟 / 渡辺崋山画, 1793-1841」([佐野屋喜兵衛], [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_d0165/bunko31_d0165_p0001.jpg

 上記の渡辺崋山の「嵐雪肖像真蹟」画に付せられている、嵐雪自筆短冊の句は、「今少
とし寄見たしはちたたき」「今少し年より見たし鉢叩(『玄峰集(冬)・旨原編』)のようである。
 『玄峰集(冬)・旨原編』では、この句に「鉢たゝき」との前書を付している。そして、『名家俳句集(全・藤井紫影校訂・有朋堂文庫)』では、この句の上五の「今」の脇に、「嵯峨落柿舎での作なり」との頭注を施している。
 この頭注の「嵯峨落柿舎での作なり」の、嵐雪が「嵯峨落柿舎」に行ったのは、上記の
「芭蕉DB」所収「服部嵐雪」に記されている「元禄7年10月22日、嵐雪は江戸にあってはじめて師の訃報を聞いた。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開いたばかりでなく、桃隣と一緒に膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、『この下にかくねむるらん雪仏』」であった」との、元禄七年(一六九四)の「芭蕉の没と嵐雪・桃隣との芭蕉追善の京阪旅路」での一句ということになる。
 この時、嵐雪、四十歳の頃で、当時の「嵐雪実像」が、この崋山の「嵐雪肖像真蹟」画の「嵐雪像」のようにも思われる。
 と同時に、この嵐雪の「今少し年より見たし鉢叩」というのは、嵐雪の、「この下にかくねむるらん雪仏」(嵐雪の「義仲寺」での「芭蕉追悼吟」)と並ぶ、嵐雪の「落柿舎」での「芭蕉追悼吟」ということになる。
 ともすると、其角俳諧と嵐雪俳諧とを総括的に「其角の瑰奇放逸(「奇抜奇警・自在放埓」)と嵐雪の平弱温雅(「平淡柔弱・篤実渋味」)などと評するが(『名家俳句集(全・藤井紫影校訂・有朋堂文庫)』)、嵐雪の、この句なども、其角の句などと同様、「趣向の多重化」などが施されていることには、いささかの変りもない。
 この句の上五の、「今少し」は、「今少し、芭蕉翁をには生き長らえて欲しかった」の意と、「いま少し、芭蕉翁を追善するため鉢叩きには、年寄りの僧にして欲しかった」との、両義性などが挙げられよう。
 同時に、この嵐雪の句は、次の、芭蕉や其角の「鉢叩き」の句の「唱和」と、その「反転化」の一句であることを如実に物語っているとも解せられる。

長嘯の墓もめぐるか鉢叩き    (芭蕉『いつを昔』)
鉢叩き暁(あかつき)方の一声(こゑ)は冬の夜さへも鳴く郭公 (長嘯子「鉢叩の辞」)

ことごとく寝覚めはやらじ鉢叩き (其角『五元集』・前書「去来家にて」)
千鳥なく鴨川こえて鉢叩き    (其角『五元集』・前書「去来家にて」)

 鉢たゝきの歌 (其角『五元集拾遺』)
鉢たゝき鉢たゝき   暁がたの一声に
初音きかれて     はつがつを
花はしら魚      紅葉のはぜ
雪にや鰒(ふぐ)を  ねざむらん
おもしろや此(この) 樽たゝき
ねざめねざめて    つねならぬ
世の驚けば      年のくれ
気のふるう成(なる) ばかり也
七十古来       まれなりと
やつこ道心      捨(すて)ころも
酒にかへてん     鉢たゝき
 あらなまぐさの鉢叩やな
凍(コゴエ)死ぬ身の暁や鉢たゝき  

(再掲)

http://yahantei.blogspot.com/2007/08/blog-post_21.html

「其角の『句兄弟・上』(二十六)」

二十六番
   兄 蟻道
 弥兵衛とハしれど哀や鉢叩
   弟 (其角)
 伊勢島を似せぬぞ誠(まこと)鉢たゝき

(兄句の句意)弥兵衛が鳴らしているものとは知っていても、誠に鉢叩きの音はもの寂しい音であることか。
(弟句の句意)伊勢縞を来て歌舞伎役者のような恰好をしている鉢叩きだが、その伊達風の華やかな音色ではなく、そこのところが、誠の鉢叩きのように思われる。
(判詞の要点)兄句は鉢叩きにふさわしい古風な鉢叩きの句であるが、弟句はそれを伊達風の新奇な句として反転させている。

(参考)
一 この兄の句の作者、蟻道とは、『俳文学大辞典』などでも目にすることができない。しかし、『去来抄』の「先師評(十六)」で、「伊丹(いたみ)の句に、弥兵衛(やへゑ)とハしれど憐(あはれ)や鉢扣(はちたたき)云有(いふあり)」との文言があり、「伊丹の俳人」であることが分かる。

二 この『去来抄』に記述したもののほかに、去来は、別文の「鉢扣ノ辞」(『風俗文選』所収)を今に遺しているのである。
○師走も二十四日(元禄二年十月二十四日)、冬もかぎりなれば、鉢たゝき聞かむと、例の翁(芭蕉翁)のわたりましける(落柿舎においでになった)。(以下略。関連の句のみ「校注」などにより抜粋。)
 箒(ほうき)こせ真似ても見せむ鉢叩   (去来)
 米やらぬわが家はづかし鉢敲き (季吟の長子・湖春)
おもしろやたゝかぬ時のはちたゝき (曲翠)
鉢叩月雪に名は甚之丞 (越人・ここではこの句形で収載されている)
ことごとく寝覚めはやらじ鉢たゝき (其角・「去年の冬」の作)
長嘯の墓もめぐるか鉢叩き (芭蕉)

三『去来抄』(「先師評」十六)はこの時のものであり、そして、『句兄弟』(「句合せ」二十五番)は、これに関連したものであった。さらに、この「鉢叩き」関連のものは、芭蕉没(元禄七年十月十二日)後の、霜月(十一月)十三日、嵐雪・桃隣が落柿舎に訪れたときの句が『となみ山』(浪化撰)に今に遺されているのである。
千鳥なく鴨川こえて鉢たゝき (其角)
今少(すこし)年寄見たし鉢たゝき (嵐雪)
ひやうたんは手作なるべし鉢たゝき (桃隣)
旅人の馳走に嬉しはちたゝき (去来)
これらのことに思いを馳せた時、其角・嵐雪・去来を始め蕉門の面々にとっては、「鉢叩き」関連のものは、師の芭蕉につながる因縁の深い忘れ得ざるものということになろう。

四『五元集拾遺』に「鉢たたきの歌」と前書きして、次のような歌と句が収載されている。
    鉢たゝきの歌
 鉢たゝき鉢たゝき   暁がたの一声に
 初音きかれて     はつがつを
 花はしら魚      紅葉のはぜ
 雪にや鰒(ふぐ)を  ねざむらん
 おもしろや此(この) 樽たゝき
 ねざめねざめて    つねならぬ
 世の驚けば      年のくれ
 気のふるう成(なる) ばかり也
 七十古来       まれなりと
 やつこ道心      捨(すて)ころも
 酒にかへてん     鉢たゝき
   あらなまぐさの鉢叩やな
凍(コゴエ)死ぬ身の暁や鉢たゝき  其角

(再掲)
http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E3%80%80%E5%8D%83%E3%81%A5%E3%81%8B%E3%81%AE%E7%A8%B2?updated-max=2023-05-02T15:16:00%2B09:00&max-results=20&start=9&by-date=false

5-4  其夜降(ふる)山の雪見よ鉢たゝき (抱一『屠龍之技』「第五 千づかのいね」)

(「句意」周辺)
 この句の前に、「水無月なかば鉢扣百之丞得道して空阿弥と改、吾嬬に下けるに発句遣しける」との前書がある。
 この「鉢扣百之丞」は、「鉢叩(き)・百之丞(人名)」で、「鉢叩(き)」=「時宗に属する空也念仏の集団が空也上人の遺風と称して、鉄鉢をたたきながら勧進すること。また、その人々。これは各地に存したが、京都市中京区蛸薬師通油小路西入亀屋町にある空也堂(光勝寺)が時宗鉢叩念仏弘通(ぐづ)派の本山(天台宗に改宗)として有名。十一月十三日の空也忌から大晦日までの四八日間、鉦(かね)をならし、あるいは鉢にかえて瓢(ふくべ)を竹の枝でたたきながら、念仏、和讚を唱えて洛中を勧進し、また洛外の墓所葬場をめぐった。また、常は茶筅(ちゃせん)を製し、歳末にこれを市販した。《季・冬》」(「精選版 日本国語大辞典」)

鉢たたき.jpg

「鉢叩・鉢敲(はちたたき)」(「精選版 日本国語大辞典」)

(再掲)

http://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-405-45.html

 辛酉春興
 今や誹諧峰の如くに起り、
 麻のごとくにみだれ、
 その糸口を知らず。
5-40 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年 

 前書の「辛酉春興」は、「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」での一句ということになる。

季語は、「酉の年」(「酉年」の「新年・今年・初春・新春・初春・初句会・等々)、前書の「春興」(三春)、「長閑」(三春)の季語である。そして、この句は、松永貞徳の次の句の「本句取り」の一句なのである。

鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年 (貞徳『犬子集』)
貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年   (抱一『屠龍之技』「第五千づかの稲」)

 この二句を並列して、何とも、抱一の、この句は、貞徳の「鳳凰」の二字を、その作者の「貞徳」の二字に置き換えただけの一句ということになる。これぞ、まさしく、「本句取り」の典型的な「句作り」ということになる。
 「鳳凰」は、「聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされた、孔雀(くじゃく)に似た想像上の瑞鳥(ずいちょう)」(「ウィキペディア」)で、「貞徳」は「貞門派俳諧の祖」(「ウィキペディア」)で、この「鳳凰」と「貞徳」と、この句の前書の「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」とを結びつけると、この句の「句意」は明瞭となってくる。
「句意」は、「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」の、この「辛酉春興」(「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」)に際して、「俳諧の祖」の「貞徳翁」の「酉年」の一句、「鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年」に唱和して、「貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年」の一句を呈したい。この未曾有の俳諧混乱期の、この混乱期の道筋は、「貞徳翁」俳諧こそ、その道標になるものであろうか。

(再掲)

https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-165-18.html

「前田春来(紫隠)」の『東風流(あずまふり)』俳諧の世界のもので、それは、「西土の蕉門」(上方の蕉門、殊に、各務支考の「美濃派蕉門」(田舎蕉門)」を排斥して、「其(其角)・嵐(嵐雪)の根本の向上躰(精髄の発展形)」(「江戸蕉門=都市派蕉門=江戸座」俳諧)を強調するものであった。
 と同時に、その「春来(二世青蛾)・米仲・存義」らの『東風流(あずまふり)』俳諧は、当時、勃興しつつあった「五色墨」運動(「江戸座俳諧への反駁運動)に一石を投ずるものでもでもあった。
 この「五色墨」運動は、享保十六年(一七三一)の俳諧撰集『五色墨』(宗瑞=白兎園=風葉=中川氏=杉風門、蓮之=珪林=松木氏=杉風門、咫尺(しせき)=大場氏=嵐雪門、素丸=馬光=其日庵二世=葛飾風=長谷川氏=素堂門、長水=麦阿=柳居=佐久間氏=沾徳門・伊勢麦林(乙由)門)の「四吟歌仙(四人)+判者(一人)」の「四吟歌仙五巻」を興行したことを、そのスタートとして勃発した俳諧革新運動である。

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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十六)「宝井其角」(その周辺)

其角肖像一.jpg
宝井其角(『國文学名家肖像集』)(「ウィキペディア」)
『国文学名家肖像集(47/101)』(書誌情報:著者・永井如雲 編/出版者・博美社/出版年月日・昭14)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1120068/1/47
≪寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日(1707年4月2日。一説には2月29日(4月1日)[1])は、江戸時代前期の俳諧師。本名は竹下 侃憲(たけした ただのり)。別号は「螺舎(らしゃ)」「狂雷堂(きょうらいだう)」「晋子(しんし)」「宝晋斎(ほうしんさい)」など。≫(「ウィキペディア」)

其角肖像二.jpg
「其角肖像真蹟 / 渡辺崋山画, 1793-1841」([和泉屋市兵衛], [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05704/index.html

 渡辺崋山が描いた「其角肖像真蹟」に付せられている、其角の色紙の句「饅頭で人をたつねよ山桜」(其角自筆色紙)は、其角の「聞句」(謎句)として、『去来抄(同門評)』で取り上げられている。

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/reference/kyoraisyou/dohmonhyo/d30_manjuude.htm

《  まんぢうで人を尋ねよ山ざくら        其角
 許六曰 、是ハなぞといふ句也*。去來曰、是ハなぞにもせよ、謂不應と云ふ句也*。たとへバ灯燈で人を尋よといへるハ直に灯燈もてたづねよ也*。是ハ饅頭をとらせんほどに、人をたづねてこよと謂へる事を、我一人合點したる句也*。むかし聞句といふ物あり。それハ句の切様、或ハてにはのあやを以て聞ゆる句也。此句ハ其類にもあらず*。 
(注記)
※許六曰 、是ハなぞといふ句也:許六が、この句は謎の多い句だね、と言った。
※去來曰、是ハなぞにもせよ、謂不應と云ふ句也:私は、謎かもしれないが、言いおおせずという句だろうね、と答えた。
※たとへバ灯燈で人を尋よといへるハ直に灯燈もてたづねよ也:たとえば、「灯篭で人を訪ねろ」と言ったらそれは「灯篭を持って人を訪ねろ」ということだ。
※是ハ饅頭をとらせんほどに、人をたづねてこよと謂へる事を、我一人合點したる句也:これは、饅頭をほうびにやるから、訪ねて来いと、作者一人が勝手に喜んでいる句だよ。去来の解釈は、「山桜が咲いた。それを一緒に見たいから、なんなら饅頭持って拙宅に遊びに来てくれないか」だが、これで十分と言えないところにこの句の「謎」がある。
※むかし聞句といふ物あり。それハ句の切様、或ハてにはのあやを以て聞ゆる句也。此句ハ其類にもあらず :昔、「聞き句」と言うものがあって、句の切り方、「て、に、は」の微妙な使い方などを学ぶ句なのだが、この其角の句はそれでもなさそうだね。 》(「芭蕉DB」所収「去来抄」)

去来(『去来抄』)の句意=饅頭をほうびにやるから、訪ねて来い。
桃隣(『陸奥衛』・前書=「餞別」)の句意=芭蕉翁の旅姿の如くまんじゅう頭の法体で行脚して来たらよかろう。
旨原・其角(『五元集』・前書=「花中尋友」)の句意=尋ねる友は花より団子の下戸ゆえ、お花見の浮かれた雑踏の中でも、饅頭を食っている男を目当てに尋ねたら見つかるだろう。

 そもそも、其角自身、この句を最初に作句した時(元禄九年=『韻塞』・『桃舐集』、元禄十年=『末若葉』)には、前書が無く、そして、この元禄十年(一六九六)の『陸奥衛』に掲載された時に、「餞別」という前書が付せられて、上記の『陸奥衛』のような句意の取り方が一般的だったようである。
 それが、『五元集』(其角自選、小栗旨原編。延享四年(一七四七)刊)で、「「花中尋友」の前書が付せられ、晩年の其角(宝永四年=一七〇七没)は、上記の『五元集』の句意のように、其角自身で、転換していると解せられるのである。
 これらのことに関して、下記アドレスの「『五元集』に於ける前書について(二上貴夫稿)」
では、次のような示唆に富んだ指摘をしている。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/haibun1951/2008/114/2008_114_48/_pdf/-char/ja

≪ 連句の付け合いでは、付句が付くことによって、前句にあった意味内容が変わってしまう事がしばしばある。これは「連句的作意」というものだが、其角最晩年の自選発句集『五元集』をみると、意図的に前書を付け替えることで(或いは新たに前書を付す事で)発句の意味する内容を変えるという試みが幾つかの句でなされているのに気づく。
 『五元集』千四句中、「前書あり」の発句が五百十八句。その内、当初の前書を新しく書き直した句、当初は前書のなかった発句に新しく付けた句、また『五元集』に初めて出て来
る未発表の句で前書のある句、これらの跡をたどることで其角晩年の思想をうかがう事が出来、また、其角が前書を付すという方法で「本説取」を考えていた事が分かるだろう。 ≫「『五元集』に於ける前書について(二上貴夫稿)」

 この「連句的作意」(「前句」と「付句」との句意の転換)と「前書と発句の『本説取』」(「前書」を「本説取」とする句意の多重化)などが、「其角俳諧(洒落風俳諧)」の特徴であり、この其角の「連句的作意」と「前書と発句の『本説取』」を、「抱一俳諧(「東風流俳諧」)」
の基本に据えていることが察知されるのである。
 そして、その「連句的作意」と「前書と発句の『本説取』」の底流には、「唱和と反転」(「前句・前書」に「唱和」して、それに、新しい世界を付与する「反転」化する)との、この二つの原理が大きく作用しているということが明らかになってくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-30

(再掲)
抱一・其角肖像二.jpg
酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇

「晋子とは其角のこと。抱一が文化三年の其角百回忌に描いた百幅のうちの一幅。新出作品。『夜光るうめのつぼみや貝の玉』(『類柑子』『五元集』)という其角の句に、略画体で其角の肖像を記した。左下には『晋子肖像百幅之弐』という印章が捺されている。書風はこの時期の抱一の書風と比較すると若干異なり、『光』など其角の奔放な書風に似せた気味がある。其角は先行する俳人肖像集で十徳という羽織や如意とともに表現されてきたが、本作はそれに倣いつつ、ユーモアを漂わせる。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一の俳諧(井田太郎稿)」)

 この著者(井田太郎)が、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情』(岩波新書一七九八)を刊行した(以下、『井田・岩波新書』)。
 この『井田・岩波新書』では、この「其角肖像百幅」について、現在知られている四幅について紹介している。

一 「仏とはさくらの花の月夜かな」が書かれたもの(伊藤松宇旧蔵。所在不明)
二 「お汁粉を還城楽(げんじょうらく)のたもとかな」同上(所在不明)
三 「夜光るうめのつぼみや貝の玉」同上(上記の図)
四 「乙鳥の塵をうごかす柳かな」同上(『井田・岩波新書』執筆中の新出)

 この四について、『井田・岩波新書』では、次のように記述している。

【 ここで書かれた「乙鳥の塵をうごかす柳かな」には、二つの意味がある。第一に、燕が素早い動きで、「柳」の「塵」、すなわち「柳絮(りゅうじょ)」(綿毛に包まれた柳の種子)を動かすという意味。第二、柳がそのしなやかで長い枝で、「乙鳥の塵」、すなわち燕が巣材に使う羽毛類を動かすという意味。 】『井田・岩波新書』

 この「燕が柳の塵を動かす」のか、「柳が燕の塵を動かす」のか、今回の『井田・岩波新書』では、それを「聞句(きくく)」(『去来抄』)として、その「むかし、聞句といふ物あり。それは句の切様、或はてにはのあやを以て聞ゆる句也」とし、この「聞句」(別称、「謎句」仕立て)を「其角・抱一俳諧(連句・俳句・狂句・川柳)」を読み解く「補助線」(「幾何学」の補助線)とし、その「補助線」を補強するための「唱和と反転」(これも「聞句」以上に古来喧しく論議されている)を引いたところに、この『井田・岩波新書』が、これからの「井田・抱一マニュアル(教科書)」としての一翼を担うことであろう。
 そして、次のように続ける。

【 これに対応する抱一句が、第一章で触れた「花びらの山を動かす桜哉」(『句藻』「梶の音」)である。早くに詠まれたこの句は『屠龍之技』「こがねのこま」にも採録され、『江戸続八百韻』では百韻の立句にされており、抱一自身もどうやら気に入っていたとおぼしい。句意は、大きな動きとして、桜の花びらが散れば、桜花爛漫たる山が動くようにみえるというのが第一。微細な動きとして、桜がさらに花弁を落とし、すでにうず高く積もった花弁の山を動かすというのが第二。
 燕の速度ある動きと柳の悠然たる動き、桜の大きな動きと微細な動き、両句ともに、こういった極度に相反する二重の意味をもつ「聞句」である。また、有名な和歌「見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」(『古今和歌集』巻第一)をはじめとし、柳と桜は対にされてきたから、柳を詠む其角に対し、意図的に抱一が桜を選んだと考えられる。抱一句は全く関係のないモティーフを扱いながら、其角句と見事に趣向を重ねているわけで、これは唱和のなかでも反転にほかならないと確認される。 】『井田・岩波新書』

  乙鳥の塵をうごかす柳かな  其角 (『五元集』)
  花びらの山を動かす桜哉   抱一 (『屠龍之技』)

 この両句は、其角の『句兄弟』(其角著・沾徳跋)をマニュアル(教科書)とすると、「其角句=兄句/抱一句=弟句」の「兄弟句」で、其角句の「乙鳥」が抱一句の「花びら」、その「塵」が「山」、そして「柳」が「桜」に「反転」(置き換えている)というのである。
 そして、其角句は「乙鳥が柳の塵を動かすのか/柳が乙鳥の塵を動かすのか」(句意が曖昧=両義的な解釈を許す)、いわゆる「聞句=謎句仕立て」だとし、同様に、抱一句も「花びらが桜の山を動かすのか/桜が花びらの山を動かすのか」(句意が曖昧=両義的な解釈を許す)、いわゆる「聞句=謎句仕立て」というのである。
 さらに、この両句は、「其角句=前句=問い掛け句」、そして「抱一句=後句=付句=答え句」の「唱和」(二句唱和)の関係にあり、抱一は、これらの「其角体験」(其角百回忌に其角肖像百幅制作=これらの其角体験・唱和をとおして抱一俳諧を構築する)を実践しながら、「抱一俳諧」を築き上げていったとする。
 そして、その「抱一俳諧」(抱一の「文事」)が、江戸琳派を構築していった「抱一絵画」(抱一の「絵事」)との、その絶妙な「協奏曲」(「俳諧と絵画の織りなす抒情」)の世界こそ、「『いき』の構造」(哲学者九鬼周三著)の「いき」(「イエスかノーかははっきりせず、どちらにも解釈が揺らぐ状態)の、「いき(粋)の世界」としている。
 さらに、そこに「太平の『もののあわれ』」=本居宣長の「もののあわれ」)を重奏させて、それこそが、「抱一の世界(「画・俳二道の世界」)」と喝破しているのが、今回の『井田・岩波新書』の最終章(まとめ)のようである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-22

(再掲)

  ここで、さらに、抱一の「俳」(俳諧)の世界を注視すると、実に、抱一の句日記は、自筆稿本十冊二十巻に及ぶ『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫)として、天明三年(一七八三)から、その死(一八二八)の寸前までの、実に、その四十五年分の発句(俳句)が現存されているのである。
 それだけではなく、抱一は自撰句集として『屠龍之技(とりゅうのぎ)』を、文化九年(一八一二)に刊行し、己の「俳諧」(「俳諧(連句)」のうちの「発句(一番目の句)」=「俳句」)の全容を世に問うっているのである(その全容の一端は、補記一の「西鶴抱一句集」で伺い知れる)。
 抱一の「俳」(俳諧)の世界は、これだけではなく、抱一の無二の朋友、蕪村(「安永・天明俳諧)の次の一茶の時代(「化政・文化の俳諧)に、「江戸の蕪村」と称せられた「建部巣兆(たけべそうちょう)」との、その切磋琢磨の、その俳諧活動を通して、その全貌の一端が明らかになって来る。
 巣兆は、文化十一年(一八一四)に没するが、没後、文化十四年(一八一しち)に、門人の国村が、『曾波可理』(巣兆句集)を刊行する。ここに、巣兆より九歳年長の、義兄に当たる亀田鵬斎と、巣兆と同年齢の酒井抱一とが、「序」を寄せている。
 抱一は、その「序」で、「巣兆とは『俳諧の旧友』で、句を詠みあったり着賛したり、『かれ盃を挙れハ、われ餅を喰ふ』と、その親交振りを記し、故人を偲んでいる。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「四章 江戸文化の中の抱一・俳諧人ネットワーク」)
 この「序」に出て来る、「かれ(巣兆)盃を挙れハ、われ(抱一)餅を喰ふ」というのは、
巣兆は、「大酒飲みで、酒が足りなくなると羽織を脱いで妻に質に入れさせた」との逸話があるのに比して、抱一は下戸で、「餅を喰ふ」との、抱一の自嘲気味の言なのであろう。
 この巣兆と抱一との関係からして、抱一が、馬場存義門の兄弟子にも当たる、京都を中心として画・俳の二道で活躍した蕪村に、当然のことながら関心はあったであろうが、その関心事は、「江戸の蕪村」と称せられる、朋友の巣兆に呈したとしても、あながち不当の言ではなかろう。
 いずれにしろ、蕪村の回想録の『新花摘』(其角の『花摘』に倣っている)に出て来る、其角逸話の例を出すまでもなく、蕪村の「其角好き」と、文化三年(一八〇六)の「其角百回忌」に因んで、「其角肖像」を百幅を描いたという、抱一の「其角好き」とは、両者の、陰に陽にの、その気質の共通性を感ずるのである。

補記一 西鶴抱一句集(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/875058/1

補記二 抱一の俳句

http://haiku575tanka57577.blogspot.jp/2012/10/blog-post_6.html

1  よの中は團十郎や今朝の春
2  いく度も清少納言はつがすみ
3  田から田に降ゆく雨の蛙哉
4  錢突(ぜについ)て花に別るゝ出茶屋かな
5  ゆきとのみいろはに櫻ちりぬるを
6  新蕎麥のかけ札早し呼子鳥
7  一幅の春掛ものやまどの富士
8  膝抱いて誰もう月の空ながめ
9  解脱して魔界崩るゝ芥子の花
10 紫陽花や田の字づくしの濡ゆかた
11 すげ笠の紐ゆふぐれや夏祓
12 素麺にわたせる箸や銀河あまのがは
13 星一ッ殘して落る花火かな
14 水田返す初いなづまや鍬の先
15 黒樂の茶碗の缺かけやいなびかり
16 魚一ッ花野の中の水溜り
17 名月や曇ながらも無提灯
18 先一葉秋に捨たるうちは哉
19 新蕎麥や一とふね秋の湊入り
20 沙魚(はぜ)釣りや蒼海原の田うへ笠
21 もみぢ折る人や車の醉さまし
22 又もみぢ赤き木間の宮居かな
23 紅葉見やこの頃人もふところ手
24 あゝ欠(あく)び唐土迄も秋の暮
25 燕(つばくろ)の殘りて一羽九月盡くぐわつじん
26 山川のいわなやまめや散もみぢ
27 河豚喰た日はふぐくうた心かな
28 寒菊の葉や山川の魚の鰭
29 此年も狐舞せて越えにけり


(再掲)

http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92?updated-max=2007-03-23T10:43:00%2B09:00&max-results=20&start=11&by-date=false

其角とその周辺・一(一~九)
其角とその周辺・二(十~二十)

http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92?updated-max=2007-04-24T08:59:00%2B09:00&max-results=20&start=6&by-date=false

其角とその周辺・三(二十一~三十二)
其角とその周辺・四(三十三~四十五)
其角とその周辺・五(四十六~五十五)
其角とその周辺・六(五十六~六十五)
其角とその周辺その七(六十六~七十一)

http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92

其角とその周辺(その八・七十二~八十)
其角とその周辺(その九・八十一~九十)
其角の『句兄弟・上』一(一~十一)
其角の『句兄弟・上』二(その十一~二十五)


其角肖像三.jpg
(其角肖像)
其角の『句兄弟・上』三(二十六~三十四)
其角の『句兄弟・上』四(三十五~三十九)
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