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江戸の粋人・酒井抱一の世界 [酒井抱一]

江戸の粋人・酒井抱一の世界

その一 正岡子規の酒井抱一観

 正岡子規の『病牀六尺』に、酒井抱一に関しての記述が、下記の二か所(「六」・「二十七」)に出てくる。
 この「六」に出てくる、「抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず」 というのが、子規の「酒井抱一観」として、夙に知られているものである。
 すなわち、「画人・抱一」は評価するが、「俳人・抱一」は、子規の「俳句革新」の見地から、断固排斥せざるを得ないということである。
 そして、子規が目指した俳句(下記の『俳句問答』の「新俳句」)と、抱一が土壌としていた俳句(下記の『俳句問答』の「月並俳句」)との違いは、次の答(●印)の五点ということになる。
 この五点の「知識偏重(機知・滑稽・諧謔偏重)・意匠の陳腐さ・嗜好的弛み・月次俳諧・宗匠俳諧の否定」の、何れの立場においても、例えば、抱一の自撰句集『屠龍之技』に収載されている句などは、「拙劣見るに堪えず」と、一刀両断の憂き目にあうことであろう。
 しかし、下記の「二十七」の、『鶯邨画譜』や、その「糸桜」に関する、子規の記述には、子規は、その画はもとより、その俳句についても、その何たるかは熟知していたという思いを深くする。

○問 新俳句と月並俳句とは句作に差異あるものと考へられる。果して差異あらば新俳句は如何なる点を主眼とし月並句は如何なる点を主眼として句作するものなりや    
●答 第一は、我(注・新俳句)は直接に感情に訴へんと欲し、彼(注・月並俳句)は往々智識(注・知識)に訴へんと欲す。
●第二は、我(注・新俳句)は意匠の陳腐なるを嫌へども、彼(注・月並俳句)は意匠の陳腐を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は陳腐を好み新奇を嫌ふ傾向あり。
●第三は、我(注・新俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ひ彼(注・月並俳句)は言語の懈弛(注・たるみ)を嫌ふこと我より少なし、寧ろ彼は懈弛(注・たるみ)を好み緊密を嫌ふ傾向あり。
●第四は、我(注・新俳句)は音調の調和する限りに於て雅語俗語漢語洋語を問はず、彼(注・月並俳句)は洋語を排斥し漢語は自己が用ゐなれたる狭き範囲を出づべからずとし雅語も多くは用ゐず。          
●第五は、我(注・」新俳句)に俳諧の系統無く又流派無し、彼(注・月並俳句)は俳諧の系統と流派とを有し且つ之があるが為に特殊の光栄ありと自信せるが如し、従って其派の開祖及び其伝統を受けたる人には特別の尊敬を表し且つ其人等の著作を無比の価値あるものとす。我(注・新俳句)はある俳人を尊敬することあれどもそは其著作の佳なるが為なり。されども尊敬を表する俳人の著作といへども佳なる者と佳ならざる者とあり。正当に言へば我(注・新俳句)は其人を尊敬せずして其著作を尊敬するなり。故に我(注・新俳句)は多くの反対せる流派に於て俳句を認め又悪句を認む。   

【  六
〇今日は頭工合やや善し。虚子と共に枕許に在る画帖をそれこれとなく引き出して見る。所感二つ三つ。 
余は幼き時より画を好みしかど、人物画よりも寧ろ花鳥を好み、複雑なる画よりも寧ろ簡単なる画を好めり。今に至って尚其傾向を変ぜず、其故に画帖を見てもお姫様一人画きたるよりは椿一輪画きたるかた興深く、張飛の蛇矛を携えたらんよりは柳に鶯のとまりたらんかた快く感ぜらる。 
画に彩色あるは彩色無きより勝れり。墨書ども多き画帖の中に彩色のはっきりしたる画を見出したらんは萬緑叢中紅一点の趣あり。 
呉春はしゃれたり、応挙は真面目なり、余は応挙の真面目なるを愛す。 
『手競画譜』を見る。南岳、文鳳二人の画合せなり。南岳の画は何れも人物のみを画き、文鳳は人物の外に必ず多少の景色を帯ぶ。南岳の画は人物徒に多くして趣向無きものあり、文鳳の画は人物少くとも必ず多少の意匠あり、且つ其形容の真に逼るを見る。もとより南岳と同日に論ずべきに非ず。 
或人の画に童子一人左手に傘の畳みたるを抱え右の肩に一枝の梅を担ぐ処を画けり。或は他所にて借りたる傘を返却するに際して梅の枝を添えて贈るにやあらん。若し然らば画の簡単なる割合に趣向は非常に複雑せり。俳句的といわんか、謎的といわんか、しかも斯の如き画は稀に見るところ。 
抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず。その濃艶なる画にその拙劣なる句の讃あるに至っては金殿に反故張りの障子を見るが如く釣り合わぬ事甚し。 

『公長略画』なる画あり。わずかに一草一木を画きしかも出来得るだけ筆画を省略す。略画中の略画なり。しかしてこのうちいくばくの趣味あり、いくばくの趣向あり。廬雪等の筆縦横自在なれども却ってこの趣致を存せざるが如し。或は余の性簡単を好み天然を好むに偏するに因るか。 (五月十二日)  】

【 二十七
〇枕許に『光琳画式』と『鴛邨画譜』と二冊の彩色本があって毎朝毎晩それをひろげて見ては無上の楽しみとして居る。ただそれが美しいばかりでなくこの小冊子でさえも二人の長所が善く比較せられて居るのでその点も大いに面白味を感ずる。ことに両方に同じ画題〈梅、桜、百合、椿、萩、鶴など〉が多いので比較するには最も便利に出来て居る。いうまでもないが光琳は光悦、宗達などの流儀を真似たのであるとはいえとにかく大成して光琳派という一種無類の画を書き始めたほどの人であるからすべての点に創意が多くして一々新機軸を出して居るところはほとんど比肩すべき人を見出せないほどであるからとても抱一(ほういつ)などと比すべきものではない、抱一の画の趣向なきに反して光琳の画には一々意匠惨憺たるものがあるのは怪しむに足らない。そこで意匠の点はしばらく措いて筆と色との上から見たところで、光琳は筆が強く抱一は筆が弱い、色においても光琳が強い色ことに黒い色を余計に用いはせぬかと思われる。従て草木などの感じの現れ方も光琳はやはり強いところがあって抱一はただなよなよとして居る。この点においては勿論どちらが勝って居ると一概にいうことは出来ぬ。強い感じのものならは光琳の方が旨いであろう。弱い感じのものならば抱一の方が旨いであろう。それから形似の上においては草木の真を写して居ることは抱一の方が精密なようである。要するに全体の上において画家としての値打はもちろん抱一は光琳に及ばないが、草花画書きとしては抱一の方が光琳に勝って居る点が多いであろう。抱一の草花は形似の上においても精密に研究が行届いてあるし輪廓の書き具合も光琳よりは柔かく書いてあるし、彩色もまた柔かく派手に彩色せられて居る。ある人はまるで魂のない画だというて抱一の悪口をいうかも知れぬが、草花のごときは元来なよなよと優しく美しいのがその本体であって魂のないところがかえって真を写して居るところではあるまいか、この二小冊子を比較してみても同じ百合の花が光琳のは強い線で書いてあり抱一のは弱い線で書いてある。同じ萩の花でも光琳のは葉が硬いように見えて抱一のは葉が軟かく見える。つまり萩のような軟かい花は抱一の方が最も善く真の感じを現して居る。『篤邨画譜』の方に枝垂れ桜の画があってその木の枝をわずかに二、三本画いたばかりで枝全体にはことごとく小さな薄赤い蕾が付いて居る。その優しさいじらしさは何ともいえぬ趣きがあってこうもしなやかに書けるものかと思うほどである。『光琳画式』の桜はこれに比するとよほど武骨なものである。しかしながら『光琳画式』にある画で藍色の朝顔の花を七、八輪画きその下に黒と白の狗ころが五匹ばかり一緒になってからかい戯れて居る意匠などというものは別に奇想でも何でもないが、実にその趣味のつかまえどころはいうにいわれぬ旨味があって抱一などは夢にもその味を知ることは出来ぬ。 (六月八日)  】
(正岡子規著『病牀六尺』抜粋)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-10



(再掲)

 この『鶯邨画譜』所収「糸桜と短冊図」の「短冊」に書かれている句は、抱一句集『屠龍之技』に、次のように前書きを付して収載されている。

   墨子悲絲
 そめやすき人の心やいとざくら

 これは、抱一(俳号・屠龍)が師筋に仰いでいる其角流の「謎句」的な句作りである。そして、抱一に負けず劣らずの其角好きの蕪村にも、次の一句がある。

  恋さまざま願ひの糸も白きより (蕪村 安永六年、一七㈦七、六十二歳)

 この蕪村の句の季語は「願ひの糸」(七夕の、願いを祈る五色の糸)である。句意は、「七夕の宵に、女子たちが、さまざまな願い事を五色の糸に託しているが、今は無垢の白い糸も、やがて様々な恋模様を経て、一つのいる色に染め上げて行くことだろう。そのことを中国の墨子さんは嘆じているが、恋も人生も、その定めにあがなうことはできないであろう」というようなことであろう。

 蕪村には、もう一句ある。

  梅遠近(おちこち)南(みんなみ)すべく北(きた)すべく
                  (蕪村 安永六年、一七㈦七、六十二歳)

 「梅遠近(おちこち)」の「チ音」、「南(みんなみ)すべく北(きた)すべく」の「ク音」と、リズムの良い句である。句意は、「梅の花が近くにも遠くにも咲いている。さい、南の道を行こうか、それとも、北の道を行こうか、ほとほと困ってしまう。そのことを中国の揚子さんは嘆じているが、そういう逡巡もまた、人間の定めのようなもので、それにあがなうことはできないであろう」というようなことになろう。

 この蕪村の二句は、中国の古典の『蒙求(もうぎゅう)』に出て来る、「墨子悲絲(ぼくしひし)」、「楊朱泣岐(ようしゅきゅうき)」という故事に由来があるものである。
 
 淮南子曰 (えなんじにいわく)
 楊子見逵路而哭之(ようしきろをみてこれをこくす)
 為其可以南可以北(そのもってみなみにすべく、もってきたにすべきがなり)
 墨子見練絲而泣之(ぼくしれんしをみてこれをなく)
 為其可以黄可以黒(そのもってきにすべく、もってくろにすべきがなり)
 高誘曰(こういういわく)
 憫其本同而末異(きほんおなじくして、すえことなるをあわれむなり)

 蕪村は、享保元年(一七一六)の生まれ、抱一は、宝暦十一年(一七六一)の生まれ、蕪村が四十五歳年長である。抱一の俳諧の師の馬場存義は、元禄十六年(一七〇三)生まれ、
蕪村の俳諧の師の早野巴人は、延宝四年(一六七六)生まれで、巴人が亡くなった後の、実質的な巴人俳諧(夜半亭俳諧)の継承者は存義であった。
こと座を同じくする、いわば、兄弟子というような関係にある。
 すなわち、江戸時代中期の「画・俳」二道を究めた蕪村と、江戸時代後期の、これまた「画・俳」二道を究めた抱一とは、「其角・巴人・存義」を介して、こと「俳諧」の世界においては、身内のような関係にあったということになろう。

 ここまで来ると、冒頭の『鶯邨画譜』の「糸桜と短冊図」と、『屠龍之技』の「糸桜之句」については、もはや、付け加えるものもなかろう。
それよりも、抱一関連のもので「蕪村」に関するものは、まず目にすることは出来ないが、「画・俳」二道を究めた同門ともいうべき、「中興俳諧」と「日本南画」の旗手ともいうべき蕪村への、「中興俳諧(芭蕉復古俳諧)と其角俳諧(洒落・粋俳諧)との二道」と「江戸琳派(その創始者)」を目指している抱一の、一つのメッセージと解することも出来るのかも知れない。

糸桜.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「糸桜と短冊図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html




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middrinn

この『俳句問答』、子規による古今集批判に通じる
ものを読み込んでしまい、大変興味深いです(^_^;)
by middrinn (2019-03-04 21:23) 

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子規の「俳句革新」は日の目を見たが、その「短歌革新」は、和歌悠久の歴史の前には、歯がたたなかった。先日、上野に出かけて、ベンチに休憩したところに、子規が「ベースボール」を興じているレリーフがあって、江戸人の抱一と東京人の子規とは、「根っ子は同じ」という印象を深くしました。しかし、日本(天皇家を始め)は、確かに、「和歌の前の平等」で、子規が、いくら足掻いても、どうにも、ならないという感じするね(?)
by お名前(必須) (2019-03-05 08:53) 

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