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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その三)「紫式部」(「空蝉と竹河」・「石山寺」など)

紫式部.jpg

紫式部(菊池容斎・画、明治時代)『前賢故実(菊池容斎著)』「国立国会図書館デジタルコレクション」
https://dl.ndl.go.jp/pid/778219/1/58

「たけがはもうつ蝉も碁や五月雨」(「抱一句集(「屠龍之技」)・第四/椎の木かげ」4-48)

https://yahantei.blogspot.com/

季語=五月雨=五月雨(さみだれ)/仲夏

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2042

【子季語】さつき雨、さみだる、五月雨雲
【解説】陰暦五月に降る雨。梅雨期に降り続く雨のこと。梅雨は時候を表し、五月雨は雨を表す。「さつきあめ」または「さみだるる」と詠まれる。農作物の生育には大事な雨も、長雨は続くと交通を遮断させたり水害を起こすこともある。  
【例句】
五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉「奥のほそ道」
五月雨の降残してや光堂 芭蕉「奥のほそ道」
さみだれの空吹おとせ大井川 芭蕉「真蹟懐紙」
五月雨に御物遠や月の顔 芭蕉「続山の井」
五月雨も瀬ぶみ尋ぬ見馴河 芭蕉「大和巡礼」
五月の雨岩ひばの緑いつまでぞ 芭蕉「向之岡」
五月雨や龍頭揚る番太郎 芭蕉「江戸新道」
五月雨に鶴の足みじかくなれり 芭蕉「東日記」
髪はえて容顔蒼し五月雨   芭蕉「続虚栗」
五月雨や桶の輪切る夜の声   芭蕉「一字幽蘭集」
五月雨にかくれぬものや瀬田の橋 芭蕉「曠野」
五月雨は滝降うづむみかさ哉 芭蕉「荵摺」
五月雨や色紙へぎたる壁の跡 芭蕉「嵯峨日記」
日の道や葵傾くさ月あめ   芭蕉「猿蓑」
五月雨や蠶(かいこ)煩ふ桑の畑 芭蕉「続猿蓑」

(参考)

「空蝉」(下記「源氏物語図・巻3)」)

源氏物語図・空蝉).jpg

源氏物語図 空蝉(巻3)/部分図/狩野派/桃山時代/17世紀/紙本金地着色/縦32.3×57.6㎝/1面/大分市歴史資料館蔵
≪源氏は心を許さない空蝉に業をにやして紀伊守邸を訪れる。部屋を覗きみると、空蝉と義理の娘で紀伊守の妹、軒端荻が碁を打っていた。≫

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/46118

「たけがは・竹河」(下記「源氏物語図・巻44)」)

源氏物語図・竹河.jpg

源氏物語図 竹河(巻44)/部分図/狩野派/桃山時代/17世紀/紙本金地着色/縦48.8×横57.9㎝/1面/大分市歴史資料館蔵
≪夕霧の子息蔵人少将は、玉鬘邸に忍び込み、庭の桜を賭けて碁を打つ二人の姫君の姿を垣間見て、大君への思いをつのらせる。≫

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/86586

句意(その周辺)=この句の上五の「たけがはも」の「たけがは」は、『源氏物語』の「第四十四帖 :竹河」の「竹河」、そして、中七の「うつ蝉も・碁や」の「うつ蝉」は、「第三帖:空蝉」の「空蝉」を指していて、その「碁や」は、その「竹河(第七段:「蔵人少将、姫君たちを垣間見る」)」と「空蝉(「第三段:空蝉と軒端荻、碁を打つ」)」との「囲碁」の場面を指している。

 句意は、「この五月雨で、『源氏物語』を紐解いていたら、「第四十四帖 :竹河」と「第三帖:空蝉」で、「姫君たちが囲碁に夢中になっている」場面が出てきましたよ。」ということになる。すなわち、この句の「からくり」(仕掛け)は、上記の、「源氏物語図巻」の「絵解き」の一句ということになる。(蛇足=抱一の「からくり(仕掛け)」は、「源氏物語図巻」の「絵解き」の一句ということだけではなく、上記の芭蕉の「五月雨」の例句、十一句の全てが、「さみだれ・さつきあめ」で、「さみだるる」の「用言止め」の句は一句もない。この句の、下五の「五月雨」は、「さつきあめ」の体言止めの詠みではなく、「さみだるる」の用言止めの詠みで、この句の眼中には、「姫君たちが囲碁に夢中になっているが、まさに、五月雨(さみだれ)のように、さみだれて、混戦中の形相を呈している」ということになる。この蛇足が正解に近いのかも? )

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-21

名月や硯のうみも外ならず (第二 かぢのおと) 

紫式部一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「紫式部図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 この「紫式部図」は、『光琳百図』(上巻)と同じ図柄のものである。

紫式部二.jpg

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491

 光琳百回忌を記念して、抱一が『光琳百図』を刊行したのは、文化十二年(一八一五)、五十五の時、『鶯邨画譜』を刊行したのは、二年後の文化十四年(一八一七)、五十七歳の時で、両者は、同じ年代に制作されたものと解して差し支えない。
 両者の差異は、前者は、尾形光琳の作品を模写しての縮図を一冊の画集にまとめたという「光琳縮図集」に対して、後者は、抱一自身の作品を一冊の絵手本の形でまとめだ「抱一画集」ということで、決定的に異なるものなのだが、この「紫式部図」のように、その原形は、全く同じというのが随所に見られ、抱一が、常に、光琳を基本に据えていたということの一つの証しにもなろう。

紫式部三.png

尾形光琳画「紫式部図」一幅 MOA 美術館蔵

 落款は「法橋光琳」、印章は「道崇」(白文方印)。この印章の「道崇」の号は宝永元年(一七〇四)より使用されているもので、光琳の四十七歳時以降の、江戸下向後に制作したものの一つであろう。
 この掛幅ものの「紫式部図」の面白さは、上部に「寺院(石山寺)」、中央に「花頭窓の内の女性像(紫式部)」、そして、下部に「湖水に映る月」と、絵物語(横)の「石山寺参籠中の紫式部」が掛幅(縦)の絵物語に描かれていることであろう。
 この光琳の「紫式部図」は、延宝九年(一六八一)剃髪して常昭と号し、法橋に叙せられた土佐派中興の祖・土佐光起の、次の「石山寺観月の図」(MIHO MUSEUM蔵)などが背景にあるものであろう。

石山寺観月図(土佐光起筆).jpg

石山寺観月図(土佐光起筆)/江戸時代/絹本著色/H-122.3 W-55.6/(MIHO MUSEUM蔵)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00001352.htm
≪土佐光起(1617~1691)は江戸時代前期の画家で、堺の生まれ。のちに京都に移り住み、承応3年(1654)、永禄12年(1569)以来失われていた宮廷の絵所預(えどころあずかり)となって土佐家を再興した。延宝9年(1681)剃髪して常昭と号し、法橋に叙せられている。滋賀県大津市にある石山寺には、源氏物語の筆者・紫式部が一室でその構想を練ったという伝承がある。また「石山の秋月」と近江八景のひとつに挙げられているように、古くから石山寺あたりの秋月の眺めは格別であることがよく知られている。光起は、そうした画材をもとにこの絵を描いたようである。夜空に浮かぶ秋の名月、その月が石山寺の眼下を流れる瀬田川の川面に映えている。源氏物語の構想に思いを巡らす紫式部とともに、内裏造営に参加した光起らしい雅な筆致で描かれている。≫

 名月や硯のうみも外(そと)ならず  

 「かぢのおと(梶の音)」編の、「紫式部の畫の賛に」の前書きのある一句である。この句は、上記の『鶯邨画譜』の「紫式部図」だけで読み解くのではなく、光琳の「紫式部図」や土佐光起の「石山寺観月の図」などを背景にして鑑賞すると、この句の作者、「尻焼猿人・
屠龍・軽挙道人・雨華庵・鶯村」こと「抱一」の、その洒落が正体を出して来る。
 この句の「外ならず」も、先の「たけがはもうつ蝉も碁や五月雨」(「第四 椎の木かげ」)の「五月雨(さつきあめ)」と「五月雨(さみだるる)」との、二様の視点があるように、外(ほか)ならず」と「外(そと)ならず」との、二様の視点がある。
そして、この句もまた、一般的な詠み方の「外(ほか)ならず」ではなく、「外(そと)ならず」の、「詠みと意味」とで鑑賞したい。
 句意は、「『石山寺に名月』がかかっている。この『名月』は、『外(そと)ではあらず』、さりとて、『外(ほか)ではあらず』、この『内(うち)』なる『石山寺』の、この『花頭窓の『内』の女性像(紫式部)=『石山寺参籠中の紫式部』=『源氏物語構想中の紫式部』の、その傍らの、『硯のうみ』=『硯海』(『硯の墨汁を溜める所』=『書画に優れた人』=「紫式部」=『源氏物語』)の、その『硯のうみ』に宿りしている(映っている)』。
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