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夏目漱石の「俳句と書画」(その十五) [「子規と漱石」の世界]

その十五  漱石の「観自在帖」周辺

観自在帖(全作品紹介).jpg

「観自在帖(全作品紹介)」
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≪右一列上段「観自在帖(1)」→「観自在(漱石題)/紙本墨書・淡彩・24.4×36.3㎝」
右一列中段「観自在帖(2)」→「藤花図」/同上」
右一列下段「観自在帖(3)」→「隔水東西住」/同上」
右二列上段「観自在帖(4)」→「竹図」/同上」
右二列中段「観自在帖(5)」→「渡尽東西水」/同上」
右二列下段「観自在帖(6)」→「鉢花図」/同上」
右三列上段「観自在帖7)」→「柳芽を」/同上」
右三列中段「観自在帖(8)」→「牡丹図」/同上」
右三列下段「観自在帖(9)」→「起臥乾抻」/同上」
右四列上段「観自在帖10)」→「松林図」/同上」
右四列中段「観自在帖(11)」→「二十年来愛碧林/同上」
右四列下段「観自在帖(12)」→「竹石図/同上」

≪ 観自在とは、迷いの執念から解放された境界にあって、事物のすがたが自由自在に正しくみきわめられることを意味する仏教語。

観自在帖(1).jpg

「観自在帖(1)」→「観自在(漱石題)」
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 大正四年の春、漱石は京都に旅したが、病臥した。その後、小康を得て、乞わるるままに、小品の書画を楽しみながら書いた。贈られた磯田家では、この書画帖の巻頭の書「観自在」(上記図)をとって「観自在帖」と名付けている。
 画帖は「観自在」に続いて「藤花図」(「観自在帖(2)」)「隔水東西住」(「観自在帖(3)」)の五言絶句に展開される。

隔水東西住 (水を隔てて東西に住み)
白雲往又還 (白雲往(ゆ)きて又(また)還(かえ)る)
東家松籟起 (東家(とうか)に松籟起(お))これば)
西屋竹珊々 (西屋(せいおく)竹) 珊々(さんさん))

 この詩は、大正五年初夏頃の「断片」にも載っているが、そこでは「白雲」は「閑雲」、「又」は「復」と改められている。『漱石全集』では「又」は「也(また)」となっている。
 松籟は松風、珊々は、もとは玉のふれあう音から竹の葉のそよぎを形容している。最後の句に呼応して水墨の「竹図」(「観自在帖(4)」)がある。
 次の「渡尽東西水」(「観自在帖(5)」)には、

渡尽東西水 (渡り尽くす東西の水)
三過翠柳橋 (三(み)たび過(す)ぐ翠柳(すいりゅう)の橋)
春風吹不断 (春風(しゅんぷう)吹いて断(た)たず)
春恨幾條々 (春恨(しゅんこん)幾條々(いくじょうじょう))
 春日偶成 漱石

の五言絶句があって、これは明治四十五年(一九一二)五月二十四日の「春日偶成 十首」中の最後の詩。
 修善寺大患の『思ひ出す事など』以後、約一年半ばかり、全く作詩から遠ざかっていた漱石は、この「春日偶成 十首」以後、盛んに作詩した。しかし、それまでと趣を異にして、南画の賛、題詩の類か、少なくとも南画的光景を詠じたものばかりといっていいのが特色だと『漱石の漢詩』の中に松岡譲は述べている。
 この詩は旧作だが「観自在帖」に入れるにふさわしいと思ったのであろう。吉川幸次郎氏は『漱石詩注』で、「渡尽東西水」は明の高青邱(こうせいきゅう)の「胡隠君(こいんくん)を尋ぬ」に「水を渡り復(また)水を渡る。花を看(み)て還(また)花を看る。春風江上の路、覚えず君が家に到る」があり、これはこの句を導いたのであろうと述べている。それはそれとして、前掲(8図=「木屋町の宿をとりて川向の御多佳さんに」の前書がある「春の川を隔てて男女哉」)の「春の川を隔てて男女哉」の情緒につながるものを、かつての作に感じて、記したように思えてならない。
 なお、大正三年の作「同じ橋三たび渡りぬ春の宵」は、この漢詩と通ずるものがある。

 「観自在帖(6)」は、可憐な花をつけた木を描いた「鉢花図」。
 「観自在帖7)」は、
柳芽(やなぎめ)を吹いて四条のはたごかな 漱石
 の俳句で、大正四年四月、京都にて作った八句中の第一句。
 漱石の約一か月の京都滞在中の句で、続いて次の句がある。
見あぐれば坂の上なる柳かな
筋違に四条の橋や春の川
 鴨川に面した宿の二階の部屋に通されたというが、久しぶりに京都の春景色に、旅情を感じている漱石の感慨が示されている。また「はたご」という古風な語が、いかにも京都の土地がらにふさわしい。

 次の「観自在帖8)」は、満開の牡丹、蕾の牡丹を描いた「牡丹図」(下記の図)。

観自在帖(8).jpg

「観自在帖(8)」→「牡丹図」
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 「観自在帖(9)」の「起臥乾抻」は、

起臥乾抻一草亭 (起臥す乾抻一草亭(けんこんいっそうてい))
眼中只有四山青 (眼中只有り四山の青(せい))
閑来放鶴長松下 (閑来(かんらい)鶴を放(はな)つ長松(ちょうしょう)の下)
又上虚堂読易経 (又(ま)た虚堂(きょどう)に上(のぼ)って易経を読む)

 の七言絶句で、「閑来放鶴図」(下記の図)の題賛のみを書いたもの。『漱石全集』では「只」が「唯」となっている。

(付記) 「閑来放鶴図」

≪大正三年の題賛。漱石の理想境と思われるところを実に丹念に描き、この画は代表作の一つと目せられている。印は白文方印「漱石」。≫(『俳人の書画美術8 漱石』所収「作品解説39・40(福田清人稿)」)

閑来放鶴図自画賛.jpg

「閑来放鶴図自画賛」紙本着色/146.0×39.0㎝
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(観自在帖10.jpg

「(観自在帖10)」→「松林図」
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 「(観自在帖10)」は、松林の中に庵があり、対話する二人の人物を配した「松林図」(上記の図)。

 そして、「観自在帖(11)」は、次の七言絶句(「二十年来愛碧林」)。

二十年来愛碧林 (二十年来碧林(へきりん)を愛す)
山人須解友虚心 (山人(さんじん)須(す)べからく解す虚心を友とするを)
長毫漬墨時如雨 (長毫(ちょうもう)漬墨(しぼく)時に雨の如し)
欲写鏗鏘戞玉音 (写さんと欲(ほっ))す鏗鏘(こうしょう) 戞玉(かつぎょく)の音(ね))

碧林は青い竹林、山人は山の隠士、長毫は毛の長い筆、漬墨はにじんだ墨、鏗鏘は金属や玉がふれあって鳴る音、戞玉はふれあう玉。この詩は大正三年の画賛であるが「題竹」として、「観自在帖」のために重ねて書いた。

 最後の「観自在帖(12)」岩に竹を配し、淡彩で描いた「竹石図」。詩句六点、画六点で「観自在帖」は構成されている。  ≫(『俳人の書画美術8 漱石』所収「作品解説14~25(福田清人稿)」)

この「観自在帖」は、「漢詩」(「観自在帖(3)」・「観自在帖(5)」・「観自在帖(9)」・「観自在帖(11)」)、「俳句」(「観自在帖7)」→「柳芽を」)、「書」(「観自在帖(1)」→「観自在(漱石題)」)、「南画」(「観自在帖10)」→「松林図」)、そして、「俳画」(「観自在帖(2)」・「観自在帖(4)」・「観自在帖(6)」・「観自在帖(8)」・「観自在帖(12)」」)と、漱石の世界の全貌を探索する上で、その総決算的な意味合いがあるものと解したい。
 因みに、「俳句」(「観自在帖7)」→「柳芽を」)関連は、次の八句ということになる。

大正4年(1915年)

2437 柳芽を吹いて四条のはたごかな
≪季=柳の芽(春) ※2443までの七句は京都での作。漱石は三月十九日から四月十六日まで京都に滞在した。この句はこの滞在中に磯田多佳(2440参照)に贈った画帖『観自在帖』に記されている。◇全集(大6)が「四月京都にて 八句」として収める(ただし、八句のうち一句は、(2372))に同じ)。  ≫

2438 筋違に四条の橋や春の川
≪季=春の川。※筋違(すじかい)は斜め、はすかい。蕪村の句に「ほととぎす平安城を筋違に」があり、漱石は『創作家の態度』でこの句について言及している。 ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

2439 紅梅や舞の地を弾く金之助
≪季=紅梅(春)。※金之助は祇園 の芸妓の名。本名梅垣きぬ。≫(「同上」)

     木屋町に宿とりて川向
     の御多佳さんに(一句)
2440 春の川を隔てゝ男女かな
≪季=春の川。京都の漱石の宿は木屋町三条上ルにあった北大嘉(きたのたいが)。多佳は祇園 大友(だいとも)の女将、磯田多佳。鴨川の東に大友が、西に北大嘉があった。後略≫(「同上」)

2441 萱草の一輪咲きぬ草の中
≪季=萱草(かんぞう)=夏。※画賛の句。萱草はユリ科の多年草。夏に百合に似た橙赤色の花を一日だけ開く。忘れ草。西川一草亭が画いた萱草の絵に賛をしたものが知られている(『夏目漱石遺墨集』第三巻)。 ≫(「同上」)

2442 牡丹剪つて一草亭を待つ日哉
≪季=牡丹(夏)。※自画賛の句。一草亭は華道去風流の西川一草亭。実弟が津田青楓であり、漱石は京都滞在中に親しく交わった。≫(「同上」)

(付記) 「牡丹剪つて一草亭を待つ日哉(漱石)」自画賛(周辺)

https://rendezvou.exblog.jp/5253202/

一草亭・自画賛.jpg

「牡丹剪つて一草亭を待つ日哉(漱石)」自画賛図

  牡丹剪って一草亭を待つ日かな  漱石
2443 椿とも見えぬ花かな夕曇
≪季=椿(春)。※自画賛の句。≫(「同上」)

大正3年(1914年)

2372 見上ぐれば坂の上なる柳哉
≪季=柳(春)。≫(「同上」)


(参考その一)「津田青楓・西川一草亭 と 漱石の交友」周辺

https://rendezvou.exblog.jp/6290544/

≪ 漱石と京都、学問の繋がりでは松本文三郎、狩野亨吉がいずれも京都帝国大学(旧文科大学)の長であり、漱石へ教師として講座を依頼していました。明治40年4月、漱石は京都の銀閣寺北にあった松本文三郎の山房に招かれその礼状を送っています。

「拝啓 京都滞在中は尊来を辱ふせるのみならず銀閣の仙境に俗塵を振るひ落し候」

市街と離れたこの地を漱石はたいへん気に入り、東京付近ではこんな住居は求められないと賞賛しています。しかし、41年6月、書状で教師就任と講義の件は断っているのです。狩野亨吉とも同じやりとりがあったは史実に遺されている処です。

ただ、これら碩学の友人は当時京都在住ではありましたが、故郷は別にあり後に京都を去った人でした。京都に生まれ育ったきっすいの京都人で、親密な知人といえば、津田青楓と西川一草亭きょうだいを措いてはないと思われます。今回はこのふたりにスポットを当ててみることにいたしましょう。

☆フランス帰りの青年画家・津田青楓

漱石門下の小宮豊隆の仲介で津田青楓が漱石に逢ったのは明治44年。京都に育ち、日露戦争が終わると官費でフランスに3年間留学した貧しい青年画家で、帰国してまもなく京都から東京に出た頃でした。本名津田亀次郎、雅号青楓。

彼は、フランスで日本人の仲間が落ち合うレストランでの思い出を述懐しています。留学生の彼らは、漱石の『坊っちゃん』や『我輩は猫である』『草枕』の掲載されている雑誌を持ち込み朗読していたそうです。

津田と共にいた安井(安井曽太郎)は新参者であり、朗読するのは古参の留学生ら。

「茶と聞いて少し辟易した。世間に茶人程勿体ぶった風流人はない。広い視界をわざとらしく窮屈に縄張りをして、極めて自尊的に、極めてことさらに、極めてせせこましく、必要もないのに、鞠躬如(きっきゅうじょ)として、あぶくを飲んで結構がるものは所謂茶人である…」

『草枕』の一節を聞いては「愉快だね」と、うれしがる古参者ら。津田はそれを横目で見ながらこの時、漱石に親愛の情を感じはじめたと書いています。

けれども、彼の父親は去風洞挿花家元西川源兵衛(一葉)であり、また表千家の茶人でもあったのですから、皮肉なものです。明治44年、縁あって漱石門下に入ることになります。漱石にとっては趣味にしている描画のよき相談相手になり、心許せる門下生でありました。津田が漱石山房に出入りするようになった後、実兄の西川一草亭をまた漱石に引き合わせるのでした。

 津田清楓は述べています。

「京都はいやだった。親兄弟のお付き合いばかりして、やれお花見だ、やれお茶会だ、やれなんだかんだで引っ張り出されることばかしで、仕事なんかするひまはない。京都の人間は画家は風流人で、風流人は閑人だと思っているんだ。やりきれない…」

 漱石と散歩しながらの話を彼はこんな風に書いています。

「君の親の商売は何だと云われるので、一寸嫌だったが思い切って、花屋です、店では花屋で奥では生花の先生です」といい、父は風雅な風采をして茶ばかり啜っていると云った後で、

「だから僕を学校にもやってくれないで、小学校を出ると丁稚にやらされて、それ家を飛び出して孤児のように自分でやっとここまでこぎつけたのです」

長男は特別で次男以下は同等ではなかった明治の家族制度を思いますと、こうした話も理解できるのではないでしょうか。いっぽう、兄の西川一草亭は長男として教育も受け家業を継ぎました。去風洞挿花をさらに盛り立て、『瓶史』を刊行する著名な文化人となっていました。

☆去風洞主人・西川一草亭

漱石は、大正4年3月21日、京都滞在中に西川一草亭の招きで彼の住居である茶室を訪れています。まず、漱石自身の筆記を見ることにいたします。

漱石全集 大正4年 日記14 (日記・断片 下)
「二一日(日)
八時起る。下女に一体何時に起ると聞けば大抵八時半か九時だといふ。夜はと聞けば二時頃と答ふ。驚くべし。」

漱石は旅館の女中の生活を聞き、労働時間が長いのに驚いています。それから宿の窓からのぞむ加茂川とかなたの東山が霞でよく見えないのに河原で合羽を干すさまを書きとめています。

☆漱石 去風洞・小間の茶室に入る

「東山霞んで見えず、春気曖、河原に合羽を干す。西川氏より電話可成(なるべく)早くとの注文。二人で出掛ける。去風洞といふ門をくぐる。奥まりたる小路の行き当たり、左に玄関。くつ脱ぎ。水打ちて庭樹幽すい、寒きこと夥し。」

寒がりの漱石はここでも京の底冷えの寒さに震え上がっています。数奇屋の庭はこの時期殺風景な感じもあったでしょうし、待合の座敷から暖かい陽光の遮られた暗い茶室へ入り、心寒いばかりの想いがあったのではないでしょうか。それでも漱石の観察眼はするどく克明に記憶にとどめています。

「床に方祝の六歌仙の下絵らしきもの。花屏風。壁に去風洞の記をかく。黙雷の華厳世界。一草亭中人。御公卿様の手習い机。茶席へ案内、数奇屋草履。石を踏んでし尺(しせき)のうちに路を間違へる。再び本道に就けばすぐ茶亭の前に行きつまる。どこから這入るのかと聞く。戸をあけて入る。方三尺ばかり。ニジリ上り。」

ここは、露地を歩きながら茶室への方向を間違え、やっと茶室のにじり口を見つけたところです。武士も刀を外して身分の上下なく入る狭き入り口なのです。漱石はどうやら身をかがめて茶室内に入ったようです。

「更紗の布団の上にあぐらをかき壁による。つきあげ窓。それを明けると松見える。床に守信の梅、「梅の香の匂いや水屋のうち迄も」といふ月並みな俳句の賛あり。」

暗い茶室内には天井に突き上げ窓が開けられていました。ここから自然光が入る仕組みになっているのです。しかし、同時に冷気も入ったことでしょう。次に懐石料理が書かれています。この去風洞の近くに「松清」という料理屋があり、亭主は懐石をそこから取り寄せたもようです。

☆懐石料理の献立はどういうものだったか

「料理 鯉の名物松清。鯉こく。鯉のあめ煮。鯛の刺身、鯛のうま煮。海老の汁。茶事をならはず勝手に食ふ。箸の置き方、それを膳の中に落とす音を聞いて主人が膳を引きにくるのだといふ話を聞く。最初に飯一膳、それから酒といふ順序。」
(後略)

 箸の置き方、それを膳の中に落とす音を聞いて主人が膳を引きにくるのだ、のくだりは、茶道で懐石の作法になっているものです。客は食事が終わった合図として、静かに箸を膳の上に落とし亭主に知らせ、主はその音を水屋で聞くとすぐに膳を引きに来るわけです。

ところで、この献立を見るかぎりでは、西川一草亭は茶事を余りしていなかったのではないかと私は思います。理論はできても茶道の基本的な稽古をしていたかどうか…。父親から手前を習ったことはあるとだけ書かれています。

茶懐石では、海の幸、山の幸を少しづつとりまぜて消化の好い調理をし、無理なく食べられる分量で客に呈すのが本筋です。料理屋にまかせず亭主自ら客のことを考え吟味しなければいけません。しかし、この献立では胃腸の重篤な病をもつ漱石に如何なものかと思われてならないのです。

☆漱石「腹具合あしし」

案の定、漱石は23日の日記に「腹具合あしく且つ天気あしゝ。天気晴るれど腹具合なほらず。」とあるのです。翌24日には更に、腹具合は悪化します。
多佳女が云い出して北野天神の梅見の約束をしていたにも拘わらず、断りなく多佳が遠出していたことで漱石は深く傷つくのです。

「二十四日(水)
寒、暖なれば北野の梅を見に行こうと御多佳さんがいふから電話をかける。御多佳さんは遠方に行って今晩でなければ帰らないから夕方懸けてくれといふ。夕方懸けたって仕方がない。(中略)腹具合あしし。」

この時漱石は東京に帰るべく、「晩に気分あしき故明日出立と決心す」といったんは京都を離れる決意をしたのでした。この危機的状況を救ったのがまた津田青楓その人でした。

付きっ切りで看病する津田は多佳女に懸命にとりなすように依頼し、祇園の芸妓で漱石信奉者のお君さん、金之助にも来て貰い、最悪の状態を切り抜けました。京都滞在はこの後更に続くことになります。

「二十五日
御多佳さんが来る。出立ちをのばせと云ふ。医者を呼んで見てもらえと云ふ。(中略)多佳さんと青楓君と四人で話しているうちに腹具合よくなる。」

結局、漱石は翌月の4月16日まで、都合二十九日間京都に滞在したのです。東京へ帰ってから胃腸の病は深刻になり、翌月大正5年の12月9日までその病苦は続きました。

☆西川一草亭に漱石は感想をのべる

「漱石と庭」と題した一草亭のエッセイに、漱石が来庵した折の事柄が興味深く書かれています。その一部分を抜粋します。

「夏目さんの来られたのは三月の末で、さう云ふ時分にこう云ふ家を見ると只陰気で不愉快なばかりだった。夏目さんはその暗い陰気な座敷の床の前に坐って、欄間に懸かっている「一草亭中之人」と云ふ夏目さん自身の字を眺めたり、床の間に生けておいた室咲きの牡丹の花を見たりして、最後に此処の家賃はいくらするかねと尋ね、「こんな家は只でも嫌だね」と云って心から嫌な顔をされた。」

まあ、客としては失礼な物言いですが、体調の悪い人への亭主の心配りも「も一つ」だったようです。

江戸っ子漱石と京都、かならずしも相性は悪くなかったのです。相性が悪かったのは、京都の寒さだけだったのかもしれません

☆正直で飾り気のない交友

表裏のある狡猾な人間を嫌悪した漱石。それゆえに江戸っ子と自他ともに認めた気性でした。では、その対極にあるのが京都人だという世間の見方があるとすれば…。それは概には云えないのではないでしょうか。

 西川・津田兄弟を見ましても自分の家はもとより時代へ厳しい批判精神をもち、それを公言して憚らなかった京都人なのでした。1千年有余の歴史を有し伝統を保ちつつ、京都が革新の都といわれる所以はここにも見られると思います。

 漱石は祇園の一力で舞妓の運ぶ薄茶を喜んで喫しています。展覧会では茶道具の名品を手帳に書き付けています。そして漱石は乾山の向付けの一揃いを見つけそれを津田青楓に贈ってもいます。茶道そのものを嫌っていたのではありません。

漱石は、東京に帰ってからは「京都の閑雅をひとり懐かしんでいます、また行くつもりです」と書簡に書きながら、大正5年12月9日に、49歳の生涯を終えたのでした。
(後略)   ≫


(参考その二) 「漱石遺墨について」周辺

file:///C:/Users/user/Downloads/8011_0005_05.pdf

(抜粋)

1.漢詩( 『不成帖』 )
2.椿図( 『不成帖』 )
3.春蘭図( 『画帖』 )
4.竹林図( 『不成帖』 )
5.藤花図( 『観自在帖』 )
6.牡丹図( 『観自在帖』 )
7.松林図( 『観自在帖』 )
8.春蘭図ヵ( 『不成帖』 )
9.竹石図( 『観自在帖』 )
10.芭蕉図( 『咄哉帖』 )
11.椿図
12.東家西屋図( 『画帖』 )
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