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「子規・漱石・寅彦・東洋城」俳句管見(その八) [子規・漱石・寅彦・東洋城]

その八「明治二十九年(一八九六)・「梨の花・柳」など」

(子規・三十歳。正月三日鴎外・漱石らと子規庵で句会。)
https://shiki-museum.com/masaokashiki/haiku?post_type=haiku&post_type=haiku&haiku_id=&p_age=28&season=&classification=&kigo=&s=%E9%87%91%E5%B7%9E&select=

此春は金州城に暮れてけり  ID12528 制作年28 季節春 分類時候 季語春の暮
金州や矢の根をひろふ春の風 ID12609 制作年28 季節春 分類天文 季語春風
金州の城門高き柳かな    ID12930 制作年28 季節春 分類植物 季語柳
金州にいくさせし人よ畠打つ ID16063 制作年29 季節春 分類人事 季語畑打
金州や東門の外に梨の花   ID16343 制作年29 季節春 分類植物 季語梨の花

(漱石・三十歳。四月、熊本第五高校講師として赴任。六月、中根鏡子と結婚。「子規宛句稿が始まる(十~二十一)。東洋城、漱石に句を送り、添削を乞う。)

766 待つ宵の夢ともならず梨の花(明治二十九年「子規へ送りたる句稿十四」) 

(寅彦・十九歳。高知県尋常中学校首席で卒業。熊本第五高等学校に入学する。)

ごみをかぶる柳の下のポストかな(明治三十一~二年作)
県庁の柳芽をふく広小路(同上)
門前に泥舟つなぐ柳哉(同上)
招集の掲示を撫る柳哉(同上)
雨の家鴨柳の下につどひけり(同上)
二階から女郎が手招く柳かな(明治三十二年作)
煙草屋の娘うつくしき柳かな(明治三十三年作)

(東洋城・十九歳。)

県道や柳を植ゑずペンキ橋(明治三十三年作)
飛々に村飛々に柳哉(明治三十三年作)
 
(参考) 「子規と鷗外と饅頭茶漬」(周辺)

森鷗外(近衛師団の軍医部長).jpg

「子規・日清戦争。従軍記者の頃の森鷗外(近衛師団の軍医部長)」
https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201803220000/

≪ 此春は金州城に暮れてけり(明治28)
  金州の城門高き柳かな  (明治28)
  金州にいくさせし人よ畠打つ(明治29)
  金州や東門の外に梨の花(明治29)
  金州の南門見ゆる枯野哉(明治31)
 
 子規が日清戦争の従軍記者として遼東半島に向かいましたが、金州に上陸した時、すでに日本と清の交戦は終わっていました。子規の金州滞在は、明治28年4月15日から5月10日までで、金州を離れた日に日清講和条約が批准されました。
 この時、近衛師団の軍医部長だった森鷗外も金州に駐屯していました。暇を持て余していた子規と鷗外は、俳句についての意見を戦わせています。鷗外はこのことを「但征日記」に「正岡常規来り訪う俳譜の事を談ず」(5月4日)、「子規来り別る。几董等の歌仙一巻を手写して我に贈る」(5月10日)と記しています。『子規全集』月報7の宮地伸一著「子規と鴎外との出会い」には、「今度の戦争に行って、非常に仕合わせなのは正岡君と懇意になったことだ」と鷗外が柳田國男に語っていたとあります。≫
 子規も、門人たちに書きとらせた「病床日誌」明治28年6月5日に「いちごを食い、頗る壮快なるおももちなり。曰く、いちごとりとは中々おもしろき名なり。小説にすれば森鷗外の好む所か……森に金州にて会いし話をせしや。……中略……金州の兵站部長は森なりと聞き訪問せしに、兵站部長には非ず、軍医部長なりし。これより毎日訪問せり」と書かれています。
 帰国後、鷗外は子規との交遊を深め、明治29年の正月3日。子規庵の発句始に、鷗外が初めて顔を出しました。鳴雪、瓢亭、虚子、可全、碧梧桐、漱石らが参加した会の季題は「あられ」で、鷗外は「おもひきつて出で立つ門の霞哉」と詠み、最高点を獲得しました。この年、鷗外は「めさまし草」を創刊したため、子規一門も俳句や評論を寄稿しました。子規と鷗外の親交は、明治32年6月に、鷗外が小倉師団に転勤するまで続いています。
 学生時代、子規は鷗外の作品に対して、いい感情を持っていませんでした。明治24年8月23日の漱石から子規に宛てた手紙には「鷗外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き申訳もこれなく、これも小子嗜好の下等なる故とひたすら慚愧(ざんき)致居候。元来、同人の作は僅かに二短篇を見たるまでにて、全体を窺うことかたく候得ども、当世の文人中にては先ず一角あるものと存居候いし、試みに彼が作を評し候わんに、結構を泰西に得、思想をその学問に得、行文は漢文に胚胎して和俗を混淆したるものと存候。右等の諸分子あいまって、小子の目には一種沈鬱奇雅の特色ある様に思われ候。もっとも人の嗜好は行き掛かりの教育にて(たとい文学中にても)種々なるもの故、己れは公平の批評と存候ても他人には極めて偏屈な議論に見ゆるものに候ば、小生自身は要所に心酔致候。心持ちはなくとも大兄より見れば作用に見ゆるもごもっとものことに御座候」とあり、鷗外の著作に対して、子規は否定的だったことがわかります。 ≫
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