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東洋城の「俳誌・渋柿」(管見)その五 [東洋城・豊隆・青楓]

その五「俳誌・渋柿(450号/昭和26・10)・東洋城『子規没後五十年』など」

子規没後五十年.jpg

「俳誌・渋柿(450号/昭和26・10)」所収「子規歿後五十年 / 城/p16~16」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071581/1/10

(目次)
卷頭語 / 秋谷立石山人/p表1
目白より / 安倍太古漫人/p表2
卷頭句 / 東洋城/p1~13
句作問答/p1~13
續 一疊庵(1)わたつみ序 / 東洋城/p14~15
句作問答(第二部)八月號/p15~15
燦華句集序 / 城/p15~15
子規歿後五十年 / 城/p16~16
前號正誤/p17~17
用語解/p17~17
社告/p13~13,17~17
東洋城近詠 一疊庵/p18~18
凝視 / ひむがし/p18~18
奥付/p表紙の3
題僉 / 夏目漱石


(東洋城年譜)(『東洋城全句集(中巻)』所収)

昭和十九年(1944) 六十七歳
 空襲激しくなり浅間山麓に籠山し、昭和二十四年に至る。『続山を喰ふ』『不衣の句を講ず』を連載。紙の配給減り十六頁の「渋柿」となる。
昭和二十年(1945) 六十八歳
 宇和島の邸宅土蔵戦火に会ひ、始祖伝来の家宝を失ふ。信州より焦土の都往復、「渋柿」の刊行続く。『楽木林森』『八月十四日以降』連載。能成文部大臣に親任。
昭和二十一年(1946) 六十九歳
 敗亡の後の困難と闘ひ、熱情と至誠を傾注して「渋柿」の毎月発行を指揮す。村上霽月没。
昭和二十二年(1947) 七十歳
 「渋柿」四百号に達す。露伴没。
昭和二十三年(1948) 七十一歳
 古稀を迎ふ。「古稀遺言」連載。伊予を遍歴。
昭和二十四年(1949) 七十二歳
 浅間山麓より帰京。「山籠解脱記」「流浪記」連載。伊予を遍歴指導。伊予小野小学校に、句碑建つ。十二月、森田草平没。
昭和二十五年(1950) 七十三歳
 伊予の山峡に一畳庵を結び、滞留五か月に及ぶ。松山太山に句碑、宇和島の邸宅に句碑建つ。寺田寅彦全集編纂。二月、野上臼川没。
昭和二十六年(1951) 七十四歳
 伊予に避暑、引つづき一畳庵にて越年。松山にて子規五十年忌を修し「子規没後五十年」執筆。皇太后大喪。

続一畳庵.jpg

「俳誌・渋柿(450号/昭和26・10)」所収「續 一疊庵(1)わたつみ序 / 東洋城/p14~15」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071581/1/10


(管見)

一 正岡子規が没したのは、明治三十五年(一九〇二)九月十九日、満三十四歳の若さである。その時、「ホトトギス」の「高浜虚子」は満二十八歳、そして、「渋柿」の「松根東洋城」は満二十四歳の時であった。
 爾来、この二人にとって、「旧制松山中学(現:愛媛県立松山東高等学校)」の先輩に当たる「正岡子規」は、終始、「忘れ得ざる大先達」であった。
そこに、この「正岡子規」と同年(慶應三年=一八六年)生まれの、「東大予備門(のち一高、現:東大教養学部)」以来の「正岡子規」の畏友「夏目漱石」(「旧制松山中学(現:愛媛県立松山東高等学校)」の教師として赴任)が介在してくることになる。
これらの経過については、下記のアドレスなどで見て来た。この「夏目漱石」(そして、その門弟の「寺田寅彦)も、この「正岡子規」門に連なる俳人ということになる。

「子規と漱石の世界」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/c2306351243-1

「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見
https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/c2306352448-1

「東洋城・寅日子(寅彦)・蓬里雨(豊隆)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/archive/c2306354706-1

 その東洋城が、この「子規没後五十年」においては、「芭蕉に直結する吾が渋柿は由来居士(※子規)とは余り関係は持たず、自然催しには圏外に在つた」と、これは、言外に、「子規→虚子」ナガレの、日本俳壇中主流を占めている「俳誌・ホトトギス」を向けての批判を含んでいると解して差し支えなかろう。
 東洋城の「芭蕉・子規」論については、「渋柿(昭和七年=一九三二・五十五歳)四月号」において、「子規は実に俳諧復活救世主なり」と、「芭蕉・子規」とを骨格に据えての、次のような「俳諧根本義」などの構想を有していた。

[一 1 譬喩
   2 実例(俳句連句及俳文)—実例による俳諧の暗示
   3 魔訶不思議なもの
 二 4 誕生
   5 芭蕉
   6 衰亡
   7 蘇生—蕪村其他時々人々
8 死滅
 三 9 復活—(子規は実に俳諧復活救世主なり)
 四 10 子規—俳諧復活の状態と作業方式
 五 11 子規の作品
 六 12 イ 時代に対して反動的でありし余勢は俳諧本来の面目に対して変動的なりき
    ロ 俳句を見て連句を見ず
    ハ 芭蕉は消極美の半面と蕪村は積極美の半面を開く(積極美消極美の別 の評)
    ニ 芭蕉は主観的美、蕪村は客観的美(同然批評)
    ホ 其他更に対比評(その評)
    ヘ 芭蕉—無欲捨身—生活則俳諧、蕪村—欲—俳句に区々名利を避けたれど
 七 13  俳諧本来の面目
    イ 子規の芭蕉観
    ロ 芭蕉へ芭蕉へ   ](『東洋城全句集下巻』所収「芭蕉・子規」)

 この東洋城の「芭蕉・子規」を骨格に据えての「俳諧根本義」(俳論)の全貌は、その纏まったものは、完結せずに終わってしまったが、「芭蕉二百五十年記念文—頭の無い恐竜」(「渋柿(昭和十八年=一九四三・四月号~昭和十九年=一九四四・二月号、六十六歳~六十七歳)で、その骨子について再説している。

 そこでは、「子規は『明治俳句』の再建に於て前に言つた如くその半分—下半身を作つたことになる。子規の後続大流はその残る半分—上半身を完成しなければならなかつた。果して子規没後子規の仕事は続けられ着々進行し、子規の時分には思ひもかけられない程な膨大な身柄になり行いた。胴体手足がメキメキ肥り寧ろ異常な発達を遂げた。が、どうしたことか、それは専ら形の方体の方即図。体ばかりで、不思議に上体殊に頭が無い。」とし、東洋城は、「芭蕉に還れ、這つて芭蕉から出直せ、でなければ句など作ることを止めてしまへ。」と、これが、「子規没後五十年」(「昭和二十六年(1951) 七十四歳」)の、東洋城の遺言とも言えるものであろう。

 糸瓜忌やほ句(※発句)堕ちし世も五十年(東洋城「子規没後五十年」・昭和二十六年作)

二 「續 一疊庵(1)わたつみ序 / 東洋城/p14~15」は、下記の前年(「昭和二十六年(一九六一)」の「一畳庵(1~5)」)の続編である。

昭和二十六年(一九六一)二月号「一疊庵(1) / 東洋城/p1~1」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071573/1/2
昭和二十六年(一九六一)三月号「一疊庵(2) / 東洋城/p16~16」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071574/1/10
昭和二十六年(一九六一)四月号「一疊庵(3) / 東洋城/p1」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071575/1/2
昭和二十六年(一九六一)五月号「一疊庵(4) / 東洋城/p1~1」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071576/1/2
昭和二十六年(一九六一)六月号「一疊庵(5)終 / 東洋城/p1~1」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071577/1/2

 しかし、この「續 一疊庵(1)わたつみ序 / 東洋城/p14~15」は、さながら、芭蕉の「幻
住記庵(げんじゅうあんのき)」の如きものである。

[石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。ふもとに細き流れを渡りて、翠微に登ること三曲(さんきょく)二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は彌陀(みだ)の尊像とかや。唯一の家には甚だ忌むなることを、両部(りょうぶ)光をやはらげ、利益(りやく)の塵を同じうしたまふも、また尊し。日ごろは人の詣でざりければ、いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸あり。蓬根笹(ねざさ)軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸(こり)ふしどを得たり。幻住庵といふ。あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子の伯父になんはべりしを、今は八年(やとせ)ばかり昔になりて、まさに幻住老人の名をのみ残せり。
 予また市中を去ること十年(ととせ)ばかりにして、五十年(いそぢ)やや近き身は、蓑虫の蓑を失ひ、蝸牛(かたつぶり)家を離れて、奥羽象潟(きさがた)の暑き日に面(おもて)をこがし、高砂子(たかすなご)歩み苦しき北海の荒磯にきびすを破りて、今年湖水の波にただよふ。鳰の浮巣の流れとどまるべき葦の一本(ひともと)のかげたのもしく、軒端ふきあらため、垣根ゆひそへなどして、卯月の初めいとかりそめに入りし山の、やがて出でじとさへ思ひそみぬ。
 さすがに春の名残も遠からず、つつじ咲き残り、山藤松にかかりて、時鳥(ほととぎす)しばしば過ぐるほど、宿かし鳥のたよりさへあるを、木啄(きつつき)のつつくともいはじなど、そぞろに興じて、魂、呉・楚東南に走り、身は瀟湘・洞庭に立つ。山は未申にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫(なんくん)峰よりおろし、北風湖(うみ)を浸して涼し。比叡(ひえ)の山、比良の高根より、辛崎の松は霞こめて、城あり、橋あり、釣たるる船あり、笠取に通ふ木樵(きこり)の声、ふもとの小田(おだ)に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。中にも三上山は士峰(しほう)の俤に通ひて、武蔵野の古き住みかも思ひ出でられ、田上山(たなかみやま)に古人をかぞふ。
 小竹生(ささほ)が嶽(たけ)・千丈が峰・袴腰といふ山あり。黒津の里はいと近う茂りて、「網代守(も)るにぞ」と詠みけん『万葉集』の姿なりけり。なほ眺望くまなからむと、うしろの峰に這ひ登り、松の棚作り、藁の円座(えんざ)を敷きて、猿の腰掛と名付く。かの海棠(かいどう)に巣を営(いとな)び、主簿峰(しゅぼほう)に庵を結べる王翁(おうをう)・徐栓(じょせん)が徒にはあらず。ただ睡癖(すいへき)山民と成って、孱顔(さんがん)に足を投げ出(い)だし、空山に虱をひねつて坐す。たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊ぐ。とくとくの雫(しずく)を侘びて、一炉(いちろ)の備へいとかろし。はた、昔住みけん人の、ことに心高く住みなしはべりて、たくみ置ける物ずきもなし。持仏一間を隔てて、夜の物納むべき所など、いささかしつらへり。
 さるを、筑紫高良山(こうらさん)の僧正は、賀茂の甲斐何某(なにがし)が厳子(げんし)にて、このたび洛にのぼりいまそかりけるを、ある人をして額を乞ふ。いとやすやすと筆を染めて、「幻住庵」の三字を送らる。やがて草庵の記念(かたみ)となしぬ。すべて、山居といひ、旅寝といひ、さる器(うつはもの)たくはふべくもなし。木曾の檜笠、越の菅蓑(すがみの)ばかり、枕の上の柱にかけたり。昼はまれまれ訪(とぶら)ふ人々に心を動かし、或(ある)は宮守の翁(おきな)、里の男(をのこ)ども入り来たりて、「猪の稲食ひ荒し、兎の豆畑(まめばた)に通ふ」など、わが聞き知らぬ農談、日すでに山の端(は)にかかれば、夜座(やざ)静かに、月を待ちては影を伴ひ、燈火(ともしび)を取りては罔両(もうりょう)に是非をこらす。
 かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やや病身、人に倦んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙き身の料(とが)を思ふに、ある時は任官懸命の地をうらやみ、一たびは仏離祖室の扉(とぼそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。「楽天は五臓の神(しん)を破り、老杜は痩せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻の住みかならずや」と、思ひ捨てて臥しぬ。
 先づ頼む椎の木も有り夏木立  ](「幻住庵の記(元禄3年4月6日~7月23日 47歳)」他)

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/genjuan/genju000.htm

 芭蕉の「先づ頼む椎の木も有り夏木立」には、西行の「ならび居て友を離れぬ子がらめの塒(ねぐら)に頼む椎の下枝」(『山家集/下/雑の部』)を踏まえている。
 東洋城の「続一畳庵」では、これらの、芭蕉の「幻住庵記」には、一言も触れず、次の、寒山作の「五言律詩」を、「姑(コ=シバラ)く聴け、続け。古詩あり。」として、引用している。

[詩三百三首 其三 ・唐 · 寒山(五言律詩)
 其四十四
https://sou-yun.cn/poemindex.aspx?dynasty=Tang&author=%E5%AF%92%E5%B1%B1&lang=t

独臥重巌下(独リ臥ス重巌(チョウガン)ノ下(モト))
蒸雲晝不消(蒸雲昼モ消エズ)
室中雖澳靉(室中澳靉(オウアイ)ナリト雖モ)
心裏絕喧囂(心裏(シンリ)喧囂(ケンゴウ)ヲ絶ツ)
夢去遊金闕(夢ハ去ッテ金闕(キンケツ)ニ遊ビ)
魂歸度石橋(魂ハ帰ッテ石橋(シャッキョウ)ヲ度ル)
拋除鬧我者(拋除(ホウジョ)ス我ヲ鬧(サワガ)ス者)
歷歷樹間瓢(歴々(レキレキ)タル樹間ノ瓢(ヒサゴ))    ]

 この寒山作の「五言律詩」の後に、次の自作の句を結びとしている。

 秋風や鳴るとしいへば世のうつろ(東洋城「続一畳庵」)

 この上五の「秋風や」は、やはり、芭蕉の「秋の風・秋風」が背後に潜んでいよう。

1 荻の声こや秋風の口うつし(「続山井」、寛文6年(1666)、芭蕉23歳以前。)
2 秋風の鑓戸の口やとがりごゑ(「続山井」、寛文6年(1666)、芭蕉23歳以前。)
3 枝もろし緋唐紙破る秋の風(「六百番誹諧発句合」、延宝5年(1677)、芭蕉34歳。)
4 蜘何と音(ね)をなにと鳴(なく)秋の風(「向之岡」、延宝8年(1680)、芭蕉37歳以前。)
5 猿を聞く人捨子に秋の風いかに(「野ざらし紀行」、貞享元年(1684)、芭蕉41歳。)
6 義朝の心に似たり秋の風(「野ざらし紀行」、貞享元年(1684)、芭蕉41歳。)
7 秋風や薮も畠も不破の関(「野ざらし紀行」、貞享元年(1684)、芭蕉41歳。)
8 たびねして我が句を知れや秋の風(「野ざらし紀行絵巻」、貞享2年(1685)、芭蕉42歳。)
9 東にしあはれさひとつ秋の風(「伊勢紀行跋真蹟」、貞享3年(1686)、芭蕉43歳。)
10 たびにあきてけふ幾日やら秋の風(「真蹟集覧」、貞享5年7月、芭蕉45歳。) 
11 身にしみて大根からし秋の風(「更級紀行」、貞享5年、芭蕉45歳。)
12 あかあかと日は難面(つれなくも)も秋の風(「おくのほそ道」、元禄2年(1689)、芭蕉46歳。)
13 塚も動け我泣くこゑは秋の風(「おくのほそ道」、元禄2年(1689)、芭蕉46歳。)
14 桃の木の其葉ちらすな秋の風(「泊船集」、元禄2年(1689)、芭蕉46歳。)
15 石山の石より白し秋の風(「おくのほそ道」、元禄2年(1689)、芭蕉46歳。)

三 『東洋城全句集/中巻/昭和二十六年(七十四歳)』には、「一畳庵/四十八句」として、東洋城の「一畳庵」での四十八句が収載されている。
 そのうちの、「俳誌・渋柿(450号/昭和26・10)」所収の「東洋城近詠 一疊庵/p18~18」の句(下記の十八句)の冒頭の一句は、次の「秋風や」の一句である。

 秋風や一畳庵の破障子(「俳誌・渋柿(450号/昭和26・10)」所収「一畳庵」の冒頭の句)


「俳誌・渋柿(450号/昭和26・10)」所収「一畳庵(十八句)」と「凝視(ひむがし=東洋城))

 この東洋城の「東洋城近詠/一畳庵」の、そこに表示されている「即景(右側)と即事(左側)と、その区分けによる「即景(右側)」の九句と、「即事(左側)」の九句とが、これまた、
「即景(右側の九句)=客観・写生の句=「子規・虚子の『ホトトギス』の流れの句」」と、「即事(左側の九句)=主観・心境・境遇の句=「子規・漱石・東洋城の『渋柿』の流れの句」」と、そんな、東洋城の、その作句、そして、その選句の、そんな心配りの、その一端のようなものが見え隠れしているように思える。
 そして、その「心配り」は、その「一畳庵(十八句)」の下段に表示されている「凝視(ひむがし=東洋城)」の、その「子供好き=子供の食事の際の仕草とその親の躾など」の、その「一畳庵そして、その近傍との、その「家族的な触れ合い」の描写(「凝視」)」に、東洋城の、その全貌の一端を解明する、そのキィーワードが潜んでいるように思われる。

四 この『東洋城全句集/中巻/昭和二十六年(七十四歳)』の中に、「寒山玲瓏/九句」と、当時の東洋城の「寒山=寒山の漢詩」に寄せてのものが収載されている。

 背に重荷荷坂どこまでの暑さかな(東洋城「寒山玲瓏/九句」の一句目)

[登陟寒山道(寒山道ニ登陟(トウチョク)スルモ)
 寒山路不窮(寒山路ハ窮(キワ)マラズ)
 谿長石磊磊(谿(ケイ)ハ長ク石ノ磊磊(ラクラク)タル)
 澗闊草濛濛 (澗(カン)ハ闊(ヒロ)ク草ノ濛濛(モウモウ)タリ)
 苔滑非關雨(苔ハ滑ラカナリ雨ニ關(セキ)スル非ザルニ)
 松鳴不假風(松ハ鳴クナリ風ニ假(カ)ハザルニ)
 誰能超世累(誰カ能ク世累(セイルイ)ヲ超(チョウ)スルモノゾ)
 共坐白雲中(共ニ白雲ノ中ニ坐セン)

https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12676430293.html    ]

 径途絶えけり慟哭す草茂み(東洋城「寒山玲瓏/九句」の二句目)

[可笑寒山路(笑ウベシ寒山ノ路)
而無車馬蹤(而シテ車馬ノ蹤(アト)モ無シ) 
聯渓難記曲(聯(ツラ)ナレル渓ハ曲ヲ記シ難ク)
畳嶂不知重(畳(カサ)ナレル嶂ハ重ヲ知ラズ)
泣露千般草(露ニハ泣ク千般ノ草) 
吟風一様松(風ニハ吟ズ一様ノ松)
此時迷径処(コノ時径ニ迷(マヨ)エル処)
形問影何従(形影ニ問ワントイルモ何レニカ従(ヨ)ラン) 」


http://www.mugyu.biz-web.jp/nikki.31.09.03.htm

 正直に生きて棺や夏の月(東洋城「寒山玲瓏/九句」の三句目)

[荘子説送終(荘子ハ送終ヲ説クニ)   
天地爲棺槨(天地ハ棺槨(カンカク)ヲ爲ストス)   
吾歸此有時(吾ハ此ノ有時ニ歸シ)   
唯須一番箔 (唯ダ須ラク一番箔トナスベキノミ)
 死将餧青蠅(死ハ将ニ青蠅ヲ餧(カ)ハントシ)
 吊不勞白鶴(吊(トムラ)ヒハ白鶴ヲ勞サズ)
 餓著首陽山(餓(ウ)エヲ首陽山ニ著ハセバ)
 生廉死亦樂(生ハ廉(ヤス)ク死モ亦タ樂シ)     ]

https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12672535285.html

 この道や逝く人ばかり木下闇(東洋城「寒山玲瓏/九句」の四句目)

[四時無止息(四時ハ止ミ息(イコ)フコト無ク)
 年去又年來(年ハ去リ又年ハ來ル)
萬物有代謝(萬物ニ代謝有ルモ)
九天無朽摧 (九天ハ朽チ摧(カ)カルルコト無シ)
 東明又西暗(東ノ明カレバ又タ西ハ暗ク)
 花落復花開(花ノ落ツルモ復タ花ハ開ク)
 唯有黄泉客(唯ダ黄泉ノ客有ルノミニシテ)
 冥冥去不迴(冥冥トシテ去リ迴ラズ)       ]

https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12674261618.html

 夏秋と寒く茂や世を隔て(東洋城「寒山玲瓏/九句」の五句目)

[有一餐霞子(ヒトリノ餐霞子(サンカシ)有リ)
其居諱俗遊(ソノ居ニハ俗遊ヲ諱(イ)ム)
論時実蕭爽(論時ハ実ニ蕭爽(ショウソウ)ニシテ)
在夏亦如秋(夏ニ在リテモ亦タ秋ノ如シ)
幽澗常瀝瀝(幽澗(ユウカン)ハ常ニ瀝瀝(レキレキ)タリ)
高松風颼颼(高松(コウショウ)ハ風ニ颼颼(シュウシュウ))
其中半日坐(其ノ中ニ半日坐スレバ)
忘却百年愁(百年ノ愁イヲ忘却ス)

https://note.com/kazmas/n/n70e3aeb989f8

 涼しさや樹下声張りて無宇の本(東洋城「寒山玲瓏/九句」の六句目)

[家住緑巌下(家ハ緑巌ノ下ニ住シ)
 庭蕪更不芟(庭ハ蕪(ア)レルモ更に芟(カ)ラズ)
 新藤垂繚繞(新藤ハ繚繞(リョウジョウ)ト垂レ)
 古石豎巉巖 (古石ハ巉巖(ザンガン)ノ豎(タ)ツ)
 山果獮猴摘(山果ハ獮猴(ビコウ)ガ摘ミ)
 池魚白鷺銜(池魚ハ白鷺ガ銜(クラ)フ)
 仙書一两巻(仙書ノ一两(一・二)巻アレバ)
 樹下讀喃喃(樹下ニ喃喃(ナンナン)ト讀ム)    ]

https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12674085689.html

 百畳の一畳に身を昼寝かな(東洋城「寒山玲瓏/九句」の七句目)

[琴書須自随(琴書ハ須ラク自カラ随フベク)
 禄位用何爲(禄位ハ何ノ爲ニカ用ヒン)
 投輦從賢婦(輦(レン)ヲ投ゲテ賢婦ニ從フ)
 巾車有孝兒 (巾車(キンシャ)ニ孝兒有リ)
 風吹曝麥地(風ノ吹ケバ麥地ヲ曝(サラ)シ)
 水溢沃魚池(水ノ溢(アフ)レバ魚池ヲ沃ス)
 常念鷦鷯鳥(常ニ鷦鷯(サザキ)ノ鳥ヲ念ヒ)
 安身在一枝(身ヲ安ンズ一枝ニ在ルヲ)

https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12671892631.html

 来にし道忘れ果て薬摘みにけり(東洋城「寒山玲瓏/九句」の八句目)

[欲得安身處(身ヲ安ンズル處ヲ得ント欲セバ)
 寒山可長保(寒山コソ長ク保ツベシ)
 微風吹幽松(微風ハ幽松ニ吹キ)
 近聽聲愈好 (近クニ聽ク聲ハ愈々好シ)
 下有斑白人(下ニ斑白ノ人有リテ)
 喃喃讀黄老(喃喃(ナンナン)トシテ黄老ヲ讀ム)
 十年歸不得(十年歸ルヲ得ズンバ)
 忘却來時道(來タル時ノ道ヲ忘却ス)

https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12674904001.html

 九維六極褌もせずに裸かな(東洋城「寒山玲瓏/九句」の九句目)

[六極常嬰困(六極ハ常ニ困ヲ嬰(メグ)ラシ)
 九惟徒自論(九惟ハ徒ラニ自ラ論ズルノミ)
 有才遺草澤(有才ナレバ草澤ヲ遺シ)
 無藝閉蓬門 (無藝ナレバ蓬門(ホウモン)ヲ閉ヅ)
 日上巌猶暗(日ノ上ルモ巌ハ猶ホ暗ク)
 煙消谷尚昏(煙ノ消ユルモ谷ハ尚ホ昏シ)
 其中長者子(其ノ中ニ長者ノ子)
 箇箇總無裩(箇箇トシテ總テ裩(コン)無シ)

https://ameblo.jp/sisiza1949-2/entry-12676611718.html

曽我簫白「寒山拾得図」(双幅).jpg

曽我簫白「寒山拾得図」(双幅)
https://1000ya.isis.ne.jp/1557.html

光琳乾山角皿.jpg

光琳画・乾山書「銹絵寒山拾得図角皿」 重要文化財:江戸時代(18世紀):京都国立博物館蔵 二枚 三・三×二一・八㎝ 二・八×二一・八㎝
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-06-26
【 二枚の皿に寒山と拾得の図を描いた角皿で二枚一組になっている。寒山図の土坡に打たれた点描に光琳独特のリズムが感じられる。寒山図には「青々光琳画之」、拾得図には「寂明光琳画之」と落款を書しているので、やはり元禄十四年以前の作であろうか。拾得図の賛に「従来是拾得 不是偶然称 別無親眷属 寒山是我兄 両人心相似 誰能徇俗情 若問年多少 黄河幾度清」とあり、兄光琳の協力を得て作陶に生きようとする乾山の心がしのばれ、鳴滝初期の代表作の一つに挙げられる。 】 (『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収「作品解説287」)


五 年譜の「伊予に避暑、引つづき一畳庵にて越年。松山にて子規五十年忌を修し「子規没後五十年」執筆。皇太后大喪。」の、その「皇太后大喪」の折の、東洋城の句は、下記のとおりである。

  貞明皇后大喪の儀終(はて)の御旅の
霊柩列車を見送り奉る
 日盛(ひざかり)に落す涙や霊柩車

 「貞明皇后大喪の儀」は、昭和二十六年(一九五一)六月二十二日の、「連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)」による占領下で行われた。

貞明皇后大喪」.jpg

「1951年(昭和26年)6月の貞明皇后大喪」(「ウィキペディア」)

 因みに、「大正天皇の大喪」は、昭和二年(一九二七) 二月七日から翌二月八日にかけて行われた。この時、東洋城、五十歳。この「大正天皇」の生母は、「伯爵柳原前光の妹」で、その「伯爵柳原前光の妻・初子」は、「東洋城の母(敏子)」の、その「初子」の妹にあたる。
そして、東洋城の「結婚は許されず、東洋城が生涯独身を貫ぬいた」と相手方の女性と目せられて「柳原白蓮」は、その「伯爵柳原前光」の「妾の子」で、東洋城とは、血縁関係のない従兄妹(いとこ)同士ということになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-15

大正天皇の大喪.jpg

「1927年(昭和2年)、大正天皇の大喪」(「ウィキペディア」)

(「大正天皇と私」より六句)

冬ごもり何に泣きたる涙かな
人の子におはす涙や時鳥
維武揚る微臣秋天をうたふべく
いくさ船並ぶや海の原の秋
草も木もこがらし防げ君が為め(前書「謹祷」)
神去りましゝ夜の凍る大地かな(前書「百姓相泣」)

 とにもかくにも、東洋城にとって、この昭和二十六年(一九五一)、七十四歳時の、生まれ故郷の「伊予(愛媛・「松山・宇和島」)」の、その仮住まいの「一畳庵」は、さながら、「西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の繪における、利休の茶における、其貫道する物は一なり。」(芭蕉「笈の小文(序」)の、その「西行・宗祇・雪舟・利休・(そして、芭蕉)」の、その「漂泊の詩人たち」の、その根源に宿している「寒山詩」(唐の隠者寒山の詩を収録した詩集。正式名称は『寒山子詩集』。通常もう二人の隠者拾得と豊干の詩も併集するため、『三隠集』『三隠詩集』とも呼ばれる。)を、紐解いていたこというは、これは、ここに、特記して置く必要があろう。
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