SSブログ

「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その二) [忘れがたき風貌・画像]

その二 芭蕉・蕪村・抱一・利休・宗祇

蕪村像.jpg
「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-06-23


(再掲)

 上記の「窓辺の蕪村(像)」の軸物は、上段が蕪村の書簡で、その書簡の下に、月渓(呉春)が「窓辺の宗匠頭巾の人物」を描いて、それを合作の軸物仕立てにしたものである。  
 この下段の月渓(呉春)の画の左下に、「なかばやぶれたれども夜半翁消そこ(消息=せうそこ)うたがひなし。むかしがほなるひとを写して真蹟の証とする 月渓 印 印 」と、月渓(呉春)の証文が記されている。

 上段の蕪村の書簡(天明元年か二年十月十三日、無宛名)は、次のとおりである。

   早速相達申度候(さっそくあひたっしまうしたくさうらふ)
 昨十二日は、湖柳会主にて洛東ばせを(芭蕉)菴にてはいかい(俳諧)有之候。扨
 もばせを庵山中の事故(ゆゑ)、百年も経(ふ)りたるごとく寂(さ)びまさり、殊勝な
 る事に候。どふ(う)ぞ御上京、御らん(覧)可被成(なさるべく)候。
  其日(そのひ)の句
 窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉
  探題
  初雪 納豆汁 びわ(は)の花
 雪やけさ(今朝)小野の里人腰かけよ
  納豆、びは(枇杷)はわすれ(忘れ)候
 明日は真如堂丹楓(紅葉したカエデ)、佳棠、金篁など同携いたし候。又いかなる催(も
 よほし)二(に)や、無覚束(おぼつかなく)候。金篁只今にて平九が一旦那と相見え
 候。平九も甚(はなはだ)よろこび申(まうす)事に候。平九も毎々貴子をなつかしが
 り申候。いとま(暇)もあらば、ちよと立帰りニ(に)御安否御尋(たづね)申度(ま
 うしたく)候。しほらしき男にて。かしく かしく かしく

 この蕪村書簡に出てくる「湖柳・佳棠・金篁・平九」は蕪村門あるいは蕪村と親しい俳人達である。また、この書簡の冒頭の「昨十二日は」の「十二日」は、芭蕉の命日の、「十月(陰暦)十二日」を指しており、この芭蕉の命日は、「芭蕉忌・時雨忌・翁忌・桃青忌」と呼ばれ、俳諧興行では神聖なる初冬の季題(季語)となっている。

 この書簡は、蕪村の「窓の人のむかしがほなる時雨哉」を発句として、「はいかい(俳諧)有之候」と歌仙が巻かれたのであろう。この発句の「むかしがほ(昔顔)」は、当然のことながら、俳聖芭蕉その人の面影を宿しているということになる。

 世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨 二条院讃岐 『新古今・冬』
 世にふるもさらに時雨のやどり哉           宗祇     連歌発句
 世にふるもさらに宗祇のやどり哉           芭蕉    『虚栗』

 この芭蕉の句は、天和三年(一六八三)、三十九歳の時のものである。この芭蕉の句には、宗祇の句の「時雨」が抜け落ちている。この談林俳諧の技法の「抜け」が、この句の俳諧化である。その換骨奪胎の知的操作の中に、新古今以来の「時雨の宿りの無常観」を詠出している。

 旅人と我が名呼ばれん初時雨   芭蕉 『笈の小文』

 貞享四年(一六八七)、芭蕉、四十四歳の句である。「笈の小文」の出立吟。時雨に濡れるとは詩的伝統の洗礼を受けることであり、そして、それは漂泊の詩人の系譜に自らを繋ぎとめる所作以外の何ものでもない。

 初時雨猿も小蓑を欲しげなり   芭蕉 『猿蓑』

 元禄二年(一六八九)、芭蕉、四十六歳の句。「蕉風の古今集」と称せられる、俳諧七部集の第五集『猿蓑』の巻頭の句である。この句を筆頭に、その『猿蓑』巻一の「冬」は十三句の蕉門の面々の句が続く。まさに、「猿蓑は新風の始め、時雨はこの集の眉目(美目)」なのである(『去来抄』)。

 芭蕉の「時雨」の発句は、生涯に十八句と決して多いものでないが、その殆どが芭蕉のエポック的な句であり、それが故に、「時雨忌」は「芭蕉忌」の別称の位置を占めることになる。

 楠の根を静(しづか)にぬらすしぐれ哉     蕪村 (明和五年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや蓑買(かふ)人のまことより 蕪村 (明和七年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや我も古人の夜に似たる    蕪村 (安永二年・『蕪村句集』)
 老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな   蕪村 (安永三年・大魯宛て書簡)
 半江(はんこう)の斜日片雲の時雨哉      蕪村 (天明二年・青似宛て書簡)

 蕪村の「時雨」の句は、六十七句が『蕪村全集一 発句』に収載されている。そして、それらの句の多くは、芭蕉の句に由来するものと解して差し支えなかろう。
 蕪村は、典型的な芭蕉崇拝者であり、安永三年(一七七四)八月に執筆した『芭蕉翁付合集』(序)で、「三日翁(芭蕉)の句を唱(とな)へざれば、口むばら(茨)を生ずべし」と、そのひたむきな芭蕉崇拝の念を記している。
 この蕪村の芭蕉崇拝の念は、安永五年(一七七六)、蕪村、六十一歳の時に、洛東金福寺内に芭蕉庵の再興という形で結実して来る。
 この冒頭の「「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)ですると、上段の『蕪村の書簡』の「窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉」の「昔顔」は芭蕉の面影なのだが、下段の月渓(呉春)が描く「窓の人」は、芭蕉を偲んでいる蕪村その人なのである。
 そして、その「芭蕉を偲んでいる蕪村」は窓辺にあって、外を眺めている。その眺めているのは、「時雨」なのである。この「時雨」を、芭蕉の無季の句の「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」の「抜け」(省略する・書かない・描かない)としているところに、「芭蕉→蕪村→月渓(呉春)」の、「漂泊の詩人」の系譜に連なる詩的伝統が息づいているのである。
 蕪村の俳画の大作にして傑作画は、「画・俳・書」の三位一体を見事に結実した『奥の細道屏風図』(「山形県立美術館」蔵など)・『奥の細道画巻』(「京都国立博物館」蔵など)を今に目にすることが出来るが、その蕪村俳画の伝統は、下記の「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)で、その一端を見ることが出来る。

幻住庵記.jpg

「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)=(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-08-11

(再掲)

酒井抱一の「綺麗さび」の世界(一)→ その一 風神雷神図扇(抱一筆)

風神雷神図扇.jpg

酒井抱一画「風神雷神図扇」紙本着色 各縦三四・〇cm 横五一・〇cm
(太田美術館蔵)
【 光琳画をもとにして扇に風神雷神を描いた。画面は雲の一部濃い墨を置く以外に、淡い線描で二神の体を形作り、浅い色調で爽快に表現されている。風神がのる雲は、疾走感をもたらすように筆はらって墨の処理がなされている。ここには重苦しく重厚な光琳の鬼神の姿はない。涼をもたらす道具としてこれほどふさわしい画題はないだろう。  】
(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社刊)』所収「作品解説(松嶋正人稿)」)

 この作品解説の、「ここには重苦しく重厚な光琳の鬼神の姿はない。涼をもたらす道具としてこれほどふさわしい画題はないだろう」というのは、抱一の「綺麗さび」の世界を探索する上での、一つの貴重な道標となろう。
 ここで、「綺麗さび」ということについては、下記のアドレスの「Japan Knowledge ことばjapan! 2015年11月21日 (土) きれいさび」を基本に据えたい。

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231

 そこでは、「『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、『華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう』としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。『きれいさび』と『ひめさび』という用語を関連づけたうえで、その意味を、『茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ』と説明している」を紹介している。

 ここからすると、「俳諧と美術」の世界よりも、「茶道・建築作庭(小堀遠州流)」の世界で、やや馴染みが薄い世界(用語)なのかも知れない。しかし、上記の抱一筆の「風神雷神図扇」ほど、この「綺麗さび」(小堀遠州流)から(酒井抱一流)」の、「綺麗さび」への「俳諧そして美術」との接点を示す、その象徴的な作品と見立てて、そのトップを飾るに相応しいものはなかろう。
 その理由などは概略次のとおりである。

一 「綺麗さび」というのは、例えば、何も描かれていない白紙の扇子よりも、「涼をもたらす道具」としての「扇子」に、「風神雷神図」を描いたら、そこに、白紙のときよりも、さらに、涼感が増すのではなかろうかという、極めて、人間の本性に根ざした、実用的な欲求から芽生えてくるものであろう。

二 そして、この「扇子」に限定すると、そこに装飾性を施して瀟洒な「扇面画」の世界を創出したのが宗達であり、その宗達の「扇面画」から更に華麗な「団扇画」という新生面を切り拓いて行ったのが光琳ということになる。この二人は、当時の京都の町衆の出身(「俵屋」=宗達、「雁金屋」=光琳)で、それは共に宮廷(公家)文化に根ざす「雅び(宮び)」の世界のものということになる。

三 この京都の「雅(みや)び」の町衆文化(雅=「不易」の美)に対し、江戸の武家文化に根ざす「俚(さと)び」の町人文化(俗=「流行」の美)は、大都市江戸の「吉原文化」と結びつき、京都の「雅び」の文化を圧倒することとなる。

四 これらを、近世(江戸時代初期=十七世紀、中期=十八世紀、後期=十九世紀)の三区分で大雑把に括ると、「宗達(江戸時代初期)→光琳(同中期)→抱一(同後期)」ということになる。

五 これを、「芭蕉→其角→抱一」という俳諧史の流れですると、「芭蕉・其角・蕪村(江戸時代中期)=光琳・乾山」→「抱一・一茶(同後期)=抱一・其一」という図式化になる。

六 ここに、「千利休(「利休」流)→古田織部(「織部」流」)→小堀遠州(遠州流))」の茶人の流れを加味すると、「利休・織部」(桃山時代=十六世紀)、遠州(江戸時代前期=十七世紀)となり、この織部門に、遠州と本阿弥光悦(光悦・宗達→光琳・乾山)が居り、光悦(町衆茶)と遠州(武家茶)の「遠州・光悦(江戸時代前期)」が加味されることになる。

七 そして、茶人「利休・織部・遠州・光悦」を紹介しながら、「日常生活の中にアート(作法=芸術)がある」(生活の『芸術化』)を唱えたのが、日本絵画の「近世」(江戸時代)から「近代」(明治時代)へと転回させた岡倉天心の『茶の本』(ボストン美術館での講演本)である。

八 ここで、振り出しに戻って、冒頭に掲出した「風神雷神図扇(抱一筆)」は、岡倉天心の『茶の本』に出てくる「日常生活の中にアート(作法=芸術)がある」(生活の『芸術化』)を物語る格好な一つの見本となり得るものであろう。

九 と同時に、ここに、「光悦・宗達→光琳・乾山→抱一・其一」の「琳派の流れ」、更に、「西行・宗祇・(利休)→芭蕉・其角・巴人→蕪村・抱一」の「連歌・俳諧の流れ」、そして、「利休→織部→遠州・光悦→宗達・光琳・乾山・不昧・宗雅(抱一の兄)・抱一→岡倉天心」の「茶道・茶人の流れ」の、その一端を語るものはなかろう。

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231

【「Japan Knowledge ことばJapan! 2015年11月21日 (土) きれいさび」(全文)

「きれい(綺麗)さび」とは、江戸初期の武家で、遠州流茶道の開祖である小堀遠州が形づくった、美的概念を示すことばである。小堀遠州は、日本の茶道の大成者である千利休の死後、利休の弟子として名人になった古田織部(おりべ)に師事した。そして、利休と織部のそれぞれの流儀を取捨選択しながら、自分らしい「遠州ごのみ=きれいさび」をつくりだしていった。今日において「きれいさび」は、遠州流茶道の神髄を表す名称になっている。

 では、「きれいさび」とはどのような美なのだろう。『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、「華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう」としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。「きれいさび」と「ひめさび」という用語を関連づけたうえで、その意味を、「茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ」と説明している。

 「さび」ということばは「わび(侘び)」とともに、日本で生まれた和語である。「寂しい」の意味に象徴されるように、本来は、なにかが足りないという意味を含んでいる。それが日本の古い文学の世界において、不完全な状態に価値を見いだそうとする美意識へと変化した。そして、このことばは茶の湯というかたちをとり、「わび茶」として完成されたのである。小堀遠州の求めた「きれいさび」の世界は、織部の「わび」よりも、明るく研ぎ澄まされた感じのする、落ち着いた美しさであり、現代人にとっても理解しやすいものではないだろうか。

 このことば、驚くことに大正期以降に「遠州ごのみ」の代わりとして使われるようになった、比較的新しいことばである。一般に知られるようになるには、大正から昭和にかけたモダニズム全盛期に活躍した、そうそうたる顔ぶれの芸術家が筆をふるったという。茶室設計の第一人者・江守奈比古(えもり・なひこ)や茶道・華道研究家の西堀一三(いちぞう)、建築史家の藤島亥治郎(がいじろう)、作庭家の重森三玲(しげもり・みれい)などが尽力し、小堀遠州の世界を表すことばとなったのである。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-21

宗祇.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「一九 宗祇」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1488
歌人(右方一九)宗祇
歌題 関月
和歌 清見がたまだ明けやらぬ関の戸を 誰がゆるせばか月のこゆらん
歌人概要  室町中期~戦国期の歌人・連歌作者

(再掲)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sougi.html

宗祇(そうぎ) 応永二十八~文亀二(1421-1502) 別号:自然斎・種玉庵・見外斎

 出自未詳。姓は飯尾(いのお/いいお)とされ(一説に母の筋)、父は猿楽師であったとの伝がある。生国は紀伊と伝わるが、近年、近江説も提出された。
 前半生の事蹟はほとんど不明。一時京都五山の一つ相国寺で修行し、三十余歳にして連歌の道に進んだらしい。宗砌(そうぜい)・専順・心敬らに師事し、寛正六年(1465)頃から連歌界に頭角を表わす。文明三年(1471)、東常縁より古今聞書の証明を授かる(「古今伝授」の初例とされる)。同四年には奈良で一条兼良の連歌会に参席し、同八年(1476)には足利幕府恒例の連歌初めに参席するなど、連歌師として確乎たる地歩を占めた。
 同年、宗砌・専順・心敬らの句を集めて『竹林抄』を編集する。同十九年(1487)四月、三条西実隆に古今集を伝授する。長享二年(1488)正月二十二日、肖柏・宗長と『水無瀬三吟百韻』を巻く。同年三月には足利義尚の命により北野連歌会所奉行に就く栄誉を得たが、翌年の延徳元年(1489)にはこの任を辞した。明応二年(1493)、兼載と共に准勅撰連歌集『新撰菟玖波集』を撰進、有心連歌を大成した。
 この間、連歌指導・古典講釈のため全国各地を歴遊し、地方への文化普及に果たした役割も注目される。文亀二年(1502)七月三十日、箱根湯本の旅宿で客死。八十二歳。桃園(静岡県裾野市)の定輪寺に葬られた。
 飛鳥井雅親・一条兼良・三条西実隆らと親交。弟子には肖柏・宗長・宗碩・大内政弘ほかがいる。著書には上記のほかに源氏物語研究書『種玉編次抄』、歌学書『古今和歌集両度聞書』『百人一首抄』、連歌学書『老のすさみ』『吾妻問答』、紀行『筑紫道記』などがある。家集には延徳三年(1491)以後の自撰と推測される『宗祇法師集』があり、自撰句集には『萱草(わすれぐさ)』『老葉(わくらば)』『下草』『宇良葉(うらば)』がある。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート