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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十五)「烏丸光廣」(その周辺)

烏丸光広像.jpg
「烏丸光広像(法雲院蔵)・部分図」(「ウィキペディア」)
≪生誕 天正7年(1579年)
死没 寛永15年7月13日(1638年8月22日)
別名 烏有子、腐木(号)
戒名 法雲院泰翁宗山
墓所 法雲院(京都市右京区)
官位 正二位、権大納言
主君 正親町天皇→後陽成天皇→後水尾天皇→明正天皇
氏族 藤原北家真夏流日野家支流烏丸家
父母 父:烏丸光宣
妻 正室:結城鶴子(江戸鶴子) [前結城秀康 正室] 継室:村上頼勝娘
子 光賢、勘解由小路資忠、六角広賢ほか ≫(「ウィキペディア」)

https://www.blogger.com/blog/post/edit/17972871/1433282636558540923

4-68 (江尻)置炬燵浪の関もり寝て語れ (酒井抱一『屠龍之技』「第四 椎の木かげ」)

歌川広重「東海道五十三次・江尻」.jpg
歌川広重『東海道五十三次・江尻』(「ウィキペディア」)
≪江尻宿は、東海道五十三次の18番目の宿場である。現在の静岡県静岡市清水区(旧清水市)の中心部にあたる。≫(「ウィキペディア」)

(句意「その周辺」)
 この句には、「江尻の駅寺尾与右衛門が許にて」の「前書」と、「光廣卿の倭哥によりてなり」の「後書」とが付してある。

 「軽挙館句藻」では、「江尻の宿寺尾与右衛門が許に泊る/光廣卿の御歌を染筆せられたる屏風あり/歌烏丸との/
 霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守
それは松これは亭主
 置炬燵浪の関もり寝て語れ 」と、「烏丸光廣」の「霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守」の一首が記されており、その「本歌取り」の一句ということになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-07-22

(再掲)

(その七)俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印)

蔦の細道一.jpg
俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 右隻 十七世紀後半 六曲一双
各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館蔵 紙本金地着色 重要文化財

蔦の細道二.jpg
俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 左隻 十七世紀後半 六曲一双
各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館蔵 紙本金地着色 重要文化財

【 金地に緑青(ろくしょう)の濃淡たけで表された、山の細道と蔦の葉。上部の賛をあらかじめ計算に入れた横長の画面構成には、宗達画・光悦書の和歌巻を思わせるところがある。そしてさらにこの屏風には心憎い仕掛けがある。右隻と左隻を入れ替えても、このように画面がつながって、また別な構図が現れるのだ。空のように見えていた右隻の右上部分は、山の斜面に変貌する。どこまで行っても終わることのない迷路のようだ。自由に立て回すことのできた屏風という形式ならではの発想だが、それを実に巧みに利用している。 】(『日本の美をめぐる 奇跡の出会い 宗達と光悦(小学館)』)

(参考)烏丸光広(からすやまみつひろ) 

没年:寛永15.7.13(1638.8.22) 生年:天正7(1579)
 安土桃山・江戸時代の公卿,歌人。烏丸光宣の子。蔵人頭を経て慶長11(1606)年参議、同14年に左大弁となる。同年,宮廷女房5人と公卿7人の姦淫事件(猪熊事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙るが、運よく無罪となり、同16年に後水尾天皇に勅免されて還任。同17年権中納言、元和2(1616)年権大納言となる。細川幽斎に和歌を学び古今を伝授されて二条家流歌学を究め、歌集に『黄葉和歌集』があるほか、俵屋宗達、本阿弥光悦などの文化人や徳川家康、家光と交流があり、江戸往復時の紀行文に『あづまの道の記』『日光山紀行』などがある。西賀茂霊源寺に葬られ、のちに洛西法雲寺に移された。<参考文献>小松茂美『烏丸光広』 (伊東正子)出典 「朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について」)

(句意)

 江尻宿(静岡市清水区)の本陣「寺尾与右衛門」宅に一泊した。そこに、烏丸光廣卿が「霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守」の和歌を染筆した屏風を見て深い感銘を覚えた。その光廣卿の一首は、歌枕の「三保の松原」の「松」が、これも、歌枕の「清見潟」の「関守」というもので、その一首に唱和して、この「清見潟」の「関守」は、「三保の松原」の「松」に匹敵する、この「江尻宿の本陣」の主人「寺尾与右衛門」その人だと、「置き炬燵」を共にして、その「寝物語り」を、もっともっと聞きたいという、挨拶句を呈することにした。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-06-19

(「三藐院ファンタジー」その十五)

光広・詠草.jpg
「烏丸光広筆二条城行幸和歌懐紙」 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/803

【 後水尾天皇〈ごみずのおてんのう・1596-1680〉の二条城行幸は、寛永3年〈1626〉9月6日より5日間、執り行なわれた。その華麗な行粧と、舞楽・和歌・管弦・能楽などの盛大な催しの様子は、『寛永行幸記』『徳川実紀』などに詳述されている。この懐紙は、二条城行幸の時の徳川秀忠〈とくがわひでただ・1579-1632〉・家光〈いえみつ・1604-51〉・後水尾天皇の詠歌を、烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉が書き留めたもの。光広はこのとき48歳、和歌会の講師を務めた。「「竹、遐年を契る」ということを詠める和歌/左大臣源秀忠/呉竹のよろづ代までとちぎるかなあふぐにあかぬ君がみゆきを/右大臣源家光/御幸するわが大きみは千代ふべきちひろの竹をためしとぞおもふ/御製/もろこしの鳥もすむべき呉竹のすぐなる代こそかぎり知られね」

(釈文)

詠竹契遐年和歌/左大臣源秀忠/呉竹のよろづ代までとちぎるかなあふぐにあかぬ君がみゆきを/右大臣源家光御幸/するわが大きみは千代ふべきちひろの竹をためしとぞおもふ/御製/もろこしの鳥もすむべき呉竹のすぐなる代こそかぎり知られね   】

 この寛永三年(一六二六)の「二条城行幸」の全記録は、下記のアドレスで、その全容を見ることができる。

https://www.imes.boj.or.jp/cm/research/komonjo/001005/016/910170_1/html/

 その「一連の儀式のクライマックスとなった、天皇以下、宮廷の構成員を総動員する形で上演された『青海波』」の舞」の全容は、下記のアドレスのものが参考となり、これは、『源氏物語画帖』の「詞書」の執筆者などを探る上で、極めて重要なデータとなってくる。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiBw_ux9obxAhVSFogKHaIqBFsQFjAAegQIAxAD&url=https%3A%2F%2Fglim-re.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D795%26file_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw1LejrASRSFdRxGu9Y6EYoe

【 「王権と恋、その物語と絵画―〈源氏将軍〉徳川家と『源氏物語』をめぐる政治」(松島仁稿)(抜粋)

 秀忠は寛永三年(一六二六)、息子である三代将軍・家光とともに大軍を率いて上洛し、〈天皇の庭〉神泉苑を大幅に切り取ったうえ、壮麗に改築された二條城に後水尾天皇を迎る。足利義満や豊臣秀吉、そして光源氏の故事を踏まえたこの行幸の模様は、一代の盛儀として屏風絵や絵巻、古活字版・整版として板行された絵入りの行幸記などにも記録されるが、ここで一連の儀式のクライマックスとなったのが、天皇以下、宮廷の構成員を総動員する形で上演された「青海波」の舞だった。
(註22)
 「この日兼てより舞御覧の事仰出されしかば。未刻に至て主上(後水尾天皇)の玉座を階間御簾際に設け。あらかじめ上畳御菌をしく、西間を中宮(東福門院和子・徳川氏)。女院(中和門院前子・近衛氏)の御座とし。畳菌を設く。姫宮方には畳なし。東間を爾御所(徳川秀忠・家光)御座とし。屏風をへだてて二間を親王。門跡。大臣の座とし。關白はじめ公卿。殿上人は縁より孕張に至るまでの間圓座を設く。(中略)
 青海波序(輪台)。中院侍從通純。飛鳥井侍從雅章。左京大夫忠勝。治部大輔宗朝。破は(青海波)四辻侍從公理。西洞院侍從時良。いつれも麹塵閾腋。紅葉の下襲。表袴も同じ。巻纓。蒔絵野太刀。紅緂の平緒。絲鞋。青海波の二侍從は菊花を挿頭す。垣代は堀川中將康胤を始め。殿上人十四人。皆弓。壺胡簶。伶人十二人。染装束。御随身八人。襲装束なり。箏は内(後水尾天皇)の御所作。琵琶は伏見兵部卿貞清親王。箏は高松弾正罪好仁親王。琵琶は伏見の若宮。みな簾中にての所作なり。簀子には關白(近衛信尋・後水尾天皇弟)井に一條右大臣昭良公。九條前関白兼孝公。ともに箏。二條内大臣康道公笙。鷹司左大將教平卿。九條右大將幸家卿は共に笛。四辻中納言季継卿は箏。西園寺宰相中將實晴卿は琵琶。西洞院右衛門督時直卿は篳篥。其座下に打板敷。円座を設。殿上人の座とす。山科少將言総は笙。櫛笥侍從隆朝は笛。清水谷侍從忠定。久世少將通式は共に箏。小倉侍從公根は琵琶。花園侍從
公久は笙。唐橋民部少輔在村は篳篥。同所砌下に板敷をかまへ伶人の座とす。(中略)垣代の輩次第に中門にいり。舞人斜に庭上を巡り大輪をなし。御座の前東西に小輪をなせば。序破の舞人両輪の中にいり。次に一行平立。次に舞人打すちかへめぐりて前行す。(後略)」(『大猷院殿御實紀』寛永三年(一六二六)九月七日條く黒板勝美・國史大系編修會編『徳川實紀第二篇〈新訂増捕國史大系三十九巻〉』、吉川弘文館、一九三〇年〉。括弧内は筆者) 】

光広・富士山.jpg
「烏丸光広筆富嶽自画賛」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/1844

【烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉は、江戸時代初期の公卿。多芸多才の文化人として知られ、和歌・連歌はもとより、書画・茶道も能くした。とりわけ和歌は、細川幽斎〈ほそかわゆうさい・1534-1610〉に学び古今伝授を受けている。一方、能書家としても声価が高い。当初は、当時の公卿に共通の手習書法であった持明院流を習う。が、のちに光悦流に強い影響を受け、また同時に藤原定家〈ふじわらのさだいえ・1162-1241〉の書風にも私淑して、定家流も掌中にしている。しだいに不羈奔放の光広の性格を投影した光広流ともいうべき書風を確立、わが書道史上、近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉・本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉・松花堂昭乗〈しょうかどうしょうじょう・1584-1639〉ら「寛永の三筆」と並び称される評価を得ている。本図は、富士山を一筆書きに描き、その余白に富士山を詠み込んだ1首の和歌を書き添えたもの。光広は、徳川家康〈とくがわいえやす・1542-1616〉の厚遇を受け、朝廷と江戸幕府との斡旋役として、生涯幾度となく関東へ下向。そのたびたび京から江戸・駿府に下向している。東海道往来の折に、仰いだ富士の霊峰を詠んだ和歌は数知れず、家集『黄葉和歌集』(巻第七・羈旅部)には20首が収められている。この和歌はその中には見あたらないが、かれの自詠にちがいない。のびのびと淡墨を駆った書画一体の妙は、光広の真骨頂を示すものである。

(釈文)

おもかげの
山なる
気かな
朝夕に
ふじの
高根が
はれぬ
くもゐの         】


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-01-12

その五 「西行法師行状絵詞(西行物語絵巻)」(俵屋宗達画・烏丸光広書)周辺

西行絵物語一.jpg
「西行法師行状絵詞」(俵屋宗達画・烏丸光広書)第三巻 紙本著色 7幅
第一段断簡 32.8cm×98.0cm 第四段断簡 詞 32.4cm×47.8cm 絵 32.7cm×48.9cm 
第六段断簡 詞32.8cm×48.5cm 絵32.9cm×98.0cm 第一四段断簡 詞 33.1cm×48.5cm 絵 33.1cm×96.5cm 国(文化庁)
文化庁分室 東京都台東区上野公園13-9 平成17・21年度 文化庁購入文化財
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/145397

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-31

【 本作品は、烏丸光広(1579~1638)が禁裏御本を俵屋宗達に写させ、寛永七年(1630)に成立した紙本著色西行法師行状絵詞のうち第三巻の断簡である。
 全一七段で構成される第三巻のうち、本作は第一段、第四段、第六段、第一四段の絵と詞、七幅から成る(第一段は絵と詞併せて一幅)。巻第三は、西行が西国への歌行脚の末に、戻った都で娘に再会するまでを描いた巻であり、第一段は、草深い伏見の里を訪れる旅姿の西行、第四段は、北白川にて秋を詠むところ、第六段は、天王寺に参詣にむかう西行が交野の天の川にいたり、業平の歌を思い出して涙が袖に落ちかかったと詠んだ場面、第一四段は、猿沢の池に映る月に昔を偲ぶところを描く。
 絵は、美しい色彩を賦した景物をゆったりと布置して、詩情漂う名所をあらわしている。宗達らしいおおらかな雰囲気を保持しており、また現在知られている宗達作品中、製作時期の確実な唯一の遺品として貴重である。 】

西行絵物語二.jpg
「西行物語絵巻」(出光美術館蔵)第一巻・第二巻・第四巻
http://idemitsu-museum.or.jp/collection/painting/rimpa/01.php

https://www.tobunken.go.jp/materials/nenki/814581.html

(「西行物語絵巻」第一巻・部分図)(出光美術館蔵)
画/俵屋宗達(生没年不詳) 詞書/烏丸光広(1579 - 1638)
江戸時代 寛永7年(1630)第一巻 第二巻 第四巻 紙本着色
第一巻 33.4×1785.0cm
第二巻 33.5×1855.7cm
第四巻 33.6×1821.0cm
【 宗達作品のなかで、年紀が明らかな唯一の作品です。能書家の公家・烏丸光広の奥書によれば、本多伊豆守富正の命を受けた光広が、「禁裏御本」を「宗達法橋」に模写させ、詞は光広自身が書いたこと、また「寛永第七季秋上澣」という年紀が判明します。宗達が写した禁裏御本は失われていますが、時代の異なる同じ系統の模写類本がいくつか存在し、宗達が古絵巻をどのように写し、創意を加えているかを間接的ながら考察することができます。"たらし込み"をもちいた軽快な筆致や、鮮麗な色彩は宗達ならではのものです。 】
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十四)「松永貞徳」(その周辺)

松永貞徳像.jpg

「松永貞徳肖像」(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E8%B2%9E%E5%BE%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Matsunaga_Teitoku.jpg
≪「松永貞徳(まつながていとく)
[生]元亀2(1571).京都
[没]承応2(1653).11.15. 京都
 江戸時代前期の俳人,歌人,歌学者。名,勝熊。別号,逍遊軒,長頭丸,延陀丸,花咲の翁など。連歌師の子として生れ,九条稙通 (たねみち) ,細川幽斎らから和歌,歌学などを,里村紹巴から連歌を学び,一時豊臣秀吉の祐筆となった。貞門俳諧の指導者として,俳諧を全国的に普及させた功績は大きく,松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。
 歌人としては木下長嘯子とともに地下 (じげ) 歌壇の双璧をなし,門下に北村季吟,加藤磐斎,和田以悦,望月長好,深草元政,山本春正らがいる。狂歌作者としても一流であった。俳書に『新増犬筑波集』 (1643) ,『御傘 (ごさん) 』,『紅梅千句』 (55) ,歌集に『逍遊愚抄』 (77) ,歌学書に『九六古新注』 (70) ,『堀川百首肝要抄』 (84) ,狂歌書に『貞徳百首狂歌』 (36成立) などがある。≫(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」)

https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-405-45.html

辛酉春興
 今や誹諧峰の如くに起り、
 麻のごとくにみだれ、
 その糸口を知らず。
5-40 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年(抱一『屠龍之技』「第五千づかの稲」)  

 前書の「辛酉春興」は、「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」での一句ということになる。
 季語は、「酉の年」(「酉年」の「新年・今年・初春・新春・初春・初句会・等々)、前書の「春興」(三春)、「長閑」(三春)の季語である。そして、この句は、松永貞徳の次の句の「本句取り」の一句なのである。
 
鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年 (貞徳『犬子集』)
貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年   (抱一『屠龍之技』「第五千づかの稲」)

 この二句を並列して、何とも、抱一の、この句は、貞徳の「鳳凰」の二字を、その作者の「貞徳」の二字に置き換えただけの一句ということになる。これぞ、まさしく、「本句取り」の典型的な「句作り」ということになる。
 「鳳凰」は、「聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされた、孔雀(くじゃく)に似た想像上の瑞鳥(ずいちょう)」(「ウィキペディア」)で、「貞徳」は「貞門派俳諧の祖」(「ウィキペディア」)で、この「鳳凰」と「貞徳」と、この句の前書の「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」とを結びつけると、この句の「句意」は明瞭となってくる。
 「句意」は、「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」の、この「辛酉春興」(「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」)に際して、「俳諧の祖」の「貞徳翁」の「酉年」の一句、「鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年」に唱和して、「貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年」の一句を呈したい。この未曾有の俳諧混乱期の、この混乱期の道筋は、「貞徳翁」俳諧こそ、その道標になるものであろうか。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-20

「木下長嘯子と松永貞徳」周辺

木下長嘯子.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十八 木下長嘯子」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1486
≪木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)永禄十二~慶安二(1569~1649) 号:挙白堂・天哉翁・夢翁
 本名、勝俊。木下家定の嫡男(養子)。豊臣秀吉夫人高台院(北政所ねね)の甥。小早川秀秋の兄。秀吉の愛妾松の丸と先夫武田元明の間の子とする伝もある。歌人木下利玄は次弟利房の末裔。幼少より秀吉に仕え、天正五年(1587)龍野城主に、文禄三年(1594)若狭小浜城主となる。秀吉没後の慶長五年(1600)、石田三成が挙兵した際には伏見城を守ったが、弟の小早川秀秋らが指揮する西軍に攻められて城を脱出。
 戦後、徳川家康に封地を没収され、剃髪して京都東山の霊山(りょうぜん)に隠居した。本居を挙白堂と名づけ、高台院の庇護のもと風雅を尽くした暮らしを送る。高台院没後は経済的な苦境に陥ったようで、寛永十六年(1639)頃には東山を去り、洛西小塩山の勝持寺の傍に移る。この寺は西行出家の寺である。慶安二年六月十五日、八十一歳で没。
 歌は細川幽斎を師としたが、冷泉流を学び、京極為兼・正徹などに私淑した。寛永以後の地下歌壇では松永貞徳と並称される。中院通勝・冷泉為景・藤原惺窩らと親交があった。門弟に山本春正・打它公軌(うつだきんのり)・岡本宗好などがいる。また下河辺長流ら長嘯子に私淑した歌人は少なくなく、芭蕉ら俳諧師に与えた影響も大きい。他撰の家集『若狭少将勝俊朝臣集』(『長嘯子集』とも)、山本春正ら編の歌文集『挙白集』(校註国歌大系十四・新編国歌大観九などに所収)がある。≫
松永貞徳.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三十六 松永貞徳」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1506
≪松永貞徳(まつながていとく) [生]元亀2(1571).京都 [没]承応2(1653).11.15. 京都
 江戸時代前期の俳人,歌人,歌学者。名,勝熊。別号,逍遊軒,長頭丸,延陀丸,花咲の翁など。連歌師の子として生れ,九条稙通 (たねみち) ,細川幽斎らから和歌,歌学などを,里村紹巴から連歌を学び,一時豊臣秀吉の祐筆となった。貞門俳諧の指導者として,俳諧を全国的に普及させた功績は大きく,松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。
 歌人としては木下長嘯子とともに地下 (じげ) 歌壇の双璧をなし,門下に北村季吟,加藤磐斎,和田以悦,望月長好,深草元政,山本春正らがいる。狂歌作者としても一流であった。俳書に『新増犬筑波集』 (1643) ,『御傘 (ごさん) 』,『紅梅千句』 (55) ,歌集に『逍遊愚抄』 (77) ,歌学書に『九六古新注』 (70) ,『堀川百首肝要抄』 (84) ,狂歌書に『貞徳百首狂歌』 (36成立) などがある ≫(「ブリタニカ国際大百科事典」)

https://www.buson-an.co.jp/f/haikai30

【蕪村菴俳諧帖30】貞門俳諧

≪ ◆江戸俳諧の開花

 江戸初期の俳諧流派を貞門俳諧(ていもんはいかい)と呼びます。貞徳(ていとく)の門流という意味で、芭蕉の蕉門に相当するもの。宗鑑、守武ら室町俳諧のあと100年ほど停滞していた俳諧を復活させ、 江戸期最初の大輪の花を咲かせたのが、博覧強記の文人 松永貞徳(1571-1653)でした。
貞徳は京都の生まれ。12歳で高名な学者から『源氏物語』の秘伝を授けられ、 20歳の頃からは豊臣秀吉の右筆(ゆうひつ=書記)となります。
 「貞徳の先生は50人いた」と伝えられるほど多くの師に学んだ貞徳は その豊かな知識と教養を活かすべく30歳にして私塾をひらき、 庶民の子弟を指導するようになります。
 本職は学者、教育者というべきかもしれませんが、 里村紹巴(じょうは)から連歌を学んだのがきっかけで 俳諧の世界に足を踏み入れ、やがてその改革者となっていきます。
 貞徳は日常語や漢語に詩的な価値を与え、 雅語のみを使う和歌、連歌と俳諧とのちがいを明確にしました。また宗鑑などの室町俳諧の悪ふざけ、詠み捨てを否定し、 座興にすぎなかった俳諧の質を高めることに熱心でした。新時代の俳諧理論を書物に著したのも大きな功績でしょう。
 わかりやすい理論に裏打ちされた貞徳の俳諧は人気を博し、 70歳の頃には門弟300名に及ぶ一大勢力となって、 貞徳はまさに俳壇の指導者、支配者として君臨します。同時代には貞徳と直接の関係がない俳家もいたのですが、 かれらまでまとめて貞門と呼ばれてしまうほどでした。

◆蕪村に注ぐ流れ

 貞徳らしさの表れた発句を見てみましょう。

〇花よりも団子やありて 帰る雁

 花の季節だというのに、それを楽しもうとせず帰っていく雁の群。故郷には団子でもあるのではないか、というわけです。「花より団子」を踏まえているのはすぐわかりますが、 じつは『古今和歌集』の次の歌が本歌になっています。

春霞たつを見すてゝ行く鴈は 花なき里に住みやならへる(古今集 春 伊勢)

春霞が立ったのに(花を見ずに)帰ってしまう鴈(=雁)は 花のない里に住みなれているんじゃないかと。帰雁(きがん)を花を解せずとみなすのは和歌の伝統です。
歌詠みでもあった貞徳は、それを俳諧に採り入れたのです。

〇雪月花 一度に見するうつぎかな

これは漢語を用いた例。うつぎ(空木/卯木)は梅雨入り前後に清楚な白い花をつけますが、 その美しさを四季の風物(雪月花)を同時に見るようだと称えています。
蕪村とその一派が漢語を多用していたことを思うと、 貞徳はその大先輩だったことになります。≫

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/729

松永貞徳筆和歌懐紙.jpg

「松永貞徳筆和歌懐紙」(「慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)」)
≪ 松永貞徳〈まつながていとく・1571-1653〉は、江戸時代初期の俳人・歌人・歌学者。京都に生まれ、名は勝熊。長頭丸・延陀丸をはじめ、数多くの号を用いた。晩年は京都五条稲荷町の「花咲の宿」と称す家に住み、五条の翁・花咲の翁とも呼ばれた。自著『戴恩記』には「師の数五十余人」と記す。連歌師であった父永種〈ながたね・1538-98〉の縁もあって、九条稙通・里村紹巴・細川幽斎・飛鳥井雅春といった良師に恵まれ、和歌・歌学をはじめ、儒学・連歌・神道・有職故実など一流の教養を身につけた。木下長嘯子と並び称される当代の代表歌人である。また、俳諧の上手としても知られ、俳壇の中心的存在となり貞門派を創始した。この懐紙は自詠の和歌一首を書いたもの。貞徳は一時、豊臣秀吉の右筆をつとめたという能書。和歌の師であった細川幽斎の書を連想させる、細身で重心の高い字形は、知的ですがすがしい。気品にあふれる落ち着いた書きぶりは、充実した壮年期のものであろうか。家集『逍遊集』に所収される一首。「「山花を待つ」ということを詠める和歌/長頭丸/山里は知る人もなし花咲かばなれよ夢にも黄楊(つげ)の小枕」

詠待山花和歌/長頭丸/やまざとはしる人/もなしはなさかばなれ/よゆめにもつげのを/まくら   ≫

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