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応挙工房周辺(大乗寺(その四 蓮池図)) [応挙]

その六 大乗寺(その四 蓮池図)

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応瑞筆「蓮池図」(「仏間」北側襖二面)

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応瑞筆「蓮池図」(「仏間」南側襖二面)

【 蓮池図 円山応瑞筆
 仏間は客殿の中央に位置し、仏間に描かれた蓮池の図は浄土の蓮池をイメージさせる。この蓮池の図に囲まれる中に、本尊の十一面観音が安置されており、静かな水景に蓮が点在して、白い花を虚らかに咲かせている様が、平明な作風で描かれている。
 輪郭を用いない付立描写による写生的な表現は、応挙の生み出したもので、息子応瑞はその表現形式を既に、充分に修得していることが理解される。仏間前面の障子の腰張りには、仏間側には蓮が、又、隣接する孔雀の間側には睡蓮が描かれ、水景のイメージで連続するように工夫されている。 】(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「仏間」)

 応瑞は、明和三年(一七六六)の生まれ、応挙の後を継いで、円山派二代目となる応挙の嫡子で継承者である。通称は、卯三郎、右近、応挙没後は父と同じ主水を襲名する(応瑞は応挙の長男と次男との二説があるが、『別冊太陽 円山応挙』所収「円山四条派系図」により次男の後継子と解したい)。
 そして、天明七年(一七八七)、二十二歳の時の、この大乗寺障障壁画参加(「仏間」「鯉の間」)が、応瑞の、「応挙後継子」としての、今日確認できるデビュー作品と解したい。

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応挙書簡(大乗寺文書)天明七年(一七八七)・天明四年(辰・一七八四)原文

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上記の翻刻文(右側から二十六行)→翻刻文A

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上記の翻刻文(二十七行から四十六行(B-1)と四十七行から五十一行(B-2))→翻刻文B

上記の応挙書簡(原文)は、翻刻文(AとB)を見ると、「天明七年丁末(一七八七)五月十五日」が最初に出て来て、末尾が「辰(天明四年=一七八四)九月十九日」と、これは、後に、その書簡などの期日を考慮せずに、「費用覚書」などに関する文書を合筆したもののように思われる。
 この文書に出て来る「日付」に関することを列記すると次のとおりとなる。

天明七年丁未 → 天明七(丁未)年(一七八七)
天明八申   → 天明八(戌申)年(一七八八)
寛政元酉   → 寛政元(己酉)年(一七八九)
辰九月    → 天明四(甲辰)年(一七八四)

 この応挙書簡(大乗寺文書)を、内容的に見ると、「翻刻文A」(天明七年・一七八七)と「翻刻文B-1」(天明八年・一七八八、寛政元年・一七八九)、そして、「翻刻文B-2」(天明四年・一七八四)の三区分に分かられるように思われる。
 この応挙書簡で、応瑞に関しては、「翻刻文A」中に「応挙門人 嫡子 円山右近」と「翻刻文B-1」中に「金 百匹 応瑞子」と二か所に出て来る。
 ここで、特記して置きたいことは、天明八年(一七八八)一月(一七八八年三月)に、いわゆる、「天明の大火」があり、京都市街の八割以上が灰燼に帰し、この応挙書簡に出て来る応挙がアトリエとして使用していた「大雲院」(四条寺町)も当時の四条堺町東入町の応挙宅も焼失してしまったということである。
 この時に、完成直前の、孔雀の間に描いた「松に孔雀図」は焼失して、先に紹介した「大乗寺(その一 松孔雀図襖)」の「松孔雀図襖」は、応挙が他界する三カ月前の、寛政七年(一七九五)に、再度制作したものだということなのである。
 また、上記の応挙書簡(大乗寺文書)は、大乗寺側で保管されていたものであって、例えば、ここに記されている「費用覚書」が、当時の応挙、そして、応挙工房の「画代」などを意味するものではなく、材料費や表具師などの手間賃などの、大乗寺が出費した「費用覚書」なのであろう。
 即ち、『本朝画人伝(村松梢風著)巻一』所収「円山応挙」などにおいて、「(大乗寺の密英上人への報恩の為)、全部の画の寄進を申し出た」のとおり無料で請け負い、それに対し、大乗寺側としては、その折々に、好意的な謝礼や必要経費などを応挙に進呈していたと解するのが、この応挙書簡(大乗寺文書)の意味するものと解したい。
 その上で、上記の書簡(翻刻文A)の「張附畫箋紙/雑用手間代/金十両/表具張附司/荘兵衛/画工六人」の、この、「金十両」というのは、表具師の「荘兵衛」に払われたもので、その後に続く「画工六人」分の「画料」などは含まれていないのであろう。
 この表具師の「荘兵衛」が、応挙工房出入りの京都の表具師なのか、それとも、大乗寺出入りの但馬香住の表具師なのかは定かではないが、他の大乗寺文書などを見ると、応挙側の細かい指示などの書簡もあり、後者の地元の香住関係の表具師のように思われる。
 そして、これらの大乗寺障壁画というのは、応挙側は京都で襖絵などを制作し、現地(香住)で表具師などが指示書に従って表装などを仕上げるというシステムを取っており、この種の作業の場合、現地の表具師や建具師の役割というのは、非常に大きいものがあろう。
 それはそれとして、このような大乗寺障壁画の制作過程において、その時折に現地などに赴いて、表具師や建具師に指導や指示などをし、さらに、その仕上がりの具合などを確認する、いわゆる、応挙の名代のような役割を担った者が、当然に考えられるが、その役割を担ったのが誰かは、これまた、判然とはしない。
 これらのことについて、上記の応挙書簡の「翻刻文B-1」の記載にある「金三百匹(注・疋) 〃 先生(注・応挙)/〃百匹(注・疋)応瑞子」の、この「応瑞子」、すなわち、「応挙嫡子 円山右近(応瑞)」が、その役割を担ったということは、この大乗寺客殿の一番中心となる「仏間」、さには、北側の庭の鯉池に面しての「鯉の間」に「遊鯉図襖」を描いたことなどからして、当然に考えられることであろう。
 ここで、天明八年(一七八八)の「天明の大火」により、天明七年(一七八七)に完成している前期の作品と寛政七年(一七九五)に完成を見た後期の作品と二分されるが、後期の作品としては、「孔雀の間」の「松に孔雀図」(応挙)、「農業の間」の「四季耕作図」(呉俊)、「鴨の間」の「梅花遊禽図」(源琦)、そして、「猿の間」の「群猿図」(芦雪)などのようである。
 さらに、冒頭の「蓮池図」(応瑞筆)に関連して、「仏間前面の障子の腰張りには、仏間側には蓮が、又、隣接する孔雀の間側には睡蓮が描かれ、水景のイメージで連続するように工夫されている」など、実に、精緻な組み合わせが成されており、応挙と応挙工房の面々が、いかに、この大乗寺の障壁画に真正面から取り組んでいるかの、その一端が垣間見えるようである。


補記一 応挙と大乗寺について

http://museum.daijyoji.or.jp/06story/06_05.html

第5話. 応挙と大乗寺

 行基菩薩が開祖であるといわれる大乗寺であるが、江戸中期になって現在の客殿が再建されている。時代の趨勢からか再建以前はさびれた寺であったようである。密蔵、密英 両上人の努力で現在の寺の姿になったといわれている。大乗寺再建の普請が始まった翌年の天明7年(1787年)に大乗寺の密英上人自身が京都に出かけ、応挙に襖絵の依頼をしている。その時応挙が大乗寺と交わした書簡が発見されており、そこには「棟梁円山応挙、嶋田主計四位元直、蕪村高弟呉月溪(呉春)、応挙門人山本數馬(山本守礼)、同秀権九郎(秀雪亭)、応挙嫡子円山右近(応瑞)」と6人の絵師の名が記されている。当初はこの6名で大乗寺の仕事にとりかかったのだろう。応挙を棟梁としその他の絵師を画工としているところからしても、応挙がプロデューサー的役割であったことが想像できる。嶋田元直は官位をもった応挙の門弟であったという。この花鳥画で当時人気が高かった絵師の絵が、現在の大乗寺に残されていないのは残念なことである。(大乗寺を知る その9を参照) 呉春の名に蕪村高弟と付けていることから、応挙が蕪村を尊敬していたことや、呉春が他の門人と違って、あくまで蕪村の弟子であり応挙門下では客人的な扱いの門人であったことを物語っている。大乗寺には呉春の描いた部屋が二間ある。最初に描いた襖絵は蕪村ふうの文人画であり、7年後に描いた襖絵は応挙の影響の濃いものであるところから、呉春が文人画から応挙の影響下に入り画風を変え、円山四条派と称されるまでの両極が見てとれる貴重な例といわれている。山本守礼はこのとき36歳で呉春とほぼ同年代であり、秀雪亭については詳細不明である。応挙嫡子応瑞は21歳での参加である。
 大乗寺の障壁画制作にあたって、密蔵上人と応挙の間でどのような話があったのかは記録にはないが、大乗寺客殿を宗教的空間ととらえ、立体曼荼羅の障壁画による具現化という構想はどのようにして生れたのだろう。根拠はないが、二人の間でそれほど詰めた話はなかったのではないかと想像する。話し合いの中身はどれくらいの画料で描いてくれるかが主題であったのかもしれない。大乗寺再建に取り組んでいる密蔵上人の意を汲み応挙が構想を練りプランを立てたのではないか。大乗寺客殿の図面を眺めながら応挙の頭の中に立体曼荼羅として宗教的空間を構築するアイデアが浮かんだのかもしれない。装飾的な襖絵として満足させながらも、その裏に宗教的意味を隠しもたせ、それぞれの部屋ごとのテーマとなる画題を決め、絵師に部屋を割り振っていったのだろう。
 客殿はその名の通り客を招くための施設であるがどの寺にもあるというものではないようだ。滋賀県の園城寺(三井寺)には初期の書院造りの典型であるとされる2つの客殿があるが、皇族を招くための施設でありいずれも絢爛な障壁画が描かれている。大乗寺の客殿はどのような役割をもっていたのだろうか?大乗寺の客殿は地方の寺としては大きいものであり、高野山金剛峰寺の縮小版となっているという。「山水の間」の構造(※1)などからの想像であるが、かなりの高位の人が定期的に訪れたのではないかと思われる。大乗寺の立地は当時出石藩の西のはずれにあり、天領や他藩のトビ地などもあって、公には微妙な地域であったという。そのためにも会合場所として身分の高い人の来訪にも備えた施設が必要であったのではないだろうか。しかし、大乗寺客殿は出石藩に頼ることなく、周辺の7カ村の協力で再建にあたったという。それにしても当時都で最も売れている絵師である応挙に寺の障壁画を依頼するについては、地方の寺としてのたいへんな決断であったであろう。それとも一部の話として伝わる応挙が幼いころ大乗寺の世話になった恩返し説が根拠なのであろうか。
 再建され応挙一門の絵が収められた客殿はその規模と建物の構造と応挙の絵画による構成プランが一致して一大宗教的空間を構成するのである。様々の経緯から全ての絵が収められるまでに8年の歳月を要している。また再建当初の客殿には現存していない部屋がいくつかあり、それらの部屋にも障壁画が施されていたと思われ、部屋とともに絵も消失してしまっているのは残念なことである。(大乗寺を知る その9を参照)
※1 大乗寺客殿には一段高くなった上座が設けられ、上座へは鯉の間から入っていくことができ、鯉の間は高位な人物の控えの間としての役割をもっている。また上座の裏側に位置する藤の間は異変時に備えた武者が控える「武者隠し」の機能をもっている。


http://museum.daijyoji.or.jp/06story/06_06.html

第6話. 同じ絵を二度描いた応挙

 応挙の絵には「遠目の絵」といって大きな部屋の障壁画など遠くから見るものは細かなところまで描き込まず、むしろ全体のバランスに神経を注ぎながら勢いで仕上げられた絵がある。それらの絵は精緻に描き込まれた絵とはまた違った趣で魅力のある作品となっている。大乗寺の「孔雀の間」はまさにその遠目の絵の手法で描かれている。応挙の円熟した晩年の筆技はひと筆ふた筆に点々点…でうねる松の木の幹や、孔雀の側の岩肌を見事に表現している。「松に孔雀図」を見ていると壮年期のものにはない独特の粗さというか急ぎのリズムのようなものが感じられ、それは手を抜いているというのではなく、強い精神性とどんどん先に走る完成へのイメージに 筆が必死で追いかけていくというふうで、なにやら急いでいる応挙が感じられるのである。「松に孔雀図」は金箔に墨のみで描かれており、そのストイックな色使いと応挙の切迫したとも見える筆使いとがあいまって、この間を他の部屋とは違った緊張感の漂うものにしている。応挙のこの急いでいるとも見える筆跡の背景を追ってみると、やはり応挙は急いでいたと思われるのである。
 天明8年の冬、大乗寺のこの部屋に収められる「松に孔雀」の絵は応挙のアトリエである京都大雲院方丈でほぼ完成まぢかであったという。1月30日、些細な痴話喧嘩が発端であったといわれている。風の強い日であったらしい。冬の乾燥がいっそう条件を整えてしまったのかもしれない。加茂川団栗橋付近から出火した火の手はまたたく間に燃え広がり、御所にも及んで京都市中を焼き尽くしたといわれている。出火場所にちなんで「どんぐり焼け」とも呼ばれるこの天明の大火は、応挙のアトリエであった大雲院をも「松に孔雀図」とともに焼いてしまったのである。この火事で応挙がアトリエを失ったことは、避難を兼ねた仮のアトリエで呉春と寝食をともにし、この間に呉春は応挙の影響を大きく受けることとなっただとか、故郷に制作の場を求めて帰郷し、菩提寺である金剛寺に応挙の襖絵が現存するなどの結果を生むのであるが、大乗寺側は「松に孔雀図」の完成をその後7年間待たされることになる。応挙の事情を察して大乗寺の方も辛抱強く待っていたのかもしれないし、どうやら2度目の画料も支払っている様子である。
 寛政7年(1795年)大乗寺障壁画第二次制作が始まり、応挙は二度目の「松に孔雀図」を、呉春は「四季耕作図」を源琦は「梅花遊禽図」を、芦雪は「群猿図」を制作するのである。この時応挙63歳、最初に描いた「松に孔雀図」から7年後であるが、この間の応挙の身体的衰えは否めず、61歳のときに病にかかり一旦回復するものの歩行も困難であり、視力も衰えていたというから、二度目の「松に孔雀の図」の制作は最後の力を振り絞っての大作ということになる。応挙自身最後の作品との思いがあったのかもしれない。大乗寺では正面向きの最も大きな部屋で仏様の前に広がる空間である。画題の孔雀は阿弥陀如来の乗り物でもある。どのような思いで制作をしていたのだろうか、現実に応挙はこの絵の完成後数ヶ月でこの世を去っている。「命あるうちの完成を…」の思いは知らずうちにも筆を走らせたのではないか。一枚でも多くを…の思いもこの時期の応挙にはあったのかもしれない。
 遠目の絵という制作技法だけではなく、何かに追われるふうにも見える大乗寺「松に孔雀図」の筆跡には、急ぎの理由があったのである。

http://museum.daijyoji.or.jp/06story/06_07.html

第7話. 応挙没

応挙は寛政7年(1795年)7月17日に没している。大乗寺「松に孔雀図」を完成してのち3ヶ月後のことである。普通の画家ならば「松に孔雀図」が絶筆というところであるが、「松に孔雀図」を4月に完成させて後も保津川図屏風や備前瑜伽山寺の竹鶏図襖を描いている。晩年は目を患い歩行も困難であったと伝えられる一方、驚くばかりの多忙である。竹鶏図には落款を入れることができなかったという。

応挙の墓
京都、四条大宮より京福電鉄嵐山線に乗る。太秦(うずまさ)で降りると目前に広隆寺の山門がそびえ立つ。広隆寺は弥勒菩薩で有名な寺である。広隆寺の東側の道を少し入ったところに悟真寺がある。寺の経営する幼稚園の方が目立つが、その奥が寺である。応挙の墓はこの悟真寺にある。寺の人が墓に案内してくれた。寺は当初四条大宮にあったのを昭和の時代になって現在の場所に移転したという。そう大きくはない墓地である。まとまった区画の中に円山家各代の墓石が並べられている。正面に応挙の墓を中心に5基の墓が並んでおり、向かって右隣に応瑞、さらにその右に応立、向かって左側には応震、応誠と並んでいる。応挙を一世とするならば向かって右に二世応瑞、左に三世応震にはさまれ、さらにその外側に四世応立、五世応誠の墓があるという配置である。応挙の墓には屋根が付けられており、覗き込むようにして墓碑の文字を見る。「源応挙墓」と刻まれている。光格天皇の弟である妙法院宮真仁法親王の筆と伝えられているが、楷書に近い筆跡である。墓碑の裏には「寛政七年乙卯(きのとう)七月十七日卒」とある。応挙の法名は「円誉無三一妙居士」とする資料と「円誉無之一居士」とするものがあり、墓石に手がかりを求めるがわからず。寺に確かめてみるが墓を預かっているだけで過去帳などはないということであった。ゆかりの寺に多くの絵を遺している応挙であるが悟真寺に応挙の絵は1枚もないとのこと。「当寺に1枚でもあればねえ……」と案内の女性の言葉が残る。
応挙の没年、寛政7年(1795年)は前年よりこの年にかけて写楽が役者絵を描いた時期でもあり、この時代の人の多彩な能力と実行力には舌を巻くばかりである。

応挙の宅址
京都四条通南側の堺町との角から少し東側のところに応挙宅址の碑がある。繁華街のビルの影に石碑があり解説文が掲げられている。
「応挙は享保十八年(1733年)に生まれ、十七歳のとき京に出て…中略 この地に居をかまえたのは若い頃近くの四条道場金蓮寺(こんれんじ)の境内に借家住まいをしていた関係であろうか?…中略 寛政五年(1793年)病にかかり間もなく回復したがその後は歩行の自由を欠き視力も衰えた。それにもかかわらず毎年伏見の梅渓(うめだに)に梅を見に行くのを楽しみとしていた。…」
 応挙宅址
 四条通堺町東入ル南側 立売中之町
とある。
明和5年(1768年)の平安人物志には「四条麩屋町東入ルに住む」と書かれている。このとき応挙は36歳である。四条通堺町と四条麩屋町はさほど離れていないから、近いところで居を移していたことになる。門下の弟子も多く多忙な応挙には京の中心地での住まいが欠かせなかったのかもしれない。また応挙自身このあたりでの暮らしを好んでいたとも思える。アトリエとしていた大雲院も近い場所である。

大雲院址
応挙は大雲院という寺をアトリエとしていた。大雲院は天正15年(1587年)本能寺で死を遂げた織田信長・信忠父子を弔うため、命をうけた貞安上人により烏丸御池に創建したといわれている。信忠の法名からとって大雲院の名になったという。天正18年(1590年)豊臣秀吉による「町割り」(京都市街地の再編成)で寺町四条下がるに移転し、敷地も広大になったようである。天皇から勅額を下賜される京洛でも有数の寺社であったらしい。どういう経緯で応挙が大雲院を制作の場としたのかはよくわからないが、応挙の住居に近く便利であったと思われる。天明の大火では大雲院にも火が及び完成間近の「松に孔雀図」もろとも焼けてしまっている。(参照 第6話 同じ絵を二度描いた応挙) 応挙の画績に大雲院の果たした役割は測りしれなく大きい。応挙の作品の大きなものは当時の一般住居での制作は困難とも思われ、寺の広い方丈で制作されたのであれば納得がいく。明治22年の第1回京都市市議会は大雲院で開かれたというから近代まで地域にも貢献度の大きい寺であったようである。四条通り界隈の商業地としての発展にともない昭和48年(1973年)東山に移転し、四条寺町の大雲院跡地は高島屋京都店に隣接する駐車場となっており、小さな記念碑があるのみである。



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