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「俳誌・ホトトギス」管見(その八) [ホトトギス・虚子]

「ホトトギス(16巻6号)・二百号」(大正二年・一九一三/五月号)周辺

ホトトギス 16(6)(200)表紙.jpg

「ホトトギス 16(6)(200)/ 1913-05」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/1

(目次)

椿の花(小説) / 田山花袋/p1~34
病院にて / 早良平作/p35~38
藤の樹 / ろまん/p39~42
兄さんの結婚の日 / 梅橋/p43~48
牡丹臺と大同江 / 高濱虚子/p49~66
帝國劇場の三月劇 / 内藤鳴雪/p67~71
其後の句作 / 高濱虚子/p72~84
菜の花 / 石井露月/p84~85
新刊紹介 / 司馬太/p85~88
消息 / 虚子/p89~89
東京俳句界 / 高濱虚子/p89~92
地方俳句界 / 高濱虚子/p92~96
雜詠 / 高濱虚子/p97~100
六ヶ月間俳句講義(一) / 高濱虚子/p101~114
表紙畫 人道 / 小川千甕
挿畫 火中の人 / 小川芋錢/p9~9
挿畫 春雨 / 小川芋錢/p13~13
挿畫 編輯室の一隅 / 本間國雄/p17~17
挿畫 新聞社の給仕 / 本間國雄/p21~21
挿畫 或る日 / 鶴田櫟村/p25~25
挿畫 北漢山 / 鶴田櫟村/p29~29
挿畫 お化粧 / 津田靑楓/p33~33
裏畫 くじびき / 小川千甕

(管見)

一 「ホトトギス(16巻6号)・二百号」(大正二年・一九一三/五月号)周辺

 この「二百号(16巻6号/大正二年・一九一三/五月号)」に先立つ、明治四十四年(一九一一)十月号の「第十五巻第一号」で、高浜虚子は「本誌刷新に就いて」を発表して「ホトトギス」の大革新を敢行した。
 その背景は、「ホトトギス(8巻4号)」(明治三十八年・一九〇五)の、夏目漱石の「吾輩は猫である」の「ホトトギス」の搭載により、「松山(柳原極堂)・東京(正岡子規)」を中心とする読者層から、謂わば、「全国的」な読者層をシェアし、経営が好調だったのだか、その漱石の「朝日新聞入社」(明治四十年・一九〇七)、そして、「碧悟桐(「新傾向派」俳句)と虚子(「守旧派」俳句)」との「対立・抗争」などによる、読者層が激減し、経営難に陥ったことが挙げられる。
 これらのことは、その「本誌刷新に就いて」の末尾の、「主として経済上の理由に基づき、社員組織を解き、原稿料をも全廃するといふ事は四方太君(注・坂本四方太)の発意であつたが、他の諸君も皆快く賛成して呉れたのである」で明瞭なことであろう。
 この号をもって、碧悟桐の「課題句選者」は、「松根東洋城・募集句選者」と代替わりすることになる。

ホトトギス(第二十号)目次.jpg

「ホトトギス」(明治四十四年(一九一一)十月号の「第十五巻第一号」)所収「目次と本誌刷新に就いて(高浜虚子)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972302/1/2

二 「ホトトギス」(大正二年(一九一三)一月号の「ホトトギス 16(4)」)所収「高札」周辺

 明治天皇が崩御されて、明治時代から大正時代になったのは、明治四十五年(一九一二)七月三十日、明けて、大正二年(一九一三)の元旦号の、その「ホトトギス」の巻頭に、下記の「高札(こうさつ・たかふだ)」(「掟・禁制」を周知させるための掲示板)が掲げられた。

ホトトギス」(大正二年(一九一三)一月号.jpg

「ホトトギス」(大正二年(一九一三)一月号の「ホトトギス 16(4)」)所収「高札」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972317/1/2

 その「高札」の、「平明にして余韻ある俳句を鼓吹する事」(新傾向句に反対する事)は、当時の俳句界を席巻していた、河東碧悟桐の「新傾向俳句(運動)」(伝統的な俳句の礎となっている「定型」・「有季」に拘らず「非定型=自由律」・「無季」の句をも標榜する)に対する、真っ向からの対立・拒否の宣言であった。この宣言は、その後の「虚子俳諧・ホトトギス俳諧」の、バックボーンとして揺るぎないものとなった。

三 「大正二年(一九一三)当時の虚子」周辺

 「ホトトギス」(大正二年(一九一三)一月号の「ホトトギス 16(4)」)所収「高札」の、「毎号虚子若しくは大家の小説一篇を掲載する事」で示唆される如く、恰も、漱石の「吾輩は猫である」の「ホトトギス」搭載により、「作家(小説家)・夏目漱石」がデビューしたことに刺激されたのか、「俳人・高浜虚子」というよりも、「作家(小説家)・高浜虚子」を目指しての、謂わば、「俳人・虚子」の時代ではなく、「作家(小説家)・虚子」の時代であった。
 それは、その「高札」の、「虚子全力を傾注する事」の、「虚子即ホトトギスと心得る事」の、その「ホトトギス」の編集全般について、当時の信頼すべき門弟の「嶋田青峰」に委ね、そして、その「高札」の、「平明にして余韻ある俳句を鼓吹する事」も、漱石門の、そして、子規門にも通ずる、愛媛(松山中=松山東高)の後輩の、そして、愛媛宇和島藩の藩主の血筋の、宮内省の式部官を歴任している「松根東洋城」に、その任を委ね、その上での、さらに、体調不調(「腸チフス」)などが重なり、その上での、上記の「高札」、そして、その「ホトトギス・二百号」(「ホトトギス 16(6)(200)/ 1913-05」)ということになる。

四 「ホトトギス(16巻6号)・二百号」(大正二年・一九一三/五月号)の「挿絵」周辺

裏畫 くじびき ・ 小川千甕.jpg

「裏畫 くじびき / 小川千甕」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/68

[小川千甕 おがわ-せんよう/ 882-1971 明治-昭和時代の日本画家。
明治15年10月3日生まれ。仏画師北村敬重の弟子となり,浅井忠に洋画もまなぶ。大正4年川端竜子,小川芋銭(うせん)らと珊瑚(さんご)会を結成。油絵から日本画へ移行し院展に「田面の雪」「青田」などを出品。昭和7年日本南画院に参加。昭和46年2月8日死去。88歳。京都出身。本名は多三郎。代表作に「炬火乱舞」など。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

[小川芋銭 おがわ-うせん/ 1868-1938 明治-昭和時代前期の日本画家。
慶応4年2月18日生まれ。本多錦吉郎に洋画をまなび,独学で日本画も習得。「朝野新聞」などに挿絵や漫画をかく。茨城県牛久に移り住み,院展を中心に活動。河童(かっぱ)の絵で知られる。日本美術院同人。昭和13年12月17日死去。71歳(。幼名は不動太郎。本名は茂吉。別号に牛里,草汁庵。代表作に「森羅万象」「夕凪」。](「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

挿畫 火中の人 ・ 小川芋錢.jpg

「挿畫 火中の人 / 小川芋錢/p9~9」(ホトトギス 16(6)(200)/ 1913-05)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/14

挿畫 春雨・ 小川芋錢.jpg

「挿畫 春雨 / 小川芋錢/p13~13」(ホトトギス 16(6)(200)/ 1913-05)
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/16

 「本間国雄」(本名)は、「本間国生」(画号)であろう。

[本間 国生(ほんま くにお、本名:本間 国雄、明治24年(1891年)3月24日 - 昭和48年(1973年)12月30日)は、米沢市出身の日本画家。文学博士の本間久雄の実弟。号は逸老庵。](「ウィキペディア」抜粋)

挿畫 編輯室の一隅・ 本間國雄.jpg

「挿畫 編輯室の一隅 / 本間國雄/p17~17」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/18

挿畫 新聞社の給仕・ 本間國雄.jpg

「挿畫 新聞社の給仕 / 本間國雄/p21~21」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/20

 これに続く、「鶴田櫟村」とは、下記の「鶴田吾郎」のようである。

[鶴田 吾郎(つるた ごろう、1890年7月8日 - 1969年1月6日)は、日本の画家(洋画家)、版画家。日本美術展覧会会員。
 東京に生まれる。早稲田中学を中退したのち、まず倉田白羊の白羊洋画研究所に入り、洋画を学んでいる。その後、白馬会洋画研究所に入門し、さらに太平洋画会研究所に移って中村不折に師事して油絵を学んでいる。示現会に所属。
 1910年(明治43年)、味の素株式会社広告部に勤務した後、1912年(大正元年)には京城日報社に入社し、翌1913年(大正2年)から1920年(大正9年)まで朝鮮、満洲大連、ハルピン及びシベリアに滞在していた。その間、1915年(大正4年)に川端龍子とともにスケッチ倶楽部を創設し、1917年に版画集『スケッチクラブ画集』(高坂栄之助摺)を出版、通信教育の講義録を担当している。日本国内を始め中国、ロシア、ヨーロッパなどを旅行、風景画を多数制作した。1920年の帰国後、第2回の帝展に「盲目のエロシェンコ像」が入選する。これ以降、帝展、文展及び日展において活躍した。文展では審査員を務めた。また、1926年(大正15年)頃から加藤版画店で「九十九里の漁夫」など新版画の作品を発表している。
 1937年(昭和12年)から1940年(昭和15年)までの間、風刺版画の雑誌『カリカレ』に素描やスケッチなどのほか、文章を掲載した。1938年(昭和13年)頃、ステンシルを研究していた。
 1939年(昭和14年)、陸軍美術協会の設立に向けて発起人の一人となり[1]、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1942年(昭和17年)には、「空の神兵」と謳われた帝国陸軍落下傘部隊のパレンバン空挺作戦における活躍を描いた戦争画『神兵パレンバンに降下す』を発表[2]。大戦後は日本国内を旅行、各地国立公園の風景を描いており、日本国立公園シリーズ30点を完成させるとともに、日本山林美術協会を創設、自らその代表を務めている。](「ウィキペディア」)

挿畫 或る日 ・ 鶴田櫟村.jpg

「挿畫 或る日 / 鶴田櫟村/p25~25」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/22

挿畫 北漢山・ 鶴田櫟村.jpg

「挿畫 北漢山 / 鶴田櫟村/p29~29」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/24
 
 「挿畫 お化粧 / 津田靑楓/p33~33」周辺については、これまでに、「津田青楓管見(その一からその十)」など紹介してきた「津田青楓」の、大正二年(一九一一三)の、三十三歳の「挿絵図」ということになる。

挿畫 お化粧・ 津田靑楓.jpg

「挿畫 お化粧 / 津田靑楓/p33~33」
https://dl.ndl.go.jp/pid/7972319/1/26

(再掲)

津田青楓管見(その一)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-24

[※大正十年(一九二一) 四十二歳

ホトトギス表紙.jpg
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