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最晩年の光悦書画巻(その十五) [光悦・宗達・素庵]

(その十五)芥子下絵新古今和歌巻(その十五・和泉式部)

ケシ下絵・和泉式部.jpg

芥子下絵新古今和歌巻(巻末) 光悦書 東京国立博物館蔵 江戸時代・寛永10年(1633)
彩箋墨書 1巻

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0057939

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/306816



 下絵に芥子坊主(芥子の果実)を胡粉と雲母で描き、『新古今和歌集』巻第11の詞書と和歌を散らし書きする。晩年の筆と推測され、筆線に震えが散見される。料紙および下絵のさまざまな白が、墨が内包する多様な黒を対比的に引き立てている。

 この「芥子下絵新古今和歌巻(巻末)」の年紀は「寛永十年十月五日」で、次の「草木摺絵新古今集和歌巻(巻末)」の年紀は「寛永十年十月二十七日」の、二十二日後に制作されたということになる。

鷹峯隠士・拡大氏.jpg

【 草木摺絵新古今集和歌巻(巻末) 寛永10年(1633)10月27日 静嘉堂文庫蔵
紙本墨書 金泥摺絵 一巻 縦35.8㎝ 長957.2㎝
四季順に、躑躅(つつじ)、藤、立松、忍草、蔦(つた)、雌日芝(めひしば)の木版模様を並べ、金泥や金砂子をほどこした下絵に、巻十二恋歌二の終わり二首、巻十三恋歌三の巻頭から十三首を選んで記す。巻末には「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の署名と「光悦」の黒印がある。震えを帯びた細い線が所々に見出され、年紀どおり最晩年の書風を示している。(『もっと知りたい本阿弥光悦―生涯と作品―(玉蟲敏子他著)』) 】

 「芥子下絵新古今和歌巻(巻末)」の署名も、「草木摺絵新古今集和歌巻(巻末)」の署名「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の「有」の文字がないだけで、同じ字配りのようである。
 ここで書かれている和歌は『新古今集和歌』の「巻十位置・恋歌一」の次の一首である。

1023 跡をだに草のはつかに見てしがな結ぶばかりのほどならずとも 和泉式部
(あなたの筆跡をだけでも、わずかでいいから見たいものだ。契りを結ぶというほどではなくても。)

 この歌意は、『日本古典文学全集26新古今集和歌集(峯村文人校注・訳)』に因っているが、この歌には、「返事(かへりごと)せぬ女のもとに遣はさんとて、人のよませ侍りければ、二月(きさらぎ)ばかりによみ侍りける」との詞書がある。
 この図では、この詞書は出て来ないが、この図の冒頭の「和泉式部」の前に、この詞書が書かれているものと思われる(上記のアドレスでは、「巻頭」「部分」「巻末」の三葉だけで、その詞書が書かれている「部分図」は紹介されていない)。
 この詞書の「人のよませ侍り」とは、「男が和泉式部に代作を頼んで、和泉式部が男に代わって詠んだ歌」(和泉式部の「男歌」)なのである。さらに、この歌は、「春日野の雪間を分けて生ひ出でくる草のはつかに見えし君かは」(壬生忠岑「古今・恋」)の本歌取りの一首である。
 この歌の「釈文」(読み難い筆跡を読み易い字体に直したもの)は、この図だけでは判読し難いが、「安登を多耳草乃ハ徒可尓見てし可那無須不ハ可利乃本となら寸斗も」の感じである。これは『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦(中田勇次郎編集)』の「釈文・解題(中田勇次郎・木下正雄)」に因っているが、次のアドレスの「変体仮名 五十音順一覧」も参考になる。

http://www.book-seishindo.jp/kana/onjun_3.html

 その『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦(中田勇次郎編集)』で、光悦の和歌巻について、次のように指摘している。

【 光悦の和歌巻を通じて言いうることは、その書体にはほぼ一定のものがあり、いわゆる平がな体のものよりも、変体がなのものに特色があり、その用例も変体のものの方が多いことである。(「桜下絵新古今和歌巻(中田勇次郎)」)

 この下絵の考案者を、他の同類の和歌巻の下絵についてすでに研究家によって立てられている説とおなじように、これを宗達と見ることも考えられよう。しかし、下絵が考案され、えがかれて、その上に光悦が新古今からさくらの歌をえらんで書いたというには、あまりにも下絵と和歌とが融合しすぎている。これはどうしても下絵の考案についても光悦の意図があったもので、光悦の考案の方が先行するのではないかとおもう。それには、陶器、蒔絵、茶器、作庭などにあらわれる光悦のとくに創作にすぐれ、才気のみなぎった作品から考えても、和歌巻の場合においても、かならず光悦の意図が先立つものとして出されていたと考えるべきであろう。(「桜下絵新古今和歌巻(中田勇次郎)」)

 光悦は室名を徳友斎と号したが、鷹峯に移ってからは大虚庵を号したという。林羅残の鷹峯記に「嘗て数百弓の地を占めて以て小字をここに構え、自ら太虚庵と号す」とあり、深草元政上人の大虚庵にも、「翁、遂に居をその間に築き、太虚庵を以て扁(扁額をかかげること) とあるのによって知られる。元和五年に書いた立正安国論および始聞仏乗義にも、いずれも署名の上に大虚庵と書いている。これは元和になってこの号を用いていたことを示している。あるいはもっと早くにこの号があったかも知れないが、まだその実例は見あたらない。(「四季花卉下絵千載和歌巻(中田勇次郎)」)  】(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦(中田勇次郎編集)』)

 本阿弥光悦は、「江戸時代初期の書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)で、画家ではない。そして、光悦の本業は、刀剣に関する仕事(「研ぎ」「拭い」「目利き」)で、「書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人」は、「手遊び・余技」の分野のものである。
 この「手遊び・余技」の分野の「書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人」の中で、唯一、「寛永の三筆」(本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗)の筆頭と自負しているほどに(『今古雅談』)、専門的な「書家」として、それを本業と見做すことも出来よう。
 その本業の一つと見做すことも出来る「書家」の分野で、光悦が最も本格的に取り組んだものとして金銀泥などの絵模様を散らした下絵に揮毫する「和歌巻」が挙げられる。
 この光悦書の「和歌巻」は、凡そ、次の三期に分けられる。

一 慶長期(光悦四十代・五十代)→「書(光悦)・画(宗達他)」協奏の時代

① 四季草花下絵古今集和歌巻(畠山記念美術館蔵)→「光悦」墨文方印 「伊年」朱文方印
「紙師宗二」長方印
② 鶴下絵三十六歌仙和歌巻(京都国立博物館蔵)→「光悦」墨印方印 「紙師宗二」長方印
③ 鹿下絵新古今集和歌巻(諸家分蔵)→「徳友斎光悦(花押)」 「伊年」朱文方印

二 元和期(光悦六十代)→「書(光悦) 画(宗達他)」同源の時代

④ 四季草花千載集和歌巻(個人蔵)→「太虚庵光悦(花翁)」 「伊年」朱文円印 「紙師宗二」長方印
➄ 蓮下絵百人百人一首和歌巻」(諸家分蔵)→「太虚庵光悦(花翁)」

三 寛永期(光悦七十代)→「詩(和歌)・書画(光悦書ほか)」一如の時代

⑥ 草木摺絵新古今集和歌巻(静嘉堂文庫蔵)→「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の署名 「光悦」墨印方印 
⑦ 芥子下絵新古今和歌巻(東京国立博物館蔵)→「鷹峯隠士大虚庵齢七十六」の署名 「光悦」墨印方印  

(注:『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編)』では「太虚庵」、『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』では「大虚庵」、『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦(中田勇次郎編集)』では「大と太」とを使い分けている。また、『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編)』では「墨印方印」と「墨文方印」とを使い分けている。)

 この、「一 慶長期(光悦四十代・五十代)→『書(光悦)・画(宗達他)』協奏の時代」とは、
「光悦の書と宗達(そして宗達工房)の下絵とが相互に響きあって協奏の世界を創出している」世界を意味し、いわゆる、「光悦書・宗達画和歌巻」として、「光悦和歌巻」の代名詞にもなっている世界である。
 そして、「二 元和期(光悦六十代)→『書(光悦) 画(宗達他)』同源の時代」については、「書画同源」(張彦遠・『歴代名画記』の「書と画とは同体異名であり、そもそも文字の起源は象形、つまり画であった」と由来する)ですると、「一の『書画協奏』」ではなく、さらに、「二の『書画同源』」の、「光悦書(そして光悦書画)が主で、宗達画(そして宗達工房の画)は、その従たる伴奏のような世界」を意味している。
 その上で、この「三 寛永期(光悦七十代)→『詩(和歌)・書画(光悦書ほか)』」一如の時代」というのは、いわゆる、造形的な世界(「書画の世界」)の、その「書画同然」の次の世界の、「書画(造形的な「形」の世界)と詩歌(非造形的な「情」の世界)」との、その「詩書画三絶(詩書画一如・詩書画一致)の世界」のような雰囲気を漂わせている。

【 本阿弥光悦は慶長年間の人、以書海内に鳴る。画又一風を為す。宗達光琳の祖とするところなり。尤古土佐の風によりて細筆の歌仙など世に残決あり。草画金銀にて絵き、淡彩も稀に有り。「光悦」印 (酒井抱一編『尾形流略印譜』異本)  】(『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』では「句読点なし」)

 琳派の継承者、江戸琳派の総帥・酒井抱一の「本阿弥光悦」像である。
そこでは、「本阿弥光悦は慶長年間の人」と、上記の「一 慶長期(光悦四十代・五十代)→『書(光悦)・画(宗達他)』協奏の時代」を念頭に置いている。
 そして、次に、その「書は海内(天下)に鳴る(知れ渡っている)。」同時に「画又一風を為す。宗達光琳の祖とするところなり。」と、抱一は、画家としても「宗達・光琳の祖」と仰ぎ、その画は、「古土佐の風の細筆の歌仙など」(大和絵の様式で描かれた歌仙図など)と「草画金銀にて絵(えが)き」(「金銀泥で描かれた和歌巻」=上記の「①②③」の和歌巻など)と「淡彩も稀にあり」としている。
 この抱一の光悦像で、光悦が「以書(書は)海内に鳴る」というのは、今日でも動かない評であるが、こと、「画又一風を為す」については、「近代以降の光悦研究では、和歌巻類の金銀泥絵は、宗達、ないしは、その工房の作品と考えられるようになり、本書もその立場に拠っているが、当時は書画ともに光悦筆として認識されていたようである」(『玉蟲・前掲書』)が、一般的な見方のようである。
 そういう、一般的見方も考慮しても、冒頭の「芥子下絵新古今和歌巻」の、この「下絵に芥子坊主(芥子の果実)を胡粉と雲母で描き」の、その描いた人は、この書の揮毫者の最晩年の、本阿弥光悦その人と解したい。

(追記)  光悦筆・宗達下絵「和歌巻」と「色紙」の「月」図(四態様)など

(「上弦の月」→ 旧暦二十三日頃、弦が直線)

千載・上弦月.jpg

https://weathernews.jp/s/topics/201802/220075/

光悦筆・宗達下絵「「四季草花下絵千載集和歌巻」(部分図)  個人蔵 紙本墨書 金銀泥下絵 一巻 縦三四・〇㎝ 横九二二・二㎝

【 末尾に「伊年」印のある和歌巻のうち、浅黄、白、薄茶などの色紙をつなげ、四季の草花や景物を描いた優美な様式もの。書は作者や詞書を省略し、春の歌二十五首を選んで闊達に執筆する。慶長末期から元和初めに推定される筆跡は、掲出の月に秋草の場面からもわかるように、漢字まじりの大字を象徴的にあつかい、小字の仮名は虫のごとく、叢(くさむら)に潜めるように配置する。薄や末尾の松林などは「平家納経」補修箇所と一致し、その展開であることが示唆される。「大虚庵光悦(花押)の署名がある。 】(『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)

    花留客(客を留めん)といへる心をよみ侍りける
90 ちりかかる花のにしきは来たれどもかへらむ事ぞわすられにける(右近大将実房「千載集巻二・春下」)

 この一首の前の次の歌の結句が、右の二行である。

    花の歌とてよみ侍りける
89 さくら咲く比良の山風ふくまゝに花になりゆく志賀のうら浪

(「更待月」→陰暦二十日頃、もう少し弦が丸みを帯びると「寝待月」)

月色紙・五島美術館蔵.jpg

光悦筆・伝宗達下絵「金銀泥下絵和歌色紙『月図』」五島美術館蔵 [本紙一紙]縦18.1cm 横16.8cm
【紙本著色・墨書/一帖 江戸時代初期・17世紀
[本紙一紙]縦18.1cm 横16.8cm [台紙一紙]縦28.8cm 横23.0cm 五島美術館蔵
本阿弥光悦(1558~1637)が、『新古今和歌集』36首(巻第五「秋歌下」504~521番、巻第十「羇旅歌」954~967番、巻第十一「恋歌」1034~1037番)を1首ずつ書写した色紙36枚を、アルバム状に仕立てた作品。下絵は、俵屋宗達(?~1640頃)が描いたと伝え、36枚のうち34枚が2枚1組として同主題の四季草花図を描く。金銀泥を主体に文様化した花や草木、鳥、波等の一定のパターンを用いているところから、数人の職人絵師による工房制作だろうか。 】

https://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_03/08072_001.html

     旅寝とて
967 さらぬだに秋の旅寝は悲しきに松に吹くなりとこの山風(藤原秀能「新古今」)

(「上弦の月」か「更待月」→弦はほぼ直線の感じ)

光悦色紙・月に萩.jpg

光悦筆・伝宗達下絵「花卉下絵新古今和歌巻」より「月に萩図」
【 慶長十一年(一六〇六)十一月十一日年紀 北村美術館蔵 紙本墨書 金銀泥下絵 一枚 縦二〇・三㎝ 横一七・六㎝
 十一尽くしの特別な年紀をしるした色紙は十数枚が残されているが、その一枚で画面をはみ出さんばかりの上弦の月とばつばさに描かれた薄(すすき)・萩などの秋草の大胆な下絵は見事である。法性寺入道関白太政大臣作の和歌の書もまた画面いっぱいに力強く、「慶長十一年十一月十一日光悦書 かせ吹は玉ちる萩の下露にはかなくやとる野辺の月哉」としるす。朱文の「光悦」が捺される。 】(『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)

386 風吹けば玉散る萩の下露にはかなく宿る野べの月かな(法性寺入道関白太政大臣「新古今」)

 この「法性寺入道関白太政大臣」は、藤原忠道である。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tadamiti.html

【藤原忠通 ふじわらのただみち 承徳元~長寛二(1097-1164) 号:法性寺関白
道長の直系。関白太政大臣忠実の息子。母は右大臣源顕房のむすめ、従一位師子。左大臣頼長・高陽院泰子の兄。基実・基房・兼実・兼房・慈円・覚忠・崇徳院后聖子(皇嘉門院)・二条天皇后育子・近衛天皇后呈子(九条院)らの父。藤原忠良・良経らの祖父。
堀河天皇の嘉承二年(1107)四月、元服して正五位下に叙され、昇殿・禁色を許され、侍従に任ぜられる。鳥羽天皇代、右少将・右中将を経て、天永元年(1110)、正三位。同二年、権中納言に就任し、従二位に昇る。同三年、正二位。永久三年(1115)正月、権大納言。同年四月、内大臣。保安二年(1121)三月、白河院の不興を買った父忠実に代わって関白となり、氏長者となる。同三年、左大臣・従一位。崇徳天皇の大治三年(1128)十二月、太政大臣。
近衛天皇代にも摂政・関白をつとめたが、大治四年(1129)の白河院崩後、政界に復帰した父と対立を深め、久安六年(1150)には義絶されて氏長者職を弟の頼長に奪われた。以後美福門院に接近し、久寿二年(1155)の後白河天皇即位に伴い忠実・頼長が失脚した結果、氏長者に返り咲いた。保元三年(1158)、関白を長子基実に譲り、応保二年(1162)、出家。法名は円観。
永久から保安(1113-1124)にかけて自邸に歌会・歌合を開催し、自らを中心とする歌壇を形成した。詩にもすぐれ、漢詩集「法性寺関白集」がある。また当代一の能書家で、法性寺流の祖。日記『法性寺関白記』、家集『田多民治(ただみち)集』がある。金葉集初出。勅撰入集は五十九首(金葉集は二度本で数えた場合)。 】

この「十一尽くしの特別な年紀」は、日蓮宗の聖日の「小松原法難」との関連など幾つの説があるが、「三十一字」(みそひともじ)」の、光悦の洒落の雰囲気で無くもない。

https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%80%E6%96%87%E5%AD%97-513664

(「十日夜の月」→陰暦十日頃、「弦」さらに丸みを帯びると「十三夜月」)

ベルリン国立アジア美術館光悦月・.jpg

光悦筆・宗達下絵「四季草花下絵新古今和歌色紙」より「月図」(藤原家隆「歌」) ベルリン国立アジア美術館蔵 紙本金銀泥絵・墨書 18.3cm×16.2cm
(『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)では、「稲田図」(鴨長明の歌)が紹介されている。この「月図」は、次の藤原家隆の歌である。

    百首歌よみ侍りける中に
289 昨日だに訪(と)はんと思ひし津の国の生田の森に秋は来にけり(藤原家隆「新古今・巻四・秋歌上」)
(夏であった昨日でさえ尋ねようと思った津の国の生田の森に、今日は、秋は来たことだ。)

 「生田の森」は、今の兵庫県神戸市生田区にあった森。「君住まば訪(と)はましものを津の国の生田の森の秋の初風」(僧都清胤「詞葉・秋」)。歌意・校注は、『日本古典文学全集26 新古今和歌巻集(峯村文人:校注・訳)』に因っている。

【 白地に金泥をうすく刷き、下半をはすかいに区切った―恐らく山の端に見立てた―土坡には、濃い金泥を塗り、その上に銀泥の十日あまりの月を大きく、月の上端は画面をはずれるほど大きく、えがく。桃山時代は月を描けば、このふくよかな十日月である。柳橋水車図の月がそうであり、団家本の光悦歌巻の月もそうである。それはまた光悦のたっぷりした量感の表現と軌を一にするものである。この第十九枚目からは、屏風としては、左隻に移って、秋に入るのであるが、右隻の第一葉が、春のはじめとして日輪であったのに対し、ここは弦月をもって対照させている。歌は新古今集巻四秋歌である。 】(『光悦色紙帖(ドイツベルリン国立博物館蔵蔵)・光琳社出版株式会社』所収「ベルリン博物館の光悦色紙帖(源豊宗稿)」)

(参考)

https://core.ac.uk/download/pdf/228663408.pdf

 源豊宗の「秋草の美学」論―中国絵画との比較研究を踏まえて―(関西大学大学院東アジア文化研究科 施 燕)

「ベルリン博物館蔵光悦色紙帖研究」(1966)、

(抜粋)
【 源の琳派研究は、1950 年「扇屋俵屋宗達」に始まり、『本阿弥光悦』(1954)、『宗達の芸術』(1954)、『光琳の生涯』(1954)、『光琳の芸術』(1959)、『宗達の墨絵』(1961)、『光琳と乾山の美術史上の位置』(1962)、「ベルリン博物館蔵光悦色紙帖研究」(1966)、『光悦短冊帖について』(1969)、(共編)『琳派工芸選集』(1968)、『宗達と水墨画』(1970)、『宗達の様式』(1972)、『光悦の書風とその展開』(一-三)(1973)、『宗達とその周辺』(1974)、
『俵屋宗達』(日本美術絵画全集)(1976)、『五島本光悦筆「新古今色紙帖」』(解説)(1976)、
「平家納経と宗達」(対談)(1976)、「光悦の芸術」(畠山本宗達下絵光悦筆四季草花和歌巻)
(1977)、「初期の光悦」(1977)、「日本の美術工芸と光琳」(1982)、「鷹峰以前の光悦」(1985)、
「本阿弥光悦の芸術」(1990)といった多数の研究にわたっている。それらの論考は実証
的手法に基づきながら、様式の展開とそこに反映される民族的精神を追求するという研究
姿勢に貫かれている。一方、数からいえば、宗達と光琳が主な研究対象であって、その中、
光琳よりも明らかに宗達に偏重していることが明らかである。】
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yahantei

 「芥子下絵新古今和歌巻(巻末) 光悦書 東京国立博物館蔵」は、今年(2020)の「常設展」の「正月(一月)」で公開されていた。しかし、ネットでは、「巻頭・部分・巻末」の三葉か公開されていない(その内に全図が公開されるのかも知れない)。
 久々に、「源豊宗」論考のものに触れた。そして、新しい芽吹きの、「 源豊宗の「秋草の美学」論―中国絵画との比較研究を踏まえて―(関西大学大学院東アジア文化研究科 施 燕) 」を、ネットで目にすることが出来た。ここから、新しい、芽吹きがあるのかも知れない。

by yahantei (2020-09-11 19:06) 

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