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シーボルト・川原慶賀そして北斎 ブログトップ
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「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その十二) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その十二)「風神・雷神図」「神農伏犠図」(川原慶賀画)周辺

川原慶賀・神農図と風神雷神図.jpg

左図「神農図伏犠図」(川原慶賀画)紙本著色 28.1×42.0 ライデン国立民族学博物館蔵
右図「風神・雷神図」(川原慶賀画)紙本著色 28.8×46.5 ライデン国立民族学博物館蔵
出典: 『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)』

 『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)』の「出品目録(凡例)」によると、この両絵図とも「プロムホム・コレクションかフイッセル・コレクションか確定できないもの=X印」ということで、「プロムホム」が蒐集したものか、それとも「フイッセル」が蒐集したものかは確定できないものの分類の中に入っている。
 この両絵図とも、次のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-01

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/c2306302230-1

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)」その二

≪ 口絵に描かれた神農と伏犧の図は、葛飾北斎の『北斎漫画』に掲載されている同図を参考にしています。本書に収録された他の図版も北斎や川原慶賀ら日本の画を典拠としています。≫「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)」その一(抜粋)

伏犠と神農.jpg

「伏犠と神農,最初の日本の人間夫婦,そのほか風神と雷神の図,および鶴すなわち幸福の象徴によって守られている将軍の紋章の絵」「(日文研データベース・外像)」
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011001&hid=55
≪被写体 : 伏羲と神農,最初の日本の人間夫婦,そのほか風神と雷神の図,および鶴すなわち幸福の象徴によって守られている将軍の紋章の絵
掲載書名 :日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−編集者名 :フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van) 
年代 :1833   ≫

伏犠(ふっき・右図)と神農(しんのう・左図.gif

『北斎漫画. 3編』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「伏犠(ふっき・右図)と神農(しんのう・左図)」

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851648

≪伏犠=ふっき〔フクキ〕【伏羲/伏犠】
中国古代伝説上の帝王。初めて八卦(はっけ)を作り、婚姻の制度を整え、民に漁や牧畜を教えたという。女媧(じょか)の兄あるいは夫といわれ、三皇の一人。太昊(たいこう)。庖犠(ほうき)。宓犠(ふくき)
神農=しんのう【神農】
中国古代神話上の帝王。三皇の一。人身で牛首。農耕神と医薬神の性格をもち、百草の性質を調べるためにみずからなめたと伝えられる。日本でも、医者や商人の信仰の対象となった。炎帝神農氏。≫(「デジタル大辞泉」)

≪風神・雷神(ふうじん・らいじん)
風の神と雷の神。仏教では千手観音の眷属として二十八部衆とともに安置される。三十三間堂の鎌倉時代の木像と建仁寺蔵の俵屋宗達筆と伝えられる屏風は有名。東京,浅草寺の門にはこの2神が安置されているので雷門という。≫(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」)

風神(左図)と雷神(右図).gif

『北斎漫画. 3編』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「風神(左図)と雷神(右図)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851648

北斎 二.jpg

『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)

http://froisdo.com/hpgen/HPB/entries/77.html

 ここまでが、これまでのものであったが、今回、冒頭の「左図『神農図伏犠図』(川原慶賀画)紙本著色 28.1×42.0 ライデン国立民族学博物館蔵」が、これに加わったということになる。
 これと、これまでの「日本風俗備考−原題『日本国の知識への寄与』−編集者名 :フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)」の、その「口絵」とを合成すると、次のとおりとなる。

フイッセル口絵合成図2.png

左図:「日本風俗備考−原題『日本国の知識への寄与』−編集者名 :フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)」の、その「口絵」
右図(上図): 「風神・雷神図」(川原慶賀画)
右図(下図): 「神農図伏犠図」(川原慶賀画)

 この図(合成図)から、「日本風俗備考−原題『日本国の知識への寄与』の「口絵」(左図)は、川原慶賀の「風神・雷神図」(右図・上図)と「神農図伏犠図」(右図・下図)とを、「原画」として、それらを転写して「下絵」を作り、それを「石版画」にして、その「石版画」に著色したものということが了知されてくる。
 そして、川原慶賀の「風神・雷神図」(右図・上図)と「神農図伏犠図」(右図・下図)とは、『北斎漫画. 3編』を下敷にしての、川原慶賀の創作画ということになる。その慶賀に、これらの絵図の制作を注文したのは、「プロムホム・フイッセル・シーボルト」のうちの、「フイッセル」と解しても、この「口絵」との関連で、差し支えないと思われる。
 と同時に、川原慶賀は、「シーボルトの御用(お抱え)絵師」と、「シーボルト」との関連、特に、その厖大な『日本(『NIPPON』))』の、その挿絵の多数の「石版画」の「原画」(「元絵」)の作者として、クローズアップされがちであるが、その『日本(『NIPPON』))』の先行的な著書の、「日本風俗備考−原題『日本国の知識への寄与』」(フイッセル著)の、その
挿絵の「石版画」の「原画」(元絵)の作者もまた、川原慶賀であるということは、やはり特記して置く必要があろう。

日本風俗備考(石版と石版画).jpg

左図:「石版(「日本風俗備考」)」(「ライデン国立民族学博物館展示室」)
右図: 「挿絵=石版画(「日本風俗備考」=「日本国の知識への寄与」)」(「九州大学付属図書館蔵(576.0.3)」)
出典: 「シーボルト『NIPPON』の原画・下絵・図版」(「九州大学総合研究博物館研究報告
Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 9, 19-46, 2011」)

≪(説明)シーボルトが『NIPPON』で使用した石版は現在のところ1枚も発見されていない。再利用が可能であるから、他に使用された可能性が高い。オランダのライデン国立民族学博物館には、フィッセルが使用した石版が展示されているので、参考のためにその画像を掲示しておく。〔5〕(右図)は厚さは4センチほどの石版である。オーフェルメール・フィッセル(1800-1848)は、オランダ商館員として文政3年(1820)から文政12年(1829)まで日本に滞在した。文政5年(1822)には商館長ブロンホフ(1779-1853)に随行して江戸参府している。帰国後の1833年に刊行した『日本国の知識への寄与』(3)(冒頭の「左図:「日本風俗備考−原題『日本国の知識への寄与』」の挿絵)の挿絵に使用された石版ではなく、試作の石版と思われる。〔6〕(左図)に例示しているように、下部のタイトル、「両」文字の飾りが異なっている。≫

 ここで特記したいことは、一つの「石版画」(挿絵)が完成されるまでには、「原画(元絵)→下絵(試作の下絵・最終の下絵=石版)→図版=石版挿絵画(「未著色画」「着色画」)」と、丁度、浮世絵(「版元・浮世絵師・彫師・摺師」の協同創作としての印刷物)と同じようなステップを踏んで出来上がるということなのである。
 そして、上記の、左図:「石版(「日本風俗備考」)」と右図: 「挿絵=石版画(「日本風俗備考」=「日本国の知識への寄与」)」とを交互に見て行くと、左図:「石版(「日本風俗備考」)」と右図: 「挿絵=石版画(「日本風俗備考」=「日本国の知識への寄与」)」とでは、丁度、「右図」と「左図」が反転(逆転)していることが了知されて来る。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-15

(再掲)

日本風俗備考.jpg

『日本風俗備考』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「口絵」(部分拡大図)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11223204/23

 ここで、もう一度、上記の「合成図(左図=最終の石版挿絵図、右図(上図=風神・雷神図)、下図=神農図伏犠図)」を見て行くと、これは、まさしく、「原画(元絵)」と「下絵(石版画)」との関係(反転=逆転)の関係が了知されて来る。

フイッセル口絵合成図2.png

「合成図(左図=最終の石版挿絵図、右図(上図=風神・雷神図)、下図=神農図伏犠図)」

最上徳内肖像画(比較図).gif

「最上徳内肖像画(合成図)」
左図: 「最上徳内」(シーボルト『日本』図版第1冊46)(「福岡県立図書館」蔵)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html
右図:「最上徳内肖像」(SAB→「フォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン家」蔵)
≪「右図」の解説
最上徳内肖像 Portrait of Mogami Tokunai
川原慶賀筆 1826(文政9)年
 最上徳内は出羽国村山郡福岡出身の探検家、幕府普請役。シーボルトは蝦夷、千島に関する地理学的情報やアイヌに関する資料を1826(文政9)年、江戸参府の際江戸で面会し入手している。画面下にはシーボルトの自筆で、「トヨスケ(川原慶賀)が江戸で写生したもの」という記述が入っている。最上徳内の肖像画は国内には残されておらず大変貴重なものである。(宮坂正英稿) ≫(『よみがえれ! シーボルトの日本博物館・監修:国立歴史博物館』)

 右図が、川原慶賀が江戸で写生した「原画」(元絵)で、今に、シーボルト家(ツェッペリン家)で所蔵されているものである。そして、左図は、シーボルト著『日本』の「最終の石版挿絵図」として収載されているものである。
 この両図(左図と右図)とを比較して、川原慶賀が江戸で「最上徳内」を写生した図は、「左向きの最上徳内」(右図)であって、正装の紋付の羽織を身にまとった「右向きの最上徳内」(左図)は、西洋人(石版挿絵画家・エルックスレーベン筆か?)が転写して描いた「最上徳内」ということになる。
 そして、この「左向きの最上徳内」(右図)のものでも、衣服の柄が異なったものなどもあり、それらは、このシーボルトの自筆の記述(「トヨスケ(川原慶賀)が江戸で写生したもの」)の左図を基にして、後に、「川原慶賀と慶賀工房」などで制作したもののように思われる。

日本風俗備考口絵比較図.jpg

左図:「日本風俗備考−原題『日本国の知識への寄与』−編集者名 :フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)」の、その「口絵」(「ライデン国立民族学博物館」蔵)
https://www.ndl.go.jp/nichiran/s2/c2.html
右図: 『日本風俗備考』の、その口絵(「国立国会図書館デジタルコレクション」蔵)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11223204/23
下図:上記左図の彩色されていない「口絵」

日本風俗備考・原書.gif

(下図)Johan Frederik van Overmeer FisscherBijdrage tot de kennis van het Japansche rijkAmsterdam, 1833フィッセル著『日本国の知識に関する寄与』(「国際交流基金情報センターライブラリー」)

≪(下図解説)
本書の著者は、ヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセル(Johan Frederik van OvermeerFisscher, 1799‐1848)。鎖国政策下の江戸時代、長崎出島のオランダ商館員として1820年(文政3年)に来日し、1829年(文政12年)の帰国まで、9年の長きにわたり日本に滞在した。1822年(文政5年)には、商館長の江戸参府に随行している。
出島での生活、日本人との交流、江戸への旅を通して、フィッセルはその観察眼を日本の幅広い分野に向け、多くの見聞、資料を得た。オランダ帰国後、彼はそれらをもとに執筆を進め、日本滞在の成果として1833年に本書を刊行する。
簡明な記述により、多岐にわたる内容(地誌、言語、絵画、宗教、兵学、娯楽、衣食住、日々の暮らしぶり、動植物、手工業、建築、船舶など)が1冊に収められており、西洋人の目を通して見た当時の日本の様子を興味深く今日に伝えている。
なお、本書は幕末の日本国内でも、天文方山路諧孝(1777‐1861)監修のもと、蘭学者杉田成卿(1817‐1859)、箕作阮甫(1799‐1863)らにより『日本風俗備考』として翻訳、刊行された。≫

上記の「日本風俗備考−原題『日本国の知識への寄与』」(左図)は、日本に里帰りして『日本風俗備考』(右図)の口絵として再生された。そして、その再生した日本版の『日本風俗備考』(右図)は、その原著書の一つと目せられるべき(「下図解説」)のとおり、「幕末の日本国内でも、天文方山路諧孝(1777‐1861)監修のもと、蘭学者杉田成卿(1817‐1859)、箕作阮甫(1799‐1863)らにより『日本風俗備考』」として翻訳、刊行されるということになる。

 この「幕末の日本国内でも、天文方山路諧孝(1777‐1861)監修のもと、蘭学者杉田成卿(1817‐1859)、箕作阮甫(1799‐1863)らにより『日本風俗備考』」が、下記のアドレスの、「日本風俗備考 22巻(ハン-オラルメエル-ヒスセル 著杉田信 [ほか]訳)」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)で、その全貌を閲覧することが出来る。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11223204/23


(参考)「川原慶賀の世界」の全体像を知るために(「新長崎市史.第2巻 (近世編)」)

https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/023535499.html

新長崎市史.第2巻 (近世編)

目次
刊行にあたって
はじめに
凡例
序章 中世都市長崎から近世都市長崎へ 1
(中略)
第6章 出島と唐人敷
第1節 出島の造成とオランダ商館 490
(中略)
第2節 オランダ貿易のしくみと阿蘭陀通詞 511
(中略)
第3節 唐人屋敷と新地 535
(中略)
第4節 長崎の美術 685
※1 長崎の絵画 685
※(1) 黄檗画派 685
※(2) 唐絵目利派 687
※(3) 南頭派 690
※(4) 洋風画派 691
※(5) 文人画派 694
2 長崎版画 695
3 長崎の書跡 698
第5節 長崎の工芸 705
(中略)
第4節 阿蘭陀通詞と唐通事の活躍 797
(中略)
※第5節 シーボルトと鳴滝の学塾 821
※1 シーボルトの生い立ち 821
※(1) シーボルトの生い立ち 821
※(2) バタビアへの渡航 822
※(3) シーボルトの長崎渡来 824
※(4) 日本調査収集活動と研究拠点設立のこころみ 825
※(5) 研究協力者たち 825
※(6) 長崎での医療活動 826
※2 シーボルトと鳴滝の学塾 827
※(1) 学塾としての鳴滝 828
※(2) 鳴滝の門人たち 829
※(3) タキとの出会いと共同生活 830
※3 江戸参府旅行と学術交流 831
※4 シーボルト事件 833
※5 シーボルトの再来日と長崎 836
※(1) ヨーロッパでのシーボルトの活動 836
※(2) シーボルトの再来日 837
※6 シーボルトの晩年 839

(中略)

写1-19 川原慶賀筆「晧台寺図(部分)」/ライデン国立民族学博物館所蔵 75
写1-21 川原慶賀藻「大光寺図(部分)」/ライデン国立民族学博物館所蔵 77
写1-27 川原慶賀筆『本蓮寺図(部分)』/ライデン国立民族学博物館所蔵 84
写1-30 川原慶賀華『大徳寺図(部分)』/ライデン国立民族学博物館所蔵 88
写1-37 川原慶賀筆「水祖神祭礼図」/ライデン国立民族学博物館所蔵 93
写2-22 円山応挙筆「唐人屋敷と新地」『長崎港図(部分)』/長崎歴史文化博物館収蔵 125
写2-23 「大黒町付近の唐船」『寛文長崎図屏風(部分)』/長崎歴史文化博物館収蔵 126
写2-29 楠本イネ宅跡付近/銅座町 163
写2-38 川原慶賀筆『長崎港傭職図(部分)』/ライデン国立民族学博物館所蔵 178
写2-39 川原慶賀筆『長崎港偏緻図(部分)』/ライデン国立民族学博物館所蔵 178
写2-41 川原慶賀筆「農村図」/ライデン国立民族学博物館所蔵 180
写3-26 石崎融思筆『唐館図絵巷(部分)』/長崎歴史文化博物館収蔵 245
写3-35 川原慶賀筆「高木家(道之助系)中島屋敷図」/ライデン国立民族学博物館所蔵 254
写3-40 川原慶賀筆「町役人図」/ライデン国立民族学博物館所蔵 261
写3-43 川原慶賀筆「踏絵図(部分)」/ライデン国立民族学博物館所蔵 264
写3-45 川原慶賀筆「町役人図(部分)」/ライデン国立民族学博物館所蔵 266
写3-46 川原慶賀筆「踏絵図」/ライデン国立民族学博物館所蔵 267
写3-50 川原慶賀筆「踏絵図(部分)」/ライデン国立民族学博物館所蔵 271
扉写真川原慶賀筆『長崎出島之図(部分)』/長崎大学附属図書館所蔵
写6-4 「カピタン部屋普請分担絵図」/ライデン国立民族学博物館所蔵 496
写6-7 「ドゥーフ像(部分)」/神戸市立博物館蔵 500
写6-8 川原慶賀筆「ブロンホフ家族図」/神戸市立博物館蔵 503
写6-9 広渡湖秋筆「蘭船図」/長崎歴史文化博物館収蔵 503
写6-10 出島出土のコンプラ醤油瓶・酒瓶/長崎市出島復元整備室所蔵 506
写6-11 川原慶賀筆「長崎出島館内之図」/東京藝術大学所蔵 507
写6-22 川原慶賀筆『蘭館図絵巻(部分)』/長崎歴史文化博物館収蔵 520
写6-28 川原慶賀筆「江戸参府図」/ライデン国立民族学博物館所蔵 529
扉写真川原慶賀筆「観劇図(部分)」『唐蘭館絵巻(部分)』/長崎歴史文化博物館収蔵
写7-1 川原慶賀筆「正月図」/ライデン国立民族学博物館所蔵 610
写7-2 川原慶賀筆「雛祭図」/ライデン国立民族学博物館所蔵 611
写7-3 川原慶賀筆「諏訪社頭図」/長崎歴史文化博物館収蔵 612
写7-5 川原慶賀筆「精霊流図」/ライデン国立民族学博物館所蔵 614
写7-8 川原慶賀簗「凧揚げ図」/ライデン国立民族学博物館所蔵 617
写7-12 川原慶賀筆「彩舟流図」『唐蘭館絵巷(部分)』/長崎歴史文化博物館収蔵 621
写7-14 川原慶賀筆「観劇図」『唐蘭館絵巻(部分)』/長崎歴史文化博物館収蔵 624
写7-16 川原慶賀筆「立花婦人図」/ライデン国立民族学博物館所蔵 627
写7-17 狩野内膳筆『南蛮屏風(部分)』/神戸市立博物館蔵 633
写7-26 川原慶賀筆「腹帯・出産」/ライデン国立民族学博物館所蔵 651
写7-27 川原慶賀筆「宮参り」/ライデン国立民族学博物館所蔵 651
写7-28 川原慶賀筆「袴着帯解き」/ライデン国立民族学博物館所蔵 652
写7-29 川原慶賀筆「元服」/ライデン国立民族学博物館所蔵 652
写7-30 川原慶賀筆「見合い」/ライデン国立民族学博物館所蔵 652
写7-31 川原慶賀筆「結納」/ライデン国立民族学博物館所蔵 653
写7-32 川原慶賀筆「道具運び(祝言前日)」/ライデン国立民族学博物館所蔵 653
写7-33 川原慶賀筆「輿入れ」/ライデン国立民族学博物館所蔵 653
写7-34 川原慶賀筆「祝言」/ライデン国立民族学博物館所蔵 653
写7-35 川原慶賀筆「病臥」/ライデン国立民族学博物館所蔵 654
写7-36 川原慶賀筆「死亡」/ライデン国立民族学博物館所蔵 654
写7-37 川原慶賀筆「湯灌」/ライデン国立民族学博物館所蔵 654
写7-38 川原慶賀筆「墓掘り」/ライデン国立民族学博物館所蔵 655
写7-39 川原慶賀筆「葬列」/ライデン国立民族学博物館所蔵 655
写7-40 川原慶賀筆「寺院での葬列の迎え入れ」/ライデン国立民族学博物館所蔵 655
写7-41 川原慶賀筆「墓参り」/ライデン国立民族学博物館所蔵 655
写7-42 「長崎丸山之図」『拳会角力図会(所収M/長崎歴史文化博物館収蔵 656
写7-43 川原慶賀筆「かるた取り図(部分刀/ライデン国立民族学博物館所蔵 658
写7-55 川原慶賀筆「大村湾千綿」/ライデン国立民族学博物館所蔵 693
写8-12 川原慶賀筆「福済寺図(部分)」/ライデン国立民族学博物館所蔵 738
写8-13 川原慶賀筆「崇福寺図(部分)」/ライデン国立民族学博物館所蔵 739
写8-52 川原慶賀筆「中山作三郎武徳肖像」/シーボルト記念館所蔵 807
写8-55 ブロンホフ(川原慶賀筆「ブロンホフ家族図(部分)」)/神戸市立博物館蔵 808
写8-82 川原慶賀筆「シーボルト肖像(部分)」/長崎歴史文化博物館収蔵 821
写8-83 シーボルトが所有したといわれる鳴竜の住居模型/Staatliches Museum für Völkerkunde München所蔵 827
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「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その十一) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その十一)「絵師の工房」(川原慶賀画)と「北斎仮宅之図」(露木為一画)周辺

絵師の工房.jpg

●作品名:絵師の工房
●Title:Painter's atelier
●分類/classification:諸職と道具/Craftsmen and tools
●形状・形態/form:絹本彩色、軸/painting on silk,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
●登録番号/registration No.:1-1039
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1606&cfcid=144&search_div=kglist

 川原慶賀の経歴や肖像画などは、長崎の画人について記した文献(『崎陽画家略伝』『長崎画人伝』など)には全く出て来ない(『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著))。 
 公的な記録として出てくるのは、「犯罪者慶賀」に関するもので、「今下町に住する出島出入絵師登与助(慶賀の通称)が、シーボルトの江戸参府に同行したが、その折にシーボルトの監視不十分で処罰された」(『長崎奉行所犯科帳』の一八三〇の記録)ことと、その十二年後の『同犯科帳(一八四二)』に、「出島屋敷出入りの絵師登与助が、紅毛人のため西役所や港警備の細川家や鍋島家の紋入りの番船を写したかどで入牢、江戸並びに長崎払いを申し渡された」というものである(『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著))。
 この一度目の、いわゆる「シーボルド事件」に関連するものと、その二度目の「江戸払い・長崎払い」の処罰を受けた間の、一八三六年(天保七)に、慶賀は、一種の植物図鑑ともいうべき『慶賀写真草』を刊行する。

慶賀写真草.gif

『慶賀写真草』 2巻 川原慶賀著 川原盧谷校 大坂 河内屋喜兵衛[ほか] 天保7(1836)刊 2冊
≪絵師川原慶賀(1786生)はフィッセルやシーボルトなど出島オランダ商館員に協力して多数の作品を描いた。本書には、シーボルト『日本植物誌』図版と共通する図を多く見ることができる。花の開花期等の説明のほか、学名、薬効を記す。花や実の断面図があるのが西洋の植物図鑑的である一方、色の説明が「タイシャスミ」「生ヱンジクマ」等、絵具と塗り方なのは、旧来の絵手本を思わせる。≫(「江戸時代の日蘭交流(国立国会図書館)」)
https://www.ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_1_3.html#h4_2

 この「川原慶賀著 川原盧谷校」の「川原盧谷(生没年未詳)」は、川原慶賀の息子で、この著の「序」は、慶賀(1786-1860)の師の、同時代長崎画壇の重鎮の「唐絵目利(絵師)・石崎融思」(1768-1846)であり、その「序」に、慶賀の父の「川原香山」(生没年未詳)は、「石崎融思」の実父の「唐絵目利(絵師)荒木元融」(1728-1794)と親交がありと記され、すなわち、「川原家」(香山→慶賀→盧谷)は、「(唐絵目利江時)荒木家・石崎家」(荒木元融→石崎融思→融済1810-1862))」の一門の絵師の家ということになる。
 と解すると、この「絵師の工房」(川原慶賀画)の、この「主役の絵師」(赤毛氈の上の画紙に筆を下す)のは、「石崎融思?」(1768-1846)、そして、右上の絵師は、「川原慶賀?」(1786-1860)、その右下の絵師は、「川原蘆谷?」(生没年未詳」、そして、この主役の「石原融思」の傍らの「絵師見習いの子」は、その息の一人の「石原融済?」1810-1862)などという、そんなイメージでなくもない。

北斎仮宅之図.gif

「北斎仮宅之図(露木為一画)」(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286947

 この絵図を描いた「露木為一」(?-1893)は、「三代目為一」(初代=北斎)で、北斎の晩年の弟子の一人である。
 この絵図の上部に書かれている文面の、右側(冒頭)の部分は、次のようである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%9C%A8%E7%82%BA%E4%B8%80

「卍(まんじ、北斎のこと)常に人に語るに、我は枇杷葉湯に反し、九月下旬より四月上旬迄巨燵(こたつ)を放るゝこと無しと。如何なる人と面会なすといへとも放るゝことなし。画(か)くにも又かけ、倦(あ)く時は傍の枕を取りて眠る。覚れば又筆を取、夜着の袖は無益也とて不付候」(「ウィキペディア」)

 これに続く文面は、次のようである。

https://kihiminhamame.hatenablog.com/entry/2022/07/02/180000

「本所龜沢町榛馬場(ほんじよかめざはちやうはんのきばば)、借宅の躰(てい)、老人長く住居故、御咄ニ画(ゑが)く。」

「御物語残り、御目通(おめどほし)之節、言ひ上げ、如此(かくのごとく)候。為一(いいつ)百拝(ひやくはい)」

「昼夜、如斯也故(かくのごとくなるゆゑ)、炭にてハ逆上(のぼせ)為(な)す故、炭團(たどん)を用ゆ。然る故、虱(しらみ)の湧く事、喩(たと)ゆるニ物無し。」

絵図の真ん中下の戸板の「張り紙」の文面は、次のとおり。

「画帖《ぐわでふ》扇面《せんめん》之儀は、堅く御断り申し候。三浦八右ヱ門(三浦屋八右衛門は北斎の画号の一つ)」

中段左の文面は、次のとおり。

「角(すみ) 一遍(いつぺん)之分、板敷上、佐倉炭俵、土産物の桜餅の籠、鮓(すし)の竹の皮、物置ト掃溜(はきだめ)と兼帯《けんたい》也。」

左の箱のようなものの上の文面は、次のとおり。

「蜜柑箱(みかんばこ)ニ高祖像(日蓮上人像)を安置す。(北斎は熱心な日蓮宗の信者)」

 また、この絵図は、天保十一年(一八四〇)作で、右の老人は「北斎」(八十一歳)、そして、左の女性は「娘・『ゑい』=栄=葛飾応為(四十九歳)」ということになる。

 なお、この「北斎仮宅之図」は、次のアドレス(「国立国会図書館デジタルコレクション」)で閲覧することができる。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286947

 また、この「北斎仮宅之図(露木為一画)」の文面については、次のアドレスの「葛飾北斎伝」(下巻)(「国立国会図書館デジタルコレクション」)で、その一部が解説されている。

「葛飾北斎伝」(下巻)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992199

「葛飾北斎伝」(上巻)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992198

 この「北斎仮宅之図(露木為一画)」の「為一」などについては、次のアドレスの「浮世絵師伝」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)が参考となる。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186832/48

 さらに、この「本所亀沢町榛馬場」の場所などについては、次のアドレスの「江戸切所絵図(本所絵図)」(「国立国会図書館デジタルコレクション)が参考となる。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286679

ここで、先の「絵師の工房」(川原慶賀画)の、その「主役の絵師」(赤毛氈の上の画紙に筆を下す)を、「唐絵目利絵師」の「石崎融思」(1768-1846)とすると、この「北斎仮宅之図(露木為一画)」の、この布団を被って絵筆を執っている、この「浮世絵師」は、当代を代表する「葛飾北斎」(1760-1849)その人ということになる。
 そして、「唐絵目利御用絵師」の「石崎融思工房」に比すると、「版元・浮世絵師・彫師・摺師」の協同創作の、その一角の「浮世絵師工房」の「葛飾北斎工房」は、何とも、この「仮託」は、「火宅(火事場の借家での、それに頓着せず「画事」一筋の「卍(まんじ)絵師工房」)という雰囲気に対して、前者の「唐絵目利御用絵師の石崎融思工房」は、「江戸の狩野派の御用絵師工房」に匹敵する「長崎派の筆頭御用絵師工房の『豪壮家宅』」」という雰囲気が伝わって来る。
 そして、この「北斎仮宅之図(露木為一画)」の、北斎の傍らの「娘・『ゑい』=栄=葛飾応為(四十九歳)、天保十一年(一八四〇)時、北斎=八十一歳」が、その当時の「北斎工房」を支える中心人物で、次の『古画備考』の挿話(天保十年六月八日針医某話)の「北斎とカピタンとの挿話」とは、北斎よりも、より多く、この北斎の娘の「葛飾応為」に関わるものと思われる。

≪外国人とのトラブル

 長崎商館長(カピタン)が江戸参府の際(1826年)、北斎に日本人男女の一生を描いた絵、2巻を150金で依頼した。そして随行の医師も同じ2巻150金で依頼した。北斎は承諾し数日間で仕上げ彼らの旅館に納めに行った。商館長は契約通り150金を支払い受け取ったが、医師の方は「商館長と違って薄給であり、同じようには謝礼できない。半値75金でどうか」と渋った。北斎は「なぜ最初に言わないのか。同じ絵でも彩色を変えて75金でも仕上げられた。」とすこし憤った。医師は「それならば1巻を買う」というと、通常の絵師ならそれで納めるところだが、激貧にもかかわらず北斎は憤慨して2巻とも持ち帰ってきた。当時一緒に暮らしていた妻も、「丹精込めてお描きでしょうが、このモチーフの絵ではよそでは売れない。損とわかっても売らなければ、また貧苦を重ねるのは当たり前ではないか。」と諌めた。北斎はじっとしばらく黙っていたが「自分も困窮するのはわかっている。そうすれば自分の損失は軽くなるだろう。しかし外国人に日本人は人をみて値段を変えると思われることになる。」と答えた。
 通訳官がこれを聞き、商館長に伝えたところ、恥じ入ってただちに追加の150金を支払い、2巻を受け取った。この後長崎から年に数100枚の依頼があり、本国に輸出された。
 オランダ国立民族学博物館のマティ・フォラーによると、1822年のオランダ商館長ブロムホフが、江戸参府の際日本文化の収集目的で北斎に発注し4年後受け取る予定としたが、自身の法規違反で帰国。後継の商館長ステューレルと商館医師シーボルトが1826年の参府で受け取った。現在確認できるのは、オランダ国立民族学博物館でシーボルトの収集品、フランス国立図書館にステューレルの死後寄贈された図だという。西洋の絵画をまねて陰影法を使っているが絵の具は日本製である。

※文政3年(1820年) 「為一(いいつ)」の号を用いる。『富嶽三十六景』の初版は文政6年(1823年)に制作が始まり、天保2年(1831年)に開版、同4年(1833年)に完結する。
※天保5年(1834年) 「画狂老人(がきょうろうじん)」「卍(まんじ)」の号を用いる。『富嶽百景』を手がける。

武家.jpg

画像-7 :「武家」 肉筆画。

節李の商家.jpg

画像-18 :『節李の商家』 肉筆画。北斎と娘の葛飾応為の合作。オランダ商館医であったシーボルトが国へ持ち帰ったと伝えられる1枚。オランダ国立民族学博物館所蔵。≫(「ウィキペディア」)

(参考一)『古画備考』(天保十年六月八日針医某話)

http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/kogabikou/ha-kogabikou.html

北斎往年、林町三丁目、家主甚兵衛店ニ住シ、某ト隣家ニテ懇意ニ致セシ也、其頃長崎ヨリ出府ノ紅毛カピタンノ誂ヘニテ、我邦町民ノ児ヲ産タル図ヲ始メトシテ、年々成長ノ所、稽古事致、又年タケ遊里ナドヘ通ヒ候体、家業ヲ勤ル図ヨリ、老年ニ及ビ命終ノ体マデ、男子ト女子ト一巻ヅヽ二巻ニ画キ畢、又カピタンニ付参候紅毛ノ医師モ又其通リ二巻誂ヘ、又画成テ旅宿ヘ持参シ、兼テ約シ候如ク、カピタンヨリ二巻ノ挨拶、百五十金請取、ソレヨリ医師ノ部屋ヘ参リ、是ヘモ渡シ候時、医師申ハ、カピタンハ夫ダケノ有力ユヱ、百五十斤差出シ候ヘドモ、此方ノ身分ニテハ又同様ニハ謝シ難シ、半減七十五金ニテ済シ申サレ候様申ニ付、北斎答テ、左様ノコトニ候ハヾ、何故最初ニ不被申候哉、初ニ承候ヘバ、画ハ同様ニ見エ候テモ、彩色其外ニ略シ様モ候ヘドモ、今更聊モ引申難シ、又カピタン主ヘ対シ候テモ、   不相成候ト申候ヘバ、左候ハヾ、二巻ノ内男子ノ方一巻計ニ致、定価ノ半金渡シ可申ト申候ヘ共、二巻之内一巻分候儀ハ致ガタシ迚、二巻共持帰リシ折節、某モ参居候所ヘ帰リ、其由ヲ語リ候ヘバ、家婦、夫ハケシカラヌ御了簡違也、異国ナレバコソ此方ニテハ珍ラシカラヌコトヲ悦、画ニ頼候ヘ共、誠ノスタリ物ニテ、其間ノ隙ヲ費、雑用ヲカケ候ダケノコト、皆損失ト也、反故同前ノカクニ候、何程ニテモ、先方ノ申通ニ遣サルベキコトナルヲ、御心付無之哉ト申候ヘバ、サレバトヨ、此方ニテハ、モトメ候者 モナクスタリ物トナルコトハ、弁ヘザルニ非ズ、然レドモ異国ノ者、左様ニ不正ノコトヲ申候ヲ、其通リニ致遣シ候テハ、自分ノ損毛ナク候共、日本ノ恥辱ニ候間、其所ヲ存ジ、持帰リタル也ト答ヌ、サスガ俗画ニ致セ、都下ニ雷鳴致程ノ画師ハ気性格別ノ事也ト、某深ク感候、其後カピタン聞之、以ノ外ノコト也トテ、自分ヨリ金子ヲ出シ定価ニテ調、国ヘ持参候由、末世ト申セドモ、我邦ノ人気、大和魂侍リ候事、予モ又深クコレヲ感称シテ記置了【天保十年六月八日針医某話】

(参考二)「スチュルレル・シーボルトらの江戸参府」の折、スチュルレル(カピタン=使節)が持ち帰り、後に「フランス国立図書館」に寄贈したといわれている「北斎・北斎工房・(川原慶賀?)」らの作品(その一・その二)

(その一)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-27
(その二)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28
(日本の風俗図会)
http://expositions.bnf.fr/france-japon/albums_jp/hokusai/index.htm


(参考三)北斎、検閲避け?名入れず 作者不明だった西洋風絵画の謎 シーボルト収集品目録と一致」周辺(ライデン国立民族学博物館)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-25

(「西日本新聞」)
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/346252/



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「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その十) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その十)「シーボルト」の『日本』の「シーボルトの『日本』家族」周辺

オタクサ(楠本お滝).gif

「オタクサ(楠本お滝)」(シーボルド『日本』図版第1冊44)
元絵: C.H.フイレネ-フェ筆(「別図」あり)
下絵・図版: エルックスレーベン筆(『よみがえれ! シーボルトの日本博物館・監修:国立歴史博物館)
説明: 「27歳のシーボルトは、来日後三カ月も経たない九月に『其扇(そのぎ)』という15歳の阿蘭陀行き遊女を出島に迎えた。其扇の本名は『たき(滝)』、たきの先祖は長崎の海岸部野母崎の住人で、商家(材木商か)を営み、楠本と名乗っていた。」(『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像(宇神幸男著)』)
「来日まもなく一緒になった日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネを1827年にもうける。アジサイを新種記載した際にHydrangea otaks と命名(のちにシノニムと判明して有効ではなくなった)しているが、これは滝の名前をつけていると牧野富太郎が推測している。」(「ウィキペディア」)

アジサイ.jpg

シーボルトの著作『日本植物誌』に掲載されたHydrangea otaksa(Hydrangea macrophylla)の図(原画=川原慶賀画)

(再掲)

イトセ、ソノギ.gif

「Fig. 5 イトセ、ソノギ(シーボルト『NIPPON』)」(「1831 年 ビュルガーがシーボルトに出した書簡(参考二)」)
『NIPPON』 第1冊 図版42「いとせ そのぎ(楠本お滝)」
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html
元絵: C.H.フイレネ-フェ筆(「別図」あり)
下絵・図版: エルックスレーベン筆
説明: イトセ(ITOSE)=千歳」と「ソノギ(SONOGI)=其扇」が対になって描かれており、この「千歳」は、「ビュルガー(ビュルゲル)」の妻、そして、「其扇」が「シーボルト」の妻という関係にある(『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像(宇神幸男著)』)。

おとみ.gif

日本人肖像「おとみ」(シーボルド『日本』図版第1冊41)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html
元絵: C.H.フイレネ-フェ筆(「別図」あり)
下絵・図版: エルックスレーベン筆(『よみがえれ! シーボルトの日本博物館・監修:国立歴史博物館)
説明: イネの乳母(『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像(宇神幸男著)』)

こまき.gif

日本人肖像「こまき」(シーボルド『日本』図版第1冊36)
元絵: C.H.フイレネ-フェ筆(「別図」あり)
下絵・図版: エルックスレーベン筆(『よみがえれ! シーボルトの日本博物館・監修:国立歴史博物館)
説明: シーボルトのもとで働いていた使用人(『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像(宇神幸男著)』)。

オルソン.gif

「Orson セレベスの若いブギース人」(シーボルド『日本』図版第1冊57)
説明:「オルソン」はマレー半島生まれのシーボルトの従者。其扇からシーボルト宛の書簡の内容から、シーボルトが国外追放になった時、シーボルトの従者としてオランダにも同行していることが窺える。その文面は、「私(其扇)は、お母さまに煙草入れ一つ、お前様(シーボルト)にも同じものを一つ贈ります。お母様のものには愛児おイネの姿、もう一つには私とおイネの姿を、なかなか巧妙に描いているものです。オルソンには煙草二十包、靴一足を贈ります。」で、この「オルソンには煙草二十包、靴一足を贈ります」と、オルソンにも贈物をしている(『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像(宇神幸男著)』)。
 なお、この文面に出てくる「煙草入れ」は、下記のアドレスで先に紹介したものである。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-07

「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト関係資料」.jpg

「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト関係資料」(国指定重要文化財・シーボルト記念館蔵)
https://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/190001/192001/p000567.html
≪わが国近代医学の発展に多大の功績を残したシーボルトとその娘イネの関係資料19件44点で、主にシーボルトの子孫である楠本家、米山家などから寄贈されたものである。 主なものに、 シーボルト妻子像螺鈿合子(1合)、シーボルト書状(13通)、シーボルト処方箋(6通)、シーボルト名刺(1枚)、ポンペ書状(1通)、蘭語文法書(1冊)、いね和蘭文請取状(1通)、薬籠(1合)、花鳥螺鈿小箱(1合)、化粧道具小箱(1合)、革鞄(1箇)、短銃(1挺)、眼球模型(1基)、いね宮内省御用係関係書類(9通)、福沢諭吉いね推薦状(1通)、いね臍の緒書(1通)、いね遺言状(1通)、懐中紙入(1箇)などがある。≫(「長崎市」)

唐蘭館絵巻(蘭館図)蘭船入港図.jpg

唐蘭館絵巻(蘭館図)(一)蘭船入港図」川原慶賀筆 19世紀 長崎歴史文化博物館蔵 
http://www.nmhc.jp/collection.html
【 出島オランダ商館医シーボルトの専属絵師として活躍した川原慶賀の作品は、その多くが西洋へ伝えられ、ニッポンを海外に紹介しました。慶賀の作品は、日本の風景や生活、動植物などを写実的に描いており、当時の状況を知ることができる貴重な資料です。】(「長崎歴史文化博物館」)

この「唐蘭館絵巻(蘭館図)(一)蘭船入港図」は、川原慶賀の晩年の作品(嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画を描いた前後の作品)と解せられるが、ここに描かれている、望遠鏡で「蘭船を眺めるのはシーボルト」、そして、その背後の「女性と子供」は、当時の「シーボルトの日本人妻・お滝」、そして、その子は、二人の一粒種の「お稲」ではないかとされている。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index1.html

【 蘭船を眺めるのはシーボルト?
 待ちに待った蘭船の到来! 屋上の展望台の上で入港してくる蘭船を望遠鏡で覗き込んでいるのは、商館長だろうか? 実はこの男性の背後に子どもを抱いた日本人女性がいることから、この望遠鏡を覗いているのはシーボルトで、日本人女性はお滝、子どもがお稲ではないかといわれている作品だ。慶賀が描いた作品だから、それもあり得るかもしれない?】
(「発見!長崎の歩き方」)

『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像(宇神幸男著)』では、「この望遠鏡を覗いているのはシーボルト」で、その後ろの「日本人女性はお滝、子どもがお稲」で、その脇の子供の従者は「マレー生まれのオルソン」と見立てている。そして、左の展望台に上りかけている女性は「乳母・おとみ」としている。もう一人のシーボルトの脇の人物は「ビュルガー(ビュルゲル)」と見立てることも一興であろう。

「渡辺崋山の戯画に描かれたビュルゲル」.gif

「渡辺崋山の戯画に描かれたビュルゲル」抜粋(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%83%AB
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「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その九) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その九)「シーボルト」の『日本』の「漁獲(地引網)」周辺

漁獲(地引網).gif

「『日本』“NIPPON” 図版第2冊№337 漁獲(地引網)」
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

 この『シーボルト「日本」図録第三巻(雄松堂刊)』所収「[335]Ⅵ第2図(b)漁獲(地引網)」の元絵(川原慶賀筆)は、次のものである。

地引網漁1.jpg

●作品名:地引網漁
●Title:Fish catching by draft net
●分類/classification:生業と道具/Agriculture and Fishery, their tools
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
●登録番号/registration No.:1-4244
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1306&cfcid=143&search_div=kglist

地引網漁2.jpg

「地引網漁図(『NIPPON』の元絵=川原慶賀筆)」と「地引網図(『NIPPON』図版)=下絵はファン・ストラーテン作か?」の比較図

 「地引網漁図(『NIPPON』の元絵=川原慶賀筆)」の「左端」(下部)の「舟作り」は、
「地引網図(『NIPPON』図版)=下絵はファン・ストラーテン作か?」では、削除され、その代わりに、川原慶賀筆の、〔図14〕『人物画帳(漁夫)』と〔図15〕『人物画帳(「魚売りの婦人)』が描かれ、さらに、「上部」には、「網や釣り糸、『しかけ』や銛を」追加している。 (「シーボルト『NIPPON』の捕鯨図(宮崎克則稿)」「九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. Museum No. 7, 085-104, 2009。」所収)

漁夫.jpg

〔図14〕『人物画帳(漁夫)』(ミュンヘン国立民族学博物館蔵)

魚売り.jpg

〔図15〕『人物画帳(「魚売りの婦人)』(ミュンヘン国立民族学博物館蔵)

 関連して、「シーボルト『NIPPON』の捕鯨図(宮崎克則稿)」では、この「地引網漁図(『NIPPON』の元絵=川原慶賀筆)」関連の「川原慶賀がシーボルトに送った絵の請求書」などを紹介しており、その「請求書」の一部は、次のものである。

請求書1.gif

〔図6〕「川原慶賀の請求書(No.1.0-3.000)」(ボフム大学図書館蔵)

「図6は川原慶賀がシーボルトに送った絵の請求書であり、『山水極粉色茶つミの画』の値段は銀200目、肩書きに20テールとある。図のようなテールの略号が用いられ、銀10目が1テールであった。銀60目=金1両の換算で、金1両=6テールとなる。」(「シーボルト『NIPPON』の捕鯨図(宮崎克則稿)」)

 この請求書の冒頭に出てくる「山水極粉色茶つミの画」の「茶つミの画」は、次のものであろう。

茶摘.jpg

●作品名:茶摘 
●Title:Picking tea
●分類/classification:生業と道具/Agriculture and Fishery, their tools
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
●登録番号/registration No.:1-4243
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1306&cfcid=143&search_div=kglist

 そして、「地引網漁図(『NIPPON』の元絵=川原慶賀筆)」は、二番目の「同 海の景 魚取図・あミ引・舟作る」と題され、「山水極粉色茶つミの画」と同じく、「銀200目」が請求されている(「シーボルト『NIPPON』の捕鯨図(宮崎克則稿)」)。

https://seinan-kokubun.jp/

 上記のアドレスでは、下記の「拡大図」(〔図6〕「川原慶賀の請求書(No.1.0-3.000)」)を掲示しながら、「『茶つミの画』の値段は銀200目(=金3.5両)なので、今日の40-50万円ほど」としている。
 なお、三番目の「同 海の景 塩浜 かつお節を作る」は、下記の「魚の加工(鰹節作り)であろう。

請求書2.gif

〔図6・拡大図〕「川原慶賀の請求書(No.1.0-3.000)」(ボフム大学図書館蔵)

鰹節作り.jpg

●作品名:魚の加工(鰹節作り)
●Title:Processing fish
●分類/classification:生業と道具/Agriculture and Fishery, their tools
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
●登録番号/registration No.:1-4245
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1305&cfcid=143&search_div=kglist

(参考一)江戸時代の「浮世絵」の値段

https://www.kumon-ukiyoe.jp/history.html

≪江戸時代の物価は前期・中期・後期によって変動するが、小判1枚=金1両=4,000文に相当し、現在の貨幣価値に換算すると約8万円と言われる。つまり、1文は80,000円(1両)÷4,000(文)=約20円に換算でき、「二八蕎麦」は2×8=16文で食べられていたので、かけ蕎麦一杯が約320円ということになる。
 浮世絵の流通が安定した江戸後期、一般的な多色摺版画サイズの大判錦絵(縦39cm×横26.5cm)は20文(約400円)程度で売られていたという。細判(縦33cm×横15cm)の役者絵は8文(約160円)、人気が下がると3~6文(約60~120円)の安値で売られていた。また、最初から購入しやすい金額になるよう、あえて小さいサイズで作られた浮世絵も多数あった。現代人の金銭感覚におきかえるなら、500円玉でお釣りがくるコンビニスイーツのような手軽さだったといえばイメージしやすいかもしれない。≫

(参考二)商館員とその家族の生活について

「1831 年 ビュルガーがシーボルトに出した書簡(野藤妙、海老原温子、リザ・エライン・ハメケ、宮崎克則稿)」(「九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. Museum
No. 11, 19-52, 2013」)

≪ 家族に関しては、其扇の結婚などについて記されている。シーボルトが日本を離れた後、其扇は伯父の家に同居しており、書簡には、「1000テールの現金を彼女(其扇)は彼女の伯父さんに預けていました。」とあることから、シーボルトが与えた其扇の資産は伯父さんが管理していたことがうかがえる。しかし、その同居生活は長く続かず、前年にビュルガーが送った書簡の中では、「其扇は、3年間は結婚しないと言っている」、と述べていたものの、現在は鼈甲細工職人と結婚しており、伯父さんの家を出たということが書簡に記されている。また、ビュルガーの妻であり其扇の姉である千歳が亡くなり、ビュルガー離日後は其扇が息子アサキチの面倒を見ると言ったこと、アサキチのためにビュルガーが買った麹屋町の家に、其扇はおいねと夫と暮らしていることも述べられている。
 特に興味深いのは、其扇やおいねの生活費について述べている点である。書簡の中では、「私たちはコンプラ仲間に預けて利金を得るようにしました。…しかし一方で1000テールの資本は十分ではありません。今はコンプラ仲間から12パーセントの利子をもらい、それは月に10テールの利益になります。それは私たちの小さい家での家計にとっても、十分ではありません。私はフィレニューフェに今年1500テールの特別の商取引をすることを申し出ました。ここから500テールの現金が出ます。この現金を1000テールに加えるとコンプラ仲間への資金が1500テールになり、月々15テールの利益がもたらされます。其扇は9月1日から毎月15テールを利息として受け取っています。」と書かれている。コンプラ仲間とは、諸色売込人のことであり、買い物が自由にできないオランダ商館員にかわり、日用品や食物、ときには人を調達する株仲間として知られているが、このように資金を預かり残
された家族へ利子を払うということも行っていたということがわかる。さらに、金1両=6テール18=銀60匁とすると、月に10テールは金では約1.7両、銀では100匁ということ
になり、その金額では一家が生活するのに不十分であることをシーボルトへ訴えていたということがわかる。
古賀十二郎『丸山遊女と唐紅毛人』では付録として、当時ベルリンの日本研究所に所蔵されていた、其扇がシーボルトに宛てて出した書簡が紹介されている。その中には本稿で紹介する書簡と同じ1831年に記されたものがあり、同じ時期にシーボルトへ送られたと推測される。
この其扇の1831年10月24日(10月24日は和暦、西暦では11月27日)付の書簡19を見ると、「きんのことも、びるげる様の御せ己(王〈わ〉ヵ、引用者注)ニ而おぢ方よりとりかへし、又ひるける様より五貫目おくり下され、二口〆十五貫目こんふらへあづけまゐらせ候。毎月百五拾匁つゝ、こんふらより利ぎんうけとり申候。是みなびるける様、でひれにふる様のさしつにまかせ、かよふにとりはからひもらひまゐらせ候。」とあり、15貫目は1500テール、150匁は15テールなので、ビュルガーの書簡の内容とも合致する。
これまで、オランダ商館員が日本を離れる際に残される家族の生活の面倒を見るために実際にどのようなことを行っていたのか、ということについてはあまり注目されることはなかった。書簡によると、ビュルガーは息子アサキチのために3000テールを資金として用意していたことがわかり、自分が日本を離れることになっても、それらの資金をコンプラドールに預けることによって費用を遺していたことが明らかとなった。また、商館員の帰国により日本に遺された妻子の世話を日本に残っている商館員たちが行っていたということがわかった。其扇が日本での生活について、前述の其扇の書簡のなかで「ミなびるげる様のさしづ、大いにせ己(王〈わ〉ヵ、引用者注)に相なりまゐたせ候間、御前様よりも幾もよろしく、よふびるげる様へ御礼くれへも御たのみ入まゐらせ候。」とシーボルトへ記しているように、ビュルガーの書簡からは、其扇とおいねを親身になって世話をしている様子がうかがえる。≫

 この「ビュルガー(ビュルゲル)がシーボルトに出した書簡」は、いわゆる「シーボルト事件」でシーボルトが国外追放になって、オランダ帰国を余儀なくされた時に、シーボルトが、自分の妻と娘(其扇=たき=妻、稲=イネ=娘)に、当座の一時金として「1000テール」を、日本に残留する画家の「フィレニューフェ」、そして、「ビュルガー(ビュルゲル)」(薬剤師、生物学者、シーボルトの博物学の助手)に託しての、その運用として、「1000テール+500テール=「コンプラ仲間への資金が1500テール」、月々15テールの利益を、其扇とイネに利息として受け取る」というのが、その骨子の一つとなっている。
 この「月々15テールの利益(利息)」が、シーポートの残された家族(妻=たき、娘=イネ)の、「月々の家計費用」と見做すと、先の「川原慶賀の請求書(No.1.0-3.000)」(ボフム大学図書館蔵)の「『茶つミの画』の値段は銀200目(=金3.5両)なので、今日の40-50万円ほど」というのは、相当な額という印象を受ける。
 さらに、上記の、上記の「(参考一)江戸時代の「浮世絵」の値段」を(参考一)江戸時代の「浮世絵」の値段などと比較して考慮すると、その感を大にするが、これを木版画の、一般庶民向けの「浮世絵」(「絵師」「彫師」「摺師「版元」からなる「印刷物」の一つ)ではなく、特定の(例えば、「阿蘭陀出島のカピタン、そして、シーボルト」など)への、そして、当時の著名な絵師(葛飾北斎など)の「肉筆画」的なものになると、例えば、当時の、「シーボルト・フィレニューフェ・ビュルガー(ビュルゲル)」などは、「川原慶賀(そして、その工房)」の作品として相応の額」として、これを容認する額であったのかも知れない。

(参考三)「シイボルト觀劇圖并シイボルト自筆人參圖」と「イトセ、ソノギ(シーボルト『NIPPON』)」周辺

シイボルト觀劇圖并シイボルト自筆人參圖.jpg

「シイボルト觀劇圖并シイボルト自筆人參圖」(「国立国会図書館デジタルコレクション)
[江戸後期] [写] 1軸 <特1-3288>

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543110/6

≪2図を1軸に仕立ててある。上図は鶴岱筆(経歴未詳)。文政9年5月7日(1826.6.12)、シーボルトが参府旅行の帰途、大坂で芝居を見た際のもの。左側の黒い服を着た人物がシーボルトで、観劇の体験は『日本』第2版(前項)に記されている。絵の上部に、鶴岱が讃岐象頭山参詣の帰途、オランダ人一行に行き合せた旨が書かれている。当館はもう1種、岩崎常正筆のシーボルト像も所蔵する。下図は、シーボルト自筆の朝鮮人参図。白井文庫。≫
「江戸時代の日蘭交流」(国立国会図書館)
https://www.ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_1_3.html

 この「左側の黒い服を着た人物がシーボルト」で、「中央の人物(足首を捻挫している)」は、この時の「江戸参府」の「カピタン(オランダ商館長)・スチュルレル」、そして、その「右側の人物」は、「書記(実体的にはシーボルトの万般の助手)・ビュルガー(ビュルゲル)」のようである(「シーボルトの生涯とその業績関係年表(石山禎一・宮崎克則稿)」)。

Fig. 5 イトセ、ソノギ(シーボルト『NIPPON』)

イトセ、ソノギ.gif

九州大学所蔵

 この「シーボルト『NIPPON』」の挿絵の一つに、上記の「イトセ(ITOSE)=千歳」と「ソノギ(SONOGI)=其扇」が対になって描かれており、この「千歳」は、「ビュルガー(ビュルゲル)」の妻、そして、「其扇」が「シーボルト」の妻という関係にある(『幕末の女医 楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像(宇神幸男著)』)。

 前掲の「1831 年 ビュルガーがシーボルトに出した書簡」(参考二)の中に、下記のような文面があり、「ビュルガー(ビュルゲル)」の妻(千歳)は、「シーボルト」の妻(其扇)の姉で、その千歳が亡くなり、その二人の子供(アサキチ)を、「其扇(おたき)」が面倒をみることの代償に、「ビュルガー(ビュルゲル)」は、「3000テールを資金と麹屋町の屋敷」を提供したなどの、いわば、国外追放となった「シーボルト」の「日本の家族(其扇(おたき)とイネ)」の後見人のような役割を、この「ビュルガー(ビュルゲル)」が担っていたということになる。

「ビュルガーの妻であり其扇の姉である千歳が亡くなり、ビュルガー離日後は其扇が息子アサキチの面倒を見ると言ったこと、アサキチのためにビュルガーが買った麹屋町の家に、其扇はおいねと夫と暮らしていることも述べられている。(中略)其扇が日本での生活について、前述の其扇の書簡のなかで『ミなびるげる様のさしづ、大いにせ己(王〈わ〉ヵ、引用者注)に相なりまゐたせ候間、御前様よりも幾もよろしく、よふびるげる様へ御礼くれへも御たのみ入まゐらせ候。』とシーボルトへ記している。」(「1831 年 ビュルガーがシーボルトに出した書簡(参考二)」)

(参考四)「デ・フィレニューフェ夫妻図」(石崎融思画)周辺

デ・フィレニューフェ夫妻図.jpg

「デ・フィレニューフェ夫妻図」石崎融思画(1768年~1846年) 絹本着色 50.5×33.4
長崎県立美術館蔵

≪ フィレニューフェ(CARL HUBERT DEVILLENEUVE,1800 〜1 8 7 4 )は、文政8 年(1 8 2 5 )にシーボルトの要請で助手として来日。画家として優れ、川原慶賀の画業に影響を与えたとされる。本図の賛によれば、文政1 2 年(1 8 2 9 )7月に来日した蘭船に一夫人が乗せられてきたが、先年の場合同様に上陸を許されなかった。本図は唐絵目利・御用絵師であった石崎融思が、一日、出島役人に従い実見した上で描写した。彼女の「名はミミー(彌々)で1 9 歳、画工フィレニューフェの妻」とある。≫(長崎県立美術館蔵)

 この「デ・フィレニューフェ夫妻図」は、川原慶賀の師の「石崎融思」の作である。そして、ここに描かれている「デ・フィレニューフェ」こそ、「文政8 年(1 8 2 5 )にシーボルトの要請で助手として来日」し、「画家として優れ、川原慶賀の画業に影響を与えたとされる」(慶賀の「洋風画」の師)、その人ということになる。
 そして、「シーボルトの『NIPPON』」の挿絵の「原画・元絵・下絵」に、この「「デ・フィレニューフェ」作が散りばめられている。
 先の「1831 年 ビュルガーがシーボルトに出した書簡」(参考二)の中にも、下記のように、当時の「シーボルト・デ・フィレニューフェ・ビュルガー(ビュルゲル)」との交流の一端が綴られている。

≪ 特に興味深いのは、其扇やおいねの生活費について述べている点である。書簡の中では、「私たちはコンプラ仲間に預けて利金を得るようにしました。…しかし一方で1000テールの資本は十分ではありません。今はコンプラ仲間から12パーセントの利子をもらい、それは月に10テールの利益になります。それは私たちの小さい家での家計にとっても、十分ではありません。私はフィレニューフェに今年1500テールの特別の商取引をすることを申し出ました。ここから500テールの現金が出ます。この現金を1000テールに加えるとコンプラ仲間への資金が1500テールになり、月々15テールの利益がもたらされます。其扇は9月1日から毎月15テールを利息として受け取っています。」と書かれている。コンプラ仲間とは、諸色売込人のことであり、買い物が自由にできないオランダ商館員にかわり、日用品や食物、ときには人を調達する株仲間として知られているが、このように資金を預かり残
された家族へ利子を払うということも行っていたということがわかる。さらに、金1両=6テール18=銀60匁とすると、月に10テールは金では約1.7両、銀では100匁ということ
になり、その金額では一家が生活するのに不十分であることをシーボルトへ訴えていたということがわかる。≫(「1831 年 ビュルガーがシーボルトに出した書簡(参考二)」
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「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その八) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その八)「シーボルト」の『日本』の「捕鯨図」周辺

〔26〕捕鯨図(「鯨漁之図」、絹、和額装)

鯨漁之図.jpg

ライデン国立民族学博物館蔵

〔27〕捕鯨図(『NIPPON』の下絵)

捕鯨図1.gif

ブランデンシュタイン城博物館蔵

〔28〕捕鯨図(『NIPPON』図版)

捕鯨図2.gif

九州大学付属図書館医学分館蔵
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1906477&start=&bbinfo_disp=0#?c=0&m=0&s=0&cv=15&r=0&xywh=442%2C640%2C3251%2C3631

≪7.捕鯨

 捕鯨に興味をもつシーボルトは、鳴滝の門人高野長英・岡研介・石井宗謙に日本捕鯨に関するオランダ語論文を提出させ、参府途中の下関では当時最大の捕鯨業者であった平戸の益冨又左衛門と面会した。彼らから収集した情報をもとにヨーロッパ捕鯨と比較しつつ日本捕鯨の特徴を『NIPPON』に記し、1枚の図版を出した。詳細については2009年の別稿をご参照いただきたい(1)。
図版には「日本の絵にならってファン・ストラーテンが石版に描き、ファン・デル・ハントが印刷した」という意味のラテン語が印刷されている。2009年夏までその原画を見出すことはできなかった。
原画はライデン国立民族学博物館の補修室にあり、補修待ちの状態だった。絹に描かれた捕鯨図は所々破損し、しかも杉板で和額装されている。

〔26〕捕鯨図の整理番号は1-4278のシーボルトコレクション。外寸は縦60㎝×横116㎝。絵の部分は縦42.2㎝×横102.5㎝である。左上隅に「鯨漁之図」のタイトルと「携山(?)」の印がある。
この捕鯨図と同じような絵として、1-4275(武者絵)、1-4276(祭礼行列)、1-4277(祭礼行列)、1-4278(関所を通る行列)、1-4280(花見)、1-4281(室津明神社)、1-4282(室津長風閣眺望)、1-4286(武者絵)の8点があり、どれも状態は悪く破損していたり日に焼けている。例として(花見)のスナップ写真をあげている。収蔵庫の中で見せてもらった程度の調査で、詳しくはできなかったが、杉板が露出しているように、どれも杉で額装され、縁には同じ模様の千代紙が使用されている。
 その千代紙は、門人が提出したオランダ語文の表紙にも使われている。シーボルトは、門人が提出した論文を和綴にし、いろいろな千代紙で表紙をつけ、自ら記したタイトルを表紙に貼り付けている。それら門人論文は、ドイツのボフム大学図書館に所蔵されており、インターネット上(九大デジタルアーカイブ http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/siebold/)でも画像を見ることができる。例示した門人論文のうち、高野長英論文の表紙に使われている千代紙は、捕鯨図や武者絵などの縁にも使われているのである。
 当時のオランダにおいて、和装本・和額装の作成技術や杉板があったとは考えられないので、これらは日本で仕立てられたことになる。つまり、捕鯨図などの額装された絵は出島にあったシーボルトの部屋に掛けられ、オランダではライデンにある今の「シーボルト・ハウス」(シーボルトが1832年に購入しさまざまな日本コレクションを展示した家、2004年に改装されて一般公開中)の壁にも掛けられていたことを想像させる。日焼けや損傷の激しさもそのことを裏付けていよう。
 さて、〔26〕捕鯨図の作者については今のところ明らかでないが、シーボルトはこの絵をもとに『NIPPON』下絵をヨーロッパの画家に描かせた。〔27〕が洋紙に水彩の下絵であり、ブランデンシュタイン城に残る。原画をほぼそのままに写しているが、「日の出」は省略されている。そして、『NIPPON』図版の〔28〕では「日の出」が復活し、しかも原画以上に輝く太陽となっている。クジラの姿を原画と比べると、『NIPPON』図版の方が実物に近い。シーボルトは1833~50年に『日本動物誌』を刊行し、クジラについても研究しているから原画よりも正確になっている。
 なお、捕鯨図の原作者は捕鯨の実態をあまり知らなかったのではないかと思われる。日本の捕鯨は冬から春の仕事であり、玄界灘の寒風のなかを羽指(はざし)たちは「フンドシ」のみの姿で鯨に銛(もり)を打ち込んだ。唐津藩の小川島で捕鯨を実際に見聞し、安永2年(1773)に絵巻に仕立てた木崎攸軒「小児の弄鯨一件の巻」には上半身裸の男たちが描かれ、それは他の捕鯨絵巻にも共通する。しかし〔26〕捕鯨図はしっかりと着物を着ている。〔26〕は1枚で当時の捕鯨の様子をよく表しているが、よく見ると誤りも少なくない。特にクジラの尾ビレは間違っており、シーボルトはこの部分を修正して使っている。 ≫(「シーボルト『NIPPON』の原画・下絵・図版(宮崎克則稿)」「九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. Museum No. 9, 19-46, 2011」所収)

 この原画に相当する「〔26〕捕鯨図(「鯨漁之図」、絹、和額装)」(作者不明)の「落款・印章」と「1-4280(花見)」の「板絵(杉戸絵?)」の部分図は、次のとおりである。

鯨漁之図・落款.jpg

「〔26〕捕鯨図(「鯨漁之図」,絹,和額装)」(作者不明)の「落款・印章」

花見図・板絵.jpg

「1-4280(花見)」の「板絵(杉戸絵)」(「〔26〕捕鯨図(「鯨漁之図」と同一作者か?)

 この「携山(?)」は、初期の長崎画壇に大きな影響をあたえた「小原慶山(不明-1733)」の「携山(?)」という見方もあるのかも知れない。

https://yuagariart.com/uag/nagasaki08/

小原慶山(不明-1733)
丹波生まれ。名は雅俊、字は霞光。別号に渓山、景山などがある。京都に出て、その後江戸で狩野洞雲の門に入った。さらに長崎に移り住んで漢画の法を河村若芝に学んだ。花卉人物山水すべてすぐれていた。唐絵目利兼御用絵師をつとめたともされるが定かではない。門人に唐絵目利石崎家初代となる石崎元徳らがいる。享保18年死去した。

石崎元徳(1693-1770)
元禄10年生まれ。通称は清次右衛門、字は慶甫。館を香雪斎といい、別号に香雪斎がある。はじめ西崎氏でのちに石崎氏と称した。父は西崎威山。幼いころから画を好み、古人の筆蹟を研究し、のちに小原慶山に師事した。特に仏像を得意とした。享保9年、上杉九郎次の後を継いで、唐絵目利手伝となり、元文元年唐絵目利本役になり御用絵師を兼ねた。宝暦7年、65歳の時に病のため役を辞した。明和7年、78歳で死去した。

荒木元融(1728-1794)
享保13年生まれ。通称は為之進、字は士長。円山と号した。居は鶴鳴堂、薜蘿館などと称した。石崎元徳に師事して画法を学び、蛮画の法をオランダ人に受けたとされる。幼くして経学を真宗の僧教戒に学び、さらに詩文を長崎の渡辺暘谷について修めた。明和3年、荒木元慶の跡を継ぎ唐絵目利兼御用絵師となった。寛政6年、67歳で死去した。

石崎融思(1768-1846)
明和5年生まれ。唐絵目利。幼名は慶太郎、通称は融思、字は士斉。凰嶺と号し、のちに放齢と改めた。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。西洋絵画輸入に関係して増員されたと思われる唐絵目利荒木家の二代目荒木元融の子であるが、唐絵の師・石崎元徳の跡を継いで石崎を名乗った。父元融から西洋画も学んでおり、南蘋画、文人画、浮世絵にも通じ長崎画壇の大御所的存在だった。その門人300余人と伝えている。川原慶賀やその父香山とも親しかったが、荒木家を継いだ如元との関係はあまりよくなかったようである。弘化3年、79歳で死去した。

川原香山(生没年未詳、川原慶賀の父)

川原慶賀(1786-不明)
天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日たシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。

 川原慶賀の父であり師である「川原香山」にも、下記の「長崎港図」がある。

川原香山・長崎港図.jpg

「川原香山・長崎港図」(「長崎歴史文化博物館蔵)
≪ 一介の町絵師、画壇に名無し
出島にいたオランダ人は出島絵師以外が描いた絵を持ち帰ることが許されていませんでした。カメラのない時代、日本の風景や風俗文化、動植物、出島の生活などは絵師によって記録されていました。その出島絵師のひとりが川原慶賀です。
 慶賀(通称登与助、号慶賀、字種美)は、1786年(天明6)に長崎で生まれました。父の香山は町絵師で、蘭船、唐船が浮かぶ港を描いた作品「長崎港図」を残しています。慶賀は香山から絵の手ほどきをうけ、その後、長崎で活躍していた画家の石崎融思(いしざきゆうし)から絵画を学んだといわれています。
 江戸時代、長崎の画家を記した『崎陽画家略伝』、『長崎画人伝』、『続長崎画人伝』などに、慶賀の名はありません。厳しい身分制度の時代、慶賀が一介の町絵師だったからだといわれています。正統な画家の家系の出ではなかった慶賀でしたが、才能に恵まれ町絵師として身を立て、その後「出島出入絵師」となります。
 1820年(文政3)から1829年(文政12)、秘書、会計係、倉庫の管理者として出島で働いたフィッセルや1817年(文化14)に商館長に就任したブロンホフらの求めに応じて絵を描いた慶賀ですが、シーボルトのパートナーとして膨大な作品を残したことで知られています。≫http://tabinaga.jp/column/view.php?category=2&hid=20140226195849&offset=2

 さて、「〔27〕捕鯨図(『NIPPON』の下絵)」は、「日本の絵にならってファン・ストラーテンが石版に描き、ファン・デル・ハントが印刷した」の、「ファン・ストラーテン」(「van Straaten 」)の作ということになる。
 そして、この「〔27〕捕鯨図(『NIPPON』くに下絵)」は、最終的に、「シーボルト」その人が、下記のとおり、その図の「右端」の下方に、川原慶賀の描く「〔図25〕『人物画帳』の網元」と「〔図26〕『人物画帳』の羽指」とが、追加して描かれ、その「右端」の上方には「日いずる国、日本の、その旭日光」が、燦燦と上り始めているのである。

捕鯨図・比較図f.gif

「〔27〕捕鯨図(『NIPPON』の下絵)」と「〔28〕捕鯨図(『NIPPON』図版)」の比較図

〔図25〕『人物画帳』の網元(「川原慶賀」画)

『人物画帳』の網元.jpg

ミュンヘン国立民族学博物館蔵

〔図26〕 『人物画帳』の羽指(「川原慶賀」画)

『人物画帳』の羽指.jpg

ミュンヘン国立民族学博物館蔵
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「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その七) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その七)「シーボルト」の『日本』の「愛宕山」周辺

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1906466&start=&bbinfo_disp=0#?c=0&m=0&s=0&cv=3&r=270&xywh=455%2C926%2C2707%2C3486

愛宕山1.gif

「愛宕山」(シーボルド『日本』図録第1冊12)
福岡県立図書館/デジタルライブラリ シーボルト資料 『日本』“NIPPON” 図版一覧画面
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

 この「愛宕山」(シーボルド『日本』図録第1冊12)の石版画が出来上がるまでを、「シーボルト『NIPPON』の原画・下絵・図版(宮崎克則稿)」(「九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. Museum No. 9, 19-46, 2011」)の「5 愛宕山」では、次のとおり記述している。

≪ 5. 愛宕山

 『NIPPON』には日本の山々20か所の図版がある。江戸参府の途上でシーボルトが見たであろう雲仙岳、富士山もあるが、行ったことのない奥州の御駒岳(駒ヶ岳)、巌木山(岩木山)もある。シーボルトは何をネタ本としたのか。ライデン大学図書館にシーボルトコレクションとして文化元年(1804)に出た谷文晁『名山図譜』がある(No:367)。
 縦29.6㎝×横19.6㎝の大本で3分冊。谷文晁は、天明8年(1788)26歳のときに田安家の奥詰見習いとなった。田安宗武の7男は松平定信であり、定信が白河藩主になると、文晁は定信にしたがってたびたび白河に赴いている。定信は文晁の5歳年上で、寛政8(1796)年には文晁などに命じて『集古十種』編纂のために畿内の古社寺にある古器・古書などの調査、模写をさせている。
 『集古十種』とは、定信の好古癖から鐘銘・碑銘・兵器・銅器・楽器・文房・扁額・印章・法帖・古画の10種について集大成した考古図譜であり、各宝物の標題・所在・寸法を記述、貴重な考古学資料を含む85巻におよぶ膨大なシリーズである。文晁は資料収集のために江戸~京都を往復し、途中で多くの山々を見物した。
 『名山図譜』の自序によると、「享和2年の夏、100余景を縮写して冊子とし、その名を名山図とした」とある。山好きの文晁は木版画集を出版することを思い立った。『名山図譜』の文化元年初版は、私家版に近いものとして知人の間に渡る程度であったから、刷り部数も少なかった。
 その後増刷りされ、文化4年(1807)の重版の際には、盛岡城下からみた磐手山(岩手山)と南部の玉東山(姫神山)が追加された。さらに文化9年には、一般向けに『日本名山図会』と改題して江戸の須原屋茂兵衛をはじめ京都・大坂の三都の書店が版元となり刊行された。これは天・地・人の3巻からなり、版型もひとまわり小さくなった。シーボルトは文化9年版ではなく、初版を持ち帰っている。しかもそれには彩色が施され、山名・地名にはカタカナのルビが加筆されている。

〔18〕は『名山図譜』の愛宕山である。京都市の最高峰で標高924メートル。京都の北西にあり、東の比叡山と相対するかのように聳えている。谷文晁は広沢の池の辺りから眺めた愛宕山の遠景を描いている。

〔19〕は洋紙の水彩画、台紙に貼り付けられている。これまでにも紹介したように『NIPPON』の下絵としてシーボルトがヨーロッパの画家に描かせたもので、ブランデンシュタイン城に残る。『名山図譜』の愛宕山をほぼそのままに写していることが分かる。ブランデンシュタイン城にはもう1点の下絵がある。

〔20〕がそれであり、洋紙に水彩で描かれている。山の形容はそのままであるが、前景にある柳の木を強調して奥行き感を出している。これを基本にして釣人や水鳥を追加し〔21〕の『NIPPON』図版となる。

 『NIPPON』のなかの山々を石版に描いたのは、すべてNader(ナーデル)であり、図版の右下に極めて細かいラテン語で「L.Nader in lap.delin.」と印刷されている。L.Nader石版画の意味である。ナーデルは、辞書によると(4)、1811年頃にドイツのKarlsruhe(カルスルーヘ)で生まれ、オランダのライデンで石版画家として活動した。スイスの山岳風景を描いた作品がライデンの国立版画室にある。シーボルトは、山の風景が得意であったナーデルに山々の石版画を依頼したが、その前に2枚の下絵を作成していたことが分かった。これは愛宕山だけでなく他の山々にも見られる。
シーボルトは谷文晁『名山図譜』を手本として前景にある木々や人物に手を加えて奥行き感を出しつつも、山々の姿を大きく変えることはなくかなり忠実に描かせている。これによって、日本には多くの美しい山々があることをヨーロッパの人々に伝えることができた。

〔18〕 愛宕山(谷文晁『名山図譜』)

愛宕山(谷文晁『名山図譜』).jpg

ライデン大学図書館蔵


〔19〕 愛宕山(『NIPPON』図版の下絵・水彩画)

愛宕山(下絵』).jpg

ブランデンシュタイン城博物館蔵

〔20〕 愛宕山(『NIPPON』図版の下絵)

愛宕山(図版・下絵).gif

ブランデンシュタイン城博物館蔵

〔21〕 愛宕山(『NIPPON』図版)

愛宕山1.gif

九州大学付属図書館医学分館蔵                    ≫

 シーボルトは谷文晁の『名山図譜』だけではなく、ここでも、葛飾北斎の『北斎漫画』(第七篇)から、「1 伊勢の石太神 2 奥州外ヶ浜 3 総州調子女夫が鼻 4 総州銚子胎内潜り」「粂の岩橋(信濃久米付近)相模走り水(相模国走水付近の岩の門)」を石版画にしている。

伊勢の石太神他.gif

(左上)1 伊勢の石太神 (左下)2 奥州外ヶ浜 (右上)3 総州銚子女夫が鼻
(右下)4 総州銚子胎内潜り (シーボルド『日本』図録第1冊23)
福岡県立図書館/デジタルライブラリ シーボルト資料 『日本』“NIPPON” 図版一覧画面
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

勢州石太楽.gif

「勢州石太楽」(『北斎漫画第七篇』所収)(「国立国会図書館デジタルコレクション・コマ番号17/34」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851652

奥州外ヶ浜.gif

「奥州外ヶ浜」(『北斎漫画第七篇』所収)(「国立国会図書館デジタルコレクション・コマ番号27/34」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851652

総州銚子女夫が鼻.gif

「総州銚子女夫が鼻」(『北斎漫画第七篇』所収)(「国立国会図書館デジタルコレクション・コマ番号24/34」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851652

総州銚子胎内潜り.gif

「総州銚子胎内潜り」(『北斎漫画第七篇』所収)(「国立国会図書館デジタルコレクション・コマ番号21/34」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851652
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「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その六) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その六)「シーボルト」の『日本』の「牟良叔舎(フランシスコ)喜利志多佗孟太(キリシタ・ダ・モッタ)」周辺

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906465#?c=0&m=0&s=0&cv=6&r=0&xywh=878%2C1288%2C2258%2C2522

種子島漂着f.gif

『NIPPON』 第1冊「6 ムラーシュクシヤ(フランシスコ・ゼイモト)とクリスターモウタ(アントニオ・モータ)」
http://www.lib.pref.fukuoka.jp/hp/gallery/nippon/hg/n1-6.html

 ここに書かれている賛文は、次のとおりである。

天文十二発卯(みずのとう)八月二十五日 → 天文十二年(一五四三)八月二十五日
大隅国種ヶ嶌ニ漂流 → 大隅国(鹿児島県の東部)種子島(大隅諸島の一つ)に漂流
牟良叔舎(ムラシュクシヤ) 
喜利志多佗孟太(クリスターモウタ)→ その代表者の二人(ポルトガル人)の「牟良叔舎=ムラーシュクシヤ(フランシスコ・ゼイモト)と「喜利志多佗孟太=キリシタ・ダ・モッタ(アントニオ・モータ)」  

 これは、江戸時代の慶長十一年(一六〇六)に、種子島久時が薩摩国大竜寺の禅僧・南浦文之(玄昌)に編纂させた、鉄砲伝来に関わる歴史書の『南浦文集』に所収されている「鉄砲記」に由来するものである(「ウィキペディア」)。

 この図と全く同じものが、『北斎漫画(第六篇)』に出てくる。

北斎・種子島.gif

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851651
「北斎漫画第六篇(葛飾北斎画)・コマ番号27/33」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

 先に、下記のアドレスで、シーボルトの『日本』の全体構成(雄松堂刊「シーボルトの『日本』全九巻構成」)について紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-01

(再掲)

≪シーボルトの『日本』の全体構成(雄松堂刊「シーボルトの『日本』全九巻構成」)

第1巻 第1編 日本の地理とその発見史
    第2編 日本への旅
第2巻 第3編 日本民族と国家
    第4編 1826年の江戸参府紀行⑴
第3巻 第4編 1826年の江戸参府紀行⑵
    第5編 日本の神話と歴史
第4巻 第6編 勾玉
    第7編 日本の度量衡と貨幣
    第8編 日本の宗教
    第9編 茶の栽培と製法
    第10編 日本の貿易と経済
第5巻 第11編 朝鮮
第6巻 第12編 蝦夷・千島・樺太および黒竜江地方
    第13編 琉球諸島
    付録
図録第1巻
図録第2巻
図録第3巻   ≫

 この冒頭の「第1巻 第1編 日本の地理とその発見史」の、その「日本の発見史 フェルナン・メンデス・ピントの物語と日本人の記録による」の中で、その≪『NIPPON』 第1冊「6 ムラーシュクシヤ(フランシスコ・ゼイモト)とクリスターモウタ(アントニオ・モータ)」図≫について、シーボルド自身、次のように記述している。

≪ ここに著名な日本画家北斎の絵をそのまま写した日本発見のポルトガル人像がある(『日本』1第3図(a)=上記『NIPPON』 第1冊「6 ムラーシュクシヤ(フランシスコ・ゼイモト)とクリスターモウタ(アントニオ・モータ)」図)。この図は先に述べた『漫画』という書物(「北斎漫画3篇」=上記「北斎漫画第六篇(葛飾北斎画)・コマ番号27/33」)にあり、この人物がヨーロッパから来たことを証明するために、火銃やその付属品の写生もそえてある。画賛には、「天文十二発卯八月二十五日 大隅国種ヶ嶌ニ漂流 牟良叔舎 喜利志多佗孟太」。 つまり、天文氏12年8月25日みずのとうの年(これは60年を周期とする40年目の年ということである)に、大隅の国の種子島にキリシマ・モウタとムラ・シュクシャが漂流した、と記されている。≫(『シーボルト『日本』図録第一巻(雄松堂刊)』p10)

すなわち、この≪『NIPPON』 第1冊「6 ムラーシュクシヤ(フランシスコ・ゼイモト)とクリスターモウタ(アントニオ・モータ)」≫図は、≪「北斎漫画第六篇(葛飾北斎画)・コマ番号27/33」≫図より謄写したもので、ここには、「川原慶賀」は介在していない。

 これらのことに関して、「シーボルト『日本』の図録について(斎藤信稿)」((『シーボルト『日本』図録第一巻(雄松堂刊)』所収)の中で<、次のように記述している。

≪ シーボルド『日本』に掲載されたたたくさんの図について、その典拠ないしは制作の過程を調べてみると、おおよそ次の三つの種類のもの、すなわち
(1) 日本の書籍や画集の中から採ったもの。
(2) 日本で画家の登与助(川原慶賀)やシーボルドが助手として招いたオランダ人画家C.H.de Villenneuvet(フィレネーフェ)が描いたり、写生したもの。…… ことに江戸参府道中の、各所図会などから採ったと思われる若干のものを除いた大部分の絵は、川原慶賀の作品と考えてよい。
(3)シーボルドその他のコレクションの所蔵品、例えば、武装・武器、化粧道具・家具、食器・酒器などを、オランダの画家が原物を見て描いたもの、がある。≫(『シーボルト『日本』図録第一巻(雄松堂刊)』所収pⅠ)

そして、これらの「三類型」について、シーボルドは、その「原本の目次や各図表の下方の左右にラテン語の小さな文字を示されている(示されていないものもある)」とし、この
≪『NIPPON』 第1冊「6 ムラーシュクシヤ(フランシスコ・ゼイモト)とクリスターモウタ(アントニオ・モータ)」≫図については、「左下に小さな文字でただ、『日本の木版画により、Henri Ph. Heidemansが石版画で描いた』と記されているという(『シーボルト『日本』図録第一巻(雄松堂刊)』所収pⅱ)。
 すなわち、この図は、上記の「(1) 日本の書籍や画集の中から採ったもの」の『北斎漫画(葛飾北斎画)』(第六篇)の図を、オランダの画家「アンリ・フィリップ・ハイデマンス ( 1804年 - 1864年以後)」が石版画にしたもののように思われる。

 ここで、「シーボルト『NIPPON』の原画・下絵・図版(宮崎克則稿)」(「九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. Museum No. 9, 19-46, 2011」)の「1.石版印刷とシーボルト『NIPPON』図版」と「4.与次兵衛瀬」を抜粋掲載して置きたい。

≪1.石版印刷とシーボルト『NIPPON』図版

1445年頃、ドイツ出身の金属加工職人グーテンベルクが活字を発明したことによって、文字をあらかじめ金属で鋳造し、それを組み合わせてプレス機で刷る活版印刷が始まった。これ以降、「42行聖書」を始め多くの本がヨーロッパ各地で印刷されることになる。当初は文字だけであったが、1460年頃から挿絵が組み込まれるようになる。挿絵は木版から銅版へ、そして石版による版画が流行する。シーボルト『NIPPON』が出版される1830年代は石版の時代であった。
木版は線や面など図柄として描きたい部分を残し、それ以外の部分を取り去って版を作る。絵の具や墨などを版のでっぱった部分に塗って紙をのせバレンでこすったり、プレスして印刷する。凸版である。これとは逆に、版上にくぼみ状の溝を作り、そこにインクを詰めて表面の余分なインクを拭き取ってから紙をのせ、圧力をかけてそのインクを刷りとる凹版がある。18世紀以前においては、単に版画といえば、多くの場合は銅による凹版画を指していた。銅版に直接に凹部を刻む直接法と、酸などの浸食作用を利用して凹部を作るの間接法があり、後者はエッチングまたは腐食銅版画という。 
1798年頃、ドイツで凸版でも凹版でもない新たな印刷術が発明され、19-20世紀の印刷術・版芸術に計り知れない影響を与えた。考案したのはアロイス・ゼネフェルダー(1771-1834年)である。彼の父はマンハイムの宮廷劇場の俳優であり、そのためかゼネフェルダーは年少の頃から演劇への熱い思いを抱いていた。盛んに戯曲や詩を創作して出版することを願っていたが、当時の印刷術では経費がかさみすぎるので、廉価な印刷術を編み出そうと思い立ち、試案を重ねた末、1798年頃に石灰石を使用した石版印刷術を完成させた。
その方法を簡単に述べると、高純度の石灰石に脂肪性のクレヨンやインクなどで絵を描き、次に弱酸性溶液(アラビアゴムと硝酸の混合液)を塗る。化学反応によって描かれた部分は油性物質を強く引きつける力を持ち、描かれていない部分は水分を保持するようになる。こうして石版上に水分を弾く部分と保持する部分ができる。石版を水で湿らせたのち、印刷用の油性インクをのせると、絵を描いた部分にのみインクは付着し、その他の部分ではインクが弾かれる。そして紙をのせ刷り機にかけるのである。原版に凹凸をつけることなく、平坦な面で印刷することから平版印刷ともよばれる(石灰石は重くかさばるので、現在ではアルミなどの金属板も使用されている)。脂肪性のインクを用いてペンで描画すればデッサ
ンの調子が出せ、描き方によってはエッチングに類似した線の表現も可能となる。また脂肪性チョークを使えば鉛筆デッサンやクレヨンデッサンに近い描画もできる。石版は多様な表現ができるのである(1)。シーボルト『NIPPON』の初版は、図版編と本文編からなり、1832年から20年以上にわたってオランダのライデンで自費出版された。図版編は石版印刷、本文編は活版印刷である。ともに使用された紙は当時のオランダで定評のあったファン・ヘルダー社製であり、「VANGELDER」あるいは「VG」の透かしがある(紙の製法は、「ぼろ」とよばれる布きれや古い綱、あるいは藁などを臼に入れて杵ですりつぶし、これを紙漉き用の水槽に浸し、「漉き桁」という網をはめ込んだ木枠で漉いた。原料は和紙と異なるが、ともに手漉きである)。図版にはしなやかで厚手の紙が用いられ、本文はより薄い紙が使われている。本文は1枚の紙の両面に4ページ分が活版印刷され、半分に折りたたまれて配本された(『NIPPON』は未製本の状態で配本された)(2)。銅版画と石版画の比較のために、シーボルトより約100年前に来日したケンペル『日本誌』をあげよう。〔3〕
は1727年に出た英語版『日本誌』の口絵、銅版で印刷されており、近くで見ると絵の全体が線で描かれている。これに対し、〔4〕は1832年の第1回配本で出た『NIPPON』口絵、石版による印刷である。

ケンペル『日本誌』.gif

〔3〕ケンペル『日本誌』(「銅版画」の「口絵」)

シーボルド『日本』.gif

〔4〕シーボルド『日本』(「石版画」の「口絵」)

4. 与次兵衛瀬

 文政9年1月16日(西暦2月22日)、小倉藩の城下町に泊まったシーボルトらは満潮となるのをまって昼頃に宿を出発した。小倉の港は浅く、満潮時のみ船が出入りできたからである。小舟で関門海峡を渡る途中、シーボルトは与次兵衛瀬と呼ばれる岩礁を川原慶賀にスケッチさせた。岩礁には石碑が建っていた。慶賀が船上で描いたであろう和紙の原画は残っていないが、後に洋紙に清書してシーボルトに提出した絵がライデン国立民族学博物館に残る。〔15〕がそれであり、整理番号は1-4488-22。江戸参府のときの風景画を集めたアルバムから今は切り離されている。〔16〕は洋紙の水彩画で、シーボルトがヨーロッパの画家に描かせた『NIPPON』下絵である。慶賀の絵では波は静かで雲はなかったが、下絵では少し波が立ち雲も追加されている。『NIPPON』図版の〔17〕になると、さらに波は高くなり暗雲となっている。
 なぜシーボルトはこのような変更を加えたのであろうか。『NIPPON』旅行記のなかで、「与次兵衛というのはここを渡るときに有名な太閤秀吉を危険にさらした船頭の名で、彼は腹をかききって自害したので当然の罪を免れた」と書いている(1)。石塔は豊臣秀吉を危険にさらしたことを償うために切腹した与次兵衛を記念して建てられていた。さらに続けて、突風が吹いたので、われわれの舟はその岩に近づいた。おもにカモメやウミウなどのたくさんの海鳥が、ちょうど黒雲に被われて影となり、泡だって岩にくだける波間から突き出ている岩上の碑のまわりに群がっていた。とくに、ときどきここには気高い舟人の霊が現れるという伝説がからんで、恐ろしい光景を呈する。碑そのものは非常に簡素である。切り立った岩の真ん中に立っている約2メートル50の高さの四角い柱で、4面からなるピラミッ
ド形の飾り屋根があって、碑銘はないとある。慶賀が描いた〔15〕の絵ではあまりに「のどか」である。やはりシーボルトにとっては、切腹という日本独特の慣習、亡霊も出する「恐ろしい光景」に変更する必要があった。彼が参府中に記した自筆「日記」(2)には、「巌流島という小島があり、この島と与次兵衛瀬の間を舟で通った。ガン・カモ・ウミウ・アビ・ウミツバメなど驚くほどたくさんの海鳥を認めた」とあり、海鳥の多さに感動している。後に『NIPPON』の旅行記としてまとめる中で、石塔は「恐ろしい光景」として捉え直されていったのである。
 岩礁は大正期に爆破された。爆破によって、石碑は海中に沈んでいたが、昭和29年に引き上げられ、今は門司の和布刈(めかり)公園にある。なお、与次兵衛の姓は石井。尾道市の浄土寺に残る奉納絵馬から、石井与次兵衛が「播州明石船上の住人」であったと知られる。もともと瀬戸内海の運送を業としていたようであるが、後に秀吉に仕え天正11年(1583)、秀吉の初めての大坂入城では、秀吉は与次兵衛に持ち船を大坂に集結させることを命じた。このことから、与次兵衛は軍船の指揮官であり、戦闘の際における海上警備の役目を持っていたことが推定できる。彼が切腹したのは、文禄2年(1593)秀吉が母大政所の危篤の報せを聞き、与次兵衛を呼んで豊前小倉から乗船し、大坂に向かう途中で瀬に乗り上げ、秀吉を危険にさらしたからだという(3)。 

与次兵衛瀬の碑・原画.gif

「原画」〔15〕与次兵衛瀬の碑(川原慶賀,洋紙,墨)  ライデン国立民族学博物館蔵

与次兵衛瀬の碑・下絵.gif

「下絵」〔16〕与次兵衛瀬の碑(『NIPPON』図版の下絵) ブランデンシュタイン城博物館蔵(「下絵」作者は不明、Henri Ph. Heidemans=「アンリ・フィリップ・ハイデマンス ( 1804年 - 1864年以後)」? 「L.Nader in lap.delin.」=『NIPPON』のなかの山々を石版に描いたNader(ナーデル)作か? シーボルトがヴァタビア総督に派遣依頼した画家で、川原慶賀に画法を伝え、シーボルトの日本研究に大きく貢献した「デ・フィレニューフェ」作か?、それとも「原画」作者の「川原慶賀」の「下絵」か?)

与次兵衛瀬の碑・石版画.gif

「図版」九州大学付属図書館医学分館蔵(1832年の第1回配本『NIPPON』に続く、分冊毎の未製本による『NIPPON』「図版」)   ≫
(「シーボルト『NIPPON』の原画・下絵・図版(宮崎克則稿)」(「九州大学総合研究博物館研究報告 Bull. Kyushu Univ. Museum No. 9, 19-46, 2011」)
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「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その五) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その五)「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」と「ブロンホフとフィッセル」周辺

出島俄芝居図 性急者-1.jpg

●作品名:出島俄芝居図 性急者-1
●Title:Play at Dejima, Opera
●分類/classification:阿蘭陀商館・阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:紙本着色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:アムステルダム市立公文書館 Amsterdam City Archive
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3102&cfcid=146&search_div=kglist
(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」「第2図―ポルカムプ邸の屋内の図」。)

出島俄芝居図 性急者-2.jpg

●作品名:出島俄芝居図 性急者-2
(以下「Title・分類・形状・形態・所蔵館・アドレス」など上記に同じ)
(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」「第3図―ボルカムプ邸の屋内の図。下袖と上袖に`書きもの机'が二つ置かれている。」)

出島俄芝居図 性急者-3.jpg

●作品名:出島俄芝居図 性急者-3
(以下「Title・分類・形状・形態・所蔵館・アドレス」など上記に同じ)
(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」「第4図―ボルカムプ邸の屋内の図。登場人物が5名描かれている。」)

二人猟師乳汁売娘-1.gif

「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」(第5図一猟師ギリヨットがミルク売りの娘ペルレッテと出会う図。)→「作品名:出島俄芝居図 二人猟師乳汁売娘-1」

(追記の一)「猟師ギリヨットがミルク売りの娘ペルレッテと出会う図(上記第5図)」の原本図(黒船館蔵)

二人猟師乳汁娘1・黒船館.jpg

●作品名:阿蘭陀芝居図巻、二人猟師乳汁娘1
●Title:Play at Dejima
●分類/classification:阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:紙本彩色、巻子/painting on paper, scroll
●所蔵館:黒船館 Kurofune Museum
●登録番号/registration No.:20070306-5
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3511&cfcid=164&search_div=kglist

出島俄芝居図 二人猟師乳汁売娘-2.jpg

●作品名:出島俄芝居図 二人猟師乳汁売娘-2
●Title:Play at Dejima, Opera
●分類/classification:阿蘭陀商館・阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:紙本着色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:アムステルダム市立公文書館 Amsterdam City Archive
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3104&cfcid=146&search_div=kglist
「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」(第6図一失神した猟師. ラスとその体をかぎまわっている熊。)

出島俄芝居図 二人猟師乳汁売娘-3.jpg

●作品名:出島俄芝居図 二人猟師乳汁売娘-3
(以下「Title・分類・形状・形態・所蔵館・アドレス」など上記に同じ)
「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」(第7図一ペルレッテの父に許しを請うているタンケレートとその部下の図。)

上記の「紙本着色」の「出島俄芝居図」(5図=5葉)は、「川原慶賀が見た江戸時代の日本(1)」(「長崎歴史文化博物館)で紹介されている、「アムステルダム市立公文書館」所蔵関連のものである。
 その「紙本着色」の「出島俄芝居図」(5図=5葉)の中の「モノクロ(黒・白)の「第5図―猟師ギリョツトがミルク売りの娘ベルレットに出会う図」と、各図(第2図から第7図)の見出し的な説明は、下記アドレスの「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について(宮永孝稿)」(「法政大学学術機関リポジトリ」)所載での掲載・記述されているものである。
 その「川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻』」は、その「宮永稿」によると、新潟県柏崎市大字青海川181番地の「黒船館(柏崎コレクションビレッジ)」所蔵のようである。

http://doi.org/10.15002/00021022

 以下、この「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について(宮永孝稿)」(「法政大学学術機関リポジトリ」の要点を要約抜粋しながら、これらの「出島俄芝居」とこの芝居の立役者の「フィッセル」などに焦点を当ててみたい。
 まず、この論稿の目次は次のとおりである。

≪ はじめに
一 さまよえる「阿蘭芝居巻」(川原慶賀筆)
二 オランダ芝居の上演
三 オランダ芝居の素材
四 「阿蘭芝居巻」の中味について
五 登場人物たちの衣装
六 オランダ芝居が上演された場所
七 舞台の構造について
八 オランダ芝居の筋書に関する日本側文献
九 オランダ芝居に関係ある蘭人の名刺
あとがき      ≫

川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻.gif

 この「川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻』は、「巻子(巻き軸で巻いたもの)仕立ての絵(27.5㎝×36.3㎝)が七枚描かれている」。「慶賀がこの絵巻をつくった年代は定かでないが、おそらく江戸後期—芝居が上演された文政三年庚辰年(一八二○年)のことであろう。時に、慶賀は三十五歳であった。その三年後の文政六年(一八二三年)にシーボルトが来日し、かれはそのお抱え絵師となるのである」。
 「オランダ芝居を描いたこの絵巻は、アムステルダムの公文書館やネーデルラント演劇研究所にもあることから考えて、複数模写されたものであろう」。

 「黒船館」所蔵のものは、上記図のとおり、その形態は「巻物」であるが、「アムステルダム市立公文書館」所蔵のものは、「めくり(未表装)」とあり、額装にはなっていない「未表装」の「一枚もの」として保存しているように思われる。「ネーデルラント演劇研究所」ものも、その「めくり(未表装)」ものなのかどうか、それらは定かではない。

舞台の正面図.gif

「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」(第1図―舞台の正面図)

「第一図は、全体から見ると、単純なものだが、オランダ国旗が大きく描かれていたり、香盤が赤い炎を吹きあげている光景は、かなり観客の注意を引いただろうし、舞台の異国情調に魂をうばわれたことであろう。」

(追記その二)「第1図―舞台の正面図」(上記図の原本)(黒船館蔵)

舞台正面図・黒船館.jpg

●Title:Play at Dejima
●分類/classification:阿蘭陀人/Duch and other
●形状・形態/form:紙本彩色、巻子/painting on paper, scroll
●所蔵館:黒船館 Kurofune Museum
●登録番号/registration No.:20070306-1
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3507&cfcid=164&search_div=kglist


「第二図(葉)から第四図(葉)までは、「性急者」(De Ongeduldige)の芝居の場景を描いたものである。この芝居の登場人物たちは、左記(下記)のとおりである。

[役柄]    [役者名]
性急者ダアモン…オーフルメール・フィッセル(文政三年[一八二○]の夏来日した一等書記)
ラウレウル(ダアモンの従者)…ルイス・エリッセ・フィッセル(文政二年[一八一九]度からいる二等書記)
フロンティン(ダアモンの下男)…フレデリック・クレメンス・バウエル(文政二年[一八一九]度からいる書記)
ボルカンプ(金貸し)…パレラス・ディック(文政三年[一八二○]の夏来日した台所係)
ユリア(ボルカンプの娘)…ヘルマヌス・スミット(文政二年[一八一九]度からいる書記)
ノターリス(裁判所の書記)…デロイトル(文政三年[一八一一○]の夏来日した小役)

「第三図。第三葉の舞台の図柄は、第二図とほとんど変らないが、舞台中央の奥にあるドアの左右にあった椅子が姿を消し、代わって下袖と上袖に書きもの机(色は左が青、右が緑色)が二つ置かれている。下袖の机にむかって叔父(裁判官)宛の手紙を書いているのはダアモン、そのうしろにいるのがダアモンの下男フロンティン、そして帽子を手にし立っている男が裁判所の書記である。」

「第四図。第四葉の舞台の図柄は、第三図と同じである。が、登場人物が五名描かれている。正面にむかって左からダアモン、裁判所の書記、絵描き、ユリア、ボルカムプである。ボルカムプは、身を乗りだすようにして手紙を読んでいる。」

「性急者」のつぎに上演された出し物は、「二人の猟師とミルク売り娘」である。この芝居の登場人物たちは、左記(下記)のとおりである。

[役柄] [役者名]
猟師ギリョット(仏・ギョ)…オーフルメール・フィッセル(文政三年[一八二○]の夏来日した一等書記)
同コラス(仏・コラ)…ルイス・エリッセ・フィッセル(文政二一年[一八一九]度からいる二等書記)
牛乳売り娘ペルレッテ(仏・ペルレット)…ヘルマヌス・スミット(文政二年[一八一九]度からいる書記)
騎士タンケレート…オーフルメール・フィッセル(二役)
士卒…フレデリック・クレメンス・バウエル(文政二年[一八一九]度からいる書記)
同.…一番船小役シイモン
同. …在留小役スミツト
同. …同 デウィルデ
娘ペルレッテの父……デイキ(ディック、文政三年[一八二一○]の夏来日した者)

「第五図。舞台のほぼ中央に、何の木だかわからないが立木の”切出し”(板などを切り抜き、彩色したもの)が見られる。そのうしろに薄い灰青色のように思われるヨ―ロッパの教会の尖塔と円形の木立(黄緑色)、さらにピンク色の壁をもつ、わらぶき屋根の小屋が描かれている。下袖の”鏡”(屏風式の立ての道具)には、異国風の樹木(ヤシの木か)と動物や鳥などが描かれている。正面の切出しの前でむき合って話をしているのは、猟師ギリョットと娘ペルレッテである。」

「第六図。舞台の背景は、第五図とおなじであるが、正面の立木の切出しのうえにギリョットがおり、木の根元ちかくに失神した男コラスがいる。そして、その体をかぎまわっている熊(赤い大きな舌を出している)などが細密に描かれている。」

「第七図。舞台の背景は、第六図とほぼおなじである。が、正面にむかって右の袖に何やら小枝のようなものが見られ、またその近くにロケットが大き目に描かれている。左肩に赤いたすきをかけ、腰に緑色の幅広の帯をまき、手に槍をもった士卒が六名、士官が一名描かれている。黒い上着を着、真紅のパンタロンをはき、黒衣の老人の前で身をかがめているのはタンケレート。老人のうしろで黒い上着と赤いシャツを着、銃を一眉にかけ、腰に刀をさし灰色のズボンをはいているのは猟師のコラスである。そしてその脇に立っているのは娘ペルレッテである。彼女は濃紺の上着に、真紅のスカートをはき、さらに長い黒い前掛をかけている。このさいどの場面の絵は、派手やかな色どりで描写されている。」

「 出島の館員らによる、この『阿蘭陀芝居』は、次の四回に亘っている。
 
一八二〇年九月一七日(文政三年閏庚辰八月十一日)
一八二一〇年一〇月一三日(同九月七日)
一八二〇年一〇月二〇日(同九月十四日)
一八二〇年一〇月二二日(同九月十六日)      」

 「当時、出島の商館長であったヤン・コック・ブロンホフの日記によると、第二回目の上演のとき、長崎奉行・筒井和泉守政憲(まさのり)は、「一人の画家を(今日の一行に)同行させてあったが、その画家は、将軍に送るために、俳優たち、舞台、ならびに様々な動作のすべてをスケッチした」という。「一人の画家」(een shcilder)とは、川原慶賀であったことは間違いないようだ。この記述通りであるとすると、長崎奉行は慶賀に芝居の様子をスケッチさせ、それをあとで将軍家への献上品とするつもりであった。絵師は役者の動きをその場で精密に描き、すぐ着色することは不可能であろうから、おそらく慶賀は芝居を見ながら、すばやく筆で下絵の素描画をたくさん描き、あとでそれを紙面に細密に写しとり、彩色を施したものと考えられる。」

 「何部つくったものか明らかでないが、献上用に一部、私物用に一部、さらにオランダ人用に川原工房の絵師らに何部か模写させたものか。のちに世間に姿をみせ、道具屋の手に渡った作品は、幕府への献上品ではなく、慶賀が個人用にもっていた作品であったものか。」

 「長崎奉行から江戸町奉行に転任する筒井和泉守政憲や筒井の長崎着任後、江戸からやって来た間宮筑前守信與ら両名を招いて、素人芝居をみせたには理由がある。出島は文化六年(一八○九)から同十四年(一八一七)までの九ヵ年、ヨーロッパ動乱の余波をうけて蘭船の入港なく、商館長ドゥ―フおよび館貝はこの間窮乏生活を強いられていた。一八一五年(文化十二年)六月、ナポレオンはワーテルローの戦で大敗し、セント・ヘレナ島に流刑になったのち、ヨーロッパに平和が訪れた。文化十四年(一八一七)七月、新たに出島の商館長としてヤン・コック・ブロンホフが来日すると、ドウーフと交代した。ブロンホフは着任後、日蘭貿易が途絶していた空白期間中の損失をうめ足す必要を痛感した。オランダ側がいちばん欲していたのは銅(竿銅)である。筒井が長崎に着任したのは、ブロンホフが来日した文化十四年十月のことであるが、幕府は文政元年(一八一八)から同三年(一八二○)まで、毎年輸出銅の増額(定額三○万斤を九○万斤)を認めた。文政三年十月、筒井は任期みちて間宮と交代して帰府する折、オランダ側は筒井らの厚意に感謝する意味で素人芝居をみせたのである。」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

長崎屋宴会図.jpg

桂川甫賢筆『長崎屋宴会図』(文政5年、1822年)
長崎屋番外編(2)
https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=916

(再掲)

≪ この図の、左端の「和装の正装で頭巾を被っている男」が、「プロムホム・フイッセル」の「江戸参府」(1822)時の、「オランダ商館長(カピタン)」・「157代(149代)、※ヤン・コック・ブロンホフ」である。
 そして、その右手前の、「和装の正装のザンバラ髪の男」が、この時の「江戸参府」の実質的な切り盛りをした、そして、後に、『日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」』を著した、「フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)」その人ということになる。   ≫

(特記事項)

一 「文政三年(一八二〇)のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」に出て来る中心人物(「二つ」の芝居の主役)は、「文政五年(一八二二)江戸参府」の実質的な切り盛りをした「フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)」その人なのである。

●性急者ダアモン…オーフルメール・フィッセル(文政三年[一八二〇]の夏来日した一等書記)

●猟師ギリョット(仏・ギョ)…オーフルメール・フィッセル(文政三年[一八二〇]の夏来日した一等書記)
騎士タンケレート…オーフルメール・フィッセル(二役)

(再掲)

フィッセル.jpg

(「出島ホームページ」)
ヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセル( 1800-1848)=『日本風俗備考』
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/dejimasyoukan/dejimasyoukan.html
≪ オランダのハルデルウェクに生まれる。1820年出島に商館員として赴任。9年間出島に滞在し、1822年にはブロンホフの江戸参府に随行し、絵画や大工道具などをコレクションした。帰国後、豊富な収集品や日本での経験に基づき『日本風俗誌』を著した。1820年ブロンホフが長崎奉行や役人を招待して上演した芝居の中心人物としても知られる。
 オランダ、ハルダーワイク生まれ。フィッシャーは1820年にオランダ東インド会社の従業員として出島に到着し、9年間島に滞在しました。1822年(明治34年)、ブロムホフに続いて江戸の首都を訪れ、絵画や大工の道具などのコレクションを作った。
帰国後、日本で蓄積した豊富なコレクションと経験をもとに、日本のマナーや習慣を解説した『日本家屋研究所』を執筆。彼はまた、ブロムホフが1820年に長崎の治安判事と政府関係者を招待して上演した演劇の重要人物としても有名です。≫

二 「文政三年(一八二〇)のオランダ芝居」そして「文政五年(一八二二)江戸参府」時の「出島オランダ商館長(カピタン)」は、「157代(149代)、※ヤン・コック・ブロンホフ」その人である。

(再掲)

ヤン・コック・ブロンホフ.jpg

(「出島ホームページ」)
ヤン・コック・ブロンホフ(1779~1853)
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/dejimasyoukan/dejimasyoukan.html
≪ オランダのアムステルダムに生まれる。1809年に荷倉役として赴任し、フェートン号事件の際には当時の商館長ドゥーフと共に活躍し、その後1817年に商館長として再赴任する際、家族を同伴して来日したことで知られる。オランダでの公的な日本コレクションはブロンホフに始まったとされ、日本の文化風俗を伝える様々な文物を持ち帰った。ブロンホフの持ち帰った江戸後期の出島模型を元にして、長崎の出島復元事業は進められている。
 オランダ・アムステルダム生まれ。ブロムホフは1809年に倉庫長として出島にやってきた。彼は、オランダ東インド会社出島工場の当時の取締役であったヘンドリック・ドーフ・ジュニアとともに、フェートン事件に対処する上で重要な役割を果たしました。ブロムホフは、1817年に出島に戻ってオランダの工場長に就任したとき、家族に同行していたため、センセーションを巻き起こしたエピソードで知られています。当時、オランダ人は家族を日本に連れて行くことを許されていませんでした。
オランダにおける日本の記事の正式なコレクションは、日本の文化、マナー、習慣を伝えるさまざまなアイテムを持ち帰ったブロムホフによって始まったと考えられています。また、江戸時代後期に作られた出島の模型を持ち帰り、その模型をもとに、現在長崎で出島修復プロジェクトが進行中です。≫

三 「当時、出島の商館長であったヤン・コック・ブロンホフの日記によると、第二回目の上演のとき、長崎奉行・筒井和泉守政憲(まさのり)は、『一人の画家を(今日の一行に)同行させてあったが、その画家は、将軍に送るために、俳優たち、舞台、ならびに様々な動作のすべてをスケッチした』という。『一人の画家」(een shcilder)とは、川原慶賀であったことは間違いないようだ。』の指摘は重要である。
 すなわち、「出島の絵師・シーボルトの御用絵師」として名高い、日本ではなく海外に多くの作品が現存する、「鎖国・開国で揺れる江戸末期の長崎派の町絵師・川原慶賀」、その「出島」での、「デビュー作品」ともいうべきものが、この「アムステルダム市立公文書館 (Amsterdam City Archive)」の「出島俄芝居図 性急者-1・2・3 二人猟師乳汁売娘-2・3」
そして「川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻』」(「黒船館」蔵)と解したい。

四 そこで(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について(宮永孝稿)」(「法政大学学術機関リポジトリ」))の、その末尾の「注3」に記載されている「町絵師川原慶賀の伝記」は、次のとおりである。

≪(注3)町絵師川原慶賀の伝記については分らぬことが多い。生没年もはっきりしないが、天明六年(一七八六)の生れであるらしく、父香山も絵事を善くしたという(古賀十二郎「長崎絵画全史」北光書房、昭和19.8)。
 通称「登与助」といい、諱は種美、号は聴月楼といった。はじめ氏を川原といい、のち田口に変えた(氷見徳太郎「川原慶賀に就て(上)」(「国華」六八七号、昭和249.6)。
 文政六年(一八二一三)八月、出島の医官シーボルトが来日すると、今下町に住む慶賀は、その画業をシーボルトに見出され、出島出入りの絵師となるのだが、かれは写生に長じ動・植物、人物、風俗、肖像、風景画などを描いた。来舶のオランダ人の中には慶賀の絵を求める者が多かったという(黒田源次「長崎系洋画』創元社、昭和7.4)。
 同九年(一八二六)正月、シ1ボルトとともに江戸参府に従い、シーボルトが採取した植物を写生したり、各地の風俗風景などを描いたり、地図、地形図を作成した(林源吉「町絵師慶賀」(『長崎談叢』第十一号所収、昭和7.12)。
 文政十一年(一八二八)八月九日の夜から翌十日の夕刻まで、長崎を襲った台風は出島の諸所を破壊したばかりか(「甲子夜話」「増補長崎略史年表」)、シーポルトの荷を積んだ船が稲佐の海岸に打ち寄せられ、このとき国禁品(葵紋服、日本地図など)の数々が露見した。  
 任期満ちて帰国寸前のシーボルトは帰国を禁じられた(「シーボルト事件」)。慶賀はこのとき事件に連座し処罰された。参府のとき、シーボルトのために「薬草絵図」などを描いたことが糾弾され、同年十二月末に入牢し、翌十二年正月末に出牢し、町預けとなった(「長崎奉行所犯科帳[第百七])。
 謹慎中の慶賀は絵筆をやすめず、相変らず作画に従事していたが、西役所を写し、港内警備を担当していた細川藩、鍋島藩の番船の幕にその紋章をあずかり描いたために天保十三(一八四二)九月預を命じられ、のち手鎖預り、十一月には江戸・長崎払を申し渡された。 
 その後、慶賀は故郷を離れ他郷に身を置かざるをえなくなった。が、いつの頃かふたたび故郷に舞いもどり、酒屋町四十七番地に住し、名を田口と変えた。
 弘化のころ(一八四○年代)、慶賀の子・登七郎(号は”盧谷”、嫁のおとしは江戸生まれ)は、今下町で版画や銅版画を作り、これを売り出していたらししいい。万延元年(一八六○)に慶賀は七十五歳であったことはたしかであるが、その後亡くなったものらしい。が、没年月日、法号、墓石もわかっていない。
 いずれにせよ、慶賀はじつに見事な数々の細密画を描いたが、シーボルトはその巧みなる力量を高く評価していた。「かれの絵画数百は余の著書(『日本』l引用者)の中に掲げられて彼の功績を語るなり」(呉秀三『シーボルト先生その生涯及び功業3』東洋文庫昭和52.2)。 ≫

五 さらに、その(注19)も、ここに記して置きたい。

≪(注19)文政年間(一八二○年代)に、フィッシャー、J.F.van.Overmeer Fisscher(一八二〇~二年、第一次来日)が商館長ブロンホフの命により描いた出島図(紙本.ペン書用、20.0㎝×40.0㎝ レィデンの国立民族学博物館蔵)によると、ほぼT字形をしていたことがわかる(『出島図―その景観と変遷」中央公論美術出版、昭和六十一一年三月)、一三九頁。≫

六 「オランダ芝居の筋書に関する曰本側文献」

活字本と写本。
活字になったもので一番古い文献は、⑪太田南畝(一七四九~一八二三、江戸後期の文人、文化元年[’八〇四]長崎奉行所詰、翌年帰府)の「増訂一話一言」(蜀山人全集巻五、吉川弘文館、明治41・8)に収録されている「二人猟師憧売娘」と「性急者」である。これはオランダ趣味に富んだ山口触山が写したものを太田が転載したものである。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993339

「国立国会図書館デジタルコレクション」

「蜀山人全集. 巻4 増訂一話一言48巻 」

七 宇田川榕庵(1798-1846)の「謄写本」は次のとおり。

文政三年のオランダ芝居.gif
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「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その四) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その四)「シーボルト」の『日本』の「平戸のオランダ商館」周辺
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906465#?c=0&m=0&s=0&cv=8&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

平戸のオランダ人の商館.gif

「Nippon Atlas. 1Nippon p9」→「『日本』“NIPPON” 図版第1冊№8 平戸のオランダ人の商館」
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/UniversalViewer/4000115100/4000115100100010/NIPPON_01#?cv=7&c=0&m=0&s=0&r=0&xywh=-459%2C-43%2C1916%2C847

平戸オランダ商館.jpg

●作品名:平戸オランダ商館
●Title:A view of Hirado Factory of Duch
●分類/classification:阿蘭陀商館/Dejima and Hirado,
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
●登録番号/registration No.:1-4488-35
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=942&cfcid=146&search_div=kglist

【(別記)「徳川家(歴代将軍)」と「歴代オランダカピタン(商館長)」周辺(未完成)

平戸

平戸のオランダ商館.gif

『日蘭三百年の親交(村上直次郎著)』(「コマ番号」=26/104)(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954621/100?tocOpened=1

徳川家康.png

徳川家康(初代将軍 慶長8年(1603年)2月12日 - 慶長10年(1605年)4月16日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7

初代(オランダ商館長)、ヤックス・スペックス(1609年-1613年)

※オランダ人初の将軍(徳川秀忠)拝礼(1609年)

徳川秀忠.png

徳川秀忠(二代将軍 慶長10年(1605年)4月16日 - 元和9年(1623年)7月27日)

※長谷川等伯(72)没(1610年)
※幕府、キリスト教禁教令発布(1612年)
※支倉常長、ローマへ出発(1613年)

2代、ヘンドリック・ブラウエル(1613年-1614年)
※高山右近らキリスト教徒、マニラ・マカオに追放さる(1614年)
3代、ヤックス・スペックス(2度目)(1614年-1621年)
※大阪夏の陣(1615年)
※欧船の来航を平戸・中崎に制限(1616年)・狩野内膳(47)没・徳川家康(75)没
4代、レオナルド・キャンプス(1621年-1623年)
5代、コルネリス・ファン・ナイエンローデ(1623年-1632年)
※イギリス平戸商館を閉鎖(1623)・イスパニア人の来航を禁ず(1624年)
6代、ピーテル・ファン・サンテン(1632年-1633年)
※徳川秀忠(54)没

徳川家光.png

徳川家光(三代 元和9年(1623年)7月27日 - 慶安4年(1651年)4月20日)

7代、ニコラス・クーケバッケル(1633年-1638年)
※オランダ人の江戸参府毎年となる(1633-1690年)
※狩野山楽(77)没(1635年)
※本阿弥光悦(80)没(1637年)
※ポルトガル人の来航を禁ず(1639年)
※島原の乱(1637-38年)

島原の乱.gif

『日蘭三百年の親交(村上直次郎著)』(「コマ番号」=25/104)(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954621/100?tocOpened=1
 
8代、フランソワ・カロン(1639年3月2日-1640年2月13日)
著作『日本大王国志』 幸田成友訳、平凡社東洋文庫
9代、マクシミリアン・ル・メール(1641年2月14日-1641年5月)
※オランダ人を長崎出島に移す(1641)―鎖国の完成(徳川家光)―

長崎(出島)

9代(初代)、マクシミリアン・ル・メール(1641年5月-1641年10月30日)
10代(2代)、ヤン・ファン・エルセラック(1641年11月1日-1642年10月29日)
11代(3代)、ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル(1642年10月29日-1643年8月1日)
12代(4代)、ヤン・ファン・エルセラック(2度目)(1643年8月1日-1644年11月24日)
13代(5代)、ピーテル・アントニススゾーン・オーフルトワーテル(2度目)(1644年11月24日-1645年11月30日)
14代(6代)、レイニール・ファン・ツム(1645年11月30日-1646年10月27日)
15代(7代)、ウィレム・フルステーヘン(1646年10月28日-1647年10月10日)
16代(8代)、フレデリック・コイエット(1647年11月3日-1648年12月9日)
17代(9代)、ディルク・スヌーク(1648年12月9日-1649年11月5日)
18代(10代)、アントニオ・ファン・ブロウクホルスト(1649年11月5日-1650年10月25日)
19代(11代)、ピーテル・ステルテミウス(1650年10月25日-1651年11月3日)
※岩佐又兵衛没(1650年)・由比正雪の乱(1651年)
20代(12代)、アドリアン・ファン・デル・ブルフ(1651年11月1日-1652年11月3日)
※徳川家光(48)没

徳川家綱.png

徳川家綱(四代 慶安4年(1651年)8月18日 - 延宝8年(1680年)5月8日)

21代(13代)、フレデリック・コイエット(2度目)(1652年11月4日-1653年11月10日)
22代(14代)、ガブリエル・ハッパルト(1653年11月4日-1654年10月31日)
23代(15代)、レオナルド・ウインニンクス(1654年10月31日-1655年10月23日)
24代(16代)、ヨアン・ボウヘリヨン(1655年10月23日-1656年11月1日)
25代(17代)、ツァハリアス・ヴァグナー(1656年11月1日-1657年10月27日)
26代(18代)、ヨアン・ボウヘリヨン(2度目)(1657年10月27日-1658年10月23日)
※水戸光圀「大日本史」の編集を始む(1657年)
27代(19代)、ツァハリアス・ヴァグナー(2度目)(1658年10月22日-1659年11月4日)
28代(20代)、ヨアン・ボウヘリヨン(3度目)(1659年11月4日-1660年10月26日)
29代(21代)、ヘンドリック・インディヤック(1660年10月26日-1661年11月21日)
30代(22代)、ディルク・ファン・リエル(1661年11月11日-1662年11月6日)
31代(23代)、ヘンドリック・インディヤック(2度目)(1662年11月6日-1663年10月20日)
32代(24代)、ウィレム・ボルガー(1663年10月20日-1664年11月7日)
33代(25代)、ヤコブ・フルイス(1664年11月7日-1665年10月27日)
34代(26代)、ウィレム・ボルガー(2度目)(1665年10月28日-1666年10月27日)
35代(27代)、ダニエル・シックス(1666年10月18日-1667年11月6日)
36代(28代)、コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング(1667年11月6日-1668年10月25日)
37代(29代)、ダニエル・シックス(2度目)(1668年10月25日-1669年10月14日)
38代(30代)、フランソワ・デ・ハース(1669年10月14日-1670年11月2日)
39代(31代)、マルチヌス・カエサル(1670年11月2日-1671年11月12日)
40代(32代)、ヨハネス・カンフフイス(1671年10月22日-1672年11月12日)
41代(33代)、マルチヌス・カエサル(2度目)(1672年11月13日-1673年10月29日)
42代(34代)、ヨハネス・カンフフイス(2度目)(1673年10月29日-1674年10月19日)
43代(35代)、マルチヌス・カエサル(3度目)(1674年10月20日-1675年11月7日)
※狩野探幽(73)没(1674年)
44代(36代)、ヨハネス・カンフフイス(3度目)(1675年11月7日-1676年10月27日)
45代(37代)、ディルク・デ・ハース(1676年10月27日-1677年10月16日)
46代(38代)、アルベルト・ブレフインク(1677年10月16日-1678年11月4日)
47代(39代)、ディルク・デ・ハース(2度目)(1678年11月4日-1679年10月24日)
48代(40代)、アルベルト・ブレフインク(2度目)(1679年10月24日-1680年11月11日)
※徳川家綱(40)没、綱吉将軍になる(1680年)

徳川綱吉.png

徳川綱吉(五代 延宝8年(1680年)8月23日 - 宝永6年(1709年)1月10日)

49代(41代)、イサーク・ファン・スヒンネ(1680年11月11日-1681年10月31日)
50代(42代)、ヘンドリック・カンジウス(1681年10月31日-1682年10月20日)
51代(43代)、アンドレアス・クレイエル(1682年10月20日-1683年11月8日)
52代(44代)、コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング(2度目)(1683年11月8日-1684年10月28日)
53代(45代)、ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(1684年10月25日-1685年10月7日)
54代(46代)、アンドレアス・クレイエル(2度目)(1685年10月17日-1686年11月5日)
55代(47代)、コンスタンティン・ランスト・デ・ヨング(3度目)(1868年11月5日-1687年10月25日)
56代(48代)、ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(2度目)(1687年10月25日-1688年10月13日)
※生類憐みの令(1687年・徳川綱吉)
57代(49代)、コルネリス・ファン・オウトホールン(1688年10月13日-1689年11月1日)
58代(50代)、バルタザール・スウェールス(1689年11月1日-1690年10月21日)
※清、長崎に商館を設置(1689年)

エンゲルベルト・ケンペル.jpg

(「出島ホームページ」)
エンゲルベルト・ケンペル(1651~1716)=『日本誌』『江戸参府』『日本外国貿易史』『鎖国論』
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0311/index1.html

59代(51代)、ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(3度目)(1690年10月21日-1691年11月9日)
60代(52代)、コルネリス・ファン・オウトホールン(2度目)(1691年11月9日-1692年10月29日)
61代(53代)、ヘンドリック・ファン・ブイテンヘム(4度目)(1692年10月29日-1693年10月19日)
62代(54代)、ヘリット・デ・ヘーレ(1693年10月19日-1694年11月7日)
※井原西鶴没(1693年)・「奥の細道」成る(1694年)
63代(55代)、ヘンドリック・ディックマン(1694年11月7日-1695年10月27日)
64代(56代)、コルネリス・ファン・オウトホールン(3度目)(1695年10月27日-1696年10月15日)
65代(57代)、ヘンドリック・ディックマン(2度目)(1696年10月15日-1697年11月3日)
66代(58代)、ピーテル・デ・ボス(1697年11月3日-1698年10月23日)
※渡辺秀石、長崎奉行所御用絵師兼唐絵目利となる(1697年)
67代(59代)、ヘンドリック・ディックマン(3度目)(1698年10月23日-1699年10月21日)
68代(60代)、ピーテル・デ・ボス(2度目)(1699年10月21日-1700年10月31日)
69代(61代)、ヘンドリック・ディックマン(4度目)(1700年10月31日-1701年10月21日)
※徳川光圀(73)没(1700年)
70代(62代)、アブラハム・ドウグラス(1701年10月21日-1702年10月30日)
71代(63代)、フェルディナント・デ・グロート(1702年11月9日-1703年10月30日)
72代(64代)、ギデオン・タント(1703年10月30日-1704年10月18日)
73代(65代)、フェルディナント・デ・グロート(2度目)(1704年10月18日-1705年11月6日)
74代(66代)、ハルナス・メンシング(1705年11月-1706年10月)
75代(67代)、フェルディナント・デ・グロート(3度目)(1706年10月26日-1707年10月15日)
76代(68代)、ハルナス・メンシング(2度目)(1707年10月15日-1708年11月2日)
77代(69代)、ヤスパー・ファン・マンスダレ(1708年11月2日-1709年10月22日)
78代(70代)、ハルナス・メンシング(3度目)(1709年10月22日-1710年11月10日)
※徳川綱吉(64)没(1709年)

徳川家宣.png

徳川家宣(六代 宝永6年(1709年)5月1日 - 正徳2年(1712年)10月14日)

79代(71代)、ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(1710年11月10日-1711年10月31日)
80代(72代)、コルネリス・ラルディヨン(1711年10月31日-1712年11月7日)
81代(73代)、ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(2度目)(1712年11月-1713年11月)

徳川家継.png

徳川家継(七代 正徳3年(1713年)4月2日 - 享保元年(1716年)4月30日)

82代(74代)、コルネリス・ラルディヨン(2度目)(1713年11月7日-1714年10月27日)
83代(75代)、ニコラス・ヨアン・ファン・ホールン(3度目)(1714年10月27日-1715年10月19日)
84代(76代)、ギデオン・ボウダエン(1715年10月19日-1716年11月3日)

徳川吉宗.png

徳川吉宗(八代 享保元年(1716年)8月13日 - 延享2年(1745年)9月25日)

※尾形光琳(59)没(1716年)
85代(77代)、ヨアン・アオウェル(1716年11月3日-1717年10月24日)
86代(78代)、クリスティアーン・ファン・ブリベルグ(1717年10月24日-1718年10月13日)
87代(79代)、ヨアン・アオウェル(2度目)(1718年10月13日-1719年10月21日)
88代(80代)、クリスティアーン・ファン・ブリベルグ(2度目)(1719年10月21日-1720年10月21日)
89代(81代)、ロエロフ・ディオダティ(1720年10月21日-1721年11月9日)
90代(82代)、ヘンドリック・デュルファン(1721年11月9日-1722年10月)
91代(83代)、ヘンドリック・デュルファン(2度目)(1722年10月-1723年10月18日)
92代(84代)、ヨハネス・ゼンデンス(1723年10月18日-1725年10月25日)
93代(85代)、ヨアン・デ・ハルトグ(1725年10月25日-1726年10月15日)
94代(86代)、ピーテル・ボーケスティン(1726年10月15日-1727年11月3日)
95代(87代)、アブラハム・ミンネドンク(1727年11月3日-1728年10月21日)
96代(88代)、ピーテル・ボーケスティン(2度目)(1728年10月21日-1729年10月12日)
97代(89代)、アブラハム・ミンネドンク(2度目)(1729年10月12日-1730年10月31日)
98代(90代)、ピーテル・ボーケスティン(3度目)(1730年10月31日-1732年11月7日)
※新井白石(69)没
99代(91代)、ヘンドリック・ファン・デ・ベル(1732年11月7日-1733年10月27日)
100代(92代)、ロジャー・デ・ラベル(1733年10月27日-1734年10月16日)
101代(93代)、デビッド・ドリンクマン(1734年10月16日-1735年11月4日)
102代(94代)、ベルナルドス・コーパ(1735年11月4日-1736年10月24日)
103代(95代)、ヤン・ファン・デル・クルイッセ(1736年10月24日-1737年10月13日)
104代(96代)、ゲラルドゥス・ベルナルデュス・ビッスヘル(1737年10月13日-1739年10月21日)
105代(97代)、トーマス・ファン・ラヘー(1739年10月22日-1740年11月8日)
106代(98代)、ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン(1740年11月9日-1741年10月28日)
107代(99代)、トーマス・ファン・ラヘー(2度目)(1741年10月29日-1742年10月17日)
108代(100代)、ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン(2度目)(1742年10月17日-1743年11月9日)
※尾形乾山(81)没(1743年)
109代(101代)、デビッド・ブロウウェル(1743年11月5日-1744年11月1日)
110代(102代)、ヤコブ・ファン・デル・ワエイエン(3度目)(1744年11月2日-1745年12月28日)

徳川家重.png

徳川家重(九代 延享2年(1745年)11月2日 - 宝暦10年(1760年)5月13日)

111代(103代)、ヤン・ロウイス・デ・ウィン(1745年12月30日-1746年11月2日)
112代(104代)、ヤコブ・バルデ(1746年11月3日-1747年10月25日)
113代(105代)、ヤン・ロウイス・デ・ウィン(2度目)(1747年10月28日-1748年11月11日)
114代(106代)、ヤコブ・バルデ(2度目)(1748年11月12日-1749年12月8日)
115代(107代)、ヘンドリック・ファン・ホモエド(1749年12月8日-1750年12月24日)
116代(108代)、アブラハム・ファン・スフテレン(1750年12月25日-1751年11月18日)
117代(109代)、ヘンドリック・ファン・ホモエド(2度目)(1751年11月19日-1752年12月5日)
118代(110代)、デビッド・ボエレン(1752年12月6日-1753年10月15日)
119代(111代)、ヘンドリック・ファン・ホモエド(3度目)(1753年10月16日-1754年11月3日)
120代(112代)、デビッド・ボエレン(2度目)(1754年11月4日-1755年10月25日)
※渡辺始興(73)没(1755年)
121代(113代)、ハーバート・ベルメウレン(1755年10月25日-1756年10月12日)
122代(114代)、ダビド・ボエレン(3度目)(1756年10月13日-1757年10月31日)
123代(115代)、ハーバート・ベルメウレン(2度目)(1757年11月1日-1758年11月11日)
124代(116代)、ヨハネス・レイノウトス(1758年11月12日-1760年11月11日)

徳川家治.png

徳川家治(十代 宝暦10年(1760年)5月13日 - 天明6年(1786年)9月8日)

125代(117代)、マーティン・フイスホールン(1760年11月12日-1761年10月30日)
※葛飾北斎生まれる(宝暦10年=1760)
126代(118代)、ヨハネス・レイノウトス(2度目)(1761年10月31日-1762年12月2日)
127代(119代)、フレドリック・ウィレム・ウィネケ(1762年12月3日-1763年11月6日)
128代(120代)、ヤン・クランス(1763年11月7日-1764年10月24日)
129代(121代)、フレドリック・ウィレム・ウィネケ(2度目)(1764年10月25日-1765年11月7日)
130代(122代)、ヤン・クランス(2度目)(1765年11月8日-1766年10月31日)
131代(123代)、ヘルマン・クリスティアーン・カステンス(1766年11月1日-1767年10月20日)
132代(124代)、ヤン・クランス(3度目)(1767年10月21日-1769年11月8日)
133代(125代)、オルフェルト・エリアス(1769年11月9日-1770年11月16日)
※鈴木春信(53)没(1770年)
134代(126代)、ダニエル・アーメナウルト(1770年11月17日-1771年11月9日)
135代(127代)、アレント・ウィレム・フェイト(1771年11月10日-1772年11月3日)
136代(128代)、ダニエル・アーメナウルト(2度目)(1772年11月4日-1773年11月22日)
137代(129代)、アレント・ウィレム・フェイト(2度目)(1773年11月23日-1774年11月10日)
138代(130代)、ダニエル・アーメナウルト(3度目)(1774年11月11日-1775年10月28日)
139代(131代)、アレント・ウィレム・フェイト(3度目)(1775年10月28日-1776年11月22日)

ツュンベリー.jpg

ツュンベリー肖像画・模写/長崎市立博物館蔵
カルル・ペーテル・ツュンベリー(1743~1828)=『日本植物誌』『日本動物誌』
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0311/index1.html

140代(132代)、ヘンドリック・ゴッドフリード・デゥールコープ(1776年11月23日-1777年11月11日)
141代(133代)、アレント・ウィレム・フェイト(4度目)(1777年11月12日-1779年11月28日)
※池大雅(54)没(1776年)
著書『オランダ商館長の見た日本 往復書翰集』 横山伊徳編訳 吉川弘文館、2005年
143代(135代)、アレント・ウィレム・フェイト(5度目)(1780年11月6日-1781年11月23日)
※葛飾北斎(勝川春朗)「洒落本」「噺本」を初作(宝永10年=1781=22歳)
144代(136代)、イサーク・チチング(2度目)(1781年11月24日-1783年10月26日)
145代(137代)、ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(1783年10月27日-1784年8月)
※与謝蕪村(68)没(1783年)
146代(138代)、イサーク・チチング(3度目)(1784年8月-1784年11月30日)
147代(139代)、ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(2度目)(1784年11月30日-1785年11月21日)
148代(140代)、ヤン・フレデリック・ファン・パルケレール(1785年11月22日-1786年11月20日)
※※1786年(天明6)川原慶賀生まれる(長崎の今下町=現・長崎市築町)。
149代(141代)、ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(3度目)(1786年11月21日-1787年11月30日)

徳川家斉.png

徳川家斉(十一代 天明7年(1787年)4月15日 - 天保8年(1837年)4月2日)

150代(142代)、ヤン・フレデリック・ファン・パルケレール(2度目)(1787年12月1日-1789年8月1日)
151代(143代)、ヘンドリック・カスペル・ロンベルフ(4度目)(1789年8月1日-1790年11月13日)
152代(144代)、ペトルス・セオドルス・キャッセ(1790年11月13日-1792年11月13日)

153代(145代)、ヘイスベルト・ヘンミー(1792年11月13日-1798年7月8日)

※※1796年(寛政8)2月17日、シーボルト、ドイツのヴュルツブルクに生まれる

154代(146代)、レオポルド・ウィレム・ラス(1798年7月8日-1800年7月17日)
155代(147代)、ウィレム・ワルデナール(1800年7月16日-1803年11月4日)

156代(148代)、ヘンドリック・ドゥーフ(1803年11月14日-1817年12月6日)
著書『ドゥーフ日本回想録』 永積洋子訳 <第3期新異国叢書10> 雄松堂出版 2003年

ドゥーフ.jpg

ドゥーフ肖像画/長崎市立博物館蔵
ヘンドリック・ドゥーフ(1777~1835
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0311/index1.html

※喜多川歌麿(53)没(1802)
※※1811年(文化8)川原慶賀当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。
※歌川豊春(80)没(文化11年=1814)
※鳥居清長(64)没(文化12年=1815)
※山東京伝(前・北尾政演、64)没(文化13年=1816)
157代(149代)、ヤン・コック・ブロンホフ(1817年12月6日-1823年11月20日)

ヤン・コック・ブロンホフ.jpg

(「出島ホームページ」)
ヤン・コック・ブロンホフ(1779~1853)
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/dejimasyoukan/dejimasyoukan.html

※司馬江漢(72)没・伊能忠敬(74)没(文化15年=1818)
※※1820年(文政3)シーボルト、ヴュルツブ、ルク大学を卒業(24歳)
※大田南畝(75)没(文政3年=1820)
※※1822年(文政5)シーボルト、オランダの陸軍外科少佐になる(26歳)
※式亭三馬(47)没・亜欧田田善(75)没(文政5=1822)

フィッセル.jpg

(「出島ホームページ」)
ヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセル( 1800-1848)=『日本風俗備考』
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/dejimasyoukan/dejimasyoukan.html

158代(150代)、ヨハン・ウィレム・デ・スチューレル(1823年11月20日-1826年8月5日)
※※1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳)

シーボルト.jpg

(「出島ホームページ」)=一回目の来日時のシーボルト
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(1796~1866)=『日本』『日本動物誌』『日本植物誌』
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/dejimasyoukan/dejimasyoukan.html

※※慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く。
※※1824年(文政7)シーボルト、「鳴滝塾」をひらく(28歳)
※※1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳)
※※慶賀はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く。
※亀田鵬斎(75)没(文政9=1826)
※小林一茶(65)没(文政10=1826)

159代(151代)、ヘルマン・フェリックス・メイラン(1826年8月4日-1830年8月5日)
著書『メイラン 日本』 庄司三男訳 <第3期新異国叢書1> 雄松堂出版 2002年
※※1827年(文政10)シーボルト、娘いね生まれる(31歳)
※※1828年(文政11)「シーボルト事件」おこる(32歳)
※※シーボルト事件に際しては多数の絵図を提供した慶賀も長崎奉行所で取り調べられ、叱責される。
※酒井抱一(68)没(1828年)
※※1829年(文政12)シーボルト国外追放になる(33歳)
※※シーボルトの後任となったハインリヒ・ビュルゲルの指示を受け、同様の動植物画、写生図を描く。

160代(152代)、ヤン・ウィレム・フレデリック・ファン・シッテルス(1830年11月1日-1834年11月30日)
※※1832年(天保3)シーボルト、「日本」刊行はじまる(36歳)
※※1833年(天保4)シーボルト、「日本動物誌」刊行はじまる(37歳)
161代(153代)、ヨハネス・エルデウィン・ニーマン(1834年12月1日-1838年11月17日)
※※1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる(39歳)
※※1836(天保7)『慶賀写真草』という植物図譜を著す。

徳川家慶.png

徳川家慶(十二代 天保8年(1837年)4月2日 - 嘉永6年(1853年)6月22日)

162代(154代)、エドゥアルド・グランディソン(1838年11月18日-1842年11月)
※谷文晁(78)没(天保11年=1840)
※渡辺崋山(49)没(天保12年=1841)
※※1842(天保13)オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れた。これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受ける。
163代(155代)、ピーテル・アルバート・ビック(1842年11月-1845年10月31日)
164代(156代)、ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン(1845年11月1日-1850年10月31日)
著書『レフィスゾーン江戸参府日記』 片桐一男訳 <第3期新異国叢書6> 雄松堂出版 2003年
※※1846(弘化3)長崎を追放されていた慶賀は、長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである脇岬(現・長崎市脇岬町)に向かい、脇岬観音寺に残る天井絵150枚のうち5枚に慶賀の落款があり、50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる。また、この頃から別姓「田口」を使い始める。その後の消息はほとんど不明で、正確な没年や墓も判っていない。ただし嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画が残っていること、出島の日常風景を描いた唐蘭館図(出島蘭館絵巻とも)は開国後に描かれていること、慶賀の落款がある万延元年(1860年)作と推定される絵が残っていることなどから少なくとも75歳までは生きたとされている。一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)。石崎融思(79)没(弘化3=1846)

※葛飾北斎(90)没(嘉永2年=1849)

165代(157代)、フレデリック・コルネリス・ローゼ(1850年11月1日-1852年10月31日)
166代(158代)、ヤン・ドンケル・クルティウス(1852年11月2日-1860年2月28日)

※1853年(嘉永6)ペリー、浦賀に来航

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徳川家定(十三代 嘉永6年(1853年)11月23日 - 安政5年(1858年)7月6日)

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徳川家茂(十四代 安政5年(1858年)10月25日 - 慶応2年(1866年)7月20日)

※1859年(安政6)横浜開港、この頃から横浜絵が制作され始める
※※1859年(安政6)シーボルト再び長崎に来る(63歳)

シーボルト2.gif

(「出島ホームページ」)=再来日時のシーボルトの
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(1796~1866)
※※1861年(文久元)シーボルト、幕府から江戸に招かれる(65歳)
※※1862年(文久2)シーボルト、日本をはなれる(66歳)
※※1866年(慶応2)10月18日、シーボルト、ドイツのミュンヘンで亡くなる(70歳)
※1866年(慶応2)高橋由一、ワーグマンに師事

徳川慶喜(.png

徳川慶喜(十五代 慶応2年12月5日(1867年1月10 - 慶応3年12月9日(1868年1月3日)

※1867年(慶応3)大政奉還、江戸幕府滅亡     

注1 「徳川家(歴代将軍)」「歴代オランダカピタン(商館長)」「シーボルト」「北斎」「川原慶賀」関連は、「ウィキペディア」などを主軸とする。
注2 『日蘭三百年の親交(村上直次郎著)』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)などを副軸とする。
注3 「江戸日蘭の交流」(「国立国会図書館」)・「川原慶賀が見た江戸時代の日本(1)」
(「長崎歴史文化博物館」)「長崎WEBマガジン」などにより随時補訂していくこととする。            】

(補記その一)「日蘭交流の始まり」

https://www.ndl.go.jp/nichiran/s1/s1_1.html

1. 日蘭交流の始まり
(1)リーフデ号の日本漂着

リーフデ号.gif

リーフデ号
http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-125f.html

日本とオランダの400年にわたる交流は、慶長5年(1600)に始まる。この年の3月(1600.4)、豊後国臼杵(現大分県臼杵市)の海岸に1隻の外国船が漂着した。これが、日本に到着した最初のオランダ船リーフデ号である。リーフデ号を含む5隻のオランダ船は、1598年6月、東洋を目指しロッテルダムを出港した。船団は南アメリカ南端を回って太平洋に入るコースをとったが、嵐やスペイン・ポルトガル船の襲撃にあい、東洋までたどりついたのはリーフデ号のみであった。少数の生存者の中に、船長クワケルナック、高級船員ヤン・ヨーステン、イギリス人航海士のウィリアム・アダムスらがいた。彼らは、政治の実権を握っていた徳川家康の命で大坂に召し出され、その知識により重用されることになる。ヤン・ヨーステンは朱印状を与えられ貿易に活躍、江戸の居住地はその名をとって「八重洲河岸」と呼ばれるようになった。アダムスは家康に信任され、外交顧問としても活動、与えられた知行地と水先案内の職務により、「三浦按針」と称された。

リーフデ号漂着の記事→「日本風俗備考」.jpg

リーフデ号漂着の記事→「日本風俗備考」

(2)オランダ人への通商許可、平戸商館の設置

当時日本との交易に携わっていたのは主にポルトガル人であった。家康は彼らに対抗する勢力として、日本との貿易を許可する朱印状をクワケルナックらに与えた。これを受けてオランダ東インド会社の船が慶長14年(1609)九州平戸に到着、オランダ総督マウリッツからの家康への親書と献上品をもたらす。家康は使節を駿府に迎え、書状と通航許可の朱印状を託した。これによりオランダ商館が平戸に設立され、ここに日蘭の貿易が開始された。
 当時のオランダは、1568年に新教徒がスペインへの反乱を起こし、1581年に独立を宣言したばかりの新興国であった。スペイン船による貿易に頼れなくなったオランダは、その存立のため積極的に海外に進出した。オランダ東インド会社(Vereenigde Oost-Indische Compagnie, 略称VOC)はいくつかの商社を統合して1602年に設立され、喜望峰以東の貿易独占権や外国との条約締結権など広範な権力行使を政府から認可されていた。ジャワ島のバタビア(現ジャカルタ)に本拠を置き、東インド総督が駐在していた。日本の商館もその指揮下にあった。

平戸のファクタリジ(商館).gif

https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view?coll=ngvn&identifier=KONB11%3A388A6-P-028-GRAV
平戸のファクタリジ(商館)
製造年  1669
製造場所 アムステルダム
定義
オランダは1609年に日本政府から貿易パスを受け取ると、長崎の北西にある平戸島にファクタリジを設立しました。ジャック・スペックス(1588-?)が責任者となり、地元当局との良好な関係構築に成功。オランダ人は平戸で比較的自由にとどまり、地元の人々と交流して結婚する人もいます。しかし、1639年、日本政府は、オランダ人とオランダ人のハーフの日本人のハーフの子供全員に国外退去を命じました。1641年、オランダ人はついに平戸のファクタリジを地面に破壊し、長崎湾の出島に移動せざるを得なくなった。
投稿者: Gedenkwaerdige Gesantschappen
オブジェクトのタイプ  彫刻(石版画)
徴収    オランダ - 日本 
施設    Koninklijke Bibliotheek
源     388 A 6 (イラストレーション), コニンクリケ図書館
著作権   情報: Koninklijke Bibliotheek

(3)台湾事件

日蘭貿易には当初なんら制限はなかったが、元和2年(1616)明船以外の外国船の入港が平戸と長崎に限定され、さらに貿易をめぐる紛争のため一時中断する。
 オランダは、スペイン、ポルトガルに対抗し中国の生糸を入手するため、1622年台湾に拠点として商館と要塞(ゼーランディア城)を設けた。現地での貿易独占を目指すオランダ人と日本の商人との間に紛争を生じ、バタビア政庁は台湾に赴任する長官ヌイツに解決にあたらせた。しかし、ヌイツは1628年朱印船船長浜田弥兵衛と争い、浜田は数名のオランダ人を人質として日本に連れ去った。浜田らの訴えにより、オランダとの貿易は全面的に停止され、ヌイツは責任者として日本側に引き渡され、人質と交換に幽閉された(1636年解放)。これにより解決が図られ、寛永10年(1633)貿易が再開される。貿易許可の「御礼」としての商館長の江戸参府は、このとき義務付けられ定例となった。
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「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その三) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その三)「シーボルト」の『日本』の「出島のオランダ商館(平面図)」周辺
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906465#?c=0&m=0&s=0&cv=8&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

「『日本』“NIPPON” 図版第1冊№5 出島のオランダ商館(平面図)」

「p6 出島のオランダ商館(平面図)」.gif
 
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/UniversalViewer/4000115100/4000115100100010/NIPPON_01#?cv=4&c=0&m=0&s=0&r=0&xywh=-694%2C-2%2C2260%2C1000

 この「シーボルト」の『日本』の「出島のオランダ商館(平面図)」は、その表記の「1828」
から、「1828年(文政11)」の、いわゆる「シーボルト事件」が起った年で、その年の「出島」の平面図ということになる。
 この「出島」の「平面図」の原画(元絵)ということになると、次の「川原慶賀」の作などが上げられるであろう。

出島図1.jpg

●作品名:出島図
●Title:Dejima
●分類/classification:阿蘭陀商館、阿蘭陀人/Dejima
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
●登録番号/registration No.:5996-2
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1411&cfcid=146&search_div=kglist

 この「出島図」は、上記の「平面図」と同じ方向の、画面の下(北側)が、「出島」の入口になるが、この逆の、画面の上(南側)が、その入口になっている次絵図もある。いずれも「ライデン国立民族学博物館」所蔵のものである。この二つの絵図は、その台紙に筆記体の文字や印章など捺されているが、「2枚1組」のように思われる(「ライデン国立民族学博物館」での「登録番号」も掲載して置きたい)。

出島図2.jpg

●作品名:出島図
●Title:Dejima
●分類/classification:阿蘭陀商館、阿蘭陀人/Dejima
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden
●登録番号/registration No.:5996-1
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1408&cfcid=146&search_div=kglist

 ちなみに、「大槻玄沢」関連の「出島図」(関市博物館蔵)のものは、次のとおりである。

出島図3.jpg

●作品名:出島図
●Title:Dejima
●分類/classification:阿蘭陀商館/Dejima
●形状・形態/form:絹本彩色、額装/painting on silk, with amount
●所蔵館:一関市博物館 Ichinoseki City Museum
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3503&cfcid=146&search_div=kglist

(補記その一)「シーボルド事件」で押収された「シーボルト関連の絵図」など(抜粋)

http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_siebold_main.html

【 「シーボルトの所持品捜査押収(原文:内閣文庫文政雑記より翻刻→翻刻省略、一部抜粋)」

文政十一年戌子 →文政11年
十一月十日出島隠密御用手続左之通→11月10日出島の穏密捜査手続(1828年)
        本多佐渡守様御家来    
         御用人   伊藤半右衛門
         目安方   遠藤  兵蔵
                古沢 内蔵助
               矢野 兵大夫
               御役小付両組
                 弐拾人
            右手付探番 小役
右之通十日正六時御役所江相揃、御内密御用之次第承り
右人数手分追々出島江繰入、加比丹部屋ニ而外科阿蘭
陀人シーボルト呼出、左之通被仰渡 →シーボルトを呼出し以下申渡す
          阿蘭陀人
              かひたん江  → 商館長へ
          阿蘭陀人
              シーホルト  → シーボルトへ 
右之者儀江府拝礼罷出候節、高橋作左衛門江度々致面会
日本地図并蝦夷地之図、其外相頼同人より差送候旨
此度於江府作左衛門御詮義ニ相成居候、依之シーホルト
所持之品者荷物ニ至迠致封印置、其方共立会之上封解明
相改、御制禁之品々取上ケ、其余之品ハ無構相渡遣ス、
其旨相心得、正路ニ改を受候様可申渡候
   子十一月            →文政11年11月
右御書付之趣通詞致和解、かひたん江申渡、シーホルト
義一通り御詮義中、同人留守部屋江出役致手分罷越、
所持之手道具并荷物ニ至迄封を付置、出役一同かひたん
召連シーホルト部屋御改ニ相成候所、改出相成候品々
左之通御取上御役所江持帰候事        → 押収品は下記の通り
    一 分間江戸絵図       完
    一 新増細見京絵図      全
    一 琉球国地図        壱枚
    一 絵            壱枚
    一 江戸名所絵        壱枚
    一 装束図式         弐冊
    一 朝鮮国図         壱枚
    一 天象儀象候儀       壱冊
    一 浪華以儀麻道撰      壱枚
    一 凡例           壱枚
    一 大日本細見指掌全図    上紙
    一 脇差           壱腰
    一 刀            壱腰
    一 丸鏡           壱面
    一 書物           壱巻
    一 長崎入口之図       壱冊
    一 絵図           九枚
    一 公家之図         壱枚
    一 古銭           七色
    一 桶狭間合戦略記      壱冊
    一 同古跡記         壱枚
    一 無間鐘由来記録      壱冊
    一 中山刃雉子        壱冊
    一 夜泣石敵討        壱冊
    〆
右之品々シーホルト部屋江有之御制禁之品々ニ而御取
上ケ相成、右之外シーホルト大蔵二軒封ヲ付いまだ御改
ハ無御座候、此内ニ具足・鎗抔も有之様風聞候得共全く
推量之儀共ニ候哉と奉存候 】

(補記二)「シーボルト『NIPPON』内の様々な地図」など(抜粋)

https://map-freak.com/siebold-nippon/

【  目次
1 地図の概要
2 シーボルトと『NIPPON』
-1フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト
-2シーボルト事件
-3『NIPPON』の出版
3「日本とその隣国および保護国」(1832年)
4「日本輿地路程全図」(1835年)
5「日本人作成による原図および天文観測に基づく日本地図」(1840年)
まとめ
参考文献

3「日本とその隣国および保護国」(1832年)

日本とその隣国および保護国.gif

 最初に紹介する地図が1832年の第1回配本に掲載されている「日本とその隣国および保護国」と呼ばれる日本とその周辺の地図です。
 この地図は前出の高橋景保による「日本辺界略図(にほんへんかいりゃくず」(1809年)をドイツ語に翻訳したものです。

日本辺界略図.gif

「日本辺界略図」(1809年)

5「日本人作成による原図および天文観測に基づく日本地図」(1840年)

天文観測に基づく日本地図.jpg

「日本人作成による原図および天文観測に基づく日本地図」

 最後に紹介するのが、1840年の第9回配本に収録されている「日本人作成による原図および天文観測に基づく日本地図」という何やら長ったらしい名前のついた以下の地図です。
この地図こそシーボルト事件で問題になった伊能忠敬による日本地図、「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」(通称「伊能図」)をオリジナルとし、メルカトル図法と呼ばれる地図投影法に修正したものです。

伊能図.jpg

基になった「伊能図」(東日本図・西日本図をつなげたもの)

 現代のものと比較しても遜色ないこの地図は、その詳細さゆえに、国防上の理由からその流出がシーボルト事件として問題になったのです。
 そしてこの地図はのちにヨーロッパやアメリカで出版される日本地図の原型となりました。   】

(補記三)日本初公開!!「シーボルト事件」で没収された国禁地図の写しがシーボルト子孫宅で新発見!!

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/press/p160706/index.html

【 江戸時代後期にオランダ商館付の医師として来日したシーボルトが、ひそかに持ち出そうとして果たせなかった地図の写しが、シーボルトの子孫であるドイツのフォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン家で発見されました。
 シーボルトは、国禁の地図を幕府天文方の高橋景保(かげやす)から手に入れましたが、それが帰国直前に発覚し、幕府に地図を没収されてしまいます(シーボルト事件)。今回、人間文化研究機構・国立歴史民俗博物館の調査によって、シーボルトの子孫の家で「カナ書き伊能特別小図」(国立国会図書館蔵)の写しが発見され、シーボルトがひそかに持ち出そうとした国禁の地図が「カナ書き伊能特別小図」であることが証明されました。
 また、高橋景保に対する尋問の詳細を伝える資料はほとんどないとされていますが、その内容を記した文書(個人蔵 国立歴史民俗博物館寄託)が確認され、この文書からもその地図が「カナ書き伊能特別小図」であることを確かめることができました。

企画展示「よみがえれ! シーボルトの日本博物館」
国立歴史民俗博物館(千葉・佐倉)/2016年7月12日(火)~9月4日(日)

https://www.rekihaku.ac.jp/research/list/joint/2010/siebold/index-j.html

「シーボルト父子関係資料をはじめとする前近代(19世紀)に日本で収集された資料についての基本的調査研究」プロジェクト


シーボルト日本図 秋岡武次郎古地図コレクション 当館所蔵       】
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「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その二) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その二)「シーボルト」の『日本』の「長崎港と湾の眺望」周辺
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906465#?c=0&m=0&s=0&cv=8&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

長崎港と湾(出島)の展望.gif

「『日本』“NIPPON” 図版第1冊№9 長崎港と湾の眺望」
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/UniversalViewer/4000115100/4000115100100010/NIPPON_01#?cv=8&c=0&m=0&s=0&r=0&xywh=-368%2C-25%2C1740%2C770

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

≪『NIPPON』について
Nippon, Archiv zur Beschreibung von Japan und dessen Neben- und Schutzländern : jezo mit den südlichen Kurilen, Krafto, Kooraï und den Liukiu- Inseln, nach japanichen und europäischen Schriften und eigenen Beobachtungen bearbeitet.
 
 『NIPPON』の副題に「日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。」とあります。ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、その生涯を賭けた日本に関する著作物の一つです。
 シーボルトは、長崎出島の商館付き医師として来日し、日本人に医学その他の科学を教えるかたわら、多くの資料を 収集し、持ち帰り、整理して、国王ヴィルへルム2世の援助を受けて、1832年から51年にかけてオランダのライデンから自費出版しました。当初は、図版をカラー版と白黒版で価格差を付け、20回配本の予約出版で刊行しています。全点刊行終了後、各人が好きな細工を施した装丁で製本し、蔵書としたのですが、「NIPPON」の場合、20年をかけての分冊配本のため完全版は今以て不明で書誌学的には「天下の奇書」とも言われています。
 その内容は、日本の地理、歴史、風俗などから、人種、言語、動植物そのほか百般に渉って詳細に記述され、西欧での日本研究の基礎となった文献です。
 当館では、大正7年の創立開館記念収蔵として、初代館長伊東尾四郎が財界の援助を受けて入手した、本文3冊、カラー版を含む図版編2冊の洋皮装丁豪華製本版を所蔵しています。≫(「福岡県立図書館/デジタルライブラリ シーボルト資料 『日本』“NIPPON” 図版一覧画面」)

 上記の「『日本』“NIPPON” 図版第1冊№9 長崎港と湾の眺望」に関連して、『よみがえれ! シーボルトの日本博物館(監修:国立歴史民俗博物館)』では、「4 出島と長崎港の図」として、次の短い紹介文を付している。 

≪ 4 出島と長崎港の図

SAB→フォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン家(Brandenstein-Zeppelin Family Archives)→シーボルトの次女(マティルダ)の嫁ぎ先の「ブランデンシュタイン=ツェッペリン家」の所蔵(シーボルト家の継承品の個人所蔵)(『よみがえれ! シーボルトの日本博物館(監修:国立歴史民俗博物館)』)
→「ツェッベリル伯爵」の「ブランデンシュタイン城文庫」所蔵→「シーボルトの遺品は長女ヘレーネの嫁ぎ先のウルム・エレバッハ男爵家へ、そして、その甥(シーボルトの孫のツェッベリル伯爵に継承されている)(『長崎出島からの旅 ヨーロッパに眠る日本の宝 シーボルト・コレクション(監修:長崎県立美術博物館)』)

19世紀前半

シーボルト『日本』掲載の図版用にヨーロッパで作成された原画である。なお、使用した日本の元絵は特定できていない。(宮坂正英稿) ≫(『よみがえれ! シーボルトの日本博物館(監修:国立歴史民俗博物館)』p12)

この「日本の元絵」は、下記のアドレスで紹介した、「川原慶賀」の「長崎港・出島屏風」(ライデン国立民族博物館蔵)のものであろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28

(再掲)

【(補記)「海外で注目される江戸時代の天才絵師・川原慶賀の唯一現存する屏風が2年の修復作業を終え、オランダ・ライデン国立民族学博物館で公開 — オランダ国立世界文化博物館 From: PR TIMES 2021-11-04 17:48 — 」周辺

https://japan.zdnet.com/release/30611387/

出島屏風1.jpg

https://prtimes.jp/i/89675/1/resize/d89675-1-77c0f940c4b51d99e0f2-0.jpg

出島屏風2.jpg

https://prtimes.jp/i/89675/1/resize/d89675-1-ac15d0be10e5445eaa30-1.png

出島屏風3.jpg

■ARで屏風を鑑賞できる「出島エクスペリエンス」: (リンク »)

慶賀の落款.gif

■ARで屏風を鑑賞できる「出島エクスペリエンス」: (リンク »)中の「慶賀の落款(署名・印章)   】

 この「川原慶賀」の「長崎港・出島屏風」を、最初に紹介したのは、次のアドレスのものであった。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-22

(その十五)「南蛮(ポルトガル・スペイン)画」から「蘭(オランダ・阿蘭陀・紅毛)画」(「洋風画)、そして「長崎洋風画(若杉五十八・荒木如元・川原慶賀)」周辺など

 そこでは、「長崎洋風画の先駆者・若杉五十八と荒木如元」「シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀」「長崎版画と版下絵師」などについて触れ、そこでは、「川原慶賀・慶賀工房の面々」などについて、次のように紹介した。

(再掲)

【 「シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀」
文政6年、オランダ東インド政庁の商館付医師として長崎出島に赴任したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)は、日本の門人に西洋医学などを教授するとともに、日本に関する総合的な調査研究を行なった。当時「出島出入絵師」の権利を得て出島に出入していた町絵師・川原慶賀は、シーボルトにその画才を見出され、シーボルトが日本に滞在していた約6年間、お抱え絵師として日本の風俗や動植物の写生画を描いた。
この間、シーボルトがジャワから呼び寄せたオランダ人画家フィレネーフェに洋画法を学んでいる。また、シーボルトの江戸参府にも随行し、日本の風景、風俗、諸職、生活用具、動植物などの写生図を描くなど、シーボルトの日本調査に協力した。多量の写生図はシーボルトにより持ち帰られ、オランダのライデン国立民族学博物館に伝わっている。

  川原慶賀(1786-不明)

 天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。 
 25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日たシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。
また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。

  川原慮谷(不明-1872)

 川原慶賀の子。通称は登七郎、字は張六。のちに姓を田中に改め、通称を富作とした。写生を得意とし、西洋画風を巧みに用いた。弘化の頃、今下町で長崎版画や銅版画を作って販売していたとみられる。明治5年死去した。

  田口慮慶(不明-不明)

 絵事をよくし、特に肖像画を得意とした。慶賀、慮谷の一族とみられる。  】(「UAG美術家研究所」)

 さらに、次のアドレスで、「川原慶賀」の「長崎港図・ブロンホフ家族図」(「長崎市立博物館蔵)などについて紹介した。そして、これは、衝立の両面に描かれたもので、その「表裏」は定かではないが、その「ブロンホフ家族図」には、「慶賀の款印(欧文印「Toyoskij」と帽子形の印「慶賀」)が見られる」ことからすると、こちらが、その衝立の「表」面で、「長崎港図」は「裏」面と解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-07

川原慶賀「長崎港ずブロンホフ家族図」.jpg

「長崎港図・ブロンホフ家族図」≪川原慶賀筆 (1786-?)≫ 江戸時代、文政元年以降/1818年以降 絹本著色 69.0×85.5 1基2図 神戸市立博物館蔵
題記「De Opregte Aftekening van het opper hoofd f:cock BIomhoff, Zyn vrouw en kind, die in Ao1818 al hier aan gekomen Zyn,」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455049
【 衝立の両面に、19世紀に長崎の鳥瞰図と、オランダ商館長コック・ブロンホフとその家族の肖像が描かれています。この衝立は、作者の川原慶賀(1786-?)がシーボルトに贈呈したものの、文政11年(1828)のシーボルト事件に際して長崎奉行所によって没収されたという伝承があります。その後長崎奉行の侍医・北川家に伝来した。昭和6年(1931)に池長孟が購入しました。
現在のJR長崎駅付近の上空に視座を設定して、19世紀の長崎とその港の景観を俯瞰しています。画面左中央あたりに当時の長崎の中心部、唐人屋敷・出島・長崎奉行所が描かれ、それをとりまく市街地の様子も克明に描かれています。
この衝立の片面に描かれているブロンホフ家族図には、慶賀の款印(欧文印「Toyoskij」と帽子形の印「慶賀」)が見られる。コック・ブロンホフは文化6年(1809)に荷倉役として来日。文化10年のイギリスによる出島奪還計画に際し、その折衝にバタビアへ赴き、捕らえられイギリスへ送られたました。英蘭講和後、ドゥーフ後任の商館長に任命され、文化14年に妻子らを伴って再来日。家族同伴の在留は長崎奉行から許可されず、前商館長のヘンドリック・ドゥーフに託して妻子らはオランダ本国に送還されることになりました。この話は長崎の人々の関心を呼び、本図をはじめとする多くの絵画や版画として描かれました。
 
来歴:(シーボルト→長崎奉行所?)→北川某→1931池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019
・神戸市立博物館特別展『日本絵画のひみつ』図録 2011
・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008
・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008
・神戸市立博物館特別展『絵図と風景』図録 2000 】(「文化遺産オンライン」)

 これらに関連して、次の「シーボルト・川原慶賀」関連年表も掲載した。

【  「シーボルト・川原慶賀」関連年表
https://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/828000/p009222.html
(「川原慶賀」関連=「ウィキペディア」)

※1786年(天明6)川原慶賀生まれる(長崎の今下町=現・長崎市築町)。
1796年(寛政8)2月17日、シーボルト、ドイツのヴュルツブルクに生まれる
※1811年(文化8)川原慶賀当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。
1820年(文政3)シーボルト、ヴュルツブ、ルク大学を卒業(24歳)
1822年(文政5)シーボルト、オランダの陸軍外科少佐になる(26歳)
1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳)
※慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く。
1824年(文政7)シーボルト、「鳴滝塾」をひらく(28歳)
1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳)
※慶賀はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く。
1827年(文政10)シーボルト、娘いね生まれる(31歳)
1828年(文政11)「シーボルト事件」おこる(32歳)
※シーボルト事件に際しては多数の絵図を提供した慶賀も長崎奉行所で取り調べられ、叱責される。
1829年(文政12)シーボルト国外追放になる(33歳)
※シーボルトの後任のハインリヒ・ビュルゲルの指示を受け、同様の動植物画、写生図を描く。
1832年(天保3)シーボルト、「日本」刊行はじまる(36歳)
1833年(天保4)シーボルト、「日本動物誌」刊行はじまる(37歳)
1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる(39歳)
※1836(天保7)『慶賀写真草』という植物図譜を著す。
※1842(天保13)オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れた。これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受ける。
※1846(弘化3)長崎を追放されていた慶賀は、長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである脇岬(現・長崎市脇岬町)に向かい、脇岬観音寺に残る天井絵150枚のうち5枚に慶賀の落款があり、50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる。また、この頃から別姓「田口」を使い始める。その後の消息はほとんど不明で、正確な没年や墓も判っていない。ただし嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画が残っていること、出島の日常風景を描いた唐蘭館図(出島蘭館絵巻とも)は開国後に描かれていること、慶賀の落款がある万延元年(1860年)作と推定される絵が残っていることなどから少なくとも75歳までは生きたとされている。一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)。
1859年(安政6)シーボルト再び長崎に来る(63歳)
1861年(文久元)シーボルト、幕府から江戸に招かれる(65歳)
1862年(文久2)シーボルト、日本をはなれる(66歳)
1866年(慶応2)10月18日、シーボルト、ドイツのミュンヘンで亡くなる(70歳) 】

 さらに続けて、下記のアドレスで、次の「長崎湾・オランダ船(フリゲート艦)」と「長崎眺望図」(4枚一組)を紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-15

(再掲)

「長崎湾・オランダ船(フリゲート艦)」.jpg

https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/baai-nagasaki-fregatschepen-kawahara-keiga?coll=ngvn&facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=1&maxperpage=36&identifier=KONB11%3A360-7887
「長崎湾・オランダ船(フリゲート艦)」(川原慶賀筆)制作年次:1823、制作場所:長崎県・日本、大きさ:60 × 80センチメートル、所蔵館:フォルケンクンデ国立美術館=ライデン国立民族学博物館
「解説:この長崎湾の絵は、1824年頃に日本の画家川原慶賀によって作られました。オランダの商館が位置する出島という人工島は、扇形であることがよく分かります。描かれている船はオランダのフリゲート艦アリヌス・マリヌスとアイダ・アレイダと思われる。」

https://misakimichi.com/archives/3908

≪ 眺望図は4枚一組。出島のオランダ商館員フィッセルのコレクションとされ、オランダのライデン国立民族学博物館が所蔵している。江戸期の1820年前後の風景とみられ、田上方面の山あいに小さく描かれた建物の詳細が不明だった。 ≫

眺望図は4枚一組.jpg

「長崎湾眺望図」(「ライデン国立民族学博物館(フィセル・コレクション)」
(『川原慶賀の「日本」画帳―シーボルトの絵師が描く歳時記(下妻みどり著)』所収「口絵」)

 さて、ここで、上記の「長崎港図・ブロンホフ家族図」の「長崎港図」と同じ構図と思われる「長崎港図」(ロッテルダム海事博物館蔵)が、下記のアドレスで紹介されている。

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3515&cfcid=146&search_div=kglist

長崎港図2.jpg

●作品名:長崎港図
●Title:A view of Nagasaki port
●分類/classification:阿蘭陀商館/Dejima
●形状・形態/form:絹本彩色、額装/painting on silk, with amount
●所蔵館:ロッテルダム海事(洋)博物館 Maritime Museum, Rotterdam

 これに続けて、様々な「長崎眺望図・長崎港図」などが、上記のアドレスの「ビジュアル百科事典川原慶賀が見た江戸時代の日本(1)」(長崎文化歴史博物館)で満載されている。

長崎湾眺望図.jpg

●作品名:長崎湾眺望図
●Title:A view of Nagasaki port
●分類/classification:阿蘭陀商館/Dejima
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

長崎港雪景.jpg

●作品名:長崎港雪景
●Title:Snowscape at Nagasaki
●分類/classification:阿蘭陀商館/Dejima
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

長崎港図3.jpg

●作品名:長崎港図
●Title:A view of Nagasaki port
●分類/classification:阿蘭陀商館/Dejima
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

長崎港図.jpg

●作品名:長崎港図
●Title:A view of Nagasaki Port
●分類/classification:阿蘭陀商館/Dejima
●形状・形態/form:絹本彩色、額装/painting on silk, with amount
●所蔵館:一関市博物館 Ichinoseki City Museum

 この最後の「長崎港図」は、日本の「蝦夷(北海道)」に近い「東国」の「陸奥(岩手県)」の「一関市博物館」所蔵のものである。これは、シーボルトが開塾した「鳴滝塾」の、そこから巣立った「蘭方医」(吉雄幸載、楢林栄建、楢林宗建、戸塚静海、伊東玄朴、高良斎、高野長英、竹内玄洞、石井宗謙、本間玄調、日野鼎斎、大槻玄沢、伊藤圭介、二宮敬作ら英才)のうちの一人の「大槻玄沢」(1757-1827)の出身地に他ならない。
 ここには、この他に、「地球図(司馬江漢作)」や「出島図(川原慶賀作)などか所蔵されている。

https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/museum/collection/01_03.html

 翻って、「シーボルド」(1796-1866)が蒔いた種は、その出身地(ドイツのミュンヒンの「SAB→フォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン家(Brandenstein-Zeppelin Family Archives)」そして「MFK→五大陸博物館(旧ミュンヘン国立民族学博物館)」そして、その活躍したオランダの地(ライデン国立民族学博物館「National Museum of Ethnology, Leiden」・ロッテルダム海事(洋)博物館「Maritime Museum, Rotterdam」)、そして、「日本(「長崎歴史民俗博物館」・「長崎県立美術博物館」・「九州大学付属図書館」・「福岡市立図書館」・「福岡市博物館」・「神戸市立博物館」・「一関市博物館」・「国立歴史民俗博物館」)の各地等々で、見事に、その果実を実らせている。
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「シーボルトとフィッセル」の『日本』そして「北斎と慶賀」周辺(その一) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その一)「シーボルトとフィッセル」の『日本』の「 著作全体に対する口絵)」と「北斎と慶賀」

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906465#?c=0&m=0&s=0&cv=3&r=0&xywh=-1455%2C0%2C6736%2C5229

「Nippon Atlas. 1-p4」

「p4  著作全体に対する口絵)」.gif

「Nippon Atlas. 1-p4」→「p4 著作全体に対する『口絵)』」
【 ここにみられる群像のなかで、まず目につくのは、たくさんの腕をもつ武人の姿であろう。この武人は摩利支天といい、神話では、権力と忍耐と生ける炎を意味する。その姿のなかに、われわれはアレース(古代ギリシャの神)、マヴォールス、マルス(ローマ神話のなかの戦神、ギリシャ神話のアレースにあたる。マヴォールスはマルスの古名)をみる。— すなわち古代スキティアやトラキア人の強大な神であり、ギリシャの現住民ベラスギ人の軍勢を連れてヘラスに入った守護神、さらにその息子たち(ロムルス兄弟)が七つの丘の都(ローマ)を建設したかの軍神マルスである。
このアジアの東端の地に見出されるこの神像の揺籃の地は中央インドであった。摩利支天がインドに由来することは、その名称の頭文字が、古文字デヴァナガーリ(11世紀成立した筆写に適したサンスクリット文字、現存の梵字本の出版に多く用いられている)で楯に書かれていることで実証される。またその姿、衣装、武具もそれを示している。聖なる書は摩利支天を権力の象徴とし、次のようにうたっている。「摩利支天、尊敬すべき全能者、摩利支、この天の神は燃えさかる火を足下に浮かばせ、見ることも近よこともできない。水が涸れることがないように炎が燃えつきることはない」。その偉大さをいっそう決定づけているのは、彼がのっている神聖な従者の猪であり、これは力および戦闘精神の象徴である。 】
(『シーボルト「日本」図録第一巻・講談社』所収「著作全体に対する口絵の説明(原題「口絵の説明」)」p1-4の「一部抜粋」)

シーボルト口絵・部分拡大図f.gif

「Nippon Atlas. 1-p4」→「p4 著作全体に対する『口絵)』」(「部分拡大図」)

 この、シーボルトの畢生の生涯をかけた『Nippon』(『シーボルト「日本」第一巻~第六巻(第一編~第十二編)+図録第一~三巻・講談社』)の、その中核に位置する「p4 著作全体に対する『口絵)』」の、その中核をなす、この「たくさんの腕をもつ摩利支天」を「シーボルト」に見立てると、この「従者の猪」は、「シーボルトの眼になった従者」の「長崎出島の絵師・川原慶賀」に見立てることもできよう。
 この「摩利支天」は、「刀と楯」「弓と矢」「槍(両手)」と「六本の腕」が描かれている。これを「シーボルト」に見立てると、「医学・生物学」「植物学・動物学」「博物学・民族学・地理学」等々と、その博覧強記の「超人」振りは、「摩利支天を知りその名を念ずる者は、如何なる事象からも害されること無し」と語り継がれている、その「摩利支天」の趣を呈してくる。
 そして、この「摩利支天」像は、『北斎漫画六編』(文化十四年=1817刊)所収のものと全く同じ図柄なのである。

摩利支天.jpg

『北斎漫画六編』所収「摩利支天」(「国会図書館デジタルコレクション」コマ番号16)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851651

この『北斎漫画六編』所収「摩利支天」像より、「シーボルト『Nippon(初版、未製本)』図版篇」所収「p4 著作全体に対する『口絵)』」の「摩利支天」像の原画を描いたのは、その事実は定かでないが、この「摩利支天」を「シーボルト」と見立てると、その「摩利支天」の「従者(猪)=川原慶賀」の、その「長崎出島の絵師・川原慶賀」と見立てて、「川原慶賀」が描いたと解することも、それほど飛躍した見方でもなかろう。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/c2306302230-1

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)」その二

≪ 口絵に描かれた神農と伏犧の図は、葛飾北斎の『北斎漫画』に掲載されている同図を参考にしています。本書に収録された他の図版も北斎や川原慶賀ら日本の画を典拠としています。≫「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)」その一(抜粋)

伏犠と神農.jpg
 
「伏犠と神農,最初の日本の人間夫婦,そのほか風神と雷神の図,および鶴すなわち幸福の象徴によって守られている将軍の紋章の絵」「(日文研データベース・外像)」
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011001&hid=55
≪被写体 : 伏羲と神農,最初の日本の人間夫婦,そのほか風神と雷神の図,および鶴すなわち幸福の象徴によって守られている将軍の紋章の絵
掲載書名 :日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名 :フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代 :1833   ≫


伏犠(ふっき・右図)と神農(しんのう・左図.gif

『北斎漫画. 3編』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「伏犠(ふっき・右図)と神農(しんのう・左図)」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851648
≪伏犠=ふっき〔フクキ〕【伏羲/伏犠】
中国古代伝説上の帝王。初めて八卦(はっけ)を作り、婚姻の制度を整え、民に漁や牧畜を教えたという。女媧(じょか)の兄あるいは夫といわれ、三皇の一人。太昊(たいこう)。庖犠(ほうき)。宓犠(ふくき)
神農=しんのう【神農】
中国古代神話上の帝王。三皇の一。人身で牛首。農耕神と医薬神の性格をもち、百草の性質を調べるためにみずからなめたと伝えられる。日本でも、医者や商人の信仰の対象となった。炎帝神農氏。≫(「デジタル大辞泉」)

風神(左図)と雷神(右図).gif

『北斎漫画. 3編』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「風神(左図)と雷神(右図)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851648

≪風神・雷神(ふうじん・らいじん)
風の神と雷の神。仏教では千手観音の眷属として二十八部衆とともに安置される。三十三間堂の鎌倉時代の木像と建仁寺蔵の俵屋宗達筆と伝えられる屏風は有名。東京,浅草寺の門にはこの2神が安置されているので雷門という。≫(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-03-31

(再掲)

≪ 『北斎漫画』の「初編」は、文化十一年(一八一四)、「二編」と「三編」は、その翌年の文化十二年(一八一五)に刊行された。「初編」の号は、「葛飾北斎」そして、「二編・三編」の号は、「北斎改葛飾戴斗」と、「北斎」から「戴斗」に改まっている。
 北斎の画号の変遷などは、概略、次のとおりである。
 (省略)
 ここで『北斎漫画』の「漫画」とは、「笑い(コミック)」を内容とした「戯画(カリカチュア)」ではない。それは、北斎の前半生の総決算ともいうべき、「浮世絵」の「絵師・彫師・塗師」の、その「絵師(「版下・原画を担当する絵師)」の、その総決算的な意味合いがあるものと解したい。
 そして、この『北斎漫画』を忠実にフォローしていた、当時の絵師の一人として、日本に西洋医学を伝えたドイツ人医師・シーボルトの側近の絵師・川原慶賀が居る。この川原慶賀については、以下のとおりである。
【天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日したシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。】

https://blog.goo.ne.jp/ma2bara/e/433eda67b8a4494aed83f88d08813179

この川原慶賀が模写した、北斎の「風神雷神図」がある。

北斎 二.jpg


『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)

http://froisdo.com/hpgen/HPB/entries/77.html

(以下略)

(その一)「シーボルトとフィッセル」の『日本』の「 著作全体に対する口絵)」と「北斎と慶賀」(ノート1)

 「シーボルト」の下記の「年表」によれば、「1832年 - オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』刊行開始」と、その不朽の三部作(「日本(誌)」・「日本動物誌=Fauna Japonica」・「日本植物誌=Flora Japonica」)の、その「日本(誌)=NIPPON」の第1分冊 を刊行したのは、「天保3年(1832)」のことなのだが、その一応の完成は、≪『日本』“NIPPON” は、1832年から約20年にわたって(1~13回配本)、オランダのライデンで出版された(最終的には1858~59年頃)。≫(「福岡県立図書館/デジタルライブラリ シーボルト資料 解説=宮崎克則稿」)という、書誌学的には「天下の奇書」とも言われているほどの膨大な一群(三部作)の一つということになる。

【1823年8月 - 来日
1824年 - 鳴滝塾を開設
1825年 - 出島に植物園を作る
1826年4月 - 第162回目のオランダ商館長(カピタン)江戸参府に随行
1827年 - 楠本滝との間に娘・楠本イネをもうける
1828年 - シーボルト事件
1830年 - オランダに帰国
1831年 - オランダのウィレム1世からライオン文官功労勲爵士とハッセルト十字章(金属十字章)を下賜され、コレクション購入の前金が支払われる
1831年 - 蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託される
1832年 - ライデンで家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設
1832年 - バイエルン王国・ルートヴィヒ1世からバエルン文官功労勲章騎士十字章を賜る
1832年 - オランダ政府の後援で日本研究をまとめ、集大成として全7巻の『日本』刊行開始】(「ウイキペディア」)

 シーボルトの、この「日本(誌)=NIPPON」の、その第一分冊(1853年までに二十分冊が予約購読者に頒布予定)が刊行された「天保3年(1832)」の翌年(1833)に、フイッセルの、『日本風俗備考=日本国の知識への寄与(原書名)=Bijdrage tot de kennis van het japansche rijk』が、全12章構成でアムステルダムで刊行された。
 この『日本風俗備考=日本国の知識への寄与(原書名)=Bijdrage tot de kennis van het japansche rijk』周辺については、下記のアドレスなどで、その各章の「口絵・扉絵」を取り上げてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-12

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース))その一

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)その十三

 ここで、このフイッセルの『日本風俗備考=日本国の知識への寄与(原書名)』と、シーボルトの『日本(誌)=NIPPON』とを比較考慮すると、大雑把に、前者(フイッセルの『日本風俗備考』)は、後者(シーボルトの『日本』)を「専門的・学術的」な「未完の無限追及的な世界」とすると、その先行的(あるいは同時期的)な、そして、これ自体で完結している「啓蒙的・一般書的な世界」ということになろう。
 そして、この「未完の無限追及的な世界」の、そのシーボルトの『日本』の全体構成(雄松堂刊「シーボルトの『日本』全九巻構成」)は、次のとおりとなる。

第1巻 第1編 日本の地理とその発見史
    第2編 日本への旅
第2巻 第3編 日本民族と国家
    第4編 1826年の江戸参府紀行⑴
第3巻 第4編 1826年の江戸参府紀行⑵
    第5編 日本の神話と歴史
第4巻 第6編 勾玉
    第7編 日本の度量衡と貨幣
    第8編 日本の宗教
    第9編 茶の栽培と製法
    第10編 日本の貿易と経済
第5巻 第11編 朝鮮
第6巻 第12編 蝦夷・千島・樺太および黒竜江地方
    第13編 琉球諸島
    付録
図録第1巻
図録第2巻
図録第3巻

 ここで、「天保3年(1832)」に刊行された、そのシーボルトの『日本(誌)=NIPPON』の第1分冊の「口絵」(「p4 著作全体に対する『口絵)』」)の「原画」(「石版画(挿絵画)」の「元絵」)を描いたのは、「北斎(北斎工房作品を含む=「北斎漫画」との関連)か?・慶賀(慶賀工房を含む)=「シーボルト御用絵師」との関連か?・西洋人画家(『日本』図版時の挿絵画家=エルックスレーベン)と(シーボルトの来日時に同行して「慶賀」の洋画画の師である「C.H>フィネーフ)関連か?」、この三方面での探索を、以下、逐逸フォローしていきたい。
 その前提として、それを比較するなどの見地から、フィッセルの『日本風俗備考』=『日本の知識への寄与』の、その「伏犠と神農,最初の日本の人間夫婦,そのほか風神と雷神の図,および鶴すなわち幸福の象徴によって守られている将軍の紋章の絵」「(日文研データベース・外像)」は、『慶賀(慶賀工房を含む)=「シーボルト御用絵師」との関連か?』の作品を背景にしてのものということで、以下、鑑賞(考察)を進めていきたい。
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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その十三) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その十三)「大阪から長崎への帰路」周辺

大阪より長崎への帰路.gif

『シーボルト 江戸参府紀行(呉秀三訳注・昭和三年刊・駿南社)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

(再掲)

120  6/14  5/9  晴  大坂-西宮  肥料船のこと
121  6/15  5/10 晴  西宮-兵庫  
122  6/16  5/11 兵庫  向い風のため出帆延期
123  6/17  5/12 兵庫  向い風のため出帆延期
124  6/18  5/13 兵庫  向い風のため出帆延期
125  6/19  5/14    夜兵庫を出帆
126  6/20  5/15 船中  朝 室の沖合で経度観測
127  6/21  5/16 船中  朝に 室の沖合-正午与島にゆく・造船所など
128  6/22  5/17 船中  夜備後の海岸に向かって進み、陸地近くに停泊
129  6/23  5/18 船中  引き船で鞆に入港・正午上陸・夜半に港外へ
130  6/24  5/19 船中  島から島へ進み、夕方御手洗沖・夜半停泊
131  6/25  5/20 船中  御手洗より患者が来て診察をもとむ・家室島の近くに停泊
132  6/26  5/21 船中  風雨強く午後出帆し、上関瀬戸を経て夜上関入港
133  6/27  5/22 上陸し上関見物・室津へゆく・夜出港
134  6/28  5/23 船中  午後二時過ぎ下関入港
135  6/29  5/24 下関滞在 海峡の図を受け取る・友人来訪
136  6/30  5/25 下関-小倉  
137  7/1  5/26 小倉-飯塚  
138  7/2  5/27 飯塚-田代  
139 7/3 5/28 田代-牛津  
140 7/4 5/29 牛津-嬉野  
141 7/5 6/1 嬉野-大村 出島の友人みな元気との知らせを受ける
142 7/6 6/2 大村-矢上 出迎えの人その数を増す
143 7/7 6/3 矢上-出島 正、同郷人に迎えられ出島につく

下関・帰路.gif

≪下関
製造年 1669
製造場所 アムステルダム
定義
下関市は、日本の内海を航行する船舶にとって重要な通過路を形成する海峡に位置しています。オランダ人は宮廷旅行に乗り出すと、下関に乗船し、約1週間の航海を終えて大阪に戻った。
注釈 投稿者: Gedenkwaerdige Gesantschappen
オブジェクトのタイプ 彫刻(※グラビア=版画)
徴収 オランダ - 日本
施設 Koninklijke Bibliotheek
源  389 A 6 (イラストレーション), コニンクリケ図書館
著作権 情報: Koninklijke Bibliotheek          ≫
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/shimonoseki?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=3&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3A388A6-NA-P-068-GRAV

出島の商館.gif

≪出島 ホテル(※出島の商館)
製造年
1669 製造場所 アムステルダム 
定義
出島は長崎湾にある人工島で、見分けがつきやすい扇形をしています。もともとはポルトガル人のために建てられました。ポルトガル人が日本から追放された後、日本政府は1641年にオランダ人に出島への定住を強制しました。出島のファクタリジは、主に倉庫と家屋で構成されています。島はよく守られており、オランダ人は例外的な状況で、そして毎年の法廷旅行(制限下の旅行)のためにのみそれを残します。正しいパスを持つ人だけが入場できます。出島には原則として15~20人ほどのオランダ人が住んでおり、ほとんどのVOC(連合東インド会社、オランダ語: Verenigde Oost-Indische Compagnie、略称VOC)関係者は静かに給料を稼ぐことができる(薄給の)簡単なポストと見られています。
注釈 投稿者: Gedenkwaerdige Gesantschappen
オブジェクトのタイプ 彫刻(※グラビア=版画)
徴収 オランダ - 日本
施設 Koninklijke Bibliotheek
源  388 A 6 (イラストレーション), コニンクリケ図書館
著作権 情報: Koninklijke Bibliotheek          ≫
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/deshima?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=2&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3A388A6-NA-P-052-GRAV

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)その十三

野外の気晴らし.jpg

被写体:日本人が大好きな野外の気晴らし
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011014&hid=55&thumbp=

『東洋文庫341 日本風俗備考2(庄司三男・沼田次郎:訳注)』では、「Ⅻ 雑録」と題する第12章の「扉絵」として、この図と下記の2図が紹介されている。

裃.jpg

≪被写体:裃すなわち礼服を着た日本人
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833≫
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011015&hid=55&thumbp=

普段着の日本婦人.jpg

≪被写体:普段着の日本婦人
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833≫
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011016&hid=55&thumbp=


(補記) 「スチュルレル・シーボルトらの江戸参府」の折、スチュルレル(カピタン=使節)が持ち帰り、後に「フランス国立図書館」に寄贈したといわれている「北斎・北斎工房・(川原慶賀?)」らの作品(その二)

http://expositions.bnf.fr/france-japon/albums_jp/hokusai/index.htm

17日本橋辺風俗・18仏師・19海浜の漁師・20素麺作り.jpg
左から「17日本橋辺風俗・18仏師・19海浜の漁師・20素麺作り」

21洗張り・22武士の乗馬・23提灯張り・24西瓜の陸あげ.jpg
左から「21洗張り・22武士の乗馬・23提灯張り・24西瓜の陸あげ」

25 雪の渡し.jpg
「25 雪の渡し」

(補記)「海外で注目される江戸時代の天才絵師・川原慶賀の唯一現存する屏風が2年の修復作業を終え、オランダ・ライデン国立民族学博物館で公開 — オランダ国立世界文化博物館 From: PR TIMES 2021-11-04 17:48 — 」周辺

https://japan.zdnet.com/release/30611387/

出島屏風1.jpg

https://prtimes.jp/i/89675/1/resize/d89675-1-77c0f940c4b51d99e0f2-0.jpg

出島屏風2.jpg

https://prtimes.jp/i/89675/1/resize/d89675-1-ac15d0be10e5445eaa30-1.png

出島屏風3.jpg

■ARで屏風を鑑賞できる「出島エクスペリエンス」: (リンク »)

■ライデン国立民族学博物館(所在地:オランダ・ライデン、館長:ウェイン・モデスト)は、江戸時代後期に長崎の出島で活躍した絵師・川原慶賀が1836年頃に制作した現存する唯一の屏風作品を、クラウドファンディングによる約2年の修復期間を経て、このたび公開いたします。あわせて、専用ウェブアプリ「出島エクスペリエンス」も開発し、AR(拡張現実)で世界中どこでもこの屏風を鑑賞できる環境をご提供します。

■当館は、医師として日本を訪れたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)が、8年かけて蒐集した日本にまつわる民族学的価値のある約5,000点のコレクションが契機となり、1837年に開館しました。シーボルトの日本滞在中に、その画才を見出された川原慶賀(1786-1860)は、シーボルトのお抱え絵師として、出島を自由に出入りできる特権を与えられ、日本の自然と異国の文化を色彩豊かに描いてきました。ヨーロッパ絵画の技法と日本の浮世絵を融合させた独自の写実画法による繊細な描写から、「カメラを持たない写真家」と称され、数多くの海外美術館でその作品が所蔵されています。また、昨今では大手オークションハウスにも出品されるなど、ヨーロッパを中心に海外で高い評価を得ています。

■そのような中、当館は、2018年に川原慶賀が1836年頃に描いた唯一の現存する屏風を取得。幅4m以上、高さ1.7mにもわたり、オランダ商館の建つ出島を画面中央に据えて長崎湾を一望できるこの傑作は、日本とオランダの特別な歴史的関係が見事に描かれています。しかし、取得当時は非常に状態が悪かったため、当館は、クラウドファンディングを通じて、屏風修復のための資金援助を募りました。その結果、京都の宇佐美修徳堂をはじめ、多数の日本の専門家協力によって、 2年の月日をかけて修復が完了いたしました。

■また、屏風の公開とあわせて、専用ウェブアプリ「出島エクスペリエンス」を開発いたしました。このアプリにより、スマートフォンやタブレットを使って、当館に訪問できなくとも、この貴重な屏風をはじめ、当館の日本コレクションに関する様々なストーリーを閲覧できます。アプリの中で最も特徴的なのが、AR(拡張現実)を活用したコンテンツ。これを使用すると、世界中どこででも、自分の身の回りの環境に実物大の屏風を配置し、川原慶賀の世界観を間近に体感することができます。

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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その十二) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その十二)「大阪滞在」周辺

大阪滞在.gif

『シーボルト 江戸参府紀行(呉秀三訳注・昭和三年刊・駿南社)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

(再掲

114 6/8 5/3 晴 大坂滞在 大坂についての記述
115 6/9 5/4 晴 大坂 研究用品の購入と注文
116 6/10 5/5 晴 大坂 心斎橋・天下茶屋・住吉明神・天王寺など
117 6/11 5/6 晴 大坂 町奉行および製銅家を訪問
118 6/12 5/7 晴 大坂 芝居見物・日本の劇場・妹背山の芝居
119 6/13 5/8 晴 大坂 来訪者多数・明日は出発

大阪城).gif

≪フォート大阪(※Fort Osaka=大阪城)
製造年 1669
製造場所 アムステルダム
定義
この城は、16世紀末に、当時の日本の事実上の指導者である豊臣秀吉(1536-1598)の命令によって建てられました。宮廷旅行中にオランダ人が訪れ、オランダ人は砦の指導者と謁見します。
注釈 投稿者: Gedenkwaerdige Gesantschappen
オブジェクトのタイプ 彫刻(※グラビア=版画)
徴収 オランダ - 日本
施設 Koninklijke Bibliotheek
源  388 A 6 (イラストレーション), コニンクリケ図書館
著作権 情報: Koninklijke Bibliotheek          ≫
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/fort-osaka?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=2&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3A388A6-NA-P-272-GRAV


(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)その十

稲荷大明神.jpg

≪被写体 : 農業の神,狐の神の稲荷大明神
掲載書名 : 日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名 : フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代 : 1833≫
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011011&hid=55&thumbp=

『東洋文庫341 日本風俗備考2(庄司三男・沼田次郎:訳注)』では、「Ⅸ 動物・植物・その他」と題する第9章の「扉絵」として、この図が紹介されている

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)その十一

男の子.jpg

≪被写体:男の子は五歳になると礼服を着せられる
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833≫
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011012&hid=55&thumbp=

『東洋文庫341 日本風俗備考2(庄司三男・沼田次郎:訳注)』では、「Ⅹ 家事と衣服」と題する第10章の「扉絵」として、この図が紹介されている

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)その十二

日本の職人.jpg

≪被写体:日本の職人二人による印刷術,版木彫りの実演
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833≫
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011013&hid=55&thumbp=

『東洋文庫341 日本風俗備考2(庄司三男・沼田次郎:訳注)』では、「Ⅺ 手工業・建築・船舶」と題する第11章の「扉絵」として、この図が紹介されている。

(補記) 「スチュルレル・シーボルトらの江戸参府」の折、スチュルレル(カピタン=使節)が持ち帰り、後に「フランス国立図書館」に寄贈したといわれている「北斎・北斎工房・(川原慶賀?)」らの作品(その一)


http://expositions.bnf.fr/france-japon/albums_jp/hokusai/index.htm

日本の風俗絵.jpg


1武家・2町家の男・3町家の娘・4武家の奥方.jpg
左から「1武家・2町家の男・3町家の娘・4武家の奥方」

5隅田川風景図・6井戸掘り・7大神楽・8漆屋と蝋燭屋.jpg
左から「5隅田川風景図・6井戸掘り・7大神楽・8漆屋と蝋燭屋」

9茶店と往来・10今戸瓦窯・11土手工事・12雨中の漁.jpg
左から「9茶店と往来・10今戸瓦窯・11土手工事・12雨中の漁」

13大山詣で・14海女・15神楽巫女・16凧上げ.jpg
左から「13大山詣で・14海女・15神楽巫女・16凧上げ」
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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その十一) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その十一)「京都滞在と大阪への帰路」周辺

京都滞在と大阪への帰路.gif

『シーボルト 江戸参府紀行(呉秀三訳注・昭和三年刊・駿南社)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

(再掲

108  6/2  4/27  晴  京都滞在 友人門人、小森、新宮ら来訪・京都特に宮廷など
109  6/3  4/28  晴  京都   宮廷に関する記事
110  6/4  4/29  晴  京都   小森玄良から宮廷の衣裳の話
111  6/5  4/30  晴  京都   小森の家族と過ごす
112  6/6  5/1  晴 京都 所司代・町奉行を訪問
113 6/ 7 5/2 晴 京都-伏見-大坂 知恩院・祗園社・清水寺・三十三間堂など

京都の全景.gif

≪「京都の全景」(『日本 : 日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』(雄松堂書店, 1977-1979)「図113」)
http://hdl.handle.net/2324/1000295399
復刻版『Nippon : Archiv zur Beschreibung von Japan』(講談社, 1975)
http://hdl.handle.net/2324/1000951631     ≫

都の宮殿.gif

≪ミアコ ホテル(※都の宮殿)
製造年 1669
製造場所 アムステルダム
定義
後に京都と呼ばれる美阿子(都)は、何百年もの間日本の首都でした。1603年、徳川家の最初の将軍が権力を握ると、江戸(現在の東京)に建国を決意した。神々の伝説に従って子孫をもうけた日本の天皇である三戸(帝)は、京都に宮廷を構え続けています。徳川幕府の時代には、彼は儀式的な役割しか果たさなかった。
注釈 投稿者: Gedenkwaerdige Gesantschappen
オブジェクトのタイプ 彫刻(※グラビア=版画)
徴収 オランダ - 日本
施設 Koninklijke Bibliotheek
源  388 A 6 (イラストレーション), コニンクリケ図書館
著作権 情報: Koninklijke Bibliotheek          ≫
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/miako?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=3&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3A388A6-NA-P-078-GRAV

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)その八

二人の女中にかしずかれた礼装の日本人夫妻.jpg

≪被写体:二人の女中にかしずかれた礼装の日本人夫妻
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833≫
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011009&hid=55&thumbp=

『東洋文庫341 日本風俗備考2(庄司三男・沼田次郎:訳注)』では、「Ⅶ 豪奢と贅沢」と題する第7章の「扉絵」として、この図が紹介されている。

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)その九

技を披露する日本の奇術師と楽師の一座.jpg

≪被写体:技を披露する日本の奇術師と楽師の一座
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833≫
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011010&hid=55&thumbp=

『東洋文庫341 日本風俗備考2(庄司三男・沼田次郎:訳注)』では、「Ⅷ 気晴らしと娯楽」と題する第8章の「扉絵」として、この図が紹介されている

(補記) 「北斎、検閲避け?名入れず 作者不明だった西洋風絵画の謎 シーボルト収集品目録と一致」周辺

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/346252/

≪ オランダのライデン国立民族学博物館に所蔵され、長く作者不明だった6枚の絵が江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849)による西洋風肉筆画だったことが、昨年判明した。そもそも、なぜ長年の間、作者が分からなかったのか。同博物館シニア研究員のマティ・フォラー氏が長崎市発行の学術誌に寄せた論文を基に、絵画の謎に迫る。
 江戸各地の風景が描かれた絵画6枚は、出島のオランダ商館医だったシーボルトらから影響を受けた作品群とみられる。まず墨で基本的な枠取りをしてから色を入れていくという日本画的な画法は見受けられず、遠近法などを取り入れた西洋画法に基づいて描かれているのが特徴とされる。
 このうちの1枚「江戸湾を臨む東海道品川」は、江戸湾の月明かりの光景が美しく広角に描かれているのが印象的。月夜の暗い場面を巧みに捉えており、月光の加減を東海道の路面に差す人影だけで表現している。左手の波間に反射する月光も繊細に描いている。
 これらの作品が作者不明だった最大の理由は、署名や落款(印鑑)がなかったことにある。1820~29年に出島商館員を務めたフィッセルが当時の日本の習わしやしきたりなどについて書いた著書「日本風俗備考」で、オランダ人は1人の「画匠(がしょう)」を通してでしか絵画を得られない不文律を批判的に記している。
 画匠とは、出島出入り絵師の川原慶賀(1786~1860)を指しているとされる。当時は外国人と日本人の接触が制限された鎖国下。日本側はオランダ人が安易に別の絵師に接触しないよう規制をかけ、署名や落款を入れられるのは川原だけだったようだ。シーボルトが北斎から絵画6枚を受け取ったのは江戸だったが、長崎から離れた地域でもこうした不文律が尊重されていたらしく、検閲のような検査もあったという。このため、北斎はわざと作者不明にすることで「抜け道」にしたとみられる。
 一方で、何でも細かく記録したシーボルトの性格が、謎の解明に役立った。ドイツに保存されていた絵画コレクションの自筆目録の中に「88~93 江戸と江戸近郊の図6枚、幕府御用絵師北斎による西洋風に描かれた風景画」との記述が見つかり、作者不明となっていた絵画6枚の特徴と一致した。
 1826年5月にシーボルトが江戸に上った際、オランダ人が定宿としていた旅館を北斎が訪問したことが分かっている。北斎は晩年にも画法の研究を怠らずに続ける努力家。フォラー氏は論文で「遠近法を中心とする西洋画法について、北斎やシーボルトが旅館で議論したのではないか」と推測する。
 北斎がシーボルトに出会って4年後の30年から、代表作の「富嶽三十六景」が随時刊行される。オランダ人との交流をきっかけに、西洋画法の絵画6枚を手がけていたことが「富嶽三十六景」の成功につながった可能性もある。
 シーボルトがオランダに持ち帰った絵画コレクションのうち、川原慶賀やその関係者が描いたとされる絵画は膨大な数に上り、現在はドイツやロシアなどにも残っている。フォラー氏は「これらの絵画についても改めて精査する必要がある」と指摘する。
 この記事は2017年05月18日付で、内容は当時のものです。≫(「西日本新聞」)

江戸湾を臨む東海道品川.gif

「江戸湾を臨む東海道品川」(上記の「西日本新聞」の記事)

日本橋・北斎.jpg

「日本橋」(『富嶽三十六景』の「日本橋」、左手に「富士」?)

両国橋・北斎.jpg

「両国橋」(図の右彼方の「富士」の図?)

隅田川・北斎.jpg

「隅田川」(「鐘ケ淵」当たりの景?)

芝増上寺.gif

「芝増上寺」(右手の風景は芝増上寺の景?)

永代橋より江戸の港と町を望む.gif

「永代橋」(原画は存在せず石版画とされる。ライデン国立民族学博物館所蔵)
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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その十) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その十)「江戸より京都への帰路」周辺

江戸より京都への帰路.gif

『シーボルト 江戸参府紀行(呉秀三訳注・昭和三年刊・駿南社)

93  5/18  4/12 晴  江戸-川崎  江戸の富士

日本橋.gif

「東海道五十三次・絵本駅路鈴= 葛飾北斎 =」(一:日本橋)
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hokusai53tsugi/01.html

94 5/19 4/13 晴 川崎-藤沢 鶴見付近のナシの棚

川崎.gif

「東海道五十三次・絵本駅路鈴= 葛飾北斎 =」(三:川崎)
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hokusai53tsugi/03.html

95  5/20  4/14  晴  藤沢-小田原  

藤沢.gif

「東海道五十三次・絵本駅路鈴= 葛飾北斎 =」(七:藤沢)
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hokusai53tsugi/07.html

96  5/21  4/15  曇  小田原-三島 山崎で江戸から同行した最上德内と別れる

小田原.gif

「東海道五十三次・絵本駅路鈴= 葛飾北斎 =」(十:小田原)
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hokusai53tsugi/10.html

97 5/22 4/16 曇 三島-蒲原 再び植松氏の庭園をみる

三島.gif

「東海道五十三次・絵本駅路鈴= 葛飾北斎 =」(十二:三島)
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hokusai53tsugi/12.html

98  5/23  4/17  晴  蒲原-府中  牛車について

蒲原.gif

「東海道五十三次・絵本駅路鈴= 葛飾北斎 =」(十六:蒲原)
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hokusai53tsugi/16.html

99  5/24  4/18  晴  府中-日坂  薬用植物のこと

府中.gif

「東海道五十三次・絵本駅路鈴= 葛飾北斎 =」(二十:府中)
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hokusai53tsugi/20.html

100  5/25  4/19  曇  日坂-浜松 高良斎の兄弟来る

日坂.gif

「東海道五十三次・絵本駅路鈴= 葛飾北斎 =」(二十六:日坂)
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hokusai53tsugi/26.html

101  5/26  4/20  晴  浜松-赤坂  植物採集とその整理

浜松.gif

「東海道五十三次・絵本駅路鈴= 葛飾北斎 =」(三十:浜松)
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hokusai53tsugi/30.html

102  5/27  4/21  豪雨  赤坂-宮  宮で水谷・伊藤らと会う

赤坂.gif

「東海道五十三次・絵本駅路鈴= 葛飾北斎 =」(三十七:赤坂)
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hokusai53tsugi/37.html

103  5/28  4/22  晴  宮-桑名-四日市  宮の渡し舟のこと

宮.gif

「東海道五十三次・絵本駅路鈴= 葛飾北斎 =」(四十二:宮)
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hokusai53tsugi/42.html

104  5/29  4/23  晴  四日市-関

四日市).gif 

「東海道五十三次・絵本駅路鈴= 葛飾北斎 =」(四十四:四日市)
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hokusai53tsugi/44.html

105  5/30  4/24  強雨  関-石部  夏目村の噴泉

関.gif

「東海道五十三次・絵本駅路鈴= 葛飾北斎 =」(四十八:関)
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hokusai53tsugi/48.html

106  5/31  4/25  晴  石部-大津  川辺の善性寺の庭・タケの杖・瓦の製法

大津.gif

「東海道五十三次・絵本駅路鈴= 葛飾北斎 =」(五十四:大津)
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hokusai53tsugi/54.html

107 6/1 4/26 曇 大津-京都

京都.gif 

「東海道五十三次・絵本駅路鈴= 葛飾北斎 =」(五十五:京都)
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hokusai53tsugi/55.html

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)その七

源義経.jpg

≪被写体:日本の武将・源義経
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833≫
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011008&hid=55&thumbp=

 『東洋文庫341 日本風俗備考2(庄司三男・沼田次郎:訳注)』では、「Ⅵ 兵学と武器」と題する第6章の「扉絵」として、この図が紹介されている。

武器演習.gif

≪武器演習
製造年 1832-1839
製造場所 ライデン/アムステルダム
定義
この画像は、日本人が武器を使って練習している様子です。江戸時代(1603-1868)は、日本で多くの文化的側面が栄えた時代です。伝統的に、武士階級のメンバーは2本の刀を持っています。剣で練習することは教育の一部と見なされています。江戸時代には、教師は安全な方法で剣術を練習するためのさまざまな方法を開発します。しない(※竹刀)、竹でできた軽い刀、そして画像に写っている特徴的な訓練用ヘルメットは、その重要な例です。今日では、これがスポーツ剣道(剣道)として実践されています。
注釈 投稿者:ニッポン
オブジェクトのタイプ 彫刻(※グラビア=版画)
徴収 オランダ - 日本
施設 Koninklijke Bibliotheek
源 ZAC 484 (イラスト), Koninklijke Bibliotheek
著作権 情報: Koninklijke Bibliotheek      ≫
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/wapenoefeningen?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=2&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3AZAC-488-NIPPON-II-TAB-XXII-WAPENOEFENINGEN

皇帝の宮殿.gif

≪皇帝の宮殿
製造年 1669
製造場所 アムステルダム
定義
京都の大陛下、天皇の宮殿。この時、将軍が支配し、日本の軍事指導者、そして天皇は儀式的な役割しか果たしません。オランダ人はしばしば将軍を「日本のキーザー(※keyzer van Japan)=日本の皇帝」と呼んでいますが、実際には間違っています。理論的には、皇帝は国内で絶対的な力を持っていますが、将軍は本当の力を持っています。1868年、内戦の後、最後の将軍が彼の機能を失うと、皇帝の権力が回復されます。明治天皇の指導の下、新しい国家が建設されつつあります。このプロセスは明治維新として知られています。
注釈 投稿者: Gedenkwaerdige Gesantschappen
オブジェクトのタイプ 彫刻(※グラビア=版画)
徴収 オランダ - 日本
施設 Koninklijke Bibliotheek
源  388 A 6 (イラストレーション), コニンクリケ図書館
著作権 情報: Koninklijke Bibliotheek          ≫
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/het-paleis-keizer?coll=ngvn&facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=2&maxperpage=36&identifier=KONB11%3A388A6-NA-P-138-GRAV
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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その九) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その九)「江戸滞在」周辺

江戸の滞在.gif

『シーボルト 江戸参府紀行(呉秀三訳注・昭和三年刊・駿南社)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

(再掲)
56  4/11  3/5  江戸滞在 面会ゆるされず、桂川甫賢・神谷源内・大槻玄沢ら来訪
57  4/12  3/6  江戸 終日荷解き・薩摩侯より贈物・夜中津侯来訪
58  4/13  3/7  江戸 桂川甫賢、宇田川榕庵から乾腊植物をもらう
59  4/14  3/8  江戸 将軍、その世子への献上品を発送
60  4/15  3/9  江戸 中津島津両侯の正式訪問・日本の貴族
61  4/16  3/10  江戸 最上德内来訪、エゾ、カラフトの地図を借りる 
62  4/17  3/11  江戸 桂川甫賢・大槻玄沢来訪
63  4/18  3/12  江戸 高橋作左衛門来訪
64  4/19  3/13  江戸 桂川甫賢来訪し、シーボルトの長期滞在の見通しを伝える
65  4/20  3/14  江戸 豚の眼の解剖など手術の講義・地震など
66  4/21  3/15  江戸 最上德内とエゾ語を研究・謁見延期となる
67  4/22  3/16  江戸 付添いの検使、研究に対して好意を示す
68  4/23  3/17  江戸 幕府の医師に種痘を説明
69  4/24  3/18  江戸 天文方の人びと来訪
70  4/25  3/19  江戸 将軍家侍医にベラドンナで瞳孔を開く実験をみせる
71  4/26  3/20  江戸 兎唇の手術・種痘の方法を教える
72  4/27  3/21  江戸 再び二人の子供に種痘
73  4/28  3/22  江戸 ラッコの毛皮を売りにくる
74  4/29  3/23  江戸 天文方来訪
75  4/30  3/24  江戸 幕府の侍医らジーボルトの長期江戸滞在の幕府申請など
76  5/1   3/25  江戸 登城し将軍に拝謁・拝礼の予行と本番など
77  5/2   3/26  江戸 町奉行・寺社奉行を訪問
78  5/3   3/27  江戸 庶民階級の日本人との交際
79  5/4   3/28  江戸 将軍および世子に暇乞いのため謁見・江戸府中の巡察など
80  5/5   3/29  江戸 使節の公式の行列
81  5/6   3/30  江戸 官医来訪
82  5/7   4/1   江戸 中津侯、グロビウス(高橋作左衛門)来訪
83  5/8   4/2   江戸 漢方医がジーボルトの江戸滞在延期に反対するという
84  5/9   4/3   江戸 知友多数来訪〔10以後記事を欠く〕
85  5/10   4/4   江戸  
86  5/11   4/5   江戸  
87  5/12   4/6   江戸  
88  5/13   4/7   江戸  
89  5/14   4/8   江戸  
90  5/15   4/9   江戸 高橋作左衛門が日本地図を示し、後日これを贈ることを約す
91  5/16   4/10   江戸 滞在延期の望みなくなる
92  5/17   4/11   江戸 明日江戸出発と決まる

江戸の全景.gif

≪「江戸の全景」(『日本 : 日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』(雄松堂書店, 1977-1979)「図123」)
http://hdl.handle.net/2324/1000295399
復刻版『Nippon : Archiv zur Beschreibung von Japan』(講談社, 1975)
http://hdl.handle.net/2324/1000951631    ≫

台紙ごと切り離された風景画(富士山).jpg

「台紙ごと切り離された風景画(富士山)」(ライデン国立民族学博物館蔵)
「シーボルト『NIPPON』の原画・下絵・図版」(「宮崎克則」稿「九州大学総合研究博物館
研究報告Bull. Kyushu Univ. MuseumNo. 9, 19-46, 2011」)

江戸.gif

≪江戸
製造年 1669
製造場所 アムステルダム
定義
17世紀初頭から、江戸(現在の東京)は徳川将軍の政府の所在地を務め、1868年まで日本を支配しました。江戸はすぐに日本最大の都市に成長し、18世紀初頭にはおそらく世界最大の都市でさえありました。オランダ人が宮廷旅行中に江戸に到着すると、彼らは特に彼らのために予約された宿である長崎屋に泊まります。
注釈 投稿者: Gedenkwaerdige Gesantschappen
オブジェクトのタイプ 彫刻(※グラビア=版画)
徴収 オランダ - 日本
施設 Koninklijke Bibliotheek
源 388 A 6 (イラストレーション), コニンクリケ図書館
著作権 情報: Koninklijke Bibliotheek         ≫
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/edo?coll=ngvn&facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=2&maxperpage=36&identifier=KONB11%3A388A6-NA-P-110-GRAV

将軍の宮殿.gif

≪将軍の宮殿
製造年 1669
製造場所 アムステルダム
定義
江戸(現在の東京)の将軍の宮殿。この宮殿は、オランダ人が毎年行わなければならない宮廷旅行の最終目的地です。ここで彼らは将軍に挨拶し、贈り物を持ってきます。
注釈 投稿者: Gedenkwaerdige Gesantschappen
オブジェクトのタイプ 彫刻(※グラビア=版画)
徴収 オランダ - 日本
施設 Koninklijke Bibliotheek
源 388 A 6 (イラストレーション), コニンクリケ図書館
著作権 情報: Koninklijke Bibliotheek         ≫
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/het-paleis-shogun?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=2&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3A388A6-NA-P-122-GRAV

将軍.gif

≪将軍
製造年 1832-1839
製造場所 ライデン/アムステルダム
定義
将軍は、日本で最高の軍事力を持つ人の称号です。それは「野蛮人を打ち負かす将軍」を意味するタイトルSei-i-taishogun(征夷大将軍)に由来しています。本来の将軍たちは、北日本の反抗的な民族と戦う任務を負っている。後に、将軍という言葉は、何世紀にもわたって日本を支配してきた軍事政権の指導者を表すために使用されています。この形態の政府は日本語で幕府と呼ばれ、幕府と訳されています。短い内戦の後、最後の将軍は1868年に撤退し、幕府の終わりを告げました。
注釈 投稿者:ニッポン
オブジェクトのタイプ 彫刻(※グラビア=版画)
徴収 オランダ - 日本
施設 Koninklijke Bibliotheek
源 ZAC 484 (イラスト), Koninklijke Bibliotheek
著作権 情報: Koninklijke Bibliotheek       ≫
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/de-shogun?coll=ngvn&facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=2&maxperpage=36&identifier=KONB11%3AZAC-488-NIPPON-II-TAB-XVIII-SJOGUN

将軍の側近(夫人).gif

≪将軍の側近(夫人)
製造年 1832-1839
製造場所 ライデン/アムステルダム
定義
この画像は将軍のコンソート(夫人)を示しています。
注釈 投稿者:ニッポン
オブジェクトのタイプ 彫刻(※グラビア=版画)
徴収 オランダ - 日本
施設 Koninklijke Bibliotheek
源  ZAC 484 (イラスト), Koninklijke Bibliotheek
著作権 情報: Koninklijke Bibliotheek    ≫
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/de-gemalin-shogun?coll=ngvn&facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=2&maxperpage=36&identifier=KONB11%3AZAC-488-NIPPON-II-TAB-XIX-DE-VROUW

最上徳内.gif

≪モガミ・トクナイ(最上徳内)
製造年 1832-1839
製造場所 ライデン/アムステルダム
定義
1826年(明治2年)にフォン・シーボルトが江戸に滞在すると、茂上(最上)徳内が彼を訪ねた。フォン・シーボルトによると、茂上(最上)は数学と関連科学に非常に熟達している。彼らは一緒に多くの科学的問題を議論し、強い信頼の絆が生まれます。モガミはフォン・シーボルトにエゾ海とカラフト島(サハリン)の地図を貸す。
注釈 投稿者:ニッポン
オブジェクトのタイプ 彫刻(※グラビア=版画)
徴収 オランダ - 日本
施設 Koninklijke Bibliotheek
源 ZAC 484 (イラスト), Koninklijke Bibliotheek
著作権 情報: Koninklijke Bibliotheek      ≫
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/mogami-tokunai?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=2&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3AZAC-488-NIPPON-II-TAB-XI

永代橋より江戸の港と町を望む.gif

≪江戸への架け橋
製造年 1832-1839
製造場所 ライデン/アムステルダム
定義
この画像は、オランダ人が宮廷旅行中に江戸(現在の東京)に入るときに渡る橋を示しています。
注釈 投稿者:ニッポン
徴収 オランダ - 日本
施設 Koninklijke Bibliotheek
源  YAA 403 [-408] (イラスト), コニンクリケ図書館
著作権 情報: Koninklijke Bibliotheek         ≫
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/de-brug-naar-edo?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=4&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3AZAC-487-NIPPON-II-TAB-XXXVIII-BRUG-JETAI

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)その六

寺院の内部.jpg

≪被写体:日本の仏寺の内部の様子
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833≫
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011007&hid=55

 『東洋文庫326 日本風俗備考1(庄司三男・沼田次郎:訳注)』では、「Ⅴ 宗教」と題する第5章の「扉絵」として、この図が紹介されている。

長応寺.gif

≪領事館チュオ寺院(※長応寺)
製造場所 江戸, 日本
定義
江戸の忠尾寺(※長応寺)(現在の東京)にあるオランダ公使館。この写真は、長年アジアを旅したイギリス系イタリア人の写真家、フェリーチェ・ビート(※フェリーチェ・ベアト(Felice Beato、1832年 - 1909年1月29日))(1815年頃または1834年頃 - 1907年頃)によって撮影されました。彼は、第二次アヘン戦争や1857年のインドでの蜂起など、さまざまな歴史的出来事を撮影しています。日本に長く住んでおり、多くの日本人に写真の芸術を教えている。
オブジェクトのタイプ  写真
徴収  オランダ - 日本
施設  Koninklijke Bibliotheek
源   S.3628(03) (写真), オランダ・シェープヴァール美術館
著作権 情報: オランダ・シープヴァール美術館        ≫
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/consulaat-chyoo-tempel?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=3&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3AS3628-03-P40

※長応寺(メモ)

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1310305100/1310305100100010/ht101690

≪ 長応寺(高輪二丁目―一)
 長応寺は、オランダその他の使節の宿舎として使用された。
 同寺は、明治三十五年(一九〇二)に北海道へ移転し、現在港区内には存在しない。その旧所在地は、住宅等になり、外国公館の設けられた当時の状態、寺院であった時代の模様はまったく残っていない。往年の切絵図、あるいは明治初年以降の地図によって推測すると、もとの芝伊皿子町二一ないし三一番地の土地を占めていたらしい。(以下略) ≫

※フェリーチェ・ベアト(Felice Beato、1832年 - 1909年1月29日)(「ウイキペディア」)

≪フェリーチェ・ベアト(Felice Beato、1832年 - 1909年1月29日)は、イタリア生まれのイギリスの写真家。後に英語風にフェリックス・ベアト(Felix Beato)と名乗った。フェリス・ベアトあるいは苗字がベアートと表記されることもある。1863年から21年間横浜で暮らした。
 東アジアの写真を撮影した初期の写真家の一人であり、また初期の従軍写真家の一人でもある。日常写真、ポートレイト、またアジアや地中海の風景や建物のパノラマ写真で有名である。ベアトはいくつもの国に旅行し、それらの国、人々、事件を撮影したが、遠く離れてそれらになじみの少ないヨーロッパや北アメリカの人々にとって記憶に残るものであった。インド大反乱やアロー戦争の記録も撮影しており、最初期の報道写真ともいえる作品を残している。彼は他の写真家に大きな影響を与えたが、特に日本においては、非常に多くの写真家・芸術家に深く、かつ長期にわたる影響を与えた。

 (中略)

江戸のパノラマ.jpg

(上記の「ベアト」の写真=「愛宕山より撮影した江戸のパノラマ」)

 ベアトが日本で撮影したのは、軍用写真のほか、肖像写真、風俗写真、名所、都市の風景などで、特に歌川広重や葛飾北斎の浮世絵を思わせる、東海道の風景が有名である。少し前までは鎖国していただけに、日本を写真に収めるのは極めて重要なことであった。ベアトの写真は、その質だけでなく江戸時代を撮影した希少性という点でも、注目に値するものである。  ≫
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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その八) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その八)「京都より江戸への旅行」周辺

京都より江戸への旅.gif

『シーボルト 江戸参府紀行(呉秀三訳注・昭和三年刊・駿南社)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

39  3/25  2/17 晴 京都-草津 日付はないが琵琶湖付近の風景の記述
40  3/26  2/18 晴 草津-土山 梅木の売薬・植物採集の依頼・三宝荒神
41  3/27  2/19 晴 土山-四日市 鈴鹿山のサンショウウオ
42  3/28  2/20 四日市-佐屋(原文 Yazu)二度の収穫・桑名の鋳物
43  3/29  2/21 晴 佐屋-宮-池鯉鮒 水谷助六・伊藤圭介・大河内存真同行
44  3/30  2/22 晴 池鯉鮒-吉田 矢矧橋
45  3/31  2/23 曇・雨空 吉田-浜松 雲母の採集・白魚
46  4/1  2/24 晴 浜松-掛川 秋葉山・商館長ヘンミーの墓
47  4/2  2/25 晴・寒  掛川-大井川-藤枝 大井川の渡河・川人足
48  4/3  2/26 強雨 藤枝-府中 軟骨魚類の加工・駿府の木細工と編細工
49  4/4  2/27 晴 府中-沖津 沖津川増水・上席検使に化学実験を見せる
50  4/5  2/28 快晴 沖津-蒲原 製紙・急造の橋
51  4/6  2/29 快晴 蒲原-沼津 富士川の舟・富士山高度・原の植松氏の庭園
52  4/7  3/1 晴 沼津-箱根-小田原 中津侯家臣神谷源内一行の出迎え
53  4/8  3/2 雨 小田原-藤原 旅館満員で娼家に泊まる
54  4/9  3/3 晴 藤沢-川崎 長崎屋源右衛門出迎え
55  4/10  3/4 晴 川崎-江戸 薩摩中津両侯大森で、桂川甫賢ら品川で出迎え

琵琶湖の景.gif

『日本』に掲載されている「琵琶湖の景」(Nippon Atlas. 5-p30)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=29&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229
「川原慶賀が原画を描いた琵琶湖の景色」
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1903/index.html
≪2月25日のミッションは下関「壇ノ浦」の海峡の測量。役人には「博物採取」に行くといって出てきました。この日のメンバーはシーボルト、ビュルガー、川原慶賀、高良斎と外部スタッフの山口行斎、伊藤杢之允です。海峡の景色を慶賀にスケッチさせている間に、他のメンバーがコンパスで測量しました。役人に怪しまれないための用心でしょうか、測量機具はあらかじめ送っておいて、村はずれの猟師小屋で受け取りました。現地に詳しい伊藤の説明を聞いて海峡の幅や潮流を記録するという見事なチームワークを発揮しました。≫

瀬田川と瀬田橋の景.gif

『日本』に掲載されている「瀬田川と瀬田橋の景」(Nippon Atlas. 5-p29)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=28&r=0&xywh=288%2C799%2C3251%2C3631

矢矧橋.gif

『日本』に掲載されている「矢矧橋」(Nippon Atlas. 5-p31)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=30&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

箱根の湖水(上図)・富士山と富士川(下図).gif

『日本』に掲載されている「箱根の湖水(上図)・富士山と富士川(下図)」(Nippon Atlas. 5-p32)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=31&r=0&xywh=564%2C895%2C2709%2C3026

大井川の川越え人足.gif

『日本』に掲載されている「大井川の川越え人足」(Nippon Atlas. 5-p33)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=32&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

富士川・天竜川・馬入川・安倍川.gif

『日本』に掲載されている「富士川(上・左図)・天竜川(上・右図)・馬入川(下・左図)・安倍川(下・右図)」(Nippon Atlas. 5-p34)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=33&r=0&xywh=157%2C710%2C3019%2C3373

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10

46  4/1  2/24 晴 浜松-掛川 秋葉山・商館長ヘンミーの墓 ※(天竜川?)
47  4/2  2/25 晴・寒  掛川-大井川-藤枝  ※大井川の渡河・川人足
49  4/4  2/27 晴    府中-沖津 沖津川増水 ※(安倍川?)
51  4/6  2/29 快晴   蒲原-沼津 ※富士川の舟・富士山高度
54  4/9  3/3 晴     藤沢-川崎 長崎屋源右衛門出迎え ※(馬入川)

永代橋より江戸の港と町を望む.gif

『日本』に掲載されている「永代橋より江戸の港と町を望む」(Nippon Atlas. 5-p33)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1906469&start=&bbinfo_disp=0#?c=0&m=0&s=0&cv=34&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース))その五

https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/book/000153338/

机に向かう日本婦人.jpg

≪被写体:絵の道具を持ち,机に向かう日本婦人
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833
第4章(129ページ)は、書画の技法について論じ、絵を描く婦人の図が掲載されています。日本の技術はヨーロッパには及ばないとしながらも、独特の画法を有しているとして紹介されています。≫

https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011006&hid=55&thumbp=

 『東洋文庫326 日本風俗備考1(庄司三男・沼田次郎:訳注)』では、「Ⅳ 画法と図法」と題する第4章の「扉絵」として、この図が紹介されている。

≪ 画法の分野においては、日本人はあまり巧みなほうではない。また油絵具の使用については、ほとんど、あるいはまったくといってよいほど知識がない。それだけかえって、日本人は水彩絵具の取扱い方には経験が豊富であり、しかもそれを鉱物界ばかりでなく植物界からもとり出す方法を知っている。そしてそれはヨーロッパにおいては求めても得られないような、光沢のある色彩を生み出すのである。素描と輪郭は共に大胆であり。また陰影のない下絵は素晴らしいものであるが、完全に遠近法を使用することは非常におくれている。しかしながら最も簡単な下絵のなかには、一般的、想像的感情を膨らませるある種の調和が非常によく現われており、そのため知性的で気持のよい調べを醸し出してくれるのである。≫(『東洋文庫326 日本風俗備考1(庄司三男・沼田次郎:訳注)』所収「Ⅳ 画法と図法」p213-214)

絵を描く婦人.jpg

『日本風俗備考22巻. 二』(「国立国会図書館デジタルコレクション」)所収「絵を描く婦人」(部分拡大図)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11223205

上図は、『日本風俗備考22巻. 二』の、「Ⅳ 画法と図法」の「扉絵と『画学(画法))の冒頭の文章の部分』なのであるが、この「扉絵」の翻訳部分の「日本の婦人/顔料諸具を/備へて案に/凭リ(より)画を写す」(下段の部分)は、上記の、(『東洋文庫326 日本風俗備考1(庄司三男・沼田次郎:訳注)』所収「Ⅳ 画法と図法」p213-214)の抜粋部分を、この「扉絵」が説明しているかのようである。

「日本の婦人(日本の絵の嗜みのある婦人)は/顔料(鉱物界ばかりでなく植物界からもとり出した顔料=岩絵具+水干絵具など)、諸具(「何種類もの大・中・小の筆・墨・その他の諸具)を/備へて、案に/凭リ(より) (見たものを「写生・写実」するのではなく、「手本・粉本・模本」を拠り所にして)、画を写す(「一個の完成品=扇子画)を作り出す」ということになる。

≪ 日本人の図法については、もしもそれを単にオランダ人によってヨーロッパにもたらされた見本によってのみ判断しようとするならば、きわめて不都合な概念を得ることになってしまうであろう。
 しかしながら、われわれはたった一人の長崎の画匠の仲介によってしかこれらの物を入手できないということを考慮しなければならない。この画家は、オランダ人たちに絵画を描いて供給することのできる独占的な権限を委ねられており、したがって彼の制作するものはすべて、描かれた対象が果たして外国に輸出されてもよいものかどうかを判断してもらうために、まず第一に政府に提示して見てもらわねばならない。この芸術家が、いかに器用で経験にとんでいるにしても、この仕事を単独でなしとげることは不可能である。
 そこで、その目的のために、その家僕や弟子が使用されるが、彼らは、師匠とまったく同じようにそれを生計を立てるためのものと考えており、彼らはまったく競争相手がないと信じているので、その作品は、良かろうと悪かろうと勝手次第に引き渡されてしまうのである。 ≫(『東洋文庫326 日本風俗備考1(庄司三男・沼田次郎:訳注)』所収「Ⅳ 画法と図法」p215)

ここのところは、「われわれはたった一人の長崎の画匠の仲介によってしかこれらの物を入手できないということを考慮しなければならない。」の、この「長崎の画匠」は、当時の「長崎の出島出入りの許されている出島御用絵師・川原慶賀」ということになる。」(『シーボルトと町絵師慶賀―日本画家が出会った西欧(兼重護著)』p26)
 『同著(兼重護著)p24-25』によれば、川原慶賀が「出嶋出入御用絵師」になったのは、文化八年(1811)、慶賀、二十五歳の頃とし、そして、それは、慶賀の師の「石崎融思(1768-1846)」(唐絵目利職兼御用絵師)のバックアップを抜きにしては考えられない」としている。
 この「唐絵目利(からえめきき)とは、江戸時代中期に設けられた長崎奉行所の職種。清国から船載されてきた書画や器物の鑑定と価値の評価。さらに輸出入の交易品や鳥獣類などの写図の作成が主な職務であった。また長崎奉行所の御用絵師を兼務することが多かった。唐絵目利職は、渡辺家(祖=渡辺秀石)・石崎家(祖=石崎元徳)・広渡家(祖=広渡一湖)・荒木家(祖=荒木元慶、二代=荒木元融)の四家の世襲となって幕末まで続いた。」(「ウイキペディア」)
 ここで、フィッセルの上記の「この画家は、オランダ人たちに絵画を描いて供給することのできる独占的な権限を委ねられており、したがって彼の制作するものはすべて、描かれた対象が果たして外国に輸出されてもよいものかどうかを判断してもらうために、まず第一に政府に提示して見てもらわねばならない。」というのは、「出嶋出入御用絵師・川原慶賀」というよりも「唐絵目利職兼御用絵師・石崎融思」などを指してのもののように思われる。
 そして、江戸の当時の絵画界(浮世絵界)の牽引車の一人であった「葛飾北斎(1760-1849)」と「川原慶賀(1786-1860)」とは年代的に開きがあり、その北斎と年代的には、慶賀の師の「長崎派」の牽引車の一人であった「「石崎融思(1768-1846)」の方が、同年代の二人ということになろう。
 この「葛飾北斎(1760-1849)」が、先の『画本東都遊 3巻(北斎画)』所収「長崎屋」を描いたのは、寛政11年(1799)の、北斎、四十歳の時で、その前年に、「出島145代商館長(カピタン)・ヘンミー」が、遠江の掛川で急逝し、その「死因は病死とされているが、当時薩摩藩主であった島津重豪の確執が生じたことによる自殺説がある」(「ウイキペディア」)との、そこに、「北斎と長崎出島カピタン」との関係が重なって、爾来、北斎は、「長崎出島」関連の作品は、無落款・無署名のものが多く、一見すると、「川原慶賀・慶賀工房」作といわれているものの中には、「葛飾北斎・北斎工房」の作品が含まれており、その両者を年代的フォローすると、次の年表のように、北斎、三十九歳から、シーボルトと慶賀の江戸参府時の、六十七歳までという、長い年月を経てのものなのである。

≪「葛飾北斎」と関係があった「オランダ商館長(カピタン)」=特に関係の深いもの※印、
※※印は、その年次の「北斎・慶賀・フィッセル・シーボルト」の年齢

153代(145代)、※ヘイスベルト・ヘンミー(1792年11月13日-1798年7月8日)
※※1798(ヘンミー没)→北斎(39歳)
154代(146代)、レオポルド・ウィレム・ラス(1798年7月8日-1800年7月17日)
155代(147代)、ウィレム・ワルデナール(1800年7月16日-1803年11月4日)
156代(148代)、※ヘンドリック・ドゥーフ(1803年11月14日-1817年12月6日)
著書『ドゥーフ日本回想録』 永積洋子訳 <第3期新異国叢書10> 雄松堂出版 2003年
※※1803(来日)→北斎(44歳)、フィッセル(34歳)、慶賀(17歳)
157代(149代)、※ヤン・コック・ブロンホフ(1817年12月6日-1823年11月20日)
※※1822(江戸参府)→北斎(63歳)、フィッセル(53歳)、慶賀(36歳)
158代(150代)、※ヨハン・ウィレム・デ・スチューレル(1823年11月20日-1826年8月5日)
※※1826(シーボルト・川原慶賀=江戸参府)→北斎(67歳)、シーボルト(30歳)、慶賀(40歳)
159代(151代)、※ヘルマン・フェリックス・メイラン(1826年8月4日-1830年8月5日)
著書『メイラン 日本』 庄司三男訳 <第3期新異国叢書1> 雄松堂出版 2002年 ≫(「ウイキペディア」)

 ここで、オランダの「ライデン国立民族博物館」所蔵の作品の一つに、先に紹介した『画本東都遊 3巻(北斎画)』所収「長崎屋」(その「原画」かどうかは不明)が、下記のアドレスで、収載されている。

https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/nagasakiya-katsushika-hokusai?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=1&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3A1-4656

画本東都遊 3巻.gif

≪長崎屋
メーカーアーティスト:葛飾北斎
製造年 1802
製造場所 江戸, 日本
定義
オランダ人が宮廷旅行中に江戸に到着すると、彼らは特に彼らのために予約された宿である長崎屋に泊まります。画像は日本人の通行人が彼らを見ている。
オブジェクトのタイプ プリント
寸法 26.2センチメートル× 17.5センチメートル × 0.5センチメートル
徴収 オランダ - 日本
施設 Koninklijke Bibliotheek
源  1--4656(印刷物)、アムステルダム国立美術館
著作権 情報: 国立美術館    ≫
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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その七) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その七)「大阪・京都の滞在」周辺

大阪・京都の滞在.gif

『シーボルト 江戸参府紀行(呉秀三訳注・昭和三年刊・駿南社)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

(再掲)

28  3/14  2/6 快晴 大坂滞在 多数の医師来訪・薬品応手録印刷できる
29  3/15  2/7 晴 大坂 二、三の手術を行なう・動脈瘤
30  3/16  2/8 晴 大坂 鹿の畸形・飛脚便について
31  3/17  2/9 晴 大坂-伏見 淀川の灌漑など
32  3/18  2/10 晴 伏見-京都 小森玄良、新宮涼庭らと会う
33  3/19  2/11 晴 京都滞在 小森玄良、小倉中納言来訪
34  3/20  2/12 晴 京都 多数の医師が病人を伴って来る
35  3/21  2/13 晴 京都 来訪者多数・名所見物を帰路に延ばす
36  3/22  2/14 晴 京都 二条城・京都は美術工芸の中心地
37  3/23  2/15 晴 京都 天文台・京都の人口
38  3/24  2/16 晴 京都 明日の出発準備

西本願寺.gif

『日本』に掲載されている「西本願寺」(Nippon Atlas. 5-p27)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=26&r=0&xywh=-137%2C525%2C3901%2C4358

祇園社.gif

『日本』に掲載されている「祇園社」(Nippon Atlas. 5-p28)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=27&r=0&xywh=-4%2C611%2C3901%2C4358

(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース))その四

哲学者寿老人.jpg

≪被写体:有名な哲学者寿老人と,長寿の神の歳徳神
掲載書名:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」−
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833
第3章(116ページ)は、骨董品や古銭、稀覯品についての紹介で、老哲学者を描いた図が掲載されています。ここでは、「珍しい(Mierasji)」とされる日本の品々が紹介されています。≫
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011005&hid=55&thumbp=

『東洋文庫326 日本風俗備考1(庄司三男・沼田次郎:訳注)』では、「Ⅲ 古物と珍品」と題する第3章の「扉絵」として、この図が紹介されている。

画本東都遊 3巻.gif

『画本東都遊 3巻』所収「長崎屋」(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533327/29


≪ 阿蘭陀宿長崎屋

 江戸の阿蘭陀宿長崎屋は本石町三丁目、現在のJR新日本橋駅4番出口付近にありました。近くに「石町の時の鐘」があったため、「石町の鐘は紅毛(オランダ)まで聞こえ」と川柳に詠まれています。家業は薬種屋で、代々の当主は長崎屋源右衛門を名乗りました。
 江戸参府一行の滞在中は、門にオランダ東インド会社(NVOC)紋章入りの赤白青の幕(オランダ国旗)が張られ、町奉行所から普請役2人と組同心2人が出向いて、取り締まりや警備に当たりました。朝の六ツ時(午前6時ごろ)開門、晩の五ツ時(午後8時ごろ)閉門で、オランダ人の外出は禁じられていました。長崎屋の周りは庶民の人だかりが幾重にも取り囲み、ちらっと窓に顔や姿が見えると歓声が上がりました(「長崎屋今に出るよと取り囲み」)。北斎の『画本東都遊(えほんあずまあそび』には見物人の様子が描かれています。
 一方では幕府の許可を得た様々な訪問客が押しかけ、オランダ人や通詞は多忙な日々でした。訪れたのは蘭癖の諸大名、官医、天文方、陪臣の医師、蘭学者などです。
ざっと名前を上げてみても、新井白石・青木昆陽・前野良沢・杉田玄白・平賀源内・大槻玄沢・中川淳庵・桂川甫周(ほしゅう)・島津重豪(しげひで)・高橋景保・鷹見泉石・渡辺崋山などきりがありません。これらの人々との対談・質問・学習・品物交換などが行われ、まるで文化サロンのような雰囲気だったようです。
オランダ人たちは外で買物ができないため、比較的近い範囲から決められた「定式出入り商人」が土産物や日用品を持ち込みました。この中には駿河町の越後屋も含まれていま
す。また、彼らは将軍家への「献上物」と幕府高官への「進物」を万一に備えて余分に運んできたため、必ず残品が出ました。これを長崎屋が買い取って越後屋に高値で売り、さ
らに越後屋が小売りしていました。

  江戸城での行事

 拝礼登城の日には江戸在府の長崎奉行が長崎屋に赴き、オランダ人・通詞・長崎屋源右衛門を引き連れて江戸城へ向かいました。将軍への拝礼はカピタン1人が通詞の介添えを得て大広間で行い、書記・医師・源右衛門は次の間に控えます。宗門奉行が合図すると長崎奉行がカピタンを大広間に上げ、共に平伏します。奏者衆より「オーランダのカピターン」と大声で披露されると、直ちに奉行がカピタンの服の裾を引いて合図し、退出して終了。実にあっけないものでした。
 しかし、この後別間で「蘭人御覧」と称して、お忍びの将軍をはじめ、幕府の高官、御台所、大奥の女中などがオランダ人見物を行いました。帽子や衣服、帯剣などの持ち物が回覧
されたり、歌謡や舞踏を注文されたり、種々の質問がなされたりしました。随行した医師ケンペルの記録によれば、「猿芝居の第二幕」は2時間にわたったとのことです。
 江戸城を退出した一行は老中以下幕府高官の役宅を順次回って、無事拝礼を済ませることができた御礼の挨拶をしました。この「廻勤」は3日間もかかり、移動の町筋は見物の群衆でごった返していました。
 やがて帰路出立の許可があると、前日に「暇(いとま)乞い」の挨拶に再び登城すること
になります。大広間三之間に老中が列座する前で、宗門奉行がオランダ人の遵守すべき条項の書かれた「御条目」をカピタンに読み聞かせ、いったん退去後に戻って将軍と世嗣からの時服の拝領が仰せつけられるというものでした。御条目には南蛮人(ポルトガル人)との通行禁止、オランダとの対日貿易の継続、琉球船の保護などが書かれていました。

  様々な贈り物

 カピタンの贈り物で多かったのは織物類の反物や葡萄(ぶどう)酒などの嗜好品ですが、初期には様々な趣向を凝らした品もありました。寛永13年の3代将軍家光への献上品は、銅のシャンデリア・毛氈(もうせん)・天鵞絨(ビロード)・羅紗(らしゃ)・駱駝(らくだ)織・ピストルなどでした。家光が日光東照宮の社前に飾ったシャンデリア型釣灯籠(オランダ灯籠)は、現在でも見ることができます。
 明暦3年(1657)には4代将軍家綱に地球儀と天球儀が献上されましたが、拝礼が明暦の大火の直後だったため、期待したほどの評判は得られませんでした。また万治2年(1659)には老中稲葉正則に望遠鏡とレンベルトゥス・ドドネウスの『植物誌』を贈りましたが、気に入られず返却されています。このように、期待を込めて持参された贈り物も、功を奏した場合も見向きもされない場合もありました。

出島の三学者の参府随行

「出島の三学者」と呼ばれるのはケンペル(ドイツ人)・ツュンベリー(スウェーデン人)・シーボルト(ドイツ人)の3人で、いずれもオランダ商館付医師として来日して江戸参府に随行、多くの日本人と接触して資料収集に努めています。日本滞在はケンペルが元禄3~5年(1690~92)、ツュンベリーが安永4~5年(1775~76)、シーボルトが文政6~12年(1823~29)と安政6~文久2年(1859~62)でした。
 ケンペルは江戸参府に2回随行し、道中では臨機に興味を示して資料を集め、観察眼を働かせて客観的な記述をしています。この助けとなったのが、オランダ語のできる青年今村源右衛門で、道中記や絵図の収集、翻訳などに大いに役立ったようです。参府の様子は『江戸参府日記』や『日本誌』に詳しく書かれています。
 ツュンベリーは博物学者リンネの弟子でした。そのため、随行の機会に植物収集と日本および日本人理解のための資料収集を望んでいました。道中では機会あるごとに植物採集に努め、多くの標本を母国に持ち帰りました。江戸の長崎屋では多くの訪問客と対談しましたが、最も頻繁に訪れたのが将軍の侍医桂川甫周と小浜藩主の侍医中川淳庵でした。三者間で学問的親交が深まり、学術的品々の贈答・交換が行われました。
 シーボルトは、日蘭貿易検討のため、日本を総合的・科学的に調査・研究する使命を帯びており、意欲的な活動を行いました。そのため彼の随行した文政9年の江戸参府は通常と異なっていました。まず、門人たちに加え、薬剤師ビュルガー、画家の川原慶けい賀が 、好意的な通詞たちなどを同行し、協力者を増やしました。名目上の総人数は60 人ですが、実際は107 人もいました。また主要宿泊地で滞在日数を延長すべく働きかけをしたため、通常90 日間の江戸参府が143 日間にもなりました。
これらの成果としては、道中における観測・観察、動植物・工芸品・書籍・書画などの収集、面談による情報・知識の収集、交換による絵図面・地図などの入手が挙げられます。
 一方、禁制品の日本地図(伊能図)持ち出しが発覚し、「シーボルト事件」を引き起こすことにもなりました。≫(「えど友第122号 2021/9/10」:「えど友ホームページ」 https://www.edo-tomo.jp/  )
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「西洋人(シーボルト)」と「日本人(川原慶賀)」らの「江戸参府」紀行(その六) [シーボルト・川原慶賀そして北斎]

(その六)「下関から室津上陸」周辺

室の滞在.gif

『シーボルト 江戸参府紀行(呉秀三訳注・昭和三年刊・駿南社)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

(再掲)

16  3/2  1/24 晴 下関出帆  
17  3/3  1/25 晴 船中 夜風強まり屋代島の近くに舟をつなぐ
18  3/4  1/26 晴 屋代島の東南牛首崎に上陸・象の臼歯化石発見・三原沖に停泊
19  3/5  1/27 晴 船中 水島灘・阿伏兎観音・琴平山・内海の景観・日比に停泊
20  3/6  1/28 晴 早朝上陸 日比の塩田と製塩法
21  3/7  1/29 晴 日比-室津上陸 室のホテル(建築様式・家具など)
22  3/8  1/30 晴 室滞在 室の付近について・娼家・室明神・室の産物
(室から大阪への陸の旅)
23  3/9  2/1 晴、夜雪 室-姫路 肥料・穢多・非人・大名の献上品など
24  3/10  2/2 雪 姫路-加古川 高砂の角力者の招待
25  3/11  2/3 晴 加古川-兵庫 敦盛そば・兵庫の侍医某来訪
26  3/12  2/4 晴 兵庫-西宮 楠正成の墓・生田明神
27  3/13  2/5 吹雪 西宮-大坂  

上関・日比.gif

『日本』に掲載されている「上関の港(上図)・日比の製塩所(下図)」(Nippon Atlas. 5-p21)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=16&r=0&xywh=-94%2C485%2C3901%2C4358

室の明神.gif

『日本』に掲載されている「神社(上図)・室明神の社(下図)」(Nippon Atlas. 5-p22)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=21&r=0&xywh=396%2C1022%2C2709%2C3026

≪ 三月二日 〔旧一月二四日〕 

 八時ごろ、われわれは西風をうけて出帆し、潮流に援けられ速い速力でファン・デル・カベレン海峡を通過する。
 満珠島の沖合で九州の田野浦に対し南から南二分の一南〔南二分の一東の誤りであろう〕に向けて舵をとり、江崎〔今日の部崎か〕を南45度東、本山岬(MOTOJAMA)を南75度東に望む。これらふたつの岬と、満株・干株というふたつの小さい島は、海峡に船を進める場合には頼りになる目標である。
正午ごろ九州の東北端を認め、御崎の沖合で太陽の高度を計った。これによると、われわれは北緯33度53分にいたのである。
 ここには多数の大小の島々が散在する水路がひらけ、日本の三つの主要な島、すなわち、日本〔本州〕・九州および四国に取り囲まれ、東北の方向に約60地理学的マイルにわたり、北緯33度一13から34度50分、グリニッチ東経130度52分15秒から135度25分の間にひろがっている。
三つの入口がこの島の多い内海に通じている。西にあるのがファン・デル・カベレン海峡、南にあるふたつのうち西にあるものを、タスマン海峡〔現在の豊予海峡〕、東にあるのをリンスホーテン海峡〔今は紀州海峡というを注しているが紀淡海峡のことであろう〕という。
 この内海に散在する島嶼(とうしょ)・岩塊・岩礁・浅瀬の数は非常に多い。幕府の天文家高橋作左衛門の言によれば、 その数は1000以上に達するという。これらは皆知られてい、われわれがヨーロッパヘ持ち帰った日本の地図や海図に挙げられいている。
 日本人はこの広々とした多鳥海を三つの灘あるいは海域に分けている。すなわち、
  周防灘(SUWO‐NADA)
  水島灘(MISIMA‐NADA)
  および
  播磨灘(HARIMA‐NADA) である。

 第一のは周防領から名づけ、最後のは播磨領から名をとっているが、中の灘は三島から名をつけたもので、三島というのは甘い水〔淡水〕の出る島の意味である。
この海域を形成している海岸の地形ははなはだ不規則で、ある所では細長い岬となり、険しい前山となって海峡に向かって突出し、ある所では入り込んで湾や入江となっている。
 周囲の大きい島々は、海岸と海岸の間に横に広がって無数の海峡を形成し、そのため外国船にとってはこの迷路を通って危険な航海をすることは今日まで不可能であったけれども日本の船乗りはこの水路に精通しているので、われわれはすっかり任せておいても安心である。ヨーロッパの船舶が、もしこの海に船を乗り入れようとするならば、航行の際に比較的大きな日本の船をいちぱん確かな水先案内人として目を離してはならない。
 すなわち数世紀以来日本の商船のために航路が開かれていて、内海の東端にこの国最大の商業都市大坂が位する。われわれが持っている海図にはこの主要航路と同様に小舟のための狭い水路・港の入口などが詳しく記されている。最も注目すべき島嶼ならびに地点は旅行の行き帰りの際にお知らせすることにする。…… 
 午後に偉高地を東南から東に望む。四国の伊予ならびに土佐領の山々である。内海の南の入口を示している姫島〔大分県国東半島北方紺5キロ〕の位置は南23度東、それからまもなく佐田岬の低く細長い半島〔佐田岬半島を四国の西海岸に認める。その半島は九州の東海岸にある関崎〔佐賀関半島〕と見たところひとつになっているようであるが、内海の入口は約三里の幅がある。
 下関ら17里はなれているという向島〔山ロ県防府市の南〕・野島〔向島の東南約10キロ〕・笠間島〔徳山市南方の笠戸島であろう〕のかたわらを過ぎ、タ方には航路を東北から東の長島に向け、上関〔長島にある村〕と室津の間の海峡を通過した。
この海峡は島の北端と周防の南角の間にある。われわれは10時まで帆をあげたままにし、沖家室と屋代島〔柳井市の東で大島ともいう〕の牛の首崎の間に錨を降ろす。やっと数隻の船の長さしかない上関の海峡は南42度東にある。
われわれの真前には平郡島がある。右舷には横島・秋島・八島および宇和島などの島々がある。潮流は速く、船が通過する際に南72度東に針路をとるのは、南に流れがちな潮流のため右舷にある岩に打ち当たらないためである。≫(「山梨県歴史文学館 山口素堂とともに」:『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』)


(追記)「日本の知識への寄与」(フイッセル著・アムステルダム)周辺「(日文研データベース)その四

https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/book/000153338/

日本のアルファベット.jpg

≪被写体:いわゆる片仮名文字による日本のアルファベット
掲載書:日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」
編集者名:フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)
年代:1833 
第2章(88ページ)は学問と言語を扱い、かな文字の一覧図が掲載されています。ここでは日本語の考察に特に力が入れられており、ドゥーフ(Hendrik Doeff, 1777-1835)がフランソワ・ハルマ(François Halma, 1653-1722)による蘭仏辞書を基礎として作成した蘭和辞書ドゥーフ・ハルマも賞賛しながら紹介しています(92ページ)。また、100ページからは、オランダ語とアルファベットで表記した日本語とを併記した会話帳も収録しています。    ≫
https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/ja/detail/?gid=GE011004&hid=55&thumbp=

 『東洋文庫326 日本風俗備考1(庄司三男・沼田次郎:訳注)』では、「Ⅱ科学 付:日本語構文法」と題する第2章の「扉絵」として、この図が紹介されている。

長崎屋宴会図.jpg

桂川甫賢筆『長崎屋宴会図』(文政5年、1822年)
長崎屋番外編(2)
https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=916

 この図の、左端の「和装の正装で頭巾を被っている男」が、「プロムホム・フイッセル」の「江戸参府」(1822)時の、「オランダ商館長(カピタン)」・「157代(149代)、※ヤン・コック・ブロンホフ」である。
 そして、その右手前の、「和装の正装のザンバラ髪の男」が、この時の「江戸参府」の実質的な切り盛りをした、そして、後に、『日本風俗備考−原題「日本国の知識への寄与」』を著した、「フィッセル(フィスヘル)/(Overmeer Fisscher, J. F. van)」その人ということになる。

長崎屋宴会図2.jpg

桂川甫賢筆『長崎屋宴会図』(文政5年、1822年)
長崎屋番外編(2)
https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=916

 これらの「桂川甫賢筆『長崎屋宴会図』(文政5年、1822年)」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-26

(再掲)

(参考その二)

「桂川甫賢筆長崎屋宴会図について(著者・松田清) 雑誌名・神田外語大学日本研究所紀要12 p 234-170 発行年2020-03-30」
URL http://id.nii.ac.jp/1092/00001662/

【はじめに (略)
第1 章 文政5 年以前の長崎屋図 (略)
第2 章 桂川甫賢筆長崎屋宴会図 (抜粋)

桂川甫賢筆 長崎屋宴会図.gif

図14 桂川甫賢筆 長崎屋宴会図 神田外語大学附属図書館蔵
第3 章 仮装宴会の企画と演出  (略)  
おわりに ―長崎屋宴会図の由来― (略)   】
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