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東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その七 [東洋城・豊隆・青楓]

その七「俳誌・渋柿(454号/昭和27・2)・『本社移転』など」

城主御隠退後に処する覚悟.jpg

「俳誌・渋柿(454号/昭和27・2)」所収「城主御隠退後に処する覚悟・北雪南花(山冬子宛)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071585/1/10

東洋城・幕.jpg

「俳誌・渋柿(454号/昭和27=1952・2)」所収「幕(松根東洋城)・奥付」(C図)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071585/1/11

(目次)

東洋城近詠/表2
卷頭句 / 東洋城/p1~12
句作問答/p1~7
卷頭句選引繼の挨拶 / 喜舟/p13~13
課題句/p14~15
御隱退後に處する覺悟 / 同人代表/p16~17
松山例會/p11~11
諸處のまとゐ/p11~12
本社移轉/p7~10
添削應求/p19~19
幕 / 東洋城/p18~18
古稀遺言/p20~20
奥付/表紙の3
題僉 / 夏目漱石

(東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和十九年(1944) 六十七歳
 空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る。『続山を喰ふ』『不衣の句を講ず』を連載。紙の配給減り十六頁の「渋柿」となる。
昭和二十年(1945) 六十八歳
 宇和島の邸宅土蔵戦火に会ひ、始祖伝来の家宝を失ふ。信州より焦土の都往復、「渋柿」の刊行続く。『楽木林森』『八月十四日以降』連載。能成文部大臣に親任。
昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。露伴没。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。伊予を遍歴。
昭和二十四年(1949) 七十二歳
 浅間山麓より帰京。「山籠解脱記」「流浪記」連載。伊予を遍歴指導。伊予小野小学校に、句碑建つ。十二月、森田草平没。
昭和二十五年(1950) 七十三歳
 伊予の山峡に一畳庵を結び、滞留五か月に及ぶ。松山太山に句碑、宇和島の邸宅に句碑建つ。寺田寅彦全集編纂。二月、野上臼川没。
昭和二十六年(1951) 七十四歳
 伊予に避暑、引つづき一畳庵にて越年。松山にて子規五十年忌を修し「子規没後五十年」執筆。皇太后大喪。
昭和二十七年(1952) 七十五歳
 一月、誌事より隠居、巻頭句選を(野村)喜舟に、編集発行を(徳永)山冬子・夏川女に託す。久米正雄没。伊香保に避暑。「俳句」創刊さる。
昭和二十八年(1953)七十六歳
 伊香保に避暑。伊香保に句碑建つ。
昭和二十九年(1954)七十七歳
 一月、芸術院会員に任命さる。宮中に召され、陛下より賜餐。「昭和文学全集」昭和俳句集、角川書店刊。
昭和三十年(1955)七十八歳
 「五百号記念号」観、筆跡写真多数掲載。
昭和三十一年(1956)七十九歳
 伊予川内町、総河内神社に句碑建つ。三十年末、関西に遊び、翌一月中旬帰京。松本、新潟、別府、小倉、山陰等を訪ふ。伊香保に避暑。冬、又中国を訪ふ。
昭和三十二年(1957)八十歳
 北陸、伊勢、山口に遊ぶ。軽井沢に避暑。パラチフスの疑いで、逓信病院に隔離入院。程なく退院。万太郎文化勲章を受く。大晦日に西した。『現代日本文学全集』現代俳句集、筑摩書房刊。
昭和三十三年(1958)八十一歳
 京阪に遊び、長州の妹を訪ふ。蔵王に遊ぶ。軽井沢に避暑。港区芝高輪南町二十九、渋沢家へ移転。伊東にて越年。


(管見)

一 「俳誌・渋柿(453号/昭和27・1)」(「東洋城『隠居之辞)』)に続く、その「俳誌・渋柿(454号/昭和27・2)」は、それまでの「渋柿本社=「東京都品川区上大崎町一丁目四百七番地(編集発行人:松根卓四郎=松根東洋城主宰)、印刷者・印刷所:松本寅吉(両毛印刷所)=小林晨悟(発行所=渋柿社発行部=栃木市倭町二百九十五番地)」が、「渋柿本社=「東京都杉並区堀之内一ノ二二六・徳永智方=「徳永山冬子・夏川女」編集発行人、野村喜舟主宰(福岡県市小倉在住)と代替わりすることとなる。

本社移転その一.jpg

「渋柿(431号/昭和25年1950・3月号)」の「奥付」(A図)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071562/1/10

本社移転その二.jpg

「渋柿(431号/昭和27年1952・1月号)」の「奥付」(B図)
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071585/1/11

二 「渋柿(431号/昭和27年=1952・1月号)」の後、国立国会図書館デジタルコレクション所収のものでは、『渋柿』(496号/昭和30年=1955年8月号)」と飛び、その間は欠号となる。さらに、それに続くのが、その後でも、『渋柿』(510号/昭和31年=1956年10月号)」と、欠号が続き、昭和二十七年(一九五二)から、昭和三十一年(一九五六)までの、
その管見を見て行くのは、甚だ難儀のことになる。
 これらのことについて、『東洋城全句集(中・下巻)』と『渋柿の木の下で(中村英利子著)』との、この間の記述を見て行くと、「俳誌・渋柿」にとって、この間の特筆して置くことは、以下のようなことになる。

三 「徳永山冬子が引き受けた『渋柿』の昭和二十七年二月号には、「城主御隠退後に処する覚悟」という一文が同人代表名で掲載された。執筆者は西岡十四王である。同人代表というのは会社の役員のようなもので、合議制で編集・運営をしていく。最初、東洋城が指名したのは九名であったが、山冬子は全国的な視野に立つと伊予に地域がかたよっているように思えたので、京阪代表、湘南横浜代表、栃木代表のほか、東京地方にもう一名加え、バランスを取った。また新企画として、有力作家を次々に課題句選者にすることを独断で決め、同人代表会に対して事後承認を得た。(中略)
 それを受け、六月には文芸評論家の山本健吉が、
『今年になって渋柿は七五翁の松根東洋城が退いて高弟野村喜舟が選者となった。同誌はこれまで、全く紙のカーテンを下ろされた王国で、同人は他誌への出句も禁じられていたが、喜舟の代になってから旧友の万太郎・秋櫻子・蛇笏なども祝辞を寄せているところを見ると、鎖国主義を廃止して風通しをよくするらしい。四十年の眠りをやっと覚ますわけである。』」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)

四 「昭和二十七年の六月号に、この年「芸術院賞」を受けた山鹿清華が次の一文を寄せた。(中略)
『東洋城先生は京大時代から宣伝嫌いは有名で、もとより名誉とか表彰とかを考えてはおられますまいが、今度の渋柿継承という先生畢生の事業を受け継がれた諸彦(皆様方)は、全責任と義務があると思います。まず東洋城先生を現在の日本に再認識させ、芸術院会員にせねばならぬと思います。たとえそれが先生の意志に反することであっても、明治大正昭和の俳句界に尽くされた功績に対して、芸術院会員にするのが当然であります。それは先生のためなるのみらず、日本の文学史上に誤られざる正しき記録をするという点からも必要なことであります。』 
 この願いは、東洋城が隠退して二年後の昭和二十九年に現実のものとなり、東洋城は日本芸術院会員に任命された。俳人としては高浜虚子に次いで二人目である。(中略)
 この受賞に対し、友人の小宮豊隆は、こんな文章を寄せた。
『私の従兄で、昔砲兵工廠に勤めていた工学士の技師が、俳句の先生を紹介してくれというので、私は東洋城に頼んで行ってもらうことにしたが、しかししばらくすると従兄は、東洋城先生はどうもやかましくて困ると言い出した。東洋城は自分のいいと信じるところを人に説くのはいいが、その説くところから一寸でも一分でも、ちょっとでもそれると、黙って見ていることができない。つまり自分があるくとおりに、弟子をあるかせないと気がすまないのである。これは東洋城が「殿様」で、従って自分はこれを正しいと信じているが、しかしその正しいと信じているところがはたして正しいかどうかと、自分で疑ってみたことが、これまで一度もなかったせいかではないかと思う。東洋城は俳句においては、自分は子規の弟子ではなく、漱石の弟子であると公言している。また東洋城は、芭蕉を尊敬し、自分は芭蕉の道を歩いているのだと、自認している。しかし漱石は無論のこと、芭蕉でも東洋城のような「殿様」ではない。さんざ迷い、疑い、悶え、悩みしたあとで、ようやく自分の道を築き上げているのである。その点で東洋城はもっともっと苦労する必要、苦労人になる必要があったと思う。今度、東洋城はが芸術院の会員に選ばれたのは、その点で友人としてありがたい気がする。』
 すこしばかり「やれやれ」という想いと、「まあ良かった」という想いが混じり合っている。東洋城が芸術院賞を受けるにあたって尽力したのは、久保田万太郎という説もあるが。漱石門下の後輩で、戦後すぐ文部大臣になった安倍能成によると、それは小宮豊隆だという。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』)

 この東洋城と寺田寅彦と、そして、もう一人の「渋柿俳諧(連句)」の連衆の、その畏友の、この「小宮豊隆」の、この東洋城の、その日本芸術院会員に任命された際の、その評は、これこそ、「俳誌・渋柿(号/昭和27・)・東洋城『隠居之辞』」の、それまでの、「東洋城による、東洋城のための、東洋城による」、その「東洋城主宰・東洋城(松根卓四郎)社主・東洋城編集・東洋城発行」の「俳誌・渋柿」から、「『野村喜舟主宰(他主要同人)』」による、『徳永(智=山冬子)社主による、そして、『徳永山冬子・夏川女(「山冬子・夏川女御夫妻」、そして、それをサポートする、『松永凡草・六花女』)の、その新生の、「俳誌・渋柿」へと移行ということになる。

五 「徳永山冬子・夏川女」と「松岡凡草・六花女」

https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/52/view/6918

「徳永山冬子と夏川女」

 徳永山冬子(明四〇~) 宇和島市生まれ。昭和四年、家業(織物製造・度量衡器販売)に従事、同業(織物)の大塚刀魚に勧められて「滑床会」に入会して「渋柿」に投句、翌年、「水馬よくさかのぼる一つかな」が初入選、以来一回も休まず勉強して今日に至る。昭和二七~四一年の間、「渋柿」の編集・発行に従い、その間、妻・夏川女(~昭三九・59歳)もよくこれを助けた。昭和五二年以来「渋柿」主宰。なお、「水馬」は「あめんぼう」・「みずすまし」のこと。

  月からの冷えの及びし浴衣かな   徳永山冬子
  夢も凍る春寒の夜ありにけり    夏川女(手帳最後の句) 」

「 松岡凡草と六花女

 松岡凡草(~昭五八・84歳) 北条市生まれ。大正一三年、日本勧業銀行に入行、初代松山支店次長 本社「宝くじ」部長など勤務。大正一四年病気帰省中、仙波花叟に師事して渋柿風早句会に入会、昭和三年上京してより東洋城に師事、妻・六花女(明三七~。松山市生まれ。凡草の母と六花女の母とは姉妹)と二人で、東京・戸塚の邸内に、晩年の東洋城のために一庵を提供し、『東洋城全句集』の刊行に努力し、昭和四四年からは渋柿社の運営を総括し、編集・発行人(社主)となったが、凡草没(昭五八・万一四)後の三月からは六花女が、松岡キミエの本名で編集・発行人となった。同年五月号は凡草追悼号となった。

  瓢重う老仙冬を構へたり     凡草(昭和五八年元旦試筆句)
  夫急逝 亡き夫の咳響き来る座敷かな   六花女           」


六 昭和二十九年(一九五四)、東洋城、七十七歳時の「芸術院賞」を受賞し参内した折の句は、次のとおりである。

 吾が車大内山へ霞かな
 階(きざはし)や下駄を草履に春の風
 春空し宮居の疇昔(きのふ)杉戸の絵
 龍顔(※りょうがん)の霞もまさず咫尺(※しせき)かな(※龍顔=帝王の顔。※咫尺=貴人の前近くに出て拝謁すること。)
 春床し御頸飾(ネクタイ)の縞色目
 羹(あつもの)や銀匙うららかに舌青春
  春海の伊勢鰕(えび)やトロリ葡萄酒煮
 焙(あぶり)肉に鮮菜雪(せんさいゆき)や春宴
 春昼やお物語の席のお茶
 御下問に春吟朗す一句かな
  (『東洋全句集・中巻』所収「昭和二十九年」)

七 昭和三十年(一九五五)十二月号の「渋柿」が、「五百号記念号」なのだが、「国立国会図書館デジタルコレクション」では、これらは欠号となっている。この「五百号記念号」周辺については、下記アドレスの、昭和三十一年(一九五六)十二月号「渋柿」(五百十二号)所収「渋柿五百号史(5) / 徳永山冬子/p47~51」に記述されている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071589/1/25

八 昭和三十二年(一九五七)、東洋城、八十歳時の、「渋柿」(五百十九号)には、下記のアドレスによる「故山の俳句 / 石田波郷/p34~36」などが収載されている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/6071596/1/19

九 昭和三十三年(一九五八)、東洋城は、昭和九年(一九三四)、五十七歳時から移り住んでいる、実弟の松根卓四郎宅(品川区上大崎一丁目四七〇)の「鶴翼楼」から、港区芝高輪南町二十九(渋沢方)の借家に移住することになった。
 この東洋城の移住など、晩年の東洋城の身辺にあって、サポートし続けたのは、「松岡凡草・六花女」一家であった。
松岡凡草(明治三十二年・一八九九生れ)は、東洋城の末弟・松根宗一(明治三十年・一八九七)と同窓の東京商科大(一橋大)で、同行の日本興業銀行勤務と、親しい関係にあり、この当時、松根宗一は、原子力産業会議や副会長などをつとめ、財界の顔役の一人であったので、その宗一の長兄の東洋城は、当時の「渋柿」の同人の中にあって、一番心許せる門弟の一家(「凡草・六花女=編集・発行人(社主)と潔(「渋柿」六代主宰)」)であったということになる。

(「渋柿」沿革)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%9F%BF

1914年(大正3年)松根東洋城が宮内省式部官のとき、大正天皇から俳句について聞かれ「渋柿のごときものにては候へど」と答えたことが有名となった。
1915年(大正4年)松根東洋城が俳誌『渋柿』を創刊主宰。
1916年(大正5年)正岡子規没後『ホトトギス』を継承した高浜虚子が、東洋城を『国民新聞』俳壇の選者から下ろし、代わって虚子自身が選者になったことを契機に東洋城は『ホトトギス』を離脱した。
1952年(昭和27年)東洋城は隠居を表明し、主宰を創刊時から選者として参加し、「国民新聞」の俳句欄で活躍していた門下の野村喜舟に譲る。24年間主宰を務める。句集『小石川』「紫川」などを発刊し、小倉北区の篠崎八幡神社には「鶯や紫川にひびく声」の句碑がある。
1976年(昭和51年)徳永山冬子主宰。4年間主宰を務める。
1990年(平成2年)米田双葉子主宰。8年間主宰を務める。
1998年(平成10年)渡部抱朴子主宰。12年間主宰を務める。俳人協会評議員、子規顕彰全国短歌大会選者などを歴任。愛媛県西条市石鎚山ハイウェイオアシスには「山石鎚 海瀬戸内や 秋晴るる」、愛媛県中山町永田三島神社には「神苑の 木洩日蒼き 五月かな」の句碑がある。
2010年(平成22年)松岡潔主宰。
2015年(平成27年)渡邊孤鷲主宰。
2022年(令和4年)安原谿游主宰代行。
2023年(令和5年)安原谿游主宰。

十 「渋柿(536)」(昭和三十三年=一九五八/十二月号)」の「東洋城近詠(叟愁十句)」は、次のとおりである。

 菊活けて鶴翼楼の別(わかれ)かな
 覚めて又惜む名残や月の楼
 かの銀杏黄ばみもうへず別かな(楼景万感四句)
 秋日射丘辺の墓も別かな(同上)
 散りのこる柳と去(ゐ)ぬる我とかな(同上)
 初冬の桜今咲け吾(あ)去ぬるに(同上)
 塵寒やキルクの床(ゆか)も藁草履(虚堂無物)
 家寒や冥路(よみぢ)の旅の一宿(やど)リ(三界無家)
憔悴を顔寒き鏡かな(煩忙三句神身損耗)
 冬陽炎鶴翼楼は亡かりけり   (『東洋城全句集・中巻』所収「昭和三十二年」)

東洋城近詠(叟愁十句).jpg

「渋柿(536)」(昭和三十三年=一九五八/十二月号)」所収「東洋城近詠(叟愁十句)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071613/1/33
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