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「漱石・東洋城・寅彦」(子規没後~漱石没まで)俳句管見(その九) [漱石・東洋城・寅彦]

その九「明治四十四年(一九一一)」

[漱石・四十四歳。明治44(1911) 2月、文学博士号を辞退。7月、「ケーベル先生」、11月、ひな子急死。]

漱石夫妻.jpg

『漱石夫妻 愛のかたち』より
https://yamabato.exblog.jp/32354048/
夏目漱石の長女・筆子の次女(松岡陽子マックレイン)による著作『漱石夫妻 愛のかたち』。
『漱石の思い出』(漱石の妻・鏡子の語りを、筆子の夫で漱石の門人でもあった松岡譲が書き取ったもの)を軽く補足するような内容)。)
[漱石家族(前列左から「二女・恒子、妻・鏡子、長男・純一、四女・愛子、長女・筆子、三女・栄子」、後列、左から「松根東洋城・森成麟造医師」など) ]

漱石家族一.jpg

「漱石家族(左から 純一・愛子・筆子・恒子・栄子・伸六・ (枠内)雛子)」
https://ameblo.jp/senna351103/entry-12244785229.html

2261 腸に春滴るや粥の味(『思ひ出す事など(二十六)』)
[やがて粥(かゆ)を許された。その旨(うま)さはただの記憶となって冷やかに残っているだけだから実感としては今思い出せないが、こんな旨いものが世にあるかと疑いつつ舌を鳴らしたのは確かである。それからオートミールが来た。ソーダビスケットが来た。余はすべてをありがたく食った。そうして、より多く食いたいと云う事を日課のように繰り返して森成さんに訴えた。森成さんはしまいに余の病床に近づくのを恐れた。東君(ひがしくん)はわざわざ妻(さい)の所へ行って、先生はあんなもっともな顔をしている癖に、子供のように始終(しじゅう)食物(くいもの)の話ばかりしていておかしいと告げた。]

2269 蝙蝠の宵々毎や薄き粥
[この句を記した寺田寅彦宛のはがきには、入院していた大阪の湯川胃腸病院の三階の病室から見える風景が書かれ、「毎日粥を食ふ」とある。]

2270 稲妻に近くて眠り安からず(前書「三階の隅の病室に臥して」)
[前書きは服部嘉に贈ったとされる短冊(「英語教育(大正6年1月15日)」の写真版による。)

2271 灯を消せば涼しき星や窓に入る(「松根東洋城宛書簡」)
2272 風折々萩先づ散つて芒哉(「寺田寅彦宛書簡」)
2273 耳の底の腫物を打つや秋の雨(「松根東洋城宛書簡」)
[耳痛の東洋城を思いやった句。]
2274 切口に冷やかな風の厠より(「松根東洋城宛書簡」)
[東洋城宛書簡に、「肛門の方は段々よけれど創口未だ肉を上げずガーゼの詰替頗る痛み候」とある。漱石は痔の手術を受けたばかりであった。]
2275 たのまれて戒名選む鶏頭哉(「松根東洋城宛書簡」)
[東洋城の母の戒名を選んだことが句の背景。]

2276 抱一の芒に月の円かなる
[抱一の芒は画家の抱一が描いたような芒。]

(付記)

月下尾花図 酒井抱一筆.jpg

「月下尾花図 酒井抱一筆」(「(MIHO MUSEUM)蔵」)
https://www.miho.jp/booth/html/artcon/00000654.htm
[旧暦8月15日は仲秋の名月。この時期、台風や霧雨で空気が湿ったり、小雨の降ったあと、移動性高気圧におおわれて晴れた夜間に冷え込みがあったりして、霧が発生しやすい。「十二カ月花鳥図」のようにとりどりの秋草や虫などの小動物も描かれていないが、たらし込みの技法で描かれたススキに、夜霧に浮かぶ名月を取り合わせ、俳諧にも親しんだ抱一らしい、しっとりとした詩情に充たされた作品である。
(酒井抱一)
 1761~1829(宝暦11~文政11)。江戸時代後期の琳派の画家。姫路城主、酒井忠以の弟として江戸に生まれた。多種の才芸に富み、書、俳階狂歌にも長じ、涛花・杜陵・屠竜の別号がある。画は初め浮世絵や狩野派、円山派、土佐派など諸派の画風を広く学んだが、尾形光琳の作品に感動しその芸術の再興を志した。草花図を得意とし、深い観察力で豊かな抒情性をたたえた装飾画風を形成した。抱一は当時の文人的かつ粋人的生活を送った人で、光琳様式もその立場で解釈し、繊細、華麗な新しい画風によって光琳芸術を発展的に継承し江戸琳派を確立した画家である。宗達に始まる宗達派は光琳を経て抱一で三転したといえる。]

[東洋城・三十四歳。一月、父没す。望遠館を引払つて、築地に一戸を構へた。五月二十四日の日記に「松根の宅は妾宅の様な所である云々。漱石の博士問題起る。六月、四十二年より留学中の寅彦帰朝。九月、漱石大阪に病み、東洋城は伊予より帰京の途見舞つた。]

元日やわが俳諧も十五年
[※(補記)虚子から引き継いだ「国民俳壇」の選や、毎週一会の「望遠館句会」など、碧悟桐の新傾向(非定型)]に対する、定型の伝統を固守する自負が込められている。]

天下泰平の御講書始かな(前書「御講書始 十二句)
[1911年(明治44年)/洋書: 穂積八束「希臘及羅馬ノ古典ニ顕ハレル祖先崇拝ノ事蹟」/
漢書: 三島毅「周易、大有ノ卦」/国書: 猪熊夏樹「出雲風土記国引ノ條「所以号意宇者ヨリ蘭之長浜是也マテ」」(「ウィキペディア」)]

訪ね来よ朧の路地の行どまり(前書「新居」)
[「この家は、東洋城の城の字をとって「城庵(じょうあん)」と名づけ、東洋城もいつしか「城師(じょうし)」と呼ばれるようになった。」(『渋柿の木の下で(中村英利子著)』) ]

我が舳先(へさき)島ばかりなる霞かな(前書「今治を出でて」)
陽炎やお寺の塀で萌ゆる草
松の葉に春の雨降る深山かな
行列が過ぎて深山の松毟鳥(まつむしり)
[※(補記)『東洋城全句集(上巻)』には、その「年譜」(『同書(中巻)』所収)に記載されている「一月、父没す」に関する、直接的な(前書などによる)東洋城の句は収載されていない。そして、その「年譜」の「九月、漱石大阪に病み、東洋城は伊予より帰京の途見舞つた」に関連して、「今治を出でて」の前書を有する句が、掲出句の冒頭の句である。それに続く「寺・深山・行列」などの句は、父(松根権六)の葬儀関連の句のように思われる。]


これらのことに関して、次のアドレスの「東洋城と漱石、そして壷天子」(山本典男稿)は、その背景を明らかにしている。

https://www.i-manabi.jp/system/app/webroot/PARK/PK26980007/h12.htm

(抜粋)

[一〇、東洋城の父母の墓
 東洋城の先祖は宇和島藩伊達家の城代家老であった。平成十五年の八月、私は宇和島の大隆寺の松根東洋城の墓碑を訪ねた。大隆寺は宇和島藩伊達藩主の菩提寺で、その家老を勤めた松根家代々の墓地もそこにあった。豊次郎、松月院殿東洋城雲居士、昭和三十九年十月二十八日没八十七歳、友人の安倍能成の筆である。松根東洋城は本名を豊次郎といい、明治十一年二月二十五日、東京の築地に生まれた。東洋城の号は豊次郎をもじったものである。父の権六は、宇和島藩首席家老松根図書の長男、母の敏子は伊達宗城公の次女。祖父の松根図書といえば、幕末四賢公の一人といわれた伊達宗城を裏から支え、宇和島に図書ありと他藩の藩主から羨まれた希代の切れ者。松根家といえば親戚に皇族や華族がいる名門である。

一一、漱石に依頼の東洋城の母の戒名
 東洋城の墓碑の横に、右に松雲院殿閉道自覚居士、左に霊源院殿水月一如大姉とあるのが父権六と母敏子の墓である。東洋城の『句全集』の年譜には、父の権六は明治四十四年に死亡とある。ところが『漱石全集』の「書簡集」には、明治四十四年に東洋城の母の戒名を相談したことの漱石の返信の手紙が五通残っている。明治四十四年の漱石の「頼まれて戒名選む鶏頭かな」はこの時の句である。単純に考えれば明治四十四年に亡くなったのは父の権六の筈である。それを生存中の母の戒名を漱石に相談するのは変でないかと書簡を見直したが、手紙で漱石に託した東洋城の相談は母敏子の戒名の件で、亡くなった筈の父の権六の戒名の相談は皆無である。そこで、父の権六の戒名は、権六が亡くなった一月には戒名は大隆寺の住職より贈られ解決済みでなかったかと解釈した。その上で、東洋城の漱石への依頼の内容は次の三点にあると考えた。

① 権六の一回忌までに墓石を建立する必要があるが、この際母の戒名も敬愛する漱石に決めてもらって墓石に彫っておきたい。
② 漱石の玄関の表札の字が気に入ったので、両親の墓碑は、これを書いた菅虎雄に頼んでもらいたい。
③ 母の戒名には宇和島のイメージから海に因んだものを漱石に考えてもらいたい。

以上の三点が東洋城の漱石への依頼の内容ではなかったかと漱石の手紙から考えた。ところで、漱石の書簡では、東洋城の願いを聞き、滄?院殿水月(一夢)一如大姉ではどうかと東洋城に提案している。それに対し、漱石は「浩洋院殿では水月云々に即かず不賛成に候」と書き、海に関する五つの別の院殿号を提案、また翌日の手紙で、漱石は「昨日ある本を見たら海のことを霊源というように覚え候。霊源院殿は戒名らしく候、如何にや」とあれこれ詮索し、翌日、気の早い漱石は、友人の菅虎雄に戒名の揮毫を依頼している。文意は「縁起は悪いが戒名を是非書いて貰いたい。僕の教えた松根という男の父母である。書体は正楷、字配り封入の割の通り、右は父、左は母、ご承知ありたし。松根という男は引っ越しの時、僕の門札を書くところを見ていたから君に頼みたいといっている」とある。

一二、菅虎雄のこと
 菅虎雄は漱石の大学時代の友人で、漱石を松山中学に紹介したり、熊本の五高の教師に紹介したのも彼で、漱石の親友であった。安倍能成が、漱石が生前、最も親しくしていた友人に菅虎雄を挙げている。彼はドイツ語教師であったが、書にも堪能で一高の時の教え子芥川龍之介の著作『羅生門』の題字や、漱石が亡くなった時、雑司ケ谷にある漱石の墓碑も彼が書いている。菅は漱石の頼みでもあり、数枚の候補作を書いている。ところが、東洋城は、直前になって中止したい、などと優柔不断なことを言っている。漱石は慌てて、「実は先刻、菅に手紙を出して頼んでしまった、いまさらよすと云うのも異なものではないか。それに私もこの戒名に愛着もある。」と東洋城に翻意を促しています。また別便では、菅虎雄の書いた戒名を複数見せて「小生のよしと思うに朱円を付し置き候」と結び、これで漱石達のやり取りは終わる。漱石は大正五年に亡くなり、東洋城の母親は昭和八年に亡くなっており、書簡だけでは分からないので漱石の戒名は実現したのか確かめる必要があると考えた。なお菅虎雄は漱石の墓碑も揮毫している。この顛末を宇和島の大隆寺の墓地で実際に確認するのが、旅の目的だった。だが、私の危惧に関わらず、漱石が考えた戒名は一字も修正されず、権六の戒名の横に母親の「霊源院殿水月一如大姉」はあった。漱石の「頼まれて戒名選む鶏頭かな」は確かに実行されていたのであった。(以下一三・一四は編集の都合上了解を得て省略) ]

(付記)「宇和島の松根家の邸宅と家族」(明治四十二年九月四日写)

東洋城家族一.jpg

(裏面に、「明治四十二年九月四日写之、秋風やこぼつときめてきめて撮す家」と認めてある宇和島の宏壮な郷邸で、私の推定では敷地三千坪もあつたろうか。大半を町へ売られ、跡は町立病院が建った。残った二百坪程度の敷地に七間位の邸を建てられ、私どもはそこへ通つた。それも戦火に罹つて炎上、今は唯「我が祖先(おや)は奥の最上や天の川」の句碑一基を残すのみである。徳永山冬子)
「青春時代を語る / 東洋城 ; 洋一/p54~73」)」(「俳誌『渋柿(昭和四十年(一九六五)の一月号) 』 (「松根東洋城追悼号」)」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6071686/1/37


[寅彦・三十四歳。欧米各国の地球物理学を調査するため、二月にフランス、四月にイギリス、五月にアメリカ、六月、帰国。七月、正七位に叙せられる。十一月、物理学第三講座を担任、第二講座を分担する。十一月、本郷区弥生町に転居。]

霜柱猟人畑を荒しけり(一月十四日「東京朝日新聞」)
小笹原下る近道霜ばしら(同上)
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