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「風神雷神図」幻想(その二十) [風神雷神]

(その二十) 光琳の「金」(風神雷神図)と抱一の「銀」(夏秋草図)、そして、其一の「金」(白椿図)と「銀」(芒野図)の世界

 一橋一位殿御頼認上
 二枚折屏風一隻下絵 銀地
       雷神  夏艸雨
 光琳筆 表    裏 
       風神  秋艸風
   文政四年辛巳十一月九日出来 差出

一 上記は抱一筆「夏秋草図屏風」の裏面に貼付されていた文書の内容である。
二 この文書により、抱一の「夏秋草屏風」は、一橋一位殿(一橋治済=はるさだ)の依頼により制作したことが分かる。また、光琳の「風神雷神図屏風」の、「雷神」の裏面に「夏草雨」が、そして、「風神」の裏面に「秋草風」が配して制作したと、抱一の趣向が記されている(現在は別々の屏風に仕立て直されている)。
三 この光琳の「風神雷神図」(表)と、抱一の「夏秋草図(裏)」とを、抱一の「夏秋草図」(裏)を前面にして、「表」と「裏」とを表示すると、次のとおりとなる。

夏秋草図屏風(風神雷神図との関連).jpg

上段(表) 尾形光琳筆「風神雷神図屏風」(二曲一双) 東京国立博物館蔵
下段(裏) 酒井抱一筆「夏秋草図屏風」(二曲一双)  東京国立博物館蔵

 抱一が、「光琳百回忌」の法要を営んだのは、文化十二年(一八一五、五十五歳)の時、それから六年後の文政四年(一八二一、六十一歳)の時に、上記の「夏秋草図屏風」(「下絵」と「本図」)が完成したということになる。
 十一代将軍徳川家斉の父にあたる一橋治斎は、この前年に、古希を迎え、朝廷から従一位に任ぜられ最高位に上り詰めた。また、その翌年には、家斉の息女喜代姫と、酒井家十八代忠実の子、注学との婚約が成立し、将軍家と姫路酒井家の婚儀が整ったという時代史的背景がある。
 さらに付け加えるならば、この年(文政四年)は旱魃に見舞われた年で、抱一が、この「夏秋草図屏風」を手掛けたのは、風神雷神に雨乞いの祈りを託したものという説もあるようである((『別冊太陽 酒井抱一 江戸の粋人(仲町啓子監修)所収「江戸風流を描く(岡野智子稿)」)。
 その上で、光琳の「風神雷神図屏風」が、一橋徳川家にあったものなのか、それとも、抱一が探し出したものなのかどうかは定かではない。確かに言えることは、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面、確実に、抱一が、この「夏秋草屏風図」描いたということなのである。
 そして、光琳の「風神雷神図屏風」が、金(ゴールド)の世界に、抱一の「夏秋草図屏風」は、銀(シルバー)の世界をもって対峙させたということなのである。
 この抱一の、銀(シルバー)の世界は、光琳の、金(ゴールド)の世界への「挑戦」であると共に、光琳を敬慕する抱一の、限りない「オマージュ」(敬意を表しての作品)的「裏絵」(「表絵」に呼応する「裏絵」)という趣向を有するものなのであろう。
 そして、この抱一の、金(ゴールド)の「表絵」に呼応する、銀(シルバー)の「裏絵」の世界は、抱一の継承者の鈴木其一に、見事に引き継がれて行くのである。
 その象徴的な作品が、次の其一の、「金」(白椿図)と「銀」(芒野図)との世界ということになる。

其一・白椿.jpg

Camellias (one of a pair with F1974.35) → 白椿(フリーア美術館蔵)
Type Screen (two-panel) → 二曲一双
Maker(s) Artist: Suzuki Kiitsu 鈴木其一 (1796-1858)
Historical period(s) Edo period, 19th century
School Rinpa School
Medium Ink, color, and gold on paper
Dimension(s) H x W: 152 x 167.6 cm (59 13/16 x 66 in)

其一・芒野.jpg

Autumn Grass → 芒野(フリーア美術館蔵)
Type Screen (two-panel) → 二曲一双
Maker(s) Artist: Suzuki Kiitsu 鈴木其一 (1796-1858)
Historical period(s) Edo period, 19th century
Medium Ink and silver on paper
Dimension(s) H x W: 152 x 167.6 cm (59 13/16 x 66 in)
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「風神雷神図」幻想(その十九) [風神雷神]

(その十九) 三十三間堂の「怒れる雷神・風神」と北斎の「雷神風神」図

三十三間堂.jpg

「三十三間堂」=「雷神像(右)」「風神像(左)」

「三十三間堂」の中央に位置する「千手観音像」と「千体仏」を支える守護神が二十八部衆のようである。
 その「千手観音像」を四方に支える「四天王」(持国天・増長天・広目天・毘沙門天)
さらに「八部衆」(天衆・龍衆・夜叉衆・緊那羅(キンナラ)衆・乾闥婆(ケンダツバ)衆・迦楼羅(カルラ)衆・阿修羅衆・摩睺羅(マゴラ)衆)、そして、「金剛力士(仁王像)」(阿形像・吽形像)」などがよく知られている。
 その他に、「吉祥天・梵天・大自在天・鬼子母神・金毘羅王・金色孔雀王・金大王・満仙王・難陀(ナンダ)竜王・散脂(サンジ)大将・畢婆迦羅(ヒバカラ)王・摩醯首羅(マケイシュラ)王・婆藪(バス)仙人・摩和羅女」など、読み方もまちまちの守護神が取り巻いているようである。
 この「二十八部衆」(守護神)の眷属(従者・郎党)の「二神」が、「風神」「雷神」で、
「自然の脅威の悪神」と「二十八部衆の手助けをする善神」との、その両性を備えている「鬼神」というような位置づけなのかも知れない。

 ここで、今まで見てきた「風神雷神」図像のうちで、「自然の脅威の悪神」(「怒れる風神雷神)」という印象を漂わせているのは、北斎の「雷神図」と「風神図」とが群れを抜いている。

北斎・雷神図一.jpg

北斎筆「雷神図」(一部・拡大)フリーア美術館蔵(「オープンF|S」)
署名「八十八老卍筆」 印章「百」 弘化四年(一八四七)

 この北斎の「雷神図」は、まさに、「三十三間堂」の、上記の「怒れる雷神像」に匹敵する。
 そして、この上記の「三十三間堂」の、何処となく、上記の「八部衆」の、「迦楼羅(カルラ)衆」の雰囲気を漂わせている「怒れる風神像」に比しての、北斎の、次の「風神図」が、どうにもそぐわないのである。

風神.jpg

北斎「風神図」(落款「八十五老卍筆」 印章「冨士型」)
弘化元年(一八四四) 個人蔵

 これは、何処となく、上記の「二十八部衆」のうち、「婆藪(バス、バソ)仙人」の面影を宿しているように思えるのである。

婆藪像.jpg

「三十三間堂」の「「婆藪(バス・バソ)仙人」像

 そして、さらに、幻想を手繰らわして行くと、次の、北斎の晩年の杖を引いた自画像に行き当たるのである。

北斎自画像.jpg

Hokusai as an old man(フリーア美術館蔵)
Type Album leaf
Maker(s) Artist: Katsushika Hokusai 葛飾北斎 (1760 - 1849)
Historical period(s) Edo period, 1760-1849
Medium Woodblock print: ink on paper
Dimension(s) H x W: 54 x 25.5 cm (21 1/4 x 10 1/16 in

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「風神雷神図」幻想(その十八) [風神雷神]

(その十八) 抱一の「雷神風神図扇」

抱一・扇一.jpg

酒井抱一「風神雷神図扇」の「風神図扇」
紙本着色 二本 各三四・〇×五一・〇cm 太田美術館蔵

抱一・扇二.jpg

酒井抱一「風神雷神図扇」の「雷神図扇」
紙本着色 二本 各三四・〇×五一・〇cm 太田美術館蔵
【光琳画をもとにして扇に風神と雷神を描き分けた。『光琳百図後編』に掲載された縮図そのものに、二曲屏風の作例より小画面でかえって似ているところがある。また雲の表現や天衣の翻りなど鈴木其一による『風神雷神図襖』にも近い。すでに大作を仕上げていた身に付いた感じがあり、淡い色調が好ましくもある。 】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸の粋人(仲町啓子監修)所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 そもそも、琳派の祖の俵屋宗達の「俵屋」は、京都の「絵扇」を中心とする「絵屋」ないし「扇屋」の屋号のようなものであろう。仮名草子『竹斎』に「扇は都たわらやがひかるげんじのゆうがほのまきえぐをあかせてかいたりけり・・・」と、「俵屋の扇」は京都の人気の的であったことが記されている。

宗達・扇面.jpg

伝俵屋宗達「扇面散貼付屏風」 二曲一双 紙本着色 重文 醍醐寺蔵
各 一五七・〇×一六八・〇cm 各扇 上弦 五五・〇~五七・五cm

光琳・扇.jpg

尾形光琳「鶴扇」17.9 x 49 cm フリーア美術館蔵
A crane
Type Fan
Maker(s) Artist: Style of Ogata Kōrin 尾形光琳 (1658-1716)
Historical period(s) Edo period, 19th century
School Rinpa School
Medium Ink and color on paper
Dimension(s) H x W (overall): 17.9 x 49 cm (7 1/16 x 19 5/16 in)

 宗達の「俵屋」が扇屋でとすると、光琳の「雁金屋」は呉服商で上層町衆の家柄である。この絵扇の署名は「法橋光琳」で、元禄十四年(一七〇一、四十四歳)に「法橋」に叙されているので、それ以降の作ということになろう。
 元禄八年(一六九五、三十八歳)の「年譜」に、「二条綱平、光琳の絵扇を女院に献上す」とあり、光琳の「絵扇」も、人気が高かったのであろう。
 宗達、そして、光琳の、その「琳派」を承継する、江戸琳派の創始者、酒井抱一もまた、「絵扇」の名手である。
 冒頭の「風神雷神図扇」は、『光琳百図後編』に掲載されている縮図を踏襲しており、それが刊行された文政九年(一八二六、六十六歳)前後の、晩年の作であろうか。こういう小画面のものになると、抱一の瀟洒な画技が実に見応えあるものとなって来る。
 この抱一と北斎とは、全く同時代の二人で、北斎が一歳年上、そして、北斎にも「扇面散図という名品がある。

北斎・扇.jpg

葛飾北斎「扇面散図」絹本着色一幅 五十一・五×七一・四cm 東京国立博物館蔵
署名「九十老人卍筆」 嘉永二年(一八四九)作

 抱一と北斎、抱一は大名家の生まれ、片や、北斎は、武蔵国葛飾の百姓の出、その出生などは雲泥の差がある。しかし、画人としてのスタートは、北斎が、浮世絵師、勝川華章門、そして、抱一もまた、浮世絵師、歌川豊春に師事し、洒落本や美人画などと、浮世絵の世界から出発している。
 爾来、北斎の九十年ら亘る生涯は、まさに、神羅万象、三万点を超える作品を発表し、世界に冠たる「日本最大の浮世絵師・北斎」の名を轟かしているが、抱一もまた、宗達、光琳の切り拓いた、日本画壇の一角を占めた「琳派」の後継者として、さらに、「江戸琳派」の創始者として、その六十八年の生涯は、決して、北斎に一歩も引けを取るものではなかろう。
 と同時に、北斎にしても抱一にしても、屏風絵や大画面の肉筆画に目が奪われがちであるが、こうした、絵扇や扇面画の小画面のものや細密画の世界に、大画面ものに匹敵する凄さというものを実感する。
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「風神雷神図」幻想(その十六) [風神雷神]

(その十六)狩野派(「雷神(右)・風神(左)」)と琳派(「風神(右)・雷神(左))」)

探幽・雷神図.jpg

「雷神図屏風(右)」(一一四・〇×三四九・八cm)
「風神雷神図屏風」(伝狩野探幽)六曲一双 紙本墨画淡彩 板橋区立美術館蔵

探幽・風神図.jpg

「風神図屏風(左)」(一一四・〇×三四九・八cm)
「風神雷神図屏風」(伝狩野探幽)六曲一双 紙本墨画淡彩 板橋区立美術館蔵

 「狩野派」は、上記のとおり、「雷神(右)・風神(左)」となる。これまで見て来たもので、「北斎」・「国芳」(単独の「雷神図」主体など)・「暁斎」(基本的には「狩野派」に準じている)も、この「狩野派」の流れのものと解したい。
 この「雷神(右)・風神(左)」の、代表的なものが、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」の配置ということになる。

三十三間堂.jpg

「三十三間堂」=「雷神像(右)」「風神像(左)」

 これに比して、「琳派」の流れは、「宗達→光琳→抱一→其一」とも、すべからく、「風神(右)・雷神(左))」ということになる。
 ここで、あらためて、「風神雷神図」のイメージを今に元祖的に伝えている、その宗達の「風神(右)雷神(左)」を再掲して置きたい。

宗達 風神雷神図.jpg

俵屋宗達「風神雷神図屏風」二曲一双 紙本金地着色 建仁寺蔵(京都国立博物館に寄託)
寛永年間頃(十七世紀前半)作 各一五四・五 × 一六九・八 cm

 宗達の、この「風神雷神図」の世界と、例えば、「三十三間堂」のそれとは、似ても似つかないものということになろう。
 そして、この宗達画の「風神(右)雷神(左)図」は、やはり、例えば、遠く、敦煌莫高窟(ばくこうくつ)第二四九窟の壁画などに見られるもののようである。

敦煌.jpg

敦煌莫高窟第二四九窟の壁画(風神=右、雷神=左)

 この「風神=右、雷神=左右」は、「千手観音二十八部衆像」(静嘉堂文庫美術館蔵)などにも踏襲されている。しかし、「風神=緑青、雷神=朱」で、宗達図の「風神=緑青、雷神=白」とは異なる。
 また、風神と雷神の形姿自体は、「松崎天神縁起絵巻」や「北野天神縁起絵巻」などの古絵巻などの引用の方法がとられているとの指摘がなされている(『絵は語る (13) 夏秋草図屏風-酒井抱一筆 追憶の銀色(玉蟲敏子著)』)。
 いずれにしろ、「風神・雷神」というのは、「暴風雨をおこす恐るべき鬼神」(「三十三間堂」の「風神・雷神像」)というのが、基本的な形姿で、その形姿の背後に、「弘法大師や小野小町の祈雨に呼応する鬼神」という一面を有しているのであろう。

 名月や神泉苑の魚(うを)躍る 蕪村 (『蕪村句集』)

 この蕪村の句には、「雨のいのりのむかしをおもひて」の前書きが付してある。「神泉苑」とは、桓武天皇創設の御苑で、ここで、弘法大師や小野小町が「雨のいのり」をしたことで知られている。

 ほとゝぎすいかに鬼神(きじん)もたしかに聞(きけ) 宗因
  ましてやまぢかきゆふだちの雲           蕪村
 江を襟(えり)の山ふところに舟よせて        几董
  (以下略)

 『花鳥篇』(天明二年・蕪村編)所収の「ほとゝぎす」(歌仙)の冒頭の三句である。これは、宗因の句を発句として、蕪村が脇句を付け、そこからスタートする「脇起こし」歌仙である。宗因の発句は、「いかに鬼神もたしかに聞(きけ)」の「謡曲・田村」の「文句取り」の一句である。
 この「鬼神」が、「風神・雷神」の「鬼神」ということになろう。この句に対する蕪村の脇句も、「ましてや間近き鈴鹿山」(「謡曲・田村」)の「文句取り」の一句で応酬しているところがポイントとなる。意味するところのものは、「風神・雷神さんが夕立の雲に乗って、確かに、祈雨に応えてくれるであろう」というようなことになろう。
 几董の第三は、「天候急変に舟が避難している」という付けということになる。

 ここで、冒頭の「風神雷神図屏風」(伝狩野探幽)を見ると、これは「怒れる風神・雷神」図ではなく、「祈雨に応えている風神・雷神」図ということになろう。
 そして、「風神雷神図」のイメージを今に元祖的に伝えている、宗達の「風神・雷神」図も、決して、上記の「三十三間堂」の「怒れる風神・雷神」図ではなかろう。
 しかし、それはそれとして、決して、地上界の「祈雨に応えている風神・雷神」図というイメージでもなかろう。
 ずばり、六世紀初頭の、日本から遠く離れた敦煌の、その「敦煌莫高窟第二四九窟の壁画」に描かれた「風神・雷神」図の、その「彩色豊かな・動的にして且自由闊達な、その『風神・雷神』」を、見事に活写した、十七世紀の日本の、そして、京都の一介の絵師の、「俵屋宗達」の、その「風神雷神図屏風」は、まさに、「風神雷神図」のイメージの元祖としての位置を不動のものにするのであろう。
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「風神雷神図」幻想(その十五) [風神雷神]

(その十五)其一の「風神雷神図襖絵」

其一・風神.jpg

鈴木其一「風神雷神図襖」(右四面)
八面 絹本着色 各一六八・〇×一一五・・五cm 江戸時代後期
東京冨士美術館蔵

其一・雷神.jpg

鈴木其一「風神雷神図襖」(左四面)
八面 絹本着色 各一六八・〇×一一五・・五cm 江戸時代後期
東京冨士美術館蔵

【 宗達、光琳、抱一という琳派の先達たちによって受け継がれてきた風神雷神という画題を、其一は屏風ではなく襖の大画面に移し替えた。元は二曲一双の屏風から、それぞれ左右に余白を加えた襖八面に画面が拡張されている。制作された当初は風神と雷神が襖絵の表裏を成していたという。絹地の上に、滲みを利かせた黒雲を描くが、風神を載せる雲は下から勢いよく噴き上げる風を感じさせ、対する雷神は取り囲む黒雲は、いかにも稲光が走りそうな雨をはらんだ雲にみえる。風神雷神の姿や形を含め、抱一が編んだ『光琳百図』後編下冊の「風神雷神図」を明らかに下敷きにした構図といえるが、失敗をゆるされない墨の濃淡の滲みによって、爽快なまでにダイナミックな天空の描写が実現している。「祝琳斎其一」の署名と「噲々」(朱文円印)によって、其一の四十代前半頃の作と推定される。 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説(石田佳也稿)」)

 ここで、抱一の「略年譜」(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一(仲町啓子監修)』所収)により、「光琳百回忌」「光琳百図」関連などを抜粋して、若干の其一との関連や説明書き(※印)を施して置きたい。

文化三年(一八〇六) 抱一=四十六歳 二月二十九日、宝井其角百回忌に際し、其角の肖像百幅を制作。※其一=十一歳 ※抱一が「光琳百回忌」を発起する切っ掛けは、この其角百回忌と関連があるとされている。
文化十年(一八一三) 抱一=五十三歳 「緒方流略印譜」刊行。鈴木其一、抱一の内弟子となる。※其一=十八歳 
文化十二年(一八一五) 抱一=五十五歳 六月二日、光琳百回忌。大塚村で法要を営み、付近の寺で光琳遺墨展を開催。『緒方流略印譜』『光琳百図』を刊行(※「光琳遺墨展」記念配り本として刊行。『光琳百図』は前編二冊=上・下のみ)。※其一=二十歳
文政三年(一八二〇) 抱一=六十歳 光琳墓碑(妙願寺)の修築完成。其一、雨華庵の西隣に住む。※其一=二十五歳
文政四年(一八二一) 抱一=六十一歳 一橋治斎発注による「夏秋草図屏風」下絵または本図の制作に着手(※「夏秋草図屏風」は、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描かれている)。※其一=二十六歳
文政九年(一八二六) 抱一=六十五歳 『光琳百図』後編(上・下)刊行。※其一=三十一歳(※抱一の「風神雷神図屏風」は、文化十二年=一八一五~文政九年=一八二六の頃の作か? また、其一の「風神雷神図襖絵」は、天保六年=一八三五=四十歳~天保十一年=一八三九=四十五歳の頃の作か?)。

 上記の「略年譜」の関連で、「宝井其角百回忌」については、次のアドレスで先に若干触れている。

http://yahan.blog.so-et.ne.jp/search/?keyword=%E5%85%B6%E8%A7%92%E7%99%BE%E5%9B%9E%E5%BF%8C

 また、抱一の「夏秋草図屏風」と光琳の「風神雷神図屏風」との関連についても、次のアドレスで先に若干触れている。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=%E5%A4%8F%E7%A7%8B%E8%8D%89%E5%9B%B3%E5%B1%8F%E9%A2%A8

 ここで、確認をして置きたいことは、「宗達と光琳」とは、何らの師弟の関係は無い。また、「光琳と抱一」とも、これまた、何らの師弟の関係は無い。これらの関係は、「光琳は宗達の大ファン」、「抱一は光琳の大ファン」で、ある時期から「光琳は宗達を目標」とし、「抱一は光琳を目標」としていたと、単純に割り切った方が、それぞれの関係がすっきりして来るであろう。
 その上で、「抱一と其一」とは、師弟の関係にあり、文化十年(一八一三)、抱一=五十三歳、其一=十八歳の時に、其一が抱一の内弟子になって以来、文政十一年(一八二八)に抱一が没する(抱一=六十八歳、其一=三十三歳)迄、其一は、抱一の傍らに控えていて、その片腕になっていたということなのである。
 すなわち、上記の抱一の「略年譜」中の、「光琳百回忌」『光琳百図』前編(上・下二冊)、後編(上・下二冊)も、さらに、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描いた、抱一の最高傑作の「夏秋草図屏風」も、その比重の差はあれ、何らかの意味で、抱一の愛弟子・其一が、老齢に近い抱一の手足となっていたことは、当時の、絵師の工房の実態からして、それほど違和感を抱くこともなかろう。
 すなわち、冒頭に掲げた、其一、四十歳代前半の作とされている、この「風神雷神図襖絵」(全八面・絹本着色)は、これまでの、「金地着色」の、金箔(ゴールド)の「宗達→光琳→抱一」の「風神雷神図屏風」に対する、アンチ「金(ゴールド)・屏風」、そして、抱一が、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に展開した、「銀(シルバー)・屏風」的世界を意図しての、襖地(白・鼠色の絹地)に水墨画(墨の滲みを利かせての黒雲)的世界のものと指摘することが出来よう。
 この其一の「風神雷神図襖絵」は、抱一が「夏秋草図屏風」で展開した、光琳の「金(ゴールド)」に比しての「銀(シルバー)、さらに、光琳の「風神」に「風に靡く秋草」、そして、「雷神」に「夕立にしなだれる夏草」を配したように、其一は、師・抱一の「風神」に「秋の風雲」、そして、師・抱一の「雷神」に、「夏の雨雲」を配していると解したいのである。

夏秋草図屏風(風神雷神図との関連).jpg 

上段(表) 尾形光琳筆「風神雷神図屏風」(二曲一双) 東京国立博物館蔵
下段(裏) 酒井抱一筆「夏秋草図屏風」(二曲一双)  東京国立博物館蔵



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「風神雷神図」幻想(その十四) [風神雷神]

(その十四)抱一の「風神雷神図屏風」

抱一・風神雷神図.jpg

酒井抱一「風神雷神図屏風」 紙本金地着色 二曲一双 各一七〇・七×一七〇・二cm  
出光美術館蔵 江戸時代(十九世紀)

【 風神雷神は千手観音二十八部衆像の上部に描かれる仏像の神であるが、抱一画には、江戸の身近なキャラクターとして剽軽な趣が加わっている。宗達、光琳、抱一と、琳派の図様継承がもっとも象徴的に受け止められて図様だが、敷き写しができたらしい光琳に比対して、抱一は宗達本は見ておらず、一橋徳川家が所有しており江戸にあった光琳本を縮図として記憶にとどめ、そこから描かれたと思しい。 】
(『別冊太陽 酒井抱一 「江戸琳派の粋人」(監修=仲町啓子)』所収「作品解説・松尾知子稿」)

 かって、次のアドレスで、「酒井抱一(その五)『抱一の代表作を巡るドラマ』」とのタイトルで、抱一と光琳の「風神雷神図」などの一端について触れた。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-26



一 俵屋宗達筆「風神雷神図屛風」二曲一双 紙本金地着色 江戸時代(17世紀) 各154.5×169.8㎝ 国宝 建仁寺蔵(京都国立博物館に寄託)
二 尾形光琳筆「風神雷神図屛風」二曲一双 紙本金地着色 江戸時代(18世紀) 各166×183㎝ 重文 東京国立博物館蔵 
三 酒井抱一筆「風神雷神図屛風」二曲一双 紙本金地着色 江戸時代(19世紀) 各170.7×170.2㎝ 出光美術館蔵

 ここで、上記の「宗達・光琳・抱一」の「風神雷神図屏風」関連ついて概括すると、宗達画(寛永年間=一六二四~=十七世紀)から約百年後に、光琳画(光琳五十歳代=一七〇七~=十八世紀)、そして、光琳百回忌(一八一五=十九世紀)前後に、抱一画と、この三者の間には、それぞれ、約百年のスパンがあり、それを江戸時代(約三百年)の時代区分ですると、大雑把に、宗達画=江戸前期初頭、光琳画=江戸中期初頭、抱一画=江戸後期初頭ということになろう。
 さらに、宗達画と光琳画の比較などについては、前回(その十三)で触れた。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-15

 その上で、抱一の、この「風神雷神図」について触れると、この抱一画は、宗達画を念頭に置いたものではなく、すべからく、光琳画を念頭に置いてのものということになろう。
 さらに、この抱一画は、光琳百回忌に因んで、抱一自身が編んだ記念図録集『光琳百図』中の、次の「風神雷神図」などと関連の深いものという印象を深くする。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850497

国立国会図書館デジタルコレクション - 光琳百図

抱一・風神.jpg

抱一・雷神.jpg
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「風神雷神図」幻想(その十三) [風神雷神]

(その十三)光琳の「風神雷神図屏風」

光琳・風神雷神図.jpg

尾形光琳「風神雷神図屛風」二曲一双 紙本金地着色 江戸時代(18世紀)各一六六・〇×一八三・〇㎝  重文  東京国立博物館蔵

 俵屋宗達に比すると、尾形光琳については、その全体像が鮮明に浮かび上がって来る。
光琳は、万治元年(一六五八)〜享保元年(一七一六)の、光琳が没した年(享保元年=一七一六)に、その光琳の次の時代(江戸中期)を背負う、伊藤若冲と与謝蕪村とが誕生している。
 すなわち、「江戸時代の三代改革」(享保の改革・寛政の改革・天保の改革)の、そのトップに位置する「享保の改革」が断行された年に、光琳は没している。それは、江戸前期と後期との分岐点でもあり、光琳が活躍した時代は、いわゆる、「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)」の右肩上がりの時代でもあった。
 その意味で、宗達と光琳とは、その年代差は、十七世紀(宗達))と十八世紀(光琳)との開きもあるが、共に、「江戸前期」の「京都」を中心にして、「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)」の輝かしい時代の画人と位置付けることは可能であろう。
 その二人の関係を象徴するかのように、光琳は、上記のとおり、宗達の「風神雷神図屏風」を模写して、宗達の世界を自家薬籠中のものにして、日本画壇の中枢を占めていた「狩野派」に匹敵する、新しい日本画壇の息吹たる「琳派(宗達・光琳派)」という流れをスタートさせたのである。
 ここで、宗達と光琳の「風神雷神図屏風」の細部の比較などをすると次のとおりである(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』を参考としている。但し、サイズの大きさやその他同著の指摘と異なる表現も多い)。

一 共に、二曲一双の金屏風だが、サイズは、宗達画(各一五四・五 × 一六九・八 cm)に比し、光琳画(各一六六・〇×一八三・〇㎝)の方が、やや大きい。

二 宗達画では、雷神の連鼓や、風神のショールが画面からはみ出でているが、光琳画では画面内に収めている(光琳画のサイズが大きいのは、このことと関係しているようである)。

三 光琳画は、宗達画をトレース(敷き写し)したもので、シルエットなどは宗達画に一致する。故に、光琳画の描線は、そのトレースしている輪郭線という印象に比して、宗達画の線は墨の濃淡など、その描線を異にしている。

四 このことは、色彩についても、光琳画は均一にムラなく塗っている印象に比して、宗達画では着色の濃淡や粒子の粗密など微妙なニュアンスの相違点が出て来る。

五 一見して、宗達画の「二神の足元の雲」は、何色かの絵具(顔料)が複雑に絡み合い、そして、塗るというよりも「たらし込み」の技法で、濃淡の空間の深みのような表現に比して、光琳画は墨一色の黒さが目立ち、両者の相違点を際立たせている。

六 これらのことから、この両者の「風神雷神図屏風」に限ってするならば、宗達画が「絵画的」(「ぼかし」などの抑揚豊かな感性的世界の表現)な世界とすると、光琳画は、より「デザイン的」(「線描主義的な画面構成」と「装飾的な色彩対比」の重視)な世界という印象を抱かせる。

七 上記のことは、光琳画が、宗達画をトレース(敷き写し)し、模写するという、そういうことから派生する指摘事項で、「光琳画の創意点」という視点からすると、次のようなことも指摘出来よう。

七の(一) 風神と雷神を画面の中に収めて対峙させ、黒雲を背景に両神の姿を浮き上がらせ、その黒雲の形状も、風神の乗る雲は△形、雷神の乗る雲は○形にまとめて対照させている。画面には、宗達作品の空間の広がりに代わって、高い緊張感が生じている。
(『別冊太陽 尾形光琳 「琳派」の立役者(監修=河野元昭)』所収「作品解説・中部義隆稿」、なお、光琳画のサイズは、同著に因っている。)

七の(二) この光琳の「黒い雲」に着目すると、北斎の「雷神図」の、「黒い闇」と「赤いレザービームの雷光」が思い起こされて来る。

北斎・雷神図一.jpg

北斎筆「雷神図」(一部・拡大)フリーア美術館蔵(「オープンF|S」)
署名「八十八老卍筆」 印章「百」 弘化四年(一八四七)

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「風神雷神図」幻想(その十二) [風神雷神]

(その十二)国芳の「流光雷づくし」

流光雷づくし.jpg

歌川国芳「流光雷づくし」大判 天保十三年(一八四二)

 北斎は、宝暦十年(一七六〇)生まれ、国芳は、寛政九年(一七九八)生まれ、北斎を江戸中期とすると、国芳は江戸後期の画人ということになる。
 宗達は、生没年は未詳であるが、「風神雷神図屏風」は、寛永年間(十七世紀前半)の作とされ、織豊時代から江戸初期にかけての画人ということになろう。
 北斎と国芳とは、共に、江戸(東京)を本拠地としての浮世絵師として、年代差はあるが、両者は、知己の間柄と解しても差し支えなかろう。それに比して、宗達となると、京都を本拠地とし、尾形光琳共々「琳派」の祖として、北斎や国芳との世界とは異質の世界の画人ということになろう。
 そういうことを前提として、この三者の「風神雷神」図関係を、大雑把に見てみると次のようなことが指摘できる。

一 宗達「風神雷神図屏風」→ 「屏風絵」「装飾画」「金地着色画」
二 北斎「風神図」「雷神図」→ 「掛幅絵」「肉筆画」「紙本着色画」
三 国芳「流光雷づくし」→  「(大判)錦絵」「浮世絵(版画)」「多色摺木版画」

 宗達の「風神雷神図屏風」というのは、「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)」の夜明けを告げるような絵で、戦国時代の怒り狂う「風神雷神」図が、戦乱の無い太平の世を謳歌する「風神雷神」図に様変わりしている。その象徴が、この宗達の「風神」・「雷神」で、共に「口を開けて笑っている」という図柄のように思えるのである。

 それに比して、北斎の「風神」は、北斎と国芳の継承者のような暁斎が描く「貧乏神」のように、悩める「マントヒヒ」のような風姿で口を堅く閉ざしている。「雷神」もまた、「阿吽」の呼吸で、口を開けていたものを閉じ、力強く太鼓を連打している一瞬の図柄なのである。北斎の時代は、「寛政の改革」の時代で、北斎の知己の、版元・蔦屋重三郎や戯作者・浮世絵師の山東京伝(画号・北尾政演)等が処刑された時代で、その重苦しい世相の一端が滲み出ているように思われる。

 そして、国芳になると、「天保の改革」の時代で、国芳自身、何度も奉行所に呼び出されたり、尋問を受けたり、罰金を取られたりしながら、禁令の網をかいくぐり、時の幕藩体制への鋭い風刺を、その浮世絵版画に託し続けたのである。この「流光雷づくし」も、その「流光」は「雷の光の『流光』」で、当時の「流行」とを掛けている用例で、ここに出て来る「雷神」は、ここまで来ると、「諷刺」というよりも「悪乗りの駄洒落・ギャグの親分」という印象が強くなって来る。
 ちなみに、上記の図柄は、次のとおりである。
上段(右から)
○稲妻研ぎ→  稲妻の手入れ。
○大夕立の準備 → 夕立の諸道具の手入れ。
中段(右から)
○豊年おどり→ 稲が良く育つように豊年踊り。
○神鳴り干し → 干瓢を日に干している。
○きょくうち →太鼓のバチを放り上げる曲打ち。
下段(右から)
○雲のさいしき(彩色)→雲に色を染めている。
○うす引き雷 → 石臼を回し、鉢でこねり、雷鳴の手入れ。
○雷きらい→ 擂り粉木の雷鳴に、耳を塞いでいる。

 この「流光雷づくし」では、「風神」は出て来ないが。中段(中央)の「曲打ちの緑の鬼」を、宗達の「風神」とし、その中段(右)の「豊年踊りの赤鬼・白鬼」を、宗達の「雷神」と見立てても面白いであろう。

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「風神雷神図」幻想(その十一) [風神雷神]

(その十一)宗達の「風神雷神図屏風」

宗達 風神雷神図.jpg

俵屋宗達「風神雷神図屏風」二曲一双 紙本金地着色 建仁寺蔵(京都国立博物館に寄託)
寛永年間頃(十七世紀前半)作 各一五四・五 × 一六九・八 cm

 北斎の「雷神図」そして「風神図」を見て、しかる後、この「風神雷神図」で最も高名な宗達の、この「風神雷神図屏風(国宝)」に接すると、北斎の「風神図」・「雷神図」の、言葉を拒否するような「凄み」が、この宗達の「風神図」・「雷神図」では、その欠片も見出せないということを思い知る。

風神.jpg

北斎「風神図」

風神雷神図一.jpg

宗達「風神図」

 上記の「北斎」の内へと志向する「孤愁」の「風神図」に比して、「宗達」の外へと志向する、例えば、「舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん」(『梁塵秘抄』)と囃し立てているような、そんな「遊び」の「風神図」という印象が浮かんで来る。

北斎・雷神図一.jpg

北斎「雷神図」

 この「北斎」の「暗夜」のうちに「悶え狂い、乱打する雷神図」に比して、次の宗達の「雷神図」は、これまた、「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん」『梁塵秘抄』)と、そんな囃し立てているような、そんな「遊び」の「雷神図」という印象が、どうして拭えないのである。
 と同時に、しみじみと、宗達の時代(「十七世紀前半」)と、北斎の時代(「十八世紀後半)との、その異同とを実感するのである。

風鈴雷神図二.jpg


宗達「雷神図」


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「風神雷神図」幻想(その十) [風神雷神]

(その十)北斎の「風神図」・「雷神図」

風神.jpg

北斎「風神図」(落款「八十五老卍筆」 印章「冨士型」) 弘化元年(一八四四) 個人蔵

【よく知られてる俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」では、風神は風をはらんだ布を手にしているが、本図ではまるで風呂敷包みを肩にかけているようである。雲の上に浮かび、風に頭髪を吹かれて鑑賞者をうかがうように見つめる表情は、どこか寂しげである。威勢を放つ「雷神図」(注・フリーア美術館蔵)とは、また別な魅力に溢れている。天空を自在に駆け巡る神というよりも、多分に人間臭くて親しみを感じるさせる佳品である。 】
(『北斎肉筆画の世界(宝島社=内藤正人監修)』所収「作品解説(樋口一貴稿)」)

北斎・雷神図一.jpg

北斎筆「雷神図」(一部・拡大)フリーア美術館蔵(「オープンF|S」)
署名「八十八老卍筆」 印章「百」 弘化四年(一八四七)

【 墨のぼかしを利かせた暗雲の中から赤黒い体躯、牙を見せた雷神が現れる。撥を振り、太鼓を連打して、稲妻を轟かせているのであろうが、恐ろしさや神々しさは感じられない。その姿が北斎の絵手本でよく見かける、踊り稽古などの人物描写ほ彷彿とさせるせいであろうか。天衣の翻りと相まって、天空を軽やかに舞うかのように見える。すべての描写を仕上げ後、最後の最後に墨の飛沫と、赤いレザービームの雷光を走らせたようである。こうした狂いのない大胆さが北斎ならではある。 】
(『北斎肉筆画の世界(宝島社=内藤正人監修)』所収「作品解説(加藤陽介稿)」)

 この「雷神図」(フリーア美術館蔵)に比して、冒頭の「風神図」(個人蔵)は、鬼というよりも苦悩の表情の、前に紹介した暁斎の「貧乏神」が連想されて来る。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-03-26
貧乏神.jpg

暁斎「貧乏神図」一幅 紙本着色 明治十九年(一八八六) 福富太郎コレクション資料室蔵 一〇二・五×二九・七cm 

 しかし、ここで改めて、「雷神図」と「風神図」とを見て行くと、これは、いわゆる、「阿吽(あうん)」の「阿」は「口を開いて」の「雷神図」、そして、「吽」は「口を閉じて」の「風神図」という、そもそも「風神雷神図」の意味するところものを、北斎は描いているという思いが増大して来る。
 そして、この「阿」の動的な「雷神図」というのは、古来、様々な「雷神図」があるが、この「吽」の静的な「風神図」というのは、「鬼ではなく人間そのものである」という、この「風神図」の凄さに、今更ながらに、北斎の一面を思い知るのである。
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「風神雷神図」幻想(その九) [風神雷神]

(その九)暁斎「風神雷神図」(「惺々狂斎戯画帖」)

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暁斎「風神雷神図」(『河鍋暁斎戯画集(岩波文庫)』所収「惺々狂斎戯画帖」)

 「惺々狂斎戯画帖(全四十八図)』は、「オランダ、デン・ハーグ某夫人蔵」ということで、日本には存在しないようである(『河鍋暁斎戯画集(岩波文庫)』)。その中の一図に、上記の「風神雷神図」がある。
「風神」は、いかにも、狩野派の暁斎のそれという風姿なのだが、「雷神」は「行水」をしていると。何ともユーモア溢れる図柄で、これも暁斎の一面なのであろう。
 どのようなルートで、「オランダ、デン・ハーグ某夫人蔵」になったのかは定かではないが、次のような示唆に富んだ記述がある。

【 暁斎は生存中から外国の美術愛好家に注目されていた。パリにギメ美術館を作ることになるエミール・ギメが、友人の画家フェリックス・レガメーを伴って暁斎を訪問したのは明治九年九月である。お雇い外国人医師ウィリアム・アンダソンは暁斎に大量の作品を注文した。やはり建築家のジョサイア・コンダ―は、みずから暁斎に弟子入りし、暁英を名のった。暁斎に注目していた外国人は他にも沢山いた。イタリアの銅版画家エドアルド・キオソーネ、アメリカ人生物学者エドワード・モース、そして暁斎の死を看取ったドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツ。
彼らが大量の作品を持ち去った結果、暁斎は正当な評価を受けぬまま、近世美術史と近代美術史のはざまに置き去りにされて来たことは事実である。しかしロンドンの大英博物館、ヴィクトリア・アルバート美術館、パリのギメ美術館、シュツットガルト・リンデン美術館のベルツ・コレクション、ライデンの国立民族博物館、アメリカのメトロポリタン美術館、ボストン美術館、フリーア・ギャラリー等、世界各地の美術館に一千点を越す暁斎の本画、下絵、版画、版本が収蔵されて来たために、大震災も第二次大戦の空襲を免れることができ、今日なおその全貌を知ることが可能なのである。
文明開化や絵画の近代化というフィルターを通さずに、幕末、明治の民衆的エネルギーをみずからの中に持ち、人々の日常生活の中に生きる絵画を描き続けた絵師、それが暁斎である。そして、そういう絵画こそ、絵画本来の姿ではなかっただろうか。】
(『河鍋暁斎戯画集(岩波文庫)』所収「(解説)叛骨の絵師河鍋暁斎とその戯画(及川茂・山口静一稿)」)

 この末尾の指摘の、「幕末、明治の民衆的エネルギーをみずからの中に持ち、人々の日常生活の中に生きる絵画を描き続けた絵師、それが暁斎である」、その暁斎は、今に、「過去一〇〇〇年で最も偉大業績を残した世界の一〇〇人」(アメリカの「Life」誌・1999年)の内の、その「八十六位」を占めた、唯一人の日本人・葛飾北斎(画狂人・北斎)の、その「狂と斎」とを画号とした「狂斎=暁斎」ということに相成る。

大津絵.jpg

(大津絵「鬼の行水」)

 北斎には、風神雷神図」も、例えば、上記の、大津絵の「鬼の行水」などをモチーフしたものは余り目にしない。それに比して、北斎の次の時代の暁斎には、この大津絵などの、いわゆる、民芸的な「民衆的エネルギー」を取り入れた、ポピュラー的なものを題材したものを、多く目にするという、「北斎と暁斎」との分岐点を目の当たりにする。
 すなわち、その分岐点というのは、「江戸から明治(東京)」への、その分岐点という思いを深くする。それは、同時に、「江戸(末期)」時代の「北斎」と、「江戸(末期)から東京(開明)」時代の「暁斎」との変遷ということになろう。
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「風神雷神図」幻想(その八) [風神雷神]

(その八)暁斎「風神雷神図(下絵)」フリーア美術館蔵(「オープンF|S」)

風神・雷神下絵.jpg

Folio from an album of miscellaneous drawings and notes
Type Album leaf
Maker(s) Artist: Kawanabe Kyōsai 河鍋暁斎 (1831-1889)
Historical period(s) Edo period or Meiji era, 1615-1912
Medium Ink and color on paper
Dimension(s) H x W (page): 26.7 x 38 cm (10 1/2 x 14 15/16 in)
Geography Japan

 暁斎の「風神雷神図」の下絵のものである。「雷神」が右、「風神」が左で、宗達風ではなく狩野派(探幽風)の構図を取っている。下記の「風神雷神図」(虎屋蔵)関連の下絵なのかも知れない。

風神雷神図二.jpg

河鍋暁斎筆「風神雷神図」 明治四年(一八七一)以降 双幅 絹本墨画 虎屋蔵 各一〇五・三×二八・八cm

 この「風神雷神図」(虎屋蔵)の特徴は、「風神図」が、烏天狗のような「迦楼羅(かるら)」のような風貌であることとその下の「柳の老樹の洞と葉」などの背景の描写などにあるが、上記の下絵(フリーア美術館蔵)では、それらの特徴はない。
 しかし、この下絵のような「風神雷神図」のスケッチが、暁斎の「風神雷神図」の基礎にあることは、間違いなかろう。


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「風神雷神図」幻想(その七) [風神雷神]

『北斎漫画(三編)』の風神雷神図」と肉筆画の「雷神図」(その二)

2008年10月7日(火)~11月30日(日)、東京都江戸東京博物館に於いて、「ボストン美術館 浮世絵名品展」が開催された。その図録中の、「ボストン美術館の浮世絵」と題するものの中に、次のような興味あることが記されていた。

【 富田(注・幸次郎)は「吉備大臣入唐絵巻」のような重要な作品を国外に流出させたことで、日本国内では非難の嵐を浴びた。しかし、「吉備大臣入唐絵巻」を購入するために売却されたボストン美術館の肉筆の多くは日本にもたらされることになり、1893年のボストン美術館の北斎展で展示された作品のいくつかは、現在は、太田美術館や出光美術館のような日本の美術館に収蔵されている。つまり、間接的な美術品の交換がこの時に行われたことになる。 】

 ボストン美術館には、「5万点にのぼる浮世絵版画、700点以上の肉筆画、数千点の版本が所蔵されている」(同上『図録』所収「あいさつ」)とあり、上記のように、日本に里帰りをしたものを含めると、その全貌というのは、未だ、ベールに閉ざされているという言葉が適切なのかも知れない。
 そして、それらのコレクションの中心になったのは、「モース、フェノロサ、ビゲロー」の三人で、これら三人と他のコレクターなどを介して、例えば、フリーア美術館などの他の美術館所蔵となっているものも多いようである。
 中でも、フリーア美術館所蔵の「日本の美術」関係作品については、ボストン美術館以上に、深いベールに閉ざされているという言葉が適切なのかも知れない。
 ところが、このフリーア美術館は、ベールを閉ざしているどころか、そののデジタル画像を、同館のウェブサイトから、フリーでダウンロードできる「オープンF|S」を開始しているのである。

https://archive.asia.si.edu/collections/edan/default.cfm

 この「オープンF|S」で、「HOKUSAI」を検索すると、491点が収録されているのである。

https://archive.asia.si.edu/collections/edan/default.cfm?searchTerm=hokusai&btnG.x=38&btnG.y=17&btnG=Search

 どれも、北斎の名品ばかりと印象だが、その内の一点「雷神図(Thunder god)」は、次のとおりである(その拡大図を掲げて置きたい)。

https://archive.asia.si.edu/collections/edan/object.php?q=fsg_F1900.47

北斎・雷神図一.jpg

北斎筆「雷神図」(一部・拡大)フリーア美術館蔵(「オープンF|S」)
署名「八十八老卍筆」 印章「百」 弘化四年(一八四七)
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「風神雷神図」幻想(その六) [風神雷神]

『北斎漫画(三編)』の風神雷神図」と肉筆画の「雷神図」(その一)

 『北斎漫画(三編)』の「序」を起草したのは、「蜀山人」こと、当時の「戯作・狂歌・狂画」の中心に居した幕臣の「太田南畝」、その人である。
その「序」は、十一歳年上の、蜀山人の北斎への限りなき絶賛の言葉なのである。

「目にミえぬ鬼神ハゑがきやすく、まちかき人物ハゑがく事難し。たとへば古の燧(ひうち)ふくろ歟(か)ふくろも丸角ゑち川の新製に及ばず。七五三の式正ハ八百膳が食次冊にしかざるがごとし。こゝに葛飾の北斎翁、目に見、心に思ふところ、筆を下してかたちをなさゞる事なく、筆のいたる所、かたちと心を尽さゞる事なし。(以下、略)」

 そこに、北斎の「風神雷神図」が収載されている。

北斎漫画一.jpg

『北斎漫画三編』の「風神雷神図」

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851648

国立国会図書館デジタルコレクション - 北斎漫画. 3編

この「風神雷神図」に続けて、「天狗(てんぐ)」「狒々(ひひ)」「幽呉(ゆうれい)」「山姥(やまうば)」「海市(かいし)」「船鬼(ふなゆうれい)」などが続くのである。

 『北斎漫画』の「初編」は、文化十一年(一八一四)、「二編」と「三編」は、その翌年の文化十二年(一八一五)に刊行された。「初編」の号は、「葛飾北斎」そして、「二編・三編」の号は、「北斎改葛飾戴斗」と、「北斎」から「戴斗」に改まっている。
 北斎の画号の変遷などは、概略、次のとおりである。

一  1779(安永8)年~94(寛政6)年 20~35歳
勝川春朗を名乗り、細版の役者絵、黄表紙の挿画に着手する。

二  1795(寛政7)年~98(寛政10)年 36~39歳
俵屋と称した琳派の巨匠が用いた画名を取り、百琳宗理、菱川宗理などを名乗る。狂歌絵本の挿画、摺物、肉筆画を手がける。

三  1798(寛政10)年~1810(文化7)年 39~51歳
北斎辰政(ときまさ)を名乗る。初めて北斎という号を使用。北辰とは北極星を指す。
1801(享和元)年~1808(文化5)年 42~49歳(画狂人北斎を名乗り、肉筆画、摺物に精を出す。)

四  1805(文化2)年~18(文政元)年 46~60歳
葛飾北斎、または葛飾戴斗(たいと)を名乗る。1814(文化11)年~19年(文政2)年、55~60歳の時、『北斎漫画』初編から10編までを描く。絵を描く人々や職人のための図案の手引書として森羅万象3000種のデッサンを網羅する。

五  1820(文政3)年~35(天保6)年 61~76歳
前北斎為一(いいつ)を名乗る。職人のための図案集である絵手本『今様櫛雛形』、風景画の傑作『冨嶽三十六景』などを描いた。

六  1834(天保5)年~49(嘉永2)年 75~90歳
画狂老人もしくは画狂老人卍を名乗る。絵本『冨嶽百景』などを制作する。

 上記の画号の変遷による「葛飾戴斗」、その「1814(文化11)年~19年(文政2)年、55~60歳の時、『北斎漫画』初編から10編までを描く」の、その『北斎漫画』時代が、いわゆる、前半生の「葛飾北斎」の頂点の時であったろう。
 
 ここで『北斎漫画』の「漫画」とは、「笑い(コミック)」を内容とした「戯画(カリカチュア)」ではない。それは、北斎の前半生の総決算ともいうべき、「浮世絵」の「絵師・彫師・塗師」の、その「絵師(「版下・原画を担当する絵師)」の、その総決算的な意味合いがあるものと解したい。
 そして、この『北斎漫画』を忠実にフォローしていた、当時の絵師の一人として、日本に西洋医学を伝えたドイツ人医師・シーボルトの側近の絵師・川原慶賀が居る。この川原慶賀については、以下のとおりである。

【天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日たシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。】

https://blog.goo.ne.jp/ma2bara/e/433eda67b8a4494aed83f88d08813179

 この川原源資が模写した、北斎の「風神雷神図」がある。

北斎 二.jpg


『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)

http://froisdo.com/hpgen/HPB/entries/77.html

 この川原慶賀が模写した「風神雷神図」は、オランダの「ライデン国立民族学博物館」に収蔵されている。それらは、シーボルト(1796~1866)が寄贈したものの一部なのであろう。
シーボルトは、 ドイツの医者・博物学者。1823(文政六)年オランダ商館医官として来日。長崎の鳴滝塾で診療と教育を行い、多くの俊秀を集めた。28(文政十一)年離日の際、日本地図の海外持ち出しが発覚、国外追放となる(シーボルト事件)。59(安政六)年再来日。著「日本」「日本動物誌」「日本植物誌」などがある。
シーボルトと北斎との出会いは、1826(文政九)年に、シーボルトがオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行し、時の将軍、徳川家斉に謁見した頃に当たるのであろう。この時、北斎は六十七歳の頃で、為一の画号時代ということになる。
この商館長の江戸参府は、四年毎に参府することが義務付けられていて、この1826(文政九)年の参府の折りなどに、北斎(北斎と門弟による「北斎工房」)に、江戸の風景や人々の日常風景などを題材にした浮世絵などを注文し、次の参府の際に完成した作品を引き取るといった流れで、為されていったようである。
シーボルトの場合は、単に、浮世絵などの蒐集の他に、文学的・民族学的コレクション、当時の日用品や工芸品、植物学、地理学など様々な分野から大量のコレクションを蒐集し、それらが、オランダの「ライデン国立民族学博物館」に収蔵されているということなのであろう。
このシーボルトのオランダの「ライデン国立民族学博物館」のルートの他に、「フランス国立図書館」ルートのものもあり、これらが一同に会して、2007年12月4日(火)~2008年1月27日(日)に江戸東京博物館に於いて「北斎 ヨーロッパを魅了した江戸の絵師」が公開されたのであった。

https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/special/1659/北斎%E3%80%80ヨーロッパを魅了した江戸の絵師/

 ここで、シーボルトのお抱え絵師の「川原慶賀」の作品と、シーボルトなどが特注した「北斎と北斎工房」の作品とは異質のものであるが、「北斎漫画」やその下絵に準拠している作品と解すると、広い意味での「北斎工房」の作品と解しても差し支えなかろう。
 
 とした上で、冒頭の『北斎漫画三編』の「風神雷神図」と、上記の『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)とを、相互に比して行くと、まざまざと、「北斎」作品と「北斎工房(川原慶賀作を含めて)」作品とでは、「形(かたち)」は同じであっても、その「心(こころ・狙っているところのもの)」の、その落差が大きいことを実感する。それは、「北斎(その人)」と「北斎らしさ(北斎らしき人)」との、歴然とした相違点ということなのかも知れない。
 
 すなわち、オランダの「ライデン国立民族学博物館」に収蔵されている。『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)の、その「風神雷神図」は、それは、紛れもなく、北斎を私淑する。「北斎派の一人」の、当時の鎖国下における長崎の「出島出入絵師・川原慶賀」の作品の一つと解すべきなのであろう。
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「風神雷神図」幻想(その五) [風神雷神]

暁斎の「貧乏神図」と北斎の「風神図」

 河鍋暁斎をして、「”デラシネ”の哀しみを生き抜いた画家」((『もっと知りたい 河鍋暁斎(狩野博幸著)』所収「はじめに(狩野博幸稿)」)と喝破したものに出会った。その「”デラシネ”」とは「故郷喪失者」(フランス語=déraciné)とのことであった。
 この「”デラシネ”」は、そもそもは「根無し草」の意で、「故郷喪失者」は、その派生語ということになろう。そして、暁斎は、この派生語の「故郷喪失者」よりも、その本来の意味の「根無し草」の方が、より適切なような印象を受けるのである。
 その「根無し草」に関連して、暁斎は、「駿河台狩野派の画家」と「歌川国芳派の浮世絵師」との、その二刀流での「根無し草」との観点で、大雑把に鑑賞されるのが定石なのだが、この大雑把の見方に、「画狂人・葛飾北斎の継承者」という一刀流を加え、暁斎は、「駿河台狩野派の画家」と「歌川国芳派の浮世絵師」と「画狂人・葛飾北斎の継承者」との、「”デラシネ”」の三刀流の使い手という視点で、その「暁斎の世界」を見て行きたいのである。

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暁斎「貧乏神図」一幅 紙本着色 明治十九年(一八八六) 福富太郎コレクション資料室蔵 一〇二・五×二九・七cm 
【暁斎の作品のなかで唯一点選べと言われたら、苦しみながらもこの絵を挙げるだろう。かかる絵を描く画家も画家なら、描かせる注文主も相当な人物なのではなかろうか。貧乏神のアイコンの渋団扇を背中に背負い、墨とわずかばかりの胡粉のみで描かれた貧乏神のすがたは、掛軸を下ろしてゆくときでさえ、その貧乏が汚染(うつ)るような気がするほどだ。だが、想起しよう。蕭白、芦雪、北斎、国芳の誰ひとりとしてこんな絵は描いていない。 】
 (『もっと知りたい 河鍋暁斎(狩野博幸著)』 

 この「作品解説」の「蕭白、芦雪、北斎、国芳の誰ひとりとしてこんな絵は描いていない」に。狩野探幽を加えて、逆説的に、「暁斎は、『探幽、蕭白、北斎、国芳』から『”デラシネ”』(根無し草)のように、多くのものを摂取した」と換言することも出来よう。
 この「貧乏神図」ですると、探幽から「筆力の冴え」を、蕭白から「破天荒な表現力」を、芦雪から「斬新な構図と機知力」を、北斎から「飽くなき追及力」を、国芳から「職人芸な巧みと諷刺力」を、この一図の中に、それこそ「”デラシネ”」(根無し草)のように、縦横無尽に取り入れているということになる。
 もっと、焦点を絞って具体的に指摘すると、この「貧乏神図」は、芦雪の「山姥」の世界を基調としている(その背中の「渋団扇」などは、「山姥」の背中の「破れ笠」そのものという感じである)。また、この衣などは、蕭白の「蝦蟇・鉄拐仙人図」などのアレンジの雰囲気で無くもない。そして、この人物のあばら骨などは、国芳の骸骨の「解剖図」を見る如しである。さらに、この人物の描線の正確無比さは、探幽の、その「探幽縮図」などが思い起こされて来る。そして、何よりも、この人物の表情などは、北斎の、十五編にわたる『北斎漫画』などの人物像を、自家薬籠中の物としている証左という印象を深くするのである。

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芦雪筆「山姥図」絹本着色 一五七・〇×八四cm 広島・厳島神社

 この芦雪の「山姥」と「金太郎」、そして、暁斎の「貧乏神」とを、根源一体化したような日本画に、未だにお目にかかったことはない。ただ一つ、ピカソの「青の時代」の「海辺の母子像」に、その余韻を感じるのは、これは「連想」というよりも、「幻想」ということなのかも知れない。


【パブロ・ピカソ 《海辺の母子像》 1902年 油彩/カンヴァス 81.7 x 59.8 cm

20歳のピカソが描いた「青の時代」(1901-1904年)の作品です。ピカソは、親友カサジェマスの死をきっかけに、生と死、貧困といった主題に打ち込み、絵画からは明るくあたたかな色彩が消え、しだいに青い闇に覆われていきました。ピカソの「青の時代」の絵画には、純粋さ、静けさ、あるいは憂鬱など、さまざまなイメージを喚起する「青=ブルー」が巧みにもちいられています。
この作品は、ピカソが家族の住むスペインのバルセロナに帰郷していた頃に描かれました。夜の海岸に、母親が幼子を胸に抱いてたたずんでいます。地中海をのぞむこの海岸は、ピカソが通った美術学校の目の前に広がる浜辺で、ピカソが親友カサジェマスと過ごした学生時代の思い出の場所です。母親がまとう衣は、スペイン人が熱心に信奉するキリスト教の、聖母マリアの青いマントを思わせます。蒼白い手を伸ばして赤い花を天へと捧げる姿には、亡き友人へのピカソの鎮魂の祈りが重ねられているのかもしれません。】

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ピカソ「海辺の母子像」1902年 油彩/カンヴァス 81.7 x 59.8 cm

www.polamuseum.or.jp/collection/highlights3/

 さて、冒頭の「貧乏神」に戻って、この「貧乏神」は、談林俳諧の大宗匠で浮世草子の元祖でもある井原西鶴の『日本永代蔵』に登場するようである(巻六「祈る印の神の折敷」)。
北斎の『北斎漫画』には、この西鶴は出て来ないが、西鶴と同時代の、談林俳諧ならず蕉風俳諧の創始者「芭蕉之像」が出て来る。
 それは『北斎漫画七編』で、この序文は、戯作者の式亭三馬で、北斎より十六歳年下の三馬は、『浮世風呂』や『浮世床』などの滑稽本で、当時の有名作家の一人である。この三馬などは、元禄時代の西鶴の流れを汲む作家ということになろう。
 元禄時代の西鶴と芭蕉とは、まるで正反対のお二人で、三馬が西鶴派とすれば、北斎も暁斎も、「侘び・寂び・幽玄閑寂・風雅の誠」等々の、芭蕉派ではなく、「新奇・奇抜・奇計・
諷刺・駄洒落・夢幻の戯言」等々の、西鶴派ということになろう。
 何故に、『北斎漫画七編』に「芭蕉之像」かというと、この七編は、「国々名所の地風雨霜雪のけいしよくをうつす」ということで、「国々を放浪している漂泊・乞食の詩人・芭蕉」に対する、一種のパロディ(揶揄・諷刺)なのであろう。

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『北斎漫画七編』の「扉絵」(「芭蕉之像」)

 この「芭蕉之像」の、「竹の杖」は、何処となく「貧乏神図」の、その貧乏神が持っている杖と一脈通じ合っている印象と、それよりも、その貧乏神の、細長い顔が、この芭蕉の細長い顔の「パロディ」(逆説的な見立て=宗匠頭巾を取って、無精ひげを生やし、目を藪睨みにする)という印象すら抱くのである。

 実は、『北斎漫画三編』に、北斎の「風神雷神図」があり、この「風神図」が、どうにも、暁斎の「貧乏神図」の「貧乏神」に、これまた、何処となく、相通じているような印象を抱くのである。
 
 ここで、これらの一連の暁斎と北斎とを辿って行くと、次のような「ドラマ」(幻想)をフォローしていたということになる。

一 芭蕉は、『北斎漫画七編』で、しばし、「老樹の松」の下で、旅の疲れを癒している。

二 そこで、夢を見たのは、『北斎漫画三編』の、「貧乏神」さながらの「風神」の風体をして、宇宙の果て放浪している、「彷徨える一匹の鬼」の姿影であった。

三 そして、夢から覚めると、そこには、暁斎の描く「貧乏神図」の、その「貧乏神」さながらに、「狭い土俵で、そこから一歩も踏み出せない、己の自画像」の、それであった。

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『北斎漫画三編』の「風神雷神図」中の「風神図(一部・拡大)」
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「風神雷神図」幻想(その四) [風神雷神]

暁斎の「鍾馗図」と「雷神図」

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暁斎「鬼碁打図(おにのごうちず)」絹本着色 明治十ニ年(一八二九)または十八年(一八八五)以降 一二八・八×五五・一cm 東京国立博物館蔵
【鬼たちが碁打ちに興じているくつろぎの場に、鍾馗が剣をかざし、今まさに乱入しようとしているところを描く。本来鍾馗は邪悪な鬼を退治してくれる正義の味方であるが、ここでは職権を乱用する明治政府の官憲に見立てられているかのようだ。煙管をくわえて相手の一手をじっと見つめる鬼の目は真剣で、観戦する鬼も対局に集中し、乱入しようとする鍾馗に全く気づいていない。本図を見た人は、鬼たち逃げろ、と鬼を応援したに違いない。】
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(安村敏信稿)」

 この「鬼たち逃げろ」の、「逃げ惑う鬼たち」の図もある。

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暁斎「鍾馗ニ鬼図」双幅 絹本着色 明治四年(一八七一)以降
各一七一・五×八四・七cm 板橋区立美術館蔵
【鍾馗は中国の故事に現われる神で、疫鬼を退け魔を除くという。日本では五月幟に描くほか、朱で描いたものは疱瘡除けになるとされる。暁斎も得意の画題として力強い鍾馗を度々描いているが、本図は縦が一七〇cm以上という大画面の傑作である。暁斎は、力強く肥痩の強い墨線や岸壁の皺法など、伝統的な狩野派の筆法を自在に用いている。とはいえ、本図の眼目は鍾馗ではなく、左幅の逃げ惑う鬼たちであろう。本図において、鍾馗は小鬼の生活を脅かす暴れ者でしかないようだ。 】
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(佐々木江里子稿)」

 ここでも、鍾馗は、邪悪な鬼を退治してくれる正義の味方ではなく、「小鬼の生活を脅かす暴れ者でしかない」というのである。この「暴れ者」は、「鬼碁打図」と同じく、「職権を乱用する明治政府の官憲に見立てられている」と、同じような視点ということになろう。
 この「縦が一七〇cm以上という大画面の傑作である」鍾馗に鬼図は、その制作年次が、
明治四年(一八七一)以降ということになると、明治三年(一八七〇・四十歳)時の「筆禍事件」による投獄と、その翌年の、「一月 笞(ち)五十の刑を受けて放免となり、師家の狩野家に引渡される。五~十月、修善寺温泉で静養。沼津の母を訪ねる」などが、その背景となっているのかも知れない。

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暁斎「崖から鬼を吊るす鍾馗」一幅 紙本淡彩 イスラエル・ゴールドマンコレクション蔵
明治四年(一八七一)以降 

 こうなると、この鍾馗は、正義の味方どころか、弱きものを弄る大魔王のような形相と化して来る。そして、この鬼は、駿河台狩野派に入門した頃、「画鬼、画鬼」と可愛がられて、爾来、そのあだ名の「画鬼」を生涯のあだ名にしている、「画鬼・狂斎(暁斎)」の分身のように思われて来る。
 同時に、やはり、これらの「鍾馗と鬼」図関連のものは、明治三年(一八七〇・四十歳)時の「筆禍事件」による投獄と、その翌年の、「笞(ち)五十の刑を受けた」ことなどが、その背景にあるような印象を深くする。
 この「崖から鬼を吊るす鍾馗」図の他に、「鬼を蹴り上げる鍾馗」図(一幅)もあるが、これらは、同時の頃の作と解したい。
 さて、この「崖から鬼を吊るす鍾馗」と、同一構図のような、次の「雷神図」(河鍋暁斎記念博物館蔵)がある。

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暁斎「風神雷神図」(双幅)のうちの「雷神図」(右幅)絹本着色 河鍋暁斎記念博物館蔵
(他に「風神図(左幅)」) 右110.9×31.9  左111.0×31.9 

 これは、平成二十八年(2016)に、富山県水墨美術館(富山市五福)で開催された「鬼才-河鍋暁斎展 幕末と明治を生きた絵師」で、展示されたものの一つである。この「雷神図」について、次のとおり紹介されている。

【自然現象を神格化した図像は、世界各地で発見されている。風と雷を鬼神として表現した図像で最初期のものは、6世紀の中国・敦煌莫高窟(ばっこうくつ)で発見された。日本では、鎌倉時代から盛んに描かれている。最も有名なのは、江戸時代に俵屋宗達が作った国宝「風神雷神図屏風(びょうぶ)」だろう。
 宗達の屏風では、雷神を左、風神を右に配置しているが、暁斎が学んだ狩野派では逆。本作も左幅に風神、右幅に雷神を描く。
 この雷神は黒々とした暗雲が立ち込める中、海に落とした太鼓を引き上げようと網を下ろす。ユーモアあふれる姿は、民俗絵画の大津絵に影響を受けたとみられる。海の荒々しい波は、左幅の風神によって蹴り立てられたもの。
 風神の姿を見たい向きは会場でぜひ。 】

http://webun.jp/item/7295284

 また、この時に、展示された作品については、次のアドレスで見ることが出来る。

http://www.city.hekinan.aichi.jp/tatsukichimuseum/temporary/pdf/Kyosai-List.pdf

 この紹介記事の「海の荒々しい波は、左幅の風神によって蹴り立てられたもの」というのだが、この「荒々しい波」は、上記の「鍾馗ニ鬼図」の「左幅」の「逃げ惑う鬼」の足元の「波」と類似している。
 とすると、この左幅の「風神図」は、上記に紹介した「鬼」のどれかの風姿で、とにもかくにも、「波」を蹴り立て、宝道具の「風袋」を追うように天空に舞い上がろうとしている、そんな「風神」図なのかも知れない。

(追記)暁斎「風神雷神図」(双幅)のうちの「風神図」(左幅)

暁斎・風神図.jpg

『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』
所収「作品解説35」 暁斎「風神雷神図」(双幅)のうちの「風神図」(左幅)

この「風神」は、宗達画の「雷神のポーズ」で、その視線は、落下先に向けられ、雷神の失態をとがめる表情に描かれている。
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「風神雷神図」幻想(その三) [風神雷神]

河鍋暁斎の「風神雷神図」(三)

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暁斎「鷹に追われる風神図」一幅 紙本墨画淡彩 明治十九年(一八八六)
一三四・五×四一・四cm イスラエル・ゴールドマンコレクション蔵
【日本絵画の傑作、俵屋宗達の「風神雷神図」(国宝、建仁寺)は、尾形光琳以降も酒井抱一、鈴木其一らによって模写されたし、あるいは、その「こころ」を受け継いだ作品にもなった。其一の娘を嫁にしたこともある暁斎である。「風神雷神」の作は結構描いているが、そのなかでも本図はすこぶる愉しい。暴風の神「風神」は突然現れて人を驚かすのだが、その風神が鷹に襲われて逃げまどうすがたで、まったく暁斎って画家は!? コンドル旧蔵。 】 (『もっと知りたい 河鍋暁斎(狩野博幸著)』 )

 「ゴールドマン コレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力」展が、昨年(2017)、次の四会場で開催された。

2017年/2月/23日(木)~4月/16日(日) → Bunkamura ザ・ミュージアム
  2017年4月22日(土)~6月4日(日)  → 高知県立美術館
  2017年6月10日(土)~7月23日(日) →  美術館「えき」KYOTO
  2017年7月29日(土)~8月27日(日) →  石川県立美術館

 そこで、「イスラエル・ゴールドマンコレクション」について、次のとおり紹介している。

【ハーバード大学で美術史を学んだイスラエル・ゴールドマン氏は、浮世絵に興味を抱き、ロンドンで画商の道を歩み始めました。江戸時代の挿絵本、浮世絵の大家ジャック・ヒリアー氏の薫陶を受け、日本文化に対する深い知識を育みます。あるときゴールドマン氏はオークションで暁斎の「半身達磨」(第6章)を入手しました。その質の高さに驚愕した彼は、その後「暁斎」の署名の入った作品を意識的に集めるようになりました。「象とたぬき」の小品はもともと画帖であったものを、ニューヨークの画商がバラバラに市場に出したうちの一枚でした。ゴールドマン氏はそのうちの数点を入手し、ある顧客に転売してしまいました。しかし「象とたぬき」のことが忘れられず、後日その顧客に頼み込んで返してもらいます。今日では世界有数の質と量を誇るゴールドマン氏の暁斎コレクションは、ここから始まったのです。】

http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/17_kyosai/introduction.html

 また、この展覧会に携わった方が「学芸員のコラム」を寄せている。

http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/17_kyosai/column.html

【その一 伝統を探究し、伝統で遊ぶ絵師、河鍋暁斎(Bunkamuraザ ・ ミュージアム 学芸員 黒田和士)

狩野派と浮世絵のあいだで (略)

伝統を転回させた世界   (略)

国内そして海外での評判  (抜粋)
「狩野派の絵師でありながら戯画も描き、浮世絵師としても活躍した暁斎を当時の世間はどう見ていたのであろうか。本来、狩野派絵師が戯画や浮世絵などを描くことは、褒められたことではなかった。しかし浮世絵を描き始めたのちの安政6(1859)年にも、暁斎は芝増上寺の黒本尊院殿の修復に駿河台狩野派の一員として参加している。また明治3(1870)年には書画会で酔中に描いた絵が、居合わせた官吏の目に留まり投獄される羽目にもなっているが、明治9(1876)年にはフィラデルフィア万国博覧会に博物館事務局から出品を依頼されている。世間は暁斎の振る舞いに戸惑いつつも、その画力を認めざるを得なかったのである。そして明治14 (1881)年の第二回内国勧業博覧会では、出品作のうち枯木に佇む鴉を一気呵成に描き上げた《枯木寒鴉図》(榮太樓總本鋪蔵)が実質上の最高賞である妙技二等賞牌を得た。その賞状に記された「平生の戯画の風習を取り払ったこの作品の妙技は実に褒め称えるべきものである」という評は、暁斎に対する世間の印象を如実に物語っているといえよう。」

絵画的探究と遊び    

「晩年に出版された『暁斎画談』には、暁斎が絵画研究のために探し求めた先人たちの絵画の写しが多数掲載されている。そこには中世絵画に始まり、歴代の狩野派絵師、巨勢派、土佐派、円山派、浮世絵師のほか、中国絵画や西洋の解剖図まで、当時知り得たあらゆる様式の絵画が網羅されており、さながら美術史全集のようである。暁斎は伝統を研究して我がものとすることを求め、時代や文化の担い手を問わずあらゆる図様に精通した。ただし『暁斎画談』に示される絵師としての熱意は、戯画に表われるユーモアとも必ずしも矛盾しない。暁斎は類まれなる優れた仏画や動物画を描く一方で、自らが得た画力と知識を使って最大限に遊んだ。そしてまた、今日の我々にもその世界で遊ぶことを許してくれるのである。

その二 生き生きとした骸骨と伝説の遊女(Bunkamuraザ ・ ミュージアム 学芸員 黒田和士) (略)

その三 河鍋暁斎の席画と本画(Bunkamuraザ ・ ミュージアム 学芸員 黒田和士) (略) 】

 上記の「学芸員のコラム」で、興味深いことは、「本来、狩野派絵師が戯画や浮世絵などを描くことは、褒められたことではなかった」「《枯木寒鴉図》(榮太樓總本鋪蔵)が実質上の最高賞である妙技二等賞牌を得た。その賞状に記された「平生の戯画の風習を取り払ったこの作品の妙技は実に褒め称えるべきものである」という評は、暁斎に対する世間の印象を如実に物語っているといえよう」という点である。
 これらのことは、「狩野派の絵師は、戯画や浮世絵には手を染めない」ということと、暁斎が《枯木寒鴉図》(前回に紹介)で最高賞を得たのは、『「平生の戯画の風習を取り払った作品の妙技」にあり、すなわち、「戯画」ではなく、狩野派流の「本画」(この作品では「水墨寒鴉図」)として評価する』ということに他ならない。
 これらのことを、「狩野派=歌人」「浮世絵=俳人」「戯画=川柳人」ということで例えると、「歌人は、俳句や川柳には手を染めない」ということと、「《枯木寒鴉図》は、和歌の世界であり、俳句や川柳の臭さがない点を評価する」ということに換言することが出来よう。
 ここで、「戯画」の簡単な定義は、「たわむれに描いた絵。また、風刺や滑稽をねらって描いた絵。ざれ絵。風刺画。カリカチュア」、そして、「カリカチュア」とは、「事物を簡略な筆致で誇張し、また滑稽化して描いた絵。社会や風俗に対する風刺の要素を含む。漫画。戯画。風刺画」(『大辞林』)とでもして置きたい。
 そして、暁斎の「戯画」は、この定義の他に、上記の「学芸員のコラム」の「絵画的探究と遊び」の、この「遊び」の比重が大きく、そして、それらが、暁斎の飽くなき「絵画的探究」(「そこには中世絵画に始まり、歴代の狩野派絵師、巨勢派、土佐派、円山派、浮世絵師のほか、中国絵画や西洋の解剖図まで、当時知り得たあらゆる様式の絵画が網羅されており」)とが絶妙に調和・結合している点に、暁斎の「戯画」の特色がある。
 このような観点から、冒頭の「鷹に追われる風神図」は、暁斎の「戯画」の世界のもので、その「作品解説」にあるとおり、「すこぶる愉しい」風神図ということになる。しかし、それだけではなく、この「鷹」に、もう一つの趣向を、暁斎は隠しているようなのである。

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暁斎「花鳥図」一幅 絹本着色 明治十四年(一八八一)
一〇ニ・四×七一・二cm 東京国立博物館蔵
【第二回内国勧業博覧会に例の「枯木寒鴉図」とともに「蛇雉子ヲ巻ク図」の題で出品された。実は雉子はこのあと羽根をいきなり開いて蛇を裂き、喰い殺すことは皆が知っている。だが、その雉子を鷹が狙っているのだ。その瞬間を子鷹が静かに待っているというのが、この絵の眼目である。花々の鮮やかな色彩の乱舞に眼を奪われては、画家の術中に陥るばかりであろう。 】 (『もっと知りたい 河鍋暁斎(狩野博幸著)』 )

 この若冲の「動植綵絵」を連想させるような、暁斎の「花鳥図」の、この父子の「鷹」に注目していただきたい。この父の「鷹」は、この「蛇」を食い殺す「雉子」を喰い殺すのである。そして、その喰い殺す様を、子の「鷹」に伝授するのである。
 とすると、冒頭の「作品解説」の、「本図はすこぶる愉しい。暴風の神「風神」は突然現れて人を驚かすのだが、その風神が鷹に襲われて逃げまどうすがたで、まったく暁斎って画家は!?」はの、その「すこぶる愉しい」図であることか、「瀧」の流れよりも速い、獰猛な「鷹」が襲い掛かるのを、「真っ青」になって、「逃げ惑う風神ならず獲物」の「必死の様」の図で、「生き物たちの過酷な闘い」と解すると、「冷酷無比」の図ということになる。
 ここにも、先に(「その一」で)見てきた、暁斎の「二重性の世界」の、「正統(体制派)と異端(反体制派)」「狩野派(本画派)と歌川派(浮世絵派)」「江戸(近世)と東京(近代)」
等々に加え、「喜劇と悲劇」との、その「二重性の世界」を垣間見る思いを深くするのである。
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「風神雷神図」幻想(その二) [風神雷神]

河鍋暁斎の「風神雷神図」(二)

 平成二十七年(二〇一五)に「東京芸術大学大学美術館」と「名古屋ボストン美術館」で開催された、「ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」は、「江戸(近世)から東京(近代)」への激動期の日本の絵画の動向を知る上で画期的なものであった。 
 このネーミングの「ダブル・インパクト」の「ダブル」とは、「東京芸術大学」と「ボストン美術館」とを指し、その「インパクト」というのは、「相互交流」のようなことを意味してのものなのであろう。
 何故に、「東京芸術大学」と「ボストン美術館」なのかというと、それは、「東京芸術大学」の創設した原動力が、「岡倉天心とアーネスト・フェノロサ」の両人であり、そして、「ボストン美術館」の初代の「東洋部長」が、「アーネスト・フェノロサ」であり、その後を引き継いだのが「岡倉天心」であると、この両人を意図してのものなのであろう。
 このボストン美術館には、「フェノロサ」の知己の、大森貝塚の発見者の「モース」、そして、岡倉天心の「日本美術院」の創設に寄与した、医師の「ビゲロー」の、この三人が、日本の美術の蒐集に当たり、それらの、「フェノロサ=ウェルド・コレクション」や「ビゲロー・コレクション」が、ボストン美術館所蔵の日本関係の美術品(約十万点)の中心になっている。
 平成十一年(一九九九)には、このボストン美術館の姉妹館として「名古屋ボストン美術館」がオープンして、ボストン美術館所蔵の優れたコレクションを恒常的に紹介するまでに、ボストン美術館と日本との結びつきは深い。
 さて、ボストン美術館所蔵の日本美術品に多く関わったフェノロサとビゲローのお二人が、共同して購入したのが、先に紹介した、「風神雷神図」(ボストン美術館)である。ここで、それらを再掲して置きたい。

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河鍋暁斎筆「風神雷神図」 明治十四年(一八八一)以降 双幅 絹本着色 ボストン美術館蔵 各一一四・三×三五・五cm 

【 本図は虎屋本と風雷神の左右が逆で、琳派系の配置となっている。金泥まで使った彩色も施され、風神の輪郭線はことさら強調されている。風神の下方には強風に舞い散る紅葉が描かれ、雷神には金泥で小鼓が描かれ、稲妻も金泥や朱を取りまぜて描かれる。風神の体が青、雷神が赤という色は探幽本にならったもので、雷神の小鼓や稲妻に金泥を使うのも探幽本にみられる。両神の背景に渦巻く暗雲の表現は墨のにじみを効果的に使っている。 】 『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(安村敏信稿)

 この「風神雷神図」が、フェノロサとビゲローとで、共同して購入したということについては、次のものに因っている。

【ボストン美術館】
 キュレーターの協力を得て収蔵室の戸棚を探したところ、フェノロサ旧蔵品から絹本彩色の風神図、ビゲロウ・コレクションから同じく雷神図が見つかった。本来双幅だったものを二人で購入したことが分かり、以来一緒に展示されるようになった。同館には他にビゲロウ寄贈の「猿」「鴉」「布袋」「花魁」の図がある。
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「回想 暁斎作品海外探索記(山口静一稿)」

 ここで、暁斎の、明治十四年(一八八一)から明治十九年(一八八六)までの動向を追うと、次のとおりである。

【☆ 明治十四年(1881)
 ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)
 ◇絵本(明治十四年刊)
   河鍋暁斎画
   『暁斎漫画』初編一冊 画工河鍋洞郁 牧野吉兵衛板〔漆山年表〕
   『暁斎画譜』二帖   河鍋洞郁図  武田伝兵衛板〔漆山年表〕
 ◯ 第二回 内国勧業博覧会(三月開催・於上野公園)
  (『内国勧業博覧会美術出品目録』より)
   河鍋暁斎
    河鍋洞郁 本郷区湯島四丁目
     掛物地(三)絹 国姓爺南洋島城中放火ノ図 彩色画
     掛物地(一)絹 妲巳蠆盆刑ヲ看ル図    彩色画
     掛物地(二)絹 蛇雉子ヲ巻ク図      彩色画
    河鍋洞郁 枠張掛物地(四)絹 枯木ニ烏ノ図 墨画
 
☆ 明治十五年(1880)
  ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)
  ◇絵本(明治十五年刊)
   河鍋暁斎画『暁斎酔画』三冊 河鍋洞郁画〔漆山年表〕
  ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)
  ◇開化滑稽風刺(明治十五年刊)
   河鍋暁斎画『民権膝栗毛』初編二冊 暁斎画 蛮触舎蘇山著 二書房
 ◯ 内国絵画共進会(明治十五年十月開催 於上野公園)
  (『近代日本アート・カタログ・コレクション』「内国絵画共進会」第一巻 ゆまに書房 2001年5月刊)
  ◯第二区 狩野派
   河鍋洞郁 狩野派 号暁斎 風神・雷神
 
☆ 明治十六年(1883)
  ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)
  ◇開化滑稽風刺(明治十五年刊)
   河鍋暁斎画『滑稽笑抱会議』三巻 暁斎画 井上久太郎著 北村孝二郎
 
☆ 明治十九年(1886)
 ◯『東洋絵画共進会論評』(清水市兵衛編・絵画堂刊・七月刊)
  (東洋絵画共進会 明治十九年四月開催・於上野公園))
「河鍋暁斎は開場後参観の序、諸子の請に応じ即座に筆を染め、咄嗟の間に五葉の疎密画を写せし由なれど、雷神女観音の如き筆勢飛動衣紋舞ふが如く、賦色精明他人十日の効力を用ゆるも此妙画を造る能はざるべし。腕力勁健、筆墨精熟に至ては東京の画家恐くは共に鋒を争ふものなしと云ふも過賞にあらざるべし。」】浮世絵文献資料館

http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/kobetuesi/kyosai.html

 この暁斎の動向記事から、興味深いことを記して置きたい。

一 明治十四年(1881)「第二回 内国勧業博覧会(三月開催・於上野公園)」に「河鍋洞郁 枠張掛物地(四)絹 枯木ニ烏ノ図 墨画」を出品する。

 これが、次の「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」で、その作品解説は次のとおりである。

「明治十四年(1881)の第二回内国勧業博覧会に出品され、最高賞である妙技二等賞牌を受賞した作品。暁斎はこの作品に百円という破格な値段を付けた。あまりの法外な値段に非難されると、『これは烏の値段ではなく長年の苦学の価値の値である』と答えたという。それを江戸時代から続く菓子の老舗榮太樓二代目細田安兵衛が買い取ったため大きな話題となった。この烏の図がもとになって制作依頼が増えたため、暁斎は多くの烏の絵を描き、烏に『萬国飛』とある印章も誂えている。」
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(佐々木江里子稿)

寒鴉図.jpg

「枯木寒鴉図」一幅 絹本墨画 明治十四年(一八八一)個人蔵
一四八・二×四八・二cm

二  明治十五年(1880) 内国絵画共進会(明治十五年十月開催 於上野公園)に、「河鍋洞郁 狩野派 号暁斎 風神・雷神」を出品する。

 この「内国絵画共進会」に出品した「風神・雷神」が、何やら、上記に再掲した、ボストン美術館蔵の「風神雷神図」と、一脈通じあっているような印象を受けるのである。

三 明治十九年(1886)『東洋絵画共進会論評』の暁斎評は、当時の暁斎の風姿をよく伝えている。

「咄嗟の間に五葉の疎密画を写せし由なれど、雷神女観音の如き筆勢飛動衣紋舞ふが如く、賦色精明他人十日の効力を用ゆるも此妙画を造る能はざるべし。腕力勁健、筆墨精熟に至ては東京の画家恐くは共に鋒を争ふものなし」の、「雷神女観音の如き筆勢飛動衣紋舞ふが如く」にも注目したい。

 ここで、この「風神雷神図」に接しての連想や連想を飛躍しての幻想に近い感想などを記して置きたい。

一 この「風神雷神図」は、絹本着色というよりも、絹本墨画淡彩という、やはり水墨画の世界のものであろう。「風神の体が青、雷神が赤という色は探幽本にならったもの」というのも、そもそも、探幽本は、「六曲一双・屏風」(各一一四・〇×三四九・八cm)の大画面で、その大画面における雷神も風神も、比重的には小さく、それに比して、空間の「雲・風」などの、広大無限の宇宙を表現するような、いわゆる、探幽様式の「余白の美」を前面に出しているもので、探幽本の「風神=青、雷神=赤」と、この暁斎の「風神=青(群青と緑青系)、雷神=赤(岱赭と金茶系)」とは、異質のものという印象を受ける。

探幽・雷神図.jpg

「雷神図屏風(右)」(一一四・〇×三四九・八cm)

探幽・風神図.jpg

「風神図屏風(左)」(一一四・〇×三四九・八cm)

「風神雷神図屏風」(伝狩野探幽)六曲一双 紙本墨画淡彩 板橋区立美術館蔵

二 暁斎の「風神雷神図」の、その「雲・風」などの空間の、墨の濃淡による処理は、やはり、狩野探幽の「筆墨飄逸」「豊穣な余白」「端麗瀟洒」などの雰囲気なのであろう。そして、この暁斎の「風神雷神図」の見どころは、左の「雷神」の赤を受けて、右の「風神」の足元の下方に描かれている「風に吹かれて舞い上がる紅葉(もみじ)の葉」、そして、それに対応しての、左の「雷神」の稲光の、見事な相互の交響にある。

三 そして、右の「風神」の「青」を受けて、左の「雷神」の風に舞う衣の「青」、そして、右の「風神」の大きな白の「風袋」に対応するかのように、左の「雷神」の小鼓の吹きかけたような金泥などの対比、その見事な相互の交響には、上記、明治十九年(1886)の『東洋絵画共進会論評』の「筆勢飛動衣紋舞ふが如く、賦色精明」という感を大にする。

四 ここで、先の虎屋本・「風神雷神図」(その一)の「老樹の柳の葉」に比すると、このボストン美術館本の「風神雷神図」での風に舞う「紅葉(もみじ)の葉」がクローズアップされて来る。ここに着目すると、『風俗鳥獣画譜』の「木嵐の霊」が思い起こされてくる。

木嵐の霊.jpg

「木嵐の霊」(『風俗鳥獣画譜』十四図中の一帖)絹本著色 明治二・三年(一八六九、七〇)
個人蔵

五 暁斎の『風俗鳥獣画譜』は、「阿国歌舞伎の念仏踊」「三夕(さんせき)」「雷神」「前田犬千代」「鷹」「猫」「お多福」「敗荷白鷺」「髑髏と蜥蜴」などの十四帖からなる画帖である。この「三夕」が、どういうものかは未見であるが、「見立て三夕」(鈴木春信作)などが、連想されてくる。

新361「さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ」(寂蓮)

新362「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」(西行)

新363「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」(藤原定家)

 この「三夕の歌」は『新古今和歌集』の「秋上」に3首連続(361、362、363)で並んでいる。

春信 三夕.jpg

鈴木春信「見立三夕 定家 寂蓮 西行」大判(細判三丁掛)紅摺絵 宝暦(1751-64)末期 
ボストン美術館蔵

六 この「見立絵(みたてえ)」というのは、上記の「見立三夕 定家 寂蓮 西行」ですると、「三人の美女の、それぞれの、その背後の景を見て、それぞれの『三夕の歌』言い当てる」、そのようなことを内容としている絵ということになろう。

七 ここで、より正確に、「浮世絵と見立絵」についての記述は、次のとおりである。

【浮世絵とは、江戸時代の町人の日常生活を描いた絵のことです。「浮世」という語は、昔の仏教用語の一つで、「はかない世」、「苦界」、「無常の世」という意味でした。十七世紀末、「浮世」という語は、喜びと楽しみに満ちたこの世、現世のことを意味するようになりました。日本の版画、浮世絵は、十八世紀末に開花しました。浮世絵の主人公は、遊女、役者、相撲取り、戯曲の登場人物、歴史上の英雄、つまり第三身分の代表者たちでした。そして各々に、次のようなそれぞれのジャンルが生まれました。すなわち、「遊郭」の美女の像、役者の肖像や歌舞伎の舞台の場面、神話や文学が主題の絵、歴史上の英雄の絵、有名な侍たちが戦う合戦の場面、風景画、そして花鳥画などです。
「見立絵」は「たとえ」または「パロディ」と日本語から外国語に訳されることがしばしばです。その芸術的手法をより正確に述べるなら、文学や宗教上の、または歴史上の人物を現代の服装で描いたり、或いはその反対に、今の出来事を昔に移しかえたり、過去の時代設定で描いたりすることです。しばしば、そのような場面は娯楽に興じる美人たちの姿や、子供や動物が戯れる姿で描かれました。この手法の裏には、同時代または近い過去にあった政治的事件を描くのを権力が差し止めるのを避けるという目的がありました。そのまた一方で、絵の発注者や絵師にユーモアの要素を含んだ知的な遊びを作りたい、または版画の内容をぼかして、観る人が隠された内容や、古の詩人が詠んだ古典的な詩を暗号化したものを言い当てる、謎遊びや判じ物を作りたいという止みがたい気持ちもありました。見立絵の版画の題名には、「風流」とか、現代を意味する「今様(いまよう)」という語がしばしば含まれています。見立絵にかけては、鈴木晴信と喜多川歌麿の右に出る者はいません。】

www.japaneseprints.ru/reference/themes/mitate_e.php?lang=ja

プーシキン国立美術館の日本美術

八 さて、また、上記の「見立三夕 定家 寂蓮 西行」に戻って、この鈴木春信のものは、またしても、「ボストン美術館」蔵のものなのである。それだけでなく、この作品を含む「ボストン美術館浮世絵名品展 鈴木春信」が、「千葉市美術館」(2017年9月6日(水)~ 10月23日(月)「名古屋ボストン美術館」(2017年11月3日(金2)~2018年1月21日(日)で、日本で公開されていたのである。そして、これは、「あべのハルカス美術館」(2018年4月24日(火)− 6月24日(日))、「福岡市博物館」(2018年7月7日(土)− 8月26日(日)と続くようである。

http://harunobu.exhn.jp/

九 ここで、冒頭のボストン蔵の、暁斎の「風神雷神図」に戻って、何やら、連想の連想の、幻想に近い、春信の「見立三夕 定家 寂蓮 西行」に行き着いたのだが、この「風神雷神図」も、この「風神図」の足元の風に舞う「紅葉の葉」を添えると、これも一種の「見立絵」のように思われて来る。

十 その暁斎の「風神雷神図」を「見立絵」と解して、そのヒントとして、その暁斎の、その「風俗鳥獣戯画」の、その「木嵐の霊」の、その風に舞う「紅葉の葉」を見て来た。その「風俗鳥獣戯画」の、その一枚に、夙に知られている、「髑髏(しゃれこうべ)と蜥蜴(とかげ)」がある。

十一 これまでの連想(幻想)を辿ると、暁斎の「風神雷神図」の「風神の足元の風に舞う紅葉の葉」→この「風神雷神図」」は、暁斎が前に描いた『風俗鳥獣戯画』の、その一枚の「木嵐の霊」の、その「紅葉の葉」と同じ。→ その「紅葉の葉」は、「見立絵」の「三夕」と連なり、そこに、「三夕」のドラマが始まる。そして、そのドラマは、次の、「髑髏(ししゃれこうべ)と蜥蜴(とかげ)」に行き着くのである。

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「髑髏と蜥蜴」(『風俗鳥獣画譜』全十四図のうちの一帖) 個人蔵
 一九・一×一四・六cm

十二 この「髑髏(ししゃれこうべ)と蜥蜴(とかげ)」は何を意味するのか?
その答は、冒頭の暁斎の「風神雷神図」、そして、「見立絵」に関連して紹介した春信の「見立三夕 定家 寂蓮 西行」が、共に、ボストン美術館所蔵のものに鑑み、同美術館所蔵のもので、その答の方向を探って行きたい。

十三 またまた、冒頭の、平成二十七年(二〇一五)に「東京芸術大学大学美術館」と「名古屋ボストン美術館」で開催された、「ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」に戻って、そこに、暁斎の「地獄大夫」が公開されていたのであった。
 これは、何と、ボストン美術館が、平成ニ十二年(二〇一〇)に購入したもので、ここにも、ボストン美術館所蔵の「風神雷神図」と何か呼応しているような印象を受けるのである。

十四 暁斎の「地獄大夫(と一休)」は、いろいろに趣向を変えて、何種類のものかを目にすることが出来る。

http://nangouan.blog.so-net.ne.jp/

 この「『地獄大夫』あれこれ」の中でも、この「ボストン美術館本」と「ゴールドマンコレクション本」とは、背景の一部が異なるだけで、全く、同一作品と見まちがうほどである。

十五、この種のものは、「肉筆浮世絵」の範疇に入るものだが、一枚の原画から多数の複製画を生み出す木版画(浮世絵)と違って、一人の画家が絵筆をとって描く、原則一点限りの作画である。しかし、この「ボストン美術館本」と「ゴールドマンコレクション本」のように、同一作品のようなものが誕生するのは、肉筆画の浮世絵師の工房には、通常、数人の徒弟がいて、師の与える手本を忠実に従って作画する方式がとられているからに他ならない。
 しかし、暁斎は、他の浮世絵師とは違って、席画を得意とする、何から何まで独りでやらないと気が済まない画人で、当時の通常の方式を以て判断するのは危険な点はあるが、この「地獄大夫」に関しては、要望の多い作品で、そのような方式も一部取り入れられているような印象を受けるのである。

十六 とした上で、「風神雷神図」→「木嵐の霊」(『風俗鳥獣画譜』)→「髑髏と蜥蜴」(『風俗鳥獣画譜』)の、この一連の流れを「見立絵」として、暁斎は、これらに、如何なる「謎」を潜ませているかという問い掛けに対して、その答の一つとして「地獄大夫」を提示しても、それは、「謎」に対して「謎」を以て答えている感じで、今一つ、何かすっきりしない感じで無くもない。

十七 ここで、「地獄大夫」の、次の辞世の歌を補充して置きたい。

「我死なば 焼くな埋むな 野に捨てて 飢えたる犬の 腹をこやせよ」(『諸国怪談奇談集成 江戸諸国百物語 西日本編』人文社編集部)

これは、小野小町の辞世の歌ともいわれているが、両者とも絶世の美女での、そこから来る伝承的なものと解すべきなのであろう。
 その上で、この辞世の歌をして、暁斎の「髑髏と蜥蜴」を鑑賞すると、「この髑髏は、野に捨てて、野犬が貪った後の、地獄大夫(小町)の髑髏である。その髑髏の眼の穴窪から、妖しい色をぎらつかせて、今まさに蜥蜴が這い出て来る。これは、地獄大夫(小町)の再生の化身なのであろう。
 こんなところが、「風神雷神図」→「木嵐の霊」(『風俗鳥獣画譜』)→「髑髏と蜥蜴」(『風俗鳥獣画譜』)の、この一連の流れの「見立絵」の、一つの標準的な解として置きたい。

十九 ここで、これまで、名古屋ボストン美術館が開催した、日本美術関係の展覧会をフォローしていて、次のとおり(第62回 ボストン美術館最終展)、今年度で、名古屋ボストン美術館は、閉館してしまうのである。

第2回 岡倉天心とボストン美術館 (1999年10月23日~2000年3月26日)
第3回 平治物語絵巻 (2000年4月11日~5月7日) 
第20回 肉筆浮世絵展ー江戸の誘惑 (2006年6月17日~8月27日)
第29回 日米修好通商条約150周年記念ーペリーとハリス~泰平の眠りを覚ました男たち (2008年10月18日~12月21日)
第37回 ボストン美術館浮世絵名品展ー錦絵の黄金時代~清長 歌麿 写楽 (2010年10月9日~2011年1月30日)
第43回 日本美術の至宝(前期) (2012年6月23日~9月17日)
第44回 日本美術の至宝(後期) (2012年9月29日~12月9日)
第49回 ボストン美術館浮世絵名品展 北斎 (2013年12月21日~2014年3月23日)
第52回 華麗なるジャポニスム-印象派を魅了した日本の美 (2015年1月2日~5月10日)
第53回 ダブル・インパクトー明治ニッポンの美 (2015年6月6日~8月30日)
第56回 俺たちの国芳 わたしの国貞 (2016年9月10日~12月11日)
第60回 ボストン美術館浮世絵名品展鈴木春信 (2017年11月3日~2018年1月21日)
第61回 ボストン美術館の至宝展ー東西名品、珠玉のコレクション (2018年2月18日~7月1日)
第62回 ボストン美術館最終展ーハピネス~明日の幸せを求めて~ (2018年7月24日~10月8日)

二十 その「名古屋ボストン美術館開館十周年記念」は、「30回 ゴーギャン展 (2009年4月18日~6月21日)」で、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」が、日本初公開となった。

http://www.nagoya-boston.or.jp/gauguin/guide.html

 その紹介記事に、次のようなことが記されていた。

【横長の画面の上には、人間の生の様々な局面が、一連の物語のように展開する。画面右下には眠る幼児と三人の女性(上図A参照)。その左上に「それぞれの思索を語り合う」紫色の着物の二人の女性と、それを「驚いた様子で眺めている」不自然なほどに大きく描かれた後姿の人物(B参照)。中央には果物をつみ取る人がいて、その左には猫と子供と山羊、背後にはポリネシアの月の神ヒナの偶像が立ち、「彼岸を指し示しているように見える」(C参照)。その前にしゃがむ女性は顔を右に向けながらも視線は逆向きで、「偶像の言葉に耳を貸しているよう」であり、その左には「死に近い一人の老婆が、全てを受け容れ」、「物語を完結させている」。老婆の足もとにいる、トカゲをつかんだ白い鳥は「言葉の不毛さを表している」(D参照)。】
 このゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」の左端に、「トカゲをつかんだ白い鳥」が居て、それは、『言葉の不毛さを表している』」いうのは、やはり、暁斎の「髑髏と蜥蜴」にも等しくあてはまることであろう。
 として、この暁斎の「髑髏と蜥蜴」の、上部の「月とその下の遠景」に、このゴーギャンの、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を、ゴーギャンの母国語の「D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?」を加味したら、まさに、「風神雷神図」→「木嵐の霊」(『風俗鳥獣画譜』)→「髑髏と蜥蜴」(『風俗鳥獣画譜』)の、この一連の流れの「見立絵」の最後に相応しい思いが去来しているのである。
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「風神雷神図」幻想(その一) [風神雷神]

河鍋暁斎の「風神雷神図」(一)

風神雷神一.jpg

河鍋暁斎筆「風神雷神図」 明治十四年(一八八一)以降 双幅 絹本着色 ボストン美術館蔵 各一一四・三×三五・五cm 

【 本図は虎屋本(次図)と風雷神の左右が逆で、琳派系の配置となっている。金泥まで使った彩色も施され、風神の輪郭線はことさら強調されている。風神の下方には強風に舞い散る紅葉が描かれ、雷神には金泥で小鼓が描かれ、稲妻も金泥や朱を取りまぜて描かれる。風神の体が青、雷神が赤という色は探幽本にならったもので、雷神の小鼓や稲妻に金泥を使うのも探幽本にみられる。両神の背景に渦巻く暗雲の表現は墨のにじみを効果的に使っている。 】 『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(安村敏信稿)」

 これは、「ボストン美術館蔵」のもので、上記の「作品解説」にある「虎屋本」(虎屋文庫蔵)は、次図のものである。次図のものは、明治四年(一八七一)以降の制作で、上図のボストン美術館蔵よりも早い時期のものである。この明治四年(一七八一・四十一歳)の年譜
(『安村敏信監修・前掲書』所収)に、「一月 笞(ち)五十の刑を受けて放免となり、師家の狩野家に引渡される」とあり、これらの「風神雷神図」は、その前年の「書画会」で描いたものが、「貴顕を嘲弄する」としての「筆禍事件」と、何らかの関係があるような雰囲気を有している。

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河鍋暁斎筆「風神雷神図」 明治四年(一八七一)以降 双幅 絹本墨画 虎屋蔵 各一〇五・三×二八・八cm

【 風神雷神は古来より描かれてきたが、我が国で絵画化されたものとして有名なのは俵屋宗達による二曲屏風である。風神が向かって右に、雷神が左に描かれるが、狩野派では探幽以来、風神を向かって左に、雷神を右に配してきた。本図は風雷神の配置は狩野派のものだ。抑制された描線と墨のデリケートな濃淡によって異形神の出現の場の劇的雰囲気を作り上げている。風神の口元が迦楼羅(かるら)のようにとがっているのが珍しい。 】
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(安村敏信稿)」

 まず、この虎屋本のものから見て行くと、「風雷神の配置は狩野派のもの」(雷神=右、風神=左)ということに注目したい。
暁斎が、「筆禍事件」を引き起こしたのは、明治三年(一八七〇・四十歳)の時で、年譜には、「十月六日、俳諧師其角堂雨雀主催の書画会が、不忍弁天の境内にある長駝亭で開催され、暁斎(当時・狂斎)も出席。この席で酒に酔って描いた戯画が、貴顕を嘲笑するものとみなされて捕らえられ、大番屋へ入れられる。入牢中、酷い皮膚病にかかり、一時釈放されるが年末に再入牢。」とあり、この時の入牢中のことを、晩年(明治二十年=一八八七、五十七歳)になって、その『暁斎画談(瓜生政和編著)』に、その挿絵図を描いている。

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暁斎画談. 内,外篇 / 河鍋洞郁 画 ; 瓜生政和 編 (外編巻下)
早稲田大学図書館 (Waseda University Library)

 この『暁斎画談』の「河鍋洞郁 画」の「洞郁」とは、嘉永二年(一八四九、十九歳)時年譜の、「師洞白陳信から、『洞郁陳之(とういくのりゆき)』の号を与えられ、異例の若さで修業を終える」との、駿河台狩野派における、暁斎の画号なのである。
 そして、明治四年(一八七〇、四十一歳)の年譜に、「一月 笞(ち)五十の刑を受けて放免となり、師家の狩野家に引渡される。五~十月、修善寺温泉で静養。沼津の母を訪ねる。(中略)筆禍事件以降、号を『狂斎』から『暁斎(きょうさい)』に改める」と、入牢していた暁斎を引き取ったのは、駿河台狩野派(狩野洞栄、後に洞春)なのである。また、それまでの号「狂斎」を、以降、「暁斎」に改めているのである。

 これらの暁斎の年譜と、上記の虎屋蔵の「風神雷神図」を重ね合わせると、さまざまな、連想・幻想が沸き起こって来る。それらの一端を記すと、次のとおりである。

一 この水墨画の「風神雷神図」は、明治三年(一八七〇・四十歳)時の「筆禍事件」による投獄が背景にあり、その投獄の体験は、暁斎にとって強烈且つ過酷のものであり、これまでの前半生とこれからの行く末を決定づける大きな要因で、大きな節目の事件であった。

二 それは、自己の泥酔による一時の即興画(席画)が、これほどの事件になったことの、
痛恨なる自己否定と自己嫌悪の果てに、それを克服する唯一の方途として、その原点に位置する、暁斎が修業時代の全てをかけた、「駿河台狩野派」の画法を、以後の自分の道標とすることの決意表明こそ、この墨一色の「風神雷神図」であるという思いを深くする。

三 そして、それは、この「風雷神の配置」が、「雷神=右、風神=左」の、「狩野派伝来のもの」ということと、これまでの、「狂斎」という号を棄てて、新しく、「醒々(せいせい)暁斎(きょうさい)」と改号したところに、暁斎の、この「風神雷神図」に込めた意気込みというのが、その「抑制された描線と墨のデリケートな濃淡」によって、見事に表現されていることと軌を一にするということに他ならない。

四 翻って、狩野派というのは、その祖、狩野正信(初代)、古法眼元信(二代)以来、漢画(大和絵に対して中国風の画を指す)系の水墨画法を、その基礎に据えており、この暁斎の「風神雷神図」は、その狩野派の基礎中の基礎の、水墨画法を踏まえて、その基礎の上に、暁斎ならでの、「考え抜かれた構図」と「絶妙な墨の濃淡」に加えて、何らかの趣向を施しているところに、歴代江戸狩野派の絵師の中でも、群を抜いた異色の絵師として位置づけられる。

五 ずばり、この「風神雷神図」の、暁斎ならでは趣向とは、左図の「風神図」の「風神」が、異色の「迦楼羅(かるら)」(一切の悪を食い尽くす、天駆ける聖なる鳥の化身)の風姿であることと、その風神が、吹き飛ばそうとしている、「洞(ほら)のある老木の幹とその枝葉」が、「宗達→光琳→抱一→其一」等々の「風神図」とは、まるで異質の世界を構築しているという、この二点にある。

六、ここで、この老木は何の樹であろうか? → これは、その枝葉の風情から、ずばり「柳」
であろう。そして、暁斎は、この「風神図」に、「柳に風」(柳が風になびくように、逆らわない物は災いを受けないということ。 また、相手が強い調子であっても、さらりとかわして巧みにやり過ごすことのたとえ)の姿勢を託していると解したいのである。

七 そして、この老木の「洞(ほら)」は、暁斎の狩野派の師の、駿河台狩野派の亡き「洞白」とその後継者の「洞栄(後に洞春)」を示唆しているのであろう。すなわち、暁斎は、自分の後半生は、駿河台狩野派に腰を据えて、その「柳に風」の「柔軟性としなやかさ」を信条としたいとう決意表明と解したいのである。

八 と同時に、この老木の「洞(ほら)」は、その「筆禍事件」に絡ませば、これは「落とし穴」(姦計)のような意味合いも、暁斎の、意識、無意識のうちに、そういうものが、ここに込められているような、そんな感じを濃厚に受けるのである。

九 とすると、この「風神」の「迦楼羅(かるら)」は、時の明治政府の、その前世の江戸幕府以来の、「綱紀粛正(倹約令・風俗取締り・庶民の娯楽に制限・出版の規制)」等々の、
時の官憲の「文化統制」の象徴としての、「竜を食う獰猛な大怪鳥」そのものと化して来る。

十 ここで、右図の「雷神図」に焦点を当てると、それは、不動明王(大日如来の化身で、悪魔を退散させ、煩悩や因縁を断ち切って人々を救う仏様)の化身であると同時に、赤裸々な、時の明治政府の、身の毛もよだつような、「人権蹂躙」の、その鉄槌のような「鬼」の形相を呈して来るのである。

十一 暁斎は、狩野派流の肉筆画、浮世絵風の肉筆画、歌川国芳の流れを汲む錦絵(浮世絵版画)、縦横無尽の滑稽と諷刺に満ちた戯画・漫画、そして挿絵画の類、果ては、春画の類まで、その多方面のマルチアーティスト振りは、「とてつもない絵師」というネーミングが最も相応しい感じで無くもない。しかし、その中にあって、この「風神雷神図」のように、暁斎の最も中核に位置するものは、狩野派流の水墨画であるという思いを深くする。

十二 暁斎の世界は、しばしば、「二重性の世界」と呼ばれる場合があるが(『反骨の画家 河鍋暁斎(狩野博幸・河鍋楠美著)』所収「正統と異端を同時に生きた画家」)、それは、「正統(体制派)と異端(反体制派)」「狩野派(本画派)と歌川派(浮世絵派)」「江戸(近世)と東京(近代)」等々の、「二重性」を宿していることに他ならない。

十三 この「風神雷神図」で、その「二重性」に焦点をあてると、これは、全体として水墨画という「正統(体制派)」の世界ということになる。そして、この「正統(体制派)」の世界の中に、通常、鬼の風姿からなる「風神」を、異色の烏天狗のような「迦楼羅(かるら)」をもって来たところに、暁斎の「異端(反体制派)」の世界が垣間見えて来るということになる。

十四 そして、この「二重性」(あるいは「二律背反性」)を、一つの整序性のある造形の世界を現出している最大の要因として、暁斎の類まれなる「筆力」ということが、その根底を為している。すなわち、暁斎にとって、凡そ、「表現する」ということは、「言葉・文字」等より、より、「筆」による「絵(スケッチ)」でするという、これこそ、「とてつもない絵師」の正体なのである。

十五 暁斎の「日記」は、文字による日記ではなく、「絵日記」である。しかも、それは、「筆」一本で為されている。その「絵日記」の一端は、次のアドレス(国立国会図書館デジタルコレクション)で見ることが出来る。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288439?tocOpened=1

十六 また、暁斎の「画談」というのは、これまた、文字によるものは、他人に任せて、ひたすら「絵」で表現しようとしている。その「暁斎画談」の一端は、次のアドレス(国立国会図書館デジタルコレクション)で見ることが出来る。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850342

十七 ここで、「暁斎絵日記」に頻出して出て来る「鬼」(「稚鬼」「狂鬼」「乱鬼」「酒鬼」
等々)は、己の分身の自画像かと思いしや、どうやら、出入りの「経師屋・高須平吉、通称・鬼平」が一番多いらしい(『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「鬼・狂(暁)斎(北森鴻稿)」)。

絵日記一.jpg

河鍋暁斎の1888年(明治21年)2月の絵日記

news.livedoor.com/article/detail/12666262/

 この上図の「鬼」は「平」との漢字が付されており、紛れもなく、「経師屋」の「鬼平」なのであろう。暁斎にとって、「鬼」は、決して「虚構」の大それたものではなく、極めて身近な「日常の現実」の自己・知己の分身ということになる。そして、ここにも、「虚」と「実」との「二重性」の世界が現出されて来る。

十八 そもそも、暁斎は、七歳の時に、反骨精神の旺盛な浮世絵の大家・歌川国芳門に入り、国芳から「奇童」と呼ばれ、その薫陶を受けた。さらに、十歳の時に、駿河台狩野派の前村洞和門に入り、洞和が病気になったため、洞和の師の、駿河台狩野洞白に入門する。そこで、洞白から、「餓鬼(がき)」ならず「画鬼(がき)」のあだ名を頂戴し、爾来、駿河台狩野派の絵師としての道を歩むことになる。

十九 とすると、この「風神雷神図」の、「迦楼羅」の形相の「風神」は、暁斎を「奇童」と呼んだ、浮世絵師の「国芳」、そして、狩野派最大の絵師といわれる狩野探幽の「雷神」の形相に因み、暁斎を「餓鬼」と呼んだ、探幽の養子の狩野洞雲に連なる、狩野派の絵師「洞
白」を、この「雷神」と見立てることも、一つの見方であろう。

二十 とにもかくにも、墨一色の、この水墨画「風神雷神図」は、「醒々狂斎」を返上して、「醒々暁斎」を名乗った、明治四年(一八七一・四十一歳)、不惑の年の頃の作品と解し、
暁斎の作品の中でも、極めて、キィーポイントとなる、傑作画の一つと解したい。
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