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応挙工房周辺(「瀑布古松図床貼付」と「大瀑布図」) [応挙]

その二 「瀑布古松図床貼付」と「大瀑布図」

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「瀑布古松図床貼付」(応挙筆)「金刀比羅宮・「表書院・上段之間」三面の内 紙本墨画金砂子 寛政六年(一七九四) 二六九・〇×四七七・〇cm

【 画面左端、巨大な滝から落下した水の流れは左に向かい、いったん室外に出た上で再び室内に還流し、やがては広大な水景となって終わる。水の流れが左回りに部屋を一巡することで、画中空間と現実空間とが混然一体となった世界を現出するわけである。応挙が開発した虚(画中空間)実(現実空間)が一体化した世界がここに実現したのである。『別冊太陽 円山応挙』所収「波濤と瀑布・作品解説(内山淳一稿) 】

 上記の作品解説で、「いったん室外に出た上で再び室内に還流し」というのは、この「表書院」に面した庭の「林泉」(林や泉水を配して造った庭園)に「流れこみ」、そこからまた「室内に還流する」という、いわゆる、「空間マジック」「空間トリック」を、応挙が試行しているということを意味しよう。

【 六十二歳の筆になる本図は、金刀比羅宮を実際に訪ねることなく描かれたが、室内空間や屋外の地形まで綿密な情報を収集して構成された。描かれた川の流れの先の現実の屋外には水の流れがあって、室内にその音が聞こえてくる。絵画内の世界と現実が交錯する高次元の構成である。『水墨画の巨匠第十巻 応挙(安岡章太郎・佐々木丞平執筆)』所収「作品解説・図版解説(佐々木正子稿)) 】

 応挙が、讃岐(香川)の金刀比羅宮表書院の障壁画に取り組んだのは、天明七年(一七八七)、五十五歳の時からで、それが完成したのは、寛政六年(一七九四)、亡くなる一年前の六十二歳ということになる。
 この間に、天明八年(一七八八)、五十六歳の時に、天明の大火があり、さらに、寛政二年(一七九〇)、五十八歳の時に、一門を率いて、御所造営に伴う障壁画制作に参加している。あまつさえ、寛政五年(一七九三)、六十一歳の時に、体調を崩し、特に、眼の調子が悪化して、視力が衰えるという状況下にある。
 この応挙の金刀比羅宮表書院の障壁画というのは、次のとおり膨大なものである。

 「遊虎図襖」(襖・壁貼付二十四面)→ 天明七年(一七八五)
 「遊鶴図襖」(襖・床貼付十六面) → 同上
 「竹林七賢図襖」(襖八面)    → 寛政六年(一七九四)
 「山水図襖」(襖・壁貼付三十三面)→ 同上
 「瀑布古松図床貼付」(床貼付三面)→ 同上

 この金刀比羅宮の制作の背景には、応挙の最大の支援者ともいうべき京都の豪商三井八郎兵衛が介在しているといわれている。この障壁画に取り組んだ、天明七年(一七八五)には、同時に、但馬(兵庫)の大乗寺、京都の南禅寺帰雲院の障壁画にも取り組んでおり、それらは、応挙一門の総力を挙げて取り組んだものなのであろう。

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「保津川図屏風」(応挙筆)八曲一双の右隻(一五四・五×四八三cm)

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「保津川図屏風」(応挙筆)八曲一双の左隻(一五四・五×四八三cm)

 上記の「保津川図屏風(八曲一双)」が、寛政七年(一七九五)六月作で、この翌月の七月十七日に、応挙は六十三年の生涯を閉じることになる。すなわち、この「保津川図屏風」が、応挙の絶筆とされるものである。
 そして、この絶筆の「保津川図屏風」のルーツは、その一年前に完成された、冒頭に掲げた、金刀比羅宮表書院の床の間の「瀑布古松図床貼付」なのである。
 まさに、絶筆の「保津川図屏風」の右隻と「瀑布古松図床貼付」とは一致し、それを屏風仕立てにして、さらに、その右隻に衝突するような左隻を制作し、ここに、それを左右にしての、新しい「空間マジック」「空間トリック」を創出しようとしたことが窺えるのである。

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「大瀑布図」(応挙筆)一幅 紙本淡彩 安永元年(一七七二)作
三六二・八×一四四・五cm 相国寺蔵 円満院旧蔵

【 竪(縦)が三・六メートルに及ぶ巨大な滝の図。円満院門主祐常が、同院に滝がないのを惜しんで描かせたものといい、池の上に下げたとも伝える。書院の梁に掛けると、畳面でL字状に折れ曲がり、画面上方は仰ぎ見るような仰視、滝の中ほどは水平視、そして滝壺から下に描かれる流水といくつかの岩は俯瞰視の視点で描写されていることが指摘されている。滝壺付近の飛沫や流水に滴れる岩の黒さも臨場感を高めている。垂直に落下する滝と水平な流水という現実空間になぞらえた構図は、以後応挙が諸寺院の障壁画に展開することになる「虚実一体空間」のさきがけをなす作品として高く評価される。『別冊太陽 円山応挙』所収「波濤と瀑布・作品解説(内山淳一稿) 】

 この「大瀑布図」については、先に、「芦雪あれこれ(その七瀑布図)」で触れた(次に関係する部分を再掲して置きたい)。この安永元年(一七七二)、四十歳の時の「大瀑布図」が、冒頭に掲げた「瀑布古松図床貼付」、そして、絶筆の「保津川図屏風」の、すなわち、「虚実一体空間」のルーツということになる。

 翻って、応挙が、それまでの「主水」「仙嶺」「僊嶺」の署名から「応挙」の署名に替えたのは、明和三年(一七六六)、三十四歳の頃で、その前年の頃に、関白をつとめた二条吉忠に連なる円満院門主祐常(ゆうじょう)の知遇を得るようになった。 
 そして、上記の「大瀑布図」を制作した四十歳の頃から、京都の豪商三井家の知遇を得るようになり、この円満院門主祐常と三井家とが、応挙の主要な支援者ということになる。
 応挙の円山家は、応挙の没(寛政元年=一七九五)後、応瑞(一七六六~一八二九)、応震(一七九〇~一八三八)、応立(一八一七~七五)が家督を継いで行くが、明治維新後の、四代目応立は、「元円満院家来」として、京都府貴嘱の身分を得ている。それは、応挙と円満院門主祐常との関係が、代々、続いていたことの証しなのでもあろう。

補記一 (再掲)「大瀑布図」新潟日報記事 (2012年9月28日掲載

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新潟日報 (2012年9月28日掲載)
円山応挙の「大瀑布図」の展示作業

 上記は、平成二十四年(二〇一二)に新潟県歴史博物館で開催された「若冲・応挙の至宝-京都相国寺と金閣・銀閣 名宝展-」の展示作業を、「新潟日報」が掲載したものである。
 この「新潟日報」のスナップ写真が、応挙の「大瀑布図」の空前絶後の大きさと、そして、この「大瀑布図」に隠された、芦雪の企みと根っ子が同じところの「空間マジック」を伝えるのに、最も適切な一枚のように思われる。
 まず、この作品の大きさは、これを展示する人(二人)と比較してみると、いかに大きいかが一目瞭然となる。
 そして、この作品の展示に当たって大事な所は、天井から壁面に沿ってぶら下げて、床に達したら、その床の面に伸ばして、丁度、壁面と床との「L字」型に展示するように細工が施されているようなのである。
 すなわち、滝の部分は垂直に、滝壺の部分は水平になる。すなわち、これは応挙の「空間マジック」ということになる。
 そもそも、この応挙の作品は、応挙の良き理解者で最大の支援者であった円満院祐常(近江円満院三十七世、関白二条吉忠の三男)が、円満院の池に滝がないので、応挙に描かせ、池の上に懸けたとも、池に面した書院の長押に懸けたともいわれている。すなわち、この作品は、現実の庭の景色と一体化させて見ることを前提にして制作されている。
 すなわち、応挙の、この作品は、あくまでも、対象を「実物大」に描くというのが基本で、その「空間マジック」も、垂直方向と水平方向との二次元的な限定的なものであった。  
 しかし、芦雪の「空間マジック」は、垂直方向の一次元的な世界に、「実物大」ではなく、
「『大・小』対比の演出」によって、多種多様な「無限的空間」を生み出すという、「造形の魔術」「視覚トリック」が施されているということになる。
 芦雪が、応挙門に入った年次は定かではないが、芦雪の応挙門でのデビューは、安永七年(一七七八)、二十五歳の「東山名所風俗図」であった。応挙が、この「大瀑布図」を手掛けていた頃に、芦雪が応挙門に入っていたかどうかは不明であるが、芦雪が、この応挙の「大瀑布図」に大きな影響を受けていたことは、想像するに難くない。
 事実、芦雪は、「実物大」を主題にしての、篠竹一本を、縦一五五・八cm、横一一・三cmの、縦・横の比率が「一四対一」という、極端に細長い画面に描いている(『竹に月図)。
 芦雪に関する口碑はいろいろあり、「芦雪は応挙を試すようなことをして破門された」とかいわれているが、「実際のところはそうした形跡はない」し、応挙没後も円山家との交流は保たれ、「芦雪がその生涯にわたって応挙との関係を失うことがなかった」(『日本の美術八長沢芦雪№219宮沢新一編』)ということは、特記して置く必要があろう。
 また、芦雪の、寛政十一年(一七九九・四十六歳)の、大阪での客死に関連して、自殺・毒殺・困窮による縊死とかといわれているが、これも、「もし、縊死が事実なら、困窮のためではなく、絵筆が握れなくなった、というような事情が想像される」(『前掲書・宮沢新一編)と、その真相は、巷間に伝来されていることを鵜呑みにするのは危険のように思われる。

補記二 金刀比羅宮美の世界(第十二話 円山応挙 国内最大の空間構成 佐々木丞平)

http://www.shikoku-np.co.jp/feature/kotohira/12/

【 わが国における十八世紀は絵画芸術の最も熟成した時期で、全国的にすばらしい絵画芸術作品が制作されたときでもある。円山応挙(一七三三―九五)は江戸時代中期に京都において写生派を興し、一世を風靡(ふうび)した。狩野派などの伝統描法に対し、近代に続く新しい写生という概念を確立したことは、わが国の絵画史の中でも特筆すべきことである。

 金刀比羅宮表書院の障壁画は、京都の豪商三井八郎兵衛の援助によるもので、京随一といわれた応挙に障壁画制作を依頼した記録が確認できる。山水之間、七賢之間、虎之間、鶴之間を合わせると実に九十面の障壁画を描いており、これは現存する応挙の最大の空間構成になる。

応挙は天明七(一七八七)年にこれらの障壁画制作をスタートしており、寛政六(一七九四)年まで七年間の歳月を費やした。この間、天明八(一七八八)年には京都で大火があり、応挙も焼け出されている。いわゆる天明の大火であるが、こうした困難も乗り越え、応挙は五十代後半から晩年の充実した時期を金刀比羅宮の障壁画制作に充てた。
 応挙の写生を元にした作風は、鶴之間の優美な鶴の姿にも顕著に現れており、さまざまな鶴のポーズが自在に描かれている。今でこそ、応挙が生み出した写生は広く浸透し、珍しいものではなくなっているが、動いている生き物のありのままの姿を写生に留め、絵画化することは当時の人々の目には大変新鮮なものに映った。しかし、応挙の描く虎は実物の虎と雰囲気が異なっているといわれる。

 確かに丸味を帯びた体や顔の印象が異なっているが、それは当時、虎が輸入されていなかったために見ることも不可能であったことによる。応挙は虎の毛皮などを参考に想像して描いている。ほぼ実物大の大きさは虎を見たことのない絵師が描いたとは思えない迫力に満ち、室中にいれば、その鋭い視線に威嚇される。
 七賢之間は、当時よく画題とされていた中国故事の竹林の七賢人を描いたもので、阮籍(げんせき)、※康(けいこう)、山濤(さんとう)、向秀(しょうしゅう)、劉伶(りゅうれい)、王戎(おうじゅう)、阮咸(げんかん)、といった隠士たちが描かれている。
  【編注】※は鷲の京の部分がのぎへん 鳥の部分が山
 さて、応挙最晩年の筆になるのが山水之間で、大床の壁貼付右側から勢いよく落ちる滝が左側へと流れていき、画中から姿を消す場所には障子腰張りの向こう側の現実の庭に水が流れており、その音が聞こえてくる。その現実の水の流れの切れるところから絵の中に再び水景が戻って来て、部屋をぐるりと一周して大海へと注ぐ構成となっている。水の生々流転の様は人の一生のようでもあり、応挙は画中にさまざまな変化を付けながら、品格に満ちた作風を展開している。
 卓越した文化財は、多くの人々の芸術に対する深い理解と尊敬によって支えられてきた。そしてその芸術への理解は、その時代の文化レベルによって左右される。何百年もの間守り続けられてきた貴重な芸術作品を、われわれが担う今という時代が十分に理解するだけの力を持っていることを願っている。(2003年6月22日掲載)  】


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