最晩年の光悦書画巻(その三) [光悦・宗達・素庵]
(その三)草木摺絵新古集和歌巻(その三・儀同三司母)
(3-2)
花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-2)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝
これは、「草木摺絵新古集和歌巻」のものではなく、「花卉摺下絵新古今集和歌巻」の「儀同三司母と謙徳公」の二首である。
この一首目(儀同三司母)の歌は、次のものである。
中関白通ひ初め侍りけるころ
1149 忘れじのゆく末まではかたければ今日を限りの命ともがな(儀同三司母「新古今」)
(忘れまいといわれる将来までは頼みにすることはむずかしいことだから、逢いえた今日を最後とする命であってほしいものだ。)
(釈文)わ須禮じ濃行須衛ま天ハ難介連ハ今日を限濃以乃知とも可那(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
この儀同三司母の歌が、「草木摺絵新古集和歌巻」の巻頭の西行の二首(3-1図)に続くものである。そこでは、「詞書と作家名」も書かれている。
西行の二首は、『新古今和歌集』の「巻第十二」「恋歌二」の巻尾の二首で、この「巻第十二」は、「ひとり心に秘めて人を恋いつづける思いの苦しさを詠んだ作を収めている」の比して、この儀同三司母の一首が巻頭になっている「巻第十三」は、「恋人と契を結んだころの、心の新しいせつなさの歌からはじめて、逢ったことを秘めようとする歌、逢う夜を待つ苦しみの歌、後朝の別れをする嘆き歌、相手の冷淡さへの恨みの歌などを配し、流れとしては、契って知った恋の苦しみのしだいに深まり、複雑微妙になっていく過程を基調としている」(『日本古典文学全集26 新古今和歌集(峯村文人校注・訳)』)と、同じ、「恋歌」でも、微妙に異なっている世界を詠出しているのが、この西行の歌から儀同三司母の歌への流れの背景にあるということが、一つのポイントになって来るであろう。
それよりも、この儀同三司母の一首は、「小倉百人一首」(藤原定家撰)にも採られていることは特記して置く必要があろう。
054 忘れじの行く末(ゆくすゑ)までは難(かた)ければ 今日(けふ)を限りの命ともがなわ(儀同三司母「百人一首」)
(追記メモ一)
https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/054.html
それにしても、この歌は技巧を好んだ新古今集の中には珍しいほど技巧をこらさず、素直に自分の想いを描いた歌です。後世の歌人たちは、この歌を「くれぐれ優しき歌の体(ほんとうに優しい歌だ)」と評価しました。愛される幸福の中に、将来へのかすかな不安を感じとる。それがこの歌のストレートなメッセージを深いものにしているようです。
この歌の作者・儀同三司母は清少納言らが仕え、女性文芸サロンとして有名な中宮定子の母親です。さぞや華やかな幸せに包まれていたでしょう。しかし夫の死後、息子の伊周が恋した女性の家に夜な夜な通う男を不審に思い、兄弟で待ち伏せして矢を射たところ、それは先の天皇・花山院でした。花山院は女性の妹のもとに通っていたのです。この事件は時の権力者・藤原道長によって謀反の嫌疑を掛けられます。この事件で一族は失脚し、彼女の晩年も不遇でした。栄華を極めた貴族の没落ですが、ある意味歌の不安は当たったのかもしれません。
(追記メモ二)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kisi_t.html
高階貴子(たかしなのきし(-たかこ)) 生年未詳~長徳二(996) 通称:儀同三司母(ぎどうさんしのはは) 高内侍(こうのないし)
高階氏は長屋王の末裔と伝わる。式部大輔従三位高階成忠の娘。兄弟に左中弁明順(あきのぶ)・弾正少弼積善(もりよし。すぐれた漢詩人で『本朝麗藻』の編者)がいる。中関白藤原道隆の妻。伊周(これちか)・隆家・定子らの母。伊周の号「儀同三司」から、儀同三司母(ぎどうさんしのはは)と称される。
円融天皇の内侍となり、高内侍(こうのないし)と呼ばれる。その後、藤原道隆の妻となる。正暦三年(990)、正三位。長徳元年(995)に夫が死去し、同二年伊周・隆家が左遷されるに及び、中関白家は没落。同年十月、失意の内に没した。
漢詩を能くしたという。勅撰集入集は5首(拾遺集との重出歌を載せる金葉集三奏本の1首を除く)。女房三十六歌仙。小倉百人一首にも歌をとられている。
中関白かよひそめ侍りけるころ
忘れじの行末まではかたければ今日をかぎりの命ともがな(新古1149)
【通釈】あなたは「いつまでもおまえを忘れまい」と言うけれど、先々まではそれも難しいので、いっそ、この上なく幸せな今日を限りの命であったらよい。
【語釈】◇中関白(なかのかんぱく) 作者の夫、藤原道隆(953-995)。兼家の子で、道長の兄。正暦元年(990)、関白となる。◇忘れじの 私を忘れまいとのあなたの約束が。「忘る」は恋歌では「気にかけなくなる」「捨てる」といった意味で用いられる。◇かたければ (約束が守られることは)難しいので。◇今日をかぎりの 今日を最後とする。◇命ともがな 命であってほしい。「もがな」は願望をあらわす助辞。奈良時代「もがも」であったのが、「もがな」に変じ、「も・がな」という二語として意識されるようになった。
【補記】この歌は藤原公任の「前十五番歌合」や編者不詳の「麗花集」に採られるなど早くから高い評価を受けていたが、平安期の勅撰集には採られず、新古今集に至って初めて入撰した。新古今では巻十三(恋歌三)の巻頭を飾っている。
(3-2)
花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-2)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝
これは、「草木摺絵新古集和歌巻」のものではなく、「花卉摺下絵新古今集和歌巻」の「儀同三司母と謙徳公」の二首である。
この一首目(儀同三司母)の歌は、次のものである。
中関白通ひ初め侍りけるころ
1149 忘れじのゆく末まではかたければ今日を限りの命ともがな(儀同三司母「新古今」)
(忘れまいといわれる将来までは頼みにすることはむずかしいことだから、逢いえた今日を最後とする命であってほしいものだ。)
(釈文)わ須禮じ濃行須衛ま天ハ難介連ハ今日を限濃以乃知とも可那(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
この儀同三司母の歌が、「草木摺絵新古集和歌巻」の巻頭の西行の二首(3-1図)に続くものである。そこでは、「詞書と作家名」も書かれている。
西行の二首は、『新古今和歌集』の「巻第十二」「恋歌二」の巻尾の二首で、この「巻第十二」は、「ひとり心に秘めて人を恋いつづける思いの苦しさを詠んだ作を収めている」の比して、この儀同三司母の一首が巻頭になっている「巻第十三」は、「恋人と契を結んだころの、心の新しいせつなさの歌からはじめて、逢ったことを秘めようとする歌、逢う夜を待つ苦しみの歌、後朝の別れをする嘆き歌、相手の冷淡さへの恨みの歌などを配し、流れとしては、契って知った恋の苦しみのしだいに深まり、複雑微妙になっていく過程を基調としている」(『日本古典文学全集26 新古今和歌集(峯村文人校注・訳)』)と、同じ、「恋歌」でも、微妙に異なっている世界を詠出しているのが、この西行の歌から儀同三司母の歌への流れの背景にあるということが、一つのポイントになって来るであろう。
それよりも、この儀同三司母の一首は、「小倉百人一首」(藤原定家撰)にも採られていることは特記して置く必要があろう。
054 忘れじの行く末(ゆくすゑ)までは難(かた)ければ 今日(けふ)を限りの命ともがなわ(儀同三司母「百人一首」)
(追記メモ一)
https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/054.html
それにしても、この歌は技巧を好んだ新古今集の中には珍しいほど技巧をこらさず、素直に自分の想いを描いた歌です。後世の歌人たちは、この歌を「くれぐれ優しき歌の体(ほんとうに優しい歌だ)」と評価しました。愛される幸福の中に、将来へのかすかな不安を感じとる。それがこの歌のストレートなメッセージを深いものにしているようです。
この歌の作者・儀同三司母は清少納言らが仕え、女性文芸サロンとして有名な中宮定子の母親です。さぞや華やかな幸せに包まれていたでしょう。しかし夫の死後、息子の伊周が恋した女性の家に夜な夜な通う男を不審に思い、兄弟で待ち伏せして矢を射たところ、それは先の天皇・花山院でした。花山院は女性の妹のもとに通っていたのです。この事件は時の権力者・藤原道長によって謀反の嫌疑を掛けられます。この事件で一族は失脚し、彼女の晩年も不遇でした。栄華を極めた貴族の没落ですが、ある意味歌の不安は当たったのかもしれません。
(追記メモ二)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kisi_t.html
高階貴子(たかしなのきし(-たかこ)) 生年未詳~長徳二(996) 通称:儀同三司母(ぎどうさんしのはは) 高内侍(こうのないし)
高階氏は長屋王の末裔と伝わる。式部大輔従三位高階成忠の娘。兄弟に左中弁明順(あきのぶ)・弾正少弼積善(もりよし。すぐれた漢詩人で『本朝麗藻』の編者)がいる。中関白藤原道隆の妻。伊周(これちか)・隆家・定子らの母。伊周の号「儀同三司」から、儀同三司母(ぎどうさんしのはは)と称される。
円融天皇の内侍となり、高内侍(こうのないし)と呼ばれる。その後、藤原道隆の妻となる。正暦三年(990)、正三位。長徳元年(995)に夫が死去し、同二年伊周・隆家が左遷されるに及び、中関白家は没落。同年十月、失意の内に没した。
漢詩を能くしたという。勅撰集入集は5首(拾遺集との重出歌を載せる金葉集三奏本の1首を除く)。女房三十六歌仙。小倉百人一首にも歌をとられている。
中関白かよひそめ侍りけるころ
忘れじの行末まではかたければ今日をかぎりの命ともがな(新古1149)
【通釈】あなたは「いつまでもおまえを忘れまい」と言うけれど、先々まではそれも難しいので、いっそ、この上なく幸せな今日を限りの命であったらよい。
【語釈】◇中関白(なかのかんぱく) 作者の夫、藤原道隆(953-995)。兼家の子で、道長の兄。正暦元年(990)、関白となる。◇忘れじの 私を忘れまいとのあなたの約束が。「忘る」は恋歌では「気にかけなくなる」「捨てる」といった意味で用いられる。◇かたければ (約束が守られることは)難しいので。◇今日をかぎりの 今日を最後とする。◇命ともがな 命であってほしい。「もがな」は願望をあらわす助辞。奈良時代「もがも」であったのが、「もがな」に変じ、「も・がな」という二語として意識されるようになった。
【補記】この歌は藤原公任の「前十五番歌合」や編者不詳の「麗花集」に採られるなど早くから高い評価を受けていたが、平安期の勅撰集には採られず、新古今集に至って初めて入撰した。新古今では巻十三(恋歌三)の巻頭を飾っている。
西行に続く二番手は、儀同三司母である。
「百人一首」で行くと、
054 忘れじの行く末(ゆくすゑ)までは難(かた)ければ 今日(けふ)を限りの命ともがなわ(儀同三司母「百人一首」)
086 嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな(西行法師「百人一首)
と、順序が、年代順になってくる。次は「謙徳公」の一首なのであるが、これまた、「百人一首」に登場する歌人である。
045 あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな(謙徳公「百人一首」)
おそらく、光悦みまた、これらの「百人一首」の歌は、脳裏にあって、そして、「草木摺絵新古集和歌巻」また「花卉摺下絵新古今集和歌巻」の、一首、一首を揮毫していったのであろう。
by yahantei (2020-07-18 16:50)
「054 忘れじの行く末(ゆくすゑ)までは難(かた)ければ 今日(けふ)を限りの命ともがなわ」は
↓
「054 忘れじの行く末(ゆくすゑ)までは難(かた)ければ 今日(けふ)を限りの命ともがな」 との「わ」の一字が多すぎる。
↓
何時もながら、誤記。
by yahantei (2020-07-18 17:05)