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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その三十三) [岩佐又兵衛]

(その三十三) 「舟木本」と「歴博D本」そして「南蛮屏風」との周辺(その二)

舟木本の南蛮人(仮装行列).jpg

「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」(「左隻」第一扇中部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 この、岩佐又兵衛の「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」の、このモデル図を、前回(その三十二)では、岩佐又兵衛の師と目せられている、狩野内膳の「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵=神戸市博本)の、その「右隻」の「カピタン図」とストレートに結びつけたままだが、その周辺のことを、ここで記して置きたい。
 「南蛮屏風(図)」(南蛮人渡来図屏風・南蛮来朝図屏風)は、下記のアドレスによると、次の三類型に分類される。

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/122/witness.html

【南蛮屏風は通例、3つの類型に分類されるが、向かって左隻に日本の港に停泊する南蛮船とそれからの荷揚げの風景、右隻にはキリスト教の僧侶たちのいる南蛮寺とそれに向かって歩むカピタン・モール(マカオ総督を兼ねた船長)たちの一行、さらに彼らに好奇の眼を向ける日本人たちという図様で構成される第一類型のものが、全体のおよそ半数を占めている。第二類型はこの第一類型の両隻の図様を右隻にまとめ、左隻に異国の港とそこを出航する南蛮船の光景を描く。第三類型は右隻が第二類型と同じで、左隻は異国の館とそのテラスにおける南蛮人たちの姿で構成される。】(歴史系総合誌「歴博」第122号・「南蛮人来朝図屏風」)

 狩野内膳の「南蛮屏風」(神戸市立博物館蔵=神戸市博本)は、この分類ですると、第二類型(左隻=異国の港とそこを出航する南蛮船の光景、右隻=日本の港に上陸する一行と出迎えの光景と南蛮寺などに向かう光景)のもので、この「狩野内膳」((1570~1616)の落款を伴う南蛮屏風は以下の五点が確認されている(「ウィキペディア」)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E5%86%85%E8%86%B3

神戸市立博物館蔵→神戸市博本
文化庁の九州国立博物館委託蔵→文化庁本
リスボン国立古美術館蔵→リスボン国博本
個人蔵(日本)→川西家旧蔵本
個人蔵(アメリカ)→アメリカ人所蔵本

 これらの全作品に関して、次のアドレスで、詳細な解説とともに、その全容を明らかにしている。

https://www.bimikyushin.com/chapter_4/04_ref/nanban.html

【 「南蛮屏風図(2021年7月21日 河田容英稿) ※ 項目など以下抜粋

南蛮屏風図とは?
神戸市立博物館蔵「南蛮人渡来図」
 狩野内膳
① いつ描かれたのか?
 描き終えられた年代
文化庁「南蛮人渡来図」
 世界地図
② いつ頃の様子が描かれているのか?
 「南蛮屏風図」制作への仮説
③ 発注主は誰だったのか? 
 狩野派とは?
 豊国祭礼図屏風
 狩野派の内部関係
 狩野内膳と南蛮屏風図
  署名と落款
  内膳という名前
リスボン国立博物館所蔵「南蛮人渡来図」
アメリカ人所蔵本「南蛮人渡来図」
川西家旧蔵本「南蛮人渡来図」
 混乱する狩野内膳
 南蛮屏風図を狩野内膳筆とした理由
  1586年 秀吉、宣教師を追放
  1596年 秀吉、禁教令を出し26人が長崎で殉死
  1597年 インド象(ドン・ペドロ)が到着
  1605年 キリシタンが75万人になる
  1606年 豊国祭礼図屏風奉納
  1612年 幕府直轄地での禁教令
  1614年 キリシタン国外追放(高山右近)
  1616年 狩野内膳死去
  1619年 禁教令(京都大殉教)
  1622年 元和の大殉教
  1633年 フェレイラ棄教、中浦ジュリアン殉死
  1637年 島原の乱
 狩野内膳は南蛮屏風を描いたか?
  初代:狩野内膳(重郷)
  二代目:狩野内膳(重良)
  三代目:狩野内膳(重信)
  名前混濁の理由
 狩野派と長谷川派
 量産される「柳橋水車図屏風」
 量産される「南蛮屏風図」
 長谷川派と狩野内膳が直面した危機感
 狩野内膳一族のブランディング
 狩野内膳一族のマーケティング
 狩野内膳没後の狩野一渓
「南蛮屏風図」の結論
追記:南蛮屏風図の登場人物
 結城了悟の説
 山田無庵の説
 自説の前に
 「リスボン国立博物館本」
 「アメリカ人個人所蔵本」
 異なる老人の位置
 老人は誰だったのか?
 後藤宗印
 最後に
参考資料(略)       】「南蛮屏風図(2021年7月21日 河田容英稿)

`歴博本・南蛮屏風.jpg

(歴史系総合誌「歴博」第122号・「南蛮人来朝図屏風」)→「歴博本・南蛮屏風」
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/122/witness.html

【 当館所蔵の「南蛮人来朝図屏風」は第一類型に分類されるが、来航する南蛮船が2隻であることがきわめて珍しい。近世初期風俗画の主題の多くが、本格的な画技を有する狩野派の絵師たちによってつくりだされたのと同様に、南蛮屏風の各類型の創始にも、狩野光信(かのうみつのぶ)、内膳(ないぜん)、山楽(さんらく)といった一級の絵師たちの関与が示唆されている。当館の屏風も作者こそ不明だが、安定感のある構図と格調高い筆致や上質の絵の具などから、本格的な漢画を学んだ相当の腕前を持つ絵師の作と思われるが、近年、長谷川等伯門人の等学の作とする見解も出されている ( 山根有三 「長谷川派の南蛮屏風について」 『國華』1258号、2000年)。

 南蛮屏風を見るおもしろさのひとつに、当時の日本人の西欧理解が垣間見えることがあげられる。本図にも見られるような長身で鼻の大きい西欧人イメージは現代にもつながるものであるが、先に'異国の港''異国の館'と記し、西欧と書かなかったのは、南蛮風俗や建築の描写には、多分に中国的な要素が混じりこんでいるからである。本図でも、船上のカピタンが水墨画の屏風を背に座す光景には漢画人物の定型が踏襲されているし、港の突端の館で船を眺める異国婦人の風俗も、きわめて中国的なものである。

 ところで、前述のように南蛮屏風が人気を得た理由は、宝船のような'招福'の縁起物とみなされていたからだと考えられている。旧所蔵者には堺や日本海側の回船問屋などの商家が多いことも、それを物語っている。本図もまた、日本海海運の拠点であった越前国三国港近くの旧家のもとにあったと伝えられる。鎖国により南蛮貿易が終息した後でも、南蛮屏風の制作が減少はすれど、完全には途絶えることがなかったのも、この主題がキリスト教とは関係なく、あくまでも縁起物として認識されていたからであろう。 】(歴史系総合誌「歴博」第122号・「南蛮人来朝図屏風」大久保純一稿)

`歴博本・南蛮屏風・左隻.jpg

「歴博本・南蛮屏風」(左隻)→第一類型(南蛮屏風・入港)
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/122/img/byobu2.jpg

`歴博本・南蛮屏風・右隻.jpg

「歴博本・南蛮屏風」(右隻)→第一類型(南蛮屏風・上陸)
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/122/img/byobu1.jpg

狩野内膳・左隻.jpg

「神戸市博本・南蛮屏風(狩野内膳筆)」(左隻)→第二類型(南蛮屏風・出航))
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=1

狩野内膳・右隻.jpg

「神戸市博本・南蛮屏風(狩野内膳筆)」(右隻)→第二類型(南蛮屏風・入港と上陸))
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 第一類型(入港→上陸)の「歴博本・南蛮屏風」(右隻・左隻)と、第二類型(出航→入港と上陸)の「神戸市博本・南蛮屏風(狩野内膳筆)」(右隻・左隻)とでは、一見すると同じような光景に見えるが、じっくりと細部まで見て行くと、そのイメージの差は顕著となってくる。
 そのイメージの差は、具体的な例示ですると、第一類型(入港→上陸)のイメージは、京都に近い「堺港」に入港し、そして、その「堺」から摂津の「淀川」を上り、京の「南蛮寺」(四条坊門姥柳(うばやなぎ)町)などに向かう一行と解しても、それほどの違和感を覚えない。
 それに対して、第二類型(出航→入港と上陸)のイメージは、やはり、ポルトガル船が初めて日本の地を踏んだ「長崎港」のイメージが抜きがたく、そして、その上陸した一行が向かう「南蛮寺」(教会)も、「開港とともに岬には新しく六つの町(大村町・島原町・平戸町・横瀬浦町・外浦町・分知(文知)町)がつくられ、岬の先端(現在は長崎県庁)には教会(南蛮寺)が建てられた」、その「長崎港」のイメージを除外して、例えば、京の「南蛮寺」などをイメージすることは、これは違和感というよりも許されないであろう。
 この「長崎港と消えた教会群」関連などは、下記のアドレスに詳しい。

http://tabinaga.jp/history/view.php?category=3&hid=186

歴博・南蛮屏風.jpg

「歴博本・南蛮屏風」(右隻)→第一類型(南蛮屏風・上陸)→拡大図

 これが「歴博本・南蛮屏風」(右隻)の、その上陸して「南蛮寺」(教会)に向かう「カピタン図」である。
 これが、冒頭に戻って、岩佐又兵衛が描いた、「舟木本・祇園会の仮装行列(南蛮人)」(「左隻」第一扇中部)の、そのモデル図なのではなかろうか(?)
 そして、この図の右端の上部の「十」(「十」が三つある)と、この「南蛮寺」(?)の門の左側にある「紋章」(?)などが、どうにも、「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」(「右隻」第三扇上部)の「十」の「紋章」と、「舟木本・「阿弥陀胸割」小屋の幔幕の紋)「右隻」第五扇上部)とが、何処となく似通っているイメージを受けるのである。

歴博D本四条仮橋.jpg

「歴博D本・四条河原の歌舞伎と人形浄瑠璃」(「右隻」第三扇上部)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-30

阿弥陀胸割・家紋?.jpg

「舟木本・「阿弥陀胸割」小屋の幔幕の紋)「右隻」第五扇上部)
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null
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yahantei

「一条戻橋」と「曲直瀬道三」周辺などについて

下記のアドレスで、「京都教区内キリシタン遺跡(京都市内)」として、次の二十個所が紹介されていた。

http://www.kyoto.catholic.jp/christan/iseki/isekiab.html

1. ヴィレラ住居跡 京都市下京区四条新町西入る郭巨山町
2. ヴィレラ・将軍会見の地 京都市中京区衣棚通押小路妙覚寺町
3. ヴィレラ住居跡 京都市中京区六角通室町西入る玉蔵町
4. ヴィレラ住居跡 京都市下京区四条烏丸
5. 南蛮寺跡 京都市中京区蛸薬師通室町西入る姥柳町
6. フロイス・信長会見の地 京都市上京区下立売烏丸西入る 旧二条城跡
7. 南蛮寺の鐘 京都市右京区花園 妙心寺・春光院

8. 曲直瀬道三の墓 京都市上京区鶴山町 十念寺
曲直瀬道三は、1507年(永正4年)10月23日京都に生まれ、天正時代都の最も著名な学者であり医者であった。たまたま結石症治療のため彼のもとを訪れたイエズス会士フィゲイレドと、霊魂不滅の問題を語り合ううちに親交を結び、その影響で1584年12月オルガンチノより受洗し、霊名をベルショールと称した。この折、彼の門下800名も、彼にならって受洗したと伝えられている。天下の名医の受洗は、一般人の一万人の受洗にも匹敵すると評判になり、朝廷からも彼の受洗について苦情が来たほどであった。

9. 有馬晴信の妻ジュスタの墓 京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町 廬山寺
10. インド副王親書 京都市東山区東大路通七条上る妙法院前側町 妙法院
11. 諸天使の元后教会跡 だいうす町 京都市下京区四条堀川南西一帯
12. 小川牢屋敷 京都市中京区小川通御池上る西側下古城町

13. 日本26聖人耳削ぎの場 京都市上京区一条堀川東入る 一条戻橋

古来、大罪人は市中引き回しのうえ処刑されたが、その場合一条戻橋は、あらかじめ罪人の顔面を傷つけるための場所となっていた。1597年1月3日、バプチスタ神父以下24名の人々が左の耳を削がれたのも、この場所であった。小崎トメは、耳を切りとられたとき、「お望みならもっとこの耳を切って満足のゆくまでキリシタン の血をお流し下さい。」と役人に向かって云ったといわれる。このあと、引き回しの行列は、8 台の牛車に3人ずつ乗せて出発し、東に向かって室町通まで、そこから右折し室町通を真っすぐ松原まで進んだものと推定される。

14. バプチスタ別れの地 京都市南区九条町 東寺口
15. 下京教会 だいうす町 京都市下京区若宮通松原上る菊屋町
16. 上京教会跡 京都市上京区油小路通元誓願寺西南角
17. ベアタス修道女会受難の地 鴨川河原一帯
18.「都の聖母」埋蔵の地 京都市東山区粟田口将軍塚
19.キリシタン墓碑 京都市内各所
(a)北区大将軍川端町一条橋西入る慶長9.7.22.
(b)北区大将軍川端町一条橋西入る慶長12.12.1.
(c)北区等寺院南町(土橋の台石として)慶長13.7.8.
(d)北区大将軍川端町 椿寺境内(手水鉢に転用) 年記不明
(e)上京区智恵光院通芦山寺上る真教寺境内 慶長7.6.5.
(f)上京区御前通下立売下る延命寺境内 慶長7.9.1.?
(g)上京区天神筋通下立売上る浄光寺跡 慶長8.6.28.
(h)上京区智恵光院裏門出水下る松林寺境内 慶長8.12.24.
(i)上京区一条通御前西入る成願寺境内 慶長11.1.30.
(j)上京区御前通下立売下る延命寺境内 慶長13.3.10.
(k)上京区一条通御前西入る成願寺境内 慶長14.7.3.
(l)上京区御前通上ノ下立売上る仲之町 慶長14.12.14.
(m)上京区御前通下立売下る延命寺境内 慶長15.11.7.
(n)上京区一条通御前西入る成願寺境内 慶長18.9.2.
(o)上京区一条通御前西入る成願寺境内 年記不明
(p)下京区醒ヶ井五条安養院境内年記不明
(q)下京区下魚棚通堀川西入る慶長18.3.3.
(r)南区針小路堀川東入る西福寺境内(手水鉢台石として)慶長13.11.1.?
(s)南区唐橋平垣町 慶長14.8.13.(小溝の石垣に転用)
(t)南区西九条川原城町(九条小学校敷地内) 年記不明

20.都の大殉教
1619年、都のキリシタンに対する大弾圧が始まった。1 月10日下京区菊屋町通称だいうす町に住む都の信者たち36名は、役人に引き立てられて小川牢屋敷に繋がれた。その年の4 月と7月には、さらに別の逮捕者が加わったが、牢内の苛酷な条件の中で死亡者が続出した。10月6日、一行52名は処刑のため引き出され、9 台の荷車に乗せられて都の大路を引き回された。そして、大仏正面、伏見に向かう街道と鴨川との間の場所に着き、準備された27本の白木の十字架に縛り付けられた。間もなく十字架の下には薪が積まれ、火が付けられた。炎と煙が上がると幼児たちは泣き始めたので、母親たちは子どもたちを慰め、もうすぐ天国に着けると励ました。都の代表的な信者、橋本太兵衛ジョアン、その妻テクラ、13才の長女カタリナ、12才の次男トマス、8 才の三男フランシスコ、6 才の四男ペドロ、3 才の次女ルイサも、このとき殉教した。通常「大殉教」と呼ばれているものに三つの殉教がある。1619年10月6日の都の大殉教、1622年9月10日の長崎の大殉教、1623年12月4日の江戸の大殉教である。都の大殉教は、その最初の殉教であること、また司祭も修道者もいない全員が一般信徒であること、殉教者の中に婦人はもちろん、二歳、三歳の幼児から胎児まで含まれていることなど、特別な性格を持っている。このような無差別、非情な大虐殺に対して、都のキリシタンは勇敢に立ち向かって殉教の栄冠を勝ち取ったのであった。 1994年この地に殉教碑が建てられている。

 上記のうち「8. 曲直瀬道三」関連については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-25

 また、「13. 一条戻橋」関連についても、下記のアドレスで触れながら、「豊臣秀吉により島津歳久と千利休が梟首」などについても紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-06

 この「千利休」に関しては、狩野内膳」の「南蛮屏風」(右隻)に描かれている「ロレンソ了斎」(前回=その三十二)は、「ロレンソ了斎」ではなく、「キリシタン千利休」その人だという見方が『山田無庵著 キリシタン千利休』で、「ロレンソ了斎」(前回=その三十二)とする見方は、『結城了悟著 ロレンソ了斎―平戸の琵琶法師』に因るものであった。
 そして、さらに、「後藤宗印(トメ・ソイン)」という見方が、「南蛮屏風図(2021年7月21日 河田容英稿)のものということになる。

 もう一つ、この「一条戻橋」で「梟首」になった、「島津歳久」も、「島津四兄弟の中でただ一人、秀吉に屈しなかった」信念の武将である。「歴博D本」の「あやつり小屋」の「十」は、その信念の武将「島津歳久」を背景にしているのかも知れない。

by yahantei (2022-01-11 16:00) 

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