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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その十二) [水墨画]

その十二 「装丁画家・徳川義恭」と『宗達の水墨画(徳川義恭著・座右寶刊行会)図版』周辺

花ざかりの森.jpg

http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000203KDS_HKDT-00457
『花ざかりの森(三島由紀夫著)』表紙装幀画(徳川義恭画)

徳川義恭・山水画.jpg

http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000203KDS_HKDT-00457
『花ざかりの森(三島由紀夫著)』見返し頁山水画(徳川義恭画)

【 花ざかりの森』(七丈書院、1944年10月15日) NCID BA38760328
※A5判。紙装。フランス装カバー。本文用紙に和紙使用(若干数の洋紙刷本あり)。247頁
※カバー装幀:徳川義恭。白地に尾形光琳の躑躅図を模した扇面。見返しには水墨の山水。
※中扉裏に「清水文雄先生に献ぐ」と献辞あり。
※奥付頁にある著作者略歴に「大正四年生」と誤植があり、訂正紙を貼付(ごく一部、三島自身が自筆で訂正したものがある)。
※収録作品:「花ざかりの森」「みのもの月」「世々に残さん」「苧菟(おつとお)と瑪耶(まや)」「祈りの日記」「跋に代へて」。  】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 徳川義恭は、三島由紀夫より四歳年長で、学習院中等科・高等科の先輩に当る。その学習院時代の三島由紀夫(当時、十六歳)が、昭和十六年(一九四一)「花ざかりの森」を書き上げ、恩師の清水文雄の推奨で、その清水の同人月刊誌『文藝文化』に「花ざかりの森」を発表する。この年の十二月八日の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が幕開けする。
 そして、昭和十九年(一九四四)、学徒動員の前の十月に、処女短編小説集『花ざかりの森』を刊行する。その前年に三島が書いた、徳川義恭宛ての書簡が遺されている。

【 国民儀礼の強要は、結局、儀式いや祭事といふものへの伝統的な日本固有の感覚をズタズタにふみにじり、本末を顛倒し、挙句の果ては国家精神を型式化する謀略としか思へません。主旨がよい、となればテもなく是認されるこの頃のゆき方、これは芸術にとつてもつとも危険なことではありますまいか。今度の学制改革で来年か、さ来年、私も兵隊になるでせうが、それまで、日本の文学のために戦ひぬかねばならぬことが沢山あります。(中略)文学を護るとは、護国の大業です。文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソワソワ鼠のやうにうろついている時ではありません。— 平岡公威「徳川義恭宛ての書簡」(昭和18年9月25日付) 】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 この書簡を書く一年前の昭和十七年(一九四二) 東文彦、徳川義恭と共に同人誌『赤繪』を創刊する。その『赤絵』は、彼らの先輩の多くが参加した「西洋文学・西洋画」を基調とした「文芸・美術雑誌」の『白樺』を意識しての、「白」に対する「赤」という「捩り」のようにも取れるが、次の、三島が東文彦に宛てた書簡が、当時の彼らの真意の一端を物語っている。

【「真昼」―― 「西洋」へ、気持の惹かされることは、決して無理に否定さるべきものではないと思ひます。真の芸術は芸術家の「おのづからなる姿勢」のみから生まれるものでせう。近頃近代の超克といひ、東洋へかへれ、日本へかへれといはれる。その主唱者は立派な方々ですが、なまじつかの便乗者や尻馬にのつた連中の、そここゝにかもし出してゐる雰囲気の汚ならしさは、一寸想像のつかぬものがあると思ひます。我々は日本人である。我々のなかに「日本」がすんでゐないはずがない。この信頼によつて「おのづから」なる姿勢をお互いに大事にしてまゐらうではござひませんか。— 平岡公威「東文彦宛ての書簡」(昭和18年3月24日付) 】(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

白樺.jpg

『白樺』創刊号の表紙(岸田劉生装幀画)

 三島由紀夫は、徳川義恭が亡くなった後(昭和二十四年=一九四九、没年齢=二十八歳)、その八年後の昭和三十二年(一九五七)に、徳川義恭をモデルにした短編小説「貴顕(中央公論 1957年8月)」を執筆する。
 この「貴顕」については、次のアドレスの、「三島由紀夫のイマジナリ ・ポートレイトーー『貴顕』をめぐって(十枝内康隆稿)」が参考となる。

https://sapporo-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3112&item_no=1&page_id=13&block_id=17

 その「貴顕」は、その主人公・柿川治英(モデル=徳川義恭)の、次のポートレイトー(肖像画)の記述より始まる。

【さて、 私の描く肖像画は、 初期銀板写真の額縁のやうな螺鈿や金銀のアラベスクに飾られた楕円形でありたく、又その胸像は横向きであったはうがいい。なせなら彼の横顔は日本人にまれに見る秀麗さで、その鼻は正確な羅馬鼻であるし、唇のはじのくびれは希臘彫刻の唇のそれに似てゐたからである。ほとんど血の気のないほど白皙のその顔には唇の淡紅が目立ってゐた。 】

 そして、その「貴顕」は、その主人公の死顔(デスマスク=ポートレイトー)の記述で終わっている。

【 婦人が顔の白布を除けた。私はその美しさにおどろいた。人間の皮膚の色を脱した白さが、希臘風の横顔を包んでをり、その鼻梁の正しさは似るものがなく、その口もとの括れは彫刻としか思はれなかった。しかし死顔のうかべてゐる云はうやうない晴朗さは、私を安心させた。実際、内心のあらはれとしての晴朗さではなくて、顔の正しい形態そのものの放っ晴朗さは、かうして死後までも残るものである。 】


補記 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版第一図から第八図・右:第八図・左」周辺(国立国会図書館蔵本)

第一図 牡丹 竪九六・七㎝ 横四四・九㎝

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-21

第二図 鴛鴦 淡彩 竪九三・九㎝ 横四七・七㎝

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-24

第三図 鴛鴦 竪一〇一・五㎝ 横四三・八㎝

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27

鴛鴦二.jpg

右図=第二図(部分図、この下部の左に落款「法橋宗達」) 
左図=第三図(部分図? この左端の落款「宗達法橋」か? 竪一〇一・五㎝とすると、この上部に賛をする余白がとられている?)

第四図 兎 竪四二・四㎝ 横四五・五㎝

兎.jpg

『宗達画集・審美書院・大正二年刊』(国立国会図書館デジタルコレクション) コマ番号76/86)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1015931

『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版第四図」は、上記のものであった。

第五図 狗子 竪九〇・三㎝ 横四四・八㎝

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-05

第六図 蓮池水禽 竪一一七・六㎝ 横五〇・九㎝

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-08

第七図 鴨 竪一〇〇・六㎝ 横四六・一㎝

蓮池・鴨.jpg

右図=第六図(蓮池水禽図)
左図=第七図(鴨) → 『日本の美術31 宗達(千沢梯治編集)』第78図(この第78図では、首に白い首輪の筋が入っている。この左図では、白い目の点とその白い首輪の筋がコピーの際黒一色になっている?)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版第七図」は、上記の「左図=第七図」の「落下する鴨」の図であった。これと同じような「落下する鴨」が、下記のアドレスの『芸術資料. 第2期 第11冊 金井紫雲 編』に収載されている。
 上図(第七図=鴨)の落款は「宗達法橋」、そして、印章は「対青軒朱文円印」で、それが、鴨の尾の上部に記されている。それに比して、下図(鴨)の落款と印章(「宗達法橋」と「対青軒朱文円印」は同じ)は、一番下部の左端に記されている。よく、その細部を見て行くと、上図の鴨の首は黒一色であるが、下図の鴨の首には、その黒い首に白い首輪のような一筋が入っている(上記の「鴨」図は、『日本の美術31 宗達(千沢梯治編集)』第78図(この第78図では、首に白い首輪の筋が入っている。この左図では、白い目の点とその白い首輪の筋がコピーの際黒一色になっている?)のかも知れない)。
 また、これらの鴨の脚も、下図では黒の二点が描かれているが、上図では一点の黒ボチだけである。そのように、細部を比較しながら見ていくと、いろいろな相違点が浮かび上がってくるが、雰囲気は、全く同じ、あれこれと詮索せずに、いずれも「宗達法橋」の作とすることに、躊躇を感じない。

落下の鴨図.jpg

「鴨(俵屋宗達筆) 『芸術資料. 第2期 第11冊 金井紫雲 編』所収
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906563

第八図右(水禽=竪一一二・七㎝ 横四六・一㎝)と第八図左(蓮=一〇七㎝ 横四一・二㎝)

第八図右(水禽=竪一一二・七㎝ 横四六・一㎝)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-14

第八図左(蓮=一〇七㎝ 横四一・二㎝)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-19

蓮池水禽五幅.jpg

(左図の一) 京都博物館蔵 「蓮池水禽図」「伊年」印 国宝→A図
(左図の二) 畠山記念館蔵 「同上」 無印      → B図
(左図の三) 山種美術館蔵 「同上」 「伊年」印    → C図
(右図の一) 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版第八図左 蓮」無印
→ D図 → 『日本の美術31 宗達(千沢梯治編集)』第80図 →部分図
(右図の二) 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版第八図右 水禽」伊年印 → E図 → 『日本の美術31 宗達(千沢梯治編集)』第82図

 この(右図の一)と(右図の二)については、下記アドレスの「コメント」欄で記している。その誤記などを修正して再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-19

(再掲)

【「補記」を追加した。『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』の図版は未見であったが、「国立国会図書館蔵本」で見ることが出来た。終戦直後の、昭和二十三年(一九四八)当時の出版で、最近の図版などと比較すると見劣りはするが、著者が、どのような図版で、その「図版解説」をしたのかは、やはり、その著書の図版を見ないと、隔靴搔痒の感はゆがめない。
 しかし、そのスタート時点では未見であったが、そのゴール地点で見ることが出来たのは大きな収穫であった。何よりも、その隔靴搔痒のうちに、その過程で、種々の出版されている多くの図録を見る絶好な機会であった。
 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』の、その献辞に「千沢梯治学兄に」し記されているが、その「学兄千沢梯治」が、『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』所収「序(千沢梯治稿)」を草したのであった。
 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-28

《風流人抱一は俳諧の「季」の絵画化を発想の根底とし、みがかれた鋭敏な感覚により、簡潔でまとまりのある瀟洒な装飾画を高貴なマチエールによって品格高く仕上げいるが、光琳の様式に深く傾倒しながらもその亜流化を厳然と拒否した見識は流石である。
(中略)
 宗達にとって古画は図形の宝庫であって意味内容は二次的な関心しか持っていない。光琳は古典に専ら作画のイメージを求める古典の感覚化の度合は著しい。抱一は感覚的に捉えた自然のイメージを文学的情操によってさらに美化し、琳派の色感を継ぎながら写生の妙技を示した。
 このように琳派は、その世代によって追及と発展の方向はさまざまであるが、かかる具象的な装飾様式の展開をたどることによって、おのずから芸術史上の位置を明らかにしている。》(『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』所収「序(千沢梯治稿)」)】

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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その十一) [水墨画]

その十一 「蓮(宗達筆・個人蔵)」周辺

【 第八図左 蓮 竪一〇七㎝ 横四一・二㎝
 此の図を一見して、或る鈍さを感じ得る人は少ないであらう。私は之を俵屋宗達筆とはしないのである。其の難点は指摘する迄もないと思ふが、念の為書いてみると、先ず全体の構図に、大きなゆつたりした感じの無い事、筆触に張りの無い事が其の主なものである。特に茎の構成が拙く、その一本々々の描写も、生気に乏しい。葉にも無意味な筆使いが目立つ。更に花について言ふと、先ず開いた花は、第八図右の花を其の儘写したものである。只、蕊を少し変へてゐる。又、右上の、花の終わつたものは、第六図の蓮池水禽図に描かれてゐるのを逆に写したものである。即ち、宗達の絵の部分を二箇所から写し、あとはいゝ加減の事にして此の絵は出来上つてゐるのである。
 これと殆ど同じ図様で、中央の空間に蕾の描かれた一図も在る。之には右下に伊年印があるが、同じく宗達筆ではない。例えば最下部の構成など如何にも拙く、又全体に墨の濃淡の効果が悪く、絵に深さが無いのである。(之には高見沢版宗達に写真がある)併し、かう云ふ程度の亜流作品は、愛敬があると云ふか、拙い乍らもそんな感じがあつて、私は抱一などよりは好きである。もつとも之は花だから無難なので、この調子で動物や人物などを描かれたら閉口するに違ひない。
 一人の偉大な画家が現れると、其の画風の絵が極めて多く作られる。宗達の場合にもそれが著しいのである。寛永十六年に在世して居た事の確実である俵屋宗雪を始め、宗達と称した亜流画家さへ居るのであるから、吾々は作品に対して、十分厳格でなければならない。殊に宗雪は墨絵を描いてゐたらし、古画備考宗雪の條に、「峯寶斎宗雪法橋」として、之に伊年円印を伴つた落款が書写され、その下に、「紙墨立四幅 東坡、梶葉、芙蓉、舟鷺、別府氏蔵」とある。
 何れにしても、此の様な絵は亜流作品である。併しながら、それを承知して、其の画様式を宗達研究の為に活用することは有意義である。宗達の正筆でなくても、研究の為の価値が認められる場合は屡々ある。 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左 蓮」p15~p17 )

(再掲)

蓮池水禽・三幅.jpg

(左図) 京都博物館蔵 「蓮池水禽図」「伊年」印 国宝→A図 (上記解説の「第六図」)
(中央図)畠山記念館蔵 「同上」 無印      → B図
(右図) 山種美術館蔵 「同上」 「伊年」印   → C図(上記解説の「第八図」)
https://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/0dc362de8723932a0236c639f4d34cd0
 この左図の、国宝の「A図 蓮池水禽図(京都国立博物館蔵)」については、下記のアドレス(再掲)のとおり激賞している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-08

(再掲)

【 水墨的技法を駆使したこの作品は、宗達の水墨画の最高傑作としてつとに名高いものであると同時に、日本の水墨画の歴史のなかでの偉大な成果のひとつとして広く認められている。 】

 また、右図の「C図 蓮池水禽図(山種美術館蔵)」についても、下記のアドレス(再掲)のとおり、宗達の正筆としている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-14

(再掲)

【 飛んで居る鳥の、特に足が少し気になる。全体に先の蓮池水禽図(メモ:A図・図版解説第六図)の深さは無いが、併し構図もよく、花の柔かさも、葉の趣も十分であるから、宗達筆としてよいであらう。ゆつたりとした感じのある気持のいゝ絵である。 】

 そして、この中央図の「C図 蓮池水禽図(畠山記念館蔵)」だけは、下記のアドレス(再掲)のとおり、「私は宗達筆とはしない」とし、それに続けて、「後に例として示すエピコーネ(メモ: エピゴーネン=亜流・模倣)の作よりも、もつと上手であるが、全体の構成が拙いから否定するのである」と、もっと拙い「エピコーネ(メモ: エピゴーネン=亜流・模倣)の作」が、今回の「第八図左 蓮 竪一〇七㎝ 横四一・二㎝」(D図とする=未見)のようである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-08

(再掲)

【 同じ蓮池水禽図で鳥が一羽(それは今述べた図の中の、首を延ばしてゐるのと殆ど同形)泳いてゐるのがある(メモ:※下記の「(B図) 蓮池水禽図」)、その絵を私は宗達筆とはしないのである。之は、後に例として示すエピコーネ(メモ: エピゴーネン=亜流・模倣)の作よりも、もつと上手であるが、全体の構成が拙いから否定するのである。 】

蓮池水禽AとB.jpg

(左図) 京都博物館蔵 「蓮池水禽図」「伊年」印 国宝→A図 (上記解説の「第六図」)
(中央図)畠山記念館蔵 「同上」   無印     → B図

 この両図(A図とB図)についての「宗達の二つの『蓮池水禽図』」(『古画名作裏話(中村渓男著)』所収)の、『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左 蓮」の異説などを紹介して置きたい。

【 国宝本(A図)は図の上部左より白い花をつけた蓮花と、散って僅かに花弁を残した藕花(ぐうか)が池水から出た大きな葉にささえられている。もう一つ(B図)は、右の下から数枚の荷葉にかこまれた藕花が、こちら向きに葉上から突き出ている。両図とも鳰(かいつぶり)が二羽、一羽と水面にしぶきを飛ばせながら泳いでいる。この荷葉の瑞々しい感じと、鳰の姿。その描法からほとんど同筆と見ることは出来ないであろうか。蓮の向きからいって左右から向い合う形になっており、鳰は左をさして動くが、印章が左右対照に捺されている。
 構図的にも、蓮の処理において、一方(A図)は高く他(B図)は低くすることによって均衡をとっている。対幅でなければしないことで、これを偶然といい得ようか。後代のことだが、光琳燕子花図屏風(国宝・根津美術館蔵)も単一の燕子花だけの図のために、左右片双ずつに高低をつけて構図したもので、まして同派宗達の創案によって当然、この作為的な構図としたことも考えられる。
 筆法の上からも、蓮葉のたらしこみ法はまったく同じで、柔らかみのある質感があらわされているばかりか、葉脈、葉柄に用いられたたっぷりした丸味のある線描には共通点が多い。鳰の描写、とくに頭の表現、背から尻尾にかけての淡墨と、きき羽や尾羽にやや濃い墨を用いた描法、水の中を通して見える水をかく脚の表出などは、まさに同じ時期でなければ描けないような筆法である。(以下略) 】(『古画名作裏話(中村渓男著)』所収「宗達の二つの『蓮池水禽図』」)

(追記メモ) 「俵屋宗達と醍醐寺」周辺(その三)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

(再掲)

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢   ※二条綱平

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

 この「後陽成天皇」(後陽成院)の系譜というのは、単に、上記の「後水尾院」そして、「醍醐寺三宝院門跡・覚定」の醍醐寺関連だけではなく、皇子だけでも、下記のとおり、第十三皇子もおり、その皇子らの門跡寺院(天台三門跡も含む)の「仁和寺・知恩院・聖護院・妙法院・一乗院・照高院」等々と、当時の「後陽成・後水尾院宮廷文化サロン」の活動分野の裾野は広大なものである。

第一皇子:覚深入道親王(良仁親王、1588-1648) - 仁和寺
第二皇子:承快法親王(1591-1609) - 仁和寺
第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)
第四皇子:近衛信尋(1599-1649) - 近衛信尹養子
第五皇子:尊性法親王(毎敦親王、1602-1651)
第六皇子:尭然法親王(常嘉親王、1602-1661) - 妙法院、天台座主
第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮
第八皇子:良純法親王(直輔親王、1603-1669) - 知恩院
第九皇子:一条昭良(1605-1672) - 一条内基養子
第十皇子:尊覚法親王(庶愛親王、1608-1661) - 一乗院
第十一皇子:道晃法親王(1612-1679) - 聖護院
第十二皇子:道周法親王(1613-1634) - 照高院
第十三皇子:慈胤法親王(幸勝親王、1617-1699) - 天台座主
(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

(A図) 寛永七年(一六三〇)後水尾院新仙洞御所に移られる頃の「御所」周辺図

頂妙寺・古図.jpg

「頂妙寺」付近図:「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=24161%2C14427%2C2750%2C5442&r=270
(メモ) 「寛永七年(一六三〇)十二月、上皇(後水尾院)、女御(徳川和子・東福門院)、新仙洞御所に移られる」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館)』所収「関連略年譜」)は、この「院御所に移られる」と解すると、「頂妙寺」(俵屋宗達家の菩提寺?)、「烏丸殿」(烏丸光広邸?)が、その左側(西側)に、そして、当時の醍醐寺の門跡(醍醐寺三宝院門跡・覚定)の宿坊は、「院御所」の「右(西)の上(北)」に図示されている。

(B図) 延宝五年(一六七七)当時の「御所」周辺図

延宝時内裏図.jpg

「新改内裏之図(延宝5年:1677年)』京都市歴史資料館蔵
https://rekishi-memo.net/edojidai/" target="_blank">https://rekishi-memo.net/edojidai/
(メモ)【 霊元天皇在位中の寛文十三年(一六七三)五月八日、関白鷹司房輔の邸から出火があった。これにより禁裏御所、後水尾院の仙洞御所、東福門院の女院御所、後西院の新院御所が焼失した。ただ、明正院の本所御所だけは一部の焼失で済んだ。九月、寛文から延宝に改元。延宝の御所造営が行われていった。造営は仙洞御所、女院御所、禁裏御所の順番で着手された。後水尾院、東福門院が高齢だったからである。禁裏御所は延宝三年(一六七五)正月に木作始、十一月二十七日に霊元天皇が新たな御所に遷幸することが決まる。ところが、その二日前に堀川油小路間で出火、これにより先の火災で一部の焼失で済んだ本所御所などが類焼する。ただ、禁裏御所は無事だったため予定通りに霊元天皇が遷幸した。そして、延宝八年八月に後水尾院が崩御する。 】(『天皇の美術史4 雅の近世、花開く宮廷絵画  
江戸時代前期 (野口剛・五十嵐公一・門脇むつみ著)』所収「第一章 御所の障壁制作―天明の大火以前 p52~ 五度目の御所造営(五十嵐公一稿)」
※この延宝五年(一六七七)当時には、光悦(一六三七年没=八十歳)、素庵(一六三二年没=六十二歳)、光広(一六三八年没=六十歳)、松花堂照乗(一六三九年没=五十六歳)、そして、宗達(一六四二年=宗雪法橋位にあり、宗達没している?)と、時代は、次の「光琳・乾山」時代へと移行しつつある。
※※(A図)と比較すると「院御所」の左(西)側に隣接していた「二条殿・烏丸殿・九条殿・頂妙寺」が、(B図)では「新院御所(後西院?)」となり、頂妙寺は、この御所付近から現在地へと様変わりをしている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19
 しかし、当時の醍醐寺の門跡(醍醐寺三宝院門跡・高賢)の宿坊は、「仙洞御所・女院御所」の「右(西)の上(北)」に図示されている。

(C図)令和三年(2021)の「御所」周辺図

梨木神社周辺.jpg

https://www.mapion.co.jp/m2/35.0220541,135.76259681,16/poi=L0566027 https://fng.or.jp/kyoto/
(メモ)「 醍醐寺三宝院門跡」の宿坊は、右(東)上(北)方の「梨木神社」周辺に当る(『近世京都画壇のネットワーク(五十嵐公一著)』)。

( 補記 )『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図右 水禽」と「図版解説第八図左 蓮」の、その図版(右図=水禽、左図=蓮)は、次のものであった。
 この「図版(右図=水禽、左図=蓮)」のものは、これまでの展覧会図録のものなどと比較すると、微妙にアレンジをしており、この種のものが他にも何点かあることが窺える。

八図右・左.jpg

『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版(右図=水禽、左図=蓮)」(国立国会図書館蔵本)

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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その十) [水墨画]

その十 「水禽(宗達筆・個人蔵)」周辺

【 第八図 右 水禽 竪一一二・七㎝ 横四六・一㎝
 飛んで居る鳥の、特に足が少し気になる。全体に先の蓮池水禽図(図版解説第六図)の深さは無いが、併し構図もよく、花の柔かさも、葉の趣も十分であるから、宗達筆としてよいであらう。ゆつたりとした感じのある気持のいゝ絵である。此の図や、先の蓮池水禽図には、伊年と云ふ円印が在る。扶桑名公画譜には伊年を宗雪のみに結びつけ、宗達に迄及ばしてゐないが、宗達が伊年を称してゐた事は認めるべきであると思ふ。第一に、其の様式に疑ひの無い事、第二に、伊年と称した此の系統の画家の多いと云ふ事実は、取りも直さず最初の伊年が偉大であつたのを証明して居ると考へられる事、が理由として挙げられる。尚、家蔵自筆「桧山担斎襍(雑)記」には

俵屋宗達 号郭大年 即見図円印楷字 是元祖伊年トモ称 子孫同名而相続(六七代迄) 初代カ二代ヨリ加州公に召抱ラル 祖宗達ハ画雪(楽)ニ学 右杜陵子話

とある。杜陵子とは抱一のことである。此の記事は信憑するに足らぬものであるが、伊年が六、七代まで続いたと述べてゐるのは、やゝ興味がある。
 何れにせよ、伊年の初代は宗達であり、次で宗雪、相説、女重春、順定、白井(白井宗謙即ち何帛か)などがあるが、今日画蹟に依つて見ても、確かに数人を伊年画の中に分つ事が出来る。
 又、伊年に限らず、対青軒(或は劉青軒)その他の円印に就てであるが、宗達以前に、筆者の印に斯様な大きな円印を用ひた例があるかどうか、私は未ださう云ふものを見た事がない。いずれ宗達は、何かからのヒントを得て、あゝ云ふ大きな円印を画に捺す様になつたものと思はれるが、果してそれは何であつたか。…… 勿論これを簡単に知る訳には行かない。唯、私は次の様な事を想像してゐる(之は文字通りほんの想像に過ぎないのであるが)。
 即ち、絲印が本になつてゐるのではないかと云ふ事である。絲印とは、室町時代の中頃から江戸時代の初めにわたつて、織物の原料たる生絲を、明国から輸入した際に、絲荷の中に一包毎に入れて送つて来た銅印を云ふのである。その際、絲の包紙にその印を押し、又受取書にも押して、斤里を改めて受けたしるしとしたのである。その印は鋳物で、皆朱字である。そして大きさは大小色々あり、輪郭も単線、複線があつて、形も方、円、五角、八角などがあつた。而も之は文具として用ひられる様になり、秀吉や近衛三藐院らはこの絲印を用ひてゐたと云はれてゐる。即ち宗達は機屋俵屋の一族かと思はれるから、当然これに関係があるし、又、三藐院は宗達と恐らく交際があつたと想像出来るから、ここにも繋がりがあるのである。(三藐院と宗達の合作らしき一幅があるし、光悦と三藐院は明らかに交はりがあつた。)
 併し宗達のことであるから、前代の画家の小円印や、所蔵者印の大きなものからヒントを得たのかも知れず、其の点は如何とも決定し難い。 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左」p13~p15)

 この「第八図 右 水禽 竪一一二・七㎝ 横四六・一㎝」については、その、「飛んで居る鳥の、特に足が少し気になる」ということから、次の「蓮池水禽図」(山種美術館蔵)のような「水禽」図なのであろうか(その「第八図 右」は未見)。

蓮池水禽図・山種美術館.jpg

https://twitter.com/yamatanemuseum/status/639284228107055105/photo/1

(再掲)

【 22・23 蓮池水禽図 宗達 掛幅 紙本墨画 一一八×四八・三㎝ (山種美術館蔵)
 国宝の「蓮池水禽図」(上記の京都博物館蔵のA図)は酒井抱一が絶品と褒める箱書もあり、かねてより特別の作と扱われていたようだが、宗達派には本図(上記の山種美術館蔵のC図)をはじめ多数の「蓮池水禽図」が遺されている。多くはもと押絵貼屏風であったようだが、それらの中には補修で「伊年」印が消されるなど、こうした作品群の評価の揺れ動きを物語る実例もある。鳥(いずれもかいつぶり)のポーズや花の形などには数種のパターンがあり、その組み合わせで多くの作品が制作されたのであろう。本図の身をよじって跳ね上がる愛嬌あるかいつぶりの恰好も、他の作品の中に見ることができる。なお、脚と羽の一部は補筆である。
 花や蕾の形、線描などなんの躊躇もない堂々としたものである。裏返る花びらや果肉の簡潔な形態、線のない荷葉(蓮の葉)などいかにも描き慣れた様子で、様式化・記号化の定着が窺える。類品の間には力量の差が見られるとはいえ、淡墨の面とたらし込みによる表現は、一面で工房制作に適したものとなっているといえよう。「蓮池水禽図」には「伊年」印が捺されたものが多く、それを宗達の法橋叙任以前の作とする説に従えば、そうした早い時期にすでに需要を得、応える法が確立していたということになる。(松尾和子稿)  】(『水墨画の巨匠(第六巻)宗達・光琳(講談社)』)

鴨脚図.jpg

「蓮池水禽図」(山種美術館蔵)拡大図(『水墨画の巨匠(第六巻)宗達・光琳(講談社)』)

 この水禽(かいつぶり)は、「特に足が少し気になる」((『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第八図左」p13~p15))。そして、「脚と羽の一部は補筆である」(水墨画の巨匠(第六巻)宗達・光琳(講談社)』)と、改装の際の補筆の跡も窺えるようである。

鴨図三.jpg

「鴨図」(俵屋宗達筆) 紙本墨画 一〇二・八×四八・六㎝ 落款「宗達法橋」 印章「対青軒」朱文円印
【 室町期以来、水墨画の好画題として芦雁図が描かれてきた。宗達は、その伝統を受け継ぎながらも、雁を鴨にすりかえて芦鴨図を描いた。醍醐寺所蔵の衝立が、その代表作である。このように宗達によって新しく画題に加えられた鴨図の遺品は、雁図と共にかなりの数にのぼる。本図も、それら宗達派によって描かれた一図で、類型化して行くなかで足を描くことを忘れたのであろうか。それにしても、鴨の表情には、全く人をくったかのような愛嬌があって微笑ましい。 】(『烏丸光広と俵屋宗達・板橋区立美術館』所収「作品解説77」 )

この図は、「鴨の脚が無い」。そして、落款は「宗達法橋」なのである。空中を飛んでいる鴨の場合は、脚が腹に密着して隠れて見えないような図柄もあるかも知れないが、これは水中から飛び立つ鴨の図で、やはり、「足を描くことを忘れた」という感じが濃厚である。
しかし、白い水仙の花と白い鴨の腹との、その造形的な配慮で、例えば、醍醐寺三宝院所蔵の「舞樂図屏風」に見られる「空間における配置と色彩の妙(この「鴨」図では水墨画の「黒」と「白」との妙)の対比の面白さを狙ってのものという、そんな雰囲気も伝わってくる。
 その上で、この鴨の表情は、「鴨の表情には、全く人をくったかのような愛嬌があって微笑ましい」限りである。

(追記メモ) 「俵屋宗達と醍醐寺」周辺(その二)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

(再掲)

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢   ※二条綱平

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

後陽成天皇画.jpg

後陽成天皇筆「鷹攫雉図」(国立歴史民俗博物館所蔵)

『天皇の美術史3 乱世の王権と美術戦略 室町・戦国時代 (高岸輝・黒田智著)』所収「第二章 天皇と天下人の美術戦略 p175~ 後陽成院の構図(黒田智稿)」

【p175 国立歴史民俗博物館所蔵の高松宮家伝来禁裏本のなかに、後陽成院筆「鷹攫雉図(たかきじさらうず)」がある。背景はなく、左向きで後方をふり返る鷹とその下敷きになった雉が描かれている。鷹の鋭い右足爪はねじ曲げられた雉の鮮やかな朱色の顔と開いた灰色の嘴をつかみ、左足は雉の左翼のつけ根を押さえつけている。右下方に垂れ下がった丸みのある鷹の尾と交差するように、細長く鋭利な八枚の雉の尾羽が右上方にはね上がっている。箱表書により、この絵は、後陽成院から第四皇女文高に下賜され、近侍する女房らの手を経て有栖川宮家、さらに高松宮家へと伝えられた。後陽成天皇が絵をよく描いたことは、『隔冥記(かくめいき)や『画工便覧』によってうかがえる。

p177~p179 第一に、王朝文化のシンボルであった。鷹図を描いたり、所有したりすることは、鷹の愛玩や鷹狩への嗜好のみならず、権力の誇示であった。鷹狩は、かつて王朝文化のシンボルで、武家によって簒奪された鷹狩の文化と権威がふたたび天皇・公家に還流しつつあったことを示している。
第二に、天皇位にあった後陽成院が描いた鷹図は、中国皇帝の証たる「徽宗(きそう)の鷹」を想起させたにちがいない。(以下省略)
第三に、獲物を押さえ込む特異な構図を持つ。(以下省略)  
第四に、獲物として雉を描くのも珍しい。(以下省略)
 天皇の鷹狩は、天下人や武家によって奪取され、十七世紀に入ってふたたび後陽成院周辺へと還流する。それは、次代の後水尾天皇らによる王朝文化の復古運動の先鞭をなすものとして評価できるであろう。
 関ヶ原合戦以来、数度にわたり譲位の意向を伝えていた後陽成天皇が、江戸幕府とのたび重なる折衝の末にようやく退位したのは、慶長十六年(一六一一)三月のことであった。この絵が描かれたのは、退位から元和三年(一六一七)に死亡するまでの六年ほどの間であった。この間、江戸開府により武家政権の基礎が盤石となり、天皇・公家は禁中並公家諸法度によって統制下におかれた。他方、豊臣家の滅亡、大御所家康の死亡と、歴史の主人公たちが舞台からあいついで退場してゆくのを目の当たりにした後陽成院の胸中に去来りしたのは、天皇権威復活のあわい希望であったのだろうか。 】

 後陽成天皇(一五七一~一六一七)は、天正十四年(一五八六)に即位し、慶長十六年(一六一一)に後水尾天皇に譲位するまで、在位二十六年に及んだ。和漢の学問的教養に造詣が深く、書・画を能くし、慶長(けいちょう)勅版を刊行させた。
 この後陽成天皇の活躍時期と、本阿弥光悦(一五五八~一六三七)と俵屋宗達(?~一六四一)とのコラボレーションの「書(光悦)・画(宗達)和歌巻」の一連の制作時期(慶長五年=一六〇〇=「月の和歌巻」~元和元年=一六一五=鷹峯「大虚庵」へ移住)とはオーバーラップする。
 そして、それらを、「書・画・古活字本出版」の三分野に限定すると、「書=寛永三筆・本阿弥光悦、画=法橋宗達・俵屋宗達、古活字本出版=嵯峨本・角倉素庵」と、この後陽成天皇(後陽成院)に続く後水尾天皇の「寛永文化」(桃山文化の特徴を受け継ぎ、元禄文化への過渡的役割を担う)の担い手として飛翔していくことになる。

https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=7398

後陽成天皇書.jpg

[重要美術品]「宸翰 御色紙」 桃山時代(16世紀)紙本墨書 軸装 22.0×18.2cm 東京富士美術館蔵
【後陽成天皇の筆による鎌倉時代前期の歌人・藤原家隆の和歌「秋の夜の月 やをしまの あまの原 明方ちかき おきの釣舟」(『新古今和歌集』)の書写。】

『天皇の美術史4 雅の近世、花開く宮廷絵画 江戸時代前期(野口剛・五十嵐公一・門脇むつみ著)』所収「第二章 琳派と宮廷 p89~「後陽成天皇と料紙装飾(野口剛稿)」P97~
「後陽成天皇と宮廷画家宗達(野口剛稿)」

【p89~ 御所に色紙を申し入れたところ、「下絵無之ハ不被遊ト」、すなわち後陽成天皇は下絵の無い色紙には筆を遊ばされない、という内容が記されている。

P91~ 天正十五年(一五八七)に正月の三節会、慶長六年(一六〇一)には叙位、県召除目を復活させ、また南北朝時代に途絶えていた立太子の再興を企画するなど、朝儀の復興に情熱を傾けた。これは、以降の近世天皇による朝儀復興への意思の最初の表れといえる。後陽成天皇はまた、源氏物語や伊勢物語などの注釈的研究に努め、正親町天皇(一五一七~九三)の時代には三条西公条により行われた源氏物語の講釈を自ら行った。源氏講釈は実に四十回にも及んだといい、曼殊院本をはじめとする『源氏物語聞書』や『伊勢物語愚案抄』が残される。後陽成天皇は和歌を好み、正親町天皇の時は低調であった歌会も完全な復興を遂げた。自身の古今伝授こそ果たせなかったが、御会始や水無瀬法楽、北野法楽、七夕、十五夜、重陽などの年中行事化した歌会はもとより、毎月二十四日の月次の歌会も恒例になったようだ。文禄二年(一五九三)には『詠歌大概』を講じ、歌学への関心も示している(『御湯殿上日記』同年九月五日条)。
 こうした熱心さは、後陽成天皇が和歌や古典文学を宮廷文化の中心に位置付けていたことをうかがわせる。そして、かかる伝統の再評価と継承を目指す一連の行動は、朝廷や公家の権威を再確認するとともに、その存在意義をアッピールするものであった。

P91~ このような好学、尚古主義の後陽成天皇の料紙下絵のこだわりは、単に個人的な趣味ではなく、また当代における料紙装飾の隆盛を反映するだけでもない。歴史的に天皇と密接に関わってきた料紙装飾の伝統を自覚し、それを領導してゆこうとする意志の表れと見るべきではないかと考えられる。

P94~ そうした絵屋のひとつが俵屋であり、その主宰者が宗達である。俵屋は、その絵屋の屋号である。初期の俵屋の仕事が記念すべき「平家納経」の補作以下、金銀泥を用いた料紙装飾という分野で展開しているのも、既述の絵屋の仕事内容と齟齬しない。巻物や色紙形式の料紙装飾とともに、俵屋初期の様式を示す扇面画が多いのも絵屋の仕事にふさわしい。最近は、俵屋にも土佐派の関係者がいた可能性が指摘され、絵屋としての成り立ちにも示唆が与えられるようになった。

P94~ 宮廷と俵屋を結びつける接点には、さまざまな事柄が作用している。後陽成天皇の能書と料紙装飾の染筆、料紙装飾を含む伝統的な文化を天皇権威に結びつけて導いていこうとする意思、慶長勅版に端を発する印刷出版の隆盛、写本や古活字本の謡本の流行、雲母刷りの復興や金銀泥摺りの開発、そして、町衆勢力の拡大と密接に関連する絵屋の活動の活発化。慶長という時代の歴史的条件が俵屋を存在たらしめ、かつ俵屋と天皇を接触させたといえるのである。 】

P97~ 慶長年間後半から元和初年の宮廷画壇に有力な画家が備わっていたが、しかしその間にも、宗達とその工房の絵は宮廷に浸透していった。俵屋の絵が宮廷で享受されていたことが文献的に確認されるのは、元和年間に入って間もなくである(メモ:「中院通村」の日記の元和二年=一六一六、三月十三日の条、狩野派の松屋=狩野興以に「俵屋絵」の見本を示す)。

P99~ 「寛永年間における宮廷関係の宗達の画事 → 省略
P102~ 「元和年間における宗達の画事」     → 省略
P103~ 「後水尾天皇の禁裏文庫と宗達」     → 省略
P109~ 「三 俵屋の草花図と宮廷」       → 省略   】

慶長勅版.jpg

『古文孝経』 古活字版(慶長勅版) 1599年(慶長4)刊国立国会図書館所蔵

『天皇の美術史4 雅の近世、花開く宮廷絵画 江戸時代前期(野口剛・五十嵐公一・門脇むつみ著)』所収「第二章 琳派と宮廷 P87~ 「後陽成天皇と活字印刷、あるいは謡本(野口剛稿)」」 → 省略

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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その九) [水墨画]

その九 「鴨(宗達筆・個人蔵)」周辺

鴨図一.jpg

A図「鴨図」 俵屋宗達 一幅 紙本墨画 九四・〇×四三・六 落款「宗達法橋」 印章「対青軒」朱文円印 
【 鳥類を扱った宗達水墨画の遺品は多い。この図は鴨の立った姿を、濃淡をきかせた筆で巧みに描写する。簡略な筆で写実的表現にはほど遠いが、羽毛や脚に用いたたらし込みの墨が、面白い味わいを見せる。  】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

【 之は稍軽い感じのする宗達である。併し其の軽さも浮薄と云ふべき性質のものではない。落着き在る美しいものである。光琳になると此の軽さが少し目立つ様になつて来る。特に狩野派の様式に入つたものには感心出来ない絵が多い。併しそれを除けば、大体に於て、光琳の軽さには快いリズムがある。それは矢張り彼が円山・四條派の画家などと違つて、美的感覚が豊かであつた為である。光琳の名作には宗達に十分対抗出来るものがあるが、其の画業を広く見渡して評価すれば、宗達の方が画家として上位に置かれなければならない。最近は大体この考えへになつて来た様であるが、宗達の芸術が光琳によつて大成されたと見るのは勿論誤りである。宗達はあれで一つの頂点を示してゐる。光琳は宗達の芸術からヒントを得て、更に一つの境地を確立した偉大な画家であるが、宗達に比べれば深さを欠く場合が屡々ある。抱一に至つては悪い甘さばかり目立つて、質は遥かに落ちる。尚、此の鴨の図は左が明らかに切詰められた形跡がある。円印が外へかかる場合は在つてもよいと思はれるが、此の図の様に嘴が切れて居るのは、表装を改めた際に詰められたとすべきであらう。
】 (『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第七図」p12~p13 : 竪一〇〇・六㎝ 横四五・八㎝ )

https://www.tobunken.go.jp/materials/gahou/215038.html

鴨図四.jpg

B図「鴨図」 俵屋宗達 (美術画報 三十七編巻二(1914年12月24日) / 037-02-004 )
落款 法橋宗達 印章 「対青軒」朱文円印
【 Ⅰ-79 鴨図 俵屋宗達筆 紙本墨画 竪一〇五・〇㎝ 横四四・〇八㎝ 
 宗達は、水墨画で鷺や鴨を好んで描いた。白い姿を背景から浮かび上がらせる鷺、「たらし込み」によって立体感を生み出す鴨は、宗達の水墨画に適したものだったのだろう。本図と同じ横向きの鴨図が他に何図か知られており、光琳の「小西家旧蔵資料 宗達風芦雁図写」(図録№Ⅱ・20②)にも同様の鴨図が数図写されており、光琳にとっても感じるところの多い図柄であったことがわかる。本図は現存する鴨図の中でも墨の諧調が美しく立体感の表現に優れた作品で、背景に何も描かず広やかな空間を感じさせる。「法橋宗達」と署名し「対青軒」朱文円印が捺されている。】(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』所収「作品解説Ⅰ-79 鴨図(田沢裕賀稿)」) 

 上記の徳川義恭の「図版解説第七図」(p12~p13)は、その形状からすると、上記のA図「鴨図」を見てのものではなく、B図「鴨図」を見てのもののように思われる。これは、確かに、左端の上部の「対青軒」朱文円印が、「此の図の様に嘴(端か?)が切れて居るのは、表装を改めた際に詰められたとすべきであらう」という雰囲気で無くもない。しかも、落款が、「法橋宗達」で、「法橋宗達」は「晴れ(晴れ着)の宗達の落款」、「宗達法橋」は「褻(普段着)の宗達の落款」との区別(我流の見方)からすると、これぞ、対外的に「正真正銘の宗達自筆」と誇れる「鴨」図の一つということになる。
 それにしても、A図「鴨図」の「鴨」の「顔かたち」と、B図「鴨図」の「鴨」の「顔かたち」が瓜二つであることか。しかし、「鴨」全体の風貌は、そして、その「たらし込み」などの濃淡の技量の冴えは、確かに、B図「鴨図」(法橋宗達)の方が、A図「鴨図」(宗達法橋)よりも優れている感じで無くもない。

https://twitter.com/koizumi_rosei/status/887098698412417026?lang=bg

鴨図二.jpg

C図「鴨図」俵屋宗達 (円印の端が切れている。落款は「宗達法橋」)

 このC図「鴨」図の、印章(「対青軒」朱文円印)は、半分切れている。これは、「表装を改めた際に詰められたとすべきであらう」の見本のようなものであろうか。この「鴨の姿態」は「左向き」で、A図「鴨図」とB図「鴨図」の、「右向き」の「鴨の姿態」ではない。しかし、その「鴨」の「顔かたち」は、全く、A図「鴨図」とB図「鴨図」の、その「顔かたち」と同じという雰囲気を有している。  
 
  醍醐寺には、「紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)〉」(重要文化財)がある。

https://www.daigoji.or.jp/archives/cultural_assets/NP031/NP031.html

芦鴨図.jpg

紙本墨画芦鴨図〈俵屋宗達筆/(二曲衝立)〉(重要文化財) 一基 各 一四四・五×一六九・〇㎝
【 もと醍醐寺無量寿院の床の壁に貼られてあったもので、損傷を防ぐため壁から剥がされ衝立に改装された。左右(現在は裏表)に三羽ずつの鴨が芦の間からいずれも右へ向かって今しも飛び立った瞬間をとらえて描く。広い紙面を墨一色で描き上げた簡素、素朴な画面であるが、墨色、筆致を存分に生かして味わい深い一作としている。無量寿院本坊は元和八年(一六二二)の建立、絵もその頃の制作かと思われる。  】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

 この他に、「金地著色舞楽図〈宗達筆/二曲屏風〉」と「金地著色扇面散面〈(伝宗達筆)/二曲屏〉」(いずれも「重要文化財)が所蔵されている。
舞樂図屏風.jpg

「金地著色舞楽図〈宗達筆/二曲屏風〉」(重要文化財) 紙本金地着色 各 一九〇・〇×一五五・〇㎝ 落款「法橋宗達」 印章「対青」朱文円印 醍醐寺三宝院

宗達・扇面.jpg

「金地著色扇面散面〈(伝宗達筆)/二曲屏〉」(重要文化財) 二曲一双 醍醐寺三宝院

(追記メモ) 「俵屋宗達と醍醐寺」周辺(その一)

https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/hiroba-column/column/column_1012.html

【『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師』(吉川弘文館)が出版された。これは醍醐寺三宝院門跡・覚定、醍醐寺三宝院門跡・高賢、公家の二条綱平という人物たち(注文主)と、京都で活躍した絵師たちとの関係に注目した本である。
実は、この三人の注文主たちには姻戚関係がある。覚定の兄の孫が高賢であり、その高賢の甥が二条綱平である。従って、『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師』は姻戚関係をもつ注文主たちと絵師たちがどの様につながっているのか、その多くの具体例を紹介する内容となっている。
 絵画史研究は先ず作品、そして絵師に着目し、そこから多くの問題を考えてゆくのが普通である。しかし、この本はそうではない。先ず注文主に着目している。つまり、通常の研究手続きとは全く逆なのだが、注文主に注目すると今まで気づかなかったことが見えてくる。
 たとえば、俵屋宗達が描いた作品に「源氏物語関屋澪標図屏風」がある。言うまでもなく、これは国宝にも指定されている日本美術史上屈指の名品である。現在、東京の静嘉堂文庫美術館にあるが、これは明治28年頃までは京都・醍醐寺の所蔵だった。そして、これについて、醍醐寺三宝院門跡・覚定の日記『寛永日々記』寛永8年(1631)9月13日条に、こんな記録がある。
 源氏御屏風壱双<宗達筆 判金一枚也>今日出来、結構成事也、

 寛永8年9月13日、宗達が描いた「源氏御屏風壱双」が醍醐寺三宝院門跡・覚定のもとに納品されたというのである。この「源氏御屏風壱双」は「源氏物語関屋澪標図屏風」のことだと考えてよいから、この記録から「源氏物語関屋澪標図屏風」が寛永8年に描かれたことが明らかとなる。しかし、ここから分かるのはそれだけではない。この作品を描かせたのが覚定であり、覚定はその出来映えに満足したことも同時に分かるのである。
 では、覚定は「源氏物語関屋澪標図屏風」のどこに満足したのだろうか?それを探るため、覚定について調べてみると面白い事実に気づく。当時、覚定は25歳だったのである。つまり、「源氏物語関屋澪標図屏風」は、宗達が25歳の注文主・覚定のために描いた作品だったのである。
 そして、この25歳の注文主を満足させるため、宗達は画題選択を始め、いくつかの趣向を凝らした。そして、それらが「源氏物語関屋澪標図屏風」の面白さにつながっている。】

『近世京都画壇のネットワーク 注文主と絵師(吉川弘文館)』(メモ)

(p2-p3) (p93)

後陽成天皇 → 後水尾天皇※※
      ↓ 一条兼遐
        清子内親王
        ↓(信尚と清子内親王の子=教平)
鷹司信房 → 鷹司信尚 → 鷹司教平 → 鷹司信輔
     ↓             ↓
     ※三宝院覚定         九条兼晴  → 九条輔実
                   ※三宝院高賢   ※二条綱平

後陽成天皇(一五七一~一六一七)
後水尾天皇(一五九六~一六八〇)
※醍醐寺三宝院門跡・覚定(一六〇七~六一) → 俵屋宗達のパトロン
※醍醐寺三宝院門跡・高賢(一六三九~一七〇七)→京狩野派・宗達派等のパトロン
※二条綱平(一六七二~一七三三) → 尾形光琳・乾山のパトロン

(p30-p58) 三宝院門跡・覚定と俵屋宗達

『寛永日々記』(覚定の日記) → 寛永八年(一六三一)九月十三日条

源氏御屏風壱双<宗達筆 判金一枚也>今日出来、結構成事也、

「源氏御屏風」 → 「関屋澪標図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵)

http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html

関屋澪標図屏風.jpg

「関屋澪標図屏風」俵屋宗達筆 六曲一双 紙本金地着色 各一五二・二×三五五・六㎝
落款「法橋宗達」 印章「対青軒」朱文円印 国宝
【俵屋宗達(生没年未詳)は、慶長~寛永期(1596~1644)の京都で活躍した絵師で、尾形光琳、酒井抱一へと続く琳派の祖として知られる。宗達は京都の富裕な上層町衆や公家に支持され、当時の古典復興の気運の中で、優雅な王朝時代の美意識を見事によみがえらせていった。『源氏物語』第十四帖「澪標」と第十六帖「関屋」を題材とした本作は、宗達の作品中、国宝に指定される3点のうちの1つ。直線と曲線を見事に使いわけた大胆な画面構成、緑と白を主調とした巧みな色づかい、古絵巻の図様からの引用など、宗達画の魅力を存分に伝える傑作である。
寛永8年(1631)に京都の名刹・醍醐寺に納められたと考えられ、明治29年(1896)頃、岩﨑彌之助による寄進の返礼として、同寺より岩﨑家に贈られたものである。】

※※後水天皇とそのサロンのことなどについては、次のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-08

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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その八) [水墨画]

その八 「蓮池水鳥(宗達筆・京都国立博物館蔵)」周辺

https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=100959&content_part_id=0&content_pict_id=0

宗達・蓮池水禽図.jpg
 
【「(A図)蓮池水禽図」 俵屋宗達筆  1幅 紙本墨画 縦116.0cm 横50.0cm 江戸時代・17世紀 京都国立博物館 国宝 印章「伊年」印 
 桃山時代の終わり頃から江戸時代の初期にかけて活躍した俵屋宗達(たわらやそうたつ)の代表的な作品のひとつ。宗達は「風神雷神図屏風」(建仁寺蔵)や「鶴図下絵和歌巻」(京都国立博物館蔵)のような、金・銀や絵の具を使って描いたきわめて装飾性の強い作品を数多く残しているが、その一方で、東洋的な味わいにみちた水墨画の作品も数多く制作している。
 水墨的技法を駆使したこの作品は、宗達の水墨画の最高傑作としてつとに名高いものであると同時に、日本の水墨画の歴史のなかでの偉大な成果のひとつとして広く認められている。
 宗達の作品として伝えられている水墨画のうちで、蓮とカイツブリをモチーフにしたものがいくつか遺存している。本図がそれらのうちもっとも優れた出来映えを示していることは、いうまでもない。紙と墨の微妙な関係を熟知している画家が、画家としての人生がもっとも充実しているときに仕上げた作品であることは、そのほかの宗達筆の水墨画と比較しても、疑いようがない。
 江戸時代後期、宗達や尾形光琳(おがたこうりん)の再評価の運動を展開した酒井抱一(さかいほういつ)は、この作品を見て感動し、「宗達(の作品)中(の)絶品也」と箱書(はこがき)した。
 左下に捺(お)された「伊年」と読める朱文円印は、のちには宗達が主宰する工房の商標のようなものになってゆき、さまざまな種類の「伊年」印が捺された作品が登場するが、そのなかで本図は最高のものである。
 宗達の生存期間が確定していないので断定はできないが、1615年頃作と推定される旧大倉家蔵「蓮下絵百人一首」の蓮の描写との類似から、その頃の制作と推定されている。おそらく、この時期、宗達は気力、技術の充実した壮年時代のただなかにあったろう。 】

【 雪舟よりも、雪村よりも、此の絵に現はされた感情は清澄で深い。之も右の兎や狗子と共に東洋水墨画中、最高傑作の一つである。宋元の幾人かの水墨画家に於ては、流石に優れた新様式を樹立しただけの溌剌たる感覚が見られるが、其の技術が我国に入り、或程度の消化が行はれた室町水墨画に於ては相当の水準に達し得たけれども、未だ個性が十分に展開したのではなかつた。それ故、宋元の名品に比べると、何うしても感じが強く迫つて来ない。所が、宗達の水墨画になると、それらに匹敵し得る優れた個性の展開が多分に見られる。特に此の蓮池水禽図は、水墨画の一つの頂点を示して居り、其の様式は他に類の無いものである。
 花、鳥、総て完璧の描写であるが、例へば葉脈の線に於ても、東洋画に屡々見掛ける、滲じみを濫用してそれが只の技術に終つてゐて表現になつてゐないのと違ひ、生きた描写になつている。花や葉を支へる茎にも十分張りが感じられる。…… 一体、茎、枝、樹幹などの表現には画家の型が最もよく現はれる。第一に、此の様な画面構成に於ける線的な要素は、其の僅かの変化を全体に影響する所が極めて大きい。優れた画家は其の線を美しく配置する。が、凡人は必ず破綻を生じさせる。第二に此の様な線的な部分を描く場合の、筆の画面に下ろされた点と離れる点、曲る部分や二つ以上の線の交叉する部分、などを特に注意すべきである。例へば、此の図の茎を描く筆の、柔かく紙を離れる部分は、亜流作家では到底及び難い技巧を内に持つて居り、而して美しい。同様に狗子図の下方の草々、牡丹図の花を支へてゐる茎の美しい筆様などいゝ例である。即ち此の様な部分をよく注意して見てゐると、鑑別の際に役立つ事が多い。
 今、画面構成に於ける線的な要素と言つたが、右に述べた様な自然そのものが線的である場合(枝、幹など)以外でも、画面即ち平面に、筆に依つて物象が表現される時には、常に線が現はされるのであつて、さう云ふ線の性質はその美術家の個性をよく示すのである。例へば蓮の葉の輪郭が周囲の空白と接する所に現はれる線が、全図の構成に如何に役立つてゐるか、と云ふ事もよく見なければならない。さう云ふ立場から……勿論それだけではないが、……※同じ蓮池水禽図で鳥が一羽(それは今述べた図の中の、首を延ばしてゐるのと殆ど同形)泳いてゐるのがある(メモ:※下記の「(B図) 蓮池水禽図」)、その絵を私は宗達筆とはしないのである。之は、後に例として示すエピコーネ(メモ: エピゴーネン=亜流・模倣)の作よりも、もつと上手であるが、全体の構成が拙いから否定するのである。 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第六図」p9~p12)

蓮池水禽・畠山.jpg

「(B図)蓮池水禽図」伝俵屋宗達筆  紙本墨画 一幅 一一八・八×四八・三㎝  畠山記念館蔵

【 第五十六図(「(B図)蓮池水禽図」)は、同じ主題の一幅(「(A図)蓮池水禽図」)で、蓮池に花はなく、ただ一羽泳ぐかいつぶりを墨色とたらし込みによって描いている。前図(「A図)蓮池水禽図」)が微妙な墨色による格調ある古典的な世界を表現したとするなら、本図(「(B図)蓮池水禽図」)は奔放な筆づかいによる浪漫的な世界をあらわすといえようか。本図は印をもたない。 】(『日本美術絵画全集第一四巻 俵屋宗達(源豊宗・橋本綾子著)』所収「作品解説20・56」の「56・解説」=「伝俵屋宗達筆」ではなく「俵屋宗達筆」)。

 この「(A図)蓮池水禽図」と「(B図)蓮池水禽図」とは、昭和四十七年(一九七二)に開催された『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』において、宗達の水墨画だけを一室にまとめた部屋で同時に陳列されていた。「「(A図)蓮池水禽図」(東京国立博物館蔵、馬越家旧蔵)は国宝で、「(B図)蓮池水禽図」(畠山記念館蔵)は未指定ということで、その『図録』では、次のように紹介されている。

【 21 国宝 蓮池水禽図 俵屋宗達 一幅 京都国立博物館蔵
 柔かく花開いた大輪の蓮花・ゆったりと広がった大きな葉。水中を遊泳する三羽(「二羽」の誤記か?)の水禽。墨一色で描き出された静と動の世界である。墨のもつ微妙な変化がこれほど巧みに生かされている作品を知らない。水禽の濡れ羽と目のうるみまで的確に表されている。筆者の鋭い感覚による自然観察と豊かな情感、しかも高い格調を示してあまりある。左端に伊年印が捺されている。
 
22 重要文化財 牛図 俵屋宗達・烏丸光広賛 二幅 頂妙寺蔵 (略、「宗達法橋」と「対青軒」印)
23 牡丹図 俵屋宗達 一幅 (略、「宗達法橋」と「対青軒」印)
24 狗子図 俵屋宗達 一幅 (略、「宗達法橋」と「対青軒」印)

25 蓮池水禽図 伝俵屋宗達 一幅 畠山記念館蔵
 何点遺る宗達系蓮池水禽図の一つ。蓮花がなく荷葉だけを画面いっぱいに描き、下方に水禽(かいつぶり)を一羽添えている。水禽の姿態は京都国立博物館蔵(図21)のそれと全く同じで、伊年印はないが、宗達グループによる類作の一つと考えられる。  】(『創立百年記念特別展 琳派 (東京国立博物館)』図録)

http://blog.livedoor.jp/yamaharanookina/archives/1723250.html

蓮池水禽・三幅.jpg

(左図)   京都博物館蔵 「蓮池水禽図」「伊年」印 国宝 → A図
(中央図)  畠山記念館蔵 「同上」   無印      → B図
(右図)   山種美術館蔵 「同上」  「伊年」印 → C図
https://blog.goo.ne.jp/harold1234/e/0dc362de8723932a0236c639f4d34cd0

【宗達では「蓮池水禽図」も魅惑的です。同名の国宝は京博に所蔵されていますが、こちらは山種コレクション。筆致そのものは大らかです。国宝作は蓮が上、下に水鳥が泳いでいるのに対し、本作は下に蓮を配して、鳥が勇ましいまでに飛び立つ様を描いています。もちろんあくまでも空想に過ぎませんが、ともするとこの2つは、水鳥が泳ぎ、そして飛び立っていく光景を表した連作だったのかもしれません。】

「石川県立美術館開館30周年記念 金沢宗達会創立100年記念」(平成二十五年=二〇一三)に、上記の三図が揃い踏みした。この右図の「(C図)蓮池水禽図」は、『水墨画の巨匠(第六巻)宗達・光琳(講談社)』では、(左図)の「(A図)蓮池水禽図」と併せ、次のように紹介されている。

蓮池水禽図・山種美術館.jpg

https://twitter.com/yamatanemuseum/status/639284228107055105/photo/1

【 22・23 蓮池水禽図 宗達 掛幅 紙本墨画 一一八×四八・三㎝
 国宝の「蓮池水禽図」(上記の京都博物館蔵のA図)は酒井抱一が絶品と褒める箱書もあり、かねてより特別の作と扱われていたようだが、宗達派には本図(上記の山種美術館蔵のC図)をはじめ多数の「蓮池水禽図」が遺されている。多くはもと押絵貼屏風であったようだが、それらの中には補修で「伊年」印が消されるなど、こうした作品群の評価の揺れ動きを物語る実例もある。鳥(いずれもかいつぶり)のポーズや花の形などには数種のパターンがあり、その組み合わせで多くの作品が制作されたのであろう。本図の身をよじって跳ね上がる愛嬌あるかいつぶりの恰好も、他の作品の中に見ることができる。なお、脚と羽の一部は補筆である。
 花や蕾の形、線描などなんの躊躇もない堂々としたものである。裏返る花びらや果肉の簡潔な形態、線のない荷葉(蓮の葉)などいかにも描き慣れた様子で、様式化・記号化の定着が窺える。類品の間には力量の差が見られるとはいえ、淡墨の面とたらし込みによる表現は、一面で工房制作に適したものとなっているといえよう。「蓮池水禽図」には「伊年」印が捺されたものが多く、それを宗達の法橋叙任以前の作とする説に従えば、そうした早い時期にすでに需要を得、応える法が確立していたということになる。(松尾和子稿)  】(『水墨画の巨匠(第六巻)宗達・光琳(講談社)』)

 なお、この「C図 蓮池水禽図」について、『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』では、「第八図右 水禽」(p13~p15)として、その解説を施しているようなので、そこで、再度後述することにする。 
 また、その「第八図左 蓮」(p13~p15)については、「(B図)蓮池水禽図」にも関連するようなので、これも再度後述することにしたい。 
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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その七) [水墨画]

その七 「狗子(宗達筆・個人蔵)」周辺

宗達・狗子図.jpg

俵屋宗達筆「狗子図」一幅 紙本墨画 九〇・三×四五・〇 落款「宗達法橋」 印章「対青軒」朱文円印 (『琳派三 風月・鳥獣(紫紅社刊)』所収「174 犬図」)

【 極めて自然に即した無理のない単純化が行はれて居る。かう云ふ扱ひ方をすると、凡人ならば玩具の犬の様になり勝ちであるが、流石によく生命が通つて居る。鼻には物を嗅いだ時の一種の漂ひがあり、足には前へ少し重心の掛かつた動きがあり、腹には弾力のある固さがあり、尾には子犬の尾に特有の、あのぴりぴり動く感じがある。近景としての春の草花にも、葉の省略された蓮華層、薊、蕨、それに淡い地隈など在つて、全体にゆつたりとした温かい感情が充ちてゐる。又、中央に大胆に犬を置き、それが単なる奇抜でなく、画面全体に広々とした感じを与へるに役立つてゐる。草花の思ひ切つて薄いのも効果的である。子犬の尾の先が、写真ではよく分らないが、薄墨の線描きだけで、白く塗残されてゐる。之は真黒な子犬の尾の先だけは、大抵、少し白い所がある、其の写生であらう。
 此の絵の様なふつくりした感じは宗達独特のものであるが、題材から言つても、かう云ふのは珍しい。元代の絵にはよく在るが、感じがまるで違ふ。
 只、我国で鎌倉時代末期の作とされてゐる彫刻に、ちよつと似たのが在る。それは京都府高山寺蔵の木彫(高さ八寸五分)で、黒い子犬が座つてゐる様を現はしたものである。 】
(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第五図」p8~p9)

【 宗達は牛とともに犬もよく描いているが、その中でももっともすぐれているのが、この図である。的確なたらし込みの技法によって仔犬のまるまるとよく肥えた身体や、柔らかい毛の感触までも効果的に表している。上部の空間と黒い犬、手前の薄墨による可憐な草花と構図は、じつにうまく決まっている。 】(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館)』所収「24 狗子図」 )

宗達・双犬図.jpg

http://www.art-precis.com/item/22.html

【双犬図(そうけんず) 江戸初期 京都 細見美術館蔵 (『琳派三 風月・鳥獣(紫紅社刊)』所収「176 犬図」=八二・五×四三・二 落款「宗達法橋」 印章「対青軒」朱文円印 )
戯れあう白黒の仔犬を水墨で表現する。黒犬は彫塗りにより、目や耳を柔らかくもくっきりとした線で示し、たらし込みでつややかな毛並みを表す。白犬は薄墨で太い輪郭線を施し、周りに薄く墨を刷く外隈で白さを際立たせる。宗達独特の温もりのある表現が、穏やかな気分を醸し出す。賛は、京都・嵯峨直指庵の住持で伊藤若冲の作品にも賛を寄せた黄檗(おうばく)僧無染浄善(丹崖)が、宗達没後に記した。 】

宗達・犬図二.jpg

74 狗子図  俵屋宗達 筆、一糸文守 賛 江戸 17世紀 ( 落款「宗達法橋」)

https://twitter.com/ishikawa_premus/status/971300253038235649/photo/1

http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/exhibition/5219/

http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/wp-content/uploads/2018/02/kikaku_room_1804.pdf

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-11-26

「狗子図画賛」(応挙筆・蕪村賛) 

応挙合作一.jpg

「狗子図画賛」応挙筆・蕪村賛 一幅 紙本墨画 一九・六×二六・八cm 個人蔵

 応挙の画に、蕪村が句を賛した「応挙・蕪村」の合作の小品として夙に知られている作品である。この蕪村の句、「己(おの)が身の闇より吼(ほえ)て夜半(よは)の秋」は、
『蕪村句集(几董編)』では、「丸山氏が黒き犬を画(えがき)たるに、賛せよと望みければ」との前書きが付してある。
 この前書きと句を一緒にして、鑑賞すると、「円山氏(応挙)が黒き犬を描いて、それに賛せよと懇望されたので、『己が身の闇より吼て夜半の秋』と吟じて賛をした。句意は、『黒い犬は、己の心の闇(黒=煩悩)に慄いて吼え立てるのであろうか』というようなことです」と、応挙と蕪村とが一緒の席で、制作されたものと解せられるであろう。
 しかし、「蕪村叟消息・詠草」には、「くろき犬を画(えがき)たるに賛せよと、百池よりたのまれて」との前書きで、この応挙の黒き犬の画に「賛をせよ」と蕪村に懇望したのは、蕪村の若き門弟の寺村百池(寛延元年=一七四八~天保六年=一八三六)、その人というこになる。
 そして、この百池は、夜半亭門で俳諧を蕪村に、絵は応挙に、茶は六代藪内紹智に師事している。百池の寺村家は、京都河原町四条上ルに住している糸物問屋で、父三右衛門(俳号=三貫など)は、蕪村の師の夜半亭一世宋阿(早野巴人)門で、蕪村にも師事している。すなわち、三貫・百池の寺村家は、親子二代にわたり、夜半亭門で、共に蕪村に師事し、そして、蕪村と夜半亭門の有力後援者なのである。
 おそらく、画人蕪村と応挙との交遊関係の背後には、この百池などが介在してのであろう。

 己(おの)が身の闇より吼(ほえ)て夜半(よは)の秋 (『蕪村句集』他)

 この蕪村の句も、そして、この句の背景にある応挙の画も、小宴(酒宴など)の後の、席画的な「戯画・戯句」の類いのものではない。もとより、応挙の「狗子画」は、応挙の得意中の得意のレパートリーのもので、それは、「思わず抱き上げたくなる可愛い狗子たち」で、人気も高く、応挙の、この種の作画は多い。
 その中にあって、上記の「狗子図画賛」の、応挙の、この「一匹の黒き狗子」は、蕪村にとって、「煩悩の犬」「煩悩の犬は打てども去らず」を思い起こさせたのであろう。この「一匹の黒き狗子」は、蕪村自身であり(この句の「夜半の秋」の「夜半」は、それを暗示している)、同時に、この「一匹の黒き狗子」を描いた応挙の心の中にも、この「黒き闇、そして、煩悩の犬」が巣食っていることを、瞬時にして、見抜いたのであろう。
 蕪村にとって、「黒き闇、そして、煩悩の犬」とは、「夜半亭俳諧と謝寅南画の飽くなき追及」であり、そして、応挙にとって、それは、「応挙画風の樹立と革新的『写生・写実画』の飽くなき追及」というようなニュアンスに近いものであろう。

 筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉      (「詠草・蕪村遺墨集」) 
 己が身の闇より吼て夜半の秋   (「詠草・蕪村叟消息」)

 この蕪村の応挙に対する「筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉」は、同時に、応挙の蕪村への返句とすると、次の「応挙を蕪村」に変えての本句通りのものが浮かんで来る。
 
 筆灌ぐ応蕪村が鉢に氷哉  

補記一 「蕪村筆 呂恭大行山中採芝図」「応挙筆 虎図」「呉春筆 孔雀図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

補記二 応挙の「狗子図」など

http://ommki.com/news/archives/4146

補記三 「江戸中・後期の京都の画人たち」など

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-10-31


杉戸狗子図.jpg

円山応挙筆「朝顔狗子図杉戸絵」二面 板地着色 各一六六・五×八一・三cm
「東京国立博物館・応挙館」→B図

(別掲)  「降雪狗児図」(芦雪筆)周辺  

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-09-30

古雪狗児図.jpg

「降雪狗児図」(芦雪筆)一幅 紙本墨画着色 一一四・八×五〇・五cm
逸翁美術館蔵 

これは、まさしく、若冲の「乗興舟」の世界であって、おそらく、芦雪は、若冲の「拓版画」ではなく、応挙門の一人として、応挙風の「写生・写実」をもって、「墨(淡彩)」「紙」「筆」のみで、若冲が案出した「乗興舟」の「黒」と「白」との世界を演出したのであろう。
 さらに、それだけでなく、この「降雪狗児図」の、この「降雪」は、これは、やはり、蕪村の「夜色楼台図」の、その偶発的な「夜の雪」に対して、「空間マジック」の芦雪ならではの、師の応挙その人が目指した、緻密な「計算し尽くした配合の妙」のような「降雪」を現出したという印象を深くする。
 すなわち、「夜色楼台図」(蕪村筆)の「雪」は、胡粉(白)を吹き散らして、たえまなく静かに降る雪なのに対して、「降雪狗児図」(芦雪筆)の「雪」は、胡粉(白)を垂らして、ぽつり・ぽつりと降る、この違いに着目したい。
この「吹き散らす」と「垂らす」とでは、それは、前者が「偶発性」を厭わないのに比して、後者は、それを極力排除するという、その創作姿勢と大きく関わっていて、ここに、両者の相違が歴然として来る。

(別掲) 「百犬図(若冲筆)」周辺

https://paradjanov.biz/jakuchu/colored/83/#toc1

百犬図.jpg

「百犬図(若冲筆)」 絹本着色 一幅 142.7×84.2cm 
寛政11年(1799年)=亡くなる一年前の作
款記は左上に「米斗翁八十六歳画」、「藤女鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文円印)、右下に「丹青活手妙通神」(朱文長方印)
※八十五歳没、還暦後の二年加算(?)=「米斗翁八十六歳画」。また、「百犬図」だが、実際には「五十九匹」とか。
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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その六) [水墨画]

その六 「兎図(宗達筆・東京国立博物館蔵)」周辺

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0032462

宗達・兎桔梗図.jpg

A図「兎桔梗図」作者:俵屋宗達 時代:江戸時代_17c  形状:75.5×36.7
落款名:宗達法橋 印章「対青軒」 東京国立博物館蔵

【 宗達は動物が好きであつたらしい。単に動物画が多く在ると云ふだけでなく、それらが皆、深い愛情を以て描かれて居る事で解る。
兎の顔の柔かく温かい表情、草々の豊かな構図。……東洋水墨画中、これ程兎といふものゝ特徴をよく捉へた絵が他にあらうか。 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第四図」p3~p4)

【 これは、もと日本画の大家川合玉堂の旧蔵品、没後、遺族より東京国立博物館に寄贈されたもの。桔梗の花を墨で描き、秋野の景を表した中に、白兎が一匹うずくまっている。柔かいタッチの豊潤な線がみごとに兎の生態をとらえている。賛の歌(はな野にものこる雪かとみるがうちにふしどかへたる秋のうさぎか)は、宗達の請いを入れて気軽に筆を執ったものらしく、『黄葉和歌集』にも漏れている。光広五十代半ばの筆であろう。「宗達法橋」款記「対青軒」印。  】(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』所収「作品解説70」)

 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第四図」の「兎」図は、この縦長のA図「兎桔梗図」(形状:75.5×36.7)ではなく、横長の「竪四二・四 横四五・八」
の「兎図」 で、形状的には、下記の「B図 安田靫彦《うさぎ》」に近いものなのかも知れない(口絵は未見)。
 この「B図 安田靫彦《うさぎ》」は、「A図『兎桔梗図』」を参考として、「兎と桔梗」をモチーフにしているのだが、「後ろに足を跳ねさせている」もので、安田靫彦は、この「A図『兎桔梗図』」だけではなく、「B図 安田靫彦《うさぎ》」に近い、別の宗達の「兎」図をも参考にしているのかも知れない。

https://sheage.jp/article/35541

安田靫彦・兎.jpg

B図 安田靫彦《うさぎ》1938 (昭和13)年頃 絹本・彩色 山種美術館
【 明治40年代後半から昭和にかけて、琳派に刺激を受けた作品が多数発表されました。戦後も琳派に対する関心は高く、画家のアイデアの源泉となっています。
近代、現代の画家、安田靫彦(やすだ ゆきひこ)もまた、うさぎをモチーフに描いています。安田靫彦が参考にしたと考えられている琳派の作品は、宗達の《兎桔梗図》です。この《うさぎ》という作品は昭和13年頃の作品。中央に丸い背中のうさぎを置く構図は宗達と同じです。宗達は、そのまわりを囲むように桔梗を配しましたが、安田は右側に一輪だけ。周囲を空白 にし独自性を出しているのでしょうか。また後ろに足を跳ねさせているのも、御舟のうさぎ同様、宗達のデザイン表現の影響なのかもしれません。 】

 この安田靫彦関連の年譜については、下記のアドレスが参考となる。

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9601.html

 その昭和十三年の項は、次のとおりである。

【昭和13年(1938) 1月、茶道を習い始める。矢来荘展「菊御作」。2月、関尚美堂展「うさぎ」。3月、多聞堂展「百合」、第5回日本美術院同人作品展「赤人」。6月、第5回展「うさぎ」、本山竹荘展「豊公」。9月、白日荘展「上宮太子」。10月、第2回新文展「孫子勒姫兵」(審査員出品)。11月、七絃会第9回展「観自在」。12月、井南居展「行秋」、関尚美堂展「曾呂利」。 】

 この年譜からすると、安田靫彦は、「うさぎ」と題する作品を二点(「2月、関尚美堂展『うさぎ』」・「6月、第5回展『うさぎ』」)制作している。上記の、山種美術館所蔵の「うさぎ」は、形状などからすると、「2月、関尚美堂展『うさぎ』」なのかも知れない。
 また、その昭和二十一年の項に、つぎのような記述がある。

【昭和21年(1946) 6月、国宝保存会委員となる。文部省主催日本美術展覧会(第1、2回日展)審査員となる。この頃、大磯在住の若き学徒徳川義恭と宗達の研究を続ける。7月、清光会第11回展「観世音菩薩像」。この年、「白椿」を制作。】

 この「徳川義恭」については、下記のアドレスに、次のような記述がある。

https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8743.html

【 徳川義恭 没年月日:1949/12/12 分野:研究者, 美術関係者 (学) 読み:トクガワ, ヨシヤス、 Tokugawa, Yoshiyasu 
東大美術史研究室助手徳川義恭は12月12日、日赤中央病院で逝去した。享年29。大正10年東京に生れ、昭和19年東大文学部美術史学科を卒業した。大学提出の研究論文には「仏教彫刻に於ける半跏思惟像の研究」「牧谿に関する研究」がある。卒業後同研究室の副手、助手を勤め、主として宗達の研究に専心し、関係論文を種々の美術雑誌に発表、著書としては「宗達の水墨画」がある。かたわら日本画を安田靫彦にまなび、昭和23年高島屋で個展を開いた。  】


https://silentsilent.blog.ss-blog.jp/_pages/user/iphone/article?name=2012-02-08-1

徳川義恭・画.jpg

徳川義恭画・書「月と山梔子の実」(画=倣宗達、書=倣良寛)
賛の書=「万葉集巻十」旧・二三二四、新・二三二八
足引山爾白者我屋戸爾昨日暮零之雪疑意(「万葉集巻十」旧・二三二四、新・二三二八)  
(足引の山に白きは我が屋戸(宿)に昨日の暮れ(夕)に降りし雪かも)

 『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』の「あとがき(p131)」に、「此の小著のすべてに亘つて、恩師児島喜久雄先生には多大な御教示を戴いた。又、安田靫彦先生からは常に実技と平行して温かい御指導を受けた。矢代幸雄先生も亦絶えず私を励まされた」と、これらの恩師に対する謝辞が記されている。
 上記の、徳川義恭の画・書「月と山梔子の実」は、実技(宗達流の画)と書(良寛流の書)と歌(『万葉集』)との、これらの全てに堪能の「安田靫彦」への傾倒ぶりを示す、その証しともいえるものであろう。
 この徳川義恭の画・書「月と山梔子の実」は、「昭和23年高島屋で個展」に出品した作品の一つなのであろうか。徳川義恭は、その個展の一年後の、昭和二十四年(一九四九)十二月十二日に、亜急性細菌性心内膜炎で急逝する。三十歳に満たない短い生涯であった。
 上記の書画の款記には、「昭和二十二年(一九四七)十二月」と記されている。逝去する二年前の作である。ここに記されている「足引山爾白者我屋戸爾昨日暮零之雪疑意(「万葉集巻十、旧・二三二四、新・二三二八」(足引の山に白きは我が屋戸(宿)に昨日の暮れ(夕)に降りし雪かも) の「足引(「山にかかる枕詞)の山」)は、「万葉集」の故郷の「飛鳥」から仰ぎ見られる「大和三山」(香具山=かぐやま・畝傍山=うねびやま・耳成山=みみなしやま)であろうか。
 この「足引山(あしびきの山)」が、徳川義恭の「彼岸(仏の世界)」とするならば、「我屋戸(わが宿)」は、徳川義恭の「此岸(現世)」の世界ということになる。何かしら、その二年後の徳川義恭の急逝を予兆している雰囲気を宿している。
 この徳川義恭の急逝後の十五年後の、昭和三十九年(一九六四)に、安田靫彦の傑作画の一つの「飛鳥の春の額田王」が誕生する。そこに、徳川義恭の「彼岸(仏の世界)」の「大和三山」が描かれ、その「飛鳥の春」と「万葉集」とを象徴する「額田王」の緋の衣装は、徳川義恭画・書「月と山梔子の実」の「山梔子の実」の緋に通ずるものを宿している。

靫彦・切手.jpg

「飛鳥の春の額田王(安田靫彦作)」の切手(発行日:昭和56年2月26日(1981年))

http://www.shiga-kinbi.jp/db/?p=11013

【「飛鳥の春の額田王」(安田靫彦作) 紙本著色 額装 1面 131.1  80.2 滋賀県立近代美術館蔵
 昭和39年の第49回院展に出品された作品で、戦後における安田靫彦の最高傑作のひとつであるのみならず、戦後の日本画の中でも群を抜いて傑出した作品のひとつと位置付けられている。飛鳥古京、遠くに春霞がたなびく大和三山を背景にして立つ、万葉の代表的な宮廷歌人額田王を題材としてしている。そのとぎすまされた線描、鮮やかな色彩感など、極めて画格の高い表現になっている。】

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-12

光悦・兎扇面図.jpg

本阿弥光悦筆「月に兎図扇面」紙本金地著色 一七・三×三六・八㎝ 畠山記念館蔵 
→D図

【扇面を金地と濃淡二色の緑青で分割し、萩と薄そして一羽の白兎を描く。薄い緑は土坡を表わし、金地は月に見立てられている。兎は、この月を見ているのであろうか。
扇面の上下を含んで、組み合わされた四本の孤のバランスは絶妙で、抽象的な空間に月に照らし出された秋の野の光景が呼び込まれている。箔を貼った金地の部分には『新古今和歌集』巻第十二に収められた藤原秀能の恋の歌「袖の上に誰故月はやどるぞと余所になしても人のとへかし」の一首が、萩の花を避けて、太く強調した文字と極細線を織り交ぜながら散らし書きされている。
薄は白で、萩は、葉を緑の絵具、花を白い絵具に淡く赤を重ねて描かれている。兎は、細い墨線で輪郭を取って描かれ、耳と口に朱が入れられている。
単純化された空間の抽象性は、烏山光広の賛が記され、「伊年」印の捺された「蔦の細道図屏風」(京都・相国寺蔵)に通じるものの、細部を意識して描いていく繊細な表現は、面的に量感を作り出していく宗達のたっぷりとした表現とはやや異なるものを感じる。
画面左隅に「光悦」の黒文方印が捺されており、光悦の手になる数少ない絵画作品と考えられる。  】(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』所収「作品解説Ⅰ-14(田沢裕賀稿)」)

この作品解説は、『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社)』の「二〇〇八年」に開催された図録によるものであるが、それより、三十六年前の「一九七二年」に開催された『創立百年記念特別展 琳派 目録 (東京国立博物館)』の作品解説は下記のとおりである。これからすると、上記の扇面画は、光悦作と解して差し支えなかろう。

【 本阿弥光悦筆「扇面月兎画賛」一幅 紙本墨書 一七・〇×三六・五㎝ 畠山記念館蔵
秋草に兎、扇面という形態の構図を十分に考慮した作品である。緑青をバックに映える白い兎、これに対して大胆にも、金箔の月が画面の三分の一以上を占める。光悦の筆になる和歌は、『新古今集』(巻一二)の藤原秀能の一首で、「袖の上に誰故月ハやどるぞとよそになしても人のとへかし」と読める。左下に、大きな「光悦」の墨方印がある。】(『創立百年記念特別展 琳派 目録 (東京国立博物館)』)
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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その五) [水墨画]

その五 「鴛鴦図二(宗達筆・個人蔵)」周辺

宗達・鴛鴦二.jpg

俵屋宗達筆 鴛鴦図 一幅 紙本墨画 九八・一×四七・二
落款「宗達法橋」 印章「対青軒」朱文円印 (『琳派三 風月・鳥獣(紫紅社刊)』)

【 この鴛鴦は右(前図=その一)のものより大分後の作品である。一々説明するよりも図版によつて比較された方が早いであらう。
 大体、宗達の水墨の縦長の絵は、元来、屏風の各面に貼られてゐたと思はれるものである。総てがさうであつたとは勿論考へられないが、亜流作品の中には、さう云ふ仕立てをしたものが残つて居るし、又、宗達画の特に下半分がひどく傷んだものをよく見掛けるから、そんな事も考へられるのである。
 此の絵も下部が随分ひどく傷んでゐて、それを可也古い時代に補修してゐる。併し、此の後補は大変うまく出来てゐるから、一寸見た所では分らない。幸ひ頭部は完全であり、筆の入つてゐるのは羽の極く一部である。……宗達の水墨画は享保頃に再認識されたかと思はれる形跡がある。先づ、山科道安が記した槐記に次の記事が見える。
 享保十一年五月一日  近藤一葉邸御成
  掛物 宗達墨絵の寒山
 享保十四年四月十三日 佐馬頭宅へ御成
  掛物 宗達墨絵ナデシコニ杜鵑
即ち右の二人がそれぞれ近衛豫楽院を招待した時の掛物が、真偽は別として兎に角、宗達の墨絵であつた。渡辺始興は豫楽院の家士であつたから、其所に何か関係があつたのかも知れない。(宗達寒山図一幅が第九十二回日本美術協会展に展観された事が記録に見えるが、私はそれが何ういう図かを知らない。)
 次に「宗達の俗姓をとへば京の遊人にりと、山楽の粉本に倣ふ云々」と記したのが享保五年開板の絵本手鑑であり、「俵屋宗達 喜多川氏敍法橋」と記したのが、享保、或はそれ以前かと思はれる扶桑名公画譜である。又、頂妙寺蔵の宗達筆牛図の表具を寄進した日等と云ふ人が、若し同寺第二十世日等上人その人であるならば、この人は享保十五年に没してゐる。併し、宗達筆狗子(その七)、鴛鴦(その四)などの表具が大体その頃の好みかと思はれるふしもある。 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第三図」p6~p8)(メモ:図版は未見であり、『琳派三 風月・鳥獣(紫紅社刊)』所収の「鴛鴦」図は、前図(鴛鴦一)と此の図の二図だけであり、ここには、上記の「鴛鴦二」図を掲げている。)

 ここで、宗達の落款の「署名」と「印章」について触れたい。宗達の落款における署名は、次の二種類のみである(『日本美術絵画全集第一四巻 俵屋宗達(源豊宗・橋本綾子著)』所収「俵屋宗達(源豊宗稿))。

A 法橋宗達
B 宗達法橋

 宗達の法橋叙位は、元和七年(一六二一)、京都養源院再建に伴う、その障壁画(松図襖十二面、杉戸絵四面・八図)を制作した頃とされており(『源・橋本前掲書』所収「俵屋宗達年表」)、上記の二種類の署名は、それ以降のものということになる。
 その款印は、次の三種類のものである。

a 対青  (朱文円印 直径六・四㎝)
b 対青軒 (朱文円印 直径七・六㎝)
c 伊年  (朱文円印 直径四・九㎝)

 このcの「伊年」印は、宗達の法橋叙位以前の慶長時代にも使われており、これは、「俵屋工房(画房)」を表象する「工房(画房)」印と理解されており、その「工房(画房)」主(リーダー)たる宗達が、集団で制作した作品と、さらには、宗達個人が制作した作品とを峻別せずに、押印したものと一般的に理解されている(『源・橋本前掲書』)。
 そして、宗達が没して、その後継者の、法橋位を受け継いだ「宗雪」は、このcの「伊年」印を承継し、寛永十四年(一六三七)前後に製作した堺の養寿寺の杉戸絵の「楓に鹿」「竹に虎」図に、このcの「伊年」印が使われているという。また、宗達没後、宗雪以外の「宗達工房(画房)」の画人の何人かは、cの「伊年」印以外の「伊年」印を使用することが許容され、その種の使用例も見られるという(『源・橋本前掲書』)。
 ここで、その「伊年」印は除外しての、落款形式別の作例は、次のとおりとなる(『源・橋本前掲書』に※『宗達の水墨画(徳川義恭著)』口絵図を加える)。

一 A・a形式(法橋宗達・「対青」印)
作例「松島図屏風」(フーリア美術館蔵)
  「舞樂図屏風」(醍醐寺三宝院蔵)
  「槇図屏風」(山川美術財団旧蔵・現石川県立美術館蔵)
http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/collection/index.php?app=shiryo&mode=detail&data_id=1278
  「雙竜図屏風(雲龍図屏風)」(フーリア美術館蔵)  

二 A・b形式(法橋宗達・「対青軒」印)
作例「源氏物語澪標関屋図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵) 
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html
※「鴛鴦図一」(その四・個人蔵)

三 B・b形式(宗達法橋・「対青軒」印)
作例「関屋図屏風」(烏丸光広賛 現東京国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/459227
  「牛図」(頂妙寺蔵・烏丸光広賛)
  「鳥窠和尚像」()クリーヴランド美術館蔵 
※「牡丹図」(その三・東京国立博物館蔵)
※「鴛鴦図二」(その五・個人蔵)
※「兎」図(その六・現東京国立博物館蔵)
※「狗子」図(その七)
※「鴨」図(その九)

 ここで落款の署名の「法橋宗達」(「鴛鴦図一=その四・個人蔵」)と「宗達法橋」(「鴛鴦図二=その五・個人蔵」)との、この「法橋宗達」(肩書の一人「法橋」の用例)と「宗達法橋」(三人称的「法橋」の用例)との、その用例の使い分けなどについて触れたい。
 嘗て、下記のアドレスなどで、次のように記した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19

【 この宗達の落款は「宗達法橋」(三人称の「法橋」)で、この「宗達法橋」の「牛図」に、権大納言の公家中の公家の「光広」が、花押入りの「和歌」(狂歌)と漢詩(「謎句」仕立ての「狂詩」)の賛をしていることに鑑み、「法橋宗達」(一人称)と「宗達法橋」(三人称)との区別に何らかの示唆があるようにも思えてくる。例えば、この「宗達法橋」(三人称)の落款は「宮廷画家・宗達法橋」、「法橋宗達」(一人称)は「町絵師・法橋宗達」との使い分けなどである。 】

 この「法橋宗達」(一人称的「法橋」の用例)と「宗達法橋」(三人称的「法橋」の用例)関連については、宗達の「西行法師行状絵詞」の、次の烏丸光広の「奥書」に記されている「宗達法橋」を基準にして考察したい。

【 右西行法師行状之絵
  詞四巻本多氏伊豆守
  富正朝臣依所望申出
  禁裏御本命于宗達法橋
  令模写焉於詞書予染
  禿筆了 招胡盧者乎
  寛永第七季秋上澣
   特進光広 (花押)

 右西行法師行状の絵詞四巻、本多氏伊豆守富正朝臣の所望に依り、禁裏御本を申し出だし、宗達法橋に命じて、焉(こ)れを模写せしむ。詞書に於ては予禿筆を染め了んぬ。胡盧(コロ、瓢箪の別称で「人に笑われること。物笑い」の意)を招くものか。
  寛永第七季秋上澣(上旬) 特進光広 (花押)   】(漢文=『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』、読み下し文=『源・橋本前掲書』)

 この奥書を書いた「特進(正二位)光広」は、烏丸光広で、寛永七年(一六三〇)九月上旬には、光広、五十二歳の時である。
 この寛永七年(一六三〇)の「烏丸光広と俵屋宗達・関係略年譜」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』所収)に、「十二月、上皇、女院、新仙洞御所に移られる」とあり、この「上皇」は「後水尾上皇」で、「女院」は「中宮の『徳川和子=女院号・東福門院』か?」と思われる。
 この徳川和子(徳川家康の内孫、秀忠の五女)が入内したのは、元和六年(一六二〇)六月のことで、その翌年の元和七年(一六二一)に、東福門院(徳川和子)の実母の徳川秀忠夫人(お江・崇源院)が、焼失していた「養源院」(創建=文禄三年、焼失=元和五年、再興=元和七年)を再興した年で、「俵屋宗達年表」(『源・橋本前掲書』所収)には、「京都養源院再建、宗達障壁に画く、この頃、法橋を得る」とある。
 この養源院再建時に関連するものが、先に触れた「松図襖(松岩図襖)十二面」と「杉戸絵(霊獣図杉戸)四面八図」で、この養源院関連については、下記のアドレスで詳細に触れているので、この稿の最後に再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07

 ここで、先の宗達の「西行法師行状絵詞」に関する光広の「奥書」に戻って、その「奥書」で、光広は宗達のことについて、「宗達法橋に命じて、焉(こ)れを模写せしむ」と、「宗達法橋」と、謂わば、「西行」を「西行法師」と記す用例と同じように、「敬称的用例」の「宗達法橋」と記している。
 これらのことに関して、「(宗達の水墨画の)、多くは宗達法橋としるしている。いわば、自称の敬称である。しかしそれは長幼の差のある親しい者同士の間によくある事例である。宗達がすでに老境に及んで、人からは宗達法橋と呼びならされている自分を、自らもまた人の言うにまかせて、必ずしも自負的意識をおびないで、宗達法橋と称したのは非常に自然なことといってよい。それはまたある意味では、老境に入った者の自意識超越の姿といってもよい。彼の水墨画にこの形式の落款が多いということは、逆にいえば、それらの水墨画が多くは老境の作であり、自己を芸術的緊張から解放した、自由安楽の、いわゆる自娯の芸術であったからであるといえるのではないか」(『源・橋本前掲書』) という指摘は、肯定的に解したい。
 これを一歩進めて、「法橋宗達」の署名は、「晴(ハレ)=晴れ着=贈答的作品に冠する」用例、そして、「宗達法橋」は、「褻(ケ)=普段着=相互交流の私的作品に冠する」用例と、使い分けをしているような感じに取れ無くもない。
 例えば、前回(その四)の「法橋宗達」署名の「鴛鴦一」は、黒白の水墨画に淡彩を施しての、贈答的な「誂え品」的な作品と理解すると、今回(その五)の「宗達法橋」署名の「鴛鴦二」は、知己の者に描いた「絵手本」(画譜などの見本を示した作品)的作品との、その使い分けである。
 次に、印章の「対青」と「対青軒」については、その署名の「法橋宗達」と「宗達法橋」との使い分け以上に、難問題であろう。
これらについては、『源・橋本前掲書(p109)』では、「aの『対青』印は『対青軒』印の以前に用いたものと思われる。『対青軒』印はほとんど常に宗達法橋の署名の下に捺されている。『対青』とは、恐らく『青山に相対する』の意と思われるが、或いは彼の住居の風情を意味するのかも知れない」としている。
 また、「宗達は別号を対青(たいせい)といい、その典拠は中国元時代の李衎(りかん)著『竹譜詳録』巻第六『竹品譜四』に収載されている『対青竹』だ。『対青竹出西蜀、今處處之、其竹節間青紫各半二色相映甚可愛(略)』とあり、その図様も載せる(知不足叢書本『竹譜詳録』)。宗達は中国の書籍を読んでいた読書人であった」(『日本文化私の最新講義 宗達絵画の解釈学(林進著)』p282~p283)という見方もある。
 ここで、「対青軒」(「対青」はその略字)というのは、宗達の「庵号(「工房・画房」号)」と解したい。そして、この「青軒ニ対スル」の「青軒」とは、「青楼」(貴人の住む家。また、美人の住む高楼)の意に解したい。
即ち、宗達の「法橋の叙位を得て、朝廷の御用を勤める宮廷画人」の意を込めての、「青軒」とは、「寛永七年(一六三〇) 十二月、上皇、女院、新仙洞御所に移られる」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』所収「烏丸光広と俵屋宗達・関係略年譜」)の、その「上皇(後水尾院)と女院(東福門院)」の、その「青軒」(青楼)の意に解したい。

頂妙寺・古図.jpg

「頂妙寺」付近図:「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=24161%2C14427%2C2750%2C5442&r=270

(再掲)  宗達の「養源院障壁画」関連周辺(メモ)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07

松図戸襖一.jpg

俵屋宗達筆「松図戸襖」十二面のうち四面(東側) 京都・養源院 重要文化財
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著・至文堂)』)

 現存する宗達画で、最も大きな画面の大作は、松と岩を題材とした養源院の襖絵である。
本堂の南側の廊下に面する中央の間には、正面の仏壇側に八枚(この部分は失われて現在は伝わらない)、その左右、東西に相対して各四枚の襖絵(計八面)があり、さらに南側の入口の左右に二面ずつの戸襖(計四面)がある。
 上図は、その十二面のうちの四面(東側)で、その入口の二面(南側)は、下記の上段の、右の二面の図である。
 この六面に相対して、四面(西側)とそれに隣接しての二面(南側)の図が、下記の下段の図となる。

松図戸襖二.jpg

上段は、東側の四面とそれに隣接した入口の二面(南側)の、計六面の図
下段は、西側の四面とそれに隣接した入口の二面(南側)の、計六面の図
(『宗達(村重寧著・三彩社)』)

養源院襖配置図.jpg

養源院襖絵配置平面図(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著・至文堂)』)
上段の東側の四面と入口の二面(南側)の計六面→右から「1・2・3・4・5・6」
下段の西側の四面と入口の二面(南側)の計六面→右から「7・8・9・10・11・12」
☆現在消失の「正面の仏壇側の八面」(北側)は「6と7との間の襖八面(敷居の溝)」
下記の「白象図」→上記平面図の5・6
下記の「唐獅子図」(東側)→上記平面図の7・8
下記の「麒麟図又は水犀図」→上記平面図の3・4
下記の「唐獅子図」(西側)→上記の平面図1・2

白象図.jpg

伝宗達筆「白象図」 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図5・6)重要文化財

唐獅子一.jpg

伝宗達筆「唐獅子図」(東側) 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図7・8)
重要文化財

麒麟図.jpg

伝宗達筆「麒麟図」又は「水犀図」 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図3・4)
重要文化財
唐獅子二.jpg

伝宗達筆「唐獅子図」(西側) 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図1・2)
重要文化財

(周辺メモ)

一 養源院と浅井三姉妹(淀・お初・お江) (省略)

https://www.travel.co.jp/guide/article/6764/

二 養源院の再興とその血天井  (省略)

https://www.travel.co.jp/guide/article/6764/

三 養源院の「菊の御紋・三つ葉葵・桐」 (省略)

https://www.travel.co.jp/guide/article/6764/

四 「烏丸光広筆二条城行幸和歌懐紙」

光広和歌懐紙.jpg

http://ccf.or.jp/jp/04collection/item_view.cfm?P_no=1814

烏丸光広筆二条城行幸和歌懐紙

(釈文) 

詠竹契遐年和歌
      左大臣源秀忠
呉竹のよろづ代までとちぎるかな
 あふぐにあかぬ君がみゆきを
      右大臣源家光
御幸するわが大きみは千代ふべき
 ちひろの竹をためしとぞおもふ
      御製
もろこしの鳥もすむべき呉竹の
 すぐなる代こそかぎり知られね

(解説文)

 後水尾天皇〈ごみずのおてんのう・1596-1680〉の二条城行幸は、寛永3年〈1626〉9月6日より5日間、執り行なわれた。その華麗な行粧と、舞楽・和歌・管弦・能楽などの盛大な催しの様子は、『寛永行幸記』『徳川実紀』などに詳述されている。この懐紙は、二条城行幸の時の徳川秀忠〈とくがわひでただ・1579-1632〉・家光〈いえみつ・1604-51〉・後水尾天皇の詠歌を、烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉が書き留めたもの。光広はこのとき48歳、和歌会の講師を務めた。   「「竹、遐年を契る」ということを詠める和歌/左大臣源秀忠/呉竹のよろづ代までとちぎるかなあふぐにあかぬ君がみゆきを/右大臣源家光/御幸するわが大きみは千代ふべき ちひろの竹をためしとぞおもふ/御製/もろこしの鳥もすむべき呉竹のすぐなる代こそかぎり知られね」

(再掲) 烏丸光広の歌と書(周辺メモ)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-02

天(あめ)が下常盤の陰になびかせて君が千代(ちよ)ませ宿のくれ竹(黄葉集一四八〇)

歌意は、「天下を常緑の木陰に従わせて、君のお治めになる千年の間生えていてください。この宿のくれ竹よ。」

【 寛永三年(一六二六)秋、前将軍徳川秀忠と三代将軍家光父子が江戸から上洛し二条城に滞在した。九月六日から十日の間二条城に、後水尾天皇と中宮和子(徳川秀忠の娘)、中和門院(天皇の母)、女一宮(天皇と和子の間の長女。後の明正天皇)を迎えて寛永行幸があり、さまざまなもてなしが行われた。
 七日には舞楽が、八日には歌会が、十日には猿楽(能)が天皇への接待として行われた。八日の歌会は、徳川御三家を含めた将軍家一門と、関白・太閤以下宮廷の重臣が合せて二十名、歌会の部屋の畳の上に列席し、部屋の外にも公家が詰めて行われた。この歌会に歌を出した者は総勢で七十八名にもなる。歌はすでに作られた懐紙に書かれて用意されていて、歌会では、それを披講といって皆の前で歌い上げる儀式を行うのである。読み上げ順序に懐紙をそろえる読師の役は内大臣二条康道がつとめ、講師といって始めに歌を読み上げる役は冷泉中将為頼が行った。最後に天皇の歌を披講するとき、役を交替して、読師を関白左大臣近衛信尋が、講師を大納言烏丸光広がつとめた。大変に晴れがましいことであった。
 題は「竹遐年ヲ契ル」。常緑の竹が長寿を約束するという意味で、祝の題として鎌倉時代からよまれてきた。光広の「歌」の「君」は表面上は天皇を指すが、将軍の意味も含むように感じられる。双方をうまくもり立ててよみこんだ巧妙な歌であろう。
 光広は徳川家とは縁が深く、慶長十三年には徳川家康と側室お万の方の仲人により、家康次男の未亡人を妻とし、翌年後陽成天皇の勅勘を受けた時には、駿府の家康のもとにすがって流刑を免れている。 】(『松永貞徳と烏山光広・高梨素子著』)
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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その四) [水墨画]

その四 「鴛鴦図一(宗達筆・個人蔵)」周辺

鴛鴦その一.jpg

俵屋宗達筆 鴛鴦 一幅 紙本墨画淡彩 九三・八×四七・六 落款「法橋宗達」 
印章「対青軒」朱文円印 (『琳派三 風月・鳥獣(紫紅社刊)』)

【 鴛鴦が一羽爽かに飛んでゐる。画面には其の他に何の添景も無い。鳥の配置も効果的であるし、色の濃淡や筆触も洗練されてゐて、よく飛ぶ鳥の軽さと、それに伴ふあの一種の緊張感を現はしてゐる。頬と喙(くちばし)には薄く赤味がつけてあり、頭上の羽毛の中には、柔かく藍が入つてゐる。目つきも旨いし、羽の表現も感覚的である。何処にも鈍い所が無い。松村呉春の絵に、鷺の飛立つのを描いたのが在る。あれは呉春としては上出来のものだらうが、此の鴛鴦に比べると随分落ちる。只、伯林(ベルリン)に牧谿の雁の図がある。これは気持のいゝ程鋭い絵であつて、此の種の絵の傑作であらう。……所りで、宗達の此の絵は、宗達として稍初期のものと言へる。それは「破調」が無く、筆数が多い事で分る。用紙も他の作品とは違つて居り、唐紙が用ひられてゐる。他の作品が殆ど白唐紙かと思はれる。
宗達の絵で、水墨淡彩といふのは少い。さう云ふ意味でも此の絵は珍しい。宗達は、淡い色を使ふ時は思ひ切つて濃く、又、薄い色の時は、在るか無いかの淡いのを使゛ふ。それで゛何れの場合でも、非常に高い境地を表現してゐる。濃彩の絵は今更述べる迄もないが、極く薄い色を着けたものは、此の鴛鴦の他に、金沢から発見された歌仙の図数枚がある。……これは宗達法橋の長方形の白丈方印が添へてある。その印の字は今の所、まだ読めてゐない。又、最近、色紙形の伊勢物語図の中に、やはり方印を捺したものが発見されたと矢代幸雄先生から御教示を受けたが、それは前者とは又別のものらしいと云ふ事であつた。尚、水墨淡彩の狗子図(稍初期)を最近見た。 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第二図」p4~p6)

https://www.nanao-cci.or.jp/tohaku/big/19.html

等伯・花鳥図屏風.jpg

【長谷川等伯筆「花鳥図屏風」6曲1隻 紙本著色 縦149.5・横360.0 室町時代末期~桃山時代初期(16世紀)制作 岡山県・妙覚寺所蔵 横 一四九・〇㎝ 縦 三六〇㎝ 重要文化財
(解説)
本図は水墨を基調に要所に色彩を施した作品で、モチーフを画面の端に集めた構図で安定感を感じさせる作風である。等伯40歳代頃の筆といわれ、画面中の鳥などの描写は生き生きとして表現されている。 】

【 岸辺の梅と鴛鴦の番を中心に雪景でまとめたこの屏風は、数点の作品が知られる伝雪舟筆の花鳥図屏風の形式を受けつぐ典型的な作例である。とはいえ、雪舟系花鳥図屏風では画中の生き物が冬の大自然のなかに閉じこめられ、ひっそりと呼吸しているのに対し、生き物たちとそれをとりまく自然との関係がこの作品では逆転している。小鳥たちは気ぜわしく小枝を飛びまわり、梅の根もとの紅白の薔薇や竹の青さが冬のきびしさを少しも感じさせない。雪舟系花鳥図屏風の重苦しい迫る雪の遠山もこの作品ではすっかり後退し、光の空間が画面を満たしているのだ。等伯は『等伯画説』の中で、雪舟につらなる画系にみずからを位置づけているから、この作品は信春から等伯への変貌を画風のうえから考えるためにも注目すべき作品である。なお、本作品は、京都の金工家後藤家から妙覚寺へ寄進された、と従来考えられていたが、明治年間に京都の相馬家から寄進されたものであることが同寺の史料から判明した。 】(『名宝日本の美術 永徳・等伯』所収「作品解説27(鈴木広之稿)」)

 この等伯の「花鳥図屏風」(六曲一隻)の第五扇に、等伯の二羽の鴛鴦が描かれている。それは、下記のアドレスのとおり、昭和五十二年(一九七七)に、「大和絵 花鳥図(鳥)切手」として、国際文通週間記念に、その図柄の切手が発行されている。



https://kaitori-navisan.com/kitte/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E7%B5%B5-%E8%8A%B1%E9%B3%A5%E5%9B%B3%E9%B3%A5%E5%88%87%E6%89%8B/

等伯・鴛鴦.jpg

「大和絵 花鳥図(鳥)切手」(長谷川信春=等伯筆「花鳥図屏風」の部分図)

https://intojapanwaraku.com/art/972/

永徳・梅に小禽.jpg

狩野永徳筆「四季花鳥襖」(「松に鶴」「梅に小禽」「芦雁図」)の「梅に小禽」の部分図)
国宝 十六面 紙本墨画 各 横一七五・五㎝ 縦一四二・五㎝ 永禄九年(一五六六) 聚光院所蔵 (『名宝日本の美術 永徳・等伯』所収「作品解説1・2・3・4・5・6(鈴木広之稿)」)

 等伯が、同時代(桃山時代)の画家として、生涯に亘ってライバル意識を持ち続けた、その人は、狩野永徳ということになろう。その永徳の「四季花鳥襖」にも、上記の「梅に小禽」のほんの片隅(上記の左の襖の水面)に、永徳の「鴛鴦」らしきものが描かれている。この「四季花鳥襖」は、大徳寺の塔頭の一つの「聚光院」所蔵の国宝となっている。
 そして、等伯の「枯木猿猴図」(その三で紹介した作品)は、その「聚光院」の近くの、同じ大徳寺の塔頭の一つの「龍泉庵」所蔵の重要文化財となっている。さらに、この「聚光院」と「龍泉庵」に連なる、臨済宗大徳寺派の大本山「大徳寺」には、日本水墨画の源流とも目せられる、中国の宋末元初(13世紀後半)の画僧・牧谿の代表作「観音猿鶴図 」が、その国宝に指定されている。
 その「牧谿→永徳・等伯」の、日本水墨画の流れは、その間に、日本水墨画の大成者として目せられている室町後期の画僧「雪舟」が介在していることになる。その雪舟の「鴛鴦」が、次のアドレスで、下記のとおり見ることが出来る。

https://artsandculture.google.com/exhibit/DAIS7zfQjogqIA?hl=ja

雪舟・鴛鴦.jpg

【四季花鳥図屏風(15世紀)雪舟筆 (補綴: 「四季花鳥図屏風」六曲一双 紙本着色 各 縦一八一・六㎝ 横三七五・二㎝ 京都国立博物館蔵 重要文化財 → 左隻「第二・三扇」=『没後五〇〇年 特別展 雪舟(東京国立博物館・京都国立博物館編))

水墨画の巨人、画聖などと仰がれて人口に膾炙(かいしゃ)する雪舟(1420~1506?)。備中国(今の岡山県)に生まれた彼は、上京して相国寺に入り、禅と画業に励んだのち周防国山口に居を移した。その後、遣明使節団に加わって入明し、本場の水墨画に親しんだことが知られる。帰国後、その作画意欲はますます高まり、絵筆を携えて諸国を遊歴するなど旺盛な活動を展開した。
本図はかなりの数が遺る伝雪舟筆花鳥図屏風絵群の中にあって、唯一、彼の真筆と目される作品である。両隻とも松や梅の巨木によって画面が支えられ、その周囲に四季の草花や鳥たちが配されているが、まるで爬虫類のような松梅の不気味な姿とアクの強い花鳥の描写によって、画面には独特の重苦しい雰囲気がもたらされている。おそらく呂紀(りょき)の作品に代表される明代の花鳥図が参考にされたのであろう。】

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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その三) [水墨画]

その三 「牡丹図(宗達筆・東京国立博物館蔵)」周辺

牡丹図.jpg

牡丹図 俵屋宗達筆 紙本墨画 1幅 97.2×45.2 東京国立博物館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/233924
【 私が始めて此の絵を観たのは、冬の或る晴れた日であつた。静かな光線の中で、此の墨一色の華やかな境地に浸つてゐると、あの煙る様な白牡丹の感じが私の心を充した。殊に右下の一輪には、開き切つて崩れようとする此の上ない綺麗な花の趣があふれてゐた。
真に偉大な作家は、他人の様式に影響されただけでは済まされない。必ず固有の美的価値の高い様式を鮮やかに展開する。吾々は其の様な重要な作家の遺品を、平凡な作品と同列に置いてはいけない。「鈍い眼」に依つて、美しくないものが餘りに高く評価されてゐたならば、それを訂正しなければならない。吾々の祖先の残して呉れた作品は、如何なる一物と云へども其の時代の文化を語つてゐる。その意味では総てが貴重である。唯、それらが正当に評価され始めて、単なる過去のものが現在に生きるのである。東洋水墨画に於て、宗達のもつ意義は大きい。殊に我国の水墨画中、これほど新鮮な様式は稀である。(此の牡丹図に就いては、雑誌座右寶二號に記した) 】(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶刊行会』所収「図版解説第一図」p3~p4)

P23~p24 宗達は水墨画を描くに際して、当時彼の眼に触れる事の出来た前代の多くの水墨画を十分に鑑賞してゐたであらう。而して其の中で最も彼の関心の対象となつたのは、恐らく牧谿及び其の系統の画家の作品と思はれる。と云うのは、宗達の水墨画の様式には牧谿の様式と共通するものが見られるからである。
 今、大徳寺、牧谿筆観音図に就て見ると、其の線に於て、例えば観音の顔や衣服に見られる淡墨の柔かい線は、宗達の線と性質が似て居ることが分る。又、中心となる対象……例えば観音(牧谿)と蓮の花や白兎(宗達)……を線の濃度、又は線の太さに依つて強調せず、背景に淡墨を塗つて之を浮上らせる表現法も共通して居る。
 更に、構図の集中的ではなく展開性を有する点も同様である。併し、最も基本的な共通点は、統一された全体の様式が、没骨法を主として、奥深さを感じさせる事である。(「三 宗達の水墨画の様式 (一)牧谿と宗達」)

https://kazuow.exblog.jp/27769380/

牧谿・観音猿候図.jpg

【 牧谿「観音猿鶴図 」 中国・南宋時代(13世紀) 国宝 (大徳寺蔵)
 中国の宋末元初(13世紀後半)の画僧・牧谿の代表作。中幅に観音菩薩坐像、左右に
鶴図と親子の猿図を配する三幅対の掛軸。絹本墨画淡彩。室町幕府3代将軍足利義満が収
集した中国絵画で、長谷川等伯など後世の日本の絵師や水墨画に多大な影響を与えた。
湿潤な大気の動きや光の明暗を、墨の濃淡やぼかしで巧みに表現し、ここでは木の幹や枝
、 岩山や背後にかかる靄(もや), そして竹の葉や地上の線などによって、全体が大きな
一つの画面となるように構成されています。(小学館 「ニッポンの国宝」による) 】

https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item13.html

枯木猿候図.jpg

【「枯木猿猴図」長谷川等伯筆 紙本墨画 各155.0×115.0 cm 龍泉庵蔵 重要文化財
桃山時代に狩野派と拮抗する制作活動をした長谷川等伯(1539-1610)の代表的作品。
現在は2幅の掛軸装に仕立て直されているが、本来は屏風であって、その4扇分が現存しているわけである。裱(ひょう)背墨書によれば、もと、加賀・小松城主の前田利長侯の蔵するところという。
等伯は能登半島の根元にある七尾の出身で京に上ってから本法寺の庇護を受け、さらに千利休にも可愛がられたので大徳寺に出入りするようになった。明らかに本図は、大徳寺が蔵する中国鑑賞画中の至宝である牧谿筆「猿猴図」(国宝)の直接的な影響のもとに成った作品である。  】

P24~p25 牧谿の様式を、我国に於て、多少の新味を加へて展開した画家に、長谷川等伯がある。併し等伯の水墨画には、牧谿の直模に依る感覚の粗雑さが窺はれる。例へば、枯木猿候図の葉や幹は、単なる筆技に陥つてゐて、表現になつゐない傾向がある。松林図に於ても、結局対象の採上げ方に新しさを認め得る程度であつて、特に宗達水墨画の様式の源とする訳には行かない。併し、宋元水墨画に現れた「厳格」、「尖鋭」なる調子が、我国に於て「明朗」「緩慢」なる調子に変化した、或は進展した、と云ふ事実には注意しなければならない。(「三 宗達の水墨画の様式 (一)牧谿と宗達」)

「枯木猿猴図」長谷川等伯筆(右幅拡大図)

https://nanao-art-museum.jp/?p=5344

猿候図・石川県立美術館.jpg

【作品名:猿猴図屏風 員数:2曲1隻 技法1:日本画 技法2:紙本墨画 作者:長谷川等伯(1539〜1610) 制作年代:桃山時代 法量(cm):縦160.0 横240.0 指定:石川県指定有形文化財
本図は平成27年4月に新発見作品として全国ニュースとなった作品で、発見当初は損傷が激しかったが、修復されてよみがえった。旧所蔵者である京都造形芸術大学のご厚意で、同年七尾市が購入し、同年秋に特別公開した。
 本図は「松竹図屏風」と共に伝わっているが、現段階では別の作品として紹介している。右扇の右端下部から大きな樹木の幹が二手に分かれ、その内1本は画面中央を横切って左扇へ伸び、そこに猿が1匹座っている。樹木の根元周辺には岩と笹が配されている。その猿は、「枯木猿猴図」(京都市・龍泉庵)右幅の母猿と、全く同じポーズである。「枯木猿猴図」では母猿の肩の上に子猿が描かれており、本図をよく見ると母猿の右側に子猿の小さな手が確認され、よく似た子猿が描かれていたことが想像される。次に左扇に移ると、「枯木猿猴図」の左幅に描かれる枯木にぶら下がる父猿らしき猿と、そっくりな猿が描かれている。  
 また、右扇の母子猿は足の向きは逆であるが、「竹林猿猴図屏風」(京都市・相国寺)の母子猿とも近似し、父猿は「猿猴捉月図襖」(京都市・金地院)の猿ともほぼ同じポーズである。興味深いのは猿の毛の筆法である。本図では縮れたような描き方が特徴的で、相国寺本や龍泉庵本の筆法とは明らかに異なる。しかし、相国寺本と龍泉庵本でもかなり描き方に違いがあり、意図的に描き分けたものと解釈される。調査にあたった黒田泰三氏も述べられているように、足の立体感は的確に描写され、顔の濃墨の入れ方、淡墨の上から鋭くかつ丁寧に描き込んだ毛、笹の勢いあるタッチや右端中頃の濃墨の樹葉なども、等伯の表現といってよい。
 制作年代については、研究者の中でも若干見解が分かれる。50歳代初めとなると、相国寺本と近いが、筆法からして相国寺本より前ではないであろう。一方龍泉庵本は、線自体に重きを置いている感があり、「濃墨を多用した豪快な筆さばき」という60歳代の特徴であり、本図より後の制作と考えられる。また、本図の細く鋭い毛描きは金地院本に最も近く、両者は近い時期に描かれた可能性がある。現在のところは、50歳代後半頃の筆としておきたい。
 なお、画面の構図や、右扇と左扇の各中心には縦の褪色が見られることから、本図は6曲屏風の4扇分で、本来は左右にもう1扇分ずつあったと解される。左側には捉月図が交わって、金地院本のように水面に映る月が描かれていた可能性もある。 】

(周辺メモ) 牧谿の「「観音猿鶴図 」と等伯の「枯木猿候図」周辺

 牧谿の「観音猿鶴図」は、天文年間(一五三二~五五)に太原崇孚(戦国時代の禅僧・今川義元の軍師)が大徳寺に寄進したことが知られている(『正法山誌』巻六)。五十歳代の等伯は春屋宗園(千利休,古田織部らと親交があった大徳寺百十一世)を通じて、大徳寺とのつながりがあり、その「枯木猿候図」は、その頃の制作とされている(『名宝日本の美術 永徳・等伯』所収「枯木猿候図―等伯と牧谿(鈴木広之)」「作品解説(鈴木広之)」)。
 等伯は、この大徳寺の「観音猿鶴図(牧谿筆)」の鑑賞体験を通して、さまざまな「猿候図」と「竹鶴図」などの名品を今に遺している。
 平成二十七年(二〇一五)に新発見された「猿候図屏風」(石川県立美術館蔵)の「作品解説」記事中の、「竹林猿猴図屏風」(京都市・相国寺)、「猿猴捉月図襖」(京都市・金地院)のほか、下記のアドレスの「竹鶴図屏風」(出光美術館蔵)なども夙に知られている。

https://media.thisisgallery.com/works/hasegawatohaku_08

等伯・竹鶴図屏風.jpg

長谷川等伯筆「竹鶴図屏風」(出光美術館蔵) 六曲一双 紙本墨画 
【等伯が私淑していた中国の画僧、牧谿による竹鶴図の構図を模した作品といわれる。初冬の竹林とそこに佇む2羽の鶴が描かれており、鶴の精緻かつ表情豊かな描写と、霧がかった竹林の表現が印象的な作品。】

 ここで、「等伯の水墨画には、牧谿の直模に依る感覚の粗雑さが窺はれる。例へば、枯木猿候図の葉や幹は、単なる筆技に陥つてゐて、表現になつゐない傾向がある」(徳川義恭)の批判的な見解については、『名宝日本の美術 永徳・等伯』所収「枯木猿候図―等伯と牧谿(鈴木広之稿)」の、次の記述が参考になる。

【 等伯は「枯木猿候図」を最後に、おそらく牧谿画と訣別をはかり、新たな展開へと向かう道を歩もうとしていたのではなかったか。牧谿画に啓示を受けて制作された「枯木猿候図」のなかにあらわれている強烈な自己表現の片鱗は、牧谿画が本来めざしたものとはおよそ対極的な表現へと等伯が向かおうとしていることを示しているのだ。「松林図屏風」という傑作を五十歳代に残して、この画家は急速に牧谿から歩み去ろうとしているのである。そして彼が接近していったのは、もっと硬質で自己主張の強いヴィジョンをもつ絵画だったのではないか。これこそ彼の六十歳代、晩年の画風の基調となっていくもののように思えるのである。 】(『名宝日本の美術 永徳・等伯』所収「枯木猿候図―等伯と牧谿(鈴木広之稿)」)
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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その二) [水墨画]

その二 「頂妙寺と頂妙寺所蔵の『牛図』」周辺

https://www.jisyameguri.com/event/cyomyoji/

頂妙寺map.jpg

A図(現在の「頂妙寺」マップ図=赤の位置表示の所が「頂妙寺」)

 徳川義恭は、終戦後間もない、「昭和廿一年六月」と「同年十二月」に亘って、この頂妙寺などを実地調査し、「従来不明であつた宗達の家柄は恐らく西陣の機屋俵屋一族として認めてはどうか、と云ふ仮説を提示するのである」と、その「第四 機屋俵屋と宗達派」(『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶版』所収)の、その「六 結論」で記述している。
この「第四 機屋俵屋と宗達派」の構成は次のとおりである

一 緒論
二 宗達の名のある俵屋喜多川家の墓
三 頂妙寺に就て
四 宗達派に於ける俵屋の家号及び野々村・喜多川姓に就て
五 機屋俵屋に就て
六 結論

 その結論の、「宗達を祖とする畫派が、現存する機屋俵屋の祖と恐らく関係があつたに違ひないとする」、その「論拠」を次のように要約している(p89~p90)。

(一) 俵屋なる特殊の家号の一致。
(二) 喜多川姓の一致。
(三) 俵屋宗□の一致。(メモ:□=不明文字。二回目の調査で「俵屋宗達」の一致? しかし、この「俵屋宗達」が法橋となった俵屋宗達その人なのかどうかは不明とする。)
(四) 機屋俵屋と頂妙寺、及び頂妙寺の宗達水墨画。(傍系の資料として、頂妙寺と光悦、及び俵屋宗由の貞享四年に献じた一幅の存在)
(五) 蓮池平右衛門尉秀明が加賀の人と伝へられてゐる事と、宗達系の畫家と加賀の関係の密接なる事。(光悦と加賀の関係)、更に広く当時の織物業に於ける京都と加賀の関係。
(六) 時代及び土地の一致(機屋俵屋の成立と宗達の在世時代に矛盾のない事。活動の中心地の京都である事)
(七) 堺の地と機屋俵屋(堺を通しての外国技術の輸入及び商業上の関係と、宗達と堺(俵屋宗雪の書蹟、宗達筆松島図屏風、宗達系の一優品罌粟図屏風)及び(傍系として頂妙寺と堺の関係) 
(八) 宗達畫の内容と富裕なる機屋俵屋との関係、及び、宗達畫の様式と織物模様の様式との合致。

頂妙寺・古図.jpg

B図の「頂妙寺」付近図:「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/libraries/uv-wrapper/uv.php?archive=metadata_manifest&id=RB00000143#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=24161%2C14427%2C2750%2C5442&r=270

 この「B図」は、「寛永後萬治前洛中絵図(部分図・京都大学附属図書館蔵)」の「本阿弥辻子・本法寺・妙蓮寺・妙顕寺」の絵図の、「東・北」側の「院御所」(現在の「厳島神社」付近?)に移動した図で、その「院御所」(後水尾院などの仙洞御所?)の左下側に隣接して「頂妙寺」がある(この「院御所」の右側に「知恩寺」がある。これは浄土宗総本山の「知恩院」ではない)。
 ここで、下記のアドレスによる「頂妙寺寺地の変遷」を掲載して置きたい。

http://youryuboku.blog39.fc2.com/?mode=m&no=200&photo=true

【 頂妙寺寺地の変遷
日蓮宗京都二十一箇本山の一つ頂妙寺は、現在では、鴨川の東、仁王門通に面してある。通り名は当寺の仁王門に由来するという。ここに落ち着くまで、洛中洛外を転々としてきた。
 1473(文明5)年、日祝(日常8世)が上洛し、檀越の武将・細川勝益(?~1502)の篤い帰依によって寺地の寄進を受け、頂妙寺を開山した。当時の寺地は南は四条通、北は錦小路通、西は万里小路(現在の柳馬場通)、東は富小路通に至る地であった。
 その後、1509(永正6)年、10代将軍・足利義稙の命により新町通長者町に移る。ついで、1523年(大永4)年には、12代将軍・足利義晴の命により、高倉中御門に移転し、法華宗洛内法華二十一箇本山の一つになる。中御門通は現在の椹木町筋に当たる。
 1536年(天文5年)の天文法華の乱で、他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難した。その後1542年(天文11年)、後奈良天皇が法華宗帰洛の綸旨を下し、頂妙寺は1546年、高倉中御門の旧地に伽藍を再建した。
 1573(天正元)年、信長の上京焼打ちにあった。フロイスの1573年5月27日付の書簡のなかに掲げた20ヶ寺の焼失寺院名リストの19番目の「ch?mennji」が頂妙寺のことだと思われる(松田,川崎訳「フロイス 日本史4」p.302、中央公論社、1978)。寺地は鷹司新町に移されたという。
 織田信長の命により、浄土宗と法華宗の間で行われた1579年(天正7年)の安土宗論には頂妙寺から三世日珖が臨んだが破れ、日蓮宗は詫状二通を書かされ、以後の布教を禁じられる。寺地はそのままであったとみられている。
 1584年(天正12年)には豊臣秀吉の命により、布教を許され、愛宕郡田中村に於いて、寺禄21石7斗を附される。1587(天正15)年、秀吉の寺移転計画で、また高倉中御門に移った。
 そして最終的には、江戸時代の1673年(寛文13年)に、禁裏に隣接しているという理由で、現在の地に移転させられ、今の所は落ち着いている。 】

 上記の末尾の方の「1587(天正15)年、秀吉の寺移転計画で、また高倉中御門に移った」というのは、いわゆる、秀吉の「聚楽第(京都新城)」の整備に伴う都市改造で、触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-14

 また、「最終的には、江戸時代の1673年(寛文13年)に、禁裏に隣接しているという理由で、現在の地に移転させられ、今の所は落ち着いている」というのは、徳川第五代将軍綱吉の時代で、徳川家康の時代に、光悦らが「洛中から洛外(鷹峯)へ」の移住を強いられたと同じような、「禁裏・院御所」付近の新たなる都市整備に伴うもののようにも解せられる。

厳島神社と頂妙寺.jpg

C図(現在の「厳島神社」=B図の「院御所?」と現在の頂妙寺)

この図(C図)の上部左側に、「厳島神社」=B図の「院御所?」がある。その左側に「頂妙寺(B図)」があった。この「頂妙寺(B図)」の土地は、上記の「結論」の「論拠」(五)に出てくる「蓮池平右衛門尉秀明」(「俵屋喜多川氏の元祖)が、天文十九年(一五五〇)に寄進したことが明らかにされている(「宗達の水墨画(徳川義恭)」p100~p101)。
 この「頂妙寺」(現在の厳島神社の左に隣接していた)が、1673年(寛文13年)に、禁裏に隣接しているという理由で、この(C図)の右端の下(北側)に移転させられたということになる。
 さて、この「頂妙寺(B図)」に、「俵屋宗達筆・烏丸光広賛『牛図』(双福)」が所蔵されている。その頂妙寺の「霊寶目録」が次のように紹介されている。

【 牛図二幅対 賛、正二位大納言烏丸光広公、畫、宗達。竪三尺一寸四分。幅一尺四寸五分、表具、上下天竺織物、一文字黒地金。  】(「宗達の水墨画(徳川義恭)」p102)。

そして、この「水墨牛図は既に私は正筆と認め、先に雑誌座右寶(創刊号)に述べておいた」(『同書p102』)とし、その解説文などは省略されている。
 ここで、この賛をした「正二位大納言烏丸光広公」の、当時の住居の「烏丸殿」が、このB図の「頂妙寺」の上部(北側)の二軒目と隣近所の位置なのである。

烏丸殿.jpg

B図の拡大図(「頂妙寺(左下)と烏丸殿(左上)」)

【 烏丸光広  没年:寛永15.7.13(1638.8.22)  生年:天正7(1579)
安土桃山・江戸時代の公卿,歌人。烏丸光宣の子。蔵人頭を経て慶長11(1606)年参議,同14年に左大弁となる。同年,宮廷女房5人と公卿7人の姦淫事件(猪熊事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙るが、運よく無罪となり、同16年に後水尾天皇に勅免されて還任。同17年権中納言、元和2(1616)年権大納言となる。細川幽斎に和歌を学び古今を伝授されて二条家流歌学を究め,歌集に『黄葉和歌集』があるほか、俵屋宗達、本阿弥光悦などの文化人や徳川家康、家光と交流があり、江戸往復時の紀行文に『あづまの道の記』『日光山紀行』などがある。西賀茂霊源寺に葬られ、のちに洛西法雲寺に移された。<参考文献>小松茂美『烏丸光広』(伊東正子)  】(出典 朝日日本歴史人物事典)

 この「牛図」(頂妙寺蔵)については、下記のアドレスなどで、次のように触れている。その関係する部分を再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-09
(再掲)

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【『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』所収「22牛図(俵屋宗達画・烏丸光広賛)二幅・頂妙寺蔵・重要文化財」
【 宗達の水墨画中、屈指の傑作として知られるこの対幅には、烏丸光広(1579~1638)の賛がある。向かって右側の和歌は「身のほどにおもへ世中うしとてもつながぬうしのやすきすがたに(花押)」。また、左幅の漢詩は「僉曰是仁獣、印沙一角牛、縦横心自足、匈菽復何求(花押)」。力量感にあふれる牛の体躯を手慣れたたらし込みの技法によって、じつに躍動的に描いている。】「22牛図(俵屋宗達画・烏丸光広賛)二幅・頂妙寺蔵・重要文化財」の解説

(周辺メモ)
一 この光広の賛の「花押」は二羽の「蝶」のようである。宗達の描く「牛」は、その「蝶」に戯れている。(『俵屋宗達(古田亮著)』など)
二 この光広の賛(和歌)の「身のほどにおもへ世中うしとてもつながぬうしのやすきすがたに(花押)」は、「つながぬうしのやすきすがたに」の「自由」こそ「平安・安らぎ」の象徴か(?)この漢詩の「僉(ミナ)曰是仁獣、印沙一角牛、縦横心自足、匈菽(シュク)復何求(花押)」は、「仁牛→一角牛」→「『仁』カラ『縦横心自足』」スルト『牛』トナル」→「匈菽(シュク)復何求」……という「謎句」仕立てらしい(?)
三 この宗達の落款は「宗達法橋」(三人称の「法橋」)で、この「宗達法橋」の「牛図」に、権大納言の公家中の公家の「光広」が、花押入りの「和歌」(狂歌)と漢詩(「謎句」仕立ての「狂詩」)の賛をしていることに鑑み、「法橋宗達」(一人称)と「宗達法橋」(三人称)との区別に何らかの示唆があるようにも思えてくる。例えば、この「宗達法橋」(三人称)の落款は「宮廷画家・宗達法橋」、「法橋宗達」(一人称)は「町絵師・法橋宗達」との使い分けなどである。  】
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徳川義恭の「宗達の水墨画」(その一) [水墨画]

その一 「宗達の名のある俵屋喜多川家の墓」周辺

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宗達の墓.jpg
「伝・俵屋宗達の墓」(頂妙寺)

【第四―二・宗達の名のある俵屋喜多川家の墓―(目次「第四 機屋俵屋と宗達派―二・宗達の名のある俵屋喜多川家の墓―」=『宗達の水墨画・徳川義恭著・座右寶版』所収)

p91  頂妙寺といふ寺は現在、京都市左京区二条東に在る。表門を入つて直ぐ右側が墓地になつてゐる。土塀を廻らした少し明る過ぎる墓地で、落着いたいゝ感じは無い。入つて正面に向つて稍幅広い真直の道があり、その両側に沢山の墓石が立つてゐる。喜多川家の其の墓は、右側の中程にあつて、一際高く見えるのがそれである。
 其所には、宗達の名を側面に刻んだ一番大きい立派な墓を中央に、左右に二基の俵屋の墓がある。それから同じ列の右に一つ置いて更に一基、喜多川と記した小さない墓石がある。
 (略)

p92 正面及び右側面は次の通りである。

(右側面)
          宗見 月窓常哲 井狩氏 宗運
          妙法 実月至心     妙種
          妙信 ※※宗達     妙泉
          日道 利慶       慶春
          休興 常林       円清日持  
(正面)
   元祖 宗利  円珠院日登大徳     信受院誠持日妙
      妙慶  大慈院常室日家     ※観心院宗悦日解
          常運院妙法日重 蓮池氏 直性院妙悦日修
南無妙法蓮華経   真性院常由日徳     即順院日利法師
   常興日利   本具院妙常日理 
          信行院常與日勤     常清日空
   妙顕 蓮池氏 修善院妙重日玄     厚智日禪

(略)

P94 この正面の碑文に於て注意すべき事項は、次の如くである。
(一)この一群の人々が喜多川氏の直系であるらしく、而して元祖として蓮池宗利(平右衛門尉秀明)及び妙慶を掲げて居る。又、二祖の妻が蓮池氏としてあり、更に三祖の妻も蓮池氏としてある。即ち、俵屋に蓮池氏と喜多川氏との二家が在つて、蓮池俵屋が恐らく本家で、喜多川俵屋がその分家で、この墓碑にあるのは喜多川俵屋一家であると想像される。
(メモ:墓碑の碑文の読み方は、「上段・中段・下段」の三段に分かれていて、その上段の最初の「元祖 宗利=蓮池宗利(平右衛門尉秀明)」、「妙慶=宗利の妻」、「二祖 常興日利、二祖の妻 妙顕 蓮池氏)」、中段の 「三祖 大慈院常室日家、三祖の妻 常運院妙法日重 蓮池氏」との読みである。)
(二)下段の右から二人目(※)の、観心院宗悦日解は、古画備考に記された喜多川宗悦なる画家であるかも知れない。(略)
(メモ:『古画備考(朝岡興禎著)』中の「俵屋宗達(野々村氏―宗説(喜多川氏北川氏トモ)・・・宗説(二代目宗達ノ事ニテ)」の、この二代目宗達の「宗説」が、この墓碑の「観心院宗悦日解」なのではないかという推論を記述している。)  

P95~p96 次に右側面であるが、遺憾ながら此所に刻まれた人々に就ては、頂妙寺にも喜多川家にも今の所では何等書き記したものは発見できないのである。正面に於ては過去帳に大部分が記されて居り、即面では一人もないと云ふ事は、この側面の一群の人々が、正面の人々とは一応別な立場にあることを物語つてゐる。即ち恐らく同じ喜多川俵屋であり乍ら、正面の一系統の縁者であると見るのが妥当ではなからうか。而して此所にしるされている宗達(※※)といふ人も、墓石に俵屋とあるから、恐らく俵屋宗達であらう。が、果して寛永の俵屋宗達その人であるかどうかは決定は出来ない。(略)

第四―三・頂妙寺に就て― (略)

第四―四・宗達派に於ける俵屋の家号及び野々村・喜多川姓に就て― (略)

第四―五・機屋俵屋に就て― (略)

(メモ: 「蓮池平右衛門尉秀明に始まる俵屋喜多川宗家の系譜」関連のことで、その概略に基づいての、下記のアドレスの記事を、参考までに再掲して置きたい。)

https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20200612-001.html

【 再掲

宗達の俗姓は蓮池氏、或いは喜多川氏。俵屋という屋号を持つ京都の富裕な町衆の系譜にある絵師で先祖には蓮池平右衛門尉秀明、喜多川宗利などがあった。同人は1539(天文8)年には狩野一門の総帥である狩野元信とともに当時の扇座を代表する座衆であった。また36(天文5)年に生起した天文法乱の敗北によって京都を追われた日蓮法華宗本山が京都に還住が許された際、頂妙寺旧境内地の全てを買い戻して50(天文19)年、亡妻の供養のために頂妙寺に寄進した富裕な日蓮法華衆としても知られる。つまり俵屋は代々絵屋を家職とした一門の屋号であり、宗達はその工房を継承した絵師である。

そして俵屋の商品は宗達の時代、元和年間(1615~24)には俵屋絵、俵屋扇として評判を得ていた。また俵屋一門には絵屋に加えて織屋としての家職もあったようで、西陣の織師たちによって結ばれていた「大舎人座」の座衆として蓮池平右衛門、北川八左衛門などの名が見えるに加えて、彼らの系譜に連なると思われる蓮池平右衛門宗和なる織師の存在も明らかにされている。また01(慶長6)年に立本寺に大灯籠を寄進するとともに鷹ヶ峯光悦町に屋敷を所有した蓮池常有という人物などの記録がみられるも、彼ら相互の関係は不明である。

1946(昭和21)年、美術研究者の徳川義恭氏は当時、俵屋蓮池・喜多川第17代当主である喜多川平朗氏の協力を得て喜多川家伝来の歴代譜、頂妙寺墓所にある俵屋喜多川一門の供養塔の碑銘を調査し、蓮池平右衛門尉秀明に始まる俵屋喜多川宗家の系譜を明らかにされた。自著『宗達の水墨画』においてその調査結果を公表された中で「蓮池俵屋についてはそれを系統的に知り得ず、之が引いては宗達との関係を不明瞭にしているものと思われる」と述べられている。ちなみに現当主、第18代喜多川俵二氏は師父と同様に人間国宝として俵屋の家職を継承し頂妙寺大乗院と結縁されている。

俵屋宗達と本阿弥光悦は義理の兄弟の関係にあり多くの作品を共作していた。加えて宗達が紋屋井関妙持や千家第2代小庵とも茶の湯を介して交流があり、このことからも俵屋一門と本阿弥一門、紋屋一門相互の深い関わりが見てとれる。彼らはいずれも西陣、小川今出川上ル界隈に居住して其々に家職を営んでいた。(「日蓮宗大法寺住職 栗原啓允氏」の見解  】   )

(関連参考メモ)

【 広範で強固な日蓮法華衆のネットワーク

絵画制作の狩野(妙覚寺信徒)、※俵屋(頂妙寺信徒)、※長谷川(本法寺信徒)、
彫金の名門※後藤(妙覚寺信徒)、
蒔絵師の※五十嵐(本法寺信徒)、
西陣織の紋屋井関(妙蓮寺信徒)、
銀座支配の大黒屋湯浅(頂妙寺信徒)、
茶碗屋の※楽(妙覚寺信徒)、
呉服商の雁金屋※尾形(妙顕寺信徒)、
海外交易の※茶屋(本能寺信徒)

能楽の謡曲本を広く刊行した本阿弥光悦(本法寺信徒)、
連歌界を主導した里村紹巴(頂妙寺信徒)、
俳諧の祖ともされる松永貞徳(本圀寺信徒)、
囲碁の家元である本因坊日海(寂光寺第2世)、
将棋の家元としての大橋宗桂(頂妙寺信徒)

「一家一門皆法華」という信仰規範が要請され、信仰、血縁のみならず自身の家職もまた相互に重ね合わせていた。

例えば彫金の後藤一門が制作する三所物などの刀装具の下絵は狩野一門が手掛けていました。京都国立博物館所蔵、重要文化財「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」に至っては、和紙を京唐紙の祖とされる紙屋宗二が漉上げ、その上に俵屋宗達が絵を描き、寛永の三筆を謳われた本阿弥光悦が三十六歌仙の和歌を書き流して制作された作品です。ちなみに紙屋宗二は蓮池常有らとともに鷹ヶ峯、光悦町に移住した熱心な日蓮法華衆であったことが分かっている。

1615(元和元)年に本阿弥光悦が徳川家康から拝領した洛北鷹ヶ峯の地に4カ寺の寺院を中心として、本阿弥始め蓮池、紙屋、尾形、茶屋などの著名な日蓮法華衆の一門が集い、共に信仰生活を送った光悦町は「広範で強固な日蓮法華衆のネットワーク」の具現した姿といえる。 

※ 俵屋(頂妙寺信徒)=俵屋宗達(生没年不詳)
※ 長谷川(本法寺信徒)=長谷川等伯(一五三九~一六一〇)
※ 後藤(妙覚寺信徒)=後藤徳乗(一五五〇~一六三一=京都三長者の一人)
※ 五十嵐(本法寺信徒)=五十嵐久栄(一五九二~一六六〇=光悦の孫妙久の夫)
※ 茶屋(本能寺信徒)=茶屋四郎次郎(?~一六二二)=二代目=京都三長者の一人)
※ 尾形(妙顕寺信徒=尾形宗伯(一五七一~一六三一=「光琳・乾山」の祖父、宗伯の父・道伯の妻は光悦の姉)
※ 楽(妙覚寺信徒)=楽常慶(一五六一~一六三五)=二代目、三代目は道入(のんこう))

  】 (同上のアドレスの記事の「要点メモ」など)
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