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最晩年の光悦書画巻(その七) [光悦・宗達・素庵]

(その七)草木摺絵新古集和歌巻(その七・式子内親王)

(4-1)

花卉四の一.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-1) (式子内親王)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

逢ふことを今日松が枝の手向草幾よしをるる袖とかは知る(式子内親王「新古今」1153)

(釈文)逢事を介ふまつ可え濃手向草いくよし保る々袖と可ハしる(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

この歌は、『新古今和歌集』には、次のような詞書が付してある。

    百首歌に
逢ふことを今日松が枝の手向草幾よしをるる袖とかは知る(式子内親王「新古今」1153)
(逢うことを待ちつづけて、今日逢えることになったが、せつない願いで、長く、幾夜を涙で濡れしおれていた袖だと知ることか、それは知らないであろう。)

 式子内親王は、『新古今和歌集』に、女流歌人としては最多の四十九首が入集され、その中の十一首が「恋歌」である(下記のとおり)。『新古今和歌集』の部立は、『古今和歌集』に倣い二十巻で、その中の五巻が「恋歌」で、その配列も、恋愛の初期の歌から末期の歌まで、その心理的過程に合わせて分けられ採られている。
 式子内親王の「恋歌」は、「巻第十一・恋歌一」(人を恋い初めたころの「初恋」)が四首、
「巻第十二・恋歌二」(「秘めた恋歌」)が一首、「巻第十三・恋歌三」(「逢う恋」)が二首、
「巻第十四・恋歌四」(「恨みの恋」)が三首、そして、「巻第十四・恋歌五」(「別れの恋」)
が一首となっている(下記のとおり)。

 式子内親王は、三十四年の長きに亘り「院政」を敷き、「治天の君」との名を欲しい侭にした「後白河天皇・上皇・法王」の第三皇女で、十一歳から十年間、賀茂斎院として奉仕し、病により退下の後は、俊成門の女流歌人として精進し、晩年には出家(法名承如法)するなど、その生涯は「歌合を主催したり、歌壇の一員となるような華やかな活動は一切封じていた」、俊成門の高貴なる出の女流歌人の一人に過ぎないという名に甘んじていたということになろう。
 従って、『新古今和歌集』の女流歌人として、三番手(式子内親王=四十九首、俊成女=二十九首に次いで三番手の二十首)の「和泉式部」に比して、和泉式部が「女性・妻・母」の、その生き様のような赤裸々(実生涯に根ざした「恋歌」)の「恋歌」とすると、式子内親王のそれは、「生涯独り身を過ごした女性」としての、その一断面(架空の「恋歌」)としての、『技巧主義の藝術』(萩原朔太郎『戀愛名歌集』)上の「恋歌」ということになろう。
 
    百首歌の中に、忍恋を(三首)
①玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする(新古1034)
(『新古今巻第十一』・「恋歌一」=人を恋い初めたころの「初恋」。「忍ぶ恋」)
                    (後鳥羽院・有家・定家・家隆・雅経)

②忘れてはうちなげかるる夕べかな我のみ知りて過ぐる月日を(新古1035)
(『新古今巻第十一』・「恋歌一」=人を恋初めたころの「初恋」。「秘めた恋」)
                      (後鳥羽院・家隆)

③わが恋はしる人もなしせく床の涙もらすなつげのを枕(新古1036)
(『新古今巻第十一』・「恋歌一」=人を恋初めたころの「初恋」。「秘めた恋」)が二首、
                      (後鳥羽院・有家・定家・家隆・雅経)

    題しらず
④しるべせよ跡なき波にこぐ舟の行くへもしらぬ八重のしほ風(新古1074)
(『新古今巻第十一』・「恋歌一」=人を恋初めたころの「初恋」。「跡なき波」=「恋路」、「舟」=自身の投影、「秘めた恋」)
                       (後鳥羽院・有家・定家・家隆)

    百首歌の中に
⑤夢にても見ゆらむものを歎きつつうちぬる宵の袖の気色は(新古1124)
(『新古今巻第十二』・「恋歌二」=「秘めた恋」。「恨みの恋」)
                    (後鳥羽院・有家・定家・家隆・雅経)
    百首歌に
⑥逢ふことをけふ松が枝の手向草いくよしほるる袖とかは知る(新古1153)
(『新古今巻第十三』・「恋歌三」=「逢う恋」。「白波の浜松が枝の手向草幾世までにか年の経るぬらん(万葉一・川島皇子)」の本歌取り)
                        (後鳥羽院・有家・定家・家隆)
     待つ恋といへる心を
⑦君待つと閨へも入らぬ槙の戸にいたくな更けそ山の端の月(新古1204)
(『新古今巻第十三』・「恋歌三」=「逢う恋」。「待つ恋」)
                        (後鳥羽院・有家・定家・家隆)
    題知らず
⑧今はただ心のほかに聞くものを知らずがほなる荻の上風(新古1309)
(『新古今巻第十四』・「恋歌四」=「恨みの恋」。「諦めの恋」)
                        (後鳥羽院・有家・定家・家隆)

   百首歌の中に
⑨さりともと待ちし月日ぞ移りゆく心の花の色にまかせて(新古1328)
(『新古今巻第十四』・「恋歌四」=「恨みの恋」。「嘆きの恋」)
                         (後鳥羽院・定家)

⑩生きてよも明日まで人もつらからじこの夕暮をとはばとへかし(新古1329)
(『新古今巻第十四』・「恋歌四」=「恨みの恋」。「嘆きの恋」)
                         (後鳥羽院・有家・家隆・雅経)

⑪はかなくぞ知らぬ命を嘆き来(こ)しわがかねごとのかかりける世に(新古1391)
(『新古今巻第十五』・「恋歌五」=「別れの恋」。「儚き恋」)
                         (後鳥羽院・家隆)

 上記の「式子内親王は」の「恋歌」十一首の、撰歌者は、例えば、①の歌ですると、「(後鳥羽院・有家・定家・家隆・雅経)」は、「(後鳥羽院・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経)」の撰を意味し、『新古今和歌集』の実質的な撰者(他に、源通具は除く)の五名で、満票の撰歌ということになる(『岩波文庫 新訂新古今和歌集 佐々木信綱校訂』)。
 そして、この「式子内親王」の「恋歌」十一首の全てが、「後鳥羽院」撰ということが明瞭となって来る。
 後鳥羽院が『新古今和歌和歌集』の選定作業に深く携わったことは、その「仮名序」の「みずから定め、手づからみがける(歌を選定し、磨き整えた)」という文言を引くまでもなく、この勅撰集の一大特色となっている。
 また、その「切り継ぎ作業」(改訂加除)は、元久二年(一二〇五)の、撰集事業の終了した宴としての「竟宴(きょうえん)」時の第一次本以降、建保四年(一二一六)の第四次本(源家長の詳しい識語を添えた本)に至るまで、数度にわたり行われている。
 さらに、承久三年(一二二一)の「承久の乱」により隠岐に配流された後も、後鳥羽院は、この「切り継ぎ作業」を行い、いわゆる、「隠岐本」(約千六百首)を作成されている。
 その「隠岐本」の中で、この「隠岐本」が「正統な『新古今和歌集』である」(「隠岐本識語)」と記している。そして、その「隠岐本」の全体像は、『岩波文庫 新訂新古今和歌集 佐々木信綱校訂』)では、撰歌者(後鳥羽院=〇印・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経)の、「後鳥羽院=〇印」で付記している。それらを、上記の撰歌者で付記したが、上記の式子内親王の十一首は、その最終の「隠岐本」にも収載されているものとして、後鳥羽院が、式子内親王を、当代有数の女流歌人の一人として目していたことは明瞭となって来る。
 後鳥羽院は、治承四年(一一八〇)の生れ、式子内親王は、仁平三年(一一五三)頃の生れで、その年齢差は、二十七歳前後の開きがあるが、式子内親王は、後白河院の皇女、後鳥羽院は、後白河天皇の孫、そして、後鳥羽院と式子内親王は、共に、藤原俊成門として、後鳥羽院が、この式子内親王に深い親近感を抱いていたことは、『新古今和歌集』の、その入集歌の配列順などからして、十分に窺える。
 そして、「草木摺絵新古集和歌巻」そして「花卉摺下絵新古今集和歌巻」の作者(揮毫者)、本阿弥光悦は、この後鳥羽院に深い関心を抱いていたことは、その『本阿弥行状記』の中の記述(中巻一二五「菊一文字は後鳥羽院勅作」など)からして、これまた、十分に窺えるのである。
 こういう観点からの、これらの「草木摺絵新古集和歌巻」や「花卉摺下絵新古今集和歌巻」を観賞していくことも、これまた、一つの逸してはならない視点であろう。

(追記メモ一)

『連歌至宝抄』(里村紹巴著)

http://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/thesis/kokubun-mejiro/KOME_54_06.pdf

「恋」には、「聞く恋・見る恋・待つ恋・忍ぶ恋・逢ふ恋・別るる恋・恨むる恋、その外さまざま御入り候」

「先聞恋とはまだみぬ人を風のたよりにきゝて、おきふし物おもひとなり、あらぬ伝をたのみ、一ふでをもつたへまほしくおもふこゝろなり。
又みる恋とは思はざる道行ふりに輿車の下すだれのひまより見物、又はさる家の蔀木丁のかげよりほのかにみし其面影忘れずして、いかなる中だちもがなとおもふ心、。是見恋也。
待恋とは年比、ちぎり置くても何かとさはりありてうち過、又いつの夕必とたのめ、、をき文の返しなど見侍ては心もあくがれ、昨日今日の日をも暮しかね、一日のうちにちとせをふる心ちしてまちわぶるおりふし荻の葉、をとづれ花すゝきのまねくをも君が来かと思ひ夕ぐれになればさらぬかほにて門のほとりにたちやすらひ、よのつねのきぬの袖にも空だきなどして夜の更行くを、かなしみ待宵の鐘の音はあかぬ別の鳥の聲はものゝ数にあらずとよみ侍るも是也。
仭忍恋とは故有人にいひよりて、およそそのぬしも心とけく或はよの聞えを憚、夜な夜な
行通ても人にあやしめられて立かへるふぜい又は一筆の玉章もうき名やもれんとおもふ心是忍恋也。
又逢恋は年月思ひの末をとげ、こよひはあたりの人をしづめ灯火ほそぼそとかかげおき、閨のうちをもよしあるようにつくろひなし、待折しも月のほのかなるに、ちいさきわらはを先にたて妻戸のわきに立やすらへるきぬの袖を引又ねやの内へいざなひ入てもまだ打つけなれば互に恥かはし古器などもとりあへず打ふすさむしろのうへに枕をならべながら、また下ひもゝつれなかりしをとやかくといひよりてやゝこゝろも打ちとくるまゝに、さゝめごとなどあさからぬ情おもひやるべし
別恋(省略)
恨恋(省略) 」

(追記メモ二)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syokusi.html

式子内親王 久安五~建仁一(1149~1201)  御所に因み、萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門(おおいのみかど)斎院などと称された。

後白河天皇の皇女。母は藤原季成のむすめ成子(しげこ)。亮子内親王(殷富門院)は同母姉、守覚法親王・以仁王は同母弟。高倉天皇は異母兄。生涯独身を通した。
平治元年(1159)、賀茂斎院に卜定され、賀茂神社に奉仕。嘉応元年(1169)、病のため退下(『兵範記』断簡によれば、この時二十一歳)。治承元年(1177)、母が死去。同四年には弟の以仁王が平氏打倒の兵を挙げて敗死した。元暦二年(1185)、准三后の宣下を受ける。建久元年(1190)頃、出家。法名は承如法。同三年(1192)、父後白河院崩御。この後、橘兼仲の妻の妖言事件に捲き込まれ、一時は洛外追放を受けるが、その後処分は沙汰やみになった。
建久七年(1196)、失脚した九条兼実より明け渡された大炊殿に移る。正治二年(1200)、春宮守成親王(のちの順徳天皇)を猶子に迎える話が持ち上がったが、この頃すでに病に冒されており、翌年正月二十五日、薨去した。五十三歳。
藤原俊成を和歌の師とし、俊成の歌論書『古来風躰抄』は内親王に捧げられたものという。その息子定家とも親しく、養和元年(1181)以後、たびたび御所に出入りさせている。正治二年(1200)の後鳥羽院主催初度百首の作者となったが、それ以外に歌会・歌合などの歌壇的活動は見られない。他撰の家集『式子内親王集』があり、三種の百首歌を伝える(日本古典文学大系八〇・私家集大成三・新編国歌大観四・和歌文学大系二三・私家集全釈叢書二八などに所収)。千載集初出。勅撰入集百五十七首。

「彼女の歌の特色は、上に才氣溌剌たる理知を研いて、下に火のやうな情熱を燃燒させ、あらゆる技巧の巧緻を盡して、内に盛りあがる詩情を包んでゐることである。即ち一言にして言へば式子の歌風は、定家の技巧主義に萬葉歌人の情熱を混じた者で、これが本當に正しい意味で言はれる『技巧主義の藝術』である。そしてこの故に彼女の歌は、正に新古今歌風を代表する者と言ふべきである」(萩原朔太郎『戀愛名歌集』)
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yahantei

久しぶりにアップしたら、八月三日とは、唖然とした。光悦の「和歌巻」で、「連歌・俳諧」と遠ざかり、これまた、久しぶり、『菟玖波集』(二条良基著・福井久蔵校注・日本古典全書)に接したら、「後鳥羽院・定家・家隆」等々の連歌が収載されているのには驚いた。しかし、式子内親王の連歌は、一首(一句?)も見つけることが出来なかった。「清少納言・和泉式部・俊成卿女」等々のものは収載されている。西行も数は少ないが収載されている。「鴨長明・道元禅師・夢窓国師」等々、食指をそそる連歌が数多く収載されている。
 次の「源正清朝臣」のものは見つからなかった。しかし、家隆の次の連歌(白黒賦物の連歌)等々については触れていきたい。

  後鳥羽院御時白黒賦物の連歌召されけるに
  乙女子がかつらぎ山を春かけて
11 かすめどいまだ峯の白雪           従二位家隆(『菟玖波集』)





by yahantei (2020-08-03 15:31) 

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