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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その三十二) [岩佐又兵衛]

(その三十二) 「舟木本」と「歴博D本」そして「南蛮屏風」との周辺(その一)

歴博D本の南蛮人(仮装行列).jpg

「歴博D本: 二条城前の仮装行列(南蛮人)」(「右隻」第一・二扇中部)
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html

舟木本の南蛮人(仮装行列).jpg

「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」(「左隻」第一扇中部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 「歴博D本: 二条城前の仮装行列(南蛮人)」は、堀川通の二条城前の祇園会の仮装行列の光景である。「二条城」前の行列というと「行幸行列」が描かれるのが通例であるが、この「歴博D本」では、その「右隻」に「山鉾巡行」、そして、「左隻」に「神輿巡行と仮装行列」とを別建てにして描いている。
 そして、「舟木本」では、この「歴博D本: 二条城前の仮装行列(南蛮人)」の、二条城の前に座している「二条城の武将」達と、その前を行く「母衣武者」達とを、「祇園会」の主要なモティーフである「山鉾」に見立てて描き、その「母衣武者」は、この「舟木本」の注文主の一端が覗える「越前松平家」の三人の「結城秀康(「越前松平家」初代)・本田富正(伊豆守・「越前松平家三代に亘る御附家老」・松平忠直(「越前松平家二代)」の見立てであるということなどを、下記のアドレスで言及してきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-16

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-08

三人の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者」(左隻第二扇上部)→「舟木本・母衣武者その一図」

 この「傘鉾・三人の母衣武者」と一体となっていて、その右側の「寺町通」(「南北」の通り)に、上記の「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」が描かれている。
 この「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」の「南蛮人」は、この「歴博D本」を一つの足掛かりにはしているが、この「南蛮人」のモデルは、岩佐又兵衛の師と目せられている狩野内膳の「南蛮屏風」の「カピタン」(「甲比丹・甲必丹・加比旦」=商館長、日本は初めにポルトガルとの貿易(南蛮貿易)を開始したため、西洋の商館長をポルトガル語の「Capitão(カピタン)」で呼ぶようになった。その後ポルトガルに代わりオランダが貿易の主役になったが、この呼び名は変わらなかった)一行などのものを参考にしているものと解せられる。

狩野内膳・左隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・左隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

狩野内膳・右隻.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」紙本金地著色・6曲1双・各154.5×363.2
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 この「狩野内膳筆・南蛮屏風(神戸市立博物館蔵)」については、下記アドレスの紹介記事は次のとおりである。

https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365028

【 スペイン、ポルトガルとの交易の様子を描いた南蛮屏風は16世紀末期から17世紀半ばを中心に制作され、90件以上が確認されています。なかでも、当館が所蔵する狩野内膳(1570~1616)の作品は、緻密な描写と鮮やかな色彩から南蛮屏風の代表的作品として広く知られています。

 左隻には帆を広げ、異国の港を出港する南蛮船と見送りの人々が描かれています。色鮮やかな建物は中国風をベースとしながらも、随所に瑞雲や龍、宝珠が配されたり、ドーム状の建物もあるなど、まだ見ぬ南蛮の地を想像して描いたのでしょう。第5・6扇の霊鷲山のごとき岩、ドーム状の建物に描かれた磨羯魚(まかつぎょ)のような魚も異国の表象。内膳は先行するさまざまな異国のイメージを組み合わせて、はるかなる港を描いたと考えられます。

 右隻には異国からの航海を経て日本の港へ到着した南蛮船、貿易品の荷揚げ、上陸したカピタン一行、彼らを出迎えるイエズス会宣教師やフランシスコ会修道士、日本人信者たちが描かれています。唐物屋には虎や豹の毛皮、絹織物、陶磁器などの貿易品が扱われています。唐物屋の奥には南蛮寺があり、内部では救世主像の掲げられた祭壇の前で儀式が執り行われています。仲介貿易が主体で、貿易と布教が一体となっていた南蛮貿易の実状をよく表されています。象、アラビア馬、グレイハウンド種の洋犬など、南蛮渡来の珍獣が多く描かれているのも特徴です。執拗なまでに緻密な描写、活き活きとした人物表現、鮮やかな色彩など、南蛮屏風のなかでも突出した存在です。

 内膳は摂津伊丹城主・荒木村重の家臣の子。主家が織田信長に滅ぼされたため、狩野松栄に仕えて画家となり、狩野姓を許されました。のち、豊臣家のお抱え絵師として活躍し、「豊国祭礼図屏風」(重要文化財、京都・豊国神社蔵)も手がけました。内膳の落款を伴う南蛮屏風は5件確認されており、神戸市博本には各隻内側に「狩野内膳筆」の款記、白文方郭壺印「内膳」を捺しています。 】(神戸市立博物館)

 この「狩野内膳筆・南蛮屏風(神戸市立博物館蔵)」については、下記のアドレスで、その「左隻」(第五・六扇)に描かれている、「慶長二年(1597)の、「象の来日」(スペインのマニラ総督から秀吉に象が献上される。)」に関連し、次のとおり紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-10-31

【 (再掲)

南蛮屏風の秀吉と秀頼.jpg

狩野内膳筆「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵・六曲一双)所収「左隻第五・六扇」の「象に乗る人(秀頼?)」と「椅子式駕籠(パランキン)に乗る人(秀吉?)」
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365028

 これらの、狩野内膳の「南蛮屏風」に関しては、下記のアドレスのものが参考となる。

http://blog.nadeg.jp/?eid=18

 それに因ると、この内膳の「南蛮屏風」には、次の事項が盛り込まれているという。

① 天正十九年(1591)の、「長崎にポルトガル船が入港」
② 文禄二年(1593)の、「フランシスコ会修道士が初めて来日」(名護屋で秀吉に謁見、後に一行は畿内へ向かう。)
③ 文禄三年(1594年の、「秀吉の吉野の花見」(秀吉は、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗などの錚々たる武将をはじめ、茶人、連歌師など総勢五千人の供を連れて吉野山で花見を催す。)
④ 慶長二年(1597)の、「象の来日」(スペインのマニラ総督から秀吉に象が献上される。)

 この慶長二年(1597)の「象の来日」が描かれているとすると、内膳の、二十七歳の頃で、この翌年(慶長三年)に、豊臣秀吉は、その波乱に満ちた生涯を閉じている。この頃、内膳は「内膳工房」(内膳と内膳の弟子筋の絵師による工房)で、豊臣家の御用絵師の一人というような位置を占めていたのであろう。
 その「内膳工房」の「内膳の弟子筋の絵師」の一人として、内膳より七歳か八歳年下の二十歳前後の「岩佐又兵衛」も働いていたと、これもまた、その真偽はともかくとして、そのように解して置きたい。 】

ここで、冒頭の「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」に戻って、この南蛮人の「カピタン」(商館長)は、上記の「天正十九年(1591)の、『長崎にポルトガル船が入港』」の時の、当時の居留地マカオから入港したポルトガル船の船長(カピタン・モール)、「ロケ・デ・メロ・ペレイア」なのか、それとも、「慶長二年(1597)の、『象の来日』(スペインのマニラ総督から秀吉に象が献上される。)」時の、イスパニア(スペイン)のマニラ総督「ドン・フランシスコ・テーリョ」が派遣した使節団の「カピタン」(商館長=船長)なのかについて触れたい。

 上記の「狩野内膳筆・南蛮屏風(神戸市立博物館蔵)」は、その真相の背景は、実は、その「左隻」は、《「慶長二年(1597)の、『象の来日』(スペインのマニラ総督から秀吉に象が献上される。)」時の、イスパニア(スペイン)のマニラ総督「ドン・フランシスコ・テーリョ」が派遣した使節団の「カピタン」(商館長=船長)》関連のもので、その「右隻」は、《「天正十九年(1591)の、『長崎にポルトガル船が入港』」の時の、当時の居留地マカオから入港したポルトガル船の船長(カピタン・モール)、「ロケ・デ・メロ・ペレイア」》関連のものと、両者を明瞭に使い分けしているように解したい。
 その上で、冒頭の「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」の「カピタン」は、その「右隻」の、《「天正十九年(1591)の、『長崎にポルトガル船が入港』」の時の、当時の居留地・マカオから入港したポルトガル船の船長(カピタン・モール)、「ロケ・デ・メロ・ペレイア」》関連のものと解したい。

狩野内膳・カピタン.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→ 「狩野内膳筆『右隻』・カピタン図」(第三扇拡大図)

 これが、天正十九年(1591)の、『長崎にポルトガル船が入港』」の時の、当時の居留地・マカオから入港したポルトガル船の船長(カピタン・モール=総括責任者)、「ロケ・デ・メロ・ペレイア」》の威容なのである。
 この、ポルトガル船の船長(カピタン・モール)、「ロケ・デ・メロ・ペレイア」などに関しては、次のアドレスのものは参考となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%93%AE%E5%AF%BA_(%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%B8%82)

舟木本の南蛮人(仮装行列).jpg

「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」(「左隻」第一扇中部)→(再掲)

 上記の、「狩野内膳筆『右隻』・カピタン図」(拡大図)に対する、この上記の「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」=「舟木本・カピタン図」の、この「怯えた様のカピタン図」は、これは、祇園会の仮装行列のものとしても、この「舟木本」が描かれた、慶長十九年(1614)から元和元年(1615)の頃は、丁度、徳川幕府(徳川家康)が直轄地へ出していた禁教令を全国に広げていた時期で、慶長十八年(1613)には、「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン追放令)」が公布され、その翌年(慶長十九年)に、長崎と京都にあった教会は破壊され、修道会士や主だったキリスト教徒(キリシタン大名・高山右近ら)がマカオやマニラに国外追放されたという時代史的な背景が横たわっている。
 ただし、公的にはキリスト教は禁止になったが、幕府は信徒の処刑といった徹底的な対策は行わず、依然としてキリスト教の活動は続いていた。京都には「デウス町」と呼ばれるキリシタン達が住む区画も残ったままであったし、幕府が徹底的な対策を取れなかったのは、通説では宣教師が南蛮貿易(特にポルトガル)に深く関与していたためとされる(「ウィキペディア」)。
 これらの、「徳川家康とキリシタン・禁教への道」などの、その時代史的な背景については、下記のアドレスのものが参考となる。

https://www.pauline.or.jp/historyofchurches/history04.php

狩野内膳・ロレンソ了斎.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→ 「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)

 「狩野内膳筆『右隻』・カピタン図」(「右隻」第三扇)の、その右に描かれているのが、この「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(「右隻」第一・二扇)で、この図は、いろいろのことを教示してくれる。
 この図を読み解くためには、次のアドレスの、「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)が参考となる。

http://nagasaki-keizai.co.jp/sky/2003_06.html

【 (前略)
出迎えの人達の中に三人の神父と二人のイルマン、そして、もう一人・若者の案内人、そして、彼等の外にもう一人の老人がいることに注目したい。その老人は特別の服を着ていることに気がつかれるであろう。更に、彼等の後には服装の違った二人のフランシスコ会の修道者と街の人達が描かれている。
(中略)
この屏風に描かれているナウ(ポルトガル船の船型)は以下のことより考えて1591年7月の初め長崎に入港してきたロケ・デ・メル(ロケ・デ・メロ・ペレイア)の船であると考えた。
 其の年は秀吉の朝鮮出兵の準備として肥前名護屋(呼子)を中心にしてお城や陣屋、そのための街が建設されていたので、京都の町より狩野派の絵師達も招かれ活躍していたと神父達の記録に記してある。
 この時、長崎にポルトガル船入港の知らせが各地に伝えられた。秀吉はこの時期にはまだ関東にいたので、名護屋にいた人達は長崎に走ってポルトガル人見物に出かけた。狩野派の画家も長崎に走ったと考える。そして、画家達は長崎の風景、南蛮船、神父達をスケッチした。
 その事は屏風の中に描かれているイエズス会神父達の中にひときわ背が高い神父が描かれているが、この人物こそヴァリニャーノ神父なのである。神父は長崎に天正少年使節一行と共に1590年7月21日、アントニオ・ダ・コスタの船で着いたと記録されている。
 (中略)
 ここで今1つ神父達と共にいる老人の事について考えてみよう。その姿は他の人物に比べて顔面の細部まで陰影をつけ丁寧に描かれている。服装は他の日本人と違い元琵琶法師とよばれた老人を思わせる着物を身につけているが、被っている帽子はイエズス会員の帽子と同じものである。
 老人は右手には杖を持ち、左手にはコンタスを握っている。白い眉の下の目は遠い所をじっと見つめている。当時このような特色をもつ日本人のイエズス会員は、聖F.ザビエルより受洗した盲目の琵琶法師ロレンソりょう斎しか他にいなかった。
 ロレンソは1587年、秀吉のキリシタン追放令のとき、それまで居た京都より長崎に下り、長崎の近くの古賀の教会で2年程活躍したが老年と病気のため長崎のコレジヨに引退していた。
前述のように1590年来航したヴァリニャーノ神父とロレンソは話を交し、1592年2月3日長崎のコレジヨで昇天している。
 以上の事よりヴァリニャーノ神父とロレンソが一緒に入港したポルトガル船を出迎えることができたのは、1591年入港してきたロケの船だけであり、岬の教会も其の年までは建っていたのである。
 (中略)
 唯ここで加えておくことは、屏風に描かれているフランシスコ会の修道者のことである。この屏風は たしかに1591年の長崎の様子を描いたものであるが、その時期にはフランシスコ会士は未だ我が国に は来航していなかったので、内膳は京都に帰って屏風を仕上げるときフランシスコ会士も加えたと考える。内膳がフランシスコ会士をスケッチできた時期は、会士達が肥前名護屋を訪ねた1593年か、其の後京都の町に行った時であると考える。
 以上の事よりこの屏風の下図(構想)は1591年長崎に入港したポルトガル船と町の様子をスケッチし、それを京都に帰り、南蛮屏風として仕上げたものであると考える。 】
(「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」)
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yahantei

 ロレンソ了斎関連については、下記のアドレスのものが参考となる。


ロレンソ了斎の豊後府内滞在の記録
http://takayama-ukon.sakura.ne.jp › pdf-takata
PDF

【(抜粋 )

ロレンソ了斎の豊後府内滞在の記録
ロレンソ了斎の生涯に沿って

http://takayama-ukon.sakura.ne.jp/pdf/booklet/pdf-takata/2017-08-17-04.pdf

ロレンソ誕生
1526 年(大永6)(ロレンソ 25 歳)
ロレンソ・肥前の國・白石(現・長崎県平戸市春日町白石)に生まれる。

1549 年(天文 18)8 月 15 日、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)は,コスメ・デ・トーレス(Cosme de Torres)、ジョアン・フェルナンデス(Juan Fernandez)と共に、日本人ヤジロウという薩摩出身の武士と 2 人の仲間の案内で、鹿児島の稲荷川の港に着いた。
山口におけるフランシスコ・ザビエルとの出会い
1551 年(天文 20)

ロレンソがザビエルから洗礼を受けた時期については、1551 年 5 月頃から、トーレス神父が平戸から山口に赴任する 9 月 10 日までの 4 ヵ月の間のことと考えられる。
『ロレンソ』という名前は、洗礼の時にフランシスコ・ザビエルが与えた名前で、ロレンソの日本名【本名】は判っていない。『了斎』は【斎名】すなわち修道生活に入ってから選んだ名前である。出家する人の習慣に従ってイエズス会に入った日本人はしばしばそのようにした。

信仰と使徒職への入門と訓練の時代 1552 年~1559 年
1552 年(天文 21)(ロレンソ 26 歳)

1553 年(天文 22)(ロレンソ 27 歳)
2 月 4 日、豊後派遣組。ガーゴ神父とフェルナンデス修道士が豊後府内に行き教会を開くために山口を出発。アルカソ―ヴァが同行した。2 月 10 日、豊後府内に帰還。

山口にて布教に従事する。
1554 年(天文 23)(ロレンソ 28 歳)

1555 年(弘治元)(ロレンソ 29 歳)
5 月頃・鄭舜功の豊後来航

1556 年(弘治 2)(ロレンソ 30 歳)
1月、ロレンソ、バルナバと共に比叡山に上る。

ロレンソ、2 回目の豊後府内滞在(1556 年 5 月~1557 年 8 月まで)
1556 年 5 月

ロレンソと賢順が豊後府内において出会えた期間について
第 1 回 1556 年 5 月~1557 年 8 月
第 2 回 1558 年 5 月~1559 年 9 月 2 日
第 3 回 府内滞在(1558 年 5 月~1559 年 9 月 2 日)
第 4 回 府内滞在(1565 年 3 月~6 月)
第 5 回 府内滞在(1568 年 2 月頃~1569 年 2 月頃)

1557 年(弘治 3)(ロレンソ 31 歳)
3 月、受難週と復活

1558 年(永禄元)(ロレンソ 32 歳)
4 月頃、ロレンソ、ヴィレラ神父、平戸を追放
ヴィレラ神父とロレンソは、仏教徒からの迫害を避けるために住み慣れた土地や家を捨ててまで、信仰に生きる道を選んだキリシタンたちと共に博多経由で豊後府内に向かった。おそらく、ガーゴ神父から、博多の住院と教会堂が間もなく完成して復活祭を祝うので、豊後に帰る時に博多に寄るようにと打診があったものと思われる。

ロレンソ、ヴィレラ神父と共に都に布教に行く
1559 年(永禄2)(ロレンソ 33 歳

京都における第一の時代・1559 年~1565 年
五畿内教会の誕生と京都での試練と宣教

大和・河内における改宗
1563 年(永禄 6)、ロレンソ了斎は、宗門弾劾を企図した老天文学者の結城山城守等に招かれ
て奈良で説教した。この時の説教は参会者に大きな感銘を与え、大和・河内の小領主層を多数
入信させた。受洗者には、結城山城守忠正、高山図書飛騨守、公家の清原枝賢がいる。
翌年、1564 年(永禄 7)三箇伯耆守、池田丹後守、高山図書飛騨守嫡子の高山右近が改宗した。大和・河内における領主層の改宗と同領地におけるキリシタン領主たちの政策の方針は、以後の畿内におけるキリシタン大名領国形成の前提となった。
結城山城守の洗礼名アンリケ、一族には結城弥平次(後の肥後矢部の愛藤寺城、島原金山の結城城の城主)河内岡山を領した結城ジョアン(1572 年受洗)がいる。
高山図書飛騨守の洗礼名はダリオ、大和沢城主。嫡子右近の洗礼名はジェスト、高山父子はその後摂津高槻を領し、右近の代には播磨明石 6 万石を所領した。
三箇伯耆守の洗礼名はサンチョ、河内国三箇領主。領内に教会を建て寺社の破壊と領民の改宗を勧めた。本能寺の変後、明智方に同与して没落、同地のキリシタン集団は離散を余儀なくされている。池田丹後守の洗礼名はシメオン。河内若狭の武将で、同地に教会を建てイエズス会に地所を寄進した。
高山右近の影響
高山右近は豊臣秀吉に属し、同配下の武将たち、蒲生飛騨守氏郷、黒田官兵衛孝高、市橋兵吉、 牧村長兵衛、小西行長、京極高吉等が高山右近の感化と布教活動によりキリシタンとなった。蒲生飛騨守氏郷の洗礼名はレアン。近江日野から伊勢松島を経て、会津若松に所領を賜った。蒲生飛騨守氏郷が会津若松に来たことで、東北地方にキリシタンの教えがもたらされて布教活動が進展した。
黒田官兵衛孝高の洗礼名はシメオン。播磨から豊前中津に領地替え、嫡子長政の代に福岡・博多の地 52 万石を賜り、博多、秋月にはレジデンシアが置かれるなど筑前筑後豊前地方のキリシタンの拠り所となった。市橋兵吉は美濃に領地を賜った。牧村長兵衛は近江で所領を得ている。小西行長の洗礼名はアゴステーニョ。行長は父小西隆佐(堺の政所)の影響のもとで入信。小豆島、室の津等の領民の改宗に力を尽くした。1587 年(天正 15)7 月、博多筥崎宮に於いて豊臣秀吉が出した『伴天連追放令』に伴う高山右近の棄教拒否と播磨明石 6 万石没収後、小西行長は高山右近を小豆島に匿った。肥後に増転封された。小西行長の時代、天草はキリシタンの拠り所として多くのキリシタンたちが移住してきた。1600 年、関ヶ原の戦いで西軍に付き敗北、京都の三条河原にて斬首され、領地の肥後は加藤清正に譲られた。
京極高吉は近江上平城城主。改宗した一族により、近江近辺にいる宣教師たちへの援助がなされた。高山右近はキリシタン理念に基づく領国形成を明確に推進した。摂津高槻で領内の寺社仏閣を破壊ないし教会に転用して、領民の集団改宗を進め、弱者救済のために様々な対策を講じた。移封先の明石でも、領民の改宗を進め、同地でのキリシタン宗門の浸透を進めている。右近は、領民への宣教による霊魂の救済を最終目的としていた。信仰を持たせることが全世界に勝る最高の価値であるとの信念を持って領国の政策を推し進めた。
九州での布教・1565 年~1569 年
1565 年(永禄 8)(ロレンソ 39 歳)

1566 年(永禄 9)(ロレンソ 40 歳)

1567 年(永禄 10)(ロレンソ 41 歳)
ロレンソ、モンティ神父と共に五島で布教活動に従事する。
1568 年(永禄 11)(ロレンソ 42 歳)
ロレンソ・5 度目の府内滞在(1568 年 2 月頃~1569 年 2 月頃)

京都における第 2 の時代・1569 年~1587 年
1569 年(永禄 12)(ロレンソ 43 歳)

3 月 ロレンソ、再度、五畿内の布教を任されて堺に赴く。ルイス・フロイス神父と共に布教に従事。この後、ロレンソが豊後の地に戻ることはなく、ロレンソと豊後との関係はこの年が最後となった。以後、ロレンソの活動は五畿内を中心に行われている。
1565 年(永禄 8)5 月、松永久秀は三好三人衆と組んで将軍足利義輝の邸宅を急襲し暗殺した。暗殺により将軍足利義輝の保護を教会は失った。都地方はあちこちで紛争が起こり混乱を極めていた。更に正親町天皇綸旨によって宣教師たちは京都を追放され堺の日比谷了慶宅に避難した。
1568 年(永禄 11)9 月、織田信長は暗殺された将軍足利義輝の弟・義昭を擁して京都に入り三好三人衆を阿波徳島に追い落とし、松永久秀を降伏させた。
1569 年(永禄 12)4 月、ヴィレラ神父の後任としてルイス・フロイスが都地区の責任者となった。フロイスは高山飛騨守ダリオと親しい和田惟政との尽力により入京して織田信長、将軍足利義昭に拝謁した。4 月 8 日付けで信長より京都での布教と居住の許可の朱印状と 4 月 15日付けで将軍義昭の制札とが出された。
4 月 20 日、信長は定宿の京都妙覚寺で、フロイス神父とロレンソをキリシタン宗門に反対の政僧・日乗上人とを面前で宗論させた。内容はデウス論、不可視・不滅の霊魂論に及んだ。論争に敗れた日乗上人はキリシタン反対運動をはじめた。織田信長は一貫してキリシタンを保護した。7 月、日乗上人と再度、宗論をする。1570 年(元亀元)7 月、日乗上人、信長の側近より遠ざけられる。1572 年(元亀 2)11 月、岐阜を訪れた日本布教長カブラルも信長から歓待されたし、1574 年(天正 2)3 月、再度上京したカブラルを信長は引見している。1575 年(天正 3)都の布教長に就任したオルガンティノ、フロイス、高山飛騨守・右近父子、結城弥平次、池田丹後守、ジュスト・メオサン、清水里安等の五畿内の主だったキリシタンたちが、京都四条坊門姥柳町に 3 階建ての南蛮寺を起工した。1576 年(天正 4)7 月 21 日、サンタマリア御昇天の祝日に未完成のまま献堂式を挙行して、1577 年(天正 6)春に教会堂は竣工した。1581 年(天正 9)には隣接家屋を購入して敷地を拡げ、蛸薬師通りと室町通に門を設けた。
織田信長は、近江の安土に 1576 年(天正 4)1 月から築城を開始し、2 月に安土に移住した。
1579 年(天正 7)5 月、天守閣が竣工、1580 年(天正 8)3 月、オルガンティノの要請により安土城下の埋立地(現安土町豊浦新町小字ダイウス)を造成して、同年 4 月に与えた。安土教会は和風木造 3 階建ての教会で、修道院と 3 階はセミナリヨが開設された。
1581 年(天正 9)2 月、巡察師ヴァリニャーノは京都本能寺で信長に謁見した後、3 月、安土城を訪問、6~7 月安土に滞在した。信長はヴァリニャーノが安土を離れる際に安土城と城下を描かせた屏風を送った。屏風は教皇グレゴリオ 13 世に 4 人の少年遣欧使節が届けた。
1582 年(天正 10)6 月 2 日、信長は京都本能寺で明智光秀により殺害された。
1583 年(天正 11)高山右近と共に大阪に羽柴秀吉を訪ねる。右近の友人に説教、小西行長を教化する。ロレンソ(57 歳)精力的に五畿内で布教する。
1584 年(天正 12)~1585 年(天正 13) 五畿内での布教は順調に発展する。
1586 年(天正 14)5 月、コエリョ神父を伴い大阪城に豊臣秀吉を公式訪問、秀吉より厚遇される。ロレンソ(60 歳)

ロレンソの晩年・1587 年~1592 年
1587 年(天正 15)(ロレンソ 61 歳)
7 月 25 日
豊臣秀吉による九州平定が終わり、博多箱崎において、豊臣秀吉により出された『伴天連追放令』の後、ロレンソは平戸に避難している。平戸から長崎にいつ移ったのか定かではない。
1588 年(天正 16)(ロレンソ 62 歳)
ロレンソは、ヒル・デ・ラ・マタ(Gil de la Mata)神父と共に、長崎の古賀の教会で布教活
動に従事している。
『それのみか彼が有徳の人であることは、彼を傍に置いている司祭たちがつねに大いに景仰してやまぬところであり、今でも(彼はすでに 65 歳を超え、日本のイエズス会で 40 年間堪えてきた苦労のために,もはや病み、かつ弱っているけれども)下の地方のドン・バルトロメウ(大村純忠)の領内におり、必要ならば日中、二、三回はキリシタンや異教徒たちに説教をし、福音の説教師としての職務にいそしんでいる。』
*ルイス・フロイス著『フロイス日本史』第 6 巻 大友宗麟編Ⅰ
第 4 章(第 I 部 5 章)54~56 頁
司祭たちが山口に帰還した後、この地で成果を生み始めた次第
1589 年(天正 17 年)(ロレンソ 63 歳)
古賀教会でヒル・デ・ラ・マタ神父と共に布教。
高齢と病気のために、長崎の修道院に隠居する。
『大分疲れが出て、弱くなった時には、すでに 64 歳をこえていたから、今の迫害には都の神父たちと一緒に、下の地方に下った。ここで、我が主は、彼に自分の霊魂についてゆっくり考える時間をお与えになった。とりわけこの最後の年には、自分を神に捧げ、種々の重病にも耐え忍んだ。ついに、非常に衰弱し、骨と皮ばかりになった。それなのに、神が自分に大きな御恵みをお与えになっていると言っていた。それはこの様に痛みも苦しみもなく、次第に終わりに近づいたのである。しまいには衰弱のため話すのが困難になったが、たいへん親しまれていたので、たえずいろいろな人が見舞いに来ていた。それである日、巡察師に、自分が望んだり、また我が主に祈ったりすることは、死ぬ時に部屋にだれもいないことであるといった。それは、尋ねられると答えるのが非常に苦しかったし、またその時に返事をしないことも苦痛であった。それ以上に、望みどおり神に祈るには、その見舞いは妨げとなる。また臨終の時イルマンたちがみんなで手助けするのに、いろいろなことを大声で勧めれば、逆に妨げになることを心配していた。そして、祈ったように神から叶えられた。』
*Luis Frois S.I.,“Apparatos para a Histpria Ecclesiastica do Bispado de Japam”
Biblioteca de Ajuda, Lisboa Codex 49, IV, 57, cap. 35

1592 年(文禄元)(ロレンソ 66 歳)
2 月 3 日 ロレンソの死去
長崎の修道院で死去した。66 歳。
『毎週必ず修道院の小聖堂へ椅子にすわったまま運ばれて御聖体拝領する習慣があったが、この日、食事の後、あるイルマンとひとりの信者が話している時,用があるからちょっと部屋からでるようにと彼らに言い、いつも彼に仕えているひとりの小者を呼び、起き上がるのを手伝うように頼んだ。ベットにすわり小者が腕をかかえた時には、ロレンソは「イエズス」の聖なる名を呼んで、一瞬の間に静かに亡くなったので、小者さえ、彼がこの世を去ったとは気が付かなかった。その後しばらくして、ロレンソが死んでいることに気がつき、外で待っていたイルマンを呼んだ。イルマンは部屋に入ると、そのまますわって小者にかかえられて死んでいるロレンソを見つけた。亡くなったのは 1592 年 2 月 3 日のことであった。家の人もよその人もみんな非常に悲しんで彼を偲んだ。』
*Luis Frois S.I.,“Apparatos para a Histpria Ecclesiastica do Bispado de Japam”
Biblioteca de Ajuda, Lisboa Codex 49, IV, 57, cap. 35  】


by yahantei (2022-01-07 16:56) 

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