「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十) [光悦・宗達・素庵]
その十 曾禰好忠
「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の五「藤原長能・和泉式部・曽根好忠」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)
「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(曽根好忠・相模)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(MOA美術館蔵) 三三・五×四二七・五㎝
10 曾禰好忠:あきかぜのよそに吹きくるをとは山何のくさきかのどけかるべき
(釈文)安支可勢乃よ曽尓吹久類をとハ山何濃久左き可乃ど介可るべ幾
(「曾禰好忠」周辺メモ)
https://open.mixi.jp/user/17423779/diary/1965983342
秋風のよそにふきくるおとは山なにの草木かのどけかるべき
曾禰好忠
題しらず
新古今和歌集 巻第三 秋歌上 371
「秋風の遠く彼方に吹くのが聞こえる音羽山よ。あのひびきを聞くさえどんな草木も心静かにしてはいられないであろう。」『新日本古典文学大系 11』p.119
好忠集「三百六十首和歌・七月おはり」、二句「よもにふきくる」。
本歌「秋風の吹きにし日よりおとは山峰の木末も色づきにけり」(紀貫之 古今 秋下)。
おとは山 山城国の歌枕。和歌初学抄[平安時代後期の歌人藤原清輔 1104-1177 による歌学書]「音することにそふ」。
「秋風」の歌。
曾禰好忠(そねのよしただ 生没年未詳)平安時代中期の歌人。
拾遺集初出。詞花集最多入集歌人。新古今十六首。勅撰入集計九十二首。
隠岐での後鳥羽院による『時代不同歌合』では大江匡房と番えられている。
小倉百人一首 46 「由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方もしらぬ恋の道かな」
(「曾禰好忠=曽祢好忠=曽根好忠」・百人一首」周辺メモ)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yositada.html#LV
由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方もしらぬ恋の道かな(百人一首46・新古1071)
【通釈】由良の門を渡る船頭が、櫂がなくなって行方も知れず漂うように、将来どうなるとも知れない恋の行方であるなあ。
【語釈】◇由良のと 紀伊国の由良海峡(和歌山県日高郡由良町)とする説と、丹後国の由良川の河口(京都府宮津市)とする説がある。古く万葉集に詠まれた「由良の岬」「由良の崎」は紀伊国であり、『八雲御抄』『歌枕名寄』『百人一首抄(細川幽斎)』など中世以来紀伊説を採る書が多かった。しかし契沖が『百人一首改観抄』で「曾丹集を見るに、丹後掾にてうづもれ居たることを述懐してよめる歌おほければ、此由良は丹後の由良にて」云々と指摘して以後、丹後説を採る論者も少なくない。その名から船がゆらゆらと揺れる様を暗示する。◇かぢをたえ 梶がなくなり。自動詞である「たえ」が助詞「を」を伴うのは、「根を絶え」(根が切れ、の意)などと同じ用法であろう。但し「梶緒絶え」と読んで「梶の緒(櫓をつなぐ綱)が切れ」の意と解する説もある。「かぢ」は櫂や櫓など、船を漕ぎ進めるための道具。
【補記】「かぢをたえ」までは「行方もしらぬ」を言い起こす序詞であるが、波のまにまに運ばれる舟のイメージによって不安な恋の行末を暗示している。
「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その八)
「和泉式部」に続く「曽祢好忠」の流れは、実にスムースである。これは、揮毫者の光悦の配慮ではなく、一に掛かって、『新古今集』の配列(「後鳥羽院」の好みなどもあるのだろうか?)に因るものである。
ここで、この両者の、「百人一首」(定家撰)の歌を並記すると、次のとおりである。
46 由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方もしらぬ恋の道かな(曽祢好忠)
(歌意: 由良の門を渡る船頭が、櫂がなくなって行方も知れず漂うように、将来どうなるとも知れない恋の行方であるなあ。)
56 あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな(和泉式部)
(歌意: もうすぐ私は死んでしまうでしょう。あの世へ持っていく思い出として、今もう一度だけお会いしたいものです。)
この「百人一首」の、「46(曽祢好忠)」と「56(和泉式部)」との、この絶妙のコラボ(相聞=贈答=共同=協同)的雰囲気が、本来、この二首は何らの関係をも有していないのに、あたかも、この二者が贈答歌のように伝わってくるのが、何とも不思議である。
これは、一重に、「56 あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな(和泉式部)」の、この「いつ、だれに、なにゆえに」なのか、一切「語らんとして語らざる」ところの「個別的な恋歌」から「普遍的な恋歌」へと転回させている、その「恋歌の魔術師」のような技の冴えに因るもののように思われる。
ここで、前回紹介した、次の「和泉式部評」(保田保田與重郎)が、その証しとなってくるであろう。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-19
【「和泉式部、紫式部、清少納言、赤染衞門、相模、などいふ當時の女性らの名を漠然とあげるとき、今に當つては、氣のとほくなるやうな旺んな時代の幻がうかぶのみである。しかし和泉式部の歌は、輩出したこれらの稀代の才女、天才の中にあつて、容易に拔き出るものであつた。當時の人々の思つた業(ごふ)のやうな美しさをヒステリツクにうたひあげ、人の心をかきみだして、美しく切なくよびさますものといへば、いくらか彼女の歌の表情の一端をいひ得るであらうか」(保田與重郎『和泉式部私抄』)。】
この資質稀なる「恋歌の魔術師」の「和泉式部」に対応する、低い身分(丹後掾=丹後国の三等官)のままに、「狂惑のやつなり」(『袋草紙(上)』の藤原長能の評)と畏怖されつつも蔑視の評を受け続けた異端の歌人「曽祢好忠」の、この「46 由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方もしらぬ恋の道かな」の、この「行方もしらぬ」というのが、絶妙に和しているということなのであろう。
かた岡の雪間にねざす若草のほのかに見てし人ぞこひしき(曽祢好忠「新古今1022」)
(歌意:片岡の雪の間に根ざして生え出てくる若草の先のように、ちらっと見ただけの人が恋しくてたまらないことだ。)
跡をだに草のはつかに見てしがな結ぶばかりのほどならずとも(和泉式部「新古今1023)
(歌意:あなたの筆跡だけでも、わずかでいいから見たいものだ。契りを結ぶというほどではなくても。)
この二首は、『新古今集巻第十一』(恋歌一)に並列されている「曽祢好忠・和泉式部」の恋歌である。歌意は『新編日本古典文学全集43 新古今和歌集』に因っている。
この「曽祢好忠・和泉式部」の二首は、「春日野の雪間にわけておひいでくる草のはつかに見えし君はも」(壬生忠岑「古今478」)の本歌取りの歌で、この曽祢好忠の歌は「作者独自の新鮮味がある」とし、和泉式部の歌は「本歌の『草のはつかに』を取って初々しく詠み、巧みである」と評されている(『新編日本古典文学全集43 新古今和歌集』)。
この二人は、『古今集』から『新古今集』を結ぶ「中古三十六歌仙」の代表的な歌人で、
その後の『新古今集』の歌人群に大きな影響を与えたことが察知される。この二首が収載されている『新古今集巻第十一』(恋歌一)には、式子内親王の代表的な「百人一首89」の次の恋歌も収載されている。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(式子内親王「新古1034」)
(歌意:わたしの命よ。絶えてしまうというなら絶えてしまっておくれ。生き続けていたならば、秘めている力が弱って、秘めきれなくなるかもしれないのだよ。)
この式子内親王の恋歌には、「百首歌の中に、忍恋を」との詞書が付してある。この「百首歌」は、「百首の和歌をまとめてよんだもの。はじめたのは平安中期の曾禰好忠・源重之などで、一人で四季・恋・雑など各部類にわたって百首よむものであったが、平安末期になると、『堀河百首』『永久百首』『久安百首』などのように、数人が集まって一人百題ずつよむ『組題』が盛んに行なわれ、鎌倉時代にはいってますます流行し、形式も多岐にわたった。また、『小倉百人一首』のように、一人一首ずつ百人の歌を集めたものもある。百首の歌。百首和歌。百首。」(精選版 日本国語大辞典)と、一人で百首詠む場合と、数人で詠む場合と別れ、式子内親王の歌の詞書「百首歌の中に、忍恋を」とは、数人で詠む百首歌で、その「組題」の一つが「忍恋」と理解をして置きたい。
その上で、この百首歌のうち、一人で百首詠む、その原形は、曽祢好忠の家集『曾丹集』(「毎月集」「百首歌」「つらね歌」などの構成)の、「百首歌(好忠百首)」(「四季・恋・沓冠・物名」などの構成)などにあると、下記のアドレスで説明されている。
https://kotobank.jp/word/百首歌-120954
https://kotobank.jp/word/曾丹集-90152
(曽祢好忠の「つらね歌」、そして、「沓冠(くつかぶり)」)
思ふつゝふるやのつまの草も木も風吹ごとに物をこそ思へ →沓=思へ
思へ共かひなくてよを過すなるひたきの島と恋や渡らむ →冠=思へ 沓=渡らむ
渡らむと思ひきざして藤河の今にすまぬは何の心ぞ →冠=渡らむ
(注)これは「つらね歌」(「尻取り連歌」)の例で、「沓冠(くつかぶり)」(二重折句)については、下記のアドレスのものが参考となる。
https://watayax.com/2018/12/17/oriku-kutukaburi/
上記は、『現代語訳 日本の古典3 古今集・新古今集(大岡信著)』を参考としてるのだが、下記のアドレスで、「曽祢好忠の特異性について(藤岡忠美稿)」の論考を目にすることができる。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chukobungaku/2/0/2_50/_pdf/-char/en
さらに、下記のアドレスで、「〈毎月百首を詠む〉ということ―『毎月抄』の時代―(渡 邉裕美子稿)」の論考も目にすることができる。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/62/7/62_2/_pdf
これらの論考では、「曽祢好忠と和泉式部」との関わりについては、直接的には触れられていないのだが、『新典社研究叢書 和泉式部の方法試論(久保木寿子著)』の中で、和泉式部が、曽祢好忠の「好忠百首」から大きな示唆を受けていたことが読み取れる(その関係する「目次」を下記に掲げて置きたい)。
https://shintensha.co.jp/product/和泉式部の方法試論/
↓
Ⅲ 初期定数歌論
第一章 和泉式部の詠歌環境―その始発期―
第一節 和泉式部と河原院
第二節 花山院の和歌
第二章 初期定数歌の成立と展開
第一節 初期定数歌と私家集―「好忠百首」を中心に―
第二節 初期定数歌の神祇意識―「好忠百首」を起点に―
第三章 男性百首から女性百首へ
第一節 「重之女百首」論―「重之百首」からの離陸―
第二節 『賀茂保憲女集』試論―初期百首と暦的観念―
第三節 『相模集』「初事歌群」論―成立をめぐって―
第四章 初期定数歌の歌ことば―その生成と展開―
第一節 公任の和歌観と初期定数歌
第二節 初期定数歌の歌ことば
第三節 「弘徽殿女御生子歌合」の和歌と判詞
「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の五「藤原長能・和泉式部・曽根好忠」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)
「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(曽根好忠・相模)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(MOA美術館蔵) 三三・五×四二七・五㎝
10 曾禰好忠:あきかぜのよそに吹きくるをとは山何のくさきかのどけかるべき
(釈文)安支可勢乃よ曽尓吹久類をとハ山何濃久左き可乃ど介可るべ幾
(「曾禰好忠」周辺メモ)
https://open.mixi.jp/user/17423779/diary/1965983342
秋風のよそにふきくるおとは山なにの草木かのどけかるべき
曾禰好忠
題しらず
新古今和歌集 巻第三 秋歌上 371
「秋風の遠く彼方に吹くのが聞こえる音羽山よ。あのひびきを聞くさえどんな草木も心静かにしてはいられないであろう。」『新日本古典文学大系 11』p.119
好忠集「三百六十首和歌・七月おはり」、二句「よもにふきくる」。
本歌「秋風の吹きにし日よりおとは山峰の木末も色づきにけり」(紀貫之 古今 秋下)。
おとは山 山城国の歌枕。和歌初学抄[平安時代後期の歌人藤原清輔 1104-1177 による歌学書]「音することにそふ」。
「秋風」の歌。
曾禰好忠(そねのよしただ 生没年未詳)平安時代中期の歌人。
拾遺集初出。詞花集最多入集歌人。新古今十六首。勅撰入集計九十二首。
隠岐での後鳥羽院による『時代不同歌合』では大江匡房と番えられている。
小倉百人一首 46 「由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方もしらぬ恋の道かな」
(「曾禰好忠=曽祢好忠=曽根好忠」・百人一首」周辺メモ)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yositada.html#LV
由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方もしらぬ恋の道かな(百人一首46・新古1071)
【通釈】由良の門を渡る船頭が、櫂がなくなって行方も知れず漂うように、将来どうなるとも知れない恋の行方であるなあ。
【語釈】◇由良のと 紀伊国の由良海峡(和歌山県日高郡由良町)とする説と、丹後国の由良川の河口(京都府宮津市)とする説がある。古く万葉集に詠まれた「由良の岬」「由良の崎」は紀伊国であり、『八雲御抄』『歌枕名寄』『百人一首抄(細川幽斎)』など中世以来紀伊説を採る書が多かった。しかし契沖が『百人一首改観抄』で「曾丹集を見るに、丹後掾にてうづもれ居たることを述懐してよめる歌おほければ、此由良は丹後の由良にて」云々と指摘して以後、丹後説を採る論者も少なくない。その名から船がゆらゆらと揺れる様を暗示する。◇かぢをたえ 梶がなくなり。自動詞である「たえ」が助詞「を」を伴うのは、「根を絶え」(根が切れ、の意)などと同じ用法であろう。但し「梶緒絶え」と読んで「梶の緒(櫓をつなぐ綱)が切れ」の意と解する説もある。「かぢ」は櫂や櫓など、船を漕ぎ進めるための道具。
【補記】「かぢをたえ」までは「行方もしらぬ」を言い起こす序詞であるが、波のまにまに運ばれる舟のイメージによって不安な恋の行末を暗示している。
「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その八)
「和泉式部」に続く「曽祢好忠」の流れは、実にスムースである。これは、揮毫者の光悦の配慮ではなく、一に掛かって、『新古今集』の配列(「後鳥羽院」の好みなどもあるのだろうか?)に因るものである。
ここで、この両者の、「百人一首」(定家撰)の歌を並記すると、次のとおりである。
46 由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方もしらぬ恋の道かな(曽祢好忠)
(歌意: 由良の門を渡る船頭が、櫂がなくなって行方も知れず漂うように、将来どうなるとも知れない恋の行方であるなあ。)
56 あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな(和泉式部)
(歌意: もうすぐ私は死んでしまうでしょう。あの世へ持っていく思い出として、今もう一度だけお会いしたいものです。)
この「百人一首」の、「46(曽祢好忠)」と「56(和泉式部)」との、この絶妙のコラボ(相聞=贈答=共同=協同)的雰囲気が、本来、この二首は何らの関係をも有していないのに、あたかも、この二者が贈答歌のように伝わってくるのが、何とも不思議である。
これは、一重に、「56 あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな(和泉式部)」の、この「いつ、だれに、なにゆえに」なのか、一切「語らんとして語らざる」ところの「個別的な恋歌」から「普遍的な恋歌」へと転回させている、その「恋歌の魔術師」のような技の冴えに因るもののように思われる。
ここで、前回紹介した、次の「和泉式部評」(保田保田與重郎)が、その証しとなってくるであろう。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-19
【「和泉式部、紫式部、清少納言、赤染衞門、相模、などいふ當時の女性らの名を漠然とあげるとき、今に當つては、氣のとほくなるやうな旺んな時代の幻がうかぶのみである。しかし和泉式部の歌は、輩出したこれらの稀代の才女、天才の中にあつて、容易に拔き出るものであつた。當時の人々の思つた業(ごふ)のやうな美しさをヒステリツクにうたひあげ、人の心をかきみだして、美しく切なくよびさますものといへば、いくらか彼女の歌の表情の一端をいひ得るであらうか」(保田與重郎『和泉式部私抄』)。】
この資質稀なる「恋歌の魔術師」の「和泉式部」に対応する、低い身分(丹後掾=丹後国の三等官)のままに、「狂惑のやつなり」(『袋草紙(上)』の藤原長能の評)と畏怖されつつも蔑視の評を受け続けた異端の歌人「曽祢好忠」の、この「46 由良のとをわたる舟人かぢをたえ行方もしらぬ恋の道かな」の、この「行方もしらぬ」というのが、絶妙に和しているということなのであろう。
かた岡の雪間にねざす若草のほのかに見てし人ぞこひしき(曽祢好忠「新古今1022」)
(歌意:片岡の雪の間に根ざして生え出てくる若草の先のように、ちらっと見ただけの人が恋しくてたまらないことだ。)
跡をだに草のはつかに見てしがな結ぶばかりのほどならずとも(和泉式部「新古今1023)
(歌意:あなたの筆跡だけでも、わずかでいいから見たいものだ。契りを結ぶというほどではなくても。)
この二首は、『新古今集巻第十一』(恋歌一)に並列されている「曽祢好忠・和泉式部」の恋歌である。歌意は『新編日本古典文学全集43 新古今和歌集』に因っている。
この「曽祢好忠・和泉式部」の二首は、「春日野の雪間にわけておひいでくる草のはつかに見えし君はも」(壬生忠岑「古今478」)の本歌取りの歌で、この曽祢好忠の歌は「作者独自の新鮮味がある」とし、和泉式部の歌は「本歌の『草のはつかに』を取って初々しく詠み、巧みである」と評されている(『新編日本古典文学全集43 新古今和歌集』)。
この二人は、『古今集』から『新古今集』を結ぶ「中古三十六歌仙」の代表的な歌人で、
その後の『新古今集』の歌人群に大きな影響を与えたことが察知される。この二首が収載されている『新古今集巻第十一』(恋歌一)には、式子内親王の代表的な「百人一首89」の次の恋歌も収載されている。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(式子内親王「新古1034」)
(歌意:わたしの命よ。絶えてしまうというなら絶えてしまっておくれ。生き続けていたならば、秘めている力が弱って、秘めきれなくなるかもしれないのだよ。)
この式子内親王の恋歌には、「百首歌の中に、忍恋を」との詞書が付してある。この「百首歌」は、「百首の和歌をまとめてよんだもの。はじめたのは平安中期の曾禰好忠・源重之などで、一人で四季・恋・雑など各部類にわたって百首よむものであったが、平安末期になると、『堀河百首』『永久百首』『久安百首』などのように、数人が集まって一人百題ずつよむ『組題』が盛んに行なわれ、鎌倉時代にはいってますます流行し、形式も多岐にわたった。また、『小倉百人一首』のように、一人一首ずつ百人の歌を集めたものもある。百首の歌。百首和歌。百首。」(精選版 日本国語大辞典)と、一人で百首詠む場合と、数人で詠む場合と別れ、式子内親王の歌の詞書「百首歌の中に、忍恋を」とは、数人で詠む百首歌で、その「組題」の一つが「忍恋」と理解をして置きたい。
その上で、この百首歌のうち、一人で百首詠む、その原形は、曽祢好忠の家集『曾丹集』(「毎月集」「百首歌」「つらね歌」などの構成)の、「百首歌(好忠百首)」(「四季・恋・沓冠・物名」などの構成)などにあると、下記のアドレスで説明されている。
https://kotobank.jp/word/百首歌-120954
https://kotobank.jp/word/曾丹集-90152
(曽祢好忠の「つらね歌」、そして、「沓冠(くつかぶり)」)
思ふつゝふるやのつまの草も木も風吹ごとに物をこそ思へ →沓=思へ
思へ共かひなくてよを過すなるひたきの島と恋や渡らむ →冠=思へ 沓=渡らむ
渡らむと思ひきざして藤河の今にすまぬは何の心ぞ →冠=渡らむ
(注)これは「つらね歌」(「尻取り連歌」)の例で、「沓冠(くつかぶり)」(二重折句)については、下記のアドレスのものが参考となる。
https://watayax.com/2018/12/17/oriku-kutukaburi/
上記は、『現代語訳 日本の古典3 古今集・新古今集(大岡信著)』を参考としてるのだが、下記のアドレスで、「曽祢好忠の特異性について(藤岡忠美稿)」の論考を目にすることができる。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chukobungaku/2/0/2_50/_pdf/-char/en
さらに、下記のアドレスで、「〈毎月百首を詠む〉ということ―『毎月抄』の時代―(渡 邉裕美子稿)」の論考も目にすることができる。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/62/7/62_2/_pdf
これらの論考では、「曽祢好忠と和泉式部」との関わりについては、直接的には触れられていないのだが、『新典社研究叢書 和泉式部の方法試論(久保木寿子著)』の中で、和泉式部が、曽祢好忠の「好忠百首」から大きな示唆を受けていたことが読み取れる(その関係する「目次」を下記に掲げて置きたい)。
https://shintensha.co.jp/product/和泉式部の方法試論/
↓
Ⅲ 初期定数歌論
第一章 和泉式部の詠歌環境―その始発期―
第一節 和泉式部と河原院
第二節 花山院の和歌
第二章 初期定数歌の成立と展開
第一節 初期定数歌と私家集―「好忠百首」を中心に―
第二節 初期定数歌の神祇意識―「好忠百首」を起点に―
第三章 男性百首から女性百首へ
第一節 「重之女百首」論―「重之百首」からの離陸―
第二節 『賀茂保憲女集』試論―初期百首と暦的観念―
第三節 『相模集』「初事歌群」論―成立をめぐって―
第四章 初期定数歌の歌ことば―その生成と展開―
第一節 公任の和歌観と初期定数歌
第二節 初期定数歌の歌ことば
第三節 「弘徽殿女御生子歌合」の和歌と判詞
この「和泉式部」から「曽祢好忠」の流れで、この流れを「光悦・宗達・素庵」の三者の中で、一番、その流れを、自家薬籠中にしている人物は、やはり、一番年長の、「古今伝授」の系譜を、それとなく、匂わせている「」本阿弥光悦」その人ではなかろうか。素庵(漢詩人)・宗達(画人=法橋)とすると光悦(書家=「仮名の詩人」)という、不正確だが、そんなイメージなのである。
そして、この「狂惑のやつなり」の異名を冠せられている「曽祢好忠」は、抱一が私淑して止まなかった、「江戸座俳諧=洒落俳諧=「言葉の魔術師=言霊の俳諧」等々(???)」の世界に連なっている思いがする。
それにしても、この「和泉式部→曽祢好忠→相模」の流れは面白い。
by yahantei (2020-05-22 16:39)
そして、この「狂惑のやつなり」の異名を冠せられている「曽祢好忠」は、抱一が私淑して止まなかった、「江戸座俳諧=洒落俳諧=「言葉の魔術師=言霊の俳諧」等々(???)」の世界に連なっている思いがする。
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一番大事な主人公の「宝井其角」が抜けてしまった。
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「曽祢好忠」→「宝井其角」→「酒井抱一」の流れをが、その『屠龍之技』(「軽挙道人=酒井抱一」句集)とすると、「和歌→連歌→俳諧」の「抱一の世界」が、やや、その正体を現わしてくる。
by yahantei (2020-05-22 16:54)